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森田豊子:現代イランの家族保護法をめぐる議論
Agora: Journal of International Center for Regional Studies, No.5, 2007 81 現代イランの家族保護法をめぐる議論 森 田 豊 子 * はじめに 外部からやってきた新しい概念や思想を人 共和国が新たに成立した。いったんは西洋化 しようとした国家が革命で再びイスラーム体 制を保持することになるという,他国ではあ はどのように受け入れるようになるのか。そ まり見られない歴史をイランは持っている。 れらに出会うことで,これまで自らにとって 従って革命とは西欧近代化に抵抗して行われ 自明であったものに揺らぎが生じる。それ以 たものである。一般に,「イスラーム=女性 降にはたとえ自らの言葉で語ろうとしても, の権利の侵害」というイメージが強いために, その概念や思想から受けた影響から完全に逃 現代イランがイスラーム体制へ「回帰した」 れることはできない。何が望ましい形なのか と見なす人々からは,現代イランでは女性の について多様な意見が現れ,それがいくつか 権利はひどく侵害されているのではないのか のまとまりを見せる頃には最初に出会ったも と考えられている。実際に侵害されている部 のとはまた違った概念や思想へと変化してい 分もある。しかし,近年では,女子教育の普 く。非西欧諸国へ西欧で生まれた概念や思 及や専門職の分野への進出など革命後のイラ 想,価値観などが流入したときにも西欧と ンにおける女性の地位の向上が見られる点を 出会うことで,これまで問題だと見なされ 指摘している研究も見られる 1) 。これをどう てこなかった問題が問題であると感じられ 説明するのか。これを説明するためには,革 るようになり,そこから人々が動員され, 命後の女性の権利についての革命政権の政策 運動へと発展する。このような現象は日本 の変化を包括的に見ていく必要がある。本稿 だけではなく,どこにでも見られる過程な ではその第一段階として,家族保護法をめぐ のではないだろうか。 る議論および革命後の女性の権利についての 本稿の目的は,現代イランで女性の権利 と深く関わる家族保護法および一時婚につ 概念的基礎を先駆的に確立したモタッハリー の議論を中心に述べていこうと思う。 いての議論がイスラーム革命後どう変化し たのかを考察することである。またそこで の「女性の権利の向上」についての議論が, 1.イランにおける家族保護法 西欧近代主義との出会いの中で,どのよう ムスリム女性の権利に深く関わっている結 に生まれ,変化していったのかについて理 婚や離婚などについて規定しているのは家族 解しようとするものである。 法である。近代以前のムスリムの生活を律す 20世紀にイランでは立憲君主制体制下で国 る法律はイスラーム法であり,ムスリムの住 王主導による西欧近代化が進められたが, む諸地域では,イスラーム家族法が適用され 1979年のイスラーム革命によってイスラーム ていた。19世紀になるとそれらの地域に西欧 * 鹿児島大学 非常勤講師 1 )桜井啓子 2001年, 第6章 など 82 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) 諸国が進出するに伴って,これまでのイスラ 西欧諸国へ国内の利権を売り払い,列強へ従 ーム法に代わって西欧の法体系を範とする近 属する王朝への抵抗は1905年の立憲革命へと 代法が導入され始めるものの,家族法の領域 つながり,イランは憲法と議会を持つ立憲君 までは及ばなかった。ウラマーと呼ばれるイ 主国となる。その後1925年にはパフラヴィー スラーム諸学を修めた知識人が,ムスリムの 朝が誕生した。パフラヴィー朝の国王は西欧 結婚や離婚の手続きに深く関与しており,彼 を近代国家のモデルとした。政治的・経済 らが近代法への改革への抵抗を示したこと, 的・社会的な西欧化が進んでいった。イラン 西欧諸国にとっても家族法というプライベー 国内では新たな教育制度が整備され,列強と トな領域における法改革を積極的に進める理 結んだ治外法権などの不平等条約の撤廃のた 由が見あたらなかったからだと考えられる。 