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i l軍政下 (一九四五1 一九五O) の戦記小説 ilz 米国占領下沖縄初期の文芸 はじめに 一九五O年までは鼠政下にあった。その時期の諮については別稿で の傷病兵と共に死ぬ惑が、向か前段の深い因縁の下に定められてい 総らないものも出た。いよいよ敵はこの潟終にまで来て、閉じ込め ﹁ケシの花﹂となぞらえて、﹁もっと可憐で血なまぐさい﹂と一一一尽つ。 太田は﹁姫百合﹂を、独仏戦争の激戦地﹁ヴエルダン﹂に咲いた ある。 日の門うるま新報い心音欄(浅間)の太田良憾の欝﹁然一一廿一舗の歎﹂で 次に、沖抑制での﹁ひめゆり﹂帯雨説の妓初は、一九四七年九月十二 ロマンティシズムの域を山山ないものであった。 側部もあるが、殉死の災化と健気な乙女の悲認という過去の無難な この︿物諮﹀は、﹁大引制﹂や﹁街人叩﹂について、冷静に娘、えている た生徒逢も放の攻殺で全滅したのである。(校三) 事に持ってきた真新しい制服に着替え、化粧をし、自爆した。残っ たように忠われ﹂死を決怒した。中に出戸川子と貞子という姉妹は、火 られてしまい、域内は地獄の惨状を笠してきた。彼女途は﹁これら もに結びついていた。彼女透の中には、兵とともに特攻班に加わり、 あったが、彼女らは悲壮な決意で﹁大君という象徴に﹂兵たちとと の島氏が米中間中の降伏勧告の笈伝ピラを拾った。島氏の悶には動揺が 平 日 の中で、特に戦記小説について述べる。 米国の沖縄占領は一九四十永年より一九七二年であるが、その初郷 田 述べているので(校二、ここではその時期に沖縄で発表された小説 一、ひめゆり物語 小説、演劇、映闘でブ1ムを呼ぶ、いわゆる︿ひめゆり物語﹀は、 v , v氷次雄﹁沖縄倖成記い(日航一⋮)に、当時日本兵捕虜遠の問問で回し 次のような物諮から始まった。 読みされたという、一一一瓶遼司作﹁娘富合の塔﹂が記餓されている。 いた話を綴った﹂という。その内容は次のとおりである。 それは、沖縄の小徐収容所にいた三瓶が﹁作業場で、ぬの娘から開 名と、第一応女の生徒数名、それに悲干の Ji 昭和二十年五月の末、南部ガ郊に逃げる住民の抑制乱の中に、沖縄 女子制範学校の生徒八 傷病兵の一四聞があった。彼らはやっと締絡に逃げ込んだ。同じ澗総 -89 浦 及せず、結局﹁永ごうの砲煙の中からひずきたるおごそかな欲f﹂ の符﹂、﹁鬼こく秋山々﹂とその悲惨をとらえながら、その現災訓似を追 たため叶わなかった﹁沖縄戦全般の真抑制﹂の記述を、﹁予想をこえた がき﹂にコ⋮別説明は主として私一個人の体験を中心とした記述﹂であっ に配印刷された﹁一一一政大枚﹂(波ムハ)の手記という体裁である。﹁まえ 続沖縄の最後と創建された口先生の門いは、山尚級参謀として沖州加 間であることを川開設するものである。(校?な) ﹁生死の淡に歌うさわやかな乙女等の芦ノ﹂﹁山中一なるいまはの合唱 資援な資料、特に当時の文相と悩奴を広く深く知りぬいておられる そして﹁砲燦﹂や﹁市川と附喚﹂、﹁つめたい抑制の米﹂にある﹁乙女遠 は乙女らの歌が﹁無言の欲﹂であるが⋮、先の一一一搬のロマンティシズ よ/・﹂﹁けがれなき﹂と議ねていき、的品化している。しかし、この詩 立場にあった一生選者の、歪笈約な、本設記述の 対幹となるべき資 古川川成美の間務については、仲桜島徳内沖縄の戦記い(削初日選投、八 の説制作に関して﹁今のところ、沖縄戦に関しては、一等ら古川氏の独 参謀が儲かれている(注七)。沖総出身の学者金城朝永はこれら古川 という非人間的な﹁総械﹂から、本能的人間同校回復へと転換した一 の作戦の﹁沖縄総石﹂の笑態が記述され、終議近くになって﹁兵隊﹂ 神﹂に支配された非知性的、不ム口濯な箪湾令部の笑慾および大本賞 で、司令部にいた参謀の側から見た作戦指令の笑態が記述され、﹁精 料に怒まれ﹂た、とある。沖縄家河令官牛肉問問中将と長参謀長の近く m( ムよりは、より抑制的であるといえよう。 二、将兵の物語 ところで、日本作家の市川成美は諸日絡の最後い(山七年十一月) 二年六月)に詳しいが、吋沖縄の緩後いは、著者が災総に砲兵隊長と と吋死生の附けい(凶九年一月)を表した。 して参加した沖縄戦体験記である。前半はほとんど⋮方的に攻惨を M の子により、沖縄人の立場から、沖縄人のそ は、これが沖総人自 '却 のお々における戦時下及び戦協同吋や、終戦成後の生活や受難に関す 機場の側酬を口正している﹂と述べた後、﹁沖縄戦に対しては、私ども る各人各万一期から観た真相や笑感が、冷節に、そして忠災に精山市な 受けるだけの負け戦の揃写と傷を負って逃げる我が殺と戦友の惨め 謝し、米国の滋愛を心から賛燃するという内容である。