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ー 〈物語〉 の起源をめぐって管

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ー 〈物語〉 の起源をめぐって管
「
吉野葛」 論
- (物語 )の起源をめぐ って
宮
沢
小説の創作過程にま つわる苦心を小説にして書-と いうこと、
を生成させた 「
私」 の戦略に近付-方法だと考えるからである。
察す ることから見え て-る 「
吉野葛」像を措 こうと思う。それ
1
これは 「
吉野葛」 (
昭勲 ハ
年 一・.
.
;)に限らず、例えば志賀直哉
の「
菰野」 (
昭和九年E
:
;)などにも見られる手法 であるが'「
吉野
また、その際には 「
明治 の末か大正 の初め頃」と いう小説内時
間を重視し、この小説が歴史の中で持 つ意義を明らかにする。
てゆ-。二 つの物語系 の共通点と差異を指摘し、その関係を考
とを困難にしている。しかし、私はここで、「
私」 の歴史小説を
めぐる物語系と津村 の母恋 いの物語系を等価 に考え、論を進め
葛」 の特徴は、 「
私 の計画した歴史小説」とは別 に、津村 の母
(
秦)恋 いと いうもう 一つの物語系が 1応 のまとまりをも って語
なお引用文 の表記は、漢字 に ついては旧字を新字体 に直し、
平仮名については旧仮名づか いをそのままにしている。
「
少年時代 に太平記を愛読した」「
私」が、自天王を中心とし
た後南朝 の歴史小説 の実地調査 のために吉野を旅した のは 「
既
2
が、歴史小説 の計画とそ の挫折と いう経過 の中 に、 1つの物語
られていることであろう。しかも、「
私の計画した歴史小説」が
断念されるのに対し、津村 の母恋 いの物語は或る 〝完成 〟
を見せ
ているとも読める。これが 「
吉野葛」を巧妙 に仕組まれた母恋
いの物語とする読みを促しているとも考えられるのだが、そう
してしまうと歴史小説 の計画に基づ いた 「
「
私」 の吉野川遡行の
部分は(
、
やは-やや長すぎ る 「
語り」 の枠組だと言わなければ
)
ならな」-なる。こうした事情が、「
吉野葛」 の全体像を措-こ
47
モノであるのか'北朝 が こセモノであるのか、ある いは、そ の
に二十年程ま へ、明治 の末か大正 の初め頃」 であ った。花 田清
輝は、丁度そ のころは 「
南北朝正閏論 - つまり、南朝がホ ン
(
6
)
翌年 四月から使用させ ている。 つまり、南北朝正閏論争は、明
治 四四年前半 に非常 に盛 んに論 じられたが、 そ の決着も早-、
の中 では、これは、史実や事実 に基づ-学問 の客観性、中立性
南朝正統派 の 一方的勝利 に終わ った のである。近代史学 の流れ
が政治的圧力や道徳 に基づ いた粗雑な歴史観 によ って涙じ曲げ
へ
7
)
られた、「
近代史学 の挫折」として記憶され ている。しかし'論
の政治的な情熱をかきた て、日本全国津 々浦 々に、僚原 の火 の
あ べこべであるのかと い ったような論争が、あらためて人びと
よう にひろが って いき、 ついに南北朝と いう名称が、慎重 に吉
争 にお いて各論者 が用 いた論法を検証 して い-と'そこには'
た事実があるので、「
南北並立」は歴史上の事実 であり'正閏 の
かに及んで、始 めて忠貯正邪若-は正閏 の開港が起る ので
∼
(
8﹀
ある。 (
傍点は原文)
公家、武士、民衆 のそれぞれが南北両朝 に分かれ対立し てい
れは歴史上 の事実 で、誰れが何んと い っても動かな いと こ
ろである、ただこれより進 んで皇室将士など に批評を加 ふ
るも のあり、或は北朝 の年号 に従う て居たも のもある、 こ
もまたさう である 天下 の民もまた或は南朝 の正朔を奉ず
天皇 であらせられた、公卿家も両方 に分属して居た'将士
立 である。持明院大覚寺両御皇統 の御方 々が同時 に両方 に
我輩思ふに南北朝は国史中 の事実としては、何処ま でも並
べている。
南北朝両立 (
対立 ・並立)を主張する三上参次は次 の様 に述
と思われるので、少し詳し-見 て行きた い。
面もあることがわかる。それは 「
青野葛」 にも深-関ることだ
学問と教育'史実と道徳と い った対立図式 では捉えられな い側
野朝と いいかえ られるに いた った」時期 にあたることを指摘し
(
2
)
ている。後南朝 の歴史小説 の計画と南北朝正閏論争 の関連性 の
指摘は重要だが、右 の花 田の説明では大雑把すぎるので、もう
少し丁寧 に論争 の経過を辿 ってみる。
南北朝正閏論争は、明治四四年 一月、小学校用国定歴史教科
書 の南北朝 の記述をめぐ って始 められた。南北朝を、正閏 の判
に問題視 された のである。 1月から四月 にかけ て新聞 ・雑誌 に
断を 下さず、併記した教科書 の記述が南朝を正統と見倣す人 々
掲載 された、南朝正統を主張する多- の文章は、それを、古来
より 「
天 には断じ て二日ある可からざるを確信し」 て来た 「
国
(
3)
民 一般」 にと って 「
国礎」を 「
根本 より破壊」する重要問題、
ある いは 「
教育 の 1問題 に非ず歴史 の l問題 に非ずし て国家的
5
1
E
:
観念 国家的信念 の大問題」として論及した。政府は素早-それ
に対応 し、同年 二月二八日には、問題 にされた国定教科書を編
目 の 「「
両皇統 の交立」 ヲ 「
朝廷と幕府」 こ、 「
建武中興」 ヲ
纂 した喜 田貞書を休職処分 にし、三月 1四日には、学校教授要
「
建武中興 足利尊氏 の
反
「 「
南北朝」 ヲ 「
吉野 の朝廷」 こ
(
5
)」 1
改」めることを告示した。そして、「
