...

第4章 先行研究と本稿のアプローチ

by user

on
Category: Documents
10

views

Report

Comments

Transcript

第4章 先行研究と本稿のアプローチ
第4章 先行研究と本稿のアプローチ
53
54
はじめに
知覚のテーマは、前章でも述べたように、単純な生理学的な記述で完結するのではなく、哲学や科学史、
芸術学、メディア論、身体論といった複数のアプローチが交錯する領域である。本稿の中心的な分析対象
となるジョイス作品において、過去の先行研究がジョイスの文学における知覚の問題をどのように扱って
きたかを本章で概観する。結論を先にいえば、明示的に時間と空間の問題について論じたものは少なく、
知覚や認識論的なアプローチと重なる研究もきわめて少ない。
従来のジョイス研究では、意識の流れなど文体や語りの手法の研究を通じて、時間が引き延ばされる効
果を多くの論者が指摘し、モダニズムにおける時間感覚の変容と関連付けているが、あくまで文学的な技
法研究にとどまり、ほかの言説も射程に入れた形での論考はない。芸術作品を各時代における総体的なエ
ピステーメ(知識)の隠喩とみなし、その歴史的な性格を問いかけるような分析はジョイス研究の主流か
らは外れていたといえる。
本稿では近代のモダニズム芸術運動のジャンル横断的な広がりをジョイス作品に即してみながら、モダ
ニズム期に芸術で生じた認識の変容の態様を明らかにしていくのを主旨とする。個別のテーマでは、時間
や科学哲学の関連でこうした認識論に触れる先行研究がある。それらすべての論文や書籍に目を通すこと
は不可能であるが、ジョイスにおける認識の問題がどう扱われ、どう処理されているかを主に 3 つの観点
で分類し、本稿の立脚点と先行研究との異同を明らかにしていく。
第 1 節 認識論的アプローチ
19 世紀のリアリズム小説は絶対時間と絶対空間を想定したニュートン力学の世界観を前提にしていた。
モダニズム期の文学テキストがそこからどう離れ、新しい世界把握、表象を作り出していったかを調べる
ことは大きな論点であるはずだが、ジョイス作品に即して体系立てて分析した論考は少ない。その数少な
い先行研究の中でも、時間と空間の問題を早くから指摘したのがリチャード・エルマンの『リフィー河畔
のユリシーズ』である。エルマンは 18 の挿話で構成されるジョイスの『ユリシーズ』は、概念的に 3 つの
挿話ごとに区切られ、全体で 6 つのまとまりがあることを指摘する。それによると、ひとかたまりになっ
た 3 つの挿話のうち、1 番目の挿話は「空間」に配慮しており、2 番目の挿話は「時間」が優勢になり、3
番目の挿話はその「総合」であるという。エルマンは『ユリシーズ』を空間と時間の対立と融合の過程を
描いたものだと見る解釈を提出し、各挿話に盛り込まれている対比主題が物語の展開を推し進めていく効
果をもっているとした。
これからわたしが提案するのは、三章からなるそれぞれのグループにおいて最初の章は空間に敬意を
払い、第二の章は時間が優勢であり、第三の章は空間と時間を混合(もしくは根絶)しているというこ
とである[Ellmann 1972=1985:40]
『ユリシーズ』は 18 の挿話で構成されているが、エルマンの説に従って三つ一組に分けると、計 6 個のま
とまりになる。それぞれの最初の章、第 1、第 4、第 7、第 10、第 13、第 16 章が空間の章であり、時間
55
は第 2、第 5、第 8、第 11、第 14、第 17 章の章となる。だが、『リフィー河畔のユリシーズ』でこの時間
と空間の対立と融合に関して実際に述べられているのは、最初の第 1∼3 章のみである。エルマンは、ジョ
イスが友人たちに渡した「計画表」と呼ばれる『ユリシーズ』の設計図に依拠しながら、
『ユリシーズ』の
構造性、構成の問題を分析しようとした。6 組の 3 挿話グループはその形式感覚のひとつの証左ともいえ、
その構成的意図を明らかにするためにエルマンは<命題>=時間、<反対命題>=空間、<総合>=時間
と空間、という弁証法的な発展を便宜的に用意したと解釈できる。
その立論を具体的にみていこう。第 1 挿話の舞台で、主人公の 1 人がいるマーテロ塔は建造物として文
字通り「空間」を占めていることをエルマンはまず指摘する。ほかには、登場人物のマリガンが行う活動
をとらえて、
「空間的に従事している」[Ellmann 1972=1985:41]としているが、あまり説得力があるとは
言えない。エルマンはむしろ第 2 挿話を時間の挿話として展開するために、第 1 挿話を空間の話として強
引に際立たせている。第 2 挿話は、歴史の授業が話の主要な舞台となり、主人公のスティーヴンは英国と
アイルランドの争いや、ユダヤ人の放浪の歴史など過去と向き合わせられる。スティーヴンは英国の植民
