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IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察

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IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察
IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察
--- IBM の PC 市場への参入遅れに関する「一番手戦略/二番手戦略」視点からの考察 --明治大学経営学部
佐野正博
内容構成
はじめに ..................................................................................................................................................................... 1
1. IBM の PC 市場参入に関する二番手戦略論的理解 ........................................................................................... 2
2. IBM の PC 市場参入に関する二番手戦略論的理解に対する批判的検討 ......................................................... 5
短期的目標と中長期的目標という視点からの批判的検討 --- 中長期的視点に基づく IBM の電子計算機事業に対する
1940 年代からの取り組み ......................................................................................................................................................... 5
コンピュータのダウンサイジング化の第一段階としてのミニコン市場における IBM の「失敗」経験 .......................................... 6
パーソナル・コンピューティング用途向けコンピュータに関する 1970 年代における技術的進展 ---- コンピュータのダウンサ
イジング化による市場分化という歴史的傾向と、ダウンサイジング化への対応の必要性に関する認識 --- .............................. 7
コンピュータのダウンサイジング化の第二段階としての PC 市場の 1970 年代後半期における成立 ........................................ 9
3. 1981 年における IBM の PC 市場参入に関する二面的理解 ............................................................................ 10
一番手戦略と二番手戦略の混合としての、IBM の PC 市場参入に関わる技術戦略 --- 先行既存市場のドミナント・デザイン
に対するイノベーションによる部分的変更の意識的追求 ....................................................................................................... 10
IBM の PC 市場参入における混合戦略採用の不可避性 ...................................................................................................... 12
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
はじめに
IBM が 1981 年 10 月に販売開始した The IBM Personal Computer(以下、IBM PC と略)というパーソナル・コ
ンピュータ製品(以下、PC と略)は、図1のようなアメリカ PC 市場の 1980 年代前半期における急激な成長の契機
となった製品であり、アメリカ社会における PC という製品の社会的認知や一般的普及に大きな役割を果たした。す
なわち Apple 、Commodore、Tandy Radio Shack(以下、Tandy と略)などの 1970 年代後半期からの先行企業に
加えて、IBM という伝統的なコンピュータ企業が後発者として 1981 年に PC 市場に新規参入したことにより、PC は
1982 年にアメリカで大きなブームを巻き起こし時代の転換点の到来を人々に強く印象づけるような社会的現象とな
ったのである。そのことは、雑誌 TIME が 1982 年の"Man of the Year"にそれまでの人間ではなく、コンピュータ と
(1)
いうモノを初めて選出したことに象徴的に示されている 。
IBMのPCは、AppleなどPC市場における先
行の競合他社の予想およびIBM自身の予想を
超えて大ヒットした。IBM PC(1981)、 IBM PC/X
T(1983)、 IBM PC/AT(1984)というIBM PCシリ
ーズ三機種の販売台数合計は、1981年 2万台、
1982年 14万台、1983年 50万台、1984年 121万
(2)
台、1985年 140万台と順調に増加した 。これ
にともないIBMにおけるPCの売り上げも、1981
年に4400万ドル、1982年に3億6400万ドル、198
3年に15億ドル、1984年に40億ドル、1985年に6
(3)
0億ドルというように急激に拡大した 。それによ
り世界PC市場におけるIBMのシェアは、図2のよ
うに急激に増大し、市場参入の4年後には先行企
業を追い抜き、市場シェアトップになったのである。
なお PC 市場自体は図 5 や図 9 に示したように
[出典] Bayus,B.L.; Putsis,W.P.(1999) ” Product Proliferation : An
Empirical Analysis of Product Line Determinants and Market
Outcomes,” Marketing Science,Vol.18 No.2,p.141 を基に一部修正
[原出所] IDC の Processor Installation Census
1975 年前後に成立しその年間総出荷台数を順調
に伸ばし、1980 年にはメインフレームの約 80 倍、
ミニコンの約 8 倍の年間出荷台数となり、出荷金額
でもミニコン市場とほぼ並びメインフレーム市場の
数分の一の規模にまで成長していた。確かに PC
の出荷台数は図 1 のように 1984 年までさらにその
急激な成長を続け社会的に大きな注目を浴びるこ
とになるのではあるが、IBM が PC 市場に参入す
る前年の 1980 年には製品市場としてすでにかなり
の大きさになっていた。
日本においても 1970 年代後半期に数多くの企
業が市場参入し PC 市場の成長が始まっており、
1980 年世界 PC 市場における出荷台数シェアでも
シャープが第 5 位で 4.9%、NEC が第 6 位で 4.6%
(4)
を占めるほどになっている 。
このように PC 市場の社会的成立が明確となっ
ていた段階でやっと IBM は PC 市場に参入したのである。しかも IBM の PC 市場参入前に、米国では 1975 年に
MITS の Altair8800 およびその互換機、1977 年に Apple の Apple II、Commodore の PET2001、Tandy の TRS-8
0、1979 年に Atari の Atari400 や Atari 800、Texas Instruments の TI-99/4、1980 年に Sinclair Research の Sincl
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佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
air ZX80、Hewlett-Packard の HP-85 などが、日本では 1978 年にシャープの MZ-80K、日立のベーシックマスタ
ーMB-6880、1979 年に NEC の PC-8001 などが PC 市場向けの製品としてすでに市場投入されていたのであり、
PC 市場への参入順序から言えば IBM はかなり遅れた後発者であった。
IBM の PC 市場参入へのこうした遅れの事例分析はイノベーション・マネジメント論的に興味深い問題である。と
いうのも、イノベーション・マネジメントにおいて実践的に重要な問題の一つは、新市場における先駆者(first
mover)として製品イノベーションの先頭に立つ「一番手戦略」を取るのか、それとも追随者(follower)として製品イノ
ベーションを後から追いかける「二番手戦略」を取るのかということだからである。
「一番手戦略」および「二番手戦略」のそれぞれにメリット・デメリットがあることは確かであるが、メインフレーム、ミ
(5)
ニコン、PC などのように「ネットワーク外部性効果」や「補完財に関するバンドワゴン効果」 が強く働く製品に関し
ては、一番手戦略を採用し大きな市場シェアの獲得に成功した先行企業が強い競争優位性を持ち、市場参入に
遅れた企業は競争上きわめて不利な立場に立たされることになる、と一般には考えられている。
実際、メインフレーム市場におけるシェアトップの IBM はメインフ
レームに関する先駆者であったし、ミニコン市場におけるシェアトッ
プの DEC もミニコンの先駆者であった。組み立て済みの完成品型
8 ビット PC 市場においては 1977 年の Apple、Commodore、Tandy
(6)
が先駆者であるが 、これらの 3 社とも図2や図3に示すように IBM
参入直前の PC 市場において高いシェアを持っていた。このように
コンピュータ市場では先駆者が相対的に競争優位を獲得しやすい
ことは経験的に示されている。
IBM は自社のメインフレーム市場における成功、ミニコン市場に
おける相対的な「失敗」などからこうした傾向を経験的に認識してい
たと思われるにも関わらず、PC 市場参入が遅れたのである。それゆ
え、どのような理由で IBM は PC 市場への参入が遅かったのかが
問題となる。
本稿では、IBM の市場参入遅れが意図的な行為なのか意図せ
ざる不本意な行為なのかに関して分析を進め、「IBM は PC に関わる技術的能力を有してはいたが、二番手戦略
を積極的=意図的に採用し後発の参入者として、1970 年代後半期ではなく 1980 年代前半になって参入すること
にした」のか、それとも「IBM は一番手戦略を実行しようとしたが自社の技術的能力の特性や内的構成に起因する
制約のために失敗した結果として、二番手戦略を不本意ながら採用せざるを得なかった」のかという問題を論じる
........
....
ことにしたい。すなわち、「IBM が積極的=意図的に二番手戦略を採用したのか?」、それとも「IBM は結果的に
....