南北朝」を 「
吉野朝廷」 に
修 正す るなどした教科書 の改定版を 10月と 11月 に刊行 し、
48
区別は、「
忠好正邪」と同様、事実認識から 一歩踏み込んで、皇
室や武将を評価付ける価値判断を行う時に初めて出て来る問題
〟 目指し、そこに
としている。これは、史実そのままの〟再現 を
価値判断を加えな いと いう客観性に支えら れた近代史学 の立場
からすると正当な論理だと言える。しかし、事実や史実を基に
論を組み立てているのは、両立派だけではな い。むしろ南朝正
全体、学者 の議論を得たざるも、常識に訴 へても、北朝 一
ママ
系 の帝続は'千代万世と弥栄え に栄て居ますに反し、南朝
の御系統は衰滅に帰したと云ふ 一点に依 て見るも、国家 の
臣民としては北朝が正統にてあらせらる ゝと云ふ事実を認
めざるを得ぬのである。殊 に北朝 には足利尊氏の如き好悪
の徒が附 いて居りながらも尚栄え、南朝 には多く の忠義 の
お いても明らかではな いが、「
器」とは剣 ・鏡 ・璽の三種 の神器
のことである。それが南朝 の側にあり、南北朝合 一後初めて北
り。之を以て見 ても南朝 の正統なるは争ふべからざる事実なり」
(
9
)
と述べている。「
名と器の所在」の 「
名」の意味内容は、文中に
南朝正統を主張する笹
南朝 の史実は後来多-浬漉
き川臨風は、「
したるにさ へ、猶名と器と の所在を証す べき史実多 々存するな
るのである。このことから考えると、「
事実」あるいは 「
史実」
とは、両立派、南朝派、北朝派 のそれぞれが'自己の論を正当
立派だけではな い。三種 の主張す べてが 「
事実」に基づ いてい
しかも、両立説 の三上と同様、その際臣下の 「
軒」「
忠」 の評価
は、正閏の決め手にはならないとしている。
吉田は 「
御簾筆」と皇統の存続を基礎に北朝正統を主張する。
人々が附 いて居り乍ら衰え滅びたと云ふことに就 て考 へて
見れば、執れの皇徳が優れきられLや、蓋し思ひ半ばに過
(
.1
)
ぐるものがあらうと思ふ。
朝 に渡されたと いう史実が、南朝正統 の 「
事実」を証明してい
(
_0
)
ると いう のである。また他に、後醍醐天皇 の 「
御譲位 の意思 」、
うことになる。 つまり、「
史実」からそれぞれの論が生れたので
当論者も北朝正当論者も、事実 ・史実を乱発しながら論を組み
立てていると言 ったほうが適切だろう。
譲位の 「
藩
熟 」を南朝正統を証明する史実として取り挙げた論
もある。後転醐天皇は、北朝 の系統に つながる光厳天皇 に 「
御
はなく それぞれの論が 「
史実」を生み出した、ある いは発見
したと いうことである。公家 ・武士 ・民衆が南北両朝 に分かれ
の中から、南朝正統論が圧倒的に支持されたのだろうか。それ
それでは何故、論 の組み立 てにお いて類似している三種 の論
化するために、様 々な 「
事実」 の中から見 つけ出した論拠と い
以上のよう に、事実 ・史実を基に論を組み立 てているのは両
って譲位した、よ って南朝が正統であると いうわけである0 1
譲位 の意思」はなか ったが、北条氏に迫られ不本意ながら譲位
したのであり、後村上天皇 (
南朝)には 「
御譲位 の意思」を持
万、北朝正統を主張する青田東伍は、孝明天皇の 「
御簾筆」に、
て従属していたと いう 「
事実」、神器の所在、「
御譲位 の意思」、
「
御哀筆」、系統 の 「
栄え」などはす べて'そのようにして発見
された 「
史実」と舌甲見る。
「
北朝に由れる」「
御代数」である 一二二代 の文字が記されてい
〇代となる)を指
ること (
南朝正統説によると孝明天皇は 二 一
摘し、更に次の棟に述べている。
4
9
は 1つには、南朝正統論がその論 の中に臣下の 「
忠好正邪」を
取り込んでいたからだと思われる。 つまり、われt
i「
臣民」が
同化 できる対象を歴史 の中から見 つけ出す こと で、歴史を自己
けではな-、「
窮りなかるべ」き未来 へと続 いて行-ことを (
自
てきた 「
臣民」としての連続性と同 一性を獲得 できるのだ。そ
うした連続性は、過去 に遡 って 「
国民」 の同 一性を保証するだ
民」も神代より現在ま で、万世 一系 の天皇を頂き、それに仕え
化し、所有 できる道を示したと いう こと である。両立派は、歴
もちろん、これが幻想 であること に間違 いはな いが、こうし
然 )視させる。 「
国民」は君臣 一体 の幻想 の中で不死を夢見 てい
(
15
)
たと1
亨 見よう .
史を客観的に、評価を下さずに 〟再現 す
〟 ることを重視していた
が、客観的 に見るとは、歴史 の流れ の外 に身を置き、そこから
歴史 の中にある対象を眺めることであろう。しかし、そうした
た幻想が'「
国民」としての同 一性 ・連続性 の欲望 に促され、或
も明治維新は、武家政権 (
北条氏)を倒し天皇親政を復活させ
た後醍醐天皇 の建武 の新政を モデルとした王政復古 でもあ った。
るリアリティをも って、広- 「
国民」 (
少な-とも南朝正統を支
持した人 々)に共有され て いたことも看過 できな い。これは、
近代 日本国家 の出自 に関係している問題だと思われる。そもそ
(世界 )から超越した視点 (
正閏の判断は加えな いと いう学問的
立場)も、ひとたび明治四四年 の、政治的力学が猛威を振るう
(世界 )に触れたとたん、「
日本 の臣民は皇室 の御幸 には妄りに
[
2
)
容曝してはならぬ」と いった隷属的 「
臣民」 の視点に変様する 。
それ に対し、南朝派は、自らを進んで (世界 )の中に埋没させ
ていった。 「
日本国民は其国民のあらん限り南朝忠臣 の忠烈に依
り て新生命を賦与せられ、新血液を注がれて皇室 の為 に国家 の
