...

星々は夢を見ない

by user

on
Category: Documents
20

views

Report

Comments

Transcript

星々は夢を見ない
星々は夢を見ない
現
窓
健
悪
で
ト
ン
実
か
康
と
あ
-
可
ヤ
的
ら
は
し
-
ロ
的
思
ミ
な
海
否
か
、
ー
よ
議
ン
政
を
応
表
こ
要
お
-
な
を
治
見
な
現
れ
塞
け
知
テ
驚
活
る
湿
し
ま
(
し
る
ら
ク
博
動
こ
悪
気
よ
で
-
は
た
天
れ
ス
さ
か
と
だ
化
と
う
彼
牡
=
ず
メ
文
て
ー
せ
ら
さ
が
し
騒
の
が
牛
考
イ
だ
モ
学
い
﹃
る
切
え
こ
て
音
な
経
の
い
え
ー
と
の
へ
る
天
こ
-
が
の
い
へ
い
験
城
う
る
ル
い
な
ろ 一常 八識 四に l属 年す にる モ。 ン
に
る
る
ル
を
と
の
だ
体
と
離
禁
環
っ
質
環
し
)
雅
依
た
の
う
か
関
ろ
に
に
さ
じ
境
た
の
境
て
で
頼
め
監
﹃
に
心
う
よ
な
れ
ら
の
。
悪
で
き
、
が
の
獄
永
は
が
。
る
る
た
れ
な
い
'
た
こ
含
道
か
遠
、
永
'
ブ
て
か
食
す
多
の
-オーギユスト・ブランキに関する覚え書き
ベ
不
較
キ
し
す
ベ
動
い
約二ケ月収容されていたブランキが、特別仕立ての列車に乗せられ
たのが五月二二日朝へ-ウールへナン-、レンヌをへてド-ヴア
海峡を臨むブルターニュ地方モルレIの街に到着したのは二三旦倣
(-)
二時であるとされる。
このあと護送車に乗-換えた老革命家が海
岸に着いたのが深夜一時ごろへ船が霧のなかを目的地に着-までさ
このときコミューンはまさ
らに二時間以上かかったとすれば'ブランキがト-ロー要塞に到着
したのはすでに早朝だったことになる。
が停泊していたという。
雄
も
比
ン
し
き
在
、
運
し
木
は
ラ
む
書
存
年
の
ほ
ブ
、
が
に
五
体
て
鈴
も
彼
数
五
天
っ
e 牡牛の城の老人
で
無
。
八
'
送
1
に断末魔の叫びを上げていたはずだが'ブランキの影響力が当局に
も
る
一
は
ど
パリ・コミューン勃発の前日に逮捕されて以来カオールの監獄に
とって大きな脅威であ-続けたことは疑いがな-'二月一二日彼
き
に
ほ
=
決
がヴェルサイユに移送されるまで、沖合いには常に警戒の軍艦1隻
紙
つ
ン
かつてイギリスの侵入を防ぐために建造さ
五
サ
れ、一七世紀からは国事犯用の監獄として用いられるようになった
三
=
星々は夢を見ない(鈴木)
られたl八五七年六月の限石落下目撃談も、ブランキに関心を持つ
が、その活動の傍らで密かに練-上げていた宇宙論は、一冊の書物
しかし私たちは'それがこうした極限状況で書かれたテクストで
の形を取ることになる。
完全に断たれていた外部との接触がい-らか可能になった六月'妹
あるとか、進行しっつある裁判を多少とも有利に導こうという計算
ト-ロー要塞監禁に際しても'
アントワ-ヌ夫人宛の書簡でブランキは'数冊の天文学書を送付し
-結局それはあてが外れてしまい、刊行のほんの数日前にはすで
に終身刑の判決が下っていたのだが-とも無関係ではないといっ
この書物で強い印象を与えるのはもちろん何にも
た事情を括弧に入れて、同時代の科学に関する思弁としての﹃永遠﹄
を考えてみよう。
まして、宇宙には私たちの一人一人とまった-同じ人間が無数に存
在し、これまでなされたすべてはこれ以後も無限回繰-返されるの
だとする結論に違いない。 だが同じほどに私たちを戸惑わせるのはへ
この限-な-宿命論的な結論が'それに先立つ聾星と黄道光、およ
び天体の誕生をめぐる一見正反対の議論となぜか矛盾することなし
三巻には﹁世界の複数性につい
て﹂という章が含まれているが、そこではl九世紀最大の地球外生
に同居しているという事実である。
に'居住世界の複数性というテーゼが擁護されているLt七巻の各
章は﹁ラプラスの宇宙生成論﹂、﹁一八六l年の大聖星﹂へ﹁天文学と
ラプラスは萱星を、太陽系の起源である巨大なガス球と同質のも
同じ-アン-ワ-ヌ夫人に宛てられ
た七月三日付けの手紙には'資料が到着しないために仕事が進まな
のと考えるが、聾星はそのような高い熱を持たないはずだし'それ
気象学﹂などと題されている。
いことへの苦情が述べられてお-、﹃永遠﹄執筆の作業が六月末ごろ
ばか-か地球の傍らを通過してもほとんど影響を与えることのない
-﹃永遠﹄の主要な論
からはじまっていたという大方の想像にも根拠があるといえるだろ
持たないまった-別の種類の物質である。
空虚な存在なのであって、つま-は恒星や惑星とはなんの共通点も
べての政体によって投獄されてきた一九世紀フランス最大の革命家
う。
いずれにしてもこの強制された孤独のなかで、七月王制以来す
2'一九世紀的宇宙観の転倒
命体論争であるビューエルとブルーワIの論争が解説されるととも
﹃永遠﹄との関係は一目瞭然である。
いても、彼が特に必要だという三巻と七巻の目次に目を向けるなら、
物として普及していたバビネの﹃研究および読解﹄のシリーズにつ
とは周知の通-だが'最新の科学的知見を一般向けに解説した読み
