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WIJC150101元旦礼拝「信仰に生きる」
●題:「元旦礼拝:信仰に生きる」 ●聖書: ●聖書:マタイ 書:マタイ 14: 14:2222-34 ●2015 年 1 月 1 日 序 論 本 論 ●明けましておめでとうございます。さて、今この時刻は、日本は 明けましておめでとうございます。さて、今この時刻は、日本は既に元旦を終え、二日の真夜中過ぎ さて、今この時刻は、日本は既に元旦を終え、二日の真夜中過ぎ である。 ●日本では、今年も、 日本では、今年も、既にたくさんの人々が、神社・仏閣に「初詣」をしたことだと思う。例年、主催者 今年も、既にたくさんの人々が、神社・仏閣に「初詣」をしたことだと思う。例年、主催者 側、あるいは警察等の発表によると 9000 万を優に超える参拝者がある 万を優に超える参拝者があるとのこと があるとのことである とのことである。 である。 ●ともすると、日本では、「宗教をしている人」を異質な ともすると、日本では、「宗教をしている人」を異質な人 日本では、「宗教をしている人」を異質な人、少し変人として、引いたり、一線を画した 、少し変人として、引いたり、一線を画した り、警戒したり、ちょっと違う種類の人と警戒する傾向性があることは事実である。 り、警戒したり、ちょっと違う種類の人と警戒する傾向性があることは事実である。 ●しかし、これほどの「初詣人口」 ●しかし、これほどの「初詣人口」( これほどの「初詣人口」(人口の4分の3) 人口の4分の3)を持つ日本 を持つ日本人 日本人は、やはり宗教的なのか やはり宗教的なのかと思いたくも 宗教的なのかと思いたくも なる。 1.日本には、昔から「八百万の神」という信仰を表わす言葉がある。 2.また、何としても日本には 2.また、何としても日本には、 日本には、現在 85000 の神社があり、76000 の神社があり、76000 のお寺がある事実である お寺がある事実である。 事実である。 3.そして、実際の生活感覚の中でも、不信仰、無信仰、無宗教と言う人たちでさえ、どのくらい 3.そして、実際の生活感覚の中でも、不信仰、無信仰、無宗教と言う人たちでさえ、どのくらい の人々が、新年の祝福を祈る、ご多幸を祈る、等々の「祈り」の言葉を、今年も の人々が、新年の祝福を祈る、ご多幸を祈る、等々の「祈り」の言葉を、今年も「年賀状」に書いた 、今年も「年賀状」に書いた ことであろうか? それほどにどこかに神様はいらっしゃるということが生活にしみ込んでいる。 ●しかし、同時におそらく、初詣で祈りを捧げる しかし、同時におそらく、初詣で祈りを捧げるほとんどの 初詣で祈りを捧げるほとんどの人々が、先週も触れたが、一体誰に祈って ほとんどの人々が、先週も触れたが、一体誰に祈って いるのか、祈りはとはそもそも何なのか、なぜ祈りは答えられるのか、等に関して、ほとんど何も 分からず、ただとにかく祈ると何かが起こるかもしれないという漠然とした、暗闇で物を探るよう な期待をもって祈っているに過ぎない。 ●それでも「祈る」のは何故か? 人は誰かに、何かに頼らなければ生きられないからである。 1.世界の知恵者の一人、偉大なる哲人・聖人であっ 1.世界の知恵者の一人、偉大なる哲人・聖人であった孔子 世界の知恵者の一人、偉大なる哲人・聖人であった孔子の言葉が「 た孔子の言葉が「論語 の言葉が「論語」 論語」の中でこのように記さ の中でこのように記さ れている。「 れている。「民 いる。「民信なくば立たず」と 信なくば立たず」と。 2.孔子のこの言葉は、国の指導者と民衆との間 2.孔子のこの言葉は、国の指導者と民衆との間の信頼について語ったものだが、それは究極的に 人間とは何かと言う、人間の実存的事実について語っている。 人間とは何かと言う、人間の実存的事実について語っている。 3.人間は、国としても、個人としても、 3.人間は、国としても、個人としても、「 国としても、個人としても、「信頼する」すること 信頼する」することなくして生きることができない。 