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遊牧民の生活と国家 2. - So-net

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遊牧民の生活と国家 2. - So-net
【No.1 】
第1時
教 師 の 指 示 ・ 発 問 ・説 明
資料
生 徒 に 期 待 す る 認識 ・ 知 識
0.導入
① 第4章は 「内陸アジ アの変遷 」というタ イトルにな って
い る 。「 内 陸 ア ジ ア 」 と は 、 具 体 的 に ど の よ う な 地 域 を 指
すのだろうか。
② 内陸アジ アの気候は 、どのよ うなものだ ろう。地理 選択
者 は、ケッ ペンの気候 区分を思 い出してみ よう。教科 書の
表紙裏のページでも確認できる。
③ 砂漠・ス テップ気候 の自然環 境は大変厳 しい。この よう
な地域に人が住んでいるのだろうか。
④ この時間 は、内陸ア ジアにお ける二つの 生活形態を 通じ
て 、 内 陸 ア ジ ア が 果 た し た 世 界 史 的 役 割 を 考 え て み よう 。
資 料 集 62 ㌻
(ア ジ ア の 地 域 名 )
① 「内陸アジア」とよばれるのは主として、
中央アジアとモンゴリアの地域である。
② 内陸アジアの多くは乾燥帯に属し、砂漠・
ステップ気候である。
③ 砂漠地域ではオアシスでの定住生活が、ス
テップ地域では遊牧が営まれている。
1.遊牧民の生活と国家
①遊牧民の生活
まずステ ップ地域で 生活する 遊牧民の生 活とはどの よう
な ものか、 教科書の記 述を見て みよう。あ わせて資料 集も
見 てみよう 。プリント で紹介し ているのは 、以前「二 つの
金 印」でも 紹介した、 宮崎市貞 氏が書いた 、遊牧民族 に関
す る文章で ある。学校 の図書館 には、宮崎 氏の全集も 揃っ
て いるし、 既に亡くな ってはい るが、中国 史の大家だ 。一
読 して、君 たちはこの 文章から どのような イメージを 受け
る かな。宮 崎氏は、部 族制度に もとづく遊 牧民の社会 では
個 人 の 才 能 を 伸 ば せ ず 団 結 も 進 ま な か っ た と 評 し て いる が 、
こ の 点 を 教 科 書 92 ペ ージ の 記 述 と 比 較 し て み る と 、 氏 族 集
団 を基礎と していたの は確かな ようだが、 実力本位の 社会
と 記 述 し て あ り 、 宮 崎 氏 の 文 章 と は 違 っ た 印 象 を 受 ける 。
②遊牧という生産様式をどのように捉えるか
地理の教 科書にもあ るとおり 、生産性と いう面から 見れ
ば 、確 か に 遊 牧 の 生 産 性 は 低 い 。が 、生 産 性 が 低 い か ら「 生
活 程度が低 い」という ことでは ないだろう 。特に彼ら が開
発 した二つ の技術は、 遊牧とい う産業を成 立させる上 で極
め て重要で あった。こ の二つの 技術とは、 何だと思う か。
資 料集にあ る遊牧民の 作業暦を 見てみよう 。搾乳する こと
で 乳房の炎 症を防ぎ、 去勢によ って家畜集 団の安定を はか
っているわけだ。
③騎馬遊牧民の戦闘力
今年の3 月に実施さ れた大阪 大学の二次 試験の問題 を見
て みよう。 ステップ地 帯が「人 類史上に果 たした大き な役
割 」とあり 、宮崎氏の 見方とは 違って、騎 馬遊牧民に 積極
的 な評価を 与えている 。教科書 にも「世界 史上で大き な影
響 力をもっ たのは、こ れら騎馬 の遊牧民で ある」と書 かれ
て いる。こ のように近 年騎馬遊 牧民に積極 的な意義を 与え
て いこうと いう動きが 盛んだ。 遊牧騎馬民 族が歴史上 果た
し た役割を 考えていく のも今日 の重要なテ ーマだ。教 科書
に よれば、 騎馬遊牧民 が世界史 上重要な役 割を果たし 得た
理 由は、そ の軍事力だ 。騎馬の 戦闘力はど れくらい高 いの
か。資料を読んでみよう。
資 料 集 63 ㌻
(遊 牧 民 の 生 活 )
(A ) 332 ∼ 334 ㌻
資 料 集 63 ㌻
(遊 牧 民 の 作 業 暦 )
(B ) 30 ∼ 31 ㌻
① 遊牧は水や草を求めて家畜を追いながら夏
の 放牧地と冬営地を移動する。遊牧民の生活
の 糧は羊やラクダに代表される家畜であり、
衣 食住すべてを家畜でまかなう生活を送って
い る。しかし遊牧の生産性は低く、自然条件
に も左右されやすい。また生活物資を完全に
自 給自足することは不可能であり、オアシス
の 民 や農 耕 民と の 共生 をは か る必 要が あ っ
た。
② 遊牧生活は遅れた生産様式と片づけること
は 誤りであり、自然条件に合わせた合理的な
生 産様式と言える。特に去勢と搾乳は、遊牧
民 が始めた重要な技術であり、去勢は現在も
競馬のサラブレッドに応用されている。
③ 前近代における騎馬民族の戦闘力は極めて
高 いものであり、そのことは騎馬遊牧民が世
界 史上に大きな役割を果たした理由の一つで
ある。
2.スキタイと匈奴
①最初の騎馬民族スキタイ
前漢の話 をした際に 出てきた 、匈奴の冒 頓単于の話 を覚
え ているか な。匈奴以 外にも、 これまで様 々な騎馬民 族が
出 てきたが 、文献記録 から知ら れる最古の 遊牧国家は スキ
タ イとよば れる国家だ 。スキタ イは紀元前 6世紀末ご ろか
ら 黒海北側 に広がるス テップ地 帯で強盛を 誇っていた 。阪
大 の問題に 出てきた「 ヘロドト スの著作に 出てきた騎 馬民
族 」とはこ のスキタイ だ。その 遺物は動物 文様が多く 使わ
れ ている。 スキタイは 騎射を用 いた戦法で 、アケメネ ス朝
の ダレイオ ス1世が派 遣した大 軍の撃退に 成功した。 この
騎 馬 の 技 術 は 「 草 原 の 道 ( ス テ ッ プ = ル ー ト )」 を 通 じ て 南
ロ シアから キルギス草 原をへて モンゴル高 原へと伝わ る。
以 後モンゴ ル高原で活 躍する遊 牧民は、騎 馬民族とし て高
い軍事力を持つようになる。
②モンゴル高原で活躍した騎馬民族
これまで 登場した、 モンゴル 高原の騎馬 民族をまと めて
み よう。鮮 卑による北 魏の建国 や西晋末の 八王の乱を 契機
と した五胡 の華北侵入 、唐代の 安史の乱で はウイグル が唐
を 支援した こと、遼に よる燕雲 十六州の領 有など、モ ンゴ
ル 高原で活 動した騎馬 民族は、 農耕地帯に 大きな影響 を与
え てきた。 中には突厥 のように 大帝国を建 設した民族 もあ
った。
資 料 集 62 ㌻
(ス キ タ イ の 文 化 )
資 料 集 62 ㌻
(北 方 民 族 と 中 国 )
① 最初の騎馬民族は南ロシアで前6世紀に活
躍 したスキタイで、その文化は動物文様に特
徴 を 持 っ て い る 。ヘ ロ ド トス の『 歴 史 』に も 、
登 場する。彼らの騎馬技術は「草原の道」を
通 じてモンゴル高原に至り、遊牧民族を騎馬
民族へと変貌させた。
② 秦∼前漢代には匈奴、後漢代には鮮卑、北
