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見る/開く - 茨城大学

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見る/開く - 茨城大学
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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コクトーの「詩人の血」
青木, 研二
茨城大学教養部紀要(28): 131-149
1995-03
http://hdl.handle.net/10109/2296
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します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。
お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
コクトーのr詩人の血』
APoet’s Blood by Jean Cocteau
青 木 研 二
(Kenji AOKI)
ジャン・コクトーの映画『詩人の血』は1930年に制作された。コクトー自身が「1946年の序」で,
「ブニュエルの『黄金時代』と私の『詩人の血』は,両方ともド・ノアイユ子爵の注文で撮影された。」
(5)と説明しているように,この映画はド・ノアイユからの資金提供によって制作が可能となった
ものである。しかしブニュエルの『黄金時代』がひき起こした宗教的スキャンダルのあおりを受け
て,「私たちの映画(=r詩人の血』)をようやく上映できたのは1931年のことだった。」(5)とい
うことになる。コクトー自身の否定にもかかわらず,ブニュエルの『アンダルシァの犬』(1928)が
『詩人の血』に影響を与えていることは,解毒治療日記『阿片』(1930)に見られる記述からもあき
らかであるが{1),『詩人の血』と同時期に撮影された『黄金時代』が『詩人の血』に影響を及ぼした
かどうかにっいては曖昧であり,これといってはっきりした事実を指摘することはできないようで
ある。そのあたりの事情は,ミロラドの論文,「『詩人の血』,一人称単数の映画②」に詳しいのでこ
こでは省略する。ともあれ,『詩人の血』は前衛映画の古典としての評価を確立しているが,〈前衛〉
的であるがゆえの難解さを含むと同時に,シュールレアリズム的な要素を多分に含んでいるという
見方もなされてきた。しかし,この映画とシュールレアリズムないしは『アンダルシァの犬』との
相関関係,くい違いは,これまでに十分あきらかにされているとは必ずしもいえないように思う。
前記のミロラドの論文は,フロイトの精神分析学的な立場から『詩人の血』を詳細に考察したも
のである。彼はコクトーにおけるエディプス・コンプレックスを重く見て,コクトーが8歳のときに
ピストル自殺した父親に対する罪責感を賦うための自己処罰願望のうちに,この作品の主要なモチー
フがあると考えている。コクトーの作品に対する精神分析学的な観点からのアプローチには,私と
しても強い関心をもっているが,同じやり方では似たような論旨の展開に陥ってしまう可能性があ
る。指摘の重複はなるべく避けたいので,できるだけ違った視点をとりいれた考察を進めて行くっ
もりである。しかし,ミロラドの論文には傾聴すべき見解も少なくないので,折りにふれて引き合
いに出すことになるだろう。
まず最初にとりあげたいのは,ポエジーとは何かに関するコクトーの考え方がこの作品の非常に
大きなテーマとなっているということである。たとえばジャン=ジャック・キムはこう述べている。
「ポエジーはどこから来るのか,ポエジーとは何か,魂の隠されたどんなひだからそれはたち昇って
来るのか。『詩人の血』は最初の答えを与えてくれる㈲。」とはいうものの,『詩人の血』において描
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き出されているポエジーの様相はひとことで簡単明瞭にいいっくせるものではない。それは,いく
っかの観点からの考察が必要とされる性質のものなのである。
『詩人の血』は,それぞれ独立的ではあるが相互の関連性をもつ四つの挿話一「傷っいた手,あ
るいは詩人の傷痕」,「壁に耳はあるか?」,「雪合戦」,「オスチヤ(聖体のパン)の冒濱」一によっ
て構成されている。全体を通じての主な登場人物はく詩人〉とく女の彫像〉の二者だけであるとい
ってよい。まず,この映画の中で彼らが示す行動に含まれているポエジーに焦点をあててみること
にしよう。なかでも重要なのは,第二話において,詩人が鏡の内側に入りこみ闇の世界を通りぬけ
て《フォリー・ドラマチック》ホテルにたどり着き,ホテルの四つの部屋の内部を次々と鍵穴から
のぞき見するシーン,それと第四話において,詩人がピストル自殺したのち女が再び彫像に変わり,
〈超越性〉・〈永遠性〉を感じさせるイメージをくり広げっっ一種の境界的領域を通過し,横たわ
って不動の状態になる一ほとんど死を思わせる一までのシーン,この二っである(‘)。
しかし,前者と後者におけるポエジーのあり方・様相はかなり質的な違いを見せている。前者に
おいて,詩人は鏡の内側にある闇の領域を通りぬけるのだが,無意識の世界・夢の世界一死の世界
といってもよいが一へと赴く雰囲気を強く感じさせる(あとでまたとりあげたいが,ホテルの四っ
の部屋の光景には,コクトーの性的コンプレックスがかなり濃厚に投影されていることは確かであ
る)。ともあれこの点については,コクトー自身が「あとがき」で,「ウィリアムソン兄弟が海の底
をかき回すように,私が『詩人の血』で試みたのはポエジーを検討する〔撮影する〕ことです。問
題は,彼らが海におろした釣鐘型潜水器を,私自身の最深部にまでおろすことでした。詩的状態を
取り抑えることが問題だったのです。」(50−51)と述べているとおりである。コクトーは,ポエジー
はくとらえがたきもの,飼い馴らしがたきもの〉であると考えていたわけだが⑤,彼がそれを無意識
の世界のうちに探し求めたことは,当然の成り行きであったろう。しかしこの問題に関しては,私
はいささか疑問を感じている点がある。というのは,精神分析学的発想によれば,無意識レベルに
あるものの存在形態は幼児期の生育体験に強く規定されているわけで,自己にとっては変更が難し
いためにむしろ拘束的なものとして働く可能性がある。その場合,芸術家の想像力がそこで自由に
発揮される状況一コクトー的ないい方をすれば,ポエジーが待ち伏せして私を襲うような状況一
を設定しにくくなることがあるのではないだろうか。創作者の意識が性的コンプレックスにまっわ
る既成の固定観念・強迫観念の中に陥ってしまって,貧困な想像力しか発揮し得ないといった結果
に陥ることがあるのではないだろうか。いいかえれば,芸術的創造においては,性的コンプレック
スを初めからテーマとして強く意識することは,実り多い成果をもたらすようには思えないのであ
る。それに関連してもうひとっつけ加えておくなら,ホテルの四つの部屋の内部でくり広げられる
シーンは,本当に無意識的なレベルにあるイメージと見なしてよいのか,むしろ意識的なレベルに
あるコクトーの強迫観念的なものと結びつけて考えた方がよいのではないかという疑問も私にはあ
る。こうした点については,ここではとりあえず指摘するだけにとどめておきたい。
第四話の女の彫像の行動にこめられているポエジーの方は,〈超越性〉・〈永遠性〉のイメージ
として描き出されている。これもまたコクトーの作品にはしばしば見られるイメージであり,『詩人
の血』以前には,小説『恐るべき子供たち』(1929)のラスト・シーンにおいて,以後には,たとえ
ば映画『永劫回帰』(1943),戯曲『双頭の鷲』(1946),映画『オルフェ』(1950)などのいずれ
もラスト・シーンに表われている。第四話の女の彫像については,二つの特徴をあげることができ
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ると思う。ひとつは古代ギリシア的な雰囲気を帯びていることである。女の彫像が呼び寄せる牡牛
の体にはヨーロッパの地図が貼りつけられているのだが,これは,ギリシア神話のゼウスによるエ
ウロペ誘拐のエピソードを踏まえている。そのあと映画では,画面の下方から出てくる牡牛の角が
竪琴に入れ替わる。竪琴はむろんギリシア神話に出てくる詩人オルペウスの持ち物である。また,終
わり近くの横たわったまま動かない女の彫像のシーンには,「布切れや川に似たひだのある布地の,
文字通りのアクロポリス」(47)という比喩的説明が与えられている。このギリシア語のアクロポリ
スは,「高みにある町」を意味し,女の彫像が高みにおしあげられた状態にあることを表わしている。
このく上昇〉に関しては,ミロラドが指摘しているように(6) ,別な観点から裏づけることができる。
っまり,女の彫像はヨーロッパの地図を体に貼りつけた牡牛をひき連れて歩み続けるのだが,それ