する」することなくして生きることができない。 4.でも、それでは、私たちは、 4.でも、それでは、私たちは、一体、誰を、どのように信頼する 、私たちは、一体、誰を、どのように信頼するべきな 一体、誰を、どのように信頼するべきなのか、それが私たち人間 べきなのか、それが私たち人間 の一生の課題、また永遠の課題である。 ●それゆえ、聖書は、当然のことながら、「信仰」の重要性を繰り返し強調している。 それゆえ、聖書は、当然のことながら、「信仰」の重要性を繰り返し強調している。 1.義人は信仰によって生きる 2.信仰がなくては神に喜ばれることはできない。神に来る者は、 ●「クリスチャン」とは、単に▼洗礼を受けてクリスチャンと言う宗教グループに入った人ではない。▼ 日曜日に教会で礼拝を守 日曜日に教会で礼拝を守る人でもない。▼聖書を読む る人でもない。▼聖書を読む人になることでもない。▼ 読む人になることでもない。▼朝 人になることでもない。▼朝起きたとき、夜 寝るとき。三度 るとき。三度の 三度の食事の前 事の前に祈る人でもない。 ●クリスチャンとは誰か? 「神に信頼して生きる」人である 「神に信頼して生きる」人である。 人である。それが、先に挙 それが、先に挙げた二つの聖句 げた二つの聖句によく表 わされている。即 わされている。即ちそれがクリスチャンの原点 ちそれがクリスチャンの原点である。今年も一年、この 原点である。今年も一年、この原点 である。今年も一年、この原点に立ち 原点に立ち続 に立ち続けたい。 ●その意味で、この一年の 意味で、この一年の最 で、この一年の最初の日に、そのスター 初の日に、そのスタート そのスタートとして先に として先に読 先に読んだマタイ福音 んだマタイ福音書14章 書14章2222-34 節に記されたペテロ に記されたペテロの ペテロの姿、特に彼が「水 が「水の上を歩いた」出 いた」出来事から 来事から、「主を信頼して生きる」「信仰によ から、「主を信頼して生きる」「信仰によ って生きる」ということについてメッセ って生きる」ということについてメッセー メッセージを頂きたい。 Ⅰ.第一は、私たちは、「恐れ」の真っ只中で主を信頼する必要がある。なぜなら恐れは避けられないからである。 A. ペテロを中心に、そこにいたイエス様の弟子たちの心もそのとき「恐れ」に満ちていた。 1.彼 1.彼らが舟 らが舟に乗ったのは ったのは夕方 のは夕方の 夕方の6時ごろであった。 時ごろであった。その頃 その頃は、まだ少しは明るかった。何より も風も波もほとんどない穏やかな気候であった。 2.しかし、辺りが暗くなると共に、天候が急変した。風がドンドン強くなり、ガリラヤ湖独特 の大嵐になった。 3.その中で、彼らは、逆風に悩まされていた。舟は一向に前に進むことができずにいた。 1 4.夜中の3時、舟を出してから既に9時間も経っていたが、舟はいまだに湖の真ん中にいた。 5.彼らは、不安だった。怖かった。風に吹き倒され、大波のために舟が沈むのではと、死を恐 れていた。 1.次の瞬間に何が起こるか分からない「恐れ」である。 (1)つい数日前にも、悲しいことだが飛行機事故がおこり100名を超える人々の命が奪わ れた。誰がそれを予測しただろうか? (2)9・11にしても、日本の大震災にしても、・・・ (3)人生に個人的に起こり来ることがらにしても、突然起こる仕事の状況、この年末に突然 仕事を失った人もたくさんいるだろう。突然、深刻な病の宣告を受けた人々、家族もい るであろう。等々 これが私たちの人生の現実である。 2.だから聖書は、そのような「恐れ」の中に生きている私たちに、何度も何度も(以前に何回も 365回と言いましたが、どうもそんなにはないようです。しかし、少なくとも129回ほ どはあるようです)、「恐れるな」と励ますのである。 3.ここもそのひとつである。27節「恐れることはない」とイエス様は弟子たちに言われた。 1.この点について多くの人々の誤解は、そのような不幸な境遇は、「悪いことをしているから」 「信仰が足りないから」、果ては、「神がいないから」であると思うことである。 