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ベンジャミン・ストロングと 1920年代の国際金融協力

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ベンジャミン・ストロングと 1920年代の国際金融協力
千葉大学
経済研究
第2
5巻第4号(2
0
1
1年3月)
!!!
論 説
!!!
!!!!!!!
!!!!!!!
ベンジャミン・ストロングと
1
9
2
0年代の国際金融協力
秋
元
英
一
プロローグ
1.ドイツ賠償問題
2.イギリスの金本位制復帰
3.株投機と利上げ
エピローグ
プロローグ
ベンジャミン・ストロング(Benjamin Strong, Jr.,1
8
7
2―1
9
2
8)は1
9
1
3
年の連邦準備制度創設にかかわり,その後ニューヨーク連銀の初代総裁
を1
4年間つとめた銀行家である。1
9
2
9年大恐慌の原因をめぐるアメリカ
での論争で,ミルトン・フリードマンが,大恐慌期にもしもストロング
が生きていたとしたら,連邦準備理事会(FRB)によってようやく1
9
3
2
年になって本格的に実施された買いオペレーションがもっと早い段階で
行われ(おそらくは1
9
3
0年に)
,金融政策は拡大コースをたどり,その
分大恐慌の激しさが減じられたのではないかと指摘したことでとりわけ
注目された1)。ストロングはすでに1
9
1
6年に肺結核と診断され,1
9
2
8年
1
0月に他界した。連銀総裁の任にあった時期にも,彼は病気の静養をか
ねて国内ではコロラド州に避暑地を求め,さらにはヨーロッパにわたり
(835)
27
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
数か月から半年程度ニューヨークのオフィスを空けることがめずらしく
なかった。今日では考えられないことだがこの「転地療養」はめったに
休職扱いにならなかった。彼の死後,連邦準備理事会は明瞭なリーダー
シップを欠いたこともあり,ニューヨーク連銀でなくワシントンの
FRBが金融政策の中心となっていくが,ストロングの任期中はニュー
ヨーク連銀が実質的な指導力を発揮した。本稿は,2
0
0
9年1
1月にソウル
大学で開かれたアメリカ研究国際シンポジウム(共通論題は“Elites and
Elitism in American Democracy”
)で発表した報告“Benjamin Strong
and International Financial Cooperation during the 1
9
2
0s”を元にして
いる2)。この報告の段階では一次史料を参照できなかったが,2
0
1
0年3
月にニューヨーク連銀資料室でストロング文書を参看する機会があった
ので,本稿にはそれらを可能な限り反映している。
ストロングは対外的にもアメリカのFRBを代表した。彼の親友とも
言えるのがイングランド銀行総裁を長く(19
2
0―4
4)つとめたモンタ
ギュー・ノーマン(Montagu C. Norman,1
8
7
1―1
9
5
0)である。ノーマ
ンは1
9
3
3年に遅い結婚をするまでは独身であり,ロンドン郊外のキャム
デン・ヒルに邸宅を構えていた。ストロングとノーマンは1
9
1
6年にロン
ドンではじめて会って以来,公私両面で交流を深め,1
9
2
0年代の国際金
融協力の軸となった。この二人の親密さに比して,ライヒスバンク総裁
ヒャルマール・シャハト(Hjarmar H.D. Schacht, 1
8
7
7―1
9
7
0)はノーマ
ンと良好な関係もったがストロングとシャハトはそれほどでもなく,フ
ランス銀行総裁エミーユ・モロー(Emile Moreau,1
8
6
8―1
9
5
0)はあと
1)Milton Friedman & Anna J. Schwartz, A Monetary History of the United States,
1867―1960(Princeton University Press,1963), pp.412―415.
2)報告はその後ソウル大学アメリカ研究所の紀要に掲載された。Eiichi Akimoto,
“Benjamin Strong and International Financial Cooperation during the
192
0s,”American Studies(American Studies Institute, Seoul National University)Vol.33, No.1/May,20
10, pp.1―21.
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の3人とは距離を置いた関係だった。それでも,この4人がそろうこと
によって,国際的な金本位制再建という困難な課題に対処する適合的な
土台を形成したのである。
ストロングは1
8
7
2年,ニューヨーク州フィッシュキル・オン・ハドソ
ンで生まれた。1
8
9
1年に投資金融会社キュイラー,モーガン・アンド・
カンパニーに入り,金融業界入りした。やがて,彼はアトランティッ
ク・トラスト・カンパニーの事務局長補佐となり,1
9
0
4年にはバンカー
ズ・トラスト・カンパニーの事務局長となった。1
9
0
9年には副社長,
1
9
1
4年には社長に昇進している。1
9
1
3年の連邦準備法の成立後,法案に
対するさまざまな批判にもかかわらずストロングは結局ニューヨーク連
邦準備銀行総裁への就任依頼を引き受け,1
9
2
8年の死までその職にあっ
た。
1
9
1
9年1
2月,医者から長期療養を勧められたストロングは,当初退職
しようとしたが認められず,1
9
2
0年に給与半額で1年間の休職をするこ
ととした。この年,5月には日本に渡航し,7月下旬まで全国を観光し
てまわった。観光と休養が主とはいっても,ストロングは東京で講演し,
高橋是清や深井英吾,井上準之助らに会って突っ込んだ意見交換をして
いる。蔵相高橋是清は,7月にストロングと会って,日米の物価上昇を
どう抑えるかについて意見交換をしたときのことをメモにこう書いてい
る。日本の識者や新聞は通貨量を縮小するには金利を引き上げるのがい
いと主張しているが,これはさまざまな方面への影響を勘案しなくては
ならず,そう簡単なことではない。金利を引き上げることによって悪影
響を蒙ることなしに,所期の目的を達成することはできない,と主張し
た。ストロングは,当局を批判する人々が確かな数値を念頭に置いてい
るわけでない点で,日米の状況は似ているとしたうえで,こう語ったと
いう。「私の意見では,金利をどの程度引き上げるべきか。たとえば,
もしも銀行がその金利を1
0%引き上げた場合,そしてもしも投機家たち
(837)
29
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2
0年代の国際金融協力
が2
0%儲けた場合,投機の波はこれまで以上に広がるであろう。何より
もまず,この投機を抑えるために国がうまく対処しないかぎり効果的な
3)
手を打つことはできない」
。
当時からストロングが,金利引き上げによって投機の抑制がすんなり
と実現するわけでないと認識していたことを窺わせる。
1.ドイツ賠償問題
ストロングは,1
9
1
9年ポール・ウォーバーグ(Paul Warburg)やフ
レッド・I・ケント(Fred I. Kent, バンカーズ・トラスト・カンパニー
の社長)らとともに「アムステルダム覚え書き」
(Amsterdam Memorial)
を起草するのに深くかかわっていた。J・P・モルガン.Jr. らが署名
したこの文書はヨーロッパの国や企業に必要な,大規模なアメリカのク
レジットやローンの展開,寛大な政府間債務の処理,ドイツに寛容な賠
償査定,そしてこれらの目的達成のためにアメリカとヨーロッパ双方に
犠牲を求めていた。ストロングはニューヨーク連銀総裁という公的立場
に配慮して署名こそしなかったが,趣旨を深く理解していた。この文書
は 国 際 連 盟 が1
9
2
0年1
2月 の テ ル・ミ ュ ウ レ ン・プ ラ ン(ter Meulen
plan)を支持する契機を与えた。これは,ヨーロッパの諸政府にヨー
ロッパ復興のために民間クレジットを保証するのに用いられるべき債券
を発行することを要請する内容であった4)。ただ,こうした努力は賠償
問題の展開には大きな影響力を与えることはできなかった。
3)“A Rejoinder of Baron Takahashi, Minister of Finance, to the Interpretation
of Baron Sakatani on the Financial Situation of the House of Peers on the5th
of July,1920.”Strong Papers.1
3
30.2FRBNY.
4)Priscilla Roberts,“Benjamin Strong, the Federal Reserve, and the Limits to
Interwar American Nationalism, Part I: Strong and the Federal Reserve System in the 19
2
0s.”Federal Reserve Bank of Richmond, Economic Quarterly
Vol.86/2(Spring,2
00
0), p.7
5.
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第一次大戦を引き起こした責任はすべてドイツにあると規定したヴェ
ルサイユ条約に基づいて,1
9
2
1年5月のロンドン支払い計画では,
1,
3
2
0億金マルク(=3
3
0億ドル)の賠償総額が決定された。ロンドン計
画の当初の要求額は1
9
1
3年価格で4
0億マルク,当時のドイツの純国民生
産(NNP)が3
5
0∼4
0
0億マルクと推定されるので,賠償負担はNNPの
1
0%を優に越えていたわけである。今日の開発途上国の債務負担をその
国の総輸出額との関係で見ると,4
0%を越えるとかなり困難だといわれ
るが,当時のドイツの場合にはそれの2倍の額(8
0%)であった。それ
でもドイツは,実物・金その他で19
2
1年に3
7億マルク(NNPの1
0%,
政府総支出の1/3)を支払った5)。
その後,ドイツの支払いが滞ると,フランスとベルギーの軍隊はドイ
ツ経済の心臓部ルール地帯を占領した。財政赤字を起点に加速的に進展
していたドイツのインフレーションは,占領による工業生産の遅滞を受
けて悪化し,1
9
2
3年8月には1ドル=6
2万マルク,1
1月上旬には1ドル
=6,
3
0
0億マルクとなった。このインフレーションは,1
9
2
3年末の「レ
ンテンマルクの奇跡」
(1兆旧マルク=1レンテンマルク)によって終
息されたのだが,ロンドン支払い計画に代わるドーズ案による賠償支払
の履行と,ドイツの通貨と金融の国際的管理が残った。
1
9
1
9―3
1年間のドイツの賠償金支払い総額は21
4.
