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学習メモ
ラジオ学習メモ 第四十七回・第四十八回 項羽と劉邦 四面楚歌 第 (全二回) 回 時 利あらず 回 項王の最期 第 学習のポイント ①「鴻門の会」から「垓下」に至るまでの項羽と劉邦の関係はどういうものか ②「四面皆楚歌」とは、どういう意味か ③「詩」にこめられた項王の心情はどのようなものか ③「面」したときの呂馬童の気持ちは、どういうものか わらい ①「烏江の亭長」の発言内容は、どういうものか ②「笑」には、項王のどのような心情がこめられているか 理解を深めるために はんかい 項羽との会見の場である「鴻門の会」において命を狙われた劉邦でしたが、部 下の樊噲の活躍により無事に脱出することに成功しました。樊噲とともに会見場 から出た劉邦は、その後どうなったのでしょうか。 劉邦は、別れの挨拶をせぬままにこのまま立ち去ってしまって、果たして大丈 夫だろうか、と樊噲に相談します。命の危険にさらされていながら、別れの挨拶 のことを気にするところは、劉邦がどれほど項羽のことを恐れていたのかという ことを想像できますし、また、劉邦のお人好しの性格を垣間見ることもできます。 劉邦は、樊噲から「大事の前の小事にこだわっている場合ではありません」と諭 され、自軍へと戻ることを決めたのでした。その際、後のことは張良一人に託し、 自分だけは馬に乗り、樊噲を含む四人の供回りを護衛として引き連れて、密かに 項羽の陣営を抜け出し、覇水という川のほとりに布いた自分の陣へと無事にたど り着きます。たどり着くや、項羽の口から出た密告者、曹無傷を殺します。 一方、たった一人、項羽の陣営に取り残された張良は、劉邦が無事に到着した 頃合いを見計らって、再び会見場に戻って行きます。最初は、劉邦が酒に酔って しまい、代わりに自分が項羽と范増に土産を渡すように頼まれたと話しますが、 項羽から劉邦の所在を尋ねられると、項羽が劉邦をとがめようとするので抜け出 す して帰ったと伝えます。樊噲にしろ張良にしろ、主君劉邦を助けるために、項羽 の非を責めるところ、肝が据わっています。項羽は何も言わずに土産の品を受け 取りますが、范増は土産の品を剣で叩き壊し、「項羽の天下を奪う者は、必ず劉 かんよう し えい 邦である。我々は、今に劉邦に捕虜とされてしまうだろう」と言って、大変悔し がりました。 その後、秦の都咸陽に入った項羽は、降伏していた秦王子嬰を殺し、秦の宮殿 を焼き払い、秦の財宝や美女を奪い、故郷の楚に帰ります。そして、自らを楚の 地の西側の王者として「西楚の覇王」と呼び、手柄のあった者たちには土地を与 は しょく へき ち え、それぞれ王としました。咸陽を一番に攻め落とした劉邦には、本来与えるべ 講師 古典 1 き関中の地を与えず、巴・蜀という僻地を与え、「漢王」としました。 − 127 − 小原広行 第 47・48 回 2 第1回 第2回 しかし、漢王となった劉邦は、着実に力を付けていき、ついに項羽と天下を争 うまでになります。ここに項羽の「楚」と劉邦の「漢」の争いである「楚漢の興 亡」が繰り広げられることとなりますが、「鴻門の会」より四年の後、「楚漢の興 亡」もいよいよ決着を迎えることとなります。秦帝国に代わって、新しい時代を − 128 − 築こうとした二人の英雄、項羽と劉邦。この二人にいかなる決着が訪れるのでし 古典 ょうか。二人の活躍がもう見られなくなるのは、なごり惜しい限りですが、最後 まで楽しんで学習してください。 第 47・48 回 ▼ ラジオ学習メモ し めん そ か 四面 楚 歌 し えい 講師・小原広行 鴻門の会のあと咸陽に入った項羽は、秦王子嬰を殺し、財宝や婦女を略奪 せい そ し、宮殿を焼き払って東に帰った。次いで懐王を奉じて義帝とし、手柄のあっ へきえん は しょく た諸将を王侯に封じて自らは西楚の覇王と号した。しかし、最も手柄のあっ た劉邦には、僻遠の地、巴・蜀の地を与えて漢王とした。 こうして天下を手中にした項羽は、名実ともに天下の覇者となろうとして、 義帝を殺した。このことは、領土の配分に不満を抱いていた諸侯に、項羽攻 撃の口実を与えてしまった。反乱の火の手はあがり、項羽がその鎮圧に努め ている間に、漢王劉邦は、三秦の地を平定して東進し、それら諸侯を巧みに 自分の陣営に引き入れて、項羽の軍を孤立させていった。