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犯罪論における法益侵害結果の重要性

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犯罪論における法益侵害結果の重要性
1
法律論叢 第七六巻 第一号︵二〇〇三・一二︶
︻論 説︼
犯罪論における法益侵害結果の重要性
増
田
豊
最もラディカルな結果無価値論としての結果免責主義の言語ゲーム
一 責任主義と消極的応報の根拠としての行為無価値
プロローグ
@いわ ゆ る 偶 然 論 拠 に つ い て
行為も行為結果︵行為によって実現された法益侵害結果︶も犯罪の成立にとって重要な要素であるということは、今
プロローグ
エピローグ
四 結果負責主義の言語ゲームから結果免責主義の言語ゲームへの転換
三 結果のコミュニケーション機能と証明機能
一一
叢
2
論
律
法
日、これについて争う者は皆無であるといってよいほどに自明なものとなっている。また、行為結果の発生が国家に
よる刑罰権の発動を制約するという、極めて重要な法治国家的役割を担っているということについても、おそらく誰
も争わないであろう。
しかしながら、なぜ行為と行為結果とが刑罰権の発動の要件あるいは犯罪の成立要件になるのか、また行為と行為
結果は、それらが可罰性の要件になるとしても、︿全く同じ理由に基づいているのかV、さらには処罰あるいは量刑に
とって︿全く同格のものであるのか﹀という点については、熟慮を要する問題がそこに内在している。しかもこうし
た問題は、刑法の課題、刑法規範の構造、刑罰目的といった基本的なトポイとも関連するため、徹底した探究が必要
であると思われる。
本稿においてわたくしは、﹁不法の人格性の理論﹂の立場から、行為結果の重要性を﹁結果負責主義﹂の言語ゲーム
︵理論的枠組み︶においてではなく、﹁結果免責主義﹂の言語ゲームにおいて捉え直し、結果無価値に処罰限界づけ機
能だけを与えるという構想を徹底したいと考えている。
一 責任主義と消極的応報の根拠としての行為無価値
有責的な個別的行為のみを処罰の根拠とする﹁責任主義﹂は、一方で単なる行為者の危険性といったものを処罰根拠
とする﹁行為者刑法﹂を排除し、他方で偶然的な結果発生を処罰根拠とする﹁結果刑法﹂を排除することになる。つま
り、責任主義は、個別的行為の責任、さらに言えば個別的行為が行為者の自由に基づいてなされたことを根拠とする原
則だといえよう。したがって、一次規範としての行動規範の内容である行為を遂行する自由ならびに当該行動規範に
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従って適法行為へと意思形成する自由が行為者に存在したか否かが、まさにそこにおいて重要な主題となるであろう。
こうしてわたくしの考えでは、不法は、正当化事由が介在しないことを更なる要件とする、行動規範に違反する行
為であり、責任は行動規範自体が適法行為の動機になり得たにもかかわらず、当該規範を侵害する行為だということ
になる。したがって、不法も責任もこのような意味において行動規範関係的な概念にほかならず、それはビンディン
クの意味における﹁犯行﹂︵UΦ一一葬︶すなわち有責的規範侵害を構成する要素であるということになろう。そして、こ
のような行動規範関係的な不法・責任が行為者処罰の根拠となり、またそれのみが処罰根拠とされるということに責
︵1︶
任主義の法治国家的意味が帰属することになる。
これに対して、行動規範の内容とはならず、むしろ行動規範侵害によって惹き起こされた所産である結果発生は、
︵2︶
﹁不法の所産﹂であり、﹁自由の所産﹂︵より正確に言えば、自由と偶然との共同の所産︶であるともいえるが、それ
自体は、自由であったか否かが問われる対象ではない。したがって、それはビンディンクの意味における﹁犯行﹂す
なわち﹁規範関係的不法・責任﹂︵規範的不法・責任︶の要素ではなく、まさにビンディンクの意味における﹁犯罪﹂
ツ﹃げ同ΦO﹃Φ︼P︶すなわち﹁可罰的不法・責任﹂の要素ということになるのである。
ところで、︿責任なければ刑罰なしVとする責任・王義は、︿責任があれば必ず処罰する﹀という意味における﹁積極
て言えば、それは自由であったか否かが問われる行為の無価値ということになるであろう。
かわらず、当の行為者が行動規範を侵害したことにその理由を認めるべきである、ということになる。不法論に限っ
責任主義という法治国家的原理を前提にした場合、まさに﹁行為の自由﹂と﹁意思形成の自由﹂とが存在したにもか
となるものを意味している。わたくしの考えでは、それは﹁刑罰的正義﹂︵QQ曾僧碑①お筈自σq冨こに対応したものであり、
なお、ここでわたくしが処罰根拠というのは、︿なぜ行為者は処罰されるのか﹀と問われた場合に、﹁根本的な理由﹂
(ノ
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的応報論﹂︵でo°。三く臼国Φ9げ暮三゜。きロ゜。︶をも排除するものである。このように考えると、すべての可罰性の要素を責
任主義の妥当領域、すなわち不法・責任の領域に取り込むといった試みは、刑法の︿断片的﹀性格を無視し、︿責任が
あれば必ず処罰せよ﹀とする﹁積極的応報論﹂に至ってしまい、自己矛盾に陥ることになるであろう。
これに対して、︿責任があっても必ずしも常に処罰されるわけではない﹀とする﹁消極的応報論﹂︵昌①αq鉾ぞ曽国簿二げロー
島三゜。日霧︶は、不法をも含めた責任を処罰の根拠とするものであるが、そうした根拠があっても、カントの言う﹁刑
罰的賢慮﹂︵ω貯ρ鱒冨管①邑のトポスから処罰しない場合のあることを認めることになる限りで、﹁処罰を制限する条
件﹂というものを認めることになる。わたくしの構想では、﹁自由﹂であったか否かが問われる対象である行為の無価
値は、すでに述べたように﹁処罰根拠﹂︵規範的不法の要素︶であるが、さらに﹁自由の所産﹂であったか否かが問わ
れる結果の無価値は・のさつな意味における・処罰条件L︵可罰的不法の萎︶として理解されることにな苑
このような主張はまた、︿可罰的でないものは禁止されていない﹀という言明を否定するものである。この点につい
て、具体的な問題にも言及しておこう。
さて、刑法二六一条の器物損壊罪については、現行法上、その未遂につき行為者が処罰されるようなことはない。そ
こで、先の言明に従えば、器物損壊の未遂は禁止されていないということになるであろう。まさに不可罰的なものは
禁止されていないということになる。さらに言えば、こうした見解によれば、器物損壊の未遂は違法でもなく、禁止
されていないので有責的規範侵害も存在し得ないということになるであろう。しかし、これは不当な帰結である。そ
の不当性は次のような事例を用いて論証することができるであろう。
例えば、太郎の所有している高価な骨董品をいままさに損壊しようとしている次郎に対して、太郎が、次郎の腹部
に一撃を加え、その骨董品が損壊されることを防いだという場合に、次郎は確かに現行法上処罰されるようなことは
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ない。というのは、器物損壊は既遂に達していないからである。しかし、次郎の行為、つまり器物損壊の行為は禁止