遠﹄のなかで、乗-越えるべき対象としてつねに参照されているこ
的応用に関する研究および読解﹄であ-'ラプラスのテーゼが﹃永
﹃確率に関する哲学的試論﹄、ジャック・バビネ﹃観測学とその実践
て-れるように依頼する。 それはラプラスの﹃宇宙体系の解説﹄と
人々の多-に記憶されているはずだ。
j!U
キの宇宙観が全体を統括する超越的必然性などと無縁のものである
ことは疑いがない。 事実彼は'読み手がこんなふうに抗議するだろ
﹁聾
天体を構成して
的な動乱、それを天空の彼方に想定する権利を'あなたはどこで手
点の第1点である聾星についての議論はこのように要約できる。
いるどんなものとも似ていない。 それは定義不可能な物質であり'
(2)
既知の物質のいかなる特性も有していないように見える﹂。
地球の
に入れたのか。[-]人類はいつも、天体の運行の堂々たる荘厳さを
星はエーテルでも気体でも液体でも固体でもない。
引力に捉えられて残留した聾星の塵が太陽光を受けて光ったものが
考えるのである。
-まで﹁外﹂から来るものへ偶然でしかあ-えないと、ブランキは
lつのシステムIたとえば太陽系-にとって決定的なものはあ
こに介入する動乱。 それだけが生まれ変わ-を可能にするのであり、
うという。﹁重力の法則性に対して、まことに奇妙な否認を行う永続
いわゆる黄道光であるという主張の当否は問わないとして、これが
たたえてきた。か-も美しい秩序を、あなたは永久の混乱で置き換
ra
えようとしている﹂。美しい楕円軌道を描-星々の秩序でな-'そ
人間には認識不可能なものの存在を認める議論であることは間違い
がない。
地球上で観察できる事物についての科学的知識を延長して
も捉えられない絶対的な外部が存在するのであり、しかもそれは遠
ブランキにとって聾星とは'私
い宇宙の彼方ではな-'しばしば私たちの傍らを通-過ぎていく不
可思議な天体の姿を取って現れる。
カント=ラプラス的な必然性の宇宙にブランキは偶然性のそれを対
置する。では﹃永遠﹄の論点のうち第三点、すべては反復でしかな
たちの語-うる論理と必然性の玲外の存在である。
第二点は太陽系の起源という問題だが、ここでもブランキは'数
いというきわめて宿命論的な見かけを持ったその主張はへこの偶然
性の立場といかにして両立しうるだろうか。
学的必然性と調和の世界であるラプラス的宇宙に対しその必然性の
いわゆるカン-=ラプラスの
周知の通-、ブランキの議論の前提は天体の構成物質に関するス
外で起こる大異変を対置しようとする。
星雲説がそれ自体としては完成度の高いモデルであることを'多
ペクトル分析である。 キルヒポッフによって分光学の基礎が築かれ
五
どんなに離
示唆しない。無限の宇宙に点在する無限個の天体が有限の元素によ
れた宇宙からやって-る光も'そこに未知の物質が存在することを
ではまだかなり新しい科学上のトピックだったはずだ。
恒星に認めたのが一八六四年だとすると、それは七一年という時点
たのが一八五〇年代終わ-、ハギンズが太陽同様の構成元素を他の
の同時代人とともにブランキもまた認めるのであるが'回転しなが
ら太陽系を生み出すきわめて高温の巨大なガス球というラプラスの
仮定では、その高温がどこから来るのか説明されておらずへこれを
天体どうしの結婚と出産と
説明するためには天体どうし、あるいは太陽系どうしの衝突が原因
だと考えるよ-他にないと'彼はいう。
いった表現がい-らかフーリエ的な印象を与えるとしても'ブラン
星々は夢を見ない(鈴木)
って構成されているならばへ元素の組み合わせによって作られるも
のもやがては数か尽きてしまい'あとは反復されるしかない。
だか
六(5)
ていた遠さと近さの反転をふたたび見出しているのである。
もちろんブランキの論理を反駁することは困難ではない。
同時代
の複数の評者がそのことには容易に気づいたが、なかでも典型的な
(6)
のはカミーユ・フラマリオンの評価だろう。
世界が有限個の要素か
らこの地球上に存在するすべては宇宙のどこかにそのままの姿で反
復されているはずであ-'そこでなされるすべてはすでに無限回な
らできているとしても、いやたとえたった一種類の元素からできて
要素の有限性とそこから作られるものの有限
たしかに﹃永遠﹄にはこうした批
えることなしに作-出しうるこの世界のヴアサエーションの一覧表
していかなる異化作用を持つこともな-、いわば文学的想像力に訴
ば無数のパラレル・ワールドなのだが'それらは私たちの世界に対
元素の種類が有限であるという単純な事実から帰結するのは'いわ
か-うるという事実は、私たちを当惑させることをやめはしない。
ンスにおいて)へ﹁未来予想小説﹂的な想像力からこれほどにも遠ざ
球外生命体についてのディスク-ルが(しかも一九世紀後半のフラ
だがそうであるにせよ、科学上の新発見にもとづいて構築された地
が'ブランキの論理が結局は科学的というよ-修辞的なものである
(7)
というジャックエフンシュールの意見は認めるしかないのだろう。
系は似たものになる傾向があるといった説明がなされてはいるのだ
スからして高密度の部分が中心に集ま-やすいなどへすべての太陽
判を予想したような記述がないわけではな-、恒星系の生成プロセ
性とはまった-別の問題である。
といわざるをえない。
