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Title 南宋准南の土地制度試探

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Title 南宋准南の土地制度試探
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南宋准南の土地制度試探 : 營田・屯田を中心に
梅原, 郁
東洋史研究 (1963), 21(4): 394-425
1963-03-31
http://dx.doi.org/10.14989/152624
Right
Type
Textversion
Journal Article
publisher
Kyoto University
4
9
3
援号
毒
室
iを
j
.ず、〉
論れ
雪
南
宋傍
に系
南宋准南の土地制度試探
考ば
と異ったものを議想させる 。事貫 ζ乙では、南宋一代、屯
え地
田・営団が主要な土地政策として施行された。
数問
ーーー営団・屯田
日
有
護・経営・所有のあり方は、内地、特に揚子江デルタ地帯
原
王土
U
I
私が こ ζでとりあげる問題は、時間的には西暦一一一一七
周ホ
計の
を
年以降約半世紀、即ち女真に首都作京を追われた宋朝が、
に属し、
正南
中
①
られた現今の安徽省の大半、江蘇省の江北部、間帯・湖北
省の一部に跨る地方、 首 時 で い え ば 准 南 東 路 ・ 准 南 西 路
てーーーク
(中国土地制度史研究所牧﹀があるにも拘らず、
敢てこの問題をとりあげたのは次の理由によるものであ
は比較的纏った、豊富な史料を有し、官田という特殊例で
て、賓霊面でも尚多くの未解決の問題を含む。脇田田・屯田
宋代土地制度問題については本質論をはじめとし
いうまでもなく、南宋百五十年間、准南は漢中 ・褒陽一
あっても、それを明らかにする ζとにより民田の問題へ手
(雨准)における土地制度の一斑である。
帯とともに、金、 のちに元と境を接し、 しばしば彼 ら異民
る
の期間、地域的には、准水・大別山服・揚子江・海で直切
元年)から、孝宗・光宗と三代を経過する南宋前三分の一 。 於 け る 屯 田 ・ 管 田 官 荘 の 経 営 │ │ 官 田 の 荘 園 制 費 展 と し
ま屯
め
族の騎甲にふみにじられた。 従 っ て そ と に お け る 土 地 開
付
- 26-
梅
た回
6". は
じ
僅に残った王室の一族康王(高宗)に継承された時(建炎
笹
田
ま
ト
。
懸りを輿えてくれる ζと
揚子江デルタ地帯が南宋の経槙的中心地であるが、
︹補注︺
それと比較の意味で、准南と いう地域をある程度貫謹面か
ら固定させる、 いわば地域研究の一環として。
、
周藤氏の論考に必ずしも同意出来 ぬ貼があるので
自分なりの意見をも述べてみたかったとと。
いうまでもなく、 この小論は周藤氏の論考に負うととろ
が極めて多い。はじめに深甚な謝意を表明しておく。
行論に先達って用語の統一をしておきたい。周藤氏は主
に兵屯と民屯に分けられ、丘︿屯は一般に軍荘として経営さ
J
巌密に規定すれば少くともこれ丈では不十分であ
る 私は軍屯には屯田、民屯には営団の語を使用する。軍
屯 ・ 民 屯 の 直 別 は 耕 作 者が軍兵(原 則として家属は考え
ぬ)か一般農民かによる。南宋時代民屯を意味する笹田は
かなり慶い概念と多様な型態を持つもので、一義的に表現
することは困難であるが、。原則として、あるかたまった
官有地を、纏った数の農民に、主として生産手段を貸奥し
て、小作耕作させるものクとしておく。また官荘・軍荘は
笹田・屯田の一経営型態であっても、営団・屯田と同意義
に置換出来る語嚢ではない。なお引用史料中、徐松本宋曾
要輯稿は曾要、李心停・建炎以来繋年要録は要録の略稽を
使用する 。
脇田田の諸型態
ζの章では民屯H笹田について、時代の推移に従って、
三つの型を抽出し、それらを中心として考えてみたい。
建炎三年から本格化し、翌年、ついで聞をおいて紹興四
③@
年と金軍に鹿摘された准南一帯は、その聞に盗賊集圏の跳
梁や防備の宋軍自らの掠奪などで、完全に疲弊しきったと
考えてよかろう。特に金軍は州鯨域を占接すると金賓を奪
ぃ、火左放ち、役にたつ住民は北方に控致し、その他は虐
一方農村でも濯概施設を破壊して胡騎を防
殺をもあえてし、河南南部 ・准南で は〆〆城市 一空 e が誇張
@
ではなかった。
ぎ、或は土豪・地方官の組織の下に自衛策を構じ、また多
くが長江を渡って陸績江南に逃げとんだ。北方からの攻撃
が波枕的で且つ大きな掠奪を伴っただけに、北宋時代、統
浜野千
計的にみて農業生産上むしろ先進地と見倣さ何た ー
- 27-
口
国
る
:
!
a
;
れ、民屯は轡田官荘として経営されたと定義ずけておられ
5
9
3
里クの准南 は、南宋初期、 壊 滅 的 な 痛 手 を 被 っ た の で あ
る。荒躍した庫聞い国土、莫大な流民、更には北敵防禦のた
め増 強動員 された数多の軍兵の糧食補 給等の諸 問題解決策
として、政府 が大大的 に准 南 で笹 田・屯田 をとりあげたの
は寧ろ嘗然であろう。しかし現質 的な施策と鰻系を 以て
営団 政策 が准南に 行 われ、或る程度の質効を 牧 めたのは紹
戟凱で流民が増加するや、政府はいち早く踊業命令を出
輿六年を待たねばならない
@
揚 ・杭・明・ 温州と、
金軍の猛攻に
賓・陳規 らの経験が
のちの笹田政策の根幹となったとと
は一際注意してお いてよかろう 。
紹興三年二月 に陳規の係奏をもと にした管 国政策 の青篤
⑩
員が出来上り、各地でこれに沿って営団を行うよう詔が下
され師 、
が、少くとも紹興五年までは 、准南 では 、貰際 には
効果があがって いない。
@
紹興四年十月から十二月にかけて准南を犯した金軍を斥
け、反撃をねらって張竣 が准南政策にのり出すや 、営 団に
闘して既 に可成りの 経験 を持 つ屯田郎中焚 賓が幕 下 に加わ
り
、 ζ ζ に本格的に准南で笹田が行われる乙とになった 。
以下とれ について その内容を検討する が
、 私は便宜上とれ
を官荘型轡田と名付けておく。
官荘型 回
目
勝
最初に長文ではあるが、紹興六年一月に出された叫{呂田施
行に闘する傑文をあげる。
紹興六年正 月二十八 日。都督行府 言。江准 州蘇、自兵火之後、
田多荒緩。朝廷昨降指揮、令豚官粂管営団事務 。蓋欲勧誘、康
行耕 墾。縁諸腐措置不一、至今未見就緒。今改篤屯田、依民間
自来纏例、召荘客承佃。其合行事件、務在簡便 。今篠具下項 。
一、終州蘇係官空閑田土弁無主逃回、並行拘集︹集一作籍︺見
- 28-
し、無主の田に封しでも諸種の勅令を費布し開墾を奨闘し
ているが、天子自身
逃げ惑 う有様では、勅令の拘束力 も畳束なく 、 い会﹂おい
地方地方で濁立的 に荒 地経 営を 行うのにまか せる耽況だっ
た。紹興初年から、そうした姿が史料にあらわれるが、そ
れは営団とか屯田といった明確な性格を持つというより
行き あたりばったりに 、兎 に角開墾を 行 って食糧を確 保し
ようという立場が先行し、優秀な地方官・軍司令官が居た
地域で は或る 程度 の成果をおさめ得ても、全 瞳 としてはば
らばらであっ向。特に 、漢水
流域 や公安軍 などの営 ・屯田
@
はこうした形で曲 りなりに 効果をあげた が
、 その指導者焚
(
A
)
3
9
6
3
9
7
甲共種。甲肉、推一人充甲頭。の以甲頭姓名、震荘名。毎荘
多三懸、令尉各減二年磨勘。其最小、弁有閑田、不篤措置召
議重作施行。
て逐豚種及五十頃己上、候歳終比較。以附近十勝矯率、取最
数。毎勝以十荘篤則。毎五頃篤一荘。召客戸五家、相保母周一
官給耕牛五頭弁合用種子食器(若未有穀卸計償支鎗)。 毎戸
一、牧成目、於官中牧到課子内、以十分矯率、支三輩、充豚令
て今来措置官荘、除湖南北・裏陽府路見別行措置外、止係篤
漸多、嘗議推賞。
吠、以惣捺援地分支給。其豚令尉、能慶行勧誘、致請佃之人
一、今来招召承佃官荘、如有願就之人、仰諸有官荘豚分、陳
尉添支職回 。初均給。
人承佃者、並申取朝廷指揮。知通計管下、比較賞罰 。
別給莱回十畝。先次借支銭七 十貫。の令所委官、分雨次支給
(春耕月支五十貫。帰国月支二十貫。)分作二年雨料還納、
更不出息。若枚成目、顕以断︹ F︺爵折還者、聴。の比街市
増二分(課︹課疑謂︺如街市一貫、郎官中折一貫二百)。 其
客戸、の菟諸般差役科配 。
て宙服有官荘州豚守伴豚令、並於勧農字下、添得屯田二字、蘇
)
(曾要食貨六三ノ一 OO
准南・江東西路、曾経残破州蘇有空関国土去慮、依今来措置
行下。
一、諸庭土宜不向。如有未壷・未便事件、仰嘗職官、篠具、申
行府。
。
詔。従之 。劉下奨賓・王弗、疾速施行 。の散梼付諸路、時開示
ζとにみられる官荘型笹田は衣のように纏められる。
大きさは一蘇十荘を原則に、一荘五頃五家(一家一
貫際は一荘
一荘二十五人、
噴 ﹀ で 、 別 に戸 毎 に 粟 田 十 畝 を 給 す る か ら 、
五 ・ 五 頃 と な る 。 一家五人を標準とみて、
ζれ よ り 先 、 紹 興 三 年 に は 、 五 人 一
ζれ が 一 甲 を く む 。 と の 一 家 一 頃 と いう 割 嘗 額 は 、 官 荘 型
営団の基準であった。
甲という単位は出されながら、割嘗田畝数は規定されてい
- 29-
尉専一主管官荘四字。の差守︹守一本作手︺分・貼司各一
名、於本懸人吏内輪差、一年一替、依常卒法、支破請給。
一、毎荘蓋草屋一十五間(毎関破銭三貫)。毎一家給爾問、絵
五問、準備頓放斜斗。其ムロ用農具、委州豚、先次置造 。の具
合用耕牛数目、申行府、節次支降 。
一、毎荘標援︹或脆分字︺定国土、従本豚、依地段、彩蜜園
加、関具四至、以千字文矯銃。申措置屯田官、類索、級申行
府、置籍抄録。
一、牧成田、将所枚課子、除椿出次年種子外、不論多寡厚薄、
官中奥客戸、中停均分。
一、今来屯田所招客戸、比之郷原、大段優潤、係取人戸情願、
卸不得︹得一本作可︺強行差抑、致有騒擾。其諸軍下不入隊
従重断罪外、勅令罷役。仰管職官、巌行禁止。如有容縦、嘗
使臣、及不披帯棟退軍兵、有願請佃者、並依百姓例、の別置
籍開具。
一、州豚公人等、如敢図事騒擾官荘客一戸、及乞取銭物、依法、
I
8
9
3
@
ないのに比べて
より明確な方策がうちだされて来てい
る。 ζのような官荘を作る時、荒田中でも最も良い土地を
⑬
纏めて一荘にしたであろう。 しかし分散した地段でも官荘
ら切或は流移掃業の
方式(恐ら く五頃一荘)の採用 がみ
主戸もそれが自立できるまでの暫定措置として、五頃一荘
。
方式の中にくみ ζまれた例もある 但し地割や水利の問題
を含むためであろうが、慶大な荒逃の地面は、官有地とし
て別途に管理された。また一鯨十荘も園式上の規定で、貫
@
際はそれより多く荘を作ることが奨励かっ貫行された。
官荘型笹田では生産手段の貸興が大前提となってい
る。まず一家一頭の耕牛がある。首時既に准南では牛によ
の不足を招く一因ともなった。その他農具の細目はのちに
ふれるし、家屋 ・金 銭 な ど の 貸 借 は 上 掲 傑 文 の 遁 り で あ
。
る
牧穫の配分は分盆租で、次年の種子を控除したのち、
官 ・管田戸が折半と決められ、第一年は優佃の意味で官四
結果とにらみあわせ、翌紹興
・管目戸六とした内、買施の
@
七年の勅令により官四・民六が嘗分の間行われたようで
ある。 ζの開墾初年を除き、次年から牧穫を五分五分また
は四分六に分盆するというのが官荘型営団の一つの特色
@
で、約五十年たった淳照年聞にもこれが踏襲されている。
@
ζろ准東の一部では畝嘗り穀一斗