地支配という暗い過去を背負ったアイルランドの歴史を「悪夢」と呼び、勝者がつくるその呪縛から逃れ
ようとする。彼に対抗して、歴史を偉大な時間のプロセスとみるのが、スティーヴンを雇っている校長で
ある。校長は「あらゆる歴史は一つの大いなるゴールに向かって、動いている。つまり神の顕示に向かっ
てです」[Joyce 1986b:28]と、時間そのものが発展と計画というプログラムを内蔵しているというヘーゲル
的な歴史観を披露する。
熱烈なキリスト者である校長にとり、歴史(=時間)は前へ前へと直線的に進む神聖なプロセスであり、
最終的なゴールは神の顕現である。これに対しスティーヴンは、
「歴史は悪夢です。ぼくはその悪夢から目
覚めようとしているのです」[Joyce 1986b:28]と述べ、勝者がつくる歴史の流れを止めて、時間の呪縛の圏
外に出て自由になろうとする。カトリック教会がアイルランド社会を精神的に支配し、その権力作用が時
間の中で再生産され、強化される構図にスティーヴンは異を唱える。こうした空間と時間の呪縛からの離
脱が次の第 3 挿話のテーマになる。
第 3 挿話はエルマンの説に従えば、先行する 2 つの挿話における時間と空間を総合する箇所である。ス
ティーヴンは眼を閉じることで空間という外的世界を締め出し、時間という個人の内的な世界に生きる実
験をする。次に時間という世界からも抜け出る実験をする。空間と時間についてのエルマンの説明はここ
で終わり、時間と空間についての関係性や作品における意義は、あまり深く探求されずに途中で放ってお
かれた感がある(1)。また、時間と空間という要素も純粋に哲学的な観点から論じたわけではない。
エルマンのジョイス研究の中で最も著名な著作『ジェイムズ・ジョイス伝』(1959)には、ジョイスの認
識論的問題により近づいたような言及がある。
『ユリシーズ』の主人公の 1
ジョイスは時間の多様性と同一性に関心があった。ブルーム〔引用者注:
人〕はすべての裏切りは、永遠のつながりの一つであると考えることで自分を慰めた。
(中略)ジョイス
はまた、空間の中の多様性と同一性に、また単一の物事の様相の中に異なる関係を構築するキュビスト
の手法に関心があった。そして彼はベケットに可能な物体の置換の可能性を研究してくれまいかと頼ん
56
だ。パリのアパートのコークの写真はコルクの形をしているべきだとフランク・オコナーに強調したが、
それは予期しないような同時性が規則であるような世界の観念を、半ばユーモラスに意図的に示したも
のだった。人物は、ほかの生者・死者、虚構や神話の人物たちの状況や思考の一致によって支配される
状況や思考の連続の中を通っていく。(中略)彼らは宇宙の進行の例なのである。[Ellmann 1982:551、
下線は引用者]
引用が長くなったが、ここにジョイス作品における時間と空間の問題に対する重要な洞察が含まれている
と考えられる。また、時間や空間の多様性と同時性を絵画のキュビスムの手法に比較している点も注目さ
れる。エルマンは次にジョイス最後の作品『フィネガンズ・ウェイク』
(以下、引用文中以外ではウェイク
と略す)に言及し、その言語実験の中で時間の問題が広範に扱われていること、そして、時間のテーマが
初期の作品から一貫して探求されていたことを指摘する。
ジョイスは『フィネガンズ・ウェイク』に至るあらゆる作品で、現在と過去の一致を示そうとしたが、
『フィネガンズ・ウェイク』で初めて、過去や現在などはなく、日付もなく、時間は――時間の表現で
ある言語もまた――人類すべてに普遍的な一致の連続であることを表して、彼の確信をぎりぎりのとこ
ろまで進めた。地口や夢の曖昧さと同じように、言葉が言葉の中に、人間が人間の中に、事件が事件の
中に入り込み、我々は暗闇の中でなれた道を歩いていく。[Ellmann 1982:551]
エルマンはここで時間を言語作用の一つの要素とみている。また、エルマンは、
『ユリシーズ』の登場人物
であるレオポルド・ブルームとスティーヴン・ディーダラスが同一の時刻に偶然に同じことを考える現象
について、神話的世界と現実世界との間でおこる不思議な連携が関係していると指摘する。以上、エルマ
ンは理論的に整理したわけではなかったが、ジョイス作品の中で時間と空間の問題が重要なテーマである
ことをたびたび指摘していた。
ジョイス作品における時間と空間の問題をより本格的に分析したのがウィンダム・ルイスの『時間と西
洋人』
(Time and Western Man)である。ルイスの議論ではジョイスの心理小説はベルグソンやアインシ
ュタイン的な「時間主義(time-doctrine)」の影響を受けているという。そして物事を外的に描写するので
はなく、人物の精神の側から眺めるところに心理小説の特徴があるとし、その代表例として『ユリシーズ』