魏 時代には柔然、隋代には突厥、唐代には突
厥 ・ウイグル、宋代には契丹などの騎馬民族
が モンゴル高原で活動した。これらの騎馬民
族 の活動は、農耕地帯にも大きな影響を与え
た。
3.オアシスの生活
①オアシス農耕民の知恵
乾燥地帯 の中でも、 水が利用 できるオア シス地域で は定
住 生活が営 まれており 、場所に よっては農 耕も可能だ 。そ
の 際重要な のが、資料 集にある カナートで ある。地理 の授
業 でも出て きたはずだ が、これ は「人工の 極致」とも 言え
るものだ。
②オアシス都市が果たした役割
これらの オアシス国 家が重要 なのは、交 易の中継点 であ
っ た と い う こ と だ 。オ ア シ ス を 結 ん だ「 オ ア シ ス の 道 」が 、
リ ヒ ト ホ ー フ ェ ン に よ っ て 「 絹 の 道 ( シ ル ク = ロ ー ド )」 と
命 名された ことはよく 知られて おり、東西 文化の交流 にも
大 きな役割 を果たした 。武帝に よって郡が 置かれ、莫 高窟
で 有 名 な 敦 煌 を 起 点 と す る シ ル ク =ロ ー ド は 、 大 き く 3 つ
の ルートに 分かれるが 、タクラ マカン砂漠 を中心とし たタ
リ ム 盆 地 の 南 北 に は 、『 さ ま よ え る 湖 』 の 著 者 ヘ デ ィ ン が
発 見した楼 蘭、鳩摩羅 什や仏図 澄らの出身 地クチャ、 玉の
資 料 集 65 ㌻
① オアシス地帯では、カナートの地下水など
を利用した定住生活が営まれている。
(B ) 72 ∼ 4 ㌻
資 料 集 64 ∼ 65 ㌻
② オアシスを結ぶ道は、交易路として重要で
あ り、東西文化の交流にも大きな役割を果た
し 、 シ ル ク =ロ ー ド と も よ ば れ る 。 こ の 交 易
路で活躍した商業民族がソグド人であった。
【No.2 】
産 地で有名 なホータン など多く のオアシス 都市が点在 して
い た。この 交易路で活 躍した民 族として有 名なのが、 イラ
ン系のソグド人だ。
③遊牧民とオアシス民との関係
遊牧民と オアシス民 とは、資 料集にある ように、共 存関
係 に あ っ た 。特 に オ ア シ ス 民 の 貢 納 ・通 行 税 と 引 き 換 え に 、
遊 牧民が隊 商路の警備 ・情報提 供を行った 点は重要だ 。こ
の 点で、遊 牧民の高い 戦闘力・ 軍事力が大 きな役割を 果た
し たのであ る。両者の 共存関係 として代表 的なものが 、資
料 集にある 突厥とソグ ド人との 関係だ。突 厥は遊牧騎 馬民
族 として最 古の文字を つくった 。この突厥 文字はアラ ム文
字 の影響を 受けた形跡 があるが 、これはゾ グド人を経 由し
て 受け入れ たと考えら れている 。このよう に遊牧民と オア
シ ス民とは 共存関係に あったが 、遊牧国家 は遊牧民族 だけ
で 構成され たわけでは ない。教 科書にもあ るように、 オア
シス民や農耕民まで含んでいた。
「モンゴル系」
「トルコ系」
と い う の は 、 そ の 支 配 集 団 の 出 自 を 示 す も の に す ぎ ない 。
資 料 集 62 ∼ 63 ㌻
(突 厥 と ソ グ ド 人 の
共存、遊 牧民とオ
アシス民 の共存関
係)
③ 遊牧民による通商路の安全確保の代償とし
て 、オアシス民は遊牧民に貢納・通行税の支
払 いを行うという共存関係にあった。この意
味 で、遊牧騎馬民族の軍事力は、東西の交流
を 支えた要素の一つと言えるが、その共存関
係 の代表例がソグド人と突厥との関係であっ
た 。遊牧国家は遊牧民だけによって構成され
た ものではなかった。遊牧民はその軍事力を
も ってオアシスを含む周辺地を支配下におさ
め て国家を形成したが、それは民族を越えた
国家であった。
4.トルコ化とイスラーム化の進展
①中央アジアにおけるトルコ化の進展
内陸アジ アのうち中 央アジア は「トルキ スタン」と も呼
ば れるが、 これは「ト ルコ人の 土地」とい う意味であ る。
ト ルキスタ ンは「世界 の屋根」 パミール高 原を境に東 西に
分 け ら れ る が 、 東 は タ リ ム 盆 地 ( い わ ゆ る 西 域 )、 西 は ソ
グ ド人の中 心地ソグデ ィアナ地 方が中心だ 。もともと この
地 域ではソ グド人など イラン系 民族が活発 な活動を展 開し
て い た が 、 ト ル コ 人 が 進 出 す る の は 、 い つ 頃 か ら だ ろう 。
②トルキスタンの形成
東 トルキス タンではウ イグル人 によるマニ 教が、西ト ルキ
ス タンでは ソグド人に よるゾロ アスター教 の信仰がさ かん
で あった。 しかし8世 紀以降に なるとイス ラム化が促 進さ
れ る 。 き っ か け は 751 年 に 唐 と イ ス ラ ム 帝 国 が 衝 突 し た タ
ラ ス河畔の 戦いだ。9 世紀には 西トルキス タンにイラ ン系
イ スラム王 朝サーマー ン朝が成 立し、トル コ人のイス ラム
化 が 進 ん だ 。 こ の 傾 向 は 10 世 紀 に ト ル コ 系 イ ス ラ ム 王 朝 の
カ ラ =ハ ン 朝 が 東 西 ト ル キ ス タ ン を 支 配 し た こ と に よ り さ
ら に進展す る。この結 果中央ア ジアは、イ スラム教徒 のト
ル コ人が活 躍する場と なったの である。そ の後トルコ 人は
西 方へと拡 大し、現在 のトルコ 共和国地に まで進出し 、イ
スラム世界で重要な役割を果たすようになる。
第 2 時 「 モ ン ゴ ル 民 族 の 発 展 ①」 モ ン ゴ ル の 征 服 と 拡 大
教 師 の 指 示 ・ 発 問 ・説 明
0.導入
教科書に もまとめて あるよう に、トルコ 民族が西方 に移
動 した後、 モンゴル高 原ではモ ンゴル民族 が勢力を拡 大す
る ことにな る。このモ ンゴルと いう呼称は 、現在のモ ンゴ
ル 高原に割 拠した諸部 族の一つ で、あまり 強力ともい えな
い 存 在 で あ っ た 。 資 料 集 の 12 世 紀 の 地 図 を 見 て も ら う と 、
モ ンゴルの 周辺にはタ タール、 オングート 、メルキッ ト、
ケ レイト等 の名が見え るが、む しろこれら の部族の方 が有
力だったとされる。
資 料 集 62 ㌻
資 料 集 95 ㌻
(イ ス ラ ム 世 界 の 変
遷)
① 6世紀、トルコ系の突厥の支配が東トルキ
ス タンに及ぶと、トルコ民族の進出が目立っ
て くる。突厥はさらにササン朝のホスロー1
世 と同盟し、西トルキスタンの騎馬民族エフ
タ ルをを滅ぼした。この結果突厥は西トルキ
ス タンまで支配を拡大し、トルコ人はさらに
西 方へと拡大した。その後9世紀にはキルギ
ス の攻撃を受けたトルコ系のウイグルが、モ
ン ゴル高原からタリム盆地に移住、中央アジ
ア のトルコ化がさらに進んだ。トルキスタン
の 呼称が生まれるのはこのためだ。したがっ
て トルコ人の故地は現在のトルコ共和国があ
る小アジアではない。
② トルコ化した中央アジアに8世紀ころイス
