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市史編さんこぼれ話 No.7「小平に学校プールができるまで」

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市史編さんこぼれ話 No.7「小平に学校プールができるまで」
市史編さんこぼれ話 No.7「小平に学校プールができるまで」
作成部署:企画政策部 市史編さん担当
―PTA新聞を手掛りに―
はじめに
三年前、母校である小平第二小学校(以下、二小)のPTA広報委員になった。PTA室
の棚を整理していると、奥にうずたかく積まれた書類の山。ひっぱり出してみると、歴代
のPTA新聞『ひまわり』
(1965 年 6 月創刊)だった。
創刊期の興味深いことといったら!
今のPTA新聞と違い、とにかく字数が多い。時々
の問題をとりあげては、忌憚なく個々の考えを投稿している。言葉遣いや価値観の違いも
多々感じた。なにより切羽詰った状況をどうにか動かそうという、当時の親たちの気概が
紙面を通してひしひしと伝わってきた。
最初に目をひいたのは、
「二小にもプールができました」
(『ひまわり 12 号』1970 年 10
月 12 日)という記事だった。私が二小に入学した 1973 年、体育館はまだなかったが、
プールは既にあった。あのプールはどういう経緯でできたのだろう。
思えば小平には海も泳げるような川もない。その小平で子供たちが抱いたであろう〝泳ぐ
ことへの憧れ〟は、どのように実現していったのか。『ひまわり』の記事、そして卒業生や
当時のPTA役員のコメントを参考にしながら、学校プールの設置過程をたどってみたい。
(1)学校プールが設置されるまでどこで泳いでいたのか
【灌漑用水池】
小平の小中学校の授業に水泳が登場するのは、1959(昭和 34)年のことである。小川六
番南側(現在の小川2丁目1177番地
たかの街道沿い)にあった灌漑用の水溜めを、
学校プールとして利用することになった。この水溜めは 1952 年に畑地用の実験施設とし
て造られたものである(
『小平町報』1952 年 8 月 15 日)
。1959 年、小平町教育委員会
は同水利組合とタイアップして、この施設を 25 メートルの町営プールとして利用すること
を決める。夏季二ヶ月間、小中学校(三小だけは警察学校のプールを利用)やスポーツ少
年団、町の水泳教室などに開放された。(『小平町報』1960 年 7 月 1 日/小平市体育協
会『四〇年のあゆみ』1998 年、93 頁/『読売新聞(三多摩読売)』1959 年 6 月 17 日)
。
夏の強い日ざしのなか、二小の子供たちは水着とタオルを抱えて、このプールまで歩いた。
泳ぐ前にくたびれる、往復に時間がかかる、低学年生には遠くて行けない、授業回数が少
ない、水泳を指導できる教師がほとんどいないからバタ足の練習しかできない、更衣室が
狭いなど多くの問題があった(1962 年・64 年卒業生談)
。
なお、この灌漑用水池は武蔵野西線敷設工事で取り壊しになる 1968 年の夏まで、町営プ
ールとして利用された。
【臨海学校】
戦時中から途絶えていた夏季校外学習は、小平町教育委員会が設置されようとしていた
1952 年に復活した(
『小平市三〇年史』1994 年、507 頁)
。当時は行き先も実施学年も、
各学校の裁量で決められていたようだ。二小については、校外学習を全学年で実施したこ
とが記録されている。行き先は低学年が入間川、中学年が逗子海岸、五年生が葉山海岸、
六年生が勝浦海岸で、水辺が主流だったようだ(
『小平町報』1952 年 8 月 15 日)。二小
では 2008 年度の開校八○周年記念史誌作成のために、卒業生に対するアンケート調査を
広く実施した。
このアンケートで、校外学習が再開する 1952 年より以前の卒業生数名も、
伊豆や大磯への臨海学校の思い出を書き記している(1949 年・51 年卒業生アンケート)
。
このことから 1952 年以前にも、各学校単位で校外学習が行われていたことが推測される。
