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ハニア
平 成 23年 1 2月 7日 根本正顕彰会会報 第 6 8号 発行者 目 根本正顕彰会 次 会長 ごあいさつ 奮還義雄 1頁 2 「根本正顕彰フェスァィパル j報 告 事務局 2頁 3 「根本正ゆかりの地を訪ねる旅 j報 告 事務局 4頁 4 「公民館まつり J報告(附資料) 小林茂雄 1 6頁 トピックス ① 水 郡 線 全 線 開 通 77年 記 念 イ ベ ン 卜 事 務 局 事務局 ② 寄贈図書への礼状と受贈図書の紹介 会長 書津義雄 ③ 小塩政子さんを追悼 1 7頁 20 頁 2 1頁 5 ブフジル受流会に参加して 6 9頁 事務局 理事 2 1頁 編集後記 【お知らせ】 第 2回 根 本 正 顕 膨 会 公 開 鴎 庫 平 成 24年 2同 12白(白) 那珂市中央公民館 13:30""15:30 講座室 「ヘポン塾に学んだ人々 j 横地富子理事 ※ ※ 開催期日は当初は 2月 1 9日(巴)としていましたが、会場の都合 により変更となっています.ごプ承下さい. 多くの皆さん万のご参加をお待ちしております. 巨大震災と共に暮れた 2011年 根本正顕彰会会長曾津義雄 今年は 3月 11日、マグ、ニチュード 9 (震源地のエネルギーを示す)、震度 7の巨大な 東日本大震災に見舞われ被害は関東地方一帯の広範囲に及びました。宮城・岩手・福島 から茨城にかけての臨海地域は大津波に襲われ甚大な被害が出ました。さらに東京電力 福島原子力発電所の爆発により、「広島原爆 20個分(ウラン換算)の放射性物質が飛散 した J (朝日新聞、 2011 ・8 ・6) という。日本・世界でも経験したことのない半減 期の長いセシウムの放射能汚染の恐怖に日本中が不安に包まれています。この複合災害 による死者・行方不明者は 3万人に近いと云われています。避難者も約 12万人に及ん でいます。また、この災害も自然災害とか、人災とか、想定外とか云われています、果 たしてそうなんでしょうか。福島の原子力災害がなかなか収束できないと云うことは、 科学が人間の能力を超えてしまったのではないでしょうか。 今回の深刻な大地震・大津波・原子力事故を考えると共通点があるように思います。 それは人類が「自然への畏敬の念 j を失ってきたのではないかということです。今まで は自然はいくらでも人間に都合の良いように改造できると過信してきたのではないか。 ところが自然は逢かに大きい力で人間に反撃してきたと考えることも出来ます。もとも と我が国は環太平洋造山帯という地震帯・火山帯でもあり、世界的にも地帯構造の不安 定な地域にあるということを再認識すべきであると思います。自然は人類に食糧やエネ ルギーなどをはじめとして、人類の生活基盤を提供してきたのであるから自然との共生 なくして人類の存在はあり得ないと思います。水面下 6O~ ;ï:から立ち上げた防潮堤も破 壊されました。従って防潮堤だけで大津波は防げなかった。一つの方法だけで、完壁に自 然災害は防げない。減災ということが云われるように施設面での防災も大切であるが、 街づくり・避難訓練・各自の災害に対する心構えなど総合的な防災対策が大切であると 思います。もし根本正翁ならどのような政策を提言したでしょうか。 さて、今年も師走を迎え残り少なくなってきました。会員の皆様には当顕彰会の活動 にご支援・ご協力を戴きましたことに厚く感謝申し上げますと共に皆様がよい年を迎え られますことを祈念致します。 - 1- 2 3 時 場象容 1 日会対同 平成 2 3年度根本正顕彰フェスティバル(実施報告) 平成 23年 10月 2日(日) 13時 20分から 16時まで 那珂市ふれあいセンターよこぼり 那珂市立第二中学校学区(神崎 ・額団地区) 4 第 3回目となる顕彰フェスティパル。 今 年度は、かつて根本正を研究して発表した 横堀小学校の学区でもあり期待もあった 。 先 生 方 や P T A役員、自治会の役員の皆さ んに加えて、親子づれで参加して下さった 方もあったことは大変うれしいことであり、 大いに励みとなった。 会場受付前には「根本正の生涯 J、「水郡 線 の 変 遷 」 などを図示したパネル展示が飾 られた。額田の元国鉄マン富岡銀二郎氏が歴史的変遷を示す鉄道レールの実物を展示して 下さり、来場者は大変興味を持って観覧していた。 水戸市や常陸太田市からの参加者もあった。 ご参加し、ただいた方々の口コミが、大きな 力となってくれることを期待して日々の実践に努めていきたいものである 。 ※ o v o r根 本 正 の 生 涯 JI 噌旦幽 映 写 により、根本正の全体 像を把握していただいた。 子供たちにも良く理解でき たし、参加してくれた子供 たちにはマンガ「根本正物 語」を贈呈、よろこんで読 んでくれていた。 ( 1 ) 青少年の健全育成 「 マッチや時計に驚いた豊かな感受性はどこから生まれたか J、「まず基本は目標を立て 決意すること 。 それを如何に実現するかの工夫 と実践が必要。苦学力行で目標 ・夢の実現に遁 進する力を養うこと J、「善を知って行わざるは 罪なりとの信念が勇気を生み出す」、これらが 健全育成の基盤であることを強調。水戸学とい う基礎学問の上にキリスト教の精神を摂りいれ、 留学による実体験が根本正をより優しく且つ強 くしたと思う 。 青少年の禁酒 ・禁煙法の制定は、その実践の 具体的な例である。 ( 青少年育成について講演する曾津会長) - 2 ( 2 )水部線敷設事業 地域への貢献の 一例として取り上げた。 (1)が国家的政策であるとすれば、水 郡線敷設事業は地域への貢献の 一つである 。 ただし、選挙対策としての「我田引水 」的な 「我田引鉄」ではなく、八溝山系の資源をい かに開発活用するか、その資源の思恵を平等 に生かすにはどうすればよいか、福島の人々 に便利を与える方法はいかにあればよいかな ど大局的な見地からの施策であった。 県内の鉄道の変遷について、展示資料を活 (水郡線敷設について講演する仲田副会長) 用しながら分かりやすく解説された。 東北線、水戸線、常磐線、太田鉄道、水戸鉄道の開通から白萩線、郡平線、水郡線構想、 と菅谷一大宮線開通、大宮ー郡山線、大宮一大子間開通への大子の人々の喜びと根本正胸 像建立、水郡南線、水郡北線、昭和 9年 12月水郡線全線開通とそれを見ずして前年昭和 8年 1月に逝かれた根本正などなど。 遠大な構想、から建設された水郡線も今年で 77年。今や坂道を上る蒸気機関車の如くに あえ 時いでいる水郡線の利用状況。 果たして、再興の道はあるのか。 自動車社会の中で存続 は可能であるのか。根本正の理想、は十分に達成されてきたことは事実である 。 