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「学力向上」を国家教育目標として(PDFファイル:1189KB)

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「学力向上」を国家教育目標として(PDFファイル:1189KB)
学
力
向
1.はじめに
日本でいわゆる“ゆとりと充実”の教育課程が教育現場で実施に移されたのは,小・中
学校では昭和 55年,つまり 1980年のことでした。その後,
小・中学校についていえば,
1992
年(平成4年)と 2002年(平成 14年)に新しい学習指導要領に移行しましたが,内容の
精選,時間数の削減ということでは,1980年の方針を引き継いだままとなっています。
この間アメリカでは,1983年を中心に有名な『危機に立つ国家』(A Nation at Risk)
を初めとする教育改革レポートが相次いで発表され,今日まで学力の向上をめぐって全国
上
各地でさまざまな取り組みがなされています。『危機に立つ国家』が,明らかに意識して
策
リスでもほぼ同じ時期に教育水準向上のための国民運動が始められて今日に至っています。
いたのは日本やドイツです。特に日本に教育水準の面で遅れをとったということで,イギ
最近 20年の間に,日本と米英両国とでは,お互いに正反対と思われるような教育政策
上の取り組みがなされているのはなぜなのでしょうか。ここでは,アメリカの動きを取り
上げて
えてみます。このことは,我が国の教育のこれからを える上にも,大変参 に
なる示唆を含んでいると えられるからです。
2. 危機に立つ国家」の衝撃
次ページのグラフが示すように,アメリカでは,大学入試委員会(CEEB)が毎年
ETS に委託して実施する,いわゆる大学進学のための適性テストのスコアが,数学部門
でも言語部門でも,1960年代の前半をピークとして 1970年代後半まで連続して下降しま
した。このような時代を背景として,『危機に立つ国家』は,当時の連邦教育省長官ベル
の諮問に答える形で,1983年4月に公表されたものですが,その論点の明確さとコンパ
クトさのゆえに,教育界はもとより幅広い人々に読まれ,その後のアメリカの教育改革を
リードするところとなりました。
同書の冒頭の言葉は, 我々の国家は今や危機に
している。我が国がかつて絶対的優
位を誇った商業・工業・科学・技術面の革新は,世界中の競争相手によって取って代わら
れようとしている」に始まり,教育改革への動機を明確にしています。特に日本・ドイツ
に追い越されたという意識は強く,この頃“トヨタ・ショック”という言葉が再三使われ
ました。さらに「我が国の教育基盤は凡庸さの波によって削り取られ,国や国民の将来を
危うくしている」とも, 我々は,無意識のうちに一方的な教育上の武装解除を行ってい
る」とも述べて,アメリカの教育水準低下の危機について警告を発したのです。
教育の危機について,同書が掲げる指標のうち主なものをあげると次のようなものです。
・ 10年前の生徒の学力の国際比
では,アメリカの生徒が 19科目中で1位ないし2位
であったことはなく,先進工業国の中では7科目においてビリであった」
・ 17歳人口の約 13%は,日々の生活を送るための読み・書き・算数などの基礎的能力に
欠けている。少数民族青年の間の同様の割合は 40%にも達する」
・ 例えば海軍では,最近採用した新兵の 1/4は,安全のための注意書きを読むための第
9学年(中学3年)程度の能力も持たない」
・「高校生の平 的学力は,多くの標準学力検査において,スプートニクが打ち上げられ
た 26年前の学力より低い」
(財)国際教育交流馬場財団理事長
中島 章夫
昭和 36年東京大学文学部を卒業して文部省入省。初等中等教育局小学校
教育課長・大臣官房政策課長から大臣官房審議官をへて衆議院議員。専門
の教育問題だけではなく,環境問題にも深い関心をよせている。元環境政
務次官。現在,文部科学省所管公益法人の国際教育交流馬場財団の理事長
として,国際教育の交流や国際理解教育の促進のために活躍中。桜美林大
学大学院客員教授。著書として『授業改革ハンドブック』(第一法規出版
1991),
『教育大国“日本丸”は何処へ』(エヌ・アンド・エス企画 1995)
等教育関係の著書・論文多数。
数学
言語
大学進学適性テストのスコア(1952-1982年)
出典:1952-1977年:College Entrance Examination Board. 1978-1981年:National Center for
Education Statistics. 1982年:National Center for Education Statistics,unpublished data.