やむなく二番手戦略を採用させざるを得なかったのか?」という問題を論じることにしたい。
1. IBM の PC 市場参入に関する二番手戦略論的理解
「一番手戦略/二番手戦略」という視点から IBM の PC 市場参入「遅れ」の問題を取り上げる場合、「IBM は後
発の追随者として二番手戦略を採用した」と説明されることが一般には多い。
たとえばポーターは一番手戦略を採用した先駆者の優位性が崩された例として IBM による PC 事業参入を挙
げ、「IBM の PC は、資源および他の事業単位との相互関係に基づいて、後発者(late mover)が先行者(early mov
er)に対して成功を収めた」と述べている
(7)
。
そして PC 市場参入に際して IBM が後発者となり二番手戦略を実行したことに関して、IBM が一番手戦略を実
行すべきであったとする立場から、「IBM が 20 世紀中頃のコンピュータ産業の成立初期からコンピュータ開発に
取り組みメインフレーム市場では圧倒的なシェアを握っている有力企業であり、コンピュータ技術に関して多額の
2
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
研究開発費を長年に渡って投入してきている」という歴史的事実を根拠として、「IBM の PC 市場参入の遅れは経
営判断の誤りである」と解釈されることも多い。
例えばベッツ(Frederick Betz)は、数多くある IBM の研究所が新技術に対する十分な研究能力を有していたに
も関わらず、PC という根本的に革新的な研究を IBM の経営陣がタイミング良くビジネス戦略に取り込むことに失敗
(8)
した、としている 。またロルフス(Jeffrey H. Rohlfs)は、PC の潜在的可能性を過小評価するという判断ミスにより I
(9)
BM は PC 市場への参入が遅れた、としている 。
またその一方では、後発者としての IBM が 1980 年代前半期に PC 市場で大きな成功を収めたことから、IBM
は意図的に市場参入を遅らせて追随者となったとする主張もなされている。例えば Mathews は、Apple、Commod
ore、Tandy を PC 産業における一番手企業(first-mover)として位置づけるとともに、それらの一番手企業が築いた
資源に対するただ乗りをおこなった追随者として IBM を位置づけている
(10)
。Afuah は、IBM が製造・マーケティン
グ・ブランドなどに関してきわめて強い力を持っていたので防御的戦略(defensive strategy)を取り、Altair と Apple
II に市場を確立させてから後に参入したとしている
(11)
。
追随者の有利性としては、「一番手戦略を採用し先駆者となった企業は製品イノベーションに伴う予期しない問
題点やリスクに直面するが、追随者はそうした問題点やリスクが明らかになってから市場参入をするかどうかを決め
ることができる」「製品のドミナント・デザインが決まる前に新市場に参入した先駆者の場合には、自社の製品デザ
インがドミナント・デザインとはならないことにより先行の研究開発投資や設備投資がムダになるというリスクがあるが、
追随者の場合にはそうしたリスクを避けることができる」などといったメリットがある。
IBM を意図的な追随者とする説明がなされ、また一般に受け入れられている背景的理由の一つは、「1970 年代
中頃の PC 市場の規模は巨大企業 IBM にとってまったく小さな市場に過ぎなかった。それゆえ、成長率に関する
短期的目標に縛られる経営陣は、1970 年代中頃の時点ではまだ将来性の不確かな PC のような新市場への参入
に魅力を感じなかった」というものである。
企業の売上高成長率や利益率は、企業の業績
評価の重要な指標の一つであるが、企業規模が大
きくなればなるほど、売上高が大きくなる結果として
成長率や利益率を一定値以上にするためには売
上高の伸びや利益額をより大きくする必要がある。
10%の売上高成長率を確保することは、売上高 10
億円の企業にとっては 1 億円の伸びで構わないが、
売上高 1 兆円の企業にとっては 1000 億円もの伸
びを必要とする。利益率の場合も同じことが言える。
そのため売上高成長率や利益率を伸ばそうとして
いる大企業にとっては規模が小さい新規市場に対
して早い段階から参入することはそうした経営目標
の達成に対してマイナスになることはあってもプラ
スになることはほとんど期待できない。
IBMはメインフレーム市場にIBM701で1953年
に参入したが、IBM650のヒットにより図4に示すように1950年代中頃から5割を超える市場シェアを持つようになり、
1960年代、1970年代とも引き続き大きな成功を収めていた。1970年代におけるIBMのメインフレーム市場での設
置金額ベースでのシェアは、1970年の69.3%から次第にシェアを減らし1975年には最低値を記録したが、それで
も58.3%ものシェアを誇っていた。そして70年代後半にはまた再びシェアを増大させている。設置台数ベースでも
IBMの世界シェアは1970年に64.4%で、1978年には67.5%となっている
(12)
。
メインフレーム・コンピュータ市場におけるこうした独占的支配の結果として IBM は、1975 年には総売上高 144
億ドル、純益 20 億ドルという業績を誇っていた
(13)
。IBM にとって 1975 年当時のパソコン市場はまったく小さな市
場にしか過ぎなかった。IBM の業績は 1970 年代後半期も引き続き好調で、1980 年には総売上高 262 億ドル、純
3
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
益 34 億ドルという規模に達するまでの成長を遂げている
(14)
。
したがって IBM にとって 1970 年代後半期の
時点で PC 市場に参入することは、売上高成長
率や利益率という指標だけから判断すればさほ
ど意味あることではなかった。ブランド力という点
ではきわめて低かった MITS が 1975 年の第一
四半期の間だけで 100 万ドルを超える注文を記
録したり、Altair に対する互換機が登場したりす
るなど PC 市場の社会的認知が進んだとは言っ
ても、図5に示されているコンピュータ市場の種
類別規模の歴史的推移からも見て取れるように、
1970 年代中頃のパソコン市場は IBM のような
大きな会社から見れば、きわめてマイナーな市
場でしかなかった。
将来的には成長が期待できても現時点でま
だ存在しない市場、あるいはまだ規模の小さな
市場に向けて経営資源を投入することは、売上
高成長率や利益率に関する経営目標の達成には寄与しない。すなわち、売上高成長率や利益率の短期的確保
を重要な経営指標とする場合には、メインフレーム市場での IBM の圧倒的成功による売上高や利益額の巨大化
は、IBM がパソコン市場という新規市場に対して参入することに対する消極化をもたらす要因として機能する。
長期的な成長率維持や利益率維持のために新市場への参入が必要であったとしても、まだ存在しない市場や
形成初期の市場に関して新市場が自社の成長率維持や利益率確保に役立つほどの規模となるかどうかは不明確
である。また PC 市場がそうであったように新市場が自社の成長率維持や利益率確保に役立つほど大きな規模と
なる可能性が確かにある場合でもそのことが明確になるまでには一定の時間がかかるだけでなく、実際に市場規
模が有意味なほど拡大するまでにはかなりの時間がかかるのが一般的である。
したがって経営幹部の任期があまり長くない場合や、経営幹部の評価が短期的視点からのみなされる場合には、
新市場への初期参入に大企業が積極的にならない可能性が確かにある。こうした一般的傾向を根拠として、IBM
の PC 市場への参入遅れが意図的なものであるとされる場合も多い。
なお「PC 市場がまだ存在しなかった段階、あるいは、既に存在してはいても IBM にとって意味ある市場規模に
達してはいなかった段階では市場参入しなかった」という上記の説明を言い換えると、「PC 市場の規模が IBM に
とって有意味なほど大きくなって初めて PC 市場へ参入した」という表現になる。
例えばクリステンセンは、IBM は新しい市場がうまみのある規模になるまで参入を控えるという戦略を取ったとし、
1970 年代後半期に PC 市場が十分な規模拡大を遂げたため、「1981 年になって満を持してデスクトップ・パソコン
事業に参入した」としている
(15)
。
こうした見解を裏付けるように、IBM PC の開発チームの責任者であった Philip D. Estridge も 1982 年のインタビ
ューでの「なぜ IBM がパソコン市場に参入したのか?」という質問に対して、「もっとも単純な理由はビジネスの好
機だったということです。[パソコン市場の]1977 年から 1979 年にかけての爆発的成長とともに、パソコンは十分に
興味深いビジネスとなったのです。」というように、1977 年以降のパソコン市場の急速な発展を市場参入の第一の
理由に挙げる証言をおこなっている
(16)
。
4
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
2. IBM の PC 市場参入に関する二番手戦略論的理解に対する批判的検討
短期的目標と中長期的目標という視点からの批判的検討 --- 中長期的視点に基づく IBM の電子計算機事業に
対する 1940 年代からの取り組み
確かに、アメリカの企業は、成長率重視というプレッシャーにさらされており、なおかつ、四半期決算に基づく「成
果主義」的評価にさらされているため、売上高が大きな大企業ほど新規形成市場(新興市場)への参入に対して魅
力を感じないことは確かである。「IBM の売上規模に比べて PC 市場の規模が相対的に小さいことが、パソコン市
場への参入に対するインセンティブを小さなものにした」という説明には確かに一定の説得力がある。
ただそのように「IBM のような大企業にとって未発達な市場への参入は無意味であった」、「IBM のような大企業
にとって PC 市場の規模はあまりにも小さすぎたため、市場参入が遅れた」というように説明することは、「IBM では
企業の売上高成長率の短期的確保という視点だけからパソコン市場への参入時期の決定がなされた」と説明する
ことに他ならない。すなわち、「IBM の経営は近視眼的であった」「IBM では企業の持続的成長という長期的視点
からの経営がなされてはいない」「IBM では経営が単に短期的目標だけに基づいてなされていた」と主張すること
に等しい。
しかしながら企業経営では、そうした短期的成長目標の実現とともに、持続的成長のための中期的・長期的目標
の実現が課題となる。実際、IBM が 1940 年代~1950 年年代初期に真空管式の電子計算機事業への参入を検
討した際にも、1970 年代の PC 市場への参入検討の際と同様のことが問題となった。
第1世代の電子計算機は、演算処理を担当する演算素子モジュールに真空管を利用した電子計算機として技
術的には位置づけることができるものであるが、非商用の真空管式電子計算機それ自体は 1940 年代に既に実用
化され利用されていた。最初期の非商用の真空管式電子計算機としては ENIAC が有名であるが、それはそれ以
前に最も高速であった計算機であるリレー式電気計算機[その当時の電話交換機などに使われていたリレー(継電器)を