租率四分六の貫瞳はどれ位であろうか。紹興初年の陳規の
請射官回では、水田が秋梗米一斗、陸田で夏小萎五升 ・秋
@
豆一升とされ、また同じ
五升、更には官田請佃に際して租額が畝嘗り上回二斗、中
@
回一斗八升、下回一斗五升であった例などとくらべて、そ
。 いずれにしても南漸
う かけ離れたものではなかったろう
⑫
先進地と くらべて低い量であり、同時にそれは畝嘗り牧量
の低さをも反映していたといえよう。笹田の作物は、米@
大小委・豆が主軸であった。ただ生産手段から種子まで政
仰 いだが、農器などと同様に、商人が運 ぶものを准南の官
d
が江を越えて准南に運ぶ際には、商税は克除されるべきで
⑮
あったが、貰際はそうでなく、それがまた ζれら生産手段
0一
-3
E
。
聴が買上げる方式が採用されていた 牛・農具などを商人
た。陳規の傑奏には人間二人で型を捜く案もみられる。笹
田に必要な耕牛は、雨漸・一踊建・慶西・四川などに供給を
⑬
が、金軍侵入後、その多くは屠裁され、補給も究束なかっ
る翠耕作なしでは、 農 地 経 営 は 考 え ら れ ぬ 朕 態 で あ っ た
E
3
9
9
府から借りるとなると、少くとも嘗分の聞は作物の種類な
管回を施行する官側で、勢働力召集困難・生産手段
て貫務に携わる膏吏が手分・貼司各一名で、 ζれが営団戸
代表甲頭と直接接鯛した 。ところが貫際に笹田をは
五家の・
じめてみると、例えば在地の村落共同盟との閥係をはじめ
を帯びたが、直接の責任者は鯨尉であった。その下にあっ
上民系統に属し、知州は知莱州粂勘農屯営田事とい う 官稽
町官荘型笹田は制度上からは州鯨の管轄下、即ち行政
は、比較的早く婦業する可能性も多い。そうした館業戸に
も良い土地を選んだであろう。だがそうした場所の元業主
し、或は保正に責任負携をさせ、また豪戸に抑配する ζと
地方官の成績の一部としたため、 各 州 牒 は 各 郷 に 頭 わ り
強制的に一癖十荘を割嘗て、牧穫を要求し、それによって
調達の不備・土地肥痔の不均等性などの諸傑件を考えず、
として、複雑な問題が績出した ζとは想像に難くない。そ
は、別に規定を設け、隣近の荒閑国土を輿えて自己の所有
ども耕作戸の自由にならなかったかと思われる。
ζで十荘ごとに土着の三等戸以上の人一名を選び、守闘進
とさせたが、事買はそう簡軍にはゆかなかった。
他方、荒閑田包占にのり出していた地主・豪民は、
@
官荘を質際に設置した場合には、上述のように、最
になり、所謂。附種多の弊を惹起する。
@
義副尉に補し、身丁銭克除・券銭支給の恩典を奥え、監荘
@
自己の周圏に、
に充てる方法をとりいれた 。 とれがどの程度貫施されたか
不明だが、召募された監荘は土豪乃至その手先である場合
荘のあることを好まず、或は自ら詑名請佃によ り官荘の佃
一般民田より優遇された佃戸の耕作する官
が寧ろ普通だったろう。ただしそれがすぐ官l監荘│営団
戸に入りとみ、官荘笹田の進展を妨げる 。
こうした弊害は、嘗事者の焚賓・王弗も十分承知したと
@
戸という二重の搾取閥係を伴ったかどうかは判らない。
以上のような内容で行われた紹興六年の准南官荘型信田
ころで、彼らはこの批判には時聞をかけて解決すべきであ
@
は、まがりなりに三十高刷所の政穫をあげたが、奨賓・王弗
ると主張し、一方並行して、特に准水流域の最前線で、防
J
のやめ 方があまりに性急であったとみえて、忽ち反謝の聾
備の司令官達││劉光世・楊折中らーーに官荘晶画田と同じ
@
があがった。それらは衣の諸貼に要約される。
-3
1ー
I
E
E
0
0
4
従
型式で屯田を行わせ、軍兵中の一 J 二割をさいて耕作に
@
。
の中
事さすべきととを具申している ζの時期に管田政策
、
心となった江准営団司は翌七年 に鹿され 焚賓 ・王 弗は杭
@
一方荒慶
州 に召喚されたが 、鐙 田は柏崎運 司の直轄業務と なり 引績き
。
運営されるととになった
紹興八年ごろから宋金和卒の兆がみえはじめ
年
した准南 にも 常態復鯖の動きがでて来たのも束の間、十
特に
。
策
さて、紹興二十年知盛州となった呉遣は、新しい営団
おく。
を行 った。便 宜上、土豪型管 固と名付けて
・一隅建の土
二十年四月 に出された彼の 上 奏 は、江・漸
、 その牧穫量に
豪 ・大姓 を准南に赴かせて荒閑地を拓かせ
、
よって低い肩書を奥え、更に田地開墾に功努をたでれば
躍ず
武穆・特奏名出身より上位につけて、轄運司の試験に
@
。
の土豪に官
る資格を奥えんとするものであった 文字通り
の日
途を聞き、彼らの持つ努働力を利用せんとしたのがそ
同年七月 に
的である。その型態は今一つ明確ではな いが 、
、決年の種
出された規定によれば、牧穫は年 一回と見倣 し
。
し
包占は、後述のように相嘗進行した とうした 欣態に封
面
2-3
五月以降冗北に率い ら れ た 金 軍 の 侵 入が開始され
た
十一年一月 から 三月 にかけ て准南は大きな被害を受け
@
紹興 十二年 九月 正式 に秦檎の和議が成立し 、南園聞に 卒和
復興
が賛らされると、 再び省 ・屯田策 その 他による准南 の
民 は管官荘戸(のち に力団戸)として官荘
八、三・
子を控除し 、第一・二年官一客九、以下毎年二・
、 五・五まであげてゆく。また別に一頃毎に奈
七、四 ・六
@
え
が企てられた。紹興 二十年まで 、准南省 固に ついて 、例
ば陳規・ 捷賓のような具鱒的史料 はみられぬが 、紹 興十六
、各
年の営団賞罰格の貫恥などからもうかがわれるように
どが知られる。
の施
准南の管回は嘗初 から 、努働力組封数 の不足、官側
る。豪
、
回二十畝 を給するが その牧穫は耕作戸のものにな
を管理する
州牒で は少しづっ轡田の効果をあげて いたと考えられる。
たこと
その際、 上記五頃一荘 の官荘方式 が基本になってい
土豪型笹田
た。その反
行上 の鉄陥等がからみ 思う ように 進捗し なかっ
。官田請佃。などに名を借りた豪民、特に在地土豪の
な
うベ
は、のち隆輿二年に紹興六年正月二十八日の指揮が行
@
きものとして申明されているととからも推測される。
)
B
(
て政府が逆に土豪の力を利用することを考えるのも無理か
らぬととである。慮州の場合、封象となった土豪は江・准
退役軍兵を用いる傾向である。
て良かろう。
紹興二十年代に入って自につく ζとは、轡田官荘・請佃
官国の努働力として、
炎・紹興はじめ増強した軍兵もとの頃には老兵化し、
一方
准南 に新天地を求めたのだろ うか。私はむしろ南方に流移
屯田が思うように効果をあげぬ貫情では、徐剰軍兵を耕作
・一踊建と なっている。それらの地方の 土豪が奮 土を離れて
した人民を自己の支配下に加えた土豪が、そめ一部を放出
@
し、その代りに特権を貰ったのでないかと想像する。
は盛んに記録にみられる。またこのころ、軍荘や営団とし
@
者にふりかえる荒田開設は一石二鳥の策といえる。乙の動
きは紹興十年代の後牢から現れ匂が u紹興二十六・七年に
ζの型の轡田の特長 は、生産手段・食糧 などの貸輿規定
て耕作されていた土地を、投下費用を補償させて元業主に
がみられぬこと、及び租の納入量が一定期聞を限って漸増
するところにある。 これは牛具・種糧は土豪が自ら調達し
返却する ζともみられる。 とれらは政府が、官回経営より
室岡宗治 世の末、紹興三十一年秋 から冬にかけて 、海陵王
@
たととを推測させる。そうすれば同じ営団でも、 この型の
も、税役負措戸育成を優先させていたととを物語る。
たかと思われる。但し准南笹田に於てそうした閥係の持つ
完顔亮に率い られた金軍の侵 入が開始され、准南は一再び戟
は北踊し、和議がもちがあったが、隆輿二年には楚・濠・
意味は、例えば雨祈などの民団に於ける場合と別途に考え
稔などの各州に金軍が出複している。乾遭元年正月、宋金
凱の巷と化した。海陵王は十一月揚州で殺され、一旦金箪
土豪型笹田がどれだ け効果をあげ、また力団科がど のよ
和約が成立し、以後開一層年間韓佑胃の北征まで、四十年間
ねばなるまい。
うに嬰遷したかは明確ではないが、これより先異州で湿戸
を招いて開墾に成功し加というのは ζの型ではなかったか
の卒和が将来される。しかし金軍に再び三たび荒掠された
准南では、三十年前之同じ問題 が蒸 し返されねばならなか
γ
と思われ、 また十数年のち、和州でとの営団の記録がみら
れるか卵、准西の長江流域ではある程度行 われていたとし
3一
-3
建
ものは官l 土豪l客戸のこ重の小作開係がぶり容易に出来
1
0
"
4
40Z
った
踊正人型笹田
隆輿 から 乾道年聞 にかけ ては、屯田 が 一時盛行す るとと
。
もに 、踊正人 を努働力とする脇田 田が特 に目立って来 る
、 而後婦中原。 蓋 自邪而鯖於正也 。
れを錦正人型笹田としてとりあげてみよう。
踊正人とは朱煮 が、
O)
集闇の指導者には官を輿えてい
卸更奥寛展年限 。 (合国要兵一五ノ五)
のように優佃策をとり
る。ところで、特に准水流域では荒田が多く 、軍屯 も成功
@
山陽鯨の
しなかった ところ から、乾遭初年 にはさかんに 踊正人営団
が論議された。乾遁五年、楚州を中心に行われた徐子寅に
。
よる一例をひと う
地域的 には楚州・賓麿懸の四村二百頃
村三百徐頃を四百徐名 にわける。 一入国一頃、 五家一甲で
。 但し荘の大きさは五噴一荘と限ら なかった よ
甲頭を置 く
うである。
生 産 手 段 と し て は 努 働 力 二 人 を翠 位に、 牛一一政
型・把一副、鋤・鍬・銀・鎌・万一件、六人毎 に荒裂刀一
、勅 調 停 一 具 を 貸 輿
、部木
車一
水保
二
軸踏
毎に
石甲糠
副 、一
て、種田人一人 あて 種糧銭十貫文省 を借す 。これらはすべ
所有と なり 、五年目 からは課 子を徴牧し 、十年 を経れば 二
@
れ、耕作に際しても知鯨の監督 を受ける が、国土 は自 己 の
E 踊正入管田は知牒の管轄下にお かれ、戸籍 に登 録さ
し、別に一家につき草屋二問、牛二頭ごと に小屋一聞 を建
のように、土豪乃至は奮宋の地方官などに率いられた集園
で、或る場合は着のみ着のまま、或る場合には農具 ・家財
て五年内 に債銭を 返却せ ねばならぬ。
錦正人に謝して
を抱えて南下して来 た。すでに 南宋の はじめから 、政府は
ノ一
千徐口、馬一十 五疋、牛随一千絵頭 、前衆錆朝
。
紹興三十一年十一月六日 。那州駐劉御前諸軍都統制奥扶申 先
結約郵州豪戸孫傍 、脱身、般家脇並客戸壮 了一千徐人、老小三
。 (曾要兵一五
人を指九。その具髄像は 、
と定義するように 、准水以北の金地から南方に蹄屈した 人
元是中原人、後陥落 於蕃
(朱子語類一一一)
と
紹興五年 七月十九日 。詔。准北崎附人民、所至州豚、質計口数、
。
田、開墾
毎人支銭一貫、於提刑司態干銭、潟支給 所給耕種関
、
之初、奥菟税役五年外、仰所属州軍、申倫 書省。 如拘同未就緒
4一
-3
I
E
)
c
(
税を徴牧される。
ζの楚州における徐子寅の笹田はそれなりの効果をあ
@
げ、数年後の淳照二年には五十四荘・九百頃の踊正人官荘
がおかれて 、彼 は褒賞されている。徐子寅が踊正人 を勢働
力として営団官荘経営をしたのは、貧窮腸正人が多く、他
方彼らに一律一家百二十絹を輿え、各自耕牛種糧を購入し
その税役
て准南の開墾にあたらせていた従来の方式が圃滑にゆかな
@
かったためと記されている。
との轡田では従来の踊正人封策にもみられた
ことで管田の出買について簡単にふれてお ζう。周藤氏
も一節をさかれ、乾道年聞には諸路の笹田が出費され、内
地の管田は多く形勢の家に買われ、その大土地所有の輩展
笹 田を含めた官回 出買は
を助長した、と結んでおられる。 .
