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リーフレット - 愛媛県埋蔵文化財センター

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リーフレット - 愛媛県埋蔵文化財センター
平成 22 年度テーマ展
き
と
時代のものさし〜近世〜 展示解説パンフレット
( 財 ) 愛媛県埋蔵文化財調査センター
ばくまつ
近世とは、江戸時代の初め(17 世紀初頭)から幕末(19 世紀前半)までをさします。
本展では、( 財 ) 愛媛県埋蔵文化財調査センターが調査した近世の遺跡をとりあげます。近世の陶磁
ひぜん
せと
みの
とべ
にしのおか
器を年代順に並べるとともに、肥前陶磁器や瀬戸美濃焼の他に、伊予で生産された砥部焼や西岡焼、
おおげた
かまあと
唯一、発掘調査された近世陶磁器の窯である大下田窯跡出土資料を紹介します。
あか
けしょう
主に松山城三之丸(堀之内)や周辺の武家屋敷から出土した、さまざまな「食」、「灯り」、「化粧」
などの生活用具、ミニチュアの土人形やままごと道具などの「遊び」道具を特集します。
本展を通じて、江戸時代の伊予の人々の暮らしや文化に興味をもっていただければ幸いです。
まがたまお君
1
2
4 2 33
4
5
66
5
10
10
9
7
88
や た ひらやま
1.矢田平山近世墓(墓)
けんみんかんあとち
2.県民館跡地(武家屋敷)
ばんちょう
3.番町遺跡2次(武家屋敷)
わかくさちょう
4.若草町遺跡2次(武家屋敷)
つじ
5.辻遺跡
(集落)
しわんえんまえ
6.親和園前地区(武家屋敷)
い ど
7.井門Ⅱ遺跡(集落)
おおげたかまあと
8.大下田窯跡(窯跡)
かみみたに
9.上三谷A墓地
(経塚)
ながお
10.長尾遺跡(墓)
展示に関連した愛媛県の主な近世遺跡
1
やきもののうつりかわり
とよとみひでよし
ちょうせんしゅっぺい
とらい
ようぎょう
豊臣秀吉の朝鮮出兵による朝鮮半島からの陶工の渡来により窯業技術が改良され、九州北部で陶器、そ
ありた
ひぜん
とうじき
して近世初期には国産の磁器が有田で初めて焼成されました。肥前陶磁器は全国に流通しました。
しがらき
県内遺跡の出土資料では、前期は肥前陶磁器の占める割合が高く、中期には肥前陶磁器に京・信楽焼が
加わり、後期には全国各地で陶磁器が焼成されるようになり、多くの産地の陶磁器で構成されるようにな
と
べ
あんえい
ります。伊予の砥部でも安永 6(1777)年に磁器が焼成できるようになりました。近世後期には、消費地
の遺跡では、在地産も加わり多様な産地の陶磁器の組み合わせが一般的になります。
各地のやきもの
近世のやきものは中世に比べて器種が豊富で、色彩に富んだ製品が生産されました。代表的なやきもの
ひぜん
せと
みの
しがらき
さんだ
びぜん
はぎ
は肥前陶磁です。ほかには輸入された中国産陶磁器、瀬戸美濃焼、京・信楽焼、三田焼、備前焼、萩焼、
げんない
つぼや
源内焼、壺屋焼などさまざまなやきものが伊予にもたらされました。時期によって異なりますが、在地産
きょうぜん
すりばち
さかい
あかし
以外では、供膳具である碗・皿には肥前や瀬戸美濃焼、調理具である鉢や擂鉢には備前焼、堺・明石焼、
貯蔵具の壺・甕には肥前陶器や備前焼が多く認められます。
それぞれのやきものの産地では、窯跡の調査研究が進み、生産された時期によるやきものの形状の変化
が明らかになってきました。消費地の遺跡では、これらをもとに遺跡や遺構の年代を決める手がかりとし