なお、この 文献や炎録として設き巡されることを、この哀れなぬ人や凶の燦史 さのことであり、後半は米中阜の捕践になって、米軍を命の怒人と感 本には、著者の収容所持代に通訳をしていたその捕際収容所の米筆 これは沖縄戦に附附する日本での小説であるが、沖縄では、先述し のためにも望んでいる﹂(注八)と述べている。 入所長﹁クレマ中尉﹂の次のような英文の推約文が載せてある。 彼は、九ヶバ通訳長を務め、よく佼えてくれて、依頼できた。 た太郎良問問が、南方戦線を務ム口にした小説﹁開中山ダイヤ﹂を発淡した。 彼は英一訟が良く出来たので、一万六千人の捕成管酬明の郎総な事 務な緩助した。術協の民主主義教育に適した民主主義思想の持 吋月刊タイムスい(注九)第二均(一九間九年⋮一一月)二十七一災から 2 日本日早政でのインドネシアで紡衛義勇山本線成隊民としてのつハニ 一一一十三一気に掲紋されたものである。 ち主引にあり、新しい平和問家建設のための米中戦政,仰の協力者で いことに気がついた。この手紙は、彼が誠災で、信頼できる人 ある。彼は、沖縄戦を通じて、戦争が繍民地拡大の方法ではな -90- の闘の前を、進駐援の英軍と戦って後退してくるインドネシア独立 闘の兵隊となって進駐鍍の命を受け町の務備を行なっているが、そ マン﹂という燃く踏の少年に日本認を教えた﹁私﹂は、いまは敗戦 この作品での﹁私﹂は、戦中での認識を引きずり、対引火戦をたた オランダの佼攻などもあり、いまだ独立は滋沌としていた(校十)。 共和国政府が樹立されながらも、内乱状態にあり、加えて旧宗主悶 衣料吋、っている。九郎九年のインドネシアは、 .0 の大怒逆であり大悲劇である。沖縄の凡ての民はお叩はすまじきも よなしろ ω ﹁戦争それは余りにも悲惨な倍、ずべからざる人間批界 ﹁ひめゆりの塔﹂である。 会を発行所とした吋ゴスペルい(注十二創刊号のよなしろいさむの さて、このようなやで、四十九年五月後場ずるのが、キリスト教 一⋮一、キリスト教的言説 への釈然としない思いが隠されていたと見ることができるだろう。 かう民族主義への共感が表現され、その裂には米液占領という状況 革命派の一郎に混じって、パニマンが姿をあらわず。私は、次のよ うな感怒を抱くのである。 美しい官官筏と純潔を民族のために捧げて胤と淡の中で鋭をとっ てた﹀かう、傷ましくも縫い気なその後姿を形容のできない感悦 をもって見送っていた。いとおしい気持ちが設のように湧いて ような総動にブト駆られた。 きて胸なしめつけ、自分はその後をアラブラと追っていきたい 巡ム悶悶の揃隣同様な﹁私﹂の前を、民放のために戦っている青年 あ?::間以ダイヤ・・ e の次のような欲を向くのである。 途が通る。その育仏 迷 として、﹁この洞筋より奇跡的に生還せる二、一一一の姉妹より前一銭其の のぞいと子々孫々に伝へ、又伎界の人類に告げなければならない﹂ アシヤは立てり、われらは立てり。/われらの郷土在自らんす 災相を聞くことが出米た﹂ので、﹁務関に伝えられたさまざまな有山皆 白一際が熱くなった れ、/進め進め 1 を喜んで死地に赴かしめる術を知って岡山たい。この少女透も隊法に掛 ある。説が死を好む者があろう。然し彼の魔法的慌たちは巧妙に防災 ゐた。吋名誉の山山依、酬明れの応召だいと公ったがそれは表部の修辞で 避けることの許されない運命の絶対命令である。覚悟は既に出来て ﹁この純代に此の間に生れ合せた活者として努でもか︿でもそれは くと前置きし、次のように述べていく。 無設な物認を糾す'忍味に於いて、廷に新しい沖縄の建設のため﹂訴 (賂) 防衛の戦士。アシヤの戦士。/インドネシヤの戦士。 一鮮の兵士透が歌うその行進欧に沈痛な皮肉と荻傷を感じっ﹀ :、自分は口市然とその場所に立ちつくしていた。 かっているインドネシアの狩俸に対する﹁私﹂の一小川叩斐ない思いと 底抗戦を叫んだはずの日本が敗れ、それに反して対英戦闘をたた 大義名分としての大策強共栄閥、南方共栄閣の思怨を指導し、徹 肱降伏した日本と自らへの表れみが表現されている。 えて悶の中を移動した。ハ伎民が追い出されて入った次の綴の中で、 けられ、部隊長や悠陀悼の命令に従って、淡から総へと死体を踏み滋 この作品の末路の一一浸策﹁あれから間年iii﹂とは、問問十九年の現 -91 米中単のっている。捕虜は殺さず、食継も 戦局は決定した。これ以上の戦いは、戦後日本再建に必裂な脊年を 一言葉が織すが如く﹂議き綴られである。交般は良く闘ったが、もう への投降勧告文がある。それは﹁米山本の人道主義的情迎を尽くした そのように牛島中将に勧告したのに、彼は無視した。勧告は人逃走 無駄に減少せしめるだけであり、抵抗は無怒味だ。さらに将校へは、 い だ、もう磁ぐ勝利する。