1
5億マルク(=5
3.
5
億ドル)に達した。そのうち,1
9
2
4―3
1年間は1
1
2.
8
1億マルク(=2
8.
2
億ドル)
,この間のドーズ外債などを通じたドイツ対外借入総額は
2
8
2.
5
4億マルク(=7
0.
6億ドル)だが,ドイツはその3分の1強にあた
る1
0
8.
8
4億マルク(=2
7.
1億ドル)をほとんどアメリカ向けに投資して
いる。他方で,ドイツ賠償を高額にした一因とされる,ヨーロッパ諸国
5)Steven Webb, Hyper Inflation and Stabilization in Weimar Germany (Oxford
University Press,19
89)
, p.106.
(839)
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2
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のアメリカに対する戦債返済額は,1
9
1
9―3
0年間に1
2.
9億ドルで,ドイ
ツが支払った賠償金額の4分の1以下である。よく言われる,アメリカ
のドイツに対する(民間)ローン)→ドイツのイギリス,フランスに対
する賠償金支払い*→イギリス,フランスのアメリカに対する戦債支払
い+,という資金循環は,+/)が5分の1程度であることが示すよう
に,同額の資金循環からは遠かったのである。
ところで,初期のロンドン支払い計画によるドイツ賠償支払いの遅滞
と停止,インフレーションの進行とその加速化は,ドイツ国内の階級構
成や債権債務関係を崩壊させた。チャールズ・メイヤーはこう指摘して
いる。「外国通貨にアクセスできた人々は個人的に豊かだった。外国人
は格安な休暇を楽しむことができた。大きな再分配は中産階級の異なる
構成部分のあいだに起きた。それは必ずしも所得水準と相関していな
かった。さらに重要な点は,この不平等な運命が伝統的な階級利害を破
壊したことである。インフレーションはドイツの中産階級部分を苦しめ
てばらばらにした。年金生活者,小売業者,そして国債を保有していた
6)
愛国者たちこそが沈黙せる犠牲者となった」
。ハイパーインフレー
ションの時期は,労働者の権力を弱めたものの,フル生産のために労働
者の協力を獲得する必要から,組合は重要な,新たな交渉力と企業内の
地位を引き出した。「インフレーションと通貨安定の危機はこの均衡状
態のなかの民主主義勢力をひどく弱め,それによってワイマル共和国が
7)
組織化した社会的福祉国家の基礎を揺るがした」
。ハイパーインフ
レーションのもとでのドイツ民主主義の危機が大陸全体を前例のない混
乱に陥れたので,アメリカ合衆国は明瞭な孤立主義的態度をやめざるを
6)Charles Meier, Recasting Bourgeois Europe: Stabilization in France, Germany,
and Italy in the Decade after World War I(Princeton University Press, 1
97
5),
p.241.
7)Ibid ., p.364.
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得なくなった。「ドーズ案を通じてのヨーロッパの出来事にふたたび目
を覚まして合衆国が関与したこと,およびそれに引き続くアメリカの貸
付はドイツの国内政治,フランスとドイツの関係,そして究極的には,
8)
大陸の経済的状態全体を変形させることになった」
。
このドーズ案の策定に至るプロセスにストロングはコミットしていな
かった。敗戦後ドイツの経済状況はハーヴェンシュタイン(Rudolf E.A.
Havenstein,1
8
5
7―1
9
2
3)がドイツ銀行(ライヒスバンク)総裁の職に
あった最後の時期(1
9
2
1―2
3)が最悪であった。その様子は,ノーマン
の手紙や,ハーヴェンシュタインによるノーマンに対するローン要請を
訴える手紙などに窺える。ノーマンは「ヨーロッパによりよい経済状態
を再確立するための提案」の中でこう述べている。「ヨーロッパは麻痺
している。その産業は混乱し,その国際貿易は行き詰まり,その国民は
失業と窮乏に苦しんでいる。輸送網は無秩序に陥り,その結果,通商全
体の流れが妨げられている。一国の他国に対する信頼の欠如が諸個人の
努力を麻痺させ,各国通貨の価値の変動が貿易を原初的なバーターに限
定させ雇用の機会を破壊させる傾向がある。国際貿易の回復と各国の諸
資源の開発が生産的雇用量を拡大し,現在の窮乏をやわらげる方向に進
むであろう。貿易と産業に従事している人々がいま一度中央・および東
ヨーロッパにおいて経済原理が遵守されること――これこそが私企業の
発展と存続自体にとって不可欠である――を確信したときにはじめて国
際貿易が再確立されるだろう。……十分な交換手段が利用可能でなくて
はならない。そして,一般に貿易にとって合理的な保証を提供する金融
的通貨的状況がなくてはならない。……中央・東ヨーロッパの市場は
ヨーロッパ産業の繁栄のために不可欠である。……東部に困窮と飢餓を
8)Lester V. Chandler, Benjamin Strong, Central Banker(Arno Press, New York,
1978), p.277.
(841)
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もたらす状況は,西ヨーロッパの産業人口を長期にわたって過少雇用の
状態に追いやることになろう。……各国が自らを自助的に再建する過程
はなお成功したとは言えない。ヨーロッパの各国間の総力を挙げての協
力とコミュニティのあらゆる階級間の協力だけが困難を克服することを
9)
可能にする」
。
これより先,ハーヴェンシュタインはノーマンに宛てて,以下のよう
な懇請の手紙を送っている。賠償委員会は,ロンドン最後通牒でドイツ
に課した金額を軽減する意志はない。ドイツは,1
9
2
2年1月1
5日までに
5億金マルクを,そして2月15日までに2.
5億金マルクを支払わなくて
はならない。ドイツは現有の外国通貨のなかからこれらを支払うことは
不可能である。約5.
5億金マルク不足する。とはいっても,ドイツの態
度の誠実さを示すには,行動が必要である。それはこれらの支払いに
よって生じる赤字を補ôするために,「信用という例外的な方法に頼る
しかない。われわれは現在のところ,イギリスを通してしかこの信用を
得る可能性を見出しえない」
。ローンの担保は将来の関税収入や輸出に
よる外貨しかあり得ない。したがって返済は時間のかかるものになろう。
このローンの可能性があれば,ドイツ政府は賠償委員会と交渉するつも
りである,と10)。ノーマンの返答は以下のようであった。「私は意見形
成に最良の資格のある人々と相談したが,あなたの要請に答えると,こ
う申し上げるしかない。現時点でドイツ政府によって賠償委員会に対し
てこれから数年間の支払いを規定するような諸条件のもとでは,わが国
1
1)
でそのような貸付を獲得することはできない」
。ノーマンは1
0月の手
紙でストロングにこう書き送っている。「
[ドイツ銀行]総裁は静かな,
9)Norman, “Proposals for re-establishing better economic conditions in
Europe,”December3
0,1
9
21. Strong Papers,1
11
6.
2. FRBNY.
10)Havenstein to Norman, November1
0,19
2
1.1
11
6.
2Strong Papers, FRBNY.
11)Norman to Harvenstein, December3,1
92
1.11
1
6.
2Strong Papers, FRBNY.
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控えめな,説得力ある,そして非常に魅力的な人だ。ただ,きわめて悲
しげだ。私は,彼のほとんど絶望的な態度と,差別なく,友好的なやり
方で扱われたことが彼に明瞭に与えたと思われる喜びの感情とに深い印
象を受けた。……銀行と呼べるようなものはドイツには存在しない。つ
まり,彼の心は上昇し続ける物価と下がり続ける為替のことや必要な輸
入に対する支払いや今後に続く各賠償支払いの恐れでいっぱいなのだ。
……彼はフランスによるより一層の領土占領の見込みで完全に打ちひし
がれているし,彼はなかんずくアメリカの銀行やわれわれの銀行から何
1
2)
らかの助け,何らかのアドバイス,ないしは慰めを欲していた」
。
ストロングは賠償問題と深くかかわるイギリス・フランスとアメリカ
のあいだの戦債問題について,ノーマンに宛てて,合衆国は外国政府が
負っているいかなる債務もキャンセルする意志がないと断っている。さ
らに,「われわれ銀行家は賠償と債務とが同時的に考慮されるべきだと
のあなたの考えにまったく同情するが,しかし,残念なことに,債務は
待つことができるが,賠償は待てないのだ。……もしも賠償にかんする
協定が合衆国に対する債務の多少の調整に依存するというのなら,可能
であれば,上院で支配的なこのテーマについてのすでに熱気を帯びた感
情をさらに刺激することがないような方法でなされるべきではあるが。
この点はここで挑戦と受け止められるであろうし,その影響は前もって
注意深く考慮されるべきである13)。ハーヴェンシュタインのローン要請
については,要請があっても現在のところは応ずるべきではない,と答
えている14)。ライヒスバンクとは良好な関係を保ちたいが,賠償問題の
混乱から発する不可能事にわれわれ自身の資源を用いるべきではないと
いうのがストロングの考え方であった。彼は述べる。「一般的に言って,
12)Norman to Strong, October28,19
21.11
16.
