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趣味という言葉が私に連想させるのは, 相当な年輩に達した人が生活の余暇
《趣 味》 見 果 て ぬ 夢 富 永 昭 趣味という言葉が私に連想させるのは,相当な年輩に達した人が生活の余暇 に義太夫を語るとか,俳句をひねるとか,盆栽をいじるとか,一種の落着きを 感じさせる姿である。そこには実生活を多少でも圧迫するほどの熱っぽさがあ ってはならず,独習でもよいからある程度の正統の訓練が含まれていなければ ならない。実生活が圧迫されるような緊張感があったり,素人だからといって 余りに自己流の楽しみ方に走りすぎてもいけない。又,まだ生活に脂ぎった熱 情の強く残っている人が同じことを楽しんでいても,そこには趣味という語感 とは異質なものを私は感じる。 お前の趣味は何かと問われれば,否応なく私は何らかの返答をするが,以上 のような理由から多少の気恥しさと後めたさを感じないわけにはゆかない。道 楽といえば,多少ともはめを外した姿,なりふり構わずのめり込んだ姿が想像 される。なま臭いエネルギーの所産だと思わせる要素がなくもない。又,正統 の訓練もへちまもない,好きだからやるといった我流の勝手気儘が許される気 安さも感じられる。 私は時折ドラ声をあげてイタリアの歌を歌うが,それは上の分類によれぽ道 楽に属することになる。第一に,私の実生活にはまだ大いに脂っこさが残って いるからである。次に,生活がおびやかされるようなのめり込みには至ってい ないが,ドラ声を張りあげるということの中に日本人としての日常生活のはめ を外した滑稽を感じるからである。最後に,かって曲りなりにも正式な教師に ついたことがあるとは言え,西洋の声楽の基本は結局身につかず,生兵法の心 もとなさに気付いて気付かぬふりをして悦に入ることが多いからである。 大仰に感情を露出させることの多いイタリアの歌が好きなこと自体が,生活 に脂っこさの残っている証拠であるかも知れないが,私は日本の歌も好きだ (20) し,ドイツやイギリスの歌にも愛唱歌はある。特にイタリアの歌に惹かれるの は,そのリアリズムにあると私は常々分析している。イタリア人は,思えばダ ンテ,ポッカッチョ以来リアリズム志向の強い国民であって,ワーグナーとヴ ェルディを比べてそれは明瞭である。ドイツ歌曲は感情を精神の衣で包んだ り,精神による浄化を経たあとで表現する場合が多いが,イタリアの歌は,あ る感情を抱いている人間の急所をぎゅっと圧迫した時に思わず発せられる叫び 声に似たところがある。つまり,歌そのものが脂っこいのである。本場ではそ の脂っこさを程よく按配して歌う達人もいるが,オペラ歌手なども50才をすぎ れば現役ではないので,イタリアの歌はそもそも私のいう「趣味」にはそぐわ ないのである。 声楽の発声で日本の民謡を歌っても様にならないし,その発声法に適った声 を日常生活で出すのはせいぜい欠伸と悲鳴ぐらいなものである。いずれも人前 を揮るべきものなので,人に聞かれるのは恥しいところを見られたようで,歌 いながら思わず萎縮してしまうことがある。つまり,日常生活とはおよそかけ 離れたところに快感を求めている滑稽の感じが私の意識を去らない。恥も外聞 も忘れて欠伸と悲鳴をくり返せるのは,時折ピアノ伴奏をつけてくれる女房の 前だけで,趣味を名打てるほどのしみじみとした趣きの深さとは遠い。その好 房も近頃はあきれ果てているのか,気の抜けた伴奏しかしてくれない。 素人のいいかげんな好奇心で首を突っ込んだものの,尻の座りの悪さに気を 取られながら,欠伸と悲鳴の功徳を忘れ得ぬ私の見果てぬ夢は,フル・オーケ ストラをバックにイタリアの歌を歌うことである。聴衆はいない。 (21)