演算処理用モジュールの演算素子として利用した機械式計算機] よりもはるかに優れた性能を持っており、大きな社会的
反響を呼んだ。
このことは IBM でも重大な問題として認識されていた。というのも、その当時の IBM の主力商品であったパン
チ・カード機で使われていた最速のリレー式電気計算機でも一秒間に 4 回の加算しか実行できないのに、真空管
式電子計算機は加算を一秒間に 5,000 回も実行することができるなど極めて高性能だったからである。
IBM は真空管を利用した電子式の計算機の技術的優位性を認識し、従来の機械的計算機の部分的改良に真
空管を利用し始めた。IBM が真空管を最初に利用した商用のマシンは、1946 年の IBM603 Electronic Multiplier
であるが、そのマシンはパンチ・カード機 IBM601 electric Multiplier の電気機械式乗算器の部分を真空管 300
本からなる電子回路に置き換えたものであった。1948 年の計算機 SSEC(Selective Sequence Electronic Calculator)
も純粋な真空管式の電子計算機ではなく、演算素子として 12,500 個の真空管と 21,400 個のリレーを同時に用い
るという真空管式とリレー式のハイブリッド型計算機であった。そのため SSEC は個々の演算速度に関しては
ENIAC よりもいくぶん遅かった、と言われている
(17)
。
一方で 1946 年には ENIAC の発明者であるエッカート (John Presper Eckert)とモークリー (John William Mauchly)
は、大量のデータ処理をおこなっている国勢調査局や保険会社などの企業を対象に純粋に真空管式の電子計算
機 UNIVAC の売り込みを開始していた。しかもそれ以外にも、UNIVAC で採用された磁気テープ方式に関わる
開発プロジェクトがその当時多数同時に進行していたことも IBM は 1948 年には認識していた。
それにも関わらず、IBM がまだ旧式のリレー式電気計算機の技術を使用せざるを得なかったのは、IBM の社内
に真空管式電子計算機に関わる技術的ノウハウの蓄積がないことはもちろん、技術者も機械系のエンジニアがほ
とんどで真空管式電子計算機の開発・製造に必要なエレクトロニクス系のエンジニアがそれほどいなかったからで
もある。
そのため IBM は 1940 年代末から真空管や電子回路に詳しい技術者を大量に採用し始めるとともに、エレクトロ
ニクス分野を対象として研究開発費の増額を図っている。
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佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
ただ 1950 年代前半期の時点では電子計算機市場はまだ形成初期でありその市場規模はその当時の IBM の
主力事業の市場規模に比べれば小さなものに過ぎなかったので、PC 市場への参入の際と同様の市場参入反対
論が IBM 内に存在した。
例えば、1949 年に電子計算機の記憶装置となる磁気テープを製品ラインに加えるべきかどうかを検討した時に
は特別調査班は「会計の分野においてはパンチ・カードが世界最良であり、磁気テープは IBM になじまない」とい
う結論を出していたし、IBM におけるベテランの販売担当重役や企画担当者たちも「パンチ・カード機がホットケー
キのように大量に売れているのに、IBM がエレクトロニクスの分野に慌てて参入するのは無意味だと考えていた」と
言われている (18)。IBM は、電子計算機市場に対する需要が小さく当該時点での参入は無意味だとするそうした反
対論を乗り越えて、商用の電子計算機市場に対して市場形成初期からの参入を図ったのである。
このように電子計算機事業への参入に際しても IBM は中期的および長期的視点から経営をおこなってきた。ま
た次に詳しく述べるように、IBM はミニコン市場での「失敗」を踏まえて、コンピュータ産業におけるダウンサイズン
グという技術的な歴史的傾向、および、そうした技術的イノベーションによるコンピュータ市場の市場分化を理解し、
中長期的視点からの経営をおこなおうとしていたのである。
........
確かに、IBM の PC 市場への参入遅れ、および、1980 年代前半期における成功という結果だけを見れば 、IBM
は意図的に二番手戦略を採用したようにも見える。しかしながら実際には IBM は PC 市場への参入を積極的に遅
らせたわけではない。IBM はコンピュータ市場におけるダウンサイジングという技術発展の歴史的方向から考えて
コンピュータ市場の主流がやがて PC となるであろうことを 1970 年代には認識していただけでなく、ミニコン市場で
の失敗もあり PC 市場への早期参入の必要性も認識していた、と思われる。実際 1970 年代には PC 市場に対応し
た製品の開発を試みている。ただ結果として IBM は 1970 年代後半期に PC 市場に対応した製品開発に成功す
ることができなかったのである。
コンピュータのダウンサイジング化の第一段階としてのミニコン市場における IBM の「失敗」経験
コンピュータ技術は、1950 年代には一部屋全体を占める
ほど巨大な製品システムであるメインフレームが主流であっ
たが、1960 年代には大型冷蔵庫ほどの大きさのミニコンピュ
ータ(以下、ミニコンと略)へというダウンサイジングが技術的
に進行し、1970 年代には図5や図6に示すようにミニコンの
出荷金額が急激に増加した。その結果として図7に示すよう
にミニコンの市場規模はメインフレーム市場に迫るほどの成
長を遂げたのである。
しかし図8に示すようにミニコン市場では DEC が主導権を
握っていた。1963 年 12 月出荷開始の PDP-5 など市場形成
初期からミニコン市場に大きな寄与をおこなった DEC は、半
導体電子回路技術の改良により 1965 年 4 月に1万 8 千ド
ルで発売開始した PDP-8 およびそれに引き続くミニコンの
製品開発によって 1970 年代にはミニコン市場におけるトッ
プ企業となったのである。
DEC のミニコンが広く使用されていたことは、最初に商業的に成功した PC である MITS の Altair8800 に対して、
Microsoft 社創立前のビル・ゲイツとポール・アレンが BASIC ブログラミング言語の移植作業のために 1975 年に
用いたマシンが DEC のミニコン PDP-10 であったことにも示されている。
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佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
また DEC のミニコンが標準的マシンとな
ったことは、1970 年代末頃からコンピュータ
の性能比較の指標として VAX MIPS がよく
用いられるようになったことにも示されてい
る。この性能指標は、Dhrystone ベンチマ
ーク・プログラムを DEC のミニコン「VAX
11/780」(1977 年 10 月発表)で実行した場
合の速度を1MIPS として、他のコンピュー
タでそのプログラムが VAX 11/780 よりも何
倍速く実行できるかで評価するものである
が、こうした指標がコンピュータ業界におけ
る標準的指標となったのは VAX 11/780 の
大きな成功によるものである。
DEC は、ミニコン市場の拡大とともに売り上げを伸ば
し、1977 年 6 月期決算では 10 億 5900 万ドルと 10 億
ドル台を初めて突破した後も成長を続け、1981 年 6 月
期決算では 31 億 9800 万ドルの売り上げを記録するま
でに成長し、IBM に次ぐコンピュータ業界第2位の売上
げを誇るメーカーとなっている。
これに対して図8のように IBM はミニコン市場ではあ
まりうまくいっていなかった。IBM はミニコン市場が成長
を開始し始めた 1965 年には、教育市場やエンジニアリ
ング市場における個人的作業用途を対象とした IBM11
30 を月額レンタル料$695、買い切りで$32,280 というよ
うに IBM として初めて月額 1,000 ドルを切るかなり「低
額」のミニコンを出荷し一定の成功を収めたが
(19)
、市場
でのシェアを大きく伸ばすことはできなかった。IBM は、
パソコン市場参入直後の 1982 年のミニコン市場においても、DEC、 Hewlett-Packard、Data General、 Honeywell、
Texas Instruments に次ぐ第 6 位のシェア 6.1%に留まっていた。
パーソナル・コンピューティング用途向けコンピュータに関する 1970 年代における技術的進展 ---- コンピュータ
のダウンサイジング化による市場分化という歴史的傾向と、ダウンサイジング化への対応の必要性に関する認
識 --メインフレームからミニコンへという歴史的傾向の延長線上にコンピュータのさらなる小型化が技術的に進行し、
将来的には PC が主流になる可能性があることはその当時でも予想されていた。コンピュータの大きさで言えば、
room-size computer(一部屋全体を占めるような大型計算機)としてのメインフレームから、冷蔵庫サイズの
minicomputer へ、そしてタイプライターサイズの microcomputer へという流れはかなり早くから予見されていた。
ENIAC の共同発明者であるモークリーが New York Times の 1962 年 11 月 3 日号で"Pocket Computer May
Replace Shopping List"というタイトルのもとにコンピュータの将来的な予想として「パーソナル・コンピュータ」という
単語
(20)
を早くも使用しているのもこうした技術的発展方向の予測に基づくものであった。
そうした技術的トレンドに対する予想が一般的に共有されている中で、1960 年代頃から大型計算機からミニコン
へのダウンサイジング化という技術的方向性が進行し、図5や図6のように 1970 年代に入りミニコン市場が急激に
成長した結果として、パーソナル・コンピューティングに対する欲求、すなわち、「職場や自宅でプログラムの専門
7
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
家でない個人が自分の使用目的に合わせてスタンドアローンで対話的に使うコンピュータ」としての個人用コンピ
ュータに対する欲求がしだいに強くなっていったのである。
1950 年代においては計算用の論理素子として真空管を利用していたこともあり、製品の価格という点からはもち
ろんのこと、製品の大きさや動作に必要な電源性能という点からしても個人用コンピュータを実際に製造することは
技術的にも不可能であった。
しかしながらその後、1959 年に出願されたキルビー特許とプレーナー特許という IC に関する基本特許により、
コンピュータの製造コスト低減の技術的方向性が示された。
1970 年代には IC に関するその後の技術発展により、IC の集積度が大きく上昇し、小型で低消費電力という機
能特性を持つ LSI を半導体メモリやマイクロプロセッサーといったモジュールとして相対的に低価格で大量に製造
.....