-フラマリオンの批判はそう要約できるが、これは正当な指摘だ
いるとしても、そこから作られるものが有限個であるとはいえない
され'今もどこかでなされつつあ-'また未来においても無限回な
されるのであるという、まさに驚-べき論理。
天体を構成する要素
が有限であるならばへどこかに地球に似た惑星が存在するかもしれ
ないと推測するのは自然なことかもしれないが、だとすると宇宙に
はコミュニケーション可能な友人がいるかもしれないと期待するの
﹁人々は他の天体上に'地球上のそれと
ではな-'宇宙はそれほどにも貧しいのだと結論する感性はtやは
-常識とはかけ離れている。
は似ても似つかぬ空想的な状況や生物が存在すると考えたが、それ
一4)
は錯誤であった﹂。
すべては似たようなものであるという
デジリユジオン
﹁幻滅(-脱幻想)﹂のディスク-ルが、世界のどこかには私たちの
期待に応えて-れるものが存在するかもしれないという﹁幻想﹂の
ブランキは、自分が属する時代の夢に対
ディスク-ルが生み出しえたよ-も、はるかに極端で常軌を逸した
結論を引き出してしまう。
しもっとも徹底した批判を行うことで、夢よ-も異常なヴィジョン
を作-出してしまうのであ-'ましてすでに述べた通-'遠い宇宙
の果てに無限の単調さを見出すこの思索者が'同時に宇宙での隣人
というべき聾星を絶対に理解不可能な存在とみなしていたのだとす
れば'ここでもまた私たちは、ちょうどシャルル・クロが差し出し
を構成する。﹁イギリス人は'彼らの対戦相手がグルーシーのへまを
る。
しかしここには'そうした無秩序のなかに投げ出された一つの
ラス的秩序の否定のうえにな-たっている。
﹁創造﹂と﹁審判﹂にはさ
全能なる神が空間を無駄に使うはずはないからへ
ューエル、という対立がそれである。
な-てはならないという事実が説明できないと考えるにいたったビ
ならキリストの受肉(と彼による購罪)が実現したのはこの世界で
命体が存在するはずだというブルースターと、他の世界が存在する
居住可能な条件があればそこには生物が、さらにおそらくは知的生
-表現されていた。
る1連の論争のなかでも、ここにはその係争点が非常にわかりやす
直接検証する手段がないためにしばしば宗教論争的な色合いを帯び
いま1度ヒユーエルとブルースターの論争を思い起こしてみよう。
認することで、ブランキの特異さはいっそう鮮明になる。
失うまいとする同時代の知的努力がどのようなものであったかを確
まれた物語としての時間が失われたとき、それでも意味と方向性を
ディスク-ルが、みごとなまでに不在だ。
時パ
代がそれを受け入れるために発明せざるをえなかった﹁歴史﹂の
逆にボナ
それは永遠の動乱であ
犯さなかった天体上では'おそら-何回となくワーテルローの戦い
その勝利はわずかな差だったのである。
に敗れている。
そ
実現されるか
だとすると、本
すべてがすでに無限回
ルトも他の星では、マレンゴの戦いにいつも勝利しているわけでは
/・[I,
ない。
あの勝ちはまぐれだったのだから﹂。
しかもこの可能世界の
おのおのは本当らしさにおいて等価である。
実現されてお-、この先も無限回実現されてい-0
当のところこれらは﹁可能世界﹂ではないのだろう。
もしれないのではな-'すでにすべてが実現されているからだ。
あらゆる必然性は価値を剥奪されて
して運命や宿命を与えることのないこの絶対的な反復こそは、世界
を無数の偶然の堆積に変える。
この思考の不可思議な位置取-を測
しまい、偶然と必然の弁証法的止揚というヘーゲル的=一九世紀的
世界観が否定されるのである。
定してみなくてはならない。
3'私たちは (あるべき存在) ではない
ブランキの思索の前提をなすフランスでの論争もまたへこれとほ
ぼ同じ枠組みで進行したといえる。
七
とは間違いがない。
ただしマイケル・l・クロウの大著を一瞥すれ
浪費がないはずであるという'いわゆる﹁充満の原理﹂であったこ
イ・フィギエ)の場合もまたへその直感の根本が、宇宙には空間の
他ならぬカミーユ・フラマリオ
科学思想史の文脈を考慮するなら、ブランキが否定したのはまさ
ンを代表とするフランスの多世界論支持者(ジャン・レイノーやル
一九世紀はじめへ自然は永遠不変の秩序で
に一九世紀が自然のなかに見出したものへすなわち﹁歴史﹂である
といえる。
樵-返そう。
星々も、﹁種﹂も、生
もちろんブランキの宇宙はラブ
あることをやめ﹁歴史﹂を持つことになった。
まれへ生き、そして死ぬのである。
星々は夢を見ない(鈴木)
出するのがむしろ普通だったが、カトリックの論者からはこのテー
は、地球外生命体の存在をカ-リック思想と矛盾するものとして提
もむしろ寛容なものであった。 フラマリオンらこのテーゼの支持者
数怪というテーゼに対してカーリックの側が示した態度は不思議に
o
ばわかるように、一九世紀後半のフランスにおいて、居住世界の複
フィギエ、フラマリオンらのいわば汎神論的傾向を名指しで批判し
なるのではなかろうか。 -こうした主張がそもそも、レイノーや
リストが天使を伴って天空から舞い降-て-るその日に'明らかに
うしたと考える余地もある。 そしてこのことは最後の審判の日へキ
エスが購ったのは地球の住人の罪だけでな-、宇宙全体に対してそ
あ-まで地球を唯1の中心とするか、私たちの世界と同等の価値を
