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ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革

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ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革 -宗教改革時代の絵師
とその周辺-
Author(s)
渡邊, 伸
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1989, 30(1), p.1-39
Issue Date
1989-07
URL
http://hdl.handle.net/10069/15262
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第30巻 第1号 一-三十九(一九八九年七月)
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
-宗教改革時代の絵師とその周辺-
Shinn WATANABE
渡邊伸
Hans Baldung Grien und seine Umstande in Strassburger Reformation.
は じ め に
宗教改革の伝播、受容において、印刷が大きな役割を果たしたことはよく知られている。宗教改革がまず都市的な運動と
して展開したとされる理由の一端を、こうした情報の面に求めることが可能であろう。この印刷業やそれに関連した職種映
ほとんどか都市に集中していたのであり、宗教改革に都市が果たした役割をこの側面から検討、評価することもできよう。
によるものと思われる。
近来、改めてこうしたメディアについての問題が宗教改革の研究者の注目を集めるようになっているのは、このような理由
宗教改革における視覚上の媒体の意義を検討している研究者の一人、スクリープナーは、この伝達手段の重要性を、中世
末の文化の重心が視覚的なものにあったという点からも根拠づけている。この間題を検討する視角としては、これまでの研
渡
連
伸
二
究からみて二つの方向があるといえる.1つは、製作者、すなわち絵師、彫刻師、出版業者などからみていこうとするもの
である。この方法の間顧点としては、パンフレット等その作者を特定できるものがきわめて少ないこと、製作年代も確認し
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も訴えやすいという点で重要な問題なのであるが、検討するにあたっては、伝達内容も唆味になりやすいだけに、その評価
には難しい点がある。たとえばスクリープナIは、シュトラ-スプルクのT・ムルナIによる反改革パンフレット、﹃大馬
鹿どものル午1味﹄が広範な反発をうけ、失敗した例などから、図版の伝達手段としての意義を評価する咽ただしこの例
にしても、既に受容者側にはっきりした理念が確立していたことを物語っているわけでもあり、図版のみに失敗の原因を求
めることはできないことは指摘されている。
本稿では、シュトラースプルクで活躍したハンス・バルドゥング・グリーンをとりあげて、これらの問題を検討してい-
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いては、プツァー、カビトちを擁し、改革派の代表的な存在となった。そしてスクリープナIによれば、この都市はニュル
ンベルクとならぶ﹁視覚的なプロパガンダ﹂の中心地であり、それはH・ヴァイディッツ、H・レッシュ等、なかんず-ハ
ンス・バルドゥング・グリーンの作品を通じて行われていたとされるのである咽そこで本稿では彼自身の宗教改革との関係
"Religion,SocietyandCulture.
"in;HistoryWorkshop,14,1982.p.5
を検討することにより、都市におけるこうした改革思想の伝達者の具体的な実態を明らかにしたい。
︹
注
︺
①R.Scribner,
②例えば、StadtburgertumundAdelinderReformation.Hrsg.v.W.Mommsen,1979.所収のMoeller論文およびScribner,
Ozmentのコメント参照。その他、FlugschriftenalsMassenmediumderReformationszeit.Hrsg.v.H.Kohler,1981,
ReformationEurope:aGuidetoResearch,ed.byS.Ozment,1982.
③Scribner,FortheSakeofSimpleFolk.1981.pp.3ff.以下SimpleFolkと略記.
④ibid.,p.10,代表的なものとして、ニュルンベルクについてのH.Zschelletzschkyの研究があげられるDie"dreigottlosenMaler'
vonNurnberg.1975.(但し筆者未見)。この他、デューラー、クラナッハの研究についてはReformationEurope,pp.252ff.参照。
⑤目下のところ、Scribner,SimpleFolkが代表的な研究である。この他、彼のPopularCultureandPopularMovemenこn
Scribner,SimpleFolk,pp.9,187ff.
ReformationGermany.1987.所収の論文参照。
さしあたり、L・フェーブル、H・マルタン、関根他訳、﹃書物の出現])(下)二九頁以下参照。
Scribner,SimpleFolk,p.241.
一パルドゥングの宗教改革への姿勢
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三
翌年、A・ヘルリンの娘マルガレーテと結婚。その後、一五二∼一七年にフライブルクで創作し、とくに当地の大聖堂の
人など、教会関係の仕事を務めており(1四九二-1五〇二)、ハンスは少年時代をこの町ないしその近郊ですごしたわけ
である咽彼は、五〇七∼九年にニュルンベルクのデューラーの下で修業し、五〇九年にこの都市に戻って市民権を購入咽
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デューラー、ダリユーネヴァルト、アルトドルファー、クラーナッハらと共に、十指に入る存在と位置づけられている。と
-に盛期ルネサンス以後を特徴づけるマニエリスムの画風を、ドイツにおいて独自に発展させたと評価されている9
ハンス・バルドゥング・グリーンは、〓ハ世紀前半に活躍した絵師である。この時期、ドイツにおける美術作家として、
⑧⑦⑥
渡連伸四
翫瓢那漸Ⅷ戯蝣﹂VSK>yl
fN蝣*-zurStel琵慧覗絹
この人物については、これまでに美学上の研究の他、その宗教改革への関わりについて検討されている。従来、彼はプロ
テスタントであったとみなされてきた。これについて美術史では、美学上の評価に彼の思想的立場を結びつける必要もなかっ
たこともあって、むしろア・プリオリな前提として扱われており、この間題が正面から取り上げられたのは、先の評価に再
溌補い締鵠⋮璽研究からといってよいだろ-咽以後、バ″ドゥングの宗教肇の関連についてはコ-″ス、
従来、バルドゥングがプロテスタントであったとされてきた論拠については、バウムガルテンがそれらを整理、検討して
蝣K^o;サN-x-i..N^JE!Kii.:.j^.--.-<.'v川塁昌鱒昌''
りえない咽バウムガルテンは、これ以外の従来の根拠として、云一八年にアウグスブルクでPh・エンゲンという改革派
の人物と接触していたという記録、一五二一年製作のルターの肖像、そしてそれ以前に製作されたものとされる﹁ゲルマニ
アのヘラクレス、ルター﹂がバルドゥングによるものであるという見解があり、これをもってバルドゥングが早くから改革
に対する立場を鮮明にしていたという主張、等を取り上げ、それぞれ検討を加えた。
まず改革派との接触の記録については、もともと根拠が唆味であって、シュパラディンの書簡がその由来らしいこと、し
かし仮にそうであるとしても、その記録は単に彼がその人物と同行していたという内容であるにすぎず、改革派と断定でき
る証拠ではないことを指摘する咽つぎに、l五二壷の﹁光背と鳩の添えられたルター像﹂(図1)は、後述する改革派の
出版業者、ヨハン・ショットが彼に依頼したもので、その美化については旧教派により抑輸されたものでもある。これにつ
いては、ルターの肖像自体をバルドゥングは直接スケッチしていないので、前年に出たクラナッハのものを模写したと考え
られること、そしてルターを美化したこの図柄、と-に光背、鳩は彼以外の手になるものである可能性を示唆している。た
だしこの点については特に根拠をあげているわけでは
Hwo-Q昌'
これが印刷されたのはスイスで、その出版者はルター
派であるが特定はできないこと、なにより技法などか
らは彼の作品ではなく、むしろホルパインの作と考え
られるとした咽
バウムガルテンは、彼を基叫 的に宗教的な意識の強
い人物ではなかったとするが、しかしその1方で、い
くつかのルターの肖像画を描いたこと咽繰り返し警口
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M. Oldenbourg, Die Buchholzschitte
des Hans Baldung Gnen, 1985, S.126
より転載。
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革五
肖像を描いた後にカトリックの司教の注文を受けていること(バウムガルテンは、これを司教がその名声故にあえて注文し
に視点を向け、﹁中産的な市民﹂の具体例と位置付けて検討したブラディは、バウムガルテンの研究に対しては、ルターの
その後、W・コールスは後述するようにブツァーの小カテヒスムス、俗人むけ聖書の挿し絵が彼の手になるものと主張し、
図像と改革思想の新しい関係を目指したものとして、彼の宗教改革との関係を評価した喝嘉、バルドゥングの社会的立場
彼は姻戚関係等で改革派と密接な関係があり、また一五四三年には改革者へディオの書物に彼の肖像を描いたこと(個人的
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を不しており、彼が改革派の教えにいわば積極的に仕えていること(ただし一部は彼の職人の手がはいっているという)、
指導者プツァーらによる1五四一年のシュトラースプルク聖歌集の出版に際して、章の冒頭に載せられた装飾画は彼の技法
図1 「光背と鳩の添えられたルター像」 (1521)
渡
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伸
六
たとみる)、司教裁判への出頭拒否は当時の改革運動の急進的な展開の影響が考えられることを指摘し9また、コールスの
主張、つまりブツァーの小カテヒスムス、俗人むけ聖書の挿し絵が彼の手によるものとし、彼の宗教改革への積極的な関係
を評価することに対しても、バルドゥングの製作意図からその立場を確認するためには当時の他の作品とのイコノロジカル
な比較検討が必要だが、それはなされていないと指摘して慎重な態度をとっている喝
以上、バルドゥングの宗教改革に対する従来の見解、ならびにこれまでの研究の主要な論点を紹介してきた。図版自体、
すなわちその主題、技法等から作者を特定したり、そこから彼の思想的評価を行うことに関しては、筆者は検討の任にたえ
ないので、これまでの論議を簡略に紹介するに留めたいが、ここでは彼の社会的な諸関係、すなわちその依頼者や嘉威、
つの側面から考察することにしたい。すなわちツンフトにおける彼の地位、彼の家族関係、および聖画像撤去、破壊等を伴
ッンフトや都市の役職、改革指導者等の出版物との関係など、以上の議論の論点となっているといえる問題点を、以下の三
った宗教改革下における彼の資産状況という点である。バウムガルテンは彼が市参事会員となれたことがその思想的立場を
るが、この三側面の検討からバルドゥングとその周辺のより具体的な姿を示し、筆者なりの評価を行いたい。
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示すものとして特に重視し、またプラディは彼の中産的な都市民としての姿を浮き彫りにするためこれらの点を検討してい
︹
注
︺
筆者の管見しえたかぎりでは、邦語の文献としては、いまだまとまった商家論、画集ともでていない。
" T h e S o c i a l P l a c e o f a G e r m a n R e n a i s s a n c e A r t i s t ︰ H a n s B a l d u n g G r i e n a t S t r a s b o u r g .
hundert.3.Teil,DerOberrhein.QuellenlS.216.以下、Oberrheinと略記。
④H.Rott,曾ellenundForschungenzursudwestdeutschenundschweitzerrischenKunstgeschichteimXV.undXVI.Jahr-
EuropeanHistory8(1975)以下、"SocialPlace"と略記。
T . A . B r a d y ,
C.Koch, "HansBaldungsGeburtsiahr. "in;ZeitschriftfurKunstwissenschaft.2(1933).
