...

新しい留学形態の創出に向けて 宮城教育大学 国際交流ニュース

by user

on
Category: Documents
14

views

Report

Comments

Transcript

新しい留学形態の創出に向けて 宮城教育大学 国際交流ニュース
環
第 5 号
(1)2002年12月10日発行
目 次
宮城教育大学
国際交流ニュース
第 5 号
2 0 0 2 年 1 2 月
◆新しい留学形態の創出に向けて
◆特集 国連大学グローバルセミナー・第1回東北セッション
◆無形文化遺産を次代に伝えるための試み
◆ヨハネスブルク・環境開発サミットに参加して
◆外の世界で感じたこと―エセックス大学留学記―
◆「教育の国際協力」講演会の開催
◆国際交流二題―フルブライト教育者団の来学他―
新しい留学形態の創出に向けて
−ペルージャ外国人大学とハノイ外国語大学との交流−
ペルージャ外国人大学との交流協定が発効
今後きちんと対応する必要がある。さらにまた、アジアか
ペルージャ外国人大学の広報部長(5月)、学長(6月) ら多くの留学生を受け入れるためには、月8万円の補助が
との話し合いにもとずき作成された協定書が、去る11月7
でる日本国際教育協会の短期留学推進制度の利用、そのた
日ペルージャ外国人大学において調印され、本学との交流
めの、主に英語で授業を行うプログラムの立ち上げも課題
協定が発効した。この協定及び今後取り交わすことが予定
となろう。
されている、授業料不徴収に関する学生交流の協定書自体
は、これまで本学が提携姉妹校との間で交わしたものと、
開かれた学生研修の場を如何に用意するか
大差ないものであるが、現実の対応は、これまでのそれと
これまで日本の国立大学は、研究が中心であり、教育に
はかなり異なるものとなる。それは、これまでの話し合い
重きを置いてきたとはいえない。だがいまや、出生率の低
の中で、先方が、1ヶ月ないしは3ヶ月の留学期間の学生の
下による子供の数の減少により、大学は、学生に対する教
受け入れを申し入れてきたか
育力により社会的に評価される時
らである。ぺ大学の日本語学
代に入った。それを国際交流とい
科の話では、イタリアからみ
う観点からみれば、海外の多くの
れば日本は特殊な社会であ
大学がセメスター制、或いはクォ
り、1年間という長期の留学
ーター制を採っていることを考え
の前に、日本或いは日本社会
ると、これまでのように、海外留
を一度自分の目で確かめるこ
学は1年という定型だけでなく、
とが不可欠であり、その為の
それぞれ2ヶ月もある夏休みや期
研修の場を提供して欲しいと
末休みを利用した、学生自身によ
いうのである。この申し出に
る自主的な海外研修を促し、それ
応えるためには、我々として
を単位として認定することも考え
協定書を交換する吾妻副学長とステファニー学部長
は、これまでの、6ヶ月以上
なければならない。国際交流をい
の滞在期間を必要とする留学生とは異なる受け入れ形態を
う以上、相手国の事情を考慮に入れつつ、それに対応した
用意する必要がある。だが、このような要求は、ペルージ
新しい学生教育の方法を導入することが必要である。
ャ外国人大学だけではない。
潜在的な市民の活力を掘り起こすこと
ハノイ外国語大学の期待
だが先のような短期の外国からの学生を受け入れるに
10月26日、ハノイ外国語大学の日本語学部長が、本学を
は、大学だけの力では不可能である。現行の日本のアパー
訪問し、大学間交流の話し合いが行われた。その際、先方
トの賃貸契約では、1ヶ月や3ヶ月の間貸してくれるところ
からの提案は、ハノイ外大では、日本語教員の多くが、学
は殆どない。あっても法外な値段であり、到底留学生が負
部を出てそのまま教員になっており、いまだ力不足である。 担できる額ではない。それ故それを実現するためには、本
日本の文部科学省の国費留学生の半数の合格者を出してい
学の学生寮の利用方法の改善を図ることに加えて、仙台市
るがそれではまだ足りない、それに加えて、1年間の長期
民によるホームステイ、期間を問わず安く貸してくれるア
にわたる自費留学も経済的に不可能である。そこで、なん
パートを提供してくれる篤志家を探す事など市民の潜在的
とか、2∼3ヶ月の期間での日本語教授法等の研修を用意し
な活力を掘り起こす必要がある。この国は、現在長い経済
て欲しいというのである。だが、この要請に応えるために
不況の真っ只中にあるが、それにもかかわらず、仙台市民
は、留学生に日本語を教える現在の授業とは別の、教員用
における国際交流に対する熱い思いは、いたる処で見るこ
の研修システムを用意する必要があることは明らかだ。こ
とが出来る。いま、大切なことは、大学の側からの誠意あ
の問題は、必ずしもベトナムだけの問題ではなく、開発途
る働きかけなのではないだろうか?