することが実際に可能となり、パーソナル・コンピューティング用途に対応したコンピュータの製造が技術的には可
能となった。
集団的・組織的に遂行され大量のデータ処理や高速な計算処理が重視される企業や団体の基幹業務のコンピ
ュータ処理に対応するマシンとして、メインフレームやミニコンがあった。1970 年代までは、大量のデータ処理や高
速処理の実現のためにマシンの研究開発・製造に費用がかかることから、どうしても製品価格は高くなり、個人が
対話的に利用するのではなく、集団でバッチ処理的に利用されるコンピュータとならざるを得なかった。しかしなが
ら LSI 技術の進展により、1970 年代にはコンピュータの相対的低価格化が可能となり、パーソナル・コンピューティ
ング用途のためにスタンドアローン的に使うコンピュータとしてのパーソナル・ワークステーションや PC の市場成立
が技術的には可能となった。
単純化して言えば、会社全体の業務用に使用される中央集中型コンピュータがメインフレームであり、会社の部
門単位で部門固有の業務に使用される部門別コンピュータがミニコンであり、パーソナル・コンピューティング業務
に使用される個人用コンピュータがパーソナル・ワークステーションや PC である。すなわち central なコンピュータ
としてのメインフレーム、departmental なコンピュータとしてのミニコンに対して、personal なコンピュータとしての
パーソナル・ワークステーションや PC が存在するのである
(21)
が、personal なコンピュータは 1970 年代には技術的
に製造可能になっていたのである。
...........................
日立の HITAC-10(1969 年 2 月発表)は「いつでも、どこでも、誰にでも簡単に使用でき、価格が安く 、しかも高
性能な小型科学用計算機というイメージのもとに設計をおこなった」コンピュータ、すなわち、「小規模な科学計算
...........
用パーソナルコンピュータ」である、とそのマシンの開発者たちが雑誌『電子科学』の 1970 年 1 月号で位置づけて
いるのも
(22)
、コンピュータに関するそうした 3 分類法に基づく認識として位置づけることができる。
もちろん HITAC-10 が「低価格」であるとは言っても、それ以前の同性能のコンピュータと比べればという意味で
あり、タイプライター付きの基本構成で本体価格 495 万円と大企業でも限られた部門でしか購入できないコンピュ
ータではあった。しかしながら、100 ボルト電源で動作することや、重量 40kg、横 44.5cm、高さ 30cm、奥行 54.7
cm という大きさであったといった面からは確かに個人利用に対応したものであり、今日のデスクトップ PC に近いコ
ンピュータであった。
また IBM も 1970 年代に、こうした 3 分類法的な意味での personal なコンピュータの製品開発を何度か行って
いる。例えば、1973 年の General Systems 部門が取り組んだ SCAMP(Special Computer, APL Machine Portable)
プロジェクトで開発されたマシンは、IBM が 1983 年の PC Magazine 誌で「世界最初のパーソナル・コンピュータ」
と評価されたマシンというようにわざわざ強調しているマシンであり
(23)
、APL (A computer Programming Language)
や BASIC といったインタープリター型のプログラミング言語が動作し、個人が対話的にコンピュータを操作すること
を想定したパーソナル・コンピューティング用コンピュータであった。
また SCAMP プロジェクトの成果を生かして開発された IBM 5100 Portable Computer(1975 年 9 月発表)という
マシンは、販売価格が$8,975 ~$19,975 というように HITAC-10 と同レベルの価格ではあったが、その重量は 5 イ
ンチ CRT を内蔵して約 23kg とさらなる軽量化が実現されているとともに、その大きさは当時の IBM のタイプライタ
ーより尐し大きい程度の小型のコンピュータであった
(24)
。
8
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
IBM は 1970 年代後半から 1980 年にかけてその後も引き続き、IBM 5110(1978 年 1 月発表)、IBM 5520
Administrative System (1979 年 11 月発表)、IBM 5120(1980 年 2 月発表) 、IBM Displaywriter(1980 年 6 月発
表)、IBM system/23 Datamaster(1981 年 7 月発表) というようにパーソナル・コンピューティング用途向けの製品開
発を進めた。
IBM system/23 Datamaster の販売価格は、FDD、HDD、プリンターなしでは 3,300 ドル、FDD とプリンター付き
でも 9,830 ドルというようにそれまでの IBM のマシンに比べてかなり「低価格」ではあったが、文字コードに当時の
PC で主流の ASCII コードではなく、IBM のメインフレームと同じ EBCDIC コードを採用したことや、オープンでよ
り低価格の IBM PC の販売開始などのために大きな成功をおさめることはできなかった
このように日立が 1969 年 2 月に発表した HITAC-10 や IBM が 1970 年代後半期に開発したマシンの存在が
.........