それが何時 までも続くことを願いたいことではあるが。各自の意識的な利用を期待したい。 参加者の声 ① 現在、子供が水郡線を勉強しています。学校だけの学習でなく、顕彰会の方から 直接学べる良い機会であると思い参加しました。 日本で最初に走った新橋一横浜間 のレールから最近のものまで、揃っていて驚きました。 (額田;母親) ② 学校でも生き方をしっかり指導していかねばと思いました。 大変貴重な研修にな ' りました。 (神崎;教員) ③ 時代の変化はどうしようもないのでしょうか。根本正さんが苦辛して敷設した水 郡線も前途多難な状況にある 。私は広い田畑を持っているが耕作は勿論耕作者を捜し 求めているがなかなかうまくし、かない。今後どのように対処していけばよいのか。 また、若者の自殺者が増えている 。酒については、今日では根本正さんがなされた 子供対策ではなく、大人対策である 。喫煙についても同様である 。 しかしながら、酒 ・タバコの害を早くから説き、対策を立てられた偉大さに驚きと 尊敬の念をもっている 。 (常陸太田市;女性) ④根本正さんのような方に総理大臣になって欲しかった。根本正さんは総理大臣を目 指さなかったのだろうか。 (常陸太田市;女性) ⑤ 今日の日本の現状を考えると、根本正さんのような考えは是非共必要である 。毎 日の活動がんばって下さい。 (水戸市;女性) ※ 参加者の皆さん方の様々な角度からのご意見を聞きながら、改めて根本正顕彰会の 役割を痛感させられました。調査研究、事業の実践の意義を再認識したところです。 3 一 平成 2 3年度「根本正ゆかりの地を訪ねる旅:東京都肉』 ー日本基督教団銀座教会と増土寺と憲政記念館一 平 成 23年 10月 27日(木)、今秋最低気温と寒気の増した朝であったが快晴、日中は気温も上昇して 快適な研修日和となった。 会員 22名 、 会 員 外 22名、全体で 44名の参加者。 旧役場跡駐車場には午前 6 時 50分集合の時間厳守に全員揃ってご協力いただき、定刻より 5分前には出発。 この間、山田理事が自分 の出勤前、早朝より駐車場の案内 ・整理に当たってくれた。 車中は小林茂雄理事の進行によって研修、講話 ・懇談が進められた。 はじめに曾津義雄会長の「基督教団銀座教会 J について (1)根本正とキリスト教に関しては ①中村正直の影響 ②横浜のヘボン塾で学ぶ ③アメリカ留学で学んだこと 。 (2)根本正と銀座教会については ①安藤太郎と根本正 ②安藤記念教会の独立と根本正 次いで仲田義一 副会長の「常福寺と聖問と増上寺」について ①瓜連常福寺は常陸浄土宗総本山であり江戸時代は関東十八檀林に列した。 ②聖問(六夜さん)は浄土宗の第七祖で浄土教学の体系化に努めた浄土宗中興の祖。 瓜連常福寺の 二世で了誉上人と称された。徳川家康の母が埋葬された伝通院の開祖。 弟子には聖聡、了知らがいる 。 「六夜さんは聖同上人の命日の前夜祭的供養の法要です」 ③ 芝増上寺の開山は聖聞の高弟聖聡。徳 川 家康が帰依して現在地に移り、徳川家の菩提寺となる 。 ④ 増上寺は関東十八檀林の筆頭で歴代将軍の墓所の一つ。 明治以後は浄土宗関東総本山。 日光東照宮(家康 ・家光)、増上寺(秀忠 ・家 宣 ・家 継 ・家 重 ・家 慶 ・家茂)、 寛永寺(家綱 ・綱 吉 ・吉 宗 ・家 治 ・家斉 ・家定)、 谷中墓地(慶喜:幕府を無くしたこともあり遠慮して寛永寺 ・増上寺を避けた) などの講話があり、質疑応答も加わって朝から内容の濃い車内研修となった。 銀 座 績 会 は イ ギ リ ス の 牧 師 ジ ョ ン ・ウ エ ス レ ー の 信 仰 を 継 承 す る メ ソ ジ ス ト 教 会 と し て 明 治 2 3年 (1 8 9 0 年 ) に 誕 生。 禁 酒 運 動 を 推 進。 ヘボン塾で学んだ安藤太郎は鯨飲家から日本禁酒同盟会長として活 躍。創 立 1 0 周年記念祭で根本正は司会を務め、安藤太郎と ・美 山 貫ー が講演。 この銀座教会から安藤記念 教会が独立し、根本正も転籍 ・転会する 。 ここでは長山信夫牧師から講話をいただいた。 今回の東日本大震災は大惨事であったが、 「 人の役に立つ 喜 び j を 得 た こ と は 大 き い。 幕 末 の 開 国 以 後 、 欧 米 を 視 察 し たことにより、クリスチャンたちの生活を見て国造りの基本 の一つを学んだ。 具体的に、主なものは 日曜日の存在 、 「心を 一 つにする日曜礼拝」、農業重視、 女性尊重、子供の活動、などである 。 ※ 宗教の必要性=仏教 ・神道にキリスト教を加える 。 ※ 宗教改革=聖職者に限らず皆平等の考え方。 飲酒に耽り、アル中人聞が増加(最大の社会問題)→ 禁酒運動へ 企 「 心が一つになっている J;オランダでの「日曜礼拝の図」を示しなが ら語る長山牧師 - 4 ー 円 U 、内た世肖起て軍と夫の戸た 門堂し 二 のいえ将然た人江し 整つ 二。 力引 ワい山寺そ思超 。 い広開福でをを失て残 。る莫 同が 'h 焼 せ け か あ に 罰 。常 内 れ 派 刊経る連車そ宗とで寄焼ともめ( 日守 汁読た瓜の・ノイ襲に、たでた 和だわる朝丸教断空地はれ深う防 共んきあ、い芽境も在忠ら味救日 町澄響ではて、よ廟現秀せ意らうヨ 丁のく師姿しらが御を 軍寄はか郁 。 人ちょのの拝がら家墓ム将にら撃人 科 た 地 引聡ゆ聞 を な 安 川 の す 代 廟 か 攻 夫 二 の係総茂 時一侶心 1 1 画しし徳ち置 恥 僧 に U聖 U聖 像 こ 暫 た 安 人 関 を 家 ' 台 以' ド fh - 陀 コμ1J キパ﹂ 可 で 内 殿 山 本 た れ 十郎ベ 建 再 EH 向 エ た し 失 焼 で 襲 古 小 東 ・ + で 寺 増 上 9そ 阿波丸事件犠牲者慰霊碑も詣る。昭和 20年 4 月 l 日、連合軍の捕虜 ・抑留者を救うため、 連合軍の要請により食料物資を輸送するため 出港した緑十字船阿波丸が、台湾沖において 不法にも米国軍の魚雷攻撃により乗員 2千余 名が犠牲に。 米国は秘匿したが生存した一人 から事実が判明 。 日本政府は抗議権を放棄し 政治的に処理された事件。現在も不可解なま まである 。敗戦の悲惨さの一例でもある。 午 後 の 車 中 では曾津会長から「憲政記念館 j についての講話。 昭和 45年 (1 9 7 0 ) は議会開設 80年記念 に当たり、議会制民主主義の認識を深めるために建設が進められ昭和 47 年に開館した。記念館の構内には 「日本水準原点」があり、かつては井伊家の上屋敷でもあったことから「桜田門外の変」に関しても講話。 小林理事から会の P Rも兼ねて「顕彰会活動の歩み j についての講話もなされる 。 