上国共通の問題であることも周知のことである。その点で
は、我々は、開発途上国への教育協力という観点からも、
(本郷 隆盛 国際交流委員会)
(2)2002年12月10日発行
特 集
国連大学グローバルセミナー
第1回東北セッション①
環
第 5 号
国連大学グローバル・セミナー
第1回東北セッションの開催
科学技術・福祉・ジェンダー∼グローバルな課題と地域特性∼
本郷 隆盛
国連大学グローバル・セミナーの意
義・目的については、本誌第3号に詳
しく書いたが、ここでは9月10日(火)
から13日(金)にかけて行われた第1
回東北セッションの模様について、報
告しておきたい。
9月10日午後は、公開講座としてア
エル5階で行われ、在日インド大使ア
フターブ・セート「インドにおける科
学と技術について」、宮城県知事浅野
史郎「日本一の福祉先進県つくり」、
在日スウェーデン公使カール・レイフ
ランド「グローバル発展におけるガバ
ナンスと連帯」の3本の講演が行われ
た。2日目からは、場所を東北大学情
報科学研究科棟に移し、予め応募し選
考された学生・院生・社会人を対象とする4つのセッショ
ン、「21世紀の科学技術と暮らし」、「21世紀の福祉社会」、
「ジェンダーと福祉」「ジェンダーと科学技術」が行われた。
このセミナーの特色は、講師が、いずれもそれぞれの分
野に関する一流の研究者であること、それに加えて、講演
時間と同じ時間が質疑応答に充てられていることである。
このことは、単に、講演を聴くだけではなく、それをもと
にして自分の意見、考えを発表することを求めていること
を意味している。さらにまた外国人留学生を一割は加える
という当初の方針を超えて、今回は、52名の参加者の内、
外国籍の学生は、中国9人、ロシア3人、バングラデシュ、
オーストリア、カナダ、リビア、アルメニア、アゼルバイ
ジャン各1人の18人、即ち約3分の1が、現在、日本に留学中
の学生・院生であるという多国籍集団だということである。
このことは、このセミナーが、そもそも、将来、国連など
の国際機関で働く人材を養成することを目的にしているこ
ととも関わっていよう。
このことは、参加の条件として、主として学部学生以上、
日本語のみならず英語の理解力を必要とすると明記されて
国連大学
グローバルセミナー
第1回
東北セッション②
セミナー関係者(前2列)と参加学生たち(後4列)
いたことからも明らかである。だがこの点は、3泊4日の参
加費が、3万円と必ずしも安いとはいえないこととも関わり、
参加希望者に二の足を踏ませることにもなっている。とり
わけ留学生は参加費用が免除になることを考えると今後日
本の学生に対しても何らかの改善の余地があろう。
ともあれ、このような、いろいろな国から来た、人種も
民族も異なり年齢差も大きい若者達が、3泊4日起居を共に
しつつ、グループに分かれ、自ら課題を設定し、それに対
する解答を提示しなければならないのである。後半の2日は、
殆ど眠らずに議論したというのも然もあらんというもので
ある。だがこの経験は、将来、必ずや、役に立つ日が来る
はずである。私は、プログラム委員会委員として、このセ
ミナーの企画・運営に関わり、思い出深い経験をさせて頂
いた。来年は、秋田大学と秋田県の共催で、「環境」をテー
マにして行われると聞く。本学からも、何人かの学生が参
加することを期待したい。以下、本学からの4人の参加者の
うちから2人の参加記を掲載する。
(本学教授:社会科教育講座)
国連大学グローバル・セミナーに参加して
私は今回のセミナーに参加することができて、とてもよ
かったと思う。不思議に頭の中ではグループの激しい討論
への熱意はいまだに冷めていない。社会的に重要な地位を
持っている人達の意味深い話を聞くチャンスが与えられて、
非常に光栄だと思う。
たまたま、学校の掲示板でグローバル・セミナーのこと
を知り、すぐに興味を持った。その上、ちょうど今回は初
キュウ
仇
シャオユン
暁芸
めて仙台で開催されるということに加え、未経験の新しい
活動を覗いてみようという好奇心に満ちながら、私は気軽
に参加することにしたのだ。
実際、参加してみると思った以上に面白くて、とても有
意義なセミナーだった。駐日インド大使をはじめ、宮城県
知事など多くの人達が来ていた。私は彼らの話にとても励
まされ、自分の将来への自信がだんだんと膨らんできた感
第 5 号
環
じがした。特に、世界各国からきた留学生は今回のセミナ
ーをより華やかに飾る役割を果たしたと思う。中国上海出
身の私もその中の一人で、自分の立場から見たのは、それ
ぞれ違う文化背景で育った皆は、ただ3日間の合宿を通し
て、まるで“無国籍”の大家族となったような気がした。
私のグループ討論には日本人7人と中国人3人がいた。
私たちは福祉、科学技術など様々な分野にわたって、日中
