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文書 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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文書 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
聖書の中にある命
ヨハネによる福音 23
聖書の中にある命
5:39
前講では、30 節から 47 節までのイエスのスピーチを全体として捉えて、
そこに込められた趣旨を、できる限り筋を追って受け止めるような読み方に
徹しました。今日は、その中で一番中心と思われる 39 節のお言葉にスポット
を当てた上で、私の感想を付け加えます。
39.あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
「研究した」と言うが、まったく見当違いの「研究」をしていたのだと、
イエスは断言されました。この人たちは詳しく、熱心に、それこそ必死で、
聖書研究に生涯をかけたと言うのに、聖書が証しする中心を捉えることに失
敗しました。「何にもならなかった。惜しい!」と、イエスは言われます。
この人たちにとっての「聖書」とは、創世記から歴代誌まで(ヘブライ語原
典の順序による)全 39 巻の旧約聖書のことです。でも、イエスがここまで極
言されたからには、この時代のユダヤ人たちの「聖書研究」は、いったい何
をしていたのか―私たちも知らないでは済まされません。
前回の説明では、何か機械的に文字の数ばかり調べていたように聞こえた
かも知れませんが、決してそんなクイズ遊びばかりしていた訳ではありませ
ん。聖書の意味の追求ということでは、この人たちはもっと真面目な伝統を
大事にしていました。
「屋根の上のヴァイオリン弾き」というミュージカルを舞台か映画で御覧
になった方は、二つのセリフを御記憶かもしれません。「それは、しきたり
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聖書の中にある命
だ」“It’s tradition!”というリフレーンと、もう一つ、「それは、タルム
ードに書いてある」“It’s written in the Talmud.”という言葉です。その「タ
ルムード」という文書は、B.C.500 年頃から A.D.500 年頃まで、約 1,000 年
かけて作り上げられた聖書研究の文書の集大成で、これには有名無名のラビ
たち 2,000 人の研究結果がぎっしり詰まっています。その大半は、イエスの
時代までに出来上がっていました。主のお言葉の中に時々、「昔の長老たち
の言い伝え」(例:マルコ 7:3)という表現が出てきます。英語で言うと
“tradition”です。
1.惜しいかな……真面目なユダヤ伝承もキリスト証言を見逃す
このトラディション(伝承)の中には、聖書解釈における細目への適用規
則のほかに、真面目な深い研究や、魂を養う実践的な教訓も含まれていまし
た。細目の規定では、「安息日には、いかなる仕事もしてはならない」(出
エジプト 20:10)というその「仕事」に当たるものは何と何かの定義、どこ
までの単純作業はしても「仕事」にならないかの限界設定とか、また「第七
月の十日……贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければな
らない」(レビ記 25:9)と命じられているその角笛で、その祭日にはどん
な節を吹くのか、そのメロディの指定なども含まれますが、伝承は必ずしも
そんな細かい規定ばかりではありません。
例えば、次に御紹介するミシュナの部「アヴォート」の書に出ている言葉
などを聞くと、ユダヤのラビたちの聖書研究は、必ずしも軽薄で機械的なも
のばかりではなくて、生ける聖なる神の前に立つ「肉」である存在が、罪を
持つ者また死ぬべき存在として、どれ程の「畏れ」を持つべきかが明確な言
葉で教えられています。
「ラビ・ハニナ・ベン・ドーサは言う。すべて罪の恐れが彼の知恵に先立
つなら、彼の知恵は存続する。だが彼の知恵が罪の恐れに先立つなら、彼の
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知恵は存続しない。」この“存続しない”は、“軽薄な一時的な知恵に過ぎ
ない”という意味ですが、神の前に自分の罪を知る謙虚さがなければ、どん