⑨②①
⑤Rott,Oberrhein,Darstellung,S.85f.
⑥Rott.Oberrhein,QuellenlS.216.
⑦ibid.,S.217-8.
⑧F.Baumagarten, ''HansBaldungsStellungzurReformation. "in;ZeitschriftもrdieGeschichtedesOberrheins.N.S.19
(1904).
(1967),以下Holzschnitteと略記、idem, "Dieneugefundene"LeienBibel"desStrasburgerDruckersWendelinRihelvom
⑨E.Kohls, "HolzschnittevonHansBaldunginMartinBucers"KurzerCatechismus. "in;TeologischeZeitschrift23
Jahre1540mit200unbekanntenHolzschnittenvonHansBaldungGrienundseinerSchule. "in;ZeitschriftfurKirchengeschichte83(1972),以下LeienBibelと略記、Brady"SocialPlace. "
Baumgarten,op.cit.、S.245.
Rott,Oberrhein,QuellenlS.216.
Baumgarten,op.cit.,S.247-48.
ibid.,S.248-49.
ibid.,S.250-55.
ibid.,S.261.彼は、パルドゥングを基本的に教会的な人物ではなかったとし、彼の作品には、死と乙女、あるいは魔女といった主題
の作品があるが、それらはとくに裸体画に格好の主潜であったからだとしている。
ゥibid.,S.261.
⑧ibid.,S.255-258,Rott.Oberrhein,Quellen,1S.216.
⑬Baumgarten,op.cit.,S.258-60.
⑳ibid.,S.260f.
ゥibid.,S.261-62.
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
七
⑬⑭⑬⑫⑧⑩
渡
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伸
八
H.Graf(1479-80),L.Heischer(1479-80),B.Kis
での職種間の格差は所得差によって生じたと考えられるが、それを助長したのが選任制度である。市参事会員から構成され
このツンフト内で職種間での政治的発言権をめぐる対立といった背後関係が存在したのかもしれない。こうしたツンフト内
背景など詳細は不明であるが、前二者については例外的にこの職種から同時に二名が就任していることからみて、あるいは
-㌔H.Baldung(1545)であるO彫刻師、ガラス工等にはいない。バルドゥング以外の人物についてはその資産、家柄、
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、1四五〇年から〓ハ〇〇年の間に合計四名ゥゥ
これを絵師、彫刻師についてみると、史料の上で確認しえたところでは、聖○名からなるこの都市。@市参事会の会員とな
このツンフトを代表し、市の拡大参事会を形成するシエツフェン職一五名の内、九名までが金細工師によって占められてい
たのである咽
職能上の類似性からこのツンフトに編入されたが、これらは従属的な地位に置かれていた。たとえば、一五五三年、市政に
悠絹報髭鍔'質I│(;iォk>・>ai>蝣'-il蝣'&蝣):>*。->-¥lw:蝣:蝣ノ
バルドゥングが加盟したzurSteltzツンフトは、もともと金細工師のツソフトであり、ツンフト員の資産、政治的な発言
みていくことにしよう。
たとされる彼の出自、家族関係も重要であったと想定できよう。そこでまず、バルドゥングのツンフト内における地位から
バルドゥングが、ツンフトの役員そして市参事会員になれた条件としては、それ自体彼の宗教改革への姿勢に影響を与え
二パルドゥングの家族関係
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Brady, "SocialPlace. "p.307f.
W.Kohls, "Holzschnitte"und"LeienBibel".
⑳⑳㊧
る枢密委員会、つまり外交担当の1三人委員会、内政担当の1五人委員会は、とくに欠員が生じた際に他のメンバーによっ
て補充選抜が行われるというシステムが採用されていたため、経験、財産、姻戚などの条件によって事実上、寡頭支配が形
層が形成されていたのである
咽
成されるようになっていた。骨して同様の現象がシェッフェン職においても認められ、いわばシェツフェン層とよびうる階
こうした状況のなかで、バルドゥングは前述のように、一五三三年から四五年にかけてシエツフェン職を務め、そして一
五四五年には市参事会員となったのであるが、彼が上位ツンフトであるzurSteltzツンフト員であったことは、比較的市の
た状況、シエツフェン等の要職の閉鎖化という状況を鑑みるとき、これはこの職種の者としては例外的であるということが
要職に就きやすい条件となったと推測しうる。しかしながら、このツンフト内部における金細工師以外の職種の置かれてい
理解できよう。
バウムガルテンは、彼が市参事会員に就任したことをもって、彼が宗教改革を支持していたことを示す重要な根拠とした
ことは先に述べたが、以上のような状況を考慮すれば、この点については再考すべき点があるといえよう。たしかに宗教改
革の導入以降は、公然とした旧教の支持者が市参莞頁となることはできな-なっていた咽しかし、市参事会員にはかなり
後まで旧教の支持者が存在していたし、またブツァーら宗教改革の指導者たちが繰り返し﹁エピキュリアン﹂と彼らの呼ぶ
グループに対して苦情をのべているように9市参事会が思想、宗教的に統lされていたわけではないのである。この点につ
いては後でもう1度検討することになろう。そして市参事会員など市の要職については、別稿で指摘したように、宗教改革
の前にはツンフト二重加盟という方法によって、また改革の運動の急進化において、表面的な手直しがなされたとはいえ咽
資産、門地といった条件による閉鎖化が進んでいたのである。したがってバルドゥングがシエツフェン職、市参事会員に就
任したということについては、宗教改革に対する姿勢よりもむしろこれらの条件を重視する必要があるといいうるのである。
これに関して、ブラディは、彼の市参事会員となったのがその死の年であることを強調することで、それにいわば名誉職
的な印象を持たせようとしている咽これは、次に検討するその家柄、姻戚関係、そしてその資産に関して、彼がバルドゥン
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グを彼の言うこの都市の﹁中産層ヨiddlingpeople﹂、小商人、手工業親方層の例として位置づけようとする意図と関連し
ハ
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ていると思われる。しかし、これは注意すべ菩あって、Kist︼erなどにしても就任した年度に没しておりⅦそれはこうし
た役職がそもそも﹁経験﹂も重要な資格の1つとされるものであったことが考慮されねばなるまい。
さて閉鎖化が進んでいる市の要職に、絵師としては例外的に選任されたバルドゥングについては、以上のように、思想的
な要因以外の条件の方が大きく作用したと推定できるわけであるが、次に彼の出自、梱戚関係について検討しよう。
バルドゥング家は、シュヴェ-ピッシュ・グ、、、ユント市の出である。ハンスの父、ヨハンはハイデルベルグ大学で法学を
学び、前述のように1四九二年から1五〇二年にかけてシュトラ-スブルクの女子修道院の代理人など、この都市の教会関
係の仕事を務めていた.ハンスの伯父ヒエロニムスは医師で、皇帝マクシ、、、-アン一世の待医も務めた人物であって、1四
九六年にシュトラ-スプルクに居をかまえている咽その同名の息子、ハンスの従兄はフライブルクで法学を教え、妄一七
年にはティロルの顧問官に就任した咽そしてハンスの兄弟、カスパーも法学を修め、一五二1%から三二年にかけてS・プ
ラントの後を継いでシュトラ-スプルク市の市書記を務めた後、三二年には帝室裁判所Reichskammergerichtの判事となっ
ている咽このように彼の親族をみると、シュトラースブルク市の内外においてかなりの声望を得ていたものと推測できるわ
けである。
次に彼の姻戚関係についてみてみよう。彼はl五一〇年にマルガレ-テ・ヘルリンと結婚したのであるが、まずその岳父
小暮転結貸間、一'Mlv:ft!!j"iiP-wJt-。1J-V).f:'。蝣rfサ.f
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数学を修めて、亘二七年に設立されたこの都市のギムナジウムで教鞭をとった咽
事会、枢密委員会へ選抜され、t五二二
バルドゥングの経歴においてもっとも影響があったと想定できるのは、アルポガストの兄弟であるマルティンである。彼
日
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はzumSpiegel(貿易商)ツンフトから後に毛皮商ツシフトに移り、そこか
年からは二八、三四、四〇、四六年の計五回、市長Ammeisterとなってい
は、ラテン語を解せなかったようである
i,亘≡年頃から熱心な改革派支持者であった咽プラディはこのことから彼のような地方的な商業を営む小商人層を中
心として、この都市での宗教改革が進展したと考えているが、彼自身はむしろプラディの言う﹁上位ツンフト﹂からの進入
組、統治階層に近いと捉えるべきであろう。彼の二人目の妻、カテリーネはシュトラースプルクの最も富裕な金細工師L.