示しているように、相対的に高価格で大企業でも限定された形での導入であったとはいえ、「企業が購入し 職場で
個人が使うコンピュータ」は 1970 年代には実用化されていたのである。
1940 年代末に IBM のメインフレーム市場への参入に否定的な経営幹部が数多くいたのと同じように、1970 年
代中頃の時点でもなおパソコンに対して否定的な経営幹部が数多くいたとも言われているが、IBM の市場調査部
門はマイクロプロセッサーや PC に関する市場のトレンドを十分に知っていた
(25)
。また IBM の研究陣はトランジス
タの LSI 化に関する技術的発展により 1970 年代には PC が実現すると予見していた
(26)
。1970 年代に IBM 会長
をつとめたフランク・ケアリーもまた、「メインフレームの売上げは必ず横ばいになる。そのときに例年どおり年 15 パ
ーセント成長を維持するには、パーソナル・コンピュータ市場に移行するしか方法はない」
(27)
とPC技術やPC市場
の「将来性」に対する確信を持っており、パソコン開発に早くから乗り出すべきだと考えていたのである。
コンピュータのダウンサイジング化の第二段階としての PC 市場の 1970 年代後半期における成立
PC 市場の成立および将来的成長可能性は、MITS の Altair8800 のヒット、および、Altair8800 の拡張バス S100 を搭載した「互換機」が IMSAI など様々な会社から発売されたことによって 1975 年の時点ですでに社会的に
明確になっていた。また PC がコンピュータ製品としてメインフレームやミニコンと異なる特性、すなわち、 製品に新
機能を付け加えたり性能向上を可能にしたりするための多数の拡張インターフェースの付加
(28)
、および、その規
格のオープン化によってサード・パーティが開発・提供する補完財のバンドワゴン効果が利用可能になることで製
品市場の拡大を図ることができるという製品特性を持つということ は、1975 年の時点で既に明白になっていた。
またPCがハードウェア組立能力かソフトウェア開発能力の尐な
くともどちらか一方の能力を持った一部の先端的マニア層を超え
てさらにより幅広い顧客層に受け入れられるようになる可能性は、
1977年のAppleのApple II、CommodoreのPET2001、TandyのTR
S-80などのPC製品 や、1979年の表計算ソフトVisiCalc などのヒ
ットにより明確になっていた。
IBM のケアリーが後年の NHK のインタビューの中で「私は、
パソコンの分野は非常に将来性が高いので、IBM もこの分野に
進出して他社に負けないようになるべきであると強く感じていまし
た。もちろん、パーソナル・コンピュータの将来が、最終的にどの
ようになるかわかっていたわけではありません。ただ、個人や企業
向けの小型のワープロやデータ処理マシンへの需要が大きいこと
は明らかでした。」
(29)
というように回顧しているが、図5や図9に示
されているように PC 市場は彼の予測通り 1970 年代後半期から
成長を開始し、1980 年代前半期に爆発的成長を遂げたのである。
PC、ミニコン、メインフレームという種類別の出荷台数の 1970
年代における歴史的推移は、「コンピュータの用途がメインフレームからミニコンへ、そしてミニコンから PC へという
9
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
ように、低価格化およびダウンサイズング化の方向に向かう」というコンピュータ分野の専門家たちの以前からの予
測を事実で明確に裏書きするものであった。
1970 年代中頃から成長を開始したパソコン市場への参入の遅れは、ミニコンの場合と同じく、パソコン市場にお
いても IBM のシェアを低いままに止める危険性をより高める行為であった。そして IBM もそうした歴史認識のもと
に、コンピュータの小型・軽量化という意味でのダウンサイジングを進めていた。
IBM は、大きさ・重量・動作電圧といった技術的スペックに関してはパーソナルなコンピュータに求められる条件
を前述の 1970 年代後半期の製品群に示されているようにクリアすることができたのであるが、個人が購入できる価
格帯まで製品を低価格化することには成功できなかった。
というのも、自社の経営資源を利用して PC の製品開発に挑んだ 1970 年代後半期の IBM は自社製の基本的
モジュールの低価格化に成功できなかったからである。そのことは、Intel の 8 ビットマイクロプロセッサー8085 を採
用した IBM system/23 Datamaster や、Intel の 16 ビットマイクロプロセッサー8086 を採用した IBM Displaywriter
など、IBM にとっての「低価格」なマシンでは CPU に Intel 製のマイクロプロセッサーが使用されたこと、および、19
81 年の IBM PC では製品を構成する主要モジュールのほとんどが他社製であることなどに端的に示されている。
3. 1981 年における IBM の PC 市場参入に関する二面的理解
一番手戦略と二番手戦略の混合としての、IBM の PC 市場参入に関わる技術戦略 --- 先行既存市場のドミナン
ト・デザインに対するイノベーションによる部分的変更の意識的追求
1981 年における IBM の PC 市場参入には、これまで主として述べてきたような二番手戦略論的理解とともに、
一番手戦略論的理解も可能である。
というのも IBM の PC 市場参入は確かに 1981 年と遅れたのであるが、その一方で市場参入に際しては Apple 、
Commodore などといった先行 PC 企業に先駆けて 16 ビット・マイクロプロセッサーを採用しているからである。すな
わち、IBM の PC 市場参入は、1975 年の MITS の Altair8800、1977 年の Apple、Tandy、Commodore の商業的
...........
成功の数年後に参入したという意味では PC 市場という既存市場における 後発者 という位置づけになるが、その一
方で IBM が他企業よりも早く本格的な 16 ビット PC 製品を市場に投入したという意味では 16 ビット PC 市場という
..........
(30)
新市場における 先駆者 として位置づけることもできるからである 。
1981 年の時点で後発者として PC 市場に
参入するに際しての技術的選択としては、追
随者として当時主流の 8 ビット PC 製品で参
入する選択肢と、先駆者として 16 ビット PC 製
品で参入する選択肢の二つがあった。実際、
後発者として同じく 1981 年に PC 市場に参入
した XEROX、Osborne、富士通、東芝のみな
らず、1982 年に PC 市場に参入した DEC や
Kaypro といった数多くの後発者企業が技術
追随者戦略を選択し、8 ビット PC 製品で市場
参入している。IBM はそれらの後発者とは異
なり、16 ビット PC 市場において先駆者となる
技術リーダーシップ戦略を意識的に採用した点で技術戦略的に優れていたのである。
PC 市場参入に関して先発者であった Apple は、1980 年に Apple II の後継機種である Apple Ⅲで同じ 8 ビッ
ト・マイクロプロセッサーを引き続き採用し、16 ビット PC は 1983 年の Lisa、1984 年の Macintosh 128K と遅れた。
また Commodore は、Commodore VIC-20(1980)、Commodore SuperPET(1981)、Commodore64(1982)というよう
10
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
に 8 ビット PC の後継機種の出荷を続け、16 ビット PC は 1985 年の Commodore Amiga 1000 と Apple よりもさらに
遅かった。
図 10 に示されているように、IBM PC という 16 ビット PC の出荷後も 1985 年頃までは依然として 8 ビット PC 市
場の方が 16 ビット PC 市場よりも市場規模が大きかったこともあり、Apple と Commodore といった完成品型 8 ビット
PC 市場における先駆者は、16 ビット PC 市場では後発者と立場を代えたのである。
一方で Tandy は、TRS-80 Model II(1980)、TRS-80 Model III(1980)、TRS-80 Color Computer(1980)、TRS-80
Model 100 (1983)、TRS-80 Model 4(1983)など多様な 8 ビット PC を引き続き出荷するとともに、IBM PC の数ヶ月
後の 1982 年 1 月には 16 ビット PC の TRS-80 Model 16 を発表している。その意味で Tandy は、Apple や Comm
odore とは異なり、IBM と同じく 16 ビット PC に関する先駆者として位置づけることができる。
16 ビット PC 市場において同じ一番手戦略を採用した IBM と Tandy であるが、一番手戦略の実行に際して採
用した技術戦略は異なっていた。PC 市場において後発者である IBM が下記に詳しく述べるような混合戦略を採
用したのに対して、完成品型 8 ビット PC 市場において先駆者である Tandy は 16 ビット PC の製品開発において
も完成品型 8 ビット PC の製品開発と同じく先駆者として技術的リーダーシップを追求する一番手戦略を採用した
のである。
....... .
結果的に IBM と Tandy との競争は図 2 のように IBM の勝利で終わった。Tandy は最終的には 16 ビット PC 市
.................
場における先駆者としての 一番手戦略から、市場において支配的な製品デザインとなった IBM PC シリーズを模
....... .....................
倣する 16 ビット PC 市場における 技術的追随者としての二番手戦略 へと転換した。すなわち Tandy は、1983 年の
Tandy 2000(マイクロプロセッサーは 80186)や 1984 年末の Tandy 1000(マイクロプロセッサーは 8088)などの 16
ビット PC において、Intel 系マイクロプロセッサーと Microsoft 製 MS-DOS を採用し、IBM PC シリーズとのハード
ウェア的互換性はないがソフトウェア的互換性を持ついわゆる MS-DOS 互換機マシンを販売することで、IBM PC
アーキテクチャの技術的追随者となったのである。
図2の 1980 年代前半期における PC 市場シェアの推移に示されているように、IBM が Tandy のみならず Apple
や Commodore といった先行有力 PC 企業との競争において競争優位を獲得することができたのは、技術戦略論
的視点からは一番手戦略と二番手戦略とのいわば混合戦略の採用が大きく寄与しているものと解釈できる。
.....
IBM は、PC 市場における後発者として既存 PC のドミナント・デザインとの歴史的連続性の重視という「追随者」
.....
的技術戦略を採用することで製品スタートアップ時における補完財の充実問題を解決するとともに、16 ビット PC
市場における先駆者として 16 ビットマイクロプロセッサーや 16 ビット OS の採用などによる既存 PC のドミナント・デ
..........
ザインの部分的変更という「先駆者」的技術戦略 を採用することで他社との製品差別化を実現したのである。
..........
すなわち PC 市場という「既存市場における後発者」として IBM は、先行する PC 製品群の既存ドミナント・デザ
........................................
インとの歴史的連続性を重視 するという技術追随戦略としての 「二番手戦略」的製品設計 を選択し、インテル系マ
イクロプロセッサーを採用するとともに、CP/M との歴史的連続性の高い OS が用意されるように手配を進めた。ま
..............