親は農業で忙しく、今のように家族でレジャーに行けるような時代ではなかった。友達と
宿泊できる校外学習は、当時の子供たちにとって何よりの心踊るイベントであったろうし、
実際、小学校生活の一番の思い出だと話される方が多い。「海も女性の海水着も学校の校外
学習で初めて見たって、今でも話に出てくるんですよ」
(1953 年卒業生談)というコメン
トにも頷ける。
翌 1953 年、教育委員会は高学年を対象とした夏季校外学習を調整するようになった。
臨海学校は、翌々年の 1954(昭和 29)年に開設された。行き先は神奈川県大磯海岸だっ
た。新築されたばかりの町営幼稚園を借りて宿泊した。児童数が増え、海水浴期間中に各
学校を割り当てることができなくなったため、1961 年から小学校の行き先を千葉県安房
郡の富浦海岸に変更し(
『小平町報』1961 年 7 月 20 日)
、1964 年からは千葉県富山町
の岩井海岸に変更した。
「臨海学校はとてもよかった。それまで海に縁がなかったが、海が
とても好きになった。小平のダンゴムシや蜘蛛のかわりに、いたるところで大小の陸ガニ
を見て驚いた」と岩井海岸の臨海学校に参加した卒業生は当時を振り返っている(1969
年卒業生アンケート)
。
そのように子供たちが楽しみにしていた臨海学校は、1969 年に中止となる。全国の主な
海水浴場は大腸菌や廃油などで汚れ、海水浴に不適当であると前年末に厚生省が発表した
ためである。その他、往復の交通渋滞や、水泳を指導できる教師が少なく、安全確保が問
題になったことも中止の原因に挙げられる(
『朝日新聞』1969 年 7 月 18 日/1970 年
6 月 17 日)
。この年から小平市の夏季校外学習は六年生のみを対象とし、新設された小平
八ヶ岳山荘で行う林間学校に一本化された。
【身近な水】
さて、学校プールができるまで、小平の子供たちにとって〝身近な水〟はどこだったのだ
ろう。それはなんといっても自宅近くの用水だった。泳げるほどではなかったにせよ、勝
手に堰きとめて、水嵩を増やしては水遊びをした思い出のある方は多い。
小平の水といえば、玉川上水を思いうかべる方も多いかもしれない。しかし、玉川上水は
1965 年に通水が止められるまで、現在とはかなり様子が違っていた。水が満々としてお
り、流れが非常に速く、柵も整備されていなかった(『読売新聞』1967 年 6 月 27 日)
。
このため事故が絶えず、子供たちは常々「大川には近づくな」と注意されていた。玉川上
水は残念ながら、子供たちにとって身近な水とは言えなかったようだ。
水場とはいえないが、熊谷組グラウンド(現在の福祉会館南側窪地)は雨が降るたび、まるで
湖のようになった。実際に子供たちが泳ぎに来ていたという。
また、小平からは若干距離があるが、多摩湖近くの「たっちゃん池」こと宅部(やけべ)池(い
け)や、多摩川にも子供たちは自転車で通っていたようだ。多摩川には遊泳可能スポットが
あり、1960 年当時の京王多摩川駅付近の河川敷は、週末にもなると 2,000 人の人出で賑
わったそうだ(
『読売新聞(武蔵野版)』1960 年 7 月 4 日)
。
【近隣のプール施設】
では、近隣にプール施設はあったのだろうか。1923(大正 12)年と大変早い時期に誕生
し、50 年間以上利用された小金井の貫井プール(貫井神社前・全長 50 メートル)には、
小平住民にも馴染みのある方が多い。湧水を利用しているため、非常に水が冷たかったと
いう(小金井市体育協会『一〇年のあゆみ 法人化一〇周年』1986 年)。その他、小金井
の中川園のプール(前原小学校と上宮大澤(かみみやおおさわ)神社の間あたり)、東伏見の
早稲田大学のプール、一橋大学のプール、西武園プールなども利用されていたようだ。ま
た民間企業の施設を地域に開放していたものとして、ブリヂストンタイヤ株式会社東京工
場のプールや、東京ガス株式会社のプールが挙げられる。
1960 年代半ばになると、一般開放されていた丸井の花小金井研修センター併設のプール