されており、まさに違法であるが故に、太郎の行為は正当防衛として許容されることになるのである。
そのうえ、そもそも行動規範が法益侵害結果を回避するために事前的に機能すべきものであるとすれば、﹁最終的に
既遂に至る行為﹂だけを事前的に禁止しておくということは、﹁人間の認識能力﹂が不完全であるため、およそ不可能
であろう。したがって、規範目的論の観点からは、たとえ最終的には既遂に達しないような行為であっても、法益侵
︵4︶
害の客観的危険性が認められれば、事前的にはこれを禁止しておかなければならないのである。
ともあれ、右のような事案において、禁止されており、違法ではあるが、可罰的ではない場合というものが想定可
能である。つまり、違法かつ有責であり、したがって処罰根拠が認められても、結果が発生しない場合には、わが国
の立法者はこれを処罰する必要がないという法政策的な価値決定を下しているのであって、そこでは処罰を制限する
条件が問題とされていると考えられる。
以上のように﹁処罰根拠﹂と﹁処罰条件﹂とを区別し、法益侵害結果を処罰条件とする見解に対して、松原芳博は
次のような批判を提出している。すなわち、﹁︿根拠づけVと︿限界づけ﹀との対比は、言葉のうえのものであり、必
︿結果﹀が処罰の要件となるという実体に変わりはないといえよう﹂と主張するのである。
ずしも実体をともなったものではない。︿根拠づける﹀と説明しようが︿限界づける﹀と説明しようが、いずれにせよ
︵5︶
しかし、こうした批判は、﹁処罰根拠﹂︵根拠づけ︶と﹁処罰条件﹂︵限界づけ︶との区別の根底にある真の意味、す
なわち法治国家的な意味を捉え損なっていることに基づくものであると思われる。ここでは、反論のために一つの論
点だけを挙げておけば十分であろう。
先に示したように、わが国の立法者は、︿器物損壊罪につき法益侵害結果が生じなかった場合すなわち未遂の場合に
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は、行為者を処罰しない﹀とする法政策的な価値決定を下している。したがって、法益侵害結果は器物損壊罪の処罰
の不可欠の要件.条件となっている。これに対して、ドイツの立法者は、︿器物損壊罪において法益侵害結果が生じな
い場合すなわち未遂の場合にも、行為者を処罰し得る﹀とする法政策的価値決定を下しているのである︵ドイツ刑法
三〇三条二項︶。それゆえ、法益侵害結果は処罰の不可欠の要件・条件ではないのである︵ただし、結果不成立が刑の
任意的減軽事由となっている。︶。
いずれの法政策的・立法政策的価値決定も責任主義に違反しないものであるとすると、このことは一体何を意味し
ているのであろうか。それは、法益侵害結果を処罰の不可欠の要件・条件とするか否かは、少なくとも一定の範囲内
では刑事立法者の法政策的価値決定に委ねてもよいということを意味しているのである。要するに、わが国とドイツ
の法政策的・立法政策的価値決定のいずれが政策論としてよりすぐれているかという問題は残るとしても、いずれの
価値決定も法治国家的原理、ここでは責任主義に違反するものとはならないであろう。したがって、︿法益侵害結果が
生じない場合には、絶対に行為者を処罰し得ない﹀という結論を、現行法秩序に内在する原理から導き出すことはで
︵6︶
きないであろう。
これに対して、︿行為無価値なしに行為者を処罰するvというような法政策的・立法政策的な価値決定を下すこと
は、果たして許容し得るものであろうか。その答えは明らかであろう。つまり、行為無価値が﹁処罰根拠﹂であると
いうことは、責任主義を価値論的前提︵刑法ドグマ︶とする限り、︿それなしでは絶対に行為者を処罰し得ない﹀とい
け﹂と﹁限界づけ﹂との区別は単なる﹁言葉の綾﹂なのであろうか。また、後述されるように、法益侵害結果には、刑
それにもかかわらず、そこには論者の言う﹁実体上の違い﹂は存在しないということになるのであろうか。﹁根拠づ
う意味がそこに帰属することになるのである。
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の減軽機能のみが認められ、刑の加重機能は帰属しないという点においても、そこに﹁根拠づけ﹂と﹁限界づけ﹂と
を区別する意味が付与されることにな惹のである。
さらに、法益侵害結果を処罰条件とする﹁人格的不法論﹂︵不法の人格性の理論︶に対して、論者は、﹁責任主義の貫
徹を主要な論拠としながら、かえって責任主義の保障を弱めている﹂とする批判をも提起している。というのも、結
果を不法要素とすることによって、結果発生も責任主義の射程に取り込まれ、行為との帰属連関も要求されることに
︵7︶
なるからである、とするのである。
だが、こうした指摘も説得的ではない。法益侵害結果が処罰条件になるのは、先にも指摘したように、それが不法
︵したがって広義の責任︶と全く無関係なものではなく、﹁自由の所産﹂︵あるいは自由と偶然との共同の所産︶であり、
﹁不法の所産﹂であるからである。それゆえにこそ、処罰限定機能がこれに付与されることになるのである。なるほど、
不法によって実現された︵したがって不法に帰属される︶法益侵害結果のみが法的に重要なものであるということも、
責任主義の要請であると考えられる。しかしながら、そのことから、必然的に法益侵害結果も不法︵したがって広義
の責任︶に取り込まれるべきであるとすることまでは帰結されない。というのも、これも先に指摘したことであるが、
﹁自由の所産﹂︵自由と偶然との共同の所産︶である法益侵害結果は、まさに︿自由であるか否かが問われる﹀︵法益侵
害を志向する︶行為そのものとは規範的な意味を異にしているからである。
しかも、すべての可罰性の要件を不法・責任に取り込んでしまう論者の見解は、︿責任があれば必ず処罰すべし﹀と
する﹁積極的応報論﹂を帰結することになり、ひいては︿責任があっても処罰しない﹀ことを認める﹁消極的応報論﹂
を前提とする責任主義を、口先だけの呪文と化し、その本源的意味を希薄化してしまうことになるであろう
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果主義すなわち﹁結果免責主義﹂が、法治国家的原理として実定法に内在していると考えられるからである。なお、処罰条件
として立法者の価値決定に優位する価値論的前提から要請されることになる。これは責任主義と両立し得る意味における結
︵6︶ もっとも、︵結果犯の︶未遂犯においても、事後的な﹁客観的危険事態﹂の成立という結果無価値は、未遂犯の﹁処罰条件﹂
も参照。
︵5︶ 松原芳博﹃犯罪概念と可罰性﹄︵∼九九七年︶二〇一頁。同﹁犯罪結果と刑法規範﹂三原憲三先生古稀祝賀論文集三二四頁
QQぴり。。◆も参照。ザムソン論文の紹介として、松原芳博・早稲田法学七八巻︸号︵二〇〇二年︶二二一頁以下を参照。
防9§切§・U霧ぐσ島鋒三。・<8甲塗σq・。葺≦①詳巨民国き已巨σq。。目≦Φ答一日。Q訂p守①昏けL巨国■■訂。町一津鵠同Ω艮ロ毛巴PおりP
︵4︶ 増田﹁規範論による行為無価値の目的論的・比例的縮小﹂三原憲三先生古稀祝賀論文集︵二〇〇二年︶二九五頁。また、
極的︶応報の根拠ということになろう。
︵乞①ロα同ロ。ぎ目㊤刈Q。yQQ6ω.そこで、現代の刑法学の用語に従って言えば、不法論レヴェルでは、まさに﹁行為無価値﹂が︵消
