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2013 年 1 月 27 日(日)主日朝礼拝説教
2013 年 1 月 27 日(日)主日朝礼拝説教 『生き返った放蕩息子』 ルカによる福音書15 章 11~32 節 ❶【回心とは何か?】 父親は神様、二人の息子は私たち人間を意味しています。息子たちである人 間はいつも父親である神から何を貰えるかだけを考えています。下の息子は 「私がいただくことになっている財産の分け前をください」 (12 節)と父に いうと、父は黙って兄にも弟にも財産を分けてあげます。弟はさっそくそれ をお金に変え、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣 いしてしまいます。何もかも使い果たした時、飢饉が起こり、彼は食べるの に困り始めます。お金さえあれば、人生は自分の思い通りになる、自分は豊 かになったと思っていたのですが、そうではなかったことをここで知ります。 彼は自分の貧しさ、弱さに気づき始めます。そこで彼はその地方に住むある 人(悪魔・偶像の型)の所に身を寄せます。悪魔はその人に豚の世話をする という《妥協案》をもってきます。これでとりあえず生きることはできるか らです。彼は豚を飼いますが、彼の飢えはなくなりません。豚の食べる豆を 食べてでも腹を満たしたいと思うのですが、誰も食べ物をくれません。豚の 方が満腹していて、自分の方が飢えているのです。彼は豚以下になります。 彼の飢えが究極までいった時、彼は我に帰ります。忘れていた故郷を思い出 すのです。父の所にいた時には、父は大勢の雇い人に、有り余るほどのパン を与えていたのに、私はここで飢え死にしようとしている。私は何をしてい たんだろう。無償の愛こそ、豊かさであることに気づくのです。 「ここを立 って父の所に行こう」と彼は決断し、こう言います。 「お父さん、…私は罪 を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして ください。 」 (18~19 節)そして彼は立ち上がって出かけます。これを回心 といいます。彼が回心した理由は「飢え」 「貧しさ」を知ったからです。 ●現代のキリスト教の聖人を三人あげるとすると、一人はマザー・テレサ。 二人目はテゼのブラザー・ロジェ。三人目はジヤン・バニエだといいます。 この三人に共通したものが「貧しさ」です。 この貧しいということがキリスト教の本質です。 「神の前にすべての人間は 貧しい」のです。貧しさは本来の人間の姿です。裸といってもいいと思いま す。人間は善悪知識の木の実を食べてから、自分が裸で弱いということ、つ まり貧しいということを恥ずかしいと思うようになりました。そして「富と 知識と力」を手に入れて豊かになろうとしました。そしてそれらが与えられ ることを祝福だと思いこみました。キリスト教徒でもそう思っている人がい ます。しかし、本当は貧しさを知ることが祝福なのです。イエス様も「心の 1 貧しい人々は幸いである。天国はその人たちのものである。 」 (マタイ 5:3) と言われました。豊かで、知識が多く、強い人は、父なる神を必要とはせず、 父の家である天国を憧れません。しかし人間は必ず飾りは剥がされ、健康を 失い、家族を失い、仕事を失い、知識を失い、どんどん人は貧しく、裸にさ れていきます。回心の第一は「自分の貧しさに気づくこと」です。第二は「父 の豊かさを憧れ、父を必要とすること」です。第三は「それに向かって、立 ち上がり出かけること」です。私たちは自分が貧しく、弱いことを知ってい ます。神を必要としています。それこそ祝福です。 ❷【福音とは何か】 「遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首 を抱き、接吻した。 」 (20~21 節)父の喜びを見て下さい。父の方から走り 寄って息子の首を抱き、接吻しています。息子は謝罪の言葉を言うのですが 「雇い人の一人にしてください。 」という文言がありません。父はほとんど 聞いていないようです。急いで最上の上着を着せ、指輪を渡し、履物を履か せるように僕に命じます。最上の上着は、朽ちない体、指輪は神の子の資格、 履物は自由を象徴しています。 息子は自分の損失を何も償うことはできませんでしたが、父は一切を問わず 赦しています。父の悲しみは、財産が失われたことではなく、息子が失われ たことなのです。財産が帰って来たことを喜ぶのではなく、息子が帰って来 たことを喜んでいるのです。神が何を喜ばれるのかがお分かりでしょうか。 あなたが失った物をがんばって償うことではないのです。