Sebottの娘、都市門閥のF.Gottesheimの未亡人である。そしてその甥のMathisGottesheimはバルドゥングの姪と結婚
にマルティンの三人目の妻は、この都市のもう1人の改革支持派の大立者、クラウス.ク,Tビスの娘であるが㌔女はこ
し た と い う 関 係 が あ る 咽 カ チ リ -ネの叔父ディーボルトが、そのzurSteltzツンフトの長Oberherrを一五二〇年から三四
年に亡-なるまで務めていたのが咽バルドゥングがシェッフェンに就いた時期と重なることは注目すべき事実である。さら
の都市の大手出版業者クノープロホの未亡人である喝このように姻戚関係をみると、バルドゥングが貴族の称号を持つ都市
ことが碓認されるのである。確かに、マルティン・ヘルリン、K・クニービスといった積極的に宗教改革を支持した人物と
門閥や富裕商人、市長やツンフト長といった、この都市の宗教改革期の重要な地位を占めていた人物と繋がりを持っていた
の関係は、バルドゥングの宗教改革に対する態度にまったく影響しなかったとは言い切れないが、しかしプラディも指摘す
るように、彼が結婚したのは宗教改革が起こる以前のことであるから、彼が改革を支持したとする積極的な根拠ともなりえ
ないのである喝ここで確認できるのは、彼の出自、梱戚関係からすれば、宗教改革の有無に関わらず、彼が市の要職に就い
たのは何ら異とするにあたらない、ということセある.この点で彼を﹁中産﹂的なグループの典型と位置付けるブラディの
評価は問題があるのではないだろうか。そこで次に彼の資産という点からバルドゥングが市参事会員となったこと、そのこ
とと宗教改革の関係について考察しよう。
︹
注
︺
①このランクについては、拙稿﹁シュトラ-スプルク宗教改革運動﹂r史林j六九巻二号五八頁以下参照。この他、シュトラ-スプルク
のツンフト制度の展開についてはシュモラI著瀬原義生訳rドイツ中世都市の成立とツンフト闘争し未来社一九七五参照.
Rott,Oberrhein,Quellen,1S.214,281-7.
ゥibid.,S.206.
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
渡
連
ibid.,S.208.
ibid.,S.212.
伸
T.Brady,RulingClass,RegimeandReformationatStrasbourg.1978.以下RulingClassと略記O.Winckelmann,
前掲拙稿、六三頁以下、参照。
GegnerBucers. "in︰ArchivもIReformationsgeschichte64(1973)参照。
この﹁エピキュリアン﹂派については、さしあたりW.Bellardi, "AntonEngelbrecht(1485-1558),Heifer,Mitarbeiterund
Brady,RulingClass,p.236f.,Winckelmann,op.cit.,S.626f.
(1903)bes.S.513f.また前掲拙稿、六二貢参照。
"StrassburgsVerfassungundVerwaltungim16.Jahrhundert. "in;ZeitschriftfurdieGeschichtedesOberrheins57
⑥⑤④
⑧(9
⑬Brady,RulingClass.Prosopography,No.37(MartinHerlin).Handschriftenproben.Bd.1Tf.2.
⑧Handschriftenproben.Bd.2Tf.80.
Brady, "SocialPlace. "p.304.
⑬Rott,Oberrhein.QuellenlS.218.
graphie(KasparBaldung).
desmonumentshistorigued'Alsace.N.S.15,(1892),19(1899),No3461.以下An.Br.と略記AllgemeineDeutscheBio-
Bd.1Tafe115.以下Handschriftenprobenと略記Annalesde幹bastienBrant;Bulletindelasocietepourlaconservation
Handschriftenprobendes16.JahrhundertsnachStrassburgerOriginalen.Hrsg.v.J.Fickeru.0.Winckelmann,(1902)
AllgemeineDeutscheBiographie.(1894)(HieronimusBaldung).
Brady,SocialPlace,p.303.
Rott,Oberrhein,曾ellen.1S.212.
Brady,SocialPlace,p.306.
⑱⑬⑬①⑬⑨
⑲ibid.,Bd.1Tf.2.
Brady, "SocialPlace. "p.305,RulingClass.Prosopography,No.34(Friedrichv.Gottesheim).
⑳Brady,RulingClass.Prosography,No.84(DieboldSebott).
⑳Handschriftenproben.Bd.1Tf.4.
⑳ibid.,Bd.2Tf.100.
⑳Brady㌦Soci巴p-ace㍉p.∽芦
三パルドゥングの資産
バルドゥングの資産について検討するにあたっては、まずこの都市における宗教改革前後の絵師、彫刻師らの置かれてい
た経済、社会状況から考察しておく[Jとが必要であろう。それによりバルドゥングを取り巻いていた状況、および彼自身の
MO昌轟、車重葦MWサtvJ.>i^
資産の相対的な評価を明らかにできよう。宗教改革期におけるこれら絵師、彫刻師たちをめぐる状況については、全般的な
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咽
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宗教改革による絵師らの経済的困窮という問題については、既にいくつかの研究が指摘しているように、 [
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の絵師、彫刻師らの主要なパトロンが教会、およびそれらに関係する寄進者などであったことが重要である。プラディは教
崇絹描最瑠㌶・::絹招。^>絹針門鏑醐絹針髭tfC-!!!'.-J
を誇示する効果を持っていた、という興味深い指摘を行っている
筆者が史料から兄い出せたそのような例として、一五世紀後半(1四七五頃)にこの都市の門閥の1つポック家が寄進し
た祭壇画について知ることができる0これはM.Doigerの手になるもので聖マルガレーテの物語を措いた1二の光景に措
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
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十
四
き込まれた盾の紋章からポック家のものとわかる。さらにこの祭壇画の対になる面には、寄進者シュテファン・ポック以下、
息子夫婦、親族の肖像が描かれている咽こうした祭堆画が人々に与えた印象についてという問題の評価は置いておくとして、
これら教会関係の仕事が絵師たちの主要な収入源であったことは間違いない。バルドゥングを例にとってみれば、フライブ
ルクの主祭吐画、修道院の窓に描かれた修道女とアンドラウ家の人々の像、あるいはH・ポックの依頼による洗礼者ヨハネ
と福音者ヨハネの祭堆画、等に代表される種類の作品が最大の収入源であったと推定できもこれらの依頼が古豪改革によっ
各地にその活躍の跡を
てほとんどなくなったのは間違いない。バルドゥングも、改革が正式に導入された後は、祭境南は製作しな-なっている。
(後出二〇真裏lも参照。)
・
)
甥
ロットは、シュトラ-スプルクの芸術の全盛期を一六世紀の第一四半期とし、オーバーライ
認められると、バーゼル、ニュルンベルクその他にみられるこの都市の作者の作品を例示している。これに対して、後述す
るように宗教改革の披とともに絵師、彫刻師らの苦祝、困窮を示す史料が登場するようになるのである。こ・の変化の原因と
して、まず推定できるのが、聖画像の破壊、撤去運動ということになる。
宗教改革期、と-に一五二三年から二五年にかけ、各地で聖画像の撤去、破壊といった事態が頻発した咽この聖画像撤去
甥 から二月にかけて都市の民衆による運動が生じており、これには
は、シュトラースプルクの場合、まず1五二四年八月
この都市の改革指導者M・プツァーらも関与していた
プツァーは、自身の関与した聖アウレリア教区での行動の弁明を兼ねて、その著書"GrandundUrsach"に1節を設けて
聖画像の問噂を論じている咽彼はモーゼの記述などを旧約聖書から引用して、これら偶像崇拝は拒否されねばならないと
る。そしてこれらに使われている費用は、隣人愛、とくに貧者のために用いられるべきだと、市参事会に対し主張している
用鴇寝締転欄摘川r>jョ州締結H2'昌‖錆肇bの書簡において既に明示されている﹂とある
ルターとツゲィンダリとでは、いくつかの研究が示しているように、聖画像に対する考え方においても相違がある咽この
点を、行論と関係する点に限って、ご-簡略に紹介してお-と、まずツヴィンダリにとっては、主は心の内にあり、聖画像
はそれを乱すもの、全て否定さるべきものである。その論拠は新・旧約の両方からあげられ、と-にモーゼの十戒が重視さ
れる。これに対しルターは、基本的には聖画像を否定するが、聖画像そのものは重要な問題ではないとする。つまり正しい
信仰の前では、それは何らの障害となりえない。旧約の戒律は、新約以降キ-スト者を拘束しない。新約には聖画像崇拝は
禁じられているが、聖画像自体は禁じられていない。したがって聖画像崇拝は聖人、、、、サ等の問題の一環として攻撃される
が、それ自体は用い方によっては有益とし、むしろ聖画像破壊がもたらす災いの方が問超とされる。ちなみにツゲィンダリ
は、旧約の戒律については碓かにもはや拘束力はないとするが、主の意志の啓示、救済財であると意義を認めるのである咽
このような両者の聖画像への対応の相違から、ツゲィンダリ主義が優勢であった地域では聖画像撤去、破壊が撤底され、ル
タ主意ではむしろ民衆の伝統的イメージ、シンボルを流用してプロパガンダが進められたとされる咽そしてシュトラー
スブルクの場合は前者にあたるということになるわけである咽
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区、新聖ベーター教区といった比較的、菜園人ら都市の下層民の多い地区を中心に聖画像が破壊されたり、撤去される事件
が起こった咽これに対する市参事会の対策・姿勢は、都市民の勝手な行動を禁止するとともに、九月に入り聖画像の撤去を
布告するというものであった。この措置は市の監督下に行うものとされ、寄進者には自発的な撤去を認めるとしている咽しか
しこの布告の実施が徹底したものでなかったことは、その後、翌年まで事件が散発的に記録されていることからもわかる喝
