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やる気なし英雄譚 - タテ書き小説ネット

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やる気なし英雄譚 - タテ書き小説ネット
やる気なし英雄譚
津田彷徨
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
やる気なし英雄譚
︻Nコード︼
N5279BN
︻作者名︼
津田彷徨
︻あらすじ︼
大陸西方の小国であるクラリス王国に、﹁王都のごくつぶし﹂と
呼ばれる青年士官がいた。彼は魔法全盛の時代にほとんどの魔法を
扱えず、出来損ないの士官として地方へ左遷されてしまう。
しかしやる気のない彼は左遷を喜び、田舎都市で楽隠居を決め込む
つもりであった。
だが彼の願望とは異なり、時代の激動は彼に歴史の表舞台へと立つ
1
ことを要求した。
この物語は﹁王都のごくつぶし﹂、﹁カーリンの昼行灯﹂と呼ばれ
s
tale
Ω︶
た、やる気なし青年士官であるユイ・イスターツが、﹁救国の英雄﹂
hero
と呼ばれることとなる大陸騒乱の物語である。
︵Unmotivetid
*書籍版全6巻はMFブックスより発売中
2
prologue
盛夏に差し掛かった首都エルトブールの城壁は、赤く燃える太陽
の光を、鈍く反射させる。
エルトブールのメインゲートとも言うべき、重厚な南門の脇に、
通常時の外部との交通用である小門がある。主に商人などが、他の
都市などからの交易品の輸出入に使用している門であり、通常は門
を守る衛兵が、数名単位で待機している場所であった。
しかし今は十代後半に見える金髪の青年が、門を背もたれにして
立っているのみで、他に人影はなかった。その青年は、まだ少年期
から青年に成り立てといった様相であったが、彼の着込んだ青色の
甲冑と、その鎧の傷は、彼が既に戦場を経験した勇士であることを
示していた。
そんな彼のたたずむ場所へ、二十代前半といった顔立ちの黒髪の
男が、愛馬にまたがりながら、城の方角より真っ直ぐ向かって来る。
﹁ユイ先輩⋮⋮本当に行かれるのですか﹂
金髪碧眼の中性的な顔立ちをした青年が、ユイと呼ばれた黒髪の
男の行く手を遮るよう、門の前に立ちはだかって声をかけた。黒髪
の男は、一瞬だけ逡巡するように、戸惑った表情を浮かべたが、馬
上にて頭を一度掻くと、申し訳なさそうに返答する。
﹁迷惑をかけるな﹂
金髪の青年は、仕方ないとばかりに、左右に首を振った。
3
﹁帝国のリンエン将軍は、用心深い方と伺います。いかにあなたで
も、うまく取り立てられるとは限りませんよ。もう一度考え直しま
せんか﹂
今のクラリスの状況から、彼を引きとめられないことを、青年は
誰よりもわかっていた。ただ引きとめずにはいられなかった。
﹁いいかい、エインス。先立ってのソーバクリエンの野戦で、王立
軍はそのほぼ全軍を失ったんだよ。もはや大勢は決したんだ﹂
その言葉を聞いてエインスは、ため息を一つ吐き出す。そして馬
の前を遮るように立っていた自らの身体をゆっくりと動かすと、城
外の草原へと続く道をユイの前に開けた。
﹁次にお会いできるのは戦場ですね﹂
﹁ああ、この国のことを頼む。あと傷心のあの方のことも﹂
馬上からユイは、彼の後輩に頭を下げた。
﹁わかりましたよ。でも先輩も無茶はしないでくださいね。あの方
のことは、責任をもって僕が後を務めますから、ご安心を﹂
そう言って、エインスは頭を下げたままのユイに向けて、そっと
右手を差し出す。
﹁私が握手を苦手としているの、お前は知っているだろ﹂
﹁ええ﹂
そう言っても右手を下げないエインスに対して、ユイは困ったよ
うに頭を掻くと、自らの腰につけていた長刀を外し、自らの右手の
代わりに、刀をエインスの手に握らせた。
﹁握手の代わりだ。餞別として、これを預けておくよ。いいか、や
るんじゃない、預けておくだけだぞ﹂
4
頬を少し膨らませるような子供っぽい仕草をしながら、愛刀を押
し付けてくるユイに、思わずエインスは声を出して笑ってしまうと、
ユイもそれに釣られて笑いだす。
﹁では、先輩の席と併せて、しばしお借りしておきます。とにかく、
お気をつけて﹂
後輩の言葉を背に受けて、ユイはゆるやかに馬の歩を進ませた。
大地の緑と澄み切った青空、そしてそれを区切るように見渡せぬほ
ど広がる黒色の帝国兵の集団に向けて。
5
カーリンの昼行灯︵改訂︶
﹁だから私は反対だったんだ﹂
王都エルトブールの遥か西に位置するカーリン市。
そのカーリンから南部へと続く街道沿いの草むらの中に、藪蚊に
噛まれながらも街道の動向を探っていたるだらしな気な黒髪の男が
いた。
任務中にもかかわらず気だるそうな雰囲気を醸し出すその男は、
カーリン軍戦略部隊長という役職にあり、カーリンの昼行灯と呼ば
れるユイ・イスターツその人である。
﹁旦那⋮⋮今さらそんなこと言わないでくださいよ。だいたい最初
にこの計画を立案したのって、旦那だったじゃないですかい?﹂
愚痴を口にするユイの隣で、彼の部下であるスキンヘッドのクレ
イリーは、呆れたようにそうたしなめる。
﹁⋮⋮そりゃあ、計画したのは私だったさ。でも、予定ではお前と
カインスとナーニャの三人が担当だったはずだろ。なんでここに、
ナーニャがいないんだよ?﹂
山賊のような容貌のクレイリーと、その背後に控える筋骨隆々の
弓使いであるカインスに向かって、ユイは順に視線を送りつつそう
口にする。
﹁酒場が開いているこんな夜更けの時間に、あいつがまともに仕事
すると思っていたんですかい? そりゃあ、旦那の計画自体が悪い
ですぜ﹂
6
今頃とっくに酒に飲まれて、仕事のことなどすっかり忘れさって
いるであろう女性のことをクレイリーが口にすると、ユイは頭を振
りながら両肩を落とす。
﹁はぁ⋮⋮王都の喧騒を逃れてせっかく地方に左遷されたっていう
のに、部下の一人は逃げ出すし、別の部下は上司を働かせるし⋮⋮
こんなはずじゃなかったのにな。どこでボタンを掛け違えたんだろ
う﹂
魔法全盛の現在においてほとんどの魔法を使うことができないユ
イは、その仕事中のやる気の無い態度も相まって、出来損ないやタ
ダ飯食らいとの評判を王都で受けていた男である。
そんな彼は不幸にも上官の出世争いに巻き込まれ、紆余曲折の末
に王都から大きく離れたこのカーリンの地方軍へと左遷される羽目
になっていた。
この左遷命令に対して、ユイは田舎で楽隠居をする野望を胸に秘
めていたこともあり、嬉々としてカーリンへの異動を受け入れる。
そして満面の笑みを浮かべながらこの地にやってきたのは、ほんの
三年前の出来事であった。
そうして左遷先のカーリンで管理職として働くこととなったユイ
であるが、彼の下で働く部下達は揃いも揃って一癖も二癖もある者
達ばかりであり、彼は憧れ続けていた楽隠居を未だに果たせないで
いる。
﹁そんなに気分を害さないでくださいよ。だいたい旦那は、今日も
昼からしか働いていないじゃないですか。普通に労働時間を考えれ
ば、まだまだお釣りが来やすぜ﹂
﹁⋮⋮そりゃあ、そうだけどさ﹂
極端に朝が弱いユイは、いつも昼を過ぎてからしか出勤しない。
7
そのため、クレイリーにそのことを指摘されると、ユイは天を仰
ぎながら諦めたような表情を浮かべて口をつぐむしかなかった。
そうして彼が黙りこみ、静寂がその場を支配し始めた頃、背後に
控えていたカインスがユイに向かって声を上げる。
﹁隊長、御一行さんが来ましたよ﹂
カインスの声を耳にするなり、ユイ達はカインスの視線の先を追
う。
すると、彼の視線の先には、護衛に守られながらのんびりとこち
らへ近づいてくる荷馬車の姿があった。
﹁護衛の内訳は?﹂
﹁剣を腰に差したチンピラ風の男が四人。あとは荷馬車の操者が一
人ですね﹂
視力の良さと弓の技術を買われて今回の作戦の随員に選ばれたカ
インスは、その一行の構成を瞬時に見極めて報告する。
﹁手に入った情報の範囲内だな。とすると、護衛の連中は奴が飼っ
ている犯罪者達というわけだ。ふむ⋮⋮だとしたら予定通りと行こ
うか。私の合図でカインスはまず操者を、そして第二射は私達が突
入するタイミングで頼む﹂
﹁わかりました。お気をつけて﹂
ユイが計画を再度確認するようにそう口にすると、後方からの支
援任務を任されたカインスは、大きく頷きながらそう答える。
﹁では始めるとしようか。三⋮⋮二⋮⋮一⋮⋮放て!﹂
ユイの命令とともにカインスの矢が放たれる。
そして次の瞬間、荷馬車の上にいた操者はその場に崩れ落ちてい
った。
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﹁旦那、先行しやすぜ﹂
愛用の槍を握りしめたクレイリーは、突然の事態に混乱する護衛
兵達に目がけてまっしぐらに駆け出した。
そんなクレイリーの後ろ姿を目にして、ユイも渋々といった様子
でその場を駆け出すと、草むらの中から街道へと飛び出す。すると
彼の視界には、突然の出来事に慌てふためく護衛達の姿が写った。
﹁な、何者だ!﹂
護衛達の中で、リーダー格と思われる左頬に傷のある男が、ユイ
達に向かって言葉を発する。
しかし次の瞬間、彼は側面から予期せぬ矢の直撃を浴びると、そ
のままその場に崩れ落ちていった。
﹁いやぁ、カインスの腕は相変わらず素晴らしいね﹂
夜間にも関わらず寸分違わぬ射撃技術を披露したカインスに対し、
ユイはその場で称賛を口にする。
﹁旦那! 感心してないで、奥の一人を頼みやす﹂
クレイリーは突入の混乱時に一人目の護衛を背後から瞬殺すると、
そのまま二人目の護衛へと踊りかかっていた。そして裂帛の気合と
ともに愛槍を突き出すと、二人目の護衛の男の腹部を一気に貫く。
﹁仕方ないなぁ⋮⋮君達には申し訳ないけど、この積み荷はちょっ
と没収させてもらいたいんだ。ただ、私としてはあまり体を動かし
たくもないから、良かったら降伏してくれないかな?﹂
ユイは荷馬車にチラリと視線を送った後に、最後の一人となった
護衛と対峙すると、頭を掻きながらそう告げる。
﹁ふざけるな! くそ、死ね!﹂
9
仲間をやられて逆上した男は、全身から憎悪のオーラを放ちつつ
手にした剣を振りかぶる。そしてそのまま一足飛びに、ユイへと飛
び掛かった。
その姿を目にしたユイは、降伏勧告が無効であったことを理解し、
僅かに目を細める。そして眼前の男の動きに対応するため、ユイは
そのまま重心をわずかに下げると、右足を半歩前へと踏み出した。
一度息を吐きだし、左腰に備えた刀の柄を右手で握り締める。そ
して次の瞬間、溜めた力を一気に解き放つように、刀を鞘走りさせ
真一文字の剣光の残像を生み出した。
対峙した男とすれ違うような形で刀を振りきったユイは、そのま
ま何事もなかったかのように対峙した男へと背を向ける。
そして一瞬の間の後に、対峙した男がその場に崩れ落ちる音が周
囲に響いた。
﹁はぁ⋮⋮肉体労働は私の性分じゃないんだけどね﹂
そう虚空に呟いたユイは、無数の星が瞬く夜空をそっと見上げ、
深い溜め息を吐き出す。
そして一度左右に首を振って気持ちを入れ替えると、帝国との密
貿易を裏付ける証文を探すよう、彼は部下達に指示を下した。
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護衛の依頼︵改訂︶
﹁なんでこんな朝から呼び出されるかな⋮⋮全く世の中は嫌なこと
ばかりだ、本当に﹂
カーリンでの左遷生活も四年目に差し掛かったある春の早朝。
カーリン地方軍における唯一の上司であるエルンストから、至急
の用として軍の施設も兼ねる老朽化した市庁舎へとユイは呼び出さ
れていた。
クラリス軍の階級は軍務省のトップたりえる一位から始まり、一
般採用の新人兵及び戦時の召集兵に与えられる十位の階級までの、
十段階に別れている。
ユイは中央からの派遣と言う事情もあり、六位の階級を与えられ
ていたが、このカーリンにおいては彼が最上位の戦略士官であった。
そして今回の呼び出し主であるエルンストは五位であり、カーリ
ン軍の最上位である軍務長を務める人物である。
﹁しかし、こんな時間に私に用だなんて、たぶん普通では無いよな。
ろくでもない事でなければいいんだけど⋮⋮﹂
クラリス王国における地方軍の編成においては、中央の軍部を構
成している陸軍省・魔法省・戦略省の三省からそれぞれ士官が地方
へと派遣され、その下に現地採用の兵士が配属されることが一般的
なやり方であった。
しかしながらこのカーリンは山脈を背にする大陸最西端の田舎都
市であり、他国との国境線も存在しないことから、その戦略的価値
は皆無に等しかった。その為、カーリンにおいては軍事力の必要性
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が著しく低く、これまでは全て現地採用した陸軍省の兵士によって、
都市警備をまかなっていたのである。
そんな中、中央の監督を行っていない事は地方軍の専横を招く可
能性があるとして、三年前に建国以来始めてカーリン軍の体制が問
題視された。それは同地の貴族が、一部現地兵を私兵のように扱っ
て、腐敗の温床となっているという報告が聞こえてきたからである。
それ故に、監査役として陸軍省以外の人材を現地へと派遣するこ
とが軍中枢で決定された。そして魔法省と戦略省の押し付け合いの
末、戦略省から同地へ初めての駐在武官を出すことが決まり、その
左遷人事としてカーリンへと送り込まれたのが﹃王都の穀潰し﹄と
呼ばれたユイ・イスターツである。
﹁まぁ、なるようにしかならないか。ただ、もし転勤の話なんだと
したら、どうやって断ったものかな⋮⋮﹂
彼を呼び出したエルンストは、ユイが朝に非常に弱いことをよく
知っており、普段は会議や打ち合わせなどがあっても必ず午後に開
くよう以前より配慮してくれている。そんなエルンストが早朝から
彼に呼び出しをかけるという事態に、ユイはただならぬ不吉な予感
を覚えていた。
だからこそ彼は王都への転勤という最悪の事態も想定し、どのよ
うにそれを断るかを脳内でシミュレートしながら、市庁舎の中を歩
き続ける。そうして、五パターン程の断り方を脳内でシミュレート
し終えた頃に、ようやくユイはエルンストの執務室へと辿り着いた。
ユイは部屋を前にしてもう一度頭の中を整理すると、覚悟を決め
て控えめにドアをノックする。
﹁イスターツ君かな? お入りなさい﹂
ノック音に反応して、ドアの内側からエルンストの穏やかな声が
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響く。
その声を耳にしたユイは、大きく息を吐き出して肩の力を抜き、
そのままゆっくりとドアを開けた。
執務室へと足を踏み入れると、三十代半ばの身なりの良い金髪の
男性が、ソファーに腰掛けているのがユイの視界に映り込む。そし
てそれと同時に、その対側にいつになく厳しい表情をした白髪交じ
りのエルンストの姿を、ユイはその目に捉えた。
﹁久しぶりだね、イスターツ君。こちらへ赴任してしばらくした頃
に会って以来だが、カーリンの水は馴染んでいるようだね﹂
その金髪の中年男性は、腰掛けていたソファーから立ち上がると、
ユイに向って両手を広げて笑いかける。
ユイはその男の名前がすぐには思い出せず、取り敢えずとっさに
頭を下げると、エルンストの方へと視線を移した。
﹁イスターツ君、こちらに掛けたまえ﹂
ユイの視線を受けて、エルンストは自らの隣へと彼を呼び寄せる。
呼び寄せられたユイは、ゆっくりと腰をソファーに沈めたところ
で、ようやく脳内の人名リストから、向かいに腰掛けるこの身なり
の良い男性のことを探り当てた。
サムエル伯爵。
それが向かいに座る男性の名前である。そして更に付け加えるな
らば、彼を呼ぶ際には伯爵ではなく市長という名詞がしばしばその
名前の後ろにくっつく立場であった。
﹁急に朝早くに呼び出して済まないね。本当はもう少し前もって準
備してから、君にお願いしようと思っていたんだが⋮⋮﹂
ユイはその話の切り出し方に一抹の不安を覚えたが、市長が同席
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していることを踏まえて、すぐに異動の話の可能性は低いと当たり
をつけて平常心を取り戻す。
しかしながら、市長が同席するなどということはここに赴任して
から初めてのことである。そして普段は温和なエルンストが表情を
固くしていることからも、何やら厄介事が舞い込んできている予感
を彼は覚え始めていた。
﹁実は君に護衛の依頼を頼みたいんだ。期間は一週間ほどの予定な
んだけどね﹂
﹁護衛⋮⋮ですか?﹂
エルンストの意外な申し出に、ユイは思わず問い返す。
カーリンにおいて護衛任務は陸軍省の管轄業務であり、戦略省所
属のユイに対して、護衛任務を依頼することは通常では考えにくい
話であった。
﹁ああ、護衛任務なんだ。本来は戦略省から派遣されている君に、
この仕事をお願いするのは申し訳ないのだが⋮⋮ただ今回はちょっ
と特殊な事情があってね﹂
エルンストがためらいがちにそう話すと、向かいに座るサムエル
が微笑を受かべながら話を続ける。
﹁いや、私から君にとエルンスト軍務長にお願いしたんだよ。実は
王都から我が領地に観光客が一人来ることになったんだけどね、問
題はこれがちょっと変わったお客さんでさ。エリーゼ・フォン・エ
ルトブートというお客さんなんだけど、知っているかな?﹂
ユイはエリーゼという名前を反芻するが、記憶を掘り起こしても
彼の知り合いに該当するものはいなかった。しかしながらエルトブ
ートという苗字を冷静に認識した瞬間、ユイは後頭部を強く殴られ
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たような衝撃を覚えた。
﹁エルトブートって⋮⋮まさかエリーゼ第一王女ですか!﹂
ユイは確認するように二人の顔を交互に見返す。
すると彼の視線の先でエルンストは重く一度頷き、もう一人のサ
ムエルはユイを値踏みするような表情を浮かべつつ、ユイの見解を
肯定するために口を開いた。
﹁ああ、そのまさかだよ。一応、領地視察を兼ねた観光ということ
なんだが、私の私兵の中には王女の護衛に適当な人材がいなくてね。
そこで王都から来ている君に白羽の矢を立てたわけなんだが﹂
﹁申し訳ないが、そういう事態なのだよ、イスターツ君。知ってい
るとは思うが、残念ながら私の部下にも王都での教養のある者なん
ていなくてね。正直言って、王都から来た君にしか頼めないんだ。
すまないが、お願いできないだろうか?﹂
自分よりかなり高齢であるエルンストが、そう口にした後に頭を
下げると、ユイはやむを得ず慌てて肯定の返答を行う。
﹁なるほどそういうわけですか。お断りできるのであれば、そうし
たいところですが、さすがにそういうわけにはいきませんよね。わ
かりました、お受けさせて頂きます。ただエリーゼ王女の護衛をす
るにあたって、うちの部隊だけでは、いささか数が少なすぎると思
うのですが⋮⋮その辺りをいかが致しましょうか?﹂
六名しかいない戦略部の面々の顔を脳裏に浮かべながら、ユイは
エルンストに向かってそう問いかける。
すると、エルンストは心配いらないとばかりに首を左右に振った。
﹁それに関しては、王都から近衛の護衛がついてくるそうだ。だか
ら君達には、護衛と言うよりも、主に案内役をお願いすることにな
るだろう﹂
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そのエルンストの言葉を聞いて、護衛の面ではあまり過剰な心配
が必要ないことにユイは安堵した。
もちろん護衛の近衛達が地方兵に偏見を持っていたら、トラブル
が引き起こされる可能性がある。それ故に、実際は一抹の不安は残
っていたが、今はそれよりも実務的な確認が急務であると考え、彼
は思考を切り替えた。
﹁⋮⋮わかりました。それでエリーゼ王女は、いつ頃に御到着の予
定なのですか?﹂
﹁それが今日なんだ﹂
エルンストは苦虫を噛み潰すかのような表情を浮かべながら、ユ
イに向かってそう告げる。
﹁今日⋮⋮本当ですか?﹂
思いもしないエルンストの回答を受けて、ユイは思わず天井を眺
めやると、搾り出すようにそれだけを口にする。
﹁ああ。エリーゼ王女が、視察はありのままの姿を見たいといって
ね。他の領地への視察でも同じだそうだが、事前連絡なく、突然領
土内の視察へと向かわれる方らしい。私の方への連絡も昨夜が初め
てでね、既に三日前には王都を出ており、到着は今日の正午だそう
だ﹂
﹁それはまた⋮⋮とんだお転婆さんですね。第一王女様は﹂
二人の悩める姿をみやり、何がおかしいのか半笑いを浮かべたサ
ムエルは、ユイへと話を振る。
﹁でもイスターツ君。君も王都にいたのだから、噂ぐらいは聞いた
ことなかったかい。第一王女の無軌道ぶりは、貴族達の話の種だっ
たのだがね﹂
﹁王都の貴族の方々からは、あいにくとそれほど覚えが良くなかっ
16
たもので⋮⋮しかし視察と言われても、どちらに御案内すればよろ
しいでしょうか?﹂
﹁そうだね。取り敢えず今日は、カーリンの私の別邸で歓待をする
ことにしている。今のところの予定としては、明日は市内、明後日
は郊外、そして明々後日にはクロセオン山脈を見学されたいそうだ﹂
カーリンの風光明媚な自然を代表する山脈の名前をサムエルが口
にすると、ユイはようやく今回の王女一行の主目的を理解した。
﹁なるほど。実際は観光客だとということがよくわかりました。だ
としたら、そのつもりで準備させて頂きますよ。それでは急ぎ準備
させて頂きますので、私はこれで﹂
そう口にすると、ユイはそのままソファーから立ち上がり、二人
に一礼して執務室を出て行く。
﹁しかし、本当に彼で大丈夫なのかね。確かに士官学校時代の彼の
成績は、見せてもらったが⋮⋮﹂
サムエルはユイが出て行ったドアからエルンストに向かって視線
を移すと、抱いていた疑問を口にする。
﹁ええ、彼はとても優秀な男ですよ。王都では、常に仕事をサボっ
ていたと噂されているようですが、実際に彼の仕事を調べてもほぼ
何一つ落ち度がない。つまり、非常に要領が良いあまりに、するこ
とがなかったというのが真相です。もっとも時間が余ったからとい
って、自分から他人のために仕事を手伝ったり、自ら率先して新た
な計画を立てたりすることはなかったようですがね﹂
﹁なるほど⋮⋮さすがは上司だ。よくわかっておられる﹂
そう言うと、サムエルは満足げに頷く。
彼が軍務長になって以降、様々なトラブルを抱えながらもどうに
17
か破綻させること無くこの都市を守り続けており、そんな老将に対
してサムエルは全幅の信頼を置いていた。
﹁いやいや、私が彼の上司でいられるのは、彼がここにいる間だけ
ですよ。きっと王都に帰れば、すぐに私の上に立つ男です。もっと
も、その前に私が退役してしまうかもしれませんがね﹂
エルンストは彼の期待する青年のことを口にすると、先程までの
憂鬱そうな表情が嘘の様に、その顔をほころばせていた。
18
戦略部
﹁それで旦那。エルンストのおやっさんは、一体何の用でやしたか
?﹂
市庁舎内に置かれている戦略部の部屋へと戻ると、時間通りに出
勤していたクレイリーが、ユイに向かって興味深そうに問いかけて
くる。
クレイリーはユイがカーリンへ赴任して、最初に付けられた部下
であった。見た目は盗賊や山賊の一味のような人相ではあるが、歴
とした元陸軍省の現地採用兵である。
彼は元々市内外の情報を収集し、エルンストに報告する役目を担
っていた。それ故、王都からやってくる人物の下に信頼出来る部下
を配置したいというエルンストの考えも有り、彼は戦略部へと配属
される事となったのである。
クレイリー自身は、この自分より十歳も若く、そして緩い性格を
した上官を好んでいた。そして単独行動が中心の戦略部の中でも、
比較的ユイと行動を共にすることが多く、その能力には全面的な信
頼を置かれていた。
﹁もう聞いたのか。相変わらず噂を聞きつけるのが早いな﹂
部屋の中にある六つの机のうち、最も奥に位置する机の上に腰掛
けると、ユイはクレイリーへと向き直る。
﹁へえ。普段なら昼過ぎにやっと出勤する旦那が、こんな早朝に出
勤したと話題になってやしてね。そうしたら市長も来ていると言う
じゃないですか。そりゃあ、色々勘ぐって話をする奴も出てきやす
ぜ﹂
19
﹁それは全くもって不本意な話だけど⋮⋮なるほどね﹂
たしかに普段から出勤が遅いのは、言い訳できない事実である。
しかしユイとしても、たまに時間通り出勤したからといって騒が
れるのは流石に予想外であり、思わず頭を左右に振って肩をすくめ
る。
そして頭を掻きながらクレイリーへとゆっくりと視線を戻すと、
そこには話を聞きたいという心情が滲み出ているクレイリーの顔が
あった。
﹁要するにだな、エルトブートさんという貴婦人に、この土地の観
光案内をしてくれという話さ﹂
﹁エルトブートさんですか。しかし女性の観光案内なら、いい仕事
じゃないですか。それで、そのエルトブートさんって方は、お若い
んですか? えっ、あれ、エルト⋮⋮ブートですか?﹂
﹁ああ、エリーゼ・フォン・エルトブートさんだ。確かまだ十七歳
だったかな﹂
﹁ええ!? マジであのエルトブートですかい!﹂
クレイリーが目を見開いて語調を強くすると、その反応にユイは
少しだけ気を良くして、大きく頷いてみせる。
﹁ああ、第一王女だそうだ。まあ、ただの地方都市の視察なわけだ
から、適当に観光地の案内をすれば満足して帰ってくれるだろう﹂
﹁観光案内ですか⋮⋮しかしなんでまた旦那が?﹂
﹁さあ。たぶん王都に長いこと居たから、多少の礼儀作法でも期待
されているんだろう﹂
﹁なるほど。旦那も貧乏くじを引かされたってわけだ﹂
そう口にしてクレイリーが苦笑すると、ユイは弱った表情を浮か
べながら頭を二度掻く。
20
﹁そうだね。まあ、当たらずとも遠からずといったところかな﹂
苦笑いを浮かべ返して、ユイはそう返答する。
するとまさにそのタイミングで、戦略部の木製のドアが無造作に
開けられた。
室内にいた二人は驚いて視線をドアの方へと移すと、部屋の外か
らでかい弓を手にしたままの大男と、その背後に隠れるような形で
抜き身の刀を肩に乗せた蒼髪の女性が入ってくる。
﹁カインス、弓は外に立てかけて市庁舎内に持って入るなと言った
だろ。というかフートの剣は論外だ。せめて鞘に収めてくれ﹂
ズカズカと中に入ってきた二人に向かいユイはそう指導する。
しかし、以前から幾ら言っても素行の直らない二人は一向に気に
する様子を見せなかった。
一方、そんな彼等に絶望したユイは溜め息を一つ吐き出すと、思
わず机に直接腰掛けたまま前のめりに突っ伏してしまう。
﹁あ、隊長おはようございます。しかしこんな時間に出勤とは珍し
いですね。おっと、クレイリーの兄貴も来てたんですね﹂
先ほどのユイの苦言などまるで無かったかのように、カインスは
ニコニコしながら弓を片手に手近な椅子に腰掛ける。
そしてもう一方のフートは、いつものごとく無言のまま抜き身の
剣をそのまま壁へと立てかけた。
﹁おい、お前ら。今日から数日は護衛の仕事だそうだ。旦那の前で
は別にいいが、護衛対象の前では、多少の礼儀とかマナーとかいう
ものを見せろよ!﹂
﹁待ってくれ⋮⋮なんで私の前ではいいんだ?﹂
ユイはすでに彼らのマナーなどとっくに諦めていたが、一応抗議
21
の声を口にした。
しかしそんな彼の発言に対して部下たちが耳を傾ける様子は全く
無く、ユイは大きな溜め息を吐き出す。そして諦めという名の折り
合いを自分自身の中でつけると、ユイは脳内の思考をこれからの予
定と人員配置のことへと移していった。
22
再会と出会いと
ユイはクレイリー、カインス、フートを連れ、街の正門前で待機
していた。
指定の時刻である正午を多少少々過ぎた頃、周囲の出入りの商人
とは明らかに違う集団が、この街に向かって来るのが確認できた。
その集団は三十騎ほどの騎馬兵が、一台の馬車の周囲を取り囲むよ
うにしながら、ゆるやかに近づいて来る。
﹁旦那、あれが貴族様の馬車ですかい?﹂
﹁ばか、声が大きい。それと貴族じゃなく王家のだ﹂
ユイはクレイリーをたしなめると、その頃には先頭の護衛兵がユ
イたちの目の前まで近づいていたため、慌てて片膝を折って頭を垂
らす。残りの三人も最初はそのまま突っ立ていたが、ユイが同じよ
うにすることを指示すると、ぎこちないながらも、同じように姿勢
をとった。
﹁旦那。実は以前サムエル伯爵の護衛の任務に、一度同行したこと
があるんですが、こいつはサムエル伯爵のより一回り大きいですね﹂
クレイリーはユイにだけ聞こえるように、頭を下げたまま軽口を
たたく。
正式な他国訪問等でなく、国内のお忍びの視察であるため、本来
の王家仕様の馬車よりは地味なものを使用している。それでもなお、
王家所有の馬車となると威風が違った。確かにサムエルはこの地方
では、二本の指に挙げられる貴族ではあるが、王家と比べるのはい
23
ささか酷である。
ユイは頭を下げながらも、上目でその馬車を覗き見ると、あの馬
車一台が自分の給料の何年分だろうかと、らちのあかないことが頭
をよぎった。そんなくだらないことに思考が覆われているうちに、
先ほどまでユイに向かって照りつけていた太陽の日差しが、急に遮
られたことに気がつく。
ユイが思考を切り離して顔を上げると、彼の目の前には先ほどま
で馬車の真横に控えていた隊長らしき人物が、馬上からユイを見下
すように立ちはだかっており、唐突に声をかけてきた。
﹁現地の駐在武官が当地を案内すると聞いたが、よりによってお前
か!﹂
隊長らしき人物はそう言い放つと、舌打ちを一つして馬上から地
面に降り立つ。逆光のため、ユイは相手の顔を一瞬捉えることがで
きず、その言動に当惑を覚えたが、その男の銀色の髪と聞き覚えの
ある声から、脳の中の懐かしい記憶を呼び起こされると、とっさに
相手の名前を呼んだ。
﹁リュート! リュートじゃないか。久しぶりだな﹂
﹁ふん。近衛殿と呼べ。俺はこの護衛任務前に六位に昇進し、近衛
の部隊長に就任したんだ﹂
士官学校を卒後六年で六位への昇進は、かなり早い昇進である。
通常の士官学校の卒業生は、卒業時に八位の身分から軍部へ入隊
し、卒後四年で七位に、そして特に支障なく勤め上げれば卒後八年
で六位へと昇格する規定となっている。
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階級に関しては、ユイは三年で六位と異例の昇進を遂げている。
しかしこれに関しては、地方への左遷や各省の綱引きという特殊な
事情によるものであり、その後十年は昇進しないと言われていた。
そのことから、実質は落ちこぼれと見る者が大多数であった。どち
らにせよリュートが六位へ昇進したことは、彼が軍部のエリートコ
ースを歩んでいることを示していた。その上、リュートの所属する
近衛は魔法省の精鋭のみが配属される王家直轄の部隊であり、ユイ
は先任の六位であるが、一般的には近衛の方が格が高いとされてい
た。
﹁そっか良かったな、リュート。士官学校を出てお互い六年だけど、
もう近衛の部隊長に昇格したのか﹂
﹁だから近衛殿だと言ってるだろ。それか今は護衛主任殿だ。お前
はこんな地方に左遷された身だと立場をわきまえろ﹂
ユイのヘラヘラした笑顔に、神経を逆なでされ思わずリュートは
声を荒げた。
﹁ははは、わかったよ、リュート﹂
しかしユイは昔からリュートは尖っているからなと、気にもかけ
ず笑いかけた。それがリュートを刺激し一層大きな声を上げる。
﹁だからお前は!﹂
﹁何を騒いでいるのですか?﹂
リュートの苛立ちが周囲に響いた瞬間、透き通るような声が馬車
内から届くと、リュートはハッとした顔で馬車へ向き直る。そのタ
イミングで馬車の重厚な扉が開き、白いドレスに身を包んだ少女が
降りて来た。
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ユイはその姿に思わず視線を吸い寄せられた。確かにその少女は
細身で白く美しい女性であった。しかし何よりも、その少女の瞳は
まるで輝きを放っているかのように、強い活力に満ちあふれていた
からである。
﹁こ、これはエリーゼ様。申し訳ありません。この駐在武官が礼儀
を知りませんもので﹂
﹁確か同期生なんでしょ、士官学校の。ここに来る道すがら、馬車
の中でエインスから聞いたわ。たしかここの戦略部の部隊長さんが
学年次席で、魔法科所属だったあなたが三席だったのよね﹂
﹁エインス?﹂﹁エインス!﹂
二人の異なった呼びかけに答えるように、馬車から金髪碧眼の美
青年が、罰の悪そうに顔を覗かせた。
﹁えっと、どうも先輩方。というか姫様、先輩たちは昔から仲が悪
いんですから、勘弁して下さいよ。そういったこと言わないという
約束だから、内緒でお話ししたんじゃないですか﹂
﹁あら、そうだったかしら。まあいいじゃない。お二人さんも私に
免じて、エインスを許してやってくださいね﹂
エリーゼは整った顔に無邪気な笑みを浮かべ、舌を控えめに前に
突き出した。それを目にすると、リュートはここに来るまで、散々
苦労したのか、怒気が消え、肩を落としてしまった。
﹁だから姫様、勘弁してくださいよ﹂
エインスが、この後のリュートからの説教を恐れて、言い訳を連
ねる。しかしエリーゼはエインスの言葉に目もくれず、そのまま馬
車の元から歩き出した。
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周囲の動揺をよそに、彼女はユイの元へ真っ直ぐ歩み寄ると、片
膝をついて頭を垂れるユイに対し片手を差し出した。
﹁あなたがイスターツ部隊長さんね。私がエリーゼ・フォン・エル
トブートです。この度はよろしくお願いしますね﹂
﹁はい、こちらこそよろしくお願いします。エリーゼ様﹂
ユイはその細く白い手を左手でそっと取り、恭しく一礼した。
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晩餐会にて
エリーゼ一行を迎えたユイは、彼女たちを案内するため、一行を
先導し始めるも、その行軍は遅々として進まぬものであった。とい
うのもユイやリュート達の心配をよそに、エリーゼは市内に馬車が
入るやいなや、何度も馬車を止めては、街の建物を見学したり、彼
女らの存在に驚く街の人々になんの気兼ねなく声をかけていったか
らである。また時には急に馬車を離れて裏通りに向かったり、露店
に立ち寄ったりと、終始その自由な振る舞いに、同行したものたち
は右往左往させられ続けた。
そんな想定外の事情もあり、本来の予定より大幅に遅れてサムエ
ル伯爵の別邸に到着すると、その頃には、エリーゼ本人を除き、護
衛を始め侍従のものまで含めて、皆が皆疲れ果ててしまっていた。
もちろんユイも例外ではなく、市内各所を突発的に案内させられ、
次々と質問を投げかけてくる王女に気力と体力を奪われてしまい、
伯爵亭に用意された部屋でさっさと寝てしまいたいと考えていた。
しかし彼のそんな願望も虚しく、伯爵亭に到着したユイを待ってい
たのは、カーリン側の護衛責任者として王女一行を歓迎する晩餐会
への参加義務であった。
ユイとしてはまったく出席したくはなかったが、仕事上サボるわ
けにはいかず、ため息交じりに出席することを了承した。彼はただ
で夕食が食べれるという一点のみを理由に、自分を無理やり納得さ
せると、部屋に荷物を置くなり会場へと向かう。そうしてユイが伯
爵別邸の大広間に到着すると、中では普段お目にかかる事のない豪
華な料理の数々が、所狭しと並べられていた。
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ユイは見知った顔を探そうと周りを見渡してみたが、会場には王
女の護衛の近衛たちに加え、伯爵を筆頭とするカーリンのお偉方で
溢れかえっており、早々と断念する。そしてとりあえず乾杯用のシ
ャンパンを受け取ると、部屋の入口の壁にもたれかかり、会が始ま
るのを待つこととした。
﹁皆さん、おまたせしました﹂
そう言いながら、純白のドレスに身を包み、その場にいる誰もが
息を飲む可憐さを撒き散らすエリーゼが姿を見せたのは、シャンパ
ンの気泡が見えにくくなり始めた頃であった。
彼女の侍従たちと、父であるライン大公の代理であるエインスを
脇に従えながら、奥に用意された壇上に上がると、会場は盛大な拍
手に包まれた。
﹁皆さん、今日はこのような心尽くしの歓待をありがとうございま
す。また突然の訪問になりましたこと、お詫び申し上げます﹂
そう言って、そっと頭を下げて一礼すると、突然エリーゼは表情
を引き締めた。
﹁さて、私はこの街に来て間もないのですが、一つ確信したことが
あります。それは私はあなた方が嫌いだということです﹂
これまで和やかな歓迎モードであった室内が、予想だにしないそ
の一言で凍りつくと、その瞬間に晩餐会場は突然時間が停止したか
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のように静寂に包まれる。そして誰もが次なる王女の一挙手一投足
につばを飲んだ。
その会場内の反応に、エリーゼは満足したかのような笑みを浮か
べると、彼女の端正な唇は改めて火種をその場に解き放った。
﹁重ねて言いますが、私はあなた方が嫌いです。では、本日はこれ
にて失礼させて頂きます﹂
そう言い切ると、他の誰にも真似できないような優雅な振る舞い
で一礼する。そして微笑をたたえたまま、壇上から降りると、部屋
を出て行くため、入り口へ向けて歩き出した。その場に居合わせた
人々は、お互い顔を見合わせながらも、彼女の前から蜘蛛の子を散
らすように道を開けると、エリーゼは開けた道を悠々と歩いて行く。
そうして入口の手前まで来た時に、そばの壁にもたれかかったユ
イと視線が合った。エリーゼはそれまで凍ったような微笑を浮かべ
ていたが、ユイに対して蔑むような笑みを浮かべ直すと、すぐさま
視線を外してそのまま部屋から立ち去っていった。
残された者たちは、あまりに突然のことに、なんら動きを見せる
ことができなかった。しかし多少時間が経つにつれ、次第に凍った
ような呪縛を解くきっかけを待望する空気が、その空間を包み出し
た。
そして、その役目を担うものとして、その場に残された中で最高
位と考えられる、サムエル伯爵と今回大公代理として姫の視察に同
行したエインスに、人々の視線は集中した。
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予想外の出来事の動揺から最も早く立ち直ったサムエルは、エイ
ンスに向けて目配せをして促すと、エインスもやむを得ないという
表情を浮かべ、サムエルの前に立ち一礼する。
﹁この度は身に余る御歓待ありがとうございます。姫は長旅にて少
し疲れておりまして、改めて私より皆様方へお礼申し上げます﹂
﹁エインス大公代理、お気遣い痛み入ります。姫の真意はわかりま
せんが、我々に対するより良い領地経営を望むという姫からの叱咤
と思い、今後も王国のために忠誠を尽くすつもりです﹂
言葉には多少の動揺が残っていたものの、伯爵は王家からの何ら
かの介入の可能性等も考慮し、最大限の警戒を行って言葉を選んだ。
エインスは、そのようなサムエルの意図を察知し、害意がないこ
と理解したようにアピールする。
﹁その言葉、我が父はもちろん、必ずや国王陛下にもお伝えいたし
ます﹂
﹁かたじけない。では、長旅でお疲れの皆様、そしてカーリンの皆、
今日は思う存分楽しんでいただき英気を養って頂きたい。では、遅
ればせながらご唱和いただきたい。乾杯!﹂
その瞬間、全ての者の口から、本来あるべき音より数トーン低い
響きで乾杯が唱和された。
晩餐会も時間が進み、皆にアルコールが入り始めると、次第に先
ほどの王女の行為への非難の声が、漏れ聞こえるようになっていた。
31
﹁少し大事に育てられると、女でもやはり鼻というものは高くなる
ようですね﹂
﹁ふん、あんなガキのでしゃばりに、なぜ我々が付き合わねばなら
ないのだ。そもそもサムエル伯が舐められているから、同じカーリ
ンの我々までなめられるのだ!﹂
﹁タリム伯爵なら威厳を持って、このような視察など突っぱねたで
しょうに﹂
五十代半ばで小太りのタリム伯爵を中心とし、反伯爵の急先鋒で
あるタリム派の人々が、このような話題をあちこちに拡散するよう
になると、今回の護衛兵一同はもちろん、王都から赴任したユイも、
その空間にいるのがだんだんと億劫になってきた。
そろそろ給料分の義理は果たしただろうとユイは思い、手元のグ
ラスを近くの執事に預ける。そして部屋を出ようと、入口に向けて
足を踏み出した瞬間、突然後ろからその肩が掴まれた。
﹁少し顔を貸せ﹂
そこにはすっかり出来上がり赤裸顔を浮かべるリュートと、リュ
ートに首根っこを掴まれた哀れな大公代理の姿があった。
32
理由
その後、ユイは晩餐会場からオー・ド・ヴィを一本くすねると、
酔っ払ったリュートに引き摺られ、伯爵家のビリヤード場へと連行
された。
﹁ユイ、こいつで勝負しろ!﹂
﹁勝負しろと言われても、魔法士とビリヤードなんて勝負にならな
いよ⋮⋮﹂
古くは王都で庶民に流行した遊びであるビリヤードであるが、現
在の魔法文化全盛期にあって、その遊び方は旧来のものとは異なる。
以前は単純にボールを、キューと呼ばれるスティックで突く遊び
であったが、近年は魔法にてボールにアクセントを加えることが、
ルール上では認められており、魔法士でないものには、圧倒的に不
利な遊びとなっている。そのため、近年では魔法使いのビリヤード
を、マジックボールと別称されるようになり、旧来のものとは分け
て扱われることも増えていた。
﹁お前が相手なら別に変わらないだろ。まぁ、いい。だったら何で
なら勝負するんだ?﹂
﹁そうだな、魔法がかかわらない勝負ならいいかな﹂
負けず嫌いというわけではなかったが、ほとんどの魔法が使えな
いユイとしては、魔法の専門家に一方的に蹂躙されるのは、さすが
に遠慮願いたかった。
そんな二人の横で、借りてきた猫のようにおとなしくしていたエ
インスが、ひょこっと顔を覗かせると、やや小さな声で二人に向か
33
って提案をした。
﹁トランプなんていかがですか? あれなら魔法使わず遊べますし。
それに三人でできますので、僕も参加することが出来ますから﹂
ユイとしては、エインスの提案したトランプならば、あまり厄介
な事態にならないだろうと即断し、これに乗ることとした。
﹁私もトランプならいいかな。じゃあ、勝負を切り出したんだから、
リュートがトランプを借りてきてくれないか?﹂
﹁フン、いいだろう。いいか、逃げるなよ﹂
そう鼻息ひとつ立てると、リュートはすっと踵を返し、手近な使
用人を探すために部屋から出て行った。
リュートが部屋を出ると、エインスは改めてユイに声をかけた。
﹁改めてユイ先輩、お久しぶりです﹂
﹁ああ、三年ぶりだな。しかしまさかお前がカーリンに来るとは、
夢にも思わなかったよ。来るなら来るで、連絡の一つでも寄越せば
いいのに﹂
ユイは少し拗ねたような口調で後輩をからかうも、二人は再会を
喜んだ。
﹁さすがに王家の機密視察の情報を漏らしちゃ、色々とマズイでし
ょ﹂
わかっていながら連絡をしろと言ってくるユイに向かい、エイン
スは笑みを浮かべて返答数日する。
﹁たしかにその通りだ。しかし、まさか王女同伴で来るとは思わな
かったよ﹂
﹁実は以前から先輩の赴任地を一度見て見たかったんですが⋮⋮ま
さか僕もこんな形で来ることになるとは思ってませんでしたよ﹂
﹁そうだろう。私がもしあのとんでもお姫様の同伴ならば、完全に
胃を壊すところだけどな。しかし先ほどの演説にはしびれたよ﹂
34
エインスは先程の﹁あなた方が嫌いです﹂という王女の演説を思
い出すと、複雑な表情を浮かべた。
﹁王女が変わり者であるのは、有名ですからね。何かやらかすだろ
うとは思ってはいたんですが、まさかあんなことを言い出すとは⋮
⋮﹂
﹁私の勘だが、ここに来る前に、彼らの下調べをしてきたというこ
とだろう。本当は今は動いてほしくないんだが⋮⋮一体、彼女はど
うしたいんだ?﹂
ユイはこの街で三年間過ごしながら気づき、そして調べてきた事
実を思い起こすと、エインスに問いかけた。
﹁それはわかりません。ただ市長である伯爵は良い方のようですが、
一部の方々は多少やりすぎてますからね。先輩がここへ飛ばされた
三年前の段階から、既に話は軍内部にも漏れ聞こえていましたし、
王家も懸念を持っていたようです。しかし王家の直轄地でないにも
かかわらず、エリーゼ様がこのように動かれるのは、軍でも完全に
予想外でした。とりあえず今回の僕の同行の役割は、エリーゼ様が
起こす混乱を、できる範囲でうまく収めることだと思っています﹂
そう答えたエインスに対して、ユイは思わず笑いかけた。
﹁お前もちゃんと大公の後継者らしくなってるじゃないか。昔はあ
んなのだったのに﹂
﹁僕の性格を矯正した元凶は誰だと思っているんですか? それに
僕も多少は軍に身を置いたわけですし、そりゃあ少しは成長もしま
すよ﹂
エインスはユイの子供扱いに、多少抗議の意味も含め、ユイの手
に持ったオー・ド・ヴィを奪うと、コルクを開けて手近にあったグ
ラスに移し、喉に流し込んだ。
﹁すまんすまん。階級もついに同じ六位に並ばれたし、いつまでも
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先生気分じゃいけないな。実際に来年辺りには追い越されてるかも
しれないしね﹂
﹁まあ、僕には家庭の事情もありますから。たとえそうなったとし
ても、先輩が僕の先生であった事実は変わりませんよ。まあそれは
それとして、今回はその家庭の事情のおかげで無理を通せたので、
父親には感謝はしています﹂
庶民出身のユイとは違い、エインスは王国の四大公の一人である
ライン公爵の長子である。つまり将来はこの国を背負って立つ立場
であった。そのため、通常の士官学校卒業者とは扱いや待遇が異な
り、ユイが王都を離れた後は、ほぼ貴族専用の後方勤務部署に配属
となっていた。
そんな中で、今回の王女の視察が急遽決まった際に、随員として
魔法省の近衛を中心に人選が行われたものの、戦略省からも各省庁
からのバランス人事という名目で人材を出すこととなった。その際
に、大公の子息であるエインスに、この随員としての話が回って来
ることとなり、エインスにとってはまさに願ったり叶ったりと、同
行を快諾したのである。
﹁しかし、よくライン公が許可したな。こんな僻地への任務は、普
通なら反対されるものじゃないか?﹂
﹁もちろん最初は反対されていましたよ。ですけど、姫様の同乗相
手という話をしたら、﹃そうか、ならいい﹄と言ってそれっきりで
す。まぁ、あの人のことですからね。あわよくば姫とうちの息子が
うまく行けば良い、なんていう助平心を出してるのかもしれません
がね﹂
﹁そんな方だったかな。私がお前の所に居た頃は、基本的には豪快
で闊達だけど、根は真面目な方だと思っていたが﹂
ユイは士官学校入学前のエインスに家庭教師をしていたことを思
い出すと、あの頃の懐かしい記憶が、いくつか蘇ってきた。
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士官学校時代のユイは両親を亡くし、王国の奨学金のみで生活を
していた。生活に困っていたユイに対して、当時の士官学校の教官
で、ユイを気に入っていたアーマッドが、家庭教師の仕事を持って
来たのである。アーマッドはライン公の親戚筋に当たり、その家庭
教師の相手というのがエインス当人であった。
実際にエインスは、若く緩いにもかかわらず、どことなく理知的
なこの教師にとても良くなついた。一方、家庭教師の紹介を依頼し
たライン公としては、もっと実績豊かな人物を希望し、アーマッド
に依頼したつもりであった。そのため、当時学生であったユイを当
初はよく思っておらず、早々と解任するつもりであった。
しかし、エインスが彼になつく様子を見て、一ヶ月、二ヶ月と契
約を延長し、気がつけばライン公当人が、誰よりもユイを気に入る
ようになってしまった。
結局、家庭教師はライン公によるユイへの援助の意味合いを帯び、
エインスが士官学校一年生として入学しても、そのまま一年間は続
けられ、ユイが戦略省に入省するまで家庭教師は継続された。
ユイの戦略省への入省に際しては、ライン公は今後エインスの下
として仕えて欲しいと考えており、当初はライン家への士官をユイ
に薦めた。ただユイはこれ以上お世話になれないと固辞したのであ
る。そうして当時のことを思い出すたびに、ユイは必ずライン家の
この父子には恩を返すと、その日から何度も心に誓っていた。
そんな記憶の中のエインスと、目の前の男を比べると、本当にた
くましくなったとユイは感慨に浸り、エインスの右手に持ったグラ
スにオー・ド・ヴィを注ぎ入れると、彼に飲むよう促した。
﹁ありがとうございます。で、ですよ。うちの父親ですが、あのと
おり変に生真面目だから、王女を落としてこい、なんて言い出すこ
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ともできないんです。まあ、その程度の野心が、あの人の身の丈に
あっていいとは思いますし、いい所でもありますからね﹂
そう言ったところでエインスは、継がれたオー・ド・ヴィでゆっ
くりと喉を濡らす。
﹁まあ、多少の野心は若さの源なんじゃないか? 目標もなくのん
べんだらりと老成しては、4大公としていかがなものだと思うしな﹂
﹁じゃあ、先輩は完全に老成していますね。なんで左遷人事になん
かに乗るかな。そんなに王都が嫌だったですか?﹂
﹁そうだ、なぜ王都を出たんだ?﹂
その時、片手にトランプを握りしめたリュートは、ユイにつかつ
かと歩み寄った。そして右手に持つオー・ド・ヴィの瓶を奪うと、
そのまま瓶ごと一気に飲み干した。
﹁あ∼あ、一本しかくすねて来れなかったのにな⋮⋮﹂
﹁うるさい! それより質問に答えろ。なんで王都を出たんだ?﹂
ユイはリュートの剣幕に一つため息を吐き、彼に向き直った。
﹁リュート、周りは誰もいなかったかい?﹂
﹁ああ、確認してきた。間違いなくこの周りは俺たちだけだ﹂
リュートなりに、ユイの左遷が表向きの軍部における各省間の調
整だけでなかったことには感づいていた。そして公にできない何か
があることを予測し、その話をさせるために彼を連れ出したのであ
る。そのリュートの剣幕に、ユイはため息を吐いて覚悟を決めると、
リュートとエインスを見回した後に、やや渋い顔をしながら話し始
めた。
﹁コートマン三位を知っているかい?﹂
﹁コートマンと言うと、戦略省情報局局長だったコートマン三位の
ことですか﹂
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エインスはメガネを掛け、いつも身なりの整った、官僚臭の漂う
小男のことを思い出していた。
﹁ああ、そのコートマンだ﹂
﹁あの方のことは俺も知っている。魔法省の大規模演習にも必ず顔
を出されていたからな。それでそのコートマン三位がどうした?﹂
﹁ああ、大した話じゃないんだが、クーデターを起こしかけていて
ね﹂
﹁なんだと!﹂
リュートは思わず目を見開き、空となったオー・ド・ヴィの瓶を
落としてしまった。ユイはリュートの反応に一つ頷き、話を続けた。
﹁もともとケルム帝国に軍部の情報を横流しして小銭を稼ぐ、まあ
その程度の男だったんだがね。それをシャレム二位にバレて脅され
たわけだ﹂
﹁シャレムと言うと、元戦略省次官殿じゃないか﹂
リュートは出て来た人物の名前に、思わずつばを飲んだ。
﹁シャレムはコートマンを動かして、当時の政敵を尽く排除しよう
としたわけだ。そのリスト中に私の上司だったラインバーグ局長が
いたのが、不幸の始まりでね﹂
当時ユイは戦略省戦略局にて対外戦略の立案を担当しており、主
に情報部から入る情報を分析し、今後の軍事計画の立案に携わって
いた。もちろん若手のユイにそんな計画自体の権限はなく、主な仕
事は軍部各省の調整と外務省や内務省との調整が主な仕事であった。
その時の戦略局のトップがラインバーグ三位である。
﹁ラインバーグ局長も多少後ろめたいところはあったけど、とても
いい人でね。私をよく可愛がってくれたんだ。まぁ、そのゴタゴタ
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で色々あってね。追い詰められた彼らはクーデターを企画して、帝
国にこの国を売ろうと画策したわけだ﹂
﹁ほんとですか、先輩?﹂
想像を超える話にエインスは思わずユイを見返した。ユイは彼の
半信半疑の眼差しを見て、疑いたくなる気持ちはわからないでもな
いかなと思いながら、肯定の意味で軽く頷いた。
﹁ああ、残念ながらね。ともあれ、彼らの計画をなんとか未然に防
ぐことができて、その後関係者を芋づる式に辿ることで、彼らの派
閥を解体することには成功したんだ。だけど連中の恨みは正直私の
想定を超えたものでね、不幸にも私にまで火の粉が飛んで来てしま
ったんだよ。そこで局長が、彼らの手の及ばない場所へと私を逃が
すために、他省との合同企画の人事という形で、ここへ送り出して
くださったというわけだ﹂
ユイの説明に、二人はやや凍りついた表情を浮かべた。しかし数
人の軍首脳が突然左遷や退任させられるという出来事があったこと
を思い出したリュートは、ユイの話の信憑性を疑う気にはなれず、
彼が間違いなく一枚噛んでいたと確信する。
﹁その事件に関して何もしなかった男に、そうそう火の粉が飛ぶと
は思えんがな﹂
﹁まぁ、多少のいたずらと工作はしたけどね。それはそれとして、
最終的にコートマンは帝国への内通が明るみになって、投獄されに
至ったわけだ。もっとも事の発端のシャレム自体は、ギリギリまで
尻尾を掴ませてくれなかったので、次官辞任だけで、未だに自分の
領地でのうのうと生活しているけどね。ただ、これらの騒動の責任
をとってラインバーグ局長が、閑職である士官学校の校長職へ左遷
されてしまったのは、私の計算外だった。まあ後になって思うと、
上司ともども二人で仲良く左遷されたということかな﹂
ユイは苦笑いを浮かべて、二人から視線を外し、天井を眺めた。
40
その視線は天井の壁を超え、空へと向けられていた。
﹁それが真実としてだ、なぜ俺達に一言も言わなかった? 俺はお
前のことは嫌いだが、アレックスのやつも含めて、俺はお前たちを
今でもライバルだと思っている。それにエインスがお前がいなくな
ってから、どれだけ荒れていたか知らんのか?﹂
﹁リュート先輩、それは勘弁して下さいよ﹂
﹁ふん、ともかく俺から勝ち逃げして行ったんだ。今日はこいつで
きっちり借りを返させてもらうぞ﹂
そう言うと、リュートはにやりと笑みを浮かべ、トランプの箱を
ユイに向かって放り投げた。
その後、ユイがトランプで圧勝し、またリュートの逆鱗に触れた
ことは、この視察におけるエインスの新たな頭痛の種となった。
41
決別
視察二日目である翌日は、カーリン市内の視察ということで、市
内各所の案内と説明に1日忙殺されたが、特に大きなトラブル無く
過ぎていった。
問題が起こったのは、視察三日目の郊外視察の際である。王女一
行は郊外の農業現場を視察する予定であったが、市内を抜けた途端、
急に予定を変更したのである。
﹁これはどういうことなのかしら?﹂
エリーゼは租税代わりに収められる穀物庫内にて、管理担当官の
前で仁王立ちしていた。
﹁いや、これはたまたま記載の間違いでして﹂
担当官であるアスピール三等官は、王女の視線に耐えられず思わ
ず下を向いて答えた。
﹁そうですか。では、租税にて徴収された穀物が半分も貯蔵されて
いないことは、たまたまで済むことなのね﹂
﹁いえ、そうではありませんが、何分すぐに原因がわかりませんの
で﹂
担当官は予想外の王女の追求を前に、それ以上の言葉を発するこ
とができなくなってしまった。
42
事の初めは、彼が穀物庫の詰所に出勤して、いつもの様に同僚と
チェスを嗜んでいたのことである。突然入口のドアが勢い良く開け
られたかと思うと、王女を含む一行が事務所内に飛び込んで来たの
である。
﹁私も王家の一員としては、民の皆さんが納められたものを、実際
にその目で確認してみたいの﹂
そう切り出したエリーゼは、急に護衛の近衛にアスピール達を拘
束させると、侍従たちに納税記録書を探させ、本人はそのまま穀物
庫内へと足を進めていった。
当初は何が起こったのかさえわからず、呆然としてしまったアス
ピール達であるが、取り押さえられ、納税記録書を探され始めた段
階で、事の重大性に気づいた。
﹁お待ちください! この施設への訪問など私達にはなんの連絡も
ありません。これはどういう法的根拠を持っての訪問ですか?﹂
アスピールは王女たちの行動を止めようと、必死に喚き、暴れた
が、近衛たちの強靭な力の前には、為す術がなかった。
そして侍従の一人がアスピールの机の引き出しから、納税記録書
を見つけた時点で、彼は自らの運命の終わりを悟った。その後、記
録書の内容と明らかに少ない穀物庫内の食料を照らし合わせて、エ
リーゼは笑みを浮かべながら、彼を見下ろすように尋ねたのである。
﹁エリーゼ様、一応記録書の内容と穀物の照会が全て終わりました。
まぁ、見事に抜かれてますね、これ﹂
なぜか事務作業をやらされるはめになったエインスは、笑いなが
ら王女のもとに歩み寄った。
﹁ご苦労様。じゃあ、リュートさん、彼らを拘束してサムエル伯の
43
元に帰りましょう﹂
﹁しかし本当に構わないのですか。私たちはあくまで視察の名目で
訪れたはず。このようなことをしては、当地の行政担当者たちの反
発が予想されますが﹂
リュート自身も、このような予定は一切聞かされておらず、ただ
の視察の護衛と考えていたため、突然の出来事に未だ動揺を隠しき
れなかった。
﹁反発は多少あるでしょうが、それを気にしては何もできませんで
しょ﹂
﹁しかし﹂
リュートは生来真面目であり、これまでもすべての任務を規則ど
おり完璧に行なってきたからこそ、ここまで早く昇進してきた男で
ある。その彼にとって、このような王家の力を背景とする超法規的
な監査は、心理的に受け入れることができなかった。
﹁そうね、じゃあ当地の関係者に意見を聞いてみましょうか。だれ
か外で待機しているイスターツさん達を呼んで来てくれるかしら﹂
王女の言葉を受けて侍従の一人が慌てて建物外に向かい、説明な
く建物内の査察から外され、外で待機させられ続けたユイ達を呼び
込んできた。
﹁あらあら、また派手にやりましたね﹂
ユイは周りの状況と、捉えられた行政官の姿を見て事情を察した。
﹁あら、もう少し驚きがあると思ったけど意外と冷静なのね?﹂
﹁まあ、予定を変更して、いきなり穀物庫を案内させられましたか
らね。多少何かあるとは思いますしね﹂
そう言ってユイは苦笑いを浮かべると両腕を広げた。
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﹁それで現地の軍務省の人間としてはどうされますか﹂
﹁どうするとは?﹂
﹁だからこの人達を牢に入れるとか、そのまま関係者の捜索に向か
うとか、色々とすることがあるんじゃないの?﹂
エリーゼはユイを挑発するかのように言ったが、当のユイは頭を
かいてに困った顔を浮かべるだけであった。
﹁ああ、そうですね。とりあえず上官のエルンストに報告しますか
ね﹂
﹁旦那はいつも報告せずに動きますからね。エルンストの親父さん
はホント苦労してるんですぜ﹂
横に立つクレイリーにそう笑われ、ユイも﹁そうだよね﹂と受け
答えをしながら、後ろに控えていたフートに指示を出した。フート
は眠そうな顔で一礼し、報告のため外へ出て行った。
﹁報告するだけなの﹂
﹁ええ、そうですがなにか?﹂
苦笑いを浮かべたまま、全く表情が変わらないユイに向かって、
エリーゼは腹をたてると、ユイを睨みつけてきた。
﹁いい? そうやって型通りの仕事しかしないから、何時まで経っ
ても、この土地の改革が進まないんじゃない!﹂
﹁そう言われましてもね。今の私の仕事は、案内と護衛ですからね。
では、本当はあまり聞きたくはありませんが、あえて聞きます。あ
なたはこの程度の証拠で、タリム一派まで罪状として問えるとお考
えですか? まあ、その正確なところは司法省に確認しないとなん
とも言えませんがね﹂
そう言って、ユイは困った表情を浮かべると頭を掻いた。
﹁ふん、所詮はお役所仕事しかしない左遷軍人の発想ね。この土地
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の腐敗した役人や下級貴族の綱紀を粛清する、まさに良い機会だと
は思わないの?﹂
﹁エリーゼ様。約束破って、規則違反を暴くのを役人に要求するの
は如何なものですかね? 私達の当地での仕事は、規則を守らせる
ことであって、規則を破ることではないのです。そしてそれはたと
えそれが犯罪者に対してもです。なのに当地の治安警備を担う軍の
人間に、そのようなことを強要して、自分たちの片棒を担がせよう
となさるのは、いくら王家でも感心しませんね﹂
ユイはそう言って踵を返すと、建物の外へ向かおうとした。
エリーゼはユイの思わぬ自分への非難めいた言動に立ち去ろうと
するユイの背中を睨みつけた。そのエリーゼに向かってユイのそば
にいたクレイリーがやや呆れ気味に声をかけた。
﹁無礼を承知で言いやすが、旦那が言われるとおりですぜ。まあ、
王都のお偉いさん方は自分が法律だと思っていらっしゃるので、気
にもしないんでしょうがね﹂
そう皮肉げに言うと、護衛の近衛達は無礼だとばかりに跳びかか
ろうとした。それを感じ取ったエリーゼは彼らを片手で抑えた。
﹁そうだとしたら、そんな法律違反を放置し続けていた、まさにあ
なた達にも責任があるでしょ。人のことをどうこう言う前に、自分
も給料分くらいは働いたら如何かしら? どうかしら、カーリンの
昼行灯さん﹂
ユイを馬鹿にする一言に、クレイリーばかりか、普段温厚なカイ
ンスまで思わず、王女に向かって一歩進み出る。それを見た護衛の
近衛は慌てて王女の前に立ちふさがり、カインスとクレイリーを半
包囲し、一種即発の状況が生まれた。
﹁なによ、山賊みたい野蛮人が! あなたたちなんかの護衛はいら
ないわ。さっさと引き払って!﹂
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そうエリーゼがクレイリーたちに向かって言葉を投げつけると、
ユイは王女たちの方に向き直り、腰に備え付けていた筒を開けると、
中に入っていた紙束を、王女に向かって放り投げた。
﹁そいつをあげるよ、王女さん。それがあれば、あんたのカーリン
での仕事はなくなるから、さっさと王都に帰って正義の政治家ごっ
こでもしてたらどうですか? あと給料分の働きは、そいつである
と思いますので満足してください。では御下命に従って、私達は護
衛から外させてもらいますね。お前ら帰るよ﹂
そう言って、背中を向けてた上で、頭の上で手をひらひらさせ、
建物から出て行くと、近衛に半包囲されていたクレイリーとカイン
スも慌てて後に続いた。
その場に残されたエリーゼは、手元の紙面を目で追うと、大量の
タリム派の人間の名前とその金の流れから、物資の動き、市職員に
関する採用での口利き等の流れが、事細かに記載されていた。
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事件の行方
﹁なんなの、あいつ﹂
ユイ達が穀物庫を出て行くのを呆然と見送り、エリーゼは思わず
つぶやいた。
﹁すいません、本当に失礼な言動があったこと思うのですが、あれ
でも僕の大事な先生で先輩なんです。どうか僕に免じてお許しいた
だけませんでしょうか﹂
エインスはエリーゼの言動を非難の言葉と受け取り、すぐさま頭
を下げた。そしてリュートも﹁どうか﹂という小さい声のみ発して
頭を下げる。
自分は間違っていないと思ってはいたが、エリーゼはさすがに気
まずそうに二人に声をかけた。
﹁フン、まあいいわ、あんな木っ端軍人。あんなの相手に一々構っ
ていられないしね。問題はこれね﹂
エリーゼはさきほど投げつけられた紙束に再度目を通す。
﹁これが事実なら、ここの下級貴族の半数は処断できるわね。とは
いえ、鵜呑みにするのもね﹂
エリーゼは内容の詳細さと分量に、おそらくその資料の内容が事
実であると確信していた。よくもこれだけのものを集めていたもの
だと感心さえする。
しかし逆にこれだけのものを準備していながら、何も行動に移し
ていなかったことと、先ほどの態度を踏まえて、感情的に相手を拒
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否する気持ちが生じてしまい、そのまま素直に認めることができな
くなっていた。
﹁それで、今後どうされますか?﹂
その葛藤が周囲に伝わったため、リュートは警備主任としての立
場から、エリーゼに今後の方針を問いただした。
﹁そうね、とりあえず今日は一度カーリンへ戻りましょう。明日は
クロセオン山脈への視察の予定だったから、あそこにある魔石工房
を強行視察しましょう。この資料を見る限りでは、その工房も彼ら
が一枚噛んでいると書かれているしね﹂
﹁そうすると、ユイのやつの書いたその資料をお信じになられると
いうことですか?﹂
﹁さあこれが本当に信用に足りるかはわからないわ。ただこれが正
しいのかどうかも、明日の視察ではっきりするでしょう。もし明日
の視察でこの内容が事実とわかったら、この資料を信じることにし
て、下衆どもを中央の裁判所送りにすることにしましょう﹂
そうエリーゼが方針を定めると、リュートは一礼し、カーリンへ
引き返すため部下に指示を飛ばした。
﹁ユイ・イスターツか。本当に嫌なやつね⋮⋮﹂
その王女が漏らしたつぶやきを聞き、エインスは片手で頭を抱え、
深い溜息をついた。
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﹁やっちゃった﹂
苦笑いを浮かべながら、戦略部の部屋にて全員の前でユイはそう
第一声を発した。
﹁このバカ上司が!﹂
赤髪で魔法戦士用の軽装に身を包んだ長身女性が、ユイに向かっ
て怒声を放つ。
﹁うう、ごめんなさい﹂
昨日の王女護衛にて王女とトラブルを引き起こしたと聞き、一人
で待機任務につかされていた戦略部所属のナーニャは激怒していた。
﹁ナーニャ落ち着けって。旦那も俺達の事を思ってだな﹂
そう言ってカインスがとりなそうとしたが、ナーニャはカインス
とクレイリーを見回すと、彼らをも罵倒した。
﹁あんたらもだよ、このハゲ腰巾着と無駄筋肉が!﹂
﹁﹁はい、すいません﹂﹂
二人は異口同音に謝罪した。
﹁はぁ、しかしどうしよう。あんな大見得を切ってきちゃったけど。
首かな。やっぱり首なのかな⋮⋮﹂
ユイ自身を罵倒されても彼は滅多なことでは怒ることはない。た
だ部下を罵倒されると、たまに熱くなるのは彼の悪癖であった。ク
レイリー達にしてみれば、だからこそこの若い隊長を敬愛している
のだが、今回は最悪の結果を招いてしまった。
﹁なあ、カインス。お前の家って確か商人だったよな、店で賊が暴
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れてもすぐ取り押さえられる、優秀な警備員を雇う気はないか?﹂
﹁賊そのものの警備員がいる店なんて、そんな店には客が来ないで
すよ﹂
そう言ってカインスはクレイリーに向かって豪快に笑った。クレ
イリーは、うーんと唸り、自分の将来設計を考え悩みだした。
そんな二人は相手にしていられないとばかりに、ナーニャがユイ
の机の前に歩み寄ると、ユイに問いただした。
﹁隊長。こうなる前にタリムの首根っこを押さえることはできなか
ったのかい?﹂
﹁それは無理だね。情況証拠やある程度の物証も押さえていたけど、
実際王都の司直に根回しして、初めて捕縛の辞令が出る。そう考え
ると、もう少し物証を抑えない限りはタリムまで辿りつけない可能
性があった。部下やその他の下級貴族なんて、あっさり尻尾切りす
るだろうしね﹂
三年前にユイがこの街に赴任して来て、行なっていたのは軍内部
の調査であった。
陸軍省のみの単独人事で運営されてきたカーリン軍であるが、内
部の規律が緩みきっていた事によるユイの駐在派遣である。そこで
カーリン軍トップのエルンストは、ユイに内部調査を依頼し、ユイ
は軍内部の調査の結果とし、タリム派の関与と腐敗を掴み、その物
証を整えている最終段階であった。
﹁しかし、これで全ては姫さんの手柄にされちまうよ。私達はとも
かく、隊長にとっては中央に帰るせっかくのチャンスだったってい
うのに﹂
ナーニャはユイのことを思うと、少し悲しげな表情を浮かべた。
冒険者崩れとして、この街で暴れていたところを、拾ってくれたの
51
がユイであった。このやる気はないけど有能かつ寛容で、そして恩
人であるこの上官を、中央へ帰してあげたいと彼女なりに考えてい
たのである。
﹁私はもう中央に戻る気はないよ。だから元々タリムたちに関する
資料は、私の名前を介さず、自然な形で司法省に渡るよう準備して
いたのだからね。だって私はこの街が好きだし、私がいないと誰が
この問題児たちの面倒を見るんだい?﹂
﹁揉め事を起こしてきた、あんたがいうな!﹂
言葉上、先ほどのように上官を咎める言葉を発したが、ナーニャ
の表情には笑みが浮かんでいた。
その時、ドアが急に開けられ、フートを伴いエルンストが部屋に
入ってきた。
﹁先に言っておくがイスターツ君、君の解任は無しだよ。おそらく
君たちのことだからそんな話をしているところだと思うが、どちら
にせよ、その前に一働きして貰わないといけなくなってね﹂
﹁何がありました?﹂
ユイは普段にないエルンストの言葉に、最悪の事態が思い浮かん
だ。
﹁タリムが私兵と傭兵を私邸に集めている⋮⋮つまり反乱だよ﹂
ユイは当たらないでほしい予想ばかりが当たると、思わず内心で
神を呪った。
52
反乱
﹁それで規模はどの程度のものなのですか?﹂
五十名ほどらしい。中身は殆ど傭
ユイは素早く思考を切り替えると、エルンストに向けて尋ねた。
﹁クレハ君の報告だと、人数は
二名ほど混じってい
兵くずれのようだな。あとうちの軍のゴロツキ連中が引き抜かれて
いるようだ。ただ問題は、風と炎の魔法士が
ると、この報告書では強調されているな。魔法士が急に雇えるとは
思えんが、元々の伯爵の子飼いのものかな﹂
エルンストは戦略部所属で、タリムの監視に当てられていたクレ
ハの報告書を読み上げた。
﹁軍務長、ひとつお聞きしますが、クロセオン山脈の魔石工房は、
山のどのあたりにありますか?﹂
ユイは魔法士を含む構成に嫌な予感を感じ、矢継ぎ早に尋ねた。
﹁工房かね、あれは魔石がクロセオンの頂上あたりからしか出土し
ないからな。たしか完全な麓には作らずに、中腹のあたりに作られ
ていたと思うが﹂
ユイはその答えを聞くと、最悪の想定が思い描かれた。
﹁旦那、何を心配してんですか?﹂
﹁ええ、王都の近衛兵が三十騎も控えているんですよ。何も心配い
らないと思いますが﹂
クレイリーとカインスは、それぞれユイの懸念を不思議に感じて
いた。王都の近衛と言えば一騎で並の歩兵五騎に相当するとされて
いる。たかだか傭兵混じりの五十人程度の兵員では、全く勝負には
53
ならないと考えていたのである。
﹁クレイリー、タリムにとっての今回の反乱の成功条件はわかるか
い?﹂
﹁そりゃあ、王女さんを殺害するか、人質にするあたりですかね﹂
ユイはクレイリーの答えに一度頷き、補足した。
﹁そうだね。反乱と言っても、王国に対する反乱を起こすほどの力
はタリム達には無い。だとすれば、彼らは最終的には帝国かアイエ
ル共和国に亡命するしかないわけだ。そこまでうまくいって初めて
彼らの勝利だと言えるわけだけど、当面の目標は王女の殺害か誘拐
だろうね。では逆に王女たちにとっての、今回の反乱兵との戦闘に
おける勝利条件はなんだい?﹂
﹁そりゃあ、奴らを全滅させるか、追い払うことでしょう﹂
この質問に対しても、クレイリーはあっさり返答した。
﹁その通りだ。つまり近衛は王女を守りながら反乱兵全員を相手し
なければならないが、反乱兵たちはただ王女だけを狙えば良い。こ
れは大きなハンデだよ。そして何よりのハンデは、反乱兵たちが圧
倒的に優位な状況で戦闘をしかけるだろうということだ﹂
その場に居合わせたものは、お互いに答えを探すように顔を見合
わせる。
﹁それは何かな、イスターツ君?﹂
咳払いを一つして、エルンストがユイに問いただした。
﹁焼き討ちですよ。だから状況は一刻を争います。すぐカーリン全
軍の出陣の準備を﹂
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﹁どうやらここも当たりみたいね﹂
目の前に、両手を縛られ、放置された二名の工房職員が転がされて
いた。
様々な生活や軍務上の動力源となる魔石の生産工房は、クロセオ
ンの中腹にあたる木々の合間に立てられており、その魔石は本来カ
ーリン市の専売品として王都等に売られるはずのものである。しか
しながらユイたちの調査の資料によると、その半数近くがタリムた
ちの懐に流れ込んでいることが判明していた。
﹁エリーゼ様、そろそろ下山しませんか?﹂
﹁そうですね、では物証となる帳簿と、いくつかの横流しされた事
を証明する伝票を確保したら、ここを下山しましょう﹂
エリーゼは当初の目的が達成されたことに、満足気な笑みを浮か
べていた。ただここで実際横流しが行われていることは、ユイの投
げつけてきた資料の内容が、ほぼ事実であることが証明される。そ
のため事件の決着を喜ぶ反面、釈然としない抵抗感も感じてはいた。
そうしてエリーゼのもとに、事件の物証が揃い、帰還の指示を出
そうとした時である。突然、工房の外から近衛兵たちの慌てる声が
聞こえてきた。
﹁山火事です!﹂
工房の外から慌てて中に飛び込んできた近衛は、有らん限りの声
で叫び、報告した。
55
﹁なんだと!﹂
リュートは、報告を受けるやいなや、外に飛び出す。またエリー
ゼのそばに控えていたエインスは、工房の窓に向かい、周囲から火
の手が押し寄せてくるのを確認した。
﹁間違いありません。火事です! すぐさま脱出の用意を﹂
そうエインスは叫ぶと、すぐ周りの侍従に指示を出し、動揺する
ものを無理やり追い立てるようにし、一同を工房の外へ追い立てた。
工房から飛び出したエリーゼが見たものは、工房の周囲を取り囲
むように発生した、嵐のような炎の壁であった。
﹁脱出路はあるのか?﹂
﹁わかりません。いま護衛用に残した八名の近衛以外は、全て周囲
の脱出ルートを探させています﹂
﹁よし、脱出ルートが確認出来次第、強行下山を行う﹂
そうリュートが指示を出すと、返答した近衛も炎の弱い場所を探
すため、駆け出していった。
エリーゼは多少気の強い女性であったが、未だ十七歳の少女であ
り、周囲の壁のように燃え上がる炎の勢いに、完全に足がすくんで
しまっていた。それを見たエインスは周りの状況を確認し、すぐさ
ま小屋に戻ると、バケツいっぱいに水をくみ、王女の頭の上から水
をぶっ掛けた。
﹁失礼、エリーゼ様。ですが、こんな時でも水も滴る良い女性でい
らっしゃいますよ。では、覚悟はいいですか?﹂
そのエインスの言葉に、エリーゼは我を取り戻すと、足は多少震
えながらであるが、自らの足で歩くことができるようになった。
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﹁ありがとう、エインス。あなたは良い男にならなくていいのかし
ら?﹂
エインスに向けて軽口を叩いて、エリーゼは気を持ち直す。そし
て比較的冷静そうに見える近衛と異なり、動揺を隠し切れない侍従
の者達を何度も励ましながら、脱出の準備を促した。
﹁報告します、麓に向かう下山ルートが、やや炎の勢いが弱いかと
思われます。このルートから下山を試みるより他に方法はないでし
ょう﹂
近衛の一人がそう報告した段階で、リュートはすぐエリーゼに向
かい振り返った。
﹁報告のとおりです。今からこのまま麓に向かって駆け抜けて頂き
ます﹂
﹁わかりました。では隊長さんたちは?﹂
﹁もちろん我々も同行しますが、事は一刻を争います。近衛四名を
先導にエリーゼ様とエインスは先に下山を試みてください。後衛と
してあと四名の近衛を付けさせますので。では、今すぐ下山を!﹂
リュートの声に屈強な近衛の兵士たちがエリーゼを取り囲んだ。
﹁わかりました。隊長、他の侍従たちをお願いします﹂
﹁お任せください。全員を無事に下山させるのが私の使命です。先
発のエリーゼ様たちの部隊の後に続いて、順次下山を行いますので
ご心配なく。とにかく炎がこれ以上強くなる前に行ってください﹂
エリーゼはリュートの言葉に力強くうなずき、近衛に前後を護衛
され、エインスに伴われながら、比較的足場の良い道を選びながら
下山を開始した。
その時、彼らはまだ気づいていなかった。その燃え盛る炎の裏側
で、エリーゼの姿を追いかけている影が、存在することを。
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襲撃
﹁軍務長は全騎の準備が整い次第、魔石工房に向けて兵を進めてく
ださい。私は部下四人を引き連れて先行します﹂
﹁わかった。ただ無理はするなよ﹂
﹁私の辞書に無理をするとか、頑張るとかはありませんよ﹂
ユイがそう言うとエルンストと顔を合わせて笑いあった。
﹁では、失礼します﹂
そう言って、ユイは一礼すると、後ろに控えていたクレイリーた
ちの元に歩み寄った。
﹁旦那、クレハのやつはどうしやすか?﹂
﹁あいつはそのままだ。ただ、連絡だけは絶やすなと伝えておいて
くれ﹂
クレイリーの問いに、ユイは即答した。
﹁わかりやした。連絡係の人員も増強しておきやすね﹂
﹁任せた。あとナーニャは現地についたら水球魔法を全員に掛けて
もらうことになるので、そのつもりでいてくれ﹂
﹁あいよ。完璧にずぶ濡れにしてやるから、お前ら覚悟しな﹂
ナーニャがそう言ってニヤリと口角をあげると、濡れるのが嫌な
フートは、露骨に嫌そうな顔を浮かべた。カインスがそれを見て、
フートの頭の上に手を乗せるといつものように豪快に笑った。
﹁よし、では出陣する﹂
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﹁エリーゼ様、もう少しで炎上地帯を突破できますので﹂
﹁ええ、わかりました﹂
エインスの励ましの言葉に、炎に肌の表面を焼かれながらも必死
に山路を下って行く。既に最も炎上の激しかった地点を超え、少し
ずつ周囲の温度が下がり始めていた。
﹁お待ちしていました、お姫様﹂
突然周囲に声が響き渡り、エリーゼとエインスの頭上から燃え盛
る木々が倒れ込んできた。
﹁危ない!﹂
エインスは声の主を目で探そうとしたため、わずかに反応が遅れ
たが、何とかエリーゼを抱えると、倒れる木々の前方に身を投げ出
した。
全力で飛んだため、受け身も取ることができず、二人でそのまま
地面を転がった。斜面のため、数回跳ねるように転がりながら、何
とか前方の木に体をぶつけて止まる。
﹁大丈夫ですか、エリーゼ様﹂
エインスは庇いはしたものの、あちこち擦り傷だらけの王女に声
をかけた。しかしエリーゼは足を痛めたのか、うまく立ち上がれず、
エインスが彼女を支えるよう起こそうとした。まさにその時である、
彼は前方から人影が近づくのを感じた。
﹁お疲れ様。でも君には用がないんだよね。ここで消えてくれるか
な﹂
エインスはその声に、視線をあげると、彼らに立ちふさがるよう
に二人の身なりの整った武装兵が立っていた。
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﹁お前らはなにものだって聞くまでもないか。タリムの雇われたゴ
ロツキか﹂
﹁ゴロツキ呼ばわりされるのは心外だが、まあタリムさんとは協力
関係にあるのは事実だな﹂
﹁兄者、後方を遮断したが、いつ他の者たちが駆けつけるかわから
ない。無駄口を叩く前に、さっさと仕事をこなしますよ﹂
左手に立っていた、兄者と呼ばれた男は舌打ちを一つ打ったが、
弟の言葉が正しいと認めたのか右手を前に突き出した。
エインスは視線を少し前方に向けると、先ほどまで先導していた
近衛兵が数十名の武装兵に制圧され、次々と命を絶たれていた。そ
の状況に、戦況が厳しいことを把握し、覚悟を決める。
﹁さて、武器を持っていないということは、あなた方は魔法士です
か。地方の一貴族ごときが雇うにはやや不相応ですがね。ただ、こ
の場はやるしか無いようですね﹂
エインスはそのままエリーゼを後ろに下がらせると、腰に備えて
いた剣を抜く。
﹁エインス、すいません﹂
エリーゼはその状況に震え、どうすることもできないことが情け
なかった。
﹁エリーゼ様、違いますよ。こう言った時は、﹃任せたわ﹄と一言
くだされば良いんです﹂
エリーゼに向けて笑いながらそう言うと、改めて武装兵に向き直
った。
﹁覚悟は決まったかい? ではその命貰い受けるよ。﹃フォイエル﹄
60
﹂
その瞬間、兄者と呼ばれた男の突き出した右手に炎が宿り、エイ
ンスに向けて放たれた。エインスは間一髪側方に避けると、一気に
間合いを詰め、左下段から突き出された腕に向かい剣を振るう。
エインスの剣がその腕に届く直前に、側方から二つ目の炎がエイ
ンスに向けて打ち出され、慌てて後方に飛び下がった。
﹁フォイエルか、なるほど帝国語の魔法士ね。だいたい事情が見え
てきましたよ﹂
﹁ふん、ここで命を落とすお前に関係のない話だ﹂
そう言って、改めて右手に発火魔法を宿し、エインスに向けて放
つ。
エインスは再度その炎をかわすと、今度はもう一方の魔法使いに
向かい駆け出す。
﹁ちっ、﹃シュタイフェ・ブリーゼ﹄﹂
二人目の魔法士がそう唱えると、その前の空間が歪み、次の瞬間
にエインスはその場から吹き飛ばされていた。
﹁ああ、この風の魔法式も帝国製のものですね。やはり帝国軍の手
のものということですか﹂
衝撃のあまり、剣を杖代わりにして、再度立ち上がり、二人の魔
法士を睨みつける。
﹁止めなさい、離して!﹂
二人の魔法士と対峙していたエインスは、突然のエリーゼの声に、
慌てて視線を向ける。すると、先程まで近衛を取り囲んでいた一部
の者が、王女を掴み、連行しようとしていた。
﹁やめろ!﹂
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エインスはふらつく身体に鞭をいれ、エリーゼの元に駆け出す。
しかしその無防備に走り出した瞬間、再び魔法の衝撃波が、彼の体
を吹き飛ばした。
﹁おっと、戦いの最中であったことを忘れたのかな?﹂
そう言って、風を使う魔法士は、懐に隠し持っていたダガーを鞘
から引き抜くと、エインスに止めを刺すために振り下ろす。エイン
スは無念を感じ、両目をつぶったが、一向に痛みが体を襲うことは
なかった。
﹁キ、キサマは!﹂
魔法士が確信を持って振り下ろしたダガーは、エインスの胸のわ
ずか手前で、長剣により止められていた。
﹁エインス、いつも最後の瞬間まで諦めるなと言っているだろ!﹂
そこには、鎧を含め全身を焦がしながらも、その視線の強さは衰
えることのないリュートの姿があった。リュートはそのままダガー
を跳ねあげると、その持ち手であった左腕を一刀の元に切断した。
その痛みのあまり、風の魔法士は地面をのたうち回る。エインス
はその隙に立ち上がると、再度剣を構え直し、リュートに礼を告げ
る。
﹁ありがとうございます。確かに、先輩はいつも諦めるなと言って
ましたよね。でも、もう一人の先輩には、いつも﹃さっさと諦めろ、
そしてすぐにもっと楽な方法を考えろ﹄って言われてたんですけど
ね﹂
﹁フン、だからあいつはダメなんだ﹂
リュートはそう言って、笑みを浮かべそうになる口元を無理に歪
62
めた。
63
魔法戦
﹁許さんぞ、お前ら!﹂
痛みと出血を緩和する魔法をかけ、風の魔法士は怒りに震えなが
ら立ち上がる。すぐに炎の魔法士が側に駆けつけると、エインスた
ちと距離を取るため、発火魔法をその中間の位置に放った。
﹁エインス、エリーゼ様はどうした?﹂
﹁それが奴らの手に⋮⋮﹂
﹁なるほど、ではまず奴らを突破して追いかけるしかないか。その
火を扱うネズミはまかせるぞ!﹂
言葉を発するや否や、リュートは隻腕となった風の魔法士に踊り
かかる。
リュートの言葉に、エインスは頷き、炎の魔法士に向かい合った。
﹁さて、では二回戦といきましょうか﹂
言葉とともに、開いた距離を急速に縮めにかかる。あと二歩で剣
が届く距離まで近づいた時に、再度魔法士の手に炎が宿る。
それを見てとった瞬間、エインスは右手を剣の腹に添え、叫んだ。
﹁﹃フリーズオン﹄﹂
そう叫んだ瞬間、剣の周りを冷気が覆う。
炎の魔法士は動揺するも、もはや発火魔法を取り消すことができ
ず、そのままエインスに向けて放った。エインスの蒼白い冷気の剣
は、炎を真っ二つに切り裂くと、振り下ろした剣をそのまま跳ね上
げる形で、魔法士の体を切り裂いた。
64
一方、風の魔法士と対峙したリュートは、徹底した魔法戦を展開
していた。
﹁﹃シュタイフェ・ブリーゼ﹄﹂
﹁﹃ゲイル﹄﹂
双方の眼前に空気の歪が生まれ、それが前方に走るも、中間点で
破裂音を生み出し、消失する。
﹁あなたも魔法士だったのですか?﹂
﹁剣で切られたからといって、勝手に剣士だとでも思ったか?﹂
﹁不意打ちで私を傷つけたからといって、あまり調子に乗らないで
くださいね、﹃ヴィルベルヴィント﹄﹂
魔法士が唱えると、先ほどの倍ほどになる空気の圧が変動し、魔
法士の前に風の束が生まれる。
﹁甘い、﹃ホワールウインド﹄﹂
魔法士の二倍程の風の束がリュートの前に生まれ、魔法士の風を
束を飲み込むと、そのまま叩きつける。
魔法士は風の圧力に吹き飛ばされると、後ろにそびえ立っていた、
燃える巨木に叩きつけられた。
﹁遊びは終わりだ。エリーゼ様が待ってるんでな﹂
﹁確かにあなたの魔法力は、私より上のようですね。ただ、勝負は
最後に立っていたものが、勝者となるのです!﹂
魔法士が左手を掲げると、リュートの四方からタリムの私兵が襲
いかかる。
65
﹁チッ、小癪な。﹃ゲイル﹄﹂
リュートは後ろに飛び下がると、左手に空気の歪を生み出し、左
側の私兵を吹き飛ばした。しかし吹き飛ばした私兵の後ろから、新
たな兵士が現れ包囲網を形成するようにリュートを囲む。
﹁いくらあなたが強くても、この人数差ではどうでしょう﹂
リュートが十名に膨れ上がった私兵の包囲網を憎々しげに見回す
のを見て、魔法士は勝者の笑みを浮かべた。
中央突破を仕掛けるかと決意したその時、リュートの右肩が急に
叩かれた。
﹁では、そこに一人参加しましょうか﹂
そこには、満身創痍で立ち向かおうとする、エインスの姿があっ
た。
﹁エインス、お前は十分働いたさ。おとなしくそこで休んで見てい
ろ﹂
﹁いえいえ、最後まで諦めるなって先ほど言ったばかりじゃないで
すか﹂
その返事に、リュートは満足げに笑みを浮かべ、エインスもつら
れて微笑む。
﹁さて、最後の会話は楽しみましたか? では、終わりにしましょ
うか﹂
魔法士の言葉が発せられると、私兵たちは二人に一斉に飛びかか
った。
二人は十人の私兵を相手に、魔法を使い半数にまでは減らすも、
66
火傷の影響もあり、次第に動きが鈍り始めていた。半減したはずの
私兵たちは、さらに増援の兵士が加わり、逆にその数を十五人と増
やしていた。
なんとか全周囲を包囲されないように、二人で巧みに入れ代わり
ながら、兵士たちの剣を捌いていくも、人数の差はいかんともしが
たく、少しずつの後退を余儀無くされていた。
﹁さて、いくらあなたたちが強くても、もう限界でしょう。そろそ
ろ諦めなさい﹂
その言葉が空間に響いた瞬間、包囲網を築いていた一人の兵士の
側頭部に突然矢が突き刺さる。そして周囲の視線が彼に集まると、
その兵士は、沈み込むように前のめりに倒れていった。
側方からの予想せぬ矢の襲来に、兵士たちは矢の飛来した方向へ、
視線を向けようとする。その時を待っていたとばかりに、彼らの頭
上から炎の矢が降り注ぎ、何名かの者はその炎の矢に貫かれ、倒れ
ていった。
﹁はぁ、山登るの大変で遅れちゃったよ。ごめんね。ということで、
五人ほどそこに参加させてもらおうかな﹂
その空間に似合わぬやる気なさげな声が響き渡り、私兵も、風の
魔法士も、そしてエインスとリュートも声の発せられた方向に顔を
向ける。
そこにはここまでの山登りのために、肩で息している男と、その
部下たちの姿があった。
67
加勢
﹁ええと、様子をみるとエリーゼ様は連れ去られたあとかな?﹂
﹁旦那、どうします。旦那たちだけ先行して追って頂いてもいいで
すが﹂
クレイリーも多少疲れたのか、手に持った槍にもたれかかりなが
ら尋ねる。
隣に息を切らせているユイも、肩で息しながら答えた。
﹁ええっ、こんなに苦労して登ってきたのに、それは無いよ。ふ∼、
どうせここで急いでも、たぶん今後の展開には影響でないんだから
さ。だいたい全員で相手した方が安全だし、なにより楽でいい﹂
﹁旦那は相変わらずですね。じゃあ、残っているのがざっと十二人
ですか。五人で割れない中途半端な数が残っちまいやしたね﹂
﹁おいおい、私も数に入っているのかい?﹂
﹁旦那がさっき追いかけたくないって言ったんじゃないですか﹂
﹁いや、それはもう動きたくないって意味で、別に戦うつもりはな
いんだけど﹂
ユイが戦場にも関わらず、戦うことを否定する姿に、タリムの私
兵たちも若干の戸惑いを見せた。
そのわずかに空間が弛緩した刹那、二本の剣が煌めき、二人の兵
士の首を飛ばした。
﹁ユイ、俺たちがお前が働きやすいように、キリのいい数にしてや
ったぞ!﹂
﹁先輩は、実際まだ何もしてないんですから、ちょっとは働いてく
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ださい!﹂
兵士の集中が弛緩した瞬間にエインスとリュートはその隙を見逃
さず、自らに最も近い敵兵の首を飛ばし、後は任せたとばかりに後
方に下がる。
﹁仕方ないなあ、じゃあ、今日はチームで動かずに、個々人で好き
なように。ノルマは二人ね﹂
渋々と言った感じで、ユイが認めた瞬間、背後からほぼ息継ぎの
ない矢の連射がユイの右側頭部をかするように放たれ、同時に二体
の兵士が眉間を貫かれて倒れた。
﹁隊長、オイラのノルマは終わりですね﹂
カインスは自慢の弓を早々と背中に掛けて、高みの見物を決め込
む。自分にかするような矢を放ったことに対して文句言おうと、口
を開きかけた。まさにその時に、今度は左側頭部を掠めるように炎
の矢の魔法が放たれ、ユイの髪をわずかに焦がしさらに2体の兵士
の体を突き破っていった。
﹁あたいも自分の分はおしまいね﹂
ナーニャはそう言って、炎の矢を放った右手の人差し指に息を吹
きかけると、背中を向けて後方へ下がってしまった。
﹁ああ、私の髪が。なんでもう少し上司を敬う気持ちを持てないか
な?﹂
ユイは、左手で少し焦げてしまった髪の毛を触ると、ため息をひ
とつついた。
69
﹁旦那、そんなこと言ってるうちに、奴ら目の前まで近づいて来ま
したぜ﹂
﹁まあ、飛び道具が無くなったと思ったんだろうね。じゃあ、フー
トもいいかい?﹂
フートに視線を向けると、抜き身の剣を肩に乗せたいつもの姿勢
で、コクリと一度頷いた。
それを合図に三人は駈け出した。
まず最も長い獲物を持つクレイリーが先頭の兵士に一突きにして
絶命させる。次の瞬間、その隙を狙おうとする兵士がクレイリーに
跳びかかるが、クレイリーの背後にいたフートが一足飛びに加速し
剣光を一閃させると、飛びかかろうとした兵士は正中から二つに裂
かれて、崩れ落ちた。
ユイたちが到着してからあっという間に六名を失い、既にユイた
ち以下の人数になってしまった兵士たちは、敗北の予感を悟り我先
に反転し、逃げ出し始める。その後ろ姿を逃すまいとクレイリーと
フートは駈け出して、それぞれ更に一名ずつを仕留めた。
幸運にも、彼ら二人の追撃を振り切った残り二人の兵士は、走り
ながら剣も兜も投げ出して、転げるようにその場から逃げ出してい
った。
﹁戦いとはいつも虚しい⋮⋮﹂
ユイが腰に手を当ててそうつぶやき、遠い目で火の勢いが弱まり
つつある山の中腹に視線を移す。
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その言動と行動にイラッとしたナーニャは、つかつかとユイのそ
ばに歩み寄り、右のこめかみに裏拳を見舞った。
﹁何するんだよ、戦わずして勝つことこそ至高の勝利じゃないか?﹂
﹁あんた、さっきノルマは二人だって言ったでしょ!﹂
﹁別に仕留めろとは言ってないし、私の相手は逃げ出したんだから
不戦勝じゃないか﹂
言い切った瞬間、再度ナーニャの裏拳が振りぬかれた。
ユイは拳の威力に、思わずうずくまる。そんな姿を見て、エイン
スは相変わらずだなと思いながら、リュートに支えられて、歩み寄
ってきた。
﹁先輩、そういえば魔法士はどうしました?﹂
﹁ああ、あのお前たちに偉そうに喋ってた片腕の奴かな。あいつは
俺達が到着したら、真っ先に逃げ出してたよ﹂
ユイはまだ痛みが残るのか、側頭部をさすりながら返答した。
﹁そうですか。あと先輩、ここに来るまでの最中にエリーゼ様を連
れた兵士は見ませんでしたか?﹂
﹁いや、俺達は通常の工房への舗装路から登ってきたからな。その
道中では見かけなかったな。でも、まぁ普通に考えれば、山火事を
起こせば騒ぎになって、誰かが駆けつけて来ると思うだろ。だから
おそらく奴らは、通常のルートでは下山してはいないだろう﹂
﹁確かにその通りです。しかしこれで追跡は困難になってしまいま
したね⋮⋮﹂
エインスはそう言って、心痛のあまり顔を下げた。
﹁まあ、確かに追跡に関しては困難と言えるかな。ともかくこの山
中で何が起こったかを教えてくれるかい﹂
ユイがそう尋ねると、エインスはくぐもった声で、工房を視察に
71
来て横流しの証拠を抑えたこと、そして帰る直前に山火事に遭った
こと、またそれがおそらくタリム派の仕業で、護衛の近衛兵を分断
され、エリーゼ様がさらわれたことを説明した。
そのエインスの言葉が切れると同時にエインスのそばに立ってい
たリュートが突然頭を下げた。
﹁すまん、ユイ。俺はお前が護衛を解任された時、正直少し優越感
を持ってしまった。お前が居なくても、俺だけで十分だってな。本
当はエリーゼ様をお諫めすべきだったのにな。冷静に考えれば、敵
の顔につばを吐きかけたんだ。奴らの反撃がある可能性ぐらい考え
るべきだったのに。その上、よりによって地理に明るい現地の者を
追い払い、自分たちだけで行動するという愚行を犯した。その結果
がこのザマだ⋮⋮﹂
誇り高いリュートが、同年代のものに頭を下げるのを始めて見た
ユイは、ゆっくりと首を左右に振ると、こう告げた。
﹁これは貸しだよ、リュート。いずれ利子を付けて返してもらうか
らさ、だからたまにはいいさ﹂
﹁いやいや、旦那。旦那はサボってただけで、まだ何もしてないと
思いますがね﹂
クレイリーの鋭いツッコミに﹁あっ﹂と思わず声を上げてしまい、
彼の部下たちが隊長らしいなと笑い出す。
﹁あー、あー、いや、今からとりあえずエリーゼ様を奪還するから。
だからつまりだな、これから貸しを作ってもらうことになるから。
うん、そういうことだから﹂
慌てて、正当化しようとするユイを見て、リュートも張り詰めて
いた表情を少し緩めた。
72
ユイはなおも自己弁護を図ろうとしたが、リュートの表情の変化
を見て、言葉を飲み込んだ。そしてリュートは、ユイが自分の表情
を見ていることに気がついて、再度表情を引き締め、自分の持つ情
報を提示する。
﹁エインスが大体の説明をしてくれたが、山火事に関しては大丈夫
だと思う。工房の方に残った兵士や侍従たちで氷結魔法を使えるも
のを中心として、脱出するよう指示している。先程から火の手も弱
まってきつつあるから、おそらく先ほどエインスが切った炎の魔法
使いが断続的に火をまき散らしていたんだろう。奴がいなくなれば、
うちの部下ならこの程度の火事は問題ない。問題はやはりエリーゼ
様のことたが⋮⋮﹂
﹁ええ、私も戦闘中だったのでエリーゼ様がどの方角に連れ去られ
たかを確認することができませんでした。これでは追跡の仕様があ
りません﹂
﹁エリーゼ様がどの経路で連れ去られたかは誰もわからないし、見
つけるのは無理だろうね。だけど、エリーゼ様が最終的にどこに行
くかはわかっているんだから、そこさえ抑えればいいんだよ﹂
ユイがそう言うとリュートとエインスが思わず息を呑む。
﹁旦那、エリーゼ様が行く場所ってのはどこですかい?﹂
クレイリーがそう尋ねた瞬間、その場の視線がユイに集中する。
﹁クレハを張り付かせている男がいる所。つまりタリム伯のところ
だよ﹂
73
タリム
タリム伯は彼の第四の別邸にて、広間の床を落ち着きなく歩き回
っていた。
﹁奴らはまだ到着しないのか!﹂
そう言って、傍に控える部下に怒号を上げる。
現在の状況に、伯爵は焦っていた。帝国の魔法士であるノーム兄
弟が、一向に戻らないためである。
王国からの糾弾を恐れ、王女を誘拐し、それを人質に帝国へ向か
う。伯爵の計画は、王女の予想外の視察後に立てた突発的なもので
あったが、近衛相手に王女を奪うところまでは、計画通りであった。
そして後は、亡命のために逃げ出すだけの算段であったが、帝国
への亡命の橋渡しをするはずであった、炎の魔導師カシムと風の魔
法士ネルドのノーム兄弟が戻らないのである。
案内役の彼らが戻らない限り、この土地を逃げ出すことができず、
タリムは逃亡の準備をしたまま、身動きを取ることができず黙々と
待ち続けていた。
﹁遅くなり申し訳ない﹂
広間の扉が開けられ、隻腕となった魔術士が中に入ってくる。そ
の顔を見た瞬間、伯爵の怒りは彼に向けられた。
﹁遅すぎるわ、ネルド! 貴様が言ったのではないか、実戦段階で
の支障はまったくありませんとな。それがそのザマか﹂
﹁あなたの使えない兵士たちを指揮して、兄も失い、あの近衛の護
74
衛の中から王女の身柄も確保しました。それでもまだご不満ですか
?﹂
片腕を失いながらも、困難な状況下で王女の奪還を成功させたと
いう自負のあるネルドは、タリムの後ろで両手を縛られ、猿轡を噛
まされたエリーゼを見やり、その後、伯爵のそばまで近寄ると伯爵
を睨みつけた。
﹁フン、まあよいわ。では、至急帝国に向けて出発する。準備を致
せ﹂
タリムが周囲の部下たちに号令をかけ、部下たちは慌てて準備に
取り掛かろうと、広間の入り口の扉に殺到する。その瞬間、扉ごと
広間の前方が爆発し、大半の兵士を吹き飛ばされる。そして一瞬の
間ののちに、幸運にも生き残った兵士たちの眉間に、ことごとく矢
が突き刺さった。さらに二本の矢が放たれ、タリムとネルドの頭部
に向かうも、ネルドが風の流れを操り、矢の軌道をそらせた。
﹁何事だ?﹂
自体の推移を理解できず、タリムはその場で金切り声に近い声で
怒鳴る。
﹁いやぁ、予想通り王女を含め、反乱兵が全てここに集まってくれ
たのは、非常に良かったんですがね。ただまだこんなに兵士が残っ
ているとは思いませんでした。少しでも数を減らすために、一番良
いタイミングを待つのに苦労しましたよ﹂
そう言いながら、吹き飛ばされる前は入り口があった場所から、
黒髪の男性が姿を現す。
﹁隊長はやれって言っただけじゃないか。ドアをぶち破ったのはあ
たしだよ﹂
そう言いながら赤髪の女性兵士が残った広間に入ってくると、そ
75
の後ろからクレイリーたちが続々と姿を表した。
﹁貴様は王都からやってきたイスターツだな。なんの真似だ?﹂
﹁なんの真似だと言われましてもね⋮⋮伯爵が一番ご存知なんじゃ
ないですか? とりあえず後ろの御令嬢を開放していただければ幸
いですが﹂
ユイが苦笑いを浮かべながら返答すると、タリムは憎々しげに隣
に立つネルドに向き直る。
﹁ネルド、貴様が後をつけられてきたんじゃないだろうな!﹂
タリムは、隣で驚きの表情を浮かべるネルドに対し喚くように糾
弾した。
﹁ばかな、私は何度もここに来るまで背後を探知の魔法で確認しま
した。第一、奴らよりかなり早く戦場を離れた上に、他の隠れ家も
経由してここに来たんです。私が付けられたはずがない﹂
ネルドは自分には非がないと、すぐさま伯爵に抗弁した。
﹁うん、そこの帝国軍の魔法士さんが正解。クロセオンからここま
では寄り道せずまっすぐ来たから、彼に追いつくことができたんだ
しね。実際に付けられていたのは貴方だよ、伯爵。私の部下がずっ
と貴方を監視していたからね。貴方が兵士を集結させたのも、それ
を魔石工房へ向かわせたのも、そしてエリーゼ様が貴方のもとに連
れて来られたのもね﹂
﹁なんだと!﹂
タリムはユイの言葉にこれ以上ないほど顔を強張らせる。先程ま
でのふんぞり返り部下たちを怒鳴りつけていた余裕は、その表情か
らは微塵も認められなかった
76
﹁さて、そこで相談なんだが、タリム伯。できれば王女を開放して、
横領した金も全部おいてここから出て行かないかい? 追撃はしな
いから﹂
﹁ふん、馬鹿か貴様は? こちらには王女がいるのだ。貴様らこそ
武器を捨てて降伏しろ﹂
そう言うとタリムは、ナイフを取りだし、拘束された姫の隣に移
動した。
﹁どうしやすか、旦那?﹂
﹁まぁ、指示に従うしかないだろうな﹂
﹁しかし!﹂
カインスが反論しようとするが、ユイは首を左右に振ると、腰の
横に備え付けていた、刀を地面に捨てた。その姿を見て、他の者達
も、自分の得物を地面に置く。
﹁じゃあ、ネルド、奴らを消してくれ﹂
﹁フン、こういうやり方は好かんないのですが、この腕の御礼もあ
りますしね﹂
ネルドはそう言うと、一歩前に進み、ユイたちと対峙する。
﹁君、ネルドくんといったかな。私は君に対して、何もしてないん
だけど、ちょっと許してもらえないかな?﹂
﹁申し訳ありませんが、みなさんご一緒にあの世に送らせて頂きま
すので。では、覚悟を決めてください。あとそこのお二人、武器を
捨てただけじゃなく、魔法も使わないでくださいね﹂
魔法の準備を進めていたリュートとナーニャに視線を向けると、
二人は舌打ちを一つ打ち、魔法式を拡散させる。
それを見て取った、ネルドは満足気に笑った。
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﹁では、さようなら皆さん。ヴィルベルヴィント﹂
ネルドがそう唱えると、彼の前に風の束が生まれる。
﹁マジックコードアクセス﹂
その風の束を見て取った瞬間、ユイはそうつぶやくとネルドに向
けて駈け出した。
﹁無駄なことを、死ね!﹂
そう言ってネルドが風の束をユイ目がけて放つ。その風の濁流が
ユイに衝突する瞬間、ユイが叫ぶ。
﹁クラック!﹂
ユイはそう叫ぶと同時に風の束を右手でなぎ払う。すると、その
風の向きが急旋回し、タリムに向けてまっすぐに疾風が走る。
﹁なっ﹂
思わぬことに、タリムは一歩も動くことができず、風の直撃を受
け吹き飛ばされる。それを横目で確認し、ユイは叫んだ。
﹁クレイリー、寄こせ!﹂
その声が放たれるやいなや、クレイリーは足元の、刀を前方へ投
げつけ、ユイはそれを受け取る。そして受け取った刀を抜刀し、ネ
ルドの体を真一文字に切断した。
﹁はぁ、結局働かされてしまった﹂
ユイはそう言って、ネルドの亡骸に視線を向けると一つため息を
つく。そしてエリーゼの元に歩み寄ると、拘束を解いた。
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﹁あ∼、とりあえずお待たせしました﹂
﹁ええ、お待ちしていましたわ﹂
エリーゼは足と体を震わせ、涙を浮かべながらも、そう強気に振
舞ったことに、ユイは少なからずこの王女の評価を改めた。
79
カーリン
ユイたちが風の魔法にて気絶していたタリムを拘束し、カーリン
市に帰ったのはもう日が暮れかかる頃であった。
ユイはタリムの身柄を軍の牢屋にて拘束するようクレイリーに頼
み、そのままエリーゼをサムエルの別邸まで送り届けた。その後、
ユイは用意された部屋のベットに体を委ねると、そのまま泥のよう
に眠ってしまった。
﹁イスターツ様、イスターツ様﹂
部屋のドアの外から女性の声が聞こえ、ハッと目を覚ます。その
まま慌てて、寝ぼけ眼でドアを開けるとそこにはサムエル伯爵のお
抱えのメイドが立っていた。
﹁イスターツ様、伯爵が部屋でお呼びです。至急、お越しいただけ
ますでしょうか﹂
メイドはに要件を告げられたユイは、まだ帰ってきたそのままの
格好であることに気づいた。半刻程待ってほしいと伝えるように依
頼し、急いで身支度を整えて、サムエルの部屋に向かうと、そのま
ま頑丈な部屋の扉をノックした。
﹁イスターツ君かな、入りたまえ﹂
室内からサムエルの声が聞こえたため、ドアを開けてユイが室内
に入る。するとそこにはエルンストとサムエル市長がソファーに掛
けて待っていた。
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サムエルはユイに向かいのソファーを勧めると、彼はこの若い士
官に頭を下げて礼を言った。
﹁やめてください、市長。私は私の仕事をしただけです﹂
﹁君の部下たちは、﹃隊長は美味しいところを持っていっただけ﹄
と言っていたがな﹂
エルンストにそう茶化されると、ユイはごまかすように、いつも
の苦笑いを浮かべた。
﹁それでもだよ。エリーゼ様から聞いたが、君は以前からタリムの
行動を監視して、調査を行なっていたようだね﹂
﹁ええ、その通りです﹂
﹁なぜタリムを調べようと思ったのかね? いや、君がこのカーリ
ン軍の内部監査を名目にここに来たことは理解している。だが、君
の評判を聞く限り、こういっては失礼だが、そこまで積極的に働く
というのが、いまいちイメージがわかなくてね﹂
これは参ったと、ユイは頭を一つ掻く。
﹁はは、隠しても仕方ないですが、それは事実ですよ。基本的にで
きるだけ楽に、そして効率的に仕事をするのが私の主義ですので。
だから、今回もそれに沿ったものだったんですよ﹂
﹁それはどういうことなのかな?﹂
サムエルはユイに話を促した。
﹁そうですね、タリムの勢力がカーリン軍内部にかなり侵食してい
たことはご存知でしょう。私はここでのんびりと仕事するためには、
軍内部の不正行為を一つ一つ上げていくことは非効率的だと考えて
いました。確かに不正を見つけてその都度正そうとするならば、最
初の数件ぐらいはあっさり検挙することができるでしょう。しかし
私がそのような行動に取れば、すぐにもっとわかりにくい形で、不
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法行為を行うようになるでしょうし、それでは根本的な解決になら
ないですからね﹂
﹁なるほど、それで﹂
﹁ええ、ですので最初から多少の不正は見て見ぬふりをしていまし
た。すると次第に彼らは、私の目を気にすることなく、以前までの
ように堂々と活動し始めましたよ。あとはその調べてくれと言わん
ばかりのタリムの犯罪を、まとめていく作業をしていただけです。
実際にもう少しで軍上層部に報告出来るかなといった段階だったの
ですが、エリーゼ様が突然ここに暴れに来られたのが誤算というか、
完全に計算外でしたね﹂
そう言ってユイは市長に笑いかけたが、それと同時に、サムエル
の部屋の側面に取り付けられていたドアが開き、頬を少し膨らませ、
拗ねたような表情のエリーゼが、彼に姿を見せた。
﹁悪かったわね、勝手に暴れて!﹂
﹁聞いてらっしゃったんですか、すいません、失言でした﹂
﹁いいわ、今回は貴方の言うとおりだし。結局貴方に助けてもらっ
たからね。お礼を言うわ、ありがとう﹂
﹁もったいないお言葉です﹂
ユイはそう言って恐縮した。
﹁褒美と言ってはなんだけど、何か欲しいものはあるかしら? も
ちろん私の出来る範囲のことだけど﹂
﹁仮にお金や利権でも?﹂
﹁ええ、貴方がそんなものを欲しがる俗物なら喜んで﹂
そう言ってエリーゼはユイに向かって笑みを浮かべた。
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﹁いや、結構です。ただ一つだけお願いしたいことがあります﹂
﹁なんですか? どうぞ言ってみてください﹂
エリーゼはそう言うとユイのソファーまで歩み寄り、隣に腰掛け
るとユイを値踏みするように見つめてきた。ユイは照れたように思
わず視線を外し、少し考えた後に答えた。
﹁警備主任であったリュート・ハンネブルグの首を繋いでもらえま
せんか?﹂
ユイがそう言うと、その場にいた他の三名は意外そうな目でユイ
を見た。
﹁イスターツ君、この姫の好意は君が中央に帰る好機だと思うのだ
が。君は本当に他人のことでいいのかい?﹂
サムエルが思わず、他人のことを褒美として要望するユイに向け
て尋ねた。
﹁いいんです。私にはこの街があってますし、タリムたちがいなく
なったので、これからはもっと楽できるでしょうからね﹂
そう言ってユイは、笑いながら左右に首を振って否定した。
﹁確認するけど貴方は本当にそれでいいの? 王族の命を救ったと
なれば、ある程度の昇進や、多分私がお父様に頼めば、あなたを貴
族への取り立てることも可能だと思うわよ﹂
﹁いえ、昇進といっても、この年齢で一部隊の部隊長をさせて頂い
ているんです。もう十分ですよ。それに貴族なんて私の柄ではあり
ませんし、余計な仕事が増えるだけで、爵位などくれると言われて
も、むしろお断りするところです﹂
エリーゼの目を見つめて笑いかける。エリーゼはユイの目からそ
の気持ちが変わらないことを感じ、ゆるやかに頷いた。
83
﹁フフ、貴方は面白いわね。王都で聞いてきた噂とは大違いだわ﹂
﹁どんな噂だったのか気にはなりますが、聞くと今晩は寝られなそ
うですので、聞かないでおきます﹂
﹁遠慮しなくてもいいのに。まあ、それは置いておくとして、リュ
ート警備主任の件ですが、全く責任がないとまでは私もかばうこと
もできません。ですから降格程度の処罰は、申し訳ないけど防げな
いと思います。でもエリーゼ・フォン・エルトブートの名前にかけ
て、刑罰はもちろん、必ず彼が軍を追われることがないようにしま
すわ。それでよろしいですか?﹂
﹁ええ、彼ならすぐに降格された分を取り戻すでしょう。それで十
分です﹂
そう言ったユイの表情は、自分の自慢の同期を誇るかのように自
信に満ちていた。
翌朝、王女の一行は王都へ帰ることとなり、ユイは見送りのため
に、サムエルの別邸前に集結するエリーゼ一行のところへ顔を出し
た。そのユイの顔を見つけると、エインスは馬車から降りて、彼の
元へ駆け寄ってきた。
﹁先輩がこんな朝早くに見送りに来てくださるなんて、これは帰り
道は大雨ですかね﹂
﹁俺も軍の人間になったんだ。昔、お前に教えていた頃みたいに、
朝寝坊をして遅刻してた頃とは違うんだよ﹂
そう言ってエインスに向けて真面目な顔をする。その顔を見てエ
インスが笑い出した。
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﹁さっき先輩の部下の方が、自宅に帰るためにこの前を通りかかっ
たんですが、先輩のことを尋ねると﹃旦那がこんな時間に起きてる
ってことはないですから﹄と言ってましたけどね﹂
クレイリーの奴めと思いながら、ユイはエインスを見返すと、服
の合間から覗く擦り傷と火傷の痕が目を引いた。
﹁今回はひどい目にあったな。王都ではしばらくゆっくり過ごして
くれ﹂
﹁無理ですよ、先輩。これだけの大事件起こしましたからね。きっ
と王都に帰れば報告書の嵐ですよ。この土地に逃げている先輩が心
底羨ましいです﹂
エインスは帰ってからのことを考えると、気が重くなるのか憂鬱
そうな表情を浮かべ、ため息をついた。それを見てユイが声を上げ
て笑ったが、そんな二人の姿を見つけたのか、集団の先頭で部下に
指示を出していたリュートが馬から降りて、ユイたちのもとに近づ
いてきた。
﹁ユイ。エインス共々、今回は世話になった﹂
﹁いいさ、お互い仕事だったんだ。お互いがお互いの仕事を出来る
範囲でした。そういうことだろ﹂
リュートは頭を振り、思わず笑顔を浮かべた。
﹁ユイ、今まで認められなくて、お前には何度も突っかかってきた
が、今回のことで俺も覚悟を決めた。いいか必ず王都へ帰って来い
!﹂
﹁だからさ、今のところその予定はないって﹂
﹁それでもいい。とにかくお前が帰ってきた際は、俺はお前の下で
働かしてもらう。そう決めたんだ。お前が嫌だといってもな﹂
﹁リュート⋮⋮﹂
﹁あと一言付け加えるならば、多分お前はすぐに王都に戻ることに
85
なると思うぞ﹂
リュートは後方にある馬車に視線をやると、さらにこう言い放っ
た。
﹁お前はまだエリーゼ姫を知らないからな。あの人は自分の気に入
ったものを手放せるほど、全くもって我慢強い人間じゃないからな﹂
﹁えっ、どういうことだ?﹂
﹁ああ、それは間違いないですね。ユイ先輩、ご愁傷さまです﹂
エインスまでそう言って、ユイに向かって含むところのある表情
を浮かべる。
そんなエインスとリュートの元へ、近衛の一人が近寄り、時間で
あることを伝えた。
﹁では、そろそろ行かせてもらうかな。ユイ、まあせいぜい最後の
休暇を楽しむんだな。じゃあな﹂
そう行ってリュートは自分の馬に近寄って跨ると、集団の先頭に
立ち、一団の先陣を切って王都へ向かって進みだす。
ユイはその場所から一行の後ろ姿を眺めていると、中央の馬車の
窓が開けられた。
その窓から外に向けて細く白い腕が出されると、ユイに向けて別
れを告げるかのように、何度も、そう何度も、その手は上下に振ら
れていた。
86
後日談
王女御一行がカーリンを出て二ヶ月が過ぎ去った。そんなある朝
にユイはエルンストの元へと呼び出された。
﹁すまんね、朝早くから呼び出して﹂
﹁いえ、構いません。それでなんの用でしょうか?﹂
普段は起きてさえいない時間であるが、ユイは業務のため仕方な
くエルンストの前に立っていた。このように早朝に呼び出されるの
は二ヶ月ぶりのことであり、自然と先日の事件を思い出し、なぜか
ユイは不吉な予感がしていた。
﹁用件は二つあってね。あまり君は喜んでくれないかもしれないが、
イスターツ五位﹂
﹁昇進ですか⋮⋮﹂
ユイは五位への昇進を示唆する言葉に、思わず嫌そうな表情を浮
かべた。
﹁昇進を告げられて、そんな表情を見せるのは、王立軍にあっても
君だけだろうね﹂
﹁一般的に昇進は、仕事と気苦労が増えるのと同義ですから。それ
で、もう一つの用件はとはなんですか?﹂
ユイは苦笑いを浮かべながら、エルンストに先を促した。
﹁ああ、これがもう一つの用件なんだが﹂
エルンストはそう言うと、机の引き出しから一通の封書を取り出
し、ユイに渡した。
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﹁これは?﹂
﹁転属命令だよ。王都へ帰還するようにとのことだ﹂
エルンストは、今のユイの表情に予想がついていたため、それを
見ないように目をつむった。
﹁軍務長、この辞令は断れませんか?﹂
﹁そう言うと思っていたよ。だが、それは難しいだろうな、その封
書の差出人を見てみたまえ﹂
ユイは封書を裏返し、差出人の名前を確認する。
そこには﹁エリーゼ・フォン・エルトブート﹂という名前が記載
されていた。
その名前を見た瞬間、ユイはいつもの様に頭を一つ掻くと、深い
ため息を吐いた。
88
昼行灯と無駄筋肉
コバルトブルーをぶちまけたような雲ひとつない青空と、日々勢
いを増し続ける太陽は、その下で動く者達に夏の訪れを感じさせて
いた。
そのような晴天の昼間に、カーリンから続く街道の上を、二頭の
馬が遠くにおぼろげに見える王都エルトブールへ向けて進んでいた。
そのうちの一頭には、弓を背中に背負った筋骨隆々の大男が乗っ
ており、この猛暑の中でも笑顔を絶やさずに馬を進めていた。しか
しもう一頭の馬に騎乗している男は、手で顔を扇ぎながら気だるそ
うな表情で、ブツブツと愚痴をつぶやいていた。
﹁暑い、遠い、戻りたくない﹂
﹁隊長、そんなこと言っても仕方ないんですから。いい加減に諦め
てくださいよ﹂
カインスはカーリンを出てから、途切れることなく愚痴を呟くユ
イを何度も何度もなだめ続けていた。
﹁いや、だって暑いのも、遠いのも、戻りたくないのも全部事実だ
し。そうだ、向こうについたら直ぐに、軍務大臣あたりに喧嘩を売
ってみよう。そうしたら、もう一度カーリンに飛ばしてもらえるん
じゃないか?﹂
﹁それは単純に首になるか、牢屋に入れられるだけですよ﹂
﹁せっかく左遷されることができたのに、ちょっと働いたら無理や
り中央に戻すなんて、なんて理不尽だ﹂
﹁ははは、普通に考えると、隊長の言ってることがめちゃくちゃな
んですよ﹂
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上司のどうでもいい愚痴にも、しっかりツッコミをいれて、そし
て笑い飛ばす。
筋肉ダルマや無駄筋肉などと呼ばれ、その筋力と弓の腕だけを評
価されがちなカインスであるが、仲間から最も評価されているのは、
その豪快な笑顔と人柄の良さであった。
今回のユイの人事異動に伴い、護衛の意味も含めて、カーリンか
ら一名の随員をつけることとなった。その際に、カインスのその人
柄が買われて、同行者として選ばれたのである。
ちなみにその人選には多少の紆余曲折があった。
本来、ユイとよく行動を共にするのはクレイリーであるが、彼は
戦略部隊長代理として、ユイの仕事を引き継いで貰わなければなら
ず、最も早くに除外された。
次に腕のある護衛ということで、フートの名前が上がったが、護
衛はともかく、いつもの様に抜身の剣で王都を闊歩されてはまずい
として、これもあっさりと除外された。
また能力という面では、魔法も使うことのできるナーニャの名前
も一度だけ上がったが、酒癖が悪いのと手が早いことから、酔っ払
って見ず知らずの上官を殴るとまずいので、問題外とされていた。
そのような厳正な人選の中で、比較的温厚で問題も起こさず、人
柄も良いカインスが随員として選ばれたのである。
ちなみにクレハは、カインスとユイの見送りに姿を現すまで、皆
に存在を忘れられていたのだが⋮⋮
﹁ところで隊長、あとしばらくで王都に着きますが、宿はどうする
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んですか?﹂
﹁ああ、宿のことだけど、知り合いの家に泊めてもらうことになっ
ている。タダでいいっていう話だし、それでいいだろ﹂
﹁タダですか。それはありがたいですね。なんせオイラはカネがな
いもんで﹂
宿代が掛からないことを聞いて、カインスはいつも以上にニコニ
コし始めた。ユイの急な王都への転勤に巻き込まれたため、ろくに
金策に走ることもできず、この王都への旅に必要なお金を使うと、
財布の中身が心もとなかったのである。
﹁しかしお前、普段は金を何に使っているんだ。確かギャンブルも
しなかったし、ナーニャみたいに酒も飲まないだろ﹂
﹁いや、隊長たちやフートなんかは得物に刀や剣を使われるから、
これはわからないでしょうがね。弓使いって大変なものなんですよ。
例えば日々の訓練だけでも矢を大量に使いますしね﹂
王都に駐留している王立軍と違い、カーリン軍は予算の問題があ
り、十分な矢の補充を軍から行うことができなかった。その為、弓
使いは他の武器使いより明らかに不遇とされていた。
﹁そんなものか﹂
﹁そんなもんですよ。他にお金の使い道としては、この筋肉を維持
するために、食費もかかっています。もっとも体づくりには、体を
鍛えることが一番大事ですがね。隊長もいかがですか﹂
そうして左の力こぶを見せつけて、ユイに訓練を勧めると、ユイ
は首を一度だけ左右に振る。
﹁私がかい。冗談はやめてくれ。ただでさえ苦労しているのに、自
由な時間まで運動なんかしたら、死んでしまうよ﹂
﹁隊長は楽をするために仕方なく仕事をするって、いつも言ってい
るじゃないですか。体を鍛えたら、ちょっとの苦労も苦労と感じな
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くなるかもしれませんよ﹂
﹁それは本末転倒だよ、カインス﹂
カインスは悪気のない満面の笑みを浮かべながら、今度は両腕の
力こぶを誇示して、再度ユイに薦めたが、ユイはげっそりした表情
で拒否した。
﹁そうですかねぇ。まあ隊長の訓練は置いておくとしても、今回泊
めて頂くお宅はどんなところなんですか?﹂
﹁ああ、それかい。私が昔にお世話になった家でね。そこのお宅の
子供もよく知っているし、その家の主人は人の良い愉快なおじさん
だよ﹂
ユイは昔を思い出すかのように目をつぶりながらそう答えた。記
憶の中にひげ面の親父さんと美人の奥さんたちの姿が思い浮かぶ。
﹁へえ、子供もいるのですか。オイラは子供が好きなんで、ちょう
どいいです。一緒に遊んだりしてもいいんですかね﹂
﹁うーん、別に小さい子供じゃないし、遊びと言ってもなぁ。あい
つ女の子が好きだから、あいつの遊びはお前の考えている遊びとは
ちょっと違うと思うぞ﹂
ユイは自分も無理やり巻き込まれた、その遊びを思い出すと、思
わずため息を付いてしまった。
﹁へぇ、ませたガキなんですね。しかし小さくないとすると十二か
十三歳くらいですか﹂
﹁いや、二十一歳﹂
ユイが答えた瞬間、カインスの脳裏にとある人物が浮かび、思わ
ず硬直する。
﹁それってまさか、以前にそこのお子さんとお会いしていたりしま
せんか?﹂
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﹁あるよ。だって、エインスの実家だし﹂
何の気なしに、答えるユイに対して、カインスは急に体から暑さ
のせいではない汗が溢れ始める。
﹁つまりそれって、ライン大公の邸宅ってことですよね?﹂
﹁そうだよ、ライン公の家。ベッドも大きい奴があるから、お前の
体でも何も心配いらないぞ﹂
﹁いや、心配点はそこじゃないんです⋮⋮﹂
普段はいつも笑って突っ込むカインスであるが、引きつった笑み
を浮かべながら、かろうじてそれだけは言うことができた。
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アーマッド
王都の南にある重厚な城壁の小門を通ると、そこには大きな商店
や宿が立ち並ぶ石畳の大通りが続いていた。
そのカーリンと異なり、無数の馬車や人々がせわしなく通りを行
き交う光景に、カインスは目を白黒させた。
﹁これが王都ですか。この通りに立っている人の数だけでも、うち
の村の人口より多いですよ﹂
﹁そうか、カインスはカーリンの近くの村の出身だったな。さすが
にお前の村と比べるのもどうかと思うが、ここが王都エルトブール
だよ﹂
ファーブルグ大陸の西方地域において、クラリス王国は小さな国
家ではあったが、比較的自然資源の豊かな王国として知られていた。
穀物、水資源、そして豊富に産出される魔石。
これらの豊かな実りは、国民の日々の糧となるだけでなく、他国
との商取引においても、有効な材料として取り扱われていた。そし
てこれらの潤沢な取引材料を有する王都エルトブールは、大陸西方
でも有数の商業都市でもあった。
城壁沿いの近くにある軍部専用の厩舎に、ここまでカーリンから
世話になった二頭の馬を預けると、二人は転属の辞令を受け取るた
めに、軍務庁舎へ向かって歩き出した。
ユイたちが所属する戦略省の本部が置かれている軍務庁舎は、王
都の東地区にあり、ユイたちがいる南地区からは、かなりの距離を
歩かなければならない。ユイはそんなに長い距離を歩きたくないと、
やる気無さ気なオーラを全身に放っていたが、隣を歩くカインスは
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初めての王都にいささか興奮気味であった。
見渡す限りが新鮮な驚きであふれ、カインスは大通りの端を歩き
ながらも、常にキョロキョロと王都の街並みを見回しながら歩く。
そして時に商店の前で止まったり、店の中を覗き込もうとしたりと、
まさにお上りさんといった具合で、何度もユイに置いていかれそう
になった。
そんなカインスをはぐれさせないように注意しながら、東地区に
向けて歩みを進めていくと、周囲の建物より二回り以上大きな建物
がだんだんと近づいてきて、それは見るからに厳かな威風を放って
いた。
﹁隊長、これはすごい建物ですね﹂
﹁ああ、カーリンの市庁舎もかなりのものだったけど、ここは陸軍
省と魔法省、そして戦略省を加えた、軍務三省の本部が入っている
からな﹂
カインスは軍務庁舎の前にたどり着くと、その建物の大きさに圧
倒されていた。生まれてから一度もカーリン市を離れたことがない
カインスにとって、この半分くらいの大きさであるカーリン市庁舎
が、今まで見たことのある最も大きな建物であったためである。
それだけの規模を誇る軍務庁舎は、王都における軍業務の中心的
建物であった。庁舎の中には一階は陸軍省、二階は魔法省、三階が
戦略省と各省の本部が入っている。そして4階に各省の上役と軍務
大臣の執務室が用意され、全ての重要軍務はここで最終決定がなさ
れた後に、それを王家に上奏するという形が取られていた。
﹁さて、中に入ろうか。まず戦略省の本部に行って、到着の報告と
辞令を受ける必要があるからな﹂
そう言って、呆けた状態のカインスを促し庁舎内に入ると、その
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まま3階にある戦略省本部の受付へと向かった。
﹁すいません、カーリン市の戦略部に所属しておりましたユイ・イ
スターツですが、こちらへの転勤辞令を受けたのですが﹂
ユイは戦略省本部の受付に着くと、手前に座る眼鏡をかけた若い
女性に声をかけた。
﹁ええ、ユイ・イスターツさんですね。少しお待ちください﹂
そう言って、眼鏡の女性が手元の命令書を順番に確認し始める。
三分ほど待たされた後に、女性は一通の命令書の目を通すと、慌
てて席から立ち上がり、敬礼して答えた。
﹁失礼いたしました。ユイ・イスターツ四位ですね。お待ちいたし
ておりました﹂
ユイはその反応の変化に、一瞬事態が飲み込めなかった。そして
女性の言葉が、ゆっくり脳の中に入ってくると、その内容に疑問を
覚え、首を傾げた。
﹁四位? 私は五位、もしくは六位だと思うのですが⋮⋮﹂
﹁いえ、昨日付けで四位への昇格命令が出ております。今後の任務
に関しましては、戦略局局長が直接お伝えすることとなっておりま
すので、四階の局長室に向かって頂けますでしょうか﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
突然の事に、ユイ自身の希望的観測も含めて、これは何かの間違
いではないかと無理やり考えようとした。しかし現状のユイにとっ
て判断するための情報が少なすぎ、ユイにとって満足の行く仮説を
生み出すことはできなかった。
ただ今回の転勤命令の書類が戦略省からではなく、なぜか王女自
身の名義で出されていたことが不意に頭をよぎった瞬間、ユイは突
如悪い予感に襲わた。
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ほんの数秒ほどのことであったが、その場で思考の海に溺れてい
たユイは、ふと気がつくと、目の前の受付係の女性が、不安げな目
で自分を見ていることに気づき、慌てて礼を言うと、そのまま四階
への階段に向かった。
﹁隊長、どういうことでしょうか?﹂
﹁さぁ、私が聞きたいよ﹂
カインスもユイの反応を見て、一緒に首を傾げる。ユイも答えが
わからない事に、幾ばくかの不安を感じ、四階に着くと、急にゆっ
くりとした足取りで、そのまま局長室に向かった。
﹁しかし戦略局というと、隊長が以前に所属されていた部署ですよ
ね。また元の部署に戻るということなんでしょうか?﹂
﹁それはないと思うけどね。私の前の上司であった当時の局長は、
私の異動と同時期に局長を解任されたし、後任のワイセルド局長は、
規律に厳しい方で有名で、多分私のことを嫌いそうだけどね﹂
ワイセルドのような真面目型の軍官僚に、露骨に嫌われていた昔
のことを思い出し、ユイはなんとも言えない表情を浮かべ、そう答
えた。
﹁ここだよ、カインス﹂
そう言って局長室の扉の前で立ち止まると、ユイは目をつぶって
一度だけ強く息を吐いた。そして部屋の扉を控えめにノックする。
﹁はい、どなたですか﹂
中から、どこかで聞いたことのある、落ち着いた声が扉越しに返
り、ユイは慌てて返答した。
﹁本日、赴任しましたユイ・イスターツとカインス・ウォールです﹂
﹁ああ、ユイ君たちですか。お入りなさい﹂
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その言葉に一層の既視感を覚え、一瞬だけ戸惑ったが、覚悟を決
めて扉を開けた。
﹁やあ、ユイ君。お久しぶりだね﹂
﹁アーマッド先生!﹂
ユイは目の前に立つ四十代半ばと言った感じの白髪混じりの男性
を見て、とっさにかつての記憶が呼び起こされると、士官学校時代
と同じ呼び方をしてしまった。
﹁その様子だと、私が軍本部に戻ってきていることを知らなかった
ようだね。実は一昨年から軍本部に呼び戻されてね﹂
﹁そうだったのですか。失礼しました、アーマッド局長﹂
﹁局長はやめてくれ。士官学校に八年もいると、すっかり教師業に
馴染んでしまってね。二年たっても未だにこの役職に違和感がある
んだよ。だから昔のままにしてもらえないかな﹂
そう言って、アーマッドはユイたちに笑いかけると、来客用の椅
子に座るよう勧め、自分もその向かい側に腰掛けた。
﹁しかし先生が軍本部に戻られていたとは、全く知りませんでした。
しかも戦略局の局長ということは、三位に昇格されたのですよね。
遅ればせながらおめでとうございます﹂
﹁ありがとう。昇進はどちらでもいいのだけど、局長職はちょっと
ね。私は本当のところ教師を続けたかったんだよ。戦略局の局長な
んて言っても、やっていることはただの諜報員という名のネズミの
元締めだからね。そのうえ、この仕事はあまり表にできない内容も
多いから、私に会いに来るやつはろくな奴が居ないよ。今の私の部
下も含めてね﹂
アーマッドは深く椅子に腰掛けると、深くため息を付いた。
﹁先生、少し痩せられましたか?﹂
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ユイはアーマッドの白髪が増えていること、そして以前より少し
痩せていることに気がついた。戦略局の仕事は軍事に関わる各省間
の調整に始まり、そして王国に属する国内外の諜報員の情報を取捨
選択することが主であった。
アーマッドは、軍官僚としては十分以上に高い能力を有し、それ
だけでなく官僚としては珍しい柔軟性も併せ持った男であった。し
かし、汚れ仕事を多分に含むような戦略局の仕事は、彼の性格には
やや不向きな分野であり、そのための心労によることは、すぐに見
て取ることができた。
﹁ああ、少しだけね。まぁ、この仕事はいろいろあるからね。それ
に比べれば、教師は良いよ。士官候補生たちは純真な奴も多かった
し、たまにはユイ君たちの世代の連中みたいに、面白い生徒に会え
ることもあるしね﹂
﹁隊長の世代といいますと、例えば近衛をされていましたリュート
六位なんかもそうなんですか?﹂
﹁カインス君だったかな、その通りだよ。リュート君、アレックス
君、そしてユイ君。彼らの世代は黄金の八十八期と呼ばれていてね、
他の世代と比べても格段優秀だったよ。もっとも格段問題も起こし
てくれたから、私たち教師は悪夢の八十八期と呼んでいたけどね﹂
そう言って、アーマッドは昔を懐かしむかのように、そっと目を
つぶる。
﹁隊長にもそんな青春時代があったんですね。今じゃこんなのです
けど﹂
カインスは初めて聞くユイの学生時代の話に、興味深そうにユイ
の方を見てそう言った。
﹁こんなのってなんだ。こんなのって﹂
﹁カインス君の期待に反するようで申し訳ないのだけど、ユイ君は
学生時代からこんなのだったよ﹂
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アーマッドはカインスに話しかけながら、ユイを指さすと、ユイ
は諦めたかのように頭を2度掻いた。
﹁ま、まあ私のことはいいじゃないですか。それよりそんなに士官
学校の教師が好きだったのに、なぜ戦略省に呼び戻されたんですか
?﹂
﹁ふむ、それなんだけどユイ君。私が今の職にあるのは君にも原因
があるのだよ﹂
﹁えっ、私がですか?﹂
ユイは、全く心当たりが思いつかず、そのまま聞き返してしまっ
た。
﹁そうだ、君のせいだよ。私の前任のワイセルドだが、彼がシャレ
ム派に属していたことは知っていたかい?﹂
﹁いえ、私がここにいた時に調べたシャレム派の人物としては含ま
れていませんでした。と言っても、ワイセルド前局長と言えば、以
前は確か南部のウシャーナ市の軍務長を努めておられましたよね。
そういうことですか﹂
﹁そのとおりだ。君も知っての通り、ウシャーナ市はシャレム伯爵
領の中心都市だからね。あそこは従来はシャレム派たちの巣窟だっ
たから、彼がシャレム派なのは自然なことだよね﹂
ユイはウシャーナ関係の軍人の顔を頭の中でリストアップすると、
ことごとくがシャレム派であることを再確認して一つ頷いた。それ
を見て取ったアーマッドは、再び口を開いた。
﹁君たちがシャレム派を解体した後の混乱期に、彼らの派閥の中で
はコネとその能力で中央に戻ることができた数少ない一人だったん
だが、その後はすっかり影響力を失ってね。そして再び地方へ追い
出されていったよ。最も彼だけじゃなく、旧シャレム派が持ってい
たポストは完全に軍務大臣のメプラーたちの草刈り場とされたがね﹂
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﹁そうだったんですか。しかしアーマッド先生は別にメプラー大臣
たちと懇意にしている印象はありませんでしたが?﹂
﹁ああ、私に対する人事は四大公爵への根回しの一つだよ。ライン
公の親戚という肩書きが、彼らにとっては大事だったんだ。私の能
力なんかよりもね﹂
アーマッドは思わず苦笑いを一つ浮かべると、ユイは首を左右に
振った。
﹁能力的な話をすると先生以上にふさわしい人間はいませんよ。こ
れはお世辞抜きで言っています。ともかく事情はわかりました。し
かし私の上司がアーマッド先生で良かった。これで私やカインスも
何とかやっていける気がします﹂
ユイは右手にいるカインスを見ると、カインスもアーマッドの人
柄を気に入ったのか強く頷いた。自分を慕ってくれる二人を見てア
ーマッドは、少し嬉しくもどこか申し訳なさそうな表情を浮かべた。
﹁ああ、その件なのだが、私としては君たちを戦略局に引っ張るつ
もりだったんだ。ただ予定外の事が起こってね﹂
﹁予定外ですか。そういえば、先ほど受付で四位へ昇進していると
言われましたが、私は5位のはずです。それも関係あるのでしょう
か?﹂
ユイは戦略省の受付で抱いた疑問を、そのままアーマッドにぶつ
けた。
﹁そのとおりだ。正直に言うと、私にも君の役職がまだわからない
んだ。なんせ君の人事は王家の預かりでね。昇進も王家から直接軍
部への働きかけによるものだよ。まあ、理由はわからないでもない
がね﹂
﹁と言いますと?﹂
﹁エリーゼ第一王女を反逆者の卑劣な罠から救った英雄ユイ・イス
101
ターツ。つまりはそれが理由だよ﹂
アーマッドの言った言葉を脳内で咀嚼すると、ユイは頭に急に頭
痛が走ったような感覚を味わい、両手で頭を抱えると、そのまま硬
直したように固まる。
そうして幾ばくかの時間を費やし、ようやく自分の中で多少の整
理をつけると、困った表情を浮かべてアーマッドに向き直った。
﹁英雄なんて、誰か他人との間違いじゃないですか。私はただ王女
の失敗の尻拭いをしただけですよ﹂
﹁周りには私たちしかいないとはいえ、本当に相変わらずだな、君
は。学生の頃から全く変わってない。英雄なんて呼ばれるようにな
ったから、少しは大人になったかと思ったんだが、まぁ、それが君
の良い所ではあるか﹂
﹁そうそう人間は変わりませんよ﹂
そう言って、ユイは両手を左右に広げると二度首を振った。
それを見たアーマッドは思わず彼に呟いた。
﹁ただね、ユイ君。私が思うに⋮⋮きっと世界は君がそのままでい
ることを許してくれないと思うよ﹂
102
ライン公
ユイたちがアーマッドの部屋を訪れてから、しばらく時間が経ち、
三人が話し込んでいるところへ、不意に部屋の扉がノックされた。
﹁失礼します。アーマッド局長、お客様が来られているのですが﹂
扉の外から、女性の職員の声が届いた。アーマッドは、案内され
た客とは、誰なのだろうかと疑問に思い、扉に向けて返事をした。
﹁お客さんかい。一体誰だい?﹂
﹁それが⋮⋮﹂
女性職員が返事をしようとすると、﹁いいから﹂というやや低め
の男性の声が聞こえ、扉が急に開けられた。そして立派な身なりを
し、口髭を生やした初老の男が、開けられた扉からスッと姿を表す。
﹁ワシだよ。元気にやっとったかね、ユイ﹂
﹁ライン公!﹂
ユイたちは、突然姿を表したライン公に驚き、思わず立ち上がっ
た。ライン公は笑いながら、右の手のひらを二度上下に振ると、ユ
イたちに楽にしろと、そのまま着席を勧めた。
﹁しかし本当に久しぶりだな。実はお前たちがわしの家に来る前に、
軍務庁舎に立ち寄ると聞いてな。ちょうど王城に行った帰りであっ
たから、ついでにお前たちを拾いに来てやったぞ﹂
﹁ライン公、過分なお気遣い、ありがとうございます﹂
﹁ライン公はやめろ。いつもジェナードと呼べと、言っておるだろ
うが﹂
103
ユイがエインスの家庭教師を始めていつの頃からか、このジェナ
ードに気に入られると、彼は自分を名前で呼べと言う様になった。
ジェナードがそう言ったのは、ユイの人柄と才能を気に入ったこと
も理由の一つであるが、ユイの両親がすでに他界していることを聞
きつけことが、最大の理由であった。
彼はユイの家族が既に誰も存在しないことを悲しむと、自然と彼
の後見人を自認するようになったのである。そして次第にジェナー
ドは、士官学校が休みの日には、ユイをエインスと共に、仕事に遊
びにと、連れ回すようになっていった。
そんな過去を思い出すと、ユイは不意に目頭が熱くなったが、必
死にその感傷を飲み込むと、意識してジェナードに向けて、苦笑い
を一つ浮かべた。
﹁相変わらずご壮健のようで、何よりです﹂
﹁いやいや、家ではすっかりエインスと家内には、年寄り扱いだよ﹂
﹁ルネさんもお元気ですか?﹂
ユイはジェナードの妻であり、物腰が柔らかく、清楚で美しい女
性を思い出し、尋ねてみた。
﹁ああ、あいつは今だに若々しくてな。今も変わらず美人じゃぞ。
言っておくが、お前たちがうちに泊まるのは構わんが、わしの嫁に
は手を出すなよ。ははは﹂
﹁いや、ルネさんが美人なことに、異論はありませんがね。ただ何
かの間違いで、エインスの義父になるのは勘弁ですね﹂
﹁はっはっは、お前は相変わらずだな。ん、そこに居るのはアーマ
ッドではないか。お前もおったのか?﹂
ジェナードは、その時までユイにしか気が行っていなかったのか、
ユイの向かいに座るアーマッドを認識すると、思わず声を上げた。
104
﹁ジェナードおじさん、ここは私の執務室ですから。普通に考えて、
私がいるのは当然でしょう⋮⋮﹂
﹁ふん。まあ、お前のことはどうでも良いわ。それよりそっちのお
っきいのが、お前からの手紙に書いてあったカインス君かな﹂
アーマッドは、ジェナードがユイをかわいがっているのを知って
いたが、あまりにも自分に対する粗雑な対応に、思わずため息を付
いて両肩を下ろす。しかし当のジェナードは、あっさりとアーマッ
ドから興味を失うと、ユイの隣に腰掛けるカインスに視線を移した。
﹁カインス君、先日はうちのエインスがお世話になったようで、本
当に感謝している。ありがとう﹂
そう言ってジェナードは、カインスに向けて頭を下げた。
﹁い、いえ、私なんかはそんな大したことはしていません。どうか、
どうか頭を上げてください﹂
ライン公はこの国の四大大公の一人であり、まさに国の重鎮であ
る。カインスはそのような身分のライン公が、自分のような階級の
低いものに頭を下げるという事実に、思わず動揺してしまい、急に
オロオロし始めた。ユイはその光景を見て、この貴族らしからぬ大
貴族であるジェナードが、昔と全く変わっていないことを再確認す
ると、思わず笑みをこぼした。
﹁さて積もる話はあるがの、とりあえずは後で聞くとして、まずは
わしの家に帰ろうか。アーマッド、もう二人を借りて行っていいん
じゃろ?﹂
﹁ええ、結構ですよ。ユイ君、また君の予定や辞令が決まり次第、
おじさんの家の方に連絡をするから。とりあえず、しばらくはのん
びりしなさい﹂
アーマッドがそう言うと、ジェナードは二人を促し、ユイとカイ
ンスはアーマッドに礼を言った上で、局長室を後にする。
105
﹁しかしわざわざお迎え頂いて、本当にすいません﹂
﹁ふふふ、お前の面倒くさがりは知っている。放っておけば、ダラ
ダラとアーマッドの所に居座りかねんからな。それで拉致しに来た
んじゃよ﹂
そう言って、笑いながら庁舎内の廊下を連れ立って歩き、そのま
ま軍務庁舎を出る。
﹁さあこいつじゃ。周りも暗くなってきたし、ここから15分ほど
じゃからな、さっさと向かおうか﹂
ジェナードに急かされた二人は、そのまま馬車に乗り込むと、彼
の向かいの席に座らされた。そしてジェナードは御者に指示を出す
と、馬車は軍務庁舎を出発した。
三人が出発する前後から、街並みは次第に薄暗くなり、エルトブ
ールの街に、夜の帳が下り始める。街路の脇では、魔石を利用して
明かりを灯す魔石灯に、ぼんやりとした光が灯り始めた。ユイたち
を乗せた馬車は、わずかに残る空の光とその魔石灯の明かりを頼り
に、ゆるやかにジェナードの邸宅へ向けて進んでいった。
そのまま街の中心部に向けて、四ブロックほどの宿場と商店が立
ち並ぶ商業区画を通り過ぎると、周囲は貴族の邸宅街となり、やや
落ち着いた立派な建物が増え始めた。そして中でも一際大きな邸宅
が見え始め、まさにそれがジェナードの邸宅であった。
建物の大きさももちろんであるが、その庭を含めた面積はなんと
カーリン市庁舎と半分程度の規模があり、そのお屋敷が見え始める
と、カインスは馬車のガラスに張り付くようにして、興奮し始めた。
ジェナードはカインスのその反応に喜び、嬉々として自らの邸宅内
の作りを彼に説明した。
ジェナードが一通り建物の構造を話し終えた頃に、ちょうど馬車
106
は入り口に到着し、御者が馬車のドアを開け、三人は馬車から降り
た。すると馬車を待ちわびていたかのように、屋敷の入り口の重厚
な扉が内側から開き、老齢の執事を従えた、四十代前後の美しい貴
婦人が、微笑みと共に姿を表した。
﹁みなさん、お待ちしていましたわ﹂
﹁ルネさん、お久しぶりです。しばらくですがお世話になります。
それとこちらが私の連れのカインスと言います﹂
﹁はじめまして。カインスと申します﹂
ユイは隣のカインスを紹介すると、カインスはルネに向かって深
々と一礼した。
﹁ユイさん、それとカインスさんですね。ふふ、お待ちしてました
よ。実は、まだ夕食を食べていらっしゃらないのじゃないかと思っ
て、食事の用意をしておいたのだけど、いかがですか?﹂
﹁ありがとうございます。でも、よろしいんですか?﹂
﹁ふふ、昔はいつも家で食べていたじゃない。どうせしばらくうち
に泊まるのでしょ? 遠慮はいりませんよ﹂
﹁そうですか、では遠慮無く頂きます﹂
ユイの返事を聞いて、ルネは笑顔を浮かべ、隣に待機していた執
事に向かって一つ頷く。すると執事が、入り口の扉を開け、皆を屋
敷へと勧めた。そうしてユイは三年ぶりの懐かしいジェナード宅へ
と足を踏み入れた。
107
南部の噂
﹁さて、ユイ。少しお前に話しておきたいことがあるんだが﹂
﹁何でしょうか?﹂
談笑しながらの食事が終わり、コーヒーを飲んでいると、急にジ
ェナードが真面目な顔となり、ユイに向き直った。
﹁今日、王宮に行った際のことだが、王都南部に不穏な動きがある
という噂があってな。といっても今のところは、証拠もなにもなく、
何ら根拠のないものじゃがな﹂
﹁南部ですか⋮⋮﹂
クラリス王国の首都エルトブートは、ちょうど王国中央の平地に
あり、その南部には若干の王家直轄地があるものの、ほとんどは貴
族の所領となっていた。その中でも最大のものは、四大大公の一人
であるメニエル公爵領と、かつて軍部の重鎮であったシャレム伯爵
領の二つである。これらの領地だけで、南部地域の五割の面積が占
められていた。
メニエル公爵は清廉潔白な紳士として有名であり、ユイは彼の領
地には何も不安を覚えることはなかった。しかしもう一方のシャレ
ム伯爵領に関しては、本人の人柄を知るだけに、噂でありながらも
一抹の不安を掻き立てられた。
そして何よりの不安は、シャレム伯爵領の更に南にある大国、ケ
ルム帝国の存在であった。
﹁ああ、聞けば先日のカーリンでの一件も、帝国が絡んでいたそう
じゃのう。奴らは続々と軍備増強を進めていると聞くが、一体何が
108
目的なのか⋮⋮﹂
﹁先日の件に関しては、おそらくクロセオン山脈で取れた魔石のか
らみですよ。というのもケルムからは、魔石があまり出土しません
ので、帝国はかなりの部分を、輸入に頼らなければなりませんから。
実際にカーリンにいたタリム伯爵は、カーリンから出土した魔石を、
第3国を経由した上で、帝国に流していたようです。そのルートを
守るために、帝国からの監視も兼ねて、魔法士を数名送っていたよ
うですね﹂
﹁なるほどな。クロセオンを含め、多数の魔石産地があるクラリス
王国は、帝国にとっては宝の山ということか﹂
そう言って、ジェナードはゆっくりとコーヒーを口に含む。その
時、食堂の入口のドアが開けられ、金髪の青年が姿を表した。
﹁ユイ先輩、来られていたのですね!﹂
﹁おかえり。元気そうだな、エインス﹂
エインスを外から見て取れる範囲では、誘拐事件の際の火傷や擦
り傷の負傷が、完全に完治しているように見え、ユイは笑みを浮か
べた。
﹁傷の具合はすっかり良くなられたのですね﹂
カインスも先日の事件の影響が無いことを、その外見から見て取
ったが、確認の意味も含めて、エインスに尋ねた。
﹁カインスさん、お久しぶりです。ええ、もうすっかり良くなりま
したよ﹂
そう言って、右腕で力こぶを作ると、左手で叩いて見せた。
﹁それは良かったです。あの時はエインス様が一番活躍されていま
したから﹂
カインスがそう言うと、エインスは恥ずかしそうに照れ笑いをす
る。すると興味深そうにしたジェナードが、今の話をさらに尋ねた。
109
﹁ほう、本人が言っておっただけなので、誇張しているのではない
かと思っておったが⋮⋮本当に、この息子がかね?﹂
﹁ええ、うちの隊長よりは、はるかに頑張られていましたよ﹂
カインスはちらっとユイの方を見ると、いつもの様に豪快に笑っ
た。
﹁おいおい、私も頑張っただろう?﹂
﹁いや、隊長は最後に美味しいところを持っていっただけじゃない
ですか。それは働いたとは言いませんよ﹂
カインスが笑いながらそう答えると、ユイは天井を仰いだ後に、
ふてくされたようにテーブルに頬杖をつく。
その姿を見て、エインスはニヤニヤしながらユイをからかった。
﹁そう、美味しいところで少しだけ働いただけなのに、今じゃ王都
では英雄様ですよ、先輩は。今や毎日のように噂になっていますし、
このところ街の酒場で、先輩の名前が出ない日はないですね﹂
﹁そうか、もう市中にも誘拐事件の話は伝わっているのか。しかし
このユイが英雄か。お前がカーリンに左遷された後、一時はどうな
ることかと思ったが、本当に良かった﹂
ユイが評価されていることに、ジェナードは顔をほころばせた。
しかし、急に何かに気づいたかのように、彼は表情を引き締めると、
エインスを睨みつけた。
﹁⋮⋮ところでエインス。なぜ、お前はそんなに街の酒場の話に詳
しいのだ?﹂
ジェナードは、以前からエインスの女性関係の軽さを、次期当主
として問題視していた。そして普段から女遊びの為に、夜な夜な酒
場へ遊びに行っていることを薄々感づいており、エインスの発言を
聞き咎めた。
110
﹁そ、それは、その、えっと、あの﹂
﹁そういえば、今日もお前は酒臭いな。それとほのかに香水の香り
がするが? ⋮⋮まあ、ユイたちが来ているから、今日はこれ以上
のことは言わんが、程々に自重しろ﹂
ジェナードの発言に、すっかり小さくなってしまったエインスを
観て、ユイは後輩のために話題を変えてやることにした。
﹁ところで、エインス。お前は今どの部署にいるんだ?﹂
﹁えっと、僕はこちらに戻ってからは、財務省に出向しているんで
す。と言っても、主に戦略省のアドバイザーとして、軍事予算の策
定のためですけどね﹂
﹁そうか、財務省か。ふむ、なら一つ聞きたいんだが、最近の市場
の物の価格に、大きな変動はないかい?﹂
﹁物価ですか。えっと、僕は軍事関係のことしか関わっていません
ので、その範囲内で取り扱うものになりますが、それで構いません
か?﹂
﹁ああ、分かる範囲で結構だよ﹂
﹁それでしたら、最近の単期の予算編成で問題になったのは、演習
及び備蓄用の兵糧の価格が上がっていたことですね。ただでさえ軍
の予算は減らされているのに、これ以上価格が上がってはまずいの
ですよ﹂
エインスは現状の値段のままでは、予算を組むことが困難である
ことと、収穫期前とはいえ、市場での穀物類の流通量の減少を思い
出すと、大きくため息を付いた。
﹁ふむ、それはいつ頃からかわかるかい?﹂
﹁えっと、先月の演習の際に初めて問題になりましたので、多分先
々月からの上昇ですね。確か穀物類を中心に価格が上がって、だい
111
たい昨年と比較すると三割前後の上がり幅です。それ以外だと金属
類が若干値上がりしていました﹂
エインスは記憶を辿り、おぼろげではあるが、今季の軍事予算の
内容を思い出しながらそう話した。
﹁そうか。だとしたら済まないが、一つ調べてもらいたいことがあ
る。市場で取引されている穀物が、おそらくいろんな国を経由する
と思うが、最終的にはどこの国に向かっているのかをね。おそらく
国外の調査が主体になるから、もし可能ならばだが、アーマッド先
生にも話を通しておいてくれるとありがたい﹂
﹁最終的にですか? つまりどこかの国が買い占めているとお考え
ですか?﹂
﹁そうだね、収穫期を前にした穀物の値上がりは異常だよ。あと数
ヶ月したら収穫期を迎えて、一般的には穀物価格は下がるんだから、
普通の商人なら、この時期に穀物を買い集めて、価格を吊り上げる
ことはしないだろう。つまり必要以上に穀物を集めなければならな
い国がある。そしてそれはおそらく⋮⋮﹂
ユイがそこで言いよどむと、ジェナードは先ほどユイと話してい
た南部の噂を思い出し、パズルのピースが揃いつつある印象を受け
た。
﹁ユイ。お前はケルム帝国が怪しいと考えておるのか?﹂
﹁先程の噂が気になりましてね。でも、もし本格的に兵糧を集めて
いるのだとしたら⋮⋮いや、これは今の段階では情報が足りないか。
アーマッド先生なら、近いうちに何か情報を得るかもしれないし、
先走りは止めておこう﹂
そうしてユイは手元のカップに残ったコーヒーを一気に飲むと、
深い溜息をついて、頭を二度掻いた。
その姿を見たジェナードは、ユイに提案した。
112
﹁まぁ、今すぐどうこうなる話ではないだろうしな。結論を急ぐ必
要はないじゃろて。さて、ユイ。お前も長旅から到着したばかりな
のだから、今日はもう部屋で休んだらどうじゃ?﹂
﹁ああ、ありがとうございます。では、私たちはお先に休ませても
らいます﹂
そう言ってユイとカインスは、それぞれ用意された部屋に向かう。
ユイは部屋に入り、そしてその場で目をつぶると、今日一日の出
来事が走馬灯の様に思い起こされた。
四位への昇進、アーマッドやジェナードとの再開、南部の噂と物
価高、そして帝国の影。
﹁結局、なるようにしかならないか﹂
現在、役職にさえついていない宙ぶらりんな自分が、これ以上心
配しても仕方がないと思い、ユイはそう呟くと、そのままベッドに
転がり込んだ。
113
謁見
ユイたちがジェナードの邸宅に到着して三日目の午後、ユイは邸
宅の庭で、優雅にコーヒーを飲みながら、読書にふけっていた。
﹁すべて世はこともなしだね﹂
ユイはそう言って、伸びを一つする。ライン公爵邸は庭の面積だ
けでも、通常の貴族の邸宅が入るほどの面積があり、ユイはその庭
の大きな木陰で、夏のゆるやかな午後を過ごしていた。しかしそん
な怠惰な日常は、突然の訪問者によって消し去ることとなった。
﹁大変です、先輩!﹂
家の中を探しまわった後なのか、庭の木陰に椅子とテーブルを持
込んで、すっかりくつろいでいるユイを見つけると、エインスは慌
てて駆けつけてきた。
﹁どうしたんだい、エインス? そんなに慌てるほど大変なことな
んて、こんな天気の良い素敵な日には存在しないよ。落ち着きなさ
い﹂
﹁そんなことを言ってる場合じゃないんです! 先輩、これを読ん
でください﹂
﹁これかい? まぁ、いいけどね﹂
ユイはエインスから、一通の手紙を受け取ると、その文面に目を
落とした。するとユイは次第に顔の色を変え始め、途端に落ち着き
を失う。
﹁エインス、これは何かの冗談かい? どうも、オラド国王が私に
会いたいと書いてあるようだが⋮⋮﹂
﹁いや、冗談じゃなく、オラド国王がお呼びなんです、先輩を﹂
﹁嘘だろ。私は貴族でさえ無いんだぞ。新年行事で国王の演説を聞
114
く以外に、お声を聞いたことさえないのに﹂
﹁先輩はいつも無理やり仕事の口実を作って、全軍参加の国王演説
をサボっていたじゃないですか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮その通りだが﹂
ユイは思わず下を向くと、頭を振った。
﹁ともかく、アーマッドおじさんからの伝言です。﹃すぐに明日の
謁見の為に、四位用の官服を、エインスに見繕ってもらって、王宮
のマナーを叩きこんでもらえ﹄ということだそうです。四位ともな
ると、本当は先輩の体型に合わせて、一から仕立てるべきなんでし
ょうが、さすがに明日には間に合いませんので、この際は、既成品
で我慢しましょう。とにかく、既に外に馬車を待たせていますので、
このまま向かいますよ﹂
﹁なんで私がこんな目に。国王陛下にお会いするなんて、そんなの
は偉い人のすることで、左遷された私の仕事じゃないのに﹂
﹁先輩はもう左遷から帰ってきたんだから、いいかげん諦めてくだ
さい。さあ、もう明日まであまり時間は無いんですから急ぎますよ。
ちなみに服を購入して、帰って来てからは、王城でのマナーの稽古
ですから、今日は寝れると思わないでください﹂
そのままユイを置いて、その場から駆け出すエインスを見ると、
ユイは思わず天を仰いだ
翌日、着慣れない軍用の礼服に身を包み、ユイは王城の謁見室の
扉の前に立っていた。
まず謁見室の内側から名前が呼ばれると、返事をして、その場で
待機し、扉が開くと、右足から踏み出して、部屋の中央まで歩み、
片膝をついて頭を下げ、お声が掛かるのを待つ。
昨日からこの一連の動作を、何度も反復して練習させられた。そ
115
の他のマナーも含め、エインスの訓練は、一切の妥協を許さないも
ので、彼が職務には妥協しないジェナードの息子であるという事実
を、身を持って思い知る事となった。
﹁ユイ・イスターツ四位﹂
﹁はい﹂
ユイは昨夜の訓練を思い出し、その場で待機する。すると目の前
の扉が開かれ、国王の元へと向かう赤絨毯が目に飛び込んできた。
そして、その絨毯の向こうに、オラド国王とその側に控えたエリー
ゼ王女の姿が見え、その周囲を数名の衛兵が固めていた。
ユイは、そっと目を伏せると、絨毯を音を立てないように歩き、
儀礼にそって片膝を立て、国王の呼びかけを待った。
﹁ユイ・イスターツ、面をあげよ﹂
ユイはその呼びかけに、顔を上げた。そこにはまだ覇気が漂う壮
年の男が、ユイを見つめていた。
﹁その方がユイ・イスターツ四位かな。ふむ、軍部の噂と違い、真
面目そうに見えるがな﹂
どんな噂かは分からないが、あまりよい噂ではないだろうとユイ
は思うと、心のなかで苦笑を浮かべた。
﹁まあ噂などどうでもよいわ。我が娘を救ってくれたこと、このオ
ラド、心より感謝する﹂
﹁もったいないお言葉です﹂
ユイは再度頭を下げると、オラドの言葉に初めて口を開いた。
﹁ふふ、謙遜せずとも良い。さて、イスターツ。お前の仕事だが、
しばらくうちのエリーゼの子守をしてもらおうかと思ってな﹂
﹁子守ですか?﹂
オラドの発言を聞いた瞬間、ユイは下げている頭へ、まっすぐに
116
ハンマーを落とされたかのような衝撃を受け、思わず顔を上げると、
そのまま聞き返してしまった。
﹁ああ、このエリーゼもいい年だが、いささか落ち着きに欠けてお
る。そのお目付け役として、お前に一部隊を預けようと思ってな﹂
﹁落ち着きがないは、ひどくありませんか、お父様?﹂
﹁馬鹿者! 落ち着きがある娘が、我が国の地方領に押しかけて、
誘拐などされるものか。今後は自分の立場と、周りのことを考えて、
もう少し自重せよ!﹂
エリーゼはオラドの雷にも気にする様子はなく、そのままそっぽ
を向いてしまった。オラドはエリーゼの反応を見て、ため息を一つ
着くと、ユイの方に向き直り、口を開いた。
﹁イスターツ、この子は未だに、このように大人になりきれていな
い。先日も我が娘を救ってもらった上で、再度このような頼みをす
るのも申し訳ないのだが、この子のお目付け役となってはくれない
だろうか?﹂
その問に対して、瞬間的にユイは全力で拒否する返答を取りたか
った。しかし、国王直々の依頼を拒否することの意味と、あの無軌
道王女を野放しにする危険性が何度も頭をめぐる。そうしてしばし
の葛藤の後に、ユイは諦めたかのように返事をした。
﹁御下命は承りました。しかし現状では近衛部隊が、王女様の身辺
警護等をなされていると思うのですが、その辺りは彼らにお任せす
ればよろしいのでしょうか?﹂
﹁いや、この子の護衛も含めて、君に一任する。だからこの際、エ
リーゼの為に全く新しい部隊を作ろうと考えている。名前はそうだ
な、親衛隊とでもしようか﹂
﹁親衛隊ですか?﹂
117
親衛隊という名前の新設部隊を作る。しかも近衛とは独立した組
織をというオラドの発言に、ユイは驚愕し、またしても聞き返して
しまった。何故ならば、近年では軍の組織形態は硬直しており、時
勢にともなって、魔法省の勢力拡大のため、近衛部隊等の陸軍省の
管轄が、魔法省へ移された例はあるが、それ以外はクラリス王国に
おいて、この百年の間に新規の軍部組織が創りだされた例は、一度
足りとも存在しなかったためである。
﹁ああ、親衛隊だ。君にはその隊長となってもらうこととして、隊
長職は四位以上のものを当てることと規定しよう。それ以外の人員
や予算については、軍と王家で詰める必要はあるが、あの子と相談
して、君のやりやすいように決めてくれたらいい﹂
その上、予算の折衝から人員の確保まで、要望を出すことを許さ
れると、最初にユイはその事態の重さに驚き、次に他の部署からど
のような目で見られるかを考えると、激しい頭痛が彼の脳を襲った。
﹁それではエリーゼの護衛を含め、いろいろ力になってくれること
を期待している﹂
ユイの葛藤など知らぬかのように、オラド王はそう言って微笑み
ながら、エリーゼとユイだけをその場に残し、衛兵を引き連れて、
謁見の間から退出していった。
その場に残されたユイは、片膝をついた姿勢のまま、しばらく動
くことができず固まったままであった。エリーゼは、邪魔者は消え
たとばかりに、満面の笑みを浮かべると、ユイのもとに近づいてく
る。
﹁ふふふ、驚いたかしら?﹂
﹁驚くというより、腰が抜けました。なぜわざわざ新設の部隊なん
かを? もし何か動かれるにしても、近衛を有効に使われればよか
ったじゃないですか﹂
118
ユイはこのような事態になったからには、すでに手遅れだとは理
解しながらも、一応近衛に仕事を押し付けようと試みた。
﹁それじゃダメなのよ。近衛で私の護衛だと、所詮部隊長クラスの
やつしか来ないから。それだと権限もないし、この間の貴方のよう
に柔軟に状況に対応することなんて、彼らにはできないわ。私に仕
えるのが、そんなただの護衛だとしたら、私のやりたい事ができな
いでしょ﹂
﹁つまりは私設部隊に近いものが欲しかったと、そういうことです
か? しかし陛下の御意向あってのこととは思いますが、今回の件
は近衛あたりがかなり抵抗されたでしょうに﹂
﹁まあ多少はね。でも、先日の警備失敗の件もあって、警備力強化
を盾にすると、彼らもあまり強く抵抗できなかったようね。最もそ
れは全てお父様の許可あってのものだけどね﹂
そう言うと、エリーゼはユイに向かってニコッと微笑む。ユイは
嫌そうな顔を隠しもせず、国王の許可について尋ねた。
﹁よくもまあ、オラド国王はこんな無茶な許可を出されましたね﹂
﹁それだけ先日の事件を重く見たんでしょうね。それで条件付きで
はありますけど、私の直属の部隊を組織することを、先日許可を頂
きましたの﹂
﹁条件付きですか?﹂
ユイは国王が出した条件とは、どんなものかと思ってエリーゼに
尋ねると、彼女はやや残念がった表情を浮かべた。
﹁それはね、私が直接部隊を指揮しないこと﹂
﹁それはまた⋮⋮﹂
﹁それで貴方を選んだのよ、ユイ・イスターツ。貴方は先日の事件
を、私よりうまく解決してみせたわ。私は事態を混乱させただけ。
それだけのことしかできなかった。だから貴方に任せてみようと思
119
ったの、私の理想をね﹂
﹁貴方の理想とは?﹂
﹁この国の人々を、民も貴族も全てを幸せにすることよ。当たり前
でしょ。そのために凝り固まってしまったこの国を、私が変えるの﹂
ユイは、この大言壮語を吐き、夢想を語る王女を何故か嫌いには
なれなかった。
﹁エリーゼ様は私の噂を御存知ですか?﹂
﹁ええ、王女を助けた英雄ユイ・イスターツ。城下町でも話題なの
でしょ?﹂
﹁そちらじゃない方です。軍内部で私は厄介者扱いされていたので
すが⋮⋮﹂
﹁冗談よ、﹃王都のごくつぶし﹄そして﹃カーリンの昼行灯﹄のユ
イ・イスターツさん。なにも私は貴方をこき使うつもりはないわ。
だからもし貴方が楽をしようと思うのなら、貴方以上に優秀な部下
を選びなさい。組織形態や人員についてはあなたに一任します。あ
る程度の装備や予算などの交渉事は、私が掛けあってあげるから、
希望があったら言いなさいね﹂
王女は彼にとっての面倒事である、交渉や折衝を全て代行してく
れると言った。もちろん各分野の専門家ではない彼女にとって、本
当にできることは限られているだろうが、それでもキングに次ぐ強
カードであるエリーゼの存在は、間違いなく交渉における強みとな
るであろう。その後の相手方の恨みを考えなければだが。
﹁⋮⋮では、差し当たって人員に付いてですが、士官と下士官を各
数名ずつお願いしたいと思います。下士官はカーリン市から、私の
元部下を連れて来たく思いますが、よろしいでしょうか?﹂
﹁ふふ、いいわ。あの方たちにも借りがありますしね。それで士官
はどうしますの?﹂
120
﹁士官は出来れば、王立軍の各省にいるものを、一名ずつ引きぬい
て頂けますでしょうか?﹂
﹁合計三名ね。それで、どなたをお呼びすればいいのかしら?﹂
エリーゼの言葉に、ユイは迷うことなく、頭の中に浮かんだ三人
の名前を告げた。
﹁私の最も信頼出来る三名をお願いします。戦略省のエインス・フ
ォン・ライン、魔法省のリュート・ハンネブルグ、そして陸軍省の
アレックス・ヒューズを﹂
121
親衛隊
﹁エインス、お前も呼ばれたのか?﹂
二ヶ月ぶりに謹慎が解除されたと思えば、いきなりユイに呼び出
されたリュートは、軍務庁舎の三階で、キョロキョロしているエイ
ンスを見つけた。
﹁ああ、リュート先輩。先輩もあの人の手紙で呼び出された口なん
ですね。ところで手紙に書いてあった、親衛隊本部ってところを探
しているんですが、先輩はどこかわかりますか?﹂
﹁さあ、いま来たところだからな。とりあえず戦略省の本部がこの
階にはあるんだから、そこで尋ねればいいじゃないか﹂
エインスもそれはそうだと思い、戦略省の受付に向かうと、眼鏡
の女性に声をかけた。
﹁すいません、この階に親衛隊の本部という部屋があると思うんで
すが﹂
﹁お疲れさまです、エインス様! ええっと、親衛隊の本部はです
ね、それが、その⋮⋮そちらの通りを真っ直ぐいきまして、突き当
たりを右に曲がって頂いて、一番奥のお部屋なのですが⋮⋮﹂
違和感を覚えながらも歩き始
眼鏡の女性は、何故か視線を合わせないようにしながら、そう答
えた。エインスはなにか変だなと、
める。
﹁変ですね、僕も戦略省ですから、この建物にはよく来るんですが、
そんなところに部屋はあったかな﹂
誰に言うとも無く、そう言いながら、二人は女性に指示されたと
おり、突き当りを右に曲がりそのまま歩く。するとそこには物置の
122
ような倉庫に行き着いた。
﹁⋮⋮物置しか無いぞ﹂
﹁そうですよね、たしかにこんな所に部屋なんてなかったですもん
ね⋮⋮﹂
二人は首を傾げながら、回れ右をしようとしたその時、突如倉庫
の扉が開いた。
﹁おお、お前たち遅いぞ﹂
開いた扉からは、ユイが顔を出していた。
﹁先輩、こんな倉庫で何をしているんですか?﹂
﹁ん、ここで待ってるって書いていただろ?﹂
﹁ここでって、親衛隊本部と書いてありましたけ﹂
﹁ここだよ、ここ。ここが親衛隊本部。そこに書いてあるだろ﹂
そう言ってユイは、ドアのとなりに無造作に立てかけてある古い
木の板切れを指さす。釣られてエインスたちは、その指の方向へ視
線をずらすと、そこには汚い字で﹃親衛隊本部﹄と書かれてあった。
﹁そんなことだと思ったよ﹂
リュートは、諦めたかのように肩をすくめ、エインスはまだ信じ
られないのかユイに食い下がった。
﹁先輩、一応は親衛隊という名前なんですから、この部屋はちょっ
と⋮⋮﹂
﹁仕方ないだろ。そんな綺麗な部屋を遊ばせておく余裕なんて、軍
務庁舎にはないんだ。昨日の今日で、この部屋を確保するのさえ苦
労したんだ﹂
ユイは親衛隊の辞令が出ると、すぐに隊のための場所探しを始め
123
た。軍務庁舎を訪れて、各部門をたらい回しにあった末、倉庫扱い
で放置されていた、カビ臭いこの部屋を仮の本部としたのである。
﹁とりあえず、立ち話も何だから中に入ってくれ。一応、いろんな
部署から椅子と机は借りてきたから。まぁ、全部バラバラだけど⋮
⋮﹂
ユイはそう言って中に入ってしまい、二人は顔を見合わせてため
息をつくと、順番に部屋に入っていった。
﹁そんな訳で、ここに集まってもらったわけだが﹂
謁見の翌夕に、エインスとリュートは、ユイによって軍務庁舎の
倉庫であった一室に呼ばれていた。
﹁ユイ、お前のことだからアレックスにも声をかけているんだろ。
奴はどうした?﹂
﹁ああ、あいつは今日の修行のノルマがあるから、多少遅れるそう
だ﹂
ユイはまず幹部となる士官三人に対して、人事の同意とこれから
の相談をしたいと思い、それぞれに声をかけた。ここの既に集まっ
た二人は、特に支障なく向かうと返事したが、アレックスは日課の
訓練が終わるまで待ってくれと言ってきた。もっともこれは学生時
代から同様であり、ユイもリュートもまたかとの思いだけしか、特
に感じなかった。
﹁あいつは全く。まあいい、しかし謹慎を解除されて、久しぶりに
外へ出られるかと思えば、お前のところへの異動とはな。それで、
親衛隊とは具体的に何をする組織なんだ?﹂
124
﹁今のところなにも分からないよ、私にもね。正確なことはエリー
ゼ王女に聞いてくれ。とりあえず私は、何でも屋だと考えているけ
どね﹂
ユイの発言にリュートは両腕を組んだまま、一つ息を吐きだすと、
そのまま目を閉じてしまった。その後、しばらくして入口のドアが
開くまで、その動作を契機に、その場の空間は停止したままであっ
た。
﹁やあ、ごめんね。ついつい遅くなっちゃって﹂
その凍った空気を破るように、赤髪キツネ目の青年が申し訳なさ
そうに室内に入ってきた。かつてユイたちと同期として士官学校を
四席にて卒業した、陸軍省所属のアレックス・ヒューズである。
彼は学生時代から、その強さは折り紙つきであり、学内最強の座
を、常にリュートと競い合っていた。それぞれの得意分野から剣の
アレックス、魔のリュートとまで呼ばれ、今なお比較され続けてい
た。
﹁遅いぞ、アレックス﹂
﹁あれ、リュートまでいるんだ? へぇ、君たちが一緒に行動して
いるのは久しぶりに見たよ。一体どういう風の吹き回しだい?﹂
﹁ふん、こいつに借りを作った。その借りを返そうと思った、それ
だけだ﹂
﹁へぇ、おもしろい。あれ、そっちにいるのは確か、ライン公の御
子息のエインス君だったかな。それに加えて僕を呼んでか。なるほ
どね﹂
アレックスはその場に呼ばれた面々を順に見回すと、何かに納得し
たかのように頷いた。
﹁さて、アレックスも来たことだし、これでこの隊の中枢メンバー
が揃ったわけだ。まず先に一番大事なことを言っておく。この中で
125
隊長職をやりたいってやつがいれば、ぜひ名乗りでてくれ。そうす
ればすぐにでもそいつが隊長だ!﹂
ユイは目を見開き、三人を見ると、エインスはユイの言い様に呆
れてため息を吐き、リュートは目を閉じて腕を組んだままピクリと
もせず、アレックスは何が楽しいのかニコニコと笑みを浮かべるだ
けであった。
﹁先輩、働きたくないのはわかりますけど、国王陛下に頼まれたん
ですよね。いい加減諦めてください﹂
エインスがユイを諭すようにそう語り、リュートが軽蔑の眼差し
でユイを睨みながら、口を開いた。
﹁さて、まじめに考えると、これから実際にどうするかだ。本当の
ところ、ユイ、お前はどう考えている?﹂
﹁いや、私は大真面目だったんだけどね⋮⋮あ、リュート、そんな
怖い顔しないでくれ。では、ええっと、これからの事だけど、基本
的にこの組織は、王女護衛が名目となっている。たとえエリーゼ王
女の目的が違っていてもね。だから王女の護衛は、全ての業務の中
で最優先だ。そこでエリーゼ様の護衛は、リュートに一任したい﹂
ユイは真摯にリュートの目を見ると、リュートは未だ迷いが振り
きれないのか、さっと視線を外した。
﹁先日失敗した俺でいいのか?﹂
﹁あのクロセオンでの襲撃は、それを未然に防ぎえる人材はいても、
事が起こってから防げる人材なんていないと思っている。だってリ
ュートで失敗したんだ、他の誰にもできないさ⋮⋮それでもう一度
聞くけど、護衛の責任者を引き受けてくれるかい?﹂
ユイはリュートから視線を外さないまま、そう尋ねると、リュー
トは決意に満ちた表情となりユイを見返す。
126
﹁いいだろう。ただ四六時中俺だけで張り付くわけにもいかないか
ら、部下が当然必要だな。とりあえずは、俺の部下たちに打診して
みよう。全員を引きぬくことはできんが、数名は来てくれるだろう﹂
﹁そうだね。各省庁で、数名程度ずつの引き抜きなら、エリーゼ王
女の命令で通せるだろう。君に任せるよ﹂
リュートはその言葉に、目を閉じて、深く頷いた。
﹁では次に、この親衛隊という組織の運営なんだけれど、エインス
にお願いできるかな﹂
﹁運営といいますと、他の省庁や組織との折衝だったり、金銭の管
理あたりのことでいいのでしょうか? なるほど、そういったこと
を先輩に任せたら、三日で仕事を辞めそうですしね。承りましょう﹂
ユイだけに全てを任せる訳にはいかないという気持ちを胸に、エ
インスもその役割を受け入れると、同意を示した。
﹁さて、あとこの組織の独立を維持するために、最後に必要な物と
いえば⋮⋮﹂
﹁武力だね﹂
ユイが言い終わる前に、アレックスが即答した。
﹁ああ、そのとおりだ。頼めるか、アレックス?﹂
﹁良いよ、ユイ。なんか面白そうだから手伝ってあげるよ﹂
アレックスはそう言って、笑みを一つ浮かべ肯定した。
﹁では、各分野では基本的に細かいことは、各自の判断で動いてく
れていい。今後の全体としての計画と各部門での長期計画は、もう
少し組織の体をなしてから、身の丈にあった範囲で考えていくこと
としよう。とりあえずは今日は顔合わせを済ませたということで解
散としようか﹂
ユイがそう宣言すると、リュートはそのままスッと立ち上がり、
127
部屋を出て行く。次にエインスが﹁馬車を回しておきますので﹂と
ユイに声をかけて、部屋から出て行った。そうして、アレックスと
ユイだけがその場に残された。
﹁どうしたんだい、アレックス。なにか気になることでもあるのか
い?﹂
﹁ユイ、君のことだからわかっていると思うけど、おそらくこんな
組織が出来れば、大なり小なり周りからの圧力がかかってくると思
う。その覚悟はあるのかい?﹂
アレックスのその問いに対し、ユイは曖昧な表情を浮かべながら
口元に右手をやり、一瞬考える仕草をした後に答えた。
﹁私は覚悟なんてしたくはなかったんだけどね。ただ、覚悟しなけ
ればならない立場に追い込まされてしまっただけだよ﹂
﹁なるほど、君らしい回答だね。僕が思うに、表立ってこの組織を
潰そうと動くものはいないと思う。何しろ国王陛下が設立して、第
一王女の運営する組織だからね。その上、ライン大公の御子息まで
いるとなれば、正面切ってつぶしにかかる奴なんていないよ。問題
は裏だね﹂
﹁その通りだ。裏で暗躍された場合、王女だとか国王だとか、そん
な看板はなんの役にも立ちはしないからな﹂
﹁そう。だから僕がその辺りを引き受けてあげるよ。武力ってのは、
本来戦うためじゃなく、抑止力としてこそ最も有効に働くものだか
らね﹂
ユイはアレックスの言葉に、喜びと申し訳なさの入り混じった表
情を浮かべ、頭を一つ掻く。
﹁そういった汚れ仕事は、他のものに任せるつもりはなかったんだ
けどな﹂
﹁君はこの隊の看板だよ。看板に裏仕事をさせることはできない。
128
英雄イスターツには、それにふさわしい仕事がお似合いさ﹂
﹁英雄はやめろ。あと⋮⋮苦労をかけるな﹂
﹁なあに、それはお互い様さ。僕も陸軍省では扱いにくかったみた
いで、最近は内部で完全に浮いてしまっていたからね。君が声をか
けてくれたのは、ほんとうに嬉しかった﹂
﹁そうか、そう言ってくれると助かる﹂
いつも以上に目を細めて笑みを浮かべるアレックスを見て、ユイ
は安堵した。
しかしその心境は、この後のアレックスの発言で一転することに
なる。
﹁だから君には本当のことを伝えておくよ。僕が今日遅れたのは、
本当は訓練のためじゃない﹂
﹁じゃあ、なんで遅れたんだ?﹂
アレックスは少し言いよどんだが、心の整理がついたのかその内
容を告げた。
﹁いいかい、これはまだ軍上層部にも入っていない情報だ。実は帝
国軍が南部国境を超え、侵攻を開始した。目標はここエルトブール
だ﹂
一瞬、その意味が理解できず、ユイは呆然としてしまった。
そしてゆるやかにその言葉が頭に入り始めると、思わず右手を頭
にやり、そのまま髪を掻きむしった。
129
帝国強襲
﹁それは事実なのかね﹂
﹁ええ、帝国軍の四万の兵が、国境のアサシモ砦を落とし、我が国
の国境を侵害中です﹂
五階に位置するその窓から、エルトブールの街並みを見下ろす老
人は、その報告に目を閉ざしてしまう。
﹁現在、王都の王立軍が四万、それと各地の地方軍を総動員して二
万をかき集めている最中です。予定では合計六万の兵士を動員して、
防衛ラインをソーバクリエンに形成します﹂
﹁指揮官はあの政治屋かね?﹂
﹁いいえ、防衛軍の最高指揮官は、オラド国王自らがなされると⋮
⋮﹂
﹁国王自らが戦陣に立たれるだと!﹂
現国王が擁立されて、早三十年。これまで帝国と国境付近での小
競り合いは何度も起こっていたが、最終的な大規模な戦闘に至るこ
となく、お互い矛を収めてきた。そのような事情もあり、現国王の
オラドは、戦場に一度も出ることなく、王都にて政治にのみ関心を
持って過ごしてきた。しかしながら最悪なことに、帝国の全面侵略
がオラド王に取っての初陣となったのである。
﹁どちらにしてもこの防衛戦に負ければ、我が国は後が無い。なら
ば少しでも兵の士気を上げたいとして、メプラー大臣が提案したそ
うです。実際、ソーバクリエンを抜けられると、一気に王都まで詰
め寄られますから﹂
130
﹁しかし、戦争を知らない陛下を戦場にお連れするとは。しかもこ
の戦いが初陣など馬鹿げている。まだあの政治屋が指揮をとったほ
うが、はるかにましじゃろう。おそらく多大な損害を被った際に、
国王を盾に失脚を逃れるつもりであろうが⋮⋮所詮は程度の低い浅
知恵としか言えん。やつは本当の敵が、身内か、それとも帝国かと
いうことさえ、わかっておらんのではなかろうか?﹂
﹁おそらくその通りだと私も考えています。彼らには、自分の地位
を守ることや、派閥単位での駆け引きしか出来ませんから⋮⋮﹂
そう言って、報告した男は頭を振った。
﹁しかしなぜこの時期に、帝国の奴らは侵攻してきたのかね?﹂
﹁わかりません。今回は奴らにとって戦争を起こす大義名分などな
く、完全に一方的な侵略です。もちろん奴らが我が領土の魔石を欲
していることは、明らかなのですが⋮⋮﹂
土地から魔石の出土しない帝国にとって、魔石はほぼ全て輸入品
である。だからこそ魔石の産出源を確保したいと考えているのは、
明白であった。しかしながら、それは帝国設立以来からの事情であ
り、このタイミングで出兵する理由にはならない。
﹁まあ、理由は奴らに聞かないとわからんか。今はそんなことより
も、この戦争の勝敗だ。単刀直入に聞く、勝てるのかね?﹂
﹁おそらくと、申し上げておきます。数に関しては六万名と、完全
に互角以上の兵数を用意することができました。ただ⋮⋮﹂
そこまで言うと、報告者は言葉を濁した。老人は訝しげに彼を見
て、言葉を促す。
﹁ただ?﹂
﹁実は帝国軍の組織構成が妙なのです。敵は全軍の約三割にあたる、
一万二千兵もの兵士が、どうも魔法士を主体とする、魔法兵のよう
131
なのです﹂
報告者がそう述べると、老人もなぜか胸騒ぎを感じて、彼に理由
を尋ねた。
﹁一戦場に一万二千もの魔法兵を投入するというのか。それでは奴
らの国の有する魔法士の、ほぼ全員ではないか。そこまでして魔法
兵だけをかき集める理由が、何かあるのか?﹂
﹁わかりません。ただ、魔法兵の数が多いため、奴らの行軍速度が
遅くなっていることは、不幸中の幸いですが⋮⋮﹂
報告者は手元の資料を見返すと、ため息をひとつついた。
﹁そうか。それとあいつも出陣するのか?﹂
﹁いえ、彼は外されました。最近急激に頭角を現し過ぎましたから
ね、これ以上戦功など立てられては、自分たちを脅かしかね無いと
考えているのでしょう﹂
﹁馬鹿共が!﹂
老人は吐き捨てるようにそう言うと、報告者は、やる気の無さそ
うな男の顔が頭に浮かび、彼の未来を考えて老人をなだめた。
﹁ええ、ですが私は良かったと思っています。下手に彼が参加させ
られれば、彼らの捨て駒にさせられて、使い潰される可能性もあり
ましたから﹂
﹁そう、か。たしかにそういった考え方もあるかな。彼のことはそ
れでいいとしても、君はどうするんだ?﹂
﹁私も参謀長として、参陣することになりました。今日はそのお別
れを伝えに参ったのです﹂
報告者は、自らに向けられた老人の視線に気づき、顔を曇らせる。
﹁お別れを言うのはまだ早いな。こんな老人がこの年でも生きてい
132
るのだ、君みたいな男は、まだまだ国のために元気に働いてもらわ
ないとな。いいか、死ぬなよ、アーマッド﹂
﹁わかりました、ラインバーグ閣下﹂
そう言って、報告者は敬礼を一つすると、そのまま校長室から退
室していった。
帝国軍の侵略の動きに、クラリス王国もすぐに対応の構えを見せ、
軍上層部に侵略の報告が届いた二日後には、防衛軍の中核として、
王立軍のほぼ九割にあたる四万もの将兵に、出陣の知らせが届いた。
そして残りのたった一割の中に、ユイを含む親衛隊のメンバーが、
名前を連ねていた。
そんな王都への居残りを命じられたユイたちは、王立軍の出征式
が行われる、エルトブールの南の平原に足を運び、準備に勤しむ兵
士たちをかき分けながら、参謀本部のテントを目指していた。
﹁しかしユイ、なぜ俺達が居残りなんだ?﹂
﹁仕方ないだろ。というか、お前はエリーゼ様の護衛があるんだか
ら、どっちにしても戦場に立てるわけ無いだろ﹂
﹁⋮⋮それはそうだが﹂
戦場に出たくて仕方がないリュートは、ユイに噛み付いたが、ユ
イの言葉に語気が弱くなる。
﹁まぁ、要するに外されたんだよ。私のところには、動員計画の会
議案内さえ来なかったしな﹂
﹁疎まれているね﹂
アレックスは、笑みを浮かべてそう言うと、ユイも苦笑せざるを
得なかった。
133
﹁全くだ。ただそれでくだらない会議に出なくて済んだんだ。むし
ろありがたいってものさ﹂
﹁先輩の場合は、会議に出ても、寝ているだけでしょうに﹂
エインスは、ユイから政治と財務関係の案件を全て投げつけられ、
最近少し拗ね気味であり、皮肉を向けた。
﹁そうだな、確かに寝ているだけでいいなら、会議に出るのもやぶ
さかでないか⋮⋮﹂
ユイがそう一人ごとをつぶやくのが、エインスの耳に入ると、ユ
イにも聞こえるようにわざと大きなため息をつき、今回の訪問の理
由を尋ねた。
﹁それで、今日はなんで呼ばれもしていない王立軍の出征式に、僕
達を連れてきたんですか﹂
﹁ああ、お前のおじさんも今回出征されるからな。出陣する前に、
会いに来いと言われてな﹂
﹁と言うことは、アーマッド局長も出征されるのか?﹂
リュートは、アーマッドの出征を知らず、典型的な軍官僚であるア
ーマッドの出征に、いささか驚いていた。
﹁ああ、参謀長だそうだ。ほら、あそこに見える大きなテントがあ
るだろ。あの中に参謀本部が置かれているらしい﹂
そう言って、もうかなり近づいてきた参謀本部のテントを指さす
と、ユイは足を早めた。
﹁しかし、先輩。さっきから、なぜそんなに急いでいるのですか?﹂
﹁ん? だってのんびりしていれば、出征式が始まってしまうだろ
?﹂
﹁ほう、お前も軍人として、出征式に参加したかったのか﹂
﹁いやいや、出ないって。出征式が始まってしまえば、抜けるのは
134
目立つだろ。だから、その前に顔だけ出して、さっさと帰ろうと思
ってね﹂
ユイがそう言って足を進めると、リュートは﹁だからお前は軍人
としての心構えが⋮⋮﹂と小言を言い始め、ユイは両人差し指で耳
孔を塞ぐ。そうやって、ますますリュートの怒りを煽った時である、
急に前方から歩いてきた、銀髪の男が、ユイたちに声をかけた。
﹁おい、三馬鹿の落ちこぼれども。貴様たちもまだ軍にいたのか?﹂
ユイはリュートの小言を聞かないように、指で耳栓をしたままの
ため、最初はその男の存在に気づかなかった。しかしリュートは、
目の前に立ちはだかる男の、見覚えのあるその顔と癖のある声に、
嫌そうな表情を浮かべた。
﹁ああ、ムルティナか。お前も防衛部隊に入っていたのか⋮⋮﹂
﹁当たり前だろ? 私が選ばれないで、誰が選ばれるんだ?﹂
そう言ってムルティナは、見下すような視線をユイたちに向けた。
ムルティナ・フォン・メニエルは、ユイたちの士官学校時代には、
魔法科に所属していた同期生である。彼は四大大公の一人であるメ
ニエル公爵の次男であり、彼こそがユイたちの世代の学年主席であ
った。もっとも士官学校の主席は、入学時及び卒業時に、学年代表
として挨拶を行う慣例となっており、四大大公の子息が入学した際
は、彼らは試験結果にある程度の配慮が加えられ、主席とされる習
わしとなっていた。
もっとも四大大公の子息ではあるが、エインスは実際に配慮を必
要とせず、実力にて学年主席の座を手に入れた。しかしムルティナ
の場合は、優秀すぎる三人の士官候補生の存在のため、主席とする
には十分以上の配慮を必要としたことから、周囲の嘲笑や冷笑を浴
びることとなり、彼らに対して強いコンプレックスを抱いていた。
135
﹁しかしその様子だと、お前らは今回の出征には参加しなそうだな。
まぁ、お前らのような足を引っ張る奴はいらんがな﹂
﹁そうだね。ムルティナがいたら大丈夫だよ。じゃあ、頑張ってく
れ﹂
ユイはそう言って、用は済んだとばかりに、ムルティナの横を通
り過ぎようとすると、彼はその態度に腹を立てたのか、ユイの胸ぐ
らをつかんだ。
﹁ユイ、貴様なぜ敬礼もなしに、私の横を通り過ぎようとしている﹂
﹁いいじゃないか、同期生なんだし。そんな堅苦しい事は無しで﹂
﹁ふざけるな! 下位の者が、上位者に向かって、挨拶するのは当
然だろう﹂
ムルティナは、そのままユイを殴りかからんとばかりに激昂する
と、後ろから様子を見ていたアレックスが、ムルティナに声をかけ
た。
﹁ちょっと待ってくれないかな、ムルティナ君。君は、ユイが君よ
り階級が下だと思っているようだけど、君は一体何位なんだい?﹂
﹁私は今回の王立軍魔法大隊第一連隊長で、五位だ。そこの左遷男
とは違うのだよ﹂
ムルティナは鼻息荒くそう返答する。するとアレックスは哀れみ
を含んだ笑みを浮かべ、口を開いた。
﹁ああ、君は五位なんだ。うん、士官学校を出て、六年で五位なん
てすごいね⋮⋮だけど君にとっては残念なことに、ユイは先日四位
になったんだよ﹂
﹁な、なに! そんな馬鹿な⋮⋮このやる気なし男が四位だと!﹂
﹁いやぁ、お前もそう思うだろ。私もそうなんだけどね﹂
136
胸ぐらをつかまれたままのユイは、そう言って、頭を二度掻いた。
﹁馬鹿な! この私より、こんな庶民上がりの男が⋮⋮ありえない﹂
﹁ユイは第一王女の親衛隊長だ。残念だったな、学年主席殿﹂
リュートはそう言って、ユイを掴むムルティナの前腕を、握りつ
ぶすかのように全力で握ると、その込められた力のあまりに、ムル
ティナは顔を苦痛に歪め、胸ぐらを放してしまった。
ムルティナがユイを放したことを確認し、リュートはムルティナ
の腕を開放すると、ムルティナはリュートとユイを憎々しげに交互
に睨む。
﹁リュート、お前はたしか護衛に失敗して、謹慎させられたばかり
だろ。調子に乗るな。ん、護衛に失敗? まさかユイ、あの馬鹿の
第一王女に取り行って、騙して出世した奴というのはお前のことか﹂
﹁えっと、少し合っているような、でも間違っているような。それ
はなんとも返事に困るかな﹂
ユイが苦笑いを浮かべながら、頭を掻いていると、リュートが黙
っていられないとばかりに、口を開く。
﹁ユイ、侮辱されているんだぞ、しっかりと否定しろ。それとムル
ティナ、それ以上エリーゼ様のことを悪く言うのは許さん。ユイが
なにも言わなくても、この私が許さん﹂
リュートはムルティナを本気でひと睨みすると、ムルティナはそ
の迫力に押され、一歩後ろに引き下がる。
﹁ふ、ふん。貴様ら調子に乗りやがって。この私が防衛軍として出
陣するからには、帰ってきた頃には三位さ。ユイ、お前やそこにい
るお前の金魚の糞たちとは違うということを、この戦いで教えてや
る﹂
137
自分だけでなく、他の友人まで侮辱されたユイは、珍しく機嫌を
害したように、ムルティナを冷たい目で射抜いた。
﹁ああ、君の活躍に期待しているよ。あ、一つだけ言っておこうか、
一応、私は四位なんでね。敬語でちゃんとユイ様と言った上で、敬
礼をしてくれるかい、ムルティナ君?﹂
﹁き、貴様!﹂
ユイの挑発に、ムルティナが再びユイに突っかかろうとしたが、
背後からの声に動きを止めた。
﹁なにを騒いでいる?﹂
全員の視線が、その声の主に向けられると、そこにいたのはアー
マッドであった。彼は士官同士が揉めているとの話を聞きつけて、
その場に駆けつけたのである。
﹁元気があるのはいいことだが、時と場合を選んでくれたまえ。あ
とムルティナ君、君も出征前の忙しい時間じゃないか、早く持ち場
に戻って準備を進めたまえ﹂
アーマッドにそう言われたムルティナは、視線だけで殺せそうな
くらい、ユイを睨んだあと、その場を去っていった。
﹁全く君たちは⋮⋮もう学生じゃないんだ、少しは大人になってく
れ﹂
﹁ははは、面目ないです、先生﹂
ユイはアーマッドに対し、恥ずかしそうにして、曖昧な表情を浮
かべた。
﹁さて、それはともかく、君たち三人が元気そうで何よりだよ。そ
れとエインスもな﹂
138
﹁親戚なのに僕はおまけですか?﹂
﹁君にはいつも公爵の御屋敷で会うじゃないか。あっと、夜遊びに
忙しいから、会えない事のほうが多いか。まぁ、それはともかく、
ここじゃ人目が多い、参謀本部の私の区画に行こうか﹂
アーマッドは、四人を順番に見やったあと、背中を向けると、そ
のままテントに向かって歩き出した。ユイが後ろの三人を振り返り、
一度頷くと、彼らはアーマッドに続いてテントへ向かった。
テントに到着すると、アーマッドは人払いをし、テント内の椅子
に腰掛けて、ユイたちに向き直った。
﹁さて、君たちに来てもらったのは他でもない。私達が負けた後の
ことを話しておきたいと思ってのことだ﹂
﹁アーマッド局長、それはあまりに⋮⋮﹂
リュートがあまりに突然なアーマッドの話に驚く。
﹁いや、もちろん負けると思って、こういった話をするわけではな
いよ。ただ勝った場合は、心配などは不要だけど、万が一でも、負
けた時は、緊急の対処が必要となることがある。たとえ低い可能性
であり、考えたくないことであっても、何事にも準備は必要だよ﹂
﹁しかし、今回は明らかに多数の兵士を用意されたと伺います。ま
ず負けるとは思えないのですが⋮⋮﹂
アレックスもこれだけ人数的優位の中で、負けると考えづらいの
か、アーマッドにそう告げた。
﹁数の上では、確かに圧倒的優位だな。その上、我々の本土での戦
いだけに、地の利も我々にある。だけど事はそう単純じゃないんだ﹂
﹁と言いますと?﹂
アレックスは、アーマッドに話を促した。
﹁大きく分けて二つの不安要素がある。一つ目は、軍上層部の人員
139
の問題だ。今回の防衛軍の上層部人事を知っているかい? 司令官
にオラド国王、副司令官にメプラー軍務大臣、そして参謀長に私だ。
もっと付け加えると、各部隊の役付きの連中は、ほとんどメプラー
の息のかかった軍官僚など軍の高級官僚たちばかりさ。わざわざ現
場の連中を外してね﹂
﹁なんでそんな馬鹿げた人事をするのですか? 局長も所属してお
られるので、言い難いのですが、普通に考えて、そんな役人もどき
の軍人たちで、この戦争ができるはずがありません。一体彼らはな
にを考えているのですか?﹂
アレックスは、アーマッドの語る上層部人事に、驚きとともに若
干の呆れを感じていた。
﹁残念ながら事実だよ。今回、敵軍より多数の人員を動員できた時
点で、既に上層部は勝ったつもりになっている。そして戦いの後の
昇進人事を睨んでの配置だよ。取らぬ狸の皮算用もいいところなの
にね﹂
﹁そんな馬鹿な⋮⋮﹂
エインスは、上層部のお気楽ぶりに呆れて、二の句が告げなくな
った。
﹁この防衛戦の正体は、そんなものさ。もちろん負けたときことも
彼らは考えているよ。その時は出陣した国王を避難の盾にして、責
任を取らずに逃げる算段みたいだからね。つまりノーリスクハイリ
ターンの戦いということだよ。絶望的なことに、彼らは負けて失う
のが、彼らの権力ではなく、この国なのだということが、全くわか
っていない﹂
怒りのあまりに、アーマッドは右拳を手元にあった机に叩きつけ
る。ユイはその怒りから、アーマッドが今回の人事案に抵抗し、敗
れたであろうことを、それとなく感じていた。
140
﹁それでもう一つの不安要素とは、一体何なのですか?﹂
固まってしまった空気を再び動かすように、そう尋ねたのは、エ
インスであった。
﹁もうひとつは軍編成の問題だ。我々の王立軍六万のうち、地方軍
が二万だ。そしてそのうち四千の兵はシャレムの子飼いのものなの
だよ。この意味がわかるか?﹂
﹁シャレムが裏切るとでも? では、彼らはそのまま伯爵領に据え
置いて、今回の作戦に同行させなければ良いじゃないですか?﹂
﹁エインス、お前の意見は私も考えたよ。だが戦場に同行させず、
我々の背後にて自由に動かれる方が危険だと判断した。まだ戦場で
手元に置いて監視したほうがましだろうともね﹂
﹁敵に攻めこまれている状況なのに、内部でそんなに問題があるな
んて⋮⋮﹂
エインスはアーマッドに聞かされた二つの不安要素に、思わず顔
をしかめる。
﹁だから、エインス、リュート、アレックス、そしてユイ。万が一
の際は、王都はお前たちに任せる﹂
そう言って、目を静かにつぶるアーマッドに対して、彼らはそれ
以上なにも言えなくなってしまった。
141
ソーバクリエンの野戦Ⅰ
王立軍は、出征式の翌日に王都を出発した。
その進路は、南部国境へ向けて一直線に進み、メニエル公爵領と
アサシモ砦の中間に位置する、ソーバクリエンと呼ばれる大平原を
一路目指した。これは進軍速度の遅い帝国軍より十分先回りして、
自分たちで戦場を設定できると判断し、平原戦のほうが帝国軍より
多い兵力を、有効に利用して戦えると考えたためである。
王立軍は地方兵を吸収しながら、予定通り数を増員させ、合計六
万人の兵士を四日かけて、ソーバクリエンへと配置させることに成
功した。
そして王立軍が、ソーバクリエンに陣を張った五時間後に、草原
の向こうに行軍による砂煙が見え、次第に黒色の帝国軍の兵士たち
の姿が大きくなり始めた。
﹁陛下、いよいよです﹂
﹁わかっている。基本的に指揮はメプラー、お前に一任している。
任せたぞ﹂
﹁はっ、ではこの後、陛下には兵達に開戦の檄を飛ばして頂きます
ので、よろしくお願い致します﹂
﹁分かった。では準備を致せ﹂
オラドの指示に、メプラーたち上層部の人間は、一斉に合戦の準
備を始めた。参謀長として、オラドのそばに控えていたアーマッド
は、戦闘開始の準備を行いながらも、時折その目は、王立軍の左翼
に配置されたシャレムの一団の動きを見落とさぬよう、光らせてあ
った。
142
今回の戦いでメプラーたち軍首脳部が立てた作戦は、釣り出し戦
法と半包囲戦法の二段構えのものであった。
まず全体を歩兵と騎馬兵と魔法剣士を中心とする第一陣、弓兵と
魔法士を中心とする第二陣、そして本営を置く第三陣と分けた。そ
して第一陣を突出させ、それに敵の前線が呼応して釣り出すことに
成功した場合は、第一陣は緩やかに後退しながら敵の前線を味方の
方へと引きずり込み、第二陣に配置した弓兵と魔法士で崩し、混乱
した敵軍に対して、全軍で中央突破を図るというものであった。
しかし敵の前線が、こちらの第一陣に対して呼応しなければ、こ
の作戦は成り立たない。その場合、二つ目の作戦として、第一陣の
進軍速度を落とさせた上で、第二陣と第三陣を左右に展開しながら
前進させることで、全軍を半月の形にして、数的優位を利用した半
包囲体勢を敷くことを画策していた。
﹁陛下、全軍の出陣準備が整いました!﹂
メプラーが、各部隊からの準備完了の報告を受けて、オラドに決
戦の用意が整ったことを伝えた。
﹁そうか、では兵士に向かい出陣の檄を飛ばす。よいか?﹂
﹁もちろんです。全兵士が、今か今かと陛下の出陣のお声を、お待
ちいたしております﹂
メプラーの返答に、初陣のためやや気分が高揚したオラドは、大
きく一度頷くと、あらん限りの声で、兵士たちに向けて語りかけた。
﹁勇敢なるクラリス王国の将兵の皆よ! 今、まさに悪しき野望を
秘めし、我々の敵である帝国が、わが国を侵略しようと、すぐそこ
まで迫っている。しかし我々は知っているはずだ! 我々の背後に
は、二百万のクラリスの民がおり、そしてその中には君たちの家族
がいることを。彼らは今も帝国の影に怯え震えている。私ことオラ
ド・フォン・エルトブートは、諸君に約束しよう。諸君らの守るべ
143
きものを守るために、私は諸君らとともに、この戦場で共に戦うこ
とを。そして諸君らも、私に対して約束してほしい。私とともに、
我が国を守るため共に戦ってくれることを。さあ、出陣だ!﹂
﹁﹁オオォォォォ!﹂﹂
オラド国王の出陣の掛け声に、王立軍の兵士たちから、尽きるこ
とのない歓声が送られる。そして、オラドは自らの剣を胸の前に当
て、そのまま天へ向かって突き上げると、掛け声とともに、剣先を
帝国軍へと向けた。
﹁第一陣、進め!﹂
そのオラドの声に、クラリス軍の第一陣は武器を構え直すと、隊
列を維持しながらゆるやかに帝国軍へ向けて足を進める。その歩兵
と騎馬兵、魔法剣士を中心とした彼らが、王立軍本体と帝国軍の中
間点にたどり着いたあたりで、オラドは次の声を上げた。
﹁第二陣、構え!﹂
その号令に、第二陣のものは、魔法と弓の準備を行い、その状態
のまま第一陣の動きを見守る。しかし、第一陣がやや帝国側へ近づ
いても、帝国の前線は微動だにしなかった。
﹁敵前線ですが、現状位置のまま移動しません!﹂
部下の報告を受け、メプラーは舌打ちを一つ打つ。
﹁ちっ、釣り出せんか。参謀長、どう考える?﹂
メプラーは、隣に控えたアーマッドに尋ねると、アーマッドは即
答した。
﹁敵方の戦力は、我が軍より少ないです。おそらく前線の突出を行
い、後方に遊兵を作ることを恐れているのでしょう。きっと少ない
144
兵を有効に活用し、同数以上で戦いたいと考えているでしょうから﹂
﹁なるほど、それも一理あるな。では、我々はどうするべきかな?﹂
﹁このまま第一陣だけを突出させれば、相手の方が少数とはいえ、
各個撃破されかねません。敵の反応はわかりましたので、やはりこ
ちらから積極的に攻める必要はないでしょう。数の優位を有効に使
用するためにも、予定通り全軍で半月陣を敷いて、敵を包囲下に置
くことを目指すか、もしくは第一陣を完全に引かせて、防御に徹し
ても良いかと思われます。我が軍のほうが兵站の面でも優位でしょ
うから﹂
アーマッドは、当初予定されていた敵が釣り出し戦術に乗らなか
った場合の案と、教師時代に教えてきた戦術の基本による防御案の、
2つの案を提示した。
﹁ふむ、たしかに防御に徹することも悪くはない。だが当初から釣
り出せない場合は、敵の包囲を目指すとしていたし、第一陣は国王
の進撃命令で出陣させた部隊だ。安易にその命令を取り消すわけに
はいかん。やはり全軍を前進させることとしよう﹂
メプラーは、国王の面子を考慮して判断すると、第一陣の突出速
度を遅らせるよう、命令を送る。そしてそれ以外の全軍に、第一陣
に追いつくよう、進撃命令を出した。しかし、味方の第一陣は、メ
プラーやアーマッドの想定通りには動かなかった。
﹁連隊長! 本陣から進軍速度を落とせと指示が出ております﹂
﹁なに? 速度を落とせだと?﹂
第一陣にて魔法連隊を指揮していたムルティナは、部下からの報
告に眉をひそめた。
145
﹁はい、敵がこちらに呼応して突出しなかったため、全軍で一斉に
敵陣に向かうとのことです﹂
﹁敵が迎え撃って来ないのは、奴らが我らの進撃に怯えているから
だろう。現にあの位置から一歩も動けていないではないか。なぜそ
んな怯える相手に、警戒せねばならんのだ?﹂
﹁それはそうですが⋮⋮﹂
部下は上司のあまりに好戦的な思考に、やや気後れし、それ以上
言葉が見つからなかった。
﹁ふん、どうせ本陣の奴らは、自身が手柄を上げるために、私たち
に活躍されては困ると考えているのではないか。奴らの手柄のため
に、進撃速度を緩める必要はない!﹂
﹁しかし、それでは命令無視になります﹂
﹁構わん。手柄を上げれば、多少のことも咎めるに値せんだろ。そ
れに魔法部隊は、私たちのような剣を扱えるものを除いて、ほとん
どが第二陣に配置された。つまり第一陣の魔法部隊は、我々第一連
隊と第二連隊のみなのだ。だから今こそ、我らが名前を売る絶好の
好機ではないか?﹂
ムルティナはこのままの速度で突進し、敵方に魔法を打ち込んで、
一番槍を果たすことを戦闘開始前から計画していた。それは自らを
コケにしたユイたちへの対抗心と、自らの領地のある南部への侵攻
という事態の重なりで、明らかな視野狭窄に陥っていた。
﹁とにかく、我々はこのままの速度で前進し、一番槍を果たす。さ
あ、前進だ!﹂
ムルティナの叫びとともに、第一魔法連隊はそのままの速度で進
軍を継続する。それを横目に見た、他の部隊長たちも、彼らに手柄
を取られまいと考え、むしろ進撃速度を上げて、帝国軍へ突進した。
146
帝国軍の本営では、予想外の王立軍の第一陣の進軍速度に、戸惑
いの声が上がっていた。
﹁リンエン将軍、奴らはどういうつもりでしょうか? 明らかに敵
の前衛は、他の部隊より速い速度で、我々に向かい進軍してきます﹂
帝国クラリス方面軍司令官のリンエン将軍は、参謀のロイスの報
告に、疑問を呈した。
﹁ふむ、奴らが我々の魔法に気づいている可能性はないか?﹂
﹁情報が漏れている可能性は無いとはいえませんが、それでは敵の
陣形に説明がつきません。おそらくその可能性は低いかと思われま
す﹂
ロイスは自分たちの策に感づいていれば、取るであろう陣形を王
立軍が取っていないことから、可能性は低いと言いながらも、王立
軍に作戦が漏れていないことをほぼ確信していた。
﹁なるほど、ならば敵の前線部隊が近づいた時点で、中央を下げ鶴
翼陣を敷け。そして敵の前進速度が衰えた時点で例の魔法を使用す
る。良いな?﹂
﹁了解しました。早速、手配いたします﹂
ロイスはリンエンに敬礼をし、すぐさま連絡兵にテキパキと指示
を出していく。
﹁さてさて王立軍よ、せいぜい楽しませてもらおうか﹂
147
ソーバクリエンの野戦Ⅱ
﹁副司令官、前線の一部が敵に向かって突出しておるが、これはど
ういうことなのだ?﹂
オラドは前線の陣形が不揃いなことに気づき、メプラーに問いた
だした。
﹁こ、これは⋮⋮﹂
メプラーは自らの指令が、守られていないことに腹を立てながら
も、表情に出すことはできず、二の句を継げなかった。
﹁このままでは、勢いで戦闘が開始されると思うのだが?﹂
﹁陛下。確かに陛下のおっしゃられるとおり、このまま戦闘は発生
するでしょう。しかし多少本意でない形での開戦となりますが、仮
にそうだとしても、我が軍の兵数は敵と比較し、圧倒的に上回って
おります。むしろこのまま本体も突入させて、敵陣の中央突破を図
ることが出来れば、現在の予定外の状況も一転するでしょう﹂
﹁ふむ、そういうものか。分かった﹂
オラドはメプラーを一瞥すると、それ以上は口を開かず、黙って
しまった。国王の詰問を受け、メプラーは再度連絡兵を呼び寄せる
と、せめて本体が追いつくまで戦端を開くなという命令を送らせ、
第二陣と本体である第三陣の進軍速度を早めるように、指示を出し
た。
﹁こうなってしまったか⋮⋮﹂
メプラーの後方に控えて、彼の言い訳を聞いていたアーマッドは、
一連の連動性を持たない王立軍の動きに、思わず溜息をついた。
欲の皮が張った前線の司令官たちの顔ぶれを考えると、どこかで
148
統制が取れなくなる可能性は、十分に考えられることであった。し
かし彼にしても、まさか戦端が開いていない段階で、彼らの統率が
取れなくなるとは、つゆほども考えていなかった。
﹁連隊長、奴ら少しずつ後方へ後退しております﹂
﹁やはり奴らは我々を恐れているのではないか。他の部隊に負けぬ
よう、更に進軍速度をあげよ!﹂
ムルティナは、敵の中央の後退に刺激され、部隊に命令を飛ばす。
﹁しかし、本営から再度後退するように、指令が届いておりますが
⋮⋮﹂
﹁本営は馬鹿か? 今、まさに敵軍は我々に恐れをなして逃げよう
としている。それをわざわざ見逃す必要がどこにある。構わん、放
っておけ﹂
部下が本営からの指令を伝えるも、ムルティナはもはやその指令
を聞く気は、さらさらなかった。
﹁連隊長、まもなく敵前線が魔法の射程範囲内に入ります﹂
﹁よし。では、全員魔法準備! 他の第一陣の猿どもに、魔法剣士
こそが王国最強の存在であることを、見せつけてやれ﹂
ムルティナはその言葉とともに、氷の術式を編み上げ、世界と同
調すると、敵戦陣に向け魔法を解き放とうとした。しかしまさにそ
の時、自らの目の前を何かが高速に通り過ぎる。
その何かはムルティナの隣にいた、部下の側頭部に突き刺さると、
彼は崩れ落ちた。
﹁や、矢の攻撃だと!﹂
149
﹁側面です!﹂
後方に居た部下の叫びに、ムルティナは両側方を交互に見やると、
いつの間にか敵が押し寄せてきており、頭上から多数の矢が、第一
陣に向けて降り注がれていた。
﹁ち、畜生!﹂
﹁将軍、敵第一陣を予定通り、鶴翼陣の中に取り込む事に成功しま
した﹂
ロイスの報告を受け、リンエンは満足そうに頷いた。
﹁そうか、では、その前衛の馬鹿達は、矢の射撃にて足止めさせよ。
敵本体をおびき寄せる餌となってもらうからな﹂
﹁わかりました。では、そろそろ?﹂
﹁ああ、魔法士たちに連絡しろ。貴様らの出番だとな。目標は、敵
本隊だ!﹂
リンエンの指示を受け、ロイスは準備を急がせるとともに、ほぼ
すべての矢を使い果たしてもいいと指示を出すと、王立軍第一陣へ
の攻勢を強めた。
﹁メプラー閣下、第一陣が敵の半包囲下に置かれました。彼らは完
全に行軍速度が落ち、敵中に孤立しております﹂
﹁くそ、業突く張りの馬鹿どもめ。しかし見捨てることはできん。
更に進軍速度を早めよ!﹂
第一陣の失態の報告に、メプラーは語気を荒げた。ここまでの事
150
態の推移は、完全に彼の計画を無視して進み、時間をかけて戦場に
付く前に立てた作戦も、全て水泡に消えてしまっていた。
首脳部の動揺と怒りの様を見て、オラドがメプラーに尋ねるよう
に話しかけてきた。
﹁メプラーよ。我が軍は、不利なようだが?﹂
﹁陛下、確かに現在の状況は芳しくはありませんが、必ずやこの状
況を打開して見せます﹂
﹁そうか、しかし先程から急激に暑くないか。戦場とはこうも暑い
ものか?﹂
﹁もちろん夏ということもありますが、陛下は初陣でございます。
きっと緊張によるものでしょう﹂
﹁そういうものか、確かにこの夏の日差しのも強いしのう。ん、あ
れはなんだ?﹂
オラドがそう言って、上空を見上げた時である。オラドの目には
輝く2つの太陽が目に入った。正確には太陽と酷似した光を放つ、
球体が、帝国軍の上空に浮かんでいた。
オラドがその光を放つ球体を指さすと、軍首脳部の幕僚たちから
は、驚きの声が上がった。
﹁た、太陽の如き球体だと? どういうことだ﹂
﹁なんだあれは。帝国軍の魔法か?﹂
本営はその輝く球体を見つけるやいなや騒ぎとなる。しかし、本
営にいた誰もが、その正体を説明することができなかった。
﹁しかたがない、ネキシム二位を呼べ!﹂
メプラーが部下に指示を出すと、すぐさま第二陣の指揮を執るネ
キシム・フォン・ルードラフに連絡が送られた。わずかばかりの時
間の後に、ネキシムは本営に姿を表した。
151
﹁どうされました、副司令殿?﹂
﹁ネキシム、敵の後方に不思議な球体が出現しておる。魔法の可能
性を疑っておるのだが、何かわからんか?﹂
﹁敵の後方ですか⋮⋮な、なんと!﹂
﹁どうしたネキシム?﹂
﹁あ、あれは魔法であることに間違いありません。し、しかしあれ
ほどの膨大な魔力は見たことがありません⋮⋮﹂
ネキシムは恐怖のあまり、声の震えを抑えることができなかった。
﹁魔力の大きさなど、どうでも良い。あれはどういったものだ?﹂
魔力の機微に疎いメプラーは、ネキシムの驚きを訝しみながら、
ネキシムにその説明を求めた。
﹁わかりません。おそらく相当な、それも見たことのないほどの力
を持つ魔法士による魔法と思われます。しかし、どういったものか
までは⋮⋮﹂
ネキシムはメプラーの問いには答えられず、首を左右に振った。
そうやって軍首脳部が、その魔法に気を取られた所で、急に第三陣
の左方が騒がしくなり、それとともに急報が飛び込んできた。
﹁シャレム伯です、シャレム伯が裏切りました!﹂
戦場には、裏切りを伝える叫びは無数に発せられたが、司令部も
突然の事態に動揺し、全体の統制が取れなくなり始めていた。
﹁そういうことか、あの球体はシャレムへの裏切りの信号であった
のか! くそ、やはり裏切りおったか、シャレムの奴め!﹂
メプラーはシャレムの突然の裏切りに対して、歯ぎしりをして悔
しがるが、すぐに気持ちを切り替える。
﹁だがまだ我が軍のほうが人数は圧倒的に多い。奴らの切り札はシ
152
ャレムたちに違いない。ここを凌げば戦況は一変するぞ。参謀長、
お前に五千の兵を任せるので、シャレムの豚野郎を追い返して来て
くれ。我々はこのまま、敵陣に突入する﹂
﹁分かりました。早速、迎撃に向かいます﹂
アーマッドは命令を受けると、遊撃として用意していた本陣付き
の五千の兵を、左翼方面に移動させ、シャレムに向けて突撃した。
シャレムの裏切りを単に発した、王立軍同士の戦いは短時間に一
方的な結果となった。さすがに正規兵とシャレムの私兵とでは、数
は拮抗しても、戦闘力には圧倒的な差があり、アーマッドの部隊は
少しずつシャレムの部隊を本陣のある第三陣から押し出した。
王国軍は一時の混乱から立ち直ると、敵陣の中央へ殺到しようと、
再び帝国軍に向き直った。その時、ある兵士が思わず呟いた。
﹁お、おい、あの光の球。さっきより大きくなってないか?﹂
その兵士の疑問は、最初は小さな一言であった。しかし、先程ま
で民家一軒分程度の大きさであった発熱体が、次第に膨張を始める
と、同じ呟きは、戦場にいる王立軍兵達に拡散し、次第に動揺が感
染していった。
その動揺が、王立軍全体に広がる頃には、発熱体は当初の数倍以
上の大きさまで肥大化し、その撒きちらす熱と光は周囲に拡散され
続けていく。
﹁な、なんだ、あれは。どういうことだ!﹂
オラドも、兵士たちの動揺の声を聞き、その球体の膨張に不安を
覚える。その時、本営に残っていたネキシムが思わず呟いた。
﹁あ、あれはまさか、集合魔法⋮⋮﹂
﹁そんな馬鹿な。集合魔法だと? 集合魔法など、せいぜい5人ほ
どの魔力を同調させて使う魔法だぞ。あんな馬鹿でかい規模のもの
153
が作れるか!﹂
﹁し、しかし、そうとしか考えられません。あんな強大な魔法など、
普通の人間ではとても生成することはできません﹂
メプラーは聞きかじりの魔法知識で否定するが、ネキシムはクラ
リス王国では魔法学の権威とされるほど、魔法に精通しており、そ
の発熱体の膨大な魔力から、その威力と引き起こされるであろう惨
状を想像し恐怖した。
﹁そ、そういえば、奴らの部隊構成は魔法士が圧倒的に多かった。
もしその魔法士全てが、ネキシムの言う集合魔法に参加していると
すれば⋮⋮い、いかん。全軍散開しろ!﹂
﹁ふ、不可能です。既に中央突破を仕掛けるために、敵の中央へ突
入中です。左右とも敵に防がれ、逃げ場がありません!﹂
メプラーの指示に部下が叫ぶ。第一陣に追いつき、中央突破を図
るため、鶴翼陣を敷く敵陣の中へ侵入しすぎていた。
﹁ならば後退だ。とにかく、あれから距離をとれ!﹂
﹁無理です! 光が⋮⋮墜ちて来て⋮⋮うあぁぁぁぁ!﹂
メプラーは、状況から慌てて後退するように指示を出したが、既
にその巨大な発熱体は、帝国軍の上空から王立軍の中枢へ向けて放
たれていた。
﹁最後は、こんなものか⋮⋮エリーゼ、フィナ。ここで終わる父を
許せ﹂
オラドは、敵の創りだした魔法の発熱体が、王立軍の将兵たちを
押しつぶしながら、自らに迫るのを見て、最後に最愛の娘二人の名
前を呟いた。
154
﹁王立軍本営は、ほぼ壊滅しました! 奴らは混乱の最中にありま
す。将軍、御指示を!﹂
﹁よし、今こそ我が帝国の力を見せる時だ。全軍突撃!﹂
リンエンのその声とともに、戦意を漲らせた帝国軍兵は我先にと、
指導者を失い混乱する王立軍兵たちに躍りかかる。
それからの戦いは、一方的な虐殺といえるものであった。完全に
包囲された第一陣は、次第に包囲網を縮められて、最後は降伏する
羽目となった。また司令部を失った第二、第三陣は帝国兵の攻勢に、
一方的に虐殺されていった。
﹁報告します。敵軍ですが、敵の第一陣は降伏。第二、第三陣はほ
ぼ壊滅しました。唯一、当初シャレム伯爵と戦っていた部隊のみ、
集合魔法の直撃を受けませんでしたため、依然戦闘を継続しており
ます。しかしその数も微々たるもので、既に撤退を図っているよう
であり、勝敗は決したものと思われます﹂
﹁ふむ。ではシャレムのやつに、追撃するよう命令を飛ばせ。ああ
いう裏切り者は、使える時に使わないとな﹂
リンエンは、連絡兵の報告を受けて、すぐさま追撃の指示を出す。
その後、後ろに控えていたロイスが、司令官のもとに別の報告を届
けた。
﹁将軍、ただいま前線より報告があり、敵軍司令官の国王オラド及
び副司令メプラーともに討ち取ったとの報告です。もっとも我らが
集合魔法グレンツェン・クーゲルの直撃を受けた時点で、事切れて
いたようですが﹂
﹁そうか、国王が死んだか。これで奴らは指導者を失った上、ほぼ
全ての機動戦力を失ったということか。では、残敵を一掃した後は、
ゆっくりと王都に向かうとするか﹂
155
﹁わかりました。しかしあのグレンツェン・クーゲルの威力は凄ま
じいですね。我が軍の力ではありますが、恐怖すら感じます。しか
しこの力があれば、クラリスだけでなく、うるさいノバミム自治区
も、魔法狂いのフィラメント公国も、そしてあのキスレチン共和国
さえも、もはや我が軍の敵ではないでしょう﹂
﹁ふふ、あまり先走るでない。まだ奴らの王都を落とすという仕事
が残っている。他国のことは、今回の戦いが終われば、ゆっくり考
えれば良い﹂
リンエンは、既にこの戦争に勝った気になり、今後の侵攻を口に
したロイスをたしなめた。
﹁これは失礼しました﹂
﹁まあ良い。では、ここの後片付けが終われば、戦勝の祝に兵達に
酒でも振舞ってやれ。休憩の後に、王都エルトブールへの進撃を再
開する﹂
156
敗戦
﹁クレイリー・アーム及びフート・ノーミック、ただ今、着任いた
しました﹂
﹁ご苦労、楽にしてくれ﹂
目が殆ど開いておらず、いつもの様に眠そうなフートと、フート
の剣を取り上げ、鞘に入れた状態で右手に持つクレイリーは、到着
の報告のため、親衛隊室の入口に立っていた。
ユイが二人に適当な椅子へ腰掛けるよう促すと、クレイリーは先
程までの真面目な表情が消え、いつもの様に禿げた頭に手をやりな
がら、部屋を見回した。
﹁しかし、旦那。またひどい部屋ですね。前のカーリンの戦略部の
ほうが、はるかにマシだったですぜ﹂
﹁そう言うなよ。私は気に入っているんだ。なんか物が少なくて落
ち着かないかい?﹂
﹁いや、椅子と机しか無い上に、全部作りがバラバラですからね。
これはやっぱり変ですぜ﹂
クレイリーは軍の中枢施設での勤務に、かなりの緊張を持ってい
た。しかし、以前と変わらないユイと、このチグハグな印象を受け
るかび臭い部屋に、すっかり緊張を解いていた。
﹁それで、ナーニャとクレハのやつは?﹂
﹁ナーニャは王都に着くなり、酒場にまっしぐらに走って行きまし
たからね、今頃酔い潰れているはずです。クレハのやつは、先に王
都の情報屋をめぐって、顔合わせをしておきたいと言っておりやし
た。たぶん、午後にはこちらに顔を出すと思いやす﹂
﹁まぁ、あいつらに団体行動は無理か﹂
157
ユイは、あの二人らしいと思いながら、思わず苦笑いを浮かべる。
﹁しかし、あっしたちが親衛隊なんて、本当ですかい?﹂
﹁ああ、今は王女の護衛に回ってもらっているカインスも含め、今
日付けでお前たちは、親衛隊所属の八位待遇だ﹂
ユイが何気なくさらっと説明すると、クレイリーは驚きの声を上
げた。
﹁は、八位ですか? あっしら、ただのカーリンの田舎兵ですぜ?﹂
﹁いや、お前たちはもう親衛隊で軍務庁舎勤務だから。普通に考え
て、最低でも八位待遇なんだよ。もっとも、今後はもう少し昇進し
てもらって、それぞれに小隊を率いてもらうつもりだから﹂
ユイがそう告げると、クレイリーは両手を禿げた頭を覆い、﹁マ
ジかよ⋮⋮﹂と思わず漏らす。
一方、昇進を告げられたはずの、もう一人の当人であるフートは、
昇進や今後の待遇にも全く興味が無いかのように、机に突っ伏して、
スヤスヤと寝息を立てていた。
クレイリーは、やや時間を置いて動揺から立ち直り、王都につい
て以降のユイとカインスの経過を聞いていると、突然、親衛隊室の
ドアが開けられた。
﹁ユイ、まずいことになった⋮⋮﹂
﹁どうしたんだい、アレックス?﹂
普段はいつも笑みを絶やさないアレックスが、珍しく表情を消し
ていたため、ユイは本当にまずいことが起こっていることを予感し
た。
﹁⋮⋮防衛軍が負けたよ。さっきから王城は大騒ぎだ。もうすぐ軍
務庁舎にも報告が来ると思うけど、先に伝えておこうと思って﹂
158
﹁そうか、負けたか。アーマッド先生が危惧した通りになったな⋮
⋮﹂
ユイは敗北の意味を飲み込むと、はっとしたように椅子から立ち
上がり、アレックスに詰め寄った。
﹁アレックス! アーマッド先生は、アーマッド先生はどうした?