捕闘の女性は辱められ、い向的殺される﹂と述 r ?える﹂という投除勧告どいブを談かが拾ってきたが、一ふ医はコアマ べ、少女迷は﹁辱かしめられ﹂るということに恐怖を感じた。やが 談に従つてなされ、過去、勧合が受諾された例も幾つもある。牛島 て六月十二日部隊長から解散命令が発せられるが、少女途は﹁目以と 巡命安共にする﹂と述べた。﹁閉山に殉ゆすると云う悲壮な感動が彼女た の死を窓味する。というものである。牛島中将が降伏していれば、 中将は部下兵士の家摘を計るという資務そ'芯った。それは資殿将校 六月十日以後の犠牲は出さずに済んだのだ。だから﹁幾千の怒さ生 ちの生への本能の戸を圧倒して沈黙させた﹂。こうして米軍の攻般に だ、彼ら死の苦悶地獄を味わった者たちは期せずして川叫んだ。今や 倒れたが、奇跡的に十閥、五名が怠を吹き返し、?と﹂を逃れるん 命はや烏中将の武人の名授のためにその代償として支払われた﹂の まず、戦争や少女等の悲劇の際悶を短絡的に人間伎にあるとする点 だものといえる。しかし、そこには幾つかの間題点も指摘できよう。 一一言葉の閉山を取上げた。それは、一一一瓶や太間のものより⋮歩踏み込ん の悲劇の原閣を追及し、製惑をたよりにしながら、人間の出向我心と よなしろは、︿ひめゆり物訟のを単なるノスタルジーではなく、そ ゃ ー ハ *?由。 然存への本能的欲求が激しく彼等の精神に炎き制約すやうに痛烈に 患いませんでしたか?﹂という質問に﹁い﹀えいた佼方のないこと 魁って米た﹂。そうして逃げ出したのである。﹁誰かが恨めしいとは ﹁あ﹀この人は誰も恨んでゐない。米山取も、そしでかくせしめた日 だと思います。戦争ですもの﹂と認った姉妹の言楽に、よなしろは 本軍関も恨んでゐない﹂と感動する。 が見られる。そして、冒頭で戦争は恕だと人類の-平和への希求安訴 この間き脅さは、一一一瓶のと比べて、はるかに具体的である。そし て、少女巡の悲劇の販問への論評がある。よなしろは同以後にこの悲 を止めよう。第一一は一等制ム主義者たちのデマ笈伝である。﹁偽りそ好む はその殴民全体の連帯資任である﹂。﹁それは援問だった﹂というの まで郎防に一立って発表され、沖縄でもタイムスの戦記念樹に対抗す 巻第九号(間九年九月発行)から関誌二十七巻十二叫す(何年十二月) F 界い(花村奨編集)第二十七 りの塔﹂が、東京の縫文館発行の弐 W女 次に、日本では沖縄出身で東京夜住の作家石野径一郎の﹁ひめゆ 資任を悶民総俄悔諭にすりかえる危険性もふくまれていた。 えながら、米援の人道主義一対備に脳附いている弊がある。また、戦争 向同我のための欲求が飽くなさ食欲と化した時闘争となり、指導殺 劇の原閣を次のようにまとめている。 者、ぃ駁偽を山岡一千円似する者。彼等は殺人犯人﹂であり、別抗設にも戒めで るかのように門うるま新報い四十九年十月二寸八日から五十年一一月 がおり、それに鍛らされた民衆がいて、戦争となる。だから﹁戦争 である。ここに終戦当時米中本の発した牛ぬ中将ならびに日本家将校 あるとおり、その﹁汚﹂は識である。次の源開は指探官の﹁自我心﹂ 9 2 十四日で中断するまで去十八問に一段一ってい総叙された。 吋AV 女界い述絞間開始の九月間すには次のような作者の雪渓がある。 なしろの思想を踏襲しているといって良いだろう。令女界がなぜ謹 諮による救いという全編のテ!?をなす終殺を載せなかったのかは、 よなしろいさむの﹁ひめゆりの塔﹂な石野が参照したらしいことは、 紙磁の都合(長すぢで二年に一統一るからか)なのか不明である。また 一体どこの戦争でも戦闘に関係のない住民遠の逃げる場所く んどそっくり引用している点からも⋮⋮⋮一悶える(注十四 牛島中将への勧告す︿(ピラ)を、若エーの淡淡は変えてあるが、ほと (校十二) らゐは淑っておかれたはづである。しかるに一級二塁か一一一監で会 年九月号の題名は﹁死の行滋﹂、以-下十月号﹁雨降りやまず﹂、十一 じ、沖縄人がいかに今後人類社会の平和を強く探求するもので 子孫に伝えると共に、川引いては惨小説を緩めた戦争の大試練を通 ヂに依って授かれるべきものであり、そしてこの一線災を我々の かつて郷土沖縄に於て終幕した太平洋戦令の記録は沖縄人の に、﹁沖縄戦記(仮称)﹂綴終予告記壌を殺せた。 吋悶川刊タイムスいでは、吋ゴスペル﹂創刊と田川じ四十九年瓦同月間げ 眠、沖縄戦記 を置くという傾向が顕蒋であった。 ここでも、政銭的な米銭批判は表現されず、日本間取閥批判に一⋮燥さ )O ι は、八万を封じられて二十世紀戦争科学 長一一一十堅余のこの小 誌 の総和な間叩き込まれたのだ。この運命をおの住民たちはどう受 取ればよかったのか。