は,彼女が巨大な背丈になって,詩人を象徴する竪琴と地球儀とを抱えて去って行くシーンへとひ
きっがれる。ここでのヨーロッパの地図から地球儀への置き換えには,やはり女の彫像の上昇ない
しは巨大化のプロセスが読みとれるであろう。
女の彫像をめぐっては,もうひとつ指摘しておきたいことがある。前述のように第四話において
は,詩人がピストル自殺を遂げたあと,女は再び彫像と化して歩き出すのだが,ここで,死んだ詩
人は女の彫像との一種の合体を果たしていると考えられるのである。女の彫像が詩人を象徴する竪
琴を抱えているのは,そのひとっの表われである。それと,『詩人の血』の「あとがき」で,結末の
女の彫像が横たわったシーンにっいて,「次にこう申しあげていいと思います一地上の栄光を手に
入れようとしたために,彼(=詩人)は《不滅ということの死ぬほどの退屈》に陥る,と。名高い
墓をまえにして,人が思い浮べるのはそのことなのです。」(54−55)と記されているように,コク
トー自身が詩人と女の彫像とを最後には同一視していることはほぼ確実であるC「)。ここでひとことい
いそえておきたい。それは,無意識世界のうちにポエジーを探し求める発想と,古代ギリシァ的な
諸イメージのうちに〈永遠性〉・〈超越性〉を帯びたポエジーのありようを定着しようとする発想
は,コクトーのもとに一種の逆説的な事態を招き寄せてしまったのではないかということである。っ
まり,古代ギリシアという古典的なものへの関心が,とりも直さずコクトー自身の無意識の世界,性
的コンプレックスの世界一彼の場合,オイディプスとオルペウスの二つの神話によって代表される
わけだが一の掘り起こし,意識化を促進したと考えられるのである。シュールレアリズムの領域に
属する,〈前衛〉的な主題に期せずして近づいてしまったわけである。ここにコクトーにおける無
意識の認識のしかたの特徴が現われているのだが,こうした彼独特の発想法は終生持続されること
になるだろう。『詩人の血』においても,古代ギリシア(古典的なもの)と無意識の世界(前衛的な
もの)との結合がすでに存在している。こうした事態は,第一話の最後に登場する,詩人の手の唇
(=傷口)を移しかえられたために目覚あ,しゃべりはじめる女の彫像のうちに見出すことができる。
この問題についてはあとでまたとりあげることにしたい。
第二話において詩人が鏡の内側の世界に侵入する行動,および第四話の女の彫像が詩人と合体し
てから,高みで身を横たえるまでのプロセスに,コクトーの思い描くポエジーが映像化されている
と考えられるわけだが,両者の行為の前提として,〈死〉のイメージが存在していることをここで
指摘しておく必要があるだろう。『詩人の血』の「あとがき」で,コクトー自身,「詩人たちが生き
るためには,しばしば死ななければなりません⑧。」(56)と述べているように,第二話の詩人の場合
は,無意識や夢の領域への潜行自体を一一Ptのく死〉としてとらえることができるし,第四話の女の
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彫像の場合は,詩人のピストル自殺という出来事がそのあとの彼女のポエジーを感じさせる行動の
契機となっているのだから,詩人の自殺のうちにく供儀〉としてのく死〉の意味を読みとることが
できる。〈死〉をめぐるこうしたふたつの芸術的考え方もまた,『詩人の血』以後のコクトーの戯曲
や映画などにしばしばくり返し登場するものである。
第二話の詩人と第四話の女の彫像に関しては,もうひとつ別な共通性を見出すことができる。そ
れは,両者の行動の様態がともに不自然な雰囲気を漂わせていることである。第二話の場合,ホテ
ルの部屋から部屋へ詩人が移動するシーンは,背景を床の上に釘付けして真上からのカメラで撮影
されている。その結果,「(……)シーンをもとに立て直すとひどく奇妙に,ひどく辛そうに歩く人
物が映し出されます。彼の筋肉の動きは,散歩する時のそれとは呼応しないのです。」(52)という
ことになり,詩人の体の動きは不自然さを帯びることになる。一方,第四話の女の彫像の場合も,閉
じた瞼の上に眼を描くことによって,実際は目をつぶった状態で歩かされたり,牡牛をひき連れて
歩くシーンでは,彼女と牡牛は動かずに,カメラをうしろに移動させることで歩いているように見
せたりして,やはり不自然な雰囲気をつくりだしている。これらが,すでに述べたような二っのポ
エジーの世界を映像的に表現するために意識的に使われた手法であることはいうまでもないだろう。
第四話で詩人がピストル自殺を遂げたあと,女の彫像が詩人と合体して超越的な世界に赴くシー
ンに,〈供儀〉としての死が存在すると考えたわけだが,実は同じようなシーンがほかにも見出さ
れる。ミロラドが,「『詩人の血』の女の彫像が詩人に対して果たした役割は,生徒ダルジュロスと
黒人の天使が名の知れぬ若い仲間に対して果たした役割と平行的である⑨。」と述べているように,第
三話のダルジュロスの雪つぶてを受けて子供が倒れるシーン,および第四話の地面に横たわった子
供が黒人の天使に吸収併合されて消滅するシーンがそれである。以上の三つのシーンの相互関係に
ついて少しくわしく述べてみることにしたい。
第三話の子供は,雪合戦が行なわれている最中,ダルジュロスの雪っぶてを二度くり返し胸に受
けて倒れる。そのあと雪上に横たわった子供は口からおびただしい血を吐き出す。ダルジュロスは
子供を死へと導く役割を果たしており,ミロラドのいい方にならえば,彼はく死の天使〉である。第
四話は第三話の続きで,女と詩人がトランプをしているゲーム台の脚もとに死んだ子供が横たわっ
ている。左上方の二階へ斜めにカーブして通じている石段があり,そこから黒人の天使がおりてく
る。彼はマントを子供におおいかぶせて,そのマントの上に腹ばいになり,「獲物,いけにえ」(proie)
である子供を吸収してしまう(1°)。それと同時にマントも消え失せる。ミロラドはここにホモセクシュ
ァル行為の暗示を見ているが(11),私としてはむしろ,黒人の天使が子供を現実界から非現実界へと連
れ去るく死神〉(戯曲『オルフェ』と映画『オルフェ』に登場する)に似た役割を果たしている点
に注目したい。子供が吸収される際に,飛行機のエンジンの音の激しいノイズが入るのだが,これ
はまず,第二話で詩人が鏡の向こう側の世界からこちら側の世界に戻って来るときに聞こえるトラ
クターの音との類縁性を感じさせるし,それから戯曲『オルフェ』において,毒をなめて死んでし
まったユーリディスを死神が連れ去るときに使われる電気機械とのつながりを感じさせる(12)。子供に
かぶせたマントの上に横たわった黒人の天使がポジからネガに一瞬反転するシーンが出て来るが,こ
れは,映画『オルフェ』において,オルフェと死んだセジェストとを乗せたプリンセスの車から見
た外の風景がネガに変わるシーンを連想させる。要するに,黒人の天使が子供を吸収併合するシー
ンには,境界を横断するイメージが読みとれるのであり,結局それは,子供が黒人の天使によって
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こちら側の世界からあちら側の世界へとっれて行かれたことを意味するといえるだろう。三っ目は,
すでに述べたようにピストル自殺する詩人と女の彫像のシーンである。
これら三っのシーンには,〈供儀〉としての死という意味づけが感じられる(13)。同じ子供を犠牲の
対象としているダルジュロスおよび黒人の天使の場合,前者は石段の途中に立って子供に雪っぶて
を投げるが,後者は石段の上方から下へとおりてくるという類縁性が認められる。ダルジュロスは
第四話の冒頭でも登場し,地面に倒れて血を吐いている子供の方をふり返るのだが,黒人の天使に
も同じような行動が見られ,詩人からハートのエースをぬきとったあと,二階のドアに通じる石段
を上りきったところで女の彫像と詩人の方をやはりふり向くのである。
ダルジュロスと女の彫像の場合は,それぞれ子供と少年の死を招く行為を成しとげたあと,同じ
ように雪合戦の行なわれたモンティエ広場を去って行くことになる。女の彫像がアムステルダム通
りのポーチの方へ立ち去ったあと,金属の球が最初は右上から左下に,次に左下から右上に画面を
斜めに横切るショットが挿入されているが,この球は,「生徒ダルジュロスが雪つぶてを振り上げて
いた場所の方へ」(46)戻って行くのであり,ダルジュロスが子供を倒れさせた行為と女の彫像が詩
人の死を誘い出した行為との間に,コクトーがある関連性をもたせていることはあきらかである。そ
れに,子供が倒れているのは当然雪の上であるのに対し,ピストル自殺した詩人の方も,「雪に覆わ
れたテーブルの上に崩れ落ちる。」(44)のであり,犠牲者の側にも共通性が存在している。
次に黒人の天使と女の彫像との関係を見てみよう。前述のように,第四話においてピストル自殺
した詩人は,女の彫像と一種の合体を成しとげていると考えることができる。地面に横たわった子
供の方は,あきらかに黒人の天使に吸収併合されているわけで,両者には非常によく似た発想がう