た一方で、16 ビット PC 市場という「新規市場における先駆者」として IBM は、追随者が追いつけないほど速く
...............................................
次々と製品イノベーションを実行する という技術リーダーシップ 戦略としての 「一番手戦略」的製品開発 を選択し、
1983 年には 10MB の HDD を内蔵した IBM PC/XT を、1984 年には 20MB の HDD を内蔵するとともに 8086 の
約3倍の速さで動作するとともに仮想記憶という先進的機能をもサポートした 80286 というマイクロプロセッサーを
採用した IBM-PC/AT を開発するなど 1980 年代前半期には PC 製品の素早いシリーズ展開をおこなった。こうし
た技術追随戦略と技術リーダーシップ戦略の混合戦略により、補完財の速やかな充実と性能差別化の両立を技
術的に可能とさせることができ、16 ビット PC 市場におけるドミナント・デザインの位置を速やかに確立した、と解釈
することができる。
IBM のこうした混合戦略が技術的に可能となったのは、PC 市場の内的構成それ自体に由来するものであると
同時に、「8 ビット PC 市場における主要な PC が 8080 系マイクロプロセッサーを採用していたこと」、および、「その
8080 系という製品アーキテクチャの元々の開発者である Intel が 8 ビット・マイクロプロセッサーから 16 ビット・プロ
11
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
セッサーへの製品イノベーションに際して、互換性維持重視戦略を採用して製品開発をおこなった」「Intel がマイ
クロプロセッサーに関して一番手戦略を採用し技術的リーダーシップを継続的に追求する戦略をとった」などという
歴史的要因にも由来するものである。
1970 年代後半期の PC 市場においては、PC の主要構成モジュールであるマイクロプロセッサーに関して Intel
の CPU 製品 8080(1974)に由来する 8080 系マイクロプロセッサーのアーキテクチャが 1970 年代後半期の PC 市
場におけるドミナント・デザインとなっていたが、Intel は 8 ビット・マイクロプロセッサーから 16 ビット・マイクロプロセ
ッサーへの製品イノベーションに際して、先行のドミナント・デザインである 8080 系マイクロプロセッサーに関わる
既存のソフトウェア資産やソフトウェア技術者たちの新規ソフトウェア開発能力を十分に活用できるような形でイノベ
ーションを推し進めた。これにより Intel の 8086 や 8088 といった 16 ビットマイクロプロセッサーを選択した場合に
は、IBM のような混合戦略が実行可能となった。
これに対して Motorola や Zilog は 16 ビットマイクロプロセッサー市場において自社独自の新規技術の開発に
よる技術的リーダーシップの確立を目標とし製品の高機能化による Intel 製品との差別化を図った。そのため性能
向上重視戦略のもとに製品イノベーションを推し進め、Intel と比べて先行の既存製品デザインとの歴史的連続性
が低い製品の開発を進めた。例えば Motorola の 68000 は、Tandy がそれ以前の製品で採用していた Z80 という
Intel 系アーキテクチャのマイクロプロセッサーとはもちろんのこと、同じ Motorola の 8 ビットマイクロプロセッサーの
6800 とも歴史的連続性が低かったため、8 ビット PC 時代のソフトウェア開発者のソフトウェア開発能力やソフトウェ
ア資産の活用が困難であった。そのため 68000 を採用した PC 製品は、Apple の Lisa や Macintosh がそうであっ
たように、製品のスタートアップ時に対応ソフトという補完財の充実に関して困難を抱えることになった。こうした技
術的理由から Motorola や Zilog の 16 ビットマイクロプロセッサーを選択して PC 製品の開発をおこなった場合に
は、IBM のような混合戦略を実行することができない。
1982 年の Tandy 製品のみならず、1983/84 年の Apple 製品や 1985 年の Commodore 製品といった 16 ビット P
C への製品イノベーションに際しては、ハードウェアの歴史的連続性よりも性能向上を重視した Motorola の 68000
を採用するという技術的選択がなされたのである。
なお Apple は 16 ビット PC 市場への参入は IBM PC よりも遅れ結果的に後発者となったものの、時間をかけて自
社で新規開発した GUI ベースの OS を Lisa や Macintosh に搭載することによって技術的に大きな飛躍を成し遂
げた。それにより、Lisa や Macintosh は、それら以前のほとんどの PC の標準的ユーザーインターフェースであっ
た CUI OS を搭載した PC である IBM PC との製品差別化に成功し、GUI ベースの PC という新しい PC 市場セグ
メントを築き、GUI ベースの PC 市場における先駆者となることで一定の成功を収めることができた。ただし 16 ビッ
ト PC 市場では後発者となったことにより、16 ビット PC 市場の主導権は IBM PC シリーズに握られたのである。
これに対して Tandy は一番手戦略を取り IBM PC にさほど遅れることなく 16 ビット PC 市場に参入したが、TRS
DOS-16 や TRS-Xenix という CUI ベースの OS を採用した Tandy の TRS-80 Model 16 はそうした意味での製品
差別化を実現できなかったこともあり、さほどの成功を収めることができなかった。
ここまで論じてきたことに示されているように、PC 市場での後発者として既存 PC のドミナント・デザインとの技術的
連続性に配慮しながら、16 ビット PC 市場における先駆者として既存 PC のドミナント・デザインを部分的変更する
イノベーションによって自社の技術的リーダーシップの確保を図った IBM の混合戦略的な技術戦略の方が、Appl
e や Commodore が 16 ビット PC 市場における後発者として採用した二番手戦略や、16 ビット PC 市場における先
発者とはなったが混合戦略を採用しなかった Tandy の一番手戦略よりも優れた技術戦略であった。そのことによっ
て、IBM は PC 市場において Apple、Commodore、Tandy などといった先行有力企業や、Hewlett-Packard や Xer
ox などの新規参入企業に対する相対的な競争優位を確保できたのである。
IBM の PC 市場参入における混合戦略採用の不可避性
IBM は PC 市場参入を意図的に遅らせたのではなく、1970 年代中頃には PC を開発しようと試みていたが、IB
M のコンピュータ事業のあり方およびコンピュータ事業に関わる自社の技術的リソースが PC という製品の特性と不
12
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
適合であったために結果的に PC 市場向けの製品開発に成功できず市場参入が遅れた結果として、PC 市場参入
にあたってこのような混合戦略の選択が不可避となった。
8 ビット PC のドミナント・デザインを構成する中核的な技術要素に関する知的財産権は Intel やデジタル・リサー
チなど IBM 以外の企業が市場の支配権を握っていた。PC 市場参入が遅れた IBM は、PC という製品レベルにお
いてだけでなく、マイクロプロセッサーや OS ソフトウェアといった PC の中核的要素技術のレベルにおいても後発
者であった。
前述したように、PC 市場へのかなり遅れた後発者である IBM が PC 市場で自社製品の速やかな普及を目指す
ためには、先行 PC 市場における既存のドミナント・デザインとの歴史的連続性を重視する必要があった。というの
も既存のドミナント・デザインと歴史的連続性のないイノベーションをおこなった要素技術や製品はバンドワゴン効
果のために市場において受け入れられにくいとか、製品開発に時間がかかる可能性が高いとかなどのデメリットが
あるからである。
ただしその一方で、既存のドミナント・デザインをそのまま採用した場合には、既存の中核的要素技術に関して
知的財産権を持たないために製品の機能や性能による差別化が IBM には実現困難であるし、PC に関するプロ
セスイノベーション能力によってコスト上の競争優位を獲得しようとするのも IBM には実行困難である。したがって
製品デザインに関して IBM には、既存の PC 製品の脱成熟化を目標として自社のリーダーシップのもとに既存の
ドミナント・デザインを部分的にイノベーションする戦略を採用する選択肢しか残されていなかったのである。
IBM のようにドミナント・デザインが存在する既存市場に後発者として参入する場合には、要素技術や先行の補
完財に関する既存のドミナント・デザインとの連続性と非連続性をどのようにバランスし、適切な技術統合を実現し
た製品をデザインするのかが技術戦略上の重要な課題の一つとなる。すなわち、既存ドミナント・デザインのイノベ
ーションという技術リーダーシップ的戦略の追求と、既存ドミナント・デザインに関わる様々な資産の活用という技術
追随戦略の混合戦略をどのように構築するのかが重要な課題となる。
もちろん Apple 社の Lisa や Macintosh の製品開発がそうであるように、既存市場におけるドミナント・デザインと
はもちろんのこと、自社の既存製品の製品デザインとの歴史的連続性を考慮することなく、他社製品との性能差別
..................