憲政記念館 衆議院議員当選 25回、議員在職 60年 7カ月、憲政の功労者で ある尾崎行雄(木堂)を記念して尾崎行雄記念館が建設され、これを吸収して今 日の憲政記念館がある 。 9 4歳の木堂は、当時の国会議事堂を見て、 「このような 立派な議事堂にふさわしい議員は何時になったら現れるのか ?J と当時の議員た ちの姿を歎いていたが、未だにそれは実現していないと思える 。 (写真左は尾崎行雄 銅像) r 憲政史シアター Jで幕末から現在までの「憲政の歩み Jの映像で学び、「議 場体験コーナー」では根本正議員になったつもりに。「 ヤジは飛ばさないで!J と 戒めながら、野田総理の演説映像に見入っていたのは流石でした。「適切なヤジ」、 「タイミングのよいヤジ」は、時には貴重な雰囲気作りにもなりますが。 二階の「資料展示コーナー」が展示替えのため休室であったことは残念でした。 - 5 - 憲政記念館の境内 館の中庭には尾崎木堂の銅像があり、庭先には時間に正確であった尾崎 のために スイスから時計塔が贈られている 。三角塔は立法 ・行政 ・司 法を示す。 ドイツの哲学者カントも時間に正確で、カントが 散歩に出ると「ああ、もう 3時だ」と言われたという 。 その先に 「 日 本 水 準 原 点 j がある 。 わが国の土地の標高 を決める際の「基準点」である。地図を作る場合に、水準点 と知何なる位置にあるかが重要であり、位置の基準になるの が「 三角点 J である 。 ここは、明治時代は参謀本部及び陸軍 省が置かれた場所である 。 陸軍省で地図を作っていたのが陸 地測量部であったことから、水準原点がここに設けられた。 水晶体に基準の赤線が引かれていたとのことであるが、現在はローマ風神殿建築も閉じられていて見ること 4佃降下 したとのこと 。基準が変わりました。 はできない。その基準点もこの度の東日本大震災の結果、 2, また、ここは 「 井 伊 家 の 上 屋 敷 J でもありました。桜田門外の変で水戸藩の脱藩者によって艶された 井伊直弼は、ここから出て先に見える桜田門の外で襲撃されました。本当に僅かの距離であり、それだけ周 到に準備されたものであったことも実感させられました。手前は「桜の井戸」で、ここの名水は登城する武 のど 士や行き交う人々の喉を潤したと言われます。安藤広重の浮世絵「江戸百景」の 一つ「桜の井」の中に入 った気分でした。 (現在の井戸は、道路工事のため交差点内から 10~ ß: 後方へ移っているとのことです。 ) ポトマック湖畔の桜の御礼に贈られたハナミズキの大樹が欝蒼と茂る境内からは、僅かに国会議事堂を望 むことができます(写真下左)。館内外共に豊富な話題の憲政記念館を最後の研修地として(写真下右)、 好天に恵まれた今年の「根本正ゆかりの地を訪ねる旅 J を無事に終えることができました。 根本正翁がキリスト教に入信した背景、公平選挙を唱え、積極的に議員立法案を提出して成立に尽力する など、議会政治を尊重していった姿を改めて実感した「ゆかりの地を訪ねる旅 Jでした。会計報告は横田理 一一一一一一一一 『一一一一一一一一一三 九, . 事。 。 円 【参加者の声】 ー質疑応答も活発にあって賑やかな雰囲気でした一 1 徳川家墓所は寛永寺にもあるとのことであるが寛永寺境内に墓地はあるのか。 存在する。普段は一般公開はしていないので見ること、拝することはできない。 2 二十六夜さんの話があったが、二十三夜尊、十九夜尊などの意昧は何であろうか。 (先崎光さん) 「二十六夜尊」は浄土教の阿弥陀{ムの供養日であるが、瓜連常福寺の「六夜さん jは聖問土人 の命日 9月 27日の前夜祭に当たる。本来は上人を供養する法要であるが¥現在は宗派を超え て先祖を供養する法要となっている。なお、十九夜講・二十三夜講・子安講などは安産子育て の祈りで、女性たちの厚い信仰となっている。 3 根本正は豊田小太郎が暗殺された後、郡方役人ちしたりしているが、その前後の過ごし方や住 まいなどはどのようであったのだ、ろうか。さらに東京ヘ出て行って箕作秋坪や中村正直の塾 に入るまでどこでどのような生活をしていたのだろうか。(斎藤郁子さん) から先進国の文明・ 確かな史料は未だ見出していない。東京行きの決断は「時計とマッチ J 英語への憧れとそれを学,3 ,¥意志からであろう。それを聞けたのは、豊田小太郎の芙雄夫人 であり、芙雄が実の姉立の夫である藤田健を紹介したのではなかろうか。 4 伝通院は聖問」二人が開山といわれる。そこには徳川家の子供たち(男女)・側室などが眠って いると言うが¥春日局は何故入っているのだ、ろうか。しかも、春日局の墓石には穴がいくつも あ る と 言 う が な ぜ で あ ろ う か 。 ( 武 井 登さん) 後で調査したところでは、伝通院には春日局の墓は無いようです。春日局の墓は菩提寺で ある文京区の臨済宗派麟勝院です。 5 徳川幕府の歴代将軍の墓地は日光東照宮、増上寺、寛永寺ですが、最後の将軍慶喜だけは谷 中墓地となっている。それは何故であろうか。(伊藤喬章さん) 慶喜は将軍を辞した後、将軍家とはなれて別家を立てたこと。また、葬儀は神式でとの遺言 があった。これらによって徳川家墓地には入らなかったと思われる。ただし、谷中墓地には 寛永寺墓地もその範囲に入っているようですが、実体は寛永寺墓地とは別に考えるのがよ いと思えます。 6 根本正は東京住まいであって選挙区へは余り戻っていない。選挙運動はどうしていたのか。 (山田三郎さん) 根本正は安藤太郎の禁酒運動、選挙運動にと活動している。それらの行動が地元にも伝わっ ていたであろうし、地元には根本党と呼ばれる程純粋で熱心な指示者が多かった。清潔な人 柄がそうしていったと思われる。 - 7 一 7 根本家とは姻戚関係にあって今日ち誘いを受けて参加した。根本正がこのように多くの方から 理解されていることを嬉しく思うし、自分でもさらに学んでまいりたい。 (菊池正則さん) 8 根本正の未成年者禁煙法はザ、ル j 去に近いのではないかと思っていたが¥あの法律があるから こそ現在の喫煙率に留まっているのだと言うことを医師から聞かされて納得した。さらに禁煙 J (11上清さん) 運動を進めていきたいと思っている。 9 参加者が会員・非会員と同数であることは、こんなに関心を持ってくれる方がいるのだと嬉し <思う。憲政記念館は前回の旅では予定されていたのに外れてしまい残念に思っていたが実 現できて育り難かった。憲政史の映像の鮮明さから資料保存・保管の大切さを痛感させられ た。戦後 31人と女性議員が誕生したその多さに改めて驚く、現在と比較してどうであろうか。 9 5歳残)。尾崎が米国に贈った また、尾崎木堂が 60余年ち憲政に携わった偉大さに驚嘆した ( 桜のお返しに届いたハナミズキを見て、お互いの lらが生きて現在に実っていることを実感し た。