かがわれる。黒人が成しとげる行為にも女の彫像が成しとげる行為にも,besogne(なすべき仕事)
ということばが共通して使われているし(42および45),黒人の天使が「超自然的人物」(42)と形
容されている一方,女の彫像は「非人間的なもの」(45)と呼ばれている。黒人の天使が出てきてま
た戻って行くのは「空っぽの家」(42)であるのに対し,女の彫像もまた結末近くの場面ではその映
像が消え去り,スクリーン上には「白い表面が残るだけ」(48)となるのだが,それらには,一種の
く虚無(n6ant)への回帰〉のようなものが共通して示されているように思う。
このように,三っのペアの間では相互にイメージ的な類縁性をはらみつつ,〈供儀〉としての死
がくり返し反復されていると考えられる。いいかえれば,「詩人たちが生きるためには,しばしば死
ななければなりません。」というコクトー的なテーマが執拗にくり返されているわけである(14)。女の
彫像に対しては,〈供儀〉によってくポエジー〉が付与されているということができるが,ダルジ
ュロスと黒人の天使の場合,それによってもたらされているものは一種のく神話性〉であるといえ
るだろう。
ポエジーについてもうひとっ指摘しておきたい。コクトーは,「1946年の序」において,「『詩人
の血』にあって特徴的なのは,なによりもまず世間が《詩的なもの》と思い込んでいるものへの完
全な無関心であり,逆に(ポエジーがそれを使うにせよ使わないにせよ)ポエジーの伝達手段を作
るさいに込められた入念さなのだと思われる。」(4)と述べている。この「ポエジーの伝達手段」を
っくりだすために,「直接的な驚異{15}」を生み出すために,コクトーはやはり映像的なトリックの使
用を重要な方法として意識していたのだった。「ポエジーの伝達手段」は,『詩人の血』においては,
主に二っの発想によって映像的に表現されていると思う。ひとっは,前に述べたように,第二話に
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おいて詩人がホテルのドアからドアへと移動するシーンを真上からのカメラで撮影したやり方,第
四話において女の彫像が目をつぶった状態で歩行したり,彼女と牡牛ではなくカメラの方がうしろ
にさがって両者が動いているように見せたりするやり方によって,動作の不自然さ・非現実性が表
現されていることである。もうひとつは,いわゆる映像的な特殊効果によって面白さを感じさせる
方法であり,第一話において詩人のデッサンした人物の顔の唇,あるいは詩人の手のひらに移った
唇が動くこと,第二話において詩人が鏡を通りぬけるシーン,ホテルの第三の部屋一「飛行の稽古」
の部屋一で少女が壁づたいに上昇して行き天井に貼りついてもぞもぞと進むシーン(ここも真上か
らのカメラで撮影されたりしている)などに見られるものである。コクトーが第二話の少し前で「写
真の驚異」(15)という説明の文字を挿入していることからもわかるように,「映像の驚異」という
ことばは,後者の諸シーンの方により適合していると思われる(16)。ただし今日の発達した特殊技術を
用いた映像を見慣れているわれわれの目には,このような「映像の驚異」はやや色槌せたものに見
えることは否定できないだろう。
以上考察してきたように,『詩人の血』においては,コクトーのポエジーに関する様々な考え方が,
彼のこれまでの芸術活動を集大成するかのようにかなり網羅的に展開されているということができ
る。ただしそれらのポエジーに関する考えは,一目で読みとれるというものではないし,これとい
った脈絡がないままに雑然とした形で示されている。ここにこの作品のもつ難解さの一因を求める
ことができるだろう。
『詩人の血』の主たる登場人物は詩人と女の彫像の二者にほぼ限定されるのだが,彼らの外見上の
変貌の推移をざっと見ておくことにしたい。詩人は,第一話では上半身裸の格好で登場し,第二話
では鏡の向こう側にあるホテルの四つの部屋をのぞき見したあとでピストル自殺すると,頭に月桂
冠を戴き古代風の衣装をまとった姿に変身し,第二話の最後から第三話にかけては彫像になり(半
裸の立像から着衣した座像に変化するが),第四話では夜会服姿になる。一方女の彫像の方は,第一
話の最後から第二話にかけて石膏像の姿で登場し,第四話ではまず生きた女性の姿で現われ,次に
詩人の自殺後再び彫像化する(顔が白く塗られ,閉じた瞼の上に描かれた目をもっことになるが,身
体は普通の人間のままである)。両者の変貌のしかたを表面的に眺めると,どちらかがとびぬけてそ
の変化が激しく複雑であるという感じは受けない。しかしながら私の考えでは,詩人と比べて,女
の彫像の方にはずっと多義的で錯綜した意味を見出すことができる。そのあたりを次に検討してみ
たいと思う。
すでに調べてきたことだが,第四話において詩人はピストル自殺することによってく供儀〉的な
死を遂げ,女のうちに併合される一女はそのあとすぐにまた彫像となり,ポエジーの具現者,〈超
越性〉の具現者となる。このとき,女の彫像を詩人の第二の自己と受けとめることも可能である(前
述のように,『詩人の血』の「あとがき」には,「彼(=詩人)は《不滅ということの死ぬほどの退
屈》に陥る」という一節が見られたわけである)。しかし女の彫像の意味はそれだけにとどまるもの
ではない。
第一話において,デッサンした人物像の唇が詩人の右の手のひらに乗り移るのだが,結局彼は石
膏像にその唇を移し替えてしまう。彫像の唇が動き,しゃべり出す。いつのまにか部屋は閉ざされ
ていて出口はどこにもなく,ドアのあったところが大きな姿見になっている。彫像は,鏡の中に入
ってみせてくれと詩人を挑発する。そのあと,詩人は鏡の向こう側の世界へ一無意識の世界へ一
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入って行くことになるのだが,そこではコンプレックスが意識されざるを得ない。そしてそのコン
プレックスは,フロイトの精神分析学的な意味で多分に性的なものである。女の彫像によるこうし
た無意識世界への誘導とは,r詩人の血』における「《(……)私がいかにして私自身の映画の罠には
まったか》」(14)というコクトー自身の説明文によって表わされている事態そのものであるといっ
てよい。コクトーは,〈罠〉ということばが好きな作家であるが,『詩人の血』の場合と似たような
意味でこのことばが使われている例を,評論『暗殺と考えられた美術』(1932)からいくっか引用し
てみよう。「美術館でいっもわれわれを引きつけ数世紀を越えてわれわれに合図を送るのは,死の状
態にある作品である。それが,作者の生き生きした一下劣でさえある一手法にっいて,彼を閉じ
込め延命させて来た罠にっいてわれわれに教えてくれるのだ㈹。」「詩人にとってポエジーは生れな
がらの災厄のようなものだ。彼は何としてでもそれから解放されようとする。時々病的な分泌物が
鯨の竜挺香のようにわれわれから出て来て,ポエジーが苦痛の思い出によってかぐわしく保存して
いる人々をさらにひき立てたりしては,もはや行き過ぎというものではないか{18》。」「傑作とは罠で
あり,主題とは一片の角砂糖である。罠であるというのは,一度とらえられたら目がもうぬけ出ら
れない,もしくはぬけ出たとしても永遠に傷つけられているという意味なのだ(19)。」要するに,芸術
作品と相対する者が何か激しく引きつけられる力をそこに感じるとき,彼の心の奥底に秘められた
もの,とりわけ性的なコンプレックスにかかわるものが強力に発動している,とコクトーは考えて
いるのである。芸術作品とその享受者とを結びつける隠された糸が性的なコンプレックスであると
いう,フロイト的な観点の発想をよく表わしている例をもうひとつ,エッセー「封建的な未発表稿」
の中から引用しておこう。「こうしてもの静かないくつかの作品は謎をさし出し,芸術家の激動する
魂と,それに似た魂の間の媒介手段となる。『モナ・リザ』が占める例外的な地位をもたらしている
のは,その種のメカニズムであろう。要するに蝿がたかりに来る一種の腐敗ということなのである⑳。」
『モナ・リザ』への言及は,当然のことながら,ホモセクシュアルの観点からダ・ヴィンチを分析し
たフロイトの論文「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の思い出」を念頭に置いたものである。ま
た,同じエッセーの次のところで,コクトーは「腐敗」を「化膿した傷口」になぞらえている。こ
うした発想には,『詩人の血』で「傷口の唇」が登場し,それが石膏像に移し替えられて詩人を挑発
することばをしゃべり,これを契機として詩人が鏡の向こう側の世界に赴くまでの経緯との対応が
十分に感じとれるであろう。もう一度くり返すならば,死の状態にあった,「何世紀ものあいだ眠っ
ていた」女の石膏像(=作品)が,詩人から唇を移植されたために蘇生し,詩人に対して無意識の
世界へと,性的コンプレックスへとっながる道を指し示したのだといえるわけである。この女の石
膏像は,第一話の最後で突如として出現するのだが,両腕が欠けており,ミロラドも引き合いに出