3.
『危機に立つ国家』以前の状況
1980年代前半の教育改革に先駆けて,国家的レベルで教育改革が問題となったのは,
1957年にソ連がスプートニクを打ち上げた直後のことでした。教育や科学技術の面では
世界一という自負を持っていたアメリカ国民は,その鼻っ柱を折られることになったので
す。1960年代から 1970年代にかけて,連邦の教育分野への投資が増えるとともに,理科
や数学を中心に新しいカリキュラム理論の開発が進みました。
たまたまこのような時期,我が国でも
『コナント報告』
として知られたジェームズ・B・
コナント博士の『今日のアメリカの高等学校』が 1959年に出版されました。長くハーバ
ード大学の学長を務め,第2次大戦後ドイツ大使となったコナントは,帰国後カーネギー
財団等からの援助金を得て,アメリカの高等学校教育の研究に取り掛かりました。26の
州の 103校の高校を訪れ,教師・父母・生徒等あらゆる関係者に面談して,21の勧告を含
むこの書を発表したのです。この書は『危機に立つ国家』はもとより,その後のアメリカ
の教育改革を える際の出発点となり,第一次ベビーブームの波が高校に押し寄せる頃の
我が国にも紹介されて,関係方面で話題となりました。
コナントの根本的な問題意識は,ひとつの高等学校が,同時に① 民主社会の将来の市
民たるすべての生徒によき市民教育を与え,② 大多数の生徒が社会に出て役に立つ職業
技術を身につけさせ,③ 学問的に優れ,引き続いて大学で学問をする者のための教育を
適切に行うことができるかどうか,ということでした。結論からいえば,当時アメリカで
え方が定着しつつあった公立総合制高等学校(Comprehensive High School)こそが,
このような機能を果たすべきものと えられたのです。
学
総合制高等学校は,20世紀の初め頃からアメリカで発展してきた大衆高等学校の形態
で,ひとつの高等学校が地域住民子弟の持つあらゆる教育要求を満たすものとして設計さ
れています。我が国でも,戦後の新制高等学校についていわれたいわゆる“高校三原則”
力
の男女共学・総合制・学区制のうちの総合制が正にこれに当たりますが,多様な教育課程
向
アメリカでは,土地が広大で地域やコミュニティーには人種・宗教・職業等さまざまな
を多様な生徒に用意するという総合制高校の本当の意味は,長く理解されないままでした。
人々がかたまって住んでいます。地域に密着した小学校や中学校は,必然的にそのコミュ
上
ニティーの性格を反映し,教育方針や内容,教育水準が異なっているのが普通です。もち
策
ことを前提として頭に入れておくことが大切です。
ろん,国の教育課程基準もありませんから,アメリカの教育水準を問題にするとき,この
さて,コナントは,多民族複合国家であるアメリカが,有機的な統一を保つために公立
高等学校が持つ役割に期待したのです。すなわち,各コミュニティーから集まった生徒が
ここで初めて,ミニ・アメリカとでも言うべき多様な者同志の共同生活を経験するため,
一方で社会の指導層を形成するエリートの教育を,他方では大多数の生徒のための多様な
職業技術教育を行い,併せて一般市民教育を行うところとして総合制高校を
えたのです。
コナントの理想は,必然的に学校の大規模化を伴いますが,時代背景はそのことを許し
ませんでした。すなわち,ケネディ大統領の登場で始まった 1960年代は,公民権運動が
高まりを見せ,貧困追放・人種差別撤廃が時代精神となり,後半にはベトナム戦争の行き
詰まりから,各地の大学や高校に学園紛争が 発しました。我が国の東大安田講堂事件も
この頃です。アメリカではこの時代を通じて,約 700の大学(主として公立短期大学,特
にコミュニティー・カレッジ)が設置され,多くの場合無試験入学を建前としました。連
邦奨学金制度の充実とあいまって,低所得層特に少数民族子弟の進学が増え,高等教育機
関の大衆化をもたらしました。
大学紛争の期間を通じて,大学は学生に不人気な数学や外国語を必修教科から外すこと