めに司法改革も行われた2) 。 しかし,1917年のオスマン家族権利法を皮 家族法に関してもイランでは1930年代から 切りに,家族法に関しても暫定的に法典化作 少しずつ改正が行われていった。例えば女性 業が進められてきた。第二次世界大戦後には, から離婚が申し立てられる権利が認められる ムスリムの住む諸地域はそれぞれ国民国家と ようになったり,結婚最低年齢が引き上げら して独立する。独立後,どのような法律体系 れたりした。1931年の結婚法の成立によって を持つのかについては各国の決定に委ねられ 結婚手続きへの聖職者の関与が減少する。だ た。現在では各国政府がそれぞれの政治的な が,何よりも大きな変化は1967年の「家族保 状況に応じた法の編纂,改正を行っている。 護法」の成立であった 3) 。この法律により, 従って,現在ムスリム全体を律する統一され 男性側からの一方的な離婚の申し立てや複婚 た成文化したイスラーム家族法というものは は抑制されることになった。イスラーム法に 存在しない。各国家はその国家に住むムスリ おいては夫のみが4人まで妻を持つ複婚が許 ムを規律するそれぞれ独自の家族法を持って されており,また,離婚する権利は夫にも妻 いる。それぞれの家族法の中にイスラーム法 にもあるものの,離婚を宣言する権利につい 学をどの程度取り入れるのかについても,ま ては原則的に夫にのみ認められている。タラ た,結婚・離婚などにあたって女性に認めら ークと呼ばれる離婚の場合,夫が妻に3度離 れている権利・義務についても各国・各地域 婚を宣告すると妻の同意のあるなしにかかわ で異なっている。そのため家族法に関する具 らず離婚が成立することになる。それに対し 体的な取り決めは現在たいへん多様化してお て妻が離婚を望んだ場合,夫が同意した場合 り,それぞれ女性のおかれている現状も異な に限ってフルウという形で離婚をすることが ることになる。 できるが,その場合に妻は結婚のときに夫か イランに住むムスリムのほとんどはイスラ ら支払う婚資(マフル)の一部または全部を ームの12イマーム・シーア派に属するため, 夫に返す必要がある。このような規定は男女 近代以前のイランではイスラーム法学の中で 平等の観点から問題であるとされている。 もシーア派法学に基づくイスラーム法が適用 1967年の家族保護法の成立後はあらゆる種 されていた。19世紀のカージャール朝期には 類の家族の紛争について取り扱う新たな裁判 特定の国家による植民地支配を受けることは 手続規定が設けられた。離婚するすべての夫 なかったものの,イランはロシアとイギリス 婦は女性を含む判事に訴え出なければならな の両国から政治的・経済的な干渉を受けた。 いことになった。同意のない離婚については 2 )司法改革の経緯については Banani 1961 が詳しい。 3 )Mir-Hoseini Encyclopedia Iranica のホームページより 森田豊子:現代イランの家族保護法をめぐる議論 83 離婚の理由を説明する責任があり,その理由 産の半分を受け取れる権利や女性側から離婚 として受け入れられる条件については男女で が請求できる権利が拡大した。1993年には夫 変わりがなくなった。1975年には新たな改定 が妻に「不当に」離婚を請求する場合には婚 も行われた。ここでは結婚最低年齢が女性は 姻期間中の妻の家事労働に対する「賃金」を 15歳から18歳に,男性は18歳から20歳にされ 支払う法案も可決している。さらに,夫の不 。これまでウラマーが深く関わってきた た4) 貞,第一婦人の同意のない第二婦人との結婚 家族法の領域は,新たな家族保護法の制定と によっても離婚できる権利が認められること いう形で彼らの手を離れることになった。 になった。また,離婚訴訟が民事法廷で扱わ しかし,イランで1979年にイスラーム革命 が起こると,イランの政治・経済・社会的な れることになり,そこでは女性の弁護士の雇 用が義務づけられているという5) 。 状況は一変する。革命後ほどなくして革命の 指導者であるホメイニーによって家族保護法 は非イスラーム的であるとの宣言がなされ た。家族に関する紛争は家族保護法に特化し 2.