あなたが帰ること だけなのです。神は何を望まれるのかがお分かりかりでしょうか。失った物 ではなく、あなたを望んでいるのです。これを福音といいます。 父は言います。 「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、い なくなっていたのに見つかったからだ。 」 (23~24 節)息子は死んではいま せんが、神である父の元から離れることが即ち死なのです。なぜなら神は命 そのものだからです。命からの分離は死であり、命に帰ることは生き返るこ とです。父が喜んでいます。息子はされるがままです。このように回心とは、 罪があるまま神に帰ることです。そして神にされるがままにされることなの です。あなたが帰ることが、神の最大の喜びなのです。 ❸【兄の嫉妬】 弟が帰って来た時、父は盛大な宴会を開きます。ところが兄は怒ってその宴 会に出ようとはしません。兄は「私は何年も父親に仕え、一度でも言いつけ に背いたことはありません。それなのにあなたは私が宴会をするために子山 羊一匹すらくれませんでした。 」 (29 節)と言います。おかしいです。 「子山 羊一匹すらくれません」といいますが、彼は父親の財産を既に分けてもらっ 2 たはずです。父はいいます。 「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。私 のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返り、 いなくなっていたのに見つかった。宴会を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前で はないか。 」 (31~32 節) 。 兄の不満というのは「嫉妬」です。なぜ、嫉妬するのでしょうか。 「愛され たいから」です。人間は誰でも愛されたいのです。愛されたくない人など誰 もいません。愛されたくてこのお兄さんは一生懸命に頑張って来ました。そ れなのに、お父さんはこんな問題を起こす弟ばかりを大事にして、自分のこ とは愛してくれない、褒めてくれない。自分よりもこの出来の悪い弟の方が 可愛いんだと思い込んでいるのです。お兄さんの愛されるための基準は、行 いでした。だからきちんと父の言い付けを守り、言われたことを行ったので した。こういうのを《律法》といいます。兄は真面目にきちんと生きること さえすれば、人生は自分の思い通りになる、自分は豊かになれると思ってい たのですが、そうではなかったことをここで知ります。自分の心が自分の思 い通りにならないのです。彼は自分を少し知り始めます。でもまだ父が(神 様が)無条件で自分を愛してくれているということを知りません。彼も失わ れた息子です。 ●カトリックの京都教区に昌川信雄という神父がいます。彼が神学校に入る 時、七十歳を過ぎていた母と二人暮らしをしていました。突然神学校に入る と言うことを言うと母は怒り「こんな大切なことを自分一人で決めて、なぜ 私に相談してくれなかったのか」といいます。彼は売り言葉に買い言葉で「八 人も子供がいるのだから、一人くらいいなくなってもいいじゃあないか」と いうと、字も書けない、読むこともできない母は、十本の指を使い「この十 本の指の小指一本怪我をしたら、お前は痛くないのか」と言ったと言うので す。それを聞いた時、心からアホなことを言ったと思ったそうです。 『子供たちのうちどの子を一番愛しているかって?病気の子が良くなるま ではその子を、家を離れた子が戻ってくるまではその子を愛します』とジョ ン・ウエスレーの母親は述べています。 神様にとってどんな人間も自分の愛する子であって、いらないという人はい ないのです。価値はないという人はいないのです。お父さんは無条件の愛で 子供たちを愛しています。それが神の愛です。私たちがどのようになっても 変わらない愛です。この物語は誰にもわけ隔てなく、降り注ぐ「神の愛」を 物語っているのです。父に不平不満をいう兄も神の愛から取り除かれている ものではないのです。父は毎日弟が帰ってくることを待っていたように、兄 も帰ってくるのを待っているのです。 ❹【あなたもすべての物をもらっているのに気がついているか】 3 ●沼野尚美さんの話の中に、脳腫瘍に犯された 20 歳の青年の話が出てきま す。歩けない、食べられない、飲み込めない状況の中で、最初彼は「自分に こんな人生を負わせる神はいない。神の話を絶対するな」と言っていました。 ところが以前、危篤状態になって死にかけた話を母がした時に、 「その時、 死んでいても不思議はなかったのだったら、僕は今、生かされているんだね」 といい、 「僕は生かされているんだ。