れ得るものである、ということになる。<αqピ切①h§90δ<吟αqΦ拝ロ昌oq・・己Φ①⊆巳旨おしd巴①暮償昌σqまHら窃GQ訂卿マ①o鐸弘⑩OQ。
物の行動や意思的ではない単なる出来事・結果と両立し得るものではなく、意思的な人間の行動、行為に対してだけ投入さ
リンクによると、応報というものは非難に結びついており、非難は理性的な存在を前提している。したがって、応報は、動
以下参照。エルンスト.フォン・べーリンクが力説しているように、純然たる結果負責主義と応報思想とは両立しない。べー
間の尊厳ーカントおよびへーゲルと訣別してもよいのかー﹂ホセ・ヨンパルト教授古稀祝賀論文集︵二〇〇〇年︶一五四頁
理のパースペクティヴー﹂法の理論一五巻︵一九九五年︶一六〇頁、同﹁消極的応報としての刑罰の積極的︸般予防機能と人
田﹁志向的故意帰属と因果経過の齪館H﹂法律論叢七〇巻五・六合併号︵一九九入年︶六九頁を参照。
︵3︶ ﹁積極的応報論﹂と﹁消極的応報論﹂の概念については、増田﹁死刑のパラドックスー積極的一般予防論とディスクルス倫
︵2︶ 行為によって実現された結果は﹁自由︵行為者の自由な支配︶と偶然との共同作業の産物﹂であるという点については、増
の゜μ。。°結局、︵個別的行為︶責任主義と個別的な行為︵の自由︶を対象とする行動規範とは不可分の関係にある、といえよう。
国円迂oq。。冨津50q・qg①田ロ。げ巨σq①昌自㊤岳①。。昏騨①昏岳g①N霞①。ぎ慧σqぎ国①。暮゜・α①鼻Φ昌α①゜。守自8護gΦ琶8﹃°。弘綜゜。”
、王義﹂︵Ω≡昌α■■辞Nαo﹃oDo7﹂αげp津ロ昌σq︶の決定的な理論家であったということを指摘している。肉雲警自乱宍9§9昌野Uδ
も、﹁結果負責主義﹂︵Ω毎巳。・p訂血角国ぽ曹げ鉢ロ昌αq︶の法史学的研究に関する著書において、ビンディンクこそ﹁行為責任
︵1︶ 増田﹁刑法規範の論理構造と犯罪論の体系﹂法律論叢四九巻五号︵一九七七年︶一一五頁を参照。エッケハルト・カウフマン
注
犯罪論における法益侵害結果の重要性
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の場合には、結果無価値としての客観的危険事態は行為の客観的危険性が生じた直後に随伴することになるであろう。しか
としての事後的な﹁客観的危険事態﹂と行動規範発動の要件としての事前的な﹁客観的危険性﹂とは区別される。通常の犯罪
し、離隔犯、間接正犯、教唆犯などにおいては、通常の場合とは異なり、結果無価値としての客観的危険事態は︵実行︶行為
から隔たった時点で生ずることになる。つまり、離隔犯等においては、まさに客観的危険事態がく離隔してV生ずるという点
︵4︶論文二入七頁以下参照。
にこそ、そうした犯行形式に固右な構造が示されることになるのである。﹁客観的危険性﹂の概念については、増田.前掲注
ないのであり、身体運動はその意思に起因する︵中間︶結果に過ぎないのであって、人格的不法論によれば意思決定のみが
松原・前掲書二〇二頁参照。さらに論者は、決定規範は一定の行動に出るように決意することまでしか命じることができ
︵7︶
規範対象になる、と指摘している。松原・前掲論文三二二頁以下参照。しかし、この議論の前提自体に疑念が生ずることに
は、わたくしがこれまでしばしば攻撃してきたデカルト的な﹁心身実体二元論﹂︵相互作用論的二元論︶に依拠するものであ
なる。こうした批判的議論において前提とされている論者の立場︵そしておそらくわが国の因果的不法論者に共通する立場︶
と﹁結果﹂との関係︵機械的因果関係︶にあるとする﹁古典的な因果的行為論﹂が素朴に前提とされることになる。因果的事
ろう。そこでは、心身︵意思と身体運動︶が峻別され、﹁心的実体﹂︵目㊦曇巴①国耳詳警︶としての意思と身体運動とは﹁原因﹂
シュミットの規範論も、まさにこのデカルト主義︵心身実体二元論︶を端的に表現するものとなっている。しかしながら、こ
象を対象とする客観的評価規範は不法に、内心的意思を対象とする主観的決定規範は責任に関係するとする、メツガーやE.
うした見解については、心身︵主観・客観︶が実体として峻別されながら、いかにしてその間に因果的な相互作用が生ずるの
日では完全に反駁されている。そこで、意思︵心︶をわれわれの頭上に浮遊する﹁実体﹂あるいは﹁機械の中の幽霊﹂として
かなどに関して、疑問が生ずることになる。デカルトにおいては、その通路は松果体・松果腺にあるとされたが、この点は今
は、このような意思と身体的運動とは、完全な物理的因果性として理解されるため、刑法ではこうした物理的因果性を対象
神秘化するのではなく、これをすべて神経的事象に還元する︵還元主義的な︶物理主義︵一元論︶の立場に依拠する場A口に
とする、論者の言う﹁客観的評価規範﹂︵すなわち因果的規範︶のみが意味をもつことになり、﹁決定規範﹂なるものは全く不
な決意に先行して脳神経が活動していると報告されており、身体運動に対する意思・決意自体の直接的な原因性について疑
要なものとなるであろう。ちなみに、ベンジャミン・リベットによる近時の神経科学の実験では、身体運動に関して意識的
﹁志向無価値﹂を︿外的行動・身体運動から分断された﹀﹁純主観的な内心的実体の無価値﹂として捉えているが、これもまた
義が出されている。QD①①bき鼻Uo≦①げp<①守①①ミ已噌Lロ⋮目げ㊦<○弊δロ巴げ冨ぎ弘⑩㊤㊤”℃や疇1αメさらに論者は、いわゆる
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デカルト主義に支えられた不適切な帰結にほかならない。このような志向無価値の不適切な捉え方︵ガラスらの見解︶に対
下を参照。わたくしの構想では、ラテン語の︾ぎけ①昌αo︵に由来する志向性は、本来﹁何かに向かう、関係する、指し示す﹂
する批判として、増田﹁刑事手続における法律上の推定と表見証明﹂法律論叢六五巻四・五合併号︵一九九三年︶一一〇頁以
て、単なる内心についての無価値ではない。また、志向性の概念にとって不可欠なものは、意識性ではなく、むしろ﹁有意味
ということを意味しており、わたくしの言う﹁志向無価値﹂は法益侵害に向かう、関係する行動︵身体活動︶の無価値であっ
たがって、わたくしの量早つ行動規範には、決定規範と人格的評価規範とが含まれており、この行動規範︵決定規範・人格的評
性﹂であって、広義においては過失行為も法益侵害結果に対して志向無価値を有するものとして捉えられることになる。し
向的行為を対象としているのである。なお、デカルト主義に対する批判として、増田﹁真実発見のアブダクション的・帰謬法
価規範︶は、決して心的実体としての内心的意思そのものを対象とするようなものではなく、心身の意味統一体としての志
的構造と故意の目的論的立証﹂法律論叢六三巻六号︵一九九一年︶三九頁以下も参照。ともあれ、︵わが国の︶因果的不法論
者は︵またおそらく折衷主義者・二元論者も︶無意識的にデカルト主義に囚われ過ぎていると思われる。論者たちには、その
ことをまずは明確に自己意識化し、デカルト主義︵一七世紀の哲学︶の当否について正面から態度決定・回答することを求
めたいと思う。
二 いわゆる偶然論拠について
刑法における行為結果の意味について探究するためには、︿結果の発生は偶然に支配されるため、不法要素とはなら