聖職者が女性の問題について語るという こと た法廷から特別市民法廷へと管轄が移され そもそも西欧近代と出会うまでは,イスラ た。そこではウラマーが判事となり,イスラ ーム法学の立場から「女性の権利の向上」と ーム法が適用されることになった。家族保護 いうことはこれまで語られてきたことすらな 法は廃止され,その代わりに特別市民裁判所 かったといってもいいだろう。つまり,政治 規則が設けられた。複婚や離婚については 権力者が西洋近代化を進め,女性の権利を西 しばしば民法や手続法などにおいて複数の 洋並みにする試みが始まって初めてイラン 規定が設けられ,実際は判事となったウラ のウラマーたちは女性の権利について語り マーによって恣意的な判決が出ることがあ 始めたといえる。イスラーム法学の長い歴 った。 史の中で,女性については数多く語られてき 革命後の女性の権利についての現状はたい たものの,「女性の権利」についての語りが へん複雑なものとなった。というのも,家族 始められたのは近代になってからだ。パイ 保護法の廃止によって,同法で男性に対して ダルは,その著書の序文で「中東研究の主 制限された複婚などの権利が認められるよう 要な欠点のうちの一つはジェンダーの周縁 になった。このような点では女性の権利は侵 化(marginalization)である」6)と言っている。 害されるようになった。他方,革命後の政権 1980年代以降に中東研究が盛んになってから の建前として「女性の権利の向上」に対して でも,女性の問題は常に周縁の問題とされて も尊重した措置をとる必要性もあった。また, きた。また,ミール=ホセイニーは「イラン 女性雑誌における論議の活発化を始めとして の高位聖職者 7) の中には,女性に関する問 女性運動も大きな力を発揮した。そのため, 題や女性の権利はすでに長年にわたって蓄積 1982年には男性側から離婚を言い出し,女性 されたイスラーム法学の著作がこれに適切に の側に非がない場合には離婚の際に女性が財 対処しており,必要なことはすでに述べられ, 4 ) Mir-Hoseini Encyclopedia Iranica のホームページより 5 ) サーデギー&モーイニーファル 2007, p.83 6 ) Paidar 1995, p.1 7 ) イスラーム・スンナ派においてはウラマーの間に階層性はない。ウラマーに階層性が存在するのはシ ーア派に特有のことである。ここで高位聖職者という言葉を使っているのは,ミール=ホセイニーの 著書の用語をそのまま用いている。 84 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) 実行されてきた」と見なし,「議論の余地は タッハリー(MorteCAMotahharB1919-1979) ありえない,女性はこれまでも権利を与え のことである12) 。イラン・イスラーム革命に られてきた」と考える者たちがいると言い, おける中心人物の一人である。彼の思想は現 彼らを「伝統主義者」と名付けた8) 。 在もイラン政府の中心的イデオロギーの中核 彼らはことさらに女性の権利を語らない。 となっている。1995年にイランを訪れた際, つまり,伝統的なウラマーたちの間では,女 今ほど出版の自由の認められていなかった当 性の権利の問題は語る価値すらないこととさ 時のイランで偶然入った書店のほとんどが彼 れていた。そのことは,彼女の著書の中の次 の著作で埋め尽くされていたことを筆者は記 のような会話にも現れている。 憶している。モタッハリーは革命の指導者ホ メイニーを始め,イラン革命でも活躍したモ モルタザヴィー:(略).革命前,宗教学校 ンタゼリーやベヘシュティーなどといっしょ のカリキュラムの変更が提案されたとき,変 にイスラーム諸学を学んだ。ホメイニーが亡 更に反対だったウラマーの一人がこのように 命中にはイランで彼への宗教税の管理をする 反論しました。「もし変更すれば,しまいに など,ホメイニーのテヘランでの窓口にもな はヒジャーブ9)についての本を書いてしまう っていた。 モタッハリーのような聖職者を生み出すこと になる」と。 