理不尽きわまるこの世の祭壌に協をくひ しばって血祭られて行った親迷、子遠の関心ひに、作者の胸は煮 この運命の小学の真相をありのままに描き出すことは死んだ えくりかへってくる。 ハラカラへの生き残れる殺のツトメであらう。 月﹁戦火と常務﹂、十二月三化⋮絞り花咲く﹂である。なお完結編﹁ガ あるかを役界に訴えるよすがにもという趣旨の下、本社では今 交官女問介いには各口汚にそれぞれ小燈を付して連載された。四十九 まー新報いのほうは、逆殺菌後から、これまでの週一一回発行が日刊に りましたが、間内戦記は太平洋戦争勃発当初から戦争突入一やが 回グ沖縄戦記。(仮称)の編集に務手。広く江湖に問うこと﹀な ジュマル樹と境の山﹂は彩行本で加えられた。(注十⋮一一)一方吋うる 代わっており、その紙閣のスペースが連絞小説の採服となったと慾 て沖縄が敗れ去るまでの経緯を、主として非戦関長である住民 われる。ところが述殺が第一一一洛﹁戦火と湾市議﹂問問一綴数閉までで、突 然中比になった。理由は﹁間以稿米到着﹂のほかは不明である。 い銀総する戦線の線機、併せて北部山中、離島各戦線の諮様相、 の動きを中心にして、米中本上降、島尻戦線に口口口登隊住民あ そして終戦に到る悶の有機を飽迄察炎を正確な資料に基いてふが 女学生カナを主人公にして、﹁別品市目的信仰による救いやい暗示した 宿命であるかのようで、摘かれたのは、背容の友情、恋情とひめゆ の斑袋、焚一一期一な体験を生かして綴る本戦記は、沖縄が始めて役 す処なくびょうはしようというもので、構想の大、約綴な資料 小説になっている。圧倒的な米祭の攻刺激は、もはや天災地変悶綴の の幹部の鬼・資生絞りである。石野の﹁ひめゆり﹂は、基本的によ り学徒そ悲劇に追い込んだ︿敵﹀としての教育者と域医・協仰向山氏、中間十 9 3 に送る唯一般大の記録、報告文学としての似似そ誇り得るに足 背信の行為、州制百合塔出来、日十中戸川(の手記、防衛隊の笑際の動 り、娘沼会学徒隊の災相、当時の問問沖縄約範女子 部長の卑劣 様相とお時の行政資任者向氷知事や伊場内政部町長の背任と失態仮 単行本として泣にまみゆるつもりですが、本社の壮挙を助ける 知惑をゆ心とする宮市(の動き、牛島、長問中将の円以後の模様、 仰尻、関頭、機ぬ各戦線の様相、'訪問 態等があり、今後も斑に JM き、詳細な地上戦闘の絞過と南部戦線における住民域生活の機 E に脱稿、⋮九五O年の新殺を飾ってい絞奨を凝らした上下二巻の りるもの聞く信じて疑いません。本社では遅くとも十半年米まで のガがありますれば何不資料として本社えドシドシ制御提供下ざ 怒味で読者務先におかれては友記戦争手記、日記の附加をお持ち 動長鉄則隊、議郷隊の行動、神参謀の脱出、それに関連して糸 に巻令飾ること﹀思います。(絡)記述に当っては飽くまで冷静 を極めた米被有な事件が波数一な資料や体験者の談によって山川河川 満漁夫の破天荒な際険、神山尚てい身新込み、等々波らん万丈 います様お願いいたします。採用の分には繍抑制泌を笠します。 J 似人の年 記 ・ 日 記 ( 簡 潔 に ) 私 の 収 容 生 活 私 は こ う し なレアリズムのよに立ち(略)行動を通じての記録性と人間の て米軍に捕われた私が日比た米間削減人の人間愛私の域生活 私の村の戦後復興振り私の戦場日記私迷の生活に及ぼした 内服の苦悶を通じての文学伎を盛り、読者と共に戦時の災相を 太平洋戦争の彩終 このような、沖縄タイムス社の戦記の取り組みは、允に見た金城 通じ戦争への反翁、人間生活への指針たらしめよう(絡)(戦記 vpz qwHHFJ 一一十万の住民が彼我射ち合う戦場の真只中に二ヵ月余に一回一る 関誌間十九年十二月号に発炎した。 業をバックアップする金調として、つ沖縄戦記録文学々謬終﹂な、 続いて川口付刊タイムスいは、五十年三月出版予定の戦記の一大事 んだ戦記一総終の窓図を述べている。 か沖縄人のチになる。問日本山車や行政、教育機関の幹部持劾を含 と述べている。 川 zm一 一 釘税制河治口、 粉、水の提言に応じたものであり、さらに日本での戦記プ!ムに勾応 しているとも考えられる。それは、汀本の湾武装化を当初(中間同革 m問 命や五十年六月の朝鮮戦争ころまで)は好んでいなかった市銀援の 続いて、この(仮称)﹁沖抑制戦記﹂に開削して、門月刊タイムスい 恕向刊に沿うものでもあった。 九年八月号は﹁秘められた新古学災明るみへ﹂と郎越して、次のよ Ji ﹁沖縄人の手によって渋かれた沖縄戦の災抑制そ知らうとする熱窓ん うな綴築途中経過報告を殺せている。 が綴われるような、日本他海外からも問い合わせがあることを紹介 したよで、執祭出 γに﹁次々と窓外な新一事実が明るみに出て来た﹂と Yけ、身の危険はもとより、肉綴の死、友人 難をつ百け四万七千余の浮い犠牧者が平和仰の機として散った。 