紹興はじめから、遊貰・中止を何回か繰り返し、その聞の
事情は一様ではなく、場所によっては軍に出費されたから
大土地所有が直線的に設展したと速断することを障措させ
@
る。少くとも淳照末までに限れば、准南の営団が出費され
た可能性は乾道二・三年のごく短期間だけで、准南に闘す
。
る限りはその意義を高くみることは疑問である
る自作農育成の方向と可能性もあったことをも併記してお
おける大土地所有進行の裏 には、並行して、それと矛盾す
その内容は決して一様ではなかったろう。 しかじ、准南に
じたろうし、また十年後すべて税役戸になったとしても、
導者 H土豪が充てられ、必然的に土豪l営団戸の関係も生
田の場合に近い 。勿論腸正人型轡田の管荘戸には従来の指
には集めにくく、現地に多数の軍兵が駐屯し、 しかも努働
て大過あるまい。戟蹴の直後、耕作に必要な努働力が急激
は、短期間、特に施行初期を除けば、効果が薄かったとし
上の論議として 、屯田屯田 と騒がれた割には、との地域で
結末の周期的繰り返しとして現われる 。結論からいえば机
一代、准南 の屯田は史料面では、同じような献策と賓施 ・
此の章では屯田H軍屯について概観しておきたい。南宋
屯田をめぐって
きたい。
嘗り五升の課子を納入するにすぎず、との貼後述の請佃官
の官荘笹田の租額と比較しても、 ととでは第五年目以後畝
負据戸化・土着化がはっきりとあらわれている 。紹興六年
3
0
1
qJ
とが 出 来 た 時 期 には 、 なる 程屯田 は行 われ 易 かったであろ
投 下 量 が 少 く てすむ良田 をたやすく 官 地 と し て 圏 いこむ ζ
二百 五十人(一人二十畝)であったし、 八年の 合肥 のもの
と推定される 。 乾 道 元 年 のものは 、 五 十 頃 ・ 一屯・ 一荘 ・
或 る 程 度 の土地をわ り つけて い ったものが普通であったか
@
うが 、 元 来 が耕 作 者 と し て 不 適 首 で あっ た宋代の軍兵 を 使
は債に一 人二十畝 として 一荘卒均四J 五十 頃 となる。また
90
う こ と を は じ め と し て 、 種 々の紋陥が 時 の経 過とと もに暴
淳 照 年 聞 のものは 一頃を三人で耕作し 、 六 人一甲 ・十甲一
@
露 さ れ 、 次 のような意 見 に集 約 されてくる。
@
保 、 紹 照 年 間 のものは一 人 二 十 畝 、 六 人 一甲 と されてい
る。これからみ て、 耕 丘 二 人 あ た り、 牛 耕 を たてまえとし
て二J 三十畝が割嘗て られ 、 恐 ら く 耕 作地は かたまってい
たろうと考えられる。
後 回の場合と同 じく 、 生 産 手 段 ・口糧 などは 政 府 が
調 達 す る が 、 管 田 と 異 っ て 給 奥 で あ っ た 。 そ の量 ・種類は
営 団と大差 はないが 、 一例を ひとう。
@
淳照十年八 月十四目 。 (建康府駐 御前諸軍都統制郭)剛叉 篠
制
刷
具屯図利害、奏陳 。
a
一、合用耕牛、六人耕回二頃、給牛三頭 。以 一千頃矯率。計合
用牛一千五百頭。
@
一、屯田官兵屋字、欲加 替案 、各随一保 、就近耕岡庭起 屋幾、
@
皿
主
圏来合干人、易震拘稿 。象倉敷牛屋之類、亦不可閥 。今契勘
共ム口用 三千七百三十五関。其屋欲下准西潜司、措置。
一、合用農具、回一千頃、用型一千五百具・妃一千五百具・水
車一千部井磁礎・鋤 ・鍍之類。乞下准西漕司、製造感副。
-3
6ー
乾道八年七月十四日 。知脱 州越 善俊言。朝廷分兵 屯回、誠篤至
計。然屯駐諸軍、願耕者不得選、所選者不願耕 。 軍司並縁潟
る程 度 の 差 異 はあるが 、 ζ の地域の 屯 田の具醐恒例として 、
乾 道 の 和 約 以 後 四 十 年 の 聞 に 、 和 州 ・底 州 ・無箆軍などで
。
断 績 的 に行 わ れ た も の を あげ てみ よう
そ の 大 き さ は 、 営 回 の よ う に 五 頃 一 荘 と 地 割 り して
軍 荘 という型をとっていたものもあるが、 人 数 を 基 に し て
H
姦。笛選者健倖初完 、得選者騎惰不率。此不可一也。(中略)
若計支選所段 、只可充雨月一詞給之費 。叉未完取緋於鯨官。此不
可二也。 朝廷以兵政不足 、 召募新名︹名一作民︺。今乃令屯
問、蓄 三二 千習熟之兵、騎惰 於田野 之開。緩急将安 用之 。此不
可三也。(中略)詔 。底州見 差建康官丘ハ屯回 、並行駿罷。 (
曾要
食貨六三 ノ 一五一 )
但し、屯田 は何 時 も 軍 隊 制 度 を基 軸とし 、 生 産 手 段 も 官
,
ョ
-
て
。 同 じ 准 南 でも 、 場 所 ・時代によ り、 あ
機構 はつかみ 易 い
自 ら、 営 団よ りも 完 全 に 準 備 す る 必 要 が あ っ た た め
の
4
0
4
4
0
5
一、合用種子、内積毎一畝周一斗五升、大婆毎一畝用一斗二
升、小変毎一畝用一斗一升。(曾要食貨六三ノ五一二)
屯田の牧穫配分。まず耕兵は、原則として官兵とし
ての給料そ貰ってい加 。 との貼営団戸とは明確に直別され
ねばならない。そのうえに笹田と同様に、牧穫中より、次
年の種子を除いて、官-兵均分或は官四・兵六の九給が行
われるが、 乙れも開耕以後第三年目迄の比率は耕兵に有利
@
に配分されたりもした。准南屯田の主な栽培作物は笹田と
それが開始〆
して
一甲は玉J 六人であった。
乙れがいいかえれば一保の単位となる。 上述のようにこの
保が十甲に分れるわけで
とのようにして行われた准西の屯田も
四・五年もたつときまって、
乾道六年一月二十五日 。 建康府駐劉御前諸寧都統制郭振言 。
(中略)契勘。屯田官兵共約三千鈴人 。其毎年所枚物斜、大段
数少。若将不堪披幣官兵、止於所得子利内、支給養施、委是不
給。乞将屯田諮荘内、除集蘇柘皐荘、依己降指揮、召鋳正人耕
作外。其和州界屯田、並行陵罷。肺門見占官兵、拘政婦軍。詔。
いま少しくわしくふれてみ
其田令和州召人租佃。如無人、印佑債召人承賞。 (曾要食貨六
一一一ノ一四八)
@
雑色豆斜は鐘にかえて中央に迭ら
ラミッド瞳系が確立し、附静的に曹人・獣醤なども加えら
た。即ち大将・副将以下小管押・監荘使臣・白直というピ
さ せ た 。 勿 論 屯 田 兵 の 更 代 は ζれと 同日 に論じられぬ が、
を好まなかった宋朝は、また少数の屯成兵もしばしば交代
康・那州といった特定地以外に多数の軍隊を長くおくとと
@
れていた 。 就 中 監 荘 使 臣 ・ 由 直 は 営 団 の 管 荘 人 、 手 分 ・ 貼
そ れ が 定 着 化 す る 方 向 は 薄 い よ う に う け と れ る 。成程、開
@
司 等 の 膏 吏 と 封 比 す べ き も の で 、 直 接 経 営 に 参 興 し た 。監
墾 が 軌 遣 に の れ ば 、 家 属 も 移 住 さ せ て 、 土 着 化 を進 めた 痕
@
荘 使 臣 の 数 は 兵 敷 の 多 寡 に よ っ て き ま る が 、 五J 六十人の
跡もみえるが、大勢は耕作兵は土地に馴染まなかったとい
第一に耕兵の土地への密着度の稀薄さがあげられる。建
つ
。
よ﹀
にその理由の一端はあげたが
同じく、栢・大小委・雑色豆斜に限られたようで、栢穀は
ら
のような結果におわり、営団化乃至出費の方向を辿る。先
れ
た
ほ
か
そのまま官兵の口食に支給され、或は一部・大安とともに
て
屯田の管理は軍隊編成をそのまま移摘して行われ
充
兵、土地の大きさにして十頃を一人が受持つのが普通で、
- 37-
E
れ馬
た@料
N
6
0
4
えよう。
。 醇季宣 の浪語
第二 に屯田 の生産力と給輿 の問 題があ る
@
集 がいう ような 一畝 あ たり 三石と いう 牧量 が般に 屯田 で得
られたとしても 、兵 隊に給料を支排えば完全に赤字 で、質
際問題としては歳入が二ヶ月の給料 にも満たぬ 有様 であっ
た. これではたとえ一部でも食糧の補給を必要とした一時
。
期以外、 屯 田を永績させねばならぬ理由は な い
第三 に准 南 の特 殊 事 情 がある。乾道 ・淳 照 の 頃 、 郭 剛と
ともに屯国政策に従事した察畿の定務集轡三。論屯田 利 害
後 論 と も 関 連するの
。 には 准 南 で屯田 が行わ れにくいことを 荊裂と比較して
欣
論じている 。 軍 に 屯 田 だ け で な く
諸州防城不過激千百 人而
一人 の耕 作 量を最 大 三十畝と 見積 ってさえ 、
字。徐依替存留。(曾要兵五 ノ一一一)
乾道二年正月二十三 日。宰執進呈 、准東西諸州出成屯田軍兵人
、 准東四千八百除人 、准西一 高九百徐 人。上日。泰 ・総州各
数
五百人、和州 二千人、並令護団元廃 。 旗州一千人、可愛国一
、
期待薄だったことなどが知られる。 これらの諸貼や
く、命令系統 の不備と相倹 って 、努働力 の面 からも 屯田 は
を採っていたこと 、 また准南は乾道和約以後、 屯成兵 が 少
であっても、所有が決まって来て 、政府 も現吠 維 持 の方 策
分 は、乾道 ・淳 照 の こ ろ に は 、 た と え 豪 民 の包占という型
これ から、准西に は荒閑回 が多 い と い っ て も 、 主 要な部
。自能
修 室
好察
以
来 成
、兵
雨往
准来
未
嘗 動
宿是
重 旬
兵 日
出 来 ない 。
准南の土地所有一斑
を考えてみても 、准南の屯田 に大 きな 評 債 を輿 えることは
荒田が五高八千頃 、 少し遅れて三高五千頃も残っていたの
@
耕作面積は四千四百頃にすぎず、 ほぼ 同 時 期 に准東だけで
そ
の
で、要貼をあ げておこう。
一、治西 州軍、去逃檎速 、耕者日血束 。雌有荒閲之回、不菟興民
、 底舎 隔速、亦難鈴
田按診 。軍民雑耕 、宣能無援。屯田 散庭
束。
二 、 (准商)富民大家及錦正人、経官請佃。慶作四至、包占在
。官司非不知之。若 一切根括、則必
布
戸。歳月既久、途篤永 世
、 而篤屯田 、則所得無幾。
大震透民之援 。若止牧其所来
。
三、今大軍屯駐建康 。准西異路。近者猶有一江之 隔 (中略)
容 粟主 帥、而後行 。透度子
委之偏得、未必 重力。況事笛一 一
数百里之外、非身履目撃之、 宣能合事宜。其子血民事武襲 、亦
~p
- 38-
四
己、 不
ち
4
0
7
南宋時代の准南には、上記営団・屯回以外の官田やより
多くの私田が存在したことはいうまでもない。この章では
経由・屯回以外の准南の土地所有型態についてふれてみる。
@
金軍の侵入、盗賊の跳梁の中で、奮来の生活瞳制をくず
山葵・水案
された農民達は、江南に流移するものも多 かったが 、地形
的に恵まれた場所では、豪族を頭にいただき
に立龍り、自衛集園を作りあげて郷土を死守した。 山堂考
⑪
索は山・水素の概観を衣のようにまとめる。
・
9
准東山津之図。凡爾小洲・大渚・沙興・石崎明・石積。水勢環
1
績。入所不到之地、皆水薬也。自謝楊豚楊右鏡・老鶴・新開諸
湖而下、凡四十鈴鹿、而相通之案九 。
准西鳥林之地。凡山章嶺哨抜、上卒下険、無路可登 、無階可渉。
入所難到之地、皆山築也 。自六安・信陽・自削減・南集・鹿江諸
治透而下、凡有九十四慮 。而外有無水之案六 。 (山堂考索・別
とえば、
毎一案置察官一員。令借補資秩、震之主宰。毎十薬置築将一
員。令繋省待差、震之提督。 (山堂考索・別集・容三ニ)