となり,必然的に公立総合制高校の機能の中でコナントが特に力を入れたエリート教育の
声も薄れて,教育水準の低下が進み,一方で学園紛争などで大規模学校設立の条件も乏し
くなり,やがて公立高校は比 的小規模に個性をもって並立しながら,横には他の高校と
の連携を,縦には大学との連携を図るようになっていきます。
『危機に立つ国家』以前の教育状況(1960年代末から 1970年代末)
(財)国際教育交流馬場財団理事長
中島 章夫
1960年代および 1970年代を通じて,アメリカの教育を特徴づけるのは,何と言っても
教育水準の低下です。進学適性検査の全国平 スコアの下降傾向は先に見ましたが,1980
年代になってようやく下降が止まり,横ばい状態になりました。この期間の学校のカリキ
ュラムの特徴的変化は,数学・理科・外国語等アカデミックな科目の相対的停滞と,体育・
音楽・治療英語(remedial)・運転者教育・消費者教育等の非アカデミック科目の全盛で
す。大学進学教育でもない職業教育でもない,一般科目ともいうべきものを選択した生徒
の割合は,1960年代末の 12%から 1970年代末には 43%に増加したといわれています。
4.
『危機に立つ国家』の改革提言
1980年代の前半,特に 1983年を中心にアメリカでは教育改革に関する提言やアピール
が相次ぎましたが,全国的に知られたものだけでも 20指に余りあります。それらのもの
に共通するのは,前の時代までに落ち込んだ学力の水準を引 き 上 げ,教 育 の“卓 越
(Excellence)”をどのように実現するかということでした。そしてそれらに共通するの
は,学力水準の引き上げが主として高等学校レベルで論じられ,我が国のように全国一律
に小学校レベルから引き上げようとする え方ではありませんでした。
『危機に立つ国家』は,次の5つの点を緊急に改革するべきものとして勧告しました。
① 高等学校卒業要件の強化
州立および地方立の高校の卒業要件を強化し,卒業証書を得ようとする者は次の「新5
基礎教科」を学習するように求めました。
英語………………4単位
数学………………3単位
理科………………3単位
社会………………3単位
コンピュータ……1/2単位
上級学校進学希望者はさらに2単位の外国語を学習することが求められました。(ここで
いう1単位は,日本と違って,ある科目を毎日1単位時間1週間分の学習を1年間(35週)にわたって積
み上げたものをいいます。したがって日本流にいえば,週5日なので5単位ということになります。
)
実は先に述べたコナントが,すべての高校生に求めた共通必修単位は,次のようなもの
で,各州ともこれを州の高校卒業最低要件としているところが多かったのでした。
英語………………4単位
社会………………3∼4単位
数学………………1単位
理科………………1単位
これに対して,コナントが学問的才能に優れた生徒向けの標準としたのは,
英語………………4単位
社会………………3単位
数学………………4単位
理科………………3単位
外国語……………4単位
学
などで,この他に第二外国語 1単位,社会科 1単位を加えることを勧めたのでした。 新
5基礎教科」は,コナントが学問的才能の高い生徒に期待したのとほぼ同じ程度の学習を,
すべての生徒に求めたことがわかります。コンピュータについては,ほとんどの改革提言
力
で新たな必修科目に指定していますし,外国語については,1965年には,24%の高校生
向
ものです。
上
策
が履修していたのに,この当時では,15%に落ち込んでおり早くから問題視されていた
② 大学入学資格要件の強化
カレッジ・総合大学等の高等教育機関は,もっと厳格で測定可能な基準を設け,高い目
標を設定すべきであり,特に 4年制大学では,入学資格要件を高める必要があると強調し
ました。1980年に大学入試委員会(CEEB)が公表した資料によると,アメリカの4年
制公立大学のうち,開放入学制(希望者全員入学)をとるものは 20%,基準内全員入学