ラ ム化の波が押し寄せ、この傾向はサーマー
ン 朝の支 配をへ てカラ=ハン朝が 成立する こ
と により完成した。以後トルコ人は西進し、
ト ルコ人が移動した後のモンゴル高原では、
モンゴル民族が急速に勢力を拡大する。
資料
生 徒 に 期 待 す る 認識 ・ 知 識
資 料 集 79 ㌻
( 12 世 紀 の 世 界 )
1.チンギス=ハンの征服活動
① チ ン ギ ス = ハ ン の 登 場 とモ ン ゴ ル の 強 大 化
弱 小 部 族 だ っ た モ ン ゴ ル が 強 大 化 し た 背 景 に は 、 12 世 紀
の 末 、テ ム ジ ン な る 人 物 が モ ン ゴ ル 部の リ ー ダ ー と な っ た 。
幼 少時のテ ムジンはか なり苦労 をしたよう だ。周辺の 諸部
族 を 統 合 し た テ ム ジ ン は 、 1206 年 の ク リ ル タ イ で ハ ン 位 に
つ き 、 チ ン ギ ス =ハ ン と 称 す る よ う に な っ た 。 彼 は 自 分 の
国 を モ ン ゴ ル 帝 国( イ ェ ケ = モ ン ゴ ル = ウ ル ス )と 命 名 し た 。
こ のウルス とは「人間 の集団」 の意味であ り、モンゴ ル帝
国 は地域を 示す言葉で はなく、 人間の集団 を示す言葉 であ
っ たことが 分かる。モ ンゴルの 名の下に統 合された人 々の
中 には、遊 牧民以外の 人々も多 かったので ある。教科 書に
あ る千戸制 に編成され たのは、 このうち遊 牧民族だけ で、
千 戸長には それまで苦 難をとも にしてきた 功臣など、 信頼
で き る 者 を 任 命 し て 行 政 権 を 与 え 、 戦 時 に は 1000 名 単 位 で
軍団を編成し、指揮する責任をおわせた。
② チ ン ギ ス = ハ ン の 征 服 活動
資 料 集 の 地 図 と 年 表 を 見 て み よ う 。 即 位 後 の チ ン ギ ス =ハ
ン は 、金 攻 略 の 軍 を 起 こす 一 方 で 西 方 へ 遠 征 し 、ナ イマ ン 、
さ らにホラ ズムを滅ぼ す。この 西征より帰 還した後、 すぐ
に 西夏への 遠征を行う が、西夏 の都興慶が 開城する3 日前
に 死去 した と言わ れる 。ハン 位につ いた あとの チン ギス=
ハ ン は 、 ほ と ん ど 軍 事 遠 征 に 生 涯 を 費 や し た こ と に なる 。
③ チ ン ギ ス = ハ ン は 源 義 経か
知 っ て い る 人 も 多 い と 思 う が 、 チ ン ギ ス =ハ ン は 源 義 経
だ っ た と い う 説 が あ る 。「 ジ ン ギ ス = カ ン 」 と い う 歌 が あ る
ん だけど知 ってる人い るかな? 昨年の2年 生には知っ てい
る 人 も い た け ど 、 最 近 発 泡 酒 の CM に 使 わ れ て い る 。 NHK
の 大 河 ド ラ マ で は 義 経 を ジ ャ ニ ー ズ の 滝 沢 ク ン が 演 じる が 、
ど うも実際 はそんなに 格好良く はなかった ようだ。高 木彬
光 と い う 推 理 小 説 作 家 に よ る 『 成 吉 思 汗 の 秘 密 』( 角 川 文
庫 )はその 謎解きをし た本で、 この説に好 意的な本だ 。こ
れ に対して 宮崎市貞の 評価を見 てみよう。 宮崎氏はチ ンギ
資 料 集 81 ㌻
( チ ン ギ ス =ハ ン の
生い立 ち)
資 料 集 81 ㌻
(地 図 2 )
(A ) 330 ∼ 2 ㌻
(C ) 84 ∼ 5 ㌻
(D ) 296 ㌻
(E )
モンゴルの紙幣
① 遊牧民族は君主の称号として、柔然が用い
た 可汗に起源をもつハンを用いる。ハンの選
出 など重要事項は各部族の代表による合議体
ク リ ル タ イ で 決 定 さ れ た 。 チ ン ギ ス =ハ ン は
ハ ン位についた後、遊牧諸部族を統合した。
モ ンゴルという呼称は人間集団を意味するも
の で、帝国の拡大にともない非遊牧民もモン
ゴルに取り込んでいった。
② モ ン ゴ ル 帝 国 成 立 後 の チ ン ギ ス =ハ ン は 、
ナ イマン、ホラズム、西夏を征服し、内陸ア
ジア全体をほぼ制圧した。
【No.3 】
ス =ハ ン を 極 悪 人 で あ る か の よ う に 表 現 し て い る 。 本 国 で
も チ ン ギ ス =ハ ン に 対 す る 評 価 は 時 代 に よ っ て 変 わ っ て き
た 。 特 に チ ン ギ ス =ハ ン の 切 手 に ま つ わ る エ ピ ソ ー ド は そ
の 最たる例 と言えるが 、現在で はモンゴル 民主化の象 徴と
なっているようだ。
2.モンゴル帝国の拡大
① チ ン ギ ス = ハ ン 死 後 の 征服 活 動
チ ン ギ ス =ハ ン の 死 後 、 征 服 活 動 は 彼 の 子 孫 に よ っ て 受
け 継がれる 。プリント の系図に 人名を入れ てみよう。 この
中 で重要な 人物は、4 つのハン 国を建国し た人物たち だ。
4 つのハン 国にはそれ ぞれにハ ンがいたが 、これらの 政権
は さらにモ ンゴル地域 を支配す る全体の大 ハンのもと にゆ
る やかに統 合されてい た。4ハ ン国の位置 は「時計回 りに
お 茶い る? 」と覚 えて おこう 。特に ロシ アのキ プチ ャク=
ハ ン 国 と イ ラ ン の イ ル =ハ ン 国 は 国 名 と 建 国 者 の 名 前 が 違
う の で 、 要 注 意 。 場 所 が 第 2 代 オ ゴ タ イ の 時 代 に は 1234 年
に 女真族の 金を滅ぼし 、さらに 第4代モン ケの時代に 至る
と 、 1259 年 に は 朝 鮮 半 島 の 高 麗 も モ ン ゴ ル 帝 国 に 服 属 し 、
モ ンゴルは 広大な地域 を支配す るに至った 。ところで 、ワ
ー ルシュタ ットの戦い について 、これを過 度に重視す るこ
と は 避 け る べ き だ と い う こ と を 主 張 す る 説 が 出 さ れ てい て 、
さ らにこれ を批判する 意見も出 されている 。このよう に残
さ れた記録 から過去を 再現する ということ は、難しい 。残
された記録には、書いた人の主観がはいるからだ。
②モンゴル帝国拡大の理由
ではなぜ モンゴルの 勢力が急 速に史上最 大の版図を もつ
ま でに拡大 ・成長した のだろう か。まずは 騎馬民族の 高い
戦 闘力があ げられる。 司馬遼太 郎氏の紀行 文にあるが 、モ
ン ゴル民族 の視力は抜 群にいい ということ で、騎馬民 族の
戦 闘力が十 分に発揮で きたらし い。が、も ちろんそれ だけ
が 理由では ないだろう 。抵抗す る者を決し て許さず、 最後
の 一人まで 殺し尽くす が、抵抗 せず降伏す る者は、人 頭税
の 支払いを 条件に助命 し、自治 を許すとい う明快な原 則を
実 行したこ と、そして それを征 服予定地に 触れ回るこ とで
帰 順を促し たのである 。またオ アシスの通 商国家を支 配し