先生は無事なんだよな?﹂
﹁わからないんだ。防衛軍は死者以外、ほとんどが降伏して捕虜と
なるか、戦場を逃げ出してしまった。王都に戻ってきたのは、伝達
用の連絡兵のみだ﹂
﹁そう⋮⋮か﹂
ユイはアレックスの言葉に力をなくすと、そのまま肩を落として
うなだれた。
﹁⋮⋮ただ一つわかっていることは、帝国軍は一万を超える大量の
魔法兵を使用して、集合魔法を使ったらしい﹂
﹁一万人の集合魔法だと! 集合魔法は通常は数人で行うものだが、
それだけの規模でやれば⋮⋮﹂
ユイは大規模集合魔法が使われたと耳にして、驚きを隠すことが
できなかった。それは一般的な常識として、集合魔法は最大でも五
人程の魔法士で行うことが限界とされていたためである。
そもそも彼等の扱う魔法とは、世界における万物の法則に新たな
法則を書き加えることである。自らの魔力を触媒にして、自身で編
んだ魔法の法則を世界の法則に同調させ、自らの意図する情報を世
界の法則に書き加える。そうすることで初めて、本来その場に存在
しない火や水や氷といった現象を、世界に現出させることができる。
そうした魔法を使う上で、自身の魔法の法則と世界の法則とを同
調させることがすべての鍵とされている。例えばほとんどの魔法を
扱えないユイは、自身の魔法と世界のそれとを同調することができ
159
なかった。つまり、仮にどんなに優れた法則を作り出せる魔法士が
いたとしても、世界との同調が出来なければ何一つ変える事はでき
ないのである。
逆に集合魔法のように多数の人間で同時に同調さえ出来れば、世
界の法則を大きく書き換える事ができる。これこそが集合魔法の原
理であった。
﹁ユイ、どうする?﹂
﹁策が必要になる。楽して勝つためにはね。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
﹁上層部が私を使うかさ⋮⋮もっとも降伏して、帝国の下での人生
の方が、楽かもしれないけどね﹂
ユイはそう言って、苦笑いを浮かべると、二度頭を掻いた。
﹁嘘! そ、その報告は、本当なの?﹂
エリーゼは、王城の一室で、リュートからの報告を受けていた。
﹁はい、我が軍はほぼ壊滅。国王陛下を始め、軍務大臣メプラー様、
魔法省次官ネキシム様は戦死。また参謀長であったアーマッド様は
行方不明。防衛軍は全体の七割にあたる四万人規模の犠牲が出た模
様です﹂
﹁お、お父様が⋮⋮﹂
エリーゼは、一瞬失意のあまり、目の前が真っ暗となり、周囲の
音が聞こえなくなった。
彼女の幼い頃から、自分に甘く、そして時に厳しかったオラドの
姿が、脳裏を駆け巡る。その中のオラドは、いつも彼女のお転婆ぶ
160
りに呆れながらも、最後まで彼女の面倒を見てくれていた。
わずかの時間、王女の時間は静止していたが、ゆるやかにその目
に光が戻ると、今後の責任感が彼女を包み、さらなる報告をリュー
トに求めた。
﹁それで帝国の奴らは、今はどうしていますの?﹂
﹁はっ、敵軍はそのままゆるやかに王都に向けて進軍中とのこと。
現在はメニエル公爵が、私兵を持って南部の最終防衛ラインを築い
ておられますが、そこを突破されますと、おそらくあと四日ほどで、
当地にたどり着くと思われます﹂
﹁仕方ありません。早速、王都防衛のために準備をしましょう。メ
プラーがいない今、現状の軍務省の官僚で最高位のものは?﹂
エリーゼの問いに、リュートは口ごもってしまった。
﹁そ、それが陸軍省次官のワインドリッヒ閣下と戦略省次官のミオ
ーネン閣下であるのですが⋮⋮﹂
﹁どうしたの? すぐ防衛のための打ち合わせをするから、彼らを
呼んで来てくれないかしら?﹂
エリーゼの瞳は、リュートの答えを避ける動きにを見て、良い事
態が起こっていないと理解した。
﹁い、いえ、実はお二方ともいらっしゃらないのです﹂
﹁なんですって!﹂
現在の軍部の頂点に位置する二人が、責任を放棄して、見当たら
ないという事実にエリーゼは思わず大声を上げてしまう。
﹁本日は軍務庁舎に登庁されておらず、確認に行きました兵士が申
すところ、既にご自宅はもぬけの殻でして⋮⋮﹂
﹁まさか軍の中枢の人間が、逃げ出したというの? この国の民を
161
見捨てて﹂
﹁非常に申し上げにくいことですが⋮⋮﹂
エリーゼは一瞬激怒しかけたが、リュートの悲痛な声色に、彼に
責任があるわけではないと思い直した。
﹁わかりました。お父様がいない今、この国の最高責任者は私です。
私の権限で、彼ら二人は更迭とします。たとえ理由があるにせよ、
今は使える人材が必要なの。だからすぐに呼んでほしい方がいます﹂
そう言って、リュートにその人物への連絡を託すと、彼に退室を
命じた。
﹁お父様⋮⋮﹂
自分以外誰もいなくなった、その空間で、十七歳の少女の泣き声
だけが、その場に響いていた。
アレックスからの敗戦の報告を受けて四時間後、ユイは軍務大臣
命令で呼び出しを受けた。メプラー亡き今、軍務大臣は空席となっ
ているはずではと訝しみながら、クレイリーを伴って、四階の軍務
大臣室に向かうと、部屋のドアをノックした。
﹁入りたまえ﹂
部屋内からの許可の声を受け、軍務大臣室の重厚なドアを開ける。
するとそこには、一人の白髪の交じる灰髪の老人が、窓の外を覗く
ように、ユイたちに背を向けて立っていた。
﹁貴方でしたか⋮⋮お久しぶりです、ラインバーグ閣下﹂
162
﹁ああ、呼び出してすまんね、ユイ﹂
背中を向けていた老人は、ユイたちに向き直る。ユイは3年ぶり
のラインバーグの姿に感慨深いものを感じていた。
﹁お元気にされていましたか?﹂
﹁もちろんだ。君は相変わらずのようだがね。さて、ここに呼び出
したということは、どういうことかわかるかね?﹂
﹁ええ、軍務大臣命令にて呼び出されましたから。御昇進おめでと
うございます﹂
ユイはそう言って、敬礼を行い、同伴してきたクレイリーも慌て
てそれに習った。
﹁ふふ、楽にしてくれ。だいたい、今にも潰れかかった国家の大臣
になったといっても、昇進と呼べるかはわからないしな。実際、王
女の気まぐれじゃないかと思っておる﹂
﹁ははは、それは有り得る話ですね﹂
ユイは場の空気を楽にさせようとする、ラインバーグの言葉に、
思わず笑みを浮かべた。
﹁さて、ユイ。今日呼んだのは他でもない。君に頼みたいことがあ
るからだ﹂
﹁頼みたいことですか⋮⋮﹂
﹁もう一度、そう、もう一度だけ、私のために働いてもらえないか
?﹂
そう言ったラインバーグは、ユイに向けて頭を下げた。
﹁止めてください。私の部下も見ているじゃないですか﹂
ユイは軍務大臣であり、以前の彼の上司であったラインバーグが、
自分に対し頭を下げたことに、動揺を隠せなかった。
163
﹁君が、私のために手を尽くしてくれて、結局そのせいで、君を中
央から地方へ追いやってしまった。そんな私に、君に物事を頼む資
格など無いのかもしれない。だが、君にしか頼めないと私は思って
いる﹂
そう言って、頭を下げることをやめないラインバーグに向かい、
ユイは歩みを進めると、その肩にそっと手を置き、ゆっくりと頭を
下げることをやめさせた。
﹁閣下はいつも私を過剰に評価され過ぎます。あの時も私は自分の
好きな上司のもとで、楽をするために働いただけです。そして今回
も自分の好きな上司のもとで、戦後に楽をするために働く。ただそ
れだけです﹂
ユイはそう言って、ラインバーグに向けて恥ずかしげに苦笑いを
浮かべると、ラインバーグも悲痛な表情が和らぎ、ぎこちなく笑み
を返した。
﹁では、ユイ。お願いできるだろうか﹂
﹁局長、いえ、今は軍務大臣でしたね。私の出来る限りで良ければ、
微力を尽くします﹂
ユイは、彼の中でも珍しく、自らの意志で、この男のために戦お
うと決意した。
﹁そうか、そうか、ありがとう﹂
﹁では、私の方からも閣下にお願いがあるのですが。よろしいでし
ょうか?﹂
﹁願いかね。もし私にできることなら、なんでも言って見たまえ﹂
ユイの意外な申し出に、ラインバーグはやや虚を突かれた表情を
浮かべたが、ユイの願いを引き受けようと考えた。
﹁実は、今度の戦いのために考えた作戦が、いくつかあるんです。
164
もしよろしければ、その許可を頂きたいのですが⋮⋮﹂
﹁作戦かね? 言ってみたまえ﹂
王立軍が防衛戦で敗れた報告が届いてから、ほんの六時間前後で
あるにもかかわらず、既に作戦を立てていることに、ラインバーグ
は驚き、そしてその内容に興味をいだいた。
﹁はい。王都に残る防衛軍は、五千にも満たない数です。これを集
合魔法という切り札を持ち、四万人に近い兵士を有する帝国軍に、
真っ向から攻められては、ひとたまりもありません。ですので、い
くつかの策を持って戦いたいと、考えております﹂
初めて見るユイの決意に満ちた表情に、ラインバーグは彼の作戦
に王国の運命をかけることを、この時決断した。
﹁分かった、全て君に任せよう﹂
﹁ありがとうございます。では作戦を説明させて頂きます。その前
にクレイリー、今すぐここにクレハの奴を呼んでくれ﹂
165
内紛
王都へ敗戦の報告が届いた翌々日、ユイは今後の防衛体勢の命令
を受けるため、王城の謁見室へと呼び出されていた。
その場には、命令者となるエリーゼが、国王代行として玉座に座
る。そして左方に軍部の代表として軍務大臣となったラインバーグ
を始めとする軍上層部が並ぶ。一方、右方には内政部の代表として、
四大大公の一人であり、王国宰相であるヤルム公爵をはじめとした
高級官僚が順に並び、一堂に会していた。
﹁イスターツ親衛隊長﹂
﹁はい﹂
名前を呼ばれたユイは、返事を返し、軍部の列から一歩前に進む
と、エリーゼに正対する姿勢から、片膝を折り、頭を垂れる。
﹁ユイ・イスターツ。この度の帝国との戦にて、あなたを王都防衛
司令官に任命します﹂
﹁お、お待ちください﹂
その王女の言動に驚いたものは、その場の大多数であったが、王
女に向かい意見するための声を上げたのは、ヤルム公爵のみであっ
た。
﹁宰相、一体なんですか?﹂
﹁エリーゼ様、我が国の歴史において、王都防衛司令官は過去三名
を数えます。しかしながら全て王族、もしくは四大公爵家から排出
してきた慣わしです。いくら親衛隊長に任命して、お気に入りだか
らといって、そのような下賎な平民出身の者を任命することは、決
してなりません﹂
166
ヤルムは首を左右に振りながら、エリーゼに向かって力説した。
﹁私はこのユイ・イスターツに救われました。彼の者の能力を信頼
しています。このユイ・イスターツの力がなければ、例え王都が滅
ぼされる可能性があろうとも、貴方は反対なのですか?﹂
﹁お待ちください。この程度の男がいなくとも、まだ負けると決ま
ったわけではありません。それに万が一負けるにしても、節度と誇
りある負け方というものがあります﹂
﹁誇りある負け方とは何ですか! あなたは、あなたたちの自分の
自己満足のために、この国の︱︱﹂
﹁落ち着いてください、エリーゼ王女﹂
ユイは王女を止める為に声を上げると、少し考えこむような仕草
を取った後に、ヤルムを挑発した。
﹁王族か四大公爵家というのならば、ド素人のあなたが防衛戦の指
揮をとるのですか?﹂
﹁なにを舐めた口を。ふん、わしは宰相だ、そんなことをするわけ
がないだろう﹂
﹁だとしたら誰がするんですか? まさかエリーゼ王女に戦場に立
てというつもりですか?﹂
﹁そんなわけがあるか。ラインバーグ殿がなされれば良いだろう﹂
ヤルムの発言に、ユイは肩をすくめて否定する。
﹁失礼ですがヤルム公爵。王族か公爵家から王都防衛司令官を出す
べきだと仰ったのは、あなた御自身ではありませんか? それとも
お年のため、もう記憶をなくされましたか?﹂
﹁ううっ。ふ、ふざけるな!﹂
ユイの詰問に、ヤルムは思わず口ごもりながらも、怒気を上げた。
そこに反対側の列から、声が上がった。
167
﹁ならば、エインスにやらせればよい﹂
六位に過ぎません。その上、
その言ったのは、軍務大臣のラインバーグであった。
﹁ラインバーグ閣下、彼の者は未だ
私の部下に、私が従えと?﹂
﹁そうだ、あいつは公爵家の嫡男であるし、それに王都防衛司令官
は位階とは無関係の役職とされている。司令官を務めるのになんの
問題もない﹂
ラインバーグの声が謁見室に響くと、そこかしこから、同意を示
す相槌の声が広がっていった。
﹁そ、そうだ、ライン公の長男がおったではないか。貴様も王都で
働くのなら、身分というものを考えなおすのだな。ちょっと階級が
上がったからといって、増長しおって﹂
ユイはヤルムの発言に、彼を睨めつけるような視線を送ると、そ
の場から立ち上がり、王女に対して背を向けてしまった。
﹁そういうことでしたら、私はこの防衛戦を、降りさせて頂きます。
馬鹿馬鹿しい﹂
そう言って、謁見室の入り口へと歩み出すユイに対して、エリー
ゼは慌てて声を投げかける。
﹁待ちなさい、イスターツ。短気を起こさないで﹂
﹁エリーゼ様、短い間でしたが、お世話になりました﹂
ユイは振り返って、頭を一度下げると、そのまま謁見室から出て
行ってしまった。
﹁ふう、あの男の本性が知れたな。所詮、成り上がりの卑しい犬に
過ぎなかったわ﹂
﹁ヤルム宰相、なんでこんな大事な戦いの前に、このような無駄な
168
言い合いをするのですか? 普段の貴方は、こんな馬鹿げたこと言
わないのに⋮⋮﹂
エリーゼは、ユイを追い出すこととなってしまった、ヤルムの言
動に怒りを隠せなかった。
﹁ことが普段ではないからですよ、エリーゼ様。今にもこの国は攻
めこまれんとする危機なのです。あのような何処の馬の骨かわから
ないものなど、とうてい司令官に認めることはできません。申し訳
ありませんが、こればかりはお譲りできません﹂
ヤルムは首を左右に振って、そう答えた。
﹁ラインバーグ、防衛司令官はいったいどうするの?﹂
﹁私は高齢で、既に戦場に立てる体ではありません。そして、慣習
に従うなら、やはり公爵家の嫡男である、エインスが良いかと﹂
ラインバーグは、自らの出陣を否定し、エインスの司令官職を勧
めた。
﹁こんな危機の時に、慣習だなんて⋮⋮でも、あなた達がそう言う
ならば、それしかないようね。仕方ない、エインス・フォン・ライ
ンをすぐ呼んでくださるかしら。彼を王都防衛司令官職と第二代親
衛隊長に任命するから﹂
エリーゼは、肩を落としながら、そう告げると、すぐに侍従のも
のがエインスへ連絡を取るために、駆け出していった。
169
裏切り
遠くにエルトブールを望む王国南部平原に、戦勝に湧く帝国の軍
勢は続々と集っていた。そして彼らの指揮を執るリンエン将軍の元
へ、奇妙な報告が届けられたのは、総攻撃を開始する当日の朝のこ
とであった。
﹁将軍、実は奇妙な男が、将軍に会いたいと申しておるのですが﹂
﹁奇妙な男? どんなやつだ?﹂
﹁はっ、それがユイ・イスターツと名乗る黒髪のだらしなそうな男
でして、どうも﹃自分はクラリス王国の真の王都防衛司令官﹄だと
言っておるのですが⋮⋮﹂
判断に迷ったリンエンは、背後に控えるロイスに尋ねた。
﹁ロイス、どう思う?﹂
﹁そうですね、そんな役職の男が、一人でここに来るとは考えにく
いかと。ただ、イスターツという名前に聞き覚えがあります﹂
﹁ほう、どんな内容だ?﹂
ロイスのその発言に、リンエンは興味を示した。
﹁クロセオン山脈の魔石入手部隊に送り込んでいた、我が軍の優秀
な魔法士を倒し、クラリス王国の第一王女を助けた男の名前が、た
しかイスターツであったかと﹂
﹁ふむ、面白いな。では至急、諜報部にイスターツという男の情報
を洗わせろ。そして奴がその本人であることが間違いないなら、面
会に応じても良かろう﹂
リンエンは興味深そうに笑うと、ロイスは心配そうな顔つきを浮
かべ、上官に尋ねた。
170
﹁よろしいのですか?﹂
﹁かまわん、かまわん。どうせ総攻撃まで時間があるしな。時間つ
ぶしぐらいにはなるだろう﹂
そう言って、リンエンは部下たちに指示を出すと、部下はすぐさ
ま諜報部へ、照会の連絡を送った。
ユイは帝国軍陣地に到着してしばらく待たされた後に、彼はリン
エンへの面談にこぎつけることができた。
﹁さて、君は?﹂
﹁はい、ユイ・イスターツと申します﹂
リンエンの問いに、頭を下げてユイは答えた。
﹁それでなんの用があって、我が陣まで来たのかな? 見たところ
丸腰で、戦う意志はないようだが﹂
﹁はっ、出来ましたら、閣下のもとで、働かせて頂きたいと思いま
して﹂
﹁ほう、君は祖国を裏切るというのかね?﹂
一人で来たことと、諜報部からの連絡で、ユイが王国軍を裏切っ
て来たことは、リンエンは既に予想していたが、あえてユイの前で
知らないふりをした。
﹁実は、私は王都の防衛指揮官となる予定でした。しかし王国の貴
族どもの横槍で、お飾り貴族のぼんぼんに、その座を明け渡すこと
となりました。私は私の実力をちゃんと評価して貰える場所で働き
たいのです﹂
ユイは、歯ぎしりするように悔しそうな表情を浮かべ、リンエン
に訴えた。
171
﹁ほう、面白いな。たしか先日、君の部下であるライン公の嫡男が、
君がなるはずであった王都防衛司令官になったようだな。君の就任
を反対した、ヤルム大公の後押しもあってね﹂
﹁はい、私の司令官への就任の直前に、ヤルム公爵からの横槍が入
りまして。し、しかし、なぜあなた方が⋮⋮まさか我が軍に、私以
外にもあなた方の元にいる者が⋮⋮﹂
リンエンは、ユイのその驚愕の表情に、思わず笑みをこぼし、気
分を良くした。
﹁ふふふ、その通りだよ。私たちの諜報員は優秀だからね。おかげ
で王都の面白い話を聞かせてもらったよ。まさかこんな時にも面子
のために、内輪もめをしているなんてね﹂
﹁返すお言葉もございません﹂
その言葉を吐くと共に、ユイは恥じ入るように更に顔を下げた。
﹁さて、ではせっかく司令官になる予定だった君が来てくれたのだ。
良ければ王国軍の計画していた、防衛戦のやり方を教えて欲しいの
だが?﹂
リンエンは、ユイが本物であるとわかった段階から、彼に尋ねて
おきたかった内容を切り出した。ユイは一瞬だけ戸惑いの表情を浮
かべたが、ゆっくりとした口調で話し始めた。
﹁⋮⋮はい、私は帝国へお仕えするつもりで来た身です。ご協力で
きることなら、なんなりとお話致します。実は我が軍の防衛の基本
方針としては、当初は二つの意見が出ておりました﹂
﹁ほう、二つの意見かね。良かったら聞かせてもらおうか﹂
﹁はい、一つは総力戦を挑む案、そしてもうひとつは籠城策です。
まず総力戦ですが、これは、今の王国軍が帝国軍の兵数に比べ、一
割前後にすぎないうえに、あなた方の集合魔法の的にされては、一
172
瞬で決着が付きます。ですので、すぐに検討することさえなくなり
ました﹂
ユイの語る作戦案の困難さに、リンエンも大きく頷き、更に話を
促した。
﹁なるほど、それはたしかにそのとおりだろうね。それで籠城策は
どうかね﹂
﹁はい。籠城策ですが、これにも致命的な問題があることが、会議
ですぐ判明しました﹂
﹁問題かね?﹂
﹁ええ、籠城戦で勝利するには、帝国軍の補給線に支障が生じるか、
後詰の兵士が必要です。しかしながら、貴国が、侵攻前に穀物を買
い占めていたことはわかっており、ましてや現在の王国軍に援軍な
ど⋮⋮﹂
﹁そうだね。われわれも君たちが籠城策をとっても良いように、十
分な補給の体制と、援軍に対する警戒を行なっている。その策では
我が軍に勝つことはできないだろうね﹂
リンエンは帝国が長期戦を想定して、穀物を買いあさり、物価高
を起こしていたことは、クラリス王国に感づかれていると考えてい
たため、王国軍が籠城策を取らないことは、一理あると考えた。
﹁更に籠城策においても最大の問題は、あなた方の集合魔法です。
通常の魔法程度では小揺るぎもしませんが、あれを使われれば、い
かに強靭なエルトブールの城壁でも、おそらく突き破られるでしょ
う。そうすれば、あっという間に城内へ攻めこまれ、敗北は必至と
考えていました﹂
﹁ふむ、我々も、君たちが籠城策を取れば、そのように対処するつ
もりだった。さて、では君は二つの案があったと言ったが、そのど
ちらもダメということになるな。だとしたら君たちはなにも手を打
たず、我らに飲み込まれるつもりだったのかね?﹂
173
リンエンはユイの語る内容に疑問を持ち、更に尋ねた。
﹁いえ、ですので、私たちは最終的に第三の案を採用する予定でし
た﹂
﹁聞かせてもらおうか?﹂
﹁はい。当初は籠城策をとり、あなた方が城壁にあの集合魔法を打
ち込んだタイミングで、全軍で総力戦に挑む。つまり二つの案を合
わせた策ということになります。最初に考えた二つの案の最大の問
題事項は集合魔法ですが、あれだけ膨大な魔力を使う魔法です、お
そらく連発はできないのではないですか? 仮にそうだとすれば、
城壁を破るときに、あの魔法を一度使わせる事が出来れば、その後
著しく不利だとしても、まだ戦いにはなると考えておりました﹂
﹁なるほどな。確かに筋が通っている。私が王国軍の立場でもその
手を取るしか無いだろうな。では、あえて君に聞こう。王国軍の策
を知った、私達はどうすれば良いかな?﹂
ユイはそのリンエンの問いに、僅かな迷いを表情に浮かべたが、
何かを振り払うかのように、左右に首を振ると、再び口を開いた。
﹁私達がこの第三案を使うと決めた際に、最大の懸念事項は、魔法
士たちの位置取りでした。王国軍の作戦は、二発目の集合魔法を撃
たれる前に、魔法士を殺害し、混乱を起こすことにあります。です
から、まず集合魔法を唱える魔法士たちを最後衛に控えさせたうえ
で、前面を歩兵と騎兵で固められることが良いかと思います。前面
を固めて、突撃してきた王国軍をそこに辿りつけなくしてしまえば
よいのですから﹂
ユイの語る対抗策が筋の通ったものであり、ここまでの内容が全
て真実であると確信したリンエンは、笑みを浮かべると、大きく二
度頷いた。
﹁おもしろい。いいだろう、君の投降を認めよう。もし今回の私た
174
ちの作戦が成功すれば、この土地の帝国士官として取り立てられる
よう、皇帝陛下に掛けあってみてもいい﹂
﹁ありがとうございます。私に出来ますことなら、なんなりとおっ
しゃってください﹂
ユイはそう言って、再度深く頭を下げると、警備の兵士に連れら
れて、陣外へ誘導された。
﹁出てきていいぞ﹂
リンエンのその声を合図に、ユイからはわからないように、陣の
死角に潜んでいたシャレムが、リンエンの前に姿を表した。
﹁シャレム伯、彼はどうかね?﹂
﹁ふむ、私も彼にはかつて煮え湯を飲まされましたからな。計算高
い彼のこと、本心で脱出した可能性も高いとは思いますが、念のた
め、軟禁でもして置かれるがよろしいでしょう。もし私にお任せい
ただければ、すぐにでも処置致しますが﹂
シャレムは、やや歪んだ笑みを浮かべて、リンエンに頭を下げた。
﹁ふむ、彼から引き出すべき情報は、十分に引き出せたしな。分か
った。貴公に一任しよう。いいようにしてくれ﹂
シャレムは、その言葉を受けると、再度頭を下げ、すぐに部下を
引き連れて、ユイの後を追った。
175
脱出
ユイはリンエンとの面談の後、帝国軍陣地の一番外れにある、物
資集積代わりのテントへ案内されると、中で待機するよう告げられ
た。そしてその入り口には見張りとして一名の兵士が、付けられて
いた。
ユイはその見張り兵に対し、いろいろ話しかけてみたが、彼は何
一つ表情変えること無く、無言のままユイを監視していた。
﹁さて、参ったね、これは﹂
その兵士の反応を見て、ユイは手持ち無沙汰となってしまった。
そうしてテント内で横になって、昼寝でもしようかと思った時に、
先程まで顔色一つ変えなかった兵士が、急にテント外に呼ばれると、
そのまま追い払われてしまった。
そして、その後兵士を追い払ったユイのよく知っている男が、二
名の部下を背後に引き連れて入ってきた。
﹁やあ、ユイくん。久し振りだね﹂
﹁これはこれは、シャレム次官。お久しぶりです﹂
ユイが笑みを浮かべて、そう返事を返すと、シャレムも愛想笑い
を浮かべながら、口を開いた。
﹁ふふ、今の私は、帝国のクラリス方面軍第四大隊長だよ。そのよ
うな古い名称で呼ぶのは、やめてもらおうか﹂
﹁と言うことは、この戦争が始まる前から、帝国側に寝返っておら
れたのですか?﹂
ユイの問いに、シャレムは笑みを浮かべたまま、たるみきった二
重顎を一度縦に動かした。
176
﹁その通りだよ。君とラインバーグに軍を追われた後、私は自らの
領地に戻っていたんだがね。そこで彼らが声をかけてくれたわけだ﹂
﹁なるほど。つまり閣下が、今回のことを手引きされたわけですね﹂
﹁まあ、そういうことだよ﹂
その言動とともに、シャレムは得意げな表情を浮かべた。
﹁しかし、これからは閣下と、また同じ旗のもとで戦うことになる
とは、不思議な気分です﹂
﹁そうかい。そう言ってもらえると嬉しいが、残念ながら、その日
は訪れないよ﹂
﹁なぜです?﹂
ユイはシャレムの言い方に、不穏な気配を感じ取り、すぐさま尋
ねた。
﹁君のような危険分子を、戦闘前のこの時期に、手元においておく
のは危険過ぎる。それに、寝返って祖国を手にするものは一人でい
い。二人は不要なのだよ。だからここで消えてもらう﹂
﹁ふぅ、そうですか。ちなみにリンエン将軍も、このことはご存知
で?﹂
ユイはこの指示がどこから出ているかを確認するため、リンエン
の名前を挙げた。
﹁いや、軟禁するように指示は受けたがね。まぁ、貴様の裏切りが
偽りで、私に反抗してきたので、仕方なく殺したとでも報告するさ﹂
そうしてシャレムは右手を上げると、後ろに控えた二人の屈強な
兵士が、シャレムの前に進みユイを見下ろす。そして、右手にいた
兵士は、大きく拳を振りかぶった。
﹁グホっ﹂
177
その兵士は振りかぶった拳をユイの腹部に叩きこむと、ユイは思
わずのけぞった。そこにもう一方の兵士の蹴りが、顔面のど真ん中
に入り、その勢いのあまりに、ユイは地面を転がされる。
﹁さて、どうせ殺すにしても、多少は私の怒りを感じてもらわない
とね﹂
﹁は、はは。ええっと、私は痛いのは嫌いなんですけどね。もう少
し加減してもらえませんか?﹂
ユイは蹴られた顔と、殴られた腹部を、それぞれ片手ずつで抑え
ながら、シャレムに向かい、ぎこちない笑みを浮かべた。その表情
は一層シャレムの怒りを駆り立てた。
﹁ふん、君の希望を、誰が叶えるものか。私を嵌めたことを後悔し
て、死んでもらわないとな。さて、再開だ。やれ!﹂
シャレムがそう言い放つと、再びシャレムの護衛の兵士が、ユイ
に近づいてき、拳を振りかぶる。ユイは、それから走るであろう痛
みを覚悟した、まさにその時である。入り口の見張り兵がいなくな
っていたためか、大きな革袋を抱えた黒髪の小柄な侍女が、鼻歌交
じりに歩きながら、偶然倉庫の中に入ってきた。
﹁きゃあ!﹂
その侍女は、その光景を見て、思わず立ちすくんでしまった。
護衛の兵士は、その侍女に気づくと、殴るのを一時やめて、指示
を乞うかの様に、シャレムに視線を移す。
シャレムは、予想外の珍客に、やれやれとばかりに首を左右にふ
り、口を開いた。
﹁お嬢さん、死にたくなければ、そこの隅でおとなしくしてなさい。
178
でないと、後悔することになりますよ﹂
侍女はシャレムの言葉に、コクコクと何度も頷き、その場にへた
り込んだ。シャレムたちはそれを確認すると、改めてユイに向き直
る。
﹁さて、あまりのんびりしていると、他にも誰か来られては面倒で
すからね。残念ですが、ここで消えてもらいましょうか﹂
﹁シャレム次官、許してもらえませんか。私は働くのと、痛いのは、
苦手なので⋮⋮これ以上は⋮⋮﹂
ユイは、命乞いをするかのように、シャレムに向けて言葉を発す
る。しかしシャレムは、その追い詰められたユイの姿を見て、愉悦
の表情を浮かべた。
﹁ふふふ、君はこれから、労働や痛みの全てから開放されるのだよ。
むしろ感謝してほしいね。では、私を嵌めたことを、あの世でも悔
いるがいい。死ね!﹂
﹁いいえ、貴方たちが死になさい﹂
突如、シャレムの後ろから声が上がると、ユイを殺そうとしてい
た二人の護衛兵の首に、短刀が突き刺さり、二人同時にそのまま力
なく崩れ落ちた。
その兵士たちの背後には、先ほどまで部屋の隅で震えていた小柄
な黒髪の女性が立っており、その両手には血を滴らす短刀が、逆手
持ちの形で握られていた。
﹁クレハ、遅い!﹂
﹁隊長が、こんなわかりにくい場所に連れ込まれるからでしょ。こ
の侍女の服を借りるのにも、骨が折れたのよ。あと、これ、エイン
179
スさんから預かってきたから﹂
そう言って、革袋の中に入っていたユイの刀を取り出すと、ユイ
に投げつけた。
﹁さて、立場が反対になりましたが、シャレム伯爵﹂
﹁くそ、やはり裏切ったのは擬態だったのか。この卑怯者め﹂
﹁はは、嘘から出た誠というやつですね。それでもさすがに貴方に
言われるのは、心外ですよ﹂
ユイは首を左右に振りながら、シャレムの言動を否定した。
﹁くそ、このいやしい庶民めが。一度ならずも二度も、この私のじ
ゃまをするか。貴様ごときの下賎な民が︱︱﹂
﹁うるさいブタね。黙りなさい﹂
そう言って、クレハは、話途中のシャレムの首を一閃すると、シ
ャレムはそのまま事切れた。
﹁あ∼あ、こいつを拘束して、後で国内での背後関係を吐かせよう
と思ったのに﹂
﹁今、ここにこいつを拘束して監視をする人員は居ないわ。諦めな
さい。それよりそろそろ準備に掛からないと、まずいんじゃないの﹂
クレハは、ユイの愚痴には付き合っていられないとばかりに、話
を打ち切ると、ユイに急ぐように促した。
﹁はぁ、仕方ないか。では、こいつらの物をちょっと拝借するかな﹂
そう言ったユイの視線は、倒れた兵士に向けて注がれていた。
180
クラッカー
﹁よし、では作戦通り歩兵と騎兵は前衛として前へ! 魔法士は後
方にて隊列を確認し準備を始めよ!﹂
リンエンの命令が王都南部平原に響き渡る。ユイがリンエンと面
談した3時間後、作戦案を修正したリンエンは、エルトブール攻略
を開始した。
﹁全魔法士隊、準備しろ。目標、敵王都城壁!﹂
リンエンの掛け声とともに、魔法士に集合魔法の準備を行わせた。
リンエンが作戦案を修正する前は、王都に残った防衛軍の兵士を釣
り出す方法も検討されていたが、ユイから得た情報を元に、リンエ
ンは開戦とともに、集合魔法をまず城壁へ打ち込むことを決断した。
具体的な作戦としては、前衛を歩兵と騎馬兵で固めた上で、グレ
ンツェン・クーゲルにて、王都の城壁に穴を穿つ。そして魔法を打
ち終わったと思い、慌てて飛び出してきた王国軍兵たちを弓矢にて
狙い撃ちにするというものであった。これはユイの話した内容が、
妥当性を有していたため、作戦案の原形として十分に使用に耐えう
ると、リンエンが判断したことによる。
﹁グレンツェン・クーゲル﹂
最後尾に位置した魔法士隊長が、世界と同調するため呪文を唱え
ると、他の魔法士たちも一斉に精神を集中させ、隊長の頭上に視線
を向ける。そうして隊長が自分の頭上に小さな魔法の光の弾丸を生
み出すと、その瞬間、他の魔法士たちは一斉に同じ呪文を唱える。
181
﹁﹁グレンツェン・クーゲル!﹂﹂
一斉に唱えられたその呪文の声が、周囲に響き渡った瞬間、隊長
の頭上に浮かぶ魔法の弾丸は光と熱を放ちながら、みるみるサイズ
を増して、肥大化していく。
﹁放て!﹂
隊長の叫びが響き渡った瞬間、全ての魔術師が全魔力を込めると、
魔法の弾丸はゆるやかに速度を増しながら、エルトブールの城壁に
向けて、まっすぐに疾走を始めた。
その頃、エルトブールの王城では、次第に肥大化して行く集合魔
法の光に、城内は大騒ぎとなっていた。城内に務める侍従たちは、
部屋の片隅に震え、内政部の官僚たちは、すでに逃げ支度を行なっ
ていた。
そんな王城のバルコニーで、エリーゼは、城下町の人々が、怯え
ながら必死に避難しているさまを見ていた。そして一度目をつぶる
と、視線を上げ、城壁の向こうの平原で、帝国が生み出した集合魔
法が次第に増大していく様を見つめる。
﹁終わりなのかしら⋮⋮この国も﹂
王女は、その光景に足が震えていたが、バルコニーの手摺にしっ
かりと捕まり、決してその光景から逃げ出そうとしなかった。
182
﹁ご不安ですか?﹂
突然、後方からかけられた声に、エリーゼは驚く。慌てて振り返
ると、そこにはリュートがいた。
﹁リュート、あなたは残っていたのね?﹂
﹁はい。私はあなたの護衛ですから﹂
そう言って、リュートは王女のとなりに立つと、視線を肥大した
集合魔法へと向けた。
﹁この国は終わりかしら?﹂
﹁いえ﹂
リュートは、集合魔法から目をそらすこと無く、王女の言葉を否
定した。
﹁気休めはいいのよ。あんなものがこの国に打ち込まれたら、この
国は⋮⋮﹂
不安げに両手で自らの両肩を抱きながら震えるエリーゼを見て、
リュートは口を開いた。
﹁大丈夫です、エリーゼ様。あなたもご存知のはずです。あんなも
のがこの国に打ち込まれたら、この国は大変なことになる。そんな
面倒事を嫌う、誰よりも有能な昼行灯が、この国にはいることを﹂
リュートは、依然表情を変えること無く、淡々とそう述べると、
エリーゼは驚いて、隣にいるリュートの顔を見た。
﹁え、それって⋮⋮﹂
﹁あの馬鹿が、こんな事態の時に仕事をし損ねたことを、私は見た
ことがない。つまりそういうことです﹂
エリーゼの方を向き、どこか悔しげに、そしてどことなく誇らし
げにリュートはそう言うと、再び正面を向き直り、城壁に向けて疾
183
走を始めた集合魔法を睨みつけた。
魔法士隊が、呪文をとなえ、集合魔法が完成すると、前線にいた
リンエンは、満足そうに頷いた。そしてその巨大な光の弾丸がゆる
やかに加速を始め、自分の頭上を越えて行った瞬間、リンエンは馬
上で呟いた。
﹁勝ったな﹂
しかし、その呟きに応えたのは、集合魔法が城壁を打ち破る音で
はなく、自分の後方に待機する自国の兵士の中に紛れた、ある男の
声だった。
﹁それはどうでしょう? マジックコードアクセス﹂
その怪しげな兵士の周囲の者は、兜の隙間から黒髪を覗かせた兵
士が、突然呪文を唱え右手を空にかざしたことに驚き、彼から距離
をとる。
﹁クラック!﹂
兵士が、その言葉を叫んだ瞬間、城壁の直前まで突き進んでいた
魔法の弾丸は、突如帝国軍に向けて反転した。
その光景に、帝国軍の兵士たちは驚愕し、一瞬硬直してその場を
動けなかった。
しかし次第に勢いを増して、帝国の陣地に向かってくるその巨大
184
な弾丸への恐怖心から、我先にと持ち場を離れ始める。
﹁な、なにが起こった!﹂
リンエンがそう叫んだ瞬間、彼のわずかに頭上を超えた魔法の弾
丸は、帝国軍の中央部を貫くと、爆発的な光と熱を放つ。
目をくらますような光が一瞬通り過ぎ、その後かつて発生したこ
とのないような爆発音が、周囲に響き渡った。
そして直後に爆発の衝撃波が周囲を駆け抜けると、リンエンは馬
上から吹き飛ばされ、地面を転がった。
﹁ば、ばかな。こ、こんなことが⋮⋮﹂
四回転ほど地面を転げ、やっとその身を止めたリンエンは、片膝
をついて、爆発地点を見やった。すると爆発点は、その大地をえぐ
り、周囲をクレーター化させ、首脳部の居た本営を含み、その場に
居た帝国軍の歩兵及び騎馬兵の八割を飲み込んでいた。
﹁リンエン将軍、申し訳ないが、あなた方の魔法の弾丸は、私が奪
わせて頂きました﹂
その場で呆然と立ち尽くしていたリンエンに対し、そう声をかけ
たのは、先ほどの聞きなれない呪文を唱えた兵士であった。
﹁お、お前がやったのか? 誰なんだお前は﹂
周囲で唯一逃げずに、その場に残っていた兵士は兜を外すと、苦
笑いを浮かべた顔が、そこから現れ、リンエンは驚愕した。
﹁お、お前は、イスターツ! まさかお前がやったのか﹂
﹁まぁ、大方は。さてリンエン将軍、できれば降伏してくれません
185
か? もう、勝敗は決したと思うのですが﹂
﹁ば、ばかな。まだだ、まだ終わっていない。確かに前線の兵士は
壊滅したが、我が魔法士隊の魔力が回復すれば、お前らなぞ﹂
﹁ええ、そうなると困るので、先ほどの爆発を合図にしておきまし
た。あれをご覧ください﹂
ユイは王都の方から土煙を上げ突進してくる一団を、右手で指し
示した。
﹁な、王立軍だと⋮⋮そうか、そういうことか。全て貴様の計画通
りということか﹂
﹁まぁ、シャレム伯爵のこととか、いくつか計算外のことがありま
したがね。ただ、なんとか修正の効く範囲で良かったです。さて、
私たちの兵士はたった四千しかいません。あなた達は一万二千以上
の魔法兵をお持ちのようですが、その全てが軍の魔法士ではないで
しょう? おそらく戦闘ができる魔法兵はいいところ三割で、それ
以外は老人や女性も含め、通信や回復などを専門とする魔法士など、
集められる限りの魔法士をかき集めたんじゃないですか。集合魔法
の魔力を集めることだけを目的にね﹂
﹁くっ、まさか気づいていたのか。その通りだ。今回行軍した魔法
兵で純粋な軍人は半数に満たぬ。しかしなぜそれがわかった?﹂
﹁簡単です。あなた達の行軍速度があまりに遅すぎた。偵察では魔
法士が行軍速度の足を引っ張っていると伺いましたから、おかしい
とは思ったんです。例え魔法士とはいえ、軍に所属するものでは、
そこまで行軍に手間取ることはない。あんなに時間がかかれば、普
通は上官に蹴り殺されますからね﹂
ユイの予想は当たっていた。帝国軍は老若男女のあらゆる魔法士
をかき集めて、なんとか1万を超える魔法士を用意したのである。
186
その為、その移動には莫大な時間がかかり、ソーバクリエンでも、
より遠くから進軍した王立軍が戦場に、先に辿り着くなど、通常の
行軍速度よりもはるかに多く時間を必要としていた。ユイはその理
由を、その構成に見て取っていたのである。
﹁さて、将軍。もう一度だけ言います。降伏してください﹂
﹁断る。君も軍人で、この戦いを終わらせたいのなら、その腰に下
げたもので、私を討ちたまえ﹂
﹁ふぅ、本当に肉体労働は趣味じゃないんですけどね﹂
そう言って、ユイは左の腰に備えた刀の柄に右手を添え、やや右
足を前にして構えた。
﹁そうだ、それでいい﹂
そう言うと、リンエンも自らの剣を両手で持ち、正中に構える。
﹁では、行くぞ﹂
その叫びとともに、リンエンはまっすぐにユイに向かって、飛び
込み、上方から一気に振り下ろす。
ユイはその前につきだした右足を、体の内側に踏み込むようにし
て、そのリンエンの烈帛の気合とともに振り下ろされた剣を背中ス
レスレで躱す。
そして右手を振りぬくように、刀を一気に鞘走りさせて抜刀し、
リンエンの剣を持った両腕ごとその腹部を薙ぎ払った。
一瞬の間の後に、両腕が切断され、両腕と腹部から血液が吹き出
す。
﹁ふふ、私の負けだな。こんなこともあるから戦争とは面白い﹂
187
﹁リンエン将軍⋮⋮﹂
﹁そんな顔をするな。君は策でも、剣でも私に勝ったのだ。胸を張
ってくれ﹂
リンエンはそう言い残し、そのまま後ろ向きに倒れていった。
﹁はは、ありがとうございます。ただそれは私には似合いませんの
で﹂
ユイはそう言って、刀を鞘に収めると、敵将に向けて一礼した。
﹁ユイ先輩!﹂
ユイがリンエンの亡骸から頭を上げた時、ちょうど集合魔法を合
図に、王都から出陣してきた王立軍の一団が、ユイの元まで到着し
た。
﹁おお、エインス。久しぶりだな、元気にしていたか?﹂
﹁今朝ですよ、最後にお会いしたのは。それより敵は?﹂
﹁敵将と前衛は逃亡したものも含めて、ほぼ壊滅させた。後は魔法
士とその護衛だけだ﹂
ユイは片手で周囲を指し示すように水平に動かし、エインスに周
囲を見渡せさせた。
﹁わかりました、では後片付けをしてきます﹂
﹁お前が司令官だ、すべて任せるよ。あと、一応は降伏勧告くらい
しろよ﹂
﹁わかりました。あと、あの人達が、先輩の帰りを待っていたみた
いですから、少しはみんなに心配かけたことを反省して下さいね。
では!﹂
エインスはそれだけ言うと、他の王国の兵士たちとともに、後方
の魔法士たちに向けて一直線に騎馬を走らせていった。
188
エインス率いる王立軍の正規兵の一団が走り去ったあと、他の王
立軍兵とは見た目の異なる奇妙な集団が、何やら叫びながら、ユイ
の元へ馬を走らせて来る。
先頭を走るのはキツネ目の男性で、そのとなりにハゲ頭の山賊。
そして後ろに筋骨隆々の男性と、真っ赤な髪をした酒臭そうな女性、
そして騎馬に乗りながら目をつぶって今にも寝そうな女性が続く。
ユイはその集団を見て、大きくため息をつくと、頭を二度掻く。
そして空を見上げると、真夏の太陽は夏の終わりを悲しむかのよ
うに、淡々と光を放っていた。
189
英雄
帝国軍の残兵が撤退し、クラリス王国軍は、一度すべての兵を王
都内に撤収させると、城下町は戦勝の報告で街中が大騒ぎとなって
いた。
ソーバクリエンでの大敗から、これまで王都には敗戦濃厚の噂が
広がり、暗い雰囲気が漂っていた。しかし今回の王国軍の奇跡の勝
利は、今まで人々に溜まっていた鬱憤を一気に晴らす形になり、街
中に歓喜の声が溢れかえっていた。
人々がお互い喜び合い、抱き合う中、ユイは一人、城壁の上に登
ると、縁に腰掛けて、その光景をどこか寂しそうに眺めていた。
﹁貴方は、あの輪の中には入らないの?﹂
不意に後ろからかけられた声に、ユイは驚いたが、振り返ること
なく、そのまま答えた。
﹁私はいいんです。疲れるのは嫌いですから。それにこれだけたく
さんの人が、心の底から喜んでくれている。そんな素敵な景色を、
ここからが一番良く見れますから﹂
﹁そうですか。じゃあ、私もご相伴にあずかりましょうか﹂
そう言って、エリーゼはユイの隣に腰掛けた。
﹁いいんですか? 王女がいない戦勝祝いなんて、まずいんじゃな
いですか?﹂
﹁あら、今回の最大の功労者が、そんなこと言っても説得力ありま
190
せんよ﹂
ユイは肩を竦めると、片膝を立てて、その上に頬杖をついた。
﹁それで、今回の顛末について、いくつか聞きたいことがあるのだ
けど、教えて頂いてもいいですか、英雄さん?﹂
エリーゼの問いに対して、ユイは観念したかのようにため息を付
き、質問を受け付けることにした。
﹁とりあえず、英雄はやめてください。えっと、それで、なにをお
話すればいいんですか?﹂
﹁そうね、まず私の前でした貴方とヤルム公爵との言い合いは、ラ
インバーグ大臣との仕込みだったのね?﹂
﹁その通りです。前日にラインバーグ閣下と打ち合わせをしていま
した。その上で、ラインバーグ閣下に、喧嘩内容まで含めてヤルム
公爵に打診して頂きました。公爵も最初は乗り気じゃなかったよう
ですが、どうもあとで聞くと、かなり力を入れて演技されていたみ
たいですね﹂
ユイはその時のことを思い出すと、思わず苦笑いを浮かべる。
﹁私には教えてくれなかったのに⋮⋮ラインバーグはともかく、ヤ
ルムにもこの計画を言っていたというのに⋮⋮﹂
エリーゼはやや拗ねたような物言いをしながら、ユイを睨みつけ
る。
﹁すいません、こういったものは身内から騙さないと、意味があり
ませんので﹂
そう言って、ユイは王女の拗ねた眼差しから、視線を外した。ユ
イのその動作に、王女は追求を諦めると、次の疑問をぶつけた。
﹁⋮⋮まぁ、いいわ。じゃあ二つ目の疑問だけど、貴方はどうやっ
191
て帝国軍の集合魔法を跳ね返したの? そういえば、貴方は私が誘
拐された時にも、相手の風の魔法を跳ね返したことがあったわよね
⋮⋮そもそも貴方は本当に魔法を使うことができないの?﹂
そのエリーゼの問いかけを耳にして、これ以上隠すわけにはいか
ないかと諦観すると、彼女に向かって自らの能力を打ち明ける。
﹁いわゆる普通の魔法に関しては、私自身では逆立ちしようとも一
切使うことができません。ただ私に出来ることは、他人が使おうと
する魔法に、ちょっといたずらすることだけなんです。能力名はク
ラッキング、これが私の扱うことのできる唯一の魔法もどきです﹂
﹁魔法もどき?﹂
エリーゼは聞きなれぬ単語を耳にして、思わずユイに向かって問
いなおす。
﹁はい、魔法もどきです。そうですね、そもそも魔法とはどうやっ
て使われるものか、エリーゼ様は御存知ですか?﹂
﹁もちろんです。自分の魔力を触媒にして、編み上げた魔法と世界
の法則を同調させ、その上で世界の法則に自らの描く新たな法則を
書き込むこと。間違っていますか?﹂
模範解答と呼べるエリーゼの答えに対し、正解だと伝えるよう一
度大きく頷くと、彼女に向かって微笑みかける。
﹁いいえ、その通りです。ですから、魔法を使うためには世界の法
則と同調のするために必要な調律の魔力と、書き込むための魔力と
いう二種類の能力が必要となります。ですが、私は生まれつき書き
込むための魔力に特化してしまって、同調するための魔力を一切持
っていないんです﹂
﹁⋮⋮つまり貴方は自分の魔法を世界と同調させることができない
から、自分一人では魔法を使うことができないということかしら?﹂
﹁その通りです。魔法を使う際に同調する世界の法則を私たちはソ
192
ースと呼び、そこに自分の起こしたい事象を書き込む作業をハック
と呼んでいます。私はこのハッキング能力だけに特化したエセ魔法
士なんです﹂
ユイはそう言って、頭を二度掻くと、話を続けた。
﹁今回、彼らは莫大な魔力をつぎ込んだ集合魔法を放ち、この城壁
を破壊しようとしました。私は彼らが世界の法則として書き込んだ、
その魔法の弾丸の魔術式を一部書き換えて、着弾地点の座標をこの
城壁から彼らの軍の中心点に書き換えました﹂
﹁そんなことが⋮⋮ほんとうに⋮⋮﹂
想像もつかない内容に、エリーゼは思わず言葉を失った。
﹁ええ、先ほど貴方が言われたように、以前にもお見せしたことが
ありますよね。確かエリーゼ様を助けに、タリムの所へ突入したと
きです。その時、私を攻撃してきた風の魔術師の攻撃魔法も、着弾
座標点を書き換えることで、タリムの方へ飛ばしました。今回はそ
れの規模を大きくしたようなものです﹂
﹁規模はちょっと大きい程度じゃなかったけどね⋮⋮なるほど、貴
方の能力はわかったわ。でも、それだったらわざわざ敵に寝返る演
技などする必要はなかったんじゃないの? 私たちのところにいて、
そのままあの集合魔法を跳ね返していたら、それで良かったじゃな
い﹂
エリーゼはユイの能力を呆れながらも理解したが、それほどの能
力があれば、予定通り王都防衛司令官を勤めながらでも、戦えたの
ではないかと、疑問を持った。
﹁そう言われると思っていました。残念ながら、私のクラッキング
にはいくつかの制限があるのです。一つは魔法を同調する段階から、
魔法の発生点である世界との同調点を目視下に置かないといけない
こと、そしてもう一つは同時に二つ以上の魔法をクラッキングする
193
ことが出来ないこと。これら二つの欠点があったので、この王都か
ら戦うことを諦め、寝返る演技をする必要がありました﹂
ユイはこれまであまり話したことのないクラッキングの欠点を、
エリーゼに話すと、だんだん日が落ち始めた空を見上げた。
﹁なるほどね。確かに発生点を確認するためには、相手の近くにい
る必要があるのは理解したわ。でも二つ以上クラッキングできない
ことは、理由になるの?﹂
﹁ええ、彼らが、全魔法士での大規模の集合魔法を使わず、仮に部
隊を三つ程度に分けて、中規模の集団魔法を同時に放つ形で攻めて
来た場合を考えていました。その場合、二つ同時にハッキングでき
ない以上、必ず一発は直撃を受けるわけですから、結局は我らの負
けに終わっていたでしょう。そこで私は彼らの大将に、それとなく
城壁がかなり分厚く、大規模魔法を恐れていることを強調しておき
ました﹂
﹁貴方という人は⋮⋮本当に貴方が帝国に行かなくて良かったわ﹂
﹁はは、帝国に寝返って思ったのですが、彼らの軍隊はすごく規律
に厳しいですし、向こうの軍人は、真面目なんですよね。仕事中に
話しもしてくれないですし。たぶん私なんかは、あの軍ではとても
やっていけませんよ﹂
そう言って、ユイはエリーゼに笑みを見せると、ゆっくりと腰掛
けていた城壁の縁から立ち上がる。
﹁さて、空も霞んできました。そろそろおうちにお送りしましょう
か、お嬢さん﹂
ユイは、エリーゼにそっと手を差し伸べると、戦場となった南部
平原を見渡した。
夕焼け空の中、戦場となった南部平原の地平線に、ゆっくりと太
194
陽が落ちていく。
視線の先で、繰り広げられたはずの戦いも、叫びも、祈りも、全
て大気中に溶け込んだかのように霧散してしまい、そこにはただの
平原が、どこまでも、どこまでも、広がっていた。
195
安寧の終焉
木々の葉は、すっかり朱色に色づき、大地は豊穣な実りを人々に
もたらす秋。
王立軍の親衛隊室では、無役職の男が勤務時間中にコーヒーを飲
みながら、頬杖をついて読書をしていた。彼はその非生産的かつ堕
落した生活をこよなく愛し、本人曰く、軍に入って以降で最高の至
福の時間を過ごしていた。
﹁先輩、いい加減働きませんか?﹂
﹁おいおい、エインス。せっかく仕事が与えられていないのに、自
主的に働くなんて、自然の摂理に反するよ。人々は日々の糧をより
多く手に入れるため、出世しようと働く。私は、これ以上出世した
くないから働かない。終始一貫したものだろう?﹂
ユイは視線を書物から上げること無く、エインスに答える。そん
なユイに対し、エインスは抗議の声を上げた。
﹁そんな一貫しないでください。それに僕も隊長なんですから、立
場というものがあるんです。いつもここにきて、先輩とだらけてい
ると、部下に示しがつかないんですよ﹂
﹁だったら、王城に用意された親衛隊室を使えばいいじゃないか。
なんだかんだ言って、お前もこの部屋が気に入っているんだろう﹂
﹁だって、あそこはリュート先輩が詰めているじゃないですか。な
んか雰囲気が硬くて、疲れるんですよ﹂
ユイやエインスを始めとして、親衛隊は先の防衛戦でその功績が
高く評価され、部隊の増員と正式に王城内に親衛隊専用の部屋が用
意されることになった。軍務庁舎にかつて作られた物置部屋同然の
196
親衛隊室とは異なり、王城の部屋は王女護衛という本来の役職にふ
さわしく、内装の隅々にまで手の行き渡った部屋であった。
リュートなど王女護衛の任に当たるものは、必ずその新親衛隊室
に詰めていた。しかし、旧カーリン組の面々やエインスなどは、そ
の綺麗な部屋があるにもかかわらず、無役職の男が勝手に占拠し続
けている、この旧親衛隊室に頻繁に顔を出し、ここで仕事をするこ
とも珍しくはなかった。
﹁そらみろ。だからここに親衛隊室を作っておいて、正解だっただ
ろ﹂
﹁だからといって、先輩と違って、僕はだらけに来ているんじゃな
いんですよ。片付けないといけない書類が、山積みなんです。本当
はこれ、先輩の仕事だったんですからね﹂
自分にこの役職を押し付けてきたユイを見ながら、エインスは愚
痴をこぼした。
﹁いやぁ、あの時、親衛隊をお前に譲って本当に良かった。前回の
帝国との戦いでの最大の成功は、お前に親衛隊長職を譲れたことだ
な﹂
ユイが事も無げにそう言うと、エインスは深い深い溜息をついた。
これ以上言っても無駄だとエインスは判断し、ユイに対して愚痴を
言うことを諦めると、仕事に取り掛かるために、手元の資料に目を
落とす。そして、その書類にサインをしようとした時、普段は来客
の少ない旧親衛隊室のドアが突然ノックされた。
ユイとエインスは、この時間にわざわざノックして入ってくるよ
うな相手に心当たりがなかったため、顔を見合わせると、お互いが
首を左右に振りあった。
﹁開いてますよ、どうぞ﹂
一呼吸おいて、ユイはドアをノックした相手に対して返事をした。
197
その返事を受けて、ドアが開かれると、そこには先の帝国との戦争
で、長期入院をしていたアーマッドの姿があった。
ユイはその姿を見た瞬間、椅子から転げ落ち、背中をさすりなが
ら慌てて立ち上がると、敬礼を行った。
﹁ご、ご無沙汰しています、アーマッド先生。復帰されたのですね
!﹂
﹁やあ、ユイ。それとエインスもここにいたのか。そうだよ、今日
からね﹂
ユイに合わせて、敬礼を返しながら、アーマッドは穏やかな笑み
を浮かべる。ユイは病室での見舞いに行った時以来のアーマッドの
笑みに、思わず釣られて笑みをこぼした。
﹁本当ですか! お元気そうで何よりです﹂
﹁ああ、体の方は問題ないのだがね⋮⋮ただ、さすがにこれだけ休
むと仕事が溜まってしまってね。それが悩みだよ﹂
そう言って、アーマッドはユイに向けて苦笑いを一つ浮かべた。
﹁そうなんですか。確かに、戦略局は先輩がいない間、うまく機能
していなかったみたいですからね﹂
﹁うちも人材不足だからね。本当は三位に昇進したユイに、その代
行を務めてもらいたかったんだが⋮⋮﹂
アーマッドがユイを勧誘するかのように、視線を送ると、ユイは
両手を広げ、肩ををすくめた。
﹁はは、勘弁して下さい。ああいった実務的な仕事は、もう体が付
いて行きませんよ。あ、先生、一人親衛隊の隊長をやっている奴が
いるんですが、そいつにさせてみてはどうですか﹂
﹁先輩、勘弁してくださいよ。また僕に仕事を流す気ですか。本当
にこれ以上仕事が増えたら、僕が死んじゃいますよ﹂
198
危うく仕事を振られかけたエインスは、慌てて拒否すると、ユイ
は笑い声を上げ、釣られたアーマッドまでエインスをいじってきた。
﹁そうか、エインスか。確かにもう少し仕事が増えたら、エインス
の夜遊びも減るだろうしな。少しライン公と相談してみるかな﹂
﹁おじさんまで、勘弁して下さいよ﹂
﹁まぁ、戦略局に優秀な人手が欲しいのは事実だよ。さて、それは
おいておくとして、今日はユイに用があって来たんだ﹂
アーマッドはそう言って,視線をエインスからユイに向け直すと、
ユイは首を傾げるような動作を見せた。
﹁私にですか?﹂
そのユイの返事に、アーマッドがニヤッと笑うのを見た瞬間、ユ
イの脳裏に嫌な予感が走った。
﹁先ほど現場復帰の挨拶に、ラインバーグ閣下のところへ顔を出し
たわけなんだが、これをお前にあずかってきてな﹂
そう言って、アーマッドは小さな筒をユイたちに見せると、それ
をユイに向かって放り投げる。
﹁なんです、これは?﹂
﹁ふふ、おめでとう、お前の次の仕事が決まったよ。それはライン
バーグ大臣からの正式な命令書だ﹂
それを聞くなり、ユイは思わず椅子にもたれ掛かると、天を仰い
だ。
﹁⋮⋮はぁ、麗しき安寧の日々よ。君はいつも私の前から過ぎ去る﹂
ユイはため息混じりにそう呟くと、命令書の入った筒を開封し、
中に入っていた一枚の命令書を取り出した。そのまま命令書の文面
に目を走らせて行くと、読み進めるごとにユイの表情が険しくなっ
199
ていった。そして、全文を読み終えた瞬間、ユイはアーマッドに向
けて問いかけた。
﹁⋮⋮先生。ラインバーグ閣下は、本日は執務室に?﹂
﹁ああ。先程お会いしたときは、執務室におられたよ。今日は一日
中おられるんじゃないかな﹂
﹁くそ、あのたぬき親父め﹂
ユイはそれだけ言うと、立て付けの悪い親衛隊室のドアから飛び
出していた。
﹁やれやれ。まぁ、嫌がるだろうとは思ったがな﹂
﹁先輩はどんな仕事でも嫌がりますよ。それでなんであんな仕事を
先輩に? 人材の無駄遣いだと思いますが﹂
エインスは、ユイの置きっぱなしの命令書に目を通すこと無く、
アーマッドに向かって尋ねた。
﹁ああ、ライン公から聞いていたのか。だったら知っているだろ?
ユイが局長職や、軍務局などの現場指揮官職へ就任することに、
一部貴族たちが一斉に反対していることを﹂
﹁ええ。あの連中のユイ先輩へのアレルギーがここまでとは⋮⋮﹂
エインスは、ラインバーグの友人である父ジェナードから、ユイ
の役職が決まらない理由を聞かされていた。それはユイが高級官僚
や役職に付くことで、庶民がそれらの役職につく前例となり、自分
たちのポストが今後奪われるのではないかという恐怖心を王都の貴
族たちが有していることが原因であった。
そして先の帝国との戦争で、王家の兵力と権力は如実に低下して
おり、それらの声をはねのけることが、いくらエリーゼやラインバ
ーグでも現在は困難であった。
200
﹁まぁ、ユイのやつが庶民だということに対する風当たりは、正直
思った以上だな。各部署の局長級への就任も、全て反対にあったそ
うだ。ひどい話では、怪我で療養中であった私のポストの一時的な
代理という案でさえ、拒否されている﹂
﹁そこまでですか。でも先輩がいなければ、彼らはすべての財産を
失っていたんですよ。よくもまぁ、そんなことができますね﹂
エインスが呆れたようにそう言うと、アーマッドはため息をひと
つ吐いて答えた。
﹁猫でも、もう少し恩を覚えているものさ。だが、奴らはそれ以下
だからね。自分たちが危ない立場にあったのは、もう綺麗サッパリ
忘れてしまったらしい﹂
﹁まったく度し難いですね。そういえば、防衛力増強のために奇妙
な噂を耳にしましたが、それも彼らの発案ですか﹂
エインスは近頃、財務省を中心に唱えられている、国防費と人員
不足緩和のための方策をアーマッドに問いただした。
﹁ああ、一部貴族と財務省の発案だ。人手が足りないから、安く防
衛力を強化するためだと言っている。奴らは何に一番金が掛かるの
か、まるでわかっちゃいない﹂
﹁それで先輩を?﹂
﹁そういうことだ。彼らを黙らすためにも、ユイに動いてもらうし
か無い。このままでは、本当に防衛のための招集が始まってしまう。
救国の英雄には、彼らのための盾になって貰いたい﹂
アーマッドはそう答えると、気まずそうにうつむいてしまった。
それを見て一瞬悩んだが、エインスは多少怒気を含んだ声で非難し
た。
﹁ユイ先輩は人がいいから、どう動くかわかっての起用でしょうけ
ど⋮⋮そこにつけ込むなんて、本当に御人が悪いですよ。僕は正直
201
いって反対です﹂
﹁私も本当なら反対さ。ただ、他に人材がいない。そしてユイのポ
スト問題も解決だ。他にいい案があるか?﹂
アーマッドがそう尋ねると、エインスは答えに窮してしまい、視
線を落とした。
﹁それは⋮⋮そうですけど﹂
﹁あいつがやったことの評価としては間違っているさ。能力的にも
な。だけど、これが力を失った今の王家と軍首脳部の現実なんだ、
残念なことにな。だから私達にできることは、あいつが働きやすい
ように、環境を整えることだよ。とりあえず私は、親衛隊の人員を
あいつが好きに動かせるよう、あいつに親衛隊の顧問という役職を
兼任させるつもりだ。そこでだ、隊をあずかっている、隊長には異
論があるかね?﹂
アーマッドは意思を確認するように、エインスを見ると、エイン
スはゆっくりと首を左右に振った。
﹁いえ、全くありませんよ。この隊は、本当は先輩の隊ですしね﹂
﹁ならば決まりだ。早速、準備に取り掛かろう。奴らの横槍が入る
前にな﹂
202
英雄のお仕事
﹁はぁ、なんで私がここに⋮⋮﹂
ユイは王都北のオルミット地区にある、王立士官学校の校門前で
ため息を吐いた。ゆっくり周りを見渡すと、十代後半とおぼしき学
生たちが、慌ただしく次から次へと校内へと吸い込まれていく。
ここ王都の士官学校では、夏休みと帝国との戦争の影響もあり、
ようやく少し遅い二学期の始業式が行われることになっていた。久
々の学校生活に、期待を胸に踊らせ、笑みを浮かべながら登校して
来る生徒も少なくない。ユイはそんな学生たちの様子と、自分のモ
チベーションとのギャップに肩を落とすと、その場で再び溜息を吐
く。
﹁あの、すいません。うちの学校に何か御用ですか?﹂
後ろからかけられた声に、ユイは驚いて振り向くと、そこには金
髪ミディアムカットの少女が、不審な人物を見るかのように、胡散
臭げに睨んでいた。ユイはその視線に気づくと、左右を見ながら人
差し指で自分を指差し、確認する。
﹁えっと、私のことかな?﹂
﹁はい、あなたです。無関係の方は施設内に入れないことになって
います。もしご用がないのでしたら、お引取り頂けませんか?﹂
彼女は、校門の所で周りを見渡しながら溜息を吐くだらしない男
を見かけ、不審者ではないかと疑っていた。
ユイはその少女の視線から、自分があまり良く見られていないこ
とに気づくと、少女に向けてごまかすように苦笑いを浮かべた。
203
﹁ああ、すまない。今日から、こちらで働くことになったんだが、
行き先がわからなくてね。なにしろ、ここに来るのは久しぶりで、
すっかり建物の配置が変わってしまってね﹂
ユイは、何か責められているような気分になり、頭を掻いてそう
答える。少女はユイの話した内容から多少警戒をゆるめたのか、眉
間の皺を薄くし、ユイに質問をしてきた。
﹁それでおじさんは、今日からここで勤務されるんですか?﹂
﹁お、おじさん⋮⋮あ、ああ。まあそうなんだが﹂
﹁そうですか。それで、どちらに行かれたいんですか?﹂
﹁とりあえず、ここに着いたら、まず事務部に顔を出せと言われて
いたんだが⋮⋮﹂
ユイはおじさんと呼ばれたことが不服ではあったが、素直にそう
答えた。それを聞くと、その少女はユイを見下すような目つきにな
る。
﹁ふぅん、事務部ですか。なるほど、用務員か事務員などのお仕事
なんですね﹂
﹁いや、まぁ、学校の雑用係という意味では、あってはいるんだが
⋮⋮﹂
ユイは微妙に違うんだけどと思いながら、頭を二度掻くと、少女
はすっと左腕を前に突き出し、正面の建物を指さす。
﹁事務部でしたら、あの建物の中にあります。中に入って、すぐに
総合案内窓口がありますので、その左手が事務部になります﹂
﹁なるほど、ありがとう﹂
﹁いえ、私はこの後、緊急の集会があるので、これで失礼させて頂
きます。用務員のおじさんも、今日からがんばってください﹂
少女はそう言い残すと、スッと前を向き、そのまま校舎に向けて
204
駆け出していった。
﹁はぁ、おじさんかぁ⋮⋮﹂
ユイは深い溜息を一度吐くと、とぼとぼと肩を落として歩き出し
た。
﹁おはよう、エミリー。こんな時間ギリギリなんて珍しいじゃない﹂
﹁ああ、おはよう、アンナ。実はさっき、だらしない用務員のおじ
さんに、ちょっと捕まっちゃってね﹂
大講堂へ始業式が始まるギリギリに入ってきたエミリーと呼ばれ
る少女は、同じゼミの親友である眼鏡をかけた小柄なアンナに対し
て、さきほど出会った、だらしなそうな男の話をした。
﹁まあ! それは新学期からツイてなかったわね。でも、なんとか
間に合って良かったわね﹂
﹁ええ。それで今日の始業式はなにか変わったことでもあるの? いつもより騒がしいけど⋮⋮﹂
エミリーは周りを見回すと、いつもは将来の軍人らしく、落ち着
いて式に向かう生徒たちが、いつに無く周りと話しながら、そわそ
わしていた。
﹁お前、知らないのか? 新任校長が来るっていう話を﹂
一つ前の席に座っていた少年が振り返り、話しかけてくる。エミ
リーと同じゼミに所属する、もう一人の友人であるレイスであった。
﹁ええ! そうなの?﹂
﹁そうよ。ラインバーグ先生の後任が、今日から来られるのよ。噂
205
じゃ、相当若い方って話だけど﹂
﹁そうなんだ。一体、誰なのかしら。軍部で若い方って言うと、数
年前までここの教授をされていたアーマッド三位かしら?﹂
エミリーは、長年士官学校で教授職にあった戦略局の若手で一番
といわれるアーマッドの名前を上げると、アンナも自分の希望も含
めて口を開いた。
﹁そうね、他に若いって言ったら、魔法省のムティック三位も確か
四十歳前後だったわよね。あとは陸軍省のスリタフ三位とかかしら﹂
﹁無い無い。だってここの士官学校長は、戦略省のポストだからね。
まず無いわよ﹂
エミリーがすぐに否定すると、アンナも﹁そっか﹂と言いながら、
また考えこんでしまった。すると、前にいるレイスが口を出してき
た。
﹁じゃあ、前線の士官が赴任する可能性もあるんじゃないか。それ
だと俺も楽しみなんだが﹂
﹁貴方はただ手合わせしたいだけでしょ。まったく、ラインバーグ
閣下の後任は、私たちにとっては大きな問題なんだから、少しはま
じめに考えてよ﹂
﹁そう言われてもな。俺は俺より強い方だったら、正直だれでもい
いしな﹂
剣術馬鹿のレイスはそう言うと、再び前を向き、ブツブツ戦いた
い人の名前をあげていた。それを見たエミリーは、バトルジャンキ
ーには付き合いきれないとばかりに、目を閉じて、式が始まるのを
待つ。
予定した時間を過ぎると、周囲のざわめきはやや大きくなってき
た。士官学校の行事は、基本は時間厳守となっており、遅れて始ま
るということは、通常は無い。そのことから、何らかの事態が起こ
206
っているのではないかと、噂するものが出始めていた。
そうした会話が、講堂内の到るところまで広まった頃に、ようや
く大講堂内に教員たちが姿を見せ始めた。そして士官学校の行事の
司会を行う、事務長のローリン・スレイバーが、壇上に上がり皆の
前で一礼すると、ようやく講堂内は静まり返った。
﹁コホン。ええ、おはようございます。さて今学期が始まるにあた
り、ラインバーグ前校長が軍務大臣へと昇格されまして、不在とな
っていた校長の後任の方が来られました。この場で、皆さんに御紹
介させて頂きたいと思います﹂
その言葉に、いつに無くざわついた声が会場内を覆い、だらしな
気な若い黒髪の男が、ローリンに招かれて壇上に登ると、ざわめき
は最高潮となった。そしてその男性の顔を見た瞬間、エミリーに動
揺が走った。
﹁えっ、さっきの用務員さん! う、うそ、なんで⋮⋮﹂
普段は優等生で、こんな式の際には、めったに私語を言わないエ
ミリーが思わずそう呟く。そうしてる間にも、ローリンは壇上に上
がった男を隣に迎えると、再び学生たちに向き直り、話し始めた。
﹁さて、皆さん! 皆さんも先日の悪しき帝国軍との戦いは、記憶
に新しいことでしょう。その際に一人の英雄が、この国を守るため
に立ち向かったことはご存知ですよね。そう、救国の英雄ユイ・イ
スターツ。皆さんはあの戦いのあと、何度もその武勇伝を聞かれた
のではないでしょうか﹂
ローリンのその言葉から、もしかしてという期待が学生たちを覆
い始め、空間は一瞬静まり返った。それを確認して、ローリンは一
度頷くと、隣に立つ黒髪の男を紹介する。
207
﹁皆さん、実はあの偉大なる英雄をこの士官学校の校長として、迎
えることとなりました。それでは、新校長のユイ・イスターツ閣下、
よろしくお願いします﹂
ローリンがその名前と隣の男性を紹介した瞬間、講堂内は驚きと
歓喜の叫びで覆われ、壇上に上がったユイは、恥ずかしそうに頭を
掻きながら、周囲を見渡す。幾ばくかの時間、会場内の驚きとざわ
めきは途切れること無く続き、やや時間を置いて講堂内の声がやや
落ち着いたところで、ユイは学生たちに向けて始めて話し始めた。
﹁えっと、ユイ・イスターツです。まだこの士官学校を出て、七年
目でして、皆さんと左程年齢は変わらないかもしれません。ですの
で、身近なお兄さんとして、気軽に接して頂けると助かります﹂
﹁う、嘘でしょ⋮⋮﹂
エミリーは、目の前の黒髪の男性の話は一切耳に入ること無く、
その場で放心し、その間にもやや短いユイのスピーチが終わる。
ユイが話し終えた瞬間、硬直したままの一名を除いた講堂内の全
ての学生から、あふれんばかりの歓声と拍手が送られ、ユイは困っ
た様に二度頭を掻いた。
208
ゼミ
始業式が終わると、ユイは業務の詳細を話したいと言われ、事務
長のローリンに校長室へと連れて来られた。
その部屋は、ラインバーグが先日まで使用しており、几帳面に片
付けられていた。また要人が来訪してもいいように、部屋内には接
客用のソファーなどが用意されるなど、一人で使うにはかなり大き
な部屋であった。
ユイは部屋内を見渡して、入り口で説明を始めようとする事務長
を制すると、接客用に用意されたソファーに腰掛け、事務長にも向
かいの席を勧める。
﹁ありがとうございます、イスターツ閣下。では、いくつかの業務
について説明させて頂きます。まず通常の業務ですが、主に午前は
各省や王家の要人との会談や折衝、そして会議など、校長にはこの
学校の顔として働いて頂くことになります﹂
﹁それは毎日なのかな。私は、実は朝が苦手で⋮⋮﹂
ユイが嫌そうな表情を浮かべると、ローリンは驚いた顔をした。
﹁では、閣下は何時頃からなら、御出勤いただけるのでしょうか?﹂
﹁そうだね、出来れば午後からの業務がありがたいんだが﹂
﹁⋮⋮それは無理です。午後には、閣下の講義やゼミがありますの
で。さすがにその時間には、面談等の時間をとることは難しいと思
います﹂
﹁講義⋮⋮ゼミ⋮⋮私がするのかい?﹂
ユイは予想していなかった業務に、思わず戸惑いを隠せなかった。
﹁ええ、ラインバーグ前校長は、校長業務の傍ら、現場から離れて
209
はいかんと、常々言われておりました。そしていつも午後は、直接
学生たちに指導を行われておりました﹂
﹁あの親父、そんなことまで⋮⋮勘弁してくれよ﹂
ユイが学生の頃は、当時の校長は当然指導など行なってはいなか
った。間違いなく、ラインバーグが始めた事だとユイは確信し、遠
くにいる軍務大臣に対して怨詛の愚痴を呟く。
﹁とりあえず、こちらが一週間分のスケジュールです。一応、来週
以降は、午前でも出来る限り遅い時間に面会等のスケジュールを組
むようにします。ですので、面会や予定のある日は必ず出席してく
ださい﹂
﹁はぁ、わかりました。よろしく善処をお願いします﹂
そう言って、ローリンから受け取った、厚みのあるスケジュール
の束をパラパラとめくると、その日程にユイは頭痛を感じた。
﹁次に講義の話なのですが、士官学校の各学年に対して、週一度講
義を行なって頂きます。題材や資料等で必要な物がありましたら、
事務部の方へ要望を出してください。またゼミに関しては、主に最
高学年の学生が対象ですが、閣下には御自身のゼミを持って頂きま
す﹂
﹁ああ、私もアーマッド局長のゼミに所属しておりましたので、シ
ステムは分かります。ですが、ゼミは一学期からの配属が原則のは
ずで、二学期からの募集や配属など聞いたことがないのですが⋮⋮﹂
﹁その点は安心してください。閣下には、ラインバーグ大臣が指導
されていたゼミを引き継いで頂きます。ラインバーグ閣下のゼミは、
二学期から指導するものがいない状態となっておりますので。もっ
ともあのゼミの学生に関しては、全科から選抜された優秀な生徒が
所属しておりますので、その意味では閣下にはそれほど負担になら
ないのではないかと思います﹂
ローリンがそう告げると、ユイはこの仕事を断りに行った時のラ
210
インバーグの話を思い出し、小さな声で嘆いた。
﹁⋮⋮校長で楽ができるっていうから、ラインバーグ大臣の口車に
乗ったのに、これは嵌められたな﹂
﹁なにかおっしゃいましたか?﹂
﹁いえ、お話はわかりました。それで、何名のゼミ生を指導すれば
いいのですか?﹂
ユイは、現状を諦めると、渋々具体的な内容を尋ねることにした。
﹁閣下に御指導頂くゼミ生は三名です。こちらはラインバーグ大臣
が用意しておりました引き継ぎの資料です﹂
そう言ってローリンは更に数枚の用紙を渡す。そこにはラインバ
ーグゼミに所属している学生の詳細なデータと、指導内容が事細か
に記されていた。
﹁⋮⋮わかりました。それで、私はどちらで指導を行えばよろしい
んですか?﹂
﹁このあと閣下に使用頂くゼミ室の前まで、私がご案内します。今
日は始業式のあと、最高学年は各自ゼミでの授業予定になっており
ます。閣下のゼミ室には、既に学生が来ていると思いますので、ち
ょうど良いでしょう﹂
﹁最悪だわ⋮⋮﹂
エミリーは、始業式を終えてゼミ室に戻ってくると、頭を抱え、
机に突っ伏していた。
﹁ちょっと、そんなに落ち込まないでよ、エミリー﹂
211
﹁まぁ、知らなかったんだから仕方ないだろ﹂
同じゼミ生のレイスとアンナは、先程から頭を抱えて、嘆いてい
るエミリーを慰める。しかしエミリーは、朝の光景を思い出し、自
分の発言を省みて、二人の慰めも届かないほど、ショックを受けて
いた。
﹁だって、イスターツ閣下は三位よ、三位。しかも救国の英雄。絶
対、私は退学にさせられるわ﹂
﹁噂で聞く限りは、そんなことで退学にさせるような、おかしな人
ではないと思うけどなぁ﹂
レイスはエミリーの反応に、考えすぎだと思って彼女に反論した。
彼が口を閉じたまさにその時、ゆっくりとゼミ室のドアが開くと、
一人の男が入ってきた。
彼の姿を認め、レイスとアンナは、驚きとともに思わず黙り込ん
だが、突っ伏したままのエミリーは、彼に気づかず口を開いた。
﹁考えてみなさい。帝国軍四万の陣地に単身で乗り込んで、それを
壊滅させる男が、おかしくないとでも本気で思っているの?﹂
﹁おかしくなんて無くて、普通じゃないかなぁ⋮⋮﹂
﹁いいえ、きっと普通じゃないに決まっている。ああ、なんであん
な事言ってしまったんだろう﹂
﹁ああ、後悔はだれにでもあるよね﹂
﹁そうよ、だらけたおじさんを見つけたから、ちょっと相手してみ
ただけなのに﹂
﹁おじさんは、ないんじゃないかな。お兄さんだと思うけど⋮⋮﹂
﹁あなたね、人が真剣に悩んでいるのにそんなどうでもいいことに
って⋮⋮えっ!﹂
レイスの声ではないと気づき、思わず顔を上げたエミリーは、そ
こにいる男の姿を認めた瞬間、驚きの声を上げ、口をパクパクさせ
る。
212
﹁ごめんごめん。先に挨拶しようと思ったんだけど、何やら君が悩
んでいるようだったからね﹂
﹁え、いやっ、これは、えっと、その⋮⋮﹂
ユイは、慌てて動揺するエミリーの頭の上に、二度左手をポンポ
ンと乗せると、そのままゼミ室の奥に向かい、ラインバーグが使っ
ていた椅子に腰掛けた。
﹁さて、まず最初にお互い自己紹介をしようか。私は今日からライ
ンバーグ大臣に代わり、君たちの担当となった、ユイ・イスターツ
だ。以後よろしく﹂
ユイがそう自己紹介すると、レイスが左右を見回し、自己紹介を
始めた。
﹁陸軍科所属のレイス・フォン・ハリウールです。剣が好きで、昨
年の学内武術大会で優勝しました。噂では、閣下は東方の剣術を使
われると伺っています。そんな閣下のゼミに所属できることを嬉し
く思います﹂
レイスがそう自己紹介すると、アンナに目配せをした。
﹁魔法科所属のアンナ・エルメラドです。付加魔法が得意で、一学
期はラインバーグ校長に、主に付加魔法の研究と、実践での運用研
究を見て頂いておりました﹂
アンナの紹介に、ユイは一つ頷く。そして皆の視線は、未だに放
心しているエミリーに集中した。
﹁えっと、エミリー君、自己紹介をお願いできるかな?﹂
ユイはゼミ生の資料から、名前を確認し、エミリーに声をかける
と、エミリーは慌てて自己紹介を始めた。
﹁エ、エミリー・フォン・サンフィスです。魔法科に所属していて、
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得意魔法は結界魔法と一部の攻撃魔法が使えます。よ、よろしくお
願いします⋮⋮﹂
エミリーが、なんとか自己紹介を終えると、ユイは三人に向けて
笑顔を見せた。
﹁さて、ラインバーグ閣下からの引き継ぎの資料は、ここに来る最
中に目を通させてもらった。どうも君たちは非常に優秀なようだね。
学年で、アンナ君が三席、レイス君が次席、そしてエミリー君が主
席か。さすがラインバーグ閣下のゼミだね﹂
そう言ってユイは苦笑いを浮かべると、アンナが答えた。
﹁ありがとうございます。ラインバーグ教室は、閣下が軍部の様々
な方をご紹介頂けたり、現場の講師をお呼びされるので、一番人気
だったんです。だから私たちはみんな、このゼミに入るために頑張
りました。希望ゼミは成績順で決まりますから﹂
ラインバーグゼミはラインバーグ教室とも呼ばれ、その指導はラ
インバーグ本人に加え、かつてのラインバーグの部下や彼の友人な
ど、現場における各分野のエキスパートを招くことが多く、圧倒的
な人気を有していた。
また通常は陸軍科、魔法科、戦略科の各科ごとにゼミが用意され
るのだが、ラインバーグは将来の軍部を担える視野の広い学生を作
りたいと、全科を募集対象として、数名のみの少数精鋭指導を行な
っていた。その為、ラインバーグ教室は研究者を目指すもの以外の
ほとんどすべての学生の憧れであり、エミリー、レイス、アンナも
例に漏れずラインバーグ教室を希望したのである。
﹁そうか。だとしたら閣下から私に変わってしまうことになり、申
し訳なかったね﹂
ユイは困ったように頭を掻くと、慌ててアンナが首をブンブンと
左右に振り、すぐに否定した。
214
﹁いえ、あの英雄、イスターツ閣下にご指導いただけるなんで、望
外の極みです﹂
﹁そうかい? すぐに虚像だとわかると思うけど⋮⋮一応は喜んで
おこうかな。さて、これから君たちと、このゼミをやっていくわけ
だが、君たちに先に言っておくことがある﹂
﹁なんですか?﹂
レイスがユイの言葉に、思わず尋ねると、エミリーとアンナも身
を乗り出して興味を示した。
﹁大した話ではないんだけどね、とりあえず君たちは全員合格だ。
既に卒業単位は、私の名前で成績書に判子を押しておいた﹂
﹁﹁ええっ!﹂﹂
ユイがそう告げた瞬間、三人驚きの声とともに目を見開く。
﹁ああ、不安なら事務長に確認に行くといい。さきほど、こんな前
例はありませんと怒られたばかりだから﹂
﹁ちょっと待ってください。もう合格だということは、閣下はなに
も教えてくださらないということですか?﹂
アンナが思わずユイに尋ねると、ユイは笑いながら否定した。
﹁ははは、それはないよ。一応、誤解があるようだから先に言って
おくと、君たちの成績は、ここに来る前に確認させてもらった。そ
して私が出した結論としては、士官学校を出て、軍部の一員として
やっていくだけの力は、君たちには既に十分あると確信している。
だから卒業を考えて、単位をとるためだけの授業など、まったくの
無意味だからそうしたまでさ。今日からは、君たちが本当に必要と
することを好きにやってくれればいい﹂
いきなりのユイの話に、エミリーも驚くとともに、ユイに説明を
求めた。
215
﹁すいません、突然のことでわからないのですが、一体どういうこ
とでしょうか?﹂
﹁つまり閣下は、単位など気にせず、自分が必要と思うことを、好
きなだけ取り組めと言いたいんですよね﹂
レイスが、彼なりにユイの言葉を解釈して、エミリーの質問に答
えると、ユイもそれに同意した。
﹁そのとおりだ、レイス君。これから社会に出れば、自分の自由に
できる時間など殆ど無いかもしれない。だから今の時間を有効に使
ってくれたらいい。そのための協力は惜しまないよ﹂
﹁どんなことでもいいんですか?﹂
﹁もちろんだ。例えば、社会に出たら忙しくて昼寝をする時間もな
いから、今のうち寝溜めておくというのでも構わない。むしろ私な
らそうする⋮⋮まぁ、それは置いておくにしても、とりあえずは研
究しようが、自らを鍛えようが、バイトをしようが、それは君たち
の自由だ﹂
ユイがそう説明すると、エミリーが疑問を口にする。
﹁でも、失礼ながら閣下。それは無責任じゃないですか?﹂
﹁無責任か⋮⋮私はよくそう言われるので、君の言うとおりかもし
れないね。だが、君たちはこれから軍人として、外の世界に出るわ
けだ。そうなった時に、すべての人が君たちのために、ああしろこ
うしろと世話してくれるとは、さすがに思っていないだろ?﹂
ユイがそう説明すると、三人はそれぞれユイの言葉を噛み締める
ように考える。そして、レイスがパッとユイを見ると、口を開いた。
﹁では閣下、一つお願いがあります!﹂
﹁ああ、それを聞く前にひとつ言っておく。私は学園内にいるとき
はあくまで君たちの一教師にすぎない。ここは軍の施設でありなが
216
ら、軍隊自体ではないんだ。閣下ではなくユイ先生と呼んでくれた
らいい。職員はともかく、教え子になる君たちはね﹂
﹁では、ユイ先生。一つお願いがあります!﹂
レイスのその言葉に、ユイは彼に視線を合わせると、先を促した。
﹁なにかな、レイス君?﹂
﹁出来れば俺に、ちょっと剣の稽古をつけて欲しいんです﹂
そう言って、レイスはニヤリと笑った。
217
中庭にて
﹁やだ﹂
レイスの希望に対して、ユイはあっさりと即答した。
﹁やだって、ちょっと、先生。さっきは協力を惜しまないって、言
っていたじゃないですか!﹂
レイスは即答したユイに対して、食い下がろうと立ち上がる。
﹁⋮⋮どうしても、私と戦いたいのかい?﹂
﹁はい、敵将を打ちとったという、先生の東方の剣術と、ぜひ手合
わせ願いたいのです!﹂
﹁東方の剣術ねぇ⋮⋮別に私相手に剣を振るっても、あまり鍛錬に
ならないと思うけどな。君は確か、去年の学内武術大会で優勝した
んだよね。それに陸軍科の講師たちの誰よりも強いと、この資料に
も書いてある。一方で、私は学生時代に一度も武術大会で優勝した
ことがないんだ。私の剣なんて、その程度だよ﹂
ユイは学生時代、一度も学内武術大会に優勝したことがないこと
を理由にレイスを説得しようとしたが、レイスはすぐに首を左右に
振って、ユイの目をしっかりと見た。
﹁構いません。俺は陸軍科の連中には飽き飽きして、より強い訓練
相手を紹介してもらうために、このラインバーグ教室に来ました。
そして今、英雄と手合わせできるかもしれない機会があるんです。
これを逃す気はありません﹂
﹁やりたくはないが⋮⋮仕方がない、か。肉体労働は嫌いなんだが、
協力するといった手前、相手をしてあげるよ。武道場まで歩くのは
しんどいから、そこの中庭にでも出ようか﹂
218
ユイはそう言って立ち上がると、ゼミ室の壁に立てかけられてい
た木剣を二本手に取り、一本をレイスに放り投げた。
﹁本当は、先生には刀を使って、お相手願いたかったのですが⋮⋮
みんなの前で、この剣を使ったから負けたなんて、そんな言い訳し
ないでくださいよ﹂
レイスは手に持つ木剣を、両手で握りしめ直しながら、ユイに向
かって不敵な笑みを浮かべる。ユイたちが中庭に出てきて対峙して
いるのは、あっという間に噂となり、周囲は既に人だかりの山とな
っていた。
ユイは周囲を見回して、げんなりしたように肩を落とす。
﹁どちらが強いかなんかに興味はないから、言い訳なんてしないよ。
私にこれで勝ったら、君のほうが強い。それでいい﹂
﹁ふふ、そうですか。ならば、先生の剣技を楽しませて頂きます。
いきます!﹂
そう言い放った瞬間、レイスは一気にユイに躍りかかる。上段か
ら木剣を振り下ろし、ユイがそれを受け止めると、すぐに剣を引き、
横薙ぎの一撃を放つ。
ユイはその二撃目も手首をひねって、剣で受け止めると、大きく
バックステップを行い、距離をとった。
﹁さすがに、これくらいではダメですか﹂
﹁いやぁ、早い早い。学内最強は伊達じゃないね﹂
ユイは苦笑いを浮かべながら、レイスをそう評価した。レイスは
ユイの言動に含まれた余裕の成分を感じると、若干の苛つきを覚え、
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目尻がわずかに釣り上がる。
﹁その余裕がいつまで続くか、試させてもらいます﹂
レイスは剣を再度構え直すと、一足飛びにユイの懐へ飛び込み、
左下段から逆袈裟斬りの形で、剣を振り上げようとする。
ユイは、自らの剣にてその一撃を受け止めると、そのまま自らの
左後方へレイスの剣を受け流す。そしてわずかに体が泳いだレイス
に対して、足払いを放って転倒させた。
周囲を囲むギャラリーは、初めて見るレイスの苦戦する姿に、ど
よめきがあがる。レイスは周りの声を聞き、慌てて立ち上がると、
悔しそうな表情を浮かべ、再びユイの方へ向き直った。
﹁強い⋮⋮強いですね、先生﹂
﹁ありがとう。もうそろそろ満足したんじゃないかい?﹂
﹁いえ、まだです。もう一度お願いします﹂
﹁そうか、仕方がない。では、来たまえ﹂
ユイがそう答えると、レイスは大きく一度頷き、左足を前に出す。
そして両腕を前につき出すと、木剣の先端をユイの胸の位置に合わ
せ、そのまま顔の右まで、剣の柄を引き寄せた。
そして一度息を吸い込むと、ユイ目がけて猛牛の様にまっすぐに
踏み込む。
ユイは、自分の胸に剣を突き立てようと突進するレイスに対して、
その剣が胸に届くか届かないかの瀬戸際の瞬間に、右下方に沈み込
む。そうして首の真横を皮一枚で剣をやり過ごすと、自らの剣を手
放し、空いた両手でレイスの腕を取る。そしてそのままレイスの勢
いを利用して、後方へ背中越しに投げ飛ばした。
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ユイに投げられ一瞬宙に浮いたレイスは、全体重を受ける形で地
面に背中から叩きつけられ、一瞬息が止まる。そしてその後に、彼
の体を襲った衝撃で咳き込んでしまった。
﹁はい、ここまで﹂
ユイはそう言うと、腰をかがめて手放した剣を拾う。
地面に大の字になったレイスは、咳き込みながらも、自分がどの
ように投げ飛ばされたか全く理解できなかった。
﹁せ、先生。これは剣の技ではないですよね﹂
﹁今のでは納得出来ないのかい?﹂
﹁負けたことに、どうこう言うつもりはないのですが、ずるいかな
と⋮⋮﹂
﹁ふむ、戦場では必ずしも、相手が自分の流儀に合わせて戦ってく
れるわけではないよ。そして君の相手は、私なんかよりよっぽど厄
介な魔法士かも知れない。そんな時に、相手が剣でないからって、
戦わないわけにはいかないだろう。そうは思わないかい?﹂
ユイの問いかけに対して、レイスは悔しそうに唇を噛み締めなが
ら、ユイから視線を外す。そして大の字になったまま、空を見上げ
た。
ユイの言葉を最後に、二人が黙りこむと、周囲の野次馬も空気の
変化を感じて、少しずつ引き上げようとし始めた。その時、突然拍
手の音がその場に響き渡った。
ユイは音の方向を探ると、右手の方向から、やや身長の低い白ず
くめの男性が、周囲の人混みの輪から抜け出して来る。そして再度
拍手をしながら、ユイに向かって歩み寄って来た。
﹁いやぁ、素晴らしい戦いでした。お二人の技量には感服しました
よ﹂
221
﹁失礼ですが、あなたは?﹂
ユイが訝しげな表情を浮かべて尋ねると、その男は目を細めなが
ら両腕を広げ、そして笑みを浮かべ返答した。
﹁おっと、これは失礼。ワルム・フォン・ミーゲルと言います。校
長はまだご存知ではないと思いますが、魔法科で攻勢魔法分野の教
授をしております﹂
﹁そうですか。これはお恥ずかしいところをお見せしました﹂
﹁いえいえ、あのレイスくんを投げ飛ばすとは驚きです。英雄と呼
ばれる一端を見させて頂きましたよ﹂
ワルムはレイスを一瞥すると、わずかに首を左右に振り、ユイを
讃えた。
﹁それはありがとうございます﹂
﹁そういえば、校長。校長は明日の午前に、事務長と一緒に校内案
内として、授業風景の視察をされると伺っております。いいものを
見せて頂いたお礼に、良ければ明日は、私の講義を見に来られませ
んか? 魔法科の最高学年を相手に実習講義を行いますので、そこ
の二人も参加しますし﹂
ワルムは、エミリーとアンナを片腕で示し、ユイは二人が頷くの
を見て、頭を掻いた。
﹁はぁ、考えさせてもらいます﹂
﹁そうですか。では、お越しいただけることを期待していますよ﹂
ワルムは改めて笑みを浮かべ直してそう告げると、ユイに背を向
けて、歩み去っていった。
﹁有名な人?﹂
ユイはワルムの姿が見えなくなるのを確認したあと、近寄ってき
たアンナにそう尋ねる。
222
﹁ええ、先生を除くと、この士官学校では最年少の教授です。元々
は北のラインドル王国の出身で、魔法学の研究のために、三年前か
らここに来られているのですが﹂
﹁へぇ、彼に詳しいのかい?﹂
ユイがアンナに尋ねると、彼女はやや答えにくそうにしながら、
口を開いた。
﹁実は以前から、私たち二人を指導したいと、何度か声をかけられ
ているんです。そのたびにお断りしたんですが⋮⋮﹂
﹁なるほどね。そうか、彼があのワルム・フォン・ミーゲルか﹂
ユイはアンナの教えてくれた内容から、ラインバーグの引き継ぎ
資料の中に、ワルムという名前が太字で記載されていたことを思い
出し、大きなため息をひとつ吐いた。
223
魔法実習
﹁閣下、おはようございます﹂
﹁あ、ああ。事務長、どうも﹂
普段以上にのんびりしたユイの声に、ローリンはユイの足元から
頭の上まで視線を動かす。ユイのその両目は半開きのままであり、
更にその姿から、未だに眠そうなのが丸わかりであった。
﹁閣下は本当に朝が弱いんですね。失礼ながら、上着の前後が逆で
いらっしゃいます﹂
﹁ああ、これは失礼。ここ三年ほど、午後からしか働いていなくて
ね。どうにもこの時間は⋮⋮﹂
ユイは上着を着直すと、弱ったように頭を二度掻く。
﹁これから週に何度かは、この時間に来て頂きます。できるだけ早
くお慣れください。では、本日の午前は、当校の案内をさせて頂き
ます﹂
﹁案内といっても、一応は母校だからね。建物は変わっていたりす
るけど、だいたいわかると思うよ。だから、校長室で休ませてもら
っていいかな?﹂
ユイはアクビをしながら、わずかに期待に満ちた目でローリンを
見つめた。しかし、ローリンは呆れた表情を浮かべたのみで、事務
的に答えを返した。
﹁申し訳ありませんが、今日視察させていただく各部署には、既に
連絡を入れさせて頂きました。特に学生指導の視察は、学生たちも
閣下が来られるのを知り、待ち焦がれております。さて、時間が詰
まっておりますので急ぎましょう﹂
224
﹁はぁ、世の中は嫌なことばかりだ、本当に﹂
ユイはため息を吐いて、そう嘆くと、早足で校長室を出て行こう
とするローリンの後を、とぼとぼと追っていった。
ユイはローリンに案内され、戦略科、陸軍科の講義を順に見学し
た。そして最後に、魔法科の講義を視察するため、敷地内の最も奥
に設置された魔法武闘場へと案内された。
﹁この建物は変わらないねぇ﹂
﹁ええ、魔法武闘場は、他の建物とは構造が違い、通常の魔法程度
では壊れないよう設計されています。ですので、その分だけ建築に
も予算が掛かりますから﹂
現在の魔法武闘場は、ユイが入学するずっと以前から、そのまま
使用されている校内でも有数の老朽化建築である。しかしながら、
他の建物とは壁の厚みや使われている素材の強度が段違いであり、
そうそう立て直すわけにもいかず、隣に新築の建物があることから
も、余計に古さが際立っていた。
﹁そうだろうね。ところで、武闘場の隣に設置された、あの新しい
建物はなにかな?﹂
﹁ああ、あれはワルム教授の研究所です﹂
﹁へぇ、あれがね﹂
ユイは、ローリンからその答えを聞くと、武闘場の方向から体の
向きを変え、そのままワルムの研究所へと向かい始めた。
﹁えっ! 閣下、どちらへ行かれるのですか?﹂
﹁ん? まだ実習の開始まで少し時間があるからね。ちょっと実習
講義を見に行く前に、ゼミ運営の参考に、他の教授の研究室を覗か
225
せてもらおうと思ってね﹂
﹁いや、それはワルム教授も準備がおありでしょうし⋮⋮﹂
﹁まぁ、今日見学に来てくれと言っていたし、少しくらいは構わな
いだろ﹂
事務長の声を背中に受けると、気にするなとばかりに、ユイは右
腕を上げて、手のひらをひらひらとさせると、そのままワルムの研
究所の前まで歩き、ドアをノックする。
僅かな間の後に、ドアが少し開けられると、ワルムが顔を出した。
﹁どちら様ですか⋮⋮っと、これはイスターツ校長。こんなところ
へ、どうされました?﹂
﹁いや、実習の開始まで少し時間があるからね。私はゼミの運営に
関しては素人だから、先生の研究室を少し見学させて頂こうと思っ
てね﹂
ユイが笑みを浮かべてそう答えると、ワルムはわずかの逡巡の後
に、ドアを大きく開けた。
﹁どうぞ校長。こちらへお入りください﹂
ワルムは、ユイを中へ招き入れると、そのまま奥へと招く。
﹁ありがとう。しかし、すごい設備だね。こんな設備の教室は初め
て見るよ。魔法学の教科書は全て揃っているし、実験用の魔道具も
全て最新のものだ。うわぁ、これなんか世界でも十数枚しか無い自
動地図生成紙だし、こっちは過去写しの手鏡じゃないか。素晴らし
いね、ほんと﹂
ユイは室内をぐるっと見渡し、ラインバーグのゼミにはない様々
な機材に目移りしていた。
﹁ええ。良い教育と研究は、環境が大事です。僕は自分の研究はも
ちろんですが、できるだけいい環境を作って、学生たちを指導して
あげたいと思っているのです﹂
226
ワルムは笑みを浮かべながらそう答えると、ユイもその通りだと
思い、大きく頷く。
﹁そのとおりだね。この国の財政は厳しいけれど、僕も校長になっ
たからには、できるだけ予算を確保できるよう頑張ってみるよ﹂
﹁ありがとうございます。ぜひ期待させていただきましょう。では
校長、そろそろ実習のお時間になりますので、武闘場へ向かいまし
ょうか﹂
ワルムは、そう言いながらユイを外へと促し、外で待っていたロ
ーリンと合流する。そして三人で連れ立って、武闘場へ向かい、そ
の古めかしい建物の中へ入っていった。
武闘場の中では、既に学生たちは集合しており、一人の若い男性
教官が学生たちの前に立ち、出席を確認していた。
﹁いま学生たちの前におられるのは、どなたですか?﹂
ユイは隣に立つワルムに尋ねると
﹁彼ですか? 彼はホクナルと言って、私のゼミの講師をしてもら
っています。私のゼミは、閣下のゼミと違い十名以上を指導してお
りますので、私一人では手が足りないこともありますから﹂
﹁なるほど、彼も魔法士なのですか?﹂
﹁ええ、彼はラインドル王国の魔法学園から引きぬいて、我がゼミ
に来てもらいました﹂
ワルムがそう答えると、ユイはなるほどと頷き、視線をワルムか
らホクナルへ移し、口を開いた。
﹁彼もラインドルですか。ラインドルはワルム先生を始め、優秀な
魔法士の方が多いんですね﹂
﹁ああ、私のことを聞かれたんですね。残念ながら、ラインドルは
魔法後進国ですよ。向こうではこれ以上研究できないと思い、私や
彼はこの国へやってきたのですから﹂
227
ワルムは肩をすくめて、そうユイに告げる。ユイは﹁なるほど﹂
と相槌を打ちながら、ホクナルの指示を受けて、二人一組での魔法
の練習を始める学生たちの動きを見ていた。
二人一組となり、交互に攻勢魔法と防御魔法を発動しあう。もち
ろん怪我をしないように、魔法の種類は制限されていたが、同じ魔
法を扱っていても、その実力の差は学生ごとにくっきりと現れる。
中でもラインバーグ教室に所属しているエミリーとアンナが、周
囲の学生から飛び抜けている事は、実習が始まってすぐに理解でき
た。彼女らと他の学生との差は、世界にアクセスするための同調の
速さもさることながら、世界を書き換えるための魔法式の無駄の無
さと、その込められた魔力量の違いである。特に彼女らのもつ魔力
量は、今すぐ王立軍に加入してもかなり上位に位置するのではない
かとユイは思い、その訓練姿を目で追っていた。
ユイの視線に気づいたのか、ワルムはユイに向かって話しかけて
きた。
﹁どうです? 彼女たちはなかなかいい腕でしょう﹂
﹁ええ、さすがに魔法科のトップと言われる二人ですね﹂
ワルムの発言に同意の意を示すと、ワルムは一呼吸置いて、ユイ
に一つの提案を行なってきた。
﹁実は校長に、私から一つ御相談があるのですか﹂
﹁ご相談ですか、一体なんでしょうか?﹂
﹁校長のゼミに所属している彼女たちを、出来ましたら私のゼミへ
移籍させてもらえませんでしょうか?﹂
ワルムのその提案に、昨日アンナが何度もワルムに勧誘されてい
ると話していたことを、ユイは思い出した。
﹁彼女たちをですか⋮⋮それはまたどうして?﹂
228
﹁彼女たちは、あれほどの逸材です。きっと集中した魔法授業を行
えば、更に一段伸びると思います。しかし閣下は、特殊な魔法は使
われますが、一般的な魔法自体は使うことができないと聞いており
ます。老婆心ながら、このままではあの子たちの才能が、宝の持ち
腐れになりかねないと危惧しておりまして﹂
ワルムは真剣な表情でそう話すと、ユイは困ったように頭を二度
掻いた、
﹁そうですね。一応、彼女たちが希望するようでしたら考えてはみ
ますが⋮⋮ちょっと即答はできかねます﹂
﹁確かに。すぐに答を出すたぐいの問題でもありませんしね。では、
昨日は校長の実力を見せて頂きましたから、私も少し汗を流してみ
ますか﹂
ワルムはそう言って、ホクナルの元へ近づくと、二言三言話した。
そしてホクナルが学生たちの訓練を中断させると、全員をワルムの
元へと集めた。
﹁さて、皆さん。今日はちょうどイスターツ校長が、実習の視察に
来られています。皆さんの実力を見て頂く良い機会ですし、順番に
少し私と実戦授業をしてみましょうか。では、せっかくですからイ
スターツゼミのエミリーくんとアンナくん。前に出てもらえますか
?﹂
ワルムの呼びかけに、エミリーとアンナはお互い顔を見合わせる
と、諦めたような表情を浮かべ、前に出てワルムと対峙する。
﹁さて、先程までと同じように攻勢魔法と防御魔法の練習をしまし
ょう。一応、ハンデとして君たちは二人がかりでいいです。それと、
別に順番制というわけではないけど、最初は君たち好きなタイミン
グで仕掛けてきたらいいからね﹂
そう言ってワルムはニコッと笑みを浮かべると、エミリーは少し
229
嫌そうな表情を浮かべ、攻勢魔法を編み上げるために精神を集中さ
せる。もう一方のアンナは、エミリーがよく使う稲妻の魔法を唱え
るだろうと予想して、エミリーの隣に立つと、自分も稲妻の魔法を
準備し始める。そして、エミリーがアンナに向けて一度頷くと、二
人は同時に魔法を唱えた。
﹁﹁ライトニング!﹂﹂
その呪文が唱えられた瞬間、二人の正面に輝く稲妻が出現し、ワ
ルムに向けて一直線に突き進んだ。
﹁ふむ、素晴らしい。ですが、まだ魔法式に甘さがありますね。ソ
ルミュール!﹂
ワルムがその呪文を唱えた瞬間、エミリーたちの放った稲妻は、
ワルムの正面に出現した土の壁に防がれ、ワルムに届くことはなか
った。
﹁さて、では私の番ですかね。ドゥーブルエクレール!﹂
ワルムがラインドル王国の魔法を唱えると、その両手にそれぞれ
光が迸り、先ほどのエミリーたちのものの数倍の大きさがある二筋
の稲妻が生まれ、エミリーとアンナに向けて一筋ずつ放たれた。
﹁マッドウォール﹂
防御魔法の得意なエミリーは、慌てて二人の前に巨大な土の壁を
用意して、その雷の一撃をやり過ごす。そして稲妻を防ぎきり、土
の壁を解除して、攻撃に移ろうとワルムを探すが、その場にはワル
ムは存在しなかった。
﹁えっ、どこ?﹂
思わず、エミリーが疑問を発した瞬間、急に背後から肩が掴まれ
る。エミリーが慌てて後ろを振り返ると、そこにはエミリーとアン
ナの肩を掴むワルムの姿があった。
230
﹁さすが学年主席。攻勢魔法はいまいちですが、土壁の魔法は素晴
らしい防御力でした。しかし魔法範囲の選択が甘い。だから戦闘中
に相手を見失うのです。トネール!﹂
ワルムがそう唱えた瞬間、エミリーとアンナの体に電気が走り、
二人はその場で崩れ落ちた。
ワルムは、崩れ落ちた二人を見やると、声をかけた。
﹁二人とも、どうかな、そろそろうちの教室にこないかい? イス
ターツ先生はラインバーグ大臣とは違って、魔法が使えないんだ。
このようなラインドルの魔法を学ぶことは、君たちにとって必ず役
に立つと思うよ﹂
ワルムのその勧誘に対して、エミリーはまだ痺れる首をゆっくり
左右に動かして拒否を示すと、はっきりと言葉に出して告げた。 ﹁申し訳ないですが、私もアンナも、そのつもりはありません﹂
エミリーの拒否にワルムは肩をすくめると、再び笑みを浮かべて
二人に声をかけた。
﹁そうかい。気が変わったらいつでも来なさい。君たちが困ったこ
とがあれば、僕はいつでも相談に乗るからね﹂
231
朱のアレックス
魔法実習の翌日、エミリーたちはユイの講義に間に合うよう、少
し早めにゼミで待機していた。三人はその休み時間の合間に、この
数日間のことを話しあっていた。
﹁昨日は最悪だったわ。あのキモいワルムには肩を掴まれるし、ユ
イ先生には慰められるし﹂
﹁あら? エミリーは、ユイ先生にいいところを見せたかったの?﹂
アンナはニヤニヤしながら、そう指摘した。
﹁当たり前でしょ。少しだらしないけど、あれでも私たちの先生な
んだから﹂
﹁だらしないとか、あれでもなんて言うなよ。英雄ということは別
にしても、俺はあの人を尊敬しているんだ﹂
レイスはエミリーの発言を聞きとがめると、そう言い出した。
﹁あれ? 貴方はユイ先生の戦い方を、ずるいと思っていたんじゃ
ないの?﹂
﹁最初は体術を混ぜて決められたことを、ちょっとずるいと思った
よ。だけど冷静に考えれば、あの人は普通に剣で俺を叩きのめすこ
ともできたと思う。つまり手加減して、なお俺より強い。俺が尊敬
して、燃えないわけがないだろう!﹂
握りこぶしを作って、そう熱く語るレイスに対して、エミリーは
呆れたようにため息を吐いた。
﹁はぁ、これだから剣術馬鹿は⋮⋮﹂
﹁でも昨日、ユイ先生が私たちの実習に来た帰りに、レイスには別
232
に講師を用意する、って言ってたわよ。なんか私たちにも魔法の専
門家を連れてくるとか言ってたけど﹂
アンナが実習の帰り際に、ユイが話した内容を告げると、レイス
は目を見開き、身を乗り出した。
﹁講師だと? ユイ先生、あの人は本当にすごい。だが他のやつに
俺を教えることなんて、できるとは限らないだろ﹂
﹁私にそんなこと言っても、仕方ないでしょ。それに、あのユイ先
生が推薦するような方なんでしょ。相当な腕なんじゃないの?﹂
﹁あんな人が、何人もいてたまるか。どうせその辺りの筋肉自慢で
︱︱﹂
レイスが、まさに話している途中に、急にゼミ室の薄いドアがノ
ックされると、一人の見慣れない赤髪の男が、笑みを浮かべながら
入ってきた。
﹁えっと、レイス君という方はいますか?﹂
その見慣れないキツネ目の男は、椅子に座った三人を順に眺めて
いくと、レイスの顔を見た所で視線を止めた。
﹁俺がレイスですが⋮⋮あの、失礼ですがどなたですか?﹂
﹁ああ、君がレイス君ですか。僕はユイのやつに、君を指導するよ
うに頼まれてね。いやぁ、久しぶりにここに来たので、正直言って
迷いましたよ﹂
細い目をますます細くして、ニコニコそう告げる男に対し、レイ
スは思わず表情を険しくすると、彼を睨みつけた。
﹁ふぅん、あなたがユイ先生の言った講師の人ですか。あんまり強
そうじゃないですね⋮⋮貴方に教わる前に、先に言っておきたいこ
とがあります。もしあなたが弱かったら、ユイ先生に僕と稽古して
くれるよう言ってもらえますか?﹂
233
﹁ははは、わかりました。僕が負けたら、すぐにでもユイを呼んで
くることを約束しましょう。では、僕の拙い実力をお見せしたいと
思うので、少し剣術場にでも行きましょうか。ユイのやつが、中庭
で君と遊んだら、恥ずかしい目にあったと言っていたのでね﹂
そう言って、男は振り返りもせず部屋から出て行くと、レイスは
自信満々にその後を追っていった。
﹁さっきの人どう思う?﹂
部屋に残されたエミリーが、アンナに問いかけると、アンナも首
を傾げながら答えた。
﹁何か変よね。ユイ先生のことを名前で呼び捨てにしているし⋮⋮
なんかレイスは自信満々みたいだったけど、本当に大丈夫かな?﹂
﹁そうね、とりあえず私たちも見に行きましょうか﹂
二人は頷き合うと、ゆっくりとゼミ室を出て行った。
エミリーたちが剣術場の扉を開けて見たものは、顔に青あざを作
って、地面に這いつくばるレイスと、その体の上に右足を乗せ、部
屋に入ってきた時と同じ笑みを浮べている赤髪の男の姿であった。
﹁えっと、もうお終いですか? もう少し頑張ってくれませんと、
僕の鍛錬にならないんですけどね﹂
﹁すいません⋮⋮俺、調子に乗っていました。もう限界です⋮⋮﹂
レイスは涙目になりながら、彼を踏みつける男に謝る。
﹁そうですか。ふむ、たしかに素材としては悪くありませんが、技
術以前にまだまだ基本的な体ができていませんね。剣技は技だけで
はいけません。しっかりとした上半身と、それを支える下半身の筋
肉が必要です。どうも君は技術ばかりを追求して、筋力をおろそか
234
にしているようですが、あの練習嫌いのユイでさえ、学生時代はも
う少し体を鍛えていたものですよ﹂
アレックスはレイスの上に乗せた片足をどけると、レイスに向か
ってそう語りかけた。
﹁私は別に練習嫌いじゃないぞ。もちろん好きではなかったけど⋮
⋮それ以上に勝てない相手に挑むのが馬鹿らしかっただけだよ、ア
レックス﹂
背中側から突然聞こえた声に、エミリーたちが慌てて後ろを振り
向くと、そこには神経質そうな銀髪の男を連れた、ユイの姿があっ
た。
﹁えっ! 赤い髪⋮⋮アレックス⋮⋮まさか陸軍省の朱のアレック
ス!﹂
髪の毛の色ではなく、その鬼神の如き働きと返り血の量から、朱
のアレックスと呼ばれる陸軍最強の男。それが目の前にいる男と同
一人物であることを、レイスはユイの言葉から気づき驚愕した。
﹁ははは、昔の呼び名です。今は親衛隊に所属している、しがない
剣術屋ですよ。アレックス・ヒューズと言います。以後、よろしく
お願いしますね﹂
そう言って、アレックスはレイスに笑いかけたが、レイスは引き
つるような笑みを浮かべるのが精一杯であった。
﹁さて、レイスの指導の問題はこれでいいとして、次は魔法の授業
だが、こいつを呼んできた。護衛の順番がどうとか抜かすから、わ
ざわざ親衛隊長に掛けあって、シフト換えを許可してもらうのに苦
労したよ﹂
﹁はぁ、本当に馬鹿かお前は? 護衛の責任者を脅して、責任者を
無理やり働かせる奴がどこにいる。エインスのやつ、俺が抜ける穴
235
埋めの為に、しばらく休みがないって泣いていたぞ?﹂
後ろに立つ銀髪の男が、呆れるようにそう告げると、アレックス
は笑って口を開いた。
﹁はは、そうやってリュートも借りだしてきたんだ。そりゃあ、エ
インスも泣いているだろうね﹂
﹁いやぁ、ちょっとライン公に女性の話を告げ口するぞって言った
だけだよ。そうしたら、どうぞリュート先輩を連れて行ってくださ
いって、向こうから私に頼み込んできたんだけどなぁ﹂
ユイは、頭を掻きながら苦笑いを浮かべ、そう言い訳したが、そ
れを聞いていた学生たちは、王都防衛司令官を兼務したあの親衛隊
長を、顎で使う校長に対して、驚きを隠せなかった。
一方、ユイの人柄を理解しているリュートは、エインスに同情を
禁じえなかったが、それ以上にこの場にアレックスまでいることに
頭を抱えた。
﹁アレックス。お前までここに呼ばれたのか⋮⋮﹂
﹁いやあ、親衛隊の新兵の訓練していたんだけどね。全員へばっち
ゃって、暇だったところにユイが来てさ。学生にちょっと稽古をつ
けてくれって言うから﹂
アレックスが事情を説明すると、リュートは疲れたように肩を落
とした。
﹁まぁいいじゃないか。こうしてアーマッド教室の三人が揃ったん
だ。たまには後輩の面倒を見るのもいいだろ﹂
﹁それはそうだが⋮⋮﹂
﹁じゃあ、リュート。明日から彼女たち二人を頼むよ。とりあえず
基礎から教えこんでくれたらいい。でも、アレックスくらいの加減
はしてくれよ﹂
ユイがそう話すと、レイスは驚きとともに声を震わせた。
236
﹁か、加減⋮⋮あれが⋮⋮﹂
﹁まぁ、そのうち慣れてきますから。大丈夫ですよ﹂
そう言って笑みを浮かべたままのアレックスに、レイスは再び震
え上がる。
﹁それで、明日から彼女たちを教えるのならば、なんで俺を今日連
れてきたんだ?﹂
アレックスのことだから、レイスはひどい目にあうだろうとリュ
ートは思いながら、ユイに向かって話の方向を変えた。
﹁ああ、実はこの学校で誘拐事件と不正経理事件があってね。その
調査をしているんだが、ちょっと手伝って欲しくてね﹂
﹁誘拐? 不正経理? どういうことですか、先生﹂
正義感の強い真面目なエミリーが、ユイに向かってそう尋ねると、
ユイは弱ったように頭を掻きながら口を開いた。
﹁ああ、そっか君たちには聞かせるのはちょっと⋮⋮申し訳ないが、
少し三人でゼミ室を使うから、中には入って来ないでね﹂
ユイはエミリーたちにそう告げると、アレックスたちを促してそ
のまま剣術場から出て行った。
その場に残されたエミリーたちは、三人で顔を見合わせた。
﹁どう思うよ?﹂
レイスが体を痛そうにしながら、二人に歩み寄ってくるとそう尋
ねた。
﹁誘拐なんて⋮⋮でも最近、魔法科の生徒が二人ほど、学校から姿
を消したという噂を聞いたことがあるわ﹂
アンナがそう答えると、エミリーは僅かな逡巡の後に、二人に提
案した。
237
﹁ねぇ、私達の卒業は決まっているのよね。でも何もせずに卒業な
んて悔しいと思わない? ユイ先生を驚かすためにも、私たちでこ
の事件を調べてみましょうよ!﹂
﹁といっても、俺達に何ができるよ⋮⋮﹂
﹁確かに、私達にできることなんて限られているけど、学生の話を
聞くこととか、私たちにしかできないこともたくさんあるはずよ﹂
エミリーのその提案に、残りの二人は黙りこむ。そして少し考え
た後に、レイスが口を開いた。
﹁はぁ、付き合ってやるよ。このままあのおっさんたちに負けっぱ
なしじゃ、ちょっと悔しいからな。アンナはどうするよ?﹂
﹁エミリーがやるって言ってるんだから、私も手伝うわ。それで、
具体的にどうするの?﹂
﹁先ほど先生は、中に入って来るなと言ったわよね。だったらドア
の外で話を聞かせてもらいましょ。幸いゼミ室のドアは薄いから、
結構丸聞こえなのよね。話を聞くなとは言われなかったから、早速
行きましょう﹂
そう言っていたずらっぽい笑みを浮かべたエミリーが、ゼミ室に
向かい始めると、二人は呆れながらも、その後に着いて行った。
238
調査
ユイたち三人はゼミ室に戻ると、ユイが残りの二人にコーヒーを
入れ、一息つけた所でアレックスが口を開いた。
﹁そろそろいいかな。じゃあ、先ほど言っていた誘拐事件と、不正
経理事件について教えてもらえるかな?﹂
﹁ああ、まず誘拐事件だが、この数年で魔法科の生徒を中心に、毎
年数名ずつの生徒が行方不明になっている﹂
ユイが大きな声でその事実を告げると、リュートの眉がわずかに
釣り上がった。
﹁なんだと、魔法科がか? それは本当なんだろうな﹂
﹁ああ。今年になっても、これまでに二名の生徒が、行方がわから
なくなっている﹂
ユイの答えに、リュートはいつも以上に表情を固くする。その姿
を見たアレックスは、ユイに疑問をぶつけた。
﹁へぇ、でもそれが本当だったら、もっと早くに調査の手が入って
いたんじゃないかい?﹂
﹁それはもっともなんだが、もともと魔法科などは、授業が厳しく
て、夜逃げ同然で逃げ出していく学生がいただろ。お前たちも、こ
の士官学校から抜けていった奴は、何人か記憶にあるんじゃないか。
そんな夜逃げが日常茶飯時になっている体制も問題なんだけど、そ
う言った逃亡学生と区別がつかなくてね。これまでまともに調査さ
えされていなかったんだ﹂
ユイが語る逃亡学生とは、軍隊式の訓練の厳しさのあまりに、毎
年数十名の学生が、学園から逃げ出して親元などに帰っていく者た
239
ちを指していた。そしてその中には、実家に顔出しできず、そのま
ま姿を隠し、仕事を転々としているものや、傭兵などになったもの
も含まれており、追跡調査は行われていなかった。
﹁なるほどね。ユイもよく授業を抜け出していたから、ある意味で
は逃亡学生だったけどね﹂
﹁私は学校自体からは逃げていないよ、授業からは逃げていたけど
ね。それはともかく、事務部の段階で、その後の調査がされずに放
置されていたのを、ラインバーグ校長が気づいて、調査を命じる予
定だった。そしてその調査命令が出る直前に、帝国軍の襲来だ。結
局は調査が行われぬまま校長は学校を去り、この問題は現在も宙に
浮いたままになっている﹂
ユイは二人にそう告げると、頭を二度掻いて、ため息を吐いた。
﹁へぇ、それをユイが引き継いだのかい?﹂
﹁ああ、ラインバーグ校長からの引き継ぎ資料に、調査をお勧めす
るという名目の命令書が入っていたよ﹂
﹁はは、あの親父さんらしい﹂
笑い出したアレックスに向かい、ユイはジト目で見ると、アレッ
クスは肩をすくめた。
﹁それで不正経理の方はどうなんだ?﹂
﹁それに関しては、どうも毎年かなりの使途不明金がこの学校にあ
るようなんだ。おそらく、この学校を隠れ蓑にして、かなりの資金
がプールされているんだが、これまた事務部が非協力的でね。やは
り人の金の問題に首を突っ込むのは抵抗が大きいね。実際にまだほ
とんど調査できていない﹂
リュートの問いに対して、ユイは肩をすくめてそう答えた。
﹁そうか、財務省の方からも査察が必要だろう。とりあえず俺の伝
240
手にあたってみよう﹂
﹁ありがとう、リュート。どちらにせよ、これらの調査はまだ始ま
ってもいない段階だ。私も校長職を行いながらということで、すこ
しずつしか動けないと思うので協力を頼む。それじゃあ、今日は一
度解散しようか﹂
ユイが大きな声で解散を告げて、椅子を動かすと、ドアの外から
慌てて走り去る足音が聞こえた。ユイはその音を確認すると、改め
て椅子に座り直し、その場に座ったままの二人に苦笑いを浮かべる。
﹁しかし、すごい勢いで走って行ったね。それでこんな茶番までし
て、彼らに首を突っ込ませて良いのかい?﹂
﹁ああ、剣技や魔法は、お前たちがいたら、いくらでも鍛えられる
さ。だけど、彼らが士官として求められるのは、それだけじゃない。
おそらく今回、彼らは自分たちの足で調べ、自分たちで考えて判断
し、その結果として真実にたどり着こうとする。実践的ないい授業
だと思わないかい?﹂
ユイのその言葉に、アレックスはその危険性を口にした。
﹁だが、深入りし過ぎたら、彼らにも危害が及ぶこともあるよ﹂
﹁その場合に何とかできるように、お前たちに声をかけたんじゃな
いか。まぁ、万が一のために、あいつもつけているしな﹂
ユイのその発言に、アレックスは再び笑みを浮かべ、笑い出した。
﹁ふふ、始めは君が教師をすると聞いて、笑ってしまったんだが、
案外いい先生をしてるじゃないか﹂
﹁茶化すなよ。私も自分に似合わないことはわかっている。だけど、
放り出すわけにもいかないだろ、仮にも上官の教え子だしな﹂
ユイの回答に、アレックスはやや納得いかない表情で口を開いた。
﹁それだけじゃないと思うけど⋮⋮まあいいさ。じゃあ、レイスく
241
んは定期的に借りていくよ。僕とフート君で、彼を親衛隊の新兵と
一緒に鍛えてみる﹂
﹁ああ、助かる。あいつは厳しくやってもらって大丈夫だ。いい素
材だと思うから、みっちり鍛えてやってくれ。それとリュートもあ
の子たちを頼む﹂
ユイがリュートに依頼すると、リュートも渋々といった表情で頷
いた。
﹁仕方がない。しかし俺でないとダメなのか? お前のところにい
た、ナーニャという魔法士なら十分指導できると思うが?﹂
﹁考えないわけではなかったんだけど、あいつの魔法はちょっと特
殊だし、この年代の魔法士には基礎をしっかり身につけて貰いたい
からね。それにあの性格が移ったら、彼女たちのご両親に申し訳な
い﹂
﹁⋮⋮いいだろう。あまりエインスに無理もさせられないから、可
能な範囲でだが、協力はしてやる﹂
リュートのその返答に、ユイは喜びを表情に出すと、再度口を開
いた
﹁ありがとう。では、現在判明している、事件の本当の状況につい
て話そうか﹂
242
失踪
ユイの解散という言葉を聞くなり、ゼミ室の外で話を聞いていた
三人は、一目散にその場から駆け出すと、そのまま中庭まで一直線
に逃げ出した。
中庭に着くと、普段から鍛えているレイスはわずかの間に息を整
えたが、アンナとエミリーは幾ばくかの時間、中腰の姿勢での休憩
を必要とした。そうして少し呼吸が落ち着いてくると、エミリーが
顔を上げて二人に声をかけた。
﹁はぁ、はぁ、みんな聞こえた?﹂
﹁ああ、どうやら本当みたいだな。不正経理は俺たちには調べよう
もない話だが、誘拐とは⋮⋮クソ、俺達が知らない所で同じ学生が、
攫われているなんて、許せるかよ﹂
レイスは部屋の中で行われた会話の内容に、未だに驚きが隠せず、
僅かないらだちを表情から隠せずにいた。
﹁でも、まだ誘拐かどうかは、わからないんじゃない? あの内容
だけだと、あまり先走りは良くないと思うけど⋮⋮﹂
アンナは、ユイたちの話の真偽を疑っていたが、レイスの言葉を
聞いて、慎重論を唱えるためにそう話した。
﹁そうね。でも、そのあたりも含めて、一度調べてみる価値はある
んじゃない﹂
﹁確かに、その通りだな。とりあえず誘拐事件を手分けをして調べ
ようか。俺は陸軍科と戦略科を中心に調べてみるよ。ただ魔法科が
怪しいようだから、お前たちが所属科だし、そちらに関しては二人
で調べてくれないか?﹂
243
正義感と好奇心が入り混じったエミリーの提案に対して、レイス
も賛同すると、二人に役割分担を提案した。
﹁⋮⋮わかったわ。じゃあ一週間後に、お互いの状況を話し合うこ
とにしましょう﹂
慎重論を唱えていたアンナも、調査自体の必要性は感じており、
二人の意見を聞いて、わずかに逡巡した後に同意を示した。そして
三人は、お互いの役割分担を確認し合った上で、一週間後の昼に調
査内容を報告し合うこととして、その場で別れていった。
一週間後の昼休みに、三人はゼミ室へと集合していた。ただ三人
の中で、レイスだけは明らかに先週と様相が異なっていた。
彼の体は、あちこちに打撃痕と擦り傷が目立ち、場所によっては、
打撃痕の上に更に打撃痕が重なるような場所も散見され、その傷跡
が彼への指導の厳しさを雄弁に語っていた。
﹁最悪だった。アレックス師匠は鬼だ⋮⋮﹂
﹁師匠? それと前はあんなに強い人と稽古したいって言っていた
じゃない。なのに弱音を吐くなんて、ちょっと情けないんじゃない
?﹂
エミリーが、レイスの発言に呆れながらそう突っ込むと、レイス
はとたんに真剣な表情を浮かべて、エミリーの発言に対し反論した。
﹁甘い! 一度、お前も師匠の訓練を受けてみればいいんだ。あれ
を経験すれば、この学校の授業なんて、生ぬるいにも程がある⋮⋮
はぁ、明日も訓練があるんだよな⋮⋮﹂
244
レイスは普段に無く大きな溜息を吐くと、明日に課されるであろ
う訓練という名の拷問を想像し、気力を失って机に突っ伏す。その
光景を見たエミリーたちは、お互いの顔を見合わせると、思わず笑
みをこぼした。
﹁お気の毒様。朱のアレックスに喧嘩を売った罰ね。少しは自重し
なさいってことでしょ。それに比べ、私たちの先生はすごく紳士的
な方よ、リュート五位はね。ねぇ、アンナ﹂
﹁そうね。いつも私たちのことを気にかけてくださって、手取り足
取り教えて下さるものね。本当に、あの先生を紹介してくださって、
ユイ先生には頭が上がらないわ﹂
エミリーとアンナは、ニコニコとした表情を浮かべ、リュートの
ことを褒めちぎる。それを聞くと、レイスは一層憂鬱な表情を浮か
べ、限りなく深い溜息を再度吐いた。
﹁なんだよこの差は⋮⋮理不尽だ、絶対に理不尽だ﹂
﹁自業自得ね。まあそれはそれとして、今日は訓練の話をするため
に集まったんじゃないから、その話はここまでにしましょ﹂
﹁そうだな⋮⋮俺もいつまでも、あの悪夢のことは考えたくないし、
事件のことを話そうか﹂
レイスが、多少気を取り直して、机から顔を上げると、ゆっくり
と頷き、そう提案した。
﹁それで、レイスはなにか分かったの?﹂
﹁おう。俺は主に戦略科と陸軍科の伝手を使って調べてきた。結論
から言えば、ここ数年に関しては、誘拐などされた形跡はまったく
ないな。まず戦略科の方だが、奴らの中で、この学校から逃げ出し
た奴は少なくない。だけど、逃げたのはほとんど貴族の坊ちゃんば
かりで、見事に全員がご自宅へお逃げ遊ばしたみたいだな﹂
レイスが呆れたようにそう説明すると、アンナも納得したように
245
頷き、口を開いた。
﹁そうよね。あそこはコネで入った貴族様が結構いるから、たしか
にそのケースは多いかも﹂
﹁ああ、そいつらに関しては、ほとんどがここのカリキュラムにつ
いていけなかった奴ばかりみたいだ。それで、次にうちの陸軍科の
方だが、こっちにも訓練についていけなくて逃げ出した奴は数名い
た。ただそれ以外のほとんどは、借金を作ったり、女絡みなんかの
理由で、中退同然にこの学校を抜け出してる﹂
﹁なるほど、科によって結構違うのね﹂
アンナが科の構成違いによる、逃げ出す理由の差異を興味深く思
うと、思わず相槌を打った。
﹁ここ数年で、そうやって陸軍科を飛び出していった奴は、だいた
いが傭兵や護衛等の仕事に着いてるみたいだ。その中には、仕事や
痴情のもつれで、既に死んじまった奴はいるが、先輩たちの知って
る限りでは、なんの理由もなく消えちまった奴なんていないらしい﹂
話の内容に、アンナとエミリーはわずかに眉をひそめたが、今回
の事件とは関係ないと考え、気持ちを切り替えると、エミリーが口
を開いた。
﹁そうなのね。では、やはり問題は魔法科ね﹂
﹁やはりというからには、なにかあったのか?﹂
エミリーの発言に対し、レイスが思わず身を乗り出して尋ねると、
エミリーは大きく一度頷き、話し始めた。
﹁魔法科の失踪は、大きく分けて二つのケースが有ったわ。一つは
他の科と同じで、カリキュラムについていけなくて、ドロップアウ
トした人たち。これはアンナに調べてもらったわ﹂
﹁ええ、その人達のほとんどは、自宅に逃げ帰ったか、中途半端な
246
魔法士としてほそぼそと暮らしているみたいね﹂
﹁そいつらも問題なしか。じゃあ、もうひとつのケースってのは?﹂
アンナの調べに対し、レイスは理解を示すと、エミリーに続きを
尋ねた。
﹁そう。問題はもうひとつのケースなのよ。このケースの失踪者は、
魔法科の成績上位者が多いの。特に学園内でのトラブルもなく、金
銭的な理由なんかもない。本当に理由がわからない失踪ね。そして、
その人達はまったく足取りがつかめないの﹂
﹁ってことは、誘拐っていうのもまんざら無い話とは言えないか⋮
⋮﹂
レイスがそう呟くと、アンナが何かに引っかかったような表情を
浮かべ、おもむろに口を開いた。
﹁ちょっと待って、エミリー。成績の良い人たちなら、そんな簡単
に誘拐なんかされるかな? 一応、魔法科のエリートなんでしょ﹂
﹁そう、それが引っかかるのよね。もちろん学生レベルだから、そ
の人たちより強い相手なんていっぱいいるでしょうけど⋮⋮でも、
そんな簡単に誘拐なんて出来るかは、確かに私も疑問に思うわね﹂
エミリーはアンナの疑問に対して同意を示したが、レイスはその
意見に対して首をひねると、二人に向けて自分の見解を述べた。
﹁そうか? 確かに面と向かって決闘を挑んでさ、そして相手を倒
して誘拐するんだったらその通りだろう。だけど、そんな誘拐の仕
方をする奴がいるか? 魔法科の奴なら、陸軍科の連中と比べて筋
力なんかも弱いだろうし、不意をついて魔法を使わせなければ、何
とでもやりようがあるだろ﹂
﹁不意をつく⋮⋮か、そうね。でも、もしそうだとすると、場合に
よっては内部犯の可能性を考えないといけないわね﹂
アンナのその発言に対して、三人は多少気まずげにお互いの顔を
247
見合わせると、相互に複雑な表情を浮かべた。
﹁それで、これからどうする? その人達のことを調べていく形に
するのか?﹂
﹁でも、正直言ってあまり情報がないのよね。今年、そのケースで
いなくなったのが二人。貴族の三男が一人と、あと一人は親が魔法
士の子供ね。人数が少ないから、私も一週間の間に、ある程度は調
べたんだけど、突然消息を絶っていて、その前後に特に変わったこ
とはなかったみたいなの。その二人の関係に関しても、まったくお
互いに接点がなくて、唯一の共通点が成績が優秀ということだけ⋮
⋮﹂
調べた内容をエミリーが説明すると、レイスはため息を付き、思
わず首を左右に振った。
﹁はぁ、それじゃあ打つ手なしじゃないか﹂
﹁そうね。どうしましょうか⋮⋮﹂
三人は次の案が浮かばず、誰も言葉を発しないまま、その場に静
寂が訪れる。
そしてわずかに時間が過ぎた時、ゼミ室のドアがノックされると、
彼らの先生がそこから顔を出した。
﹁やぁ、君たち。いまちょっと時間あるかな?﹂
その場のやや重い空気を、まったく気にする素振りもなく、ユイ
はマイペースに三人に問いかけた。
三人が顔を見合わせると、三人を代表し、エミリーがその問いか
けに対して返答した。
﹁はい。大丈夫ですけど⋮⋮なんでしょうか、先生?﹂
﹁ああ、実は赴任したばかりで、校長室の資料整理が進まなくてね
248
⋮⋮申し訳ないんだけど、手伝ってもらっていいかな?﹂
249
疑惑
﹁ごめんね、こんなこと急に頼んじゃって。今日は仕事がなくて、
校長室の片付けをしようと思ったんだけど、ラインバーグ閣下が意
外とたくさんの荷物をそのままにしていってしまってね。まぁ、急
に大臣になってしまわれたわけだから、仕方がないけどね﹂
手伝ってくれる三人に対して、申し訳ないと謝りながら、ユイは
手元にある本の束を、本棚へと運んでいく。エミリーは、本棚にバ
ラバラに並べられた本の背表紙を見て、それらを順番に並べる作業
をしていたが、ユイの謝る声を聞いて手を止めると、ユイに向かっ
て微笑んだ。
﹁ああ、そうだったんですね。いいえ、構いませんよ﹂
﹁ありがとう、そう言ってくれると助かるよ。そういえば、あの二
人はしっかり教えてくれているかい?﹂
ユイが、リュートとアレックスのことを心配して話題に出すと、
一瞬で表情を曇らせたレイスとは対照的に、エミリーとアンナは満
面の笑みをこぼす。
﹁ふふ、リュート先生は、本当に丁寧に教えてくださっています。
あんな素晴らしい先生を紹介してくださって、本当に嬉しいです。
ねぇ、アンナ﹂
﹁そうね。リュート先生って、少しぶっきらぼうに見えますけど、
とても丁寧に教えてくださるんですよ﹂
ソファーの上に無造作に置かれた辞書のたぐいを、それぞれのジ
ャンル別に直す作業をしながら、アンナは声をはずませて答えた。
﹁あいつは昔から後輩の面倒見が良かったからなぁ。しかし、君た
250
ちがそう思ってくれてると知ると、あいつも喜ぶだろう。あいつは
クールなふりをしているが、実はシャイなだけだからな﹂
﹁ああ、やっぱり。実は昨日、アンナがリュート先生にお礼のお菓
子を持っていったんですよ。そうしたらリュート先生は、顔を真っ
赤にしながら、隅っこで黙々と食べてらっしゃいました﹂
﹁ちょっと、エミリー!﹂
エミリーの予想だにしない暴露に、思わずアンナは非難の声を上
げる。その声を聞いて、ユイは本を抱えたまま苦笑した。
﹁はは、あいつらしいや。ところで、アレックスのやつはどうだい
?﹂
﹁ア、アレックス師匠は、とてもとても素晴らしい先生であります﹂
ユイが、レイスに話題を振ると、彼はわずかに震えながら、やや
落ち着かない様子でそう話した。
﹁ああ、もういい。だいたいわかったから。なるほど、かなり絞ら
れているみたいだね。私も学生時代に、何度か仕方なくあいつと手
合わせしたことがあるんだが、それはそれはひどい目にあったよ。
あっ、そうだレイス! 君があいつに勝てば、その日から私より強
いと名乗っていいよ﹂
﹁と、とんでもありません! 師匠に勝つなんて、恐れ多いこと⋮
⋮微塵も考えたことなどありません﹂
レイスは、荷物を運ぶ手を止めると、その場で直立不動のまま答
えた。
そんな他愛のない雑談を交えながら、しばらく四人で部屋の荷物
を片付けていくと、次第に散らかっていた部屋も秩序を見せ始めて
くる。そうして部屋の片付けの終わりが見えた始めた頃、不意に校
長室のドアがノックされた。
251
﹁旦那、ちょっといいですかい?﹂
ドア越しに、やや低い声が室内に響くと、学生たちはユイに視線
を集める。ユイはその視線を受けて頭を一つ掻くと、訪問者に対し
て返答した。
﹁ああ、クレイリーか。どうぞ、空いてるよ﹂
ユイの返答に、校長室のドアが開けられると、いつものスキンヘ
ッド姿のクレイリーが、やや慌てたように入ってきた。
学生たちは、普段接点のないような容貌をしたクレイリーに対し、
驚きのあまりに硬直する。中でも、もっとも動揺したアンナは、手
元に持っていた辞書をその場に落としてしまうと、辞書の地面にぶ
つかる音が周囲に響き渡った。
﹁ああ、心配しないで。こいつはクレイリーと言ってね、私の元部
下だよ。見た目は怖いが、気のいいやつだから、そんなに驚かなく
ていい。ところで、こんな時間に私の所へ来るなんて、一体どうし
たんだ?﹂
ユイが、不思議そうな顔でクレイリーに尋ねると、クレイリーは
申し訳無さそうな顔を浮かべ、禿げた頭に手をやりながら答えた。
﹁実は、ナーニャのやつが、町の酒場でまた問題を起こしやして⋮
⋮﹂
だんだん語尾が弱くなるクレイリーの発言に対して、ユイは頭を
二度掻くと、大きくため息を吐く。
﹁またか⋮⋮私はあいつの保護者じゃないんだがなぁ。やれやれ、
しかたがない。では君たち、この机の上の資料をそちらの棚に移し
てくれ。それが終わったら、今日は解散でいいから。急にお願いし
たのに、申し訳ない﹂
ユイがすまなそうに謝ると、エミリーは気を使わないでください
252
とばかりに、首を左右に振って、否定した。
﹁いえ、大丈夫です。これくらいお安い御用ですよ﹂
﹁そうかい? じゃあ私は少し席を外すから、あとはよろしくね﹂
ユイは、エミリーたちにそう告げると、クレイリーに連れられて、
渋々といった様子で校長室から出て行った。
残されたエミリーたちは、ユイに指示された机の上の資料を動か
そうと、その紙の束を手にとる。レイスがその資料の内容を、何気
なく目で追うと、一瞬で動きを止め、その場で声を上げた。
﹁おい、これ士官学校の予算分配の内訳じゃないか?﹂
﹁えっ、本当だわ。これと、これと、これを合わせると、全部で五
年分の予算と使い道がここに揃っているわね。でも、なんで予算案
の時期でもないの、ユイ先生がこんなものを⋮⋮もしかして!﹂
エミリーが閃いたように顔を上げると、残りの二人も同じ事に気
づいたのか、表情を固くしていた。
﹁ああ、たぶんそうじゃないか。おそらく不正予算を調べるために
集めたものだぞ、これ﹂
﹁でも、こんなの勝手に見たのがバレたら、ちょっとまずいんじゃ
ない?﹂
アンナはバレた時のことを考えると、急に不安そうな表情を浮か
べる。すると、そんな彼女の表情を目にしたエミリーは、わずかに
逡巡した後に、自らの好奇心に負けて言葉を発する。
﹁それはそうだけど、気にならない?﹂
﹁そりゃあ、気になるけど⋮⋮﹂
﹁少しだけ、少しだけ見てみましょうよ﹂
エミリーは決意を固めてそう話すと、机の上の資料を、上から順
253
番にめくっていった。
﹁まずこの資料が、各ゼミごとの予算案ね。えっと、予算の上位か
らアズウェル教室、ラムズ教室、スレイブ教室、ティック教室、ノ
ーフル教室と⋮⋮あれ? アズウェル教室って、あなたたち聞いた
ことある?﹂
エミリーが予算額の最も多いゼミの名前を挙げて、そう口にする
と、レイスも首を傾げた。
﹁いや、俺は知らないなぁ。アンナは?﹂
﹁私も知らないわよ。戦略科のゼミじゃないの?﹂
﹁えっと、この後ろの資料を見ると、代表者がアズウェル・フォン・
セノーク教授で、どうも魔法科の教室みたいよ⋮⋮って、この教室、
学校の研究予算の一割も持っていってるじゃない!﹂
その資料に書かれていたあまりの予算額に、エミリーは驚きを隠
すことができず、周囲に聞こえるような大きな声を上げた。
﹁はぁ、一割? 本当に?﹂
﹁ええ、ほらこれを見て﹂
そう言って、手元の資料を二人に見せると、二人とも即座に驚き
の表情を浮かべた。
﹁ほんとね⋮⋮他の教室の倍以上の予算を使ってるわ。しかもここ
三年間で、急激に増えているじゃない﹂
﹁でも、こんなに予算を取れるものなの? 研究内容にもよるだろ
うけど、こんなの他の教授陣が反対するだろう。それに予算案を握
っているのは、あのうるさい事務長だぜ。こんな予算案、あの人な
ら突っぱねると思うけど⋮⋮﹂
三人は、エミリーの疑問に思わず考えこむ。わずかの時間の後に、
アンナが先日のユイの発言を思い出すと、ふと顔を上げ話し始めた。
254
﹁⋮⋮事務方が、このアズウェル教授とグルだったとしたら? ほ
ら、ユイ先生の話を盗み聞きしていた時にも、事務方が非協力的だ
って言ってたじゃない﹂
﹁そうだな。たしかにそんなことを言っていた気がする。でも、こ
れだけじゃあ、なんの証拠にもならないよなぁ。ただ予算が多いっ
ていうだけで⋮⋮﹂
アンナの仮説に対して、レイスはやや時間を取って考えた上で、
そう発言した。それを受けて、アンナは僅かの間、黙りこんだが、
再び顔を上げて二人に提案する。
﹁確かにそれはそうだけど、でもこの予算は、多分普通じゃないと
思う。誘拐事件も少し手詰まりだし、この際、このアズウェル教授
のことを少し調べてみない?﹂
﹁そうね、確かに誘拐事件は、進展が難しそうだし、目先を変える
意味でも、この教室のことを少し調べてみましょう。もしかしたら
何か関係あるかもしれないし﹂
アンナの提案に対して、エミリーも一つ頷いて、その意見に同調
した。
﹁よし、そうと決まったら、とりあえず明日までに、この教授のこ
とを調べて来ようぜ﹂
﹁わかったわ。じゃあ、明日までにアズウェル教授に関して、それ
ぞれ聴きこみね。そしてまたお昼にゼミに集合しましょう。それで
どう?﹂
エミリーの提案に、レイスとアンナはそれぞれ同意を示した。そ
して近くにおいてあった白紙のメモ用紙に、三人はその資料から必
要な部分だけを書き写す。その後、勝手に書類を覗き見たことの痕
跡を残さないよう、机の上の資料をユイの指定した棚の上に移すと、
施錠をして、校長室から立ち去っていった。
255
﹁それで、アレで良かったんですかい?﹂
﹁ああ。済まないな、部屋を散らかすのを手伝ってもらった上に、
あんな芝居までさせて﹂
二人は校長室を出ると、そのまま街の酒屋で、酒を飲み交わして
いた。
﹁いいですよ、こうやって昼間から旦那に一杯奢って貰ってるんで
す。何も文句はありやせん﹂
﹁しかし、あの子たちはちゃんと気づいてくれるかな? 予算額に
ばかり目を取られなきゃいいけど⋮⋮まぁ、あの人がいれば、最悪
ミスリードされても大丈夫か﹂
ユイはそう言って、心配事を脳裏の隅に追いやると、目の前のエ
ールを一気に飲み干した。
256
アズウェル
三人がアズウェルについて調べることを約束した翌日の昼、レイ
スは陸軍科の通常講義が長引き、昼休みの半ばを過ぎて、やっとゼ
ミ室に到着した。
﹁遅いわよ、レイス!﹂
昼休みの初めから、ゼミ室でずっと待っていたエミリーは、遅れ
てレイスが入ってくると、彼を睨みつけた。
﹁ああ、ごめんごめん。授業が遅れた上に、購買が混んでいて、パ
ンひとつ買うのにすごく並ぶ羽目になってね。それでお前たちは、
もう飯食ったのか?﹂
﹁とっくにね。貴方が遅いだけよ。最近、ちょっとユイ先生に似て
きたんじゃないの?﹂
エミリーの指摘に、レイスは思わず苦笑いを浮かべる。ユイは赴
任してから、ほとんどの講義に遅刻してくるため、既に学生の中で
は救国の英雄ではなく、遅刻の英雄という呼称が静かに広まりつつ
あった。
﹁そこは似たくはないんだけどなぁ⋮⋮ユイ先生はルーズだから﹂
﹁⋮⋮まあ時間がないから、本来の目的に移りましょう﹂
エミリーは、ユイの遅刻癖をこれ以上話しても仕方がないと思い、
一呼吸置いた後に、本題を切り出した。
﹁ああ、済まない。じゃあ、エミリーから始めてくれ﹂
﹁わかったわ。アズウェル教授のことだけど、最近は存在自体が知
られていないけど、少し前までは、幽霊教授として学生たちに知ら
257
れていたみたいね﹂
﹁幽霊教授?﹂
聞きなれない呼び名を耳にし、レイスは眉間に皺を寄せると、エ
ミリーに聞き返した。
﹁ええ、アズウェル教授の呼び名よ。以前は極たまに学生の指導も
行なっていたみたいで、めったに姿を表さないことからそう呼ばれ
ていたみたいよ。もっとも最近は、学生の指導はまったく行なって
いないみたいでね、ひたすら部屋にこもって研究だけしているらし
いわ。それに教授会や、それ以外の予算会議なんかにも一切出てい
ないみたい﹂
﹁へぇ、じゃあ、ひきこもり教授といったほうが似合いそうだが﹂
レイスが半笑いを浮かべながらそう茶化すと、アンナはそんな呼
び名になど興味無いような素振りで、呆れながら疑問を口にした。
﹁そんな呼び名なんかはどうでもいいけど⋮⋮ただ、そんなに引き
こもっているのに、それでも首になっていないのよね。ちょっと変
じゃない?﹂
アンナがそう疑問を呈すと、確かにと思い、エミリーも思わず同
意する。
﹁たしかに変ね。それだけの価値がある研究をしているということ
かしら?﹂
﹁研究といっても、実際に軍ですぐに使えるようなものじゃないら
しいぜ。俺が聞いてきた話だと、なんかこの世界の成り立ちや、そ
れと魔法との関わりなんかを調べているみたいでさ、いわゆる基礎
研究ってやつらしい。でも、そんなものが役に立つのかねぇ? な
んていうか地味だしさ、もっと研究者にはこうバーンというか、ド
カーンといった研究をして欲しいもんだけどな﹂
﹁⋮⋮貴方最近、頭の中まで筋肉になってきたんじゃないの?﹂
258
エミリーがレイスにそう突っ込むと、レイスは﹁最近叩かれてい
るからなぁ⋮⋮﹂と頭を擦り、嫌な表情を浮かべた。その姿を見て、
アンナは呆れて溜息を吐くと、次は自分の番だとばかりに口を開い
た。
﹁じゃあ、次は私ね。私の聞き込みだと、アズウェル教授は五十代
の男の方みたいでね、いつも白衣を着たまま、研究室に寝泊まりし
ているみたい。そしてここからが気になった内容なんだけど、実は
七年くらい前までは、アズウェル教授の所にもゼミ生がいたそうな
の。でも、ある日から、突然ゼミ生がいなくなったみたいで、その
後は誰一人も教え子がいないそうよ﹂
﹁えっ、ちょっと待って⋮⋮突然いなくなったの?﹂
エミリーは今回の事件にどこか類似するアンナの話に驚き、思わ
ず身を乗り出して聞き返した。
﹁そう、以前はゼミ生がいたのが、急にいなくなったらしいの。何
か今回の話に似ているでしょ?﹂
﹁確かに、怪しいわね⋮⋮﹂
エミリーは七年前のゼミ生がいなくなった話と、今回の誘拐事件
が繋がる可能性を疑い、その場で考えこむ。
﹁それで、これからどうするの? アズウェル教授が人前に出てい
たのは、かなり昔の話だから、もしもっと詳しい話を聞きに行くと
したら、昔からここにいる古株の先生のところに行くしかないわよ
ね。でも、もともとかなり他人と接点を持たない人みたいだし、誰
に聞けばいいのか⋮⋮﹂
アンナは次の一手に悩み、だんだん語尾が弱くなると、レイスが
閃いたようにその場で立ち上がった。
﹁そうだ! ユイ先生は、昔ここの学生だったじゃないか。ユイ先
259
生に尋ねてみないか?﹂
﹁馬鹿言わないでよ。そんなことしたら、私たちが調査している意
味がわからなくなるじゃない。それになぜアズウェル教授に目をつ
けたのかって言われたら、貴方はどう答える気なの?﹂
あっさりエミリーにダメ出しをされると、立ち上がった勢いが嘘
かのように、そっと椅子に腰掛け、両肘を机につけると頭を抱えた。
﹁それは⋮⋮そうだな。だとしたら、リュート先生やアレックス師
匠もダメだよな⋮⋮﹂
﹁当たり前よ。あの人達に頼らずに、自分たちでこの事件を解決す
ることを目的に、調査を始めたんじゃない⋮⋮そうね、この際だし
正面突破よ! 直接、アズウェル教授の所に行ってみましょう﹂
エミリーの予想だにしない突然の提案に、アンナもレイスも驚き
を隠せなかった。
﹁ええ! マジかよ?﹂
﹁本気よ。じゃあ、何か他に方法が思いつくの?﹂
レイスは、エミリーにそう言われると、代替の提案が思いつかず、
スッと視線を逸らした。
﹁いや、それは無いけどさ⋮⋮﹂
﹁だったら、行ってみるまでよ。困ったときはまず行動、これしか
ないわ﹂
﹁はぁ、いいわ。付き合いましょう。他にいい案が思いつかないし
ね。それに万が一、アズウェル教授が何か企んでいたとしても、三
人でいけば多分安全でしょ﹂
アンナが呆れながらも、エミリーの提案に賛同すると、エミリー
は満面の笑みを浮かべ、椅子から立ち上がった。
﹁では、善は急げよ。早速向かいましょう!﹂
260
三人はゼミ室を出て、校舎の別棟の外れに向かった。そこには普
段人が立ち寄らない部屋があり、噂ではそれがアズウェルのゼミ室
と言われていた。
三人は幾ばくかの時間をかけて、校舎別棟の外れにたどり着くと、
その右手に人気のない薄暗い部屋があり、三人とも噂の部屋はこの
部屋であると確信した。
﹁ここだよな⋮⋮それで、どうする?﹂
先頭を歩いていたレイスが振り返り、やや自信無さげにそう尋ね
ると、エミリーは呆れたように、レイスに答えた。
﹁どうするって言っても、普通にお話きかせてくださいって言えば
いいじゃない﹂
﹁そうだけどさ、なんて切り出したらいいのか⋮⋮﹂
だんだん口調が弱くなっていくレイスに対し、エミリーは呆れた
視線を送ると、最近のレイスに対して厳しい指摘を行った。
﹁なんか、最近レイスって中年恐怖症になってるんじゃないの? 前だったらそんなことお構いなく、堂々と中に乗り込んでいたでし
ょ?﹂
﹁中年恐怖症って言うな。師匠たちはまだ二十代だ。というか、中
年なんて言ってるのがバレたら⋮⋮ううっ⋮⋮﹂
レイスにはなにか自分の不幸な未来が見えたのか、突然頭を抱え
ると、震えはじめた。残りの二人は、呆れた表情を浮かべると、エ
ミリーが覚悟を決めて口を開いた。
261
﹁とりあえず、レイスは使いものにならないから、私が行くわ。私
が言い出したんだしね﹂
エミリーはそう言うと、その教室のドアを三回ノックして、室内
に向けて声を上げた。
﹁すいません、アズウェル教授はいらっしゃいますでしょうか?﹂
幾ばくかの沈黙の後に、何も返答が帰ってこないことを三人が確
認すると、お互いに顔を見合わせる。
﹁返事ないね⋮⋮﹂
﹁やっぱり帰ろうぜ、今日はきっと留守なんだよ。出直したらいい
じゃないか﹂
﹁いいえ、逆ね。もし留守だとしたら、これはチャンスよ!﹂
エミリーは、強い気持ちでそう断言すると、部屋のドアに手をか
けて、そのまま開け放った。
﹁お、おいエミリー、待てって!﹂
慌てて、レイスがエミリーに声をかけるが、エミリーはその声を
無視して、部屋の中に入っていく。そして十数秒の後に、再び入口
のドアから顔を出すと、二人に呼びかけた。
﹁入って来なさい。中は誰もいないわ﹂
アンナとレイスはお互い顔を見合わせると、仕方ないと覚悟を決
め、周囲を用心深く見回した後に、部屋の中へと足を踏み入れた。
﹁なんじゃこりゃ。うわぁ、ひっでぇなぁ﹂
部屋に足を踏み入れた瞬間、部屋中に本や書類が溢れかえってお
り、まさに足の踏み場もない状況であった。
﹁ほんとね。アズウェル教授が使っているのは、本当にこの部屋な
262
のかしら? これを見る限り、本や書類をおいているだけの倉庫で、
とても人が使ってる部屋とは思えないけど⋮⋮﹂
アンナは、足元の本を少しずつどかしながら、部屋の中央へ向か
って、少しずつ足を進める。しかし、一歩歩けば、隣にそびえる本
の山が崩れ、二歩進めば、目の前の書類の束が、ばら撒かれるとい
った有様であり、気がつくと三人は、部屋の本と書類の海の中で、
身動きが取れなくなっていた。
三人はこのままではどうしようもないと考え、仕方なく散乱して
しまった本や書類の山を少しずつ端に寄せて片付けていく。その作
業を始めて間もないタイミングで、急に入口のドアが開けられると、
突然の怒声がその場に響いた。
﹁お前たち、なにをやっている!﹂
263
研究者
三人は、背後から聞こえた怒声に慌てて振り返る。すると長い髭
を生やし白衣を着た初老の男が、部屋の入り口で目を吊り上げて仁
王立ちしていた。
﹁答えんか、お前らは何をしておるんじゃ﹂
﹁えっと、その﹂
エミリーは答えようとするが、その剣幕に思わず声をつまらせる。
その白衣の男はエミリーを無視して、三人の前を通り過ぎると、部
屋の一番奥に置かれた椅子に腰掛けた。
﹁す、すいません。先生に少しお話を聞かせてもらおうときたら、
部屋が荒らされていたので、代わりに俺たちが片付けを︱︱﹂
﹁嘘を付くな、嘘を。おそらくお前たちが入った状態が、いつもの
この部屋だ。どうせ部屋の中に入ろうとして、その辺りの本や書類
の山が崩れたんじゃろう? 付くならもう少しマシな嘘を付け﹂
レイスがとっさに思いついた言い訳を語り始めると、呆れたよう
に白衣の男はレイスを黙らせた。
﹁すいません﹂
﹁ふん、見たところうちの学生か。この部屋を滅茶苦茶にしたんだ。
貴様ら責任を持って元通りにしろ﹂
﹁いや、先生。最初の方が部屋の中は滅茶苦茶だったので、むしろ
今のほうが片付いたと思うのですが⋮⋮﹂
レイスがその男の命令に思わず反論するが、白衣の男は少し落ち
着かせていた怒気を、再び滾らせた。
264
﹁馬鹿もん。お前たちが勝手に片付けても、わしがどこに何がある
かわからんと、まったく意味がないじゃろうが。わしはここから指
示するから、お前らはキビキビと働け﹂
白衣の男はそう言うと、それから容赦なく三人に指示を出してい
く。そうして最初の紙の樹海であった頃と異なり、部屋の中が見違
えるほど整理整頓されたのは、もう夕方に差し掛かる頃であった。
明らかに以前とは異なる整頓された部屋の環境に、ようやく白衣
の男は機嫌を直すと、最も身近に立っていたエミリーに話しかけた。
﹁それで、わしはアズウェル・フォン・セノークじゃが、お前らは
わしに会いに来たのか?﹂
﹁は、はい。先生のお話を聞きたくて﹂
エミリーはアズウェルのその言葉に、緊張しながら慌てて返事を
した。
﹁なんの話だ? 正直言って、勝手に部屋に入り込んで、部屋を荒
らすような奴らに割く時間は、わしには無いんじゃ。まぁ、多少反
省して、手伝ってくれたからのう。少しは話を聞いてやるがな﹂
エミリーは、アズウェルにぎろりと睨まれると、やや落ち着かな
い口ぶりで、自分たちがはイスターツ校長のゼミに所属しているこ
と、最近魔法科の学生が誘拐されているという噂があること、そし
て学園の予算に不正の疑いがあることを話した。
﹁ふん。それでわしのところへ来たってことは、わしを疑っておっ
たんじゃろう。ところでなぜお前たちは、わしが怪しいと考えた?﹂
アズウェルが三人を見回して、睨みつけるようにそう問いかける
と、手元に予算案の写しを持っていたアンナが、三人を代表して答
えた。
265
﹁それが、その⋮⋮各教室の予算案のリストを手に入れまして。教
授の教室の予算案が突出しているので、ちょっと環境を見せて貰い
たいと思って﹂
﹁お前、ちょっとそのリストを見せてみろ﹂
アンナは判断に迷い、エミリーとレイスに視線を送ったが、ふた
りとも仕方ないとばかりに一度頷く。その答えを確認して、アンナ
はそのリストをアズウェルに手渡した。
﹁お前たち⋮⋮このリストを本気で信じたのか?﹂
予算案のリストをななめ読みしていったアズウェルは、リストか
ら顔を上げると、三人に向かって問いかけた。
﹁いや、その、完全に信じたわけではないのですが、校長室に置か
れていた資料でして、信憑性はあるかと思っていたのですが﹂
﹁校長室? ああ、イスターツの部屋か。なるほどな、大体話が見
えてきた。あやつめ、また面倒事を⋮⋮﹂
アズウェルが、リストを自らの机の上に投げ出して、ため息を一
つ着くと、レイスはその発言から、アズウェルとユイが知り合いで
あることに気づいた。
﹁あの、失礼ですが、教授はユイ先生を良く知っておられるのです
か?﹂
レイスのその問いかけに、アズウェルはやや苦々しげな表情を浮
かべると、その問いかけを肯定した。
﹁まぁな。あれでも、あいつはわしの教え子の一人じゃからな﹂
﹁⋮⋮そうなんですか。そんなこと、初めて聞きました﹂
レイスのその返答に、アズウェルは鼻息を一つ鳴らすと、口を開
いた。
266
﹁ふん、知っていた所で、別にどうということはないしな。さて、
それより話を戻そうか。お前たちの行動じゃが、多少目に余るが、
このリストを見て、お前たちが自分の目で、この内容を調べに来た
のは良しとしよう。情報の真偽を探るのは探求者として当然のこと
じゃからな。だからお前たちに聞こう。この部屋に勝手に踏み込ん
で、この部屋を見た上で、今でもこのリストの内容を信じとるかね
?﹂
アズウェルの問いかけに、エミリーはアズウェルを見つめ、はっ
きりと返答した。
﹁いいえ、この部屋には高価な魔術器具もありませんし、ほとんど
がただ書類だけで、それだけの予算を費やしているとは思えません﹂
﹁そうか。ふむ、人生の先達としての意見じゃが、情報は正確にそ
して正しく解釈しなさい。それはお前たちが、あの馬鹿みたいに軍
人になろうと、わしみたいに研究者になろうと必要なことだ﹂
﹁はい﹂
エミリーのその返事に対して、アズウェルは満足したのか、やや
表情を和らげた。
﹁じゃあ、部屋を片付けてくれた駄賃くらいはやるかのう。そこの
眼鏡をかけた女、このリストの内容は覚えているか?﹂
﹁ええ。ここに来るまでに何度も見ましたから、だいたい覚えてい
ます﹂
大きく頷きながら、アンナがアズウェルの問いかけを肯定すると、
アズウェルはニヤリと笑みを浮かべた。
﹁ならばこのリストのことを忘れて、これを知る前の気持ちで、わ
しの問いに答えてみろ。お前の目線でいい、わが校で、この数年の
間に最も予算を使っている教室はどこだと思う?﹂
その問いかけに対して、アンナは慌てて考えこむ。そしてその脳
267
内に様々な教室名を浮かべては、消していく。そうした中で、最近
研究室まで建てられ、最新の魔法機器が導入された教室の名前が最
後に残った。
﹁⋮⋮ワルム教室、です!﹂
﹁そう、だが奴の教室の名前はこのリストにない。そしてわしの教
室に過剰な予算が計上されている。つまりはそういうことだ。では、
忠告じゃ。あやつはわしのように、寛大で器量の大きな男ではない。
わしのところに来たみたいに、奴の所へ行くのなら、それなりに覚
悟していくんじゃな﹂
アズウェルは三人に向かってそう話すと、三人は顔を見合わせた
後に、アズウェルに頭を下げ、部屋から出ていった。
﹁ふん、ローリンの馬鹿者め。やるならもう少し上手くやれるだろ
うに。この程度だから学生ごときに気づかれるのだ。そうは思わな
いかね、イスターツ?﹂
三人がいなくなり静寂に包まれた部屋で、アズウェルの声が響い
た。そして一呼吸置いて、入口のドアがそっと開けられると一人の
男が室内に入ってきた。
﹁ははは、お見通しですか。どうもご無沙汰しています、アズウェ
ル先生﹂
﹁ふん、やはりお前の差し金か﹂
ユイのその声に、アズウェルは呆れながらそう問いかけた。
﹁まぁ、あんなふうに先生の部屋へ侵入するとは思っていませんで
したが⋮⋮うちの生徒たちがご迷惑をかけたみたいで申し訳ないで
268
す﹂
﹁どうせ迷惑をかけたなんて思ってないだろ、お前は。だいたいお
前はちょっと小細工を弄しすぎる。その悪癖は昔からお前の欠点だ
が、まったく治っておらんようだな﹂
アズウェルが、ユイに対して苦言を呈すると、ユイは困ったよう
に苦笑した。
﹁ははは、耳が痛いです。私も多少は成長したつもりですよ﹂
﹁ふん、救国の英雄、そして今ではうちの校長か。ラインバーグの
奴も、一体何を考えているんだか﹂
ユイはそのアズウェルの言動に、手厳しいと思いながら、思わず
頭を掻く。
﹁英雄なんてのは周りが勝手に呼んでいるだけですし、校長職もた
だのお飾りですよ﹂
﹁まぁ、お前がなにを企もうと関係ない。わしは研究に忙しいので
な。まったくお前といい、アーマッドのやつといい、あんまり俗世
の些事にわしを巻き込むな﹂
アズウェルがため息混じりにそう言うと、ユイは弱りながら口を
開いた。
﹁先生抜きに、この国の情報局は回りませんよ。しかし、先生は自
分の名義で資金が流用されていることを、本当に今まで知らなかっ
たんですか?﹂
﹁馬鹿者、この学校内の情報なんか興味ないわ。わしが相手してお
るのは、この世界そのものじゃ。世界の本当の姿を調べるための情
報、その使わない残りカスを貴様らが必要というのでくれてやって
るにすぎん﹂
ユイは本当に自分の生活圏内の情報に興味の無さそうなアズウェ
ルの発言に、思わず笑みを浮かべた。
269
﹁ははは、確かに。しかし、灯台下暗しというか、先生でさえ知ら
ないことがあると聞いて安心しましたよ﹂
﹁ふん、しかしこの埋め合わせはしてくれるんだろうな?﹂
﹁まぁ、うちの子たちにアドバイスも頂いたみたいですしね。いい
ですよ、今度七年ぶりに研究のお手伝いをしますから、それで勘弁
して下さい﹂
ユイの提案に対し、初めてアズウェルはニヤリと笑みを浮かべる
と、手元の引き出しから一枚の紙を取り出し、ユイに向けて机の上
を滑らせた。
﹁いいだろう。では、契約金代わりにこれをやろう﹂
﹁なんですか、これ?﹂
疑問を浮かべながら、ユイはその紙を手に取ると、アズウェルが
口を開いた。
﹁ワルムのやつが北へ流出させた、魔法技術の一覧だ。奴らを抑え
るのに役立つだろうから持っていけ。どうせ、あの子たちを向かわ
せた後に、奴の所へ踏み込んで、現行犯で抑えようなどと考えてい
たんだろ?﹂
﹁バレバレですか⋮⋮﹂
﹁あれほど口を酸っぱくして情報の重要性を教えたのに、成長のな
い奴だ。まったく、せっかくクレハのやつを付けてやっているのに、
主がこれではほんと部下が可哀想じゃわい﹂
義理の娘の名前を出して非難するアズウェルの言葉に、ユイは弱
り果てたように頭を二度掻く。
﹁ははは、クレハが私に過ぎた部下だというのは事実です。先生に
は感謝していますよ﹂
﹁まあいい。それはともかくあの子たちに何かあったらいかんだろ、
270
そろそろ行ってやれ﹂
﹁はい、色々有り難うございます。では、またお手伝いに来ますの
で。それでは﹂
ユイがそう言い残して部屋から出て行くと、再び教室は静寂に包
まれる。
そしてアズウェルは手元の資料を一つ取り出すと、何事もなかっ
たかのように研究を再開した。
271
ワルム
﹁エミリー、レイス、どうする?﹂
本校舎に向かってゆっくり歩く最中、アンナは前を行くエミリー
とレイスを呼び止めた。その声を受けて、二人は足を止めると、ア
ンナに向けて振り返る。
﹁そうね、どうしましょうか﹂
﹁さっき、突然アズウェル先生の所へ訪問して、あんなことになっ
たばかりだし、今回はあのワルムよ。少し計画を立てましょう﹂
﹁確かにさっきのような、考えなしなことは危険よね⋮⋮﹂
アンナの慎重論に対して、エミリーも先ほど突っ走ってしまった
ことに対する負い目があるのか、自己反省を口にした。
﹁あのさぁ、お前たち二人って、ずっとワルムのやつに勧誘されて
たじゃないか。それを使って、見学に来たとでも言えばいいんじゃ
ないか?﹂
レイスの提案に対して、アンナはなるほどとばかりに頷くと、そ
の提案に賛同を示した。
﹁なるほど、それはありね。そして隙を突いて中を調べるというわ
けね﹂
﹁ああ。それだと、うまくいけば確実な証拠が手に入るだろ。それ
と、まだ夕方のこの時間なら校内にも人がたくさんいるし、ワルム
がもし何かを仕掛けてきても、その音ですぐ騒ぎになる。仮に危な
い橋を渡る羽目になっても、この時間帯なら奴も下手なことはして
こないだろ﹂
レイスの指摘に、アンナは頷くと、エミリーに確認した。
272
﹁レイスのいうとおりね。エミリーもそれでいい?﹂
﹁わかったわ。じゃあ、早速あいつのゼミを見学に行きましょうか﹂
三人は校内の最も奥地にあるワルムの研究所の前に着くと、大き
く深呼吸してからエミリーがドアをノックした。
﹁すいません、ワルム先生はいらっしゃいますか?﹂
﹁どなたですか? ああ、君たちか! 私のところに来てくれるの
は初めてじゃないか。一体どうしたんだい?﹂
ドアから顔を出したワルムは一瞬やや驚いた表情を浮かべたが、
その後いつもの笑みを浮かべ直すと、エミリーたちに向かって問い
かけた。
﹁前々から、先生が私たちを誘ってくださっていたので、エミリー
と話し合って、一度見学だけでもさせてもらえたらと思って﹂
﹁おお、そうかい! それは素晴らしい。では、早速中へ入り給え﹂
アンナの言葉に一層の笑みをワルムは浮かべると、ドアを開けて、
二人を招く。しかし、レイスも中に入ろうとした所で、ワルムはそ
の眼前に立ちはだかり、彼の行く手を阻んだ。
﹁おっと、君が誰かは知らないけど、僕は関係のないものを研究室
に入れるのは嫌いでね。申し訳ないが、入所はご遠慮いただこうか﹂
レイスは困ったように中に入ったエミリーを見たが、エミリーは
ため息を一つ吐くと口を開いた。
﹁レイスは外で待っていてくれる? 今日は見学と少しお話を聞か
せてもらうだけのつもりだから﹂
エミリーの言葉がレイスに届くと、ワルムはもう満足だろといっ
273
た表情を浮かべ、ドアを閉めた。そして彼は、研究所内に入った二
人に向けて微笑むと、奥の教授室に向かって案内していく。
﹁素晴らしい機材の数々ですね。うちのゼミとは大違いです﹂
﹁そうだろう、魔法の研究と訓練はどれだけいい機材を使うかで大
きく違うからね。ここが最高の環境だということは紛れも無い事実
だよ﹂
ワルムが誇らしげにそう語り始めると、二人はやや嫌そうな表情
を浮かべながら、相槌を打っていく。そうしてしばらく歩いた所で、
講師のホクナルに廊下で会うと、彼に二人分のコーヒーを持ってく
るように指示し、そのまま教授室へと足を進めた。そして彼は教授
室の見るからに重そうな木製のドアを開くと、二人を中へと進めた。
﹁さあ、中に入ってくれたまえ。そこのソファーに掛けてくれたら
いい﹂
﹁ありがとうございます、失礼します﹂
エミリーたちはワルムの勧めに応じて、手前に備え付けられたソ
ファーに腰掛ける。ちょうどそのタイミングで、ホクナルがコーヒ
ーをトレイに乗せて運んできた。
﹁ホクナル君、ありがとう。では、これでも飲んでいてくれるかな。
今からうちのゼミの案内を持ってくるから、少し待っていてくれた
らありがたい﹂
ワルムはホクナルから受け取ったコーヒーを両手に持ち、二人の
前にコーヒーを置くと、そのまま部屋から出て行った。
﹁今しかないわね。アンナは教授の机周りを調べて。私はそちらの
戸棚を調べるから﹂
﹁わかったわ﹂
二人はワルムが部屋から出て行くと慌てて室内の調査を開始しよ
274
うと立ち上がった。しかしふたりがそれぞれの場所を調べ始めた瞬
間、いきなりドアが開け放たれると、そこには顎に手を当てたワル
ムの姿があった。
﹁ふふふ、なにを始めるのかな、君たち? まったく、他人の部屋
の物を勝手にさわるなと言われませんでしたか?﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
二人はワルムの余裕あふれるニヤけた表情に、薄気味悪いものを
感じ、その場で硬直した。
﹁おかしいと思ったんだよ。あれだけうちのゼミに来るのを嫌がっ
ていた君たちが突然訪問してくれるんだからね。君たちが探してい
るのはこれかな?﹂
ワルムはそう話すと、手元にクラリス王国の魔術の写本を二人に
見せた。
﹁えっ、王家の図書館に収蔵されているはずの魔術写本。そんなも
のまで⋮⋮﹂
﹁あれ、その反応だとこれじゃなかったのかな? ああ、分かった。
あの子たちを探しているんだね﹂
ワルムは間違えてしまったと苦笑いをしながら、動揺するエミリ
ーたちの反応を楽しむかのように観察してきた。
﹁⋮⋮あの子たちって、やはり先生が魔法科の生徒を﹂
﹁うん、僕の国が今ちょっと大変なことになっていてね、彼女たち
には貴重な奴隷魔法士として、働いてもらっているはずだよ。そし
て君たちもそうなって貰う予定なんだけどね﹂
まったく悪びれること無く、ワルムは二人にそう語ると、エミリ
ーたちは慌てて身構えた。
275
﹁最初からそのつもりで、私たちをゼミに誘っていたんですか?﹂
﹁ああ、君たち二人には、去年から目をつけていてね、いつか手に
入れようと思っていたんだが⋮⋮しかし、最後にこうやって私の所
へ飛び込んできてくれるとはね﹂
﹁でも、私達がここに来たことを知っている人物が沢山いますよ。
ここで私たちを誘拐したら、さすがに貴方も逃げ切れないんじゃな
いですか?﹂
やや挑発じみたエミリーの発言に、ワルムは思わず頭を振ると、
乾いた笑いがその場に響いた。
﹁ふふふ、君たちを手に入れたら、私はここを引き払うつもりだっ
たからね。もともと夏前にラインバーグが、僕の調査を始めている
って聞いていてね。そろそろ限界かと思っていたんだ。あの戦争の
おかげで、わずかに準備の時間が手に入ったけど、さすがに救国の
英雄は打つ手が早そうでね。後はいつここを抜け出すかというタイ
ミングだけだったんだよ。本当はもう少し我が国に、魔法技術と人
材を送りたかったけどね﹂
﹁貴方って人は!﹂
思わず激昂するエミリーに対して、アンナは素早く視線を送って
それを制すると、ワルムに対して問いかけた。
﹁それで、私たちをどうするつもりですか?﹂
﹁君たちが私にたどり着いたということは、イスターツのやつもそ
ろそろ私のことを調べあげてもいい頃だろう。だから今日限りで、
この国にはもう用はない。君たちを縛り上げて、私自らが、君たち
をラインドルへ案内してあげるよ﹂
ワルムはそう言うと、薄気味悪い笑みを浮かべたまま、一歩ずつ
歩み寄ってくる。
﹁そう簡単に私たちを誘拐できると思っているんですか? それに
276
この時間だったら、もし魔法を使ったりすると、すぐに人が集まっ
てきますよ﹂
﹁はは、人が集まる前に、僕が君たちの自由を奪えないとでも? どうせ後は逃げ出すだけなんだ、あっという間に終わるよ。もちろ
んそのコーヒーを飲んで眠っててくれたらベストだったのは否定し
ないけどね。さて、じゃあ覚悟を決めてくれるかな?﹂
近づいてくるワルムに対して、エミリーは彼をキッと睨み、片手
を体の前に出す。
﹁ライトニング!﹂
エミリーの手にまばゆい光が集積し始めると、ワルムは初めて動
揺を隠せなかった。
﹁覚悟ならとっくに決めていたわ。先手は取らせていただきます!﹂
277
アレックスの弟子
研究室の前で一人残されたレイスは、心配をしながらも、中の様
子がわからず、入口の前を当てもなくグルグルと円を書くように歩
き回っていた。そうして何十周も回り続けて、ふと足を止めた時、
突然建物の中から爆音が響き渡った。
﹁な、何事だ!﹂
レイスは慌てて、研究室の入り口に向かうも、扉は鍵が閉められ
ており、中に入ることはかなわない。周囲を見渡し、裏口を探すし
か無いと判断したレイスは慌てて建物の周囲を回るために、その場
から駆け出す。
そして四歩目を踏み出した所で、突然後方からドアが開く音を認
めたため、足を止めて振り返ると、そこからワルム研究所の講師で
あるホクナルが姿を見せた。
﹁君がレイス君かな。悪いが少し事情が変わってね、ここで君に死
んでもらうよ﹂
ホクナルは、無表情のままそう言い放つと、魔法の術式を編み上
げていく。
﹁くそ、あんた確か講師のホクナルだったな。あんたもグルかよ﹂
レイスは慌てて備え付けていた剣を構えると、魔法の的にならな
いよう、その場を駈け出した。
﹁エクレール!﹂
ホクナルの手元から、直前までレイスがいた場所に稲妻が走り、
レイスはなんとか間一髪で躱す。躱されたことを知ったホクナルは、
二発目の稲妻の魔法を生み出すと、再度レイスに向けて解き放った。
278
しかし、これもレイスは掠めながら右前方に前転して躱し、一足飛
びにホクナルに飛びかかった。
﹁ちっ、グラースミュール!﹂
ホクナルはその前進を阻むため、レイスの前に氷の壁を生み出す
と、レイスは前進することができなくなり、慌てて距離をとった。
﹁魔法の使えない学生のくせに、意外と魔法士相手に戦い慣れてい
るな﹂
﹁へへ、こちとら鬼のような師匠のもとで、何度も魔法士相手に模
擬戦闘をさせられているからな﹂
レイスがわずかに口角を吊り上げてそう言い放つと、無表情のた
め推し量ることは困難であるが、どうもホクナルの癇に障ったよう
であり、再度魔法式を編み上げていく。
﹁フウァールウインド!﹂
ホクナルの前に急速に大きな風の束が生まれ、ある程度の規模に
なった段階でレイスに向けて風の束が疾走する。レイスは慌てて横
っ飛びに避けようとしたが、完全に避けきる事ができず、レイスは
その場に転がった。
﹁ちぃ、風の魔法。しかもうちの国の魔法かよ。ワルムのやつはと
もかく、あんたまでそんなもんを使えるのかよ﹂
﹁ああ、この国の魔法式は大体見させてもらった。だからこんなも
のも作れるぞ。アイススピアー!﹂
ホクナルがクラリス式の魔法呪文を唱えると、彼の前に巨大な氷
の棘が生み出されていく。
﹁畜生、あんなので体を貫かれたら死んじまう。やるしかないか、
あれを﹂
レイスはその巨大な氷の棘を見て、先日のアレックスとの訓練が
279
脳裏をよぎっていく。
四日前の夕方、レイスは、アレックスが連れてきたナーニャと対
峙させられることになった。目的は遠距離から魔法を連発するタイ
プの魔法士への対処訓練である。
訓練開始後の最初の数分間は、その場を逃げまわることで、魔法
を躱しきっていたが、ナーニャがだんだん飽きてきたためか、早く
終わらせるために魔法の繋ぎの速度を上げていく。そうなると絶え
間なく回避が必要となり、レイスはあっという間に息切れすると、
ナーニャの放った氷の弾丸がレイスの腹部に直撃し、その場にうず
くまった。
﹁いいですか、レイス君。魔法士を相手にする時、我々剣士は圧倒
的に不利です。その理由は、遠距離攻撃にさらされた時、自衛の手
段が限られることです。君は今、避ける以外の方法が思いつきまし
たか?﹂
﹁⋮⋮いいえ、なにも﹂
痛みを必死にこらえながら、アレックスに向かって返答すると、
アレックスはいつもの涼しい顔を浮かべ、再度口を開いた。
﹁だとしたら、あのままでは君は永遠に彼女の的になっていたわけ
です。その程度では、君がいくら剣がうまくなろうと、所詮剣士相
手にしか戦えない、ただ強いだけの兵士です。いいですか、私の教
えを受けるからには、魔法士などに負けない剣士になってもらいま
す。いわゆる魔法士殺しですね﹂
﹁ですけど、師匠。あれだけ連発されると、どうしても躱すだけで
精一杯で⋮⋮﹂
280
レイスが情けない声で、そう話すと、アレックスは思わず首を左
右に振った。
﹁いいえ、できますよ。まぁ、彼女ほど強力な魔法士は少ないので、
普段は数発避ければ間合いまで踏み込めますけど、彼女のような優
秀な魔法士と戦うときは、何らかの魔法に対向する手段や技が必要
です。いい機会ですからそのうちの一つをお見せしましょう﹂
﹁へぇ、アレックス。あんたやる気なんだ?﹂
仕事が終わったとばかりに、ナーニャが酒瓶を口にしながら二人
を見つめていたが、アレックスの言動を耳にして思わず笑みを浮か
べる。
﹁ええ、彼にとお願いしてお招きしましたが、私にも少し稽古をつ
けてもらえますか?﹂
﹁おもしろい、いいよ。一度あんたとやってみたかったんだ。それ
に既に契約料代わりに二本分もオー・ド・ヴィを貰ったんだ、これ
くらいサービスしてやるよ﹂
﹁それはありがたい。では、お願いします﹂
アレックスがその言葉を吐くと、ナーニャは一気に氷の魔法式を
編み上げていき、アレックスに向けて次々と解き放った。しかしア
レックスはそれらの軌道を冷静に見極めて、最小限の動きで躱して
いく。
このままでは埒が明かないと感じたナーニャは、通常の倍ほどの
サイズの氷の弾丸を生み出し、アレックスに狙いを定めた所で、ア
レックスは突如ナーニャに向けてまっすぐに駆け出していった。
﹁あれと同じ事をやるしか無い、チャンスは一度きりだ。行くぞ﹂
281
レイスはそう呟くと覚悟を決め、自分の身の丈よりもはるかに大
きな氷の棘を、今にも放たんとするホクナルに向けて駆け出す。
﹁玉砕覚悟かね。ならば死に給え!﹂
その瞬間、氷の棘は解き放たれ、レイス目がけてまっすぐに疾走
する。
その飛んでくる氷の棘の軌道を冷静に捉えながら、先日見たアレ
ックスの剣閃をイメージし、剣を上段で構えると、一切のブレ無く、
棘の先端に垂直に剣を振るい、そのまままっぷたつに切断した。
﹁な、なんだと⋮⋮﹂
予想外の光景に、ホクナルは思わずうめき声を上げると、わずか
一瞬のうちにレイスが距離を詰め、横薙ぎにホクナルを一閃した。
﹁はぁはぁ、なんとか、うまくいった、かな⋮⋮﹂
剣を杖代わりにして、レイスはようやく姿勢を保つとその場に突
然拍手の音が響き、やる気無さ気な黒髪の男が姿を現す。
﹁いい戦いだったよ、レイス。この十日程の間に見違えるぐらいに
成長した。今なら私でも危ないかもしれないな﹂
﹁へへっ、お世辞はいいですよ、先生。自分の実力は、自分が一番
良くわかっています。でも、いつか先生を越えてみたいと思ってい
ます。そしてあの人も⋮⋮﹂
レイスは、ユイに対して初めて勝負を挑んだ時のようなニヤリと
した笑みを浮かべると、ユイも思わず彼に微笑み返した。
﹁いい心がけだ、その時が来ればまた相手になってやるよ。だから
今はここで休んでおけ。あとで迎えに来てやるから﹂
﹁分かりました。あいつらのことをお願いします﹂
﹁ああ、任せておけ﹂
282
ユイはひとつ頷くと、その場から駆け出していく。レイスはその
すぐ見えなった後ろ姿に満足する。
そして初の実戦の緊張感から開放されたためか、全身が脱力しそ
の場に座り込んでしまった。
283
教材
稲妻の魔法を集積したエミリーの手が、自らの方向へと突き出さ
れた事を目にしたワルムは、高速で魔法障壁を編み上げる。
しかしながらワルムが自らの眼前に防御結界を構築したタイミン
グで、エミリーは彼の方向へ稲妻を放たず、急に右手を部屋の壁に
向けると、そのまま魔法を解き放った。
稲妻が壁に直撃し、爆音とともに、壁が崩れ落ちると、そこには
人が十分通れるだけの外に通じる穴が生まれる。
室内での戦いでは得意の土系統の魔法が使えない点で不利だと考
え、脱出のために壁を破壊したエミリーの動きに、ワルム同様にア
ンナも驚きを隠せなかった。
﹁アンナ、外に逃げるわよ!﹂
ワルム同様に呆然としていたアンナに向かい、エミリーは大声で
叫ぶ。
すると、ハッと我に返ったアンナは、エミリーとともに一目散に
壁の穴から脱出した。
﹁クソッ、逃がしませんよ!﹂
思わず虚を突かれた格好になったワルムは、急いで二人を追いか
けると、壁の外へ飛び出したばかりの二人の背に向けて両手を突き
出す。
﹁ドゥーブル・クー・ド・ヴァン!﹂
ワルムの両手のそれぞれに空気の歪が生まれ、それらは逃げよう
とするエミリーとアンナの背に向けて、放たれた。
284
二人は背後で魔法を放たれたことを感じ取り、その場に立ち止ま
って後ろを振り返る。そして、慌てて同系統と思われる風の魔法を
編みあげると、ワルムの生み出した疾風の魔法を迎撃した。
﹁﹁ゲイル!﹂﹂
エミリーとアンナはそれぞれ、自分に向かってきた風の魔法に対
し、自らの風の魔法をぶつける。すると甲高い破裂音を生み出して、
風の魔法同士が相殺された。
﹁ほう、誰に教わったかは知りませんが、魔法術式が多少洗練され
ていますね﹂
﹁ええ、あんたのようなエセ紳士と違って、本物の紳士に教わりま
したから﹂
アンナがワルムに対してそう抗弁すると、ワルムは思わず笑みを
浮かべ、二人に向けて両手を突き出す。
﹁そうですか、では採点です。前回とは違うところを見せれますか
ね? ドゥーブルエクレール!﹂
ワルムが魔法実習でも使った最も得意とする稲妻の呪文を唱える
と、その両手にそれぞれ光が迸り、等身大ほどの二筋の稲妻が生ま
れ、再度エミリーとアンナに向けて一筋ずつ放たれた。
﹁マッドウォール﹂
エミリーは、前回と同じ巨大な土の壁を用意して、その雷の一撃
を受け止めるさなか、アンナは壁の横に飛び出すと、ワルムの動き
を目で追った。
﹁エミリー、貴方の左よ! ゲイル!﹂
アンナは牽制の意味も込めて、エミリーの左手に回りこもうとし
285
ているワルムに、疾風の魔法を放つ。そしてアンナの声を受けたエ
ミリーは、土の壁を消した瞬間に、もう一つの防御魔法の魔法術式
を編みあげる。
﹁アイスウォール﹂
エミリーが呪文を唱えた瞬間、エミリーの左方に巨大な透明な氷
の壁が生み出され、ワルムが近づいていたことが、氷越しに見て取
れた。
﹁なるほど、氷の壁ですか。これでは私の動きは丸裸ですね﹂
ワルムが感心したようにそう述べると、アンナの牽制で放った風
の魔法を躱すために、バックステップを行った。
﹁そういつまでも、以前と同じと思ってもらっては困ります﹂
エミリーは連続の魔法使用にて、軽度の疲労感を感じながらも、
気を抜くこと無く、ワルムを睨みつけて、そう言い放った。
﹁ふん、まぁいいでしょう。あなた方が、多少成長したことは認め
ましょう。そして私も無傷であなた方を、我が国へと連れ帰ること
は諦めました。少なくとも、全身熱傷程度は覚悟してください。ま
ぁ最悪死んでも、私はかまいませんしね。では格の違いというもの
を教えてあげましょう。マキシマムフードル!﹂
ワルムがその呪文の魔法式を構築し始めた瞬間、ワルムの両腕を
輝き始め、そして先程の稲妻の数十倍はありそうな雷そのものが、
エミリーとアンナを飲み込むかのような勢いで、二人に向けて迸る。
﹁マッドウォール﹂
慌ててエミリーは、最も得意とする土壁の魔法を唱え、その雷そ
のものを受け止める。しかし、雷の発生源であるワルムは、一向に
途切れること無く雷を生み出し続ける。
286
﹁ふふふ、氷の壁を編み上げていたら、もう終わっていたんでしょ
うがね。貴方は授業でも土系統が得意だったのは覚えていますよ。
ですが、その程度のちっぽけな魔法障壁で、私の全力の魔法式を、
いつまでも防ぎえると、思っているのですか?﹂
ワルムも全力で魔法式を編み上げているため、表情には余裕がな
かったが、この戦闘の勝利を確信したためか、その言葉にはまだま
だ余裕があふれていた。そして三十秒、四十秒と全力の魔法構築が
続き、次第にエミリーの土壁に亀裂が入り始める。
﹁もういいよエミリー、私の分まで魔法障壁を貼らないで。貴方の
分だけに限定すれば、まだ保つはずだから﹂
﹁馬鹿言わないでよ、アンナ。この学校に来てから、いつも一緒だ
ったじゃない。リュート先生も言ってたでしょ。自分にとってかけ
がえのないものを守ることができるのが、一流の魔法士なんだって。
だから私は最後の時までアンナを守るの!﹂
アンナの悲痛な願いに対して、土壁の魔法障壁を貼るために、全
力をつくすエミリーは、彼女を見ること無く、そう叫んだ。
﹁エミリー、いい心がけだ。そしてあいつに預けて、本当に見違え
るように成長したな、二人とも﹂
﹁﹁えっ!﹂﹂
聞き覚えのある突然の声に、思わず二人は驚きの声を上げた。そ
してその声と重なるように、世界でただ一人しか使わない呪文が、
唱えられる。
﹁マジックコードアクセス﹂
その言葉が放たれた瞬間、エミリーは自分の展開する魔法障壁に、
急速に他者の魔力が流入し始めるのを感じた。
287
﹁クラック!﹂
そしてその声が響いた時、エミリーが作り上げていた土の壁は、
その術式に上書きされ、三倍もの厚みを持った壁に生まれ変わる。
﹁ば、馬鹿な、こんなことが。イスターツ、貴様か?﹂
自らが全力で放ち続ける魔法にて、ようやく砕けかけたエミリー
の魔法障壁が、一瞬のうちに再生され、そしてさらなる数倍もの厚
みを持つものへと進化したことで、動揺を隠せない。
﹁アンナ、五歩下がって攻勢呪文の準備をしろ!﹂
いつの間にか、すぐ隣に立っていたユイに対して、アンナは驚く
と、ユイの発言内容を思わず否定する。
﹁で、でも、私の魔法程度ではあの雷に飲み込まれてしまいますし、
このまま放てば、先生の作り上げた魔法障壁にぶつかるだけです﹂
アンナの反論に対して、ユイは矢継ぎ早に普段とは違う強い意志
の含まれた声で、再度彼女に指示を出した。
﹁構わない、私がアシストするから、準備するんだ!﹂
﹁分かりました﹂
アンナはいつにない真剣な表情をしたユイの気迫に驚きながらも、
慌てて彼の指示通り、稲妻の魔法を準備する。
﹁エミリー、私が組み上げた魔法式を今この瞬間から、君に返す。
おそらく膨大な魔力が維持に必要だと思うが、ほんの暫くの間だけ
でいい、その間だけ保たせてくれ﹂
﹁はい、先生!﹂
エミリーの返事を受け取った瞬間、ユイはエミリーの魔法への介
入を魔法式はそのままに中断すると、エミリーは体全身が搾り取ら
れるように、魔力を吸い上げられ始める。しかし、ユイとの約束を
違えないため、叫び声ひとつ挙げず、必死に魔法の維持に集中する。
288
﹁アンナ良いか?﹂
﹁はい、いきます。ライトニング!﹂
﹁マジックコードアクセス﹂
ユイが再び呪文を唱えた瞬間、アンナはまっすぐ正面に向けて稲
妻の魔法を解き放つ。
﹁クラック!﹂
ユイがアンナの魔法式に介入した瞬間、アンナの稲妻は強烈な光
を発すると、眼前の魔法障壁をぶち破り、そのままワルムの雷を飲
み込み始める。そしてその光の奔流は、一気にワルムに向かって疾
走し、その全身を稲妻が包んだ。
﹁こ、こんな。ばかな﹂
エミリーとユイが放った稲妻により、全身に大やけどを負い、息
も絶え絶えになりながら、ワルムは思わず天に向かってそう呟いた。
﹁ゲームオーバーです、ワルム。貴方の負けです﹂
﹁くそ、結局は全て貴様の手の内か﹂
ワルムは顔をわずかに動かし、自分に近づいてくるユイの姿を捉
えると、そう吐き捨てた。
﹁いえ、全てが全てというわけではないですよ。今日まで貴方が、
我が国の魔法式をラインドルへ送っているとは知りませんでした。
それがわかっていたら、こんな学生実習の形ではなく、もっと早く
に貴方を叩き潰していたのに﹂
﹁学生実習? どういうことだ?﹂
289
まったく予想しない単語が、ユイの言葉の中に含まれていたため、
ワルムはユイに向かって問いただした。その問いを受けて、ユイは、
戦闘に疲れきり、魔法を使った位置で休んでいる二人に、視線を向
けた。
﹁要するに貴方は、ちょうど手頃な、彼らの実習相手だったわけで
す。つまり学生の教材ですね﹂
﹁わ、私が教材だと!﹂
自分を物同然に扱われた事をこれ以上無い侮辱と捉えたワルムは、
憤怒を隠せなかった。
﹁ええ、欲の皮が突っ張った人間がどういうことを行うのか。そし
てそれを暴くには、なにを用意し、なにを行わなければならないの
か。解決のために必要な情報の重要性、先走らない冷静さ、仲間が
いること、そして最低限の力。それらの必要性を、このような体験
を通して学ばせることができた。だから貴方はまさに生きた教材だ
と言っているのです﹂
﹁く、くそっ⋮⋮ユイ・イスタァーーーーーツ!!﹂
自分のこれまでの行いをあざ笑うかのようなユイの物言いに対し
て、ワルムは怨詛の声を投げかけた。
﹁ああ、もう少し付け足していうなら、貴方の魔法式を直接いじっ
ていれば、先ほどの戦いなんてあっという間に終わるものなんです。
だけど教師というものは、生徒の背中を後押しすることが好ましい
と私は考えています。だから彼女たちの手助けをする形で、戦った
わけです。まぁ、整った設備で手取り足取り教えたいワルム先生と、
若干教育方針が違うことは、とても残念なことですけどね﹂
ユイのその言葉を聞いた瞬間、ワルムは敗北感に満ち溢れ、なに
も言葉を返すことができなかった。それを確認したユイは、彼にし
290
ては珍しく怒りを込めた表情で、再び口を開いた。
﹁貴方が誘拐し、奴隷に貶めた私の後輩たちの報いは、こんなもの
では済まされません、絶対に。ただ貴方には、ラインドルから我が
国に対する介入の生き証人となってもらわなければなりませんので、
今日は仕方なくこの程度で済ませてあげます。では、しばらくおと
なしくしていてください﹂
ユイはそう言って屈むと、ワルムに手刀を打ち込んで気絶させた。
そして立ち上がり、ふと顔を上げると、今にも沈みそうな太陽に気
がついた。
眩しそうに目を細め、その光景を懐かしげに見るユイの元に、一
陣の風が走りぬける。
その風に吹かれ、ゆっくりと漂ってきた紅色の落葉樹の葉が、そ
っとユイの顔に当たると、彼はそれを手に取り、去りゆく夕日に重
ね合わせた。
291
教師は終わりぬ
士官学校を揺るがす大騒動が起こった一か月後の昼。軍務庁舎の
旧親衛隊室では、士官学校の校長である男が、勤務時間中にコーヒ
ーを飲みながら、頬杖をついて読書をしていた。
﹁先輩⋮⋮いい加減、学校に行きませんか?﹂
﹁何だい、エインス。その不登校児を学校に誘うような言い方は?
お前も入口の看板を見ただろ。ここは親衛隊室兼﹃第二校長室﹄
だ。校長が校長室にいるのは当然だとは思わないか?﹂
ユイが言うように、以前汚い字で親衛隊室と書かれていた看板に
は、その横に小さな字で、第二校長室という文字が付け足されてい
た。その看板を初めて見た瞬間、エインスが全身を脱力させたのは、
ほんの一週間前の話である。
﹁先輩。普通の校長室は、校舎の中にあるものなんですよ﹂
﹁おいおい、だいたいここの親衛隊室だって、本家は王城にあるじ
ゃないか。外に校長室があったって悪く無いだろ?﹂
ユイは王城に設置された新親衛隊室のことを指して、親衛隊長で
あるエインスに対して、反論をした。
﹁普通は悪いんですよ、それ。はぁ、先輩に使われる新しい事務長
の気苦労がわかりますよ、僕は﹂
﹁ん? プリオのことか? あいつはいいな、前任のローリンとは
違い、融通が利いて非常にやりやすい。その上、有能なんだから、
本当に非の打ち所がないよ﹂
前任のローリンに代わり、事件の後から内務省より派遣され、新
事務長となったのが若手官僚であるプリオ・ウルカンテであった。
292
ユイは彼のことを思い浮かべて、迷いなく絶賛した。
﹁なんか先輩の評価って、融通が利くことのほうが、有能であるこ
とより評価されていませんか? まあ、それはいいですけど、なん
で今日も暇なんですか。一体、講義はどうしたんですか、講義は﹂
エインスは、最近毎日のように、午前か午後にこの旧親衛隊室に
暇つぶしに来るユイに対して、わずかに非難めいてそう言った。
﹁ああ、今日はゼミの講義だったんだが、リュートとアレックスに
任してきた。リュートなんか最初は渋っていたのに、最近はあの硬
い顔をしながら、わざわざ俺のところまで講義日程を聞きに来るん
だぜ。しかも、講義が無い日はなんか寂しそうに帰るし、アイツを
知ってる奴にとっては、ちょっとしたミステリーだよ﹂
ユイは、仕事に関してはまさに堅物であるリュートが、学生のた
めにそれとなく一喜一憂したり、真剣に取り組む姿に、彼の新しい
一面を見出していた。しかしその事実は、エインスにとっては、頭
痛の種でしかなかった。
﹁あのねぇ、先輩。最近リュート先輩が、士官学校の授業に熱を上
げているせいで、僕の業務がうなぎのぼりに増えているんですよ。
最初はあの人も遠慮していたのに、最近は﹃じゃあ、エインス任せ
た﹄の一言ですからねぇ。悪夢の八十八期の中で、あの人だけはま
ともだと思っていたのに⋮⋮﹂
﹁はは、リュートをまともだと思っていたなんて、お前は人を見る
目がなかったんだな﹂
そう言って、エインスの発言をユイは笑い飛ばすと、エインスは
どっと疲れたようにその場でため息を吐く。そして、ユイの顔を改
めて見直すと、前から聞きたかった話題を切り出した。
﹁それで、先輩、そろそろ事の顛末を教えてはくれませんか? 断
293
片的には、事務長がクビになったとか、魔法科の最年少教授がスパ
イだったとかってことは、聞きましたし、いくつかの人事や取り調
べ記録からわかります。でも当事者じゃないので、今回の事件の全
体像はさっぱりで⋮⋮﹂
﹁そうだな、私もお前の口から、そろそろ真相を聞きたいと思って
いた頃だ。いい機会だから一緒に拝聴させてもらおうか﹂
やや低く響く声とともに、旧親衛隊室のドアが予想外の人物によ
って開けられると、ユイもエインスも、思わず驚きの声を上げた。
﹁﹁ラインバーグ大臣!﹂﹂
﹁ああ、楽にしろ、いつも陰口で言っているみたいに、あのタヌキ
おやじが来たとでも思っていたらいい。それよりあの手抜きの報告
書では、詳細がさっぱりわからんかったから、そろそろちゃんとし
た話を聞かせてもらえるかな﹂
二人の反応に、笑いながらラインバーグは室内へと入ってくると、
手近にあった椅子に腰掛けた。まさかのラインバーグの登場に、エ
インスへの話は煙にまこうと思っていたユイも、仕方ないとばかり
に口を開いた。
﹁ええと、どこから話しましょうか⋮⋮そうですね、まず全ての事
件の始まりはローリンがワルムから、より正確に言うならば、ワル
ムを経由する形でラインドル王国から、多額の賄賂を受け取ったこ
とが始まりです﹂
﹁ラインドルの国自体からですか!﹂
国家による犯行支援と聞いて、エインスは思わず驚きの声を上げ
た。国家関与によるこのような犯行は、下手をすれば戦争のきっか
けになりうる。だから、エインスは、ワルム個人、もしくはその協
力者がローリンを取り込んでいたと考えていた。
294
﹁ああ、ラインドル王国は現在内戦中だ。優勢なのは宰相派らしい
んだが、彼らは今以上の軍事増強を進めていてね。その宰相派が、
ワルムを介してクラリス王国の技術と魔法士を狙っていたようだ﹂
﹁でも、技術はともかく、魔法士を手元に置くだけなら、金さえ積
めばいくらでも集まりませんか?﹂
エインスが首を傾げながら、そう疑問を呈すると、ユイは首を左
右に振って、その意見を否定した。
﹁フリーの魔法士なんて、魔法大国である南部のフィラメント公国
にでも行かない限り、簡単には集まらないさ。うちの国も、魔法士
は全て士官学校で育成され、そのまま魔法省へ入るのが普通だし、
野良魔法士なんて、本当に魔法を使えるか怪しい奴もザラだ。傭兵
で安定して雇うっていうのは、現実的じゃないな。それにラインド
ルは魔法後進国だし、自前の魔法士育成機関が、この内乱のせいで
機能停止している。そこで、最も近くのクラリスから、優秀な学生
を奴隷同然に輸入して、戦力補強を図ろうと考えるに至ったんだろ
う﹂
ユイがそのように解説すると、エインスはひとつ頷き、納得した。
﹁なるほど、そんな裏があったんですね﹂
﹁ああ。ワルムは、国家のためにやっていた部分もあったが、単純
によりよい環境での研究や実験を餌にされていたようだ。それに釣
られて宰相派の考えた計画に参加したみたいだね。まぁ、でもその
ために誘拐までやってしまうわけだから、マッドサイエンティスト
ってやつは困ったもんだよ﹂
﹁先輩も結構、手段を選ばない時がありますけどね﹂
﹁まったくだ。そのくせ、こいつはなんだかんだと言い訳をしよる
から、一層たちが悪い﹂
エインスもラインバーグも、こぞってユイを非難し始め、ユイは
二人の反応に困ったように頭を一度掻く。
295
﹁私の糾弾に来たんですか、まったく。話を進めますよ。予算の件
の仕組みは、単純にワルムに他のゼミ以上の予算を割く代わりに、
ローリンにその分のキャシュバックをするというものでした。もっ
とも、新任のワルムに大量の予算を割いたら怪しまれるので、ロー
リンは一度アズウェル先生のゼミに、予算を計上していたようです
が﹂
﹁アズウェル教授と言ったら、あの幽霊教授ですか?﹂
エインスは彼が学生時代に、ユイに連れられて数度だけお目にか
かったことのある気むずかし気な教授の姿を脳裏に浮かべて問いか
ける。
するとユイはあっさりと首を縦に振り、彼の言葉を肯定した。
﹁ああ、あの人はあの学校でも一番の古株だからな。事務部の若手
が、あの異常な予算案を気にしたこともあったようだが、ローリン
の目があることと、アズウェルの名前のせいで、だれも何も言えな
かったようだ﹂
﹁なるほどのう。確かに隠れ蓑にするなら、アズウェルは適任じゃ
な。なんせ、自分の研究外のことにはまったく興味を持たんやつだ
からな。それにいまおる教授連中も、多くは奴に借りがあるしのう。
しかもあやつは会議に出んから、まさに偽造予算案を組むにはうっ
てつけだわな。しかし私のところに送られた予算案には、別にアズ
ウェルの奴の予算が、飛び抜けて多かった記憶はないが⋮⋮﹂
﹁たしかアズウェル教授と閣下は、士官学校の先輩と後輩ですよね。
それもあって、閣下が見れば、アズウェル教授に接触する可能性が
あったからでしょう。だからローリンは幾つかの予算案のパターン
を作成し、相手によって配り分けていたようです﹂
ユイがそう説明すると、ラインバーグは疑念は持ちながら、結局
自分が騙されていたことに、わずかに肩を落とす。ユイはそんなラ
インバーグの姿に気づいて、やや切り出しにくそうに話を続けた。
296
﹁さて、最後に誘拐の件ですが、どうも三年間で、十二人もの生徒
が誘拐されているようですね﹂
﹁えっ、そんなにですか。それでその子たちは?﹂
エインスは二桁もの誘拐者がいたことに驚き、ユイに詳細を問い
ただした。
﹁詳しいことはわかっていないが、ワルムの自白からだと、意識を
失わせた上で、ラインドルの諜報機関の男に引き渡していたらしい。
もちろん自分のゼミだけ人が減ると、周りに怪しまれるから、各ゼ
ミから優秀なやつをまんべんなく誘拐したみたいだ﹂
ユイがそう答えると、ラインバーグは大きなため息を吐き、思わ
ず天井を見上げた。
﹁そうか⋮⋮本当ならば、私がいるうちに、何としてもワルムを摘
発せねばならなかったんだがなぁ﹂
﹁いや、閣下のところに上がる報告書は、残念ながら事務長が全て
改ざんしていましたから⋮⋮それでも校内の異変に気づかれ、私に
申し送って頂けたから、こうしてワルムを捕らえることができたの
だと思います﹂
ユイがそう言ってラインバーグを慰めるも、ラインバーグはゆっ
くりと頭を振る。そして僅かな自問自答の後に、ユイに向かって口
を開いた。
﹁お前もいろいろ話してくれたから、私も少し話をさせてもらおう
か。ユイ、おそらくお前は今年度限りで、士官学校長を解任となり
そうだ﹂
突然の話に、その場は凍りついた。そして、エインスはやや時間
を置いて落ち着きを取り戻すと、ラインバーグに尋ねた。
297
﹁えっ、だって先輩はこの秋に校長に就任したばかりですよ。なぜ
そんな早くに⋮⋮﹂
﹁ユイ、士官学校の今年の卒業生の、士官志望先リストは見たか?﹂
ラインバーグの予期せぬ問いに、ユイは考えることもなく、答え
た。
﹁いや、だって士官志望先なんて形式だけのもので、陸軍科は陸軍
省、魔法科は魔法省、戦略科は戦略省って決まっているじゃないで
すか﹂
﹁それが、今年は違うんだ。いまの軍部には第四の勢力があると言
われておる。つまり、そこの若いのが長を務めている組織がな﹂
﹁まさか⋮⋮﹂
ユイはラインバーグの指すものが何かに気づき、やや顔をひきつ
らせる。
﹁ああ、全卒業生の四割が親衛隊を第一志望としておる。つまり親
衛隊が一番人気というわけだ﹂
﹁四割⋮⋮ほんとですか?﹂
﹁ああ、先の大戦の英雄であるユイ・イスターツが作り、ライン大
公の長子が長を務める組織。そして英雄イスターツはワルム事件を
解決し、学生たちの評価が一層上がったとなれば、むしろ四割で済
んで各省は胸をなでおろしておるわ﹂
ラインバーグの説明に、ユイは思わず頭を抱え、机に突っ伏す。
しかし隣のエインスはその理由が思い至らず、ラインバーグに尋ね
た。
﹁えっと、それだけ聞くと、ユイ先輩が辞める理由には、少しもな
らないと思うんですが﹂
﹁エインス、少し考えてみろ。まあ、希望者全員が親衛隊に入れん
にしても、今後もこの傾向が続けば、あっという間に親衛隊は一大
298
勢力となろう。そんなことを各省庁の上層部や貴族連中が喜ぶと思
うか?﹂
﹁⋮⋮そういうことですか﹂
ラインバーグの説明に、エインスはようやく納得すると、隣で依
然苦悩している男に、視線を移す。
﹁はぁ、やっと安息の職を見つけたと思ったのに⋮⋮﹂
ユイはようやく机から体を起こし、頭を二度掻くと、深い深い溜
息を吐いた。
﹁あとは例の学徒動員の反対が全てだな。もっとも、学徒動員を止
めるためにお前を校長にしたわけだが﹂
﹁一応、学徒動員の議案は全部突っぱねましたけど⋮⋮って、その
ために私を送ったんですか。私が内政部や、主戦派や、貴族連中に
嫌われているのは、全部閣下のせいな気がして来ましたよ﹂
帝国との防衛戦の後、急速に兵士不足に陥ったクラリス軍は、兵
数増強が急務となっていた。現状の国防体制において南部方面は、
前回の戦いで帝国軍の魔法士部隊が壊滅した事もあり、問題はない
とされている。しかし、北のラインドルは、軍備拡張を進める宰相
派が国を牛耳る勢いであり、今後内戦が収束すれば、まず間違いな
く弱体化したクラリス王国を狙うと考えられていた。そのため、兵
士増員の手軽かつ人件費の安い方法として、士官学校と幼年学校兵
による学徒動員案が、しばしば議題となり、ユイが士官学校長とし
て、その全てを突っぱねていたのである。
﹁だから、罪滅ぼしもかねてな、まだ来季の人事が決まる前に、お
前の希望を聞こうと思っておる。もちろん叶えられる範囲でだが﹂
﹁働かなくて、コーヒーを飲んで、本を読んでいたら給料がもらえ
る、そんな職場はないですか﹂
﹁それって、ここじゃないですか! ダメですよ、先輩が来ると他
299
の人を巻き込んでサボりそうですから﹂
エインスが、親衛隊の部屋に居座る気満々のユイに対し、慌てて
釘を刺す。
﹁お前、役職が上がったら、ちょっと冷たくなったんじゃないか?﹂
﹁まぁ、エインスが冷たいかどうかはともかく、親衛隊はダメだ。
軍閥化と言われるところが落ちだろうて﹂
ラインバーグが、そう否定すると、ユイは弱った表情を浮かべた。
﹁はぁ⋮⋮他に閑職はないんですか、閑職は?﹂
﹁四位までなら、大都市の軍務長なんかもあるんだがのう。三位と
なると、閑職と言えるものは、お前が今就いとる士官学校長くらい
かな。だいたいわしがお前に楽をさせると思うか?﹂
ラインバーグのその返答に、ユイは肩を落とす。そして頭を一度
掻くと、観念したように真面目な表情となり、おもむろに口を開い
た。
﹁⋮⋮じゃあ仕方ないですね。どうせ働かされるなら、外務省に配
属して頂けますか?﹂
﹁外務省?﹂
ラインバーグは予想しないユイの希望に、思わず聞き返した。
﹁ええ。外務省は、内政部と軍部からの共同人事ですよね。なので、
可能なら外務省に配属して頂きたいと思います﹂
﹁ふむ、あえて聞こう。お前はなにを考えておる?﹂
ラインバーグはユイの表情から、明らかに何か考えのある発言だ
と感じ、ユイにその狙いを尋ねる。
﹁いや、大したことはないんですが⋮⋮ちょっとラインドルでの駐
在大使を拝命させて頂きたいと思いまして﹂
300
過ぎ去りし日々
エルトブールから北に半日ほど歩いた小さな農村。その外れにあ
る寂れた墓地に、見慣れぬ黒髪の男が訪れていた。
男は立ち並ぶ墓の中を歩くと、ややみすぼらしい墓石の前で立ち
止まる。そして彼は、その墓石周りの枯葉をまとめ、掃除していく。
次に墓前に華を供え、墓石に水をかけると、目を閉じて合掌する。
しばらくそうした後に、彼は墓石に向かって顔を上げると、話し
かけるように口を開く。
﹁ただ今戻りました。ほぼ四年ぶりとなってしまい、申し訳ありま
せん。そして、またこの地を離れないといけなくなってしまったこ
とを、お許し下さい﹂
彼はそこで、一度口を閉じると、再び目を閉じる。その瞼の裏に
溢れ出る光景は、彼以外の誰にも窺い知ることはできない。
ただ、その僅かな間で、彼が悲しいような、思わず笑い出しそう
な、なんとも言えない表情を浮かべたことは、在りしの日の光景が、
そこに映しだされていることを物語っていた。
どれほど目をつぶっていただろうか。彼は、三度頭を左右に振り、
曖昧な苦笑いを浮かべた後、表情を引き締める。
﹁さて、そろそろ時間です。またこの旅路が無事終われば、必ずこ
こに参りますので﹂
301
彼はそう呟くと、墓を後にして、ゆっくりと歩き始める。
そしてまだ冬の残滓が残る、春の木漏れ日の中、空にむかって呟
いた。
﹁昔、母さんがクラリスに向かった時、こんな気持ちだったのかな﹂
彼はその言葉を空に吐き出すと、一度だけ後ろを振り返る。
そしてスッと頭を下げると、再び前を向き、緑広がる春の草原に
向かって歩み出した。
302
北へ
春光うららかな晴天の日。
クラリス王国北端の国境砦には、常備兵の他に、全くバラバラな
姿をした三人の兵士の姿があった。
一人の男は、ハゲ頭の山賊風の男であり、残り二人の取りまとめ
役を行なっていた。そしてもう一人の男は筋骨隆々で、早朝から笑
顔を絶やさないさわやかな男性である。最後の一人は、紅一点であ
る美女といっていい女性であったが、まだ太陽の高い時間にもかか
わらず、酒瓶を片手にしながら、頬の色を彼女の髪のように赤くし
ていた。
彼らは国境警備の兵士たちから、若干奇異の目で見られながらも、
砦の壁の日陰に身を預け、のんびりと談笑しながら、その場で時間
を潰していた。それもこれも全て、ある男性を待つためである。
彼らは幾ばくかの時間、その場で過ごすこととなったが、太陽が
彼らの頭上に輝くようになった頃に、ようやく彼らの待ち人である
黒髪の男性が、クラリス方面から馬に乗って、ゆっくりと近づいて
来た。その男は、馬の鞍に片足を置いた不安定な姿勢で、アクビを
しながらも、先に彼ら三人に気づいたため、挨拶代わりに右手を上
げる。
すると筋肉男が、その近づいてくるだらしない男の存在に気が付
き、残りの二人に彼の到着を伝えた。残りの二人は、やれやれとい
った様相で足元にある自分たちの荷物を持ち上げる。そして三人の
うちのリーダー格であった坊主頭の男が、その黒髪の男に向かって、
歩み寄っていくと、疲れたような声を上げた。
303
﹁旦那、遅いですぜ。すっかり待ちくたびれやしたよ﹂
﹁ごめんごめん、ちょっと立ち寄らないといけないところがあって
ね﹂
クレイリーに愚痴を言われたユイは、思わず苦笑いを浮かべなが
ら、そう言い訳した。
﹁旦那は遅刻癖があるんですから、次に何かあるときは一緒に王都
を出やすからね﹂
﹁信用ないなぁ⋮⋮そんなに、私って遅刻するイメージがあるかな。
私自身はあまり覚えがないのだけど﹂
ユイが腑に落ちないように首を傾げると、クレイリーは諦めのた
め息を吐いた。
﹁⋮⋮本気ですか。なんか、旦那と話していると自分がすごくまと
もに感じやすよ。まあ、今更旦那にそんなこと言っても無駄なのは
わかっていますので別にいいんですが。それより聞きたいのは、な
んで今回はこの人選なんですかい?﹂
クレイリーは、カインスには視線を向けること無く、酒瓶を小脇
に抱える女性を射抜くように横目に捉えた。その仕草に、ユイはク
レイリーの言いたいことを把握すると、頭を掻きながら、口を開く。
﹁いや、他の奴らは忙しくてね。もともと最初は外務省がよくわか
らない護衛を、私につけようとしたんだが、護衛なのか監視なのか
わからないから拒否させてもらってね。それで仕方ないから、とり
あえずアレックスとリュートを連れて行こうと考えたんだが⋮⋮﹂
﹁それはさすがに⋮⋮﹂
クレイリーは、親衛隊の中心人物二人を連れて行こうとしたユイ
に向かって、呆れた声を上げる。
﹁そうなんだよな。その話をした切り出した瞬間、エインスが泣き
304
ながら許してくださいって言ってきてさ。まあ、気持ちはわかるけ
ど。で、そんな状況で誰を連れて行こうかって考えた時に、お前た
ちかフートぐらいしか思い当たらなかったわけだ﹂
﹁フートはダメだったんですかい?﹂
﹁アレックスに頼んだんだけど、彼女には新兵の訓練を手伝って貰
いたいって、あいつが言い張るから連れてくることができなくてね。
まぁ、訓練の指導役としてはちょうどいい強さなんだろう。だいた
いアレックス本人が稽古つけたら、特別なやつ以外は訓練にならな
いし﹂
﹁なるほど、そういう経緯で今回の四人が選ばれたわけですか。確
かにいくら人材難だからといって、あの細腕の新人たちに、いきな
りこの仕事を任すわけにはいかないですしねぇ﹂
クレイリーは今年加入してきた魔法科出身の卒業生たちを思い出
すと、苦笑いを浮かべながらそう答える。
﹁そういうこと。新人の中でも、レイスだったら別に連れて行って
もいいかと思ったが、これもアレックスがまだ未熟だからといって
良い顔しなかったからな⋮⋮まあどちらにせよ、アイツのことはお
前とカインスがいれば、たぶんなんとかなるだろ﹂
﹁なんか、旦那の護衛に来たのか、ナーニャの面倒を見に来たのか
よくわからないですが⋮⋮とりあえずわかりやした﹂
クレイリーが、つるつるとした頭をさすりながら、そう返答する。
すると少し離れて、二人の様子を見ていたナーニャが、何か感じる
ものがあったのか、その場所から二人に向かって声を上げた。
﹁そこ、なんか失礼なこと言ってないかい。他に現場に出れる魔術
師がいないっていうから、北の酒を条件について来てやったんだ。
もう少し感謝して貰いたいもんだね。まあ、そんなことはどうでも
いいけど。それより隊長、本当に北の国には良い酒があるんだろう
ね?﹂
305
自分が到着するなり酒の話を始めるナーニャに対して、ユイはや
や戸惑ったような笑みを浮かべる。しかし、彼女のことだからと諦
めると、大きく首肯し、彼女の話を肯定した。
﹁ああ、それは心配しなくていいよ。北の国は寒いから、昔から酒
造りは盛んでね。ほら、酒を呑むと温まるだろ。そういうことだよ﹂
﹁そうかい、ならあたしは何も言うことないや。隊長の好きなよう
にしてくれたらいいよ﹂
ユイの答えを受け取ると、ナーニャは酒以外には興味が無いこと
を隠しもせず、気分を入れ替えて自分の馬に歩み寄る。そしてさっ
さと出発できるように、旅の荷物の確認を行い始めた。ユイはナー
ニャの姿を見て、彼女がカーリンにいた頃と全く変わらないという
事に対して、少量の安堵と多量の呆れ成分を含んだ溜息を吐いた。
そして、多少の脱力の後に、気分を切り替えると、もう一人の同行
者に視線を向け、彼に声をかけた。
﹁最後になってしまったけど、カインスも今回の件は構わないかい
?﹂
﹁いや、国境まで来て、今更確認されても困りますが⋮⋮どちらに
せよ隊長や兄貴たちが行くのなら、お供しますよ﹂
いつものような屈託のない笑みで、ユイの問いに答えると、その
まま求められてもいないのに筋肉をアピールするようなポーズを取
る。
その仕草を見て、こいつもある意味我が道を行くやつだよなとユ
イは考え、今回の旅路に気を重くする。しかし、彼らが自分のため
に付いてきてくれるのだと考えなおすと、ゆっくりと左右に首を振
り、改めて感謝の念を浮かべた。
そんなユイの仕草を微笑ましく見ていたクレイリーは、ユイが表
情を引き締め直した所で、この護衛が決まった段階から抱いていた
疑問を彼に投げかけた。
306
﹁旦那。旦那が実際に外務省に移動になるなんて、欠片も考えてい
やせんでしたが⋮⋮しかしよくもまあ駐在大使なんてエルトブール
を離れる役職が、問題にならずに許可されやしたね﹂
﹁元々軍上層部に疎まれていて、外に出したかったってのはあるだ
ろうね。それに今回は軍務大臣のお墨付きの仕事だからね﹂
ユイは両手の平を左右に開いて、そう答えると、クレイリーはや
や言いづらそうにしながらも、噂で聞いた内容を口にした。
﹁でも王女がかなり反対されたと聞きやしたが⋮⋮﹂
﹁ああ、その件ね。実際に彼女自身があまり賛成ではなかったのは、
事実だけどね﹂
﹁私を置いて行ってしまうんですね﹂
エリーゼは、目の前の椅子に腰掛けるユイに向かい、頬をふくら
ませながら、非難めいた口調で話す。
﹁人が聞いたら誤解するようなことを言わないでください﹂
王女専用の応接室に呼ばれたユイは、その部屋の中にいるのが、
自分とエリーゼだけであることに安堵しながら、そう返答した。
﹁だって、貴方を王都に呼んで、親衛隊長に据えたのは私ですよ。
なのに貴方は、私が任命した親衛隊長職をあっという間に辞めてし
まうし⋮⋮さらに今度はこの王都から離れて他国へ行こうとするし。
カーリンから貴方をスカウトして引っ張ってきた私には、少しくら
いは文句を言わせてもらう権利があると思いますわ﹂
エリーゼは全く今回の人事に納得していない表情を浮かべると、
307
ユイを睨みつつそう告げた。その視線を受けて、ユイは自分で望ん
でこの王都に戻ってきたわけではないのだけどと、内心では多少反
論する。しかし、表面上にはその心情をおくびも出さず、苦笑いを
浮かべると、ゆっくりと謝った。
﹁まぁ、そう言われると言い訳の言葉もありません。ですが、今回
の人事は私ではなく、私の上司が決定したものでして﹂
﹁⋮⋮言い訳してるじゃない。どうせ、貴方がラインバーグに自分
の人事を出させたんでしょ。それくらいは私にもわかります﹂
ユイはさすがにそのくらいのことはお見通しかと考え、弱った表
情を浮かべる。そして何かそれらしい言い訳を考えようとするも、
あまりいい案が思いつかず、結局誤魔化すように右手で頭を何度も
掻いた。
﹁はぁ、もういいわよ。好きになさい﹂
﹁申し訳ありません﹂
ユイはエリーゼの許可とも取れるその言葉を受けると、即座に謝
罪の言葉を告げた。そのユイの反応にエリーゼは、一度だけ目を閉
じ頭の中を整理すると、急に表情を固くして、真剣な眼差しで彼を
見つめる。そして、誰にも告げていない決意を口にした。
﹁貴方だけには、先に告げておきます。今度、貴方がこの国に帰っ
て来たら、私は女王への就任を宣言します﹂
エリーゼの予期せぬ言葉に、一瞬ユイは時が止まったかのように
その場に硬直する。そして彼の頭の中に、ゆっくりとその意味が広
がった所で、なんとか一言だけ言葉を絞り出した。
﹁⋮⋮本気ですか?﹂
﹁ええ、本気も本気ですよ。だから、私を永遠に王女のままにさせ
ないためにも、必ず無事に帰って来なさい﹂
308
見慣れないユイの驚いた表情に、エリーゼは多少の精神的優位性
を感じたのか、わずかに笑みをこぼしてみせた。しかし、エリーゼ
のそのような仕草も視界に入っていないかのように、ユイは彼女の
顔を真剣に見つめたまま、一切表情を変えること無く問いかけた。
﹁私のことはいいんです。それよりも女王の件は本気ですか? 正
直言って、国内の反対派を考えると時期尚早と思いますが﹂
ユイはそう告げながら、エリーゼの女王就任に反対しそうな面子
を、頭の中にずらりと並べる。この国の歴史で初の女王の誕生に、
異議を唱えるであろう人数の多さと顔ぶれは、ユイをして言葉遊び
をする余裕を失わせるほどの規模であった。
しかし、ユイのそんな危惧を知ってか知らずか、エリーゼは自ら
の話す内容に臆すること無くユイに向かって自論を述べた。
﹁たしかに彼らのことは憂慮しています。しかし、現在のように、
最高権力者に空白があることは、国として不安定な状態です。誰も
責任を取らない状態ですからね。このまま現状維持を続けることの
方が、今後のことを考えるとマイナスでしかないと思わない?﹂
﹁それはそうですが⋮⋮﹂
ユイはエリーゼの意図を正確に察知した上で、わずかに表情をし
かめると、言葉を濁す。
﹁貴方の言いたいことはわかります。現状では、私に十分な後ろ盾
が無いことを言いたいのでしょ。おそらくライン公やヤルム宰相は
私に協力してくれるでしょうが、他の大公家はどう出るか⋮⋮まし
てや地方貴族の連中は、場合によっては他国に寝返りかねないでし
ょうね﹂
﹁そこまでわかっておいでで、あえて火中の栗を拾われますか?﹂
﹁だから、貴方が必要なんです。救国の英雄ユイ・イスターツがね。
貴方がいるからこそ内外に睨みが効くんです。いい加減、貴方は現
309
実から目を背けずに生きるべきよ﹂
﹁⋮⋮買いかぶりすぎですよ﹂
ユイは王女の嘘偽りのない言葉とその強さに、わずかに表情を曇
らせるとそう吐き出す。しかし、ユイの逃げるような言葉に王女は、
頬をピクリと動かすと、彼に向かって再度語りかけた。
﹁本気で言ってるの? それとも謙遜? どちらにしても、貴方は
現状を正しく認識すべきよ。いえ、貴方の能力を考えると認識はで
きているんでしょうけど、ただ受け入れてないだけよね。でも、も
うそろそろ覚悟を決めてもいい頃じゃないの?﹂
ユイは自分より幼いエリーゼの説教に、下を向くと一度ため息を
吐く。そして数度頭を掻いた後に、エリーゼに向かって口を開いた。
﹁わかっていますよ。多少背負わなければいけないものができてし
まいましたからね﹂
﹁ふふ、その言葉が貴方から出ただけでも今回は良しとするわ。貴
方はめったに内心を人に見せないからね。珍しく今回はあなたから
働こうとしているみたいだし、今回はこれ以上なにも言わずに受け
入れてあげます。でも、繰り返すようだけど、出来るだけ早く、そ
して無事に帰ってきなさい。いいわね?﹂
﹁旦那、もう昼過ぎでやすから、そろそろ出発しないと次の宿場に、
陽のあるうちにたどり着けませんよ﹂
クレイリーの言葉に、ユイは先日の王宮の出来事から、現実へと
思考を切り替えると、目をつぶって一度大きく息を吐きだす。そし
て一緒に旅立つ三人を順番に見ていき、最後にエルトブールの方角
を眺めやると、気分を切り替えた。
310
﹁よし、じゃあ行こうか﹂
ユイがいつものような落ち着いた声でそう口にすると、残りの三
人はそれぞれユイを見て笑みを浮かべる。
そして一行はラインドルの王都へ向かうため、北の大地へ馬を進
め始めた。
311
宿場町
一行が国境砦を出発し、ラインドル王国領に入ってはや四日。 周囲の木々は針葉樹林が中心となり、動物もキツネやリスなどの毛
皮獣が、ユイたち一行の前に姿を現すようになり始めた。
そんなクラリスとは異なった動植物の生態系やそれらが織りなす
景色に、ユイは一つ一つ感動しながらも、少しずつラインドルの王
都であるセーブルへ向かい旅路を進めていく。そしてその日の夜に、
ようやくセーブルヘ向かう街道最後の宿場町となるエレメンに到着
した。
﹁よし、ここからセーブルまであと一日か。思ったより近かったな﹂
﹁旦那、国境からならそうですが、王都からだともう六日ですぜ。
やっぱり遠いですよ﹂
ユイと違い動植物や景色などにあまり興味を示さないクレイリー
は、単純に長旅で疲れたのか、疲労を感じさせる声で反論した。
﹁そっか、そうだったな。まあ、もう少しで到着だからいいじゃな
いか。そんなことより、この町での宿を決めようか﹂
﹁隊長。ナーニャのやつが、既にそこの看板が掛けられた酒場付き
の宿に向かって、走って行っちまいましたよ﹂
町の入口で馬を預けた途端、誰になにも告げること無く、急ぎ足
で最も手近な酒場へと駆け出していったナーニャのことを、カイン
スが笑いながら告げる。それを聞いたユイは、酒場のある集落につ
く度に、全く同じ行動を取るナーニャに呆れると、肩を落とした。
﹁またか⋮⋮仕方がない、とりあえずはその店に行こうか﹂
ユイは呆れた表情を浮かべながら、カインスの指し示した宿に向
312
けて歩き出す。そしてその店の入口となる木のドアの前にたどり着
くと、ゆっくりとその扉を開けた。
﹁いらっしゃい、もしかしてさっき入ってきた元気のいいお嬢さん
のツレかい?﹂
その店の中に入ると、目の前に設置されたバーカウンターの中に
たたずむマスターと思われる男性が、ユイたちに向けて声をかけて
きた。
﹁ええ、多分そうです。それで彼女は?﹂
﹁ああ、そこでもう飲んでるよ﹂
マスターが親指で方向を指し示すと、旅の者と思われる大勢の客
達の中で、ひときわ目立つ赤髪の女性が、既に二杯の空ジョッキを
目の前に置いている姿があった。
﹁はぁ⋮⋮あいつは全く﹂
﹁はは、うちも長いこと店をやっているが、あんな飲みっぷりのい
いお嬢さんは初めて見たよ﹂
そう言ってマスターはカラカラと笑うと、クレイリーが横から呆
れるように呟いた。
﹁そうでしょう、そうでしょう。ほんとに困ったものですぜ﹂
﹁いいじゃないか。元気がいいことは悪いことじゃないさ。それに
俺の店も儲かるしな﹂
マスターは困った様子のユイたちを見ながらも、一向に酒のペー
スを落とさないナーニャを見やって、ニヤリと笑う。
﹁確かに、店をやってる人にとっては良い客でしょうね。まあ、あ
いつだけいい目を見せるのも癪だし、私達も一杯もらうとしようか。
あと人数分の宿泊もお願いできるかな﹂
313
﹁あいよ、任してくれ。じゃあ、取り敢えずここに掛けてくれるか
な﹂
ユイの依頼を快く引き受けたマスターは、ナーニャの座っている
席の周りに空きがないことを確認すると、ユイたち三人にカウンタ
ーの席を勧めた。三人は顔を見合わせて、一つ頷くと、勧められた
カウンターの席に腰掛ける。
三人が腰掛けたのを確認すると、マスターは笑顔を浮かべながら、
食器棚から三つの木のジョッキを取り出す。そして順番にジョッキ
のふちギリギリまでエールを注いでいくと、ユイたちの前に一杯ず
つ置いていった。
﹁それで、兄ちゃんたちはどこへ向かっているんだい?﹂
﹁私たちですか? 私たちは王都セーブルへ向かっているところな
んだけどね﹂
﹁へぇ、王都ね。だとしたらもう一息だ。おそらく明日の午後には
着くはずさ。もっとも二日酔いで、朝に起きられないなんてことが
なければだけどな﹂
マスターは、視線をナーニャ方向へ向けながらそう口にする。す
るとユイは一度肩をすくめ、首をゆっくりと左右に振りると、マス
ターの発言を否定した。
﹁はは、それは大丈夫ですよ。なんせあいつはべらぼうに強いです
からね﹂
﹁そうかい、それなら安心だ。あんな綺麗な嬢ちゃんが、二日酔い
でゲロ吐く姿なんて見たくねえしな。それで王都へ行くのは観光の
為かい?﹂
﹁本当は観光が良いんですけどね。残念ながら仕事ですよ﹂
マスターの問いかけに対して、ユイは右手を左右にパタパタと振
りながら、そう返答した。
314
﹁仕事か、そいつは残念だ。せっかくの王都なのにな﹂
﹁まあ、働かざるもの食うべからずって言いますから。それにこう
やって旅をしながら、あいつの面倒を見るよりは、王都で働いてい
たほうが楽なんですよ﹂
ユイはそう言って、五杯目のエールをウェイトレスに注文しよう
としているナーニャを横目で見ると、一つ溜息を吐く。
﹁ははは、普通はあんな美人のお嬢ちゃんの面倒を見れるなら、羨
ましいと思うのが男ってもんだろうがね﹂
﹁たぶんあの性格がなければマスターの言うとおりでしょうがね。
しかし、こんな話をしているのがバレたら、あいつに怒られやすか
ら、このへんにしておきやしょうか﹂
クレイリーがそう言ってナーニャの話を切ると、マスターは笑い
ながら分かった分かったと一度頷く。そしてユイたち三人のジョッ
キが空になっていることに気がつくと、新しいエールを注ぎ直し、
それぞれに手渡していった。
ユイはその新しいエールを喉に流し込むと、ニンマリと笑みを浮
かべる。そして、なんとはなしに、店内をぐるりと見渡すと、マス
ターにお礼の言葉とともに、一つの気になったことを尋ねた。
﹁ありがとうございます。しかしこの店はほんと繁盛していますね。
こう言ってはなんですが、結構小さな町なのに﹂
﹁以前はこんなには客も多くなかったんだけどな。この町の位置も
微妙でな、昔はこの町を通りすぎて一気に王都まで行っちまう奴も
多かったんだ。だがここ二年ほどの間に治安が悪くなってからは、
そんな奴は一人もいなくなったよ。そのおかげでこの宿も繁盛させ
てもらっているんだがな﹂
マスターのやや複雑な心境を表した物言いに、ユイは興味を引か
れると、更に彼に向かって話を進める。
315
﹁なるほど、夜間に移動するくらいなら、この町で泊まっていこう
とする者が増えたわけですね﹂
﹁その通りだ。最近レジスタンスがこの辺りでも現れるようになっ
てね。この街の付近でも夜中に街道を移動していると、襲われる危
険があるってもっぱらの噂になっているからな﹂
マスターの使ったレジスタンスという聞きなれない言葉に、ユイ
は引っかかりを覚えると、少し自分なりに思索を行った後に、その
言葉の意味を尋ねた。
﹁レジスタンス⋮⋮野盗みたいなものですか?﹂
﹁へぇ、レジスタンスを知らないのかい? すると、あんたらはこ
の国の人間じゃねえな﹂
店主がやや興味深そうな目でユイを見つめると、ユイは苦笑いを
浮かべながら、自らのことを口にする。
﹁ええ、今回の仕事のために、隣のクラリスから来ましたので﹂
﹁そうか、なら知らなくても仕方ないな。この国は数年前まではア
ルミム国王を中心に、そりゃあ他国に誇れる落ち着いた国だったん
だ。だけど二年前に、急に国王が体調を崩されると、宰相のムラシ
ーンが好き勝手やるようになっちまってな。最初に奴がやったこと
が、政治と軍事の中枢部をごっそりと自分のシンパに入れ替えるこ
とっていうから呆れるだろ﹂
マスターの話す内容に、ユイは苦笑いを浮かべると思わず頭を一
度掻く。
﹁それは、思いきったことしますね。でも急にそんなことしたら、
揉めたんじゃないですか?﹂
﹁ああ、揉めたさ。特にそこで首をすげ替えられた連中や、冷遇さ
れた奴らは、ムラシーンのやり方をかなり強く非難したみたいだな。
そしたらムラシーンは軍部を動かして、そんな奴らをあっさりと一
316
網打尽さ﹂
マスターは、自分の国のことでありながら呆れた話だと言いたげ
な表情で、ユイたちにそう説明する。その話を受けたユイは、マス
ターの話した内容から、レジスタンスの意味を彼なりに予想すると、
マスターに確認するように尋ねた。
﹁ということは、そこで弾圧から逃れた連中が、レジスタンスと呼
ばれて抵抗活動を行なっているってところですか﹂
﹁その通りだ、兄ちゃん察しがいいな。レジスタンスもなぁ、最初
は地道な抵抗活動程度だったみたいだが、宰相派の弾圧が激しくな
るに連れ、武力衝突までするようになってな。そうして次第に知名
度が大きくなっていくと、全く関係ない盗賊やならず者たちまでが、
自分たちのことをレジスタンスと勝手に名乗るようになっちまって、
もうぐちゃぐちゃさ。王都の連中の意向もあるんだろうが、今じゃ
悪さする連中のことをひとくくりにしてレジスタンスと呼ぶような
有様さ﹂
そう説明したマスターは、やや渋い表情を浮かべた。その顔を見
て、ユイはマスターの心情を察すると、口を開いた。
﹁しかしそれもひどい話だね。最初にレジスタンスを言い出した連
中にとってはいい迷惑だろう﹂
﹁ああ。俺に言わせれば、本物の連中はともかく、勝手にレジスタ
ンスと名乗っている奴らは、ただのクズどもさ。と言っても、そん
な野蛮な奴らの影響もあって、この店の売上が上がってるんだよな
ぁ。そういった意味では、まあほんの僅かだけは感謝してやろうか
なと思っているよ、ほんの僅かだけな﹂
マスターはそう言ってニヤッと笑みを浮かべと、ユイはしたたか
なマスターに苦笑する。
﹁それでこの辺りの治安はどうなんだい、けっこう荒れてたりする
317
のかな?﹂
﹁そうでもないんだけどな。ただ本物のレジスタンスがこの町の北
の森を根城にしているから、評判自体は良くないがね﹂
﹁へぇ、そうなのかい。でも、場所がわかっているなら、なぜムラ
シーンはそいつらを捕まえないんだい?﹂
エールを一度口にした後、顎を右手でさすりながらユイはマスタ
ーにそう尋ねる。
﹁それがなぁ、レジスタンスが根城にしているのが迷いの森と呼ば
れる大樹海でな。ムラシーンも何度か討伐部隊を出したみたいなん
だが、一度も奴らを見つけることができなかったって話だ。ま、俺
達には関係ないけどな。それに治安って意味じゃあ、レジスタンス
が近くにいると言っても、勝手にレジスタンスを名乗っているゴロ
ツキ連中とは違って、本物の連中は、ほとんど一般の庶民には手出
ししないみたいだからな、悪くなりようが無いさ。もっぱら奴らに
襲われているのは、大概が宰相関係者や政府の人間さ﹂
マスターが苦笑いを浮かべてそう話すと、ユイはマスターに向か
って笑いかけた。
﹁はは、その事実はあまり広まらないほうがいいだろうねぇ。マス
ターにとっては﹂
﹁その通りだ。あんまり安全だって話が広まったら、この店はまた
閑古鳥のなく田舎の宿に逆戻りさ。だが、そんな心配はいらねぇよ。
ムラシーン派の連中が、勝手にゴロツキどもの悪事を本物のレジス
タンスの仕業として喧伝するだろうからな﹂
マスターはそう言って片目をつぶると、ユイはなるほどとばかり
に大きく頷く。
﹁なるほどね。しかしマスターの話を聞いて安心したよ。明日、私
たちは王都に向かうために北の森の側を通らなければいけないから、
318
襲われたら困るからね﹂
﹁はは、心配すんなって。大丈夫さ、あんたらの旅の無事を祈って
いるよ﹂
319
次席大使
ラインドル王国。もともと大陸西北部にあった小国家群が、南部
のクラリスや大陸中央にあるキエメルテ共和国から身を守るために、
団結して同盟関係を結んだことが国家の始まりである。
そのような互助的な同盟関係から、しっかりとした国家に成立さ
せたのは、五代前となる初代ラインドル国王であった。彼は経済力、
軍事力に加え、婚姻政策を積極的に利用し、クラリスを含む周辺諸
国と、対等な同盟関係を築くことができる国を作り上げた。そして
大陸西部における最北端という立地の為、冬は外界と閉ざされる気
候上の問題が、逆にこの国の盾となり、今日まで国家として安定し
た体制を維持することに成功していた。
ユイたち一行は、北の森を特に支障なく通過すると、夕方にはラ
インドル王都であるセーブルに到着した。そして街の入口を見張る
守衛官に外交大使である証明を渡すと、守衛官はやや驚きの表情を
浮かべながらも、入都の許可を出し、一行は街の中へと足を踏み入
れた。
﹁へぇ、これは素晴らしいね﹂
﹁ですね、こいつはちょっと⋮⋮かなりよくできてやすよ﹂
街に入るなり、ユイもクレイリーもその防衛を前提として構築さ
れた街並みに感嘆の声を上げる。ラインドルは他国に比べ、やや地
方豪族たちの力が強い土地柄であり、王都であるセーブルは、その
ことを反映して国の規模に対してやや小さな都市あった。しかし城
下町の構造は、街の中心となる王宮への道のりが全くわからない構
造が取られており、周囲に張り巡らされた巨大な石壁の存在感もあ
り、彼らを驚かせるに十分であった。
320
﹁明らかに防衛を意識した都市づくりだね。クラリスみたいに商業
活動を優先した街だと、こんな複雑な都市構造は取ることができな
いよ﹂
ユイは頷きながら、この王都の設計者に内心で称賛の声を上げる、
しかし一瞬考えこむような仕草を取ると、その迷路のように複雑な
道路構造から、大使館までの道のりが無駄に遠くなっていることに
気づき、ため息を吐いた。
﹁旦那、とりあえず行きやしょう。あんまりのんびりしていると、
ナーニャの悪い癖がまた出やすから﹂
﹁あんたね、私も宿が決まるまでは飲みになんて行かないさ。全く
人をなんだと思っているんだ、失礼な﹂
ニコニコしているだけのカインスを除き、ユイとクレイリーは内
心でナーニャの発言を全力で否定していた。しかし口に出すと面倒
なことはわかりきっているので、彼らはなにも言うことなく黙々と
道を急ぐと、ようやく目的地であるクラリス大使館の姿が見え始め
た。
﹁旦那、あれですかい?﹂
﹁ふむ、私も実物は見たことないんだが、外務省から貰ってきた地
図を観る限りは、たぶんあれだろうね﹂
ユイは確認するように、手元の地図に再度目を落とし、間違いな
いことを確認する。その大使館は、クラリスの力を誇示する目的も
あるのか、大使館と呼ぶにはやや大きな建築物であった。それを見
たユイの最初の感想はなんとまあ無駄なものをというものであり、
苦笑いを浮かべると頭を一つ掻いた。
﹁待て。何者だ、お前たち!﹂
321
ユイたちが、建物を見上げることにも飽き、中へ入るために入り
口の門のところを通過しようとすると、門の左右から警備兵と思わ
れる兵士たちが、槍を片手にユイたちの目の前を塞いだ。
﹁私のことを聞いているのかな。えっと、ここでお世話になるイス
ターツですが、なにか?﹂
﹁イスターツだと? ほう、そのイスターツがなんのようだ?﹂
警備兵の中でも明らかに格上と見て取れる、ベテランの男が胡散
臭げな目つきでユイを睨みながらそう問いかけた。
﹁いや、大使着任の挨拶に来たんだけど、なにか問題でもあるのか
な?﹂
﹁冗談は休み休み言え! 今度着任されるユイ・イスターツ閣下は
あの帝国を一人で薙ぎ払われたような武のお方だ。お前のような軟
弱そうな男とは似ても似つかんわ。勝手にイスターツ閣下の名前を
使うとは、怪しい奴め﹂
そのベテランの男の言葉が周囲に響いた瞬間、彼の部下であろう
他の警備兵たちも、慌ててユイたちを取り囲むように、周り込み始
める。
﹁いやいやいや、私はあまり武の人じゃないんだけどな。というか、
なんでそんな風に思われているのかな?﹂
﹁まったくですよ。旦那がねぇ⋮⋮しかし噂って恐ろしいものです
ね﹂
警備兵たちの物々しい雰囲気とは異なり、警戒された当人たちは、
苦笑いを浮かべながら微塵も気にする様子を見せない。その態度に、
警備兵たちは不信と怒りを増大させると、今にも飛びかからんとい
う勢いで、食って掛かった。
﹁お前たち、なにを言っている。ふざけた奴らめ。今から取り調べ
322
を行うから、腰につけた武器を手放し、我々の指示に従え!﹂
﹁まいったなぁ、どうしたものか⋮⋮﹂
ユイは、隊長たちの指示に従う気はさらさらなかったが、どうや
って本人であることを証明するか、頭を悩ませため息を吐く。そし
て関所でも使った、大使就任の任命書を持っていることに気がつく
と、それを取り出そうと馬に備え付けた荷に手を滑らせた。しかし、
その動きをなんらかの抵抗の動きと受け取った警備兵たちは槍を構
え直すと、一触即発の空気が周りに立ち込めてくる。
そのような不毛な状況が打開されたのは、大使館の中から中年の
官僚臭漂う男性が、騒ぎを感じ取って、出てきた時である。
﹁一体、これは何の騒ぎかね?﹂
髪を後ろにまとめ、眼鏡をかけた男性がベテランの警備兵に問い
かけると、彼は舌打ちをしながらも、簡潔に状況を説明した。
﹁これは秘書官殿、失礼致しました。この怪しげな者達が、イスタ
ーツ様の名を騙って、大使館に押し入ろうとしておりましたので、
これより排除を行うところです﹂
﹁怪しげな男? 目の前にはイスターツ閣下たちしかおられぬが、
どこに怪しげなものがおるのかね﹂
秘書官があっさりとそのように述べると、ベテラン兵は一瞬呆然
とする。僅かな放心の後に、自分のやってしまった過ちに気付くと、
とたんに顔を青くした。
﹁まっ、まさかこの男⋮⋮い、いや、この方がイスターツ閣下。し、
失礼いたしました!﹂
手に持った槍をそのまま投げ捨てかねない勢いで、頭を下げると、
他の警備兵たちも慌てて彼に従い最敬礼を行う。その姿を見て、ユ
イは頭を二度掻くと、右手を顔の前にやり左右にパタパタと振った。
323
﹁いいよ、いいよ。門番としての仕事をまじめにやっていることは
わかったから。とりあえず職務に忠実なのもいいが、自分の偏見を
他人に押し付けないように、以後頑張ってくれたまえ﹂
﹁はっ、はい。大変失礼致しました! き、肝に銘じます﹂
慌てて再度頭を下げるベテラン兵に、優しく微笑みかけると、ユ
イは秘書官と呼ばれた男の方へと向き直った。
﹁それで失礼ですが、貴方は私をご存知なのですか?﹂
﹁ええ、昨年の帝国侵攻後に、一度王宮へ戻る用がありましたので。
その際に王宮内の廊下で閣下のご尊顔を拝見したことがあります。
もっともあの時はこのように同じ職場で働くことになるとは思いも
しませんでしたが。改めまして、次席大使をさせていただいており
ますホイスと申します。さて、こんなところで立ち話もなんですか
ら、中にお入りください。閣下の執務室へご案内致しますので﹂
そう言ってホイスはユイたちを建物の中へと促すと、一行は重厚
な大使館の中へと入っていった。
﹁先ほどは助かりました、ホイス殿。改めまして、はじめまして。
この度、クラリス駐在大使を拝命しましたユイ・イスターツと言い
ます。以後よろしくお願い致します﹂
ホイスに案内され、小奇麗な駐在大使の執務室へと通されると、
ユイは荷物を下ろすなり、ホイスに向き直って挨拶をした。
﹁お待ち致しておりました、イスターツ閣下。閣下が当地にお越し
になると聞いて、この国の者達はもちろん、我が大使館の職員もや
や浮かれておりましてね。なにしろ閣下の御名前はこの地まで響き
渡っております。ただあまりに活躍が派手過ぎましたので、先ほど
324
のようなことが起こってしまったのは、困った話ですが﹂
﹁全くです。しかしどんな噂が広がっているかわかりませんが、こ
のように実物はあまり大したものではないんですけどね﹂
ユイが弱ったように頭を二度掻くと、ホイスは首を左右にふり、
ユイの発言を否定してみせた。
﹁閣下は確固たる実績を挙げられたのです。私などに言わせれば、
帝国をあの劣勢の状況から追い返すなんて、巷で溢れる噂程度では
過小評価なくらいですよ﹂
﹁はぁ、そんなものですか﹂
﹁先程の警備兵の反応を見てわかるように、この国にも単騎で帝国
軍を蹴散らしたクラリスの英雄ユイ・イスターツの名前は鳴り響い
ております。そのようなこともあり大使館職員一同、憧れを抱きな
がら閣下の御着任を心待ちにしておりました﹂
そう言って、笑みとともにホイスはユイに向かって頭を下げると、
慌ててユイも頭を下げた。
﹁ありがとうございます。あと、彼らは僕の護衛で来てもらった親
衛隊の面々です。彼らにも部屋を用意してもらえるとありがたいの
ですが﹂
ユイが後ろを振り返り、クレイリーたち三人に視線を向けると、
ホイスは虚を突かれたように、声を高くした。
﹁親衛隊! とすると、王女様付きの兵を連れて来られたのですか
?﹂
﹁ええ、もともと私の部下なので無理を言って同行してもらいまし
た。もちろんエリーゼ王女と親衛隊長の許可はもらっていますので
ご心配なく﹂
ユイは目を丸くしてその場で固まってしまったホイスに対して、
笑いながらそう告げる。
325
﹁な、なるほどわかりました。しかし、親衛隊の武名は聞き及んで
おりますが、皆様、一般の兵士とは少し面構えが違いますな﹂
﹁はは、正直に兵士らしくないといってもらっていいですよ。ただ
実力の程は見た目で判断しないで頂けたらありがたいです﹂
ユイがそう苦笑いしながら答えると、ホイスは数度頷いた後に口
を開いた。
﹁もちろんです。護衛、大使、事務、経理、それぞれにふさわしい
能力と格好と装備がありましょう。私のような内務省出身の門外漢
が、その辺りのことに口を挟む気はございません﹂
﹁そう言って頂けるとありがたい。では、彼らも暫くの間ご厄介に
なりますので、よろしくお願いいたします﹂
ホイスのその言葉に、ユイは再度笑みを浮かべ直すと、丁寧に頭
を下げお礼を言った。
﹁わかりました。では、当地御赴任の間は彼らも閣下とともに動か
れるということですな。だとしましたら、ちょうどいい機会です、
閣下と彼らに一人紹介しなければいけない人物がいます﹂
﹁私たちにですか⋮⋮どなたでしょう?﹂
﹁少しお待ちください﹂
ホイスはそう述べるなり、まっすぐに部屋を出て行く。そしてわ
ずかばかりの時間の後に、若い空色のショートカットの女性を連れ
て、部屋に戻ってきた。
﹁お待たせしてすいません。本当は最初にご紹介すべきだったので
しょうが、こちらが閣下直属となる秘書官のノアです﹂
﹁私、直属ですか⋮⋮﹂
立場的には秘書官が付いても不思議ではないのだが、そのあたり
の仕事はクレイリーに任せようと考えていたユイは、やや戸惑った
表情を浮かべる。
326
﹁ええ、駐在大使には専属の秘書官が付くことになっていますので。
こちらのノアは、王立大学を優秀な成績に出ておりますし、この地
での勤務も長く、何かと閣下のお力になれるかと思います﹂
ホイスはそういって笑みを浮かべると、後ろに控えていたノアに、
前に出て挨拶するよう促した。
﹁ノア・レミュールです。閣下のご活躍は以前から伺っておりまし
て、その時はまさか閣下の専属になれるとは夢にも思っていません
でした。誠心誠意務めさせて頂きますので、どうぞよろしくお願い
致します﹂
﹁⋮⋮ああ、よろしく﹂
ユイは未だ困惑を隠し切れない様子であったが、取り敢えず来て
すぐに人事を自分で動かす訳にはいかないかと諦めると、ぎこちな
く笑みを浮かべながら頭を二度掻いた。
﹁さて、では私は一足早く退室させていただきましょうかな。他の
業務もありますので。それでは失礼いたします﹂
﹁おい、聞いていた話と違うではないか!﹂
ユイの執務室を辞去したホイスは、廊下の外で待機させていた部
下に、室内には聞こえぬよう声を絞りながらも、いらだちを隠せな
い声を浴びせた。
﹁おかしいですね、できるだけイスターツの同行者は、我々にとっ
て程よい人間を付けるよう、軍首脳部や外務省には働きかけていた
327
のですが⋮⋮﹂
﹁くそ、これでは簡単に追い返すのは、難しいかもしれん。一度、
ムラシーン殿と協議が必要だな﹂
ホイスは忌々しげな表情を浮かべ、ユイの部屋の前を離れると、
これからの計画に支障がないか、再度思考を働かせ始めた。
328
四人目の護衛
王都セーブルの人々が寝静まり、喧騒も消えてやや強く吹く風の
音のみが聞こえる頃、クラリス大使館の庭には、月明かりから隠れ
るように動く一つの影があった。
物音一つ建てぬよう息を殺しながら動くその影は、大使館の建物
の側にたどり着くと、その脇手の壁に背を預けて、闇に溶けこむよ
うにその場にたたずむ。すると、頭を掻きながら忍び足で大使館を
抜け出してきたユイが、いつもの苦笑いを浮かべながら、ゆっくり
とその影に近づいてくる。
﹁ごめん、待たせたね﹂
﹁思ったよりもかかったわね。お陰で昨日一日は、完全に待ちぼう
けさせられたわ﹂
やや小柄な影の多少嫌味を含んだ声に、ユイは弱ったように右手
の指先を前頭部に添えると、迷わず言い訳を口から発した。
﹁ははは、ナーニャのやつを連れて来なければならなかったからね。
多少は大目に見てくれないかな。それで一体この国はどうなってい
るんだい?﹂
﹁現状は見てのとおりよ﹂
その小柄な影は、それ以上なにを言う必要があるのとばかりに、
短くそれだけを告げる。ユイはその言動から、少し拗ねているんじ
ゃないかと感じると、その小柄な影の頭の上に片手を置いてポンポ
ンと優しく頭を叩く。しばらく間をとった後に、謝罪を口にした。
﹁ごめん。約束を破って到着が遅れたのは、私が悪かったよ。だか
329
ら機嫌を直してくれないかな﹂
﹁はぁ、貴方相手に怒っても仕方ないってことはわかっているわ。
どうせ明日には、謝ったことなんて忘れているんでしょうし﹂
小柄な影が諦めたようにそう呟き、ユイの手を頭から振り払う。
するとユイは振り払われた手を自分の頭にやると、二度頭を掻いた。
﹁はは、ごめんね。でも、悪いと思っているのは本当だよ。だから
君が調べたことを教えてくれないかな?﹂
﹁仕方ないわね。それでなにが聞きたいの?﹂
自分より年下の弟を躾けるような口調でその影が尋ねると、ユイ
は右手を顎に当てて口を開く。
﹁まずこの国内の対立構造かな。宰相派とそれ以外で小競り合いを
やっているみたいだけど⋮⋮﹂
﹁その通りよ。宰相派とそれ以外とで、裏でかなり激しい綱引きを
やっているみたいね。一応、表向きはあまり露骨じゃないように装
っているけど。もっとも綱引きといっても、だいぶ天秤は傾いてき
てるわね。宰相派が飴と鞭を使い分けて、次々と国内の有力豪族を
自らの傘下に取り込んでいるみたいだから﹂
﹁そうか。クラリスに報告されている情報では、実権争いは小康状
態となっていたが⋮⋮いよいよ均衡が崩れ始めているというわけだ﹂
ユイはその話を聞いて、国内の体制が固まりつつあることに若干
の焦りを感じた。この国が強硬派で知られるムラシーンによって支
配されることは、すなわち国力の落ちたクラリスの危機を意味する。
﹁ええ、その通りよ。この国の中枢は、ほぼ宰相派に占められた状
態になりつつあるし、各地の豪族もうまく手懐けてきてるわ。まぁ、
悪い策じゃないわね、なんせこの国の成り立ち自体が、もともと小
国のより集まりからなんだから。まず地方豪族を押さえにかかるの
は、妥当な手順よね﹂
330
﹁ふむ。じゃあ、ここの王家の人たちはどうしているんだい。国王
は御病気だと聞いているが、それにしても権力の移行が早すぎる。
王家の人間が抵抗もせず、あっさりと国を乗っ取られたわけじゃな
いんだろ?﹂
ラインドルが数年前まで、クラリスと良好な関係を築けていたの
は、ラインドル国王の温和な人柄にあった。その人徳は他国の人間
でも知るところであり、たとえ体調を崩されたからといって、ライ
ンドルにはまだまだ彼のいる王家を慕う人間が少なくないと考えて
いた。そのため意外な程あっさり、ムラシーンに権力の主体が移っ
たことに、ユイは若干の疑問を覚える。
﹁それがそうとも言えないのよね。国王が御病気で倒れられた直後、
この国の後継者になるはずだったカイラ王子は急に行方不明になっ
たみたいね。おそらくムラシーンに消されたと考えるのが妥当でし
ょう。それと残りの王族なんだけど、第一と第二王女は軟禁状態。
あと王妃を含め、それ以外の王家に関わる貴族も、護衛と言う名の
監視つきで、完全に抑えられた状態だわ﹂
﹁おいおい、それじゃあ小康状態というより、もうムラシーン体制
で固まっているんじゃないか?﹂
話の内容から、ある程度準備された権力簒奪という印象をユイは
持つと、考えていた以上にムラシーンが国内を掌握している可能性
を疑い、軽い頭痛を覚えた。
﹁ところがそうでもないのよ。さっきも言ったように、この国は小
国の寄せ集めでしょ。そしてムラシーンはその中でも特に小さな北
部の国の出よ。そんな奴の下に付きたくないっていう、困ったちゃ
んがまだまだいるみたいなのよね﹂
﹁へぇ、それで一枚岩になれていないってわけだ。なるほどね﹂
クラリスの現状を考えると、まだムラシーンが権力を完全に掌握
331
するのは望ましくないという考えから、多少は時間が取れそうな報
告にユイはかすかに安堵する。
﹁あと一部の地方有力者の中には、秘密裏にレジスタンスと繋がっ
てる奴もいるみたいよ。まあ、どこの国も権力争いや意地の張り合
いは変わらないということね﹂
﹁耳が痛い話だねぇ。それで王都自体はどういった状態かな。夕方
にここに着いた時には、やけに軍兵士の数が多い印象を受けたけど﹂
﹁ムラシーンが実質のトップに立ってから、かなりなりふり構わず
軍備増強を行っているのは知っているでしょ。その余剰人員を王都
の警備に当てているみたい。もっとも急造の軍隊だから、質は最低
だけどね﹂
﹁ああ、なるほどね。たしかに柄の悪そうなのがいっぱいほっつき
歩いていたよ﹂
ユイは大使館までの道すがらに、街の至る所で軍の兵士たちが肩
で風を切って歩いていた姿を思い出すと、他国のことながら、この
街の市民に対して多少の同情を禁じ得ない。
﹁あとあなたにも常時、監視がついているわ。気をつけなさい﹂
﹁私にかい? 誰のことかな﹂
ユイは今日出会ったこの国の人間の顔をリストアップしていくと、
小柄な影がその中の一人の名前を告げた。
﹁外務省のホイス次席大使どのよ﹂
﹁ああ、彼か。まあそうだろうね。我が国の大使館もグルじゃなき
ゃ、ワルムを我が国に紹介したり、学生の誘拐もあんなに鮮やかに
進めれるはずがないからな﹂
いかにも内務官僚と言った風貌のホイスを思い出すと、先日の事
件と今回の情報を併せ、ユイは彼がラインドルに寝返っていること
をほぼ確信した。
332
﹁彼、おそらくムラシーンと通じているわ。まだ証拠は押さえれて
ないけどね。さて、どうする? たぶんこの間まで彼がここのトッ
プだったんだから、上役としてここに来た貴方のことを目障りだと
思ってるでしょうし、放置しておくと必ず排除しに来るわよ。もし
なんだったら本国に頼んで、別の次席大使を連れてきてもらうので
もいいと思うけど?﹂
﹁いや、このままでいいよ。おそらく彼のまま据え置いておいた方
が、相手の出方を予測しやすいからね。しかも彼はあんまり荒事に
慣れてなさそうだし、ヘマをやらかして足元を掬われなければ、な
んとかなると思うよ﹂
﹁そう、なら好きにしなさい﹂
ユイのホイスを気にもとめない口調に、小柄な影はやや心配気な
表情を見せるも、口ではあっさりとそれだけを言い放った。
﹁ああ。あと、もう少しレジスタンスに関して調べてもらえるかな。
今はまだ、先方に連絡は取らなくていいから﹂
﹁人使いが荒いわね﹂
ユイの依頼に、その影は正直な感想を述べると、ため息を吐く。
﹁はは、ごめんね﹂
﹁それで、あなたはどう動くつもりなの?﹂
今後の予定を尋ねられたユイは、今回得た情報をもとに、脳裏に
描いた今後の予定を若干修正する。そして僅かな間の後に、真剣な
表情を浮かべ、口を開いた。
﹁今はとりあえず情報を集めるのが先決かな。君が裏から動いてく
れるから、私はちょっと表から動いて見ることにするよ﹂
﹁なにする気なの?﹂
果報は寝て待つがモットーであるユイが、珍しく自分が動くと告
333
げたことに、その影は驚いた表情を浮かべる。
﹁いや、大したことじゃないんだけど、ちょっとお話ししてみよう
と思ってさ。ムラシーン宰相さんとね﹂
334
宰相
ユイがムラシーンとの会談を示唆してから、十日間があっという
間に過ぎていった。ユイは会談を実現させるため、大使への着任翌
日にムラシーン宛に着任の挨拶と会談の要望を記した手紙を送って
いたが、ようやく一通の返書がユイの元へと届けられた。
短時間であるならばという内容がことさら強調してあるその受諾
の手紙を読むと、ユイは頭を掻きながら苦笑いを一つ浮かべる。そ
うしてさらに七日間の調整と準備を要して、ユイは護衛の三人と秘
書のノアを引き連れて、ムラシーンの待つ王宮へと足を運ぶ事とな
った。
王宮へ到着した一行は、ムラシーンの執務室の隣にある控え室に
て待機するよう依頼され、一同は同部屋にてしばらく待つこととな
った。
﹁旦那、本当に護衛はいらないんですかい?﹂
控え室に着いて椅子に腰を下ろすなり、クレイリーは心配そうな
様子でユイに向かってそう確認を行った。それはユイがムラシーン
との会談を前にして、一人で会談に臨むと明言したためである。
﹁ああ、今の段階で私を害する理由はないさ、ムラシーン氏にとっ
てはね﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
ユイの説明を聞いても、なおクレイリーは落ち着かない様子で食
い下がった。
335
﹁はは。心配してくれてありがとう。だけどここまでで十分さ。多
忙な中、会談の時間を割いてくれたんだ、あまり非礼に当たること
はできないし、それに一人二人護衛が増えたところで、周りを取り
囲まれたら一緒だよ。私の主義じゃないけど、たまには腹を括らな
いとね﹂
﹁⋮⋮わかりやした。お気をつけて、何かあったらすぐに飛び込み
ますので﹂
ユイの発言に、渋々といった様子でクレイリーが引き下がると、
ユイは苦笑いを浮かべながら一度頷いた。
﹁ユイ閣下、私もご同行させて頂くことはできないのでしょうか?﹂
クレイリーが引き下がるのを確認したノアが、ユイに向かって尋
ねてきた。ユイは思わぬノアの要望に、やや意外そうな表情を浮か
べるも、あっさりと首を左右に振った。
﹁気を使ってくれてありがとう。君のこの国に関する知識には期待
しているけど、今回は私一人で行くことにするよ﹂
﹁そうですか、わかりました﹂
ユイは秘書官なら同席しても支障はないと考えたものの、クレイ
リーを断った手前、やはり自分一人で会談に向かうことを決断する。
そうして、ユイが会談での話すべき内容を頭で整理し始めたタイミ
ングで、ちょうどムラシーンの部下が、ユイを呼びに執務室から出
てきた。
ユイはその部下から時間が来たことを告げられると、護衛の三人
とノアを順に見渡した。そして彼らに向けてニコッと笑みを浮かべ
たあと、表情を引き締める。そして椅子から立ち上がると、ムラシ
ーンの部下に連れられて、執務室の中へと入っていった。
﹁貴公がユイ・イスターツ大使かな。遠路はるばるご苦労。私が宰
相のムラシーンだ﹂
336
その豪勢な執務室に入り、ユイが思わず左右に視線を泳がした瞬
間、強い意志のこもった声が彼に向けてかけられた。慌ててユイは
声の主の方向へ視線を向けると、そこには猛禽類のような目を持っ
た、覇気にあふれる中年の男性が椅子から立ち上がり彼を待ってい
た。
﹁初めまして、お初にお目にかかります。ユイ・イスターツです。
この度はお目通り叶いましたこと、感謝致しております﹂
ユイはムラシーンに向かってそう返答すると、ムラシーンもにや
りと笑みを浮かべて、部屋の奥のソファーへとユイを促す。
﹁ふむ。貴公がこちらに着任されたと聞いて、私も一度会ってみた
いと思っていたところだ。まあそう気を使わずに、こちらに掛けた
まえ﹂
﹁失礼します﹂
ユイは礼を述べると、ムラシーンに促されるまま彼の対面に腰を
かける。ムラシーンはその動作を確認すると、早速話を切り出した。
﹁それで、今回の貴公の着任には何か意味があるのかな?﹂
﹁意味ですか。と言いますと?﹂
﹁とぼけないで頂きたいな。現在のクラリスの軍部における最重要
人物だろう、貴公は。なのに、こんな北国の大使などにわざわざ就
任されるとは、その理由を教えて頂きたくてな﹂
ムラシーンはわずかに首を傾げる仕草を見せたユイに対して、ご
まかしは通じないとばかりに射すくめるような視線を放つ。
﹁ははは、別に深い意味はありませんよ。ただの人事異動です﹂
ユイはムラシーンの言葉を笑いながら否定すると、ムラシーンは
表情を微動だにさせず、なおもユイに問いかけてきた。
337
﹁本当にそうなのかな。いや、別に私がそう考えているわけではな
いのだが、人によってはクラリスの宣戦布告の準備だと申す者まで
いるのでな。その辺りをお教えいただければ、お互い無用な警戒を
せずに済むと思うのだが﹂
﹁それは考えすぎですよ。私が来た程度で軍なんて動きませんから、
安心してください。だいたいクラリスの軍内部で嫌われて、外務省
に飛ばされたくらいですから。第一、今のクラリスにはとてもじゃ
ないですが、貴国と戦うだけの力がありません﹂
﹁そうかな、帝国を単身で退けたという貴公の力を持ってすれば不
可能ではあるまい。今はたとえ弱っているとはいえ、クラリス程の
国ならば、現在国王の不予されている我が国を打ち滅ぼすことなど
容易いと思うのだが﹂
ムラシーンの言葉から、思った以上に自分が警戒されていること
にユイは気がつくと、内心で溜息を吐く。そして表情は笑みを浮か
べたまま、口を開いた。
﹁いいえ、不可能ですよ。何よりわが国は貴国との平和を第一に望
んでいます﹂
ユイのその言葉に、ようやくムラシーンは矛を収めると、初めて
微笑を浮かべた。
﹁ふむ、英雄イスターツ殿が言われるのだ、そう信じさせてもらい
たいものだな﹂
﹁そうですね、私も我が国と貴国との平和の意思を、今まで以上に
お伝え出来ればと考えております。ところで話は変わりますが、私
どもの方でも一つ心配事があるのですが?﹂
﹁なにかな?﹂
ユイの心配事の内容がわからず、ムラシーンはユイに先を促す。
﹁いや、先ほど宰相殿は国王陛下が不予と言われましたが、体調は
338
いかようなものでしょうか? 実は我が国の王女エリーゼ様も最近
父親をなくされましてね、以前お会いした国王様のことを痛く心配
しておいででして﹂
﹁長年国政を背負われた過労などもあり、しばし安静にされている
だけですな。担当の医師と治療魔法師からは、陛下の体調に支障は
ないと聞いている、心配には及ばないだろう﹂
﹁なるほどそれは失礼いたしました﹂
﹁いやいや、他国の王女さまや貴公にまで我が王の心配をして頂い
ていること、体調が落ち着かれ次第、私より国王陛下へご報告させ
て頂こう﹂
ムラシーンがそう述べると、彼の部下が、傍まで駆けより、何か
を耳打ちする。
﹁イスターツ殿、申し訳ないのだが次の業務が差し迫っているみた
いでな、名残惜しいが、今日はここまでとさせて頂きたい﹂
﹁そうですか、残念です。ただしばらくこの国に滞在させていただ
く予定ですので、また宰相殿とお会いできる機会を楽しみにしてお
ります。その際は再び両国の平和と発展について話し合いましょう﹂
﹁そうだな。今後も我が国は貴国との同盟関係を望んでおる。今日
は短時間であったが、お互いそれを確認することができて非常に有
意義な会談であった﹂
ユイはムラシーンの言葉を聞いて一度頷くと、ソファーから立ち
上がり、執務室から出るためにドアへ向けて歩み出した。そしてド
アに片手をかけた所で、なにか思い出したように、突然ムラシーン
にの方へと向き直った。
﹁あ、そうだ、一つお伺いしたいことを忘れていました﹂
﹁何かな?﹂
テスト終了寸前に回答を閃いたようなユイの表情を目にして、ム
ラシーンはわずかに怪訝そうな視線を送る。
339
﹁いや、大したことではないのですが、貴国出身の者で、先日まで
我が国の士官学校の教授をしていたワルムという男はご存知ですか
?﹂
﹁ワルム⋮⋮さて、記憶にないな﹂
ムラシーンはまったく表情を変えることなく、ユイに向かって回
答する。
﹁そうですか。実は彼が士官学校に就職する際、我が国に提出した
履歴書があるのですが、そこにこの国の魔法学校出身とありまして
ね。主に呪術と攻勢魔法を専攻していたようなのですが、たしか彼
の指導者の名前にムラシーンという名がありましたので、尋ねてみ
た次第でして⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そのワルムというものが、どうかしたのかね﹂
依然としてムラシーンは無表情を保ってはいたが、ユイはムラシ
ーンの声に微弱な動揺を感じ取ると、わずかに口角を釣り上げる。
﹁私は大使になる前はそこの校長をしておりまして、ワルムという
男が少し問題を起こしたので覚えていただけです。まあ、そんな問
題教師の書いた履歴書など信用に足るものではありませんし、これ
は失礼なことをお尋ねしました。忘れて頂けますとありがたい。で
は、失礼させていただきます﹂
ユイはそう言うやいなや頭を下げると、そそくさと執務室から退
室していった。
﹁奴がユイ・イスターツか、食えなそうな男だな。で、どうだ、奴
のことはわかったのか﹂
﹁それがソーバクリエンの野戦以降の経歴はたどれるのですが、そ
れ以前は⋮⋮﹂
ユイの立ち去った執務室で、ムラシーンは部下の言葉に怒りの表
340
情を浮かべる。
﹁何をしておる、そのための諜報部ではないか。そう言った仕事を
完璧にこなすために予算を割いているのだぞ﹂
﹁しかし何分にもクラリスに敷いたスパイ網が、ワルムの逮捕を契
機に壊滅いたしまして。おそらくあやつがしゃべったのではないか
と思うのですが﹂
部下の説明に、ムラシーンはますます表情を固くすると、ここに
はいないワルムに対して怨詛の声を上げる。
﹁くそ、奴め、師にこれほど迷惑をかけてくれるとは。つくづく使
えんやつだ﹂
341
棄民
王宮でのムラシーンとの会談を終えると、ユイはクレイリーたち
引き連れ、帰りの馬車へと乗り込んだ。
﹁それで、ムラシーン宰相はいかがでした?﹂
クレイリーが馬車が動き出したことを確認して、ユイに会談での
印象を尋ねる。するとユイは複雑な表情を浮かべ、少し回答に迷っ
た上で、口を開いた。
﹁なかなかだね。まあ今日は本当に挨拶だけのつもりだったんだが、
思った以上に厄介そうな御仁だよ﹂
﹁そうですかい。旦那がそう言うってことは、本物のようですな﹂
クレイリーはツルツルの頭をさすりながら、ユイの言葉を元にム
ラシーンを論評する。
﹁ところで、ノア君。宰相殿は最初から手短にという話だったんだ
が、そんなに忙しいのかな? どうも次の仕事が押していたようだ
ったんだが﹂
ユイは馬車に乗るなり酒を飲み始めるナーニャを、隣からチラチ
ラと見ているノアに対して声をかける。するとノアはハッと向き直
り、ユイに対して返答した。
﹁えっと、私も詳しいことはわかりませんが、国内の政治を王宮で
全てこなされていることもあり、外出されることもないそうです。
ほぼ一日中執務室に篭りきりとも噂されていますね﹂
﹁へぇ、そこまでして、権力なんか欲しいもんかね。あたいはこい
つさえあれば、他になにもいらないんだけどねぇ﹂
342
ナーニャはそう言いながら、再び酒瓶に口をつけると、ノアに向
かって飲むかいとばかりに差し出した。しかしノアは両手と首を左
右に振って断る。その仕草を見ると、ナーニャはあっさりと興味を
なくしたように、再び酒瓶を口元に引き寄せた。
﹁しかし執務室にいるだけではできないこともあるだろ。この国は
うちみたいに内政と軍事でトップを分けているわけじゃないんだ。
軍事演習とかの視察や国家行事などの出席などはどうしているんだ
い?﹂
﹁いえ、そういったものも一切出席されないようです。なんせ自宅
にさえも戻らず、今は生活さえ全て王宮で済まされているという話
です。なので、この国の市民たちでも、ムラシーン宰相の姿を見た
ことないものが大半という話ですね。実は私も一度も見たことがな
くて、それで御同行出来ればと、お願いしたわけでして﹂
﹁ああ、それは済まなかった。しかし王宮から離れないね、なるほ
ど。まぁ、それだけ大変だということかな﹂
ユイは顎に右手をさすりながら、なにか考えこむ仕草をしながら
二度頷く。
そうして一行を乗せた馬車は、王宮を完全に離れ城下町の中を走
り始めた。元々緊張感とは無縁の酒臭い女性を除けば、馬車の中は
一つの会談を終えたこともあり、ようやく弛緩した空気が流れはじ
める。そうしたことから、ようやく周囲の街並みを見渡す余裕もで
きると、クレイリーやカインスはノアに向かって、市内の建物のこ
となどを次々と尋ねていった。ユイはノアが二人に向けて行う説明
を、ぼんやりと聞きながら、馬車の進行方向の窓を眺めていると、
その視界の中に見慣れない子供の姿を捉えた。
﹁あれはなんだい?﹂
ユイがまだ幼いであろう子供が、ボロボロの衣服で物乞いのよう
343
な仕草をしているのに気がつき、その子を指さしてノアに尋ねた。
するとノアはやや陰りのある声で俯き加減に答える。
﹁あれは、棄民の子供ですね⋮⋮﹂
﹁棄民?﹂
ユイが聞きなれない単語を耳にして、思わず聞き返すと、ノアは
心痛な表情を浮かべながら説明をした。
﹁ええ、宰相がこの国の実権を握るようになってから増えている、
家族に捨てられた人たちのことです。そのほとんどは老人や幼い子
どもたちでして。というのも、宰相は国家の衰退を招くと福祉政策
を全面的に見直されましたので、自らの親や子を養えない家庭が増
えたことが原因なのですが⋮⋮﹂
﹁ふぅん。それで、その使わなくなった予算はどこへ割かれたんだ
い?﹂
ユイの疑問に対し、ノアは視線を左方へと動かすと忌々しげに口
を開いた。
﹁あのような者たちにです﹂
ユイは彼女の視線の先を追うと、そこには市内を巡回中の見るか
らに柄の悪そうな二人の兵士がその場にいた。
﹁ああ、軍事費かい。なんていうか、ありきたりな話だね﹂
﹁ええ。でもそんなことに金を使って何になるのでしょう。この国
は周囲を海に囲まれ、唯一の地続きが南の我がクラリスです。福祉
予算を削ってまで、軍事費を増やす意味なんて⋮⋮﹂
ノアは頭を振って、この国の政策を否定すると、ユイはあっさり
とした口調で彼女に答えた。
﹁意味はあるんだろう﹂
344
﹁えっ?﹂
ユイのなんでもないような呟きに、思わずノアは驚きの声を上げ
る。
﹁だから、意味はあると思う。具体的には二つだね。一つは国内の
治安というより宰相の支配体制の確立だね﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁人は誰でも金を出してくれる相手には恩義を感じるものさ、その
相手が誰であれね。そして利害で結ばれた関係は、通常より大きな
理がない限りはなかなか破綻しないものでね。つまり福祉を切り捨
てることと引き換えに、国家の金を使って宰相個人に従う兵士を大
量に雇うことに成功したと考えるべきだろうね﹂
ユイの淡々とした語り口とその内容に、ノアはやや否定的な気持
ちを覚えるも、反論にたる事実を見つけることができず、言葉を見
失う。しかたなく、やや気分を害したような目つきをしながら、彼
に先を促した。
﹁⋮⋮それでもう一つは?﹂
﹁南に国力の弱った支配しやすそうな国があるだろう。そこを頂く
ためさ﹂
﹁ま、まさか。だって我が国はラインドルとは五十年以上に渡る同
盟国ですよ。それを攻めるだなんて﹂
ユイは祖国が侵略されるという仮定をあっさりと話すと、ノアは
信じられない話しを聞くように首を左右に振った。
﹁宰相が約束したわけじゃない。そんなものは、支配した後に言い
訳を考えればいいものさ﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
それでもなお、ユイの発言を否定しようとするノアに対して、ユ
イは優しく語りかける。
345
﹁秘書官、あなたはとてもいい人のようだ。王立大学でラインドル
の歴史を専攻しただけあって、この国の歴史と政治にも明るいみた
いだし有能だとも思う。しかし過去に明るいと意外と固定観念を持
ってしまいがちなものだけど、国家間の約束事だからといって永久
なものとは限らない。それにもともと約束なんて、お互いにとって
都合がいいから取り決めたもので、より都合がいい話さえあれば、
そちらに流れるのが︱︱﹂
﹁旦那!﹂
なおもユイがノアに対し自説を説明しているところを、クレイリ
ーの鋭い声がそれを遮った。
﹁どうした?﹂
﹁あのガキまずいですぜ﹂
ユイはクレイリーの声を受けて、再び棄民の子供に向かって視線
を動かすと、その子供がまさにその時、兵士の腰に下げられた金貨
袋に手をかける所であった。そしてその子が袋に手をかけた瞬間、
一気に走りだそうとするも、財布を盗まれていない方の兵士が、そ
の子供に気がつくと、あっという間に首根っこを捕まえられてしま
った。
﹁ふざけた餓鬼だな。人様の物を盗むなと習わなかったのか?﹂
そう言って、その男は子供を掴んだまま地面へと叩きつける。そ
してもう一方の金を盗まれかけた兵士が、子供の腹に躊躇なく左足
を乗せた。
﹁人のものに手を出すとどうなるか、俺たちで教育する必要がある
ようだな﹂
その男はそう言うなり、すこしずつ子供の腹の上においた足へと
体重を乗せ始める。すると子供の苦悶の声があたりに響き始めた。
346
騒ぎに気づき、街の人々の中にも足を止めるものはいたが、それに
関わっているのがガラの悪そうな兵士と棄民の子供と気づくと、一
様に見なかったふりを始める。
ユイたちの中で、最初にその事態に気がついたクレイリーが、そ
の兵士に対して怒りの表情を浮かべると、躊躇なく馬車から降りよ
うとした。しかしそんな彼の行動を、ユイは右手で制する。
﹁旦那、なんで!﹂
クレイリーは思わず静止したユイに向かって、怒りの矛先を向け
かけるが、ユイはなにも言わず首を左右に振ると、周囲で遠巻きに
その光景を見つめる野次馬の中で、明らかに異なる動きをする一人
の男に視線を向ける。その人物は、やや平均より低い印象のフード
をかぶった男であった。彼は兵士たちの背後へと、音も立てずに忍
び寄ると、兵士に反応させることもなくあっという間に右拳を二閃
した。
背後から突然殴られた男たちは、自らを襲った急な痛みに、一瞬
なにが起こったのか理解できなかった。しかし地面に手をつけてい
る自分たちの目の前で、フードを被った怪しげな男が、先ほどの盗
みを働こうとした子供を介抱する姿に気が付く。その瞬間、何が起
こったのか事態を察すると、兵士たちは途端に激昂する。
﹁てめえ、俺達に手を出すとはどういうことかわかってんのか?﹂
﹁ふん、君たちはまるでハイエナだな。弱いものをなぶって楽しむ
質の悪いハイエナだよ。野獣は野獣らしく、人間相手に口を開かな
いでほしいものだね﹂
そのフードを被った男は、やや若い青年のような声で、その兵士
たちを挑発した。
347
﹁なんだと!﹂
兵士たちは、その言葉を受けるなり、怒りに任せてすぐさま起き
上がると、フードの男に向かって突進する。しかしその男は鮮やか
な体捌きで、二人の男の突進をかわすと彼の右側にいた男の左腕を
捕まえると、そのままその背後へと回し、腕を一気に絞り上げた。
﹁くっ、き、貴様!﹂
﹁おっと、もう一方の野獣くんも動くんじゃないぞ、お仲間の腕が
おられたくなければね。さて、そこの君、立てるかい。今すぐこの
場を離れるんだ﹂
フードの男はようやく自力で起き上がろうとした棄民の子供に、
すぐさま逃げるようにと促す。一瞬その子供は、戸惑いの表情を見
せたが、そのフードの男の言葉に従ったほうがいいと理解すると、
慌ててその場を駆け出す。しかし、その子は数歩走った所で、大き
な人間の壁にぶつかり、後ろへひっくり返るように、弾き飛ばされ
た。
﹁おい、アキムとスエブ。そんな兄ちゃん相手になにを遊んでいる
んだ?﹂
そこには騒ぎを聞きつけた、ガラの悪そうな巡回の兵士たちが、
続々と集まってきていた。そして、その兵士のうちの一人が、自ら
にぶつかって転倒した子供をつまみあげると、フードの男に向かっ
ていやしい笑みを浮かべた。
﹁さて兄ちゃん、そこまでだ。よくもまあそいつらを遊んでくれた
ものだな。さてこの子を助けて欲しかったら、おとなしくその手を
放し︱︱﹂
子供を捕まえた兵士が、笑いながら話していると、突如彼のこめ
かみに氷の弾丸が直撃し、でかい図体が一瞬で崩れ落ちる。
348
﹁さて、そこのゴロツキども。あんたたちが誰かは知らないけど、
あたいの相手をしたい馬鹿はかかってきな﹂
そこには子供が人質にとられるなり、馬車から飛び出して氷の弾
丸を放った赤髪の女性が立っていた。そしてナーニャが兵士たちの
視線を一身に集めた隙に、ユイは全速力で子供に駆け寄ってその子
を保護する。
ユイは子供を確保して安堵の溜息を吐くと、すぐに後ろの状況を
確認するため振り返った。するとそこではナーニャがなんの手加減
なく兵士たちを叩きのめす光景が繰り広げられていた。その魔法を
隠しもしない戦い方に、ユイはもっと目立たないようにやれるだろ
と頭を抱えると、彼の後を追ってきたカインスとクレイリーに向け
て指示を出す。
﹁もう手を出しちゃったから仕方ないが⋮⋮カインス、クレイリー、
適当に相手してやってくれ﹂
﹁旦那はどうするんで?﹂
クレイリーの問いに対して、ユイは保護した子供を両手で抱え上
げると、苦笑いを浮かべ返答する。
﹁ん、私かい。残念ながら両手がふさがっているからね、荒事は君
たちに任せるよ﹂
349
カイル
カインスとクレイリーが、その小競り合いに参加すると、ナーニ
ャが魔法の弾丸をまき散らしたこともあり、形勢は一方的な方向へ
と傾いた。あっという間に、十人余りの兵士が路上にのた打ち回る
光景が産み出されると、ユイはその子供を抱えながら思わず顔を曇
らせる。
﹁こりゃまた、遠慮なく派手にやったものだね﹂
﹁⋮⋮閣下、あの、これ外交問題になりますよ﹂
戦闘が終わり、恐る恐る馬車から降りてきたノアが、ユイに向か
って小さな声でつぶやく。
﹁まぁ、やっちゃったものは仕方がないさ。それは手を出した時点
で覚悟の上だから、最初から諦めているしね。そういえば、そこの
お兄ちゃんも大丈夫かい?﹂
ユイは弱った表情を浮かべ頭を掻きながらノアにそう返答すると、
視線をフードの男へと移した。
﹁ええ。さすがにあの人数は、私一人では捌ききれませんでしたか
ら、助かりました。ありがとうございます﹂
フードをかぶった男は、顔の半分近くが隠れながらも口元で笑み
を浮かべると、ユイに向かってお礼を言った。
﹁待ちな、礼を言う相手が間違っているよ。あたいが最初に馬鹿ど
もをぶっ飛ばしてやったんだからね。だいたい隊長は一度も手を出
してないじゃないか﹂
﹁ははは、ナーニャ。そんなことはどっちでもいいじゃないか。そ
350
れよりこの場に長居していると、また面倒なことになりそうだから、
取り敢えず大使館に戻ろうか。あそこならこの国の司法の手も、し
ばらくは及ばないだろうしね。さて、僕はこの子を連れて行くから、
君も付いてきたまえ﹂
まだ恐怖が抜けず必死にすがりつく子供の頭を、ユイは撫でなが
ら、フードの男に向かって声をかける。
﹁いや、僕はちょっと⋮⋮﹂
﹁これだけの騒ぎを起こして、逃げ切れる算段はちゃんとあるのか
い? そうじゃなければ、一緒に来たまえ。君がどういった組織に
所属していようが、今更共犯なんだから、気を遣っても一緒だよ﹂
ユイはそう言ってカインスに目配せすると、カインスは一つ頷く。
そしてその丸太のような腕で、フードの男の肩をガッチリと捕まえ
ると、馬車へ向かってあっさりと連れてきた。ユイは出発時より二
人多い人員を無理やり馬車の中に収めさせると、再び大使館への道
を急がせた。
馬車が大使館に近づいてくると、二人の予定外の客を見つからな
いようにするために、ユイは大使館の裏側へ馬車を回すように指示
を出した。そして裏通りに馬車を止めさせると、職員のみが使用す
る裏口から、周囲を警戒しつつ、一行を大使館内へと誘導する。
そうやって館内へ入り込むと、その後はクレイリーが忍び足で皆
を先導しながら、執務室へと一路向かう。幸運にも誰にも気づかれ
ること無く執務室のある三階までたどり着くと、もうユイの執務室
は目と鼻の先という曲がり角までたどり着いた。しかしながら、彼
らの運もそこまでであったのか、まさにユイたちが前を通りすぎよ
うとする大部屋のドアが、なんの前触れもなく突然開くと、間の悪
いことに、部下との会議を終えたホイスが、その場に姿を表した。
﹁な⋮⋮か、閣下!﹂
351
﹁⋮⋮や、やぁ、こんにちは﹂
お互い突然の邂逅に一瞬口ごもるも、ホイスはユイの後ろに控え
るどう見ても棄民にしか見えない子供と、顔をフードで隠した怪し
い男を視界に入れ、すぐさまユイに詰問する。
﹁閣下、失礼ですが後ろにお連れの方々はどなたですかな?﹂
﹁ん? ああ、この子たちかい。話すと長くなるんだけど⋮⋮えっ
と、いわゆる亡命者かな﹂
ユイの予想外の発言に、問いただしたホイスはもちろん、同伴し
ていたクレイリーやフードの男まで驚きを示した。一瞬誰もが言葉
を失ったが、一番早くに精神的な回復をみせたのは、最も年長者で
あるホイスであった。
﹁⋮⋮私には棄民の子どもと怪しげな浮浪者が、閣下と一緒におら
れるようにしか見えませんが。どちらに亡命者がいるのですか?﹂
﹁ほら、ここに﹂
ユイはそう言うなり、未だ動揺を隠せないフードの男と話を理解
していない子供の肩に手を乗せる。
﹁⋮⋮正気ですか?﹂
﹁ああ、正気も正気。じゃあ、ちょっと彼らと話すことがあるから、
私の執務室に連れて行くよ。詳しいことは後日説明するから﹂
ユイはホイスに向かってそれだけ述べると、もう話は終わりとば
かりにニコッと笑みを見せて、ユイを心配そうに見上げていた子供
を抱え上げると自らの肩に乗せる。そしてポンとホイスの肩を一度
叩くと、彼の横を通り過ぎ、自らの執務室へと歩き出した。
いきなり亡命者だと自分のことを言い出すユイに対して、フード
の男は呆然としていたが、ユイが目の前の男を無視して先に進んで
いくため、慌ててその後を追いかけた。さらに上役であるホイスに
352
多少同情しながらも、ユイに同行していたノアも、軽く頭を下げた
後に、そそくさとその場を立ち去る。そして最後にクレイリーたち
三人は、ホイスの忌々しげな視線など全く気にすること無く、ゆっ
くりと執務室へと向かいだした。
ユイたちがその場からいなくなると、蔑ろにされたホイスが怒り
の表情を浮かべて、彼の部下に苛立ち混じりの疑問をぶつけた。
﹁おい、どういうことだ。亡命者を連れてくるなんて、そんな話は
聞いてないぞ。ましてや、あんなわけのわからん二人をな﹂
﹁私にも一体なにがどういうことなのか⋮⋮﹂
ホイスは額に皺を寄せて、困惑の表情を浮かべて二の句を継げな
い部下を見下すように睨む。そしてひとしきり彼を睨みつけた後、
彼に向かって怒鳴りつけるように命令を下した。
﹁あのユイ・イスターツが連れてきたのだ、何か理由があるに違い
ない。すぐさま調査を行うんだ。それとムラシーン殿への報告も忘
れるなよ﹂
﹁はっ、直ちに﹂
ユイは執務室にたどり着くと、子供を肩から下ろして、奥にある
ソファーに座るよう勧めた。そうして子供がよじ登るようにソファ
ーに座った頃に、ようやく残りの面子も執務室の中へと入ってくる。
ユイはそれを横目で確認すると、すぐに視線を戻し、その棄民の子
供に向かって優しく話しかけた。
﹁ごめんね、急にこんなトコロに連れて来ちゃって。僕の名前はユ
イ・イスターツというんだけど、お名前とお年を教えてくれるかな
353
?﹂
ユイが子供に対して、膝をかがめて同じ視線でそう尋ねると、そ
のユイの言葉にその子ではなく、フードの男がわずかに驚きを示し
た。ユイはその反応に気づいたものの、彼に視線を向けること無く、
子供に笑みを浮かべたまま、ゆっくりと答えを促す。
﹁リナ⋮⋮お名前はリナ。六歳なの﹂
﹁そっか、リナちゃんか。お名前を教えてくれてありがとう。僕の
ことはユイと呼んでくれたらいいよ﹂
ユイは笑みを絶やすこと無く、そのままリナにそう伝えた。
﹁うん、ありがと。ユイおじちゃん﹂
﹁おじ⋮⋮ちゃん。ははは、おじちゃんか⋮⋮﹂
ユイはそれまで浮かべていた笑みをやや引きつったものへと変化
させると、がっくりと肩を落とした。ユイのその仕草を見て、クレ
イリーは思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえながら、気を
使って小声で隣のカインスに話しかけた。
﹁旦那があんなに肩を落としているの、お前見たことあるか?﹂
﹁ないですね。それどころかあんなに顔を引きつらせて笑う隊長、
おいらは初めて見ますよ﹂
部屋の入口にいたクレイリーとカインスは、お互いなんとか笑い
をこらえながらそう話すと、全く気を使う素振りのないナーニャが、
ゆっくりとユイの近くまで歩み寄ると、満面の笑みを浮かべて話し
かけた。
﹁ははは、隊長もいつまでも若いつもりでいたらいけないってね。
その子のくらいの子供から見れば、隊長は立派なおじちゃんだよ﹂
﹁⋮⋮でも、ナーニャの方が私より年上︱︱﹂
ユイがナーニャの年齢のことを口に出しかけると、ナーニャの視
354
線の変化から、触れてはいけないことを口にしたことに気づき、慌
てて途中で口をつぐんだ。
そうして一瞬場の空気が固まりかけたため、呆れたノアがユイへ
と話しかけてきた。
﹁それで、閣下。お連れになったお二人をどうするつもりですか?