ミール=ホセイニー:ヒジャーブについて 彼には『イスラームにおける女性の権利の システム』13)や『ヘジャーブの問題』14)など 女性の権利に関して論じている著作がある。 の本を書くのは逸脱と見なされると言うこと 先ほどの会話の中で出てきた「ヘジャーブに ですか? ついての本」というのはこれである。彼が女 モルタザヴィー:はい,それほど負の評価 性の権利について語ったこと自体がイスラー を受けていたのです。モタッハリー先生は何 ムの伝統の中ですでに「革命的」なことであ も突飛なことをおっしゃってはいません。女 ったことは,上記の会話からもうかがえる。 性の手と顔は覆わなくてよいという,彼のヒ ミール=ホセイニーは彼の著作について「モ ジャーブについての言はすべてイスラーム法 タッハリーによる女性についてのテクスト 学の法規定に従っています。 (中略) (ホウゼ10) は,イスラーム共和国のジェンダーに関わる より)追放された者と見なされていた殉教者 公式的言説が形成されるうえでの礎となっ モタッハリーの唯一の罪は,女性の問題に取 た」と位置づけしている15) 。また,ダバシも り組んだことです11) 。 モタッハリーを「女性の問題と女性のイスラ モタッハリーというのは,モルテザー・モ ーム社会における社会的地位について特に敏 8 )ミール=ホセイニー 2004, p.73 9 )ヒジャーブというのはアラビア語の読み方で,これをペルシア語読みにするとヘジャーブとなる。両 者は同じ意味であり,頭髪を覆うヴェールのことを言う。 10)ホウゼとは特に12イマーム・シーア派の宗教学校および宗教的な知識を得る場,サークルを指す。イ ランのコムやマシュハド,イラクのナジャフなどが有名であるが,イラン革命後にはホメイニーなど との関連の深いコムが重要視されている。 11)ミール=ホセイニー 2004, pp.240-241 12)モタッハリーの生涯については 嶋本 2005 を参照。嶋本氏はこの論文の他,モタッハリーの思想 についての論文を多数発表している。 13)Motahhari 1990 およびホームページより 14)Motahhari 1989 およびホームページより 15)ミール=ホセイニー 2004, p.70 森田豊子:現代イランの家族保護法をめぐる議論 85 感であったシーア派の聖職者の中でも希有な タバーイーによると男性が「知的」であるの 一人である」といっている16) 。つまり,イラ に対して女性は「感情的」であるために,そ ン革命前に女性の権利についての本を書いた れぞれに適した職業が決まってくるのだとい モタッハリーは,イスラーム法学のこれまで う。さらに結婚に関しては,複婚や一時婚を の伝統から逸脱している存在であった。 コーランが認めているのは男性が一人の相手 モタッハリーが女性について著書を書いた だけでは満足できないときがあるという性質 のは,1967年の家族保護法の成立と深く関係 に由来している。しかし,それらは義務とし している。『イスラームにおける女性の権利 て課されたものであるのではなく,可能であ のシステム』は,1966年に当時の判事イブラ るというだけであり,現状ではこのルールに ーヒーム・マフダヴィー・ザンジャニーが提 関する精神を理解できずに間違った行動をと 出した民法の改正法案に対してイスラーム法 っているムスリムが存在するのだといってい 学からの反論を女性雑誌『ザネ・ルーズ』に る 19)。このような女性に対する見方につい 掲載したのが始まりであった17) 。この連載は ては,モタッハリーも継承している。 ザンジャニーの死後にも続けられ,それが一 冊の本にまとめられたという経緯がある。 タバータバーイーはフランス人学者アン リ・コルバンとの対話を行ったことでも有名 モタッハリーが師として仰ぐ一人にアッラ であるが,タバータバーイーおよびモタッハ ーメ・タバータバーイー(1903-1981)がいる。 リーが女性について語っているというとき, ミール=ホセイニーは,彼を「イスラーム哲 彼らが「西洋」と向き合う必要があったとい 学の見地からジェンダーと女性の権利の問題 う要素を抜きにしては語れない。モタッハリ に取り組んだ最初の人物」として紹介してい ーはザンジャニーという西欧近代化論者に対 る18) 。