て 「
太平記」 に措かれた楠正成 の模倣と言えよう。そう である
ならば、日本近代国家 の中に、後醍醐天皇 や楠正成を中心人物
徳川幕府を飛び越え、天皇と直接結び付- ことで自己 の行動を
正当化した下級武士や脱藩狼人達の姿は'「
後醍醐天皇 の軍事力
5
旧
乃
を最下層のところでささえた 「
異形異類」 の 「
あぶれ者」」とし
石の安き に居り、国家 の進軍は窮りなかるべし。南朝史が国史
(
Z
)
の精華 にして国民 の経典たるは此にあり 」と いう笹川臨風 の言
葉は、南朝派 にと って歴史とは何だ ったのかをよ-語 っている。
とした 「
太平記」的 (物語 )が流通していった のはむしろ当然
であろう。明治国家自体が、この (物語 )から生まれ、そ の中
為 に其生命をさ へも捧ぐるを辞せざ るなり。是に於 て皇室は磐
彼等 にと って南北朝時代とは、数百年前 の時代 でありながら、
せい
経典」 =モデルとなる
すぐ隣 にあり、現在 の 「
国民」 の 生 の 「
で成長していったのだから。兵藤裕己は、「
太平記」と天皇制 の
関係 について次 の様に説明している。
くりかえ していえば、日本 の近世 ・近代 の天皇制は、太平
記 (世界 )と いう フィクシ ョンの、
?えに成立する。たしか
イ
ス
ワ
ル ィ
ス
ー
ワ
ル
あり'物語として共有される歴史が、あ
に 歴 史 と は 物 語 で
べきも のであ った。それは、後醍醐天皇と 「
今上陛下」、楠正成
等南朝忠臣と 「
国民」 の間の差異を消去し、ダブらせ、その間
に連続性を持たせること であ った。そうすることで天皇は、万
世 一系と いうイデオ ロギーに'観念レベルではなく、(世界 )に
組み込まれた通念としてのリアリティを獲得する。同時 に 「
国
50
二名 の 〟反逆人 〟を殺すことで荒 々し-も強固に閉じられたのだ
と一
亭 えよう。
(
_7
)
らたな現実の物語を つむぎだしている 。
恐ら-、近代ほど広汎 に 「
太平記」的 (物語 )(
「
太平記 へ世
は完 成され つつある時に、「
私」 の後南朝 の歴史小説は、それに
南朝正統論を内 に組み込んだ (物語 )が完成された、ある い
罪)
」)が共有された時代はな いだろう。殊 に明治四四年は、そ
の 人物語 )に 「
国民 の経典」としての地位が与えられ、明治国
対し如何なる位置にあるのだろう。「
私」は'その 「
南帝 の後喬
に関する伝説」 について次 の棟に書 いている。
ご-あらましを掻 い摘まんで云ふと、普通小中学校 の歴史
の教科書 では、南朝 の元中九年、北朝 の明徳三年、将軍義
家は、その 「
経典」 によ って逆 に自らの正当性を 「
国民」 に示
した時代であ った。「
国民」もまた、過去と未来にわたる歴史的
同 一性 の夢をそこに兄 い出した。天皇と国家と 「
国民」は、こ
の 人物語 )の中で緊密 に結び付き、 一つの完結した へ世界 )を
寿寺宮を奉じて、急 に土御門内裏を襲ひ、三種 の神器を倫
は 一四五七年 である。-
注宮沢)
あり'神垂が取り返されたと本文 に書かれている長禄元年
璽を擁してゐたと云 ふ。 (
「
六十有余年」は、南北合 一以後
から数えた年数 であろう。裏書三年は西暦で 1四四三年 で
Lt容易 に敵 の窺 ひ知り得な い峡谷 の間に六十有余年も神
の手 の届かな い奥吉野 の山間僻地 へ逃れ、 一の宮を自天王
と崇め、二の宮を征夷大将軍に仰 いで、年号を天靖と改元
み出して叡山に立 て寵 った事実がある。 (
略)次第に北朝軍
二十三日の夜半、楠二郎正秀と云 ふ者が大覚寺枕 の親王万
此 の時を限-として、後醍醐天皇 の延元 々年以来五十余年
で摩絶したとな ってゐるけれども、その ゝち裏書三年九月
満 の代 に両統合体 の和議が成立し、所謂吉野朝なるも のは
構築したのである。
国定教科書 の両朝併記は明治四四年 に始ま ったわけではな い。
既に明治三六年 一〇月に発行された第 一期国定教科書から 「
同
(
ほ
)
時 に二天皇あ-」と記されている 。それが、七年以上た ってか
ら 「
国家的観念国家的信念 の大間蓮」としてクローズ ア ップさ
れた のである。これもやはり、両朝併記を 「
問題」として発見
する視線が、この時代に形成されてきたことを語 っている。 「
大
逆事件」は、明治四四年 一月 7八日、丁度南北朝正閏論争が始
まる時期に、被告 二六名中二四名 に死刑 の判決が下され (
翌日
一二名を無期 に減刑)
、 一週間後 の二四、二五日に 〓 一
名に対し
〟 迎え る。正閏論争と 「
大逆事件」、こ
死刑が執行されて〟結末 を
の二 つの出来事は、順 逆 の基準が統 1され、過去- 現在-
神器 の所在を視 ての事 です。 (
楠'新田に対する足利 一味 の
南朝正統論 の論点は、其家 々により違ひもあるが、主 に
この轟音三年 の乱は、先 の北朝正統論者 ・吉田東伍が、南朝
正統論を批難するために引 いている。
統 1性と正当性を支え ているのが、天皇- 国家- 「
国民」
の三位 1体 の (物語 )であ-'また、そ の基準 の厳格さの誇示
未来 にわた って均質 に 「
国民」す べての間に機能し得る絶対 の
真理であることを目に見える形 で示した。そして'その基準 の
が (物語 )を 一層堅固に構築したのである。(物語)の扉は、 一
51
の所在を以 て正統 の皇位とすれば、嘉書三年 に'南朝 の余
の笹川臨風は次 の棟 に述 べている。
ならず、合 一は完壁 でなければならなか った のである。南朝派
「
皇室」 の同 一性 の欲望 に
と称して蒔賭したるも のあるを見ず。南北朝合 一後 に於 て
はまた南朝もなく北朝もなし皇続は 一系 にして無窮む蝉 .