このままずっとここにおいておくわけにも行かないと思いますし、
いずれラインドルの司法が、身元の引渡しを要請に来ると思います
が﹂
﹁ああ、その件だけど、どうしたものかな。私の予定では、現段階
ではまだ動くつもりはなかったんだが⋮⋮﹂
ノアの問いかけに対して、いまいち回答としては咬み合わない内
容のことをユイは口にすると、急に顎に手を当てて俯き加減にその
場で考えこみ始める。僅かな時間、ユイはその姿勢で固まっていた
が、急に顔を上げると、頭を掻いて溜息を吐いた。
﹁えっと、少しよろしいですか﹂
先ほどから何かを問いたげにしていたフードの男が、ユイの仕草
の変化からそろそろ話しかけても大丈夫だと見て取って、口を開い
た。
﹁⋮⋮なにかな?﹂
ユイはその男に向けて、ややぎこちない笑みを浮かべると、彼に
先を促す。
﹁貴方は本当にクラリスのユイ・イスターツさんなのですか。あの
英雄の!﹂
その男は、多少の興奮もあるのか、次第に声を大きしていく。す
るとその勢いに押されるように、ユイはわずかに戸惑いながらその
355
問いを肯定した。
﹁あ、ああ。たぶんそのユイ・イスターツだと思うけど﹂
﹁そうですか、一度お会いしてみたかったんです。私の名前はカイ
ル、カイル・ソーマと言います﹂
彼はそう名乗ると、それまで顔を覆っていたフードを外してみせ
た。そこにはまだ青年になりたてといった印象を与える、若い金髪
の好青年の顔があった。
﹁へぇ、可愛い顔してるじゃないか﹂
カイルのフードを取った素顔を見るなり、年下好きのナーニャが
吸い寄せられるように彼の元へと近づいていく。しかしカイルが顔
を表した瞬間、こうなるだろうと予測していたクレイリーが、彼女
の元へ素早く近寄って羽交い絞めにすると、ナーニャの抗議を無視
しながら、彼女を部屋の隅へと遠ざけていった。
﹁⋮⋮アイツのことは気にしないでくれ。それでどうしてレジスタ
ンスの青年が、私に会いたがっているのかな?﹂
﹁なっ! どうしてそれを?﹂
ユイの言動に、思わずカイルは驚きの声を上げると、ユイはして
やったりとばかりにニコッと笑みを浮かべる。
﹁いや、ごめん、確信したのはたった今だよ。申し訳ないが、確証
が持てなかったので、カマをかけさせてもらった﹂
ユイのその発言に、カイルは思わずその場で凍りつく。すると後
ろで話しを聞いていたカインスが、ユイに向かって尋ねてきた。
﹁しかし隊長、なんで彼がレジスタンスだって疑ったんですか。オ
イラには全く予想もつきませんでしたが﹂
﹁いや、多分お前以外みんな気づいていたんじゃないか。だいたい
356
この街で顔を隠す必要があって、兵士の喧嘩を買う気のあるやつな
んてろくにいないだろ。それだけでも自然と選択肢は限られてくる
さ。もっともそれ以外にもいくつか、彼がレジスタンスだとすると
説明がつくことがあったしね﹂
﹁へぇ、そうなんですか。さすが旦那たちですね﹂
ユイは感心しながらそう答えるカインスをみて、思わず苦笑いを
浮かべる。そして、改めてカイルに向き直ると、真剣な表情で彼に
忠告を行った。
﹁ところでカイル君。君の今回の行動だけど、組織のことを考えれ
ば、あまりかしこい判断だったとは思わないよ﹂
﹁⋮⋮おっしゃるとおりです。本当はあの時も自重すべきだってわ
かってはいたんです。でも、あの子が足蹴にされるのを見た瞬間、
自分が助けなきゃいけないと思ってしまって﹂
カイルはややうつむき加減に、自省を口にした。
﹁いや、勇敢なのはいいことさ。君が彼らを止めに入らなければ、
そこのクレイリーが奴らに飛びかかっていただろうし、その行為自
体は間違っていないと僕も思うよ。だけど君と彼とじゃ置かれた立
場が違う。クレイリーのことは私が何とかすれば、おそらくどうと
でもなるが、君はそうじゃない﹂
﹁はい﹂
ユイの言葉を一つ一つ胸に仕舞いこむように頷きながら、カイル
は返事をした。
﹁おっと、ごめんね。初対面なのに説教じみてしまって。最近まで
教師をしていたせいで、どうも口うるさくなっているみたいだ。さ
っきの話ではないけど、おっさん化してきているんじゃないからね﹂
﹁いえ、気にしないでください。本当に貴方は僕の憧れなんです。
こうしてお話させて頂けるだけで、僕はそれで十分で⋮⋮﹂
357
﹁はは、それは恐縮だね﹂
ユイはカイルの真摯な眼差しに、照れを感じて誤魔化すように頭
を二度掻いた。
﹁ところでお尋ねしたいのですが、僕がレジスタンスだと予想して
おきながら、なぜここまで連れてきたんですか?﹂
﹁なんかあの場で別れるのが危なっかしい気がしてさ。この大使館
の敷地内だとクラリスの法律が優先されるから、王宮からの追手も
すぐは来れないだろうしね﹂
ユイはそう言って、カイルに対して苦笑いを浮かべたが、カイル
は申し訳なさそうに口を開いた。
﹁すいません。でも、あまりご迷惑をお掛けするわけには﹂
﹁ああ、そのへんはいいさ。私としてもレジスタンスとはそろそろ
会ってみたいと思っていたところだし⋮⋮それにどうも予定を前倒
しにしなければいけなそうだからね﹂
358
逃亡計画
﹁予定⋮⋮でやすか。具体的に、この後どう動かれるつもりなんで
?﹂
クレイリーが、多少落ち着いたナーニャを開放すると、ユイの口
にした予定を尋ねた。
﹁ふむ、打たないといけない手は、いくつかあるんだが⋮⋮さしあ
たっては、リナの服をなんとかすることからかな。ノア君、彼女の
服を見繕ってきてくれないかな﹂
ユイは可愛らしい外見にもかかわらず、いかにも棄民といった薄
汚れた衣服を身につけるリナに視線を向ける。すると、ユイの言葉
の意味をゆっくりと理解したリナが、呆然とした表情でユイに尋ね
る。
﹁⋮⋮いいの? 私、お金ないのに﹂
﹁いいんだよ。そんなことは気にしなくて。それより好きな柄とか、
色とかはあるかな?﹂
ユイが優しくリナにそう語りかけると、リナは少し考えた後に答
えた。
﹁黒色。黒色のお服が欲しいの﹂
﹁へぇ、黒が好きなのかい?﹂
ユイが確認するようにリナに尋ねると、リナは遠慮がちに首を左
右にふる。
﹁ううん。白が好きなの⋮⋮でも、白だとすぐ汚れちゃうから﹂
リナの六歳とは思えないその言葉に、ユイの隣にいたカインスは
359
目頭を熱くし、ユイに視線を送る。その視線にユイは一度頷くと、
リナの頭をそっと撫でて、ノアに向けて言葉を発した。
﹁ノア君、黒色の服を一枚お願い。それと白色の服を中心に、数種
類別に手配してくれ。費用は私が持つから﹂
﹁わかりました。えっと、衣服屋には採寸のために、彼女も連れて
行ったほうがいいですか?﹂
ノアがチラリとリナを覗きみると、リナはユイと離れたくないの
か、彼の服をきゅっと掴む。その行為に、ユイは思わず苦笑いを浮
かべた。
﹁いや、今はここで保護しておくことが第一だし、この後、湯浴み
もしてもらうつもりだからね。申し訳ないが、だいたいのサイズで
手配してくれないか。また今度きちんとした機会に、見繕うことに
するから﹂
ユイのその言葉に、ノアはわかりましたと述べ、部屋を出て行っ
た。そしてユイはナーニャに視線を向けると、彼女への頼みを口に
した。
﹁ナーニャ。申し訳ないんだが、そういうことなので、この子を湯
浴みさせてきてもらえるかな﹂
﹁わかったよ、隊長。じゃあ、ちょっとお姉さんといいところに行
こうか﹂
リナはユイの顔を見上げると、ユイの服を掴んで嫌そうな素振り
をみせた。その行為にユイは苦笑いを浮かべながら、再び彼女の頭
を撫でて、行っておいでと促すと、リナは渋々と頷き、ナーニャの
手に引かれて連れて行かれる。
﹁旦那、あの子をどうするつもりで?﹂
クレイリーはあまり子供が得意ではないこともあり、頭をつるつ
360
ると手で擦りながら、ユイに向かって尋ねた。
﹁そうだね、取り敢えず私が保護する形を取るかな。ただ私も独り
身だからね、場合によってはライン公あたりにちょっとお願いする
かもしれないが。どちらにせよ、クラリスに戻ってからの話だけど
ね﹂
﹁でも旦那、彼女みたいな子は数限りなくいますぜ。あの子だけ助
けるっていうのも、なんというか⋮⋮﹂
クレイリーはもともとカーリンの貧しい家の出のため、無数の貧
しい子どもを目にしてきたことから、やや苦い表情を浮かべていた。
﹁君の言いたいことはわかるよ。確かにすべての子を助けることは
できないし、私の行為はただの偽善かも知れない。でもさ、残念な
がらあの子を見捨てられるほど私は強くないんだ。私にも既に家族
がいないしね﹂
ユイはそう口にすると、かつての自分を思い出すようにゆっくり
と目をつぶる。
﹁⋮⋮旦那﹂
﹁とにかくだ、彼女のことは私が責任を持つ。そしてそれ以上に、
彼女のような存在をこれ以上増やさないようにしなければいけない。
そのためにも彼らに頑張ってもらわないとね﹂
ユイはカイルを見てにこりと微笑むと、カイルは突然話を振られ
て、やや狼狽する。
﹁僕達のことですか?﹂
﹁そうだ。君たちにこの国の未来を担ってもらうことにして、ムラ
シーンには退場頂くのが当面の目標となるかな。まぁ、それを実現
するために動くことは、一応クラリスの国益にもなるだろうから、
国益の追求者たる大使の仕事と言っても過言ではないだろう﹂
361
ユイが笑みを浮かべながらそんな無意味な自己正当化を口にする
と、クレイリーは呆れながらもユイの案に賛同する。
﹁そんな大使の仕事は初めて聞きやしたが⋮⋮まあこのまま行って
も遅かれ早かれ、クラリスも狙われるとするなら、ここで彼らに協
力するのが一番でしょうね﹂
﹁⋮⋮ということはユイさん、僕達を手伝ってくれるんですか?﹂
カイルはユイたちを期待のこもった目で見つめると、ユイは一度
頭を掻いた後に、二度頷いた。
﹁ああ、そのつもりだよ。構わないかい?﹂
﹁もちろんです。あのユイ・イスターツが味方になったなんて伝え
たら、彼らがどんなに喜ぶか﹂
帝国と単身で戦ったと噂される憧れの人物が、自らと共に戦って
くれる事に対し、カイルは興奮を隠すことができず、右拳を強く握
り締める。
﹁彼らというと、他のレジスタンスの人たちのことかい? だとし
たら、今度その方たちとも一度会っておきたいな。申し訳ないけど、
お願いできるかい?﹂
﹁もちろんです。ぜひうちの連中を紹介させてください﹂
ユイのその申し出に対して、カイルは全く迷う素振りも見せず、
嬉々として即答した。一方のユイは、カイルの返答や出会いを冷静
に振り返りながら、気になっていたことを口にする。
﹁うちの連中⋮⋮ね。ところで、君は王都内で活動しているみたい
だが、君たちの本拠は南の迷いの森だろ。どうやって正門を通らず、
王都に出入りしているんだい?﹂
﹁それは、その⋮⋮僕だけが知っている通路があって﹂
ユイの問いに対して、カイルはそれまでの受け答えと異なり、初
362
めて言いよどむような口ぶりで説明する。
﹁ふむ。まあ、それを知っているから君が王都内で活動を担当して
いたわけか。なるほどね﹂
﹁いや、担当って言う訳じゃないのですが⋮⋮でも、結果的にはそ
うですね﹂
カイルは彼なりの事情があるためか、それ以上口にだすこと無く、
曖昧な笑みを浮かべてごまかした。その仕草を見ていたクレイリー
は、これ以上の詰問は無意味であり、ユイは行わないだろうと判断
すると、当初の話題へと話を戻す。
﹁それで旦那、本当のところ、具体的にこの後どう動かれる予定で
?﹂
﹁さてどうするかな。どちらにせよ、とり得る選択肢は二つさ。こ
こに留まるか、ここを出て行くかのね。まずここに留まる案だが、
先程の騒動が発覚したとしても、私がクラリスの大使という立場だ
から、カイル君との関係がばれない限りは、少なくとも投獄された
り、処断されるということは考えにくいだろう。もっとも、その場
合は行動の自由は少なくとも制限されるようになるだろうし、そう
すれば今後打てる手も打てなくなる﹂
﹁でしょうね。で、旦那の本命とするここを出て行く案はどうなん
です?﹂
ユイが選択肢としてここに留まることを取るはずがないと最初か
ら考えていたクレイリーは、早く続きを言うようにユイを促す。
﹁もう少し焦らさせてくれよ、全く。こういうのはもったいぶった
ほうが、はるかに有り難みがあるんだから。まあいいか、もう一つ
のここから出て行く案だが、要するにここをさっさと抜け出して、
レジスタンスに身を寄せるってことだ﹂
﹁まぁ、彼が協力してくれそうなのはわかりやしたが⋮⋮一体どう
363
やってここを抜けだすんで? 今頃、ホイスのやつがこの部屋を厳
重に警戒して見張りをつけているでしょうし、もしも逃げようとす
るものなら、奴らはたぶん警備兵を動員してでも、ここに押し留め
て来る可能性がありやすぜ﹂
クレイリーは現在の状況から考えられる困難さを口にすると、そ
の言葉を受けてユイも迷うこと無く一度頷いた。
﹁ふむ、ムラシーンに飼われているホイスくんならその通りだろう
ね。普通の方法で、ここを出ようとしても無理だろう。だから普通
じゃない方法を取ろうかな﹂
ユイはそう言うなり、イタズラを思いついたワルガキのような笑
みを浮かべる。その表情を見て、クレイリーは旦那の悪い癖が始ま
ったとばかりに内心で頭を抱えると、ユイならやりかねないことを
口に出す。
﹁旦那、窓から逃げ出すってのは勘弁ですぜ。例えばそこのカーテ
ンを全部結んで、それをつたって、ここから降りるとか。こっちに
は子供や高所恐怖症のカインスもいるんだから、それを考えている
なら止めてください﹂
﹁えっ、隊長。窓からですか、ほ、本気ですか⋮⋮﹂
クレイリーのユイならやりかねない逃亡方法の予想案を述べると、
高いところの苦手なカインスは思わず情けない声を出して、二歩後
ずさる。ユイはそんな二人を見ると、人の悪い笑みを浮かべながら
左右に首を振った。
﹁いやいや、そんなことしないから。だいたい窓から逃げ出すなん
て、文明人のすることじゃないよ。もっとエレガントに、そして紳
士的に堂々と正門から出て行けばいいじゃないか﹂
ユイの口ぶりから嫌な予感を感じ取ったクレイリーは、ユイの提
案を聞くことを先延ばしにしようと、非現実的なことを口走る。
364
﹁⋮⋮透明人間にでもなるつもりでやすか?﹂
﹁ははは、そんな無茶を言うつもりはないよ。答えは簡単さ、この
建物の中にいる人間全員が、強制的に外に出なければいけない状況
を作ればいいのさ。北国だから、幸い各部屋に薪もいっぱい置いて
あるし、燃料には困らないのがいいよね﹂
そう言ってユイが、部屋の隅に用意された暖炉の側にある薪の束
に視線を向けると、最悪のシナリオが頭をよぎったクレイリーは、
思わず顔をひきつらせる。
﹁⋮⋮ま、まさか旦那﹂
﹁ああ、この大使館をさ、派手に燃やしてしまおう。それからみん
なで避難訓練さ。おっと、実際燃やすわけだから訓練ではないかな﹂
365
ユイの失敗
﹁か、火事だ!﹂
突如、何処からか発せられたその叫び声は、大使館内に響き渡っ
た。その声に驚いた人々が、慌てて各部屋や職場から廊下へと顔を
覗かせると、モクモクとした煙が、三階の廊下から下へ向かって広
がり始める光景を目にする。そして事態を理解すると同時に、燃え
盛る火炎の音が彼らの鼓膜を刺激した。
館内はその瞬間、混乱と混沌に包み込まれ、人々は仕事を投げ出
して、我先にと館外へと逃げ始める。それは、これからムラシーン
に連絡を取り、ユイを軟禁する計画を練っていたホイスも例外では
なかった。
﹁そんな馬鹿な、火事だと! クソ、なんでこんな時に﹂
ホイスは火の不始末をした人間に対し、心の中であらん限りの大
音量で毒づきながら、一心不乱に部屋を飛び出すと、入れ替わりに
一つの影が彼の部屋に入り込んだのを気づくこと無く、そのまま庭
へと避難する。
﹁一体何が起こった? 火の不始末をした奴は誰だ!﹂
大使館の三階から煙と炎が巻き上がる光景を、驚愕の表情で見つ
めながら、ホイスは部下に向かって、当たるように怒鳴り散らした。
﹁わかりません、火事の叫び声で初めて私も事態に気づきまして⋮
⋮﹂
部下の一人が、突然の出来事に動揺を隠せない様子で、自らの状
366
況を説明する。ホイスは他の職員に対しても、次々と詰問していっ
たが、誰しも原因がわからず、口を濁した。
ホイスがそうして部下へ詰問している間にも、ますます炎の勢い
は増していき、館内に残っていたものは、命からがら次々と外へと
飛び出してくる。その中にユイの部下の姿を認めたホイスは、彼ら
の元へと駆けつけた。
﹁閣下は、閣下は何処におられる?﹂
動揺を微塵も隠さないホイスの問いかけに、彼の最も近くにいた
クレイリーは、燃え盛る大使館を一瞥した後に、やや落ち着かない
声で返答した。
﹁もうすぐだと思いやすぜ。燃やしてはいけない資料があるからと、
部屋で資料を漁っていやしたから⋮⋮﹂
クレイリーがそう答えた所で、大使館から最後の脱出者であるユ
イが、炎から逃れるように、転がる勢いで館から飛び出してきた。
﹁やばいやばい。危うく炎に包まれるところだったよ﹂
ユイは資料や荷物を入れた大きな肩袋を地面に下ろすと、右腕で
額の汗を拭い、安堵のため息を吐き出した。
﹁閣下、ご無事でしたか﹂
﹁ああ、ホイスくんも大丈夫そうだね。他の職員で、まだ館に残っ
ているものはいないかい?﹂
ユイが職員たちの安否を確認すると、ホイスは先に脱出していた
にもかかわらず、自らが他の職員のことを軽視していたことに気が
付き、ややうつむき加減で、小さな声を返した。
﹁いや、まだ確認をしておりませんので⋮⋮﹂
﹁なにをやってるんだい。君が率先してくれないとダメじゃないか
367
! 今すぐに、脱出できた職員を確認してくれたまえ。それと至急
鎮火できる範囲で、鎮火の手配だ。私は隣のロレアン国の大使館に、
火が燃え移る危険性を警告しに行く。さあ、すぐに動きたまえ!﹂
﹁わ、分かりました。失礼します﹂
この大使館に来て以来、一度も命令口調でホイスに迫ったことの
ないユイが、珍しく怒気を伴わせてホイスに命令を下したため、彼
はやや気押されながら一度頷くと、逃げるように部下たちの元へと
駆け出していった。
﹁さて、邪魔者には適当な用事を押し付けたし⋮⋮では、この隙に
この場を離れようか﹂
ユイはカインスの背中に背負われたリナの震える頭をゆっくりと
撫でながら、そう皆に告げた。そして自らが先頭に立ち、隣の大使
館へ向かうという名目のもと、目立たないように大使館の通用門へ
と小走りに向かう。ユイは入り口に警備兵がいないことを確認する
なり、ロレアンの大使館とは全くの逆方向へと、一行を引き連れな
がら、一目散に駆け出していった。
一行はしばらくの間一心不乱に走り続け、大使館の煙が遠くに見
える距離まで遠ざかった所で、ようやくユイは足を止めた。
﹁はぁはぁ。取り敢えず、これぐらい離れれば大丈夫だろう﹂
﹁⋮⋮それで旦那。これからどうしやす?﹂
肩で息をするユイに対し、クレイリーは今後の予定を尋ねる。
﹁基本的には、セーブルをこのまま出て行きたいんだが⋮⋮カイル、
そのフードは外せないのかい? リナはノアの買ってきてくれた服
を着れば問題ないだろうけど、君のフード姿はさすがに街門の守衛
官に止められるだろうからね﹂
368
ユイは弱ったような笑みを浮かべながら、カイルにそう尋ねると、
彼はやや迷った様子を見せながらも、首を左右に振った。
﹁申し訳ないのですが、市内でこれを外すわけには⋮⋮ましてや守
衛官の前では﹂
﹁そうか。だとすると、どうするかな﹂
ユイはおぼろげながら彼の事情を察して頭を一度掻く。そして王
都からの脱出方法を考えるため、その場で腕組みをし、頭を悩ませ
始めると、その姿を見たナーニャが、ポンと手をたたいて、私案を
披露した。
﹁街から出るなんて簡単だよ。そこの城壁を壊してさ、そこから︱
︱﹂
﹁却下﹂
完全な力技の方法を提示しようとしたナーニャの発言を遮ると、
ユイはあっさりと不採用を宣告した。
﹁ちょ、なんでだい? 旦那の大使館を燃やすアイデアより、誰も
危険に晒されないんだから、よっぽどまともなアイデアじゃないか﹂
最後まで提案を話させてもらえず、あっさりと拒否されたナーニ
ャは、ユイに向かって不服そうに、そう口に出す。ユイとしてみれ
ば、大使館の炎上はクラリス内の問題と強弁できるが、城壁破壊は
明らかにラインドルへの挑戦としか言い様がない。現段階ではライ
ンドルと正面から対峙するリスクを犯すのは、いささか時期尚早と
考えており、彼女のアイデアを採用することはできなかった。
﹁ここはやはりカイルに頼んで、市街への通路を⋮⋮旦那!﹂
クレイリーがカイルを横目で見ながら、そう話し始めた所で、彼
はユイたちの周囲を見慣れぬ者達が取り囲んでいることに気がつい
た。
369
﹁どうもお客さんらしいね。さて君たち、私が誰かわかってやって
いるのかい?﹂
ユイが周囲を取り囲む者達に聞こえるよう、やや大きめの声を発
すると、その十数名に及ぶ武装した連中の中から、リーダー格と思
しき男が、一歩前に出てくる。そして、彼は抑揚のない声で警告を
行った。
﹁ユイ・イスターツ、貴様を拘禁する。大人しく我々に従うか、そ
れともここで命を潰えるか好きな方を選ぶがいい﹂
﹁それはまた、突然の話だね。私はクラリスの大使なんだが、外交
的な事情も理解した上で、君たちはこのような行動に出ているのか
な?﹂
ユイはその武装した男に向かって両手を左右に広げながら確認す
るようにそう尋ねると、彼はニヤリと右の口角を吊り上げた。
﹁貴様が兵士に窃盗を行った棄民を連れていることも、そしてレジ
スタンスを匿っていたことも既に調べが付いている。まあ、その棄
民とレジスタンスを我々に突き出してくれるというなら、友好国の
大使として、多少寛大な処置も考えるが、いかがかな?﹂
その言葉の内容とユイたちを包囲する手際の良さを踏まえて、ユ
イはこのような状況が生み出される可能性を頭の中で整理する。す
ると、彼はあっさりと一つの結論に至り、彼の背後にいる一人の女
性のことを考えて、一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ
た。
しかしユイはまずは現状の打開が優先と考えて、瞬時に思考を切
り替えると、武装した男に向かって再度話しかけた。
﹁突き出す、突き出さない以前にこのように取り囲むのではなく、
正式な手続きを経てから、話をするべきではないかい? もし君た
370
ち良識と常識があるのならね﹂
呆れたような表情を浮かべて、皮肉交じりにユイがそう言い放つ
と、その背後から﹁良識と常識って⋮⋮よりによって旦那が言いま
すか﹂という小さな声が、ユイの耳に入った。ユイはクレイリーめ
と思いながら、わずかに表情を固くしたのみで、リーダー格の男を
睨むと、彼はユイの視線など気にも止めぬように、淡々と声を発す
る。
﹁ふん、そうか分かった。あくまで貴様らは、レジスタンスと言う
名のテロリストどもの味方をするのだな。だとすれば、我々も力で
持って、貴様らを排除せねばなるまい﹂
﹁いやいやいや、私の話をちゃんと聞いているかい? 味方をする、
しないのそれ以前に、正式な手続きを済ませてから、再度私の元へ
来てくれないかと言っているんだが⋮⋮﹂
ユイは最初から決まっていたセリフを、順番に読み上げているだ
けのようなその男に対し、困ったように頭を掻きながら、困惑混じ
りにそう述べた。
﹁旦那、そんなこと言っても無駄ですぜ。多分、あのおっさんの表
情と口ぶりから、どうせ既に脚本が出来上がってやすぜ。ここでも
し旦那の論法に引きずられると、脚本からのズレが大きくなります
からね、それで無視して話しているんでしょう﹂
﹁だよな⋮⋮だから宮仕えは嫌なんだよ。いくら理不尽で無意味な
ことでも、上が言うからには従わなくてはならない。ほんと同情す
るよ。たぶん君もその口だろ?﹂
その男は、事前に予想していた会話の流れと完全にかけ離れたユ
イの問いかけに、初めて動揺を見せる。
﹁な、なにを言っている。この状況がわかっているのか?﹂
﹁だいたいさ、あんな若い子や幼い子どもを捕まえてもなんになる
371
んだい。クラリスと事を起こすきっかけを欲した宰相あたりの筋書
きなんだろうけどさ? でも、いささか性急な気もするし、あまり
褒められた脚本じゃないね⋮⋮だから、出演俳優としては多少脚本
の変更を要求するとしようか﹂
ユイがそう言い切って深いため息を吐くと、男は図星を付かれた
焦りからか、怒りの感情を含ませた声で、部下たちに指示を下す。
﹁くそ、好き勝手言いおって。これ以上、言葉は必要ない! 此奴
らはただの罪人だ。そのつもりで者ども、囲め!﹂
彼がそう宣言した瞬間、一斉に周囲を取り囲む者達は武器を手に
持ち、ユイたちに向けて包囲を縮めてくる。
﹁最初からなにも取り繕わずに、そう言えばいいのに⋮⋮しかし説
得は失敗か。残念﹂
﹁旦那、本当に説得する気なんてあったんですか?﹂
﹁あるに決まっているだろう。説得だけで済めば、楽でいいじゃな
いか﹂
ユイがクレイリーの疑問に対して、なにを言っているんだという
表情を浮かべながら、そう口にする。するとユイは次の瞬間、ナー
ニャによって肩を掴まれると、彼女はユイたちの前方に進み出て、
笑みを浮かべながらリーダーと思しき男と対峙する。
﹁あんたら話が長いんだよ。まどろっこしいこと抜きが一番さ。で
は、さっさと遊ぼうか。フレイムバースト!﹂
喧嘩の先手はこう取るんだとばかりに、ナーニャの突き出した両
手から、灼熱の炎が爆発を伴いつつ前方へと拡散する。その瞬間、
綺麗に円状に取り囲んでいた包囲網は、一瞬にして崩壊した。
﹁隊長、取り敢えず目の前の奴らは、アタシのもんだから手を出さ
ないでくれよ。いいね?﹂
372
﹁⋮⋮ああ、もう好きにやってくれ。ただし長居は無用だから手短
にな﹂
﹁了解!﹂
ナーニャは嬉々とした声で返事をすると、そのまま両手に炎を生
み出しつつ、炎に包まれ動揺を隠せない前方の敵中へと駆け出して
いった。
﹁まったくあいつは⋮⋮さっきまで、あれだけ大使館の中で火をつ
け回ったのに、まだ火遊びする気なのかな?﹂
﹁ははは、隊長。ナーニャにそんなこと言っても無駄ですよ。とこ
ろで、オイラも少し弓を馴らしておきたいんで、リナをお願い出来
ますか?﹂
後方を警戒していたカインスが、後ろから距離を詰めつつある敵
兵を睨みながら、背中越しにユイにそう頼んだ。
﹁ああ、後方は任せた。あと右はクレイリーで、左は⋮⋮仕方がな
いから私が担当しよう。カイル、君はリナとノアを見ていてくれ﹂
カインスの背中で震えるリナと、戦闘になったことに驚きを隠せ
ず、その場に立ち尽くすノアをユイは一瞥すると、カイルにそう告
げた。
﹁そんな⋮⋮僕も戦えます!﹂
﹁君が怪我をおったら、誰が君たちの仲間のもとに、案内してくれ
るんだい。それに、君は本来前線に出るべきではないだろ。そんな
こと君自身が、一番わかっているじゃないかい?﹂
ユイは腰に下げた刀の柄に手をかけて、近づいてくる敵兵を威嚇
しながらそう言い放った。
﹁えっ? それはどういう⋮⋮﹂
﹁残念ながら今はおしゃべりをしている時じゃないな。どちらにせ
373
よ彼女たちを頼む﹂
ユイは敵兵を警戒しつつも、カインスの背から降ろされたリナの
頭を一撫でだけして、カイルにその場を任せると、一足飛びに駈け
出していった。
人数が明らかに異なる戦いであったが、ナーニャの魔法で動揺し
た敵兵たちは、明らかな技量の差もあり、人数の優位性を有効に使
うことができず、次第に後退を始める。そして腰が引けた兵士たち
を、ナーニャは情け容赦なく追い回し、他のカインスたちも少しず
つだが敵兵を駆逐していった。すると次第に戦況は、ユイたち優位
に転がり始める。
そうして敵兵との人数差がほぼなくなりかけたタイミングで、ユ
イは自分のノルマを一気に片付けようと、目の前の二人の敵兵に向
かって、刀を二閃する。そして二名の敵兵がその場を崩れ落ちた時、
突如後方から、ノアの叫び声がユイの鼓膜を打った。
ユイは慌てて後ろを振り返ると、恐怖のあまり顔を引き攣らせて
尻餅をついているノアと、その眼前で魔法による氷の矢を、間一髪
で剣によってなぎ払うカイルの姿があった。
﹁魔法士だと⋮⋮上か!﹂
ユイはカイルたちの直ぐ側の建物の屋上から、若い魔法士が次の
魔法を編み上げようとしていることに気がつく。そして予想してい
ない介入者の存在に、舌打ちを打ちながら、慌ててカイルたちの元
へとかけ出した。
しかし敵の魔法士の第二撃の方が、間髪入れず準備され、魔法の
完成を示す呪文が、その場に響いた。
﹁アイスランス!﹂
374
若い女の声で、呪文が唱えられると、先ほどカイルが捌いたもの
より二倍以上の大きさをもつ氷の槍が上空に生み出される。
﹁これはちょっとまずいな。止むを得ない⋮⋮か﹂
ユイはカイルのもとにたどり着くことを諦めると、その見慣れた
クラリス式の魔法へとアクセスするため、一気に集中力を高める。
﹁マジックコードアクセス﹂
次の瞬間、その氷の魔法式は急速に外部から侵食を受けると、一
瞬にして八割近くの法則が書き換えられていった。ユイは走りなが
ら僅かな安堵を浮かべ、一気に氷を拡散させる法則へと描き変えて
いく。
そうしてほぼ魔法を乗っ取り、氷を消失させる法則を起動させよ
うとしたまさにその時、氷を扱う魔法士のすぐ側に、若い男の魔法
士がいることに気がつく。
その魔法士は、氷を編んだ魔法士の背後で、既に魔法を編みあげ
ており、ユイが気づいた時点では、既に魔法を解き放てる段階に達
していた。
﹁ウインドカッター!﹂
二人目の魔法士の声が響いた瞬間、彼の元から風の刃が解き放た
れると、その軌道はカイルやノアの後方に向けられていることをユ
イは察知する。
そしてその軌道上には戦いに怯えて、震えながらうずくまってい
る幼い女の子の姿があった。
﹁まずい⋮⋮リナ!﹂
ユイは乗っ取っていた魔法式も、彼の手に持つ刀も全て投げ出し、
なにも考えず全力でリナへとかけ出し、跳びかかるように覆いかぶ
さる。
375
次の瞬間、彼の体に風の刃が直撃し、その刃の一片はユイの喉元
を撫でるように切り裂いた。そして彼の首元から噴水が立ち上がる。
﹁旦那ァー!﹂
クレイリーの叫び声が響く中、救国の英雄から吹き上がる紅色は、
あっという間にセーブルの大地を、紅いキャンバスへと書き換えて
いった。
376
王都脱出
﹁クレイリー、どきな!﹂
クレイリーは倒れたユイへ近づき、頸部の出血点に手のひらを押
し当てて、出血を止めようとしていた。するとナーニャが事態を察
知し、目の前の兵士を魔法でなぎ払うと、クレイリーを押しのける
ようにユイの下へと駆け寄る。
﹁クラル!﹂
ナーニャは血しぶきの噴きだすユイの首元に両手を添えると、不
得意な治癒魔法を必死に編み上げていく。しかしその瞬間から彼女
の意識は全てユイに向けられることとなり、その背中は完全に無防
備となる。そしてその姿を屋上にいる魔法士たちは捉えると、彼女
をターゲットとして攻勢魔法を練り上げていった。
﹁まずい、ナーニャ!﹂
﹁うるさい、いま手が放せないのよ。あんたらで何とかしな!﹂
ナーニャは自らの危機にも、視線を一切そらすこと無く、ただユ
イの傷口にのみ神経を集中させていく。その危機を救ったのは、彼
らの後方からものすごい勢いで近づいてきた、ひとつの影であった。
﹁⋮⋮間に合った。カインス、肩を貸しなさい!﹂
走ってきたその影は、そう言うなり、返答を聞くこと無く、カイ
ンスの肩に飛び乗ると、そこからさらに跳躍し、両手に握っていた
スローイングナイフを投擲する。
﹁ウッ!﹂
次の瞬間、彼女の投げた二本のナイフが魔術士たちの上腕に突き
377
刺さると、その瞬間構築されかけていた魔法はその場に霧散してい
く。
﹁クレハ、お前⋮⋮﹂
﹁言いたいことはわかってるわ。スキサメトカゲの体液を塗ったナ
イフよ。そこで寝転がっている男の甘さは、私が一番良く知ってい
るからね。それで、ユイは?﹂
筋弛緩作用の毒を持つ大陸トカゲの名前を出し、クレイリーの言
いたいことを先回りして答えると、彼女はすぐにユイの状態をナー
ニャに尋ねた。
﹁ああ、血管と表層の皮膚は縫合した。ただアタシの腕じゃ、失っ
た血液は再生できないから、ここまでが限界ね﹂
ナーニャはそう言って、ほぼ正常表皮に覆われたユイの患部をポ
ンと叩くと、顔に汗を浮かべながら、最低限の仕事は果たしたと笑
みを浮かべる。
﹁そう。なら、さっさとここを立ち去るわよ﹂
﹁そうはさせんぞ!﹂
まだ座り込んでいるノアや、事態の推移についていけていないカ
イルに対して、突き刺すような視線を向けた後に、クレハはそう告
げた。しかしその声に最初に反応したのは、ノアたちではなく、ナ
ーニャとの戦闘で右腕に火傷を負ったリーダーの男であった。彼は、
怒気をまき散らしながらナーニャたちを睨みつけると、わずかに残
存していた周囲の兵士たちに指示を出し、ナーニャたちと再び対峙
する。
﹁あらら、まだいたのかい。あんたたちの相手をしている暇はない
んだよ﹂
﹁ふざけるな、貴様たちは逃げられるつもりだろうが、この王都に
378
いる限り我々から逃げられると思うなよ﹂
男は痛みにより怒気を増大させながら、ナーニャに向かいそう言
い放った。
﹁はは、負けた者のセリフだね。一応、この場での負けは自覚して
いるんだ。だったら、さっさとそこをどくんだね﹂
﹁うるさい! お前らの好きにはさせんぞ、者どもかかれ!﹂
その男の号令に、生き残っていた兵士たちは一斉にナーニャたち
に向けて突進する。
﹁ちっ、今はあんたたちと遊んでる暇はないんだよ。カイル、ノア、
目つぶって耳を塞ぎな。ブリーリョ!﹂
ナーニャがその呪文を唱えた瞬間、彼女の手の先から光の球が生
み出され、莫大な光と音量を解き放ちながらその場で炸裂する。そ
のあまりにも膨大な光量と音に、突っ込もうとしていた兵士たちは
その場に崩れ込むと、眼と耳を塞ぎながらのた打ち回る。
﹁はぁ、この魔法は私の耳までやられるから嫌いなんだよ⋮⋮さあ、
あんたたちさっさとずらかるよ!﹂
爆発の瞬間、両手を突き出していたため耳を防げなかったナーニ
ャは、かなり大きな声で一同に指示を出す。しかしながら対処を指
示された仲間たちも、大なり小なりナーニャの爆光魔法の影響を受
けており、やや辛そうにしながら逃亡の姿勢をとった。
﹁カインス、お前が旦那を運べ。リナは俺が連れて行く﹂
リナの眼と耳を塞ぐことに自らの両手で使っていたため、未だに
耳鳴りの取れないクレイリーは、叫ぶような声でカインスに指示を
出すと、そのままリナを背負い上げた。そしてうずくまる兵士たち
を横目に、クレハは真っ先に先頭を駆け出すと、他の者達もすぐさ
ま後を追い、その場から走り去っていった。
379
クレハたちは、少しでも追っ手を引き離すため、闇雲に迷路のよ
うな街の中を走り抜ける。何度も行き止まりにぶつかりながらも、
体力の続く限り、走り続けた。そんな彼女たちの逃走で、最初に限
界に達したのは、ただの秘書官に過ぎないノアであった。普段、運
動をしていない彼女の足は、次第に鉛のような重さを持つようにな
ると、段々と動きが鈍くなり、一行から遅れを取り始める。先頭で
後方を確認しながら走っていたクレハは一つ舌打ちをすると、一度
足を止める。そしてその場で左右を見渡し、人気の無い路地裏の通
りを見つけると、一行を誘導し、腰を落ち着けさせた。
﹁はぁはぁ、それでクレハ。これからどうする?﹂
﹁どうするって、セーブルから外に出るに決まってるでしょ﹂
リナを背負って走ったため、肩で息をするクレイリーが、クレハ
に問いかけると、彼女は言うまでもないとばかりに、端的に答えを
返す。
﹁入ってきたのは南の門からでしたよね。そこを突破するんじゃな
いですか?﹂
﹁さすがにあれだけ暴れたんだから、それは難しいと思わない? たぶん今頃は、軍の一部隊分くらい警備に動員していてもおかしく
ないわ﹂
カインスの楽観的な問いかけに、クレハは呆れたように低い声で
そう答える。すると、カインスの背中から、誰も予期せぬ声が発せ
られた。
﹁カイルの使っている抜け道を、教えてもらうのがいいんじゃない
か。さすがにしばらく荒事はごめんだからね﹂
380
一同はその声に驚き、すぐさまカインスの方へ向けて視線を移す。
するとそこには、カインスの背中から降りて、力なく地面に腰を下
ろすユイの姿があった。
﹁旦那! 意識が﹂
﹁ああ、大丈夫だ⋮⋮まだぼんやりとしているけどね﹂
ユイは両手を地面につけて、なんとか体を支えると、そう口にし
た。
﹁おじちゃん⋮⋮﹂
ユイの無事を知ったリナは、クレイリーの背中から地面にトンと
着地すると、涙を浮かべながら一直線に駈け出し、ユイに向かって
抱きついた。
﹁はは、リナ⋮⋮怖い思いをさせてごめんね﹂
ユイはそう言いながら、自分の胸に飛び込んできたリナの頭をゆ
っくりと撫でる。そして泣きながら肩を震わせるリナが、少しずつ
落ち着いてきたところで、ユイはカイルに向き直った。
﹁さて、それでカイル。申し訳ないんだが、外への抜け道へと案内
してくれないかな﹂
﹁はい、それは止むを得ないと思うんですが⋮⋮ただ、ここからだ
とどう行けばいいかわからなくて﹂
困ったような表情をカイルは浮かべ、そう答えると、クレイリー
が口を開いた。
﹁クレハ。お前が先頭を走っていただろ。ここはどの辺になるかわ
かるか?﹂
﹁あのね、位置を確認しながら逃げる余裕があったと思うの? 単
純に人影の少ない方へと逃げてきただけよ﹂
381
﹁ノアに聞けばいいじゃないか? あんた、この街に赴任して長い
んだろ。周りの建物に見覚えとかないかい?﹂
未だ息を整えているノアに向けて、ナーニャが話を振ると、彼女
は一度大きく息を吐いた後に、申し訳なさ気な表情を浮かべ、小さ
な声を発した。
﹁あの、私も夢中で背中を追って来ただけなので、ここがどこかは
⋮⋮﹂
その言葉を聞いて、一同は弱った表情を浮かべると、クレイリー
がユイに向かって提案を行った。
﹁旦那、どうしやす。取り敢えず、誰かが周囲を偵察するか、街の
人を捕まえて、場所を確認しやすか﹂
﹁⋮⋮いや、あえてリスクを犯す必要はないさ。カインス、私の持
ってきた肩袋の奥の方に一つの筒が入っている。それを取り出して
カイルに渡してくれ﹂
ユイは手に力が入らないため、カインスにそう指示を出す。する
と、彼は早速袋の中を漁り始め、いくつかのガラクタや書類の奥に
綺麗な筒があることを確認すると、それを指示通りカイルに渡した。
﹁こ、これは!﹂
その筒を受取り、中に入っていた一枚の紙を取り出すと、カイル
は思わず驚きの声を上げた。その声に、他の者達もカイルの手元を
覗きに行くと、ナーニャが顔を引き攣らせながら、ユイに向かって
声を上げる。
﹁た、隊長。これ、自動地図生成紙じゃないか。アタシの国にも現
存しているものは、数枚しか無いってのに⋮⋮どこでこんなとんで
もないものを手に入れたんだい?﹂
382
ナーニャが魔法大国であるフィラメント公国の展示会で、ガラス
越しにみた記憶を思い出し、後ずさりしながらユイに尋ねる。
﹁ん、それかい? いや、以前に校長をしていた時に、たまたま使
われなくなってしまった研究所があってね。偶然その教室に入った
時に拾ったんだよ﹂
﹁⋮⋮絶対ウソね。それを手に入れるために、閉鎖されたあの男の
研究所に忍び込んだんでしょ﹂
﹁はは、どうだったかな。ちょっと気を失ったから記憶が曖昧でね。
まぁ、どうだっていいじゃないか、そんなこと。こうやって役に立
ちそうなんだしさ。それでカイル、場所は分かったかい?﹂
ユイが誤魔化すように頭を掻きながら、カイルへと話を向けると、
彼は真剣に地図を眺めながら、大きく頷いた。
﹁ええ、たぶんいまこの位置だとしたら⋮⋮大丈夫です。一番近い
通路はこちらですので、案内します﹂
カイルはそう言うなり、行き先を手で指し示す。それを受けて、
一同は再び移動する覚悟を決めると、カインスが再びユイを背負っ
たところで、カイルは一行を先導し始めた。
彼らは周囲を警戒しながらも、確実に歩みを進めて行き、幾ばく
かの時間を経て、ようやく街の東外れにある、ボロボロの小屋へと
たどり着く。そしてカイルはグルリと小屋の周囲を回ると、小屋の
裏側の古ぼけた枯れ井戸の前で足を止めた。
﹁ここです﹂
﹁ここって⋮⋮井戸しかないじゃないかい? 外に通じる通路って
のは、一体どこにあるんだい?﹂
ナーニャが周りを見渡しながら、それらしきものがないことを訝
しむと、カイルが視線を井戸の中へと落とす。
383
﹁この中です。実は井戸の下には、市内の数カ所に通じる通路が掘
られています。その内の一本は、市外に通じていますので、それを
使ってこれから脱出します﹂
そう言うなり、カイルはボロボロの小屋に駆け込み、長いロープ
を手に戻ってくると、その一端を井戸の中へと放り込んだ。
﹁それでは順番に付いてきてください。中は狭いので、下に降りた
ら一列でお願いします﹂
カイルは一同を見回してそう告げると、迷いなく井戸の中へと飛
び込んでいく。その場に残された者たちは、お互いの顔を見合わせ
ると、一度頷いた後に、順番に井戸の中へ入っていった。
384
目覚め
﹁ん、ここは⋮⋮﹂
窓から差し込まれる陽の光を浴びたユイは、ふと目を開ける。す
ると、彼は見知らぬ部屋に自分がいることに気がついた。重い上半
身をゆっくりと引き起こし、状況をつかむように左右を見回すと、
部屋の壁に溶けこむように背を預けるクレハの姿を視界に捉えた。
﹁ようやく起きたのね。どう、目覚めの気分は?﹂
クレハはわずかに安堵のため息を吐き出し、ユイに向けてできる
だけ平静を装うと、わざと素っ気なく問いかけた。
﹁起きたてに美人を最初に目にすることができて、気分は最高だね。
とは言え、さすがに体が重い⋮⋮か﹂
ユイは両手を何度も握っては開く運動を繰り返し、力の入りが鈍
いことを確認して、弱ったような笑みを浮かべる。そんなユイの言
葉と行動を見て、クレハは呆れるように一つため息を吐いた。
﹁当たり前よ。ナーニャがいなければ、失血死してもおかしくない
所だったのよ。少しは反省しなさい﹂
﹁はは、全くだよ。私も英雄だのなんだの言われているうちに、少
し浮かれていたようだ。迷惑をかけたね﹂
そう言って、ユイは苦笑いを浮かべ、頭を掻いた。その仕草を見
て、クレハは左右に首を振ると、いつもの冷たい目でユイを見つめ
る。
﹁お礼を言うなら、普段から貴方にくっついて動いてる連中と、そ
こで寝ている子に言うことね﹂
385
ユイはクレハがわずかに動かした視線の先を辿ると、ユイの足元
で前のめりの姿勢をとり、寝息を立てている小柄な体に気が付く。
﹁⋮⋮リナ﹂
﹁その子、一昨日からずっと貴方に付き添ってたのよ。おじちゃん
に助けてもらったって言ってね﹂
クレハはいつもの無表情の中に、ほんの僅かなほほ笑みを混ぜて
ユイにそう告げた。
﹁そうか⋮⋮ありがとう﹂
ユイは彼女を起こさないように小さな声でお礼を告げると、寝て
いるリナの髪をそっと撫でる。そして二度、三度と彼女の髪を梳い
たところで、視線を上げると、クレハへと向き直った。
﹁それで状況は? あれからどうなった﹂
﹁王都の井戸を降りた辺りまでは、起きていたわよね。あの後、カ
イルの案内で迷いの森に向かったの。ここは森の中心部にあるレジ
スタンスの基地よ。ここについてから、二日間も貴方は眠りこけて
いたんだから﹂
カイルの先導でユイたちが王都を抜けだした頃には、魔法による
ダメージと貧血による倦怠感からか、カインスの背中でユイは睡魔
に襲われ、そのまま意識を失っていた。そんな彼を一行はレジスタ
ンスの基地まで運び、それからまる二日も彼は眠っていたのである。
﹁そっか、二日か⋮⋮はぁ、せっかく二日も寝れたのに、なんでこ
んなに寝足りないのかな。なんか損した気分だよ﹂
ユイはまだ体に充満する眠気のためか、まぶたが重いことを自覚
しつつ、苦笑いを浮かべそう呟く。
﹁単純に血が足りないだけでしょ﹂
386
﹁はは、違いない﹂
クレハはユイのくだらない物言いには付き合っていられないとば
かりに、あっさりとした口調でそう言い放つ。その反応に、ユイは
彼女らしいなと感じながら、笑みを浮かべて、その意見を肯定した。
﹁それで、これからどうするつもりなの?﹂
その問いかけに対し、ユイは現在の状況の分析の説明が足りない
と思い、さらなる情報をクレハに問いかけようと、口を開きかける。
しかしクレハがそれ以上説明しないということは、大きな状況変化
がないことを示しているとすぐに思い直した。
そうして、現段階の状況を彼なりに整理した上で、非常にシンプ
ルな方針を口に出した。
﹁⋮⋮そうだね、取り敢えずはレジスタンスの人たちと話してみる。
そして彼らとともにムラシーンと対峙するってところかな﹂
ユイの口にした方針に対して、クレハは一度小さく頷く。そして
視線をそのままに、自らの役割を彼に問いかけた。
﹁そう。それで私はどう動けばいい?﹂
クレハの問いかけに、ユイは今後の詳細な計画を練っていく。そ
して未だ確認していないレジスタンスの能力を未知数として除外し
た上で、最低限彼の計画に必要な事項を脳内にリストアップし、欠
かせないピースをクレハに頼むことにした。
﹁もう少し人手がほしい。数名でいい、戦場で使えるやつをここへ
呼んできてくれ⋮⋮腕は私と同じくらいで十分だから﹂
﹁⋮⋮またエインスの坊やが泣くわよ﹂
ユイの求める人材像をクレハは正確に把握すると、生真面目で神
経質そうな銀髪の男と、ニコニコしている底のしれないキツネ目の
男を、脳内に浮かべる。そして二人が抜けることによる影響に考え
387
が及ぶと、彼らの上司に当たる人物への負担が容易に想像できた。
﹁この前のクラスの魔法士を、なりふり構わず突破するだけなら、
今の面子だけでも相手できるかもしれないね。だけど今回は、他の
不確定要素が含まれたとしても、相手をきっちり無力化できる人間
じゃないと意味が無いんだ。そんなに長いこと借りるつもりじゃな
いから、エインスのやつが死ぬ気で働ければ、しばらくは問題ない
さ﹂
ユイが悪びれもせずそう告げると、クレハはわずかに表情を変化
させる。それを見たユイは、彼女からの反論が飛んでくることを予
測し、スッと視線を落とした。
﹁正気なの? 言っておくけど、一昨日みたいに何かあった時、次
も命が助かるとは限らないのよ。いい加減甘い考えは捨てなさい。
もうあの頃のように、暗い部屋の片隅で膝を抱えながら、帰らない
両親を待ち続ける子供じゃないんだから﹂
﹁⋮⋮手厳しいね。だけど今回は譲るつもりはないよ﹂
ナイフで刺すかのような視線を送ってくるクレハに対し、意見を
変えることはないとばかりに、視線を彼女に向けること無く、下に
落としたままユイは断言した。
﹁ほんと貴方という人は⋮⋮いいわ、貴方の言うとおりにしてあげ
る。なら、私はここを離れるから、今度やらかしたら自分で何とか
しなさいよ﹂
僅かな怒りを込めながらそう告げると、クレハはもたれていた壁
から体を引き離し、そのまま真っすぐ部屋の出口へと歩いて行く。
そしてドアノブに手をかけたところで、普段は決して見せない表情
を浮かべると、一度だけ後ろを振り返った。しかし次の瞬間には、
周囲に溶けこむ様に存在を殺すと、あっさりとその場を離れていく。
そうしてその場には、ユイとリナだけが残される形となり、ユイ
388
は一度大きくため息を吐いた。
﹁はぁ、君の気持ちはわかるけどね⋮⋮ともかく賽を振ることにし
たんだ、後は吉が出るか凶が出るかだな。さて、ムラシーン君には
悪いけど、ちょっと脚本を修正させてもらうことにしようか。私は
楽をすることは好きだけど、負ける戦いは好きじゃないからね﹂
ユイはそう口にすると、レジスタンスの面々に挨拶するため、ベ
ッドから起きるかどうか迷う。しかし、睡魔の誘惑にあっさり負け
ると、体をベッドに預け、再び瞳を閉じた。
389
作戦会議
カイルたちがレジスタンスの基地へと到着して、三日目の夕刻。
レジスタンス首脳部の面々は、これからの方針を決定するため、基
地内の会議室に集まっていた。
﹁どちらにせよ、現状ではムラシーンに表立って戦いを挑むのは時
期尚早だと思いますね﹂
その会議に参加している四名の中で、唯一の女性である元宮廷魔
法士長のレリムは、慎重論として、そう自らの意見を表明する。
﹁だからといって、このまま手をこまねいているわけにもいかんだ
ろ。奴らの勢力は日増しに拡大し、ムラシーンの足元はますます安
泰だ。状況は厳しくなる一方だと思うがね﹂
オールバックの赤髪を撫でながら、反論を口にしたのは、かつて
近衛兵長であったマルフェスであった。
﹁それはそうだが、何か手を打つとしても、具体的になにをやると
いうのかね。君に何か腹案があるのなら、拝聴させてもらうが?﹂
マルフェスの発言を聞いて、会議室の中で最高齢となる元外務大
臣のビグスビーが、彼にそう尋ねた。その発言にマルフェスは、右
の掌をひらひらと左右に動かすと、自嘲気味に苦笑いを浮かべなが
ら口を開いた。
﹁そんなんあったら、既に動いているさ﹂
マルフェスのその発言に、会議室は沈黙が訪れる。彼らは十日に
一回のペースで、この場で会議を重ねてきていた。短期的な提案や
作戦は何度も話し合われ、そして実行に移されてきたものの、最終
390
的な目的となる王都の奪回に関しては、未だ雲をつかむように、何
一つ有効な方向性を示すことができないでいた。
そうして今回の会議の行き詰まりを感じたカイルが、珍しく積極
案を口にする。
﹁どちらにせよ動くしか無いと思います。王都の中は、以前にもま
して兵士の数が増えていました。これまで独立を貫いていた地方の
領主の方の中にも、そろそろムラシーンに恭順の意を示し始めたも
のもいるようです。マルフェスの言うとおり、このままだといずれ
ジリ貧になるのが関の山でしょう﹂
先日、王都で調べてきた情報を、カイルなりに解釈し、彼なりに
自らの見解を示す。すると、その内容ではなく、カイルの取る行動
に対して、ビグスビーが彼をたしなめるように苦言を呈する。
﹁お話はわかります。しかし、いつも言っていることですが⋮⋮カ
イラ様の王都の情報は貴重ですが、もういい加減、このような真似
はおやめください﹂
ビグスビーは、歳の離れた孫に言い聞かせるような口調でそう告
げると、深いため息を吐いた。
﹁で、でも、僕しかあの通路は使えないから。だから王都の偵察は
僕の役目で⋮⋮﹂
カイルはビグスビーに対して、すぐさま反論を行うも、何らかの
心境の変化があったのか、いつも彼らに反論する時よりも弱々しい
声であった。
﹁いつも言っているように、他の者に通路の在り処を教えればいい
じゃないですか。確かに先祖代々の秘密であるとはいえ、状況が状
況です。御身自ら、偵察に赴くのは自重いただきたい﹂
﹁その通りです。それに今回は全くの部外者に例の通路を使わせた
391
と聞きます。だとしたら、もはや秘密とはいえないでしょう。今後
偵察は別の者に行わせるべきです﹂
ビグスビーとレリムの両者から、立て続けの説教を受けて、カイ
ルは体を小さくすると下むいて、レリムの意見に抗論した。
﹁それは⋮⋮でも、あの時は止むを得なかったので﹂
﹁だとしてもです。私が地方領主の説得から帰ってきてみれば、何
処の馬の骨かわからない者を連れてきていると聞きますし、もう少
し自覚を持ってくださいませんと﹂
レリムは間髪入れず、カイルにそう話すと、急にカイルは視線を
上げて、語調を強くした。
﹁馬の骨じゃないですよ、あの方は̶̶﹂
カイルは、ユイたちを馬鹿にしたようなレリムの言動を抗議しよ
うと声をあげたタイミングで、その言動を遮るように、急に会議室
のドアがノックされ、警備の者の声が会議室内に響いた。
﹁失礼します、先日カイラ様がお連れになられましたユイ・イスタ
ーツと名乗るものが、会議室への入室を希望しておりますが⋮⋮い
かがでしょうか﹂
その声が会議室に伝わるなり、会議室内に居たものは、顔を見合
わせた。
﹁ユイ⋮⋮イスターツだと、おい、親父。本物なのか?﹂
普段は飄々としているマルフェスも、予想外の人物名を耳にして、
思わず動揺を隠せなかった。
﹁ああ、どうもそのようだ。噂の英雄殿だよ﹂
﹁な⋮⋮﹂
マルフェスはビグスビーの肯定を受け、一瞬その場に硬直する。
392
そして一度つばを飲み込み、目をつぶると、無理やりいつもの軽薄
な笑みを浮かべ直し、この部屋に入ってくるであろう客に備える。
﹁では、通してください。あの方の意見を聞かせて貰いたいので﹂
﹁カイラ様!﹂
ユイ・イスターツと言う名前を聞いてなお、この自分たちの会議
に他者を招くことに拒否感を覚えたレリムが抗議の声を上げた。し
かしカイルは首を一度左右に振ると、彼女の抗議を退ける。
﹁あの方は紛れもない本物です。毎週行なっているこの会議も、い
つも同じ意見の繰り返しで一向に進展がない。だったら外部の者の
意見を聞くのもいいでしょう。ましてや相手が英雄と呼ばれる程の
人物ならね。さあ、どうぞ通してください﹂
外の警備兵に届くよう、大きな声でカイルがそう指示を口にする
と、入口のドアが明けられ、少し青い顔をした、だらしな気な男が
会議室内に迎え入れられた。
﹁どうも。クラリスのユイ・イスターツです。このたびはお世話に
なりまして﹂
頭を掻きながら、苦笑いを浮かべてユイがそう話すと、彼の存在
を知っていたビグスビーは一つ頷いたのみで、表情一つ変えなかっ
た。しかし彼とカイル以外の二人は、目の前の人物と、噂で話され
ている英雄像とのギャップに驚き、確認するようにカイルに視線を
向けた。
しかしカイルは、そんな視線に見向きもせず、歩けるまで状態が
良くなったユイを見て、笑みを浮かべた。
﹁ユイさん、どうぞ座ってください。そちらに席が余っていますの
で﹂
カイルはそう言って、マルフェスの隣の空席を指し示すと、ユイ
393
は一つ頷き、その席にゆっくりと腰を下ろした。
﹁あんた、本当にあのユイ・イスターツなのかい?﹂
隣に座ってきたユイに対して、マルフェスは訝しげな表情を浮か
べながら、確認するようにそう問いかけた。
﹁はは、最近どこに行っても噂が先行しているみたいでね。実物を
見ると、信じてもらえないことが多いんだけど、残念ながら私がユ
イ・イスターツです。がっかりさせましたか?﹂
﹁いや、これは失礼した。ビグスビーの親父やカイラ様が言うのな
ら、あんたが本物なんだろう。これは面白くなってきた﹂
そう言ってマルフェスはユイに対して好意的な笑みを浮かべる。
その光景を見てカイラは満足そうに一つ頷くと、会議を再開するた
め声を上げた。
﹁さて、話が途中になりましたが、議題はこれから我々がどうする
かということです。ユイさんはどう考えますか?﹂
﹁そうだね、今までの皆さんの話を流れを聞いていなかったので、
なんとも言いづらいところだけど、もし戦う意志があるのなら急い
だ方がいいだろうね﹂
ユイのその発言に対し、慎重論を唱えていたレリムが目を見開く
と、部外者に好き勝手言われたくないとばかりに、猛然と噛み付く。
﹁なんでですか? 急いで不十分な準備で、ムラシーンに挑むのは
ただの無謀ですよ。それとも貴方が帝国を薙ぎ払ったように、一人
で王都の兵士を片付けてくださるのですか?﹂
﹁はは、それは無理ですよ。残念ながら、痛い目見て運ばれて来た
ばかりの身ですから、そんな大言壮語は言えません﹂
ユイはその勢いを受け流すように曖昧な笑みを浮かべる。すると
ユイが室内に招かれてから、沈黙を保っていたビグスビーが口を開
394
く。
﹁だったら、君はどうして急ぐべきというのかね?﹂
﹁それはそろそろタイムリミット来てしまうからです﹂
簡潔にユイがそう述べると、ビグスビーは疑問符を浮かべたよう
な表情になり、ユイに説明を求める。
﹁タイムリミット? なんのだね﹂
﹁国王陛下の命のですよ﹂
﹁なっ⋮⋮﹂
再びあっさりとした回答をユイが述べると、その内容に会議室は
居た者達は思わず絶句する。そして僅かな思考停止の後に、レリム
が怒りを伴わせながら、ユイに向かって詰め寄った。
﹁貴方は一体何を言っているの? 全く意味がわからないわ。陛下
が病で倒れられているのは事実だけど、なんで貴方が陛下の病状を
知っているのよ﹂
その剣幕に、ユイは少しでも距離をとるように椅子にもたれかか
ると、両手を前に突き出し、落ち着くように彼女にアピールした。
﹁いや、私は国王陛下にお会いしたこと無いので、病状は知りませ
んよ﹂
﹁だったらなんでそんなことを言うの? 未来予知でも、魔法でで
きるのかしら﹂
他国人をあまり好きでないレリムは、皮肉交じりにユイにそう告
げると、ユイは弱ったように頭を掻いた。
﹁はは、私はほとんど魔法が使えませんから、未来予知なんて魔法
は持っていませんよ。私ができるのは、あくまで状況証拠から導か
れた未来予想です﹂
395
﹁未来予想⋮⋮ですか。ユイさん、貴方がその結論に至った理由を
教えてくれませんか?﹂
苦笑いを浮かべるユイに対して、カイルは彼の予測の根拠を提示
することを求めた。
﹁そんな大した話じゃないですけどね。たしか国王陛下が倒れられ
てから二年ですか⋮⋮もし二年前の段階で国王陛下が暗殺されてい
たら、ムラシーンはすぐにラインドルを掌握出来ましたか?﹂
﹁暗殺だと、貴様!﹂
ユイの不謹慎な仮定の話に、レリムは椅子から立ち上がり、思わ
ず彼を睨みつけた。その一触即発の状況を制したのは、ユイの隣に
座っていたマルフェスであった。
﹁落ち着けレリム。あくまで仮定の話だ。そんな目くじらを立てる
必要もないだろ。君の問いには俺が答えさせてもらおう。ムラシー
ンが掌握できたかどうかだが、正直無理だっただろうな。そのまま
主権が第一王子様へと移譲されて終わりだったと思うよ。もしそれ
まで妨害したら、まだ当時のムラシーン相手なら、地方領主共も一
斉に反旗を翻し、奴も権力の座から排除されただろうな﹂
マルフェスの見た目以上に理知的な回答に、ユイは笑みを浮かべ
ながら一度大きく頷いた。
﹁その通りです。だから二年前の時点では、国王陛下はまだ健在で
ある必要がありました。しかし今は? 宰相という地位を利用して、
着々と基盤を固めた現在のムラシーンに、国王陛下の存在は必要で
すか?﹂
ユイの再びの問いかけに、彼の意図するところを理解すると、そ
の場に居たものは表情をしかめた。そして、カイルが表情を曇らせ
ながら、ユイに向かって口を開いた。
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﹁ユイさん⋮⋮つまり貴方は、そろそろ陛下が殺されると、そう言
いたいわけですね﹂
﹁そういうこと。もしムラシーンに反旗を翻すなら、陛下の御存命
な間に行うべきでしょう。陛下が御存命だからこそ、旗色を決めて
いない地方領主もいれば、あなた方に協力している者たちもいるの
ですから﹂
ビグスビーはユイの話をゆっくりと頭の中で反芻すると、苦い表
情を浮かべながら重い唇をゆっくりと動かした。
﹁現状が永遠に続くと考えるべきではないということだな⋮⋮ふぅ、
貴公の言うとおりだ。私たちは陛下を思うあまりに、その生命が失
われた場合の可能性について、目を背けていたのかもしれん﹂
﹁仕方ないですよ。私も部下や教え子が命を落とす可能性なんて考
えたくもないですから﹂
ビグスビーの話を受けて、ユイは彼に関わる人達の姿を脳内に浮
かべると、頭を振りながらそう慰めた。
﹁⋮⋮さて、そこまで考えているんだ、なんかアイデアも用意して
いるんじゃないのかい?﹂
﹁はは、差し出がましくなりそうで、どうやって切り出そうかと思
っていましたが、そうやって聞いて頂けると助かります。では、あ
くまで部外者の意見だと思って、聞き流してくださって結構です﹂
マルフェスの覗きこむような視線を浴びながら、ユイはそう前置
きをすると、自らの作戦案を口にし始めた。
﹁私が考えている方法を行うには、いくつかの準備が必要になりま
す。その第一段階として、カイル君、君の本当の名前で、各地の地
方領主に決起を促す檄文を送ってくれるかい﹂
﹁⋮⋮やはり気づいていたんですね﹂
﹁とっさに偽名を使おうとして、似た名前を口にしてしまったのが
397
一番の理由だけど、それ以外にも君の立場でないとありえない行動
や会話があったからね﹂
﹁最初に名乗った時に、やってしまったと思いましたから、その後
は慎重にやり通したつもりなんですけどね⋮⋮まあ、過ぎたことは
いいです。それより、どういった文章を書けばいいんですか?﹂
教師に間違いを指摘された生徒のような表情をカイルは一瞬浮か
べたが、すぐ表情を真面目なものへと切り替えた。
﹁なんでもいいんだ。最終的に武装蜂起を促す文面でありさえすれ
ば、それだけでいい﹂
﹁だがそんな文章送ったところで、実際に立ち上がる者は、ほとん
どいないでしょう。地方領主を味方につけて、ムラシーンと対峙し
ようとする貴方の策は、所詮机上の空論に過ぎません。それに領主
の中に密通者がいた場合、我々の反攻作戦があっさりと露呈してし
まいますので、そんな安易な方法は如何なものかと思いますが?﹂
レリムの棘を含んだ反論に、ユイは弱ったように頭を二度掻いた。
﹁それで別にいいんですよ。この作戦はむしろムラシーンに、この
ような動きがあることを気づいてもらわなければいけません。だか
ら内通者の存在はむしろ好都合です﹂
﹁どういうことか説明してくれるかね﹂
目的の見えないユイの話に、ビグスビーは眉間に皺を寄せながら、
説明を求めた。
﹁ええ、この手紙を送る目的は一つ。それはムラシーンの警戒を、
地方へと拡散させることです。ムラシーン自身、未だ地方領主の全
てを抑えているわけではなく、彼に反目している領主も数多く存在
します。例え彼らが決起しなかったとしても、彼らを牽制するため
に、ムラシーンは中央の兵士を、地方へと割かなければいけなくな
るでしょう。もっともどこかのお調子者の地方領主が、何かの拍子
398
に実際に兵を挙げたり、反抗的な態度を見せてくれたら、それこそ
万々歳ですけど、取り敢えずそこまでは期待していません﹂
ユイは淡々と作戦の意図を説明していくと、ビグスビーの表情は
次第に理解の色を浮かべ始め、彼は重く一度頷いた。
﹁ふむ、中央を手薄にさせるということか。確かにそれは悪くない
方法だ。しかし我々の数は、それでもなおムラシーンの操る王国軍
に比べ著しく少ない。それだけでは、不利はまぬがれんと思うのだ
が﹂
﹁ええ、正面からぶつかれば、多少兵士が減ったくらいでは一溜ま
りもないでしょう。ですから、第二段階として市内で政府関係の建
物等を破壊し、騒ぎを引き起こします。そうして、王都内の兵士を
誘導したところで、レジスタンスの有する限りの人員を王宮へと突
入させます﹂
ユイがそこで言葉を切ると、マルフェスが一度大きく息を吐き、
ユイに向かって確認するように、問いを口にした。
﹁⋮⋮話は分かった。そのために例の通路を使うのもだ。俺達だっ
て、いざという時は、カイラ様の許可を頂いて、例の通路から逆侵
攻することは検討していたんだ。ただそれがうまく行ったとしても、
王宮内には近衛を含む多数の警備兵が常駐している。元近衛兵長の
私が言うのもなんだが、彼らは最近ムラシーンが集めたゴロツキど
もとはわけが違う。敵を分散するという君の策がうまくいったとし
ても、彼らをどうするんだい?﹂
﹁そうですね、仰るとおりそこが最後の難関となるわけです。そこ
で彼らを出来る限り無力化したいわけですが⋮⋮では、近衛兵長だ
った貴方に訪ねますが、近衛と言う部隊は、もし国王陛下と宰相が
対立した時にどちらに味方しますか?﹂
マルフェスはその問いに対して、顎髭をなでながら少し考え込ん
だ後に、口を開いた。
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﹁そりゃあ⋮⋮わかんねえな。もともと近衛は国王陛下の直属で、
他の部隊に比べれば、はるかに陛下を慕ってる者が多いのは事実だ。
ただムラシーンがこれだけ幅を利かせていれば、ムラシーンに付く
ヤツもいないとはいえねえが⋮⋮ははぁ、王子を前面に出して、近
衛を味方につける気か。確かに陛下に比べりゃ弱いが、こちらにつ
いてくれる奴も、中にはいるかもしれないな。なるほど、多少リス
クのある案だが、それもありか﹂
かなりの自信を持って答えたマルフェスであったが、隣に座る男
はあっさりと首を左右に振り、彼の予想を否定した。
﹁いいえ、そんな不確実な方法は取りませんよ。では具体的な作戦
案を説明しましょう。おっとその前に、一つ皆さんに尋ねておきた
いことがあります﹂
ユイの突然の問いかけに、その場に居た三人は怪訝な表情を浮か
べたが、年長者であるビグスビーがユイに向かって先を促す。
﹁何かね? 言ってみたまえ﹂
﹁ありがとうございます。ではお言葉に甘えて尋ねさせて頂きます
が、二年前に国王陛下が倒れられた正確な場所と日付を教えてもら
えませんか?﹂
頭を掻きながら、会話の流れとまるで関係のないユイの質問に対
して、三人は訝しげな表情を浮かべながら、思わず顔を見合わせた。
400
反攻作戦
王都でクラリス大使館の全焼事件が起こってから十二日あまりが
過ぎ、事件の騒動も少し落ち着きを見せ始めたある日の昼下がり、
ムラシーンはいつもの様に口数少なく執務に取り組んでいた。
そんな彼の元へ、治安警備部のジーセン部隊長が予定にない報告
を行うため、彼の執務室を急遽訪れる事となった。
﹁隊長、どうしたのかね? 今日は君から報告を受け取る予定はな
かったはずだが﹂
﹁申し訳ありません。本来でしたら、お約束を取り付けてから、ご
報告の時間を割いて頂くところですが、事が事だけに⋮⋮﹂
ムラシーンが、予定外の訪問者の来訪を嫌うことは有名であり、
ジーセンも彼の冷たい眼差しに、やや弱々しい口調となっていた。
﹁ふむ、一体なんだ? 時間は有限なんだ、簡潔に説明し給え﹂
﹁じ、実は各地の地方領主に決起を促すこのような封書が⋮⋮﹂
額に汗を浮かべながら、ジーセンはそれだけを告げると、持参し
た手紙をムラシーンへと手渡す。するとムラシーンはジーセンをひ
と睨みした上で、手紙へと視線を落とし、その内容に目を通して行
った。そうして一通り内容を確認したところで、彼は視線を手紙の
文面に固定したまま、ジーセンへと問いかける。
﹁隊長、これは本物なのかね?﹂
﹁はい、レクターン領のヒルムス領主より届けられましたので、こ
の手紙自体が本物であることは間違いないかと思われます﹂
ムラシーン派の一人であり、地方領主を務めているジーセンと親
しいレクターンが彼に対して、わざわざこのような手の込んだ嘘を
401
付くとは思えず、ジーセンはこの手紙が偽物であるとは考えていな
かった。
﹁やはり王子のやつ生きておったのだな⋮⋮奴だけいつの間にか私
の監視下から逃れ、拘束することができなかったが、レジスタンス
が奴を匿っておったのか。いや、案外奴こそが、レジスタンスを作
り上げたのかもしれんな﹂
国王と似て、当時の王宮内の誰もから好かれていた第一王子の横
顔を脳内に浮かび上がらせると、ムラシーンは憎々しげな表情を浮
かべ、そう口にした。
﹁ですがムラシーン様。王子の名を、レジスタンスの連中が勝手に
使っているだけかもしれません。あんなお人好しの王子に、レジス
タンスを作り指導することなど、とてもできるとは思えないのです
が﹂
ジーセンがそう王子を批評すると、ムラシーンは顎に手を当て、
王子の人柄を思い起こす。しかし、王子の後ろにいるであろう、か
つて外務大臣をしていた男の顔が脳裏をよぎると、やや忌々しげな
表情を浮かべた。
﹁⋮⋮だがビグスビー辺りが協力していたとすれば、十分に可能性
はありえるだろう。国王派だった奴も、いつの間にか姿をくらまし
ているからな。しかし今はそんなことはどうでも良い。問題はこの
ような手紙が存在し、それが地方の領主へ届けられたということだ。
奴らの中には、依然私に協力的な態度を示さない者も存在する。そ
んな連中がこの内容に反応したらめんどうなことになるな﹂
﹁如何なされますか?﹂
ジーセンの問いかけに、ムラシーンはやや悩むそぶりを見せる。
僅かな逡巡の後に、彼は決断を下すと、途端に表情を引き締めた。
402
﹁とりあえず、地方領主の中で私に普段から反抗的なものをリスト
アップし、そ奴らの領地の近くに、演習の名目で軍を派遣しろ。そ
れをみれば、奴らもバカな真似はせんだろう﹂
﹁軍でもって、先制の警告を行うということですね。なるほど﹂
ジーセンがすかさず相槌を打つと、ムラシーンは大きく一度頷き、
厳しげな表情の中にわずかな笑みの成分を含ませる。
﹁ふふ、実際に反乱を疑わすような動きを見せたものは見せしめに、
その領主を叩き潰しても良いな。他の領主たちに対して良い警告と
なるだろう﹂
﹁わかりました、至急そのように手配いたします﹂
ムラシーンの描こうとする絵を、ジーセンは理解すると、彼も思
わず口角を緩める。
﹁まあ、これを機に、うまくレジスタンスの連中をヤブから突き出
すことが出来れば、一石二鳥というものだな。しかし隊長、この手
紙の内容は情けないと思わんかね。もしこの手紙を書いたのが王子
本人だとしたら、地方領主に頼らなければ、かつての家臣一人さえ
排除することができないとは、そんな王家の者など滑稽としか言え
んよ﹂
﹁全くですな。ラインドル王朝も天命が尽きたということでしょう。
では、小官は早速軍の配備へと向かいますので、これにて失礼いた
します﹂
ジーセンはムラシーンの意を受け、すぐさま行動に移すために部
屋を飛び出していく。そして部屋にはムラシーンがただ一人残され
ると、彼は再び机の上の書類へと視線を落とし、執務を再開した。
403
﹁ユイさん、これが現在集められるだけ集めた、レジスタンスの全
員です﹂
レジスタンスの基地の前には、彼らのうち戦闘参加が可能な全員
が招集され、基地前の広場には所狭しと、各々が準備を進めていた。
﹁非戦闘員を除いて、だいたい三百人ちょっとと言ったところかな﹂
﹁すいません、出来る限り戦闘に参加できるものは集めたのですが、
これだけの数しか⋮⋮﹂
カイルはユイに対し、人員の不足を詫びた。ムラシーンが操るで
あろう全軍は、総数二万人規模であり、いくら彼らの戦力を分断さ
せたとしても、その戦力差は圧倒的であった。
﹁いや、カイルが謝ることじゃないさ。それに大事なことは、限ら
れた戦場を設定した場合、そこにそのタイミングで、どれだけの人
員を動員できるかということさ。普通に考えれば、数が多い方が有
利なのは当然だが、今回は王城内という限定された空間を、極短時
間だけ戦場に設定する。その場合、お互いの人員差はかなりの部分
が無視出来ると考えていい。そうなった場合、最後にモノを言うの
は、兵一人一人の士気と練度さ﹂
戦端を開くタイミングと、戦場を規定できることの優位性は、先
日の会議の際もユイはカイルたちに説明したが、この場で改めて強
調する。するとその言葉を受けて、カイルは緊張で硬くなっていた
表情をわずかに和らげた。
﹁ありがとうございます。ユイさんにそう言ってもらえると、本当
に勝てるような気がして来ました﹂
﹁気がするじゃなくて、必ず勝つさ。そう思ってなきゃ駄目だ。大
将が弱気なら、他の兵士にも波及するからね﹂
ユイが自分でも似合わないセリフを吐いているなと思いながら、
404
若き指導者に向かってそう檄を飛ばす。すると、ユイの後方に控え
ていたクレイリーがその発言に思わず吹き出してしまう。
﹁ははは、旦那がそれを言いますかね。だったら旦那のやる気の無
さも、あっしたちに感染ってしまいやすから、あっしら皆、ダメ人
間になってしまいやせんかね﹂
﹁おいおい、私ほど勤勉な男はいないだろ。こうやって若き友人を
手伝うために、戦場に立とうとしているんだ。それのどこが勤勉じ
ゃないというんだい?﹂
ユイは両手を広げながら、そう抗弁したが、クレイリーはその仕
草を見て首を左右に振ると、周囲の兵達に聞こえない声で、そっと
呟いた。
﹁そりゃあ、今回の旦那の役回りでしょ﹂
﹁そうかい。私は十分な仕事を受け持ったつもりだけどね﹂
ユイは頭を掻きながら、クレイリーにそう反論する。そして話が
それたと思い、慌ててカイルの方へと向き直ると、彼は嬉しそうな
笑みを浮かべ、ブツブツと呟いていた。
﹁友達。ユイさんが僕の友達⋮⋮僕、僕、絶対にこの戦いに勝ちま
す!﹂
パッと顔を明るくさせて、カイルがユイに向かって満面の笑みを
浮かべると、ユイはその勢いに押され、やや後ずさりながら苦笑い
を浮かべ、返事をした。
﹁あ、ああ⋮⋮では手はず通り、レジスタンスの指揮をお願いする。
日が落ち次第、夜の闇に紛れて城内に侵入し、まっすぐにムラシー
ンの元へと突入するんだ﹂
﹁わかりました!﹂
カイルの元気の良い返事に、本当は指導者は君なんだけどと思い
405
ながら、ユイは頭を掻く。そして、ふと大事なことを再確認しなけ
ればと思い出すと、すぐにカイルに向けて口を開いた。
﹁それとだな、もしクラリス式の魔法を操る魔法士が、前に出て来
た場合なんだが⋮⋮﹂
﹁わかっています、できる限りユイさんの部下に任してくれってこ
とですよね﹂
カイルが、ユイの背後に控えるクレイリーやナーニャたちに視線
を向けて、一度頷く。
﹁ああ、無理な頼みだと思うが、可能な限り善処してくれると助か
る。そのために、こいつらの指揮権も預けるから﹂
﹁しかし旦那。例の助っ人が、まだ到着していませんが⋮⋮﹂
クレイリーがやや心配気にそう口にすると、ユイは説明していな
かったことを思い出し、気まず気な表情で口を開いた。
﹁ん? ああ、あいつらな。えっと、あいつらには王都の撹乱作業
を最初に行なってもらうため、既にセーブル内に潜入してもらって
るんだ。予定では、街の中で騒ぎを起こして、王宮内の衛兵を釣り
だした後に、お前たちに合流して貰う予定だから、そのつもりでい
てくれ﹂
﹁⋮⋮はぁ、わかりやした。では、手筈通りに﹂
クレイリーはそう返事すると、早速ナーニャたちと打ち合わせを
開始する。その行動を確認したユイは出陣する兵士たちの元を離れ
ると、基地の近くで今回帰りを待つことになるリナとノアの元へと
足を進めた。
﹁ノア、リナのことを頼むよ﹂
﹁はい、任せてください。でも本当にいいんですか、私で⋮⋮﹂
そう口にして、ノアはわずかに表情を翳らせながら、不安そうに
406
ユイに問いかける。その姿に、ユイは昨日のことを思い出すと頭を
二度掻いた。
﹁閣下、お話があります﹂
レジスタンスから療養用の意味も兼ねて、ユイに与えられていた
個室の扉がノックされたのは、もう空が夕暮れに差し掛かる頃であ
った。
﹁ああ、開いているよ。どうぞ﹂
室内の机で、翌日の作戦の最終確認を行なっていたユイは、ノア
の声を耳にすると、彼女の入室を許可した。
﹁お忙しいところ、急にお訪ねして申し訳ありません﹂
ノアは部屋へ入室するなり、ユイに向けてそう謝ると頭を下げた。
その緊張感の漂う姿と訪問のタイミングから、訪室の理由をユイは
ある程度理解した。そのため、彼女に部屋のドアにカギをかけるよ
う指示し、その上で、手近な椅子へと腰掛けるよう彼女に勧めた。
﹁それで、君みたいな美人さんを部屋に迎えられるのは歓迎だけど、
一体私になんの用かな?﹂
﹁実は閣下に話しておきたいことが⋮⋮﹂
ユイに促され、口を開いたノアであったが、そこで次の句を継げ
なくなってしまう。そんな彼女の姿を見てユイは、頭を一度掻くと、
優しい口調で彼女に語りかけた。
﹁過ぎたことを謝りに来たのなら、必要ないよ。君にどういう事情
があったかはわからないけど、進んで彼らに与していたとは思えな
いからね﹂
407
﹁⋮⋮御存知だったのですね﹂
ユイの能力からいって、既に看破されている可能性を考えていた
ノアは、その一言に肩を落としながらそう呟いた。
﹁さすがにラインドルの連中の対応が早すぎたかな。昼間の街での
小競り合いの報告が上がってからにしてはね。私の立場のこともあ
るし、曖昧な情報ではあんなに素早く軍を動かすことはできないさ。
つまりある程度の正確な情報、それもレジスタンスとともに行動し
ているという、即断するに足る内部情報が、彼らに伝わりでもしな
い限りはね﹂
ユイが理由を告げると、ノアは更に縮こまるように俯いてしまっ
た。
﹁申し訳ありません﹂
﹁⋮⋮それで、どうして私に真実を告げようという気になったんだ
い?﹂
その問いかけを受けて、ノアは体をビクッと震わせると、小さな
声で少しずつ語りはじめた。
﹁私には妹がいるんです。小さい頃から私をずっと慕ってくれてい
る、笑顔の絶えない子でした。二年前に急な病で臥せるようになる
までは、ですが⋮⋮﹂
ノアは、病気の妹がいること、その妹を治療するのには莫大な費
用がかかること、そして最終的にはその経済的な弱みを理由に、ラ
インドルのスパイ網の一端として、いいように使われるようになっ
てしまったことなどをユイに話した。ユイはノアの話を優しく頷き
ながら、最後まで聞いた。
﹁⋮⋮そっか。うん、だいたい話はわかったよ⋮⋮それでこれから
408
どうしたい?﹂
﹁これから?﹂
ユイの言葉の意味を理解できず、ノアはオウム返しのようにその
まま聞き返す。
﹁うん、これから。君はまだ仕事を辞める訳にはいかないだろ。妹
さんのことがある限りはね﹂
穏やかな表情を浮かべながら、ユイはゆっくりと彼女に向けて問
いかけると、ノアは驚きの表情を浮かべ戸惑いをみせた。
﹁それは、そうですが。でも、今日は閣下に裁いていただくつもり
で、ここに参りました。そんな温情をかけていただくわけには⋮⋮﹂
﹁はは、私は美人のお嬢さんには弱くてね。それに私は誰も彼も幸
せにできるなどと考えてはいないけど、せめて私に関わる人には不
幸になってほしくない。それが君であれ、君の妹さんであれね﹂
﹁でも、私は⋮⋮﹂
ユイの意図を察したノアは、気まず気な様子を見せながら、二の
句を告げなくなる。そんな彼女に向けて、ユイは諭すように彼女に
向けて語りかけた。
﹁基本的に現状を評価した場合さ、過程はともかく、結果だけを見
ればさ、ほとんど君が行ったことは、私の現段階における行動予定
に影響を与えていないんだ。もちろん全く気にしなくていいとは言
わないけど、私は結果にしか興味が無いからね。だから君がこれか
ら私たちに協力してくれるつもりがあるなら、そうしてくれるだけ
でいいさ﹂
ユイはそれだけを言い切ると、彼女に向けて穏やかな笑みを浮か
べる。その表情を見て、ノアはほんの少し表情を緩ませながら、涙
を流すと、少し拗ねたような口調で、ユイに向かって口を開いた。
409
﹁閣下⋮⋮閣下は甘いです﹂
﹁ん? 私は成果主義者なだけだよ。もし君が今後、私に関わる誰
かを不幸にさせるようなことをするなら、その時は容赦なく切り捨
てるからそのつもりでいてくれ。それだけ理解してくれたら、下が
ってくれていい﹂
その言葉を聞いたノアは、わずかにその場で逡巡をみせたが、や
がて涙を拭いて一礼すると、ほんの少しだけ穏やかな表情を浮かべ、
彼の部屋を出て行った。
﹁今の子が、例のスパイかい?﹂
﹁ああ、なかなか良い子そうだろ。クレハが既に背後関係を洗って
いるから、彼女は白だよ﹂
ユイは彼の後方の衝立から発せられた声に、やれやれとばかりに
返答する。
﹁しかし本当に君は甘いよ。例え、金銭で脅された者とはいえ、敵
の手の内にあったものを早々信用するなんて。僕は首を刎ねておく
べきだと思うけどね﹂
そう言いながら、赤髪の男はユイの背後から、前面へと回りこむ
と、先程までノアの座っていた椅子に足を組んで腰掛けた。
﹁おいおい、アレックス。物騒なこと言うなよ﹂
﹁言っておくけどユイ、僕は本気だよ。クレハ君に君の護衛を頼ま
れた以上、僕は僕なりに君を完全に護衛してみせる。君はもう少し
自分の立場に自覚を持ったほうが良いよ﹂
両手を左右に広げながら、茶化すように誤魔化すユイに対して、
アレックスは、いつもの笑みを表情から消す。
﹁みんなしてそう言うんだからな。お前たち結託しているんじゃな
いか、全く。ともかく護衛は今日限りだ。明日は途中からリュート
410
と前線で働いてもらうつもりだから、そのつもりでいてくれ﹂
﹁ユイ!﹂
真剣の刃にも似た、鋭いアレックスの声に、ユイも初めて表情か
ら笑みを消すと、ほんの僅かに低い声で、彼に対して返答した。
﹁大丈夫さ、私は私にしかできないことをやる。そして君たちには
君たちにしかできないことをやってもらう。それだけのことだよ﹂
ユイはそう告げると、アレックスの殺気も交じるキツネ目から視
線を一切外さない。そして幾ばくかの間、空間が硬直した後に、先
に折れたのはアレックスであった。
﹁⋮⋮わかったよ﹂
アレックスは呆れたような響きを含む声で、そう口にすると、よ
うやくいつもの笑みを表情に張り付かせる。
﹁さて、それじゃあもう少し計画を詰めようか。明日までそんなに
時間もない、やれることは今のうちにやっておかないとね﹂
﹁何時言ったことか忘れたけど、君に話したとおり私は成果主義者
だからさ、結果にしか興味ないんだ。こんなに彼女に合う服を見繕
ってくれた君なら、リナのことを他の誰よりも信頼して任せること
ができると思う。だから君を選んだ、それだけさ﹂
白く可愛らしいワンピースに身を包んだリナを横目で見ながら、
ユイは昨日の会話を脳裏に浮かべ、ノアにそう告げた。
﹁閣下⋮⋮分かりました、お任せください。それと御武運をお祈り
411
申し上げます﹂
﹁ありがとう。それとリナ、しばらくお別れだけど、ノアの言うこ
とを聞いて、いい子にしているんだよ﹂
ユイはリナの目線まで屈み、彼女の頭を撫でながらそう言い聞か
せると、リナは大きく一度頷いた。
﹁うん。おじちゃん、必ず帰ってきてね﹂
﹁ああ。それじゃあ行ってくるからね﹂
ユイはリナに向けて、笑みを浮かべ直した後に、彼女たちの元を
離れ、再びレジスタンスたちの元へと歩み出す。
﹁⋮⋮はは、しかし成果主義者か。我ながら全く私に似合わない言
葉だね﹂
彼は苦笑いを浮かべながら、独り言のようにそう呟くと、表情を
引き締め直し、これからの戦いに向けて気持ちを入れ替えた。
412
罠
地方演習の名目で各地の領主を監視下に置くために、ラインドル
王国軍の大半を送り出したジーセンは、その夜、行うべき対策を終
えた満足感からか、王宮内の仮眠室にて深い眠りへとついていた。
そんな彼を眠りの淵から呼び起こしたのは、顔を真っ青ににさせて
彼の部屋へと飛び込んできた副長の姿であった。
﹁隊長! た、大変です!﹂
副長は口をパクパクさせながら、なんとかそうジーセンに告げる
と、ジーセンは眠い目をこすりながら、彼に向かって問いかけた。
﹁一体何があったと言うんだ? そろそろ国王陛下でもお亡くなり
になったか﹂
﹁そんなことを言っている場合ではありません。セーブルが、セー
ブルが火の海です!﹂
﹁な、なんだと!﹂
ジーセンはその報告を受けるなり、寝間着のまま手近な窓へとか
け出すと、勢い良く窓を開け放つ。すると市内の各所から真っ赤な
炎が、煌々と夜の街を明るく照らし出し、焦げ臭い匂いと煙をまき
散らしていた。
﹁一体どういうことだ、なにがあった?﹂
﹁分かりません、先ほどから、急に市内の各所に火の手が上がりま
して。しかも燃えているのはなぜかムラシーン様直轄の建物ばかり
です﹂
副長の報告を受けると、ジーセンはとたんに眠気が吹き飛び、脳
内が思考を再開し始める。そしてすぐに一つの答えに行き着くと、
413
副長を怒鳴りつけた
﹁馬鹿者! だとしたら原因は明らかだろ。明らかに意図的な放火
に決まっておる、くそ、レジスタンスの仕業か!﹂
﹁や、奴らがですか?﹂
﹁ああ、レジスタンスのクズどもだ。おそらく奴らは、王国軍が半
減したこの機を狙って、テロ行為を行っているに違いない。ん、待
てよ、タイミングが良すぎる⋮⋮おい、火事に対し、どう対処して
いるんだ?﹂
ジーセンは副長を睨みつけながら、対応を問いただすと、彼は報
告すべきことを脳内で整理し、ジーセンに告げた。
﹁はっ、取り敢えず駐在軍が半分おりませんので、第一、第二連隊
を中心に、宮廷魔法士部隊も市内各所の封鎖と鎮火に出向いている
ところです﹂
その返答に、現在が危機敵状況の可能性が頭をよぎりジーセンは
急に顔を青くする。
﹁くそ、それこそが奴らの狙いだ! 今の王宮にはどれだけの兵が
残っている?﹂
﹁近衛部隊と、ムラシーン様直轄の魔法士隊ですが⋮⋮﹂
ジーセンの動揺と質問の意図がわからない副長は、やや不安げに
回答を行う。
﹁まずい、まずいぞ。奴らの狙いは我々を分散させることだ。きっ
と今にもこの王宮に︱︱﹂
ジーセンがそう言い出したタイミングで、突然王宮内に途方も無
い爆発音が響き渡る!
﹁な、何事でしょうか?﹂
414
﹁おそらく奴らの襲撃だ。いかん、すぐ近衛を集めろ。ムラシーン
様が危ない!﹂
街に火の手が上がり始め、王宮内の兵士の半数以上が、鎮火のた
めに出て行ったことを確認すると、レジスタンスの面々は王宮の東
に備え付けられていた枯れ井戸から、次から次へと王宮内の庭へと
侵入を果たす。そして彼らが最初に取った行動は、南の正門へと向
かい、王宮周りの堀に掛けられたメインの通行橋となる石橋を破壊
することであった。
﹁ナーニャさん! お願い出来ますか?﹂
﹁あいよ。砕けな、ビブラシオン!﹂
ナーニャが振動破壊呪文を唱え、その石橋の繋ぎ目を破壊すること
で橋を落とすと、カイルはまず一つ目の成功に安堵した。
﹁これで多少は時間が稼げるはずです。裏側にも通用橋があります
が、少なくとも後背からの追撃はこれで防げるでしょう﹂
﹁あの、こんなにあっさりと破壊していいんでやすか? 今後のこ
とを考えると、ここまで派手にやらなくてもいいと思いやすが⋮⋮﹂
クレイリーは、なんの遠慮もなく、カイルの生家でもある王宮の
橋をなんのためらいもなく破壊する姿に、あの男の悪影響を疑い、
一応確認する。
﹁構いません。どの道この戦いに勝たないと、次なんて無いんです。
ですから、せいぜい派手にやりましょう﹂
そう言って、ニコッと笑みを浮かべたカイルの姿を見て、クレイ
リーは間違いなくあの男に影響されていることを感じ取り、僅かに
415
顔を引き攣らせた。
﹁クレイリー、うだうだ言ってる暇はないよ。あれだけ派手に叩き
壊したんだ、すぐに近衛の連中が駆けつけてくる。さっさと王宮内
に攻め入るよ!﹂
橋を爆破した張本人は、大魔法を使った影響で、やや肩で息はし
ているものの、破壊活動の満足感のためか愉悦の表情でそう告げる。
そして息が整い次第、さらなる戦闘を求めて、レジスタンスの先陣
に立つため、クレイリーたちを置いてその場を駆け出した。
﹁はぁ、旦那がいないと手綱を握る人間が⋮⋮まぁ、居たとしても、
止められるとは限らないわけですがね﹂
クレイリーはハゲ頭に手をやりながら諦めの表情を浮かべると、
一度ため息を吐いた後に、カイルやナーニャを追うように、カイン
スを引き連れて駆け出す。そして王宮内に突入するやいなや、既に
その中では激しい戦闘が繰り広げられていた。
﹁雑魚に構うんじゃない。ただ一人、ただ一人ムラシーンの首さえ
取ればいいんだ。全員、真っ直ぐここを突破しろ!﹂
レジスタンス部隊の中央付近で、マルフェスがそう叫び、部隊を
少しずつ王宮の中枢へ向けて進軍させていく。もちろんラインドル
王家直轄である近衛兵の技量と練度は非常に高く、レジスタンスは
犠牲を出してはいた。しかし突然の事態の為、十分な人数の揃わな
い近衛では、レジスタンスの勢いを押しとどめることは困難であっ
た。
﹁クレイリーさん、こっちです!﹂
少し前方にいたカイルが、クレイリーに向けて声を張り上げると、
クレイリーはひとつ頷き、カイルの元へと近づく。
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﹁それで、ここからどちらに向かうんでやすか?﹂
﹁この王宮は東に王家の居住区があり、北に謁見室や大玉座の間が、
そして西に官僚や大臣などの執務室が配置されています。なので昔
と配置が変わっていないとしたら、ムラシーンの執務室自体は西に
あるはずです﹂
カイルがかつての生家の構造を脳裏に浮かべながら、クレイリー
に説明すると、彼も先日ユイにともなってここを訪れた時の記憶を
蘇らせた。
﹁そういえば、先日旦那に連れられてこの建物に来た時も西館の方
へと案内させられやしたね。だが、目の前の近衛の連中はどうも北
向きの通路を守っているようですが?﹂
﹁ええ、ユイさんが言うには、二つ可能性があるだろうということ
でした。西の執務室にいる可能性と、北の大玉座の間にいる可能性
です。もしムラシーンが事態に早い段階で気づいた場合、おそらく
奴の魔法と魔法部隊を有効に使える、広い場所を迎撃地点として選
ぶというのが、あの人の予想です﹂
クレイリーの疑問に対し、先日の作戦会議でユイが話していた内
容をカイルは説明する。するとクレイリーは、ある可能性を見落と
しているのではないかと思い、確認のため口にした。
﹁しかし奴が逃げる可能性もあるんじゃないですかい?﹂
﹁僕もそう尋ねたんですが、それはないというユイさんの返事でし
た﹂
カイル自身も、なぜそう考えるかを尋ねなかったため、確信がも
てないでいたが、ユイの返答をそのままクレイリーに話す。すると
クレイリーは、旦那の言うことだからと、頭を撫でながら納得した。
﹁⋮⋮まぁ、旦那が言うのならそうなんでしょうが。で、どうしや
す?﹂
417
﹁僕はこの近衛の配置から、北が本命と考えます。ただもう一方に
も保険のために部隊を送り込むべきだと、ユイさんはおっしゃって
いました。ですので、そちらにはレリム率いる魔法兵部隊に向かっ
てもらうつもりです﹂
クレイリーはその発言を聞いて当初は怪訝そうな表情を浮かべた。
それは、総力戦となった場合、数的不利なレジスタンスの少ない兵
力を、なんのために分散させるわからなかったためであった。しか
し、発案者のユイの思考を彼なりにトレースすると、とたんに彼の
疑問は氷結し、思考をすぐに切り替える。そうして彼は気持ちを切
り替えると、眼前の交戦中の敵に視線を向け、自分たちのできるこ
とを始めることにした。
﹁じゃあ、オイラたちも手伝いやすか。カインス!﹂
﹁へぇ、任してください﹂
カインスはそう返事するなり弓を構えると、次々と矢を放ってい
く。その矢は味方の動きを予測した上で、彼らの隙間をかいくぐり
ながら、敵の前線の兵士を次々と射止めていった。室内でありなが
ら、その凶悪なまでの矢の正確さに、前線の近衛兵は恐怖し、前線
は狂乱状態となっていった。
﹁今だ、一気に突き崩せ!﹂
マルフェスの鼓舞に、レジスタンスの面々は突撃という形で答え
ると、次第に前線のラインを押し上げていき、戦場は次第に王宮の
北へ北へと移行していく。そうして、大玉座の間へと続く狭い廊下
を、勢いで圧倒するレジスタンスが占拠し、彼らは大玉座の間の前
で、厳重な守備網を形成する近衛の本体と対峙することになった。
﹁さて、これだけここが固められているということは、そういうこ
とだな﹂
﹁ええ、おそらくここに奴が居るんでしょう﹂
418
カイルはマルフェスの言葉に賛同を示すと、周囲の兵士たちはさ
らに士気を高めていく。そうしたレジスタンスに対して、対峙する
近衛たちは彼らを憎々しげに見やると、指揮を預かるジーセンは、
怒号を発した。
﹁かつての我が軍の者達とはいえ、あんな寄せ集めどもに良いよう
にやらせてなるものか。宮殿内に分散している、警備の近衛が集ま
れば、我々のほうが数の上でも優勢だ。そして、市内に出た兵たち
が戻れば我々の勝利は約束されている。良いか、絶対ここを死守す
るのだ!﹂
ジーセンの言葉に、やや押し込まれ気味であった近衛兵たちは、
士気を取り戻すと、それぞれ武器を構え直し、レジスタンスの兵士
を睨みつける。そのお見合い状態となった、一触即発の空気に火を
つけたのは、当然のごとくナーニャの一撃であった。
﹁あんたたち、まどろっこしいことしてないで、さっさとそこをど
きな。フレイムショット!﹂
そのナーニャの炎の弾丸が引き金となり、両軍の戦闘がたちまち
再開する。その激闘は、当初は勢いにまさるレジスタンスがはっき
りと優勢であり、大玉座の間の目の前まで先陣は近づくに至った。
しかし王宮内の近衛兵が、警備していた各部署から続々と集結し始
めると、ゆるやかに戦況は変化を始める。
﹁まずいでやすよ。あっしらはこれでほぼ全軍ですが、敵は違う。
このまま続けばいずれ疲弊し、飲み込まれやす﹂
﹁わかっています、僕達に道はひとつしかない。さあ覚悟を決めま
しょう。マルフェス!﹂
﹁ええ、やるしか無いですね。お前ら、覚悟を決めろ。ただ一人、
ムラシーンの首をとることだけに集中するんだ。これより前線の敵
を強行突破する!﹂
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マルフェスのその声に、前線の兵士たちは決死の覚悟を決めると、
命を投げ出す覚悟で前面の兵士へと突撃し始める。
﹁カインス!﹂
﹁わかっています﹂
クレイリーの声にカインスは短く答えると、マルフェスたちをを
アシストするため、残り有るだけの矢を全て使い尽くす勢いで連続
して放っていく。そして最後の一矢になったところで、彼はすべて
の神経を研ぎ澄ませる。そして自分の指先を越えて、矢の先まで神
経がつながっている感覚を体が感じた瞬間、敵の一点に集中し、そ
れを解き放った。
﹁な⋮⋮﹂
カインスが解き放った矢は、マルフェスの顔のわずか横を、すり
抜ける形で通り過ぎると、次の瞬間にはジーセンの眉間に深々と突
き刺さっていた。
﹁よし、このまま大玉座を占拠する!﹂
指揮官を失い、動揺を隠せない前面の近衛たちを前にして、マル
フェスは高らかと宣言すると、彼らは津波のように近衛たちを押し
こみ、そして大玉座の間へと通じる扉を蹴破った。そうして入り口
が開かれた瞬間、雪崩れ込むかのようにレジスタンスの面々は中へ
と踏み込んでいく。
﹁ムラシーン覚̶̶﹂
兵士たちの誰からともなく発せられようとしたその雄叫びは、次
の瞬間に側面から彼の喉が貫かれたため、虚しく霧散する。大玉座
の間に踏み込んだ彼らを待っていたものは、部屋中の全面から一斉
に解き放たれる氷の矢であった。
420
﹁﹁アイスランス!﹂﹂
次の瞬間、再び巨大な氷の矢が部屋内の各所からレジスタンス目
がけて放たれると、彼らの前線はとたんに瓦解した。
﹁まずい、このままでは⋮⋮ナーニャ!﹂
﹁分かってるよ。クソ、振動破壊なんか使うんじゃなかった⋮⋮そ
れに防御魔法って苦手なんだよ。マッドウォール!﹂
ナーニャは残る魔力を振り絞りながら、なんとか小規模な土壁を
前面に構築したが、室内の各所から放たれる氷の矢を防ぎ切ること
は絶望的であり、レジスタンスは次々とその場に倒れていく。そし
て彼らから遠く離れた玉座に座る男が、呪文を編み上げ始めた瞬間、
その魔力の膨大さに、レジスタンスの兵士たちは敗北を悟った。
﹁ここまでご苦労。だが、最後の詰めが甘かったようだな。カラン
バノ!﹂
勝利を確信したためか、王のために用意された、絢爛な玉座に座
る男の声が、部屋中に響き渡る。そしてその声と共に、レジスタン
スの兵士たちの頭上に、無数の巨大な氷柱が生み出される。
﹁くそ、ここまで来たのに。父さん、ごめん﹂
カイルが天井を見上げ、その絶望的な光景に諦めから目を閉じる。
すると、その場に彼を叱り飛ばす声が響いた。
﹁諦めるな! あいつと一緒に居たことがあるなら、奴の往生際の
悪さを少しは見習うべきだろ。ファイヤーストーム!﹂
後方から部屋の中へと飛び込んできた銀髪の男が、その呪文を唱
えた瞬間、落下してきた無数の氷柱は炎の嵐により一気に融解し、
完全に霧散した。
﹁だ、誰ですか、貴方は?﹂
421
カイルは突然の事態に動揺し、先ほど自分に声を掛けた銀髪の男
にそう問いかける。しかしその問いに答えたのは、その厳しい表情
をした男ではなく、彼のあとに続いて入ってきた赤髪の男であった。
﹁ふふ、助っ人ですよ。ユイから聞いていませんか? 魔法士の相
手は私たちに任せろってね﹂
そう口にした男は、キツネ目をさらに細めながら笑みを浮かべる
と、カイルの肩をポンと叩いた。
422
陛下
﹁一体お前たちはどこの手の者だ?﹂
必勝の確信を持っていた自らの魔法を消し飛ばされたムラシーン
は、奇妙なその二人組に対して、苛立ちを隠せずそう問いただす。
﹁はは、僕達ですか。お分かりだと思いますが、やる気のない上司
がいる国のものですよ﹂
アレックスはムラシーンにそう返答すると、口角を釣り上げた。
﹁国⋮⋮だと? まさかクラリスの侵攻か!﹂
﹁はは、そんな無粋な真似はしませんよ。単純に困った上司に呼び
出されただけです。だいたい貴方ごときを叩き潰すのに、わざわざ
国を挙げる必要がありますか?﹂
小馬鹿にしたようなアレックスの口調に、ムラシーンは怒りを募
らせる。
﹁ふん、貴様らは近衛と私たちによって包囲されているのだ。たか
が二匹ほど虫が増えた程度で、調子に乗るとは笑わせる﹂
﹁包囲? 僕たちをですか?﹂
アレックスはムラシーンの言動を嘲笑するようにそう口にすると、
隣のリュートの方を見やった。
﹁おい、あの俗物が何か勘違いしてるようだから、そろそろ現実を
教えてやれ、ユイ﹂
リュートは冷笑しながら、彼らを呼び出した当人の名前を口に出
す。すると近衛が密集して固めていたはずの入り口から、ややくた
びれた初老の男に肩を貸しつつ、作戦の発案者が悠々と歩み寄って
423
きた。
﹁いやぁ、ごめんごめん。ちょっと予定より時間がかかっちゃって、
遅くなったかな。あ、お久しぶりですね、宰相殿﹂
﹁⋮⋮イスターツか。やはり貴様が今回の絵を描いたということか。
しかし貴様一人増えた程度で、どうということがある?﹂
苦笑いを浮かべながら空いている左手で頭を掻いている男に対し、
ムラシーンはあざけりの笑みを浮かべながら、そう挑発する。
﹁はは、私一人じゃどうということはないですよ。だけど、私の連
れてきた人が増えると、話は別だと思いますけどね。あれ、宰相閣
下は見覚えないですか?﹂
ユイはそう言って、わざとらしく首を傾げる。すると彼の行動に
疑念を浮かべたのか、ムラシーンはユイの隣に立つ自分で歩くこと
できない男へ視線を移した。
﹁ん、連れてきた人だと? そこの薄汚いジジイがどうし︱︱こ、
国王陛下!﹂
﹁⋮⋮ふふ、久しいのう、ムラシーン﹂
その声の主は、ユイの肩を借りねば歩くこともままならなかった
が、彼の全身から鈍く放たれる威厳は、王者のみが持つことができ
るものであった。そう、ユイに肩を借りて立っている男こそ、この
国の王アルミム・フォン・ラインドルその人であった。予測外の事
態に、惚けたように口をポカンと開けたままのムラシーンを見て、
アルミムはやや満足げに笑みを浮かべる。
﹁へ、陛下。お体は?﹂
﹁ふむ、二年も身動き取れぬよう寝転がされておれば、ジジイにも
なるじゃろうから、良いとは言えんがの。そうそう、貴様に掛けら
れた呪術は、先ほどこの男に解いてもらったよ。なかなかうまくや
424
ったようじゃが、もう少し早くわしの息の根を止めるべきじゃった
な。聞けば、王宮内もほぼ掌握しておったようであるし、慎重にこ
とを運んでおったつもりじゃろうが、貴様のその慎重すぎる性格が
裏目に出たな﹂
アルミムは、笑みまで浮かべながらムラシーンにそう告げると、
ムラシーンは動揺の極みとなった。
﹁くっ、くそ。イスターツどういうことだ。貴様一体なにをしたの
だ?﹂
﹁なにをって言われても⋮⋮ちょこっと貴方の呪術を解呪しただけ
ですよ﹂
ユイは苦笑いを浮かべて、簡単に答えると、ムラシーンは頬を引
きつらせながら、何とか声を紡ぎ出す。
﹁な、なんだと。馬鹿な、どうやって⋮⋮貴様の術は既に発動して
いる魔法に対しては干渉できないはず⋮⋮そんな馬鹿な﹂
﹁はは、だいぶご丁寧に調べてくれたみたいだね。ワルムからの報
告とこの間の学生君たちの戦闘記録から類推したのかな? さすが
に私の魔法もどきを隠すのもそろそろ限界かな﹂
﹁まぁ、あれだけ派手な事件を起こしていれば当然だろ。さすがに
他にも調べている諜報機関は少なくないさ、ケルムやフィラメント、
あとキスレチン共和国あたりは怪しいな﹂
リュートが帝国や魔法公国そして東の巨大民主国家の名前を挙げ
ると、ユイは大きくため息を吐く。
﹁はぁ、とりあえず今はその辺のことは考えないことにしよう。と
もかく私の魔法もどきだけど、貴方が調べたとおり、私は魔法の発
生点を見なければ、その魔法にアクセス出来ないのは正解だよ。と
いっても、これは私の魔法の性質上仕方ないことなんだけどね。た
だ今回はちょっとズルをさせてもらってね、えっとどこにやったか
425
な⋮⋮あ、あった﹂
そう言って、ユイは苦笑いを浮かべながら懐から一つの手鏡を取
り出すと、ムラシーンはその魔道具を見た瞬間にすべてを悟り、驚
愕とともに両目を見開いた。
﹁そ、それは過去写しの鏡!﹂
﹁そう、貴方の弟子のワルム君が持っていたものだよ。まぁ、いろ
いろあってさ、今は私の手元にあるんだけどね。これを彼が持って
いてくれて助かったよ、これがなかったら陛下にかけられている呪
術の魔法式の発生点と、その構造式は見ることができなかったから
ね﹂
ユイはそう言って、壊れてしまった過去写しの鏡をその場で放り
投げる。過去写しの鏡は一度しか使うことができず、いわゆる消耗
品であったため、使い終わったその鏡は既に価値を有していなかっ
た。
﹁⋮⋮そうか。それを使って、過去の事象発生時の映像を見て、魔
法式を書き換えおったということか﹂
﹁いやぁ、さすがですね。もっとも、貴方が掛けてしまった呪術は
既に完成しているから、後から干渉できないので、実際には貴方の
呪術を上書きする形にはなりましたけど⋮⋮まあ要するに、貴方が
描いた魔法式を元にうちの魔法師に同調を行なってもらい、そこか
らアルミム様の全身に停滞する魔法をハックしたというわけですね﹂
ユイはそこで一度話を切ると、後ろを振り返る。そこにはレイス
の後に続くように、やや恥ずかしげにアンナとエミリーが部屋に入
って来たところであり、彼は彼女らに一度微笑みかけた後に、再び
口を開く。
﹁でも、呪いなんて書き換えるのは初めてだから、構造式を読むの
がかなり面倒だったんですよ⋮⋮しかしあんな構造式は初めて見ま
426
した。陛下の体内の信号を抑制する魔法? 一体どういう仕組みか、
サッパリですよ。消すだけじゃなく、書き足したりしなければなら
なかったら、お手上げだったでしょうね﹂
そう言ってユイは首を左右に振り、一度頭を掻いた。一方、よく
わからない魔法の解説を行うユイに対して、隣に立つアルミムは一
度コホンと咳払いをして話を引き戻すと、ムラシーンに哀れみの視
線を送りながら口を開いた。
﹁⋮⋮宰相、わしは其方を高く買っていたのだがな。このような結
末となるのは非常に残念だ。既に近衛はわしが抑えた。ムラシーン、
観念するんじゃな﹂
﹁くくく、ここまでということか⋮⋮﹂
ムラシーンはアルミムの発言にて、自分の敗北を理解した。しか
し彼は玉座に腰掛けたまま、一切動こうとせず、その場で引き笑い
を続ける。そんな彼に向かって、ユイは降伏を勧告する。
﹁さて既に近衛がアルミム様によって抑えられた以上、現時点で包
囲されているのは貴方です。というわけで、大人しく降伏してくれ
ませんか。ちなみにうちの魔法科の子たちの解放も行ってもらえる
と助かりますが﹂
ユイはそう言って、薬剤と呪術により、モノ言わぬ戦闘マシンと
されてしまった、かつての学生たちを順に見ていく。そして彼が十
二人全員の顔を確認し終わると、ムラシーンがいつの間にか玉座か
ら立ち上がっており、怒りのままに口を開いた。
﹁降伏しろだと? ふざけるな! 私がここまで来るのにどれだけ
苦労したと思う。私の研究を認めないフィラメント公国を出て、は
や二十年。馬鹿な国王に取り行って、周囲を出し抜き、ようやくこ
こまでたどり着いたのだ。これで私を認めなかったフィラメントの
馬鹿どもを見返すだけの魔法国家作りが始められる、そう考えた矢
427
先であったのだぞ。それをイスターツ、貴様は⋮⋮こうなれば我が
夢尽きようとも、貴様たち一人でも多くを我が夢の道連れにしてや
る﹂
ムラシーンは憎悪に満ちた目でユイを睨みつけると、片手を上げ
他の魔法士たちに合図を行った。
﹁なんかどう考えても逆恨みだよね⋮⋮なんでこう、魔法士って感
情的なのかな?﹂
ユイが目の前の事態を見て、弱ったようにそう呟くと、彼の側に
居たリュートとナーニャが抗議の声を上げた。
﹁俺を馬鹿にしているのか、ユイ﹂
﹁あたいのことも馬鹿にしてるのかい?﹂
﹁いや、そういうところが、かんじょ︱︱すいません、嘘です。そ
んな目で見ないでください﹂
二人の視線の圧力にユイは早々と白旗を上げる。そんな三人を見
ていたアレックスが、笑いながらユイに向かって報告した。
﹁さて、剣士の僕としては、ムラシーンが魔法の準備をしているの
で、そんな感情的な話をしている場合じゃないと思うけど﹂
その忠告を受けてユイは、再び表情を引き締め前方を見やると、
まさにムラシーンが魔法を練り上げるために集中を始めた所であっ
た。
﹁助かった、もとい、まずい状況だな。ならアレックスとリュート
で、学生たちを頼む。連れてきた連中を使ってもいいから、できる
だけ怪我のないようにな﹂
﹁わかったよ、それでユイは?﹂
アレックスが言外に働くよねという意思を乗せてそう尋ねると、
ユイは頭を二回掻いて返答した。
428
﹁仕方ないから、私はあの魔法を使うおじさんの相手をするさ﹂
ユイはそう言って、アルミムをレジスタンスの一人に預けると、
覚悟を決め玉座で待つムラシーンに向けて駆け出した。
429
野望の終焉
﹁あらら、行っちゃったね﹂
ユイがその場を立ち去り、その場に残されたアレックスはやや残
念そうな表情を浮かべた。
﹁お前、あの宰相とやりたかったのか?﹂
﹁そういうわけじゃないけど⋮⋮ほら手加減して戦うってのは、ど
うにもストレスが掛かるものだからさ﹂
アレックスがいつもの笑みを浮かべながらそう口にすると、リュ
ートは大きく息を吐きだし、呆れたように呟いた。
﹁お前というやつは⋮⋮﹂
﹁ふふ、それはそうと、君と背中を合わせて戦うなんて、本当にい
つ以来かな﹂
アレックスが、やや感慨深げにそう口にすると、リュートは一瞬
考えこむ素振りをみせたが、すぐに今の状況を省みて表情を引き締
めた。
﹁さあな、どちらにせよあいつ絡みだったことは間違いないさ。と
にかく無駄口は終わりだ。さっさと終わらせるぞ﹂
﹁そうだね。さて相手は十二人か⋮⋮取り敢えず、僕と君は一人当
たり四人でいいかな?﹂
アレックスが四人を同時に相手どることを、なんでもないことの
ように提案すると、リュートもわかったとばかりに二度頷く。
﹁いいだろう。ならアンナ、エミリー、君たちは右手前の二人を相
手してくれ﹂
430
﹁﹁分かりました!﹂﹂
リュートの声に、二人が真剣な眼差しでそう答えると、アレック
スも後方に控えるレイスへと視線を移す。
﹁ならレイス。えっと、君は左手前の二人を担当ね﹂
﹁えっ、あいつらは二人で二人なのに、俺は一人でふた⋮⋮いや、
はは。な、なんでもないです、師匠﹂
レイスは一瞬抗弁しかけたが、その瞬間アレックスの表情から笑
みが消えたことに気づくと、慌てて口を噤む。そしてすぐさま視線
を外すと、誤魔化すように剣を握り直して、魔法士たちへと向き直
った。
﹁さて、魔法士君たちも準備できたようだし、それでは御相手する
としましょうか﹂
そう言って、アレックスは魔法の準備を整えた魔法士たちに視線
を移すと、彼らに目がけてその場を駈け出した。
﹁スーペルフードル!﹂
アレックスたちの戦いが幕を開ける寸前から、既にムラシーンは
右手でユイへと巨大な稲妻の魔法を放っていた。
それは自分に向かって一気に間合いを詰めてくるユイを牽制する
ためであり、ユイは一つ舌打ちをしながら直角に進行方向を変更し
て、その稲妻の軌道を回避する。
一方、ムラシーンはユイのその反応を予測しており、続けざまに
左手で魔法を構成すると、再びユイの進行方向に向けて稲妻をもう
一筋放った。
431
﹁なるほど、ワルムの使っていた魔法ですね。さすが師匠、彼のも
のより一回り大きいというわけですか﹂
ユイはムラシーンの圧倒的な魔力をその目にし、やや表情から余
裕をなくすと、二筋目の稲妻をぎりぎりのタイミングで斜め後方へ
ステップすることで回避する。しかし息つく暇もなく、そんな彼に
向けて三筋目の稲妻が襲いかかる。
﹁ふん、あんな出来損ないと一緒にしないで欲しいものだな。それ
よりも得意の魔法改変は使わないのかね、イスターツ君?﹂
ムラシーンは事前の調査から、ユイの能力のある限界を予想して
いた。それはおそらく二つ以上の魔法を同時に改変することができ
ないという点である。その調査結果を元に、ムラシーンは間断なく
魔法を放ち続けることで、ユイに魔法改変をさせないという戦略を
とっていた。
﹁もし貴方が魔法を途切れさせてくれるなら、喜んでいつでもお見
せしますがね﹂
ユイはムラシーンの口ぶりと戦術から、自分の魔法改変がひとつ
の魔法にしか及ばないことがバレていることを理解した。彼自身は
帝国との戦いで魔法改変を使ったその日から、いつかこういった日
が来ることを漠然と予測していた。しかしいざ実際の戦闘で、その
欠点を突かれるということは、思っていた以上に、彼に苦労を強い
ていた。
﹁ふふ、君の魔法改変は非常に面白い能力だが、種が割れてしまえ
ば対策の打ち方はいくらでもあるのだよ。そう、このように絶え間
なく魔法を打ち込むだけでも、君は私に近づけまい﹂
﹁⋮⋮これもおそらくワルムからの報告ですか。まったくうちの国
はスパイ天国ですね﹂
ユイが四筋目の稲妻の魔法を躱し、苦笑いを浮かべながらそう口
432
にする。
﹁御名答。君の国に拘留されているといっても、我々の連絡網が途
絶えているわけではない。あんな廃棄物でも、このような役に立つ
こともあるのだから、馬鹿にはできんものだ。それにこんなものも
伝えてくれたしな、ライトニング﹂
その瞬間、フードルに酷似した魔法構成ながらも、より速度の早
いクラリス式の稲妻魔法が解き放たれる。
﹁うちの国の魔法まで⋮⋮ですか。写本は回収したというのに﹂
その可能性を考えていなかったわけではないが、突然の事態にさ
すがのユイも動揺を表情に表す。そしてわずかに反応が遅れたため、
ぎりぎりのところでその眩い稲妻の直撃は免れたものの、右側腹部
をわずかに掠める羽目になった。
﹁ちっ、外れたか。だが、これはどうかな? 自分の国の魔法に焼
かれ死ぬがよい。フレイムアロー!﹂
ムラシーンが続けざまにクラリス式の魔法名を唱えると、彼の眼
前には彼の身長と同程度の炎の矢が生み出される。そしてその矢が
ユイ目がけて射出されると、次の瞬間には同様の炎の矢がムラシー
ンによって瞬時に編み上げられる。
そして連続して生み出され、射出される炎の矢を、ユイは次々と
躱していったが、貧血の後遺症もあり段々と呼吸が荒くなり始めて
いた。そしてその疲労の蓄積とともに、ムラシーンにより射出され
た炎の矢と、回避した際の体の距離が段々とぎりぎりの距離まで近
づき始めていた。
一方、回避一辺倒のユイの姿を見て、当初は余裕の笑みを浮かべ
ていたムラシーンであるが、その回避行動にわずかに違和感を覚え
始めていた。それは自分の放つ魔法以外のことに、ユイの意識の一
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部が割かれているように感じたからである。
その考えがムラシーンの頭に浮かび上がった瞬間、彼はある種の
疑心暗鬼に囚われ始めていた。それは彼の眼前にいる英雄などとも
称される策士が、なにも策を弄する事無く淡々と回避だけを続けて
いく現状に、慎重な彼は不安を覚えたためである。
そんな何か奥歯にものが挟まったような心境のムラシーンが、何
十発目かの炎の矢を解き放つと、ユイはそれを背部にかすらせなが
ら、直撃すること無く回避する。その一連の回避運動を注視してみ
ていたムラシーンは、ついにユイの動作に含まれる、不必要な動き
に気が付いた。
﹁貴様、一体どこを見ている。魔法を躱す度にわずかに視線を動か
しているようだが、なにを企んでいるのか?﹂
﹁企む⋮⋮ですか? いやぁ、なんのことでしょう﹂
そうユイがとぼけて、次の炎の矢を躱したところで、ムラシーン
は決定的な瞬間を目に捉えた。そう、ユイは魔法を躱す際に、必ず
後方での戦闘の一部を視野に収められるような形で、回避運動を行
なっていたのである。
その動きの法則性に気づいた瞬間、ムラシーンはユイの視線に釣
られるように初めて視線を後方の戦闘に移すと、彼の魔法人形たち
が、わずか五名相手に苦戦を続けている光景がその目に写った。そ
してその光景を見るやいなや、ムラシーンの脳裏に一つの仮説が組
み上げられると、ユイの取っていると仮定される策が、彼の脳内に
てひとつの形となっていく。
﹁もしや貴様、最初からただの時間稼ぎが目的か! 他の仲間がわ
が人形どもを排除し、私との戦闘に合流するのを待っているのだな﹂
動揺のあまり一瞬連続させていた魔法を途切れさせて、ムラシー
ンがユイに向かって問いただすと、ユイは荒い呼吸をしながらも、
頭を二度掻いた。
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﹁ふぅ⋮⋮いやぁ、バレちゃいましたか? だって、さっきから貴
方が私との戦闘だけに集中するから、彼らに魔法での指令も送れて
いないようですし、魔力も供給できていないでしょ。主のいない人
形状態の彼らでしたら、所詮新米に毛が生えた程度の魔法士に過ぎ
ません。ならばたとえ人数が少なかろうとも、うちの連中ならすぐ
に彼らを排除してくれるでしょうから﹂
ユイはムラシーンの使用している呪術の特徴を的確に把握してい
た。その最たるものは、ムラシーンが誘拐した学生たちを彼の忠実
な手駒として利用するため、彼らの自由意志を封印していたことで
ある。
この呪術を利用すれば、通常の戦闘時はムラシーンの指示の下で、
彼らはまさに手足のごとく連携を取ることができ、先ほどのレジス
タンス突入時のように、圧倒的な戦闘力を見せつけることができた。
しかし、ムラシーンの指示を前提とした戦闘兵器ということは、彼
の指示が途切れれば、ただの判断力の劣る魔法士の寄せ集めに過ぎ
なかった。
しかもその魔法士としての戦闘能力は、いくら優秀な学生を選別
して誘拐したとは言え、所詮は学生レベルにすぎない。つまりムラ
シーンから供給される魔力の補給と彼の指示がなければ、脅威足り
える要素は皆無に等しかった。
﹁ちっ、所詮は使い捨ての人形か。こうなれば敗北するだけの人形
などいらん、スーサイドボミング!﹂
ムラシーンはあっさりと人形たちの敗北を悟ると、彼らに魔力を
注ぎ込んだ上で、体ごと自爆させる魔法を組み上げ始める。彼は人
形たちを自爆させると同時に、自らは魔法結界を編み上げて回避し、
混乱の中で逃亡することを企てていた。
一方、ムラシーンに敵対する者達のうち、魔法を操ることができ
る者たちは、ムラシーンがその呪文を唱え始めると、彼の操る魔法
435
士たちの魔力が急速に収束しだしたことに気が付く。そしてその魔
力の変調は、各国で禁呪指定されている自爆魔法の発動前と、ほぼ
同じ前兆であると感じ取り恐怖の表情を浮かべた。
かつて魔法学の指導を受けたこともあるカイルもその一人であり、
ムラシーンの唱えようとする魔法の被害を予測すると、レジスタン
スと近衛の皆をその場から逃がそうと、慌てて退避を指示する声を
張り上げる。
そうして誰もが恐怖に包まれる事態を前に、その場でただ一人、
会心の笑みを浮かべる男がいた。
﹁そう、このタイミングを待っていたんです! マジックコードア
クセス﹂
﹁なに!﹂
ムラシーンは自らが編みあげた魔法が急速に侵食されていき、全
くの別の構造式へと変化していく感覚に、全身を身震いさせる。そ
して次の瞬間には、その再構成された魔法式の内容が彼の目に入る
と、思わず目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。
﹁クラック!﹂
その呪文をユイが唱えた瞬間、ムラシーンによって操られていた
十二人の学生たちは、急速に瞳に理性の色を灯すと、一瞬の間の後
にその場に崩れ落ちた。
﹁いいかげん演技も終わりかな?﹂
﹁ふぅ、本当にあいつは手の込んだことをさせる﹂
目の前で対峙する学生たちが、一瞬正気に戻り、その場に崩れ落
436
ちたことを確認すると、リュートはようやく安堵のため息を吐いた。
﹁まあ、いいじゃないか。僕は久しぶりの実戦に近い感覚で、剣を
振るうことができて楽しかったよ﹂
﹁お前は、全く⋮⋮﹂
リュートが剣術バカにつける薬はないとばかりに両手を左右に広
げると、アレックスは軽い苦笑いを浮かべ、先ほどまで奮戦してい
た新人たちに視線を向ける。
﹁ところで君の教え子たちだけど、なかなかやるじゃないか。人形
相手とはいえ、完全に彼らを上回っていたよ﹂
﹁それはレイスもだ。魔法士でもないのに、二人相手にあそこまで
よくやる。お前、この短期間にどんな鍛え方をしたんだ?﹂
リュートの言葉に、アレックスは少し考え込むそぶりを見せたが、
笑った表情を崩すこと無く、師匠としての評価を口から発した。
﹁ん、レイスかい? 言うほど激しい訓練はさせていないんだけど
ね⋮⋮それにあれぐらいの相手だと、手を抜いてでも三人くらいは
同時に相手してもらわないと﹂
﹁⋮⋮勘弁してくださいよ、師匠﹂
数的不利の戦闘を強いられた為、疲労困憊状態のレイスであった
が、そのアレックスの声が聞こえたのか、弱々しげに抗議の声を上
げる。
﹁ん、まだまだ余裕があるようだね。ならば戻り次第、フートくん
との打ち込み練習を増やすことにしよう﹂
﹁し、師匠⋮⋮﹂
その容赦の無い一言に、レイスは心底口答えなんかするんじゃな
かったと後悔して、その場にへたり込む。一方、彼に訓練を命じた
男は、レイスに一瞥することもなく、大玉座の間の奥へと視線を移
437
すと、いよいよ戦闘の終焉を迎えようとする、二人の戦いをその瞳
で追っていた。
﹁貴様、一体なにをしおった?﹂
﹁いやぁ、彼らに送るあなたの魔法を勝手に弄らせてもらいました。
しかし、あれだけ後方の戦いを意識するような仕草を繰り返してい
たのに、あなたがなかなか気づいてくれないから、すっかりくたび
れちゃいましたよ﹂
右手で自らの肩を、トントンと叩きながら、フゥっと息を吐きだ
す。
﹁と、ということは⋮⋮貴様が私の魔法を躱し続けていたのは、私
が人形どもへ指示を送るのを待っていただけということか!﹂
﹁ああ、ようやく気づいて頂けましたか。実はかなりめんどくさい
んですよ、あなたを倒した後に彼らへの呪術を消すのって。その点、
あなたの魔法にタダ乗りすることができれば、一度で十二回分美味
しいじゃないですか。なにしろ、私は楽をするのが好きなもので﹂
そう言って、ユイは苦笑いを浮かべると、ゆっくりとその場で頭
を二度掻く。
﹁くそ、イスターツ⋮⋮ユイ・イスターツ!﹂
﹁さあ、そろそろ終幕です。うちの学生たちの時間を奪った貴方の
ことは許しませんので、そろそろ覚悟を決めてください﹂
ユイは頭を掻いていた手を止めると、そのまま手を左腰に備え付
けた刀の柄へと運ぶ。
﹁ふふ、私も終わりか⋮⋮しかし最後に貴様の命だけは貰い受ける
438
ぞ、スーペルフードル﹂
やや自嘲気味にムラシーンは笑うと、次の瞬間一度目をつぶり彼
の中での覚悟を整える。そしてそのまま、それまでで最大級の魔力
を込めた稲妻の魔法を編みあげていくと、ただユイの姿だけを両目
で捕らえ、まっすぐに彼に向けて解き放つ。
しかしながら彼が最大の威力を込めて一心不乱に編み上げたその
呪文は、彼の手元から解き放たれた瞬間、ジャッカルに狙われる得
物のように、あっさりとユイにより侵食を受け始める。
﹁マジックコードアクセス﹂
﹁させんわ! スーペルフードル!﹂
自らがどれほど精緻な呪文を編み上げようと、それが一度解き放
たれれば、次の瞬間にはクラックされるであろうと想定していたム
ラシーンは、当初の作戦と同様に、間髪入れず彼の注ぎ込める限り
の魔力を乗せて二発目の稲妻魔法を解き放つ。
ムラシーンの計画は、ユイに乗っ取られた稲妻と、今解き放った
二発目の稲妻が相打ちとなり、均衡状態を作り出す。そして間髪入
れず三発目の魔法を放つことで、その均衡状態を押し切り、自らの
勝利を得るというプランを想定していた。
しかしそんなムラシーンのプランを、完全に読み切っていたユイ
は、わずかに笑みを浮かべると、迷いなく一発目の稲妻を乗っ取り、
そして彼の持つ魔力を、その稲妻に上乗せしていった。
﹁クラック!﹂
ユイがその呪文を口にした途端、ムラシーンの放った最初の稲妻
は、彼が編み上げたものの三倍以上の光の束へと生まれ変わり、彼
に目がけて反転を始める。その稲妻の膨大な魔力量は、相打ち狙い
で放った稲妻をあっさりと飲み込み、ムラシーンへと疾走する。
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﹁スーペルフ︱︱まずい、ロカパレー!﹂
予想外の事態にムラシーンは、編みかけていた三発目の稲妻をキ
ャンセルすると、防御魔法を急速に編み上げ、稲妻の直撃寸前に、
眼前に彼の全魔力を注ぎ込んだ重厚な岩の壁を生み出す。
巨大に膨れ上がった稲妻がその岩の壁へと直撃し、周囲に光と熱
を撒き散らす。足元の絨毯は焼け焦げ、空気は急速に乾燥し、膨大
な光量は、その場にいる者達の視界を一瞬にして奪い去る。
その光の氾濫が収束した時、その場には多数の深い亀裂を有し、
今にも崩れ落ちそうになりながらも、稲妻の直撃に耐えぬいた岩の
壁が残存していた。
そして眼前の壁を確認し、ユイの奥の手を防ぎきったとムラシー
ンは確信すると、ほんの僅かの時間、そう極一瞬の思考の空白が彼
に生じた。
それは油断であったかもしれないし、単純な安堵であったかもし
れない。しかしそれにより生み出された刹那の時間に、ムラシーン
の死角となる岩壁の正面へ、彼の対峙者の接近を許すと、別れを告
げる声が発せられた。
﹁終わりです。さようならムラシーンさん﹂
ユイはその言葉を言い終えるか否かの瞬間に、一気に左腰に差し
た長刀を抜刀する。その剣閃はバターを切り裂くナイフのように、
亀裂の入った岩壁ごと背後のムラシーンの胴体に真一文字の断面を
生み出していく。
そしてほんの僅かの時間差で、切断された岩とともに、ムラシー
ンはその場に崩れ落ちていった。
440
ユイはその光景を見届けると、その場で大きなため息を吐き、両
目を閉じる。
そうすることで、彼は外界からの情報を断ち切り、クラリスを旅
立った日のことを思い起こしていった。
今回の旅路の目標と、出会い、騒動、そしてその結末。それらは
走馬灯のようにほんの一瞬の駆け足で彼の元を通り過ぎていく。そ
うして彼の胸の内側に残ったものは、校長時代に自らに課した宿題
を、ようやくやり終えたという安堵であった。
彼はその感覚にしばらく身を委ねた後に、ゆっくりと後方へ振り
返り、瞑っていた両目を少しずつ開いていく。
そこでユイの視野に飛び込んできたものは、それぞれの立場によ
り全く違う表情を浮かべている人々の姿であった。彼らの視線はそ
れぞれ異なる色彩を帯びながらも、その場にいる意識あるもの全て
の視線が、ユイに向かい収束していることに彼は気づく。
彼はその様々な感情に彩られた視線を受けて、思わず彼らに対し
てなにかを宣言しようと口を開きかける。しかし自らに注がれる視
線の一つに、彼のその行為に期待するカイルの視線が含まれている
ことを、不意に彼は感じ取った。
その瞬間、彼はその場で首を左右に数回振ると、開きかけた口を
ゆっくりと閉じる。
そして曖昧な笑顔を浮かべながら、いつもの様に頭を数回掻くと、
なにも口にすること無く、ゆっくりと仲間たちのもとへと歩み寄っ
ていった。
441
褒美
ラインドル建国以来初の内乱が終演を迎えて早七日。一時は混乱
の極みにあった王都セーブルも、アルミム国王の病の完治と、内乱
の終結宣言が行われてより、急速な秩序の回復を認めていた。
それは取りも直さず、ムラシーンへの不満が国内に充満していた
ことと、国王への信頼が厚かったことを如実に示していた。そのよ
うに急速に国内に光が差し込み始めたラインドルにあって、クラリ
スからの外交大使であるユイは一つの書状を手に、深い溜息を吐い
ていた。
それはアルミムより外交官としての面談を要請する親書であり、
彼は渋々王宮へと出向き、会談を行う羽目になっていた。
﹁昔から苦手なんだよ、貴族とか、王族とかってさ。誰か代わって
くれないかな﹂
国王の指定した謁見室へと続く長い廊下を、ユイは嫌そうな表情
を浮かべつつトボトボと歩く。すると隣を歩くクレイリーが、ユイ
を窘めるように口を開いた。
﹁はぁ、今日何回目でやすか。何度も言ったように、既にリュート
の旦那もアレックスの旦那も、クラリスへ帰っちまいやしたから、
旦那に代わる人間なんざいませんぜ﹂
﹁それはそうだけど⋮⋮しかしあいつらも友達甲斐のない奴らだと
思わないか? 後始末を全部私に押し付けて、自分たちはクラリス
に帰ってしまうなんて﹂
ムラシーンとの戦いが終わった後に、さっさと帰国してしまった
リュートとアレックスのことを、ユイは卑怯だとばかりにそう愚痴
442
った。
﹁元々旦那が人材が足りないからって、忙しい中を無理やり借りだ
しただけじゃないですか。あの二人があまり長期間抜けると、きっ
と親衛隊長の髪は薄くなっちまいやすぜ﹂
クレイリーは、リュートとアレックスを連れて行かれる際のエイ
ンスの表情を想像すると、彼の心労に対して思いを馳せた。
﹁そんなもんかなぁ⋮⋮若いうちは苦労を買ってでもしろと、昔の
人は言ってたものだけどねぇ﹂
﹁だったら旦那もあっしより若いんですから、もう少し苦労を買っ
てくださいよ﹂
若い彼の上官の発言に対し、クレイリーは呆れた眼差しを送りな
がらそう呟く。
﹁ん、私かい? 私はいいんだ、心が老成しているから﹂
﹁それ、言い訳としてどうなんですかね⋮⋮﹂
相変わらずな上官の発言に、クレイリーが大きなため息を吐き出
したところで、ようやく指定された謁見室へと辿り着く。その部屋
の前には二名の近衛と、先日は戦場で肩を並べたマルフェスの姿が
あった。
﹁よう、久しぶりだな﹂
﹁マルフェスさん、その姿は⋮⋮近衛に戻られたんですね﹂
レジスタンスでのやや着崩した格好と違い、全身指定された近衛
の服装を纏うマルフェスの姿を見て、ユイはそう口に出した。
﹁まぁな。今回二年ほど王宮の外にでて、もう一度戻るか迷ったん
だが⋮⋮陛下に頼まれてしまってな。結局、元の鞘だぜ﹂
やれやれとばかりにマルフェスは両腕を広げると、ゆっくりと首
443
を左右にふる。
﹁元の鞘と言うことは、近衛兵長に戻られたんですね。これはおめ
でとうと言うべきなんでしょうか?﹂
﹁さあ、どうだろう﹂
マルフェスは苦笑いを浮かべながらそう返事すると、彼は部下に
向かって視線を移す。するとユイの到着を国王へ報告して来た兵士
が、準備はできていますとばかりに一つ頷く。
﹁まぁ、俺のことはどちらでもいいさ。それより既に陛下が中でお
待ちだ、さっさと中に入っちまえ﹂
そう言って、彼は部屋の扉にノックを行い確認を取ると、そのま
ま入口のドアを開ける。そうして謁見室の中へ通され、ユイの目に
写ったものは、直立したままユイを出迎えるカイルと、ソファーに
腰掛けたアルミムの姿であった。
﹁ユイさん。お久しぶりです﹂
ユイが到着するのを、今か今かと待ちわびていたカイルは、やや
驚きの表情を浮かべるユイに向かい、満面の笑みを浮かべた。
﹁⋮⋮ああ、そうか。カイルは⋮⋮いや、カイラ様はこの国の第一
王子様でしたよね﹂
﹁はは、様は止めてください。公式の場ではともかく、普段は今ま
でどおりカイルと呼び捨てにしてもらった方が、嬉しいんです﹂
やや畏まった態度を示すユイに向かって、カイルはそう告げると、
ユイは思わず首をひねった。
﹁公式の場では⋮⋮って、今回はクラリスの外交大使としてお招き
と伺いましたが?﹂
ユイはカイルの対応を踏まえて、当初考えていた謁見とこの空間
444
に大きなズレがあることを感じ、アルミムに向かってそう尋ねる。
﹁ああ、あれは嘘じゃ。いろんな者に聞いたんじゃが、其方は面倒
事は回避する癖があると聞いたからのう。そこで大使としての業務
と言えば、さすがに顔を出すだろうと思ってのことじゃよ﹂
﹁それはまた⋮⋮でも、アルミム様のお呼びでしたら、最初から正
直に言ってくださっていても、当然馳せ参じましたよ﹂
アルミムの発言に、一瞬ユイは図星を突かれたかのように弱った
ような表情を浮かべた。しかし、すぐに気を取り直すと、苦笑いを
浮かべながらそう返答する。
﹁はは、それは申し訳なかった。何も其方を騙すつもりではなかっ
たんじゃ。ワシはただ此度のことのお礼を言おうと思ってな。イス
ターツ殿、此度のこと、このアルミムは心より感謝しておる﹂
アルミムは、ユイに向かってそう述べると、あろうことか彼に対
し深々と頭を下げる。すると、慌てて息子であるカイルもユイに向
かって頭を下げた。
予想だにしない王族の反応に、ユイは一瞬その場に硬直すると、
次の瞬間には恐縮のあまりに二歩後ろへ引き下がり、慌てて両手を
体の前に突き出すと、二人に向かって頭を下げるのを止めるように
懇願した。
﹁や、やめてください。アルミム様、それとかい⋮⋮カイルも。す
ぐ外には近衛の兵士たちもいるんですよ﹂
﹁構わんじゃろ。其方は既にただのクラリスの英雄ではない、ライ
ンドルの英雄でもあるんじゃ。英雄に対して、国王が感謝を示した
ところで問題なかろう。ましてや其方は、ワシの部下というわけで
はないのじゃからな﹂
アルミムはそう口にして、ニンマリと笑みを浮かべると、ユイは
445
弱ったように頭を二度掻いた。
﹁それはそうですが⋮⋮って、英雄なんかじゃないですよ、私は。
今回はただ教え子を連れ戻しにきただけの、引率の先生にすぎませ
ん﹂
﹁ふふ、引率の先生か。それが其方がこの国にわざわざ赴任してき
た理由じゃったのか? ムラシーン相手には人事異動と言っておっ
たみたいじゃがのう﹂
ユイはムラシーンとの会談内容を、復帰したばかりのアルミムが
掴んでいることに、素直に感心すると、この国の統制が回復しつつ
あることを理解した。
﹁既にそんなことまでお耳に入ったのですか? まぁ、私はクラリ
スで士官学校の校長をしておりましたからね。誘拐された学生を連
れ戻すために、この地に来させて頂いたのは事実です﹂
﹁なるほどのう。しかし其方は嘘を言っているわけではなさそうじ
ゃが、ワシが思うにそれ以外にも狙いがあったのではないか?﹂
意味ありげな表情を浮かべるアルミムに対し、ユイは内心の動揺
を表情に表すこと無く、そのまま聞き返した。
﹁⋮⋮といいますと?﹂
﹁おそらく其方の真の狙いは、クラリスにとってラインドルの脅威
を防ぐことにあったのではないか? より正確に言えば、国力の落
ちているクラリスへ、強硬派のムラシーンが侵攻する可能性を未然
に防ぐことであろう。そうでなければ、いくら誘拐された学生たち
を連れ戻しに行きたいなどと主張したところで、上層部が其方ほど
の者を国外へ送り出すとは考えにくいからのう﹂
その発言からユイは、今回の旅の副産物として考えていた狙いを、
アルミムが正確に読み取っていたことを理解した。そしてそれとと
もに、アルミムが誤解していることに対して苦笑を浮かべると、隣
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に座るクレイリーへと視線を送る。すると彼もユイに向かって苦笑
を浮かべた。
﹁旦那もここでは評価されてやすね﹂
﹁全くだよ。我が国のお偉方には、散々なのにねぇ⋮⋮﹂
ユイがため息混じりにそう呟くと、アルミムは怪訝そうな表情を
浮かべ、ユイに向かって尋ねた。
﹁ん、一体どういうことじゃ?﹂
﹁僕も噂で聞いただけなのですが、どうもユイさんはクラリスの中
ではあまりいい扱いを受けてないようです。こう言っては失礼かも
しれませんが、その⋮⋮ユイさんは貴族ではないので﹂
カイルはユイに向かって申し訳なさそうな表情を浮かべながら、
遠慮がちにアルミムにそう説明する。するとアルミムは呆れたよう
な表情を浮かべ、苦言を呈した・
﹁はぁ⋮⋮全く愚かな話じゃ。そうじゃ、もし其方が良ければ、我
が国に仕えんか? 其方が望むなら、その能力に見合うだけの待遇
も用意しよう﹂
﹁そうですね、三食昼寝付きで良ければ⋮⋮わかっているよ、クレ
イリー。そんな目で見ないでくれ﹂
隣から厳しい視線を感じたユイは、あわてて逆方向へ視線を外し
ながら、そう口にする。
﹁全く⋮⋮旦那のことですから、油断するとひょいひょい引き抜か
れそうでやすからねぇ﹂
﹁冗談だって、あまり本気にしないでくれ。アルミム様、ありがた
いお申し出なのですが、申し訳ありません﹂
ユイはアルミムへと向き直ると、彼の表情を伺いながら拒否の意
を彼へと示した。
447
﹁なぜじゃ、カイラや其方の部下の反応が正しければ、其方は正し
く評価されているとは言いがたいのではないか?﹂
﹁そうかもしれません。でも生活するには困らない程度のものは与
えて頂いておりますし、なにより両親があの地に眠っておりますか
ら。それと大変失礼な話となりますが、フィラメント出身の魔術士
を重用して国内の混乱が生じたばかりです。そこにクラリス出身の
者が国家の重職を担うなどといったことがあれば、更なる混乱が引
き起こされかねませんよ﹂
申し訳無さそうな表情を浮かべながらユイがそう述べると、アル
ミムは顎に手をやり、わずかに考えこむ。
﹁むぅ⋮⋮そうか。ならば今は其方のことを一時諦めることとしよ
う。できれば、来月にも発表される新国王の右腕として働いてもら
いたかったのじゃがな﹂
﹁﹁えっ!﹂﹂
アルミムの何気なく発したその一言に、その空間に居たものは思
わず驚きの声を上げる。
﹁当然じゃろ。ワシは二年も国政を空けてしまっておるし、体調も
万全とは言えん。ならば、レジスタンスを率いて、この国の立て直
しの一躍を担った息子に任せるのも、そう驚くことではあるまい﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
カイラはやや不安そうな表情を浮かべながら、父であるアルミム
を見つめる。するとアルミムは柔らかい笑みを浮かべ、彼に向かっ
て口を開いた。
﹁カイラよ。お前はまだ若い。しかし、その分だけ可能性があると
考えよ。そして苦境の中でそなたを支えてくれた者たちを信頼し、
この国を立て直してくれ。そう、目の前の男が喜んでお前に仕えに
448
来るような国にな﹂
﹁⋮⋮分かりました。浅学非才の身ではありますが、私の力の及ぶ
限り、この国を守って参ります﹂
頭を下げて、やや言葉をつまらせながらもカイルはそう言い切っ
た。その覚悟に、アルミムは満面の笑みを浮かべると、息子を自慢
する親の表情でユイへと向き直る。
﹁そうか、よう言うた。ふふ、これでワシも安心して余生が過ごせ
るわい。どうじゃ、イスターツ、羨ましいじゃろう﹂
﹁ええ、本当に限りなく﹂
ユイは二つの意味で簡潔にそう答えると、アルミムに向かって笑
みを返した。
﹁それではワシの最後の仕事をするとしようか。さて、最初に話し
たように、今回ここへ出向いてもらったのは、其方に礼を言うため
じゃ。それでのう、ワシとしては其方になにか褒美を与えたいと思
っておる﹂
﹁褒美⋮⋮ですか﹂
オウム返しのようにユイが返事をすると、アルミムは笑みを浮か
べながら大きく一度頷いた。
﹁ああ、そうじゃ。目的が誘拐された学生を助けることであれ、ク
ラリスを守るためであれ、結果として其方はこの国に多大な貢献を
してくれた英雄じゃ。其方の望みがあれば、ワシに可能なことなら
ば、出来る限り叶えてやりたいと思うておる。さて、何か希望はあ
るかね?﹂
﹁いえ、私は他国の者ですから、そんなご好意に甘えるわけには⋮
⋮﹂
﹁構わん、構わん。むしろ他国の者だからこそじゃ。我が国の恩人
である英雄に対し、何一つ褒美を与えぬ忘恩の国とは呼ばれたくな
449
いからのう﹂
辞退しようとするユイの言動に、アルミムは豪快に笑いながら、
再度ユイに希望を告げるように促す。
﹁いや、直接何かを頂きましたら、他国から賄賂を頂くようなこと
になりかねませんので⋮⋮あ、ちょっと待って下さい。もしよろし
ければ、お言葉に甘えて一つだけお願いが﹂
﹁なんじゃ、遠慮せず言ってみたまえ﹂
ユイはなんとか理由をつけて辞退しようとしていたが、不意にあ
るものの存在が頭をよぎると、途端に方針転換を図る。
﹁実は今回のレジスタンスの活動を協力する中で、不可抗力にもひ
とつの失われてしまったものがありまして⋮⋮それでですね、もし
可能でありましたら、それを再び使用出来る形にして頂ければと﹂
﹁ふむ、失われてしまったものか。ワシのために使ってもらって、
誠に申し訳ないのじゃが、あの過去写しの鏡は我が国の技術では⋮
⋮﹂
失われたものと言うユイの言動から、アルミムは彼を助けるため
に使用し、破損してしまった過去写しの鏡の存在が脳裏に浮かぶと、
申し訳なさげにそう口にした。
﹁いや、あんなものはどうでもいいんです。実はそれではなくてで
すね、もう少し大きな別のものなのですが⋮⋮﹂
ユイは左右に首を振りながら、遠慮がちにそう口にすると、アル
ミムは途端に笑顔を浮かべ直し、ユイに向かって再度尋ねた。
﹁別のものか。ふむ、あれ以外のものであれば、なんとでもなるで
あろう。あいわかった。其方の望むものを修復することを約束しよ
う。それで一体なにを直せばいいんじゃ?﹂
アルミムの言葉を聞き、ユイは頭を掻きながら苦笑いを浮かべる
450
と、一拍間をおいた後に、その場の誰もが予想しなかったものの名
前を告げた。
﹁いや、そのですね⋮⋮うちの大使館をですね⋮⋮ちょこっと修復
して頂けたりなんかすれば⋮⋮非常にありがたいのですが﹂
451
おませさん
いよいよ夏の訪れを感じさせる初夏の早朝。まだ床についている
ものも少なくない時間帯に、セーブルの南門を出ようとする者たち
の姿があった。
彼らの先頭を行く黒髪の男は馬の背に揺られながら、やや感慨深
げにセーブルの街をゆっくりと見渡す。期間にしてほんの数十日間
の滞在であったが、彼にとっては初めての他国で生活を過ごした場
所であり、いくつかの思い出が彼の脳裏を埋め尽くした。
そんな心ここにあらずの男に向かって、現実に引き戻す声がかか
ったのは、南門を通り過ぎた直後のことである。
﹁黙ってこの国を出て行くつもりですか?﹂
その声がユイの鼓膜を打つと、彼は慌てて声の主に向けて視線を
移す。
﹁おいおい、国王様が護衛も付けずにこんなところにいたらマズイ
んじゃないかい?﹂
ユイはセーブル側から死角になるよう、街道側の入口の脇に隠れ
ていた青年に向かってそう口を開く。
﹁いや、まだ国王ではありませんから。それに貴方の前では、私は
ただの英雄に憧れるカイルでしかありませんよ﹂
﹁勘弁してくれないか﹂
カイルが微笑みながら、ユイに向かって告げた内容に、ユイはや
れやれといった表情を浮かべ、馬の背から体を大地へと下ろす。
452
﹁本当ですよ。僕の貴方への憧れは、かつての大使館で貴方に告げ
たとおりです。むしろ実際にお会いすることができて、以前より貴
方のような大人になりたいという気持ちが強くなりました﹂
そう口にしたカイルの眼差しは、始めて出会った時のままだとユ
イは感じる。その純粋さが溢れかえるような王子の視線に、恥ずか
しさを感じてユイは視線を反らすと、後方から彼をからかう声が響
いた。
﹁ダメですよ。旦那みたいになったら、この国の政治はあっという
間に滞っちまいやすからね﹂
﹁そうそう、クレイリーの言うとおりだ。私の目指すものは、ただ
の隠居生活だけだよ。そんな私みたいになる必要はないさ。君は君
の信じる王道を行けばそれでいい﹂
クレイリーの発言に苦笑いを浮かべながらも、ユイは照れている
のを隠すようそう忠告する。そして気恥ずかしさのためか、カイル
の視線と合わないように、彼の足元へと視線を動かすと、ユイはカ
イルの背後に小さな足が二つあることに気が付いた。
﹁あ、もしかしてバレちゃいましたか。実はこの子も貴方にお別れ
がしたいって聞かなくて⋮⋮今日はこっそり連れて来ました﹂
そう言って、カイルが左方へ一歩移動すると、先程までカイルが
立っていた場所のすぐ後ろには、白いワンピースを身にまとった少
女の姿があった。
﹁⋮⋮おじちゃん﹂
﹁リナ!﹂
この国の民のことは、自分が責任を持ちたいと言って、カイルが
引き取ったリナの姿がそこにあった。
453
﹁おじちゃん、行っちゃうの?﹂
﹁ああ﹂
リナは目に涙を浮かべながら、ユイの足元に抱きつくと、上目遣
いでユイに問いかけてきた。ユイは頭を掻きながら、できるだけ優
しい声で、そっと返事を返す。
﹁もう⋮⋮会えないのかな?﹂
﹁そんなことはないさ。カイルのところでいい子にしていたら、き
っとまた会える日が来るから﹂
首を左右に振りながら、リナの不安を否定すると、彼女の髪をそ
っと撫でる。
﹁うん。わかった。わたし頑張るから、いい子にしているから﹂
﹁⋮⋮そっか、私もリナに会えるのを楽しみに頑張るよ﹂
必死に涙を目に溜めながらも、出来る限りの笑顔を浮かべるリナ
に対し、ユイも思わず目頭を熱くしながらそう答えた。
﹁ねえ、おじちゃん。ちょっと屈んでくれる?﹂
﹁ああ、ごめんね。このままじゃ、首が疲れるよね﹂
大きな身長差の為、見上げる形になっていたリナを気遣うと、ユ
イは片膝を折って彼女と同じ目線まで顔の位置を下ろした。その瞬
間、ユイの左頬にほんのりと温かい感覚が伝わる。
﹁えっ⋮⋮﹂
突然のことに、ユイは目を瞬かせると、リナは恥ずかしそうにカ
イルの方へと駆けて行き、再び彼の背後に隠れる。
﹁お兄ちゃん、ありがとう! それと、また⋮⋮また会おうね!﹂
リナはカイルの足元から少しだけ顔を覗かせて、ユイに別れを告
げる。
454
﹁はは。今度会うときは、屈まずにほっぺに届くぐらい、おっきく
なってるんだよ。このおませさんめ﹂
彼女の温度が伝わった頬をそっと右手で撫でると、ユイは弱った
ように頭を掻く。
その場に溢れる温かい笑い声に包まれながら、ユイにとって初め
ての国外への旅は、そうして終わりを告げた。
455
会議から幕は上がり
クラリス王国にとって、数十年ぶりの戦争が引き起こされ、早一
年を迎えようとている。
崩壊しかかった国家体制も、少しずつではあるが、ようやく落ち
着きの兆しを見せ始めていた。しかし戦争によって深く刻まれた傷
跡は、未だ消えてはいない。そしてその傷跡の治癒の仕方に不満を
持つものも少なくなかった。
例えばとある四大大公家の公爵邸において、ある一団がこの国の
未来と彼らの現状を憂えていた。
﹁どうやらラインドルの内乱も、収束を迎えたようだ。次期国王は
カイラ第一王子に内定したらしい﹂
今回のこの集会の旗振り役となった戦略省次官のテムスは、目を
瞑ったまま円卓の周囲を囲む者たちに向けてそう告げる。
﹁ほう⋮⋮まぁ、ムラシーンが排除されたのは、この国にとっては
喜ぶべきといえるかな﹂
﹁いや、ことはそう単純ではないのだ﹂
彼とほぼ対側に腰掛けている青年貴族であるフィールの楽観的な
発言に対して、ブラウは首を横に振ると、彼の発言を否定してみせ
た。
﹁ん、何か問題でもあるのか?﹂
﹁この一件に奴が深く関わっている﹂
苦々し気な表情を浮かべ、テムスがそう言葉を発すると、その若
い貴族は訝しげな表情を浮かべ、テムスに向かって問いただした。
﹁奴? 誰のことだ?﹂
456
﹁おそらくユイ・イスターツのことだろう。そうじゃないのか、次
官?﹂
部屋の奥を零時方向として三時方向に腰掛けていた壮年の男がそ
う口にすると、テムスはゆっくりと頷く。
﹁その通りだ。奴がラインドルの外交大使として赴任して早々とい
うことだ﹂
﹁あの男か⋮⋮﹂
四時方向に鎮座する男が、溜め息とともに渋い口調でそう吐き出
す。
﹁僅か四十日前後でムラシーン体制を崩壊させ、旧国王派を国の主
流へと返り咲かせた。奴の手腕なのだとしたら、全く見事だとしか
言いようが無いな﹂
テムスは全く心のこもらぬ称賛を口にすると、八時方向に位置す
る陸軍省次官のエミリオッツが重い口を開いた。
﹁ユイ・イスターツ。救国の英雄か⋮⋮確かに有能であることは認
めるが、少し癖が強すぎるな﹂
﹁ああ。軍中枢に置いていては危険だと思い、士官学校へ飛ばした
わけだが⋮⋮こんな事態を引き起こすことになるとはな。やはり奴
は目の届くところに置いておくべきだったということか﹂
テムスはユイを士官学校への左遷を強硬に主張した男であり、軍
内部でのユイ嫌いの筆頭である。彼の見るユイという男は、まさに
得体のしれない男であった。
﹁気にするなテムス殿。士官学校の生徒たちを青田買いして、自ら
の派閥へと組み込むといった行動に出るなど誰も想像せんさ。士官
学校から外すという決断は当然だろう。たとえ奴の人事要求を飲ま
ざるを得なかったとしてもな﹂
457
﹁どちらにせよ、全てはラインバーグだ。軍人事の主導権は我らが
握っているが、それでも奴が軍のトップであることは事実だ。奴と
あの男が結託し続けるうちは⋮⋮﹂
テムスは前軍務大臣であったメプラーの後継者と目されていた男
である。ラインバーグよりは若く、そしてコートマン事変にて彼と
の出世競争に勝ったと目されていたため、軍の二番手としての現状
の立ち位置に満足しているわけではなかった。
そしてそれ以上に彼の足元を脅かす眩い恒星の誕生と、その恒星
がラインバーグと繋がっていることを誰よりも早くから危険視して
いた。
﹁しかしもし今回のラインドルの件で、あの男に何らかの功績があ
るとしたら、いよいよ奴は二位だ。少なくとも軍部三省か外務省の
次官ポストを空けねばならん﹂
﹁馬鹿な、次官だと? 庶民を次官に任命するなど、認められる訳
がない﹂
エミリオッツが疲れた声で、ユイのポストのことを口に出すと、
途端にフィールが激怒する。
﹁ならどうするというのだ? もし二位の位階となるのなら、それ
ほど高位のものを職も付けずに遊ばせておくわけにはいかんぞ﹂
﹁ふん、まだ二位への昇進が決まったわけではない。それにもし奴
がラインドルで功績があったとしたところで、所詮他国の事。適当
な勲章を渡してごまかしておけば良いではないか﹂
﹁しかし奴は未だ二十代半ばの若さだ。奴に渡せる勲章などどうせ
すぐに尽きる。今回のことをそれでやり過ごしたとしても、このま
ま行けばそう遠くない内に二位、そして一位へと昇進させねばなら
ん事態も起こりうるぞ﹂
フィールの反論に対し、苦々し気な口調でエミリオッツがそんな
未来を語る。すると、フィールは忌々しげな表情を浮かべて、吐き
458
捨てるように口を開いた。
﹁庶民出身の大臣だと? ⋮⋮馬鹿馬鹿しい﹂
﹁しかし万が一奴が大臣になどなった日は、悪しき慣例がこの国に
残ることになる。そして我々が息子たちのために引き継いでいかね
ばならないポストは、ますます少なくなるわけだ﹂
この円卓における零時方向、つまり部屋の最も奥に位置する男は、
悲しむかのような口調でそう口にする。するとその場にいた者たち
は、考え込むかのように黙りこんでしまった。
そんな部屋を覆った沈黙の空気を打ち破ったのは、六時方向に位
置していた最も若い貴族の男であった。
﹁ならば、私に一つアイデアがあるのですが、聞いてもらえますか
?﹂
﹁何かね? 拝聴しよう﹂
テムスはその若い男に向かい先を促すようにそう告げる。すると、
彼はわずかに微笑んだ後に、この場の誰もが予期せぬ事を口走った。
﹁前例が破られるのを防ぎたいならば、そんなことは簡単です。奴
を貴族にしてしまえばいいのですよ﹂
その男がそう口にした瞬間、フィールは激怒して椅子から立ち上
がると、彼を睨みつける。
﹁馬鹿か、お前は! あんな奴を貴族になどできるか!﹂
﹁落ち着けフィール。反対するのは、最後まで聞いてからでも遅く
はないだろう⋮⋮それで奴を貴族にすることで、我々に何のメリッ
トがあるのか教えてくれるかね﹂
テムスはいきり立ったフィールを落ち着かせると、他の者の動揺
を落ち着かせるように、低く重厚な声でそう告げる。
459
﹁ええ、もちろんです。利点としては奴を貴族にすること自体が奴
に対する褒章ということになりますから、階位も進めなくてもいい。
そして万が一奴が今後昇進した場合でも、名目だけとはいえ貴族し
か次官以上になれないという伝統を汚されずに済むということ﹂
﹁⋮⋮まさに名目だけだがな﹂
その場にいた別の貴族の男が、茶々を入れるようにそう口を開く。
すると、その若い貴族は苦笑いを浮かべる。
﹁それは致し方ないと思いますよ。どうせこのまま手を拱いていて
は、彼等に主導権を握られ続けることになりますから。それに最大
の利点は、奴をこの王都から追い出せるということですしね﹂
﹁⋮⋮一体どういうことかね?﹂
エミリオッツが理由がわからないとばかりにそう問いかける。す
るとその若い男はゆっくりと説明し始めた。
﹁要するに彼を貴族として、地方領主に任命してしまえばいいんで
す。領地経営など行ったこと無いものが、王都にいながら自らの領
地を運営できると思われますか?﹂
﹁⋮⋮なるほど、貴公の狙いがわかってきたぞ﹂
﹁うむ、奴の軍で働ける時間を奪うというわけだな﹂
テムスとエミリオッツが次々とそう口を開くと、若い貴族は満足
気に一度大きく頷く。
﹁その通りです。そもそも王都に戻ってからの彼の躍進は、貴族の
義務も持たずに、全ての時間を出世のために費やし、エリーゼ様や
ラインバーグに媚を売っているからに過ぎません。皆さんのような
高貴な義務を負った貴族には、そんな出世のためだけに、働くなど
とおぞましいことは不可能ですからね。つまり彼から王都で働く時
間を奪い取る事が、最良の策というわけです﹂
﹁確かに面白い提案だが、万が一奴の領地経営が奴抜きでも反映す
460
るくらいまで軌道に乗ればどうする? あの男のことだ、またなに
か妙な方法や伝手を使って、対処しかねんぞ﹂
ある貴族の男が、僅かな懸念を口にすると、若い貴族は首を左右
に振って、その意見を否定する。
﹁ええ、その可能性も考えていました。ですので、私はレムリアッ
クを彼に治めさせる方向に話を持っていけばいいのではないかと考
えています﹂
﹁レムリアックだと!﹂
クラリス南西の悪評高き地名を耳にした瞬間、その場の少なから
ぬ者たちから、驚きの声が上がる。
﹁はい、彼の地なら如何に彼が不可思議な手段をとったとしてもど
うすることも出来ないでしょう。あの土地に根ざす問題は、人の身
ではどうすることもできません。これがうまく行けば、彼は完全な
死に体になると思います﹂
﹁レムリアック⋮⋮見捨てられた大地か。なるほど、彼の地ならば
確かに奴とてどうにもできまい。だが、レムリアック全体となると、
いささか大きすぎる。少なくとも男爵や子爵の持ちうる土地ではな
いぞ﹂
﹁伯爵にしてしまえばよいでしょう。いかに彼とて全知全能だとい
うわけではありません。いずれ時が来れば、領地経営を満足に行え
ていないとでも理由をつけて、伯爵職を返上させればいい。この策
がうまく行けば、今回の恩賞の件も解決して、一石二鳥と思われま
すが如何でしょうか?﹂
若い貴族は零時方向に腰掛けるこの館の主に視線を向けると、彼
に向かってそう問いかける。すると、その老人は目を閉じたまま深
々と頷き、彼の提案を肯定した。
﹁いいだろう、ワシの方から貴族院の方へも働きかけよう。では、
461
皆の者、それでよいな?﹂
老人のその問いかけに、その場に同席したものは次々と同意を示
していく。こうして四大大公家の一つであるブラウ家で行われた一
つの会議は、次の議題へと話を移していった。
462
外務省省外会議室
﹁先輩⋮⋮またわけのわからない本をこんなに持ち込んで﹂
軍務庁舎の旧親衛隊室に足を踏み入れたエインスを待っていたも
のは、机にそびえたつように積まれた本の山と、その大量の本に埋
もれたまま机に突っ伏して眠っているユイであった。
﹁ん? ああ、エインスか⋮⋮おはよう﹂
エインスの声で起こされたユイは、机に投げ出していた体をゆっ
くりと起こすと、寝ぼけ眼でそう挨拶する。すると、エインスは呆
れたような表情を浮かべながら口を開く。
﹁おはようじゃないですよ、もうお昼を過ぎているんですからね。
もしかして昨日からこの部屋に泊り込んでいたんですか?﹂
﹁ああ、そういえば、そうだったかな⋮⋮いやぁ、本を読んでいた
ら、帰るのがめんどくさくなっちゃってね﹂
まだ思考が働いていないのか、のんびりとした返事をすると、ユ
イが目を擦りつつ大きな欠伸をする。
﹁はぁ⋮⋮せっかくあんなに立派な官舎を与えられたのに、少しく
らいは使ってあげてくださいよ﹂
ユイはどれだけの期間ラインドルに赴任することになるか、予想
できていなかったため、自らの官舎を一度引き払っていた。
しかし予想よりも早い帰国となったため、ユイが以前使っていた
官舎に戻ろうと申請したものの、官舎には既に他の人間が入居して
いたのである。
とはいえユイは国の英雄であり、路上に放り出すことも出来ず、
現在は他国の大使など提供するための邸宅を貸し与えられているの
463
である。
﹁すぐ散らかるだろ、家って。何かをするにしても、あんな広い家
はどうにも馴染まなくてね﹂
﹁ここが散らからないのは、先輩が散らかしても、クレイリーさん
たちが掃除してくれているからですよ。ほんと先輩は一人では生き
ていけない人なんですから⋮⋮いい加減、良い歳なんですし、結婚
でも考えられたら如何ですか?﹂
エインスからの小言を耳にして、ユイは苦笑いを浮かべると、頭
を数回掻く。
﹁私がかい? はは、相手もいるわけじゃないのに、結婚なんてで
きるわけないだろう⋮⋮それに何より﹂
﹁何より?﹂
エインスは嫌な予感を感じながらユイに視線を合わせる。すると
ユイはだらけた表情で、一言言い放った。
﹁めんどくさい﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
その言葉に呆れたエインスは、全身を脱力させて深い溜息を吐く。
するとユイはさすがに気を悪くし、エインスに向かって反論した。
﹁おいおい、そんな呆れた顔をするなよ。それにお前こそいい加減、
腰を落ち着かせたらどうなんだ。大公の子息たるもの、あまりフラ
フラしてるのは、どうかと思うけどな﹂
﹁ぐぅ⋮⋮また痛いところをつきますね。昨日も父さんに言われま
したよ﹂
昨夜も深夜にこっそりと帰宅したところをジェナードに見つかり、
さんざん説教を受けたエインスは、思わず渋い表情を浮かべる。
464
﹁ははは、あの人らしい﹂
﹁⋮⋮まあ、その話はいいでしょう。それより一体何を読んでるん
ですか? 士官学校の貸し出し禁止本ばかり、こんなに持ちだして﹂
エインスが机の上に並べられた本の数冊を手にとってパラパラと
めくる。白魔法原論、世界構造学概論、根源論、ワームラー冒険譚、
病理気学大全、標準呪術学といったジャンルも内容もバラバラの本
が、積み上げられており、中にはエインスの知らない言語で書かれ
たものまで混じっていた。
﹁ああ、これ全部アズウェル先生の私物だよ。どうも教授室と研究
室に本が収まらないから、こうやって貸し出し禁止にして、図書館
に置かせてもらっているみたいだね﹂
﹁いつものことながら、先輩の趣味ってわからないですよね。まあ、
ちゃんと返してきてから次を借りてきてくださいよ。ここは先輩の
私室ってわけじゃないんですからね﹂
エインスは首を左右に振りながら、呆れたようにそう告げる。す
るとユイは誤魔化すような苦笑いを浮かべながら、頭を掻きつつ口
を開く。
﹁ああ、後ろ向きに検討しておくよ﹂
﹁後ろ向きってなんですか、後ろ向きって⋮⋮全くまた勝手に入り
口の看板を書き換えているし。いつからここは外務省の部屋になっ
たんですか﹂
﹁おいおい、物事は正確に言ってくれ。ここは列記とした親衛隊本
部だよ。たまたま外務省省外会議室を兼ねるだけでさ﹂
﹁前は校長室でしたよね⋮⋮﹂
エインスが口にしたのは、この物置小屋を改装した親衛隊本部の
外に立てかけてある看板のことである。親衛隊本部と書かれている
隣に、ユイが士官学校の校長を務めていた頃は第二校長室の文字が
書かれていた。それが今は縦線を引いて消され、外務省省外会議室
465
と書き直されている。
﹁部屋を有効に活用することは、良いことだと思わないかい?﹂
﹁先輩⋮⋮先輩はもう三位なんですから、外務省に専用の部屋があ
るでしょ。そこを有効に使いましょうよ﹂
ユイは三位の位階を有しているため、彼専用の部屋が外務省に用
意されてはいた。もっとも、ユイ自身は一度案内された際に足を踏
み入れたきりであり、その後は一度も訪れていない。
﹁やだよ、めんどくさい﹂
﹁めんどくさいって⋮⋮普通は三位になって専用の部屋をもらうこ
とって、結構な憧れなんですよ。しかも先輩は今度二位になるんで
すから、そろそろ自分の本庁にいないと他の者も迷惑するんですか
らね﹂
エインスが困った人を見る目をしながらそう口にすると、ユイは
寝耳に水が入ったように驚いた。
﹁ちょっと待てエインス⋮⋮二位だって? 私が二位になるって言
っているのかい?﹂
﹁ええ、もっぱらの噂ですよ。ラインドルでの政変を片付けたユイ・
イスターツが次は二位になるとか、外務省もしくは戦略省の次官に
なるとかね﹂
先日、貴族などが出入りするバーで見聞きした内容を、エインス
は口にする。するとユイは本気で嫌そうな表情を浮かべ、愚痴を吐
き始めた。
﹁勘弁してくれよ。また仕事が増えるじゃないか。そういった偉い
人がやる類の役職は、やる気がある優秀な人がやればいいんだよ。
何で私がやらなければいけないんだい?﹂
466
﹁そりゃ、先輩が優秀だからでしょう﹂
﹁私はやる気がある優秀な人といったんだ。本人のやる気の問題は
どこにいった?﹂
ユイは子供っぽい言い訳を口にするも、エインスはあっさりした
口調で彼に反論した。
﹁まぁ、噂には当人のやる気は反映されませんからね。見る人が見
れば、先輩なんかエリートコースをひた走る、出世欲の塊ですよ﹂
﹁どんだけ歪んだ眼鏡をかければ私をそう言った目で見られるんだ
い。私は二度も左遷されているんだよ⋮⋮全くどうなっているんだ、
本当に﹂
ユイとしては出世のために働いたことは一度たりとて存在しない。
それ故、自分をエリートだと思ったことは皆無であり、エインスの
発言に対して、露骨に嫌そうな表情を浮かべる。
﹁困ったのは先輩の方ですよ。ラインドルに行く前は、ようやく少
しやる気を出したかと思ったのに、気がついたら元に戻っているし﹂
﹁あれは宿題みたいなものだったからね。今は宿題も終わらせたわ
けだから、ゆっくり休んでもいいじゃないか⋮⋮エインス、お前な
んか最近リュートに似てきていないか?﹂
﹁先輩がだらしないからでしょう。アレックス先輩はともかく、リ
ュート先輩の気持ちは痛いほど分かりますよ﹂
﹁はぁ⋮⋮全くみんなして私を一体何だと思っているんだ。とにか
く私はもう一眠りさせてもらうからね、お休みなさい﹂
ユイは小言はもう十分だとばかりに、ふて寝しようと机に向かっ
て突っ伏す。するとエインスが慌てたように、ユイに向かって声を
上げた。
﹁ちょっと、ちょっと先輩。待って下さい﹂
﹁なんだい、私は忙しいんだ﹂
467
顔を起こすことさえ無く、ユイはそのままエインスに返事を返す。
するとエインスは諦めの境地に達したのか、ユイに向かってそのま
ま話しかけることにした。
﹁寝るのにでしょ⋮⋮それより先輩に本題を伝えるのを忘れていま
した﹂
﹁本題? なんの?﹂
ユイはそのままの体勢で耳だけを働かせると、エインスに向かっ
て問いかける。
﹁エリーゼ様の女王就任式典の日取りが決まりました。それについ
て先輩に連絡しておこうと﹂
﹁そう言えば私がラインドルに行く前にそんなことも言っていたな。
それで、いつなんだい?﹂
﹁十日後です﹂
エインスの回答を耳にして、ユイは突っ伏した姿勢のまま、エイ
ンスにわからないように、僅かに頬を引き攣らせる。
﹁⋮⋮へぇ、そうなんだ﹂
﹁なんか他人事の反応ですね。先輩も出席するんですよ。なにしろ
先輩の帰国をエリーゼ様は待ってらっしゃったんですからね。はぁ
⋮⋮先輩はこれだから﹂
裏切る
エインスが突っ伏したままのユイに対し、問題児を見るような視
線を送る。しかしユイから帰ってきた反応は、彼の想像を
ものであった。
﹁ああ⋮⋮休みが一日消えた﹂
﹁⋮⋮先輩、もともと休みの日じゃないんですから、全然消えてい
ませんよ。一体、仕事というものをなんだと思っているんですか﹂
﹁食い扶持を稼ぐ手段﹂
468
ユイはあっさりした声でそれだけ返答すると、そのまま黙ってし
まう。
﹁はぁ⋮⋮とにかく当日は遅刻しないように、父さんと迎えに行き
ますからね。ちゃんと準備しておいてくださいよ﹂
エインスは処置なしと諦め、ユイにそれだけ告げるとそのまま部
屋から出て行く。そしてドアが閉じる音を確認すると、ユイはゆっ
くりと体を起こし、一つ伸びをした。
﹁さてこの時期に女王に就任されるのは、吉と出るか凶と出るか⋮
⋮サイコロの目には最近嫌われているけど、今回はいい方に出てほ
しいものだね﹂
そう独り言をつぶやくと、ユイは山積みにしていた本の山の中か
ら新たな一冊を取り出す。そして本と同化するかのように、そのま
ま本の世界へと没入してしていった。
469
女王誕生⋮⋮そして
就任式典。
それは過去から現代に至るまで、国王を始め、宰相や大臣など、
国内の要職の担い手を明確化する目的でクラリスでも続けられてき
た儀式である。その儀式が開かれる役職として、この国では一度も
使用されたことのなかった女王という名称が歴史に加わる。
そしてこの国の歴史で最初の女王となるのは、歴代のこの国の指
導者の中で、もっとも若く、そして最も美しい女性という事実があ
り、王都であるエルトブールは湧きに湧いていた。
その一端を表す出来事として、エリーゼの女王就任式の二日前よ
り城下町では既に飲めよ、歌えよのお祭り騒ぎとなっており、その
光景は昨年この国を襲った戦争に対して、完全に別れを告げるかの
ようであった。
そんなお祭りの様な騒ぎは、城内で執り行われた就任式の後に、
エリーゼが国民たちの前にバルコニーから姿を表した時に最高潮と
なる。
実質的この国のトップに立ってからのエリーゼの評価は、市民か
ら見ても絶賛とは言わないまでも、そう悪くないものであった。
もちろんそれは、彼女に対して無条件で与えられたものではない。
なぜなら彼女が無軌道王女と呼ばれていたことは、貴族だけではな
く、庶民にも知れ渡っており、先日の戦争が始まるまではただの変
わり者の王女としか思われていなかったのである。
470
そんな彼女が現在のような評価を得るに至ったのは、復興に向け
ての彼女の努力ももちろんであるが、何よりもこの国の英雄である
ユイ・イスターツを地方にて見出し、そして取り立てたという一点
につきる。
なぜならばユイ・イスターツは、大半の国民と同じ庶民の出身で
あり、彼の立身出世の物語は、今やこの国の子供たちの憧れであり、
そして目標であった。
一方、貴族達からの評価というと、それは真っ二つに分かれてい
る。
彼女を高く評価するライン公やラインバーグなどの存在もいれば、
常に真っ向から対立している貴族院議長のブラウ大公などの勢力も
あり、女王として満場一致で承認されたとは言い難い状況である。
そんな彼女の微妙な立ち位置が引き起こすことになったある騒動
は、就任式の後に執り行われた就任パーティーの場から始まった。
﹁エインス⋮⋮パーティーとは本当にめんどくさいものだね。貴族
の人たちはいつもこんなことをしているのかい?﹂
立場上、しぶしぶ出席せざるを得ない羽目になったユイは、忙し
なく淑女達の中を駆け回る仕事を終え、一息つけに戻ってきた後輩
に向かってそう話しかける。
﹁めんどくさいなんて言わないでくださいよ。誰が聞いているかわ
からないんですから。いいですか先輩、こう言った場は矢や魔法は
飛び交いませんが一つの戦場なんです。武具を持たない貴族の武器
は、何時だって流言なんですから﹂
﹁そんなものか⋮⋮ますます私には程遠い世界だとよくわかったよ。
まぁ、義理もあって今回は参加したけど、こんな式に参加するのは
これが最初で最後だろうから、精々いい思い出にすると考えようか﹂
ユイは苦笑いを浮かべながらそう口を開くと、エインスは呆れた
471
表情をしながら彼を嗜める。
﹁また先輩はすぐそんなこと言うんですから。先輩の立場なら今後
も頻繁に呼ばれることになるんですから、少しは慣れて下さい⋮⋮
それと義理なんて言葉はもう少し小さい声でしゃべってくださいね。
先ほども言ったように誰が聞いているかわからないんですから﹂
﹁⋮⋮ほんと最近お前ってリュートに似てきたよな。いかんぞ、あ
んな小言人間になっては﹂
ユイが半目でエインスを見ながらそう口にした時、突然彼の頭を
鈍い衝撃が走った。
﹁誰が小言人間だ、誰が?﹂
﹁ああ⋮⋮いたのか、リュート﹂
自らの背後に、凶器となった鞘に収めた剣を手にしているリュー
トを目にしたユイは、叩かれた頭を抑えながら苦笑いを浮かべる。
﹁今回は女王就任式だからな。このパーティーの運営は貴族院主催
だが、当然警備は親衛隊が執り行っている。だから親衛隊の者は大
忙しなんだ。どこぞの親衛隊を設立したのに手伝わない顧問様や貴
族としての役目とはいえ部下を働かせて女の尻を追いかけ回ってい
る隊長様と違ってな﹂
﹁ははは、エインス。お前も言われているぞ﹂
自分だけが怒られているわけじゃないことになぜか気を良くした
ユイは、隣の後輩に向かって笑いかけようとする。しかしそこには
すでに彼の姿はなかった。
﹁いつからあいつはこんなに逃げ足が早くなったんだ⋮⋮やはり私
生活の影響かな?﹂
﹁馬鹿な上司の影響に決まっているだろ。全くお前がいつもあいつ
を甘やかすから、一向に親衛隊の長としての威厳が身につかんのだ﹂
472
﹁それは外の私ではなく、あいつの部下に問題が⋮⋮いや、何でも
ないよ﹂
本気で睨みつけてくるリュートに対し、ユイは両手のひらを前に
突き出しながら、慌てて発言を修正する。
﹁フン、まあいい。それよりも先ほど決まったばかりの事だが、至
急貴様の耳に入れておきたいことがある﹂
﹁私にかい? なにかな﹂
﹁実は、今回の女王就任に当たって、どうも一つの取引が︱̶﹂
リュートがそう話し始めたところで、彼の話を遮るように一人の
男が彼らの前へと姿を表した。
﹁おい、庶民共。貴様等がなぜこんな所に顔を出している﹂
ユイたちは何処かで聞いたことのあるその声に、思わず彼らの正
面へと視線を移す。するとそこには先日まで帝国の捕虜の身にあっ
た同級生のムルティナの姿があった。
﹁ああ、ムルティナか。久しぶりだね、無事帰って来られたみたい
で何よりだよ﹂
﹁おい、イスターツ。私を呼び捨てにするな。この晩餐会の席は戦
場ではない。たとえ貴様が三位であろうと、そんな階位などこの席
では関係ないことを知らんのか?﹂
﹁そうかもしれないけどさ⋮⋮ほら同級生じゃないか﹂
ユイが弱った様に頭を掻きながらそう口にすると、ムルティナの
視線は殺意を含むかのように険しくなる。
﹁ふざけるなよ、このど庶民が。年が同じだからと言って、私と貴
様が同格であるはずがなかろう﹂
祝賀の会に相応しいとは言い難い怒声がその場で発せられると、
二人を中心に凍りついたかのような空気が流れた。周囲にいた者達
473
も一斉にムルティナとユイに視線を向ける。
リュートが仕方なく二人を分けようと介入しかけたその時、そん
な彼を制するように、今回の警備主任を務めているもう一人の同級
生が、背後から二人に近づいて声をかけた。
﹁おやおや、いかがされましたか? ⋮⋮って、ユイとムルティナ
君じゃないか。こんな祝いの場で揉め事は困るな﹂
笑みを浮かべながらも警告するかのようにそう言葉を発するアレ
ックスは、普段以上にキツネ目を細めて、ムルティナを睨みつける。
すると、彼の存在に気がついたムルティナは急に表情を青くさせる
と、頬を引きつらせつつ、わずかに後退する。
﹁む⋮⋮そうであったな。私としたことが、つい薄汚い庶民を目に
して、落ち着きを失ったようだ。はは、これにて失礼させてもらお
う﹂
少しずつ後退りながら、それだけを口から発すると、ムルティナ
はそそくさとその場から退散する。
﹁助かったよ、アレックス。昔から彼は、君の言うことは耳を傾け
てくれるみたいだからね﹂
﹁まぁ、彼とは色々と愉快な出来事もあったからね。それよりも先
ほどの耳にした会話の様子だと、ユイにはまだ伝わっていないのか
い?﹂
アレックスはリュートに向かって視線を移すと、そう言葉を発す
る。
﹁ああ、今話そうとしたんだが、あの馬鹿が絡んできてな﹂
﹁なるほど⋮⋮ね﹂
そう口にして頷きあう二人の姿を目にして、ユイは首を傾げると
二人に向かって問いかける。
474
﹁二人して、何の話なんだい?﹂
ユイの問いかけに対して、どちらが答えるか顔を二人が見合わせ
ると、そんな彼らの背後から大きな歓声が聞こえてきた。
﹁あらら、間に合わなかったか。まあいいや、現実を理解してもら
う意味でも、ユイは直接彼女の口から聞いた方がいいかもしれない
かな。とりあえず僕は警備に行ってくるから。リュート、あとはよ
ろしく﹂
﹁おい⋮⋮くそ、あいつめ﹂
リュートはパーティー会場の前方に用意された壇上に上がろうと
するエリーゼに向かって、慌てて駆け寄るアレックスを目で追いな
がら、一つ舌打ちする。
﹁だから、一体何のことなんだい。どうも私に関わる何かがあるみ
たいだけど﹂
﹁ああ⋮⋮まぁすぐに分かるさ。エリーゼ様のスピーチを耳にすれ
ばな﹂
リュートはユイに向かってそう口にすると、そのまま壇上のエリ
ーゼに視線を向ける。彼の視線を追うように、壇上へと視線を動か
したユイの目には、ちょうど来場した者たちに語りかけ始めるエリ
ーゼの姿があった。
来場への感謝、亡き父への思い、そして皆への協力の要請。その
一つ一つを丁寧に、そして真摯に語りかけるエリーゼに対し、ユイ
を含めた聴衆の大多数は彼女に視線が釘付けとなる。そうして彼女
の演説に一区切りが付いた所で、水鏡のように静まり返った会場は、
割れんばかりの拍手に包まれる。
そんな会場の反応をゆっくりと見渡すと、彼女は大きく一つ頷き、
再び口を開く。
475
﹁このクラリスを支えてくださっている皆さん。私は皆さんに二つ
のことをお約束します。一つは皆さんにとって誇ることができる国
へとこの国に導くことを。そしてもう一つ、この国を支えて下さる
皆さんが安心して頂ける国づくりを目指すということをです﹂
そこでエリーゼは一度言葉を止めて間をとる。そして一瞬やや陰
りのある表情を浮かべた後に、会場を騒然とさせる発表を口にした。
﹁⋮⋮そのために、私は皆さんに御報告することがあります。皆さ
んは我が国を苦境から救い、そして先日は同盟国であるラインドル
を崩壊の危機から救った一人の英雄をご存知だと思います。この度、
私の女王就任に当たり彼の功績を称え、伯爵に任命することを貴族
院の方々とともに決定しました﹂
会場はその言葉を受け、一瞬どよめきが上がる。貴族院に属する
極一部の貴族を除いた皆々は、何十年ぶりかの新貴族の誕生、それ
も伯爵待遇という前代未聞の扱いに、驚きを隠せない。
しかしそんな会場の戸惑いを余所に、自らのことを指し示してい
ると気がついた当人は、表情を強ばらせながら今にもその場から逃
げ出したい気持ちに包まれていく。
だが、そんな彼の心情を誰も一人推し量ることもなく、時間は時
計の針を先へと進めていく。そしてユイがわずかに冷静さを取り戻
した時には、先程の宣言を口にしたエリーゼの隣に、どこかで見覚
えのある老人が並び立っており、ゆっくりと一枚の証書を読み上げ
ていく
﹁ユイ・イスターツ三位を、今日を持って伯爵とし、彼の者にレム
リアック領を与える。これは貴族院及び王家の決定事項である﹂
その宣言がなされた瞬間、先ほどとは明らかに異なる種の驚きが
会場を埋め尽くし、下位貴族に芽生えようとしていた嫉妬心は、一
476
瞬の内に消え失せていく。そしてそれとともに、無数の哀れみを含
んだ視線が、一斉にユイへと向けられていった。
一方、そんな周囲の反応など気にする余裕もなく、先ほど壇上の
老人より発せられたレムリアック領という言葉が、彼の脳へと深く
突き刺さっていた。
そんな呆然としているユイに向かって、老人は視線を向けると、
満面の笑みを浮かべながら彼に向かって祝福するように口を開く。
﹁ユイ・イスターツ三位。今日を持って君はユイ・フォン・レムリ
アック伯爵と名乗ることを許可される。さあ、この任命書を受け取
りに、こちらへ来てくれたまえ﹂
その含むところの有りそうな笑みを目にした瞬間、ユイは眼前の
男が貴族院議長であるブラウ大公であることに気がつくと、表情を
わずかに強ばらせる。そしてそれとともに、隣に並び立つエリーゼ
の申し訳無さそうな姿を目にした瞬間、ユイはすべての事情を理解
した。
ユイは弱ったよう苦笑いを浮かべる。そして三度頭を掻いて、脳
内を一度白紙にすると、壇上に向かって一歩づつ歩み始める。それ
とともにユイは急速に現在とり得る最善手を模索し、ブラウ達の描
こうとするキャンバスを上から塗り潰すためのシナリオを編み上げ
ていく。
﹁おめでとう、ユイ・フォン・レムリアック伯爵。これからは君も
我々の仲間だ。共にこの国のために働こうではないか﹂
思考を進めながら、ゆっくりと自らの正面へと歩み寄ってきたユ
イに対して、ブラウは喜色を隠すこと無くそう口にする。
その歪んだような笑みを目にしたユイは、脳内で構築し終えた彼
のシナリオに基いて、彼らしくない爽やかな笑みを浮かべる。そし
477
て、微笑みかけるようにブラウに向かって口を開いた。
﹁ありがとうございます、ブラウ大公。ただ私は庶民の出であり、
浅学非才の身であります。ですので、伯爵などというだいそれた爵
位をうまく勤め上げることができるか自信がございません。そこで、
大公とエリーゼ女王陛下に二つほどお願いがあるのですが⋮⋮﹂
ブラウ大公はこの状況でまさかユイがそのようなことを言い出す
とは考えておらず、想定していた進行とは異なる事態にやや戸惑い
を見せる。
﹁ほう。英雄と呼ばれる其方が、自信がないとはいささか意外であ
るが⋮⋮それで願いとは何かね?﹂
﹁レムリアックと言えば、あのクラリス南西部に位置するレムリア
ックのことであると考えます。あのような厳しい地域を私に与えて
くださったということは、逆に私に対する深い期待と受け取ってよ
ろしいでしょうか?﹂
﹁もちろんだ、伯爵。確かに彼の地を見捨てられた土地などと悪く
言う者も少なくはない。しかしながら、彼の地にはこの国で最も多
量で上質な魔石が埋蔵されていることもまた事実である。それ故、
いやだからこそ、英雄と呼ばれる君に期待して彼の地を任せるのだ
よ﹂
ブラウの返答を耳にして物は言いようだなとユイは内心で苦笑い
を浮かべる。
レムリアックは王国で最も上質な魔石が大量に埋蔵されている土
地であること、それ自体は偽りではない。しかしながら、そんな土
地に人が移り住んで行かないことこそ、彼の地に根ざす深い問題が
あることを端的に示していた。
﹁なるほど、それほど期待して頂いているとは光栄の極みです。で
すが、あの土地はたしか大病としてしられるルゲリル病の発生地と
478
伺っております。そのせいで命を落とすものも少なくなく、外から
働き手を呼び込むこともなかなか難しいかもしれません。ですので、
一つ目のお願いなのですが、十年ほどの間だけで結構ですので、人
を呼び込むためにも税を軽減頂き、彼の地での経済活動に関して自
由に商取引を行なわせて頂ければと考える次第ですが、いかがでし
ょうか?﹂
﹁むぅ⋮⋮税の軽減と申すか﹂
完全にシナリオ外の提案に、ブラウは一瞬考え込む。病がある限
り、如何に彼の地が税制面で優遇されようとも、人など集まらない
ことは明白であると思われる。しかし、少しでも可能性の芽を摘む
という意味では、わざわざ奴に少しでも有利な条件を提示すること
もないと考えると、口を開こうとした。
しかし、ブラウの考え込んだほんの僅かの時間の隙間に差しこむ
ように、ユイはエリーゼに向かって視線を動かすと、言葉を滑りこ
ませた。
﹁エリーゼ様、残念ながら現在彼の地は、ほぼ税が治められていな
い状態であると伺っております。しかし、もし願いを聞き届けてく
ださいましたら、十年後以降は今の年間に収めている税の十倍の額
を収めることをお約束致しましょう。如何でしょうか?﹂
ユイは一気にそうまくし立てると、悲痛な表情をしているエリー
ゼに向かって笑みを見せる。すると、彼の意図の一部を察知した彼
女は、会話の主導権をブラウから奪い取り、この場にいる全ての貴
族に聞こえる声を発した。
﹁いいでしょう、伯爵。もし今の十倍の額の税を納めるというなら
大変なお話です。そこまで王国に富をもたらして頂けるというので
したら、貴方の提案を断る理由なんてありません。そうですよね、
ブラウ公?﹂
﹁いや、しかしそれは⋮⋮何より本当に十倍の税など納めることが
479
できるとはとても⋮⋮﹂
先ほどエリーゼに対して、ユイの伯爵任命という提案を飲ませた
ばかりのブラウは、急速に動き出した状況の変化に、思考が追いつ
かない。そんな彼をたたみかけるように、ユイは微笑みながら彼に
向かって口を開く。
﹁はは、ブラウ公。あなた方が期待し信頼して下さった私を信じて
頂けませんか? もし私がこの約束を違えるようなことがあれば、
私は伯爵位及び軍部での役職を辞する所存です﹂
そのユイの言葉が発せられた瞬間、会場は再びどよめきに包まれ
る。
この国に住まうものでルゲリル病を知らぬものはほとんどいない。
それは風土病ともいうべき病であり、その病にかかれば体が次第に
動かなくなっていき、最後には呼吸も心臓も止まってしまう死に至
る病である。その病の存在がある為、どれほど魔石が埋蔵されてい
ようとも、古来より彼の地に住むもの達以外の住民は存在せず、未
だに放置され続けているのである。
そんな土地であるからこそ、その場にいた大多数は、ユイの提案
は自暴自棄のようにしか映らなかった。
そうして一瞬会場に空白の間が生まれると、突如会場内にいた一
人の男が、笑い声を上げ始めると、沈黙を切り裂くように壇上のブ
ラウに向かって口を開いた。
﹁良いではありませんか、ブラウ公。あの英雄殿が自らの進退をか
けると言われておるのです。この英雄殿の意気込みを汲み取らずし
て、この国を発展させる事ができましょうか﹂
その言葉を発し、会場内からの視線を一身に集めた者は、メレン
バル侯爵家の長子であるフィールであった。彼の自信に満ちた姿を
480
ブラウは目にすると、一度重々しく頷き、そして口を開く。
﹁うむ、汝の申すとおりだな。エリーゼ様もお認めのようであるし、
伯爵の手腕に期待する意味でも、その提案を認める方向で調整させ
て頂こう﹂
ブラウのその言質をとった瞬間、ユイは満面の笑みを浮かべると、
今度は申し訳無さそうな表情を浮かべながら、頭を掻きつつ口を開
く。
﹁ありがとうございます。では、もうひとつのお願いに関しまして、
述べさせていただいてもよろしいでしょうか?﹂
﹁うむ、しかし二つとは伯爵も欲張りだな。だが、今日はエリーゼ
様の女王就任と君の伯爵就任という正にめでたい日だ。どうぞ言っ
てみたまえ﹂
ブラウは口にした内容を耳にした瞬間、ユイは頭を掻きながら苦
笑いを浮かべると、その場の誰もが予想もしない願いを口にする。
﹁実は庶民出身の私が、皆様と同じようにフォンの称号を名乗るの
を非常に恐れ多く感じております。ですので、ご温情をかけて頂い
た皆様に恥ずかしくない実績を積むことができる時までは、今まで
どおりユイ・イスターツと名乗らせて頂きたいと思っております﹂
481
両巨頭
﹁入るぞ﹂
﹁なんだ、お前か⋮⋮﹂
遠慮無くズケズケと自らの執務室へと入り込んでくる男の顔を目
にすると、ヤルム公爵は呆れたように溜め息を吐いた。
﹁なんだはないだろ、なんだは。少しは客をもてなす気遣いくらい
欲しいものだが?﹂
﹁わしが望んでいる相手にだったらそうするがな。ノックも無くズ
カズカと部屋に入って来る品のない軍人相手に、どうして気遣いが
必要かね?﹂
ヤルムはラインバーグの姿をチラリと目にしたきり、興味を失っ
たかのように手元の書類へと視線を落とす。
﹁おいおい、急に訪問したことは詫びるが、ノックならしたぞ。ど
うせ書類の世界にでも埋没しておったのだろう﹂
﹁ふん。こっちは軍人の戯言を聞いとる暇など無い程忙しいのだ。
要件くらいは聞いてやるから、手短に話せ﹂
無駄な会話をする気のないヤルムは、疲れた表情を浮かべながら
ラインバーグに向かって簡潔にそう告げる。
﹁要件はわかっているだろう? 当然、先日の話だ﹂
﹁レムリアックの件か﹂
﹁ああ﹂
ヤルムの端的な返答に対し、ラインバーグは一度頷いて肯定を示
す。
482
﹁それで、お前はわしに何を言いに来たんじゃ?﹂
﹁幼馴染としては、今回の貴族院の干渉に対し、お前がどう考えて
おるのか興味があってな﹂
ラインバーグのその発言は、内務省の内諾を受けること無く、ブ
ラウを始めとする貴族院の面々が、ユイに対して内政上の約束を行
ったことを指していた。
本来、クラリスの内政上の政策決定権は、内務省の管轄事項であ
る。そうであるにも関わらず、なんの実権も持たぬ貴族院が勝手な
約定をユイと行ったことに、内務省の人間は少なからぬ反発を見せ
ていた。
そしてそれは、内務省の長であるヤルムも同様である。それ故、
ラインバーグのその発言を耳にすると、不機嫌な顔を隠すこと無く
目の前の書類から視線をあげた。
﹁素直にイスターツのことが心配と言えばいいのに、もったいぶり
おって﹂
﹁⋮⋮わかるか﹂
﹁当たり前だ、何年の付き合いだと思うておる﹂
図星だとばかりに苦笑するラインバーグに対し、ヤルムは呆れた
表情を浮かべそう口にする。
﹁それで、一体どうするつもりだ?﹂
﹁どうするも何も、エリーゼ様が皆の前で認める方向で発言をされ
てしまわれたしな⋮⋮就任したばかりの女王に発言を撤回させるわ
けにもいかん。今回はブラウと貴族院の独断をほぼ丸呑みするさ。
もちろんいくつかの点はイスターツの奴と調整が必要だがな﹂
ヤルムは苦虫を噛み潰した表情を浮かべると、忌々しげにそう答
える。
483
﹁しかしそれでは、宰相の権限に貴族院が介入したに等しいぞ。悪
い先例となるのではないか?﹂
﹁別に構わんさ⋮⋮それにおそらく奴にとっていいお灸になるだろ
う﹂
﹁お灸?﹂
聞きなれない単語を耳にしたラインバーグは、訝しげな表情を浮
かべながらヤルムに聞き返す。
﹁そんなことも知らんのか? 東方の治療の一種だよ。だから脳味
噌まで筋肉に汚染されとる男と話すと本当に疲れる⋮⋮ともかく、
今回の計画が奴個人の勝手に言い出した話じゃったら、全力で跳ね
つけてやるところだ。だが、今回はあのイスターツが言い出した話
だからな。おそらく何か裏があるのだろう﹂
﹁ほう⋮⋮お前もなかなかユイのことを買っているじゃないか﹂
﹁お前程ではないわ。ともかく内務省の管轄事項に手を突っ込もう
とした貴族院の連中には、それ相応の報いは受けてもらわんとな﹂
そう口にして、ヤルムはニヤリと口の端を釣り上げる。その仕草
を目にしたラインバーグは、思わず声を出して笑ってしまった。
﹁はは、お前もなかなか性格の悪い﹂
﹁まあ、今回に限ってはイスターツの背中を押してやる。あのヒヒ
爺いめ、今に見ておれ﹂
ブラウ公の嫌らしい顔を脳裏に浮かべ、毛嫌いしていることを隠
すこと無くヤルムは心の底からそう毒づいた。
﹁それでこそ闘う宰相だな。先日は大人しくしておったから、なに
か考えておるとは思ってはいたがな﹂
﹁ふん。先日は面白くなりそうであったから、口を挟まず見守って
おっただけだ。しかし奴のことを思いだすだけでも腹立たしい。貴
族院の連中は内務省をなんだと思っているのだ、まったく﹂
484
﹁それに関してはうちも同じだな。連中の軍務省への干渉も収まる
ところを知らん。残念ながら奴らが次官ポストを押さえているから、
人事権を好きに弄ばれておる﹂
ラインバーグは思うように軍政改革が進まない苛立ちを吐露する
と、ヤルムは彼に向かって手厳しい一言を放つ。
﹁それはお前が情けないからじゃろ。うちの内務省はまだ独立独歩
は維持しておるぞ﹂
﹁ふん、貴族院の連中に勝手に政策を決められおったくせに﹂
ラインバーグは自分が痛いところ突かれたためか、わずかに皮肉
っぽくそう言い返した。
﹁あれはエリーゼ様の決定だよ、表向きはな。まったく、そうやっ
て人の揚げ足を取ろうとする癖は変わらんな。いつまでも成長しな
い奴だ﹂
﹁ふん、もうお互いただのジジイさ。成長なんかこれ以上せんわ﹂
﹁お前相手だからこの際はっきり言っておくが、内務省の長として
判断するならば、あの時イスターツの提案はとても飲めるものでは
ない。まぁ、あの場でそのことに気づいたものは、少数であったよ
うだがな﹂
ヤルムは先日の会場の反応を思い出しながら、ラインバーグの目
を直視すると、真面目な表情でそう口にする。すると、ラインバー
グは疑問を隠す事ができず、額に思わずしわを寄せる。
﹁⋮⋮どういうことだ?﹂
﹁やはり脳筋でさえ気づきもせんかったか⋮⋮もし奴の提案を丸呑
みして、さらにとある条件が加わったら、あのただの口約束は馬鹿
にならん話となる。普通ではその前提条件を整えることが、どだい
無理な話ではあるのだがな。しかしあの男なら万が一も起こりえる
と思っておる。もし成功させたとしたら、奴の国家への貢献に対す
485
るわしからの贈り物だな﹂
﹁あいつがただ急場凌ぎの提案を口にしたようにしか、わしには思
えんかったがな⋮⋮﹂
ラインバーグは税減免を願い出るために、十年後の負担増を言い
出したユイの発言を思い出すと思わず首を捻る。
﹁まぁ、脳筋はそれで良い。お前にはお前にしかできんことがある
だろ、それをやっておけばいい。この分野はわしにまかせておけ。
まあ、今回の事がイスターツの思うように運べば、ブラウのさんざ
ん悔しがる顔が見られるだろうて﹂
﹁ふむ、ならばそれを楽しみにさせてもらうとしようかな。いや、
期待していた以上に有意義な話を聞くことができた。では、そろそ
ろ私は失礼しようか﹂
ラインバーグはそう口にすると、腰掛けていた椅子からゆっくり
と立ち上がる。
﹁なんだ、突然やってきて突然去る気か。ちゃんと茶菓子くらい出
してやるから、少しくらいはゆっくりしていけ﹂
﹁すまんな。この後、ユイたちと会議をすることになっておるのだ。
その前にちょっとお前の元に立ち寄ってみただけでな﹂
﹁わしはあやつらのついでというわけか。まぁいい、ならばお前の
ほうからもイスターツの奴に釘は差しておいてくれ。先日のことは、
場の流れであったとはいえ、次は無いぞとな。今回は認めるが、特
例など国家にとってろくなものでないからな﹂
﹁わかった、伝えておこう﹂
ヤルムの忠告を耳にするなり、ラインバーグは一度大きく頷く。
その動作を目にしていたヤルムは、やや名残惜しそうな表情を浮か
べつつ口を開いた。
﹁うむ⋮⋮ではまたな軍人。遠慮せずに、もう少し遊びに来いよ。
486
次は最初から茶菓子くらいは出してやるからな﹂
﹁ああ、覚えておこう。ではな﹂
別れの言葉を口にすると、ラインバーグはまっすぐに入り口のド
アへと歩み寄る。そして後ろを振り返ることなく、彼は退室して行
った。
その消え去っていった後ろ姿を、寂しそうな表情を浮かべながら
見ていたヤルムは視線を宙に漂わせると、誰に聞かせるともなく独
り言を呟く。
﹁ふむ⋮⋮あのラインバーグでさえも完全には気づいておらんか。
あの場でイスターツの正確な意図を読み取ったのは、一体幾人おっ
たものかな⋮⋮だが、これもブラウが自ら蒔いた種じゃ。せいぜい
後で吠え面をかくが良い﹂
487
二つの計画書
﹁申し訳ありません⋮⋮ユイ﹂
﹁止めてください、エリーゼ様。もう女王になられたんですから、
そんな軽々しく頭を下げないで下さい﹂
ユイは弱ったように頭を掻きながら、エリーゼに向かってそう告
げる。
エリーゼの女王就任式典の翌日、ユイ達はラインバーグやエイン
ス達とともに王宮の親衛隊室にて今後の方針を検討することとして
いた。そうして約束の時間ぎりぎりに到着したユイが、部屋にはい
るなり目にしたものは、自分に向かって頭を下げるエリーゼの姿で
あった。
﹁でも⋮⋮私の先走りのせいで、貴方をレムリアックなんかに封じ
る羽目になってしまって﹂
帝国軍の侵攻以降、ユイをどうしても貴族へと取り立てたいと考
えていたエリーゼは、これまでそのことごとくを貴族院によって阻
害されてきていた。しかし先日のラインドルの件は、貴族院に対し
て格好の交渉材料だとエリーゼは考え、当初は男爵か子爵あたりの
階級を与える形で交渉するつもりであった。
そうして貴族院を取り仕切るブラウとの交渉に挑んだ彼女は逆に
貴族院の側から伯爵号の提案を受けることとなったのである。彼女
はいささか驚きながらも、好条件を得たとばかりに即断し受け入れ
た。
しかしクラリスにおいて伯爵号とは、単に貴族としての階級を表
しているわけではなく、伯爵領の領主を意味するのである。伯爵よ
り下の男爵や子爵であればあまり大した領地を持たなくても爵位を
名乗ることが許されているが、伯爵となるとそうはいかない。
488
そして現在のクラリスにおいて伯爵と名乗れるだけの領地として、
国内で空いている土地はただ一つしかなかったのである。それこそ
がレムリアックであり、だからこそ貴族院は、ユイの伯爵号を積極
的に推奨したのである。
﹁まさかレムリアックを押し付けてくるなんて、誰もわかりはしま
せんよ。私としては、別に失敗して当たり前という気持ちでやれま
すし、逆に新米貴族としては気楽だというものです﹂
ユイがエリーゼを気遣うようにそう話すと、反対の方向からエイ
ンスが笑みを浮かべながら口を開く。
﹁そうですよ。それに先輩は往生際が悪いですからね。この間の会
の時も、土壇場でブラウ公に向かってとんでもないこと言い出しま
すし﹂
﹁税の減免のことかい?﹂
﹁そうです。それと十倍の税金を払うって話もです。正直言って、
また無茶を言い出したと思いましたよ﹂
エインスは呆れたような口ぶりでそう告げると、ユイは弱ったよ
うに頭を掻いた。
﹁おいおい、最初に無茶を言ってきたのは向こうじゃないか。順番
を間違えないでくれよ﹂
﹁ブラウ公が難癖を付けてくるのは今に始まったことじゃないさ。
それよりもどうするつもりだ、あんな大見得を切って﹂
それまで石像のように腕を組んで押し黙っていたリュートが、ユ
イに視線を合わせながらゆっくりと唇を動かす。
﹁ん。十年後に十倍の税を納める件かい?﹂
﹁そうだ。行ったことも見たこともない土地に関することをあんな
簡単に決めてしまって⋮⋮一体どうするつもりなんだ?﹂
489
﹁どうするって言われてもな⋮⋮逆に聞くけど、彼等が本当に十年
も私をあの土地においておくつもりがあると思うかい?﹂
﹁なるほどね。どうせすぐに難癖を付けて領地と爵位を奪い取りに
来るだろうから、十年後の約束など空手形同然だと言うわけだ﹂
その場に同席していたアレックスがいつも以上に目を細めてそう
呟くと、ユイは苦笑いを浮かべつつ小さく頷く。
﹁半分は正解かな。どちらにせよ、彼らの真の狙いは私の失脚だろ
うから、彼等が難癖付ける前にもらえるものはもらっておこうと思
ってね。もちろん住民には迷惑をかけない形でという前提条件はつ
くけど、十年後全くダメだったら私が責任をかぶって逃げてしまえ
ばいいだけだしね﹂
﹁はぁ⋮⋮どうせそんなとこだろうと思っていましたよ﹂
エインスは呆れたように溜め息を吐くと、目の前の机に突っ伏す。
そんな彼に目をやりながら、ユイは時間を気にする様子を見せてい
た。その仕草に気がついたアレックスは、その会議にて一つだけ残
された空席に視線を向けると口を開く。
﹁しかしラインバーグ大臣は如何されたのでしょうか。あまり時間
に遅れるような方ではないのですけどね﹂
﹁ふん、ユイの奴とは違うんだ、なにか理由が有られるのだろう﹂
リュートが腕組みをして目を瞑ったまま、ラインバーグを擁護す
る。しかしその発言の中に含まれていた毒に、ユイは思わず頭を掻
いて反論した。
﹁おいおい。それじゃあまるで、私が会議に遅刻してばかりみたい
じゃないか﹂
﹁それ以外の何かに聞こえたか?﹂
突然槍玉に挙げられたユイは苦笑いを浮かべながら反論するも、
リュートはそれをバッサリと切り捨てる。
490
﹁いいかい、リュート。正直言って、ここ最近の会議に私が遅れた
ことはないよ。嘘だと思うなら調べてみたらいい﹂
ユイは両手を広げそれだけ告げると、言いたいことは言い切った
とばかりに、大きなあくびを一つ行った。
﹁そりゃあ、先輩は自分に関わる全ての会議を午後に開くようにし
てしまいましたからね。しかし、ただでさえ自分の都合で会議の時
間決めているのに、なんで今日も眠そうにしているんですか⋮⋮先
に言っておきますけど、いつものように会議中に飽きて昼寝するの
は止めてくださいね﹂
﹁勘弁してくれよ。私がちょっと昼寝をするぐらいで誰に迷惑をか
けるというんだい⋮⋮って、こんな事を言っている場合じゃない。
もう次の予定が入っているんだ。申し訳ないけど、私はここで失礼
させてもらうよ﹂
ユイは時間を確認しながらそう口にすると、苦笑いを浮かべつつ
困ったように頭を掻く。
﹁ちょっと、どこに行くつもりですか先輩。まだ会議は始まってさ
えいないんですよ﹂
﹁いや、そうなんだけどね⋮⋮どうしても外せない用があってさ。
あ、これを作っておいたから各自目を通しておいてくれ。今回のこ
とで必要になるものと人員の草案だから。もっともこのあと大きく
変わるかもしれないけどね﹂
ユイはその場から立ち上がると、今後の計画について三枚の用紙
にまとめた計画書を皆に配る。そこには今後領地経営を行っていく
上で必要となる物資、人材やそのコストがおおまかに記されていた。
皆の注目がその紙面へと移ったことを見計らうと、ユイはそっと
その場を立ち上がり、部屋の入口へと移動する。そんな彼の動きに
気がついたエリーゼは、彼の背中に声をかけた。
491
﹁ちょっとお待ちなさい、ユイ。別にこの会議を抜けるのは構わな
いけど、行く前に一つだけ聞いておきたいことがあるの﹂
﹁何でしょうか、エリーゼ様﹂
﹁先日あなたは二つお願いを口にしましたよね。その二つ目として
あなたは伯爵号を名乗らないことを口にしました。ずっと気になっ
ていたのだけど、あれには何か意味があったのですか?﹂
エリーゼはあの日から気になっていた疑問を、ユイに向かってぶ
つける。するとユイは、一瞬なんのことかわからず首をひねった。
﹁名前の件って⋮⋮何か有りましたっけ?﹂
﹁⋮⋮先輩。先日ブラウ公を前にして、フォン・レムリアックを名
乗らないと言っていたじゃないですか。その件ですよ。やはりこの
時間でもまだ寝ぼけているんですか﹂
エインスがジト目でユイを睨みながら、彼の記憶の助け舟を出す。
すると、ユイはようやく伯爵名を名乗らないといったことを思い出
した。
﹁ああ、あれね。あった、あった。えっと、あれはさ、もしユイ・
フォン・イスターツなんて長ったらしい名前になったらすごく面倒
なことになると思わないか? 主に署名する時とかにさ﹂
﹁まさか、署名するときの文字数が増えるのが嫌だったとか⋮⋮冗
談ですよね?﹂
エインスはユイのことであるから、事実である可能性は低くない
と認識していた。しかしながら、ユイの口にするあまりにひどい理
由に、彼の脳は理解することを拒む。
しかしそんなエインスに向かって、当の本人は彼の当たってほし
くなかった予想をあっさりと肯定してみせた。
﹁冗談ですかって言われても⋮⋮そんなに変なことを私は言ってい
492
るかい? 例えばフォンなんて一度書くだけなら三文字だけど、仮
に月に一万枚の書類にサインするとすれば、三万文字も書く量が増
えるんだよ。場合によっては伯爵号も記載しなければいけないし、
そんな面倒なことはやってられるわけないよ。あんなのはさ、どこ
ぞの貴族なんかが、せっせと書いていればいいんだよ﹂
﹁先輩は以前からどこか価値観がおかしいと思っていましたが⋮⋮
だいたい僕もどこぞの貴族なんですよ、それも結構大きな﹂
エインスが心底呆れた表情を浮かべて肩を落とすと、ユイはあま
り気にしていないのか、頭を掻きながらエインスに向かって軽口を
たたく。
﹁ああ、そういえばそうだったか⋮⋮じゃあ、お前も辞めれば?﹂
﹁できるわけ無いでしょ! 全く先輩はこれだから⋮⋮リュート先
輩も何とか言ってやってくださいよ﹂
﹁俺に振るな。こいつの性格に関しては、とっくの昔に諦めている﹂
ユイの書いた草案を目に通すことに忙しいリュートは、期待に満
ちた目で見つめてくるエインスに対し、条件反射的にそう口にする。
﹁ともかく私は行くよ。あまり待たせたらへそを曲げる人物との約
束だからね﹂
﹁ユイ。君がこの時期にわざわざ会いに行くへそ曲がりの人物とい
うことは、今から学園に行くということかい?﹂
﹁ああ、ちょっとあの頑固親父に会わなければいけなくなってね。
そういうわけで、あとはよろしく﹂
それだけ口にすると、ユイは後ろを振り返ること無く部屋のドア
から出て行ってしまった。
﹁すいません、エリーゼ様。せっかく今日はエリーゼ様もお越しに
なられたというのに、相変わらずあの人はマイペースで﹂
﹁いえ、構いませんよエインス。今日は私が突然おじゃまして、彼
493
に謝りに来たわけですから。特に気にしていません﹂
エリーゼはニコリと微笑んでそう口にすると、ユイが書いた手元
の草案へと目を落とす。そうして皆がその資料を読み始めて会議室
が静まり返った頃に、当然部屋のドアがノックされる。そしてゆっ
くりとドアが開けられると、白髪の老人が姿を表した。
﹁すまんな、ちょっと遅くなってしまった﹂
﹁お待ちしていましたよ、ラインバーグ。しかしあなたが遅れるな
んて珍しいですね﹂
エリーゼは申し訳なさそうに部屋へ入ってきたラインバーグを目
にすると、微笑みながらそう口にする。
﹁エリーゼ様もお越しでしたか、申し訳ありません。実は内務省経
由でここへ来たのですが、先ほど王城の入り口で帝国の外交大使と
顔を合わせてしまいまして。それで多少時間を食ってしまったので
すが⋮⋮それはともかく、ユイのやつはどこへ行かれました?﹂
﹁先輩なら先約があると行って、先ほどこの手抜きの資料だけ残し
て出て行ってしまいましたよ﹂
エインスが手元の走り書きに等しい草案の紙を示しながら、困っ
た表情を浮かべてそう告げる。するとラインバーグはあいつらしい
と苦笑いを浮かべると、手近な椅子へと腰掛け、余っていた草案の
紙を手にした。
﹁⋮⋮そうか、ならヤルムの奴からの伝言はまた今度じゃな。とも
あれ、まずはこの資料とやらを目に通させてもらおうか﹂
﹁こんばんは、アズウェル先生いらっしゃいますか?﹂
アズウェル教室のドアをノックすると、ユイはどうせ返事が期待
できないと知っており、気にすることなく中へと入る。
494
﹁⋮⋮なんじゃ、誰かと思えば貴族に成り上がりおった元校長か。
こんな時間にワシに何のようじゃ?﹂
額にしわを寄せながら、机の上の書類から視線を動かすことなく、
アズウェルは返事する。いつになっても変わらぬその姿に、ユイは
苦笑いを浮かべながら、散らかり切った部屋の真ん中に放置されて
いる椅子に腰掛ける。
﹁いや、この時間に訪問しますと、昼には届くように手紙を書いて
おいたつもりですが﹂
﹁ん、手紙? ⋮⋮ああ、これか。ふん、この論文よりはどうでも
よさそうだったからまだ読んどらんわ﹂
﹁はぁ⋮⋮どうせそんなところじゃないかと思っていました。取り
敢えず、今日は先生に見て頂きたいものが有りまして、その採点を
お願いしに参った次第です﹂
﹁なんじゃ、ワシは忙しいんじゃ。今はお前の相手をしとる暇など
ないぞ﹂
取りつく島も無いようなアズウェルの拒絶を耳にして、ユイは頭
を二度掻くと、椅子から立ち上がりアズウェルの机の側へと近寄る。
﹁ええ。ですが、決して無駄な時間にはしませんよ。まあ騙された
と思ってこれを見て下さい﹂
ユイはそう口にするなり、先ほどの会議で提出した草案とは明ら
かに分量が異なる数十枚からなる書類の束を、アズウェルの読んで
いる論文の上へと置く。
﹁しつこいやつじゃな、お前も。ふん、最初の一ページだけは目を
通してやる。それがくだらんかったら、それ以上はもう読まんから
な。なになにユニバーサルコード理論を応用したレムリアックにお
495
ける諸政策について⋮⋮おい、ユイ。お前⋮⋮﹂
﹁まぁまぁ。そんな怖い顔をせずに、中に目を通してくださいよ﹂
厳しい表情をしながら始めてユイに向かって顔を上げたアズウェ
ルに対し、彼は両手を前に突き出して落ち着くように告げる。する
と、内容への興味が勝ったためか、アズウェルはすぐに視線を紙面
へと戻すと次々に読み進めていく。
そうして、アズウェルが幾許かの時間をかけて最後の一枚を読み
終えると、彼は大きな溜め息を吐き出した。
﹁さて、私の貴族への取り立てを知っていらっしゃるということは、
レムリアックを任地にされたこともご存知だと思います。この際正
直に言いますが、普通にやってもあの地をまともに発展させるなん
てどだい無理な話なんですよ。ですから、少し私なりのアイデアを
盛り込んで、計画を立てて見たのですが、如何でしょうか?﹂
﹁本気でこの内容でやるつもりか? 貴様はどれくらいの確率でう
まくいくと思っておる?﹂
アズウェルはユイを睨みつけるかのような鋭い眼光を放ちつつ、
彼にそう問いかけた。
﹁そうですね⋮⋮正直言って、現段階では五分五分くらいがいいと
ころでしょうか。やってみないとわからない不確定要素が多すぎま
すからね﹂
﹁そうか⋮⋮五割か﹂
ユイの予測を耳にしたアズウェルは、自分の考えをまとめるため
にそのままの姿勢で腕を組む。
﹁ええ、そんなものだと思います、私一人の力ではですが。そこで
今日は先生のところへ足を運んだのですよ。おそらく先生の力を借
りることが出来れば、もう少し分の良い賭けになると思いましたの
で、昨日徹夜でそれを書き上げたんですよ⋮⋮それで私が立案した
496
この答案ですけど、採点はいかがでしたか?﹂
﹁なんじゃ、本当に採点して欲しかったのか? ふん、零点じゃ﹂
﹁えっ⋮⋮そんなにお気に召しませんでしたか?﹂
﹁ふん、内容には問題などありはせんわ。こんなものお前以外の誰
も書くことはできん。しかしな、こんな汚い字で書かれたものなど
に点数をやることができるか。学生の答案なら突っ返してやるとこ
ろじゃ﹂
アズウェルが鼻息を吐き出すような形でそう言い切ると、ユイは
苦笑いを浮かべつつ肩をすくめる。
﹁ははは、それは失礼。なにぶん時間が全然ありませんでしたので、
それくらいはお目こぼしいただけると助かります﹂
﹁まあいい。それよりもお前がレムリアックに封じられたことはク
レハから聞いたが、ブラウの奴にどんな無理難題を押し付けてきた
んじゃ?﹂
﹁あらら、お見通しですか。いや、あまり大したことじゃないんで
すけどね、十年の間だけ税を軽減頂くことと、自由な商取引を行わ
せることですよ。もちろん十年後以降に現在収めている十倍の額の
税を国庫に払うという約束と引き換えですがね﹂
﹁⋮⋮貴様、ブラウを嵌めよったな﹂
アズウェルは口元を皮肉げに歪めながらそう口にすると、ユイは
弱ったように頭を掻く。
﹁えっと、何のことでしょうか?﹂
﹁ふん、この詐欺師め! しかし面白くなってきたわ。お前がここ
を立つ予定は何日じゃ?﹂
﹁今のところ、十日後の予定です﹂
﹁十日か⋮⋮ふむ、ならば今は少しでも時間が惜しいな。今日から
雑用は全て部下に任せて、貴様はここでワシと合宿じゃ。良いな?