や立川の柴崎町のプールにも、子供たちは友達と自転車やバスで出かけた。往き帰りの安
全を心配する親たちは、学校プールの一日も早い設置を望んだ(『ひまわり二号』1968 年
12 月 16 日)
。1968 年の二小開校四〇周年記念式典では、
「雨が降っても体育のできる体
育館や、いつでも泳げるプールがあったらどんなにすばらしいでしょう」と六年生児童が
心情を発表しており、子供たちもいかに学校プールや体育館に憧れていたかがわかる(『ひ
まわり 3 号』1968 年 10 月 5 日)。
(2)学校プールと三多摩格差・美濃部都政
1962(昭和 37)年、小平に初めて学校プールが設置された。ブリヂストンタイヤ株式会
社東京工場が寄贈した六小のプールである。小平では群を抜いて、早い時期に設置された
学校プールである。全ての学校にプールが設置されたのは、ずっと後のことだった(下表
参照)
。
【小平における学校プール設置年譜】
年代
校名
1962 年 六小
1965 年 三中
1966 年 四中
1967 年 一中
1968 年 七小
1969 年 二中・一小・四小・五小・八小・十小・十一小・十二小
1970 年 二小・九小・十三小・十四小・十五小
1971 年 五中・六中
1972 年 三小
1973 年 小川東小
1974 年 花小金井小
1976 年 鈴木小
1977 年 学園東小
1982 年 上宿小
各学校は当面、先に建設された近隣の学校プールを借りて水泳の授業を行った。一小は六
小のプールを、二小は三中プール(後に一中プール)を、三小は四中のプールを使用した。
三中のプールが完成した時には、共同使用する各学校(二小・五小・八小・九小・三中)
の代表児童が初泳ぎをした(
『小平市報』1965 年 8 月 20 日)
。
小平がこのように不便な状況下にあった頃、都心の状況はどうだったのだろう。1967(昭
和 42)年 5 月の東京都教育委員会の資料によると、特別区の小学校プール設置率が 84%
であるのに対し、三多摩地区では 51%となっている(東京都教育委員会『三多摩地域にお
ける小中学校施設の現状と問題点』1968、11 頁)。この時期、特別区の学校では戦前か
ら既に設置されていたプールの改修や、屋上へのプール移設工事が行われていたところさ
えあった。一方、小平でプールが設置されていたのは六小・三中・四中の三校のみで、市
が設置した学校プールとなると実質、中学校二校のみだった(表参照)。また、三多摩地区
のなかでも立川・昭島・八王子などに較べ、小平はかなりたち遅れていた(『読売新聞(三
多摩版)
』1960 年 5 月 31 日)
。
1960 年代前半、小平を含む三多摩地域は急激な宅地化によって人口が爆発的に増加した。
その変化があまりに急激であったため、生活に必要なあらゆるものが追いつかなかった。
上下水道の整備、学校施設の整備はこうした三多摩格差の象徴的な問題だった。
学校施設に関しては、教室の不足が何より深刻だった。二部授業を避けるための校舎増築、
校庭の拡張、そしてプールの設置についても陳情と請願が継続的に行われた(『ひまわり 7
号』1969 年 12 月 8 日/『ひまわり 8 号』1970 年 2 月 10 日)。こうした教育環境の
整備に関する陳情活動は、当時のPTA活動で最も重要な活動であり、PTAは学校と緊
密な連携をとりながら精力的に行政に働きかけた。併せて各学校PTAから小平PTA連
合会へ、小平PTA連合会から多摩PTA連合会へ、そして都議会へ陳情されるという包
括的な話し合いも同時に進められた(『ひまわり 8 号』1970 年 2 月 10 日)。しかし、予
算のないなか、最優先課題が校舎増築であることは誰の目にも明らかであり、プール建設
は夢のまた夢と思われていた。
ところが状況は急変した。美濃部都政が 1969(昭和 44)年度中に、東京のすべての小中
学校にプールを設置するという方針を打ち出したのである。これによって、それからの二
年間でプール建設は一気に進められた。一小・四小・五小・八小・十一小・十二小は、こ
の時に都負担で設置され、一中・二中・九小・十小は失業対策事業(都負担)として建設