ない﹀とする﹁偶然論拠﹂︵N‘逗﹃鎚σq目日①暮︶の当否について検討することが必要であろう。
こうした論拠を誰よりも徹底して展開したのは、ツィーリンスキーであった。ツィーリンスキーは、結果発生は偶
然の産物であり、行為無価値と結果無価値との間には架橋は存在しないということから、行為無価値のみを不法要素
と考えたのである。このようなツィーリンスキーの偶然論拠に対しては、わたくし自身もかつて、﹁結果が単なる偶然
︵1︶
の産物であるならば、それは、刑法上いかなる重要性も有しないものとなり、その体系的地位と機能に関する問題な
︵2︶
ど決して成立するはずがないであろうLと手厳しく批判した。さらに言えば、そもそも結果帰属の理論は、偶然帰責、
偶然的結果を排除する論理であり、単なる偶然の結果は、行為無価値といかなる関係性もないので排除されることに
︵3︶
なるのである。
しかしながら、行為に帰属される結果、すなわち刑法上重要な結果の発生も、多かれ少なかれ偶然的事情によって
左右されるものであるという意味における偶然論拠はなお維持できるものである、とわたくしは考えている。もっと
他者に強く殴られて気絶した場合や、突然脳梗塞の症状が生じたような場合には、そもそも意思決定自体さえなし得
意図さらには行為が実現できないということも、もちろん起こり得ることである。さらには、例えばいきなり頭部を
ボールを投げようとしても、誰かに阻止されたり、わたくしの腕が突然麻痺したりすれば、わたくしはボールを投げ
︵5︶
つけることはできない。つまり、わたくしの支配の及ばない事情、すなわちまさに偶然的事情によって、わたくしの
を投げつけるというわたくし自身の行動に対して自己支配を及ぼしているといえるであろう。もちろん、わたくしが
いまわたくしが、わたくしの理論に反対する人にボ!ルを投げつけようとして投げつける場合、わたくしはボール
も思っている。この点について、具体的な事例を挙げて考えてみよう。
いる。また、偶然論拠という表現が誤解を招くのであれば、﹁自己支配の論拠﹂と言い換えた方がよいかもしれないと
して・偶然論拠を攻撃してい範だが・わをしは・・うした批判は説得的では亨、退ける・とができると考えて
たため、銃弾は誰にも当たらなかった、という事例を取り上げ、完全な行為無価値の達成も偶然に依存することを示
マイヴァルトは、行為者が殺害の意図で被害者に向けて銃を発砲しようとしたところ、第三者が行為者を押し倒し
も、偶然論拠に対するマイヴァルトの批判は、このような意味における偶然論拠に対しても向けられたものである。
一一 ニ罪論における法益侵害結果の重要性
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ないということも起こり得るであろう。この点ではマイヴァルトの指摘には賛成したい。
しかし、そのようなことが起こらず、わたくしによって投げつけられたボールがわたくしの手を離れてお目当ての
人に命中することについては、ただ腕を上げたり、ボールを投げつけたりするといった自己の行動に対する支配と比
較すると、支配の及ぶ程度に関して格段の違いがあるように思われる。つまり、ボールがお目当ての人に命中するた
めには、室内の照明が十分に明るいこと、相手がよけないこと、ボールを投げる際に地震が起こらないことなど、わ
たくし自身には支配し得ない多数の偶然的な条件が、通常は必要になるであろう。
さらに言えば、自己の行動に対する支配、すなわち自己支配と外界や結果発生に対する支配との間には、むしろ﹁質
的な違い﹂があると考えられる。というのも、自己支配の場合には、自らの判断によりに直ちに支配を解除すること
ができるが、行為終了後の結果発生に対する支配の場A口には、これを解除することができないか、できるとしても積
極的な︵意思的︶行為が必要となるからである。まさにこの点に関する決定的な違いを、マイヴァルトは見落として
しまったといえよう。
ところで、ハンス.ヨアヒム.ヒルシュも、近時、﹁偶然論拠﹂につき論及し、﹁偶然論拠は説得的ではない﹂という
ことを力説している。例えば、行為老が被害者を狙って発砲した場合に、被害者の死の結果を偶然的なものであると
主張することなどできない、とするのである。もっとも、ヒルシュは、致命的な重傷を負った被害者がたまたま傍に
居た医師の手当てを受け、さらに病院で救助されたような未遂の事案においては、﹁幸運な偶然﹂が存在したことにも
︵6︶
なる、とも指摘しているのである。
そうであるとすれば、結局のところヒルシュも、偶然的要素が、行為を既遂に導くか、それとも未遂に終わらせるか
につき重大な影響を及ぼし、また︵幸運な︶偶然的要素が、まさに可罰性の阻却の効果や刑の減軽効果をもたらし得
るということを容認しているといえよう。このことは、ある種の偶然論拠、すなわち︿行為者にとっても幸運な﹀偶
然論拠を実質的に認めたことになるであろう。
なお、ヒルシュにとって、行為無価値と結果無価値とは並存する概念ではなく、むしろ故意結果犯の場合に、結果
︵7︶
無価値は行為無価値の︵終結的な︶内容を構成するものとなっている。しかし、このような︿広すぎる﹀行為無価値
概念は、単なる因果経過をも行為無価値概念に取り込んでしまうものであり、適切ではないであろう。
例えば、一郎によって銃撃された二郎が重傷を負い、一週間後に死亡したが、一郎は銃撃行為の三日後に三郎によっ
て殺害されてしまったというような事案において、行為者一郎が殺害された後の因果経過および結果も、ヒルシュの
見解によれば、一郎による行為あるいは行為無価値を構成する要素であるということになってしまうであろう。だが、
すでに死者となってしまっている一郎にはもはや全く制御し得ない因果経過および結果までもが、一郎による行為の
無価値の構成要素であるとすることは、﹁死者の行為﹂あるいは﹁幽霊の行為﹂といったものを認めざるを得ないこと
になり、背理的な帰結というほかないであろう。
フランクフルトのりベラルな法理論家として著名な、あのクラウス・リューダーセンがかつて﹁禁止の内容が人間
︵7︶
によって支配可能なものを超えてはならないという論証は決して反論し得ないものである﹂と力を込めて断言したが、
このように行動規範が︵法益侵害結果を志向する︶行為のみを対象とするということも、まさに先に指摘した意味に
おける﹁質的な違い﹂に基づいているからである、と考えられる。またそこに、行為無価値と結果無価値とを同格に
Nミ§客辞=㊤口臼仁昌oq°・−霞ロ畠国﹃8一鵯ロ昌宅①詳一BO霞①窪け。。げ①σq二抽おお”oQ・Hお弘α9。・
扱うべきではない真の理由があるということにもなるのである。
︵1︶
注
一犯罪論における法益侵害結果の重要性
13
叢
九七七年︶ 一〇六頁
︵2︶ 増田﹁紹介・ギュンター・シュトラーテンヴェルト︿刑法における結果無価値の重要性について﹀﹂法律論叢五〇巻一号二
増田﹁犯罪構成における結果無価値の体系的地位と機能﹂法律論叢五〇巻四号︵一九七七年︶一〇〇頁注︵19︶参照。
︵3︶
辯@警♂同㊤Q。メω.①N マイヴァルトの用例については、松原芳博がマイヴァルトの主張に賛成する方向で取り上げて
︵4︶ <σqピミ9§9貫9①bコ巴2ε昌σqら㊦。自甲廷oq・。ロ昌≦①昌窃ぎd目8鐸9貯 oQ。ま。げ︵国冨σq.y≦δら①門σq暮ヨ僧畠自σqロ冨匹