っているのは'宗教者と科学者の対立などではまった-なかった。
問題にな
ようとする文脈でなされていることを忘れてはならない。
当時のもっとも影響力の強
持った世界が無数に存在することを認めるのか、それこそが問題で
だからフラマリオンのブランキ批判が、文学的想像力に対する科
ある。
がレイノー、フィギ工、フラマリオン等のいわば自然神学的方向性
学の批判ではないことを確認しな-てはならない。
だが
誰にもましてフ
を批判しっつ、居住世界の複数性がキリス-教とは矛盾しないと主
ラマリオン本人が'宇宙を生命体で満たしたいと考えている。
彼にとってそ.の無数の生命体は、あ-まで無限の豊かさを証明し'
実は前述の批
評記事におけるフラマリオンの書評には、有限の要素から無限の多
いた。
つま-カトリックの論者(たとえばオルトラン、あるいはの
在するというブランキの主張には意味がないという論点が含まれて
たちではないのであ-'したがって宇宙には無数の私たち自身が存
天体に私たちと寸分たがわぬ生命体が存在したとしても、それは私
う一つのよ-思想的/イデオロギー的な批判'すなわちたとえ他の
無限の進歩を保証するものでな-てはならなかった。
代表的なものとして、世紀末になって発表されたテオフィル・オ
3)
ルトランの﹃天文学と神学﹄をたどってみよう。 神がこの地(地球)
様性を作ることは可能だというしごく論理的な批判だけでなくへも
たとえ他の天体に居住世界が存在するとしても'それがどのような
まして万有引力という
世界か何一つわかっていない以上、そこから直接に私たちの世界の
宗教的相対性が導き出されはしないはずだ。
見えない力がどんなに離れた二つの物体をも結びつけているのだと
すればへすべての天体は一つの全体をなしているのではないか。
イ
を選び、他ではないここで﹁受肉﹂が行われたことは間違いがない0
がらせるための﹁地﹂を形成していることは事実であろう。
張した神学者たちの主張が'ブランキの論理を﹁図﹂として浮き上
い天文学者の一人であったアンジエロ・セッキと法王の友人関係が
2
どこまでこの寛容さを説明できるのか、私たちにはわからない。
とを考えるならいっそう意外に思える。
てお-、それはこの時期のローマ教会が保守化傾向を強めていたこ
ゼが必ずしも教義と相反するものではないとする意見が複数出され
だ
八
ちに触れるグラトリー)と典型的な多世界論者(フラマリオン)に
共有されているのは、私たちは唯一の存在、意味と価値を持った存
ヽヽヽヽ
在であり'つま-はあるべき存在だという前提である。
ることがな-、見出された無限の宇宙のなかで私とは誰かという問
サンス
いを'どこまでも免れた思考であった。
宇宙には意味/方向性があ
あ-、私たちの語-うる意味/方向性はあ-までこの地球上に限定
-'それは科学的探究によって知-うると考えるのが多世界論者で
るべき存在であ-、だから宇宙で唯一の存在である)という論理と、
(私たちはあ
(私たちはあるべき存在であ-'だから他の天体にも生命が存在する
すべてはただ偶然に無限回
だから宇宙は無数
この暴力的な思考こそは、科学的(自然的)真実と人間的意味と
の私たち自身で満ちているのである。
反復されるのみであ-、自然に意味などはない。
っとも極端な多世界論に達してしまう。
されると考えるのがその批判者である。
だがブランキはう宇宙から
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
あらゆる意味と方向性を奪ってしまい、しかもそのことによっても
ならそれは私たちに似ている(しかし私たち自身ではない))はずだ
という論理とは'﹁無限﹂という脅威に対する防衛反応の二つのパタ
ーンにすぎない。
それは無限の進歩を条件とする一九世紀的な意味
での科学的思考と'無限性を有限性の側に引き戻して意味を与えよ
うとする宗教的思考との'共犯的な対立関係のヴァリエーションの
らかな論理的事実を、. そもそもなぜブランキは見落とすことができ
たった一つの要素からでも無限の多様性は作-出しうるという明
感じ取る能力の欠如によってへ彼らの時代の夢を逸脱したとするな
思いこむことのできる愚かさによってへクロは科学と文学の差異を
である。ドゥフォントネIはこの必然性がすでに与えられていると
のあいだに必然性の杵を見出そうとする、一九世紀が見た夢のネガ
るのか。それはブランキにおいて'おのおのの主体は唯lの代替不
ら、ブランキはこの必然性にまつわるあらゆる希望と幻影を無化す
一部なのである。
可能なものか、無限に多様な可能性に開かれたものかという問いが
ブランキの思索のこの暴力性、それが一九世紀のネガであることを
ることでそれとは正反対の方向へと時代を逸脱していったのである。
私
誰よ-も鋭-見抜い
だた
かの
らは
遠'間違いな-ベンヤミンであった。
天文
はじめから意味を持たないからであ-'私たちはどこまでも単調で
ただあるのみである。
似たようなものだという発想があらかじめ存在するからだろう。
たちはあるべき存在などではない。
あることを確認するためにへ一九三〇年代後半のパリでベンヤミン
らな-てはならない。
九
学者としてのブランキが社会思想家としての彼と正確に同じ人物で
い天体上に私たちとまった-同じ生命体が存在するならばへそれは
ヽヽヽヽヽ