2Strong Papers, FRBNY.
13)Strong to Norman, December16,19
21.111
6.
2Strong Papers, FRBNY.
14)Strong to Norman, November25,19
21.11
16.
2Strong Papers, FRBNY.
(843)
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2
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現状は根本的な修正を必要とする状況に対してふたたび一時しのぎをし
ようとしているのではないか。それは,ドイツの支払い能力について,
そして支払い方法についてのより良い規制,および支払いが必要とされ
るレートについてのより完璧な理解やより徹底した方法を延期させ,中
1
5)
断する効果をもつのではないか」
。ストロングは現在のスケジュール
での,そして現在のレートでの支払いはドイツには無理だとしている。
とはいっても,ドイツの支払い能力を正確に算定するのは困難である。
これに関連してストロングは,別の手紙で以下のような構想を示して
いる16)。主要国間で3億ドルほどの金を用意して国際通商勘定を作り,
本部をニューヨークとロンドンに置く。同額のドルをFRBが用意する。
貿易の決済にはこの勘定から金が無制限に用いられる。仮りにドイツが
獲得した信用によってさまざまな国の通貨を無秩序に購入するといった
場合でも,一種の保険のような役割をこの機関が果たすことで,通貨間
のレートの激変は防げるであろう。現在の困難を引き起こしているのは,
貿易ではなく,過去の債務の支払いが無秩序に行われることなのである。
諸通貨間のレートは数か月か数年でパリティに近づくであろう。
ドイツの賠償金にかんするロンドン支払い協定は,ドーズ案とちがっ
て支払い方法の詳細についてはドイツに委ねたために,必要な外貨や金
の調達という仕事がもろに賠償当事国に負わされることになった。また,
アメリカとイギリス,フランス間の戦債の「割引率」
(元金1ドルに対
していくら実際に返済するか)も,あるいは支払いの間隔や時期も未定
だった事情が上の提案に反映している。ちなみに,フランスとアメリカ
のあいだで戦債1ドルを4
0セントに減額することで合意したのは,1
9
2
6
年4月のことであった17)。イギリスはアメリカとのあいだで戦債の利子
15)Ibid.
16)Strong to Norman, November1,1
92
1.1
116.
2Strong Papers, FRBNY.
36
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1
1年3月)
部分を3
0%減額することで合意している18)。
ストロングとノーマンの交流は1
9
1
6年から始まっているが,1
9
2
1年に
井上準之助に宛てた手紙の中で,ストロングは以下のように述べている。
主要発券銀行間のより良い理解が必要だと考えている。ノーマンが今年
訪ねてきたときにも相当時間をかけてこの件を話し合った。アムステル
ダムでも,ノーマンとオランダ銀行総裁のヴィッセリングをまじえて秘
密の議論をした。スイス国立銀行の総裁やベルギー国立銀行総裁とも似
たような会合をもった。深井氏にもこのことは話したが,あらためてこ
こでその必要について書いておきたい。「私はなおこのことを明瞭に提
案するほどの準備はできていないが,もしもわれわれの議論が来年初頭
に私をヨーロッパに行かせるほどに煮詰まるなら,それは非常な支援と
なるだろうし,もしも貴殿がそこに合流できれば非常に重要なことにな
ると思う。わが良き友よ,この戦争の悲惨な結果をやわらげるために何
らかの建設的かつ有効なプログラムが必要となるような,その時期が来
たのか,あるいは近づいているのだということを知らなくてはならない。
私はきわめて率直に言わなくてはならないのだが,これらの事柄に対す
る政治家たちの見方を恐れているのだ。そしてもしもそうした重要な地
位にいる人々に対して非礼になることなしにそう言わなくてはならない
とすれば,私は経済的問題についての彼らの失敗を恐れるのである。ほ
とんど同様に,さまざまな人々が諸問題のまったく実行不能な解決策を
提示する努力の結果を恐れはじめている。その解決策たるや,大手術に
よってではなく,何年もかかってはじめて,ないしは,そしてゆっくり
17)Liaquat Ahamed, Lords of Finance: The Bankers Who Broke the World (The
Penguin Press, New York,20
0
9), p.25
1.
18)Stephen A. Schuker, The End of French Predominance in Europe: The Financial
Crisis of 19
24 and the Adoption of the Dawes Plan.(The University of North
Carolina Press,197
6), p.156.
(845)
37
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9
2
0年代の国際金融協力
とした治癒のプロセスによってのみ対処することのできるものなのだが。
このはなはだ一般的な示唆は貴殿の思索と率直なコメントを期待しての
1
9)
ことなので,それらを心より歓迎したい」
。
翌年になると,ヨーロッパの情勢は悪化する。当時財務次官で,のち
にドイツ賠償委員会ベルリン代表部長となったパーカー・ギルバート
(Seymour Parker Gilbert, 1
8
9
2―1
9
3
8)に宛てた手紙のなかでストロン
グはこう述べている。フランス政府がドイツによる賠償金支払い問題で
非常な困難に陥っているのは,「フランス国民が賠償というテーマにつ
いて十分に知らされていないからである。……この政治的情勢のもとで
は,ドイツが賠償金返済不履行の場合には,フランス政府はドイツの
ルールその他の地域を占領するという脅迫に訴えることを強いられてい
る。このコースは,必要なコストや軍隊が賠償金を集めることができな
いゆえに,フランスにとって破滅的である。私の意見では,この状況は
真実を明らかにすることについての不同意に行き着いたフランス政府の
臆病さからもっぱら発生したものである。フランス政府は賠償問題につ
いては最初から,ドイツはその支払い能力の範囲内でのみ支払わせるこ
とができるのであって,それ以上ではないという理論に基づいて,真正
2
0)
面に向き合うほうが賢明だったのだ」
。
ドイツによる賠償金支払いが滞るなか,1
9
2
3年1月にフランス軍とベ
ルギー軍はかねてより「予告」していたルール地帯の占領を開始した。
ドイツ政府は炭鉄地帯の労働者に「受動的抵抗」を呼びかけ,基幹産業
の事実上のストが続いた。生産が減速したうえに,ルール労働者に対す
る給料支払いなどの支出増加によって政府財政は破綻し,その破綻を繕
うために高額紙幣が次々に発行されたために,戦後ずっと続いていたド
19)Strong to Inoue, November1
7,19
21.13
30.
1Strong Papers, FRBNY.
20)Strong to Gilbert, October20,19
22.10
12.
1Strong Papers, FRBNY.
38
(84
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1
1年3月)
イツのインフレーションは危険水域に突入し,ハイパーインフレーショ
ンとなった。1
9
2
3年1
1月の旧1兆マルク=1レンテンマルクとするデノ
ミネーションによってインフレーションは収束に向かうが,アメリカが
介入してドーズ案が提示され,ドイツの受諾によってルール占領が終わ
るのは1
9
2
4年8月のことであった。
ドーズ案の関係国による受諾は,アメリカとしても,戦債問題全体に
対して新たな視角から見ることの必要を認識させた。「ドーズ案は先例
を作った。ドイツのケースにおいて守られるべき一般原則は,――すな
わち,支払いを経済的能力の範囲内に限定すること,および,大きな国
際的資金移動の復活以前に財政的,金融的改革のためのモラトリアムを
許容すること――旧連合国の債務国にも同等の公正さをもって適用すべ
2
1)
きである」
。ドーズ案採用の1か月前に,ストロングはノーマンに宛
ててこう書いている。「
[価格の]変動はきわめてゆっくりであり,非常
に多くの種類の原因から起きる。貴国[イギリス]自身の通貨再建に向
かっての最初のステップはドーズ案の採用であり,8億マルクのローン
を通じてそれを成功裏に開始することだという私の信念を変える事態は
起きていない」
。その次のステップが債務者の返済能力に応じた債務調
整である。「あなたも言うように,金パリティに復帰するのを急ぐ必要
はない。しかし,その目的を容易にするであろう漸進的な段階に応じて
――それが今月末であろうと,1年後か,数年後かであろうと――ある
2
2)
政策を追求すべき好機を利用する必要はある」
。同じく,1
1月の手紙。
「見通しはドーズ案の採用によって改善した。それは,たしかに次の数
年間は賠償支払いが為替市場にとって重大な妨害要因となることを除去
するにちがいない。……貴国は来年末までに金支払いに戻るか,あるい
21)Schuker, op. cit., p.160.
22)Strong to Norman, July9,1
924.11
16.
4Strong Papers, FRBNY.
(847)
39
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
2
3)
は,金輸出禁止の時期を延長する法律を作るかすればよい」
。ちなみ
に,イギリスとアメリカは1
9
2
3年1月に戦債の削減に合意し,金利部分
が3
0パーセント減額された24)。
2.イギリスの金本位制復帰
以上の検討からも,ドイツ賠償問題の一応の決着のあとの最大の課題
はイギリスの金本位制復帰だったことが読み取れるが,結論から先に言
えば,イギリスは1
9
2
5年4月2
8日,戦前旧平価の1ポンド=4.