しているようにω,ミロのヴィーナスを連想させずにはおかない。ミロのヴィーナスと特定する必要
もないのだが,古代ギリシアの範疇に属するイメージであることは確かである。古代ギリシアは,コ
クトーにとっては,何よりもまずギリシア神話にもとついた戯曲『オルフェ』(1926)や,ギリシァ
悲劇の改作台本である『アンティゴネー』(1928),『オイディプス王』(1928)の創作によって示さ
れる古典主義的な志向を意味するものであった⑳。すでにふれたように,こうした古典主義的な行き
方が,性的コンプレックスの顕在化一むしろシュールレアリズム的,前衛的な問題意識にっながる
一を促してしまったところに,皮肉というべきか逆説的というべきかコクトー的な特徴が表われて
しまったのだった。こうした古典的なものと前衛的なものとの通底という事態をめぐっては,『詩人
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の血』の中で,コクトー自身のかなり屈折した形での反応が認められるように思うのだが,その点
はのちほどとりあげることにしたい。
女の彫像は,いま述べてきたようにく作品〉としての意味をになっている一方,第四話において
は詩人が死んだあとポエジーの具現者となり,同時に詩人の一種の分身的存在となっている。っま
り,作品という場合はかなり客観的に眺められており,詩人の分身という場合は作者の強い感情移
入がなされているといえるのだが,『詩人の血』において両者の意味的相違は画然としてはおらず,
かなり曖昧なままである⑳。しかしながら詩人の方は,第二話におけるように彫像となった場合でも,
作品という意味合いをあまり含んでいないように思う。なぜなら,たとえば第四話で女が再び彫像
化したとき,その白く塗られた顔の閉じた瞼の上に目が描かれていたり,最後に横たわっているシー
ンでも,顔が「作者のスタイルで白い肌の上に線で描きなおしてある」(47)ことから,作者が手を
下して作りあげた作品というニュアンスが読みとれるのに対し,詩人の彫像にはそうした細工が一
切なされていないからである。
女の彫像は,詩人を性的コンプレックスの方へと誘導するく作品=罠〉の意味を有するわけだが,
彼女のもっ意味は単なる罠にとどまるものではない。詩人と女の彫像の間には,もっとドラマチッ
クなやりとりが行なわれているからである。まず第一話の最後で,石膏像が詩人の手のひらから唇
を移し替えられるシーンをとりあげてみよう。唇が動き,しゃべり出した女の彫像は,嘲りを混じ
えた口調で一「皮肉っぽい彫像の顔」(16)と記されている一,鏡の中に入ったとあなたは書いた
ことがあるのだから入ってみせてくれ,と挑発する。鏡の中に入りこんだ詩人は,ホテルの四っの
部屋を鍵穴からのぞき見したあと,壁ぎわに立って,女の腕一顔や体は見えない一から手渡され
たピストルで自殺する。すると彼の頭には月桂冠が現われ,流れ出た血は古代風の衣装に変わる。詩
人は怒って月桂冠と衣装をむしりとり,鏡のこちら側の世界に戻って来る。そして女の彫像をハン
マーでうち砕く。ここで読みとり得るのは,詩人が鏡の向こう側の世界で,四つの部屋の表わす無
意識の世界=ポエジーと,月桂冠と衣装の表わす古代ギリシアを否定したあと,こちら側の世界で,
女の彫像の表わす古代ギリシアとその唇の表わす無意識の世界=性的コンプレックスを否定したと
いうことで,いってみれば似通った否定的行為が反復されていることになる。ともあれ,無意識の
世界へと詩人を導いた女の彫像への怒りが表明されているわけで,私としては,ここでコクトーの
女性嫌悪の意識を考えに入れざるを得ない⑳。女性に対する屈折やわだかまりの意識は,同性愛の傾
向をもつ男性にはしばしば見うけられるものであり,『詩人の血』においては,他にもこの種の意識
の存在が読みとれる部分がある(25)。
第四話の初めの方で女と詩人はトランプをしている。詩人が形勢不利となり,女は,「ねえ,あな
た,ハートのエースをお持ちでなかったら,あなたのまけよ。」(44)という。詩人は,テーブルの
脚のそばに横たわっている子供の上着からハートのエースをぬきとるが,そのあと登場する黒人の
天使がそのカードをまたぬきとってしまう。映画では詩人の心臓がどきどきする音が聞こえ,彼の
左胸の折り返しのあたりが誇張的にぴくぴくと上下する。ここでの詩人は,女の威嚇に恐怖し怯え
ているかのように描き出されている。詩人はピストル自殺し,女は再び彫像化し歩み去る。ここか
らあと,女の彫像はポエジーの具現者としてのふるまいを見せる。もっと先の方では,ドアが開い
て女の彫像が階段を下りてくるシーンがある。そのドアの両側にはディドロ像が置かれている。デ
イドロなどの百科全書家たちは,コクトーの考えでは,ルソーのような詩人を敵視し迫害する人々
青木:コクトーの「詩人の血』
139
と見なされている㈱。女の彫像が手をあげて合図すると牡牛がやって来るのだが,その牡牛の体には
ばらばらになったヨーロッパの地図が雌牛の糞で貼りつけられている(46)。ポエジーを茶化し,自
ら水をかけるようなこうしたコクトーの態度には,ポエジーの具現者が女性であるがゆえの軽侮の
意識のようなものが入り混じっているのではないだろうか(27}。ここで少し前に戻るが,第二話で詩人
がのぞき見する四つの部屋の中に,〈飛行の稽古〉の部屋があった。そこでは,曲芸師のタイツを
身にまとった少女に,指南役の黒衣の老婆が鞭で脅しながら飛ぶ訓練を行なっている。少女を怯え
させるこの老婆に,ミロラドは,コクトーが幼少の頃その養育係を勤めたドイツ人女性フロイライ
ン・ジョゼフィーヌ・エーベルの面影を読みとっている⑳。このようなサディスティックな威嚇の光
景は,第四話において女の彫像が詩人に放つことば,「ハートのエースをお持ちでなかったら(……)」
を連想させるのだが,両者の関連はそれだけにとどまらない。フランス語のvolには,「飛行」のほ
かに「盗み」という意味もある。女の彫像の威嚇を受けた詩人は,テーブルの脚のそばに横たわる
子供からハートのエースを盗みとるのだから,第二話のく飛行の稽古〉のシーンと第四話の詩人が
カードを盗むシーンの間には,ことば上の連想も見られるわけである。こうした女性恐怖ないし嫌
悪は,同性愛者のメンタリティと深く結びついている。ここでやはり,『詩人の血』に表われている
同性愛の様相についてふれておいた方がよいだろう。
前述のように,ミロラドは,第四話において子供が黒人の天使に吸収されるシーンにホモセクシ
ュアル的な行為の暗示を読みとっていた。『詩人の血』の中で,もっとも目につきやすい形でホモセ
クシュアル的な雰囲気が表現されているのは,第三話でダルジュロスが雪つぶてを投げ,仲間の子
供がそれを胸に受けて倒れるシーンであろう。これは思春期型同性愛と呼び得るもので,一般的に
いえば,たくましく力強い上級生に背が低く体力もあまりない下級生が憧れるといったパターンで
あり,『詩人の血』のこのシーンの場合もほぼそれがあてはまっている。また前に戻るが,第一話の
冒頭では,デッサンした人物の唇が詩人の手のひらに移ってしまう出来事が起こっている。映画で
はデッサンされた顔と詩人の顔が画面上で横並びになるシーンがあって,デッサンの方はあきらか
に詩人の自画像であることがわかる。つまり,詩人の手のひらの唇は彼の直接的な分身なのである。
この唇に詩人は初あ嫌悪を抱き,なんとかふり払おうとするがうまく行かない。洗面器の中にその
唇を浸したため,溺れそうになる。詩人は窓の外の空気を吸わせてやるのだが,その後気分が急転
したかのように手のひらの唇を自分の唇にぴったりと押しあてる。それから彼は椅子に座りこんで,
その手で自分のうなじから,肩,左胸を愛撫する。このシーンには,性的なニュアンスがはっきり
と表われ出ており,コクトー自身,「あとがき」で,「たとえばこんなふうに言えると思います。詩
人の孤独はあまりにも深く,自分の創るものをあまりにも生き抜くので,創造物のひとっがもつ口
が,傷のように彼の手に残る。そして彼はその口を愛し,とどのっまりは自分を愛し(……)。」(54)
と述べている。ミロラドは,このシーンの詩人の行為は「自己色情」的であり,オナニー的である
と考えているC29)。たしかに,洗面器の水で溺れそうになった唇は女性的な声で「空気を!」としゃべ
るし,詩人が唇の移し替えに成功する相手も女の石膏像であるから,ここで彼がひとり芝居的に男
と女が愛し合う光景を演じていると考えることはできる。しかしながら,手のひらの唇はもともと
デッサンの自画像に由来するものであって,自己の直接的な分身である。根本的には自己の分身へ
の愛,自他同一視を行なっている同性の対象へのホモセクシュアル的な愛が存在しているのであり,
この唇に与えられた女性的なイメージは,一種のカムフラージュ的な役割を果たしていると思う。オ
140
茨城大学教養部紀要(第28号)
ナニーと解釈することはむろんできるだろうが,私としては,むしろ自己の分身への愛,ナルシズ
ム的な愛の表現という側面の方を強調しておきたい。
その他に同性愛との関連を感じさせるシーンとしては,第二話でホテルの四番目の部屋にいるヘ