ています。
せと みの
瀬戸
瀬戸美濃焼
きょう しがらき
さんだ
三田焼
京・信楽焼
びぜん
備前焼
はぎ
萩焼
げんない
にしのおか
源内焼
さかい あかしけいすりばち
堺・明石系擂鉢
みんぺい
珉平焼
西岡焼
砥部焼
とべ
ひ ぜん とう じ き
肥前陶磁器
愛媛県で出土する近世のやきものの生産地
2
明治時代
1853 1860 1868 1869
1868
版籍奉還
明治天皇
明治維新
徳川慶喜
桜田門外の変
坂本龍馬
ペリー浦賀に来航
ペリー
〔19 世紀〕
1841
天保の改革
1831
大下田窯﹁麻生焼﹂銘皿
1828
シーボルト事件
文化・文政期
シーボルト
徳川家斉
1802 1801~04 頃
砥部磁器
歌川広重
瀬戸美濃磁器焼成開始
伊能忠敬測量開始
1800
伊能忠敬
1787
寛政の改革
1775 1777
杉野丈助
享保の飢饉
義農作兵衛
享保の改革
徳川吉宗
1716
1732
京・信楽焼
江戸時代
〔18 世紀〕
砥部磁器焼成成功
大洲藩砥部上原窯磁器焼成開始
1700
1702
赤穂浪士の討ち入り
元禄期
松山城御殿二ノ丸から三之丸に移転
寛永文化 酒井田柿右衛門
オランダ商館を出島に移す
寛永通宝の鋳造
1585 1592 1595 1597 1600 1602 1603 1610 年代 1635 1636
肥前磁器
肥前陶器
肥前色絵磁器の誕生
慶長、元和∼寛文期
1641 1647 頃 1657
伊予八藩の成立
土師質土器
尾形乾山
尾形光琳
野々村仁清
1687
貿易陶磁器
備前焼
瀬戸美濃焼
〔17 世紀〕
徳川家光
桑 名藩主松平定行、松山藩入封
肥前有田で国産初の磁器焼成
江戸幕府、開幕
加藤嘉明、勝山に松山城を築城
関ヶ原の戦い
慶長の役
加藤嘉明、藤堂高虎、伊予拝領
安土桃山時代
〔16 世紀〕 1600
徳川綱吉
元禄文化
年表 愛媛県で出土する近世の陶磁器と主なできごと
鍵谷カナ伊予絣を考案
1800
砥部陶器
化政文化 青木木米
徳川家康
加藤嘉明
文禄の役
秀吉、四国攻め、湯築城開城
豊臣秀吉
時代
年
︵赤文字は愛媛県に関する事︶
愛媛県で出土する主な陶磁器の種類
でき事
人物
3
ひ ぜ ん
肥前陶磁器
でんぱ
ようぎょう
現在の佐賀・長崎県の窯で焼成された陶磁器です。16 世紀末の朝鮮半島の窯業技術の伝播により、
びん
からつ
つぼ
かめ
九州北部で陶器の唐津焼が焼成されました。18 世紀後半以降は瓶や壺・甕を中心に生産されました。
いろえ
ありた
17 世紀初めには有田で日本で初めて磁器が焼成され、17 世紀半ばには色絵磁器も焼成されまし
た。国内最大の磁器生産地で、日本各地に流通しました。江戸時代には出荷港の名前を取って「伊
はさみ
万里焼」とも呼ばれました。一方、長崎県の波佐見では 18 世紀には安価な日用品の磁器である「く
らわんか」が量産され、全国に流通しました。
西暦
碗
1610
皿
波佐見
西暦
碗
1580
皿
Ⅰ
1650
Ⅱ
1600
Ⅲ
Ⅱ
1650
1700
Ⅳ-1
Ⅲ
1750
1700
Ⅳ-2
Ⅳ
1750
1800
Ⅴ
1800
肥前碗・皿の編年図
4
Ⅴ
江戸遺跡研究会 2001『図説江戸考古学研究事典』
、九州近世陶
磁研究会 2000『九州陶磁の編年』より作成
けん
と べ や き
に し の お か や き
砥部焼と西岡焼
おおず
砥部焼は、江戸時代には大洲藩に属し、現在の砥部町とその周辺の窯で焼成された陶磁器です。
あんえい
ひぜん