2.しかし、それは、イエス様に従って、導かれているときでさえも来る。22節。ここで、弟 子たちはイエス様に強いてこの舟に乗せられ、向こう岸に渡るように命じられたのである。 3.更には、弟子たちは、イエス様が現れ、助けの御手を伸べておられるときにさえ、それが理 解できないで、むしろイエス様を「幽霊」だと思って、もっと恐れ怯えたとある。 1.即ち、私たちが、信仰を働かせるべきときは、主を信頼して生きるべきときは、この「恐れ」 のど真ん中なのである。 2.ジョン・ウェスレーは、あるときまでの自らの信仰を振り返って、自分の信仰が、順境のと きだけにしか働いていなかった信仰であることを悟った。 3.本当の信仰、信頼は、恐れの真っ只中で働かせるべきものである。 4.恐れの真っ只中で、「私だ。恐れることはない。」と言われるお方に、「あなただったのです ね。」と、恐れと暗闇の真っ只中に立たれるお方に信頼することが必要なのである。 B.人生は「恐れ」に満ちている。 C.私たちを「恐れ」させるような事情や、状況はどこから来るか? D.しかし、イエス様は、そんな弟子たちに、「しっかりしなさい。私だ。恐れることはありません」と言われた。 Ⅱ.第二に、主を信頼する人生は、単に受動的、反応的(Reactive)に主を信頼するだけでなく、自発的、また能 動的(Proactive)であるべきである。 A.ペテロの能動的信仰姿勢:28節を見ると、ペテロは、それがイエス様だと分かると、「良かった。これで助 かった」と言うところで留まっていなかった。 1.こ 1.ここまでなら、受動 こまでなら、受動的信仰である。悪 的信仰である。悪いことがあって、それをFix いことがあって、それをFixしてもらうための信仰 Fixしてもらうための信仰 である。 2.そして、これが他 2.そして、これが他の弟子たち同様、ほとんどの人々の信仰である。 3.しかし、ペテロ 3.しかし、ペテロが、ほかの ペテロが、ほかの弟 が、ほかの弟子たちと違って、愛 子たちと違って、愛され、祝福され、イエ され、祝福され、イエス様に喜ばれ、リー ダー的役割 ー的役割を 役割を果たすようになった理由 たすようになった理由の 理由のひとつは、その信仰における「能動 とつは、その信仰における「能動」的 能動」的姿勢 」的姿勢であった。 姿勢であった。 4.時にはそれが故に失敗 4.時にはそれが故に失敗もした。しかし、それは 失敗もした。しかし、それは彼 もした。しかし、それは彼の大事な姿 の大事な姿勢であった。「やってもらう」と 言う受動 言う受動的姿勢だけでなく、「やら 姿勢だけでなく、「やらせ だけでなく、「やらせて下さい」という能動 さい」という能動的、 能動的、積 的、積極的姿勢 極的姿勢である。 姿勢である。 5.それゆえ、彼 .それゆえ、彼は言った。「主よ。もしあなたでしたら、私に水 は言った。「主よ。もしあなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来いと お命じになって 命じになって下 になって下さい」と。自 さい」と。自分から、それを願 分から、それを願いでたのである。これが能動 いでたのである。これが能動的信仰である。 能動的信仰である。 1.イ 1.イザヤもその一人であった。 ザヤもその一人であった。 (1)そのことがイ (1)そのことがイザヤ そのことがイザヤ書 ザヤ書6章に記されている。 6章に記されている。彼 に記されている。彼はそのとき神殿 はそのとき神殿で神様の聖なるご臨 で神様の聖なるご臨在に触 れ、ご聖霊 れ、ご聖霊によって清 によって清められるという「喜 められるという「喜び 「喜び」の経験した。 経験した。 B.他にも、神の僕たちの中には、このような姿勢を明らかにした人々が大勢いる。 2 (3)その (3)その直後 その直後、 直後、彼は神様のため息 は神様のため息とも取 とも取れる、主の願 れる、主の願いを吐露 いを吐露する 吐露する声 する声を聞いた。