8
6ドルで
金本位制25)に復帰した。このレートは当時の実勢からすると約1
0パーセ
ントのポンドの過大評価であり,イギリス経済に物価押し下げのための
高金利とデフレ政策を余儀なくさせるものであったが,戦前まで世界経
済の牽引役であったポンドの威信の問題も絡み,新平価復帰という選択
肢はほとんど問題とならなかった(両大戦間期の各国中央銀行割引率の
推移は図を参照)
。そのため,とりわけアメリカ,連邦準備銀行(FRB)
による低金利政策の維持と,FRBニューヨークによる2億ドルの融資
と,さらにJ.P. モルガンを通じた3億ドルのローンが必要であった。こ
の金額はトータルで3億ドルに減額された。
イギリス政府の方針は1
9
2
5年2月5日付の『通貨とイングランド銀行
券発行にかんする委員会報告』に示されている26)。この報告は,1
9
1
8年
に出されたいわゆるカンリフ委員会報告を引き継ぐものである。カンリ
フ委員会報告は,戦後イギリスの金本位制復帰にさいして,金のイング
ランド銀行への集中と国内金貨流通の停止,1.
5億ポンドの金準備に対
23)Strong to Norman, November4,1
92
4.1
116.
4Strong Papers, FRBNY.
24)Schuker, op. cit., p.156.
25)金はもっぱら対外貿易決済用としてイングランド銀行に集中される金地金本
位制だった。
26)Report of the Committee on the Currency and Bank of England Note Issues,
February5,19
25.111
6.
5Strong Papers, FRBNY.
40
(84
8)
千葉大学
経済研究
第2
5巻第4号(2
0
1
1年3月)
図 中央銀行再割引率 1
9
2
4―1
9
4
1年
16
14
ニューヨーク連邦準備銀行
イングランド銀行
ライヒスバンク
フランス銀行
12
再 10
割
引
率 8
︵
%
︶ 6
4
2
0
1924年
1927年
1930年
1933年
1936年
1939年
1942年
資料:Banking and Monetary Statistics(19
75)
, pp.4
3
9―44
1;6
5
6―6
58.
応した国内紙幣発行を定めていた。新しい報告は,ドルに対するスター
リングの価格が1
0∼1
2パーセント下がることがパリティのために必要だ
とし,金貨の国内流通は「贅沢品」だとしている。また,金本位制への
早期復帰は変えられないこと,パリティ付近での「管理」ポンドの維持
が必要だとしている。
ストロングはノーマンに宛てて,こう書いている。「ドイツの通貨の
安定についての私自身の見解は,あなたが理解してくれると思っている。
彼らがもしも金価値をもった通貨を有するようになれば,彼らは最初相
当程度ドルに依存する,つまりアメリカの信用に依存するということだ。
一時的な必要は,議論の問題ではないし,意見の問題でもありえない。
それは意志や計画によってでなく,自然の法則によって決まるであろう。
(849)
41
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
その後あなたとあなたの仲間がスターリングを等価に戻してそこに維持
するなら,そして金ベースに戻すなら,議論や論争のテーマとしては問
題は完全に取り除かれるであろう。私はいまの時点で問題を提起するこ
とについてなんらの利益を感じない。そして報告は,このテーマが必要
2
7)
とする以上のコメントを要求しているように思われる」
。これに対し
てノーマンは,「いずれにせよ,ドーズ案は明瞭に金価値通貨を要求し
ており,したがってあなたの見解が通用するだろう」と答えている。ア
メリカとイギリスの金利差については,「私はむろん,貴国の利率が下
がり,わが国の利率が上がることを望んでいる。というのも,われわれ
の金平価到達に向かっての明瞭なステップとしてわれわれの為替レート
2
8)
が改善するのを見たいからだ」
。ノーマンはこうも述べる。「われわれ
のあいだで将来の金政策について一種の理解が必要になるだろうという
ことについて私はまったく同意する。もしもあなたが利率を可能な限り
低く保ち,現在貴国の市場がやっているように世界の他の国々に自由に
貸すのなら,あなたはこの目的に向けて支援をしていることになると思
う。……したがって,当分のあいだあなたは低金利と対外貸付を続け,
われわれは上に述べたような決意の結果として,わが国の政策がどのよ
うであればいいかについてわかるまでは,高金利を維持しなければなら
2
9)
ない」
。
ストロングはノーマン宛にこう書いた。「アメリカにおける一定の国
内的展開がたしかに,あなた自身の立場の同情的評価を伴いつつ,連邦
準備システムがマネーマーケットにおいて下記のような政策を採用する
ことを望ましいものにしたし,じっさい必要なものとした。それは
ニューヨークよりロンドンの金利水準を,少なくとも一部は低く抑える
27)Strong to Norman, June3,1
9
24.1
11
6.
4Strong Papers, FRBNY.
28)Norman to Strong, June16,192
4.111
6.
4Strong Papers, FRBNY.
29)Norman to Strong, October16,1
92
4.111
6.
4Strong Papers, FRBNY.
42
(85
0)
千葉大学
経済研究
第2
5巻第4号(2
0
1
1年3月)
ことに貢献した。そしてわれわれの2つの市場の現在の関係,金輸入の
阻止,外国ローン需要をロンドンからニューヨーク市場に移すこと,に
一部は帰することができると考えても良いのではないか。われわれの信
用政策(貴国とわが国両方)にかんするかぎり,それはあなたの計画に
とってむしろ好ましい状況に結果したし,われわれは,これがもっと長
続きするのか,またわが国のほうにより高い金利をもたらす原因となる
ようなどのような影響が生起して,この2つの市場のあいだの不均衡―
―これは貴国の金支払いへの復帰の成功にいくぶんか依存しているにち
3
0)
がいないが――を一掃するか,を考えなくてはならない」
。何よりも
この年,1
9
2
4年は大統領選挙で共和党のクーリッジが当選し,ビジネス
に携わる人々にとって好ましい環境となったのは幸いであった。景気も
好転しつつある兆候が見えた。ノーマンは1
9
2
4年末にニューヨークに渡
りストロングと意見を交わした。金本位制復帰直後のノーマンの手紙は
こう述べている。「自由な金への移行は容易だった。予期したよりも小
さな驚きをもたらしたのみならず,関心も低かった。われわれはむしろ
山の準備をしたのに,せいぜいのところネズミ一匹を得たのみであ
3
1)
る」
。
ストロングは1
9
2
6年4月の下院銀行・通貨委員会でイギリス金本位制
復帰にさいしてのアメリカ金融界の協力について証言した。「銀行の一
団――私はその数を知らないが,相当大きなグループだ――がその
ニューヨークの金融エージェントであるJ・P・モルガン商会を通じて
イギリス政府に直接融資を行った」
。ストロングはさらに,イギリスの
安定の意味するところをこう証言した。「ロンドンに自由金市場を復活
させる決定は,金本位制の最終的な世界的再確立を意味する。……健全
30)Strong to Norman, November4,1
92
4.1
116.
4Strong Papers, FRBNY.
31)Norman to Strong, May8,1
925.11
16.
5Strong Papers, FRBNY.
(851)
43
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
な通貨状態と安定的為替関係の回復における合衆国の利害は,以下の事
実にある。すなわち,われわれはどの国よりも最大の外国貿易を行って
いる事実にこそ大きく存する。とくにいま現在,わが国の一産業は不況
に苦しんでいるが,そこからなお完全には回復していないのだが,それ
は農業であり,しかもそれは外国市場に非常に大きく依存している。わ
れわれの輸出のおおざっぱに2分の1が農民によって生産されており,
その生産物の2分の1が綿花である。綿花の相当部分が繰り越されて売
り切ることができていない。……貿易を減少させるものは何でも雇用を
3
2)
減少させ,そして生活水準を下げるのである」
。
ストロングの,ヨーロッパの安定が合衆国の繁栄への道,という観点
はときに反撥をまねくこともあった。とくに,アメリカに対する戦債を
「支払い能力に応じて」割り引くという考え方は連邦準備理事会内で同
意を得られないこともあった。1
9
2
4年5月2
2日の連邦準備理事会の会合
でストロングが,ドーズ案でドイツの債務を支払い能力に応じたベース
で調整したように,フランスの戦債も調整してもいいのではないかと発
言すると,アドルフ・ミラー(Adolf C. Miller,1
9
1
4―3
6年間FRBに在職)
は「国際的債務の神聖さ」を守るために「ビジネス上の債務は満額支払
われなくてはならない」と反論した。ミラーはFRB内部で数少ない博
士号をもった経済学者で,とくに 商 務 長 官 フ ー ヴ ァ ー(Herbert C.
Hoover)のアドバイザーだった。フーヴァーはストロングを「ヨーロッ
パの精神的付属物」と酷評した33)。しかしながら,とくにイギリスを金
利面と資金面で支援しながら金本位制に復帰させることができたのは,
ストロングとノーマンの強い絆とストロングのモルガン商会との古くか
32)W. Randolph Burgess, ed., Interpretations of Federal Reserve Policy in the
Speeches and Writings of Benjamin Strong(Garland Pub., Inc. New York, 1
98
3,
originally published by Harper in1
93
0), pp.291,28
2,288.
33)Schuker, op. cit., pp.1
6
2―16
3.