両国を比較しながら、時に真剣に熱弁、深刻な社会問題に
ついて悩んだり、時にはカルチャーショックで大笑いした
りすることがあった。その中、私の一番大きな収穫という
のはやはり客観的に母国を見ることが出来たということだ。
日本人の角度から見た中国と自分の中にある中国は微妙に
異なることを知り、中国に対する理解が深まり、色々な問
題も以前よりはっきりと見えるようになったのだ。この点
において、非常にありがたいと思う。幸い、同じグループ
の中にもう二人、中国人の大学院生がいて、彼らとの付き
合いを通して、私は自分の未熟さをしみじみと感じた。母
国のことすらよく分からない人は、何を基準として異文化
を受け入れられるだろうか。だから、未成年の時期に海外
へ羽ばたいて行く人々は、外国で勉強していると同時に、
常に母国の方にも関心を持つべきだと考えている。これは
彼らたち自身にとっての「啓発教育」でもあろう。若さと
いう貴重な財産を持っている一方、このような自己教育を
行わない限りはまず自分の短所が補われないし、今後の成
国連大学
グローバルセミナー
第1回
東北セッション③
(3)2002年12月10日発行
長までも悪影響を及ぼしかねない。もしこのような問題を
そのまま放っておいたなら、想像もつかないほどの致命傷
となる可能性は高いと思う。このセミナーのおかけで、私
はこの問題について意識し始めたのだ。
また、多くの教授の素晴らしい講義に私は感銘を受けた。
これらの講義は教授たちが日々の研究を重ねてきた結晶で
あることを肌で感じた。もう一つ悟ったのは学習、勉強と
いうことが我々の生涯教育であり、人生は新たな知識を絶
えず身につけるための旅でもあるのだ。
昔からずっと一衣帯水な関係を結んでいる日中両国にあ
って、実際両国の国民の相互理解はまだ「初段階」にとど
まっていると思った。これから両国がもっと頻繁に深い交
流を図って、より良い相互信頼関係を築くため、私という
平凡な中国人留学生のささやかな力も貢献できればと思う。
多くの人々が積極的に異文化間のコミュニケーションに取
り組もうとすると、国境、人種などの外在条件も重要では
なくなり、必ずや人間関係がさらに柔軟になり、世界平和と
いう良い方向に向かうだろう。これこそ草の根交流の真髄
ではなかろうか。セミナーで私は新しいエネルギーを得て、
これからの私の日本留学生活をもっと充実したいと思う。
最後に、今回グローバル・セミナーの主催者をはじめ、
色々なところで協力してくれた方々には、改めて感謝の気
持ちを申し上げます。
(本学 国際文化専攻1年)
セミナーでの人との関わりの中で
今回参加させていただいた国連大学グローバルセミナー
は、ホテルに宿泊しながら昼は講義を受け、夜はその日の
講義のテーマについて班毎に討論するという、なかなかハ
ードなものであった。私の属したD班のメンバーは(A班
は英語で討論するグループで、残りの4班は日本語で討論す
るグループ)、年齢・出身・専門分野もさまざまで、実にい
ろいろな考え方を持った人たちが集まった。
今回のセミナーのテーマは科学技術・福祉・ジェンダー
である。D班では福祉やジェンダーを専攻している人が多
かったので、討論は必然的に福祉・ジェンダーが中心とな
った。互いに妥協しない討論が繰り広げられ、議論は毎日
夜中まで続いた。
私は普段から討論することが苦手である。このセミナー
でも、テーマの関連性が見えていなかったということもあ
り、不本意ながらも黙っていることが多かった。だがセミ
ナーで出会った人たちとの関わりの中で、自分のこのよう
な態度・意識を見直す機会が多々あった。特に、リビア出身
の人の言葉が、私の日頃の意識を考え直す契機ともなった。
彼は、日本には自由があると言った。私がどういう意味
かはかりかねていると、さまざまな国を渡り歩いてきた彼
は、今現在、特にテロ後はアメリカでも言論の自由が制限
されているのに対し、日本では政治や宗教に言論が制約さ
れることはない。だから日本は自由であるのだということ
を、丁寧に語ってくれたのである。この日本は自由である
という考えは、私にとっては意外なことであり、このよう
な意識は私にはなかった。そもそも私は日頃から「自由」
久我 文
というものをどのようにとらえ、考えていただろうか。彼
が言った「自由」とは、自分のやりたいことを好きなよう
にするというような、一般的に言われている自由とは意味
が違い自分に由っていること―自分にもとづいて、そこか
ら何かを生み出すことを意味していたのではないだろうか。
そうなのだとすると、私は普段から「自由」を行使するこ
とを放棄してしまっているのではないかということに気づ
いた。それからはそういう自分を反省し、今までとは違っ
た意識で討論に望むことを心がけた。
もう1つ、今回特に印象深かったのが、同じ班のメンバ