当初は陶器を焼成していたとされていますが、肥前の技術を導入して安永 6(1777)年に磁器の焼
ようぎょう
とうせき
たいど
成に成功しました。陶石の発見や窯業技術の改良により、幕末期には胎土の白い磁器の日常雑器を
大量に生産しました。
とうおん
にしのおか
西岡焼は松山藩に属し、現在の東温市の窯で焼成された
よしゅうまつやま
やきものです。江戸後期には「豫州松山」などの銘のある
ぶんじん しゅみ
文人趣味的な陶磁器も焼成しました。
西岡焼 碗皿
砥部焼 碗皿 県民館跡地
県民館跡地
天□□□
辛卯□□
麻生焼
大下田窯跡
他は上原窯跡
砥部焼、西岡焼の図
大下田窯跡
番町遺跡
愛媛県埋文センター 2000『県民館跡地』
、松山市教委
2006『番町遺跡』
、石岡ひとみ 2008「近世砥部焼磁器皿
に関する基礎的研究」
『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』
13 号より作成
5
6
おおげた かまあと
きゅうす
てんぽう
江戸時代の砥部焼の様相をうかがいしることのできる貴重な遺跡です。
2 号窯跡では、施釉瓦を焼成していたことが明らかになりました。
せゆうがわら
業していたことがわかります。
辛卯□□ 麻生焼」と書かれた皿が見つかったことから、天保 2(1831)年には操
1 号窯跡からは、碗、皿、土鍋、急須などの陶磁器が出土しました。
「天□□ どなべ
基の連房式登窯が検出されました。
れんぼうしきのぼりがま
1982 年に愛媛県総合運動公園整備に伴い発掘調査した、江戸時代の窯跡です。2
大下田窯跡は、砥部町上原町に所在し、( 財 ) 愛媛県埋蔵文化財調査センターが
1 号窯跡
5号室土瓶出土状況
2 号窯跡
石岡ひとみ 2007「近世砥部焼磁器碗に関する基礎的研究」『研究紀要』12 愛媛県歴史文化博物館より作成
( 財 ) 愛媛県埋蔵文化財調査センター 1984『愛媛県総合運動公園整備計画埋蔵文化財調査報告書Ⅱ』
砥部町 大下田窯跡
おお げ た
2 号窯跡
1 号窯跡
近世のいろいろな遺跡
しろあと
ぶけやしき
のうそんしゅうらく
はか
愛媛県内で発掘調査された近世遺跡には、城跡、武家屋敷、農村集落、墓などがあります。
城跡では、国指定史跡の整備を中心に継続して調査が行われ、松山城三之丸や周辺の武家屋敷が調査
けんみんかんあとち
そ せき たてもの
どべい
されています。県民館跡地(松山市)では礎石建物や土塀跡、道路、溝などの遺構が見つかっています。
いど
農村集落跡は、調査事例が少ないため、井門Ⅱ遺跡(松山市)の調査は松山平野の農村部の様相をう
かがい知ることのできる貴重な遺跡です。
や
た ひらやま
墓跡は、丘陵部にて調査が行われ、矢田平山近世墓(今治市)では、集団墓地が形成され、墓道が整
しょうはい りくどうせん
備されていたことがうかがえます。キセル、小杯、六道銭などが副葬されていました。
かみみたに
いちじいっせききょう
上三谷墓地(伊予市)では、小石に一文字づつ経文を書いた一字一石経が見つかっています。
県民館跡地平面図
( 江戸末期)
県民館跡地は、松山城三之丸に位置し、愛媛県美術館建設に伴い、( 財 )
愛媛県埋蔵文化財調査センターが発掘調査しました。
東西、南北道路遺構や家臣の武家屋敷跡などが検出され、大量の生活
道具が出土しました。記録や絵図などから三之丸には中級から上級の武
士が居住し、幕末には、調査区内には 11 軒分の屋敷地が所在すること
が明らかになっています。
「戸田」家もその一軒です。
SK375 埋められた甕と鉢