知己の死去線前に尚も鉄火のあらしの中に夜を日についでの避 死のほうこうをつ 例えば波及川開戦線、枝川以加数や陸間味烏における住民のん疑問的 述べ、 さっ、一以嘉数向性叫守備隊長赤松大関の縫状、十月十日設援前後の 9 4 (時)あの縫い体験を我々は伝え話として怨もらせてい﹀もの だらうか。 そのような越貨で﹁際紛は飽くまで事災に LM 燃したものを文学的 に扱ったもの﹂をつニ十枚以内﹂ご月十五日﹂締め切り、入選者に その紡附取は吋月刊タイムスい双十年二 H 月号に発表され、次の通り は政金としている。 であった。 応募作一一十八一編。﹁数の上からは第一回文装作品募集の時の阪燐な 応募熱はみられず、出来栄えも全作品を通じて全般的に低調だっ た。﹂(校十五)として、それでも入選作五日制を選んでいる。 一嬰求している。匁かい執筆期間にこれだけの後求は、かなり凶難な 入選した五作品は以下のとおりである。 姿求だった。 山田十郎﹁受しい反撃﹂は、川内抑制出身の航山公共が、九州より出脚本 し、沖縄の米鍛飛行場を燦慰した体験である。口付本袋町平は﹁沖縄の 米双鉱山間以築地激減腕制﹂と銘打っていたが、山火際は、沖縄の日十弔問取や 住民の期待と全くかけ縦れた貧弱で、ほとんど効果の伝い総恕的な この作では、絶叫抗的な山山撃の無慾昨怖さが述べられている。 ものだったことが記されている。 一一一木たかお﹁新生﹂は、次のとおりである。 川内総の役場効めの内初は、日抑制船戦が始まってから防衛召集を受け 1 に日本氏︿に追い出され、 会受け、擦に巡難ずるが、他の戦傷者と 1ハ て入隊した、いわゆる紡衛隊員である。首忽戦線に参加し、米軍飛 運災く防衛隊に救われる。しかし、さらに後滋することになって、 締切期臼が短く、作者が充分機怒を凶め文殺を絞る時間が少 また総評では、次のように述べている。 共に安易に過ぎたという感を受けた。記録文学は、矢張り単な 海笈の燦や慾翁収容所となっている燦などを放浪し、以十死の人々の 行場の偵祭を命じられる。日本兵二人は砲持で戦死する。内問問も傷 る記録にふんどまらず、文学でもなければならぬと云う半面、記 滋く、臭気漂う漆に践り込んだのであった。 なかったためか全応募作品中て二の作品を徐けば、構成描写、 いた人の主観が問題となってくるという点が記録文学の条件に 擦にされ、焼け出され、邸内の様に開閉じ込められるが、不思議なこ 山総潜を近くにした悶(愛楽悶)は、中恥滋と品ルハに空襲及び砲蝉の口出 れている。 出宙開保﹁無臓の奥﹂は、沖縄北郊のつ制療養所﹂への空襲が拙か 日本兵の機換さ、非人間関伎が強調されている。 この此げでは、沖縄出足身者で構成されている防衛隊員の籾切さと、 録だけを並べて見ても読者の感動を時ばぬと云う点、ぷ︿張り設 挙げられている。記録性は立派に備えていても災処に生きる人 間の事実や真実に対する体験の処潔がなければならぬとも云わ れており、かと去って、主観が余り強く働きすぎても、一事笑を川口 くみるという弊に陥るものである。これらの記録文学の難しい が、今回の応募作品が以上の別式点を備えていたとは公えない事 条件な円以初から符が望むのは或いはまちがっているかも知れぬ とに犠牲殺は出なかった。しかし、羽にもたたられ、ぃ約者の死亡も 相次いだ。病の絞い﹁島﹂は、閣内の恋人を築じつつ、病者の役話 笑はよくみとめなければならぬと思う。 事実をしっかりと踏まえた上での文学としての構成力と揃写カを 9 5 が、万が⋮敵兵が上滋したら卒、まら、ずに、予を挙げろ。数は約半怖を をしていた。畷に閣内口氏が努察官同を伴って現れ、日本液の勝利関前だ 資料、一般からも手記や日記の提供を受け、当初の寅数の約半分を 百ページ内外、一 i沖線戦記脱稿記﹂によれば、タイトル﹁鉄の議風i沖縄戦記﹂、間 政治や従鍍戸川(の視点からではなく、間同氏の視点でもなく、﹁住民﹂ を、有りのままにつたえたいのである。 て、いかに苦しんだか、また戦争が瀦したものは何であったか 飽くまで住民の動きに重点をおさ、沖抑制、住民がこの戦争に於 おりである。 部愛したということである。鐙平によれば、この殺の特徴は次のと mmo執祭者、牧港篤一一一、太田良問。市判村長から 申一閃することはないだろう、とぎった。そうして米兵の前に出て行っ た 。 この作では、沖縄北部の空襲の様子と、大本営発淡のいい加減さ と、抵抗するなと⋮諮問う関長および怒官の言葉が記されている。 波川友厳﹁敗戦をきく﹂は、戦終中将位口に加わった著者の住災と 部隊から伎民の山中避難の命令が出て、一行を率い、食粉を遂ん そして﹁沖縄住民﹂の視点というとき、そこには日本山本に対する﹁住 一緒の沖縄北部の山への逃避行が捕かれている。 だ。