て 彼らをブ レインとし て重用し たことなど がある。中 でも
大 きな役割 を果たした のがウイ グル人であ った。もと もと
遊 牧民族で あったウイ グルは、 新疆に移動 した後土着 のイ
ラ ン人と混 血し、商業 民族に変 貌していた 。前の時間 に紹
介 した突厥 とソグド人 との相互 補完関係と 同じだ。彼 らを
重 用したこ とで、モン ゴル帝国 ではウイグ ル文字も多 用さ
れ たのであ る。それか ら、モン ゴルの支配 は、在地の 宗教
や 文化など に対して非 常に寛容 なものであ ったことも 、敵
の 帰順を促 し、拡大の 理由の一 つとなった 。特にイス ラー
ム 教とモン ゴルとの関 係はその ことを示し ている。モ ンゴ
ル は 当 初 イ ス ラ ー ム と は 敵 対 関 係 に あ っ た が 、 イ ル =ハ ン
国 で は 、 第 7 代 ガ ザ ン =ハ ン の 時 代 に 国 教 と さ れ 、 彼 は イ
ラ ン 人 宰 相 の ラ シ ー ド =ウ ッ デ ィ ー ン に モ ン ゴ ル を 中 心 と
す る 歴 史 書 の 編 纂 を 命 じ た 。そ の 結 果 完 成 し た の が『 集 史 』
という本だ。
③耶律楚材の評価
チ ン ギ ス =ハ ン に つ か え た 人 物 の 一 人 に 耶 律 楚 材 と い う
人 物 が い る 。 彼 は 西 遼 の 皇 族 出 身 で 、 チ ン ギ ス =ハ ン に 様
々 なアドバ イスをした と評価さ れてきた人 物だ。以前 、冒
頓 単于の話 で『小説十 八史略』 を紹介した 陳舜臣氏は 彼を
主 人公とし た『耶律楚 材』とい う作品を書 いている。 この
本 の帯には 「諸葛孔明 を越えた 男・耶律楚 材の生涯− ユー
ラ シアの覇 者チンギス ・ハンは 一人の天才 に魅かれ、 側近
に 加えた。 その男こそ 、武闘集 団モンゴル を、フラン ス革
命 以 前 に 近 代 に 近 づ け た 傑 物 で あ っ た 。」 と 書 か れ て い る 。
し かし近年 ではこの人 物を過大 評価すべき ではないと いう
意見も出されている。
第3限:元の成立と中国支配
教 師 の 指 示 ・ 発 問 ・説 明
0.導入
モンゴル では、重要 事項は有 力者の会議 であるクリ ルタ
イ によって 決定された 。ハンの 後継者も例 外ではない 。こ
の ためモン ゴルでは後 継者争い が多かった 。特に相続 争い
が 激しかっ たのは、第 5代ハン を選ぶとき だ。4代モ ンケ
の 死後、弟 フビライは 上都(開 平)でクリ ルタイを開 催し
て 大ハンに 即位するが 、同年フ ビライの弟 アリクブケ もカ
ラ コルムで クリルタイ の推挙を 受け、大ハ ンとなった 。2
人 の大ハン が並び立つ というモ ンゴルとし ては前代未 聞の
事 態 と な っ た が 、 ア リ ク ブ ケ は 1264 年 に フ ビ ラ イ に 降 伏 す
る 。 し か し 1266 年 に はハ イ ド ゥ と い う 人 物 が 反 乱 を 起 こ し
た 。ハ イ ド ゥ を 系 図 で 捜し て み よ う 。彼 は オ ゴ タ イ の孫 だ 。
ハ イドゥは オゴタイ家 の一員と して、トゥ ルイ家のハ ン位
独 占傾向に 異を唱えた のである 。ハイドゥ は中央アジ アを
根 拠 地 に 、 以 後 40 年 に わた っ て フ ビ ラ イ に 抵 抗 し た 。
① 第 2 代 オ ゴ タ イ は 1234 年 に 金 を 滅 ぼ し 、
カ ラコル ムを都に 定めた。 同じ頃チン ギス=
ハ ン の 長 子 ジ ュ チ の 子 バ ト ゥ は 、 1241 年 ワ
ー ルシュタットの戦いでドイツ・ポーランド
連 合軍を破り、その後南ロシアにキプチャク
=ハン国 をつくっ た。ま た末子ト ゥルイの 子
フ ラ グ は 1258 年 ア ッ バ ー ス 朝 を 滅 ぼ し て バ
グ ダ ー ド を 占 領 、イ ル= ハ ン 国を つ く っ た が 、
チ ン ギ ス =ハ ン の 死 後 モ ン ゴ ル 帝 国 は こ れ ら
4 ハン国とモンゴリア本国との連合体に再編
された。
(F ) 42 ∼ 43 ㌻
資 料 集 81 ㌻
(G ) 43 ∼ 44 ㌻
(H ) 234 ∼ 235 ㌻
(B ) 357 ∼ 59 ㌻
93 年 の セ ン タ ー 試
験(本試 )第2問
Bのリー ド文(イ
ブ ン =タ イ ミ ー ヤ の
文章)
② モンゴル帝国では、モンゴル部族を中心と
し た遊牧民の部族連合体組織とオアシス定住
民 が相互補完的関係を築いていた。このこと
が モンゴルに経済的繁栄をもたらし、モンゴ
ル を大帝国に発展させた要因であった。モン
ゴ ルの中にさまざまな民族が取り込まれてい
っ た背景には、モンゴルに服従する限り、在
地 の文化や宗教にほとんど干渉しなかったと
いう点がある。
(A ) 338 ㌻
(J ) 68 ∼ 70 ㌻
陳舜臣『 耶律楚材
・ 上 』 (集 英 社 )
資料
資 料 集 81 ㌻
(元 の 系 図 )
生 徒 に 期 待 す る 認識 ・ 知 識
0 .モンゴルでは大ハンの後継者もクリルタ
イ で決定された。それゆに大ハンの後継者争
い も起こりやすく、フビライの即位に対して
はハイドゥが長期に渡り反乱を起こした。
【No.4 】
1.元の成立
①元の成立
1260 年 、 チ ン ギ ス = ハ ン の 孫 フ ビ ラ イ が 第 5 代 ハ ン に 即
位 す る 。 こ の 時 46 歳 であ っ た か ら 、 当 時 の モ ン ゴ ル 人 と し
て は 老 人 と い っ て も い い 年 齢 だ 。 彼 は 1294 年 に 80 歳 で 亡
く なったと されるが、 とてつも なく長生き をしたもの であ
る 。 彼 は 1264 年 に 都 をカ ラ コ ル ム か ら 大 都 に 移 す 。 大 都 は
現 在 の 北 京 で 金 の 都 で も あ っ た 。 1271 年 に は 国 号 を 中 国 風
に 元とした 。正確には 「大元」 で「天」を 意味し、五 経の
一 つ『易経 』の一節か らとられ たらしい。 このように 即位
し たフビラ イは、徐々 に中国志 向を強め、 これまでの モン
ゴ ル帝国の 基盤であっ たステッ プ地域から 、徐々に東 方に
支配の中心を移すことになった。
②南宋の征服
フビライ の大きな目 標は巨大 な富をもつ 南宋の征服 であ
っ た 。 1279 年 、 厓 山 の 戦 い で 南 宋 を 滅 ぼ し 、 中 国 全 土 を 支
配 下に収め ることにな った。二 度にわたる 元寇も、南 宋征
服 との関わ りで考察す べきだと いう考えも ある。これ につ
いては次の時間に考察しよう。
① フビライは、都を大都に遷し、また国号を
元とするなど、中国的な傾向を強めている。
② 元 は 1279 年 に 南 宋 を 滅 ぼ し 、 中 国 全 土 を
支配することとなった。
2.元の中国支配
①官僚制度