を引き合いにだして「時間本(time-book)」であると批判する。こうした時間主義を採用している作家と
してルイスはジョイスのほか、当時フランスで作家活動を展開した米国人女性のガートルード・スタイン
や、プルーストなどのモダニズム作家を挙げている。
ルイスのジョイス批判の眼目は、
『ユリシーズ』が時間的要素に拘泥するあまり、通常の小説が備えてい
るはずの安定感を失ったことにあった。
「ベルグソン的な流動性によって至るところに柔らかさ、たるみ、
曖昧さといった印象を与える」[Lewis(W) 1927:103]。ベルグソンに対抗して、ルイスは自分の信奉する哲
学は「空間哲学」であるとし、とらえどころのない個人の内面だけでなく、外界描写による確固とした世
界を描き出す小説の書き方に軍配を上げる。彼はジョイス作品では「時間」的な要素が甚だしいとし、小
57
説に安定感を与えるためにむしろ「空間」性を重視するべきであると主張した[Lewis(W) 1927:427-48]。
この空間性は、目に映じたままに世界を再現するミメーシスによって表象されるとルイスは考えていたよ
うである。ルイスは現代文学がベルグソン哲学のように時間の要素に過度に依拠し、空間的要素を軽視し
ていることに警鐘をならした。本論第 1 部でルイスのこの指摘をジョイスが逆手にとったことを『ウェイ
ク』のエピソードを用いて考察するが、ジョイス文学に流れる大きな主題として時間と空間の対立という
問題を取り上げた点でルイスの着眼は注目される。
日本人研究者では横内一雄が「ジョイスとルイス:時空の戦い」で、空間と時間のテーマを取り上げて
いる。横内はウィンダム・ルイスのジョイス批判を材料にして、ジョイスがルイスの批判を引き受ける形
で、
『ウェイク』の中で時間と空間の問題を扱っているとした。
『ウェイク』では、
「ムークスとグライプス」、
「オントとグレイスホウパー」というイソップ童話を題材にとったエピソードの中で、時間と空間の問題
を扱っている。横内は、ルイスが時間と空間に明確な二項対立の構図を提示するのに対し、ジョイスは「そ
れを無効化しようと図っていると思われる」[横内 2000:87]と指摘し、時間と空間を単なる対立関係に置
かない解釈の可能性を探っている。
本稿は、ジョイスが時間と空間を敵対的な関係に置くのではなく、むしろ両者を自在に処理して新しい
世界観を提示したことを示す計画である。ルイスの批判はジョイス作品のある特徴的な側面を言い当てて
はいる。しかしジョイスの認識に関する問題意識をルイスのように時間と空間という単純な二項対立の次
元の話にとどめると、ジョイスの目指した新しい世界認識、そしてそれと表裏一体の関係にある美学の本
質を単純化しすぎてしまう弊害が生じると考える。リアリズムや象徴主義といった過去の文学の様式では
提示できなかった新しいリアリティーを表象しようとしたジョイスにとり、認識の問題は芸術論としての
性格も併せ持っていたのであり、時間と空間の問題系を横内の考察をさらに広げる形で分析してみたい(2)。
第 2 節 科学・メディア論的アプローチ
精神分析やジェンダー論、テキスト解釈など様々な形式による研究があふれて「ジョイス産業」とも揶
揄されるジョイス研究の全体像を網羅することは困難であるが、本稿の主旨にかかわるものとしては、科
学と文学の連関やコミュニケーション論がある。科学やメディアの発達は、人間の知覚のレベルを拡張す
る機能を果たす点で、認識論のテーマと内容的にも方法論的にも密接な関係をもつからである。以下に代
表的な先行研究をみていく。
まず近代のテクノロジーとの相関を分析したものとしては、ライスの Joyce, Chaos & Complexity があ
る。ライスはこの中で非ユークリッド幾何学など物理学の影響を論じ、現代のカオス理論といった複雑性
の科学が提唱するのと同様の規則性をジョイス作品のテキストに読み込もうとする。非ユークリッド幾何
学の考え方を取り入れて多次元・相対的な視点をもった作品としてアボットの『フラットランド』やウェ
ルズの『タイムマシン』をライスは挙げる[Rice 1997:57]。そしてジョイスの作品の中でも『ユリシーズ』
で主人公のブルームの思考が非ユークリッド幾何学に拠っていることをテキスト解釈の手法で示す[Rice
1997:69]。
現代のカオス理論は、一見ランダムな現象にみえながらそこに一定の規則性が内蔵されており、全体と
58
個別具体的なものが同じように情報処理できるということを明らかにした。複雑性の科学は非線形的な並
列型の情報処理の仕方を広めたが、ライスはジョイスの『ウェイク』にも同様の思考法を見て取る[Rice
1997:117;132]。ライスは人間の知的営みが同時代の科学的知見と連動しているとする。たとえば、トーマ