千年以上続くイスラーム学の歴史にお して女性の権利についての概念書を書いてい いてタバータバーイーが女性の権利を語る る。また,「ザネ・ルーズ」という雑誌の読 「最初」の人物なのである。イラン革命にお 者として想定されているのは,これまでモタ ける政治思想の研究者であるダバシによれ ッハリーが慣れ親しんできたイスラーム諸学 ば,タバータバーイーは女性が男性の一部か を学んできた人々ではなく,西欧近代化を推 ら生まれたことについては,コーランの文言 し進めるパフラヴィー朝政権下にいて世俗化 からは読み取れないとして否定する。そこか した一般の若者たちであった。ダバシは ら男性と女性の違いは強さ,弱さの違いはあ 「彼(モタッハリー)は『西洋』との直接対 っても本質的には同じ元素(quintessen)か 話に関わることなしに,現代のムスリム社 らできているのだという。「従って,女性は 会における女性の権利について押しよせる 男性と同様に独立して決定し,行動し,自ら 問いに向き合うことができなかった」と言 の努力の結果を所有することができる」とい っている 20)。モタッハリーが「西洋」との うのが女性に対する見方であるが,女性には 対話の中から女性の権利を語ってきたという 人類の種の継続という使命があることと,精 ことを考慮すると,その裏返しに伝統主義的 神的に男性よりデリケートで感情的な気質を な立場が女性の問題を「語らずにきた」とい 持つところが特質として挙げられる。タバー うことが浮かび上がってくる。 16)Dabashi 1993, p.205 17)Dabashi 1993, pp.206-207およびミール=ホセイニー 2004,pp.70-71 18)ミール=ホセイニー 2004, p.68 19)Dabashi 1993, pp.312-313 20)Dabashi 1993, p.205 86 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) 3.モタッハリーの語る一時婚 派では第二代カリフが禁止したことを理由に 禁止されているが,シーア派法学においては 2007年9月にイラン議会に家族法の改正案 許容されてきた。一時婚は1967年の家族保護 が提出された。同年9月19日付けの新聞報道 法によって特に制限されたわけではなかっ では原案作成担当者がこの法案を評価してい た。しかし,実際はパフラヴィー朝政権では るが,法案の欠点として次のように述べてい この慣行を社会から追い払おうとする意図は る21)。 「この法案の原案では,普通婚であれ, あったという23) 。現実にこの制度は合法的な 夫による前妻との再婚であれ,さらには一時 買春として見なされることがあるなど,男性 婚であれ,あらゆる形態の結婚を届け出るよ が自分に都合のいいように利用されることが う規定する文言が盛り込まれていた。しかし, あった。そのため,この制度の存在は女性の 政府から送られてきた法案では,女性が妊娠 権利が損なわれると見なして女性運動家たち した場合にのみ一時婚の届け出が義務化さ はこれまでこの制度に反対し続けてきた。そ れ,届け出がなかった場合には違反者は法律 れが,イスラーム革命後にこの一時婚が奨励 に従って処罰されるという記述となった」。 されるという事態が起こる。 というものである。 その代表的な事例が1990年11月の金曜礼 現在,この家族法案に対して女性の権利拡 拝における当時大統領であったハーシェ 大を目指すNGOなどが反発し,「100万人署 ム・ラフサンジャニーによる次のような発 名キャンペーン」が行われている 22) 。NGO 言であった。彼は「性的要求は神が我々に のホームページによれば,この新たな家族法 与えたものであり,(中略)未亡人たちが必 案では,複婚や家族法の法廷への裁判官に女 要を感じたとすれば,友人や親戚など信頼 性判事をおく必要がないとしていたり,婚資 できる男性と一時的に結婚することも可能 に税金がかけられたり,一時婚への規制が導 であろう」と発言した。ハーエリーによれ 入されなかったりするために,それに対して ば,彼は「イランの政治的/宗教的指導者と 反対しているのだという。 して初めて女性のセクシャリティについて 「一時婚」とはイスラーム法でムトア(喜 語った」のだという24)。 