項羽はついに折れ、 つか 天下を東西に二分することを条件に和議を結び、軍を率いて東に帰っていっ がい か た。ところが、劉邦の臣張良と陳平は、「楚は兵罷れ食尽く。此れ天 楚を 滅ぼすの時なり。其の機に因りて遂に之を取るに如かず。 」 と 劉 邦 に 進 言 し、 劉邦は、その意見に従った。漢軍の奇襲を受けた項羽は、たちまち垓下に追 ナ ク ク ビ ノ いつめられ、鴻門の会より四年目にして、形勢は逆転した。 時 利あらず ニ 項 王 軍 壁 垓 下 。兵 少 食 尽 。漢 軍 及 諸 侯 兵 、 ノ ス ナ リ キ ノ ス ルヲ チ イ ニ 二 一 ム コト ヲ レ 二 か レ ゾ そ ひ と キ 一 タ ル ヲ や ト 囲 之 数 重 。夜 聞 漢 軍 四 面 皆 楚 歌 、項 王 乃 大 キ テ ハ ク ニ レ キ テ ム ニ セラ リ ハ ぐ ニ レテ フ 」 驚 曰 、「漢 皆 已 得 楚 乎 。是 何 楚 人 之 多 也 。 チ ス ニ イ テ ニ か う が いシ ラ 一 チ 二 一 二 項 王 則 夜 起 飲 帳 中。有 美 人 、名 虞 。常 幸 従 。 しゆん め アリ ハ す ゐ ニ レ ヲ ハ ク レ お ほフ ヲ レ 駿 馬 、名 騅 。常 騎 之 。於 是 項 王 乃 悲 歌 忼 慨 、自 つくリテ 為 詩 曰 、 キ ヲ レ レ 力 抜 山 兮 気 蓋 世 時 不 利 兮 騅 不 逝 ベ キ ス セ ント 一 ヲ 二 ヤ 虞 兮 虞 兮 奈 若 何 ヤ 騅 不 逝 兮 可 奈 何 ル カ レ レ ア ラ カ レ ノ レ な みだ か う ル キ 古典 ギ ル モノ − 129 − フ コト け つ ス ニ ク レ 歌 数 闋 、美 人 和 之 。項 王 泣 数 行 下 。左 右 皆 泣 、 シ 二 一 莫 能 仰 視 。 第 47・48 回 ▼ ラジオ学習メモ 書き下し文 ぐん がい か 時 利あらず かう わう すう ちよう へき へい すく よる かん ぐん しよく つ し めん みな そ か かん ぐん およ き しよ こう かう わう へい すなは これ おほ 項王の軍垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、之を かこ おどろ い かんみなすで そ え こ なん そ ひと おほ 囲むこと数重なり。夜漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大い すなは よる お ちやうちゆう の び じん あ な ぐ つね かう に驚きて曰はく、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。 かうわう しゆん め な すゐ つね これ き ここ お かうわう すなは ひ か かう 項王則ち夜起きて帳中に飲む。美人有り、名は虞。常に幸せられて したが がい みづか ゆ し き つく よ すゐ ゆ なんぢ いかん いかん おほ び じんこれ い わ かうわう なみだ すうかうくだ さ いう み な よ あふ 従ふ。駿馬あり、名は騅。常に之に騎す。是に於いて項王乃ち悲歌忼 ぬ 慨し、自ら詩を為りて曰はく、 ちから やま とき り 力山を抜き気世を蓋ふ すゐ 時利あらず騅逝かず ぐ 騅の逝かざる奈何すべき ぐ すうけつ 虞や虞や若を奈何せんと うた み な 歌ふこと数闋、美人之に和す。項王泣数行下る。左右皆泣き、能く仰 ぎ視るもの莫し。 現代語訳 項王の軍は垓下の城壁の中に立てこもった。兵士は少なく、食糧はなくなった。 漢軍及び諸侯の兵は、垓下に立てこもった項羽軍を幾重にも包囲した。夜、漢軍 が四方で皆、 楚の地方の歌を歌っているのを聞き、 項王がそこで非常に驚いて言っ た、 「漢はすっかりもう楚の地を手に入れてしまったのであろうか。これはなん 項王はそこで夜(ではあったが)起きてきて、 (陣営の中で、仕切りのための) とも(敵である漢軍の中に)楚の地の人間が多いことよ。」と。 幕をめぐらした中で酒宴を開いた。(ときに) 美人がいて、 名は虞といった。 常に(項 王に)寵愛されて付き従っていた。 (また)名馬がおり、名は騅といった。 (項王 は)常にそれに乗っていた。やがて項王は、悲しげに歌い、感情が高ぶって、自 分で詩を作って歌った、 「我が力は、山を引き抜くほど、我が気力は、世を覆いつくすほどであるが、 騅が進もうとしないのを、どうしたらよいだろうか。 (しかし)時運は不利であり、 (愛馬の)騅は進もうとしない。 虞よ虞よ、おまえをどうしたらよいだろうか。 」と。 − 130 − (項王が)歌うこと数回、虞美人は項王の詩にこたえる詩を作って歌った。項王 古典 は涙を(はらはらと)幾すじか流した。左右の臣下も皆泣き、一人として顔を上 げて(項王の顔を)直視できる者はいなかった。 第 47・48 回 ▼ ラジオ学習メモ し めん そ か 四面楚歌 講師・小原広行 だい 項羽は八百余騎の部下とともに垓下を脱出して陰陵まで逃れたが、道を尋 たく ねた農夫に欺かれ、数千騎の漢軍の追撃を受けることになった。そうして大 沢の中に迷いこみ、東城に着いたときには、わずか二十八騎になってしまっ ていた。項羽は部下に向かって言った、「吾、兵を起こしてより今に至るま つひ ここ くる で、八歳なり。身づから七十余戦し、当たる所の者は破り、撃つ所の者は服 ほろ もと し、未だ嘗て敗北せず。遂に天下を覇有せり。然れども今卒に此に困しむ。 う こう 此れ天の我を亡ぼすにて、戦ひの罪に非ざるなり。今日固より死を決す。」 と。 頂羽は部下とともに奮戦して、漢軍を破り、ようやくにして烏江の岸にたど り着いた。 ニ チ ス 項王の最期 三 二 一 レ ノ ぎ シテ ヲ イ テ ノ カタ ラ ント ヲ レ ニ 於 是 項 王 乃 欲 東 渡 烏 江。烏 江 亭 長 、檥 船 一 ハ ク モ ナ リト ハ ハ ツ ヒ テ 二 レ レ リ ノ ミ リ 待。謂 項 王 曰 、「江 東 雖 小 、地 方 千 里 、衆 数 十 万 ル タ ルニ ハ クハ ギ ゾ ルコ トヲ サ ン ツ レ ツ テ ル レ 人、亦 足 王 也 。願 大 王 急 渡 。今 独 臣 有 船 。漢 軍 ル モ シ ト 一 ヒ テ ハ ク ボ スニ ヲ 二 ノ リ テ ヲ に しス シ ノ レ 」 項 王 至、無 以 渡 。 笑 曰 、「天 之 亡 我 、我 何 渡 為 。且 ハ 二 ア リテ エ ン ニ 二 トス トモ ヲ ノ 一 レ レ ミテ ニ ヒ 籍 与 江 東 子 弟 八 千 人 、渡 江 而 西 。今 無 一 人 ル モノたとヒ ノ 一 二 一 レ レ 還。縦 江 東 父 兄 憐 而 王 我 、我 何 面 目 見 之 。縦 ハ リ ラ ン は ヂ ニ ハ ク ル レ 二 一 二 ヒ テ ト モ や ト チ レ スル タ ルヲ コト ノ ニ タ ル シ テ ニ ク コト 」乃 謂 彼 不 言 、籍 独 不 愧 於 心 乎 。 亭 長 曰 、「吾 知 ノ 一 二 レ 一 レ レ ス ニ ヲ ツ テ ハ ント ニ レ ビ ど うヲ ハ ク ハ ス レ ズ ガ ニ ト シ 一 二 ヲ ミ ルニ タ リ 一 モ ル リ ノ 公 長 者 。吾 騎 此 馬 五 歳 、所 当 無 敵 。嘗 一 日 行 ナ リ レ セ ナ リ ノ レ 一 二 メ ヲ シテ リ テ ヲ シ テ ヲ 」 千 里 。不 忍 殺 之 。以 賜 公 。 チ ス 二 乃 令 騎 皆 下 馬 歩 行、持 短 兵 接 戦。独 項 王 ノ り よ ば レ 二 所 殺 漢 軍 、数 百 人 。項 王 身 亦 被 十 余 創 。顧 見 ノ し めシテ わ う え いニ ハ ク レ ト ハ ク ク あ がなフト 一 レ チ 一 二 漢 騎 司 馬 呂 馬 童 。曰、「若 非 吾 故 人 乎 。」馬 童 面 ニ 二 一 ノ セシメ ント チ ふ んシテ ス 二 」項 王 之、指 王 翳 曰 、「此 項 王 也 。 乃 曰 、「吾 聞 、漢 購 ニ − 131 − か うベヲ い ふ ニ 古典 ガ 一 レ 」乃 自 我 頭 千 金 ・邑 万 戸 。吾 為 若 徳 。 刎 而 死 。 (史記) 第 47・48 回 ▼ ラジオ学習メモ 書き下し文 お 項王の最期 ここ ぎ ま かう わう すなは かうわう ひがし い う かう い わた ほつ かうとうせう う かう いへど てい ち ちやう はう 是に於いて項王乃ち東のかた烏江を渡らんと欲す。烏江の亭長、 ふね しう すう じふ まん にん また わう た ねが だい わう いそ わた 船を檥して待つ。項王に謂ひて曰はく、「江東小なりと雖も、地は方 せん り しん ふね あ かんぐんいた も わた な かうわうわら 千里、衆は数十万人、亦王たるに足るなり。願はくは大王急ぎ渡れ。 いまひと い てん われ ほろ われなん わた な か せき 今独り臣のみ船有り。