「誰を遣 いた。「誰を遣わそ うが我 うが我々のために行 々のために行くだろう」と。( くだろう」と。(8節) 8節) (4)そのときイ (4)そのときイザヤ そのときイザヤは間 ザヤは間髪 は間髪入れずに即座 入れずに即座に、「主よ。私がここにおります。私を 即座に、「主よ。私がここにおります。私を遣 に、「主よ。私がここにおります。私を遣わしてくだ さい」と自 さい」と自発的に志願 発的に志願した。 志願した。( した。(8節) 8節) (5)それは、強 (5)それは、強制 それは、強制でも、義務 でも、義務でもない。順番 でもない。順番が 順番が回って来たからでもない。それは、む って来たからでもない。それは、むしろ、 一般的な呼び 的な呼びかけであった。 呼びかけであった。 (6)しかし、 (6)しかし、彼 しかし、彼はそれに自 はそれに自発的に、積 発的に、積極的に、能動 極的に、能動的に、「 能動的に、「ハ 的に、「ハイ、私がやります」と志願 イ、私がやります」と志願した 志願した のである。これが能動 のである。これが能動的信仰である。 能動的信仰である。私たちもこの 的信仰である。私たちもこのような信仰を今年持ちたい。 私たちもこのような信仰を今年持ちたい。 2.このことに関してキ このことに関してキリスト リスト教史の中でもう一人の人物の例を挙 の中でもう一人の人物の例を挙げるなら。インドへ げるなら。インドへの ドへの宣教師 として有名 として有名な 有名なウィリ ウィリアム・ アム・カーレーの姿勢 ーの姿勢であろう。 姿勢であろう。彼 であろう。彼は言った。"Expect は言った。"Expect great things from God; attempt great things for God."( God."(神様に大きなことを期待せ 様に大きなことを期待せよ。そして、神様 のために大きなことを企 のために大きなことを企てなさい) てなさい)と。 Ⅲ.第三に、主を信頼する人生とは、神様のお言葉に、御心、ご命令に従うことである。 A.先の第二ポイントで申し上げた積極的・能動的信仰は、時に誤解されることがある。 1.即 1.即ち、「わがままな信仰」、 ち、「わがままな信仰」、自 「わがままな信仰」、自分のしたいことを神様にダダ 分のしたいことを神様にダダをこ ダダをこね をこねるようにして認 るようにして認めてもらう 信仰?と、混 信仰?と、混同されることがある。 2.ここで大切 2.ここで大切なことは、神様に信頼する人生とは、自 なことは、神様に信頼する人生とは、自分の希望 分の希望に神様を 希望に神様を従 に神様を従わせることではなく、 私たちが神様に従 私たちが神様に従う中で起こることである。 中で起こることである。 3.ペテロ 3.ペテロの ペテロの場合も同 場合も同じ も同じである。 (1)ペテロ (1)ペテロが ペテロが水の上を歩いたのは、単に彼 いたのは、単に彼が願ったからではない。最 ったからではない。最終的には、イエ 終的には、イエス様が、 「来なさい」と言われたからである。 (2)もし、イ (2)もし、イエ もし、イエス様が「来なさい」と言われないのに、なお彼 ス様が「来なさい」と言われないのに、なお彼が勝手に 勝手に水の上を歩こうとして も彼は歩けなかった。なぜなら真の神へ けなかった。なぜなら真の神への信頼は、神に従 の信頼は、神に従うことから始 うことから始まるからである。 (3)現に (3)現に( 現に(以前も 以前も話したことがあるが) したことがあるが)千葉県の利根川で、同 利根川で、同じ で、同じことを実験 ことを実験したく、 したく、あるクリ スチャンが人々を集 スチャンが人々を集めて、「 めて、「神様は何でもできると信じ 神様は何でもできると信じるなら、水 るなら、水の上でも歩 でも歩くことがで きる」 きる」と宣言してやってみたが、沈 言してやってみたが、沈んでしまったと言う んでしまったと言う。 と言う。 (4)ここで (4)ここで問 ここで問題は神様にそれができるかどうかではなく、それが神様の御心 題は神様にそれができるかどうかではなく、それが神様の御心に 御心に従うことかど うかである。まことの神 うかである。まことの神へ まことの神への信頼は、真実な神へ の信頼は、真実な神への服従、神様の 服従、神様の御心 、神様の御心の中に生きている 御心の中に生きている かどうかの確 かどうかの確信から始 信から始まる。 1.ひ 1.ひとつは、献身 とつは、献身である 献身である。 である。自分自身を捧げることである。 自身を捧げることである。自 を捧げることである。自分自身命までも 自身命までも (1)自 (1)自分自身を捧げることである。 自身を捧げることである。自 を捧げることである。自分の大切 分の大切にしているものすべて、命 にしているものすべて、命までもである。 (2)ペテロ (2)ペテロにとって、イ ペテロにとって、イエ にとって、イエス様の「来なさい」と言う命令 ス様の「来なさい」と言う命令に 命令に従うことは、ある意味 うことは、ある意味で 意味で命賭けの 命賭けの 行為であった。 行為であった。 ●なぜなら、そのお言葉に従 ●なぜなら、そのお言葉に従うとは、具 うとは、具体的に舟 体的に舟から片足 から片足を一 片足を一歩踏 を一歩踏み 歩踏み出し、体重をそこ に全部かけて、もう 全部かけて、もうひ かけて、もうひとつの足 とつの足を更に水の上に出すことであった。 ●それは、一歩 ●それは、一歩間違えれば、その嵐 間違えれば、その嵐の中で逆巻 の中で逆巻く 逆巻く波もろともに渦巻 もろともに渦巻く 渦巻く水の中にのまれ、 泳ぐこともままならずに 泳ぐこともままならずに溺 こともままならずに溺れて死 れて死んでしまうことをも意味 んでしまうことをも意味していた。 意味していた。 (3)人々は (3)人々は命 人々は命を賭けてまで神に従 けてまで神に従うとか、神に信頼するとかということはしたくない。 (4)だから、 (4)だから、結局 だから、結局、人々は、口では 結局、人々は、口では従 、人々は、口では従います、信じ います、信じますと言うが、結局 ますと言うが、結局、実際には信 結局、実際には信じ 、実際には信じるこ とも、従 とも、従うこともしないまま、ただ棚 うこともしないまま、ただ棚から牡丹餅 から牡丹餅が 牡丹餅が落ちてくるのを待つような信仰生活 で終わるのである。 2.神に「服従 2.神に「服従」することのもう 服従」することのもうひ 」することのもうひとつの意味 とつの意味は、今の 意味は、今のことに は、今のことに密接 ことに密接に関 密接に関連 に関連している。「勇気 している。「勇気」である。 勇気」である。 (1)神に信頼し、神に (1)神に信頼し、神に従 神に信頼し、神に従うために聖書がハッキ うために聖書がハッキリと私たちに ハッキリと私たちに期待し、 リと私たちに期待し、求 期待し、求めていることは「勇 めていることは「勇 気」である。雄 」である。雄々しく戦 々しく戦う勇気、神に 勇気、神に従 、神に従う勇気、神に信頼する 勇気、神に信頼する勇気 、神に信頼する勇気である。 勇気である。 (2)このことに関する (2)このことに関する最 このことに関する最も有名な例は、 有名な例は、モ な例は、モーセの後継者となった 後継者となったヨシュアへ 者となったヨシュアへの神様の ヨシュアへの神様の励 の神様の励まし の言葉である。ヨシュア の言葉である。ヨシュア記 ヨシュア記 1 章6、7、9節参 9節参照 : “Be strong and courageous” B.この「神への服従」について、短く、それが何を意味しているかについて触れたい。 3 (3)イ (3)イエス様も弟 ス様も弟子たちに言われた。「あなた方 子たちに言われた。「あなた方は世にあっては艱難 は世にあっては艱難がある。しかし、 艱難がある。しかし、勇気 がある。しかし、勇気を 勇気を だしなさい。勇気 だしなさい。