では、早速今からとりかかるぞ﹂
497
アズウェルは面白い研究材料を見つけたとばかりにそう口にする
と、ユイの返事を確認することなく、視線を資料へと移す。
そうして元校長と教授の合宿は、まさにその瞬間から開始される
こととなった。
498
レムリアック
レムリアック。
それはクラリス王国南西に位置し、ノバミム自治領との国境とな
る地方の名称である。
かの地は古来より非常に純度の高い魔石が取れることで有名であ
り、クラリス王国が建国される以前は、一攫千金を夢見て定期的に
移住するものが後を絶たなかった。今では当時のことを魔石狂時代
と呼ぶ。
この﹃狂﹄の一字は一攫千金を夢見て踊らされた人々を指すこと
もあるが、その本質は違う。魔石狂とはレムリアックへと夢を抱い
て旅立ち体を狂わせていった者たちのことを呼ぶのである。
そしてその人々の体を狂わせた病のことを、レムリアックで最初
に発見された魔石鉱山の名前からいつしかルゲリル病と呼ぶように
なっていた。
ルゲリル病とは現在では別名で筋硬化症とも言われる病であり、
王国内でも三大奇病に指定されている。この病に罹れば体の筋肉が
次第に動かなくなっていき、最後には呼吸筋や心筋の動きを止めて
しまうという、まさに恐るべき死の病である。
この病に掛かったものは、少なくない者が死に至るが、中には病
を克服して以後二度とかからない者もおり、現在彼の地に暮らす者
の多くはかつてルゲリル病にかかり治癒したものが多い。そうして、
そんな少数の人々が現在も彼の地に住んで魔石生産に従事している。
499
しかしながら、そのように病を克服さえすれば働くことができる
とはいえ、それは無数の屍の上で生存を果たしたものに過ぎず、い
くら潤沢に魔石がある土地といえども、これまではほとんど開発が
なされていなかった。そう、これまでは⋮⋮
﹁旦那、これはひどい田舎でやすね。本当にこの領地の中心地なん
ですかい?﹂
﹁ああ、そうだよ。ここがレムリアックの中心地のアモキサート市
さ。っていうか、クレイリー。地方に来てひどい田舎って言うなん
て、お前もすっかり王都生活に馴染んじゃったんだな。正直、私は
寂しいよ﹂
クレイリーに向かって冷めた視線を浴びせながら、ユイは首を左
右に振ると溜め息を吐く。
﹁⋮⋮旦那、流石にここはカーリンよりも明らかに田舎ですぜ。別
に田舎ってぐらい、言ってもいいじゃないですかい﹂
﹁ははは。でも、兄貴。うちの実家の村もこんな感じでしたよ﹂
クレイリーがジト目でユイを睨みながら反論を口にするも、後方
からカインスが爽やかに笑いながら二人に向かってそう口にする。
今回のユイのレムリアック行きに関して、親衛隊からも数名人員
を出すこととなった。そしてその人員の選定にはユイは二つの決め
事を作った。それは彼より若いものは連れて行かないことと、希望
者のみで構成することである。
500
ユイ自身としては今回のレムリアック行きは私用に近いものであ
り、それを口実に誰一人同行者を連れて行かないつもりであった。
もちろん彼の本心は、ルゲリル病に同行者が罹る可能性を懸念して
のものである。
しかしそんな彼の思惑とは異なり、少なくない親衛隊の兵士がユ
イと同行することを強く希望し、中には彼に向かって脅迫まがいの
言動を口にする同行希望者まで現れるに至った。それ故、彼は前述
のような条件を出すに至ったのである。
そうした条件のもとで、親衛隊の中でもっともおっさんであり、
カーリン時代からユイにつき従う二人を、しぶしぶ同行させること
となったのである。
もちろんこの人選は他の大多数の親衛隊員、中でもこれまで常に
ユイの影として活動してきたクレハの激怒と引き換えの決断であっ
た。
紆余曲折はあったものの、最終的に今回の同行者が決まると、選
ばれたクレイリーは当然の人選だとばかりに胸を張った。彼として
は自分がいなければ誰もユイの手綱を握れるものがいないと考えて
おり、それを皆の前でも豪語していたのである。しかし、彼がカー
リン時代からユイと共謀して共に問題を引き起こしてきたことは周
知の事実であり、親衛隊の皆の期待は比較的常識人に近いさわやか
な筋肉ダルマに集まることとなった。
﹁しかしカーリンか。懐かしいな⋮⋮確かにカインスの家はカーリ
ンの中でもかなり田舎だったよね。親父さんは元気にされているか
い?﹂
﹁ええ、今でも元気にしてますよ。ラインドルから帰国してお休み
を頂いたじゃないですか。実はその際に帰郷してきたんですよ。も
501
っともおやじの奴は見事に入れ違いで、王都に商品の買い出しに出
ていたんですがね。ほんとにいい年なんですが、未だに若いつもり
でいますから﹂
カインスはニコニコした笑みを浮かべながら、ユイ達に向かって
帰省時のみやげ話を口にしていく。その話はカーリン出身のクレイ
リーはもちろん、ユイにとっても懐かしい記憶を呼び起こすもので
あった。
﹁しかしカーリンもこのレムリアックからならそんなに離れていな
いよな。たぶん次に自宅に帰る時はそんなに時間がかからないんじ
ゃないか?﹂
﹁そうですね。またこちらでお休みを頂けたら実家に帰らしてもら
いますよ﹂
﹁そうか、その際は私も同行させてもらおうかな。久しぶりカイン
スのおやじさんと酒を飲むのも楽しそうだしね﹂
ユイはカインスの実家に訪れた際に、おやじさんと酌み交わした
酒の味を思い出し、思わず頬を緩ませる。
﹁旦那⋮⋮なに仕事始める前から、休みの日のことばかり考えてい
るんでやすか。取り敢えずは、やっと到着したんですから、だらだ
らする前に役所の方に行きやしょうぜ﹂
﹁はいはい、そうしようか。確かにいい加減これだけの荷物を運び
ながら移動するのにも疲れたしね﹂
ユイはそう口にすると、大量に荷物を括りつけた馬を引くスピー
ドをほんの少し早める。
﹁それで、隊長。この旅の間、ずっと気になっていたんですけど、
502
その隊長の大量の荷物は何が入っているんですか?﹂
﹁これかい? ああ、これはアズウェル先生からの餞別だよ。田舎
に行ってワシの目が離れてもサボらないようにと、宿題をいっぱい
出されちゃってね﹂
ユイは馬の荷をポンと叩くと、苦笑いを浮かべる。
今回のレムリアックの旅路につく前に、アズウェルから必ず必要
になるからと、魔導書や医学書、魔石の国内分布図、そしてルゲリ
ル病に関する資料などを大量に持たされたのである。そのせいでユ
イは、彼の愛用の枕とシーツの持参を泣く泣く断念していた。
そうして三人が周りの住民に道を尋ねながらこのレムリアックの
中心地であるアモキサート市の市役所へと到着するのは、もうすぐ
日が暮れようかとする夕暮れ頃であった。
﹁なんとか日が落ちる前につくことができたね。しかし、ここが市
役所か⋮⋮なんともまぁ﹂
ユイは目の前のボロボロの建物を眺めやり苦笑いを浮かべる。周
囲に建てられている民家よりもはるかに年代モノといった印象のそ
の市庁舎は、歴史的建築物が放つような雰囲気すら持っており、正
直言って今にも崩れ落ちそうであった。
﹁旦那、最近王都やラインドルに行ってたから気づきませんでした
けど⋮⋮カーリンって、あれでもやっぱり裕福だったんですね。こ
こで働くのはなかなか勇気が要りやすぜ﹂
﹁仕方ないさ。ここは何年も前から領主がいなくて、年に数回だけ
王都の管理官が足を運んでいたみたいだからね。お金もないのに使
わない市庁舎を建て替えるなんて考えもしなかったんだろう。とに
かく、まずは中に入ってみようか﹂
503
ユイはそう口にすると、立て付けの悪い木の戸を開いて、中へと
足を踏み入れる。すると役所内にはここに用があると思われる住民
は誰一人おらず、ほんの数人の職員のみがほそぼそと働いている姿
が目に写った。
﹁⋮⋮隊長、いくら田舎町の役所だからって、これはちょっと﹂
この地方の中心の役所としてはあまりに寂しい状況に、クレイリ
ーはやや憂鬱そうな声を吐き出した。
﹁だからカーリンとは人口が違うんだよ。いいじゃないか、静かな
建物でさ、これだったらのんびり仕事ができそうだ﹂
ユイはそう口にすると、馬から降ろした大量の荷物を床に置いて
溜め息を一つ吐く。そして彼は取り敢えず手近な職員に声を掛けよ
うと、グルリと周囲を見回す。すると、近くの掲示板に誰も目を通
さなそうな告知用紙をせっせと貼っている亜麻色の髪をした女性を
見つけ、彼女に向かって話しかけた。
﹁すいません、ちょっといいかな?﹂
ユイは頭を掻きながら女性の背に向かって言葉を発すると、その
軍服姿の女性は振り返り笑顔で答える。
﹁はい。ああ、たくさんのお荷物ですね。旅の方でしょうか? 今
日は市役所にどんな御用事で、って⋮⋮えっ⋮⋮うそ⋮⋮﹂
大量の荷物に視線が行っていた女性は、ゆっくりと視線を上げて
ユイの顔を目にすると、突然その場で固まってしまう。そして唇を
震わせながら、彼女はユイに向かって途切れそうな声で言葉を発し
た。
504
﹁⋮⋮ユイ君⋮⋮なんで? なんでこんな所にいるの?﹂
彼女のその反応を目にしたユイは、彼も彼女と同じく呆然とその
場で立ち尽くしてしまう。
そのユイの目の前で戸惑いを見せるその美しい女性士官は、まが
うこと無く、かつて戦略科で学びを共にしたセシル・フロンターレ
その人であった。
505
セシル・フロンターレ
呆然と立ちつくしているセシルに対し、ユイは困った表情を浮か
べながら頭を掻くと、彼女に向かって口を開く。
﹁えっと、あれ? まだ王都から連絡が来ていないのかな⋮⋮一応、
今日から私もここで働くことになるから、またよろしく﹂
﹁よろしくって⋮⋮でもユイ君って、今はもう三位で閣下待遇でし
ょ。こんな田舎の軍務長なんて五位か六位の仕事じゃない。変だよ﹂
このレムリアックは僻地であるとはいえ、この地でもユイ・イス
ターツの名前を知らないものはいない。ましてやユイと共に学生時
代を過ごしたセシルは、彼の情報に一喜一憂しながら、これまでこ
の地で過ごしてきた。それ故、ユイの立場や階級については、王都
とレムリアックという距離の壁ゆえの時間差は生じてはいたが、あ
る程度把握していた。
﹁いや、今回私が来たのは軍の仕事じゃなくてね⋮⋮実は、ここレ
ムリアックを貰ったんだよ、このあいだね﹂
ユイが頭を掻きながらそう口にすると、セシルは彼が何を言って
いるのか理解できず、一瞬呆然とする。
﹁へ⋮⋮もらった⋮⋮え、ええ!﹂
ゆっくりと脳内にユイの言葉の意味が浸透し、その事実を咀嚼す
るや否やセシルは驚きの声をあげると、思わず目を見開く。
﹁いやぁ、嘘みたいな話だけど、本当のことでさ﹂
﹁⋮⋮まぁ、ほらユイくんはクラリスの英雄だしさ、別に貴族にな
ってもおかしくないと思うよ。だけどさ⋮⋮なんでよりによって、
506
このレムリアックなの?﹂
﹁これには色々と複雑な事情があってね⋮⋮とりあえずここで立ち
話も何だから、どこか適当な部屋に案内してくれるかな。私だけじ
ゃなく、彼らもたくさん荷物を持ってきているからね﹂
ユイは目の前で動揺を隠せずにいるセシルに向かいそう告げると、
後ろの彼の部下たちを指差した。
﹁なるほど、そんなことがあったんだね。でもさ、やっぱりユイ君
が貴族って違和感あるよ。そりゃあ、君の活躍は聞いていたけどさ﹂
放心状態であったセシルはしばらく呆然としたままその場を動く
ことが出来なかったが、困った表情でユイに促されると、どうにか
理性を回復させて一同を空室となっている軍務長室に案内する。
そして人数分のコーヒーを運んで来た後に、ユイから簡単な説明
を受けると、彼女は首を左右に振りながらそう口にした。
﹁はは、違和感か。まあ、仕方ないよ。だって当の本人もまだ慣れ
ていないんだからさ﹂
そう返事をしたユイは、運ばれてきたコーヒーに口をつけてわず
かに満足げな表情を浮かべ、思わず頭を掻く。
﹁うん、それはわかる。君がそんな簡単に貴族らしく振る舞える人
じゃないって知っているからさ﹂
セシルはユイの頭を掻く仕草を変わっていないなと感じると、よ
うやくかつての彼女が見せていた明るい笑みをこぼす。
507
﹁旦那ぁ、それで先ほどから親しげにしていやすけど⋮⋮こちらの
方はどなたですかい? そろそろ紹介して頂いてもいいんじゃない
かと思いやすが﹂
二人の会話を大人しく聞いていたクレイリーは、ユイとセシルに
向かって交互に視線を送ると、呆れたような表情を浮かべながらそ
う口にする。
すると、隣のカインスも同じ気持ちであったようで、彼も大きく
首を縦に振った。
﹁ああ、ごめんごめん。実は彼女は士官学校時代の戦略科の同級生
でね。セシル・フロンターレ六位だよ﹂
﹁はじめまして、セシル・フロンターレです。現在はこのレムリア
ックの駐在武官と軍務長代理を務めています。よろしくお願いいた
しますね﹂
セシルは二人に向かってそう自己紹介すると、ゆっくりと頭を下
げた。
﹁それで、こっちの怖そうなのがクレイリー六位で、そっちの筋肉
がカインス六位だ。同じ階位だから仲良くしてやってくれ﹂
ユイはラインドルより帰国後に昇進した二人を新たな階位で紹介
すると、クレイリーが不満そうな声を上げる。
﹁なんか、あっしらの紹介が雑じゃないでやすか? 旦那、あっし
らも長い付き合いなんでやすから、いくら美人さんと再会出来て嬉
しいからって、オマケ扱いしないでくださいや﹂
﹁いや、だって今回は来なくていいって言ったのに、付いてきたの
はお前たちだろ。まあ、それはいいとして⋮⋮セシル、君がこのレ
ムリアックにいるとは思わなかったよ﹂
ユイは首を左右に振りながらクレイリーにそう反論すると、すぐ
508
にセシルの方へと向き直る。
﹁あら、でもユイくんのことだからうちの下調べはしたんじゃない
の? リュート君とかミーシャにイタズラする時なんか、準備に骨
惜しみしていなかったじゃない﹂
昔の思い出を懐かしむようにセシルはふんわりとした笑みを浮か
べると、ユイは弱ったような表情を浮かべ、笑ってごまかす。
﹁はは、あの頃とは違うよ。確かにこの土地に関する資料は取り寄
せていたけど、全然時間がなくてね。ここに来る直前まで、偏屈な
おじさんに缶詰にされたせいでさ、軍に関してはリュートやアレッ
クス達に任せっきりだったん⋮⋮あれ? ああ、あいつらは知って
いたはずじゃないか! くそ、私を驚かせようと黙っていたんだな﹂
﹁ふふ、リュート君最近少し変わったからね。昔は少し棘々してい
たけど、去年の終わり頃に王都に報告に行った際に偶然会ったんだ
けど、すごく雰囲気が柔らかくなっていたわ﹂
学生時代には滅多に目にすることのなかった、ユイのしてやられ
た表情に、セシルは思わず白い歯をこぼしてリュートの事を口にす
る。すると隣にいたクレイリーは、冷静な声でセシルの言動を補足
した。
﹁リュートの旦那に関しては、たぶんセシルさんの目の前にいる困
った人の影響だと思いやすよ⋮⋮﹂
﹁なんだい、なんだい。私が一体何をしたっていうんだい。ともか
くだ、セシル。どうして君がこのレムリアックに⋮⋮というか、そ
ういえば君はレムリアックの出身だったか﹂
田舎の出でありながら、いつも長期休暇の際にユイと同じように
帰省していなかったことを思い出し、彼女に理由を尋ねた際にレム
リアック出身と言っていたことをユイは思い出す。
509
﹁ええ、その通りよ。軍務省でもさすがにここの赴任希望者がいな
くてね。だから地元出身の私は、戦略科を出て少し経ってからは、
ずっとここの勤務よ。去年はいよいよ動かす気もなくなったみたい
で、六位の階級と軍務長代理という肩書きをもらったわ。まあ、僻
地手当のようなものでしょうけどね﹂
﹁なるほどね。まぁ、ここはあの悪名高いノバミム自治領と国境に
あるし、いくら人材を送りたくなくても零にすることはできないっ
てことかな。まあ、最低限の治安の維持もしなければならないしね﹂
帝国の中でもその治安の悪さと元々他国であったという理由から
完全な併呑はされず、帝国より隔離された土地であるノバミム自治
領はこのレムリアックの南部にある。
それ故、彼の地から悪党が大量に流入して来た場合の対処や連絡
要員も兼ねて、軍は最低限の人員をこの土地に配属させていた。
﹁その通り。今みたいにルゲリル病が有名になる前は、何度もこの
土地を狙って侵攻してきたことがあるみたいよ。もっとも最近は侵
攻どころか、近づこうとさえしていないみたいだけどね﹂
﹁そりゃあそうだろうね。誰だって、病にはかかりたくないものさ。
あれ、でも君がレムリアック出身で、この土地で働いているってこ
とは⋮⋮﹂
﹁その通り。私も昔はルゲリル病に罹ったの。もっとも二歳ぐらい
の頃の話で、私自身は記憶にないんだけどね﹂
本当に記憶が無いためか、なんでもない事のようにセシルはその
事実を口にする。すると、ユイは頭を掻きながら彼女に向かって口
を開いた。
﹁そっか⋮⋮でも、君がいてくれて本当に助かるよ。ここの領主に
なったのはいいんだけど、当地には全く伝手がなくてね。どうした
ものかと思っていたところだったんだ。しかし、これでしなければ
いけないと思っていたことも捗りそうだ﹂
510
﹁⋮⋮一体何をするつもりなの?﹂
ユイの発言を耳にしたセシルは、彼の能力と気質を知るだけにや
や不安そうな表情を浮かべる。
﹁いろいろなことさ。でも、まず差し当たってしなければいけない
ことは、クレイリーとカインスの今日の寝床を確保することだね﹂
苦笑いを浮かべながらそう返答したユイは、お供の二人に向かっ
て視線を向ける。
﹁ああ、そういえば王都からは不可能だったので宿の手配とかして
いやせんでしたね。あれ、ちょっと待ってくだせえ⋮⋮旦那はどう
するつもりでやすか? まさかセシルさんの家に留まるつもりじゃ
ないでやしょうね?﹂
﹁え、うち!? ⋮⋮うちに来るつもりなの、ユイ君?﹂
思わずどきりとした表情を浮かべたセシルは、驚きの声を上げる。
しかしユイはあっさりと左右に首を振ると、すぐさまそれを否定し
た。
﹁ないない。取り敢えず、私は私が住みたいと思う場所が決まるま
では、ここの一室を借りさせてもらうつもりだよ﹂
﹁ええ、でもここ市役所だよ。しかもボロボロだし⋮⋮ねぇ、もっ
といいところ探してあげるからさ、ちゃんとした所に住もうよ。な
んだったら別にうちでもいいからさ﹂
セシルがユイに向かって心配そうにそう口にすると、ユイもやや
弱った表情を浮かべながら頭を掻く。
﹁うん、それも悪くないんだけどね。でも、取り敢えず住む場所に
は色々条件があるから、しばらくはここでいいさ。それにこれから
君にはもっと他のことでお世話になるつもりだから、こんなどうで
もいいことで迷惑を掛けたくないんだ﹂
511
﹁迷惑だなんて⋮⋮というか、他のことでお世話? 私が?﹂
一瞬だけ少し照れた表情を浮かべたセシルであるが、ユイの発言
に引っかかりを覚え首を傾げる。
﹁うん、さっきも言ったけどさ、君に手伝ってもらいたいことがあ
るんだ﹂
﹁何を手伝えばいいの?﹂
セシルはなにか言い知れぬ胸騒ぎを感じながら、覚悟を決めてユ
イに尋ねる。すると、ユイはわずかに考えこむと、言葉を選びなが
ら彼女に向かって説明を口にした。
﹁えっと、この土地をさ、活気溢れた人混みにあふれた街に変えた
いと思っているんだ。あの魔石狂時代のようにね。もっとも当時と
同じ結末にさせないためにも準備が必要だからさ、そのための手伝
いをお願いできないかな﹂
﹁それは無理よ。だって、ルゲリル病の蔓延する土地になんて、今
どき人が来るわけないじゃない﹂
﹁そう、そこだよ、問題は。だからさ、それを何とかしようと思っ
ているんだ﹂
いつもの苦笑いを浮かべながらユイが皆に向かって宣言すると、
その場にいた三人は一斉にユイを凝視する。
﹁ま、まさか旦那。あんた⋮⋮﹂
﹁うん、取り敢えずこの土地でルゲリル病に罹る者を無くしてみよ
うか。全てはそこから始まる。そういうわけだからさ、君には明日
から協力してもらうよ、セシル﹂
頭を掻きながらこれまで誰一人考えもしなかったことを口にする
男を目の前にして、セシルは驚きと不安と期待と戸惑いの入り混じ
った表情を浮かべる。
512
しかしながら、彼がこれまでいつも自分の期待以上のことを実現
してきたことを思い出すと、彼女はユイに向かって一度首を縦に振
った。
513
変わるものと変わらないもの、そして疑うべきもの
﹁さて、セシルの協力も取り付けたことだし、少しこれからの計画
というか各自の仕事の割り振りを話そうか﹂
ユイはそう口にするなり、三人を順番に見回す。すると彼を見つ
める三人は順に頷いた。
﹁では、まずクレイリー。君にはこの市役所の帳簿や名簿、それと
現在のルゲリル病の発生数と発生場所について調べてもらいたい。
ただし、直接現地に行って調べるのは禁止ね﹂
﹁しかし旦那。それだと正確な統計は取れやせんぜ。かなりいい加
減なものになるかもしれやせんが、それでよろしいんで?﹂
彼の身を案じて条件をつけられたことはクレイリーも理解してい
た。しかし彼としては、ユイのために出来るだけのものを作成した
いという思いは強く、念を押す様に確認する。
﹁ああ、それで構わない。いずれ正式なものは作るから、とりあえ
ずは大まかというか、だいたいの報告でいいんだ。だから今回はス
ピードだけを重視してくれ。それとまとめた資料は私が処理するか
ら、収集だけに集中してくれればいい﹂
﹁だ、旦那がそんな雑用をやるといいだすなんて⋮⋮ここに来るま
でに、なんか悪いもんでも食いやしたか?﹂
自分で集められた資料を処理すると言い出したユイの発言に、ク
レイリーは珍しいものを見たかのように驚き、真剣に心配そうな表
情を浮かべる。
﹁え、ユイ君って、そういう統計処理とか得意だったじゃない。最
近はあまりやらないの?﹂
514
﹃紙の知識オタク﹄と呼ばれていた頃のユイを知るセシルは、ク
レイリーの言動を耳にして意外そうな声を発する。
﹁はは、ああ言った作業にはすっかり飽きてしまってね。やってく
れる人が別にいるなら代わりにお願いするところさ。だけど、今は
人がいないならね。それに今回私はしばらくこの建物内から身動き
が取れなくなりそうだから、書類仕事ぐらいは手伝おうと思っただ
けさ﹂
ユイは今の自分の適当さを暴露されているような気分になり、恥
ずかしそうな表情を浮かべると、頭を掻きながらそう告げる。その
発言を耳にしたクレイリーは、彼の発言に僅かな違和感は覚えたも
のの、すぐに彼の命令に従うことを宣言した。
﹁旦那がなにする気かわかりやせんが、わかりやした。へへ、そう
言われるんでしたら、任せてくだせえ。最速で取り揃えてみやす﹂
﹁うん、じゃあ次にカインス。君の仕事はレムリアックの軍の掌握
と訓練だ。軍務長代理のセシルは、しばらくフルタイムで軍の仕事
をすることが出来ないから、君が代わりにまとめ上げてくれ﹂
カインスに向かって視線を移すと、ユイは彼に軍事面の仕事を依
頼する。
﹁隊長、おいらでいいんですか? そんな軍務長の仕事なんて、正
直言って自信がないんですが⋮⋮﹂
﹁大丈夫さ。君には親衛隊の弓部隊を訓練してもらっているんだろ。
あの要領で訓練と統率をしっかり取りまとめてくれたらいい。それ
以外の仕事はセシルがやってくれるから﹂
現在の親衛隊において、六位まで昇進した元カーリン軍戦略部の
面々は、ユイの副官のような仕事をしているクレイリーと単独行動
を好むクレハを除いて、フートは剣士隊、ナーニャは魔法士隊、そ
してカインスは弓士隊をそれぞれ率いている。
515
他の二人のように癖もなく、爽やかで面倒見の良いカインスは三
人の中で最も上手く隊をまとめあげており、その能力は隊長である
エインスも満足していた。
﹁⋮⋮わかりました。やってみます﹂
﹁ありがとう。それじゃあ、君たち二人は早速明日の仕事の準備に
取り掛かってくれ。あと部屋探しもしてきてくれて構わない﹂
ユイが二人に向かってそう告げると、クレイリーはわずかに含み
のある笑みを浮かべ、ユイに向かって口を開く。
﹁へぇ、では行ってまいりやす。あと旦那、二人きりになるからっ
ておかしな気は起こさないでくださいよ。エリーゼ様やリナが泣き
やすぜ﹂
﹁ああ、もううるさいな。わかっているから﹂
﹁はは、では隊長。行ってきます﹂
カインスはいつものようなさわやかな笑みを浮かべそう口にする
と、彼等は部屋から歩み去って行く。そうして部屋には、かつての
同級生二人が残された。
﹁さて最後に君だ、セシル。君には私の研究を手伝ってもらいたい﹂
﹁研究? そりゃあ、君が手伝ってくれって言うのなら構わないけ
ど⋮⋮具体的に何をすればいいの?﹂
セシルは真剣な表情でそう尋ねると、ユイは頭を掻きながら、あ
っさりと一見ふざけた内容を口にする。
﹁別に君自体は何もしなくていいんだ。毎日お昼に二時間ほどこの
部屋に来て、そこの椅子に腰掛けてくれたらそれだけでいい﹂
ユイの発言を耳にしたセシルは、一瞬ユイが何を言っているのか
理解できず、訝しげな表情を浮かべる。
516
セシル自身、自分の美貌に多少の自信はある。そして王都にいた
頃に、彼女は当時の上司にいつも舐め回すように見つめられていた
ことも有り、そのような目的の可能性も一瞬彼女の脳内をかすめた。
しかし、彼女を置物や話し相手として求めるような人間じゃない
ことは、ユイと行動を共にした経験から明らかであり、セシルはそ
れ以外の可能性を考え始める。
﹁私は何もしないでって⋮⋮ユイ君、どういうことなの? 君のこ
とだから、意味のないことではないとは思うんだけど﹂
﹁そうだね、君には全部話しておこうか。これを見てくれないか﹂
ユイはそう口にするなり、荷物の中から一つの紙の束を取り出す
とそれをセシルに渡す。その表紙には﹃ユニバーサルコード理論を
応用したレムリアックにおける諸政策第二稿﹄というタイトルが記
されていた。
﹁こ、これは⋮⋮だって、あれはもう使わないって﹂
その表紙を目にしたセシルは、わずかに震えるような声を発しな
がら表情を強ばらせる。すると、ユイは二度首を左右に振り、彼女
に向かって優しく語りかけた。
﹁あの頃とは事情が変わったんだ。置かれている状況も、自分の立
ち位置もね。もう僕も⋮⋮いや、私もあの頃のままじゃないんだよ、
セシル。歳を取るということは、自分と周りの変化を受け入れると
いうことだと思うんだ﹂
﹁そうかもしれないけど⋮⋮でも、変わらないものもあるし、変え
ちゃいけないものもあるんじゃないの?﹂
彼女の心境を案じてあえて抽象的に語りかけてくるユイを見つめ
返すと、セシルは絞りだすような声でそう口にする。
﹁それはそうかもしれない。でも、昔のままの僕ではこれ以上先に
517
は進めないんだ。だから私は、多少のリスクはあったとしても、一
歩前に進むことにしようと思っている﹂
ユイはそれだけ口にすると、決意は変わらないということを示す
かのように、彼女の返事も確認せずに椅子から立ち上がる。そして、
そのまま部屋のドアへとまっすぐに歩き始めた。
﹁どこへ行く気?﹂
﹁取り敢えず市庁舎内を探索しにね。どうせ住むにしても、少しく
らいは住み心地の良さそうな部屋がいいからさ。取り敢えず、それ
に関しては明日のお昼には始めるつもりだから、それまでに目を通
しておいてくれるとありがたい。では、また明日に﹂
ユイはニコリとした笑みを浮かべ彼女にそう告げると、そのまま
部屋から姿を消す。そうしてその場には、過去の記憶を思い出して
目に涙を貯めた女性が、ただ一人残された。
﹁でもね、ユイ君。変わらないものは確実にある。私のあなたへの
気持ちみたいにね⋮⋮ただ、残念ながらあなたの気持ちも、あの頃
と全く変わってないみたいだけどね﹂
﹁教授、アズウェル教授はいらっしゃいますか?﹂
普段は紙をめくる音とものを書く音以外の音は存在しない教授室
に、急に若い男の声が響き、部屋の中に男が入ってくる。すると、
書類の山に埋もれるような形で椅子に腰掛る部屋の主は、嫌そうな
表情を浮かべながら返事を返した。
﹁ん、なんじゃ。また客か⋮⋮今月はいったいどうなっとるんじゃ。
518
それで、何の用じゃ? ラインの小倅よ﹂
﹁はは。どうもご無沙汰しています、教授﹂
﹁だから、ここに何の用じゃ。わしは忙しいのでな、いつもいつも
お前ら軍人どもの相手をしとる暇はないんじゃぞ。要件を言え、要
件を﹂
エインスに対して睨みつけるような視線を送るとともに、アズウ
ェルは彼を急かすようにそう指示する。
﹁わかっていますよ。今日は幾つか教授に確認したいことがあって、
こうしてお尋ねさせて頂いたわけです﹂
﹁ふん。お前が若い女ではなく、わざわざこんな老人の所へ来るく
らいじゃ。どうせ、あやつの話を聞きたいんじゃろ﹂
お前の考えはお見通しとばかりに鼻を鳴らしたアズウェルは、エ
インスの発言を先回りしてそう口にする。
﹁かないませんね、教授には⋮⋮ええ、その通りです。実は昨日、
このような手紙がレムリアックから届きまして﹂
エインスは手に持った手紙を広げると、アズウェルに向かってそ
れを手渡す。その手紙には、﹁準備が整ったから至急、優秀な治療
魔法士を送る手配をしてくれ﹂と書かれていた。
﹁ふむ、どうやら今のところは順調にいっているようじゃな﹂
﹁⋮⋮やはりあなたが絡んでいたんですね。それでこの手紙に書い
てある準備って何を意味しているんですか?﹂
満足気な表情を浮かべたアズウェルに対し、エインスは呆れたよ
うな溜め息を吐くと、彼に向かって自らの疑問を口にする。
﹁人の意見を求めるのなら、まず自分の意見を表明するのじゃな。
小倅、お前はどう考えておる?﹂
﹁確かにユイ先輩が作成して僕に見せて下さったレムリアックでの
519
計画書の草案には、治療魔法士が今後必要とされる人材であるとし
て書かれていました。そしてレムリアックで治療魔法士を求めると
いうことは、おそらくルゲリル病と何らかの関係があるんじゃない
かというところまでは、僕にも分かります。でもユイ先輩が書かれ
ている﹃準備が整った﹄っていうのが何を示しているのかと、なぜ
このタイミングなのかがわからなくて。だからこうやって教授の所
に、足を運ばせて頂いたわけですが⋮⋮﹂
エインスは本当に弱ったような表情を浮かべながら、アズウェル
に向かってそう返答した。
﹁ふむ⋮⋮一つ聞くが、この手紙はわし以外の誰かに見せたか?﹂
﹁リュート先輩とアレックス先輩には。二人共これを見るなり厳し
い表情をしまして、特にリュート先輩はそのまま部屋から立ち去っ
てしまいました。アレックス先輩はアレックス先輩で、ニコニコす
るだけで何も答えてはくれませんし⋮⋮それで困ったので、教授の
ところに足を運んだ次第です﹂
﹁なるほど、ある程度のことを知っているとはいえ、あやつらはさ
すがじゃな。なら、後はあやつらに任せておいてもよかろうて﹂
アズウェルはそれだけ口にすると、エインスから興味を失ったよ
うに、手元の論文へと視線を落とす。
﹁ちょっと待ってください。今のはどういうことですか。一体、貴
方とユイ先輩は何を計画したんですか。そしてリュート先輩たちは
何をしようとしているんですか?﹂
﹁質問が多いのう。ふむ、回答するのも面倒じゃから、これからわ
しがする問いかけに答えたら、ユイの奴と作った本物を貴様に見せ
てやる﹂
﹁本物? どういうことですか、もしかして僕達に見せていたのは
⋮⋮﹂
予想外のアズウェルの言葉に、エインスは驚きの表情を浮かべる
520
と、わずかに彼に詰め寄る。
﹁貴様らに見せたのは、あやつが計画した内容の中でも、知られて
も構わない最低限必要な部分だけを抜粋したものじゃな。そしてあ
やつが書いた原本はここにある﹂
ユイが持ってきた計画書の原本をアズウェルは引き出しから取り
出してエインスに提示する。すると、それを目にしたエインスは反
射的にその計画書に手を伸ばした為、アズウェルはすぐに彼の手を
躱してさっと計画書を引っ込めた。
﹁おっと、まだわしの問いに答えておらんだろうが。しかし全く貴
様はやはり手が早いし、手癖も悪い。こんな所に女癖の悪さが垣間
見えるわ﹂
﹁すいません、つい⋮⋮﹂
空を切った手を恥ずかしそうに引っ込めながら、エインスはアズ
ウェルに謝る。
﹁まあ良い。では、貴様に聞くが、ラインの小倅よ。お前はユイと
いう人間の能力をどのように評価しておる?﹂
﹁え? ユイ先輩ですか。そりゃあ、やる気のない英雄様ですよ。
それ以上に僕の大事な先輩ですけど﹂
﹁ふん、そう言った表層的なことを聞いているのではない。あやつ
の能力、そして実力をどう貴様は認識しておるのかと聞いている﹂
アズウェルの言葉を受けてエインスはわずかに考えこむと、冷静
な口調で回答した。
﹁そうですね⋮⋮頭脳は比類なく明晰、そして剣技も一番とはいい
ませんが間違いなく一流でしょう。それにあの先輩にしか使えない
魔法もどきもあります。正直言って、軍人としては格別な存在だと
思いますよ﹂
521
﹁それだけか?﹂
﹁それだけかって⋮⋮﹂
更なる問いかけにエインスが答えに窮すると、アズウェルは溜め
息を吐きながら、残念そうな表情を浮かべた。
﹁⋮⋮やはり貴様はユイの本質を理解できておらん。本当にお前は
あやつを理解しようとしておるのかね?﹂
﹁お言葉ですが⋮⋮僕ほどあの人を尊敬して、理解しようとしてい
る人間はいないと思います。なにしろ、あの人と出会ってからこれ
までずっと、僕はあの人の背中を追いかけてきたんですから﹂
自分以上にユイを慕い尊敬するものはいないとエインスは自負し
ていた。それ故に、アズウェルの発言を耳にして、彼は僅かな苛立
ちを見せる。
﹁ならば、お前が追いかけていたユイの背中は蜃気楼といったとこ
ろじゃな。教師らしくお前の回答に点数をつけるとしたなら、いい
ところ赤点ギリギリといったところじゃ。全く、これだけ側にいな
がらふがいない⋮⋮﹂
﹁だったら教授は、先輩をどのように評価されているんですか?﹂
エインスはやや怒った口調でそう問いかけると、その表情に現れ
てた怒りを目にして、若いなとでも言いたげな口調でアズウェルは
答える。
﹁基本的には貴様の回答は間違っておらん。ただ、奴の能力の根源
を見落としているということじゃ﹂
﹁能力の根源?﹂
﹁だから貴様は奴の特異性を⋮⋮より正確にいうなら奴の認識力と
いうものを評価できておらんと言っておるのだ﹂
﹁特異性⋮⋮認識⋮⋮一体どういうことですか?﹂
アズウェルの言動を理解することができないエインスは、戸惑い
522
ながらそう呟く。
﹁ふん、ここまで言ってもわからんか? なら貴様でもわかるよう
に、一つ例をあげてやろう。例えば貴様は魔法を使う際、どのよう
に魔法を編んでおる﹂
﹁そりゃあ、現実の一部にその魔法の効果が発生することをイメー
ジして、それを書き込んでいきます﹂
﹁では、貴様は敵の使用する魔法を読み取ることができるか?﹂
﹁そりゃあ、できますよ。呪文を唱えてくれたらもちろんですが、
別にそうじゃなくても魔法なんて有限なものですし、その種類もあ
る程度限られています。例えば炎の魔法で言えば、魔法としてこの
世界に炎が生み出された時点である程度絞り込めますよね。そして
その出現した炎の形態を見れば、どの炎の魔法かなんてことはだい
たい分かるものじゃないですか﹂
一般的な魔法士は相手の魔法がその空間に現出したのを目にした
時点で、ある程度の種類に絞り込む。そして状況と呪文と経験から
相手の編みあげた魔法を類推するものである。
それ故、これまで魔法士との訓練を散々行ってきたエインスは、
出現した魔法を視野に収めた時点でその魔法の種類を洞察する自信
があった。
﹁まあ、一般的にはそれが普通じゃな。では、貴様は一度も見たこ
とのない魔法、例えば他国の魔法と対峙した時にその内容を理解で
きるか?﹂
﹁そんなこと不可能ですよ。だってその魔法の概念や存在すら知ら
ないケースですよね、それ。そんなことできる人なんて⋮⋮あれ⋮
⋮なんであの時あの人は⋮⋮まさか!﹂
他国の魔法士が放つ見たことも無い魔法を、発動の直前から回避
しようとしたり書き換えようとしたりする特異な人物が、急にエイ
ンスの脳内に浮かび上がる。
523
﹁ふん、ようやく気づいたようじゃな﹂
﹁確かに先輩はいつもどんな魔法使いを相手にしても⋮⋮つまり、
先輩のあれは単純に内外の魔法を知っていて、それを元に書き換え
ているのではないということですか﹂
﹁その通りじゃ。あやつの真の特異性は、魔法改変の能力などでは
なく、事象を細分化して情報という形で認識できる点にある﹂
エインスはその時のアズウェルの言葉をゆっくりと噛みしめる。
そしてその意味が理解できた時、驚愕の表情を浮かべた。
﹁もしかして、それは魔法だけには限らないと⋮⋮つまりはそうい
うことですか?﹂
﹁その通りじゃ。あやつには物質や魔法など全てのものを情報の集
合体として認識する能力がある。もちろん、情報量が多すぎては体
と脳が焼き切れかねんから、普段は魔法の情報くらいにしかアクセ
スせんようじゃがな。世界の法則と同調して自ら魔法を扱えないあ
やつじゃが、あの魔法の書き換えができるのも膨大な書き込み魔力
と認識能力の賜物ということじゃ。じゃから、あやつは昔からいつ
も言っておるじゃろう、あれは正式な魔法ではなく魔法もどきじゃ
と﹂
アズウェルは何のことはないように、淡々と事実を説明していっ
た。そしてその一言を耳にする度に、エインスは苦痛の表情を浮か
べて、眉間にしわを寄せていく。
﹁そして先輩はほとんど魔法が使えないともいつも言っています。
ほとんどということは、全く使えないというわけではないですよね。
つまり先輩が使える魔法っていうのは⋮⋮もしかして、だからリュ
ート先輩は、部屋を飛び出したということですか。そう、先輩を助
けるために﹂
﹁おそらくそうじゃろうな。わしとあやつが立てた計画では、治療
524
魔法士を使うことを前提に計画を立てておった。しかし、おそらく
リュートの奴は想定されるいくつかの最悪のケースに思い至ったん
じゃろう﹂
﹁つまりリュート先輩には見えていて、僕には見えていなかったと
いうことですか、先輩の背中が。僕はこんなにずっと近くにいたの
に、僕は自分が見たいと思っていた自分の中の勝手な先輩の背中を
追いかけていたんですね。これじゃあ本当の先輩に追いつくなんて、
僕には⋮⋮﹂
あれほど側にいて理解していたつもりのユイの思考を、リュート
達は読み取っており、自分だけが取り残されていたという事実。そ
の事実がエインスの肩を落とさせる。
﹁エインス、貴様に少しアドバイスをやろう。貴様は昔、親父にこ
う言ったそうじゃな。﹃いつかユイ・イスターツを超える﹄と。し
かし、今のままでは永遠にあやつの背中に追いつくことはできん。
それどころかスタートラインにたどり着くことさえできんじゃろ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
憧れ続け、目標で在り続けるユイ。そしてかつて誓った彼を超え
るということの意味を、改めてこの時ユイと自分との距離に気付か
されて、胸を張って口にすることができなくなっていた。
﹁いいか、貴様が奴に追いつくことは不可能じゃ。なぜならお前と
奴とでは、才能という名のベクトルが異なっとる。だからお前さん
はユイの奴にはない価値と才能が自分にあることを見つめ返すべき
じゃ﹂
﹁僕の価値⋮⋮才能⋮⋮あの人と比較出来るだけのものを、果たし
て僕は持っているんでしょうか?﹂
突然のアズウェルの問いかけに対し、やや戸惑いを見せながらエ
インスは自らの意味を問いかける。
525
﹁愚問じゃな。奴がお前さんを親衛隊のリーダーに据えた事こそが、
明白なその証拠じゃろうて。リュート・ハンネブルグでもなく、ア
レックス・ヒューズでもなく、エインス・フォン・ラインを。そう、
つまりお前さんをだ﹂
その言葉を耳にしたエインスは、わずかに体を反応させる。しか
し、彼の視線はまだ地に落ちたままであった。やれやれ世話がかか
るとばかりに、アズウェルは一度大きな溜め息を吐き出すと、さら
に彼に向かって言葉を続ける。
﹁まだそれでも理解できんか。なら、わかりやすいお前さんの価値
を教えてやる。ユイにはなくて、お前さんだけの価値。それはお前
さんがクラリス王国の四大公家の一つであるライン家の長子である
ということじゃ﹂
﹁それは果たして価値と呼べるものなんでしょうか? 別に僕は好
きで貴族に生まれたわけじゃないですし、あの人を見ていると、貴
族だとか庶民だとかそんなこと関係ないとわかります。人間の価値
はそこにはないのだと﹂
庶民の出でありながら英雄と呼ばれ、異例の出世を続けるユイの
ことを引き合いに出してエインスはそう反論する。しかし、アズウ
ェルはあっさりとエインスの見解を反証する。
﹁だが、あやつはその貴族という俗人の考えたくだらないシステム
があるゆえに、僻地に送られたり、昇進を遅らされたりとやっかみ
を受けておるのだろう? しかし、貴族のお前さんがもしあやつの
立場ならそんなくだらん事は起こらなかった。そうは思わんかね?﹂
﹁それはたしかにその通りなのかもしれません。でも僕は⋮⋮僕は
貴族であるより、あの人のようにありたいんです﹂
﹁ふん、お前さんはユイを追いかけ過ぎとる。じゃが、このままお
前が目の前の蜃気楼を追いかけて走り続けようとも、その延長線上
にあやつはおらんぞ。お前さんの延長線上にある未来は、お前さん
526
だけのものだ。ユイ・イスターツの道があるように、エインス・フ
ォン・ラインの道を進めば良い。ユイ・イスターツはこの国に二人
はいらんし、エインス・フォン・ラインも二人は必要ない。しかし、
それぞれ一人づつはこの国に必要じゃ。この意味がわかるか?﹂
エインスの瞳の奥を覗いているかのような、鋭い視線を送ってく
るアズウェルに対し、エインスはやや迷いを見せながらも、自身の
気持ちを吐露した。
﹁それは⋮⋮確かにそうかもしれません。でも僕は先輩のことをも
っと知りたい。例え違うレールの上であろうとも、先輩の背中を目
にすることさえ出来ない今のままでは、僕は自分の道を走り続ける
ことは出来ないんです!﹂
﹁ふむ⋮⋮そこまでの覚悟か。そこまでして、あやつとともに歩み
たいと思っているのならば、貴様はあやつのことを正しく理解する
ことじゃ﹂
﹁ユイ先輩を正しく理解する⋮⋮ですか﹂
エインスが言葉の意味をゆっくりと噛みしめるようにそう口にす
ると、アズウェルはそんな彼に向かって容赦ない問いかけを浴びせ
る。
﹁お前はまだ、あやつの事を知らなすぎる。例えば、奴の武術の流
派を知っているか? 奴の両親のことは? 奴の魔法もどきの原理
は? そして⋮⋮いや、これだけでも十分か。わしが口にしたこと
の中で、お主が説明できることが一つでもあるか?﹂
﹁⋮⋮いいえ、ありません﹂
唇をわずかに噛み締めながら、ユイのことを何一つ答えられなか
ったことをエインスは恥じる。するとアズウェルは目の前の素直な
若者に向かって、わずかに優しい声色で語りかけた。
﹁そうじゃろう。別に、なにもあやつに関して調査しろというわ
527
けではない。しかしあやつのルーツを理解することで、お主は初め
てあやつの真の姿を目にすることができるじゃろう。おっと、これ
は少しヒントをやり過ぎたかのう﹂
﹁先輩のルーツを調べる⋮⋮ですか。もしそれが許される行いだと
して、僕がそれを調べることが出来たとしても、その先にある先輩
の姿を僕は真に理解することができるのでしょうか?﹂
エインスは不安げな声を隠すこと無く、自分の体を抱きしめなが
らアズウェルにそう問いかけた。
﹁できるだろうさ、お前さんならな。ふん、あやつはめんどくさが
りの恥ずかしがり屋だから、お前さんにこの話をしたとバレると怒
るじゃろうが、まあいいじゃろう。あやつはここを出る前に言って
おった、貴様こそが自分の後継者なのだとな。もちろんただ単純に
親衛隊のリーダーという意味ではない、真に奴の後を継ぐものとし
てのだ﹂
﹁僕が⋮⋮ですか。でも先輩には、リュート先輩もアレックス先輩
もいますし﹂
エインスは彼の尊敬するもう二人の男の名前を口にする。すると
アズウェルはエインスに向かって力強い視線を送る。
﹁ふん、奴らだってわかっておるはずじゃ。ユイの後を継ぐのはお
前じゃとな﹂
﹁それは僕が大公家の息子だから﹂
まるで負い目であるかのようにそう発言するエインスに、アズウ
ェルは寂しげな視線を送ると首を左右に振る。
﹁だからそれもお前さんの価値じゃ。それを言い訳にしとる間は、
絶対にあやつの隣に並び立つことは出来んぞ⋮⋮ふん、不甲斐ない
貴様にもう一つだけおせっかいを焼いてやろう﹂
﹁おせっかいですか﹂
528
エインスが俯いてしまっていた顔を起こして、アズウェルに向き
直ると、彼は一度縦に首を振る。
﹁ああ、おせっかいじゃ。いいか、真にユイ・イスターツを知る為
には常識を疑え、現象を疑え、そしてこの世界を疑え﹂
﹁この世界を⋮⋮疑う?﹂
﹁そうじゃ。そして事象の裏側に存在するものを読み取ってみよ。
そうすることで、初めて貴様はあやつが真に見ているもの、あやつ
が真に考えていることにたどり着く。そこで初めて貴様はこの世界
の真の姿を目にすることができるじゃろう。そして⋮⋮﹂
そこまで口にしたところで、一度大きなためを作ると、意を決し
たようにアズウェルは声を発する。
﹁そしてお前の価値を、そうユイ・イスターツの隣で胸を張り、共
に歩むことが出来るだけのお前自身の価値を築きあげて見せろ﹂
529
怪しい仲
﹁なぁ、兄貴。今日も隊長は部屋に引きこもりですかね?﹂
ユイ達がこのレムリアックに到着してから、はや十日。クレイリ
ーとカインスはそれぞれに割り当てられた仕事を淡々とこなしてい
た。
そして彼らの上司であるユイは、彼らしくもなく朝にたまに姿を
見せることもある。しかし昼以降、正確には毎日セシルが部屋を訪
問した以降の時間は、部屋から出てくる姿を全く見かけなかった。
﹁ああ、またか⋮⋮やっぱりサボっているんじゃねえだろうな﹂
﹁部屋でいつも一体何してるんでしょうね?﹂
﹁さあな。旦那に限ってはと思うが⋮⋮セシル六位は美人だからな
ぁ﹂
クレイリーが頭を数回撫でつけながらそんなことを口にすると、
カインスはやや戸惑った表情を浮かべる。
﹁ええ、まさか⋮⋮でも、隊長だって男ですから、いや、でも⋮⋮﹂
﹁なあ、試しにちょっと覗きに行って見ないか? 別に部屋に入る
なと言われたわけじゃねえんだし﹂
クレイリーはやや下世話な想像を膨らませると、仲間を誘うよう
にカインスを勧誘する。
﹁ですけど、この時間はオイラ達二人とも、仕事をいつも出されて
いるわけでしょう。こりゃあ、立ち寄るなってことを意味している
んだと思うんですが⋮⋮﹂
﹁だからこそ、この時間の旦那たちの姿を見てえんじゃねえか。わ
530
かんねえかな?﹂
﹁いや、わかりますけどね﹂
カインスは困った表情を浮かべながら、一応クレイリーの発言に
相槌を打つ。すると、クレイリーはちょっと視線を逸らして口を開
いた。
﹁そうか。お前が行きたくないっていうんだったら、俺が一人で行
ってくるぞ﹂
﹁待って下さいよ。オイラも行きますって﹂
﹁なんだ、やっぱりお前も見たいんじゃねぇか﹂
共犯ができて嬉しかったのか、カインスの返事を耳にするなり、
クレイリーはやや下卑た笑みを浮かべる。
﹁でも、中に入ってですね、見てはいけないものを見てしまったら
どうします?﹂
﹁そん時はだ⋮⋮そりゃあ、すぐに王都に早馬を走らせるさ。旦那
にも春が来たってな﹂
あの上司あってこの腹心あり。そんな言葉が脳裏をよぎったカイ
ンスは、大きな溜め息を吐くと首を左右に振る。
﹁⋮⋮さすが兄貴ですね。こういう事をさせたらやっぱり鬼です﹂
﹁へへ、そんなに褒めるなよ﹂
﹁いや、全く褒めてないんですけどね⋮⋮﹂
カインスの弱ったような発言を耳にしながら、クレイリーは満面
の笑みを浮かべると、そのまま足取り軽くユイの執務室へ向かう。
途中で、最近彼らの部下となった者達と何人かすれ違い、簡単な
挨拶を済ましながら、二人はあっという間にユイの部屋の前に到着
した。
﹁じゃあ、お前がノックしろよ﹂
531
﹁待ってくださいよ、積極的に入りたがったのは兄貴じゃないです
か。ここは兄貴がするべきでしょう﹂
﹁ばぁか。もし何かあったら、ドアを開けた奴は逃げれねえじゃね
えか﹂
クレイリーが心外だと言いたげな表情でそう口にすると、カイン
スは呆れたように首を左右に振り、抗議の声をあげる。
﹁やっぱりオイラを見捨てて逃げるつもりだったんですね。この薄
情者!﹂
﹁おい、あんまりうるさい声を出すな。中にバレちまうじゃないか。
じゃあ、仕方ねえから二人同時に中に入ろう。幸いにも、旦那に報
告するための資料が、ちょうど手元にあるしな﹂
クレイリーはレムリアックでの納税関係の調査報告書をカインス
に見せつける。するとカインスは、そのあまりのタイミングの良さ
に、クレイリーに向かって疑念を抱く。
﹁それ、わざと昨日出さなかったんでしょ。違いますか?﹂
﹁へへ、でも期日は明日までのやつだ。別に今日渡そうとも構わね
えだろ。とにかくだ、これを見せびらかすようにして、一気に中に
入るぜ﹂
クレイリーはそう口にすると覚悟を決め、ノックするなり返事を
待たずにカインスを引っ張り中へ入りこむ。
﹁旦那、頼まれていた仕事ができやしたぜ⋮⋮って、だ、旦那!﹂
好奇心で一杯であったクレイリーの表情は、部屋の中に入るなり
一瞬で凍りついた。彼の目の前では、ユイが荒い呼吸で胸を抑えな
がらセシルに膝枕をされつつソファーに横たわっていたのである。
﹁あ、ああ、クレイリーか。はは、早かったな。ちょっと待ってく
れ、今起きる﹂
532
﹁ダメよ、ユイ君。まだ無理しちゃ﹂
急に起き上がろうとするユイに向かって、セシルは慌てて彼を押
し留めようとする。しかし、ユイの動きの方が早く、セシルの手は
空を切った。
﹁大丈夫だって、よっと⋮⋮あれ?﹂
ソファーから身を起こして立ち上がったユイは、急にバランスを
崩すと前のめりに転倒した。
﹁旦那!﹂
転倒したユイに向かって慌ててクレイリー達は駆けつける。
しかしユイは片手を前に突き出して、焦る彼らを静止させる。そ
して片膝をつきながらゆっくりと身体を起こすと、ソファーへとそ
の身を移した。
﹁はは、大丈夫さ。ちょっとだけ疲れが残っていてね﹂
﹁本当に大丈夫ですか、隊長?﹂
カインスは心配そうな瞳でユイを見つめる。すると、ユイはカッ
コ悪いところを見せたとばかりに苦笑いを浮かべながら、ゆっくり
と呼吸を整えた。
﹁ああ、心配させたね。私は大丈夫さ。それより君たちに任せてい
る仕事の方はどうなっているんだい?﹂
﹁え、ええ。一応、これがレムリアックの納税関係のまとめになり
やす﹂
突然、仕事の話を振られたクレイリーはわずかに戸惑うような表
情を浮かべたが、この時のために手に持っていた資料をユイへと渡
す。
533
﹁ふむ⋮⋮なるほどね。まぁ、こんなところか。それで、カインス
の方も順調かい?﹂
﹁はい。ここの兵士たちは少し気性が穏やかすぎますが、素直でい
い奴ばかりです﹂
ユイからの問いかけに、カインスは大きく一度頷き返事を返した。
﹁⋮⋮そうか。だとしたら、そろそろ動くことにしようかな﹂
﹁ダメよ、ユイ君。せめて体の状態が戻ってからにして﹂
ユイの発言を耳にしたセシルは、すぐに彼に向かって自重を促す。
ユイは彼女の気持ちを理解して、僅かに困ったような表情を浮かべ
るも首を左右に振った。
﹁ありがとう、セシル。でもさ、あまり悠長にしていられないのさ。
なんせ彼らのこともあるからね﹂
そう口にしたユイは、セシルに伝えるかのように、目の前の二人
に向かって順番に視線に動かす。
﹁あっしらが、どうかしやしたか?﹂
﹁いや、別に対したことじゃない。それよりもクレイリー、僕の住
処のことなんだが、流石にこの市庁舎に住むのも飽きてしまってね。
そろそろちゃんとしたところに引っ越したいんだが、手配をお願い
できるかな﹂
突然話題を切り替えたユイに対し、訝しげな表情を浮かべるも、
クレイリーはすぐさま返事を返す。
﹁はぁ、それはかまいやせんが⋮⋮何処か住む当てでもあるんで?﹂
﹁ロマオウリ地区に家を手配してくれ。大きさはどんなものでもい
いから。あと新築じゃなく、適当な空き家を見繕ってくれればいい﹂
レムリアックでも比較的国境に近い南部地域の名前をユイが口に
すると、クレイリーはわずかに考えるそぶりを見せた。
534
﹁ロマオウリ地区でやすね⋮⋮って、旦那! 本当にあっしの資料
をちゃんと見やしたか?﹂
﹁ああ。君が一昨日提出してくれたルゲリル病の発生地域は、先日
読ませてもらった。だからこそ、ロマオウリ地区に住もうと思って
ね﹂
一昨日に提出されていたルゲリル病の発生数をまとめた地図を、
ユイはその脳裏に浮かべる。その中で、他地域に比べ圧倒的にルゲ
リル病の発症者の多い地域が、ユイが口にしたロマオウリ地区であ
った。
﹁旦那のことですから、何か考えがあってのことと思いやすが⋮⋮
でも止めてくだせえ。はっきり言って、未感染者があそこに住むな
んて自殺行為でやすよ﹂
﹁そうかもしれないね。でも、いや、だからこそあそこに住むんだ
よ。あとカインスは王都に連絡してくれ。例の準備が予想より早く
必要になりそうだってね﹂
﹁連絡は構いません。ですが⋮⋮﹂
急に話を向けられたカインスは戸惑いの表情を見せる。
すると、ユイは疲労の残る顔ながらも、カインスに向かって精一
杯の笑みを浮かべた。
﹁大丈夫だって、私なりに考えがある。それにだ、君たちが王都に
有ること無いこと好き勝手に吹聴することより、私の連絡を優先し
てもらいたいってのは無理なお願いなのかな?﹂
﹁えっ⋮⋮まさか外の会話を聞いていらしたんですか﹂
突然、ユイから放り込まれた爆弾に、カインスは思わず動揺して
身じろぎする。
﹁そりゃあ、部屋の前であんな大声で騒いでいたら嫌でも聞こえる
535
さ。というか、このボロボロの建物のどこに壁の薄くない部屋があ
るというんだい?﹂
﹁いや、それはですね、その、あの、事情がですね、ありやしてー
ー﹂
必死に脳内で言い訳を考えながら、時間稼ぎするように途切れ途
切れ言葉を発するクレイリーに対し、ユイは首を左右に振って笑い
かける。
﹁あ、いいよいいよ。気にしていないから。それよりも、さっき言
ったことを少しでも早く進めたいんでね、できれば二人とも今すぐ
に動いてくれるかな。私のことを覗きに来れる程度には、君たち暇
なんだろう?﹂
ユイのその笑顔を目にした二人は、困った表情で顔を見合わせる。
そして彼等は受け入れ難いユイの指示を、目を伏せながら承諾する
こととなった。
536
ユニバーサルコード
ロマオウリ地区。
それはクラリス王国の南部国境に接し、レムリアックでも最も南
の方に位置する地域である。この地域は昔から多数の魔石の採掘報
告があり、国内でも最高の魔石埋蔵量を誇る地区ではないかと噂さ
れる地域である。
では、これまでなぜ噂止まりで埋蔵されている魔石の採掘が行わ
れないのかというと、それはこの地域が国内でも最高のルゲリル病
の発症地域とされているためであった。
それ故に、これまでのこの土地の支配者も、そして一攫千金を夢
見てこの土地に流れてきた者も、ロマオウリ地区に手を出す者はほ
とんどいなかった。
そうした背景の為に、昔からここに住み続けているわずかなルゲ
リル病の既感染者のみが、この地域に居を構えほそぼそと暮らして
いた。そう、ユイ・イスターツがこの土地へと移住するまでは。
﹁ユイ君、調子はどう?﹂
ユイがこの土地へ住み着いて二週間。この地域の外から初めての
彼の住居へと訪問した者は、彼の級友であるセシルであった。
﹁やあ、セシル。うん、なかなか悪くないよ。ここは自然が多くて
素敵な地域だしね﹂
彼女の優しい笑顔を目の当たりにしてわずかに照れを感じたユイ
は、窓からポツポツとしか家が見当たらない過疎の村へと視線を移
537
して、そう返答する。
﹁そうなんだ。確かにこの辺りはほとんど開発されていないから、
全て昔のままだからね﹂
﹁さすがに道が全く整備されていないのには参ったけどね。お陰で
荷物を運ぶのが大変だったよ﹂
頭を掻きながらユイはそう口にすると、引越しをする際の苦労を
思い出す。
クレイリーに家を手配させたのはいいが、ユイは彼等のこの地域
への立ち入ることを厳重に禁じてしまった。それ故、ほとんどの道
が舗装や整備をされていないこの村への転居を、彼はほとんど一人
で行い、しばらくは何もする気力がわかなかったのである。
とはいえ、彼の部下たちにこの話をすれば、﹁たとえ苦労しなく
とも、どうせ何もしなかったでしょう﹂と呆れられるのは明らかだ
ったが。
﹁仕方ないよ。ここは本当に昔からこの土地に住んでいる人しか残
っていないから﹂
﹁でも、みんないい人達だよ。最初ここに来た時はさ、ここの人た
ちはみんな心配して、入れ替わり立ち代り私を説得に来てくれたし
さ。でも、私が居座るとわかったら、なんか優しくしてくれて。昨
日なんか、隣のおばさんが大根を分けてくれてね﹂
この土地に引っ越した際に、昔からここに住む人たちはユイに対
して危険だと多くのものが忠告に来た。しかしユイの意志が硬いと
知ると、もともと穏やかで優しい気性の彼らは一転して、この珍し
い移住者を一様に歓迎してくれたのである。
そうしてこの土地に引っ越して来て間もないにもかかわらず、こ
の村の人々はこの風変わりな領主様を好きになり、ユイも彼等に対
し親愛の情を抱き始めていた。
538
﹁⋮⋮あのね、ユイ君。今更かもしれないけど、こんな危険なこと
辞めない? こんな言い方するのは自分でもどうかとは思うけど、
別にあなたが実験台にならなくても、他にいくらでも人がいるじゃ
ない﹂
村の話を口にしてニコニコと笑顔を見せるユイに対し、セシルは
突然真剣な表情となると、やや躊躇いながらも彼に向かい一つの提
案を口にする。
﹁心配ありがとう⋮⋮そうだね。君が言うように、他の人間をこの
地へ送ることを考えていなかったといえば、正直嘘になる。でもね、
私にはその選択肢は選べないよ﹂
﹁でも、君のためならっていう人はきっと少なくないよ。私がもう
一度ルゲリル病に罹れるのだったら、私だって君の代わりになるつ
もりはあるもの﹂
決して建前だけでそう言っているわけではなく、本気で彼女がそ
う考えていることは、そのユイへと向けられた彼女の大きな瞳が雄
弁に告げていた。だからこそユイはすぐに拒否の意を示さず、一度
ゆっくり左右に首を振った後に、優しく彼女に語りかける。
﹁⋮⋮気持ちだけは受け取っておくよ、セシル。でもね、自己満足
というか、自己中心的な考えかもしれないけど、私は私の目に届く
範囲にいる人をできる限り犠牲にしたくないんだ﹂
そう口にしながらも、戦いの際にいつも彼等を矢面に立たせてい
ることにユイは思いが至り、その自己矛盾に顔をしかめて頭を掻く。
すると、そんな彼の仕草を目にしたセシルは、改めて彼に向かい
訴えかけるように語りかける。
﹁⋮⋮でも、この国には必ず君が必要だと思うの。万が一、ここで
あなたを失うことになれば、この国は︱︱﹂
﹁私に消えてもらいたいと思っているこの国の人も少なからずいる
539
ようだけどね⋮⋮冗談だよ、そんな怖い顔をしないでくれるかな﹂
貴族院の面々のことを脳裏に描きながらユイはセシルの言葉に被
せるようにそう発言すると、とたんに彼女は彼を強く睨みつける。
その強い意志を感じさせるセシルの視線に根負けしたユイは、仕
方ないという表情を浮かべて本音を口にする。
﹁真面目な話をすると、自分で試すのが一番上手くいく確率が高い
と思っただけだよ、本当に⋮⋮それにあんまりグズグズしていると
クレイリーやカインスが発病するかもしれないからね﹂
僅かに遠くを見るかのように視線を天井へと向けると、ユイはそ
うはっきりと言い切った。
そんな彼の姿を目にしたセシルは、昔から一度決めたことは曲げ
ない彼の性格を思い出して溜め息を一つ吐き出す。そして渋々説得
することを諦めると、多少未練がましい口調で彼に向かい呟いた。
﹁君が彼らのことを思っているのはわかっているわ。でも、君以上
に彼らも君を心配しているのよ⋮⋮本当に君は昔からそう。最後は
全部自分で片付けようとする。本当に君はエゴイスティックよね﹂
﹁⋮⋮だから否定はしないさ、さすがに多少の自覚はあるからね。
でも、仮に何度人生をやり直そうとも、私はたぶん他のもっと賢い
方法を取ることはできないよ。おそらく何度失敗しようとも、私は
この生き方を選び続けると思う。私がユイ・イスターツであり続け
る限りはね⋮⋮って、止めよう止めよう。せっかく君みたいな美人
がここに来てくれたんだ、湿った話はここまでにさせてくれないか
な﹂
ユイは頭を掻きながらそう口にすると、腰掛けていた椅子から立
ち上がり、台所へ向かって歩き出す。
﹁ユイ君⋮⋮﹂
﹁セシル、コーヒーでも飲まないかい? 実はここに来てからする
540
ことがないので、だいぶコーヒーを淹れるのうまくなってね﹂
言い足りないといった表情を浮かべるセシルに対し、ユイは苦笑
いを浮かべながら話題を逸らすようにそう提案する。そしてユイは
セシルの返事を待つこと無く二人分のコーヒーカップを手にしよう
としたまさにその時、突然彼の腕はすべての力が抜け落ちてしまっ
たかのように地面に向かってまっすぐに垂れ下がった。
そして次の瞬間、彼が手にしていたコーヒーカップは把持されて
いた力を失い、そのまままっすぐに地面へ向かって落下して大きな
音と共に砕け散る。
﹁ユイ君!﹂
そのユイの一連の動きを目撃したセシルは、ユイの身に起こった
事態を察して、悲鳴に近いような大きな声を上げる。
すると、ユイは脱力して地面に向かい垂れ下がる左腕をまだ力の
入る右腕で支え、やや引きつった笑みを浮かべる。
﹁これは、いよいよということかな⋮⋮はは、本当にロマオウリま
で足を運んだ甲斐があった。セシル、これはルゲリル病の初期症状
で間違いないよね﹂
﹁え⋮⋮ええ。腕や足の脱力から始まって、そのまま心臓や呼吸が
止まってしまうのがルゲリル病。私が幼いころに罹った時も、最初
は足の力が入らなくなったそうよ﹂
セシルは母親から聞かされた彼女の幼いころの出来事を、震えな
がら彼に向かって説明する。すると、ユイは僅かに顔を歪めて、ニ
ヤリと笑った。
﹁はは、時は来たってことかな。それじゃあ、情報の海に漕ぎ出し
てみるとしようか﹂
ユイはそう口にすると、ゆっくりと両目をつぶり、二週間前まで
毎日セシルの前で披露してきた呪文を唱える為に精神を統一する。
541
そしてゆっくりと自らの体の奥底へと意識を傾けると、彼の口から
力ある言葉が発せられた。
﹁ユニバーサルコードアクセス﹂
その呪文を口にした瞬間、ユイの認識は周囲へと拡散するかのよ
うに広がりを見せ、そしてそれとともに彼の意識は現実との境界を
失い始める。その自らが世界へ溶けだすかのような感覚が彼を襲い
始めると、次の瞬間には情報の波が彼の脳に向かって雪崩のように
押し寄せ始める。
ユイはその一気に押し寄せてくる急速な情報の波に襲われて、自
分の脳に負荷が掛っていくことを感じ取る。自分以外のものが大量
に体へと流れ込む感覚、その苦痛ともいうべき感覚を必死に抑えこ
みながら、ユイは襲いかかるかのような情報の波の中から自らの望
むものを必死に取捨選択して手繰り寄せる。
﹁⋮⋮なるほど、先週見た自分のコードとここが大きく変わってい
る。この部分を書き換えていくことが、おそらくルゲリル病の本質
でありキーコードというわけか。なら、これにムラシーンの使って
いた魔法構成をお借りして、セシルの同部位に書かれていた治癒後
のコードを組み込めば⋮⋮うっ!﹂
仮説に仮説を重ねた魔法式を情報の過負荷で苦しむ脳内で構成し
ようとしたユイは、突然体の中の血が燃えたぎるような感覚を味わ
う。そして次の瞬間、糸の切れたたこのように体中の力が失われた。
﹁ユイ君、ちょっとユイ君! しっかりして!﹂
セシルの目の前でユイは痙攣するかのように全身を一瞬震わせる
と、スローモーションのように地面に向かい前のめりに崩れ落ちて
いく。その姿を目にしたセシルは、悲痛な叫び声を上げる。
542
そして彼女は泣きそうな表情を浮かべながらユイに向かって駆け
寄ると、彼の名前を叫びながら何度も何度もその体を揺さぶった。
543
うつろいゆく意識の中で
﹁旦那!﹂﹁隊長!﹂
セシルからの連絡が届くなり、クレイリーとカインスは全速力の
勢いでこのロマオウリへと駆けつけた。そして彼等は大声を発しな
がらユイの家へと飛び込む。
そうして中へ入り込んだ彼らの視線の先には、体全体を使って喘
ぐようにしながら、どうにか呼吸を行っているユイの姿があった。
﹁あ、ああ⋮⋮お前たちか⋮⋮元気そうだね﹂
荒い呼吸をしながら途切れ途切れにそう口にしたユイは、意識下
に表情筋を操る形で、どうにか歪な苦笑いを浮かべる。
すると、そんな彼の姿を目にしたクレイリーは、一瞬その場に呆
然と立ち尽くす。しかし、すぐにハッと我に返るとそのまま彼の側
へと駆け寄り、必死の形相でユイを揺さぶった。
﹁旦那、旦那! なにやってるんですか。早く立ち上がってくださ
いよ。こんなところで苦しそうにしているなんて、全く旦那らしく
ないじゃないですか。いつもみたいにあっしをからかっているだけ
だって、早く言ってくださいよ﹂
﹁ごめんね⋮⋮君をだますのは嫌いじゃないんだけどね⋮⋮思えば
初めて会った時もそうだったか⋮⋮でも今は演技をしてあげる余裕
が無いんだ⋮⋮私でも計算外のことはあるものさ⋮⋮それも結構頻
繁にね﹂
﹁なに弱気なこといっているんですか。あれでしょ、どうせあっし
らが必死になったところで、いつもの様にケロッとして一体どうし
たんだいとか言い出すんでしょ。あっしにはわかってるんですぜ。
544
だから、だから、起き上がってくだせえ!﹂
クレイリーはその強面の顔を涙でくしゃくしゃにしながら、縋り
付くようにユイの体を揺さぶる。すると、彼の後ろに控えていたカ
インスが、慌てて彼を羽交い絞めにした。
﹁兄貴、止めてください。隊長が苦しがってるじゃないですか。落
ち着いてください﹂
﹁バカヤロウ、こんな時に落ち着いていられるかよ﹂
﹁でも、でも!﹂
必死にカインスを振りほどこうとクレイリーはもがくも、二人の
力の差は歴然であり、彼の拘束を脱し得ない。そんな必死に彼に近
づこうとするクレイリーの姿を目にして、ユイは残された力で右腕
を動かすと、ゆっくりと頭を掻く。
﹁ありがとう⋮⋮クレイリー⋮⋮君の気持ちはさ⋮⋮わかっている
つもりだから﹂
﹁旦那、あっしやカインスだけじゃねえんですぜ。王都に居るフー
トもナーニャも、それからクレハの奴も、今か今かと旦那の帰りを
待っているんです。こんなところで寝ている場合じゃないんですぜ、
旦那!﹂
クレイリーはいよいよ人目も気にすることなく、両目から大粒の
涙を流しながら、声を張り上げてユイに叫ぶ。
するとユイはわずかに申し訳なさそうな表情を浮かべ、ほんの少
しだけ首を縦に動かして、自らの気持ちを彼へと伝えた。そしてそ
のままユイはわずかに視線を動かすと、セシルに向かって声を発す
る。
﹁セシル⋮⋮そこの本棚の二段目に⋮⋮赤い背表紙の本が入ってい
る⋮⋮持ってきてくれないかな﹂
﹁わかったわ、ユイ君﹂
545
これまでずっとユイの側に付き添っていたセシルは、ユイの頼み
を受けて椅子から立ち上がり、指定された日誌を手に取った。
﹁ごめん⋮⋮あとペンも頼む⋮⋮そこの引き出しに入っているから﹂
ユイの頼みを受けてセシルがペンを手にすると、彼女はそれを震
えるユイの手に握らせた。
﹁ありがとう⋮⋮セシル﹂
ユイはセシルに向かって感謝の言葉を告げると、力の抜けきった
震える手でその本の中に文字を記していく。
セシルは一体何を書いているのかと思いユイの手元をそっと覗き
こむと、そこには膨大な量の魔術式がすでに書き記されていた。そ
してその本に書かれている魔術式の中には、いくつかの空白にされ
たままの部分があり、ユイは力を失って何度もペンを落としながら
も、その空白部を一つ一つ埋めていく。
﹁私とアズウェル先生で⋮⋮埋めることが出来なかった空白⋮⋮こ
れで埋めることが出来たね﹂
そしてそのまま無数にあった空白を全て埋め終わると、ユイは自
らとアズウェルとで編み上げたその術式を目にすることが出来ない
ことだけが心残りと感じ、わずかに寂しそうな表情を見せる。
そしてユイは一度胸郭全体を使った大きな深呼吸を行うと、その
まま力を失って手に持ったペンを地面へと落下させた。
﹁ユイ君!﹂
﹁大丈夫だよ⋮⋮セシル⋮⋮ほんの少し疲れただけだから⋮⋮それ
よりもこれを⋮⋮王都に送ってくれるかな⋮⋮アズウェル先生に⋮
⋮ね﹂
ユイは息も絶え絶えになりながらセシルにそう告げると、彼女を
心配させないように笑みを浮かべる。すると、セシルは瞳に涙を溜
546
めながら、ユイの手を握りしめた。
﹁あなたが作ろうとしていたものはこれなのね。でも、せっかくあ
なたがこの魔法を編み上げたのに、私じゃこんな複雑なものとても
使えない⋮⋮ごめんなさい﹂
本を受け取ったセシルはすぐに中の記述に目を通そうとした。し
かし、あまりに複雑な魔法式がそこに記載されており、その記され
ている内容の断片さえ理解できないことを嘆く。
するとそんな彼女の声を耳にしたユイは、かすかに首を左右へと
動かすと、彼女に向かって慰めるように声を発した。
﹁君のせいじゃない⋮⋮私の読みが甘かっただけだよ⋮⋮ユニバー
サルコードにアクセスすることが⋮⋮病状の進行を加速させるなん
てね⋮⋮世界と同調するということは⋮⋮自分を外部と同一化させ
⋮⋮抵抗の壁を取り払うこと⋮⋮か。なるほど⋮⋮本当に甘かった﹂
長い間マジックコードにしかアクセスしていなかった為に、ユニ
バーサルコードを完全に甘く捉えていたユイは、自らの見通しの甘
さを恥じて自嘲気味に笑う。
そして彼はゆっくりと手を動かし頭を掻こうとしたが、もはや彼
の腕は意志の力では意図したとおり動かすことが叶わず、そのまま
糸が切れた操り人形のようにベッドの下に向かって垂れ下がった。
﹁旦那ぁ!﹂
カインスに羽交い絞めにされたままであったクレイリーは、その
ユイの姿を目にして悲鳴にも近い叫び声を上げる。
﹁ああ⋮⋮これはいよいよ⋮⋮かな⋮⋮もう首さえ動かせないや⋮
⋮セシル⋮⋮カインス⋮⋮クレイリー⋮⋮ありがとう﹂
ユイは四肢や首に全く力が伝わらないことを理解し、視線を宙に
向けたまま一言一言呟く。
547
虚空に向けられた彼の瞳には、カーリンに来たばかりの時の厳つ
いクレイリーの姿が、戦略部でいつも爽やかに笑っていたカインス
の姿が、そして士官学校時代の美しい宝石のようなセシルの姿がそ
こに浮かび上がっていた。
そこに写るはずのないそんな姿を目にしたユイは、ほんのわずか
に満足そうな表情を浮かべると、その両目を静かに閉じていく。
彼のその瞳を閉じて行く姿は、その場にいた三人にとって、彼の
終わりを告げる動作のようにも写った。だからこそ彼等は、その瞬
間にユイの名前を叫ぼうとする。
しかし、そんな彼等の叫びがまさに喉元から発せられようとする
瞬間、突然大きな音を立てて部屋の入り口のドアが蹴破られる。そ
して、その悲痛な空間を切り裂くかのように、銀色の髪をした長身
の男が部屋の中へと飛び込んできた。
﹁うちの馬鹿がいる部屋はここか!﹂
目をつぶりかけていたユイはその声を耳にすると、まだ彼が動か
すことができる眼球をその声の主に向かってゆっくりと動かす。そ
して彼の両目は、王都最高の魔法士の姿をそこに捉えた。
するとユイはその瞬間、わずかに表情筋を収縮させると、万感こ
もった声で呟く。
﹁はは⋮⋮どうやら私は⋮⋮まだ死ねない運命のようだね﹂
そう言葉を吐き出すと、ユイの意識を支えていた緊張の糸は消失
し、全てを彼の親友に委ねる安心感の中でゆっくりと意識を失って
いった。
548
親友
﹁生きている⋮⋮か﹂
ユイ・イスターツはベットの上で意識を取り戻し、目を見開いた
瞬間にそう呟いた。
そして体全身に力が伝わることを把握すると、しばらく動かして
いなかったためかすっかり重く感じる上半身をゆっくりと起こし、
そのままグルッと周囲を見回した。
﹁だ、旦那! 旦那が起きやしたよ!﹂
ユイが突然起き上がったのを目にしたクレイリーは、泣きそうな
声でそう口にする。すると、隣の部屋に控えていたカインスとセシ
ルが、バタバタと部屋の中へ入ってきた。
﹁ああ、みんなお久しぶり。しかし、私の部屋で見守る役はどうせ
ならセシルにしてくれよ。最初に見た顔が泣きそうなハゲヅラのお
っさんだったから、一瞬現実かどうか悩んだじゃないか﹂
﹁旦那ぁ、それはないですぜ﹂
目元に涙を浮かべながらクレイリーが文句を口にする。するとユ
イも悪かったとばかりに、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
﹁はは、ごめん冗談だよ。それよりも私は何日寝ていた?﹂
﹁十日間よ。彼があの魔法を使ってくれてね、すぐに呼吸がもとに
戻ったからみんなでここに運んだのよ﹂
セシルが彼の疑問に対し返答すると彼女は視線を自らの後方へと
向ける。その彼女の視線の先には、いつの間にか怒りをあらわにし
た表情のリュートが立っていた。
549
リュートはユイの視線が自分へと移ったことに気がつくと、彼の
側へと歩み寄りゆっくりと右手を前へとつき出す。その行為に周囲
の者たちが、握手をするのかと思った瞬間、彼はその手を振りかぶ
るとユイの頬を真っ直ぐに叩いた。
﹁いっつ! ⋮⋮はは、随分な挨拶だね﹂
﹁ふざけるな! 本気で怒っているんだ、俺は﹂
頬をさすりながら弛緩した笑みを見せるユイに対し、リュートは
心底怒りを込めた声で彼を怒鳴りつける。
﹁ああ、ごめんよ。いや、これにはね⋮⋮多少事情があって﹂
言い訳を口にしようとしたユイに向かい怒りに震える視線をぶつ
けると、先ほどはたいた右腕を今度は引き戻す形で再度ユイの逆頬
を叩く。
﹁今度という今度は、言い訳は聞かん。いいか、お前は自分の立場
を本当にわかっているのか? 本当に今回のことが許されるような
立場だと思っているのか? わざわざこんな偽物の計画書を作って
まで、俺達を騙そうとして﹂
﹁いや、わかってはいるつもりだよ。だからさ、君たちには黙って
いたんだ⋮⋮たぶん止められるってことが、わかっていたからね﹂
リュートが本気で怒っていることを言葉だけではなく全身で感じ
ながら、ユイは表情から笑みを消し俯き加減にそう返答する。
するとその言い訳を耳にしたリュートは、ユイに向かって更に強
い口調で詰問する。
﹁いいか? 俺達は既にお前と一蓮托生なんだ。カーリンからお前
を慕って連いて来た奴らも、士官学校からお前を慕って親衛隊に入
った奴らも、セシルもアレックスもエインスも、今この国を背負わ
れているあの方も、そしてこの俺もだ。俺達はお前がいなくなった
550
らどうすればいい?﹂
﹁それは⋮⋮もちろん考えないわけではなかったさ。だけど、親衛
隊にはアレックスもエインスも、そして君も居るんだ。だから̶̶﹂
﹁馬鹿野郎!﹂
ユイがそんな反論を口にするや否や、リュートは三発目となるビ
ンタをユイの頬に叩きつける。そして彼はユイの襟元を両手で掴む
と、彼に視線を合わせ真剣な表情で語りかける。
﹁本当はわかっているはずだ。お前はただわからないふりをしてい
るだけでな。だからこの際はっきりと言ってやる。いいか、お前の
代わりはいない。お前の代わりはいないんだ﹂
その一切の含むところのない純粋なリュートの言葉に、ユイは真
顔になると小さく一つだけ頷く。そしてゆっくりと表情を緩めると、
頭を掻いた。
﹁ああ、わかったよリュート。もうこんなことはしないさ。約束す
る﹂
﹁ふん、お前の口約束ほど当てにならんものはないが⋮⋮その言葉、
俺は忘れんからな﹂
リュートはそれだけ口にすると、ユイの襟元にかけていた手を放
し、ゆっくりと部屋の隅へと移動する。
﹁えっと⋮⋮それで、ユイ君。これからどうしようか﹂
少し硬くなってしまった場の空気をほぐそうと、意図的に柔らか
い口調でセシルはユイに向かい声をかけた。
﹁そうだね。まずは魔法の普及が最初かな。リュート、先日君が使
った魔法は君の部下たちに扱えるかい﹂
﹁すぐには無理だ。だがうちの連中の半分でいいなら一ヶ月程度で
仕込めるだろう﹂
551
最初からこの要求が来ることを予測していたリュートは予め予測
を立てており、ユイの発言に対してすぐさま返答する。
﹁まぁ、そんなものかな。分かった、それで構わないから手配して
くれないか。それとここにいる̶̶﹂
﹁それは既に済ませている。お前がのうのうと寝ている間にな。こ
の部屋にいるもの全員は既にアンチルゲリル処理を俺が行った。ク
レイリーやカインスに発症の心配はない﹂
ユイが頼みを口にするより早く、リュートは既にクレイリーたち
に抗ルゲリル病対策を済ませたことを口にした。すると、ユイは肩
をすくめながら彼を称賛する。
﹁はは、さすがだね、君は。だとしたら、計画の第一段階は終了さ。
ここからはレムリアックの第二幕に移ることになる﹂
﹁第二幕⋮⋮ですかい? だけど、これでルゲリル病対策は出来た
んでやすし、一体これ以上何をするっていうんでやすか?﹂
クレイリーがユイの発言を耳にすると、訝しむかのような表情を
浮かべ疑問を口にする。
﹁クレイリー。ルゲリル病対策は今回のレムリアックの改革におけ
る一番大きな要ではあるけど、別に目的ではないんだよ。目的はこ
の土地を豊かにすることさ。そしてルゲリル病が治ったとすれば直
ぐにでも新しい問題が生じることになる。だから、今回は先回りし
て対策を取らなければならない﹂
﹁はぁ、新しい問題でやすか⋮⋮﹂
ルゲリル病の対策が生まれたということは、プラスになることは
あってもマイナスになることはない。そう考えていたクレイリーは
ピンと来ない表情で、首を傾げる。
﹁ああ、新しい問題さ。なので、まずカインス。君は今すぐ実家に
552
帰っておやじさんをここに連れて来てくれ。そしてリュート、君に
もう一つお願いがある﹂
﹁なんだ?﹂
チラリと視線だけをユイに向けると、リュートは一言だけ返事を
返す。
﹁申し訳ないが、魔法士のついでにもう一人ほど助っ人を呼んでく
れるか。できれば赤い髪の男がいいが、ダメだったら金髪の女たら
しでいい﹂
﹁さすがに金髪は無理だ。赤髪で我慢しろ、だったら呼んでやる﹂
リュートの回答を耳にして、ユイは満足そうに頷くとニコリと笑
みを浮かべる。
﹁ああ、それで十分さ。ついでに彼の下にいる眠そうな剣士も呼ん
でおいてくれ﹂
その依頼に対して、リュートはわずかに思案する表情を浮かべる。
しかしすぐにユイの狙いを把握すると、彼は黙ったまま小さく頷い
た。
一方、ユイがなぜ戦力を必要としているのか理解できない他の者
達は、二人の会話の意味が理解できずにいた。
﹁あの⋮⋮隊長。なんであの方たちが必要なんですか。差し当たっ
て、このレムリアックは別に治安も悪く無いですし、問題無いと思
うのですが﹂
﹁ん、それは簡単さ。喧嘩を売りに行くからだよ﹂
不穏な香りが漂うユイの発言を耳にすると、カインスは僅かに目
を細めて訝しげな表情を浮かべる。
﹁喧嘩? 誰とです?﹂
﹁そりゃあ、ここに喧嘩を売りにきそうな相手のところさ。喧嘩っ
553
てのは先手必勝だからね﹂
セシルはユイのその発言を受け、突然ある存在が脳内でクローズ
アップされると、驚きの声を上げる。
﹁⋮⋮もしかして、ユイ君﹂
﹁ああ、多分君が思っている通りのところ⋮⋮つまりノバミム自治
領さ﹂
554
犯罪者より手の早い英雄
クラリス王国の南西、そして帝国から北西の方角にノバミムと呼
ばれる自治領は存在する。
元々この土地はノバミム共和国と呼ばれる小王国が存在していた
土地であり、共和国自体は四十年ほど前に帝国により侵略され、地
図からその国家の存在は完全に消滅している。
それではなぜこの土地が現在自治領となっているのか。それには
多少の事情があった。
まずこの土地を侵略した帝国は、当初の予定ではこの土地をその
まま併合する予定としていた。しかしながら、元々のこの小国が共
和制により運営されていたことも有り、帝国の帝政文化とはなかな
か馴染みにくい土地であった。
それ故に、帝国はいくつかの段階を経てこの国を統治していくこ
ととした。つまり当初は自治領として属領扱いとし、ある程度この
土地の思想や文化が馴染んだ段階で帝国に併呑するといった計画で
ある。
しかしながらこの計画はいくつもの問題を生み出すこととなった。
それは帝国領土でありながら、完全に帝国が統治している土地で
はないということで、これまで帝国で活動しづらかった様々な暴力
組織やならず者達が、こぞってこの土地に流入して来たのである。
しかも帝国国内の治安担当者は、この犯罪者集団の移動が帝国内で
の犯罪率の低下に繋がると考え、意図的にこの移動を黙認したので
ある。
この臭いものに蓋をしただけとも揶揄される帝国からの犯罪者の
555
大量流出は、ノバミムへの犯罪者の大量流入とセットであり、それ
に伴い急速にノバミムの政情は不安定となっていく。
この政情不安定自体、帝国としてはかの地域を併呑する為の口実
として当初利用するつもりであった。しかしながら、この時点で国
内の有力者達からノバミム併呑に対する反対意見が噴出することと
なったのである。
それは各地の領主たちとしては犯罪者や組織の減少により明らか
な治安の向上を認めていたこともあり、ノバミムを併呑することで
再び犯罪者達が帝国の各地域に戻ってくることを嫌ったためであっ
た。
一方、帝国への併呑を主張する者たちは、ノバミムに巣食う犯罪
者達を軍事力で持って一掃すると強気に主張した。しかしながら、
これまで帝国の治安担当者の手から逃れ続けてきた者達を本当に一
掃できるのかは疑問視され、その成功を信じきることは誰にも出来
なかった。
そういった議論が続けられること早二十年。結局結論が出ないま
ま、ノバミム自治領は犯罪者やチンピラ、闇社会に関わる人々の天
国として今日も存在し続けている。
﹁自治領主。要するにあんたが言っているのは、俺らにレムリアッ
クに行って、魔石を分捕ってこいってことだな﹂
ノバミム自治領に数ある犯罪組織のうち、その半数を従えている
と噂される最大組織セラーレム。その組織の長であるオメールセン
の自宅に、ノバミム自治領主の姿があった。
556
﹁⋮⋮ああ、その通りだ。理解頂けて助かるよ。先程も言ったよう
に、かの地域はどうやら本当にルゲリル病を克服したらしい。だと
すれば、あの土地には膨大な魔石資源がまるまる眠っているという
ことになる。それをみすみす放置する手はないからな﹂
﹁ただなあ、領主さんよ。あんたらこの自治領の正規の人間が今回
の作戦に参加しないってのは、少々虫が良すぎるんじゃないか?﹂
オメールセンはまるでもやしのような官僚然とした自治領主を睨
みつけると、ドスの利いた声でそう告げる。
﹁わかっているのだろ、オメールセン。この自治領は表向きは帝国
ではないが、明らかに帝国との関係は根深い。それ故に、我らがノ
バミムの者として彼の地へと侵攻すれば、ヘタしたら戦争の切っ掛
けとなる。だからこそ、正規の兵士ではないお前たちに依頼してい
るのだ。それにお前たち組織のほうが私達より力を持っているしな
⋮⋮出来れば、私にこんなことを言わせないでくれ﹂
自治領主のポナパルトは悔しそうな表情を浮かべながらそう口に
する。
このノバミム自治領においてセラーレムの力は絶対である。
確かにこの土地には帝国から大小様々な悪党が移ってきている。
しかしながら、セラーレムの頭であるオメールセンは、もともと表
向きは帝国の大商人であり、そして裏の顔は帝国の暗黒街の顔役の
一人であった。そんな彼が築き上げたセラーレムの組織力は、他の
小勢力とは比較にならず、既に組織の力は自治領主のそれを明らか
に上回っていた。
﹁ああ、ちゃんと理解しているんだな。だったら話しがはえぇ。今
回、レムリアックを落としたら、あの地域で上がる収益の三割をよ
こしな。それが最低の条件だ﹂
﹁三割だと、馬鹿な。あそこにある魔石をまともに掘れば、帝国の
557
年間の魔石消費を優に超えるだけの収穫があるんだ。その三割など
払えるものか。第一、そんなことを認めれば、帝国自体がきっとお
前たちを潰しにくるぞ﹂
ポナパルトはオメールセンのあまりの強欲ぶりに、驚きの表情を
浮かべると、首を左右に振りながら反論する。
﹁ふん、本当にあの土地からルゲリル病が消えたかの確証はねぇ。
そんな場所に、自らの手を汚す事無く、俺たちを送り込もうとする
んだ。それくらいだしてもらわねぇと釣り合いが取れねぇな⋮⋮ま
あ、嫌なんだったら俺達はやらないだけだ﹂
﹁くっ⋮⋮わかった。だが今は即答できないから少し待ってくれ。
帝国の担当者と、クラリスの貴族院の内通者と相談し、近いうちに
もう一度条件を提示させてもらう﹂
﹁早いことしてくれよ。俺達としちゃあ、別にあんた達に言われな
くても、勝手にあの土地に攻め入って必要な分だけ魔石を分捕る形
でもいいんだぜ﹂
オメールセンは自分が優位に交渉を進めていることに満足すると、
笑みを浮かべながらポナパルトにそう告げた。
﹁分かった、分かったから。我々が条件を提示するまで動くのは待
ってくれ。すぐに返事はする﹂
ポナパルトは自らの不利を悟り、そう口にすると、悔しそうに歯
ぎしりしながらオメールセンの部屋から退出していった。
﹁ふん、奴も所詮は帝国の犬か。まあ、あれくらい弱気の領主様だ
と、俺達も仕事をしやすくて助かるといったもんだ﹂
ポナパルトの後ろ姿を見送ったオメールセンは、満足気な表情で
そう呟くと手元のグラスにオー・ド・ヴィを注ぎ込む。そして彼は
ゆっくりとその香りを楽しみながら、喉が焼ける喜びを噛み締めて
いった。
558
﹁頭⋮⋮ちょっといいですかい?﹂
そんなオメールセンの至福の時間を横から邪魔したのは、右頬に
傷を持つ彼の部下であった。
﹁一体、なんだ。馬鹿の相手をしたばかりで疲れているんだ。どう
でもいい事なら後にしてくれ﹂
﹁へぇ、それがウォール商会なるところの者が、頭に会いたいとこ
こを訪れておりまして⋮⋮実は直接、頭への面会を求めております﹂
頬に傷のある男は、やや戸惑った表情を浮かべつつ事実を端的に
説明する。
﹁ウォール商会? 何だ、その商会は。初めて聞く名だが﹂
﹁どうも、従業員も数名しかいないような小さな商会のようなので
すが⋮⋮ただ面白い話を持ってきたから取り次いでくれと、その商
会の代理人と名乗る黒髪の男が入り口で騒いでいるようでして﹂
この大組織であるセラーレムの頭の家に、そのような小さな商会
の人間が正面から堂々と訪問するなどということはまさに異例であ
る。それ故に、部下達もどのように応対するべきか苦慮していたの
であった。
﹁ふん、そんな小さな商会など相手にしていられるか。うるさく言
っているのなら、適当に腕の立つやつを集めて叩きだしてこい﹂
﹁⋮⋮分かりました。すぐに手配します﹂
オメールセンのやや怒気を含む言葉を耳にするなり、部下の男は
部屋から立ち去ろうとその場を立ち上がる。しかしそのタイミング
で、また次の別の部下が部屋の中へと慌てて駆け込んできた。
﹁報告します! ウォール商会と名乗る者たちの一団ですが、うち
の警備のものがちょっかいを掛けたことを機に、下のロビーで暴れ
559
ております﹂
﹁馬鹿野郎! そんなことはいちいち報告せずに、その連中をさっ
さと排除しちまわねえか!﹂
﹁そ、それが、奴らの中に異様に腕が立つ剣士が三人ほど混ざって
おりまして⋮⋮特に赤髪をした剣士は、一人で十人単位の警護の者
を傷ひとつ受けずに倒す有り様で﹂
﹁ああん? 剣士が三人? なんでここに商売に来た商人の中に、
剣士が混じっているんだ。お前の報告の意味がわかんねえよ﹂
オメールセンが睨みつけるような視線を送りながら叱責すると、
またしても新たな部下がオメールセンの部屋に飛び込んできた。
﹁魔法士です! 赤髪の女魔法士が奴らの中におりまして、廊下を
好き放題に破壊し、現在この部屋に向かっています﹂
﹁また、赤髪か。というか、魔法士ってなんだ。そいつらただのカ
チコミじゃねえか、馬鹿野郎! さっさと屋敷内の全員に招集をか
けて囲んじまえ!﹂
オメールセンは怒声を吐き出すとともに椅子から立ち上がると、
部下たちに向かって指示を下す。
﹁む、無理です。とても俺達の手に負えるような奴らではありませ
ん。すぐにでもここに乗り込む勢いで迫っています。急ぎ脱出の準
備を!﹂
﹁何だと? 馬鹿な。ここの屋敷には百名以上の護衛を入れている
んだ。中には帝国の正規兵だった奴もいる。それを数人程度で乗り
込んできて、ほんの数分でここまでたどり着くなんて、普通できる
わけねえだろ﹂
﹁いやぁ、普通はそうなんだけどね。ちょっと今回連れて来た人間
が非常識な連中でさ、迷惑をかけるね﹂
そうしてオメールセンの怒号が発せられている合間に、いつの間
にか部屋の後方に、だらしな気な黒髪の男が入り込んでいた。
560
その気の抜けた声を耳にしたオメールセンの部下たちは、慌てて
後ろを振り返ると、形相を変えて彼に向かって飛びかかる。
しかしながら、彼らが黒髪の男の下へたどり着くより早く、部屋
の外からほとんど目の開いていない半分寝ているかのような女剣士
が飛び込んでくると、彼等は剣の腹の部分で殴り飛ばされ次々に昏
倒させられた。
﹁だ、だれだ、てめえは!﹂
﹁私のこと⋮⋮かな? 私はウォール商会の代理人でユイ・イスタ
ーツと言うものなんだけど。君が頭のオメールセン君かな?﹂
頭を掻きながら苦笑いを浮かべると、ユイはそのように自己紹介
を行った。
﹁ああん、ユイ・イスターツ? 知らん名だな。俺のこのセラーレ
ムに喧嘩を売りに⋮⋮ん、ユイ・イスターツ⋮⋮ちょっと待て、ま
さか貴様!﹂
自治領内の組織や商人の名前を脳内で検索するも、オメールセン
の辞書にその名前は全く記載されていなかった。しかしながら、ユ
イ・イスターツというあまりに有名な名前は、彼にすぐある人物を
連想させる。
﹁ああ、自己紹介が足りなかったかな。一応、ウォール商会の代理
人なんだけど、私の本職はクラリスのレムリアック伯爵領を経営し
ている。そっちの方が通りがいいかもね﹂
﹁⋮⋮旦那、当たり前ですぜ。ウォール商会なんて名前、カーリン
のカインスが住んでいた田舎村の奴以外、知るわけ無いでしょう﹂
ユイの後方に控えていたクレイリーが、自らの頭を撫でながら、
ユイの紹介に呆れてそう指摘する。
561
﹁たしかにそうだ。でも、結構好きなんだよ。ウォール商会の代理
人という役職﹂
﹁英雄⋮⋮ユイ・イスターツ。まさか本物か⋮⋮﹂
オメールセンはわずかに後ずさりながら、ゆっくりとつばを飲み
込む。彼からしてみれば、まさに青天の霹靂と言っていい出来事で
あり、いま大陸の西方で最も有名な男が目の前に居るのである。
﹁はは、そんな呼ばれ方をすることもあるかな。でも、帝国に近い
君達からしたら僕は敵役であっても、英雄というのは当てはまらな
い気がするけどね﹂
﹁⋮⋮なるほど、完全に甘く見ていたのは俺達だということか。こ
こまで攻めこまれたら諦めるしかねえが、実は先程まで自治領主と
あんたの土地に攻め入ろうといった話をしているところだったんだ。
しかしそんなことを実際にしていたとしても、この現状を見るだけ
で、結果はわかりきっていた話だな﹂
先ほどのポナパルトとの会談を思い出し、彼は自分の考えを恥じ
た。彼の中での認識は、レムリアックがかつてのクラリスに放置さ
れていたレムリアックのままだと考え込んでいたのである。
しかしながらそれも無理の無い一面がある。なぜならば、今まで
レムリアックを治めていた者達は、ほとんど王都から間接的な統治
を行っており、その後同地の所有権が王家に移ってからも同様であ
った。それ故に、ユイが領主になろうと、まさか英雄と呼ばれるユ
イ・イスターツ自身が、直接彼の地に入っているとは考えていなか
ったのである。
﹁はは、まあ間一髪といったところかな。実際、いずれ君たちが私
達の所に来るんじゃないかと思ってはいたんだ。ただね、一度戦端
が開かれてしまえば、今後友好的に話し合うことができなくなる可
能性が高い。だから今日は平和的に話をするために、こうして君の
562
ところに訪れたんだ﹂
﹁⋮⋮俺には、脅しに来たとしか聞こえねえがな?﹂
たとえ先に手を出したのが自分達の方であろうとも、ユイの連れ
てきた連中は先ほどまで彼の部下たちをさんざん弄んでいたのであ
る。にもかかわらず、あっさりと平和という建前を口にする目の前
の男に対し、オメールセンは言い知れぬ恐怖を感じていた。
しかしながら、彼とて大組織の長である。それに恥じないように
精一杯の虚勢を張り、ユイに向かい対峙する。
一方、あからさまな警戒を受けたユイは、ゆっくりと首を左右に
振ると、彼に向かって微笑みかけた。
﹁そんなことはないさ。うちの連中には命は取るなと言ってある。
今、フートと対峙した彼等もそうだし、多分君の部下たちも大方は
無事だよ﹂
ルゲリル病対策に忙しいリュートの代わりとして、呼んでもいな
いのに勝手にやってきた赤髪の女性のことがユイの脳裏を一瞬掠め
た。それ故に、加減を知らない彼女のことを考慮して、ユイはオメ
ールセンに向かい断言はしなかったもののそう説明する。
﹁へぇ、手加減してまでこれだけの力があると⋮⋮なるほど、噂に
聞く親衛隊という組織の力は、これほどのものというわけかい﹂
もう脱帽せざるを得ないという心境で、オメールセンはそう口に
すると、ユイは親衛隊の名前まで出されるとは思わず、意外そうな
表情を浮かべる。
﹁ふむ、なかなか詳しいじゃないかい﹂
﹁なんせあんたは有名人だからな。帝国はもちろんだが、このノバ
ミム自治領でもあんたの名前を知らない奴はいないさ。そしてあん
たが組織したって言われている親衛隊の存在もな。それで、今日は
563
俺に何の用だい? 攻められる前に、直接俺のタマを取りに来たっ
てわけではなさそうだが﹂
﹁ああ、できればそういうことはしたくないかな。私は面倒事が嫌
いでね。今日は君と商売をしに来たんだよ﹂
ユイが両手を左右に広げながら彼に向かってそう口にすると、オ
メールセンは額に皺を寄せて思わず聞き返す。
﹁⋮⋮商売?﹂
﹁さっきも言っただろう、今日の私はウォール商会の代理人として
ここに来ている。それでオメールセン君、もし良かったら君の表向
きの顔であるオメールセン商会の会長として、私と取引をしないか
な? 君にとって決して損をさせない話だと思うんだけどね﹂
564
二つの会議と一つの人事
ケルム帝国最高会議。
それはケルム帝国の皇帝も出席する、帝国における意思決定の最
高機関である。
この日の出席者は皇室関係者に加え、軍部の責任者たるパデル軍
務長官率いる軍部の重鎮と、内政部のトップであるメニゲス内務長
官率いる政務部の重鎮、そして外務を司るセルベック外務長官率い
る外務部の重鎮が一同に介していた。
この日の会議は、戦力の回復しつつある軍部に関する今度の方針
と、それに関する予算案の策定がテーマとなっていた。そしてひと
通りの議題が片付いたところで、軍務長官であるパデルは軍の購入
している魔石の価格の低下を先日来報告されていた事を思い出すと、
ちょうど良い機会だとばかりにこの場で発言を行った。
﹁昨今、国内に流通している魔石の総量だが、先月と比べて増えて
いる様に思うのだがどうなのかね?﹂
髪を全て後ろに流し厳つい表情をしたパデル軍務長官は、内務省
を統括する口ひげを蓄えたメニゲスに向かって確認するようにそう
問いかけた。するとメニゲスは自分が答える代わりに、流通部門の
責任者である若手のロキソンに視線を向ける。
﹁はい、軍務長官の仰られるように明らかに流通量が増えておりま
す。昨年の同時期に比べ約二割増しといった状況でしょうか。その
増加分のほとんど全ては、ノバミム自治領から我が国へと持ち込ま
れたものであります﹂
565
﹁ふむ、ノバミムからか。ということは仕切っているのはオメール
セン商会だな﹂
﹁はい。仰られるとおりです。どうやらその魔石はオメールセン商
会が独自ルートで仕入れたものを、帝国向けに流通させているよう
です﹂
ロキソンは軍務長官であるパデルの問いかけに対して、手元の資
料を確認しながらそう回答する。
﹁オメールセンか⋮⋮あのゴロツキどもを好きにこの国で取引させ
るとは、全く嘆かわしいことだ﹂
治安維持部の部長職にあり、職務においては冷徹であることで有
名なゼリアムが、ロキソンの発言を耳にしてそう口にする。
﹁だが、奴らの魔石ルートがなければ、次の冬も凍死者を出すこと
になるぞ。クラリスからの供給を絞られ、フィラメント公国に足元
を見られた昨年の二の舞いはごめん被りたいな﹂
国内の政治を統括する立場にあるメニゲスは、クラリスとの戦争
から国交が途絶えてしまったため、魔石の流通量の減少をきたし、
少なからぬ凍死者を出すことになったことを悔いながらそう口にす
る。
魔石の供給量が異常に豊富なクラリスなどでは、街灯や家庭での
料理など非常に様々な用途に魔石が使用されている。しかし魔石の
取れない帝国においては、そのような用途に魔石を使用することは
帝都の一部のみに限られていた。
一般の庶民が魔石を使用するのは主には冬の暖を取るためであり、
もともと燃焼効率がよく安全であり、不要な廃棄物を生み出さない
魔石は各家庭の冬の生活には欠かせないものであった。
しかしながら、昨年この国はクラリスとの戦争に負けてしまった
ため、狙っていた彼の国の魔石を入手することが叶わず、同国から
566
の魔石購入も当然ながら不可能となってしまっていた。そして、唯
一の供給先となった魔法大国のフィラメント公国からは足元を見ら
れることとなり、フィラメントはケルム帝国に対し容赦の無い魔石
の値上げを通告してきたのである。
﹁だからといって犯罪者をのさばらしていいというものではなかろ
う。ましてや奴らの魔石の供給元を考えればな﹂
軍との関係が深く、実質は帝国における軍の統括者であるノイン
皇太子が忌々しげな表情でそう口にすると、隣に座る第二皇子のト
ールは訝しげな表情で疑問を口にする。
﹁供給元⋮⋮どういうことですか?﹂
﹁あの魔石は全てレムリアックで産出されたものだ。トール、この
意味がわかるか?﹂
皇帝の若き頃にそっくりの威風溢れる顔を歪めながら、ノインが
忌々しげにそう発言すると、若いトールは母親譲りの端正な顔を曇
らせて思わず呻く。
﹁そうですか⋮⋮レムリアックですか﹂
トールがその地名を口にした瞬間、軍部の面々の表情は途端に曇
る。彼の地を現在治めている男は、彼等軍部の天敵とも呼べる男で
あり、その男一人に戦争に負けたと考えているものも少なくなかっ
た。
﹁ええ、しかも今回の魔石販売に関しては、オメールセンが独自に
レムリアックでの供給網を確保したわけではなく、奴自身が話しを
持ちかけたという噂です﹂
﹁ユイ⋮⋮イスターツ。やはりあの男か⋮⋮﹂
内務省流通部のロキソンがそう追加報告を行うと、ノインが深い
深い溜息とともに帝国の天敵である男の名前を口にした。
567
彼の口からその名前が発せられた瞬間、他の会議の参列者からも
驚きと動揺の声が漏れる。そんな中、第二皇子のトールはロキソン
に対して疑問の声を口にした。
﹁しかしそれは変ではありませんか。確かに今、クラリスと我が国
との国交は失われ、彼の国からの魔石供給も途絶えています。なの
に奴がクラリスの魔石を我が国で売りさばくとは矛盾するように感
じますが﹂
﹁皇子の言うことは正論でございますが、あの男の手口は我々が思
っているより巧妙なのです﹂
﹁どういうことですか?﹂
ロキソンに代わり、内務長官のメニゲスが肩を落としながら悔し
そうに言葉を発すると、トールは訝しげな表情を浮かべて彼に問い
かける。
﹁現在、レムリアックは自由な商取引の認可が下りているそうなの
です。その自由に商いができるという建前を利用し、まずノバミム
自治領の商人がレムリアックに買い付けに行きます。そして、一度
ノバミムへ運び込んだ後で、今度は我が国へ輸送するといった寸法
を取っているようなのです。それ故、レムリアックは我が帝国に直
接販売していないという体面を国内で保っております。その上、こ
のままレムリアックからの供給量が増えれば、自然とこの国の魔石
供給は、レムリアックの意向によって左右されるようになりかねま
せん﹂
﹁そしてそのレムリアックを仕切っているのが奴というわけか⋮⋮
これは由々しき事態ではないか。今すぐオメールセンからの魔石販
売を差し止めるべきだ﹂
皇太子のノインは一同を見渡しながらそう主張するも、その場の
一同は顔を伏せるばかりで、彼に賛同するものはいなかった。周囲
568
の反応に意外そうな表情を浮かべるノインに対し、内務長官のメニ
ゲスはかしこまりながら彼に向かって口を開く。
﹁ですが、ノイン様。あの国の魔石を遮断した場合、代わりとなる
魔石の入手先がございません。昨年来、魔法公国に値を吊り上げら
れて、多数の凍死者を出した惨事の二の舞になりかねませんぞ﹂
﹁む、むぅ⋮⋮それは⋮⋮﹂
メニゲスの発言に対し、それに反論する何ら具体的なアイデアを
有さなかったノインは、思わず口ごもってしまう。すると、三長官
の中で唯一四十代の若さである外務長官のセルベックが、一同に向
かって初めて口を開いた。
﹁私に一つアイデアが有ります。要するに、あの男の存在がクラリ
スにあるから危険だということですよね。だとしたらあの男をこの
国に引き込んでしまっては如何でしょうか?﹂
﹁馬鹿な、ユイ・イスターツをか。そんなことできるわけがないだ
ろ。馬鹿馬鹿しい﹂
イスターツに嫌悪を抱く軍部のパデルは、セルベックの話す内容
を耳にするなり、ありえないと頭ごなしに否定する。しかし、セル
ベックは彼に視線を合わせると、さらに言葉を追加した。
﹁果たしてそうでしょうか? 知ってのように、彼は我が国との戦
いであれほどの戦果を示しながら、クラリスにおいてはさほど評価
されておりません。より正確に言えば、民衆達の支持はあるようで
すが、旧態依然とした貴族連中からは総じて受けが悪いと報告を受
けております。だとすれば、奴がクラリスに対し盲目に従い続ける
かは、いささか疑問符が付くのではないかと思いますが﹂
﹁しかし、それはあくまで予想にすぎん。奴自身があの地位で満足
している可能性だってあるではないか﹂
セルベックの発言に一理あると理解はしたものの、軍部と近い存
569
在である皇太子のノインは、自国の敗北の歴史からその発言を素直
に認めることは出来ず、首を横に振って否定する。
﹁それはその通りですが、その程度で満足してくれる男でしたら、
そもそも騒ぎ立てる必要は無いかと思います。別にこのまま放置し
ておかれてもよろしいかと﹂
セルベックがそう言い切ると、会議室は誰も反論できず静まり返
る。そうしてわずかの空白の後に、静止してしまった会議を再び動
かしたのは、最奥の席に腰掛けていた皇帝その人であった。
﹁ははは、確かに其方の言っていることはもっともだ。それで、具
体的にお主はどうすれば良いと思うておる﹂
﹁はい、陛下。彼等の間隙に付け込んでユイ・イスターツを我が国
に迎え入れれば、クラリスに関する様々な問題は自然と解決を見ま
す。その上、この策が上手く行った場合、状況によってはレムリア
ックの魔石も我らのものとなる可能性まであります。試してみる価
値は十分にあると思いますが﹂
﹁なるほどな。しかし、万が一奴が断った場合はどうする?﹂
笑みを浮かべながら一度大きく頷いた後に、皇帝はセルベックに
向かって更に問いかける。するとセルベックはすぐに返答を返した。
﹁奴が我らに寝返らなくとも、それはそれで構いません。先程も言
いましたように、その場合は奴は今の待遇に甘んじる程度の男です。
今後の我らにとって、正面から闘う愚を避ければ、なんら特に支障
をきたすことはないでしょう﹂
﹁だが、どうやってユイ・イスターツを我が方に引きこむというの
かね。奴と直接交渉しようと間者でも送り込もうというのか?﹂
外務長官であるセルベックの提案に対し、渋い表情を浮かべたノ
インは、額に皺を寄せながら彼に向かって問いかける。
570
﹁いえ、その方法は不可能でしょう。なにしろ奴の周りにはかなり
優れた護衛が張り付いているようですから。それに奴の心証を考え
ても、間者を送るというのは下策と言えるでしょう。むしろそんな
小細工をせず、彼の方から堂々と我が国に来てもらえばいいのです
よ﹂
﹁確かにそんなことができれば苦労はないと思いますが⋮⋮しかし
彼の方から我が国に来るなどと言うことが、果たしてできるもので
しょうか?﹂
第二皇子であるトールは、セルベックの提案に興味深げな表情を
示すと、彼に向かって問いかけた。
﹁ふふ、それはそう難しいことではないかと思われます。そうです
ね、現在のあの男の役職はなにか、皆さまは御存知でしょうか?﹂
セルベックは皆を見回すようにしながらその言葉を発すると、彼
は自信ありげにニヤリとした笑みを浮かべた。
﹁くそ、イスターツめ﹂
ブラウの悔し気な声が場に響き渡る。
ブラウ家で開かれる定例の円卓会議は、この日は当初より重苦し
い雰囲気に包まれていた。それは、もちろん一連のレムリアックに
おける成功が原因であった。
﹁落ち着いて下さい、ブラウ公﹂
﹁これが落ち着いていられるか。レムリアックに埋蔵されている魔
石はクラリス内の半分に近い量とも噂されているのだぞ。それをあ
の男が独占しているというのだ。こんな馬鹿げた話があるか﹂
571
ブラウの怒りはこの日沸点に達していた。それは先日のライン公
の発表が原因であった。
もともとこの半年ほどの間、レムリアックでルゲリル病が克服さ
れたという噂自体は王都でも散発的に飛び交っていた。しかしいく
らユイ・イスターツであろうと、そんなことは不可能であると当初
は誰もその噂をまともに相手にしていなかった。
しかし、昨日ライン公がレムリアックへの大規模な投資を行って
いたことを公表するなり、状況は一変する。つまり、ライン公が大
規模な投資を行ったという事実は、ルゲリル病への対処法が実際に
あるということを、ライン公が担保した事を意味したのである。
それ故に、この時点でレムリアックの噂は真実であると、誰しも
が驚愕とともに認めざるを得なかったのである。
﹁ライン公の介入がすでに行われている今、レムリアックの魔石採
掘所は更に加速度的に再開発されるか⋮⋮まさかこんなことになる
とは﹂
陸軍省次官のエミリオッツは首を左右に振りながら、吐き出すよ
うにそう口にする。
﹁しかも奴の土地には重税を掛けられない上に、商取引の自由化ま
で認可してしまっている⋮⋮我ら自ら約束する形でな﹂
戦略省次官であるテムスはエミリオッツに同調するかのように発
言した。すると再びエミリオッツは額に皺を浮かべながら口を開く。
﹁このままでは⋮⋮そう、このままではこの国は奴に乗っ取られか
ねんぞ﹂
その発言の効果は絶大であった。その場はその言葉が発せられる
と同時に、完全に凍りついてしまう。
すると、この会議に参加する貴族の中で最も若い男は、そんな重
572
苦しい会議室の雰囲気を振り払うかのように、やや軽い口調で発言
した。
﹁お待ちください。僕に一つアイデアが有るのですが、聞いていた
だいてよろしいでしょうか﹂
﹁なんだ、ロペン伯爵。何かアイデアがあるとでも言うのかね?﹂
この会議の主であるブラウは、その声を上げたロペンに向かい訝
しげな表情を浮かべながら、彼の発言を許可する。
﹁はい。皆さんご存知のように、ユイ・イスターツはレムリアック
領の伯爵ですが、その前に彼の本当の所属がどこか覚えておられま
すか?﹂
﹁ん、ヤツの役職だと。それは親衛隊の̶̶﹂
そう口に仕掛けたテムスを遮るようにロペンは首を左右に振ると、
彼は周囲を見回しながら口を開く。
﹁違います。確かに親衛隊の顧問という肩書は有りますが、彼の今
の所属は親衛隊ではありません。彼の今の正式な所属は外務省。そ
の三位待遇というのが彼の正式な立場です﹂
﹁そういえば、奴は軍から外務省へと出向していたか。だがそれが
どうしたと言うんだ?﹂
エミリオッツはロペンの発言に一つ頷くも、彼の真意が見えずそ
う問いかける。するとロペンは苦笑いを浮かべながら、彼に向かっ
て返答を口にした。
﹁実は、先日ケルム帝国から打診が有りましてね。我が国との国交
を再開させたいとの事です。そこで、我が国からも外務大使を派遣
せねばならないわけですが、あいにく大使職を担う三位以上のもの
は、ほとんどが他国へと出向している状況です。残念ながら、現在
国内に居られるのはそこにいらっしゃる外務次官のレーベ侯爵と、
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そしてもうひと方しか存在しません。さて、そこでです。皆さんは
一体誰を彼の国に派遣すべきだと思われますか?﹂
﹁⋮⋮なるほど、そういうことか。奴に恨みを持つ帝国という穴倉
の中に、あえて奴を放り込むと﹂
ロペンの発言を耳にしたブラウは、彼の意図するところを理解し
歪な笑みを浮かべる。
﹁どうも、ご理解が早くて助かります。なんだったら、私も彼に同
行して万全を期させていただく形としますが﹂
﹁ふむ⋮⋮いいだろう、面白い提案だ。ならばレーベ侯爵、外務次
官としてそのように取り計らってもらえるかな?﹂
ブラウはここまで一度も発言しなかったレーベに向かってそう問
いかけると、彼は組んでいた手を解きゆっくりと首を縦に動かした。
﹁承知いたしました﹂
﹁ふふ、これで奴をこの国から消し去る事ができる。あとは帝国の
連中の手腕に期待するとしようか﹂
ブラウは会議が始まる前の不機嫌が嘘のように笑みを浮かべると、
満足そうに何度も頷いた。
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去るものと去らざるもの
ノバミムへの遠征を終えて、レムリアックへと戻ったユイは、そ
の翌日から現在に至るまで完全に執務室の置物となり続けていた。
﹁旦那⋮⋮少しは働いてくださいよ﹂
﹁おいおい、私は病み上がりなんだよ。少しくらいは労ってくれて
も良いじゃないか﹂
ユイは連日のように労働を薦めてくるクレイリーに対し、執務室
の自らのデスクで頬杖をついて読書をしながら、視線を移すことな
く返事をする。
﹁⋮⋮一体、何ヶ月前の話をしているんでやすか。それに病み上が
りで、隣の自治領にカチコミにいったのはどこの誰でやしたかね?﹂
﹁さあ、誰だったんだろうね。少なくとも私は商売の話をしに行っ
ただけで、私自身は指一本手出しはしていないよ﹂
﹁たしかに、そう言えばあの時も旦那は働かなかったでやすからね
⋮⋮﹂
あのノバミムでのカチコミの際に、激しい戦いの中一度も剣を抜
くことなく悠々とオメールセンの下まで歩いて行ったユイのことを
思い出し、クレイリーは呆れたような溜め息を吐く。
﹁良いじゃないか、それでもうまくいったんだからさ。あそこで販
売網を確保できなかったら、この土地でいくら魔石を産出しようと、
この土地の魔石の行き先は無かったんだしさ﹂
現在クラリスの王都であるエルトブールの市を仕切っている大商
人たちは、そのほとんどがブラウたち貴族の御用商人たちであった。
それ故に、ユイはたとえレムリアックから魔石が取れるようになろ
575
うとも、通常経路では販売できないという可能性を当初から想定し
ていた。だからこそ最も市場としては魅力的で、そしてレムリアッ
クから魔石を卸す行為が様々な波及効果を生み出しうる手段を彼は
選択したのである。
﹁それはそうでやすけど⋮⋮でも、欲張って旦那が注文を取りすぎ
たせいで、こっちはてんてこ舞いなんでやすよ。在庫は右から左に
次々動いて行くし、どんどん地方やノバミムから人が押し寄せてく
るし、そのためのアンチルゲリル処理はてんやわんやだし。ほんと
リュートさんがこの土地を離れる代わりにと、慌てて補充の魔法師
たちを呼び寄せなかったら、間違いなくレムリアックは回っていま
せんでしたからね﹂
﹁うんうん、つまり商売繁盛で実に良いということだね。いやぁ、
私はついに左うちわの人生を手に入れたということだよ﹂
﹁⋮⋮なんだかなぁ﹂
満面の笑みを浮かべながら一向に働こうとしないユイに対し、付
ける薬はないとばかりにクレイリーは肩を落とす。
しかし、そんな弛緩しきった執務室の空気は、その直後にセシル
が部屋へと駆け込んで来るなり一変する。
﹁はぁはぁ⋮⋮ユイ君。ちょっと、ちょっといいかな﹂
﹁どうしたんだい、セシル。珍しいね、君が息を切らせるほど慌て
ながらやってくるなんて﹂
ユイはクレイリーの時の対応と違い、手元の書籍から肩で息をす
る彼女へと視線を移す。
﹁こ、この手紙を。この手紙を見て!﹂
セシルはそう口にすると、彼に向かって一枚のきれいな上質紙を
手渡す。そのセシルの一連の行動にユイは首を傾げならも、その紙
へと彼は視線を移した。すると、彼はすぐに額に皺を寄せ、そのま
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まの姿勢でしばし硬直する。
﹁⋮⋮まったく﹂
間違いではないかという思いから、二度その文面を目に通した後
に、ユイは大きな溜め息を吐き出した。すると、何やら芳しくない
事態が起こったことを感じ取ったクレイリーは、ユイに向かって心
配そうに尋ねる。
﹁旦那⋮⋮一体どうされたんですかい?﹂
ユイは一度首を左右に振った後に、先ほど受け取った手紙をくし
ゃくしゃと丸めると、それをクレイリーめがけて放り投げる。
﹁ちょ、この用紙は公式な命令書に使われる特注の上質紙じゃない
ですか。全くこんな大事なものを⋮⋮って、命令書?﹂
クレイリーはそこまで自ら口にしたところで、自分の発言に違和
感を覚え、慌ててその文面へと目を走らせる。すると必死に字を追
っている彼に向かい、ユイは他人ごとのような口調でその内容を口
にする。
﹁私への転勤命令だよ。この片田舎を離れて、近隣国の中でもっと
も大きな国へ行ってこいだとさ﹂
自らのケルム帝国への駐在命令をユイは鼻で笑うと、弱ったよう
に頭を掻く。
﹁⋮⋮ユイ君、どうするつもりなの﹂
﹁断れるなら、断りたいものだけどね⋮⋮ただ、おそらく難しいだ
ろうね。その命令書を発行した外務次官の後ろには、例の組織がつ
いていらっしゃるだろうからさ﹂
ユイは暗に貴族院のことをセシルへとほのめかすと、彼は疲れた
ように肩を落とす。
577
﹁ですが、旦那。この土地のことはどうするんでやすか?﹂
﹁そりゃあ、代理を立てるに決まっているさ。他に手はないからね
⋮⋮しかし、しばらくは呆けていたかったけど、これでまた少し働
かなければならなくなったか。はぁ⋮⋮全くもって困った事だよ﹂
ユイはそう口にするなり絶望的な表情を浮かべると、大きな大き
な溜め息を吐き出す。
﹁代理と言うことは、ここの統治を他の人間に任せるつもりなの?
でも、貴方の代わりができる人なんて⋮⋮﹂
﹁いや、それは全く心配していないんだ。なにしろ、最も信頼出来
る代理人が私の目の前にいるからね﹂
ユイはあっさりとセシルの心配を否定すると、そのまままっすぐ
に彼女を見つめた。
するとセシルは、そのユイの視線の意味を理解して途端に狼狽す
る。
﹁⋮⋮嘘でしょ。そんなこと私には︱︱﹂
﹁できるできないということを抜きにしても、私は君にここを任せ
たいんだ。もちろん能力的にも君なら何一つ問題無いと思っている
んだけどね、セシル六位。いや、セシル領主代理﹂
否定的な言葉を口にしようとしたセシルに対し、ユイは苦笑いを
浮かべながら彼女にかぶせるようにそう告げる。
すると、セシルはユイに向かって言いたいことがありそうな視線
を送りつつ、すぐに首を左右に振った。
﹁私には無理よ。それに私は⋮⋮﹂
﹁セシル。君より優秀で君ほどこの土地を愛している人間を、少な
くとも私は知らない。だから君にお願いしているんだ。他の人に任
せることなんて、とてもじゃないけど私には出来ないからね﹂
ユイは自らの視線を宙に漂わせながらそう口にすると、手にして
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いた書物を閉じて机の上に置く。
﹁ユイ⋮⋮君﹂
﹁あと、クレイリー。君とカインスもしばらくはここに居残りね。
君たちには特に命令は来ていないからさ、彼女のことは任せたよ。
と言うわけで、私は引継のための細々としたことをするために、ち
ょっと下の資料室へ行ってくるよ﹂
ユイは頭を掻きながら二人に向かってそう告げると、そのまま彼
は席を立ち上がりまっすぐに部屋から出て行く。
そうして部屋の中には、クレイリーとセシルだけが残された。
﹁セシル六位⋮⋮旦那は仕事を押し付けるのが仕事みたいなお方で
すが、できない人間に仕事を押し付けたところは見たことがありや
せん。きっとこの土地を任されるのも、六位を信頼しているからだ
と、あっしは思いやす﹂
﹁⋮⋮そうじゃないの。ここを任されることも確かに不安だけど、
私は⋮⋮ただユイ君ともっと仕事がしたかったの。例え、私を最後
まで見てくれなかったとしてもね﹂
セシルはそう口にして、笑っているようなそれでいて悲しんでも
いるような、なんとも言えない曖昧な表情を浮かべる。
すると、その彼女の目にほんの少し輝くような雫が貯まっている
ことに気がついたクレイリーは、彼女に向かって遠慮がちに問いか
ける。
﹁失礼を承知でお聞きしますが、やはり旦那のことを﹂
﹁⋮⋮学生の時からね。でも、きちんと諦めたつもりだったの。な
のに、偶然ユイくんがここの領主として再び私の前に姿を現したか
ら、私は気づいてしまったの。あの頃の想いが、今でも私の中には
っきりと根付いていたってことがね﹂
﹁セシル六位。それは⋮⋮﹂
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クレイリーはセシルの独白を耳にしてわずかに顔をしかめる。す
ると、そのクレイリーの表情から、セシルは言いにくそうにする彼
の言葉を汲み取って口を開く。
﹁うん、言いたいことはわかる。だから何も言わないで。私もさ、
一緒に働いてみてわかっちゃったから。彼は変わっていないって、
そしてきっとこれからも変わることはないって。でもね、そんな人
を追いかける馬鹿な子がね、一人くらいいても良いじゃない﹂
そう言い終えてセシルは無理やり笑みを作ろうとすると、その瞳
から一滴の水滴がこぼれ落ち、彼女の頬に一筋の跡を残す。
﹁⋮⋮すみやせん﹂
﹁あなたが謝ることじゃないわ。これはあたしが勝手に想っている
だけだから。それに、今後も時々領主としてレムリアックに帰って
くることはあるでしょう? 私は彼にここの状況を報告する、彼は
最近起こったことを私に話してくれる。彼との関係が途絶えるわけ
じゃない、そして私は諦めるつもりもない﹂
そのセシルの言葉を耳にしたクレイリーは、悩ましげな表情を浮
かべた後に、迷いながらも彼女に問いを発する。
﹁でも、本当にいいんですかい? あっしがこういうことを言うの
も何ですが、旦那のことを想っておられる方は、たぶん他にもいら
っしゃりやすぜ﹂
﹁例えば女王陛下とか?﹂
﹁⋮⋮ご存知で?﹂
﹁噂を聞いてなんとなく、ね。でも負ける気はないわよ。こっちは
学生の時からだもの、年季と積み重ねたものが違うわ。さてっと﹂
セシルは両手で自分の顔を軽く叩くと、俯いていた顔を上げクレ
イリーに視線を向ける。
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﹁ウジウジするのはおしまい。私は私にできることをする。まずは
このレムリアックを、ユイ君の代理として恥ずかしくないように経
営していくわ。という訳で、これからよろしくね、クレイリーさん﹂
その笑みを目にしたクレイリーは、この場から立ち去っていた男
に対し大きな溜め息を吐き出すと、そのままセシルに向かって笑み
を返す。
﹁あの働かない人の下で働くことを思えば、きっとこれからは天国
で働く気分になれそうでやすからね。へへ、喜んでセシルさんの下
で働かせて頂きやすよ﹂
その言葉を口にしたところで、クレイリーはセシルの差し出した
手を取ると、しっかりとした握手を交わす。
そうして彼はユイ不在のこの地を守るために、精一杯目の前の女
性を助けることを固く心に誓った。
581
外交大使
﹁やられた⋮⋮くそ、まさか連中がこんな手で来るとはな﹂
﹁貴方のせいではありませんよ、閣下。私達も完全に油断しており
ました。まさか貴族院の連中が、こうも露骨な手段を取るなどとは
誰も予想出来なかったのですから﹂
まるで歯ぎしりするかのように悔しさを隠さぬラインバーグに対
し、アーマッドは首を左右に振りながら彼を慰める。
﹁だが、これでアイツを飢えた猛獣の檻の中に放り込むこととなる。
ブラウ達の狙い通りにな﹂
﹁⋮⋮仕方ありません。現在の彼の所属が外務省であることは事実
なのです﹂
﹁しかし、奴らにとってユイは仇にも等しい不倶戴天の敵と言える
存在だ。いつどこで命を狙われるかわかりもせん﹂
ラインバーグはユイの身を案じ、そう口にしながら自室を歩きま
わる。すると、椅子に腰掛けたままのアーマッドは、彼に向かって
問いかけた。
﹁それで、彼の方はなんて言っているんです?﹂
﹁仕方ないから受けると言っておる⋮⋮あいつがケルム帝国を舐め
ているのでなければ良いのだが﹂
﹁残念ながら、現状は他の選択肢がありません。それにきっと彼に
も多少の狙いがあるんじゃないかと思いますしね。例えば彼の地の
こととか﹂
アーマッドが苦笑いを浮かべながらそう発言すると、ラインバー
グは訝しげな表情を浮かべ彼に尋ねる。
582
﹁レムリアックのことか?﹂
﹁ええ、そのとおりです。彼のことですから、おそらく帝国に販路
を広げる機会と既に考え始めている頃でしょう。表向きは違えど、
現在の帝国における実質の魔石供給元は彼なのですから﹂
﹁⋮⋮そうかもしれん。だが⋮⋮﹂
ユイのことを本当に大事にしていたからこそ、アーマッドの説明
を耳にしてもなお、ラインバーグの不安は払拭されなかった。そん
な上司の姿を目にしたアーマッドは、笑みを浮かべながら自分の発
言を多少補足する。
﹁大丈夫ですよ、閣下。帝国も彼に手を出せば自国がどうなるか、
想像できない者たちばかりではないでしょう﹂
﹁しかしだ、奴に恨みのある兵士や一般人による暗殺の可能性など
は否定できまい﹂
﹁それは確かにその通りだと思います。ですからこの際、彼にとび
きり優秀な護衛を付けてやりませんか? もちろん親衛隊の台所事
情は、多少苦しくなるでしょうがね﹂
ある特定の人物を想定したアーマッドの提案に、ラインバーグは
その人物をすぐに察すると彼に向かって確認する。
﹁朱の事を言っておるのか?﹂
﹁はい。アレックスを護衛につければ、おいそれと彼に危害を加え
ることは出来なくなるでしょう。更に付け加えるなら、ユイ自身の
腕も決して悪くはないですしね。そしてそれに加えて、アズウェル
先生の義理の娘さんやカーリン組を何人か付けてやれば、十分とは
言いませんが及第点とは言えるのではないでしょうか?﹂
現状できる最大限の提案をアーマッドが口にすると、ラインバー
グも苦々し気な表情を浮かべながら、仕方ないとばかりにゆっくり
と頷く。
583
﹁残念ながら、わしらがしてやれるのはその程度のことだけか⋮⋮﹂
﹁仕方がありませんよ。今回のことは、表向き外務省内の人事です。
我らが介入できるのはせいぜい護衛の人選程度しかありません。そ
れよりも、当人であるユイ君はどうしたのですか? 既に領地から
呼び出しを掛けて、王都に到着していると伺っていますが﹂
アーマッドはユイがこの場にいないことを不思議に思い、ライン
バーグに向かってそう問いかける。すると彼は、わずかに遠い目を
しながら窓の外へと視線を移した。
﹁アズウェルのところさ。今回のユイの窮地を救うことになった最
大の功労者の一人だ。もっとも窮地に追いやった原因でもあるかも
しれんが⋮⋮どちらにせよ、少しくらいはあいつを貸してやっても
構わないだろう﹂
﹁アズウェル先生、お久しぶりです﹂
﹁ふん、お前か。それで何の用だ? 領地からわざわざ王都に足を
運んでわしのところへ顔を出すなんてな。言っとくがワシは忙しい
んじゃぞ﹂
いつものごとくアズウェルは手元の論文から視線を動かさずにユ
イに対して返答する。そんなアズウェルに対し、ユイは苦笑いを浮
かべると、右手に手にしていた紙の束を彼の机の上へと放り投げる。
﹁すいません。せっかく王都に立ち寄ったので、こいつを先生に渡
そうと思っていましてね﹂
﹁これは?﹂
﹁今回のお礼ですよ。中には、今回のユニバーサルコードアクセス
の際についでに判明した解析コードが有ります。もちろん断片的な
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ものですがね﹂
周囲を一度確認した後に、ユイがそう告げる。するとアズウェル
はその紙の束へと手を伸ばし、パラパラと内容をめくった後に、机
の二番目の引き出しにそれを移し、厳重に鍵をかけた。
﹁⋮⋮そうか、ならばありがたく頂いておこう。それより、お前は
これからどうするつもりだ? 噂では某国の大使になるという話も
飛び交っているようだが﹂
﹁おや、情報が早いですね。実はこの度、ケルム帝国の外交大使を
拝命しました。今日はお別れのご挨拶も兼ねて参った次第です﹂
ユイは外務省で任務を命じられた後に、そのままの足でアズウェ
ルの元へと直接訪問したのである。
﹁ふん、帝国か⋮⋮ブラウあたりの差金というところだろうな﹂
﹁はは、おそらく正解でしょう。貴族院に所属する外務次官殿直々
のご命令でしたから﹂
﹁ふん、連中もくだらん事をするものだ。自分たちの手に余るから、
帝国に悩みの種を丸投げするというわけか﹂
鼻息を一つ鳴らした後にアズウェルはそう口にすると、ユイは彼
に対して肩をすくめてみせた。
﹁手厳しいですね。でも、私自身も一度は帝国に入ってみたいと思
っていたので、渡りに船なんですよ﹂
﹁それはウォール商会のユイ・イスターツとしてかね?﹂
アズウェルの目がわずかに大きく開かれ、ユイに向かって睨みつ
けるような眼光を走らせる。すると、その視線を浴びせられたユイ
は、ごまかすように苦笑いを浮かべながら彼の推論を肯定した。
﹁はは、さすがアズウェル先生。断片的な情報からよくそこまで予
想しますね﹂
585
﹁情報の分析がわしの仕事じゃ。これだけ鍵が揃っていれば、うち
の院生でさえ、答えよるわ﹂
﹁院生? 先生が院生を引き取られたのですか?﹂
アズウェルの発言の中に混じっていた意外な単語を耳にして、ユ
イは思わず彼に確認する。すると、アズウェルは面倒くさそうな口
調で簡単に経緯を口にした。
﹁アーマッドの奴が、無理矢理ねじ込んできよった。まあ、確かに
多少見どころのあるやつだからしばらく置いてやることにしとる﹂
﹁へぇ⋮⋮先生が見どころあると言うなんて、本当に珍しいですね。
それは将来が楽しみだ﹂
ニコニコとした笑みを浮かべたユイはそう言ったが、アズウェル
はそれに対してはあまり深く言及せず、違う提案を口にする。
﹁今日は外に出しているから不在だが、いずれ貴様に会わせる機会
もあるだろう。それよりもだ、王都に立ち寄っただけというのなら、
今日は帰りにわしの家に寄っていけ﹂
﹁これはまた珍しい。先生が家に帰られるとは⋮⋮というか、本当
に私がお宅に行かせて頂いてよろしいんですか?﹂
普段は研究のために、年の半分くらいは研究室で泊まりこんでい
るアズウェルである。そんな彼が家に来いと言ったことに、ユイは
純粋に驚きを感じていた。
﹁いいも悪いも、うちの娘の機嫌を少しなだめろと言っておるのだ。
お前に捨てられたと言って、お前がレムリアックへ行ってからずっ
と不機嫌でかなわん﹂
﹁はは、捨てたわけではないんですよ。それにその辺りの話は、私
と計画を共に立てた父親が、彼女を宥めてくれていてもいいところ
じゃないですか﹂
クレハの拗ねている様子が容易に想像できたユイは、頭を掻きな
586
がらアズウェルに向かってそう発言する。すると、アズウェルは溜
め息混じりに一言漏らした。
﹁ふん、わしが何を言おうと、もう素直に聞くような歳ではあるま
い﹂
﹁そんなもんですかね⋮⋮彼女は教授のことを慕っていると思いま
すが﹂
﹁お前の次にな﹂
アズウェルはユイの心境を見透かすかのような眼光を放つと、ユ
イはいよいよ困り果てた表情となり頭を掻く。
﹁⋮⋮でしょうかね。まぁ、それはともかく、お礼も渡したので今
日はこれにて失礼させていただきますよ。何しろ時間がないもので﹂
﹁おい、娘のところには行ってくれんのか?﹂
恨みがましい視線を送りながらアズウェルがそう問いかけると、
ユイは申し訳なさそうな表情を浮かべて一つの提案を口にした。
﹁今日は流石に無理です。ライン公と今後のレムリアック改造計画
の打ち合わせをしなければなりませんし、それ以外にも色々と準備
が山積みですから。でも教授が構わないのなら、帝国には彼女も同
行してもらいますよ。よろしいですか?﹂
﹁構わん、あいつとて望むところじゃろう﹂
﹁⋮⋮だといいんですが。ともかく今回は助かりました。改めてお
礼をいいますよ、ありがとうございました﹂
そう言って礼を口にしたユイはそのまま踵を返すと、部屋の入口
に向かってまっすぐに歩み出す。するとアズウェルはやや迷いのあ
る表情を浮かべながら、ユイの背中に向かって声を発した。
﹁ちょっと待て、ユイ。一つお前に言っておきたいことがある﹂
﹁なんですか、一体? そんなに、改まって﹂
587
そのままの姿勢でもう一度後ろを振り返ったユイは、アズウェル
に向かいそう問いかける。すると、アズウェルは覚悟を決めたかの
ように、真剣な表情で彼に向かって口を開いた。
﹁正直言って、いつまで軍人なんぞやっているつもりじゃ? はっ
きり言って貴様がその仕事をしておることは、この国のためにはな
ろうとも、この大陸、果ては人類のために何の役にもなっておらん。
言うなれば能力の無駄遣いじゃ﹂
﹁私は先生と違って、この世界を解き明かすことに、今のところ価
値を見出していませんから。たとえあやふやで、そして不安定な世
界だとしてもね﹂
ユイは彼の問いかけに対して、予め答えを用意していたかのよう
によどみなくそう答える。すると、いつかも聞いたその回答に対し
て、アズウェルが荒い鼻息を漏らす。
﹁ふん、貴様は全く変わらんな。あの頃のままじゃ﹂
﹁別に、この世界の形を定義付けたところで、そこに安定した世界
が浮かび上がるとは限らないじゃないですか。だとしたら、今ある
この世界を楽しまなきゃ損だと思いますよ﹂
ユイがそう口にしながら、両手を広げて首を左右に振る。
すると、そんな彼の言動を耳にしたアズウェルは、呆れたように
ユイを一睨みした。
﹁楽しむじゃと? ふん、隠居願望のある奴が言うセリフではない
わ﹂
﹁はは、確かに⋮⋮そうですね、まあ別に研究が嫌いなわけではな
いですし、もし隠居して暇になれば、一度くらいは考えてみますよ﹂
痛いところを突かれたという表情を浮かべながら、ユイは困った
ように頭を掻く。
588
﹁ふん、その言葉忘れんからな﹂
﹁はいはい、わかりましたよ。まあ先生が現役のうちに、私が隠居
することができればの話ですがね。ともかく、今日は後が支えてお
りますのでこれにて失礼します。また帝国から戻りましたら、一番
に足を運ばせていただきますので。それでは﹂
ユイはいつもの苦笑いを浮かべ直して頭を一度下げると、こんど
こそ本当に踵を返し、そのまま部屋の外へとまっすぐに出て行った。
589
そして鳥は帝国へと羽ばたく
季節は春。
春光煌めく中、まだ朝早い時間のためか眠たげな様子を見せる黒
髪の青年は、王都の大通りを南へと下る。そしてゆっくりと馬を進
ませる彼の視界には、王都の南門が次第に大きく視界へと映り始め
た。
彼の後ろにつき従うのは、キツネ目の男と酒臭い女。そして抜身
の剣を肩に担いだ小柄な女性と、彼女に剣を鞘に収めるよう願い出
る若い青年。その一見バラバラな四人が、その黒髪の男の後ろを好
き勝手につき従っていた。
そうして一行が門の間近にまで近寄って来たところで、黒髪の男
は門を後背にしながら、彼等の行く手を遮ろうとする者たちの存在
に気がつく。
﹁まったく⋮⋮人手がいなくて大変だというのに、一体こんなとこ
ろで何をやっているんだい?﹂
彼の前に立ちはだかる金髪の青年を目にして、黒髪の男は彼へと
声を掛ける。
すると金髪碧眼の中性的な顔立ちをした青年は、黒髪の男を視線
を外すこと無く、ゆっくりと口を開いた。
﹁ユイ先輩をお待ちしていたんですよ⋮⋮本当にこの道を行かれる
おつもりですか?﹂
そのどこかで聞いたことがあるような問いかけを耳にして、ユイ
590
は思わず苦笑いを浮かべる。
﹁残念ながらね。別に気が進む話ではないが、かと言って避けるわ
けにもいかないだろう? お偉いさん方に、背中を押されてしまっ
ているからね。君にもわかるだろ、エインス﹂
﹁⋮⋮止めませんか、先輩。先輩がもしそう言ってくださるなら、
僕はなんでもします。父に頭を下げて掛け合ってもらってでも、先
輩をきっとここに残してみせます。だから̶̶﹂
ユイを説得するかのようにエインスはそう話し始める。
しかしながら、ユイは掌を彼の前へと突き出し、そのままエイン
スの発言を遮った。
﹁ありがとう。その気持ちだけで十分だよ﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁別に今回は貴族院の連中の命令だから行くわけじゃない。私自身
も一度くらいは、彼の国と向き合わないといけないと思っていた。
それが予定より多少早くなったというだけのことさ﹂
レムリアックの伯爵を務めるユイにとって、自らの領地の発展の
ためには、今後帝国との関係は絶対に切り離せぬ問題である。
ライン家からレムリアックへの投資を行う前に、ユイから父であ
るジェナードへと投資依頼の手紙が送られていたが、その中に対外
的な問題の不安定さを危惧する内容が含まれていたことをエインス
も知っていた。
それ故、彼もユイの今回の帝国行きが単に外務省の人事に拠るも
のだけではないと分かってはいた。しかしながら、頭では理解して
いながらも、エインスは素直にそれを認めることが出来なかったの
である。
﹁いや、わかってはいるんです、そのことは。でも、僕にはまだあ
なたが必要なんです。悔しいですけど貴方の背中を、僕はまだ捉え
591
られてさえいない﹂
﹁はは、なんだいそれは。いつも君には背中を見せているじゃない
か。さては、アズウェル先生あたりになにか煽られでもしたのかな
? 大丈夫さ、君は立派に成長している。少なくとも私が君の年の
頃よりもね﹂
﹁果たしてそうでしょうか⋮⋮﹂
不安げな彼の声を耳にしたユイは笑いながら馬を降りると、エイ
ンスの側まで歩み寄り、ポンと肩を叩く。
﹁当たり前だろ。だいたい、君はその若さで親衛隊と呼ばれるこの
国の第四の軍事組織を率いているんだ。まったく、もう少し君は自
分に自信を持った方がいい。例えば、私に会う前の頃のようにね﹂
﹁勘弁して下さいよ、昔の話は﹂
少年時代の様々な黒歴史が記憶の淵から蘇ったのか、エインスは
恥ずかしそうに視線を逸らした。
するとそんな彼の姿を目にしたユイは、やや済まなそうに笑いな
がら、ゆっくり頭を掻く。
﹁はは、ごめんごめん。でも、君は私の自慢の後輩だよ。この言葉
に嘘はない﹂
﹁⋮⋮先輩﹂
エインスは思わずそのユイの発言に、言葉を詰まらせる。
すると少し場の空気が湿っぽくなってしまった事に気づいたユイ
は、苦笑いを浮かべながら、少し話題の矛先を修正する。
﹁さて、せっかくここに来てくれた自慢の後輩君に、私から一つ頼
みがあるんだけど構わないかな?﹂
﹁頼み⋮⋮ですか。というと、もしかしてレムリアックのことでし
ょうか?﹂
エインスの回答に満足したのか、ユイはニコリと表情を明るくす
592
ると、小さく一度頷く。
﹁うん、その通り。申し訳ないけど私が不在の間、あの土地のこと
は君たち親子に任せるよ﹂
﹁それはかまいませんが⋮⋮しかし本当に良いんですか、あれでは
先輩のもとに残る資産は、雀の涙程度ですよ﹂
ユイは自らに何らかの不測の事態があった場合、その領地を没収
されないための手段として、投資に対する担保代わりにレムリアッ
クの様々な権利書をライン公名義へと書き換えてしまっていた。
そのことに関して、以前より常々受け取りすぎではないかとエイ
ンスは考えていたのである。
﹁もちろんさ。君たち親子には感謝しているし、これはある意味保
身のための手だからね。万が一、私があの土地を取り上げられる事
態になろうとも、そうやすやすと彼等の思い通りにはしてあげたく
ないからさ﹂
﹁レムリアックにおける資産の八割をライン家の取り扱いとしてし
まえば、万が一の場合でも彼等にある程度の睨みをきかせる事はで
きるでしょう。確かにこれで、彼らがあの土地を取り上げにくくな
ったことは事実です。ですが、魔石交易の上がりまでうちに放り込
むのは、いささかやり過ぎじゃないですか﹂
今回の名義書き換えと初期投資の見返りとして、レムリアックか
らのユイに対する純利益の八割を、ライン家の管轄にしてしまって
いたことをエインスは気にしていた。
元々のレムリアックの八割程度ならほとんど気にするまでもなか
ったが、現在倍々ゲームのように収益が上がり続けているレムリア
ックの収益の八割は、次第に天文学的な金額へと変わり始めていた
のである。
﹁ジェナードさんは、例の計画に利益を使うと約束してくれたんだ。
593
別に君が気に病むことはない。それに万が一の場合、僕の部下たち、
そして彼女の身の振り方もお願いしたのだから、これくらいは安い
ものさ﹂
﹁セシルさんですか。確かに先輩が帝国に行かれるのならば、あの
土地に代理の人間をおく必要があるでしょうが⋮⋮本当に彼女にお
任せして大丈夫なのですか?﹂
自らの悪癖を誰よりも知っているがゆえに、学生時代はできる限
り接点を持たないよう努力していた女性の名前を口にしながら、エ
インスは念を押す様にユイに確認する。
﹁セシルなら大丈夫さ。レムリアック出身の彼女なら、きっとあの
土地をうまく扱ってくれるだろう。彼女以上に、領主代理を上手く
務めることができる人間なんて他にいないさ﹂
何か言いたそうな表情を浮かべながら、再会の約束だけをしてき
たセシルの事を思い出し、ユイはわずかに空を見上げる。
﹁⋮⋮分かりました。先輩がそう言われるのでしたら、僕としては
ライン家の一員として、セシルさんをお手伝いするだけです﹂
﹁ありがとう。まあ、何かあれば君が全部好きに判断してくれたら
いい。細かいことは任せたよ⋮⋮と、さてそれで、先程から隣のフ
ードをかぶったお嬢さんが不満そうに待っておられるようですが、
私に何か御用ですかな﹂
﹁⋮⋮先輩、こちらの方は﹂
ユイの発言を耳にしたエインスは、ハッと顔を上げると、慌てて
口を開く。しかしそんな彼を制するように、フードをかぶった女性
はわずかに覗かせる端正な唇を動かした。
﹁エインス、かまいません。どうせ彼は全て気づいていますよ﹂
﹁いくら朝早いとはいえども、既に人通りがあります。そのフード
を外すのはご自重下さいね﹂
594
﹁わかっていますよ。何のためにこんなボロフードをかぶってきた
と思っているんですか﹂
﹁はは、それは失礼。しかし、こんな早朝からこんな街外れまでお
散歩とは、如何されたのですか、エリーゼ様﹂
ユイは周囲に聞こえぬよう小さな声でそう口にする。すると唇の
口角をわずかに吊り上げたエリーゼは、彼に向かって言葉を返した。
﹁もちろん、この国の英雄を見送りに来たに決まっているじゃない。
もしかして、あなたにはわからなかったの?﹂
﹁はは、それはわかりませんでした。しかし女王陛下に見送られる
とは、まさに光栄の極みというやつですね﹂
その言葉とは裏腹に、弱ったような表情を浮かべたユイは、照れ
たように頭を掻く。
﹁⋮⋮ユイ、あなたに言っておくことがあります﹂
﹁はい、なんでしょうか?﹂
わざわざ一国の女王がお忍びでここまで来たこともあり、ユイは
ゆるめていた表情をわずかに引き締める。
すると、そんな彼の表情を目にしたエリーゼは、ニコリと口元を
ゆるめた。
﹁ふふ、早くこの国に帰ってきて下さいね。どうしてもそれをあな
たに言っておきたくて、今日はここまで来たんです﹂
﹁ああ、それは。いや、しかしそれは私の一存ではなんとも⋮⋮も
ちろん、早く帰れるに越したことはないですが﹂
いささか歯切れの悪い物言いをしながら、ユイがそう返答すると、
エリーゼは少し申し訳なさ気な表情となる。
﹁そしてもう一つ⋮⋮ユイ、ごめんなさい﹂
エリーゼはユイに向かって謝罪を口にすると、彼に対して深々と
595
頭を下げる。
すると、ユイは頬を引き攣らせながら慌てて周囲を確認し、そし
て彼女に向かって口を開いた。
﹁やめて下さい。前も言ったじゃないですか、もう女王になられた
んですから、軽々しく頭を下げないでくださいって﹂
﹁いいのよ、今日はフードをかぶっているただのエリーゼだから。
今の私が女王だとわかっている人なんていないわ﹂
﹁私がいますよ、それとエインスも﹂
ユイが首を左右に振りながら、彼女に向かってそう反論する。
すると彼女はゆっくりと頭を上げ、そして穏やかな笑みを浮かべ
た。
﹁ふふ、そうね⋮⋮でも、あなた達だけ。他の人にとって今の私は、
ボロのフードをかぶるただの女の子だわ﹂
﹁それはそうですが⋮⋮﹂
返答の返しづらいエリーゼの言動に、ユイはわずかに戸惑いを見
せる。すると、彼女はここぞとばかりに畳み込むように口を開いた。
﹁お願い、私の謝罪を受け取って。今回、私が彼等に嵌められたせ
いで、あなたの命が危機に晒されたと聞いたわ⋮⋮そう私のせいで
ね﹂
﹁それは違います。私がほんの少しうかつだっただけですよ。エリ
ーゼ様は関係ありません﹂
﹁⋮⋮あなたはいつもそう。誰よりもやる気はないくせに、いざと
なったら全部かぶろうとする。人に押し付けてしまえば楽なのに﹂
エリーゼはユイの返答を予め予想していたのか、彼の言葉を耳に
するなり、あっさりとそのボールを打ち返す。
﹁仕事は押し付けるけど、責任は押し付けない。これが私の生き方
596
です。もちろんしなくて良い努力や、回避できる責任は尽く回避し
ようと思ってはいますがね﹂
﹁ふふ、貴方らしいわね。そう、そんなあなただから私は頭を下げ
るの。わかる?﹂
﹁⋮⋮さて、どう答えていいものか﹂
エリーゼの言葉に対し、ユイは弱ったように苦笑いを浮かべると
二度頭を掻く。
﹁まあいいわ。今日は貴方の困る顔を見ることが出来たから許して
あげます。ふふ、謝りに来たのに許してあげるってのも妙な話よね﹂
﹁自分で言わないで下さいよ、私が言うことが無くなるじゃないで
すか﹂
エリーゼの無軌道女王らしい自由奔放な言動に、ユイは困ったよ
うに再び頭を掻いた。
﹁あら、これは失礼。ともかく、あなたがいないと、この国は困る
の。それだけはきちんとここに刻んでいってくださいね﹂
エリーゼはそう口にすると、人差し指でユイの左胸をツンツンと
突く。そして、そのまま目を覆い隠しているフードをわずかに持ち
上げると、宝石のような瞳を輝かせながら、ニコリと笑みをのぞか
せた。
そしてユイがいっそう困った表情を浮かべるのを見て取ると、エ
リーゼは満足したかのように再びフードをかぶり直し、スキップを
するかのような軽い足取りでその場を立ち去っていく。
﹁はぁ⋮⋮全くあの方は⋮⋮﹂
ユイはその場で大きな溜め息を吐き出すと、頭を掻きながら空を
見上げる。
彼の視線の先に広がるのは青く澄み渡る空。
597
そんなコバルトブルーの中を、何処からか飛翔してきた白い一羽
の鳥が、ユイの頭上を通り過ぎて行く。
その白き鳥はゆっくりと自由の翼を広げながら、帝国へと続く空
の大海をまっすぐに羽ばたいていった。
598
旅は道連れ
春の気配が漂い、野山を彩る花達が最も美しく色づく季節。
クラリスの国境からさらに南に位置する街道を、見た目がバラバ
ラな集団が、帝都に向けて馬を歩ませていた。
﹁隊長、次の街はまだなのかい? そろそろあたいの栄養源が切れ
そうなんだけどねぇ﹂
やる気なさげな黒髪の男の隣で、酒瓶を片手に握りしめている赤
髪の魔法士は、物欲しそうな視線を向ける。
﹁そんな目で見てもダメだよ、ナーニャ。私は自前の酒なんて持っ
ていないからね。取り敢えずさっきの街道に備え付けられていた立
て札が正しいなら、もうそろそろ宿場町が見えてくる頃だから、も
う少しの辛抱さ﹂
﹁⋮⋮そうかい。ならそこにいい酒があることを祈っているよ﹂
空となったポケットタイプの酒瓶を名残惜しそうに見つめながら、
ナーニャは溜め息を吐き出してから瓶を腰紐に括りつける。
酒を友とし、酒なしでは生きていけないナーニャであるが、現在
は親衛隊の魔法士隊を預かる六位待遇であり、その魔法士としての
実力は堅物の女王付きの男を除けば間違いなく隊で一番である。
だからこそ、今回のユイの同行者として選抜されたことには、そ
の能力面からは一切異論が出ることはなかった。
ただし、能力面ではなく日頃の素行面に関しては、絶対になにか
やらかすのではないかと多大な懸念が持たれていたことは公然の事
実ではあったが。
﹁一応、ノバミム自治領から帝国に行くのにもさ、この道を通って
599
次の宿場町を経由するからね。帝国の北部の中では最大の宿場町さ。
だから、たぶん酒を置いてある店には困らないと思うよ﹂
﹁そうかい。まあそれを楽しみにもう少しだけ我慢するかね。おい、
フート、あんたもあたいに付き合いなよ。昨日はあたい一人残して、
さっさと寝ちまったんだから﹂
後方で抜身の剣を肩にかけながら眠そうに馬を操っているフート
に向かい、ナーニャは視線を移して声をかける。
フート・ノーミック。
彼女もカーリン時代からのユイの部下であり、現在六位待遇とし
て親衛隊の剣士隊を預かっている女剣士である。ただ彼女に関して
も、その剣技は非常に高い水準にあったが、極端に無口であり隊長
として隊を引っ張る事ができるかを当初不安視されていた。
しかし、彼女の部下として今回も同行する形となった士官学校出
身のレイス・フォン・ハリウールが、現在は隊員とフートの良き橋
渡し役となり部隊の雰囲気は非常に良好に維持されていた。むしろ、
隊員の中にはこの可愛らしく無口なフートに保護欲を掻き立てられ、
命も掛けられると豪語する者までいる有り様である。
﹁ナーニャさん、勘弁してあげてくださいよ。フートさんがお酒弱
いのは知っているでしょ。先日王都でもナーニャさんに潰されてし
まって、剣士隊の朝の訓練が中止になってしまったんですから⋮⋮﹂
﹁おっと、ひよっこ。偉そうな口をきくじゃないか? ならあんた
が代わりにあたいに付き合ってくれるっていうのかい?﹂
フートの隣で彼女が眠ってしまって落馬しないか見張っていたレ
イスは、ナーニャの突然の誘いに対して、弱った表情を浮かべる。
﹁まだ帝都にさえ着いていないんですよ。僕は旅の途中で、酒のせ
いで死んでしまうなんてごめんです﹂
﹁へぇ、面白いことを言う坊やだね⋮⋮アレックス、こいつを今晩
600
借りてもいいかい﹂
レイスをニヤリとした笑みで眺めやったナーニャは、最後尾のア
レックスに確認を取る。すると、キツネ目の赤髪の剣士は、ニコリ
とした表情を浮かべ一つ頷いた。
﹁どうぞ、ご随意に﹂
ユイの学生時代からの戦友であるアレックス・ヒューズは現在四
位。
もともと陸軍省の所属であり、親衛隊へ加入以前は帝国との国境
防衛の前線部隊に長いこと従事していた剣士である。その剣技は達
人という領域を半歩踏み越えたところにあり、ユイに言わせれば、
死んでも二度と手合わせしたくない相手であった。
彼の実力を物語るエピソードとしては、国境付近で帝国との小規
模戦闘を繰り返していた頃から、彼はその剣技故にクラリス軍では
朱のアレックス、帝国軍からは朱の魔法士殺しや朱の悪魔と呼ばれ
恐れられていたという話がある。そして紛れも無くそれは事実であ
り、更に付け加えるならば恐れているのは敵だけではなく、彼の弟
子であるレイスとて例外ではなかった。
﹁し、師匠⋮⋮勘弁して下さいよ。僕が何をしたっていうんです﹂
﹁ふふ、これも一つの人生修行ですよ。たまには私の監視下を離れ
て、羽根を伸ばすのもいいでしょう﹂
﹁いや、師匠の下も十分にやばいですが、今回はそれ以上に⋮⋮い
や、なんでもないです﹂
反論を口にしようとしたレイスは、アレックスのキツネ目がいつ
も以上に細くなるのを目の当たりにする。その瞬間、明らかにナー
ニャと酒を飲むこと以上に危険な事態を感じ取ったレイスは慌てて
口をつぐんだ。
﹁へへ、話せるじゃないか、アレックス。別にあんたも一緒でいい
んだよ﹂
601
﹁ふむ、そうですね⋮⋮せっかくの美女のお誘いですが、今日は遠
慮しておきましょうか。今夜は満月になりそうですしね﹂
﹁何を言ってるのかわかんないけど、まぁあんたはいいや。と言う
わけで、レイス。街に着いたら早速飲みに出るよ﹂
ナーニャの発言を耳にしたレイスはげっそりした表情を浮かべる
も、アレックスの目の前でこれ以上抵抗することが出来ず、諦めと
ともに力なく頷く。
そんなたわいのない会話を繰り返しながら、のんびりと馬を歩ま
せ宿場町へと向かっていた一行であったが、突然彼らの後方から騒
がしい声と馬の鳴き声が近づいて来た。
その音に最初に気づいたアレックスが、先頭のユイに向かって声
を上げる。
﹁ユイ、後ろから団体さんが来るようだよ。馬の蹄の音からいって
人数は十人ちょっとといったところかな。僕達より少し早いペース
だから、じきにすれ違いそうだ﹂
馬の蹄の音から、大まかな距離と人数を把握したアレックスは、
前を行くユイに向かってそう告げる。
その報告を受けたユイは、顎に手を当てると、頭を掻きながら皆
に向かって指示を出した。
﹁ふぅむ⋮⋮まあ、面倒ごとはごめんだからね。誰だかは知らない
が、とりあえず脇に寄って行かせるとしようか﹂
ユイがそう口にするなり、一同は街道の端へと馬を寄せる。そう
して道の中央部を一同が空けたタイミングで、いかにも柄の悪そう
な集団が徒党を組んで馬を走らせてきた。
﹁なんだ、ただのチンピラじゃないか﹂
酒に酔っていたナーニャは、通りすぎようとする彼らの姿を目に
602
して何気なくそう呟く。
するとその声を聴きとったのか、ユイたちの側を通り過ぎようと
していた一団の一人が、馬を止めるとナーニャに向かって声をかけ
てきた。
﹁なんだ、姉ちゃん。ずいぶんな言いようじゃねえか。俺たちにな
んか文句でもあるのかい?﹂
ユイ達一行がたった五人であったこともあり、そのガラの悪い男
たちは薄ら笑いを浮かべながら、馬を止めてユイ達の周囲を囲み始
める。
その面倒事が始まったという空気を察したユイは、二度頭を掻い
た後に、彼等に向かって侘びを口にした。
﹁はは、ごめんごめん。連れが失礼なことを言ったようだね。私が
代わりに謝̶̶﹂
﹁はん、息が臭いんだよ、あんた。むさ苦しい男ばかり、図体並べ
やがって。顔と体と口の中を洗ってから出直してきな﹂
ユイが穏便にことを済まそうと頭を下げようとしたタイミングで、
酔っぱらいのナーニャはまったく遠慮すること無く彼等に向かって
火に油を注ぐ。
すると、そのチンピラたちの中でのリーダー格らしきスキンヘッ
ドの男が前へと進み出てくると、人数差からくる余裕からか、ユイ
達に向かって見下すような口調で言葉を吐き出した。
﹁へぇ、俺らに喧嘩を売るとはいい度胸じゃねえか、ネエちゃん。
もうすぐうちの頭も後から来るんでね、その前にしっかりと誠意の
あるわびを入れてもらおうか﹂
ナーニャの肢体を上から下まで眺めやりながら、リーダーらしき
男はそう発言すると、下卑た笑みを浮かべる。
﹁頭⋮⋮ね。なるほど、そういうことか。君たちもこの道を来たと
603
いうことは、クラリスかノバミム自治領の人だと思うけど、その言
葉の訛りはノバミムかな?﹂
﹁ああ、その通りだ。クラリス育ちの上品な兄ちゃんたちには、社
会の厳しさってものを教えてやりたいところだが、誠意としてその
ネエちゃんと有り金を全て置いて行くなら見逃してやってもいいぜ﹂
ユイ達の馬や装飾品から十分金になると算段をつけたのか、スキ
ンヘッドの男は笑みを浮かべながら、威嚇するかのように使い古さ
れたナイフを舌なめずりする。
﹁ゼニドさん、いいんですかね⋮⋮頭は絶対に道中揉め事を起こす
なって命令されていましたが﹂
この集団の中にいることに違和感を感じるやや華奢で商人風の男
が、心配そうな表情を浮かべながらそう口にする。
﹁構わねぇよ。だいたいこいつらが先に喧嘩を売ってきたんだぜ。
ここで買わなきゃ、俺達の看板に泥を掛けられたも同じだ。そうい
うわけにもいかねえだろ?﹂
﹁ですが、すぐに頭たちも来られますし、その判断を仰いでからで
も⋮⋮﹂
﹁馬鹿野郎。なめられた時に、いちいち上になめられましたって報
告する奴がいるか? さあ、てめえらつべこべ言わず囲んじまえ﹂
そのスキンヘッドの男が指示を発すると、他の者達は一気にユイ
たちの周りを囲む。
すっかり周囲を取り囲まれてしまい、一触即発の空気。
しかしそんな状況を気にする風もなく、先程から何やら耳を澄まし
ていたアレックスは、ニコニコとした表情のままユイに向かって声
を発した。
﹁ユイ、もうすぐもう一回り大きい集団が来るよ。十中八九は彼の
604
集団だろうね﹂
﹁ああ、わかっている⋮⋮さて、申し訳ないんだけど君たち、もう
すぐ君たちの頭がここに来るみたいだし、その人と話をさせてもら
っていいかな。もしどうしてもやり合いたいというのなら、その人
と話してからがありがたいんだけど﹂
ユイはアレックスに対し一度頷いた後に、チンピラ達のリーダー
格らしき男へと向き直り、苦笑いを浮かべながら一つの提案を口に
した。
﹁何でおめえごときを、頭に会わせなきゃならねえんだ。意味がわ
かんねえよ。かまわねぇ、お前らやっちまえ﹂
﹁は、なんであんたらに黙ってやられなきゃいけないんだい? く
らいな、ファイヤーアロー!﹂
酒が切れたことによる鬱憤が溜まっていたナーニャは、大量の炎
の矢を自らの眼前に出現させ、右の口角を吊り上げる。
その形成された魔法を目にした瞬間、彼女を小馬鹿にしていた男
たちの表情は一変した。
﹁な、魔法士だと!﹂
勇ましくユイたちに飛びかかろうとしていた者たちは、その炎を
目にした瞬間、驚愕の表情を浮かべる。
彼等のその滑稽な表情を目にしたナーニャは、彼等を鼻で笑うと
炎の矢を解き放とうとした。
しかしまさにその瞬間、彼女の目の前に一筋の剣が突き出される。
﹁何するんだい。アレックス!﹂
﹁ふふ、ちょっと待ってください。それを使うよりも、もう少しす
ればもっと面白いものがみられますから﹂
﹁あん、どういうことだい?﹂
アレックスの発言に訝しげな表情を浮かべたナーニャであったが、
その実力には一目置いていることもあり、素直に編み上げた炎を霧
605
散させる。
そうして、彼女が魔法を解除したタイミングで、彼等の後方から
砂埃を立てながら、目の前の連中より更に多数の屈強な男たちが姿
を現した。
﹁ふふ、ようやく彼等の本隊の到着です。彼等は元々露払いのよう
なものだったんですね。おそらく軍や役人の監視を確認するための
先遣隊というところでしょうか。そして彼等を率いているのはおそ
らく⋮⋮﹂
アレックスはニコニコした表情を浮かべながら、ナーニャに向か
いそう口にする。
一方、先ほどのスキンヘッドの男は、彼等の頭が到着したことに
気づいて、慌てて報告に向かう。
﹁お前等、何をしてやがるんだ。誰がこんなところで油を売れと言
った?﹂
﹁頭、実はこいつらが俺たちになめた口を利きやがりまして⋮⋮少
し身の程を教えてやろうとしたんですが、どうも魔法士が混じって
いるようです。すいませんが、お力を貸して下さい﹂
﹁はぁ、魔法士? なんで魔法士がお前に喧嘩を売ってくるんだ?
また相手もみずに喧嘩を売ったんじゃねえだろうな。ともかく、
相手はどこのどいつだ?﹂
﹁へぇ、そこに取り囲んでいる、身なりの良い世間知らずの奴らで
す。ちょっと魔法が使えるからといっていい気になっているようで
して、頭から身の程というものを教えてやって下さい﹂
その話を聞いた彼等の頭は、ユイたちを取り囲んでいる部下たち
を掻き分けて中へと進む。
そして中にいる集団を恫喝しようと睨みつけた瞬間、彼はそこに
いる面々を目にして、その場から崩れ落ちそうになった。
606
﹁やあ、オメールセン。久しぶりだね。はは、まさかこんなところ
で再会するとは思っていなかったよ﹂
レムリアックの主要取引相手であるノバミム最大手の商会の会長
であり、犯罪組織セラーレムの長であるオメールセン。そんな目の
前の男に対し、ユイは片手を上げながら、旧友にでもあったかのよ
うな笑顔で声をかける。
一方、すぐに目の前の人物の正体に気がついたオメールセンは、
先日の彼等によるカチコミの記憶を蘇らせ、たちまち顔色が蒼白に
なっていく。そして、あっという間に部下であるスキンヘッドの男
へ向き直ると、迷うこと無くそのまま彼の頭頂部にげんこつを落と
した。
607
酒場にて
﹁⋮⋮申し訳ありません、伯爵。何分モノを知らない部下にて、ど
うかどうかご容赦の程を﹂
﹁はは、別にかまわないさ。最初に失礼なことを言ったのは、明ら
かにうちの方だしね﹂
この酒場に着いてからも謝りっぱなしのオメールセンに対し、苦
笑いを浮かべながらユイは首を左右に振る。
ユイたち一行と道中で出会ったオメールセンは、その場で部下に
対して拳骨と雷を落とすと、その後自らユイたちを先導して宿場町
であるブイフェムの街へ案内し、今はこうして酒を酌み交わしてい
た。
﹁本当にお恥ずかしい話でして。いいわけにならないのは重々承知
ですが、実は急に商売の規模が大きくなりましたので、慌てて人を
増やしたらあんな奴らまで混ざってしまいましてね⋮⋮まぁ、もと
もとうちの商会には堅気じゃない奴の方が多いのは事実ですが﹂
﹁まあ、急いで人を増やしてもらわないといけないくらい、君に働
いてもらっているのはうちだからね。とてもじゃないけど強くは言
えないさ。ただ、いつまでもあの調子だったら少し心配だけど⋮⋮
って、それは全くもってうちも同じか﹂
店の奥の方に位置するテーブル席に座ったユイは、カウンターの
方へと視線を動かす。そこには右にレイス、左に先ほどのスキンヘ
ッドの男の首根っこを捕まえて、楽しそうにはしゃいでいるナーニ
ャの姿があった。
その反省の欠片も見受けられない光景を目にしたユイは、オメー
ルセンの方へと向き直ると、二人して同時に深い深い溜息を吐き出
608
す。
﹁まあ、さっきのことはお互いに水に流すことにしよう。それより
も気になったのだけど、君たちはあんな大所帯で、これからどこに
行くつもりなんだい?﹂
﹁はい⋮⋮実は先日、伯爵が帝都へ向かわれると伺いまして。これ
は帝都での魔石販路を一層広げるチャンスだと思い、新しい事務所
を立ち上げる部下を連れてきたんですわ﹂
﹁ああ、なるほどね。それでこの規模の集団なわけだ﹂
﹁ええ。ただ、さすがに今やっている商売に穴を空けるわけにもい
きませんのでね、どうしても人選が新米中心になっちまいまして⋮
⋮しかしまだ入って日が浅いとはいえ、いつもお世話になっている
伯爵たちに迷惑をかけるなどとは思ってもいませんでした。本当に
申し訳ありません﹂
再び先ほどの部下たちの粗相に話が戻ってしまい、オメールセン
はやや気まずげな表情を浮かべる。
一方、ユイはオメールセンの謝罪など耳に入った様子はなく、事
務所を立ち上げるという一点のみに思考を働かせていた。
﹁⋮⋮帝都に新規の事務所か。それはつまり、これまで以上に帝都
での売り込みを狙っているということだね。そして恐らく、私を通
じて帝都の顧客を確保したいと、そんなところでいいのかな?﹂
﹁さすが伯爵。ここまでの経緯だけでそこまでおわかりになられま
したか。いくら魔石が供給不足だからといって、自治領から帝都へ
ちまちまと卸しているだけでは、どうしても限界がありましてね。
できることなら帝都に店を構え、帝国中の販売網にレムリアックの
魔石を乗せたいと言うのが本音ですわ。ただ、帝都で店を構えたと
ころで、それだけで販路が確保できるわけじゃないですからね、ど
うしたものかとちょうど悩んでいたところだったんですよ﹂
オメールセンの狙いは、ユイを利用したトップダウンの売り込み
609
である。それは、通常では自分たちとは接点を持ちにくい帝都の貴
族連中や大手商会の連中に、クラリス大使の肩書を持つユイならば、
顔を繋ぐことができる可能性があるのではないかという期待による
ものであった。
﹁まあ、君たちが頑張ってくれたらうちのレムリアックも助かるか
らね、別に協力はやぶさかじゃないよ。ただ一応は公務で来ている
わけだから、あくまで空いた時間があればくらいで考えてくれると
助かる﹂
﹁そりゃあもう、それでかまいません。しかし、伯爵のお力添えが
あるとなれば、こりゃあ前祝いをせねばいけませんな。よし、今日
は自分のおごりです。好きなだけ飲み食いしてください﹂
﹁いや、そんなあからさまに賄賂というか、接待っぽいことをされ
てもこま̶̶﹂
ユイが頭を掻きながら、すぐにオメールセンの提案を断ろうとす
る。しかし少し離れたカウンター席を占拠していたナーニャの都合
の良い耳は、オメールセンの言葉を聞きつけ、その場で大きな歓声
を上げた。
﹁はは、話が分かるじゃないか。オメールセンだったか、じゃあ遠
慮無く好きなだけ飲ませてもらうよ!﹂
﹁ああ、もう浴びるほどに飲んでくれ。遠慮なんてしなくていいか
らな!﹂
ナーニャの反応を目にしたオメールセンは、満面の笑みを浮かべ
ながら彼女をさらに煽る。
一方、そのナーニャの反応を目にしたユイは、右手を額に当てる
と、呆れた様子で口を開いた。
﹁ナーニャ⋮⋮元々君が発端なんだからさ、少しくらいは自重して
くれよ﹂
610
﹁へへ、まあ昨日までの敵は今日の友ってね。楽しい酒が飲めてい
るんだ、こんな場で堅いことは言いっこなしだよ、隊長﹂
そう口にしたナーニャは周囲を一度見回すと、隣でそそくさと距
離をとろうと背を向けかけているレイスの首根っこを捕まえる。そ
して無理矢理自分の胸元へ彼を引き寄せると、エールがなみなみと
注がれたジョッキを手に取り、それを迷わずレイスの口に注ぎ込ん
でいった。
﹁ウップ⋮⋮って、ちょ、ナーニャさん!﹂
﹁あん⋮⋮まだ飲み足りないってのかい。マスター、もう一杯お願
い﹂
必死にナーニャの元から逃れようともがくレイスであったが、抵
抗もむなしく完全にナーニャにホールドされてしまっていた。そし
てナーニャは酒場のマスターから新しいエールを手渡されると、間
髪入れずにレイスの口へと再び注ぎ込んでいく。
﹁⋮⋮なんというかさ、今回は完全に人選を間違えた気がするな﹂
ナーニャとレイスのやりとりをやや遠い目で見ながら、ユイは疲
れたように頭を振る。
すると、そんな彼に向かい隣でちびちびとオレンジジュースを飲
んでいたアレックスが、いつものニコニコした笑みを浮かべながら
口を開いた。
﹁大丈夫。誰が選ばれていても、君がこの集団のトップなんだから
大差はないさ﹂
そのアレックスの発言を耳にしたユイは、頭痛を感じながら肩を
落としてうなだれる。
﹁アレックス⋮⋮君までもか⋮⋮﹂
そう呟いたユイは、目の前のエールを一気に飲み干すと、深く大
611
きな溜め息をその場に吐きだした。
612
例の男を迎えるにあたり
ケルム帝国の帝都レンド。
この大陸西方の国家の中では最大の規模を持つ国家の首都であり、
その規模はクラリスのエルトブールの三倍ほどの規模に上る。
エルトブールがその豊富な資源から商業都市としての側面を強く
もつ首都なのだとしたら、このレンドは商業、文化、学問等あらゆ
るものが高い水準で揃う一大都市であった。
もちろん他国と比べて、圧倒的な規模を誇るレンドにも欠点がな
いわけではない。それは商業面ではエルトブールに及ばず、文化に
置いては共和国に及ばず、学問に置いてはフィラメントに及ばない
という、要するに特化したものがない点である。
しかし先ほど名前を挙げられた三国でさえ、自国の得意分野をの
ぞけば、レンドほどの水準を誇るものなど存在しない。だからこそ
大陸西方においては一番の都市であると、誰もが認めるところであ
った。
さてそんな帝都のまさに中央に、皇帝が居城とするレンド城があ
る。
帝国のあらゆる行政に関する決定は、この城と呼ぶにはあまりに
巨大な建物のどこかで絶えず行われており、今回帝国の首脳部が一
堂に会したのも、城の中枢部にある豪奢な内装の一室であった。
﹁さて、ここまでは計画通りと言うべきなのかな?﹂
第二皇子であるトールがそう口にすると、今回のユイを帝国へ引
き込む絵を描いたセルベックは、笑みを浮かべながら彼の発言を肯
613
定する。
﹁まあ、そう言えるのではないでしょうか。王国のロペン伯爵は、
なかなかにいい仕事をしてくれました﹂
﹁それで、次の一手をどうするつもりだ。奴をこの国に呼び込んで、
はいそれでお終いというわけにはいくまい?﹂
セルベックの満足気な笑みを目にして、皇太子のノインがわずか
に咎めるような視線をぶつけると、やや苛立たしげにそう問いかけ
る。
﹁はは、それは確かにその通りです。ですが、私としてはしばらく
彼を泳がせてみても良いのではないかと考えておるのですが﹂
﹁なに? どういうつもりだ、セルベック卿?﹂
その厳つい顔を、さらに険しくさせながら軍務長官のパデルはそ
の発言を質す。
すると、問い質されたセルベックは、なおも笑みを浮かべたまま
彼に向かって回答を口にした。
﹁私たちからの介入を最小限にして、彼を自由にさせる。そうする
と、彼は彼自身の意志で動かざるを得なくなります。その状況で彼
が何らかのアクションを起こすようならば、彼の狙い、人柄、気質
が十分に判断できるでしょう。もちろんその為には、彼に厳重なマ
ークを行うことが前提となりますが、どうせこのレンドは我らの土
地です。彼を監視すること自体はそう難しいことではないでしょう
し、別に彼に何らかの先手を取られたところで痛くも痒くもないか
と﹂
﹁ふむ、おもしろい意見だが、メニゲス。卿はどう思うかね?﹂
部屋の最奥に位置する豪奢な椅子に腰掛けていた皇帝リアルトは、
興味深そうに右の口角を吊り上げると、今の発言に対する意見を内
務長官のメニゲスに求める。
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﹁そうですね、セルベック長官の意見も一理あるかと思われます。
今回の我ら帝国への派遣は、いかに彼とて想定外だったはずです。
そんな彼がここでどんな行動をとるかによって、今後の彼への対処
方法も見えてくるのではないでしょうか。何しろ、我が国の宿敵と
もいえる彼のことを、我々はほとんど知らないのですから﹂
﹁果たして、そうだろうかな。私に言わせれば、いっそひと思いに
暗殺してしまうのが良いとも思うのだが⋮⋮なにしろ、のこのこと
我らの庭に鴨が飛び込んできたのだ、積年の恨みと悩みを解決する
まさに好機だと思うがね﹂
皇太子のノインが過激ながらも、一同が脳裏に浮かべながらそれ
まで口にしなかった提案を言葉にする。しかし彼の弟であるトール
は、そんな彼の過激な発言を耳にして、表情に嫌悪感を隠せなかっ
た。
﹁兄上、いくらなんでもそれは⋮⋮そんな事をすれば、ただでさえ
他国から警戒されている我が国は、外国の大使さえ好機であれば殺
してしまう信の置けぬ国と思われてしまいます。下手をすると、周
囲の国が手を取り合って我が国に攻め込む口実とされかねません﹂
﹁だが、我が国の兵士達の無念を、お前は忘れたというのか?﹂
軍を統括しているノインは、机に腕を叩きつけトールを叱りつけ
る。
この場にいる誰もが、そのノインの行動に息を呑み体を硬くした。
しかし、いつもは兄に従順なトールが、この度は意外なことにノイ
ンに向かって反論する。
﹁元々、集合魔法の威力に目を奪われた兄上が、特に口実や理由も
なくクラリスの魔石の奪取を意図して先年の侵攻を決断したのでは
ありませんか。一方的に攻め込んでおいて、その戦いに敗れて撃退
されたらその指揮官を逆恨みするなんて、さすがに如何なものでし
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ょうか?﹂
﹁なんだと、もう一度言って見ろ!﹂
いよいよ怒りを抑えられなくなったノインは、席を立ち上がると、
トールを睨みつけて威嚇する。
その怒声が発せられた途端、会議室は静まり返り凍りつく。しか
し、最も奥の席に腰掛ける男の声が発せられると、とたんに場の空
気は入れ替わった。
﹁落ち着け、ノインよ。兵を思うおまえの気持ちは良くわかる。し
かし、トールの言に一理あることも認めよ。短気に物事を判断する
ような愚は避けるべきだ、それは先年の戦いでお前も思い知ったじ
ゃろ﹂
﹁そ、それはそうですが⋮⋮いえ、仰るとおりです﹂
反論を口にしかけたノインであったが、皇帝の言葉を受けて少し
冷えた頭で怒りを抑えこみ、それ以上の言葉を彼は飲み込む。
﹁それに今回のイスターツの護衛には例の男がおるのだろ、パデル
よ﹂
﹁はっ。今回のあの男の護衛には﹃朱﹄が付いておると報告を受け
ております﹂
﹁朱⋮⋮まさかあの﹃朱の悪魔﹄か﹂
パデルの発言を耳にするなり、過去の国境線での悪夢を思い出し、
ノインは表情を引きつらせる。
彼は軍の統括者として前線の視察を行っていたため、以前国境線
付近で度々行われる小衝突に出くわすことがあった。
国境付近での小戦闘においては、もともとクラリスとの国境線に
配置している兵士の数は帝国側が多い。だからこそ度重なる戦闘に
おいては、いつも帝国優位に事が進むことが多かった。
616
そうしたある日、前線視察のために高台から自軍の優勢を満足そ
うに眺めていたノインは、奇妙な出来事を目にすることとなる。そ
れはクラリスとの前線において、大規模魔法を使用されたわけでも
ないのに、局地的に帝国軍の陣形が崩壊する光景であった。
彼はそのあまりにも現実離れした光景に、最初は自軍の一部部隊
に指令系統のミスが起きたのだと勘違いをした。それくらい短時間
の間に、帝国軍の陣形が局所的に崩壊したのである。
しかし戦闘が進むにつれ、そうではないことに彼は気づいた。ク
ラリスの前線に一人の赤髪の剣士が姿を現すと、その場所は途端に
帝国軍の返り血で真っ赤に染め上げられ、空白地帯が出現している
のである。
そうして結局数的優位を活かしきることはできず、いつしか戦闘
は均衡状態となりお互いが兵を引くこととなった。その際にノイン
の目の前で猛威を振るい帝国兵の屍の山を築き上げた者こそ、﹃朱
の悪魔﹄こと陸軍省時代のアレックス・ヒューズである。
﹁その通りです。人数さえ大量に動員すればユイ・イスターツの殺
害自体が不可能とは言いません。ですが、朱のアレックスが護衛し
ている限り、極秘裏に少数で暗殺することは困難といえるでしょう
⋮⋮それにもう一つ、奴の殺害に失敗したときの問題がございます﹂
﹁我が国はその日から魔石の輸入をせき止められ、その上でイスタ
ーツ自身が率いるクラリス軍と戦わなくてはならなくなる⋮⋮とい
うことですか﹂
第二皇子のトールが、パデルの意図するところを汲み取りそう言
葉にする。その発言の意味を理解した他の者達は、皆思わず口を閉
ざしてしまった。
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﹁まあ、取りあえずは泳がせる方針でよかろう。予にもあやつを取
り込むために、一つ考えておることがあるでな。まあ、それは置い
ておくにしても、今回は確か我が国の息がかかった者を、副大使と
してイスターツの側に配置させることにも成功したと聞いておる。
さしあたって、あやつを監視するには大きな問題は無かろう﹂
皇帝リアルトは堅くなってしまったその場の空気を緩和させるた
めに、自ら口を開いて話題を提示する。
﹁それに関してなのですが⋮⋮奴らの副大使であるロペン伯爵は、
確かにこれまでは我が国に協力的でした。しかし、相手がイスター
ツとなるといささかの懸念が残されます﹂
諜報部部長であり細身で学者然としたレーミッドが、高位の者た
ちに気を使いつつ恐る恐る発言する。
﹁懸念? どんなことかね﹂
軍務長官のパデルは彼の部下であるレーミッドに、詳しい説明を
求めた。
﹁ロペン伯爵ことフェルナンド・フォン・ロペンですが、元々あの
ユイ・イスターツとはかつて浅からぬ仲であったようです。彼がク
ラリスの貴族院の名門たるロペン家に養子入りして、跡を継ぐ前の
話ですが⋮⋮そして軍人であり庶民であるユイ・イスターツと、貴
族院の一員であり研究者であるロペン伯爵。この二人を過去に繋げ
た人物がいささか問題でして﹂
言いにくそうな口振りでレーミッドがそう発言すると、パデルが
間髪入れずに彼に問いかける。
﹁誰なんだ、その人物というのは﹂
わずかに苛立ちさえ込められたパデルの発言を受け、レーミッド
は迷いながらも、その問題の人物の名前をゆっくりと口にした。
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﹁アズウェル⋮⋮アズウェル・フォン・セノーク。あの亡国の賢者
です﹂
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懐かしき初対面︵改訂︶
帝都に着くなり事務所の下見に向かったオメールセン達と別れる
と、ユイ達は帝国の案内役を名乗るスピリトという名の壮年に導か
れ、用意された大使館へと到着した。
﹁まさか新築の大使館を用意してくれるとはね。でも本当にここを
頂いても良いのかい?﹂
大使館内に到着して館内を一通り案内された後、ユイは自らが使
用することとなる執務室へ通され、思わず感動を口にする。
﹁はい、問題ございません。こちらは皇帝陛下が直々にクラリス王
国にと仰られまして﹂
﹁へえ! それじゃあ、ありがたく使わせて頂くとするよ。今更、
冗談でしたって言われても、もう返さないからね﹂
笑いながらユイがそう口にすると、生真面目なスピリトは、首を
傾げながら怪訝な顔を浮かべる。
﹁いえ、そのようなことは申し上げませんので、ご安心頂ければと
思いますが﹂
﹁はは、ごめんね。彼はたまによくわからないことを言い出す癖が
あってね。少し頭のかわいそうな人だと思って頂ければ、それで大
丈夫だからさ﹂
やや困惑した表情を浮かべているスピリトに対し、ユイの隣に立
っていたアレックスはいつもの狐目をさらに細めながら、明るい声
で口を差し挟む。
﹁おいおい、アレックス。よりによって君が言うかい?﹂
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﹁はは。リュートがいれば、少なくとも僕より辛辣なことを口にし
ていたはずだよ﹂
リュートの名前を耳にして、ユイは否定出来ないと考えるとさら
なる反論を飲み込む。
一方、案内役のスピリトは、目の前の二人が本当にあのユイ・イ
スターツと朱の悪魔なのかという疑問を覚えつつ、場の空気を一変
させるように一つ咳払いをした。
﹁こ、コホン。取りあえずですね、私からの館内の説明と、また建
物の受け渡しに関しましては以上となります。何か問題や疑問点は
ございますでしょうか﹂
﹁いや、何一つないさ。私はここのところ、どうも任地での建物運
が悪くてね。一昨年は偶然火災にあってしまったし、去年は今にも
倒壊しそうな市庁舎だったけど、これはものが違うからね﹂
﹁⋮⋮満足頂けて何よりです。是非そのように皇帝陛下にお伝えし
ます﹂
延焼したり老朽化した建物と、この素晴らしい新築の建物を比べ
ないでくれと喉まで出かかりながら、スピリトはぐっとそれを飲み
込む。そして表情一つ変えることなく頭を下げた。
﹁ああ、是非宜しくお伝えください﹂
﹁わかりました。それでは今後、私はこの屋敷付きとなります。普
段は一階の控え室に詰めておりますので、何か御要望等がございま
したらいつでもお声掛けください。それと、副大使殿が数日前にこ
の屋敷へ到着されております。私の話が終わりましたら、こちらに
来られるかと思いますので、先にお伝えしておきます﹂
副大使は内務省から外務省へ出向している人物だと聞かされてい
たユイは、どんな人物なのかと思考を働かせながら、スピリトに向
かってわかったとばかりに大きく頷いた。
621
﹁ああ、内務省から派遣されてきた方ですよね。了解しました。そ
れではスピリトさん、今後ともよろしくお願いいたします﹂
﹁はい、では失礼致します﹂
スピリトは丁寧に一礼した後、音を立てることもなくゆっくりと
執務室を退室していく。
笑顔でそれを見送ったユイは、その場にいるフートとレイスに向
かって声をかけた。
﹁君たちも大使館内の部屋を確認しておいで。余っている部屋なら、
さしあたっては好きな何処をを使っていいから﹂
﹁本当ですか? でも、そんなこと勝手に決めていいんですか?﹂
﹁いいさいいさ。どうせ何か問題あれば、後で変えればいいんだか
ら。まだ新築で作られたままの状態だし、部屋をどう使うかはこれ
から決めればいいだろ? 事務用の大会議室とかを自分の部屋とし
て占拠さえしなければ、好きにしてくれて構わないさ﹂
﹁はぁ⋮⋮取りあえず常識的な部屋を見繕ってきますよ。フートさ
ん、行きましょう﹂
ユイの適当さに呆れながらも、レイスはフートを促して自分達の
部屋を探すために出て行く。
﹁じゃあ、隊長。アタイも先に失礼するよ。帝都の酒がアタイを呼
んでいるからね﹂
﹁⋮⋮くれぐれも揉め事だけは起こさないでくれよ﹂
﹁このアタイを信用しな。何かあれば、揉めることさえできないよ
うにしておくから﹂
そう言ってニヤリと笑ったナーニャは、ユイの制止も聞くことな
く部屋を出ていった。
﹁いや、そういうことじゃなくて⋮⋮って、はぁ、どうせ呼び止め
ても結果は同じだろうけどさ﹂
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﹁だね。口うるさく言ったところで、彼女が素直に聞いてくれる訳
でもないさ。結局、僕たちにできるのは、祈ることと後始末くらい
だよ﹂
﹁その通りなのが悲しいところだけど⋮⋮まぁ、彼女に関して言え
ば今更どうなるわけでもないか。とりあえずは、これから来る人間
のことを考えるとしようか。で、アレックス、内務省から送り込ま
れてきた人物は洗えたかい?﹂
外務省の管轄事項であったためであるが、帝国のクラリス大使館
において、ユイ自身が選定した人員は僅かである。それ故に、それ
以外の人員に関して、その洗い出しをユイはアレックスに一任して
いた。
﹁ああ、済ませているよ。と言っても、たぶん君のほうが彼に関し
ては詳しいだろうけどね﹂
﹁私のほうが詳しい? どういうことかな﹂
﹁内務省から送られた副大使はロペン伯爵。昔、君がアズウェル先
生の︱︱﹂
アレックスが説明しかけたタイミングで、突然部屋のドアがノッ
クされる。そして間髪入れずに、外側からややハイトーンの若い男
の声が中へと響いた。
﹁副大使のロペンですが、よろしいでしょうか﹂
﹁ああ、どうぞ﹂
ユイがどこかに聞き覚えのあるその声を耳にして許可を口にする
と、ドアからのぞかせた顔は、彼のよく知る懐かしい人物であった。
﹁イスターツ閣下、いや⋮⋮ユイさん、お久しぶりです﹂
﹁へっ⋮⋮あれ⋮⋮フェルナンド? フェルナンドじゃないか﹂
﹁そうですよ、ユイさん。お久しぶりです﹂
満面の笑みを浮かべながら姿を現したフェルナンドを目にして、
623
ユイは驚きのあまり口をあんぐりと開ける。
﹁え、いや、どうして君がここに?﹂
﹁僕が今回の副大使ですよ、ユイさん。先ほどロペンって名乗った
でしょ。フェルナンド・フォン・ロペン外交副大使。これが今の僕
の名前にして役職です﹂
﹁マットではなく、フォン・ロペンってことは、まさか⋮⋮﹂
ユイが知っている頃の彼は、アズウェルの下へ共同研究に足を運
ぶ王立大学の研究者であった。さらに当時の彼はフェルナンド・マ
ットと名乗っていた。それが帝国の中堅貴族であるロペン家の名を
名乗った事に対し、ユイは驚きを露わにする。
一方、そんなユイの姿を目にしたアレックスは、いつものニコニ
コした笑みを浮かべつつ彼に向かって口を開いた。
﹁そう言えば彼がロペン家を継いだ時には、ユイは既にカーリンに
飛ばされていたよね。知らなかったと思うけど、彼は本来伯爵家の
人間だよ﹂
﹁アレックスさんの言うとおりなんです。別に隠していたわけでは
ないのですが、僕の父は先代のロペン伯爵になります。と言っても
正式な子息ではなく、母が庶民の出であったもので、本来は絶縁状
態にあったんです⋮⋮それが伯爵が病に倒れた際に、無理矢理ロペ
ン家に入らされまして﹂
﹁へ、へえ、そうなんだ。取りあえず、立ち話もなんだ。中に入っ
てじっくり聞かせてくれるかい?﹂
その説明に驚きながらも、ユイはそのまま彼を部屋の中央にある
ソファーへと勧めた。
﹁ありがとうございます。ユイさん﹂
ゆっくりとソファーに腰掛けたフェルナンドは、対面に座ったユ
イに向かい笑みを浮かべる。
すると、ユイは頭を掻きながら、彼に向かい一つの問いを口にし
624
た。
﹁いろいろ変わったみたいだけど、実際どれくらい会ってなかった
かな?﹂
﹁たしか五年くらいですね。確かユイさんがカーリンに飛ばされる
前に、お会いしたのが最後です﹂
フェルナンドの返答を耳にしたユイは、頭のなかから当時の記憶
を探る。すると、左遷人事の発表を受け、当人以上に怒り心頭であ
ったエインスによって毎晩のみに連れ回された際に、ある飲み屋で
彼と再会したことを思い出した。
最も思い出すことが出来たのも、ユイをそっちのけに、酔っ払っ
たエインスとフェルナンドがその場でいつもの大げんかを始めたこ
とが理由であったが。
﹁あの時か⋮⋮しかし、あれからもう五年か。早いものだね。また
身長伸びたんじゃないか?﹂
﹁変わりませんよ。一体、僕のことを何歳だと思っているんですか
? 相変わらずユイさんって、そのあたりが適当ですよね﹂
微笑みながら、フェルナンドがそう口にすると、ユイは弱ったよ
うに頭を掻く。
﹁そうだったかな。はは、そういえば変わらないか﹂
﹁アレックスさんとは、もう七年ぐらいはお会いしていませんでし
たよね。相変わらずご壮健のようで安心しました﹂
﹁はは、ありがとう。ちなみに君がロペン伯爵家を継いだこと、僕
はちゃんと知っていたからね。そこの適当なおじさんと違ってさ﹂
アレックスはユイへと視線を向けながらそう口にする。
すると、ユイはすっと視線を逸らしてすねたような口ぶりで言い
訳を口にした。
﹁私がおじさんなら、君もおじさんだろ? 知る機会がなかっただ
625
けなんだから、不可抗力さ。とにかくさ、そんなどうでもいい話は
置いておくとして、どうして君が副大使なんだい? 君は大学で研
究しているものだとばかり思っていたのだけど﹂
自分が糾弾される方向へと話が進みそうになるのを察知したユイ
は慌てて話題を切り替える。
﹁ええ⋮⋮それなんですが貴族なんかになってみれば、さすがに研
究だけをしているわけにはいかなくなりましてね。いつの間にか内
務省の職員にさせられ、そして気が付けば外務省に出向ですよ。ほ
んとお役所仕事はこりごりです﹂
﹁そうだろう、そうだろう。貴族なんか全くもってろくなもんじゃ
ないさ﹂
﹁ユイ、君も最近貴族になった口だと思うけど﹂
最近、レムリアック伯爵に就任したばかりのユイに向かい、アレ
ックスが笑みを浮かべながらそう口にする。
﹁いや、だからこそ言っているのさ。ろくでもないものだってね﹂
﹁全くですよ。おかげで大学での研究は途中で投げ出した形になっ
て⋮⋮誰か引き継いでくれるといいんですが、やっぱり無理かなぁ﹂
フェルナンドは心底残念そうな表情を浮かべながら、その場で大
きな溜め息を吐きだす。
﹁そんなに人材がいないのかい?﹂
﹁士官学校と違って、王立大学はクラリスの内政状況がそのまま運
営に反映されますからね。もちろん以前はそうでもなかったんです
が、帝国との戦争以降は⋮⋮軍人の養成は減らせないけど、研究者
は削れるとなってしまうのが、今の我が国のつらいところです﹂
﹁長期的に考えると、あまり賢い方法ではないだろうけど、しかし
難しいところだね﹂
ソーバクリエンでの野戦にて、王家の主兵力が壊滅した煽りを受
626
け、クラリスでは他国からの侵略を防ぐために軍事力の回復が急務
であった。それ故に、国家の人材育成を軍人中心へ明らかにシフト
させ、ようやく軍事力もかつての六割強といったところまで回復し
つつある。
もちろん回復と言っても単純に人員数だけのことであり、内実は
新兵や引退していた古参兵を復帰させただけの寄せ集めに過ぎず、
とても満足のいく状態にはない。
だが当然、露骨に予算を制限された研究分野の悩みも、軍に勝る
とも劣らぬところがあった。
﹁まあ、うち役人連中はあまり長期的にものを見れないからね。ど
うしても露骨で、そして近視眼な政策を取りがちなものさ。それよ
りも投げ出した研究っていうのは、どんな内容だったんだい﹂
﹁研究ですか? どう言えばいいのかな⋮⋮わかりやすくいえば魔
石の研究です﹂
﹁魔石の?﹂
フェルナンドが口にした内容に興味を抱き、ユイは彼に向かって
問い直す。
﹁ええ。魔石って結構原始的な使われ方をしていると思いません?