ス・ホッブスは『リヴァイアサン』で機械的な社会構造を描写するに際し、ガリレオ=ガリレイの物理学を
土台にしたと述べ、18 世紀のフランスの経済理論である重農主義はデカルトの「機械仕掛けの時計」とい
う世界認識を経済のシステムにあてはめたという。また、近代経済学の祖であるアダム・スミスはニュー
トンの宇宙論を『国富論』の中の倫理学や経済学に応用したとする[Rice 1997:127]。自然科学とほかの人
文科学、社会科学との密接なつながりを重視するライスのこのアプローチは、同時代の認識論の隠喩とし
て文学作品を解釈しようとするうえで参考になる。
科学論ではドナルド・シールが James Joyce’s Techno-Poetics で、19 世紀末から 20 世紀にかけての情
報技術や電気技術の発達がジョイス作品に大きな影響を与えていることを分析している。シールはテクノ
ロジー、新しい数学・物理学への関心がヨーロッパのモダニズム芸術家の間に広がっていたとする。そし
て、その例としてドイツのバウハウス運動とアインシュタインの光学理論の連関を指摘する[Theall
1997:xv]。ジョイス作品ではライスと同様に、複雑性の科学やカオス理論との類似を指摘する[Theall
1997:12]。シールはジョイスの英語の文法や語法を解体した言語的実験がモールス信号の情報処理の方式
のような情報理論と表裏一体の関係にあるとして、コミュニケーション論の発想をジョイスの文学テキス
ト、とりわけ『ウェイク』の読解に応用しようと試みている[Theall 1997:73-76;118]。
クベルスキの Chaosmos: Literature, Science, and Theory は、『ウェイク』を中心に 20 世紀科学との
接点を探っている。クベルスキは加速器などの量子物理学や相対性理論で使われている用語が『ウェイク』
の中で頻繁に使われ、言語の意味内容が空疎化し、解体・脱中心化という過程が並行的に起こっているこ
ととの連関に注目する。クベルスキも科学的な言説がモダニズム小説の世界観に影響を与えているという
基本認識をもち、20 世紀の物理学がニュートン力学に置き換わったように、ジョイス作品の中でも近代の
表象のあり方が破壊され、言語を内側から解体して近代の言語観の修正が試みられているとする[Kuberski
1994:55]。クベルスキはいわゆるポストモダン批評に拠って、テキストが論理的に統一されたものではな
く、矛盾や不一致を含み、意味の喪失が言語に起きていることを『ウェイク』のテキストで探ることを主
眼としている。主体と客体、原因と結果など、西洋文明で優勢だった二項対立的な価値観に疑問を突きつ
けるポストモダン批評は、モダニズムにも批判の目を向けるが、クベルスキはジョイス作品の中にポスト
モダン的な要素を読み込んでいる。
メディア論では、マクルーハンの論文「ジョイス・マラルメ・新聞」が視覚文化との関連をキーワード
にジョイス作品のテキストを分析している。マクルーハンは、活版印刷を発明したグーテンベルク以来の
活字・出版文化の進展が外的な世界を一つの書物のように扱う思考を促したとし、新聞がその典型である
とする。道路や鉄道、電信、電話などと同様に、新聞が人間の世界観や経験を押し広げたとする[McLuhan
1954=1974:327]。
この見解は、技術の広がりと同時にメディアの広がりが人間の知覚を規定することを指したものと受け
取れるだろう。世界の様々な情報を一冊の本に閉じ込めようとする衝動をマクルーハンはマラルメの創作
59
活動の中に認める。そして「マラルメが新聞をもっとも原理的な意味で、この究極的に百科全書のような
本と考えていたことはあきらかだ」[McLuhan 1954=1974:333]とし、その上でマラルメとジョイスをつ
ないで、新聞のこうした特性がジョイスの『ユリシーズ』にも当てはまるという解釈を展開している。そ
して、「一九〇四年六月十六日の日付とともに、『ユリシーズ』は、新聞なみに、すべての空間を時間の新
しい区切りのなかに圧縮した。ちょうど『フィネガンズ・ウェイク』がすべての時間を「ホウス城とその
近辺」の狭い空間のなかに圧縮してしまったように」[McLuhan 1954=1974:335]と述べる。書物が一個
の完結した、閉じた世界を作り出すプロセスを示す。書物は三次元的に一行の長さと列、頁という奥行き
を備える。この自立した空間性の中で作家が自由に時間を操作できるのであり、現実とは別の世界を作り
上げられるというわけである。内容のレベルを超え、書物という形式面での空間性もジョイスの認識形成
を考えるうえで重要な論点となることをマクルーハンのこの論考は示している。こうしたメディア論の観
点も交え、書物の空間化作用の問題を本稿第 8 章で独自の見解も交えながら考察する。
第 3 節 絵画との比較文化的アプローチ