このような公の場 び)またはスィーゲ(定式)と呼ばれている。 で政治的指導者が「女性の」性的欲求につ 婚姻期間の定められた婚姻契約である。一時 いて語ることそのものが事件であり,この 婚に当たっては,結婚前にその婚姻期間と婚 発言についてはその後,様々な波紋を呼び 姻に際して夫から妻へ支払われる婚資の額が 起こした。 決められる。一般には正式な婚姻の際には義 また,ハーエリーは,革命後の一時婚の奨 務づけられる夫が妻を扶養する義務も必要な 励については,その思想的な背景にあるのは いとされ,期間の終了後には離婚の手続きな モタッハリーであるが,ラフサンジャニー しに両者は別れる。また特に契約時の条件で の発言は,そこから一歩踏み込んだもので 決められていなければ両者間には相続はなさ あると説明する。彼女は「モタッハリーは れない。一時婚は現在のイスラームのスンナ この制度をその現代的な形式において概念 21)Jame Jam 2007年9月19日(尾曲李香による翻訳:TUFS中東イスラーム研究プロジェクト 中東各国の新聞が報じた最近のニュース http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/src/read.php?=11976) (2007年11月閲覧) 22)http://www.we4change.info/(2007年11月閲覧) 23)Haeri 1994, p.106 24)Haeri 1994, p.98 森田豊子:現代イランの家族保護法をめぐる議論 87 化するのに貢献した最初の人物である」と 形で有効利用するべきであるという。そこで, 言っている25) 。モタッハリーは一時婚を現代 彼は新しい形の呼び名を考える。一時婚では 社会において必要な制度であると擁護する立 なく,交際婚(ezdevA je refaqA tB )である。 場をとった。それは,特に社会的な立場を確 この交際婚は子どものいない若者に限定され 立しておらず,なかなか結婚に踏み切ること る。正式な結婚の前にお互いをよく理解する ができない若者の擁護のために利用された。 ために,婚約の後に一時的に婚姻関係を結べ モタッハリーは一時婚によって恩恵をうける ばいいというのである。そうすれば,現代社 べきはこのような困難な社会において正式な 会で問題になっている離婚の増加に歯止めが 結婚ができない弱者である若者であると言 かかるのではないかという意見である。また, い,この制度はこのような弱者を救済するた あくまでも一時婚は,経済的に余裕がないた めに積極的に利用されるべきであるという理 めに結婚できない若者を救うために行うべき 由から奨励されることになった。このような であり,もし結婚できない若者が社会に多く 論理は,それ以後も一時婚を語るときに利用 いることになると,社会が混乱するためによ されることになる。ミール=ホセイニーの著 くないのだという。これは,先ほど述べたモ 書にも,その一例が見られる。彼女はレバ タッハリーの議論をそのまま継承するもので ノンのシーア派宗教指導者ファドルッラー ある。 が一時婚について書いた著書を読んで,「立 それに対して男性の社会学者のザーヘディ 場や議論に何ら目新しいことは見いださな ー氏は,あくまでも正式な結婚による家族形 かった。それらはモタッハリー理論の焼き 成にこだわる立場である。最初の発言からず 直しにすぎ」ないと評価を下している26) 。 っと変わらない。家族を形成して初めて男女 ラフサンジャニーの一時婚に関する発言か は完全なものになるという意見である。その らちょうど10年後に,「イラン紙」に一時婚 ため彼は,一時婚はあくまでも家族の形成, についての討論会が掲載された 27)。ここで 継続を助けるために必要とされるのだという は一時婚を語る時にムトアやスィーゲなどの 考え方を貫く。これは,どちらかといえば伝 イスラーム法学の専門用語を用いらず,一時 統的なイスラーム法学の観点に近いといえ 婚(ezdevA je movaqqat)としている。出席 る。