に感奮して起 て-。然れども 一人 の皇室を以 って北朝 の後
維新 の大業あらんとするや、勤王 の士多-は南朝 の事蹟
忠好 の反映をも加 へられ てあるが、主点 で無 い)若し神器
党楠木 二郎等 が、夜禁中 に犯して、剣、垂を窃みて叡山 に
逃れ、剣は間もな-、宮中 に還 ったが、垂を持ち て大和 の
は
し
十津川に奔り、十五年 の後 (
長禄 二年)に至 って、赤松 の
遺臣 に依 って漸-京 に持ち還るを得た如きは、どう説明す
このような、「
皇統」 の連続性-
貫かれた ロジ ックによ って支え られた南朝正統論 にと って、合
るt
iZ
.(
カ ッコ内は原文)
また南北朝対立を主張す る三浦周行は、南北朝合 一は、「
義満
が神器 の帰座を求むるに急なる余- に、南朝 に有利 にして而か
え る後南朝史は甚だ都合が悪か ったであ ろう。またそれは、南
て南朝 の後亀山天皇 から北朝 の後小松天皇 に 「
御譲位 の意思」
なぜなら、南朝 が正統 であることと 「
今上陛 下」が北朝 の系統
であることを矛盾な-連続させるためには、南北朝合 一にお い
ではな-、 「
武家側 の権謀術策」 であ ったと いう指摘 であ ろう。
を論拠 にすること に村する批判ではな-、南北朝合 1が、「
和議」
にと って真 にや っか いだ った のは、吉 田のような、神器 の所在
は北朝派と両立派 であ って南朝派 ではな い。恐ら-南朝正統論
いて裏書三年 の乱を取-挙げた のは この二人だけ であり、二人
三年 の乱も含む)を挙げ てい窮 。管見 の範囲 で、正閏論争 にお
はな いだ ろうが)を拘束 し始 める時期 にあた っていることは重
要である。
六年 であり、三位 一体 の (物語 )が 一層強固に 「
学者」 (
だけで
ロを槻した'j)
.「
青野葛」 の小説内時間が、三位 1体 の (物語 )
の完成期 にあたり、発表 の時期が 「
満州事変勃発」 の年、昭和
国体明徴 が叫ばれ、皇室 に関することが殊 にやかまし-取締ら
れるよう にな ってからは、学者は後南朝 のこと に関し ては全-
方を振り返り、更 に次 の様 に述 べている。 「
満州事変勃発以後、
間日本 の秘史として隠されてき た」と過去 の後南朝史 の扱われ
った醜悪な歴史 である」後南朝史は、明治政府 によ って 「
長い
朝正統論を組 み込んだ三位 1体 の (物語 )にと っても そう であ
っただろう。瀧川政次郎は、「
天皇と天皇とが憎みあ い、殺し合
一以後も合 一を否定す るかのよう に抵抗す る南朝側 の反乱を伝
も実行し難き条件を以 て」誘 った 「
武家側 の権謀術策」 であ っ
たと述 べ、そ の論拠として合 一以後 に起 った南朝 の反乱 (
裏書
をも って譲位 が行われたと見 ること で、南朝 の正統が北朝 に移
譲されたと考える必要があ ったから である。そ のためには、合
も のはこの時を限りとし て--廃絶したとな ってゐるけれども
教科書 では--両統合体 の和議が成立し、 いわゆる青 野朝なる
以上 のことを考慮 に入れると、先 の 「
普通小中学校 の歴史 の
一は北朝が南朝を力 で 「
併合」 した のでもな-、北朝 が南朝を
「
権謀術策」 に掛けたのでもな い、南朝主動 のも のにしておかね
ばならなか った。それ故、合 一以後は南朝 の反乱などあ っては
5
2
体 の (物語 )の中で耳障りな不協和音を奏 でていることに気付
くであろう。更に、その後南朝史は 「
今も土民に依 って 「
南朝
--楠二郎正秀と云ふ者が--事実がある」 の文章は、三位 一
しかも 「
私」は、その (
物語)を 「
拠り所のな い空想ではな
津村は、母の結婚前 の経歴や実家を探ろうとするが、祖母は
3
の母恋いの物語を見て行 こう。
津村は、このように (
物語 )の起源を 「
事実」に求める 「
私」
とは異 った手法 で、母恋 いの物語を生成させてゆ-。次に津村
きな (
物語 )の成立基盤を危う-する、小さな へ物語 )の小説
化を計画していたのである。
私」は、大きな (
物語)の生
の思考と共通している。 つまり、「
成過程に見られた思考様式 にのっとり同様 の手法で、しかも大
組み立てられて来たかのよう に振る舞うことであ った。「
私」の
思考は、「
事実」と いう起源を得ることによ って、自己が つむぐ
言葉 の価値が保証されると考えている点で、正閏論争 の各論者
いた。しかしそれは'論 の枠組によ って 「
事実」を発見してお
きながら、あたかも自分 の論がそこから生まれ、それを根拠に
論争 にお いても、両立派'南朝派、北朝派にかかわらず各論者
は、自己の主張が事実 に基づ いていることを繰り返し強調して
な い」と言う 「
私」は、「
史実」から生まれたと いう出生証明が
歴史小説の価値を左右すると信じているかのようである。正閏
評し、自分 の計画している歴史小説を 「
決して単なる伝説では
-、正史は勿論、記録や古文書が申し分な-備は ってゐる」「
史
実」だと繰り返し強調する。徳川時代の 「
吉野王を扱 った作品」
を 「
それとて何処まで史実に準拠したものか明らかでな い」と
様」或は 「
自天王様」と呼ばれてゐる南帝の後商に関する伝説」
でもある。 つまり、「
土民」あるいは 「
南朝 の宮方にお仕 へ申し
た郷士の血統、「
節目の者」と呼ばれる」人々は、南朝正統論者
と同じ-、過去と現在と の間に連続性を確信し'「
節目の者」と
しての同 一性を保持している。これは'「
南朝 の後帝に関する伝
説」が、過去に関する記憶の継承と いう以上に'「
節目の者」と
「
南朝様」の君臣 一体の関係を保証する (
物語 )として機能して
いることを語 っている.しかも、その (
物語 )は、三位 1体 の
(物語 )とは原理的に相容れな いだけでな-、「
南朝 の宮方にお
仕 へ申した郷士の血統」を引-人々の (
物語 )である以上、三
位 1体 の (物語 )は積極的に排除'抑圧することもできな い.
「
遠 い先祖から南朝方に無二のお味方を申し、南朝び いき の伝統
を受け継 いで来た吉野の住民が、南朝と云 へば此自天王までを
数 へ、「
五十有余年ではありません'百年以上も つゞいたのです」
一体'南北朝時代の南朝と合 一以後の後南朝を区別せず、「
南朝
と今でも固-主張するのに無理はな いが」と いう 「
私」 の言葉
も、三位 一体 の (物語 )の中での居心地 の悪さを伝え ている。
当性の基盤を根本から危う-する可能性を秘めているのだ。
方」と連続させて呼 ぶ歴史観は、合 一の意義を無化している。
「
南朝の後荷に関する伝説」は、三位 一体の大きな (
物語 )が回
収することも排除することもできな い、小さな (
物語 )だと言
えよう。しかし、その小さな へ
物語 )は、大きな (物語 )の正
53
「
自分 の記憶 の中 にある唯 一の母 の併」が、本当 に母 のも の
ど に聞 いてみても」 「
不思議 に知 ってゐる者がなか った」。中学
を卒業す る頃 にな って、母が 「
幼少 の頃大阪 の色町 に売られ、
少 しも苦 にし て いな いこと であ る。津村は、 これ以降 、そ の
で 「
母 の悌」と事実と の間 のつなが-を断ち切るよう に働 いて
いる。しかし'ここでより大切と思われる のは、津村 がそれを
実 に基づ いていることを保証しな いばかり でな-、冷静な推測
「
何分 にも忘れ てしま った」と言 い、「
親類 の誰彼'伯父伯母な