制(高校卒業以上の資格)をとるものが 70%となっており,競争制はわずか 10%でした。
また,全米中等学校長会(NASSP)の 1982年の調査によると,その頃 27州において,
州立 4年制大学の入学資格要件が引き上げられたか,または引き上げが準備されていると
のことでした。
③ 学習時間の延長
我が国の当時の年間授業日数は,夏休みの登校日等も入れて 240日といわれていました
が,アメリカでは,180日ないしはそれ以下でした。これをせめて 200∼220日程度に引
き上げるよう,州の条例や地方教育委員会で検討を行うべきだと提言しました。勧告の他
の部分には,高校生にもっと宿題を課すことや,学習に遅れがちな生徒や学問的才能の高
い生徒には,別途の指導が必要であることが述べられています。
④ 教員資質の向上
この点についてもほとんどの改革提言が一致しているところですが,教員養成の充実お
よび教員の資質の向上のため,奨学制度の充実,教員給与の増額,職階制の導入などを強
調しました。教員給与の増額については,我が国の 1974年の「給与特別措置法」改定が
参 に取り上げられましたし,レーガン大統領訪日の際,数学・理科の日米共同研究が申
し入れられたりしました。
1980年代『危機に立つ国家』の教育改革「学力向上策」の提言
(財)国際教育交流馬場財団理事長
中島 章夫
アメリカの教員給与は,9ヶ月ないし 10ヶ月ベースで支払われるところが多く,夏休
み等は原則的に勤務の必要はありません。この勧告で 11ヶ月ベースの支払いを求めてい
るのは,教員給与の増額のほかに,学年の始まる前の夏休みに,カリキュラム研究や研修
を義務づけようという意図があったのです。
職階制は,この頃から盛んに議論され始めたことで,教職を他の職業に比して魅力ある
ものとし,優れた教員には相応の報酬を与えようという え方です。当時の教育省長官ベ
ルによると,
3年間の試補期間
一般教員
指導教員(メンター)に分け,指
導教員は試補等の指導も担当する。 および へ進む際には,仲間の教員等による厳密な
選 を提案しました。
⑤ 教育関係機関の指導性と財政負担
質の高い教育を行うためには,お金がかる。しかし,長い目で見れば凡庸な教育の結果
にはもっとお金がかかる。住民は教育にもっとお金を投じ,教育機関の責任者はその指導
性を発揮すべきであるという提案です。アメリカの初等中等教育費は,約 16000(当時)
ある地方教育区ごとにまかなわれているのが原則です。これでは富裕な地方と貧困な地方
とで,生徒1人当たり教育費に大きな差が出ることが問題となり,州支出の教育費が相対
的に増える傾向にありました。
また,教育はもともと州の事業とされ,実際には地方教育区ごとに行われてきましたが,
スプートニク以後,教育の特定領域に対する連邦の支出を求める授権法が次々と成立し,
職業教育振興,帰還軍人の教育,低所得階層の教育,少数民族教育,特殊教育等の限られ
た分野で,連邦支出が行われるようになりました。
5.機会
等から質の向上へ
アメリカの学力向上対策を,1983年の『危機に立つ国家』から説くべく紙数を費やし
たのは,その後の学力向上策のほとんどが,この時期の教育改革提言に示された方向に沿
っており,しかも,日本と違って,地方分権国家のアメリカでは,改革の進め方がそれぞ
れの分野,それぞれの地方によって異なっていることを十分認識していただきたかったか
らです。
その特徴をもう一度整理しておきましよう。
教育改革の実施は,州および地方のレベルで
えられており,連邦に期待される役割
は限定的である。
教育改革の重点は教育の質の充実に向けられており,教育の質(Quality)と教育の
平等(Equality)が同時に追及されている。
教育の質の追及のためには,学校とそれを取り巻く環境条件が大切である。基礎基本
の重視,厳しい規則,高い目標,教師の責任,校長の指導制等。
政府・大学・会社・父母・地域や情報メディアが,学校の目標設定・計画・財政再建そ
の他に参画する必要がある。