クラリスでは街灯や調理なんかでも使用していますが、それにし
たってもっと他に使い方がないものかと疑問に思いますし、この帝
国なんかではただの暖房扱いですからね。奇跡の石をいくら何でも
粗雑に扱いすぎですよ﹂
﹁奇跡の石⋮⋮か﹂
自分の研究分野の内容であるためか、フェルナンドの口調に熱が
帯び始める。
すると、ユイは頭を掻きながら、彼の発言の中で気になった単語
を口にした。
627
﹁ええ、奇跡の石です。えっと、魔石は石の中に純粋な魔力が込め
られているという説は知っていますか?﹂
﹁聞いたことはある。確かにそれが事実としたら、熱を発したり光
を発したりと、いろいろ辻褄が合うとは思っているよ。もちろん確
証はないけどね﹂
真剣な表情で口にされたユイの回答を受け、フェルナンドは満足
そうに一つ頷く。
﹁その通りです。でも、本当に魔力の固まりだとしたら、もっと有
効な使い方があると思うんです﹂
﹁例えば、どんな?﹂
﹁そうですね⋮⋮例えば魔法士なんかが魔力を使い切った時、魔石
から魔力を補充できたりすれば面白くありませんか? もしこの考
えが実用化できれば、魔石の用途が大きく変わると思います﹂
その仮説を耳にして、ユイの脳は高速に思考を進める。そしてす
ぐに彼なりの仮定を口にした。
﹁確かにその通りだね。例えば治療士なんかは、魔力切れで救える
はずの命を救えないなんて事態は減るだろう。また軍人からしてみ
れば、魔石で魔力が補充できるなら魔法戦において根本から戦術の
概念がひっくり返りかねない﹂
﹁そうでしょ。実はかなり良いところまで行っていたんです。例え
ば、魔石に特定の魔法式を組み込んだ魔法をぶつけると、同じ効果
を魔石に発現させることができることは分かりました。つまり魔石
内の魔力は、多用途に使うことができることが証明されたに等しい
んです。ですが、そこまでわかったタイミングで、父が倒れてしま
いまして⋮⋮﹂
そこまで口にすると、フェルナンドは俯きながら残念そうな表情
を浮かべる。
そんな彼の姿を目にしたユイは、彼を励ますようにゆっくりと言
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葉を紡ぎだした。
﹁だとしたらさ、逆に今回の仕事は重大だね。ここで帝国と何かし
らの平和的な条約を結べれば、クラリス内の軍事的需要はかなり軽
減されるはずさ。そうすれば、今みたいな王立学校を軽視する風潮
は解消されていく気がするよ。って⋮⋮これは明らかに軍人の発言
じゃないけどね﹂
﹁まあ今の君は外務省所属だし、別にいんじゃないかい?﹂
﹁はは、確かに。まったくその通りだね﹂
アレックスの横からの突っ込みに対し、ユイは笑いながら同意を
示す。
一方、窓の外が暗くなり始めていることに気づいたアレックスは、
その場にいる二人に向けて言葉を発した。
﹁さて、また明日からのこともあるし、そろそろ御開きにしないか
い、ユイ?﹂
﹁そうだね、荷物の整理なんかもあるし、具体的な予定は明日以降
に立てることとしようか﹂
ユイはアレックスの提案に対し、笑いながら頷いて同意を示す。
その二人の会話を耳にしていたフェルナンドも、そのままゆっく
りとソファーから立ち上がった。
﹁では、僕も失礼しますね。まだ書類仕事が残っていますので﹂
﹁なら僕も行くとしようか。ユイ、また明日にね﹂
フェルナンドが出て行く姿を目にして、アレックスも笑みを一つ
浮かべながら、ユイの執務室から退室していく。そして一人となっ
たユイは顎に手を当てると、先ほどのフェルナンドとの会話を脳裏
に浮かべ直していた。
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﹁フェルナンド君。少し待ってくれないかな﹂
﹁どうしました、アレックスさん﹂
ユイの執務室から廊下へと出たフェルナンドは、突然背後からア
レックスに声を掛けられる。
そしてそのまま振り返ろうとした瞬間、フェルナンドは自分の首
元に冷たい金属があたっていることに気が付くと、その場に体を硬
直させた。
﹁ほんの少しだけ、君と話したいことがあるんだ⋮⋮もちろんユイ
抜きでね﹂
﹁⋮⋮な、なんの話でしょうか?﹂
声を発して声帯を震わせた影響か、フェルナンドの首の皮が一枚
裂けた。その表面から生みだされた赤い雫は、アレックスの剣の腹
を伝って、一筋の赤い軌跡を剣の上に形成していく。
﹁ふふ、わかっているだろう。もちろん君のいる組織、つまり貴族
院について聞きたいことがあるということさ﹂
笑いながらそう口にしたアレックスの視線は氷よりも遥かに冷た
く、そして押し当てられている剣よりも遥かに研ぎ澄まされていた。
630
境遇︵改訂︶
﹁いろいろ聞きたいことはあるけど、君がどうして貴族院の幹部の
中に、その名を連ねているのか教えてもらえるかな﹂
手近な部屋へとフェルナンドを連れ込んだアレックスは、彼を部
屋の壁へと押し当てた上で、剣を喉元に添えたまま問いかける。そ
の表情はいつものニコニコしたものであったが、その狐目の奥に潜
む狂気をフェルナンドは感じ取らずにはいられなかった。
﹁⋮⋮それは僕の先代が貴族院の中核にいたから。より正確に言う
ならば、先代がブラウ公に取って都合の良い駒だっただったことが
理由です﹂
﹁ふぅん、だから君がその立場を継承したと⋮⋮つまりそういうこ
とかな﹂
フェルナンドの表情を覗き込むかのように、アレックスは顔を彼
へと少し近づける。そのアレックスが纏う冷気にも似た殺気に、フ
ェルナンドは声を震わせつつもどうにか返答を口にした。
﹁は、はい。その通りです。それ以外に理由がないわけではありま
せんが⋮⋮大貴族でもない若造の僕が、貴族院の中枢に名前を連ね
ているのはそれが理由です﹂
﹁なるほどね。それで他の大貴族連中に並んで、君がブラウ公の自
宅で開かれる円卓会議に名前を連ねていると、そういうわけだ﹂
﹁ど、どうして貴方がそれを? 貴族院の方針を実際に決定してい
る円卓会議の存在なんて、王国貴族の中でも極々限られた一部の者
しか知らないはずです。ましてやその内部構成まで⋮⋮﹂
アレックスがさらりと口にした円卓会議という言葉に、フェルナ
ンドは思わず動揺する。
631
すると、アレックスは首を左右に振って彼に微笑みかけた。
﹁間違えないでくれるかな、フェルナンド君。今ここで尋ねている
のは、君じゃなくて僕さ。ふふ、まあでもいいか。そりゃあ、ユイ
の周りをうろちょろする連中を捕らえれば、半分くらいは君たちの
組織の者だったからね。中にはいろいろと歌ってくれる鳥もいると
いうことさ﹂
﹁⋮⋮そうですか。ユイさんへの監視員が尽く失踪していたのは、
あなたの仕業だったわけですか﹂
ユイの行動を監視するために、貴族院が送り込んでいた密偵の数
はこれまでに二桁に上る。しかしそのほとんどは、何一つ報告する
ことさえできず、いつの間にか姿を消していた。
それ故に、これまでユイたちが何らかの対策をとっているのだと
貴族院も考えていたが、それを目の前の男が担っていたと理解する
と、フェルナンドは納得とともにますますその恐怖を深める。
﹁正確には、僕以外にもう一人いるんだけどね。それはともかく、
ユイの監視については君たち以外にも、帝国やフィラメント公国、
キスレチン共和国の人たちも努力しているよ。まあほとんどはただ
の使い走りなんだけど、中には意外に情報を持っている奴も紛れ込
んでいてね、なにげに効率のいい情報収集になっているのさ﹂
﹁⋮⋮貴方が密偵を排除していることは、ユイさんもご存じなんで
すか?﹂
﹁ユイかい? どうだろうね。でもたぶん気づいてはいるんじゃな
いかな。彼に必要な情報は厳選して報告しているし、その情報の出
元に気づかないような愚鈍さは、彼とは無縁だからさ。もっとも、
そのあたりは僕に一任しているみたいだから、特に何も言ってはこ
ないけどね﹂
アレックスは顔に張り付いた笑みを一切崩すことなく、フェルナ
ンドに向かって返答する。
632
一方、その答えを耳にしたフェルナンドは、恐る恐るアレックス
に向かって口を開いた。
﹁しかし、しかしです。どうしてアレックスさんがこんな仕事を⋮
⋮だってあなたは剣の道ではまがう事なき我が国の第一人者じゃな
いですか。もっと陽の当たる所へ出てもおかしくないのに、どうし
て貴方ほどの人がこんな汚れ仕事を⋮⋮﹂
﹁ふふ、ユイの奴は甘いところがあるからね。彼以外の誰かがこう
いった仕事をしなくちゃいけないのさ。能力的にはリュートでもか
まわないんだろうけど、性格的に彼には任せられない。彼はある意
味、ユイの光だからね。だからユイの陰を担う僕が、彼が最良だと
わかっていても性格上できないことを代わりに行う。例えばユイと
親しい君を、ここで亡き者にするとかね﹂
アレックスが平坦な口調でそう言い切った瞬間、フェルナンドは
目の前の男が冗談ではなく、本気で自分を殺しうることを理解する。
それ故に、彼は少しでも思考の時間を稼ぐ為、アレックスに向か
って慌てて言葉を紡いだ。
﹁じょ、冗談はやめてくださいよ﹂
﹁君の中で、僕は冗談が好きな人物だったかな、フェルナンド君﹂
氷より冷たく、そしてどんな刃物よりも鋭利な言葉を耳にしたフ
ェルナンドは、迫り来る死の予感を胸に抱く。そしてそれとともに、
彼が守るべきものの姿が、彼の脳裏をかすめた。
その瞬間、彼は一つの覚悟を決めと、目の前の死神に向かい毅然
とした口調で問いを口にした。
﹁⋮⋮僕にどうしろと言うのですか?﹂
﹁ふふ、では質問と行こうか。今回のユイの帝国行きを指示したの
は、貴族院で間違いないね?﹂
話す気になったと解釈したアレックスは、最初に今回の絵を描い
たのが貴族院であるかどうかを問いかける。
633
すると、首元に添えられている剣に気をつけながら、フェルナン
ドは小さく首を縦に振った。
﹁ええ、その通りです。貴族院としてはレムリアックでユイさんが
亡くなれば理想と考えていたようですが⋮⋮残念ながら最悪の結果
となったので、強攻策をとったというわけです﹂
﹁最悪ねぇ⋮⋮そんなにレムリアックでのユイの成功を、君たちは
問題視しているのかい﹂
﹁領地経営失敗の罪でユイさんを排斥するつもりが、逆に経済的に
完全に自立されてしまいましたから。その上、このまま行けばあの
土地に埋蔵されている魔石量から言って、下手すれば王国一裕福な
貴族になりかねない。これが彼らにとって最悪でなければ、なんだ
というのですか﹂
既にレムリアックは、非常に安い税金とルゲリル病が根絶された
という評判から、労働者の流入が相次いでいた。
中にはそれを魔石狂時代の再来と揶揄する者もいたが、人と金の
集まるところに金はさらに集まる。そしてそれらの流入は、さらな
る発展へと繋がりだしていた。そのような良好な循環が回り始めた
現在、レムリアックは寂れきっていた時代が嘘のように、まさに急
速な発展を遂げ始めている。
﹁確かに君の言うとおりだ。なるほど、貴族院の連中がなりふり構
わなくなるのも無理はないか。ならば次はこれからのことを尋ねよ
うか。君たちは今回、ユイをどうするつもりなんだい?﹂
﹁おそらくおわかりじゃないかとは思いますが⋮⋮帝国に飛ばし、
帝国に処断してもらう。それが貴族院の狙いです。うまくいけば、
自らの手を汚さず最大の邪魔者を排除できますから﹂
フェルナンドの瞳を覗き込んでいたアレックスは、彼の言葉に嘘
が含まれていないと判断すると、満足気にゆっくりと頷く。そして
目の奥をわずかに光らせると、改めてその口を開いた。。
634
﹁恐らくだけど、君はいざという時に暗殺者も兼ねると、おそらく
そんなところなのかな? ユイの奴は身内に甘いからね﹂
﹁⋮⋮違うとは言いません。貴族院の連中は、遠回しに僕にそれを
示唆していましたから﹂
﹁で、どうするつもりなんだい? もちろん返答次第では、ここで
消えてもらうことになるけど﹂
アレックスは手にしている剣を力強く握り直し、改めて問いなお
す。
﹁だとしたら、僕とすれば回答はユイさんに付くと言うしかないじ
ゃないですか。もしそう言えば信じてくださるのですか?﹂
﹁さあ、どうだろうね。それは君の誠意しだいかな?﹂
わずかに含み笑いを浮かべながら、アレックスはそう口にした。
そして同時に、彼の雰囲気が一変する。
フェルナンドは、自らの死の予感を覚えずにはいられなかった。
だが、逆に彼は目の前の死神を睨みつけると、ゆっくりと覚悟に満
ちた言葉を発する。
﹁⋮⋮わかりました。アレックスさんには全てをお話しします。そ
して僕の命をあなたに預けます。だからもうしばらくの間だけでい
いんです、もうしばらくだけ、この僕に時間をくださいませんか。
僕にはまだ、やらなければならないことがあるんです﹂
強い意志を含んだフェルナンドの表情と言葉を受け、アレックス
は学生時代の彼の姿を思い出す。
真面目で優秀だが、どこか線の細い印象があった優等生。それが
アレックスの記憶にあるフェルナンドであった。
しかし今、彼の眼の前には、かつての線の細さなど微塵も感じさ
せず、守るべき何かを背負う男がそこに存在した。
635
﹁うん⋮⋮どうやら嘘を言っているわけではなさそうだね。いいよ、
事情を聞こうか﹂
アレックスはいつものキツネ目のままわずかに微笑み、手にして
いた剣を鞘へと収めた。
636
皇帝
﹁すべて世はこともなし⋮⋮と。うん、最初帝国へ来るときはどう
なることかと思ったけど、こんなにのんびり出来ると言うのなら、
もっと早く来たらよかったよ﹂
﹁そうかい。まぁ、僕の方もそろそろレイスあたりに、事務的な仕
事も覚えてもらいたかったところだからね。ちょうどいい機会だっ
たと言えるかな﹂
アレックスは比較的権限の不要な事務作業の全てを、今回はレイ
スに任せていた。
もちろんめんどくさがり屋のユイとは違い、アレックスが仕事を
振ったのは彼の成長を期待してのものである。
しかし仕事を投げられたレイスは、彼の直接の上司であるフート
のデスクワークが壊滅的であったため、毎日泣きながら三人分の仕
事をする羽目になっていた。
﹁しかしこうして君とのんびりするのも久しぶりだね。学生時代以
来かな﹂
﹁ふふ、ユイ。そんなに暇なのだったら、少し僕の̶̶﹂
﹁断る!﹂
アレックスが更に言葉を続けるより早く、ユイが強い口調で拒否
を口にする。
﹁待ってよ。まだ何も言ってないじゃないか﹂
﹁言わなくてもわかる。だから断ると言ったんだよ﹂
ほぼ間違いなく剣の修行への誘いであると勘付いたユイは、渋い
顔をしながら改めてきっぱりと拒絶した。
637
﹁でもさ、君が相手してくれなかったら、僕の相手がいないじゃな
いか。こうして暇を持て余しているんだし、少しくらい手合わせし
てくれてもいいだろ?﹂
﹁お前と手合わせしたら、絶対に徹夜して働くより疲れるから⋮⋮﹂
ユイが首を左右に振ってそう口にすると、アレックスは仕方ない
とばかりに肩をすくめながら引き下がる。しかし、そのいつもと変
わらぬ笑みの中には確実に残念さを滲ませていた。
そうしてユイが再び手元の書籍に目を通し始め、アレックスはも
ともと瞑られているかのようなキツネ目を閉じて瞑想を再開する。
執務室には静寂が訪れ、全く業務時間らしからぬ空間が生みださ
れた。
しかしそんな静寂はわずかな時間も経たぬ内に、突然の部屋のド
アへのノックによりかき消される。
﹁た、大変です!﹂
外から転がり込むように慌てて姿を現したのは、事務作業に忙殺
され、目の下にひどいくまを作っているレイスであった。
﹁どうしたんだい、レイス。世の中、そんなに慌てなきゃいけない
ことなんて、こんな天気の良い日に⋮⋮待って、今の無し。なんか
昔の嫌な記憶を思い出したから﹂
ユイは王都に戻って間もない時期に、エインスが彼の下へと慌て
ながら駆けつけてきた記憶を蘇らせ、途中で自らの発言を取り消す。
しかし、そんなユイの事情など知ったことではないとばかりに、
レイスは動揺を隠せぬ表情で口を開いた。
638
﹁いや、そんなこと言っている場合じゃないんです。こ、こ、こ﹂
﹁こ?﹂
同じ言葉を繰り返すレイスに対し、ユイは怪訝そうな表情を浮か
べる。
すると、レイスはユイが想像もしていない単語をその口から発し
た。
﹁皇帝陛下が⋮⋮ケルムの皇帝陛下がここに来ているんですよ。ユ
イ先生を訪ねて!﹂
﹁はぁ⋮⋮何を言っているんだい? だって皇帝だよ。エインスと
かみたいなただの貴族じゃないんだ。そんなお人がヒョイヒョイと
現れるわけないじゃないか﹂
働きすぎでレイスの頭がおかしくなったのではないかと感じ、ユ
イはかわいそうな人を見る目で彼を見つめる。
一方、隣でユイの発言を耳にしたアレックスはいつもと変わらぬ
口調で﹁いや、エインス君もかなりの大貴族なんだけどね﹂と、冷
静な突っ込みを口にしていた。
そんなユイとアレックスの反応に絶望しながらも、レイスはそれ
どころではないとばかりにブンブンと左右に首を振ると、ロビーの
方を指さして再び口を開く。
﹁いや、でも、もう下に来られてい̶̶﹂
﹁お取り込み中の所をすまんが、少し失礼させてもらうよ﹂
入り口の所であたふたしているレイスの脇をすり抜ける形で、威
風溢れる初老の男が、お供の者たちを廊下に控えさせたまま部屋の
中へと姿を現す。
639
明らかにそのただ者ならぬ佇まいを目にしたユイは、先ほどのレ
イスの発言を反芻しながら表情を引き攣らせると、恐る恐るその男
に向かって口を開いた。
﹁⋮⋮あの、一応お尋ねさせていただきますが、どなた様でしょう
か?﹂
﹁予か? ふむ、人に名前を尋ねられるのは、久しくなかった経験
じゃな﹂
﹁あ、あの⋮⋮﹂
予と言う単語が発せられた時点で、ユイの中ではある結論に到達
していた。しかし、まさかという思いが、未だにその答えを受け入
れることを躊躇させる。
そんなユイの様子を目にした白銀の髪の男は、ニヤリとした笑み
を浮かべると、堂々とした様子で自らの名を口にした。
﹁ふふ、そう緊張するな。尋ねられたからには名乗ってやる。予は
ケルム帝国第八代皇帝、リアルト・フォン・ケルムじゃ﹂
﹁⋮⋮り、リアルト陛下。ほ、本物ですか。これは失礼致しました﹂
皇帝以外の者には決して出来ないであろう、その威厳あふれる名
乗りを目の当たりにして、ユイは自らの失礼な発言を省みて急ぎ頭
を下げて謝罪する。
﹁はは、よいよい。不作法にも突然お主の所を訪問したのは予なの
じゃ。楽にしてくれ﹂
﹁は、はぁ⋮⋮﹂
まったく意図のつかめない皇帝の振る舞いと訪問に対し、ユイは
困った表情を浮かべながら戸惑いを見せる。
640
そんなユイの心境をどう受け取ったのか、皇帝は笑いながらユイ
に向かって口を開いた。
﹁まあ、良ければ茶などだして貰って、ゆっくり話させて貰いたい
ものじゃが、如何じゃろうか?﹂
﹁は、はい。直ちに⋮⋮レイス!﹂
想定外のリアルトの発言に対し、ユイはすぐにレイスに視線を向
ける。
﹁わ、わかりました。すぐにお持ちします﹂
レイスは二人の顔を交互に見た後にそう口にすると、再び転がる
ような勢いで、部屋の外へと駆けだして行った。
﹁ふぅ⋮⋮うむ、クラリスのコーヒーはなかなかに美味じゃな。我
が国に入ってくるものではなかなかこうはいかん﹂
ソファーに腰掛けながら、レイスが慌てて運んできたコーヒーを
ゆっくりと口に運ぶと、リアルトは満足そうな笑みを浮かべた。
﹁はは、こと商いに関しましては、クラリスはなかなか悪くない立
地であります。ですので、このような良き物が入ることも少なくあ
りません﹂
﹁ふむ、それは良いことじゃ。残念ながら、我が国にはなかなかこ
れほどの物は出回らん。予がそなた等の土地を欲したのも、わかる
気がせんか?﹂
641
﹁それは、なんとも答えあげにくいことでして⋮⋮﹂
リアルトの問いかけに対し、ユイは頭を掻きながら弱った様子を
見せる。
そんな彼の仕草を目にして、皇帝は笑い声をあげながら、彼へと
謝罪を口にした。
﹁はは、これは失礼。別に今更そなた等に宣戦布告をしようと足を
運んだわけではない。今日はただの茶飲み話じゃ、半分は冗談じゃ
から気楽に聞いてくれ﹂
﹁はぁ⋮⋮それで、本日はどうしてこちらに足をお運びになられた
のですか?﹂
ユイが苦笑いを浮かべながら、そのように問いかけると、皇帝は
意味ありげな笑みを浮かべて彼に答える。
﹁じゃから茶飲み話をしに来たんじゃよ。そなたが暇だと噂で聞い
たものでな﹂
﹁どこから漏れたんだ、一体⋮⋮﹂
思わず素の表情のままそんな呟きを発したユイを目にして、皇帝
は愉快そうな表情を浮かべる。
﹁ふふ、そなたは自分の価値をわかっておらんようだな。皆が見て
おるのだよ、そなたを⋮⋮な。だからこそ今日は茶飲み話なのじゃ﹂
﹁⋮⋮どういうことでしょうか?﹂
リアルトの意味するところがわからず、ユイは首を傾げて問い返
す。
その反応に対し、リアルトはわずかに考える仕草を見せると、彼
はユイへと逆に問いを発した。
642
﹁ふむ、では予とそなたが正式な会談をしたと仮定しよう。もしそ
んなことが行われれば、どの程度の人々が、その会談の内容を注目
することになると思うかね?﹂
﹁それはもちろん会談の目的や内容にもよるでしょうが⋮⋮クラリ
スとケルム、そしてノバミム自治領あたりの人なら注目せざるを得
ないかもしれませんね﹂
ユイはほんの少し考えた後に、彼自身の回答を口にする。
しかしそのユイの言葉を耳にしたリアルトは、わかっていないと
ばかりに首を二度左右に振った。
﹁その程度で済むものか。もし正式な会談を開くとするならば、ラ
インドル、フィラメント、エモール、そしてキスレチンの息がかか
った者がその場にずらりと勢ぞろいするはずじゃ。そして話の内容
は、彼等の手によって瞬く間に各国へと伝わる。じゃからこその、
茶飲み話よ﹂
﹁はぁ⋮⋮可能性としては否定はしませんが、しかし決定権さえ無
い小国の一大使との会談ですよ。いささか考え過ぎではないでしょ
うか﹂
﹁ほう? 一国の生命線を握っておる者が、自らを決定権のない一
大使と言いよるか﹂
ユイの発言を耳にしたリアルトは、わずかに右の口角を吊り上げ
ると、そう言葉を発する。
﹁⋮⋮それはどういう意味で﹂
﹁とぼけるでない。そなたのレムリアックからノバミムを通じて帝
国内に大量の魔石が持ち込まれていること、予が知らんとでも思う
たか? 既に我が国の経済の一部はレムリアックに左右される状況
643
なのだ。これを生命線を握っていると言わずして、なんと言うのか
ね﹂
リアルトの強い視線をユイは受け止めると、彼は肩をすくめなが
ら降参とばかりにその発言を認める。
﹁正規ではない裏ルートを中心に、帝国へ流し初めたばかりですよ。
なのに、もううちへとたどり着かれているんですか﹂
﹁元々それだけ帝国内の魔石流通量が少なかったと言うことじゃな。
まあ、仲介している業者に関しては言いたいことが無いわけではな
いが、基本的にそなたの融通には感謝しておる﹂
闇社会に繋がっているオメールセン商会を介していることに釘を
差しながらも、皇帝は感謝の意をユイへと伝える。
一方のユイは、苦笑いを浮かべたまま、彼も目の前のケルム皇帝
に向かって感謝の言葉を口にした。
﹁いえ、私としましても大口の売り先がたまたま帝国であったと言
うだけの話です。感謝することこそあれ、感謝されるようなことは
ございません﹂
﹁ふふ、そなたは謙虚じゃな。別にもう少し強く出ても良かろうに。
まあ、あえてそうしてはいないだけかもしれんが⋮⋮おっと、今日
はそんな話をしにきたのではない﹂
﹁はぁ⋮⋮では一体、どういったご用件で?﹂
商業的な話でないのならば用件は軍事的なことだろうかとユイは
考えながら、リアルトに向かって問いかける。
しかしリアルトの口から発せられた内容は、ユイの予想の完全に
枠外の内容であった。
644
﹁実はな、二十日後に一つのパーティーが予定されておってな。今
回、そなたをそのパーティーに招きたいと思って足を運んだのじゃ﹂
突拍子もないリアルトの招きに対し、ユイは一瞬反応が遅れる。
そして驚きの表情を浮かべながら、戸惑いを隠せぬ反応見せた。
﹁パーティー⋮⋮ですか﹂
﹁うむ﹂
﹁それはもちろん参加させて頂きます。しかし陛下のお招きとあれ
ば、わざわざここまで足をお運びにならなくとも、クラリスの大使
としては招待状さえ頂ければ馳せ参じましたのに﹂
ユイは目の前の皇帝の意図を図りかねていた。
皇帝リアルト。
大陸西方の中堅国家に過ぎなかったケルムを、婚姻政策と軍事力
を巧みに使い分け、一代にして二大強国の地位にまで引き上げた稀
代の大皇帝。
彼の代になってからケルム帝国の領地は倍以上となり、ただ一度
の敗戦を除き、ケルムは他国との戦争に負けたことが無かった。
リアルト自身が直接戦闘に赴くことは皆無であり、彼自身は戦場
における指揮官としての能力を自らに認めていない。
そんな彼の真価は、他国との戦争においては戦う時点で勝利を収
めているとまで言われるほどの、政略的そして戦略的な優位を形成
する政治力にあった。
だからこそ日夜政争に追われているはずのこの偉大な皇帝が、パ
ーティーに誘うだけの理由で自分の所へ来たということに、ユイは
違和感を覚えたのである。
645
﹁いや、ただそなたを誘いに来たわけではないのじゃ。実は今回の
パーティーで、我が帝国とクラリスとのこれからの友情の架け橋と
なるように、主賓への贈り物をイスターツ殿から頂けないかと思っ
てな。要するに、そのための根回しに来たという訳じゃよ﹂
﹁⋮⋮なるほど、そのようなことですか。そうでしたら、喜んでな
にかクラリス製の記念になる品物を贈らせて頂きますよ﹂
ユイはどのようなことを言い出されるかと不安に感じていたこと
もあり、一瞬安堵の表情を浮かべ、あっさりと皇帝からの依頼を了
承する。
﹁そうか。はは、快諾いただけるとはさすが希代の英雄殿。お心が
広いな﹂
﹁いや、そこまでのことでも⋮⋮それで贈り物をさせて頂く主賓の
方なのですが、どのような方なのでしょうか?﹂
贈り物の内容を決めねばならない為、ユイはその贈呈相手の話を
リアルトに問いかける。
すると、リアルトはわずかに視線を宙に漂わせ、ゆっくりと口を
開いた。
﹁うむ、予の目をかけておる女性でな。なかなかに美しい女性じゃ﹂
﹁はぁ⋮⋮女性の方ですか。わかりました、何か喜んでいただける
物を考えさせていただきます﹂
取りあえず性別がわかったことで、これである程度贈り物が絞り
込めるなとユイは考え始める。そして彼がさらなる詳細を問いかけ
ようとする前に、リアルトは間髪入れずに口を開いた。
﹁そうか、そうしてくれるか。これはありがたい、わざわざお忍び
646
で茶飲み話に来たかいがあったわ﹂
﹁それは⋮⋮どうも﹂
﹁ふふ、ならばこれにて失礼させて貰おうか。また来るでな﹂
﹁えっ?﹂
ユイは先ほど来たばかりでもう立ち去るということと、またここ
へ来るという発言に面食らう。
しかし彼が驚いている間にも、リアルトはソファーから立ち上が
ると、そのままドアに向かって歩き始めた。
そうしてユイが引き止めるまもなくリアルトはドアノブへと手を
かけると、急にそこで立ち止まる。そして忘れていたことを告げる
かのように、ユイの方へと振り向き口を開いた。
﹁そうそう、言い忘れておったが、その娘の名はミリアという。で
は、パーティーでまた会おうぞ﹂
そう口にすると、リアルトは満足した笑みを浮かべながら、颯爽
とユイの前から立ち去っていった。
そうしてその場に残されたユイは、護衛として背後に控えていた
アレックスに向かって、正直な感想を口にする。
﹁⋮⋮なんか、疾風怒濤というのが相応しい方だね。颯爽と現れ、
颯爽と帰ってしまわれた﹂
﹁あのさ⋮⋮ユイ。君、簡単に了承しちゃったけど、本当にいいの
かい?﹂
﹁え、何を?﹂
アレックスは彼らしからぬ遠慮がちな口調で、ユイに向かい問い
かける。
一方、尋ねられた側のユイは、アレックスの反応の理由がわから
647
ず、キョトンとした表情で首を傾げる。
﹁いや、ミリア様へのプレゼント﹂
﹁ミリア様? アレックスはその娘のことを知っているのかい?﹂
様付けでアレックスがその女性のことを口にしたことに、ユイは
訝しげな表情を浮かべた。
そのユイの反応を目にしたアレックスは、やっぱり知らなかった
のかといった表情を浮かべる。
﹁皇帝陛下が目にかけている美しいミリアと言えば、おそらくは第
四皇女のミリア・フォン・ケルム様のことだと思うんだけど⋮⋮﹂
﹁第四皇女⋮⋮それってもしかして、陛下の娘さん⋮⋮ってことか
な﹂
﹁まあ、皇女だからね﹂
アレックスのその言葉を聞いたユイは、途端に大きな溜め息を吐
き出すと、そのまま目の前のテーブルへと突っ伏す。
﹁まいったなぁ⋮⋮これは真剣に贈り物を考えないといけなくなり
そうだ﹂
ユイは疲れた口調でそう呟くと、まるで糸が切れたタコのように、
その場から体を起こすことができなかった。
648
花の姫
ミリア・フォン・ケルム第四皇女。通称、花の姫。
リアルトの末の娘である彼女は、姉たちが既に嫁いでしまってい
ることもあり、皇帝の手元にいる唯一の娘であった。
今年十八歳を迎えることとなったミリアであるが、その穏やかで
優しい性格とその場の空気を変えるほど可憐な容姿から、民からも
臣下からも、そして何より皇帝から愛されており、花の姫とも呼ば
れている。
そんな彼女の誕生を祝う場に、予想外の人物の来訪が公表された
のは、まさにパーティーが行われる当日であった。
﹁おい、聞いたか?﹂
﹁ああ、聞いた⋮⋮奴が来るらしいな﹂
未だ同盟関係が成立していない国の大使であり、先年の戦いにお
いては帝国軍を蹴散らしたユイ・イスターツ。その男が皇帝直々の
招きでこの場へと来場するという噂は、あっという間に会場内に広
まり、そして会場内の到るところでその話がささやき合われる。
﹁しかし陛下も思い切ったことをなされたものだ。よりによって宿
敵の中の宿敵を、愛娘の祝いの場に呼ばれるとは⋮⋮﹂
﹁いや、これはクラリスとの関係修復を内外にアピールする為では
ないか。最近、キスレチンやフィラメントも我が国に対し不穏な動
きを見せている。せめて北のクラリスとは、国交を修復しておきた
いのだろう﹂
政治的な思惑からユイ・イスターツの来場の理由を話す者は、現
649
在帝国が置かれている現状からその理由を考察する。
しかし会場内でもっとも話題となっていたのはそのような内容で
はなく、ユイ・イスターツ本人自体の話であった。
﹁しかしユイ・イスターツ⋮⋮か。なんでも、身の丈は普通の男の
倍はあり、片手で両手持ちの斧を扱うほどの猛者だと聞く。そんな
むさい男が、あのミリア様の誕生祝いの場に馴染むだろうか?﹂
﹁いや、ユイ・いスターツとは眼鏡をかけていつも冷徹な笑みを浮
かべる、まさに悪魔のごとき魔法士だと聞いたぞ﹂
﹁いやいや、そのどちらも間違いだ。クラリスにはたくさんのユイ・
イスターツが存在して、ここに来ているのはその内の一人にすぎな
い。つまりユイ・イスターツとは奴らの使う、共通の暗号なのだ﹂
集まった者たちは口々に好き勝手な想像や風聞を口にし、全く原
形をとどめないユイ・イスターツ像がその場に構築されていく。
そんな周囲の状況の中、その空間で築き上げられつつあるユイ・
イスターツ像と程遠い本人は、会場内へと何の躊躇もなく正面から
来場していた。
そしてその特徴的な黒髪を目にしても誰からも本人と気づかれな
かった彼は、会場の隅でアレックスに向かって苦笑いを浮かべる。
﹁聞いたかい、アレックス。いやぁ、みんな好き放題言ってくれる
ね。本物はここにこうして居るっていうのに﹂
﹁はは。ユイって意外と目立たないからさ。仮にエインスでも連れ
てきていたら今頃は貴婦人方に囲まれているんだろうけど、残念な
がら君じゃあね﹂
いつもの笑みを浮かべながら正装をしたアレックスは、ユイに向
かってそう返答する。
一方、空気の如き扱いのユイと異なり、アレックスはこの会場に
来訪後、エインス程ではないにしろその整った容姿からチラチラと
650
貴婦人方の視線を受けていた。そして彼は手慣れた様子でその全て
を軽い微笑みで躱し続けている。
﹁悔しいが、あいつや君がもてるのは認めるさ。だけどね、私だっ
て君たちの側にいなければもう少しは⋮⋮﹂
﹁負け惜しみはやめようよ、ユイ。それにさ、もしどこかの御令嬢
に声をかけられたところで、別に相手をする気はないんだろ? そ
れじゃあ声をかけてくれた女性に失礼だよ﹂
自慢気などさらさらなく、いつもと変わらぬ笑みを浮かべたアレ
ックスがそう口にすると、ユイは頭を掻きながらその発言を否定す
る。
﹁別に禁欲主義者というわけではないさ。ただ今はまだそんな気に
なれないというだけだよ﹂
﹁はぁ⋮⋮君の周りの女性には同情するよ、全くね﹂
アレックスが溜め息混じりにそう言葉を吐き出すと、ユイはわず
かに不満気な表情を浮かべる。しかしその場の空気をわきまえて気
分を切り替えると、彼は少し騒がしくなった壇上へと視線を移した。
﹁ふん、私のことは放っておいてくれ。それよりもさ、主賓のお出
ましのようだ。少し静かにするとしようか﹂
壇上へと向けられたユイの視線を追うように、アレックスも視線
を動かす。
その彼らの視線の先には、父と同じ白銀の長い髪をした可憐な女
性が、ゆっくりと壇上の中央部に向かって歩んでいた。
﹁これは、これは⋮⋮なるほど噂に聞く花の姫か。エインスあたり
が今日の話を聞いたら、さぞかし悔しがったことだろうね﹂
アレックスは会場の注目を一身に集めるその女性に視線を合わせ
たまま、この場にいない女好きの名前を口にする。
651
すると、ユイはわずかに口角を吊り上げながら、彼の後輩がいた
場合の絵を思い浮かべつつ、彼の意見に賛同した。
﹁違いないね。確かに、これはなかなかお目にかかれないほどの美
人さんだ。なるほど、花の姫か。君が言っていたリアルト皇帝が手
放したがらないっていう噂も、あながち嘘じゃないのかもね﹂
頭のてっぺんから足先まで、非の打ち所の無い整った美。しかし
美しすぎる女性にありがちな人に気後れをさせるような雰囲気は微
塵もなく、太陽の光をいっぱいに浴びた明るい野花の様に、穏やか
で優しい空気が彼女を包みあげていた。
ユイでさえ時が止めたかのように彼女の一挙手一投足に釘付けと
なる中で、ミリアはゆっくりと壇上の前へ進み出ると、微笑みを浮
かべながら会場内の皆に向かって柔らかな言葉を発する。
﹁今日は私のためにこれほどたくさんの方にお集まり頂き、本当に
ありがとうございます。このミリア、今日のこの日のことを決して
忘れることはないでしょう﹂
会場内の人々に対する感謝の言葉から始まったミリアの挨拶は、
彼女の発する言葉の中に何度もこの場に来場した人々に対する謝辞
を挟む。そしてその一言一言が彼女の柔らかい声で紡がれると、会
場内の雰囲気は予想外の来訪者による喧騒など消え去って暖かなも
のとなった。
そして彼女が言葉を発し終わり、最後に会場に向けて深々と一礼
すると、割れんばかりの拍手が彼女に向かって送られる。
﹁皆の者、予もミリアに代わり皆に礼を言う。我が娘のために、こ
の場に足を運んでくれたこと、予は決して忘れんぞ﹂
ミリアの隣で満面の笑みを浮かべながら彼女の挨拶を耳にしてい
たリアルトも、会場に向かって短いながら感謝の言葉を口にした。
652
すると、再び会場中から盛大な拍手が送られる。
そうして主賓の挨拶が終わったところで、帝国の儀礼庁の長官が
壇上の端へと上がり、会の進行を始めた。
最初に予定されていたのは、会場の参列者の中でも国内で有力者
と言われる者達からの、皇女への贈り物の時間であった。まず皇室
から第一皇子であり皇太子でもあるノインと、第二皇子であるトー
ルが順に妹に対して贈り物を贈る。そしてその後は、国内の大貴族
が皇女を祝うために、ある者は東方で作られた絹の織物を贈れば、
またある者は国内でも有名な景勝地の別荘を彼女に贈った。
もちろん当然のことながら、その贈り物は純粋な祝いからだけの
ものではなく、国王へのアピールや、財産の誇示、そして皇女に対
して自分の子息を紹介するための印象づけの意味合いも少なからず
含まれていた。それ故に、贈り物の品々は庶民では目にさえ出来ぬ
ものも少なくはなく、驚きの品が贈られる度に会場には歓声と羨望
の溜め息が発せられる。
そうして、国内の有力貴族の多数の贈り物が全て贈り終わると、
儀礼庁の長官は一度間を取り、やや緊張した面持ちとなった。そし
て今回の最後の贈呈者であり、いわくつきの国外の大使の名前を彼
は呼び上げる。
﹁それでは最後に、この度クラリスからお越しいただき我が国の大
使へと就任されましたユイ・イスターツ閣下より、お祝いの品の贈
呈がございます﹂
その名前が呼び上げられた瞬間、それまで和やかだった会場は途
端に静まり返った。そして会場の者たちが頭を掻きながら壇上へと
歩み寄る黒髪の青年の姿に気が付くと、様々な感情の入り混じった
視線が一斉に彼へと注がれる。
653
一瞬で注目の的となってしまったユイは、その好奇と嫌悪の入り
交じった無数の視線を、ただの針のむしろとしか感じることが出来
なかった。それ故に、次第に早足となりながら壇上へと上がり、そ
そくさとミリアの前へ歩み寄る。
一方、弱った表情を浮かべる彼に対し、もう一人の当事者たるミ
リアは、彼の姿を認めるなりなぜか一瞬だけ吹き出すような仕草を
見せた。しかしそれもほんのわずかのことであり、彼女はすぐにユ
イの緊張をほぐすような柔らかい笑みを浮かべなおす。そして、ユ
イが言葉を発するよりも早く、隣に立つリアルト以外の者には聞こ
えない程度の声を口から発した。
﹁貴方がユイ・イスターツ様ですね。お噂はかねがね伺っておりま
す。お会いできて光栄ですわ﹂
﹁恐縮です⋮⋮残念ながら、あまり芳しい噂ではないかもしれませ
んが﹂
頭を掻きながらユイが苦笑いを浮かべると、ミリアは小さく首を
左右に振り、彼の発言を否定した。
﹁もちろん、そんな話を聞いたこともありますわ。でも、先日私に
貴方のことを伝えてくださった方は、とてもすばらしい青年だと言
われていましたよ﹂
﹁そうですか⋮⋮意外な話ですが、それは一体どこのどなたが?﹂
帝国において彼を肯定的に評する人物が居たことに驚いたユイは、
訝しげな表情を浮かべながら彼女へと問いかける。
すると、ミリアはいたずらっ子のような笑みを浮かべながら、隣
に立つリアルトに視線向けた。
654
﹁おわかりになりませんか? 私の隣に立っている男性の方ですよ﹂
﹁り、リアルト陛下ですか。貴方にそんなことを吹き込んだのは﹂
﹁おいおい、吹き込んだとはあんまりではないか、イスターツ殿﹂
思わず礼を欠いた表現を口にしたユイは、慌てて自分の口を手で
押さえる。しかしリアルトは彼の発言を咎めることはせず、冗談め
かして笑い飛ばした。
﹁こ、これは失礼を、ともかく会の最中でございますし、あまり壇
上に長居するわけにも行きません。つまらないものかもしれません
が、どうぞこれをお受け取りください﹂
﹁これは?﹂
ユイが差し出した黒色の小箱を、ミリアは興味深げに受け取る。
そして、彼女はユイに視線を向けて、その箱を開けていいかどうか
伺いを立てた。
その視線を受けたユイは、やや気恥ずかし気な表情を浮かべなが
ら小さく頷く。そうして開けられた小箱の中には、まるで透き通る
かの様な美しい赤色の宝石をあしらったペンダントが、その中央に
座していた。
﹁これは我がレムリアックの名産である魔石を、装飾用に加工した
ものです﹂
﹁えっ、これがあの魔石ですか! ⋮⋮まるでそこに何もないかの
ように淡い赤色に透き通っています。魔石ってこんな素敵な物もあ
るのですね﹂
箱の中からペンダントを取り出すと、ミリアそのほんのりと美し
く透き通る魔石の虜になったかのように、彼女の視線は釘付けとな
る。
﹁ええ。もちろん全ての魔石がそのようにできるわけではありませ
んが、非常に純度の高い魔石ならば、魔力を外にこぼれぬよう適切
655
に加工することでこのような装飾品にもなるのです。もちろん中に
は魔力が込められたままですので、いざという時には、魔石として
の使用も可能ですよ﹂
﹁イスターツ様、ありがとうございます。こんな素敵なもの、本当
に、本当に大事にさせて頂きますわ﹂
そう口にしたミリアは、心の底から気に入ったのか魔石を胸で抱
きしめると、感謝の言葉を口にする。
﹁はは、喜んで頂けて幸いです。なにかペンダントに問題があれば、
遠慮なく言ってください。それでは私はこれで﹂
ユイはそう口にして頭を下げると、そのままそそくさと壇上から
降りていく。
そして頭を掻きながら彼が会場内を歩いて行くと、彼の進行方向
にいた人々は、慌ててその場から距離を取る。そうしてアレックス
のところまで彼が戻った時には、彼等の周囲には大きな円を描くよ
うな空白のスペースが出来あがっていた。
﹁なかなかに警戒されているね、ユイ﹂
﹁全くだよ。さっきまで誰も私たちのことなんて見ていなかったの
にね。まあ、それは今更のことだしどうでもいいさ。そんなことよ
り、この後は立食形式のパーティーらしいね。別に誰かと話す当て
もないし、ご飯だけ食べたらさっさと立ち去るとしようか﹂
そうしてひと通りの予定された行事が終了し、会場は歓談という
名目の立食形式の食事が開始される。
その時間が始まるや否や、様々な思惑のもとにその会場を忙しな
く動き回る帝国の貴族達を横目にしながら、ユイは遠慮なく次々と
美食という言葉では表しきれぬ料理の数々を口にしていた。
656
﹁ふぅ、さすがに皇族の祝いの席と言うだけあるね。このレベルの
料理はなかなかお目にかかることができないよ﹂
﹁ユイは少し食べ過ぎだよ。少しくらいは遠慮しても良いんじゃな
いかな。そんなことじゃ、気がついたら太るかも知れないよ﹂
アレックスがカバと呼ばれるスパークリングワインを口に運びな
がら、ニコニコした表情でそう忠告する。一方、忠告を受けたユイ
は、ドキリとした表情を浮かべると、自分の腹部に視線を向けて思
わず呻いた。
﹁そうかな⋮⋮確かに、最近、デスクワークが多いから注意が必要
だね﹂
﹁君はデスクワークさえしていないと思うけど⋮⋮でも、これもい
い機会さ。僕に一ついい方法が̶̶﹂
﹁いや、それは結構だから﹂
アレックスが何を提案するかを最後まで聞くまでもなかった為、
ユイは彼が言葉を言い終わるより早く拒否を口にする。
﹁⋮⋮まだ何も言ってないじゃないか﹂
﹁大丈夫、だいたい言いたいことはわかっているから。それにもし
君の提案を受けたら、動くから痩せるんじゃなくて、しばらく食事
が喉を通らなくて痩せるんだよ﹂
想定されうる未来をユイが口にすると、アレックスは否定するこ
と無く残念そうな笑みを浮かべる。
そうして二人が満足するだけの食事を口にし、そろそろお暇しよ
うかと考えたところで、彼らはその背後からやや低めの威厳溢れる
声を掛けられた。
﹁イスターツ殿、それにアレックス殿。どうかね、楽しんでくれて
いるかね?﹂
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﹁こ、これは陛下。お声掛け頂きありがとうございます﹂
﹁ええ、僕もユイにあわせてお呼び頂き、感謝いたしております﹂
帰ろうと考えていた彼らを背後から呼び止めたのは、先ほど壇上
でも親しげにユイに話しかけてきた男。そう、この国の頂点にいる
ケルム皇帝のリアルトであった。
アレックスがキツネ目をさらに細め、そしてわずかに緊張した面
もちとなったユイを目にしたリアルトは、温和な笑みを浮かべると
彼らに向かって言葉を紡ぐ。
﹁はは、イスターツ殿はもちろんだが、アレックス殿の御勇名も我
が国に鳴り響いておる。機会があれば、是非我らが兵士に指導して
いただきたい位じゃ﹂
﹁いや、それは止めておいた方が̶̶﹂
リアルトの本音と建前の入り混じった提案を耳にするなり、ユイ
は慌てて彼を押しとどめようと口を開く。しかし彼が言い切るより
早く、隣に立っていたアレックスはリアルトに対して即答した。
﹁本当ですか、ではぜひ、今度貴国の剣士と御手合わせさせて頂け
ますでしょうか﹂
﹁ほう、良いのか? では、今度軍の者に伝えておこう﹂
そのリアルトの発言を耳にしたユイは、隣でいつも以上の喜びを
含んだ笑みを浮かべるアレックスを横目にして、額に手を当てなが
ら後のことは知らないとばかりにその目を瞑る。
﹁ふふ。ユイ、別に君も同行して良いんだよ﹂
﹁間違っても羨ましがっている訳じゃないからさ⋮⋮頼むから、私
を巻き込まないでくれ﹂
﹁ふむ、是非イスターツ殿の剣技もみてみたいものだが⋮⋮っと、
危うく本題を忘れるところじゃった﹂
噂の朱の剣士に興味津々のリアルトであったが、不意に我に返り、
658
慌てて本来の用件を思い出す。
﹁本題⋮⋮ですか?﹂
﹁ああ。イスターツ殿、この後に時間はあるかな?﹂
﹁特に予定はございませんが⋮⋮﹂
もう帰ろうかと思っていたこともあり、ユイはその問いかけの意
味を深く考えず、素直にそう回答する。すると、その言葉を耳にし
たリアルトはニヤリとした笑みを浮かべた。
﹁それは良かった。ならば、この後に別室で茶を一緒に飲まんか?
前回はその方の所で茶を振る舞って貰ったのじゃから、予にも茶
を振る舞わせてもらいたくてな﹂
その皇帝からの提案を耳にしたユイは、その言葉に含まれるわず
かに危険な匂いを嗅ぎつける。
しかしそれに気づいた時は、すでに全ては後の祭りであった。
659
茶会にて
パーティーも後は散会するのみとなり、少しずつ人が少なくなり
始めたところで、ユイはリアルトの使いの者に声を掛けられた。
そしてリアルトが待つ部屋に向かって案内されることとなり、し
ばらく歩いたところで、部屋の外で落ち着きなくキョロキョロして
いる皇帝の姿をユイは目にした。
﹁一応、あの方が皇帝なんだよな⋮⋮﹂
﹁そのはずだよ。好戦的でケルム帝国を過去最大の面積まで増大さ
せた、皇帝の中の皇帝リアルト。間違いなく、その人のはずさ﹂
ユイ達の存在に気づいてニコニコとした笑みを浮かべるリアルト
を目にしながら、アレックスはリアルトの一般的な評価を口にする。
﹁と言うことは⋮⋮たぶん、そういうことだね﹂
案内の者の存在に気を払いながら、ユイは要点を省略してアレッ
クスに向かいそう口にする。
ユイの省略した部分を理解したアレックスは、ユイの耳元に顔を
寄せ、周囲に警戒しながら口を開いた。
﹁ユイ、十分気をつけるんだよ。今更君に言うまでもないけど、剣
であろうと政治的駆け引きであろうと、致命的な一撃を与えるには
相手が油断したときが最も有効なんだ。敵が警戒している時よりも
遙かにね﹂
アレックスのその言葉に対して、ユイは溜め息混じりに一度頷く。
そして表情を途端に明るいものに切り替えると、笑みを浮かべなが
ら少し離れたところまで聞こえる程の声量で謝罪を口にした。
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﹁お待たせしました、申し訳ありません﹂
ユイはそう口にするなり、案内の者を追い抜いて、やや早足でリ
アルトの下へと歩み寄る。
そんなユイに対し、リアルトは満面の笑みを浮かべると、ゆっく
りと口を開いた。
﹁おお、約束通り来てくれたようじゃな。すまんな、いつも突然で。
何しろ予定など立てて動こうものなら、どこで横やりが入るかわか
ったものでなくてな﹂
﹁いえいえ。わざわざ私のために時間を割いて頂き、ありがたく思
っています﹂
明らかに多忙であることがわかるリアルトに対し、ユイは苦笑い
を浮かべながらそう口にする。
そんなユイの言葉を受けて、リアルトは笑顔を崩すこと無く、首
を左右に振った。
﹁何を言う。せっかくクラリスの英雄殿が予と茶に付き合ってくれ
ると言うのじゃ。それより大事なことなどあるものか。さあ、中へ
入ってくれ﹂
﹁ユイ、僕は外で待っているよ。先ほどの会にて多少飲み過ぎたか
ら、少し歩いて酔いを醒ましたいしね。それじゃあ﹂
そう口にするなり、微笑みだけをその場に残して、アレックスは
颯爽とその場から歩み去ってしまった。
﹁ふむ、アレックス殿は気を使われてしまったかな。次の機会には、
彼も一緒に茶を楽しんで貰いたいものじゃ﹂
﹁はは、すいません。彼も団体行動が苦手なもので﹂
残念そうな表情を浮かべるリアルトに対し、ユイは団体行動がで
きない部下たちを脳裏に数人思い浮かべながら、頭を掻きつつそう
口にする。
661
﹁まあ、行かれてしまったものは仕方ないか。では、中へ入ってく
れ﹂
リアルトはそう言うなり、皇帝自ら部屋のドアを開く。
そうしてリアルトの手により開けられた扉の先の空間は、ユイの
目を丸くさせるに十分であった。
﹁これは⋮⋮すばらしいですね﹂
リアルトに促されるようにして、中へ通されたユイはゆっくりと
室内を見渡す。
白塗りの壁に、華美過ぎないながらも非常に洗練された調度品が
適度な間隔に配置され、全く圧迫感を感じさせない造り。そして庭
に面する正面は一面ガラス張りであり、まるで外界に繋がっている
ように感じさせるその開放感あふれる空間は、まさに見事と言うよ
り他になかった。
﹁ふふ、わしの趣味でな。リラックスして茶を飲むために、用意し
た部屋じゃ。なかなかのものじゃろう﹂
﹁室内なのに、まるで外で茶をしているように感じさせる作り。い
や、このような洗練された空間はクラリスでは見たことがありませ
ん。しかも演奏者もいないのに、音楽が流れているのは⋮⋮まさか
魔石を使った自動演奏機ですか﹂
﹁その通りじゃ。ふふ、魔石の本場であるクラリスの英雄殿を驚か
せることが出来るとは、まさに光栄の至りじゃな。その角に大きな
箱の様なものがあるじゃろう。あれがそうじゃ﹂
皇帝は自慢げに自動演奏機へと歩み寄り、隣に置かれている加工
済みの魔石をその中へと入れていく。
﹁正直、驚きましたよ。こんな茶室は初めてです﹂
﹁そうじゃろう、そうじゃろう。さて、せっかくくつろぐために用
662
意した部屋じゃというのに、立ち話というのは無粋じゃ。奥のイス
に腰掛けてくれ﹂
リアルトはユイを促し、部屋の中央やや奥に設置されたテーブル
のイスに彼を座らせる。そして自らは四脚用意されたうち、あえて
ユイの向かい側ではなく斜めに位置する席へと腰掛けた。
その対面に座らないというリアルトの行為に、ユイは違和感を覚
えて首を傾げる。しかしそんな違和感も、次のリアルトの一言であ
っさりと氷解した。
﹁そうそう、もう一人だけ今日は客を呼んでおってな。と言うより
も、そやつがイスターツ殿と茶会をしたいというて、急遽この場を
用意したのじゃよ。さあ、入ってきなさい﹂
リアルトが声を張り上げた上で、二度手を叩く。
すると、廊下側ではなく部屋の奥に設置されていた控え室へ繋が
るドアがゆっくりと開き、そこから先ほど対面した麗しい女性が姿
を現した。
﹁娘のミリアじゃ⋮⋮と、説明するまでもなく先ほど顔を合わした
ばかりじゃがのう﹂
白銀の艶やかな髪に、大きな愛らしい瞳。そして透き通るかのよ
うな白い肌の可憐な女性は、まさしく先ほど皆に祝福を受けた第四
皇女のミリアその人であった。
﹁初めましてというのは変ですよね、先ほどもお会いしましたし。
でも、ちゃんと挨拶したわけではありませんから⋮⋮初めまして。
ミリア・フォン・ケルムと申します﹂
﹁どうも、ユイ・イスターツです。こちらこそ今日はこのような茶
会にまでお呼び頂けて光栄です﹂
ユイがイスから立ち上がって一礼すると、ミリアは彼に向かって
663
微笑みかけ、そのまま彼の向かいの席に腰掛けた。
﹁あの⋮⋮今日初めてお会いした時、実はすごくびっくりしたんで
す﹂
﹁びっくり⋮⋮ですか?﹂
﹁だって城の者たちや侍従達からは、貴方は怪物のような筋骨隆々
の大男で、見るからにとても恐ろしい方だと聞いていたんですもの。
父は好青年だと言ってくださっていたけど、実際に壇上へと上がら
れてその姿をお目にするまで、正直ドキドキしていましたの。でも
実際に貴方が私の目の前に現れたとき、なんて穏やかな方だろうと
感じてしまって、思わず緊張が解けると同時に吹き出してしまいま
した﹂
ミリアの言葉を耳にしたユイは、会場で最初に噂になっていた自
分のイメージが思ったよりも拡散していることに頭痛を感じつつ、
仕方ないとばかりに苦笑いを浮かべる。
﹁はは、これはすいません。この国の方にそのように言われる理由
も、まあ仕方ない面はありますが⋮⋮実際はこのようなただの左遷
軍人ですよ﹂
﹁ユイ殿の自己評価はともかく、ミリア。だからいつも予の言うこ
とを信じろと言うておるじゃろう。そんなに予の言うことより、あ
やつらの言うことの方が信用できるか?﹂
﹁だってお父様は時々ひどい嘘をおつきになられますもの。私が子
供の頃、夜に私の寝室の近くにお化けがよく出ると言って、私が毎
日布団の中で震えていたことは忘れていませんからね﹂
口を尖らして拗ねた口調でミリアがそう言うと、リアルトはわず
かに渋い顔をした。
﹁それはお前がまだ八歳の頃の話ではないか。時効じゃ時効﹂
﹁イスターツ様、すいませんこんな父で。先日も突然大使館をお伺
664
いされたと聞いて、ご迷惑ではなかったですか?﹂
﹁いえ、そんなことはありませんよ。私も皇帝の中の皇帝と呼ばれ
るリアルト陛下に、一度お会いしたいと思っていましたから﹂
ユイが慌てて首を振り、皇女におとしめられるリアルトを持ち上
げるように発言する。
一方、ユイのその言葉を聞いて気を良くしたリアルトは、勝ち誇
った笑みを浮かべた。
﹁どうじゃ、ミリア。父はかのように偉大なのじゃ。ふふ、お前も
もう少し素直に敬っても良いのじゃぞ﹂
﹁だめですよ、イスターツ様。父は褒められるとすぐに調子に乗る
方なんです。少し冷たくするくらいでちょうど良いんですから﹂
困った人を見る目で、隣のリアルトを見ながらミリアはそう告げ
る。
すると、娘を溺愛しているリアルトは、悲しそうな表情を浮かべ
た。
﹁ううむ、父の気持ち子知らずという奴じゃな⋮⋮予は悲しいぞ﹂
﹁はは、親子ともに御仲がよろしいようで羨ましいです。素敵なこ
とだと思いますよ﹂
﹁イスターツ様は、御両親とは御仲が悪いんですか?﹂
ユイの言葉に引っかかりを覚えたミリアは、彼に向かってそう問
いかける。
その問いかけに対し、ユイはすぐに首を振って彼女の発言を否定
した。
﹁いえ、そのようなことはありませんでしたよ﹂
﹁ありませんでしたってことは⋮⋮つまり﹂
﹁ええ、十数年前に他界しまして。でも、貴方のように周りに誇れ
る立派な両親でした⋮⋮っと、失礼しました。皇帝陛下と私のよう
665
な庶民の親を比較するとは、ご無礼を﹂
ユイは自分の出自を考え、慌てて皇帝に向かい謝罪を口にする。
﹁よいよい、誰にとっても親は親、子は子じゃ。その関係の前には、
立場や権威など関係ないじゃろ⋮⋮むしろ、つらいことを思い出さ
せてしまったな、すまん。おっと、そんなことより、当初の目的を
忘れるところじゃった。今日はユイ殿に茶を振る舞うために来ても
らったんじゃったな﹂
﹁そうですね、すぐに手配しましょう﹂
ミリアはテーブルに備え付けられた鈴を二度鳴らすと、部屋のド
アが開け放たれ、壮年の執事が姿を現す。
﹁ペラム、茶の用意をしてくれるか。菓子も併せて運んできてくれ﹂
﹁承知いたしました﹂
ペラムと呼ばれた執事は、リアルトの言葉を受けるなり指示に従
うために退室する。そして、リアルトはユイの方へと向き直ると、
彼に向かってやや自慢げに口を開いた。
﹁イスターツ殿、今日は珍しい茶が手には入ってな、貴公に是非ご
賞味いただきたい﹂
﹁珍しい茶ですか?﹂
皇帝が珍しいと言うくらいだから、一体どんなものかという興味
が湧き、ユイはすぐさま問い返す。
﹁うむ、東方の茶でな。何でも緑茶と呼ばれる種類だそうじゃ。予
達が普段飲む紅色のものとは、香りも含め一味違うぞ﹂
﹁ほう⋮⋮緑茶ですか﹂
﹁おや、知っておられるのですか?﹂
その存在を知っているかのようなユイの返答に、ミリアは興味を
抱いて彼に向かい問いかける。
666
﹁ええ、母が東方の出でありましたので。と言っても、もう長いこ
と口にしたことはありませんが﹂
﹁そうか、むしろそれならばちょうど良かった。しかしイスターツ
殿の母君が東方の出だとは知らなかったな﹂
興味深げな表情でリアルトがそう口にすると、ユイは頭を掻きな
がら返答する。
﹁そうですね、確かに東方の人間は珍しいですから﹂
﹁その閣下の素敵な黒髪も、お母様譲りなのですか?﹂
﹁ええ、そうです。顔も母に似れば良かったのですが、残念ながら
父に似てしまいまして。その所為で、うだつの上がらぬ生活を送っ
ております﹂
冗談めかしながら、ユイが苦笑いを浮かべると、ミリアは二度首
を左右に振った。
﹁いいえ、十分以上にイスターツ様は御素敵ですよ﹂
﹁はは、お世辞を言われても何もお出しできませんよ。むしろ本物
の美人さんにそう言われると、恥ずかしくなってしまいます﹂
ユイのそんな発言を耳にすると、リアルトは瞳の奥をわずかに光
らせ、興味深げな表情を浮かべる。
﹁ほう、我が娘を美人と申すか﹂
﹁いや、ミリア様を美人と呼ばずして、誰を̶̶﹂
ユイがミリアに視線を向けながら彼女を評しようとした瞬間、突
然けたたましい音とともに部屋の扉が叩き割られると、先ほどの執
事が中へ吹き飛ばされてきた。
﹁失礼。御歓談中の所、申し訳ありません。少し賊がおりましたも
ので﹂
667
そう口にしながら、叩き壊された扉の後から姿を現したのは、執
事をドアへと叩きつけた剣を手にするアレックスであった。
﹁アレックス、一体何があった﹂
﹁この部屋に出入りする者をチェックしていたのだけどね、先ほど
この部屋を出て行った彼と、今ここにいる彼は別人さ。おそらくす
り替わったんだろうね﹂
ユイの問いかけに対し、アレックスはいつものキツネ目のままあ
っさりと答える。
﹁しかし、どこをどう見てもペラムにしか見えんが⋮⋮﹂
﹁見た目はそうですね。ですが、歩いている時の体の重心の動かし
方、そして体運びがまるで違う。なにより茶を運んできた時は、無
駄に気配を消そうとしていましたからね。ただの執事さんでは不要
なことですよ。一応、彼がここに運ぼうとした茶と菓子は、後でそ
の中身を確認した方がいいでしょうね﹂
皇帝の問いかけに対し、アレックスは落ち着き払った口調で、笑
みを浮かべたままそう答える。
一方、アレックスによって叩きのめされた男は、あまりの衝撃に
地面にうずくまるように倒れていたが、それでも体に奔る痛みを無
理やり押し殺すと、必死の形相で体を起こしていく。
﹁へぇ⋮⋮まだ動けるんだ。薬物か強化魔法といったところかな。
でも、残念ながらそこまでだよ﹂
アレックスはそう言い放つと、ユイたち目がけて最後の力を振り
絞り魔法を編み上げようとする男に向かい、一足飛びに間合いを詰
めようとする。
しかし実際に彼が動き出すより早く、意外な男の声がアレックス
を静止させた。
668
﹁アレックス、待ってくれ。ここは私がやるよ﹂
﹁ユイ? ⋮⋮ああ、なるほどそういうことか。わかったよ、君に
任せる﹂
普段はこういった仕事は人任せにするユイが発した静止の目的。
その意図を理解したアレックスはなるほどとばかりに一つ頷くと、
ユイに後を任せることにして足を止める。
一方、彼らがそんなやりとりをしている間にも、その執事と入れ
替わったとされる賊は、明らかに稲妻の魔法とわかる攻勢魔法を編
み上げていた。
その荒ぶるような魔法を目にして、ミリアは恐怖に怯えてうずく
まる。そして彼女の隣にいたリアルトは、娘をかばうように彼女の
前へと体を動かしながら、チラリとユイの方へ視線を動かした。
﹁マジックコード⋮⋮アクセス﹂
稲妻の魔法が男の前から射出されるまさにそのタイミングで、気
の抜けた一つの声がその場に発せられる。
そして次の瞬間、ユイは自らが触れた魔法コードを読み取って、
ピクリと頬を動かし、意外そうな表情を浮かべる。
しかしそれはほんの一瞬のことであり、瞬く間にユイはその男の
編み上げた魔法を掌握すると、キーとなるコードを口から発した。
﹁クラック!﹂
ユイがその呪文を唱えた瞬間、稲妻の魔法は完全にユイの制御下
となり、そしていきなり稲妻は賊の前で弾ける。
﹁グホッッ⋮⋮﹂
執事の格好をした賊は、自らの編み上げた稲妻の破裂をその身に
受けて、身動き一つしなくなる。
一瞬の沈黙。
その静止状態の中で最初に体を動かしたのは、笑みを顔に浮かべ
669
たままのアレックスであった。
﹁ユイ、どうだった?﹂
ゆっくりとユイの下へ歩み寄った彼は、リアルトたちには聞こえ
ない程度の声で、ユイに問いかける。
﹁ああ⋮⋮想像の範囲ではあったけど、さすがに驚いたよ﹂
﹁へぇ、つまりは裏は取れたと﹂
意味ありげな笑みを浮かべながら、アレックスはユイの瞳を覗き
込みつつそう口にする。
﹁まあね。たしか彼の国には、ある程度人相や姿形が似ている場合、
特殊な化粧のように本人に見た目を近づける魔法があると、アズウ
ェル先生から以前に聞いたことがある。おそらく君じゃなければ、
彼が入れ替わっていることを見抜けなかったかもしれないね﹂
﹁ふぅん、魔法でカモフラージュ⋮⋮か。ふふ、なるほど。僕にも
だいたいの話は見えてきたよ。そんな魔法を使えるのはあの国しか
ないからね。しかし、先ほどの稲妻の魔法の出力を見るに、ユイだ
けを狙ったんじゃなく、陛下と皇女様も併せて狙っていたみたいだ
ね。手口を踏まえて、衝動的な犯行という可能性はまずないだろう
し﹂
頭を掻きながら苦い表情を浮かべるユイに対し、アレックスはい
つもと変わらぬ笑みのままユイの耳元でそう返す。
﹁ああ。おそらく、私が訪れるタイミングがベストだと判断したん
だろう。きっと政治的にも⋮⋮ね﹂
﹁ふふ。さて、それでこれからどうするんだい?﹂
アレックスはいつものキツネ目を更に細めながら、ユイに向かっ
てそう問いかける。
一方、問いかけられた当人は一度大きな溜め息を吐き出すと、渋
670
い表情を浮かべながら口を開いた。
﹁そうだね。巻き込みたくはないのだけれど、どうせいずれバレる
だろうし、もし呼ばなければ怒るだろうからさ⋮⋮アレックス、す
まないがナーニャの奴を大使館に呼びだしてくれ。どうせ今頃はど
こかで飲んでいる頃だろうけど、すぐにでも裏をとりたい﹂
﹁彼女を関わらせたくないのに、彼女を必要とするということは⋮
⋮やはりこれを仕組んだのはあの国の人間ということだね﹂
ナーニャに声を掛けるとユイが発言した時点で、アレックスも今
回の事態を引き起こそうとした国に当たりをつける。
﹁ああ、彼の魔法コードの書き方はムラシーンに酷似している。そ
してそれでいてより原始的な魔法コード。この魔法の主、つまりそ
こで転がっているペラムさんのそっくりさんは、おそらくフィラメ
ント魔法公国出身の者だよ﹂
671
絵を描く者は
茶会での暗殺未遂事件が起こった翌日、皇帝の意により事件の詳
細は外部に伏せられたまま、極秘裏に皇太子ノインと第二皇子トー
ルがリアルトの下へと呼び出されていた。
﹁それで突然のお呼びだしですが、一体どのような御用件でしょう
か?﹂
﹁うむ、実は先日ちょっとした出来事があってな。それをお前達に
話しておこうと思ったのじゃ﹂
ノインの問いかけに対し、リアルトは顎をさすりながらそう返答
する。
その父親の回答に、ノインは眉をピクリと動かすと、再びその口か
ら問いを発する。
﹁陛下。聞けば、あの男と極秘裏に会談されたという噂を耳にしま
したが⋮⋮もしやそれに類する事でしょうか?﹂
﹁まあ、関係無くはないな。ただあやつと行っておるのは会談では
なく、ただの茶飲み話じゃ。それ自体は、お前が目くじらを立てる
ような事ではない﹂
﹁しかし、あのような汚れ者をパーティーにお呼びになり、ミリア
に贈り物までさせるとは⋮⋮どうか兵達の気持ちもお考えください﹂
その権力の基板が軍にあり、軍人皇太子の異名を持つノインは、
厳しい表情を浮かべながらリアルトに向かいそう意見する。
一方、その息子の発言に対し、リアルトはすぐさま首を左右に振
ると、苦笑いを浮かべながら口を開いた。
﹁そうは言うがな、ノイン。奴と我が国の関係はともかく、あの者
672
自体はなかなかに興味深い青年じゃぞ、ユイ・イスターツはな⋮⋮
っと、本題を忘れるところであった。その出来事というのがじゃな、
先日奴との茶の席にて予とミリアが暗殺されかかるという、ちょっ
としたはなしなんじゃがな﹂
﹁な、なんと! まさかイスターツの奴が﹂
茶の席と聞いた瞬間、ユイを犯人と結びつけたノインはいきり立
つと、テーブルに両手を叩きつける。
﹁だから先走るではない。その場にいたイスターツの奴も一緒に殺
されかけたのじゃ。むしろあの者達のお陰で命拾いしたと言っても
過言ではない﹂
﹁⋮⋮一体、何があったというのですか?﹂
ここまで口を開かなかったトールが、真剣な表情でリアルトに向
かって先を促す。
その問いを受けたリアルトは一度頷くと、ゆっくりと先日の詳細
を口にし始めた。
﹁祝賀会の後に、イスターツの奴とミリアと三人で茶会を催してな。
その際に、執事のペラムに化けた刺客が入り込んできたと言うわけ
じゃ﹂
﹁茶会に関しては言いたいことが山程ありますが⋮⋮それは置いて
おくにしても、犯人は一体何者です?﹂
ノインはイスターツと皇帝が仲良くしている事実を聞き、その精
悍な顔の額にしわを作る。たが、彼とて最大の問題点はそこではな
いと割り切り、事件に的を絞り問いかけた。
﹁うむ、それじゃがな⋮⋮どうも執事のペラムに化けた男じゃがな、
どうやら魔法を使って化けておったようでな﹂
﹁魔法⋮⋮ですか﹂
トールは使用された魔法がどのようなものか想像がつかなかった
673
が、その種の特殊な魔法を扱うことができる犯人として脳裏にある
国を思い浮かべる。
そのトールの反応を目にしたリアルトは大きく首を縦に振ると、
さらなる詳細を口にした。
﹁その通りじゃ。そして後で極秘裏に尋問に掛けた結果、犯人はフ
ィラメントの手の者と言うことが判明した﹂
﹁フィラメント⋮⋮まさか奴らが﹂
この時点での帝国へ何らかの策謀を働く理由が思いつかず、ノイ
ンは意外そうな表情を浮かべる。
そのノインの反応に皇帝はまだまだだなと言いたげな顔つきとな
った。
﹁考えてみればおかしなことはあるまい。奴らは昨年より魔石の価
格を吊り上げ、帝国に多数の凍死者を出させおった。おそらくは、
クラリスとの関係悪化を利用した帝国弱体化策だったのであろう﹂
﹁確かに。あの時点では完全に国交の無いキスレチン共和国やクラ
リス王国との貿易は絶たれておりましたから、その可能性は十分に
ありますね﹂
内政面で定評があるトールは、リアルトの発言をもっともだと考
え、大きく頷く。
﹁うむ、奴らはイスターツの存在が邪魔であったのじゃろう。レム
リアックのせいで魔石価格が下がり、いくら魔法公国が魔石の供給
量を絞ろうとも無意味になってしまったからな﹂
﹁なるほど、そうして計画が頓挫してしまった彼らは、帝国とレム
リアックとの関係を引き裂くために、陛下とイスターツの暗殺を計
ったと⋮⋮そう言うことですか﹂
皇帝の意図するところを正確に把握したトールは、皇帝が省略し
674
た部分を補う。
その回答に対し今一歩とは思いながらも、そう的はずれなもので
もないことから、あえて指摘せずにリアルトは口を開いた。
﹁ふふ、戦の匂いがしよるのぅ﹂
﹁取りあえずは、すぐにでもフィラメントに抗議を行いましょう。
奴らの非はすぐにでも問うべきです﹂
リアルトの発言を受けて、トールはすぐさま抗議することを提案
する。
しかしリアルトは二度首を左右に振ると、そのまま彼の意見を退
けた。
﹁落ち着くのじゃ、トール。奴らにそう言ったところで、知らぬ存
ぜぬを貫き通すに決まっとる。それよりも、イスターツの奴がなに
やら企んでおるようじゃから、奴の思惑に任せた方がおもしろそう
じゃ﹂
﹁イスターツ⋮⋮ですか。しかし、陛下の命を狙われながら、他国
の者に任せるなど﹂
ノインが納得いかないと言った表情でそう口にすると、リアルト
は実際に事件が起こった際に、彼が直面したユイの能力の一端を彼
らに説明する。
﹁じゃがな、あやつらは予達の暗殺を防ぎ、そしてすぐにフィラメ
ントの仕業と看破しおった様子じゃった。どういう方法で、その答
えに辿り着いたのかわからんが⋮⋮恐らく例の魔法が鍵となったの
じゃろうな﹂
﹁例の魔法?﹂
ノインはリアルトが口にした言葉に引っかかりを覚えると、思わ
ず聞き返す。
675
﹁報告書で聞いておるじゃろう。グレンツェン・クーゲルを乗っ取
った魔法改変能力。どうもあのフィラメントの賊の魔法に対してそ
れを使用した際に、奴は何かに気づいたようじゃ﹂
﹁⋮⋮やはり、あの報告書は真実だったのですか﹂
トールは重々しい口調でそれだけを言葉にする。
帝国の上層部にもたらされた一通の報告書。それはラインドルに
送り込んでいた工作員からもたらされたものであり、ユイ・イスタ
ーツの扱う特殊な能力にて、ムラシーンという名の魔法士を倒した
こと。そしてその能力は帝国の先年の戦いでグレンツェン・クーゲ
ルがコントロールを失い、自軍に向かって跳ね返された際に使用さ
れていた可能性を告げるものであった。
﹁ふふ、刺客に襲われはしたが、此度の事件の収支は明らかに黒字
じゃな。奴の能力をこの目で直接見ることができたのじゃから。ま
あ、さすがにその原理まではわからんかったが、貴重な体験ができ
たわ。しかし、奴はただ者では無さそうじゃて。やはりわが娘の婿
として、あやつほど相応しい男はおらんかもしれんな﹂
﹁なっ、なんですと!﹂
予想だにしない皇帝の発言に、思わずノインは抗議の声を上げる。
一方、皇帝は彼のそんな反応さえおかしいことのように、そのま
ま笑い飛ばした。
﹁ふふ、そういきり立つな、ノイン。あくまでまだ仮の話じゃ⋮⋮
じゃが、奴を我が国に取り込むための、予の切り札でもあるがな﹂
﹁⋮⋮隊長、間違いないよ。その魔法式はフィラメント独自のもの。
676
それもミラホフ家に属する魔法士が使うものさ﹂
大使館の執務室にて、ユイは先日彼が目にした稲妻の魔法式をナ
ーニャに説明した。
すると、その魔法式の内容を耳にするなり、彼女は表情をわずか
に歪ませながらフィラメントの者だとすぐに断言する。
﹁ミラホフ家⋮⋮か﹂
﹁ああ。知っていると思うけど、フィラメント公国にはクラリスや
帝国なんかと違い、多数の魔法学校がある。そしてその学校の卒業
生ごとに、ある種の派閥ができあがっていてね、特に力があるのが
御三家と呼ばれるディオラム家、ミラホフ家、マイスム家の三系統
さ。その中でも精神や認識に関する魔法を得意とするのが、ミラホ
フ魔法学校を出たミラホフ家の奴らさ。まあ、今回は稲妻の魔法だ
けど、やはり家ごとに魔法式には癖がある。そして隊長の言う魔法
式は明らかにミラホフ特有の癖があるね﹂
フィラメント魔法公国はクラリスやケルムなどと異なり、その国
の成り立ちが非常に特殊な国家である。元々は、古の大賢者である
フィラメントが弟子を養成するための開いた魔法塾がその国の起こ
りであった。
大賢者と言われるフィラメントが、魔法の指導を行う。
その噂はたちまちに世界中へ広がり、各地からフィラメントへの
弟子入りを志願する者がその土地へと集まった。そのあまりに多く
の弟子入り希望者に、さすがのフィラメントも一人ではその育成を
まかなうことが出来ず、彼は三人の愛弟子にそれぞれ教育を担当さ
せることになる。
彼らの名前はそれぞれディオラム、ミラホフ、マイスムと言い、
後に魔法公国の御三家とも称される三大魔法学校の祖となる者たち
であった。
677
そうして教育者が増えると、さらに弟子を受け入れることができ
る土壌は広がり、さらに魔法士の数は増えていく。そしてそのよう
に人が増えていくに連れ、彼らに対して商売を試みる商人などがそ
の地域へ足を運び始め、次第にその土地は大きな都市を形成してい
った。
そうしていつしか一大魔法都市が誕生すると、その力はいつしか
周囲の国家に匹敵する程のものとなり、周辺国との小競り合いを経
て、現在のフィラメント魔法公国を形成するに至る。
﹁ってことは、似たような魔法式を使っていたムラシーンも、ミラ
ホフ魔法学校出身ということでいいんだね?﹂
﹁その通りさ。ただあの学校出身者は昔から陰湿な野郎が多くてね、
あたいの気が合わない奴ばかりだったよ﹂
ナーニャは当時の記憶を思い出したためか渋い顔をすると、酒臭
い溜め息を吐き出す。
﹁そうか⋮⋮連中の思惑はだいたい読めるけど、今回のことは下手
すれば戦争となるね。しかし今、帝国と戦って、彼らに勝算はある
のかな?﹂
﹁そりゃあ、あるんだろうさ。あの国の連中の性格を考えれば、き
っと帝国に集合魔法を先に開発されたことが相当自尊心を傷つけた
はずだからね。なにしろ魔法に関しては自国が一番だと自惚れてい
る連中さ、それを証明するためにもきっと何かの対抗策は用意して
いることだろうね﹂
ナーニャが生まれ故郷の事を苦い思い出とともに口にすると、ユ
イは彼女に視線を向けながら小さな声で呟いた。
﹁なるほど⋮⋮確かに君の性格を考えたらわかる気がするよ﹂
﹁ん、なにか言ったかい?﹂
﹁いや、独り言さ。はは、ありがとう。飲んでいる最中にすまなか
678
ったね、もう飲みに戻っていいよ。これは駄賃さ﹂
ユイは感謝を口にすると、ポケットから取り出した金貨を彼女に
向かって放り投げる。
﹁ふん、別に大した話じゃないからこんなもんいらないけどね。ま
ぁ、でもくれるって言うなら、気持ちとしてありがたく頂いておく
さ﹂
ナーニャはそう口にするなり、後ろを振り返ることなく、そのま
ままっすぐ執務室から出て行った。
﹁はぁ、やっぱり不機嫌にさせてしまったか⋮⋮まあ仕方ない。と
りあえずナーニャのことは置いておくとして、これからどうするか
なんだが⋮⋮﹂
ユイが頭を掻きながらそう口にすると、部屋の壁にもたれ掛かっ
ていたアレックスが彼に尋ねてきた。
﹁帝国と彼らを戦わせる方向に向かわせるかい?﹂
﹁うん、それも悪くはないね。レムリアックの商売のことを考える
と、正直言って痛み分けが理想かな。しかし領主なんてやるように
なると、どんどん思考が荒んでくるね﹂
ユイが頭を掻きながらそう自虐を口にすると、アレックスが彼の
発言を肯定しながら結論を促す。
﹁まあ、うちの国とはそれ程関係ない火種だから、別にいいじゃな
いか。それで、君は実際どうするつもりなんだい?﹂
﹁そうだね⋮⋮まあ先日の刺客が踏み込んできたタイミングを考え
れば、私と皇帝をまとめて狙ったんだろうね。レムリアックのこと
を考えると、ここで帝国にこけてもらう訳にはいかないし、それに
私も枕を高くして眠りたい。だから念の為に先手を打っておくとし
ようか⋮⋮というわけで、クレハいるかい?﹂
679
背後の気配を感じていたユイは、虚空にクレハの名前を拡散させ
る。
するといつから控えていたのか、気がつけば部屋の隅に黒髪の小
柄な女性の姿があった。
﹁一体、何の用かしら?﹂
﹁この国にいる魔法公国の息のかかった者を、ちょっと調べて貰う
ことは出来るかい?﹂
ユイは彼女に向かって、依頼を口にすると、クレハはわずかに考
え込んだ後に厳しい返答を返す。
﹁⋮⋮普通なら無理ね。いくら私でも、何もないところから連中の
尻尾をつかむのは無理よ﹂
そっけない口ぶりでクレハはユイに向かい不可能だと口にする。
しかしその彼女の言葉を聞いたユイは、意味ありげな笑みを浮か
べる。
﹁普通じゃなければ、どうなんだい?﹂
﹁先ほどナーニャが言っていたミラホフ家というキーワードを元に、
父の持っているネットワークとアーマッド局長の力を借りて良いの
なら、全く不可能とまでは言わないわ﹂
そう口にしたクレハは溜め息を一つ吐き出す。
その反応を目にしたユイは、満足そうに彼女に向かって微笑みか
けた。
﹁なら、それでお願いするよ。アズウェル先生には、私の方から手
紙を送っておくから﹂
﹁わかったわ。でも、過剰な期待はしないでね、あくまでここはク
ラリスじゃないんだから﹂
念を押すようにクレハはそう口にすると、次の瞬間にはその場か
680
ら存在感が薄くなり、気がつけばその空間から立ち去っていた。
﹁良いのかい、ユイ。彼女だけに任せてしまって﹂
﹁はは、良くはないさ。彼女は優秀だけど、別に万能というわけで
はないからね。だからもう少し楽をするために、もう一人だけ力を
借りようと思っている人物がいるんだ﹂
アレックスの発言に対し、ユイは含みのある表情を浮かべた。
その表情を目にしたアレックスは、わずかに額の眉を寄せてユイに
問いかける。
﹁力を借りる? 一体、誰に頼るつもりなんだい。君にこの国に知
己がいるとは知らなかったけど⋮⋮オメールセン辺りかな?﹂
﹁オメールセンも考えなくはないけれど、彼ではたぶん奴らの喉元
に手が届かない。だから直接は知らない相手だけど、彼らの喉元ま
で手が届く人物にこの際頼んでみるさ﹂
﹁直接知らない相手?﹂
ユイの言葉を聞いたアレックスは、わずかに視線を強めると、そ
のまま問い返す。
﹁ああ。この国で荒事を頼むなら最適の人物。つまり、この国の軍
を傘下におさめている軍人皇太子さ﹂
681
招かれざる客
﹁ノイン様、実は先ほどお客様が来られたのですが⋮⋮﹂
帝都の中心に位置するレンド城の近くに設置され、大きいとは言
えないながらも、周囲の建物と比べ一際洗練された造形の建築物。
それがこの国の皇太子に用意された執務用の離宮である。
先日、リアルトよりフィラメントの工作員の存在が明かされ、こ
の国の軍事と治安を統括するノインは、一向に犯人像がつかめない
ことに焦りを感じていた。そんな矢先に、予定にない突然の訪問者
の来訪である。彼はその報告に対し、不機嫌な表情を隠さずにはい
られなかった。
﹁客? 今日は誰かと面談する予定など無かったはずだが﹂
﹁それが突然来られたお客様でして⋮⋮その⋮⋮イスターツと名乗
っておられるお方なのですが﹂
彼の副官として側に使えるメデックは、皇太子の不機嫌を目にし
て、恐る恐ると言った形で言葉を口にする。
一方、その追加報告を受けたノインは、脳内の人名リストを急速
にめくっていくと、赤字で書き込まれた人物名へとたどり着き、驚
きとともに目を見開いた。
﹁イスターツだと⋮⋮まさか、あのユイ・イスターツか!﹂
﹁おそらくは⋮⋮﹂
メデックの返答を耳にしたノインは、わずかに考え込む素振りを
見せる。
ユイ・イスターツ。彼はその存在をパーティーの際に遠目で目に
したことしか無いが、主に軍政務を地盤として身を置く彼は、先年
682
の戦いのこともありユイ・イスターツを嫌っていた。
しかし感情だけで判断するほど愚かなことはないと自らに言い聞
かせると、先日皇帝である父リアルトがユイについて言及していた
内容を思い出し、ノインは一つの決断を下す。
﹁いいだろう。クラリスの英雄殿と会おうじゃないか。ここに連れ
て来たまえ﹂
額にしわを寄せながらノインがその言葉が発した瞬間、ユイのこ
とを嫌っていると考えていたメデックは一瞬だけ意外そうな表情を
浮かべる。しかし、職務に忠実な彼はすぐにノインの指示を反芻す
ると、その命令に従うため、急ぎ部屋から退室していった。
﹁初めまして、ノイン殿下。クラリス外交大使のユイ・イスターツ
と申します﹂
ノインの執務室へと通されたユイは、立場に似合わぬ非常に簡素
な部屋の造りに意外そうな表情を見せつつも、そのまま前へと進み
出て頭を下げる。
﹁御勇名はかねがね耳にしている、楽にしてくれたまえ。さて、そ
れでお忙しい中わざわざ私の所まで本日足を運ばれたのは、一体ど
のような理由によるものかな?﹂
﹁いや、この国の実質を取り仕切っておられるという殿下に、クラ
リスの大使として一度ご挨拶させて頂きたいと思った次第でして﹂
執務席の向かいにあるほとんど飾り気のない椅子を勧められたユ
イは、それに腰掛けると共に、笑みを浮かべながら見え見えの建前
を口にする。
683
﹁ほう。あのユイ・イスターツ殿が、挨拶のためだけにわざわざ私
の下まで足を運ばれるとは⋮⋮これは恐縮の限りですな。しかし私
も急がしい身でしてね。本日の面談は予定にはありませんでしたの
で、あまりお時間を取ることが出来かねるのです。申し訳ないので
すが、特に差し迫っての御用がないようでしたら、また後日にご連
絡頂いた上だとありがたいのですが﹂
クラリスの外交大使としての正装をしているにも関わらず、どこ
となくだらしな気で軍人らしからぬ風貌。そんなユイの姿を目の当
りにして、本能的な嫌悪感を覚えたノインは、真の来訪目的をはっ
きりさせるために嫌がらせの意味も含めた揺さぶりを掛ける。
ノインとしては突然自分に会いに来た時点で、ユイが単純に挨拶
の為だけに来たという可能性を思考から消去していた。なぜならば、
目の前の男は外交大使という役職を担っており、本当に挨拶を目的
とするなら、当然のことながら先立っての連絡程度はあるのが儀礼
上当然だからである。
そして彼のユイに対する内心の感情と矛盾するようではあるが、
彼の軍がただの礼儀知らずに壊滅させられたとも思いたくない心境
も、そんな彼の考えを後押ししていた。
それ故にこのタイミングでの来訪は、皇太子である自分に対して
何らかの交渉を行うつもりなのだと、ノインは考えていた。だから
こそ、彼はこの後に始まるであろう交渉において自らの優位性を得
る為、その主導権を握りにかかったのである。
一方、そんなノインの言動を受けたユイはというと、ノインの想
定とまったく異なる行動をとった。ユイは皇太子たる彼に向って慌
てて話を聞くよう求めるのではなく、あっさりとそのまま席を立ち、
部屋を出ていこうとしたのである。
﹁そうですか、それは残念です。実は先日の件の実行犯が絞れまし
684
たので、挨拶のついでにそのことについて少しお話しできたらと思
っていたのですが⋮⋮では、機会を改めさせていただきます﹂
そう言葉を残して、ユイは部屋の扉に手をかける。そして何の躊
躇もなく彼が扉を開けて片足を廊下へと踏み出すと、ノインは苦虫
を噛み潰した表情となり、やむを得ずユイの背中へと声を掛けた。
﹁少し待って貰えるかな。今、実行犯が絞れたと貴公は言われたの
か? ⋮⋮それは先日の陛下と貴公に対する暗殺未遂事件の件につ
いてのことでよろしいかな?﹂
﹁ええ、その通りですが、それが何か?﹂
ユイはゆっくりと時間をとって振り返ると、その動きとは対照的
にあっさりした返答を行う。
一方、そのユイの反応に対し、ノインは下唇を軽く噛むと、自身
の旗色が悪い事をここに認めた。
﹁イスターツ殿⋮⋮この後の予定をキャンセルさせて頂きますので、
少しその件についてお話頂けませんか?﹂
﹁あれ? 殿下はお忙しいと言われておりましたが、本当に私など
の話を聞いて頂けるのですか﹂
人の悪い笑みを浮かべながら、ユイは視線をノインへと向けつつ
頭を掻く。
そんなユイの仕草を目にしたノインは、もう我慢が出来ないとば
かりに言葉からも表情からも飾りを取り外すと、そのままユイに向
かって素の言葉を発する。
﹁⋮⋮いい加減、化かし合いや駆け引きは止めにしないか、イスタ
ーツ。どうせ、おまえも本気で帰る気なんてないんだろ?﹂
﹁ははは、その通りです。うん、やはり交渉ごとはシンプルが一番
ですね。相手のことを探りながら話すのは、どうも私の趣味じゃな
685
い﹂
ユイは苦笑いを浮かべながら再び部屋の中央へと戻ると、先ほど
まで掛けていた椅子に腰掛けて足を組む。
﹁いいだろう。ここからは対等な会話だ。貴様も別に使いたくなけ
れば敬語など使わず、俺のこともノインと呼べばいい。それで、フ
ィラメントの犯人が分かったというのは本当か?﹂
﹁ええ。犯人はフィラメントのミラホフに連なるものですよ﹂
これまでのお互いを探りあうかの様な会話が嘘のように、ユイは
シンプルに回答を返す。
しかし、その答えを受けたノインは、ミラホフという単語を耳に
して、わずかに言葉を詰まらせた。
﹁ミラホフ⋮⋮だと。魔法公国の中でも三本の指に入る魔法公国の
本流ではないか﹂
﹁もちろん直接犯行に及んだのは、ミラホフにとっては使い走り程
度の者かもしれません。ですが、少なくともかの魔法学校で魔法を
習ったものではあることは間違いないと思いますよ﹂
﹁本当なのか? 敢えて聞くが、仮にそれが真実だとして、どうし
てそれが貴様にわかったのだ?﹂
軍と治安維持部を配下に納めるノインは調査を開始するも、未だ
全く成果が上がっていない。しかしながら、他国の者であるユイが
あっさりと犯人に行き着いたことに、驚きと悔しさをないまぜにし
た表情でそう問いかける。
﹁帝国の諜報部もそろそろ私の能力を調べ上げているんじゃないで
すか。それに先日、リアルト陛下もあの場におられましたからね。
じっと私の方を見ておられたのは知っておりますよ。そう、だから
すでにだいたいの予想がついている頃だと思うのですがね﹂
﹁⋮⋮魔法改変能力か﹂
686
頭を掻きながら人を食ったような笑みを見せるユイに対し、諜報
部からの報告書にその可能性が記載されているも、ノインとしては
信じきることができなかったその能力名を口にする。
﹁ご名答⋮⋮ふふ、さすがに帝国と言うべきでしょうか﹂
﹁ふん、好きに言えばいい⋮⋮それで、そこまでわかっているのな
ら、今回はどうして私の所にきたのだ? 貴様は我が父との仲がよ
いと聞くし、別に父の所に報告しても良かっただろう。というより、
別にわざわざ帝国に報告する義務さえ貴様にはないと思うが﹂
その真意を探るよう睨みつけながら、ノインはユイへとそう問い
かける。
一方、その問いかけに対し、ユイは両手を左右に開きながら首を
左右へと振った。
﹁確かにその通りですが、貴方を選んだのには当然理由があります
し、もちろん帝国に伝えたことにも意味はありますよ﹂
﹁ほう⋮⋮もし良ければ、その理由とやらを聞かせて貰えるかな?﹂
完全に主導権をユイに握られたことを自覚し、わずかな苛立ちを
抱えつつも、ノインは意識して自らの心を落ち着かせつつそう問い
かける。
﹁ええ、構いませんよ。まず貴方を選んだのは、たぶん帝国の権力
者の中で最も私と気心が合いそうだと思ったことが何よりの理由で
す﹂
﹁⋮⋮なぜそう思う。この際、正直に言うが、俺は貴様が嫌いだ﹂
自分の気持ちと全く正反対のことをユイが口にしたために、目の
前の男が大使であるという事も忘れ、ノインは正直な心境を吐露す
る。
しかし嫌いだと直接言われたユイは、あまり気にする風もなく、
頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
687
﹁そりゃあ、そうでしょう。貴方は軍部を取り仕切る立場だ。私を
嫌いになれども、好きになる理由など何一つ無い﹂
﹁ならば⋮⋮なぜ?﹂
﹁そう言う貴方だからですよ。正直に私を嫌いだと口にされる貴方
だからこそ、私は話を持ってきたのです。貴方は皇族であるが、そ
の思想や考え方は軍人に非常に近いと聞きます。つまり言うならば
非常にシンプルな方だ。だからこそ、私は貴方ならば、今回の件を
正直に伝えれば協力してくださると考えたのです。同じ軍人として
ね﹂
ユイは苦笑いを浮かべたまま、自分とノインとの共通点を強調す
る。
すると、その言葉を耳にしたノインは、その軍人という言葉に思
うところがあったのか、先ほどまでの険のあった表情をわずかに緩
めた。
﹁⋮⋮おもしろい見方だな。しかしこの私に対して、お前みたいな
ふてぶてしい発言と態度を見せる奴は初めてだ﹂
﹁はは、殿下が対等な会話と言ってくださったので、お言葉に甘え
させて頂いているだけです。やはり、もう少し歯に衣を着させて頂
いた方がいいですか?﹂
頭を掻きながらユイがそう口にすると、この会談中に初めてノイ
ンは笑みを浮かべ、やや柔らかい口調で言葉を発する。
﹁かまわんさ、イスターツ。貴様も私と同じ軍人ならば、それが無
駄だということがわかっているだろ。さて、ならば私を選んだとい
うのは良いとしてだ。帝国の人間に調査結果を伝えようとすること
にも理由があると言ったが、それは一体なんなのだ?﹂
﹁それは単純ですよ。今度行われる戦いにおいて、帝国に有利に戦
って欲しいからです﹂
688
ノインの問いかけに対し、ユイは反射的とも言える早さで、極め
て簡潔に彼へと回答する。
﹁⋮⋮それは一体どういう意味だ?﹂
﹁そうですね⋮⋮先ほども言ったように、今回はフィラメントのミ
ラホフに連なるものが、その引き金を引いたわけです。それでは現
在、帝国内に彼らの息のかかった者が、どれほどいると思われます
か?﹂
突然、話の内容を転じて放たれたユイの問いかけに対し、全くミ
ラホフ系の魔法士をマークしていなかったノインは、想像すること
さえ出来ずに言葉を詰まらせる。
﹁そ、それは⋮⋮﹂
﹁現在の帝国内の高官に十三名﹂
﹁な、なんだと!﹂
想定していないほどの数の多さに、ノインは思わず眉を吊り上げ
てながら驚きを発すると、ユイは一度頷いた後にそのまま言葉を続
ける。
﹁そして最高位の者は治安維持部の部長であるゼリアム将軍補。そ
うだろ、クレハ﹂
﹁ええ、その通りよ﹂
急に後背へと振り返ってユイがそう言葉を発すると、いつのまに
この空間に進入したのか、メイド服に身を包んだクレハが以前から
そこにいたかのようにそっとその場に立っていた。
﹁なっ! き、貴様いつからそこにいた?﹂
﹁つい先ほどからですよ。あなたが隣室に兵士を伏せておられるの
と同様、この私を警護してくれている者です﹂
﹁まさか易々とこの部屋への進入を許すとはな⋮⋮﹂
689
いくら予定外の客を通すという不測の出来事があったとは言え、
自らの執務室に簡単に忍び込まれたことを知り、ノインは怒りを口
にする。
﹁まあ、それは今は置いておくとしてですね⋮⋮クレハ、連中の尻
尾はつかめたかい?﹂
﹁ええ、貴方の睨んだ通りだったわ。ゼリアムの部下になる治安維
持部。そこに所属する連中は尽くフィラメントとの繋がりが疑われ
る者達ばかりね﹂
クレハの口にした内容に、目を見開いたノインは、そのまま慌て
て口を開きかける。
しかし彼が言葉を発するより早く、ユイがさらにその会話を前へ
と進めた。
﹁やはり出元はそこか⋮⋮﹂
﹁ええ、彼は完全に黒ね。今回の執事に化けた男も、彼の手引きで
会場内に侵入していたわ。これが彼がでっち上げた書類で、そして
こちらが彼に手元で握りつぶされた皇太子殿下への報告書よ﹂
完全に予期していなかった自分の部下の名前が挙げられると、ノ
インはそれ以上言葉を発することさえ出来ず、両目を見開いたまま
硬直した。
そんな彼の動揺を目にしたクレハは、ノインを一瞥だけすると、
自らの発言の根拠を提示するために、皇太子に向かって書類の束を
放り投げる。
﹁こ、こんな⋮⋮まさかゼリアムが﹂
その十数枚に渡る書類の束を一気に目を通したノインは、書類を
机の上に置き、両手で頭を抱え沈黙した。
ゼリアムは元々帝国貴族ではないにもかかわらず、努力によって
治安部の部長職にまで上りつめたと言われる、庶民の立身出世のモ
690
デルケースである。
しかしそんな努力の人というイメージとは裏腹に、クレハの調査
書類には、彼の出世街道は賄賂と脅迫と要人失踪という汚れた手段
によってその道を歩いてきたことが記載されていた。そして、当然
のことながら彼一人でそのような工作を行うことなどは出来ず、そ
の書類の最後には彼の長年の活動を支えたスポンサーの名前、つま
りフィラメントのミラホフ家の名前が記されてあった。
﹁⋮⋮殿下。その資料をお読みになったところで、私からちょっと
したお話があるのですが?﹂
﹁これ以上、まだ何か有るというのか⋮⋮﹂
予想外の衝撃であったためか、なかなかノインは頭を抱えたまま
顔を起こすことができなかった。それ故、ユイは目の前のうなだれ
た皇太子に向かい、少し間を置いた後にそのまま話しかける。
﹁いや、別に大した話ではないのですが⋮⋮実はたしか来月予定さ
れている貴方の誕生パーティーですがね、どうもその食料品の納入
を委託されている業者が提出した書類に多数の不備があるようです。
それでですね、よくよく調べてみれば、それらもゼリアム将軍補に
より選定された業者のようなのですよ﹂
﹁な、なんだと! それは本当か。ということは、奴が次に狙って
いるのは⋮⋮﹂
ゼリアムの名前を耳にするなり、ノインは自らが次のターゲット
であると感づき、途端に表情を強ばらせる。
そんなノインの反応を目にしたユイは、そろそろ頃合いだとばか
りに穏和な笑みを浮かべると、優しい口調で彼へと語りかけた。
﹁さて、殿下。そこで私から一つ提案とお願いがあるのですが⋮⋮
もしよければ少しお聞き頂けますでしょうか?﹂
691
それぞれの思惑
﹁おつかれさま。それで首尾はどうだったんだい?﹂
大使館の自らの執務室へと戻ってきたユイに対して、彼の帰りを
待っていたアレックスは微笑みながら声を掛ける。
﹁まあ、上々というところかな。軍人皇太子殿はなかなかに良い方
だったよ﹂
﹁良い方⋮⋮ね。なるほど、あの狐親父殿よりは与し易いというと
ころか﹂
﹁能力は問題ない。それどころか優秀な方だと思うね。でも、お父
上と比べると、本当にお人が良さそうだ﹂
会談の時にみせた予想以上に素直な本質。それをノインから感じ
取ったユイは、彼に関して人が良いと評してみせた。
﹁ふふ。まあだからこそ、皇帝殿との交渉を避けたわけだしね。し
かしその表情だと、本当に予定通り話は進んだみたいだね﹂
﹁ああ、おかげさまでね。個別に彼等を捕えるのは面倒くさいし、
リスクも有る。だから、できることなら一網打尽にしようと提案し
たんだけど、軍人皇太子は無事受け入れてくれたよ﹂
苦笑いを浮かべながら、ユイはそう口にするとゆっくりと自らの
執務席へと腰掛け、背もたれへ体を預ける。
﹁リスクか。まあ個別に捕まえようとしても、下手を打てば早い段
階で彼等に地下へと潜られる可能性があるからね﹂
﹁うん、それもある。だから予定通り、殿下の誕生祝賀会で動くこ
とに同意してもらったよ﹂
﹁予定通り⋮⋮ね。しかし、まさか自分が餌にされて、今回の事態
692
が動いているとは彼も思わなかっただろうね﹂
ユイの成果を耳にして、アレックスはやや皮肉げな笑みを浮かべ
ながら、そう口にする。
﹁別に餌にしたつもりはないさ。ただ他に連中を一同に集めるだけ
の機会が、他に思いつかなかったというだけでね。さっきも言った
ように個別に彼等を捕えるのは面倒くさいんだから、できるだけま
とめて一網打尽にしたいと思うのは当然だろ?﹂
﹁でもゼリアム君達も、自分たちのところに食品納入業者の選定権
限が回って来た事が、まさか君の根回しによるものだとは思っても
いないだろうね﹂
もしこの場にノインがいれば目を見開き驚愕したであろう内容を、
アレックスはなんでもない事のように口にすると、ユイはわずかに
視線を逸らして頭を掻く。
﹁別に食品納入業者でなくても良かったんだけどね。たまたま打っ
ていた手の内で、綺麗に当たったのがあれだっただけさ。私として
は食べ物を無駄にしたくないから、清掃業者や庭整備の選定の方に
回ってもらいたかったのだけどね﹂
﹁はは、君らしいね。しかし、彼らに気づかれる心配はいらないの
かい?﹂
﹁そりゃあ、自然な形になるよう、工夫は凝らしたからね。それに
ゼリアムたちにバレるよりも、皇太子たちにバレたほうが話がやや
こしくなる。だからその辺には気を使ったさ。しかし、こんな時の
ために必要経費というものは使うものだと思い知ったよ。その経費
の出元はともかくとして⋮⋮ね﹂
そう口にしたユイは、今回の工作のために使った金額とその負担
者のことを思い出し、苦笑いを浮かべる。
693
﹁ああ、例の経費ね。しかしその経費を快く負担してくれた、オメ
ールセン君の償いの精神には、ほんと涙が出そうだよ﹂
アレックスが目元を抑えるふりをしながらそう述べると、ユイは
こめかみを押さえながら頭を抱える。
﹁⋮⋮なるほど。そうじゃないかとは思っていたけど、やはり君だ
ったんだね、アレックス。彼を脅して、お金を出させたのは﹂
﹁はは、脅したは言いすぎだよ。君に無断で他の国にまで魔石をバ
ラ撒こうとしていた理由を、僕なりのやり方で彼に尋ねただけさ。
まあその際に、急ぎで少しお金が必要だという話はしたことは事実
だけどね﹂
オメールセンによる魔石流通過程において、契約している内容外
の取引を隠れて行っていることは、ユイも以前より把握している。
しかしながら、オメールセンの矜持や立場を尊重し、多少の金銭が
彼のポケットに多く入ることに関しては、もともとユイとしては見
逃すつもりであった。
しかしながらアレックスにバレてしまった時点で、このような結
末は十分に考えられたことである。それ故、ユイはこの場にいない
オメールセンが受けたであろう心の傷を思って、彼に対し同情せず
に居られなかった。
﹁私に隠れて更に利益をあげようとするその精神は嫌いじゃないん
だけどね。まあ、やるのならもう少しうまくやるべきだったという
ことかな﹂
﹁ふふ。でも僕のやったことよりも、君がやろうとしていることの
方がよほどあくどいと思うけどね。襲撃計画を犯人側に立てさせる
よう誘導し、そして今度は被害者となるはずの皇太子側にその情報
をリークして彼らの動きを操る⋮⋮か。最初に君からのこの話を聞
いた時はどうなるかと思ったけど、意外とうまくいくものだね﹂
﹁残念ながら、百点満点というわけではないさ。できることなら本
694
当にゼリアムが握りつぶしたであろう本物の証拠書類が欲しかった。
こんな状況証拠から勝手に作り上げた代物ではなくてね﹂
ノインにみせた偽造書類を懐から取り出してビリビリとその場で
破ると、ユイは左右に首を振りながら苦笑いを浮かべた。
﹁今まで君の手元にそれがあったということは、皇太子にはそれを
見せただけということだね。だとしたら、とても君の作った偽物だ
なんて気づかないと思うけど?﹂
﹁さて⋮⋮それはどうかな。ノイン君は気づかないかもしれないけ
ど、その裏には怖いお人がいるからね。あの方は、案外気づいてい
るかもしれない。でも、たぶんそうだとしても、結果は同じだろう
けどさ﹂
﹁ほう、イスターツのやつはゼリアムが怪しいと言ってきよったか﹂
ユイとの会談後、執務室を飛び出したノインは、父であるリアル
トの下へと足を運んでいた。
﹁⋮⋮もしや陛下には心当たりがおありになられたのですか?﹂
﹁いや、それはない。だが、先日の事件は我らの部屋まで暗殺者が
入り込んで来おったわけじゃ。それくらいの高官が関与していなけ
れば、とても無理だったじゃろうな﹂
当然のことながら皇帝の居城であるレンド城の警備は、国内で最
も厳重である。そしてそれは、ケルム帝国が大陸西方でもっとも強
大な国家の一つであることから、西方一厳重な警備網が敷き詰めら
れた城だとも言えた。
その中でも最奥に位置し、皇族だけが居住する空間へ賊が侵入す
るなどということは通常ありえない。それ故に、それなりの地位の
695
ものが今回の件に噛んでいると、リアルトは事件の直後から予測し
ていた。
﹁なるほど⋮⋮確かに﹂
﹁それで、奴はどうするつもりなんじゃ?﹂
リアルトは楽しみを待ちきれない子供のような表情で、ノインに
向かいそう問いかける。
﹁それなのですが、表向きは予定通り祝賀会を開催して欲しいと﹂
﹁ほう。つまり鼠をまとめて焙り出すつもりか。戦も差し迫っとる
可能性がある状況じゃし、ちまちまと連中の巣を叩き潰すわけにも
いかんからな﹂
﹁仰るとおりです。奴の狙いは、祝賀会上に連中をおびき寄せその
場で一網打尽にする事にありました﹂
リアルトの見解に頷きながら、それを肯定するようにノインはそ
う口にする。
﹁さて、それでその具体的な方法はどうするつもりじゃ?﹂
﹁ええ、それなのですが⋮⋮実は具体的な作戦を行うにあたって、
奴が陛下から借りたいものがあると言っております﹂
﹁借りたいもの?﹂
思わぬノインの申し出に、リアルトは思わず首を傾げる。
﹁詳しくはこれをお読みください﹂
怪訝そうな表情を浮かべる皇帝に対し、ノインは懐から一通の手
紙を取り出すと、そのまま皇帝へと手渡す。
その手紙を受け取ったリアルトは早速中の文章へと目を向けた。
そしてひと通りその内容に目を通した彼は、次の瞬間に笑い出す。
﹁⋮⋮ふははは、なるほどな。いや、実に面白い。ふふ、いいだろ
696
う。奴にわかったと伝えよ。それと、此度の祭りには予も参加する
と合わせて伝えてくれ﹂
﹁陛下!﹂
皇帝が言い出した内容に目を剥くと、ノインは慌てて諫めるよう
に声を発する。
﹁おいおい、ノインよ。せっかくの楽しい祭りが行われるというの
に、予だけ仲間はずれにするのは感心せんな。もちろん邪魔になら
んように⋮⋮いや、協力できるよう近衛を此度のことに動員する。
それでよかろう﹂
﹁近衛を⋮⋮ですか。しかし、お戯れが過ぎます﹂
﹁良いではないか。それに、現場でのあの男の働きを見ておきたい
のでな。実はお前も見たいのではないか?﹂
意味ありげな笑みを浮かべて、リアルトはそう言い放つ。
すると、ノインは内心を覗き見られた面持ちとなり、あえて自ら
の事への言及を避けた。
﹁ユイ・イスターツ⋮⋮よほど興味を惹かれておられるようですね﹂
﹁お前同様にな﹂
﹁⋮⋮興味深い人物であることは否定しません﹂
以前まで表立ってユイ批判を行っていたことも有り、ノインはや
や屈折したような表情を浮かべつつも、皇帝の指摘を受け入れる。
﹁ふふ、どうやら先入観は捨てることができたようじゃな。それで
いい。先入観なんて持っておっても、不利益こそあれ、何一つ有益
なことは無い。さて、それよりもノイン。此度の祝賀会までに、ま
だイスターツとは会う予定はあるのであろう?﹂
﹁はい。もう少し詰めた打ち合わせをせねばなりませんので、数回
に渡り極秘裏に面談する予定です﹂
皇帝の問いかけに対し、ノインはそれが正しいとばかりにすぐに
697
返事を返した。
それを耳にした瞬間、リアルトは笑みを浮かべたまま、先程まで
とは些か異なる真剣な口調でノインへと忠告する。
﹁ならば奴のことをよく見ておけ﹂
﹁陛下?﹂
目の前にいるリアルトは、それまでと同様穏やかに微笑んでいた。
しかしその言葉は、明らかにそれまでとは重みが異なり、ノインは
わずかに困惑する。
﹁いいか、ノイン。あの男は実に興味深く、そしてそれ以上に危険
じゃ﹂
﹁ええ、それはわかっているつもりです﹂
リアルトの言葉に対し、何を当たり前のことをとばかりに、ノイ
ンは返答する。
しかし、そんな返事を返したノインに向かってリアルトは首を左
右に振ると、リアルトは苦笑した。
﹁いや、お前はまだ奴の力が分かっておらん。そうじゃな、例えば
お前が言っておったゼリアムが握りつぶしたという書類じゃがな、
それはおそらく偽物じゃ﹂
﹁は? ⋮⋮し、しかし!﹂
﹁ふふ、イスターツの奴に一杯食わされたな。冷静に考えてみろ、
握りつぶしたはずの書類を、ゼリアムの奴が後生大事にいつまでも
保管しているわけがあるまい? まあ、普通に考えればそうと気づ
きそうなものじゃが、お前の部屋に忍び込んだ娘の存在が、お前の
目を曇らせたな﹂
笑いながらリアルトがそう告げると、ノインはハッとした表情を
浮かべた。
彼の部屋に誰にも気づかれず入り込んだクレハという存在がいた
698
からこそ、ノインはユイ達がゼリアムから機密書類を入手できたと
考えてしまったわけだが、冷静に考えればそんな書類残されている
はずがないのである。
﹁しかし⋮⋮では奴は一体何のために、偽物の書類を﹂
﹁おそらくは時計の針を進めようとしたんじゃろうな。何しろここ
は奴らにとって他国じゃ。奴らのできることには限りがある。だか
らこそ、ゼリアムの喉元に手が届くであろうお前に対して、その背
中を押すために用意したんじゃろう。ふふ、さすがと言うべきじゃ
ろうな﹂
顎をさすりながらリアルトが嬉しそうにそう発言すると、ノイン
はすぐさま父親に向かい問いを発する。
﹁では、奴との協力は破棄すべきでしょうか?﹂
﹁破棄? なぜそんなことをする必要がある。奴の筋書きに乗るこ
とで、我が国に利益はあろうとも、不利益はなかろう。だとすれば、
せいぜい騙されているふりをしてやれば良い。いや、案外あの男な
ら、予がこの事を見抜いて、それでも見逃すだろうと計算しておる
かもしれんな﹂
この場にはおらぬ黒髪の青年の思考を予測しながら、リアルトは
ノインに向かってそう告げた。
その言葉を受けたノインは、先ほど面談した男の姿を脳裏に浮か
べ直し、そして改めてその名を口にする。
﹁ユイ⋮⋮イスターツ⋮⋮﹂
﹁いいか、ノイン。繰り返すが、あの男は実に興味深く、そしてそ
れ以上に危険じゃ。だからこそ、あの男とはせいぜい仲良くしてお
け。そのことは、決してお前にとって無駄にはならんじゃろうて﹂
699
悪意の行方
皇太子ノインの誕生祝賀会当日。
既にとっくに陽は沈んでいたが、今回の祝賀会の会場となるレン
ド城の離宮は室内に設置された魔石灯の明かりによって、まるで昼
間であるかのようにすり硝子の窓から煌々と明るい光を放ち続ける。
そして会場内ではダンスでも行われているのか、軽快な音楽が夜間
のために静まりかえった離宮周囲へと響きわたっていた。
そんな華やかそうな会場を、わずかに離れた庭の片隅から、頬を
歪めつつ眺めている者がいた。治安維持部のゼリアムである。
﹁今回の警備の資料にも記載されていたが、会場はあの部屋で間違
いないのだな?﹂
﹁はい。食品納入業者のふりをして内部へと昼に進入しましたが、
間違いなく全ての品物はあの部屋へと搬入させられました﹂
彼の子飼いの部下は、ゼリアムの問いかけに対し、淀みなくそう
報告を行う。
﹁ふん⋮⋮うるさい音楽と、過剰なまでの無駄な明かりか。皇室の
馬鹿どもの最後に相応しい騒々しさだな﹂
ゼリアムは鼻で笑うかのようにそう呟くと、その場に結集させた
彼の部下たちを見渡す。総勢三十六名。それが治安維持部及びその
他の部署に紛れ込ませていたゼリアムの子飼い者達の人数であった。
﹁時は満ちた。国を拡大させることしか能のない、あの愚かしい帝
700
国の息の根を止める時がついに来たのだ。今回の作戦で帝国はその
中枢となる人材を多数失う。そして近々行われるであろう聖戦にお
いて、我が国の勝利はより揺るぎないものとなるのだ﹂
そのゼリアムの演説を耳にした部下たちは、一斉に強く頷くと、
決意を秘めた眼差しを彼へと返した。
そんな彼等の反応に満足したゼリアムは、ほんの少し右の口角を
吊り上げると、大きく一つ頷く。
﹁それでは、これより我らは修羅となる。最優先ターゲットは皇帝、
そして皇太子ノインと第二皇子トール。あとは軍務長官のパデルを
亡き者とせよ。そしてもう一人⋮⋮ユイ・イスターツ。魔法の理を
曲げる忌々しき邪教徒を、必ずや殺害するのだ。それでは皆の者、
準備は良いな?﹂
ゼリアムの問いかけに対し、部下たちは間髪入れずに頷き返す。
すると、ゼリアムは腰に備えた剣を抜き放ち、剣先を闇夜の中で
煌々と光っている部屋へと向けた。
﹁それでは、現時刻を持って突入を行う。作戦開始!﹂
ゼリアムの言葉が発せられるや否や、その場に潜んでいた部下た
ちは一斉に会場に向かって疾走する。そして内側から発せられる明
かりによって照らされたすり硝子に近づくと、その勢いのままガラ
スを破って次々と中へ進入していった。
﹁ふふ、これにて帝国の命運も決まったな。では、私も向かうとし
ようか﹂
今回のゼリアムの担当は、離宮周囲の警備であった。もちろん内
部には別の部隊の兵士が警備を行っている予定であったが、フィラ
メント出身が多く含まれる突入部隊にとって、敵になるものなどい
ないと彼は確信している。
ましてや今回の祝賀会に参加している貴族の馬鹿共は、着飾った
701
服はあろうとも、護衛のための装備を持っているはずがないと彼は
考えていた。それ故、今回の作戦に関しては、その計画段階から失
敗の可能性など彼はみじんも想定していない。
﹁ゼ、ゼリアム様。大変です!﹂
既に部下たちが投入し終えた会場に向かい、ゆっくりと歩を進め
てきたゼリアムは、会場内から慌てて飛び出してきた彼の部下の表
情に違和感を覚える。
﹁どうした? 一体、何があったというのだ﹂
﹁中を、中をご覧ください!﹂
その部下の発言を耳にしたゼリアムは、急に胸騒ぎを覚える。そ
してその場を駈け出し、粉々に割られたガラスの合間から祝賀会場
内へと進入すると、彼はそこに広がる光景に思わずうなり声を上げ
た。
﹁ど、どういうことだ。完全に無人ではないか。先ほどまで騒々し
い音楽が鳴り響いていたというのに⋮⋮奏者たちはどこへ行った?
それにパーティーはどうなっているのだ?﹂
﹁そ、それなのですが⋮⋮あれをご覧ください!﹂
もぬけの殻である会場を慌ただしく見回しながら、動揺を隠し切
れず怒気を放つゼリアムに対し、部下の一人は恐る恐る部屋の隅に
設置された大きな箱を指さす。
﹁な⋮⋮自動演奏機だと!﹂
ゼリアムは驚愕の表情を浮かべ、目を見開く。
すると、まさにそのタイミングを計ったかのように、会場内と廊
下、控え室、物品搬入口とを繋ぐ三つのドアが同時に開け放たれ、
明らかに予定されていたパーティー客とは異なる者達が会場内へと
雪崩れ込んできた。
702
﹁やあ。わざわざ私と皇太子殿下の主催するパーティーにお越し頂
けて恐縮ですよ、ゼリアムさん﹂
﹁なっ⋮⋮ゆ、ユイ・イスターツ。貴様!﹂
女魔法士や赤髪のキツネ目の男と一緒に、部屋の端に設置された
物品搬入用の扉から姿を現した黒髪の男を目にして、ゼリアムは思
わず一歩後退る。
しかしそんな彼に対し、今度は後背から聞き覚えのある声が掛け
られた。
﹁おっと、私の存在も忘れて貰っては困るな、ゼリアム。私達の計
画通り、きちんと会場に出席してくれる部下を持つことが出来て、
私はうれしいよ﹂
﹁で、殿下⋮⋮まさか嵌められたというのか、この私が﹂
ユイの反対側となる控え室側の扉から軍の精鋭たちとともにノイ
ンが姿を現すと、ゼリアムは驚愕の表情を浮かべながら、その場に
呆然と立ち尽くす。だが、彼の驚愕はこれで終わりではなかった。
﹁待て待て、お前たち。こんな楽しいパーティーに予を除け者にす
るのは許さんぞ﹂
そう口にしながら、近衛兵と第二皇子であるトールを従えて最後
に廊下側の中央の扉から姿を現したのは、何を隠そう皇帝リアルト
その人であった。
その姿を目にした瞬間、ゼリアムは思わず目を見開き、そして自
らの状況を顧みて全身を震わせる。
﹁へ、陛下までいらっしゃるだと⋮⋮そんな馬鹿な。ここまでの私
の準備は完璧であったはずだ。なのに、なんだこれは。なんなのだ
?﹂
﹁完璧? はは、だとしたらお前の完璧は、完璧には程遠い程度の
703
ものだったと言うことだろう﹂
ノインが冷笑を浮かべながら、ゼリアムに対して見下すような視
線を送ると、そのまま嘲笑する。
﹁この国に入って早三十年。時間をかけてようやくこの日が来たと
いうのに、なぜこんなことに⋮⋮私の計画に紛れ込んだ異分子⋮⋮
もしや貴様のせいか、イスターツ﹂
﹁えっ、私? いやいや、別に最初にちょっと口出ししただけで、
実際に主導したのはノイン殿下ですよ﹂
﹁おいおい、勝手に私のせいにするな、イスターツ。お前が計画し
たことを、私はそのまま実行しただけだ。それが陛下まで巻き込む
形にしやがって﹂
今回の企画を共に練る過程でユイに対する嫌悪感をなくしたノイ
ンは、自分に全ての責任を擦り付けようとするユイに向かい、口角
を吊り上げつつ非難を口にする。
﹁いやいや、陛下にあのすばらしい自動演奏機を御貸し頂けるよう、
私はお願いさせて頂いただけですよ。元々この計画自体、あれを目
にしたから思いついたものですからね﹂
﹁ふふ、こんな楽しいパーティーが開かれるというのに、予を仲間
はずれにしようなどとは、イスターツ殿も人が悪いな﹂
リアルトは心底楽し気な声を発すると、ユイに向かってニコリと
笑いかける。
その笑みを向けられた当人は困ったように頭を掻き、その視線を
ゼリアムへと向けた。
﹁さて、ゼリアムくん。申し訳ないのだけど、この離宮の周囲は既
に帝国軍で固めてある。君にとっては残念だろうけど、潔く降伏し
てもらえないかな?﹂
﹁はは⋮⋮なんということだ。ここへ踏み込んだ時点で、既に私の
704
負けであったということか。だが、降伏だと? 馬鹿げたことを言
うな。ふん、こうなればわざわざ私を嘲笑するために姿を現したそ
の雁首、相打ちになろうとも頂かせて貰う。者共、かかれ!﹂
705
赤に彩られし宴
ゼリアムの言葉を合図として、彼の部下たちは三つに分かれ、そ
れぞれユイ、ノインそしてリアルトとトールを目がけて駆け出す。
その行動を目にするや否や、ノインの前には軍の精鋭が、リアル
トとトールの前には近衛兵が彼らを守るように進み出た。
そしてもう一人。そうユイの前には、キツネ目を細めながら、ア
レックスただ一人が一歩進み出る。
﹁ユイ、後で彼らを尋問する予定はないよね?﹂
﹁ああ。その辺の下っ端が持っている情報に興味はないし、今のと
ころ有益かもしれない情報を持っていそうなのは、あそこの親玉く
らいじゃないかな﹂
﹁⋮⋮だそうだ。君たちもいい実戦の機会だから、無駄にするんじ
ゃないよ﹂
そう口にしたアレックスは、後方へ視線を送る。
すると彼から一歩遅れて、いつものように抜き身の剣を肩に乗せ
たフートと、なぜかレンドに来る以前より打撲痕が増えているレイ
スが前へと進み出た。
﹁わかっています。師匠と稽古することを思えば、あんなフィラメ
ント兵の一人や二人、むしろありがたいとさえ思いますよ﹂
﹁⋮⋮それはどういう意味かな、レイス? まあいい、この戦いが
終わったらじっくりとその意味を聞かせて貰うことにするか。君の
剣をもってしてね﹂
そんな軽口を発しながら、アレックスは彼に襲いかかって来た二
名の男を一薙ぎで切断すると、三人目の敵兵に向かいその場を駆け
706
出す。
一方、死の宣告を受けたに等しいレイスは、フートと連携をとり
ながら戦闘を開始するも、その脳内は目の前の敵兵のことではなく、
どうやって戦闘後にアレックスの魔の手から逃れるかで一杯であっ
た。
﹁ふむ、こやつらはなかなかの腕ではあります。ですが、一線級の
魔法士というわけではないですな﹂
﹁あくまで今回の人員は強襲用じゃったろうからな。このような正
面からの戦いを想定していた訳ではなかろうて﹂
ゼリアムの部下達は攻勢魔法を扱いながら、善戦と呼べる戦いを
してはいた。しかしながら、用意された人員とその練度の差は残念
ながら一目瞭然であった。
ノインとリアルトは早々とそれぞれの兵を合流させると、二つの
部隊をノインが指揮する形となる。そして彼は魔法に対する防御役、
敵兵の連携を妨害するための牽制役、最後に敵を駆逐する攻撃役と
兵の役割を明確に区分けした上で、近衛と軍という異なる組織から
なる混成部隊をまるで使い慣れた操り人形のように見事に連動させ、
次々と敵の数を減らしていく。
﹁ほう、ノイン。見事なものではないか。わしが軍を見ぬ間にやる
ようになりおったな﹂
﹁今の私にはこれしか、そう軍人としての才しかございませんから﹂
自嘲気味にノインは笑うと、彼はリアルトに向かってそう答える。
﹁そう自らを卑下するな。別に無意味にあの男と自分を比べる必要
はない﹂
﹁わかっていますよ。だから﹃今は﹄です。まあそれはそれとして、
707
しかし奴の部下たちはさすがというべきですな﹂
既に勝敗の決した眼前の戦闘から視線を外すと、ノインはユイに
迫ろうとする敵兵を駆逐していく三人の剣士へと視線を向けた。
そんな彼の視線を追うように、リアルトもユイたちへと視線を移
す。
﹁うむ。最初はあの人数で十分と言いおったから、さすがに予も正
気かと思ったが⋮⋮なるほど、あの連中の実力を見ればそれも納得
というものじゃ﹂
一人が囮となり、もう一人が遊撃を行うという巧みなコンビネー
ションプレイを披露し、剣士でありながら魔法士を相手取って優位
に戦い続けるレイスとフートをその目にしてリアルトは素直に感心
する。
しかしそれ以上に彼の目を引いたのは、当然のことながら死神の
如き猛威をふるう赤髪の剣士であった。
﹁あの若い男女の剣士の連携も見事です。個々の力としては、あの
レベルの使い手は我が軍にもおりますが、あのレベルの連動性を見
せるものはそう多くないでしょう。ましてや、あの若さでは⋮⋮し
かしなにより朱の悪魔⋮⋮あれは本当に人間でしょうか?﹂
﹁ふふ。あれはちょっと一人だけ、次元の違う境地におるようじゃ
な。予の部下たちとの手合わせの話をしたが、実現する前で良かっ
たというものじゃ﹂
常に一人で数人を相手取っているにもかかわらず、若い二人の剣
士たち以上のペースで敵をなぎ払うアレックスの強さには、リアル
トとてただただ苦笑するより他になかった。
そしてそれはノインも同様である。軍を率いるノインは、かつて
国境線でアレックスを目にしたことがあり、その危険性は理解して
いるつもりであった。しかしこうして同じ側の味方として共に戦っ
ていながらも、その絶対的というべき強さに背中に冷たい汗が流れ
708
落ちる。
自陣の兵士たちは数の優位とその連動性を用いて、少しずつゼリ
アムの部下の数を減らしているのに対し、彼は帝国軍に手の内を見
せないよう明らかに手を抜きながらも、彼が動く毎に一人の敵兵が
確実に地面へと崩れ落ちていくのである。
﹁あやつも是非とも我が配下に欲しいものじゃな⋮⋮しかし、あの
男はイスターツ以上に御すのが難しそうじゃ。やはり二人まとめて
と考えるのが正しいか﹂
﹁⋮⋮陛下、まだ戦いが終わったわけではありません。ゼリアムが
残っているのですから、そう言った先のことは、戦いの後にお考え
ください﹂
﹁ふむ、それもそうじゃな。だがせっかくあの朱やその弟子達の剣
技を目にできておるのじゃ。一瞬足りとも、これを見逃す手はある
まいて﹂
そう口にしてからからと笑うと、皇帝はアレックス達に向かい先
ほどまで以上に値踏みするよう視線を注いだ。
﹁君たち⋮⋮いつまで二人で戦っているんだい。特にレイス、君に
は魔法士と一人で戦う術を一から教えたつもりだよ﹂
﹁しかし、師匠。別に相手の数も残り少ないですし、このまま押し
きる形でも﹂
﹁だめだよ。いいかい、私は君を魔法士と戦える剣士に育てたので
はなく、魔法士殺しとして鍛えてきたつもりさ。だから、もうそろ
そろフート君の元から巣立ってもいい頃じゃないかな﹂
﹁ですが⋮⋮いいえ、わかりました。目の前にいる残り敵兵三名。
自分が、討ち取って見せます﹂
﹁ふふ、その意気さ。フート君も手を出さないで上げて貰えるかな﹂
アレックスの言葉を受けたフートは、眠たげな眼差しをしながら
709
も、コクリと頷く。そしてその姿を目にした瞬間、レイスは前方の
空間へと躍り出た。
﹁レイス・フォン・ハリウール、推して参る﹂
レイスは裂帛の気合いを放つと、もっとも手近にいた魔法剣士に
躍り掛かる。
それまで二人一組で戦っていたレイスの動きの変化に、その兵士
は何らかの作戦があるのではないかと考え、思わずフートの方へと
視線を向けた。しかしその一瞬の判断の過ち、それが彼にとって致
命的となる。
フートが動かないのを確認し再び視線を戻した時には、もうレイ
スは剣の間合いに飛び込んでおり、既に魔法を編み上げることがで
きるだけの距離は失われていた。
﹁遅い!﹂
レイスは目の前の兵士が慌てて腰の剣を抜きに掛かった瞬間、さ
らにギアを入れ替えるかのように加速すると、敵兵が剣を抜ききる
前に自らの剣を一閃させる。
そしてその直後、彼はまるで側面に目があるかの様に、視線を移
すこと無く後方へと跳び下がり、右手から放たれた氷の刃を回避し
た。
﹁ば、馬鹿な! なぜわかった﹂
完全にレイスの死角から魔法を放ったつもりの大柄な魔法士は、
彼の編み上げた氷の刃に視線を向けることなく回避したレイスに、
目を見開いて驚愕する。しかしすぐに彼は自身の危険を察知すると、
慌てて第二撃目を編み上げ始める。だが時既に遅く、急速に間合い
を詰めてきたレイスによって彼は二つに切断された。
710
﹁うんうん、腕を上げましたね。対峙している敵だけでなく、周り
の敵兵の動きも観察しながら、常に数手先を読めるようになった。
これは明日からの訓練が楽しみです﹂
﹁アレックス。二年にも満たない期間であれほど腕を上げさせるな
んて⋮⋮君は一体、どんな鍛え方をしたんだ。というか、せっかく
公言した三人を倒したんだからさ、明日また地獄に落とすのは止め
てあげないかい﹂
彼等が会話している合間に、公言した最後の一人を葬ったレイス
は、恐る恐るユイたちに向かって後方を振り返る。
その視線の意味に気がついたユイは、頭を掻きがら首を左右に振
り、彼をアレックスに預けたことをほんの少しだけ反省した。
﹁ふふ、考えておきましょう。それよりも、帝国の御一行へ向かっ
た連中もほぼ一掃されたようですね。となると⋮⋮﹂
﹁ああ、残っているのは親玉だけと言うことだね﹂
ユイはアレックスに向かいそう口にすると、頭を掻きながら既に
二名の護衛を残すのみとなったゼリアムに向かってゆっくりと歩み
寄っていく。
﹁さて、ゼリアム君。君には一つ聞きたいことがあったんだ。この
国の皇族を狙うのは、フィラメントの立場から理解できるのだけど、
どうして私を狙おうとしたんだい? 別に私なんかを消したところ
で、クラリスとこの国が戦争となるとは限らないし、それで君たち
が漁夫の利を得る事ができるとは限らないと思うのだけど﹂
クラリスの貴族連中に嫌われているユイが死んだとすると、もち
ろんクラリスと帝国の関係は多少悪化するであろうが、元々関係は
不良なのである。レムリアックの魔石のことさえ抜かせば、戦争に
さえならないのなら、別にこれ以上に関係を悪化させたところで意
味が無いとユイは考えていた。
それ故に、自身が狙われた理由だけは、彼の中でどうやっても理
711
由付けが出来ず、ゼリアムに向かって問いかけたかった疑問をぶつ
ける。
﹁ふん、貴様にはわからんのだろうな。我々が貴様を忌み嫌うわけ
が。いいか、魔法とはその全てが神聖なものなのだ。それ故に、神
聖不可侵であるべき魔法の理を、好き勝手に書き換えたり曲げたり
する貴様の存在など認められん。貴様はわれわれ魔法士のあり方を
根本から狂わせる罪人なのだ﹂
﹁ああ、なるほど。いや、さっぱり君たちの論理はわからないけど、
その意図に関してだけは合点がいったよ。とするならば、まさかと
は思うけど帝国を混乱に陥れようとしたのも、領土問題ではなく魔
法に関する理由なのかい?﹂
ユイは自分が狙われた理由を耳にして苦笑いを浮かべながら頭を
掻くと、おまけのように帝国を狙った事情を問いかける。
﹁その通りだ。全ての魔法は魔法公国に始まり魔法公国に終わる。
にも関わらず、帝国の魔法士達は、勝手に集合魔法などと言う本来
認められるべきではない魔法を世に解き放った。それ故に、帝国は
その存在自体が汚らわしいのだ﹂
﹁魔法原理主義者、いや魔法狂信者というべきかな。全くもって貴
様のような思考を取るものには虫酸が走る﹂
自分たちに向かってきたゼリアムの部下たちを一掃したノインは、
吐き捨てるようにそう言葉を放った。
﹁ふん、野蛮な貴様等に言われたくないものだな。我ら魔法士は神
に選ばれた存在。それ故に、我らフィラメントは神の国であるから
して、その邪魔をするものは何人たりとも許されーー﹂
﹁いい加減黙りな。そう言った戯言を本気で口にするから、あの国
の奴らは昔から嫌いなんだよ。ファイヤーアロートリプレット!﹂
ゼリアムの言葉を遮るように、明らかに刺を含んだ女魔法士の声
712
が響き渡ると、ユイの後背から突如三本の炎の矢が放たれる。
﹁くぅぅ、サント・エスペッホ!﹂
その炎の矢を目にした瞬間、唯一その攻撃に反応したゼリウムは
自らの前に光の壁を生み出す。そして炎に飲み込まれた部下たちを
横目に、彼は編み上げた光の盾に傾きをつけて、その炎の矢を弾い
た。
﹁ちっ、ミラホフ式の防御魔法か﹂
弾かれた炎の矢は天井へと突き刺さり、そこからたちまち炎が広
がり始める。そして慌ててノインの部下たちは彼の指示の下、水魔
法を唱え消火を試みようとするも、魔法を放った当事者であるナー
ニャは舌打ちを一つ行い、その視線はゼリアムへと注がれたままで
あった。
﹁い、今の魔法⋮⋮呪文自体はクラリス式だが、矢を包む炎はディ
オラム特有のものではないか。そこの貴様、一体何者だ?﹂
﹁⋮⋮知らないね。別にあんたには関係ないことさ﹂
驚きの瞳を向けられたナーニャは、視線を外し再び舌打ちをする
と、これ以上話すことなど無いとばかりにその場で反転して部屋か
ら出ていく。
その姿を目にしたユイは、弱った表情を浮かべて溜め息を一つ吐
き出すと、ゼリアムの眼前に立ちはだかるように彼と対峙した。
﹁とりあえず年貢の納め時という奴ですかね、ゼリアムさん。一応、
確認しますが、降伏するつもりはお有りですか?﹂
﹁有るわけ無いだろう。例えこの体が無くなろうとも、我が魔法に
宿る意思は決して失われん﹂
﹁⋮⋮なら仕方ないですね。私の部下の古傷が少しえぐられる羽目
になったようですし、あなたには私自ら引導を渡させて頂きます﹂
713
ユイはそう口にすると、その場から一歩進み出る。そしてわずか
に前屈みの姿勢をとって、刀の柄に手を添えた。
﹁ふん、調子に乗りおって。この状況で一対一だと? そのおごり、
後悔するのだな。喰らえ、ジャーマベンダバール!﹂
ゼリアムがその呪文を唱えるや否や、彼の眼前に巨大な炎風が出
現し、次の瞬間ユイに向かって解き放たれる。
﹁噂に聞く魔法改変も、この速度では対応できないという事だな。
うぬぼれが身を滅ぼしたということだ﹂
その呪文を完成させユイに向かって解き放つと、彼は目の前の邪
教徒の殺害を確信し、歪んだ笑みを浮かべた。しかしそんな彼の表
情は、彼の背側から放たれた抑揚の乏しい声によって驚愕へと変わ
る。
﹁⋮⋮後ろですよ、ゼリアムさん﹂
﹁なに!﹂
凍りついた表情で、ゼリアムは慌て振り返る。そんな彼が目にし
たのは、まるで弧を描くように美しく抜き放たれた一筋の剣光であ
った。
﹁別にあの程度の魔法なら、十分にクラッキング出来るのですけど
ね。でも、残念ながら貴方の魔法にその価値はない。できれば彼女
をフィラメントと絡ませたくなかったのに、見事に私たちを巻き込
んでくれた貴方の使う魔法にはね﹂
ユイはそうして刀を振り切ると、その場に崩れ落ちていくゼリア
ムを確認することさえなく、彼は刀を鞘に収めた。
﹁すいません。後はお願いします﹂
なにか言いたげに側までやって来たノインに向かい、ユイはすれ
714
違いざまに一言そう告げる。そしてユイの進行方向に立っていたア
レックスの肩をポンッと叩くと、そのまま後ろを振り返る事なく彼
は部屋を後にした。
715
お節介焼き
クラリスの大使館からほど近い酒場。
そのカウンター席に空のジョッキを並べる赤毛の女がいた。
﹁親父、もう一杯エールをおくれ﹂
﹁なぁ、嬢ちゃん。いつもうちを贔屓にして貰ってるからあまり言
いたくないんだが、ちょっと飲み過ぎじゃねえか? まだ来て間も
ないっていうのに、今日はちょっとペースが速すぎるぜ﹂
酒場のマスターは心配そうな表情を浮かべながら、新しいエール
を渡すことを躊躇する。
﹁いいんだよ。あたいだって飲みたい夜くらい有るんだ﹂
﹁いや、飲みたい夜って、毎晩うちに飲みに来てるじゃねえか⋮⋮
はぁ、わかったよ。エールを一杯だな﹂
彼女に反論するや否やすごい勢いで睨まれたマスターは、慌てて
逃げ出すようにナーニャの眼前から退散する。
﹁ふん、素直に新しいのを出してくれりゃあいいんだ﹂
ナーニャはそう呟くとタイトスカートからすらっと伸びた足を組
む。そして待ちきれないとばかりに、テーブルを人差し指でコンコ
ンと叩きながら、エールの到着を待った。
﹁そう急かさないでくれや、嬢ちゃん﹂
弱った表情を浮かべながら、マスターがジョッキいっぱいに注い
だエールを運んでくる。
そしてナーニャがそのジョッキを受け取ろうとした瞬間、彼女の
後ろからぬっと伸ばされた手がそのエールをかっさらっていった。
716
﹁うん、なかなかいい味だね。仕事の後にはちょうどいいや﹂
﹁⋮⋮なんだ隊長かい。あたいに何のようさね﹂
ナーニャは勝手にエールを奪い取って彼女の隣に腰掛けたユイに
向かい、きつい視線を浴びせる。
しかし、ユイはそんな眼差しなど気にした様子もなく、あっとい
う間にエールを飲み干し、空になったジョッキをテーブルに置いた。
﹁ん? 別に用なんてないさ﹂
﹁そうかい⋮⋮ならいいんだ﹂
ナーニャがそう口にするのを契機に、二人の間にわずかな沈黙が
訪れる。
そしてその沈黙を破ったのは、全く空気を読まないユイの一言で
あった。
﹁マスター、エールをもう一杯お代わり﹂
ユイが頭を掻きながらマスターに依頼すると、マスターは二人の
間の微妙な空気を察して、そそくさと新しいエールをユイの前に置
いて立ち去る。
そうして、目の前に置かれたエールを、なんの遠慮もなくユイは
飲み始めた。
﹁って、本当に酒だけ飲みに来たんじゃないだろうね、あんた。普
通はさ、部下を慰めるために酒をおごるとか、優しい言葉をかける
とか、他にすることがあるだろ﹂
﹁何で酒をおごるが一番に来るのかは引っかかるけど、そんなもの
なのかもね。でもさ、私は君を信じているから﹂
﹁は? なんて言ったんだい、今﹂
ナーニャはユイの言葉を耳にするなり、目を見開き彼の方へ顔を
向ける。しかしユイは彼女の視線に気づきながらも、まっすぐに正
717
面を見たまま、彼女とは視線を合わさずに口を開く。
﹁いや、だから私は君を信じてるって言ったんだよ。そりゃあさ、
飛び出した国だとは言え、故国のフィラメントが帝国にちょっかい
をかけて、戦争になりそうって言うのに平常心でいろとは言わない
さ。そのちょっかいの掛け方も掛け方だったしね⋮⋮でもさ、君が
それくらいのことで押しつぶされたり、私の前からいなくなったり
しないって信じているから。だから私は、君の隣でのんきにエール
を飲んでいられるのさ﹂
ナーニャに向かってそう告げると、彼は再びエールをジョッキを
手にとって、喉へと流しこむ。そんな彼の言葉と仕草に、ナーニャ
は先ほどまでの不機嫌な表情をわずかに緩める。
﹁そう言えば、あんたは昔からそう言うやり方だったよね。カーリ
ンで初めてあった時も、そしてあんたの下で働き始めた時もずっと
そう。偉くなって、伯爵にまで上り詰めて、英雄なんて呼ばれてさ
⋮⋮でもいつまでたっても、あんたはあんたのままだ。全く、一向
に成長しやしない﹂
ナーニャはやや遠い目をし、ユイと初めてあった日のこと、そし
てカーリンでの日々を思い起こしながらそう口にした。
﹁その通り、私はいつも私さ。だからあのディオラム家の廃棄姫も、
カーリンのごろつき達の頭をしていた赤毛の魔法士も、そして私の
部下であるただのナーニャも、全て君は君さ。別に過去を否定する
ことも、肯定することも必要ない。ましてや過去に縛られる必要も
ない。私はそう思っているんだけどね﹂
﹁あたいはあたい⋮⋮か﹂
ナーニャはユイの言葉を受けて、そっと自分に聞かせるように呟
く。
718
﹁ああ、私は私の部下の中で、もっとも遠慮なく私のことをないが
しろにする君のことが大好きだけどね。それじゃあ、失礼するよ。
夜更かしは美容の敵だからね﹂
それだけ口にすると、ユイは残ったエールを一気に飲み干して立
ち上がる。そしてマスターに代金を手渡し、そのまま店を出ようと
したところで、彼の背中にナーニャの声が響いた。
﹁あんたが⋮⋮いや、隊長が美容を気にする必要はないよ。隊長は
そのままでも十分、馬鹿で魅力的さ。だから、あたいは隊長の下を
離れる気はないさ。これからもね﹂
ナーニャはいつもの声でユイの背中にそう告げると、彼は背中越
しに片手を上げてそのまま店を出ていった。
﹁ふん、なにが別に用は無いだ。あのお節介焼きめ﹂
気がつけば彼女の分の伝票まで無くなっており、ユイが支払った
ことに気づいてナーニャはそう毒づく。そして、席を立ち上がりそ
のまま店を出ると、彼女は頭上に広がる星々に向かって笑みを浮か
べた。
719
楽観とは消えゆく泡の如く
﹁陛下、今回フィラメントとの関係が疑われた百四十八名。そのこ
とごとくを拘束いたしました﹂
ノインは今回の事件の後始末として、フィラメントとの関係が疑
われる全ての者の拘束に成功している。そしてその過程で、彼は帝
国の魔法関係者に根付く深いフィラメントの闇に驚愕することとな
った。
それほどまでにフィラメントの手の者は、帝国内に長い時間をか
けて深く根を張っていたのである。
﹁そうか⋮⋮これほど大規模の組織網を構築しておるとはな。裏を
返せば、ゼリアムがやはり優秀な男であったということじゃろうて。
実に残念なことではあるがな。しかし、イスターツがたまたまわが
国に駐在しておらんかったら、我等も危ないところであったわ﹂
自身も危険であったとは口にしながらも、リアルトはまったくそ
の様に考えていなかった口振りでそう言葉にする。
すると、ノインはリアルトの内心ではなく、その発言の内容に対
して渋い表情を浮かべた。
﹁はい。確かにこの度は彼が我が国に居たことが僥倖であったと言
えるでしょう。しかし⋮﹂
﹁しかし、なんじゃ?﹂
﹁改めて思いましたが、やはりあの男は危険です。今回、彼ととも
にゼリアムを罠に掛けたわけですが⋮⋮その過程で彼と共に策を練
る過程で思いしりましたが、正直に言ってあの男の底が見えません﹂
今回のゼリアムを一網打尽とするための計画は、その草案のほと
んどはユイがノインに口頭提案したものである。もちろんノインが
720
何もしなかったわけではなく、その提案を実行段階まで移し、全て
の手はずを整えたのはノインの手腕であったと言えよう。
しかしながら彼自身は、他の誰よりも今回の下絵をスケッチした
ユイのことを高く評価し、それとともに改めて彼の存在を脅威に感
じていた。
﹁ほう、お前もそう思うか﹂
﹁はい。自らの無能をさらけ出すようで恥ずかしいのですが、我ら
この国に住まう者が暴くことが出来なかった今回の陰謀を、この国
に来て間もない彼が解決に導いたということは事実です。しかしだ
からこそ、彼は普通ではない。少なくとも彼は私に見えていない何
かを見て、そして私の思考の及ばぬ領域のことを考えているのでし
ょう。今回の件でそのことがよくわかりました﹂
間近でユイと触れ、そして彼の能力を皮膚で感じ取ったノインは、
僅かな悔しさを滲ませつつそう評価する
﹁ノイン、成長したなお前も。ふふ、今回の事件での最大の収穫は、
この国のフィラメントのスパイ網を一網打尽にしたことではなく、
お前がイスターツと組む機会をもてたことかもしれんな﹂
以前のように感情的な言葉を発せず、冷静にユイを評価したノイ
ンの言葉を耳にして、リアルトは彼に向かって微笑みかけた。
すると、その笑みを眼にしたノインは、ニヤリとした笑みを浮か
べ、リアルトに向かって言葉を返す。
﹁ええ、そうかもしれません。ですが、どちらにせよわかったこと
はシンプルです。今は彼の方が私より上手でしょうが、父上、あな
たの方がさらにもう一枚上手だということ。そして私がいつかあな
た方を越えてみせるつもりだということです﹂
﹁ふふふ、おもしろい。いいだろう、予を、そして奴を越えて見せ
よ。では、予もお主に抜かれぬよう、次の一手を打つこととしよう
721
か﹂
意味ありげな笑みを浮かべてリアルトがそう口にすると、ノイン
は以前に父が口にしたことを記憶の中から蘇らせる。
﹁次の一手ですか⋮⋮もしやとは思われますが、彼を本気で引き抜
くおつもりですか?﹂
﹁うむ、その通りじゃ﹂
リアルトはあっさりとノインの言葉を肯定すると、その困難さを
ノインは懸念する。
﹁ですが⋮⋮地位を与えるにしても、彼はかの国でもすでにかなり
高い地位にあります。それに領地のレムリアックは豊富な魔石資源
があって、金銭的にも私たちになびく事も有り得ないでしょう﹂
﹁ふふ、金や役職程度でなびくほどの男なら、予も別にあの男を欲
しがらんさ﹂
﹁ならば、何を持ってユイ・イスターツを引き抜くと⋮⋮まさか本
気で例の切り札をお使いになるつもりですか﹂
以前リアルトが一度口走った切り札の存在を思い出すと、ノイン
は目の前の父に対し目を見開いた。
﹁ふふ、切り札はいざというときまでは伏せて置くものじゃ、そし
て本当に必要なときには、躊躇せずに札を切る。それこそが正しい
使い方じゃろうて﹂
﹁ミリアを⋮⋮ですか。私は反対です﹂
﹁ほう、お前がそこまでミリアを大事にしておるとは知らなんだわ﹂
意外そうな口振りでリアルトがそう発言すると、ノインは首を左
右に振って彼の見解を口にした。
﹁いや、そうではなく、彼がミリアという札に本当に食いつくのか
という事です﹂
722
﹁ふむ⋮⋮お前もあの器量良しのミリアでさえ、あの男にとって不
足だと思っておるのか。そうだとしたら、全くもって予と同意見じ
ゃが﹂
溺愛している娘を天秤に掛けつつも、彼女でさえ力不足だと言い
きるリアルトに、ノインは困惑の表情を浮かべつつ自らの発言の真
意を口にした。
﹁そんな事を言っているのではありません。そうではなく、奴がミ
リアを差し出そうとする我らの意図に気がつき、警戒して断ってこ
ないかと言っているのです﹂
﹁ふふ、あの男がその程度の意図を見抜けんはずが無かろう。だか
らこそ、奴がミリアを選ぶ以外無い状況を作り出すことこそが肝要
なのじゃ﹂
﹁ミリアを選ぶ以外無い状況⋮⋮それは一体﹂
父の意図するところが見えず、一層困惑するノインをよそに、リ
アルトは笑みを浮かべながら口を開く。
﹁ふふ、まあうまくいくかは予達、そしてゲストの演者の力次第じ
ゃな﹂
﹁ゲスト? 誰か他に協力者を仰ぐのですか?﹂
全くリアルトの企みが見えないノインは、彼の言葉の中で気にな
った単語を抜き出して問いかける。
すると、リアルトは歪な笑みを浮かべながら、想像しないゲスト
の名を口にした。
﹁ふふ、その通りじゃ。特別強力なゲストに踊って貰うつもりじゃ。
フィラメントという名のな﹂
723
ゼリアムによる謀反騒動が解決し一ヶ月の時が過ぎていた。
クラリス大使館のユイの執務室では、机に脚を投げ出しながら本
を読む大使に向かい、副大使が今回の事件の余波を報告に訪れてい
た。
﹁帝国はフィラメント公国に対して正式に抗議を行うようですね。
場合によっては戦争も辞さないと﹂
﹁まぁ、仕方ないだろうね。皇族の暗殺を意図していたとなればさ。
しかし戦争を回避するとしたら、どの辺りを落とし所とするんだろ
うね﹂
ユイは今回の事件で戦争をしかけるとしたら帝国側からだと踏ん
でいた。それはもちろん喧嘩を売られた側であるからもあるが、何
より戦力が劣ると思われる魔法公国が戦争をしかけるとしたら、今
回の謀反騒動にて何らかの収穫があった場合に限定されると考えて
いたためである。
理想は皇族の壊滅、それがだめなら皇帝か軍を統括する皇太子の
どちらかの命を取ること、それが魔法公国が戦争をしかけるための
最低条件と考えていた。
それ故に、謀反をしかけるも返り討ちに遭い、諜報網まで一網打
尽とされたフィラメントが、どの辺りを手打ちのための条件として
飲むのかに彼は注目していたのである。
﹁場合によってはユイさんにも火の粉が飛んでくるかもしれません
よ﹂
﹁おいおい、フェルナンド。なんで私に火の粉が飛んでくるんだい
?﹂
フェルナンドの意味有りげな言葉を耳にしたユイは、思わず机に
投げ出していた足を床に降ろすと、抗議するかのような口調で疑問
724
を口にする。
﹁こういった二国間の交渉は、当事者同士ではなかなか話がまとま
らないものですから。なので、場合によってはユイさんが中立な立
場として、和平交渉に駆り出される可能性があると思いますよ﹂
﹁⋮⋮それは困った話だね。うん、その場合は君に任せるよ。別に
副大使が仲介役を引き受けても構わないだろう? なにしろ、先日
の事件では私も当事者の一人なんだから﹂
﹁それはそうですけど⋮⋮もしかして、単にめんどくさいと思って
いませんか?﹂
自分に仕事を委ねようとするユイの発言を受け、疑いの視線を送
りながらフェルナンドはそう問いかける。
﹁あ、バレた?﹂
﹁はぁ⋮⋮全く貴方という人は﹂
仕事を支障がない範囲で手を抜こうとする目の前の男の性格を思
い出すと、呆れたように溜め息を吐く。
そうして弛緩した空気が執務室を覆った瞬間、突如その空気をな
ぎ払うかのように、レイスが部屋の外から駆け込んできた。
﹁た、大変です﹂
﹁どうしたんだい、レイス。そんなに慌てて。ナーニャがアレック
スの大事にしている剣を折りでもしたのかい?﹂
ユイが軽い口調でそう問いかけると、そんな冗談を言っている場
合ではないとばかりに、レイスは即座に否定する。
﹁そんなことではありません﹂
﹁なら、君が普段の恨みを晴らすために、あいつを闇討ちにしよう
としたのがバレたとかかい?﹂
﹁ふざけている時ではないんです。大変なんですよ、魔法公国が、
725
魔法公国が﹂
のんびりした表情で冗談を口にするユイに向かい、レイスは怒鳴
りつけるようにそう口にすると、彼の予想が外れたことを告げる言
葉をその空間に解き放つ。
﹁魔法公国が宣戦布告してきたんです。このケルム帝国に向かって﹂
﹁えっ、そんな馬鹿な⋮⋮いくら何でも早すぎる﹂
レイスの報告に驚きを隠せず、目を見開き固まってしまったフェ
ルナンドを横に、ユイはボソリとそう呟く。そして彼は右手でゆっ
くりと頭を掻いた。
﹁魔法公国がこのタイミングで挙兵する意味。彼らが見積もってい
る勝算⋮⋮いや、この戦いで真に利益を得るのは⋮⋮なるほど、そ
ういうことか﹂
﹁あの⋮⋮ユイ先生?﹂
再び独り言をブツブツとつぶやき始めたユイを目にして、ここま
で走ってきたために息を切らせていたレイスも言い知れぬ違和感を
感じ、そう呼びかけた。
﹁ああ、すまないね。いや、さすがに私も驚いてしまってさ。とに
かくレイス、そしてフェルナンド。急いで情報の真偽を再確認して
くれないか。万が一誤報だとしたら、話が大きく変わるからね﹂
﹁確かにそうですね。すぐ確認してまいります﹂
レイスはユイの発言に納得すると、大きく頷いたのちに部屋から
駆け出していく。もう一人その場にいたフェルナンドも、これまで
に目にしたことのないユイの反応に首を傾げつつ、頭を下げると部
屋から歩み去っていった。
﹁チェックメイト⋮⋮かな﹂
﹁帝国が? それともフィラメントの方かしら?﹂
726
ユイだけが残されたはずの執務室。
その彼の座席の背後から、見知った黒髪の女性の声が、彼へと向
けられた。
﹁いや、そのどちらでもない。この私がさ﹂
﹁⋮⋮どういうことかしら﹂
抑揚の少ない透き通るようなクレハの声が、ユイの鼓膜を打つ。
そこで初めて彼は彼女の方へと向き直ると、首を左右に振りながら
口を開いた。
﹁この状況を最大限に利用しようとしている者がいる。もしかする
と、彼が現在の状況を生み出したのかもしれないが⋮⋮いや、それ
はさすがに無いか。引き換えとするものが多すぎる。やはり状況を
利用したと考えるべきだろう﹂
﹁私には全く意味がわからないわ﹂
﹁はは、私にもさ。どちらにせよ、最大の問題はあの人が必要以上
に私を買いかぶってくれているということなんだろうけど⋮⋮しか
しこの状況は、本当に詰まれているということなんだろうね﹂
﹁詰み?﹂
普段からまるで彫刻のように変わらぬその凍りついたとも言える
美貌を、ほんの少しだけ動かし、クレハはユイに向かって問い返す。
﹁ああ、すでに盤上の状況は完成している。まさに詰みというやつ
さ⋮⋮だけど今回の差し手と違い、私は悪あがきが好きでね。盤上
でもはや打つ手が無いのだとしたら、全く別の選択肢を選びたくな
るというものさ。それがたとえ盤上というくびきから逃れる、完全
にルール違反の一手だとしてもね。というわけでだ、あのリアルト
皇帝の定めたシナリオから逃れるために、一つ君に頼みたいことが
ある﹂
727
ユイはそう口にすると、クレハの側へと歩み寄り、そしてその耳
元でそっと耳打ちする。その内容を耳にした瞬間、クレハは目を見
開くと驚きの表情を浮かべユイの顔を見つめ返した。
のちに大陸の戦史において長く語り継がれることになる帝国と魔
法公国との戦い。そしてそれを引き金とし、ある英雄譚において決
して忘れられることのない事件は、この日この瞬間にその始まりを
告げた。
728
三家会議
フィラメント魔法公国。
西方一の魔法大国で知られるこの国家は、大賢者と呼ばれるフィ
ラメントの弟子達が作り上げた学園都市を母胎とする国である。
周囲の国家と異なり、国のトップとなる指導者は魔法王と呼ばれ、
この国の起こりに関わるフィラメントの三人の弟子の家から輩出さ
れる規定となっていた。
しかしながら、王といえどもあくまで国家経営はディオラム家、
ミラホフ家、マイスム家の三家の合議制によってなされており、こ
れまではこの三家の中での絶妙なバランスによってこの国は運営さ
れてきた。
そしてその三家の会議によって決まった方針を、魔法王は国の看
板として実行する役目を担うのである。そして四十五代目となる今
代の魔法王は、ディオラム家の当主であるメディウム・ディオラム
が務めていた。
﹁メディウム殿、ケルムの皇帝は我らになんと言ってきましたかな
?﹂
攻勢魔法の権威であるマイスム家の当主フィレオ・マイスムは、
魔法士とは思えぬ鍛え上げられた肉体をディオラムへと向け、彼に
問いかけた。
﹁我が国から輸出している魔石の値下げと、帝国内のフィラメント
関係者の公職追放を黙認すること。そして多額の賠償金とエベロリ
ムルの割譲だ﹂
729
忌々しげな表情を浮かべながらディオラムが帝国の突きつけてき
た条件を口にすると、フィレオは目を見開いて怒りを露わにする。
﹁エベロリムルの割譲だと! あの土地は我が国の貴重な魔石採集
地ではないか。そんな条件飲める訳ないだろう﹂
エベロリムルは魔法公国北部にあり、魔法公国内の魔石の四割を
同地から産出している土地である。
他の条件も決して二つ返事で飲めるものではなかったが、同地の
割譲は魔法公国の経済的死を意味する。それ故、フィレオはその条
件を耳にするなり眉を吊り上げると、椅子に座ったまま怒鳴り声を
上げた。
﹁落ち着きたまえ、フィレオ殿。連中はただ駆け引きをしておるの
だよ。おそらくエベロリムルの割譲などできぬ事は承知の上さ。そ
の上で、落としどころを探ろうとしておるに過ぎん﹂
﹁ぬう⋮⋮しかし、たかがスパイ騒ぎ程度で領土割譲まで迫ってく
るとは。やはり帝国の奴らは強欲すぎる。だから奴らは信頼できぬ
のだ﹂
なだめるメディウムの言葉を耳にしながらも、フィレオは怒りを
収めることができず目の前のテーブルを拳で叩く。
そんな緊迫した会議の空気の中、一人雰囲気を異にする人間がそ
こに居た。自分の右中指の爪をふやけるほどしゃぶりながら、時折
意味もなく引き笑いをする男。ミラホフ家当主のウイッラである。
彼は二人の男の話を指をしゃぶりながら耳にし、そして唾液を指
に纏わりつかせながら突然言葉を発した。
﹁ウヒッ。ウヒヒヒヒヒッ。ケルム⋮⋮魔法を冒涜する国家。あの
ような魔法を使うもの達は極刑に値するよ。その汚れた身体の血は
浄化されるべきだ。轢死、老死、爆死、経死、溺死、餓死、凍死、
730
圧死⋮⋮ウヒッ。どれも魅力的で迷うなぁ﹂
﹁⋮⋮ウ、ウイッラ殿! そう結論を急がれるな。確かに連中の
集合魔法は我が国として認めることはできんが、今回のようなトラ
ブルが起こったのも、そなたの家の独断専行が原因と言えるのだぞ﹂
メディウムは頬を引き攣らせながら、目の前のウイッラに対し、
釘を差すようにそう発言する。
一方、ウイッラの方は目の前の魔法王を一瞥すると、再びしゃぶ
っていた指から口を離し歪んだ笑みを浮かべる。
﹁三家会議記録の千八百七十二ページ。その二十四行目に﹃帝国に
対しては、機があれば弱体化を図るべし﹄とある。たった八十年前
に決まったルールを魔法王がご記憶されていない⋮⋮と?﹂
その言葉が男の口から放たれると同時に、あからさまな殺意を持
った魔力の奔流が会議室に立ち込めた。
少しでも魔法に携わる者ならば感知し得たであろう、力のないも
のならばその場で即座に昏倒しうるほどの重圧。それがウイッラの
全身からから止めどなく放出される。
一瞬で場の空気を変容させるほどのウイッラの狂気と魔力に、さ
すがのメディウムも動揺を隠せなかった。だが、彼は動揺する己の
心を必死に自制すると、平静を装って口を開く。
﹁それは当然知っている。ただし、あくまで決定事項は帝国の弱体
化を図ることであったはずだ。そこにはクーデターを画策するなん
て文言は存在しないことを、貴公も認識すべきだろう﹂
﹁素晴らしい! さすがは魔法王ですナァ! 帝国の皇族を抹殺す
ることが、彼の国の弱体化のためにならぬとは⋮⋮新しい。実に解
釈が新し過ぎて理解に苦しむ﹂
ウイッラの充血した瞳が、狂気を伴ってメディウムの姿を真っ直
ぐに捉える。
731
一方、メディウムはウイッラの方を努めて見ないようにしながら
も、いつ攻性魔法が放たれても対応できるよう、全身の神経を集中
させていた。
﹁誰もそんな事は言っておらん。ただやり方に問題があったといっ
ておるのだ。それ故に、我々はこのような帝国の要求に直面すると
いう事態になっている﹂
﹁セェェェンスレス! つまらぬ過去にばかり固執する、我らが平
凡で偉大過ぎる王よ。少しはこれからのことを考えられたらどうか
な。その並の頭で凡庸に考えてもお分かりだろう。帝国はすぐにで
もこの国に侵略してくる。それは時間の問題だ。ならば、我らが行
うべきことは一ツ! 叩かれる前に叩く、刺される前に刺す、撃た
れる前に撃つ、そして殺される前に⋮⋮殺すのだヨ。ヒャハハハハ
ハハハハハーーーッ﹂
感極まったウイッラは会議室の椅子の上で身を捩らせ、椅子から
転げ落ちる。しかし床に転げ落ちてもなお興奮冷めやらず、彼は床
の上を身悶えしながら笑い声を上げた。
﹁なっ! そ、それは帝国に侵攻するべきだと言っておるのか、そ
なたは﹂
思いにもかけぬウイッラの提案に対し、メディウムは目を見開い
て驚く。
すると、ウイッラは愉悦の表情となって立ち上がると、顔を片手
で抑えながら笑い声を口から漏らす。
﹁ヒャヒャヒャ、もしかしてそれ以外の何かに聞こえましたかな?
幸い例の準備はうちのモルモット君たち相手に十分行って、ボク
は何時でも彼等を虐殺できるヨ。ウヒヒヒ、それに戦の手配は既に
フィレオ君が始めたと聞いているし、これは素敵な殺しのウタが聞
けそうで、ボクの胸はもう今にも張り裂けそうサ﹂
732
両腕で自らの身体を抱きしめながら、ウイッラが身悶えつつそう
述べると、話をふられたフィレオも首を縦に振って口を開く。
﹁ああ、戦争は何時でも始められる。我が家は帝国連中の扱うよう
な生ぬるい魔法など使いはせんし、それにウイッラ殿の例の魔法が
加われば完璧だ﹂
﹁イイネ! イイヨ! ボクは負けることは嫌いだからね。ボクの
モルモット君たちを殺していいのは、ボクだけさ。帝国のゴミども
なんかに殺させはしないヨ﹂
元来好戦的なフィレオの性格を知悉していたウイッラは、歪な笑
みを浮かべながら、気色悪い笑い声をその場に響かせる。
﹁な! お主等、既に戦いの準備をしているだと? どういうこと
だ、まだ戦いが必要と決まったわけではない。まだ帝国の出方が決
まったわけでもないのに、開戦を行うなど時期尚早であろう﹂
﹁では、どの時期がもっとも我が国にとっての勝率を高めるとお考
えになられておるのですかな、メディウム殿﹂
メディウムの動揺する声を耳にしたフィレオは、すぐに責めるよ
うな眼差しで彼を睨みつける。
すると、そのあまりの眼光の鋭さに、思わずメディウムは言葉を
詰まらせた。
﹁そ、それは⋮⋮しかし、戦争を前提にした仮定を行うことでさえ、
やはり時期尚早だと言っておるのだ﹂
事態の収拾の仕方のみを模索し、戦争の可能性など想定していな
かったメディウムは、その問いかけに対し即答することができず、
首を左右に振ってこの議論自体を否定する。
しかしそんな彼の姿を目にしたウイッラは、甲高い笑い声をその
場に響かせると、メディウムの急所とも言うべき人物の名を口にし
た。
733
﹁アレ? アレアレアレ? キミ、なにか勘違いをしているんじゃ
なイ? 魔法王がそのように決断力の無いことでは困るよ⋮⋮ああ、
もしかしてキミ、自分の娘が帝国の首都であるレンドにいるから、
そのような事を言っているんじゃないカナ?﹂
﹁な、なに⋮⋮娘だと! 一体、どういうことだ﹂
予想だにしない言葉を吐きだしたウイッラを睨みつけながら、メ
ディウムは内心狼狽する。
そんな彼の動揺を見透かすように、ウイッラはニヤニヤした表情
を浮かべながらさらに言葉を重ねてきた。
﹁ヒャヒャヒャ、またおとぼけになっテ。あの忌まわしき魔法改竄
者の部下として、キミと同じ赤毛の魔法士が帝国のクラリス大使館
に入っているんだヨ。フフ、親子の愛とは美しいね。こんな素敵な
殺戮パーティーやこの国より、我が子を取ろうとするなんて。いい
話過ぎて、思わず反吐が出てしまいそうだよ﹂
﹁む、娘のことなど関係ない。いや、それ以前に禁呪を扱ったあや
つは、既に我が家を追放された身。娘でもなんでもないわ!﹂
想定外のカードを切られ、その場での形勢の不利を悟ったメディ
ウムは、ウイッラに対して彼なりの建前を口にして対抗する。
しかし、ウイッラはそんな彼を鼻で笑うと、各家の当主のみが行
える提案権を行使する。
﹁クックック、なら、問題無いネ。では、ボクのミラホフ家からの
提案として、いつもの通り採決としましょうヨ。さて、帝国への侵
攻に賛成される家はお手を上げて⋮⋮フフ、二対一だネ。ここに帝
国侵攻は可決されましタ。はい、オメデトウ!﹂
会議が始まってほんのわずか。その短時間の間に、フィラメント
による帝国への侵攻方針がここに決定された。
当事者の一人たるメディウムは、この決定が魔法公国の未来にど
734
のような影響を及ぼすのか考えながら、疲れたように言葉を吐きだ
す。
﹁⋮⋮こうなれば、もはや何も言わん。貴様等のもくろみ通り、魔
法王として宣戦布告してやる﹂
﹁ヒッヒッヒ、その意気ですヨ。では、今日の会議の議題はこれで
終了。ボクは帰ってお気に入りのモルモット君とおやつ食べないと
いけないから、失礼するネ﹂
そう口にするなり、ウイッラは引き笑いを続けたまま会議室から
立ち去る。そしてその姿を目にしたフィレオも、何も口にすること
なくそのまま席を立った。
そうしてその空間には、両肘をついて組んだ手に額を乗せるメデ
ィウムだけが残される。
﹁ナーニャ⋮⋮お前は今どうしているのだ⋮⋮﹂
様々なすれ違いの末に、彼と袂をわかった娘のことを口にすると、
メディウムは大きな溜め息を虚空へと吐き出した。
735
困った訪問者
﹁うわ、なんですかこの部屋⋮⋮僕がいなかったこの十日の間に何
があったというんですか?﹂
帝国内での小交渉を行うために、地方都市への出張を行っていた
フェルナンドは、この短期間の間に変わり果てたユイの執務室に足
を踏み入れて表情を引き攣らせる。
﹁ん? ⋮⋮おお、フェルナンドお帰り﹂
目の前の教え子の動揺など知った様子もなく、積み上げられた本
の合間から、この部屋の主は眠たげな表情のまま顔を覗かせた。
﹁お帰りじゃないですよ! なんなんですか、この書類と本の山は。
一体どうしたというんですか?﹂
﹁ああ、それね⋮⋮本に関しては、全部この国で購入した私物だよ。
さすがにクラリスとは一味違う品ぞろえがあって、実に興味深くて
さ﹂
フェルナンドの不在中、ユイは監督がいなくなったとばかりに仕
事を投げ出すと、毎日のように帝都内の古書店へ足繁く通っていた。
そこで彼はクラリスでは見たことの無い無数の本の山を目にして、
恍惚の表情を浮かべながら毎日のごとく大量の本を買いあさること
となる。そしてその結果として彼の部屋は、無駄に大量の本の山が
積み上げられ、他にも大量の書類が散乱し、床さえ見えぬ有り様で
あった。
﹁まったく人の目がなくなると⋮⋮って、ここに転がっている本は、
付加魔法の大家アドラーの書ですし、そこに適当に積まれているの
はエレンタムの魔法体系集じゃないですか。こんな貴重なものを乱
736
雑に⋮⋮いくら興味深いといっても、ものには限度というものがあ
るでしょ。というか、こんな高価なものをどうしたんですか? ま
さかとは思いますが、公費で購入していたりはしていませんよね?﹂
﹁えっ⋮⋮ダメなのかい?﹂
﹁ダメに決まっているでしょう! 一応、現地資料や文化を調べる
という名目で多少は公費で落とせますけどね、こんなに大量で無関
係なものとなると理由のつけようもありません﹂
数えるのもばからしいほど無駄に買い込んだ本の山を目にして、
フェルナンドは大きな溜め息を吐き出すと、目の前の上司をジト目
で睨む。
﹁⋮⋮フェルナンドのケチ﹂
﹁なんか言いましたか?﹂
子供みたいな事を口にするユイに対し、フェルナンドはわざと聞
こえなかったふりをする。
その彼の反応を目にしてユイはポリポリと頭を掻くと、複雑な表
情で書籍の山を見渡した。
﹁仕方ない。ならば、これは自分で何とかするとしようか﹂
﹁何とかって⋮⋮こんな膨大な量をどうするつもりなんですか﹂
大量に積み上げられた未決済の書類の束と相まって、ユイの執務
室はまさに紙の魔境と化している。
手近な範囲内だけで見渡すかぎりでも、フェルナンドにはとても
普通の役職手当ではまかないきれない金額が使用されていると判断
し、ユイの言葉の意味を問いただした。
﹁いや買った先がね、この国で最大の貿易商であるケンメル氏のお
店だったからさ。だから、取り敢えず手元にお金も無いし、物々交
換ができないか相談してみることにするよ﹂
﹁物々って⋮⋮ユイさん何か交換できるようなものお持ちでしたっ
737
け。もともと給料のほとんどを書籍に使っていると聞いていますし、
なにか貴重な書物でもお持ち何ですか?﹂
﹁待ってくれ、なんで私が自分の書物を差し出さなきゃいけないん
だい? はっきり言っておくけど、私の本は私の本だよ。そして世
界中に転がっている本は、いずれ私のものになる本なんだ。向こう
からこちらに来るのは良いけど、こちらから向こうにやるつもりな
んて毛頭無いさ﹂
なんの躊躇もなくユイが堂々とそう宣言すると、フェルナンドに
言いようのない頭痛が襲いかかり、彼は思わず右手で額を押さえる。
﹁⋮⋮じゃあ、一体何を交換する気なんですか?﹂
﹁そりゃあ、うちの名産品さ﹂
あっさりと答えたユイの言葉を耳にして、その意味が理解できず
フェルナンドはその場に固まる。そしてすぐに目の前の男がレムリ
アック伯爵であることを思い出すと、今回の取引相手の素性を踏ま
えて、ユイが口にした言葉の真の意図に彼は気がついた。
﹁名産品⋮⋮まさか本の代金という口実で、ケンメル氏と接点を持
つおつもりですか? つまり魔石の帝都における販路を広げるため
に﹂
﹁まあ、そこまでうまく行くとは考えていないけどね。正直言って、
五日間待ってもらっている代金を支払うことが先決さ。それが最優
先事項であることは事実だよ﹂
口ではそうは言いながらも、ユイは王都での販路拡大に苦労して
いるオメールセンに対し、一つの筋道を作ってあげることを脳内で
描いていた。もちろん純粋に本を手に入れたいという欲求も真実で
はあったが。
﹁はぁ⋮⋮なんか本当にあなたって、計算の上に動いている人なの
か、行き当たりばったりで動いている人なのか、僕には全くわから
738
なくなりましたよ﹂
ユイの言葉がどこまで本気で、どこまでが冗談なのかまるでつか
めないフェルナンドは、思考することを放棄して、その場で溜め息
を吐く。
﹁⋮⋮なんかあまり誉められている気がしないんだけど?﹂
﹁全くもって誉めていませんからね。それで取り敢えず本は置いて
おくにしても、こちらの書類の山はなんですか?﹂
本よりはその数は少ないものの、大地から根を生やしたように積
み上げれた何柱かの書類の柱にフェルナンドが視線を向けると、ユ
イは頭を掻きながらそっと視線を逸らす。
﹁ああ、それ⋮⋮ね。いや、それは君の分のお仕事﹂
﹁は?﹂
ユイが口にした言葉の意味が理解できなかったフェルナンドは、
口をぽかんと開けてただ一言言葉を発する。
そんな彼の反応に弱った笑みを見せながら、ユイは視線を逸らし
ながら言葉を続けた。
﹁いや、私が代わって上げても良かったんだけど、なんか不備があ
るといけないからさ。だから君がいない間の書類関係は、一応その
ままにして置いた﹂
﹁単純にめんどくさかったんじゃないですよね? というか、この
散らかし様はあの人にそっくりですよ﹂
今のこの部屋の状況が王都のある男の部屋と重なり、フェルナン
ドはあの師あってこの弟子ありとばかりに、溜め息を吐き出して呆
れ果てる。
すると、フェルナンドの発言が誰を指しているのかを理解したユ
イは、首を左右に強く振ってそれを否定する。
739
﹁おいおい、あの引きこもりの爺さんと一緒にしないでくれ。あの
部屋ほどは汚くないはずさ。うん、たぶん﹂
幽霊教授と同じ括りにされた事に対し、明らかに不満気なユイは、
自らの部屋の惨状を無視してそう口にする。
﹁はぁ⋮⋮これがクラリスの英雄だと言うんですから、困ったもの
です﹂
﹁まあ、人には得意、不得意というものがあるからね﹂
﹁こんな有り様を前にして、無駄に胸を張らないでください。とい
うか、そこの溜まっている書類の束ですが、ユイさんならこんな書
類仕事が不得意なわけがないでしょ﹂
もともとユイと共に研究を行ったこともあり、やる気さえあれば
目の前の男は事務作業もきっちりとこなせる男と言うことをフェル
ナンドは知っていた。それ故に、彼は不服さを隠しもせず、頬を膨
らませながら抗議する。
﹁えっと、だったらさ、向き不向きというものがあると言うべきな
んだろうね﹂
﹁ああいえば、こういうんだから⋮⋮﹂
目の前の男にまったくやる気がないことを悟ったフェルナンドは、
これ以上彼に向かって詰問することの無意味さを理解すると、諦め
の境地に達してどの山から取りかかるかを考え始める。
そうしてフェルナンドが覚悟を決め、最初の山を攻略しにかかろ
うとしたタイミングで、突然部屋のドアがノックされるとアレック
スが二人の前に姿を現した。
﹁ユイ、お客さんだよ﹂
﹁へ? 特に今日はだらだら本を読んで過ごす予定だったのに、客
?﹂
740
﹁今、本音がでましたね。さぼる気だったんなら手伝ってください﹂
ユイの言葉を耳にしたフェルナンドは、思わず棘のある口調でそ
う口を挟む。
﹁いや、今のは無し。お客さんに会わないといけないから、私は忙
しいんだ⋮⋮と言っても、この時間に来る客って、また彼じゃない
だろうね?﹂
最近頻繁に通って来る人物を脳裏に浮かべ、ユイはアレックスに
問いかけると、彼はいつものキツネ目をわずかに細めて首を縦に振
る。
﹁いや、いつもの人物さ。というか、もうここまで来ていてね﹂
﹁やあ、イスターツ。昨日ぶりだな﹂
アレックスが紹介をするまもなく、彼の背後から若い偉丈夫が姿
を現す。
するとその姿を目にしたフェルナンドは、手にした仕事の書類を
その場に落として、思わず目の前の人物の名を口にする。
﹁の、の⋮⋮ノイン殿下!﹂
ユイの執務室に軽い足取りで入ってきたのは、まがうこと無く帝
国の皇太子であるノイン・フォン・ケルムその人であった。
741
次期皇帝
﹁それで今日は何の用なんだい、ノイン?﹂
ユイは頭を掻きながら、何も言わず向かいの席に腰掛けたノイン
に訪問理由を問いかけた。
﹁おいおい、あんまりではないか。友人が用もなく茶を飲みに来て
はいけないのか、イスターツ﹂
﹁毎日毎日、こんな昼間に遊びに来るのはどうかと思うけどね⋮⋮
だいたい君は一応この国の皇太子なんだろう? その上、軍部を預
かる身だ。戦争前のこの忙しい時期に、無関係の国の大使館になん
て来ている暇はないと思うけど﹂
困った人物を見る目でユイがノインに視線を送ると、彼は悪びれ
もせず肩をすくめて見せる。
﹁もちろん忙しいさ。だけどその暇を割いて、こうして来てやって
いるんじゃないか。そのあたりを理解するのも、皇太子に訪問され
た国側の大使の仕事だと思うが﹂
﹁残念ながら、それは大使の給料の中には入っていないよ。もしそ
んなことまで仕事の内なんだとしたら、やはり私には向かない仕事
なんだろうね。早くクラリスに帰りたいものだよ﹂
﹁おいおい、その言い方だとまるでうちの国に不満があるみたいで
はないか。訂正を求めたいな﹂
﹁戦争前の国に居たい奴なんかいないさ。それはともかく、ノイン。
さっさと今日の本題に入るつもりはないかい? 私の昼寝の時間が
押しているんでね﹂
ユイは大きな溜め息を吐き出すと、椅子の背もたれに体重を預け
ながら返答を待つ。
742
そんなユイの態度を目にして、ノインは仕方ないとばかりにソフ
ァーで組んでいた足を組み替えると、ユイに向かって口を開いた。
﹁まあ本題を早く切り出せと言うならやぶさかじゃないさ。どうせ
頼んでも無駄な用件だしな﹂
﹁無駄? 一体、どんな難題を話しに来たんだい?﹂
﹁ああ。実は今度の魔法公国との戦いにおいて、お前の参戦を頼み
たい。今日はそれを伝えに来た﹂
何気ない頼みごとのようなあっさりとした口調で、ノインはと
んでもないことをさらりと言ってのけると、ユイはさすがに呆れた
表情を浮かべる。
﹁また、ストレートにきたものだね⋮⋮と言っても、答えは決まっ
ている。私は今回の戦いに無関係の国の大使なんだからね。当然答
えはノーさ﹂
﹁ほら、どうせそう答えると思った。だからすぐには言い出さなか
ったんだよ。これで私は軍議を抜けてここに来るための口実を、完
全に失ってしまったじゃないか﹂
﹁口実?﹂
ノインの言葉に引っかかりを覚えると、ユイは思わず眉をピクリ
と動かす。
﹁ああ、口実さ。ユイ・イスターツを味方に引き込むために、皇太
子自ら足を運んでいるというお題目のな﹂
恨めしそうな瞳でユイを見つめながら、ノインは道化がかった仕
草で両手を左右に広げる。
﹁なんていうか、まあ⋮⋮抜け出したいなら抜け出したいと正直に
言えばいいのさ。一日通して軍議をしたって、別に画期的な作戦案
が出るわけでもないんだからね﹂
743
﹁おいおい、そんなこと言えるわけが無いだろ。それに建前と言う
のは大事なんだ。お前も軍の所属ならそれくらいはわかるだろ?﹂
﹁そりゃあ、わからなくはないけどさ。でも別に息抜きしたいなら、
自室なり、王宮内の奥方の部屋なり、どこででも休憩すればいいじ
ゃないか﹂
ユイは目の前の人物に呆れながら、暗にたまには他のところで休
憩しろと告げる。
そんなユイの思惑など理解した上で、ノインは彼に向かってあっ
さりとその提案を跳ね除ける。
﹁ふん、別に俺の息抜きが目的ではないからな。俺があの城にいる
だけで、部下たちは気を使うし、伺いを立てねばならなくなる。そ
れに俺がいればあいつらが議論しづらい内容もあるだろうしな。た
まにはあいつらに自由に話し合える時間を作ってやることも大事な
んだ﹂
﹁それはそうかもしれないけどさ、部下たちに議論させるために、
他国の大使館に遊びに来るなんて話は聞いたこともないよ。しかし
まあ、城にいるだけでも気を使うなんて、偉くなるとは不自由極ま
りないものなんだね。まったく出世などしたくはないものだよ、本
当に﹂
目の前の男に対してやや憐れみの目線を浴びせながらユイはそう
口にすると、ノインは心外だとばかりに反撃する。
﹁おいおい、お前はクラリスから来ている中では最上位なんだ。は
っきり言ってやるが、俺とは逆の意味で、絶対お前の周りの連中は
苦労していると思うぞ。これは予想じゃなく確信だ﹂
最近ようやくユイの性格を掴んできたノインは、目の前の男が他
人ごとのようにのたまうことに対してすぐに苦言を呈する。
一方のユイは、脳裏に例外となる二人の赤髪を思い浮かべながら、
ノインに向かって言葉を返した。
744
﹁ふむ、うちの連中の中には私のことなんて気にしない例外も多そ
うだけど⋮⋮でもね、どちらにせよ私は私さ。今さらこの歳になっ
て、他の振る舞い様なんてできるはずもない﹂
﹁というか、何で俺たちは、周りが自分に対して気を使うかどうか
の話をしているんだ?﹂
﹁いや、最初に君が言い出したんじゃないか﹂
話を脱線させた張本人を残念な目線で見つめながら、ユイはため
息混じりにそう告げる。
﹁むっ⋮⋮そうだったか。まあ、この際それはどうでもいい。それ
よりもだ。まじめな話、本当にうちの軍を少しでもいいから手伝っ
てくれないか。軍の統括者として、正直お前の力は喉から手がでる
ほど欲しいんだ。例え無理だとわかっていてもな﹂
先ほど口にした時とは違い、明らかに真面目な表情を浮かべなが
らノインはユイに向かってそう口する。
しかしながらユイからの返答は、先ほどと大差のないものであっ
た。
﹁あのさ、無理だとわかっているなら素直に諦めてくれよ。だいた
い、私に手伝わせて何ができると言うんだい? たった一人手伝っ
たところで、今度の戦いの結果が変わるわけないだろ﹂
﹁そんなことはないさ⋮⋮何しろ数年前に完全な勝利を確信して、
侵攻のゴーサインを出した作戦を、たった一人の男にひっくり返さ
れたこの俺が言うんだ。こんな説得力有る勧誘はないだろ? そう
は思わないか、クラリスの英雄殿﹂
やや自嘲気味にそう口にしながら、ノインは苦笑いをユイに見せ
る。
その言葉の中に込められた意味に対して、ユイは弱ったように頭
を掻くと、肩をすくめながら返答を返した。
745
﹁あれはさ、たまたま条件がそろっていただけだよ。あんなこと二
度とはできないだろうし、試みるつもりも無いね﹂
﹁ふん。たとえ条件が整っていたにしろ、された側の当事者として
は、あんなことされたらたまったものじゃないさ﹂
﹁あのね、君は僕の所へ愚痴を言いに来たのかい?﹂
ジト目で自分を睨んでくるノインに対し、ユイは困った様に頭を
三度掻く。
﹁いや、また少し話がそれたな。私の悪い癖だ。どうも親しいもの
と話すと、話の本筋を見失ってしまう﹂
﹁親しいもの⋮⋮ね﹂
﹁いや、こうやってお前と話すようになるまで、クラリスのユイ・
イスターツという男は悪魔か何かと思っていたんだ。その時は、ま
さかその悪魔の中身が、こんな適当な男だとは夢にも思わなかった
さ﹂
この部屋を訪れる度に、明らかに増加していく書類と本の山を見
回しながら、ノインは首を左右に振りつつ苦笑する。
﹁あのさ。他国の外交大使に向かって、適当はないだろ、適当は﹂
﹁じゃあ、違うというのか? 私が来る度にこんなに処理すべき書
類の束が増えているというのに﹂
手近にあった山から一枚の書類を取り上げて、ノインは呆れたよ
うにそう口にする。
﹁おいおい、勝手に見ないでくれよ。うちの国の機密文書も混じっ
ているんだから﹂
﹁だったら、見られないように機密文書くらいはちゃんと管理しろ
よ﹂
﹁これは部下のために残している仕事だからね。私がなんでもして
746
いたら、彼らの仕事がなくなってしまうだろ? 私は部下を失業さ
せたくはないんだ﹂
明らかに取ってつけたような言い訳をユイは口にすると、ノイン
は肩をすくめながら目の前の男に向かい苦言を呈する。
﹁やはりお前の周りの連中は苦労しているぞ。これは確信じゃなく
確定だ﹂
﹁それはきっと、君の周りもだよ。ノイン﹂
自分とは対照的に、基本的には非常に細かい性格のノインに向か
い、ユイは溜め息混じりにそう述べる。
﹁はは、まあ確かに⋮⋮な。しかし明日からどうしたものかな。こ
こに来る理由を失ってしまったら、本当に愚痴を聞いてもらう先が
なくなってしまう﹂
﹁やっぱり愚痴を吐くのが主目的だったのかい? まあ、どうせそ
んなところだと思ったよ。だけど、愚痴を吐く相手くらいなら、私
の他にもいるんじゃないかい?﹂
﹁あのな、この私に対してそこまで砕けた物言いをするのは、父を
除けばこの国でお前くらいなのだぞ。戦争を前にして、他の奴に愚
痴など聞かせられるものか﹂
表向きは抗議するかのような内容ではあるも、ニヤニヤとした笑
みを浮かべながらノインはそう述べる。
その言葉を耳にしたユイは、あまりぴんとこない表情をしながら、
彼に向かって言葉を返した。
﹁ふむ、そう言うものかなぁ。まあ、別に君が来ている間は書類仕
事をせずに済みそうだから、別に愚痴を聞くくらいは構わないんだ
けどね。でも正直言って、王族や皇族の悩みなんてわからないよ。
何せ根が庶民だからさ﹂
﹁今はお前も貴族だろう。それも我が国の明日を左右できるだけの﹂
747
自国の弱点を握っている目の前の男にノインはそう口にして笑い
かけると、ユイは両手を左右に広げる。
﹁私自身には実感がないけどね﹂
﹁なるほど、そう言うものか。だとしたら⋮⋮いや、だからお前は
強いのだな﹂
﹁⋮⋮一体、何を言っているんだい?﹂
突然ノインが言い出した言葉の意味が分からず、ユイはいぶかし
げな表情を浮かべて首を傾げる。
﹁わからんか、お前にはお前を縛るバックボーンがないという事だ。
それがお前の自由さや強さ、そして魅力なんだろうな﹂
﹁そんなものかなぁ。どちらにせよ、私にはわからないさ。自分の
ことはね﹂
ノインの発言に対し、ユイは二度首を左右に振り、肩をすくめる。
﹁お前には嫉妬しているんだよ。私は名目上は皇太子だがな、あま
り父に誉められた記憶がない。しかも最近は、私のことなどよりお
やじ様は別の者に夢中なのだ。嫉妬したくなるのも当然だと思わん
か﹂
﹁男の嫉妬はみっともないよ。というか、誰に夢中なんだい、あの
茶飲み親父さんは﹂
﹁お前だよ﹂
﹁まったく⋮⋮私にはその手の趣味は無いのだけどね﹂
予期はしていたものの、改めて予想通りの言葉を述べられたユイ
は、困った表情を浮かべて話を逸そうとする。
するとその反応を目にしたノインは、満足そうな表情を浮かべな
がら、口を開いた。
﹁おいおい、馬鹿かお前は? お前の人柄や能力に夢中だと言って
748
いるのだよ﹂
﹁そう言われてもね⋮⋮さっき君が言ったことじゃないけど、正直
言って私はこの国の敵みたいなものだよ﹂
その場の会話の主導権を握っているという余裕からか、ノインが
ニヤニヤした表情を浮かべていることに気がつくと、ユイは皇太子
という肩書を身にまとう子供っぽい青年に対し呆れた表情を浮かべ
る。
﹁ふふ、だからこそだ。だからこそ、他の誰よりも痛い目を見た我
が国が、そしてそのトップである父が貴様を評価しているというわ
けだ。娘のミリアを嫁がせようと考えるくらいにな﹂
思わぬタイミングでノイン口から吐出されたこの爆弾には、さす
がのユイも絶句して口をぽかんと開ける。
そして幾ばくかの時間の後に、ユイは苦い表情を浮かべると、や
や低い声でノインへと問いかけた。
﹁⋮⋮やはり本気なのかい?﹂
﹁既に会ったのだろう、あいつとは﹂
﹁ああ、二回ほど⋮⋮ね﹂
﹁あいつは他の姉たち以上に、親父さんに溺愛されているからな。
パーティーの席など、不特定多数の人数がいる場を除けば、これま
では身内以外の男などに一人たりとも会わせることはなかったんだ。
それが親父さん同席の上とはいえ、一対一で会ったのだろう。普通
はありえんことだよ﹂
ノインは目の前の男の余裕のなさを心底楽しんでいる表情を浮か
べ、満足そうにそう言い放つ。
﹁そう言われてもねぇ⋮⋮正直言って、今の段階では身分が吊り合
わないだろう?﹂
﹁身分など関係ないさ。別にお前ならな。それに俺としても、あい
749
つがお前と結婚するのは構わん。お前みたいな義弟ができるのも楽
しそうだからな﹂
追い打ちのようなその言葉に対し、ユイは露骨に頬を引き攣らせ
ると、頭を掻きながら否定する。
﹁勘弁してくれよ。せっかく気楽な独身生活を謳歌しているんだ。
今はそんなつもりはないよ﹂
﹁でも恋人さえいないんだろう?﹂
﹁いないんじゃなくて、作らないだけさ⋮⋮って、なんでそんな事
まで君が知っているんだい﹂
自らのプライベートな情報を、他国のそれも皇太子が知っている
という事実に、ユイは眉間に皺を寄せる。
﹁うちの諜報部は優秀だからな﹂
﹁あのさ⋮⋮そんな優秀な人材を、私のプライベート調査なんかに
使うなよ﹂
心底呆れたような表情を浮かべながらユイはそう告げると、ノイ
ンは肩を揺すって笑い出した。
﹁はは、すまないな。一応断っておくが、お前の素行を調査させよ
うとしたのではなくて、お前に四六時中張り付かせていた連中から
の報告に、ただ情報として入っていただけだよ﹂
﹁調査対象に、お前のことを調べていると言ってどうするだい、全
く﹂
﹁まあ、それもそうなんだが、それぐらいはどうせうち以外からも
されているだろ? それにあまり詳しい調査をしようとすると、お
前の周りにいる怖い赤髪の男や例の普段は姿を見せない黒髪の女に、
大事な調査員が消されてしまうからな。正直な事を言えば、その程
度の報告くらいしか上がってこないんだよ﹂
全く持って調査対象に伝える内容では無いことを口にすると、ノ
750
インは目の前の冷め始めたコーヒーに口を付けた。
その姿を目にしたユイは、吐き出しかけた文句を飲み込むと、自
らを落ち着かせるように目の前のコーヒーを一気に飲み干す。
﹁⋮⋮以前、君は私と気質が似ていると言ったけど、あれは撤回さ
せてもらうよ。考えていた以上に、君は困った人だ﹂
﹁おいおい、それは間違いだろ。やはり俺たちは能力を除けば本当
によく似ている、その内面がな。ふふ、それにこんな話はおまえ以
外のところではしないさ。そこがやる気なしと呼ばれるお前と違う
ところだ。はっきり言って、世間一般では俺の方が数百倍はまとも
だと思われているからな﹂
﹁そんな外面の競い合いをして、なんの意味があるんだよ⋮⋮まっ
たく﹂
ユイが両腕の力が抜けたように地面に向かってダランと下げると、
大きな溜め息を吐き出した。
﹁はは、やはりおまえと話しているとおもしろいな。まあそれはそ
れとしてだ。直接手伝うのがダメだとしたら、作戦案の相談ぐらい
はのってくれるよな?﹂
﹁またか⋮⋮昨日も南部のエーデミラス城塞への補給計画立案を手
伝ったところじゃないか﹂
昨日もなんだかんだ言いながら、この部屋に長居して作戦案の詰
めを手伝わされたことを口にし、ユイは目の前の男に向かいジト目
を向ける。
﹁おいおい、そう言うなよ。俺とお前の仲じゃないか﹂
﹁どんな仲だよ。まったく⋮⋮それで、今日は何を私に考えろと?﹂
呆れたような表情を浮かべながら、ユイは二度頭を掻く。
一方、その仕草を目にしたノインは苦笑をしながらも、遠慮する
ことなく口を開く。
751
﹁おお、聞いてくれるか。では、遠慮なく話させてもらう。今回の
戦いでおそらく最初に奴らとぶつかるのは南部にあるエーデミラス
城塞と考えているのは先日話したとおりだ。そこに我が軍の南部方
面軍と帝都の魔法士隊を全て動員するつもりでいる﹂
﹁帝都の魔法士隊と南部方面軍だけか⋮⋮つまり緒戦で全軍を投入
するつもりはないというわけかい?﹂
﹁無理だな。我が国の隣にあるあの国に隙を見せる訳にはいかない。
例え奴らが愚鈍な亀であろうと、奴らの軍部までがそうだとは限ら
ないからな﹂
大陸西方にある二大大国のもう片割れであり、帝国の東に位置し
ている民主国家のことを脳裏に浮かべながら、ノインは首を左右に
ふる。
昨日と同じその回答を耳にしてユイは頭を掻くと、彼は具体的な
作戦案に言及した。
﹁確かに⋮⋮ね。それで一つ確認しておきたいのだけど、帝都から
送る魔法士たちは︱︱﹂
﹁ああ、もちろんグレンツェン・クーゲルを扱える部隊だ。少し編
成に時間がかかっているが、我が軍の主力と言ってもいい﹂
﹁なるほど、魔法士部隊を再建したというわけだね。ふむ⋮⋮確か
に切り札である彼らを優先して初戦に投入するのは私も正しいと思
う。キスレチンを除けば、この国に対して別ルートからの侵攻の可
能性も低いだろうしね。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
わずかに言いよどんだユイの言葉に、ノインはわずかに前かがみ
となると先を促す。
﹁増援として送るなら、魔法士の単独編成は危険だな。今回は敵も
魔法士だ。魔法士ゆえの欠点も知り尽くしている。早期に合流して、
752
城塞内に全軍が収納できるのなら話は別だろうけど、あの城塞はそ
んな規模では無かったよね。そうなると、軍の一部は城塞外に配置
しないと意味が無い。そしてあの集合魔法の性質を考えると、彼ら
は真っ先に外に配置することになるはずさ。だからこそ、彼らが各
個撃破の的にされることを一番に留意すべきだろうね。そしてそれ
ゆえに、出来る限りの護衛部隊を、彼らには付けさせるべきだと思
う﹂
﹁護衛部隊をか⋮⋮うむ、それはそうだが﹂
ユイの発言が正論であることはノインにも理解できていた。しか
しながら、彼は先程も言及した懸念事項があるがゆえに、ユイの提
案に対し言葉を濁す。
﹁キスレチンに対する予備兵力を置いておきたい気持ちはわかるさ。
だが、彼らには彼ら向けの対処の仕方がある﹂
﹁キスレチン向けの対処?﹂
ユイのその言葉を耳にして、ノインは目をわずかに光らせる。
﹁ああ。キスレチンの指導者たちは、あくまで国民の代行として、
人民の支持のもとに政治を行っているというお題目を掲げなければ
ならない。何しろそれこそがあの国の理念なのだからね。そしてそ
こにこそ、付け入る隙がある。そうだね、もし私ならば︱︱﹂
既に先手を打っている可能性のあるこの国の支配者のことを脳裏
に描きながら、ユイはノインに向かい一つのプランを口にした。
その内容を耳にしたノインは、喉の渇きを強く覚える。そして、
口の中に残る僅かなつばを集めると、彼は乾ききった喉の奥へと流
し込んだ。
753
ミリア
レンド城の奥深くに位置し、一人の美しい女性を主とする一室。
その部屋の主であるミリア・フォン・ケルムは、まだ遠い冬に向
けて鼻歌を歌いながら、部屋の椅子に腰掛けつつ毛糸の織物をして
いた。
自らの作品があと何日で形になるかと考えながら、彼女は大きく
一度伸びをする。
すると、そのタイミングで部屋のドアが突然ノックされた。
﹁すまんがミリア、失礼するぞ﹂
﹁あら、お父様? こんな時間に珍しいですね。どうして、こちら
へ﹂
ノックの後に部屋に入ってきた訪問者を目にして、ミリアは意外
な表情を浮かべて目を丸くする。
﹁おやおや。父親がかわいい娘のところへ会いに来ることが、そん
なに意外かね﹂
﹁そう言うわけではありませんが⋮⋮今は御政務がお忙しいのでは
ないのですか?﹂
普段から娘に対して変わることのない優しい笑みを浮かべる父で
あるが、この日に限ってはその笑みの中にわずかな陰りを感じる。
それ故に、ミリアは目の前の父から言いしれぬ不安を覚えた。
﹁ふふ、ちょうど休憩の時間だよ。その束の間の休息を、娘と茶で
も飲みながら過ごしたいと思うのはいけないことかね?﹂
﹁いいえ、そんな事ありませんわ。どうぞこちらへ﹂
754
リアルトの言葉を受けて、ミリアは気遣うような笑みを浮かべる
と、自らの向かいの席へ父を招く。
﹁うむ。そうそう、先日の茶会は東方の茶を飲み損ねたのでな。ほ
れ、今回はこうして予が自ら煎れてきた﹂
﹁あらあら。ふふ、ありがとう、お父様﹂
昔から意外と不器用であった父が、自ら茶を入れている光景を思
い浮かべて、思わずミリアは苦笑をこぼす。
一方リアルトの方も、その愛娘の反応を目にして、つられる様に
苦笑いを浮かべた。
﹁なに、かまわんさ。どうだ、最近変わったことはないかね﹂
﹁いいえ、特にありませんわ。それを言うなら、お父様は今がお忙
しい時期なんでしょ。噂ではまた戦が始まると聞いていますけど⋮
⋮﹂
﹁うむ⋮⋮残念ながら事実じゃ。お前には心配をかけるな﹂
リアルトは大きな溜め息を吐き出すと、ミリアに向かって申し訳
なさそうな表情を浮かべる。
﹁いいえ、私は皇室に生まれた身です。お父様がこの国を守るため
に戦をお決めになったのならば、私はただそんなお父様を信じるだ
けです﹂
﹁ありがとう。しかしお前の本当の気持ちは顔に書いてあるよ⋮⋮
お前は本当に優しい良い子に育ってくれたな﹂
ミリアの戦に対する不安を、その表情から読みとったリアルトは、
愛娘に向かって申し訳なさそうに言葉を発する。
﹁そんなことは⋮⋮﹂
﹁お前には、いやお前たちには本当に苦労をかけておる。だが、予
の背にはケルム全土の民の命が乗っておる。今はまだ立ち止まるこ
755
とはできんのじゃ。許してくれ﹂
﹁お父様。お父様の気持ちは分かりましたから。さあ、お茶が冷め
てしまいます。せっかくの東方のお茶なんです。もったいないです
よ﹂
父の謝罪などこれ以上は不要とばかりに、ミリアが茶を勧めるこ
とで話題を切り替えようとする。
その彼女の心遣いに対してリアルトは思わず感じ入り、わずかに
弛緩した表情となる。
﹁おお、そうじゃった。すまんすまん、今から入れるでな﹂
そう口にすると、リアルトはカップに向かってポットから茶を注
いでいく。
すると、カップへと注がれたその緑の色みを帯びた茶は、普段口
にする紅茶と異なり、やや弱いながらも柔らかな香気を周囲に拡散
させた。
﹁不思議な香り。これが緑茶というものですか。あの方の母君の香
りですね﹂
﹁あの方⋮⋮か。それはイスターツのことじゃな?﹂
ミリアの言葉を耳にして、この国とは決して切り離して考えるこ
とができない他国の英雄の事を脳裏に浮かべると、リアルトは確認
するようにそう問いかける。
父のその言葉を耳にしたミリアは、言い当てられた気恥ずかしさ
のためか、僅かに頬を朱に染めた。
﹁ええ。お父様が同席の上で、初めて私に紹介してくださった男性
です。つまりはそういうことなんですよね?﹂
目の前の父の反応とその表情から、ミリアはリアルトの考えを予
測し、あえて一歩踏み込んだ内容を口にする。
不意打ちの如きその発言に、さすがの皇帝も驚きの表情を浮かべ
756
ると、思わず言葉を詰まらせた。
﹁⋮⋮お前は本当にいい子に育ったが、少し聡くなりすぎてしまっ
たな。正直なことを言えば、まだ何とも言えぬ。ただし否定はせん﹂
リアルトは自らの脳内で描いている絵を、未だミリアに直接口に
したことはなかった。しかしながら彼の溺愛する愛娘は、既に彼の
描いている計画を、自らに対してのみ不器用な父から汲み取ってい
た。
﹁私は別に構いません。と言うより、下手をすればあの茶会の日に
私は命を失っていたかもしれないんです。むしろ喜んであの方の下
へいかせて頂きますわ。そう、むしろ喜んで﹂
胸に手を当てて頬をさらに赤くしながら、ミリアはそう口にする。
その彼女の表情を目にしたリアルトは、初めて見る娘の反応に戸
惑いを隠せなかった。
﹁ミリア?﹂
﹁ふふ、そんな顔をされないでください、お父様。これは皇室に生
まれた女性の定めです。それにお姉さま達は、決して自分から望ん
だ結婚ではありませんでした。なのに、私にはあんな素敵な方を選
んで頂いたこと、むしろお父様に感謝しています﹂
いつもと変わらぬ美しい花の様な笑み。
そんな微笑みをミリアが浮かべると、リアルトは再び言葉を詰ま
らせる。そして首を二度左右に振り一度目をきゅっとつむった後、
彼は彼女に向かって声を発した。
﹁そうか⋮⋮そう言ってくれるか。ならば、もはやこの父は何も言
わん。その可能性があると、それだけを心に留めておいてくれ﹂
そのリアルトの言葉を耳にしたミリアは、表情を表に出さないよ
う両手を口に当て、そして一度だけ小さく頷く。
757
そうしてお互いの瞳を見つめ合ったリアルト親子は、どちらとも
なく無言のままゆっくりとそれぞれの緑茶へと手を伸ばした。
﹁あの子は本当に過ぎた妹ですよ、陛下﹂
愛娘との茶会を終えてリアルトが彼女の部屋を出てくると、廊下
の壁に背を預けながら、一人の男が彼を待っていた。
﹁ノイン⋮⋮か。それでイスターツの方はどうであった?﹂
彼らしからぬ感情的な思いからミリアに関する話題は意図的に避
け、リアルトはノインの会いに行った対象のことだけを問いかける。
﹁基本的には非干渉を貫くと宣言しております。ですが、十分に奴
を巻き込む余地はあるかと﹂
ノインは両手を左右に広げてニヤリと微笑むと、リアルトは感心
したように一つ頷く。
﹁ほう⋮⋮それは僥倖じゃ。しかし、なぜそう思った﹂
﹁思っていた以上に、彼とは話が合いましたからね。決して優柔不
断な男ではありませんが、なんだかんだと言って彼にはなんの益も
ない私の質問にも、丁寧に応じてくれています。キスレチンに対す
る対処法までご丁寧にね﹂
﹁なるほど、やはりあやつもそこが急所であると考えておったか。
それで、あやつはなんと?﹂
顎に手を当てながら、視線をわずかに鋭くするとリアルトはノイ
ンに向かいそう問いかける。
758
﹁あの国の第一党である自由都市同盟。その最大派閥であるフェリ
アム派の議員に金をばらまけと﹂
﹁ふむ、たしかに悪くはない。だが、あの男がそんな当たり前の策
をお前に授けるとも思えんな﹂
﹁ええ、彼はこう言いました。﹃ただし我が国が金をばらまいたこ
とを、他の政党や派閥にバレるようにするのが望ましいね。そして
もしそれでも彼らが気づかないようなら、こちらからリークしてあ
げるべきだろうね﹄とです﹂
肩をすくめながらノインがそう告げると、リアルトは納得した表
情となり一つ頷く。
﹁なるほど、今更我が国とあの国の関係は良くなりようもない。な
らばせいぜい悪評を利用して、奴ら同士で共食いをさせるというこ
とか﹂
﹁ええ、その通りです。もちろん我が国の干渉に対して怒り狂い、
国が一つとなって拳を振り上げてくるならば逆効果もいいところで
しょう。ですが、あの国が一つにまとまるなんてあり得ませんから
な。たしかに奴の策が嵌まれば時間は稼げるでしょう。何しろ煩わ
しい議会などというものを通さねば、何ひとつできやしない連中で
すから﹂
﹁ふむ、それは確かにそうだが⋮⋮ああ、なるほど。あやつの真の
意図が読めた﹂
一瞬、考えこむ仕草を見せると、リアルトは次の瞬間苦笑いを浮
かべた。
﹁真の意図⋮⋮ですか?﹂
﹁ああ。ノインよ、あやつの策が上手く行った場合、さてさてどの
国が最も益を得るかな?﹂
そう口にしたリアルトは、値踏みするかのような視線をノインへ
と向ける。
759
﹁なるほど⋮⋮そういうことですか。さすがというべきか、狡猾と
いうべきか﹂
リアルトの問いかけを受けて、ノインはようやくこの策がもたら
す副次効果へと思いが至る。
﹁まあ、逆に言えば、それゆえにこの策は信用に足るといえようが
な﹂
﹁全くもって、そのとおりですね。自らの手を汚さずに、我が国に
汚れ役を引き受けさせた上で、隣国の力を削ぐことができる⋮⋮で
すか。まあこの際、奴の国にとって多少益があることくらい目をつ
ぶりましょう。全てにおいて満点というわけには、なかなか行きま
せんからな﹂
軽い笑みを浮かべながら清濁併せ呑むとも言うべきその案を、迷
いなく受け入れると述べたノインを目にして、リアルトは満足げに
頷く。
そしてわずかに感慨深げな表情を浮かべると、自分だけにしか聞
こえないほどの小さな呟きを発した。
﹁ふむ⋮⋮どうやらお前も一皮むけたようじゃな﹂
﹁は?﹂
以前のノインであれば、ユイの提案や思考が彼の上を行き、そし
てその上で踊らされていたと考えて悔しさを隠さなかったであろう。
しかしそんな彼が、ユイの提案の真の意図を理解しても、あえて
それを受け入れるという度量を見せたことに対して、リアルトはそ
れを高く評価する。
﹁なに、独り言じゃ。しかし、やはりあやつには首輪をつけておく
べきだろうな。なにしろあやつを巻き込むのは、今回の戦いにおけ
る我らの奥の手じゃ。もちろん基本的に予達だけで勝てるのならば、
760
わざわざ奥の手を舞台に登場させて、あの男に借りを作る必要はな
いがな﹂
﹁はい。一時はクラリス向けの部隊を中心に魔法兵が激減しており
ましたが、ようやく集合魔法を使うだけの最低限の人員は確保でき
ました⋮⋮ただ残念ながら質は以前より劣っておりますが﹂
ノインはやや不満そうな声でそう口にすると、大きな溜め息を吐
き出す。
すると、リアルトは彼をなだめるように、苦笑いを浮かべながら
口を開いた。
﹁仕方有るまい。我が国の魔法兵の中でも特に精鋭の者達を、こと
ごとくあの男に壊滅させられたのだ。今更こぼれたミルクを嘆くこ
ともあるまいよ﹂
﹁確かにおっしゃるとおりです⋮⋮ですので、軍を預かる私として
は、現在の状況にて最善と言える体制を整えさせていただきます﹂
﹁うむ。ならば予はあやつの策を踏まえ、クラリス以上の目の上の
たんこぶを動かさぬよう尽力するとしようか。それに他にも準備を
進めねばならぬこともあるしな。今回の戦いは、お前に一任する﹂
大陸西方においては帝国と並び称される共和国を引き受けること
を明言し、リアルトは彼の息子に今回の戦のことを託した。
﹁はっ、それでは﹂
リアルトの信頼を受けて、ノインはわずかに表情を明るくさせた
後に頭を下げる。そして彼は意気揚々とリアルトの下から歩み去っ
ていった。
﹁ようやく予の後継者たる器と成り始めたか。じゃとしたら、予は
お前が軍に専念できるように、完璧にあの国を弄んでみせんといか
んな。キスレチン共和国の民主主義者どもをな﹂
761
有る晴れた日に
快晴の青空の下、明らかに普通の装いの軍隊と異なる一団が、群
れをなして都市から歩んでいく。その一団の中で行進する兵士たち
は、他国の軍隊とは異なり、魔法士が好むローブ姿のものが目立っ
た。
そしてその行軍する一団よりわずかに離れた小高い丘の上に、三
人の人影がある。魔法王メディウム・ディオラム、そしてフィレオ・
マイスムとウイッラ・ミラホフという御三家の当主たちであった。
﹁ふふ、メディウム殿。如何かな、我がマイスム兵団のこの規律は﹂
自らの魔法学校出身である兵士たちに視線を向けながら、誇らし
げにフィレオは胸を張る。
たしかに彼が主張するように、彼の率いる黄土色に武装を統一さ
れた魔法士の一団は、群青色のディオラムや深緑色のミラホフの兵
団よりもその行軍に覇気と規律を感じさせていた。
﹁確かに、貴公の軍が最も練度が高いようだな⋮⋮元より期待して
おるよ、フィレオ殿﹂
﹁うむ、任せておけ﹂
メディウムの発言に気を良くしたフィレオは、顔に喜色を浮かべ
ると満足そうに一つ頷く。
﹁まあこういう戦いにおいては、あくまで我らディオラムはサポー
ト役に過ぎん。貴公の軍がこの戦いの主役となることは自明のこと
だろう﹂
フィレオに対してそう口にしながら、メディウムは彼には悟られ
762
ぬように小さな溜め息を吐き出す。そして口を閉じた彼は、やや苦
い表情を浮かべながら今回出征する兵士達を眺めやった。
フィラメントとして今回戦場に動員する兵数はその数二万。
もちろんそのほとんどは常設兵ではなく、彼らの国で魔法業を励
んでいるものばかりである。しかしながら大陸西方のどの国家であ
ろうと、これだけの質を有する魔法兵を動員できる国家は他に存在
しない。
それ故に、これまで帝国と何度かのいざこざは起こってきたもの
の、彼等もフィラメントへの全面侵攻だけは見送り続けていたので
ある。
﹁しかし今回の戦いの相手が、あの帝国の軟弱魔法兵どもでは、我
が兵達にはいささか物足りんかもしれんな。まあ格の違いというも
のを教えるのも悪くはないが﹂
フィレオは胸を張りながら、自信に満ち溢れた笑みを浮かべる。
すると、それまで定まらない目つきで、歪な笑みを浮かべながら
右手の中指をしゃぶっていたウイッラは、急に身震いするとその場
にいる二人に向かって言葉を発した。
﹁ヒュウゥゥゥゥ、戦闘の指揮は誰が取る? それとも指揮なんか
いらないかい? それも一興だァ⋮⋮いつだってそうしてる。外か
らゴミが⋮⋮﹂
ウイッラは話している途中であったが、急に空を流れる雲を眺め
て黙りこくった。
突然雰囲気を異にしたが故、不気味に感じた二人はウイッラの顔
を覗きこむ。
﹁⋮⋮ウイッラ殿?﹂
フィレオが恐る恐る声をかけてみると、ウイッラは口の中に指を