といった軍系の官或は
紹興五年八月壬子。詔。准南山水薬都巡検、各聴守令節制 。本
一面施行。先是、都督行
薬師陣干事件、並申取州豚指揮。不得、
府、令諸州、置山水案 。 揮土豪、充都巡検。 至是叉傑約之。
(要録九十二)
一時期 には警備官に任命し、卒静に戻るとそれをなる
べく州牒行政の系列に編入しようとしている。
また案全瞳に封しても
紹輿四年十一月庚戊。詔。承・楚・泰州水薬民兵、並奥十年租
税科役 。久の援米贈之。時承州水薬首領徐康・潜通等、遺兵、
滋撃金兵、国廿女異数十 。銑命以官、尋叉賜米高石 。(要録入十二)
土豪に
と優値策が採られた。
ここにもみられるように、
集・各二三)
官が輿えられたことは、在地土豪が公の特権を背後にし
@
その指導者である土豪は、卒時には郷曲で強い護言力を
て、例えば大土地粂併などに有利に立廻り得たであろうと
@@
有した地主階級にほかならぬ。案の大きさは最大二高戸、
いう推測を輿えてくれる。なお、戟観がしずまると、今度
は山 ・水薬の自衛力を官側 が民兵として再編成する動きも
h
最低は防衛兵三J 四十人まで相嘗の懸隔があった。 と つし
た築は南宋一代非常用として存績し、土豪を中心とした自
出て くる。乙れら集圏は賊軍が退くと、 周 圏 の 田 地 を 開 墾
@
警集圏は後世にも繕承された。土豪に劃して政府側は、た
- 39-
と
4
0
8
し、水利施設の復奮など、食糧確保のため、限られた範圏
内の復興を自働的に行ったと考えてよ かろう。 但し
場合には彼ら自身が盗賊として掠奪を行う方向も十分あっ
た。准南の中・東部は水団地帯として堤防・寝間などをめ
ぐる問題、西部の田勝高原のところは阪塘に よる水の蓄積
それには比較的容易に労働力を
土豪に率いられた集囲はそうした問題を
配分など、 いずれも水利問題は極めて重要であった 。南宋
のこの時期には
自力で解決せねばならず
結集出来る山・水案の瞳制は便利ででもあったろう 。
一村が山・水菜にたてこもった場合には、割合簡軍にもと
の髄 制 にかえり得たであろうが、 他 からの多数の流入者を
かかえた案ではどうなったろうか。次の史料は政府がそう
した吠況を解決するてだてとして出した法令と解樺出来な
いだろうか。
紹興二十九年十 二月十六日 。直敷文閣准南東路特連副使貌安行
言。 (中略)一、令州豚訪問籍記土豪姓名。乞量立賞格。如能
る
山・水薬 を離れた荒閑地(勿論以前の耕地 ﹀では
らわれてもやむを得なかった
数高の人戸を入れた築 は恐 らくその 中で
ζの地域に於いては
遇すれば、戸紹回と同様に浪官され
ζ
それなり
μ
雨漸地方などでは、地主が逃亡乃至金固に控致されて見佃
もなく浪官の期限は三年に延長された 。 乙の場合たとえば
間
官 は 耕 作 者を召 募
佃という型式があった。南宋のはじめには逃田は二年を経
@
准南の荒地開震としては轡田・屯田政策とは別に官田請
の歴史的意義を摺ったと考えられる。
つては後世まで受継がれ
ト
した土豪集囲のしめる割合は明らかに出来ぬが、場所につ
よ
からうかがわれる。准南の土地 所有型態全瞳の中で
態じて、集囲的に農耕地にかえる 。そうした姿 が 乙の法令
ひきいられた集固にわ かれ 、卒時になると官の誘いかけに
また 小豪民に
地主 H佃戸の隷属閥係が成立し 、豪民による 土地包占 があ
とらざるを得なかった 。勿論そ ζには結果として、強固な
従って政府は土豪を軸としてとにかく開墾を進める施策を
人民 を個々に招集することは事買上不 可能 であったろう。
即
ち
招致耕回人戸一百家者 、 有官人 、 差充部押官 。無 官 人 、 補 甲
'
し、或る場合には競買に付される方式がとられてお
頭。招及一百家︹一百字或疑誤︺者、有官人、減二年踏勘。無
@
官人依入︹八疑作入︺資法、補守歓進義副尉、毎五十家遜遜一
等。無官人、至五百家、補承信郎。 (曾要食貨六ノ二ハ)
-4
0一
あ
発F
@
戸が請佃芦になった例もみられ、それなりの問題を含むが、
准南ではともかくも農業生産を行わせようという基本ライ
ンがあ凡、それに沿って時には制限を設けず耕作者を召募
紹興五年三月辛丑 。都督行府言。左朝散郎・知泰州都彪具到営
。
団利害。宙服請射荒田、毎畝課子五升。田土滑薄者、量奥裁滅
耕種五年の不欠官司課子、許認潟己業。限外元主識認、或照験
明白、卸許自踏逐荒因 。依数指射、以篤己業。如是五年内婦
。
業、卸許佃人査院吋交還、量出工力銭、遺佃人 勘曾、所陳委可
施行。今関迭伶書省指揮。従之。(要録八十七)
官回請佃の際にも時として生産手段や口食・種子などが
@
貸興された から 、庚義の営団といえぬととはない。だがこ
乙には何よりも一定年限の後は、その土地所有権を認めて
税役負搭者たらしめる意聞が含まれていた。上記のように
五年間毎畝五升の課元ーを完納すれば、請佃戸は税戸となっ
@
。
た
ところ がこの 官田請佃 は官戸・形勢戸 などに 大い に利用
@
された。彼らは ζ の機曾に乗じて 、或 は堂々と、或は貫際
の事務を扱う膏吏と結托し、誌名請佃などの方法を使い、
包占。ーを行った。
土地粂併│所調 多
乾道入年七月一五目。権知慶州粂提領屯田越善俊言。准旬之
民、請佃田畝、多有包占。毎占一二十頃至及百頃者、縁無菌
ノ一一一一)
税、故能久占。其賞無力耕墾。途致流移腸正人請射不行。則是
有力者無田可耕。有力︹カ疑作田︺者無力開墾。(曾要食貨六
という扶況が准南のあちとちで問題にされるようにな加。
政府はとれに謝して
刻佃。(要録一七二)
@
紹興二十六年四月戊戊。(前略)其後本部請。来種官回、限二
年、愛行開墾耕穫 。如限満有未種田畝、卸依臣僚所請、許諾色
とか、或は
乾道二年五月六日。臣僚言 。爾准菅股之回、皆矯品官及形勢之
家占佃。既不施種、途成荒因。乞自今、如経五年不耕者、許民
戸弁諸軍屯田指射。官矯給嬢耕種 。従之。(曾要食貨六ノ一
ー
七)
。
と謝策をたててはいる が、質効のほ どは怪しい
請佃による包占ではないが、紹興中期以前には、軍国の
大将が、部下を涯遣して良回を私有化し、恐 らく彼らの部曲
を使って自己の軍事費を捻出せんとした形跡もみえ加。乾
@
道初年に張子顔 ・張 宗元 ・楊存中らが自己の田地を投獄し
て営団官荘とした記事も、前二人は張俊の一黛である ζと
1一
-4
@
してさえいる。官回の請佃規定の代表例を茨にあげよう。
9
0
4
0
1
4
@
端を述べてみた 。制度面 の解明は各章節の うち で行った通
はじめの 問題設定と からみあわ せて結びを し
りであるが
を考えると 、軍純 には扱えない。 軍固駐屯期 に大将 が武力
で良 回を粂併し、牧穫 を私兵の恩賞費などに充てていたも
ておこう 。まず、
出現した。政 府 は屯田 ・営 団 ・請佃官田など種々の方策を
の土地所有櫨制 が大きくくずれ 、極 めて多くの 荒閑田土が
南宋代、准南では度重なる金 軍 の侵入により、奮来
のを 、経営 困難乃至な んらかの理 由 で投獄という美名で営
回にしたとい うのが質惰ではなかったのだろうか。
、 周藤氏の
特に南宋時代に大 土地所有 が進行 したとと は
開墾 を計ったが、笹田 ・屯田 そのものの 効果はさ
採用し
指摘される通りである。だがその性格 ・内容 には 地域によ
って 非常 な差があった。 これまで述べたよ うに 、戟凱で荒
ほどあがらなかった。
に耐える自営農 民 の育成という 面もあった。
准南に封する南宋の土地政策の根幹には、税役負摺
躍した准南では、或は土豪が或は官吏が、合法 ・非合法に
土地包占 をすすめた。だが多くの史料が示す ように 、包占
との時代准南でも大土地所有の進行がみられるが
それは軍国の大将が武力を背景にして所有したもの、貫際
耕作を倖わぬ占有権のみの 多包占。、 山・ 水築 など の土豪
を中心としたいわば古い型のもの、などその内容を十分吟
味してかからねばならぬ性格を持っていた。
などの 諸事項 があげられようが 、私はとこで、特に官田の
佃戸問題 ならびに 屯田 ・ 国の位置ずけ などにつ いて、若
脇
田
むす びにかえ ておきたい。
干の紙幅 を費し
周藤氏は、曾要食貨六三、隆輿 二年三 月十 四日の王弗の
2ー
-4
←)
に)
国
の内容 は何分 の 一かが 辛 うじ て 耕 作 さ れ て い た に す ぎ な
。 何時金箪が侵入して来るかもしれぬ吠勢の 下 で
い
@
以上笹田 ・屯田を中心として、南宋准南 の土地制度 の
むすびにかえて
らないと考える。
准南の場合は、江南 ・雨湖と同一一償値を興えて使つてはな
行 ったであろうか。 大土地所有 が進行したとい う 言葉を、
要とする水田耕作・水利整備を 豪民 ・宮戸がどれ丈真剣に
も紹封的労 働力不足 を前にして 、莫大な努働量の投 下を必
し
>
J
i
4
1
1
傑奏を擦りどころとされて、
﹃営団官荘 に 於 い て ﹁ 客 去 る
州、界分荒遠、綿豆山谷、地積人稀。其占田多者、須人耕墾。
富豪之家、争地客、誘説客戸、或槽領徒衆、暴室般従。乞﹁終
皇祐官荘客戸逃移之法 、精加校定。諸凡策客戸者、許役其身。而
母得及其家風婦女皆充役作。凡典寅田宅、聴其従傑離業。不許
ζれ は 荘 客 が 去 っ て
も官吏が追及しなかったことをいうもので、 こ れ は 首 時 荘
就租以充客戸。雄非就租、亦無得以業人充役使。凡︹或院課︺
も追わず﹂とあるのは注意すべきで、
客が逃亡したときには乙れを追及することができたことを
借銭物者、止溜文約交還、不許抑動以震地客。凡震客戸身故、
淳照関、爾次指揮。﹁際客戸移徒、立奥遺還 。或違戻彊般之家、
@
田、令着奮業、同助把托透界。﹂皇結奮法、欲禁其逃移。後来
下客戸、逃移入外界、委蘇司、重時、︹或脱計字︺曾所属州鯨迫
移者、並勅腸奮慮。﹂叉勅﹁施・斡州諸腕肺主戸妊丁築賂子弟努
道生鐙之幸。﹄刑部看詳。﹃皇祐勅。﹁襲州路諸州官荘客戸逃
庶使深山窮谷之民、得安生理、不至翁彊有力者之所侵歎。安一
而其妻願改嫁者、聴其自使 。 凡客戸之女、蕗其自行璃嫁。﹂
意 味 し て い る 。﹄ ( 土 地 制 度 史 頁 三 二 八 ﹀ と 言 わ れ 、 結 論 の
タ宋代の佃戸・佃僕・傭人
部 分 で も 繰 り 返 し て ふ れ て お ら れる (頁三七五﹀。 周知の
ように、氏は。宋代の佃戸制。
ζの一文は笹田荘客の移輔不自由を直接
制。の中で、特に南采に入ってからの佃戸の移轄の不自由
さを強調される。
t管
指 摘 さ れ た も の で は な い が │ │ 私 の 曲 解 で な け れ ばll
比附略人法。 般誘客丁、只還本身、而拘其父母妻男者、比附
一般民団と同じ く 佃 戸 の 移 碍 不 自 由 が あ っ た
田官荘でも、
和誘他人部曲法。如以請佃寅回、詐立戸者、比附詑名挟戸法。
路、作一路専法、巌切遵守。﹄従之。(曾要食貨六九ノ六八)。
奮法、定断。所有淳照綴降比附断罪指揮、乞不施行。の行下本
遜守。加以比附、滋致素煩。欲今後際理訴官荘客戸、並用皇蹴
何以比附篤哉。 既 日比附、則非略人明失。 夫法意明白、務令
孫者、徒一 ニ
年
。 使其果犯略人之罪、則以略人正係、治之可也 。
震重 。蓋略入居府奴牌者、絞。震部曲者、流三千里。震妻妾及子
可以経久。鷲可厳以略人之法、比附而痛縄之。且略人之法、最
説、致有軽重不問。今看詳。皇結醤係、軽重遁賞 。是以行之、
匠其財物者、比附歎詐財物法。﹂則是衝改皇祐之法、別居府比附之