やがて北部の町、名設にも米中本が佼攻し、さらに山奥へ、山脚光へ 民﹂という考えガが次のくだりからも見て取れる。 (激戦地の南部に追いつめられた悲惨な住民の姿は)死ぬこと と避難し、途中かなりの税務者(中部方郊に逃れたり、米山本に投降 したり)が山山た。食制御も底をつき、山奥での生活に死者が多くなっ つずけようとした人間の段惑のあがきであった。こ﹀にどたん を数えられて、しかもたえず、死の恐怖に戦傑しつ﹀生を求め 北部避難民の様が儲かれていた。 場まで追いつめれれた人間のいろいろな姿がある。こ﹀に真実 た附柄、敗戦の報を捌いた。 密閉凶幾﹁繍践になるまで﹂は、間附吏員の戦時日記である。 の物語りがある。 もちろん、われわれは日本家問、近畿の佼絡戦争の犠牲になっ 一二月二十三日から六月二十四日まで、とびとびで三十一日分であ る。巡難の状、況と時どきの感想が淑引き付けられている。日本山本報滋 ψ φ。 たが、われわれが、いわんとするものはもっと淡いところにあ それは平和への撲求である。民族を越えた人間としての理解 さらに続く文で﹁深いところとは﹂次のような考え方である。 牲者﹂という佼総付けがなされている。 国主義﹂が原因だとする考え方になっており、さらに住民はその﹁犠 問闘を﹁人間の利己心﹂にあるとする考え方から、ここでは﹁日本猿 前に引用したよ注しろいさむの文の初めの観点である、抑制令の原 への不信、日本兵による﹁沖縄人スパイ視﹂への綴り、綴限状況の いう教訓などである。 人間は第一が倒人主義で、肉親愛はその次に来るものでしかないと 級制淑状況での人間の生存本能について諮られていた(校十六)。 さで、その間五十年一同けには、仮称﹁沖縄戦記﹂は、脱獄し、ペー その一月号吋月刊タイムスいの盤平良額づ鉄の暴風々と記録文学 ジ数やタイトルが決まり、執録者名も明らかにされた。 9 6 段に伝えて、ふたたびあの滋をくりかえさぬよう熱開削したい。 機会とし、併せて、次代への新しい発燦を附則する資料となし後 戦争を忘れることなくもう一度、当時な版みて、一つの獄翁の と友情への餓れであり、悲顕である。すぎ去った怒拶のような くが行なわれ、悲惨鐙まりない地獄図会をくりひろげたことが、 たたきこまれ、自然に対する人工の段大の破燦と、人間の殺り の住民が入り乱れ、地上、空中、海上より、絶大役鉄の物設が る猫額大の土地に、日米何十万の兵と、非戦闘員たるこ十数万 日州総本山以仰の殻泌総、間関のい泌を指呼する悶に示すことのでき ここには、直接米中本批判の文一一訴は無いが、米軍一万二千五百人、 役界戦史上に憶であったろうか。 ここでは、戦争への反省、ナショナリズムの克服、ヒューマニズ ムと一平和の探究が組制邸主義的に述べられている。 臼本叙九万人(二万八千人の防衛隊員を念、りて住民十数万人と一一回わ ヒューマニズムと一平和を核心において、﹁日本軍国主談﹂批判を﹁伎 民﹂の後点で摘さたいということである。そこから、次のような米 設﹂すなわら砲弾、燦際による被容ということが言下に表現されて れる戦死者の大多数は(役十七)、政接的には米中本の﹁絶大な鉄の物 この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘 いるとみることができる。しかし、やはり米策の名を出しての戦争 鍛賛美が述べられる。 れることができないことは、米軍の高いヒュ i マニズムであっ 批判は出来なかったし、自己規制が働いてもいたと考えられる。 米兵が、太平洋のグテイパ!グと称えた沖縄せんから、市総騎 続く文設で、 た。問問山慌を、民族を、越えた米殺の人類変によって、生き残り らしい記録文学が生まれるであろう、否生まるべきであるとい の沖縄人は、生命を保愁され、あらゆる支援を与えられて、市民 生第一歩を踏み出すことができた。われわれは、そのことを特 うことを、われわれ沖縄人が、世界のどこの閣のひと逮よりも、 まっ先に自党し、ムーからその準備にとりかかるべきであると思 に伝え、ひろく人類にうったえたい。戦いの絞たんたる記録の ﹀ つ 。 筆した。米中阜のおいヒューマニズムを焚え、その感尽を子々孫々 なかに珠玉の如き光安放っ、米軍のヒューマニズムは、われわ と述べている。 れをほっと怠づかせ、よみがえらせ、理解と友情がいかに銭高 なものであるかを無言のうちに教えてくれる。血なまぐさい戦 アメリカ溺北戦争の激戦泌を挙げて、役紀的な戦争の犠牲宇佐文学 このようにして認献の暴間合会四百間十八頁は、五十年八月に刊 に表現すべきことを淡明している。 場で、殺されもせずに、生命安保“挺されるということを泌々と ここは、出版物の米間以検閲下という状況における為政者への綴彪 は、琉球中山十政一長官仰のJ-Rシl ツ(注十八)と刊行元の東京初日新 行された。