だから、僕を生かしてくれている方を 知りたいんだ」といって神を求めるようになりました。彼は病床洗礼を受け 変わりました。亡くなる 1 か月前は「沼野さん、人間の本当の幸せは心が自 由なことだよ」と彼はいいました。彼は以前、退院してゆく人を口では「お めでとう」と言いながら、心の中では「もっと悪くなって帰ってこい」とつ ぶやいていたそうです。でもそんな自分の心が嫌だったそうです。その内に 自分で自分の心をコントロールすることを諦め、イエス様に委ねたのです。 こんな自分の罪のためにイエス様が死んで下さったことを知り、神の愛によ って彼は変わりました。 「心の中がびしびし張り裂けそうに嬉しい」と言い、 亡くなる前に一人ひとりのナースに、声に出ない口を大きく開けて「ありが とう、ありがとう」とお礼をいいました。亡くなる前日まで、高校野球を楽 しんでいたというのです。彼の中に兄も弟も住んでいるのがお分かりでしょ うか。肺癌が脳に転移して脳腫瘍になった 60 代後半の婦人は、手術を怖が っていました。 「恐い、恐い、頭を切るの?」手術が恐いだけでなく、死ぬ のが恐くて夜も眠れない。沼野さんは彼女にこう言いました。 「私、死なな いのです。私、死なない命、もらっているのです。 」すると彼女は「えっ。 死なないの?あなた、死なないの?」とおっしゃる。 「ええ、私、死なない 命もらっているのです。 」というと、 「あらいいわね。それ、どこでもらった の。 」死の恐怖の中にいる人にとって、死なないという言葉は響くのです。 「この身体は残念ながら時が来たら朽ちます。でも、私永遠に生き続けるの よ」というと、彼女の目がキラキラしてきて「ちょっと、それ、どこに行っ たらもらえるの?」と聞いてこられました。沼野さんは「私は復活であり、 命である。私を信じる者は、死んでも生きる。…」 (ヨハネ 11:25)を教え ると、それを紙に書いて、大事にされ、やがて洗礼を受けられました。亡く なる前、彼女は「沼野さんからあの言葉を聞いた時、すがるような気持ちだ った。いい言葉やなと思った。でも、今私は言えます。この言葉は本当だと。 」 と言われたそうです。 人間が、本当に貧しくなった時、そこに神の愛を発見することがお分かりで しょうか。そして神の無償の愛、神の命をもらった者は、恐れなくなると言 うことがお分かりになるでしょう。完全な愛は恐れを締め出すからです。人 生はこの神の無償の愛と命を知るための旅だと思います。 4 ●朝の祈祷文の中の「食後の祈祷」にこうあります。 「キリストわたしの神よ、あなたが地上の祝福をわれらに満たしてください ましたことを感謝します。主よ、求めます。あなたの天国をもわれらにお与 えください。 」 天地が創造されてから、人間はこの大地(エデン)を神によって与えられま した。この世は食べ物です。神は地に命じて食べ物を生え出でさせるように しました。だから食べられるのです。私たちはどれほどこの世を食べ続けて きたことでしょう。皆さんが生まれた時から、本日、今日に至るまでどれだ けの物を食べてきましたか。山ほどの食べ物を、数えきれないほどの食べ物 を食べて来たでしょう。どれほどの命をもらって来たことでしょう。だから 今日生きているのです。聖書は最初から、 「食べる物語」です。神はこの世 だけでなく、天国まで私たちに下さいます。何という寛大な父でしょうか。 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる。 」 (ル カ 12:32) そして最後に私たちは神の命まで食べたのです。親は子供の為に自分の命を 捨てます。子どもが生きるために自分の命が使われるなら親はそれを喜びと します。天の父は私たちに御自分の命を下さいました。皆さんの中には、神 の命が宿っているのです。だから皆さんは永遠に生きるのです。私たちは実 に神の命まで食べたのです。食べて、食べて、食べ続けて、最後に神の命ま で食べるのです。あなたは何と多くの物を与えられたことでしょう。それな のに、なぜあなたは持っていないかのような顔をするのですか。あなたがた は神にこよなく愛されたのです。あなたのために、御自分の命まで与えた神 なのに、あなたはどうして「自分は神に愛されていない」などというのです か。ああ、何と神は私たちを愛されたことか。与えて、与えて、自分の命ま でもくださる。 この世に確かだというものは何もないのです。唯一あるのはこの神の絶対的 な愛だけです。今日、神があなたを喜んで祝宴を開きます。それが聖餐です。 私たちも言いましょう。 「父よ、私は失われていましたが、あなたに愛され るために帰って来ました。 」神の愛を讃美し、喜びましょう。父の喜びに私 たちも入りましょう。 5