ということを指向された謹言のように感ぜられる。今とこ
で直接宋代の佃戸の性格を論ずる能力は私にはないが、さ
しあたって管田の枠内で、この移韓問題を中心にすえて考
えてみたい。
問題の性質上、煩議ではあるが、周藤氏のあげられる佃
戸移轄不自由の代表例(同時に官田に於ける代表例)を掲
げる ζとにする。
関稽元年六月二十五日 。褒州路運剣沼諜言 。 ﹃本路施・皿同等
-4
3ー
2
1
4
﹃四川では仁宗の皇祐四年に客戸がその土地から移
こまかな問題を別として、 これから周藤氏がだされた結
柵が設けられて、 ある時は交易場、またある時は防備の役
を接し、 山谷重盛たる地帯である。宋代に も この一帯 に案
き出 せぬ。襲 州の中で も斡 ・施といった地方は、鐙人と境
論は
(土地制度史頁
それは地主リ佃戸闘係の進行のうち
わざわざそのようなものを判例として持ち
回である南宋の営団ではどうであったか 。官荘型にせよ腸
州官荘の客戸は逃移を禁じられた。少くとも形式上同じ官
法令の背後の意味は暫くおくとして、北宋皇枯四年に嬰
でなかったとも 言える。
出さねばな らぬくらい法令 上の客戸移轄禁止規定は普遍的
逆に考えれば
だけに出された特別の詔勅を援用する必要があったのか。
ば、何故淳照 ・開 轄になって 、百数十年以前のし かも官荘
末期から、 一般に、佃戸移輔が不自由になっていたなら
からあらわれたものとしては扱えない。若し法制上、北宋
遁化されたとしても
ばならない。 たとえそれが淳照 ・開 一躍年聞に襲州全瞳に普
よりも迭防という立場から 出されている貼に注意を排わね
ったかと考えられる。従ってこの客戸逃移防 止規定も、何
@
るのを禁 止された 。
﹄
割を果した。こ乙にいわゆる官荘とはそうした案柵の食糧
。
J木代 の 佃 戸 制
一一四J 六)︺と いう貼である 。 とれは少くとも貫登菌で
供給源││挟西の弓箭手営団にも比定すべきものーーであ
︹
安首性を飲く 。まず、
皇枯の勅の封象は明白に多一度州路諸州官荘客戸逃移
者。であって、官荘 ・襲州というこ重の限定を持つ客
戸に限られる 。
淳照・開轄の法文にも、矢張 り襲 州という限定が入
ζれから導かれる結論は﹁皇
り、しかも二路の専法となす。と明記している。
二一鮎があげられる。従って
祐四年に、四川の最も後進地、否首時の中園の中でも最も遅
れた地域である嬰州路の、 しかも官荘で、客戸の逃移を禁
主として努働力の不足か ら佃客の宇奪 が激化し
止し、逃亡の場合はつれ戻す法令 が出た 。その後南宋中期
に至って
たため、既存の髄制を維持する必要が生じ、従来この地の
官荘にあった客戸逃移禁止法を一般に適用し、礎州一路に
、
限って施行する ζとにした 。﹂とい う ζとになり 北 宋 中
期 から四 川 で佃戸の移柏村が不自由であったという命題はひ
4一
-4
←)
口
4
1
3
二年間雨料に分割・無利息で返却させられ、乾道五年の例
その場合大多数は在来の准南の主戸の流移者であったかも
家屋・食糧を持たぬ人民を念頭において召募されている。
ひるがえって管田耕作戸 ・{呂田請佃 戸は常に生産手段
の方で追及しようとしない不手際をそしったものとも解稼
では牛・種の費用を五年間で返慣するときめられている。
しれぬ。 しかし若し北宋時代准南にも地主 H 佃戸制が相首
され得る。
即ちこの限りでは営田の耕作戸は明白に官と貸借閥係を持
慶範圏に存在したとすれば、その佃戸も多数含まれたであ
正人型にせよ、耕作戸(客戸・佃戸﹀には最初牛・種・農
っ。管田戸口はいう迄もなく戸籍蓋帳に記載されて、政府
具・住屋が貸奥される。紹興六年の例でみれば鐘七十貫は
と地主 H 佃戸契約を結ぶこととなる。その際少くとも史料
ろう。法文上普通にみえるタ招置客戸。
(主戸)を招募すると讃めば問題はないが、
雪
五
ここで
法
規
上
L
カ~@包
夜ら
的ぬ
し
、
つ
概
念
③
契
約
と
但し断っておく
な
7
.
f
.
i
芹
は
多招勘客戸耕種 e
的に、営団客戸の移轄を禁止するという規定はあらわれな
なる表現は 一分の疑 を残しつつも、営 団の客戸として人民
上記貸借契約違反者を官
関三
-4
5ー
い。ということは笹田客戸は法制上土地から自由に移動出
1+'.白
来ないことが断るまでもないことだったのか、或はそのよ
換
" , メL
うな規定が全くなかったかどちらかであろう。官荘型管田
f
T客
食貨六三ノ一四九)
与戸
且を
乾道六年二月二十八日。(前略)自絵不拘西北流寓及雨准居
民、以至江漸等庭客戸、並許不以多少、量力踏逐承佃。(曾要
容に
については断定出来ぬが、掃正人型管田では国家H 地主 │
栄り
ぬ
佃戸の笹田制よりも主戸育成が主軸になっていたことをみ
l
手中
戸 T
客戸も十分請佃戸になり得た ζとは注意しておいてよかろ
円の
佃室
客戸に比して優価されていたであろう。とうした恩恵に乗
ま佃
ぅ。卸ち佃戸も一部含むであろう客戸を政府が招募すると
れば、 なるほど周藤氏も言われるように 、経由田客戸は 一般
Z
夏
ま詰
に
ト
ま
は出
宋来
代た
のこ
地と
主を
じて耕作を全うせずーーその意味での契約違反││借 りる
但戸
物
1
4
客
去るも追わず多の一一畏の意味そだから客戸が逃げた時は
追うととが出来た。というのは
私動
いうことは 、若し一定傑件が揃えば、南宋時代客戸も自由
う明
客ら
戸か
移
物を借りて逃移する客戸があればどうなるか。 周 藤 氏 の
し、は:
~こ
カ>
で扱っているのでは決してない。 しかし。随田佃客 。とい
であった。 官 が型式上 直接経営しても 、 それは例えば ヨー
じまる、経営・牧穫 いずれの 面 でも 非常 に低い内容 のもの
異る。
った表現にみられる 、佃戸といえば 土地 に縛りつけられ 、
まねば ならぬ
ロッパ荘園制 に於ける直営地経営という 概念と は本質的に
ζの問 題 はいずれ 正 面 から とり く
力によって作 り出さ れたものであ る。軍屯から民屯へのき
屯田・ 営 回はともに特殊な 傑件 のもとで 、 いわば檎
らの本質にかかわりない。
的 に牧穫 を嘗 時の佃戸制 によって 分給さ れても 、 それは彼
。 彼 らは 本質的 に奴隷でも農奴でもない。型 式
持ってい る
屯田耕作者 は給料生活者としての軍兵の一面 を常に
身動 きもできぬものであったという 捉 え方 には 多大の疑問
を持 つ
。
が、さし あたって営 団をみる限り客戸の移輔 が不自由 であ
ったとは言 えない。
それ らの 中に於 いて 佃戸制 が謹展したことは、宋代
周藤氏は。兵屯 ・民屯が軍荘 ・鐙 回官荘として荘園制を
井}内ノ、
の荘園制 ・佃戸制の官回への普遍化を示すものとして注意
民国の小作
りかえは 官 の直営から 佃戸耕作とい う輩展の系列 で考えら
すべきである。と結論される 。 氏 の 意 闘 が
経営瞳制を官回が採用していることは、逆に民団ではそう
前述のよ うに 、結果はともかくとして、政府 は官田
れるべきものでは ない。
される。 しかしタ官による兵屯の直接経営は 成功せず、
の佃戸育成よ りも 、 その民田化、税役負携戸、濁立自営農
民育成 の方向を重視していた 。管 田はその 前段階としての
本稿では准南地方の一時期 の土地制度 を、若干の問題提
。
捉え方はうのみに できぬ と思 う
確に出来ぬ が、営団の中で佃戸制 が大 いに 霊展したとい う
の佃戸制化を一示すもの である。 まして 兵 屯 を鹿 退して民
しかも 麗代軍兵中最
暫定措置的色彩が強 い。営 団戸の 分解過程 に ついては今明
兵屯 は耕作者として不適首 な
ぬ。という登言には承服 しかねる。
付
も劣惑と帯される宋の軍兵を努働力とし、荒地開墾よ り は
-4
6ー
口
国
同
屯 に切 り換 えていることは 佃戸制 の普遍化と いわねばなら
兵屯 に於いてカ耕官兵 に枚穫 を分給していることは、兵屯
又
した髄制 が普 遍的で あったというこ とだけ ならば 一臆納得
4
1
4
4
1
5
おろか、官田だけに限ってみても極めて一部分の論究にす
一ホを含ませつつ論述してみた。宋代の土地制度問題全種は
大夫許調官、絡賀陽寺観、商貿使居市、農家給回種作。城
(要録十二)
中停問、皆大働。少頃、金兵四面縦火、重騒城中人、入木
寒中。後四日、擁之而去。中塗量給食、細民之死者殆輩。
ぎぬが、雨漸・江南先進地域のそれについては、次の機曾
文献通考・昌也四にあげる元豊年間の国事仲街・中書備制到の全
園墾回数からみれば、雨准の墾回数九十六蔦八千徐頃は、
それを二分して四十八蔦四千頃としても全国二十四路中の
第一位にくる。因に爾掘削は三十六高二千頃、江東は四十二
高一千頃、江西は四十五高頃と記録されている 。
また曾要食貨六一、水利回の昨慨には、照寧三年から九年
までの全国水利回敏をあげるが、その総数約三十六高頃の
録︹或錆業︺而無力耕種者、仰提翠常卒司、審量等第、倍
貸銭糧、腹買牛具之類。候将来政成目、分三年逐料静納 。
人 戸 、 仰 監 司 守 令 、 多 方 招 誘 錫 業 。 内閣︹閣疑作閥︺食不
能自存之人、依災傷七分法、賑給 。興菟今年夏秋積 。雄業
建炎元年五月一 目。 (前略)態因金人所至州豚、規掠逃避
こ
ャ
つ
。
をみよ。
その例は曾要食貨六九、逃移に多くみえるが一つあげてお
細︹細或紬歎︺絹九十徐首問、其他可知 。劉大中言 。准南桑
廊之宮、不滅京東。而魚聾之利、他虎莫比。今荒残可情 。
月 丁 来 。 ( 前 略 ) 上 日 。 准 南 利 源 甚 博 。 卒時一路上供内競
低い地域とは言えなかった 。要録。倉一一九 。紹興八年五
うち爾漸が十高、爾准が七首同五干頃を占めている。その
他茶・堕・布息の差額などの黙からみても決して生産力の
①
①
に稿を改めて考えてみたい。
時期を限ったのは、史料上の制限と筆者の力不足によるも
のである。乙の貼抽血めお断わりし、他日を期したい。
必ずしも准南に限らぬが、建炎はじめから紹興三年とろま
で、各地に群盗が蜂起し、州師牌城を占媛し、掠奪を行っ
た。知慶州胡舜捗の言う、今准南盗賊、大者数高、小者数
千(要録二五・ 時間炎三年七月甲 申)のように彼らは 集圏で
あばれまわった。
乙れは直接准南のことではないが、紹興元年正月美亥。監
察御史韓瑛言 。 (前略)自江西至湖南、無関郡鯨奥村落、極
目灰燈、所至破残。十室九空 。詞其所以、皆縁金人未到、
州。 (中略)城破、悉矯金
而潰敗散之兵先之 。金人既去而漫逐之師総至。官兵盗賊、
規掠一問。城市郷村、捜索殆遍。(要録四十一)のような
e 是目、金人焚 郵
状態は准南でも普通であったろう。
一例として 郵州をあげてみよう 。
建炎二年正月壬子
有。金叉需百工 ・伎婆人 及民間金需、如根括京城之法。凡
再旬乃室。至是終退師、使人議城中富民、令献犀象金銀、
以謝不死 。城中人既出 。 (中略)尼楚赫縛令、喝誠北遜。士
-4
7ー
①註
②
①
①
6
1
4
(曾要食貨六九ノ四五)
乙れは直接営団とつながらないが、
紹 興 六年 六月 甲 辰 。 新 知 那 州 王 庶 、 知 荊 南 府 粂 荊 湖 北 路 経
略 安 撫 使 。 荊南回世骨同盗残 。 庶 奥 士 卒 、 披 荊 線 、 致 財 用 。 治
、 食 民 室 底。 関 市 直 、 如 承 卒
城陸、 繕 府 庫 脱 会 。 翠 修 陶 瓦