763
咥えたまま頭を捻った。
﹁廃棄物は処理にかけられるべきなんだ、踏み潰して磨り潰して焼
き尽くさなくっちゃ。でもでもでもでもッ、もし万が一ひょっとし
てボクのモルモット達がそのゴミに潰されるようなことがあったら
ッ⋮⋮あったらッ⋮⋮! ヒヒヒッ﹂
部下や教え子、そして自らの魔法学校に関わるもの全てをモルモ
ットと評するウイッラは、急にうずくまると、地面の土を素手でか
きむしり始めた。
﹁許せないよなァ、許せるわけがないよなァ? ゴミがッ! ゴミ
がァッ!﹂
あまりにも力強く大地をえぐろうとしたが故に、ウイッラの手の
爪は剥がれかけ、そして赤い血の滴が大地へと落ちる。しかしそれ
でも彼はその手の動きを止めない。
彼の異常性をよく知りながらも、思わず口を開けて眺めることし
かできなかったメディウムであったが、ウイッラの出血が増しつつ
有ることをみかね、治療魔法を唱えようと声をかけかける。
そして彼が口を開こうとした瞬間、ウイッラは不意にピタリと動
きを止めると、頭だけを後ろ向きに捻った。
﹁大丈夫だよネ? ボクのモルモット達は、ゴミ共なんかには、そ
う汚らわしいゴミどもなんかには潰されたりしないよナ?﹂
思わぬタイミングで声をかけられたメディウムは、その狂気の混
じった陰湿な目から視線を外すと一拍の間をおいた後に一つ頷く。
そしてもう一人の当事者であるフィレオは、そんな気圧された体
のあるメディウムへ向けて口を開いた。
﹁まあ普通に戦っても負けはしないが、ウイッラ殿のお気持ちと同
様に、我が部下たちにも不要な犠牲を強いたくはない。どうだ、デ
764
ィオラム殿。魔法王たる卿は後方から戦いを観覧頂くこととして、
貴公の軍の指揮権を私に任せるつもりはないか?﹂
﹁サポート役の我らディオラム兵が単独集団で行動しようとも、戦
況にあまり益をもたらさぬのは事実だな⋮⋮いいだろう。この戦い
において、我が軍を卿に一任することに関しては、別に異論はない﹂
ディオラム家は回復魔法や支援魔法における大家として知られる
家柄であり、そしてそれに特化した魔法学校を有している。
もちろんディオラム家も魔法の名門であるがゆえに、中には攻勢
魔法を扱う者も少なくはない。しかしながら、やはりその規模とい
い技量と言い、残りの二家、特にマイスム家に属する者と比較する
と大きく見劣りすることは事実である。
そしてそれ故に、ディオラムの今回の戦いにおける役割は、主に
後方支援に活用されるべきというのが衆目の一致する見解であった。
﹁うむ、では一任されよう。さて、ウイッラ殿はいかがかな?﹂
﹁ヒャッヒャッ、ボクの部隊は今回の戦いの正に切り札だからネ。
だから全体の動きの中で適切に投入することが肝要サ。まあそう言
うことなら、不本意だけどうちのモルモット君たちを君に預けてあ
げてもいいヨ。でももし無駄に死なせることがあったら⋮⋮﹂
﹁だ、大丈夫だ、ウイッラ殿。多少の犠牲はともかく、貴公の部隊
を無駄に消耗する気はない﹂
﹁⋮⋮なら、イイんだけどネ。ヒャッヒャッヒャッ﹂
まるで裏声のような甲高い声で笑いながら、ニヤニヤした笑みを
浮かべてウイッラもフィレオの指揮権を承認する。
ここに至り、ようやく今回の戦いにおける責任者が決められた。
﹁ま、まあ、おまえ達の兵を無駄に消耗させることなど無いから安
心してくれ。あくまで先陣は我が兵達が駆け抜けるのでな﹂
二人の軍の指揮権を移譲されたフィレオは、彼らを順に目にして
大きく一度頷くと、自らの軍の働きを約束する。
765
﹁先陣を駆け抜ける⋮⋮か。しかし噂では、帝国軍はエーデミラス
城塞に籠もって、防衛戦を行うつもりだと聞いているが?﹂
フィレオのやや自信過剰な反応にわずかな危惧を覚えたディオラ
ムは、彼に向かってそう確認する。
﹁引きこもりたいなら、引きこもらせてやれば良い。我らが魔法兵
の力で、城塞ごと吹き飛ばしてやればよいのだからな。ふふ、それ
ともメディウム殿は奴らが怖いのか?﹂
﹁別に怖くはない、ただ確認しただけだ。何事も念には念を入れる
べきだからな﹂
臆病者をあざ笑うかのような視線を向けられたメディウムは、淡
々とした口調でそう述べる。
一方、そんな彼らのやりとりを耳にしていたウイッラは、何がお
かしいのか右の口角を釣り上げる。
﹁ククッ、まあその辺りの情報はボクに任せなヨ。あの国に送って
いたモルモット君達は結構死んじゃったけどさ、ボクの子達はまだ
まだいるからネ﹂
﹁⋮⋮使い捨てのネズミ扱いか﹂
﹁フフッ、このボクの役に立てたんだヨ。この間、死んじゃったモ
ルモット君たちもきっと感謝で泣いているヨ。それに次のモルモッ
ト君たちには既に動いてもらっているしネ﹂
両方の口の端を吊り上げると、ウイッラはピエロのような笑みを
浮かべる。
﹁次のモルモット? 一体、何のことだ?﹂
﹁ヒャヒャ、もう手は打ってあげているということサ。ボクが、そ
うこのボクが大事なモルモット君達をわざわざ使ってあげて、帝国
のゴミクズ諜報員を飼ってあげていル。フフ、彼らの驚く顔が、そ
766
して泣き叫ぶ顔が早く見たいヨ。この街を出たばかりのうちの子達
が、突然彼らの前に姿を現すんだからネ。ああ、その時の彼らの表
情、そして絶望。言い様もなく甘美ダヨ﹂
帝国のスパイ網を逆用していることを述べたウイッラに向かい、
まったくそのような報告を聞いていなかったメディウムは嘆息する。
そして残りの二家とそのような連携を取ることは不可能であるこ
とをあらためて理解すると、諦めたように口を開いた。
﹁⋮⋮とりあえず、こと戦闘に関することは貴公等に任せたよ。私
は本国との連絡と輸送を担当させてもらうのでな、戦いにまでは手
を貸せそうにない﹂
﹁おう。魔法王殿は差し当たって戦いのことなど気にせず、せいぜ
い実務に精を出してくれ﹂
余裕あふれる笑みを浮かべながら、フィレオはメディウムに向か
ってそう発言する。
﹁そうさせてもらうよ。では、私は失礼する﹂
戦いの前というのに、どことなく余裕のあるフィレオとウイッラ
を危惧しながら、メディウムは小さな溜め息を吐き出した後に、そ
の場から辞去を告げた。
﹁⋮⋮しかし、本当に一人でやらせていいのか? 下手をすると、
我らが軍に視線を向けているうちに、遠隔地から国内の地歩固めを
する可能性もあるが﹂
﹁クックック、別にいいじゃないカ。もしメディウムくんにそんな
度胸と野心が有るなら、これまでにボクたちを潰していたヨ。なの
に、彼は魔法王になっても変わらなかっタ。所詮はただのお人好し
サ。大事なところでヘマをしてくれた、出来の悪いモルモット君た
ちにも劣るネ﹂
魔法王選挙で敗れた他家の当主は、王国の権力の安定を揺るがし
767
かねないとして、強制隠居させられるのが習わしである。
しかしながら今代の魔法王であるメディウムは、その生来のお人
好しさが故、選挙で争ったフィレオとウイッラを各家のトップから
追放しなかった。
そのことはフィレオには、自らを低く見ているという侮辱と捉え、
そしてウイッラには隙の多い忌避すべき堕王と捉える切欠となって
いた。
そして二人は今日この日を迎えるまで、メディウムを追い落とす
ために画策していたのである。
﹁それもそうだな⋮⋮しかしヤツの甘さは、さすがディオラムとで
も言うべきかな﹂
﹁ハハッ、だろウ。まあ、彼が甘かろうが、甘く無かろうが、それ
はボクたちには関係ないヨ。指揮権を放棄したものに、我らが作戦
をどうこう言われる筋合いはないからネ﹂
﹁例え、帝国を落とした後に、そのまま引き返してきた兵によって
殺されようともな﹂
﹁アア、その通りサ﹂
そうして共に笑みを浮かべたフィレオとウイッラは、それぞれ油
断なくお互いの表情を探りながら、共謀を口にしあう。
﹁しかし今回の件。さすがだよ、卿は。帝国を蹂躙するための準備
と言い、あの男を駆逐する計画と言い、さすがと言わざるを得んな﹂
﹁ヒヒッ、でもボクだけじゃ無理だからね。キミがいないと無理な
のサ﹂
ウイッラは引き笑いをしながら、目の前の男に対し謙遜を口にす
る。
﹁褒め言葉と受け取っておこう。ところでだ、最後の仕上げのこと
768
を考えるなら、やはり帝国軍との戦いでは、奴の軍を囮とするべき
かな?﹂
﹁無理だヨ。囮にするにしても、ディオラムじゃ脆すぎル。あんな
軟弱な魔法士たちにそんな大役は無理だネ。どうせ自ら戦う術を持
たぬモルモット君たちなんだ、主力の後方で回復に専念させてあげ
ていたらそれでいいヨ﹂
﹁確かにそれもそうか。例えディオラムを攻める段となって、慌て
て噛み付いて来たところで、奴らの軟弱な牙では傷さえ付けれない
だろうからな﹂
視線の先を歩むディオラム兵に向かって、小馬鹿にしたような視
線を送りながら、フィレオは彼らをそう評する。
その言葉を耳にしたウイッラは、ニンマリとした笑みを浮かべる。
そして含み笑いをした後に、気色悪い声で言葉を発した。
﹁クックック、その通りサ。だから、僕達がすることは一つだケ。
目の前のケルムに死体をバラまいて、そして次にディオラムのモル
モット君たちの死体をバラまく。ヒャヒャヒャ、シンプル、そう実
にシンプルだヨ﹂
まるでピエロのように口角を吊り上げたウイッラは、片手で顔を
抑えながらその場で笑い続ける。
ウイッラによる帝国軍のスパイ網の調略。
その工作活動にて帝国は完全にその眼と鼻を潰され、突然強襲し
た魔法公国軍により国境砦はわずか一日で陥落することとなった。
そうして予期せぬ混乱と動揺の最中にある帝国と、先勝に沸く魔
法公国との戦いは、帝国南部地域の要エーデミラスへとその舞台を
移すこととなる。
769
エーデミラス
エーデミラス。
それは帝国における一都市の名称であり、この地は帝国南部地域
におけるあらゆる物流の中継地点として機能している。
エーデミラスは帝国が現在の規模に肥大化するまでは帝国最南端
の都市であり、この都市の南にかつて存在したハーセプト王国との
国境に接して、この街は存在していた。
かつて帝国がまだ現在のように強国とはとても呼べない時代、こ
の街はハーセプト王国から幾度となく侵略を受ける日々を送ってい
た。
それ故に当時のアルク・フォン・レンド第三代皇帝は、このエー
デミラスの最南部に関所を兼ねた堅牢な城塞を築きあげることで、
彼らの侵攻に対する防御拠点を築き上げる。
この時に建設されたのがエーデミラス城塞と呼ばれる堅牢な城塞
であり、帝国軍人がエーデミラスと口にすると、一般的に都市では
なくこの城塞を指すことが多い。
さてこのエーデミラスの城塞としての完成度は、その当時の帝国
の国力の限界もあり、近年大陸西方の覇権を争っているキスレチン
共和国との間に設置されたロンガード要塞に比べればそこまで堅牢
な城塞とは言い難いのが実際である。
しかしながら長年にわたり帝国を守り続け、今日に至るまで一度
も落とされたことのないエーデミラス城塞は、有る意味帝国軍の精
神的支えとして大きな役割を担っていた。
770
そんな今回の戦における帝国の要ともいえるエーデミラスにおい
て、城塞防衛指揮官の役割を担い、一万五千もの帝国兵を率いてこ
の城塞に篭もるのが、帝国南部方面軍の将軍を務めるシスプラムで
ある。
﹁⋮⋮なるほど、国境部隊からの報告が正しかったということかな。
ふふ、やってくれるではないか、魔法教の狂信者どもよ﹂
魔法公国に放っていた密偵からもたらされた情報。それは魔法公
国は宣戦布告の後に軍の編成を開始したというものである。
その情報は複数ルートから同一の報告がもたらされたこともあり、
帝国軍の中枢はそれを基に、十分な余裕を持って南部への増援軍を
派遣する予定を組み上げようとしていた。
ところが、首都で軍の編成をしているはずの魔法公国軍は、現れ
るはずのない南部の国境に突然姿を現すと、あっという間にこれを
陥落させる。
このまったく予期せぬ事態は、帝国の中枢のみならずこの南部方
面軍を混乱に陥れていた。
﹁将軍。ぎりぎりのところでしたが、市民の避難は完了いたしまし
た。どうにか周辺の警戒に当たらせていた部隊も連れ戻すことがで
きましたので、予定していた九割方の兵達は城塞内および都市側に
配置しております﹂
﹁うむ⋮⋮まあ、最低限の備えはできたということだろうて﹂
副官であるイリノンの報告を受け、南方面から国境を越えて進軍
してきたフィラメントの兵士達を睨みつけつつ、忌々しげな表情で
シスプラムはそう呟く。
﹁シスプラム将軍。今回の不測の事態は、やはり奴らが偽の情報を
771
我が軍に流していたと、そういうことでしょうか?﹂
﹁ああ、おそらく間違いないだろうな。先日の騒ぎから今日に至る
まで、いくらなんでもあまりに期間が短すぎる。奴らはかなり以前
より周到に準備を重ねていたと⋮⋮おそらくはそういうことなんじ
ゃろう﹂
﹁なるほど。あの国がそんな風にまとまるとは、いささか意外です
が⋮⋮あの国は御三家ごとに主張がバラバラで、ある意味キスレチ
ン以上に国家としての体をなしてないと思っておりました﹂
そう口にしながら、イリノンは視線をシスプラムから敵軍へと移
した。
その彼の視線の先にはくっきりと三色に色分けされた一団が存在
する。
深緑色を自軍の色とするミラホフ。
黄土色を自軍の色とするマイスム。
そして群青色を自軍の色とするディオラム。
彼らは自らの運営する魔法学校のスクールカラーにその身を包み、
ある意味お互いを相容れぬと喧伝しているようでさえあった。
﹁確かにその通りじゃ。普段の奴らに協調性などというものはない
とわしも思う。しかし、いやだからこそ奴らは恐ろしいのだよ。他
の魔法学校に負けるわけにはいかないというそれぞれのプライドが、
思わぬ士気の高揚を生むことがある。そしてそれ自体は、決して馬
鹿にできるものではなかろう。ましてや今回のように、あらかじめ
奴ら同士で入念に準備をしていたと考える場合はな﹂
﹁⋮⋮確かに。私も自分の認識の甘さを後悔いたしております﹂
イリノンは自らの見識の浅さを恥じると、すぐに誤りを認める。
帝国軍の北と南を守る二大宿将とかつて呼ばれ、そして現在は唯
772
一の宿将となったシスプラムが、若いイリノンを副官として任用し
たのは、その才以上にこの素直さが故であった。
﹁まあ、基本的には卿の言うことは誤りではない。そして、この戦
いにおいて、わしも連中につけ込むところがあるならば、まさにそ
の奴らの強すぎる自己主張だと思うておるからな﹂
﹁ならば此度の戦いは、やはり群青色のディオラム勢を率先して叩
くべきでしょうか? 彼らの回復魔法は、我が軍にとって長期戦を
不利にさせるでしょうから﹂
ディオラム魔法学校の校色である青い武装に包まれた一団に視線
を向けながら、イリノンは隣のシスプラムへと問いかける。
﹁うむ、そうだな。今回の戦いで最も肝要なことは負けないことだ。
戦いが長引けば長引くほど我が軍は有利となり、そして敵軍は不利
となる。だからこそ卿の考えることが自ずと基本方針となろう。も
っとも先方も我らがそう狙うであろう事ぐらい、予想済みであるだ
ろうがな﹂
﹁確かに⋮⋮では、如何なされますか?﹂
シスプラムの発言を耳にして納得したように一つ頷くと、イリノ
ンは彼へと方針を問いかける。
﹁あくまで基本方針は専守防衛、これ自体に変わりない。そして我
が軍が攻勢に出る機会があるとするれば、それは︱̶﹂
﹁グレンツェン・クーゲル⋮⋮そう、帝都の魔法士隊が到着した後
ですね﹂
上官の意図を読み取ったイリノンは、重ねるようにそう発言する。
すると、シスプラムは彼の見識を肯定するように大きく頷いた
﹁ああ、その通りだ。もちろん敵の中に、クラリスから今この国に
来ている化け物がいるならば話は別だが、あんな異能者など二人と
773
はいない﹂
当人がそれを聞けば、肩をすくめながら頭を掻くような発言を、
シスプラムは吐き捨てるように口にする。
もちろんその発言を耳にしたイリノンも、すぐに彼の見解に賛同
した。
﹁というか、いてもらっては困りますよ。私としてもあの戦いの⋮
⋮そう、リンエン将軍の二の舞はごめん被りたいですからね﹂
﹁リンエンは紛う事なき名将であり、そして我らが同期の桜であっ
た。だが、あいつが花を散らせたとは言え、このわしまでが同じ目
にあうわけにはいかんのでな。わしには散らすような華麗な花は無
いのじゃから﹂
帝国の軍学校で同期であり、そしてクラリス侵攻時に帰らぬ人と
なったリンエンのことを脳裏に浮かべながら、シスプラムは力強い
口調でそう告げる。
﹁とにかく、きっと今頃は魔法公国の強襲の報を受けた皇太子殿下
も、こちらに向けて急ぎ援軍を手配されていらっしゃる頃です。な
んとしても、その時までこの城塞を守りぬかねばなりません﹂
イリノンは確認するように再び基本方針を口にすると、シスプラ
ムは力強く二度頷く。
﹁そのとおりじゃ。先ほどの国境部隊からの情報によると、奴らは
三軍合わせ約二万名の魔法士隊で進軍して来ておる。現状では人数
的にも我らの方が少ない上に、奴らは恐るべき事に全兵が魔法兵じ
ゃ。とするならば、奴らにはなくて、わし等には存在するこの城塞
を、せいぜい有効に使わせてもらうことにしようかの﹂
774
﹁フィレオ様。このまま前進すれば、先頭部隊はまもなくエーデミ
ラス城塞に駐在する敵部隊の射程距離にさしかかるかと思われます﹂
フィレオの部下であるマイスム家の報告兵が彼の下へ駆け寄って
くると、彼は大きく一つ頷く。
﹁どうやら城塞の中の連中は落ち着きなく慌てふためいているよう
だな。ここからでも、その姿が手に取るようにわかるわ﹂
﹁キッキッキー。ヒャヒャ、城塞の上を見て見なよ。死にたそうに
しているゴミクズ君たちがいっぱいだぁ。殺してくれ、殺してくれ
ってボク達の方に歌っているよ﹂
フィレオの隣で指をしゃぶっていたウイッラは、明らかにこちら
を観察している人影を目にして、感極まった声でその場で叫ぶ。
そんなウイッラの反応にやや困惑しながらも、フィレオは決して
表情に出すこと無く彼に向かって語りかけた。
﹁⋮⋮ウイッラ殿。では当初の打ち合わせ通り、我らから戦端を開
くこととしようか。時間を稼がれては、せっかく貴公が奴らの諜報
網を逆用してくれたことも意味を失うのでな﹂
﹁イイヨ。うん、スゴくイイ! 早く殺しを始める、ボクたちから
殺しを始めル。アア、悶え苦しむゴミクズちゃんたちを思うだけで、
今日は素敵に眠れそうダ﹂
﹁⋮⋮ならば早速その方針としよう。予定通り、メディウムの兵達
は後方へ回し、先陣は我らマイスムが陣取る。では、まずはあの古
ぼけた城塞に穴を穿つこととしようか﹂
フィレオは生理的嫌悪感から、その場から離れたい気持ちでいっ
ぱいであったが、どうにか自制して自軍の方針を口にした。
しかし、そんな彼の感情などまったく気にする様子もなく、ウイ
ッラは唾液がまとわりつく人差し指で城塞を指さし、そして両口角
を吊り上げる。
775
﹁フフ、アナヲウガツ! そう、アナを穿つ。生きたまま、深く深
くアナを広げるんだ。フフフ、若いモノをエグルのも快感だけど、
目の前のボロっちい城塞をコワシテクズスことも、最高にカイカン
サァ。さあさあ、早速黒く深くそして全てを包むように壊そうヨ﹂
﹁あ、ああ⋮⋮帝国軍の言う不敗の城塞を、ただの経年劣化したボ
ロだと我らが証明してやろう﹂
﹁フヒヒヒ。ボクもカレラのお遊びの魔法と、ボクラの本物の魔法
とが違うと教えてあげようカナ。ゴミクズ君達の、その命と引き換
えに⋮⋮ネ﹂
そう口にして気味悪い引き笑いを発すると、ニタニタした笑みを
浮かべながら、ウイッラは再び指しゃぶりを再開した。
776
初戦
﹁敵前衛、長弓隊の射程範囲内に侵入いたしました。どうやらマイ
スム家が先陣に位置しているようです﹂
イリノンは眼下に迫り来る黄土色の魔法兵達による接近を目にし
てながら、隣に立つシスプラムへ報告する。
﹁そうか⋮⋮ならば、わしらから挨拶してやろうて。弓隊構え!﹂
シスプラムは彼の右手を高々と挙げると、一度弓隊の面々を見回
した上でその手を振り下ろす。
﹁放て!﹂
シスプラムの号令が下るや否や、一斉に帝国軍の弓兵達は長弓に
つがえた矢を放っていく。
城塞故の高低差を利用したその無数の矢は、帝国式の厳しい訓練
の成果を示すかのように、フィラメント軍の前線へ一斉に降り注が
れていった。
しかし帝国軍が先手をとったと確信した瞬間、先陣を進む黄土色
の軍装に身を包む一団が一斉に魔法を唱えると、彼らの頭上に強風
が吹き荒れ、たちまちに全ての矢を彼方へと吹き飛ばす。
﹁なんだと! 馬鹿な!﹂
﹁風の集合魔法⋮⋮いや、違うな。ただ単純に高位の風魔法士が一
斉に風を操ったという事か。しかしなんたる風力⋮⋮いや、魔法力
!﹂
仮にあの矢の攻撃を受けるのが帝国軍の魔法士隊であれば、恐ら
く防ぎ得なかったであろうと思われる豪雨のような矢の斉射。
しかしそれを軽く魔法で吹き飛ばされてしまったことに、イリノ
777
ンはわずかに狼狽する。
﹁一度ばかりで諦めるんじゃない。奴らの魔法と我らの弓との最大
の違いはなにか? それは間断なく敵へと放てることじゃ。さあ、
第二射用意。放て!﹂
イリノン同様に驚きと戸惑いを見せる弓兵達に向かい、シスプラ
ムは強い口調でそう言い放つと、考える余裕を与えないよう第二射
を指示する。
そうして急ぎ放たれた二度目の斉射。
しかし今度は、群青色の服装に身を包むディオラムの兵士達が、
無数の氷の盾を編み上げ、無残にも彼らの矢の多くははじき返され
る。
﹁ふむ⋮⋮やはりこの距離からの射撃では、そうやすやすとは先手
を取らせてはくれんか﹂
次々と弾かれていく自軍の矢の軌跡を目にしながら、シスプラム
は険しい表情でそう口にする。
﹁ですが閣下。これで二つのことがわかったかと思います。やはり
敵軍は各魔法学校ごとに分かれて、部隊編成が行われていると言う
こと。これは先ほどどの部隊が魔法を唱えていたかを確認しました
ので明らかです﹂
﹁⋮⋮そしてもう一つは、奴らが集合魔法を使っているわけではな
いという事か﹂
彼の発言を先回りしたシスプラムの言動を耳にして、イリノンは
大きく頷き賛同の意を示す。
﹁その通りです。かなりのミラホフ家の斥候が、我が国の中枢に入
り込んでおったようですが、さすがに機密中の機密である集合魔法
は連中にも盗めなかった様子。先ほどの氷の壁にしても、ディオラ
778
ムが唱えたこともあるのでしょうが、集団で同調しているわけでは
ないのでそこかしこに穴が有りました。つまり完全に手詰まりとい
うわけではありません。恐らくこの辺りに我が軍の勝機があるかと﹂
﹁確かにな。それに集合魔法を本当に奴らが使えるのならば、既に
この間合いで城塞を壊しに掛かっておる⋮⋮か﹂
﹁はい。私もそう考えます。集合魔法を使えるのなら、わざわざ我
が軍の弓兵や魔法兵の射程距離内に進軍する必要はない。にもかか
わらず、城塞へ前進しているのは、やはり長距離用の大型集合魔法
を敵方が開発できていない何よりの証拠です﹂
そのイリノンの力強い発言を受けて、司令官は満足そうに一度頷
くと、今後の方針を示す。
﹁だとすれば、わしらとしてやることはシンプルじゃ。間断なく奴
らに城塞から攻撃を仕掛け、援軍を待つ。イリノン、矢の備蓄は十
分じゃろうな?﹂
﹁もちろんです。物資の補給計画に関しては、帝都におられる殿下
自ら立案された計画が既に進行しておりましたので、一足先に運び
込まれております﹂
とある黒髪の男がぶつぶつ愚痴を呟きながら立案した補給計画。
その成果を、そうとは知らずにイリノンは誇らしげに答える。
一方、その回答に満足したシスプラムはわずかに口元を緩めると、
そのまま迫り来るフィラメント軍へと視線を移した。
﹁ならば、ケチらずにどんどん射つしかないのう。さあ、第三射用
意⋮⋮む、待て。敵の魔法攻撃か。総員、敵攻勢魔法に備えよ﹂
敵軍の正面に無数の炎が形成されていく様を目にして、シスプラ
ムは急ぎ防御の指示を出した。そして彼が指示を口にしたまさにそ
のタイミングで無数の炎の矢が城塞目がけて解き放たれる。
779
一斉に飛来する炎の矢。
一般的にこれだけ長距離での魔法射出は、集合魔法などの特殊な
ケースを除けば、世界改変に必要な魔力が膨大であるため、満足に
威力を保つことさえできない。それは世界による事象改変への修正
力のためであるが、フィラメント軍の放った魔法は威力こそはかな
り弱まってはいたものの、大量に要塞へと降り注がれた。
﹁くぅぅ、やはり奴らならばこの距離でも弓隊に応戦できるのか。
これはいくら距離があるとはいえあなどれんな。恐らく火災発生し
た箇所もあるだろう。手の空いているものは至急被害の確認と消火
活動を行え!﹂
シスプラムは城塞目がけて一斉に放たれたフィラメント軍の魔法
を受け、矢継ぎ早に指示を周囲の部下へと下す。
そんな彼の声を隣で耳にしていたイリノンは、ゴクリと音を立て
て唾を飲み込みながら、この城塞でよかったと安堵の溜息を吐き出
す。
﹁やはりフィラメントの魔法は恐るべきものですな。我が軍の魔法
師ならば、これだけの距離から奴ら目掛けて十分な威力の魔法を放
てる者が何人いるのやら⋮⋮ですが、さすがに奴らのことがわかっ
ていればこそ、我らの対策が実を結んだということでしょう﹂
﹁ああ、このエーデミラスは年季物のポンコツとはいえ、ハーセプ
ト王国亡き後は、長年魔法公国を仮想敵としてちまちまと改装して
きた代物じゃ。そんな簡単に奴らの思い通りにはさせんよ﹂
全くの無傷というわけにはいかなかったものの、次々と届けられ
てくる報告が、比較的軽微な被害にとどまったことを彼に伝える。
それらの報告を確認したシスプラムは、大きくひとつ頷くと満足
そうに右の口角を吊り上げた。
780
﹁さて将軍。連中の攻勢に対し、我が軍はどう応対いたしましょう
か?﹂
﹁もちろん放てる限りの矢を持ってじゃて。さあ、今こそ攻撃だ。
やつらが攻勢魔法を放つときは、防御がおろそかになっている。自
らの攻撃の妨げはできんじゃろうからな。まさに今こそが好機。第
三射、放て!﹂
そのシスプラムの号令と共に、フィラメントがほぼ同時に解き放
った二撃目の炎と交錯し、帝国軍の矢が敵陣へと放たれる。
その帝国の反撃に対し、フィラメント軍はわずかに動揺した。
確かに指揮系統はフィレオを司令官として一本化したものの、各
魔法学校間での完全な連動は困難である。それ故、炎の魔法を編み
上げて攻撃中のマイスム家の部隊と、防御のために氷の盾を創りあ
げようとするディオラム家の部隊が互いに遠慮し合い、フィラメン
ト軍は攻防ともに不十分となった。
﹁魔法公国軍にようやく十分な被害認めます。もちろん我が軍の被
害も、射手始め一部兵士に負傷を認めますが﹂
敵の攻撃の最中に強行して攻撃を放ち返したため、自軍の被害も
先ほどと比して少ないものではなかった。それ故に、イリノンの声
には若干の苦いものが混じる。
一方、全軍を指揮するシスプラムは、その報告を受けてもなお、
フィラメント軍に向けた視線をぴくりとも動かさなかった。
﹁先ほどの攻撃は多少の相打ちは覚悟の上じゃったからな。しかし、
見て見ろ連中を。先ほどの攻撃で浮き足立っておる。だいぶ魔法公
国軍の欠点が見え始めたのではないか?﹂
﹁⋮⋮と言われますと?﹂
﹁奴らはその兵士の全てが魔法兵じゃ。確かに個人対個人の戦いを
すれば、魔法兵は他のどの兵種よりも基本的には強いであろう。し
781
かし集団での戦闘となれば話は別じゃ。奴らは魔法に重きを置きす
ぎるあまり、その行動がどうしても散発的になる﹂
﹁なるほど。魔法詠唱と同調のためのタイムラグですか﹂
指揮官の意図するところを理解したイリノンは、なるほどとばか
り頷きながらそう言葉を紡ぐ。
﹁うむ。奴らに比べ魔法兵の少ない我が軍では、最初からその欠点
をわかっており、そのタイムラグを補うための戦術を多数考案して
おる。しかしながら、奴らは普段から個人行動を好む魔法士達の寄
り集まりであり、他国との大規模戦闘の経験も無い。そしてさらに
言えば、常に奴らはお互いが使用する魔法同士の相性を考えねばな
らん。これらはきっとわしらの勝機になるじゃろうて﹂
﹁たしかに⋮⋮先ほどの防御用の氷の壁も、炎の矢への影響を考え
中途半端にしか発動しておりませんでした﹂
最初に先制攻撃として矢を浴びせかけたときに展開された氷の壁
と比べると、先ほどのものは明らかに質と量ともに下回っていたこ
とに気づき、イリノンは納得とばかりに頷く。
﹁うむ。奴らのことじゃから、それぞれの学園の得意とする魔法以
外もおそらく使えるんじゃろうがな。これが遠慮なのか、それとも
指揮官が学園毎への偏見が強い男なのかはわからんが、出来る限り
有効に使いたいものじゃて﹂
﹁まったくです。さて、連中はそろそろうちの魔法士隊の射程に入
りました。如何されますか?﹂
﹁ふふ、決まっておる。こういったものは先に焦って新たなカード
を切った方が負けじゃよ﹂
シスプラムはわずかに表情に笑みを浮かべると、カードゲーム好
きの彼らしく、カードに例えてそう返答する。
﹁では弓隊に四射目の準備を行わせます﹂
782
﹁うむ、そしてうちの魔法士隊にはいつでも魔法を編み上げられる
ように準備させておけ。奴らほどではないにしろ、魔法を使えるの
はお前たちだけではないと教えてやらねばならんからな﹂
この日、帝国軍と魔法公国軍との初めての衝突は、前哨戦と呼ん
で差し支えのない遠距離での攻防に終始することとなった。
それ故に双方の被害は比較的軽微のまま、その日の戦いは終了す
る。
そして戦いが真に動き始めることとなったのは、強行軍でこの地
へと向かってきた、トール第二皇子と軍務長官パデル率いる帝都か
らの援軍が到着してからのことであった。
783
援軍
フィラメントとの戦いが、膠着状態となったエーデミラス城塞。
まだ朝霧の立ち込めるその城塞の屋上を、一つの影が疾走する。
﹁ハァ、ハァ⋮⋮将軍、シスプラム将軍!﹂
早朝にもかかわらず、厳しい表情を浮かべたまま敵軍を警戒して
いたシスプラムの下へ、彼の副官であるイリノンは息を切らせなが
ら全力で駆け込んできた。
﹁どうしたイリノン、そんなに息を切らせて。まだ現在のところ、
敵軍に攻撃の兆候はないぞ﹂
﹁いえ、敵の話ではありません。援軍が⋮⋮そう、援軍が到着致し
ました!﹂
首を傾げながら問いかけてきたシスプラムに対し、イリノンは息
を切らせながら興奮気味に報告する。
そのイリノンの報告に対するシスプラムの反応は、まさに劇的で
あった。
﹁それは本当か!﹂
目を見開いたシスプラムは、その報告とほぼ時を同じくして、微
かに動く気配を見せ始めた敵軍からわずかに視線を外す。そしてそ
のまま彼は、イリノンの顔をまじまじと見つめた。
﹁はい! 先ほど先行してきた伝令兵の報告によると、トール皇子
とパデル長官に率いられた援軍は、敵軍を射程距離内に収め次第、
速やかに攻撃を開始する模様です!﹂
イリノンはそう口にすると、エーデミラスの東側へと移動しつつ
784
有る影を指さす。
その示された方角に視線を向けたシスプラムは、距離と朝霧の影
響からぼんやりと小さくしか見えぬものの、確かに増援軍の増援の
姿をそこに見出した。
﹁当初の帝都からの増援計画から考えると、もう数日は我らだけで
持ちこたえねばならないかと思っておったが⋮⋮いや、さすがはノ
イン殿下。予想よりもフィラメントの襲来が早かったにも関わらず、
援軍をこれほど早く編成し、そして派遣してくださるとは﹂
﹁はい。これで状況は変わります﹂
﹁うむ、その通りだ。もちろん先走りは禁物だが、この好機を逃す
べきではないな﹂
イリノンの発言に対し、自らを戒めるようにシスプラムは厳しい
顔つきへと戻しながらも、気持ちは同じだとばかりに彼は大きく頷
く。
﹁では、いつでも反攻作戦へと移れるよう、兵達を至急集結させま
す﹂
﹁ああ、任せた。目の前のフィラメント軍へ突入できるよう、急ぎ
準備を整えねばならん。味方援軍の例の魔法によってフィラメント
が混乱したところを、彼らと連動して一気に突く。これはこの戦い
における我らの戦略の根幹なのだからな﹂
予め帝国軍内で計画していた防衛計画。
その中でも集合魔法を核とする作戦案においては、その後詰を迅
速にかつ確実に行うことが勝利への鍵とみなされていた。
それ故に、味方の増援が到着した時点で、次の一手を整えるため
にも、シスプラムはイリノンへと指示を下す。
すると、イリノンもこの膠着した状況から、迫り来る明るい未来
を脳裏に描き、笑みすら浮かべつつ返事を返す。
785
﹁はっ、直ちに。直ちに手配致します!﹂
﹁うむ。この城塞から打って出る際は、わし自らが直接陣頭で指揮
を行う。では、皆の者、早速出陣の準備を行え!﹂
シスプラムはイリノン含めた周囲の兵士たちに向かい、勝利を強
く意識させるようそう宣言すると、兵士たちから歓声混じりの返事
が返される。
その声を耳にしたシスプラムは覚悟を決めたように、眉間の皺を
深くしつつ大きく頷いた。
予期せぬタイミングでのフィラメント侵略の報を受けて、大急ぎ
で編成を行い急遽派遣された一万五千名の増援軍。
エーデミラス城塞がやすやすと陥落することはないと信じられて
はいたものの、かなりの強行軍にて到着した為に、増援軍全体では
三千名近くの脱落者を出してはいた。
そして疲労の色は隠せなかったものの、エーデミラス陥落という
事態が陥る前に到着できたことに、増援軍の指揮官を務めるトール
第二皇子は安堵する。
﹁ふぅ、なんとか間に合うことが出来ましたか。シスプラム将軍の
ことですから大丈夫とは思っていましたが、一安心ですね﹂
﹁ええ、まったくその通りです。ですがトール様、まだ我々は何も
成し得たわけではありません。ここからがいよいよ本番です﹂
今回の増援軍の副指揮官であり、実際に部隊を取りまとめる軍務
長官のパデルは、トールの発言を肯定しながらも念を押すように窘
める。
かつて自らの教育係を務めていた鬼教官のその言葉に対し、トー
786
ルはわずかに苦い笑みを浮かべながらも一つ頷いた。
﹁わかっていますよ、長官。私達は別にここまで楽しいハイキング
に来たわけではないのですからね。では、如何しましょう? ここ
で一度休憩を取らせ、その後に作戦行動にとりかかる形でよろしい
でしょうか?﹂
﹁そうですな。今回の強行軍でかなりの脱落者も出しております。
まずは城塞の無事を確認したことですし、一息つけさせましょう。
その後、手はず通りに敵軍の側面へと部隊を移動させる。それでよ
ろしいかと思います﹂
トールの確認に対し、パデルは険しい表情を崩すこと無いままそ
れを推奨する。しかしここまで強行軍で駆けつけた彼らに安息の時
間は訪れることはなかった。
﹁トール様、パデル様。先ほど先行部隊が敵軍の斥候を発見致しま
した﹂
﹁⋮⋮それで、ちゃんと敵の目は潰すことができたのかい?﹂
彼らのもとに駆けつけてきた伝達兵からの芳しくない報告に、ト
ールは溜め息混じりにそう問いかける。そしてその兵士から返され
る報告は、トールの予測したとおり望ましくないものであった。
﹁それが⋮⋮敵兵確認後、至急追跡を行いましたが敵兵の魔法によ
り逆に迎撃されたと、そのような報告でございます﹂
﹁奴らは全ての兵が魔法士であり、その個人能力もが優れているこ
とはわかっていたが、斥候を取り逃した上に返り討ちに合うとは⋮
⋮﹂
軍務長官であるパデルは、自軍の不甲斐ない報告に思わず首を左
右に振って目をつぶる。
﹁ここまで強行軍で駆けつけましたから、やむを得ないですよ、長
787
官。それよりも、これで我が軍の存在が敵に知られてしまいました。
そうすると、我らも行動の選択肢が自然と狭まったとそう解釈すべ
きでしょうね﹂
﹁はい。この帝都から連れてきた増援軍は、一つの目的のために選
別して連れてきた部隊です。万が一、敵軍がそれを察知し、こちら
へ急進して混戦状態を生み出されたら元も子もありません。望まし
い状況とは言いがたいですが、早急に部隊を展開し、敵軍へ先制の
一撃を加えるとしましょう﹂
渋い表情を浮かべながらパデルがそう提案すると、トールも仕方
ないと覚悟を決め、その提案を肯定する。
﹁ですね。ならば早速作戦行動を開始しましょう。当初の予定では
敵軍の側方を大きく迂回し、ゆるやかに部隊を展開するつもりでし
たが、この状況では困難と思われます。ですので、敵軍を我らの魔
法の射程距離内に捉えた時点で速やかに集合魔法を編み上げる。そ
れでいいでしょうか﹂
﹁それしかありませんでしょうな。ではトール様、早速魔法士たち
に連絡を行います﹂
トールの言葉に一つ頷いたパデルは、彼の周囲を固めている幕僚
たちに向かい、魔法士部隊へ準備を行うよう伝達させる。
そして敵軍の動向に注意しながらも、彼らはゆるやかに軍を前進
させ、おそらく斥候の報告が届いたばかりでまだ十分に対応ができ
ていないと予測されるフィラメント軍を、いよいよその射程に収め
た。
﹁トール殿下。敵軍中枢が射程範囲内に入りました。グレイツェン・
クーゲル、ご指示が有ればいつでも作成可能です﹂
今回の増援軍の魔法士隊の指揮を執り、集合魔法の運用を一手に
任されたテラジムは、やや緊張した面持ちでそう報告すると、鋭い
788
視線を敵軍へと向ける。
﹁ありがとう。しかし、そろそろ我らの存在の報告が届いている頃
でしょうが、敵軍はまだ散開する様子がありませんね﹂
帝都からの増援軍の存在を知った時点で、現在密集しているフィ
ラメント軍は、集合魔法の被害を最小限にするためにも、一度軍を
散開させるのではないかとトールは考えていた。
しかし、フィラメント軍にそのような動きは認められず、依然と
して密集隊形を維持していることから、トールはやや違和感を覚え
て首を傾げる。
﹁ですな。ふむ⋮⋮まあ彼らは三つの家の寄り集まりです。いくら
一つの国の軍隊という体裁をとっているとはいえ、やはり情報伝達
に支障をきたしているのかもしれませんな﹂
﹁なるほど、確かに連携はフィラメントの抱える最大の問題でしょ
うからね。だとしたら、つまり今こそが好機ということでしょう。
彼らの全軍に指示が行き渡る前に、我らは敵軍を狙い撃つべきだと
思います。長官、歩兵及び騎馬兵の突入の準備は如何ですか?﹂
パデルに向かいトールはそう問いかけると、彼の元には力強い返
事が返ってきた。
﹁もちろんいつでも突入可能です。あとはトール様のご指示を仰ぐ
のみというところですな﹂
﹁よし。ならばフィラメントに対し、彼らの魔法は既に時代遅れだ
ということを、我らの魔法を持って教えてあげるとしましょう﹂
トールが兵達の士気を高めるように高らかとそう宣言すると、指
示を受けたテラジムは自らの指揮する魔法士隊の下へと向かう。
そして彼は見渡せる限りの魔法兵をゆっくりと見回し、そして一
度彼らに向けてうなずきを見せた後に、彼らの切り札となる集合魔
法の詠唱の口火を切った。
789
﹁グレイツェン・クーゲル﹂
﹁﹁グレイツェン・クーゲル!﹂﹂
テラジムの声を受けるなり、配下の魔法士達は一斉に精神を集中
させて呪文を編み上げていく。
そして彼らの頭上には小さな光輝く球体が出現すると、次第にそ
の球体は膨張を始め、煌々と周囲を照らす太陽の如き高温の光の球
体へと肥大化していった。
﹁放て!﹂
球体の膨張が現在の人員でコントロールしうる最大径まで肥大化
し、魔法の成功と完成を確信したテラジムは、あらん限りの声でそ
う叫び、集合魔法を解き放つ。
その号令が放たれるとともに、彼の頭上の巨大な光の球体は緩や
かに加速を始め、そしてそのまままっすぐに疾走を開始した。
﹁よし、では我らも続くぞ。全軍進撃を開始する。目標、フィラメ
ント軍!﹂
自らの頭上をグレイツェン・クーゲルが通過していったことを確
認したパデルは、後方を振り返り、今回魔法士とともに連れてきた
全軍を見渡す。そして、その球体を追いかけるように全軍目がけて
指示を下した。
そうして集合魔法を追いかけるように、帝国の増援軍は一斉に進
撃を開始する。彼等の表情は引き締まっていながらも、彼等の誰も
が集合魔法の描く軌跡は勝利への花道であると確信を抱き、戦勝に
対する高揚感を隠せずにいた。
790
緩やかに日が昇り始め朝霧がゆっくりと晴れ始めた頃、フィラメ
ントの陣地からも煌々と光る巨大な光の球体が、次第に膨張を開始
していることを、その視界内ではっきりと確認できていた。
そして斥候から既に帝国軍の増援が到着しているとの報告を受け
ながらも、あえて全軍を散開させなかったフィレオは、皮肉交じり
の笑みを浮かべる。
﹁ふん、増援部隊がノコノコと準備を始めたか⋮⋮しかし、馬鹿の
一つ覚えみたいに、集合魔法を編み上げるとはな﹂
﹁キョッキョッキョ、集合魔法。そう集合魔法。あんなブサイクな
魔法で、ボクのモルモットクン達を殺そうとするなんて、全くもっ
て度し難い。フフ、その罪は万死に値するヨ﹂
しゃぶってふやけきった人差し指で完成された集合魔法を指さす
と、明らかに周囲より明らかに三段階以上高いテンションで、ウイ
ッラはそう口にする。
﹁ああ、既に種の割れた作戦が通用すると考えているとは、奴らも
ほとほと脳が足りていないと見える。ウイッラ殿、集合魔法を破れ
るのがクラリスのユイ・イスターツだけではないと、あの馬鹿ども
に教えてやってくれ﹂
巨大な球体が緩やかに自軍へと向かい始め、そしてその下方に蠢
く黒色の帝国軍の増援部隊をその視界に捉えたフィレオは、顔面に
喜色を浮かべながら隣で延々と指をしゃぶり続けるウイッラに向か
い声をかける。
﹁ウヒヒヒヒヒッ、もちろんだヨ。カレラの半端な魔法が、どうい
う結末を導くのか、カレラがその事を理解する瞬間を思うだけで、
791
実に、そう実に愉快ダ。ああ彼らの絶望が⋮⋮そう絶望がミエル。
このボクに早く殺してくれと歌っている、カレラのゼツボウがサ。
さあ、ウタをウタオウ。サント・エスペッホのウタをネ﹂
ミラホフ家の当主であり今回の遠征軍の副指揮官を務めるウイッ
ラは、興奮のあまり唾液を回りに飛ばしながら、上機嫌で引き笑い
をする。そして、フィレオに向かって歪な笑みを浮かべると、視線
を向けられた彼は躊躇しながらもコクリと一度頷いた。
﹁ああ⋮⋮ま、任せたぞ、ウイッラ殿﹂
﹁ヒヒヒ匕。ウン、ウン、任せたまエ! じゃあ、ボクの可愛いモ
ルモットクン達、準備はいいかナ?﹂
やや引き気味のフィレオの言葉を受けたウイッラは、ニタリとし
た笑みを顔に張り付かせたまま、後方にいる自らの部下たちを振り
返る。
すると彼の部下である深緑色のローブに身を包んだ兵士たちは、
無表情のままウイッラの言葉を受けて一斉に構えを取る。
﹁ヒャッヒャッヒャ、イイヨ、イイヨ。じゃあ、ウタってあげよウ。
聖なるウタを。聖なる鏡のウタを。サント・エスペッホ!﹂
狂気を顔面に張り付かせたウイッラが、空に向けて大声で呪文を
口にする。そして間髪入れずその声に続くように、彼の部下たちが
一斉に呪文を唱えた。
﹁﹁サント・エスペッホ!﹂﹂
その魔法はかつて帝国の中枢へと潜り込み、クーデターを狙った
際にゼリアムが使用した魔法。
ただし一斉に唱えられたその呪文が生み出したものは、以前にゼ
リアムが単独で作り上げたものとは次元が違うものを生み出す。
それは一つ一つは小さな光の壁であるが、無数の魔法が隙間なく
792
並べられ、まるで巨大な一枚の光の鏡とも言うべきものが、彼らの
前方に出現した。
満足すべき魔法が編み上がったと確信したウイッラは、右の口角
を吊り上げて微笑む。
それは美しい景色を、いやより正確に言えば、彼だけが美しいと
感じるであろう凄惨な光景が、彼の前に繰り広げられることを予期
したが故の笑みであった。
援軍部隊の上空に集合魔法が編み上げられていく様を眼にしたエ
ーデミラスの帝国軍は、シスプラムの指示の下、当初の計画通りに
城塞を打って出る態勢を整えていた。
﹁将軍、準備完了いたしました。ご指示があり次第、いつでも出陣
可能です﹂
﹁うむ、いよいよだな。これまでフィラメントの連中とちまちまと
したやりとりを繰り返していたが、これで終局ということかな﹂
イリノンの報告を受けたシスプラムは満足気に一つ頷く。
﹁ええ。しかし連中も、今頃は慌てふためいていることでしょう。
我らの諜報網を撹乱し、集合魔法を時間的そして距離的な観点から
防いだつもりだったのでしょうが、我が国の未来の皇帝を甘く見ま
したな。まあ、これほど早く我らの援軍が到着するとわかっていた
ら、彼らももっと早くにこの城塞を力攻めしようとしていたでしょ
うが﹂
﹁時間と距離による集合魔法の封じ込め⋮⋮か﹂
793
イリノンの口にした内容に僅かな引っ掛かりを覚えたシスプラム
は、急に黙りこむと、顎に手を当ててその場に立ち止まる。
そんな彼の姿を目にして、イリノンは顔に疑問符を浮かべながら
シスプラムへと問いかけた。
﹁どうかいたしましたか? なにか、気になる点でも﹂
﹁いや、そのような封じ込めを前提にしていたら、既に力攻めに出
ているべきであった気がしてな。にもかかわらず、彼らは今の今ま
で我々と遠距離戦に終始してきた。妙だと思わんか?﹂
﹁確かに、それはそうかもしれません。ですが、やはり彼らの予測
を我らの援軍の来訪が上回ったと、そういうことではないでしょう
か? 現に敵は動揺のあまり散開する様子も見られません。完全に
想定外だったということでしょう﹂
﹁ふむ。ただの取り越し苦労ではあるば⋮⋮ん、待て。あれは何だ
?﹂
﹁あれ? あれとは何のことですか?﹂
シスプラムの顔に視線を向けていたイリノンは、その言葉の意味
がわからずキョトンとした表情となる。
すると、そんな彼に指し示すように、シスプラムはフィラメント
軍の前方を指さした。
﹁フィラメント軍の前方、そこに何か眩い光のようなものが現れて
いる。鏡⋮⋮いや、光の壁?﹂
一瞬、鏡か何かがそこに生み出され、太陽の光が反射されている
のかとシスプラムは感じた。しかし、すぐに出現したそれが、自身
で光を放つものであると理解し、その形状から彼は壁と表現する。
遅ればせながらその存在に気がついたイリノンは、目を見開き、
その存在に懸念を示した。
794
﹁な、何ですかあれは? フィラメントの⋮⋮防御魔法ということ
何でしょうか?﹂
﹁わからん﹂
目にしたこともない現象、もしくは魔法にシスプラムは首を左右
に振る。
﹁あんな魔法は見たことがありません。しかし魔法なのだとしたら、
あのような薄い一枚きりの防御魔法で、我らの集合魔法を防ぐと、
そういうつもりなのでしょうか? だとしたら、あまりに愚かとい
うべきでしょう﹂
イリノンはフィラメントの創りだした光の壁が、エーデミラス城
塞から見るとその非常に薄い横断面がはっきりと分かり、その頼り
ないと表現してもよい薄さを嘲笑する。
しかし隣に立つシスプラムは、その壁の薄さではなく、壁とエー
デミラスの角度、より正確に言うならば、援軍から解き放たれた集
合魔法とその壁とエーデミラスの三角形が織りなす角度に気づいた
が故、その脳裏にはけたたましい警鐘が鳴り響く。
﹁もし、あれがただ防ぐためだけに創りだされたものではないとし
たら⋮⋮い、いかん。退避するのだ!﹂
﹁は? 将軍。一体何を?﹂
突然、予期せぬ事を口にしたシスプラムに驚くと、イリノンは彼
に向かい慌ててその意味を問いただす。
﹁普通、防御結界を編み上げるなら自らの軍の正面に垂直に形成す
るはずだ。だがあの壁は明らかに意図して斜め向きに作り上げられ
ている。くそ、奴らがわざわざ今日までエーデミラスに総攻撃を仕
掛けなかったのは、そういうことだったのか﹂
﹁何を言っているのですか、将軍?﹂
﹁我らは、まんまと奴らの術中に乗せられたのだよ。とにかく今は
795
何も考えんでいい。全員、この城塞から退避するのだ!﹂
﹁意味がわかりません。集合魔法が奴らに直撃する今こそが、攻勢
に出る︱︱﹂
当初の作戦案とはまったく異なることを突然指示したシスプラム
に向かい、イリノンへ怪訝そうな表情を浮かべたままそう口にしか
ける。
しかし彼がその言葉を最後まで紡ぐ直前に、彼らの視線の先でグ
レイツェン・クーゲルとサント・エスペッホが、そう巨大な光の球
体と巨大な光の壁が接触した。
そして次の瞬間、光の球体は突然それまでとは明らかに異なる軌
道へと、その疾走方向を変える。
その軌道の先には、イリノンたちがいるエーデミラス城塞が存在
していた。
﹁ば、馬鹿な。なぜ、どうして!﹂
イリノンは眼前で起こった出来事が信じられず、叫び声を上げな
がらその場で固まる。それはエーデミラス城塞に所属する他の兵士
たちも同様であった。
﹁馬鹿者、叫ぶ暇があれば、今すぐここから退避せよ。少しだけで
もいい、この場から逃げるんじゃ!﹂
﹁む、無理です。直撃、来ます!﹂
シスプラムの怒声も虚しく、彼ら全体を包み込むほどのサイズの
巨大な光の球体は、まったく速度を変えること無く城塞へ迫り、驚
愕と絶望に包まれた兵士達を飲み込みながら、エーデミラス城塞へ
と直撃する。
こうして帝国の誇った不落の城塞は、たった一瞬で、しかも味方
796
の魔法によりこの地上から姿を消した。
797
敗れし者は
それはまさに絶望的な光景。
集合魔法を追いかける形でフィラメント軍へと真っ直ぐに駆けて
いたトール達は、自然と誰しもが足を止め、エーデミラスが消えて
いく様を驚愕に打ち震えながら目にすることとなった。
﹁⋮⋮なんということだ﹂
﹁この防御手段を完成し得たから奴らは我が国に侵攻してきたと⋮
⋮そういうことか﹂
呆然としたまままるで放心状態のトールの隣で、パデルはあまり
にも信じがたい目の前の光景に、フィラメントの侵攻の理由を見出
していた。
﹁この異様なタイミングでの開戦。いや、それ以前に先日の帝国に
おける皇帝暗殺計画自体が、この防御手段を有するが故のものであ
ったと、そういうことですか﹂
﹁おそらくそうではないかと思います。戦争をする覚悟もなく、他
国の皇帝暗殺を謀るのはリスクが大きすぎる。おそらくあの時点か
ら、今回のこの絵までを奴らは描いていたのでしょう﹂
﹁⋮⋮なんと悪辣なことを。つまりはあの暗殺計画も、陛下や帝国
の首脳部を殺害できれば僥倖と言う程度のもので、全ては今回の戦
いのための下準備だったと、そういうことですか?﹂
憤りを隠せぬ表情でトールはそう口にすると、パデルは目をつぶ
りながらゆっくりと首を縦に振る。
﹁おそらくは﹂
798
﹁踊らされたというのか! 我ら帝国軍が、奴らフィラメントに!﹂
自らの拳を強く握りしめ、トールは吠える。普段は極めて冷静で、
兄に比べおとなしいと見られがちであったトールの猛る姿に、周囲
の幕僚たちは思わずつばを飲み込み、押し黙った。
そうして一瞬の静寂が訪れたが、その沈黙を破ったのは、さらな
る凶報であった。
﹁トール様! 城塞に駐留していた兵士達は、グレイツェン・クー
ゲルに呼応して出陣準備を行っていたために、ほとんどの兵が脱出
することができず、生存者は存在しない模様。そして敵軍が、敵軍
が我が部隊目がけて行動を開始いたしております!﹂
その早馬を駆って飛び込んできた報告兵を目にして、その場にい
た一同はさらなる失意のどん底へと突き落とされた。
﹁ヒャーヒャヒャヒャ、いいネ。凄くいいウタだったヨ。死を前に
した、彼等の震え、恐怖、それがこの距離でもはっきりと分かるス
イート。フフッ、もう今日はボク、快楽に溺れて素敵に眠れそうサ﹂
自らの両肩を抱きながら、その場で笑い続けるウイッラ。
そんな彼の姿を目にして頬を引き攣らせながら、フィレオはゆっ
くりと口を開く。
﹁⋮⋮ウイッラ殿。取り敢えず城塞の方は壊滅したと見てよいでし
ょうな﹂
﹁アア、もうアソコからはウタが聞こえなイ。クズ共はいなくなっ
ちゃったと見ていいだろうネ﹂
ウイッラは肩を抱いたそのままの姿勢で、激しく体をくねらせな
799
がらフィレオの問いに答える。
﹁ふむ。であれば、魔力を使い果たした上に、何を勘違いしたのか
我らに向かい攻め込もうとしていた小賢しい蝿を、軽く叩き潰して
やろうと思うのだが?﹂
﹁ああ、その辺りはキミが決めちゃってくれよ、司令官ドノ。ボク
はさ、ボクはさ⋮⋮今のこの興奮、この快楽、そしてこの溢れんば
かりの愉悦。もう少しだけ溺れていたいんだヨ﹂
両手で顔を押さえながら、歓喜のあまり地面を転がりまわり始め
たウイッラは、急に動きを止めると、空を見上げる形で地面に大の
字になってそう答える。
﹁⋮⋮では、我が軍とディオラム軍で増援部隊を迎撃する。では、
ウイッラ殿。城塞の方のあとの処理は任せたぞ﹂
﹁ああ、ボクにまかせてヨ。万が一残っているゴミクズがいたら、
優しくなでてあげるからサ。こう、首の骨をポキン、ポキンとネ﹂
フィレオの言葉に、ウイッラは体の前で人形の首を折る仕草をし
ながら、楽しそうに引き笑いを繰り返す。
その返事を受けたフィレオは、内心の感情を表に出さぬよう気を
つけながら、すぐに自らの部下たちに向き直り、次なる指示を下す。
﹁よし、ではウイッラ殿と協議したとおりだ。あそこで棒立ちとな
り突っ立っている馬鹿どもを狩りに行くぞ。ディオラムの連中に牽
制の魔法を唱えさせろ。奴らの足くらいは止めておけとな﹂
﹁はっ、直ちに﹂
フィレオの意を受けた兵士は、すぐにその場を駈け出し、ディオ
ラムの部隊が待機する方面へ駆け出す。
﹁さて、では雑用をディオラムがやってくれている間に、我々は奴
らへ迫るとしようか。おそらく連中は魔法士主体な上に、さっきの
800
役立たずを使ったせいで魔力切れだ。つまりはただの弱兵にすぎん。
皆の者、安心して狩りを楽しめ!﹂
周囲のものに向かいそう告げると、フィレオは獰猛な視線を混乱
に陥った帝国の援軍へと向けた。
﹁まずい。まずいぞ、これは﹂
﹁このままでは敵軍二万数千に対し、我軍は一万二千。ただでさえ
我らが数的不利な上に、我らの部隊の中心である魔法士隊は既にグ
レイツェン・クーゲルを使い魔力切れ。残る兵士たちだけで、彼ら
と戦わなければならない⋮⋮か﹂
隣で状況のまずさを口にしたパデルの声を耳にして、トールは冷
静に現在のフィラメントと自軍の状況を比較すると、自軍がはるか
に不利であることを悟る。
﹁敵軍もあの新魔法を使用したことにより、攻勢に出れない可能性
もありますが⋮⋮いや、あの様子ですとそれはなさそうですな﹂
黄土色の装いをしたマイスムの一団が明らかに自軍へ向かい行動
を開始し、そして後方に位置している群青色のディオラムが魔法を
編み上げ始めて入ることに気がつく。
﹁今、行動を起こそうとしない部隊が一つ。つまり、あの深緑色の
一団こそが、先ほどの魔法を編み上げたのでしょう﹂
﹁⋮⋮やはり今回も、あの忌々しいミラホフということですか﹂
過日の皇帝暗殺未遂事件の首謀者を裏で操っていたと思われるそ
の家の名前を口にし、パデルは思わず首を左右に振る。
801
﹁ええ、もちろんディオラムの可能性もあるでしょうが、現状その
可能性が高いと思います。ともかく、今考えねばならないのは我々
がどうするかですが、現状ではこのまま正面から戦っても、敗北は
必至でしょう﹂
﹁ですな。仮になんとか奴らの攻勢を防ぎ、うちの魔法師連中が魔
力を回復したところで、それは奴らのマイスムも同じ。グレイツェ
ン・クーゲルという切り札を封じられた時点で、この戦いに勝利は
ないということでしょう。やむを得ません。ここは撤退しましょう﹂
トールの悔しげな表情を見つめながら、パデルは撤退を進言する。
軍務長官のその判断を耳にして、トールは一瞬躊躇するも、迫り
来る黄土色の一団を目にして彼は決断した。
﹁⋮⋮わかりました。では、私が殿を努めます﹂
﹁殿下!﹂
予期せぬトールの発言に、間髪入れずパデルは抗議の声をあげる。
しかしすぐにトールは左右に首を振ると、彼らしからぬ強い口調
で言葉を放った。
﹁貴方には兄と父にこの軍を引き渡してもらわないといけない。特
に魔法士だけは必ず!﹂
﹁魔法士を⋮⋮しかし先ほどの奴らの防御魔法は見ましたでしょう
? 我が軍がこれ以上集合魔法を使おうとも、それは敵を利するだ
けとなります﹂
トールの発言に眉をひそめ、パデルはすぐさま彼に反論する。
﹁確かにそうかもしれません。ですが、敵軍の全ては魔法士であり、
その個人個人の技量は、我らの魔法士とは比になりません。それが
ほぼ無傷で帝都へ侵攻してくるのです。おそらく集合魔法無しでは、
我が国の勝利はきっとおぼつかないでしょう。そして何より⋮⋮今
の我が国には、あの方がおられますから﹂
802
﹁あの方? ⋮⋮まさか!﹂
トールが口にした言葉に引っかかりを覚えると、パデルはある人
物が脳裏に浮かび表情を引き攣らせる。
﹁ええ、ユイ・イスターツ⋮⋮あの最初に集合魔法を破った方なら
きっと﹂
﹁しかし、あの男はクラリスの人間ですぞ!﹂
パデルはすぐにトールに向かい、否定的な声をあげる。
しかしトールはニコリとした笑みを一度浮かべ、そしてその後に
一瞬で真剣な表情となる。
﹁大丈夫です。そのあたりのことは、きっと父と兄が手を打ってく
れるでしょう。とにかく今はなんとしても、この兵士達を一兵でも
多く連れ帰ることが私たちの使命です。はやく兵をまとめて行って
ください、私が皇族の一員としてこの戦いの責をとりますから﹂
そのトールの言葉は強い覚悟に満ちていた。
敗戦のショックと、少しでもシスプラム達の仇を討つという強い
決意。それらの感情が入り混じりながら、彼は皇族に連なるものと
して、その責任感から敵軍を睨みつける。
そんなトールの姿を目にしたパデルは、これまで兄と比べやや貧
弱だと考えていた、目の前のかつての教え子の評価を改めた。そし
てそれとともに、トール以上に強い覚悟を、彼はその時点で固める。
﹁⋮⋮お覚悟を変えられる気はないようですな。やむを得ません。
ご無礼を﹂
﹁な、なにを⋮⋮﹂
パデルは瞬く間にトールの背後を取ると、そのままその首元に自
らの太い右腕を纏わりつかせ、そして一気に頸動脈を締めあげて意
識を奪う。
803
﹁殿下を頼んだぞ。私はこの後、直属の兵のみを率いて、出来る限
り奴らの足を止めてみせる﹂
﹁長官⋮⋮わかりました﹂
皇子護衛のために派遣されていた近衛部隊の隊長に、パデルはそ
っとトールの体を預ける。
近衛部隊長はその時の軍務長官の表情から、もう二度と目の前の
人物と出会うことはないと悟った。
﹁トール様、立派になられた。ノイン様や陛下に比べれば線が細い
と、このパデルずっと見誤っておりましたが、それは間違いだった
ようですな。貴方様の成長をこれ以上見守ることが出来ないのが、
本当に、本当に残念でございます﹂
パデルは最後にトールの髪を一度撫でると僅かに瞳を湿らせる。
しかし次の瞬間、彼は唇に力を込め表情に鬼を宿らせた。
ここに帝国と魔法公国の初戦として知られるエーデミラス城塞攻
防戦は幕を閉じる。
帝国は南部方面軍を率いたシスプラム将軍と軍務長官パデル、そ
して膨大な数の兵士を失い、まさに完敗であったと後に評された。
そして帝国と魔法公国との戦いは、帝都レンドのもはや目と鼻の
先となるエルムンドへ、その舞台を移すこととなる。
804
敗北、そして
帝都のまさに中枢部とも呼ぶべきレンド城の大広間。
ここに一人の男が表情をこわばらせ、肩を震わせながら、片膝を
ついて頭を垂れていた。
﹁負けた⋮⋮か﹂
彼の前方に設置された玉座に腰かけていたリアルトは、悔しさの
あまり涙を流しながら震えている彼の息子に視線を向け、溜息を吐
き出す。
リアルトの言葉を受け、広間内全ての者の視線を集めるトールは、
震える声で更に自らの敗戦を口にした。
﹁申し訳有りません。本来ならば我が身を捧げて敗北を償うべき所
を、パデル長官を⋮⋮そうパデル長官を見殺しにして、おめおめと
生き延びてしまいました﹂
かつて自らの軍事指南役を勤め、そして帝国における軍務長官の
名前を口にしたとき、厳しくも愛のあったその指導の思い出がよみ
がえり、トールは思わず声を詰まらせた。
そんな彼の言葉を耳にしたリアルトは、眉をピクリと動かすと、
あえて彼に向って平坦な声で話しかける。
﹁ならばトールよ。貴様がまずすべき事は、余に向かって敗戦を詫
びることでは無かろう。パデルの死を無駄にせぬ為にも、先ほどの
戦いでなにがあったのか、この場で皆に説明せよ﹂
﹁はい⋮⋮フィラメントは、そうフィラメントは集合魔法に対抗す
る為の防御魔法を編み上げておりました﹂
トールが苦悶の表情を浮かべながらそう述べた瞬間、真っ先に声
805
を発したのは、皇帝の傍に控えていたノインであった。
﹁集合魔法がまたしても破れたというのか!﹂
﹁はい。此度の戦い、我らは完璧に集合魔法を編み上げ、そして敵
軍の中央部に向かい楔として集合魔法を放ったのです。しかしなが
ら敵軍の編み上げた不可思議な無数の光の壁の集合体によって、我
らの集合魔法は弾かれました。そしてその弾かれた我らの魔法は⋮
⋮あろうことかエーデミラス城塞に﹂
﹁エーデミラスの失陥は⋮⋮我らの集合魔法がその直接原因であっ
たと、つまりはそう言うことか?﹂
﹁⋮⋮無念な事ながら、その通りです。集合魔法の被害にて城塞守
備隊兼南部方面軍は壊滅。そのほとんどが死亡したと報告を受けま
した﹂
﹁ほとんどが死亡⋮⋮だと﹂
ノインがトールの報告に思わず息を飲む。
元々、集合魔法の開発及び運用は彼が一手に担っていたこともあ
り、自らのこれまでの成果のその結末が、彼の意図するものとは全
く真逆のものとなった失望のあまり、彼はそれ以上言葉を続けるこ
とができなかった。
﹁おそらくは最初から狙われていたのだろうな。弾かれたグレイツ
ェン・クーゲルの軌道が、あまりにも奴らにとって都合がよすぎる﹂
動揺隠せぬノインの代わりに、リアルトはトールの報告に対して
の論評を加える。
すると、皇帝から見て右方に控えていた内務長官であるメニゲス
が、首を左右に振りながら失意の伺える言葉を発した。
﹁でしょうな。しかしあれほど莫大な研究費を投じて編み上げたグ
レイツェン・クーゲルが、こうも簡単に防がれてしまうとは﹂
内務長官として集合魔法による有用性を認め、莫大な研究費をノ
806
インとともに練り上げたのが彼であった。その彼としても、この結
末には失望を感じずにはいられず、思わずその場で俯いてしまう。
﹁それで、現在の敵軍の動向はどうなのだ?﹂
心の整理はつかないままであるも、軍の統率者であるという責任
から、ノインは絞り出すように言葉を紡ぎ、軍務副長官のホプカイ
ンへとそう問いかける。
﹁はっ、現在フィラメント軍は南部方面からここレンドに向けて進
軍中。南部諸侯を制圧しながら北上しているため、進軍速度はやや
遅くなりましたが、それでも遠からぬ内に当地へ到着すると思われ
ます﹂
フィラメント軍は帝国軍と決戦の際に後背を突かれることの無い
よう、周辺の貴族領と彼らの私兵を順に制圧しながら緩やかにレン
ドに向けて歩を進めていた。
その報告を受けたノインは、頭を振りながら、思わず呟きを口に
する。
﹁時間がない⋮⋮か﹂
﹁それにつきまして、南部方面の貴族より続々と援軍要請が届いて
おるのですが⋮⋮﹂
明らかに答えのわかりきった内容を口にして、ホプカインは返答
を聞く前に肩を落とす。
そんな彼の仕草を目にしながら、ノインは唇を噛みつつ、誰もが
理解している現実を口にした。
﹁わが軍には現状、援軍を送るだけの余剰戦力がない。本来、こう
いう事態のための援軍として用意していたのが南部方面軍であった
のだからな﹂
﹁わかっております。彼らには申し訳ないことですが、少しでも時
807
間を稼いでもらう壁となってもらうしかないでしょう﹂
強く歯を食いしばりながら、苦渋の表情を浮かべつつホプカイン
はそう述べる。
そのホプカインの思いはノインも同様であった。しかし彼は軍の
統率者として現状の把握を感情より優先させる。
﹁この戦いを勝利で納めれば、きっと彼らには厚くこの借りは返す。
だから、今はフィラメントを倒すことだけに専念しよう。ホプカイ
ン、どこまで人員は確保できた?﹂
﹁王都に残しておりました残存兵力と、今回トール様が無事送り届
けてくださいました魔法士中心の増援軍の残兵合わせまして三万。
これに再建中のクラリス方面軍の人員やレンド周辺の諸侯軍を合わ
せまして最大で三万四千名程と見積もっております﹂
その数字をホプカインが告げた時、その場にいるものすべてが渋
い表情を浮かべた。
クラリス侵攻以前の帝国は間違いなく大陸西方最強の国家であり、
その兵数は八万を優に超えていた。それが今や半数にも満たなくな
っていたのである。
そして何より数の上では敵軍より数的優位とはいえ、その質に思
いが到ったとき、彼らは自軍の不利を悟らざるを得なかった。
﹁三万四千名⋮⋮か。厳しいな、魔法士は通常一般兵二名分以上と
よく言われるが、今回の敵兵の魔法士はあのフィラメントの奴らだ。
奴らの軍がほぼ無傷に近い状態⋮⋮つまり二万名近く残っていると
するならば、実際は四万名の軍に等しい﹂
﹁そして奴らは魔法士主体であるが故に、攻城兵器を必要にしない
と⋮⋮フィラメントには震動破壊呪文があるからな﹂
ビブラシオンと呼ばれる接地型のフィラメントの震動破壊呪文。
直接城壁に取り付かなければ発動できないという難点があるも、
その存在のためにこれまで幾度も国境沿いに建設した砦や防壁をフ
808
ィラメントに壊されてきた彼らは、通常の籠城戦が困難であること
を理解していた。
﹁集合魔法さえ機能すれば例え四万だろうが、倍する八万だろうが
勝利は難しくないのでしょうが⋮⋮﹂
﹁言うな⋮⋮今更、泣き言を言っても始まらん﹂
ここに至って仮定など無意味だとばかりに、ノインは頭を振る。
そうしてその場に沈黙が訪れたところで、この場にいる最高権力
者がゆっくりとその口を開いた。
﹁このまま奴らと戦って必ずしも負けるとは、余は思わん。だが我
が軍が不利なのは事実じゃろう。となるとだ、やはりあの男を動か
すしか無かろうて﹂
﹁ユイ・イスターツ⋮⋮ですか。しかし!﹂
以前から、皇帝があのクラリスの英雄に対しなにやら策を練って
いたことを内務長官のメニゲスは知っていた。だが彼はユイ・イス
ターツという名前の異国人の能力は認めながらも、他国人であると
いう不安を払拭できずに否定的な声を発する。
しかしそんな彼の言動などまるで存在しないかのように、リアル
トはそのままノインへと視線を向けた。
﹁予は少し席を外す。後のことは任せたぞ、ノイン﹂
﹁陛下、どちらへ?﹂
ノインは会議をここで抜け出してまで、皇帝が向かう先が気にな
り、そのまま問いかけた。
﹁最愛の娘の所にじゃよ。では⋮⋮な﹂
そう口にしたリアルトは、もう後ろを振り返ることなく大広間か
ら緩やかに歩み去っていく。
そうして彼がいなくなったところで、メニゲスにはある仮説が脳
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裏に浮かび、思わずその場でつぶやく。
﹁ミリア様のところ? ⋮⋮まさか陛下は!﹂
﹁⋮⋮ああ。陛下はあいつに差し出されるおつもりのようだ、我が
妹をな﹂
リアルトの策を把握していたノインは、驚きを隠せぬ内務長官に
向ってそう事実を伝える。
すると、メニゲスは一瞬言葉を詰まらせた後に、否定的な言動を
口にした。
﹁馬鹿な、敵国の男ですぞ。それも庶民の出の!﹂
﹁確かにユイの奴は庶民さ。ただし、誰よりもあいつを嫌いだった
俺の気持ちを変えるほど、際立って有能な⋮⋮な﹂
今回のリアルトの謀り事を受けて、間違いなく困惑の表情を浮か
べるであろうユイの動揺する姿を脳裏に浮かべる。
そして彼はまるで彼の友人のくせが写ったかのように、ゆっくり
と頭を掻くと、深い溜め息をその場に吐き出した。
810
もう一人の後輩
﹁ユイさん! この忙しいのに、こんな時間まで一体どこをほっつ
き歩いてきたんですか?﹂
正午過ぎにふらりと姿を消したユイが、深夜と呼んでも差し支え
ない時間に自らの執務室へと戻ると、部屋の奥から突然彼に向って
非難の声が浴びせられる。
こんな時間まで部屋の中で自分を待っている存在がいると考えて
いなかったユイは、一瞬虚を突かれた表情を浮かべたが、午後行う
はずであった事務仕事を全て押しつけたその声の主に向かって視線
を向けると、悪かったとばかりに頭を掻く。
﹁はは、ごめんね。いやぁ、オメールセン君がどうしても来てほし
いっていうからさ。ケンメル氏のお店に足を運んだのだけど、意外
と話が分かる御仁だったものでね﹂
帝国最大の貿易商の名を挙げながら、ユイは苦笑を浮かべつつゆ
っくりと自らの椅子へ腰かける。
一方、予期せぬ人物名を耳にしたフェルナンドは、非難から興味
へとその瞳の色を変えると、すぐさま問いを口にした。
﹁ケンメル氏⋮⋮ですか。オメールセンの奴は、どうだったのです
か?﹂
﹁うん。やはり彼は有能だね。ケンメル氏相手に一歩も引き下がら
ない。あの胆力は普通の商人が持てるものではないな。実際に帝国
内での販売網は拡大傾向だし、何より素晴らしいのは、注文だけ取
って置きながら、なんだかんだと口実をつけて商品をまだ搬入して
いないところさ﹂
﹁つまりは今度の戦いの推移を見守るつもりですか。なるほど⋮⋮
811
さすがに抜け目ない男ですね﹂
近い内に起こるであろう帝国と魔法公国の決戦。
その戦いにて帝国が敗北した場合、魔石の代金が回収不能となる
可能性が存在する。それ故にオメールセンは、この戦いが終わるま
で直接の取引自体は先延ばしにしようと画策していた。
﹁ああ、君の言う通りさ。まあ、売るだけ売って回収できないなん
て事態になったら、完全に丸損だからね。荷物は帝都内に購入した
倉庫に運び込んでいるみたいだけど、いつでも運び出す準備はされ
てある。つまりはそういうことさ﹂
﹁なるほど。やはりただの小悪党ではないって事ですか﹂
﹁ただの小悪党なら、あんな組織を一代で築くことはできないよ。
先日ある男に脅されたためか、契約違反はしなくなったみたいだけ
ど、それでも契約の隙間を縫って自らのポケットに入れている金額
は今でも多い。でも、見て見ぬ振りをして上げられる程度には有能
な男さ﹂
その言葉の中に含まれていた内容を耳にして、フェルナンドはわ
ずかに表情を厳しくする。
﹁いいんですか?﹂
﹁かまわない。むしろアレックスの奴に脅されながら、それでも契
約の隙間を突こうなんて考えている彼を、私は評価したいと思うね。
それに彼みたいな人間を相手取る場合、多少は見ない振りをしてあ
げることが、長くそして上手く付き合っていくためのコツさ。第一、
取引相手に対するカードはいくつも持っておくべきだし、そのカー
ドを切るべきタイミングは今じゃない﹂
あっけらかんと笑いながらユイはそう口にすると、オメールセン
がチョロマカしている案件のリストをフェルナンドに向かって放り
投げる。
そのリストを目にして、フェルナンドは一瞬目を見開くも、目の
812
前の男ならこの程度のことはやりかねないと考えなおし、溜め息を
吐き出しながら天を仰いだ。
﹁⋮⋮まったく、貴方という人は﹂
﹁ふふ、まあその辺りが帝都におけるイスターツとオメールセンの
現在の活動内容さ。できるだけ上手く貴族院の方々に伝えておいて
くれると助かるかな﹂
フェルナンドの予期せぬタイミングで、不意に放たれたユイの言
葉。
その言葉が持つ力は、正に絶大であった。彼の口から貴族院とい
う単語が発せられるや否や、フェルナンドは一瞬惚けたかのように
棒立ちとなり、そして震える声で言葉を絞り出す。
﹁⋮⋮な、なぜそれを。まさかアレックスさんが?﹂
﹁私の情報源は他にも存在する。もちろんアレックスからもたらさ
れる情報は貴重なものだけど、彼は僕に全てを伝えてくれるわけじ
ゃないしね﹂
だからこそアレックスの代わりはいないのだと思いながら、ユイ
は二度頭を掻く。
一方、そんな彼の思考を知るはずもないフェルナンドは、アレッ
クス以外の可能性を脳内で探り、一つの回答へと行き着いた。
﹁なるほど⋮⋮アーマッドそしてアズウェル先生のラインからもた
らされた情報ですか﹂
﹁別に否定も肯定もしないよ﹂
言外に当たりだと言っているようなものである事を自覚しながら、
ユイはあいまいな笑みを浮かべつつ、あえて明言を避ける。
そんな彼の言動に焦りを感じたフェルナンドは、自らの立場を考
え、ユイに向かい問いかけた。
813
﹁⋮⋮それでどうされます。解任されますか?﹂
﹁解任? 一体、誰をだい?﹂
眉間にしわを寄せて、顔に疑問符を張り付かせるユイに対し、フ
ェルナンドは意外そうな表情を浮かべると、馬鹿にされているのか
と感じやや語気を荒くする。
﹁そりゃあ、この僕に決まっているじゃないですか!﹂
﹁ああ、なるほど。そう言う考え方もあるか。まあ君が本当に彼ら
のような貴族主義者でさ、私の足を引っ張るのが目的ならそれも悪
くないけど⋮⋮でも、君の本当の目的はそうじゃないだろう?﹂
﹁ど、どうしてそれを!﹂
貴族院の面々でさえ知り得ぬ秘中の秘。
それを貴族院とは縁もゆかりもないユイが言及したことに対し、
フェルナンドは思わず動揺する。
﹁貴族院の私に対する策はさ、一見私が不利になるように仕組まれ
ていた。そう、これまではね。でも逆に一定の条件を満たすことが
できれば、私が彼らに対抗する力を持てるように巧妙に計算されて
いるものばかりだったとも言える。例えばレムリアックの件といい、
この帝国赴任といいね﹂
これまでの貴族院の介入案件に対して、ユイはいくつかの疑問を
有し続けていた。
それは彼が貴族院からの工作を乗り越えるに連れて、彼の個人的
な願望とは異なり、自らの地位と立場が強化されていくのである。
そしていつしか彼は、それが偶然ではないのではないかと考えて
いた。
おそらく貴族院の中に明らかに思想のことなる異分子が紛れ込ん
でおり、その者の思惑が反映された結果ではないかと、彼は気づく
に到ったのである。そこに思考がたどり着いたとき、クレハからも
814
たらされた情報と、目の前にいるフェルナンドの能力を計算に加え、
ようやく彼の予測に明確な一筋の道筋が描かれることとなった。
﹁貴方なら、そう貴方なら僕の期待に応えてくださると思っていま
したから﹂
﹁はぁ⋮⋮応える側の身にもなって欲しいものだけどね、まったく。
特にレムリアックの件なんか無謀にも程があるだろ。本気で私がル
ゲリル病を駆逐できると思っていたのかい?﹂
﹁さすがにヒヤヒヤしてはいましたよ。あなたが失敗すれば、一つ
の計画が完全にご破算となるところでしたから﹂
全てを観念したかのように、フェルナンドはユイの真似をして頭
を掻く。
一方、その仕草を目にしたユイは、わずかに目を細め彼に向かっ
て問いを発した。
﹁へぇ、今の口振りだと、君にとって何らかの根拠があったわけだ。
私ならルゲリル病を克服できると言う根拠がね。それは何なのかな
?﹂
﹁そりゃあ、やる気さえあれば、貴方なら大抵のことは成し得ると
僕は思っていますから。もっともさすがにこれがなければ、レムリ
アックを貴方に贈る算段は流石にしなかったでしょうが﹂
そう口にしたフェルナンドは、懐から小さな書籍を取り出すと、
それをユイへと手渡した。
﹁本⋮⋮これがどうして根拠となるんだい?﹂
﹁これはアズウェル先生にお借りしたただの辞書ですよ。ただ問題
は、その中にしおり代わりに挟まれていたメモ用紙があったことで
して﹂
そう口にしたフェルナンドは、意味ありげにニコリと微笑む。
ユイは軽く首を傾げながら、辞書に挟まれていたメモ用紙を手に
815
取ると、途端にその表情を引き攣らせた。
﹁これは世界のソースコードと魔法の⋮⋮あのゴミ部屋教授め﹂
挟まれていた一枚のメモには、かつてユイとともに研究を行った、
世界の構造に関する走り書きが記されていた。
そしてそのことから、ユイはすべての事情を理解した。
つまり荒れ果てた部屋の中で栞を見つけられなかったアズウェル
が、研究中の内容を記したメモをしおり代わりとし、そのまま気づ
かずにフェルナンドに渡してしまったという事情を。
﹁ええ。それを見て、確信していました。魔法の構造式だけでなく、
世界の構造まで見通すことのできる貴方なら、ルゲリル病でさえ解
析して対策を立てられるだろうと﹂
そのフェルナンドの発言を耳にして、ユイはわずかに苦虫を噛み
潰した表情を浮かべる。そして髪をくしゃくしゃと掻きむしると、
大きな溜め息を一つ吐き出した。
﹁あの研究馬鹿の老人は本当に⋮⋮しかし、なるほどね。たった一
枚の切欠、それだけで君はこの世界の仕組みに勘づき、私が扱って
いる真の魔法へ辿り着いたというわけか。王立大学創立以来の天才
という異名は、やはりダテじゃないというべきかな﹂
﹁天才⋮⋮ですか。残念ながら、そんな呼び名はとっくに忘れまし
たよ。少なくともアズウェル・フォン・セノークやユイ・イスター
ツという人間と出会ったその日からね﹂
フェルナンドは首を左右に振って、ユイの発言を苦笑混じりに否
定する。
その言動を耳にしたユイは、困ったように頭を掻くと、目の前の
青年に向って問いを発した。
﹁それで、そこまで話した上で、私にどうしろと言うんだい? 君
816
の妹を何とかしろってことかな﹂
﹁⋮⋮と言うことは、僕の妹の件も既にご存じなんですね?﹂
ここまでばれているということを省みて、すでにユイならば調査
済みだろうと確信しながらも、念のためにそう問いかける。
﹁ああ、悪いけど先日調べさせてもらった。まさかブラウ大公の親
戚筋に、無理矢理婚姻を結ばされているとはね﹂
﹁婚姻? あれはただの人質契約ですよ。この僕に対するね﹂
﹁だからこの私に貴族院を叩き潰せと?﹂
フェルナンドの内に秘められた静かな怒りに気がつき、ユイは彼
に向かってそう確認する。
﹁いいえ。僕としては、とりあえずあの国が変わればいいのですよ。
そう、あのばかげた貴族制度を作っているあの国がね。そのための
人材として貴方を選んだ。ただそれだけのことです﹂
﹁今の女王はまともな方だよ。多少無軌道なところはあるけどさ﹂
﹁確かにそうかもしれません。でも次の代の君主はどうでしょうか。
そしてその次の代は?﹂
そのフェルナンドの言葉の意味するところは明白であった。それ
はつまり王制の否定である。
そしてそれ故に、彼がそれを打破する人材として自らに期待して
いることを、これまでの彼の発言からユイは理解した。
﹁だから庶民出身の私に力を付けさせて、いずれ国家転覆へ向かわ
せる⋮⋮か。確かに格好の人材だよ、私はね。何しろ国家経営なん
てめんどくさいものは人に任せたがるんだから、独裁者になりよう
がないのでね﹂
﹁いや、さすがにそこまで言うつもりはありません。ですが、貴方
ならこの国を民主共和制へ導くことにも、あっさり同意してくださ
りそうでしたから﹂
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﹁別に政治体制なんかに興味はないからね。なるほど、程々に力を
付けさせた上で、私にクーデターを起こさせる。万が一それが失敗
しようとも、その際は弱ったクラリスに対し、キスレチンあたり招
き入れようってのが、君の計画の全貌かな?﹂
フェルナンドの能力を踏まえれば、自らを使う策が仮に失敗しよ
うとも、それくらいの次善策は考えているだろうと、ユイは考えた。
すると、その言葉を耳にしたフェルナンドは、正に図星と言うべ
き反応を見せた。
﹁⋮⋮さすがですね。そこに思考が及ぶとは。いえ、だからこそ貴
方を選ぼうとしたわけですが﹂
﹁そんなにクラリスの体制が嫌いかい?﹂
﹁嫌いですね。少なくとも、妹と僕とを引き裂いたクラリスを、僕
は決して許しはしない﹂
短い言葉に込められた強い意思と怒り。それは空気の振動を通し
て、対面にいたユイにも痛いほど伝わってきた。
﹁ふむ⋮⋮だけど君が思っているほど民主共和制なんて素晴らしい
ものではないよ。政治をどうやって運営するかという、考え方の一
つと言うだけでね﹂
﹁さし当たって、今のクラリスよりはましでしょう。貴族院などが
のさばり続け、身分という名の下に、不当な扱いが肯定されている
あの国よりはね﹂
﹁⋮⋮キスレチンは君が思うほどに、夢の国というではないさ。で
も、君の考えはわかった。クーデターなんて絵空事はともかく、君
の心に刺さった棘の一つは僕が何とかしてあげる。君も私の教え子
の一人だからね﹂
ユイはあっさりと、しかしはっきりとフェルナンドに向かってそ
う告げた。そして目の前の青年が面食らって言葉を出せない間に、
彼はゆっくりと頭を掻く。
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﹁棘を何とかするって⋮⋮それってユイさん、もしかして!?﹂
﹁ああ。知らない仲ではないからさ、彼女のことは私に任せてくれ
たらいい。その代わり、代償として君には一つのものを提供しても
らいたいのだけど⋮⋮まあ、それは後日伝えるよ。いずれにせよ、
今日は自室へ帰らせてもらうおうかな。これ以上目を開け続けるの
は、そろそろ限界でね﹂
何か口にしたげながらも、言葉が出てこないと様子のフェルナン
ドに向かい、ユイはそれだけ告げるてその肩を軽くポンと叩く。そ
して彼はそのまま部屋から立ち去っていった。
そうして幾何かの時が過ぎたであろうか。
ようやく思考の硬直が解けたフェルナンドは、その場から立ち去
ってしまった人物に向かい、震える唇で呟きを漏らす。
﹁ユイ⋮⋮さん。貴方は何を成そうとしているのですか。そして僕
に何をさせるつもりなのですか?﹂
自分以外誰もいなくなったその部屋で、フェルナンドはゆっくり
と目を瞑る。
その瞼の裏には、かつての彼とユイ、そしてもう一人の金髪の少
年と過ごした思い出がうっすらと浮かび上がってきた。
同時に彼は、自らの瞳から一滴の水滴を重力のままに落下させて
いく。
その事実に気がついた彼は、妹と引き裂かれたあの日、彼女を再
び取り戻すその日までは前しか向かないと己に誓った決め事を思い
出し、涙を拭って瞳を開けた。
ユイとの全く予期せぬやりとりと、そして彼が妹を取り返してく
れると言ってくれたこと。それが彼の心の全てを覆い尽くしていた。
そしてそれ故に、彼は彼らしからぬ一つのミスを犯してしまって
819
いた。
そう、彼がこの部屋でユイを待っていた本当の理由を忘却してし
まっていたのである。ユイに対して一つの警告を行わなければなら
ないという、その目的を。
そうして彼が警告を行う機会は、永久に失われることとなった。
とある女性の来訪があったと、ユイに伝えるその機会を。
﹁お待ちいたしておりました。ユイ・イスターツ様﹂
すっかり見慣れたはずの自らの寝室。
普段と変わらぬよう部屋へ足を踏み入れたユイは、全く予期せぬ
人影をその瞳に捉え、まるで石になったかのようにその場に固まる。
無人のはずの自室で彼が目にしたもの。
それは恥ずかしそうに俯きながら、ユイの寝台へと腰掛けた第四
皇女ミリア・フォン・ケルムの姿であった。
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払える代償
﹁ミ、ミリア様⋮⋮どうしてここに﹂
﹁おわかりになりませんか? 貴方に⋮⋮そう、ユイ・イスターツ
様にお会いするためにです﹂
動揺を隠せないユイとは異なり、ミリアはわずかに顔を赤らめつ
つも、はっきりとした意思を込めてそう告げる。
そんな彼女に視線を向けられたユイは、弱った表情を浮かべると、
思わず頭を掻いた。
﹁ミリア様。別にこんな時間でなくても、私は何時でも貴方にお会
いしますよ。今日はようやく仕事を終えたところでして、申し訳な
いのですが、できれば日を改めて頂けませんか?﹂
﹁いいえ、嫌です﹂
春の暖かな日差しのように、いつも穏やかな笑みを浮かべていた
ミリア。そんな彼女が、毅然とした表情ではっきりとした拒否を口
にする。
これまで箱入り娘だという印象しか抱いていなかったユイは、そ
のミリアのはっきりとした意思表示に戸惑い、言葉を詰まらせた。
﹁ミリア様⋮⋮﹂
﹁私は今日、貴方に会うためにここに来たのです。そして貴方に頼
みを伝えるためにここにいるのです﹂
﹁頼み⋮⋮ですか。もちろん私のできる範囲の事ならお手伝いしま
すよ。ですから、また改めてですね̶̶﹂
困ったように頭を掻きながら、ユイはとりあえずこの場を収めよ
うとそう口にする。
しかし彼が言い切るよりも早く、ミリアは彼に向って口を開いた。
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﹁その貴方の出来る範囲に、この国を救うことは入りますか?﹂
﹁⋮⋮どういうことでしょうか?﹂
ミリアの言葉の意味するところを、ユイは理解していた。そして
それ故に、なぜミリアがここにいるかも、彼は正確に理解する。だ
からこそ彼は、あえて彼女に向かいとぼけて見せた。
しかしそんな彼のその場しのぎの対応は、ミリアにさえすぐに看
破される。
﹁貴方ほどの人ならわかっているでしょう。フィラメントからこの
国を、ケルム帝国をお助け下さいませんか﹂
﹁それは⋮⋮﹂
駆け引きも打算もなく、ただ純粋な願い。
それをストレートにぶつけられ、思わずユイは面食らうとともに、
口ごもる。
一方、そんな彼に向かい、ミリアは更に自らの思いを彼へとぶつ
けた。
﹁貴方は先ほど言われました。﹃できる範囲の事なら﹄と。そして
貴方にはフィラメントからこの国を救うだけの能力があるはずです。
英雄、ユイ・イスターツにならば﹂
﹁⋮⋮買いかぶりすぎですよ。どうもこの国の方は、私を過剰に評
価しすぎるきらいがある。私なんてその辺りにいくらでも転がって
いる、少しばかり幸運なだけの軍人にすぎません﹂
視線の重なったミリアの瞳に思わず吸い込まれそうになり、ユイ
は慌てて顔を背ける。そして首を左右に振りながら、どうにかと言
った体で返答を口にした。
822
一方、そんな彼のはぐらかす様な回答に、表情に憂いを帯びたミ
リアは、やや低い声で彼に向かい一つの問いを発する。
﹁では、私の愛するこの国が、そして臣民が、ただの幸運なだけの
人物に負けたと、そう貴方は言われるのですか?﹂
﹁ミリア様⋮⋮﹂
ほんの僅かに陰を含んだミリアの問いかけ。
それに対して、ユイははっきりとした回答を口にすることができ
なかった。
﹁ごめんなさい、答えづらいことを聞きましたよね。でも貴方が出
来ないと思っていらしても、私は貴方なら⋮⋮そう、貴方なら私達
を救ってくださることができると思っているんです。だから、もし、
あ、あなたが求めるなら⋮⋮代償として⋮⋮わ、私をあなたに捧げ
⋮⋮ます﹂
顔を上気させ、最後の方は蚊の鳴くような声でミリアはそう告げ
る。
現在ここにミリアが存在するという状況。それ自体が、彼女の今
の発言が本気であるということをユイに対して如実に示していた。
だからこそユイは戸惑い、思わず髪の毛を掻き毟る。
幾許かの時間、二人の間に沈黙が訪れた。
そんな二人のうち、最初に口を開いたのは、目の前の女性の背後
に二人の男性の影を見たユイであった。
﹁⋮⋮全く、あなたほどの女性がそんなことをおっしゃられてはい
けませんよ。私でさえ、本気にしかねない。さあ、ご家族の元へ帰
りましょう﹂
やわらかな口調で告げられた、明確な拒絶の言葉。
だがそんなユイの言葉の中に﹃家族﹄という単語が含まれていた
823
ことから、ミリアは目の前の男性の言葉が、彼女ではなく彼女の背
後に存在する二人に向かって告げられたものであると理解する。
そしてそれ故に、ミリアは羞恥と緊張で高鳴る胸を抑えながらも、
ユイの誤解を解こうとはっきりと口を開いた。
﹁本気とは⋮⋮受け取って頂けませんか﹂
﹁え?﹂
予想もしないミリアの言葉に、ユイは彫刻になったかのようにそ
の場に静止した。
すると、そんな彼に向かってミリアは自らの思いを口にする。
﹁確かに、父には貴方を私の夫とするよう、期待されているのは事
実です。今日も私のところに、その話を持って来られました。でも、
具体的に何かを指示されたわけではありません。父は、今このとき
⋮⋮私が貴方の部屋にいることを知りません。私は⋮⋮わ、私の意
志で⋮⋮ぅう⋮⋮貴方の部屋に入ったのです﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁私に恥をかかさないで下さいっ! 私だって大人です。今、自分
がしている行動がどういうことかくらい分かっています。そしてわ
かってくださらないので、はっきり言います。国の為だけなら、私
はここには来ませんでした。なぜかって? それは貴方だからです。
以前に私と父の命を救って下さった貴方だから、私はここにいるん
です!﹂
そうはっきりと宣言したミリアの顔は羞恥の為に紅く染まり、そ
の瞳には今にも零れ落ちそうな一滴の涙が浮かぶ。
そんな彼女の瞳を目にして、ユイはようやく先ほどの彼女の言動
が事実であると理解した。
しかしながら、それでもなお、彼は目の前の女性に向かい抗弁を
試みる。
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﹁あれは私も命を狙われたからですよ。結局自己保身の延長にあな
た達がいらっしゃっただけ⋮⋮そうは思われませんか?﹂
﹁ご自身が思ってもいないことを口にして、私を説得しようとされ
るのはやめて下さい。私の目がそこまで節穴だとお思いなのですか
?﹂
﹁私のところへ来られようとするくらいですから⋮⋮いえ、失言で
す。今のは忘れて下さい﹂
さすがに自らの言動に、彼女を侮辱する成分が多分に含まれてい
。それとも⋮⋮私ではご
たことに気づき、ユイは思わず唇を噛む。
﹁お願いです⋮⋮この国を救って下さい
不満なのですか?﹂
そんな彼の思考を知ってか知らずか、ミリアは涙を流しながら上
目遣いにユイの顔を見上げる。
美しくも儚いその表情に、ユイは思わず息をのむ。
そしてユイは一度その目をつぶると、無数に有していた選択肢の
中から、最も茨の道だと考えていた一つの選択肢を選ぶことを、こ
こに決断した。
﹁ミリア様⋮⋮誠に申し訳ありませんが、クラリス王国のユイ・イ
スターツ大使は、やはり貴国の戦争を手伝うことはできません﹂
ミリアの目を見つめながら、硬い表情を崩すことなくユイはそう
述べた。
するとその瞬間、ミリアは俯き、か細い声を吐き出す。
﹁⋮⋮そう⋮⋮ですか﹂
﹁ええ、申し訳ありません⋮⋮ですが、ウォール商会の商売人であ
るユイというただの男なら、話は別です﹂
﹁えっ?﹂
突然ユイが話し始めた内容に、ミリアは驚くと、すぐさま顔を上
825
げる。
その彼女の視線の先には、いつもの苦笑いを浮かべるユイの表情
があった。
﹁ですから、ウォール商会に属しているユイという商人ならば、商
会の利益のために、止むを得ず帝国軍に協力することがあるかもし
れません。まあ、これはあくまで独り言ですが﹂
﹁⋮⋮で、では!﹂
先程まで曇らせていた表情をぱっと明るくさせたミリアは、期待
に満ちた目でユイをまっすぐに見つめる。
その視線の先に存在する男は、頭を掻きながら照れくさそうに口
を開いた。
﹁あくまでビジネスです。それもあなたとわたしの間での取引では
なく、ウォール商会とケルム帝国との商売。もしそのような形でよ
ければ、一商人のユイという男が、貴国のお手伝いをして差し上げ
ましょう﹂
彼が全てを述べ終わるか終わらないかのタイミングで、ミリアは
まっすぐにユイの胸へと飛び込んだ。そして彼女の大きな瞳からは
大粒の涙が流れ落ちていく。
﹁ありがとう、本当にありがとう。もうミリアは貴方のものです、
ユイ。ですから⋮⋮その⋮⋮わ、私を﹂
﹁ちょ、ちょ、ちょっとお待ち下さい。ミリア様、先にも申しあげ
ました通り、今回お助けするのはウォール商会の男ですよ。それに
⋮⋮﹂
ミリアの肩に優しく手を置くと、ユイはゆっくりと自分から引き
離す。そして彼は彼女の目を覗きこむように見つめながら、諭すよ
うに口を開いた。
826
﹁それに、貴女や周囲が英雄と呼んでいる男は、そんな大した男じ
ゃないんです。だから期待に応えられる働きなんて出来ないかもし
れない。ですから⋮⋮私⋮⋮いえ、そのウォール商会の男が仮に何
らかの報酬を頂くとしたら、それは全てが納得できる結果で終わっ
た後のこと。それでいかがですか?﹂
﹁はい、はい⋮⋮わかりました、ユイ﹂
ミリアは左手の指で軽く涙を拭い、上品にドレスを持ち上げて挨
拶をする。そして目元に手を当てながら、足音を立てること無く、
そのまままっすぐにユイの部屋から出て行った。
そうして一人残された部屋で、ふらふらと窓際にへと歩み寄った
ユイは、そのまま窓を開けると、室内よりわずかに涼しい外の空気
を吸い込み、そして大きな溜め息とともに吐き出す。
﹁はぁ⋮⋮これでまた少し働かなくてはいけなくなったか。労働と
いうものはさ、まったくもって私の性分じゃないんだけどね﹂
本心からのその呟きは、ミリアの静かな足音とともに、帝国の夜
空へと溶けていった。
827
もう一人の姫
翌日の昼。
とある一名を除く主だった人員に対し、ユイは自らの執務室へと
集まるように指示を発した。
そうして呼び出されたアレックス達は、一同揃い踏みでユイの執
務室へと足を踏み入れる。すると、彼らの視線の先の人物は、机に
足を投げ出した状態で大きなあくびをしていた。
だらしないという言葉が誰よりも当てはまるそんな姿を目にして、
フェルナンドは額に手を当てると、溜め息混じりに口を開く。
﹁あの、ユイさん。なにかお急ぎのことと伺い、こうして駆けつけ
た訳ですが⋮⋮一体、何の御用ですか?﹂
﹁ん? ああ、そういえばそうだった。いやぁ、どうにも眠くてね﹂
急な呼び出しを受けて、自らの仕事を置き去りにしたまま駆けつ
けたフェルナンドは、やや不満気な表情を浮かべる。
しかしながらそんな彼の前で、ユイは相変わらずマイペースに大
きく伸びをすると、アレックスが苦笑しながら口を開いた。
﹁また昼まで寝ていたのかい?﹂
﹁ああ。と言うか、世の中の共通認識が間違っているんだよ。なん
で人間は朝から働かなくちゃいけないのか、この私には全くもって
理解に苦しむね﹂
﹁あのですね、ユイさん。そんなくだらない議論をするためにここ
へ皆を集めたんですか?﹂
呆れ顔のフェルナンドは、目の前の上司に向かい、早くその目的
828
を告げるよう溜め息混じり促す。
﹁おっと、危うく本題を忘れるところだった。どうも最近物忘れが
激しくてね。そうそう、集まってもらったことだけど、私は今回の
帝国の戦争を手伝うことにしたから。うん、それだけ伝えておこう
と思ってね。以上、解散﹂
ユイは伝えることはこれで終わりとばかりにニコリと笑みを浮か
べると、目の前の部下たちから視線を外し、机の上に置いてある読
みかけの書籍へとその手を伸ばす。
そんな彼の行動を目にしたフェルナンドは、今回のユイの発言の
可能性は考えていたものの、あまりにも唐突かつ一方的な内容に抗
議の声をあげた。
﹁ちょ、ちょっとユイさん。いきなり解散って⋮⋮解散できるわけ
無いでしょ!﹂
﹁へ、なんで?﹂
大きな声を発したフェルナンドへと視線を向けると、ユイは不思
議そうな表情を浮かべ首を傾げる。
﹁なんでって⋮⋮あのですね、一体どういうつもりなんですか!﹂
﹁いや、外交大使としてではなく私個人が私人としてね、ちょっと
友人の手伝いをするってだけだからさ﹂
﹁友人って言うと、もしかして最近良くここに遊びに来ている彼か
い?﹂
いつもの笑みを浮かべたまま、アレックスはキツネ目をわずかに
細めると、ユイに向かってそう問いかける。
すると、ユイは頭を掻きながらあっさりと彼の予想を肯定した。
﹁ああ、その通りさ。公人ではなく私人として、彼を手伝う。だか
ら今回は君たちを巻き込むつもりはないよ。一応、急に私がいなく
829
なった場合に、心配させたら悪いかなと思ってね。というわけで、
これからしばらく私がいなくなるかもしれないので、それを踏まえ
てみんな適当に働いてくれたまえ﹂
﹁ふぅん、君個人が⋮⋮ね。なるほど﹂
アレックスは意味ありげな笑みを浮かべると、わかったとばかり
に二度小さく頷く。
そんな彼を目にして、眉間に皺を寄せたフェルナンドは慌てて口
を開いた。
﹁アレックスさんも、なるほどじゃないですよ。一緒にユイさんを
止めてください!﹂
﹁いや、ユイが私人として戦いに手を貸すのなら、当然ながら僕も
私人として手伝うつもりだしね。最近相手がいなくてちょうど退屈
していたところだからさ﹂
なんでもないことのように、アレックスは浮かべた笑みを崩すこ
と無く、あっさりとそう宣言する。
それを耳にしたユイは、途端に弱った表情となると、彼に向かっ
て苦言を呈した。
﹁おいおい、今回の相手はフィラメントだぞ。別に剣士相手じゃな
いんだからさ、大使代理としてここでおとなしくしておいてくれ﹂
﹁はは、魔法士相手に戦うのも一興だよ。別に僕は剣士の相手しか
出来ないわけではないからね﹂
﹁魔法士殺し⋮⋮か﹂
朱と呼ばれる前のアレックスの通り名を無意識に口にして、ユイ
は思わず苦笑する。
﹁それにちょうど彼らにも良い実戦訓練だ。せっかくの機会を逃す
つもりはないよ﹂
﹁え⋮⋮僕達⋮⋮ですか?﹂
830
突然話をふられたレイスは、自分とフートを指さしながら、顔を
引き攣らせてそう口にする。
﹁レイス君、他に誰か居るのかな?﹂
﹁いえ⋮⋮是非、是非に参加させてください!﹂
アレックスの笑みが次第に冷たいものへと変わりかけたことを悟
った瞬間、レイスは自らの危機を感じ、この戦いに参加するほうが
よほど安全だと判断する。
﹁ふふ、というわけで僕らは君が嫌だと言っても勝手に戦わせても
らうから、そのつもりで﹂
﹁ちょっとアレックスさん。ダメですよ、そんなことをしたら﹂
アレックスが本気であることを理解し、フェルナンドは彼へと向
き直ると、再考するよう求める。
しかしそんなフェルナンドの発言を丁寧に無視して、ユイは椅子
に腰掛けたまま肩をすくめた。
﹁全く、君は⋮⋮わかったよ。そのつもりで考えておくから﹂
首を左右に振りながら、戦場では誰よりも心強い親友に対し、内
心で感謝する。
一方、次々と話を進めていくユイとアレックスに対し、フェルナ
ンドは弱り切った様子で頭を抱えた。
﹁アレックスさん。貴方まで⋮⋮﹂
﹁あ、そうそう。フェルナンド、君にも二つほどお願いしたいこと
があるから﹂
﹁何ですか? 言っておきますけど、僕は戦場には出ませんからね﹂
突然に指名に対して、釘を差すようにフェルナンドはユイへとそ
う宣言する。
するとユイは、頭を掻きながら口を開いた。
831
﹁せっかく昔、戦い方を教えたのに⋮⋮まあ、それは良いよ。まず
一つ目のお願いなんだけど、君に提供して欲しいものがあるんだ﹂
﹁提供? 何をです?﹂
会話の矛先が変わり、フェルナンドは怪訝そうな表情を浮かべる
と、ユイへそう問いかけた。
﹁君の研究内容さ﹂
﹁⋮⋮どういうことですか?﹂
予想外のユイの言動に、フェルナンドは警戒を隠さない。
そんな彼の思考を汲み取ってかゆっくりと、しかしはっきりとし
た意志を持って、ユイは彼に向かって言葉を口にする。
﹁先に代金を頂いておこうと思ってさ、例の件のね﹂
﹁昨日の夜の件ですか⋮⋮お約束をお守り頂けるなら⋮⋮かまいま
せん﹂
ユイが指していることの意味を正確に把握したフェルナンドは、
一瞬で表情を硬くすると、とぎれとぎれにそう言葉を絞りだす。
﹁ありがとう、約束は守るよ。具体的に提供してもらいたい研究の
話は、今晩にでも君の部屋で直接話しをしよう﹂
﹁⋮⋮わかりました。それでもう一つのお願いとは?﹂
﹁ああ、少し情報工作をしてもらいたいと思ってね。私達が帝国軍
に加勢すると言う情報を、出来る限り君のところで食い止めてくれ。
この戦いが終わるまでという時間限定で構わないからさ﹂
両手を広げつつフェルナンドに笑いかけながらユイがそう依頼す
ると、フェルナンドは彼の言葉にあったある単語に引っかかりを覚
え、途端に眉間の皺を深くする。
﹁時間限定? どういうことですか。クラリス本国に、あなたが無
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断で帝国に加担したことが伝わってもいいと?﹂
﹁はは。そりゃあ、伝わらない方がいいだろうね。だけど、いくら
頑張ったところでそれは無意味なのさ⋮⋮おや、納得行かない顔だ
ね。ふふ、大丈夫。何故かは、この戦いが終わったらすぐにわかる
からさ。そんなことよりも、この件に関してはお願いできるかい?﹂
怪訝そうな表情を浮かべるフェルナンドに向かい、ユイはちょっ
としたお使いを頼むかのような気軽さで、改めて彼へと依頼を告げ
る。
すると、フェルナンドは顎に手を当てて熟考した後に、首を縦に
一度動かした。
﹁わかりました。僕が出来る範囲でしたら、なんとかしてみせまし
ょう。ですが、できるかぎり表立っては動かないでください。クラ
リスの張っている諜報網の全てを、僕が握っているわけではないん
ですから。もっとも、そんなことはあなたが一番ご存知だとは思い
ますが⋮⋮﹂
﹁ああ。出来る限り、事が始まるまでは目立たないようにする。と
いうわけで、交渉成立だね。では、今後の細かい日程や方針は、明
日にでも皆に伝えるから、取り敢えずはそのつもりでいてくれ。じ
ゃあ、改めて解散﹂
この場ではそれ以上口にするつもりはないとばかりに、ユイは皆
に向けて改めて解散を告げると、呼び出された面々は順に執務室か
ら退室していく。
そうして、その場にはユイ一人が残された。
彼は先程まで浮かべていた笑みを表情から消し去ると、引き出し
からひとつの資料を取り出した。この資料がユイの下にもたらされ
てから、何度も何度も確認するように目を通してきたその文面を目
でなぞると、彼はいつもの様に小さな溜め息を吐き出す。
833
そして再び彼は資料を引き出しへとしまうと、最初のように足を
机の上へと投げ出した。
午後の穏やかな日差しに誘われ、その目を閉じようとしたところ
で、彼はノックなしに彼の部屋のドアが静かに開けられた事に気が
つく。
﹁君か⋮⋮今日は、君をここに呼んだつもりはなかったんだけど?﹂
珍しく酒の香りを漂わせていない視線の先の人物に向かい、ユイ
は穏やかな声でそう告げる。
﹁⋮⋮隊長。本気で奴らと戦うつもりなのかい?﹂
ノックさえすることなく、部屋の中に入り込んできた赤髪の女性
は、目の前の上官の言動を無視して、そう問いを発した。
﹁ああ、君には申し訳ないが、ここで帝国にこけてもらう訳にはい
かない。それ以外に理由がないわけではないけど、レムリアックの
立場からも、現状ではまだ最大の取引相手を失うわけにはいかない
からね。もちろん、君は思うところがあるだろうし、今回はのんび
り酒でも飲んで、休んでいてくれたらいい﹂
﹁いえ。私にそんな気遣いは結構です﹂
﹁私⋮⋮結構ですって⋮⋮え?﹂
聞い慣れぬ彼女の言葉遣いに戸惑いを感じ、ユイは思わずバラン
スを崩すと、椅子から転げ落ちた。
強く打った背中をさすりながら立ち上がるも、そんな彼の姿に茶
々すら入れること無く、赤髪の女性は彼をまっすぐに見つめる。
そして誰よりも粗暴で、誰よりも自由奔放であった彼女は、他の
誰にも見せたことな無い真剣な表情で、上官に向かって言葉を発し
た。
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﹁隊長⋮⋮いえ、ユイ・イスターツ閣下。私、ナーニャ・ディオラ
ムから一つお願いがございます。もし宜しければ、お聞き届けいた
だけませんでしょうか?﹂
彼女はそう口にすると、上官に向けてゆっくりとそして気品を漂
わせながら、優雅に一礼した。
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協力者
皇太子の執務用離宮。
その一角にて険しい表情をした二人の男が、机の上に広げた地図
へと視線を落としていた。
﹁それで⋮⋮君は決戦の場所に関してどう考える、ロイス君﹂
隣で眉間にしわを寄せながら地図を覗きこむ男に向かい、ノイン
はその見解を問うために視線を向ける。
﹁そうですね。間違っても帝都決戦という選択肢はありえないでし
ょう。帝都はもともと戦闘を想定して設計されておりませんし、防
衛しなければならない地点が多すぎます﹂
﹁私も同意見だ。帝都は敵からすれば攻めやすく、我々からすれば
守りにくい。あえて、帝都で迎え撃って、奴らに負けてやる理由な
ど微塵もないからな﹂
﹁⋮⋮仰るとおりです﹂
ノインの発言にロイスは頷きながらも、かつての皇太子の気性を
知る彼は、意外な表情を浮かべる。
そんな部下の思考に気がついたのか、ノインは苦笑いを浮かべる
と、自嘲気味に口を開いた。
﹁ふふ、以前の私なら、自軍の負けに関わる言葉は使わなかった⋮
⋮な。他の者が口にしたら、戦う前から負けることを考えるなと怒
ったことだろう。まあその辺りは君と同じで、私も敗北から学んだ
ということだ﹂
﹁殿下が戦いにて敗れた話など、私は聞いたことがありませんが⋮
⋮﹂
836
目の前の次期皇帝の言葉を耳にし、そんな出来事に心当たりのな
かったロイスは、怪訝そうな視線をノインへと向ける。
その視線に気づいたノインは、恥ずかしげな表情で一人の名前を
口にした。
﹁いいや、直接戦ったわけではないが、私は敗れたのさ。君と同じ
く、ユイ・イスターツと言う男にな﹂
﹁ユイ・イスターツ⋮⋮ですか﹂
今は亡き上官と共に手のひらの上で転がされ、そして完全なる敗
北を喫する原因となったその名前を耳にして、ロイスはわずかに臍
を噛んだ。
﹁ああ。そう言えば、君は直接あいつの顔を見たこともあるのだっ
たな?﹂
﹁ええ、擬態で我が軍へ彼が下ってきた際に、一度だけ⋮⋮ですが﹂
苦すぎる記憶の引き出しから、黒髪のだらしな気な男の顔を引っ
張りだすと、ロイスはノインに向かってそう告げる。
﹁ふむ⋮⋮それで感想は?﹂
﹁ただの卑怯な裏切り者だと思った以外、その時点では何も思いま
せんでした。もっとも今となってその時の事を思い出すと、自らの
見る目のなさに愕然としますが﹂
唇を軽くかみながら、ロイスは俯いて地図へと視線を落とす。
そんな彼の心境を思い、少しノインは躊躇を見せるも、一呼吸置
いた後に彼はゆっくりと口を開いた。
﹁そうか⋮⋮ならば今度は君の見る目が成長したことに、一つ期待
させてもらうとしよう﹂
﹁⋮⋮どういうことでしょうか?﹂
皇太子の口から飛び出した意外な言葉に、ロイスは驚いて顔を上
837
げると、ノインに向かいさらなる説明を求める。
﹁君の部隊で使って欲しい男が一人いてな。その男を君に預けたい
と思っている﹂
﹁使って欲しい男⋮⋮ですか。それで、その男は何処に?﹂
﹁実はそろそろここに来る手はずになっている。というより、本当
はもう着いているはずの時間なんだがな。あいつはどうにも時間に
ルーズだから困る﹂
そう口にしたノインが、めったに見せない柔らかな笑みを見せた
ことに、ロイスは驚愕する。彼が知る皇太子は、皇族でありながら
いつも凛としていて規律に厳しく、まさに軍人の鏡と言っても過言
ではない人物であった。
そんな彼が次期皇帝である自らを待たせながらも、不機嫌な様子
一つ見せず、ましてやその人物のことを親しげに﹃あいつ﹄と口に
したのである。
ロイスは一瞬その人物に対する興味が湧き上がるも、それと同時
に先程からの会話の流れから一人の人物の可能性が脳裏を過り、そ
の人物名を問うことを躊躇した。
﹁ノイン様。例のお客様がご到着されました﹂
会話の空白が生まれたその空間に、ノインの求めていた人物の到
着を告げる声が、部屋の外に待機していた部下から届く。
その報告を受けたノインは、ニヤリと笑みを浮かべると、扉の外
の部下に向かい返事をした。
﹁ああ、分かった。こちらに通してくれ﹂
ノインの声を合図として、部屋の扉がゆっくりと開けられる。
その扉から姿を現したのは、やはりと言うべきか、ロイスの記憶
の中に存在していただらしなげな黒髪の男であった。
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﹁ユイ・イスターツ!﹂
﹁えっと⋮⋮ああ、リンエン将軍のところの。どうも、久しぶりで
す。いやぁ、私のことを覚えていてくれたようで、はは、どうも﹂
ノインの向かいにいる人物を一瞬思い出せなかったが、ユイは自
分に対しあまり好意的ではない反応と脳の片隅に残っていた記憶か
ら、寝返った演技をした際に面会した人物の一人だと気がついた。
僅かな沈黙。
はっきりとその空間に存在する微妙な空気を、ノインは苦笑交じ
りに感じ取ると、自らが緩衝材となるべくまずはユイを席につかせ
た。
﹁ユイ。遅いぞ、まったく。まあ立ち話もなんだ。こちらに掛けて
くれ﹂
﹁ああ、失礼するよ﹂
ノインは自らの隣の席をユイへと勧めると、彼は頭を掻きながら
ゆっくりと歩み寄り、そのまま遠慮すること無く腰掛ける。そして、
ユイは目の前に広げられている地図に気がつくと、そのまま視線を
その中央部へと移した。
﹁なるほど、この周辺地域の地図か。ということは、やはり野戦を
第一に考えているということかな?﹂
﹁ああ。お前が放り投げてきたあの意味不明の提案を、そのまま飲
んでやる。そしてその為に、お前の仮の上官役としてロイスを用意
させてもらった﹂
ノインは視線をロイスへと向けると、彼は表情をこわばらせてわ
ずかに沈黙する。一度大きく息を吸い込み、そしてロイスは覚悟を
持って鋭い視線をユイへと向けた。
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﹁殿下。つまりここにいらっしゃるクラリスの外交大使殿を、私に
扱えと?﹂
﹁おっと、今の私はクラリスの外交大使ではない⋮⋮ことになって
いる。ここにいるのは、かわいそうなお姫様の願いを聞いてあげる、
ただの悪徳商人ということにね﹂
ロイスには全くわからない話をユイは口にすると、隣で聞いてい
たノインが彼をジト目で睨む。
﹁ふん。忍んで行った我が妹を袖にしておきながら、かわいそうな
お姫様とはどの口が言うんだ﹂
﹁別に袖にしたつもりはないけど⋮⋮まぁ、そこは解釈の違いだね﹂
やはり知っていたのかと思いながら、困ったような表情を浮かべ
ると、ユイは二度頭を掻く。
その仕草を目にしたノインは、呆れたように首を左右に振り、気
を取り直して口を開いた。
﹁お前には言いたいことがあるが⋮⋮まあ、それは戦いの後にしよ
う。さしあたって、今度の戦いだ。ロイス、作戦案の会議を進める
にあたって、まず君に言っておかなければならないことがある。今
回の戦いに先立って、私とここにおられる商人のユイ・イスターツ
殿との間で一つの商取引が成立した。それも天文学的な商取引がな﹂
﹁商人? 商取引?﹂
いきなり予想しない単語がノインの口から飛び出したため、ロイ
スは眉間に皺を寄せる。
そんな彼に向かい、説明を始めた当人は、一度大きく頷くと再び
口を開いた。
﹁ああ、取引だ。その内容だが、我が国はオメールセン商会から今
回の軍事行動に必要なあるモノを大量に買い入れる。そしてその付
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帯条件として、こちらのユイ・イスターツ殿にアフターサービスを
して頂くと。つまりはそういう契約だ﹂
﹁あるモノ? 具体的に内容を教えていただけますか﹂
﹁うむ。要するにだ、レムリアックから産出され、そして在庫とし
て彼らが有する全ての魔石を、我が軍がまるまる買い取るという取
引だな﹂
その取引内容を耳にした途端、ロイスは思わず呻く。それはユイ
とノインの間でかわされた取引の規模を、彼が正確に理解したから
である。
一方、そのロイスの反応を目にしたノインは、目の前の青年が単
純な軍指揮官の器ではないことを改めて確認し、その表情に笑みを
浮かべた。
﹁魔石? 魔石⋮⋮ですか。しかし、どうして戦いを前にして、そ
のようなものを? 本人を目の前にして、そしてかつて敗れた私が
このような発言をすることに抵抗もあるのですが、それほど莫大な
金額をつぎ込む価値が、このユイ・イスターツ殿にあると?﹂
﹁はは、言いづらいことをはっきり言うね。しかし、なるほど。ノ
インが彼を選んだ理由が、なんとなくわかったよ﹂
﹁完全な軍人脳だけの無能なら、先の戦いで飛ばしていたさ。いく
らお前の相手をさせられたとしてもな﹂
ノインの言葉に、ロイスは一瞬表情を凍りつかせる。
そんな反応に苦笑しながら、ユイは二人に向かって口を開いた。
﹁先に断っておくと、さすがに私一人のために帝国もそんな取引は
引き受けないよ。あくまで魔石こそが、今回の作戦の肝だから今回
の取引を持ちかけたのさ。その辺りのことに関しては、後で説明さ
せてもらう。取り敢えず、急ぎ準備が必要となる例の件を、迅速に
進めてくれるかな?﹂
﹁まったく、遅刻しておいて急げとは⋮⋮おまえがうちの軍の人間
841
なら、絶対どこかに飛ばしているぞ﹂
やや呆れ気味にノインがそう口にすると、ユイは頭を掻きながら
彼の発言を肯定する。
﹁はは。既にクラリスからこんなふうに飛ばされているさ。まあそ
れはともかく、いろいろ私も準備があってね、できるだけ早期に準
備を整えて欲しい﹂
﹁おまえの手紙に書いてあった、あの意味不明の土木工作の件のこ
とだろ? 安心しろ、その件は既に手配している。フィラメントの
到着までには、十分に間に合わせるつもりだ﹂
既に手配をすべて終わらせていたノインがそう述べると、ユイは
満足そうに一つ頷いた。
﹁さすがだね。なら作戦案に話を移す前に、もう一つだけ確認して
おきたいことがあるんだけど、いいかな?﹂
﹁なんだ、改まって。言ってみろ﹂
﹁戦後処理の話さ。今回の戦いの後の⋮⋮ね﹂
ユイがはっきりとその言葉を口にすると、ノインは少し難しい表
情を浮かべる。
﹁戦後処理⋮⋮か。さすがにおやじ様の意向もあるから、確定的な
ことは言いがたいな。もっとも私案で構わないなら別だが﹂
﹁それで構わない﹂
短いユイの返答。
それを受けたノインは、腕を胸の前で組むと、目の前の黒髪の思
考を彼なりにトレースして口を開く。
﹁勝った場合と負けた場合のシミュレートはもちろん行っている。
ただ、お前が気にしているのは我が国が勝った場合だろ? もちろ
ん理想はフィラメントの併呑だな﹂
842
﹁⋮⋮つまり逆侵攻すると?﹂
覗きこむようにノインへと視線を向けると、ユイは表情から笑み
を消す。
﹁あくまで、理想はだ。仮に勝てたとしても、どうせこの度の戦い
で疲弊した我が軍に、そんな余力などなくなることは目に見えてい
る⋮⋮ああ、ようやく話が見えたぞ。つまり第三国の大使として、
我が国が勝った場合と負けた場合の仲裁の条件を聞いておきたいの
か?﹂
﹁私の存在がばれてしまえば、第三国とは言えなくなるけど⋮⋮ま
あ、当たらずとも遠からずかな﹂
ノインの切り返しにようやく苦笑いを浮かべたユイは、肯定も否
定もせずに頭を掻く。
﹁ん? どういうことだ?﹂
﹁ちょっと私的な理由でね。今回協力する見返りに、もう一つ条件
を付けさせて貰いたい﹂
﹁条件だと? ⋮⋮まあ受け入れるかどうかは別にして、言うだけ
言ってみろ﹂
ここに来て更に追加の条件など言い出すとは思っておらず、ノイ
ンはわずかに視線を鋭くすると、低い声でそう問いかけた。
﹁ああ。ただその話をする前に、ここに部下を一人連れて来たんで
ね、彼女の口から話しをしてもらうとしようか。じゃあ、入ってき
てくれ﹂
ユイは部屋の入口のドアに向けて、言葉を発した。そうしてわず
かな間の後に、ゆっくりと部屋の扉が開けられていく。
するとそこから姿を現したのは、群青色のドレスに身を包んだ赤
毛の女性であった。
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﹁⋮⋮ユイ、どなただ? こちらの女性は﹂
目の前の女性から溢れ出る気品と美しさに圧倒され、ノインはわ
ずかに言葉を詰まらせる。
﹁私の部下だよ。というか、君も一度目にしたことが有ると思うけ
どな﹂
﹁なに? いつの話だ﹂
﹁君の誕生祝賀会の時にだよ。取り敢えず、挨拶をしてくれるかな
?﹂
赤毛の淑女に向かいユイがそう促すと、その女性はノインに向け
て優雅に一礼する。
﹁はい。突然訪問させて頂き、誠に申し訳ありません。イスターツ
閣下の部下で、ナーニャ⋮⋮ナーニャ・ディオラムと申します﹂
﹁ナーニャ⋮⋮だと? もしかして、あの出禁のナーニャか! い
や、そんなことはどうでもいい。それよりもディオラムだと!﹂
酒癖が悪く、帝都の飲み屋数件から出禁をくらっているナーニャ
という名前のユイの部下がいることを、報告でノインは知っていた。
それ故に、最初ナーニャという名前を耳にして目の前の女性の持
つ気品と一致せず、最初に驚く。そしてその後にディオラムという
姓に気づき、彼は目を見開いた。
﹁ええ。ディオラム家当主が長女、ナーニャでございます﹂
﹁おい、ユイ!﹂
ノインは慌てて視線をユイへと向けると、彼はいつもの苦笑いを
浮かべながら、あっさりと一つ頷いた。
﹁本物だよ。嘘をつくつもりはないし、替え玉を立てたところで、
調べればすぐにわかることさ。それよりも、ここからが本題だ。先
ほど君は言ったね、理想はフィラメント併呑だと。それをやめても
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らえないかな?﹂
﹁⋮⋮どういうつもりだ?﹂
﹁彼女は国を追い出された身だけどね、それでも故国を失いたくな
い。そして彼女の上司である僕としては、部下の悲しむ顔が見たく
ない。ただそれだけのことさ﹂
値踏みするような視線を向けてくるノインに対し、ユイは肩をす
くめながらそう言い放つ。
﹁ふむ⋮⋮付け加えるなら、クラリスの外交大使であるユイ・イス
ターツとしては、今後のことを考えると、帝国が後背の安全を確保
することは危険だと、そんなところか?﹂
﹁ふふ、別に否定はしないよ﹂
教師にイタズラがバレた時のような表情を見せたユイは、苦笑し
つつ頭を掻く。
﹁ただ、それは先程も言ったとおりあくまで理想だ。現状ではフィ
ラメントが我が軍より優勢なのは間違いない。戦い終わって我が国
が勝とうとも、逆侵攻なんて夢物語だ。なのに、どうして今、でき
るはずもないフィラメントを併呑する話を問題視するのだ?﹂
﹁それはね、フィラメントを徹底的に、そして圧倒して叩き潰すつ
もりだからさ﹂
ノインの問いかけに対し、ユイはまるでなんでもないことの様に、
あっさりとした口調でそう言い切る。
その言葉を耳にしたノインはわずかにその場に固まると、ゆっく
りと絞りだすように声を吐き出した。
﹁なに? ユイ⋮⋮お前⋮⋮﹂
﹁ノイン。この戦い、私が帝国軍に勝たせてあげるよ。それも完勝
に近い形でね。ただしその代わり、フィラメント併呑は諦めて欲し
い﹂
845
はっきりとそう言い切ったユイは、ニコリとした笑みを浮かべて、
ノインへと視線を向ける。
その笑みを目にしたノインはゆっくり目をつぶり、一度大きな溜
め息を吐き出す。そしてユイに向かい小さく首を縦に振った。
﹁いいだろう。その条件⋮⋮呑もう﹂
﹁殿下!﹂
ノインの答えを聞き、思わず向かいに腰掛けていたロイスが身を
乗り出して声を上げた。
﹁落ち着け、ロイス。冷静に現状を把握しろ。決して悪い提案では
ない、むしろ破格の条件と言っていいだろう。実現すれば⋮⋮だが
な﹂
﹁ですが⋮⋮いえ、確かにその通りです﹂
ロイスはユイに対する無意識の反発が自らの中にあったことを恥
じる。冷静に条件を考えれば、ユイから提示された条件は、実現す
るならば帝国にとって破格とも言える内容であった。
﹁それで説明はしてくれるんだろうな? あの魔法士ばかりで構成
されたフィラメント軍、二万以上を相手にして、奴らを完全に叩き
潰す方法とやらを﹂
﹁ああ。それでは一つ説明でもしてみるとしようか。自分たちの優
位を信じて疑わない彼等が、そして彼らの信じているモノが、どれ
だけ脆いものかっていうことをね﹂
そう口にしたユイの笑顔は、思春期の少年が浮かべるイタズラっ
ぽい笑みそのものであった。
846
エルムンドの戦いⅠ
帝都南部に位置するエルムンド平原。
周囲を森林に囲まれながらも、大きく開けたこの平原は、青々と
茂る草がどこまでも広がっている。そんな夏草の広がるこの土地へ
到着したフィラメント軍が目にしたもの、それは大地の彼方に大き
く広がる黒色の一団であった。
﹁ふふ、やはりここを死に場所に選びおったか﹂
フィレオは横に大きく広がって陣取る黒の一団を目にして、ニヤ
リとした笑みを浮かべた。
すると、その言葉を耳にしたメディウムは、彼なりに帝国の思考
をトレースしようと試み、そして口を開く。
﹁数の上では帝国の方が兵数は多い。遊兵を作りたくないというこ
とか﹂
﹁もちろん、それもあるだろう。だが、それ以上に我らの魔法への
対策かもしれんな。どちらにせよ、我が軍としてはこの手前のロム
シアラ渓谷で戦いを挑まれた方が遙かに嫌ではあったが⋮⋮守りよ
りも攻めを優先したということだろう。どちらにせよ、この開けた
場所での戦いは、我らにとって悪くはない﹂
メディウムの解釈を一部肯定しつつも、フィレオは自らの持論を
織り交ぜて帝国の配置をそう評した。
一方、そんな彼らの戦略論を無視するかのように、もう一人の御
三家の当主であるウイッラは、彼らの隣でよだれを口角から垂らし
ながら、いつもの引き笑いを見せる。
﹁ヒッヒッヒ、帝国のゴミクズ君達はまだ自分のことがわかってい
847
ないのかな? いないのかな? クククッ、まあ、僕はモルモット
君達に楽しい人殺しをさせてあげられるなら、何でも構わないけど
ね﹂
﹁⋮⋮どちらにせよだ、例の作戦でいくのだな?﹂
ウイッラの言動に眉をしかめながらも、メディウムは一つ溜め息
をついたのちに、フィレオに向かいそう問いかける。
﹁もちろん、当然だな。この策を取る為に、わざわざ奴らのいなく
なったエーデミラスで一夜を過ごしたんだ。あれを無駄な作戦遅延
だったということにしたくないものだな﹂
﹁ヒャヒャヒャ、ボクも自分の美学に反した行いを我慢している。
許せない、許せないけど、ゴミクズ君達の命で我慢してあげる。あ
あ、彼らの絶望が、恐怖が見えるよ。ああ、エクスタシー!!﹂
戦いを前にした高揚感のためか、ウイッラは普段以上にハイとな
り、彼の口にする言葉を残りの二人は半分も理解できなかった。
しかし、この戦争の間にウイッラという人物に対しだいぶ慣れて
きたためか、フィレオは彼を丁重に無視して、メディウムに向かい
口を開く。
﹁⋮⋮取り敢えず、まずは手はず通りだ。メディウム殿。約束通り、
今回も貴公の軍を借りるぞ。貴公には、前回同様に最後衛の警戒を
お願いする。なにしろここはやつらの土地だ。どこに伏兵を潜ませ
ているかわかったものではないのだからな﹂
﹁わかっているさ。今回の戦いは君が指揮官だ。指示には従おう﹂
﹁予想通りだな﹂
帝国軍の幕僚本部の中心。
848
そこに座していたノインは、近づきつつあるフィラメントの一団
を目にして満足そうに笑う。
そんな彼の側に控える軍務副長官のホプカインは、皇太子の発言
に一つ頷き、目の前の光景を言語化した。
﹁ええ、敵の右翼から深緑、黄土、群青の順番。前回のエーデミラ
ス城塞攻略戦の時と同じ隊列という訳ですね﹂
﹁ふむ、ではとりあえず前哨戦といこうか。前衛には十分な矢は行
き渡っているか?﹂
おそらく返されるであろう答えを理解しながら、あえて念を押す
ためにノインは副長官に問いかける。
﹁もちろんです、殿下。全将兵は既に殿下の号令を、一日千秋の思
いで待っております﹂
﹁焦るな、副長官。どうせこの距離で矢を放とうとも、敵軍にはほ
とんど届きはせん。私はあまり無駄が好きではないな﹂
﹁はい、心得ております﹂
﹁だがやはり準備は必要だ。敵軍が射程距離に入り次第、一気に矢
を斉射する。前衛はそろそろ射撃の準備せよ⋮⋮ん、まて。あれは
!﹂
ノインはそう口にしたところで言葉を止めると、遠くに見える敵
陣で、魔法の煌めきが生じたことを見逃さなかった。
﹁敵軍の魔法構築⋮⋮この距離は奴らの距離ということですか﹂
﹁さすがフィラメントと言うべきかな。我が軍の魔法射程で、相手
との距離を図るべきではないということのようだ。計画とは若干違
うがやむを得ん。魔法防御士隊、前面に防御結界を構築せよ! そ
して全軍を少し前進させる﹂
﹁殿下。しかしそれでは﹂
ノインの口から吐き出された命令を耳にして、ホプカインは思わ
849
ず躊躇の声を上げる。
その副長官の声の意味を理解したノインは、苦笑いを浮かべなが
らも、しっかりと敵陣を見つめながら口を開いた。
﹁副長官、君の言いたいことはわかっている。しかしだ、この距離
でなぶり殺しになる訳にはいかない。それに作戦を第二段階に進め
るためにも、このまま待ち続けるわけにはいかん﹂
﹁ですが⋮⋮いえ、仰るとおりです﹂
皇太子の決断を耳にしたホプカインは、一度大きく息を吸い込ん
だのちに、彼も腹を括る。そしてノインの説明に納得し一度頷いた。
﹁ならば急げ。敵の魔法はいつ射出されてもおかしくない。防御壁
を急ぐのだ﹂
敵陣で次々と魔法の煌めきが生じ始め、ノインは舌打ちをしつつ
ホプカインに向かい、急ぎ指示を下す。
そして矢継ぎ早にその指令は伝達され、今回防御魔法を担当する
魔法士達は、自軍の前方に魔法による防御壁を編み上げ始めた。そ
してようやく魔法の展開を行うだけとなったところで、敵兵を監視
していた部下の一人がノインに向かって報告を行う。
﹁敵軍より魔法の一斉射出を確認。まもなく我が軍へ到達します!﹂
﹁急ぎ防御壁を構築! そして敵の第一射を凌ぐと同時に、一気に
全軍前進だ!﹂
険しい表情を浮かべたノインの指示が、本陣内に響く。その指示
が発せられた瞬間、帝国軍の前方には、無数の魔法壁が構築される。
そしてそれらの防御壁はたちまちフィラメントの魔法とぶつかり
あい、爆発音が周囲に鳴り響いた。
﹁我が軍の魔法防御壁はほぼ壊滅。破壊された防御壁の隙間から、
多数の攻勢魔法が我が軍へ到達し、被害が出ております!﹂
850
﹁わかっている。この距離での戦いは明らかに我が軍が不利だ。早
く、指示通り全軍前進せよ!﹂
部下からの状況報告を受けたノインは、僅かに焦りの色を浮かべ
ながら、大声で前進を命じる。その指示をとなりで聞いていたホプ
カインは、重ねて指示を繰り返した。
﹁全軍前進。敵を弓の射程内に捉えるまで前進だ。敵が再び魔法を
編み上げる前に、できるかぎり前進せよ!﹂
威厳に満ちた声で、ホプカインの号令が部下たちに向け放たれる。
その指示を受けた帝国軍は、その指示が発せられた途端、一気に軍
を前進させる。
﹁敵軍、第二段の魔法を準備している模様! すぐに魔法の構築が
開始されるものと思われます﹂
﹁くっ、さすがに早い。魔法士隊、防御魔法の再構築準備を!﹂
部下の報告を受けて、ノインは敵軍へ視線を向け直す。そこには
再び魔法を構築しているが故の煌きがそこかしこに見て取れた。
﹁殿下⋮⋮やはり魔法に関しては、奴らは侮れません﹂
﹁当然だ。そんなことは、この戦いが始まる前からわかっている。
そしてだからこそ前進させるのだ。敵の魔法を防御にも分散させな
ければ、我が軍は超遠距離からの攻撃だけで壊滅という事態に陥る
ぞ。なんとしても、敵軍を弓兵の射程内にまで持ち込め﹂
そう発言したノインは、自らの本陣も前進させるよう指示を行う。
﹁お待ちください、殿下。何も殿下までが危険に合う必要はござい
ません。本陣はここに置かれて、兵達の戦いをご覧ください﹂
﹁ふん、今回の策を最初から最後まで把握しているのはこの私とあ
いつだ。そしてこの帝国本隊を、私以外の誰が指揮すると言うんだ
?﹂
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﹁ですが⋮⋮﹂
﹁君の気持ちはありがたく受け取っておく。だが、後衛に控えてい
ては正確な指揮など取れん。そして今ここで議論している時間はな
い。さあ、前進だ!﹂
ノインは遠くに見える三色の敵軍を睨みつけ、ホプカインの静止
を振り切り本陣を前進させていく。
そして帝国軍の前線に配置された弓部隊が、ようやくフィラメン
トを射程内にとらえた時、敵軍の一帯が一斉に煌めいた。
﹁敵軍、次々と第二射の魔法を構築開始しました!﹂
﹁魔法士部隊、防御壁の構築を。そして弓隊、矢をつがえ敵をギリ
ギリにでも射程内に捉え次第、迷わず射て! 正確な射撃などいら
ん。それに矢の残量も無視しろ。ありったけの矢を敵目掛けて降ら
せてやるのだ﹂
絶叫にも似たノインの命令が、本陣を中心に帝国軍内に響き渡る。
その言葉を合図にして帝国軍の前に魔法壁が次々と構築されると、
帝国の前線からは一斉に矢が放たれていった。
﹁ホプカイン。モルフィ団長の部隊に合図を送れ。﹃時は来た。敵
右翼目がけて邁進せよ﹄とな﹂
﹁殿下、早すぎませんか?﹂
本来、帝国の第一師団を率いる団長の名前を皇太子は口にすると、
その命令を受領した副長官は、計画より早いその指示に戸惑いを見
せる。
﹁わかっている。だが、先ほどの敵の魔法を見ただろう? このま
までは我が軍の防御魔法が持たん。例え弓の斉射で敵の攻勢魔法の
規模が縮小しようとも、ジリ貧になることは確実だ。もちろんリス
クは存在する。だが、今時計の針を進めんで、何時進めるというの
だ!﹂
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﹁⋮⋮わかりました。すぐに手配させます﹂
﹁頼んだぞ。全てが予想通り、そうあいつの考える通り進むとは限
らん。それは何より、あいつ自身が言っていたことだからな。大事
なことは、主導権を確実に取り返し、そして自らの流れへと引きよ
せることだ﹂
﹁レメルアン、どうだ?﹂
フィレオはマイスム軍の副官に向かい視線を走らせると、彼は状
況を説明する。
﹁はっ! 敵軍の射撃は常規を逸しています。まともに狙いさえ付
けず、闇雲に矢を放っている模様。ですが、数が数だけに我が軍に
も少なからぬ被害が出ております﹂
﹁ちっ、第二撃を中断し防御に徹したというのに、やはり被害が出
たか。攻撃こそ最大の防御ということだな﹂
﹁はい。我らの初撃時には、帝国の防御壁のいたるところに綻びを
作っておりました。恐らく奴らの魔法防御は長続きしないものと思
われます﹂
﹁ふむ、では少しディオラムの奴らに守りの面を手伝わせるか⋮⋮﹂
フィレオは自軍有利の報告に僅かに笑みを浮かべる。しかしなが
ら、より優位に立てるよう、さらなる策を模索して脳裏に浮かんだ
案を口にした。
﹁悪くない考えと思います。ですが、それをすると例の仕掛けが⋮
⋮別に状況は我が方が有利であります。ここで積極策に出る必要は
ないかと。むしろ全軍を後退させて敵軍の射程外へと下がり、超長
距離での戦いに徹するのも一つの方法かと思います。﹂
副官のレメルアンはフィレオとは長い付き合いであり、彼の性格
853
を考慮してその提案を尊重しつつも、現状の維持と安全策を主張す
る。
その言葉を受け取ったフィレオは、顎に手を当てると、険しい表
情をしながら妥当な意見だと頷く。
﹁確かに⋮⋮な。貴様の言には一理ある。さて⋮⋮﹂
フィレオがレメルアンの助言を受けて、その場でぶつぶつと独り
言をつぶやく。そして決断を下そうとしたまさにその時、彼の下へ
伝令兵が飛び込んできた。
﹁フィレオ様、大変です!﹂
息を切らせながら駆け込んできた兵士は、フィレオに発言の伺い
を立てること無く、そう言葉を発する。
﹁どうした、何があった?﹂
形式を無視して話すのならば、要件を先に言えという叱責が、フ
ィレオは喉元まで出かかっていた。しかし、今は戦中でありそんな
状況ではないと我慢すると、彼は伝令内容をその兵士に問いかける。
﹁帝国軍が⋮⋮帝国軍が突如右翼方面から出現しました﹂
﹁何? 右翼だと? どういうことだ。そんな所に連中はいなかっ
たではないか!﹂
﹁それが、連中は森林の奥深くに騎馬兵を隠し、我らがこの地に来
るまで伏せさせていたようです﹂
﹁⋮⋮ちっ、小細工を。だが、所詮隠しておける程度の人数の部隊
だ。別にそれほど驚くことでもない。むしろ例の策が実ったという
ことべきだろう。もっとも私としては、敵の突撃を迎え撃つ為に使
うことになると思っていたがな﹂
フィレオが独り言の様にそう口にすると、それを耳にしていた伝
令兵が思わず上官に向けて疑問の声を上げる。
854
﹁では、フィレオ様。そのまま迎撃なさいますか?﹂
﹁ああ、右翼の者達に伝えてこい。フィラメント最強は我らがマイ
スムであると証明してみせよとな!﹂
その号令でフィレオの指示は瞬く間に右翼へと伝わり、﹃深緑色
の一団﹄が伏兵の騎馬隊目がけて一気に動き出した。
フィレオが迎撃の指示を出した同時刻、フィラメントに向かい猛
然と突進する一団の先頭に、本来は帝国第一師団を預かるモルフィ
団長の姿があった。
﹁さあ、おまえ達。もう少しだ。もう少しで敵の喉元にたどり着く
ぞ。混戦となれば、奴らは同士討ちをおそれて、魔法を使いづらく
なる。そしてそこに至れば、味方の軍と呼応して理想的な白兵戦を
開始できるであろう。ここで足を止める者は、我が兵にあらずぞ!﹂
モルフィは後方を振り返りながら、部下達に向けてそう激励した。
その頼もしい団長の声に部下達の士気も否応なく高くなる。そして
あともう目と鼻の先と言うところまで彼らの部隊が迫ったとき、後
方にいた彼らの部下が、叫び声をあげた。
﹁団長。魔法です。奴ら攻勢魔法を準備しています!﹂
その部下の声を耳にした瞬間、モルフィは馬からわずかに視線を
あげ、敵左翼に視線を走らせた。すると次から次へと生み出される
巨大な炎の魔法が、彼の視界へと飛び込む。
そして次の瞬間には、彼の部隊めがけて一斉に魔法が射出された。
﹁だ、団長! やはり、これは!﹂
﹁マイスム⋮⋮やつらミラホフじゃない。中身がマイスムに替わっ
855
ているぞ!﹂
自らの部隊に襲いかかる尋常ならざる攻勢魔法。
迫り来るその魔法自体が一つの事実を、雄弁に語っていた。
目の前の深緑色の一団の中身、それはミラホフ兵ではなく、攻勢
魔法を得意とするマイスム兵であるということを。
856
エルムンドの戦いⅠ︵後書き︶
次話となる7章16話﹁エルムンドの戦いⅡ﹂は8月9日21時更
新予定となります。
それでは今後共やる気なしを宜しくお願い致します。
857
エルムンドの戦いⅡ
﹁しかしミラホフを潰しに来たつもりの帝国軍は、その思い込みを
後悔しておるでしょうな﹂
﹁うむ。しかし全くもって予測通りというやつだ。敵が集合魔法を
使うためには、ミラホフを潰すしかない。だから敵軍は、ミラホフ
に対して奇襲か突撃かを選択する⋮⋮か。案外、敵軍にも知恵の足
りぬものが多いようだ、それが一番警戒されることは自明であろう
に﹂
ミラホフ家のカラーである深緑の武装を着させたマイスムの一団
は、攻勢魔法を次々と編み上げていくと、奇襲を仕掛けてきた騎馬
部隊目掛けて、次々に解き放っていく。
﹁いや、警戒されるのをわかっていながらも、他に選択肢がなかっ
たということでしょう。そう考えると哀れでもありますが⋮⋮もっ
とも、わざわざ品のない深緑色の一団になりすましたのですから、
これくらいの被害は受けてもらいませんとな﹂
﹁ふふ、全くだ﹂
副官の皮肉げな笑みを目にしたフィレオは、釣られるように歪ん
だ笑みを浮かべると、目の前で狼狽する騎馬部隊を鼻で笑う。
﹁報告します。敵軍は我らの攻勢魔法に怯み、慌てて本陣に向けて
転走!﹂
﹁ふふ、見ろ。帝国兵など所詮はこの程度のものだ。これで万策尽
きたというものだろう。恐らくあれが奴らの切り札だったのだろう
からな。さて⋮⋮となれば、今こそ攻勢に出る好機だな。全軍、敵
本陣に向かい魔法を集中させる。全軍前進の準備を。ここで一気に
勝敗を決めるぞ!﹂
858
伝令の報告を耳にしたフィレオはニヤリと笑みを浮かべると、目
の前の帝国軍を指差して、そう指示を下した。
森に潜ませておいた帝国軍の伏兵である騎兵部隊。
モルフィ団長率いる彼らは、フィラメント軍からの猛烈な攻勢魔
法にさらされ、慌てて自軍に向かい転進する。
そんな彼らの動きを最初に確認したノインの幕僚は、本陣内で大
きな声を上げた。
﹁モルフィ殿の騎馬部隊が、敵前旋回。本陣目掛けて移動を開始し
ました!﹂
﹁ふむ⋮⋮あのモルフィ達を狙う攻勢魔法は、明らかに先ほどのも
のより威力が上か﹂
幕僚の報告を受けたノインは、目の前で次々と展開される攻勢魔
法を目にし、一つ舌打ちする。
﹁しかし、あれはミラホフの一団です。ミラホフの方がマイスムよ
り優れた攻勢魔法士を抱えている⋮⋮ということは、おそらく無い
でしょうな﹂
今回の帝国軍の参謀長を務めるラーマン将軍が、目の前で繰り広
げられる光景に驚愕しつつそう口にする。
﹁ああ、ありえんだろうな。明らかに先ほどまでの魔法よりも、威
力、速度共に一周り上だ。まあ、可能性としては二つだな。先ほど
の本陣めがけて撃ってきた攻勢魔法が、露骨に手を抜かれていた可
能性。そしてもう一つは⋮⋮﹂
﹁モルフィ達を狙っている一団こそが、本当のマイスムの軍団と言
う可能性ですか⋮⋮そう、あの男の予想通りに﹂
859
ノインがタメを作って口を閉じたタイミングで、彼の言葉を引き
取るように、脇に控えていたホプカイン副長官が後を続ける。
﹁ふふ、ホプカイン。その通りだ﹂
﹁では、やはり敵軍は武装の色を取り替えていたと⋮⋮つまりそう
いうことですか?﹂
予め可能性として考慮されていた目の前の光景に、ラーマンはや
や複雑な表情でそう述べる。
﹁ああ。﹃集合魔法を使うためには、ミラホフを潰さなければなら
ない﹄と我らが考える⋮⋮と、奴らは思っているだろう。だからこ
そ、我らがその選択肢を選んだ場合、それを逆手に取って、我らを
嵌めに来る可能性がある⋮⋮か﹂
現在の帝国の状況を踏まえ、魔法公国が取りうる作戦を数十パタ
ーンに分類し、可能性の高いものから順に対応策を提示してきた黒
髪の男を脳裏に浮かべながら、ノインは呆れたように首を左右にふ
る。
そんな彼の心境を、その場に居合わせた幕僚の誰もが痛いほど理
解していた。それ故に、その場はほんの一瞬だけ沈黙が訪れる。
そんな静寂を破りノインに対し次の一手を促したのは、感傷に浸
りそうになる心境に鞭を打ったホプカインであった。
﹁殿下。敵が入れ替え策を選択し、全面攻勢へと移り始めておりま
す。ならば、我らは作戦プランDに移行すると、そう言うことでよ
ろしいでしょうか?﹂
﹁ああ。できることなら、奇襲部隊の成功から、混戦状態を作り上
げるプランAで進めたかったものだがな。残念ながら、やはりあい
つの策を使わねばならないか﹂
﹁やはり恐るべき男ですな、ユイ・イスターツは。私などはこの光
860
景を目にして、ようやく殿下たちのお気持ちの一端が、わかるよう
になった気がします﹂
﹁それは実に重畳。しかし今はそのことは置いておこうか。それよ
りも、あの光景からわかることは、先ほどの本陣への攻撃はミラホ
フによるほぼ単独のものだったということだ。そして次からは敵軍
が全軍で迫り来るということは、奴らの火力はなお増してくる事を
意味する。プランDを発動させるためにも、出来る限り被害を最小
限にせねばならん。敵軍の攻撃を殺到させるために、全力で後退す
るとしようか﹂
﹁では、いよいよ!﹂
﹁ああ、魔法士達に準備を開始するよう連絡せよ。そして、我らは
訓練通りに後退を行う。出来る限り騒然と、可能な限り慌てふため
き、そしてあたかも総崩れである様に⋮⋮な﹂
ノインは傍に控える幕僚全員に向けて、はっきりとした声でそう
指示を告げる。すると次の瞬間、彼の幕僚達は一斉にその指示を実
行するために、その場から動き出した。
﹁フィレオ様。敵軍は奇襲部隊のみならず、本隊も我らの魔法に恐
れをなしたのか、慌てて後退しつつあります﹂
レメルアンの報告を受けて、フィレオは薄く笑う。そしてゆっく
りと顎に手をやると、そのまま口を開いた。
﹁ふふ、しかし滑稽なものだな。魔法で少し頭をなでてやっただけ
というのに、あの醜態。いっそ狂騒と呼ぶべきでしょうな。部隊の
統制さえ取ることが叶わず、なんと無様なものか﹂
﹁まったくですな。まあ、頼みの綱であった奇襲部隊が失敗し、奴
らは集合魔法を使える可能性を失ったわけです。気持ちは分からな
861
いでもないですが﹂
﹁まあな。さて、こうなったからには、奴らは籠城戦を考えて、で
きる限りの戦力を温存したいところだろう。だが、我らがそれを見
逃してやる理由はないな﹂
既にこの戦いの勝利を確信したフィレオは、バラバラに戦場から
逃げ出していく帝国軍を眺めやり、右の口角をわずかに吊り上げる。
するとそのタイミングで、突然フィラメント軍の中央部に設置さ
れた本陣に、甲高い引き笑いが響き渡った。
﹁ヒャッヒャッヒャ、ご機嫌だねフィレオ君。どうやら君の計画通
りにうまくいったようだね﹂
﹁おお、ウイッラ殿か﹂
自らの胸を両腕で抱えながら、引き笑いをしつつ姿を現したウイ
ッラを目にして、フィレオは笑みを浮かべる。
﹁ヒッヒッヒ、わざわざボクのモルモット君達を、特別に君に預け
てあげたかいがあったようだネ﹂
ウイッラは満足げにそう口にすると、啜るような音を立てながら
指をしゃぶり始める。
この帝国進行中に何度も目にしたその癖を目の当たりにして、フ
ィレオは生理的嫌悪感をどうにか抑えこむと、そのことには触れず
に語り始める。
﹁あ⋮⋮ああ。ウイッラ殿のおかげだ。これから後退する敵の追撃
に移る予定だが、ご協力願えますかな?﹂
﹁フフ、もちろんだヨ。今回の指揮官はキミ⋮⋮つまりボクはキミ
の言うことを聞いてあげるヨ﹂
﹁ならば、この好機を逃す手はないですな。ではレメルアン、追撃
戦だ。先ほどの指示通り、全軍前進。敵軍を魔法の射程内に再び捉
えよ!﹂
862
﹁はっ、直ちに﹂
そのフィレオの指示を耳にして、レメルアンはすぐさま近くの部
下へとその指示を伝達する。
そして瞬く間にフィラメント軍は、逃走する帝国軍を追いかける
ように前進を開始した。
﹁ヒャヒャ、もう少しだネ﹂
最初に帝国軍が陣取っていた付近にまで軍を進めたところで、フ
ィラメント軍はようやく帝国軍をその射程内へと捕らえかける。
﹁ああ、当然のことだが、転進して後退するよりも、単純に前へと
進む方が早い。奴らの逃げる判断こそ早かったが、そろそろといっ
たところかな。全軍、攻勢魔法の用意を⋮⋮む、待て!﹂
ウイッラの言葉に首を縦に振り、一度はフィレオも全軍に再攻撃
を指示しかけた。
しかし、彼は帝国軍の後方ではっきりとした一つの煌めきが生ま
れたことを、その目に捉える。
﹁どうしたのですか、フィレオ様?﹂
﹁今、奴らの後方に光が生まれなかったか?﹂
不審げな表情で問いかけてきたレメルアンに対し、フィレオは厳
しい表情で逆に問い返す。
しかし問われたレメルアンよりも早く、側にいたウイッラが彼に
向かって返答した。
﹁ヒッヒッヒ、あれは魔法の煌めき。そう、魔法の叫び。はは、来
るよ、来るよ。あの魔法が。あの汚らわしい魔法が﹂
﹁集合魔法⋮⋮か。しかし、なぜ今頃? 我らに通じないことはわ
かっているだろうに﹂
半信半疑の表情でウイッラの回答を耳にしたフィレオは、訝しげ
863
な表情で、そう口にする。
﹁ンン? ああ、そうダ。やっぱりそうダ。フフ、あのゴミカス共
も多少は頭を使ったみたいだネ﹂
ウイッラは何か急にうれしそうに笑い声を立てると、その場に腹
を抱えながらうずくまる。
その突然の行動に、既に意味を求めることを諦めたフィレオは、
声色を変えることなく、頭の中にある疑問だけを彼に問いただした。
﹁どうされたというのかな、ウイッラ殿。やっぱりとはどう言うこ
とだ?﹂
﹁フフ、よく見てみなヨ。彼らの後ろをサ。魔法の煌めきはいくつ
ある? 一つじゃない、無数の煌めきがそこに生まれているはずサ﹂
﹁むぅぅ、これは⋮⋮﹂
ウイッラの言葉に従いフィレオは敵軍の後方をぐるりと見渡す。
すると、バラバラに逃走していたはずの帝国軍は、いつの間にか
ゆるやかに半月陣を形成していた。そして彼らは、先ほどフィレオ
が目にした魔法の煌めきを、一つだけではなく無数に生み出し、帝
国軍の様々な場所で光が放たれ始める。
﹁ワカラナイかい! あれは全て集合魔法だヨ﹂
﹁ば、バカな! 集合魔法がそう何発も同時に扱えてたまるものか﹂
フィレオは眼前の事象を目にした瞬間から、その可能性を脳の片
隅で考えてはいた。しかしながら、彼の中の常識が彼にその考えを
進めることを躊躇させ、ウイッラの言葉を否定する。
﹁フフフ、そりゃあこの前彼らが使ったような威力なら⋮⋮ネ。だ
けど、もっと小規模のものだったらどうカナ?﹂
﹁なに?﹂
想像さえしていなかったウイッラの言葉に、フィレオはまばたき
864
をするのも忘れて、彼をまっすぐに見つめ返す。
﹁奴らはボクらの光の盾を破るために、きっと様々な角度から小型
の集合魔法を放つつもりなのサ﹂
﹁⋮⋮なるほど。大部隊で集合魔法を扱うのではなく、小部隊をい
くつか編成し、光の盾の死角から我が軍を狙うつもりか!﹂
唇をわずかに咬み、フィレオは眉間にしわを寄せる。
険しい表情となった彼の下に、幕僚の一人が前線からの報告を携
えて駆け込んできた。 ﹁フィレオ様、た、大変です! 敵軍に次々と光る球体が出現しつ
つあります。その数、三、四、五⋮⋮まだまだ増えて行きます﹂
﹁キッキッキ、ほらネ。やはりそういうことサ。と言っても、まあ
そう来るだろうと思ってネ、準備はして置いたヨ﹂
﹁なに? 準備⋮⋮だと。ウイッラ殿、どういうことだ?﹂
﹁大きいのが効かないのなら、小分けにしてぶつければイイ。ふふ、
帝国の能なしのゴミ共が考えそうなことサ。まさかフィレオ君、君
はその可能性を考えていなかったわけではないよネ? ⋮⋮ああ、
怒らない。そんな顔でボクを見つめないでくれヨ。どちらにせよ、
対策はしてあげているんだからサ﹂
まったく目の前の状況に動じることなく、ウイッラは引き笑いを
しながらそう答える。
一方、目の前の事態の可能性を考えておきながら、指揮官である
自分に対し、一切の相談をされていなかったフィレオは、苛立ちを
隠せなかった。
﹁しかしどうするのだ、あんな様々な角度から集合魔法を撃たれて
は、防ぎようがないぞ!﹂
﹁ヒッヒッヒ、落ち着きなよ、フィレオ君。いいかい、光の盾の使
い手はこのボクたちだヨ。当然、光の盾の弱点は、彼らよりもはる
865
かにボクたちの方が知っていル。大丈夫さ、ボクとボクのモルモッ
ト君たちを信じて見たまえ。敵がさ、大きいものを小分けにするん
だったらサ、こっちも小分けにしてあげればいいだけサ﹂
先ほどまでしゃぶっていた指で、宙になにやら絵を描きながら、
ウイッラはフィレオに向かいそう説明する。
その説明が進むに連れて、フィレオの瞳には理解の色が浮かび始
め、そして数度首を縦に振った。
﹁⋮⋮なるほど。ようやく貴公の狙いがわかった﹂
﹁ああ、キミが想像した通りサ。光の盾を小型の盾にして、我が軍
の周囲に張り巡らせるヨ。ただね、フィレオ君。流石にあれだけ大
量の集合魔法を隙間なく盾で防ぐのは、骨が折れる。そしてボクの
モルモット君たちを無駄に死なせるなんて、ボクの望むところじゃ
ナイ。守りやすいように少し軍を集めてくれないカナ?﹂
﹁あ、ああ。すぐに手配する。全軍、密集隊形をとれ!﹂
ウイッラの頼みという名の指示を受けて、すぐさまフィレオは部
下に命令を下していく。
そしてフィレオは思考を切り替えた。
集合魔法を跳ね返したあと、魔力切れの帝国軍に対して、どうや
ってとどめを刺してやるかについてである。
866
エルムンドの戦いⅢ
﹁敵軍は予定地点へと到着いたしました。そしてノイン殿下はすで
に他の魔法士隊へと指示を下し、集合魔法の準備が開始された模様﹂
駆け寄ってきた帝国軍兵士の精悍な声がユイの鼓膜をたたく。
その報告を受けて彼は二度頭を掻くと、密集隊形を取りつつある
フィラメント軍へと視線を移した。
﹁さすがノインと言うべきだろうね。数万単位の部隊を完璧に統率
して、見事に総崩れを演出してみせた。さらに集合魔法の演出タイ
ミングもこの上ない﹂
﹁ふふ、ようやく終わりの始まりだね。ここまでは全て君の計画通
りといったところかな﹂
彼の右隣に立っていたアレックスは、狐目を細めながらユイに向
かいそう問いかける。
一方、問いかけられた当人は、苦笑いを浮かべると、ゆっくりと
首を左右に振った。
﹁いや、いくつか計算違いはあったよ。公国軍の魔法射程の長さと
かね。でもここまでくれば、あとは最後の仕上げ次第かな﹂
﹁イスターツ⋮⋮殿。この展開、この状況。ほぼあなたのお読みに
なられていた通りだ。謙遜されてはおりますが、この戦いの全ては
貴方の手のひらの上にあったと、そういうことではないのですか?﹂
ユイの左隣に立ち、表向きこの独立魔法部隊の隊長を務めるロイ
スは、ゴクリとつばを飲み込みながら、隣の異国人に向かい恐る恐
る問いかける。
﹁はは、先ほども言ったように計算違いはいくつかあったよ。別に
867
私はなんでも予想できるわけではないからね。あの時も言ったと思
うけど、敵は私達に気を使って行動してくれる訳じゃない。何時だ
って彼らは自由なんだから、敵の行動を絞り込んで予想を立てるの
は愚劣さ。だからこそ、敵が取りえるあらゆる選択肢を考えるべき
だと私は思う。もちろんその選択肢をなるべく減らしていくのが、
戦略であり戦術ではあるとは思うんだけどね﹂
恥ずかしげに頭を掻きながらユイはそう告げると、その言葉を耳
にしたロイスの背には一筋の冷たい汗がしたたり落ちる。そしてす
ぐさま彼は、先日のユイとノインの会話を脳裏によみがえらせた。
﹁それで、ユイ。条件の方はいいとして、具体的にどうやって奴ら
に勝つと言うんだ?﹂
﹁彼らに勝つ⋮⋮ねぇ。それはもちろん、できるだけ彼らの力を発
揮させず、こちらのいいところを引き出してかな?﹂
ノインの問いかけに対して、ユイは視線を宙に漂わせながら、そ
う答える。
﹁⋮⋮何で疑問形なんだ?﹂
﹁いや、勝ち方というのはあくまで戦争の最終形であってさ、大事
なのはそこまでの過程だと思ってね。何しろ敵の出方によっては、
こっちの準備は全く役に立たないということも十分に考えられるん
だから﹂
﹁おいおい、あれだけ大見得を切ったんだ。策がないなんて、今更
言わせはしないぞ﹂
ノインは身を乗り出すようにやや前傾気味になると、ユイに向か
って迫るように口を開く。
その焦りの感情が含まれた言葉を受けて、ユイは視線をノインへ
868
と向け直すと、彼はゆっくりと頭を掻いた。
﹁ああ、それは大丈夫。とりあえず、こちらの策が使えるところま
でどうやって持っていくかが重要さ。そのためには、まず相手の策
に備えなければならない。例えばそうだね、それぞれの軍の中身を
入れ替える⋮⋮とかさ﹂
﹁中身を入れ替える? どういうことだ?﹂
目の前の黒髪の男が突然口に出した言葉の意味が分からず、やや
虚を突かれた表情になりながら、ノインはすぐさま意味を聞き返す。
﹁これはあくまで可能性の話だけど⋮⋮えっと、彼等は今回の戦い
において珍しく指揮権を統一して戦いに挑んでいるらしいね。なの
に、どうしてわざわざ各家の色を、自軍の装備に塗りたくって現れ
たのか、君は疑問に思ったことはないかい?﹂
﹁それは他家とはちがうと誇示するためだろう。あとは今まで使っ
ていたものの色を変える時間がなかったとか、変える必要性を感じ
なかったからじゃないのか?﹂
﹁うん、当然それらはあるだろうね。でもさ、それにしてはリスク
が大きいと思わないかい? だって彼らのうち、恐らく集合魔法に
対抗手段を持つのは深緑の装備に身を固めたミラホフ家だけなんだ。
だとしたら、帝国軍が死に物狂いでミラホフに打撃を与えることが
できれば、この戦いはどうなると思う?﹂
ノインはミラホフ家をつぶした場合、その後の戦いがどうなるか
脳内でシミュレートする。すると、あっさりとユイが意図する回答
に行き当たった。
﹁再び集合魔法を使うことができる⋮⋮か﹂
﹁そう、その通り。そしてフィラメントとしては、どうしてもそれ
だけは避けたいはずさ。そんな彼らが、色を誇示するリスクに気が
つかないだろうか?﹂
869
﹁なるほど、一理あるな﹂
﹁ああ。そしてさらに考えれば、これを有効活用する策が見えてく
るかもしれない。これは帝国を引っ掛けることができるんじゃない
か⋮⋮とね﹂
その言葉を耳にしたノインは、顎に手を当てた姿勢でしばらく石
化したかのように固まる。そして一度大きく溜め息を吐き出すと、
肩をすくめながらユイに向かい口を開いた。
﹁引っ掛けるか。ようやくおまえの言いたいことが読めてきた。つ
まり別の軍団、おそらく攻勢魔法を得意とするマイスムに、深緑の
装備を着させるということだな﹂
﹁ああ、そのとおりさ。そしてのこのこと飛び込んできた帝国軍の
部隊を一網打尽にすると。簡単だろ。そしてこの作戦のいいところ
は、彼ら自身にリスクがない。別に色を変えていることがバレたと
ころで、何らデメリットは無いんだからね﹂
﹁確かに⋮⋮考えたものだな﹂
ノインの言葉は明らかにフィラメント軍にだけ向けられたもので
はなかった。
そのことに気がついたユイは、頭を二度掻くと、目の前の皇太子
に向かい再び口を開く。
﹁まあ、あくまで彼らがとり得る可能性を話しただけで、別にこん
な策を弄してこないかもしれない。ただ、敵がこのような手段をと
り得ると考えておくこと、そしてその対抗策を考えておくことは、
決して無駄ではないと私は思う﹂
﹁対抗策か。ふむ、もし敵がその手で来たらどうするんだ? 普通
に正面から戦うということなのか?﹂
﹁あのね、ノイン。さっき私が口にした策は、あくまでたくさんあ
る可能性の内の一つだよ。他にもフィラメントの取りそうな策はあ
と山程あるんだ⋮⋮まあ、いいか。取り敢えず先ほどのケースから
870
説明するとしよう。商売人としては、ちょっとサービスが過剰な気
もするけどね﹂
ユイはそう口にして、ニコリと笑みを浮かべる。
しかし彼の向かいの男は、そんな彼の笑みに対して笑い返すこと
はせず、まじめな表情を崩さなかった。
﹁安心しろ、かなりの額をお前たちに払うんだ。俺が満足するまで
は、しっかりサービスをさせてやる。先ほどおまえが口にした残り
可能性も、後で全て聞いてやるから喜ぶんだな﹂
﹁⋮⋮はぁ、やっぱり口にするんじゃなかったよ。まあいい、まず
中身を入れ替わられた場合の対処だね。といっても、これを敵が行
ってくれた場合、実は理想的な展開に持ち込みやすいと思っている﹂
﹁理想的な展開? 何が理想的なんだ? 先ほどおまえはフィラメ
ント軍にとって、デメリットが無い策だと言ったばかりじゃないか﹂
﹁うん、表面上はデメリットはないよ。だけど彼らがこの策を取っ
て、そして狙い通りに帝国軍が術中に嵌った場合、彼等はきっと足
元が疎かになるだろう。そこに付け入るべき隙が生まれる﹂
﹁足元がおろそかに⋮⋮か。それは油断するということか﹂
ユイの言葉を咀嚼したノインは、言葉を選んで彼に問い返す。
﹁いや、言葉通りの意味でもあるんだけど⋮⋮まあ、その言い方で
も間違いではないか。ノイン、敵の足下を掬うのはさ、敵が足下か
ら視線を外した時であるべきと私は思うんだ﹂
﹁足下から視線を外したとき? どういうことだ?﹂
﹁例えばさ、三日三晩何も食べずに飢えていた場合、目の前に豪華
な料理がいきなり現れたら、君は一体どうする?﹂
﹁そりゃあ、その料理に飛びつくだろうな。なるほど、その時に俺
は足下なんか見ていないと⋮⋮﹂
皇族である自分に対し、あまり適切なたとえであるとノインは思
わなかったが、ユイの言いたいことは理解できたため納得したよう
871
に頷く。
﹁ああ、そう言うことさ。そしてこのごちそうというのが︱︱﹂
﹁フィラメントにとっては、自軍の勝利というわけだな﹂
ユイが言い切るより速く、待ちきれないとばかりに、ノインは続
くであろう彼の言葉を口にする。
思わぬノインの反応に、ユイはわずかに苦笑しながらも、彼の見
解を肯定した。
﹁その通り。彼らが私たちを罠にはめて勝ったと思った時、もしく
は策は読み切ったと考えた時。そう考えた瞬間にこそ、私達は彼等
の足下を掬ってやるべきさ。そう、文字通り彼らの足元を⋮⋮ね﹂
ノインに向けてそう言いきったユイの表情は、教師に対していた
ずらを仕掛けようとする、問題児のまさにそれであった。
﹁ともかく、イスターツ殿。まさに敵は足元から視線を外しており
ます。我が部隊は、いつでも準備をできておりますので、ご指示を
!﹂
﹁ふふ、ロイス君もそろそろ待ちきれないようだ。ユイ、そろそろ
始めるとしないかい?﹂
ロイスの声を耳にしたアレックスは、ニコリと笑みを浮かべると、
隣に立つユイに向かい行動を促す。
すると、ユイは一度大きく体で伸びをした後、ロイスに向かって
言葉を返した。
﹁ああ。では、始めるとしよう。ではロイスさん、魔法をお願いし
ます﹂
﹁わかりました。皆の者、準備は良いか?﹂
872
ユイからの許可を取り付けたロイスは、すぐに後方に控える魔法
士たちへと視線を走らせる。そしてその視線の先にいる者たちが力
強く頷き返したことを目にして、彼は誇らしげな表情を浮かべると、
そのまま魔法士隊長に声をかけた。
﹁では、作戦を始める!﹂
﹁はっ、グレイツェン・クーゲル!﹂
今回帯同した魔法士隊の中で最重要任務を託された魔法士隊長は、
全神経を集中させ、集合魔法の核を編み上げていく。そして次の瞬
間、彼の部下たちの声が一斉にその場に鳴り響いた。
﹁﹁グレイツェン・クーゲル!﹂﹂
異口同音にその呪文が発せられるや否や、先ほどまで極小サイズ
であった光を放つ発熱体は、次第にその形状を大きくしていく。
もちろん参加している部隊の人数の関係もあり、普段の集合魔法
よりはかなり小さなサイズであった。
しかしながら、通常扱う個人用の攻勢魔法とは比較にならない魔
法力が込められており、彼らの頭上で魔法が完成を見るや否や、フ
ィラメント軍に向けて迷うこと無く彼らはそれを解き放つ。
﹁イスターツ殿。あとを頼みます﹂
光の盾を全軍の周囲に張り巡らせ、集合魔法を迎え撃つ態勢を完
全に整えたフィラメント軍を見つめながら、ロイスは隣に立つユイ
に向かいそう告げる。
そんなロイスの言葉を受けたユイは、一度大きく頷いた。そして
彼は力ある言葉を口から発する。
﹁マジックコードアクセス﹂
その呪文がユイの口から発せられると、フィラメントめがけて単
873
独で疾走している小型のグレイツェン・クーゲルが、ほんのわずか
に輝きを増す。
そして集合魔法への干渉を終えたユイは、迷うことなく呪文のキ
ーとなるコードを口にした。
﹁クラック!﹂
﹁敵軍の集合魔法ですが、何故か一発だけが単独で我軍へと向かっ
てきます!﹂
幕僚の一人が疑問をその表情に現しながら、フィレオに向かって
集合魔法の接近を告げた。
﹁単発⋮⋮だと? 奴らはあれだけ大量に集合魔法を作り上げてお
きながら、どうして一発だけなのだ﹂
大量の小型集合魔法の内、一発だけが自軍に向けて放たれたとい
う報告を受け、副官であるレメルアンは眉間にしわを寄せる。
そんな彼の呟きを耳にしたフィレオは、右の口角を吊り上げると
持論を口にした。
﹁ふふ。おそらく敵の指揮官は同時に放つつもりであったのだろう。
だが先走ったものがおると、そのあたりではないかな﹂
﹁なるほど⋮⋮確かにその可能性は高いかもしれません。先ほどの
奇襲部隊の失敗からみせた奴らの醜態。あれを見るに、敵軍の指揮
官の統率力には疑問符がつきますからね﹂
自らが述べた見解に対しレメルアンが賛意を示すと、フィレオは
満足気に一つ頷く。
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﹁ああ。もしかすれば、様子見で一発だけ放ってみたという可能性
もあるやもしれん。だが、いずれにせよ無駄なことだな﹂
﹁ですね。どちらにせよ、奴ら目掛けて跳ね返してやるだけですか
ら。しかしそれもこれも、ウイッラ殿のあの素晴らしい魔法あって
のことですな﹂
先ほど本陣へと足を運んできたウイッラを褒め称えるように、レ
メルアンはあえてその名前を口にする。
しかし名前を出された本人は、指をしゃぶった状態のまま、始め
てみるような真剣な表情を浮かべ、ぶつぶつと独り言を呟いていた。
﹁アレ、アレ、アレ。おかしいナ、おかしいヨ。あの魔法⋮⋮変質
した﹂
﹁変質? 一体、何を言われているのですか?﹂
先ほどまで指をしゃぶっていたのが嘘のように、ウイッラは次第
に真顔となると、いつの間にか指しゃぶりをやめ、彼は眉間にしわ
を寄せる。
そんな彼の表情を初めて目にしたレメルアンは、恐る恐るその言
葉の意味を問いかけた。
﹁魔法が変わった。魔法の質が、そして軌道が⋮⋮軌道?﹂
自らの口にした言葉に、ハッした表情となると、ウイッラは理解
できないという表情となる。
だが彼の視線の先にある集合魔法は、彼らのところまで届かない
かの様な勢いで、まるで沈み込むように高度を低下させ始めていた。
﹁はは、確かにおかしな軌道をしていますな、ウイッラ殿。照準さ
え満足に行えないとは、帝国の先走った馬鹿共は相当に焦っていた
と見える。あのままでは、我らのところに辿り着くことさえできま
せんから、残念ながら貴公の魔法の出番さえなさそうですな﹂
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軌道と言う単語を耳にしたフィレオは、今にも大地に接触しよう
かとする集合魔法を目にして、笑みを浮かべる。
しかしウイッラは首を左右に振ると、すぐさまフィレオに向かっ
て口を開いた。
﹁違う。最初は照準は合っていたんだ。それが急に変化した。そん
なことができるのは⋮⋮フィレオ、軍を下げるんだ!﹂
フィレオに向かい、ウイッラは突然後退を叫んだ。
しかしフィレオは、先程から様子や口調のおかしいウイッラが、
また違う意味で狂ったのかとそう解釈する。そして彼は、光の盾に
接触する直前に地面へ沈み込み始めた集合魔法を指さすと、窘める
ように口を開いた。
﹁ウイッラ殿、少しは落ち着き給え。あの通り奴らの魔法は、我ら
に届きさえしないのですぞ﹂
ウイッラの変人ぶりにも困ったものだと考えながら、フィレオは
やれやれとばかりに首を左右にふる。
しかしそんな言葉を耳にしても、大地に半分以上沈み込みその姿
を消そうとする集合魔法に、ウイッラの視線は釘付けであった。
﹁わからないか、フィレオ! 先程から何かに共鳴するように、こ
の周辺に魔力が溢れ出している。この大地が脈動するかのような魔
力の鳴動⋮⋮下。そう下だ!﹂
﹁下? 何も︱︱﹂
意味のわからないウイッラの発言を耳にして、仕方ないとばかり
にフィレオは足下へと視線を落とした。
そして彼が視線を大地へと向けたまさにそのタイミングで、足元
から急速に眩いばかりの光が漏れ出す。
次の瞬間、地響きとともに火山が噴火するかのような無数の爆発
876
が大地から生みだされると、フィラメント軍の足下の大地は激しく
鳴動した。
﹁フィラメント軍の足元より爆発多数!﹂
﹁殿下!﹂
部下の報告を受けた副長官のホプカインは、彼らの命令者へ指示
を促す叫び声をあげる。
途端にノインは表情を引き締め直すと、最後の確認だとばかりに、
目にして理解していることをあえて口にした。
﹁奴らを守る光の盾はどうなっている?﹂
﹁全ての消失を確認しました。いけます!﹂
ホプカインの力強い返答。それが現在の帝国軍の一兵卒に至るま
での心境を物語っていた。
そしてその声に後押しされるようにノインは一つ頷くと、彼らが
求める命令を言葉にする。
﹁よし。混乱の最中、もはや奴らに魔法構築を行う集中など不可能
だ。ならば、最終段階としよう。今こそ我らがグレイツェン・クー
ゲルの力を、奴らへ教えてやれ!﹂
そのノインの指示が発せられるやいなや、今か今かと指示を待ち
わびていた魔法士たちは、混乱の最中にあるフィラメント軍を睨み
つける。そして編み上げていた集合魔法を一斉に解き放った。
三つ、四つ、五つと、次々に彼らのグレイツェン・クーゲルは、
密集した上に混乱の最中にあるフィラメント軍へと疾走を開始する。
そして両の手では数えきれぬ光の弾丸がフィラメント軍の中央部
877
に到達するとその瞬間、世界全体を白で埋め尽くしそうなほどの光
が発生し、それぞれが共鳴したかのような大爆発が発生した。
大地は揺らぎ、風は吹き荒れ、そして爆音が轟く。
﹁⋮⋮フィ、フィラメント軍、壊滅した模様。彼らが居た場所には、
もはや何一つ存在しません﹂
爆発の瞬間に目を瞑り、耳を両手で覆っていたものの、それでも
なお未だ鳴り止まぬ耳鳴りに苦しみながら、ノインの部下は大声で
そう報告する。
﹁これがグレイツェン・クーゲル⋮⋮これまで演習で何度も目にし
たが、我らが魔法とはいえなんたる威力か⋮⋮﹂
ノインもゆっくりと瞑っていた目を開いてゆき、視線の先に広が
る惨状を目にして、それ以上言葉を口にすることができなかった。
﹁報告です。フィラメント軍ですが、後衛で補給を担っていた一部
部隊のみ、グレイツェン・クーゲルの直撃を受けなかったため残存
している模様。おそらくはディオラム軍の一部です﹂
﹁殿下。どういたしましょうか? もしよろしければ、私が掃討作
戦を指揮いたしますが﹂
部下の報告を受けて、ホプカインは自らの耳を押さえながら、ノ
インに向かってそう提案する。
しかしノインは、その提案を耳にするや否や、すぐに首を左右に
振った。
﹁ならん﹂
﹁は?﹂
予期せぬノインの言葉に、思わずホプカインは虚を突かれた表情
となる。
878
﹁掃討作戦は認めん。もちろん残った連中がまっすぐ刃向かってく
るようなら相手して構わんが、基本的に交渉や降伏を求めるような
ら、それを全て受け入れろ﹂
﹁で、ですが⋮⋮﹂
ホプカインは既に完勝を確信していたものの、画竜点睛を欠くの
ではないかと、ノインに食い下がる。
しかし副長官のそんな心境を理解しながらも、ノインは再度首を
左右に振った。
﹁これはあらかじめ決めていた作戦の一環だ。あいつは私に対する
約束を守った。だから今度は、私があいつの約束を守る番だ﹂
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父と娘
﹁か、壊滅だと⋮⋮我がフィラメント軍が、一瞬で⋮⋮﹂
フィラメント軍本体より後方に配置され、主に補給と治療の担当
として待機していたメディウムの部隊は、目の前で起こった惨状に
凍り付き身動き一つ取れずにいた。
それは彼らを指揮する魔法王メディウムも同様である。
一瞬で軍が消失してしまった現実を、未だ事実として受け入れる
ことができず、彼はただただその場に呆然と立ち尽くしていた。
しかし彼の部下の一人が、現在の危機にようやく思いが到ると、
メディウムの意識を現実に引き戻そうと声を張り上げる。
﹁メディウム様! 今すぐに退却のご準備を。すぐにでも帝国軍の
追撃があるやもしれません﹂
﹁あ、ああ。だが、まだ生存者がいるかもしれん。彼らを見捨てる
わけには⋮⋮﹂
退却を進める部下に対し、メディウムは迷いを見せて、その場を
動こうとしない。
普段は物事を深く熟考し、詳細な検討を行った上で判断する魔法
王。
しかし戦場であるこの場において、その決断力の遅さは部下にい
らだちを覚えさせる。
﹁ですが!﹂
﹁う、うむ。君がそう言うならば、確かに一度この場を離れよう﹂
部下の強い口調を受けて、戸惑いを見せながら、押し切られたか
のようにしてメディウムは首を縦に振る。
880
しかしそのタイミングで、突然の凶報が彼の下へと届けられた。
﹁た、大変です。敵の一部隊が、我が隊目掛けてまっすぐに突っ込
んできます!﹂
﹁馬鹿な、たった今奴らは、集合魔法を放ったばかりぞ。にも関わ
らず、もう動き出したというのか! 一体、どれくらいの部隊なん
だ?﹂
帝国軍が集合魔法を放ってから、まだほんの僅かしか時間は経過
していない。にも関わらず、早くも敵が押し寄せてきたことに、メ
ディウムは動揺を隠せなかった。
﹁それが⋮⋮たった五名です。ですが、我が部隊は彼らをまったく
食い止めることができず⋮⋮間もなくここまで突破されます!﹂
﹁なに、たった五人だと! 冗談は休み休み言え。いくら我が家が
治癒魔法に特化しているとはいえ、その程度の敵など押し返すこと
など訳もないだろう﹂
部下から敵部隊の人数を告げられるなり、メディウムは顔を真っ
赤にすると、彼を怒鳴りつける。
メディウムの怒りを向けられた兵士は、青い顔をしながら首を強
く左右に振った。
﹁や、奴らは化け物です。急ぎ脱出を!﹂
﹁馬鹿な。なぜ五名を相手に、そんな慌てる必要が︱︱﹂
無理やり自らの背中を押して、馬へと押し付けようとする兵士に
向かい、メディウムは抗議を口にしかかる。
しかし、彼の言葉を遮ったのは、緊張感とは無縁の聞き覚えのな
い声であった。
﹁すいません。うちにはちょっとだけ、非常識な奴が混じっていま
881
してね。さて申し訳ないのですが、魔法王殿。ここから立ち去られ
る前に、少し私のお話を聞いて頂けませんか?﹂
﹁だ、誰だ!﹂
戦場には似つかわしくないどことなく気の抜けたその声色。それ
を耳にした瞬間、メディウムは慌てて後方を振り返る。
彼の視線の先には、初めて目にする不可思議な人物たちが存在し
ていた。
メディウム付きの部下たちを次々と昏倒させていく赤髪の男に、
声をかけてきただらしなさ気な黒髪の男とフードを被った一人の女
性。
それに加え、魔法王を守らんと駆けつけてくる兵士たちを近づけ
させない、剣をふるう若い二人組の男女。
そんな彼らを目にした瞬間、メディウムは目の前の五人こそが、
先ほど部下が報告した兵士たちだと理解した
﹁ああ、失礼。立ち去ろうとされていたので、慌ててお声掛けさせ
て頂き申し訳ありません。改めまして、初めまして。私はクラリス
外交大使を務めている者です﹂
﹁クラリスの外交大使⋮⋮ま、まさかユイ・イスターツか!﹂
大陸西方にて既にその名を知らぬ者がいないクラリスの英雄。そ
してフィラメントの者にとって、いや魔法士にとってはまさに天敵
と噂される男。
目の前の男がまさにその当人だと知り、メディウムは無意識に一
歩後ずさる。
﹁ああ、私のことをご存じなのですね。それは手間が省けて助かり
ます。おそらく貴国では悪名高いユイ・イスターツです。以後お見
知り置きを﹂
﹁本物⋮⋮なのか? しかし本物なのだとしたら、一体どうして貴
882
様がこんな場所にいる?﹂
﹁ああ、それは当然の疑問ですね。今回の戦いに無関係の外交官が、
こんな戦場にいるのは確かに不自然。全くもって、お考えはごもっ
ともです。ですが、私があなたの前に姿を現した理由は簡単です、
メディウム殿。この私が⋮⋮いえクラリス王国が、この戦いの仲介
役となります。ですので、この辺りで矛を納め、和平を考えるおつ
もりはありませんか?﹂
予期せぬユイの申し出に、思わずメディウムは唾を飲む。
そしてすぐに彼は眉間にしわを寄せると、現状と余りに乖離した
提案を行うユイに対し、疑うような視線を向けた。
﹁和平だと? そんなことができるはずが無かろう。我が軍は見て
の通り壊滅し、今や私は部下に逃亡を迫られる身だ。にも関わらず、
どうして帝国が和平など受け入れよう﹂
﹁はは、確かにごもっともなご意見です。ですが、そこは私どもを
信頼して貰いたい﹂
﹁のこのこ貴様を信じて奴らの前へと出て行き、我が首が取られぬ
とどうしてそう思える?﹂
﹁そうだ、貴様等はメディウム様を嵌めるつもりだな。この卑怯者
共め!﹂
メディウムを馬へ誘導しようとした彼の部下も、目の前の胡散臭
い黒髪の男を睨みつけて、罵声を浴びせる。
そしてすぐに彼は、魔法式を編み上げ始めるとともに、腰の剣に
手を伸ばした。
一方、そんな彼らの反応に困った表情を浮かべたユイは、頭を掻
きながら余りに辛辣な、しかし否定しようのない事実を口にする。
﹁確かに。でも、それは同じ事ですよ。ここで国へ逃げ帰っても、
もはや国力の落ちた今のフィラメントにどうして帝国が侵攻しない
883
でしょうか?﹂
その端的な事実を告げられ、メディウム達はたちどころに言葉を
失う。
そしてそんな彼らに向かい、ユイは回答を急ぐ素振りを見せず、
苦笑いを浮かべ沈黙を守った。
﹁⋮⋮要するに早いか遅いかの違いと、貴様はそういいたいのか?﹂
しばしの沈黙の後、メディウムは探るような視線をユイに向けつ
つ、そう言葉を発する。
その言葉を受けたユイは、小さく一度頷くと、再度彼らに向けて
問いかけを行った。
﹁ええ、その通りです。もう少し言葉を足させて頂くと、フィラメ
ント内での戦闘、それも一方的な帝国の蹂躙が貴国に何をもたらす
か、王である貴方ならばお分かりでしょう? ですが、私の提案に
乗っていただければ、万が一の和平の可能性も存在する。それだけ
でも、十分検討に値すると思いますが﹂
﹁確かにそれはそうかもしれん。しかしこの提案が貴様にとって、
いやクラリスにとって何のメリットがあるというのだ、イスターツ
?﹂
﹁メリット⋮⋮ですか。そうですね、帝国の南部に貴国という存在
が残ることで、我が国への帝国の侵略の手が鈍る。そんな理由で如
何でしょうか?﹂
明らかにその場で取り繕ったようなユイの言葉に、メディウムは
その真意を測りかねると、不快感を露わにする。
﹁どうして我らに問いかける。もしや貴様は私を愚弄しているのか
?﹂
﹁いや、そんなつもりは毛頭ないのですが⋮⋮﹂
しまったなとユイは頭を掻きながら、ごまかすような曖昧な笑み
884
を浮かべた。
だがその態度を目にしたメディウムは視線をより険しいものとす
る。
すると、ユイの後方に控えていたフードを被った女性が、彼らの
会話に突然割り込んできた。
﹁それは私が頼んだからですよ、お父様﹂
そう口にした女性は、ゆっくりと顔を覆い隠したフードを外す。
首元に隠されていた長い赤髪がこぼれ落ち、少し目元のキツイ端
正な顔が露わとなった。
その顔を目にした瞬間、メディウムは唇を震わせる。
﹁ナ、ナーニャ⋮⋮﹂
﹁ご無沙汰いたしております、お父様。まさか再びお会いする事が
できる日が来るとは⋮⋮このナーニャ、露ほどにも思っておりませ
んでした。ましてや、その場所がこんな戦場だとはです﹂
ほとんど表情を変えること無く、一度頭を下げると、抑揚の少な
い声でナーニャは自らの父へとそう告げる。
﹁⋮⋮まさかイスターツと伴にこの場に来るとはな。報告には聞い
ていたが、つまりは帝国ではなく、クラリスにおまえはいると、そ
ういうことで間違いないのだな?﹂
﹁はい。各地を放浪し、そして彷徨い込んだ街で刹那的な生き方を
しているところを、隊長に⋮⋮いえ、イスターツ様に拾って頂きま
して。お陰でこうして、おめおめと生きながらえております﹂
﹁そうか⋮⋮いや、お前が無事ならばそれでいい﹂
メディウムはその場で両目を閉じると、わずかに俯く。
そしてそのまま黙りこんでしまった彼に向かい、ナーニャは再び
平坦な声を発した。
885
﹁お父様。勘当された⋮⋮いや、ディオラムを追放された私が言っ
て良いことではないかもしれませんが、閣下のご提案をお受けにな
り、和平をお考えください﹂
﹁しかしそれは⋮⋮いくらお前の言葉といえど、そうやすやすと提
案に乗るわけにはいかん。これは極めて高度な政治的判断を必要と
する事項なのだ。冷静に物事を分析し、皆で議論した上でだな﹂
﹁それですぐ結論は出るのですか? 帝国に攻め滅ぼされるその日
までに﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
ナーニャの声は次第に強い感情が込められ始め、次第に彼女は父
に向かって詰め寄って行く。
﹁お父様はとてもお優しい。そして人のことを思うことができる、
素晴らしいディオラム家の当主だと思います。ですが、その優しさ
と思いやりは、魔法王として明らかな欠点です。本来国王選に敗れ
て当主の座から退かせておくべきだった二人の暴走を許し、フィラ
メントを戦争へと踏み込ませたのはお父様の甘さが故。そして今度
は優柔不断さから、戦争の終え方を間違えようとしています﹂
彼女は一気にそう言い切ると、非難の感情を隠さぬ視線でメディ
ウムを睨みつける。
その冷たく鋭い視線を浴びせられたメディウムは、口を動かして
何かを反論しようとするも、何も言葉を形作ることができなかった。
昔と変わらぬそんな父を目にして、ナーニャは悲しげな瞳を揺ら
しながら、首を左右に振る。
﹁私は今日の今日まで、ディオラムという姓を呪っておりました。
治癒魔法が使えず禁呪の扉を開けてしまった故に、追放されること
になってしまった我が家を。しかしそれでも、私が生まれた場所が
変わるわけではありません﹂
﹁ナーニャ⋮⋮﹂
886
﹁お父様。私はどんなに憎んでいようともディオラム家に、そして
フィラメントに存続して欲しいのです。だからこそ私はイスターツ
閣下に頭を下げました。もし可能であれば、フィラメントを存続さ
せてくださるようにです﹂
不本意であったにせよ、かつて自らの下から追い出した娘からの
告白。
彼女の言葉に嘘偽りの色は一切含まれず、ただ純粋な思いだけが
言葉を形作っていた。
だからこそ、そうだからこそ、決断しかねていたメディウムの背
中を彼女の想いはそっと後押しする。そうして、彼の思考に一つの
方向性を与えられた。
だがそれでもなお、彼は自らの判断でフィラメントの歴史を左右
する決断を下しきることに迷いは拭いきれず、歯切れの悪い言葉を
口にする。
﹁⋮⋮お前の気持ちは分かった。確かにお前の言うとおり、このま
ま壊滅すれば魔法王国は永遠に失われるかもしれん。だから、すぐ
に残ったもので相談し︱︱﹂
﹁お父様! あの時もお父様だけが私の追放に反対なさっていたこ
と、本当は知っています。でもあの時も最終的にお父様は決断でき
ず、耐え切れなくなった私は家を飛び出しました。でも、今度はか
かっているものはこの私などではなく、ディオラム家でありフィラ
メントの未来なんですよ。そしてそれを決めるのは魔法王の役目で
す。そう、決して他のだれでもないお父様の役目です!﹂
瞳に涙を浮かべながら、ナーニャは父へと決断を訴えかける。
かつて一度は突き放したはずのナーニャ。そんな彼女の言葉は、
メディウムの胸に深く突き刺さる。
そして彼は眉間に深い皺を寄せ、一度大きな溜め息を吐き出すと、
ぼんやりと側に突っ立っている黒髪の男へと言葉を発した。
887
﹁⋮⋮イスターツ殿﹂
﹁はい、何でしょうか?﹂
明らかに先ほどまでとは異なる口調で話しかけてきたメディウム
に対し、ユイは穏やかな口調で聞き返す。
﹁帝国と会談がしたい。申し訳ないが、繋いでもらえないだろうか
?﹂
﹁もちろん喜んで。それでは、私の友人である皇太子のノイ︱︱﹂
魔法王の決断を歓迎するようにユイはニコリとした笑みを浮か
べ、ノインへの面会を口にしかける。
しかしその瞬間、突然ユイの言葉を遮るように、メディウムの後
方から魔法を唱える声が発せられる。
﹁ジャーマランサ・エルドブレ﹂
﹁グフッ⋮⋮ば、ばかな﹂
突然出現した炎の槍は、身動きさえ取ることができぬまま、後方
からメディウムの腹部をまっすぐに貫いた。
腹部に大穴を空けたメディウムは、崩れ落ちそうになる体をどう
にか支えながら後方を振り返る。
彼の視線の先には、帝国軍の集合魔法にて兵達とともに消え去っ
たと考えられていた、一人の男の姿があった。
﹁我が軍は壊滅だ。だが貴様等の命は貰っていくぞ、メディウム。
マイスムは、マイスムは決して貴様らディオラムの傘下には収まら
ん﹂
﹁な、何を言っておるのだ⋮⋮フィレオ﹂
貫かれた腹部を抑えながら、理解できないという表情でメディウ
ムは問いかける。
888
しかしそんな彼に向かい、フィレオは一方的な弾劾を口にした。
﹁貴様の企みはわかっている。ここでマイスムとミラホフの主だっ
たものが死亡し、その隙に帝国と手を結んで、フィラメントをディ
オラムのものとしようとしておるのだろう。だが、絶対にそんなこ
とはさせんぞ﹂
﹁そんなわけがあるか。私は、私は⋮⋮ブフォッ﹂
逆恨みというよりも言いがかり。
そんな理由で失われゆく自らの命を見つめながら、反論を口にし
ようとしたメディウムは、それ以上言葉を発すること無く、代わり
に大量の血液を口から吐き出す。
そしてそのまま彼は、戸惑いと無念の表情を浮かべたまま、その
場に崩れ落ちていった。
﹁フィレオ! てめえ!﹂
その怒声を耳にした瞬間、ユイは隣の女性の脳の血管が切れる音
を聞いた気がした。
彼女が怒りを見せること自体は、決して珍しくない。
しかしこれほどの怒り、そして悲しみ、そんな感情をストレート
に前面に現すナーニャの姿を彼は初めて目にした。
﹁おっと、これはこれは。誰かと思えばディオラムの廃棄姫ではな
いか。そういえば貴様はイスターツと伴にいたのだったな。ふん、
帝国だけでなくクラリスとも手を組んで、父親と共に国を売るつも
りだったということか? この売国奴め!﹂
﹁あんたが一体何を言っているのかはわからねえ。だが廃棄姫なん
て懐かしい名で呼んでくれるじゃないか﹂
ナーニャは突き刺すような視線をフィレオへと向けながら、一歩
前へと進み出る。
889
﹁ふん。父親と違い、こそこそせず威勢だけはいいな。だが貴様に
も死んでもらう。マイスム家がフィラメントの頂点に立つ上で、デ
ィオラムの血縁は一人足りとも存在してはならない﹂
そう口にしたフィレオは、狂気にかられた笑みを浮かべながら、
その場で魔法式を編み上げていく。
﹁ナーニャ、退いてくれないかな。私が相手するよ﹂
フィレオの編み上げようとする魔法式を目にしたユイは、ナーニ
ャの肩に手を掛けると、わずかに力を込める。
しかしその手は、あっさりと払いのけられた。
﹁隊長、悪いけどすっこんでてくれないか。あんたのアレが魔法士
と相性がいいのは知っている。だが、ここでアタイが命を張らなき
ゃ、いつ張るというんだい?﹂
ユイの方を振り返ること無く、ナーニャは彼の気遣いに感謝しな
がらも、その提案を拒絶した。
﹁⋮⋮わかったよ。君に任せる﹂
﹁ありがとう、隊長﹂
﹁ほう、本気で傍観するつもりか、イスターツ。貴様のあの邪法に
対する対抗策を見せてやろうと思ったが⋮⋮まあいい。そこの廃棄
姫を殺した後は、どうせ貴様にも消えて貰うのだからな。順番が少
し変わるだけだ﹂
ユイとナーニャのやりとりを目にしていたフィレオは、右の口角
をわずかに吊り上げると、魔法式を完成させた余裕からか見下すよ
うな視線を二人に浴びせる。
﹁ごちゃごちゃ言ってんじゃねえぞ、おっさん。隊長の出番なんか
ねえんだよ。あんたはここでアタイに殺されて死ぬんだ!﹂
﹁ふん、小娘がなめた口を。身の程を思い知るがよい。マイスム家
890
秘術、プルガトリオジャーマ!﹂
その呪文を口にした瞬間、フィレオの前には膨大な煉獄の炎が生
みだされる。そのあまりの炎に迫力に、わずかばかり残っていたメ
ディウムの部下たちは圧倒され、我先にその場から逃げ出す。
しかし彼のその魔法を目にしたナーニャは、まるでなんでもない
ことのように鼻でフィレオを笑った。
﹁はん、確かにすげえ魔法だ。だけど、所詮はただのすげえ止まり
だな﹂
﹁なに?﹂
﹁あんた、まだ気づかないのかい? べらべらしゃべっていた自分
が、すでにアタイの作り上げた魔法の結界内にいるということを。
そしてあんたは知らないのかい? ディオラムの廃棄姫がなぜ廃棄
されたのかを。アンティレスレクシオン!﹂
ナーニャがその呪文を唱えた瞬間、彼に気づかれること無くフィ
レオの頭上に産みだされていた魔法陣が輝きを放ち始めると、彼の
編みあげていた炎は突如その魔法陣に喰われ始めた。
そうして瞬く間に炎は消失する。
すると、ナーニャの編み上げた魔法陣は喰い足りないとばかりに、
次は真下にいる生命体へと襲いかかった。
﹁なんだこれは! 私の命が奪われて⋮⋮いや、吸い取られていく。
ま、まさか、吸血? 貴様が至ったという禁呪は、よもや大禁呪か
!﹂
フィレオは自らの身体からものすごい勢いで失われてはならない
ものが、倦怠感とともに急速に失われていくのを体感する。しかし、
たちまち生命力を搾り取られていった彼には、もはやその空間から
逃げ出すことさえ叶わなかった。
891
﹁治療魔法の一家に生まれながら、真逆となる人の生命力を奪い取
る魔法に至った魔法士。それがあんた達が廃棄姫と呼ぶ、このナー
ニャ・ディオラム様さ﹂
﹁大魔導師フィラメントでさえ危険のあまりに辿り着くことを断念
した大禁呪を、貴様のような小娘が扱うだと! 馬鹿な、そんなこ
とが。くうぅぅ⋮⋮わ、私の魔力が、生命力が﹂
既に立っていることさえ叶わなくなったフィレオの体から、次々
と透き通るような赤い光が抜け出してゆき、魔法陣の中に取り込ま
れていく。
一見、それは幻想的な光景であった。
しかし、膝を折ってその場に崩れ落ちたフィレオが、その場で喘
ぎ始めたところで、途端に残酷な光景へと一変する。
﹁あんたの臭い魔力や生命力に興味はないんでね。こいつは全て破
棄させてもらう。そのまま全てを失ってくたばりな。そんな最後が
あんたにはお似合いさ﹂
冷酷なナーニャの一言がその場に響き渡ると、フィレオの体から
発せられる赤い光は急速に減少し始め、全てを絞り尽くした瞬間、
彼の頭上に編み上げられた魔法陣は空中で霧散する。
そしてその場には、もはや何らの反応を示さなくなった、フィレ
オの横たわる姿だけが存在していた。
﹁ナーニャ⋮⋮大丈夫かい﹂
﹁ああ⋮⋮何も言わないで。お願いだからさ﹂
フィレオの魔力を吸い取ること無く、禁呪魔法を使用することで
ほぼすべての魔力を失ったナーニャは、崩れ落ちそうな体をユイに
委ねると、わずかに背中を震わせながらそう返答する。
いつしかその空間にはただの静寂だけが満ちていった。
892
しかし、そんな静寂が長続きすることはなかった。
とある男の引き笑いが、その空間に響き渡ったためである。
﹁フフフ。いやぁ、実に良いものを見させて頂きましたヨ﹂
﹁だれだ?﹂
突然放たれた薄気味悪い笑い声の主に向かい、ユイの胸に体を預
けていたナーニャは、怒り交じりに声を発する。
彼女が声を発した先にいた者。
それは指をしゃぶりながらひずんだ笑みを浮かべる、最後の御三
家当主であった。
893
調停者
﹁フフ、ボクの⋮⋮いや、僕のことを覚えていないのかな。君とは
何度か会ったこともあるはず何だけどね﹂
しゃぶっていた指を口から外し、歪んだ笑みを自らの表情から消
し去ると、底冷えするような冷たい声がその場に発せられる。
その姿を目にしたナーニャは、記憶の片隅にこびり付いていた、
その男の名を口にした。
﹁⋮⋮ウイッラ。ウイッラ・ミラホフ﹂
﹁ほら、覚えているじゃないか﹂
ナーニャの呟きを耳にして、ウイッラは満足そうに右の口角をわ
ずかに吊り上げる。
﹁ミラホフのサイコ野郎が、このアタイに何のようだい?﹂
ユイに体を支えられながらも、ナーニャは体に残る力を振り絞っ
て、ウイッラを睨みつける。
しかし彼女の精一杯の反応に対し、ウイッラは特に反応すること
もなく、抑揚のない声をその口から発した。
﹁別に君には用はないんだ。用があるのは、君の隣にいる男さ﹂
ウイッラはそう述べると、ナーニャを支える黒髪の男へと視線を
動かす。
﹁⋮⋮私に用という事かい。さてさて、ミラホフ家の当主にご指名
されるような心当たりはないんだけどね。この戦いに関する文句は、
私ではなく帝国のノインという男に言ってくれるかな﹂
冷たい視線を向けられたユイは、ウイッラに対して苦笑いを浮か
べると、ゆっくりと頭を掻く。
894
﹁ノイン皇太子か⋮⋮確かにあの男も警戒するにたる男だ。しかし、
今回の絵を描いたのは貴様だろ、イスターツ﹂
﹁さて、どう言うことかな?﹂
確信を持って言い放ったウイッラの言葉に対し、ユイはあえて彼
から視線を外す。
﹁とぼけるな。最初に打ち出された一発目の小型集合魔法。あれの
軌道が突然変わったのも、そして我が軍の足下から集合魔法と同性
質の魔法が発動したのも、貴様があの魔法に細工をしたからだろ。
まさか違うとでも?﹂
﹁へぇ⋮⋮ご名答。しかしあの多発小型集合魔法の輪の中にいた君
やフィレオ君が無事だったということ。そして君がそこまで理解し
た上で、この場に最後に姿を現したということ。これらを踏まえる
と、先ほどのフィレオ君の蛮行は君の仕業ということかな、ウイッ
ラ君?﹂
ユイがそう述べた瞬間、ナーニャが両目を剥くと、怒りをその表
情にうかべて前に進み出ようとする。
しかし、たちどころに体のバランスを崩すと、ユイは彼女を慌て
て抱き止めた。
﹁ふふ、その通りだよ。万が一戦いに負けた場合の保険とは思って
いたけど、最低限の仕事はしてくれたみたいだね。あの自意識過剰
のお人形さんは﹂
﹁お人形さん⋮⋮か。つまりは、君がフィレオ君を操ったというあ
たりかな。さすがムラシーンの師と言うべきなのだろうね﹂
かつてラインドルを乗っ取りかけたムラシーンがミラホフ家の学
校出身であること、そしてその彼の使っていた魔法が人間を人形化
して操る魔法であったことをユイは思い出す。
そしてフィレオのことを冷笑交じりに人形と言い放ったウイッラ
895
が、今回の黒幕であったとユイはここに確信した。
﹁残念ながら、直接彼を魔法で操ることができたのは先程の一瞬だ
けだよ。それも思考に一定の方向性を加えるという、非常に軽微な
モノだけさ。その辺りは、さすがマイスム家の当主と言うべきなの
だろうね。ありえない絶望と敗北感に直面しても、ほんの僅かしか
心のスキマを見せなかったんだからさ﹂
﹁なるほど。その言い振りだと、直接じゃない形ならこれまでも彼
を操っていたと⋮⋮つまりはそういうことかな?﹂
ウイッラの発する言葉の奥に秘められた意味を読み込み、ユイは
まっすぐ彼に視線を向けながらそう問いかける。
すると、ウイッラは否定とも肯定ともとれぬ素振りを見せた。
﹁まあ事あるごとに、彼に多少の助言をし続けてきたことは事実さ。
もちろん思考操作がわからないように、わざわざ気狂いの振りまで
してね﹂
﹁気狂いの振り⋮⋮ね。なるほど、今の君の姿が、君の本性という
わけだ。ナーニャも最初は君とわからなかったようだからね﹂
胸元に抱えたナーニャの表情をちらりと覗き見ながら、ユイはそ
う口にする。
﹁ああ、勘違いしないでくれ。昔のボクと、今の僕は違う。おそら
く彼女が知っているのは、世界に必要とされる前の仮初めのボクさ。
その時のボクは、ここにいる僕では決してない﹂
﹁ふぅん、君の言葉をそのまま受け止めると、ナーニャが知ってい
るキミと、今ここにいる君は別人と言うことになる。外見はまるで
同じなのにね。統合失調⋮⋮いや、もしかして⋮⋮君が狙っていた
のは魔法勢力の消耗じゃないのかい。つまり君の正体は⋮⋮﹂
頭を掻きながら、ユイはわずかに表情を歪めると、そこで言葉を
切る。
896
一方、ウイッラはその言葉を耳にするなり、苦虫を噛み潰した表
情となった。
﹁なるほど、さすがはアズウェルの弟子にして、あの男の息子とい
うことか⋮⋮しかし貴様はいつだって手間をかけさせてくれる。長
い時間をかけてフィレオの劣等感を増幅させ、八割方予定通りに事
が運んでいたというのに、これでまた計画を一から練り直しだ﹂
﹁いつも? 私と君は初対面だと思うんだが?﹂
ユイは首を傾げる素振りを見せながら、ウイッラに向かいそう問
いかける。
﹁初対面⋮⋮か。ふふ、確かにその通りさ。だけどね、貴様に僕の
計画を邪魔されたのは、これで二度目なんだ。ラインドルに続いて
ね﹂
﹁ムラシーン⋮⋮やはりそこにつながるわけだ。待てよ、彼の憎悪
の対象こそ君であった⋮⋮なるほどそういうわけか﹂
ムラシーンが口にしていた、自分を認めなかったモノの存在。
ユイはこのとき、それこそが目の前のウイッラのことを指してい
たことに気がつく。そしてそれとともに、その憎悪を目の前の男が
活用していたという事実もほぼ確信するに至った。
﹁憾み、恨み、怨み。そんな感情ほど、人の背中を押しやすいもの
はない。ただ残念ながら彼の場合は、フィレオ同様に演者としての
力が足りなすぎた。もっともイレギュラーな存在があの土地へ訪れ
たこと、それは彼の不幸でもあったのだろうがね﹂
﹁ラインドルをムラシーンに取らせること、そして帝国とフィラメ
ントを弱体化させること。これらを何のためになそうとしていたの
か、よかったら教えてくれないかな?﹂
ユイがウイッラに向かって正面から問いかける。
897
その問いに対し、ウイッラはわずかに眉をひそめた。
﹁話してやってもいいが、わざわざそれを貴様に説明する義理が、
この僕にあるのかい?﹂
﹁ほら、内容によってはお互い話し合いで解決できることも、なに
かあるかもしれないじゃないか﹂
﹁話し合いで解決? 馬鹿を言わないでくれ。貴様とこれ以上馴れ
合うなどできるわけがないだろ、忌むべき調停者よ!﹂
突然汚物を吐き出すかのような口調になったウイッラは、先ほど
までの氷のような表情を一変させると、途端に嫌悪の感情が満ち溢
れる。
一方、その言葉を受け止めたユイは、大きな溜め息を吐き出すと、
まるで呟くかのようにぽつりと口を開いた。
﹁⋮⋮その言葉で確信したよ。やはり、そう言うことなんだね。ほ
んの十二年前に、君たちはすでにこの地から消えさったと思ってい
たよ、修正者くん﹂
﹁無くなるはずがないだろ? この世界に魔法という矛盾があり続
ける限り、僕達の存在が消えることはない。そしてこの世界を歪ま
せ続けるシロアリのごとき忌むべき存在。そう魔法士という名の混
じり物を完全に駆逐するまで、僕達に安寧の日々は訪れない﹂
ウイッラは毅然とした表情で、ユイに向かいそう告げる。
そんな二人のやりとりをユイの胸元で耳にしていたナーニャは、
困惑した表情で視線を上げた。
すると彼女の瞳は、初めて目にする研ぎ澄まされたようなユイの
冷たい眼差しを映し出す。
﹁二度と、そう二度と君たちとは会いたくなかったのだけどね⋮⋮
それで、今日はこの私に何のようだい? あの時の復讐かな?﹂
898
﹁そんな無駄なことはしない。今日は宣言にきただけさ。いつか君
の存在を消し去る。次に魔法士を、そして魔法士になる可能性を秘
めた、人間という種をこの世界から抹殺するというね﹂
﹁へぇ、これはまた大きく出たね。十二年前に何もできなかった君
たちに、再び事をなすことができると?﹂
﹁かつての計画の最大の障害であった君の両親は、既にこの世界に
いない。そしてこれは先代からの意思であり、何より世界の意思だ。
だからこそ、この運命の潮流には誰も逆らえない。例え調停者たる
君であろうともね﹂
まるで演説であるかのように、ウイッラの言葉は少しずつ熱を帯
び始める。
一方、そんなウイッラの言葉の中に含まれていたある単語を耳に
して、ユイの両眸はさらに鋭くなった。
﹁それはどうかな? 君が言っている潮流が、本当に君達が望む未
来に向けて流れているとは限らない。先程も言ったように、そんな
ことは十二年前に、とっくに証明された事実さ﹂
﹁ふん、口の減らない男だ。まあいい、この場に限っては貴様の勝
ちだ。だが、次もうまくいくとは思うなよ﹂
舌打ちを一つ打ったウイッラは、忌々しげな表情でそう口にする。
ウイッラがその言葉を言い終えるやいなや、ユイは彼の側方を一
つの朱い風が駆け抜ける事を感じた。
﹁次? ふふ、次の機会なんて君にはありませんよ。そう、永遠に
ね﹂
瞬く間にウイッラとの距離を詰めた朱い死神は、貼り付けたよう
な笑みを浮かべたまま、自らの剣を一閃する。
899
﹁ちっ、朱か!﹂
迫り来る朱い悪魔に対し慌てて身構えたウイッラは、間一髪のと
ころで腰に備えた大型ナイフを抜き取ると、ぎりぎりのところでア
レックスの初撃を受け流す。
﹁へえ、今のを受け止めるんだ? 魔法士にしておくのは、実に惜
しいね﹂
自らの剣撃に対しウイッラが反応してみせた事実を前に、アレッ
クスはまるで歓迎するかのように右の口角を吊り上げる。
hide
me
in
the
code.