これらの改革を進める最大のものは,結局,学校のカリキュラムをもっと厳しいもの
にすることと,教員資質の向上を図ることである。
学
6.地方ごとの取り組み
『危機に立つ国家』からちょうど1年後の 1984年に,連邦教育省は『国民は応える』
(The Nation Responds)という報告書を出して,アメリカ国民がいかに深く,しかも広
力
範に教育改革に取り組み始めたかを示しました。アメリカ国民は長い間教育に失望してい
向
付け,教育の質を改善するために必要な税金の負担に同意したと述べたのです。
上
向に動いていくのかは,地方ごとの取り組みを一定の期間見守る必要がありますが,1年
策
* 48州が高等学校卒業基準を引き上げることを えており,うち 35州は改正済み。
たけれども,再び学校に対する信頼を取り戻し,教育問題を国の最重要政策の1つに位置
アメリカの教育改革は,いうまでもなく各地方ごとの取り組みですから,どのような方
後のこの時期に,各州で目立った動きとしては,次のようなものが報告されています。
* 21州が教科書内容と指導資料の充実を検討している。
*8州が学校の1日開校時間を,7州が年間登校日数を延長する。
* 24州でマスター教師制や職階制を検討中で,6州では先導的試行を始めた。
1986年,全国知事会が「結果を求めるとき」(Time for Results)というプロジェクト
をスタートさせ,①教育指導 ②指導性と経営 ③父母参加と選択 ④事前準備 ⑤教育技術
⑥学校施設 ⑦大学の質 という7つの特別委員会を設けて,それぞれに各州知事を振り分
け,1992年までに結論を得ることになりました。面白いことに,このときの第②の特別
委員会の委員長は,アーカンソー州知事のビル・クリントンで,後にアメリカ大統領にな
りました。また,クリントン大統領時代,名教育省長官といわれたリチャード・ライリー
氏は,このときサウスカロライナ州知事で,第④の特別委員会の委員長を務めていました。
7.ブッシュ(先代)大統領の America 2000 /An Education Strategy
現在のブッシュ大統領のお父さんで先代の大統領も,選挙のときから教育大統領を目指
していたため,1989年の秋,ヴァージニア州のシャーロットビルに全米の州知事を召集
して“教育サミット”を開催しました。ここで議論されたのは,アメリカ始まって以来と
いわれる“教育の国家目標”設定についてでした。
世界最先進国を誇ってきたアメリカが,日本を初めとする先進国に生産性その他の面で
追い越されるに至ったのは,教育の水準の低下によるものであり,教育界の怠惰を諫め,
教育大改革の必要性を説いたのは,主としてサンベルトと呼ばれる地方の経済界のリーダ
ーや政界で,その先頭に立ったのが全国知事会でした。ブッシュ大統領の教育改革イニシ
ャチブは,1986年から始められていた全国知事会の共同作業に,途中から割って入った
形になったのです。
教育の国家目標設定作業は,“教育サミット”が終わってからも全国知事会とホワイト
ハウス担当官を中心に続けられ,1990年2月,いずれも「西暦 2000年には,……」とい
う言葉で始まる次の6つの国家教育目標が発表されました。
① 総てのアメリカの子どもは,学校が始まる前に学習の準備を整える。
② 総てのアメリカの高等学校の卒業率は,最小限 90%に上昇する。
③ 総てのアメリカの生徒は,第4,第8および第 12学年を終わるときには,英語・数
学・理科・歴史および地理の各教科において十分な知識を持つこと,また,アメリカの総
(財)国際教育交流馬場財団理事長
中島 章夫
ての学校は,生徒が学習を通じて,責任ある市民として,さらなる学習に,そして現代
経済社会の生産性のある職業人として適応できるようにする。
④ 理科と数学の学習到達度で世界一となる。
⑤ 総てのアメリカの成人は,読み書きができるようになり,世界経済の中で競争するの
に必要な,また市民としての責任と権利を行使するために知識や技術を持つ。
⑥ アメリカの総ての学校は,薬物と暴力を追放し,学習ができるような環境を提供する。