時 。 流 府 四 集 、而 喜 目 、 公 可 侍 、 我 其 安 於 此失 。 庶 目 、府
廊 未 充 也 。 乃下令、 有欲五回問者、同時耕其中 、 吾 不 汝 賦 。 有
(中興雨朝型政十九)などは地
能 持 吾 銭 、 出 而 得 患 者 、親 其 息 奥 去 之 日 多少 、 授 其 職 有
、 得以養
差 。 武吏宇出脳血令 。 未 幾 、 選 輪 其 息 。 府 庫 大 充
兵、途成軍、 隠然尽雄藩。
方官 が そ の 地 の 復 興 に 大 き な 力 が あ っ た こ と を 裏 書 き す
o。
'
紹 興 元 年 十 一 月 十 四 日 。荊 南 府 防 峡 州 荊 門 公 安 箪 鋲 撫 使 解
滞言
。 降差公安知豚承議郎孫侍、措置管因。僑任内、布
種、期中先緋集 。於 民 不 援 。 比 之 一 路 、 頃 畝 最 多 。 銃 効 忠
、 宜 加 褒 賞 。 詔 孫 傍 可 特 鞠 爾 官 。 (品目要食貨六三ノ八六)
勤
また 、 紹閣内四年八月五日 。 侍 御 史 貌 紅 論 准 東 屯 国 利 害 。
(中略)胡松 年封。 屯 問 唯 荊 南 解 潜 略 措 霞 。 徐皆虚文相刑寅
陳規の営団については、要録四十九、紹興元年十月丁未、
効。(玉海一七七)
並びに曾要食貨六三ノ八九、紹興三年二月七日出慨を参照 。
紹 興 四 年 九 月 乙 卯 。 殿 中 侍 御 史 張 致 遠 目 。 准商品園田、四五
年間、不問獲斗粟之用。是必有不可行者。況士卒騎惰、官
録八十)
要
吏萄筒、日復一日、品回復一歳 。 安 得 不 解 弦 而 更 張 乎 。 (
⑪
。
加 藤 繁 博 士 。 二都督張俊 ク (支那皐雑草所収)参 照
。
一
⑫ 紹 興 三 年 二 月 七 日 。 ( 前 略 ) 臣 僚上言一 凡 授 田 五人
母
国
命同 食 貨 六 三 ノ 八 九 )
申。 (
市
主
、
紹 興 六 年 四 月二 十 八日 。 (前略)今欲乞、下 償 問 州 軍 終
、
⑬
、 依 宮 荘 法 。若 大 段 不 成 片 段
帝国土 、 如 人 戸 情 願 承 佃
崎明
曾 要 食貨六 三 ノ 一O 四)
中略)従 之。 (
令別項椿管 。 (
紹 興 六 年 二 月 七 日 。 ︹ 目 元 作 月 ︺ 措 自 営 団 綿貫賓等言一 。 若
有 元 地 主 的 業 、 令州師柿験賞 。許 錦 業 人 、 別 行 指 射 郷 近 荒 関
田 土 、 依 数 媛 濯 、 充 己 業 。 佃 戸 五 家 、 相 保 気 一荘 。若 未 及
五 家 、 許 先 次 相 保 。於 本 荘 内 、 嬢 佃 戸 援 田 耕 種 。 倹 佃 戸 数
紹 興 六 年 八 月 十 目 。 ( 前 略 ) 官 荘 、 除 己 置 十 荘 外 、毎 蘇如
足 、 依 己 降 指 揮 。従 之 。 (曾要食貸六三ノ一 O 二)
、
能 添置 、毎十荘、耕種就緒、 令 尉 各 奥 滅 二 年 腐 勤 。 (曾要
紹 興 三 年 二 月 七 日 。 一 、 臣 僚 上 言 屯田合用耕牛。今看詳
食貨六三ノ 一O 五)
近 接 盗 賊 屠 殺 、 例 皆 閥 少。 江 北 諸 鎮 、 残 破 日 久 、 紹 無 販
頁 牛 畜 。合 随 宜 措 置 。制 令 諸 銀 、 勧 誘 兵 民 、 倣 働 古 制 用 人
耕之法、毎二人筏一一輩。 初 時 雄 梢 資 力 、 及 其 成 熟 、 工 用 相
等 。 (曾要食貸六三ノ八九)
紹興二年四月十目。(前略)昨承指傷、於穣貨務、支降見
、
銭 五 高 貫 、 充 准 東 人 戸 借 貸 、 枚 買 牛 具 。縁 本 路 牛 畜 償高
要
同
合
欲 分 遣 官 、 前 去雨 漸 江 ︹ 或 脱 東 字 ︺ 路政回目 。 従 之 。 (
年 四 月 十 五 日 の 泉 ・ 繭 ・樟州
食貨六三ノ一九七)・紹興四、
ζ
=
o
・興 化 率 の 簸 剣 ら の 耕 牛 買 設 に 封 す る 恩 賞 (曾要 食 貨 六 三
・ 紹 興 七 年 四 月 庚 子 。 (前略)寄養之牛、来自
ノ一
- 48-
⑬
⑬
⑬
⑪
⑦
③
①
⑬
4
1
7
費西。(要録一一 O) などを参照。
紹興八年三月十四日。中書門下省言 。比年人戸漸次館業、
築事回畝 。 全 霜 耕 牛 布 種 。 訪 問 、 人 戸 貿 販 耕 牛 、 州 豚 往 往
校税遜阻。(曾要食貸一七ノ三七)
紹興六年七月二十八日 。都督行府 口。 訪 問 、 閲 耕 策 関 田
一
吉
一
土、頗慶工力。欲望、終初年収成
課子、旦令 官 枚四分、客
戸枚六分 。 次 年 以 後 、 邸 中 停 均 分 。 今 後 請 佃 官 荘 、 並 依
此。従之。(曾要食貸六三ノ一 O 五)
紹興七年十月二十五日 。 詔。諸路島園田宮荘、枚到課子、除
椿留次年種子外、今後且以十分矯率、官枚四分、客戸六
分。(曾要食貨六三ノ一一一)
淳照十六年五月四日。(前略)本部照得己降指揮、笹田宮
荘、州師肺除椿出次年種子外、終初年牧成課子、官枚四分、
客戸校六分。次年以後、卸中卒均分 。 (曾要食貨六三ノ六
一)なお淳照十年五月十三日(曾要食貨六三ノ一五四)な
ど。
紹興三年二月七日 。 (前略)陳規錆雷、見出務召人投獄、
経官指射、耕種閑因 。内水回毎畝秋納親米一斗、陸回毎畝
田所収斜斗、内除援馬料外、徐並懇銭、赴激賞庫迭納。縁諸
軍鼓用馬料数多、理合就援支用。(中略)所有小委雑豆、井
不通水路去慮、依奮例欄脚質。従之。(曾要食貸四O ノ=一一)
紹興六年八月十日 。 (前略)毎荘十 、召募第三等以上土人
一名、充監荘 。 (要録一 O三は募土豪、充監荘と記す)先
次借補守闘進 義 副尉、輿担問身丁‘依軍中例 、支破券銭 。候
校成目、比較所枚餅斗多寡、如合推賞、申乞補正 。 (中略)
従之 。 (曾要食貸六三ノ一 O五)
玉海一七七は紹興六年七月に懸けて壬申、詔提領江准晶画国
公事、置司建康 。焚 賓 潟 主 、 王 弗 副 之 。 是放政七十四蔦
石。 とするが、乙れは吟味を要する。
紹興七年二月突卯。(前略)去歳所用本銭二十三高縮 。
(中興雨朝聖政客十九の戸帖銭二十高績を本としたという
の と 大 億 一 致 す る ) 説 中 腹 雑 色 斜 斗 共 三 十 一 高 石 。 除客戸
タ (史事雑誌六十
六分井知遇令尉職回五種外、官賞枚十一高徐石 。 己粗償所
費也 。 (要録一 O九)が賓情であった 。
要録一 O九・紹興七年二月美卯係 。同一一 0 ・四月庚子 の
ノ六)・周藤氏論文頁三二六以下参照 。
右司諌王緒の上奏など。
日野関三郎氏 多
南宋宮田の附種について
その他笹田戸そのもの が宮植をかきに弊害を起すこともみ
られた 。周藤氏論文頁三二三l 五参照 。
紹興八年十一月庚子(前略)今営団悉藩︹疑籍 ︺於官 。 選
定之民、執空契、坐頑故土、而不得復 。 (中略)此 轡 田
之未便者也 。 (要録二三一)。
夏納小委五升、秋納豆五升 。 (曾要食貸六三ノ八九)
紹興二年二月丁丑 。 始 准 南 径 回 司 、 募 民 耕 荒 。 頃 収 十 五
斜。及是、宣論使侍忠卿言其太重。(要録五十二
紹興六年十月甲辰 。大 ︹
街字︺司農少卿奨賓請。沿江開田不
成片段者 。比民間例 。 止立租課 。 上等立租ニ斗、次減二升、
叉次一斗有卒 。召人承佃 。克一年租 。従之 。 (
要 録 一O六)
紹興二十九年九月一目。戸部言 。諸路諸︹諸或作州︺軍管
⑧
⑧
@
- 49-
⑧
⑧
⑧
⑬
⑬
⑫
⑧
⑫
⑧
⑧
@
4
1
8
至一分以上、並減磨勘年 。の以最勝一懸魚罰 。 (要録一五
中震額、毎路蘇令、以十分震率、取二分賞之 。歳攻増三分
紹興六年十二月壬子 。 司由民少卿提領江准晶画田耕民賓等言。准
南 白 兵 火 之 後 、 肥 鏡 之 地 今 多 荒 蕪 。 蓋因民戸稀少、怒於底
子、不在均分入官之限。(曾要食貸六三ノ一一七)
止。(中略)の絡閲耕宮田、毎頃別給菜回二十畝 。所政課
墾、以九分、給佃戸、一分担問官。三年後歳加一分、至五分
年種子外、作十分、以五分、蹄佃戸、五分締官 。初開
留次一
欲只理一熟 。如稲田叉種姿、の只理稲 。其 姿 佃 戸得枚。椿
人、就耕准南、開墾荒閑団地、締官妊者、品肺移穀萎雨 熟、
ノ一四)
紹興二十年七月二十三日 。 知 慮 州 奥 遺 言 。 土 豪 大 姓 諸 色
文武職、遇科場、並得赴縛運司感嗣事 。従之 。 (曾要食貨六
元数、許参選如法 。理名次、在武彦特奏名出身之上 。己上
尉、四千碩、補進武校尉力回出身。其被賞後、再開墾田及
尉、-千五百碩、補不理選限終仕郎、三干碩、補進義校
義副尉、八百碩、補不理選限州助教、一千碩、補進武副
官荘者、放枚斜、五百碩、完本戸差役一次、七百碩、補進
立定賞格 。 土 豪 大 姓 諸 色 人 、 就 耕 准 南 、 開 墾 荒 関 田 地 、 蹄
動誘土豪大姓、赴准南、従便開墾田地、質 潟 永久之利 。今
回以庚官荘 。自今放始 。 (中略)江掘削一泊建、委監司守臣、
置力団之科、以室勤農之政 。募民就耕准旬、賞以官資、関
方式の採用がみられる 。
紹興二十年四月二十七日 。左朝奉大夫新知慮州呉遺言 。請
が、部州で採退軍兵を耕作戸とした笹田官荘でも五頃一妊
慶元係法事類各四十九・銭高開門 。 なお准南から少し離れる
五)
φ
岳
飛と秦檎多が要領良く説明する 。
較笹田賞罰格 。其法以紹興七年至十三年所枚課利最多、酌
紹興十六年三月己亥 。 工部奏、立准東江東雨掘削湖北諸蘇歳
推移は、外山軍治氏
法。故有是旨 。 (
要 録 一一一)
南宋はじめからこの頃まで、 特 に宋・金交渉を中心とした
若不専委帥溜、就近措置、深慮、卒無増旋、翻致駿弛成
繍措置 。提領官焚賓王弗、倹結局、還行在 。 (中略)中審乃
言。自置営団司政年、己有成効 。但路分閥速、難以周循 。
剣官時間燦(中略)並粂提領本路管回。の督責州蘇酋職官、接
紹興七年六月乙末 。 寵江准 営 団司。以一阻徽猷閣准東柿時速
成文化して少しは賀行されたらしい 。
これは曾要食貨六三ノ一三七、乾道元年二月の昨慨をみると
臣五員、軍兵二百五十人 。 (要録一 O七)
乞以田五十頃、箆一屯、作十荘 。差主管柏村領一員・監轄使
人、中停均分 。請 給衣糧、並不裁滅 。 (中略)如家禽允、
牛具借貸之類 。其所収斜剤、除繕出次年種子、官輿力耕之
田作 。の差階瞬農事終領主管使臣監緒 。依己降指揮、官給
兵内、以十分矯卒、摘取下等一分或二分、霞立屯盤、使就
援係官空関無主荒田、倣古屯田之制、掛酌多寡、於所部軍
千里 。賊馬遼遁、遜境粛清 。欲望特降容旨、令諸大帥、療
湯折中が湘州に駐屯させられている)、而瀕准之地、阪土
帥屯成准上(宋史本 紀 では紹興六年六月に劉光世が底州・
行 召 募 。深恐所閥︹闘或閥︺閏土、不至大段増底 。今諸大
⑧
⑧
⑧
⑧
⑧
⑧
⑧
A
u
t
u
4
1
9
働者として、家族もろとも准南に出掛け、政穫などに従事
更につけ加えれば恐らく北宋時代から江南の民が、季節労
食貨六三ノ二 O五)
令諸路遇有請佃人、依准東事理、施行、優加存値。(曾要
軍人、鳳請佃荒田開墾人数。各己家媛、及支破請給皐。詔。
田。於楚・揚・泰州・時胎・高郵軍、共五十四荘 。招集流
淳照二年正月二十四日 。 工部郎中徐子寅言 。 近 措 置 准 東 宮
所倒、錫菟 。侯至十年、納賦税 。詔依 。所支課子‘奥菟五
年。 (曾要食貨六三ノ一四七)