現代イラン社会に見られる諸問題,つま 者は,高位聖職者(アーヤトッラー)である り離婚の増加,経済的に自律できない若者の ボジュヌールディー氏,アッラーメ・タバー 晩婚化などの現代的な問題に対処するために タバーイー大学の社会学部の社会学者ザーヘ は,確かに一時婚も有効かもしれないが,そ ディー氏および弁護士の女性のシシュケラー れよりも有効な対策は,これまでよりもより ニー氏である。 簡単に正式な結婚ができるような条件を考え 三人の立場の違いは明快である。まず,ボ るべきであるという。つまり,婚資をより安 ジュヌールディー氏は,アーヤトッラーとし くするなど,若者が結婚することを妨げてい ての立場として発言しているものの,先ほど る法的・社会的な条件を緩和するべきである のモタッハリーの議論の枠組みから出るもの と主張する。一時婚が広がったために正式な ではない。彼は,これまで一時婚が悪く言わ 結婚が減少するようなことがあってはならな れてきたが,現代社会ではこの一時婚を別の いというのが彼の立場である。 25)Haeri 1994, p.112 26)ミール=ホセイニー 2004 p.430 27) Iran 2000年9月6日,7日,9日,11日の4回に渡る連載 88 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要) 最後にシシュケラーニー氏であるが,彼女 いては,イスラームでは女性の権利が認めら は最初に一時婚の問題点を述べてからほとん れているとして「語らない」という態度をと ど残りの二人の会話に口を挟んでいない。彼 っていたウラマーたちが,西洋に出会うこと 女の述べる一時婚の問題点とは,女性雑誌の で語る必要が生じ,モタッハリーというイラ 中など女性の立場から一般に言われているこ ン革命の中心人物による「女性の権利」につ とである。一時婚の法的な問題点,つまり, いての革命後の新たな概念化が行われた過程 一時婚では夫が妻を扶養する義務がないこ が見えてきた。革命後のイランでは,女性の と,また相続がないこと,女性側からの離婚 権利を「語らない」ですませることは難しく 申し立てができないために,女性が不利な状 なってきている。しかし,そのモタッハリー 況におかれることを挙げる。また,文化 が今でもイスラームの学界ともいうべきコム 的・社会的な問題点として,一時婚をした の宗教学校の世界において逸脱視されている 女性が再婚することが現実問題として難し ことからもわかるように,彼の意見はすべて いことがある。そのため一時婚は特に女性 のウラマーたちが共有している意見であると にとって不利であること,最後に最も大き いうわけではない。それでも現実の社会にお な問題として両者の間に子どもができたら いては,イランの内外からの女性運動による どうするのかという問題点を指摘している。 問いかけ,革命後のイランの政治的・社会的 彼女の提起した問題のうち,残りの二人が な変化にともなう思想の変化などの動きは絶 議論の俎上に載せたのは子どもの問題のみで えず存在している。それらすべてのアクター あった。子どもの問題に関しては対談の中で の動きの相互作用によって,イランの女性の は結論が出ず,「法的整備が必要」として対 現状は変化していく。それぞれの動きをひ 談が締めくくられている。2007年の家族保護 とつひとつ注意深く見ることで,現実に何 法改正案では,一時婚の届け出制度について, が必要であるのかについてよりよく理解し, 女性が妊娠したときにのみ届け出を義務づけ 安易な批判による対話の中断を防ぐことが, る案が出たのは,このような議論からつなが 筆者を含めたイランの外からイランを観察 っているものである。このことからも女性の している研究者にとって重要な態度であろ 権利というよりも「家族」をいかにして守る うと思う。 のかについてより重要視されていることがわ かる。 本論文は文部科学省科学研究費「シーア派 諸社会の特性とネットワークを考察するため むすびにかえて の総合研究」(NO.18201048) からの支援を 受けたものである。 以上のことから,これまで女性の権利につ 参考文献 Banani, Amin 1961 The Modernization of Iran. 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