そして農民戦争を境にいったん終息していた運動は、1五二九年、この都市で、、、サが事実上廃止され、宗教改革が公式的に
導入された年に喝ふたたび生じている喝この時の運動の実態の詳細については不明だが、その背後にプツァーら改革指導者
がいたことは、彼らが市参事会に聖画像の廃止を求めていることから推定できる唱市参空音ふたたび聖画像の教会からの
撤去、ならびにそれらの救貧への使用を布告喝しかし、今回もその実施の程度が徹底したものではなかったことは、翌年に
かけての遠の聖画像破壊の報告によって知りうる喝
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以上のような経過からは、改革指導者、都市民衆らの聖画像破壊、撤去が活発かつ集中的に行われたことは権かであり、
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十
六
それが広範に実施されたことは推測できるが、しかし同時に、その実施の程度については、必ずしも徹底したものではなかっ
たと判断できよう。では、こうした聖画像破壊や撤去という事態は、聖画像などの製作者である絵師、彫刻師たちにはどの
ような影響を及ぼしたであろうか。
まず、絵師らの経済的な困窮を示す史料が注目される。一五二五年、シュトラースブルクの絵師、彫刻師らは、市参事会
にあててその窮状を訴えている。﹁主の御言葉により、聖画像に対する崇拝ははっきりと否定され、我々もそれについては
迷信であるから異存はない。しかし、そのために他のものを描いたり、彫ったり、それらを学ぶことまでなくなってしまい、
妻子を養えなくなっている。これでは破産し乞食をするしかない。我々は働く意志はあるので、福音を実行している他の都
市で同業者が受けているような保護をお曹する喝﹂
また、H・フォークトヘルという人物は、1五三八年に出版した技術書Kunstbuchleinの序文にこう記している。﹁主が
その聖なる御言葉をあらたに広められて以来、今日ではあらゆる精妙にして自由な学芸は著しい荒廃を被っている。という
のも多-の人々がこれらの技芸から否応なしに遠ざけられ、他の職種にむけられているからである。それ故これは主が求め
られたのかもしれない。数年すればこのドイツの地に絵師や彫刻師として働くものはほとんどいなくなろう喝﹂
年代が前後するが、一五三一年には、シュトラ-スブルクの絵師であったF・バーゲナウアIが、アウグスブルクで﹁当
世、我らの職は苦祝に陥っている﹂とする当地のツンフトからその市参事会に、仕事を奪っていると訴えられた。この時の
彼の弁明は、彼もシュトラ-スプルクではもはやこの職では収入を得られなくなったからであるというものであった喝そし
てさらに、一五四六年にはシュトラ-スプルクの親方絵師たちが、指物師や石工たちが彼らの職を侵害していると訴えて、
その禁止と秩序をもたらす規定を市参莞霞対し求め、既得権の確保を計っている咽
また印刷、出版と関連して注目される事態がある。前述のT・ムルナIによるルター攻撃パンフレットの出版とそれに対
する都市民の蜂起を機に、一五二四年1月二六日、出版に対する規制が始まっている。そして一五二四年九月1二日には詐
鋳文書の印刷、販売を禁ずる布告が出され、その布告内容は、挿し絵等の規制を盛り込むことで絵師、彫刻師にも影響を及
ぼしているのである.﹁これまでの詐誘ならびに中傷をなす本や文書、またそれを様々なやり方で伝えている図画を載せて
いるもの、さらに神や自然、成文、不文の法に反し、とくに皇帝より最近発布された命令に背いた詩文、図画をなすものが、
公然と売られ、跳梁し、人を憂慮させること、またそのもたらす専管予見させる類のものを禁ずること﹂咽この布告自体
はツソフト員でないものが出版活動を行うのを禁ずるという形を採っている。しかし、この規定にみられるような統制が、
絵師、彫刻師らに対してある程度の効力をもって行なわれたことを示すものと考えられる事件も記録の中に認められる。l・
クリーグという画家は、1五四1年に﹁冒演的﹂なマリア像を措き、﹁聖母よ我曇放れみ給え、とわに護り給え﹂と書きつ
けたoこれが知られるところとなり、捜査が行われ処罰されているのである喝ただしその記録に読み取れるのは、処罰の理
由は偶像を製作したということではなく、その像が裸体像で冒溌的であったとされていることは注意が必要であろう咽いず
れにせよ、こうした統制も何らかの形で絵師らの活動・環境を停滞・悪化させたのではないかと推測させる。
ただし、以上みてきたこのような絵師、彫刻師らの経済上の恵化については、必ずしも宗教改革のみに原因を求めること
はで悪いとする見解もある咽
まず、聖画像の破壊、撤去の運動については、その実施の程度は必ずしも徹底したものではなかったと判断できることは
既に指摘しておいた。それを示すものとしては、例えば、大聖堂の東面には、一四八六年に最後の審判の壁画が描かれ、旧
約の預言者たちをはじめとして聖人らが措かれていたというが咽これは宗教改革期以後も二世紀近-そのまま存続し、〓ハ
八1年に撤去されているのである咽
また、既に一五世紀の後半には絵師らのこうした収入の悪化は認められるという指摘もある。その根拠としては一連のツ
ンフト規制の強化があげられている咽たしかに五世紀後半ごろから経営主、親方、徒弟、あるいは他業種の者との間で注
ツンフト内での具体的な対立について知ることができる噂ロットは、この係争の主な原因はよそ者の﹁もぐり(H・ハーグ
文をめぐる係争がおきるのに対し、規制の強化による自己利益の保全を図る動きが認められる。シュトラ-スブルクでも一
四四七年頃に金細工師と彫刻師がそのツンフト内で各の権益を分割する規定を設けている咽そして云10年代には、この
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十
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の事件がきっかけとなっている)﹂によってこの都市の技能の﹁評判が落ちる﹂ことにあったという形でこの事件を捉えて
いる喝しかし、同時に、それがよそ者の排除という効力を持つものであることも見落とせない。すなわち、この事件には当
ハ
渡連伸十八
時まだ市民権を再取得していなかったバルドゥングも同様の科で巻き込まれているしⅦこれを機に市の絵師規定が改訂され
たが、それは不正に清在するよそ者の商品は没収するという、厳しいものであった喝そしてこの規定が、親方資格の審査の
強化、一人以上の徒弟を使用しないといった経営の制限を規定しているのは、ハーグには例外として従来通り二人の職人と
徒弟1人の使用を認めていることと合わせて考えるとPlJの係争、すなわち彼が市の技能の評判を落としているとして訴え
られたのは、彼が他より多い人手を使って活発に営業したため、これに脅威を覚えた他の親方が、親方資格やよそ者の規制、
営業規定の強化を要求し、そして彼に圧力を加えたものと推定できる0
このように、既に宗教改革以前にこの都市の絵師、彫刻師らが他都市に出かけて製作にあたっていることはこの都市の絵
師等の声望を示すと同時に、都市内の需要の限界を示すものとも考えられること、市内での営業上の対立が一五l〇年代に
おこっていること等から、宗教改革前夜に既にこの業種では、不景気が生じていたとは言えぬまでも、供給がすでに飽和状
態に陥入っていたのではないかと推測させられるのである。いずれにせよ、ここで先に示した事例からは、宗教改革によっ
てこれら絵師、彫刻師らの経済的な状況の悪化に拍車がかかったということは確認できよう。
以上のような状況をふまえて、こうした絵師等の全般的な困窮化という状況下における、バルドゥングの資産について検
討しよう.まず彼の作品の報酬額に関する情報としては、一五t二年からのフライブルクでの製作において、とぐに大聖堂
の主祭堆画の製作により、合計五九〇グルデンを得て、これを毎竺八から二〇グルデンとなる年金の形で受け聖ている?こ
0.V!'Ilr│i│iIJii-i'-KH。n巽誓㌶璽津;川If.>':^!#&:一"-Kf
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次に住居、不動産についてみてみよう.彼は、豆1<年九月にMunstergasseに年七グルデンの家を六年契約で借りた旬
ている
l五二1q・にはWaseneck(市外、東門の近-)に菜園を購入し、二五年四月にはこれを薬剤師に七八グルデンで転売した喝
この間、一五二三年にはこの都市の旋療院に二二〇グルデンを投資して年一六からt七グルデンの年金にし、さらに二五年
末頃に三五〇グルデンを市の金庫に投資して年二〇グルデンの年金にかえている喝このl五年の年金化には先の菜園の売却
代金も含まれていると考えられるが、この時期が農民戦争の最中であることと無関係ではなかろう。一五二六年七月、彼を
含むヘル-ンの1族は岳父アルポガストの遺産である近郊の町ルーファハの財産豊ハ同で処分し分割している喝彼はこれを
Vorstという農民に年1三シリングで貸し出している。そして、後に三三年六月、その息子との契約更新に際して二シリン
グ値上げをした咽また記録では、墓石年の一〇月、Brandgasseにあった家と土地、ならびにRheingrafenの土地を義
の家屋が売買された際の記録に、その隣家の所有者としてバルドゥングが登場している喝この間の経過は不明だが、この記
兄弟のマルティンに100グルデン、年四グルデンの分割で﹁譲渡﹂している喝しかし亘二六年に二度ぎndgasseの別
録はそれらを抵当に借金したというのが妥当な解釈といえるのではなかろうか。このプラントガッセ地区は、司教座聖堂参
事会員たちの住居のはか、シュトルム、キッブス、ドウンツェンハイム家といった都市門閥が軒を連ねるといった、いわば
市の中心部、名士たちの居住区となっており、1等地であったことは注目されるのである咽この家と土地を彼は〓至四年
頃に手に入れていたらしい。彼はまた、1五二八年、市の聖へレンの外側にあった家付きの農地を六〇グルデンで売却、
LuwingvonYburg(この都市の門閥)から市の南西約三キロ、ライン支流に面した市債Illkirch村の教会通りにあった家
と農地を〓ハ○グルデンで購入。その差額については合計、年七グルデンの分割とした咽しかし、実際には十カ月後(五
二九年六月)にThewbsという村民に二〇〇グルデンで転売しているので淘彼は土地ころがLで四〇グルデンの利警稼い
でいるわけである。また、五四五年にも市壁のすぐ外にあった土地の壷を都市門閥のBecklinに売却した記録がある喝
この他、亘天年と妄四二年に彼が後見人となっていた記録が残されている喝ただしこれについての詳細は高である。
次に彼の収入源として主要な部分を占めたものと考えられる絵画等の作品の製作についてみてみよう。前述のように、と
-に宗教改革の時期には聖画像の撤去、破壊の影響により、絵師、彫刻師らの経済的な悪化が加速されたことを指摘した。
バルドゥング自身は、このような聖画像の撤去、破壊の影響をどのように受けたかを、彼の作品目録を手掛りとして検討し
よう。素描については、筆者はその目録をまだ管見しえないが、公開性との関連で素描は1応除外してお-(義-).