<oq﹃ミ越o劃㊤゜pO°︺GQ臼心◆
て、松原芳博・早稲田法学七八巻三号︵二〇〇三年︶二六三頁以下を参照。
過失犯の場合にも、基本的には同様のことが当てはまる、としている。<σqr襲越。♂ppρ一H奉ヒルシュ論文の紹介とし
︵6︶ 鴫等魯許国9ロαぼ昌σq°。JQQ些oげく①筈巴冨占昌島国円8お゜。ロ昌ξ興∬ぎ”Ω①自簿o暮三゜。°。o貯聾鵠同ζ①‘﹃Φ♪卜⊃OONoQ°Q。°またヒルシュは、
しているのではない。
てであり、われわれに予見し得ないような事情は偶然的なものであるとみなされる。したがって、それは絶対的偶然を意味
︵5︶ 決定論的世界像においては︵絶対的︶偶然の余地はないが、ここで﹁偶然﹂というのは、あくまでも法的文脈の意味におい
いる。松原﹃犯罪概念と可罰性﹄一九二頁参照。
QQ
((
))
て重要な意味をもつのであろうか。わたくしは、ここで結果発生の二つの意味・機能に言及したいと思う。
等の諸規定からも明らかである。では、なぜ行動規範侵害の対象でない結果発生が、そのような可罰性の判断にとっ
て実現された法益侵害結果が、処罰の必要性にとって重要な意味をもつことになるのは、未遂を処罰しない器物損壊
行動規範︵禁止規範︶に違反するのは、法益侵害結果を志向する行為だけであるとしても、このような行為によっ
三 結果のコミュ■一ケーション機能と証明機能
<αqrb“瓢ミ訟§”9①。・貯p守①∩暮。。αq①。・け巴け8畠①ズ円聾匹①ー−uJΦミ9°。話。げ貫NQQけ≦、Q。㎝︵おおyQQb8°
87
14
論
律
法
一犯罪論における法益侵害結果の重要性
15
一つは、結果発生の﹁コミュニケーション機能﹂とも言うべきものである。つまり、法益侵害結果が発生した場合に
は、そこから行為者、被害者そして一般市民との間に﹁社会的なインターラクション﹂が生じ、新たな社会関係.社会
現実が構成・構築されることにもなるであろう。例えば、ドライバ⋮が、他者の死を招き得る危険な追い越し運転を行
い、致傷あるいは致死の結果を招いたとすれば、そのことから﹁行為者﹂にとっては、起こってしまったことに関し
て単に物質的な面だけではなく精神的な面についても﹁被害者やその遺族﹂との間で決着をつけるべき問題︵例えば
民事上は損害賠償の問題︶が生じ、また﹁一般市民﹂も行為の重大性を起こってしまったことの重大性から捉え、そ
こから自己の行動の格率の問題等を考える契機を得ることになるであろう。こうした行為結果の﹁コミュニケーショ
マキシ メ モ
ン機能﹂あるいは﹁社会構成的機能﹂は決して過小評価されてはならない。
これに対して、幸い結果発生に至らなかった場合には、被害者あるいはその遺族や社会に対する影響などは、結果が
発生した場合と比べると極めて僅かである。確かに法益侵害結果の発生は、被害者にとっても、社会にとっても、さら
には行為者自身にとっても、不幸なことであり、そこには事後的なコミュニケーションを通じて対処しなければなら
ない重要な社会的意味が帰属することになるであろう。しかし、そのことから、行為結果が行為者の処罰を根拠づけ、
加重することになると考えるのはあまりにも早計である。むしろ、逆に、幸い法益侵害結果が生じなかった場合には、
国家による刑罰権の発動を控えるということも、刑罰経済の観点あるいは比例の原則の観点からは重要な意味をもつ
ことになると思われる。また、とりわけ一般予防的な観点からも、処罰する必要性が希薄になるとも考えられる。
それでは次に、結果の証明機能・徴愚機能という問題を取り上げよう。法益侵害結果を志向する行為のみが行動規
範侵害の対象であるとしても、法益侵害結果が生じなかった場合とそれが生じた場合とを比較すると、前者において
は、行為の危険性としての行為無価値は、後者の場合よりも軽微なものであったであろうという蓋然的な帰結が導き
叢
16
論
律
法
︵1︶
出されることになる。このことが、例えばエクハルト・ホルンも指摘しているように、未遂処罰の減軽規定にも反映
しているものと考えられる。
また、行為無価値も結果無価値もともに不法を構成するとする二元論者のザムソンも、結果無価値は行為無価値が
︵2︶
結果をもたらし得る程度に強いものであったか否かの﹁指標﹂︵冒虫匿8目︶であるとも指摘している。もっとも、結果
が発生した場合には、それが発生しなかった場合よりも行為の危険性、したがって行為無価値は高いものであったと
いうことは、蓋然的な帰結であるから、そうでない可能性も想定し得るものである。したがって、こうした蓋然的傾
向を行為者に不利益に利用することは責任主義の観点からは許容されない。しかし、立法者が、このような﹁蓋然的
な傾向﹂を行為者・被告人に利益になる方向において、つまり処罰を控え、量刑を軽くする方向において考慮に入れ
て刑罰法規を定立することは、決して不当なことではないのである。︵例えば、一四歳未満の者につき、個別的には合
規範的動機づけ能力が認められても、一律に刑事責任を問わないとする刑法四一条の法政策的決定にも、類似の状況
が存在することになろ捻︶
ところで、こうした結果の証明機能を是認する見解に対して・松原芳博はあらまし次のさつな批判を提出してい殖
①行為不法の証明が困難であるから、これに代えて﹁結果﹂の証明で満足するのだとすれば、︿疑わしきは被告人の
利益に﹀の原則に反する疑いがある。
②結果の証明機能は裁判における立証の場面では意味を有しない。結果が処罰の要件とされる理由は、徴表的・訴
訟的意義を超えて、現実的・実体的意義を有するからである。
③結果の証明機能と未遂処罰規定の存在は矛盾する。
犯罪論における法益侵害結果の重要性
17
しかし、これらの批判はいずれも説得的なものとは考えられない。まず、第一の批判に対しては、次のように反論
することができるであろう。論者がそこにおいて攻撃しているのは、いわゆる﹁︵被告人に不利益な︶法律上の推定﹂
を認めるような立場、すなわち﹁前提事実﹂︵推定の基礎︶としての結果の証明から﹁推定事実﹂としての行為不法の
︵5︶
存在を︵法律上︶推定し、客観的証明責任を被告人に転換するような立場であろう。確かにそのような見解を本気で
主張するとすれば、論者が指摘しているように、まさに︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則に反するような帰結を
もたらすことになるであろう。しかしながら、︵一元的︶人格的不法論の立場からも、結果発生はむろん主要事実.要
証事実であって、しかも行為不法の存否につき客観的証明責任を被告人に転換するような﹁法律上の推定説﹂など全
く主張されておらず、結局、論者が標的としているのは幻影に過ぎない、ということになるであろう。
イリュ ジョン
第二の批判に対しては、次のような反証を提出することができるであろう。すなわち、結果無価値の証明機能といっ
ても、特に重要な意味をもつのは、先にも指摘したように、行為が結果をもたらし得る程度のものであったか否かとい
う点に関するものである。しかも、行為結果が発生しなかった場合には、行為無価値も軽微であったであろうという
蓋然的傾向を、立法段階であれ裁判段階であれ、行為者に有利な方向で考慮に入れることは、刑法の謙抑主義︵補充
性の原則、最後の手段の原則︶の観点からも望ましいことであると考えられる。とりわけ、一定の犯罪︵例えば器物