ーの上田君(立命館大学)のプレゼンテーションである。
彼は、最終日に行われる班毎のプレゼンテーションを英語
で行った(A班以外は当然日本語で行うものとしてとらえ
られていたにも拘わらず)。彼の英語は決して流暢ではなか
ったし、文法的にも間違っているところもたくさんあった
と思う。しかし、このプレゼンテーションで最も賞賛され
たのは、彼であった。彼の自分を表現しようとする勇気が
称えられたのであろう。私に足りないのは、このような勇
気なのだと思う。
セミナーでは、いずれのテーマにしろ、重要なのは1人
1人の意識であり、意識形成に大きな影響を与える教育の
役割は大きいということも説かれた。自分の学んでいるこ
との意義の大きさも実感でき、私にとっては大きな収穫を
得たセミナーであった。
(本学 社会科教育専攻4年)
(4)2002年12月10日発行
環
第 5 号
無形文化遺産を次世代に伝えるための試み
−RVMVプロジェクトの活動−
小 塩 さとみ
2001年10月、ヴィエトナムの首都ハノイから約400キロ
南下したゲアン省のターイ族の村で芸能調査を行った。
ヴィエトナムは公称54の民族を有する多民族国家である。
人口の8割以上を占めるのはヴィエト族(別名キン族)だ
が、それ以外にも言葉や宗教、生活習慣の異なるさまざ
まな人たちが同じ国の中に住んでいる。ターイ族は、タ
イ語を母語とし、餅米を主食とするなどタイ人との共通
点も多い。けれどもヴィエトナム国民として、ヴィエト
ナム語で教育を受け、ヴィエト族の人たちとも交流しな
がら生活をしている。
この調査は、RVMVプロジェクト(Research and Video
Documentation Project of Minorities' Intangible Cultural
Heritage in Vietnamの略称)の第1回ワークショップの一
環として行われ、私もこのプロジェクトのメンバーの一
人として参加した。音楽や舞踊は、通常、演奏の終わり
とともにその姿を消してしまう。芸能が命をつなぐため
には、演奏家や踊り手が次の世代にその知識や技術を伝
えていく必要がある。しかし、長期間にわたる戦争や、
近年の市場経済の導入による急速な生活の変化により、
芸能の伝承は大きな危機に瀕している。RVMVプロジェ
クトは、映像の専門家による芸能の撮影と、学術班によ
る芸能調査を組み合わせることにより、音楽や舞踊を資
料として記録することを目的として発足した。
芸能をビデオや学術調査という形で記録化することに
より、他の文化の人たちに紹介したり、後世の人に伝え
たりすることが可能となる。その芸能の本質を伝えるた
めにはどんな映像を撮ればよいか、映像からその芸能を
理解するために必要な学術情報は何か。少数民族の村で
の数日間の実地研修と、その前後に1週間ずつ行われたハ
ノイのヴィエトナム国立民族学博物館での講習会は、こ
れらの問題について、日本とヴィエトナムの音楽学者、
民族学者、そして映像や録音の専門家が共に考え、また、
撮影や学術情報収集に必要な技術を学ぶ場であった。
私が調査を行ったターイ族のフォン集落では、近年、
村人による芸能団が結成され、女性によるステージ用に
振り付けられた舞踊が村の芸能活動の中心となっていた。
その一方で、かつて生活の中で歌われていた恋歌や子守
歌などのレパートリー、子供達の遊び歌などは、歌われ
る機会が少なく、我々の訪問によって、久しぶりに演じ
られた曲も少なくなかった。最初のうちは、馴れないカメ
ラやマイクに怯え
るようにして歌っ
ていたおじいちゃ
ん、おばあちゃん
達も、何十年ぶり
かで古い歌を口ず
さむうちに、表情
が輝き始める。ま
た、今は廃れてし
まった遊び歌を、
子供の頃を思い出
しながら再現して
くれた女性達は、
遊び歌で遊んでい
るうちに娘時代に
戻ってしまったか
のようであった。
そしてそんな母親
芦笙ケーンの伴奏で歌うフォン村の古老
や祖父母の様子を
不思議そうに、けれども真剣な眼差しで見つめている子
供達。
それまで請われることがなく、そのために演じられな
かった古い音楽は、ビデオフィルムの中に収められただ
けでなく、調査を行った研究者、そして何よりも村の若
い人達の心の中で大きく鳴り響いた。この調査がきっか
けとなって、次の世代へと引き継がれていくのではない
かと期待される。
RVMVワークショップは3年間継続して開催される計画
である。2年目に当たる今年は、9月末から3週間、ハノイ
の民族学博物館における講習会と、ハノイの北西に位置
するトゥエンクワン省でのフィールドワーク及び撮影が
行われる。1回の調査期間はわずか数日間と短く、映像の
撮影方法も、学術調査の方法もいまだ試行錯誤の状態で
はあるが、このプロジェクトがきっかけになって、ヴィ
エトナムの少数民族の芸能が記録化され、多くの人々に