さらに、増」二寺の徳川家御廟に関して二代将軍秀忠と江夫人の墓の位置(江が正面)が印 象的であっ走。ここでも、夫人「江 J の力を感ずる。車内での講話を含めて、内容も分かりゃす (冨田芳子さん) <有り難かった。 10 東京には 20年から住んでいたが、合目訪ねた所は皆初めてであった。その意昧でも大変あり がたい研修の旅であった。現在観光ボランティアをしている。先の水戸黄門漫遊ウオークで根 本正の生家を含めてボランティアガイドが交代で案内した。よい体験ができたし、さらに研績に 励みたい。皆さんち観光ボランティ?に入会して欲しい。(海野宏幸さん) 1 1 :ll:画された役員の皆さん方の準備は大変なことであつだろうと思い、ご苦労に感謝します。皆 さん方の人柄が如実に表れた研修旅行であったと思います。憲政記念館では根本正さんや田 中正造さんの関係資料、場面にも出会いました。それぞれ政治家として命を掛けて遁進した至 誠・姿勢を学んで大いに励みとなった。内容の濃い研修旅行であった。これらのことを、子供た ちにも伝えていくこと、偉人を知らせることは親としての責務でもある。知事で参議院議員で もあった岩上二郎氏とその夫人もクリスチャンであった。神道・仏教で被えない部分をキリスト 教で補えることを見出して国造りに生かしていったことなど、合日の自分たちの在り方を見直 す機会とちなり、貴重な有意義な一日であった。(先崎光さん) 1 2 皆熱心な方々であり、楽しい一白となった。歴史を知ることは大変よいことで、それらがテレ ビ、に出てくると一層興昧を持って見ることができるなど日常生活の中に生きていることが多 のパンフを見ると、江の父親浅井長政:養厳院の肖像 い。増上寺でいただいた「崇厳院;お江 J ひとしお か、載っていた。つい先白京都で実際に見てきたところであり、感慨一入でした。 (小林千賀子さん) - 8 一 平成23年庭部珂市中央公民館まつり(報告) 1期 間 1 1月1 8日(金)から 1 1月20日(日)まで 2 会 場 那珂市中央公民館 2階ホール 3 展示テーマ 「ヘボ、ン塾に学んだ人々 J 4 展示内容および担当者 ① 根本正顕彰会 14年の歩み・根本正ゆかりの地を訪ねる旅 (小林茂雄理事) (横地富子理事) ② ヘボンとヘボン塾(夫妻で推進した医療・布教・英語教育) ③根本 正 (衆議院議員, i 平等」の視点からの政策立案) (仲田昭一理事) (仲田義一副会長) ④ 高橋是清 (総理大臣;日本財政の守護神) ⑤ 大村益次郎 (日本近代兵制の創始者:靖国神社に銅像) (増子輝雄副会長) ⑥ 藤原義江 (日本オペラの創始者) (増子輝雄副会長) ⑦ 白洲文平 (日本学生野球の先駆者) (鈴木正矩理事) 国家守 ③ 和 ⑨林 董 ⑬ 正田作次郎 (日本近代洋画界の巨匠) (外務大臣;日英同盟の立案者) (美智子皇后の曾祖父;日清製粉創業者の父) (鈴木正矩理事) (曾津義雄会長) (山田正巳理事) 5 公民館まつりは年度計画として掲げた課題を理事全員で担当し、調査・研究し展示 発表するところに大きな意義があります。担当者がそれぞれ分かりゃすく整理し、統一 された形式で展示でさることはすばらしいことです。 今年は、明治学院大学が発行した『ヘボン塾につらなる人々』を基本資料とし、根本正 ち学んだ医療宣教師ヘボン夫妻による日本で最初の英語学塾で学んだ者のうち 8名を プJ の精神で日本の各界をリード 選んで紹介したものです。いずれも「ネヴ、?一・ギブ・7ッ した方々です。 この期間に多くの皆様が訪れて下さいました。殊に 19日(土)は澱しい雨天、にもかか 、「こんな わらず、お出かけ下さった方々には感謝感瀕です。「非常に分かりゃすいです J 人たちが根本正さんの仲間だったのですか jなど大きな関心を持ってくれました。質問 には、当番の理事がそれぞれ丁寧に解説していました。用意した『会報』ち全てお持ち帰 りいだだき、『根本正伝』もご購入いただきました。 は、普段の活動の成果である制作作昂展示が多い中で、この根 この「公民館まつり J 本正顕彰会の研究発表はまた大きな意義があります。 参考にして下さい。 - 9 一 展示内容は、別添の展示資料を ヘボンとヘボン塾 。ジェームス・カーチス・ヘップパーン(=ヘボン) 0来日前 1815年(文化 1 2年)3月 12日 アメリカ ペンシルハニア州ミルトン生まれ。 プリンストン大学・ペンシルバニア大学医科卒業 医学博士。 1840年クララ・メリー・リー卜と結婚 後、医療宣教師として中国のアモイに派遣され、医療 伝道に従事したが、クララが病み、 1845年帰国し (ヘボンとクララ夫人〉 ニューヨークで開業。 O決 意 開業 13年の聞に富と名声を得るも、外国伝道の志が消えることはなかった。 日米通商条約を知り、北米長老ミッション本部に医療宣教師として日本派遣を申 し出、 1859年(安政 6)妻クララとともに神奈川に到着。 0功 績 日本最初の和英辞典『和英語林集成』の編纂・. この時に使われたローマ字が『ヘボン式ローマ字』 聖書の日本語への翻訳・-和英辞典が完成すると新約聖書・旧約聖書を翻訳出版 医師としての医療事業・. 186 1年の来日以来無料で診療を行った。 内科、外科、眼科の治療手術を行う。 。ヘボン塾 1 8 6 0年 ク ラ ラ 夫 人 は 成 仏 寺 で 5人 の 少 年 を 集 め て 家 塾 を 開 い て 英 語を教え始めるが夫人の一時帰国で中断される。 夫 人 の 留 守 中 に ヘ ボ ン は 横 浜 居 留 地 で 186 1年から 1863年に、幕府からの 委託生大村益次郎ら 9人に数学・幾何を教える。 その後クララ夫人が戻り 1863年に英語塾を聞いた。 1866年ヘボン夫妻上海渡航のため、代わ りに J .H.バラ夫人が教える。 1869年メアリー・キダーが教えるように なりフエリス女学院創立につながる。 1874年ヘボン塾を宣教師ジョン・バラに 譲り、ヘボン塾は、明治学院創立につながる。 - 1 0 - (ヘボン邸) 根本正 一宋成年者禁酒禁煙法・水部線の敷設に尽力 嘉 永 4年 ( 1 8 5 1 ) 東木倉村(那珂市)に誕生 元治元年( 1 8 6 4 ) 豊田天功の家僕となる 明治 5年 ( 1 8 7 2 ) 中村敬子の門下生となる 明治 1 0年(18 7 7 ) パラ学校(元ヘボン塾)で学ぶ 明治 1 1年(18 7 8 ) 住吉協会で洗礼を受ける 明治 1 2年 ( 1 8 7 9 ) アメリカ留学 明治 3 1年 ( 1 8 9 8 )"-'大正 1 3年 ( 1 9 2 4 ) 衆議院議員 昭和 8年 ( 1 9 3 3 ) (1)生還の指針 義公壁書、 古歌 ※ 死去、 8 1歳 キリスト教の「平等観」・「受けるより与える J 「踏まれでも根強く忍べ路草のやがて花咲く春をこそ待て」 先進文明「マッチと時計 j への鋭い感受性、飽くなき探求心と実践力 (2) 園 事 的 . . 