44
(85
2)
千葉大学
経済研究
第2
5巻第4号(2
0
1
1年3月)
らの交流を前提にしなければありえない話であった。
これより先,「レンテンマルクの奇蹟」への貢献を評価されたシャハ
トは1
9
2
3―3
0年間,ハーヴェンシュタインの後をおそってライヒスバン
ク総裁となった。ノーマンは1
9
2
3年1
2月3
1日の夜から数日間を,ドイツ
の危機を救う手立てを求めてやってきたシャハトとともに過ごした。ス
トロング宛の手紙にノーマンはこう書いている。「それにもかかわらず,
ドイツ全体の状況はきわめて深刻だ。運転資本がまったく欠如している
し,マルクからの逃避もあり,失業も増大している。にもかかわらず,
われわれはいまやチャンスがあると信じたい気がする。完全な崩壊を防
ぐおそらく最後のチャンスが。ライヒスバンクの新任の総裁が数日間こ
こにいたのだ。彼はAからZまでのすべての状況を知っており,一時的
に,私が可能だと信じる以上にそれをコントロールしているように思わ
れる。彼は前任者ハーヴェンシュタインよりもはるかに決然と行動して
いる。われわれは,何かいいことができるとすれば,それは金銀行を通
じてであろうという点で彼と同意した。外国の支援は不可欠である。そ
して,それが一般大衆から期待できないとすれば,中央銀行からでなく
てはならない。これはある程度ヨーロッパにおいて手配可能だろうと思
3
4)
う」
。ノーマンはその後シャハトの最良の理解者になった35)。ストロ
ングは1
9
2
5年5月のノーマン宛の手紙でシャハトのことに言及している。
ストロングのヨーロッパ旅行にかかわって,「私の難題の1つは,シャ
ハト博士がわが国に来たがっており,それについて私の返事を待ってい
るという事実に私が気がついたことから発している。彼にとってはおそ
34)Norman to Strong, January7,19
2
4.1
116.
4Strong Papers, FRBNY.
35)ノーマンは大学をきちんと卒業していない。しかし,彼は2年間,中央ヨー
ロッパ,ほとんどドレスデンで幸福な時を過ごした。このときの経験が彼の
考え方に大きな影響を与えたとシューカーは書いている。彼のドイツ人に対
する同情は,その後の外交をめぐるごたごたにもかかわらず,変わらなかっ
た。Schuker, op. cit., p.291.
(853)
45
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
らく秋が最良の季節だろうと思うが,……早い時期にあなたの希望を書
3
6)
いてくれればありがたい」
。
1
1月1
0日付のストロング宛のシャハトの手紙は,ドーズ案に関連して
賠償委員会のアメリカ代表の活躍に深甚な謝意を示し,この先のアメリ
カ訪問は連邦準備理事会や財務長官,国務長官との意見交換が主である
ことを誤解しないでほしいと述べている。ドイツの状況については,こ
う述べている。「われわれの最大の必要は,運転資本である。われわれ
の流動資産は費消されてしまった。幸運なことは,通貨が健全な基礎の
上に再確立されたことであり,われわれはもはやインフレーションのど
のような繰り返しをも恐れない」
。シャハトの懸念は州政府や地方自治
体政府による外資導入が生産的かつ不可欠な目的のために行われている
かどうかの見極めである。そのためにわざわざ財務長官を議長とする審
査委員会を設けている。運転資本の問題以外に,ドイツが直面している
のは,ドイツ産品の市場を見つけることの困難さである。戦後多くの
国々がヨーロッパに登場したが,いずれも関税障壁が高い。他方で,農
業は肥料の多投と機械の利用拡大によって生産性を上げつつある37)。
シャハトは,1
9
2
5年6月2
5日の「ライヒスバンクの政策」と題するス
ピーチにおいて,ドイツの通貨の真の基礎はドイツの経済システムであ
ると述べたうえで,「ある与えられた時点において流通しているライヒ
スバンク紙幣量をその金価値に維持する必要から,これまで以上に信用
の源としてライヒスバンクを開かせて産業のはるかに広範囲に及ぶ需要
には応じることはできない。したがって,信用の制限こそがライヒスバ
ンクにとって不可欠なのである。さらに言えば,この政策は何ら新しい
ものではない。それはほかの手段によってではあるが,平和時に定期的
36)Strong to Norman, May21,192
5.1
11
6.
5Strong Papers, FRBNY.
37)Schacht ro Strong, November10,192
5.113
5.
0Strong Papers, FRBNY.
46
(85
4)
千葉大学
経済研究
第2
5巻第4号(2
0
1
1年3月)
に適用されてきた」。戦争とインフレーションという過去の損失からす
れば,産業の継続的資金需要は理解できるが,ライヒスバンクは支店を
通じて数学的限界を守らなければならない。シャハトが懸念しているの
は,株取引に関係する企業や銀行がベルリンで激増していること,それ
ら「不要な企業体」の最終的結果が物価の不必要な上昇である38)。
シャハトによる「ライヒスバンクの割引,および通貨政策」と題する
メモには以下の叙述がある。「われわれは,これまで完全に成功してき
ているが,ドイツ通貨の維持がすべての他の諸要求よりも優越するべし
とする理論を奉じ続けている。……過去数か月間ドイツの市場では外国
為替に対する需要が非常に強かったことは何ら秘密ではない。この流出
の原因はわれわれの貿易収支にとくに見出せる。……他方で,国内市場
の購買力は公金の運用によって人工的に増大している。これはしばしば
間違ったことであり,事業活動の刺激という外観を与え,産業に対する
課税を視野に入れて必ずすばやく終りにしなければならない。非常に必
要な国内購買力の恒久的強化は,とくに生産費の低下と農業生産の増大
3
9)
によってのみ達成されるべきである」
。
このように,ドーズ案の適用によってドイツ経済は出口のない状況か
らは解放され,外国ローンは連邦政府のみならず州や地方政府にも浸透
し,むしろ企業金融が不足する,ややクラウディングアウト的な状況が
見える。さらに,ドイツが受け取る資金がいわば生産的,直接投資的に
使われるのでなく,株投資などの投機目的にも相当流れていると見られ
たことがシャハトの一貫した懸念であった。このことは1
9
2
7年に入ると
より明白となる。「しばらく後に短期資金が再び流入してきた。商業や
38)Schacht,“Reichsbank Policy,”Translation of speech made at Cologne on
June25,1925.11
35.
0Strong Papers, FRBNY.
39)Schacht, Memorandum,“Discount and Currency Policy of the Reichsbank”
July29,192
5.113
5.
0Strong Papers, FRBNY.
(855)
47
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
貿易には何ら需要がないのだが,たんに証券取引所のクレジットに入っ
たのである。この株式における継続的ブームはとくに比較的膨大な量の
アメリカの資金を引きつけた。それらは一部は取引所クレジットに,一
部は取引所の共同勘定に投資された」
。株取引のもうけによって輸入が
増加した。そこでシャハトは銀行の代表たちを集めて,ビジネスを縮小
して現金の流動性を増加させること(「直接行動」
)を要請した。銀行の
なかには公定歩合を引き上げるべきではないかと主張するところもあっ
たが,引き上げはより多くの外国資金を引きつけるので,それらは株投
機に用いられることになるだろうとシャハトは考えた40)。
3.株投機と利上げ
アラン・メルツァーは20
0
3年に上梓したFRBの歴史,第1巻のなか
で1
9
2
0年代のFRBの政策を根底において規定した理論的背景について
以下のように述べている。すなわち,もともと1
9
1
3年にFRBが創設さ
れたとき,それは3つの原則を自明のこととしていた。第1は,金本位
制の核となる原理とも言うべきもので,中央銀行は,金ストックや為替
レートを守るために,割引率の引き上げと引き下げを行わなくてはなら
ない,という点である。第2は,恐慌時に市場が機能しないとき,中央
銀行は最後の貸し手として機能しなくてはならないという点。第3は,
中央銀行は商業手形のみを割り引くことによって産業と農業の必要に応
えるべきとする,通常「真正手形理論」
(real bills doctrine)と呼ばれ
ている原理にしたがって行動すべしとする点。逆に言うと,中央銀行は
政府証券,抵当,その他長期債,などの購入はできない。イギリス金融
史の画期をなした1
8
4
4年のピール銀行法(The Bank Charter Act)は
当時,中央銀行の銀行券発行総量を規制することなしにインフレーショ
40)Schacht to Norman, May2
1,1
927.11
35.