漢軍至るも、以つて渡る無し。」と。項王笑ひ かう とう し てい はつ せん にん かう わた にし いま いち にん かへ な たと 「天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡ることを為さん。且つ籍は て曰はく、 ふ けい あは われ わう われ なん めん もく これ まみ 江東の子弟八千人と、江を渡りて西す。今一人の還るもの無し。縦 かう とう たと かれ い せきひと こころ は すなは てい ちやう ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありて之に見え い い われこう ちやうじや し われ こ うま き ご さい ん。縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧ぢざらんや。」と。乃ち亭長に ところてき な かつ いち にち ゆ せん り これ ころ しの 「吾公の長者たるを知る。吾此の馬に騎すること五歳、 謂ひて曰はく、 あ も こう き たま みなうま お ほ かう たんぺい ぢ せつせん ひと 当たる所敵無し。嘗て一日に行くこと千里なり。之を殺すに忍びず。 すなは 」と。 以つて公に賜はん。 ころ ところ かんぐん すう ひやくにん かうわう み またじふ よ そう かうむ かへり 乃ち騎をして皆馬を下りて歩行せしめ、短兵を持して接戦す。独り かうわう かん き し ば りよ ば どう み い なんぢ わ こ じん あら 項王の殺す所の漢軍、数百人なり。項王の身も亦十余創を被る。顧み ば どうこれ めん わうえい しめ い こ かうわう かうわう るに漢の騎司馬呂馬童を見たり。曰はく、「若は吾が故人に非ずや。」 い われ き かん わ かうべ せん きん いふ ばん こ あがな われ なんぢ ため と。馬童之に面し、王翳に指して曰はく、「此れ項王なり。」と。項王 すなは すなは じ ふん し 乃ち曰はく、 「吾聞く、漢我が頭を千金・邑万戸に購ふと。吾若が為 とく に徳せしめん。 」と。乃ち自刎して死す。 現代語訳 やがて項王は東へ向かって烏江を渡ろうとした。烏江の宿場の長が、船を出す 準備をして待っていた。 (烏江の宿場の長が)項王に向かって言うには、 「江東は 小さいとはいえ、土地は千里四方(の広さが)あり、民衆は数十万人もいて、ま た王とな(って治め)るのに十分な場所です。どうか大王さま、急いでお渡りく ださい。今、私だけが船を持っております。漢軍がやって来ても、渡れはしませ ん。 」と。項王は(烏江の宿場の長の言葉を聞いて)笑って言った、 「天が私を滅 ぼそうとしているのに、 私はどうして(長江を)渡っ(て逃げ)たりするだろうか。 それに、この籍は(以前)江東の若者たち八千人と、長江を渡って西に向かった。 (ところが)今や一人として帰ってきた者はいない。たとえ江東の父兄たちが同 − 132 − 情して、私を王としてくれたとしても、私はいったいどんな顔をして彼らに会え 古典 るだろうか。たとえ彼らが(私に対して)何も(文句を)言わなかったとしても、 この籍はどうして心に恥じずにいられようか。 」と。そこで(項羽が)宿場の長 に向かって言うには、「私はあなたが徳の高い人であることがわかる。私はこの(騅 という)馬に乗ることが五年、向かうところ敵はなかった。以前には一日に千里 を走ったこともある。この馬を殺すことには耐えられない。そこであなたに差し 第 47・48 回 ▼ ラジオ学習メモ 上げよう。 」と。 そこで(項王は)騎馬隊の部下に命じて馬から下りて歩かせ、 (刀剣などの) 短い武器を持って接近戦をした。 項王一人で殺した漢軍の兵は、数百人にものぼっ た。 (しかし、 )項王の身も十数カ所の傷を受けていた。(ふと)振り返ると、漢 軍の騎司馬という官についていた呂馬童の姿が目に入った。 (項王はそこで) 言っ た、 「おまえは私の昔なじみではないか。 」と。馬童は顔を背けて、王翳にさし示 して言ったことには、 「これが項王だ。 」と。項王はそこで言った、 「私は聞いて − 133 − いるぞ、漢では、私の首をとった者には千金と一万の戸数の町が与えられると。 古典 私はおまえのために恩恵を施してやろう。 」と。そして自分で首を切って死んだ。 (学習メモ執筆・小原広行) 第 47・48 回 ▼ ラジオ学習メモ