付宮田所 。動議蹄正人耕種 。 (中略)所有課子、乞依宮田
荘 有 国 五 百 頃 。 乞勝二荘所管耕牛幾具屋字種糧等、議敏援
所罷屯田荘敷内、楚州賓臆蘇一荘、有国一百三十二頃、一
乾道六年十一月十日 。 (前略)徐子寅言 。 (中略)今縞見、
原文は曾要食貨六三ノ一四回、乾道五年五月十七日の篠参
照。
鯖朝・忠義人の定義をのせる。
なお朝野類要各三の。錫附等少には、簡正・鶴順 ・錦明・
往用情計燭州豚、前来識認録業。因生詐官、漸壊成法、故
有是命 。 (曾要食貨六三ノ一一八)
田、経今年歳深遠 。人戸震見笹田所耕田土、並各成熟、往
建 炎 兵 火 之 後 、 人 戸 掲 棄 己 業 逃 移 。 並各荒滋 。 自置作品園
識認脇田因 。奥依劉賓軍荘例、償工本銭給透 。先是戸部言 。
銭五千五百。従之。尋詔諸路倣之。(要録二ハ四)
紹興二十三年九月十二日。詔 。諸路州軍営団、遇有人声
紹興二十三年三月丁末 。銀江府駐刷制御前諸軍都統劉費
乞。令民戸議認軍娃営団者、毎畝賞︹賞或作償︺関耕工本
屯田・脇田田一例づつあげよう。
したことが知られる。こうした事貨をもふまえて、政府は
豪民を輸とした乙の営団策をうち出したのであろう。
建炎以来朝野雑記、甲車世八(爾朝綱目備要各一ニ﹀ぷ陳子長
築紹照堰クにいう 。雨准土沃而多鎖。土人且耕E種 。不得
総持而其牧十倍。漸民毎於秋熱、以小舟載其家、之准上、
震准民穫 。国主僅牧十五、他皆矯新人得之 。以舟裁所得而
館
。
紹興十八年十一月笑卯。(前略)先是、(箕)州残於兵。
民之箔漢未復 。 (洪)興組至 。卸上疏請復一年租 。従之 。
明年再疏、叉従之 。自是流民漸舗 。途誘温戸、墾荒田、至
乾道三年九月二十五日。(前略)昨本路帥臣回目透、於紹興
二十年、申請招誘江新繭建豪民、至本路、従便請佃荒田 。
七寓徐畝 。 (要録一五八)
援所校、以十分之一一戦官。三年之後、議増一分、至五分而 止。中縁兵火錨放 。至今歳再行起索 。乞終上頂租課、援付
紹圏内二十七年七月十四日 。申書省言。准東等庭、有採汰
頃 。令所在州軍、支請給一年、以篤牛種之費 。の亮十年租
税、二十年了役 。従之 。 (要録一七五)
人、養購不足、無以自存 。室 於 江 准 湖 南 荒 田 内 、 人 給 一
紹興二十六年十月己酉 。御史中丞湯鵬翠言 。 離 軍 添 差 之
宮逃回、以自施 。従之 。 (要録一五六)
紹興十七年五月卒未 。申書議、令軍中擦退人、耕江准京西
本司。充激稿民一腔支用。従之。(曾要食貨六ノ一七)
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十九日指揮 。措 置 屯 因 。 乞 以 五 十 頃 、 徳 一 屯 、 作 一 荘 。 差
主管将領一員 ・監幣使臣五員 ・寧 兵 二 百 五 十 人 。 (禽安
移鋪正種田人一千三百一十五名、老小五千四百二十七日、
議 造 屋 字 二千四 百 四 十 九 閥 、 給 付 耕 ︹ 脱 牛 字 ︺ 井 後 具 。開
食貨六三ノ一三七)
ば、同年十一月壬子氏出された焚賓の上爽と全く同じであ
O 七 によれ
紹興六年の指揮は直接みあたらぬが、要録 一
墾田九百一十四頃九畝。詔徐子寅、特興特一官、減二年腹
世 九十一、 直秘凶賢策 提刑徐公(子寅)行状
出
提
州似抽刷、攻拠 州
助 。 (曾要食貨六一ノ三五)
を補われる(頁三五四)。
周藤氏は管楽を加之と讃まれるが、或は加は如の識ではな
曾要原文は脱誤があるが、計算してこを補う。周藤氏も二
分 回 百 二 十 畝 、 通 用 牛 ニ 頭 。 (曾要 食貸六三ノ 六一)
一、見管屯田五百七頃、耕兵千百徐人 。 今 乞 依 古 法 、 毎
五人、授水田一頃・陸回二三畝 。所 有 牛 、 合 六 人 気 一甲 。
紹 黙 元 年 十 二 月 九 日 。知 和 州 劉 焼 、 措 置 到 本 州 屯 田 事 。
(曾要食貨六三ノ五=一)
内差甲頭一名 。 十甲矯一保 。計六 十人、差使臣一員管押 。
頃 、 令 三 人 分 耕 。 傍 人 省 三 十 三 畝 有 奇 。毎 六 人 魚 一 甲 。 於
淳 照十年九月二十三日 。 (前略)一、今相度 。欲。毎回 一
ら計算すれば一妊卒均二百十四人強、一人二十畝とすれば
四十二頃強、三十畝として六十四頃強となる 。
五軍 七荘一千五百 徐 人 。 (曾要食貨六三ノ一五一)乙れか
十荘と改めた万が遁笛 。
乾道八年七月十四日 。 (前略)且以底州合肥一師師、言之 。
加わっていることからも、乙れは円以前に一度手がけたもの
を再び行ったことは明白である 。 き す れ ば 文 中 一 妊 の字は
るから、それをふまえて出されたものである乙とは疑いな
い。特 に 紹 興 の 准 南 管 ・屯田 の推 進 者 王 弗 が 乾 道 の計盤に
而人不足 。﹄旬以骨同病 。比年、師正之人甚衆、分庭州郡、仰
給大銭 。 徒有霊山封、猶息不給。臣嘗因胸勘餓正人公事 。嘗
以諸問之、皆以矯飢寒所迫、不得己而潟此 。 若 得 官 備 耕
具、使治准上荒田、以蜘其口、何苦犯法裁。臣払打其言、耐禍
叫目淘究准上治田之具 、登 録招 一家 、必 首給銭百二十絹。以
其ニ買牛、一周局室底采穀之資。是知滋上不惟人稀、牛亦殻
得 。 とある。
乾 道 二 年 十 一 月 十 七 日 。戸 部 言 。諮 路 管 回 、 己 降 指 揮 、 令
常卒司出国民 。 (曾要食貨六一ノ=一O) に総量、、乾道三年六
月一目 。 (前略)詔 。除 四 川 外 、 徐 路 管 田 、 可 令 疾 速 出
資 。 (向上)とあるが、乾道四年八月三日には、詔 。諮路
常卒司、見資戸紹波宮田遊及諸州未賞品百回 、 並 日 下 住 質 。
依奮拘枚租謀 。 (食貨六一ノ一二一)とな る。そのの ちも、
乾 道 八 年 冬 十 一 月 。 是 月 詔 。宮 田 、 除 雨 准 京 商 路 、 不 行 出
費。 際諸山阿波宮閏産屋字、弁営団、並措置出寅 。 (中町阿南
朝聖政五十二と雨准は除外され、乙れも淳照二年には是
品腕(中略)商務官回。(中興爾朝型政五十四)という結果
におわる。
乾 道 元 年 二 月 二 十 四 日 。 (前略) 一、検準紹興六年十二月
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によれば、(前略)陛馳附笑 。雨准議後回屯田久突 。地有徐
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行論に関係は少いが、この部分、特に屋幾のあたりに謡誤
があるように恩われる 。
耕兵の教はこ乙では明示されておらぬが、牛の額から逆算
すると三千人になる 。 それから計算すれば、家屋は一人一
問、五人で牛屋・倉販が一聞ということになる 。但し本嘗
に一千頃屯回が寅施されていたか否かは疑問 。
極く大雑把に宮兵の給料をみると、中興爾朝聖政・各九・
紹興元年三月戊成朔のほ慨には、自駐路南京以来、軍土日給
百銭、比数十日一一稿設 。 とみえ、また直接屯臼に関係した
除存留種子外、重行給奥力耕宮兵。第二年、除種予外、以
十分震率、宮枚二分 。 第三年、除種子外、以十分箆率、官
牧三分。四年所段物斜、除種子外、十分矯率、宮枚四分 。
要食貨六三ノ五四)なお次註参照。
其徐給輿力耕官兵 。以 後 年 分 、 並 止 以 四 六 分 枚 給 。 (
曾
南宋代屯田がはじまった時から屯田の校穫で月糧がまかな
われたかどうかは確謹はない 。 紹 照 五 年 二 月 二 目 。 臣 僚
言。縞見。和州屯田耕兵月糧 。自紹 照元年 夏草之 後、不於
大軍倉支請。却将諸荘毎年所収稲、先次稽留一歳月糧並種
子外。有絵方給。不用向来四六分之例 。 (曾要食貨六三ノ
紹照元年十二月九日。(前略)一、併︹併或作耕︺兵月
六三)と、これに照商略する、
糧 、 乞 径 以 稲 折 支 。 毎 石 止 枚 三 斗 ニ 升 。 政割畢目、毎一
歳合支口食稲井稲子稲入官外 。其徐登令耕兵、就場分受 。
(曾要食貸六三ノ六一)から考えると、屯田の枚穫稲殺は
枚穫期にまとめて官倉に迭られ、再び月糧として支給され
るのが普通であったとみられる 。
周藤吉之氏。南宋に於ける姿作の奨励と二毛作。(宋代経済
史研究所枚)の第三章第四節参照。また氏は小委雑豆が換
J
牧穫物がどの段階で
金されたことにつき、商人の存在を推定しておられる 。私
も ζうした面の遁及が必要と思うが
商人 の 手 に 渡 っ た の か 、 現 銭 が 直 接 耕 作 兵 の 手 に 入 っ た か
どうかといった乙とをも慎重に検討しなければな るまい 。
淳照 十五年二月二十三日 。 (前略)正勝一員雀彦、部轄遊
笑前右軍屯田粂充線轄本司官兵事務。副将一員劉業文、部
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ものとしては、昨昨季宣の浪語集・倉一九・論管聞に、一、
脇田国之卒
(ζ の 場 合 の 営 団 は 屯 田 を 指 す H筆者注)。一
人、墾地約二十畝 。歳得穀六十碩 。其奉銭月三貫・米七県
五升 。歳計銭三十六貫・米九碩 。而 衣 賜 不 奥 。管轄宮校、
大約什置一人。誇俸或十倍子兵。とある。乾道年間の准南
の義兵の給興が自に銭百・米ニ升(曾要兵一ノ二八)など
から考えてもこうした線が標準とみて良い 。
紹興時代の屯田では、六年十二月壬子 。 (中略)其所校創
割問、除椿出次年種子、官輿力耕之人、中停均分。請給衣
種 、 並 不 裁 滅 。 (要録一 O 七。 ζれは上奏文であるが、
ζの 線 で 賓 行 さ れ た と し て 良 い ) と あ り 、 ま た 乾 道 六 年 二
月二十八日に は(前略)屯田元是軍人開墾 。官給種子等 。
場
令。
所攻花利、主客中半分受 。 (曾要食貸六三ノ一四九)とあ
淳県十年九月二十三日 。 (前略)今欲将第一年所収物斜、
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人・魁猷二人 ・将司二人・将官下臼直二十人。(曾要食貨
轄中左後軍屯回。小管押 二 ・ 監 荘 使 臣 一十七人・ 宙 人 二
詳しくあげるが 、員・ 揚 ・通・泰 ・楚・ 絵州 ・仔 胎 ・高郵
七日には、准東各州 の係官 荒田・人戸請佃在戸来耕荒田を
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三)
例えば、隆興二年十二月十目 。徳 音。赦楚・務・濠・底・
盈石篤城 、 周 囲 四 里 、 民 之 願 依 者 、 凡 高 齢 人 。 ( 要 録 三 十
襲、殺獲頗多。 (曾要方域 一九 ノニ二)
建炎 四年五月戊申 。 (濠州土豪王)惟忠乃嬢韮山盛岡築。
山築・肺胡阿育二水築、在庫州則有浮援方山等案 。 在徐州
則有濁山等案 。毎築多至 二高 徐家 。 遇虜騎至、則出由民掩
建炎四年六月四日。臣僚言。切閥、江北諸郡之民 、 有誓不
従賊者 、往往自矯築柵 。群衆以守 。在和州則有鍵山鎚鏑 ニ
(曾要方域一九ノ二六)
一例をあげれば、隆輿元年十月二十七日 。 臣僚 雪。 准上諸
一
口
郡民兵、結集於州豚城郭者、震山築。在外之郷村者、潟水
祭。所調守領者、多卒時富豪精 批、可以熔動一郷者 篤之。
察として政府によって作られたも のもあったろうが 、それ
は暫く考慮外におく 。
これら諸家の中には元来、雨掘削地方にみられるように 巡検