損壊罪︶において、そうした蓋然的傾向を考慮して立法者が未遂の場合には﹁処罰の必要性﹂なきものとする法政策
的な価値決定を下すことには、法治国家的合理性が認められることになるであろう。また、先に指摘したように、行
為によって実現された結果は、単なる偶然の所産ではなく、﹁不法の所産﹂であり、﹁自由の所産﹂であるが故に、単
なる間接事実なのではなく、主要事実・要証事実としての資格を有する︿現実的﹀存在にほかならないのである。し
たがって、法益侵害結果は単なる証明機能の故に可罰性の要件とされているのではない。
叢
第三の批判も的を射たものではない。論者は、未遂犯においては結果の発生がないにもかかわらず行為不法が証明
されるのだから、結果の証明機能は問題となり得ない、と主張するのである。しかし、わたくしがここで結果の証明機
能・徴悪機能を問題にしているのは、次のような意味においてである。すなわち、未遂処罰が︵任意的に︶減軽され
得るのは、結果が発生しない場合には行為無価値の程度が軽微であろうという蓋然的・徴愚的傾向をまさに立法者が
考慮したためである、という意味においてである。このような意味における結果の証明機能、より正確に言えば﹁結
果不発生﹂の証明機能は、未遂犯の減軽規定と両立し得るだけではなく、その説明原理にさえなっているのである。
謔?ッΩ口σ“bd臼ロα朗メ﹀ロ中一ト⊃OOroQ。ω跡鴫o§”ズoロ町①け①Ω①律訂畠ロロσq°。匙⑦団葬①しり刈ωuoQμ8中
︵1︶
鴫。著\QQ暫目の8\勾巳o甘亘Q。区−QQけΩ芝uじJp匿飼G。°﹀口Pお。。ポ貿ρQQ.呂゜<αqr国巳99<融。§\Ω爵け冨同\ω僧ヨωo♪
注
恥9§竃鵠国゜。訂O腎窪鵠門Ω昌昌≦巴αQQ°①Oω゜
Gα
松原﹃犯罪概念と可罰性﹄一九七頁、二〇〇頁注︵64︶参照。
たらすことになるのである。
この場合、訴訟法的にみれば、一四歳未満であるという年齢が﹁被告人に有利な反駁し得ない法律上の推定﹂の効果をも
り り
((
32
))
が、強調されている。
表見証明﹂五三頁以下を参照。そこではまた、処罰条件にも︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則が妥当するものであること
証明、抽象的危険犯における証明問題等々との関係で包括的な検討を加えている、増田﹁刑事手続における法律上の推定と
﹁法律上の推定﹂の概念の詳細については、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則、自由心証主義、証明責任の転換、表見
((
54
))
18
論
律
法
四 結果負責主義の言語ゲームから結果免責主義の言語ゲームへの転換
規範と制裁とが本来いかなる関係にあるかについて、教育と刑法との違いに留意しつつ、次のような日常的な事例
を取り上げて考えてみよう。
さて、太郎の投げつけた皿は粉々に割れてしまい、次郎の投げつけた皿は運良く割れなかった。彼らの父親は、太
ることを意味している。これに対し、わたくしが正しいと考えている、もう一つの説明は次のようなものである。
の言語ゲ:ムに基づく場合︶には、それは、先に指摘したように、国家がまさにヒステリックな父親と同じ態度をと
結果発生が真正の処罰根拠になり、重大な結果が生じたために刑が加重されるのだと説明する場合︵結果負責主義
極めて重要な意味をもっている。このことはいかに説明されるべきであろうか。
されることにもなる。したがって、同じ行為が遂行されたとしても、結果が発生したか否かは可罰性と量刑にとって
とはいえ、現行法においては既遂処罰が原則であり、また結果が発生しない場合においては任意的であれ刑が減軽
父親と同じことを国家がすることになるであろう。
はないだろうか。もし生じた結果の重大性ということだけで、行為者を重く処罰するとすれば、このヒステリックな
殴るというのは、殴るという体罰の当否はさておき、生じた結果の重大性に基づく感情的で、ヒステリックな反応で
この父親の叱り方は、果たして合理的なものなのであろうか。太郎も次郎も全く同じ行為をしたのに、太郎だけを
はいけない﹂と静かに注意しただけであった。
郎に対しては﹁一体何をしでかしたのだ﹂と強い調子で怒鳴り、殴りつけたが、次郎に対しては﹁こんなことをして
︵1V
一一 ニ罪論における法益侵害結果の重要性
19
叢
20
論
律
法
それは、本来は処罰に値する行為であっても、結果が生じなければ処罰すべきではなく、あるいは刑を減軽すべき
であり、さらに結果が軽微であれば刑も軽くすべきである、という説明の仕方であり、﹁結果免責主義﹂の言語ゲーム
に基づく説明の仕方である。これは、刑罰という国家による特殊な制裁の揚合には、その発動はとりわけ慎重でなけ
ればならないという考え方を基礎に置くものである。こうした考え方によれば、同じ行為が遂行されたとしても、そ
れが外部に痕跡を残すものとして表現されるまでは、刑罰権の発動は控え、結果が軽微であれば量刑も軽くするとい
うことに、刑法の保障機能さらには謙抑主義の観点からは合理性が認められることになるのである。
このような説明原理は、次のような用例にも妥当することになるであろう。太郎は花子に対して殺意をもって致命
的な打撃を加えた。次郎も桃子に対して殺意をもって致命的な打撃を加えた。一人の医師がたまたま現場にやって来
たが、彼には二人の被害者をともに救助する余裕はない。そこで、その医師はもっていたサイコロを投げて、どちら
を助けるかを決めることにした。その結果、医師は桃子を救助することにしたのである。桃子は助かり、そして花子
は死亡した。
︵2V
この事例において、太郎には殺人既遂が成立するのに対して、次郎には殺人未遂が成立するに過ぎない。太郎も次
郎も、被害者に対して同程度の致命的な打撃を加えたにもかかわらず、﹁サイコロの目の出方﹂︵偶然的事情︶によっ
て次郎は、刑の︵任意的︶減軽の可能性を取得することになるのである。この場合に、太郎の不法の方が重大で、次
郎の不法の方が軽微だというのではない。そうではなく、そこにおいては、太郎の︵行為︶不法も次郎の︵行為︶不
法も全く同程度のものでありながら、まさに︿偶然的事情に基づく結果不成立が行為者︵次郎︶にとって有利に考慮
されるべき﹀象徴的事案が問題になっているといえよう。
もっとも、結果的加重犯は、その名称の意味を文字通りに理解すれば、まさに重大な結果によって刑が加重される
ものであるかのような印象を与えることになるであろう。しかし、このような名称は、悪しき結果刑法︵結果負責主
義︶の遺物あるいは名残であり、そこでは地動説が今日の科学では揺るぎない信念となっているにもかかわらず、わ
れわれが相変わらず﹁陽が昇る。陽が沈む。﹂というように天動説的な表現を用いているのと全く同様の現象が生じて
いるだけであって、この犯行形式の構造を適切に捉えているとはいえない。
責任刑法の観点からは、そこでも重大な結果が生じなかった場合には、そのことにより基本犯の刑が軽くなるのだ
と理解されなければならないであろう。例えば、︿致死の結果を招く高度に危険な﹀傷害行為は、本来は傷害致死罪の
はこの点にも言及しておこう。
なお、刑の加重というか、減軽というかは、なんらその実質を変えるものではないという反論もあるので、ここで
果の不成立は刑の減軽の効果をもたらすことになるといえよう。