そしてアレックスが次なる第二撃に移ろうとしたまさにその時、
truth
ウイッラは不可思議な呪文を口にした。
﹁The
﹂
ウイッラがその不可思議な言葉を口走った瞬間、彼の体は、そし
て彼の存在は希薄となり、アレックスの剣は空を切る。
﹁なに!?﹂
﹁朱よ。たしかに貴様の剣技は人間を超えている。だが所詮人間を
超えているだけであって、貴様は人間以外の者に成れたわけではな
い。そう、だからこそ貴様の剣は、永遠にこの僕には届かない﹂
続けざまにはなった三撃目となる剣撃も、まるで陽炎のように半
透明状態となったウイッラの実体を捉えることはなかった。
そして半透明体となったウイッラは、ニヤリとした笑みを浮かべ
ると、アレックス目掛けて両手を突き出す。
﹁さて、次は僕の番だね。プルガトリオ﹂
ウイッラがその呪文を口にした瞬間、幻影のような彼の手のひら
900
から、実体を伴う煉獄の炎が出現する。そして、たちまちにアレッ
クスを飲み込まんと襲いかかった。
最至近距離であり、通常であれば完全に自らのテリトリーとも言
える間合い。
普段であれば魔法など放たせることなく、一撃のもとに敵魔法士
を沈黙させてきたアレックスは、ウイッラの魔法を回避できないこ
とを理解し唇をわずかに噛む。
しかしそのタイミングで、後方から一つの呪文が唱えられた。
﹁マジックコードアクセス⋮⋮クラック!﹂
黒髪の男がその呪文を詠唱すると、アレックスを飲み込もうとし
ていた炎は途端に反転し、ウイッラへと襲いかかる。
しかし、ウイッラの手により放たれたその炎は、彼の存在をわず
かに揺らめかせたのみで、何一つ延焼させることはなかった。
﹁ふん、魔法改変か。だが無駄なことだな﹂
﹁魔法も剣も届かない⋮⋮か。この世界から半歩外に踏み出してい
る、いや、コードの中に実体を落とし込んでいるのかな。なるほど、
たしかに君は修正者というわけだ﹂
抱きかかえていたナーニャを後方に控えていたフートに預けると、
ユイは前方へと一歩足を踏み出す。
﹁ほう、向かってくるかイスターツ。だが、いかに貴様とて︱︱﹂
﹁ユニバーサルコード﹂
あざ笑うかのようなウイッラの放つ言葉に目もくれず、ユイは世
901
界と自らを繋ぐその呪文を紡ぎ始める。
するとその呪文を耳にした瞬間、アレックスは後方を振り返り、
普段では想像できないほど切実な声で彼は叫んだ。
﹁ユイ、やめるんだ!﹂
ユイでさえこれまでに一度しか目にしたことのない、動揺するア
レックスの姿。 それをわずかに微笑んで無視すると、ユイはキーとなる言葉を口
にした。
﹁アクセス!﹂
その瞬間、ユイの視界が、そして認識が周囲に拡散していくかの
ように広がり始め、それとともに彼の意識は現実との境界を失い始
める。
世界に溶け出しそうになる個体としての自我を必死につなぎとめ
ながら、雪崩のように押し寄せてくる膨大な情報の波を掻き分け、
彼は求める答えを自らの下へ手繰り寄せていった。
902
代償の違い
﹁コードへの干渉⋮⋮いや、同調したというのか!﹂
ユイの右の瞳が淡い黄金色に染まり、そして自らの姿を完全に捉
えていることに気づくと、ウイッラは思わず後ずさる。
一方、ユイは荒い呼吸を繰り返しながらも、必死に自らの意識と
自我を繋ぎ止めながら、ウイッラ目掛けて駆け出した。
﹁さて、終幕としようか。狂言回し君﹂
﹁ふざけるな! 喰らえ、カランバノ!﹂
ウイッラは迫り来るユイ目掛けて、巨大な氷柱魔法を解き放つ。
しかしユイは予め予期されていたかのように巨大な氷魔法をサイ
ドステップで回避すると、ウイッラへとさらに肉薄する。
﹁魔力だけを代償にコードの中へと自身を落としこんでいる君と違
い、私は全てを使って君のいる世界に片足を踏み込んでいる。だか
ら、君の魔法は私に届く。だけど当たらなければ全て無駄に過ぎな
いさ。もちろんマイスム家の当主の魔法だったなら違っただろうけ
ど、君の程度の魔法ならね﹂
﹁あまり舐めるなよ、イスターツ! プルガトリオ!﹂
フィレオに劣ると評されたウイッラは、眉を吊り上げると、ユイ
目掛けて煉獄の炎を解き放った。
しかしフィラメント式のその炎魔法を構成段階から察知していた
ユイは、フィレオが魔法を放つより早く後退し、距離を取り直す形
であっさりと回避する。
903
二人の攻防はまさに一進一退であった。
魔法式を編み上げる構成段階で察知し、一切被弾することなく接
近を試みるユイに対し、ウイッラは彼に近寄る隙を与えぬために大
規模魔法を連発する。
その応酬は外から見れば互角の戦いに見えたかもしれない。
しかし、間近で見ると二人の天秤は明らかに傾きつつあるように
思われた。
もはや何十度目となる煉獄の炎を解き放ったところで、回避する
側であり続けた黒髪の男は、体力の限界をきたして足をもつれさせ
る。
バランスを崩したユイは歯を食いしばると、崩れる体勢をどうに
か持ち直しながら、間一髪のところで側方へとダイブした。
﹁ふふ。コードに同調することで、僕と戦うところにまでたどり着
いたこと。それは評価してやるよ。だけど、どうやらここまでのよ
うだね﹂
ユイによる世界への同調魔法の限界に、ウイッラは感付き始めて
いた。
魔力だけを使用して世界の裏側に身を隠す彼の魔法と異なり、原
理はわからないもののユイの魔法は世界と彼自身とを同調させるこ
とで、世界の裏側に干渉していると彼は考える。
しかし生身の体にてそのような同調を行うことは、自身の全てを
逆に世界から干渉されるリスクが存在することを意味した。
そしてその仮説を証明するかのように、ユイの表情には疲労と消
耗が色濃く写る。
904
﹁はぁはぁ⋮⋮確かに君みたいにコードに自分を組み込むのではな
く、同調を維持し続けなければいけない私の方は、魔力を捧げるだ
けでは補うことができないからね。だけど、事はそう単純じゃない
さ﹂
﹁ハッタリを口にして時間稼ぎか? しかし先代を葬った貴様の実
力がその程度とは。警戒してこの場を立ち去ろうと思ったが、まっ
たくそんな必要はなかったな。貴様のその情けない姿、先代が見た
らさぞ嘆いたことだろう﹂
体を投げ出す形で飛んだユイは、荒い息を繰り返しながら地面に
這いつくばったあと、片膝をついたまま起き上がって来れなかった。
しかし、その視線だけははっきりとウイッラを捉えると、顔面に
苦笑を浮かべる。
﹁⋮⋮確かに私はもう限界さ。立ち上がることさえできないからね。
でもね、私の役割はもう終わったからかまわないのさ﹂
﹁ほう、役割が終わりか⋮⋮それは自らの敗北を受け入れたという
ことかな?﹂
﹁違うよ。私は私の果たすべき役割を全て終えたと言っているんだ﹂
ゆっくりと重い首を左右に振ったユイは、はっきりとウイッラに
向けてそう告げる。
すると、その言葉の意味を理解できなかったウイッラは顔面に疑
問符を浮かべた。
﹁なに?﹂
﹁まだわからないのかい? 今の自分の姿を見て見なよ﹂
﹁自分の? 何を世迷いご⋮⋮なんだと!?﹂
ユイの言葉を馬鹿にするように、自らの体へと視線を落としたウ
イッラは、自らの身体を目にして驚愕の表情を浮かべる。
905
彼の視線の先には肉体があった。
そう、透き通って目にするはずの大地ではなく、血肉を持った彼
の肉体が。
﹁一度陸上に生活の場を移した生物は、もはや長いこと海の中に居
続けることはできない。そう、それは君たちも同じさ。ミラホフ家
のウイッラに受肉した君は、もはや高次の世界に住み続けることは
できない。にも関わらず、水の中で酸素をバカスカ使うかのように
魔法を無駄に使い続ければ、いくらウイッラの体を使っているとは
いえ魔力切れを起こすのは自明の理さ。自分がどうしてフィラメン
トを操りこの戦いを起こそうとしたのか、それを忘れてしまった君
のミステイクだね﹂
ユイはウイッラに接近できないと悟った段階で作戦を切り替えた。
可能な限り安全マージンを削り、回避時にウイッラの魔法と自らと
の距離を近づけるという作戦に。
ウイッラの放つ魔法の威力が威力だけに、これには大きなリスク
が伴った。その上、今回は世界に同調しながらという条件が重なり、
本当にギリギリのところであったといえよう。
だが結果として、目の前の手負いの獣を追い詰めることに夢中に
なり魔法を使い続けたウイッラを、ユイはコードの世界から引きず
り出すことに成功した。
﹁なるほど。さすがはユイ・イスターツ⋮⋮というべきかな。だが、
それがどうだというのかね? 今の貴様はその母の形見を振るうこ
とも叶わず、コードを書き換えることさえできない。違うかね?﹂
﹁さあ、どうだろうね⋮⋮﹂
ウイッラが実体化したため既にユイは自らの魔法を解除してはい
たが、失われざるべきものを失いすぎた彼は、表情筋をわずかに動
かしてニヤリとした笑みを浮かべるのが精一杯であった。
906
そのユイの反応を強がりとしか認識できなかったウイッラは、途
端に勝ち誇った笑みを浮かべる。
﹁ふん。強がりは止めるんだな、イスターツ。貴様にコードを書き
換えることができるなら、貴様は既にクラッキングしていたはずだ。
だが、貴様はそうしなかった。なぜか? それは貴様一人では世界
を改編することができないからだ﹂
ウイッラは確信を持ってそう口にすると、もう話すことはないと
ばかりに右手を前に突き出し、ユイに向かって炎の魔法を構築し始
める。
そんな彼の姿を目にして、ユイは薄く笑った。
﹁はは、君はなにか勘違いしているようだね。もし君が私を近づけ
させまいと魔法を使い続けるのなら、私は世界改変をする必要はな
かった。君をこちらに引きずり戻せば、それだけで終幕を意味する
わけだからね。というわけで後は頼んだよ、アレックス﹂
もはやウイッラの編み上げようとする魔法から逃れるすべを持た
なかったユイは、全てを任せることができる相手に向かって、そう
口にする。
すると、ユイの口からその名が発せられた瞬間、いつの間にか二
人の死角に潜んでいた赤髪の男が、完全に気配を殺したままウイッ
ラの間合いへと飛び込んだ。
﹁ユイ、まったく君は無茶をしすぎる。しかも、いつの間にか僕ま
で共犯にして⋮⋮言っておくけど、君と一緒にあいつに怒られては
あげないからね﹂
﹁朱⋮⋮だと!﹂
ウイッラは驚愕のそして恐怖をその表情に貼り付ける。
907
彼は完全にその男の存在を失念してしまっていた。
そう、剣など自らの身体には通らないと確信してしまっていたが
故に。
﹁さようなら、ウイッラくん﹂
編み上げかけの魔法さえ霧散させて動揺するウイッラの懐に、ア
レックスは一瞬で入り込む。そしてウイッラに反応する暇さえ与え
ず、横薙ぎの一閃を浴びせかけた。
その剣光は例えようもないほど美しく、そして真一文字という言
葉そのままに、ウイッラの体は上下二つに分断される。
﹁い、イスターツ⋮⋮やはり貴様らが我らの最大の障壁なのか。だ
が今のお前を見る限り、やはりコードへ同調することはできようと
も、コード自体を改編することはできないに違いない。ならば、我
々の近い未来の勝利は⋮⋮グフッ﹂
ウイッラの最後の言葉が語り終えられることはなかった。
冷たい笑みを浮かべたままのアレックスが、まゆ一つ動かすこと
無く頭部を一刀両断した為である。
三分割されて全ての生命活動を停止させた彼の体は、少し前まで
半透明であったことなど嘘のように、赤い血液を周囲に撒き散らし
ていった。
﹁例え親玉がやられても、意志を継ぐ者達は存在する⋮⋮か。魔法
士を消すために、魔法士となる。君たちのその節操の無さだけは、
私としても案外嫌いではないけどね﹂
908
ウイッラの最後を見てとったユイは、駆け寄ってくるアレックス
に向かい微笑みかけると、静かにその瞳を閉じた。
909
帝国の一手
皇帝以外の何人たりとも立ち入ることを許されぬ、皇帝執務室。
普段はリアルトが一人で黙々と執務を行うその部屋に、次代の皇
帝と目される男の姿があった。
﹁つまり用意していた伏兵は最初から迎撃されるための伏兵だった
と、そういうことか?﹂
戦いの報告に訪れたノインを一瞥すると、リアルトは報告内容を
確認するように問いかける。
﹁間違いではありませんが、正確には少し違います。伏兵に関して
は敵の反応が鈍い場合、そのまま敵陣へと切り込ませるつもりでし
た。敵陣内に入り込んでしまえば、フィラメントの連中は大規模な
魔法が使えなくなります。何しろ同士討ちをしてしまう可能性があ
りますからね﹂
﹁なるほど。伏兵に関しては奇襲が成功しても、別に失敗しても特
に構わなかったと﹂
顎に手をやりながらリアルトがそう述べると、ノインはニコリと
微笑み一つ頷く。
﹁ええ。この作戦の立案者は、どちらに転んでも勝てる策を我々に
提示してきました。さらに言うならば、敵が奇襲部隊を追撃してこ
なかった場合、また終始遠距離での魔法戦に連中が終始した場合と、
910
それぞれの状況下において細分化した作戦案を我々に提示してきま
したね﹂
﹁⋮⋮流石というべきなのだろうな。しかし、先年の我が軍の戦い
を考えると、フィラメントの連中には些か同情的になってしまうも
のだ﹂
先年のクラリスとの戦いによる苦い敗戦の記憶から、リアルトは
思わず苦笑いを浮かべる。
すると、ノインも釣られるように苦笑しながら、再び口を開いた。
﹁はは、私にも少しだけそんな気持ちがありますが、そんなことを
思う余裕があるのも今回の戦いに勝利したからこそでしょうな。と
もあれ、実際は先程述べたように、敵軍は撤退する我が軍の奇襲部
隊と本体を追撃し、まっすぐに軍を進める形となりました。そして
我が軍が最初に陣を構えていた場所、つまりレムリアック産の魔石
が敷き詰められていた場所へと彼らはたどり着き、そこであいつの
出番と相成ったわけです﹂
﹁後方で一部隊を預かり受けて待機していたイスターツが、小型の
集合魔法を書き換えることで、彼らの足元に敷き詰められた魔石を
誘爆させたというわけだな﹂
ユイから買い上げた大量の魔石を地面を掘り返して埋めるという
作業。最初その工作を行う意味は誰にもわからなかった。
金額としても決して安いものでなかったが、こうして結果を見て
みれば、ユイの提案に乗るという判断が英断であったとリアルトは
思わずにはいられない。
しかしその一方で、一つの懸念が残されていた。
ユイ・イスターツはどのような技術で、いや、どのような魔法で
魔石を爆発させるなどという手段を取り得たのかということである。
﹁はい。どのような原理かはわかりませんが、彼が引き起こした魔
911
石による誘爆は、集合魔法と瓜二つのような爆発と威力でした﹂
﹁それほどのものか⋮⋮まあ、今はあやつのことは置いておこう。
とにかく敵陣内で地中からそんな爆発が起こり、そして準備してお
いた他の小型集合魔法を混乱するフィラメントに向けて一斉に打ち
込み。チェックメイトとなったわけだな﹂
﹁その通りです。ただ残念ながら、敵軍の指導者はことごとくを捕
えることができませんでした﹂
首を左右に二度振ると、ノインは肩を落として溜め息を吐き出す。
﹁指導者というと、フィラメントの御三家の当主連中か。奴らも集
合魔法に巻き込まれおったというわけだな﹂
﹁いいえ、彼等は集合魔法からは逃れていたようです﹂
﹁ほう⋮⋮それでは、単純に逃げられたということか?﹂
ノインの返答を耳にして、リアルトは眉間に皺を寄せると、瞳の
奥を光らせる。
しかしその視線を向けた相手は、否定を意味するかのように再び
首を左右に振る。
﹁いえ、ある情報によると、全て戦死したそうです。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
﹁その情報を我が軍にもたらした者がいささか問題でして﹂
渋い表情で言い淀むノインを目にして、リアルトはわずかに眉間
にしわを寄せる。
﹁だれなのだ、その人物とは?﹂
﹁朱です﹂
ノインの口から予想外の人物名が告げられ、リアルトは確認する
ように口を開く。
912
﹁朱⋮⋮か。つまり我が軍の兵士でもなく、ましてやイスターツで
もないと、そういうことだな﹂
﹁はい。ユイの奴にフィラメントとの交渉を許可していたのは事実
です。ですが、我が軍の集合魔法が敵軍に向けて放たれたそのタイ
ミングで、既にユイの奴は単独で交渉を開始するために動き出して
いたようです﹂
自軍の将兵たちが戦勝を確信し、士気の上がる部下たちに向かい
ノインが追撃を戒める指示を下していた頃、彼が配慮しようとして
いた人物は既に行動を開始していたという事実。
それをなんとも言えぬ表情を浮かべながら、ノインはリアルトへ
と告げる。
﹁あやつに監視役はつけていなかったのか?﹂
﹁ロイスを付けてはいたのですが⋮⋮しかし我が軍の集合魔法が一
斉に敵軍に向かい放たれ、全軍の視線と意識が集合魔法の成否に向
けられたそのタイミングで、彼はその一瞬の心の隙を突くかのよう
に行動を開始していたようで⋮⋮﹂
今回は味方であると確信をしながらも、念の為として付けていた
猫の首の鈴。
それが戦勝という事実を前にして一瞬緩んだところを、あっさり
と出し抜かれた事実にノインは苦笑する他なかった。
﹁なるほどな。おそらくイスターツの奴は、そこまで含めて全て計
算ずくだったんじゃろう。誰にも話さなかっただけでな﹂
﹁ええ、あいつの事ですから、きっと他の勝ち方もあったのでしょ
う。ただ、あれだけ派手な戦いの末路から目を放せるものなどそう
はいない。むしろそれ故に、できるだけ派手な終幕を演出しようと
したのかもしれません。あくまで私の予想ではありますが﹂
あらかじめ用意された脚本に書かれておらず、脚本家自身のオリ
ジナル台本のみに書かれていたと思われるそのシナリオ部分に対し、
913
ノインは呆れ交じりに言及する。
﹁まあ、過ぎたことを言っても仕方あるまい。それで、朱の奴はな
んて言って来おったのだ?﹂
﹁メディウムとフィレオが責任のなすりつけ合いの末に同士討ちと
なり、共に命を散らしたと。さらに停戦交渉を行おうとした彼らに
向かってウイッラが襲いかかって来たため、止むなく彼が切り捨て
たとのことです﹂
﹁御三家の連中は全てその場で戦死したと、そういうわけか⋮⋮何
やら非常に臭い話だが﹂
眉をピクリと動かし、リアルトがノインをまっすぐに見つめると、
彼は確認できた事実を告げる。
﹁ええ。ですので、念のため彼らが戦闘行為を行ったという地点の
現場検証も行いました。すると朱の報告通り、確かに御三家の連中
は全て事切れておりました。もっともそこに至る過程が、本当に朱
の言った通りかは不明ですが﹂
﹁それであやつはどうしているのだ?﹂
ここまでの話で、最重要人物からの言葉がないことに疑念を抱い
ていたリアルトは、ノインに向かって問いかける。
すると、ノインの口から告げられた内容は、リアルトの眉間のし
わをますます深くさせるものであった。
﹁それが⋮⋮ユイの奴はウイッラとの戦いで負傷し、意識を失った
ままとの事にて、現在は大使館に運ばれ面会を全て謝絶しているよ
うです﹂
﹁ますますきな臭い話だな﹂
﹁まったくです。あの場で何が起こったのか興味はつきませんが、
少なくともあいつが意識を失って大使館に運ばれているのは本当の
ようです。大使館内の内通者からも全て同様の証言を得ております
914
ので﹂
クラリス大使館に放っている内通者から全て同様の証言を得てい
ることから、そしてこの重要な局面で彼がその姿を現していないこ
とからも、ユイの負傷は真実であるとノインは確信していた。
一方、ユイの負傷というピースを盤上に加えられたリアルトは、
顎を手でさすりながら一層怪訝そうな表情となる。
﹁ふむ、やはり何やらタイミングが整いすぎている。お前はそうは
思わんか?﹂
戦闘後に帝国軍との戦いに敗北した直後、フィラメントの指導者
三人が戦争外の闘争で命を落とし、さらに今回の戦いの絵を描いた
当人までもが謎の負傷を負ったという事実に、リアルトはきな臭い
ものを感じ取っていた。
﹁ええ、私も同感です﹂
﹁ここまで話ができすぎているとするならば、メディウムの娘も今
回の一件に一枚噛んでいるかもしれんな?﹂
﹁⋮⋮ご存知だったのですか?﹂
あえて伝えていなかった情報をリアルトが知っていたことに対し、
ノインはドキリとした表情を浮かべる。
﹁まあな。ディオラムの廃棄姫、注目せぬには些か大きすぎる駒と
言えよう。今回の件にどう関わっているのかは知らんが、その娘も
その場にいたんじゃろ﹂
﹁その通りです﹂
﹁しかし親子の再会に、当主同士の相打ち、そして奇人の死。しか
も極めつけは英雄の負傷⋮⋮か﹂
あまりにも一局面に事象が集中しすぎていると、リアルトは考え
る。
そして何より今回の戦いの絵を描いたはずの人物が負傷したこと
915
が、彼にとって最大の腑に落ちない点であった。
﹁やはり私としても気になるのは、あいつがその場で負傷したとい
う点です。彼が裏で糸を引いていたにしては、あまりに下手を打ち
過ぎでしょう﹂
﹁それは一理あるな。今回の戦いを完全にコントロールしおった男
の仕業だとすれば、些か画竜点睛を欠きすぎている⋮⋮まあ、この
場で結論の出ぬことを議論しても始まらぬか。奴が意識を取り戻し
てからいくらでも問いただすことはできるであろうし、差し当たっ
てはこれからのことを考えるとしよう﹂
リアルトはそう口にするなり、視線を向け直すことでノインに発
言を促す。
﹁はい。とりあえず明日より、フィラメント軍の代理人であるメデ
ィウムの娘と和平交渉に当たる予定です﹂
﹁代表ではなく代理人と名乗りおるか。混乱の最中にあるフィラメ
ント連中において、たとえ勘当された身であろうとも、他に人材が
おらぬのだから止むをえんじゃろうが⋮⋮どちらにせよ、此度の戦
いは我が国にとってはほぼ理想的な結果だったのだろうな。もっと
も、もう少し欲を言えば、このままフィラメントを併呑しておきた
かったところではあるが﹂
﹁それは⋮⋮﹂
そのリアルトの言葉に対し、ノインは軽く唇を噛んで言葉を詰ま
らせる。
﹁⋮⋮わかっている。あやつと約束したのだろ? しかし、律儀に
そんな口約束を守るとは、おまえも甘いな﹂
現状であればいつでもフィラメントを併合できる上、混乱の最中
に併呑するよりも、ゆっくりと真綿で首を絞めて行けばいいと考え
ていたリアルトは、事実上ノインの判断をその言葉で追認した。
916
﹁それはわかっています。ですが、改めて今回の戦いで思い知りま
した。あの男は、そうユイのやつは本当に底知れません。出来るこ
とならば、いや、絶対に彼を敵には回したくないと思っております﹂
﹁その考えは間違っておるとはおもわんがな、ノイン。だが、敵に
回さなければそれだけで十分だとお前は考えておるのか?﹂
直接的なその問いかけに対し、ノインは抱いていた率直な願望を、
そのまま自らの父に向かって吐露する。
﹁いえ、そうではありません。できることなら、今後も今回のよう
に味方について欲しいと思っています﹂
﹁そうか⋮⋮ならば、ノイン。今回の戦いにて、あの男が我が軍に
協力したことをクラリスにリークしろ﹂
その指示がリアルトから発せられた瞬間、ノインはその場に固ま
る。そして何かの間違いではないかと考えると、彼は皇帝に向かい
そのまま問い返した。
﹁は⋮⋮いま何と?﹂
﹁だからユイ・イスターツが我ら帝国に戦争協力したことを、クラ
リスに伝えよと言っているのだ。ああ、ついでにミリアとの婚約も
同時に公表するとなお良いかもしれんな﹂
驚いて目を見開くノインに対し、リアルトはその表情に笑みすら
浮かべると、なんでもないことのようにそう繰り返した。
﹁し、しかし⋮⋮ユイの奴は今回の戦いを勝ちに導いてくれた恩人
とも言うべき存在です。そんな彼に対して、そのような仕打ちをす
917
﹂
れば、彼のクラリス内での立場が⋮⋮まさか、彼の足場をわざと崩
されるおつもりですか⁉
﹁ふふ、いささか甘いところは残っておるが、お前もようやく頭が
回るようになってきたな。良いか、ノイン。切り札とは漫然と切る
べきモノではない。他の選択肢を奪い、相手が道を失ったときにこ
そ切るべきモノなのだ﹂
﹁⋮⋮ですが﹂
ノインとてリアルトの言う策の有効性は理解していた。しかし、
今回帝国の危機を救ってくれたユイに対し、そのような非情の策を
そのまま受け入れることは彼にはできなかった。
﹁何を躊躇する。このたびの戦いを目の当たりにして、お前はわか
らなかったのか? あの男の恐ろしさが﹂
﹁いいえ、改めて思い知らされました。敵として正面に立ちはだか
るならば、間違いなくあの男こそが、我が帝国の最大の障壁でしょ
う﹂
﹁そこまで理解しておるのならば、答えは一つであろう。今回の策
を取れば、あやつには二つの選択肢が残される。無断で帝国に協力
した罰を受けてクラリス内での立場を弱めるか、それともーー﹂
﹁帝国に恭順して、ミリアと結婚するかですか⋮⋮﹂
リアルトの発言を先回りする形で、ノインは力無げにそう口にす
る。
一方、その回答に満足したリアルトは、その表情に張り付いた笑
みを崩すことなく、大きく一度頷く。
﹁そのとおりじゃ。どちらに転ぼうとも、我が国にとっては良好の
結果と言えよう。ノインよ、帝国を今後背負うつもりならば、時と
して非情になれ。その相手が例えお前の友だとしてもな﹂
918
そう発言し終えたリアルトは、これ以上この問題に関して議論の
余地はないとばかりに、視線をノインから外す。
そのリアルトの所作の意味を理解したノインは肩を落とすと、そ
の場で一礼したのちに、執務室から退去した。
﹁⋮⋮ユイ。すまない﹂
誰もいない伽藍堂とした廊下に、友人を思うノインの言葉が虚し
く響き渡った。
919
割れる国
﹁諸君、この度集まってもらったのは他でもない。例の男の件で、
新たな情報が入った﹂
今回の会議招集をブラウ公に提案した戦略省次官のテムスは、一
同が集まったことを確認し重い口を開く。
﹁例の男⋮⋮イスターツの件かな?﹂
﹁帝国に大使として飛ばしたのが先日だ。あの男が暗殺されたとい
う報告はついぞなかったが、待っていた吉報だといいが﹂
テムスの言葉を耳にした陸軍省次官のエミリオッツとメレンバル
侯爵家の長子であるフィールは、それぞれ思い思いに口を開く。
すると後で発せられたフィールの発言に対し、テムスは彼へと視
線を合わせ、左右に首を振った。
﹁残念ながらそのような報告ではないな﹂
﹁チッ⋮⋮では、奴に何があったというのですか?﹂
ユイが健在だと知り、わずかに舌打ちをすると、フィールはその
ままテムスへと尋ねる。
その問い掛けを受けてテムスが答えるよりも早く、彼から報告を
受けていたブラウが一同に向かって口を開いた。
﹁帝国とフィラメントがやりあったという話は、既に諸君らの耳に
入っているだろう。それに関する風聞なのだがな、イスターツの奴
が無断で帝国軍の戦闘に協力したという話だ﹂
﹁な、なんと! それは本当ですか?﹂
エミリオッツはブラウの発言に目を丸くすると、思わずそのまま
尋ね返す。その彼の疑問に答えたのは、今回の情報を入手した当人
920
であるテムスであった。
﹁ああ、本当だ。同一の情報が帝国から複数のルートでもたらされ
ている。つまり、ほぼ間違いないと考えるべきだろう﹂
﹁大使の身でありながら、無断で帝国の戦争に協力するだと⋮⋮あ
の男、一体どういうつもりだ?﹂
テムスの返答を耳にして、エミリオッツは思わず顎に手を当てる
とそのまま考えこむ。
そんな二人のやりとりを聞いていたフィールは、彼の思考が弾き
出した仮説を口にした。
﹁あの尻尾振りのうまい庶民のことだ。きっと帝国に擦り寄って、
媚を売ろうとしたのではないか?﹂
﹁いや、私はレムリアックがらみのことだと思う。皆も知っての通
り、奴の領地の最大取引相手は表向きはノバミムだが、実際はその
背後にいる帝国だ。それ故に、帝国に倒れられては困るから故の行
動だろう﹂
これまで沈黙を保ってきた外務次官のレーベ公爵は、ユイの領地
であるレムリアックの事情を基にした仮説を、皆に向かって提示す
る。
彼の発言は確かに利に聡いという彼らの描くユイ・イスターツ像
に合致しており、説得力を有しているように感じられた。
そしてそれ故に、情報をもたらしたテムスは、賛意を占めるよう
に溜め息を吐き出しながら口を開く。
﹁なるほど、一理あるな。しかしだ、未だ仮想敵国である帝国に協
力するとは⋮⋮恥というものを知らんのか、奴は﹂
吐き捨てるような口調でテムスがそう告げると、その場の空気を
さらに悪化させる情報がレーベよりもたらされる。
921
﹁では、外務省経由で私の方に入っている情報も提示するとしよう。
まだ確定した話ではないが、ケルム帝国皇帝はミリア第四皇女とユ
イ・イスターツとの婚姻を年内にもまとめる方針だそうだ﹂
﹁皇女と婚姻!? ば、馬鹿な! 庶民が、そう、ただの庶民にそ
んなこと許されるはずがない。ケルムの皇帝は気でも狂ったのか?﹂
この会議の中においても最も貴族主義の塊であるフィールは、思
わず机に拳を振り下ろすと、怒声のような声を発する。
﹁やはり皇帝だ、帝国だといえども、所詮はただの成り上がり国家。
あの男を婿に選ぼうなどとは、ケルムの品位の貧しさを表しておる
な﹂
円卓会議のまとめ役でもあるブラウ大公は、呆れたように首を左
右に振りながら、ケルムのことをそう評する。
﹁しかし、ブラウ公。これが事実でありましたら、あやつは他国と
は言え皇族の一員となります﹂
﹁あんな庶民が皇族の一員だと。ケルムの連中は気でも触れたか!﹂
テムスの発言を聞いたフィールは、未だに抑えきれぬ怒りをテー
ブルへとぶつけた。
そんな彼の怒りを目の当たりにして若いなとは思いながらも、特
にたしなめることもなくレーベは淡々と口を開く。
﹁普通の常識があれば、身分の違いを理由に断るでしょう。しかし、
しかし今回はあの男だ。身分の違いなど見ぬふりをして、案外話を
受けてしまうやもしれませんな﹂
﹁庶民などと言うものはこれだから汚らわしい。恥や常識というモ
ノを持たぬもの故であろうが⋮⋮如何です、これを根拠に、今度こ
そ表立ってあやつを排除しては?﹂
もはや我慢できぬとばかりに、フィールは一同に向かってユイの
排斥を提案する。
922
﹁排除⋮⋮か。しかしどういう名目でだ?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
勢いで発言したフィールはそこで口ごもる。
すると彼の代わりとなるように、レーベが重い口を開いた。
﹁あやつが本国に無断で、自己の利益のために大使権限を私物化し
ていると糾弾するというのは如何ですかな?﹂
﹁なるほど。無断で帝国に荷担した罪、そして他国との婚姻を進め
ている罪を問おうというのか。たしかに此度の話が事実なら、独断
専行も甚だしいからな﹂
レーベの提案に、確かに無理な話でもないと考えたテムスは、ゆ
っくり一度頷く。
﹁ええ。ただ正規ルートで罪を問おうとも、そううまくはいかない
でしょうな。おそらく女王やラインバーグあたりが邪魔をするでし
ょうから﹂
﹁ふむ⋮⋮ならばレーベ。どうすればいいと卿は考えるのかね?﹂
その鋭い視線を新進気鋭の外務次官へと向けたブラウは、彼にそ
の考えを述べるよう促す。
﹁そうですな。そんな権限や法律などないことを承知で、貴族院と
して﹃クラリスを裏切ったユイ・イスターツを糾弾し追放を提案す
ると﹄宣言してしまうのはいかがでしょう﹂
﹁なに? どういうことだ﹂
思わぬ発言に、テムスは額にシワを寄せると、やや前のめりにな
ってレーベに問い返す。
﹁こういうものはですね、最初に言った者勝ちなのですよ。今回の
奴の行動が噂通りなのだとしたら、本人にそんなつもりがなくても
923
解釈次第では裏切ったと見えなくもない。まあ冷静に考えれば、我
が国とは関係ないところの戦争でありこの解釈は苦しいのですが、
こういうもので大事なのは事実ではなく非を唱えるものの声の大き
さが重要です。それに裏切った証拠を提示するならともかく、裏切
っていない証明など、まさに悪魔の証明です。いかに困難なことか、
皆様もお分かりでしょう﹂
肩をわずかにすくめながら、全く悪びれた様子もなくレーベは淡
々と陰謀の手段を口にする。
その彼の考えを聞いたエミリオッツは、つばを飲み込みながら彼
に向かって一つの懸念事項を口にした。
﹁なるほど⋮⋮な。しかし奴を気に入っているあの女王やライン公
たちが反論してきた場合はどうする?﹂
﹁別に構わないでしょう。今回の件だけで、本当にあの男を潰した
り追放したりするところまでたどり着けるとは思いませんからね。
もちろんばれない程度の証拠は捏造してそれらしく見せる努力は行
うべきです。ですが、大事なことはこういう機会を積み重ねて、奴
を孤立させること。そして奴の力を削いでいくことです﹂
皮肉げな笑みを浮かべたレーベがそう述べ終えた時、その場にい
る皆の意見は彼の提案への賛同へと傾いていた。
そうして、場の空気を感じ取ったブラウは大きく頷くと、ゆっく
りとその口を開く。
﹁ふむ⋮⋮他に意見のあるものは?﹂
会議に参加した面々の顔を、ブラウは一人一人順に見回していく。
そして誰の顔からも反対の表情がないことを確認し終えると、彼は
貴族院の方針をそこに決定した。
﹁よろしい、では貴族院として、奴に対する非難声明を行った上で、
奴の追放を提案する﹂
924
﹁え、エリーゼ様! 大変です!﹂
女王としてのエリーゼの執務室。
本来なら前もって約定をとってからしか人の入り込まないその場
に、息を切らせながら駆け込んでくる一人の老人の姿があった。
﹁どうしたの、ラインバーグ? そんなに慌てて﹂
めったに見ないラインバーグの慌てる姿に、エリーゼは違和感を
感じながらわずかに首を傾げる。
﹁ユイが⋮⋮ユイのやつが倒れました!﹂
﹁えっ! ど、どういうこと!?﹂
思わぬ報告にエリーゼは両手で口元を押さえると、目を大きく見
開く。
動揺を隠せぬそんなエリーゼに向かい、ラインバーグはわずかに
呼吸を整えると、はっきりと口を開いた。
﹁アーマッドの奴からの報告ですが、帝国の軍事行動に参加後、突
然意識を失い倒れたとのことです﹂
﹁帝国の軍事行動に? ともかく、ユイは⋮⋮ユイは大丈夫なの?﹂
声を震わせながら、不安げな口調でエリーゼはそう問いかける。
すると、ラインバーグはゆっくりと首を縦に振った。
﹁はい。現在大使館経由で伝わっている情報では、命には別状がな
い様子。ただレムリアックでの一件もありましたので、リュートの
奴に帝国へ向かうよう指示致しました﹂
﹁そう⋮⋮ユイ⋮⋮﹂
925
エリーゼは遠くを見つめるように視線を虚空へと漂わせ、そして
ゆっくりと両目を瞑る。その瞼の裏には、あのつかみ所のない黒髪
の英雄の姿がくっきりと浮かんでいた。
一方、そんな彼女の姿を目にしたラインバーグは、思わず次の報
告を告げることを躊躇する。しかし、彼は一度左右に首を振ると、
大きく息を吸い込み、そして懐から一通の書簡を取り出した。
﹁ただ、問題はそれだけではなく⋮⋮エリーゼ様、これをご覧くだ
さい﹂
﹁えっと、何かしら⋮⋮えっ、貴族院からの非難声明! これは一
体どういうことなの!?﹂
ラインバーグが手渡した書簡。
そこに記されてあった文面に目を落とした瞬間、エリーゼは顔面
を真っ青にすると、刺のある口調でラインバーグへと問いかける。
﹁とにかくまずは中を、中をお読みください!﹂
王女の動揺を予測していたラインバーグは、エリーゼの問いかけ
に対し、まずは先を読むように促す。
そのラインバーグの言葉を受けたエリーゼは、ラインバーグの表
情からただごとではないことを感じ取ると、声を上げながらその文
面を読み上げていった。
﹁我ら貴族院はユイ・イスターツを糾弾する。いかに国を救った英
雄といえども、罪を犯した者は糾弾されねばならない。彼の者は自
領の発展、そして自己の利益のために利敵行為を行い、その上無断
で敵国の皇女と婚姻を結ぶにいたった⋮⋮って、こ、婚姻!﹂
﹁お気持ちはわかりますが、今はお気持ちを沈められて、もう少し、
もう少しだけお読みください﹂
愕然とした表情となり口元を震わせるエリーゼに対し、ラインバ
ーグはその心中を察しながらも、あえて先を読むように強く促す。
926
﹁⋮⋮我々は彼の者の婚姻、そして帝国への戦争協力は、将来クラ
リスを乗っ取るための意図があると考ずにはいられない。そしてそ
れ故に、我々は彼の者の追放を提案するに至った⋮⋮馬鹿な、追放
ですって! 何の権限があって、彼らはこんなことを!﹂
エリーゼはその後に続く貴族院の述べる自己正当化と、ユイへの
罵詈雑言を目にして、震える手でその書類を破り捨てる。
﹁エリーゼ様。これは明らかに貴族院による王家、そしてクラリス
という国家への挑戦です。王家及び軍務内務の両省に無断で、我が
国の外交大使を非難する権限など、彼らにあるわけがない﹂
﹁しかしなぜユイを⋮⋮彼らがユイを嫌う気持ちをわからないわけ
ではありません。ですが、彼を失ったらこの国はどうなってしまう
かわからないのですか、彼らは﹂
﹁皮肉なことですが、誰よりも自己の利益を優先するがゆえに、貴
族院の連中はすでに情勢を読むという能力を欠落していると考えざ
るを得ません。ともあれ、すでに奴らはユイの追放をぶちあげてし
まいました。是非や真相がどこにあるかはともかく、早急に対応す
ることが必要です﹂
苛立ちと不安の合わさったエリーゼの胸中を思いやりながら、ラ
インバーグは前へ事を進めねばならないという強い意志を持って、
彼女の背中を押す。
﹁そのとおりですね。間違っても、今の我が国はユイを失うことは
できません。そして一番恐ろしい可能性は、彼を追い詰めることに
より、行き場を失った彼が本当に帝国に走る可能性です⋮⋮待って、
彼らの行動で最大の利益を得るのって!﹂
﹁⋮⋮エリーゼ様も気づかれましたか。実は私もそうではないかと
思っておるのです。今回の貴族院の行動で最も利益を得る者⋮⋮そ
う、それは帝国です﹂
927
﹁ユイを手に入れることができれば成功。そしてユイを手に入れら
れなくても、クラリス内で騒動を引き起こすことで、国力を低下さ
せた上にユイ・イスターツを無力化させる⋮⋮ですか。なんと悪辣
な﹂
エリーゼは帝国のこの謀略を企てた人物に向かい、心の底から呪
いの念を発しながら、血が出そうなほどに強く唇を噛む。
﹁私が思うに、恐らく貴族院の内部に帝国との内通者がおるのでし
ょう。今回の件、あまりにタイミングが良すぎます。少なくとも帝
国側は意図的に情報をリークしたと見るべきでしょう。ですが、今
は誰がこの絵を描いたのかよりも、走り始めてしまったこの状況を
どう食い止めるかです﹂
ラインバーグはそう口にすると、覚悟を決めた視線をエリーゼへ
と向ける。
﹁ええ、あなたの言うとおりね。とにかく、すぐにでもこの内容を
否定する宣告を発しましょう﹂
﹁わかりました。しかし、宣告の内容には注意が必要でしょう。万
が一にも、奴らの告発を否定する文面に誤りが含まれた場合、ユイ
の奴に道がなくなります﹂
今回の貴族院の告発を否定するための宣言に僅かな誤りでも含ま
れていた場合、連中は声を大にして世論の動きを望ましくない方向
へそらしてくる可能性がある。そのことを危惧したラインバーグは、
反論には慎重を期すべきだとエリーゼに向かって告げた。
﹁その通りね⋮⋮ラインバーグ、あなたはどうすれば良いと思う?﹂
﹁そうですな、ここはあえて貴族院の告発内容を無視し、彼らの政
治介入に対してのみ非難を行いましょう。これに関しては、内務省
のヤルムとも連動してすぐに行えるはずです﹂
以前より貴族院の介入を望ましく思っていない幼なじみの内務大
928
臣の名前を上げながら、ラインバーグはエリーゼに向かいそう提案
する。
すると、ユイに対する汚名をすぐに払拭できないことに、エリー
ゼは渋い表情を浮かべた。
﹁しかしそれだけだと、ユイにかけられた汚名はそのままになって
しまいます⋮⋮﹂
﹁エリーゼ様。まず彼らに対しすぐに非難を行い、そして彼らのリ
アクションを待つ間に、今回の事実を確認しましょう。それからで
も、ユイの名誉を回復することは遅くない。たとえ貴族院の馬鹿ど
もが忘れていたとしても、この国の民は自分たちを救った英雄への
恩を、決して忘れていないでしょうから﹂
エリーゼの目を見つめながら、ラインバーグははっきりとした口
調でそう言い切る。
彼の言葉の中に秘められたユイへの思いを感じ取り、エリーゼは
ゆっくりと一つ頷いた。そしてそれとともに、彼女は渦中の人物を
呼び戻すことを決意する。
﹁⋮⋮わかりました。では、今すぐユイを我が国に呼び戻してくだ
さい。彼の口から事の真偽を確認し、その後に彼らに対して攻勢に
出ます﹂
﹁確かに、奴らにユイの身柄を抑えられる前に動かねばなりません。
ちょうどリュートの奴を帝国に向かわせておりますし、そのまま彼
に連れ戻すよう連絡致します!﹂
929
盤外への道
ケルム帝国の帝都レンド。
現在この帝都において、とある噂がものすごい勢いで広まりつつ
ある。
その驚くべき噂は一般市民だけではなく、貴族にさえ広がりをみ
せている状況であり、それ故に謹厳で有名なケルム軍人の耳にも入
っていたとしても不思議ではなかった。
﹁おい、聞いたか?﹂
﹁聞いた、聞いた。イスターツ殿の件だろ﹂
帝都防衛部隊に所属する若き兵士であるヒックルは、同僚のロー
ミーに対してわかっているとばかりに頷き返す。
﹁ああ。どうもうちの姫さんと婚約して、クラリスを追放になるら
しいぜ﹂
﹁やっぱり本当かよ! しかしあの花の姫様と結婚か⋮⋮正直、羨
ましいな﹂
ヒックル・レオミート、二十八歳。
未だ独身の彼であるが、軍人として鍛えられたその体と精悍な顔
つき故に、帝都の女性達から好意的な視線を受けることも少なくな
い。むしろ多いと言う方が正確と言えよう。
しかしながらそんな彼とて、決して手の届かない高嶺の花は無数
に存在する。
そう、国中のあこがれとも言って良い、花の姫ことミリア・フォ
ン・ケルムはまさにその代表格であった。
930
﹁結婚もたしかに羨ましい話だが⋮⋮それ以上にさ、これで俺たち
はあの化け物と戦わなくて済むんだ。一介の兵士としては、正直言
ってその点をこそ感謝したいところさ﹂
﹁確かに、その通りだ。何しろ先日の戦いも、実際はイスターツ殿
がうちの軍人皇太子殿と共に作戦を立案したらしいからな。だから
こその大勝利というわけみたいだが⋮⋮どちらにせよ、そんな人物
と二度と戦わなくて済むってのは、全くありがたい話だぜ﹂
ローミーの見解に対し、ヒックルもまったく同感であると同意を
示す。
ここで見受けられるヒックルとローミーの意見は、決して珍しい
ものではない。
もちろん先年のクラリスとの戦いで壊滅的な敗北を喫した出来事
から、ユイに対して未だに複雑な感情を有する層が一定以上存在す
ることも、紛れもない事実であった。
しかしながら、先年の戦いはあくまで帝国からの侵略戦争であり、
そして今回は自国が侵略された戦いである。それ故に、今回の戦い
で帝国の勝利を支えたユイに対し、消極的ながらも好意的な感情を
示す兵士が、軍の中で着実に増えつつあった。
もちろんそれはリアルトによる情報操作の成果であり、ユイの功
績と人柄を実像以上に過剰に脚色した上で、噂をばらまいた結果で
もあったが。
﹁戦わずに済むどころか、俺たちの味方になるってことだろ? こ
れでもうキスレチンだろうが、クラリスだろうが、怖いもんなんて
なくなったも同然さ﹂
﹁クラリスの英雄が⋮⋮いや大陸西方の軍神が我が軍に加わるって
わけだ。これは我らがケルムにより西方が統一され、いよいよ大陸
中央部へと打って出るべき時が来たということかな?﹂
931
ヒックルはクラリスの英雄という言葉をあえて言い換えると、今
後の帝国の進むであろう道筋を口にする。
﹁ああ、その可能性は大いに有り得るな。それもこれもイスターツ
殿を引き入れればこそだ。しかし⋮⋮今回のことはやはり陛下のお
力なのかな?﹂
﹁そりゃあ、ミリア様に惚れてイスターツ殿が自ら願い出た可能性
もあるだろうが⋮⋮止めよう。この話はここではまずい﹂
話の内容が危険な方向に進みだしたことに気がついたヒックルは、
わずかに表情を歪めると声を小さくして発言を止める。
一方、ローミーは周囲を探るように視線を左右させた後、ヒック
ルにだけ聞こえる程度の声で、再度彼に向かい自らの疑問を投げか
けた。
﹁すまん、変なことを聞いた。だが、正直言ってお前はそう思わな
いか?﹂
﹁ああ、俺もそう思う。さすが我らが陛下ということだろう。英雄
たるイスターツ殿でさえ、あのお方にかかれば駒の一つにすぎない
ということだからな﹂
彼らは敬愛しそして畏怖する皇帝のことを思い、二人はわずかに
体を震わせる。そして表情を引き締め直すと、彼らは再び見回りの
勤務へ向かうため、その場から歩み去っていった。
目の前は白い天井。
わずかに力の入りにくい右腕を動かすと、自分が夢の中ではなく
現実にいることにユイは気づく。
932
﹁お目覚めの気分は如何ですか、ユイさん?﹂
未だに思考のぼやけた状態のユイに向かって、若い男の声がかか
る。
ユイは重い上半身をゆっくりと起こすと、声をかけてきた主に向
かって視線を向けた。
﹁フェルナンド⋮⋮か。そんなに悪くはないかな。今回は別に病気
になったわけでもないしね﹂
﹁はぁ、それは何よりですよ⋮⋮﹂
自らの身に襲いかかった出来事をなんでもない事のように言って
のけたユイに対し、フェルナンドは額に手を当てながら呆れたよう
に言葉を吐き出す。
しかしそんな彼の仕草を気にする風もなく、ユイは彼に向かって
口を開いた。
﹁それで、どれくらい時間が経ったのかな?﹂
﹁あの戦いから今日で十日ですね﹂
﹁十日⋮⋮か。どうりで体が重いわけだ。まあ代償としては、妥当
なあたりかな﹂
そう呟いたユイは苦笑いを浮かべながら、力が入りづらい右腕を
ゆっくり動かして頭を掻いた。
一方、その声を耳にしたフェルナンドは首を数度左右に振ると、
すぐに彼に向かって抗議するかのように口を尖らせる。
﹁妥当って簡単に言ってくれますね。ユイさんが伏せている間に、
周囲の状況は激変していたんですよ。貴方の情報を隠すのにも神経
を使いましたし、本当に愚痴を全て語り続けていいのなら、三日三
晩はかかりますね﹂
﹁ふむ⋮⋮皇帝が動いたかい?﹂
ユイの発言を耳にしてフェルナンドは驚きとともに目を見開く。
933
しかし目の前の人物ならばさもありなんと思い直すと、やや疲れ
た声で彼に現在生じている二つの問題を告げた。
﹁ええ⋮⋮皇女との婚約と、クラリスの貴族院からの追放宣言。そ
れぞれの話の出処は違いますが、おそらくは皇帝の頭の中から出て
きた話でしょう﹂
フェルナンドの口から発せられたその二つの事象。
それをユイはゆっくりと咀嚼すると、わずかに顔を顰める。
﹁それはやはり私に対する話⋮⋮かな﹂
﹁他の誰がいるというんですか? 追放宣言の文面はまだ大使館に
は届いておりませんし、婚約に関しても正規ルートから伝わった話
ではありません。ですが既に確定情報として、帝国だけではなく、
周辺諸国にまで噂は流布されていますよ﹂
﹁さすがあのご老人は打つ手が早いな。私が身動きできない間に、
情報を部分的にリークさせ、外堀を埋めてきたか⋮⋮こうなってく
ると彼に出会ったことが、つくづく悔やまれる。あれだけが完全に
計算外だった﹂
ユイが発した彼という言葉の対象者を理解することができず、フ
ェルナンドは顔に疑問の色を浮かべる。
﹁彼? 一体誰のことですか?﹂
﹁ああ、フィラメントの少し厄介な魔法士のことさ。それはともか
く、状況はかなり芳しくなさそうだ。私の婚約話はともかく、貴族
院の件から察するに、君以外にも帝国とつながりを持つものがいそ
うだね﹂
﹁ええ、もちろん誰がそうかは帝国も僕には伝えてくれていません。
ですが、普段の言動からみるに、外務省のレーベ次官がそうではな
いかと考えますね﹂
934
ユイの先々代となる帝国駐在大使であったレーベの名前を、フェ
ルナンドは忌々しげに口にする。
﹁なるほど、レーベ次官⋮⋮か。ありえそうな人選だね。さすが帝
国とも繋がりを持ちながら、貴族院を誘導した君の言うことなら説
得力がある﹂
ユイからの皮肉じみた指摘に、フェルナンドは思わず苦笑する。
そして、一度肩をすくめるとそのままユイに向かって疑問を口にし
た。
﹁もしかすると、今回の帝国とフィラメントの戦いの真の目的は、
ユイさんをクラリスから切り離すための作戦の一環だったかもしれ
ませんね﹂
﹁私は自分を過小評価すると言われるけど、それでもさすがにそこ
までして手に入れたい人材なんてどこにもいないさ。ただ単純に、
今回の状況を利用しただけだと思うよ。もっとも例えどんな状況で
あろうと、利用できるものは全て利用する気ではあるのだろうけど
ね、あの御老人は﹂
一度左右に首を振ると、肩を落としながらユイはそう告げる。
一方、そんなユイの言葉を受けたフェルナンドは、一度つばを飲
み込むと、一つの問いを口にした。
﹁それでユイさん⋮⋮そこまで思惑が予想できた上で、一体どうな
されるおつもりですか?﹂
﹁できることなら、クラリスに戻ってのんびりしたいけどね。でも
私が今戻ると、のんびりするどころか、間違いなく火種になる。王
家派と貴族院とのね。そして下手をすれば、それは帝国にとって格
好の介入材料になるだろう。例えば婚約者を助ける⋮⋮なんて口実
かもね。とにかく彼らは難癖をつけてクラリスの内紛に介入してく
るはずさ。なぜなら彼らの目の上のたんこぶであったフィラメント
935
はすでになく、そして共和国は依然内輪もめの真っ最中だからね﹂
﹁確かに、有り得る話ですね﹂
ユイの予測を耳にして、フェルナンドは僅かに頬を引きつらせる。
そして、そのまま口を開こうとするも、一旦躊躇し言葉を飲み込ん
だ。
﹁フェルナンド、君はどうして欲しいんだい? 何か言いたいこと
がありそうだけど﹂
なにか言いたそうなフェルナンドの仕草に気がついたユイは、彼
に向かって言葉を促す。
すると、フェルナンドは一度大きく息を吐きだし、そして覚悟を
決めたかのように強い視線をユイへと向けた。
﹁ユイさん、帝国の思惑がわかった上で言いづらいのですが⋮⋮今
こそ貴族院と戦いませんか? 正直言って、彼らをこれ以上のさば
らせておく理由はありません﹂
﹁先程も言ったけど、その行動は帝国だけを利することになるかも
しれない。君はそれでもいいと思っているのかい?﹂
﹁もちろん、それが望ましいとは思っていません。でも、それ以上
に僕は貴族院が許せない。貴族院の連中を潰し、妹を救い出すこと
こそが僕の最大の希望なんです。そしてこれ以上奴らに妹の身柄を
預けてなんていられない。ただそれだけです﹂
いつになく強い口調で、そして強い意志でフェルナンドはユイに
向かってそう告げる。
そのフェルナンドの言葉と、彼の瞳に宿る強い光と闇に気がつい
た時、ユイは一度大きくため息を吐き出し。そして頭を掻きながら
口を開いた。
﹁⋮⋮君の気持ちは分かったよ。うん、君の問題は私が何とかする。
だから安心していいよ﹂
936
﹁なんとかするって⋮⋮一体、何をするつもりですか?﹂
まるで安請け合いのようなユイの言葉に、思わずフェルナンドは
戸惑う。
しかしそんな彼に向かい優しい笑みを一つ浮かべると、ユイはゆ
っくりと口を開いた。
﹁うん。今はまだはっきりとは言えない⋮⋮かな。でも大丈夫、心
配しないでいいよ。その時がくれば君の妹さんのことは、私が何と
かするからさ﹂
まるでなんでもないことのように、あっさりとそう言い切るユイ。
そのユイの言葉に、フェルナンドは困惑して言葉が出てこなかった。
一方、あっさりと何とかすると言ってのけたユイは、すでに思考
を次へと進め、そしてこの状況を作り上げた男へと再び思考を向け
る。
﹁しかし今回の帝国への赴任を振り返ってみると、まんまとあの御
老人の手のひらで踊らされ続けたと言うことだね。化け物といえる
だけの人物にはたいてい会ったつもりだったけど⋮⋮やはり世界は
広いな﹂
﹁ユイ⋮⋮さん?﹂
突然、独り言を呟きだしたユイに向かい、フェルナンドは恐る恐
る声をかける。
すると、ユイはすぐに苦笑いを浮かべ直し、フェルナンドに向き
直った。
﹁ああ、ごめんごめん。まだ寝起きで、少し頭がぼんやりとしてい
てね﹂
﹁そ、そうでしたね。すいません、病み上がりなのに無理をさせて﹂
﹁いや、構わないさ﹂
恐縮するフェルナンドに向かい、ユイはにこりとした笑みを浮か
937
べる。
そのあまりにも爽やかすぎるユイの反応に、フェルナンドは言い
がたい違和感を覚えた。しかし、彼はその違和感をうまく言語化で
きず、仕方なく話題の矛先を少し変える。
﹁そう言えば明日くらいには王都からリュートさんが来るようです。
あの方のことですから、ユイさんのことを誰よりも心配されている
でしょうし、今日はできるだけぐっすりとお休みください﹂
﹁リュート? ⋮⋮そうか、レムリアックの一件があったばかりだ
し、これは感づかれたな﹂
﹁もしかして例の世界へのアクセスの件ですか?﹂
わずかに顔をしかめたユイを目にして、フェルナンドはわずかに
視線を鋭くして問いかける。
﹁まあ⋮⋮ね。彼には、使わないと約束していたから、これはこっ
ぴどく怒られるな。でもこの際、それはいいか⋮⋮それでアレック
スの奴はどうしているんだい?﹂
﹁アレックスさんは、ユイさんの代わりにフィラメントと帝国の交
渉の仲介人として、帝国南部に向かわれています。順調に行ってい
れば、明日か明後日にはお帰りになられると伺っているのですが⋮
⋮﹂
﹁へぇ、そうか。アレックスも早くて明日ね⋮⋮これは決まりだな﹂
そのフェルナンドの回答を耳にして、ユイは一つ頷く。
しかしそのユイの口にした言葉の意味を理解できなかったフェル
ナンドは、そのまま彼に問いかけた。
﹁あの、何が決まりなのですか?﹂
﹁別に大したことじゃないさ。それよりも、迷惑をかけて申し訳な
いけど、もうしばらくは君とアレックスには大使代行をお願いする
よ。しばらく、私は使い物にならなそうだからね﹂
938
肩をすくめながらユイはフェルナンドに向かってそう依頼した。
その反応に何か言い知れぬ引っ掛かりを感じながらも、フェルナ
ンドはユイの体調を気遣って彼に休むよう促す。
﹁え⋮⋮ええ。そりゃあ、まだ起きられたばかりですから仕方ない
と思いますが⋮⋮ともかく今日はゆっくり休んでください。また明
日にでも落ち着かれましたら、尋ねさせていただきますので﹂
﹁ああ。ありがとう、フェルナンド。また⋮⋮ね﹂
ユイはそう口にするとフェルナンドに向かって笑いかけた。
その笑みを目にしてフェルナンドは言いようのない違和感を覚え
る。今、目の前で目にしたユイの笑みは、彼がこれまで目にした事
があるものとなにかが決定的に異なっているかのような気がしたた
めであった。
しかし彼は、その理由を自らのうちから見出すことができず、病
み上がり故のものだと納得する。そしてこれ以上ユイの負担になら
ぬよう、そのまま部屋から退室していった。
そうしてユイを残し無人となった部屋。
誰も居ないはずのその部屋で、ユイは虚空に向かい言葉を発する。
﹁それで首尾の方はどうかな、クレハ﹂
﹁ぎりぎり間に合わせたというところよ。計画の最終段階で手伝っ
てくれる予定だった誰かさんが、存分に寝こけ続けてくれたおかげ
でね﹂
﹁はは、面目ない。皇帝の政略とフィラメントの戦略の相手を同時
に相手するだけで精一杯でね、彼らの存在は完全に計算外だった﹂
頭を掻きながらユイは誤魔化すように苦笑する。
するとそんな彼に向けて、クレハは鋭い視線を浴びせた。
939
﹁本当かしら? もしかして貴方は以前から彼らの存在を知ってい
たんじゃないの。そしてだからこそ、この仕事を私に押し付けた。
彼らから私を遠ざけるためにね﹂
﹁⋮⋮それはないさ。さすがに彼らがフィラメントの中に入り込ん
でいたと知っていたなら、最初から別の手立てを取っていた。私だ
って、できるならこんな醜態を晒したくはなかったからね﹂
弱ったような笑みを浮かべながら、ユイはクレハの疑念を否定す
る。
﹁醜態⋮⋮ね。本当なら、このままここに貴方を置いておきたいと
ころよ。明日ここに到着する彼に、貴方を突き出すためにね﹂
﹁はは、かんべんしてくれないか。この歳になってさ、真正面から
正論で説教されるのは、さすがに堪えるんだよ﹂
﹁勘違いしないでね。怒っているのは彼だけじゃないわ。この私も
よ﹂
普段は気配を殺し続けている彼女は、静かな怒気をユイへと向け
る。
﹁⋮⋮ごめん。心配をかけたね、クレハ﹂
﹁貴方はいつもそう。私に謝るときは全てを終えた後。貴方があれ
まで使わなきゃいけないほど追い詰められたわけだから、想定外で
あったことは理解してあげるわ。でも、銀髪の彼じゃないけど、も
うこんな無茶はやめてよね。そして次から無茶をするときは、先に
私に言いなさい﹂
長い付き合い故にユイの性格を知り尽くしたクレハは、妥協案と
ばかりに目の前の男にそう提案する。
しかし、ユイはわずかに躊躇しながらも、はっきりと自らの考え
を彼女に告げた。
﹁約束はしないよ。あからさまな嘘は不誠実すぎるからね。でも⋮
940
⋮できるかぎりそうならないよう善処する。この辺りで許してくれ
ないかな?﹂
﹁はぁ⋮⋮頼む相手が私であることに感謝なさい。貴方のお母様な
ら、そんなふざけた答えを口にした瞬間、とっくに首を絞められて
るはずよ﹂
誰よりも怠惰を愛する目の前の頑固者の意見は、決して変えるこ
とはできないと最初から彼女は理解していた。
それ故にささやかな抵抗とばかり、彼にとってアキレス腱に等し
い人名をクレハはあえて口にする。
﹁君であることに⋮⋮いや、そんなことは関係なく、いつだって君
には感謝しているよ。これまでも、そしてこれからもね﹂
わずかに視線を外し、やや俯き加減でユイはそう返答する。
そんな彼を目にしてクレハは口を一度開きかけた。しかし、わず
かに躊躇すると、彼女は溜め息を一つ吐きだす。
﹁はぁ⋮⋮まあいいわ。終わったことに、これ以上費やしている時
間はないからね。それで次の一手はどうするつもりなの、英雄さん﹂
﹁もちろん予定通りに﹂
﹁わかったわ、ならすぐに準備なさい。さっきの話ではないけど、
本当に彼と彼がここに来てしまうと、色々面倒でしょ?﹂
銀髪と赤髪の青年のことを暗に示しながら、クレハはユイに向け
てそう告げる。
すると、ユイは迷うことなく首を縦に振った。
﹁だね。次に顔を合わした時が怖いけど、今は時間がない。それに、
やらなければいけない仕事が一つ増えてしまったからね﹂
﹁仕事?﹂
僅かに目を細め怪訝そうな表情を浮かべたクレハに対し、ユイは
さきほどこの部屋から出て行った青年との約束を口にした。
941
﹁ああ。かわいい教え子のために、一人の女の子を救出する﹂
﹁⋮⋮面倒事ばかり増やすわね、貴方は﹂
﹁できない約束をすることは嫌いだけど、約束したことは守る主義
でね。ともあれ、どちらにしろエルトブールには寄るつもりだった
んだ。君の義父に会いに行く為にね﹂
﹁そう⋮⋮なら、貴方の口からよろしく伝えておいてね﹂
クレハのその言葉に、ユイは眉をピクリと動かす。そして確認す
るように、彼女に向かって問いかけた。
﹁君は会っていかないのかい?﹂
﹁誰かさんに押し付けられた仕事が山積みなのよ。王都に先に向か
ってもらっているクレイリーとも調整が必要だし、貴方とずっと一
緒に動いている余裕はないわ。それもこれも、誰かさんがさっきま
で寝こけていたせいでね﹂
さらっとユイに対する小言を交え、クレハはそう口にする。
するとユイは申し訳無さそうに頭を掻くと、わずかに重くなった
口を開いた。
﹁すまない⋮⋮そしてありがとう、クレハ﹂
﹁⋮⋮いいわ。私は私の誓いを決して破らない。貴方が私を必要と
しなくなるその日まではね﹂
クレハの視線を額のあたりに感じ、ユイはわずかに照れたように
微笑む。そして彼は一つ頷いた後に表情を引き締めた。
﹁ならば、予定通り盤外に向かって歩き出すとしようか。そう、リ
アルト皇帝が築き上げ、既に詰み終えられたこの盤上の外側に向か
ってね﹂
﹁わかっているわ。その為に準備したんだから﹂
クレハの相槌に対し、ユイは一つ頷いた。
942
そして彼はその場にいない者達に向かって、はっきりと宣言をす
る。
﹁次こそは私が先に布石を打たせてもらう。周りのことを気にする
ことなく、毎日昼寝だけをして過ごすことができるバラ色の未来。
それをこの手で掴みとるために⋮⋮ね﹂
943
epilogue
﹁やあ、リュート﹂
王都から早馬で駆け続け帝都レンドへと到着したリュートは、大
使館の入り口へとたどりついたところで、突然背後から聞き覚えの
ある声が彼を呼び止めた。
﹁アレックス⋮⋮か。それで奴は?﹂
後ろを振り返ったリュートは、キツネ目の男性を視界に捉えると、
険しい表情のまま端的にそう問いかける。
﹁僕もユイの仕事を肩代わりして戻ってきたところでね。でも、意
識は取り戻したと今朝報告があったよ﹂
﹁そう⋮⋮か﹂
予定を繰り上げて大使館に戻ってきたアレックスがそう告げると、
リュートはわずかに安堵の溜息を吐き出す。
﹁取り敢えず中に入ろうか、リュート。彼を叱るにせよ、殴るにせ
よさ、彼の下に行かなければ話が始まらないからね﹂
﹁ああ⋮⋮だが、お前からも釘を差してもらうぞ﹂
そのリュートの言葉に、アレックスは顎に手をやる。そして少し
考えた後にゆっくりと口を開いた。
﹁例の魔法のことかい? 君の気持ちはわかるけどね⋮⋮でも、ユ
イがあれを使わなければ、僕も正直いって打つ手はなかったかもし
れない。それは勘案してあげてもいいと思うけど﹂
﹁それはわかる。あいつがリスクを覚悟して使ったことくらいはな。
だが、誰かが釘を刺しておくべきだろう。お前はそうは思わないか
944
?﹂
真剣な表情でリュートはアレックスへと同意を求める。
しかしそんな彼の姿に、アレックスはわずかに口元に笑みを浮か
べた。
﹁ふふ⋮⋮まあ、そうだね﹂
﹁何がおかしい?﹂
﹁いや、学生時代の君とユイの関係を思い出してね。ああ、そんな
怖い顔をしないでくれ﹂
たちどころにリュートが不機嫌な表情となったのを見て取り、ア
レックスは苦笑いを浮かべてそこで口を閉じる。
﹁ふん。とにかくだ、奴を説教するためにも、中を案内してくれ﹂
﹁あ、リュートさん、アレックスさん。ちょっと、変なんです﹂
﹁変? 一体、どうしたんだい?﹂
ユイの部屋の前で立ち尽くしているフェルナンドに対し、アレッ
クスは首を傾げながらそう問いかける。
﹁それが⋮⋮意識は戻ってるはずなのに、ユイさんが全然部屋から
出てこないんです﹂
﹁また意識を失ったのか?﹂
リュートは険しい顔つきになると、フェルナンドはその問いかけ
に対し首を左右に振る。
﹁いえ、それなんですが⋮⋮どうも部屋に鍵がかかっていまして。
なので合鍵も使ってみたんですが、どうも内側から部屋に入れない
945
ようにつっかえ棒のようなものを置いているみたいなんです﹂
﹁⋮⋮どういうことだ。そう言えば昨日あいつは意識を戻したんだ
ったな。昨日、あいつに何があった?﹂
﹁それが⋮⋮﹂
フェルナンドは昨日意識を覚醒した際にユイと話した内容、そし
てその時のユイの別れ際の様子が変であったことを二人へと告げた。
そのフェルナンドからの話を聞くに連れ、アレックスの表情から
笑みが消え失せ、リュートの眉間には深い皺が寄る。
﹁⋮⋮どう思う、リュート?﹂
﹁現状のレムリアックは既に実質ライン公の土地として、簡単には
貴族院の思い通りにはならない。さらに今のクラリスはラインドル
と同盟関係にあり、また南に位置する帝国はフィラメントを蹴散ら
すも、兵を一部失い疲弊している。そして共和国はいつもの万年政
争中⋮⋮か﹂
﹁うん、これはまずいかもしれないね﹂
﹁⋮⋮どういうことです?﹂
一層険しい表情となったリュートとアレックスに対し、二人の会
話を耳にしたフェルナンドは、恐る恐る問いかける。
﹁フェルナンド。今⋮⋮そうたった今、クラリスから一人の英雄が
いなくなったらどうなる?﹂
﹁はっ?﹂
リュートの突然の問いかけに、フェルナンドは虚を突かれたかの
ように呆けた返事を返す。
そのフェルナンドの反応を目にして、リュートの代わりにアレッ
クスが口を開いた。
﹁もし今現在ユイがいなくなっても、少なくともクラリスはしばら
く最低限の安定は保たれる状態にある。むしろ彼がいないほうが安
946
定するといった方が正しいか。貴族院は王家派に対する攻撃材料を
失い、帝国はクラリスに対する介入口実を失う。つまりそういうこ
とさ﹂
﹁クソ、こんなときにあの馬鹿がとる行動なんてだいたい予想がつ
く。学生時代から全く進歩していないじゃないか、あいつは!﹂
アレックスの言葉を横耳に入れたリュートは、苛立ちの言葉を吐
き捨てると、そのままユイの部屋の扉を蹴破ろうとする。しかし内
側から相当量の物を押し当てられているのか、蹴りつけられたドア
はびくともしなかった。
自らの足の感触から蹴破ることは不可能であると悟ると、彼は舌
打ちを一つした後に魔法を編み上げ始める。
しかしそんなリュートの前に片手を突き出して彼を制したのは、
ドアをまっすぐに睨みつけたアレックスであった。
﹁いいよ、リュート。僕がやるからさ﹂
その言葉を合図とするかのように、彼は腰の剣を抜き放った。
彼の剣光が一閃するや否や、そこに存在していたかつて扉であっ
たものは真っ二つに切り裂かれ、ただの板切れとなり崩れ落ちる。
そして次の瞬間、部屋の内側に設置されバリケードとして使用さ
れていたベッドなどの家財道具が、雪崩のごとく廊下へと崩れ落ち
てきた。
﹁ユイ!﹂
剣を振るったアレックスより早く、リュートは崩れて散乱した家
財道具を飛び越えると、部屋の中に駆け込んでいく。
しかしすぐに彼はその場に呆然と立ち尽くすこととなった。
﹁どうやら手遅れみたい⋮⋮だね﹂
震える彼の肩に手を置き、アレックスは険しい表情のままそう口
にする。
947
﹁⋮⋮あの大馬鹿野郎﹂
無残に破壊された扉の先で彼等が目にしたもの。
それは主の存在しない部屋と机の上に置かれた三通の書き置き、
そして開け放たれたままの窓であった。
こうして、ユイ・イスターツは歴史の表舞台から忽然と姿を消し
た。
この時の彼が取った選択が、この先の大陸の運命にどのような影
響を与えるのか、この時点で知るものは誰一人いない。
やる気なし英雄譚 第一部 完
948
間章 ー英雄のいない日々ー
王都エルトブールの北に位置するオルミット地区。
王立大学や士官学校が設立されている地域であり、一般的に王都
の人間には学生街とも認識されている地区である。
そんなオルミット地区の片隅に、グリーン亭と呼ばれる安酒場が
存在する。
学生は基本的に飲酒が厳禁であることから、主に学校の職員や近
隣住民に愛用されている店であった。
店の一階は酒場となっており、今日もいつもと変わらぬにぎわい
を見せる。
そんな店の二階は一部の団体客用の個室と簡易の宿泊部屋が設置
されているのであるが、団体用の広い個室は現在たった二人の男性
によって貸し切られていた。
一人の男は銀髪のやや険しい顔付きをした偉丈夫であり、もう一
人の男はニコニコした表情を浮かべるキツネ目の男。
彼等は昔からの馴染みであるこのグリーン亭の二階にて、久方の
対面を果たしていた。
﹁⋮⋮それで、ユイの行き先はわかったか?﹂
﹁レンドルマン伯爵の私邸に忍び込み、フェルナンドの妹さんを連
れだしてきたところまでは辿れたんだけどね。残念ながら、その後
はきれいなまでに足跡を消している。まあ、さすがというべきだろ
うね﹂
949
リュートの問いかけに対し、アレックスは首を左右に振りながら、
やや苦い表情を浮かべてそう返答する。
﹁くそ、あいつめ。めんどくさいことは全て俺達に押しつけやがっ
て﹂
﹁ふふ、まったくね。それでリュート、君はこれからどうするつも
りなんだい?﹂
舌打ちを行いながら愚痴をこぼすリュートに対し、アレックスは
同意の意を示しつつ、今後の活動方針を問いかける。
すると、リュートはわずかに逡巡した後に、重い口を開いた。 ﹁⋮⋮ふん、あいつの置き手紙の内容は覚えているか?﹂
﹁ああ、僕と君宛の分だね。もちろん、覚えているよ﹂
リュートの言葉を受けて、アレックスは二人宛として用意されて
いたユイの書き置きの内容をはっきりと思い出すと、そのまま肯定
の返事を行う。
アレックスのその回答に、リュートは渋い表情を浮かべたまま、
大きな溜め息を吐き出した。
﹁悔しいが、しばらくはあいつの描いた絵に乗ってやる⋮⋮だが、
絶対にそのまま隠居などはさせんがな﹂
彼ら宛ての置き手紙の最後に書かれていた﹃今後クラリスに自分
の存在が必要とならない場合、そのまま隠居させてもらう﹄という
文面を思い出すと、リュートは軽く下唇を噛む。
一方、そんなリュートの表情を目にしたアレックスは、やや達観
した面持ちで当面の問題を彼に向かい提示した。
﹁まあそれは置いておくにしても、差し当たっての問題は、フェル
ナンド君が僕達への協力を受け入れてくれるかだけどね﹂
﹁それは心配いりませんよ、アレックスさん。僕はあなた方に協力
950
する⋮⋮それはユイさんが妹を助けだしてくれた時に決めたことで
すから﹂
突然若い男性の声が個室内に響き渡ると、室内にいた青年たちは
部屋の入口へと視線を走らせる。
二人の視線の先には、彼らのよく知るブラウン色の髪を軽く伸ば
した青年がそこに佇んでいた。
﹁フェルナンド⋮⋮か。よくこの場所がわかったな﹂
﹁お久しぶりです。ここのことは、あいつに聞きましたから﹂
﹁あいつ?﹂
フェルナンドの返答を受けて、リュートはわずかに眉間に皺を寄
せる。
すると、フェルナンドはやや躊躇しながらも、この場所を告げた
男のことを口にした。
﹁ええ、あの金髪の女たらしに、この場所は聞きました﹂
﹁なるほど、エインスの奴か﹂
納得したとばかりにリュートは、一つ頷く。
一方、彼らの会話を耳にしたもう一人の赤髪の男は、脳の片隅に
置かれていた古い記憶を掘り起こすと、やや意外そうな表情を浮か
べ、疑問を口にした。
﹁フェルナンド君。僕の記憶が確かなら、彼と君とはあまり仲が良
くなかったと記憶しているんだけど﹂
﹁どちらかと言うとあいつが一方的に僕を嫌っているだけですよ。
でも、まあ仲が良くないというのならそうなんでしょう﹂
﹁そんな君たちが連絡を取り合っていると?﹂
アレックスは目の前の人物を改めて測り直すかのように、重ねて
フェルナンドへとそう問いかける。
951
すると、フェルナンドは肩をすくめながら、軽く苦笑した。
﹁現在の状況下でうちの妹を安心して預けられる場所は、残念なが
らあいつのいるライン家くらいしかない。つまりはそういうことで
すよ﹂
現在、国内で大騒ぎとなっているレンドルマン伯爵邸からの伯爵
夫人失踪事件。
なにしろブラウ公の親戚筋にあたり、決して小貴族とは言いがた
い伯爵家の婦人が、突然煙のように消え失せたのである。
その事件が公となって以降、王都内には様々な風聞が流れること
となった。
なにしろレンドルマン伯爵は女癖が悪いことで有名であり、以前
より婦人とは喧嘩の噂が絶えず、そのせいでコロネ伯爵夫人は社交
界に一切出てきてないとまで言われていたのである。
それ故に、女遊びの邪魔になった婦人をついに消しただの、愛想
を尽かした婦人が夫の下から逃げ出しただのという様々な風聞が、
今も尾ひれをつけながら王都を駆け巡っているところであった。
そして現在、噂の中心となっている当のレンドルマンは、顔を真
っ青にしながら必死になって夫人の捜索を行っている真っ最中であ
る。
それはもちろん、愛する妻が消え去ったからではなく、コロネと
の婚姻が貴族院の長であるブラウが主導して行われたからであり、
彼女が本当に失踪したとなると、レンドルマンはブラウの面子に泥
を塗った事となるためであった。
この不可解なレンドルマン婦人失踪事件であるが、グリーン亭の
二階に集った面々は、黒髪のだらしない男がその犯人であることを
952
かなり早期の段階より確信に至っている。
それ故にリュートとアレックスは、妹を預けたという発言自体に
対しては、それ以上言及しなかった。
﹁しかしライン家ね⋮⋮あの家にも女癖の悪い男がいるけど。でも、
まあいくらエインス君でも、君の妹に手を出すほど馬鹿ではないか﹂
﹁はは。さすがにあいつに対して、それくらいの信頼はしています
よ、アレックスさん﹂
軽く笑い声を上げてみせるも、フェルナンドの目は決して笑って
なかった。
そんな彼の表情を目にしたリュートは、内心でほんのわずかに不
安を覚える。しかしいくらなんでも時と場合の判断くらいはエイン
スであっても付くだろうと考え、彼はコロネに関する事件のことを
頭の片隅へと追いやった。
﹁取り敢えず、お前たちの関係はこの際どうでもいい。それより、
先ほどお前は俺達に協力するといったが、具体的にどうするつもり
だ?﹂
﹁そうですね。まず僕はこれから、貴族院に対して告発を行おうと
思っています﹂
リュートの問いかけに対し、フェルナンドは淀みないはっきりし
た口調で、自らの考えを二人に提示する。
その彼の迷いない言葉を耳にして、リュートは視線の力をわずか
に強めた。
﹁告発⋮⋮か。一体何に関してだ?﹂
﹁それはもちろん、ユイ・イスターツ暗殺未遂事件に関する告発で
すよ﹂
953
キッパリとした口調で、予想外のことを言ってのけたフェルナン
ドに対し、リュートはわずかに目を大きく見開く。
﹁暗殺未遂⋮⋮だと。まさかそれは︱︱﹂
﹁つまりそれは、自分が暗殺者だったと名乗り出るつもりかい?﹂
探り探り言葉を紡ぐリュートを遮る形で、アレックスは値踏みす
るような視線を放ちつつ、彼の言葉を続けた。
﹁その通りです。リュートさんはご存じないもしれませんが、ユイ
さんの部下として帝国に赴任させられるときに、機会があればあの
人を暗殺するよう、僕は遠回しに命じられていました。だからこそ
この真実を僕が公表した場合、貴族院の連中は真実よりもよりリア
リティのある嘘を構築しなければいけなくなる。そのハードルは思
ったよりも高いでしょう。なぜならば⋮⋮﹂
﹁民衆はいけ好かない貴族院の連中よりも、庶民から出てきた英雄
を信じたがる⋮⋮か﹂
フェルナンドが言葉にしようとしたことを、リュートは先回りし
て呟く。
その言葉を耳にして、フェルナンドはその通りだとばかりに、小
さく二度頷いた。
﹁ええ、そう言うことです。国の危機を救った英雄が突然自分たち
を見捨てて姿をくらましたというよりも、自分たちの嫌いな貴族院
の連中が敬愛する英雄を嵌めたというシナリオをこそ民は喜ぶでし
ょう。お二方はそうは、思われませんか?﹂
﹁⋮⋮確かにな。お前の言うことも一理ある﹂
フェルナンドの見解を耳にして、リュートは口を挟むことなくひ
とつ頷く。
そんな彼の反応を確認し、フェルナンドはさらに言葉を続けた。
954
﹁はい。それにこの案はもうひとつの副次効果もあるんですよ﹂
﹁副次効果か。つまりそれは、対帝国という意味でかな?﹂
フェルナンドの言葉を受けたアレックスは、さらりとその核心を
指摘した。
間髪入れずに答えを口にされたフェルナンドはわずかに驚きを見
せるも、目の前の男たちならばさもありなんと思い直し、再び口を
開く。
﹁さすがですね。仰るとおり、帝国のために早い内に適当なスケー
プゴートを用意してあげる必要があります。彼らが勝手に言い出し
た婚姻話ですが、まあ彼らの面子もありますからね﹂
﹁ユイ・イスターツ暗殺未遂事件を作り上げることで、第四皇女と
の婚姻を前にしてあいつが姿を消したのは、自分の身を守るために
やむをえなかったとするわけか﹂
そう口にしたリュートは、よく考えたものだとばかりに、一つ大
きな溜め息を吐き出す。
﹁ええ、そんなところです。帝国としては少なからぬ不満は残るで
しょうが、第四皇女との婚姻は正式発表前だったこともあり、貴族
院が憎いとしても彼らとしては内政干渉するほどの大義名分を有す
ることが出来ないでしょう﹂
﹁しかし、フェルナンド。もしその案を実行するならば、お前は貴
族院からの裏切り者となり、英雄であるユイの奴を暗殺しようとし
た事実を被らなければならない。本当にそんな役回りを引き受ける
つもりなのか?﹂
自分の言っていることの意味を、そして被ろうとしている泥の重
さを理解しているのかとばかりに、リュートはフェルナンドに向か
い改めて問いかける。
しかし、フェルナンドはニコリと笑みを浮かべると、彼はあっさ
955
りと首を縦に振った。
﹁愚問ですよ、リュートさん。僕は妹を助け出すために、これまで
貴族院の連中に従っていました。奴らから妹を救い出すチャンスが
有れば、自らの身であろうが、この国であろうが何者にでも差し出
す覚悟を持ちながらです。ですが、ユイさんは自分の全てを投げ出
し、危険を冒してまでコロネを救い出してくれました。だとしたら、
僕が泥をかぶらないわけにはいかないでしょう。何より、未来のあ
の人の席を守るためにもね﹂
﹁あいつの席を守る⋮⋮か﹂
強い意志が込められたフェルナンドの言葉。
その最後に添えられていたユイの居場所を守るというメッセージ
を耳にして、リュートはフェルナンドを見つめ返す。
﹁ええ。暗殺者の手から逃れるために、止むを得ず一時的に身を隠
した。それが英雄ユイ・イスターツの今回の失踪に関わる全てです。
あの方に一切の罪はなく、憎むべきは救国の英雄を亡き者にしよう
とした貴族院の連中であり、そして悪逆なる彼らが駆逐され再びこ
の国が英雄を必要としたときに、ユイ・イスターツは必ずその姿を
現す。このような筋書きの風説をクラリス内の至るところで流して
おけば、きっとあの方が帰ってきた際の風当たりも、ずいぶん違う
かと思います﹂
﹁必要とされたら現れる英雄か。ふん、しかし何とも都合の良い存
在だな、ユイ・イスターツという英雄は。本気でそんな期待を持た
れているのだとしたら、あいつが隠居したがる気持ちが分からんで
はない﹂
フェルナンドの発言に対し、思わずリュートは彼らしからぬ皮肉
げな言葉を発する。
それを聞きとがめたアレックスは、たしなめるように彼の名を呼
んだ。
956
﹁リュート⋮⋮﹂
﹁すまん。失言だ、忘れてくれ﹂
リュートは大きな溜め息を吐き出すと、フェルナンドに対し謝罪
する。
そのリュートの言葉を耳にしたところで、アレックスは二人に向
かって口を開いた。
﹁さて、それじゃあ話し合いはここまでとしようか。今回のフェル
ナンドくんの一手を契機に、貴族院をこの国から一掃し、エリーゼ
王女の政治基盤を固める。当面の方針としては、これでいいね?﹂
﹁はい、構いません﹂
アレックスの呼びかけに、フェルナンドは間髪入れず返事を行う。
そして二人の視線は自然と、まだ答えを返さぬリュートへ向けら
れた。
﹁ふん、別に俺も賛成だ。ただな、一つだけ決めておきたいことが
ある﹂
﹁⋮⋮なんだい、リュート?﹂
いつもの笑みを浮かべたままのアレックスがわずかに首をひねり、
親友に向かいそう問いかける。
すると、その視線を向けられた銀髪の男は、珍しくニヤリとした
笑みを見せ、口を開いた。
﹁なに、至極簡単なことだ。全てが終わればあの馬鹿を捜し出し、
そして残っている仕事をそっくりそのまま全て押しつけてやる。お
前たちも、この方針に関しても構わないな?﹂
リュートのその発言がその空間に発せられた瞬間、その場にいる
残りの二人の顔には、発言者と同様の笑みが瞬く間に浮かべられた。
957
prologue
エルムンドの魔法戦争。
後にそう呼ばれることとなった、ケルム帝国とフィラメント公国
との戦いから早三年。
大陸西方の国々はそれぞれの国内に多数の問題を抱えるが故、表
立っては国家間同士の対立が引き起こされること無く、各々の時を
刻んでいた。
魔法戦争にて勝利国となったケルム帝国は、フィラメントにおい
て多数の権益を手に入れることには成功していた。しかしながら、
帝都近くまで侵攻されたという戦争の傷跡は、決して浅いものでは
ない。
難攻不落を誇っていたエーデミラス要塞が失われた他にも、帝都
以南はフィラメント侵攻により多数の被害を抱えていた。そして魔
法戦争の際に切り捨てられる形となったこの地域の人々は、複雑な
感情を現在も帝国に対して有している。
これらの地域に対する保証や復興だけでもどれほどの期間を要す
るのか、その試算するだけで帝国の首脳陣にとって頭の痛い話では
あった。しかし彼らは現在それ以上の課題を抱えていた。
そう、それは集合魔法である。
帝国が長い年月と費用を費やしてようやく開発した超大規模魔法。
958
それがある男の存在によりあっけなく無効化され、そしてついには
他国から防御策まで編み出されるに至っていた。
もちろん先の魔法戦争においては、最初にその魔法を打ち破った
ある男の協力によって、その効果を存分に引き出すことができたこ
とも事実ではある。しかしながら帝国は最終的にその男の取り込み
に失敗し、今後の集合魔法の運用に関し暗雲が立ち込めていた。そ
してこの事実は、帝国の軍事力信仰に深い影を生み出していた。
国は変わってフィラメント魔法公国。
先年の戦いで敗戦国となったこの国が抱える課題、それはケルム
帝国の比ではない。
フィラメントは帝国との併呑こそ免れ、どうにか国家としての体
は保ったものの、戦後の混乱は目を覆うばかりであった。
もともとこの国は魔法の研鑽を志す者達の寄り合い所帯がその母
体である。それ故に、国が傾くや否やより適した環境を求めてフィ
ラメントを離れていくものが後を絶たなかった。
結局のところ魔法士という人種は、現在においても自らの魔法探
求のみを目的として生きている者が少なくないという事実が、この
状況からかいま見える。
さて、そんなフィラメントにおいて何よりも最大の問題は、この
国の指導者を三人同時に失ってしまったことにある。
それ故に現在、フィラメントの方向性を明確に決定できる者が不
在に近い状況であり、混迷と言うよりも狂騒状態と言うべき現状が
生み出されるのも必定とさえ言えた。
959
そんな中で唯一の例外がディオラム家である。
御三家の他の家同様、ディオラム家も魔法戦争において当主を失
う事態に陥っていた。しかしながら、戦後の混乱期にこの地へと舞
い戻ったある女性の存在によって、かの家はどうにか離脱者を最小
限にとどめることに成功していたのである。
一度ディオラムから追放され、それにも関わらずフィラメントの
存続に貢献した女性。そんな赤毛の禁呪使いの存在を中心に、新生
フィラメントの国づくりはようやく動き出そうと、まさに胎動を始
めていた。
所変わりキスレチン共和国。
大陸西方ではケルム帝国と並び称される大国であり、そして唯一
の民主主義国家である。
その国家形態は選挙と呼ばれる行為によって、一定の条件を満た
した市民により選択された議員が、彼らの指導者の役割を担う体制
であった。
しかしながらひとつの国家の中には多数の考え方が存在する。
ましてや自由と平等を標榜するキスレチンにおいては、国民一人
一人の考え方は実に様々であった。
それ故に、彼らの代弁者達も様々な考え方を持つものが選出され
てはいたが、国家運営はあくまで多数派による運営である。
結局のところ、彼らはいくつかの派閥に分かれて多数派工作を繰
り返すこととなり、それがますます国家としての内部対立と停滞を
960
生み出していた。
そんなキスレチンにおいて政治結社とも呼ばれる政策集団が三つ
存在する。
自由都市同盟、民主改革運動、そして統一宗教主義戦線。
自由都市同盟。いわゆる同盟派とも呼ばれる彼らは、キスレチン
の首都であるカーゼ出身の議員が中心となり、比較的温厚な保守主
義の一派である。
彼等は現状において議会の最多数の議員を擁しているが、それは
過半数には満たず、それ故に彼らにフリーハンドな政権運営を行わ
せないことが、キスレチンの停滞の原因の一つであると彼等は主張
している。
次に改革派などと称される民主改革運動であるが、彼等は地方出
身の議員が多い。特に他国との国境周辺の有力者がその中心を担っ
ていることもあり、その主張の大なる部分は、首都であるカーゼだ
けが他地域に比べて利益を享受しすぎているというものであった。
それ故に、彼等は全国民への平等と利益を確保するために、積極
的な対外拡張政策を唱えている。しかしながら、その支持は同盟派
には今二歩程及ばずに万年第二派の地位に甘んじていた。
そして最後に戦線派とも呼ばれる統一宗教主義戦線である。
彼等に関しては他の二派とは些かその構成が異なった。それは彼
らの支持母体が魔法廃絶主義で有名なクレメア教団に有るためであ
る。
キスレチンの東に赤海と呼ばれる内海があり、その更に東に存在
961
する巨大宗教国家のトルメニアを発祥とする宗教団体がクレメア教
である。
その信徒は大陸中央部を中心としてその近郊の国家に少なからず
存在し、特に自由を標榜とするキスレチンにおいては信仰の自由が
保証されていることから、大陸西方の周辺諸国に比べその信徒の数
は圧倒的に多かった。
そうして数を増やしていったクレメア教団の信徒が、キスレチン
国内における自らの主張を代弁するために立ち上げたのが統一宗教
主義戦線である。
もちろんクレメア教発祥の地であるトルメニアであれば圧倒的多
数の派閥となっていたであろうが、いくらその信徒の数が多かろう
ともあくまで他国。それ故、これまで戦線派は常に第三勢力に甘ん
じてきていた。
これら主だった三勢力に加え、更に有象無象の小規模集団が少な
からず存在している。その為、キスレチンにおいては国家の方向性
を決定づけるための意思統一が積年の課題であった。
しかし先年の魔法戦争と時期を同じくして、同盟派の有力議員と
とある敵対国家との癒着問題が明るみとなる。彼らは彼の国によっ
て嵌められたと主張するも、同盟派は急速に人々の支持を失い、そ
して帝国の窮地にもかかわらずその後背を打つという戦略を取るこ
とが出来なかった。
そしてキスレチンは現在、改革派と戦線派が手を結ぶという衝撃
的な政情変化が起こり、国内における更なる政治的対立と混乱が懸
念されている。
962
さて次に、西方の騒乱において何らかの形で常にその渦中に巻き
込まれ続けていたクラリス王国。
彼の国は、貴族院クーデターとも呼ばれるフェルナンド・フォン・
ロペン伯爵による貴族院への告発に端を発した大事件が発生し、国
を完全に二分する騒動へと進展することとなった。
いわゆる王家派と貴族院派と呼ばれるそれぞれの陣営は、クーデ
ター直後には多数の小競り合いが引き起こされた。しかしながら、
王家派の一部将校の活躍もあり直接的な戦闘活動は極短期間に収束
を迎えることとなる。
この事件を契機にして王家派が国家の実権の多くを確保するに至
るも、残念ながら貴族院の所領にまではその手が届かなかった。そ
してそれ故に、依然としていつでも内乱状態へと移行しかねない状
況が持続しているとも言える。
この火薬庫の前で火遊びをしているかのような状況ではあるが、
王家派の若手将校達の努力もあり、彼の国は現在のところ内乱状態
へと陥ることなく、ゆるやかに王家派優位で事を進められていた。
だがこのような現状に対し、貴族院とて指を銜えてただ見ている
だけではなかった。それ故に、どの段階で貴族院が巻き返しのため
に反撃へと転じるのかが注視されており、まさにその様は嵐の前の
静けさと言えるものであった。
これら大陸西方の主な国々に加え、その周辺の小国家もそれぞれ
963
に内部事情を抱えるが故に、まったく身動きがとれないでいる現状。
まさに停滞とも呼べる淀み。
しかしながらそんな大陸西方の中で、たった一カ国だけ既に内乱
を終結させた国家が存在する。
北の雄、ラインドル王国。
歴史が淀み、まるで止まってしまったかのような大陸西方の時間
は、火種がくすぶるこの地へと訪れたある男によって、再び歩き方
を思い出したかのようにようやく時を刻み始めることとなる。
964
完成品
ラインドル王立大学。
ムラシーン体制下にて封鎖された教育施設の代替として設立され、
三年前に王家の出資にて王都セーブルに設立された大学である。
大学の設立目的は将来のラインドルの未来を担う人材を輩出する
ことであり、ムラシーン体制からの脱却という大事業の最中におい
ても、ラインドルにおける有能な人材を惜しみなく配置されていた。
さて、このラインドルにおいては、もともと独立した魔法学校と
いう育成機関が存在していた。
しかしながら魔法士の暴走という事態がムラシーン体制の骨幹だ
と考える者も少なくなく、独立した機関として継続させることに対
し危惧する声は少なくなかった。それ故に一般の兵学校と統合され
る形で大学運営が開始されている。
もちろん大学へと進学してきた学生たちには、そのような大人の
事情など関係なく、今日も彼らは勉学及び訓練に勤しんでいた。
﹁﹁トゥールビヨン!﹂﹂
大学の外れに位置する野外訓練所に於いて、二つの口から同時に
風魔法の呪文が唱えられる。
彼ら二人の目標は目の前で不敵に笑う淡い銀髪の青年であった。
965
﹁風の魔法⋮⋮か﹂
相対している学生の二人が風の魔法を編み上げていく光景をその
目にして、銀髪の青年は、ゆっくりと両の手を左右へと広げる。
そして彼は強く握りしめた拳を一気に開いた。
﹁ドゥーブル・トゥールビヨン!﹂
青年は神経を両の手に集中させ、そして一気に二つの風の束を編
みあげる。そして迷うことなく。眼前から迫り来る風の束に向かっ
て、より巨大な風の束を二つ解き放った。
青年の手元で高速で編み上げられた風の束は、一気に加速を開始
すると、向かい来る風の束をあっさりと飲み込み、そのままの勢い
で学生たちを弾き飛ばす。
そうして一瞬の場の空気が静止したタイミングで、大地を蹴りつ
ける音が青年の背後で周囲に響いた。
﹁さすが、フェルム⋮⋮だが今なら、ラファール!﹂
フェルムと呼ばれる青年の意識が、弾き飛ばされた二人の学生へ
向けられていると判断した三人目の学生。
完全に息を潜めて存在を殺し続けていた彼は、死角に入り込むよ
う木々の影に隠れながら後方へ回り込み終えると、そのまま青年に
向けて魔法を解き放ちながら襲いかかったのである。
﹁やはりそこに隠れていたんだね﹂
完全なる背後からの強襲に対し、フェルムと呼ばれた青年は視線
を向けることさえ無く、身を翻して襲いかかってきた突風を回避す
る。
﹁馬鹿な、背後に目があるとでも言うのかよ!﹂
突風の魔法を放った学生は、死角から放った一撃を回避されたこ
966
とに驚愕し、わずかに駆けていた足を鈍らせる。
すると次の瞬間、先ほど突風を回避したばかりのフェルムが突如
向き直ると、その場を駈け出して逆に距離を縮めてきた。
﹁ごめんね、クー・ド・ヴァン﹂
そう一言述べたフェルムは、慌てて二撃目の魔法を放とうとする
学生に対し、極至近距離で彼より早く風の魔法を編み上げると、掌
底を放つかのような形で学生を弾き飛ばす。
そして次の瞬間、その空間には三人の学生が大地に寝転がる光景
が作り上げられた。
﹁ふむ⋮⋮見事なものだな、フェルム君。卒業をまだ前にして完成
品と呼ばれる一端を見せてもらったよ﹂
瞬く間に訓練所に訪れた静寂。
それを打ち破ったのは、一人の女性の声であった。
﹁ありがとうございます、レリム先生﹂
フェルムは軽く息を整えると、視線を上げて魔法科の教師へとま
っすぐに視線を向ける。
﹁しかし三人を相手にしながら、ほぼ一瞬で終わらせたか。重ね重
ね見事なものだ﹂
﹁いえ、まだまだです。それに先生には一度も勝てたことがありま
せんから﹂
﹁はん、それはそうさ。軍を出たと言っても、まだわたしは現役の
つもりさ。そうやすやすと学生に負けてやるわけにはいかないさ﹂
元宮廷魔法士長の肩書を有し、そして先年のクーデターでの功労
者の一人であるレリムは、フェルムに向かいニヤリとした笑みを浮
かべる。
967
するとその言葉を耳にしたフェルムは、やや恥ずかしげな笑みを
浮かべながら、まっすぐに彼女を見つめた。
﹁はは、確かに。でもこの大学で最強の名を、卒業までに貴方から
奪い取りますよ。それが僕の目標ですから﹂
これまで目にした中で間違いなく最強と言ってよい教師に向かい、
フェルムは自信ありげにそう宣言する。
しかしその尊敬と自負の混じった発言に対して、目の前の教師の
反応はやや予想外のものであった。
﹁大学で最強⋮⋮か。さて、どうだろうかね。まあ、誰が強いか弱
いかなんてどうでもいいさ﹂
普段は自信家で知られるレリム女史が見せた僅かな躊躇。
それを目にしたフェルムは若干の違和感を覚える。しかし、そん
な違和感は彼女が次に放った一言にて霧散した。
﹁まあ、わたしが強いか弱いかはともかく、君が相手になって欲し
いって言うなら、いつでも遊んであげるよ﹂
﹁ありがとうございます。何でしたら、別に今でも僕はかまいませ
んよ?﹂
やや挑発気味のレリムの発言に対し、待っていたとばかりにフェ
ルムは答える。
その言葉を受けたレリムは、端正な口元をわずかに歪めた。
﹁へぇ、大した自信じゃないか。彼らじゃウォーミングアップにも
ならなかったっていうわけかい? ならばかかってきな⋮⋮って言
いたいところだが、今日はダメだな﹂
﹁え⋮⋮どうしてです?﹂
好戦的なことで知られるレリム故に、まさかこのタイミングで訓
練が流れる方向に舵が切られると思わず、フェルムは心底意外そう
968
な表情を浮かべる。
﹁学長から言われてるんだよ。君は今年の卒業レポートの草案を、
まだ学生課に出してないだろ? 釘を刺しておけって言われたばか
りでね。ここで君を可愛がり過ぎて草案が上がらなかったら、あた
しが学長に大目玉さ﹂
﹁卒業レポート⋮⋮ですか﹂
戦闘技術だけではなく、学業の成績自体も非常に優秀で通ってい
るフェルムにとって、目下唯一と言っていい悩みの種を口に出され、
彼は歯切れの悪い口調となる。
そんな姿を目にしたレリムはやれやれとばかりに肩をすくめると、
首を一度左右に振って口を開いた。
﹁ふん、先日君の草案は目を通したからな。大体の事情は理解して
いるつもりさ。まあ、今日のところはこれくらいで引き上げてあい
つの研究室に行ってきな。週に一度しかあいつは姿を見せないんだ
からね﹂
﹁ですが、アイン博士は、その⋮⋮﹂
﹁フェルム。君がアインの奴に納得していないのはあたしも知って
いるがね。それでも決まったことは決まったことさ。さあ、いつま
でもおやつのもらえない子供みたいな顔をしていないで、行った行
った。あたしは他の奴の訓練を見なければいけないんでね﹂
話はこれで終わりとばかりにレリムはフェルムに向かいそう告げ
る。
すると、フェルムは苦い表情を浮かべながら、しぶしぶ彼女の言
葉に従うこととした。
﹁気が進まないんですけど、仕方ないですね﹂
フェルムはそう口にすると同時に、とぼとぼとした足取りで訓練
所から歩き出す。
969
そうして彼の背中がやや小さくなったところで、レリムは周囲の
誰にも聞こえないほど小さなつぶやきを口の中で放った。
﹁ふん。あの様子だとまだなんにもわかってないようだね、あの子
は。まあ、あいつもあいつだから仕方ないのだろうけどさ﹂
970
幽霊博士
訓練所からやや離れた位置にある新築の校舎。
その校舎の片隅に、普段は家主のいないアイン研究室と呼ばれる
実験部屋が存在する。
この部屋は半年前に突然この学校を訪れた男の為に用意された部
屋であり、そしてフェルムの担当教官となる変人博士の部屋でもあ
った。
﹁アイン先生、アイン先生! いい加減起きてください﹂
﹁ん⋮⋮ああ、フェルムか。こんな時間に珍しいね﹂
肩を揺さぶられた黒髪の男は、目の前で頬を膨らませる学生を目
にして、目を擦りながらそう口にする。
すると淡い銀髪の学生は呆れた表情を浮かべながら、真っ昼間に
もかかわらず堂々と昼寝をしていた、だらしない研究者に向かって
抗議を口にした。
﹁珍しいねではないですよ、まったく。先生は週に一回しかこられ
ないんですから、しっかりしてくださいよ﹂
﹁ん⋮⋮はは、たしかにそうだね。でも、ほら。今日はこんな素敵
な昼寝日和だからさ、なんていうかもったいないじゃないか﹂
﹁昼寝日和ってなんですか、昼寝日和って。というか、卒業レポー
トの草案は見てくださったんですか? あれが通らないと、下手を
すれば僕は留年なんですよ﹂
復興されたラインドル王立大学の最上級生にあたるフェルムは、
目の前のどうしようもない男に対し心底呆れたような表情となると、
躊躇することなく苦言を呈した。
971
ラインドル大学の最上級生には、卒業の条件として卒業レポート
が課されることが創立時に取り決めとされている。そしてそれが提
出され担当教官の認可を得ない限り、たとえ学年主席であるフェル
ムといえども留年せざるを得なかった。
それ故に、周囲の自らより劣ると考えている学生たちが次々とレ
ポートを進めていく中で、優秀であると信じて疑わない自らが後れ
を取っているという事実に、フェルムは隠し様のないいらだちを覚
えていた。
﹁留年ねぇ⋮⋮別に悪く無いと思うけどな。のんびり学生生活を送
れるって結構なことじゃないか﹂
﹁あのね、先生。他所から来た先生は知らないかもしれませんが、
この国はムラシーンという男によってめちゃめちゃにされ、ようや
く国として軌道に乗り始めたところなんですよ。正直言えば、今す
ぐにでもこの国のために働きたいくらいなんです﹂
﹁別にそんなに急がなくてもいいと思うけどな。君は十分に優秀だ
し、この国もほらこんなに平和さ。焦る必要なんてどこにも無いよ﹂
どちらが目上で指導者なのかまるでわからないやりとりを行いな
がら、アインは苦笑いを浮かべつつ自論を述べる。
一方、目の前の男のあまりに適当な生き方と見解を受けて、フェ
ルムは大きな溜め息を吐き出さずにはいられなかった。
﹁はぁ⋮⋮先生はこれだから﹂
﹁ま、君の卒業はともかく、レポートは約束していたみたいだから
目を通すことにしようか。ちょっと待ってね﹂
﹁やっぱり読んでなかったんですね⋮⋮﹂
机の片隅に先週預けたままの姿で置かれていた草案をアインが手
にすると、フェルムは目の前の教官をジト目で睨みながら、疲れた
972
ように肩を落とす。
だがそんな学生の様子などまるで気にする素振りも見せない黒髪
の男は、頬杖をつきながら、手にした草案を次々と読み進めていっ
た。
﹁ふむ、なかなかに素晴らしいね。付加魔法の応用発展形として、
常時固着化のために魔石を流用するという考え方は確かに目の付け
所としては悪くない。だけど⋮⋮ううん﹂
受け取った草案をさっと斜め読んだアインは、そこで黙りこむと、
眉間に皺を寄せながら黙りこむ。
一方、そんなアインの反応を訝しく感じたフェルムは、やや低い
声で先を促してきた。
﹁だけど?﹂
﹁どう言えばいいかな⋮⋮正直言って、そつがなくて面白味にかけ
るかな。すでに概念としてはほぼ確立している仕組みだしさ。申し
訳ないけど、来週までにもう一度書きなおして持ってきてくれない
かい?﹂
﹁先生! もうほかの同級生のみんなはレポートの本文にとりかか
っているんですよ。なのに、僕だけ未だに草案止まりで書きなおし
なんて⋮⋮しかもなんですか、その抽象的な書き直し理由は﹂
依然として寝ぼけ眼のまま書き直しを命じた黒髪の男に対し、フ
ェルムは目を吊り上げて反論する。
するとアインは困ったように苦笑いを浮かべ、ゆっくりと口を開
いた。
﹁ああ⋮⋮他の子達はそうなんだ。でもさ、他の生徒は他の生徒。
そして君は君。そうじゃないかい?﹂
﹁それはそうですけど⋮⋮﹂
﹁フェルム君。まあ正直に言えば、そのレポート案はよく出来てい
973
る。でも、あんまりこんなことはいいたくないんだけどさ、逆に言
えばそこまで止まりだよ﹂
﹁⋮⋮よく出来たレポートのどこが悪いんですか?﹂
アインの発言に対し、依然として納得出来ない表情のフェルムは
すぐさまその言動に噛み付く。
すると目の前の黒髪の男は、弱った顔つきを浮かべながら二度頭
を掻いた。
﹁別に悪くはないさ⋮⋮だけどね、将来君はこの国で上に登ってい
くことを目指しているんだろ? だとしたら、この程度のこじんま
りとして小さくまとまった内容しか書けないようじゃダメさ。例え
レポート一つとってしてもね﹂
﹁でも、レポートが悪いから上に行けないわけではないでしょ。例
えばあのクラリスの英雄ですが、軍にいた頃は報告書なんて殆ど出
さなかったらしいですよ﹂
大陸西方に忽然と現れ、そして彗星のごとく消えていった英雄。
その男の逸話は、彼の足跡のあるこのラインドルにおいて半ば伝
説と化しており、そしてそれ故に誇張された内容も少なくはない。
その一つとして、ユイ・イスターツは報告書を書いたことがないと
いうものが存在していた。
これは報告書などの業務はすべて信頼できる部下に任せ、彼の脳
内では数年から数十年先の大陸の未来を常に考えていたと言われる
逸話でもある。しかしながら当然のごとく、このような伝説はどこ
かで屈折と脚色を加えられて伝わっていくものであった。
﹁クラリスの英雄ねぇ。そいつの噂を私は他人から直接聞いたこと
があまり無いからなんとも言えないけど⋮⋮本当にそんな話もある
のかい?﹂
﹁ええ! ホントですか、先生。あのユイ・イスターツですよ、ユ
974
イ・イスターツ。本当に知らないんですか?﹂
アインの発言を耳にしたフェルムは、驚きのあまり目を見開くと、
信じられないものを見る目つきでそう問いかける。
﹁ユイ・イスターツか⋮⋮まあ私がその人物と直接会ったことがな
いのは事実だよ﹂
﹁先生なんかが会えるわけないじゃないですか。何しろ大陸西方の
英雄ですよ。というか、あれだけ有名な英雄の噂話をあまり知らな
いなんて⋮⋮あんまり研究室に閉じこもって、実験ばかりしていて
はダメですよ。先生もあの英雄と年齢的には変わらないんですから、
もっとシャンとしてください﹂
﹁そんなに私はシャンとしていないかな⋮⋮これでも昔に比べたら、
だいぶましになったと自負しているんだけど﹂
顎に手を当てながら弱った笑みを浮かべると、アインは小さな声
で抗弁を試みる。
﹁⋮⋮それでですか? 昔はどんな生活をしていたんですか、まっ
たく。まあそんなことよりもです、先生はどう思いますか? 英雄
ユイ・イスターツはやはり暗殺されたのだと思いますか?﹂
﹁さあ、どうだろうね。案外自由気ままにのんびりと生きているか
もしれないよ﹂
目の前の青年の問いかけに対し、アインは顎に手を当てながら、
僅かに頬を吊り上げつつそう回答する。
﹁あのね、先生じゃないんですから。だってラインドルから帝国ま
での広大な地域を短期間に股に掛け、大陸西方を駆け抜けた英雄で
すよ。そんな方がのんびりしている姿なんて、想像もつきませんよ﹂
アインのあまりに適当と思われる発言に対し、フェルムは半ば呆
れながらそう告げる。
フェルムのそんな見解を耳にしたアインは、苦笑を浮かべながら
975
わずかに首を傾げると、ずれた話の方向性を正した。
﹁そういうものかなぁ。ま、今はいない人の話はどうでもいいよ。
それよりも現状は君の課題をどうするかさ﹂
アインはそう口にすると、一度大きな溜め息を吐き出す。そして
改めてフェルムへと視線を向け直すと、彼は再び口を開いた。
﹁フェルム君、もし君が私を満足させるものを書く自信がないのな
ら、いっその事こんなレポートなんて書かなくていい。君がそこそ
こ優秀なことはわかっているから、卒業の認定に関しては僕が責任
をもって学長に話をつけるよ。とまあ、それを踏まえて君はどうし
たい?﹂
﹁⋮⋮もう一度、先生を満足させられるものを考えて来ますよ。な
ので、少しだけ時間をください﹂
アインの発言に少なからずプライドを傷つけられたフェルムは、
理不尽とさえ思われる再提出を受け入れると同時に、軽く下唇を噛
みしめる。
一方、そんな学生の心境を知ってか知らずか、アインはその発言
を受けてニコリと微笑むと、軽い調子で助力を行うことを明言した。
﹁うん、まあ私も君の卒業担当らしいからさ、少しくらいは手伝う
よ。後日、君の自宅に必要な資料を届けるように手配するから、参
考にしてくれたまえ。じゃあ、そういうことでおやすみ﹂
そう述べたアインは、これで言いたいことは全て伝えたとばかり
に満足気な表情を浮かべると、そのまま前のめりに机に突っ伏して
寝息を立て始める。
そうして目の前のどうしようもないダメ男の姿を目にしながら、
フェルムは右手で自らの顔面を覆うと、行き場のない自らの感情と
ともに大きな溜め息を虚空へと吐き出した。
976
ルナ
﹁こんにちは、フェルム先輩。どうしたんですか、浮かない顔をし
て﹂
とぼとぼとした足取りでアインの教授室を退出したフェルムは、
突然前方から親しげに呼びかける声を耳にした。
やや不機嫌な感情を隠せないフェルムは、突然の呼びかけに対し
いらだちを隠せぬ表情を浮かべたまま、うつむき加減であった顔を
ゆっくりと上げる。
すると彼は、自らの視線の先に、とある美少女の姿を捉え慌てて
襟を正した。
﹁こ、これはルナ王女。失礼いたしました﹂
彼の正面でにこやかな笑みを浮かべる、やや小柄な少女。
彼女こそ紛うことなくこの国の国王の妹、ルナ・フォン・ライン
ドルその人であった。
﹁いえ、別に謝らなくてもいいのだけど⋮⋮って、せ・ん・ぱ・い
っ。前にも私、いいましたよね? 学園の中では一生徒として扱っ
てくださいって。敬語でしゃべられるのはもう諦めましたけど、王
女という呼称はいい加減やめて下さい﹂
彼女がこの大学に入学してはや二ヶ月となる。周囲から特別扱い
されることは自らの立場上仕方ないと割りきってはいたが、彼女と
してはあくまで一学生として扱って欲しい願望を有していた。
しかしながらそのように扱ってほしいと何度言おうとも、依然と
して自分を王女扱いするこの優等生を目の当たりにして、ルナは抗
議の意志を示そうと両頬をわずかにふくらませる。
977
﹁⋮⋮は、はぁ。すいません﹂
﹁とにかく、それは今後改めて気をつけてもらうとして⋮⋮本当に
どうしたんですか? 見たところ、アイン先生の研究室教室から出
ていらっしゃったようですけど﹂
首をわずかにかしげながら、ルナは目の前の堅物の先輩に向かい
そう問いただす。
フェルムはその問いかけに対し、ややバツの悪そうな表情を浮か
べながら、先ほどの出来事を端的に説明した。
﹁実は卒業レポートの相談に行ったのですが、突き返されてしまい
ましてね﹂
フェルムはやや沈んだ声でそう告げると、弱々しい笑みを見せな
がら大きな溜め息を吐き出す。
一方、この大学で並ぶ者のない優等生のそんな姿を目にして、ル
ナは心底意外そうな表情を見せた。
﹁へぇ⋮⋮先輩でも直させられることなんてあるんですね﹂
﹁いや、アイン先生にしかそんなことをされたことはないのですが
⋮⋮どうもあの先生と自分は合わない気がするんです﹂
﹁それはどうして?﹂
ややうつむき気味に呟いたフェルムの声を拾うと、ルナはそんな
彼に向かい首を傾げながら問いかける。
﹁実は今日僕が先生にお見せしたレポートの草案なんですけどね、
魔法科のレリム教授に事前に一度目を通してもらっているんです。
取り扱っている内容も付加魔法だったですし﹂
﹁そういえば、レリム教授は付加魔法の専門家でしたね﹂
元々は宮廷魔法士長の職にあり、実戦派の魔法士として知られて
いたレリムであるが、大学に身を移した現在、彼女はこの国の付加
978
魔法の研究において第一人者とされている。
それ故に、ルナも相談を行う人選としては間違いのない選択であ
った考え一つ頷いた。
﹁ええ。レリム教授は僕の草案は素晴らしいとして褒めてください
ました。でも、それをあの人は斜め読みしてダメですよ。いくらな
んでもちょっと扱いがひどいんじゃないかと思いまして、溜め息を
ついていたところです﹂
﹁なるほど。あのレリム教授が太鼓判を押したとなると、まあ普通
は突き返されるなんて思いませんよね﹂
これまで大学のあらゆる教官がフェルムのことを学年一の優等生
として、大なり小なり別格扱いしていた。それはもちろん今年入学
したばかりのルナとはまったく異なる意味合いであり、彼が他の学
生を大きく引き離しての圧倒的な学年主席であることに起因する。
もちろん周囲のそんな扱いに対し、これまで決して驕ることなく
謙虚に学びを続けてきたという自覚をフェルムは有していた。
しかしながら最高学年となった現在、彼の担当教官となった男は
彼を特別視しないばかりか、むしろ粗雑ともいえる扱いをしている
のではないかと彼は感じ、それが現在の最大の悩みであり不満でも
あった。
﹁僕はもともとこの学校一と言われるレリム先生のゼミに行きたか
ったんですよ。そしてそのための努力もしたつもりです。それなの
に、どうして僕がこの大学に来たばっかりのアイン先生のゼミに配
属されたのか⋮⋮正直言って未だにその理由がわかりません﹂
冴えない表情を浮かべたまま、フェルムは首を左右に振りつつそ
う内心を吐露する。
そんな彼の心境を慮りながら、ルナは彼に関するある噂を確認す
るように問いかけた。
979
﹁確か先輩は、ビグスビー学長のところへまで抗議にまで行かれた
と聞きましたけど?﹂
﹁別に抗議というわけではありませんが⋮⋮ただ、理由を教えて欲
しいと尋ねには行ったのは事実です﹂
先々月の苦い記憶を引き出しながら、フェルムは渋い顔をしつつ
彼女の発言を訂正する。
﹁それで彼はなんと?﹂
﹁今はそうではないかもしれないが、卒業する段階ではきっと君は
私に感謝することになるよと⋮⋮正直言って、そうなるとはとても
思えないのですが﹂
肩を落としながらフェルムがそう口にすると、ルナは幼少時から
接する機会の多かった元外務大臣の声でその言葉が脳内再生される。
そして誰しもが直接的に一切のネタばらしを行うつもりがないこ
とを理解すると、彼女は意味ありげな笑みをフェルムへと向けた。
﹁へぇ、ビグスビーがね。ふふ、貴方の心配もわからないでもない
けど、さぁてどうでしょうかね﹂
﹁えっ⋮⋮それはどういう意味ですか?﹂
思わぬルナの反応にフェルムは違和感を覚え、彼はそのまま彼女
に向かって問い返す。
しかし目の前の美しい少女は、ただ柔らかい笑みを浮かべるのみ
であった。
﹁きっとそのうちわかりますよ、先輩も。では、ここで失礼します。
私もちょっとアイン先生に用がありますので﹂
そう告げるとルナは軽く頭を下げてフェルムの脇をすり抜ける。
この時、フェルムは一つの引っ掛かりを覚えた。
980
その引っ掛かりの本質は、めったに大学にも姿を見せない幽霊博
士に、なぜこの国の王女が用を有しているのかということである。
しかしながら、その時のフェルムはその行為に若干の違和感を覚
えはしたものの、その本質に気がつくことなく、彼は彼女とは逆方
向へとそのまま歩みだした。
この時、もし彼が自らの引っ掛かりに疑念を抱き、そして少なく
ともその場に立ち止まっていれば、彼は不可思議な音に気がついて
いたかもしれない。
そう彼の背後からポキポキと誰かが指を鳴らす音に。
そして﹁頼もう﹂という勇ましい声とともに、アイン研究室のド
アが力強く開け放たれた音に。
981
かつての友と
ラインドルの夜は早い。
それはこの国が北国であるということもあるが、古くからの文化
として、夜間営業をしている酒場が少ないこともその理由の一つに
あげられるだろう。
そんな限られた酒場の一つである輝竜亭。
その二階に存在するとある一室に、見た目は地味ながらも明らか
に仕立ての良い衣服に身を包んだ若い金髪の青年が、椅子に腰掛け
ながら目を瞑ってある人物を待っていた。
すでに約束の時間を大きく過ぎてしまっているが、彼に苛立ちの
表情はない。
それは今日の待ち合わせの相手がこのような遅刻の常習犯であり、
すっかり慣れ切っていることもその一因であった。
﹁やあ、待たせてしまったみたいだね﹂
青年が到着してからどれだけの時間が過ぎただろうか。
彼の到着に伴って出されていた冷たい果実の飲み物がぬるくなり
始めた頃、ようやく待ち合わせ相手であった黒髪の男性が、申し訳
無さそうに頭を掻きながら部屋の中へと姿を現した。
﹁いいえ、僕も先ほどついたところですよ。お気になされずに﹂
﹁はは、そっか。済まないね﹂
遅れて到着して来た大学の研究者であるアインは、生真面目な目
の前の青年のこと故に気を使ってくれていると理解する。だからこ
そ彼は、そそくさと向かいの椅子へと腰を下ろした。
982
﹁今日は週に一度の大学の日でしたよね。そのせいで、朝からあい
つがやけに張り切っていましたよ。というわけで、如何でしたか?﹂
﹁ルナ様かい? はは、いい腕をしているよ。というよりも、また
少し腕を上げられたね﹂
先ほどまで訓練に付き合わされたとある淑女のことを思い、アイ
ンは苦笑いを浮かべながらそう答える。
﹁最近はマルフェスに訓練をつけてもらっているようですから⋮⋮
とはいえ、いささかお転婆すぎるのは悩みの種ですがね﹂
﹁前王陛下は何も言われないのかい?﹂
﹁ええ。やはり二年もの間、あの子はほぼ軟禁に近い状況に追いや
られていましたからね。今はのびのびさせてやれと仰せでして﹂
気持ちはわからないでもないという表情を浮かべながらも、妹に
対する心配ゆえに、青年は左右に一度首を振る。
﹁だから王族なのに大学へ進学されていると、そういうわけか。し
かし、あの活発さだと、夫となる人も大変だ﹂
﹁ですね。できれば貴方があの子を⋮⋮すいません、失言です。忘
れてください﹂
アインがこの地に来ることになったその最初のきっかけを思い出
して、青年はすぐさま謝罪を口にする。
そんな青年の反応に苦笑しながら、アインは努めて明るい声を発
した。
﹁はは、まあどちらにせよ、元気なことはいいことさ。人も、そし
て世の中も明るいに越したことはないからね﹂
﹁そう言えば、リナの方はいかがでしたか? 貴方が来ると聞いて、
昨日は朝からそわそわしていましたが﹂
﹁リナかい? ああ、今朝も私のために食事を用意してくれたよ。
983
少し焦げていたけど、立派な目玉焼きだったね﹂
週に一度だけこのラインドルに滞在する時に、彼の身の回りの世
話をしてくれる可愛らしいレディ。彼女が今朝精一杯背伸びして作
ってくれた料理を思い出すと、アインは柔らかい笑みを浮かべた。
﹁それはそれは。普段、僕には一度も料理なんて作ってくれないの
になぁ⋮⋮﹂
﹁おいおい、自分の立場を考えてくれよ。どこの国に、養女に目玉
焼きをねだる国王がいるのさ﹂
﹁あのですね、今日の僕は国王ではなく、元レジスタンスのカイル・
ソーマですよ。玉座に座っている男とは別人です。そういう設定で
ここに来ているんですから、忘れないで下さいね﹂
たしなめるような口調でカイルはそう告げると、アインは思わず
頭を二度掻く。
﹁設定って⋮⋮いや、名前を変えればよいってものでもないだろう
に、まったく﹂
﹁よりにもよって、貴方には言われたくないですよ。アイン・ゴッ
チさん﹂
﹁アインでいいよ。たまにフルネームを言い間違えたり忘れること
があるから、最近はアインとしか名乗らないことにしているんだ﹂
﹁そんなに急に老けたわけでもあるまいし、普通に考えてあなたが
その程度のことを忘れるわけが無いでしょ﹂
目の前の黒髪のことを良く知るカイルは、呆れたような表情を浮
かべながらそう述べた。
﹁君もすぐにわかると思うけど、年齢というものは無情であり、そ
して抗いがたいものなんだよ﹂
﹁すぐ歳のせいなんかにして⋮⋮結局のところ貴方のことですから、
今の自分の名前に何の興味もないだけでしょう﹂
984
﹁はは、痛いところをつくね。でも、そこまでわかっているなら聞
かないでくれよ。それはともかく、今日のお忍びはどういったご用
件なんだい?﹂
話がやや不利な方向に進みかけていることを悟ったアインは、敗
北を認めたかのように一度大きな溜め息を吐き出すと、話題の矛先
を切り替える。
﹁一応、ここ最近の大陸西方の動きを、貴方にお話ししておこうか
と思いまして﹂
﹁ああ、そういう要件か⋮⋮ごめん、申し訳ないけど全く興味がな
い﹂
あっさりとした口調でアインが一刀両断すると、さすがにカイル
も苦笑する。
﹁そんなこと言わないでくださいよ。せっかくここまで足を運んで
きたんですから。それに我が国の行動指針を定めるためにも、現状
に対するあなたの見解を伺ってみたいんです﹂
﹁仕方ないなぁ⋮⋮まあ、たまには相談に乗るという約束でこの仕
事を貰ったわけだから、話くらいは聞いてあげるけどね﹂
﹁それでは貴方の気が変わらないうちに、早速﹂
アインの言質をとったと判断したカイルは、ニコリと笑みを見せ
ると、すぐさま話を続ける。
﹁まず我が国と隣り合わせにあるクラリスですが、これは大揉め中
ですね。とある英雄がいなくなったために、国家が女王派と貴族院
派に二分されて、お互いが牽制しあっている状況です。ただ、四大
公の中でこれまでブラウ公が最大勢力でしたが、レムリアックの直
轄化により現在はライン公が急激に勢力を伸ばしておりまして、こ
の均衡は崩れつつありますね﹂
﹁ふむ、なるほどね﹂
985
アインは完全に人事であるかのような素振りで、一つ相槌を打つ。
その彼の反応を目にしたカイルはやや呆れたような笑みを浮かべ
ながら、ボソリと呟いた。
﹁まぁ、そうなると見越してあらかじめ手を打っていたあの英雄殿
には本当に感心しますよ。もちろん僕には、仮に思いついてもとて
も実行には移せなかったでしょうが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮それで、君は今後クラリスはどうなると考え、そして彼の国
とどう向き合うつもりなんだい?﹂
カイルの発言を丁重に無視したアインは、目の前の青年の瞳を覗
きこむようにしながら、そう問いかける。
﹁現状は傍観を決め込むのが得策だと考えています。おそらく最終
的には女王派が勢力争いに勝つでしょうが、天秤が完全に傾くまで
にはまだ時間がかかりそうですね。実際にそれを見極めてからでも、
コンタクトをとるのは遅くないかと﹂
﹁ふむ、ラインドルの一市民たる私も、君の意見に賛成だね﹂
﹁まあ本音を言うと、現在の女王派を仕切っている人たちには、こ
の国を救って頂いた恩のある方が多いですからね。どちらかに荷担
しなければならなくなった際には、迷わず女王派の援護に回るつも
りです﹂
自分の目を見ながら、はっきりとそう断言したカイルを見て、ア
インは頭を二度掻く。
﹁別に私に気を使う必要はないんだよ﹂
﹁いえ、もちろん先ほど言ったとおり、私情が入っていないわけで
ありません。でも冷静に考えて、今後この国が付き合っていくべき
価値を有しているのは女王派だけでしょう?﹂
﹁⋮⋮まぁ、そのあたりのコメントは伏せるよ。それで他の国はど
うなっているんだい?﹂
986
やや返答に困ったアインはわずかに肩をすくめると、話題を次へ
移させる。
﹁そうですね⋮⋮では、まずケルム帝国ですが、彼の国はフィラメ
ントとの戦争の影響が浅からずと言ったところでしょうか。だいぶ
国力も持ち直してきて、依然大陸西方においてその国力は注視せざ
るを得ませんがね﹂
﹁確かに⋮⋮ね。ならばフィラメントはどうなんだい?﹂
﹁あの国は、今はディオラムを除く二家がお家騒動の真っ最中です
からね。まさか帝国との戦いで、いきなり当主が二人とも同時にい
なくなるとは思っていなかったでしょうから、後継者争いが続いて
います。もしこれ以上長引くようでしたら、帝国あたりが侵攻を開
始するかもしれませんが⋮⋮おそらく現状では難しいでしょうね﹂
目の前のワインの注がれたグラスをわずかに弄びながら、カイル
はアインに向かってそう告げる。
すると、顎に手を当てたアインが、目の前の青年に向かって疑問
を口にした。
﹁それはどうしてだい? フィラメントは内乱状態のようなものな
んだろ。いくら前回の戦いは諸般の事情で併呑を見送ったからって、
このまま座して見ているとは考えにくいのだけど﹂
﹁そうですね、帝国に十分な余力が有れば、今頃併呑に向かってい
たかもしれません。そう、たとえばクラリス方面軍がかつての戦い
で消失していなかったら⋮⋮すいません、話が少しそれました。と
もあれ、帝国がフィラメントを侵攻しない理由は簡単です。その余
裕がないからですよ﹂
アインの視線がわずかに強くなったことを感じたカイルは、謝罪
を口にしつつ、彼なりの帝国の評価を口にする。
﹁余裕がない? クラリスの侵攻にでも備えているというのかい。
987
彼の国もほぼ内乱状態に近いというのに﹂
﹁いいえ、違います。おそらく帝国が警戒しているのはもう一つの
大国の方でしょう﹂
﹁ああ⋮⋮なるほど。キスレチン共和国か﹂
アインの発言から、大陸西方におけるもう一つの巨大国家に思い
が至ったアインは納得したとばかりに一つ頷く。
﹁はい。実は先日、キスレチンの元首が国民投票の結果変わったの
ですが、ご存じですか?﹂
﹁いいや、ぜんぜん﹂
本当にまったく関心がないような仕草で、アインは左右に首を振
る。
その反応を目にしたカイルは、疲れたように言葉を吐き出した。
﹁⋮⋮だと思いました。キスレチンですが、先日まで元首を務めて
いた自由都市同盟のフェリアム氏が敗北し、現在は民主改革運動の
新しい代表であるトミエル氏が元首の座にあります﹂
﹁ふぅん、改革派が⋮⋮ね﹂
﹁ええ、三年ほど前にフェリアム氏の派閥で、帝国との癒着が見つ
かるという大スキャンダルがありましたからね。自由都市同盟に存
在したかつての盤石な結束が揺らいでいることは噂されていました
が、しかしまさか敗北するとは﹂
そのカイルの発言を耳にして、今回のキスレチンにおける選挙で
の敗北にまつわる外部要因に自らが関わっていることを理解し、ア
インは苦笑いを浮かべながら頭を掻く。
﹁しかし、多少のスキャンダルがあったとしても、それだけであの
頑固親父たちが負けるとは思わないな。他に何か理由があったんじ
ゃないのかい?﹂
﹁頑固親父って⋮⋮もしかしてフェリアム氏のことをご存知なので
988
すか?﹂
アインの言葉に、カイルは思わず大きく目を見開く。
するとなんでもないことのように、アインは軽い調子で頷いた。
﹁ああ。昨年、少しだけ世話になってね﹂
﹁貴方のことですから、ありえないとは思いませんが⋮⋮まったく。
ともかく、今回の選挙の敗北は民主改革運動の路線変更によるもの、
つまり彼らが統一宗教主義戦線と手を組んだからですよ。まあ、そ
れでも数年前のあの事件がなければ勝てなかったでしょうがね﹂
﹁改革派が戦線派とねぇ⋮⋮しかし彼らがまさかあのクレメア教団
と手を結ぶとは正直意外というか、考えもしなかったよ﹂
平和と平等を理念として掲げるクレメア教団と、対外拡張政策を
唱える改革派とは以前より水と油と言われ続けている。それ故に、
いくら政権を手にする機会であったからとはいえ、この二つの政党
が手を結ぶとはアインとしてもまったく想定していなかった。
﹁それなんですがね、改革派のトミエル氏は大の魔法排斥主義者な
のですよ﹂
﹁ああ、なるほど⋮⋮そういうことか﹂
そのカイルの言葉を聞いて、ようやくアインは納得する。
クレメア教団の理念である平和と平等。
その特に後者である平等に関しては、ある一つの考え方が特徴的
であると言われていた。つまり魔法廃絶主義である。
彼らは魔法を操るものと操れないものの不平等を常々唱えており、
極秘裏にキスレチン国内の魔法士を暗殺しているという噂は後を絶
たない。
それ故に彼らの唱える平和主義は、あくまでクレメア教団目線で
の平和だと揶揄する声も少なくなかった。
989
しかしながら魔法を使えない者にとっては、教団と信仰は共にし
ないものの、その理念には共感を覚えているものも少なくない。そ
のまさに代表格が改革派のトミエルであった。
﹁ええ、そういうことです。そしてトミエル氏が元首となるや否や、
彼は我がラインドルに対して、一方的に魔法技術の破棄を求めてき
ました﹂
﹁へぇ、それで要求に応じる気は?﹂
﹁まさか。彼が送りつけてきた外交大使とは、終始曖昧な会話に終
始して、何一つ言質を取らせないでおきましたよ﹂
﹁ふむ⋮⋮現状ではそれがベストだろうね﹂
カイルの話をゆっくりと咀嚼し、アインはシンプルにそう答えた。
﹁はい。ただ、やはり国としての規模が違います。もしあの国が戦
争も辞さぬ覚悟で強気に出てくることがあれば、その時は我が国は
選択を迫られるでしょう﹂
﹁ふむ。やはりこれら一連の動きは、キャスティングボードをクレ
メア教団が握ったからこそと考えるべきなんだろうね﹂
﹁ええ、僕もそう考えています﹂
アインの見解を受けて、カイルはすぐに同意を示す。
﹁どちらにせよ、明日明後日にどうこうできるたぐいの問題では無
い。それはきっと先方もわかっているだろう。時間は十分にあるさ。
その間に、手を打てることもあるだろう﹂
﹁打てる手ですか﹂
﹁ああ⋮⋮フェリアムのおやじさんを、そう自由都市同盟を援助す
ることとかね﹂
﹁それは考えないでもなかったですが⋮⋮ですが、あまり露骨にす
ると我々への圧力が強まらないでしょうか?﹂
カイルはアインの提案を耳にしてわずかに悩むと、躊躇するかの
990
ような口ぶりでそう述べる。
﹁そりゃあ可能性はあるさ。でもね、カイル。逆に視点を彼の国に
おいて見ようよ。遠く離れた小国が自分たちの言うことを聞かない
事よりも、目の前の対立勢力が躍動することを嫌うと思わないかい
? それに小国であろうと、キスレチンとこの国には距離という名
の鎧があるわけだしね﹂
﹁距離とは時間。そして目を離すことができない対立軸を存在し続
ける限り、彼らはこの国に影響力を及ぼせないと⋮⋮そういうわけ
ですか﹂
カイルは彼なりにアインの発言を咀嚼し、確認するかのようにそ
う発言する。
すると、アインはニコリと笑みを浮かべ、彼の見解を肯定した。
﹁その通りさ。もちろん多少の嫌がらせくらいはしてくるかもしれ
ないけど、それが余計に保守派への肩入れを進める結果となるなら
ば、彼らはどこかでラインドルとの妥協を選ぶだろう。少なくとも
自由都市同盟との戦いがはっきりと片付くまではね﹂
﹁なるほど⋮⋮たしかにそうですね﹂
﹁そう、だからこそ一番重要なことは情報さ。諜報網を、そうかつ
てムラシーンが作り上げていた程度の諜報網の再構築は急ぐべきだ
ろうね﹂
そのアインの発言に、わずかにカイルは表情を強張らせた。
何故ならば今回のキスレチンの政変に関しては、ことが全て終わ
った後にようやく情報がカイルのもとに届けられたのである。
もちろん決して彼とて情報を軽視しているわけではなかった。し
かしながら現実問題として、どうしても足元のことに目が行ってし
まいがちであったことは事実であり、わずかに苦虫を噛み潰したか
のような表情を浮かべると重い口を開く。
991
﹁⋮⋮そうですね。確かに、国内の事ばかりで、外に対して目を向
けて無さ過ぎました。だから今回のキスレチンの政変にも後手にな
ったのかもしれません﹂
﹁国内⋮⋮ね。そう言えば、北のほうが騒がしいと聞くけど、どう
なんだい?﹂
﹁興味ないという割には、お詳しいですね﹂
アインの話の矛先が変わったことを受け、ややカイルは意外そう
な表情を浮かべる。
しかしアインはなんでもないことのように、その情報源となった
人物のことを口にした。
﹁君の妹さんから、ね。もしかしたら、先王陛下に出張って頂かな
いといけないかもとは言っていたけど﹂
﹁ええ、確かに少しめんどくさいことになっています。というのも、
もともとムラシーンが北の出でしたから、彼の有していた所領の分
割案が中々にまとまりませんで⋮⋮﹂
﹁もともとラインドルは小国家の集合体だからね。確かに目の上の
たんこぶが消えたとなれば、お互いの利益関係でのもめ事が生まれ
ることもあるか﹂
ラインドル王国の興りは、もともと大陸西北部にあった小国家群
が、南部のクラリスや大陸中央でかつて猛威を振るったキエメルテ
共和国から身を守るために、団結して同盟関係を結んだことがその
国家の始まりである。
現在、クラリスはその力を弱め、そしてキエメルテ共和国は分裂
してその主な部分はキスレチン共和国となり、大国ではあるものの
かつて程の絶対的な力は無い。
それ故に、互助的な同盟関係から発展したこの国が外敵の脅威を
失い、そしてムラシーンのような強権的な指導者を失うことで、か
992
つての小国家群ごとに小競り合いを始めることは予期された事態で
はあった。
﹁ええ、本当は僕が行ければ一番いいのですが、さすがに長期間こ
の地を離れるわけには行きません。西方会議も控えていますしね。
ですので、父に行ってもらうつもりです﹂
﹁西方会議か⋮⋮そう言えば、もうそんな年だったね﹂
大陸西方にて急速に勃興したケルム帝国。
その封じ込めを図り、キスレチンが音頭を取って設立したのが、
西方会議である。
八年に一度開かれるこの会議は、各国の代表が出席するのが習わ
しとなっており、もちろんその会議の内容は帝国に関するものだけ
ではなかった。つまり交易や国境問題など、国家間調整が必要とさ
れる非常に多くの事柄について、集中的に議論が交わされる場とな
っている。
そして前回開催から八年を経た今年は、第六回目となる西方会議
が開催される年であった。
﹁はい。しかしおどろくべきことに、今回はうちもクラリス王国も、
そしてフィラメント公国やキスレチンまでもが国の代表が入れ替わ
っています。こんなこと、おそらく西方会議始まって以来ではない
でしょうかね﹂
﹁まあ、それだけ世の中が忙しかったってことさ。しかし、それな
らば君が身動き取れないのもやむをえないか﹂
﹁国の代表として恥ずかしくないだけの準備はしなければなりませ
んからね﹂
﹁恥ずかしい⋮⋮ね。もう今の君はそんなことを心配する必要はな
いさ。本当に立派な国王になった。リナを目にして後先考えずムラ
993
シーンの兵士に飛びかかった頃とは、まるで別人のようにね﹂
まだ問題は山積みでありながらも、あれだけ荒廃し果てた国家を
確実に前進させ続けている青年に向かい、アインはあえてやや意地
の悪い笑みを浮かべる。
しかしその青年からの返答は、彼の予期せぬものであった。
﹁いえ、今でもあんなことがあれば僕は飛びかかりますよ。ただ、
あのようなことを起こらないような国にしていく。それが僕にしか
できない仕事なんだと、自覚しただけです﹂
﹁ふふ、君の相談に乗る⋮⋮か。どうやらその仕事も、そろそろ終
わりになりそうだね。カイラ王、今や貴方は間違いなくこの国の民
が誇れる国王だよ﹂
994
アインを訪ねて
ラインドル王立大学の中央図書館。
ズラリと並べられた無数のテーブルの一つに、頬杖をつきながら
溜め息を吐き出す淡い銀髪の青年の姿がある。
彼がこの席に腰掛けてからこれまでに、周囲の座席には何人もの
生徒が座り、そして立ち去っていった。
しかしながら彼が向き合う白紙の紙には、未だたったの一つの文
字も記されていない。
そしてその事実が、ますます青年の気を重くさせていた。
﹁どうも、フェルム先輩。レポートは順調ですか?﹂
明らかに図書館の空気を重くさせているその背中に向かい、突然
背後からボーイッシュな声が掛けられる。
聞き覚えのあるその声を耳にしたフェルムは後ろを振り返り、そ
して今の彼とは真逆の、まるで太陽のように明るい笑顔をそこに見
た。
﹁ああ、ルナ王女。おはようございます﹂
﹁だから学内では王族扱いしないでくださいって言ってるでしょ。
なんか先輩に言っても無駄な気がしてきたけど﹂
反射的にいつもと変わらぬ反応を示してきたフェルムに向かい、
もはや諦めの気持ちがないわけではなかったが、ルナは抗議の意志
を伝えようと両頬を膨らませる。
﹁あ、申し訳ありません⋮⋮えっと、その、レポートに関しては、
995
まあそこそこといったところですね﹂
しまったと思い、フェルムは慌てて話の矛先を目下の課題へと移
す。
すると、ルナはやれやれといった笑みを浮かべながら、その有す
る才能と異なり人付き合いには少しだけ不器用な先輩の話に合わせ
てあげた。
﹁ふぅん、そうなんですね。それで、いったい先輩はどんなレポー
トを書こうとしているのですか?﹂
﹁僕のレポートは、この間もお話したように付加魔法です。その中
でも魔石を流用した研究に関するものですよ﹂
話に合わせてくれた後輩に苦笑しながら、フェルムは自らのレポ
ート課題を口にする。
﹁魔石を? それはつまり自身が持つ魔力の代わりに、魔石の力を
使うということですか?﹂
﹁ええ、そのとおりです。例えばレリム先生が扱う﹃アスィエ﹄と
いう付加魔法が、うちの大学では有名ですよね﹂
﹁ああ、あの剣の長さを魔力を使って自由に変化させる魔法ですが﹂
もともと宮廷魔法士長時代から、たまに模擬戦などで目にするこ
とがあったレリムの魔法を思い出し、ルナは相槌を打つ。
﹁あれは実は剣以外にも流用できる魔法なんですが、それもこれも
レリム先生の膨大な魔力があってこそなんですよ。ですので、それ
を普通の人が再現するには、外部から魔力を持ってくるしか無いと
僕は考えました。その上で、魔石から魔力を安定供給すれば、魔法
で改変したモノの形状を常時固定化できるのではないかというのが、
僕の研究の要旨ですね﹂
﹁へぇ、それは面白いですね。よそから魔力だけ持ってくるわけで
すか⋮⋮そう言えば、人の魔法に外から魔力を流し込む人もいます
996
しね。その親戚みたいなものですね﹂
ルナがニコリとした笑みを浮かべながらそう述べると、フェルム
はやや怪訝そうな表情を浮かべた。
﹁人の魔法に魔力? はは、どこで聞かれたか知りませんが、それ
は騙されていますよ﹂
﹁あら、そうなのですか?﹂
不思議そうな表情を浮かべながら、ルナは首を傾げてみせる。
そんな彼女の仕草を見て取ったフェルムは、仕方ないとばかりに
現在の定説を口にした。
﹁ええ。人の魔法に干渉するなんてことは、確かに大魔法師フィラ
メントが理論上は可能と述べていますが、実際に実現したものなど
おりません。その人個人の色を持たない魔石だからこそ、魔力の足
しにできるのではないかと、研究され始めているのですから﹂
﹁ありえない⋮⋮ね。うん、取り敢えず先輩の説明はわかりました。
でもそうすると、例えば帝国が扱っていると噂される大規模集合魔
法はどう説明されるのかしら?﹂
あえて彼女は身近な例を口にすることなく、近年開発された魔法
の中でも最も有名な巨大魔法の事を例に上げた。
するとフェルムは一つ頷き、そして自らの見解を披露する。
﹁そうですね。噂で耳にした範囲ですが、あの魔法は集団でひとつ
の魔法を作るわけですから先の例に近いものだとは思います。でも、
あれは始めから全員で一つの魔法を作るように設計されたものです
から、干渉とはいえません﹂
﹁なるほど。しかしそうなると、先輩のやろうとしていることは、
ある意味では新しい魔法を開発するようなものですね﹂
﹁ええ、そのとおりです。なので、残念ながらご覧の有様で﹂
フェルムは自嘲気味にそう述べると、白紙のままの紙をルナへと
997
見せる。
その全く汚れ一つ無い紙を目にして、彼女は気まずげに苦笑いを
浮かべた。
﹁あらら。しかしどうしたものですかね。このままだと先輩は留年
ですし⋮⋮あ、そうだ。やはり専門分野のレリム先生のところにも
う一度行かれてはどうですか﹂
﹁それが⋮⋮実は既に今日行ってきました﹂
ルナの口にしたことを既に先回りしていたフェルムは、一層渋い
表情となる。
そんな彼の表情から、結果が芳しくなかったことを理解したルナ
は、やや遠慮がちに尋ねた。
﹁えっと、何か問題があったのですか?﹂
﹁﹃私のところに来るよりも、奴に直接聞くべきだ。君は何もわか
っていない﹄と言われてしまいましてね、そのまま門前払いですよ﹂
﹁そうですか⋮⋮そう言えばレリム先生が付加魔法を主に取り扱い
始めたのは、確か四年前でしたね。ふむ、なるほど﹂
少し遠くを見るような視線でルナは納得したかのようにそう口に
すると、かつて宮廷魔法士長への復職を打診された彼女が、あっさ
りと固辞した時のことを思い出す。
一方、心がここになさ気なルナの様子に違和感を覚え、フェルム
は首をわずかにかしげながら、少し控えめに彼女に向かって声をか
けた。
﹁ルナ⋮⋮様?﹂
﹁あ、ごめんね。こっちの話。ともかく、レリム先生がそう言われ
るのだとしたら、やっぱり直接アイン先生のところに行けばいいじ
ゃない﹂
﹁でも、アイン先生は週に一度しかここに居らっしゃらないですし
998
⋮⋮﹂
ルナの提案に対して、フェルムは週に一度しか姿を現さない幽霊
博士のことを口にする。
﹁それは知っています。けど、だとしたら直接会いに行けばいいの
ですよ。簡単な話じゃないですか﹂
﹁え、会いに⋮⋮ですか? でも、あの人がどこにいらっしゃるか
がわからないですし﹂
﹁ふふ、私は知っていますよ﹂
いたずらっぽい笑みを浮かべつつルナがそう告げると、フェルム
は驚きの声を発する。
﹁えっ! なぜルナ様が﹂
﹁それは⋮⋮えっと、ちょっと古い知り合いだからかしら﹂
﹁ルナ様と古い知り合いって⋮⋮あの人は一体何者なのですか? レリム先生もなにか言いよどんでいる素振りがありましたし﹂
こうやって大学にいるからこそ出会うことも会話することも可能
であるが、フェルムとルナの間には本来話しかけることすら困難な
ほどの身分差が存在している。
そのような高貴なラインドルの王女と、あの怠惰な研究者が以前
から知りあいであったという事実に、フェルムは目を白黒させなが
ら疑問を抱かずにはいられなかった。
﹁ふふ、その質問は却下。でも、あの人がどこにいるのかは教えて
あげます。あの人はこの街を南に出て、その西に広がっている森。
その中のとある屋敷の中で、いつも一人で研究をしています﹂
﹁南にある森⋮⋮それってまさか!﹂
先ほどの問いかけははぐらかされてしまったものの、それ以上に
驚くべき発言をルナが口にしたため、フェルムは思わず口をあんぐ
りと開ける。
999
そんな彼に向かって、ルナは片目をつぶってウインクしてみせる
と、全く想定外の提案を彼に向かって放った。
﹁ええ。通称迷いの森。その中に存在する、かつてレジスタンスと
名乗っていた人たちが使っていた隠れ家に、あの人は今もいるはず
ですよ。さて、もし先輩がこれから向かうつもりなら、いい機会だ
し私も同行させてもらうとしましょうか﹂
迷いの森と呼ばれるラインドル南西の広大な森林。
そのある一画に、周囲から隔絶されたようにひっそりと、しかし
それなりの大きさを持ったその館は存在する。
そう、その建物はかつてムラシーンと呼ばれるこの国を乗っ取ろ
うとした大臣と戦うため、レジスタンスと呼ばれる人々がその本拠
地とした建物であった。
レジスタンスによるクーデター事件の後、ここを本拠地としてい
た王子派の人々は全て王都へ移り住み、この館はいつの間にかその
存在自体忘れ去られようとしていた。
しかし、先日この国を訪れただらしない黒髪の男がいつの間にか
この屋敷に移り住むようになり、そして現在は意味不明な大量の書
物と物品が、かつての住民の代わりにその空間を支配するようにな
っている。
そんな現在のこの館の主は、ロッキングチェアに腰掛けたまま、
寝ぼけ眼で古めかしい黒い革のカバーの掛けられた書物を斜め読み
1000
する形でペラペラとめくっていた。
﹁ふむ⋮⋮少し難しいかもしれないけど、彼に渡すのはこいつで決
まりかな。彼ならここから十分に新しい発想を得るだろうし、そし
てその向こう側の存在にまでは至ることはないだろうからね﹂
誰に言うわけでもなく、目の前の書物の内容を再確認した黒髪の
男は、そう呟くと同時に大きく伸びをする。そして肩が凝ったため
か、二度ほどぐるりと首を回すと、眠気覚ましのコーヒーを淹れる
ために彼は立ち上がった。
すると、まさにそのタイミングで、普段は誰も訪れるはずのない
この屋敷のドアがノックされる。
﹁ん、誰かな⋮⋮ああ、そうか、今日はちょうどあの日か﹂
アインは暦を思い出して、ぼんやりとそう呟く。
そしてのろのろとした足取りで入口へと向かうと、彼はゆっくり
と扉を開ける。
すると彼の瞳には、一人の無骨な男性の姿が映り込んだ。
﹁やあ。久し振りだね、クレイリー﹂
1001
訪問者と侵入者
﹁旦那ぁ⋮⋮三ヶ月前にお会いしたばかりでやすよ﹂
クレイリーは目の前に姿を現した男を目にするなり深い溜め息を
吐き出すと、呆れたようにそう口にする。
するとアインは、苦笑いを浮かべながら、誤魔化すように頭を掻
いた。
﹁そうだったっけ? はは、そういえばそうだった﹂
﹁まったく旦那は⋮⋮まあ、いいでやす。それより頼まれていた今
回の分はあっちに運ばせていただきやしたぜ﹂
﹁ああ、ありがとう。ちょうどこの間の分が無くなりそうだったか
らね。助かったよ﹂
クレイリーの運んできた荷が置かれている倉庫にちらりと視線を
向け、アインは笑みを浮かべながら感謝を口にする。
一方、大量の荷物を持参してくる羽目になったクレイリーは、改
めて目の前の男にその目的を問いただした。
﹁しっかし、魔石ばっかりこんなに使って、一体何をしようってい
うんですか?﹂
﹁魔石の使い道かい? ほら、これなんか眺めているだけでも綺麗
じゃないか﹂
そう口にすると、アインは胸元から真紅の結晶で構成された魔石
のペンダントを取り出す。
まるで普通の宝石であるかのように、透き通った赤色の結晶を目
にして、クレイリーは首を左右に振った。
﹁そんな観賞用に加工した魔石じゃないんでやすから、適当な事言
1002
わないでくださいや。今日持ってきたのは、ほとんど原石のままの
やつでやすよ。さすがに加工したやつをちょろまかすとバレやすか
らね﹂
﹁まあ、そこは仕方ないね。本当は加工した奴がありがたいんだけ
どさ﹂
クレイリーの持ち出してきた魔石の出元をよく知るが故に、その
事情を理解してはいたが、それでもなおアインは残念そうな声を上
げる。
﹁だからそれは無理でやすって。こいつを抜いてくるだけでも、帳
簿を結構いじって何とかやりくりしてるんでやすから﹂
﹁ああ、わかっているよ。いつも済まないね、クレイリー﹂
﹁へ⋮⋮ま、まあ別に旦那のためなら、これくらいはいいんでやす。
気にしないでくだせえ﹂
珍しく素直にアインが感謝を口にしたため、慌ててクレイリーは
言葉を取り繕う。
﹁ふふ、まあいつまでもそこに突っ立っていても仕方ないだろ。中
に入ろうか﹂
目の前の焦るクレイリーの姿を目にしたアインは、思わず苦笑す
ると、一歩後ろへと下がって道を開く。そして彼は混沌の支配する
屋内へとクレイリーを案内した。
﹁こいつはまた⋮⋮旦那ぁ、いつまでこんなところに一人で住んで
いるつもりでやすか? いい加減、うちに帰るか、それがだめなら
ラインドルの中にでも住みやしょうぜ﹂
目にした空間のあまりの惨状故に、クレイリーは思わず顔面を自
らの手のひらで覆った。そして彼はすぐさま、最低限の生活さえで
きれば良いと考えていそうな目の前の男に向かいジト目を向ける。
1003
﹁はは。それができれば楽でいいんだけど、今はここにいる方が気
楽だからね。でも、一足早い隠居生活ってのも、悪くないものだよ
クレイリー。それにさ、たまにこうやって君も訪ねてきてくれるし
ね﹂
クレイリーの苦言を耳にしたアインは、ごまかすかのように笑い
ながら、彼に向かってそう告げる。
だが、今度はさすがにクレイリーも懐柔されること無く、あえて
実現不可能な提案を口にした。
﹁誰かに来て欲しいんでしたら、あいつらにこの場所の話をすれば
いいですぜ。たぶん毎日のように、誰かがここに遊びに来ると思い
やすがね﹂
﹁いや、さすがにそれは困るな。それじゃあ、騒がしくなってせっ
かくの隠居生活が台無しだ﹂
﹁しかし隠居生活ねぇ⋮⋮どちらかと言うとここで住んでるなら、
隠遁生活といったほうが正しい気がしやすが﹂
﹁ははは、なるほど。隠遁、隠遁ね。うん、それも悪くない﹂
アインは隠遁という言葉が気に入ったようで、何度も﹃隠遁﹄と
いう言葉を繰り返す。
一方、彼のそんな姿を目にしたクレイリーは一度首を左右に振る
と、話題の矛先を転じた。
﹁それで、旦那。たまにはクレハのやつは来てるんですかい?﹂
﹁いや、彼女にはちょっと面倒なことを頼んでいるところでね。本
当に男一人、気楽な生活さ﹂
﹁はぁ⋮⋮やっぱり。だからこんなに散らかっているんでやすね。
ねぇ、旦那ぁ。だれでもいいでやすが、家政婦か何かを雇ったらい
かがですかい﹂
散乱しきったその空間をぐるりと見回し、クレイリーは溜め息混
じりにそう提案する。
1004
﹁家政婦? おいおい、クレイリー。そんな知りもしない人を雇っ
たら気を使って仕方ないだろ。この優雅な隠居、いや隠遁生活が台
無しだよ﹂
﹁別にわざわざ言い換えなくてもいいでやすよ。それにそんなに気
を使うのが嫌なら、気を使わない人を招けばいいでやしょ。クレハ
がだめだと言うんなら、うちのセシルさんはいかがでやすか﹂
少し意味ありげな視線を向けつつ、クレイリーはアインにそう問
いかける。
一方、その人名を耳にしたアインは、やや弱った表情を浮かべる
と二度頭を掻いた。
﹁セシル⋮⋮か。うん、そうだね。彼女がいたらとても助かるだろ
うね。だけど⋮⋮多分彼女に頼り切りになるだろうから、それもダ
メさ。私はまだ自分の足で歩けるのだからね﹂
﹁はぁ⋮⋮この部屋をしてその言い草はどうかと思いやすがね。ま
あ、旦那にその気がないっていうんなら構わないんでやすが﹂
﹁はは、さしあたっては⋮⋮ね。あ、でも週に一度だけ滞在するラ
インドルの宿舎には、部屋の清掃してくれるかわいいお嬢さんがい
るんだよ。最近料理まで上達してきてね。本当に目に入れても痛く
ないくらい可愛いものさ﹂
分の悪い会話だと悟ったアインは、苦笑いを浮かべつつ、話題の
矛先をわずかにずらす。
すると、まったく予期せぬ事実に、クレイリーは目を見開いた。
﹁へ! ま、まさか旦那にそんな人が⋮⋮ん、お嬢さん⋮⋮それっ
てもしかしてリナのことでやすか?﹂
期待したあっしが馬鹿だったとでも言いたげな表情を浮かべなが
ら、クレイリーはある程度の確信を持ってそう問いかける。そして
予想通り、目の前の男が力強く首を縦に振るのを、彼はその目にし
1005
た。
﹁ああ、そのとおりさ。おっと、ダメだよクレイリー。君が独身だ
からって、うちのリナは君にはあげないからね﹂
﹁なんであっしに火の粉が飛んでくるんでやすか⋮⋮あっしに幼女
趣味はないでやすよ﹂
アインの発言を耳にしたクレイリーはげっそりとした表情を浮か
べる。そしてその意味の分からぬ発言を否定した。
すると、アインはとたんに目を見開き、クレイリーに向かって抗
議を口にする。
﹁ちょっと待ってくれ、クレイリー。まさかうちのリナに魅力が足
りないと、もしかして君はそう言っているのかい?﹂
﹁はぁ⋮⋮旦那の親馬鹿も困ったものでやすね。それはいいでやす
から、それより、さっきから旦那が見ているその鈴はなんですかい
?﹂
クレイリーは呆れたように額を抑えながら、先程から部屋の中で
鳴り続けている鈴を見つめるアインへ尋ねる。
﹁ああ、これかい? これはちょっとした仕掛け⋮⋮かな﹂
﹁仕掛け? 一体、何のでやすか?﹂
アインの言っていることの意味がわからなかったクレイリーは、
首を傾げながらそう問いただす。
一方、アインはニコリとした笑みを浮かべ、やや誇らしげに口を
開いた。
﹁ほら、君にはここに来るとき、正しい道筋を教えただろ。覚えて
いるかい?﹂
﹁ええ、今日もその通りに来やしたが、それが何か?﹂
﹁もしその通りに来ない場合、森の仕掛けが作動してね、こいつが
1006
動くようになっているのさ。さてさて、一体どんなお客さんなのか
なと⋮⋮ああ、なるほど。そう来たか﹂
窓の外へと視線を転じたアインは、おそるおそるこの建物に近づ
きつつあるその人物たちを目にして、ニンマリとした笑みを浮かべ
る。
﹁侵入者⋮⋮でやすか? もしかして、あっしも戦った方がいいで
やすか?﹂
﹁ううん、かわいいお客さんだから別に⋮⋮いや、待てよ。うん、
クレイリー。今、君はとても良いことを言ったよ﹂
﹁は?﹂
思わぬアインの言葉に、クレイリーは虚を突かれたような表情を
浮かべる。
﹁だからさ、君のさっきの提案は実に素晴らしい。うん、まさにグ
ッドなアイデアさ。ふふ、ではちょっと耳を貸してくれるかな?﹂
言い様もないほど底意地の悪そうな笑みを浮かべたアインは、ク
レイリーに向かってある仕事を口にする。
その予期せぬ頼みを耳にしたクレイリーは、来るんじゃなかった
とばかりにげっそりとした表情を浮かべると、肩を落としながら深
い溜め息を吐き出した。
1007
山賊
ラインドルの首都セーブルの南西に位置する迷いの森。
普通の人間ならば決して足を踏み入れないこの森に、一人のやや
大人びた青年と、フードをかぶって顔を隠した少女の姿があった。
﹁ルナ様。こんな所まで来てしまいましたけど、あの⋮⋮本当に大
丈夫なんですか?﹂
﹁ここまで来たら、もう誰も私のことに気づく人なんていませんよ。
先輩は本当に心配症ですね﹂
﹁いや、そういう意味ではなくてですね⋮⋮﹂
王宮に連れ戻されることの心配しかしていないルナを目にして、
フェルムは額に手を当てながら言葉を濁す。
すると、そんなフェルムの仕草を目にしたルナは、ニコリと彼に
向かって微笑んだ。
﹁ふふ、まあ、ここまで来てしまったらもう一緒ですよ。それにこ
の迷いの森には私を狙う人なんかいるわけ無いし、むしろ逆に安全
だと思いませんか?﹂
﹁それはそうかもしれませんが⋮⋮ですが、本当にこんなところに
アイン先生はいるんですか?﹂
いつもポジティブな思考しかしない目の前の王女に内心で頭を抱
えながら、溜め息混じりにフェルムはそう問いかける。
﹁ええ。ここにいるはずです。週一回の大学に来る日以外は、いつ
もここに引きこもって研究しているって聞きましたから﹂
﹁しかし、ルナ様。とてもこんなところに住む人なんていないと思
いますが⋮⋮一体、どなたがそんなことを言っていたんですか?﹂
1008
﹁えっ、お兄様だけど、それが何か?﹂
フェルムの問いかけに対し、ルナはなんでもないことのようにあ
っさりとこの場所のことを彼女に教えた当人のことを口にする。
その回答を耳にした瞬間、フェルムは一瞬石になったかのように
固まり、そしてその後に目を見開いた。
﹁お兄様って⋮⋮ええ!? ちょ、ちょっと待ってください﹂
人気のない静寂に包まれた森の中に、フェルムの驚きの声が響き
渡る。
普段は落ち着き払って動揺を見せることのないフェルムが、突然
甲高い声をあげたためルナは逆に驚いた。
﹁え、なに? どうしたんですか? 急に大きな声なんか出されて﹂
﹁ルナ様のお兄様って、それってつまり国王陛下のことですよね?﹂
ルナの意外そうな表情など気にもとめず、フェルムは矢継ぎ早に
彼女に問いかける。
その問いに対するルナの回答は、至極簡素なものだった。
﹁うん、そうですよ。うちのカイラ兄様﹂
その回答を耳にした瞬間、フェルムは口をあんぐりと開けて硬直
する。
そして、はっと我に返った彼は、脳裏に湧き上がった一つの疑問
を彼女へとぶつけた。
﹁どうして陛下が⋮⋮そう、どうして陛下があのアイン先生の居場
所を知っているんですか?﹂
﹁そりゃあ、兄様があの人にあげたんですしね﹂
﹁あげたって⋮⋮一体何をですか?﹂
不意に不吉な回答がもたらされる予感を覚えたフェルムだが、好
奇心と興味が勝り、恐る恐るルナに先を促す。
すると、やはり彼にとって驚くべき回答が、彼女の口からあっさ
1009
りと紡がれた。
﹁迷いの森にあるお兄様の持ち物なんて一つ。以前、レジスタンス
時代に使っていた館に決まっているじゃないですか﹂
﹁レジス⋮⋮って、えええ!﹂
この地に来る段階で、アインがかの館に住んでいるということは
彼女から聞いてはいる。
しかしながら、それが国王自らアインに与えられたものとはさす
がにフェルムも考えてはいなかった。
﹁ちょっと、フェルム先輩。さっきから声が大きいですよ。こっそ
りここまで来ているんだから、もう少し静かにしてください﹂
普段は冷静沈着で決して取り乱さぬフェルムの姿に頬を緩めなが
ら、ルナはあえてニコリとした笑顔を浮かべつつそうたしなめる。
﹁いやいや、それどころじゃないでしょう。ちょっと待って下さい。
何なんですか、それは。どうして先生がレジスタンスの使っていた
館をもらえるんですか﹂
﹁そりゃあ、仲がいいからじゃないかしら?﹂
わずかに首をひねりながら、依然として動揺を隠せない先輩に向
かってルナはそう告げた。
その答えに対し、どうしても無意識に理解が妨げられ、フェルム
は頬を引き攣らせながら彼女へと確認する。
﹁だれと⋮⋮だれが⋮⋮ですか?﹂
﹁決っているじゃない、お兄様と先生がです﹂
大学一の天才が凍りつくその眼前で、ルナは落ち着き払った声で、
一つの事実を告げる。
一方、鼓膜を打ったその言葉に、思わずフェルムはつばを飲み込
んだ。そしてわずかに震える声で彼は目の前の王女へと一つの問い
1010
を口にする。
﹁⋮⋮ルナ様。一体⋮⋮そう一体、アイン先生って、何者なんです
か?﹂
﹁ふふ、それはね⋮⋮って、危うく口を滑らすところでした。先輩、
それは自分で調べてください。そしてその答えにもし至られたら、
それは貴方の胸の中でしまっていてください。この国とあの方のた
めにもね﹂
ルナはそう口にすると、そのままフェルムに軽くウインクをして
みせる。そしてそれ以上は答えませんよという意思表示であるかの
ように、少し速度を上げて彼の前を歩き始めた。
その場に取り残される形となったフェルムは、怠惰でずぼらでだ
らしないというアイン博士像が、自らの脳内でガラガラと音を立て
て崩れていくのを感じ取っていた。
彼の足は、目の前の少女から遅れないよう、どうにか歩みを続け
る。
しかし彼の脳内は、黒髪の男に対する疑問と様々な仮説で埋め尽
くされ、彼の口からは無意識にその思考の一部が漏れ出していく。
﹁陛下と友人⋮⋮レリム先生とも顔なじみ⋮⋮ビグスビー校長が認
めている⋮⋮﹂
おぼろげながら、一つの仮説がフェルムの中で産まれ始めていた。
しかし、彼の中に存在する常識という名の二文字が、ありえない
という判断を何度も下し、決してその仮説が彼の脳内で形取ること
はなかった。
そうやって、ぶつぶつと独り言を呟きながら歩き続けるフェルム。
そんな彼をよそに、前方を軽い足取りで歩いていたルナは、よう
1011
やくその視線の先に目的としていたとある館を捉える。
﹁先輩、ちょっと先輩。帰ってきて。ほら、目的地につきましたか
ら﹂
暫くの間、自分の世界に入り込んでいたフェルムに向かい、苦笑
交じりにルナはそう呼びかける。
すると、ようやくフェルムははっとした表情となり、彼女の呼び
かけに応じた。
﹁あ、すいません。えっと、あれ⋮⋮ですか?﹂
﹁ええ、私も実物を見るのは初めてですけどね。お兄様に聞かされ
ていたとおり、こんな森の奥に似つかわしくない、古びた大きな館。
間違えるようなものは、他にないと思いますよ﹂
フェルムが指し示す館へとあらためて視線を移し、ルナは一つ頷
く。そして、彼女は意を決して森の茂みの中からその館の庭へと足
を踏み入れた。
フェルムは彼女に遅れないよう、慌てて彼女に駆け寄る。
そしてルナの側に辿り着いたその瞬間、彼の鼓膜はガサリという、
ほんの小さな異音が周囲で発せられたことに気がついた。
不意に背中に一筋の冷たい汗が流れ落ちるのを感じ、フェルムは
周囲を見回す。
しかし彼の周囲には何も存在しない。
そして何気なく上方の館の屋根に向かい視線を移した瞬間、彼は
上から落下してくる一つの存在をその目にした。
そう、彼目掛けて棍を振りかぶりながら落下してくる一人の男を。
﹁くっ!﹂
回避するのは困難ととっさにフェルムは判断すると、両腕をクロ
スする形で自らの頭部を庇い、重力の乗った木の棒の一撃を受け止
める。
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一方、不意打ちとなる一撃を止められたその山賊様のスキンヘッ
ドの男は、鮮やかに地面に着地すると、にやりとした笑みを浮かべ
ながら軽く距離をとった。
﹁ほう、こいつを受け止めるか⋮⋮なるほど、旦那が目をかけるわ
けだ﹂
その禿頭の男は口の中でそう呟くと、目の前の青年たちを睨みつ
けて口を開く。
﹁おい、クソガキども。誰に断ってこの地に足を踏み入れた﹂
﹁と、突然何を︱︱﹂
突然の蛮行に腹を立てたフェルムは、見るからに強面である眼の
前の男に向かい、恐怖心を押し殺して反論しにかかる。
だが彼が全てを言い終えるより早く、山賊の如き風貌の男は次な
る棍の一撃を彼に向かって浴びせ掛け、その口を封じた。
﹁あん、なんか文句があるのか、ひよっこ? ここはてめぇらみた
いな、乳臭えガキの来るところじゃねえんだよ﹂
﹁待って下さい。僕はこの館の中にいる人に用事があるんです﹂
﹁あん、用事だと? だとしたらあっしを⋮⋮もとい、この俺様を
倒してから行くんだな﹂
その恐ろしい顔つきの男は、わずかに言い間違えたことに一瞬表
情をしかめたものの、気を取り直して彼らを睨みつける。
﹁いや、ちょっと待って下さい。僕らの話を︱︱﹂
﹁うるせえ、問答無用!﹂
強い怒気を込めた強面の男の一喝により、フェルムは言葉を失う。
そして次の瞬間、目の前の男は再び棍を片手に彼目がけて襲いか
かってきた。
1013
クレイリーという名の男
﹁ルナ様。すぐに離れてください! この山賊は僕が引きつけます
ので!﹂
フェルムは目の前のスキンヘッドの男から放たれた棍の一撃を、
体勢を崩しながらどうにか体を捻る形で回避すると、背後に立つル
ナに向かってそう告げる。
一方、当然のことながらそのフェルムの発言は、目の前の男の怒
りを駆り立てるには十分であった。
﹁だれが山賊だ、コラ!﹂
自らのことを山賊と表現された強面の男は、額に青筋を浮かべる
と、更に前方へと一歩踏み込む。そして体勢を崩したままのフェル
ムを豪快に蹴り飛ばした。
﹁うぐっ! な、なんだよ一体!﹂
腹を抱えながら地面を転がる形となったフェルムは、痛みを押し
殺しながら目の前の男に向かいそう吐き捨てる。しかし、まさにそ
のタイミングで追撃の棍の一撃が自らに迫り来るのを視界に捉えた。
彼は舌打ちをひとつはなつと、自ら地面をさらに勢い良く転がり、
どうにか棍の一撃を回避する。
そしてフェルムは慌てて立ち上がると、反撃とばかりに一気に風
の魔法を編み上げていった。
﹁やらせねぇよ!﹂
フェルムが魔法を使おうとするのを察知した男は大地を強く蹴り、
フェルム目掛けて地面の砂と小石を浴びせかける。
1014
﹁な!﹂
普段の大学で行っている模擬戦ではありえない目の前の男の行動
に、フェルムは思わず動揺すると、魔法を編み上げるのを中断して
目を守るために右手を顔の前へと動かした。
反射的と言ってもいい、その判断。
結果的にそれがフェルムにとって致命的な隙となった。
地面を蹴りつけた男は、魔法の反撃がないと判断した瞬間、フェ
ルムの腹に向かって容赦無い棍の一撃を放つ。
﹁グホッ!﹂
胃の内容物を全て吐き出すかのように、彼はその場で嘔吐すると、
そのまま痛みのあまり地面を転げまわる。
しかし、彼と対峙していた男は、そんな彼を見逃すほど甘くはな
かった。
﹁クソガキ、これで終わりだ!﹂
凄みのある笑みを浮かべ、地面にのたうち回るフェルムに向かい、
その男は棍を突き立てようとする。
しかし、そんな彼の行動を妨げたのは、その後背から放たれた言
葉と拳であった。
﹁このまま終わりにするのは少し勿体無いわよね。だから、私も少
し手合わせしてもらおうかしら、クレイリーさん?﹂
柔らかく美しいものの、明らかに強い意志が乗せられたその声。
それを耳にした瞬間、クレイリーは後ろを振り返ると、彼は自ら
目掛けて鋭い拳の一撃が迫っている光景を目にした。
﹁⋮⋮あっしのこと、知っていやしたんですか﹂
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体を逸らすことで小柄な女性の拳をどうにか回避すると、クレイ
リーはルナに向かってそう問いかける。
一方、問い掛けられたルナはニヤリとした笑みを浮かべた。
﹁ええ。この国が変わったあの日、貴方はあの方と二人で王宮の庭
を歩いていらっしゃいました。その時にそれまで人質に取られてい
た一人の母親がお礼を言いに行ったこと。そしてその側に無口で可
憐な少女がいたこと。貴方は覚えていらっしゃいますか?﹂
そう言い切るや否や、ルナはクレイリーめがけて体重の乗った二
撃目の拳を放つ。
クレイリーは渋い表情を浮かべると、襲いかかる少女の拳を、側
方へと飛び退ることで回避した。
﹁ええ、無口な少女ですよね、覚えていやすよ。まさかこんなにお
転婆になられているとは、思いもしやせんでしたがね﹂
一度間合いを取りなおしたクレイリーは、軽く呼吸を整えると、
改めてルナと正面から対峙する。
一方、奇襲に近い自らの初撃、そして確信を持ってはなった二撃
目が回避されたことに、ルナは少なからず驚きを覚えていた。
﹁⋮⋮さすがですね。あの方の右腕と呼ばれるのは、やはり伊達じ
ゃないということかしら?﹂
﹁はは、冗談はやめてくだせぇ。あの人の周りには二人⋮⋮いや、
三人ほど本物の化け物がいやすからね。あっしのこいつはただの素
人の手習いでやすよ﹂
そうクレイリーは口にすると、自らの手に持つ棍をポンポンと遊
ばせる。
その仕草を目にして、ルナは嬉しそうに右の口角をわずかに吊り
上げた。
1016
﹁素人の手習い⋮⋮ね。ふふ、本当に親衛隊の方々は奥ゆかしい方
が多いのですね。では、私にもその素人の棍捌きを見せて頂けるか
しら﹂
﹁本気でやすか?﹂
﹁ええ。今の貴方の得物を見れば、あの人の意図はなんとなくわか
ります。だからこそ私にも稽古をつけてくださいと、つまりそうい
うことです﹂
ルナはそう言い切ると、次の瞬間地面を強く踏み出し、そしてク
レイリーへと接近する。
クレイリーは想像以上に早いその出足に一つ舌打ちすると、彼女
の突進を止めるため棍を前方に突き出した。
彼女の行動に対応する形で放たれたクレイリーの一撃。
それはルナの想像の範疇であった。
彼女はあらかじめ予期していた棍の突き出されるラインを回避す
るように姿勢を更に低くすると、そのままクレイリーの至近まで一
気に詰め寄る。
そして彼女の拳が、彼を捉える距離となったその瞬間、突然彼女
の背には衝撃が走った。
﹁相手の行動を予測し後の先を取るでやすか。なるほど、旦那があ
なたに稽古をつけているというのは本当のようでやすね。だが⋮⋮
まだ甘い﹂
﹁突き出した棍をそのまま斜め下方へ振るったのですね﹂
地面に這いつくばる形で叩きつけられたルナは、自らの身に襲い
かかった一撃のことをクレイリーに問いかける。
すると、クレイリーは軽く首を縦に振った。
﹁戦いにおいては先を読むだけじゃなく、先の先を読まなければい
1017
けない。貴方も聞いたことが有るんじゃないでやすか? あの人が
口を酸っぱくしてよく言うセリフでやすよ﹂
﹁⋮⋮ええ、伺っています。そしてあの方はいつも言っています。
相手の力量を読み間違ってはいけないよと⋮⋮どうやら私一人では
分が悪いようですね。さて、フェルム先輩。時間は稼ぎましたよ﹂
﹁なに!?﹂
ルナの言葉を耳にして、クレイリーはとっさに後方を振り返る。
するとその視線の先には、片手で腹部を抑えながらも、空いた右
手で風の魔法を編み上げた青年の姿があった。
﹁トゥール・ビヨン!﹂
その青年の右手の前に生み出された風の束は、その呪文が唱えら
れた瞬間、一気に前方の男に向かって解き放たれる。
﹁ちっ、ラインドル式の風魔法か!﹂
先ほどまでの笑みを表情から消したクレイリーは、側方に飛び退
るような形でその一撃を回避する。
﹁ルナ様。言いたいこと、そして聞きたいことは非常にたくさんあ
りますが⋮⋮ここは力をおかしください﹂
﹁ええ、もちろんです。先輩﹂
さきほど何もできなかったというわずかな苛立ちと、そしてそれ
以上に目の前の標的に対する興味。
未だに棍の一撃を受けた腹部は、フェルムに活動を止めるよう痛
みという形で訴えかけてくる。しかし、その痛みよりも上回る、興
味という名の強い欲求が彼を動かした。
そして次の瞬間、彼は一気にその新たな風の魔法を構築すると、
目の前の男に向かい解き放つ。
﹁ラファール!﹂
1018
彼の右手から解き放たれた突風とも呼ぶべき猛スピードの風は、
まっすぐにクレイリー目掛けて襲いかかった。
クレイリーは舌打ちを一つ打つと、斜め前方へと大きく踏み出し、
魔法の回避とフェルムへの接近を同時に行おうとする。
しかし、そんな彼の動きに反応する一つの影が存在した。
﹁後の先。貴方ならただ避けるだけではなく、少しでも自らに有利
な位置へと体を動かすと思っていました﹂
さわやかな笑みを浮かべながらそう言い放ったルナは、彼女の接
近を予期していなかったクレイリーに向かい、全力で拳を叩きつけ
る。
﹁くぅ⋮⋮なかなかやるでやすね﹂
彼女の拳が狙ってきた下腹部を守るように、クレイリーは棍を握
る右腕の肘で彼女の一撃を受け止める。そして肘から走る痛みで顔
をしかめながら、クレイリーは体勢を立て直すために大きく後ろへ
飛び退った。
だが、そのクレイリーの下がろうとした先には、もう一人の青年
が魔法を編み上げながら待ち構えていた。
﹁フードル!﹂
青年が右手を突き出しその呪文を口にした瞬間、彼の右手から稲
妻がほとばしり、一気にクレイリーめがけて解き放たれる。
﹁やる⋮⋮なるほど、旦那が目を掛けるわけだ、だが!﹂
慌てて側方へと転がるように飛び、ぎりぎりのところで姿勢を崩
しながら回避したクレイリーは、思わずそう呟く。
しかし、視線を上げた彼はそこで予期せぬものを目にした。
﹁フードル⋮⋮トゥーブル!﹂
1019
その呪文が響き渡った瞬間、クレイリーの目は大きく見開かれる。
彼が目にしたもの、それはただの一学生が同時に二つの稲妻を制
御して操ろうとする光景であった。
その魔法を目にした瞬間、クレイリーははっきりと二つのことを
悟る。
そう、どのように動こうとも、もはやこの二本目の稲妻は回避し
得ないということを。
そしてそれと同時に、目の前の青年たちの死角にいるあの男が、
先の先の先を読んで、既にその魔法を侵食しようとしているだろう
ということを。
﹁クラック!﹂
ある男の口の中でその呪文が唱えられた瞬間、クレイリーへ向か
っていた稲妻は、突然まるで幻であったかのように消失する。
その予想だにしない出来事に、その場にいた二人の学生は呆然と
し、そしてその理由を知るクレイリーは禿頭を軽く撫でた。
一瞬の静寂。
それを破ったのは、頭を掻きながら苦笑いを浮かべる黒髪の男の
声であった。
﹁はい、そこまで。うん、中々におもしろい戦いだったよ。そして
腕を上げられましたね、ルナ様﹂
1020
真価
﹁アイン先生!﹂
アインの姿を認めるなり、フェルムは今にも迫りかからんばかり
の勢いで、彼に向かって声を放つ。
そのあまりの剣幕を前にして、アインは苦笑いを浮かべると、ゆ
っくりと頭を搔いた。
﹁えっと⋮⋮どうかしたのかい、フェルム君?﹂
﹁どうかしたじゃありませんよ。今⋮⋮そう今、何をしたんですか
?﹂
﹁今? 頭を掻いたんだけど﹂
苦笑いを浮かべたまま、アインがなんでもないことのようにそう
答える、
すると、フェルムは顔をわずかに赤くし、さらに語調を強めて彼
へと食って掛かった。
﹁ふざけないで下さい! 今、僕の魔法が消えた件ですよ!﹂
﹁魔法が消えた⋮⋮ね。ふむ、君の魔法が消えたという現象に関し
ては、ちょっとわからないな﹂
首を軽くひねりながら、アインはフェルムの問いかけを否定する。
しかし、そのアインの発言に引っかかりを覚えたフェルムは、更
に彼に向かって質問を重ねた。
﹁⋮⋮今のは、先生がやったのではないのですか?﹂
﹁少なくとも、私は君の魔法を消してはいない。これは保証するよ、
と。まあ、そんな話はどうでもいいんだけど、それよりもルナ様共
々どうしてここに?﹂
1021
﹁え⋮⋮それは先生に会いに⋮⋮﹂
質問の矛先をはぐらかされたと感じたものの、ルナの名前を出さ
れた以上、それよりも優先してフェルムは自らの問いかけを口にす
ることができなかった。
﹁へぇ、私に会いに⋮⋮か。それは光栄だね。ちょうど私も君に渡
したいものがあったんだ。まあ、こんなところで立ち話も何だ。少
し中に入って話すとしようか﹂
アインは二人の学生に向かいそう告げると、そのままクルリと踵
を返す。そしてそのまままっすぐに、館の中へと歩み去ってしまっ
た。
﹁⋮⋮どうしますか、ルナ様?﹂
突然姿を現し、そしてあっという間に立ち去っていったアインの
発言を受けて、フェルムは困惑した表情を浮かべたまま後ろを振り
返る。
しかし、彼が振り返ろうとしたそのタイミングで、既にルナはア
インの後を追うように歩き出しており、そのままあっさりとフェル
ムの横を通り過ぎていった。
﹁えっ? もちろん行くに決まっているじゃないですか。さあ、グ
ズグズしないで早く行きますよ。あとクレイリーさんも一緒に行き
ましょう﹂
﹁へぇ、わかりやした。おい、坊主。お姫様に置いて行かれるよう
なら護衛失格だぞ。ほら、急げ急げ﹂
クレイリーはスキンヘッドの頭を一度撫でると、ニヤリとした笑
みをフェルムへと向け、戸惑う彼を急かした。
1022
かつてレジスタンスがその活動の本拠地とした、迷いの森の奥深
くに立地する古びた館。
現在、その館をある人物から半ば譲り受ける形で使用している男
は、歩くのが面倒だからと、生活に必要なもののほとんどを玄関ホ
ールに雑多に配置していた。
それ故に、あのレジスタンスの本拠地に足を踏み入れるという期
待感を有していたフェルムは、生活感溢れる余りに残念な玄関ホー
ルの光景を目にして、思わず首を左右に振る。
﹁ああ、ちょっとだけ散らかっているけどさ、まあ腰掛ける場所く
らいはあると思うから、そのへんに適当に座ってくれ﹂
自らの生徒が首を振っている姿を目にして、腰掛ける場所を探し
ていると勝手に解釈したアインは、笑いながら三人に向かってそう
告る。
﹁これがちょっと⋮⋮ですか?﹂
フェルムは自らの教師の発言に頭を抱え、そして頬を引き攣らせ
る。
一方、彼の隣にいたルナは特に驚いた様子も見せず、軽く苦笑し
ながら手近な木箱の上に腰掛ける。そして彼女はアインに向かって
口を開いた。
﹁ふふ、ほんとアイン先生らしいですね。やはりリナをここに連れ
てきたほうがいいんじゃないですか?﹂
﹁いやぁ、そうしたいのは山々なんだけどね。でも、こんな森の奥
深くにリナを連れてくるなんて危険じゃないか。間違ってもそんな
危ないことはさせられないよ﹂
1023
﹁旦那は親馬鹿でやすからねぇ⋮⋮まあ、気持ちはわかりやすが﹂
アインと同じとまではいかぬまでも、彼の次くらいにリナのこと
をかわいがっているクレイリーは、肩をすくめながらそう口にする。
一方、そのクレイリーの発言に含まれるある単語に気がついたア
インは、わずかに渋い顔を浮かべると、苦言を呈した。
﹁おいおい、親馬鹿だって? たしかにリナのことは身内だと思っ
ているが、私はまだ親と呼ばれる年齢ではないぞ﹂
﹁旦那ぁ⋮⋮そろそろ現実を見ましょうや。いい加減旦那も、子供
のいる奴が少なくない年齢なんですぜ﹂
クレイリーのその発言に、アインは苦虫を噛み潰した表情となる
と、﹁君の方が年上なのに﹂という愚痴をぶつぶつと呟き出す。
そうして不満顔なアインがいじけ始める光景を目にして、フェル
ムはやや反応に困りながら、彼を現実に引き戻すよう声を発した。
﹁あの⋮⋮アイン先生。もしもし⋮⋮﹂
﹁ん? ああ、失礼。でも、いつか君にも私の気持ちがわかるよ。
譲れないものってのは人にはあるものさ⋮⋮えっと、まあそれはい
い。それよりも、私に会いに来たという話だけど、一体何の用だっ
たのかな?﹂
まだ少し心の傷を抱えている様子ではあったが、アインはそれを
振り払うかのように頭を振ると、フェルムへと向き直りそう問いか
ける。
﹁すいません、レポートのことでアイン先生にご相談させていただ
きたいと思いまして﹂
﹁ああ、やっぱりその件か。うん、ちょっと待って。はい、これ﹂
今回の来訪の要件を耳にしたアインは、乱雑に物が置かれた机の
上に視線を走らせる。そして、その上にある古めかしい黒い革のカ
バーの掛けられた書物を手にすると、それをフェルムに向かって放
1024
り投げた。
﹁えっ、ちょっと。なんなんですか、これ?﹂
﹁ああ、それ。えっと、アドラーの書だけど、それが何か?﹂
﹁あ、アドラーの書って⋮⋮ええ!?﹂
アインの言葉を耳にした瞬間、フェルムは震える手でその本を開
く。
そして驚愕とともに見開いた彼の目には、紛うことなき大付加魔
法士アドラーが記した、その文面が飛び込んできた。
﹁あと君のレポートが書きやすいように、適当に注釈をつけておい
たから好きに使ってくれたら構わない。というわけで、しばらくそ
いつを預けておくということで、君の要件に関しては終わりでいい
かな?﹂
﹁ちょ、ちょっと待って下さい。アドラーの書ですよ、アドラーの
書。こんな代物、先生はどこで手に入れたんですか? と言うより、
こんな貴重な代物に注釈を書き込むなんて、正気ですか?﹂
フェルムは自らの手元にあるその書物の正確な価値を理解してい
たが故に、軽い調子で自らへと渡されたことや、その文面に勝手に
注釈を入れたという事実を受け止められなかった。
始まりの大魔法士フィラメントの直弟子であるケティス・ミラホ
フ。
彼は現在のミラホフ家を作り上げた人物であるのだが、他の御三
家であるディオラム家やマイスム家の初代と異なり、彼自身はあま
り高い魔法技術を修得することができなかった。
そんな彼の名前が今日も残っているのは、もちろんフィラメント
の最初の弟子の一人であったこともあるが、それ以上に彼の第一弟
1025
子であるアドラー・フォン・レムンクルスを育てたというその一事
が大きい。
アドラー・フォン・レムンクルスは地方豪族の三男としてこの世
に生を受けた男であったが、類まれなるその魔法の才能故に、ケテ
ィスが直接彼の元へと弟子入りの勧誘をしにいったと現在は伝えら
れている。
もちろん現在では、魔法士として有望な子供などには、早い段階
で国家や魔法士のスカウトが訪れることも珍しくない。
しかしながら当時は、まだ魔法が十分な市民権を有しておらず、
邪法や密法などとみなされていた部分もあった。
それ故に、おおっぴらにスカウトなどはとても考えられなかった
時代である。
だがケティスはどこからかアドラーの噂を聞きつけると、自ら直
接足を運び、そして彼を自らの弟子とすることに成功した。そして
ケティスの下でアドラーはその才を伸ばし続け、彼は現在付与魔法
と呼ばれる一連の魔法群の基礎を作り上げたのである。
そのアドラー自身が、後世の付与魔法士のために書き上げたのが
アドラーの書と呼ばれる魔法書であり、現存するその数は写本も含
めて二桁はないとされていた。
そんな歴史的な代物に勝手な注釈を書き込み、あまつさえ机の上
に無造作に置いて放り投げるという蛮行を目にして、フェルムは驚
愕と呆れのないまぜになった感情を覚えずに入られなかったのであ
る。
﹁まあそれはたぶん写本だしね。えっと、そいつはどこで手に入れ
1026
たんだったかな⋮⋮⋮⋮ああ、そうだ。昔、帝国にいた事があって
ね、その時に知り合った商人に譲ってもらったんだよ﹂
﹁帝国の商人って⋮⋮先生は昔、帝国にいらっしゃったんですか?﹂
﹁ああ、少しの間だけね。ともかく、それは正真正銘私のものだか
ら、中に書き込みをしようと私の自由のはずさ﹂
アインはなんでもないことのようにそう答えると、フェルムは表
情を引き攣らせる。
﹁そ、それはそうですけど。でも⋮⋮これって、写本といえども歴
史的遺産⋮⋮ですよね?﹂
﹁ん? まあ、そういう捉え方もできるのかな。でもさ、本って大
事に飾られるために書かれるものではなくて、読まれるためにこの
世に生み出されるものさ。だから、きっとそれを書いたおじさんも
本望だと思うけどね﹂
付加魔法の父とも称される大魔法士アドラーをおじさんと言って
のけると、アインは苦笑いを浮かべながら頭を掻く。
一方、彼のそんな発言に、フェルムは思わず天を仰いだ。
﹁ありえない⋮⋮あのアドラー師をおじさんって⋮⋮﹂
﹁まあまあ、取り敢えず過去の人のことは少し横においておこう。
それよりも今考えるべきはこれからのことさ。そいつを使って⋮⋮
そうだね、十日間くらいで適当な草案を作り上げてくれればいい。
確かその日、ちょっと実験のために大学に顔を出す予定だからさ﹂
顎に手を当てて少し考えたあと、アインは自らの日程を確認した
上で、フェルムへとそう告げる。
すると、フェルムは自らの手元にアドラーの書を預けられるとい
う事実に身震いし、彼はアインに向かってコクコクと頷いた。
その反応にアインはニコリと笑みを浮かべる。そしてすっかりア
ドラーの書のことで頭の中がいっぱいとなってしまった少年から、
1027
彼はそのやりとりを微笑ましそうに眺めていた少女へと視線を動か
した。
﹁それで、ルナ様の方は何の御用ですか?﹂
﹁あら、わかりませんか? いつもの様に、貴方に師事しようと考
え、この地まで足を運ばせて頂いたしだいです﹂
まったく隠すこと無く、ルナはアインに向かってストレートにそ
う言ってのける。
悪びれた様子を見せぬその彼女の様子に、アインは思わず首を左
右に振ると、呆れたように口を開いた。
﹁⋮⋮わかっていたからあえて聞いたのですよ。はぁ、でも今日は
もう終わりです。クレイリーが十分に相手をしてくれましたよね?﹂
﹁ええ、今日もまた一つ勉強させていただきましたわ。でも、まだ
あなたには手合わせをして頂いておりませんよ﹂
﹁今日はダメです。それに前に約束しましたよね? 私が大学に行
った時、一回に付き一度だけ御相手すると。約束は約束です﹂
﹁ぶぅぅ⋮⋮アインさんはケチです﹂
自らの頼みをアインがあっさりと却下すると、ルナは頬をふくら
ませながら文句を口にする。
一方、そんな二人のやりとりを耳にしたフェルムは、アドラーの
書から視線を動かすと、眉間にしわを寄せながらルナに向かい問を
口にした。
﹁ちょ、ちょっと待ってください⋮⋮ルナ様の先ほど使われていた
体術って、アイン先生に習われたものなのですか?﹂
﹁ええ、そうですよ。そういえば言っていませんでしたね。ちなみ
にアイン先生が貴方の担当になるよりも前に、私の方が先にアイン
さんの指導を受け始めました。というわけで、言うなれば私は先輩
の兄弟子のようなものかもしれませんね﹂
1028
あまりない胸を自慢気に張りながら、ルナはそう答える。
その回答に対し、フェルムは目を見開くと同時に、彼は動揺を隠
せなかった。
改めて言うまでもなく、ルナは第一王女であり、ラインドル王家
の一員である。
そんな彼女が体術を習うこと事態、異例も異例と考えられた。
しかもその指導者が近衛でもなく、軍の人間でもなく、何故か王
立大学の研究者という事実。
そのあまりに不可解な人選に対し、フェルムは一層の困惑を覚え
ずにはいられなかった。
﹁先生⋮⋮先生は一体何者なのですか?﹂
﹁何者って言われてもなぁ⋮⋮うーん、昼寝をこよなく愛する青年
ってだけなんだけどねぇ﹂
﹁旦那ぁ⋮⋮そろそろ青年は苦しいと思いやすぜ﹂
アインの発言に、それまで黙っていたクレイリーは額に手をやり
ながら、呆れたようにそう述べる。
﹁うるさいなぁ。私はいつも心に少年を飼っているのさ。だから実
際の年齢との中間をとって、青年で構わないじゃないか﹂
﹁いや、まったくもって間違っていると思いやすが⋮⋮﹂
アインの強引な論理展開に対し、クレイリーは呆れた口調でそう
告げる。
すると、先程から疑念を一層募らせていたフェルムは、いよいよ
我慢できないといった様子でアインに向かって問いを口にした。
﹁ちょっと待って下さい。先生が何歳だろうと、そんなことは構わ
ないんです。それよりもさっきの話だと、先生は体術もできるとい
1029
うことなんですよね。もしかして⋮。相当にお強いんですか?﹂
﹁強いかねぇ。どうだろう? 強さなんてあくまで相対的なものだ
しね。まあ、私の親友と比べたら、あんまり強くはないと思うよ﹂
﹁旦那⋮⋮それは当たり前でやすぜ。というか、あの人と比べれば、
この世に強い人なんていなくなるじゃないでやすか⋮⋮﹂
クレイリーのツッコミに対し、アインは頭を掻きながらそうだね
とばかりに苦笑する。
一方、そんな二人のやりとりを目にしたフェルムは、アインがま
ともに答える気がないと理解すると、一つの秤をもって自らの教師
を計ることを決意する。
﹁ならば、先生。ルナ様と約束があって手合わせできないと言って
いましたよね。でしたら、代わりに僕とここで手合わせして下さい
!﹂
﹁君と?﹂
﹁はい。是非に!﹂
思わぬ申し出を受けて露骨に嫌そうな表情を浮かべるアインに対
し、フェルムは自らの拳を持って目の前の男の真実の一端を知りた
いと願う。
アインは顎に手を当て少しだけ黙りこむと、目の前の学生の先ほ
どの戦闘のことを思い出していく。そして彼はひとつの判断を下し
た。
﹁申し訳ないけどさ、君とはレポートの面倒を見る約束はしている
けど、手合わせをする約束はしていないから、それはちょっとね。
第一、私は肉体労働は嫌いなんだ。クレイリー、申し訳ないんだけ
ど、ちょっと彼を頼めないかい?﹂
頭を掻きながらクレイリーに向かって視線を向けると、アインは
済まなそうに自らの生徒のことを彼に向かって放り投げる。
一方、突然話を振られた当人は露骨に嫌そうな表情を浮かべたも
1030
のの、自らのスケジュールを顧みてしぶしぶその役を引き受けた。
﹁あっしでやすか⋮⋮まあ、しばらくはセシルさんに任せていても
いいんでやしょうが、あまり長居は出来やせんぜ﹂
﹁ああ、わかっている。先ほどの戦いを見るに、最低限の戦場での
基本だけを叩き込んでくれればそれでいい。その後のことは、ちょ
っと私も考えておくよ﹂
﹁仕方ないでやすねぇ⋮⋮おい、ひよっこ。旦那に代わって俺が、
てめえの面倒を見てやるよ﹂
溜め息を一つ吐き出したクレイリーは、アインに向けていたもの
とはまるで別物と言っていい険しい表情となると、フェルムに向か
ってそう言い放つ。
﹁貴方が⋮⋮ですか?﹂
﹁なんだ、不満か? ふん、そんなプライドはもう少し戦えるよう
になってから持つんだな﹂
まるで子供扱いをされているかのような言動に、フェルムは一瞬
反論しかける。
しかし彼が口を開くより早く、クレイリーが言葉を続けた。
﹁いいか、ひよっこ。確かにお前の技量は悪くない。正直、まとも
に正面からやりあえば、この俺には勝ち目がねえだろう。俺は魔法
なんて使えないし、別に槍の達人ってわけでもねえからな。だが、
さっきの戦いが最初から一対一だったら、てめえは俺に勝てていた
と思うか?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
戦いが始まると同時に、当初はクレイリーに圧倒されていたこと
を思い出し、フェルムは唇を噛む。
そんな彼の姿を目にしたクレイリーは、僅かに右の口角を吊り上
げると、彼に向かって更に言葉を紡いだ。
1031
﹁お前がもし軍人になるっていうのなら、戦いにズルいも汚いもね
ぇ。さっきの戦いだが、俺はお前らに気づかれるようあえて最初に
物音を立てた。もしあれがなく、そのまま上から一撃かましていた
ら、早々と勝負はあの時点でついていたはずだ。いいか、戦場って
のは、本来そういう場所だ。そしてそこが俺達の住む世界であり、
これからお前が住む事になる世界だ。そこんとこ、数日かけてお前
のその体に叩き込んでやるよ﹂
そう言い切ったクレイリーはニヤリと右の口角を吊り上げると、
フェルムに向かって凄みのある笑みを見せつけた。
1032
本の所有者
北の大地も完全に雪解けを見て、人々の活動が活発になり始めた
初夏。
借り受けたアドラーの書を元に草案を書き上げたフェルムは、今
日も図書館の片隅でレポートを前に首をひねっていた。
そんな彼の周囲に人影はない。
もちろん学内で二番目に有名な学生である彼を遠巻きに目にする
ものはいた。
しかし真剣な表情で彼が悩んでいること、服から露出している箇
所の殆どに少なからぬ生傷が存在すること。
これらが彼の近くに人を寄せ付けぬ原因となっていた。
だが、世の中には例外というものが存在する。
そう、たまたまそんな彼の姿を目にした女学生は、異様な彼の姿
を気にすること無く、フェルムに向かって微笑みながら声を掛けて
きた。
﹁こんにちは、フェルム先輩。レポートは順調ですか?﹂
突然前方から発せられた声に気づくと、フェルムは自らのレポー
トからゆっくりと視線を上げる。すると彼は、最近学内で顔を合わ
すことがなかった、この国の王女の姿をその視界に収めた。
﹁おや、ルナ様? そういえば最近お会いしておりませんでしたね﹂
1033
とある人物からの指導が垣間見える自らの姿に照れながら、やや
恥ずかしそうにフェルムは返答した。
一方、そんなフェルムの姿に逆に感心しながら、ルナは彼に向か
ってニコリと微笑むと、その端正な唇を動かす。
﹁ええ。実は少し公務を任されることになってしまいましてね。そ
の準備に追われてしまって、ちょっと学校に来ることが出来なかっ
たんですよ﹂
﹁公務⋮⋮ですか?﹂
学生の間は特別な公務以外は免除されていると以前に聞かされた
こともあり、フェルムはやや意外そうな表情を浮かべる。
すると、そんなフェルムの考えを表情から見て取り、ルナはゆっ
くりと首を縦に振った。
﹁ええ、公務です。ちょっと兄の代わりに、父と北へ旅行すること
になりまして﹂
﹁父って⋮⋮まさか先王陛下ですか!?﹂
なんでもないことのように自らの肉親のことをルナが口にすると、
フェルムは途端に驚きの表情を浮かべる。
﹁ええ、まあ私に他に父はおりませんから﹂
父と一緒に行動するだけのことに驚くフェルムを目にして、ルナ
は一瞬困惑顔となった。
しかし彼女は、すぐに一般的な父の立場のことに思い至る。そこ
に至り、ようやくフェルムの反応が妥当と理解し、彼女は思わず苦
笑した。
﹁そ、そうですか。ともかく、北となりますとピレミアナールやク
レッセンドあたりでしょうか?﹂
予期せぬ話を耳にして、フェルムは依然として動揺を顔には表し
1034
つつも、その思考を冷静に働かせる。
そして彼は、先代国王までが足を運ぶに足る土地として、二つの
地域の名前を口にしてみせた。
まずラインドル北部で一般的に大規模な都市といえば、かつてこ
の地域が小国の寄せ集めだった時期に、最も大きな勢力を有してい
たこともあるピレミアナール領がまずあげられる。
ピレミアナール領はレグメント家と呼ばれる一族が、代々一族支
配を行っていた。もちろんラインドル王家が国家を統一した現在に
おいて、その力はかつて程のものはない。
しかしながら王家を別とするならば、その力は他の地方豪族と比
較し、頭ひとつほど抜けているのもまた事実であった。
一方、フェルムがもう一つ口にしたクレッセンド領は、そのよう
な歴史に基づく地域ではない。むしろ以前までは、明らかに周囲の
地域よりも力の劣る土地であった。
だが、彼の地はとある人物を輩出して以降、脅威の躍進を遂げる
に至った。それも北の雄ピレミアナールと肩を並べるに至るほどで
ある。
だから、フェルムがこれら二つの名前を上げるのは、妥当であっ
たといえよう。
﹁その通り。今回はクレッセンドね。ほら、あの辺りって最近もめ
ているでしょ。だからお兄様の代わりに、仲裁を兼ねての視察に⋮
⋮ね﹂
﹁なるほど、やはりその件ですか⋮⋮﹂
1035
ラインドル北部において、とある人物の旧領に関し、いくつかの
揉め事が発生しているのをフェルムとしても耳にしていた。
そう、クレッセンドは先代のこの国の宰相であるムラシーンが直
接領主を務めていた領地である。
なればこそ、急速に膨張したクレッセンド領は、その後始末に関
して様々な諍いの種となっていた。
だからこそフェルムは、王家の人間が直接現地に足を運び、現在
の騒動に解決の道筋を付けようと考えていることに理解を示す。
しかしながら同時に、彼はひとつの疑問を抱かずにはいられなか
った。
﹁しかしそれならば、先王陛下だけで行かれても大丈夫だったので
はないですか?﹂
冷静に考えて、このような領地に関する揉め事は、まだ若いルナ
には些か手に余ると彼は考えた。
そしてだからこその先王の存在である。
だが、先王自らが足を運ばれるのならば、今後は逆にルナまでが
同行する理由が彼にはわからなかった。
﹁先輩の言いたいことはわかります。でも、あくまでお父様は引退
されています。そこで、表向きは私のお目付け役ということで、向
かうことになったわけです﹂
﹁ああ、そういうわけですか﹂
ルナの説明を聞いて、フェルムはようやく納得したとばかりに一
つ頷く。
一方、そんな彼の反応を目にしたルナは、ほんの僅かに頬を膨ら
ませると、思わず愚痴をこぼした。
1036
﹁もっとも、最初は私が家臣団を連れて、一人で向かうつもりだっ
たんです。なのに、お兄様が猛反対した上に、突然あの人が付いて
行くと横からしゃしゃり出てきて⋮⋮二人とも過保護すぎるんです
よ、全く﹂
﹁それに関してはなんと言っていいか⋮⋮ともあれ、お疲れ様です﹂
下手な発言をすれば国王や先王を非難することにつながりかねず、
また逆に先王をフォローすればルナをないがしろにしかねない。
それ故に彼は、あえて自らの見解を示さず、その労だけをねぎら
うことにした。
そんな彼の苦しい立ち位置にルナは気づくと、ほんの少しだけ申
し訳無さそうにして見せ、そして話題をあえて振り出しへと戻した。
﹁まあ外の空気を吸ってくるいい機会ですし、保護者付きとはいえ、
絶対に嫌というわけではないんですけどね⋮⋮それで、改めて先輩
のレポートは如何ですか?﹂
﹁レポートの件ですか⋮⋮そうですね、順調と言って良いんだと思
います。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
歯切れの悪いフェルムの返答に、ルナは思わず首を傾げる。
すると、フェルムは渋々といった表情で、内心を吐露した。
﹁正直、自信をなくしている最中なんですよ﹂
そうフェルムは口にすると、彼は二度三度ゆっくりと首を左右に
振った。
一方、そんな彼の反応を目にしたルナは、意外そうな表情を浮か
べる。
やや押しが弱いところはあるものの、基本的にフェルムは自信家
として知られており、そして彼女の認識もそれと同じであった。
だからこそ、そんなフェルムにしてはあまりに弱気な発言に、彼
1037
女は違和感を覚える。
﹁レポートは順調なのですよね? それなのに、どうして自信をな
くされたのですか?﹂
﹁いや⋮⋮それが、これを見て衝撃を受けましてね﹂
ルナの問いかけを受けたフェルムは、大きな溜め息を一つ吐き出
す。
そして手元に置いてあった黒いカバーの本を手にすると、そのま
ま彼女へと手渡した。
﹁これって⋮⋮ああ、アドラーの書ですよね。そりゃあそうですよ。
大魔法士アドラーの知識に触れて、自信をなくすのは仕方ないこと
だと思います。いくら先輩といえども、まだ学生なんですし、そん
な︱︱﹂
大魔法士アドラーと自らを比べ、劣っていることにショックを受
けているのだと解釈したルナは、やや呆れた表情を浮かべながら目
の前の先輩を慰めようとする。
しかしそんな彼女の言葉は、首を左右に振るフェルムによって、
途中で遮られることとなった。
﹁いえ、そうではないのです。どう言えばいいか⋮⋮もちろんこの
アドラーの書は素晴らしく、書かれた当人と自分との力量差を感じ
ているのは事実ですよ。ですが、今のこの本の価値はそれ以上なん
ですよ﹂
﹁価値がそれ以上? ⋮⋮ああ、なるほど。それは、あの人のもの
ですからね﹂
フェルムの言葉の意味がわからなかったルナは、一瞬呆けたよう
な表情となった。しかしレジスタンスの館でのやりとりを思い出し
た途端、彼女の瞳には理解の色が灯る。
1038
﹁ええ、そのとおりです。今現在のこの本の真価は、中の注釈のす
ばらしさなんですよ。あの付加魔法において並ぶものなどいないと
言われた大魔法士アドラーの見解や論説に対し、不十分な部分には
補足を書き込み、そして場所によっては理路整然とその理論を否定
してあるんです。大胆にも、この書に注釈をつけた人物はね。これ
がどう言うことかわかりますか?﹂
﹁つまりかの大魔法士アドラーよりも、その注釈をつけた人物の方
が上だと言いたいんでしょ、あなたは。まあ、私に言わせれば、当
然のことだと思いますけどね﹂
当たり前の事象を語るかのように、あっさりとそういってのけた
ルナは、絶句するフェルムに向かってニコリと微笑みかける。
そして彼女は、目の前の先輩に向かって更に言葉を続けた。
﹁フェルム先輩。間違いなく文武両面において、先輩がこの学校で
一番だと私も思っています。でも残念ながら、あの方を理解できな
いようなら、先輩もそこまでの人⋮⋮って、後輩が生意気な口を利
きましたね。ごめんなさい﹂
そう言い切ったルナは、舌をチラッと出した後に、頭を下げた。
そして彼女はくるりと向きを変えると、そのままフェルムの下か
ら立ち去って行く。
その場には、強張った表情を浮かべるただ一人の少年だけが、ポ
ツリと残された。
﹁あの方を理解できないなら⋮⋮ですか。つまり、あのアインと名
乗っている人物は⋮⋮やはり⋮⋮﹂
未だに信じられぬという思いを抱きながらも、これまでの断片的
な情報から、フェルムの脳裏にはとあるひとつの名前が浮かび上が
った。
1039
そう、大陸西方で並ぶ者のいない、最も有名な英雄の名前が。
1040
本の所有者︵後書き︶
平素より﹃やる気なし﹄をご愛読頂きありがとうございます。
皆様のご支援のお陰で、﹃やる気なし英雄譚 3巻﹄が無事発売
となりました。
3巻の内容ですが、WEB版の4章ラインドル編が収録となって
おります。
今回は現在WEB版でも2度目のラインドル編が公開中とのこと
もあり、主要キャラクターだけではなく、2部以降に出てくるキャ
ラクターの出番やエピソード等も追加され、カーリン編の書き下ろ
しと合わせまして、WEB版の2倍近いボリューム︵約8万字↓約
16万字︶となりました。
最後にこのようなご報告ができるのも、全ては日頃より当作品を
御愛読頂いた皆様の御支援の賜です。
これからもより楽しんで頂ける作品を目指し頑張ってまいります
ので、今後とも﹃やる気なし英雄譚﹄をどうぞよろしくお願いいた
します。
1041
仲裁者
クレッセンド領。
それはラインドル王国北部における代表的な地域である。
元々このクレッセンド領は、フレーセンド地方と呼ばれるそれほ
ど大きな面積を有しない地域の一部に過ぎなかった。
そんな辺境の一領地が、元々存在していたフレーセンド地方以上
の面積にまで急速な発展と膨張を遂げたのは、とある一人物の存在
によるものであった。
前宰相にして、ラインドル王国最大の反逆者ムラシーン。 このラインドル王国において、王家を除けば歴代最大の権力を持
つに至ったムラシーンは、このクレッセンドの貴族の四男として生
を受けた。
ムラシーンのその才は、多方面において幼少時から周囲とは明ら
かに隔絶していたと伝わる。
そんな彼の上には、穏やかで優しい長男、剣技を得意とする次男、
そして怠け者の三男の三人存在していた。
そんな三人の弟として、将来を期待されたムラシーンは生まれる。
そんな彼の才に触れた誰もが、将来は兄達を支え、この地域を発
展させてくれると淡い期待をムラシーンに抱いた。
しかしその期待を大きく上回る形でクレッセンドは発展を遂げる
ことになる。ただし、人々が抱いた期待とは異なる形でであるが。
1042
現在ではその悲劇は、彼の留学が契機となったとも言われる。
ムラシーンの有する才の中でも、特に抜きん出ていると言われて
いた魔法の才を伸ばすため、彼の両親は魔法大国であるフィラメン
トに彼を留学させる。
次に彼が歴史の表舞台に姿を現すのは、その十年後のことであっ
た。
一家を載せた馬車が急に暴走して崖から転落し、留学中の四男を
除く一家の全員が死亡するという、たった一人を除き誰しもが想像
もしていなかった悲劇が起こる。
そして父親の跡を継ぐ形で政の舞台に姿を現したのが、まだ二十
代であったムラシーンであった。
その後、彼はその身に黒い噂をまとわりつかせながらも、ライン
ドルの表と裏を駆け抜け、宰相に至ることになる。それとともに、
かつて彼が最初に地盤としたクレッセンドは、かつてとは比べ物に
ならぬほど広大な領地となっていた。
そう、物語がここで終われば、一人の男の立身出世のストーリー
とともに、クレッセンドの繁栄の歴史が綴られていくことになって
いたであろう。
しかしながら、ムラシーンは排除したはずの王家の逆襲ととある
英雄により、その生命を散らすこととなった。
そうして、主を失った膨大なまでに肥大化した領地が、北に残さ
れる。
王家としては、肥大化しきったクレッセンド領を放置するわけに
1043
いかなかった。
それ故に、彼の地は一時的に王家預かりという形式が取られる。
しかしながら、その暫定的な措置に不満を述べる者が存在した。
クレッセンド領の両隣に位置する、ロッチ地方領主セルベッカと
アムスダム地方領主ケインスマンである。
彼らはかつて恭順の意を示すために、渋々自らの領地の一部をム
ラシーンに差し出していた。だが彼らが領地を切り渡したムラシー
ンは既に存在しない。それ故に、献上した領地を返せと彼らは王家
に迫ったのである。
王家としてもまだ代替わりをして間もないこともあり、速やかな
処理が必要と考え、ほぼ無条件で彼らにかつての領地を返還するこ
とを確約した。
しかし問題はここからである。
かつて彼らが差し出したという領地に関する正式な資料が、全て
延焼して消失していたのである。
原因はラインドル事変において宮中の兵士を外へとおびき出すた
めに、ムラシーンに関わる建物に次々と火が放たれた事にあった。
一連の事変の中の一ページに刻まれるこの策により、事変後ムラ
シーンに関わる膨大な資料は永遠に失われている。
ただし、この作戦を主導したのが他国に所属するとある銀髪の魔
法士であったため、王家はその事実を苦笑交じりに無視することに
せねばならなかった。
ともあれ、既に事実を記す資料は完全に失われてしまっている。
1044
それ故に、セルベッカとケインスマンはこれ幸いと、王家に対し
てかつての領地面積を明らかに過剰に見積もって申告してきた。
もちろん当然のことながら、王家としてはそのような訴えは認め
ることができない。
だからこそ、両者の要望は即座に却下された。
すると、自らの要望が通らなかったのはあいつが強欲だったから
だと、セルベッカとケインスマンはお互いに小競り合いを始めたの
である。
さすがに王家としてもこの行為を見逃すわけには行かず、仲裁役
として第一王女と先王をこのクレッセンドへと送る事となった。
そうして今、ルナの眼前には豪華な食事とテーブル越しにお互い
を睨み合うセルベッカとケインスマンが存在していた。
﹁それでセルベッカさんは、もともと貴方の領地であったミングス
の街を返してほしいというのね﹂
ルナは右手の座席に腰掛ける大柄な肥満体であるセルベッカを一
瞥すると、彼の主張を確認するようにそう問いかける。
﹁そのとおりでございます。もともとあの地は我らが領地。しかし
ムラシーンの圧力により、断腸の思いで割譲した経緯がございます。
どこぞの嘘つきと違い、これは紛れもなき事実﹂
そう言い切ると、セルベッカは視線を正面に向け直し、ケインス
マンに対し皮肉げな笑みを浮かべる。
すると途端に、色白のケインスマンの顔は真っ赤に染まり上がっ
た。
﹁なに、貴様よくも抜け抜けと! だいたいミングスの街がお前ら
1045
の領地だったのはムラシーンがあの地を治めるようになるずっと以
前の話だろ。それをどさくさ紛れに自らの領地だと言いおって。こ
の領地泥棒め﹂
﹁なに、領地泥棒だと! 聞き捨てならんな、青二才。それを言う
なら、貴様の主張しているアミレック鉱山は、あのムラシーンが掘
り始めた鉱山ではないか。逆賊の手柄さえほしがるとは、恥を知ら
んとはまさにこの事﹂
領地泥棒と糾弾されたセルベッカは怒りとともに立ち上がると、
テーブルに手のひらを叩きつける。その瞬間、料理を載せた皿は軽
く跳ねると、スープを入れた器からは少量の液体がテーブルクロス
を濡らした。
すると、彼に負けじとケインスマンも立ち上がり、セルベッカを
にらみなおす。
そんなあまりにも大人げない二人のやりとりを目の当たりにして、
ルナは首を左右に振る。そして大きな溜め息を吐き出すと、眼前の
男たちをたしなめるように声を上げた。
﹁はいはい、ちょっと落ち着きましょう。いい大人があまり熱くな
っては、少し見苦しいものですよ﹂
﹁ですが、ルナ様!﹂
ルナの言葉を受けても、セルベッカは未だ怒り収まらぬといった
表情のまま抗議の声を上げる。
しかしルナは柔らかい微笑を浮かべると、改めて二人に向かって
穏やかな声を発した。
﹁わかっています。話はちゃんと聞きますから、まずはお二人共、
椅子に腰掛けて頂けるかしら?﹂
そう口にして、ルナはほんの僅かに首を傾ける。
すると、彼女に微笑みを投げかけられた大人たちは、罰が悪そう
1046
にゆっくりと自らの席に座り直した。
彼等の興奮がわずかに落ち着いたと見て取ったルナは、一度自ら
の髪をなでつけると、再び場を取り仕切るように声を発する。
﹁さて、まあ色々思うところはおありのようだけど、お二方の主張
は伺いました。それで一つ確認しておきたいのだけど、お二方はそ
れぞれが主張される土地が自らのものであったことを示す証拠を何
かお持ちなのかしら?﹂
﹁証拠⋮⋮ですか﹂
ルナから求められた証拠という言葉に、ケインスマンはわずかに
渋い表情を浮かべる。
そんな彼の表情を変化を見て取ったルナは、顔色一つ変えること
無く柔らかい笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
﹁ええ、証拠。もちろんあなた方のような誇り高い領主さんがその
ようなことをするとは思わないけど、他の領主さん方も今回の案件
を注目していますからね。なので、できれば王家の、もしくは宰相
印が入った公文書を持参いただけませんかしら。そうすれば、この
国の誰しもが納得できると思いますわ﹂
﹁そ、それは⋮⋮すべての資料はあの逆賊が我らから奪っていって
しまいました。何しろ、あの男はまったく他人を信用せぬがゆえ、
今の私の元には何も⋮⋮﹂
ケインスマンはわずかに視線を逸らすと、弱々しい声で気まずげ
にそう述べる。
そんな彼の回答を耳にしたルナは、そのまま視線をセルベッカへ
と移した。
すると彼も回答代わりであるかのように、視線を彼女からそらす。
﹁はぁ⋮⋮まいったわね。ではこうしましょう。これからしばらく、
1047
私達王家の査察団は、明日以降直接現地に行って調査します。その
上で、ムラシーンが宰相になって以降に取り上げられた証拠があれ
ば、すぐに貴方たちのもとに返還する。これでいいわね?﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
ケインスマンはやや不満気な表情を浮かべながら反論を口にしか
けるも、彼の言葉を遮るようにルナは口を開く。
﹁わかっています。あなた方の不安なお気持ちはね。だけど何も証
拠がないのに土地を割譲すれば、先程も言ったように、貴方方以外
の領主から王家の公正さを疑われかねません。ですので、この辺り
が王家としても譲歩できるラインです。お父様もそれで構わないで
すね﹂
﹁ああ。セルベッカ、それにケインスマンよ。お主達の気持ち、こ
のアルミムよく分かる。何しろワシは、このラインドルを奪われた
男なのだからな﹂
そのアルミムの言葉が場に発せられた瞬間、両領主は思わず口に
しかかっていた反論を飲み込んだ。
そんな二人の反応を見て取ったアルミムは、そのまま自虐的な笑
みを浮かべると再び口を開く。
﹁ふふ、まあそんなわけじゃ。我らは公正に調べることをその方た
ちに約束する。故に、この辺りを落とし所としようではないか。万
が一、調査の結果その方達の主張に誤りが含まれていたとしても、
既に正式な書類はないのじゃ。お主達を咎めるようなことはせん﹂
そのアルミムの発言による効果は劇的であった。
それまで不安を隠せない表情であった両領主は、表情に僅かな安
堵の色を灯す。
﹁アルミム様がそう言われるのでしたら、私はかまいません﹂
﹁え、ええ。もちろん私もです﹂
1048
セルベッカとケインスマンが次々に調査の同意を示すと、アルミ
ムはニンマリとした笑みを浮かべ一つ頷いた。
﹁ふむ、ならばこれにて一件落着じゃ。さて、興が弾みすぎてしま
ったがゆえに、用意された料理が冷め始めてしまっておる。皆も折
角の料理を楽しもうではないか﹂
こうしてアルミムの介入により、北部での領地を巡る諍いにはひ
とつの解決への方向性が示された様に思われた。
しかし真なる事件はその翌日に起こった。
そう、ルナ第一王女とアルミム先王襲撃事件である。
1049
乱を望む者たち
﹁さて、まずはミングスに向かうわけだが⋮⋮ルナよ、お前は今回
の件をどう考えておる?﹂
ミングスの街へ向かう馬車の中、アルミムは目の前の自らの娘を
試すようにそう問いかけた。
ルナは顎に手を当てると、少し考えこむような素振りを見せ、そ
して彼女なりの解釈を述べる。
﹁そうですね⋮⋮基本的にはムラシーンに献上したものを、力の弱
った王家に対し、利子を付けて返せと言ってきただけ。今回の話を
単純化すると、ただそれだけのことだと思いますよ﹂
王家の人間であるにもかかわらず、あっさりと冷静な評価を下し
てみせた娘をその目にして、アルミムは嬉しそうに微笑む。
﹁なるほど、中々核心を突くいい回答じゃな﹂
﹁ありがとうございます。まあ昨日の彼らの姿を見るに、最初はそ
こまで強欲なつもりもなかったけど、お互いの姿を見て引込みがつ
かなくなっただけかもしれませんね﹂
﹁ふむ⋮⋮ありえる話じゃな。で、お前は彼らをどう裁くべきだと
思っているのかね?﹂
アルミムのさらなる問い掛け。
それは当初王家を代表して一人で交渉に向かうと言ってのけた、
ルナに対するテストを兼ねるものであった。
だがそんな彼の問いかけに対して、ルナは彼の想定を超える言葉
を切り返す。
1050
﹁あら? 今それを問われるということは、この視察はポーズだと、
そう理解して構わないのですね﹂
微笑みながら今回の視察の全てを言葉にしてみせた娘を目の当た
りにし、一瞬アルミムは息を飲んだ。
そしてそれと同時に、彼の脳裏には、一人の黒髪の男の顔がスッ
と横切る。
﹁⋮⋮なるほど、伊達にあの男の下へ通っていたわけではないとい
うことか﹂
﹁あの方はあまり政治的な話は好まれませんけどね。あくまで武術
の師です、アイン先生は﹂
いつも露骨にめんどくさそうな表情を浮かべてはいたものの、彼
女の師は投げかけた質問には全て答えてくれていた。ただ、彼がこ
れ以上内政に関与したくない事を理解していた彼女は、あえてその
事実を伏せる。
一方、その回答を寄越した際のルナの表情を目にして、アルミム
はまったく異なるひとつの不安を覚えた。だからこそ彼は、念を押
すように彼女へと言葉を返す。
﹁武術のなぁ⋮⋮まあ別にそれでも良いが、あの男はダメだぞ﹂
﹁あら、一体何がダメだというのですか?﹂
父親の思わぬ反応がおかしかったのか、ルナはニンマリとした表
情を浮かべながらそう問い返す。
すると、アルミムはとっさに言葉を返すことができず、苦虫を噛
み潰す表情を浮かべた。
﹁それはお前が一番わかっておるじゃろ﹂
﹁ふふ、わかっていますよ、お父様。せっかく滞在してくださって
いるあの方に迷惑をかけ、帝国の二の舞いになるのは私もごめんで
1051
す。繰り返しますけど、あの方はあくまで武術の師ですよ、今のと
ころはね﹂
﹁今のところ⋮⋮か。まあ現状は、それで納得するとしよう。それ
でだ、お前宛にいくつかの縁談が︱︱﹂
この用件を切り出すときいつもするりと逃げられ続けたため、逃
れようのないこの密室で、今回の旅におけるアルミムの真の目的を
口にしかける。
しかし、そんな彼の言葉を遮ったのは、馬を操縦していた御者の
叫び声であった。
﹁た、大変です!﹂
前方から放たれた金切り声を耳にして、最初に反応を見せたのは
ルナであった。
﹁どうしたの?﹂
﹁前方に武装した一団が! ぞ、賊です!﹂
﹁何、賊だと!?﹂
まったく予期せぬ御者の言葉に驚いたアルミムは、馬車の窓へと
駆け寄ると、慌てて進行方向である前方へと視線を走らせる。
すると彼は、視線の先に何十もの武装した男たちが矢をつがえな
がら彼らを待ち構える光景をそこに見た。
﹁馬鹿な、我が護衛の数倍以上だと!? なぜこんなところに、あ
のような連中がいるのだ﹂
﹁陛下、顔を出されてはいけません。馬車の中にい⋮⋮グフッ﹂
御者が馬車の窓から顔を外に覗かせていたアルミムをたしなめよ
うとしたその時、彼の胸には一本の矢がまっすぐに突き刺さる。
そうして御者が崩れ落ちた瞬間、続くように再び前方から矢が放
たれた。
1052
﹁お父様!﹂
御者を失い、更に馬車目掛けて矢が降り注がれているのを目にし
たルナは、父親の体を手で捕まえると、次の瞬間馬車の外へと転が
り出す。
二転、三転、四転。
ルナは全身を強打しながら、父とともに地面を跳ねるように転が
り、大きな岩にその身をぶつけたところで、ようやく彼女らの勢い
は止まった。
一方、彼女らが乗っていた馬車は、まさにそのタイミングで弓の
斉射を受ける、そして矢をその身に受けた馬が地面に崩れると、激
しい物音とともに馬車は横転した。
﹁お、お父様⋮⋮大丈夫⋮⋮ですか?﹂
激しい物音をその耳にしながら、ルナはあえてそれを無視し、抱
えていた父に向かって声をかける。
しかし目の前の父から返されたのは、絞り出すような声であった。
﹁う、うう⋮⋮に、逃げよ、ルナ﹂
﹁お父様!﹂
父の表情と言葉を目にして、ルナは再び呼びかけを行う。
だが、父の口からそれ以上の言葉が紡がれることはなかった。
﹁ふふ、飛んで火にいるなんとやらってね。わざわざ僕らのために
ここまで来てくれるなんて、本当にご苦労様、アルミム。そしてお
1053
前たち、さっさと周りの護衛を片しちまいな﹂
賊の先頭に立っていた長髪の男は、馬車から飛び出したアルミム
が起き上がれないのを見て取ると、右の口角を吊り上げる。
そして先ほどの弓の斉射にて大きく数を減らし動揺隠せぬ護衛達
をその目にしながら、部下たちに向かってそう命じた。
﹁ほ、報告します!﹂
西方会議を再来月に控えその準備の為の会議を行っていたカイル
達は、突然室内に飛び込んできた顔面蒼白の兵士に向かって、一斉
に訝しげな表情を向ける。
すると、息を切らせたその兵士は、途切れ途切れになりながらも、
最悪と言っていいその報告を口にした。
﹁北へ⋮⋮そう北部へ調停に向かわれていたルナ様とアルミム様で
すが⋮⋮ムラシーンの意思を継ぐ者などと名乗る者たちにより襲撃
を受け⋮⋮その身を捕らえられたとの由にございます!﹂
報告を耳にした瞬間、会議室内は静まり返る。
そんな中で最初に口火を切ったのは、カイルの最も信頼するライ
ンドル軍将軍であり近衛隊長の男であった。
﹁何だと! それは間違いない事実か!?﹂
彼が瞬間的に放った怒気は、報告に駆け込んできた兵士の息を一
瞬止める。
しかし、兵士はすぐに何度も首を縦に振ると、その確認に対し肯
定を示してみせた。
1054
﹁も、申し上げにくいことながら、連中からの通告文と護衛部隊の
数少ない生き残りが同一の報告をみせており⋮⋮﹂
その言葉が発せられた瞬間、再び会議室内は沈黙に支配された。
﹁ルナ⋮⋮父上⋮⋮﹂
ポツリとこぼされたカイルの言葉。
その中には万感の思いが込められていた。
そしてその内心を理解したからこそ、ラインドル軍将軍であるマ
ルフェスは僅かな間をおいた後に、報告兵に向かい確認の問いかけ
を行った。
﹁ムラシーンの意思を継ぐ者⋮⋮か。それで、そいつらの正体はわ
かっているのか?﹂
﹁それが、ムラシーンの支配していたクレッセンドの外れで襲われ
たことから、やはりかつてムラシーンの恩を受けた者たちの寄せ集
めではないかと思うのですが﹂
問い掛けられた報告兵は、恐る恐ると言った体でそう口にする。
すると、マルフェスはその回答を耳にするなり、ややキツイ口調
で重ねて詰問した。
﹁それはお前の推測か? それとも何か根拠があっての回答か?﹂
﹁何ら根拠となるものは⋮⋮ですが、奴らの通告文には、二人の身
柄と引き換えに、現在のクレッセンド領の独立と多額の身代金を要
求する旨が書かれております。ですので、やはりその可能性は否定
出来ないかと﹂
兵士はややたじろぎながらも、脅迫状に等しいその通告文の内容
をその場にいる者たちに報告する。
その瞬間、会議室内にいた者達はお互いの顔を見合わせ、各所に
1055
てささやくような声が漏れ始めた。
﹁⋮⋮どう致しますか、カイラ様﹂
カイルの隣の席に腰掛けていたマルフェスは、他の者に聞こえな
い程度の声でそう問いかける。
﹁本当は軍を差し向けたい。だが⋮⋮﹂
﹁西方会議⋮⋮ですか﹂
本来この場で話し合われているべき主題。
その存在の重さと厄介さを理解したマルフェスは、カイル同様に
渋い表情を浮かべる。
﹁ああ。さすがに独立を主張する領地に対し、征伐に正規軍を派遣
している中、それを置いて西方会議に足を運ぶのは不可能だ。今の
このラインドルの内情を考えてもそうだし、会議における立場もあ
る。それに何より、父上方のお命のことも⋮⋮ね﹂
﹁アルミム様とルナ様ですか⋮⋮﹂
捕らえられたと報告を受けた二人の存在。
それを考えるだけで二人の声色は途端に憂いの色を帯びた。
﹁おそらく二人の命を優先して僕が動けば、父はその選択を決して
許してくださらないだろう。何のために自分が席を明け渡したのか
ってね。でも⋮⋮﹂
父親の性格を誰よりも知っているが故、カイルはそう口にすると、
軽く下唇を噛む。
そんな彼の表情を目にしたマルフェスは、止むを得ないとばかり
に、内に秘めていた一つの提案を持ちかけることにした。
﹁カイラ様。私に一つだけ、妙案があるのですが﹂
﹁妙案?﹂
1056
思いがけぬマルフェスの物言いに、カイルはやや驚きを含んだ声
を発する。
その言葉を耳にしたマルフェスは、周囲を一度見回し、改めて他
のものに聞こえぬよう声を絞りながら、カイルに向かってその内容
を口にした。
﹁はい。いや、正確に言えば、妙案を出してくれそうな男に心あた
りがあると言えばお分かりでしょう﹂
マルフェスの意図している人物。
この報告を受けてから、カイルとてその人物の存在を頭の中によ
ぎらせなかったわけではない。
しかしながら、その人物と直接契約を結んだ彼だからこそ、その
名前を口に出すのはためらわれた。
﹁あのお方のことですね﹂
﹁この非常時に、この国の中に存在する最も有能なものを、遊ばせ
ておく手はありません。ここはやはり、あの男に協力を仰ぐべきで
しょう﹂
﹁⋮⋮ですが﹂
カイルとて、内心ではマルフェスの考えに賛成ではあった。
だが最初に結んだ契約の存在、そしてそれ以上に二度もこの国の
ために力を借りることに、彼は躊躇せずにはいられなかった。
一方、そんなカイルの考えを理解しながらも、あえてマルフェス
はその背中を強く押す。
﹁わかっております。彼とはあくまで研究者として遇すると約束さ
れていることは。ですが同時に、あの男にはルナ様の指導も依頼さ
れているはずです。ズルいと言われるかもしれませんが、教え子を
救出してくれるよう師匠に頼むという形式を取るのはいかがでしょ
1057
うか?﹂
﹁この国の為に、妹をダシにするわけですか⋮⋮﹂
﹁他に何か良い方法が思いつきますか? あの男の知恵を借りない
という選択肢を含めても構いませんが﹂
決して敬意は失ってはいないものの、二人だけの会話であったた
め、マルフェスはやや砕けた言い回しでカイルへと問いかける。
そしてその問いは、カイルにとってのまさに言葉通りダメ押しと
なった。
﹁わかりました。あの方に頼むことにしましょう。ただ⋮⋮本当に
あの方は手伝ってくださるだろうか﹂
カイルはそうこぼすと、やや不安げな表情を浮かべる。
しかしそんな彼に向かい、マルフェスは確信を持った表情で口を
開いた。
﹁ふふ、私はぶつぶつ文句を言いながらも手を貸してくれると思い
ますよ。何しろ、あの男は昔から身内に甘い。それはかつて戦場で
肩を並べた我々が、最もよく知るところでしょう﹂
﹁そう⋮⋮ですね。恥ずかしながら、今回もあの方の甘さにすがる
としましょう。ここには本来存在しないはずの、救国の英雄殿の甘
さに﹂
1058
倒れるドミノは
トントン、トントン。
森のざわめきさえも聞こえてきそうな初夏の夜。
迷いの森の奥深くに建てられた館の住人は、突然の入口のドアを
叩くノック音を耳にして目を覚ました。
﹁ふわぁ、なんだい。また森の鹿が遊びに来たのかな?﹂
書物を手にしたままソファーに身を投げ出した状態で眠っていた
彼は、こんな時間に来客が存在するなど思いもしなかった。それ故
に、森の動物のいたずらと結論付けると、アインは再びその瞳を閉
じようとする。
しかし、再び入口のドアがノックされる音が玄関ホールに響くと、
彼は現実を受け入れることとし、やむを得ず体を起こした。
﹁はぁ、こんな夜中にお客さんか。こんなふうに空気を読めないの
はどうせクレイリーかカイン︱︱﹂
フェルムたちも引っかかった仕掛けが機能していないことから、
カーリン時代からの部下と当たりをつけ、ぶつぶつ口をこぼしなが
らアインはドアを開く。
しかし次の瞬間、彼はその先にいる人物を目にして思わず絶句し
た。
﹁夜分すいません。少しお時間を頂きたいのですが、中に入れて頂
けませんでしょうか?﹂
﹁⋮⋮ここの家主に対し、ドアを閉ざすなんてこと私はできません
1059
よ。というか、近衛殿。もしやと思いますが、まさか二人だけでこ
こまで来られたのですか?﹂
こんな場所にいるはずのない館の主を目にしたアインは困惑した
表情を浮かべると、すぐさま抗議するかのような口調で、青年の隣
に控える男にそう問いかける。
﹁俺の護衛だけじゃ不満かい?﹂
﹁というより、元々あなた自身が護衛を受けるべき立場でしょうに。
正直、ここをねぐらにしていた頃とは、二方とも立場が違うんだ。
もう少し自覚を持った方が良いと思うけどね﹂
この森に生息する獣程度が相手では、眼前の二人が護衛など必要
としないことをアインは知ってはいた。
だが、それでもさすがにこのように夜間にひょいと顔を出して良
い存在では決してない。
それ故に、寝ぼけ眼をこすりながらも、アインはあえて苦言を呈
してみせた。
一方、そんな黒髪の男の発言を耳にしたマルフェスは、呆れた顔
を浮かべると、逆に苦言を呈し返す。
﹁おいおい、それはお前さんも同じだろ。護衛も付けず、こんなと
ころでのびのびと暮らしやがって﹂
﹁もしかして、羨ましいのかな?﹂
発言者の内心をその言葉の中に見て取ったアインは、薄く笑いな
がらそう問い返す。
すると、マルフェスは軽く自らを鼻で笑うと、両手を左右に広げ
た。
﹁⋮⋮別に否定はしないさ。もはや俺達には得ることができなくな
1060
った自由だからな﹂
﹁ふふ、なんかそう言われると悪い気はしないね。しかし、こんな
時間にわざわざ私に会いに来られるとは、あまりよい要件ではなさ
そうだ⋮⋮ともあれ、とりあえず中へどうぞ将軍様、そして国王様﹂
﹁おい、なんだこれは?﹂
玄関ロビーへと通されたマルフェスはその惨状を目にした瞬間、
顔をしかめる。
しかしアインはそんな彼の感情が理解できず、思わず首を傾げる。
﹁なんだって言われても、君たちが一番良く知っているだろ。見て
の通り、ロビーさ﹂
﹁違う。俺が聞いているのは、この有り様は何だと言っているんだ﹂
アインの回答に全く納得を示さなかったマルフェスは、改めてす
ぐに問いなおす。
そんな発言を耳にして、彼がロビーで生活していることに対し文
句をつけているのだと、アインはようやく理解した。
﹁別に私が一人で暮らすだけなんだ。ここで住むのが機能的でいい
と思わないかい?﹂
﹁⋮⋮カイラ様。今からでも遅くありません、こいつからこの館を
取り上げましょう﹂
ある意味レジスタンスの象徴でもあるこの館を、ただのダメ人間
の巣窟にされてしまった現状を受け、マルフェルはカイルへとそう
進言する。
しかし、彼がそう言い終えるか否かの間にも、カイルはロビーの
1061
中央に歩み寄り、全く気にした素振りも見せず置かれているソファ
ーへと腰掛けた。
﹁ふふ、これも悪くは無いですね。むしろなかなか居心地いいじゃ
ないですか、開放的な部屋みたいで﹂
﹁カイラ様!﹂
黒髪の男の悪影響を受けすぎている主を目の当たりにして、普段
は比較的ひょうひょうとしているマルフェスもさすがに抗議の声を
上げる。
しかしそんな彼の感情を他所に、黒髪の男は苦笑を浮かべながら
手近な椅子に腰掛けると、話を先に進めるために口を開く。
﹁マルフェスさん。君も座りなよ。別に私からこの館を取り上げる
のが今回の来訪の目的じゃないんだろ?﹂
﹁ああ、そのとおりだ。だが⋮⋮﹂
マルフェスは納得の行かない表情を浮かべ、さらなる苦言を呈し
かける。
しかしそんな彼を、カイルは右の手のひらを向けてみせることで
抑止した。
﹁マルフェス。それほど時間があるわけではない。アインさんが要
件を聞くといってくださっているんだ。お言葉に甘えるとしよう﹂
﹁カイラ様、まだ彼のことを﹃アイン﹄とお呼びになるおつもりで
すか?﹂
﹁そういう約束ですからね﹂
カイルはそう口にすると、アインと名乗っている男に向かって苦
笑を浮かべる。
一方、その発言を耳にした黒髪の男は、釣られたように苦笑を浮
かべながら、二度頭を掻いた。
1062
﹁正直、この面子の中では今さら呼び名なんてどっちでもいいんだ
けど⋮⋮ともかく、それで本題は?﹂
そのアインの発言を受け、来訪者たる二人は一度顔を見合わせる。
そしてマルフェスはカイルに向かって促すようにその名を口にし
た。
﹁カイラ様﹂
﹁ええ。今日ここに来た理由ですが、実は一つお願いがあって足を
運ばせていただきました﹂
要件を切り出してきたカイルの表情を目にした瞬間、アインの脳
内では危険を感じ取るアラームが鳴り響く。だから彼は、カイルに
向かってその先を話すよう、慎重に促した。
﹁お願い⋮⋮ですか﹂
﹁はい。ルナが⋮⋮うちのルナがさらわれました。それを助けるた
めにあなたのお力を貸して頂けませんか?﹂
﹁は? 今なんと?﹂
一瞬口をぽかんとアインは開けた。
そして何かの聞き間違いではないかと思い、彼はすぐさま問い返
す。
しかしながら次にカイルの口から紡がれた言葉は、彼が聞き間違
えたのではないこと、そして事態がそれ以上に深刻であることを示
すことになった。
﹁僕の妹。そしてこの国の第一王女であるルナ・フォン・ラインド
ルがさらわれました。しかも僕の父と同時にです﹂
カイルのその言葉を耳にした瞬間、先程までの軽い笑みはアイン
の表情から消失する。そしてそれとともに、彼の眉間にはくっきり
とした深いシワが寄せられることとなった。
1063
﹁⋮⋮犯人は?﹂
﹁突然クレッセンドに出現した武装集団です。連中は自分たちのこ
とをムラシーンの意思を継ぐものと名乗っているのですが⋮⋮﹂
﹁ムラシーンの⋮⋮か﹂
彼自身とも因縁の存在するその名前を耳にして、アインは顎に手
を当てながら黙りこむ。
すると、そんな彼に向かい、カイルは現状判明している経緯を口
にした。
﹁ええ。父とルナは、かつてのムラシーンの所領であったクレッセ
ンドの領地問題を捌くため、先週現地入りしておりました。そして
領地内を移動中に、突然大規模な武装集団に襲われたようなのです。
その武装集団から送りつけられてきた通告文がこちらです﹂
カイルは一通の手紙を取り出すと、それをアインへと手渡す。
そして険しい表情を浮かべたままアインはその内容を一読すると
深い溜め息を吐き出した。
﹁どうやら、間違いないようだね﹂
﹁はい⋮⋮だから今日はお約束外のことを頼むために、ここにこう
して足を運ばせて頂きました。お願いです、妹を、そして父を助け
るために、お力をおかし頂けませんか﹂
カイルはそう言い終えると、アインに向かって頭を下げた。
そう、今や一国の王であるカイルが。
その事実を前にして、アインは心底困った表情を浮かべる。そし
てわずかに視線を横に移すと、あの軽薄な近衛隊長も深々と頭を下
げていることに気がついた。
目の前で頭を下げ続けるこの国を背負うべき二人の姿。
1064
ありうべからざるそんな光景を前にして、アインはわずかに下唇
を噛みしめる。そして寝ぼけ半分であった脳を急速に働かせていく
と、彼の脳内には二つの大陸西方の未来図が描かれていった。
そう、このまま介入しなかった場合の未来図と、彼が思い描く理
想の未来図。
二つの未来図の間の乖離を確認したところで、アインは大きな溜
め息を吐き出す。
そして彼は心情的にも、状況的にも、ひとつの結論を出さざるを
得ないと悟った。
﹁⋮⋮分かりました﹂
﹁えっ⋮⋮ほ、本当にいいのですか!?﹂
首を縦に振ってくれるまで、この場で何度でも頼み込むつもりだ
ったカイルは、アインの回答を耳にするなりパッと顔を上げると、
まざまざと彼の顔をみつめる。
一方、そんな国王の反応を受けてアインは逆に弱った表情を見せ
ると、その場に同席していたマルフェスにしてみれば計画通りと言
いたくなる回答を彼は口にした。
﹁ルナ様は私の教え子でもあるからね。それにアルミム様には、ど
こぞの国の大使館を新築いただいた恩義もある⋮⋮それに︱︱﹂
﹁ありがとうございます!﹂
アインが更に言葉を重ねかけたところで、先ほどまでの張り詰め
ていた緊張が弛緩したカイルは、彼の言葉を遮る形で感謝を口にす
る。
1065
そんなカイルの反応に一瞬苦笑し、アインは口に仕掛けた言葉を
一度引っ込めると、別の内容をあえて切り出した。
﹁うん。ただ、この件を受けるにあたり、一つお願いをしたいこと
があるんだ。それを聞いてもらっても構わないかな?﹂
﹁お願いですか⋮⋮僕達に、いやラインドルにできることならなん
なりと﹂
アインの発言に対し、カイルはすぐさま同意を示す。
だが彼の隣にいたマルフェスは、慌てて言葉を差し挟んだ。
﹁カイラ様、よろしいのですか?﹂
﹁いいんだ。もちろんすべてお応えできるとは限らないけど、出来
る限りのことはしようと思う﹂
明確なカイルの意思。
その表明を受けてアインはひとつ頷いた。
﹁それでは遠慮無く。お願いというのは他でもない。ラインドル軍
を動かしていただきたい﹂
﹁軍を⋮⋮ですか。しかしそれは﹂
﹁ああ、もちろんわかっているよ。彼らを刺激したくないというこ
とはね﹂
険しい表情を見せたカイルに向かい、アインはすぐさまそのこと
は理解していると告げる。
するとそんな彼に向かい、マルフェスが彼らを悩ます問題点を口
にした。
﹁もちろん軍の動員は我々も最初に検討した。だが、問題は連中を
刺激することだけではないのだ﹂
﹁ふむ、と言うと?﹂
アインはわずかに首を傾げながら、マルフェスに先を促す。
1066
﹁今、ラインドル軍の本体を動かすことは、我が国が内乱状態にあ
ることを喧伝するに等しい。それは再来月に行われる西方会議にお
いて、著しく状況を不利にするだろう﹂
﹁ああ、そうだろうね﹂
﹁そうだろうねって、お前﹂
あっさりとしたアインの同意を受け、マルフェスは思わず言葉を
詰まらせる。
そんな彼の反応を目にしながら、アインは右手の人差指を突き立
てると、眼前の二人が想像もしていないことを彼は言い出した。
﹁あまりにタイミングができすぎていると思わないかい? 西方会
議と、今回の騒動のタイミングがさ﹂
アインのその発言を耳にし、その意味するところが脳の中へと浸
透し始めた瞬間、カイルは思わず目を見開いた。
﹁ど、どういうことですか? もしかして今回の件は!?﹂
﹁現時点では何ら根拠の無い話さ。あくまで、現状誰が最も得をす
ることになるかという、一点から考えただけのね。でも、可能性は
頭の片隅にはおいておくべきだと思う。つまりは今回の件が起こっ
たことで、西方会議の主導権を取りやすくなったであろう彼の国の
存在を⋮⋮ね﹂
﹁つまり、今回の件を裏で糸を引いているのは、キスレチンだと?﹂
マルフェスはアインの意図するところを彼なりに解釈し、真正面
からそう問いかける。
すると、アインは困った表情を浮かべながら、軽く肩をすくめて
みせた。
﹁繰り返すようだけど、あくまで仮定の話さ。結論を出すのは時期
尚早と私は思っている。でも、その可能性は少なくないだろうね﹂
1067
﹁⋮⋮なるほど。いいだろう、彼の国の関与の可能性が考えられる
というのは俺も理解した。そしてその上で軍を動かすというのだか
ら、目的が彼の国に対する牽制ということもだ。その上であえて聞
きたいのだが、お前は軍をどう動かしたいんだ。挑発となることを
承知で北へと向かわせるのか? それとも東に向かわせてキスレチ
ンに対する備えとするつもりか?﹂
アインの口ぶりから、軍を動かす理由がキスレチンを念頭に置い
たものであることは、マルフェスも理解できた。だからこそ彼は、
キスレチンを掣肘するために軍をどのように活用するのかを問いか
ける。
すると、その問いかけに対する答えは、彼の全く予期せぬもので
あった。
﹁そのどちらでもないさ﹂
﹁どちらでもない⋮⋮だと。なら、軍をどこに動かすと言うんだ?