私たち自身なのである。 こうしていかにも奇妙なことに、ブランキ
の書き残した草稿のなかから、私たちの問いにかかわる部分をたど
それらはともに時代の夢を共有す
の思考はすでに説明したシャルル・クロのそれと、ここでも前提を
共有しているかのように見える。
星々は夢を見ない(鈴木)
4`かくも過激な敗北
この希望のない諦観こそへ偉大な革命家ブランキの最後の言
葉である。世紀は、技術的な新しい潜在性に対して新たな社会
そうであるからこそ、
これらのファンタスマゴリーの中心にあ-、人を惑わしつつ新
秩序をもって応ずることができなかった。
宇宙の永遠に照らして考えるとき、たしかに革命に意味を見つけ
と旧を仲介するものの勝利となったのである。
そしてこの巨大
﹁地獄のヴィジョン﹂はまたへいわば反一九世紀的な革命観の基礎で
だがベンヤミンのブランキ像は単に悲観的なものではな-、この
た別の夢を養った精神、それがブランキだったに違いない。
とを知-'その場で周囲の夢以上に強固でよ-強い腐食の力を持っ
な夢の凝集体に閉じこめられて'逃げ出そうとしても出口がないこ
た夢に支えられた果てしない前方への逃走である。
を無限の進歩の条件であると思いこもうとする世界であ-'そうし
よ-他にない。近代とはつま-'向かうべき方向性とそれが持ちう
サンス
る意味を見失っているためにへその意味/方向性のない無限の空間
きないとすれば、事実と意味のあいだに幻想的な必然性を想定する
発見された事実に意味を与えねばならないがそれを見出すことがで
スマゴリーに支配される世界へそれはーボードレールの表現
モデルニテ(2)
をわれわれが使うならば-近代である。
自らのファンタ
ることはできないが、その敵である市民社会のあらゆる希望もまた
同じ-意味を失う。 しかもそれは、私たちが永遠に対しては取るに
﹁ブランキは
足-ない存在であるからといった慎ましい理由のためではな-へそ
の永遠が私たち自身のコピーで満ち溢れているからだ。
市民社会に屈服することになる。 だがそのひざまづ-力はものすご
(s)
-、そのために市民社会の玉座が揺れ動きだすほどのものである﹂。
-ベンヤミンはそのようにして'ブランキの最後のメッセージを'
革命的高揚と社会秩序とをもろともに無に帰する﹁地獄のヴィジョ
(13一
ン﹂と見なす。それもまた﹁ファンタスマゴリー﹂ではあるとして
も'﹁一九世紀のもろもろのファンタスマゴリーの星座﹂のなかで、
他のあらゆるファンタスマゴリーに対する決定的な批判を発信する
ようなそれである。
私たちにとって重要なのはおそらく、まさしく
モデルニテ
近代そのものであるこのフアンタスマゴリーが'科学の提示する真
実とそれに付与しうる人間的意味との不均衡によって決定されてい
少な-ともパサージユ論の概要として書か
もあった。﹃永遠﹄はたしかに進歩信仰に対する密かな瑚笑ではある
るという視点であろう。
れた文章の末尾で、﹃永遠﹄の主要部分をかな-長-引用したあとに
ベンヤミンがつけ加える次の注釈は、そのように理解できるものだ。
が'だからといってブランキが﹁自分の政治的信条を裏切ったとは
(﹂]
いえない﹂。
彼のモチベーションは前進することではな-、﹁目下の
抗して立ち上がるのは'子孫の生活をよくするために立ち上がるの
不正をな-そうとする決断﹂である。
いることを知らないものたちであろう。
んでいるものたちはみな﹁狂人﹂へつま-は白昼夢を見ながら夢見て
てそうでないと考える人々へ未来について積極的に語れると思いこ
﹁怒-から今はびこる不正に反
と同じ-人間にふさわしいこと﹂であるが'まさに﹁ブランキの場
ブランキのヴィジョンがその一見宿命論的な見かけとは反対に、
まったき偶然の世界であることをもう一度確認しょう。
彼は﹁後で﹂どうするかについての計画を立て
ることをいつも拒んでいた﹂。 ベンヤミンがこのようにしてブランキ
生じることが必然であるが、別のことは起こらないのが必然である、
合がそうであった。
から抽出する革命観は、ブランキの受容史のなかで見るなら特別も
そんな世界ではな-'生じうるすべての事態はすでに起こってしま
そしてだからこそ私たちはそ
ある事態は
の珍しいわけではない。 だがベンヤミンの明断さは、宗教と科学の
ってお-'これからも起こ-続ける。
の結果がどこにつながるのかを自問することなしに、一つの可能性
対立=共犯関係を免れるブランキの奇怪な宇宙論が、ユートピア社会
主義とマルクス主義の対立=共犯関係を免れていたかもしれない彼の
に賭けることが可能なのである。
ここでは無限の反復だけが私たち
社会思想と、まさに同じ形をしたものであることに気づかせてくれ
に'結局はきわめて慎ましい'しかし唯一可能な自由を与えてくれ
る。
自らの行動に意味や必然性を見出そうという希望を捨て去った
る。
意識に直接現れる不正への抵抗としての革命-それが未来にお
ときにだけ可能になる革命行動-最近10年から二〇年ほどのあ
II
極の批判であるとしても、それもまたファンタスマゴリーであるこ
とりわけ一九世紀そのものとさえいえる﹁進歩﹂の神話に対する究
た。
革命家の抱いた﹁永劫回帰﹂の思想が'同時代のあらゆる神話へ
ベンヤミンは決してブランキを全面的に肯定したわけではなかっ
アナ
革ク
命ロ
的ニ
時ス
間ム
錯誤
5.