向けて公開されるようになればと考えている。今年のワ
ークショップでは、撮影したビデオの活用方法について
も、議論が行われる予定である。
―9月24日ベトナム出発前夜に記す
(本学助教授:音楽教育講座)
宮城教育大学で学ぶ留学生たち
2001年10月1日現在、宮教大には、学部学
生に13(12)、大学院学生21(13)、学部研究
生29(18)、大学院研究生(教員研修留学生を含む)11(7)の計
74名(かっこ内は女子、内数)が学んでいます。昨年同期に比
べると11名の増加です。女子は50名で相変わらず3分の2を占
めています。
それを国籍別でみると、中国が49(32)で全体の3分の2を占
め、韓国が11(10)、モンゴル6(3)、ベトナム2(1)、タイ1(1)、
ブラジル1(1)、パラグアイ1(1)、コロンビア1、オーストラリ
ア1(1)、ラトヴィア1です。この4月から総合学習で、国際理解
教育を取り上げる学校が多くなり、留学生の授業参加を依頼
されることが少なくありません。小学生にとっては、留学生か
ら、それぞれの国の、子供の遊び、料理、衣装、学校の様子等を
直接聞くことで、それぞれの国への親しみが沸き、又留学生に
とっては、自分の国のことを子供達に話すことで、国際交流に
参加している実感を味わうことが出来る点で一石二鳥です。
これまでは、個別的な対応で処置してきましたが、これからは、
大学と小学校の教育連携という観点から、システム化を考え
るつもりです。
(国際交流委員会)
余 録
第 5 号
環
(5)2002年12月10日発行
環境・開発サミットに参加して 南アフリカ共和国・ヨハネスブルク
−旧黒人居留区・アレクサンドラの声を世界へ−
小田 隆史
"We have no water, no house and no land."(私たちには水
も家も土地もない)
南アフリカ共和国・ヨハネスブルクの旧黒人居留区ア
レクサンドラの子供たちが録音マイクに群がった。
8月下旬から南アで開かれた国連主催の環境・開発サミ
ット(World Summit on Sustainable Development)に仙
台訪問団の一員として参加していた私は8月31日、同行記
者らとともにサミットの政府会合の会場に近い貧民地区
を出発した大規模なデモ隊に追いついた。長年、国際社
会から孤立しながら人種隔離政策(アパルトヘイト)が
強行されてきたこの国に、発展途上国をはじめ世界各国
から集まった市民が、口々に自らの貧困の惨状や、グロ
アレクサンドラ地区の子供たち
ーバル化が先進国と途上国の経済格差を拡大し富の偏在
らの叫びが残像とともに私の脳裏に留まり、旧黒人居留
をもたらしていることに対する不満を訴えた。アレクサ
区の真ん中に立ったあの時に抱いた慄然たる緊張感と、
ンドラ地区は、たった数キロしか離れていない高級ホテ
彼らから自然に溢れ出ていたエネルギーが昨日のことの
ルやレストランが立ち並ぶ富裕な政府会合会場のサント
ように甦ってくる。
ン地区とは全く様相を異にし、軒並み粗末な「掘っ立て
国連主催の国際会議に参加できることに大きな期待を
小屋」が連なっている。当初のデモ隊に加え、アレクサ
持ち、自分にとってもまたとない機会であると参加した
ンドラ地区の貧しい住民も沿道から参加した。軍隊が装
サミット。しかし、地球規模での環境問題は「机上の空
甲車を出動させるほどの厳重な警戒態勢(写真下)であ
論」では解決できず、更に、途上国が抱えた貧困を着実
ったが、衝突や暴力などを目撃することはなかった。ジ
に解消していかない限り、問題の解決にはつながらない。
ンバブエの貧困撲滅を訴える女性のひとりは、「私たちは
武器など一切持っていない。言葉で訴えかけたいだけだ。 このことを教えてくれたのは、「先進国」の白人たちが入
植して作った社会と、社会・経済的にも文化的にも取り
平和な人たちの集まりだ。武器を持って平和を脅かして
いるのは、周りにいる警官や兵士ではないか」と訴えた。 残されてしまった「発展途上」の黒人たちが大きなギャ
ップを抱えながら共存しているヨハネスブルクの街その
地元紙が「4万人を越える市民が参加」と報じた今回のデ
ものであった。
モは、世界の首脳が足を踏み入れなかったこの地区の状
帰国後、時差ぼけが治らず体内時計が現地時間だった
況を、世界の貧困と「グローバル化」の脅威と照らし合
私は、自宅で荷物整理などしながらインターネットで閉
わせながらアピールした。彼らの声は、10キロも離れて
会直前の会議の生中継を観ていた。先進国と途上国との
いないサントン会
意見が対立し、一時は採択が危ぶまれた政治宣言は、意
議場の首脳たちに
見対立がある部分を全て削除し、予定外の休憩を大幅に
どれだけ届いただ
取った上で再開後、「持続可能な開発に関するヨハネスブ
ろうか?