America 2000は, 教育戦略」という副題のとおり, この国をそのあるべき姿に引き
戻すための長期戦略であり,6つの国家戦略を実現するための9年間にわたる努力のため
の筋道である」と述べ,同時並行的に次の4つの戦略を進めるべきだと主張しました。
第1は, 今日の生徒のために」というもので,当時の 11万校の学校を徹底的に改善す
るというものでした。そのためには国家教育目標委員会によって主要5教科について,世
界レベルの目標を設定してもらい,テストや各種表彰制度を活用するなどして,生徒の学
習到達度を上げるというものでした。
第2は, 未来の生徒のために」というもので,1996年までに少なくとも 535校,世紀
末までには数千の全く新しいタイプの学校を全米に作るというものです。この 535とは,
下院議員の選挙区 435と上院の議席 100を足した数です。
第3は, すでに学校を卒業している人のために」,そして第4は, 学校が成功するた
めに」となっていました。
ブッシュ大統領の国家戦略は,共和党の方針として,小さな政府を標榜していましたか
ら,連邦が直接手を下して実施しようというものではありませんが,国家教育目標委員会
によって主要教科の目標が定められるなど,地方や州の教育主権を奪うものとして大きな
議論となり,結局 1992年の大統領選挙で,クリントン大統領に敗れる結果となりました。
8.クリントン大統領の Goals 2000 /Educate America Act
1993年から実質的な仕事を開始したクリントン大統領は,1994年3月にこの法律に署
名します。この法律がブッシュ前大統領のものと根本的に違ったのは,連邦議会や教育関
係諸団体との事前の調整が行われていたことと,州や地方が実施しようとする子どもの教
育水準の向上を目指しての諸教育改革プログラムに,連邦がきちんと財政的裏づけを与え
る仕組みになっていたということです。
ブッシュ前大統領が取り上げて,初めて連邦レベルの政策課題となった教育の国家目標
は,民主党政権下の議会で新たに,⑦教師教育と教師の専門性開発の目標 ⑧父母の教育
参加の目標 という2つの目標が,前記の6つの目標に加わり,合計8つの目標となりま
したが,そのこと以上に,次の3つの改善点がアメリカらしい今日的改革の進め方として
注目されます。
第1は,総ての子どもの学習能力の向上が目標とされていることです。我が国では至極
当然のように思えるこの方針は,アメリカでは,初等中等教育法が成立した 1960年代の
後半以降の連邦プログラムでは,低所得階層や少数民族等貧困のゆえに学習成績が上がら
ないという前提で,特定の地域や対象を絞って始められましたが,今回のものは,裕福な
地域も含めて,21世紀に向けて学力水準が十分ではないという え方によっています。
学
第2には,連邦補助金を活用するためには,各州で“opportunity to learn”(OTL)
つまり“学習の機会”に関する基準を作り,それに沿って申請すればよく,必ずしも国家
教育目標に従う必要はないとされました。また州や地方は,既存の連邦補助金を今回の教
力
育改革に一括して申請する,いわゆるブロック・グラント(一括補助金)の扱いとなった
向
第3には,教育目標の設定とその成果の測定は重要な政策目標には違いありませんが,
ため,使い方が便利で自由になりました。
“連邦の”という代わりに,“国民の”という表現に改めて, 国民教育標準および改善委
上
員会」とか「国民教育目標パネル」といった組織によって,任意の国民の教育標準を作る
策
れの判断に任されたのでした。
こととされ,結果は各州や地方に知らされましたが,それを採用するかどうかは,それぞ
クリントン大統領は,この他にも,2000年までに総ての学校でコンピュータやインタ
ーネットが使用できるように,連邦通信委員会(FCC)と連携して,E-Rateというプロ
ジェクトを作り,学校がそれらの設備を導入するに当たって,学校の所在する地域の経済