モダニズム芸術が同時代の科学論や心理学、哲学などの影響を受けていることを第 3 章までにみた。こ
うした相互作用を念頭に置くと、哲学や科学という回路を通じて、ジャンルの異なる芸術同士を取り上げ
て、そのモダニズム的特質を分析するという比較研究の可能性が出てくる。実際、モダニズム期の前衛運
動ではパウンドらのイマジズム運動が、空間芸術の絵画に近づくことを目標に掲げ、言語芸術の側に変化
をもたらそうとした(3)。ジャンルの越境性というテーマでジョイス作品を扱う方法論もモダニズム期の認
識知を探る上では有効であろう。これまでみてきた時間と空間の問題や、科学観の変化の影響は文学にだ
け及んだのではなく、絵画の世界にも同時的に及んだのであり、ジョイス文学も絵画との接点をどこかで
持っているはずである。
絵画とジョイスの関係を扱った先行研究は数がそれほど多くない。その中で、ロッスの Joyce’s Visible
Art: The Work of James Joyce and the Visual Arts はキュビスム、アール・ヌーヴォーなどとの手法の共
通性を分析し、ジョイスの外界描写が視覚、絵画的なイメージに強く依存していると指摘し、両者の相関
性に着目している[Loss 1984:11]。まず、ロスは、目に見えないものをとらえようとする世紀末文学の象徴
主義と、世紀末絵画の類似性を指摘する。また、世紀末の自己愛的なモチーフが絵画の題材に多く使われ
ていたとして、ジョイスの作品で登場人物が鏡をみて恍惚的な思いにふける情景がそれに相当すると指摘
する[Loss 1984:25]。キュビスムとの関連では時間と空間の安定した関係がなくなった点でジョイス作品と
同時代の絵画には共通項があるという[Loss 1984:41]。
だが、ロッスの分析の対象は初期の『ダブリン市民』や『若き日の芸術家の肖像』(以下、肖像と略す)
に偏っており、後期の大作である『ユリシーズ』
、
『ウェイク』に広げて展開していない弱点がある。また、
内容や作品内で用いられているモチーフなどの類似を指摘することが中心であり、芸術家の創作意図、芸
術精神という次元にまで遡って絵画と文学の比較研究をしているわけではない。学際的な比較研究の弱点
は、類似関係(アナロジー)の抽出だけに陥る点にある。本稿はそうしたロッスの分析が及んでいない思
想的な部分に考察の対象を広げて補強する。具体的にはジョイスの小説と 20 世紀美学の巨匠の1人である
60
ジョルジョ・デ・キリコの絵画作品を比較して、そこにモダニズム芸術全般に通じるような共通の精神史
的コンテクストを浮き彫りにする計画である。
このほかジョイスと絵画の関係を扱った先行研究としては、ヒュー・ケナーが The Cubist Portrait の中
で、
『肖像』の中に絵画的な要素があることを指摘する。ケナーは、題名に「肖像」という単語を用いたこ
とからして同書が絵画的、空間的な要素を最初から内包していると指摘する。その上で『肖像』には、デ
カルト的主客二元論から離れようとする視点の変化があるとみる。
「ルネサンスの絵画理論から派生した、
静止した主体、静止した視点という通常的な肖像画の 2 つの重要な因習」がジョイスの文学テキストの中
で否定され、その束縛から抜け出そうとしているという興味深い指摘をケナーはしている[Kenner
1976:173]。また、多次元的な視点をカンヴァスに持ち込んだキュビスムの考え方と同一のものをケナーは
『肖像』のテキストに認め、「『肖像』は文学の歴史の中でキュビスムの最初の作品である』[Kenner
1976:173]と主張する。『肖像』に限定しているとはいえ、ジョイスのテキストの中に絵画的要素をみる点
では本稿の趣旨と合致している。また、ジョイスの友人であったフランク・バッジェンもジョイス作品の
中にキュビスムやシュルレリスム的な要素を指摘している[Budgen 1960:92](4)。
デ・キリコとの関連では、クロネッガーがジョイス作品とデ・キリコとを関連づけた研究書を 1968 年に
出している。クロネッガーはまず、ジョイスがフランスの象徴主義作家を経由して米国の怪奇小説作家エ
ドガー・アラン・ポーの創作方法を受け継いでいると指摘し、円環や三角形など幾何学的な形象を精神と
いう形のないものを表現するために用いているとする[Kronegger 1968:33]。幾何学的な形象としては、建
物に入る亀裂(ひび)や、ギザギザの山、壊れた物体、螺旋形などを挙げ、それが登場人物の精神の破綻
などと連関しているという。外的な物体と登場人物の心理がつながるのは、宇宙の構造と小宇宙の人間が
連関しており、幾何学図形は宇宙の全体構造を反映しているという考え方がポーにはあったからであると
いう[Kronegger 1968:26]。ギザギザや亀裂といった不安定な幾何学的形象は、宇宙と人間の精神の調和が