元成立に 先立ち、フ ビライは 官僚制度を 整えた。中 央に
は 民政担当 の中書省、 軍政担当 の枢密院、 監察機関と して
御 史台が置 かれ、政府 機構が完 成した。行 政機関の名 称も
中国風だ。
②モンゴル人第一主義
元朝では 、4つの身 分に分け られていた 。支配階級 とな
っ たのがモ ンゴル人と 西域出身 で財政を担 当した色目 人、
被 支配階級 が旧金朝の 支配下に あった漢人 と旧南宋の 支配
下 にあった 南人である 。つまり 服属した順 番で差別を した
わ け だ 。こ の う ち 漢 人 とは 、い わ ゆ る 漢 民 族 だ け で はな く 、
契 丹人や女 真人なども 含まれて いる。漢字 が不得手な モン
ゴ ル 人 は 、儒 教 の 素 養 を重 視 せ ず 、士 大 夫 階 級 を 冷 遇し た 。
九 儒十丐と いわれ、科 挙も一時 停止された ほどである 。こ
の 点を、北 魏を建国し た鮮卑族 、特に孝文 帝の政策と 比較
し て み よ う 。ど の よ う な違 い が 見 ら れ る だ ろ う 。と ころ で 、
最 近このモ ンゴル人第 一主義に ついて、従 来考えられ てい
た ほど厳し いものでは なく、復 活した科挙 の合格枠く らい
で あ っ た と い う 説 が 、帝 国 書 院 の 教 科書 に 掲 載 さ れ て い る 。
確 かにモン ゴル人には 言語の面 でハンデが あるので、 優遇
措置はあったかもしれない。
③元朝治下の中国社会
元 朝 治 下 の 地 域 で は モ ン ゴ ル 人 は 圧 倒 的 に 少 数 で あ る 。 資 料 集 84 ㌻
元 が 直 接 支 配 で き た の は 旧 金 朝 支 配 下 の 華 北 だ け で あ り 、 (『 漢 宮 秋 』 )
江 南 で は 宋 代 以 来 の 地 主 勢 力 が 温 存 さ れ 、佃 戸 制 が 継 続 し 、
両 税法も継 承されてい た。前の 時間にも話 したとおり 、元
朝 は支配地 域の文化や 社会には 無関心であ ったと言え る。
庶 民文化が 発達したの も、その 表れと言え るだろう。 中で
も 戯曲は元 曲とよばれ 、大いに 発達した。 教科書にあ る2
作 品 の ほ か 、『 漢 宮 秋 』 と い う 作 品 が あ る 。 時 代 設 定 は 漢
代 だが、こ の作品は異 民族支配 に対する反 感を表現し てい
るという。
① 元 では 中 国風 の 官僚 制度 が 整え られ て い
た。
② 元は、同じく異民族王朝の北魏が漢化政策
を とったのに対して、モンゴル人第一主義を
と り、色目人、漢人、南人の4つの身分を設
定し、士大夫階級は冷遇された。
③ モンゴル人は支配地の文化や社会には無関
心 であったから、漢民族は庶民文化を発達さ
せ ることができた。ただ、中には異民族によ
る 支配をこころよく思わなかった人々もいた
ようだ。
3.『東方見聞録』に見る元の経済的繁栄
①『東方見聞録』とは
元 朝 の 経 済 的 繁 栄 を 示 す 史 料 と し て 最 も 具 体 的 な もの は 、
ヴ ェ ネ ツ ィ ア 出 身 の マ ル コ =ポ ー ロ が 口 述 さ せ た 『 東 方 見
聞 録 ( 世 界 の 記 述 )』 だ 。 マ ル コ 一 行 は 1274 年 に 上 都 で フ
ビ ライに謁 見している 。かつて フビライが クリルタイ を開
催 し た 地 は 、夏 の 都 と して 歴 代 皇 帝 の 避 暑 地 と な る 。以 後 17
年 にわたり マルコはフ ビライに 仕えたが、 マルコは「 世界
中 の 諸 王 の 富 を 合 し て も 、フ ビ ラ イ 一人 の 富 に は 及 ば な い 」
と 述べてい る。彼は帰 国後ジェ ノヴァとの 戦争で捕虜 とな
り 、獄中で マルコの話 をルステ ィケロとい う人物が著 した
の が『東方 見聞録』だ 。君たち も知ってい るように、 マル
コ は 日 本 の こ と を 「 黄 金 の 島 ジ パ ン グ 」 と 紹 介 し て いる 。
②都市の繁栄
『東方見 聞録』で「 ハンバリ ク」と記さ れている大 都、
そ し て 「 ザ イ ト ン 」「 キ ン サ イ 」 と 記 さ れ て い る 泉 州 ・ 杭
州 という二 つの海港都 市は特に 著しい繁栄 を示してい る。
新 運河も開 削され、首 都大都は 運河や海運 で、長江下 流の
穀倉地帯と結ばれていた。
③紙幣の流通
マルコが 驚いている ものの一 つは紙幣の 存在である 。前
の 時間にも 紹介したよ うに、元 朝はこの交 鈔を唯一の 通貨
と して流通 させた。資 料集の写 真には「偽 造者処死」 とい
う 字が見え るだろう。 マルコに よれば交鈔 は銀によっ て保
障 さ れ て い た こ と に な る が 、こ の 銀 は塩 と 結 び つ い て い た 。
元 の 中 央 政 府 の 歳 入 の う ち 、 80 % は 「 塩 引 」 と 呼 ば れ る 塩
の 引 換 券 の 売 却 代 金 で あ っ た が 、「 塩 引 」 は 銀 で し か 購 入
で きなかっ た。交鈔は 銀と塩に よって支え られていた ので
あ るが、こ のことは元 が商業を 重視してい たことを示 して
いる。
④マルコ=ポーロへの疑問
最近マル コについて 興味深い 説が説が出 された。大 英図
書 館 の フ ラ ン シ ス =ウ ッ ド は 、 マ ル コ は 中 国 に 行 か な か っ
た という説 を提起し、 さらにた びたび引用 している杉 山正
明 氏 は マ ル コ =ポ ー ロ の 存 在 そ の も の に 疑 問 を 投 げ か け て
い る 。先 日 NHK で 放 映 さ れ た「 そ の 時 歴 史 が 動 い た 」で は 、
① ヴ ェ ネ ツ ィ ア の 商 人 マ ル コ = ポ ー ロ は 、 13
世 紀に中国を訪れ、フビライに仕えた。かれ
の体験は『東方見聞録』として知られる。
(L )165 ㌻( 泉 州 )
(L )94 ∼ 95 ㌻ ( 杭
州)
(K ) 337 ∼ 339 ㌻
資 料 集 82 ㌻
(交 鈔 の 図 版 )
イタリ アのマ ルコ=
ポーロ 紙幣
F. ウ ッ ド 『 マ ル コ
・ポーロ は本当に
中 国 へ 行 っ た の か』
(草思 社)
(I ) 16 ∼ 18 ㌻
② 元 の 時 代 は 、経 済 的 に 大 繁 栄 を 呈 し て お り 、
泉州や杭州など、海港都市も繁栄していた。
③ 元では交鈔とよばれる紙幣が通貨として採
用 された。銅銭が主流であったそれまでと大
きく異なる。
【No.5 】
樺 山 紘 一 氏 が こ れ ら の 説 を 否 定 す る 発 言 を し て い た が。
4.元の滅亡
14 世 紀 に は い る と 、 モ ン ゴ ル 帝 国 全 体 で 衰 退 の 兆 し が 見
られるようになるが、それは元も例外ではなかった。
①後継者争い
モ ンゴルで は皇太子の 制度がな かったため 、フビライ の時