が進んだ。他の小学校も市負担で順次建設された。一九七四年以降に設置された学校プー
ルについては、かねてから保護者の要望のあった低学年用の浅いプールが併設された(『教
育委員会月報 73 号』1976 年 1 月 31 日)
。
臨海学校が中止になったのが 1969 年であるから、小平の学校プールはちょうど臨海学校
と入れ替わるタイミングで相次いで建設されたことになる。また 1971(昭和 46)年には
萩山市営プールも完成した。同年、学区域の児童生徒を対象とした夏休み中の学校プール
の開放(教育委員会主催)も実現し、子供たちの〝水への憧れ″は徐々に満たされていっ
た(
『ひまわり 16 号』1971 年 10 月 2 日/『小平市報』1971 年 8 月 5 日/『教育委
員会月報 34 号』1971 年 7 月 23 日)
。
(3)地域・PTAの尽力
ただし、予算的な目途がついたからといって、万事うまくいくものではなかったようだ。
プール建設にあたっては、用地の確保という大きな問題があった。多くの場合、新たに校
地を拡張する必要があった。地主との交渉にはPTAはじめ、地域の尽力が大きかった。
二小に関しては、現在のプールの一部分及びビオトープ部分の校地拡張について、1964
年から陳情を継続的に行っていた(
『ひまわり 8 号』1970 年 2 月 10 日)
。その後、近隣
地域の理解を得て土地問題が解決され、1970(昭和 45)年にようやくプールが完成した
(
『小平第二小学校五十周年記念誌<文畬(ぶんよ)>』1979、28 頁)。三小・七小・八小に
ついても、プール用地確保に地域とPTAが尽力したことが、各周年記念誌やPTA新聞
から確認できる。
以前、当時の二小PTA本部役員の方にお話を伺った。
「学校が公的なものだからといって、
市の用地係が土地を提供してくれと、いきなりいったって駄目なんです。地域の長老の方
から、子供たちのためにひとつなんとかならないだろうかって、事前に話を通していただ
かないと。全ては人と人とのつながりで動いていくものなんです」とおっしゃられた言葉
が耳に残る。このように学校の様々な整備に、地域やPTAの協力は不可欠な時代であっ
た。
『ひまわり』では、プール開きの後、喜びいっぱいに学校プールを利用する児童の様子が
伝えられている。また、毎年恒例となった文化委員会主催の「お母さんたちの水泳教室(三
日連続開催)
」の様子、プールの脱衣所や便所を早く設置してほしい、地域にもプールを開
放できないか等の要望、プールができても思うように泳力が伸びないので、級を設置して
やる気を喚起したほうがよいのではないかという、より充実した活用方法まで盛んに投稿
されるようになった。
(
『ひまわり 16 号』1971 年 10 月 2 日/『ひまわり 20 号』1972
年 10 月 9 日)
。
おわりに
以上、かけ足で学校プールの設置の過程を追ってみた。校舎増築が先決で、本来ならばプ
ールの設置など難しかった時期に、東京都の方針で急転直下、学校プールは急ピッチで整
備された。しかし、そこに至るまでに行った地道な陳情活動、用地確保のための交渉など、
地域やPTAが果たした役割は大きい。ひととおりプールが設置されると、今度は体育館
設置に向けてPTAの活動の重点は移っていく。
プールにしても体育館にしても、あって当たり前と思われている既存の学校施設や制度の
多くは、地域やPTAの活動の賜物である。そのことは無味乾燥な制度沿革史からだけで
は見えにくい。その点、PTA新聞からは当時の保護者や地域が何を問題としたのか、そ
れに対して具体的に何が話し合われ、どんな反対意見があったのか、具体的に誰が動き、
子どもたちがどう喜んだのかなど、様々な息遣いを読み取ることができる。
PTAの先輩の記録であるPTA新聞には、現在起きている学校の様々な問題について、
多くの手がかりが詰まっている。ご一読をお勧めしたい。
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