そ こから 1亘然 る べき人 の養女 にな って輿入れをしたらし い」
こと、「
祖母や親戚 の年寄たちが余り話して-れなか った のは、
であるかどうか確信が持 てな い。祖母 の証言は、「
母 の悌」が事
母 の前身 が前身 であるから、語るを好まなか った のであらう」
「
母 の悌」 が弾 いていた地唄 「
狐会」と いう曲 の詞 によ って形成
された母恋 いの心情を語る のである。 つまり'母 (像 )が 「
事
実」とし てそ の真実性を保証されていな いにもかかわらず、津
村はそこを起点 にし、母恋 いの物語を語り始 める のであ る。 こ
ことを察知する。これは母 の経歴が、「
島 の内 の旧家 で、代 々質
こと であり、そ の隠された母 の経歴を探り、吉野 の実家ま で辿
屋を営」んで いた津村 の家 の論理 によ って隠 され ていたと いう
り着-津村 の経路は、大きな (物語 )によ って 「
秘史」とされ
ていた後南朝史を明らかにす る歴史小説を計画し'書野川を遡
のような、「
事実」か否かにこだわらな い津村 の思考は'大谷家
の鼓をめぐ って交わされた 「
私」と の対話 の中にも見 て取れる。
のだと思 ふ。後
だから僕は、あ の鼓 の方が脚本より前 にある
こ
し
ら
で 挿 へたも のなら、何とかもう少し芝居 の
筋 に関係を付けな い筈はな い。 つまり妹背山 の作者 が実景
を見 てあ の趣向を考 へついたやう に、千本桜 の作者も嘗 て
「
う ん、-
のに大きな違 いが見られる。
大谷家を訪ねたか噂を聞 いたかして、あ んな ことを思ひ つ
る 「
私」 の行程と重なるかもしれな い。しかし'「
私」が語る歴
史小説と津村が語る母恋 いの物語は、そ の生成基盤とされるも
津村は自分が幼 い時から抱 いて いる唯 一の母 (倭 )を次 の様
に語る。
も、安政 二年 に出来たも のでな-、ず つと以前からあ った
いたんぢ やな いかね. (
略)よしんばあ の鼓が贋物だとして
の女房と、盲人 の検校とが琴と三味線を合はせ てゐた、-
取り分け未だ に想 ひ出す のは、自分が四 つか五 つの折、島
の内 の家 の奥 の間で、色 の白 い眼元 のす ゞし い上品な町方
ったかどうかは明かでな い。後年祖母 の話 に依 ると、そ の
ゐた上品な婦人 の姿 こそ、自分 の記憶 の中にある唯 一の母
の悌 であるやうな気がす るけれども、果してそれが母 であ
の鼓 の真実性を疑問視する のに対し、それを弁護 し て いる。そ
れも '大谷家 の鼓 の真実性を論証す ること によ ってではな-、
津村は、「
私」 が大谷家 に伝わる静御前 の鼓と 「
義経千本桜」
に出 て来 る静御前 の初音 の鼓 の形状 の不 一致を指摘 し、大谷家
んだと云ふ想像をするのは無理だらうか。
」
婦人は恐ら-祖母であ ったらう、母はそれより少し前 に亡
真実性 の不必要さを前操 にす ること で為され て いる。 つまり'
- その、或 る 一日の情景 である。自分はそ の時琴を弾 いて
-な った等 であると云ふ。
54
「
実景」から 「
趣向」に到る過程には或る飛躍が存在するのであ
-、「
実景」が 「
趣向」と〟同じ 〟である必要はない。同様に大谷
家 の鼓が初音 の鼓と同じであ る必要もな いと いうこと である。
い。それは此 の家の遠 い先祖が生き てゐた昔、-な つかし い古
品 々を見せてもら っている際、主人 の頭にある静御前は 「
鶴ケ
岡の社頭に於 いて、頼朝 の面前で舞を舞 ったあ の静とは限らな
代を象徴する、或る高貴 の女性である」と考え、そして 「
せつ
か-主人が信じてゐるなら信じるに任せてお いたらよ い」と語
る。 「
私」は、主人 の頭にある 「
或る高貴 の女性」が静御前 の
「
趣向」は、「
実景」の〟再現 〟ではな-、「
実景」から生まれなが
らも、そこから遊離して初めて 「
趣向」となると いう思考が、
その背後にはある。「
私」は、同じ妹山と背山の 「
実景」を前に
真実と信じているならば、それ以上 「
何も云 ふべき ことはな」
いと いう ことである。これは、大谷家 の鼓が静御前 の鼓である
いる。更に 「
私」は、「
強ひて主人に同情を」して 「
或る高貴 の
女性」が実在したと仮定し、そこから 「
此の家が富み栄え てゐ
か否かの事実性を問わず、むしろそ の伝承から 「
千本桜」 の
「
趣向」が生まれたことを想像する津村 の指向とは微妙にズレて
「
幻影」とは別のところに真実はあるのだが、当人が 「
幻影」を
「
幻影」 であり、「
静ではな」 いことを確信している。 つまり、
して,「「枇 酢 蛸 軌 献 鋸 」 の作者は、恐らく此処 の実景に接して
あの構想を得たのだらうが、まだ此 の辺の川幅は、芝居で見る
よりも余裕があ って'あれ程迫 った渓流ではな い。仮-に両方
の丘に久我之助 の楼閣と雛鳥 の楼関があ つたとしても、あんな
風に互に呼応することは出来なか ったらう」と いう感想を抱-0
更に、津村 にと っては 「
よしんばあ の鼓が贋物だとしても」
が紛れ込んだと いう仮説を立てる 「
私」は、「
事実」に基づ-か
込んだのかも知れな い」と考 える。しかし、「
事実」に 「
伝説」
「
実景」と 「
構想」 の間の距離を正確に測ろうとする 「
私」 の指
向と、津村の思考 の差異はあきらかであろう。
かまわな いのである。「
あの鼓が贋物」とは、静御前のものとし
て大谷家に伝わる鼓が実は静御前 の鼓ではな いと いうことであ
悌」を起点に母恋 いの物語を語 ってい- のであるが、その際特
を語るところでも指摘 できた。そして津村 の 「
事実」 に対する
興味 の稀薄さは、「
母の悌」が本当 に母のも のであるか否かと い
う問題に対する無関心さと同根であろう。津村は、その 「
母の
「
私」 の 「
事実」 に対する信頼は、後南朝 の歴史小説の計画
否かもわからな い鼓から 一つの 「
趣向」が生まれたことを想像
する津村とは、やはり (
虚 )と 八
草 )の関係を見る眼差が異な
ると言わねばならない。
た時分に、何か似寄り の事実があ って、それ へ静の伝説が紛れ
ろう。津村は、大谷家 の鼓が静御前 の鼓 であると いう 「
事実」
を必要としていな い。津村が 「
想像」しているのは、大谷家 の
鼓が本当 に静御前 の鼓であると いう ことではな-'事実はわか
らな いが静御前 の鼓として伝わ町,それが 「
義経千本桜」 の初
音 の鼓 の 「
趣向」を生んだと いう流れである。それは 「
趣向」
の起源を 「
事実」 に求めな い思考 であり'起源そのも のを唆味
にしてしまうことでもある。「
実景」から飛躍することで生まれ
た 「
趣向」が、更に 「
実景」 の事実性を失うことで 一層起源か
ら遠ざか ったのだと言えよう。 一方、「
私」は、大谷家で伝来の
55
いの心情は、地唄 「
狐会」、人形芝居 の 「
葛 の葉 の子別れ の場」
徴的な のは、母恋 いの心情形成 の過程を語る視点 である。母恋
母恋 いの物語 の、重要 ではあるが、 1面 に過ぎな いO童謡 の歌
観的分析的 に語 っているとも言え るが、しかし、 これは津村 の
って彼処ま で出かけたこと」を語り'行動ま でも フィクシ ョン
そ の跡を慕う て追 ひかける童子 の身 の上を自分 に引き-ら
語 って いる (
傍点は原文)
。これは、 フィクシ ョン作品に、心情
も身体も自分 の周り の世界さえもからめ捕られ、そ の中を生き
はどれほど自分 の憧れを充たして-れたか知れなか った」とも