ルマフロディトスをあげることができる。ミロラドは,男一女の関係を念頭においたオナニズムの
視点から,手のひらの唇で自己を愛撫する詩人と,このヘルマフロディトスのイメージを同一線の
延長上でとらえている。しかし私の考えでは,これはやはりコクトーの同性愛への傾斜と結びっけ
て理解すべきである(3°)。ここで,主人公のく私〉の同性愛遍歴が語られている小説『自書』(1928)
をとりあげておこう。この小説において,主人公のく私〉が愛する<H>はバイセクシュアルの男
で,死の前に自分の中には男と女がいたと告白する。また,〈私〉は〈S嬢〉を好きになるのだが,
それは彼女に少年っぽいところがあるからであった。細かい説明は省くが,男であれ女であれ両性
的な雰囲気をもった人物にく私〉が関心を示す背景には,基本的にホモセクシュアル的な意識が存
在していると考えられるのである。それとこのヘルマフロディトスについては,コクトーのエッセー
「バルベットの芸」(1926)が思い起こされる。バルベットはコクトーが熱中した女装の軽業師であ
り,『詩人の血』においても第四話の桟敷席にその姿を見せる。コクトーは,ヘルマフロディトスな
いしは超越的な性がもたらす魅惑について,こう語っている。「なぜならバルベットは彼のうちに女
を見る人々にも,男を見ぬく人々にも,美の超自然的な性に心をつき動かされるその他の人々にも
気に入られるからだ(31)。」映画では二回ヘルマフロディトスが出て来るが,一度目のそれは男性的で
あり,二度目のそれは女性的である(両者の違いは相対的なもので映像的にそれほどの差はない)。
ヘルマフロディトスがソファの上に横たわっているという設定一これは阿片吸引者の姿勢をすぐに
連想させるが一は,バルベットが白熊の毛皮でおおわれたソファの上で演ずる「ちょっとしたきわ
どいシーン」{32}との対応が感じられる。二度くり返されるヘルマフロディトスのシーンでは,初め頭
部が出現し,そのあとソファの背一黒板になっている一の穴から男のたくましい腕や脚がにょき
にょきと出てくる(二番目のヘルマフロディトスはより女性的なので,当然異様な雰囲気は強まっ
ている)。このシーンには,たとえば女装の軽業師バルベットがその出し物も終わりに近づいたころ
突然く男性〉性を露出させ,観客にばつの悪い思いや董恥心をひき起こすというコクトーの記述と
の対応性が見られるだろう(33)。このほか,『詩人の血』のヘルマフロディトスには,〈絶望〉(「ヘ
ルマフロディトスの絶望的なランデヴー」(27)というナレーションが出てくる)や,〈死〉(ヘル
マフロディトスは《死の危険》と書かれたプラカードを見せる)や,〈混乱,無秩序(d6sord re)〉
(性的な秩序の混乱でもあり,二番目のヘルマフロディトスのシーンに示されている散らばった衣類・
下着の混乱でもある)のイメージがこめられているのだが,これ以上の指摘は省略して,コクトー
がバルベットの芸にっいて語った二つの文章を引用するにとどめておきたい。「詩人はすべてをかき
乱し,そして古典的になる。バルベットはポエジーを模倣する。その点で彼はわれわれを魅惑する
のだ。(……)光の下でうごめくかき乱されたものがあとに残るC34}。」「混乱し,病気になり,絶望し,
死のこちら側とあちら側でわれわれを脅かす力のせいで疲れきっているすべての[観客の]心は,ひ
とっの姿形のうちにやすらぎを見いだす(35)。」プラカー一ドに記されている〈死〉のもつ意味にっいて
は,戯曲『オルフェ』の死神のキャラクターはバルベットから着想を得たものである,とジャン・ジ
ャック・キムらが指摘していることをいいそえておきたい㈹。
以上述べてきたように,『詩人の血』において女の彫像には多義的な意味がこあられていること,
青木:コクトーのr詩人の血」
141
別な角度からいえば,作者の女性嫌悪ないしは恐怖,およびホモセクシュァルにまっわる性的コン
プレックスが,強く投影されていることはあきらかであろう。とくに後者の点にはコクトーの自己
露出的傾向が表われているということができる。芸術は,巧妙なカムフラージュをほどこした上で,
性的なコンプレックスにまっわることがらをそれとなく提示しているのだという考えは,コクトー
の著作の中にしばしば見受けられるものであるC37》。
次に私が問題としたいのは,自己の創作物である『詩人の血』に対し,コクトーが様々なやり方
で介入行為をくり返しているという事実である。そうした自己批評的な行為を端的に示しているの
が,たびたび挟みこまれるコクトー一自身によるナレーションの存在である。この観点からすれば,こ
の映画は無意識的な世界を中心的なテーマとしてとりあげているとは,とうていいうことができな
い。今述べたように,意識的なレベルにある作者の考えがそこにたびたび顔をのぞかせているから
である。この映画において特徴的なのは,かなり明確で固定的な輪郭をもっイメージがまず提示さ
れるのだが,否定的なとらえ返しによって,そうした輪郭が曖昧化したり崩壊したりするパターン
が次々とくり返されることである。この点にっいては,『詩人の血』の各挿話の流れにそって考察し
て行くことにしよう。
第二話において,詩人は鏡の向こう側の世界に赴き,《フォリー・ドラマチック》ホテルの四っの
部屋の内部を鍵穴からのぞき見する。この四つの部屋は,向こう側の世界のそのまた向こう側の世
界一入れ子構造的といえる一であって,コクトーは当然そこにポエジーを意識していると考えら
れる。ところが,ピストル自殺をしたあと,詩人は頭に月桂冠を戴き,体には古代風の衣装をまと
っていることに気づく。そこで「あいも変わらぬ栄光!」(30)という作者のナレーションが入る。
詩人は月桂冠と衣装とを脱ぎ捨てて,こちら側の世界に戻ってくる。ナレーションには,これまで
描き出されてきた世界がはらむポエジーに冷水を浴びせる意味合いが感じられ,また詩人の怒りに
は,そうしたポエジーと古代ギリシア的なものが含むマンネリズムに対して反発する意識が読みと
れるように思う。もとの世界に戻ったあと,詩人はハンマーで女の彫像をうち砕くのだが,これも
また腕のない石膏像が示す古代ギリシアと唇の表わす性的コンプレックス==無意識の世界に対する
否定を表わす行為であると受けとめることができるわけである。今述べたような二っの領域を否定
してしまうことは,詩人にとっては,とりも直さず自己が拠ってたっ基盤となるものを否定するこ
とになる。したがって,女の彫像の破壊のあと,詩人自身が石膏の粉にまみれた立像になってしま
うことは,このような存立基盤を失いく虚無〉を抱え込んだ詩人の精神状況をほのめかしているの
ではないだろうか。
上半身裸だった詩人の立像は,次のシーンではすぐに雪合戦の展開されるモンティエ広場にある,
台座の上に置かれ着衣している座像の姿に変わってしまう。そこでまた作者の,「またしても栄光1
あいも変わらぬ栄光!第三の挿話一雪合戦」(33)というナレーションが入る。詩人像には,当然
ここで世俗的な成功・名声を手に入れた者という意味合いが与えられている。このことは,小説『恐
るべき子供たち』が大変評判になったことと結びつけて考えられるかもしれない。しかしこの彫像
は,雪合戦をする子供たちによって原形をまったくとどめないまでに破壊されてしまう。これもま
た否定的なとらえ返し行為のひとっである。このシーンの意味はどう理解すべきであろうか。憶測
の域をあまり出ないのだが,私の考えを述べてみたい。まず注目すべきは,詩人像のく静〉に対し
て,雪合戦をする子供たちは激しいく動〉のイメージをもつ(この〈動〉のイメージは,『詩人の血』
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茨城大学教養部紀要(第28号)
の中で唯一ここにだけ存在している)。それゆえ,自己をなるべく介入させずに,想像力が働くにま
かせることによって生き生きした作品を生み出し得るのだというコクトーの創作観が示されている
ように思われるのである(3e}。それともうひとつ別な考えも浮かんでくる。っまり,詩人像は子供たち
に躁躍され破壊されるがままであるわけで,そこには一種のく無力〉性が漂っているし,それに,像
が破壊されたあとの様子を物語る,「台座の上にはもうほとんど何も残っていない。」(35)という説
明からすれば,〈栄光〉のあとにはその名残をとどめるものは何も残っていないというく虚無〉的
な意識が読みとれるのではないだろうか。この詩人像の崩壊・消滅の場面は,第四話の末尾で,高
みに到達し横たわって動かない女の彫像の映像が消え去ったあと,「白い表面」しか残らない場面と
の対応を感じさせる。こうしたく栄光〉とく虚無〉の関連性にっいては,のちほどまたとりあげる
ことにしたい。
第四話に移ろう。女と詩人がトランプをしているゲーム・テーブルの脚のそばには,子供が横た
わっているわけだが,彼は,第三話においてダルジュロスの雪っぶてで倒された子供と直接に結び
っいている。せっばつまった詩人は,その子供の胸もとからハートのエースをぬきとる。このシー
ンについて,コクトーは「あとがき」でこう述べている。「またこうも言えると思います一一雪合戦