。
ノ
三﹁
八十)などからみても、必ずしも少い盆ではなかったろ
失所者茜衆。而准句耕夫、往往多在南方 。 樵務不給(要録
は、いずれ江南の土地問題 ・都市閥題と関連して詳細に考
えたいが、紹興四年九月乙卯 。 (前略)今江北流寓之人、
准南の流民が江南でどのような生活僅系にくみこまれたか
軍で計 三部五千頃となる 。
臼直各一人の割合であるが、紹 照 元年の和州の屯田は兵千
六三ノ六十)が一番 くわしく、大約兵五十人に管荘使臣・
五百人 に使臣 ・白直等が九十二人(曾要食貨六三ノ六二)
で、管荘使臣一人に臼直等 人が二人と推測される 。なお註
論屯田事宣山少参照。
@及び定祷集品竺ニ 。
一季一次
殿前司出成宮兵、先次班師。馬歩軍司節次起設。欲於本司
ニ 例をあげると、
一・
乾道元年正月十二日 。主管侍術歩箪司公事郭振言 。得旨 。
諮軍人内、共存留一千人、在六合鯨 、看守管案。
曾要兵五ノ 二一)。
更替、勝司休息 。従之
乾道四年九月十五日 。 主管侍術歩軍司公事玉柑明言 。本司有
出成六合三千人兵 。至今牢載有像、欲於本司諸軍、差援官
兵二千人。終帯随身探申。差将官 二員、部押前去六合、 屯
駐交替 。先差出人、陽司休息 。今 後 乞 半 年 一次 交 替 。 従
曾一安兵五ノ 一
)
ニ
一
一
之。 (
淳照 十五 年二月 二十三日 。 (前略)一、所 差耕兵等各家老
小。候 見 修 築 呼 梗 磐 田 、 本 司 郎 便 経 由 所 属 、 分 感 各 人 券
歴、差媛人船、津裂前去 。 (曾要食貨六三/五九)
これについて詳しくは周藤吉之氏多南宋稲作の地域性。
二 三参照。
(宋代経済史研究所蚊)頁 一
乾道元年 二月 二十四日 。 (前嶋)近取曾到揚・楚州 ・高郵
・好飴箪 ・天長豚、見管係官荒田共 五高八千徐頃。(曾要
食貸六 三ノ一三七)、また曾要 食貨六ノ 二十、乾 道 七年十月
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備銭糧、糾集郷兵、把被閥陸。或曾戦闘、或能保護郷井、
光州・好胎︿中路)高郵軍、感州豚土豪井山水薬首領、自
有功者、仰逐州軍守臣、関具保明、委帥臣監司、覆賞、申
も官を奥えたといえぬが、大健は名目的な下級官を貰うの
偽書省、取旨推恩 。 (曾要兵一ノ一一一一 ) ζ の推恩は必ずし
が普通だったと考えられる。
路諸州軍、己籍山水築伍民兵、感三丁以上主戸、選取壮丁、
乾道五年九月八日。措置爾准宮田徐子寅言。(中略)終本
交が准南山水薬の民兵組織規定であったことが知られる。
赴州数閲一月 。 (曾要兵一ノ二八)。乙れによって次の一
乾遵四年十一月四目 。 詔 。 令 雨 准 守 臣 、 以 戸 口 多 寡 、 於 三
丁 、取其強枇者一名、籍篤義兵。於幾隙数開 。 自 十 月 食
頭、五月終放散 。毎人目支破銭一百文・米二升。総首日支
銭二百文・米三升。(曾要兵一ノ二七)
度義には これも 営 団 と し てよかろうが、一昨聴区別してお
,ε
、興二年四月十八日 。中書門下省言 。諸路州豚人戸、因兵
。
紹
火逃亡者田業、二年外、許請射 。在十年内者、雄己請射、
並許地主理認錦業。佃人己施工力者、償其費。(曾要食貨
六九ノ四九)
紹興三年二月七日 。 ( 前 略 ) 陳 規 措 置 人 戸 荒 田 及 逃 戸 宮
田、被人指射耕種及軍兵耕種者、立限二年鋳業 。 (中略)
過限者、宮司並不受理。昨紹興二年七月九日、己得旨、展
みられる。
作三年 。 (曾要食貸六三ノ八九 ) ζ れは以後賞施されたと
紹興三年夏四月丁未。(前略)卒江陥敵之民、所棄之回世間
六千絵畝。多有奮佃戸主之。(要録六十四)
団、不可数計。(中略)第使耕種目慶、便潟大利 。 張 守
紹興七年四月庚子。右司諌王緒入封。(中略)如爾准問
目 。但地無瞭土、則闘用足 。上自然 。 (要録一一 O)
多係膏股之地。蓋篤人戸初年開墾、費用浩大
6
叉放菟課
紹興二十六年三月二十八日 。戸部 言。京 西准南係官閑回、
子、年限不透 。是致少人誘佃。今欲縛運司 行下所部州豚。
多出文携招誘 。 不 以 有 無 拘 破 之 人 、 並 許 踏 逐 指 射 請 佃 。 不
限頃畝、給先投獄之人 。 (曾要食貸六三ノニ O三 ) 但 し
普通 Kは見任官・信道・公人・吏人などは官田講佃の機利
がなかった。
乙れはむしろ錫正人型借田に近いともいえる例だが、紹興
二十九年十二月十六日 。 (前略)准東州懸、関田甚多。今
欲勧誘民戸、増資力団 。先次係重下項 。 一、乞 終本路招誘
所直。倹種田見利、立定分敏、逐年次第還官。(曾要食貨
到人戸、先支借口糧、次給幾器牛具種子、蓋造住屋 。 葬計
六ノ二ハ)なお曾要食貨六三ノニ O 八・紹興二十六 年三月
請佃戸の税戸への移行は法令上多少 の差違がみら れる 。た
二十八日の係参照 。
多課子多については山内正博民。南宋の課子多(重松先生
古稀記念九州大田牢東洋史論叢)がくわしく説明する 。
とえば、
紹興二十六年三月二十八日 。 (前略)其租課(中略)承
佃 後 、 沿 遁 州 感 、 奥 菟 租 課 寸 年 。 近裏・次透州師脚、奥放
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菟五年 。の依己降指揮、 候承 佃 及三年、奥充己業 。許行興
)。あるいは
ニ
費。 (曾要食貨 六三ノ二 O一
乾道四年二月二十九日 。知町柳州李椿言。本州荒田甚多。
縁官邸起税 、途致逃 亡。乞募人 諮佃、輿三
往歳間有開墾者 、
︺ 三年六料 税賦 。 =一年之外 、以三 之 一輪官 。所
︹三疑作 苑
佃之回、給 矯己業 。至六年、滋増一分 。 九年然後金総 。或 元
業人有飾業者、別給荒田耕種 。従之 。 (禽要食貨六 ノ一八)
一例 をあげよう 。乾道五年正月十九日 。徐子寅言一 。雨 准 膏
映之回、多国周宮戸及管箪宮井州鯨公史、詑名諸佃 。更不関
墾、途致荒関 。乞限 一年、令見佃 人耕種 。如限満不耕、拘
枚入官 。別行給倒 。従之。 (曾要 食貨 六ノ一八)
浪語集省 二ハ 。 4奉使准回上 殿割子一 多 には安盟・祷春の
とととして、(前略)人戸請佃、類皆包括湖山矯界 。有 一
戸之産終臼履行不偏、而其総納不過斗斜。(中略)初索千
照蹴之 、有名田 一一畝而占地五七 頃者 。自耕 則無力、刻 請則
唱 。 (中略) 江南側従 人戸、来 准句者 。東極温台 、南 盤
需
必
珂辺、 西逮翰士口 、佐佐 有之 。土 人 包 占 航 多 、 無 回 可 以 耕
佃。以故失所者衆、来者甚怒 。 といっている 。
中略)且如 豪 強土 着 之人、虚占良問、有及 百頃者 。其賞
(
ζ の規定はそれよ り 先に出された、(准南)日久地未謹問問
力 不足 以循耕也 。貧窮流寓 之民 、栂負而至、而近郊之回謹
矯豪 強慮占 。とい う事態解決の請 願に 封するものである 。
紹興五年正月美酉 。 (前略)時准西 宣撫使 劉光世乞 。以所
置准東日 、於 准西封換 。 (中略)光世先在准東置回之時、
其所選幹瞥使臣等、惟揮利便膏腹者取之 。 (中路)今光世
以局局私回、印不復招誘人民個開業也。(要録八十四)
乾道元年八月三 目。敷文 閣待制張子顔 口。朝廷見今措置雨
一有水陸山田等地共 一
吉
、
准笹田宮荘 。臣於同県州及仔胎軍境内一
、
部五千 二百七十七畝 。謹以陳献 。詔。慣菌 、令戸部紐 計
州己産ニ高一千 八百 一十
、 以 HH
支降度版給還 。総而 張宗 元
三畝 。揚存中以楚州制品臨地問肺田三官尚九千六百 四十畝、 井牛具
船 屋 荘 客 等 献 納 。 並従所請 。 (
曾要食貸六三ノ 一三八)
周藤吉之氏ぷ木代荘園制の後遺 多 (中園土地制度史研究所
段、頁二二oi 一) 。
宋代官僚制と大土地所有 多 (頁九五
l 六)参照。
復業した戸に封しては 、 相 首長 期 間 の 錨 菟 が 輿 え ら れ た
なお、逃移せずにあくまで土地にしがみつき、或は直ちに
が、逆に地方官が自己の成績をあげるために、復業戸に直
ちに税役を賦課した例もみられる 。
の 指揮 の要貼はことに記されているが 全文をひくと、
山
閉
保
担
淳照 十一 年 六月二十七日 。 戸部 言。繋州路縛辺 司奉︹奉
或作奏 ︺検 準 皇祐 四年勅 。愛州路 諮 州官妊客戸逃移者、並
却勅餓奮施 。他慮不得居停 。 叉勅。施 ・斡州諮問肺主戸壮丁
、
・築終子弟等 努 下客戸、逃移入外 界、委照司 、重時差 人
計禽所属州豚 、遁 回、令箸諸問業、同助紙慮、把托遁界。本
司今措置 。乞遜照本路及施・斡州見行専法 。行 下 褒 ・施・
・溜等州、詳 此。如今後
︺
斡・忠・高 ・錦・淡︹決疑 作映
己前逃移客戸、移従他郷三 年 以 下 者 、 並 令 同 骨 肉 、 一 併 這
人戸陳 訴倫 般地客、郎仰照感上項専法、施行 。如今来措置
蹄奮主 。出勝逐州、限爾月飾業 。般移之家、不得机以欠負
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妄行拘占、移及三年以上、各是安生、不願館還、卸臨時後便
如今後被般移之家、の不絢三年限、宮司並奥遁選。其或這
。従之。(曾要食
戻強般佃客之人、従略人係法、比類断罪
貨六九ノ六六)
ここで言われている官荘は、
のであろうか。
κ
る筈である 。 それをわざわざ断るのは皐に念をおした丈な
(史事雑誌六十八ノ四)、草野晴氏。宋代の戸口統計上の所
謂客戸について。(史淵七十九輯)など参照。なお営団の
。
客戸について若平疑問な鮎がある 人民を召募した 時 Kし
ばしば、諸般 の差役 ・科配 を菟ずる という規定 が設 けられ
てい ることである。差役・科配の封象は常識的に主 戸 限
下、天聖三年十一月・四年六月などの各機)
佃戸・客戸の問題は、柳田節子氏ぷ木代の客戸について。
ていた・ものではないか 。 こうした官妊の例は編建地方にも
みられる 。 ( 曾 要 食 貨 一 ノ 一 九 、 天 稽 四 年 四 月 ・ 八 月 以
乾道九年二月四目。先是、資州言 。廃豚有脇田因。自階唐
以来、人戸翁佃岳刷業 。錐 名 笹 田 、 輿 民 間 二 税 回 産 一 向 。
(曾要食貨六一ノ一二三)と同じく、前代から引績き置かれ
⑧
天聖五年十一月。江・准・雨掘削・荊湖・一爾一建・贋南州摩
一定の篠件とは、例えば北宋に出された、
奮係、私下分回客、非時不得起移。(奮僚でも非時という
限定)如主人愛選、給奥惣由、方許別住。多被主人折勅、
不放起移。自今後、客戸起移、更不取主人四四由、須毎回吹
。
田撃目、商品且去住。各取隠使、邸不得非時衷私起移 如是
主人非理欄占、許経蘇論詳。(曾要食貨一ノ二四)にみら
れるように枚穫後の時期などを指す 。
の性格差を論じておられる 。宋代土地問題研究の現段階で
は、或る程度乙まかな地域的質建的究明が必要であろう。
差を考えねばならないという立場から、先進地としての雨
掘削、後進地としての荊湖及び四川の一部を例として、佃戸
校正の最中に、柳田節子氏タ宋代土地所有制にみられるこ
つの型 。 ( 東 洋 文 化 研 究 所 紀 要 第 二 十 九 冊 ) が 登 表 さ れ
た。氏も宋代の土地所有、地主・佃戸関係の解明には地域
︹補記︺
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