指し示したこの方向に進んでいったように思われる。
いだに書かれたブランキ論のい-つかは、あきらかにベンヤミンの
けるあるべき社会の姿によって正当化されるユー-ピア社会主義の
ヴィジョンと対立することは当然として'近代社会を分析すること
だがこの直接性
でそこに何らかの法則を見出そうとするマルクス主義のそれともま
た対立するヴィジョンであることも明らかだろう。
に立脚した革命行動は、同時に反抗のロマンティックな掲揚とも遠
結果がどうあれ反抗は常に美しいなどと、ブラン
-隔たっている。
キは決していわない0 眼前にはとにか-承認できない何かがある。
この事態をかなう限-効率的なや-方で打ち壊そう。
そし
すると無数に
枝分かれする可能性の一つが(偶然に)選び取られ、何かが訪れる
のだが、その何かが何であるかは﹁後で﹂わかるにすぎない。
星々は夢を見ない(鈴木)
だがある時期以降のプランキ
とに変わ-はないのであ-、まして同じものの回帰とは、およそ神
話のなかの神話であるかもしれない。
解釈は、むしろ老革命家の宇宙論を'あらゆる神話の外部として描
そ
なぜならこの二人が、
革命運動における神話の働きを捉えようとしたものだが('ブランキ
とブルードンを特権的な位置に置いている。
一九世紀フランスの社会は決定的に対立する二つのクラスに分かた
のと考えたきわめてまれな思想家であるからだ。
れたものだと診断し、しかもその両陣営の融和を絶対に不可能なも
をlつの神話とみなすことさえl種の紋切型となった時代を生きな
ーヌ・シュー、ミシ土レ、サンドI九世紀の代表的﹁ポピユリ
マルクス主義的な歴史モデル自体
がら、ブランキの思弁を積極的に引き受けようとするものにとって'
スト﹂ほとんどはたしかに階級間の和解を希求していたしへまたマ
き出そうとしているかに見える。
彼を﹁幻滅/脱=幻想﹂の思想家と捉えることは必然であろうし、そ
ルクス主義的階級史観にしても、ブルジョワジーとプロレタリアが
階級間に相互的還元の可能性を想定したことには変わ-がない。
とはかかわ-な-革命の条件を作-出すと考えるものである以上へ
ユゴー、ウ-ジュ
れは,,,ゲル・アバンス-ルのように'マルクス主義を鎮小化して葬
一つの弁証法的なプロセスを作-出しへその対立が当人たちの意図
ベンヤ
り去ろうとする時流への頑強な抵抗者ですら例外ではない。
ミンの戦略が'ある時代の夢=神話に対して過ぎ去ったはずの夢
神話を対置することで、そこからの﹁目覚め﹂の可能性を考えるも
れに反してブランキがプロレタリアという語を用いる場合へそれは
純粋に政治的レベルの問題であ-、社会学的・経済学的ニュアンス
のであるとするなら、おそら-は二人のブランキがいることになる。
一方には回帰の神話の語-手へ他方にはあらゆる幻影の徹底した批
必然性を無化する﹃天体による永遠﹄のディスク-ルと同じ構造を
いずれにしても私たちは、こうしてブランキの社会観が'あらゆる
ッサンの評価の逆説性をどう評価すべきかは、ここでは間うまい。
だからそれは階級にまつわるあらゆる神話の外部であると考えるペ
争は力と戦略のみによって決まるとするブランキの社会観についてへ
階級間の闘
を一切含まないこともまた、い-度も論じられてきた。
素
判者。
だがアバンス-ルにとって'ブランキは﹁別の﹂神話を作ろ
うとしたのではな-て'神話というもの自体の外部へと向かいへ神
(16)
話の外で思考する実験を展開した思索者であるように思われる。
直に考える限-へたしかに未来に奉仕するのではな-悲-の直接性
から出発するという態度は、神話なしの革命を考えた革命家という
こうした解釈のなかでももっ
を)確認することになる。
テーゼを許容する余地があるだろう。
とも首尾一貫したものとして'アラン・ペッサンの仕事を取-上げ
s
ることができる。
ていると考えることで'必然性という概念自体を無効にしてしまう
すべては実現しておりへまた実現し続け
持っていることを(少な-ともそのように解釈する余地のあること
ペッサンの書物は﹃民衆の神話﹄という題名どおりへ一九世紀の
ある。
たしかにl切の社会的神話から隔たっていたせいでブランキ
認めず、すべてを力に還元してしまう革命家と正確に同1の人物で
思想家は、社会にあるべき姿へそれがたどるはずのプロセスを一切
歴史に、ロマン主義的革命からマルクス主義的革命への移行、すな
パリは、もはやブランキが﹃武装蜂起教範﹄で夢見たような、敷石
(18)
をはがしてバリケードを作ることのできる街ではない。
一九世紀の
急激に現実味を失っていった。
オスマンの改造計画がほほ完成した
は全体主義的ドグマ化から守られていたとまで結論することは、彼
わち必然性のディスク-ルの勝利の過程として単純化できる側面が
だからこの再評価はもともと
できたのは、彼がそもそも彼自身の時代に属することのない﹁時代
あるとす渇なら、ブランキがl九世紀の夢の外に身を持することが
の反ユダヤ的な思想がその宇宙論と根を同じ-する反ユダヤ=キリス
だが重要なのは、こうして-ベンヤミン
-教の態度決定に由来することを知っている私たちにとって、やや
行き過ぎと見えはする。
錯誤的な﹂思索者だったからである。
きわめて逆説的なものではあるのだが、しかしまた同時に過去の社
の意見に反して7-神話の外への脱出を志向するかに見えるこの
奇妙な論理が'ユートピア社会主義とマルクス主義という'正反対
会思想をマルクス主義から解放しょうとする二〇世紀末の論者にと
たとえば近年の批
評がシャルル・フーリエを再評価しょうとする際にもへその一見荒
って'避けがたい紋切型であるのかもしれない。
のし方で必然性を語る二つのディスク-ルのどちらとも対立すると
いう事実へまたそれ以上にこの特殊性が'おそら-最終的には自ら
アナクロニック
の時代を生きられない時代錯誤的な精神の生み出したものだという
決して忘れてはならない。 ブランキにおけるバブ-フ主義の影響の
装蜂起を要求する大革命以来の伝統に根ざしたものであることを、
キの革命観が帯びている現代性が'あ-まで少数エリートによる武
進歩史観のおよそもっとも過激な否定であるという意味でブラン
る必然性のディスク-ルであるユートピア社会主義と'現在から出
はどこであってもいいある偶然の地点から出発して世界を思考する
3
試みであると評価されることになるだろう。
まるで未来から出発す
一性を備えた未来のヴィジョンとは正反対に'フーリエのテクスト
として捉え返される。 トマス・モアからカベ-にいたるまでの'統
唐無稽なユー-ピア像は、いわば任意の地点から出発する思考実験
大きさを正確に測定することは実際には困難だが、三〇年代初期に
発するそれであるマルクス主義との共犯関係に対し'未来から出発
