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アラン・ドウリー 「南北戦争後における権力への道」
5.アラン・ドウリー 「南北戦争後における権力への道」 鵜月裕典 本論文は,労資の階級対立が本格的に開始された1860年代から80年代にかけ ての時期において,労働者階級が権力奪取にむけていかなる方途を模索したかを概 観したものである。構成としては,そうした模索のありようを検討した本論部分に, 基本的枠組を提示した前置き及び結論が加えられている。以下,前置きから順次ド ウリーの主張を整理・要約し,後に若干のコメントを付すこととしたい。 【要約】 I・前置き アメリカの労働者階級は,権力から疎外される中で,団結権や言論の自由を獲得 し,自らの利益を守るために闘うことを余儀なくされてきた。しかし,そうした闘 いは粘り強さという共通項を別とすれば,極めて多様な政治目的・哲学・戦術を示 してきたし,必ずしも常に成功を収めてきた訳でもない。本論文が扱う南北戦争後 の時期は,この点についての格好の事例を提供してくれるのである。 南北戦争を契機に,巨大な独占が鉄道・石油・鉄鋼の諸部門で生まれつつあった。 鉱山主や鉄道王は組合に苛烈な攻撃を加えた。成金の寡頭政は,全国政治を牛耳る 一方で軍隊による弾圧も含めたあらゆる手段をもって,労働者階級を権力から遠ざ けようとした。これに対して労働者が権力への新たな道を切り開くために採った道 は,①「労働騎士団」(theKnightsorLabor:以下KOLと略)に代表さ れる無党派の社会改革運動,②選挙政治から離れて無政府主義と直接行動を指向す る運動,③「統一労働党」(tneUnitedLaborParty:以下ULPと略)に 象徴される労働者独自の政治活動という三つの動きに整理されよう。 Ⅱ、本論 ①無党派社会改革運動 50年以上にわたり全国政治を規定してきた北部対南部という対立関係は,1877 -54- 年の妥協と同年の鉄道ストへの大弾圧を契機に,ビジネス対労働者・農民という対 立関係にとって代わられた。結果として,北部労働者がその重要な一翼を担った共 和党連合は解体したが,ここに無党派社会改革運動の起源も存した。 改革運動の端緒は「全国労働組合」(tneNationalLaborUnion:1866 年結成)にみることもできるし,巳・ペラミーのユートピア小説『顧りみれば』の 異常人気が示すように,労働価値説に根ざした「賃金奴隷制」の廃絶=協同主義 的共和国樹立という労働改革主義者たちの訴えは,一般に広く受容されてもいた。 しかし,労働者の政治的影響力低下という状況の中で,明確な対抗策をうち出して 改革運動を本格的に展開したのはKOLであった。 KOLは,性別・熟練度・人種の障壁を超えた兄弟愛の精神をもって個人主義的 価値観に対抗し,当時にあっては最大の構成員数を誇った。一方,彼らは巨大独占 との対決を通じて当初の自由放任主義を捨てて政府の規制への要求を採択し,鉄道 の場合には生産手段の政府所有を要求するに至った。同時に彼らは,無党派哲学を 堅持したために,大政党との提携や独立の労働者政党結成には向わなかったが,労 働者向け雑誌によって大がかりな教育活動を積極的に展開し,「邪悪な」雇主への コミュニティぐるみのボイコットや信用供与の拡大,労働時間短縮のためのロビー ● 活動などを行なった。独占という悪に対し,勧告や立法をもって立ちむかったKC Lは今世紀を待たずして崩壊したが,彼らは産業文明全体が生産者に依拠するもの であることを,同時代の人びとに教えたのである。 ②無政府主義に基づく直接行動 KOLがアメリカ生まれアメリカ人やアイルランド系移民を主力としたのに対し, 当時出現したグループの中でも最も急進的だった「社会革命党」(tneSocial Revolutionaries:1881年設立:以下SRと略)は,シカゴなど中西部諸都市 のドイツ系・ボヘミア系移民コミュニティに基盤を有した。