状況に応じて,30%から 90%の税金の免除をする政策を行いました。
1996年に第2期目の当選を果たした直後の議会演説で,教育を国内問題の第一のテー
マに選んだことでもわかるように,また,2000年に新しい大統領になったブッシュ二世
も先代と同様,教育に力を入れていることでもわかるように,制度上ほとんど権限のない
連邦においても,近年教育改革のための旗振り役,なかんずく学力向上対策が国内政策上
の最大の課題となってきています。
9.「落ちこぼれを作らない」ための初等中等教育法改正
2002年1月,ブッシュ現大統領の署名により,1965年にできた初等中等教育法の改正
法が成立しました。落ちこぼれを作らないことを標榜したこの法律は,英文では“No
Child Left Behind Act”といいます。同法は学力の底上げ(地域間格差の是正)を目的
とし,次のような4本の政策を柱にしています。
① 学力テストの実施と結果の公表
2005年までに,英語と数学について第3学年から第8学年までの各学年を対象とする
州内統一の学力テストを実施する。その結果は,州全体の成績のほか,各学年単位,生徒
集団単位(低所得階層,少数民族,英語を母国語としない者等)で公表する。
前のクリントン時代から見られるように,各州は連邦補充金を活用するに当たって,独
自の学習指導要領のような基準を作って(例えばヴァージニア州の場合は,Standard of
Learning=SOL という),それに総ての子どもが到達したかどうかを確認するための州
テストを実施するところが多くなっています。これは明らかに,1980年代前半に始まっ
た“卓越”を求めての高等学校を中心とした教育改革の流れに,1990年代前半になって,
総ての子どもの学力を上げるという新たな方針が加わったものとして注目されます。
② 州および地方の裁量拡大
学区による連邦補助金の使用について事業間の流用の幅を広げました。連邦補助金とい
っても我が国の場合と違って,教育費全体に占める割合は6∼7%にしか過ぎませんし,
2002年の大統領予算案の主たる事業への配分も,
(財)国際教育交流馬場財団理事長
中島 章夫
「落ちこぼれを作らない法律“No Child Left Behind Act”」に署名
・州内統一学力テスト事業:3億 8700万ドル
・貧困地域等への財政援助の強化:113億 5300万ドル
・読み能力改善事業の拡大:10億 7500万ドル
となっていることでもわかるように,この初等中等教育法はもともと貧困地域児童生徒対
策費としてスタートしていたものを,その時々に改正して特徴をもたせているわけです。
また,基礎学力(読解力中心)向上政策への集中投資が行われています。これは,読解
力向上事業の予算増と,科学的に立証された読解力指導法の積極的導入,および優秀教員
確保に向けた教員給与引き上げや研修の充実等を目的とする補助金の増額です。
③ 教育機会の選択拡大
教育成果が上がらないと認定された学校(実績低迷校)の在校生(親)に対する教育機
会選択の保障は,以下の通りです。
《2年連続で成果の上がらなかった場合》
・在校生に対する他の公立学校への転校の保障
・実績低迷校に対する技術的援助の提供
《3年連続で成果の上がらなかった場合》
・実績低迷校は親が選択した補助的教育サービス(家庭教育や課外授業)を提供
(同法の補助金を生徒1人当たり 500∼1000ドル使用)
《4年連続で成果の上がらなかった場合》
・教職員の入れ替えによる学校組織の再編
この他,チャータースクールの設置振興があります。チャータースクールは 1992年に
ミネソタ州で初めて認められて以来,各州が同様のチャーター(設立許可)条例を制定し
て全国的に普及しました(現在約 3000校)。平
して規模は小さく(生徒 100∼200人が
多い),普通の公立学校では行き届かないきめ細かい指導を標榜して,学校理事会が予
算・人事・カリキュラム等あらゆる決定権を持つ代わりに,チャーターで認められた一定