果が生じなければ、やはり傷害罪の限度で量刑がなされることになるのである。つまり、致死結果あるいは重大な結
に対してだけ、傷害致死罪の法定刑が用意されているからである。しかしそのような場合であっても、幸い致死の結
ということが帰結されることになる。というのも、そもそも致死の結果を招くほどの﹁具体的危険性﹂を有する行為
れてはならないというように、傷害致死罪あるいはより一般的には結果的加重犯の成立を限定的に理解すべきである
性が当該傷害行為に認められない場合には、たとえ致死の結果が生じたとしても、当該行為者は傷害致死罪で処罰さ
理解するかという基本的問題にも深く関わってくると考えられる。つまり、仮に致死の結果を招くだけの高度の危険
しかもこのような説明は、単にこじつけのようなものではなく、結果的加重犯の法的性格をどのようなものとして
になるのである。さもないと刑法はここでもヒステリックな父親になってしまうであろう。
刑に値するほどの当罰性を有しているが、致死の結果が生じないことにより傷害罪の法定刑の枠内で量刑されること
一一 ニ罪論における法益侵害結果の重要性
21
22
叢
論
律
法
なるほど、︿結果が生じた場合には重く処罰されるのだ﹀という説明と、︿結果が生じなかった場合には軽く処罰さ
れるのだ﹀という説明との間には、形式論理的には違いがなく、そこでは同一のことが述べられていることになるで
あろう。つまり、これは、︿太郎は次郎よりも大きい﹀と表現することと︿次郎は太郎よりも小さい﹀と表現すること
との間に、レトリックの問題は別として、論理的な矛盾がないのと同様である。そこでは形式論理という単一の視点
のみが問題にされているのである。
ところが、わたくしが問題にしているのは、そもそもなぜ行為者は処罰されるのか、処罰される理由は何か、刑が加
重される理由は何かという価値的な視点である。つまり、そこでは、︿行為者の危険性か﹀、︿個別的行為か﹀、それと
も︿結果発生か﹀という価値論的問題が提出されているのである。わたくしの解答は、すでに述べたように、責任主
義を価値論的前提とする限りにおいて﹁個別的行為﹂ということになる。したがって、行為者の危険性、個別的行為、
結果発生との間には価値的な視点から優劣が生じることになる。要するに、責任主義という価値論的前提のもとにお
いて、不法領域では行為無価値のみが処罰根拠ならびに加重根拠となり、行為者の危険性や結果発生はそれが存在し
ないことが、処罰を制限し、刑を減軽する事情とされなければならないことになるのである。そこで、例えば、通常
の場合よりも行為者の危険性が高いということから刑を加重してはならないが、通常の場合よりも行為者の危険性が
低いということから、刑罰必要性も低下するため刑を減軽することは許容されることになる。
このことと関連してさらに、わが国の現行刑法に未だに残存している﹁累犯加重﹂の総則規定︵刑法五六条、五七
条︶は、完全に削除されるべきだということを、ここにおいて提案しておきたい。というのも、この規定は、現行刑
法に内在する責任主義と明らかに矛盾しているからである。つまり、累犯は当の個別的行為とは別の、行為者の過去
の行為を考慮に入れた行為者の危険性︵危険な性格︶または行状︵若しくは性格・人格形成︶に関わる要素であって、
犯罪論における法益侵害結果の重要性
23
これを根拠に刑を加重することは、個別的行為の不法・責任のみを処罰の根拠とする責任主義とは明らかに相容れな
い刑事政策的価値決定にほかならないといえよう。
そのことを疾うに洞察してしまっていたドイツの刑事法学は、ついに﹁累犯加重﹂の総則規定︵ドイツ刑法旧四入
条︶を削除させるに至・たのであ殖これに対咲わが国では・確かに累犯加重の根拠については見解が対立してい
るもの四︾またどのような標準的な刑法の教科書の類においても責任主義が強調されているにもかかわらず、︿累犯加
重の規定は責任主義とは両立し得ないものであり、したがって削除されるべきである﹀ということまではなかなか声
にはならな鴨∼このような嘆かわしい事態は、責任主義がまさに口先だけの呪文のレヴェルにおいて主張されている
︵6︶
に過ぎず、この法治国家的原理の真の意味が十分に理解されていないことに起因するものであろう。
さらに、個別的行為責任のみを処罰根拠とする責任主義は、﹁結果負責主義﹂をも排除し、むしろ﹁結果免責、王義﹂
を要請することになる。ここでは、次のような事案を取り上げておこう。
例えば、太郎が次郎に軽傷を負わせようとして殴ったところ、打ち所が悪く重傷を負わせてしまったというような
場合に、太郎が予見していた傷害結果︵行為無価値︶が軽微なものであったにもかかわらず、生じた傷害結果︵結果
無価値︶が重大であったということを理由に傷害罪の︵最高一〇年という︶法定刑の枠内で刑を加重してはならない
であろう。というのは、太郎の遂行した傷害行為の無価値は、軽傷を志向する行為の無価値にほかならないからであ
る。この場合に、太郎が予見していない重傷結果の無価値によって故意犯の刑を加重するとすれば、責任刑法と両立
し得ない﹁結果負責主義﹂を容認することになってしまうであろう。これとは逆に、太郎が予見していた結果︵行為
無価値︶が重大であったが、次郎の身体に生じた傷害結果︵結果無価値︶は軽微なものであったという場合には、傷
害罪の法定刑の枠内で刑を減軽すべきであるということになる。というのは、生じた結果が軽微であったという事実
叢
は、まさに行為者の量刑にとって有利な方向において考慮されるべき事情にほかならないからである。これは責任主
義と両立し得る﹁結果免責主義﹂の帰結である。
同様のことが、過失犯の場合にも妥当する。例えば、一郎が何らかの不注意行為によって二郎を死に致してしまった
が、一郎に予見可能であったのは致傷の結果だけであって、致死の結果までは予見不可能であったというような︵刑
法二一一条の︶事案において、一郎には、予見し得た致傷の結果の限度で︵業務上︶過失致傷の罪責のみが問われる
べきことになる。これとは逆に、︸郎には二郎の致死の結果も予見可能であったが、結果は致傷にとどまったという
事案においては、一郎の罪責は、生じた致傷の結果の限度で︵業務上︶過失致傷にとどめられることになるであろう。
こうした﹁結果免主界王義﹂の帰結も、形式論理的な観点からは導き出されず、まさに価値的な視点に基づくもので
ある。このような意味において、﹁処罰根拠﹂と﹁処罰条件﹂、あるいは﹁刑の加重事由﹂と﹁刑の減軽事由﹂とを区別
することは意味をもつことになるであろう。
そして、このような区別を前提としたうえで、法益侵害結果を行為者に有利な方向においてのみ考慮に入れること
によって、﹁結果免責主義﹂としての結果刑法の言語ゲーム︵理論的枠組み︶は責任刑法と両立可能なものとなるので
あり、そこにおいて︿正しく理解された﹀結果無価値論、すなわち︵不法論レヴェルではなく︶犯罪論レヴェルにお
ける﹁真の結果無価値論﹂︵結果に処罰限定機能だけを付与する結果無価値論︶あるいは︿最もラディカルな﹀結果無
価値論を展開することができることになるのである。
落としてしまったが、そのうちの一人が落としてしまったカップは割れず、もう一人が落としてしまったカップは割れてし
︵1︶ これは、ブルクハルトが提出した用例を修正したものである。ブルクハルトは、二人の子供がコーヒーカップを不注意で
注
24
論