な勝れた知恵も無意味だと、彼は教えたのです。
「すべて彼の業が彼の知恵に勝るなら、彼の知恵は存続する。だが彼の知
恵が彼の業に勝るなら、彼の知恵は存続しない。」これはヤコブ書と相通じ
る響きを持っております。
ユダヤ人の宗教生活は、三つの柱に支えられていたと言われます。祈りと
断食と正しさとの三つです。祈りは生ける神との交わり、断食はその準備と
考えられました。第三の“正しさ”(ツェダカー)は、困窮している人への
施し……つまり、自分の物を自分ひとりの所有と思わないで、苦しむ人と分
け合うことを、“正しさ”(義)と言ったのです。現代ヘブライ語でも“ツ
ェダカー”は慈善を表わす言葉です。
「ラバン・ガマリエルは言う。この世のなりわいを伴うかたちの律法学習
は素晴らしい。労働を伴わないなら、律法の学習は、結局は無駄であり、罪
を引き起こす。」―タルソのパウロは実にこの人の門下から出て、テント
職人をしながら福音の使徒になりました。
「ラビ・ヤコブは言う。この世は来るべき世に至る控えの間に似ている。
控えの間であなた自身を整えよ。……来るべき世での一時間の至福は、この
世のすべての命に勝る。」これは、「来るべき世で生きさせる生命力(慣例
訳語・永遠の命)」と言われたイエスの言葉の前置きに聞こえます。
今日のテキストの前半、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考え
て、聖書を研究している」の背後には、そういう真面目な伝統がありました。
真剣な人は、それ位の厳しさでモーセの書や、イザヤの預言や、詩篇の言葉
と取り組んだものです。しかも、その中でも一番の熱心主義を実行しようと
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したのがファリサイ派でした。
こういう素晴らしい伝統―聖書の学びの伝統を持ちながら、その一番大
事な所で、律法と預言者が指し示した中心から外れて、肝心の所に目を注げ
なかったというのは、惜しんでも余りある悲劇だとは思いませんか!(2コ
リント 3:15,16)ユダヤ人の勝れた伝統の悲しさは、彼らが自分の宗教的努
力は誇ったが、イエス・キリストを目の前に見たときに、神の子が見えなか
ったことです。この悲劇を正面から見つめて、律法と福音を見分けたのが、
タルソのパウロでした(ローマ 10:3)。
2.惜しいかな……現代の真面目な読者もキリスト証言を見逃す
日本の知識人と言われる人たちで、明治、大正時代に聖書に触れた人たち
は何人もいました。内村鑑三の門下でも、有島武郎、小山内薫、国木田独歩、
正宗白鳥、中里介山、志賀直也、武者小路実篤、等々。しかし、この人たち
は殆ど例外なく、イエスを主と仰ぐ信仰とは別の所へ行って終わります。そ
の後、芥川竜之介も、太宰治も聖書を読みましたし、何らかの形でイエス・
キリストに触れているのです。作品にも、イエスを取り上げ、またユダを題
材にした短編もあります。しかしこの人たちには結局、「イエスが神の子で
ある」とか、「イエスの血が人の罪の贖いである」という思想は、硬直した
狭い考えと見えたのです。まして、死から復活したイエスが、自分に命を与
えるという信仰には興醒めを覚えたのです。「その考えは狭い。もっと自由
な読み方ができるはずだ」と。
これらの知識人たちは、皆それぞれなりに聖書に触れました。それぞれの
流儀で自由に感動してから、自分の精神力によって独立して、聖書とキリス
トからは卒業して去って行きました。もちろん、ユダヤのラビたちのような
長い伝統を持たない学びでしたけれども、それでも、福音書やローマ書を味
読した上でのことです。ある意味では、イエスを目の前で見たユダヤ人たち
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以上に恵まれた機会を持ちながら、ついに肝心の所を読み取れなかった点で
は、同じ道を辿ったのです。
そういう一流の文化人の経験とは別に、もっと一般人の聖書との触れ合い
を考えても、開国以来、無数の日本人が、直接また間接に聖書を開いたり、
自分のイメージでイエスに触れようとしました。幼い時の美しい夢のように、
遠くから望み見て過ぎ去る場合もあります。日曜学校という所で(幸か不幸
か)キリスト教のワクチン注射を受けたため、一生免疫ができてしまい、大
人になってからは「キリスト教に罹らない」人たちもいます。トルストイや
ドストエフスキーの作品の中に見るキリスト教の思想を分析する人は多いで