乱されている隠喩となるのである。
クロネッガーは、ポーとジョイスの関連性をこう論証した上で、次にデ・キリコの絵画との比較に広げ
る。デ・キリコの作品では幾何学的な図像が象徴的に扱われ、眼には見えない内的な精神が探索されてい
るところにジョイスの心理小説との類似性をみている。精神の内側、前意識的な無意識の領域がデ・キリ
コの一連の形而上絵画では追求されているとクロネッガーは指摘し[Kronegger 1968:167]、ジョイス作品
にも同様の傾向があるとする。同書はポーとジョイスの比較分析に全体の 8 割強の分量をあてており、ジ
ョイスとデ・キリコの比較はわずか 20 ページ程度である。ジョイスとデ・キリコが不可視のものを現前化
するために、幾何学的イメージを用いたという解釈は説得力があるが、両者の創作意図や思想という観点
にさかのぼって両者の異同を分析はしていない。本稿では各々の自己形成や思想性にさかのぼって両者の
共通性と相違を探り、モダニズム芸術全般の表象の問題へと広げる計画である。両者の生涯にわたる芸術
活動を、書簡や著述などにも目を向けて作品の変遷や時代背景と併せて実証的に押さえつつ検証しながら、
ジャンル横断的な認識論の変容に迫っていく。
61
第 4 節 本稿の方法
前節まででジョイス作品を認識論的な観点で分析する上で参考となる先行研究と分野を概観した。認識
論の立場では①時間と空間②科学技術とメディア③絵画との比較――という 3 つの相からの分析が可能と
考えられ、時間と空間などの認識問題がそれぞれの文脈に応じて個別に扱われてきたといえるだろう。本
稿では、これら 3 つのアプローチを土台に、デカルト的遠近法主義からの離脱、視覚という近代合理主義
的な思考の枠組みに対する批判的視座という補助線を引いて 3 つのアプローチを束ねてみる。そこから浮
かび上がるのはリアリティー(現実感覚)の変容である。モダニズム期には絵画も含めリアルな表象とい
うものが、それ以前とは決定的に異なっている。本稿では、それが芸術家の認識の変化を映したものであ
ると仮定し、芸術家個人としてのジョイスの考え方ならびにジョイスの文学テキストの中に現実世界(時
間と空間の中で存在する物質的なものすべて)や心的世界がどう扱われているかを分析し、モダニズム芸
術の典型的な思考や表象の形を探ろうと思う。
これまでのジョイス研究では先にみたようにそれぞれの研究分野で、時間と空間の問題などが部分的に
言及はされるものの、認識論的な観点からジョイスの言語芸術の意義を捉える論考がほとんどなかった。
本稿では芸術作品を同時代の精神構造を映す隠喩ととらえ、認識の問題がジョイスの美学論や芸術精神と
密接につながることを示す。そして彼が作品の中で意識的に認識のテーマを繰り返し取り上げたこと、そ
してその創作精神や創作の動機が同時代の絵画とも思想的に共鳴、連関しあっていることを示し、ジョイ
ス研究の次元を新しく広げてみたい。これまであまり顧みられることのなかった認識論的考察を解釈の中
心に据えることで、同時代の絵画も射程に収めた、比較文化的なジェイムズ・ジョイス論を展開する。
次章以降の本論部分で分析を始めるのに先立ち、従来の文学研究の方法であるナレーション(語り)、文
体論との違いをここで明らかにしておきたい。小説における語りは、登場人物の行動や心理、物語の筋を
どのように提示するかという技法の問題である。ジョイスは新しい叙述形式として、意識の流れや内的独
白などの方法を用いた。その語りで描写される内容自体がそれ以前の語り方とは違う新しい視覚の構図や
リアリティーを提示しているという点では、従来の研究方法も認識論的な問題に潜在的に目を向けており、
本稿の問題意識とも重なり合う。しかしながら、語りの様式の問題は、提示の仕方にかかわる技巧的な分
析が議論の中心になる。これに対し、本稿の目指す認識論的分析とは、芸術作品を同時代の認識論の隠喩
であるとみてモダニズム期の特質を浮き彫りにしつつ、その技法を使う芸術家個人の思想や意識の層に遡
るところに先行研究にはない特徴があると考えている。
文学理論において、語りの問題は視点論、文体論の問題として扱われてきた。それらは、物語られる状
況や事象が提示される際の、語り手の位置(立脚点)を問題にする。すなわち、ある事象がどのような知
識をもつ語り手によって語られているかという語り手の素性の問題と、その事象をどこからみているかと
いう視点の問題である。この 2 つの組み合わせによって物語の叙述のタイプが変わり、叙述の客観性や確
かさが変化することを研究テーマとする。そこでは主人公と語り手の意識が一致するのかどうか、内面(主
観)と外的現実(客観)との間の距離といったことなどが主たる関心事となる(5)。視点論ではそうした技