て来るのを、此上もな-な つかし-聞 いた。 (
略)兎 に角そ の昔
しか尋常三年 の頃、そ つと、家 には内諾 で、同級生 の友達を誘
(
「
鹿屋道満大内鑑」)
、童謡、「
義経千本桜」など によ って形を与
えられ、高揚し てい-。津村はそれを極めて自覚的 に語る ので
ある。
作品 に促され て いた ことを明示 し っつ、同時 に、そ の帰り路、
詞 に誘われ 「
信 田の森 へ行けば母に会 へるやうな気がして、た
「
我が思ふ- 心 のうちは白菊岩隠れ蔦が-れ、篠 の細道掻
自 分 は子供 ながらも、 「
我 が住む森 に帰 ら ん」と云 ふ句 、
「
葛 の葉 の子別れ の芝居」と同じ様 に 「
と ころぐ の百姓家 の障
は
た
子 の蔭 から、今もi)
んから町、と んから町と機を織る音が洩れ
べて、ひとしほ母恋ひしさの思ひに責められたのであらう。
き分け行けば」など Jl
石ふ唄 のふしのうちに、色とりぐ な
母恋 いの心情 が フィクシ ョンによ って形成されたこと に自覚
ること の快楽を語 っている。
津村は フィクシ ョン作品によ って形成された心情 に促される
秋 の小径を森 の古巣 へ走 って行- 一匹の自狐 の後影を認め、
的な津村は、心情 に働きかける フィクシ ョン作品 の 「
仕組 み」、
ある いは作者 の技法 にも意識的である。
「
母 の幻 に会 ふために花柳界 の女 に近づき」、 ついには母 の実家
よう に、 「
母 の悌」を求 め' 「
学校生活を捨 て 、大阪 へ帰」り、
へと辿り着- のである。そし て、母恋 いの物語を 「
私」 に語る
識 の底 に潜在してゐる微妙な心理 に嫡びることが巧みであ
った のかもしれな い。 (
略)それが葛 の葉 の芝居では、父と
津村も、母恋 い- 妻恋 いの心情 に促され、 これから母 の実家を
徳川時代 の狂言作者は、案外ずる-頭が働 いて、観客 の意
子とが同じ心にな って 一人 の母を慕 ふのであるが、此 の場
き ていると言
甲えよう。しかも津村は'(物語世界 )を熱烈に生き
す る、外から眺 める視点を持 っていた のだと言えよう。 つまり
が 「
事実」 によ って保証されていな いこと、(
物語 )を生成す る
母恋 いの心情 が フィクシ ョン作品 によ って形を与えられたも の
であることを自覚していた。(物語世界 )の生成過程全体を把握
ながらも、 一方 で、そ の 人物語 )の起源とも 言え る 「
母 の悌」
訪ねる のである。まさしく母恋 いの (
物語 )を生き て いた、生
合、母が狐 であると云ふ仕組 みは、 1層見 る人 の空想を甘
くする。
津村は、母恋 いの心情と更 にはそれが妻恋 い へと変容してい
-過程ま で、 フィクシ ョン作品 によ って形を与えられたと いう
こと に自覚的 であり 、か つ、そうした心情を形成す る作品 の
「
仕組み」 や作者 の技法ま でも視野に入れて語 っていた。こうし
た点から見 ると津村は、自分 の母恋 いの物語を突き放して、客
5
6
片方 の半身を (物語世界 )外 に置き、(物語世界 )内を生き る快
比喰 的 に言えば'津村 は、そ の半身を (物語世界 )内 に、もう
れる のであ る。それは'母自体が 「
将来妻となる べき 人」 の起
なる母自 体が不在な のであり'それ故 「
未知 の女性」とも呼ば
と云
楽を享受 し っつ、そ こから少 し距離を取 ってそれを見 る余裕も
恋人 I
源と はなり得 な いと いう こと でもあ る。また津村 が 「
義経千本
美女-
ふ連想」も'間 に 「
狐」が介在すること により、「
母」と 「
恋人」
桜」 の中 に兄 い出した 「
母-
の間 の連続性は唆味 になり、同じ でありながら異 なる、異な っ
狐-
置き方は、三位 1体 の (物 語世界 )に埋没し て いた南朝 正統論
持 って いたと いう こと である。 この (物語世界 )に対す る身 の
者とも、(
物語世界 )から超越した視点を設定し、そ こから (
物
出し の田舎娘 で決 し て美人 でも何 でも な い」 「
手足も無細 工 で'
「
田舎娘 らし-が っしりと堅太りした、骨太な、大柄な兄」 「
丸
て いな がら同じと い った同 1性と差異 の揺 れを卒 んで いる。 そ
請 )の断片をそ のまま 〟再現 〟しょぅとし ていた両立論者とも異
な っている。
し て、 こう した唆 味な 母 (倭 )
、暖 味 な連続 性故 に、津村 は 、
永続を願う閉じられた状況と言え るが、 この場合、母と妻 の間
何処 か面ざ Lが写真 で見 る母 の顔 に共通なと ころがあ る」 と、
荒れ放題 に荒れ てゐる」と見え たお和佐を、 「
さう云 へば斯う、
母恋 いに妻恋 いが重ねられ てゆく経路 は、母子 一体 の状態 の
には連続性と同時 に非連続性も確認 でき る。津村自身 、母恋 い
妻 の連続性 の中 へ組 み入れるしなやか
と妻恋 いの関係を次 の様 に説明している。
母 (倭 )の中 へ、母 -
さを持ち得た のである。 この点も、万世 一系 の同質な天皇 の下、
つまり少年期 の恋
たる 「
未知 の女性」 に対す る憧悼 、-
楠正成等南朝忠臣と重なる臣民と し ての同 一性を 「
国民」 に求
そんな点から考 へると、自分 の母を恋 ふる気持ちは唯漠然
愛 の萌芽と関係 がありはしな いか。なぜなら自分 の場合 に
めた南朝正競論者 の厳格な連続性 の希求とは異な っている。
計画 し ている歴史小説は 「
史実」 に基づ いて いることを強調
は、過去 に母 であ った人も、将来妻となる べき 人も、等 し
で辿り着き 、そこで 「
しかし いか に南朝 の宮方 が人目を避け て
し、 「
史実」 の起源を求 めて吉 野川を遡 った 「
私」は、三の公ま
- 「
未知 の女性」 であ って、それが眼 に見え ぬ因縁 の糸 で
自分 に繋が ってゐることは、どちらも同じな のである。
をられたとしても 、あ の谷 の奥 は余- にも不便すぎる。 (
略)要
母と似た人を妻とし て求 めると いう のではな い。母と妻は共
に 「
眼 に見え ぬ因縁 の糸 で繋 ってゐる」 「
未知 の女性」と いう点
す る に三 の公は史実 よりも伝説 の地 ではな いであらう か」と考
「
史実」 の起源は見失われ、 「
や 、材料負け
え る。歴史小説 -
は、本
-
の形 でとう- 書けず」 に終わ る。 一方、 「
事実」としての起源
「
色 の白 い眼元 のす ゞし い上品な町方 の女房」-
で共通しているに過ぎ な い。確か に記憶 の中 の唯 一の 「
母 の悌」
ぐ手掛りは、写真、母が 「
手写したと云 ふ琴唄 の稽古本」、父 へ
当 に母 のも のな のか定 か ではな い。他 に津村が母 (像 )を つむ
を持 たず、 フィクシ ョン作品 によ って形成された津村 の母恋 い
もた
ら
の物語は、お和佐と いう妾を見出し、「
津村 に取 って上首尾を粛」
宛 てた手紙ぐら いであ る。津村 にと っては、母 (像 )の起源と
5
7
続ける状況を回避させたのだが、もう 一つ、「
狐」の存在が (
物
実」 のシステムに自覚的であ った。それが (物語 )内に捕われ
す 。母恋 いの (物語 )が 「
あらたな現実 の物語を つむぎだし」
たのだと言えよう。しかも、津村はこのような、(
物語 )と 「
現
「
言語的自由」をも って生き、しかも、そうすることで 「
現実組
織」をも更新したとは書甲見ないだろうか.