は詩人の少年時代にほかならず,《栄光》ないし《宿命》相手にトランプをする時,彼は自分自身の
なかから汲み出すべきものを少年時代からかすめ取ってきていかさまをやるのだ,と」(54)。ここ
でわれわれは,第三話の雪合戦のシーンにこめられたポエジーを,コクトー自身が否定的に眺めて
いると考えざるを得ないだろう。とはいえ,そもそも芸術的な源泉を自己の過去の記憶の中から汲
み出してくることがどうして剰窃になるのかという疑問は相変わらず残る。私としては次のように
考えるほかない。つまり,第三話の雪合戦のシーンはすでに小説『恐るべき子供たち』で描き出さ
れたシーンの反復である。そうした反復を行なうことに対する一種の恥じらい,ためらいといった
ものが,自分で自分に水をかけるような行為を呼び寄せたのではないだろうか(この意味では,第
二話において,四つの部屋の内側のシーンが出てきたあと詩人がピストル自殺するところにも,マ
ンネリズム的な芸術表現に対する類似した作者の反発が感じとれる)。もうひとつの問題点として,
第三話のエピソード自体が『詩人の血』の中で異質性を含んでいることを指摘できる。というのも,
第一話第二話第四話が非現実的な世界のイメージを多分に含んでいるのに対し,第三話の雪合
戦のシーンは,子供が口からおびただしい血を吐くところに表現の誇張は認められるものの,ほぼ
過去の記憶の喚起というレベルを越えていない。こうした異質なエピソードを挿入したことに対す
る一種の割り切れなさが作者に残っていて,子供の胸もとからハートのエースをぬきとる詩人の行
為にく盗み〉を見てとる発想を導き出したとも思えるのである。
夜会服を着た詩人の自殺には,第二話の上半身裸で自殺する詩人との対比が存在しているはずで,
世俗的なく栄光〉を否定する意味合いが当然含まれているだろう。しかしここでは,作者はく否定
的とらえ返し〉をあまり意図していないように思う。前述のように,第四話の詩人の自殺は,女の
彫像との合体の前段階であるく供儀〉としての死の意図が強く感じられるからである。最後に,女
は再び彫像化し,古代ギリシアや上昇のイメージをはらみつつ,〈超越〉的な領域への参入を果た
す。女の彫像は横たわったまま動かない。画面が暗くなって行き,「不滅ということの死ぬほどの退
屈」という作者のナレーションが入り,あとにはもはや「白い表面」しか残らなくなる。そして冒
頭に出てきた工場の巨大な煙突が崩れ去るシーンが挿入され,映画は終わる。この作者のナレーシ
青木:コクトーの「詩人の血」
143
ヨンはいったいどんな意味をもつであろうか。これに関するコクトー自身の説明はこうである。「次
にこう申しあげていいと思います一地上の栄光を手に入れようとしたために,彼(=詩人)は《不
滅ということの死ぬほどの退屈》に陥る,と。名高い墓をまえにして,人が思い浮かべるのはその
ことなのです。」(54−55)。ここで,「地上の栄光」が世俗的な意味での成功・名声を指しているこ
とは確実であり,「名高い墓」は,映像との関係では女の彫像がいわば墓の中に横たわっていること
を表わし,現実的なレベルでは,死後ゆるぎない名声を保持する芸術家たちを表わしていることは
確実である。したがって,ゆるぎない不滅の地位を得た芸術家(ないしは彼の芸術)に対する,否
定的で皮肉をまじえたコクトーの態度がこのナレーションには投影されているといえるだろう。し
かしそれだけではないと私は思う。前述のように,女の彫像には,古代ギリシアのイメージが濃厚
に盛りこまれている。その点からすれば,古代ギリシアの芸術の永続性・不滅性に対するやはり否
定的な態度がほのめかされているのである。また,この女の彫像はアクロポリス(高みにある町)で
もあって,高みにおしあげられく超越的〉状態にあることが示されている。そのこともまた否定の
対象となっているわけだ。しかも,この女の彫像が消え去ったあと,スクリーン上には「白い表面
(=虚無)」のイメージー崩壊する工場の煙突のシーンによってより強められている一が残るだけ
である。こうしたく否定的とらえ返し〉は,ポエジーと虚無との関わりにっいての作者コクトーの
意識を当然反映しているわけであるが,ここでは以上の指摘だけにとどめておきたい。
この映画の最後に出て来る作者のナレーションをめぐっては,実はもうひとっ注目すべき側面が
存在している。前述のように,コクトーは女性嫌悪の意識をもっていたわけだが,ポエジーの具現
者を女性として映像化してしまったことに対する,嘲笑のようなもの一それはすでに,ディドロ像
やヨーロッパ地図を貼りっけられた牡牛にも見られたのだが一が,ここにもこめられているのでは
ないだろうか。というのも,〈不滅〉(immortalit6)とは,コクトーによれば,女性のもっ基本的
特徴にほかならないからである。彼はこう述べている。「子をつくらずに女を愛することはばかげて
いる。女たちの愛とは,保存の本能であり,生き続け,死なないという秘められた本能なのである。
(改行)子をっくらない愛を受容し得るのは,若者一保存の本能が介入することなく美の感覚をか
きたてる対象一に向けられた場合だけである(39}。」コクトーは生物学的な観点から,異性愛の対象
=:
乱ォには多産的であって不毛さに陥らない愛のイメージを,同性愛の対象一男性には非生産的で
不毛な愛のイメージを感じとっているが,美の感覚とかかわるのは後者だけであると考えている。学
問・芸術などの知的領域において,同性愛がその探究や活動の自由な飛翔を助けるのに対し,異性
愛はむしろそのことの妨げになるというのが西洋における伝統的な発想であるが,コクトーの考え
方もそれを大きくはみ出るものではなかった㈲。要するに,〈美学の純粋な領域〉に属しているポエ
ジーが,多産的であって〈不滅〉のイメージをもった女性の姿かたちをとって表わされてしまった
ことに対する,コクトーの自己風刺的な意識のありようを読みとることができるのではないだろう
か。
これまで順を追って検討してきたように,コクトーは自分が映像によって創り出してきた芸術的
表現の世界をことあるごとに否定的にとらえ返している,という印象を私は強くもっ。これは,す
べてを否定してやまないいわゆるく前衛〉的精神の表われとみることもできるのだが,コクトーの
否定は必ずしも徹底しておらず,否定とも肯定ともいずれとも決めかねる場合が少なくない。また,
最後の「不滅ということの死ぬほどの退屈」に典型的に表わされているように,否定的なことばが
●
144
茨城大学教養部紀要(第28号)
多義的な意味をになっていたりもする。こうした芸術表現の曖昧化は,コクトーの鱈晦的な性向を
示すものである。とはいうものの,大ざっぱな印象であるが,そうしたく否定的とらえ返し〉が芸
術表現の奥行きを深め,微妙かつ神秘的な領域に接近するのに十分役だっているかどうかにっいて
は,疑問の余地がある。
〈否定的とらえ返し〉によるこうした作品への介入は,詩人が無意識的に行なっているとは考え
にくい。やはり作者の覚醒した意識を前提としているといえよう。この批評意識の介入という観点
からすると,『詩人の血』の中にはもうひとり気にかかる人物が存在している。これはジャン・デボ
ルドが演ずる「ルイ十五世風の服装をした友達」(12)である。第一話では,彼は詩人宅を訪れて,
出迎えた詩人の手のひらの唇に気づき,唖然とする。そして,そそくさと立ち去るのである。また
第四話の女と詩人がトランプをしている場面では,台座を背にしてじっと立っている。彼は,黒人
の天使がハートのエースを詩人の手からぬきとったときだけ,びっくりした様子を見せる。今あげ
た二つのシーンには目の前の出来事に素直に反応して驚く「友達」の性格が示されており,ポエジー
に感応する鋭い能力をもつのは子供であるというコクトーの発想にかなった人物像をそこに読みと
ることができる。その一方でこの「友達」は,第四話でヴァトーの『っれない男』のポーズをとっ
て立っているのだが,彼の態度に見られる無関心さないし冷淡さは,ふたつの桟敷席にいる人々お
よび女にも実は認められるものである。前者は,トランプをする二人の光景に目を向けることなく
おしゃべりに花を咲かせている様子だし,後者も,ゲームをしている間,詩人の方の心理にとりた
てて興味を示さない㈲。桟敷席の人々と女は,〈冷淡さ〉という共通項でくくることができる。観客
が唯一拍手するのは,詩人がピストル自殺するシーンであるが,そのとき「友達」は桟敷席に「非
難のまなざし」を投げる。これは詩人の内面の劇を理解することなく突発的出来事を表面的に面白
がっている人々への反発によるものであり,「友達」が詩人の方に共感を寄せていることを意味する
だろう(‘”。「友達」と女の彫像の関わりにっいていえば,ひとつだけ存在している。それは,詩人の
自殺のあとに女の彫像が立ちあがったとき,「友達」の肩のタフタのケープが女の彫像の肩に瞬時に
移動することである。女の彫像は詩人が合体していると考えられるので,「友達」は,詩人,桟敷席
の人々,女の彫像と曖昧な関係をとり結びつつも,結局のところ詩人を理解し彼に共感する支持者
と見なすことができるだろう。
最後にもうひとつ,この作品の構造に関する特徴を指摘しておきたい。まず注目すべきは,『詩人