,思想的には,無政府主 義に基づく国家への憎悪とサンディカリズムに依る労働者の権力樹立能力への確信 を融合して生まれたSHは,そうした移民の経済的不満を代弁するとともに,スト に対する資本=当局による暴力的弾圧への大衆の怨瑳にはけ口を提供することとな った。しかし,SRが選挙制度を否定し,自衛のための武装を呼びかけたことは, 国家なき社会=平等な生産者による自治コミュニティの実現というその主張の浸透 -55- を妨げ,無政府主義への怖れを徒らに増幅する結果を招くことになった。また,ク ロポトキンに端を発する「行動による宣伝」即ち先鋭分子による直接行動という戦 術は,ヨーロッパでは無政府主義の労働運動内における基盤確立に功を奏したが, 共和国は人民のものという信念が一般的だったアメリカでは,逆効果におわったと いえよう。 この時期の革命的運動は,1886年5月の8時間労働要求ストで頂点に達した。 このストには,組織労働者の規律と自然発生的な群衆行動が結合する形で,25万 以上の労働者が参加した。その中でSRは最大の煽動者として,彼らの革命的武装 には共感していない一般大衆をも指導するという,自らの力量を超えた役割を担う こととなった。結果として,SRは5月4日のへイ・マーケット事件とそれをめぐ るフレーム・アップによって壊滅的打撃を受け,その後一年を待たずして消滅した。 つまり,SRは8時間労働要求ストの波頭に乗りながら,それとともにしぼんでい った訳である。 ③労働者独自の政治活動 以上二つの動きとは異なり,労働者独自の政治活動は選挙過程を通じて1877年 以降の状況に対応した。二大政党が8時間労働立法をはじめとする労働者の要求に 背を向ける中で一連の第三政党が結成されたが,その多くは社会主義者や無政府主 義者が資本主義を打倒対象としたのに対し,独占を主敵と規定して闘った。第三政 党結成の動きの頂点をなしたのがULPだった。ULPは,労働改革主義者からS ・ゴンパースらの労働組合主義者,社会主義者やグリーンパック運動家,そしてへ ンリー・ジョージの単一課税支持者まで,当時の労働運動のあらゆる潮流を集めた 極めて異例な政党だった。ストライキの頻発と激しい弾圧.ヘイ・マーケット事件, 大政党の腐敗といった状況が,瞬時とはいえ労働者の漠然とした階級意識を大同団 結へと導いたのである。 しかし,ULPはへンリー・ジョージをおしたててニューヨーク市長選で健闘し たものの,選挙後まもなく内紛により崩壊した。ジョージは社会主義反対を表明し, ゴンパースは無党派を宣言し,「社会主義労働党」(theSocialistLabor Party)は反独占への同調を悔悟したのである。結果として,労働者独自の政治活 動はいったんその動きを停止することとなったが,労働者階級という要素を民主主 -56- 義の政治過程に加える方向を一層おし進め,将来に多大の遺産をのこしたといえよ う。彼らの反独占の闘いはシャーマン反トラスト法の制定をもたらし,人民党(tne PopulistParty)がその闘いを次世代へと伝えたのである。 Ⅲ、結論 この時期の労働者独自の政治活動は,権力からの排除という状況への対応だった が,それが19世紀の労働運動が頂点に達した1880年代半ばに激しく展開された のは,偶然の一致ではなかった。しかし,結果的に労働者が国家レヴェルで政治的 影響力を行使しうるのは,ニューディール期に至ってからのこととなる。その間, 労働運動内では「アメリカ労働総同盟」(tneAmericanFederationof Labor:以下AFLと略)が主導権を握り,労働者独自の政治活動は「社会党」 (tneSocialistPartyorAmerica)によって担われていく。だが敵がい かに定義されようと,労働運動はそれを打倒すべ<最良の手段を模索し続けていっ たのである。 【コメント】 本論文が対象とする時期―特に1880年代一は,従来の労働史研究を支配してき たウィスコンシン学派によって,アメリカ労働運動史の-大転換期とされてきた。 