同じ八月発行の吋月刊タイムスいの州鉄の則被胤い広告で 怒い、ヒューマニズムの柑ゆさをありがたく追想したい。 ていると見てよいだろう。それは又、単純な阪本軍批判、米中学資笑 聞出版部長杉山静夫の推成文が載る。 と共に、﹁ヒコ l マニズム﹂への感謝と希求が恕想主義的に淡現され とのみは一世間えないだろう。 9 7 殊に戦斗中の悲惨緩まる住民の動さについての描写は、私自身 。欽の暴風。の英訳をみせて絞ったが、災にぷ派なよい本だ。 沖縄という現実の制約であったと考えられる。もっとも間十七年の 点は淡閣制されなかったと捉えられよう。それは、やはり米中本市領下 )0 古川成美内沖縄のれ以後いのような米間以後炎は向けんられない(役十九 -まとめ 沖縄戦に参加して白鉄体験している惑災だけに、その正しさも わかるし、感銘を新たにして一気に精読した。私以欽の議風" が沖縄人必読の災諮たることを推奨するには yからか怯い。(シ i うものに対し、太郎は、その惨劇を強制している、ということを述 期比十では、捕成収答所で一叫問、りれた、殉死した健気な乙女物語とい これは夙に出ずべくして出なかった沖縄人に依る沖縄戦記で べた。一一策では、船践になった兵隊の苦労と米軍の滋愛に触れた閉山 ツ) あるとともに、日本猿問、主義に協力しながらあざむかれて行く い懐旧談であったこと安述べた。一⋮⋮なでは、﹁川中況下どをてこにして、 想や将校による沖州制作戦の内務関税潟が設かれ、そして太問のは、ザ沿 人間の探を説き、また日本の戦争の指導者・推進諸への怨りと犠牧 かれているのは、一つの驚品パ切である。読みものとしても十分な 関白さを持っているが、ドキュメント(記録)としての側値は は、将兵の回想や女学生を、主人公にするというロマンティシズム、 殺の救いが淡現されていることな述べた。州問濯では、以燃の暴風い 第一翠﹁山胤の前夜﹂、第二盗﹁悲劇の。離島﹂、第一一一波﹁中・南部戦 の感情が、友鍛としてみていた日本恨の背信行為批判に傾き勝ちで いう方法そ取り、民的は人類の平和の探究であった。しかし、住民 センチメンタリズムを超えて、住民全体の記録安忠災に再現すると 線﹂、第四翠﹁姫百合之熔﹂、第五浴﹁死の紡復﹂、第六湖町工北山の悲 て、その記述が日米術筑の戦争批判にまでは及んでないことを指摘 あったこと、及び当時の米域支配下という絶対的情況の制約によっ 教的救いに対的して、一平和を希求し、そのために住民を主人公にし いずれにしても、内沖縄戦記いが、乙女物語や将兵物諮、そして宗 した。 胤﹂、第七箪﹁、住民の手記﹂、付録・戦闘経過概別式、拙作州側帥明日誌、沖 牲になっていく中での、日本波大本営が沖絡を拾おにしたこと、日 就航の暴風いは、沖縄、住民が爆弾、総制作、銃弾、火山泊、飢餓の犠 縄戦線姿隠からなる大部の本である。 版であった。 為政者及び日本のジャ!?リズム双方の般的という形を怒えた出 それ以上のものがあろうと回ゅう。(杉山静ホ八) 沖縄の悲劇でもある。山内在凶な資料とあノ図的な角度から縦績に脅 J ことは、酒則的なことであったといえよう。 た徹底したリアリズム文伊を目指し、かなりな程度災現しえている 本町阜の犠牲になった沖縄伎災・女学生、米畿の投降勧告を容日制にそ ている。住民の視点による戦争批判、日本家批判は正当である。し 付一副本論は、平成十1十二年伎の文部省科宇研究資補助金一・務 W入れられなかった追いつめられた沖縄住民・女学生などが捕かれ かし、先にも述べたように、戦争への反伐と平和の希求という問問的 を第一義とするなら、日米双方の箪によって蜘脱された戦争という観 -98 、 w u おける文学表現の研究﹂(課題滋号 年制附けより悶民営化され、その後間十八年又に那紛に本社移転。 日に吋琉球新報い Ji と改題して、現夜に澄っている。裕氏のぎ及の通り、新聞に 間十九年十一月よりけ刊。双十一年九月 文裟槻が開設場ずるのは、この吋ウルマ新報いのつ心点旦縦四 一研究代表者二間協議和)及び平成十凶年'役文部 科学符科学研究賀補助金・恭縫研究 (B)(2) ﹁アメリカ点 十六年十月f 一日からであり、仏政・短欲・俳句が 況であった。 一七二O 綴下沖縄にお切る文学の基礎的研究﹂(課題詩号一一一一回一 O 一 古川の著作について、沖縄出身の他の伊訓告仲間出全忠、比付加各 収、初出州沖縄文化勺伶総悶悶徳?抑制総の戦記いでは、これら 4 、氷朝、水全然上巻い⋮九七四年一月沖総タイムス社所 注八1 2⋮城 年八月、読売新聞社)がある。 校七i後に八市山際通務部川抑制決戦i高級参謀の手記い(昭和間十七 注心ハ州内抑制悶悶徳山口仰向の戦記いでモデルは八原隊述とされている。 