ルク宣言」と名づけられ、採択された。
「妥協の産物」と
∼・∼・∼・∼
してやっと成立した宣言は、具体的行動への約束の乏し
アレクサンドラ
さが批判されてきたサミットそのものの成果への疑問に
地区で何度となく
つながった。
私たち外国人に近
「デモもあったようで危なかったみたいだね」と友人
づいてきては「私
の写真を撮って」 たちが心配してくれていた。日本でのマスコミ報道が、
デモに対して否定的・暴力的なイメージを創ってしまっ
と満面の笑みを向
たかと首をかしげた。しかし平和で安定した平等な社会
けてくる子供たち
を目指そうと、全身から精一杯主張した人々の声は、一
(写真上)。現像さ
ヶ月たった今も私の心に呼びかけてくる。
れてきた写真を見
ながら、再びあの
時の録音に聴き入 (現在 東北大学大学院理学研究科 1年
2002年3月 本学 国際文化専攻卒業)
ると、そこに収め
られた彼ら、彼女
警官のバリケードに挟まれて
環
(6)2002年12月10日発行
第 5 号
外の世界で感じたこと
−エセックス大学留学記−
勝又菜穂子
2001年8月31日 私は、中学時代、イギリス人のALTと
の出会いから憧れていたイギリスの土を踏んだ。
エセックス大学は、イギリス人はもちろん、多くの留
学生で構成された総合大学だ。実に多くの世界中の国々
の人が勉強をしに集まっていた。イギリスという国もま
た様々な人種や民族の混ざった国で、イギリス人でもイ
ンド・パキスタン系の人もいれば、白人だけでなく黒人
の人もおり、加えて中国人をはじめとしたアジア諸国の
人もいる。イギリスに着いて間もない頃は、イギリス人
を含めた他のナショナリティの間に自分が存在し、生
活・活動していることが不思議だった。いろいろな国が
あって、国ごとに抱える事情や文化や習慣があるのだ、
と思い知る事もしばしばあった。衝撃的だったのは、9・
11だ。まだイギリスに来て2週間も経っていなかった。ア
メリカ、ニューヨークのワールドトレードセンターが炎
公園の彼方に林立するエセックス大学の学生寮(通称 タワー)
ということを思い知った。
と煙のなかで倒れていく映像をフラットメイトたちとそ
「豊かさ」というのを実感したのもひとつだ。みなさ
のうちの一人のパソコンで確認した。翌日の新聞の一面
んは日本がいかに豊かな国か気づいていただろうか。私
にも大きくツインビル崩壊の写真が載った。しかし、教
はイギリスに行って初めて子どもが働いているのを見た。
室に行ってもその話をしている人はほとんどいない、先
イギリスは先進国で日本と同じように社会・技術の発展
生も大事件に触れない。そのうちに、外の広場で黙祷を
も進んでいるのだと思っていた。社会的階級がある国だ
行う旨を伝えられた。留学生の中には事件の加害者と言
とは聞いていたが、実際に自分の目で見たときは衝撃だ
われる方面から来ている人もいて、その人たちのことを
った。10才ぐらいの子どもたちが地下鉄の電車の中でア
配慮していたのではないか、と後日聞いた。そのような
コーディオンを弾いて、乗客に小銭を恵んでもらってい
こと、事件の重大さを他の国から来ている学生たちが深
るのだ。駅で同じような子どもたちが集まって電車がは
刻に受け止め話すのを肌で感じた。平和な日常に浸って
いると皆ばらばらに乗り込んで再び稼ぎに行く。ヨーロ
いる日本にいたら、ここまで問題の深刻さを感じること
ッパでも、地下鉄で身なりはふつうに見えるが車内で歌
はできなかったのではないだろうか、と思った。イギリス
を歌って小銭を乗客からもらう女性がいたり、子どもを
をはじめ、世界諸国の事情に対する関心が深まるきっかけ
抱いて駅構内で並んでいる人の間を縫って、恵みを請う
ともなった。
ひと、信号待ちの車の間を歩いて花を売り歩くひと、バ
また、一人で大学のあるコルチェスターのタウンセンタ
ーの中に入ってきて物を売る人などをたくさん見かけた。
ーに行ってイギリス人の少年たちから「からかい」を受け
少なくとも、日本では10歳前後の子どもが働くような光
たことがあった。既にエセックスに来て半年が経っていた。
景は見られないだろう。
私は他の国の人たちの中にいることにも不自然さを覚えな
日本との違いに衝撃を受けたり、戸惑うことも多かっ
くなり、どこの国のひとであろうが、どの民族であろうが
たが、エセックスにいる間に出会った人、経験はいつま
「ひと」として人を見ることができるようになった頃だっ
でも私の宝物である。「Hello、Naho! How are you
た。町ですれ違った少年達は私の方に何かを投げつけてき
doing?」と頬にキスをして声をかけてくれる友達がいた
た。振り返ると彼らは私の方を見て笑っているように見え
から、私はエセックスでの一年を楽しく過ごせたのだと