南北道路
東西道路
南北道路
( 財 ) 愛媛県埋蔵文化財調査センター 2000
『史跡「松山城跡」内 県民館跡地』より作成
SK54 水溜遺構
「戸田」の銘のある陶磁器(県民館跡地)
SE09 石組井戸
「豫州松山」などの銘のある西岡焼(県民館跡地)
7
近世のいろいろな遺物
とうじき
近世の遺跡からは、大量に遺物が出土し、土器・陶磁器、金属製品や石製品、木製品やガラス製品があ
ります。これらは人々の衣・食・住の生活に密着した道具類で多彩な品々があります。
かたくち
とっくり
しょうはい
食器の碗、皿のほかに、調理に使用された鍋や鉢、片口、飲酒のための徳利や小杯、文字を書くための
すいてき
べにちょく
びんみずい
文房具である石硯、水滴があり、なかには文字が書かれた陶磁器なども出土します。紅猪口や鬢水入れ、
くし
かんざし
けしょう
うえきばち
〈解説シート 10〉
きんぎょ
櫛や簪など化粧の道具も見られます。植木鉢や金魚を飼育したと考えられる鉢も出土しており、武士が動
●銭貨
かいがら
植物を愛でていた姿がうかがえます。タバコを吸うためのキセルも見つかっています。人々が食べた貝
殻
中世の銭貨は、丸い形に四角い穴の開いた銅銭です。中世の
あか
や魚の骨もあります。江戸時代の夜は暗かったので、灯
りの道具も数多く出土します。なかでも遊び道具
日本では独自の通貨を発行していなかったため、中国の銅銭を
は ごいた
はとぶえ
はこにわ
輸入して使用していました。
には、羽子板、鳩笛の他に土人形やミニチュア製品があり、動物や人形、ままごと道具や箱庭道具など様々
1 枚が 1 文、1000 文が 1 貫文という単位で、当時の記録では、
な造形を見ることが出来ます。
土師質土器皿の小さいものが 100 枚で 100 文、大根 5 把 25 文、
米 1 石(約 150kg)1 貫文くらいの物価でした。
銅銭はものを購入したり、ものの価値基準の単位として使用
されたのはもちろんですが、
「地鎮め」の祭祀を行ったときに柱
穴や土坑に埋納されたり、お墓に副葬品として入れたりしまし
大相院遺跡出土
た。また、数千枚もの銭貨を壺や甕、木箱などに納めて地中に
こうそうつうほう
埋めている例が多くあり「埋納銭」
「一括大量出土銭」などと呼
「皇宋通寶」
ばれています。
堺や京都では、銭貨の鋳型が発見されていて、各地で偽金作
りが行われていたことがわかっています。
かんもん
もん
わ
こく
ぢ しず
ど
こう
まい のう
つぼ
い
かめ
にせ がね
がた
MEMO
ミニチュアのおもちゃ(県民館跡地)
平成 22 年度テーマ展
「時代のものさし〜近世〜」
平成 22 年 10 月 25 日〜平成 23 年 2 月 25 日
協力機関
番町遺跡 2 次出土焜炉の表面
伊予史談会・愛媛県教育委員会・愛媛県歴史文化博物館・
ミニチュアの鯛車(県民館跡地)
に押された馬のスタンプ
国立国会図書館・砥部町教育委員会・松山市考古館
本書は石岡ひとみが作成した。
〒791-8025
愛媛県松山市衣山4丁目68番地1
http://pc2.ehimemaibun-unet.ocn.ne.jp/
TEL 089 (911) 0502
FAX 089 (911) 0508
主 催 / 財 団 法 人 愛 媛 県 埋 蔵 文 化 財 調 査センター 後 援 / 愛 媛 県 教 育 委 員 会
発行:平成 22 年 10 月 25 日
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