すし、近年では、椎名麟三や遠藤周作を愛読して、「キリスト教の生き方や
考え方はこうなのだ」という知識を確保する人たちもあります。でも、そこ
から先は、その枠組だけは保って、イエスと聖書そのものとは、距離を保っ
て終わる人が殆どです。
キリスト教の葬式に参列して、その真面目さと簡素さに感動する人もいま
す。私どもの親類でも、先日、池田市内の教会での葬儀に出席して牧師の説
教に感銘を受けたという話を聞きました。「讃美歌も祈りも良かったデ。昭
さん、見てみ……」と、この人は、告別式のプログラムを大事に保存してい
ました。もう一人の親類は、「もし癌になったら、淀川キリスト教病院のホ
スピスに入れてもらって死ぬ」と、今から言っているくらいです。キリスト
者の死の処理の飾り気の無さ、死を前にした病人の扱いの温かさ……そうい
うものは、外のどこにも無いと感じているのです。そういうキリスト教の副
産物に、できれば与りたい。それに包まれて安心もしたい。でもイエスが自
分と関わりがあるとか、信じて服するのは「御免蒙りたい」というのが、大
方の正直なところなのです。
私などは、キリスト教のお葬式だとか、結婚式だとかは、そんなに感激す
るほどのことはなくて、まあ、他のにくらべて、いくぶん滑稽の度合が少な
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い……ちょっと清涼剤のように「すがすがしい」ことは認めますが、そんな
に大騒ぎすることはない。それより、その日葬られたその人が信じていたイ
エス・キリストをあなたはどう思うか……そこまで行って欲しいのです。そ
こへ行けば、天と地の違いが分かる。でも、葬儀に感動される方たちでも、
そこまでは行く人は稀です。
しかし、このような「距離を置いて」のキリスト教観察者や、教養として
の聖書研究に留まる人たちのほかに、更に「深入りして」聖書の学びと実践
に飛び込む、勇敢な人たちもいます。次に、そのような、もう一歩先まで行
く人たちの例を考えてみましょう。
3.生きたヒントを背景に……果たしてキリストは見つかるか
マリア・テレサに学びたい、シュヴァイツァーの病院で働きたいと、イン
ドやアフリカまで出かける人たちがいます。そういう方々への尊敬は私も持
っています。また、アムネスティの運動、特に「良心の囚人」と言われる政
治犯のための救済活動があります。私自身もその世界に少し関わった経験が
あります。内村鑑三の「求安録」を読むと、「脱罪術 其四 慈善事業」とい
う章では、著者自身がその中に飛び込んで、イエスから学んだことを生きて
実行してみようと、真剣に努めたことがわかります。真の信仰と愛に発して、
内から溢れるままに医療や救済の事業に専念される方たちも少なくありませ
ん。けれども、「自己を犠牲にしてこの道に献身すれば、キリストの信仰が
自分にも“身につく”か……」と、青年時代の内村氏のように、聖なる賭け
に身を投じる人もあれば、「復活したイエスを信じないで済むなら、この身
を犠牲にしてでも愛に生きたい」と願い、愛の実践にとび込む、誇り高い人
たちもいるのです。
ザビエルや初期のキリシタンの残したものを、大事に調べて伝えようとす
る人もいます。彼らはそれだけのインパクトを、後世のために残しました。
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聖書の中にある命
海の向うからは、17 世紀の米国の開拓者「ピューリタン」(清教徒)たちの
遺産が日本にまで及んでいます。ノアやアブラハムの時代から使われてきた
アルコール飲料を使わずに済まそう、というレジスタンスを勇敢にやってみ
たのは、彼らが初めてでした。聖書の時代の人たちが少しも抵抗を感じなか
ったものを、また、イエスご自身が徴税人や“罪人”らと酌み交わされた飲
料を退けてでも、世界を罪と堕落から守ろうとした彼らを、狂信の徒とみる
人もいますが、私は一つの良い伝統を作ってくれたと思います。「聖書の中
に永遠の命があると考えて聖書を研究している」真面目な人たちが作り出し
た一つの“型”として、今も多くの人に、「聖書の中には何かがある」こと
を印象づけています。
何より大きな変化は、聖書の影響と感化によって、家庭が清められたこと
です。イエス・キリストに触れた人たちが、二千年の歳月をかけて変えたの
です。しかもその改革は、アブラハムやダビデが考え及ばなかったレベルに
達しました。一人の夫と一人の妻との誠実を基盤とする「家庭」です。イエ
スが残された決定的な一言(マタイ 19:6)とパウロが教会の羊飼いの役目