0. Strong Papers, FRBNY.
48
(85
6)
千葉大学
経済研究
第2
5巻第4号(2
0
1
1年3月)
ンを抑えることはできないと主張する通貨学派の勝利と考えられたが,
その勝利は短命に終わった。この法律により,イングランド銀行は発券
部と銀行部に分けられ,前者は金ストックに応じた発券機能を独占し,
後者は通常の銀行業務(預金,貸付)に特化した。しかしながら,その
後の何度かの恐慌においては危機の頂点において同法が停止されたりし
たため,銀行券の発行は市場の取引需要に応じて真正の商業手形割引を
通じて自由に行われるべきだとした銀行学派の主張が主流となってゆく。
アメリカの連邦準備制度創設をリードした考え方は,銀行学派の正統的
後継である真正手形理論であった41)。
第一次大戦中と戦後恐慌を試行錯誤で乗り切る過程で1
9
2
2年にはスト
ロングは真正手形理論によっては正しい信用限度が定まらないことを認
識し,さらに彼はこの理論が間違っていることに思い至った。1
9
2
7年に
ストロングは利下げを主導したが,ミラーなど真正手形理論信奉者たち
は,1
9
2
9年に始まる恐慌が1
9
2
7年のストロングの利下げの不可避的結果
だと断じたのである。なぜなら,インフレーション的な信用拡大はのち
に必ず縮小とデフレーションを引き起こすと考えていたからである42)。
真正手形理論によれば,真正手形の割引によって達成される信用は生産
と産出をファイナンスする。それに対して,政府の証券や不動産に基づ
いた信用拡大は投機的な信用である。この理論の信奉者たちは政府証券
の買いオペレーションには反対だった。
ストロングは売りオペが傘下銀行を借入に走らせ,買いオペが返済に
走らせることを経験的に認識した。とくに買いオペは加盟銀行の借入額
41)真正手形理論のアメリカ金融史における展開については,西川純子「真正手
形主義についての一考察――グラス・スティーガル法の思想的背景を求め
て――」¸¹『証券経済研究』第12号・3
0号(19
98年3月,
20
0
1年3月)参照。
42)Allan H. Meltzer, A History of the Federal Reserve. Vol. 1: 19
1
3―1
95
1(The University of Chicago Press,20
0
3), pp.25
5―25
6.
(857)
49
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
をコントロールするのに用いることができると結論された。借入を返済
するために,銀行はローンを必要とし,貸付レートを引き上げ,政府証
券を売る。連邦準備銀行の割引率引き上げは加盟銀行の借入レベルを引
き下げ,信用とマネーを減らした。割引率の引き下げは市場のレートを
下げる。このように,政策行動は加盟銀行の借入と割引率のレベルを下
げることで,市場のレートに影響を与える。公開市場操作は,割引率の
変化よりもより直接的に準備銀行の信用政策の効果を高めるのである。
これがメルツァーの言う「リーフラー=バージェス理論」(Riefler-Burgess doctrine)である43)。
ストロングは1
9
2
6年に,フィッシャー44)流の商品物価レベルを安定的
に保つ 目 的 で 連 邦 準 備 法 を 改 正 す る と い う,下 院 議 員 ス ト ロ ン グ
(James Strong)の上程した法案の公聴会でこの法案に反対する理由
を3点述べている。第1に,法案に規定された権限を行使するのは困難
である。なぜなら,物価水準は貨幣の流通速度に依存し,流通速度は信
認,あるいは,期待に依存するからである。第2に,貨幣や信用の変化
は物価水準に影響を与える多くの要因の一部にすぎない。第3に,物価
の安定が,個別物価,とくに農産物価格の安定と解釈される可能性があ
る。さらにストロングは,この機会を捉えて連邦準備銀行の政策による
金利の季節変動の除去,ニューヨークとシカゴのレートのスプレッドの
縮小,満期の異なる商業手形のスプレッドの縮小を成果として挙げ,政
策指針としての真正手形理論を批判した45)。リーフラー=バージェス理
論は,その公開市場操作と数量規制の強調よりすれば,ストロング=
43)Ibid., pp.161―16
2.
44)アーヴィング・フィッシャーの所説の展開については,秋元「アーヴィング・
フィッシャーとニューディール」
(成城大学経済研究所)
『経済研究所年報』
第13号(2
000年4月)を見よ。
45)Meltzer, op. cit., pp.183―18
5.
50
(85
8)
千葉大学
経済研究
第2
5巻第4号(2
0
1
1年3月)
リーフラー=バージェス理論と呼ぶべきかもしれないとメルツァーは指
摘している46)。
真正手形理論の信奉者ミラーとストロングとのあいだには個人的な敵
対感情もあったと見られている。先にも触れたように,ミラーから見れ
ば,ストロングが学問的なバックグラウンドを持たないにもかかわらず,
しかも連邦準備理事会でなくニューヨーク連銀総裁という(一段下の)
立場で内外に向けて政策や金融協力を率先して行うことは許容しがた
かった。政策的には,ミラーは(産業の必要から離れる)買いオペなど
の操作に反対であり,金利の上げ下げに重点を置いていた。ストロング
は,金利操作は買いオペに比べれば第二義的だと考えていた47)。ストロ
ングの死後,FRBに残ったのは,いわば頑固に自分の立場を通そうと
するミラーと,ストロングほどリーダーシップも人望もないハリソン
(George L. Harrison,1
8
8
7―1
9
5
8)ニューヨーク連銀総裁だった。
1
9
2
8年当時日銀副総裁だった深井英吾は,ストロングの死後,その追
悼論文のなかでこう述べている。「ストロング氏がさまざまな機会に私
に話してくれたことから考えると,彼の通貨政策の基調は通貨の健全性
を維持することだったと思う」
。大戦後アメリカには金流入が続いたの
で,ストロングが全体としてはデフレーション政策に訴えて,通貨拡大
を行わなかったことは事実であるが,「とはいえ彼は合衆国の高金利が
世界の諸通貨の復興に及ぼす望ましくない影響については熟知していた。
おそらくこれが,連邦準備銀行によってとられる政策が一部の人々に
とっては十分に徹底したものでないように見えた理由である。厳格な貨
幣理論家たちは連邦準備銀行をぬるま湯的だと非難し,他方で,すぐに
結果がほしい他の人々は厳格にすぎると不満を述べたのである。しかし
46)Ibid., p.1
93.
47)Ibid., pp.193―19
5.
(859)
51
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
ながら,一方における連邦準備理事会と他方におけるストロング総裁と
その他の連邦準備銀行の経営陣とのあいだには公正な意見の一致があっ
た。そして,合衆国の通貨政策は彼らの調和した努力によって実行され
ていたのである」
。
「ストロング総裁が自らに課した,達成すべきいま一つの課題は世界
金本位制の復活であった。この目的を実現するための手段として彼は中
央銀行のあいだの協力を作り出そうと努力した。ストロング氏は,その
国際的位置からすると合衆国は通貨の回復の仕事を支援すべきだと信じ
ていた。そのことは結局合衆国自身の利益になるからだ。外国では,イ
ングランド銀行のノーマン総裁は,金本位制の復活と中央銀行間の協力
について熱狂的だったから,ストロング氏と同調して行動した」
。健康
に恵まれなかったものの,ストロング氏は輝かしい業績を残した。「彼
4
8)
の人生は英雄的な人生だったといっても言い過ぎではないであろう」
。
ストロングはニューヨーク連銀の金利を1
9
2
4年初頭の4.
5%から段階
的に8月までに3%まで引き下げた。イングランド銀行はこの間4%の
ままだったから,結果として英米両国の金利差は逆転した(図参照)
。
イギリスの金本位制復帰とその後のイギリスへの資金流入をイギリスの
金利上昇なしに実現するためであった。そして1
9
2
7年,フランの金復帰
を前にして,フラン為替相場上昇を防ぐためにフランス銀行は外貨を買
いまくった。外国為替の購入額は1
9
2
7年5月には1億フランに達した。
とくにロンドン・スターリングの比率が高く,フランス銀行は5月から
それらを金に変えて引き出しはじめた。フランスへの資金流入は「フラ
ンへの逃避」の様相を見せていた。フランス銀行総裁のモローはイギリ
スとドイツが利上げをすべきだとの立場だったが,産業界が利下げを求
48)Eigo Fukai,“Mr. Strong and the Restoration of the Gold Standard.”Translation of his article published at Tokyo Nichi Nichi Simbun, October 23 & 24,
1928. Strong Papers.1
330.
1FRBNY.
52
(86
0)
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経済研究
第2
5巻第4号(2
0
1
1年3月)
めている現状ではイングランド銀行のノーマンには利上げは無理だった。
モローらとノーマンらの交渉も不調に終わった。
そこで,ストロングは英仏独の銀行総裁を7月にニューヨークに招く
ことを決め,彼ら(フランス代表はリストCharles Rist)は7月1日ま
でにニューヨークに集まった。会合はマスコミを遮断して,ロングアイ
ランドにある財務次官オグデン・ミルズの別邸を使って約1週間行われ,
7月9日に彼らは連邦準備理事会主催のワシントンでの昼食会に出席し
た。議事録が残っていないので詳細は不明だが,まず,ストロングが
ニューヨーク連銀の割引率を4%から3.
5%に引き下げることに同意し
た。フランス銀行とライヒスバンクは金の購入先をロンドンからニュー
ヨークに変えた。連邦準備理事会の公開市場投資委員会は2億ドルの政
府証券を購入することを決めた。連銀の低金利政策はアメリカ国内の景
気後退懸念を払拭し,海外の通貨不安をやわらげる役割を果たした49)。
ストロングはノーマン宛の手紙の中で,3年前は投機というリスクを
冒してもわれわれの政策の主たる目的(この場合はイギリスの金本位制
復帰)を達成すべきだと考えられたが,今日ではそれは当てはまらない
とする。「もしも連邦準備銀行から借入をしている銀行がマネーレート
を実質的に引き締めることなしに,彼らの借入を1億ドルや2億ドル減
らすことができるとなれば,われわれは熱狂的な投機のリスクを冒すこ
となく金利引き下げを行うことができる基礎を築いたことになろうと感
5
0)
じるのだ」
。
では,利下げと公開市場操作とはどう違うのか。「加盟銀行がわれわ
れから非常に大量に借入をしているために,マネーマーケットに緊張が
あるほどであれば,われわれによる証券購入の効果は,彼らが単純に借
49)以上の経緯はChandler, op. cit., pp.37
0―37
8.