(真理請求 )の圧力から責任を解除され」た (物語世界 )内を
母恋 いの物語に 「
事実」と いう起源を求めず、 フィクション
作品 によ って へ物語 )を生成させる津村は、「
現実組織から の
理を越え て津村と 「
香しい因縁」 で結ばれたのだと言えよう。
狐は、(物語 )内にありながら、(
物語 )の外 の 「
未知」と 「
眼
の「
家」 の論理で隠された母の実家は、狐によ って、「
家」 の論
(
物語)は、母方の祖母の手紙に書かれていた 「
自狐の命婦之進」
の話 に反応し、母の実家をその 人
物語 )圏内に包摂する。津村
ど 「
僕」である (
「
その四」末尾に 一度だけ 「
自分」が使われて
いる)ことから考え ても、ここの語りは 一人称 でありながら、
「
その四 狐会」 では、津村 の母恋 いの物語は 「
自分」と い
う 一人称で語られている。他 の会話部分では、津村 の自称は殆
津村から語られた話を、「
私」が後に書 いたものである。
「
私」 の歴史小説をめぐる話と津村 の母恋 いの物語、この二
つは共に 「
二十年程ま へ」 の出来事として 「
私」に書き記され
た のである。殊 に津村 の母恋 いの物語は、席 の裸 の岩 の上 で、
4
に見えぬ因縁の糸で」結び付-可能性を常に持 った、(
物語 )の
変数であり、また半開きにされた (
物語)の扉なのである。
「
私」 によ ってそのまま引用された直接話法 ではな-、「
私」 に
よ って処理が施された擬似直接話法とでも言う べき であろう。
請)に柔軟性を与えていることも重要だと思われる。「
狐」が母
と妻 (
「
恋人」)の連続性を唆味にしていることは先に述べたが、
あ
や
「
狐」は更に津村と母の実家を 「
最も 杏しい因縁」で結び付ける。
「
狐会」、「
葛 の葉の子別れの場」、「
義経千本桜」など狐と母
をめぐる フィクシ ョン作品 によ って形成されてきた母恋 いの
野家啓 一は、「
文学的テクスト」と 「
現実組織」の関係につい
て次の様に述べている。
読蔀 は、「
自分」から 「
君」と呼び掛けられる 「
私」 の位置に立
‖津柿)
ち、親密な聞き手として津村の話を聞くとともに、「
彼 (
から責任を解除されることによ って、文学的テクスーは理
の言葉 の意味を伝 へること にしよう」と言う媒介者としての
「
私」 の存在も意識する。 つまり読者は、「
青野葛」 の小説世界
の中で作中人物 である 「
私」とともに直接津村と向か い合 いつ
つ、 一方で、媒介者 である 「
私」を通して、小説世界 の境界線
上 で少 し離れたと ころから津村 の物語を聞- のである。また
確かに、理論的テクスーが常に知覚的記述と の同 一性を要
求すること によ って現実組織と の密接な関わりを確保しう
るのに対し、文学的テクストの方はそのような手がかりを
もたな い。だが逆 に、現実組織からの (
真理請求 )の圧力
論的テクストのもたな い 「
言語的自由」を獲得するのであ
(
a)
.