この表からみてとれるように、片面刷りの木版画、本の挿し絵などについては、製作は1五二〇年代、とくに1五二三年
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までで、それ以後一五三四年までは中断が続いている。しかし、肖像画といった絵画作品については、彼はほぼ連続的に製
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2
3
衷1パルドゥングの作品製作教
ただし挿絵については連作を含む.C. Koch,
" Katalog der Erhaltenen Gemalde, der
Einblattholzschnitte und Illustrierten
Bふher von Hans Baldung-Grien." in ;
Kunstchronik, S.6-ll (1953)より作製。
二十
作を続けており、需要に変化が認められない。たとえば
農民戦争の後にはニーダーエルザス地方のラントフォー
クトの肖像を製作しているが、それはこの人物の農民反
乱に対する戦功を記念するものだったと推定されている唱
いる。その依頼者には、シュトラースブルクとバーゼル
またバルドゥングは貴族や都市門閥の絵の製作を行って
の司教、バールの帝国官房官、オーバーライン地方の有
市門閥の名が挙げられている
力貴族、ツォルン、ペックリン、プレヒタIといった都
ここで推測の手掛りとなるのはバルドゥング個人の作
品目録であるが、宗教改革、と-に聖画像破壊、撤去の
運動が、絵師等にどのような影響を及ぼしたかという点
以上、バルドゥングの資産についてみてきたが、主要な収入源と推測される絵画等の作品からの収入の全貌がつかめない
解してよいのではないだろうか。
し絵等を製作していないという事実は、さしあたり、関係資料の乏しいこの都市におけるこれらの部門1椴の状況として理
ような、改革運動の影響をより強-受けることになったものと推測させる。彼が一五二四年から三三年にかけて木版画、挿
を多-作成している理由の-端をここに求めることができよう。しかし、そのことは、1方でこれらの注文が先に検討した
でき、作者の評判に関わりな-販売できる余地があったと考えられる。バルドゥング自身、経歴の比較的浅い時期にこれら
う。これに対し、木版画、挿し絵は人々の目にふれる機会ははるかに多い。と-に木版画は比較的安価に製作しえたと推定
であり、公開性という点では観賞しえた人々の範囲は限定される。また依頼にあたっては、作者の声望が重視されたであろ
について見通しをたてられると思われる。絵画作品は、依頼主を特定しえないものも多いのではあるが、基本的に注文製作
.}
絵
挿
木版画
画
絵
製 作 年
ため、彼の資産状況の明確な全体像を得ることは、残念ながらできない。しかし、バルドゥングの場合、彼の個人的名声の
お陰で改革運動の影響を大きく受けることな-、先のような肖像画の依頼などにより、比較的収入の安定を得ることができ
たと考苦れる咽さらに彼は同時期に市内や市壁の前面の地所、市領の村にも不動産を所有していたこと等から、彼は絶え
研究者の評価は、彼の資産は生活に窮するものではなかったという点で1致している咽と-にプラディは、彼の財産から
ずある程度の資産を持ち、またこれらを不動産への投資や年金化することによって、資産の保全、拡大に努めていたことが
推定できる。またこの夫婦に子供がいなかったことも考慮すべきであろう喝
みてその地位を市内の小商人、自営の親方層に属し、都市門閥ではないが、生活にも困らぬ都市住民の中の上といったもの
と位置付けているのである咽しかし、こうした評価は、租税台帳が失われて都市住民の財産分布の全体像が判明せぬ以上、
バルドゥングの地位を過小評価させるイメージを与えかねない。バルドゥングの得ていた年金、計五五グルデンに達しない
年収の住民が六、七割を占めていたと推定できるのである咽したがって、少な-とも資格という点で、バルドゥングの収入
は市参禁裏の勤まる収入は十分にあったといってよいであろう咽そしてその家柄、梱戚関係、ツンフトにおける地位など
" T h e R e f o r m a t i o n a n d t h e D e c l i n e o f G e r m a n A r t .
" i n ; C e n t r a l E u r o p e a n H i s t o r y 6 ( 1 9 7 3 ) , G .
と併せて考察するならば、彼は都市支配層と密接な関係にある♂しろ都市上層に属していたとみなしてよいといえよう。
︹
注
︺
① C . C h r i s t e n s e n ,
Stuhlfauth, "KunstlerstimmenundKunstlernotausderReformationsbewegung. "in;ZeitschriftfurKirchengeschichte56
(-¢∽q).
②この間顔については、師共二﹁チューリヒ宗教改革における聖画像破壊について﹂﹁西洋史学jl四六号(1九八七)を参照されたい。
またC.Christensen,..ReformationandArt. "in;ReformationEurope,ed.S.Ozment,1982にも研究動向が紹介されている。
⑧H.Huth,KunstlerundWerkstattderSpatgotik.4Auf1.1981.その他、本章註①参照.
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
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この措置については中谷博幸﹁マルティン・プツァIとシュトラ-スプルク-サ廃止﹂r史林JI六三巻三号、1九八〇、参照。
ibid.,Nos4543,4554,4571,4584.
An.Br.No4538.
前掲拙稿、五六貫以下。
An.Br.No4534.
Stuhlfauth、op.cit.,S.508.
Scribner,SimpleFolk.esp.p.249,Stuhlfauth,op.cit.,bes.S.507f.
WerkeBd.4,参照.
以上の整理は、註⑱に挙げたStirm,Campenhausenの研究によった。他、MartinLuhersWerke.Bd.10,ZwinglisSamtliche
ZeitschriftfurKirchengeschichte68(1957).他、C.Christensen,op.c訂.に研究動向がまとめられている0
M.Stirm,DieBilderfrageinderReformation.(1977),H.v.Campenhausen, "DieBilderfrageinderReformation. "in;
ibid.,S.269.
ibid.,S.269-74.
MartinBucer㌦Grundundursach-(1524),in;MartinBucersDeutsche担hriten.Bd.1(1960).
前掲拙稿、五六貢以下参照。
前出、註①、②を参照。
Rott,Oberrhein.Darstellung,S.85f.
ibid.,Darstellung,S.79,Brady, "SocialPlace. "p.312.
Rott,Oberrhein.Quellen,1S.204,Darstellung,S.75.
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Brady,RulingClass,esp.Chap.V.
⑳㊧⑳⑳⑬⑰⑩ ⑬._⑭⑬⑫⑪⑳⑨⑧⑦⑥⑤④
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An.Br.Nos4790,4802,4820.
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N.S.23(1911)S.308-9.
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⑳Rott,Oberrhein,Quellen,1.S.227.
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⑳Rottはこれをもって仕事場が統制号っけていたと捉えているibid.,Darstellung,S.88.
⑭C.Christensen,op.cit.,に整理されている。彼自身もこの見解をとる。
H.Huth,op.cit.,S.70f.
⑳Rott,Oberrhein,Darstellung,S.83.
H.Huth,op.cit.S.71f.
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⑳ R o t t , O b e r r h e i n , Q u e l l e n , 1 . S . 2 1 6 ( H . H a g ) , S . 2 1 9 - 2 0 ( H . W e c h t l i n ) .
⑳ibid.Darstellung,S.88.
㊨ibid.,Quellen,S.217.
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
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二十三
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J.G.Saladin,輸rassburgChronik:Bulletindelasocietepourlaconservationdesmonumentshistoriquesd'Alsace.
Rott,Oberrhein,Quellen,1,S.306.
Stuhlfauth,op.cit.,S.506.
H.VogtherrsKunstbuchlein.引用はStuhlfauch,op.cit.,S.510-ll,に再録されたものによる。
An.Br.No4580,Rott,Oberrhein,Quellenl,S.304-5.
An.Br.Nos4849,4853,4875.etc.
historiquesd'Alsace.N.S.15,1892,No3044.
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⑳ibid.,曾ellen,S.221.
めている。このため係争は一五1九年まで続いている。
⑬ibid.,曾ellen,S.223,ハーグ自身は、既に一五〇六年に市民となっている。このためか、市当局は例外として従来通りの営業を認
op.cit.,Anhang,Vertrags-Quellen,Nr.4,7,ll,13,19.単純な比較はできないが、プラディのように、彼の得た収入は祭堆画の報
㊥Brady, "SocialPlace. "p.299.参考までに、1462-1518年の五つ契約の記録から得られる平均報酬額は五五〇グルデンであるHuth,
酬としては比較的条件が良かったと捉えることもできようBrady,ibid.,p.299.
⑳O.Winckelmann,DasFursorgswesenderりadtStrassburgvorundnachderReformationbiszumAusgangdes16.Jahr-
Rott,Oberrhein,Quellen,1,S.218.
"in;ZeitschriftもrdieGeschichtedesOberrheins76(1922)S.220-21.
hunderts.1922,Bd.1,S.128,Rott,Oberrhein,Quellen,1,S.217.
"NeuesvonHansBaldung-Grien.
Baumgarten,op.cit.、S.263.
Rott,Oberrhein,Quellen,1,S.219.
Baumgarten,op.cit.,S.263.Brady,.'SocialPlace",p.304.
Rott.Oberrhein,曾ellen,1,S.218.
Handschriftenproben.1,Tf.13(C.Joham).
Baumgarten,op.cit.,S.263.
Rott,Oberrhein,Quellen,1,S.218.
Baumgarten,op.cit.,S.263.
Rott,Oberrhein,Quellen,1,S.218.
0.Winckelmann,
ibid.,S.263,Rott,Oberrhein,曾ellen,1,S.217-8.
Baumgarten,op.cit.,S.263.
⑳⑦⑳⑳⑭⑳⑳㊤⑳⑳㊥⑰⑯
⑳G.Bussmann,ManierismusimSp軒werkHansBaldungGriens.1966,S.88-9.
Revued'Alsace91(1952).
⑳Rott,Oberrhein,Darstellung,S.63f,HansHaugよNotesetdocumentssurHansBaldungGrienetsonentourage. "in;
Brady, "SocialPlace. "p.304.
ibid.,S.264.
Brady, "SocialPlace",pp.303,306,314ff.