の ようにハ ン位をめぐ る争いが 多く、衰退 の原因の一 つと
なった。
②チベット仏教の信仰と財政難
またチベ ット仏教の 信仰によ る出費も大 きかった。 フビ
ラ イはチベ ット仏教の 僧パスパ を師として 招き、パス パが
つ く っ た 文 字 い わ ゆ る パ ス パ 文 字 を 採 用 し た ほ ど で ある が 、
こ のチベッ ト仏教信仰 は、寺院 の建築など 多額の出費 をも
た らした。 このため元 朝は財政 難に陥り、 交鈔を乱発 、イ
ン フレをも たらした。 さらに塩 を中心とし た専売制も 強化
され、民衆は大いに苦しむことになる。
③紅巾の乱
以上のよ うな理由か ら民衆反 乱が続発す るが、中で も最
も 大規模で あったのが 、白蓮教 徒を中心と した紅巾の 乱で
あ る。この 反乱から頭 角を現し た朱元璋に よって元は 北方
へ 退 く の で あ る 。 資 料 集 86 ペ ー ジ の 地 図 を 見 て も ら う と わ
か る よ う に 、 だ い た い 15 世 紀 ま で に は 、 ユ ー ラ シ ア の 大 部
分でモンゴル人の支配は崩壊している。
第4限
世界史の中の元寇
教 師 の 指 示 ・ 発 問 ・説 明
元ではチベット仏教が信仰され、僧パスパ
が つくった文字が国字として採用されたほど
だ った。しかしチベット仏教の信仰は財政を
圧 迫し、交鈔の濫発につながった。このため
経 済混乱から起こった白蓮教徒による紅巾の
乱は、元をモンゴル高原へと後退させた。
資料
生 徒 に 期 待 す る 認識 ・ 知 識
0.導入
フ ビ ラ イ は 1274 年 と 1281 年 の 二 度 に 渡 っ て 日 本 に 遠 征
し てきた。 いわゆる元 寇だ。実 はウチのカ ミさんのご 先祖
様 も参戦し たらしい。 神風が吹 いて元軍は 崩壊したい うこ
とになっている。
記 録 に よ る と 、 1266 年 に 黒 的 と い う 人 物 が フ ビ ラ イ に よ
っ て日本に 使わされた が、巨済 島まで来て 「海道険阻 」を
理 由 に 引 き 返 し て い る 。こ の 間 数 回 に渡 り 使 者 が 派 遣 さ れ 、
う ち 4 度 は 太 宰 府 ま で 来 た 。 1267 年 に 日 本 へ 届 け ら れ た フ
ビ ライの国 書を読んで みよう。 この国書に ついては、 恫喝
で あるとい う見方と、 そうでは ないという 二つの見方 があ
る 。それぞ れの主張を 読んでみ て、君たち はどちらの 説に
与 するかな 。これらの 使節や国 書に対して 、日本はど のよ
う な対応を したのかと いうと、 すべて黙殺 している。 杉山
氏 は当時の 鎌倉幕府の 対応がま ずいと述べ ている。君 たち
はどう評価するかな。
(国 書 の 解 釈 )
(J )120 ∼ 123 ㌻
( O ) 60 ∼ 61 ㌻
(J )123 ∼ 124 ㌻
(鎌 倉 幕 府 の 対 応 に
対する 評価)
1.元寇
①文永の役
フビライ はどうして 日本を攻 めたのだろ うか。まず 文永
の 役につい て考えてみ よう。愛 宕松男氏の 文章では、 まず
「 黄金の島 ジパング」 の財宝を 狙ったとい うことと、 南宋
を 攻めるた めの拠点作 り、ある いは南宋と 通交してい る日
本 を攻める ことで日宋 両国を威 嚇するとい う理由があ げら
れ ている。 黒田俊男氏 や杉山氏 も南宋との 関連で考察 して
い る 。 一 方 マ ル コ =ポ ー ロ は 財 宝 を 狙 っ た と 述 べ て い る 。
確 かに当時 日本は中国 へ金銀を 大量に輸出 していた。 奥州
藤 原氏の繁 栄などは、 金に裏付 けられたも のだ。とこ ろで
モ ンゴル人 は遊牧民だ 。操船や 造船の技術 はないはず だ。
こ れらの技 術を提供し たのは、 どのような 人々だった のだ
ろ う。高麗 の人々だ。 高麗は元 の支配に服 し、厳しい 統治
を 受けてい た。井上靖 の小説『 風濤』はそ のことをテ ーマ
に した小説 だ。高麗王 がモンゴ ルに帰順し た後も、別 抄と
よ ばれる精 鋭部隊(3 軍団あっ たので三別 抄とよばれ た)
は 、済 州 島 を 拠 点 に 抵 抗し て い る 。元 寇 で 船 が 沈 ん だの は 、
高 麗の人々 が突貫工事 で船を造 らされたと か、わざと 手抜
き工事をしたという説まである。
②弘安の役
第一回の 翌年に早く もフビラ イは日本へ 使者を派遣 した
が 、時の執 権北条時宗 はこれを 斬首とし、 強い態度を 示し
た 。その後 日本も元も 準備を整 え、2度目 の弘安の役 とな
る 。文永の 役とルート や規模を 較べてみよ う。特に規 模は
4 倍 に 増 え て お り 、な か で も 江 南 軍 とい う 軍 団 の 数 が 多 い 。
こ れはどの ような理由 からだろ う。文永の 役と弘安の 役と
の 間には、 どのような 出来事が 起きている か、年表も 見て
み よう。弘 安の役にお ける江南 軍は、投降 した南宋の 軍人
た ちだった 。これは有 名な「蒙 古襲来絵詞 」の一部分 。今
の 甲佐町に 住んでいた ご家人竹 崎季長が、 自己の活躍 を示
す ために描 かせたもの だ。今は 天皇家の御 物だが数年 前に
県 立美術館 で里帰り公 開があっ たので、見 た人もいる だろ
う 。元寇を 知る上で重 要な資料 の一つだ。 季長の馬に はあ
と から加え た矢が見え る。注目 してもらい たいのは、 元軍
が 使 用 し て い る 弓 矢 の 形 式 だ 。二 種 類あ る の が 分 か る か な 。
2.日本以外への遠征
資 料 集 82 ペ ー ジ の 地図 を 見 て み よ う 。 元 が 遠 征 軍 を 派 遣
し たのは、 日本以外で はミャン マー、ヴェ トナム、ジ ャワ
島 などであ る。このう ち成功し たのはミャ ンマーのパ ガン
朝 を滅ぼし たくらいで 、ヴェト ナムの陳朝 は元の侵入 を撃
退 している 。ジャワ島 のシンガ サーリ朝へ の遠征は、 政争
に 利用され 、最後のヒ ンドゥー 王朝マジャ パヒト王国 の成
立 を促した 。こうして みると、 元の遠征は 確かに周辺 地域
(文 永 の 役 の 目 的 )
(N ) 312 ∼ 313 ㌻
(L )183 ∼ 185 ㌻
(O ) 55 ∼ 56 ㌻
(J )125 ∼ 128 ㌻
1.元寇
文永の役は南宋攻略の一環として行われ、
高 麗の人々が操船や造船を担った。また弘安
の 役は、社会不安の要因となる可能性がある
旧 南宋軍を解体して海外へ移民することが目
的 であった。元寇は日本と元だけではなく、
高 麗や南宋との関係まで含めて、東アジア全
体の中で考察しなければならない。
資 料 集 83 ㌻
(元 寇 ルー ト の 確
認)
資 料 集 82 ㌻
(「 蒙 古 襲 来 絵
詞」)
(弘 安 の 役 の 目 的 )
(N ) 316 ∼ 318 ㌻
(J )131 ∼ 135 ㌻
(M )92 ∼ 93 ㌻
(J )138 ∼ 139 ㌻