事実である。
形成された革命思想が'生涯にわた-彼の可能性であ-限界でもあ
する偶然性のディスク-ルであるフーリエ思想と'現在から出発す
二二
対して瑚笑的態度を取っていたにせよ)へはからずも手を結んで対抗
るそれであるブランキの戦略が(ブランキ自身はフーリエの書物に
ったことは確かだろう。 まして一八八〇年から九〇年にかけての時
期に'社会闘争の形態がバリケードを用いた市街戦からストライキ
へと変貌したことで、少数エリートによる作戦行動のヴィジョンは
星々は夢を見ない(鈴木)
しているかのようだ。 だがたとえフーリエとブランキが何らかの前
らの思考をその時代の夢と論理的なディスク-ルのなかで対決させ
-の倒錯的な擁護者にしないのだろうか。
り
R
R
H
﹃カンディ-ド﹄のほぼ毎号に、シユザメルの筆名で掲載された一連
の宗教批判文書は'ブランキがキリスト教的宇宙観の何をもっとも
とりわけ六号へ七号へ八号
を、教会の圧力によって否認させられるという屈辱を経験するわけ
誤-であった(だが﹁真の神学﹂の誤-ではない)とするその主張
リスト者であった0
彼はやがてガリレオに対する有罪宣告は教会の
謬性を否認する書物で物議をかもすことになる'いわば進歩的なキ
ス・オラトリオ会の再建に尽力したのちに、一八七〇年へ法王の無
教者であ-'エコール・ノルマルの学校付き司祭などをへてフラン
アルフォンス・グラトリーは理工科学校出身という経歴を持つ宗
に連載された﹁グラトリー神父。 科学と信仰﹂は示唆的である。
忌み嫌っていたかを端的に示している。
ブ
科学は
人々の夢を物質化するどころではな-'幻影を打ち壊すためにこそ
べき時間における矛盾の解消を夢見るためではなかった。
る。
彼が科学を召喚するのも'自らの思考を未来へと投影し、来る
ランキは﹁乗-越え﹂の欲望を持たず'すべては闘争へと還元され
見えることを、具体的な例に即して指摘しておくにとどめたい。
ここではブランキが、自
提を共有すると認めざるをえないにしても、スペクール分析を利用
る必要を、なぜかもともと感じることのない思索者であったように
科学を出発点として未
した天体物理学という新しい学問分野によって支えられた思弁だと
いう点にヘヤは-ブランキの特殊性はある。
来を肯定的に語ることへの抵抗を常数とするフランスの文学的想像
(8)
力の歴史のなかで例外的な時期とされる一九世紀後半にありながら、
﹁未来予想小説﹂的なものに根源的な無効性を宣告してしまう力こそ
科学的真実と文学的
必要であ-tだからもっとも厳し-批判されるのは、科学を人間的
が、ブランキの可能性の中心ではなかろうか。
想像力は、ここでは決して弁証法的な関係に入-こむことがない。
真実と結びつけようとする宥和的な論者なのである。
3
一八六五年五月、当時過二回発行されていたブランキ派の機関紙
その二つがクロの場合に、緊張関係を取-結ぶことなく端的に一致
してしまったのとは対照的に、ブランキにおいて両者は端的に切り
歴史に埋没した医師/作家であるド
それはプロレタリアとブルジョアジーの宥和が絶対
離されている。
にありえないのと同様なのだ。
ゥフォントネIと一九世紀フランス最大の革命家を同列に置-こと
がいかに無謀な比較に見えるとしても、彼ら二人はともに、仕紀の
なかばをすぎてなお大革命のイデオロギ㌧あるいはモラルを内在
3
弘
化し続けていたのであ-、その時代錯誤的な性格によって彼ら自身
K
の時代の条件を越え出たのである。
E
68 目的のない革命/運行
それにしてもなぜこの時間錯誤は、ブランキを過去のイデオロギ
だが、ではなぜ批判されるのは決して教権の典型的擁護者ではな-、
この論理はすでに、数年後の﹃天体による永遠﹄冒頭部での態度
世界には終わ-があると主張するわけだが、これが無限と偶然とを
ラトリーはだから天体の運行にも目的があ-、したがって私たちの
するために動-のである﹂という聖トマスの言葉を引きながら、グ
﹁いかなるものも、ただ動-ために動-のではな-、どこかに到着
のだからである。
科学と宗教の調停が、天体の運行に目的地を与えなおそうとするも
である。グラトリーの試みがいわゆる宗教以上にたちが悪いのは'
のケースとは正反対に'科学と真実を結びつけることへの批判なの
教批判に見える彼のグラトリー批判は'たとえばフラマリオンなど
与することがな-へただ事実を告げるばか-だ。
いう命題がそれである。 ブランキにおいて科学は、真実/真理を贈
外にないのであ-、自分自身はきっぱ-﹁理解不能﹂を選択すると
できない以上、﹁不条理﹂か﹁理解不能﹂かのどちらかを選択する以
決定を先取-している。 宇宙の全体を透明な姿で把握することなど
前提とする﹃天体による永遠﹄の議論と真っ向から対立することは
それが﹁不条理﹂でも﹁理解不能﹂でもない視線によって宇宙を捉
それはグラトリーによる
いうまでもない。ヴオルテールから取られた新聞タイトルが予想さ
えることは可能であるという幻想を抱かせてしまうからであ-、つ
この司祭でなくてはならないのだろうか。
せるとお-の'あま-趣味がいいとはいえない皮肉ないいまわしで、
ま-はこの世界に意味/方向性があると思わせてしまうからだ。
ブランキは歴史を取-消しへにもかかわらずユートピアという必
唯一のキャンバスとなるのである。
自由が'いかなる根拠もない身振-の痕跡を残すことを許された、
らこそこの無限で平板な宇宙は、私たちの悲しいほどにささやかな
体の運行にも革命にも、向かうべき目的地などあ-はしない。
反復でしかない私たち一人l人は、その反復の剰余として作-出さ
だか
天
一見科学による宗
ブランキはまさにこの発想の愚かさを抑旅してみせる。
私が知っているこ
なにしろ地球の打ち
私としてはへこの惑星がいつどのようにして'どこかへ到着
する気になったのかへ一向にわからない。
明け話など'聞いたためしがないのだから。
とといえば、それは決して急ぐことがないし'奇妙なほど熱心
おそら-は物見高い連中をいらつかせるために大回-をしよう
れるノイズ、すなわち純粋な偶然を受け入れるための幸運な、ある
然の王国に赴-こともない。 ブランキのヴィジョンのなかで無限の
というのだろう。 憲兵にパスポート提示を要求させるすべがな
いは不運な容器なのである。
に大回-して進むことにこだわっているという事実にすぎない。
いのは実に残念だ。 そうすればこの成合生の来し方行-末を知る
(SI
ことができるかもしれないというのに。
星々は夢を見ない(鈴木)
・i
王a
m
ただし私た
MiguelAbensour一ValentinPelosse,ォLibererl'enf
私たち
可能性であるというのが、ここでの私たちの主張である。
.