法を使わざるを得なかった作家のそもそもの個人的な動機、創作意図という芸術家の内面で起こったこと
には答えられない。また、考察の対象が文学作品に限定され、芸術ジャンルをこえた学際的研究はなされ
62
てこなかった。本稿はジョイスが新しいリアリティーをどう獲得したかを比較文化的に考察し、作品世界
にどう反映させたかという創造の原点に遡る試みである。
以上、改めてまとめると、本稿は以下の観点と手順でジョイスの認識のあり方に迫っていく。
本論第 1 部では認識論的なアプローチから分析する。世界を把握するのに時間と空間は基本的な要素で
あり、19 世紀のリアリズム小説もそれを前提に世界を描いてきた。視覚は人間が周囲の空間の成り立ちを
理解するのに役立つ最も慣れ親しんだ感官であり、世界を模倣的に表象する際に便利な認識のモデルであ
った。ところがジョイス作品ではデカルト的遠近法主義に立脚した視覚が後退し、それに代わって主観的
な視覚が比重を増し、新しいリアリティー、現実世界が提示されている(6)。伝統的な時間・空間概念を構
成する視覚モデルを破るような工夫がジョイスの文学テキストでは用いられていることを明らかにしてい
く。ウィンダム・ルイスの批判のように、ジョイスの文学作品をベルグソン哲学の応用例とみて時間的要
素だけを取り出してみるのは一面的な見方である。ジョイスは通常の肉眼による視覚がもたらす現実感覚
とは違う「リアルさ」を求めたのであり、近代以降の合理主義のメタファーである視覚の特権的な地位を
崩すような新しい物の見方がジョイス作品でも頻繁に提示される。リアリズム小説にあった時間と空間の
強固な関係が崩れたあと、新しい現実意識がどういう方法や工夫によって提示されているかをみるのが本
論第 1 部である。
こうした表象の革新は、実はモダニズム芸術全般の動きと連動していたのであり、それを同時代の絵画
と比較するのが本論第 2 部である。ジョイスの文学テキストの中には、空間芸術である絵画にきわめて近
い発想や表現が数多くみられる。その背景に視覚モデルの変容という共通の認識論的な変化があることを
確認したうえで、ダダ、シュルレアリスム、後の抽象絵画などに広範な影響を与えた形而上絵画のデ・キ
リコとの個別分析に入り、そこで両者がそれぞれ表現しようとしたリアリティーの内実を探る。非論理的
で不条理なイメージを鑑賞者に与えるデ・キリコの形而上絵画は、描かれている人物や物が通常の意味や
価値をなくし、空間や時間も現実感を失ったような印象を与える。日常的な現実の世界とは違う非現実の
世界と、世界の原点をみつめる目線、そして芸術家の創作意図において、ジョイスと通底するものがある
ことを明らかにする。ジョイスとデ・キリコに似たような芸術精神や芸術意識があったことを論証できれ
ば、文学と絵画にまたがる精神史的コンテクストの存在を示すものとなるだろう。それはモダニズム期に
おける認識知のひとつの特徴的な断面を浮き彫りにすることにつながる。
以上のような分析手順で、本論第 1 部ではジョイス作品を詳細に分析し、モダニズム期における認識知
のひとつの局面を明らかにしていく。そこから得た知見をもとに、本論第 2 部で絵画芸術とジョイスの言
語芸術を比較してそこに共通的な特徴を抽出する。こうしてジョイス芸術における認識の重要性を明らか
にした上で、最終章でジョイスの言語芸術における「モダン」の成り立ちについて1つの答えを出すこと
を試みる。
註
(1)
『リフィー河畔のユリシーズ』は、エルマンが 1971 年に英ケント大学で行った記念講義に基づいており、最初から
厳密な学術書として書かれたものではない。また、同書は当時のジョイス研究が特異な技法や、謎めいた筋の展開の解
63
釈に集中するあまり、
『ユリシーズ』の背後にある構成感覚を見落としているという観点から、ジョイスが残した「計画
表」の概要を初めて公表するところに最大の力点が置かれていた。各挿話の関係性や細かな照応を明らかにして、
『ユリ
シーズ』の深層構造を明らかにしようとした。構造的な形式性を抽出するうえで、時間と空間という二項対立関係が一
つの傍証として持ち出されたという事情がある。時間と空間という認識論にかかわるテーマを本来の主題として論じた
著作ではない。
(2)
ルイスの批判はベルグソン哲学の「純粋持続」の考えをジョイス作品にそのまま当てはめて考える解釈の妥当性を
考えることとも関連する。個人の内的な時間感覚が外界との相互関係から成立するという観点からみると、時間と空間
という経験が分節する契機には身体という生身の運動が原初的にかかわってくる。つまり、視覚や聴覚という感官、外
界から受ける刺激を人間がどう受容するかが重要であり、そこでは主観と客観を区別するデカルト的二元論ではない、
「心身複合」の次元が開かれる。時間と空間の二項対立をみるルイスの議論はそうした観点からの分析がない。時間と