をする指導者に求めた言葉(1テモテ 3:2)がその聖なる誘因となりました。
ある意味では、アブラハムやモーセの時代の伝統は壊されましたが、その代
わり、溯ってアダムの創造の時点で神のお心にあった基本線(イエスの洞察
による)に戻ったのです。「聖書の中には何かがある」という、読者への吸
引力は、家庭という基盤におけるキリスト教の成果からも働いています。
《 結 び 》
こうして、多くの人が聖書に触れ、イエスに触れて、さまざまなものを受
け継ぎました。そういう意味で、聖書が生み出したものに畏敬の念を持つ日
本人は多いのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書
を研究している」とイエスに言わせたユダヤ人とは、多分次元も違い、真剣
さも違うと言えるでしょうが、結果としては、主が悲しみを込めて「それな
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聖書の中にある命
のに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(:
39)と言われた状況は、今も変わりません。「本当は、聖書はわたしについ
て証しをするものだ」とイエスが指摘なさっても、「分かってます。そのつ
もりで読んでいます」と答えながら、「この私のためにイエスは死なれた。
私を生かすためにイエスは復活された」という聖書の中心が見えないのが現
実です。
確かに現代でも、「聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究してい
る」人の多い割には、この聖書が結局「イエスについて証しをするものだ」
という、肝心の所にたどり着く人の数は寥々たるものです。ナザレのイエス
という方が、私のために天の父が送ってくださった「神の子」であること。
この方が流した血は、神が私のために準備してくださった罪の贖いであるこ
と。この方の復活は私の復活を実現するための神の奇跡であること。この方
を信じて服することが、取りも直さず、天の父の意志に服する道であること。
父の思いのすべてが、このイエスという方に込められていること。それを見
ることなしに、「聖書を研究して」終わる人の、なんと多いことでしょう!
しかし、聖書の中に今も働く“神の息吹”(霊)は、その肝心のところに
目を開かせて、「聖書の内容のすべてがイエスにおいて初めて意味を持つ」
ことを、準備の整った魂には見せてくださいます。現に私自身がそうでした。
イエスの時代には、ヨハネやシモンの外に、タルソのサウロ、ステファノ、
また、アンティオキアやコリントやフィリピの信徒たちがそうでした。「聖
書は結局のところ、私に命を与えたイエスを証ししているのだ!」と誰かが
叫ぶまで、私たちは、神ご自身がその新しい命をお生みになることを信じて、
魂の畑を深く耕し、御言葉の種を蒔いて、その準備作業に励むことができま
す。考えてみれば、この私自身の場合も、その肝心のことに目が開かれるま
で、貴重な「神の時間」が費やされたことを、よく知っているのですから。
(1986/04/06)
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《研究者のための注》
1.聖書を「研究している」(:39)と訳されたは、「調べている(います)」
(口語訳,新共同訳)、「さぐっている」(フランシスコ会訳)等の訳語が充てられる
ように、「精査する,探り出す」意味の動詞です。
2.タルムードについては、山本書店の「原典新約時代史」の 562 頁以下を参考にしまし
た。安息日と贖罪の日に関する引用は出 20:10 と民 29:1 です。
3.有島武郎から武者小路実篤までの人名への言及は、山本泰次郎著「内村鑑三-信仰・生
涯・友情」の 262 頁によりました。
4.清教徒たちの「禁酒」の伝統は、人間をアルコールへの耽溺から守る安全策として、
知恵ある決断から生まれたことを私は認めます。ただそれは、ファリサイ派が「弱い
者が律法を犯さないように」律法の周りに作った「伝承」の垣根と同趣旨のものであ
ることを見抜いていることが必要です。「禁酒」する者が「清い」人で、「禁酒」し
ない者は「徴税人、罪人の輩」だと断じるに至れば、イエスの食卓に同席した人たち
まで裁く「律法主義」に堕するでしょう。
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