U.Dielraeier,UntersuchungenzuEinkommensverhaltnissenundLebenshaltungskosteninoberdeutschenStadtendes
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十
五
層(この階層が改革を積極的に推進したグループ︹彼のいう﹁ゼロット派﹂︺の中心を形成したと主張する)に属するとし
てⅦ彼をこの階層の経済的、社会的環境、活動の例示とすることについては、その﹁中産Midd-ing﹂とする位貫けは誤
係を示すものとすることはできないだろう。またプラディの評価のように、彼が都市門閥でも﹁大商人﹂でもな-﹁中産﹂
できた。したがって、彼の市参事会員就任をもって、バウムガルテンの主張するような、彼の宗教改革運動への積極的な関
な地位という点では、彼がツソフト内や市の要職に就いたことが、何ら例外とは考えられぬだけの状況にあったことを確認
おける聖画像の破壊・撤去運動の影響にと-に留意しながら彼の資産について検討してきた。そしてバルドゥングの社会的
以上、バルドゥングの宗教改革との関連について、ツソフトにおける彼の地位、家族関係、さらに宗教改革運動の展開に
四バルドゥングと出版業者
Place"p.314.
プラディも、彼にとってこの地方の貴族やこの都市の門閥との関係がその生計にもっとも重要であったことは認めている"Social
Winckelmann, 'LStrassburgsVerfassung--,S.532.
Spatmittelalters.1978.bes.S.503f.
@ゥゥ@@ゥ
渡
連
伸
二
十
六
解を生じ易いと考えられよう。それは資産等の条件や家柄といった基準などから下された評価ではあろうが、プラディ自身
も取り上げている教養とか学歴、人的な交流といった文化的な視点、基準からするとⅦ彼自身も認めるようにバルドゥング
はむしろ都市支配層と密接な関係にあるからであり、また以下で検討するように、彼自身の宗教改革への姿勢も﹁ゼロット
派﹂ではなく、市の統治階層のそれに近いと捉えられるからである。
このことについて注目されるのは、宗教改革における聖画像との関連でコールスが着目した、1五三四年以降の挿し絵等
の製作である。コールスの研究は、1五三七年と四〇年に出版されたプツァーの﹁小カテヒスムス﹂、および﹁俗人むけ聖
書﹂をとりあげ、それに載せられた図版がバルドゥングの手になるものとした。そしてこれは宗教改革体制下における、改
革への聖画像の新しい協力関係を示すものだとした咽しかし、これについてはそれらがバルドゥングの、ないしその弟子の
ものという判断を受け入れたとしても、以下で検討するように新しい協力関係と評価するには注意が必要と恩われる。そし
てこの問題は先にあげたバルドゥングの周辺の宗教改革への姿勢を示すものと考えられるのである。
さて、まず1五三四年、三七年、四三年に出版されたカテヒスムスの内、図版が付けられたのは一五三七年のもののみ、
その出版者はW・-1ヘルである咽もう︼つの五四〇年の俗人むけ聖書も同じリーヘルが出版しているのである咽コール
スが再録したその後者の序文には、旧約聖書の聖画像の禁止に基づいた図版入りの聖書出版に対し、少なからぬ批判がある
とし、これは正しいキリスト者の自由の理解の欠如を示すものだという主張がなされている。キリスト者は万物の主人であっ
て、主を奉り、隣人愛を実践するためにはあらゆる主の創造物を自由に用いることができる。その限りでは絵画や彫刻の職
業は必ずしも恵ではない、と。したがって出版者はそ秒教育上の効果を認めて図版を付けたというわけである咽この序文を
読む限り、むしろこの時点ではこの都市において、具体的にはおそら-改革指導者の間には、聖書の挿し絵像などには輩戒、
ことが読み取れるのである。
批判が強かったことがわかる。そして序文の執筆者は、そうした批判、風潮にあえて絵画等を擁護しっつ意図的に出版した
て⋮悠用は調哨::糾い出損鞠賎最川絹摘当欝⋮⋮鵠絹摘鵠措
蝣 i r n i ( ' i l v : . . { ! c r . サ M r { . v ) . > i t
で四〇〇部、二折り版で八〇〇糞等を印刷している咽彼
彼はバーゲナウに製紙場を持っていたとされている咽こ
のことは、当時の印刷業において紙代が経費の最大の部分を占めていたことを考えるならば、彼の経営上の利点であり、そ
の規模の大きさを窺わせる。彼の店は、旧ドメニコ会修道院を使用しているギムナジウムの正門の近く、市庁舎などのすぐ
そば、つまり市のほぼ中央にあった咽さらに彼はギムナジウムの設立者ヨハン・シュトルムの友人であった。彼はギムナジ
ウムという最大の顧客に近い関係を持つ、この都市で五指に入る出版者だったのである。そしてバルドゥングとは、彼の義
兄弟C・ヘルリンの娘の名付親であるという関係が確認できる咽
¥サ6iM'0:S<i*i:#::v.i!巨'-Ml'
用していたと推定できること、これらの事実からは、彼を都市民として経済的、社会的にもかなりの上位ランクにあったも
M'.!{')).vM>'i露享-至害毒亨ttit!:葦JV:
の、したがってリーヘル家はギムナジウムに代表される都市上層の顧客と結び付く、この都市の代表的な出版業者の1つと
いう評価を下してよいだろう。
最軍閥㌍㌫KMfcW藷琵錆声言
・サ'声轟1111-¥
先のリーヘルの序文は、このエピキュリアンとされた人々のなかでも、ラテン語学校などでプツァーらの改革姿勢を批判
したグループと相通ずる主張であると把盤できるのである。このようにコールスの取り上げた問題からは、聖画像と改革と
の新しい関係といったことよりも、むしろ依頼者としての印刷業者の姿勢、イニシァティヴといった問題が浮かび上がって
-るのである。そこでもう一度、バルドゥングを中心にその印刷業者との関係を考察してみよう。
まず、プラディは、バルドゥングが1五二三年以降、こ.れら挿し絵、木版画等をほとんど製作していないことについて、
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革二十七
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十
八
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う再洗礼派とも関係のあった出版者の仕事も引き受けていることを認めている咽そしてプラディは、当時、依頼注文を受け
3
G . A n d la n d u s
1
J . G ru m n g er
3
G . M essersch m idt
1
C . M y ller
1
るか拒むかは、その人物の宗教上のアイデンティティが確立されていたかどうかによっていたが、それはバルドゥンデには
欠如していたという形で結論づけている咽
1
B . B eck
しかし、この出版者との関係についてみると、ダリユーニンガIの依頼、注文は、
表2 Jtルドゥングヘの挿絵等の依頼数
バルドゥングにとってそれほど多いとは言えないのである。オルデンプールの編纂し
Oldenbourg, op. cit.,より作凱
た彼の木版・挿し絵の作品、並びにその複製についての目録を手掛りにこの点を検討
すると(表2)咽まずバルドゥングのこれらの作品の出版者をその依頼者と措定でき
る。というのは、これらの原版は出版者の財産として扱われており、その出版者が随
P . S ch o ffer
2 (+ 2 ? )
時、再版するばかりでな-、その息子への相続、他の業者への貸与、あるいはその図
4
ll
版の他事への流用、それも連作の一部を自由に使用したりする例、また切り売りされ
ている例を確認できるのである喝たとえば云〓ハ年にダリユーニンガIが依頼した
﹁十戒﹂の図版は、その息子によっても再版が繰り返されたはか、1部は同業者フレ
1
M . S ch u rer
U . M o rh a rt
ーリヒ、1部はコルマール市の業者、六つの絵がベルンの業者の手にわたっているの
である喝このように原版が出版業者の貴い取り制と考えられることは、依頼者の注文
1
W . K o p fel
J . K n o b lo u ch
にバルドゥングら作者側が主題・内容について拘束されたことを推測させる。この点
2
J . P ru ss
をもとに、先の目録での最初の出版者を依頼主として、その依頼数をまとめたのが表
である(もちろん、これはオルデンブールの編纂した時に判明していたもので、遺漏
があるはずである)。これをみると、J・ショットがもっとも多く、以下クノープロ
ホ、シューラーと続き、ダリユーニンガIはペックとともに三つである。
M . F la ch
6(+ l ? )
J . S ch o tt
依頼教
依 頼 者 名
依頼 数
依 頼 者 名
まず注目されるのは、この上位三人こそは、この都市でと-にラテン語文書、フマニスト、古典の出版の主役であったと
されている点である咽そこで、これらの出版業者について調べることによって、バルドゥングの印刷業者との関係、彼とそ
の周辺の思想的立場について何らかの共通性を兄いだせることが考えられよう。
まずl・ショットの存在の大きさが注目される。彼は1四七七年の生まれ、父の代からこの都市で出版業を営んでいた。
一四九〇年からフライブルク、ハイデルベルク、バーゼルで学んでおり、ラテン語の知識を活かして古典作品の出版から始
めている咽ショットは五〇〇年頃に店を受け継ぎ、その学歴とおそら-そこで形成された交遊関係からフマニスムス文書
を中心に出版喝バルドゥングの大半を扱っており、筆者がオルデンプールの作成した目録から推計したところではおよそ1
一の作品(連作を含む)を依頼したと考えられる。彼のはか、スクリープナIが﹁視覚的プロパガンダ﹂を担ったとしてあ
げているH・ヴァッディッツ、ヴェヒトリンにも依頼していることはとくに注冒れる喝亘10年代以後、宗教改革を支
Oldenbourg, op. cit., S. 114より転載。
持し、危険があったにも拘わらずルターの著書を多数
公刊し、部数もかなりの数にのぼったと推定されてい
るはか喝フッテンの借間の主要な出版者の1人でもあっ
た。これはフッテンが思想的に孤立した後にも続いて
いる喝バルドゥングの描いたルター肖像画も彼の出版
によるルター著作に付けられたものである。﹁壁がん
を背景にしたルター像﹂(図2)は、一五二〇年に
﹁教会のバビロン捕囚﹂につけて出版され、そのドイ
ツ語版やルターの説教等、ショットが出版した他のル
ター著作にも添えられ、さらにJ・プリエスが別人の
改革文書に使用している。これはショットが貸与した
ものと推定できる咽こうした関係は他にも確認されて
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
図2 「壁がんを背景にしたルター像」 (1520)
渡
遵
伸
三
十
おり、たとえば、彼はクノープロホ、フラッパ、ペックに図版を貸与、譲渡している関係がある咽もう;のバルドゥング
の描いた肖像﹁光背と鳩の添えられたルター像﹂はバウムガルテンが問題としたものであるが、これもシnツトから1五二
7年以降、様々なルターの著作(最初を除き、ほとんどがそのドイツ語説教)に添付して出版されたものである喝クリスマ
ンは、彼は1五二〇年頃は中程度の業者であったが、1五三〇年前後に二つ目の店舗を手にいれていると推定し、最終的に
は大規模業者となったとしており?宗教改革との関係が推測されうる。
彼については、五〇四年に市の出版規定による検閲を受けた際も、あえて出版を強行したという経歴がある咽宗教改革
の初期にルターの文書を早-から出版した姿勢と通ずるものを兄いだせよう。また、彼はフッテンの他、後にこの都市の改
革指導者から、ルター派寄りとして扱われたプルンフェルスを援助し、出版している喝逆にこの都市の改革指導者とは疎遠
であったことが指摘されていることも目を引-のである
シューラーはクラクフ大学を出ており、-・プリユス、クノープロホの下で校正係等を務めた後、1五〇八年に自立し、
エラスムス、B・レナ-ヌス、カイザースベルクらフマニストの著作や古典文書を多数出版した喝彼は当時この都市でラテ
あり、フマニストとの交流を確認できる?