議会主義(天狗・諸生の争乱からの教訓)、 教育の機会均等(義務教育無償)、 (3) 地蔵飽施策 水郡線敷設、 移民の推進 未成年者禁酒・禁煙法、 高層気象観測所設置(現つくば市)、 こうもん 横利根閉門設置(利根川の治水)、 高橋是清 村松海岸砂防林植栽 一財政週の政治家・内閣総理大臣ー 嘉 永 7年(18 5 4 ) 江戸,幕臣川村家に誕生 生後間もなく,仙台藩士高橋家の養子になる 元治元年( 1 8 6 4 ) ヘボン塾(バラ夫人)で英語を学ぶ 慶 応 3年 ( 1 8 6 7 ) 藩費留学生としてアメリカ派遣 明治 2 2年 ( 1 8 8 9 ) 銀鉱開発のためペルーへ(失敗) 明治 2 5年 ( 1 8 9 2 ) 日本銀行入行 明治 3 8年 ( 1 9 0 5 ) 貴族院議員 明治 4 4年 ( 1 9 1 1 ) 日本銀行総裁 大 正 2年 ( 1 9 1 3 ) 山本権兵衛内閣蔵相 1 9 1 8 ) 大 正 7年 ( 立憲政友会に入党。原内閣の蔵相 大正 1 0年 ( 1 9 2 1 ) 原敬首相暗殺一一ー首相兼蔵相・政友会総裁 1年 ( 1 9 2 2 ) 大正 1 閣内不統一で総辞職 昭和 6年 ( 1 9 3 1 ) 犬養内閣の蔵相 高橋財政を展開したが、公債漸減による財政引締めの方針 をとって軍部と対立 昭和 1 1年 ( 1 9 3 6 ) 2 ・26事件で殺害される。 83歳 - 1 1 一 大村益次郎 一日本近代兵制の創始者一 文政 7年 (1824) 周防国書銭司村(現山口市)に生ま れる。 蘭医梅田幽斎、大阪の緒方洪庵等に学び一時医者となる。 後に、江戸に出てから約 2年間ヘボン塾で学ぶ。 兵学者として活躍。 明治 2年 46歳で死去。 兵学者としての活躍 1 . 30歳で宇和島藩に出仕し、わが国初の蒸気船を製造する。 2. 江戸に出て、幕府講武所の教授を務める。 3. 四境戦争(第二次長州征伐)で陸軍の参謀を務め大勝利を収める。 4. 再び江戸において、上野彰義隊攻撃の総司令官となり勝利を収めた。 (江戸市中を戦禍から救うことを考えた戦いをし勝利した) 5. 戊辰戦争では大総督として作戦どおりの勝利を得、新国家建設に遁進する。 女 東京九段の靖国神社に銅像が建立されている 藤原構江 一日本オペラの創始者 1 . 明治 31年大阪で生まれる。 (父・イギリス人、母・日本人) 2. 父が母国に帰国後母の手で育てられるが 生活苦から、子供時代転々と人に預けられる。 3. 上京し明治学院に学ぶ。 (寄宿舎「第 2次ヘボン館Jに入る) 4. 20歳のとき f浅草オペラ j に出会い、修行を重ねる。 5. 22歳のときオペラの勉強に渡欧する。(イタリア・イギリス) 6. その後渡米し、独唱会を開くなどし再び渡欧する。 7. 昭和 9年に、藤原歌劇団を結成する。 8. 日本人の歌曲を主としてとり上げ歌い広めた。 9. 国内・国外で数多くの音楽界等で、藤原節を歌い上げる。 1O. 日本人オペラ活動の功労者として、数々の賞を受ける。 1976年(昭和 51年) 78歳で死去 - 1 2 - 白洲文平 一日本の実業家 白洲正子の義父ー 1 8 6 9年 (M2年) - 1 9 3 5年 (810年) 1 0月 2 3日 横浜に聞かれたヘボン塾の後身である築地大学校(一致学校、 現・明治学院高校)に 1 3才で入学。在学中にマクネヤ宣教師他 により野球部が作られその初代主将となる。 卒業後はハーバード大学、ポン大学に留学。 帰国後は三井銀行や鐘紡に勤めるが中途で退社。その後、兵庫 県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商庖を創業し綿貿易により 発展して巨万の富を築いた。豪放ながら倣慢な性格で、周囲から 心月院の夫妻の墓│ は『白洲将軍』と畏れられた。 建築が趣味で多くの邸宅を次々に建て、それらは『白洲屋敷』と呼ばれた。兵庫県伊 丹市に建築した邸宅は 4万坪の敷地 l こコロ一、モネ、マティス、ピカソなどの作品を収 めた美術館や煉瓦造の給水塔などを備えたものだったという。 白洲商庖は 1 9 2 8年(昭和 3年)に昭和金融恐慌により倒産。その後は阿蘇山麓の大 分県竹田市荻町に洋館を建てて移り住み、その地で死去した。 なお、現在、名前は「ふみひら」として広まっているが、史料には r M rB .P .S hi r a s u J と見えるものもあるようであり、「ぶんぺい」であった可能性が高い。 和田英作 一洋画家・東京美術学校校長・文化勲章受賞一 1874 年 12 月 23 日 ~1959 年 1 月 3 日 鹿児島県垂水市に和田秀豊の長男と して生まれる。鞠絵小学校、明治学院 を経て、東京美術学校へ。原田直次 郎、黒田清輝らに師事する。東京美 術学校の洋画科が開設された際、助 教授に就任するが、まもなく辞任し、 同校 4年に編入入学し、卒業。 1 9 0 0 年( 1 8 9 9年 7)文部省留学生として欧 州に留学。 1 9 0 3年帰国し、東京美術 学校教授となる。 1 9 3 2年、 3 0年以上校長を務めた正木直彦が辞任した後、東京美術学校校長に就任。多くの 後進を育てたが、画風は穏当、保守的である。明治天皇を記念する聖徳記念絵函館のため に描かれた『憲法発布式』は歴史教科書でおなじみの作品であろう。また、慶慮義塾大学図 書館ステンドグラス(原画)も知られている。 - 1 3 一 林 董ー外務大臣目;英同盟の立役者一 1生い立ち i 嘉永 3年 (1850)、佐倉藩蘭方医佐藤泰然家の 5男として誕生。 ) 摂天堂を開業。 父は長崎で蘭学と外科術を学び、佐倉に1 4歳の時、威風堂々たる外国人を見て、母から「勉強さえすれば 誰でもあのようになれる J といわれたのを終生忘れなかった。 5歳の時、寺子屋で学ぶ。 9歳の時、佐倉藩儒者続豊徳家に寄宿して「四書五経J などを学ぶ。 10歳の時、桜田門外の変起きる。 文久 3年 (1863) 13歳の時、横浜に移住した父に英語を学ぶ ため呼び寄せられ、ヘボン塾で学ぶ。 幕府御典医林洞海の養子となり林董三郎と改称、のち董となる。 米国商館の書記ウェルマンに「アルファベット j を習う。 ジョセフ・ヒコ(兵庫県出身・米国領事館通訳)に英語を学ぶ。 2海外留学 15歳の時、幕命により英国留学に中村敬宇ら 14人と出航。 明治元年 (1868) 6月、帰国。 "2年榎本武揚の函館戦争に参加。翌年 4月、許され横浜に帰る。 3官界へ出仕 明治 4年 (1871) 10月、岩倉具視欧米使節団に随行。 "15年 (1882) ロシア皇帝戴冠式への有栖川宮織仁親王に随行。 "21年 (1888) 新設香川県知事 "23年 (1890) 榎本武揚・陸奥宗光外務大臣の下で外務次官。根 本正がメキシコ・ブラジル植民地探検に出掛けるときの外務次官 "28年 (1895) 清国駐在公使になる。男爵を授かる。 "30年 (1897) 駐露公使になる。 "35年 (1902) 日英同盟の締結に活躍。子爵に叙せられる。 "38年 (1905) 駐英公使館の大使館昇格により駐英大使になる。 第 2次日英同盟の締結に当たる。 "3 9年第 1次西園寺内閣で外務大臣となり、第 3次日韓協約、日仏協 約、日露協約の締結にあたり、伯爵に叙せられる。 "44年第 2次西園寺内閣の逓信大臣(一時外務大臣兼務)になる。 4晩 年 の 生 活 葉 山 で 暮 ら し 大 正 2年死去、享年 64歳。根本正と同じ青山墓地に眠る。 A斗 正田作次郎 美智子皇后の曽祖父・日清製粉(株)創業者の父 寸 弘化 3年 (184 6年 ) 群 馬 県 館 林 市 に 誕 生 明 治 2年 (1 8 6 9年) 24歳 の と き 「 幸 」 と 結 婚 明 治 3年 (18 7 0年 ) 横 浜 に 移 住 、 外 国 米 の 輸 入 を 始 め る 明 治 4年 (18 7 1年)風邪がもとで急死〈省一郎ち歳ゴ ぐ2 6 併〉 ノ 群馬県館町に日清製粉の前身「館林製粉株式会社」が設立された 正国家 0明一郎 O建 次 郎一寸一一 O彬 正田家は米問屋を家業とし、 上州館林とその近郊一番の豪 妻禎子 商であった。暖簾は「米文」。 その名声は江戸はもとより、 │ 妻企並百合子 . _ _ _ _0紘一 一 一 一 剛 大阪方面にまで聞こえてい 妻浜口淑 た。弘化の頃には名主の職に あった。名字帯万を許されて 美智子 いた。とりわけ三代文右衛門 今上天皇后 は正田家中興の祖といわれて いる。 .作次郎 正回文右衛門次男 O貞 一 郎 0英 三 郎 ーよ一一 妻副島富美子 妻正田きぬ 修 妻大原泰子 妻幸 順四郎 篤五郎一一晋一郎 1. 正 田 作 次 郎 (1846""'1871) 2 . 正 田 貞 一 郎 (1870""'1961) 日 清 製 粉 創 業 者 3 . 正 田 英 三 郎 (1903""'1999) 日 清 製 粉 社 長 (4代) 日 清 製 粉 社 長 (7代) 4. 正 田 修 - 15 一 平成 2 3年度茨城・ブラジルふるさとリーダー交流事業 交流会に参加して 茨城県生活環境部国際課主催の標記交流会に根本正顕彰会より、鈴木正矩理事と小林茂雄理事 の 2名が参加しました。 交流会開催の趣旨 茨城県の国際協力事業推進の一環として、ブラジルから「茨城・ブラジルふるさとリーダー 2名を招待し、本県出身移住者及びその子弟との親睦を深め、意見交換を行うことにより茨城と ブラジルとの一層の交流推進を図ることを目的として、毎年開催しております。 開催日時 一会場 平成 23年 1 1月 1 1日(金) 11:30""'14:30 ホテルレイクビュー水戸 (水戸市宮町 1-6-12) 一 平成 23年度茨城・ブラジルふるさとリーダー被招へい者 上野山 村田 剛(公務員(税務署勤務) 日系 3世) ひとみ(医療部門勤務(医学物理士) 日系 3世) 四.式次第 1 . 開会 石寺異国際課長補佐 2. あいさつ 小菅均国際課長 3 . ふるさとリーダー紹介 上野山剛、村田ひとみ 4. 出席者紹介 (自己紹介) 23年 度 ふ る さ と リ ー ダ ー 上 野 山 剛 、 村田ひとみ 茨城県海外移住家族会 元会長 西村和夫 向上 幹事 緑川和基 根本正顕彰会 理事 鈴木正矩、小林茂雄 ホストファミリー 小野田紀夫、小野田考紀一上野山剛 向上 23年度南米研修員 向上 県生活環境部国際課 平井ゆき 村田ひとみ 山田マルシオ正幸(ブラジル) 益子ジェシカパレリア(アルゼンチン) 小菅均課長、石寺異課長補佐、竹内良子主任 5. 歓談 6. 閉会 石寺異課長補佐 (参考) ふるさとリーダーの 2名は、ホストファミリーの方々の家にホームスティーしながら、 8 日 間 ( 2 3年 1 1月 8 日" " ' 2 3年 1 1月 15 日)、県立医療大学や県立中央病院、水戸税務署、県内 市町村税務課等で研修に取り組んだり、県庁や県内、水戸市内を視察しました。 南米研修員の 2名はブラジル茨城県人会やアルゼ、ンチン茨城県人会の方々の家にホームス ティーしながら、(株)目立情報制御ソリューションズでプログラミングやデータベース、茨 城大学で品質管理について、平成 24年 2月 23日までの 6ヵ月間勉強、研修中です。 参加しての感想 0ブラジル、アルゼンチンの各移住者と県国際課、県の各県人会、根本正顕彰会との関わ り、活動状況などの意見交換、交流が活発に行われ有意義で、あった。 0県国際課、ホストファミリ一、県家族会の皆様方の親代わりとしての優しさ、思いやり、 心配り等をすごく感じました。国際交流会の開催目的が十分に達成できたと思いました。 - 1 6 - (文責 小林) 【トピックス】 『水郡線全線開通 7 Y周年記念まつ υ』が開催されています 乗って見つける 77いるの魅力 今年は昭和 9年 ( 1 9 3 4 )1 2月に水郡線が全線開通してから 7 7年になります。それを記念して、茨 城県水郡線利用促進会議・水郡線活性化対策協議会・ J R東日本水戸支社が主催者となって 1 1月 2 6 日(土)から 1 2月 1 1 日(日)まで記念まつり「感謝イベント J が行われています。 『茨城新聞』記事参照 八溝山およびその周辺に存する資源の公平な分配、地域住民の生活の利便を目指して茨城県の根本 正代議士、福島県笹原村(塙町)の白石禎美村議らによって計画が進められ敷設が実現した水郡線。 時代の変遷を経て貨物車の廃止、乗客の減少も著しい現在、その活性化が叫ばれている。そのような 中で、感謝イベントが行われ乗車 PRが展開されている。 1,常陸大子駅前整備成る ー根本正翁胸像も新たな場所に移転一 このたび、常陸大子駅周辺の再 開発・整備が行われた。 昭和 2年 ( 1 9 2 7 ) に水郡線常陸 大子駅が開業、 3年後の昭和 5年 にその功労者であった根本正の偉 業を遣すために十二所神社前に胸 像を建立した。しかし、戦時中に 回収され台座のみが大子小学校校 庭の隅に置かれている。その後、 3年に ( 1 9 6 8 ) に新たに常陸大子駅前に再建された。その胸像もこの度の駅前整備によ 胸像は昭和 4 り駅前南側に移し替えられ、新たな説明板も設置された。(胸像制作者;高橋丈雲) 常陸大子駅前根本正胸像台座碑文 久慈ノ清流ニ沿ウテ快走スル水郡線列車ヲ望見スルトキ、根本正先生ヲ想ウコト切ナルモノガアル。 先生ハ嘉永四年那珂郡旧五台村ニ生マレタ。父徳孝、母ハヤ、ソノ二男デアル。