た。怒りを覚えて、何か言ってやろうとも考えたが、何か
思う。異なる環境と今まで出会ったことの無かった世界
あったときに助けてくれる人がいるかどうかは分からな
の国の人たちと過ごした時間が私に何をもたらしてくれ
い。ふと、周りを見るとほとんどがイギリス人、週末のせ
たのか、今はまだそれをはっきりとした形で表すことが
いかティーンエイジャーの子どもたちも多い。急に自分が
できないが、間違いなく一年間の留学で感じたことは多
「アジア人」であることを感じた。外国人は自分の方だ、
い。この経験を今後の自分にどう活かして生きていくか
と認識した瞬間だった。そして、私達がそうするように他
の人たちもまた自分を人種やナショナリティで見ている、
が、これからの自分の課題だと思う。
(本学 生涯教育政策専攻 3年)
環
第 5 号
(7)2002年12月10日発行
私にもできそう、国際教育協力による国際貢献
平吹 喜彦
去る10月9日(水)、鳴門教育大学学校教育学部・齋藤
上がっており、新規参入が困難な状況を迎えつつある。
昇教授を講師にお迎えして、「国際教育協力に関する研修
研修生の受け入れが、学生や地域にとっても有意義にな
会」が本学230番教室で開催された。会場には、横須賀薫
るよう工夫できる等々。
学長をはじめ教職員・学生40名ほどが集まり、2時間の刺
昨年9月にアメリカ合衆国で発生した惨事とそれに続く
残酷な民族間の争いを目の当たりにして、一人ひとりが
激的な研修を共有した。
鳴門教育大学では、現在3つの国際教育協力事業を実施
国際理解を深めることなくして、人類に明るい未来は存
しているとのこと。齋藤教授は、それらすべての立ち上
在しないことが鮮明となってきた。教育活動に直接携わ
げと運営に関わっておられる方で、学内の受け皿作りに
る人材を養成する教育機関に務める私にとって、いった
始まり、相手国との協力体制の強化、協力活動の実際、
いどのような取り組みができるのか?…こうした重たい
今後の展望、そして教育大学が国際協力を行うことの意
課題にも応え得る、すばらしい講演であった。この様な
義について、丁寧かつ率直にお話し下さった。配付資料
機会を提供していただいたことに、心から感謝申し上げ
や聴衆との質疑応答を含めて、印象に残った事項を以下
たい。
(本学助教授:理科教育講座)
に列記したい。
大げさに構えないで、実直な取り組みを継続すること
により、信頼関係に基づく国際貢献を十分達成し得る。
鳴門教育大学では、10人程度のメンバーでひとつのプロ
ジェクトを動かしている。一方、日本で研修を実施する
際には(1プロジェクトあたり毎年10人程度、1∼2か月間
滞在)、担当大学のみならず附属学校園、教育委員会、他
大学等から協力をいただく必要がある。プロジェクト実
施に関わるすべての経費は、国際協力事業団(JICA)を
通じて支払われるので経済的な負担はない。反面、担当
者は様々な仕事を処理しなければならないため、ボラン
ティア精神や実務的な体制づくりも不可欠である。現在、
各地の教員養成大学では国際協力に対する使命感が盛り
「教育大学における国際教育協力について」講演する齋藤教授
本学に留学している外国人留学生を囲み、教職員およびチューター、派遣留学生もま
じえて、親睦を深める「留学生を囲む会」を毎年開催しております。
本年は、下記の日程で行います。日ごろ留学生の指導にあたられている教職員の方々
に、多数ご来場いただきますよう、よろしくお願いします。
■日 時:平成14年12月12日(木)
■場 所:萩朋会館2階(大集会室)
17時15分∼19時00分
編 集 後 記
この2ヶ月有余、世界はイラク問題に、日本国内
は北朝鮮による拉致被害者問題に明け暮れた感があ
ります。本号では、9月に行われた国連大学グロー
バル・セミナー第1回東北セッションの特集を組み
ました。又、10月のベトナム・ハノイ外国語大
学・日本語学部長の来学にちなんで、ベトナムに造
詣の深い小塩さんに、無形文化遺産の記録化の記事
を、国連大学に関して、南アフリカ共和国で開催さ
れた地球環境サミットについて、仙台NGOから参
加した小田さんからhotな参加記を寄せてもらいま
した。ちなみに小田さんは、国連大学グローバル・
セミナーにも参加し、浅野知事の福祉に関する講演
を、英語で通訳し、浅野知事の絶賛を博しました。
本学在学中は、マカレスター大学に1年間留学して
います。お忙しい中、原稿をお寄せ頂いた執筆者の
方々に厚くお礼申し上げます。現在、委員会は、教
育の国際協力について、具体的な一歩を踏み出すべ
く講演会の開催に加え、学内体制の整備を進めてい
ます。来年1月には、本学主催のシンポジウムの開
催も予定しています。国際交流について委員会が考