の血』には,〈入れ子構造〉的なものが見られることである。第一話の詩人の部屋を想起してみる
と,詩人は,自画像を描いているうちにその唇が自分の手のひらに移ってしまうという体験をする
わけで,詩人の部屋自体がすでに幻想的な空間となっている。詩人を訪問する「友達」は,ドアの
外部のよりく現実〉的な世界からやって来るわけである。また,詩人は部屋の鏡(かっでドァのあ
った場所を占めている)を通りぬけて,その向こう側の世界へと赴き,《フォリー・ドラマチック》
ホテルに着くと,ドアの鍵穴から中をのぞき見する。このように,すべてドアを介することによっ
て内側へとつき進んで行く四重の空間が設定されており,〈入れ子構造〉的な形をとっているとい
うことができる。それと,『詩人の血』にはく額縁的対応〉が見出されることも注目する必要がある。
これは,様々な区分けのしかたに応じて,いくつも存在していることが認められる。その主なもの
をあげてみることにしよう。第一にこの映画の冒頭で崩れはじめた工場の煙突のシーンが現われ,最
後にそれが崩壊してしまうシーンが出て来るという対応が存在する。次に女の彫像をめぐってであ
青木3コクトーのr詩人の血」
145
るが,第一話の終わりのあたりで登場する石膏像には腕がない。このイメージは,第四話で詩人の
自殺後にまた彫像となった女が,腕の欠けていたあたりまで黒い長手袋をはめているところとも対
応しているし,結末近くの横たわった女の彫像の身体には腕がないところとも対応している。より
抽象的なレベルでとらえれば,第三話の雪上に倒れている子供と,第四話のピストル自殺し,雪で
おおわれたテーブルに頭を横たえている詩人が対応し,黒人の天使による子供の吸収と女の彫像に
よる詩人の併合が対応し,詩人の自殺と詩人の分身である横たわった女の彫像(死の状態にあると
見なし得る)が対応する。また,第三話の詩人の彫像の崩壊と,詩人の幼年時代が二重写しになっ
ている倒れた子供とは,やはり一種の対応関係にある(時間的な逆転を伴っているが)。よく知られ
ているように,こうしたく入れ子構造〉やく額縁的対応〉はコクトーの愛好するところであり,彼
のその後の作品でもしばしば登場する。
『詩人の血』には,コクトーの思い描くポエジーのありようが様々な観点から描き出されている。
その点では,彼のそれまでの芸術活動の集大成的な意味をになっているといってもよい。そして,こ
うしたテーマは何度もくり返しとりあげられ展開されて行くことになる。また,女の彫像に焦点を
しぼって考えてみると,古代ギリシア的なもの(古典性)と秘められた性的コンプレックス(前衛
性にっながる)を通底させるシンボルとしての役割を果たしており,さらにミューズ,作品,ポエ
ジーといった意味合いを付与されており,女性嫌悪ないし不安にまつわるコクトーの意識も投影さ
れている。したがって女の彫像には非常に多義的で把握しにくい意味内容が盛りこまれているとい
うことができる(43)。それから,自らが創りだした芸術的なイメージをしばしば否定的にとらえ返して,
自己の作品の世界・構造を相対化し,不明確で曖昧なものに変えてしまう自己批評的な行為をくり
返し行なっている。〈否定的とらえ返し〉という手法との関連では,「詩人たちが生きるためには,
しばしば死ななければなりません。」とコクトーが述べるところの,〈死と再生〉のテーマにならん
で,ポエジーに対する虚無的なものの侵犯の意識が顔をのぞかせていることも注意すべきであろう。
このことは,横たわった女の彫像が消えたあとに出て来るく虚無〉のイメージにおいてだけでなく,
一番最後の崩れ落ちる工場の煙突のシーンにおいても認められる。
こうして見てくると,おのずからシュールレアリズムとの相違が浮かびあがってくるのではない
だろうか。様々なポエジーの考え方の提示,自己批評性を多分に含んだく否定的とらえ返し〉の手
法など,いわゆるシュールレアリズムの自動記述法的な表現が映像化されているというには,コク
トーの芸術観,醒めた批評的意識が介入しすぎているのではないだろうか。いいそえておくなら,本
稿でくわしく述べてはいないのだが,第二話でくり広げられるホテルの四つの部屋のシーンにして
も,形としては鏡の向こう側に属しているので,無意識的な世界のように思いこみやすいけれども,
それが本当に無意識的な世界を描いているかどうかについては,私としては疑問を感じている。
コクトー自身の考えによれば,『詩人の血』のテーマは,「詩人が生まれるためには幾度となく死
ななければならないのだ㈲。」ということばで表わすことができる。この点だけをとりあげるならば,
たしかにこの映画は「一本指で㈲」演奏した比較的単純な作品であるといえるかもしれない。しかし,
これまで考察してきたとおり,『詩人の血』では,様々な考え方,様々なイメージが組み合わされて
複雑な相関関係の網の目を作りあげている。その意味では,決して一本指で演奏された作品と見な
すことはできない。むしろそうした相関関係の網の目から浮かびあがって来るもの,そこにこそコ
146
茨城大学教養部紀要(第28号)
クトーの無意識的な何ものかの存在を感知することができるように思われる。
〈付記〉
筆者が参照した『詩人の血』のシナリオには二種類ある。ひとつは,コクトーが一種の文学的シ
ナリオとして執筆したロベール・マラン版(Le Sang d’un POete, Robert Marin,1948)で,これに
は,実際の映画の映像とは細かい点でのくい違いが見られる。もうひとつは,できるだけ映画に忠
実な形での再現をめざして,ドミニック・パースがロベール・マラン版のシナリオを一部削除した
り新たな説明をつけ加えたりして,綿密な再構成を行なったものである(Le Sang d’un po(}te, Les
Editions du Rocher,1983)。とはいえ,コクトーが書いたマラン版の文章には,映像からは読みと
りにくいニュアンスが語られているところが少なくない。本稿の執筆にあたっては,基本的にマラ
ン版のシナリオに依拠し,バースのシナリオと実際の映画の映像は補助的な資料として参照すると
いう方針をとった。
本稿の中では,マラン版の翻訳である『詩人の血』,岩崎力訳(ジャン・コクトー全集皿,東京創
元社に収録)の訳文を引用させていただいた。引用文の末尾には頁数のみを記してある。
コクトーのその他の作品に関しては,主に(Euvres comρletes de Jeon Cocteau, Marguerat, 1946
−1951に拠り,東京創元社版ジャン・コクトー全集に収録されているものは,その訳文を使わせて
いただき,この全集の頁数を記した。
訳文には一部書きかえさせていただいた部分があることをおことわりしておきたい。
注
(1)『阿片』,堀口大學訳(ジャン・コクトー全集IVに収録),402−403頁。
(2)Milorad,《《Le Sang d’un po(}te》,film a la premi6re personne du singulier》,Cahiers Jean
Cocteau 9, Gallimard,1981,pp.269−333.
(3) Jean−Jacques Kihm, Cocteau, Gallimard,1960, P.106.
(4)女の彫像が通過する境界的領域には,「燐光を放つ夜」(47)が存在しており,第二話で詩人
が通りぬける闇の世界との構造的対応が感じられる。
(5)たとえばコクトーは,「あとがき」の中で,「言うまでもなく,ポエジーへの接近ほどむずか
しいものはありません。ポエジーは野獣に似ているのです。」(51)と語っている。
(6)Milorad,《《Le Sang d’κn POete》,film a la premiもre personne du singulier》,ρρ. cit., P.32&
(7)このような詩人と女の彫像の合体から高みでの死にいたるまでの経緯は,『永劫回帰』の結末
において主人公のバトリスとナタリーが共に死んで行く場面で,よく似た形で反復されることに
なる。その場面には,「ふたつの肉体が寄り添って並んでいる。死が,二人の顔に深い彫りを与
え,二人にひだのある服をまとわせ,気品のある大きな楯の上に二人をのせて高みへもちあげる。
天上の光[栄光]が二人を世界から引き離し,二人を包んでいる……」(杉本秀太郎訳[ジャン・
コクトー全集田に収録],161頁)というト書がっけられている。
(8)映画『オルフェ』の序文には,同じように,「詩人が生まれるには幾度となく死ななければな
青木:コクトーのr詩人の血」
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らないのだ。(改行)これは二十年前,『詩人の血』の中ですでに私が展開していたテーマである。」
(三好郁朗訳[ジャン・コクトー全集vaに収録],294−295頁)と記されている。
(9)Milorad・《《Le Sang d’un po(}te》,film a la premiもre personne du singulier》,op. cit., P.325.