50)Strong to Norman, February25,19
27.11
16.
7Strong Papers, FRBNY.
(861)
53
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
入を返済可能にすることである。それは『準備金』の総計を変えること
はないが,それはわれわれの有価証券をローンから投資に変えるのであ
る。このことは,彼らによるわれわれからの借入金のコストをたんに削
減するのでなく,加盟銀行を債務から解放することで,利下げの基礎を
つくることになる。もちろん,加盟銀行が借入をしていないときにわれ
われが証券を購入すれば,われわれは彼らの準備金の総額を増やし,信
用の全般的拡大を推進することになろう。しかしそれはわれわれが全般
的により低い金利水準を確立するための基礎をつくった1
9
2
4年の短い時
期を除いては,われわれが一度も行ったことがないことである。……わ
れわれが証券を売る場合には,加盟銀行は借入によって資金を補充し,
5
1)
われわれの利率はより一層効果的となる」
。
ストロングは井上準之助宛の手紙でこう記している。敢えてこの時期
に利下げを行った背景には2つの事情がある。1つは国内の農業地帯の
作物輸送用の信用をなるべく低い金利で行えるようにすることであり,
いま一つは,ヨーロッパに広がっている為替関係の緊張をやわらげるた
めである。「一言で言えば,投機家には望むような利益を得させればい
いのだし,過度の投機についてはおそらくあとで支払わなければならな
くなるだろうからそうすればいいのだ。そして,次の数か月間わが国の
支払いを相対的に安価にできるように,わが国とヨーロッパ市場のマー
ケット・レートのレベルのあいだの関係を展開させればいいのだ。この
春と初夏の時期において,合衆国の異なるセクションや異なる産業で若
干のリセッション,ないしは事業展開の躊躇が見られる。連邦準備銀行
の5行でいま実行されているこの利下げは,ビジネスにより多くの刺激
を与えることができるだろう。そして,収穫の見通しがいいので,ビジ
ネスの後退が予測されてきたが,それはしばらくは起きないかもしれな
51)Strong to Norman, March29,19
27.11
16.
7Strong Papers, FRBNY.
54
(86
2)
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経済研究
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5巻第4号(2
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1
1年3月)
い。上述の株投機を妨げること,景気の状態とわが国のマネーマーケッ
ト,そしてとくにわが国の財政,はすべて非常に好ましい状態にあり,
われわれの若干低い金利はこれらの状態を継続するのに貢献するであろ
5
2)
う」
。
ノーマンへの手紙でストロングはこう書いている。「われわれの利下
げは健全なものであったし,効果的でもあり,早すぎることもなかった。
しかし,われわれはマーケット・レートが再割引率と同調するように操
作してきた。これは,部分的には通常の季節需要によるものであり,一
部はフィラデルフィアやシカゴが利率を下げるのを嫌がったせいでもあ
る。それで,ニューヨークからこれらのセンターに若干の資金流出が
あった。われわれは過去数週間で準備を1.
3億ドル失ったと思う。しか
し,われわれの行動の成功については何らの懸念もいだいていないし,
5
3)
やがてこれらのレートも下がるだろうと期待している」
。
このように,ストロングの利下げについてのスタンスは,国内のリ
セッション懸念と季節的な農業信用需要への対応,対外的にはヨーロッ
パの為替不安を払拭するための緊張緩和の意図から出たものと判断でき
よう。利下げ反対派から盛んに主張された「ニューヨーク市場の株投機
への悪影響」については,ストロングは上記の目的と同列には論じてい
ないことがわかる。ストロングは財務次官ミルズ宛の手紙にこう書いて
いる。「株式を保有するために用いられる信用量は株価の下落の結果と
してのみ減少させることができる。株価を下げようとする試みは株式を
保有するために用いられる信用のコストが増加することなしには効力を
発揮することはできない。私は以下の結論が避けられないと考える。す
なわち,株式ローン勘定の清算を強いるためにだけに向けられる,した
52)Strong to Inoue, August8,1
92
7.1
330.
1. Strong Papers, FRBNY.
53)Strong to Norman, August2
5,19
27.111
6.
7Strong Papers, FRBNY.
(863)
55
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
がって同時に証券の価格にも清算を強いるいかなる政策も,別の方向に
対しても広汎かつ同様の影響を与えることになるだろう。つまり,わが
国の健全な繁栄を犠牲にする方向に対しての影響を与える。われわれを
批判する人々の中には,株投機の問題に取り組まないことに猛烈に,か
つたえずわれわれをののしる人がいる。もしもそのような政策がとられ
た場合,その結果はどのようなものであり,そのことについてだれが責
5
4)
任を負うのだろうかと私は考えてしまう」
。
ほとんど唯一のストロングの伝記作家チャンドラーは1
9
2
8年2月の
ニューヨーク連銀による3.
5%から4%への割引率引き上げには,スト
ロングは病気のためにかかわっていないとしながらも,ストロングはこ
の措置を支持していたようだと述べている55)。ただ,ストロングはそれ
以上の利上げをしないですむようにするために,どうすべきかを考えて
いたと見られる。そして,ストロングがシェルブールへ発った1週間後
に,ニューヨーク連銀は4.
5%への利上げを決定した。7月には再割引
率は5%に引き上げられた。ストロングの健康は1
9
2
7年末以降悪化
し,1
9
2
8年5月∼8月のヨーロッパ滞在中を含め実質的に総裁職から離
れていた。彼は1
0月1
6日に他界した。そして,ストロングが病気の悪化
によって実質的な指導力を発揮できなくなる1
9
2
8年後半以降,リーダー
シップを欠いたニューヨーク連銀,および連邦準備理事会は,本格的な
引き締め政策に転じたのである。
すでに『世界大恐慌』に書いたことだが56),1
9
2
8年に株価が急上昇し
た半面,1
9
2
0年代の景気を牽引した自動車や建築は高原ないしは下降の
兆しを見せており,地方景気もまだら模様であった。したがって,金利
に敏感なこれら業種や農業にとってFRBによる利上げは明瞭なマイナ
54)Chandler, op. cit., p.42
7.
55)Chandler, op. cit., p.4
54.
56)秋元『世界大恐慌』(講談社学術文庫,200
9年),pp.6
8―7
3.
56
(86
4)
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5巻第4号(2
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1
1年3月)
ス材料となった。しかも,チャンドラーが別の著作で指摘しているよう
に,1
9
2
9年1
0月4日のピークにおいてすら(絶対額は1
9億ドルと大きい
が)
,ニューヨークのブローカーに対する銀行ローンの額は銀行ローン
総額の4%未満にすぎなかった。1
9
2
9年に行われたニューヨーク市の7
大銀行に対するアンケートによれば,行き先が明示されていない「その
他」のローンの内訳は事業会社が5
8%,個人が1
8%,投資信託会社が
8%,外国銀行が7.
5%,その他の外国金融機関が2%であった。さら
に,ブローカーに対するローンがすべて株の信用買いに使われたという
結論も短絡的であろう。
1
9
2
8年にFRBの利上げへの方向が見えてくると,少数ではあるが,
(株投機を抑制するという名目で)
「ブローカーズ・ローン」に対して
間接的に使われることを理由に,むしろ「刺激」を必要とする通常の経
済活動に対して逆の対応をすることは誤りだと主張するFRBの委員も
いた。1
9
2
9年になって利上げが本格化すると,ニューヨーク株の値上が
りは止まらないばかりか,建設活動はローン獲得の困難さから縮小しは
じめ,債券に頼っていた州や地方の多くの事業が延期され,さらにアメ
リカ市場での外国証券の発行額は極端に縮小したため,イギリス,オラ
ンダ,ドイツ,イタリーはアメリカ金利の上昇によってアメリカ製品へ
の購買力を減退させた。アメリカからの金流出は止まり,流入に転じ
た57)。より多くの外国資金がアメリカに流入した。やがて,ヨーロッパ
諸国はアメリカにならって自国通貨防衛のために利上げに踏み切らざる
を得なくなるだろう。ストロング自身は1
9
2
8年7月1
4日のギルバートへ
の手紙でニューヨークにおける非常に高い金利の継続がヨーロッパや
ドーズ案のスムーズな遂行にとって障害となることを私以上に理解して
57)Lester V. Chandler, American Monetary Policy, 19
28―1941.(Harper & Row,
Pub.,197
1), pp.23―53.