えていることは、国とか民族などの外的な枠組みを
超えた個々人の交流を如何に図るか、そのための条
件整備を一つひとつ着実に進めることです。一人で
も多くの学生を海外に送りだし、他方、日本で学び
たいという意欲のある、海外からの学生に出来るだ
け多く勉学と研修の機会を与えること、それと同時
に日本人学生との間での交流を図ることです。それ
がひいては、異なる他者に対する理解と世界の構造
に関する認識能力を高め、学校教員としての資質の
向上にも役立つと思うからです。今年は例年になく
寒さの到来が早いようです。お風邪を召しません様
に、ご自愛下さい。
(H記)
宮城教育大学
「国際交流ニュース」編集委員会
委 員 本郷隆盛、青木守弘、板垣信哉、
島森哲男、降矢美弥子
本ニュースレターは、7月、10月、2月の年
3回発行します。
ご意見・ご要望は下記のところまでお寄せく
ださい。
宛 先 〒980-0845 仙台市青葉区荒巻字青葉
宮城教育大学 総務課総務係
TEL 022-214-3430
FAX 022-214-3309
環
(8)2002年12月10日発行
国
際
交
第 5 号
流
二
題
かれました。現在でも、アメリカの教員の多くは、日本
を60年代から80年代の「高度成長期」や「バブル期」の
アメリカの教育者20名が本学を訪問
「安定した安全な社会」や「勤勉で教育熱心な国民」とし
てイメージしているのではないかとの印象を受けました。
フルブライト・メモリアル基金事業の一環として、ア
その他日本の教育改革の歴史的経過、教員の生徒指導・
メリカの初等中等教育教員及び教育行政官20名が10月15
教育指導の負担過重などに関して、多くの出席者から率
日(水)に本学を訪問されました。訪問の目的としては、 直な意見が述べられました。
日本研修の一環として日本の教員養成大学の視察と本学
生徒指導の問題に対応できる教員の育成として、本学
教官との意見交換が中心です。本学訪問は3時間あまりと
でもカウンセリングスキル養成のため授業を開設する方
限られていましたが、本学教官10名と教育一般及び教員
針であることを紹介した際、テキサス州からの参加者は、
養成に関わるいくつかの問題に関して意見を交換するこ 「自分をカウンセリングコースの担当教官として採用して
とができました。初めに、本学の本郷教授から、「日本の
欲しい」との発言もあり、友好的な雰囲気の中で意見交
教育事情と本学の対応」と題して、「教育現場での生徒指
換を進めることができました。議論を通しての感想とし
導」、「義務教育学校教員の高齢化」、「教育学部の再編統
ては、
「古今東西、教育問題は同じ」を実感すると同時に、
合」などの諸課題に対する本学の基本方針の説明がなさ
それぞれの社会構造や歴史的背景の違いによって、その
れました。その後、質疑応答・自由討論に移り、活発な
対応の違いを再認識する機会もありました。今回は、学
意見交換がなされました。教員の高齢化問題に関しては、 生の参加者もあり、学生にとっても普段と異なる観点か
カリフォルニア州では教員の早期退職・勧奨退職などで
らの議論に参加することができて有意義であったと思わ
対応したことが紹介されましたが、日本の雇用制度の伝
れます。
統である終身雇用制との兼ね合いで、日本では、同じよ
(板垣信哉 国際交流委員会)
うな対応策を採ることが難しいことなどが議論されまし
た。
また、日本でも
「いじめ」や「学校
崩壊」が社会問題
化していることが
紹介されたことに
関して、アメリカ
からの出席者から
は「意外でした!」
交流会のあとの記念撮影風景(後壁の題字は本学 加藤豊仭教授 筆)
と率直な感想が聞
留学生ハイキング(鳴子峡紅葉狩り)
10月18日、恒例の留学生ハイキングが行われました。
往きのバスでは自己紹介や日本語のしり取りで盛り上が
り、岩出山の有備館を見学、オニコウベスキー場で遊ん
だあと、鳴子峡につきました。渓谷を歩いて赤や黄のも
みじに包まれ、その美しさにうっとり。記念写真を撮っ
たり、コンニャクを食べたりして楽しいひとときを過ご
しました。そのあと鳴子温泉「滝之湯」につかり、疲れ
をいやしました。楽しそうな笑い声は山々にこだまして、
印象的な日本の秋の一日でした。
11月9日の大学祭では、留学生たちが母国の料理を披露
する「留学生による世界の料理」が開かれました。オー
ストラリアのクッキーや、ベトナムの生春巻、モンゴル
のギョウザ、ラトビアのじゃがいものパンケーキなど、
自慢の料理を訪れた立町小学校の子どもたちといっしょ
に作り、「おいしいね」と言いながら食べました。毎年恒
例の、食文化を通じての楽しい国際理解の一幕です。
(留学生委員会)
鳴子峡の橋の上で
Fly UP