勇気 Take heart (原 (原語:tharsei 語:tharseite=Be courageous) courageous) (4)有名 (4)有名な 有名なウィンス ウィンスト ンストン・チャーチルの言葉「もし ン・チャーチルの言葉「もしあたが もしあたが財産 あたが財産を 財産を失ったら、それは小 ったら、それは小さな損失 さな損失 である。もしあなたが名誉 である。もしあなたが名誉を 名誉を失ったら、それは大きな損失 ったら、それは大きな損失である。しかし、もしあなた 損失である。しかし、もしあなた が勇気を 勇気を失ったら、あなたは全部 ったら、あなたは全部を 全部を失ったのである」と。 Ⅳ.第四に、主を信頼する人生で大切なことは、主への信頼を状況の如何にかかわらず「継続」することである。 A.ここで、ペテロは主を信頼して一度は水の上を歩いた。 1.なぜ、それができたか? それは、主を信頼したからである。 (1)このことの (1)このことの鍵 このことの鍵は、恐 は、恐れに怯 れに怯えていたペテロ えていたペテロたちに言ったイ ペテロたちに言ったイエ たちに言ったイエス様の言葉、「しっかりしな さい。私だ。恐 さい。私だ。恐れることはない」を受けて、 れることはない」を受けて、 (2)ペテロ (2)ペテロが、「 ペテロが、「あなたでしたら、私に水 、私に水の上を歩いて」と言って、イエ いて」と言って、イエス様にフォ ス様にフォー フォーカスした ことである。自 ことである。自分でも、周 分でも、周りの風 りの風でもなく、イエ でもなく、イエス様だけを見 ス様だけを見たとき歩 たとき歩けたのである。 (3)私たちに不 (3)私たちに不可能 私たちに不可能を 可能を可能にさ 可能にさせ にさせるのは、イエ るのは、イエス様ご自身 ス様ご自身だけを 自身だけを見 だけを見つめる信仰である。 2.しかし、ペテロ 2.しかし、ペテロは ペテロは次の瞬間、沈 間、沈みかけたとある。なぜか? みかけたとある。なぜか? 30 節に「風 に「風を見て、怖 て、怖くなり」 とある。イエ とある。イエス様から目 ス様から目をそらし、イエ をそらし、イエス様以外 ス様以外のものを 以外のものを見 のものを見たからである。 3.自 3.自分を見 分を見たら無力 たら無力さと汚 さと汚さに失望 さに失望である。 失望である。周囲 である。周囲を 周囲を見たら事態 たら事態の大きさに圧倒 の大きさに圧倒されるだけであ 圧倒されるだけであ る。私たちが る。私たちが見 たちが見るべきは、それらを遥 るべきは、それらを遥かに超えて、凌駕 かに超えて、凌駕して大きく、 凌駕して大きく、全能 して大きく、全能なイ 全能なイエ なイエス様ご自身 ス様ご自身 にだけ信頼の目 にだけ信頼の目を留めるこ めることである。 4.この信仰の原点 4.この信仰の原点に、いかなる状 原点に、いかなる状況 に、いかなる状況の中でも継続 の中でも継続して 継続して留 して留まり続 まり続けることである。信じ けることである。信じるとは一 瞬の決断・ 決断・行為ではない。生活の中、人生の中での 行為ではない。生活の中、人生の中での継続 ではない。生活の中、人生の中での継続的 継続的決断と 決断と行為である。 行為である。 5.自転車のたとえ: 自転車のたとえ:継続 のたとえ:継続的 継続的前進がなければ 前進がなければ倒 がなければ倒れてしまう。 結 論 ●願わくは、この一年が、私たちにとって、ただ「クリスチャンをやっている」というような「習 わくは、この一年が、私たちにとって、ただ「クリスチャンをやっている」というような「習慣的ク リスチャン生活」で終わることなく、 ●むしろ、一日一日、一月一月が、これま しろ、一日一日、一月一月が、これまでかつてなかったような、そして、 これまでかつてなかったような、そして、今日 でかつてなかったような、そして、今日学 今日学んだような、「 んだような、「生 、「生 きた主へ きた主への信頼と の信頼と興奮と祝福をいっ 興奮と祝福をいっぱ と祝福をいっぱい経験する年となるように、ご一 経験する年となるように、ご一緒 する年となるように、ご一緒に主の前 に主の前に祈りたい。 4