2 .元 は 日 本 を は じ め ミ ャ ン マ ー の パ ガ ン 朝 、
ジ ャワ島、ヴェトナムの陳朝などへ遠征して
い るが、騎馬軍団の威力が発揮できない地域
では、失敗が多かった。
【No.6 】
に 大きな変 動をもたら したが、 元以前の征 服活動と較 べる
と 、何かパ ッとしない 。その理 由として気 候もあげて いい
の ではない かな。モン ゴルの騎 馬軍団はス テップ気候 の草
原 地帯では 大きな威力 を発揮す る。途中ウ ラル山脈は ある
が 、これは 古期造山帯 でなだら かであり、 さほど大き な障
壁 と は な ら な い 。そ れ に 較 べ て こ れ らの 地 域 は 熱 帯 が 多 く 、
騎 馬軍団の 威力は発揮 できない し、場合に よっては船 で遠
征 すること も強いられ た。資料 にもあるよ うに、元は 三度
目 の遠征を 企図してい たが、ヴ ェトナム遠 征の失敗や 、反
乱 等によっ て遠征を中 止した。 ただ杉山氏 は、これに つい
て少し突き放した見方をしているようだ。
3.海上帝国への道
フビライ の時代の海 外遠征は 、その多く が海上ルー トを
使 った遠征 である。こ の点が、 騎馬の機動 力を生かし たフ
ビ ライ以前 の遠征と違 う。元寇 など、海上 ルートを使 った
遠 征の多く は失敗した が、元朝 にとって大 きな意味を 持っ
て いた。そ れは海上輸 送路の確 保だ。南宋 を支配下に おさ
め た元は、 海運技術を 吸収し、 海上輸送路 の確保に成 功し
た と言える 。元寇後の 日本と元 との関係は どうなった だろ
う 。意外な ことに日本 と元とは 交流を活発 化させ、僧 や貿
易 船の往来 はたいへん 盛んとな っている。 これも元が 海上
ル ートを確 保したあら われと言 えるだろう 。騎馬軍団 によ
っ て陸を支 配したモン ゴルは、 フビライの 代に至って 海上
へと進出したのである。
第5限
資 料 集 83 ㌻
(フ ビ ラ イ の 遠 征 ル
ートの 確認)
3 .南宋を滅ぼした元は海上への進出を志向
す るようになった。日本やヴェトナム、イン
ド ネシアへの遠征は、モンゴルが陸上から海
上へと発展したことの表れである。
五味文彦 『大系日
本の歴史 5・鎌倉
と 京 』 (小 学 館 )
(日 元 交 流 )
陸 と 海 の 帝 国 の 成 立 (教 科 書 第 7 章 「 諸 地 域 世 界 の 交 流 」 と の 関 連 に も 留 意 する )
0.導入
モ ン ゴ ル 帝 国 が 歴 史 上 に果 た し た 役 割 は 、簡 単 に 言 え ば「 ユ
ー ラシアの 東西を結ぶ ネットワ ークを成立 させたこと 」と
言 える。ネ ットワーク とは、政 治・経済の 中心(簡単 に言
う と都市) 同士が、網 の目のよ うに結びつ いて、人・ カネ
・ モノ・情 報があらゆ る地域へ 伝播する、 その働きや あり
方 を 言 う 。こ の 点 は 入 試 で も 頻 出 の 事 項 で、89 年 の 京 大 、94
年 の 東 大 、 95 年 の 横 浜 国 立 大 、 2003 年 の 東 京 都 立 大 な ど で
出 題されて いる。モン ゴル帝国 の最後は、 モンゴル帝 国の
発 展によっ て成立した 東西を結 ぶネットワ ークを見て みよ
う。
1.陸の帝国の成立
①カルピニとルブルック
モンゴル 帝国へは、 西方から 多くの人物 が訪れた。 資料
集 84 ㌻ の 一 覧 表 「 人 物の 東 西 交 流 」 を 見 て み よ う 。 こ の う
ち 最 も 早 く 訪 れ た カ ル ピ ニ は 1246 年 、 次 の ル ブ ル ッ ク は
1254 年 に 訪 れ て い る 。 彼 ら が 使 っ た ル ー ト を 見 て み よ う 。
こ のルート は見覚えが あるだろ う。何とい うルートだ った
か 。それ以 外にもこの 2人には 目的という 点で共通点 があ
る 。この2 人は旅行記 を残して いるが、重 要な史料と は言
え るものの 、モンゴル 人の残虐 さが強調さ れており、 また
偏 見も強く 感じられる 。モンゴ ル人がヨー ロッパでは 誤っ
て タタール 人とよばれ 、聖書で 地獄という 意味のタル タル
スから来た人々と見なされたことによるだろう。
②マルコ=ポーロ
次 に マ ル コ =ポ ー ロ の 使 っ た ル ー ト ( 往 路 ) を み て み よ
う 。カルピ ニやルブル ックとは 違うルート を使ってい る。
ヴ ェネツィ アを発った マルコが モンゴルを 訪れたのは 、カ
ル ピニらと 違って元の 時代にな ってからだ が、マルコ は、
元 における 駅伝制につ いて言及 している。 牌符を持つ 者は
領 内を安全 に通行でき るという 制度が成立 していたこ とが
わ かる。モ ンゴル帝国 は元と4 つのハン国 に分裂はし てい
た が、大ハ ンの権威は 強かった ことがうか がえる。モ ンゴ
ル では駅伝 制度をジャ ムチと呼 んだが、創 始したのは チン
ギ ス =ハ ン だ と 言 わ れ て い る 。 ル ブ ル ッ ク も 、 そ の 旅 行 記
の中でモンケが牌符を与えていたことを述べている。
③モンゴルが陸路を整備した理由
以上のこ ととから考 えると、 モンゴル帝 国の初期か ら元
の 成 立 ま で に 陸 路 の 整 備 が 実 施 さ れ て い い た こ と が わか る 。
教 科 書 99 ㌻ に は 「 初 期か ら 交 通 路 の 安 全 を 重 視 し 、 そ の 整
備 や 治 安 の 維 持 に つ と め 、 さ ら に 駅 伝 制 を 施 行 し た 。」 と
あ る。モン ゴルが交通 路の治安 維持と確保 に力を入れ た理
由は?突厥の場合を思い出してみよう。
④陸上ネットワークの形成
フビライの時代までに、モンゴル帝国では陸上のネットワ
ー クが形成 されていた 。モンゴ ルはその軍 事力で、支 配地
域 を安定さ せたとも言 えるが、 この結果生 まれた平和 状態
を 「 モ ン ゴ ル の 平 和 ( パ ッ ク ス = タ タ リ カ )」 と よ ぶ 人 も い
る 。 こ の こ と を 示 す の が 、 14 世 紀 に ヨ ー ロ ッ パ に お け る 、
あ る 病 気 の 流 行 だ 。 こ れ は マ ク ニ ー ル と い う 人 の 説 で 、「 モ
ン ゴ ル の 平 和 」に よ っ て 形 成 さ れ た ネッ ト ワ ー ク に の っ て 、
ペ ストが広 がったとい う。この 説はかなり 受け入れら れて
い るが、杉 山氏は「根 拠なしな ら誰でも考 えつきそう な仮
説 の一つと して、つま りは一種 のジョーク として、な おい
ま だ 真 に 受 け る に は お よ ば な い 」 と い う 。 一 方 ジ ャ ネッ ト =
ア ブ ー =ル ゴ ド は 、 こ の 説 を 「 確 証 す る 十 分 な デ ー タ は な
いが、反証する十分なデータもない」と述べている。