58
「
その五 国栖」 では、人称が 「
津村」 「
彼」となるが、文末は、
伝聞 の助動詞が使われず、「
その四」と同様 「
た」でほぼ統 一さ
れ ている。三人称 ・単数 ・過去形式 の叙述は、所謂近代小説 の
客観描写を思わせるが、実際読者は'過去 の自分 の体験を津村
自身が語る物語を読む のではな-、体験そのも のを直接に見 て
いるような印象を持 つのではな いだ ろうか。津村 の見たこと聞
いたこと思 ったことが、そのまま 〟再現 〟され、無媒介にそれら
に接していると いう錯覚を抱-と思われる。しかし、逆説的だ
るか のような叙述に書き直し変形させる 「
私」 の存在を浮彫り
にする。そこに津村 の話 に対する 「
語る 「
私」 の確かな関与 の
痕跡を見出す ことが可醇 」となる。しかも,そ の変形 の程度,
内容などを伝え る 「
痕跡」は 一切書かれな いし、他 の部分と比
較してもわからな いのである。母恋 いの物語 のどこま でが津村
の体験 に基づ- 「
事実」なのか、ど こからが 「
私」 によ って変
形され、作り直された叙述な のか不明 のまま放置されている。
読者はここにお いて、津村と いう、母恋 いの物語 の起源を見失
者
〟
う。客観描写によ って 〟再現 された (
物語世界 )内を津村 の視
点から直接に触れ ていた読 は、そ の (物語世界 )の事実性を
保証するはず の起源 の不在に直面し、夢から覚めるよう に (物
語世界 )から少し身を離す のである。津村 の母恋 いの物語は、
。
〟
津村はその中に通 ってゐる細か い丈夫な繊維 の筋を日に透
「
母 の悌」 の事実性と (物語世界 )そのも のの事実性が唆味にさ
れ、二重 にその起源が不在 であ った。
る
が、津村 の知覚や心情が細部まで 〟再現 される程、それが錯覚
であることが意識されて来ることにな
例えば次 の様な叙述
である。
かして見て、「
か ゝさんもおりとも此かみをす-ときはひゞ
あかざれに指 のさきちぎれるよふにてたんと- 苦ろふ い
以上のことを考慮に入れ'次 の結未部分を読んでみよう。
ちゃうど私がその鉄砲風呂 の方を振り返 ったとき、吊り橋
の上から、
たし候」と云 ふ文句を想ひ浮 べると、その老人 の皮膚 にも
似た 一枚 の薄 い紙片 の中に、自分 の母を生んだ人 の血が龍
つてゐるのを感じた。
「
おーい」
る。二人の重みで吊り橋が微かに揺れ、下駄の音が コーン、
と呼んだ者があ った。見ると、津村が'多分お和佐さんで
あらう。娘を 一人うしろに連れ て此方 へ渡 って来るのであ
これは、津村 の見たまま、触れたまま、思 ったままを再現し
て いるよう に読める。自分 の過去 の体験を 「
私」 に語る津村、
その話を読者に向けて書- 「
私」
'この二人 の媒介者 の姿が消え'
ン、 コーン」と いう音を響かせる結末は、「
史実」を求めて吉野
川を遡 った 「
私」が、「
現実組織からの (
真理請求 )の圧力から
橋 の上と いう境界的な場所 で、狐 の鳴き声を思わせる 「コー
コーンと、谷に響 いた。
直接 に津村 の体験を見 ているような錯覚を抱- のである。津村
が岩 の上で 「
私」 に語り、それを 「
二十年程」後 に 「
私」が書
いたも のとは思われな い。殊 に祖母 の手紙 の再現は、このよう
な伝達過程 では不可能 であろう。そして'このような不可能性
が、津村から聞 いた話をあたかも津村 の知覚 や心情 の再現であ
5
9
責任を解除され」た (
物語世界 )に触れたことを表現している。
三位 一体 の (
物語 )が、あらゆる領域を例外な-取り込み始め
る時期 にあたる。それは'(
物語 )を 「
事実」と いう起源 に結び
付けること のいかがわしさ、(物語 )の外 へ出ることを禁じるこ
それは、「
明治 の末か大正 の初め頃」 の小説世界が津村 の母恋 い
の (物語世界 )に浸透し てゆ- こと であり'逆 に (物語世界 )
が小説世界に浸透してゆ-ことでもある。
三位 1体 の大きな (
物語 )の中で今も不協和音を奏 でている0
14)「
南朝史は国史 の精華なり」同前
(
7)関幸彦 丁ヽ
カドの国の歴史学﹄新人物往来社 平成 六年三月
(
8)「
南北正閏問題の由来」﹃
太陽﹄明治四四年四月
(
9)「
南朝正統論の史実」﹃
読売新聞﹄明治四四年二月二四日
(
0
南朝正統論の根拠」﹃
太陽」明治四四年四月
(
1)副島義 1 「
(_1)黒坂勝美 「
南朝正統論」r
太陽山岡右
(12)「
皇位正統の所在」F
太堕 同右
(13)三上参次 同前
同様 の主張は、やはり南朝並立を説く久米邦武 (
「
大義名分
と正統論」﹃
読売新聞j明治四四年二月 1九日)の論の中に
も見られる。
5)﹃
官報﹄明治四四年三月 一四日
(
6VF日本教科書大系 近代編 第 一九巻j講談社 昭和二六 年
(
三月 参照
人
注)
(-)藤森清 「
(語り )の機能 - 「
吉野葛」 の場合- 」F
日本
近代文学﹄平成 二年五月
2)「
mロ
野葛A柱」﹃
季刊芸術﹄昭和五〇年 1月
(
3)﹃
読売新聞し明治四四年二月 1九日社説
(
南朝史は国史 の精華なり」﹃
読売新聞﹄明治四四
(4)笹川臨風 「
年二月 1六日
と の息苦しさにあらが っているよう にも見え る。 「
青野葛」は、
津村 の話を開き、それを書き記す 「
私」は、読者 にと って媒
介者 であるが、 1万 で、「
明治 の末か大正の初め頃」 の 「
私」 の
体験を書き記す書き手 でもある。そし て、 この体験す る 「
私」
小説世界は 「
私」 の体験 の
とそれを春- 「
私」 の連続性 ・同 一性は'書かれた体験が 「
事
実」として表象されていること -
〟再現 〟として表象されていることを読者 に保証してきた。その
小説世界が、二重 に起源を失 い、読者と の間に少し距離を置が自ら の起源を失 い、読者 に複数 の距離を取るよう仕向けられ
(
物語世界 )に浸透してゆ- のであるが'それは、小説世界自体
〟 れた小説世界と
てゆ-ことを意味する。「
製 の体験が〝再現 さ
起源を喪失した (物語世界 )の境界が消え てゆ-時、読者はど
ちら の世界 にも拘束されず、またどちら の世界からも解放され
るだ ろう。谷 に響き渡り、やがては消え てゆ- 「コーン、 コー
ン」と いう下駄 の音は、(
物語世界 )内を生き る解放感と (物語
世界 )から少 し距離を取り、そこから逃れる解放感と、二 つの
正反対 の解放感を交差させている。
「
史実」 に基づ いた歴史小説 に挫折し、母恋 いの物語を書「
私」は、(物語 )の起源を喪失させ、そ の生成過程を明かし つ
つ、小説世界をそこ へ浸透させること で'「
吉野葛」と いう (小
説 )を書 いている。しかもそれは、連続性 ・同 一性 に貫かれた
6
0
(15 )飯島洋 一 ﹃
王 の身体都市 昭和天皇 の時代と建築﹄青土社
平成八年五月 参照
飯島は、日本人と天皇 の関係を母子 一体 の関係と見倣LIそ
こに日本人の不死の欲望を兄 い出している。
月
(16)兵藤裕己 ﹃
太平記 へよみ )の可能性﹄講談社 平成七年 二
(17)同右
(18)同 (
6)
(19)同前
(20)「
南北朝払
巴 ﹃
太陽﹄同前
9)
(21)同 (
-
(22 )「
後南朝を論ず」 ﹃
後南朝史論集﹄原章 居 昭和 五六年七月
(
初版は昭和二二 年)
見﹄岩波書店 平成八年七月
(23)「
物語の意味論 のために」 ﹃
物語 の哲学 柳田国男と歴史 の発
び掛けられる読者、 つまり書き手である 「
私」に理想的な読
24)ここで言う読者とは、書き手である 「
私」から 「
読者」と呼
(
書行為をして-れるだ ろうと期待されると ころの読者 であ
る。
(25)金子明雄 「
mロ
野葛﹄ の物語言説と 「
私」 の位相」 ﹃
日本近代
人文科学 研究科博士後期課程在学 )
文学﹄平成二年五月
(
みやざ わ つよし ・学習院大学大学院
61
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