校五倒訳 二六一研究代 氷点官一琉球大学法文学部教授、仲線路徳)の共 同研究の成泉の一郊である。 総論﹁米関山綴下沖縄初販の文芸i筑政下(一九四一九1 一 ) の詩﹂吋鴎際⋮⋮一昼間文刊さ第六ロワ(二O O二年十二月、 九 日 以O 総悶・隠際世⋮悶詩文接点目) 湖、りの反応も触れられている。 校二昭和二十汽年雄潟社、限利去十七如十二月後刻、凶議刊行会、 山明日永に開削しては、一九一 O年大分生まれ、満鉄本社勤務の後 j i l l - 糸満キリスト教会内、コスペル社発行吋ゴスペル﹂(縦袋発 二年二月六別 注十i永続仰相川もっと知りたいインドネシアい弘文笈、昭和六十 池一山人)が、間十九年二月から双十一年七月まで刊行された。 H刊タイムスい(編集発行人上 九 日 九 1沖縄タイムス社から月刊誌R 一九四凶作応認後陶磁諸ぬ宮古島に派兵され、終戦、捕成と なって⋮九約五年の謀れ、沖縄本烏で一年郊の捕溺生活を送 ると同議﹁蒋殺絡絞﹂にある。 文芸校、一九八三年)にも収められている。伶田晃子﹁沖縄 泳三 iム一一瓶途可務白川志の背 ' M 附!沖縄捕践的収容所の中からい(近代 注十一 れた。 行人、奥那滅的内)は四十九年七月から五十年十月まで発行さ 戦・﹁ひめゆり﹂そめぐる諸言説﹂第十一一一回日本平和学会九州 中水死) 注十三i潔五十年の山崎枇⋮⋮初版、筆者米自油、現夜の講談役文郎版(一 一日寸二i 吋うるま新報いにも掲載された。 沖縄地区研究会二000年六月十八日発表レジメより、筆者 一九郎五年七月二十五日米占領山本の情報笠伝機関紙として、 一 任 問i沖縄戦終了後、以以初に刊行された新開は吋ウルマ新報いで、 の幹部宛勧告文の方は、お刑判の引用にかなりの削除が兇られ 注十四引川文は﹁以下破損﹂まで同じである。ただしビラ残部 九七七年六月第一制発行、八十一一年二月八剣)を参照した。 リ版刷りであったが、八月二十九日第六号より治学になった。 川内抑制北郎布川市において創刊された。吋ウルマ新報いはお初ガ 当初週一回発行、当初の⋮総終発行人はお前である。やがて幻 9 9 る。その削削除部分は以下のとおりである。﹁斯様な提案の先例 々かった﹂とある。 方、文試は稚いが読む人の約を強く打つという作品も見当ら は令ふことの出来ない例である。資殿迷は河じく日露戦役に 任期は一九四九年十月1 五 J年 j 七月で、戦後沖縄の復興計図 注十八!宮殿政玄﹁シiツ政策﹂(吋沖縄大筏科事典い)によれば、 州側タイムス社)を参照した。 注十七l戦死者の数は太田回悶一斉﹁沖総戦﹂(州沖縄大百科事典い沖 は歴史中には多数である﹂に続けてなιと問機な提案を笈殿 途と防じ認のない状態にあった務部隊によって受諾された。 日本箪将校が純子兵士を然刊紙の死から救うため降伏した桜解 一九問双年四月からの初代長山富一一ミツツ海軍元帥から数えて と米山本楽施設の本終的な工事を積極的に推進した、とある。 此の大戦に日本の肉鐙協であったドイツ臨海滋の最近の降伏 ある先例をよくご存知の事と怒ふ。いという部分と、﹁牛島閣 側代問問の陵町戦少将である。 下は部下将兵の挙協を引れると云ふ資務を提案拒絶によって 知のように、その真相に関して、的資野綾子が七十一一一年混同け門あ 仏法十九第二政﹁悲劇の縦烏﹂の住民自決の部分に対しては、周 怠ったのである﹂に続けて門ぞれ放口本烏司令交のお⋮合的態 度は部下兵士の生命を然滋なる死に付するものと忠はれる。 への直般の自決命令は無かったことそ記し、物談をかもした る神話の背妓い(文芸春秋社)で、波叩同刺激ぬでの箪による伎民 質問阪将校に米軍司吋令官は米国の人道的捻策を及ぼす惑を命ぜ られた。休戦の赤旗は焚殿途が米中平と交渉の怒芯あるものと 認めれれる。いという部分である。 絡的な基地建設開始﹂の状況下で、(絡)一平和 x、仲程間関徳町沖縄の戦記い P五十八に五十年二月米双の﹁本 (本学教授) 校十五i第一一回文茶作品募集は四十九年七月一必然、九月締切で五 の送機たるものとし 十五名六十凶絡の応募があり、小説入選、伎作各一一縦、戯曲 佳作二⋮織を選んだ。作品は間十九年卜二月号に掲州制された。 波十六門月刊タイムスい五十年二月号に総評として﹁敗戦を聞く﹂ な枇問介を捉えなが ﹁鉱山自のあ﹂﹁祭しい反感﹂の一一一綴は、間共骨 m た。﹁新生﹂はムホ鋭が勝ちすぎて全総が銭奇という印象を受け ら作者としての人間が作品の上に十分胤山内化されていなかっ ているようで、作者の惣像力がもっと法かであったらと考え た。日記体ではあるが﹁捕燐となるまで﹂は、何者を問問的備し た。以上一絡めにしてあらまし概評を加えたが、会作品が当 ら加える処獲が兆一だ総薄であるという点も挙げられるが、一 時の事件ゃ、作山?の人物の行動を通じて新たに現在の立場か o 1 0 0