の期間(3∼5年)の間に成果を示せなければ,閉校の運命にあるものです。
学
.各地方ごとの取り組みこそがアメリカの教育改革
1983年の『危機に立つ国家』以来のアメリカの教育水準向上をめぐっての動きを,主
として連邦の動きを中心に見てきましたが,これではそれぞれの時代に教育の卓越をめぐ
力
って,国全体としては改革のどこに重点が置かれたかの傾向はわかっても,どこがどう変
向
あるのですが,一例として,教育改革に最も早くから取り組んだコネチカット州について,
わったかの実態はつかめません。本当は各州について,詳しく改革への動向を探る必要が
いくつかの特徴を簡単に追っておくことにしましょう。
上
235
策
230
ニュ−ハンブシャ−
メ−ン
マサチュ−セッツ
アイオア
225
ウイスコンシン
ワイオミング
コネチカット
ミネソタ、バ−ジニア
オクラホマ、ミズ−リ、ユタ
220
コロラド、ロ−ドアイランド
ミシガン、ウエストバ−ジニア
アメリカ平
215
ニュ−ヨ−ク
ケンタッキ−、テキサス、デラウ エ ア
ノ−スカロライナ、テネシ−、ジョ−ジア
メリ−ランド、ア−カンソ−、ニュ−メキシコ
サウスカロライナ
210
アリゾナ
フロリダ
アラバマ
205
ルイジアナ
ハワイ
カリフォルニア
200
ミシシッピ
195
1992
1994
各州の小学校
年生の「読み」の達成度調査
1996
1998
(財)国際教育交流馬場財団理事長
中島 章夫
コネチカット州の教育
連邦教育達成度調査(NAEP=National Assessment of Educational Progress)によ
ると,コネチカット州の 4年生の算数の成績は,1996年に全国1位となり,4年生と 8年
生の読みは 1998年に,同じく書き方は,1999年に全国1位をマークしました。図のグラ
フには,各州の第 4学年の読みの成績が 1992年から 1998年まで示してありますが,コネ
チカットの成績が見事に上昇しているのがわかります。
この高い成績を生み出したのは,州民の教育への高い期待度,高く設定された教育基準,
関係者の努力の積み上げの成果であることには違いありませんが,具体的には,全国一高
い教員の給与水準,総ての新人教員につけられる指導教員(メンター),ポートフォリオ
を使って入念に行われる教員の入門指導とチェック,低学力校への特別支援などがその原
動力として挙げられます。
中でも,1986年の「教育促進法」によって,教員給与アップ等に 3億ドルを投じたの
を機会に,新しく教員になる者に対しての要求水準を引き上げ,また支援条件も引き上げ
たことが,今日の見事なまでの教師教育の充実につながっているのです。この州では,
1974年から 1983年までの間,マーク・シェッド教育長,1983年から 1991年までの間,ジ
ェラルド・ティロッジ教育長という2人の優れた教育長が在籍し,優れた指導者を集め,
連邦や各地の大学研究機関とも優れたネットワークを作り,生徒に高いハードルを課すと
ともに,優れた先生を生み出す体制を整えてきたのです。
後にクリントン政権下の教育省初等中等教育担当副大臣に就任したティロッジは,1984
年“コネチカット・チャレンジ”と呼ぶ政策を打ち出し,高等学校卒業に高い卒業要件,
教員養成と免許を前任者に続いて改善,教員研修プログラムを改善,4・6・8学年終了時に
テストなど,
『危機に立つ国家』が提案した諸改革を実施に移しています。
ティロッジはまた,教員給与等のアップと教師基準の引き上げを同時に行うべく,教員
給与引き上げにつながる(教員給与は各学校区の専管事項)州費による次のような事業を
案しました。すなはち,教員認定プログラム,職階制実施のための地方交付金,メンタ
ー等各種の職の設置,初任教員の誘導プログラムなどです。これらの政策の積み上げが,
今日のコネチカットの教師教育の高いレベル,ひいては生徒の高い学習成果を生み出して
いるのです。
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