即ち,KOLに代表される時代錯誤的でユートピア的な労働改革主義路線が,AF Lに代表される仕事・賃金意識的で現実的な組合主義路線に敗れ去る過程として描 かれてきたのである:)しかし,労働運動の主流がKOLからAFLに交代したのは 事実にしても,この解釈には大きな問題が含まれている。経済問題に目標を定めた AFL的組合運動を擁護し,その発展の必然性を強調した同学派の研究姿勢が,社 会主義を含めた他の選択肢を全て非現実的と見倣す先入観を内在していたからであ る。結果として,上述の解釈も,労働者の多様な運動の歴史的現実における意味や 機能を,大きく歪めて描くこととなったといえよう。 本論文においてドウリーは,この解釈を斥け,産業資本の全国制覇と政治支配と いう状況が労働者階級内にいかなる反応を喚起したかという問題を,事態に即しつ つ検討している。かつて彼は著書『階級とコミュニティ』の中で,「存続という点 から,KOLをAFLより低く評価することは,生存を成功と混同することに他な -57- らない」と述べたが,その姿勢は本論文にも貫ぬかれているといえよう|池下では 評者なりにこの時期の労働運動の特質をまとめながら,彼の主張を吟味することと したい。 ドウリーも述べるように,南北戦争を契機とする北部ブルジョアジーの政治的実 権掌握と資本主義的生産関係の全国的拡大という状況が,労働者の意識や行動のあ り方を大きく規定したことはいうまでもない。無論,その度合や性格は地域・業種 ・熟練度・人種・民族・性別など様含な条件によって,かなり異なっていたから, 個々の運動の直接的要求や形態は多様なものとなった。しかし,注意すべきなのは, 少なくとも1880年代までの労働運動が,現実的な多様性にも拘らず一定の共通性 を有したことだろう。ドウリーはこの点を反独占という形で指摘しているが,その 前提として,飽くことなき利潤追求をもたらす個人主義的価値観の拒否の姿勢が存 在したことを忘れてはならない。KOLに顕著なように,資本主義_彼らの認識に 従えば賃金制度一を変革する上では,その制度を支え競争を正当化する利己主義へ の倫理的批判が不《可欠だったのであり,必然的に運動は倫理性を帯びたものとなっ た。従って,KOLが「生産者階級」の自己組織による生産支配という時,その 「生産者階級」とは経済的範晴であると同時に,「普遍的な兄弟愛」という規準に 基づいた倫理的範晴でもあったといえよう。 D・モントゴメリーも述べるように,この倫理的普遍性こそが19世紀後半期の 労働改革主義運動の特質といえる訳だが,それは集団的自律性に支えられた階級文 化の-要素だったともいえる。例えば,KOLがしばしば採用したボイコット戦術 は,雇主への経済制裁である以上に労働者による倫理的審判の表明だったし,日常 生活を支える労働者固有の様々な組織が,15000を超えるKOL地区会議を中心 に整備されたのである。かくてKOL活動家や組合運動家たちは,グリーンパック 計画や士地改革を唱道しつつ,「独占者」の権力や「階級的立法府」の打倒と賃金 制度の廃絶による平等原理の貫徹した社会の実現を目指した。無論,これら労働者 の意識や行動,社会変革の展望を,結果論的に時代錯誤的,ユートピア的と断ずる ことは容易だが,そういった視角をとる限りは,様々な対立や差異を超えて,KO Lが70余万もの労働者を結集しえた事実や多くの組合や労働者がAFLと同時に KOLにも加盟していた事実は説明できないといえよう(3) KOLは1894年に人民党と連帯するまでは,独立の労働者政党結成や特定の第 -58- 三政党支持へはむかわなかった。しかし,彼らの目指す社会変革は政治闘争ぬきに は達成されえなかったのであり,KOLの指導層は各地で「グリーンパック労働党」 (theGreenbackLaborParty:GLP)の活動家を兼ねたし,80年代後半 の労働改革諸政党も同様であった。一方,ドイツ系・ボヘミア系移民の間では,第 一インターの流れの中で,「合衆国労働者党」(theWorkingmen'sParty oftneUnitedStates:WPUS)が設立されていたが,政治闘争を労働運 動の第一の課題とするこの政党にも,多くのKOL活動家や英語系労働組合運動家 が含まれていた。