律
法
一一 ニ罪論における法益侵害結果の重要性
25
まったというよう事例を用いて、﹁偶然﹂の問題を検討しているのである。このプルクハルトの用例はあるシンポジウムに
おいて討議のために提出されたものであり、その内容については、プロイがまとめている。<σqrbロご撃9①しd巴①暮ロ蹟α$
これも、プルクハルトが提出した用例を修正したものである。<σq目bUざ撃PPOごω゜謡゜
申琶σq°。暮≦窪窃巨q目・。9旦≦巴・・αq暮§筈巨σq・巳ω欝マΦ。算。。・謹卑
))
瘻茶ツ昌①Pド︾島﹂悼OONGQbω①hを参照。団藤重光は、累犯加重は、当の犯罪の外にある事由であり、﹁犯罪後に生じた
例えば大谷実﹃新版刑法講義総論﹄︵二〇〇一年︶五四四頁を参照。ドイツの議論については、恥腎§9QQけ.p即Φ。﹃岳oげ①
︵4︶
臣詳ZQQeNH㊤㊤P°Q曾置o節亀。§\ミ轟①βQQ零ωδuけ”しdp巳悼㍉・﹀曲こ80N㎝ミ①p。Q・蔭N
解釈されている。<σqrUdΩ頃ωけく口OO悼”刈Q。一肉c。§識ぎさ塾評U霧QQ①×口巴。。訂p守Φo耳 ◎oげ住①目⑦゜QQe﹃騨h門①6耳ω同①8門ヨσq①゜・雲N占゜
は、個別的行為責任主義の観点から、累犯加重には重大な疑問がある点を無視してしまったのであり、この規定については、
﹁疾うに克服されてしまったと考えられている時代への後退﹂であるとの批判もなされている。そこで、この規定は制限的に
対する重大な性的乱用の罪︶の一項四号には、五年以内の再犯・累犯の場合には加重する旨の規定が置かれている。立法者
い批判が提起されたため、結局、一九八六年にこの規定は削除されるに至った。ところが、ドイツ刑法一七六条a︵児童に
GQけOUU区o目日①ロ訂♪悼O°﹀ロ山﹂悼OO目冒ω゜置ω採しかし、その後もドイツ刑法旧四入条については、責任主義の観点から厳し
得るものであり、合憲であるとの判断を下していた。<σqrbJ<9δ国αρ旨9HQ。倉oD。げα鼻①\の∩穿α直霞\降謡簿器゜。﹃\℃①き謡
機能﹂︵ノ辞円口巾⊆HP犀酔一〇昌︶との関係でより強い責任非難が加えられるということが認定された場合にのみ、かろうじて両立し
ていた。もっとも、ドイツ連邦憲法裁判所は、一九七九年一月一六Bの決定で、具体的事案において以前の有罪判決の﹁警告
ドイツ刑法旧四入条の累犯加重の規定については、そもそも責任主義に反するのではないかという重大な疑問が提出され
32
題性について、増田﹁消極的応報としての刑罰の積極的一般予防機能と人間の尊厳﹂一五入頁も参照。
九条では不定期刑を言い渡すことができるとしている。これによって責任主義はほとんど形骸化してしまう。﹁常習性﹂の問
となり得ないからである。なお、改正刑法草案五八条は、累犯者が常習者と認められるときは、これを常習累犯者とし、同五
人格形成は構成要件の内容となっている︿禁止された﹀行為ではなく、これについての責任は責任主義のもとでは処罰根拠
の個別的行為責任は、構成要件に規定されている︿禁止された﹀行為についての責任であって、︵危険な︶行状や︵危険な︶
う。なお、行状責任や人格形成責任を個別的行為責任に還元することもできない。というのも、責任主義の妥当領域として
法綱要総論三版﹄︵一九九〇年︶五二四頁。しかし、問題は、﹁個別的行為責任の原則﹂に違反するかという点にあるといえよ
事由を加重原由とすることは、罪刑法定主義の本旨からいっておそらく許されないであろう﹂と指摘している。団藤重光﹃刑
GQ
叢
26
論
律
法
わけではないが、ボン基本法一条の﹁人間の尊厳の尊重﹂とこ○条の﹁法治国家的原理﹂とから導き出されているのである。
︵5︶
ドイツ刑法では、今日、責任主義は憲法上の原理として承認されている。すなわち、責任主義は、明確には規定されている
︿αqr砺①魁§§斜﹀凶あけΩしU讐bづρ昌α目“日⑩㊤ρoQ.ω⑩Pこれに対して、わが国では、憲法との関連で責任主義が語られることは
ない。しかしわたくしの考えでは、憲法=二条の﹁個人の尊重﹂の原則から責任主義が導き出されることになる。すなわち、
個人の尊重ということは、個人の自由な自己決定を尊重することであり、個人の自由な自己決定に基づく行為についてだけ
責任非難が可能であるとする帰結を導き出すことができるからである。
なお、わが国の判例では、累犯加重規定が憲法三九条︵二重の危険の規定︶に違反するのではないか︵最大判昭二四・一
二.二一刑集三.一二・二〇六二参照︶、あるいは憲法一四条︵平等原則︶に違反するのではないかということについて争わ
︵6︶
れたことがある︵最判昭二六・一・二四刑集四・一・五四参照︶。
エピローグ
最後に、因果的不法論であれ折衷説であれ、行為結果を不法要素・処罰根拠とし、﹁結果負責・王義﹂の言語ゲーム
︵理論的枠組み︶から離脱できない通説的見解は、ある種の﹁心情刑法のパラドックス﹂に陥る危険性があるというこ
とを指摘しておきたい。
結果無価値を不法要素とすべきだとする論拠として、しばしば被害者の感情あるいは心情を考慮すべきだというこ
とが主張されている。例えば、シュトラーテンヴェルトは﹁交通事故で半身不随になった被害者に、そのような忌まわ
しい結果にく不法を奨する機能・がないと説明する・とは困難だ﹂と主張し三蒐また多少表現は異なるが・マ
イヴァルトも﹁既遂犯の場合には、行為者は被害者から自由を奪ったのであり、その無価値を明示するためには、こ
の全事象は刑罰の中に表現されなければならない﹂と指摘して、被害者の立揚を、刑を加重する方向で量刑に反映さ
一犯罪論における法益侵害結果の重要性
27
︵2︶
せるべきだ、と力説している。
なるほど、犯罪の被害者の感情・心情や立場は無視されてはならず、また被害者の救済は、刑事司法にとっても決
して放置されてはならない重要な課題であるということは、今日、われわれの共通認識になっている。しかしながら、
生じた﹁結果の重大性﹂およびそれに随伴する﹁被害者の感情・心情﹂︵さらには、マスコミによって扇動された大衆
のヒステリックなリアクション︶を考慮して行為者の刑を加重し、これを通じて被害者問題の真の解決を図ることが
できると考えるならば、それは、あまりにも短絡的であり、楽観主義的であるというだけではなく、まさにそのこと
勲言鉢§§﹃夢N弓国巴①<き国α①゜。国目塗αq°・暮毒①詳①゜・ぎG。訂既円Φ9∬一罠零。・訂。汀葬h費QQ。訂評け①旦お誤・QQ・目。。O・
が、ある種の悪しき﹁心情刑法﹂をもたらすことになるであろう。このことをわたくしは何よりも危惧している。
︵3︶
_((注
) ) )
畠①oo<σユΦ訂e①ロ巴qoGQ貯㊤節≦ΦoぎH㊤㊤メQQ﹄①oo.
の根拠としてもよいVとするヨアヒム・ヴェーバーの見解には全く賛同できない。<σqrSミぐ・富♪N口目Ω魯昌αq訂ロ⇒σQ匹昌言お。・°。①
れを理由に行為者の刑を加重するようなことは適切ではない。そこで、例えばく被害者側の償いを受ける利益の観点を刑の加重
償いを受けるという、被害者の利益は重要であり、また刑罰に被害者感情の沈静化・慰籍の効果が副次的に伴うとしても、こ
ミ9さ巳鼻9①しd巴①暮巨σq匹霧甲琶αq°。巨語門8。。巨d口円①。算5≦δユ①お暮日碧げ5αq口巳ω砕門畦門㊦9ρQQ・戸
321
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