化だけを 16 ビット PC 市場において積極的に追求する後発者としての 技術リーダーシップ 戦略 も可能な選択肢と
して存在する。しかし既存のドミナント・デザインと技術的連続性のないそうした差別化戦略を採用した場合には、
まさに Lisa や Macintosh で問題になったように、製品開発期間の長期化、対応ソフトや対応周辺機器の充実の遅
れ、高製造コストという問題を避けることができない。
より高性能な表計算ソフトに対する需要の存在などを背景により高性能な PC が求められており、また Intel の
8086 が 1978 年に登場するなど 16 ビットマイクロプロセッサーの実用化が進むとともに、RAM や ROM といった半
導体メモリ、および、FDD や HDD など外部記憶装置の相対的低価格化が進行することにより、低価格で高性能
な PC 製品の開発が可能になりつつあるという歴史的状況の中で 16 ビット PC という新製品の登場は強く期待され
ていたし、実際にそれが可能な歴史的条件が揃いつつあった。
技術の歴史的発達とともに 1960 年代に電子計算機市場がメインフレーム市場とミニコン市場に分化し、1970 年
代に低価格ミニコン市場からのダウンサイジングによる市場分化およびそれまで無消費であった潜在的市場の顕
在化として PC 市場が成立したように、1980 年代前半期には高性能 PC 市場(16 ビット PC 市場)と低性能 PC 市
場(8 ビット PC 市場)に PC 市場が分化したのである。
IBM の PC 市場参入はこうした PC 市場の歴史的転換点の時期にまさにちょうどなされた、あるいは逆に、IBM
PC がそうした PC 市場の分化を促進したのである。
このように PC 市場への参入が遅れた IBM が成功するためには、性能差別化と互換性維持のバランスを技術
的にどのような形で保つのかが重要な問題となった。そのことは特に、新製品で利用するマイクロプロセッサーの
選択の場面で問題になった。そしてこうした混合戦略は、既存先行市場におけるドミナント・デザインへの技術的
対応として優れた技術戦略であったため、後発者として市場参入した IBM が 1980 年代前半期に大きな成功をお
さめることができたのである。
ただ IBM は後発者として優れてはいたが、後発者としての成功のために採用した混合戦略的技術戦略に起因
13
佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
する技術的制約、および、PC という製品の持つシステム性およびそのシステム性に起因するバンドワゴン効果へ
の技術戦略的対応が不十分であった結果として、PC 市場におけるプラットフォーム・リーダーシップを最終的に喪
失し PC 市場における自社の相対的競争優位を失うことになった。
イノベーションへの技術戦略的対応に関するこうしたドミナント・デザイン論的視点からの理論的考察、および、
IBM の PC 市場参入遅れをもたらしたバリュー・ネットワーク論的制約に関する理論的視点からの考察に関しては
さらに別稿で詳しく論じる予定である。
注
(1) Time 誌は、その年に最も大きな影響を及ぼした人物を"Man of the Year"としてその年の最終号または翌年の新年号の表
紙に 1927 年から掲載している。ただし 1982 年分はコンピュータという機械が選出されたため、1983 年の新年号の表紙に
は"Man of the Machine”と表記されている。http://www.time.com/time/covers/0,16641,19830103,00.html でその表紙を見
ることができる。
(2) Lele,Milind M.(1991) Creating Strategic Leverage, John Wiley & Sons,p.204 のグラフを基に算出した数値である。S.T.
McClellan(1984) The coming Computer Industry Shakeout, Wiley, p.216[スティーブン・T・マクレラン(旭化成 2001 年プロ
ジェクト訳,1985)『コンピュータ産業の大波乱』講談社,p.317]では 1981 年には約 2 万 5 千台、1982 年 19 万台、1983 年
70 万台となっている。
こうした数値の違いは本論文で取り上げている PC の出荷台数や出荷金額のほとんどが基本的には推計値であることに
よるものである。なお PC の定義が論者によって異なるということも、PC に関する様々な数値の文献による違いに関係して
いる。ただしそうした具体的数値の違いがあっても、PC に関する歴史的傾向の把握には有用であると考えられるので、本
論文では様々な論者の推計値を取り上げている。
(3) Leghart, P.M. (1990) IBM’ s PC Strategies for the 1990s,Computer Technology Research Corp.,p.13
(4) Langlois, Richard N.(1992) "External economies and economic progress: The case of the microcomputer industry,"
Business History Review, Vol. 66, Iss.1,p.35
(5) Rohlfs は Rohlfs,J.H.(2001). Bandwagon Effects in High Technology Industries, MIT Press,p.14[ロルフス, J.H. (佐々木勉
訳,2005)『バンドワゴンに乗る』NTT 出版,p.23]において、従来の「規模の経済」を「供給者サイドの規模の経済(supply-side
scale economies)」として位置づけるとともに、それとは別に「需要者サイドの規模の経済(demand-side scale economies)」が
存在することを論じている。Rohlfs は、Rohlfs(2003)pp.8-9[訳書 p.15]において「需要者サイドの規模の経済」がもたらす効
........
果をバンドワゴン効果と呼んでいる。バンドワゴン効果には、「同一製品の利用者が多数いることによって直接的に得ること
......
のできる効果」である「ネットワーク外部性」(network externalities)効果と、「同一製品の利用者が多ければ多いほど補完財
..............
の充実がより進むために間接的に得ることのできる効果 」である「補完的なバンドワゴン」(complementary bandwagon)効果
の二種類がある。
電話や FAX は「ネットワークの価値が利用者数の二乗で増加する」というメトカーフの法則で表されるような特性を部分
的に持つ製品として「ネットワーク外部性」効果が主として働く製品であり、白黒 TV、カラーTV、VHS、CD プレイヤーは
「VHS のβに対する競争優位性が TV 番組の長時間録画可能性やレンタルビデオ作品の多さといった補完財の充実度に
よって規定される」のと同様の「補完的なバンドワゴン」効果が主として働く製品である。
これに対して PC は、「ネットワーク外部性」効果と「補完的なバンドワゴン」効果の二種類が市場において同時に働く製
品として位置づけることができる。
(6) MITS の Altair8800 や IMSAI の IMSAI 8080 などは組み立て済みのキットとしても販売されたが、基本的には組み立てキ
ット型の PC であった。
(7) Porter, M.E.(1985) Competitive Advantage, Free Press,p.189 [ポーター(土岐坤ほか訳,1985)『競争優位の戦略』ダイヤモ
ンド社、p.234]。なお引用に当たり、本論稿における用語法にあわせて、原文に基づき訳文は一部変更してある。
(8) Betz, F.(1993). Strategic Technology Management, Mcgraw-Hill,p.388[ベッツ(黒木正樹監訳,2005)『戦略技術管理論』文
理閣,p.495]。
(9) Rohlfs(2003) ibid., p.122[同訳書 p.150]。
(10) Mathews,J.A.(2003) ”Strategizing by firms in the presence of markets for resources,” Industrial and Corporate Change,
Vol. 12, Iss.6, p.1173。
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佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
(11) Afuah, A. (1998, 2nd 2002) Innovation management, Oxford U.P.,p.30
(12) 坂本和一(1992)『コンピュータ産業: ガリヴァ支配の終焉』有斐閣,pp.114-115
(13) IBM(2003)“IBM HIGHLIGHTS,1970-1984”,http://www-1.ibm.com/ibm/history/documents/pdf/1970-1984.pdf,p.7
(14) IBM(2003),ibid. p.12
(15) Christensen, Clayton M. (1997) The innovator's dilemma, Harvard Business Press, p.132[クリステンセン(伊豆原弓
訳,2001)『イノベ-ションのジレンマ』増補改訂版、翔泳社,p.187]
(16) Bunnell, D.(1982) “Boca Diary: April-May 1982”,PC Magazine, Vol.1 No.1, http://www.pcmag.com/print_article2/0,1
217,a%253D21817,00.asp
(17) Pugh, E.W. (1995). Building IBM, MIT Press, p.134
(18) Watson ,Thomas J.(1990) . Father, Son, and Co.: My Life at IBM and Beyond, Bantam,p.196 および p.202[トーマス・J・ワ
トソン・ジュニア(高見浩訳,1991)『IBM の息子 --- トーマス・J.ワトソン・ジュニア自伝』新潮社、上巻 p.273 および p.282] 。引
用にあたって訳は一部変更した。
(19) IBM(1965) “Initial announcement press release” IBM Archives > Exhibits > 1130 、http://www-03.ibm.com/ibm/history
/exhibits/1130/1130_initial.html
(20) パーソナル・コンピュータという用語の初期の利用例に関しては、Shapiro, F.R.(2000)”Origin of the term "personal
computer": Evidence from the JSTOR electronic journal archive,” Annals of the History of Computing, Vol.22, Issue
4,pp.70-71 が参考になる。
(21) Bell, C.G.(1988). “Toward a History of (Personal) Workstations,” Goldberg, A. ed. (1988) A History of Personal
Workstations, ACM Press, p.14[ACM プレス編(浜田俊夫訳,1990)『ワークステーション原典』アスキー、p.16]では、「コンピ
ュータの価格は性能を決定し,その結果,経済性と使用方法を決めるので,コンピュータの使用方法は大ざっぱに言って,
central 型(メインフレーム),departmental 型(ミニコンピュータ),そして personal 型の 3 つに分類できる」としている。
また Bell(1988)は、PC の利用法に基づくそうした三分類法の立場から、1985 年当時で 10 万ドル以下のコンピュータを
PC と位置づけた上で、1 万ドルから 10 万ドルという価格帯の PC を特にパーソナル・ワークステーションと呼んでいる。
............