(865)
57
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
いる者はいないとし,それが,避けなくてはならない危機を引き起こす
可能性に言及し,秋までには利下げに動く必要があると希望を述べてい
る58)。最近の著作で「結局のところ,国際的な為替を強化するために合
衆国の金利を低く抑えたことが合衆国の株式市場のバブルを引き起こし
5
9)
た」
と結論してストロングらを批判したアーメドは,アメリカ国内経
済のニュアンスのある動きにもう少し注意を払うべきではなかったか。
エピローグ
深井英吾は回想録において,金本位制を再建する熱意を持った流派の
代表としてストロングを挙げ,こう書いている。「同氏は識見と経験と
に於て経済問題の要諦に透徹して居たから,固より通貨の整理[主とし
て為替の安定をさすものと見られる]を経済回復の即効薬と考へたので
はない。根本的の解決は産業及び貿易の実態に於ける推移に待たなけれ
ばならぬことゝ,当面の国際的不均衡を匡すには米国より資金供給を為
すの外なきことゝを充分に理解して居た。只同氏は堅実なる経済回復の
端緒として先づ通貨整理に著手すべく,通貨整理には一時の事情に立脚
して根本的変革を試み又は便法を講ずるよりも,長き試練を経たる金本
位制の再建を目標とすべきことを主張した。資金供与は当面の急務なる
も,それは通貨の整理と併行しなければならぬと云ふ意見であった。さ
うして既に金本位制に復帰せる米国の外,差向き金本位制を再建し得べ
き可能性を有するのは英国と日本とであるから,三国率先して範を示し,
以て他を誘導したいと熱望した60)」
。自著の解説の項では,「金本位制再
建の為に病躯を犠牲にしたと云ふべき紐育準備銀行総裁ストロング氏の
58)Chandler, Benjamin Strong, op. cit., p.4
59.
59)Ahamed, op. cit., p.50
2.
60)深井英吾『回顧七十年』
(岩波書店,19
41年),p.1
71. 原本の漢字の旧字体は
新字体に治してある。
58
(86
6)
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5巻第4号(2
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1
1年3月)
6
1)
評伝は,今尚折々読み返して異国の亡友を偲ぶこともある」
とある。
学識や経験を別にしても,ストロングはつきあいが深まるにつれて,
相手を魅了せずにはいられないキャラクターの持ち主だったと想像され
る。ノーマンやシャハト,そしてモローと国の違いに頓着せず先入見を
持たずに国際的な友情を育てていったストロングはこの時代の金融協調
を演出するにふさわしい人材だったのであろう。
近著のなかで日米の金融関係史を政治史と経済史の絡み合いのなかに
再発見した三谷太一郎は「国際金融においては,その担当者間の個人的
信頼関係がきわめて重要な要素であることを考えれば,高橋がシャンド
やシフとの間につくり出した親交は,それ自身国際金融家としての高橋
6
2)
の能力を証明するものといえよう」
として高橋是清の明治以来の仕事
を評価しているが,両大戦間期において高橋を継承したのは井上準之助
であり,その親交の相手はモルガン商会のトマス・ラモント(Thomas
W. Lamont, Jr., 1
8
7
0―1
9
4
8)であった。言うまでもなく,ラモントはイ
ギリスの金本位制復帰やドーズ案のローン履行にさいしてストロングの
片腕となって働いた人物である。ラモントは,1
9
2
7年に電報のなかで
「井上はノーマン,ストロングおよび我々すべてと同じ金融語(financial language)を話す」と述べたという63)。しかしながら,三谷によれ
ば,「1
9
3
0年代初頭の大恐慌は,各国において金本位制を停止させ,国
6
4)
際金融資本はその存立基盤を失った」
。とりわけ,ニューディール下,
1
9
3
3年の銀行法(グラス=スティーガル法)による投資銀行と商業銀行
の分離は四国借款団のときのような銀行団の役割を否定した,という。
アーヴィング・フィッシャーは19
4
6年にクラーク・ウォバートン
61)前掲,p.369.
62)三谷太一郎『ウォール・ストリートと極東』(東京大学出版会,2
0
0
9年),p.3.
63)前掲,p.60.
64)前掲,p.10
0.
(867)
59
ベンジャミン・ストロングと1
9
2
0年代の国際金融協力
(Clark Warburton,1
8
9
6―1
9
7
9)に宛てた手紙のなかでストロングとの
対話と彼のエピソードを紹介している。ウォバートンは恐慌時にはブ
ルッキングス研究所に,そしてその後新設の連邦住宅供給公社に転じ,
チーフ・エコノミストとなった。以下の手紙はトマス・カーギルによっ
て掘り起こされたものである65)。以下に,興味深い部分を抜粋,引用し
てみたい。
「私は常々もしもストロング総裁が生きていたら,1
9
2
9年の株価暴落
に続く悲劇的な恐慌,ないしはそもそもあれほど大きな恐慌をわれわれ
は経験しなかったにちがいないと信じていた。私は,この先起きそうな
ことについての自覚が彼の命を縮めたのではないかと思う。……『スト
ロング総裁,私はあなたが生きているかぎり,あなたを信頼するが,あ
なたは永遠に生きることはできないのだから,あなたが死んだとき,あ
なたの政策があなたとともに死んでしまうのではないかと恐れる。
』と
私は彼に話した。このことはその後まさに起きたことだが,そのとき彼
は,私にこう答えた。『いいえ,私には訓練された助手たちがいるので,
彼らはこれらの政策を知っているから,政策は継続されるでしょう』
」
。
「問題はこれらの政策を理解した人々が,ストロングが果たしたよう
な抜きんでた役割を果たす個性やおそらくは勇気を持たなかったことで
ある。彼は時々ワシントンまで出かけて行き,連邦準備理事会のメン
バーに彼が希望することをやってもらうためベッドから出るよう頼んだ。
め した
彼らは目下[ストロングはニューヨークという地区連銀の総裁であり,
機構上ではそれらを統括する連邦準備理事会の下になる]に威張られる
のを好まず,彼が死んだとき,疑いもなく,そうした敵意がストロング
の仕事の継続を妨げたのである。ストロングは死ぬ前に私に,こう語っ
65)Thomas F. Cargill,“Irving Fisher Comments on Benjamin Strong and the
Federal Reserve in the 1
9
30s,”The Journal of Political Economy, Vol. 1
00, No.
6, Centennial Issue(December1
992)
, pp.1
273―1
27
7.
60
(86
8)
千葉大学
経済研究
第2
5巻第4号(2
0
1
1年3月)
た。彼がヨーロッパに行って不在のとき,連邦準備理事会は,彼が通貨
安定の目的で創始した正式でない,非公式の公開市場委員会をたちどこ
ろに終了ないし解散してしまったので憤慨してあやうく辞職するところ
だったと」
。この手紙の受取人であるウォバートンは,大恐慌が連邦準
備理事会の政策の失敗によるものだとの見解だったため,各方面から批
判圧力を受けており,1
9
5
0年代にはそうした見解の表出をやめなければ,
解雇だとの脅しを受けた。カーギルはこの短文をこう締めくくっている。
「これはウォバートンの経歴にとっては悲しいノートであるが,政策決
定に責任を持つ人々のけちな根性についてのフィッシャーの主張に信憑
性を加味するものだ」
。
ストロングとフィッシャーは,フィッシャーのドル購買力の主張をめ
ぐってとくに1
9
2
0年前後にかなり長文の手紙の往復がある。上の手紙は
その後も二人が対話を続けていたことを窺わせる。ストロングの大恐慌
直前の早すぎる死は,彼の歴史的役割についての悲劇性と連動するとこ
ろがある。解明されるべき論点はなお多々あるが,とりあえずはこのあ
たりで筆を擱くしかない66)。
(20
1
0年12月13日受理)
66)本 稿 は,平 成21―23年 度 日 本 学 術 振 興 会 科 学 研 究 費 補 助 金,基 盤 研 究{
「ニュー・エコノミーとアメリカ経済の再編:1
9
2
9年大恐慌期との対比にお
いて」による成果の一部である。なお,ニューヨーク連銀資料室は一般公開
されているが,かなり前に願書等を提出することが要求され,書類審査に通
らなければ閲覧できない。
(869)
61
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0
1
1年3月)
Summary
Benjamin Strong and International Financial Cooperation
during the19
2
0s
Eiichi AKIMOTO
Benjamin Strong(1
8
7
2―1
9
2
8)was a banker, who first engaged in
founding of the Federal Reserve System in 1
9
1
3. Later he served as
governor of the Federal Reserve Bank of New York(1
9
1
4―1
9
2
8)
. Already in 1
9
1
6 Strong found that he had tuberculosis. After struggling
for years, the disease would finally take his life. In their A Monetary
History of the United States, Friedman and Schwartz wrote: If Strong
had still alive and head of the New York Bank in the fall of 1
9
3
0, he
would very likely have recognized the oncoming liquidity crisis for
what it was, would have been prepared by experience and conviction
to take strenuous and appropriate measures to head it off, and would
have had the standing to carry the System with him.
When Strong was governor of the FRB of New York, the system itself was in its infancy, and the New York bank was more powerful
than the Federal Reserve Board itself. Strong played a similar role of
Ben Bernanke, the current Chairman of the Board of Governors of the
United States Federal Reserve, although organizationally the New
York Bank was just only one of twelve regional banks under the FRB.
Strong’
s most important task was to recover and stabilize world economy through the restoration of world gold standard and he needed cooperation of Montague Norman of the Bank of England among others,
(1095)
2
87
Summary
and also of Emile Moreau of the Bank of France, and Hjalmar Schacht
of the Reichsbank of Germany in these efforts. He succeeded in rebuilding the gold standard beginning with Britain. The reconstructed
monetary system was different from the prewar system governed by
Britain, mainly because of the heavy concentration of gold to the U.S.
and France. Strong took great pains to control the rates of interest to
avoid deflation on the one hand, and to“sterilize”gold coming into
the U.S. to keep off inflation on the other. The international financial
cooperation led by Strong could be seen as precious experiences when
bankers had common purpose to stabilize world economy just before
the Great Depression.
288
(10
9
6)
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