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学級閉鎖期間中の現代文の学習について 以下の試験範囲について学習
学級閉鎖期間中の現代文の学習について 以下の試験範囲について学習を進めておくこと。 ①教科書(現代文編)P.54~P.59 『演じられた風景』 ②教科書(現代文編)P.187~P.193 『マルジャーナの知恵』 プリントの内容は含みません。 考査終了後、授業ノート提出とします。 (①の範囲のみ) ②については、配布したプリントを完成させ、「差異化」の例を示すチラシや CM のキャッチ フレーズを添付した上で、考査終了後①のノートとともに提出すること。 ※内容に関する質問は、12月5日(土)もしくは考査期間中に受け付けます。 マルジャーナの知恵 岩井克人 1 高度情報社会、脱工業化社会、ポスト産業資本主義――それをどのように呼ぼうと大差はない。資本 主義がその様相を急激に変貌させているという事実が、いやおうなしにわれわれの目を引くのである。 すなわち、繊維や鉄鋼、さらには化学製品や機械といった「蹴とばせば足が痛い」モノを生産する産業 から、技術や通信、さらには広告や教育といった「情報」そのものを商品化する産業へと、資本主義の 中心が移動しつつあるのである。 だが、わたしはここで、あらゆるメディアが喧伝している「情報の商品化」という現象そのものにつ いて語ろうと思っているのではない。逆にわたしは、すぐれて現代的なこの現象のなかに、ノアの洪水 以前から存在していた資本主義という経済機構の秘密を聞きとろうというのである。そして、それがど ういうことであるかを述べるためには、昔懐かしい『アリババと四十人の盗賊』の物語のなかのあの賢 く美しい女奴隷マルジャーナの知恵を借りるのがいちばんの近道である。 2 マルジャーナは、市場から戻ってくると、家の入り口の扉に白い印がつけられているのを見つけます。 「これはいったいどういう意味なのかしら。子供のいたずらかしら。それともだれかがアリババ様に何 か悪事をたくらんでいるのかしら。いずれにしても、用心が肝心。」そうマルジャーナはつぶやくと、 家のなかから白いチョークをもちだし、隣近所の家の扉にすべて同じような印をつけておきました。 一方、アリババの家の扉に白い印をつけてきた盗賊は、そんなこととはつゆも思わず秘密の洞窟に駆 け戻り、自分の手柄を仲間に報告します。四十人の盗賊は喜び勇んで町に押しかけ、目指す家のあたり にやってきます。だが、何とすべての家の扉に同じような白い印がついているではありませんか! へ まをしでかした盗賊の首は宙を舞い、三十九人になってしまった盗賊のうちのひとりがふたたび町に忍 びこまなければならないことになりました。 この盗賊も首尾よくアリババの住んでいる家を捜しだし、今度は赤い印を家の門口に小さくつけてお きました。だが、この盗賊の首もその日が暮れる前に宙に舞い、三十九人の盗賊が三十八人の盗賊にな ってしまう運命にあったのです。なぜならば、この赤い印もマルジャーナの目からのがれることはでき なかったからです。マルジャーナは買い物から帰ってくると、家のなかから赤いペンキをとりだしてき て、隣近所すべての家の門口に同じような小さな印をつけておいたのです。 3 賢く美しい女奴隷マルジャーナ――かの女こそ「情報」とはいったい何であるかを理解した最初の人 間であったのである。 情報とは、それに使われている物理的な素材でもなければ、それが表現されている形式的な記号でも ない。事実、最初の盗賊は白いチョークで印をつけさえすればアリババの家にかんする情報が伝えられ ると考えて、自分の首を失うことになった。二番目の盗賊は白い印のかわりに赤いペンキで印さえつけ れば同じ情報が伝えられると考えて、やはり自分の首を失うことになってしまった。 白いチョークの印がアリババの家のありかを示す情報として役にたつためには、ほかのすべての家の 扉に白い印がついていないことが必要なのである。赤いペンキの印がアリババの家のありかを示す情報 になるためには、ほかのすべての家の門口に赤い印がついていないことが必要なのである。ほかとの違 い、すなわち「差異」こそ、賢く美しいマルジャーナが発見した情報の本質なのである。 4 情報の商品化――それは、したがって、差異の商品化と言いかえることができることになる。すなわ ち、差異そのものを売ることによって利潤を得る――それが、現代の資本主義の中心原理として機能し ているのである。 ところで、資本主義とは、資本の無限の増殖を目的としている経済機構にほかならない。資本の増殖 のためには利潤が必要である。そして、利潤とはつねに差異から生まれる。なぜならば、安く買って高 く売ることこそ利潤を生みだす唯一の方法であり、それは、詐欺や強奪といった手段に訴えないかぎり、 二つの異なった価値体系のあいだの差異を媒介することによってしか可能ではないからである。 差異から利潤を創りだす――これが、資本主義の基本原理である。だが同時に、この原理は、いまま での資本主義においては、あるいは外部的な関係として、あるいは隠された構造としてしか作用してこ なかった。たとえば、資本主義のもっとも古い形態である商業資本主義とは、海を隔てた遠隔地との交 易を媒介して、国内市場の価格との差異から利潤を生みだしてきた。また、産業革命以降の資本主義の 支配的な形態であった産業資本主義は、いまだ資本主義化していない農村における過剰人口の存在によ って構造的に創りだされた、労働力の価値(実質賃金率)と労働の生産物の価値(労働生産性)とのあ いだの差異から利潤を生みだしてきた。 だが、遠隔地も農村の過剰人口も失いつつある現代の資本主義は、もはや商業資本主義的な差異から も産業資本主義的な差異からも利潤を生みだすことが困難になってしまっている。資本主義が資本主義 であり続けるためには、いまや差異そのものを意識的に創りだしていかなければならないのである。そ して、それが、情報の商品化を機軸として、われわれの目の前で進行しつつある高度情報社会、脱工業 化社会、あるいはポスト産業資本主義と呼ばれる事態にほかならない。 情報の商品化――それは、まさに差異が利潤を創りだすという資本主義の基本原理そのものを体現し ている現象である。いわばそれは、もはやだれも聞きのがしようのない、資本主義の秘密にかんする「開 け、胡麻」であるのである。