(10)小説『ポトマック』(1919)には,「愛情こもった僕らの看護も今やむなしいと覚ると,彼(=
友人のアカント)は,痛ましくもたった一人で,死んでゆく者の上に腹ばいにのしかかる天使と
闘うのであった。」(澁澤龍彦訳[ジャン・コクトー全集皿1に収録],121頁)という一節がある。
(11)Milorad・《《Le Sang d’un POete》,film a la premi6re personne du singulier》,oρ. cit.,P.319.
(12)『オルフェ』,堀口大學訳(ジャン・コクトー全集Wに収録),43頁を参照。
(13)黒人の天使に対して子供がく供儀〉的な意味づけを与えられていることは,第四話の題名に
使われている「オスチヤ(聖体のパン)」ということばによく表われているだろう。
(14)第二話の最後で詩人が女の彫像をうち砕くシーン,第三話で子供たちが台座の上の詩人の彫
像を破壊するシーン,第四話の結末近くで横たわった女の彫像が消え去るシーンに関しては,こ
のテーマはぴったりあてはまりにくい。
(15)ジャン・コクトー,『シネマトグラフをめぐる対話』,高橋洋一訳,村松書館,1982年,119
頁。
(16)たとえば戯曲『オルフェ』において,天使ウルトビーズは窓ガラスをとり替えるため椅子の
上に乗るのだが,オルフェがその椅子をとり去ったあとも,空中に浮かんでいるく奇跡〉を示す
(前掲書,38−39頁)。奇跡にポエジーの存在を意識するこうしたコクトーの姿勢は,『詩人の血』
の「写真の驚異」のシーンにも継続・維持されているだろう。
(17) Des Beaux 一・Arts coη∫’46r65 com〃le un assαssinat,(Euvres completes de Jean Cocteau, t.
X,p.177.
(18) 1bid., p.207.
(19) Ibid., p.220.
(20)Zπ64”ノll’odal, Cahiers Jean Cocteau 8, Gallimard,1979, P.143.
(21)Milorad・《《Le Sang d’un PO8te》, film a la premi色re personne du singulier》,op. cit., P.290.
(22)たとえば,コクトーとアンドレ・フレニョーによる『対話』の第五話には,コクトーがギリ
シア悲劇に関心をもち出した経緯が語られている(邦訳,ジャン・コクトー,『わが生活と詩』,
片岡美智訳編,ダヴィッド社,1955年)。
(23)「作者の石膏製の手が俳優のそれに置き換えられている」(13)シーンや,「作者の石膏製のう
なじと石膏製の手が,俳優のうなじと手に置き換えられている」(13)シーンや,詩人が「石膏
の腕を枕に眠り込み,石膏の手を開いている石膏製の作者に成り変わっている」(15)シーンな
どは,女の彫像と作者との距離の不分明さを示している。
(24)戯曲『オルフェ』や映画『オルフェ』のウルトビーズは,同じように鏡の向こう側へ詩人を
導くのだが,怒りを向けられてはいない。
(25)『詩人の血』が製作された1930年ごろの,コクトーの女性嫌悪が感じとれる作品としては,オ
ルフェに対するアグラオニスの攻撃のエピソードが出て来る戯曲『オルフェ』や,詩集『オペ
ラ』(1927)所収の詩「赤面する」などがあるし,伝記的事実としては,戯曲『オルフェ』の
上演前後から険悪になって行ったコクトーとヴァランチーヌ・ユゴーの関係が思い浮かんで来
148
茨城大学教養部紀要(第28号)
る。
(26)『存在困難』,朝吹三吉訳(ジャン・コクトー全集Vに収録),327頁や,『オックスフォード
大学講演』,朝吹三吉訳(ジャン・コクトー全集Vに収録),560頁を参照。
(27)コクトーの女性嫌悪や,女は男よりも芸術とのかかわりが希薄であるとする独特な考え方を
かなり露骨に示した文章をひとつ引用しておく。「美しい男は芸術の対象だ。美しい女は家庭用
品だ。(使っているうちに形がくずれる)。子づくりを拒み,芸術の対象の(ヴァンプの)役割を
演じたがる現代の女は,台座の上に置かれたいと望む鍋と同じくらい滑稽だ。」(Cahier intime,
cit6 dans Milorad,《《Le Livre blanc》,document secret et chiffr6》,Cahiers !ean Cocteau 8,
Gallimard,1979, p.134)。
(28)Milorad,《《Le Sang d’un POete》,film a la premiもre personne du singulier》,oρ. cit., P.300.
(29) 1bid., p.289.
(30)手のひらの唇は本質的にはく男性〉的であるけれども,そこにく女性〉的要素(=「空気を!」
という声)が重ねあわされている形態そのものからは,ヘルマフロディトスのイメージを読みと
ることが可能である。
(31) hεNume’ro Barbεtte,(Euvi「es comptetes de Jean Cocteau, t, IX,P.261.
(32) Ibid., p.259.
(33) 1bid.,p.262.
(34)Des beaux arts consid6re’s comme un a∬ossinat, Op. cit.,p,213.
(35) Leハ1“me’ro Barbette, op. cit., P.262.
(36)Jean−Jacques Kihm, Elizabeth Sprigge et Henri C. B6har, Jean Cocteau, t’homme et les
miroirs, La Table Ronde,1968, P.315.
(37)たとえば『オックスフォード大学講演』,前掲書,574頁や,Zη64〃彦0401,0p. cit., p.143を
参照
(38)たとえば『恐るべき子供たち』の創作の経緯についてコクトー自身が語っている文章(『わが
生活と詩』,前掲書79−80頁)を参照されたい。
(39)Cahier intime, cit6 dans Milorad,《《Le Livre blanc》,document secret et chiffr6》,oρ. cit.,
p.134.
(40)たとえばコクトーは,『阿片』の中で,「多くの天才に世間が与えるく情けない人物〉なる称
号は,要するに別の面で満足をえている創造本能が美学の純粋な領域の中で性的快楽を自由に活
動させ,また不毛な諸形式へそれをさし向けることに由来している。」(前掲書,357−358頁)と
述べている。
(41)実際ト書には,女の彫像について,「カードをふたたび取り上げるかわりに,きらきら光る扇
を取り,トランプの手札のように開き,じっと見つめ,自分をあおぎ,さりげなく(avec
indiff6rence)顔を左右に回す。まったく無表情のまま。」(41)と記されている。
(42)コクトーは「あとがき」で,「桟敷の人々が拍手する場面もあります。(……)彼らが拍手す
るのは自殺する詩人にたいしてなのです。詩人たちが生きるためには,しばしば死ななければな
りません。そして心臓(=心)の赤い血だけではなく,魂のあの白い血も流さなければなりませ
ん。彼らのまきちらす白い血こそが,彼らの跡を辿ることを可能にするのです。そのような代償
青木:コクトーのr詩人の血』
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を払ってはじめて拍手が得られるのです。ほんのわずかの好評を得るために,詩人はすべてを与
えなければならないのです。」(56)と述べているが,桟敷席の人々が詩人の内面の劇を真に把握
し,〈生のための死〉という意味を理解して拍手したとは,どうしても考えにくい。
(43)女の彫像と比べて,男である詩人のイメージの方は様々なニュアンスのふくらみに欠けてい
る。これと同じような事情が,第二話に出て来る銃殺されるメキシコ人(男)と〈飛行の稽古〉
を受ける少女の間にも読みとり得る。つまり,メキシコ人に比べて,少女の方がはるかに複雑な
意味内容をはらんでいるのである。彼女に見出される主要な特徴を次に列挙しておこう。①作者
コクトーの幼少期のイメージと重ねあわされていて,老婆のサディズムの対象となっている。②
初あの方で暖炉の上に立っシーンがある。〈栄光〉的な雰囲気がそこには感じられる(メキシコ
人のシーンで暖炉のような岩の上に立っ聖母像や,第三話で台座の上にある詩人像や,第四話で
台座の上に置かれている椋欄の鉢植えとの相関関係があるだろう)。③天井にたどり着いた少女
は体を逆さにしてもぞもぞと進む。ここには,さえぎられた中途半端なく上昇〉や逆向きの横た
わりのイメージが見られ,第四話の終わり近くで女の彫像が身を横たえる姿との対照が認められ
る。④最後の方で舌を出して,皮肉な挑発めいた態度を示す。
コクトーは女性嫌悪の意識を抱いていたにもかかわらず,このように男性よりも女性のイメー
ジの創造において結果的には豊かな創造力が発揮されていたことは,大変興味深い。
(44)注の(8)を参照。
(45)映画『オルフェ』,前掲書,295頁。
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