1877年にはWPUS内の政治闘争をより強く指向するグループ によって「社会主義労働党」が結成され,さらに同政党のGLPとの提携方針に反 対したドイツ系移民の無政府主義者たちによって,ドウリーのいうSHが創設され ていくのである。また,「社会主義労働党」結成に際して,労働組合運動を重視す る人びとが政治活動から身をひき,AFLのイデオロギー的基盤を築くこととなっ た点も指摘しておきたい。つまり,竹田有氏も主張するように,この時期において 生産者階級理論,仕事・賃金意識,社会主義という三つの思想潮流は,各々の妥当 性と影響力を持ちつつ混在していたのである:) ドウリーも述べるように,1880年代中頃の一連のストライキや8時間労働要求 闘争の中で,労働運動は絶頂期をむかえた。KOLも労働組合も,そしてSRや労 働改革諸政党も,労働者の連帯へと歩調を合わせつつ成長したのである。ULPは まさにそうした階級意識高揚の所産だったといえよう。しかし,運動の規模の大き さは,同時に資本=当局による新たな対応を喚起することとなった。今世紀初頭に かけて資本主義の構造的変化と労働力構成の変化(大量の新移民流入)が進行する 中で,資本=当局の攻撃は一層系統的なものとなっていったのである。一方でそれ は,雇主連合,私立探偵社,軍隊,大量解雇などを通じての抑圧の側面を,他方で それは社会保険など福祉制度の整備や労働運動指導層の体制内への取り込みといっ た懐柔的側面を合わせ持っていた。こうした状況は,直ちに階級対立を鈍化させた り,労働者の戦闘性を弱めた訳ではなかった。しかし,重要なのは階級内の多様な 運動に流れる通奏低音,即ちこれまで労働者が基本的に共有してきた倫理的普遍性 が,もはや機能しなくなったことだろう。つまり,労働者の戦闘性を共通の敵に向 け,階級的連帯を促す19世紀的発想が失われたのである。かくて,KOLに代わ って労働運動の主流を担うAFLは,厳格な職能別組合主義と改良主義の立場にた -59- ち,社会主義と訣別する一方で新移民系労働者や非白人労働者を排除していくので ある。このAFLに対時したのが,革命的産別組合主義を唱え,人種的・民族的連 帯を達成せんとする「世界産業労働者組合」(thelndustrialWorkersor tneWorld)であり,社会党だった。確かにドウリーが主張するように敵がいか に定義されようと,労働運動はそれを打倒する最良の手段を模索したといえるかも しれない。しかし,もはや敵は共通のものではなかったし,しばしば運動内部に設 定されさえしていくのである。 ③ (1)SellgPerlman,Tノレ‘。γyo/fノレeLa6oγjfoUem`、Z,NewYork, 1928;GeraldGrob,〃0γルe7sandUtopZa:AStudyo/ I。‘oZo9ZcQZCo〃/LZctmt〃eAm`γZcα〃La6oγ〃oひ`、`几f, /866-/900,Univ・oflllinoisPr.,1961. (2)A1anDawley,CZq31aMCommwzZty:T脈1M“fγZaL RczノoZzLfZo7LZ7z,Ly〃7,,Cambridge,Mass.,1976,p、192. (3)DavidMontgomery,mLaborandtneRepublicinlndustrial America:1860-1920,,,血〃o〃cme〃fSocZaL,No.111(Avril- Julnl980)pp,201-215;LeonFink,〃o7kmgmc〃'3仇mocγαcy :TノトcK7zZg/lZFo/La6oγα〃cLlm`γzcα〃PC〃fZc,,Chicago, 1985.わが国のKOL研究としては,竹田有「労働,騎士団その思想と行動 一第50地区会議(ボストン)の場合一」『史林」64-2(1981.5) (4)YuTakeda,vlTheAmericanWorkersintneGildedAge- aCritiqueoftheWisconsinSchool-,"『京都府立大学学術報 告』人文第54号(1982.11) -40-