の死んだ時、ショットは彼に四千グルデンにのぼる借金があったとされる?彼の学歴等は不明であるが、ラテン語の素養は
等広範囲な業者との提携があった喝かなりの資産家でもあり、五一六年には百グルデン相当の書物を寄進しているし、彼
、ヴェヒトリン、U・ダラーフにも木版
どの印刷技術が評価されており、バルドゥングに六つの作品を依頼しているは
挿絵を依頼している喝そしてフラッパ、ショット、プリエスの他、ケルン、アウグスブルク、バーゼル、チュ1-ヒ、ブダ
璃
スキニウス、ポッジオ等)であり、後にはルター聖書(挿絵入り)など宗教改革文書を出版し、それもかなりの数にのぼる
とされている咽現存している約三五〇の文書以上、多数を出版していたという
もある咽彼はショットとともに、挿絵な
ク、ムルナI等)、そしてとくに古典(キケロ、オウィディウス、ホラティウス等)やフマニスムス関係(エラスムス、ル
次にJ・クノープロホを見てみよう。彼は1五〇一年に同業者のフラッパの未亡人と結婚して市民権を得ており、1五二
八年に亡くなっている咽彼が扱った部門は、スコラ学、法学、医学、俗語文学関係(プラント、ガイラー、ヴィムフェリン
9
ン語文書の出版の最大手であった@彼自身、S・プラント、ヴィムフェリンク、そして後の市長J・シュトルムといった一
四名のこの都市のフマニスト・サークルの1員であった喝バルドゥングの製作した作品もC・ツェルティス等フマニスムス
関係の主産によるものである喝そしてルターの論文をこの都市で最初に出版したのも彼である喝彼は豆1九年に没したが、
その妻が職工頑とともに出版を続け、百タイトルを超す改革パンフレットを出版、その中には農民戦争関係のパンフレット
が含まれている咽
J・ダリユーニンガIは、1五〇九年、バルドゥングがこの都市に移った時点では、と-に図版関係の出版を扱っては最
大手であったことが指摘されている?バルドゥングのはかヴェヒトリンも彼のために図版を制作している喝と-に原木を豊
富に持っていたことがその印刷業における優位を維持するのに役立っていた。バーゼルのフラッパ、ニュルンベルクのコ-
出版教はタイトル数を示す。備考欄のエラス
ムスは、エラスムスの著作であることを示す。
Chrisman, Bibliography of Strasbourg
Imprints, 1480-1599, 1982, pp.33-38,より
ベルガーといった業者と取引がある。しかし彼は出版、再版に際してテクストと図版の関係について無頓着に扱っていると
W . R ih el
2
M . S c h u rer
1
エ ラス ム ス
W . K o p fel
1
エラスムス
B . B eck
1
M . A p ia riu s
1
不
6
されている咽改革期にあっては、彼莞トリック支持者で改革派
2
攻撃文書のほとんどを出版している。クリスマンの集めた当時出
2
C . M y ller
版されたこの都市の印刷物のiストから整理してみると、現存す
る約六〇の宗教改革攻撃文書の内、四四を彼が出版しているので
ある(表3参照)唱これは彼がもう一人の業者とともに1elの司
教区の聖務日課書、、、、サ典書の印刷独占権を得ていたという背景
が考えられる喝彼がそれらの攻撃文書の出版により市当局から再
三警口を受けたことは確認できる咽
作製。
エ ラス ム ス
44
J . K n o b lo u ch
明
プラディはこうしたダリユーニンガIの態度がバルドゥングを
してその製作を避けさせたとしているが㌔革運動が既に活発化
していた亘三年にもバルドゥングは彼の依頼を受けている@
このことは、ペックのような、改革派であったが後には再洗礼派
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
表3反改革文書の出版者
十
エ ラス ム ス ( 2 )
J . G ru n in g er
考
備
出版数
者
版
出
書
文
派
改 .革
反
渡
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伸
三
十
二
との関係を深めていった人物や、あるいは司教ら旧教派とはいえ政治的に微妙な配慮を要したと推測することもできる人物
以上とくにバルドゥングと挿絵等の注文において密接な関係にあった出版業者について検討してきた。まず注目すべきは、
らの依頼を受けたこと以上に、バルドゥングの思想的な問題に対する姿勢を浮き彫りにしているといえよう。
ニストと、さらにはそのサークルや他都市の出版業者を通じて、多くのフマニストと密接な関係を持っており、また早-か
ショット、クノープロホ、シューラーといったバルドゥングに多くの注文を依頼した出版業者が、もともとこの都市のフマ
ら宗教改革を支持してルター、フッテンらの著作を出版していること、バルドゥング、ヴェヒトリンらに図版を依頼し、そ
の後それらを多様に使用して出版を行っているということである。つまり彼らはスク-1ブナIが﹁視覚的プロパガンダ﹂
に、彼らは検閲等に対してもこれに反して出版を行っている。一方、バルドゥング自身は改革運動が始まった以後にも、改
を行ったと指摘するその他の絵師とも関係がある。またシnット、ダリユーニンガI、さらにはリーヘルに確認できたよう
革反対派の業者や貴族らの依頼を受けている。これらから、バルドゥングの作品、と-に宗教改革関係のものを依頼した業
者が、こうした作品を通じて改革思想の伝播、あるいはプロパガンダを実践したと鑑定できよう。つまり、イニシァティヴ
は、むしろこれらの業者の側にあったのではないか、と想定できるということである。もちろんこれには改革支持派の業者
にはヘルリン、シュ.トルムといった市の中枢にあった人物との繋がり、あるいはダリユーニンガIのように司教らとの繋が
りが印刷・出版を強行する際、後ろ盾として働いたことが推測されよう。
次に注目されるのは、バルドゥングに多-の挿し絵等の依頼を行なったこの上位三人の業者こそは、この都市でと-にラ
テン語文書、フマニスト、古典の出版の主役であったとされている点である。また旧教派に留まったグ-ユーニンガIにし
ても、プラント、ムルナ-らの著作を出版している喝クリスマンの研究によると、宗教改革期、この都市で改革初期から
﹁リスク覚悟﹂で改革文書を出版した業者として、1・ショット、l・クノープロホのはか、l・プリエス(息子)、B・ペッ
ク、W・ケッフェル、l・ヘルヴァ-ゲン、p・シェッファー、-・シュヴィンツァーの名があげられている咽この中でバ
ルドゥングと関係のあった業者は、クリスマンの研究によれば、すべて百タイトル以上の出版を行なっている﹁大規模﹂に
分類される出版者である、という共通点がある。それ以外の業者は彼女の検討結果では五十タイトル未満の﹁小規模﹂であ
る咽さらに付言すれば、バルドゥングに挿し絵等を依頼した業者(前掲表2参照)はすべて彼女の分類では﹁大規模﹂業者
であることを指摘できる喝
クリスマンは、一五∼一六世紀におけるシュトラースプルクの出版物の網羅的な調査から、出版物の分野からみると当時
の出版業者はラテン語を扱う業者と俗語のそれに分化するという傾向が明確化するようになっており、それは需要者の側に
おける都市内の教養のレベルの分化という現象に対応していると推定できること、とくに宗教改革以降のギムナジウムの設
立等で学校制度が貰されることにより、その二極化の層はいっそう撃となったと指摘している咽
この間題自体は、さらに検討する必要のあるものであるが、バルドゥングが関係を持っていた人々、その家族、姻戚、業
者、依頼主等については、当時として比較的高い教育を受けていたこと、そしてこの都市の統治階層と結びつきの強かった
ことは確認できた。そして彼と深い結びつきのあったショット、リーヘルらは、この都市の改革指導者とは次第に疎遠とな
り、むしろルター派や﹁エピキュリアン派﹂といったこの都市の統治階層の中で主流をなしたとされるものと立場が1致す
る方向にあった。これらの点を考慮するならば、バルドゥングはす-な-とも改革に反対ではなかったが、宗教的人物、改
三十三
革積極派ではなかったという従来の評価に、それはこの都市の統治階層内を占めていた改革への姿勢と密接な関係をもつも
のであったという評価を付け加えることも可能と考えられよう。
︹
注
︺
OBrady,RulingClass,esp.pp.208ff.
②ibid.,pp.184ff.
Kohls, "LeienBibel", "KurtzerCatechismus".
④idem., "KurzerCatechismus".S.267.
idem., "LeienBibel",S.353.
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
渡
連
ibid.,S.354.