幼ニシテ好学勤勉、 明治十年大志ヲ抱イテ米国ニ渡リ近代政治家トシテノ研鎮ヲ積ミ、業成ッテ帰朝、直チニ活動ヲ始メ、 先ズ官命ヲ受ケテメキシコ・中南米・印度・ピルマ等ヲ視察シ、移民貿易ニ関スル献策ヲ重ネタ。三 十一年衆議院議員ニ当選シテカラ国政ニ関与スルコト二十六年、コノ間国民教育ノ基礎確立、未成年 者禁煙禁酒法案ノ成立等ニ貢献スルトコロ大デアッタガ、特ニ水郡線建設ニ就イテハ四十四年建設案 ヲ国会ニ提出シテカラ予算成立ニ到ルマデ、初志貫徹ニ実ニ十年ノ歳月ヲ送迎シタ。先生ノ高志ト之 ニ和シタ郷土有志ノ誠意ガ結晶シ、全線開通日ヲ迎エタノハ昭和五年デアル。葱ニオイテ先生ヲ欽仰 スル有志ハ、同年大子町十二所神社境内ニ胸像ヲ建立シタガ、太平洋戦争中政府ノ回収ニヨッテ姿ヲ 消シタ。今般後世人士ハ之ヲ遺憾トシ、大子駅開通四十周年ヲ記念シテ先生ノ像ヲ駅頭ニ再建シタ。 先生逝イテ三十六年、今ヤ高遁ナ識見ト稀世ノ実践力ヲ併セ持チ、国ヲ憂イ郷土ヲ愛シタ先生ノ英姿 ヲ万人ノ仰ギ得ルコトトナッタ。沿線ノ緑樹愈々輝キヲ増シ、産業文化ノ興隆期シテ待ツベキモノガ アル。ヨッテコノ美挙ガ郷土躍進ノ象徴トナルヲ信ジツツ、先生ノ高徳偉業・後世人士ノ報恩ノ至誠 ヲ録シ、永遠ニ伝エノレコトトシタノデアノレ。 昭和四十三年十一月 茨城大学教授塚本勝義撰 大子第一高等学校教諭 - 1 1 - 川又貞之書 i l 根本正 水郡波間駒山 04(1851)隼、滋湾都志台村東京食{現瓢碍調官) I :!E曹れる. 明治 3 1(1898) 隼、衆.僕・JlI~ fD溢軍事l. 案成隼書飲灘穣J.I:-来成年寄 耳里担E禁止法のJllJ1!!~ど教育問題1;:取 り組んだ憶か、司暗治44(1911) 辱.$ ' . 1 水車庫{白河 本声l1li)鉄道建後抱強議司 e こ 鍵出し水繊・ 側通に尽力したa 級 事 由2年t こ常掻大子量R が縄歳。E.:隼‘の情報 5 ( 193 0)奪ζ i楓事正の.組聖 聖書宮1::酪に、現在のだいご小学績叡慮@沼署障に鋪像署・l!.(.・Ii簿二次 τ 世界大総来燭命食島鑓幽 ζより.懐古れ し奮ったた也、現在滋台穫@み贈 っている}その後、費量 収書れた胸・1 ; : 代わり、信組 44( 1 9 6 9 ) ' 阜、常暢女 子 理R l Ol;:_< 之総会 濁編文書 11 紛が祷・宮れた 給 .(新説明板) . . 1 1 月 28 日 (月)午前 1 0時 30分ごろの常陸大子駅;郡山行 2,水郡線治線パネル展 (乗降客はもっと居りましたよ) ..1 1 1月初日 (土)、. 2 月1 1日(目) 水戸駅ピル「エクセルみなみ」 6階 於; 像 映 型 ピ レ テ 内 場 ム 百 二吋プ (駅ピル内パネル展示会場) ホ 郡 線 全 線 開 通 77周 年 記 念 パ ネ ル庚 白球鴻手持訟の石~-J (パネル内写真の一部) . 圃 . パ ネ ル 5枚の一部 ;i 写真で綴る水郡線の四季 J J 3 E i g F t a曇 穫 量 璽 宰 雷 雲 事 吋も 寄曾竃・撃 坤聞書憧嶋轟内書盆圃嘗轟ぜ 骨量.記事畢' e n・ w . 的‘量議事﹃‘.e A 2 3 9 叫 中 島 義 玄 急措聖書曹E L叉華- ' s ー同一輪車湧暗闇 守 抽 朝 日 噛 蝿 山 ・ 広場旗揚 , 。 i i一 晶 玄 竺 1;} a s s -川襲警 の一 ・ ユ 55 a 室。撃事評議 5;ii 一 ・ 一g 畑- 通 四 一 ・出与え小間暗雲タき 7 一次長三 45 m細 g診 a z * x s z v揖有車適時中窓邸機者む晶 u r z i w U ・ 目 調 圃 ・ 会 ・ 目 4 田町 A? 土 穆 ? 閣 官 同 ・産省取君女隠望感悦 F耳 a鳴 檀下血w 富 z讐嘩韓鳴海 1 8 huH e , ・ 国・ *第常盤・む LMZ笹山品購繁議最組慣 W A W岡田叫蝿 白 (以降は年表 E にある) 一 ・*,,.a . ・ ・総輯蝿揖 そのために根本正は出てこない) a ' (敷設の背景には及んでいない、 幡 事事事瞳聾.樽 s 、掛指圃鴫揖湾 年 表 I 昭和 6年 ま で → M 聞 「水郡線の四季 J ( 3枚) ‘ 町田掴昌明。‘恵問事 98令 ⑤ ﹄ ‘ 4 ﹄ 町四 ③ a a ' m --Ra--' ' e・ -a" 一 ‘ ‘ ②「今に伝う水郡線と人々の記憶」 全 一 3a一 2・ ZSき ・ょ 2 文芸 ①「心に残る思い出の水郡線」 郡 コ=バ人 宍え J 主 主 円 高丹ー 2011年 ( 平成2 3 年)11月25日 ⑧⑧ ろの魅力 水郡線全線開、 ﹁水郡線全線開通竹周年記念まつ り﹂ (県水郡線利用促進会議など主 催)がお日からロ月日日にかけて開 城石川各駅でイベントが行われる ほか、臨時列車の運行や沿線観光地 への日帰り旅行ツアーも実施され る。 ・ r 刊写 かれる。水戸、常陸大子、福島 ・磐 水戸、常陸大子駅で催し 資材の販売会や子ども駅長 制服撮影会も行われる。 l 1、 記念まつりは、 J R水郡 ヤ 町 線がロ月4日に全線開通か 1 1 臨時列車は同月日、日の │叫 ら竹年を迎えることから、 同) あすから 撮影会や体験 2日間、﹁クルlジングト 歓迎セレモニーと福島県の物 産販売 ( 駅前広場、 1 2月 1 1日) マ駅 か らハ イ キ ン グ ( 奥州一之 宮の歴史探訪と狛犬めぐり、 日帰りツアー レイン﹂の車両を使い、 2 【磐城石川駅】 , 臨時列車運行 工両州出席)の全席 両編成( 指定で運行される 。クルー 歓迎セレモニーと本県の物産 販売 ( 駅前広場と水郡線営業 所、 1 2月 1 0日) マ 水郡 線 営 業 所 まつり ( 同 営 業 所 、 同 午 前1 0時 午 後 3時 ) マ 大子 町 周 遊パ ス 運転 ( 同月 1 0、 1 1日 、 無 料) ﹁乗って見つげる竹(な 【常陸大子駅〕 な)いろの魅力﹂をテlマ に行う。沿線地域の活性化 沿 線パ ネ ル 展 ( 駅ビル「エク セ ル み な み J 6階、 2 6日r-._, 1 2月 1 1日) マ観 光 P Rと 本 県 ・福 島 県の物産販売(改札前と南口ペ デ ス ト リ ア ン デ ッキ 、 同 月 2 日 r . _ , 4 日) マ記 念 駅 弁大 会 ( 改札 前、同月 1 0、 1 1日) l と東日本大震災で大きな被 【水戸駅】 年記念まつり ジングトレイ ンは昨年ロ月 害を受けた本県と福島県の 時から午後3時まで、車両 まで、 J R五能線の快速 復興支援が狙い 。 リゾートしらかみ﹂とし 常陸大子駅の水郡線営業 展示や運転台乗車体験、模 ﹁ 所まつりは同月叩日午前日 擬実演 ・体験を実施 。鉄道 て運転された。