(﹂h)AlainPessin,LeMythedupeupleetlasocietefr
siecle,PUF(ォSociologied一aujourd'huiサ),1992.
号へ二〇三I二三三ページ.
特に一一二八ページを参照).
のコピーという仮説を本当に信じることのできる短絡性こそブランキの
直幹訳へ﹃現代思想﹄総特集﹁ベンヤミン﹂一九九二年一二月臨時増刊
(-)MauriceDommanget,Blanqui,laguerredeB
1l
8a
7n
0q
-u
7i
1,
eL
t'
lE
at
Ce
or
mn
mi
ut
ne
ep
,c
ai
rt
l.
esastres,op.
EditionsDomat,Paris,1947.
永遠﹄の仮説が﹁反復﹂に関
以す
下る
の仮
記説
述を
も極
主端
とに
しま
てで
こ展
の開
書す
物ることでそれ
1
3
3
1
3
4
.
p
.
を無効にしてしまうためのシミユラークルであるとまで考えることはで
きない(ミゲル・アバンス-ル﹁メランコリーと革命のあいだに﹂守永
に-H:Ci
以後の引用はすべてこの邦訳によるが、
(2)オーギユスト・ブランキ﹃天体による永遠﹄浜本正文訳、雁思社、一
九八五年へ五〇-五一ページ。
訳文は文脈に合わせて変更した場合がある。
(3)同書へ七三-七四ページ。
(4)同書、二九ページ。
(5)鈴木雅雄﹁シャルル・クロへあるいは翻訳される身体﹂、﹃Etudes
Francaises﹄へ第1四号へ二〇〇七年三月、l三二-一五1ページ。
(<-)camilleFlammarion,ォL'EterB
nl
ia
tn
eq
pu
ai
r︾
l,
e(
s3
a)
sこ
tの
r点
eに
sつ
'い
pて
aは
x次
Aの
.論文で明快な整理がなされているMiche
L'OpinionNationale,3
2.
5mars1872,p.
Pigenet,ォL'AdieuauxD
bu
aB
rl
ra
in
cq
au
di
es
sm
.eauVaillantisme
(サ)JacquesRanciere,ォPreface;︰AugusteBl(
ad
ne
qc
ue
in
,n
Li
'e
Es
t1
e8
r8
n0
ie
tニ
e9
p9
a0
r)
lサ
e,
sLaBarricadesousladirec
astres,Leslmpressions
t6
i7
onsdelaSor
2N
0o
.uvelles,2002,p.CorbinetJean-MarieMayeur,Publica3
Candide
J.
ournalaCinqcentimes,1
(
annee,n18
.,27mai
p. 49,n. 1.
5)Suzamel(Blanqui),ォL
Se
cP
i恥
er
ne
cG
er
ea
tt
fr
oy
i.
.
(8)ブランキ、前掲書、九五-九六ページ。
379.
(9)マイケル・-・クロウ﹃地球外生命論争1750-1900﹄鼓澄治・山本啓(e)見やすい例として次の論文を挙げてお-PhilippeRegnier,ォPlace,
二・吉田修訳、工作社、二〇〇一年、第九章一﹁フランスにおける宗教
fonctionsetformesdel'ecritureutopiquechezFou
utopie,manifesteXIX'-XX"siecles,textesreunis
的著作﹂を参照。
ChantalMassol,L'Harmattan,2001,p.
:s)同書へ七二六ページ。
3
8
5
4
0
1
.
(13)TheophileOrtolan,AstronomieettheolS
oe
gr
ig
ee
,L
De
eh
hm
oa
mn
m,
eォ
tL
Ba
rP
ih
gy
ns
ei
tq
,u
1e
8d
9e
4s
.metaphoresサ,Europe
(S3)ヴアルター・ベンヤミン﹃パサージユ論Ⅴ﹄今村仁二二島憲一他訳へ
岩波書店、一九九五年、二八ページ。
(2)﹃パサ上ンユ論-﹄今村仁二二島憲一他訳へ一九九三年へ五五ペー
ジ。
(3)同書へ五七ページ。
:s)﹃パサージユ論Ⅱ﹄今村仁二二島憲一他訳、一九九五年へ二六二ペI
ffli
Fly UP