ただし一般的には、「パーソナル・コンピューティングに対応したマシン」という製品の利用法に基づく定義 よりも、「個人が
...........
自己の所得で購入できるマシン」という製品の価格に基づく定義 の方がより多く用いられている。例えば Toong,Hoo-min
D.,Gupta,Amar(1982)”Personal Computer,” Scientific American, June 1982,p.90 では、PC の定義として、「基本的な周辺機
器を含んだ PC の製品システム全体の価格が 5,000 ドル未満であること」を第一条件としている。
(22) 内田頼利;諏訪重敏「日立の HITAC-10」『電子科学』1970 年 1 月号、p.14,p.および p.17。なおこの号はミニコンの特集
号である。また HITAC-10 は 2009 年 2 月に情報処理学会より「日本初のミニコンピュータ」として情報処理技術遺産の認
定を受けている。
(23) IBM,“IBM Personal Computer: Before the beginning: Ancestors of the IBM Personal Computer”, IBM
Archives>Exhibits,http://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/pc/pc_1.html。
(24) IBM5100 対抗のこうしたタイプのパーソナル・コンピューティング用マシンに、Wang 2200PCS(1976 年 1 月発表)がある。
Wang2200PCS は、9 インチ CRT およびカセット・テープ装置を内蔵し約 25kg という重量で、8K の RAM 内蔵タイプで
$5400 という価格であり、ミニコンに分類されるマシンである。
(25) Campbell‐Kelly, M., Aspray,W.(1996). Computer: A History of the Information Machine, Basic Books, p.253[マーチン
キャンベル‐ケリー,ウィリアム アスプレイ (山本 菊男訳,1999) 『コンピューター200 年史』海文堂,p.259]
(26) Carroll, Paul(1993) Big Blues: The Unmaking of IBM, Orion, p.56[ポール・キャロル(近藤純夫訳,1995)『ビッグ ブルーズ』
アスキー出版局,p.72]
(27)Ferguson, C.H., Morris,C.R.(1993). Computer Wars, Times Books,p.22 [チャールズ・H.ファーガソン,チャールズ・R.モリス
(藪暁彦訳,1993)『コンピューター・ウォーズ』同文書院インターナショナル,pp.36-37].
(28) ここで述べている多数の拡張インターフェースの付加とは、1台の PC に 1975 年当時でいえば多数の拡張バス・スロットが、
現在でいえば多数の USB インターフェースが搭載されていることを意味する。
(29) 相田洋・大墻敦(1996)『新・電子立国 第 1 巻 ソフトウェア帝国の誕生』NHK 出版,p.242
(30) 16 ビットマイクロプロセッサーを採用した PC としては、Texas Instruments が 1979 年 6 月に発表し、同 11 月に出荷した
TI-99/4 がある。そのため文献によっては、この TI-99/4 を「最初の 16 ビット PC」とし、IBM PC は 16 ビット PC の先駆者で
はない、とされることがある。
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佐野正博(2009)「IBM の PC 事業参入に関する技術戦略論的考察」原稿 Ver.6-1
TI-99/4 で使われた CPU は、Texas Instruments が 1976 年に発表した TMS9900 である。なお Intel の 8086(1978)以前
に既に市場に出荷されていた 16 ビットマイクロプロセッサーとしては、他にも Data General の MN601、Fairchild の 9440 、
General Instrument の CP1600、National Semiconductor の PACE などがあった。
しかしこれらのチップの最小命令実行時間は、TMS9900 が 3.7μs、9440 が 1.25μs、MN601 が 2.4μs、CP1600 が 3μs、
PACE が 2μs というように、その当時の 8 ビットマイクロプロセッサーの 8080 の 2μs(2MHz 動作時)、6800 の 2μs、Z80 の
1.6μs(2.5MHz 動作時)、6502 の 2μs などと同レベルのものでしかなかった。これに対して、Intel の 8086 や 8088 は
0.3μs(5MHz 動作時)であり、一桁違うレベルの速さとなっている。[最小命令実行時間の数字は、岡田義邦ほか(1980)『汎
用マイクロプロセッサ』丸善の pp.199-219 収録の「付録Ⅰ:機種一覧表」のデータに基づくものである。ただし 9440 のみ、
同書 p.23 の表による。]
しかも、Intel の 8086 以前のこれらの 16 ビットマイクロプロセッサーは「16 ビット部の実装処理(implementing)の複雑さの
ために、システム全体の実行速度はしばしば標準の 8 ビットマイクロプロセッサよりも遅い」[Zaks,R.(1977). Microprocessor,
Sybex, p.190、(禿節史訳,1980)『マイクロプロセッサ』p.198、訳は一部変更した]ものであった。
TMS9900 というチップは、実行速度の「遅さ」だけでなく、その内部処理は 16 ビットであったが外部バス幅は 8 ビットしか
なかったし、アドレス・バス(1 ワード 16 ビット構成)が 15 ビット幅しかないため直接的に利用できるメモリ空間は当時の 8 ビ
ット PC と同じ 64KB しかない[Mathur,A.P. (3rd 1990). Introduction to Microprocessors, McGraw Hill Higher Education,
p.197 および Allan, R. A. (2001). A history of the personal computer , Allan Publishing, PartII-p.3/13] という大きな技術
的制約を抱えた CPU であり、8 ビットマイクロプロセッサーに対する次世代製品としての技術的性能を持つものではなかっ
た。
コンピュータの利用法は、マシンがサポートするメモリ量に大きく左右される。8 ビット PC が PC 市場で支配的であった時
代に 16 ビット PC へのイノベーションが求められたのは、メモリ価格の相対的低下によってより大容量のメモリを PC に実際
に内蔵することが可能になるとともに、作業のためにより大容量のメモリを必要とする表計算ソフトやデータベースソフトが普
及してきたことによるものである。一年間という製品開発期間に関する制約の中で、IBM PC の開発チームが製品開発の遅
れの危険性の増大にも関わらず、製品差別化のためにマイクロプロセッサーとして 8 ビットではなく 16 ビットの採用を決断
したのもそうした理由に負うところが大きい。
それゆえ、直接的にサポートするメモリ空間が当時の 8 ビット PC と同じ 64KB に限定されている TI-99/4 を、本来的な意
味での 16 ビット PC の製品イノベーションの中に位置づけるのは、マイクロプロセッサーのイノベーションの技術的意味との
関連でも不適切である。なお IBM PC で採用された 8088 も外部バス幅は 8 ビットであったがアドレス・バスは 20 ビット幅で
1MB のメモリ空間が利用できるようになっており、8 ビット PC と性能的に明確に区別された次世代の PC であった。
また TI-99/4 の価格がモニター付きで 1,150 ドルと設定されていたことや 1981 年 6 月出荷の後継機種 TI-99/4A の価格
がモニターなしで 525 ドルと設定されていたことにも示されているように、市場における製品の位置づけは、TRS-80 Model
II や Apple II などの高価格 8 ビット PC ではなく、Atari400、Atari800 や PET2001 などの低価格 8 ビット PC と同ランクの製
品であった。価格設定による市場における位置づけという意味でも TI-99/4 を本来的な意味での 16 ビット PC として位置づ
けるのはあまり適切ではない。
さらにまた TI-99/4 は、ゲームにおけるキャラクターの素早い動きを可能にするスプライト処理機能を持つため 1980 年代
初頭に多くのゲーム専用機やゲーム用途向けパソコンに使われた画像表示用チップ TMS9918 を内蔵していることや、当
時の PC としては珍しい音声合成チップ[Texas Instruments の教育玩具 Speak&Spell(1978)と同じ技術に基づくもの]を内
蔵しているなどの点でも、ゲーム用途を強く意識した「低価格」パソコンという位置づけの PC であった。
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