2.海の帝国への展開
①海路の発達
元成立以 後にモンゴ ルを訪れ た人たちと 、元成立以 前に
モ ンゴル帝 国を訪れた 2人とは 、使ったル ートが違っ てい
(P ) 49 ∼ 50 ㌻ 、
(P ) 242 ㌻
(K ) 45 ㌻
(P ) 227 ㌻
① グユクの時代には、教皇の使節としてカル
ピ ニ、モンケの時代にはフランス王ルイ9世
の 使節としてルブルックが訪れた。この2人
は 「草原の道」を通って、元成立以前のモン
ゴ ルを訪れた。十字軍を起こしていた西ヨー
ロ ッパは、対イスラーム共同作戦の可能性を
探 るために、2人を派遣した。ただし、この
2 人にはモンゴル人に対する偏見があったよ
うだ。
② モンゴル帝国ではジャムチとよばれる駅伝
制 度が整備され、牌符を持つ者は、誰でも安
全な通行が保障された。
③ モンゴルは交易の利益を得るために、帝国
内 の東西を結ぶ交通路の整備・安全確保を重
視した。
(Q ) 215 ・ 218 ㌻
資 料 集 114 ・ 115
㌻
資 料 集 84 ㌻
④ 駅伝制の整備や、モンゴルによる交易重視
の 政 策 に よ り 、 13 世 紀 に は ユ ー ラ シ ア の 東
西 を結ぶ陸のネットワークが形成された。ア
ジ アに起源をもつペストが同世紀中にヨーロ
ッ パにまで広がったことからも、それがうか
が える。侵略と征服が続いた時代に終止符を
打 ち、フビライの時代には相対的な平和がも
たらされた。
① 陸 上の ネ ット ワ ーク を完 成 した フビ ラ イ
は 、南宋を滅ぼして中国全土を支配下におさ
め たことを契機に、海上ルートの確保にも成
【No.7 】
る 。 マ ル コ の 復 路 以 後 、 モ ン テ =コ ル ヴ ィ ノ 、 イ ブ ン =バ ッ
ト ゥータな どいずれも 海路を使 っている。 前の時間に 触れ
た ように、 南宋の征服 とフビラ イの遠征に よって海上 ルー
ト が確保さ れ、その結 果として 元を訪れた 人々は、海 上ル
ー ト を 使 う こ と が 多 く な っ た 。 マ ル コ =ポ ー ロ が 述 べ て い
た 泉州や杭 州といった 海港都市 の発展も、 この事を示 して
いる。
②海上ネットワークの確保
宋代まで には中国と インド洋 とを結ぶ「 海の道」が 開拓
さ れ、中国 とインド洋 とを結ぶ 海上ネット ワークが完 成し
て いた。南 宋を滅ぼし たフビラ イは、この 海上ネット ワー
クをも支配下に入れた。
③大都の機能
マ ル コ =ポ ー ロ も 大 都 に つ い て そ の 壮 麗 さ を た た え て い
る が、フビ ライが建設 した大都 は、陸上ネ ットワーク と海
上 ネットワ ークとを結 ぶターミ ナルとなる ように設計 ・建
設 されてい た。東西を 結ぶネッ トワークで 活躍したの がイ
ス ラ ム 商 人 だ 。 マ ル コ =ポ ー ロ は 、 フ ビ ラ イ に 仕 え 権 勢 を
ふ るったア フマドとい う人物に ついて触れ ており、ま たフ
ビ ライに仕 えた科学者 の郭守敬 は、イスラ ム暦の影響 を受
け て授時暦 という暦を つくった 。授時暦を もとに日本 の江
戸 時代につ くられた貞 享暦は、 日本でも明 治初期まで 使わ
れ て い た 。 イ ブ ン =バ ッ ト ゥ ー タ も イ ス ラ ム 教 徒 だ 。
3.まとめ
強大な軍 事力をもつ 騎馬遊牧 民は、隊商 民と共生関 係を
結 ぶことで 、東西文化 の交流や 伝播に大き な役割を果 たし
た 。その代 表例がモン ゴル民族 であり、広 大な地域を 征服
し 、馬によ る陸上ネッ トワーク を形成した 。フビライ の時
代 に至り、 征服よりも ネットワ ーク経営に 熱心となり 、ユ
ー ラ シ ア の 東 西 を 陸 海 で 結 ぶ 大 ネ ッ ト ワ ー ク が 完 成 した 。
功 し た 。 マ ル コ =ポ ー ロ の 復 路 や 、 モ ン テ =
コ ル ヴ ィ ノ 、 イ ブ ン =バ ッ ト ゥ ー タ ら が 海 路
を 使って元を訪れたことは、そのことをよく
示している。
資 料 集 64 ㌻
教 科 書 61 ∼ 62
㌻ 、 150 ㌻
(K ) 334 ∼ 335 ㌻
(J )34 ∼ 37 ㌻
② 南宋の征服により、モンゴルは海上ネット
ワークも支配下におさめた。
③ 陸上ネットワークと海上ネットワークは、
大 都によって結ばれていた。この結果、ユー
ラシアの東西を結ぶ陸海の大ネットワークが
形 成されるに至った。このネットワークで活
躍したのはイスラム教徒であった。
〈資料〉
資 料 集 :『 新 詳 世 界 史 図 説 』( 浜 島 書 店 )
( A) : 宮 崎 市 貞 他『 宋 と 元 ( 世 界 の 歴 史 6 )』 中 央 公 論 社
( B ): 杉 山 正 明 『 遊 牧 民 か ら 見 た 世 界 史 (文 庫 版 )』 日 本 経 済 新 聞 社
( C ): 有 田 和 正 著 『 社 会 科 授 業 に 使 え る 面白 ク イ ズ 』 明 治 図 書
( D) :「 甦 る チン ギ ス ・ ハ ー ン 」( 読 売 新 聞 編 集 局 編 『 20 世 紀 の ド ラ マⅡ 』 東 京 書 籍 、 1992
( E) : 内 藤陽 介 「 切 手 で 見 る 中 国 人 物 列 伝 : チ ン ギ ス 汗 ( 下 )」( 月 刊 『 し に か 』 2003 年 2 月 号 )
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( G) : 岡 田 英 弘 『モ ン ゴ ル 帝 国 の 興 亡 』 ち く ま 新 書
( H) : 司 馬 遼 太 郎『 街 道 を ゆ く 5 ・ モ ン ゴ ル 紀 行 』 (朝 日 文 庫 )
( I) : 杉 山 正 明 『 モ ンゴ ル 帝 国 の 興 亡 ( 上 )』 ( 講 談 社現 代 新 書 )
( J):
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( K) : マ ル コ = ポ ー ロ (愛 宕 松 男 訳 )『 東 方 見 聞 録 1 』 (平 凡 社 ラ イ ブ ラ リ ー )
( L) :
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( N) : 愛 宕 松 男 『ア ジ ア の 征 服 王 朝 』 ( 河 出 書房 新 社 )
( O) : 黒 田 俊 男 『日 本 の 歴 史 8 ・ 蒙 古 襲 来 』 (中 公 文 庫 )
( P ): カ ル ピ ニ /ル ブ ル ク (護 雅 夫 訳 ) 『 中 央 ア ジ ア ・蒙 古 旅 行 記 』 ( 光 風 社 出 版 )
( Q) : J.L. ア ブ ー = ル ゴ ド ( 佐 藤 次 高 他 訳 )『 ヨ ー ロ ッ パ覇 権 以 前 ( 上 )』( 岩 波 書 店 )
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