伸
三十四
Cultureと略記。特に、出版に際しては紙代が費用の大きな部分を占めており、資金調達が重要であったこと、そのため出版のリスク
⑦M.Chriman,LayCulture,LearnedCulture;Booksand幹cialChangeinStrasbourg,1480-1599.1982.pp.3ff.以下
も大きかったことについては、L・フェーブル、H・マルタン、関根他訳、r書物の出現J上、筑摩書房、l九八五、二三二貫以下参照o
J.Benzing,DieBuchdruckerdes16.und17.JahrhundertsimdeutschenSprachgebiet.1982.S.445.
また、挿し絵について、その版木は出版業者が買い取っていたと考えられることは後述。
Chrisman,Culture,p.18.
ibid.,p.18,idem.,BibliographyofStrasbourglmprints,1480-1599.1982,J.Benzing,BibliographieStrasbourgeoise.
M.Oldenbourg,DieBuchholzschnittedesHansBaldungGrien.2.Auf1.,1985.
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Brady, "SocialPlace",p.310.
E,I960,宮本健輔r宗教改革運動の展開し風間書房、1九六五参照.
Bellardi,op.cit.参照。この点は、とくに領域宗教会議(1533)の中心問題とされたQuellenzurGeschichtederTauter,Elsass,
Brady,RulingClass,esp.pp.236ff.
拙稿﹁シュトラIスプルク宗教改革の展開﹂r史林し七〇巻四号、1九八七、四三吉以下参照。
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,
p
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1
9
.
Chrisman,Culture,p.25.
ibid.,p.15.Benzing,op.cit.,S.445.
Chrisman,Culture,p.18.
ー①①-.
㊧⑳⑳⑳ ⑧⑱⑬⑱⑬⑫⑳ ⑳⑨⑧
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ハンス・パルドゥング・グリーンと宗教改革
i b i d . , O r d e n b o u r g , o p . c 訂 S . 1 5 2 - 3 .
Handschriftenproben,2,Tf.100.
Ordenbourg,op.cit.,S.152-3.
Benzing,op.cit.,S.438.
Handschriftenproben,2,Tf.100.
Handschriftenproben,2,Tf.100(J.Knoblouch).Benzing,op.cit.,S.438.
Chrisman,Culture,p.170.
ibid.,p.120,170,Handschriftenproben,2,Tf.100(J.Schott).
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p
.
2
7
.
Chrisman,Culture,pp.9-10.
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.
Oldenbourg,op.cit.、S.113-115.
Chrisman,Culture,p.29.
Benzing,op.cit.,S.439.
Handschriftenproben,2,Tf.100(J.Schott),Benzing,op.tit.,S.439.
Benzing,op.cit.,S.439,Chrisman,Culture,p.14.
Handschriftenproben,2,Tf.100,Benzine,op.cit.,S.439.
Chrisman,CulFre.p.101.
ibid.S.96-105(IllustrationenzudenZehnGeboten),u.S.152.
⑳㊧⑳⑳⑳⑰⑳⑳㊥.⑳⑳㊥⑳⑳⑳⑰⑳⑳⑭⑳⑳
波
速
伸
ibid.,esp.pp.120ff,201,281ff.
ibid.,pp.6,14.
ibid.,pp.6-7.
ibid.,p.157.
Chrisman,Culture,p.54.
Oldenbourg,op.cit.,S.135-7.
前出Brady, 4.SocialPlace,p.310.
ibid.,p.28.
Chrisman,Culture,p.83.
Chrisman,Bibliography,pp.33-38.
Ordenbourg,op.cit.,S.152.
Benzing,op.cit.,S.437.
ibid.,S,437.Ordenbourg,op.cit.,S.152.
Benzing,op.cit.,S.440.
Chrisman,Culture,p.29.
Ordenbourg,op.cit.,S.154-5.
ibid.,p.44.WimphelingのErasmus宛て古幡により1四名の名前が判明する。
Chrisman,Culture,p.101.
Benzing,op.cit.,S.440.
ibid.,Chrismam,Culture,p.14.
Handschriftenproben,2,Tf.100.
⑳⑳㊤⑳⑳⑳⑦⑳⑮⑭⑳⑳㊤⑳⑳⑳⑰⑳⑳㊥⑳
三十六
お
わ
り
に
ハンス・バルドゥング・グリーンについて、その宗教改革との関わりを中心に、彼の社会的、経済的な諸関係について考
察してきた。その結果をまとめておこう。彼の作品自体の分析による彼と宗教改革との関係の考察、あるいはその作品が都
市や農村においてどのように受容され、影響をもったかという点については、今後の検討課題としたいが、彼が宗教改革を
支持したと理解されてきた根拠については、その多-について断定できるだけの積極的な内容をもつものではないことを明
らかにできた。とくに市参事会員となったことの評価に関連して、彼の家族関係、資産等、プロソポグラフィを検討したが、
その結果、彼が都市門閥や大商人など純然たる統治階層に属していたとはいえぬまでも、統治階層と密接な関係があり、彼
が絵師としては例外的にツンフトのシエツフェンや市参事会員となったことには、これらの人脈が大き-影響したと推定で
きること、また彼自身の資産もかなりの余裕があったと推測でき、市の役職につく資格はあったことを確認できた。
また、その資産や人脈に関しては、宗教改革期、とくに聖画像破壊、撤去といった運動の影響により、絵師、彫刻師らの
全般的な困窮が進んでいることが認められるという状況においても、バルドゥング自身は主として肖像画といった分野で市
るなど、彼の宗教改革への姿勢はかなり唆味なものであり、その点ではバウムガルテンやプラディらも指摘するように消極
内外の依頼主により安定し、また旧教派にも顧客を持つ一方で改革派のプロパガンダにも使用された図版の製作を行ってい
的な改革支持、ないしむしろ関心が薄かったとすら推測させるものであった。と同時に、彼の宗教改革に対するこのような
これは次の二点において今後の検討を許すものと考えられよう。まず第一に、この都市で﹁視覚的プロパガンダ﹂が活発
姿勢には、この都市の統治階層内にあった改革姿勢と共通するものを兄いだせることを指摘した。
であったとされることについては、その主役として出版業者の役割・意義を無視できないのではないか、ということである。
バルドゥングに関しては、作品製作にあたってイニシァティヴがショット、クノープロホ、シューラーなどの出版業者にあ
り、彼の図版は彼らの依頼によって製作され、様々に流用されたものと考えて間違いないだろう。行論の中で示したように、
彼(ないし彼ら夫婦)は資産の運用において、かなり現実的な姿勢を示していたし、その依頼主や作品をみても思想信条と
ハ ン ス ・ バ ル ド ゥ ン グ ・ グ リ ー ン と 宗 教 改 革 三 十 七
波
速
伸
三
十
八
いったことが使先されているとは言えない。それに対し、ショットやリーヘル(あるいはダリユーニンガ-)の市当局の警
ドゥングと関係した業者が、フマニストや他の都市の業者はもちろん、この都市の統治階層と密接な関係にあったことは、
告や規制への姿勢にみられるように、出版業者たちは思想的にかなり明確な立場を貫いているのである。また、これらバル
この都市が早-から宗教改革の言わばセンター化したことと関連していると推測できよう。アイゼンステインが指摘するよ
うに、印刷業者は単に版元としての働きしかないものとみなされることが多-、その影響のほどは発行部数の大小によって
のみ判断される傾向がある9しかし以上のような検討結果からは、出版者や印刷物取り扱い業者の果たした主体的な役割に
第二に、その出版業者を含めて、これらバルドゥングを取り巻く人々に代表されるサークルの果たした役割についてであ
ついてさらに検討する必要があるといえよう。
る。すなわち、クリスマンは都市内における、と-にラテン語と俗語ドイツ語の出版物とその需要層に象徴される文化の二
極化について指摘する。その説にしたがえば、バルドゥングとその周辺は前者に属することになるが、本稿での検討からは
少なくとも彼らが市内において比較的高い教養を持ち、フマニストらとも密接な関係をもつものであり、加えて市の統治階
層やそれと密接な結び付きを持つ人々であったことは間違いない。そしてバルドゥングの周辺にいた人々は、シュトラ-ス
プルクに宗教改革の伝播をもたらすのに大きな役割を果たした人物であり、また改革の進展の中ではむしろ次第にプツァー
ら改革指導者らの立場から遊離していた人物たちであることは注目される咽さらに他方、ケッフェル、ヘルヴァ-ゲン、シュ
て、こちらはほとんどクリスマンの言うもっぱら俗語文書を扱ったとされる﹁小規模﹂業者であったということが認められ
ヴィンツァーといった、バルドゥング関係以外の、改革派文書を積極的に出版した業者も存在し、その他の無名の者も含め
るのである。
宗教改革期、この都市が寛容をもって知られた原因について、ドリンガIは、改革指導者の思想自体やその相互の意見対
立の他、市の統治階層の改革への支持ないし理解を挙げているが、後者についてはフマニスムスの影響は大きかったとされ
る咽シュトラ-スプルクが宗教改革をいちはや-受容し、そして伝播についても大きな役割を果たしたことについては、こ
の都市において、まさに都市としてのこうした文化的な条件、環境が機能していたことを想定できるのであるが、さらにこ
うした改革思想の受容層の相違があるとすれば、それを具体的に検討する手掛かりが、こうした出版業者、絵師などをみて
いくことにより得られると考えられるのである。
H
①アイゼンステイン、別宮監訳﹁印刷革命﹂みすず書房、一九八七、四八草以下。
(平成元年四月二十六日受理)
" i n ・ - H o m m a g e a L u c i a n F e b v r e , 1 9 5 3 , 2 p p . 2 4 1 - 4 9 .
市と対立するが(前出拙稿﹁宗教改革の展開﹂参照)、この年にリーヘルが先の出版を行ない、パルドゥングも木版画等の製作を再開し
②l五三四年、領域宗教会議により市参事会主催の教会体制が作られた。ブツァーらは、これ以後、自律的教会訓練の運動を展開し、
" L a t o l e r a n c e " a S t r a s b o u r g a u X V I e s i e c l e .
ていることは注目される。
③ P . D o l l i n g e r ,
ハンス・バルドゥング・グリーンと宗教改革
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