(斎藤敦) :各駅の主なイベント 金曜日 J 連 E暫ιιι ~子ZごL μ〕ι-ζιIι エ 弘 一 ム 斗 一 一 ぷι〕 一 一 一 ム 一 一 一 ム 一 幽 一 白 幽 一 幽 白 凶 園 幽 幽4一 白 凶 一 」 孟 一 一 幽 一 一4孟 孟 一 白 白 白 】JE m 1 9 『根本正伝』寄贈への私状 梅雨の候、御健勝にてお過ごしのことと存じます.突然のご連絡で失礼いたします。過日は、ご来 校いだだき重ねて「根本正伝 Jをいただきました。厚くお礼申し上げます。当日は出張で学校を留守 にしてしまいました.失礼の程、お許し下さい。取り急ぎお礼のごあいさつとさせていただきます。 (水戸市の会員田口浩氏が訪問寄贈されたことに対して;水戸市立第一中学校長 東小川昌夫氏) 拝{夏、今日ち蒸し暑い日になりました。先生には益々の御活躍大慶至極に寄じ上げます。只舎は、ご 丁重なるお手紙とともに 『 根本正伝』 御恵贈賜りまことに育難うございました.立派なご本で感濃し ております。これまでにおまとめになるには、さぞいろいろとご苦心もあったかと拝察いたします。こ れからゆっくり拝読して勉強させていただきたく存じます。時節柄、くれぐても御身お大切に。取り急 ぎ御礼申し上げます.顎具 (茨城県文化財保護審議会長:茨城大学名誉教授 鈴木膜一氏) 『 根本正伝』 と依頼状を受け取りました.当日は主任枚師の長山先生がお話をされるとのこ とです。皆様のお出でをお待ち申し上げます。草々 (日本基督教団銀座教会 横山良一氏) 前略 【要贈図書紹介】 『銀座教会九十年史』 明治 8 年( 1 8 1 5 )に設立されだ銀座教会の母教会である築地美以教会 のルーツを明らかにすることなどを主な狙いとして編纂された 9 0年史。 銀座教会は明治 2 3年 ( 1 8 9 0 )英国国教会の枚師ジョン・ウェスレーの信 9 4 3年以来続けられ 仰を継承するメソジスト教会として現在地に誕生。 1 ている「正午の礼拝」が特色。その聞に根本正が関わった事柄として「根 本正と桑港福音会」、「会堂建設募金および日露戦争後の恐慌による建 設延期と根本正」、「建設再開と根本正建設委員長 J 、「銀座教会の安定 と安藤記念教会の設立および大正7 年( 1 9 1 8 )の根本正・安藤太郎らの銀 座教会からの転会」などが詳細に記述されている。(昭和 5 6年2月発行) 『小塩完決・とよ子の禁酒運動、世界連邦運動の歩み』 本書の巻頭文として、本会顧問で日本禁酒同盟理事長の加藤純二氏が「禁酒運動の過去・現 在・未来 J と題して一文を寄せ、その中で i (小塩氏 ) 9 0歳の時、自宅所有地を無償提供して?ルコ ール依存症の駆け込み寺を作ろうと計画したことが新聞に掲載された。その記事を読んだの が¥小生が日本禁酒同盟に関わりを持つきっかけであった。 1 988(昭和 6 3 )年 jと明かされてい る 。 小塩完次と運動をとちにした一人として根本正が紹介されている。則ち「禁酒運動指導者 9 3 4年(昭和 9 年)の欧州訪問に推薦。完次・とよ予の結婚 小塩完次を買い 1 。 式の仲人をとく子夫人と共に勤められた jと 雪印乳業を創設し、「酪農の父」と言わ れ、また北海道禁酒会長を務めた久慈郡 世矢村(常陸太田市)の黒津酉蔵ち紹介 3年 ( 2 0 1 1 )1 0月、日本 されている。(平成 2 禁酒同盟・資料館発行) - 20 小塩政子さんを悼む 小塩政子さんは日本禁酒同盟の事務局長を長年にわたり勤めてきました。日本禁酒同 盟の初代会長は安藤太郎氏、 10代理事長は初代からの禁酒運動、世界連邦運動を推進 してきた小塩完次氏。奥様は土浦出身のとよ子夫人で仲人は根本正が務めている。政子 さんは小塩完次氏弟喜男氏長男正平氏の良き伴侶であった。 根本強彰会も根本正の調査・資料の蒐集のため武蔵野市西久保の禁酒同盟事務局を訪 ね大変お世話様になりました。この度、日本禁酒同盟は労作である『写真日記で、綴る小 塩完次・とよ子の禁酒運動、世界連邦運動の歩み~ (政子さんも執筆者の 1人)を刊行さ れました。その出版記念会を前に急逝されました。心よりご冥福をお祈り致します。 編集後記 O いよいよ今年も暮れようとしています。この一年は 3月 11日(金)午後 2時 46分 に起こった東日本大震災、それに伴って発生した原子力発電所の爆発問題の対応に、日 本全体が追われ続けました。菅直人総理の対応のまずさもあって政権も不安定、被災者 への配慮より政争を優先させた国会議員たちの行動に義憤を感じたものでした。 それに対し、今年度の総会時の公開講演会で曾津義雄会長が講演したように、根本正 代議士が自然の大災害に対して執った行動は迅速なものでした。員iJち、明治 4 3年(1910) 3月 12日、鹿島灘・九十九里浜に面した茨城・千葉両県を突然襲った暴風雪により多 数の漁船が遭難し、未曾有の海難事故が発生。根本正代議士は、明治 4 3年 3月 22日 の第 26回帝国議会で早速この悲惨な海難事故を取り上げ、 「後来の予防 J のためと言 って議員立法で「高層気象観測所設置建議案 j を提出している。根本代議士は、既に明 治 36年 (1903) に 「大日本帝国水難救済会国庫補助に関する建議案」を建議するなど、 早くからこの方面に関心を持っていたとはいえ、法整備を含めた対応の早さに驚く。日 頃から、国家国民への愛国・慈愛の精神、自然への畏敬の念を鍛えていたからこそでき る行動であると思っている。今や、目先の利益のみに関心を持ち、自己の立場の何たる かもわきまえられない、国賓への畏敬の念も持てない閣僚たちを見て、根本正代議士の 療とした姿勢に感歎すること頻りである。 0 水郡線の全線開通から 77年、記念イベントもあると言うことと常陸大子駅周辺も整 備されたことから実に久しぶりに水戸大子駅間を乗車してみた。沿線は、鈴なりの柿の 実の赤さ、柚の実の黄色、紅葉に包まれた山々、静かに流れる久慈の清流などなど、穏 やかな晩秋の風景であった。日中の乗客もそこそこではあった。しかし、少子化・車社 会の進展の中、今後の存続には非常な覚悟を求められることであろう。根本正代議士の 意図されたところは生かしながら。 また、 11月 27日(日)大震災・大津波で被災された宮城県南三陸町を訪ねた。鉄 道建設がし、かに非常な困難を伴った大事業であったかは、今に残るズタズタに寸断・破 壊された線路の惨状からも再認識させられたことであった。 0 根本正顕彰会としては、この時期は大きな行事が詰まって多忙な期間でした。しかし ながら、会員の皆さま方のご協力を得て無事に遂行することができました。それらをま とめてご報告できることに感謝しております。 来年は「辰年」です、一層の飛躍を目指したいものです。 〔仲田(昭)記〕 - 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