空間は頭の中だけの純粋な操作概念ではなく、ジョイスという作家の中では視覚や聴覚といった感官との相互作用から
生まれていることをルイスは見落としている。ジョイスの作品を単純に「時間主義」の小説と呼ぶことはできないこと
を本論第 1 部でみることになるであろう。
(3)
第 1 章でみたが、ジョイス研究者のヒュー・ケナーは The Pound Era の中で、パウンドの翻訳の技巧とキュビス
ム絵画の技巧との類似を指摘している。
(4)
バッジェンは画家だった。
『ユリシーズ』制作中のジョイスとの交友の思い出を回想した James Joyce and the
『ユリシーズ』とキュビスム、未来派などとの関連を次のように指摘する。
Making of Ulysses の中でバッジェンは、
『ユリシーズ』の中で技術的なデバイスが多種多様にあるのは、ジョイスが限定的な美学的信条のいずれにも同意し
ていなかった証明であり、自分の目的に適うものなら何でも手に入る道具を使いたがった証明でもある。すべての宗
教的独断を否定し、すべての政治的原理を慎重に避けた彼が、芸術的な限界にすすんで従おうとすることはありそう
もない話である。
『ユリシーズ』の中にはキュビスム、未来主義、同時主義、ダダイズム、そしてその他諸々のすべて
の実践のヒントが存在する。この事実は、それらの後に従った流派のどれにも彼がなびかなかった最も明白な証拠で
もある。[Budgen 1960:193]
このようにバッジェンは画家としての立場からジョイスの文学テキストに絵画と通じ合うものを認めている。この指摘
はジョイス作品と絵画との親近性の問題を指摘している最初期のものである。
(5)
「視点」という概念は近年、概念のあいまいさが指摘されるようになってきた。「視点」という言葉はもともと美
術用語で視覚的な意味に偏ることが多く、聞いたことや考え方など人間の広い精神活動の全体をとらえるのに必ずしも
適切な言葉とはいえないからである。また、語っている人物が他者の見たことを語る場合に視点という用語を使うのは
ふさわしくないという事情もある。代わりにジェラール・ジュネットは「焦点化」という考え方を提唱した[Genette
1972=1985:222-27]。これは外界を見ている主体を「焦点人物」と名づけ、焦点化される内容も視覚情報に限らないで
分析する点でそれまでの視点論とは異なっている。
「焦点化」の考え方は、人称という文法のカテゴリーとは別の形で、発話主体を考える道を開いた。つまり、それま
での視点論では、語りの人称の問題と、事象をどこから見ているのかという視線の問題の 2 つの観点からタイプ分けし
てきたが、ジュネットは前者を捨て、後者の誰がみているのかという側面のみを分析の対象にした。
「焦点化」の考え方
をとると、視点論よりも扱う内容が広がる利点が生じる。具体的には、視覚的情報に限らず、見聞や記憶などさまざま
知覚・認識を幅広く含ませることができるようになる。また、従来の「視点」の問題は「主観性」の問題と深く関わっ
ており、描かれる視野にはおのずと限定があった。
「焦点化」ではこうした「主観」
「客観」の単純な対立ではなく、一
見客観的にみえる情景描写に潜む主観的な視点もとらえることが容易になる。ただ、提示の仕方に分析の主たる関心を
向ける点においては従来の視点論と大きな差はない。この点で本稿の目指すアプローチとは異なる。
(6)
ジョイス作品における視覚の問題を分析した先行研究では、滝沢が『肖像』のテキストについて視覚と聴覚を対比
させたユニークな分析をしている。滝沢はこの小説の流れを「話しことば中心の場におけるスティーヴンの受動から、
視覚への志向をつうじての、書きことばの世界への exile という行動―正確には行為遂行発言―にいたるプロセス」
ととらえる[滝沢 2000:21]。『肖像』では主人公のスティーヴン・ディーダラスが弱視の設定で、視覚的に優位に立つ権
威者から幾度もおびやかされる。スティーヴンは成長してから教会の司祭や国家に対抗する自律的な視点を手に入れる
が、一方で聴覚に対しても彼の理性はひきつけられる。
滝沢は『肖像』の中で視覚と聴覚がそれぞれ優位を競い合う構造が組み込まれていると指摘し、第 1 章と第 3 章では
聴覚が支配的な感官であり、第 2 章、第 4 章では視覚的なものが対抗するとする[ibid.:30]。そして最終の第 5 章で視覚
と聴覚の両者がスティーヴンの美学理論と芸術上の実践において分裂すると解釈する。分裂した彼が逃避するのは、作
品の最後にある日記という「沈黙のエクリチュール」であるという[ibid.:29]。滝沢論文は、本稿の趣旨とはニュアンス
や力点が異なるが、視覚の優位性とそれに対抗するような別の感覚として聴覚が重視されていることを指摘している点
で参考になる。
64
Fly UP