西でも北でもなければ、あとは南しか行き先はないぞ﹂
﹁うん、そうだね﹂
﹁うんって⋮⋮おい、まさか﹂
全く考えもしていない回答にマルフェスは驚くと、その意味する
ところを理解し思わず声を上ずらせる。
だが動揺する彼とは裏腹に、アインはなんでもないことのように
全く想定外の軍行動を口にした。
﹁ああ。ラインドル軍には、これより南下を行ってもらいたい﹂
﹁待ってください。南にはあなたの国しかないんですよ﹂
そう、ラインドルの南に存在するのは、とある英雄の母国。
だからこそ、カイルは慌てて口を差し挟んだ。
﹁その通り。軍をクラリスに対する牽制として動かしてもらいたい。
それが今回の案件を受ける上で、私の出す唯一の条件さ﹂
1068
﹁ですが⋮⋮﹂
全く意図の分からぬアインの提案に、カイルは一層の戸惑いを示
す。
その反応を目にしながら、アインは思わず苦笑を浮かべると、再
び口を開いた。
﹁カイル。ドミノを止めるには、まだ倒れていないドミノを押さえ
つけるべきさ﹂
﹁ドミノを⋮⋮押さえつける﹂
たった今、耳にした言葉。
それを反芻するかのように、カイルは思わず言葉とする。
それを耳にしたアインは大きくひとつ頷くと、頭を掻きながらは
っきりと宣言した。
﹁ああ、その通り。ラインドル軍という釘を次に倒れそうなドミノ
の前に打ち込み、その間にこの国の倒れかかったドミノを元へと戻
す。それじゃあ、少し説明するとしようか。今回の黒幕によるドミ
ノ倒しを防ぎ、ついでに来たるべき西方会議を少しばかり優位に進
めるための方法を⋮⋮ね﹂
1069
呼び出し
﹁フェルム君、フェルム君はいるか?﹂
集団講義の授業を前にした休憩時間。
そのタイミングで、次の授業を担当しない教授が姿を現すと、学
生たちは一様に驚きを見せた。
一方、学内で最も有名な教授に直接名指しをされた学生は、やや
戸惑いを見せながらも素直に返事をしてみせる。
﹁はい、レリム先生。僕ならここにいますが⋮⋮﹂
﹁ああ、そこにいたか。ちょっと至急の用でね、私に付いて来て欲
しい﹂
レリムはそう述べると、フェルムの返答を確認することなく、そ
のまま踵を返し部屋から出て行く。
﹁ちょ、ちょっと待って下さい、レリム先生﹂
教室内の視線を一身に集めたフェルムは、突然の状況に戸惑いな
がらも、慌てて彼女を追いかけた。
そして部屋を出て、少し離れた場所に彼女の背中を見つけると、
再び彼は声を上げる。
﹁レリム先生。一体何の用なんですか?﹂
小走りで彼女の下に追いついたフェルムは、率直に自らの疑問を
ぶつける。
すると、普段はあまり見せない険しい表情で、レリムは回答を口
にした。
1070
﹁何の用かって? ふん、そりゃあ急用さ。詳しいことは奴に聞け﹂
﹁奴?﹂
﹁お前の担当教官にだ。私もあくまで奴に呼び出された一人にすぎ
ないからな﹂
そう口にし終えると、無駄口は終わりだとばかりに、彼女は口を
真一文字に閉じる。そしてそのまま彼女は歩くスピードを上げた。
足早に歩み続けるレリム。
そんな彼女を横目で見ながら、フェルムは間違いなく普通ではな
い何かがあるのだと感じとった。
レリム教授がかつてレジスタンスに所属し、ラインドル事変にお
ける功労者の一人であることは、この学園内にいるものなら誰しも
が知るところである。
そして同時に、この学園においても最強の魔法士と見なされてい
ることもまた事実であった。
しかしながら現在、そんな学園内で並び立つもののいないはずの
彼女の表情は、非常に険しいものであった。
だからこそフェルムは、彼女がそんな表情を浮かべる理由を、早
足で歩みながらも考え続ける。
だが、彼の中での結論が出る前に、隣を歩くレリムが突然足を止
めた。
そう、彼の担当教官であるアインの実験室の目の前で。
﹁イス⋮⋮アイン、入るよ﹂
一瞬、何か異なる名前を口にしかけたレリムは、隣にフェルムが
いることに気がつくと、慌てて呼ぶ名を言い換える。
そして少しバツの悪そうな表情を浮かべたまま、中からの返事を
1071
確認することなく彼女は部屋のドアを開けた。
﹁おおレリム、早かったな﹂
フェルム達が姿を現した瞬間、部屋の中心部で椅子に腰掛けてい
た中年男性が、軽薄そうな笑みを浮かべながらそう口にする。
﹁あまりに急な呼び出しだったから、実験材料を全てフイにしたけ
どね。後で軍に弁償してもらうよ﹂
レリムは薄い笑みを浮かべる男性をキッと睨むと、はっきりとそ
う言い切る。そしてそのまま手近な椅子へと腰を下ろした。
﹁はは⋮⋮まあ、俺の金じゃないからいいか。で、そっちにいるの
が例の学生君かな?﹂
﹁ああ。彼がうちの期待の星さ、マルフェス﹂
そのレリムの言葉が発せられた瞬間、フェルムは驚愕のあまり目
を大きく見開く。そしてわずかに声を震わせながら、目の前の男に
向かって話しかけた。
﹁も、もしかして、マルフェス将軍⋮⋮ですか?﹂
現在、ラインドルの軍の頂点に存在するマルフェス・フォン・ロ
マン。
レリムと並ぶラインドル事変の代表的な功労者であり、将軍職と
近衛隊長職を兼務するカリスマの存在をその目にして、フェルムは
思わず後ずさった。
﹁ああ、そうだ。初めましてだな、フェルム君﹂
いずれフェルムがたどり着きたいと夢想している地位の男は、右
の口角を吊り上げニコリと微笑むと、軽い口調で彼の名を口にする。
すると、その事実を前にして、フェルムは一層の驚愕を覚え、慌
てて目の前の男に向かい問いを放った。
1072
﹁ど、どうしてマルフェス様が僕の名を﹂
﹁そりゃあ、こいつに聞いたからさ﹂
マルフェスはあっさりとそう口にすると、部屋の奥を右手の親指
で指し示す。
そうしてフェルムが視線を動かした先には、机に足を投げ出しな
がら苦笑を浮かべている男が存在した。
﹁おいおい、学生相手に嘘をつくのは良くないな。元から知ってい
たんだろ。うちの学長を通してさ﹂
﹁まあな﹂
アインはやや口を尖らせながら抗議すると、マルフェスは両手を
左右に開き、その指摘を認める。
一方、そんな二人のやりとりにフェルムは目を白黒させていたが、
その場にいたもう一人の女性は、やや苛立たしげな声を発した。
﹁くだらない話はあとにして、さっさと本題に入ってくれないか。
あたしも別にヒマじゃないんだし、第一そんな悠長にしていられる
状況でもないんだろ?﹂
﹁ああ、残念ながらな﹂
レリムの発言を受け、マルフェスは表情を引き締め直す。そして、
重々しく彼は頷いた。
﹁あの⋮⋮申し訳ないのですが、状況とは一体?﹂
まったくその場の会話が理解できなかったフェルムは、恐る恐る
と言った体で、三人に向かいそう問いかける。
すると、マルフェスが無精髭を撫で付けながら、三人を代表して
口を開いた。
﹁フェルム君。今から話す内容は、国家機密だ。絶対に他言しない
1073
ように注意してくれ﹂
﹁は、はい﹂
この国の軍のトップの口から発せられた秘密厳守の依頼。
その意味するところは、これから彼の口から発せられることがた
だならぬことであることをフェルムに感じさせた。
しかしながら、実際にマルフェスの口から放たれた言葉は、そん
な彼の予感の遥か上をいった。
﹁アルミム様とルナ様が攫われた。そしてこの場にいるメンバーで、
お二人を奪回する﹂
一瞬、フェルムはその言葉の意味を理解できなかった。
そして次の瞬間、彼は何かの聞き間違いなのではないかと考える。
﹁ちょっと待ってください。いま、何と言われましたか?﹂
﹁前国王であられるアルミム様と、第一王女のルナ様が攫われた。
だからそんなお二人を奪還するために、君をここに呼んだと俺は言
ったのさ﹂
フェルムの求めに応じて、改めて繰り返されたマルフェスによる
説明。
だが二度ほぼ同じ内容を耳にしても、フェルムは目の前の男が、
何らかの目的で彼をからかおうとしているのではないかと感じずに
はいられなかった。
﹁じょ、冗談ですよね。マルフェス⋮⋮様﹂
﹁⋮⋮まあ、そう考えるのも無理は無いな。だが、受け入れがたい
ことではあるが、紛れも無い事実だ﹂
そのマルフェスの断言を受けて、フェルムは頭を金槌で殴られた
かのような衝撃をうける。
1074
まさににわかには受け入れがたい事実。
突きつけられた突然の話を否定してもらいたいと期待し、フェル
ムはすぐさまその場にいる残りの二人に向かって順に視線を向ける。
だが、視線の先にいた彼らから返されたのは、無言という名の肯
定であった。
﹁フェルム君。繰り返すようで申し訳ないが、お二人が攫われたの
は事実だ。そして今日ここに君を呼んだのは、この作戦に君に参加
してもらうためだ﹂
動揺著しいフェルムをその目にしながら、マルフェスは彼に向け
て改めて今回の呼び出しの趣旨を説明する。
﹁僕がですか!? ですけど、僕は学生で︱︱﹂
﹁ああ、それは知っている。だが今回の作戦の指揮者が、君を参加
メンバーに加えた。だからこそ、君はこの場に呼ばれたんだ﹂
首を左右に振りながら否定しようとするフェルムに対し、マルフ
ェスははっきりとした声で、彼に向かいそう告げた。
﹁作戦の⋮⋮指揮者? マルフェス様が指揮を取られるのではない
のですか?﹂
先ほどマルフェスは、この場に集まっているメンバーで攫われた
二人を奪還すると口にした。
それが事実とするならば、今回の作戦が間違いなく国家を揺るが
しかねない最重要な作戦であることは必定である。
そしてだからこそフェルムは、当然今回の作戦はマルフェスが立
案と指揮を行うのだと考えていた。
だが、この国の軍の頂点に位置する男は、ほんの僅かに表情を緩
めながら、はっきりと彼の問いかけを否定する。
1075
﹁残念ながら、今回の俺はただの一兵卒さ﹂
﹁マルフェス様が⋮⋮一兵卒⋮⋮﹂
﹁ああ。この奪還作戦に関して、我々は決して失敗ができない。そ
してだからこそ、今回の作戦案を立案し指揮を行うのは、今現在こ
の国にいる中で最も優れた人物さ﹂
そう口にしたマルフェスは、ゆっくりと部屋の奥に向かって視線
を動かす。
その動かされる視線の先に誰がいるのか、フェルムは誰よりもわ
かっていた。
そしてだからこそ、フェルムは自らの口元を震わせる。
﹁アイン⋮⋮先生﹂
フェルムは震える声で自らの担当教官の名を口にした。
この国の軍の頂点に立つマルフェスが、そのプライドを排して自
らより優れていると評するに足る人物。
そんな化け物のような存在は、大陸西方にたった一人しか存在し
ない。
そう、だからこそフェルムは以前から抱いていた疑念が真実であ
ると、ここに確信した。
アインと名乗っている目の前のだらしない男こそ、かつてレジス
タンスと伴にこの国を存亡の縁から救った、あの救国の英雄ユイ・
イスターツであると。
1076
英雄の教え子
﹁ともかく、本題に入るとしようか。マルフェスさん、軍の方は?﹂
皆の視線が集中したことに思わず苦笑すると、アインはその流れ
を切るように話しを本筋へと戻す。
すると、そんな彼の意図がわかったのか、マルフェスは薄く笑い
ながら口を開いた。
﹁ああ、予定通り準備は行っている。うちの副官のプレスタは有能
だからな。数日中にはクラリス国境に向けて主力を動かせるだろう﹂
マルフェスは定期的に送られてくる部下の報告を元に、大まかな
予想を口にする。
だが、その発言に驚きを見せる者が存在した。
﹁え、クラリス? ちょっと待ってください。ルナ様たちは北へ向
かわれていたはずですよね。そこで捕らえられたのではないのです
か?﹂
出発する前に、ルナから目的地を告げられていたフェルムは、聞
いていた方角とは真逆へ軍を動かすという話に面食らう。
そんな軽いパニック状態であるフェルムに向かい回答を口にした
のは、彼の担当教官であった。
﹁ああ、そうだよ。ルナ様たちは、北の旧ムラシーン領で捕らえら
れている﹂
﹁だったらどうして?﹂
﹁ルナ様たちを助けることはもちろん大前提だよ。だけど、残念な
がらそれだけでは不十分なんだ。今回の敵の狙いは別にルナ様たち
を捕えること自体にないのだからね﹂
1077
アインは頭を掻きながら、目の前の教え子の疑問に答える。
だがその回答自体が、さらにフェルムの困惑を強めさせる結果と
なった。
﹁捕えることにない⋮⋮では、何のためにルナ様達は﹂
﹁全てはとある国が、再来月に開かれるちょっとした寄り合いに際
して、場の主導権を握る為さ﹂
﹁国⋮⋮寄り合い⋮⋮それはもしかして西方会議のことですか?﹂
間近に迫っている国同士の寄り合いと呼べるものと聞いたところ
で、フェルムは八年に一度開かれる会議を思い浮かべると、その名
前を口にする。
すると、そんなフェルムの見解に満足したマルフェスは、大きく
ひとつ頷いた。
﹁ふむ、そのとおり。全てはとある国が西方会議で主導権を握るた
めに仕組まれた話だ。そしてそのための駒の一つとして、ムラシー
ン派の残党らしきものは利用されているに過ぎない﹂
﹁ああ。だからこそ、あの二人は生かされているはずだ﹂
マルフェスの発言を引き取る形で、アインは自らの見解を付け加
える。
そんな彼の言葉を耳にしたレリムが、自らの予測を口にした。
﹁つまり時間稼ぎが目的と、そういうことかい?﹂
﹁ああ。万が一お二方に何かあった場合、西方会議までに今回の件
はあっさり片付くだろう。お二方の存在がなく、まともにラインド
ルの国軍を動員していいのなら、今回の規模の反乱など問題になら
ないレベルだからな﹂
レリムの発言に頷くと、マルフェスはやや渋い表情を浮かべなが
ら、あえて想像したくもない仮定を口にした。
そんな二人の会話を受けてアインは、頭を掻きながら補足を行う。
1078
﹁でもね、それでも彼らの目的は最低限達せられてしまう。何しろ
内乱で前王を失ったばかりの国が、どの面を下げて会議に乗り込む
ことができるかってなるだろうからね﹂
﹁たぶんな⋮⋮結局のところ、連中にとってこの国の王族の存在は、
その程度の対象としか認識されていないだろう。実に腹立たしいこ
とだが﹂
そう発言したマルフェスは軽く下唇を噛む。
そんな彼の心境を理解し、アインは苦笑を浮かべながら口を開い
た。
﹁それは仕方ないさ。彼らはあくまでの共和国の人間だからね。王
政というものを肌身を通して理解している私達とは違うさ﹂
そのアインの言葉が空間に放たれた瞬間、フェルムはそこから今
回の黒幕の存在を理解すると、眉間にしわを寄せながら口を開く。
﹁共和国⋮⋮ということは、今回の事件は﹂
﹁ああ、キスレチン。キスレチン共和国が今回の絵を描いている﹂
アインは自らを見つめてくる生徒に向かって、はっきりとそう断
言する。
しかしその答えに対し、わずかな疑念を抱いたフェルムは、まっ
すぐにアインへと疑問をぶつけた。
﹁ですが、先生。あの国は確か平和外交を旨とする革新派が選挙で
勝利しましたよね。にも関わらず︱︱﹂
﹁はぁ、まだまだだな。まあ、触れている情報が選別されているか
ら仕方ないのだろうが⋮⋮ともかく、奴らの平和主義はあくまで名
目だけのものさ。国内での戦いに勝つためのな﹂
フェルムの発言を遮る形で、マルフェスは彼に真実を伝える。
1079
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁平和とは実に使い勝手のいい言葉さ、フェルム君。もちろんその
ままの意味で用いられれば何より美しい言葉であるけど、必要とあ
れば他国を攻める口実にも使うことができる便利な言葉にもなりう
る。まあ言葉なんてものはさ、その国ごと、いやその個人ごとに辞
書が必要なほど、その意味するところは異なるものだからね﹂
フェルムに向かってアインは、溜め息混じりにそう告げる。
そして彼は、一度確認するように一同を見回すと、改めて本題を
口にした。
﹁というわけで、彼らの目的を理解した上で私達がどうするかだが、
先程も言ったようにルナ様たちを助けるだけでは不十分なのさ。だ
から今回私達は、二方面への同時展開作戦を行おうと思っている﹂
﹁二方面同時展開⋮⋮﹂
アインの発言を耳にするなり、フェルムは思わずつばを飲み込む。
すると、アインは彼に向かって一度頷いてみせた。
﹁ああ、君や私達ここにいるメンバーは、北の旧ムラシーン領へ向
かう。だがこの国の軍の主力は、南部のクラリス国境付近で派手な
軍事演習を行うこととする。さて、なぜそうするのかわかるかい?﹂
﹁キスレチン方面に軍を向けるのではなく、クラリス方面にですよ
ね。だとすると⋮⋮対外的な演出⋮⋮でしょうか。ルナ様たちは決
してさらわれていないという﹂
﹁七十点。まあ演出という意味ではそのとおりさ。だけどその目的
が若干異なる。とはいえ、君がアクセスできる情報から推測してい
るのだから、十分に及第点とは言えるかな﹂
フェルムの解答に満足すると、アインは右の口角をわずかに吊り
上げる。
しかしこれまで試験という試験でほぼ間違えを経験したことのな
1080
いフェルムは、満点ではないということに不満を覚え、すぐさまそ
の理由を求めた。
﹁では、あとの三十点は?﹂
﹁これは西方会議に向けての、クラリスに対する牽制さ。いや、よ
り正確に言えば、クラリスにいる一部勢力に対する牽制。それがき
っと西方会議を有利に進めるために必要となる。だけどさっきも言
ったように、これは君が得られる範疇外の話だ。だから十分に及第
点だし、この際は気にしなくていい﹂
両手を左右に開きながら、アインは苦笑を浮かべる。
一方、知らないことで減点されたことから、フェルムはほんの一
瞬その表情に不満の色を灯した。
そんな彼に気づいたマルフェスは、軽い口調で横から口を挟む。
﹁まあ学生のテストと違い、必ず答えられないことはあるものだ。
実際の政治や戦争ってものはな。ともかく、そこの先生さんよ。学
生への講義はこれくらいにしてもらって、改めて俺達が何をするの
か説明してもらえるかな?﹂
実際にマルフェスはアインと打ち合わせを行っており、彼自身が
何をすべきかは把握している。
しかし、まったく今後の予定を聞かされていないレリムやフェル
ムに配慮し、彼はあえて自らの分も含めての説明を求めた。
﹁ああ、そうだね。先ほども言ったように、軍の主力は南部の今回
の軍事演習に参加してもらう。だが君の虎の子は、私達のサポート
として北に向かわせてくれ﹂
﹁近衛のことだな。分かった。早急に準備させよう﹂
アインの意図するところを汲みとったマルフェスは、二つ返事で
その依頼を受け入れる。
すると、椅子の背にもたれかかりながらレリムは、目の前の黒髪
1081
の男に向かって口を開いた。
﹁で、研究を中断させられてまで呼び出されたあたしは、一体何を
すればいいんだい?﹂
﹁ああ、レリムさん。君には北に向かうチームの表の主力として働
いてもらう。でもね、その前にちょっとだけして欲しいことがある
んだ﹂
﹁北へ向かうことは了承した。それで、して欲しいことってなんだ
い? もったいぶらずにさっさといいな﹂
わずかに視線を強めたレリムは、アインに向かってすぐに回答を
求める。
その彼女の反応に苦笑すると、アインは彼女にとって予想外とな
る頼みを口にした。
﹁北へ向かう準備が整うまでの間、そして北へ向かう道中、彼に訓
練をつけてほしい﹂
﹁訓練?﹂
アインの発言を耳にするなり、レリムは訝しげな表情を浮かべる。
しかし、発言した当人は特に気にする風もなく、その詳細を口に
した。
﹁ああ。君の付加魔法を、彼が使えるよう指導をお願いしたいんだ。
特に例の魔法をね﹂
﹁アスィエ⋮⋮か。そりゃあ別に構わないがね。だがあたしの指導
料は高いよ﹂
アインが魔法の種類まで指定して依頼してくることから、明らか
に何らかの必要性に駆られてのものであるとレリムは理解した。だ
からこそ彼女はそれ以上詰問することなく、あえて不敵な笑みを浮
かべてみせる。
1082
﹁はは、わかったよ。カイルには後でたんまり研究費が出るよう、
事が終われば私から頼んでおく﹂
﹁カイル?﹂
どこかで聞いたことがある名前によく似た響きでであり、フェル
ムはなぜか引っ掛かりを覚える。
その問いかけに対しアインは軽く苦笑すると、あっさりとその話
題を流した。
﹁ああ、私の友人の名前さ。ともかく、今の話を聞いていたからわ
かると思うけど、現地につくまでの間、君には彼女の指導を受けて
もらう。たしか君はもともと、レリムさんに魔法を学びたかったん
だろ? ふふ、ちょうどいい機会さ﹂
﹁それは願ってもない話です。ですが⋮⋮﹂
こんな状況下において、指導を受けさせられることの意味がわか
らなかったフェルムは、戸惑いを見せた。
すると、そんな彼の反応に不満を持ったのか、彼を指導すること
となるレリムが、横から言葉を挟む。
﹁フェルム、つべこべ言うなら何も教えないよ。いいかい、そいつ
が必要といえば、非常に不本意ながらだいたい必要なことさ。気に
くわないことは少なくないけどね﹂
叱りつけるようなレリムのその発言を受け、フェルムはそのまま
押し黙る。
そうして、場の空気が硬くなったところで、改めてアインが皆に
向かって口を開いた。
﹁とりあえず当面のおおまかな方針はそんなところかな。で、今か
らは具体的な準備内容についてを少し説明しよう﹂
1083
﹁レリム先生、ちょっと待って下さい﹂
アインからの説明が全て終わり、一同が彼の研究室を退室したあ
と、自らの教授室に帰ろうと廊下を行くレリムの背中に、フェルム
は声を掛けた。
﹁あん? さすがに指導は明日からだよ。あたしにもしなきゃなら
ない準備ってものがあるからね﹂
﹁いえ、そのことではなく、一つお聞きしたいことがあって﹂
真面目で知られるフェルムの用件を、今すぐの指導だと考えたレ
リムに対し、フェルムはすぐに首を振って否定する。
その時の彼の表情を目にして、レリムは目の前の青年が何を求め
ているのかを言外に悟った。
﹁⋮⋮アイツの事か﹂
﹁レリム先生、教えてください。アイン先生は⋮⋮アイン先生は何
者ですか?﹂
いつかは誰かから問いただされる可能性が少なからず存在すると、
そうレリムは考えていた。そしておそらく最初にその問いかけをす
るのが、目の前の青年だろうとも。
だからこそ、彼女はあえて目の前の青年に対し、言葉を返す。
﹁その問いかけをこのあたしにするってことは、既に君なりの答え
があるんだろ﹂
﹁はい。あの人に関しては色々とおかしすぎます。ただの流れの研
究者がアドラーの書を保有し、更に王族の武術の指導を行う。ここ
まででも十分に普通では無いのに、その上、今回のルナ様を奪回す
る作戦に関し、マルフェス様を逆に指揮するなんて⋮⋮そんなこと
1084
の出来る人物なんて、存在するはずがないんですよ。たった一人を
除いて﹂
そのフェルムの返答。それを耳にした瞬間、彼女は彼が正解に到
達したことを理解した。
だからこそ彼女は、彼に向かって確認するように一つの問いかけ
を行う。
﹁なるほど。君の中で答えは出ているわけだ。で、確認するけど、
君は本当にそれが知りたいのかい?﹂
そのレリムから投げかけられた問い掛けに対し、フェルムは一瞬
戸惑いを見せる。
そしてわずかに視線を外すと、彼は悩める自らの心境を吐露した。
﹁正直なことを言うと⋮⋮わかりません。いや、もちろんこんなモ
ヤモヤしたままでは嫌だとは思っています。でも、真実を確認する
事に対する怖さがあるんです。そう、今の僕と先生の関係が壊れて
しまう、そんな気がして⋮⋮﹂
その物言いと表情から、レリムは目の前の青年の迷いを理解した。
しかしだからこそ、彼女は彼を突き放す。
﹁だとしたら、あたしから言うことは何もないな﹂
﹁⋮⋮レリム先生﹂
思わぬ教師の言葉に、フェルムは情けない声を上げる。
そんな彼に向け、レリムは諭すように口を開いた。
﹁いいかい、フェルム。今回あいつに頼まれて、暫くの間はあたし
が君を預かる。まあこの際だから正直に言うけど、君は本来うちの
ゼミに来る予定だったんだ。あたしも君を指導したいと思っていた
し、君がゼミに来たいと言ってくれているのを知っていたからね﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
1085
突然切りだされたレリムの話に、フェルムは反応できずその場で
固まる。
だがそんな彼を無視するように、レリムは言葉を続けた。
﹁だけど、そんな折にあいつがここに来た。ビグスビー学長は⋮⋮
うちの義父は、君のことを非常に高く買っていてね。だからこそ、
研究機材を借りに大学へ来たあいつに向かい、一つの条件をつけた
んだ。一人だけ、生徒の指導を受け持ってくれってな﹂
少し遠いところを見る視線になりながら、レリムは彼の配属が決
まる直前のことを口にして、一度溜め息を吐き出す。
そして目の前の青年に向かい、彼女は軽く苦笑を浮かべ直すと、
再び言葉を紡ぎ始めた。
﹁最初あいつはあまり乗り気でなかったようだけど、あいつのこと
を知る学長以外の何人かも、君のことを彼に依頼した。そして昨年
君が書き上げた付加魔法に対するレポートを読んだところで、よう
やく彼は条件を飲んだ。まあ、そういう経緯さ、君があいつのとこ
ろに配属されたのはね。で、あいつのもとに行くのならばと、私は
君のことを断念したのさ﹂
ずっと行きたいと願っていたレリムのゼミに所属することができ
なかったその理由。
納得がいかず知りたいと願っていたその理由を突然告げられ、フ
ェルムは思わず呆然となる。
するとそんな彼に向かい、レリムは真剣な表情でひとつの事実を
突きつけた。
﹁フェルム。君は将来、この国における彼の唯一の教え子であると
いう看板を背負うことになる﹂
表向きは教え子と名乗ることが出来ない王女の存在をあえて除外
し、レリムはフェルムに向かってそう告げた。
1086
そんな彼女の意図を知ってか知らずか、フェルムは引っかかった
一つの言葉をレリムに問う。
﹁唯一?﹂
﹁ああ。あいつがこの国で教えるのは、君が最初で最後さ。もとも
と一年で、あいつはこの国を去る予定だったからね﹂
そのレリムの発言を耳にするなり、フェルムは目を見開くとその
まま絶句する。
そんな彼に向けて、レリムは彼の置かれた立ち位置を自覚させる
よう、更に言葉を紡いだ。
﹁そんなわけで、この国の中であいつの直接の教え子になれるのは
たった一人。そのたった一人の枠に対し、皆が君を推したからこそ、
君はあいつの下にいる。いいかい、残された時間は決して多くない。
自らが置かれた状況を、そしてその意味をもう一回考えなおしてお
くんだね。英雄の教え子君﹂
1087
ミレンベルグ城
クレッセンド領のほぼ中央に位置するミレンベルグ。
それはムラシーンの居城が置かれた地域の名であり、そのため彼
の所有していた城はミレンベルグ城と呼ばれている。
この城の設計者でありかつてこの国の宰相であった男は、自らが
王都を離れることなど、滅多なことではあり得ないと考えていた。
それ故にこの城を利用するケースは、何らかの理由があって王都
から退去してきた場合を想定しており、この地の政治的な中心とし
て機能することではなく、緊急避難に対応した作りを設計段階から
優先させてある。
その代表的な特徴として、ミレンベルグ城は街から少し離れた森
のなかに作られ、城の周囲には環状堀と呼ばれる深く広い水堀が備
え付けられていた。
つまり城に進入するには、唯一堀の上に掛けられた巨大な石橋を
渡らねばならない。
この地を攻めるものにとって、厄介極まりないムラシーンの居城。
それこそが、現在彼らが奪還せねばならぬ二人の人質が囚われて
いる場所でもあった。
﹁お待ちいたしておりました、マルフェス将軍﹂
環状堀に囲まれたムラシーンの居城を、眼下に収める小高い丘。
日も完全に沈んだ真夜中に、ようやく目的としていたこの地点へ
と辿り着いたアインたち一行は、一足先に待機していた近衛部隊に
1088
迎えられる。
﹁ああ。待たせたな、コルトン。それで、あれがミレンベルグ城か
?﹂
爛々と城の周囲に無数の篝火が灯され、闇夜の中にありながら自
己主張をし続けている巨城に視線を向けると、近衛部隊の参謀を務
める部下に向かいマルフェスはそう問いかける。
﹁はい。持ち主が亡くなって以降は、ほぼもぬけの殻同然であった
のですが、現在は相当数の兵士が入り込み内部を占拠しております﹂
上官に対し、コルトンは頭を下げながら、簡潔に調査内容を報告
する。
その返答に対しひとつ頷くと、マルフェスは更に問いを重ねた。 ﹁それで状況は?﹂
﹁敵の主力は、もともと当地の治安維持及び周囲の領地接収に使用
していた子飼いの部隊の様です。規模としては百名ほどでしょうか﹂
﹁百か⋮⋮多いとも少ないともいえんな﹂
冷静な口調で淡々と告げられた事実を前にして、マルフェスは眉
間にしわを寄せる。
そんな上官の反応を目にしたコルトンは、重ねて気になっていた
報告を彼へと告げた。
﹁それと敵の一部にですが、もともとこの地の兵士ではなかったも
のも混じっているようです﹂
﹁ほう、情報のない敵か﹂
その報告を受け取ると、マルフェスは自らの後ろへと視線を移す。
そして彼は黒髪の男が一つ頷くのを、その目にした。
﹁当たり⋮⋮かな。多分、件の連中だろうね﹂
1089
﹁だな。だとすれば、そいつらを出来る限り捕らえたいところだが
⋮⋮﹂
﹁まあね。でも、それはあくまでオマケとしておこう。私達の最優
先事項は別にあるのだからね﹂
マルフェスの言葉に対し、アインは引き取るようにそう口にする。
﹁確かにそのとおりだ。で、アルミム様やルナ様のお姿は?﹂
﹁皆様がご到着されるまでの数日間、数カ所から監視を行っており
ました。ですが残念ながら、御二方の姿は確認できておりません﹂
コルトンは申し訳無さそうな表情で、上官に向かってそう報告す
る。
すると、マルフェスはすぐに首を左右に振った。
﹁まあ、仕方がないだろう。連中の立場で考えても、観客がいるわ
けではないのに、わざわざ人質を外で見せびらかす必要はないから
な﹂
﹁とりあえず現状ではね。で、コルトン君。部隊の展開はどうなっ
ているかな?﹂
マルフェスの発言に頷きながら、アインはコルトンに向かいそう
問いかける。
﹁はっ、連中の哨戒網に掛からないよう注意しつつ、いつでも正門
に向かい突入できるよう、配備は完了しております﹂
かつて一時的に敵として相対したことのある目の前の黒髪の男に
敬意を示しながら、コルトンは万全の準備を整えたと胸を張って主
張する。
その本人の性格が窺われる報告に、アインはにこりと笑みを浮か
べ、そしてその労をねぎらった。
﹁ご苦労様。じゃあ、そちらのことは今回の主役に任せるとするか
1090
な﹂
アインはそう口にすると、レリムへとその視線を向ける。
﹁主役ねぇ⋮⋮まあ物は言いようだわな﹂
不敵な笑みを浮かべたレリムは、まんざらでもない口調でそう発
言する。
﹁今回一番派手な仕事は君の役割だからね。主役という言葉に間違
いはないだろ?﹂
﹁さぁて、どうかね。美味しいところはあんたの担当じゃないか﹂
まるで念を押す様にアインからそう告げられたレリムは、値踏み
するような眼差しを向けながらそう言い返す。
そうして逆に矛先を向けられる形となったアインであるが、すぐ
にその切っ先はあっさり教え子に向かって逸らされた。
﹁残念ながらそれは違うさ。今回の最も大事なお仕事は彼の担当だ
からね。つまり君が表の主役で、彼が裏の主役。そういう配役だよ﹂
﹁えっ、いや、僕がすることはただ⋮⋮﹂
突然話を向けられたフェルムは戸惑いを見せる。
軍でもかなり上位に位置する近衛の参謀を前にして、冗談めかし
た会話を繰り広げる彼の恩師たち。
既に彼等がその立ち位置にある人物たちということは理解してい
たが、自らがその中に混じっていることに関しては、少なからぬ困
惑と違和感を隠せないでいた。
すると、そんな青年の髪をマルフェスが突然ぐしゃぐしゃにする。
﹁なんだフェルム。緊張しているのか。はは、いいな。俺にもそん
な時期があったものさ﹂
1091
笑いながらマルフェスはそう口にすると、今度はバンバンとフェ
ルムの肩を叩く。
一方、そんな彼の発言を側で聞いていたレリムは、呆れたような
表情を浮かべながら、口を挟んできた。
﹁あんたが緊張するような柄かい。どうせ初陣の時も、酔っ払いな
がら戦場で暴れていたんだろ﹂
﹁はは、どうだったかな。そんな昔のことは忘れちまったさ﹂
図星を突かれたためか、先ほどの自らの言動と矛盾するかのよう
な内容を口にしながら、マルフェスはごまかすように笑い声を上げ
る。
そんな彼の発言に苦笑しつつ、アインは彼等に向かって口を開い
た。
﹁ま、雑談はこれくらいにして本題に入ろうか。予定通りレリムさ
んとマルフェスさんは城の正面から近衛を引き連れて事にあたって
くれ﹂
環状堀に囲まれたムラシーンの居城をその目にしつつ、アインは
確認するようにそう指示を下す。
﹁ああ、任せておけ。派手に暴れてやるさ。ま、主にこいつがだが
な﹂
﹁はん、引き立て役は黙っておきな﹂
マルフェスがニヤニヤした笑みを浮かべながら側に立つ女性を指
さすと、彼女は鼻で笑う。
そんな二人の反応を眼にして、アインは笑いながら一つ頷くと、
その視線を自らの教え子へと向けた。
﹁で、私と彼はレリムさんの魔法を合図として、行動を開始する。
フェルム君、いいね﹂
1092
﹁は、はい﹂
未だに緊張の解けきっていないフェルムは、やや上ずるような声
で返答した。
そのカチカチの声を耳にした周囲の近衛兵達は、大物たちに囲ま
れたフェルムに向かって心配そうな視線を向ける。
そんな周囲の空気を感じ取ったレリムは、彼のことを保証するか
のように、アインに向けて言葉を発した。
﹁アイン。さすがに完全とは言わないけど、約束通りあたしのアレ
は彼に教えたつもりさ。あとはあんた次第だよ﹂
﹁ああ。なら心配はいらないね。ありがとう﹂
レリムの指導はもちろんのこと、彼女のフェルムへの気遣いに対
し、アインは感謝を告げる。
そしてニコリとした笑みを浮かべた彼は、一同をゆっくりと見回
した後に、再び口を開いた。
﹁それでは、始めるとしようか﹂
﹁ああ、それじゃあ行ってくるぜ﹂
マルフェスは軽く片手を上げると、部下に指示を出しながらその
場を離れていく。
﹁じゃあ、あたしも行ってくる⋮⋮おっと、その前に一つ言い忘れ
ていたことがあった﹂
﹁ん、なんだい?﹂
作戦を前にして、改めて彼女が口にしようとすることがわからず、
アインは軽く首を傾げる。
するとそんな彼に向かって、レリムは不敵に笑った。
﹁アイン。あんたらがこそこそと動く前に、このあたしが堂々と正
1093
面からアルミム様達を助けても、あとで文句言うんじゃないよ﹂
そう口にすると、レリムは踵を返し、マルフェスたちの向かった
方角へと駆けて行った。
小さくなっていく彼女の後姿を目で追いながら、アインは彼女ら
しいなと思い、苦笑を浮かべつつ軽く頭を掻く。
そして改めてフェルムへと向き直ると、彼は口を開いた。
﹁さて、それじゃあ私達も持ち場に向かうとしようか。出番に遅れ
て、パーティーの食事を食べ損ねないように⋮⋮ね﹂
1094
そこに存在する意志
﹁何⋮⋮ラインドルの王国軍が南下を始めただって?﹂
椅子に腰掛けた若い長髪の男は、彼よりも一回りは年上の部下か
ら報告を受けると、思わず椅子から立ち上がり、その眉間にしわを
寄せる。
﹁はい、クルネルソン様。連中は軍事演習と称して、クラリス王国
の国境沿いにて、実戦訓練を行っている模様です﹂
﹁どういうことだ。なぜ奴らは僕たちに向かって軍を動かさない⋮
⋮﹂
クルネルソンと呼ばれた男は、顎に手を当てながらそう口にする。
すると、彼の部下は一つの可能性に言及した。
﹁わかりません。もしや、前王たちが捕まっているということに気
づいていないのでは?﹂
﹁グリセル、そんなことはありえないよ。万が一を考え、数ルート
を用いて連中に警告を行っているからね﹂
そう、クルネルソンは前王たちを襲撃し捕らえた瞬間から、すぐ
に様々な方法で王国に向けて自らと人質の存在の誇示を行っている。
中には、以前より彼と裏で繋がっている王国の重臣も存在し、そ
れ故に彼らの通告が伝わっていないとは考えづらかった。
しかしながら彼の部下であるグリセルは、状況から判断し別の可
能性に言及する。
﹁しかし、実際に彼らの目が何故か南へと向けられているのは事実
です。となれば、もはや前王たちのことを諦めたということでしょ
うか?﹂
1095
グリセルのその問いかけに対し、クルネルソンはわずかに考えこ
む。
しかしすぐに首を左右に振ると、その可能性を否定した。
﹁いや仮にそうだとしても、それならばなおさら我らに向けて軍を
動かすはずだ。人質の命が本当に惜しくないのならな﹂
人質の存在があるからこそ、ラインドル王国軍の全面攻勢に直面
することなく済んでいることを、クルネルソンは理解していた。
むしろ彼にしてみれば、そのような事態を防ぐために、前王たち
を捕らえることを目論んだわけである。
だが、このように王国からのリアクションがないなどという事態
は、いくら彼でもまったく想定していなかった。
そうしてクルネルソンは一度押し黙る。そしてその脳内で様々な
仮定を並べ始めると、そんなタイミングで突然部屋のドアをノック
する音が響き渡った。
﹁だれだ?﹂
急に思考を停止させられたクルネルソンは、やや刺のある声をド
アの外に向けて発する。
するとすぐに、やや野太い男の声が返された。
﹁ミヤッカです﹂
部屋の外から発せられたその声を耳にするなり、クルネルソンは
グリセルへと視線を向けた。
その視線の意味を理解したグリセルは一つ頷く。そしてドアへと
歩み寄りミヤッカを迎え入れた。
﹁失礼します、隊長﹂
1096
部屋に入ってきた大柄のミヤッカは、クルネルソンにへと向き直
ると、直ぐに頭を下げる。
しかしそんな彼に向かい、クルネルソンは叱責を浴びせた。
﹁ミヤッカ。今の僕は隊長じゃない﹂
その声を耳にするや否や、ミヤッカと呼ばれた兵士は、慌てて佇
まいを直す。
そしてすぐさま謝罪を口にした。
﹁し、失礼いたしました、クルネルソン様。実は先ほどエレンバウ
アー様がお見えになられまして、たい⋮⋮クルネルソン様にお会い
したいと﹂
あわや再び呼んではならぬ呼称を口にしかけたミヤッカは、表情
を強張らせつつ、目の前の上官の顔色をそっと窺う。
すると、彼の視線の先の男は、そんな彼のミスではなく報告に対
し不機嫌を露わにしていた。
﹁ちっ、彼らも感づいたということか⋮⋮﹂
﹁やむを得ないでしょう。王国軍がまるで我々に見せつけるかのよ
うに、大々的に軍を動かしているのです。彼らの耳に入るのも、時
間の問題であったかと﹂
横でミヤッカの報告を聞いていたグリセルは、渋い表情を浮かべ
ながら自らの見解を示す。
﹁確かに⋮⋮な。しかし、なぜこの時期に⋮⋮まあいい、とりあえ
ずあまり待たせて、いらぬ疑念を与えるわけにもいかないだろう。
エレンバウアーをこちらに呼べ﹂
﹁はっ、直ちに﹂
ミヤッカは返答を行うなり、速やかに部屋から駆け出していく。
そんな大男の所作に眉をひそめると、クルネルソンは苦言を漏ら
1097
した。
﹁まったく落ち着きというものがない⋮⋮困ったものだ﹂
﹁しかしクルネルソン様。如何致しましょう?﹂
その場に残ったグリセルは、自らの上官に向かい険しい表情を浮
かべながらそう問いかける。
しかしクルネルソンは、彼の心配を鼻で笑って見せた。
﹁ふっ、エレンバウアーのことかい? そりゃあ、彼が僕たちのこ
とを怪しんでいることは知っているさ。だけど僕たちの真の狙いに
気づいているとは思えないし、手を切るなんて出来ないことは彼が
他の誰よりも知っている。何を言ってこようと、適当にあしらって
おわりだよ﹂
﹁ですが⋮⋮いえ、その通りです﹂
一瞬、自らより若い目の前のエリートを諌めようかと悩んだグリ
セルは、自らの前任者が目の前の青年のプライドを刺激して左遷さ
れたことを思い出す。それ故に彼は、口にしかかった言葉をそのま
ま呑み込んだ。
だがそんな彼の物言いたげな視線に気づいたクルネルソンは、眉
間にしわを寄せる。そしてそのままグリセルに向けて小馬鹿にした
言葉を発しかけた。
しかしそんな彼を遮るように、再びノック音が部屋に響く。
﹁失礼致します。エレンバウアー様をお連れしました﹂
先ほどと同じ野太い声が部屋の外から発せられると、途端にクル
ネルソンは表情を一変させ明るい声を発した。
﹁おお、エレンバウアー殿か。どうぞどうぞ、お入りくださいな﹂
その声を合図として部屋のドアが開かれると、そこから先ほどの
大男とともに、彼に勝るとも劣らぬ中年の偉丈夫が姿を現した。
1098
﹁クルネルソン殿、お忙しいところ申し訳ない﹂
兵士としては標準的な体格をしているミヤッカが、まるで貧弱な
男性に見えるほど自らの肉体を鍛えあげたエレンバウアーは、欠片
も申し訳無さそうな素振りを見せずそう口にする。
エレンバウアー・フォン・サレート。
もともと猜疑心の非常に強かったムラシーンが、王都から身動き
を取れぬ時に、自領の私兵の全てを預けるほど信頼した男が、この
エレンバウアーである。
そんな彼は、元々王都の警備兵の一人に過ぎなかった。
しかしながら、その鍛えあげられた肉体は明らかに他の警備兵を
凌駕しており、偶然ムラシーンの警護を務めた際に彼の目に留まる。
最初はその個人としての武力のみを買って、ムラシーンは彼に直
接警護を任せた。
そうした中で、感情の起伏はあるものの彼個人に忠誠を誓い、自
らの命令を忠実にこなすこの男をムラシーンは気に入り、ついには
自領の治安維持を任せるに至る。
そして今回のムラシーンの意思を継ぐものと名乗る独立軍は、彼
が鍛え上げたこの地の治安部隊がその中心を担っていた。
そんな事情もあり、彼は出所不明の膨大な資金と情報を持ち込ん
だクルネルソンとともに、この独立軍の頭として存在している。
﹁はは、いやお気になさらないでくださいエレンバウアー殿。で、
此度はこの僕に何の御用で?﹂
﹁貴殿のところにも既に情報が届いているのではないかと思う。王
1099
立軍の連中が南下したとな﹂
そのエレンバウアーの発言を受けてクルネルソンは、わざと首を
傾げてみせる。
しかしわずかの間ののちにポンと手を打つと、たった今思い出し
たかのように口を開いた。
﹁ああ、そういえばそんな報告も耳にしましたな。して、それがど
うかされましたか?﹂
笑みを浮かべながら、自らの告げた話をなんでもないことのよう
に扱うクルネルソンを目の当たりにし、エレンバウアーはこめかみ
に青筋を浮かべる。
﹁どうかした⋮⋮だと? この私には由々しき問題に思えるが、ク
ルネルソン殿は違うとおっしゃるか﹂
﹁はて、由々しき問題? 一体何のことでしょうか﹂
自分より遥かにたくましい肉体を持った偉丈夫の怒りを目の当た
りにしながらも、クルネルソンは特に気にした風もなくあえてとぼ
けてみせる。
すると、いよいよ我慢しきれぬといった様子で、エレンバウアー
は声を荒らげた。
﹁だから先程も言ったであろう。連中が軍を南下させたことだ。こ
れはつまり王都の連中は我々を無視しているということだぞ﹂
﹁はぁ、結構なことだと思いますが﹂
﹁結構だと⋮⋮何を言っているのだ貴殿は! このままでは、奴ら
にこのムラシーン国の独立を認めさせることができんではないか﹂
エレンバウアーはクルネルソンに向かって歩み寄ると、彼らを分
けるように設置された執務机に向かってその両拳を振り下ろした。
拳が机と接触するなり、その衝撃は部屋の床へと伝わり、その場
に同席していたグリセルは地面が揺れたかのような錯覚を覚える。
1100
だがそんな目の前の男の威圧的行為を受けても、クルネルソンは
一向に動じた素振りを見せず、首を軽く傾げながら言葉を発する。
﹁はて、そうですかな? 敵は我々に恐れをなし、南へ降った︱︱﹂
﹁そんなわけがあるか。王立軍にどれだけの兵がいると思っている。
我々の数百倍だぞ。にも関わらず、我々に恐れをなす理由などある
ものか﹂
クルネルソンのありえぬ仮定を聞く気はないとばかりに、エレン
バウアーは現実を彼へと叩きつける。
しかしそれでもなお、クルネルソンは薄ら笑いをその表情に浮か
べ続けた。
﹁ふむ、まあたしかにそうでしょうな。で、それで?﹂
﹁あまりふざけるなよ、クルネルソン。貴様があの作戦の指揮をと
ったのだろうが。にも関わらず、手に入れた人質はなんの役にも立
っていない。その責任をどうするつもりかと私は聞いているのだ?﹂
いよいよ我慢ならないといった様相で、エレンバウアーは自らの
来訪の真の目的をクルネルソンに叩きつける。
一方、過日の作戦行動の責任の所在を問われた長髪の青年は、両
手を左右に広げながら、不敵に笑ってみせた。
﹁ああ、そういうことですか。それならそうと早く言ってくだされ
ばよかったのに。ですが、残念ながら責任の意味が僕にはわかりま
せんね﹂
﹁なんだと!﹂
彼の発言をあざ笑うかのような、目の前の小僧の発言を耳にして、
エレンバウアーは今にも掴みかからん勢いでその怒りを露わにする。
しかしながら、彼が具体的な行動に出ようとするのを制するかの
ように、クルネルソンは一つの問いを口にした。
1101
﹁では逆にエレンバウアー殿に聞きますが、前王たちを捕えること
で、僕らに何か不利益でもありましたか?﹂
﹁むっ⋮⋮それは⋮⋮﹂
クルネルソンの問いかけを受けて、思わずエレンバウアーは言葉
を失う。
そんな自らより二回りは大きな男に向かい、クルネルソンは不敵
な笑みを浮かべつつ口を開く。
﹁特にない⋮⋮そうですよね。だったら別に構わないでしょう﹂
﹁確かに不利益は出てはいない。だが利益もないのでは、あれだけ
の人員や武装を持ちだして前王を襲ったことは無駄であったことに
なる﹂
この独立軍の主導権を、胡散臭い目の前の男からどうしても奪い
たいと考えていたエレンバウアーは、負けじとばかりにそう発言す
る。
しかしながらそんな彼の抵抗を、クルネルソンは皮肉げに笑って
みせた。
﹁はは、確かにあの時に投入した部隊の多くの者は、エレンバウア
ー殿にお借りしました。ですが、彼らはほぼ無傷でお返ししたはず
です。更に付け加えるなら、兵士たちの武装などはもとより、使用
した兵糧なども我々が提供したもの。はて、違いましたでしょうか
?﹂
そのクルネルソンの言葉が発せられた瞬間、エレンバウアーは目
の前の男を睨みつけつつも押し黙る。
そんな彼に向けて、クルネルソンは更に言葉を続ける。
﹁まあどちらにせよ、エレンバウアー殿。今は無意味な手札でも、
役に立たないとは限りません。ましてや私たちが持っているカード
1102
は二人の王族なのです。切り札というのは、いざという時に切るた
めにこそ持っておくものですよ﹂
﹁⋮⋮いいだろう。今は貴殿の言うことを受け入れるとしよう﹂
一つ一つが癇に障るクルネルソンの発言に対し、現状ではこれ以
上詰め寄ることが出来ないと理解せざるを得なかったエレンバウア
ーは、やむなく引き下がることを宣言した。
一方、そんな彼の反応に対し、クルネルソンは満足気に一つ頷く
と、改めて自分たちが譲歩していることをアピールする。
﹁ありがとうございます。いや、エレンバウアー殿のお考えはわか
ります。どこの馬の骨かわからぬ者たちが、急に協力を申し出て、
我が物顔で振る舞う。たしかに僕が貴方の立場でもいい気はしない
でしょう。ですが、ここは僕たちを信頼していただきたい。その信
頼の一環として、王族という切り札はあなた方の管理下に預けてい
るのですから﹂
さて、王族二人を力ずくで誘拐する作戦を立案したクルネルソン
であるが、その管理はエレンバウアーたちに任せている。
これはもちろん彼らに対する譲歩を形として示しているものであ
るが、それ以上に王族に対するクルネルソンの評価を如実に現して
いた。つまり、彼の真なる目的に対し、王族というカードはそこま
で重要視されるものではなかったということである。
こうして、彼らの間で交わすべき会話は終わった。
この場での敗北を認めたエレンバウアーは、苦々しい表情で部屋
を辞そうと発言しかける。
しかしそのタイミングで、まったく予期せぬ報告が、部屋の中へ
と飛び込んできた。
﹁て、敵襲! 王国軍ですっ。王国軍の連中が突然姿を︱︱!﹂
1103
エレンバウアーの子飼いの兵士は、顔面を蒼白にしながら部屋の
中に駆け込んでくる。
そんな彼の言葉が最後まで発せられることはなかった。
何故ならば、城全体が揺れるかのような衝撃とともに、まったく
別の音が一同の鼓膜をこの上なく強く震わせたためである。
﹁はは、学生の相手も悪くないけど、やはり戦場はいいね!﹂
自らが解き放った爆発魔法が生み出した爆風。
その風に髪をなびかせながら、レリムは満足気な笑みを浮かべる。
すると、隣に立っていたマルフェスは、頬をひきつらせながら彼
女に向かって声をかける。
﹁おい、レリム。あんまりやり過ぎるなよ。城の中には、お二方が
いらっしゃるんだからな﹂
﹁わかっているさ。だから見ての通り手加減しているし、それにこ
れくらい使ったところで、何も問題になりはしないさ﹂
不敵な笑みを浮かべていたレリムは、マルフェスのたしなめるか
のような声を耳にするなり、やや不機嫌な声を発する。
﹁バカを言うなよ、レリム。本当に目的はわかっているのか? 俺
たちの仕事は、この城を壊すことじゃないんだからな﹂
﹁⋮⋮あんた、ちょっと偉くなったからって、いつからそんな良い
子ちゃんになったんだい? それに、あたしはただあいつに言われ
た仕事をやっているだけだ。別にこの城を壊したいなんて思っちゃ
いないよ。さ、というわけで、次はもう少し本気を出してみようか﹂
﹁ま、待て︱︱﹂
1104
レリムの言葉を耳にした瞬間、目を見開いたマルフェスは慌てて
彼女を止めようと声を発した。
しかしそんな彼の声は、あっさりと途方も無い爆音によりかき消
されることとなる。
﹁弾けな、エクスプロジオン!﹂
元宮廷魔法士長の女性が放った二発目の爆発魔法。
この場にいない二人に対する合図としては、あまりに過剰ともい
えるこの魔法が、まさに今回の作戦の始まりを告げる鐘となった。
1105
マテリアルコード
﹁クソッ。奴ら、デタラメにやりおる﹂
爆発音と城全体に響く程の衝撃。
室内にいながら、敵の扱った魔法がとんでもないシロモノだと判
断したエレンバウアーは、舌打ちを一つ打つ。
﹁これほどの魔法を扱う魔法士達を動員するとは、やはり王立軍の
連中は本気のようですな﹂
城を揺るがすほどの振動から、複数の高等魔法士が一斉に魔法を
使ったのだと判断したクルネルソンは、あえて先ほどの会話を蒸し
返しながらそう口にする。
途端に、エレンバウアーのこめかみには青筋が浮き上がった。
﹁なるほど、連中が我らを無視していなかったことは認めよう。だ
が︱︱﹂
﹁ここまでにしましょう。お互いここで議論している暇なんてない
はずです。違いますか?﹂
猛るエレンバウアーに対し、クルネルソンはあくまで冷静に彼の
言葉を遮る。
すると、エレンバウアーといえども、すぐに置かれている状況を
理解し、その言の正しさを認めざるを得なかった。
﹁ちっ、分かった。だが今回は私達が相手をする。貴様らは邪魔を
しないよう、ここでおとなしくしていろ﹂
﹁はいはい、そうさせていただきますよ。くれぐれも私達の出番を
作らないでくださいね、エレンバウアー殿﹂
あざけるかのような笑みを浮かべながら、クルネルソンはエレン
1106
バウアーに向かってそう告げる。
その癇に障る物言いに苛立ちを隠せなかったものの、エレンバウ
アーはすぐに踵を返すと、そのまま部屋から駆け出していった。
﹁クルネルソン様、よろしいので?﹂
部屋に残っていたグリセルは、やや心配げに目の前の若い上官に
向かい問いかける。
﹁彼等だけに任せることがか? 要人を人質にした上での争いだ、
すぐに戦闘は終わるだろ。彼等にもプライドがあることだし、たま
には尊重してやらんとな。そもそも我々の目的は、彼等との主導権
争いに勝つことではない。違うかな?﹂
﹁⋮⋮仰るとおりです﹂
目の前の上官は、エレンバウアー以上の自信家であるとグリセル
は考えていた。それ故に、常に相手の行動基準にプライドといった
ものを考慮する嫌いがある。そしてだからこそ、グリセルはあえて
そのことを刺激せず、ただただ頭を下げる。
一方、そんな部下の内心を知らぬクルネルソンは、皮肉げに笑い
ながら再び口を開く。
﹁おそらく敵の狙いは我々が人質を盾にする前にここを奪還するこ
となのだろうが、エレンバウアーが今動き出したとしたら、十分に
間に合うだろう。というわけで、我々はせいぜい高みの見物としよ
うじゃないか﹂
﹁間に合う⋮⋮ですか。何かそう考えられる理由でも?﹂
先ほどの巨大な振動から不安げな表情を隠せなかったグリセルは、
クルネルソンの余裕の笑みの理由が理解できなかった。
そんな彼に向かい、若い上官は右の口角を吊り上げると、おかし
そうに笑う。
1107
﹁ふっ、グリセル。君はここの城を作ったのが誰か、覚えているか
な?﹂
﹁な、アレだけの魔法を直撃させながら、ヒビが入っただけだと⋮
⋮﹂
魔法による爆風が静まり返り、マルフェスが目にしたもの。
それはレリムによる魔法を以てしても、完全に破壊できなかった
正門であった。
﹁はぁはぁ⋮⋮だから言っただろ、マジでやっても問題になりはし
ないって。ほんとにあんた、ここの資料を読んできたのかい?﹂
﹁もちろんだ。内部の構造から間取りまで、頭に入れてきた﹂
レリムの問いかけに対し、彼女に資料を渡した側だったマルフェ
スは、すぐに反論を口にする。
だがそんな彼の発言を、目の前の女性は鼻で笑ってみせた。
﹁はん、ただ図面を読んだだけじゃわかりはしないさ。大事なのは、
この城の設計思想だよ。この城は誰が作ったと思っているんだい?﹂
﹁そうか、ムラシーンか!﹂
レリムのその発言を受けて、ようやくマルフェスは彼女の意図す
るところを理解した。
この城は元々魔法士であるムラシーンが、敵の進行を正面の一点
に集中させるように設計した城である。
それ故に当然のことながら、正門は魔法対策が厳重になされてい
た。
マルフェスはもちろんこの城の内部構造の図面を把握してはいる。
1108
しかしそれはあくまでムラシーン亡き後、王都の調査兵がこの城
を接収する際に作成したものである。紙面に材質や工法までは記載
されておらず、彼の反応は無理もなかったといえよう。
一方、かつて宮廷魔法士長を務めていたレリムの肩書は、王立大
学の魔法科教授であった。
それはつまり、彼女は教育者でありながら、研究者でもあること
を意味している。それ故に彼女は、軍の派兵に関する一切の事務作
業に関与することなく、手に入れた図面とこの城の設計者の存在を
重ねて十分な考察を行っていた。そして彼女が出した結論が、ムラ
シーンによる魔法対策が十分以上になされているというものである。
﹁一発目は手加減したのもあるけど、ほとんどヒビさえ入っていな
かった。昔のあんたなら、あたしの魔法の派手さなんかに気を取ら
れず、それに気づいただろうにね。将軍とか名乗るようになって、
少し老けこんだんじゃないかい?﹂
レリムは揶揄するように皮肉げな笑みを浮かべつつそう口にする。
すると、手厳しい指摘を受けたマルフェスは、軽く肩をすくめた。
﹁ちっ、まあ言葉で反論するのは野暮ってもんだ⋮⋮だから、代わ
りに行動で示すとしよう。まだまだ俺が現役だってことをな!﹂
レリムに向かってそう告げると、彼はそのまま真正面に向かい駆
け出す。
その彼の向かう先には、これ以上魔法を放たれては城門が崩壊さ
れると焦ったエレンバウアー配下の兵士たちが存在した。
﹁将軍、お待ちください!﹂
近衛参謀を務めるコルトンは、敵兵に向かい突如駆け出したマル
フェスの背に向かい、慌てて抑止の声をかける。
だが背中越しに返された言葉は、そんな彼の胃を強く締め付ける
1109
ものであった。
﹁止めるのではなく、俺の前に出るという気概が欲しいものだな、
コルトン!﹂
マルフェスは躊躇なくそう言い放つと、ますますその速度を加速
させる。
そして彼は、城から迎え撃ってきた先頭の敵兵目掛けて、自らの
剣を振り下ろす。
﹁甘いな!﹂
敵兵の機先を制するかのように裂帛の気合を放つと、マルフェス
は最初の兵士を一刀のもとに両断した。
そしてそのまま右足を引き半身となる。
すると、先程まで彼の右半身が存在した場所を敵兵の槍が通過し
た。
﹁なっ⋮⋮﹂
先頭の男の裏から、死角を突くように槍を放った兵士は、あっさ
りと回避されたことに驚き目を見開く。
だがそんな彼の意識は、マルフェスの剣によってたちどころに断
たれることとなった。
﹁⋮⋮どうだ! 俺もまだまだ衰えてはいまい?﹂
﹁たった二人でどうしたって。マルフェス、そこをどきな。トゥー
ルビヨン!﹂
自慢げな表情で言葉を向けてきたマルフェスに対し、レリムは嬉
しそうな笑みを浮かべながら彼の背に向けて編み上げた風の束を解
き放つ。
﹁おっと、まったくお前は﹂
1110
レジスタンスで肩を並べて戦った時の経験から、自分を巻き込む
形で魔法を放つ可能性があることをマルフェスは予期していた。だ
からこそ彼は、苦笑を浮かべながら斜め後方へステップする。
そして次の瞬間、まさか味方のいる位置目掛けて魔法が使われる
と思っていなかった敵兵たちは、レリムが編み上げた魔法により弾
き飛ばされていった。
﹁ふむ。どうやら、腕のほうだけは錆びついてないようだね﹂
自らの魔法を回避したマルフェスをその目にして、レリムは全く
悪びれた表情を見せず、そう口にする。
﹁当たり前だ。お前の腕も、そのセンスもな。味方まで巻き込んで
撃とうとするとこまであの時のままだ。しかしこれで学生の指導を
しているっていうんだから、本当に理解に苦しむ。君の生徒たちに
は心底同情するよ﹂
﹁はん、一言多いんだよ、あんたはさ﹂
マルフェスの発言を受け、レリムはわずかに口を尖らす。
そんな素振りを見せる彼女を、懐かしむように笑いながら、マル
フェスはその視線を敵兵へと向けた。
﹁さて、少しは慎重になってくれたかな。これで少しは時間が稼げ
そうだ﹂
そう口にすると、マルフェスは自らの剣を握り直す。
そして正門の位置で様子を伺ってくる兵士たちを、彼は睨みつけ
た。
﹁先生!﹂
1111
周囲に響き渡る二度目の爆発音。
それを木陰に隠れながら今か今かと待っていたフェルムは、隣の
木にもたれかかっているアインに向かい声を発する。
﹁敵の目を惹きつける意味も込めて、二度合図をするとは言ってい
たけど、この距離でこの音って⋮⋮一体なんの魔法を使ったんだ、
彼女は﹂
アインは呆れたように首を左右に振りながら、深い溜息を吐き出
す。
そんな彼に向かい、どのように声をかけたらいいのか迷ったもの
の、グズグズしていられないとばかりにフェルムは彼を促す。
﹁と、ともかく先生。急ぎましょう!﹂
﹁そうだね。ここからは時間が勝負だし、私達も動くとしようか﹂
アインは頭を掻きながら二度頷くと、周囲の気配を探りながらゆ
っくりと月明かりのもとにその姿を表す。
﹁ふむ、どうやら完全に彼らの目は、反対側の騒ぎへと向けられた
ようだね﹂
城の後面の城壁を、先ほどまで順番に見回りを行っていた敵兵の
姿が、完全に消失したことをアインは見て取る。
たかだか百人前後の兵士だけで、この城全体に監視の目をおくこ
とははなから困難であると彼はその設計図から見て取っていた。つ
まり、いくら防衛拠点として優秀な城であろうとも、運用人数の如
何では致命的な死角が多数生み出される。
だからこそアインが狙ったのは、城の構造上の問題ではなく、そ
の高い防衛能力を有した城の運営における、守り手自身が作り出し
た隙であった。
1112
﹁さて、フェルム君。いよいよ指導の成果を見せる時が来たよ﹂
アインはわずかに右の口角を吊り上げると、ゆっくりと後ろを振
り返る。
﹁先生⋮⋮本当にこの水掘を泳いで渡るのではないのですか?﹂
不安を隠せぬフェルムは、アインに向かって念を押す様にそう問
いかける。
するとアインは苦笑しながら、その問いかけを否定した。
﹁泳ぐ? 残念ながら、私は肉体労働があまり好きではなくてね。
そんなしんどいことはやりたくはないかな。第一、もし泳いで城の
ところまで辿り着いたとして、あの垂直な城壁をどうやって登るつ
もりなんだい?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
そのアインの問いかけを受け、フェルムは思わず口ごもる。
まるで水面からそそり立っているかのように、垂直に立ちはだか
る城壁。
その表面は容易に敵の侵入を許さぬよう完全に凹凸が廃されてお
り、この距離から見ても、容易に登ることができないことは彼にも
わからざるを得なかった。
﹁ま、君が泳ぐことと壁登りが好きって言うなら止めないけどね。
でも時間的な面から、ちょっと止めて欲しいかな。というわけで、
ちゃんと槍は持ってきたかい?﹂
﹁はい、こちらに﹂
アインから問われたフェルムは、袋に包んでいた一本の何の変哲
もない槍を取り出す。
1113
﹁それじゃあ、早速作戦を始めるとしようか﹂
﹁せ、先生。たしかに僕は、レリム先生からあの魔法は習いました。
でも、ここから城壁まで届かせるなんて無理ですよ﹂
﹁うん、知ってる。たとえ彼女がここを担当してもちょっと不可能
だろうからね﹂
かつて二度対峙した経験から、アインはレリムの魔法の素晴らし
さとその限界を把握していた。
それ故に、あっさりとフェルムの疑念を肯定する。
﹁でしたら、なぜ?﹂
﹁はは、やってみたらわかるさ﹂
眉間にしわを寄せながら問いかけてくるフェルムに対し、アイン
は軽い口調で彼に実行を促す。
﹁やってみたらって言われても﹂
﹁大丈夫。私が何とかするからさ。というわけで、さあ急いで、急
いで﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
とても実現不可能だと思われる内容を、あっさり可能だと言い切
るアインに対し、フェルムは戸惑いを隠せなかった。
そんな彼の肩をアインがポンと叩く。
見た目以上に暖かく力強い手。
その手から目の前の黒髪の男の無言の信頼が、フェルムへと伝わ
った。
だからこそ銀髪の青年は、一度大きく深呼吸を行う。
そして彼は、目の前の男の正体をその脳内で確認し、その上で決
意を固めた。
1114
﹁分かりました。では、いきます﹂
フェルムはその目を閉じ、神経を槍を握る両手のひらにすべての
神経を集中させる。
そして彼の中に存在する魔力を、ゆっくりと手を媒介にして槍へ
と移していくイメージを編みあげると、発動の呪文を口にした。
﹁アスィエ!﹂
かつてこの国の宮廷魔術士長であったレリムが、自らの愛用する
ショートソードを戦闘中に可変させるために編み上げた付加魔法。
その呪文が彼の教え子の口より発せられた瞬間、青年の手にして
いた槍は急速に延伸していくと、元々の倍以上の長さとなる。
﹁うん、素晴らしいね。もちろん彼女ほどとは言わないけれど、十
分な出来さ﹂
﹁でも、先生。僕ではここまでが限界で⋮⋮﹂
魔法を維持するために、魔力を注入し続けているフェルムは、額
に汗をかきながら、そう口にする。
﹁ああ、ありがとう。もう少しの間だけでいい、そいつを維持して
いてくれ﹂
満足そうに一つ頷いたアインは、突然自らのポケットに手を入れ
ると、何かを探り始める。
﹁あれ、確かこのへんに⋮⋮ああ、あった﹂
アインはポケットから取り出した小さな真紅の水晶を握り締める。
そして一度大きな息を吐きだすと、先程までの笑みをその表情から
消し去った。
﹁実践では初めてか⋮⋮でも、対象を物質に限定さえすれば、問題
ないはずだ﹂
1115
﹁先生? 何かおっしゃいました?﹂
﹁いや、ただの独り言さ。もうしばらく聞き流しておいてくれ﹂
そうアインは告げると、彼は手にした真紅の水晶へと視線を落と
す。
﹁マテリアルコードアクセス⋮⋮パワーリベレーション﹂
アインの口から紡がれる意味不明の詠唱。
それを耳にしたフェルムは、ありえない光景をその目にした。
アインの手にしていた小さな真紅の水晶が、強く一瞬輝きを放っ
たかと思うと、次第に透明なただの水晶へと変貌していく。そして
それとともに、アインの体の周囲に、肌で感じられるほどの魔力が
溢れだした。
驚きを隠せぬフェルムをその目にして、魔力にその身を覆われた
アインは薄く笑う。そして彼は青年に向かい一つ頷くと、再びその
口から一つの呪文を紡ぎ始めた。
﹁マジックコードアクセス﹂
アインの口からその力ある言葉が発せられた瞬間、フェルムはと
っさに身震いする。
彼は今この瞬間、これまでの人生で感じ得たことのない感覚を覚
えていた。
自らの全身を介して、とてつもない量の魔力が、彼の手にする槍
へと流れこんでいく感覚を。
﹁せ、先生!﹂
経験したことのない感覚に、フェルムは堪らず、アインに向かっ
1116
て助けを求める。
﹁心配はいらないよ。ちょっとばかし扱う魔力が増えているだけの
ことさ。私がやっていることは、あくまで単なる橋渡しと微調整。
全ての根源は、君の魔法にある。だから集中するんだ、フェルム﹂
﹁ですが、こんな膨大な魔力なんて、とても僕には!﹂
﹁大丈夫、君なら出来る。だからレリムさんは君を受け入れてくれ
たし、学長もそしてカイルも君を私に勧めてくれた。心を落ち着か
せて、イメージするんだ。君の手元から天を貫くほどに伸びゆく槍
のイメージをね﹂
そう口にしたアインの眼差しは、青年が初めて見る真剣さであっ
た。
その表情を眼にしたフェルムは、レリムの言葉を思い出す。
ほかならぬ自分こそが、このアインと名乗る英雄の教え子として
選ばれたのだということ。
その瞬間、フェルムは歯を食いしばると、アインに向かって頷き
返す。
フェルムの覚悟ができたことを、その力強い視線からアインは悟
った。
だからあえて魔法制御を奪うことなく、魔法のコントロールをフ
ェルムに委ねたまま、アインはキーとなる呪文を紡ぎ終える。
﹁クラック!﹂
あふれんばかりの魔力が、急速にフェルムの身体を駆け抜け、一
斉に彼の手にする槍へと流れこんでいく。
1117
﹁くうっ⋮⋮なんの、これしき!﹂
フェルムは目をつぶり全ての神経を魔法の制御という一点に集中
させると、これまで得た知識と感覚を総動員して、流れこんでくる
力を魔法式へと還元していく。
恐らく時間としては極々わずかの間であっただろう。
しかしながらフェルムにとってその時間は、まさに何分にも何時
間にも感じられる一瞬であった。 ﹁フェルム、目を開けてごらん﹂
穏やかな、それでいて優しいアインの声。
それを耳にしたフェルムは、ゆっくりと己が瞳を開いていく。
そして次の瞬間、彼は驚愕すべき光景をその目にした。
﹁こ、これは!?﹂
膨大な量の魔力が注ぎ込まれた一本の槍。それは彼の手元からミ
レンベルグ城へと至るまで延伸されると、そのまま深々と城壁へと
突き刺さっていた。
1118
救出喜劇
﹁え、エレンバウアー様。攻めてきた奴らは、マルフェス将軍と近
衛の連中のようです﹂
﹁それに軍をやめたはずのレリム宮廷魔法士長まで⋮⋮ちっ、やは
り軍を南に動かしたのは囮だったのか﹂
膠着状態となった石橋上の戦場。
そこへ駆けつけたエレンバウアーは、憎々しげに眼前の近衛達を
睨みつけながら、強く奥歯を噛み締める。
そして彼は、すぐさま視線を報告してきた部下へと移すと、苦々
しい口調でひとつの命令を与える。
﹁連れて来い﹂
﹁は? 誰をですか﹂
目的語のないエレンバウアーの言葉に対し、部下のケテルは思わ
ず聞き返してしまう。
すると彼の上司は、怒気を隠せぬ口調で彼に向かい指示を下した。
﹁わからないのか? 人質を、王女とアルミムを連れて来いと言っ
ているのだ。近衛の連中は、軍の中でも選りすぐりの精鋭だ。非常
に腹立たしいことだが、あいつらとまともにやりあうなどという選
択肢はない﹂
もともとケテルも、軍の中でほぼ独立した組織である近衛のこと
は理解しているつもりであった。
しかし戦場で相まみえることがあるなど考えたことのなかった彼
は、エレンバウアーの怒鳴り声によって、ようやく自分たちの置か
れた状況のまずさに気がつく。
1119
﹁わ、わかりました。すぐに!﹂
そう口にするなり、ケテルは他の兵士たちをかき分けて、城内に
向かい駆け出した。
もはやほぼ全ての兵士が出払ったため、もぬけの殻のようになっ
た城内。
その中をケテルは一心不乱に走り続ける。
そして軽く息が上がり始めたところで、彼はようやく目的地とし
ていた場所へとたどり着いた。
﹁どうした? 外の状況はどうなっている?﹂
息を切らせながら駆け込んできたケテルをその目にして、人質の
いる部屋の守護を任されたサワシンは、心配そうな表情を浮かべる。
﹁はぁ、はぁ⋮⋮近衛だ。近衛の連中がここにやってきやがった。
今すぐ人質を使って連中を押しとどめないと、このままでは俺達が
危ない﹂
先ほどまで自らが目にし、そして上官から命じられたことを、ケ
テルは彼なりに目の前の同僚へと伝える。
すると、まったく予期せぬ単語を耳にして、サワシンはその表情
から驚きを隠せなかった。
﹁近衛だと。奴らは王宮を警護しているはずでは︱︱﹂
﹁でも、実際に連中がいるんだ。つべこべ言っている暇はない。早
くそのドアを開けて、エレンバウアー様の下に二人を連れて行くぞ﹂
明らかに動揺している様子のサワシンに対し、ケテル自身、先ほ
ど同様の状態であったことから無理もないと考える。
だが、今はそんなことに気をかけてやる余裕はないと考えると、
彼はサワシンの言葉を遮り、強い口調で上官からの命令を伝えた。
1120
﹁わ、分かった。今すぐ扉を開ける﹂
ケテルのその剣幕から、本当に状況が切迫していることを悟った
サワシンは、慌てて腰につけていた鍵を手に取った。
そして、部屋のドアの鍵穴に差し込み、彼はぐるりと鍵を回す。
ドアの内部から発せられるカチリという音。
しかしすぐさま、より大きな音が、鍵を手にするサワシンの耳へ
と飛び込んできた。
それは後方から伝わる鈍い音。
そして直後に、何者かが地面へと崩れ落ちる振動が、周囲に響き
わたる。
﹁おい、どうした?﹂
曰く形容しがたい不吉な予感を覚えたサワシンは、顔をこわばら
せながら後ろを振り返る。
そして次の瞬間、彼の意識はそこで絶たれることとなった。
﹁お父様⋮⋮﹂
軟禁されているこの部屋まで伝わる程の魔法の衝撃。
それを受けて、ルナは父に向かい視線を向けた。
﹁ああ、おそらくは助けが来たのであろう。どこのだれかまではわ
からんがな﹂
﹁ではお父様は、ここに来たのがラインドル軍ではないかも知れな
いと、そうおっしゃるのですか?﹂
1121
最低限の簡素な調度品のみ置かれた軟禁室。
軍が助けに来たと感じたが故に、明るい表情を浮かべたルナと対
照的に、硬いベッドに腰掛けたままのアルミムは厳しい表情のまま
一つ頷く。
﹁前の国王と王女が人質に取られておるんじゃ。西方会議を前にし
た今の情勢下で、カイラは表立って軍を派遣できまい﹂
﹁では、この辺りの豪族に助力をお願いしたのでしょうか?﹂
この周囲の豪族の私兵に関しては、あまり十分な戦力として期待
できなかった。
何故ならば、常にクラリスやキスレチンと接することとなる南部
と違い、領主同士の小競り合いに備える程度の兵備しか、この北部
地域の豪族は有していない。そしてその練度は言わずもがなであっ
た。
だからこそルナは、不安げな表情を見せる。
するとアルミムは、少し考えた後に、別の可能性にも言及してみ
せた。
﹁かもしれん。もしくは極秘裏に少数の部隊を派遣したかだな。い
ずれにせよ、今よりわしらの命は、さらなる危険と隣合わせとなる
じゃろう﹂
﹁助けによって解放されるのではなく⋮⋮ですか?﹂
﹁もちろん連中が全滅し、ここに助けが来てくれれば万々歳じゃ。
だが戦闘が始まったとなると、わしらを捕らえた連中はわしらを前
面に押し出そうとするじゃろう。その為にわしらを生かしておった
のじゃろうからな﹂
ただの興味本位で、王族を人質に取ろうとすることなどありえな
い。
もちろん自分たちを捕らえた連中が何を考えているのかはわから
1122
なかったが、少なくともこの状況下で、人質としての価値を利用し
ないなどアルミムには考えられなかった。
﹁確かにそうですね。では、今にも﹂
﹁ああ、わしらを連れにここに来るじゃろう。奴らの盾とするため
にな﹂
そう口にしたアルミムは、大きな溜め息を吐き出す。
彼自身、囚われた時から、ひとつの決断を胸に秘めていた。
それは連中の人質として、これ以上王国の足を引っ張る事態とな
った場合、たとえ舌を噛み切ってでも、自らの命を絶つという覚悟
である。
もし今回囚われたのが彼だけであれば、既に彼は何らかの手段で
自害を試みていたはずであった。
だが、彼はここまでその選択肢を選んではいない。
何故ならば目の前で拳を握りしめる、彼自身の娘の存在が彼にそ
の決断を下させずにいた。
そんな彼の最愛の娘は、アルミムに向かい真剣な眼差しを向ける
﹁でしたらお父様、私達も覚悟を決めましょう。これ以上、我が国
の迷惑となるわけには行きません﹂
﹁お前はまだ若い。自らの命を絶とうなど考えるな。逆にわしの命
を踏み台にしてでも、ここから逃げ出すことを考えよ﹂
娘の瞳の色から、彼は彼女も同じ結論に達したのだと判断した。
それ故に、娘を諌めようとそう告げる。
しかし、目の前の少女が考えていたことは、彼の想像から大きく
離れたものであった。
1123
﹁命を絶つ? そんな無意味なことはしませんわ。ここから逃げ出
すんです、お父様を連れてね﹂
﹁ルナ⋮⋮お前⋮⋮﹂
﹁お父様の予想通りとすれば、もうすぐここに連中がやってきます。
つまりそのタイミングこそが、私達に残された唯一のチャンスです﹂
ニコリとした笑みを浮かべると、ルナはアルミムに向かって笑い
かける。
アルミムは目の前の娘の口にしたことと、この状況にあって笑み
を浮かべる異常性に、一瞬恐れおののいた。
だが、彼はすぐに気がつく。
笑みを浮かべ、力強く反撃を口にする愛娘の足が、不安と恐怖で
震えていることに。
だからこそ彼は、一つの決断を行った。
そんな健気で精一杯の虚勢を張る娘の提案に、運命を任せるとい
う決断を。
﹁分かった。好きにやってみなさい。わしもこの老体に鞭を打って、
ひと暴れしてやるかの﹂
そう口にすると、アルミムはやせ衰えた腕で力こぶを作ってみせ
た。
そんな父の承認と気遣いに、ルナは思わずその瞳に雫を溜める。
しかし、今は感傷に浸るときではないと判断すると、彼女は敵の
死角となる位置、つまりドアの真横へと自らの身を移した。
そうして待つことしばし、ドアの外から突然怒鳴り声らしきもの
が部屋の中に響く。
1124
﹁お父様﹂
ルナは外の人間に感付かれぬよう、小さな声で父に向かい声をか
ける。
すると、部屋に入ってきた敵の目を惹きつけるよう、アルミムは
娘とは逆側の部屋の隅へとその身を移した。
そうして準備を整えると、二人は息を潜める。
部屋に響くドアの施錠が解除された音。
それを耳にした瞬間、ルナは強く拳を握りしめる。
そしてわずかな間の後に、部屋の扉がゆっくりと開けられた。
﹁喰らえ!﹂
とても王族の発する言葉とは思えぬ掛け声を口にしながら、ルナ
はドアの死角から飛び出すと、部屋の中に入り込んできた人影に向
かい自らの拳を叩きつける。
だが次の瞬間、彼女はその拳を受け止められると、そのまま彼女
自身の力を逆用され後方へと投げられる。
﹁あらら、これは手荒い歓迎ですね﹂
突然不意打ちを喰らう形となった黒髪の男は、教え子の予想外の
歓迎に苦笑を浮かべる。
すると次の瞬間、思わぬ人物の出現にアルミムが驚きの声を上げ
た。
﹁英雄殿!﹂
﹁ああ、アルミム様。ご無沙汰いたしております。今はアイン・ゴ
ッチという一研究者でして⋮⋮って、そんな話は後回しですね。と
1125
りあえず、お助けに参りました﹂
アインは恥ずかしそうに笑いながら、そう口にする。
﹁もしや外の爆発も、そのほうが?﹂
﹁いやいや、あれはレリムさんの仕業ですよ。私は普通の魔法は使
えませんので。それよりも、アルミム様がご無事なようで何よりで
す﹂
そう言って、アインはアルミムと握手を交わした。
そしてその後ようやく、自らが軽く投げ飛ばした教え子のいる後
方へと振り返る。
向けられたアインの視線の先。
そこには後方に軽く投げ飛ばされた少女が、もう一人の救出者に
よって受け止められていた。
﹁ルナ様、大丈夫ですか﹂
﹁フェルム先輩! どうしてここに⋮⋮はわっ、じゃなくてっ、下
ろしてください!﹂
全く予期していなかった現状に、ルナは顔を真っ赤に染め上げる
と、フェルムの腕の中から慌てて逃れようとする。
﹁ちょ、下ろしますから、急に︱︱﹂
突然ルナが動き出したため、フェルムはバランスを崩し、その場
に尻餅をつき倒れこむ。
そうしてルナとフェルムが地面に二人重なり、一見するとルナが
フェルムを押し倒したような形となった。
まるで喜劇のようなその光景を目にして、アインは苦笑を浮かべ
ながら頭を掻くと、王女に向かってねぎらいの言葉をかける。
1126
﹁いやぁ、ルナ様もお元気そうで﹂
﹁そっ⋮⋮そうですね。でも、まさか助けに来た殿方に投げ飛ばさ
れるなんて、考えてもいませんでしたけど﹂
フェルムに抱きつく形となってしまった照れを誤魔化すかのよう
に、ルナは慌てて立ち上がると、抗議混じりの声を上げる。
﹁はは。でもそれを言うなら、私も助けを待っているはずのお姫様
に、突然殴りかかられるとは思ってもいませんでしたよ﹂
﹁⋮⋮⋮いずれにせよ、敵にやられたのではなくてよかったです。
日々の鍛錬で積み上げてきた多少の自信が、一瞬で失われてしまう
ところでしたから。ところで先生、どうやってここに?﹂
依然として顔を真っ赤にしたまま、なんとか話題をそらそうとル
ナは話を転じる。
すると、先ほど彼女の重みで後頭部をぶつけることになり、未だ
うずくまっている青年へとアインは視線を向けた。
﹁彼が頑張ってくれましてね。この城にもう一本、道を作ってくれ
たんですよ﹂
﹁フェルム先輩が!?﹂
アインが助けに来てくれる可能性。
殆ど無いと考えてはいても、その可能性をまったく考えていなか
ったといえば嘘になる。
しかし、フェルムがここに来てくれるとはルナとてまったく想像
もしておらず、先ほどのアクシデントのこともあり、彼女はそれ以
上言葉を発することができなかった。
﹁ええ。ま、それはともかく、敵を蹴散らして来たわけではないの
で、あまり長居するわけには行かないんです。マルフェスさんたち
も、お二方を救出したことが確認できるまで、全面攻勢に移ること
1127
が出来ませんしね﹂
﹁⋮⋮分かった。で、わしらはどうすれば良い?﹂
アインの言葉に大きく頷くと、アルミムは次の行動を尋ねる。
﹁はい。それに辺りアルミム様、一つお願いがあるのです﹂
﹁お願い? この状況を打破するのに必要なことなら、全てその方
の指示に従う。なんでも言ってみよ﹂
かつてよく似た問答で、とんでもないことを言い出された記憶が
チラリとよぎりつつも、アルミムは目の前の男に全ての裁量を委ね
る。
すると、黒髪の男は頭を掻きながら、申し訳無さそうにその口を
開いた。
﹁それでは申し訳ありませんが、こちらにいらっしゃるお姫様の命
を、少しの間だけ私におあずけ下さいませんか? どうにも元気の
有り余っていらっしゃるようなので、そこの青年とともに、ちょっ
と事態打開のご協力をして頂こうと思います﹂
1128
英雄の教え子たち
﹁人質はまだか?﹂
眉間にしわを寄せながら、眼前の近衛兵たちを視線で牽制しつつ
エレンバウアーはそう問いかける。
﹁はい。まだケテルのやつは戻ってきません﹂
﹁クソッ、何をやっているのだ。いつ連中が、突入してきても不思
議ではないのだぞ﹂
そう口にすると、エレンバウアーは額の汗を拭う。
元宮廷魔法士長であったレリムの攻勢魔法により、既に城門は半
壊状態であった。つまり今、ラインドルの近衛兵たちが一気に押し
寄せてくれば、恐らくたちどころに突破されるであろうことを、エ
レンバウアーは他の誰よりも理解していたのである。
﹁しかし奴らは先程まで暴れていたのに、どうしておとなしくなっ
たのでしょうか?﹂
﹁我々の中に人質の影を見ているんだろう。だが、奴らとて我らと
お見合いに来たわけではない。早く人質を奴らの前に晒さなければ、
いつ連中が突入してきても不思議ではない﹂
エレンバウアーはムラシーンの下に仕えていた頃より、状況判断
能力に定評があり、それ故若くして部隊長に抜擢されている。
彼は考える。
近衛の狙いはレリムの魔法による城門の爆砕、そしてそこから一
気に城内になだれ込み、混乱に乗じて人質を救出することが当初の
しかしながら、ムラシーンの築いた城壁の魔法抵抗性は、連中
計画であったのだろうと。
1129
の想像以上に強固なものであったため、彼らは城門の破壊に失敗し
た。
その間に自分たちが素早く即応してみせたことによって、混戦状
態を作り出すことに失敗した近衛たちは、一度作戦の見直しを図っ
ているに違いないと。
﹁イヤ、離して!﹂
崩壊しかけの城門を挟んだエレンバウアー達と近衛との刺殺戦。
それを決壊させたのは、とある若い女性の叫び声であった。
待ちに待った女性の声を耳にした瞬間、エレンバウアーは眉間の
皺を消失させると、嬉々とした表情で後ろを振り返る。
その彼の視線の先には、目深にヘルムをかぶった兵士が、一人の
少女を手荒な扱いで連行してくる光景が存在した。
ラインドル王国第一王女ルナ。
彼女は手首を後ろ手に縛られ、兵士によって強引に歩かされる。
だが少女は悔しげな表情を浮かべながらも、精一杯の抵抗とばかり
に、もがくように散々あばれていた。
﹁遅かったな。だが、これで一息つける﹂
これで近衛の連中に対し、絶対的優位を確立したと判断したエレ
ンバウアーは軽く胸を撫で下ろす。
もちろん後ろ手に縛られているにもかかわらず、まるで野生の動
物のように暴れながら自らのもとに連れられてくる王女の姿には、
彼とて苦笑を浮かべずにはいられなかったが。
﹁くそ、離せ、離しなさい!﹂
ラインドル王国第一王女であるルナは、高貴な顔立ちを完全に失
い、髪を振り乱しながら一心不乱にわめきたてる。
1130
皆の視線の集中するその姿を前にして、エレンバウアーは呆れた
ように小さくつぶやいた。
﹁⋮⋮まるで獣だな。たとえ王族といえども、自らの命を握られた
ら品性さえ失うということか﹂
﹁やむを得ないでしょう。いくら王女とはいえ、まだ十代の子供。
周りの大人が取り繕わねば、その中身など普通のガキに過ぎません
よ﹂
エレンバウアーの側に控えていた彼の部下は、首を左右に振りな
がらそう口にする。
すると、そこでエレンバウアーは連れてくるはずのもう一人の人
物がいないことに気がついた。
﹁アルミムの奴はまだか?﹂
﹁そのようですね。まあ老人を動かすのは、若者と違い大変なので
しょう﹂
﹁ふむ、それもそうか。たとえ暴れる獣といえども、足が満足に動
く方が、動かしやすいだろうからな﹂
副官の回答に、エレンバウアーは納得してみせる。
そうして二人がそんな会話をしている間にも、兵士たちの視線を
一心に集める獰猛な王女は彼の眼前まで連行されてきた。
﹁さて、ルナ王女。久々の外の空気はいかがなものですかな?﹂
エレンバウアーは余裕のある表情を見せながら、必死に縛られた
後ろ手を解こうと身をよじるルナに向けてそう問いかける。
すると王女は、乱れた髪の合間から、憎々しげな瞳をエレンバウ
アーへと向けた。
﹁あなたが私をこんな目に! 今すぐ離しなさい!﹂
﹁御冗談を。あなたは私達の切り札なのです。あなたを救いに来た
1131
あのバカどもに対するね﹂
エレンバウアーは右の口角を吊り上げながら、ルナにそれとわか
るようにその視線を近衛たちへと向ける。
﹁近衛部隊⋮⋮彼らが私を助けに!﹂
﹁ええ、そのとおりです。無力でお荷物なあなた方を助けに、彼等
はのこのことやってきたのですよ。しかし恥ずかしいと思いません
か?﹂
そう口にすると、エレンバウアーは見下すかのような視線を目の
前の王女へと向ける。
﹁恥ずかしい?﹂
﹁ええ。ムラシーン様はすべてを自らの手で勝ち取り、そして成し
遂げようとされた。それに比べてあなた方は、王家という血筋の上
に胡座をかき、国の足を引っ張るのみ。自分では何もしないし、何
も出来ない。そのことを恥じてもらいたいものですな﹂
彼自身の唯一の尊敬の対象であり、仕えるべき対象であったムラ
シーン。
悪しざまに彼のことを言う者が圧倒的多数ではあるものの、エレ
ンバウアーはその自らの力で道を切り開く姿に惹かれ続けてきた。
一方、目の前にいる小娘は、そんな偉大な彼のかつての主に比べ、
人に頼らねば何一つできぬ、なんと矮小な存在だろうか。
少なくともエレンバウアーは、そう感じずにはいられなかった。
だがそんな時である。
後ろ手を縛られ、無意味に髪を振り乱しながら暴れていた少女。
彼女はピタリと、突然抵抗を止めた。
1132
そして軽く頭を振り、目の前に掛かっていた髪をどかすと、彼女
は不敵に笑ってみせる。
﹁ふふ⋮⋮ふふふふ﹂
﹁何がおかしい? 自身の無力さを感じて気でも違ったか﹂
﹁違うわ、あなたの言ったことが可笑しくて笑ったのよ。自分で⋮
⋮ね。いいわ、自分で何とかしてみせましょう﹂
﹁なんだと?﹂
最初、エレンバウアーは王女の発した言葉の意味がわからなかっ
た。そしてそれ以上に、彼女の顔に浮かんだ表情が彼には理解でき
なかった。
だが、彼はありえぬものをその目にする。
先ほどまで後ろ手に縛られ、連れてきた兵士が握る紐によって、
行動を拘束されていたはずのルナ。
そんな彼女が、突然彼の眼前に飛び込んできたのである。
﹁喰らえっ!﹂
ルナの口から発せられた、下品ながらも威勢のよい言葉。
それが周囲に響き渡ったとほぼ同時に、エレンバウアーのこめか
みを少女の右足が蹴りぬく。
そして次の瞬間、エレンバウアーの巨体はその場に崩れ落ちてい
った。
その場にいたほとんど誰もが、まったく理解不能なその光景を前
にして、凍りついたように身動きを取ることができなくなる。
だが、例外は王女以外にも一人だけ存在した。
﹁全くなんと言うべきか⋮⋮ともかく、僕は僕の仕事をしましょう。
リュミエール!﹂
1133
彼女をこの場へと連行してきた兵士は、何故か諦めたかのような
表情を浮かべながら、右手をそっと頭上にかざす。
そして小さな魔力の球体を生み出すとまっすぐに空へと放ち、そ
して次の瞬間、まばゆいばかりの光が一瞬虚空に広がった。
ミレンベルグ城のバルコニー。
先ほどまで二名の弓兵が詰めていたはずのこの空間には、現在全
く異なる別の人影が存在した。
﹁どうやら、予定通りことが運んだようですね﹂
黒髪の男は動かした体をほぐすように大きく伸びをしながら、眼
下の光景を目にしてそう口にする。
﹁我が娘ながら⋮⋮これでは本当に嫁の貰い手に苦労しそうじゃ﹂
もはやはしたないという言葉が、アルミムには虚しくさえ感じて
いた。
彼の視線の先では、たとえ演技とはいえ気品のかけらもない様相
の愛娘が、スカートをはためかせながら敵将にハイキックを見舞う
光景が、つい先程繰り広げられたのである。
この作戦を立案したアインとしても、前国王たる彼の内心を思わ
ずにはいられなかった。
﹁すいません。私の一番良く使う手ではあるのですが、ルナ様のお
力を借りずには、どうにも実行できなかったものでして﹂
1134
﹁助けてもらった身じゃ。これ以上は言わんが⋮⋮しかし我が娘が
ことを成し得なかった場合、その方はどうするつもりだったのだ?﹂
﹁そうですね。その時は仕方ないので、ここから飛び降りて、もう
少しだけ私が働かなければいけないところでした﹂
今、床に転がっているバルコニーの弓兵を片付けたことで、アイ
ンとしては今回の一件に関しては自らのノルマを果たしたつもりで
あった。
しかしながら、近衛の突撃の最中も眼下の戦場で暴れ続けている
少女と青年が未熟であれば、もう一働き必要であったことは自明の
理である。それ故に彼としては、指導した甲斐があったと苦笑せず
にはいられなかった。
一方、そんな目の前の黒髪の男の内心を知らぬアルミムは、ここ
から飛び降りるとしたアインの言葉を、何らかの冗談だと受け取る。
だからこそ彼は、アインが全幅の信頼を娘たちに持っていたことに
驚きをみせた。
﹁ここから飛び降りるとは、面白いことをいうものじゃな。しかし
その方にそんな冗談を言わせるぐらい、ルナの技量は上がっておる
のか﹂
﹁いや冗談というわけではなく、これくらいの高さなら普通に⋮⋮
まあいいか。ルナ様に関しては、実際に良い筋をされておられます。
まして、今回は万全を期して彼を付けておきましたしね﹂
五点着地すれば特に問題無いと考えながらも、わざわざ説明する
のが面倒と感じたアインは、そのまま話を続ける。
﹁ふむ、あの青年だな。確かビグスビーのやつが、そなたに一人学
生を預けるつもりだと言っておった。それが彼ということか﹂
﹁ええ。とても才能豊かな青年です。将来が楽しみですよ﹂
﹁ほう、その方がそこまで言うか﹂
1135
アインの反応を受けて、アルミムは興味深そうに視線を強める。
﹁元々、王立大学では完成品とまで言われていたようですしね。い
ずれそう遠くないうちに、カイラ様の側に仕えることになるでしょ
う。もちろんお互いが望めばですが﹂
﹁それは楽しみじゃな。しかし出来ることなら、そんな彼の教師と
ともに仕えてくれたら言うことなしなのじゃが﹂
﹁はは、それこそ面白い冗談です。いい加減な私に王宮勤めなんて
不可能ですよ。ああいう場で必要な忍耐力は、数年前までに全て使
い果たしてしまいましたから﹂
聞くものが聞けば、それほど忍耐していなかったじゃないかと突
っ込まれかねない発言を口にしながら、アインはやんわりと拒絶の
意思を伝える。
一方、予め予期された回答であったものの、アルミムは残念そう
に首を振った。
﹁そうか⋮⋮して、その方は今後どうするつもりじゃ?﹂
﹁そうですね。カイラ様との約束もありますし、今年いっぱいはこ
の国に滞在するつもりです。せっかく作った予備も、一つ使ってし
まいましたしね﹂
そう口にしたアインは、ポケットの中に戻していた透明な結晶を、
空に昇った月へとかざす。
﹁残念な話じゃな。して、その先は?﹂
﹁今のところ、私自身はまだ歴史の表舞台に出るつもりはありませ
ん。ちょっととある集団に関して、極秘裏に調査を進めてもらって
いるところですので、それが確定するまでは⋮⋮ですが﹂
﹁集団?﹂
﹁ええ。私の⋮⋮いやうちの家族の仇敵と呼べる者達がおりまして
ね。それに関して、ちょっと時間︱︱﹂
1136
フィラメントの気味の悪い魔法士の引き笑いを脳裏によぎらせな
がら、アインはそう説明を口にしかける。
しかしそのタイミングで、彼の声を遮るように突然側方から激し
い水しぶきの音が彼の耳に入った。
﹁何者かが、水堀に飛び込んだか﹂
﹁そのようですね。そしておそらくは⋮⋮﹂
アインはそこまで口にすると、一度言葉を止める。
すると、眉間にしわを寄せたアルミムは、彼の先を促すよう問い
を口にした。
﹁おそらくは?﹂
﹁おそらく、今回の絵を直接描いた者たちでしょう。この一連の騒
ぎで、最も得する筈だった国家から来た⋮⋮ね﹂
眼下の敵兵の中に、明らかにそれらしき人物たちを認めなかった
アインは、首を左右に振りながらそう口にした。
そして彼はそのまま、自らの視線を逃亡者たちの向かうであろう
南東の方角へと向け、再び言葉を紡ぐ。
﹁さて、変なところでトラブルを起こさず、せいぜいうまく逃げて
くれることに期待しましょうか。周囲に配備していたマルフェスさ
んの兵士を、今回の黒幕のもとに案内してもらうためにね﹂
1137
官邸
キスレチン共和国の大統領官邸。
その現在の主である第六十二代大統領のトミエル・ブラウンは、
いつになく険しい表情で目の前の男の報告を聞いた。
﹁つまりクラリスの連中は、のこのこ西方会議に来る可能性が高い
と⋮⋮そういうことかね?﹂
﹁ええ、その通りです大統領。当初は不参加と思われておりました
が、突如参加の意思を表明してきましたようで﹂
トミエルの所属する民主改革運動と連立政権を組む統一宗教主義
戦線。その副党首であり、現政権における外務大臣を務めるハムゼ・
パミルは、大統領に向かって淡々と報告を口にした。
その瞬間、トミエルは眉間の皺を深くする。
﹁しかしおかしな話だな、外務大臣殿。確か彼の国は内戦寸前で、
とても外部に代表団を送り出すことのできる状態ではないと聞いて
いたのだが、つまり実態は違ったということかね﹂
﹁いえ、本来ならばおっしゃる通り、参加は不可能なはずでした。
ですが、余計なことをしてくれた国がありましてね﹂
﹁余計なことをした国? また帝国が何か画策したというのか﹂
大陸西方において不倶戴天の敵と言うべき国家が頭をよぎると、
トミエルは忌々しげな表情でそう問いかける。
しかし彼の正面に立つ初老の老人は、あっさりと首を左右に振っ
た。
﹁いえ、ケルム帝国ではありません。問題の国家はラインドルです
1138
よ﹂
﹁ラインドルだと⋮⋮彼の国は我々の予定通り独立クーデターが起
こり、今頃はクラリス以上に身動きがとれなくなっているはずだが
?﹂
情報部主導で極秘裏に発動された作戦の存在を知るトミエルは、
意外そうな口調でハムゼに尋ねる。
すると、ハムゼはわずかに視線をずらし、彼の元へともたらされ
た最新の情報をその口にした。
﹁少し計算外の事がありましてね。彼の国の若き愚かな王が何をと
ち狂ったのか、軍の主力を南部へと差し向けたのですよ﹂
﹁何⋮⋮つまりクーデターを放置して、クラリスへ侵攻したという
ことかね﹂
ラインドルが軍の主力を南部に進めたという意味。
それをそのまま解釈するならば、クラリスに対する侵攻以外の何
者でもない。
もちろん、現在のラインドルの状況故に、クラリスへの侵攻自体
到底有り得ない話ではあった。
だがそれでもなお、他に考えうる選択肢が、トミエルの手元には
存在しなかった。
﹁私も最初はそうかと思いました。ですが、どうも悠長に演習をし
ているというのですよ。それもクラリスの国境付近で﹂
﹁演習だと? 威嚇の間違いじゃないのか﹂
わずかに眉を吊り上げたトミエルは、怪訝そうな表情でハムゼへ
と問い直す。
﹁ええ。私もそう思いました。なので、真偽を確認するために、情
報部の者を数名派遣しました。そしてその結果を端的に言いますと
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⋮⋮どうやら本当にただ演習だけを行っておるようです。もちろん
クラリス側からしたら、威嚇行為以外の何物でもないと思われてい
るようですが﹂
﹁⋮⋮どういうことだ。理由もなしに気まぐれで軍を動かしたとい
うなら、ラインドルの王がただの愚か者と言うだけの話だ。だが、
さすがにこの状況下で、そのような命令を出せば、部下の誰かが諌
めもしよう。いささか解せんな﹂
ハムゼからの報告を受けたトミエルは、顎に手を当てると、その
ままの姿勢で考え込む。
するとすぐさま、ハムゼが一つの仮説を口にした。
﹁私も同じ見解です、大統領。少なくとも、何らかの政治的要求を
クラリスに突き付けるのではないかと考えてはいたのですが⋮⋮今
のところ情報部よりそのような動きは無いとのことです﹂
﹁内戦状態にあるクラリスに対する脅し。そう考えるのが筋ではあ
る。だが、そのような動きも存在しないということか?﹂
﹁少なくとも現在のところは⋮⋮﹂
そう述べたハムゼは、首をゆっくりと左右に振る。
その仕草を目にしたトミエルは、大きな溜め息を一つ吐き出した。
﹁不自然で不可解な話だな。だが、これではっきりしたことが一つ
ある﹂
﹁なんでしょうか?﹂
﹁現国王であるカイラ王が、前国王である父親を見捨てた可能性が
高いということだ﹂
ここまでで得た情報から、トミエルは一つの結論を導き出した。
もちろん結論を出すには情報量が不十分であることも彼は認識し
ている。だが少なくとも、父親の命を最優先していないことは明ら
かであると、彼にはそう思われた。
そのトミエルの解釈を耳にして、ハムゼはわずかに考えこむと、
1140
小さく一つ頷く。
﹁確かに、その通りですね。とするならば、前王達の存在を無視し
て、このまま独立クーデター派を終始無視し続けるつもりかもしれ
ませんな。長期的に見るならば、奴らの国自体にとって、そう悪い
判断ではないでしょうし﹂
﹁私もそう思う。しかし思い切った判断だ。カイラ王が父親の存在
を疎ましく思っていたという可能性はないか?﹂
トミエルは前国王を最優先にしない理由として、彼らの間の感情
のもつれに答えを求める。
﹁我らの画策を、これ幸いと利用したというわけですか⋮⋮親子仲
は良好であったと伝わっております。もっとも本当の腹の中は、誰
にもわからないものですが﹂
﹁しかし人質が役に立たんとなると、今回のクーデターはこのまま
失敗に終わるか﹂
机の上に置かれた冷めきったコーヒー。
それを口元へと運ぶと、トミエルは一口だけ飲み込み、不味そう
な表情を浮かべる。
そして彼が再びコーヒーカップを机の上へと置いたのを見計らい、
ハムゼはゆっくりと口を開いた。
﹁ご予想のとおりとなるでしょうな。我々が画策しておいてなんで
すが、所詮たかが一地方領のクーデターです。たとえ連中が軍を本
気で動員しなくとも、周囲を固め放っておけば、そう遠くないうち
に限界点を迎えざるを得ない。むしろこの選択肢を取るならば、ラ
インドルは人質の命以外、何も失うことはないでしょう﹂
﹁もちろん国内の支持は失うかもしれん。だが奴らは我らのように
選挙を必要としない王政、比較的傷口は浅くて済む⋮⋮そこまで理
解した上で、家族を犠牲にしたのならば、カイラ王は中々に恐ろし
1141
い男と考えるべきだな﹂
﹁ええ。善王という噂でしたが、あくまで国民に対するポーズとい
うことかもしれません。しかし、若いのになかなかどうして﹂
指導者は冷徹なリアリストであるべきと、ハムゼは常に考えてい
た。
その意味では、彼の目の前にいる大統領は及第点と彼は考えてい
る。
しかしそれと同時に、ハムゼはあることを改めて確信していた。
彼の所属する統一宗教主義戦線の党首であり現在軍務大臣をつと
めているかのお方こそ、目の前の大統領などと比較にならぬほど、
指導者として完成された存在であると。
一方、そんなハムゼの考えをよそに、大統領であるトミエルの思
考は、未だ目にしたことのないラインドルの若き王へと向けられて
いた。
﹁この調子ならば、おそらく来月の西方会議に何食わぬ顔で出席し
てくるかもしれん。父親を見殺しにした狂人の王がな﹂
﹁狂人の王⋮⋮ですか。確かにそうかもしれませんな。もともと王
子の身でありながら、レジスタンスを率いてムラシーンを打倒した
過去もございます。今度の西方会議では十分にお気をつけ下さいま
せ﹂
いずれ目の前の男の民主改革運動を打倒するつもりではあった。
だが現在は連立政権を組んでいるが故に、目の前の大統領にそうや
すやすと倒れられてはかなわない。そんな思考が頭をよぎったが故、
ハムゼは念のため大統領に注意を促す。
一方、そんな彼の注進をやや疎ましく思いながら、あえて表情に
出さずトミエルは受け入れてみせた。
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﹁もちろんだ。性格が残忍であろうとなかろうと、我が国に悪影響
がなければ関係のない話だ。だがいずれにしても、もし奴が実際に
来ると言うのなら、その際に十分品定めをすべきだろうな﹂
﹁はい。我々の御し得る相手なら利用する、そして御し得ぬ相手な
ら﹂
﹁消えてもらうだけだ。ラインドル王国ごとな﹂
そう口にしたトミエルは薄く笑う。
その大統領の反応に、他党の人間でありながら、ハムゼは頼もし
く感じた。
そうして二人の間での会話が一瞬途切れた間。
そのタイミングを見計らったかのように、大統領の執務室の扉が
ノックされる。
﹁失礼致します、大統領﹂
﹁その声はウフェナ君かな。入ってきたまえ﹂
扉の外から発せられた声を耳にして、大統領官邸の警備主任を務
めるウフェナと理解すると、トミエルは入室の許可を与える。
そして一呼吸の間をとったのちに、入り口の扉が狭く感じられる
ほどの巨体が、室内にその姿を現した。
﹁おや、これはハムゼ外務大臣もお越しでしたか。大統領、ライン
ドルに向かわせていた第二情報部のクルネルソン隊長が、先ほど戻
ってまいりまして⋮⋮大統領に面会を求めております。そのご報告
に参った次第で﹂
﹁何、クルネルソンが?﹂
ウフェナの口から発せられた人名を耳にするなり、トミエルは眉
間のしわを深くする。
その反応を目にして、ウフェナはわずかに躊躇しながらも、改め
1143
て口を開いた。
﹁はい、何やら緊急の用だと﹂
﹁⋮⋮まあいい。連れてきたまえ﹂
﹁はっ!﹂
大統領の許可を受けたウフェナは、敬礼を一つ残し、足早に部屋
から退室していく。
そうして再び部屋の中が静まったところで、トミエルはハムゼに
向かってその見解を求めた。
﹁外務大臣、どう思うかね?﹂
﹁そうですね⋮⋮この中途半端な時期に戻ってきたということは、
炊きつけた連中だけでクーデターを完遂させる準備が整ったか、そ
れとも︱︱﹂
少し迷いを見せながら、ハムゼがもう一つの予想を口にしかかる。
しかし、そんな彼の声を遮るかのように、ウフェナの大きな声が部
屋の外から発せられた。
﹁大統領。クルネルソン隊長をお連れしました﹂
﹁通し給え﹂
警備主任の声を受けて、トミエルはすぐさま入室の許可を下す。
そして部屋の扉が開かれると、汚れきった衣類に身を包んだ若い
男が部屋の中へと姿を現した。
﹁夜分失礼致します、大統領﹂
表情をこわばらせながら、クルネルソンはトミエルに向かって頭
を下げる。
そんな彼の姿と、そして彼自身から放たれる悪臭に気づき、トミ
エルは不快げな表情を浮かべた。
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﹁クルネルソン君。君は確かラインドルで公務の最中であったと思
うが⋮⋮それ以上にその姿は一体どうしたのかね?﹂
﹁それが作戦上やむを得ない事態に遭遇しまして⋮⋮ともあれ、至
急ご報告せねばならぬことが在りました故、ラインドルから着の身
着のままに駆けつけた次第です﹂
自信家でナルシストな青年は、自らの味わった屈辱にその表情を
歪めつつ、どうにか返答を絞り出す。
一方、以前よりそのエリート思考を快く思っていなかったトミエ
ルは、そんな彼の発言に対し冷たい声で追及を行った。
﹁ほう。作戦故に、と。つまり君に任せていたラインドルでの計画
に関わることだな。で、例の計画はどうなったのかね﹂
﹁それが⋮⋮旧ムラシーン領の独立計画は⋮⋮失敗いたしました﹂
恥辱のあまり言葉を途切れさせながら、クルネルソンは彼の味わ
った事実を報告する。
途端、室内の温度がまるで真冬のように冷え込むのを、彼ははっ
きりと感じ取った。
﹁⋮⋮具体的に説明してもらえるかな?﹂
トミエルの口から放たれる、冷徹な声。
それを真正面から受けたクルネルソンは、軽く下唇を噛んだのち
に、ポツリポツリと言葉を発する。
﹁敵は⋮⋮ラインドル王国軍は、主力を囮として南部に向けました。
そして我々の警戒がほんの極わずかだけ緩んだ隙に⋮⋮ムラシーン
の居城であったミレンベルグ城を⋮⋮敵の精鋭で強襲してきたので
す﹂
﹁確か前国王と第一王女を人質にしていたと聞いている。まさか人
質を奪い返された上に、壊滅したなどとはいわんよな、クルネルソ
ン君?﹂
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目の前の自信家の様相と声から、ハムゼは最悪の結末が引き起こ
された可能性を疑う。
﹁それは⋮⋮﹂
外務大臣であるハムゼからの追及の声に対し、クルネルソンは表
情を歪めるばかりで、なんら言葉を発することができなかった。
その反応を目の当たりにしたトミエルは、大きなため息を吐き出
す。
﹁まあ、失敗は構わん。もともとクーデターを起こさせること自体
が目的ではなかったのだからな。で、連中の足をラインドルに止め
られる程度のことは成せたのだろうな?﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
﹁まさか、あれだけの予算と時間を投じながら、何一つ成果を挙げ
られなかったと、そういうことかね?﹂
クルネルソンの情けない返答に、さすがにトミエルはいらだたし
げな声を発する。
すると、自信家でいつもは能弁なクルネルソンはその場で黙り込
んでしまった。
そうして、場はたちどころに沈黙によって覆われる。
そんな凍り付いてしまった空間において、場の空気に全く似つか
わしくないハムゼの笑い声が突然響き渡った。
﹁ははは、まあ大統領。彼自身奮闘したのは、今の彼の姿が物語っ
ております。国のために身を粉にして働いたことは事実のようです
し、今日のところはこれくらいにしてあげましょう﹂
そのハムゼの声が空間に広がった瞬間、クルネルソンの表情にわ
ずかな光が差し込む。
しかし、この場に存在するもう一人の男は理解できないとばかり
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に、一層不快げな表情を浮かべた。
﹁⋮⋮少し甘いのではないか、外務大臣?﹂
﹁努力を評価しないことは、我ら自由の民の行うことではありませ
んよ。それで私からの提案なのですが、彼のその献身的な努力をた
たえ、魂の救済を与えてあげるのがよろしいかと思います﹂
歪んだ笑みを浮かべたハムゼから発せられたその言葉。
それを耳にした瞬間、クルネルソンは顔面を蒼白にさせると、取
り乱しながら慌てて口を開く。
﹁お、お待ちください!﹂
﹁どうしたのかね、クルネルソン君。いつも自信家の君らしくもな
い。地母神セフエムの元へ、魂の救済を求めに行く権利を与えよう
というのだ。これ以上ない名誉だぞ。どうした、もっと胸を張り給
え﹂
自らの信仰するクレメア教の神の名を交えながらハムゼはそう言
い切ると、彼は右の口角を吊り上げる。
その表情を目にしたクルネルソンには、目の前の男が悪魔の化身
としか思えなかった。
﹁どうか、どうかもう一度だけ私に機会を!﹂
﹁おいおい、今のその姿は本当に君らしくないな。どうやらライン
ドルの空気に当てられて、その身を包む魂が汚れてしまったようだ。
ウフェナ君、そこにいるかな? 彼を連れて行ってくれ給え﹂
部屋の外に向けて、ハムゼは大きな声で命令を下す。
途端、筋骨隆々の大男が部屋の中に姿を現し、そしてじたばたと
暴れるクルネルソンを羽交い締めにした。
﹁お慈悲を、私にもう一度機会を﹂
クルネルソンの懇願する声が、部屋の中に響き渡る。
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しかし、その声に反応を見せるものは誰もいなかった。
そして彼は、警護主任に強制的に連行されていく。
﹁しかし、まさか主力を囮として南部に向ける⋮⋮か。狂人の王と
言ったのは訂正せねばならんな。そして⋮⋮﹂
﹁はい。想像以上に、ラインドルは侮れない﹂
トミエルの危惧を受けて、ハムゼは自らも同意見だとばかりに言
葉を続けた。
すると、トミエルは大きくうなずき、そして敵方の思惑に思いを
馳せる。
﹁だな。しかし、連中も思い切った策を取るものだ﹂
﹁もしや⋮⋮いや、考え過ぎか﹂
﹁なんだね、外務大臣。何か気づいたことでもあるのかね?﹂
急に言葉を切ったハムゼに対し、トミエルは真剣な面持ちで問い
ただす。
﹁いえ、あり得ぬとは思うのですが、クラリスの北部にはあの国の
貴族院の面々がその領地の多くを保有しています。何より、彼等の
中心たるブラウ公は北部の大貴族。もしラインドルの連中の狙いが
クーデターに対する囮というだけではなく、クラリス北部の貴族連
中を封じ込めるために、南部に軍を派遣していたのだとしたら⋮⋮﹂
﹁まさか⋮⋮奴らがそこまでして、クラリスの連中を西方会議に出
席させる理由がないはずだ﹂
クラリスとラインドルは同盟関係にはあるも、それはあくまで相
互の妥協によって成り立った関係に端を発する契約である。
現国家元首同士に面識がないことは、キスレチンの情報部が既に
調査済みであり、相互間交流も乏しいと判明していた。
ただ気がかりな点としては、二つの国家を繋ぐ人物が、たった一
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人だけ存在することにある。
だが、彼の人物は数年前に消息を絶ち、現在はその生死さえ不明
であった。
だからこそハムゼは、偶然の重なりをその目にして敵を過大評価
しようとしているのではないかと、一度自らの思考を落ち着ける。
﹁ですな。たまたま状況が重なっただけ。おそらくはそういうこと
でしょう。ですが、もし西方会議で彼の二国が連動し、我々に主導
権を与えさせない算段をした上でのものとすれば⋮⋮恐るべき知恵
者でしょう、この絵を描いた者は﹂
﹁ふむ。ただの不幸な偶然とは思うが⋮⋮しかし、警戒はするとし
よう﹂
ただの偶然。
ハムゼの言葉を聞いた上で、改めてそう考えるのが自然であると、
トミエルは考える。しかしながら、彼はこれまでの政治生活で繰り
返してきたように、保険のための言葉をあえて外務大臣に向けて口
にした。
そんなトミエルの内心を見透かしながらも、ハムゼは大きく一度
頷く。そして自らの視線を西の方角へと向けながら、ゆっくりと口
を開いた。
﹁ええ。来たる西方会議は、我々が作り上げ演出する舞台。そこを
土足で入ろうとするつもりならば、その汚れた足ごと浄化して上げ
る必要があるでしょう。我らが地母神セフエムの名の下に﹂
1149
フードの中身
王立大学の校舎隅に存在する薄暗い研究室。
その窓際で椅子に腰掛けている男は、ぼんやりと外の景色を眺め
る。
彼の手元には二通の報告書が存在した。
一つは、この国の将軍から送られた、先日の一件に関する簡素な
追跡報告書。
そしてもう一つは、その追跡者達の無能をなじる、とある黒髪の
女性からの報告書。
前者はミレンベルグ城からの逃走者が、大統領官邸に入り込んだ
事が記されていた。しかし残念ながら、尋常ならぬ警備を前にして、
それ以上の十分な調査が行えなかったことを謝罪する内容である。
一方、後者に関しては、報告者の静かな怒りがその文面に現れて
いた。
素人同然の追跡者のせいで、キスレチンが警備と警戒を増強した
ことに対する苦情と、そんな計画を立案した男に対する罵倒。そし
てやむを得ず、一度当地に帰ってくるという内容がそこに記されて
あった。
﹁マルフェスさんに一任したのがまずかったか⋮⋮でも、さすがに
ムラシーンの飼っていた諜報員を使うわけにも行かなかったから、
仕方ないといえば仕方ないのだろうけど﹂
男性は首を左右に振ると、一度深い溜息を吐き出した。
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そして彼は何気なしに、再び外の景色へとその意識を移す。
すると、本格的な夏の訪れを反映してか、木々の緑が強く彼の視
界に飛び込んできた。
﹁そろそろ見納め⋮⋮かな﹂
週に一度の出勤ではあるものの、ようやく見慣れてきた校舎の庭
の景色を見つめながら、彼は誰に言うでもなくそう呟く。
そして彼はゆっくりと頭を掻き、書き途中であった二通の机の上
の手紙へと向き直ると、その内容に若干の修正が必要であることに
気がついた。
めんどくさいという内心はその表情から隠しようもなかったが、
彼は軽く首を左右に振り諦めをつける。
そして彼は再びペンを手に取り、どちらから手を付けたものかと
悩み始めたところで、突然部屋のドアがノックされた。
﹁アイン先生、いらっしゃいますか?﹂
﹁ああ、フェルム君か⋮⋮どうぞ、開いているよ﹂
廊下から響く声を耳にして、アインは返事を行うと共に苦笑を浮
かべる。
すると、ほんの一月の間に見違えるほど大人びた印象をまとった
青年が、彼の前に姿を現した。
﹁何か書き物をされていたのですか?﹂
﹁少し昔の友人たちに手紙をね。で、今日は何の用かな?﹂
昔の友人という言葉に強い興味を覚えたものの、問い掛けを受け
たフェルムは、慌てて本題を切り出す。
﹁これを先生に見ていただきたくて﹂
1151
﹁付加魔法の魔石流用に関するレポート草案⋮⋮なるほど、仕上が
ったわけだ﹂
アインはニコリとした笑みを見せながら、以前とは明らかに厚み
の異なる草案の束を目の前の青年から受け取る。そしてそのまま彼
は、次々と紙をめくっていった。
﹁⋮⋮素晴らしい。もう自分でもわかっていると思うけど、まるで
別物になっている。もはや私が指導することは何も無いくらいにね﹂
﹁いえ、指導は十分以上にして頂きましたよ。しかも実地で。その
ために僕を同行させてくださったのでしょ?﹂
﹁はは、私はちょっとだけめんどくさがり屋だからね﹂
図星を突かれたアインは、そう口にすると困ったように笑う。
一方、そんな彼を目にしながらも、フェルムは一切笑みを浮かべ
ることなく、彼に向かって口を開いた。
﹁先生。この草案を書き上げはしましたが、実はこの研究テーマを
変えようかと思っているのです﹂
﹁なぜだい? 君の草案を見た限り、破綻した部分は見当たらない
し、後は仕上げるだけだ。これだけ立派なものを準備しながら、そ
の理由がわからないな﹂
真剣なフェルムの表情を目にして、アインはその表情から笑みを
消す。そして目の前の青年に向かい、率直な問いを放った。
﹁すでに読んで頂いたとおり、僕の研究は魔石から魔力を抽出し、
付加魔法の効果を維持するための基礎研究です。本来ならまだ実験
室段階の⋮⋮にも関わらず、実践での応用例を身を以て体験させら
れたのです。もはやこのレポートに、何の意味があるというのでし
ょうか⋮⋮﹂
自らの研究が持つ意味。
それを見失ったフェルムは、戸惑う心境をアインへとぶつける。
1152
しかしそんな彼に対し、アインは優しく首を左右に振った。
﹁ああ、なるほど。君の言いたいことはだいたいわかったよ。でも、
それは違うよ、フェルム君﹂
﹁え?﹂
﹁確かに魔石からの魔力抽出を体験させるために、君をあの場に連
れて行ったことは事実さ。でもね、あの時見せたアレは非常に特殊
な方法なんだ。少なくとも、この私以外には取り扱えないね。だか
らこの研究の意義は欠片も失われてはいない﹂
アインは柔らかい口調で、フェルムに向かってそう語りかけた。
しかし淡い銀髪の青年は、そんなアインの言葉を耳にしつつも、
わずかに下唇を噛む。
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁普遍的に魔石を使用する方法と、アレとは似て非なるものさ。何
より私にしか使えない手法は、私がいなくなれば途絶える。でも、
もし君がその理論を将来的に体系化することができれば、今後世界
中で魔石利用が促進されるだろう。その礎となるレポート、それを
書き上げる意味は十二分以上に存在すると、君は思わないかい?﹂
﹁魔石からの魔力流用理論を体系化⋮⋮ですか﹂
﹁その通り、体系化さ。誰もが魔石をより有効に使うことができる
未来。私もできることなら、見てみたいものだね﹂
アインは両手を左右に広げながら、フェルムに向かって微笑みか
ける。
その表情を目にして、ようやくフェルムは苦笑を浮かべると、軽
く肩をすくめてみせた。
﹁なんかうまく言いくるめられている気もしますが⋮⋮分かりまし
た。やってみますよ﹂
﹁はは、それは結構。ともかく、私の出来る範囲でなら協力する。
1153
フェルナンドと言ってね、いつかこの分野の先鞭を付けた男も紹介
してあげたいしさ。ただ、しばらく私はここを不在にするから、ち
ょっと先になってしまうのが申し訳ないのだけどね﹂
﹁不在? 何処かへ行かれるのですか?﹂
思わぬアインの発言を受けて、フェルムは首を傾げる。
すると、途端にアインは渋い表情を浮かべた。
﹁いや、別に私自身は行きたいわけではないんだけど、そろそろ私
のところに依頼が来る頃かと思ってい︱︱﹂
アインがそこまで口にしたところで、彼の発言を遮るように二度
目のノック音が部屋の中へと響く。
そして柔らかく、それでいて芯のある声が部屋の中へと放たれた。
﹁アインさん、いらっしゃいますか?﹂
﹁噂をすれば⋮⋮か。しかも直々のご訪問とは。開いているからど
うぞ、カイル﹂
アインは頭を掻きながら、部屋の外にいるであろう訪問者に向け
て声を放つ。
すると、顔をフードですっぽりと覆った一人の青年が、ゆっくり
と部屋の中へ足を踏み入れてきた。
﹁お邪魔します。おっと、ここはあそこより綺麗にしていらっしゃ
るんですね﹂
﹁この部屋は借り物だからね﹂
カイルの言葉を受け、アインは思わず苦笑を浮かべる。
だがカイルとしても、その返答に対し弱った表情を浮かべた。
﹁いや、あそこもお貸ししているだけのつもりなのですが⋮⋮おや、
もしかしてこちらにいるのが例の?﹂
﹁ああ。彼がフェルム君さ﹂
1154
アインの眼前に立っていた青年をその目にして、カイルはフード
の奥の瞳をわずかに輝かせると、興味深げに視線を向けた。
一方、怪しげな青年によって見つめられる形となったフェルムは、
やや訝しげな表情を浮かべる。そしてアインに向かって、目の前の
青年のことを問いかけた。
﹁先生、こちらの学生さんは誰ですか?﹂
﹁学生さん⋮⋮か。はは、確かに君とそう歳は変わらないからね。
えっと、彼はカイルと言ってね、私の友人さ﹂
﹁初めまして、フェルム君。カイルと言います。先日は、君の先生
だけではなく、君にもお世話になったみたいでね。改めて感謝を言
うよ﹂
﹁へ? お世話?﹂
はっきりとその顔は確認できなかったものの、目の前の青年の世
話などした覚えのなかったフェルムは、思わず首を傾げた。
そんな彼に向かい笑いながら首を縦に振ると、カイルはアインへ
と向き直る。
﹁その表情だと、僕の用件は既にお分かりのようですね﹂
﹁はは、まあね。正直、そろそろ訪ねて来る頃だとは思っていたよ﹂
﹁本当はかなり迷いました。でも、ダメで元々という思いで、改め
て恥を忍んでお願いに参りました。僕と⋮⋮僕とともに、南東への
旅に付いて来てもらえませんか?﹂
﹁やはりその件⋮⋮か﹂
カイルの口から発せられた予想通りの依頼。
それを前にして、アインは顎に手を当てると、わずかに考える素
振りを見せる。そして不意に彼は視線をフェルムへと向けると、何
かを思いついたかのように苦笑を浮かべた。
一方、そんなアインに対し、カイルは机の上に両手を置くと、や
や強い口調で目の前の男に懇願する。
1155
﹁お約束にないことは重々承知です。でも、これ以上彼等に舐めら
れたままではいたくないんです。僕の出来る限りの条件も用意いた
します。ですから︱︱﹂
﹁彼も連れて行って構わないかい?﹂
突然差し挟まれた予想外の言葉。
それを受けて、一瞬カイルはその場に固まる。そして次の瞬間、
眼前の黒髪の男に向かい、喜びにあふれる震える声を発した。
﹁も、もちろんです。あなたが望まれるのでしたら、当然彼も同行
できるよう手配いたします﹂
﹁なら、決まりかな。ちょっと働かされ過ぎて過重労働気味だけど、
まあ今回の旅を終えたら長期休暇を頂くとしよう﹂
アインは苦笑を浮かべながら、ゆっくりと頭を二度掻いた。
﹁ちょ、ちょっと待って下さい。旅とか同行とか言われてますけど、
それって僕のことですか?﹂
﹁ああ。ここには彼と君以外、他に誰もいないだろ?﹂
﹁でも、僕はこのレポートが⋮⋮﹂
二人の会話をそのまま解釈するなら、アインと同行する形で旅に
出なければいけないことになる。
だがフェルムは先ほどレポートの草案が完成したばかりであった。
それ故に、そんな余裕はないと彼は慌てる。
しかしそんな彼に向かい、アインは思わぬことを口にした。
﹁ああ、フェルム君。それは心配しなくていい。実験機材ごと、運
んでもらうから﹂
﹁は?﹂
フェルムは最初何かの聞き間違いかと思った。
この研究を行うにあたり、その機材の量は並大抵の量ではない。
1156
それ故に、ここにいる三人だけで運ぶなど、常人の考える発想では
なかった。
しかし、そんな無理難題を提案されたフード姿の男は、ほんの一
瞬だけ悩む姿勢を見せるも、あろうことかあっさりと同意してみせ
る。
﹁現地で揃えられるものは、向こうで調達する形でよければ⋮⋮で
も、できれば予算を抑えたいので、出来る限り荷物は絞ってくださ
いね﹂
﹁はは、わかっているよ。というわけで、フェルム君。これで君の
問題は一件落着だ。良かった、良かった﹂
フード姿の青年の言葉を受け、アインはニコリとした笑みを浮か
べると、嬉しそうに頷く。
だが、置き去りにされたまま話を進められたフェルムは、慌てて
声を荒らげた。
﹁いやいや、何を言っているんですか。運べるわけ無いでしょ﹂
﹁え、なんで?﹂
﹁だから仮に先生方の旅に僕が参加するとしても、三人だけで機材
なんて絶対に運べませんよ﹂
フード姿の青年とアインを交互に見つめながら、フェルムははっ
きりとした口調でそう言い切る。
そこでアインは、目の前の青年に対し、全く説明が足りていない
ことにようやく気づいた。
﹁なるほど⋮⋮いや、三人じゃないんだ。カイル、申し訳ないけど
そのフードを上げてくれないかな。彼には同行してもらうつもりだ
し、知っておいてもらっていいだろう﹂
﹁そうですね、分かりました﹂
1157
カイルはそう口にすると、ゆっくりと顔をすっぽりと覆っていた
フードを外す。
その瞬間、フェルムはその場に凍りついた。
﹁えっ、カイラ⋮⋮カイラ陛下!?﹂
フェルムの目と鼻の先、そこに存在したのはこんな場所にいるは
ずがない人物。
そう、この国の王カイラ・フォン・ラインドルその人であった。
1158
覆水を盆へと返らせる為に
深い森の中を一人の黒髪の男が歩いていた。
木々の間からわずかに漏れる月明かりだけが、彼の歩む道をわず
かに照らす。
そんな暗き森の奥で、突然彼は意外そうな表情を浮かべると、そ
の足を止めた。
﹁おや?﹂
彼の視線の先。
そこには今や彼にとって見慣れた古びた館が存在した。
ただ普段と明らかに異なるもの。それは無人のはずの館の窓から、
室内の明かりがわずかに漏れていた事であった。
一瞬、男は戸惑いを覚える。
だがこの場で考えても埒が明かないと結論付けると、彼は一度頭
をかくとともに再び歩みだした。
﹁ただいま﹂
入り口の扉をそっと押し開けた彼は、腰の刀に手をやりながら、
あえて気の抜けた声を発する。
すると、冷たい声が彼に向かって返された。
﹁遅かったわね﹂
﹁おや⋮⋮君だったか﹂
散らかりきった玄関ホールの中央部にあるソファーに腰掛け、優
雅に紅茶を飲んでいる黒髪の女性をその目にして、黒髪の男は苦笑
を浮かべる。
1159
﹁これを取りに来ると思っていたから、ここで待っていたのよ﹂
小柄な女性はそう口にすると、手にしていた革袋を黒髪の男目掛
けて放り投げる。
﹁はは、お見通しか﹂
少し重みのある革袋を片手で受け止めると、男はゆっくりとその
革袋を開ける。
そして中に入っていた四つの赤い水晶を取り出した。
﹁結局作り出せたのは六つ⋮⋮か。欲を言えば、あと二つ三つは作
っておきたかったところだね﹂
﹁あなたがもう少しまじめに抽出作業を行っていたら、作れていた
と思うけど?﹂
黒髪の男の溜め息混じりの発言を受け、目の前の女性はやや呆れ
たように言葉を返す。
﹁残念ながら運び込まれた魔石は全て使い切っているのさ。これ以
上、クレイリーを酷使する訳にはいかないだろ﹂
﹁彼のことを思うなら、あの程度の相手に対し無駄に使うべきじゃ
なかったと思うわ。いくら出来損ない、欠片だったにしてもね﹂
そう口にすると、女性は鋭い視線を黒髪の男へと向ける。
その視線を受ける形となった男は、軽く肩をすくめてみせた。
﹁何だ、知っていたのか。まあアレはテストを兼ねてさ。教育的な
目的を兼ねての⋮⋮ね﹂
﹁あまり深入りすべきではないと思うけど⋮⋮まあいいわ。それよ
りも、どうしてもあなたに言っておきたいことがあるの﹂
﹁なんだい?﹂
黒髪の男はやや真剣な表情となり、目の前の女性の言葉を待つ。
1160
すると、彼女はほんの極わずかだけ口元を歪め、そしてひとつの
不満を口にした。
﹁この紅茶美味しくないの⋮⋮せめて待ち人のことを考えて、もう
少し良い茶葉くらい置いておきなさい﹂
滅多なことでは口にしないクレハの冗談めかした言葉。
それを耳にした瞬間、黒髪の男は笑い声を上げる。
﹁ははは、なるほど。それは済まなかった。代わりに、珈琲はいか
がかな? 私がおすすめのものを置いているからさ﹂
﹁結構よ。そんな黒く濁った飲み物は﹂
﹁あらら、手厳しいね。そんなに変わらないと思うんだけどねぇ﹂
コーヒー好きではあるものの、比較的こだわりの少ない黒髪の男
は、両手を左右に広げながらそう口にする。
すると、目の前の女性はわずかにその首を左右に振った。
﹁物がわからないって、悲しいことね﹂
﹁まあ、君の期待に応えられなかったことには謝るよ﹂
睨まれた黒髪の男は、頭を掻きながら謝罪を口にする。
すると、小柄な女性は不満そうな表情を浮かべた。
﹁謝ることはそれだけかしら?﹂
﹁いや。でも君相手だと、心当たりがありすぎてさ。一体、何から
謝っていいものやら⋮⋮﹂
﹁キスレチンの件よ﹂
それは磨かれた刃物のように怜悧な声だった。
比較的図太いと評される黒髪の男でさえ、その彼女の言葉に秘め
られた怒りに気がつくと、弱ったように軽く苦笑を浮かべる。
﹁あれは済まなかった。正直、追跡者の選定までは気が回らなくて
1161
ね。私の不注意さ。申し訳ない﹂
﹁申し訳ないと思っているなら、その半笑いの顔をどうにかするこ
とね。でも正直言えば、少し調査が行き詰っていたところだったか
ら、切り上げ時でもあったのだけどね﹂
クレハはそう口にすると、わずかに視線をそらした。
一方、黒髪の男は顎に手を当てると、彼女に向かって問いかける。
﹁行き詰っていた⋮⋮か。連中のしっぽは見えなかったのかい?﹂
﹁しっぽは見え隠れした程度というのが正しい表現ね。あの国に連
中が潜んでいる可能性はある。ただし、あくまで可能性止まりよ﹂
黒髪の男は、目の前の女性の内偵調査力に、ほぼ全幅の信頼を置
いていた。そんな彼女でさえ、決定的な証拠を手に入れることがで
きなかったことを受け、男は思わず唸らざるを得なかった。
﹁君でも無理⋮⋮か﹂
﹁見た目だけでは決して判別がつかない相手。正直、普通の調査結
果上はお手上げね。だけど⋮⋮﹂
﹁だけど?﹂
クレハの言葉尻に引っ掛かりを覚えた男は、その言葉を繰り返す。
すると、黒髪の女性は迷いながらもゆっくりと口を開いた。
﹁一人だけ、一人だけ引っかかる人物はいるわ﹂
﹁誰だい、引っかかる人物ってのは?﹂
﹁ケティス・エステハイム﹂
クレハの口から紡ぎだされた人名。
それを耳にした瞬間、思わず男は口の中にあった唾を飲み込む。
﹁ケティス⋮⋮まさか統一宗教主義戦線の﹂
﹁ええ。統一宗教主義戦線の当主にして、現キスレチン軍務大臣﹂
﹁⋮⋮こいつは、思った以上の大物だね﹂
1162
黒髪の男は二度頭を掻くと、わずかに下唇を噛んだ。
そんな彼に向かい、クレハは集め得た情報を口にしていく。
﹁このケティスだけど、十五年前まではただの温厚な牧師様だった
らしいわ。それがある日突然、神の啓示を受けたと言い出して、政
治活動を始めたようよ﹂
﹁そして戦線派を乗っ取ったと?﹂
﹁統一宗教主義戦線自体、元々はクレメア教団の穏健的な互助会み
たいなものだったみたい。そんな和やかな組織に出所不明な資金を
持ち込み、少数派であるクレメア教の差別と迫害に対する団結を訴
えることで、急速に勢力を伸ばした立役者があのケティスよ﹂
そうクレハは説明すると、冷め切った紅茶を口に含んだ。そして
好まぬ苦味故に、表情を歪める。
そんな彼女の反応に苦笑しながら、黒髪の男は口を開いた。
﹁つまり神の啓示を受けてから、突然辣腕の政治家に様変わりした
わけだ﹂
﹁もちろん昔から彼の側にいる人は、こぞってこういうの。見た目
はケティスだけど、まるで中身だけ別人となったようだ⋮⋮ってね﹂
﹁ふむ。もちろん温厚な牧師のケティスさんの中に、そのような資
質が秘められていたのかもしれない。だが十五年前⋮⋮か﹂
十五年前、それは彼が両親と永遠の別れをすることになった年。
そして彼が、現在大陸西方で最も有名な名を口にするようになっ
た年でもあった。
﹁偶然としては出来過ぎていると思わない?﹂
﹁⋮⋮そういえばかのウイッラ・ミラホフ氏が、最後にムラシーン
と接触したのも十五年前だったね﹂
先年の魔法公国と帝国との戦い後、限られた情報であったものの
ウイッラの足跡を追いかける過程で知り得た事実。
1163
これらの事象の一致を踏まえ、黒髪の男はわずかに頭を振ると、
再び口を開く。
﹁たまたまだろうって笑い飛ばしてしまいたいところだけど⋮⋮や
はり蒔かれた種が芽吹いてきたと見るべきなんだろうね﹂
﹁で、どうするつもり? もうしばらく泳がせる?﹂
﹁いや、キスレチンに向かうことにする。ちょうどとある国の王様
から、旅の同行をお願いされてしまってさ﹂
﹁また面倒事を⋮⋮﹂
やや呆れたような口ぶりで、クレハはそう口にした。
だが黒髪の男は小さく一度左右に首を振る。
﹁だけどこれはチャンスさ。彼を利用する形になってしまって申し
訳ないけど、直接ケティス氏に接触する機会を得るね﹂
﹁私は反対ね。リスクが高すぎるわ﹂
はっきりと、そして確信を持ってクレハは目の前の男に向かいそ
う告げた。
しかし黒髪の男は薄く笑うと、ごまかすように口を開く。
﹁大丈夫。いざとなれば、とっととキスレチンから逃げることにす
るさ﹂
﹁無理よ。貴方、自分が思っているよりも他人に甘いもの。きっと
子守に必死になって、逃げるに逃げられなくなるわ﹂
﹁⋮⋮その時は覚悟を決めるさ﹂
﹁ユイ!﹂
封印された、そして大陸西方において特別な意味を有するその名。
懐かしささえ感じるその名で呼びかけられ、黒髪の男は困った表
情を浮かべる。
だが、彼は決して自分の意見を変えることはなかった。
1164
﹁クレハ、君の心配はわかっているよ。でも、ここでラインドルと
あの国にこけてもらう訳にはいかない。それに既にカイルと約束し
てしまったからね。申し訳ないけど、国王様の臨時の護衛であるア
イン・ゴッチは、キスレチンに向かうことにするよ﹂
申し訳無さそうな、だがそれでいて翻さないという強い意志の込
められた黒髪の男の言葉。
それを耳にした瞬間、クレハは諦めと同時に呆れを覚えた。
﹁まだ、その名前でいるつもりなのね﹂
﹁さすがに君が呼んだ名で、堂々と正面から入国する訳にはいかな
いだろ﹂
﹁本当に、本当にあなたは仕方ない人ね⋮⋮わかったわ。でも、私
も同行するから﹂
目の前の男が自らの意思を変えないこと、それは他の誰よりも彼
女こそが知っていた。だからこそクレハは、小さな溜息を吐き出す。
そして不満気な表情を浮かべながら、しぶしぶ交換条件を突きつけ
た。
だがその言葉を耳にするなり、黒髪の男はわずかに視線を逸らす
と鼻の頭を掻く。
﹁ああ、それなんだけどね。実は、ちょっと君には別のお願いがあ
るんだ﹂
﹁⋮⋮聞きたくないわ﹂
はっきりとした拒絶。
その声が玄関ロビーに広がるなり、男は弱り切った表情で言葉を
重ねる。
﹁頼むよ、クレハ﹂
﹁イヤよ。貴方がその顔をする時って、ろくなことがないわ﹂
1165
目の前の男は彼女が生を受けて以来、最も長い付き合いであった。
だからこそ、彼女はほぼ確信を持ってそう断言する。
﹁君しか頼める人がいないんだ、私には⋮⋮ね﹂
言葉を選びながら、男はクレハに向かってそう告げる。
僅かな沈黙。
その後に折れたのは、いつもと同じく、黒髪の小柄な女性であっ
た。
﹁はぁ⋮⋮ほんとうに困った人。しょうがないわね、聞くだけは聞
いてあげる。言ってみなさい﹂
﹁ありがとう。実は私の代わりに、君に会ってきてもらいたい人が
いるんだ。これを見てくれるかな?﹂
黒髪の男はそう口にすると、一通の手紙を彼女へと渡す。
その文面と差し出す相手を目にした瞬間、彼女は思わず絶句した。
﹁これは⋮⋮馬鹿げてる。あなた正気?﹂
﹁正気も正気さ。少なくともこれくらいしないと、あの大国に一泡
吹かすことなんて出来ない﹂
男は苦笑を浮かべながら、彼女に向かってそう答える。
その彼の言動を耳にした瞬間、彼女の脳裏には三年前のある夜の
やりとりが蘇った。
﹁昔あなたは、帝国の皇帝を相手取るために、盤面の外に飛び出す
といったわね。でもこれは盤面をひっくり返すに等しい。本当に貴
方⋮⋮狂ってるわ﹂
﹁ふふ、最高の褒め言葉だね﹂
クレハの驚きとその発言を受けて、男は自らの打つ手の確信を深
める。それと同時に、彼はもう一つの打つべき手を彼女へと託した。
1166
﹁あと申し訳ないのだけど、ついでに彼女にも会ってきてくれない
かい。要件はわかるよね?﹂
﹁後でたかられるわよ。少なくとも、キスレチンで一番高い酒をね﹂
男の発言から、かつての同僚である赤髪の女性のことを脳裏に思
い浮かべ、クレハはあえてそう警告する。
﹁止むを得ないね。何しろ、今や彼女は正真正銘のお姫様だからさ。
ともかく、お願いできるかな?﹂
﹁いいわ、やってあげる﹂
﹁ありがとう。そして⋮⋮ごめん﹂
今夜何度も繰り返された黒髪の男の謝罪。
ただ、この一言に込められたのは、これまでの軽薄で中身の無い
言葉とはまったく別物であった。
そしてそれを理解しているからこそ、クレハは彼をたしなめる。
﹁謝らないでくれるかしら。いつも言っているわよね、私は私の誓
いを決して破るつもりはない﹂
﹁わかったよ。でも君に感謝しているのは、いや感謝し続けている
のは本当さ。あの時も、そして今もずっと⋮⋮ね﹂
男はそう口にすると、その双眸をゆっくりと閉じる。
その瞼の裏に映るものは、初めて彼女と出会ったその時の光景で
あった。
彼の父と母とそしてその向かい側に存在した彼女の姿。
懐かしく、甘く、ほろ苦い思い出を、再び彼はゆっくりと胸の奥
にしまい込む。
そして再びその瞳を開けると、自らを見つめる女性に向かい、彼
はゆっくりと頷いた。
1167
三年の雌伏の時を経て、再び英雄の胎動が始まる。
1168
夏の雫
キスレチン共和国。
それは現在、大陸西方において二大強国とも呼ばれる、一大国家
である。
かつて大陸西方には、キエメルテ共和国と呼ばれる巨大国家が、
その歴史上に存在していた。
彼の国は、当時の大陸内でも稀有な民主主義国家として知られ、
その理念に対する頑なさと、制度疲弊による腐敗、そして何より大
陸中央諸国との間で長期に繰り広げられた永年戦争と呼ばれる戦い
の末に、いつしか歴史の中にその存在を消していく。
そして現在、かつてキエメルテ共和国と呼ばれた広大な国家は、
様々な内部対立と小競り合いの末に、キエメルテ共和国をキスレチ
ン共和国、クロスベニア連合、ホスヘル公国と呼ばれる三カ国へ分
離するに至っていた。
中でも、旧キエメルテの遺産やその国土の大半を継承したのが、
今回西方会議を主催するキスレチン共和国である。
北はアリアンテ山脈、そして南には白海と呼ばれる大陸西方国家
の多くにつながる海を有する国家。だが、その主要都市部は山岳部
ではなく半島部分に集中していることから、その国家全体の形状と
異なり、彼の国は半島国家などとも揶揄されることがあった。
もちろん声を大にしてそうからかうのは、彼の国の宿敵たる帝国
の者たちであったが。
1169
ともあれ、大陸西方においては近年その勢力を伸ばしてきたケル
ム帝国と、キエメルテの遺産を継承したこのキスレチン共和国は、
二大国家として現在はその名が上げられる事が多い。
そしてこの二カ国同士の不仲はもはや隠しようがなかったが、幸
運なことに絶妙なバランスでお互いの国力が均衡し、これまでは全
面対立を招くことはなかった。
しかしながら、ケルム帝国は直近の二度の戦争を経て、少なから
ぬ国力の疲弊を招いているのが現状である。
また、キスレチン共和国も大規模な政変が起こり、順風満帆とは
言い難いのが実情であった。
これは昨年度に行われた選挙にて、これまで国家の中枢を担って
いた自由都市同盟に怨敵たる帝国との内通及び賄賂の疑いが発覚し
たことに端を発する。
実際のところ、それはとある一人の老人と一人の黒髪の男によっ
て仕組まれた巧妙な罠であったが、彼等は結局国民の疑念を払しょ
くすることがかなわず、選挙において第一党を保持しながらも政治
的な駆け引きの末に下野することとなった。
そうして、今日のキスレチン共和国の行く末を担うのは、第二党
である民主改革運動と第三党である統一宗教主義戦線の連立政権で
ある。
そんな大陸内の勢力バランスが崩れようとする最中、キスレチン
共和国においては、初めて自由都市同盟以外が主催する西方会議を、
ここに開催しようとしていた。
そのような西方会議へ参加するため、この時期に彼の国へと向か
1170
ういくつかの集団。
その中の一つに、大陸西方において最も北に位置するラインドル
王国から出立した、とある一団が存在した。
﹁あのさあ⋮⋮移動中くらいこれを外させてくれないかな? 暑い
し、蒸れるし、正直言って最悪なんだけどさ﹂
集団のほぼ中央に位置する一台の馬車。
その中には、きらびやかな正装を身にまとった青年と、顔の上半
分をドミノマスクによって覆った金髪の男が存在した。
﹁いいえ、ダメです。ここはもう、キスレチン共和国の中なんです
よ。どこに諜報員が隠れているかわからないんです。用心に越した
ことはありません﹂
﹁いや、確かに顔を隠したほうがいいかも知れないと言い出したの
は私さ。でもね、それはあくまで西方会議が始まってからの話で、
こんなところから準備をしなくてもいいだろう﹂
自らの提案に後悔している男は、わずかに口を尖らせながらそう
抗弁する。
しかし目の前の青年はあっさりと首を左右に振ると、呆れたよう
にその口を開いた。
﹁もう、すぐそうやって楽しようとするんですから。貴方の無茶な
お願いは聞いたんですから、僕のお願いもこれくらいは聞いてくだ
さい﹂
﹁いや、うん。それに関しては何も言えないけどさ⋮⋮﹂
アインは困ったようにそう口にすると、ゆっくりと頭を掻こうと
1171
する。
しかし手を動かした先にあるものが、自らの自毛ではなくかつら
であることに気がつくと、ずれたらまた小言を言われるという意識
からそっと腕を降ろした。
﹁ともかく、御自身がおっしゃったように、貴方の存在は我が国の
切り札でありアキレス腱でもあるんです。いくら警戒しても、十分
ということはありませんよ﹂
﹁それはわかっているよ、カイル。でもさ⋮⋮この季節に南に向か
うんだよ。にも関わらず、これじゃあ会議が始まる前に疲れちゃう
よ﹂
﹁なんというか、貴方って用心深いのかそうじゃないのか、たまに
わからなくなりますよ﹂
ぐったりとした姿で情けないことを口にするアインに向かい、カ
イルは困ったような表情を浮かべながら、そう口にした。
この旅路の中で何度も繰り返されたやりとり。
もはや両手の指の数では数えられぬ同じ会話が馬車の中で交わさ
れたタイミングで、突然外から扉をノックする音が響き渡った。
﹁何かあったのでしょうか?﹂
走行中であったということもあり、カイルは首を傾げながらドア
に手を伸ばしかける。
しかし自らの立場を理解していたアインはそんな彼を制し、そし
て外に向けて軽く扉を開けた。
﹁おや、英雄殿自らとは痛み入るな﹂
開けられた扉の隙間から発せられた声。
それは今回のキスレチンへの旅の責任者である、マルフェスのも
のであった。
1172
﹁さすがに公務の最中だ。国王に雑事をさせて、私がのうのうと座
っているわけには行かないだろう?﹂
﹁確かに。それじゃあ、護衛役としては一日で首だわな﹂
ゆっくりと馬を並走させながら中を覗きこんできたマルフェスは、
アインの発言に深く頷くとニンマリとした笑みを浮かべる。
だがそんな彼の表情を目にしたアインは、先程までより一層疲れ
たかのような声を発した。
﹁で、護衛隊長さん。一体、中になんの用だい?﹂
﹁そんな不満気な顔をするなや。仮面の上からでも、はっきりとわ
かるぞ﹂
﹁まあ実際に不満なんだからね﹂
﹁はは、まあ天気ばかりは文句を言ってもどうしようもないさ﹂
この夏という季節に加え、閉めきった馬車の中にいることを思う
と、マルフェスは多少なりともアインに対し同情を覚えないわけで
はなかった。
しかしながら今回の護衛の責任者としては、安全面から言っても
何もしてやれることはなく、ただ苦笑を浮かべるのみであった。
一方、目の前のおじさまたちの会話を聞いていたカイルは、二人
に話をさせているとまったく内容に進展が見られぬ可能性に危惧す
る。
それ故に、コホンと軽く咳払いすると、マルフェスに向かい本題
を話すよう促した。
﹁それでマルフェス、一体何のようですか?﹂
﹁ああ。失礼しました、カイラ様。報告ですが、まもなく目的地と
なる首都ミラニールへ到着致します﹂
﹁そうですか⋮⋮ほら、やっぱり準備しておいてよかったでしょ﹂
1173
マルフェスの発言を受けるなり、カイルはやや勝ち誇った表情で
アインへと向き直る。
しかしながら、話を向けられた当人は、まったく異なる見解を敢
えて提示した。
﹁いや、それは違うよ。言い換えれば、ここまでは外してても良か
ったということじゃないか﹂
﹁はは、転ばぬ先の杖ってね。お前さんの好きな東方の言葉にある
だろ、そういうの﹂
﹁マルフェスさん。私は別に東方好きじゃないさ。母親がそっちの
出だというだけでね﹂
横からさらに茶々を入れてきたマルフェスに対し、アインは困っ
たような表情を浮かべながら、彼の言動を否定する。
﹁へぇ、お前さんが普段腰に下げているもの知っていたから、てっ
きり東方好きだとばかり思っていたな﹂
﹁だから、本当に好きでも嫌いでもないさ。実際に行ったこともな
いしね。それより、私のアレはちゃんと持ってきてくれているんだ
ろうね﹂
いつもなら自らの腰に必ず帯びていた愛刀。
それが今、彼の腰元にはない。代わりにそこに差さっているのは、
一本の細いレイピアであった。
﹁ああ、もちろんだ。あの馬鹿げた量の実験機材と一緒に、後衛が
ちゃんと運んでいる﹂
﹁頼むよ。本当にアレだけは預けたくなかったんだからさ﹂
刀なんて備えていたら、あっさりと正体が看破される。
そう発言したのは、現在先頭で周囲を警戒している女魔法士のレ
リムであった。
1174
それから二人の間では様々な比喩とロジックによるディスカッシ
ョンが繰り広げられ、最終的には押しの強い士官学校の女教授の方
へと軍配は上がる。
そうして、某国の軍人時代に作戦上の都合で後輩に預けて以来、
アインの手元から彼の愛刀が離れるという状況が生み出されていた。
﹁はは、それくらいは信頼してくれ。預かるといったからには、必
要な時が来るまでは俺達が責任をもって管理する﹂
﹁はぁ⋮⋮任せたよ、ほんと﹂
﹁おう、大船に乗ったつもりでいな。ともかく、もうすぐ街に着く
からそこからは少し忙しくなる。最後の休暇をゆっくりとっておく
んだな﹂
そう口にすると、マルフェスはアインに向かってニコリと微笑み、
走行中の馬車の扉を外から勢い良く閉めた。
﹁おかしい⋮⋮当初の私の予定では、こんなはずではなかったんだ。
どうしてこんなことに﹂
そう口にすると、アインはかつらの上から頭を抱える。すると、
わずかにかつらが彼の頭の上でずれた。
そんな彼の姿を目にして、カイルは申し訳ないと思いつつも、目
の前の英雄の滑稽な姿に思わず吹き出してしまう。
アインはそんな国王に対し恨めしそうな視線を向けつつ、肩を落
としながら大きな溜め息を一つ吐き出した。
1175
先手
首都ミラニール。
それはかの国家の土台となる半島の付け根に存在する、キスレチ
ン共和国における最大都市の名称であった。
他のキスレチンの主要都市よりも北に位置することから、気候と
してはそこまで温暖な土地ではない。
だがそれでも、大陸西方で最北に位置するラインドルに慣れた者
にとっては、この地は十分に温暖な気候ではあった。
ましてや、今は夏真っ盛りである。
それ故に、この首都へとたどり着いた一人の男性は、案内された
自室へと辿り着くなり、設置されていたソファーへと倒れこんだ。
すると、そんな男性の背中に向かい、突然冷たい声がかけられる。
﹁なに、その格好? 何時から喜劇役者に転向したの?﹂
気配を殺していた黒髪の女性によって投げかけられた辛辣な言葉。
それを背中で受け止めることとなったアインは、彼女に視線を向
けることなく、ソファーにうつぶせのまま悲しげに返答を行う。
﹁⋮⋮言わないでくれ。自分でも気にしているんだからさ﹂
﹁まあ、普段から変装させられてる私の気持ちを理解するいい機会
ね。しばらくはその格好のままでいらっしゃい﹂
クレハはそう口にすると、普段は凍りついたようなその表情を、
ほんの僅かに緩めた。
一方、普段から彼女に潜入調査等を依頼してきたアインは、この
話題に関して自らの分が悪いことを理解すると、やや投げやり気味
1176
の声で返答する。
﹁もとよりそのつもりだよ。決して望んでではないけどね。それで、
状況は?﹂
﹁ほぼ各国共に、キスレチン入りを果たしたわ。誰かの仕業もあっ
て、今まで通り五カ国が揃い踏みよ﹂
西方会議の参加資格。
それはこの第一回会議が開かれた時に決議をされたひとつの条文
に基いている。それは﹃大陸西方に存在し、一定以上の人口を有す
る国家﹄という一文であった。
もちろんこの文面だけでは、あまりに抽象的すぎる。だからこそ
一般的には、大陸中央との接合点に存在するホスヘル公国より西に
存在する国家であり、彼の国の人口以上であることが暗黙の内に基
準とみなされていた。
そうした要件を元にしたこの大陸西方会議において、前回となる
八年前もその前の十六年前も、今回と同様の五カ国の参加により開
催されている。
しかしながら前回と異なり、今回の開催に関しては紆余曲折が存
在していた。
それはクラリスとラインドルという五カ国の中では中堅に位置す
る二国家が、参加を危ぶまれていたことである。
そんな状況を覆してみせた当人は、かつての故国の事に関し、ク
レハに向かって問いかけた。
﹁それでクラリスの代表はどなたになったのかな?﹂
﹁ライン大公よ。あなたとしては、お姫様にお会いしたかったかし
ら?﹂
アインに向かい、クレハはわずかに含むところのある口調でそう
1177
問い返す。
すると、アインはソファーに預けていた体をようやく起こし、そ
してクレハに向かって首を左右に振った。
﹁いや。それにエリーゼ様は既にお姫様ではないさ。女王だよ﹂
﹁そうね。ともかく、彼女が国を離れるには、貴方が打った手だけ
では不十分だったようね﹂
﹁まあ、妥当なところだろうね。貴族院に取って、ほぼ侵攻してこ
ないとわかっているラインドル軍の存在は、足裏についた米粒のよ
うなものさ。実際にもう少し圧力をかけてあげたいところだったけ
ど、あまりカイルに迷惑をかけるわけにもいかないからね﹂
両手を左右に広げながら、アインは苦笑を浮かべた。
すると、クレハは小さく頷くと共に、再び口を開く。
﹁ともかく、クラリスはライン大公が代表。そしてラインドルはカ
イラ国王。まあ、これは同行しているから言うまでもないことね﹂
﹁ああ。それでクロスベニアとホスヘルは?﹂
﹁クロスベニア連合はシャドヴィ代表が。そしてホスヘル公国から
は、コルドイン大公殿下がご出席とのことよ﹂
﹁ふむ、どちらも老獪な最高権力者を出してきたというわけか。ラ
インドル家臣団に名を連ねるひとりとしては、若いカイラ国王の手
腕に期待するところ大だね﹂
﹁それはライン大公に関しても同じでしょ?﹂
彼女もよく知るとある人物を思い浮かべながら、クレハはそう告
げる。
するとアインは、やや困った表情を浮かべながら頭を数度掻いた。
﹁まあ、確かに。それで、彼らの結束はやはり固いのかい?﹂
﹁ええ。もともと民主改革運動と両国の関係は良好だったからね。
その辺り、前任の大統領とは違うわ。それに両国とも、大陸中央と
1178
密接している事もあって、自国民に多くのクレメア教の信者を抱え
ている。その辺りも、現在の蜜月関係の一因でしょうね﹂
﹁なるほど、宗教⋮⋮か﹂
クレメア教団を母体とする統一宗教主義戦線が連立政権に存在す
る意味。
そこに思いを馳せたアインは、顎に手を当てたままわずかに黙り
こむ。
そんな沈黙にしびれを切らしたクレハは、彼に向かってシンプル
に問いかけた。
﹁で、どうするつもり?﹂
﹁クレハ、君は彼らの真の狙いは何だと思う?﹂
﹁そうね⋮⋮おそらく、西方会議の最終日に行われる協定案策定。
そこに狙いを絞っていると思うわ﹂
問い返される形となったクレハは、僅かな戸惑いを見せるも、ほ
ぼ確信を持ってそう答える。
これまでの西方会議において、大陸西方における各国共通した方
向性を示すことが、最終日の一つの慣習となっていた。
もちろん例外は存在するものの、基本的にこの数回の西方会議は
対帝国が常にその主題であり、そのために開催されたと言っても過
言ではない。それ故に、最終日には彼の国に対する圧力を共同で明
言し、全会一致の多数決を持って協定案という名の約定を交わす形
となっている。
そのことを知るアインも、今回のキスレチンの狙いを正確に洞察
しているが故に、クレハの見解に対し深く頷いた。
﹁そうだね、私もまったく同意見さ。西方会議の成果を表明する協
定案作成。これは実にうまく出来たシステムだよ。キスレチン⋮⋮
いや、旧キエメルテ共和国の面々にとってはね﹂
1179
﹁数の力というわけね。でも、もともとキスレチン一国で、他の四
カ国以上の力があるわけだから、妥当といえば妥当よね﹂
﹁ああ、そのとおりさ。だけど幾ら力があるとはいえ、自分の財布
で喧嘩なんてしたくないものさ。どうせ使うなら他人の財布がいい﹂
やや皮肉げにアインはそう口にすると、二度鼻の頭を掻いた。
そんな彼の反応に、言語化していない内容を読み取ったクレハは、
薄ら笑いを浮かべながら口を開く。
﹁ラインドルもクラリスも、対帝国という目的において、使い勝手
のいい駒というわけね﹂
﹁基本的には⋮⋮ね﹂
﹁基本的には?﹂
思わぬアインの物言いに、クレハは引っ掛かりを覚える。
するとアインは、小さく頷き、そのまま別の考え方を披露した。
﹁ああ。視点を変えてみれば少し違った見方もできる。例えば、ク
ラリスにしてみれば、これまでキスレチンの存在があったからこそ、
帝国と全面抗争にならずに済んでいたわけだ。帝国が集合魔法なん
てものを開発するまではね﹂
﹁⋮⋮確かにそうね。彼等だけを非難するのは、いささかアンフェ
アということかしら﹂
アインの発言に納得すると、クレハはあえてそう言葉にする。
すると、アインは軽く肩をすくめると、あえて言葉を濁した。
﹁さて、どうだろう。でも国家間の駆け引きってのは、そういうも
のさ。お互いがお互いを利用しようと伺っている。そしてそれは当
然の行為さ。その意味では、なかなかにクラリスもしたたかだった
と思うよ。少なくともこれまではね﹂
﹁これまでは⋮⋮か。で、あなたはこれからどうしたらいいと思う
の?﹂
1180
﹁状況は変わった。そして帝国の状況も変わった。となると、これ
までと同じ対応をするというのは愚策だろう。そして、キスレチン
は愚策を選ぶつもりはない。つまり、キスレチンはやりたいんだろ
うね﹂
アインはそこまで口にしたところで、一度言葉を区切る。
一方、クレハはそんな彼に向かい、あえて先を促した。
﹁つまり戦争を?﹂
﹁ああ、戦争を。帝国と同盟派の関係を糾弾し政権奪取に成功した
彼らだ。この辺りで決定的なイニシアティブを取りたいと思うのは、
政治的に妥当な判断だろう。ましてや、最初は自らの手を汚さずに
済むのならね﹂
﹁なるほど。つまりこの西方会議は、彼等の政権維持を目的にした
帝国糾弾会議というわけね。まったく⋮⋮馬鹿げているわ﹂
そう言い切るなり、クレハは小さな溜め息を吐き出す。
だが彼女の眼前の男は、同じ事象に対しまったく異なる反応を見
せた。
﹁そうかな? 大陸西方の国家も、それぞれ内に悩みを抱えている。
大なり小なりね。そしてそれは今に始まった話じゃない。別に彼等
を責めるべき話じゃないさ﹂
﹁でも、巻き込まれる側としたら、たまったものじゃないわ﹂
アインの見解を理解しながらも、クレハは首を左右に振るととも
に、そう口にする。
すると、アインはもっともな解釈だとして、軽く笑い声を上げた。
﹁はは、確かにそれはそうだ。ともかく、彼等の狙いは明白。その
上、今の帝国は十全とは言いがたい。となると、あまり芳しい未来
が見えない⋮⋮かな﹂
﹁つまり大陸西方に、一強国家が誕生するということがかしら?﹂
1181
﹁いや、単一国家の誕生がさ﹂
アインの口から発せられた予想外の単語。
それを耳にした瞬間、クレハは思わず驚きの声を発する。
﹁え⋮⋮﹂
﹁民主主義という名の魔力。それはおそらく彼らを、その方向へと
後押しするだろう。それがいいことか悪いことか、私にはわからな
い。私はあくまで王政国家の出身だからね。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ、あなたとしては彼らの邪魔をすると?﹂
アインの発言を先回りし、クレハをそう告げる。
やや面食らったアインは苦笑を浮かべながらも、その通りだとば
かりに彼女の発言を肯定した。
﹁ああ。もちろん彼らの考え自体は理解できる。ただ残念ながら、
同意してあげることはできない。つまりはそういうことさ。だから、
彼らが根回しを終えるよりも早く、先手を打つとしよう﹂
﹁先手?﹂
﹁うん。要するに、この国における最初の一手さ。そのためにも、
これから向かわ︱︱﹂
アインがクレハに向かって自らの考えを告げかけたその時、突然
部屋のドアがノックされた。
途中で言葉を飲み込んだアインはその視線をドアへと向ける。そ
してもう一度クレハの方へと視線を向け直した時、既に小柄な黒髪
の女性はその姿を消していた。
﹁アインさん、よろしいですか?﹂
ノックされてから、少し間をとった後に外から発せられた声。
それを耳にしたアインは、小さく息を吐きだすと、すぐに返事を
行う。
1182
﹁⋮⋮どうしたんだい、国王殿。鍵は開いているから、ご自由にど
うぞ﹂
﹁失礼します。って、まだかつらを被っていらっしゃったのですか。
アレだけ文句を言っていたのに﹂
ソファーに腰掛けた状態のアインが未だに金髪姿であったことに、
カイルは驚きを見せる。
すると、アインは自らのかつらに右手を当てながら、苦笑交じり
に言葉を返した。
﹁そりゃあ、こんなの邪魔でしか無いけどね。ま、単純に取るのが
面倒だっただけさ﹂
﹁はぁ⋮⋮やっぱりそんなところですか﹂
やや呆れた口調で、カイルはそう口にする。
一方、最近カイルからの風当たりが強くなっていることを感じた
アインは、疲れたように大きな溜め息を吐き出しながら、目の前の
国王に対し来訪の目的を尋ねた。
﹁で、用件はなんだい?﹂
﹁はい。今日の夜に、キスレチンの外務官の方々と、食卓を囲む予
定です。その際にできれば、アインさんにも出席して頂ければと思
いまして﹂
﹁出席というか護衛だろ⋮⋮美味しそうなものを食べている人の姿
を、じっと見ているのは正直好きではないんだけどね。でもまあ仕
方ないか。わかったよ﹂
仮面を付けた護衛がいると、キスレチンに対し認識させる最初の
機会。
そう解釈したアインは、やむを得ないとばかりに自らの役割を受
け入れた。
﹁ありがとうございます﹂
1183
﹁いや、別に構わないさ。それに今回、表向きとしては護衛として
雇われている形になっている。君が礼など言わなくていいよ。彼の
こともあるしね﹂
日中はマルフェス付きの副官見習いとして現場の空気に触れ、そ
して夜はアインの監督下で研究を行う。そんな破格の条件が、アイ
ンの教え子であるフェルムには与えられていた。
もちろんこのような厚遇は、アインの願いであったことも大きい。
しかしそれ以上に、現在のところは非公式ではあるものの、フェル
ムがルナ奪還において大きな役割を果たしたことが最大の理由であ
った。
﹁ふふ、まあ彼には僕も期待していますから。だからあなたのこと
がなくても、彼にはできるだけいい環境を与えたいと思っています﹂
﹁甘やかしすぎるのも良くないから、ほどほどに⋮⋮ね﹂
﹁ほどほどですか⋮⋮わかりました、こころがけてみます﹂
カイルとしてはあくまで功に見合った範囲の扱いという認識では
あったものの、アインの危惧するところも理解できたため、素直に
頷く。
すると、若き王のそんな反応に、アインはニコリと笑みを浮かべ
た。
﹁うん、そうしてくれ。で、君からの要件を受け入れる代わりに、
ちょうど私からも君に一つお願いしたいことがあるんだ。聞いてく
れるかい?﹂
﹁お願い⋮⋮ですか。一体、何でしょうか?﹂
﹁実は少し会いたい人がいるんだ。ただ、一人で行くのもアレだか
ら、一緒に来てくれないかい。夜までには戻るつもりだからさ﹂
﹁会いたい人?﹂
キスレチンに着いてそうそうのアインの申し出に対し、カイルは
怪訝そうな表情を浮かべる。
1184
だが思わぬことを言い出した当人は、特に気にする風もなく、更
に言葉を重ねた。
﹁ああ。私がこのキスレチンで会いたい人物が二人いてね。その中
でも、さしあたって早く会っておく必要がある方さ﹂
﹁⋮⋮一体どなたです? 早く会わなければならない方って﹂
﹁私のちょっとした知り合いでね、フェリアムって言う、こずる賢
いおじさんさ﹂
まるで近所のおじさんの名を告げるかのような、アインの軽い口
調。
それ故に、カイルは最初誰のことかわからず首を傾げかかる。し
かし、すぐにこの国の中でも最も有名な人物の名を思い出すと、彼
は思わず目を見開いた。
﹁フェリアム⋮⋮って、まさか!?﹂
﹁ああ、おそらく君が思い浮かべたおじさんだよ。この国の第一党
にして、最大野党の党首。フェリアム・グルーゼンパーク前大統領
さ﹂
1185
その者の名は
自由都市同盟の本部は、首都ミラニールの中心部からわずかに離
れた東地区に存在する。
その三階に存在する執務室の中で、髪を後ろに流した壮年が険し
い表情を浮かべながら手元の書類と向き合っていた。
﹁フェリアム様。少しお時間をよろしいでしょうか?﹂
﹁なんだね、ケール秘書官。執務もおおかた終わり、この後は家族
と会食の予定なのだが?﹂
ノックの後に執務室内へ入り込んできた高齢の男性を目にして、
フェリアムは余り歓迎していない声を発する。
しかし秘書官であるケールは、彼の仕える主がこの時間に仕事を
持ち込むことを喜ばぬことは予め織り込み済みであった。それ故、
特に気にする風もなく言葉を返す。
﹁はい。ですが、それでも至急お渡ししたほうが良いかと思いまし
て﹂
﹁お渡し? 何をだね﹂
﹁こちらです﹂
怪訝そうな表情を浮かべたフェリアムに対し、ケールは一通の開
封された封筒を差し出す。
それを目にしたフェリアムは、不意にまた余計な業務が増え帰宅
する時間が伸びることを予期すると、ややためらいがちにそれを受
け取った。
﹁で、これは誰からのものだね?﹂
﹁あの男です﹂
1186
フェリアムからの問いかけに対し、ケールはただ一言そう答える。
途端、フェリアムは眉間のしわを深くした。
﹁あの男? ⋮⋮まさか!?﹂
封筒の裏面を目にしたフェリアムは、そこに書かれた名前を見る
や否や目を見開く。
そしてすぐさま、彼はケールに向かって視線を走らせた。
﹁はい。それはあのエイスからのものです﹂
﹁ちっ、今はなきコニーク商会並のゼニゲバ商人が、舞い戻ってき
たというのか﹂
フィラメントからやってきた魔石商の顔を思い出すと、フェリア
ムは思わず舌打ちする。
そんな彼の心境を理解しながらも、ケールは状況を彼へと説明し
た。
﹁そのようです。僅かに席を立って不在にしていた間に、いつの間
にか私の机の上にそれが置かれておりまして﹂
﹁⋮⋮おそらくは、あの小柄な女の仕業だな﹂
妖しげな商人とともに、二度その姿を見せることがあった小柄な
黒髪の女性。
その能力を知るが故に、フェリアムはこの手紙を置いて行った犯
人をあっさりと看破する。
﹁はい、私もそのように思います。ともかく問題は中身です。どう
か、すぐご確認を﹂
フェリアムの見解に大きく頷きながらも、ケールはすぐに党首に
向かって、内容確認を促す。
するとフェリアムは、促されるままに封筒の中に入っていた一枚
1187
の手紙を取り出し、あまりに短いその内容を読み上げていった。
﹁友人を連れて、すぐにそちらに向かう。少し待っていてくれると
嬉しい⋮⋮だと。まさか今からここに来るつもりか?﹂
﹁この手紙がつい先ほど届けられたことから、おそらくそのつもり
なのでしょう﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
そう口にするなり、手紙をくしゃくしゃと丸めると、彼はゴミ箱
に放り込む。そして胸の前で腕を組みながら、彼は手紙の主の目的
をその脳内で計り始めた。
一方ケールは、この手紙の主との案件に関しては全て目の前の党
首に任せると決め、自らは別のことを考える。
それは喩え相手があの女であろうと、やすやすとこの本部に侵入
された事実。それを踏まえての警備体制の見直しであった。
部屋の中にいた二人が、それぞれの思考を進め悩み込み始めたそ
の時、突然部屋の外から警護の兵士の声が発せられる。
﹁フェリアム様、失礼致します。ただいま玄関先に、商人のエイス・
クローサーなるものが、多くの兵士を引き連れてお越しになってお
ります﹂
﹁兵士⋮⋮だと?﹂
手紙を寄越したからには、必ずここにあの男が来るとフェリアム
は考えていた。
しかしながら魔石商人が、兵士を引き連れてきたということは、
完全に彼の理解の外である。それ故に思わず彼は、戸惑いを隠せぬ
声で、外に向かい聞き返した。
﹁はい。胸にラインドルの紋章をつけた兵士たちでして、どうも彼
の国の正規兵のようなのですが⋮⋮﹂
1188
﹁⋮⋮どう思う、秘書官﹂
眉間にしわを寄せたフェリアムは、眼前のケールにその考えを求
める。
すると、ケールも予想外であったためか、一般的な見解のみを提
示した。
﹁エイスとラインドルですか。妙な取り合わせですな﹂
﹁ああ。フィラメントの魔石商人が、なぜラインドルの兵士と共に
ここへ姿を現すのか⋮⋮﹂
そう口にしたところで、フェリアムは言葉を途切れさせる。
そうしてわずかばかりの沈黙が場を覆ったところで、ケールがフ
ェリアムに向かって口を開いた。
﹁だがいずれにせよ、既にあの男が着いたというのなら、敢えて無
視する理由もないでしょう。もちろん、フェリアム様のご家族を多
少お待たせすることにはなりますが﹂
﹁やむを得ん。もともと妻の小言には慣れている。いいだろう、エ
イスをここに呼べ﹂
その言葉が室内から発せられた瞬間、廊下に待機していた警備兵
は慌てて返事を行う。
﹁はっ、直ちに﹂
その言葉が室内に向かって発せられた瞬間、続いて慌ただしく廊
下を駆けて行く音が周囲に響き渡った。
﹁さて秘書官。改めて、奴の来訪は何が目的だと思う?﹂
先ほどまでのお互いの沈黙を、その考察に当てていたと考えたフ
ェリアムは、ケールに向かって考えを示すよう求める。
しかしながら警備体制のことを考えていたケールは、適切な回答
を有してはおらず、過去の出来事を元にした見解を口にして、その
1189
場を逃れようとした。
﹁⋮⋮以前は、フィラメントの魔石の売り込みを口実に、ここへと
足を運んでおりました。ですが、このタイミングでとなると、おそ
らく同じ目的ではないでしょうな﹂
﹁ああ、既に私はこの国の大統領ではない。となれば、奴の目的は
︱︱﹂
﹁失礼します。エイス・クローサー殿をお連れしました﹂
フェリアムが悩みながらも考えうる可能性を口にしかかったとこ
ろで、部屋の外から再度先ほどの警備兵の声が響き渡った。
途端、部屋の中の二人はお互いに顔を見合わせ合う。
そしてフェリアムが一つ頷くと、彼は部屋の外に向かって声を発
した。
﹁思ったより、早かったな。いいだろう、通せ﹂
その声が発せられると、ゆっくりと部屋の扉が開けられていった。
そして一人の金髪で仮面をつけた男性が、二人の前に姿を現す。
﹁やぁ、前大統領殿。相変わらずご壮健のようで何より﹂
その声が発せられるまで、フェリアムは目の前の男がただの騙り
ではないかと考えていた。
だが、聞き覚えのあるその声を耳にするなり、彼は視線を険しく
させると、不快げな口調で金髪の男に問いかける。
﹁エイス⋮⋮なんだ、その髪とマスクは?﹂
﹁はは、実はちょっとした事情が有りましてね。商売などをしてい
ると、いろんな人の恨みを買うものでして﹂
そう口にすると、エイスと呼ばれた男は、顔の上半身を覆ってい
たドミノマスクを外す。
1190
マスクの下に隠されていた顔を目にしたフェリアムは、そこで改
めて彼の知る魔石商人であることを確信すると、あえて目の前の男
を鼻で笑った。
﹁ふん、悪徳商人が﹂
﹁はは、なかなかに否定しがたいところですね。でも、恨みという
点では、貴方も少なからず買っておいででしょう?﹂
﹁政治屋が恨みを買うのは当然だ。恨み、妬み、嘲笑。それを一身
に引き受ける気概がなくては、この国で政治屋なんぞ出来はせんよ﹂
魔石商人から問われたフェリアムは、はっきりと自らの信念を語
る。
エイスと呼ばれる男はそれを好ましく感じると、一つ頷くと共に、
自らの内心を口にした。
﹁まったくです。しかし政権を奪われたにもかかわらず、貴方が党
首でいてくださってよかった﹂
﹁それは皮肉か?﹂
﹁いえ、本心ですよ﹂
心外だとばかりに男性は、両手を左右に広げる。
すると、フェリアムはわずかに視線を外した後に、愚痴るかのよ
うな口調で言葉を発した。
﹁⋮⋮誰も火中の栗を拾いたくなかっただけだ。それ以外に理由は
ないさ﹂
﹁なるほど⋮⋮でも貴方以外に、同盟派をまとめられる人物がいな
いことも事実でしょう﹂
フェリアムの発言が事実の一端を示していることを理解しながら
も、エイスと呼ばれた男は別の事実を口にする。
それを耳にしたフェリアムは、小さな溜め息を吐き出すとともに、
1191
その視線を目の前の男へと向け直した。
﹁さて、どうだかな。で、今日は何のようだ?﹂
﹁ああ、そうでした。危うく本題を忘れるところでした﹂
そう口にした男は、右手を頭へとやる。しかし、何かに気づいた
かのように、彼はそのまま手をおろした。
一方、彼のそんな意味不明の仕草を目にしたフェリアムは、わず
かに訝しげな表情を見せる。しかしすぐに気を取り直すと、目の前
の男の発言に対し、不快感を露わにした。
﹁わざわざ妻や子供との団欒を遅らせて、貴様に時間を割いてやっ
ているのだ。それはないだろ﹂
﹁はは、すいません。最近物忘れが酷くて。実は今回の訪問なので
すが、貴方にお会わせしたい人物がおりまして、お連れした次第で﹂
﹁会わせたい人物⋮⋮だと?﹂
思わぬ発言を耳にして、フェリアムはわずかに戸惑いを見せる。
だが彼の眼前の男は、わずかに笑みを浮かべると、そのまま彼に
向かい言葉を発した。
﹁ええ。少し部屋の外で待って頂いているのですが、お呼びしても
かまいませんか?﹂
﹁貴様が連れてくる人間だ。ろくな奴ではなかろうが⋮⋮いいだろ
う﹂
﹁はは、ありがとうございます。それでは、入ってきてくれるかな﹂
部屋の扉へと向き直り、男がやや大きな声でそう口にすると、再
び部屋の入口が開けられる。そしてそこからは、わずかにくすんだ
金髪の青年が姿を現した。
1192
﹁ん?﹂
その彼の姿を目にしたフェリアムは、わずかに違和感を覚える。
明らかに目の前の商人とは不釣り合いの、整った出で立ち。そし
て目に見えてわかる備わった気品。
それらは記憶の片隅にあるおぼろげな何かを、明らかに刺激する
ものであった。
﹁それでは僭越ながら私が、お互いを紹介させて頂こうかな。こち
らが自由都市同盟の党首フェリアム・グルーゼンパーク氏、そして
この青年が私の友人のカイラ様だ﹂
﹁カイラ⋮⋮様? エイス、まさかこの方は!?﹂
ラインドルの兵士を多数伴って来たと言う報告。
それを思い起こしたフェリアムは、とたんに金髪のかつらを付け
た男に向かって鋭い声を投げかける。
一方、アインが知らぬ名で呼びかけられたことに気がつくと、カ
イルは困惑した表情を見せた。
﹁エイス?﹂
﹁はは、前にも言っただろ。ラインドルに行く前には、キスレチン
に少し居たって。ちょっと事情があってね、その時使っていた名前
だよ。ま、とりあえず私のことはいいさ﹂
苦笑を浮かべながら、そう言い訳をしてみせたエイスことアイン・
ゴッチは、敢えてそこで話題を一度切る。そして驚きを見せるフェ
リアムに向かい、彼は改めて視線を向け直した。
﹁さて、フェリアム様。どうやらお気づきのようですが、改めて紹
介させて頂きましょう。こちらにいる私の友人ですが、西方会議に
出席するためにこのミラニールに来た好青年でしてね。カイラ・フ
ォン・ラインドルという名です。まあ私の友人同士ということで、
仲良くやってくださると非常に嬉しいですね﹂
1193
アインはそう口にすると、目の前のフェリアムに向かい、ニンマ
リとした笑みを浮かべてみせた。
1194
次代の担い手
﹁⋮⋮どうぞ、掛けてください﹂
自由都市同盟本部の執務室に据え置かれたソファー。
気を使って頂
来訪した二人をそちらに腰掛けるよう促したフェリアムは、更に
紅茶の手配をケール秘書官に伝える。
﹁申し訳ありません。突然来訪したにも関わらず、
きまして﹂
彼が帰り支度を行う直前であったと知ったカイルは、紅茶の手配
を受けたことと合わせて、申し訳無さそうに謝罪を口にする。
﹁いえ、お気になさらずに。むしろラインドルの国王殿が我が国に
お越しならば、こちらから訪問させて頂くべきところ。謝罪など不
要ですよ﹂
﹁そうそう。まあ、お互い気を使い合う必要なんて無いさ。ところ
で申し訳ないんだけど、前大統領殿。私の分はコーヒーにしてくれ
ないかな?﹂
フェリアムの言葉を耳にしたアインは、苦笑を浮かべながら、マ
イペースな要求を口にする。
すると、フェリアムは残念な者を見る視線を向けながら、大きな
溜め息を吐き出した。
﹁エイス⋮⋮いや、今はアインと名乗っているのだったか? とも
かく、お前は一向に変わらんな。カイラ国王はこれほど立派になら
れたというのに﹂
﹁立派に⋮⋮って、もしかして前回の西方会議の時に?﹂
フェリアムの口ぶりに違和感を覚えたカイルは、たった一度だけ
1195
この国を訪れた際のことを、思わず口にする。
途端、正解だとばかりにフェリアムはニコりと笑みを浮かべた。
﹁ええ。その当時、私は内務大臣を勤めておりましてね。アルミム
前国王と伴にこの国に来られた一人の少年のことを、はっきりと覚
えております。国家元首に対してこのような言い方は失礼だと思い
ますが、しかし本当に立派になられた﹂
﹁いえ、正直いってまだまだですよ。このキスレチンのような大人
の国と違い、我が国は、そして私自身もまだまだ成長せねばならぬ
と、日々痛感しているところです﹂
フェリアムの評価に対し、やや恥ずかしそうに照れた表情を見せ
ながら、カイルは軽く謙遜してみせる。
だがそんな彼に対し、フェリアムは一つの実例を上げて、重ねて
彼を賞賛してみせた。
﹁はは、隣の芝は多少青く見えるものですよ。それに客観的に見て
も、先日のクーデターを完璧に押さえ込んだあなたの手腕。それは
我が国の現政府連中以上のものだったと思います﹂
﹁あれは私の周りの人たちが優秀だっただけですよ。私がしたこと
は、彼らの提案を受け入れた程度に過ぎません﹂
カイルは両手を軽く左右に開くと、首を二度左右に振る。
一方、そんな彼の発言を耳にしたフェリアムは、眉間にしわを寄
せた。
﹁おや、果たしてそうでしょうか⋮⋮ですが、もしあなたのおっし
ゃる通り、周りの人材が結果を出したのだとしても、それは彼等を
取り立てたあなたの功績だと思います。違いますかな?﹂
﹁なんというか、フェリアム様のような実績ある政治家の方に持ち
上げられると、本当に赤面するだけですよ﹂
フェリアムの発言に僅かな違和感を覚えたカイルは、意識してそ
1196
の表情に苦笑を浮かべてみせる。
すると、会話の潮目が変わりかけていることを感じ取ったフェリ
アムは、このタイミングを逃すことなく、確認しておきたかった一
つの事象を話題に上げた。
﹁いえいえ。持ち上げるだなんて、そんな。全て私の本心ですよ。
何より、南部での軍事演習を目眩ましにして、少数でクーデターを
制圧するという戦略は実に素晴らしかった﹂
そのフェリアムの発言を受けて、カイルは先ほど抱いた予感が正
しかったことを理解する。そして表情を一切変えぬよう注意しなが
ら、なんでもないことのように説明を口にした。
﹁国王を引き継いでいこうと、内政にばかり注力しすぎましてね。
予算の都合でまともな軍事演習もなかなか出来ておりませんでした
から。まあ、それがちょうどいい目眩ましになってくれたのは、少
し出来過ぎな結果ですけどね﹂
﹁目眩まし⋮⋮それはクーデターを起こした連中に対してのお言葉
ですか?﹂
この話題を取り上げられた時点で、想定されていた問いかけの一
つ。それをフェリアムはまさにカイルへとぶつけた。
だからこそ、カイルはまったく動じることなく逆に問い返す。
﹁もちろんそうですが、それが何か?﹂
﹁いえ、てっきりクラリスの北部を根拠地とするブラウ大公達への
目眩ましと言われたかったのかと思いまして﹂
﹁なるほど⋮⋮いやぁ、見方によってはそんな解釈もできるわけで
すね﹂
カイルはわざと感心した素振りを見せながら、胸の前で軽く腕を
組む。
だがそんな彼の反応を目にして、フェリアムはその内心を見透か
1197
すと、やや前のめりの姿勢となり改めて口を開いた。
﹁ええ。クラリスの王家派の要請で、ブラウ公たち貴族院の方々の
選択肢を奪うための一手。あの軍事演習をそう考えると、何とも素
敵な作戦ですな。クーデター派を撹乱し、クラリス王家に恩を売り、
そして我らが政府の目論見を破綻させる。その上、滞っていた軍事
訓練も行えるとしたら、まさに一石四鳥というわけですな﹂
﹁⋮⋮フェリアム様。あくまで偶然の産物で、そう見えているだけ
ではありませんか? 第一私は、クラリスのエリーゼ女王とはお会
いしたことがありません。もちろん彼の国とは同盟関係にはありま
すが、王家派にだけ肩入れするような理由がございませんよ。それ
に何より、あなた方の政府の目論見というものがわかりかねます。
我々は同じ西方会議の一員。不要な対立などしたくはないものです
からね﹂
かつて大国の大統領を務めたフェリアムに対し、堂々とカイルは
そう言ってのけた。
まだ若いながらも、知性と風格を感じさせるその受け答えを目に
して、フェリアムは眼前の若者を好ましく思う。そして今しばしの
年齢を重ねれば、ラインドルにカイラ王ありと言われるようになる
ことを、彼はこの時点で予測した。
だからこそ彼は、今ここで自らの能力をはっきりと示し、精神的
な格付けをこの段階で付けておくべきだと判断する。
しかしながら、彼のそんな目論見が叶うことはなかった。
何故ならば、彼が追撃となる言葉を口にするより早く、カイルの
隣の席に腰掛けていた男が、場の空気を一変させるかのように陽気
な笑い声を上げたためである。
﹁ははは。いや、それくらいにしてあげてもらえないかな、前大統
領殿。青年をあまりいじめるおじさんは、残念ながら世の常として
1198
嫌われるものだよ﹂
﹁悪徳商人は黙っていろ!﹂
突然言葉を挟んできたアインに対し、機を失ったフェリアムは、
苛立ち混じりの声でそう叱責する。
一方、そんな怒りを向けられた当人は、まったく気にする素振り
も見せず、ひょうひょうと再び口を開いてみせた。
﹁おやおや、ここは自由の国だったはずだよ。だからこの私にも、
発言の自由くらいは許されてもいいと思うけどね。それに第一、先
ほどの話が仮に事実だとして、貴方に何の問題があるというんだい
? 野党の党首にとって、現政権が失策を犯したという事実は、む
しろ好ましい状況だと思うけど﹂
﹁⋮⋮もしや貴様。この件に関わっているな?﹂
それはただの政治家としての直感であった。
だが理性的な観点からも、目の前の男ならば、十分にありえるの
ではないかとフェリアムは考える。
アインはそんな目の前の男の詰問に対し、右の口角を軽く吊り上
げた。そしてちょうどそのタイミングで、先ほど頼んでいた紅茶が
この場へと運ばれる。
﹁ああ、やっぱり紅茶か⋮⋮まあ、せっかく持ってきてくれたのだ
から頂くとしようかな﹂
﹁エイス⋮⋮貴様、はぐらかす気か?﹂
運ばれてきた紅茶に視線を向け、回答を放棄したかのように見え
るアインに対し、フェリアムは厳しい視線をぶつける。
すると、困ったような表情を浮かべながらも、アインはふてぶて
しく紅茶に一度口をつけた後、ようやく口を開いた。
﹁えっと、私が関わっているかどうかでしたっけ? はてさて、ど
1199
うでしょうね。まあ大陸西方に住む魔石商人として、戦線派の裏に
いるトルメニア商人たちがこれ以上好き勝手するのは、あまり好ま
しくないと思っていることは事実ですよ﹂
統一宗教主義戦線に対し、政治献金を惜しまぬ商人たち。それは
大陸中央でも最大の宗教国家であるトルメニアの者達であった。
彼等は陸路もしくは赤海と呼ばれる内海を経由してキスレチンへ
と、販路を確保している。そんな彼等の後ろ盾が、トルメニアの国
教であるクレメア教の信徒たちを中心に組織された宗教主義戦線で
あることは言うまでもないことであった。
それ故に、大陸西方の商人が彼等のことをよく思わぬことは一見
筋が通る。
だが、フェリアムは、それだけではない引っ掛かりのようなもの
を目の前の男から感じていた。
﹁⋮⋮本当にそれだけか?﹂
﹁一体、何のことに関してですか? 私は先程の件に関わったとは
言っていないですし、トルメニア人が商売敵であることは自明の理
でしょ。だからそんな怖い顔しないでくださいよ﹂
﹁ふん、いいだろう。今は貴様の発言に頷いておいてやる。あくま
で今だけはな﹂
まったく納得してはいなかったものの、この場でこれ以上の回答
が求められると思えなかったフェリアムは、ようやく牙を収める。
﹁はぁ、疑り深いんですから。ともかく、目的も果たしたし、前大
統領殿の家族団欒をこれ以上先延ばしにするわけにも行かない。と
いうわけで、今日のところはお暇させて頂くとしようか﹂
﹁何? どういうことだ?﹂
フェリアムはあまりにもあっさりと引き上げようとするアインに
1200
対し、その意図をはかりかね、怪訝そうな表情を浮かべる。
そしてそれは、アインの隣りに座るカイルも同様であった。
﹁えっと、顔合わせにと言われていましたけど、本当にそれだけの
ために?﹂
﹁ああ。そうだよ。顔合わせのためにさ。それだけで、前大統領殿
の家庭の時間を奪った意味は十分にある﹂
アインは一切に迷いを見せることなく、はっきりとそう言い切る。
そこで初めて、フェリアムはこの極短期間の来訪に対し、一つの
確信を抱いた。
﹁⋮⋮なるほど、そういうことか。私と接触したという事実。それ
自体が彼らに対するメッセージというわけだな﹂
アインの口にした目的という言葉から、フェリアムがたどり着い
た答え。
それを受けて、アインはニコリと微笑むと、まったく思いもよら
ぬことを口にした。
﹁前大統領。準備はしっかりとしておいてくださいね﹂
﹁準備? 一体何のだ?﹂
アインの口にした言葉の意味がわからず、フェリアムは眉間にし
わを寄せる。
するとアインは、さらなる爆弾を彼へと投げかけた。
﹁それは決まっています。来たるべき組閣の為のですよ﹂
﹁な⋮⋮﹂
歴戦の政治家であるフェリアムは、口を開けたままその場に凍り
ついた。
もちろん若かりし頃より、彼は常に自らを長とする政権構想を常
1201
に有しており、それは大統領の座を奪われ、野党の党首となった今
も変わらなかった。
だが彼の驚きはそこにはなかった。
そして目の前の胡散臭い商人は、そんな彼の反応を目にして、薄
く笑いながら更に言葉を重ねてくる。
﹁西方会議と言う嵐が通り過ぎると、ひとつの看板が倒れることに
なるでしょう。それはラインドルかも知れませんし、クラリスかも
しれない。もしかしたら︱︱﹂
﹁⋮⋮キスレチン共和国の現政権かもしれないと、そう言いたいの
か?﹂
アインの言葉を遮る形で、フェリアムはそう問いかける。
すると、アインはわざとらしく肩をすくめてみせ、そして意味あ
りげに微笑んでみせた。
﹁いえ、それはわかりませんけどね。でも、何事も備えというもの
が大事なのですよ、次期大統領殿﹂
1202
化けの皮
﹁何⋮⋮ラインドル王国がフェリアムと接触しただと﹂
民主改革運動の党首であり、現キスレチン共和国大統領でもある
トミエル・ブラウンは、眼前の男から思わぬ報告を受け眉間にしわ
を寄せた。
すると、この情報をもたらした農商大臣のファッテソンは、改め
てその口を開く。
﹁はい。彼の国の一行がこのミラニールに到着した後、ほぼそのま
ま会談へと向かったようでして﹂
﹁となれば、以前より何らかの事前調整が行われていたということ
か⋮⋮情報部の連中は何をやっていたのだ!﹂
そう口にすると、トミエルは机に拳をぶつける。
鈍い音が部屋の中に響き、ファッテソンは思わず首をすくめた。
﹁まあ連中が一枚上手だったということでしょう。しかし此度の会
談、どちらから持ちかけたものだったのか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮おそらくフェリアムの方からだろう。ラインドルの連中には
奴と会わねばならぬ理由がないからな。しかし奴め、一体どういう
つもりだ﹂
顎に手を当てながら、トミエルはこの接触の意味するところを考
えた。
国民の代弁者を決めるための選挙は五年毎であり、少なくともあ
と四年は政権交代の可能性が極めて低い。
故に、今現在はただの野党の党首にすぎないフェリアムが、次期
の選挙時の何らかの支援を引き出す代わりに提示できる条件に限り
はある。だがその条件がトミエルには思いつかなかった。
1203
﹁まあラインドルから何らかの支援を受けるという話では間違いな
いでしょう。ですが、先年のこともあり、フェリアム自体そのあた
りは非常に警戒していることは間違いありません。だからこそ、堂
々と会談を行い得るこの西方会議のタイミングを狙っておったので
しょうな﹂
同盟派の政権陥落は、党員による帝国との賄賂スキャンダルがそ
の起因であった。
もちろん仮想敵国である帝国と西方会議の一員であるラインドル
では、この国との関係はまったく異なる。
だがそれでも、前大統領であるフェリアムが苦い経験を経て、他
国との接触に関しては非常にナーバスとなっていることは彼等にも
容易に想像がついた。
﹁支援と言っても、ラインドルは所詮北の雪国に過ぎん。彼等単独
でどの程度のことが⋮⋮いや、しかしラインドルか⋮⋮﹂
﹁ラインドルがいかがされましたか?﹂
侮りの言葉を口にしかけていたトミエルが突然その口を閉じた為、
ファッテソンは怪訝そうな表情を浮かべる。
そんな彼に対し、トミエルは言葉を選びながら、自らの懸念を口
にした。
﹁先日、彼の国で起こったクーデターを、若いカイラ王が見事に収
めてみせたからな。今後のことを考えると、あまり軽々しく扱うべ
きではないと少し思い直しただけだ﹂
民主改革運動の党員の中でも、比較的良識派で穏健なファッテソ
ンに対し、軍部との関係の深い第二情報部の行った工作活動のこと
をトミエルは伝えていない。
それは今回のラインドルとフェリアムの会談情報の出元が、農商
1204
省が指揮する第一情報部からもたらされたと理解していたためであ
った。
第一情報部は交通や郵送なども含めた国内の連絡網も一手に担う
農商省が、脱税や不公平な商取引の監視を行うために設立された組
織である。
だからこそその組織の性質上、対外工作のためには多少の不正も
辞さぬ第二情報部との仲はまさに険悪極まりないものと言えた。
もちろん第一情報部を統率するファッテソンも、歴戦の政治家で
ある。それ故に、第二情報部の行っている多少の法を犯した工作活
動に対し、表立って反対することは無いとトミエルも考えていた。
だがファッテソンはその人柄故、党内でも穏健派を中心に求心力
が高い。
だからこそ、将来の政敵となり得る可能性を危惧し、自らのアキ
レス腱となりうる工作活動の詳細を、一切彼へと伝えていなかった。
一方、そんなトミエルの判断など欠片も知らぬファッテソンは、
目の前の男の発言に対し、なるほどとばかりに一つ頷く。
﹁ふむ、あれは見事でしたな。そして国内に潜む旧ムラシーン派を
国王の手腕で殲滅し得たということは、これで彼の国は一層まとま
りを見せることでしょう。確かに、警戒するに越したことはありま
せんな﹂
﹁ああ。過剰に反応する必要はないかもしれんが、君の言うとおり
だ。警戒などはいくらしても足りるなどということはない﹂
ファッテソンのその発言から、第二情報部のクルネルソンによる
失態が知られていないことを彼は確信した。だからこそトミエルは、
ファッテソンの発言に合わせる形で、何気なく言葉を続ける。
すると、何の気なしに口にしたトミエルの発言を受け、ファッテ
1205
ソンは不意に一つの報告を思い出した。
﹁確かに警戒とはそのようなものですな。些細な事にも注意を払う
ことが肝要で⋮⋮そういえば、先ほどのフェリアムとラインドルと
の会談ですが、その際にいささか奇妙なことがあったそうです﹂
﹁奇妙なこと?﹂
突然切り出したファッテソンの話に、トミエルはすぐさま先を促
す。
﹁ええ。実はカイラ国王の護衛についていた男が、いささか風変わ
りであったようでして、それが第一情報部でも話題となっていたと﹂
﹁ほう⋮⋮風変わり。具体的にはどのような男だったのかな?﹂
少し興味を惹かれたトミエルは、やや前のめりの姿勢となると、
ファッテソンに先を促す。
﹁いえ、風変わりというかなんというか⋮⋮護衛として帯同したの
は顔の上半分をドミノマスクによって覆った男であり、どうやらそ
の男が他の護衛兵たちに指示を与えていたようなのです﹂
﹁ドミノマスク? それはフェリアムに会う時もか?﹂
トミエルは何らかの間違いではないかと思いつつ、すぐさま確認
するように問いかける。
既に国家元首の座にないとはいえ、フェリアムは前大統領であり、
最大野党かつ第一党の党首である。その面会に出向く際のマナーと
して、いくら一護衛のことではあっても、本来ならばありえぬ無礼
であった。
﹁いえ、直接面会した時につけていたかどうかまではわかりません
が⋮⋮﹂
﹁ふむ⋮⋮まさに異様だな。しかし今の話を聞くにもう一つ不可解
1206
な点がある﹂
﹁なんでしょうか?﹂
マスク以上に不可解な点が思い当たらなかったファッテソンは、
わずかに首を傾げながら尋ね返す。
するとトミエルは、その場にいるべき一人の人物の名前を口にし
た。
﹁今回の我が国への旅路に、近衛隊長職を兼ねるマルフェス将軍が
帯同していると聞いている。にも関わらず、その場に彼が姿を見せ
ず、マスクの男が指揮を取っていたということだ⋮⋮もしやマルフ
ェスが何か理由があってマスクをしていたのではないか?﹂
﹁いえ、確かマルフェス将軍の髪は白髪混じりの赤だったと思いま
す。そのマスクの男はどうも金髪であったとのことでして﹂
予め今回の西方会議に出席する主要閣僚の資料に目を通していた
ファッテソンは、ラインドル王国の将軍に関する記載を思い起こし
ながら、トミエルの疑いを否定する。
そのファッテソンの発言を受けて、トミエルはとたんに渋い表情
を浮かべると、胸の前で腕を組んだ。
﹁となると別人ということか。しかし、なにか引っかかるな⋮⋮﹂
﹁そうですね。私も何故か腑に落ちない印象です⋮⋮ふむ、では明
日開かれる前夜祭にて、ラインドルの連中に揺さぶりをかけてみら
れては?﹂
ファッテソンは予め決まっていた明日の予定を踏まえ、一つの提
案を口にする。
すると、トミエルはその表情に喜色を浮かべ、興味深そうにその
提案を受け入れた。
﹁おお、それは面白いな。ラインドルの新しい王が噂通りの賢王か
どうかを測る良い機会にもなる﹂
1207
﹁はい。もともと西方会議の主要国が揃ったその日に、農商省が主
導で大規模な歓迎式典を執り行う習わし。我が国の力を見せるため
にも、此度の前夜祭はできるかぎり盛大なものとするつもりです。
それ故、大統領に於かれましては、彼等とともに会に華を添えてい
ただければと思う次第﹂
自らの率いる農商省が主導であることを強調しながら、ファッテ
ソンは喜々とした表情でそう提案する。
トミエルはファッテソンに向ってやや意味ありげな笑みを浮かべ
ると、大きく一つ頷いた。
﹁では、そのあたりの企画については任せてもらおう。というわけ
で、今回のメインゲストはラインドル王国で決まりだ。せいぜい各
国の代表方が喜ばれる余興を準備させて頂くとしようか。ラインド
ルの化けの皮の下に何が隠されているのか、それを白日の下へと晒
すためにもな﹂
1208
前夜祭
第六回西方会議。
大陸西方の少なからぬ国家が参加するこの会議は、もともと急速
に勃興しつつあるケルム帝国の封じ込めを図るため、キスレチン共
和国が音頭を取って、開催したのがその始まりである。
設立時は直接帝国と国境を接しているキスレチン共和国とクラリ
ス王国の二カ国で始まり、周辺国はオブザーバーとしてキスレチン
に派遣している大使のみを参加させる形であった。
だがその際に、次回から他国を正式に参加できるよう促すため、
唯一となる緩やかな参加規約が定められた。それは大陸西方の一定
数の人口を有する国家というものである。
この条件を元に、ラインドル王国とクロスベニア連合が第二回会
議に参加し、また第四回会議からは比較的小国と呼んでも差し支え
のないホスヘル公国が、キスレチンの肝いりで参加することとなっ
た。
これらの直接帝国と国境を接しない各国の参加は、その理由の一
つとして交易や国境問題など、国家間調整が必要とされる非常に多
くの事柄について、集中的に交渉を行う機会として有用であるとみ
なされたことが大きい。
特に交易においては、大国であるキスレチンを中心とした経済ブ
ロックという意味合いも緩やかながら存在し、キスレチンに集った
各国の代表団には政商などとも呼ばれる有力商人が、各国代表団の
同行者として多く見受けられた。
1209
またそれ以外の視点で、この会議の参加国を見てみるとすれば、
やはりとある国家の存在感が非常に強いことがわかる。
その代表的な例として、第四回会議からのホスヘル公国参加があ
げられた。つまりホスヘル公国は、同会議に於けるキスレチンの主
導権維持のため、その数合わせとして参加させたという見方である。
キエメルテ共和国から分離独立した三カ国は紆余曲折あったもの
の、現在では相互に同盟関係を構築している。だがその中でも最弱
国であるホスヘル公国は、キスレチンの軍隊を自国に常駐してもら
い、どうにか国防体制を維持しているのがその実情であった。
それ故、彼の国はキスレチンの属国的見方をされることが少なく
ない。
もちろん同会議に参加する国家の中で、キスレチンがもとより圧
倒的な強国であるのは言うまでもない。
だが第四回会議の直前にラインドルとクラリス間において同盟が
成立し、西方会議内の勢力バランスに狂いが生じたことから、キス
レチンが強引な手に出たと一般的には解釈されている。
それまでクロスベニア連合が参加基準をぎりぎり満たしていると
一般的に考えられていたものを、実数で定義されていないことから
彼等は拡大解釈し、人口要件をホスヘル公国も満たしているのだと
主張して彼の国を第四回会議に参加させた。そして彼らは、協定案
を数の論理で自国優位に締結することに成功する。
この最終日に多数決によって締結される協定案は、そのまま西方
会議に参加する各国の施政方針に直結される事となっていた。
つまりキスレチン共和国は、旧キエメルテ共和国に端を発するキ
スレチン、クロスベニア、ホスヘルの参加国を糾合することで、同
1210
盟関係にあるクラリスとラインドルに対し優位性を示してみせたの
である。
もちろんクラリスの時の王であった先代のオラド国王とて、この
仕組みがキスレチンに明らかに優位となることは理解できていた。
しかしながら帝国からの圧力が日増しに増悪する中、彼はキスレチ
ンに対し表立って反抗することを選択肢とし取り得ていない。
こうして、キスレチンの西方会議支配が盤石なものとなり早十六
年。
参加各国にとって、まさに戦いとも呼ぶべき六度目の暑い夏が訪
れた。
﹁ラインドル王国はこの夏の時期にも関わらず、とてもお涼しいと
か。いやぁ、実に羨ましい話ですな﹂
やや後頭部が薄く恰幅の良い男性は、カイルに向かい笑みを浮か
べながら言葉を発する。
西方会議の始まりを記念して開かれる前夜祭と称されたパーティ
ー。
祝うための場という仮初めのお題目に彩られた空間では、既に各
国の代表団が笑顔と美辞麗句に紛れさせた言葉の槍で、お互いの腹
の中を探り合っていた。
そしてそれは、ラインドルを率いる立場にあるカイルも同様であ
る。
この場における最も若い国家代表者であるカイルは、その見た目
と違いほんの少しだけ年上のホスヘル公国コルドイン大公に強い興
1211
味を抱かれ、真っ先に声をかけられることとなっていた。
﹁大公殿、いや、そう言っていただけると恐縮です。確かにこの時
期は過ごし良いのですが、こと冬となると逆に貴国が羨ましく感じ
るところですよ。何しろ、雪がひどい日には、外を歩くことさえか
なわぬものですから﹂
﹁それはそれは。しかし、なかなかうまくいかぬものですな﹂
そう口にすると、腹の肉を震わせながらコルドインは体をゆする
ように笑った。
一方、そんな目の前の男を計りかねていたカイルは、会話の無難
な着地点を模索し、そしてそのまま口を開く。
﹁まったくですよ。その意味では、南寄りではありますが、このキ
スレチン共和国がちょうどいい位置なのかもしれませんね。極端に
寒すぎず、そこまで暑すぎはしないですから﹂
﹁おや、若い方お二人で我が国のお話ですかな?﹂
前方から突然発せられた声に、カイルとコルドインはすぐに視線
を移す。
するとそこには、髪を後ろに流した紳士的な壮年が立っていた。
﹁これはこれは、フェリアム殿。ご無沙汰いたしております﹂
﹁こちらこそ、久方ぶりですなコルドイン大公。最後にお会いした
のは、二年前だったでしょうか?﹂
﹁ええ、まだフェリアム殿が大統領で⋮⋮あ⋮⋮申し訳ありません﹂
明らかに失言だとコルドインは感じ、慌てて口をつぐむ。
しかし、当人であるフェリアムは軽く笑うと、あっさりと首を左
右に振った。
﹁いや、お気になさらずに。我が国では五年ごとに肩書は変わるも
の。もちろんそうとは限りませんが、予めそう認識して日々を過ご
1212
しております。ですので、元という肩書を持つ者は多いので、特に
気にならぬものですよ﹂
﹁そういえば、フェリアム様は確か前回の西方会議では内務大臣を
務めておられたのですよね?﹂
フェリアムは気にしていない素振りを見せていたものの、コルド
インの恐縮した表情を目にしたカイルは、敢えて少し話の方向性を
ずらす。
﹁ええ、そうです。前々大統領となりますが、プロンサム大統領の
下で、当時は内務大臣を務めておりました。確か大公はその頃⋮⋮﹂
﹁はい、大陸中央のトルメニアへと留学に出ておりました。つまり
私も、カイラ王と同じく西方会議には初参加というわけでして﹂
コルドインは片手で顎をしゃくりながら、苦笑交じりにそう口に
する。
しかしそんな彼の発言は、フェリアムによって否定されることと
なった。
﹁ああ、それは違いますな、コルドイン殿。カイラ王は実は二度目
のご参加ですよ﹂
﹁おや、しかし八年前となると⋮⋮﹂
﹁ええ、まだ私がこんな小さな頃のことですよ﹂
そう口にすると、カイルはわざと腰下くらいの高さに手を置いた。
当時十四歳であったカイルの身長がその程度のはずもなく、冗談
と理解したフェリアムはカイルの意図を理解し笑い声を上げる。
﹁はは、そんな子供でしたかな。私の目から見れば、アルミム王の
将来は明るいと感じる、実に聡明な王子であったことは覚えており
ますが﹂
﹁それは言いすぎですよ。パーティーで料理にばかり目が移ってい
た、ただのお腹をすかせた子供でした﹂
1213
既にこの地に来てから一度似た会話を行っていたものの、敢えて
カイルはなかったものとして、フェリアムの話題に応じる。
すると、そんな二人の会話を耳にしていたコルドインは、興味深
げにカイルへと話しかけてきた。
﹁ほほう、カイラ王にもそんな時代があったのですな。しかしお父
上であられるアルミム様は、まさに賢王であったと伺いますし、そ
の後をとなると気苦労も多いのではありませんか?﹂
﹁ええ。この歳になって、父の本当の姿がようやくわかった気がし
ますよ。そう思うと、前回こちらに足を運ばせて頂いた際の私は、
忙しい父に遊んでくれと駄々をこねる本当に悪い子供でした﹂
﹁はは、しかしお気持はわかりますよ。五年前に急に父が倒れて跡
を継いだ折は、私も右も左もわからぬ身でしたからな。その意味で
は、前王がご健在であることは心強いでしょう。そういえば、先日
アルミム前王を狙う不心得者がいらっしゃったとか?﹂
そろそろ頃合いかと考えていたコルドインは、ようやくカイルに
向かい最初の切り込みを行う。
だが既にそばに立っている男から一度試問を受け、今回も必ず誰
かから問われると予期されていたその質問に対し、カイルは堂々と
答える。
﹁よくご存知ですね。ですが、うちの頼りになる家臣たちが、父た
ちを無事救出してくれました﹂
﹁ほほう、それは良かった。しかし有能な家臣に恵まれるとは実に
羨ましいものですな﹂
﹁ええ、頼りになる家臣に恵まれて、どうにか日々をこなしており
ます﹂
カイラは恥ずかしそうに苦笑を浮かべながら返答する。
だがそんな彼に向かって、まったく予期せぬ人物が問いを放った。
1214
﹁頼りになるという家臣とは、そちらの護衛の方もその一員という
わけですかな?﹂
﹁こ、これは大統領﹂
最初にその存在に気がついたのは、コルドインであった。
途端、彼の声をきっかけとして、一堂の視線はこの会のまさに主
役であるトミエルへと注がれた。
﹁ああ、皆さん楽にしてください。ほら、そこのタヌキおやじのよ
うに、堂々としてくださったら結構です﹂
﹁違うと思うが、もしやタヌキおやじとは私のことかね?﹂
やや不服そうな表情を見せながら、この国の前大統領と現大統領
とは視線をぶつけあう。
一瞬、周囲に緊張が走ったが、先に折れたのはこの会のホストで
あるトミエルであった。
﹁さて、どうでしょうかな? ともかく、今日はこの地に来てくだ
さった皆様を労い歓迎することが、この会の趣旨。私を含め、我が
国の者達はこの日を楽しみに準備させて頂きました﹂
﹁いや、大統領にそう言われると、思わず恐縮してしまいますな﹂
コルドインは自国の置かれた立場をわきまえているが故に、すぐ
に追従を口にする。
だがトミエルはそんな彼に関心を払うことは無かった。
トミエルが興味を示し視線を向けた先はカイルの背後。
そこには一人の仮面姿の男性の姿が存在した。
﹁それで話は戻るのですが、そちらの仮面を付けられた方も、カイ
ラ王の護衛の方ですか?﹂
一度矛先をフェリアムが転じてくれたことで、僅かな油断がカイ
ルの中に存在していた。だがトミエルは、そんな彼の表情の弛緩を
1215
見逃すこと無く、再び自らの護衛に話を向ける。
だからこそ、カイルは一瞬返答が遅れた。
﹁え、ええ。そうですが、それが何か?﹂
﹁いや、今日は仮面舞踏会という趣旨でもなかったのに、どうして
も人目を引く格好をしておられましたので、思わず興味を抱きまし
てね﹂
カイルのほんの僅かな動揺を見落とすことがなかったトミエルは、
まだ若いなと言いたげな表情を浮かべつつ、更に一歩前へと踏み込
む。
しかしそのタイミングで、横合いから一人の男性の声が挟まれた。
﹁大統領。まあ、貴方の気持ちはわからんでもない。実は先日も私
はおなじ質問を彼にしたところでね﹂
﹁⋮⋮ほう、それで?﹂
一度詰めた間合いを引き剥がされたとトミエルは感じる。それ故、
彼は今にも舌打ちをしそうになったが、どうにか自制心でそれをこ
らえた。
一方、言葉を挟んだフェリアムは、既に彼とカイル達の接触を知
られているものとして会話を続ける。
﹁なんでも風習により、彼は人前では顔を表に出すことができない
ようだ。私も驚きはしたが、我々キスレチン人は自由の国の民だ。
なればこそ、そのような文化や思想を尊敬せねばならぬと学ばされ
た次第でね﹂
﹁ほう、風習⋮⋮ですか﹂
前大統領であるフェリアムが自由と尊重を前面に押し出したこと
で、トミエルは次の一手が打ちづらくなったと感じる。
すると、そのタイミングを見逃すことなく、カイルが口を開いた。
1216
﹁ええ、我がラインドルの極一部地域の風習でしてね。そのせいで
皆さんの前ではマスクを外すことができず、また大きな声で喋るこ
とも叶いませんこと、先にお詫びさせて頂きます﹂
カイルは間を取ってくれたフェリアムに感謝しつつ、予め打合せ
ていた言葉をトミエルへと告げる。
そうしてほんの僅かに場が停滞した。
そんな中、最初に会話の口火を切り直したのは、この場にいる最
も恰幅の良い男であった。
﹁しかし風習を尊重されるとは、いや、ラインドルもなかなかに自
由な気風を有しておられるのですな﹂
﹁コルドイン殿。ご存知かもしれませんが、元々我が国は小さな所
領を有する者同士が集まって、一つの国を形成した経緯がございま
す。ですので、それぞれの文化や思想の自由を尊重するのが、昔か
らの習いとなっておりまして﹂
カイルは自国の歴史を紐解きながら、敢えてキスレチンの愛好す
る自由という言葉を前面に押し出す。
すると、そんな彼の言葉を聞き終えたトミエルは、一つの問いを
口にした。
﹁なるほど、なるほど。しかしカイラ王、それだけでは貴方直属の
護衛は務まりますまい。きっとこの会に同行されるわけですから、
貴国の中でもその腕は有数であるのではないかとお見受けしますが、
いかがですかな?﹂
﹁え⋮⋮まあ、そうですね﹂
トミエルの問いかけの意図が見えなかったカイルは、曖昧な表情
を浮かべながら一度頷く。
すると、求めていた答えを得たトミエルは、嬉しそうな表情を浮
かべた。
1217
﹁ほう⋮⋮となりますと、彼にお願いするとしましょうか﹂
﹁お願い? 一体何のお話ですか?﹂
全く意図のつかめぬ会話の流れに、カイルは困惑を見せる。
途端、トミエルはわざとらしい笑みを見せながら説明不足を謝罪
してみせた。
﹁これはこれは、急に失礼致しました。いや、毎回西方会議では、
ちょうど会議の中日に、我々参加国の良好な関係を市民たちに目に
してもらうため、交流イベントを行わせて頂いております。前々回
は各国の各分野の知識人によるディベートを、そして前回は馬術比
べを行わせて頂きました。覚えていらっしゃいますか?﹂
﹁ええ、父とともに拝見させて頂きましたので﹂
トミエルの言葉を受けて、キスレチンの外れにあるコロセアムに
て障害馬術などと呼ばれる競技を目にした記憶を、カイルは脳の片
隅から引き寄せる。
残念ながら、土地柄からかラインドルは余り馬術が発展していな
い。
それ故、参加しなかったホスヘルを除く四カ国の中で最下位であ
ったこと、そしてキスレチンの軍人とその騎馬が優勝したことを彼
は思い出した。
一方、彼がそんな過去に思いを馳せている間に、トミエルは更な
る言葉をカイルに向かって紡ぐ。
﹁あの時は、ラインドル王国にとっては悔しい結果でした。ですが、
安心してください。今年は異なる競技で市民に向けてのデモンスト
レーションを行おうかと思っております﹂
﹁デモンストレーション⋮⋮ですか﹂
1218
カイルはここまでの話を踏まえ、目の前のトミエルは自らの護衛
を務める男を、何らかの理由で競技に参加させたいのだと理解した。
西方会議における中日の催し。
それはもはや恒例になりつつあるイベントであり、指定された競
技に各国から選ばれた代表が出場することから、まさに国力を誇示
する代理戦争と呼んでも差し支えない性質を帯びていた。
参加者には名誉と、そして著名な結果を示した者には更に開催国
であるキスレチンから褒美が与えられる。
このどう考えても政治的な要素を帯びた催しであるが、キスレチ
ンはあくまで親睦を兼ねたものであると主張していた。
しかし催しの内容が公表されるのは、これまで西方会議の初日で
ある。
その為、キスレチン以外の国は西方会議に帯同した限られた人員
から代表を選ばねばならぬ、著しく不利な条件であることは否めな
かった。
そしてそんな性質を帯びた代理戦争に、彼の背後の護衛をと求め
てくる事実。
その意図が読めなかったこともあり、カイルは警戒するとともに、
自然とその口数は少なくなる。
一方、彼のそんな緊張を感じ取ったのか、トミエルは敢えてさわ
やかな笑みを浮かべてみせた。
﹁ええ。いくつかの催しをさせて頂いたあと、最後にデモンストレ
ーションとして、ちょっとした模擬戦を二試合ほどさせていただこ
うかと思っております。古来より我が国のコロセアムは武を志すも
1219
のの殿堂であり、調度良いと思っておりましてね。まあホスヘルは
我が国から軍を出しておりますので、やむなく参加できませんが、
それ以外の四カ国に参加頂く形で﹂
﹁模擬戦か。それで我が国は誰を出すつもりなのだね、大統領?﹂
間を取らせるために、横から声を挟んだのはフェリアムであった。
トミエルは苛立ちこそ表には出さなかったものの、明らかに先程
より愛想少なく回答する。
﹁我が国からは、私の護衛を任せているウフェナを出させていただ
くつもりだ﹂
そう口にすると、トミエルは一度後方へ顔を向け、皆に向かって
彼を護衛する巨漢の男を示してみせる。そして逆にトミエルは、フ
ェリアムへと問いかけてみせた。
﹁あくまでデモンストレーション故、順位をつけるものではない。
だがどうせならば、私が最も信頼を置き護衛を任せている男を選出
しようと思ってね。で、君には異論があるかな?﹂
﹁⋮⋮いや、別に。この国の大統領は君だ。私には発言する権利が
ない﹂
そう言うなり、フェリアムは苦い表情を浮かべつつ口を閉じる。
それはトミエルの指定した男が、文句のつけようのない人物であっ
た為であった。
大統領官邸の警備主任であり護衛隊長も務めるウフェナ・バルデ
ス。
それは彼の国に於いて、最も勇猛果敢であり、そして獰猛と言っ
て良い軍人であった。
もともとキスレチンの国境警備隊は、民主改革運動との関係性が
近いとされている。それは国境近く出身の党員によって、同党の大
1220
半が占められていることにその理由があったが、中でもウフェナが
かつて所属していた帝国との国境警備隊は特にその色彩が強い。
ウフェナはそんな帝国との国境警備隊に所属する中で、その圧倒
的巨体を駆使した武勇から、とある朱い死神を除けば帝国軍に最も
恐れられる男の一人であった。
﹁フェリアム君、そんな卑屈にならなくてもいいじゃないか。君が
言ったばかりだろ。我が国は自由の国だ。誰しもに発言の自由があ
る。まあいい、それよりもだ。カイラ王、先ほどの件ですが、私も
最も信頼の置く護衛のウフェナを出しますので、是非貴国からは貴
方の信頼が厚いそちらの護衛の方を出してもらえますかな﹂
フェリアムに対し皮肉を向けた後、そのままトミエルはカイルに
向かい搦め手なしに直接的に一つの依頼を口にする。
途端、カイルはやや困った表情を浮かべた。
﹁え⋮⋮ですが﹂
﹁いや、先程も申しましたとおり、これはあくまで場を盛り上げる
ための模擬戦。そこに若きカイラ王が自らの護衛として強く信頼さ
れている仮面の貴公子を出場させるとなりましたら、観衆の期待も
膨らむというものですよ﹂
主催者であるキスレチンの大統領自らの依頼。
それが告げられた瞬間、明らかに場の空気は、カイルに対し一つ
の回答を促す流れとなりかけていた。
だが当然のことながらカイルは即答できず、後方へと向き直りマ
スクの男に向かい確認を行おうとしかける。
見方によっては、国家元首として違和感を覚えられかねない彼の
そんな行為は、騒ぎを聞きつけたとある一人の青年の声によって、
未然に防がれることとなった。
1221
﹁おやおや、いつの間にか各国の代表がお揃いで。何か面白い催し
もののお話ですか? ぜひ我が国も仲間に入れていただきたいもの
ですね﹂
爽やかでありながら、明らかに華のあるその声。
それを耳にした一同は、一斉にその声の主を追った。
すると彼らの視線の先には、赤い髪の護衛を連れた一人の金髪の
美青年の姿が存在していた。
西方会議のおけるクラリス王国の代表。
そう、先年クラリスの四大大公の一人となったエインス・フォン・
ラインその人であった。
1222
邂逅を望むもの
﹁おお、これはライン大公。楽しんで頂けておられますかな﹂
先ほどまで多くの花に囲まれていた青年をその視界に捉え、トミ
エルはすぐ表情に笑みを浮かべ直す。
そんな彼に向かい、エインスはやわらかな笑みを浮かべ返した。
﹁ええ、おかげさまで。キスレチンの女性はみなさん、実に美しく
ていらっしゃいますね﹂
﹁そうでしょう、そうでしょう。しかし大公、先ほどまで多くの女
性方に囲まれておられましたが、抜けだしてこられてよろしかった
のですかな? 貴方がいなくなると、皆がっかりしておるのではと
思いますが﹂
エインスに向かって視線を向ける後方の女性たちからの視線に気
づいたトミエルは、苦笑交じりにそう問いかける。
すると、エインスは人好きのする苦笑を浮かべ返した。
﹁いえ、彼女たちとはまた後程、ゆっくり時間を取らせて頂きます
から。それよりも、何やら面白いお話をされておられましたね。今
年の中日の催しは模擬戦とか?﹂
﹁え、ええ。それでラインドルのそちらの御仁に、参加頂けるよう
お願いしているところでしてね﹂
トミエルはそう口にすると、カイラの後方に立つ、マスクを付け
た金髪の男性を視線で指し示す。
エインスは何気ない様子でその視線を追い、この場に不釣り合い
なマスクの男性を目にして怪訝そうな表情を浮かべた。
しかしその場にカイラ王も同席していることから、あまりジロジ
1223
ロ見るとラインドル王国に対し失礼となると判断し、彼はその視線
をトミエルへと向け直す。そして改めて彼は、ゆっくりと口を開い
た。
﹁ふむ、しかし模擬戦ですか⋮⋮となれば、我が国も参加させて頂
くとしましょうか﹂
﹁⋮⋮それはもちろんお願いしたかったところです。それで、一体
どなたが参加されるのですかな?﹂
この話の流れはあまり好ましくないとトミエルは考えていた。
もちろんそれは彼が懸念するとある男が、模擬戦に参加すること
にある。
だからこそ彼は、エインスが女性たちに囲まれて近寄ってこない
タイミングを見計らってカイルへと接触し、後日他国の目のないと
ころで、クラリス王国とは調整を持つつもりであった。
しかし、そんなトミエルの考えなど与り知らぬエインスは、顎に
手を当てながら無造作に一つの問いを発する。
﹁そうですね⋮⋮一つ確認なのですが、キスレチンからはやはりそ
ちらのウフェナ・バルデス殿が出られるのですか?﹂
﹁ええ。今のところはその予定です⋮⋮それが何か?﹂
﹁いや、かねがね御武名は伺っておりますもので。しかしそうなる
と、我が国もウフェナ殿に失礼のない人物に出場頂かねばなりませ
んね。となれば、わざわざ私の護衛について来てくださった、陸軍
省のアレックス・ヒューズ次官に出場頂くとしましょうか﹂
その言葉はその空間にいるものに、それぞれの表情を浮かべさせ
た。
中でも、可能ならばこの事態を避けたいと考えていたトミエルは、
すぐにその発言を確認する。
1224
﹁あ、朱⋮⋮いえ、次官殿がご出場なされるのですか?﹂
﹁何か問題でも?﹂
首を傾げながらエインスがそう問い返すと、トミエルはすぐに首
を左右に振る。そして言葉を選びながら、遠回しに考え直すよう彼
は迫ろうとした。
﹁いえいえ、もちろん問題はございません。ですが、アレックス殿
は貴国の陸軍省の責任者でいらっしゃいます。万が一、模擬戦にて
何かが起こりましたら⋮⋮﹂
﹁万が一ですか。はは、それはご心配いりませんよ。構いませんよ
ね、アレックス先輩﹂
そう口にすると、エインスは後方の護衛へと視線を向ける。
視線を向けられた赤髪の男は、キツネ目を細めたまま、何の迷い
もなく首を縦に振った。
﹁ああ、もちろんさ。最近、みんなが気を使って相手してくれなく
なってしまってね。こんな機会は、まさに願ったり叶ったりという
ところかな﹂
そう口にすると、アレックスはニコリとした笑みを浮かべる。
一方、その発言を確認したエインスは、トミエルに向かい微笑み
かけた。
﹁と言われておりますので、我が国は次官を代表とさせていただき
ます。まあ、あくまで模擬戦とのことですから、事故など起こるこ
とはないと思いますが⋮⋮ともあれ、どうぞよろしくお願い致しま
すね﹂
﹁⋮⋮分かりました。それでは抽選係の方に、クラリスからの出場
者はアレックス次官だと伝えておきます﹂
﹁よろしくお願いいたします。僕としてはそうですね、できれば貴
1225
国のウフェナさんと手合わせさせて頂きたいですね。それが一番戦
いたい⋮⋮いや、一番楽しめそうですから﹂
アレックスは苦笑を浮かべながら、あえて自らの言葉を訂正する。
その場にいた一堂の中で、その真意を理解できたものはたった一
人だけであった。
そして当然、そんな訂正に気を留めることのなかったトミエルは、
敢えて念を押す様にアレックスへと言葉を向ける。
﹁次官には申し訳ありませんが、こればかりはくじによるものです
ので、お約束しかねまして⋮⋮﹂
﹁まあ、それはしかたないですね。それで、そちらのラインドル王
国は、結局どなたが出られることになるのですか?﹂
エインスとトミエルが会話を交わしている間に、マスクの男がカ
イルの耳元へ何かを告げ終えた事を視界の片隅に捉えていたアレッ
クスは、いつものような薄い笑みを浮かべながら、頃合いと見て話
を戻す。
すると、再び一堂の視線を集めたカイルは、ニコリと微笑みなが
らトミエルへと言葉を向けた。
﹁我が国からの代表のお話させていただく前に、一つトミエル大統
領にご相談があるのですがよろしいでしょうか?﹂
﹁ご相談? ⋮⋮伺いましょう﹂
完全にカイル達を意識の外に置いていたため、トミエルは余裕の
見えるカイラの表情からこの相談には何か狙いがあることを理解す
る。だがこの段階では拒否する理由もなく、彼は先を促した。
﹁確か例年、この中日に開かれる催しでは、活躍したものに対し何
らかの褒章が貴国から授与されることとなっております。それに関
1226
し、一つ要望がありまして⋮⋮実は褒美の代わりに、この会に参加
されておられぬとある方と二人きりでの面談をお願いしたいのです
が﹂
カイルの口から発せられた褒章に関する相談。
それを耳にした瞬間、トミエルの脳裏には一人の人物の顔が浮か
び上がった。
そう、この前夜祭に出席するはずだったにもかかわらず、体調不
良を口実として欠席した軍務大臣の顔を。
﹁⋮⋮ふむ、西方会議が始まればいずれお会いすることになります
でしょうが、確かに各国の代表団がいる中でお二人での会談の機会
は取りづらいでしょうな。分かりました。そちらの護衛の方が勝利
された暁には、面談を取り次ぐよう手配することをお約束します﹂
﹁本当ですか。いや、それは実にありがたいです﹂
﹁しかしカイラ王。基本的に我らからの褒章は個人に与えることが
慣習となっております。それを貴方が取り上げるようなことで、そ
ちらの護衛の方はご不満になりませんか?﹂
軍務大臣であり、そして統一宗教主義戦線の代表であるケティス・
エステハイム。
ある意味では大統領よりも多忙と噂される彼との個人的な面談は、
確かに調整に骨が折れることは事実である。だが西方会議の期間中
にカイルが強く望めば、さすがに二人だけとは行かぬまでも、面談
自体はそう難しい話ではない。
さらにカイルとケティスの面談は、ある意味個人の武勲を国家が
取り上げるに等しい提案であることから、民主主義を自国のお題目
として掲げるトミエルは僅かな懸念を示した。
﹁いや⋮⋮何やら勘違いをされておられるようですが、対談をする
1227
のは私ではありませんよ﹂
﹁え、となれば一体誰が⋮⋮もしやそちらの護衛の方がですか?﹂
カイルがラインドルの主権者として、軍事的もしくは宗教的な内
容に関する取引を求め、軍務大臣でありこの国の統一宗教主義戦線
の代表でもあるケティスとの面談を希望しているのだとトミエルは
考えていた。
それ故に、彼は思わぬカイルの回答に若干の驚きを見せる。
だがそんなトミエルに対し、カイルは敢えて首を傾げて見せなが
ら、重ねて問いなおした。
﹁はい、いけませんか?﹂
﹁いけないことはありませんが⋮⋮﹂
その時点でトミエルの脳内は、一介の護衛がなぜケティスとの面
談を望むのかという疑問と、はたまた一介の護衛をどのようにして
ケティスに紹介し面談の約束を取り付けるかという二つの事に、そ
の全ての思考が向けられていた。
そしてそれが故に、次にカイルの口から発せられた言葉に対し、
彼の反応は一歩遅れることとなる。
﹁それは良かった。いや、なかなかお会いできないと伺っておりま
したので、我が護衛であるアインも、少しはやる気が出ることでし
ょう。何しろかつての四大賢者が一人、フォックス・レオルガード
師との面談が叶うわけですから﹂
﹁な⋮⋮フォックス師ですと!?﹂
まったく予期せぬ人物名がカイルの口から発せられたことで、ト
ミエルは周囲に各国の要人の目があるにも関わらず、驚きの声を発
する。
1228
フォックス・レオルガード。
それはフィラメント魔法公国の前々代の魔法王や、現在は別名を
用いてとある国の士官学校に引きこもっている亡国の賢者とともに、
かつて大陸の四大賢者と呼ばれた一人の男の名であった。
﹁おや、大統領。いかがされました?﹂
﹁⋮⋮カイラ王。かの賢者と会うのが如何なることか、本当に貴方
は知っていらっしゃいますか?﹂
渋い表情を浮かべながら、トミエルは鋭い視線をカイルへと向け
る。
しかしカイルは小さく頷くとともに、その視線を真っ向から受け
止めた。
﹁ええ。もちろんですよ、大統領。だからこそ、西方会議の催しで
の勝者にふさわしい願いでしょう。普通なれば、他国の者相手にそ
うそう大統領も許可をくださらないでしょうから﹂
笑みすら浮かべながら、カイルはトミエルに向かってそう言い放
った。
一瞬の沈黙。
その間にトミエルは考える。
この場にいる周囲の目。そしてこのやりとりが西方会議全体に及
ぼす意味を。
﹁確認いたしますが、あくまで模擬戦で参加した記念ではなく勝利
した場合のみ⋮⋮それで構いませんね?﹂
トミエルが下した結論は、ウフェナに対する信頼を元に、この場
においては痛み分けとすることであった。
1229
つまり後に行われる公明正大とされる抽選。
それによってアインという名のラインドルの護衛とウフェナが戦
うことは既に決定事項である。
だからこそ、この場での交渉に関してはカイルに花を持たせ、そ
してウフェナという力によって、それを回収することを彼は選択し
た。
﹁もちろんです。いや、こうなれば抽選が非常に気になりますな。
そちらにおられるウフェナ殿や、朱のアレックス殿と当たらぬよう、
私個人としても彼のために祈っておきますよ﹂
﹁⋮⋮さて、どうなりますかな。こればかりはくじが選ぶものです
から。ともあれ、私は少し失礼させていただきます。まだクロスベ
ニア連合のシャドヴィ殿に挨拶が出来ておりませんので﹂
そう口にすると、トミエルはそそくさとその場を立ち去る。
それを契機として、フェリアムが、そしてコルドインが次々と別
の会話の輪に向かって歩み去っていった。
﹁さて、それでは私も女性たちを待たせていますので失礼します﹂
最後にその場に残っていたエインスは、カイルに向けて軽く頭を
下げると、待ちわびた表情を浮かべる女性たちの下へとゆっくり歩
み寄っていく。
だが彼の護衛である赤髪の男は、それとは逆向きに歩を進めた。
そう、カイルの脇をすり抜け、そして彼の護衛の男とすれ違う。
その瞬間、赤髪の男はマスクの男にしか聞こえぬ程度の声で、耳
元に小さく呟いた。
1230
﹁今夜、君のいる館の裏で﹂
1231
邂逅を望むもの︵後書き︶
1232
朱と黒
賑やかなる前夜祭も終わり、首都ミラニールの人々が寝息を立て
る頃合い。
かつてこの地の豪商であった旧コニーク邸の裏庭には、ゆっくり
と歩く人影が存在した。
﹁やあ、君が先に待ってくれているなんて珍しいね﹂
﹁はは、そうかな。まあ君よりは先にパーティを抜けだしたからね﹂
そう口にすると、仮面の男は苦笑を浮かべる。
そんな彼に向かい、明らかなる不法侵入者は堂々と不穏な事を口
にした。
﹁とりあえず、その暑苦しい格好は外したらどうだい? 君が人の
目を気にしなくて済むように、彼等の目はここに来るまでに全て潰
しておいたからさ﹂
﹁はぁ⋮⋮まったく君はやることがいつも過激だから﹂
カイラ国王の専属護衛であるアインは、目の前の赤髪の青年の言
葉に軽く肩をすくめる。そしてマスクを外した後に、頭に付けてい
た金髪のかつらも取り外した。
すると、見慣れた黒髪の男の姿がそこに現れ、アレックスは狐目
を一層細める。
﹁ふふ。しかしラインドルが借り上げたのが、まさかこの屋敷とは
ね。そうだと知っていたら、カインス君も連れてくるんだったよ﹂
﹁カインスも同行しているのかい?﹂
﹁まあね。保険として、彼ほど頼りになる人間はそういないだろ﹂
右の手のひらをくるりと上に向けながら、アレックスはそう口に
1233
する。
アインはその発言に対し、異論はないとばかりにゆっくりと頷い
た。
﹁確かにね。でも、ここに彼を連れてきても、あまり意味なかった
と思うよ。彼は生まれも育ちもカーリンなんだからさ﹂
﹁そっか⋮⋮確かにそうだったね﹂
アインの言葉を耳にしてなるほどと思うと、アレックスは顎に手
を当てる。
そんな彼の姿を目にしながら、アインはまだ告げていなかった言
葉を彼へと向けた。
﹁そうそう、クレイリーから話は聞いていたけど、どうやらエイン
スがライン家を継いだタイミングで、君も陸軍省次官へと昇進した
ようだね。遅くなったけど、おめでとう﹂
﹁ありがとう。まあ誰かの言い草ではないけど、要するに望まぬ昇
進というやつさ﹂
﹁望まぬ昇進?﹂
自分ならまだしも、アレックスの口から思わぬ言葉を耳にして、
アインは怪訝そうな表情を浮かべる。
するとそんなアインに対し、アレックスは両手を左右に広げてみ
せた。
﹁ああ。貴族院に連なる戦略省と陸軍省の両次官を追い出してしま
ったら、誰も成り手がいなくなってしまってね。僕達が少し軍内部
を脅しすぎたのが良くなかったのかもしれないけどさ﹂
﹁少しねぇ⋮⋮ともかく、君が陸軍省次官に、そしてアーマッド先
生が戦略省次官に就任したことはまあわかる。だけど、魔法省のス
クロート次官は本当にそのまま留任されたわけかい?﹂
﹁フェルナンドが最初に貴族院で切り崩したのが、あの御仁だから
1234
ね。残りのお二方ほど強固な貴族主義者でもないし、とりあえずは
席を預けているよ﹂
﹁何かあれば、すぐに斬り捨てればいいと?﹂
アレックスの不敵な笑みをその目にして、アインは彼の考えを洞
察する。
一方、彼のその言葉に対し、アレックスが反論することはなかっ
た。
﹁少なくとも、僕はそう考えている。他の人達は、もう少し穏やか
な考えを持っているだろうけどね﹂
﹁まあ、意見っていうのは色々あって当然さ。その辺りをうまくや
るのも、エライさんのお仕事だろうしさ。そう思わないかい、次官
殿﹂
意味ありげな笑みを浮かべながら、アインはアレックスに向かっ
てそう口にする。
﹁とりあえず否定はしないさ。でもこの立場になって、ようやく君
の気持ちが少しだけわかった気がするよ﹂
﹁どういうことだい?﹂
﹁本当に無駄な会議や書類が尽きなくてね。お陰で剣を振るう時間
に苦労しているのさ﹂
首を左右に振りながらアレックスがそう口にすると、アインは思
わず軽い笑い声を上げた。
﹁はは、だろう。偉くなるってことは、首に巻かれた綱がだんだん
と太くなることと同義なのさ﹂
﹁残念だけど、ちょっと否定材料は思いつかないかな﹂
﹁で、先ほど女性のお尻を追いかけている軍務大臣代理殿はお見か
けしたわけだけど、次官級扱いとなった三代目の親衛隊長殿は元気
にされているかい?﹂
1235
軍務大臣代理となった金髪の青年の後を受け、親衛隊長の職を担
うことになった銀髪の親友。
彼のことをアインが口にした途端、アレックスの目元はわずかに
緩んだ。
﹁ああ。まあ彼の気質は元々責任者に向いているからね。もっとも
少し責任感が強すぎるきらいがあるけどさ﹂
﹁はは、確かにね。上に立つ人間はほどほどでいるのも一つさ。そ
のほうが下がやりやすい﹂
アインは苦笑を浮かべながら、自らが実践してきた持論を口にす
る。
それが意図してであったかには議論の余地があると考えたものの、
アレックスは特に反論を述べようとはしなかった。
﹁それは昔からの君の持論だね。ともあれ、彼も国内のゴタゴタで
手が離せない状況でね。残念ながら今回はエリーゼ様共々お留守番
さ。でも良かったね。ここに来たのが僕じゃなく彼なら、たぶん朝
まで説教されているはずさ﹂
﹁はは、ありえる話だね。君であったことを感謝しているよ﹂
﹁で、君がラインドルに付いているということは、ブラウ公を北に
張り付けさせてくれたのは君の仕業だったというわけだね﹂
﹁まあね、否定はしないよ﹂
アレックスの指摘に対し、アインは軽く肩をすくめる。
﹁ようやく納得がいったよ。あのラインドルの軍事訓練の意図が、
どうにも理解できていなかったからね。その上で尋ねるけど、君は
今回どうして西方会議に?﹂
アインの発言に一つ頷きながら、アレックスは問いたかった本題
を目の前の男にぶつける。
すると黒髪の男は、頭を掻きながらあっさりとした回答を口にし
1236
た。
﹁軒を借りてる家主にさ、どうしても付いて来てくれって頼まれた
からかな﹂
﹁⋮⋮本当にそれだけかい? 君があんな暑苦しい格好までしてさ﹂
目の前の男が極端なめんどくさがり屋で、不必要な努力を好まぬ
ことは、その長い付き合いからアレックスは骨身にしみて理解して
いる。そしてだからこそ、わざわざ変装までしてアインが出席して
いることに、アレックスは違和感を覚えていた。
﹁いや、もちろんそれ以外にも、一人だけこの目で見ておきたい人
物がいたからさ。しかし、アレックス。刀も身につけず、かつらだ
けではなく顔まで隠していたというのに、よく私だってわかったね﹂
﹁そりゃあわかるさ。身長や覗いている口元の形が似ているし、そ
れ以上に歩くときの重心移動の癖が君以外ではあり得なかったから
ね﹂
普通の人物が口にしたなら笑い飛ばしてしまいたくなりそうなそ
の理由。
だがアインは一切笑うことはなく、逆に真剣な表情でアレックス
へと問いかけた。
﹁そんなに特徴的かい? 歩く時に限らないけど、重心を意識する
ようかつて散々母親には指導されたんだけどね﹂
﹁いや、決して悪いわけじゃないんだ。ただほんのわずかだけ、右
足が前に出るときに限り、重心移動が普通より早い。正中に重心を
置くよう、たぶん矯正された時の僅かな名残なんだろうね。で、普
通の人間にそんな指導は不要。というか、さすが剣の巫女と言うべ
きなのだろうけどね﹂
﹁はぁ⋮⋮まったく。やっぱり君にはかなわないな﹂
アレックスの指摘を受け、アインは頭を掻きながら大きな溜め息
1237
を吐き出す。
そんな彼の反応に、思わず右の口角を吊り上げると、アレックス
は一つの問いを口にした。
﹁それで、君は一体誰に会いに来たんだい? やはりフォックス師
かい?﹂
﹁いや、違う。もちろんチャンスと感じたからあの場では交渉材料
に引き出したけど、私の本命はあくまでこの国の軍務大臣殿さ﹂
﹁なるほど。つまりケティス氏というわけか⋮⋮﹂
ケティス・エステハイム。
その名はキスレチンの危険な政治家の一人としてアレックスの耳
にも当然入っていた。だからこそアインの発言に対し、アレックス
は納得とともにわずかに表情を曇らせる。
﹁ああ、その通り。統一宗教主義戦線の当主にして、この国の軍務
大臣殿さ﹂
アレックスの表情を目にしたアインは、クラリス王国の情報収集
を担う戦略省戦略局がきちんと機能していることを見て取り、確認
するようにそう告げる。
すると、アレックスは彼の予想を上回る言葉を口にした。
﹁これは僕の仮説だけどね、もしかしてミラホフ家のウイッラ君と
近い者じゃないかな? キスレチンのケティス氏はさ﹂
このアレックスの問いかけは、完全にアインの予想を上回ってい
た。
もちろん彼とて、士官学校時代からの付き合いであり、アレック
スの能力が銀髪の親友と並び極めて高い水準であることは理解して
いる。しかしながら、極断片的な情報で自らやクレハ達の考えに至
るとは、さすがにアインも思ってはいなかった。
1238
一方、珍しくアインが虚を突かれた表情を浮かべたが故に、アレ
ックスは自らの問いかけが正鵠を射たことを理解する。
﹁ふふ、君でも顔に出るんだね﹂
﹁⋮⋮アレックス、どうしてそう考えたんだい?﹂
﹁君がわざわざリスクを犯して表に出てきたということが半分。そ
れとあと半分は、正直言ってカマをかけてみただけさ。外れたら勘
違いだと笑えばいいだけだからね﹂
﹁はぁ⋮⋮そういえば、君は直接彼を目にしたわけだからね。感づ
いたとしても不思議ではないか﹂
アインはそう口にすると、あの時その場にいた者の顔を脳裏に浮
かべた。そしてその中で、今は近くにいない赤髪の魔法士にも注意
が必要だと改めて考えなおす。
そんな風にアインが険しい表情を浮かべるのを目にしたアレック
スは、目の前の親友に向かい人差し指を一本立てながら、ゆっくり
と口を開いた。
﹁ひとつだけ君に言っておくよ。さすがに今回は、表立って君のた
めに動くことはできない。だから、もし僕の力が必要となるならば、
十分なお膳立てをしてくれるかな﹂
﹁君はあくまでクラリスの代表団の一人だからね。うん、わかって
いるよ。君がこの地に来てくれた事自体、十分すぎるほど幸運な話
だからね。第一、もとよりそんなに無理はするつもりはないさ﹂
アレックスに向かって苦笑を浮かべながら、アインは自らの立ち
位置を告げる。
すると、アレックスはその表情を緩めた。
﹁ふふ、ならいい。そうと分かれば、お互いこの会議と言う名の舞
踏会を楽しむとしよう﹂
1239
﹁おや? 君が楽しみなのは模擬戦だけだろう﹂
﹁もちろん否定はしないよ。でもね、一番戦いたい目の前の人物と
も、そして一番楽しめそうなキスレチンのウフェナ君とも剣を交え
ることができなそうだからさ。正直言って、ちょっと不満なんだよ。
どうしてエキシビジョンの一試合ずつだけで、トーナメント形式で
はないのかな﹂
﹁そりゃあ、君に潰されたくなかったんだろうさ。彼等自慢のウフ
ェナ君をね﹂
試合相手の抽選に何らかの細工がなされることを前提としたアレ
ックスの発言に対し、アインはそのことを認めつつもその理由を端
的に口にした。
アレックスはそのアインの発言に対し、小さな溜め息を吐き出す
と、一度表情を整えなおす。
﹁まあ仕方がないか⋮⋮ともかく、いつもの刀は使わずその腰に下
げたものでやるつもりなら、十分に注意することだね﹂
﹁わかっている。で、その上で、君に少し頼みがあるんだけどさ﹂
﹁なんだい? 先に彼を潰しておいて欲しいとかかい?﹂
まったく表情一つ変えること無く、アレックスはさらりと危険な
発言を口にする。
一方、そんな発言にもかかわらず、彼らしいと思ったアインは、
思わず笑い声を上げた。
﹁はは、それはどちらかと言うと、君の願望だろ。ともあれ、そん
な過激なことは頼まないさ。私がお願いしたいというのは、少しリ
ハビリを手伝って欲しいっていうだけでね﹂
そのアインの言葉を耳にした瞬間、アレックスはいつも以上に目
を細めると、眼前の男の表情を慎重に窺う。
﹁⋮⋮おやおや。さて、どういう風の吹き回しだい?﹂
1240
﹁残念ながら、一年ほど研究屋になっていたものでね。正直なとこ
ろ、少し実戦感覚が鈍っているのさ﹂
﹁なるほど。ふふ、いいよ、君が求めるなら、願ったりかなったり
さ。ただ残念なことは、君の得物がアレじゃないってことだけど﹂
アインの腰元に視線を落としたアレックスは、そこにあるべきも
のがないこと、そして一本の細身のレイピアが代わりにささってい
ることを心底残念がる。
﹁アレを使ったらさすがに目立つからね。だからこそ、君の手を借
りたいわけさ﹂
﹁まあ仕方ないか。それに君がアレを手にしてたら、実戦を離れて
いるとか関係なく、とても加減なんてできそうにはないし⋮⋮ね!﹂
そう口にした瞬間、アレックスは一瞬で間合いを詰めると自らの
剣を一閃させた。
だが、その長い付き合いの経験上、最初からその可能性を予期し
ていたアインは間一髪で一歩飛び下がる。
そしてアレックスの剣は虚しく空を切った。
﹁おいおい、今すぐとは言っていないだろ。それにリハビリなんだ
から、もう少し私に合わせてくれ﹂
﹁ちょうど監視者たちの目を潰して来たんだ、今が絶好の機会さ。
それに手加減は多少心がけてみるけど、正直言って僕は十二年ぶり
のこの機会を逃すつもりはないよ﹂
﹁まったく⋮⋮これじゃあどっちが希望したのかわからないな﹂
アインはそう口にするとともに、アレックスの間合いに入り込み、
レイピアの突きを放つ。
しかし一撃目を回避されたことで、動揺無く直ぐ反撃が来ること
は、アレックスとて想定済みであった。
1241
彼は自らの剣でレイピアを弾くと、もう一度アインに向かい距離
を詰めようとする。
だがそんな彼を待っていたのは、アインの予期せぬ一撃だった。
全く予想外の一撃を、ギリギリ眼前でやり過ごしたアレックスは、
改めて一度間合いを取り直す。
﹁⋮⋮そうか。君には刀が無くてもそれがあったよね。ふふ、実戦
不足か。欠片もそうは思わないけど、こうなれば僕のためにも、こ
こからは少し本気で遊ばせてもらうよ、ユイ﹂
1242
朱と黒︵後書き︶
作中で主人公が今後使用する日本刀を、現代刀の刀匠に依頼し実際
に制作する事が決まりました。
完成まで1年前後かかると思いますが、もしご興味のある方は活動
報告もしくはツイッターを覗いて頂ければ幸いです。
それでは今後共やる気なしをよろしくお願いいたします。
1243
朱の実力
キスレチン共和国の北地区に存在するコロセウム。
かつては見世物として、奴隷と虎との戦いや、奴隷同士の戦いな
どが連日のように開かれていたこの円形闘技場は、例年にない熱気
に包まれていた。
この日のために、キスレチン政府は西方で最も有名な雑技団であ
るプレッセオサーカスを招きその華やかなる技の数々を、そして大
陸中央の魔法技団であるカラトリアル魔技士を招き、空に華々しい
魔法花火を打ち上げていた。
だが、観客のお目当ては彼らではなかった。
この国の代表であり、そして英傑と名高いウフェナ・バルデス。
彼の戦いをその目にするため、民衆はこの地へと押し寄せたので
ある。
ただ一点だけ、観衆にとっては残念な発表が行われた。
それは大陸西方で最強と噂される隣国の陸軍次官の鼻っ面を、我
らが英傑であるウフェナが叩き潰すのをその目にすることができな
いということである。
つまり公明正大な抽選の結果、ウフェナの対戦相手は何処の馬の
骨かわからぬラインドルの田舎者となったのであった。
この悲しむべき事実が発表された瞬間、出場者の控え場所を兼ね
たコロシアム内の入場通路まで届く激しいブーイングが、会場内の
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至る所から発せられた。
﹁ふふ。どうやらお互い歓迎されていないようだね、仮面のお兄さ
ん﹂
鳴り止まぬブーイングの最中、まるで透き通るかのように耳へと
届いたその声。
アインはゆっくりと後方へ視線を移すと、そこに褐色の肌を有す
る一人の女性が立っていることに気づいた。
﹁あんたと同じ今回の模擬戦での嫌われ者、クロスベニアのサマン
サ・ミルハさ﹂
両腕や腰に付けた円形の金属輪をカチャカチャと鳴らしながら、
サマンサと名乗る女性はアインのもとに歩み寄るとゆっくりと右手
を差し出す。
だがアインはそんな彼女に向かい、マスクから露出している口元
をほんの少しだけ歪ませることで、返答代わりとした。
﹁つれないねぇ⋮⋮まあ無感情なお人形さんではなさそうだから、
それがわかっただけでもよしとするか。いずれにせよ、お互い本命
の餌扱いされてる身だ。気楽にやろうや﹂
サマンサはカラカラと笑いながら、きっぷの良い口調でそう口に
する。
そして特に気にした素振りを見せることなく、アインの前で一度
軽く伸びをし、そのまま愛用の大型な円形武器を握りしめ直した。
﹁じゃあ、お先に行ってくるよ、仮面のお兄さん。本命さんを引っ
掻き回して盛り上げてくるつもりなんで、後でやりづらいなんて苦
情を言わないでくれよ﹂
そう口にすると、サマンサは軽く腕をあげ、そのまま入場口をく
ぐる。
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すると、先ほどのブーイングは一変する。
それは遠目で見てもわかるほどの妖艶な美女が、見慣れぬ武器を
片手に出場してきたためであり、そして明らかに危険な香りを漂わ
せる赤毛の剣士が姿を現したためであった。
﹁ふむ、君がクロスベニアの代表かな?﹂
ほぼ同時に、対側の入場口から会場内へと姿を現した赤髪の男。
彼は細い目をサマンサへと向けると、そう問かける。
﹁ああ。あたしがクロスベニア代表のサマンサさ。相手がウフェナ
でなく、しかも女だから不満かい?﹂
﹁いや、そんなことはないさ。残念ながら、怒らせると怖い女性を
何人も知っているものでね﹂
赤髪の男はそう口にすると、両手を左右に開く。
そんな男性の仕草を目にしたサマンサは、不敵な笑みを浮かべな
がら軽く舌打ちした。
﹁ちっ、残念だな。あたしとしては、女だからって、油断してくれ
てよかったんだが⋮⋮まあ朱のアレックスにそんな期待は無意味か﹂
﹁戦う相手には、いつだって敬意を失うつもりはありませんよ。も
ちろん貴方が本気で挑んでくるならばですが﹂
﹁まさに戦闘狂らしい言葉だね。確か今ではクラリスの陸軍省次官
様と聞くけど、どうやら噂通りで安心したよ﹂
アレックスの内側から漏れだすまるで冷気の如き底冷えする殺意。
それを真正面から感じ取りながらも、サマンサは軽口を叩くとと
もに右の口角を吊り上げてみせた。
一方、そんな彼女の言葉を耳にしたアレックスは、軽く溜め息を
吐き出すとともに苦笑を浮かべる。
﹁次官⋮⋮ですか。いえ、順序が逆なんですよ。剣士である僕が、
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たまたま次官をやっているだけ。つまりはそういうことです﹂
﹁はは、まあその言い分はなんとなくわかるよ。あんた、頭がどこ
かおかしいそうだし﹂
﹁頭がおかしい? ふふ、それも結構。あとはこいつを通してわか
りあうとしましょう。お客さんたちも待ちきれないようですしね﹂
そう口にすると、ゆっくりとアレックスは鞘から自らの剣を抜く。
全く隙のないその構え。
それを目にして、思わずサマンサは息を呑んだ。
﹁なるほど⋮⋮朱の死神。大抵は噂ってのは大げさに伝わるものだ
けど、嘘偽りなしってところか。はっ、面白い﹂
サマンサは背中に冷たい汗が一滴流れるのを自覚した。
だが無頼を是とする自らの生き方と誇りに賭けて、彼女は恐れと
いう感情を思い切り笑い飛ばす。そして内部に取っ手の着いた円形
武器を握り締めると、一気にアレックス目掛けて駆け出した。
﹁ふむ⋮⋮接近戦用の巨大チャクラムですか﹂
通常は投擲して使用される全周が刃となった円形武器。
だが、サマンサのそれは、通常のものより二回り以上大きく、内
部に取っ手が付けられ、接近戦様にカスタマイズされていた。
﹁剣を極めたと名高い朱であっても、武器の形状は変えようがない。
さて、こいつより小回りの利かないその剣で、あたしの連撃をさば
ききれるかね!﹂
アレックスの懐に飛び込むかのようにサマンサは接近すると、迷
うこと無く右手を一閃する。
だがそんな彼女の初撃を前にし、アレックスは軽く右の口角を吊
り上げた。
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﹁うん、速い。実に素晴らしいね﹂
アレックスはサマンサの一撃が放たれるまさにそのタイミングで、
ほんの半歩だけ後ろに下がる。
そしてまさにその次の瞬間、彼女の一撃は彼のまさに眼前ぎりぎ
りの距離で空を切った。
﹁な⋮⋮嘘だろ。まだ一撃目だよ。なのに、完璧にこいつの間合い
を把握したってのかい﹂
彼女の驚愕。
それは初撃にも関わらず、完璧に見きられた上で、余裕を持って
自らの攻撃を躱されたことである。
普通ならば、余裕を持って大きく下がるか、手にしている剣で受
け止めるべき状況であった。もちろん朱い死神がその行動に出る事
を踏まえ、サマンサは返しとなる二撃目を振るう心づもりをしてい
たのである。
しかしながら、完全に前方に重心を残されたまま紙一重の距離で
躱されたことにより、逆撃を警戒して大きく飛び下がる羽目になっ
たのは彼女であった。
﹁君の体格、重心の動かし方、そして手にしたチャクラムの形状と
サイズ。その軌道や動きを予測するには、十分な時間があったから
ね﹂
﹁十分って⋮⋮はは、なるほど。あんたはやっぱり噂通りの化け物
だ。だけど、化け物が相手だからって負けなきゃいけないなんて決
まりはないんでね!﹂
そう口にした瞬間、サマンサは自らの右耳に左手を動かす。そし
て耳たぶに付けられていた円形のイヤリングを手にすると、そのま
まアレックスの間合いへと飛び込んだ。
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﹁こいつなら!﹂
サマンサは右手の巨大チャクラムをアレックスへ叩きつけるタイ
ミングで、ほぼ同時に右耳に付けていた大きなイヤリング形状の小
型チャクラムを左手で投擲する。
﹁これは⋮⋮面白いね﹂
巨大チャクラムの斬撃はともかく、近距離での投擲攻撃はアレッ
クスの予想に存在しなかった。
それ故に、彼は斬撃を大きく後ろに飛び退りながら回避するとと
もに、自らの剣で投擲されたチャクラムを叩き落とす。
しかしその瞬間、彼は間髪入れずに眼前からさらに三枚のチャク
ラムが自ら目掛けて投擲されたことに気がつく。
﹁なるほど、指の間に挟んでの同時投擲ですか﹂
剣を振るった直後であったこと、そして予期せぬ追撃であったこ
と。
それらが重なったが故に、アレックスは剣で防ぐことを諦めると、
半身になりながら側方へ飛ぶ。
そして次の瞬間、観客席から悲鳴が上がった。
﹁ちっ、かわされたか﹂
﹁実にユニークな攻撃ですね。接近戦の中で、身につけていた武器
を投擲するという考えが素晴らしい。ですが、一つお尋ねします。
私の後方にいる観客の皆さんに被害が及んでしまいますが、本当に
よろしいのですか?﹂
やや困った表情を浮かべながら、アレックスはそう問いかける。
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彼等が戦っている舞台は周囲の観客席よりやや低く掘り下げられ
ている。
だが、客席と舞台との距離が遠くならないよう、そこまで周囲の
壁は高くはなかった。つまりサマンサの小型チャクラムの軌道がそ
れれば、簡単に客席に飛び込む事となる。
﹁はは。さっきのは、ちゃんと角度をつけてぎりぎり観客に当たら
ないように投げたさ。ただし、次からあんたがかわした場合、不幸
な観客が出てしまうかもしれないね﹂
﹁ほう⋮⋮脅しですか。僕にそんなものが役に立つと?﹂
﹁さあ、それは知らない。何しろ対峙しているのは、悪魔とか死神
とか言われている人間だからね。だけどあんたを含め、正規の軍人
さんってのは良い格好をしたがるものだろ﹂
それは極めて感情を抑制した言葉ではあった。
だが彼女の眼差しは、アレックスに向かいその内心を余す事無く
伝える。
﹁ふむ、どうやら正規の軍人がお嫌いのようですね⋮⋮しかしおか
しいですね。貴方は軍の人間ではないのですか? この模擬戦の代
表は、各国の軍人という決まりだったはずですが﹂
﹁はは、昨日付けで明日まではあたしは軍人さ。二度と軍には所属
しない約束でね﹂
﹁なるほど、ルールの隙間ですか。しかし軍人嫌いが軍人にさせら
れるとは皮肉なものですね﹂
﹁だから嫌いなんだよ。軍人とか、お偉いさんとかっていうやつは
ね。表向きは格好をつけながら、やましい事は全て裏でやり、挙句
の果てに他人に責任を押し付ける﹂
﹁まあ、あまり否定材料はありませんが、だからといって無関係な
市民を巻き込む理由にはなりませんよ﹂
アレックスの口調はまったくもって平静であった。
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その全く動じる気配のない様相に、サマンサは僅かないらだちを
覚えつつ、言葉を吐き捨てる。
﹁人の生死を愉悦混じりに観戦しに来ている連中だ。多少痛い目を
みたところで、自業自得ってやつさ﹂
﹁ふむ、そう言われてみればそんな気がしてくるから不思議なもの
ですね。ですがまあ、さしあたって問題ないか﹂
﹁問題がない? 何の事だい?﹂
﹁いえ、どうせ被害なんて出ませんから。貴方が観客ではなく、あ
くまで私を狙う限りは﹂
﹁⋮⋮さっきは飛んでかわしたくせに、いい度胸じゃないか。なら、
せいぜい自分の口にしたことの責任は取りなよ!﹂
そう口にするなり、サマンサは巨大チャクラムを地面に放り投げ
ると、腰に備え付けたチャクラムを左右の指の間に収める。そして
彼女は右、左と四枚ずつをアレックス目掛けて順に投擲した。
先ほどは一枚と三枚の連撃。しかし今回はその倍に等しい枚数で
あった。
アレックスの後方に当たる観客席で見守っていた市民たちは、チ
ャクラムが飛んで来る可能性を危惧して慌てて逃げ出す。
一方、そんな動揺著しい客席と異なり、八枚の小型チャクラムを
向けられた当人は、まったくもって涼しい顔をしていた。
もちろんアレックスとて、自らに迫り来る八枚のチャクラムの軌
跡を見切り、自分が回避すればその内の少なくとも二枚が、本当に
観客席へと飛び込むことを予期している。
しかしながら、そんな想定は彼にとってまさに無意味なものでも
あった。
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何故ならば、全てのチャクラムはあくまで観客を狙って投げられ
たものではなく、自らへと向けられたものである。
つまり彼にしてみれば、極めて簡単な対処を取りさえすれば、全
ての問題が解決することを意味していた。
そう、ただ剣を二閃して、たった八つのチャクラムを迎撃すると
いう、簡単な対処で。
﹁八度に分けて投げ分けたわけじゃないから、軌道はほぼ同じ⋮⋮
か。少し期待した分だけ、これじゃあ肩すかしですかね﹂
全くなんでもないことのように、アレックスは自らの剣を一閃さ
せ、サマンサの右手から放たれた最初の四枚をなぎ払う。そして返
す刀で残りの四枚を振り払った。
そして次の瞬間、かつてチャクラムであった十六枚の半円状のゴ
ミが、地面へと突き刺さっていった。
﹁ば、馬鹿な⋮⋮四枚ずつを同時に、しかも完全に均等に裁断する
なんて⋮⋮ありえない﹂
﹁有り得なくはないですよ。こんなものはただの大道芸のようなも
のです。貴方のその投擲と同じでね﹂
﹁あたしのチャクラムが大道芸だって!﹂
アレックスの発言を耳にしたサマンサは、侮辱されたと感じ顔を
真っ赤にする。
しかしその怒気を向けられても、アレックスはただ苦笑するばか
りであった。
﹁ええ。先ほどプレッセオサーカスの方々が、様々な技巧を披露さ
れていましたよね。僕は雑技などというものには疎いですが、こん
な見せかけだけの投擲はただの雑技だ。正直言って、戦場では使い
物になりませんよ。にも関わらず貴方を急遽軍人に仕立てあげたと
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いうことは、クロスベニアもどうやら人材不足のようですね﹂
﹁ば、馬鹿にするな! あたしのこの技は、軍の誰も防げなかった
んだ﹂
﹁いえ、貴方のところの軍を基準にされても困ります。少なくとも、
同じく人材不足に悩む我が国であっても、こんな雑技を簡単に防げ
る人間はあと二人⋮⋮今は一人ですが、他にもいますから﹂
﹁畜生、ふざけやがって!﹂
そう叫んだ瞬間、サマンサは腕に備え付けていたチャクラムを迷
うことなく手にし、そして全力で投擲した。
﹁ふむ、もうお隠しになられている芸はなさそうですね。では、面
白いものを見せてもらったお礼に、僕も一つ芸をお見せするとしま
しょう﹂
迫り来るチャクラムを前にしながら、アレックスは全く動じる様
子を見せずそう言い放つ。そしてそのまま先ほどとはわずかに異な
る軌道で剣を一閃させ、強引にその軌道を空へと向けた。
その光景は、まさにサマンサにとっては悪夢に等しいものであっ
た。
一度、二度、三度⋮⋮彼女が次々と投げはなったチャクラムのそ
の全ては、眼前の涼しい顔をしたバケモノにより、ほぼ同じように
次々と頭上に向かって打ち上げられていったのである。
﹁おや⋮⋮もう、全て投げ切ってしまわれましたか?﹂
アレックスはそう口にすると、不敵に笑う。
一方、全てのチャクラムを使い果たしたサマンサは、目の前で起
こったあり得ぬ出来事に、その口元を震わせずにはいられなかった。
﹁そ、そんな⋮⋮ありえない⋮⋮﹂
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﹁はは、驚いて頂けたようで何よりです。ですが、今のだけではた
だの剣撃。というわけで、そろそろ頃合いですね﹂
そう言葉を口にするなり、アレックスは自らの剣をまっすぐ天に
向かって突き立てる。
すると次の瞬間、先ほど天へと打ち上げたチャクラムが落下して
きた。
それもまるで輪投げのピンを狙うかのように、次々と彼の剣に収
まる形で。
途端、これまで固唾を呑んで二人の動向を見守っていた観客席の
民衆たちは、異常なる朱い死神のその技量に対し驚愕と感嘆のあま
り完全に静まり返ってしまった。
﹁おかしいですね。てっきり皆さん喜んで盛り上がってくれるもの
だと思っていましたが⋮⋮﹂
﹁はは⋮⋮あたしにはわかるよ。客達の気持ちが。あたしのチャク
ラムが大道芸なら、あんたのはただの悪魔の技さ。あまりに規格外
過ぎて、笑うことさえ出来ないんだよ﹂
﹁そうですか。ふむ、士官学校時代の友人達に、ユーモアのセンス
がないとは言われたことがありますが⋮⋮やはり人にお見せする芸
というものはなかなかに難しいものですね﹂
そう口にすると、剣を軽く振るってチャクラムを地面に捨て、そ
のままアレックスは一度大きな溜め息を吐き出した。
﹁どんな連中か知らないが、あんたの友人達に同情するよ。だけど、
ここまでコケにされて、あたしとしてもただ引き下がるわけに︱︱﹂
﹁ああ、ちょっと今は動かれないほうがいいですよ﹂
自らの誇りにかけて、アレックスに向かい飛びかかろうとしたま
さにその刹那、突然アレックスの口から制止の声が放たれた。
そして次の瞬間、空より高速で落下してきた物体が、サマンサの
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鼻先をかすめると、地面へと突き刺さる。
サマンサは表情を引き攣らせながら、そっと左手の人差し指で鼻
先を撫でる。そこにはほんの僅かだけ、赤い液体がにじんでいた。
﹁ふむ、当たってしまいましたか。ぎりぎり当たらないよう狙った
つもりだったんですがね。まあ、貴方の挙動を全て読めなかったの
が反省点といったところでしょうか。もし僕の友人ならば、相手の
行動を読むんじゃなく、上手く誘導させるべきだとでも言ってくる
ところでしょうね﹂
アレックスは一つだけ別軌道に打ち上げていたチャクラムの落下
をその目にして、残念そうにそう口にする。
その彼の言動を耳にしたサマンサには、もはや一歩たりと、眼前
の赤い髪の死神に向かって前へ踏み出す勇気が残されていなかった。
﹁格が⋮⋮いや、あまりに次元が違いすぎる。認めるよ、このあた
しの負けさ﹂
血なまぐさい死闘が期待されていた模擬戦。
その第一試合目は、こうしてただ鼻頭にかすり傷一つが生まれる
だけで決着を見ることとなった。
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仮面の下に秘めたるもの
﹁まさにバケモノだな。君の差配は正しかったというわけだ、ファ
ッテソン農商大臣﹂
一般の観客席よりも一段高い位置に設営された特別席の片隅。
先ほどの戦いを目にした各国の代表団が驚愕の表情を浮かべるな
かで、圧倒的な力の差を予期していたキスレチンの外務大臣である
ハムゼは、くじの細工を行った農商大臣のファッテソンを小声で賞
賛する。
﹁いえ、もちろんウフェナ君の名前に傷がついてはいけないとは思
っていましたが、さすがにここまでとは⋮⋮﹂
﹁ああ⋮⋮ただ惜しいことに、いくら個人として強かろうと戦いは
数だ。彼がクラリスの陸軍を率いたとして、皆が彼のように戦える
わけではない﹂
﹁それはそうですが⋮⋮﹂
確かにハムゼの口にしていることは正論である。
だがそれでもなお、圧倒的な技量差を目にして、ファッテソンは
素直に頷くことができなかった。
一方、そんな彼の動揺を見て取ったハムゼは、軽く彼の肩に手を
置く。
﹁まあ、落ち着き給え。我が軍を糾合すれば、クラリス軍など勝負
にもならん。それに極論すれば、クラリスと戦わなければ彼と戦う
ことなど考える必要はない。その点は我ら外務省に任せてもらおう﹂
﹁⋮⋮確かに。我が国の力を以てすれば、如何にバケモノが一人い
たとして、問題はないですな﹂
圧倒的な国力差がある事を思い出し、どうにか気持ちを落ち着け
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たファッテソンは、そこで一度大きく深呼吸する。そして改めて、
彼は頭のなかの思考を切り替えた。
﹁ところでハムゼ外相。ラインドルの代表である例の仮面の男の身
元はわかりましたかな?﹂
﹁⋮⋮その問いかけをしてくるということは、第一情報部の方でも
まだ洗えていないというわけですな﹂
ハムゼのその言葉と表情。
それはファッテソンに対し、ひとつの回答を暗に示していた。
つまり第二情報部を率いるハムゼも、未だアインという名の仮面
の男を洗えていないという事実を。
それ故に彼等は、通常ではあり得ぬやりとりを行うことをほぼ同
時に決意する。
﹁ええ。どうやらラインドルの王立大学に、同姓同名の他国出身の
研究者が存在するところまでは判明しました﹂
﹁研究者? それはうちでも把握していない情報だな。うちの部署
でわかっていることは、あの男はラインドル国王直々の指名で、今
回の西方会議に参加したということだ﹂
組織としては犬猿の仲である第一情報部と第二情報部の掴んでい
る情報を、お互いが牽制しつつ提示する。
彼等の口から告げられた情報が事実であるかには、一考の余地が
あると互いに理解していたが、それぞれ政権の中枢にいる以上、今
は信用するべきだと考えた。
だからこそ、ファッテソンは極めつけの情報をハムゼに提供する。
﹁ほう、となると面白いこととなりますな﹂
﹁面白い? 何がだ?﹂
﹁うちで把握した話ですが、先ほどの朱と仮面の男がコンタクトを
取った可能性があるということです﹂
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﹁な、何? それは本当か!﹂
自らが掴んでいない上、極めて聞き逃すことのできぬ情報。
それがファッテソンの口から飛び出したことで、ハムゼは思わず
動揺を見せた。
﹁あくまで可能性。ですが、前夜祭の日に彼らがすれ違いざまに何
らかのやりとりをしたことを目にしていたものがおります﹂
﹁やりとり⋮⋮だがそれだけでは、コンタクトを取ったとは言いが
たい気がするな﹂
﹁いえ、話はこれだけではありません。その前夜祭のあと、彼を監
視していた我らが諜報員を全て叩きのめしてくれた上で、朱は夜間
にクラリスが借り上げている屋敷から何処かへ向かっております。
しかも同日、ラインドルの使用している旧コニーク邸の警護兵が、
物音一つ立てず軒並み気絶させられておりました。果たしてこれは
偶然でしょうか?﹂
ファッテソンはそう口にすると、眼前のハムゼの表情を窺う。
そのやや自慢げな表情を目にして思わず舌打ちをしそうになった
が、ハムゼはかろうじてのところで踏みとどまった。
﹁なるほど、興味深い話だ。確かにそれだけの事をやってのけると
したら、あの朱くらいしかいないかもしれん﹂
﹁ええ。普通なら監視兵と警備兵をたった一人で昏倒させたという
仮定からして、笑い飛ばしてやりたいところです。ですが、あの技
量を魅せられてはいささか⋮⋮﹂
そう口にすると、ファッテソンは思わず首を左右に振る。
一方、そんな彼の気持ちをわからぬわけではなかったが、ハムゼ
はその見解に素直に頷くことはできなかった。
﹁ただファッテソン殿。面白い話ではあるのだが、今の話だけでは
二人がコンタクトを取ったと言うには、少し飛躍し過ぎな気もする
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な。仮にコニーク邸の警備兵を昏倒させたのが朱であるとしても、
その目的が仮面の男とコンタクトをとるためとは限らないだろう。
仮に前夜祭の接触が事実であったとしてもな﹂
﹁かも知れません。ですが、ラインドルと接触する目的で、警備兵
を叩きのめすでしょうか? 私にはそう思えない。となれば、何ら
かの目的で以前より知己である仮面の男に会おうとした。そして仮
面の男は朱と同様にラインドルに対し従順ではない⋮⋮こんな予想
が成り立つのは理解頂けるかと思います。もちろん仮面の男の中身
が、ラインドル王立大学にいる他国出身の研究者であるという仮定
の上でですが﹂
もちろんファッテソンとて、無数にある可能性の一つにすぎない
話しであると理解している。だがこの地位まで彼をたどりつかせた
勘のようなものが、朱のアレックスだけではなくあの仮面の男は危
険であると、彼に向かって警告していた。
一方、ファッテソンよりはるかにリアリストなハムゼは、さすが
に目の前の男に遠慮し鼻で笑いはしない。だが、仮説を重ねれば重
ねるほど、真実から遠ざかるというのが、彼の持論であった。
﹁ふむ。いや、想像の翼を広げた面白い話だ。だが話の殆どの部分
が、推論と根拠不十分な情報ではな⋮⋮さしあたって、今のところ
は結論を保留とさせて頂こう。今から始まる戦いで、ウフェナくん
が仮面の男の正体を暴いてくれる手はずだからな﹂
﹁⋮⋮そうですな。顔がわかれば、より情報も集まりやすくなる。
確かにこの話は、あの男の素顔を目にしてからでも遅くはないです
な﹂
そう口にすると、ファッテソンはその視線をコロシアムの中心へ
と向ける。
するとそこには、今にも戦い始めようとする一人の大男と、この
場に及んでも視界の悪い仮面を付けたままの不可思議な男が存在し
ていた。
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﹁覚悟はいいかな、仮面の男よ?﹂
細身のレイピアを手にしながら、ゆっくりと眼前に歩み寄ってき
た男を目にして、ウフェナはそう問いかける。
だが、仮面の男は口元をわずかに歪めると、軽く肩をすくめてみ
せた。
﹁ふむ、返事を口にはしない⋮⋮か。それとも言葉を発することが
できんのかな。まあ難しいことは上に考えてもらうとしよう。私は
ただ、貴公相手に全力を尽くすのみ﹂
そう口にすると、ウフェナは彼の身丈と同じほど巨大な愛剣を両
手で握る。
﹁ツーハンデッドソード⋮⋮形状から言えばフランベルジュだが﹂
まるで炎がゆらめいているかのように見える刀身から、帝国では
フランベルクなどとも呼ばれる特殊な剣。
それを目にしたアインは、軽い驚きとともに思わずそう呟く。
一方、そのかすかなつぶやきを耳にしたウフェナは、思わず嬉し
そうに笑った。
﹁ほう、貴公はこいつを知っているのか。このフランベルジュを﹂
ウフェナは興味深げな視線を向けながら、アインへとそう問いか
ける。
だが仮面の男は垣間見える口元を、わずかに動かすのみ。つまり、
再び彼の声帯から声が発せられることはなかった。
﹁ふふ、スマンな。いや、人形相手に戦うとなれば寂しいものだか
らつい嬉しくなってな。これ以上の言葉は無粋、ここからは互いに
剣にて語り合うとしよう﹂
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そう口にすると、ウフェナは両手剣を握り直す。そして一度小さ
く息を吐きだすと、一足飛びでアインへと斬りかかった。
﹁っつ、速い!﹂
巨体に似合わぬその速度に、アインは思わず感嘆の言葉をこぼす。
そして彼が危険を感じ取り体を側面へと投げ出した瞬間、先程まで
彼が存在した空間には、巨大な質量を持った剣がまるで空間を断ち
切るかの勢いで振り下ろされた。
﹁ほう、良い反応だ。だが逃げるだけでは、勝つことはできんぞ!﹂
アインの回避を目にしたウフェナは、むしろ嬉しそうに口元を緩
める。そして間髪入れること無く、体勢を崩しているアイン目掛け
て、横薙ぎの一撃を払った。
迫り来る銀色の波打った刃。
しかしその追撃の一撃を予期していたアインは、敢えて体を地面
へと沈み込ませ、ぎりぎりのところで回避する。
﹁ちっ、これもかわしたか!﹂
二撃目も回避されたウフェナは、両手剣を振り切ると同時に、思
わず舌打ちする。それはつまり、アインによる逆撃の機会を与えた
ことを理解したが故であった。
そして間髪入れること無く、アインのレイピアが煌めく。
観客たちは全く予期していなかったその光景に、思わず歓声を上
げた。
先ほどの戦いとは異なり、本命であるウフェナに対し大番狂わせ
が起こると感じたからである。
だがその歓声は、一瞬で異なる叫びへと塗り替えられる。
1261
それはウフェナによる、全く予期せぬ行動が故であった。
自らの肩元めがけ放たれたレイピアの突きに対し、彼は回避する
のではなく、逆に前へと突進したのである。
﹁なっ!﹂
次の瞬間、アインの手にするレイピアはウフェナへと接触する。
但し彼が狙っていた肩ではなく、その腹へと。
次の瞬間、彼のレイピアは鈍い音を立てて折れ曲がった。
﹁ふふ、そんな儀礼用の武器など持ち込むからこうなるのだ。模擬
戦と銘打っているものの、ここは戦場。少なくとも私はそのつもり
で戦っている。だからこそ、腹にプレートを仕込むくらいの用心を
して当然と思ってもらおう﹂
既に勝負あったとみなしたウフェナは、剣から片手を離すと、自
らの腹を軽くとたたく。すると、コンコンという鈍い音が周りに響
いた。
﹁⋮⋮なるほど。少し考えが甘かったようだ﹂
そう口にすると、アインは小さくため息を吐き出す。だが、彼は
そのまま折れ曲がったままのレイピアを再び構え直した。
﹁おいおい、それでまだ戦うつもりか? 相手が赤子であるなら話
は別だろうが、貴公の前にいるのはこの私だ。悪いことはいわん、
降参したまえ﹂
ウフェナはやや呆れた様子を見せながら、余裕を見せつつそう勧
告する。
だが、アインがレイピアを下ろす素振りを見せることはなかった。
﹁どうしても続けるつもりか。ならば仕方がない。勇気と無謀とが
わからんようだが、その決意にだけは敬意を評しよう﹂
1262
そう言い切るなり、両手剣を握り直すと、ウフェナはまっすぐに
アインに向かい構え直した。
そしてもはや躊躇すること無く、彼に向かい暴虐とも言うべき勢
いで横薙ぎの一撃を振るおうとする。
眼前の男の命を絶つ決意を秘めた一撃。
だがその一撃によって、仮面の男の血しぶきが上がることはなか
った。
何故ならば、ウフェナは思わぬ衝撃を感じ、振るいかけた剣を止
めずにはいられなかったためである。
そう、それは眼前の男が放り投げたレイピアが、まっすぐに彼の
手にぶつかったためが故であった。
﹁き、貴様、何を!﹂
すぐに剣を握り締めなおし、再びアインへと振るおうとするウフ
ェナ。
しかし、ほんの僅かに視線を外したその刹那、彼の視界からはま
るで幽霊のように仮面の男は消え失せていた。
そして次の瞬間、彼は両足に衝撃を感じると、天地がひっくり返
り、後頭部を強く打ち付ける。
大地に体を打ちつける直前にウフェナが目にしたもの。
それは地面に沈み込むかのように低い姿勢から、体を回転する形
で足払いを放ち終えた仮面の男の姿であった。
1263
英傑
圧倒的不利に思われた中での、仮面の男による思わぬ反撃。
キスレチンの市民でほとんどを占められた観客席からは、思わず
悲鳴に近い叫び声が上がった。
ただし同じ観客席でも、この各国の要人のために用意された特別
席を覆う空気は、若干異なる様相を呈している。
それはウフェナに対抗し得る程の兵士を有していたラインドルへ
の警戒と、自国有利にくじを細工したキスレチンに対する少なから
ぬ反発心が混じりあったが故であった。
もちろんそんな中にも、例外と呼べる者が存在する。
忌々しい表情を浮かべながら仮面の男を睨みつけるキスレチンの
高官達の隣で、驚きの表情を浮かべる美男子。
彼はたった今繰り出されたとある技を目にするなり、目を見開く
とともに、その唇を震わせた。
﹁え!? あれは⋮⋮水面⋮⋮蹴り﹂
かつて彼自身が、その身をもってなんども叩き込まれた体術の一
技。
妙技とも呼ぶべき東方の特殊な足払いを、ラインドルの代表であ
る仮面の男が繰り出した瞬間、彼の心臓の鼓動は高鳴った。
﹁どうかされましたかな、ライン大公?﹂
ウフェナの無様な姿を目にして不機嫌著しかったトミエル大統領
1264
であったが、この西方会議のホストとして、隣席に腰掛ける若者の
表情が優れぬことを気にかける。
途端、エインスはハッとした表情となると、慌てて首を左右に振
った。
﹁いえ、珍しい技を目にしましたもので﹂
﹁⋮⋮確かに、あのような形の体術は見たことがありませんな﹂
しぶしぶといった表情で、トミエルは相手国の代表の技量を賞賛
する。そして不甲斐ないウフェナに向かって、彼は胸の内で毒づき
ながら、再びコロシアムの中央へと視線を移した。
一方、内心の動揺をどうにか押し殺したエインスも、再開されよ
うとする戦いへと慌てて視線を向ける。
しかし彼の視線が追うのは、目の前の試合の内容ではなく、ただ
仮面の男の姿だけであった。
﹁ラインドルの代表団⋮⋮顔を隠す必要がある⋮⋮そして東方の体
術⋮⋮あの仮面の人はもしかして⋮⋮﹂
トミエルに聞き咎められないよう注意しつつも、彼の口腔内では、
言葉にならぬそんな声が思わず発せられていた。
﹁妙な足払いを使うな。いや、馬鹿にしているのではない。実に素
晴らしい体術だ。さすがの私もかわしようが無かった﹂
地面へと転倒させられた瞬間、無様であることを承知で地面を転
がり、距離を取り直したウフェナは眼前の男に向かってそう賞賛す
る。
だが、そのウフェナの発言に対して、仮面の男はその口元をほん
の僅かに動かすのみであった。
1265
﹁認めよう、先ほどの攻撃は賞賛に値する。しかしだ、あまり調子
に乗るなよ。貴公の折れ曲がったレイピアを前にし、この私には多
少の慢心と戸惑いがあった。だが、もはやそんなものはこの私に存
在しない。さあ、対等なる敵手よ、かかってきたまえ!﹂
無手のまま半身の姿勢で静かに構えているアインに対し、ウフェ
ナは自らの決意を示すかのように高らかと声を張り上げた。
その瞬間、アインは一気に前方へ向けて加速する。
一方、迎え撃つウフェナはタイミングを計って両手剣を振りかぶ
った。そして迫り来るアインの速度を計算し、一歩前へと踏み込む。
だがアインとウフェナの両手剣が交差することはなかった。
それは迫りつつあったアインがウフェナの剣の間合いの直前で急
制動し、右側面へ回り込もうとしたからであり、また何かしら動き
に変化をつけてくると予測していたウフェナが、フェイントのみで
剣を振り下ろさなかったためであった。
﹁私の読み通りだな。チェックメイトだ!﹂
アインが変化をつけてくると読みきったウフェナは、アインの足
が止まったタイミングで、勝利の確信とともに彼へと襲い掛かった。
そしてフランベルジュを振り下ろそうとしたまさにその時、突然
目に何かが飛び込んで来る。
途端、彼は反射的に剣を握っていた右手を自らの目へと動かした。
﹁き、貴様。卑怯な!﹂
そう言葉を吐き出すと同時に、彼は眼前の男が足元の砂を蹴りあ
げたのだと理解する。
1266
そして彼は自らの窮地に気がついた。
この至近距離で視界を失った上、逆撃できない体勢であることが
何を意味するか。
それを当然のことながら、眼前にいる卑怯者の体術をその体で味
わうことに他ならなかった。
﹁⋮⋮済まない。これは皆に教えている私の常套手段なんだ。さす
がに君の剣を何度もかわす自信はなくてね﹂
砂を蹴りあげると同時に、間髪入れずウフェナの懐へと飛び込ん
だアインは、そのまま剣を握っているウフェナの左腕を掴む。
そして勢いを殺すことなく、ウフェナの左腕を支点としながらグ
ルリと宙を一回転すると、重力に任せるまま彼は地面へと倒れこん
だ。
﹁うごぁああ!﹂
不安定な体勢のままアインによって地面に引きずり倒されたウフ
ェナは、自らの左肘が有り得ぬ角度まで伸ばされていることを理解
する。
そしてまさにそのタイミングで、仮面の男が彼に向かってボソリ
とつぶやいた。
﹁勝負あった⋮⋮かな。降参してくれないかい﹂
剣ではなく無手でもっての敗北要求。
それはまさにウフェナにとって屈辱以外の何物でもなかった。
だが激しい痛みを感じる自らの左腕は、これ以上ない悲鳴を上げ
続ける。
1267
﹁ま、まい︱︱﹂
絶望と痛みに後押しされ、自らの敗北を認めようとしたウフェナ。
しかしその瞬間、彼の耳は無数の声を拾った。
そう、この会場に詰めかけたキスレチン市民の祈りに満ちた声を。
﹁まいらん、まだまいらんぞ。私は、そしてキスレチンは負けてい
ない!﹂
卑怯な攻撃を見せたアインに対するブーイングと、彼らの誇る英
傑の勝利を願う叫び。
それを耳にしたウフェナは、一つの覚悟を決める。それはたとえ
左腕を失おうと、この戦いに勝利するという覚悟を。
﹁な、馬鹿な!﹂
ウフェナの叫びにも満ちた決意の言葉が吐き出された瞬間、アイ
ンは有り得ぬ事態に直面した。
子供ではなく大の大人ではある彼が、左腕一本で宙へと持ち上げ
られたのである。
そして次の瞬間、腕ひしぎの形で左腕に捕まっていたアインは、
全力で大地へと叩きつけられることとなった。
﹁ぐほっ﹂
背中に激痛が走るとともに、思わず息が止まり、体の中の酸素が
全て外に吐き出される。
さらに叩きつけられた衝撃で、彼の脳はシェイクされると、アイ
ンは完全に平衡感覚を見失った。
1268
しかしまさにそのタイミングで、彼は背中に痛み以外の冷たい汗
が走る感覚を覚える。
だからこそ、彼は這うような形でその場から体を動かした。
そして次の瞬間、先ほどまで彼の体が存在していた大地に、右手
一本で振るわれたフランベルジュが突き刺さる。
﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮なかなかにしぶといな﹂
﹁それは⋮⋮貴方の方ですよ。あの状況から切り返されたのは⋮⋮
正直言って初めてです﹂
大地に叩きつけられた衝撃でズレかけていたマスクを直すと、ア
インはウフェナに向かって、そう返答する。
するとウフェナは、痛みに歪めていた表情を、わずかに緩めてみ
せた。
﹁ほう⋮⋮初めてまともに返事を返してくれたな﹂
﹁生粋の無口ではありませんからね。それに貴方ほどの勇士に対し、
言葉を返さぬのは、さすがに失礼だ﹂
﹁そうか⋮⋮ならば私は貴公に詫びよう。貴公を悠々と蹴散らし、
命令通りにそのマスクを剥がそうなどと考えていた、この私の思い
あがりをな﹂
ウフェナはそう口にすると同時に、一度大きく息を吐き出す。
そしてわずかに呼吸が整ったところで、右手一本で巨大なフラン
ベルジュを構え直した。
﹁では、私こそ貴方に敬意を評し、一つお話しましょう。そう遠か
らぬうちに、このマスクは外すつもりです。ただ申し訳ありません
が、今はまだその時ではない。というわけで、お話は終わりです。
これ以上戦うのは超過勤務が過ぎる。キスレチンの英傑殿、そろそ
ろ決着としましょう﹂
1269
﹁おう、仮面の強者よ。覚悟せい!﹂
アインの声に反応し、ウフェナは全力で彼めがけて剣を振り下ろ
す。
両手剣であるにも関わらず、右腕一本で振るったその軌道は、恐
るべきことにほんの僅かなブレも存在しなかった。つまり再び懐に
飛び込もうと迫り来るアインの正中から、少しのズレも存在しなか
ったのである。
もはやどう立ち回ろうとも、迫り来る刃をアインはかわし様がな
かった。
仮にこれが、両手で振り下ろされたものであったのならば。
﹁⋮⋮あなたは実に恐ろしい人だ。私の出会った中でも、指で折れ
るほどのね﹂
アインはそう口にしながら、速度の欠けたウフェナの剣撃をわず
かに体をずらしながら回避する。
そして、既に何かを悟りきった表情を浮かべるウフェナの後頸部
に、その意識を刈り取る肘打ちを彼は放った。
次の瞬間、コロセウムの中心には明暗が、そして勝者と敗者が生
まれる。
その絶望的な光景が生み出されると同時に、観衆たちのあるもの
は泣き崩れ、ある者は沈黙し、そしてある者は仮面の男に向かって
罵声を浴びせた。
混沌という形容がまさに相応しき会場の中心、そこでアインは大
地へと沈んだままのウフェナに向かい歩み寄る。
1270
そして英傑との呼び名に違わぬ誇り高き男の側で屈みこむと、彼
は目の前の大男をゆっくり背負い上げる。
途端に、先程まで散発的に発せられていた罵声はピタリと止んだ。
そしてウフェナを背負ったアインがゆっくりと入場口に向かい歩
み出すと、今度は二人の健闘を称える拍手が、自然発生的に生まれ
ていく。
そうして会場中からの視線をその背に浴びながら、激闘を行った
二人の男は、ゆっくりと日の当たらぬコロシアムの中へ引き上げて
いった。
1271
メディエーター
﹁⋮⋮アレックス先輩﹂
模擬戦終了後に選手のために与えられた控室。
たった一人の人物のために用意された空間であったが、そこへ険
しい表情を浮かべた青年が姿を表す。
﹁どうしたのかな、エインス。そんな怖い顔をしてさ。クラリスの
名誉を失わない試合はしたつもりだけど﹂
自らの上役にあたる金髪の青年の姿を目にしたアレックスは、薄
い笑みを浮かべながら落ち着き払った様子でそう口にする。
しかし返された言葉は、文脈を無視した極々短い問いかけであっ
た。
﹁先輩は知っていたのですか?﹂
﹁何を⋮⋮っていうのも、もはや無粋かな。ああ、彼のことなら先
日の前夜祭の時に気づいていたよ﹂
そのアレックスの回答が口にされた瞬間、エインスは強く下唇を
噛む。そしてそのまま、普段なら絶対詰め寄らぬ相手に向かって、
彼は強い口調で問いかけた。
﹁どうして⋮⋮どうして教えてくれ無かったんですか!﹂
滅多に見せることのないエインスの苛立ち。
それを真正面からぶつけられたことに、アレックスはほんの僅か
に驚きを見せた。
しかし、目の前の青年と先ほど戦い終えた仮面の男との関係を思
うと、無理もないとすぐに思い直す。だからこそ彼は、ほんの少し
だけ意地の悪い言葉を口にした。
1272
﹁逆に聞こう、どうして知る必要があったんだい?﹂
﹁え?﹂
アレックスの言葉に、思わずエインスは虚を突かれた表情を浮か
べる。
だが、そんな彼に向かって、アレックスは一切の配慮を行うこと
なく、更に言葉を重ねていった。
﹁エインス。多分君は、今大きな分岐点に立っている。それは自覚
できているかい?﹂
﹁分岐点⋮⋮ですか﹂
﹁ああ、分岐点。つまり四大大公の一人として、そして軍務大臣代
理としてクラリスを自らの手で引っ張っていくのか、それとも誰か
に頼りながら今後も歩いていくのかというね﹂
アレックスの口にしている言葉の意味、それはエインスにもすぐ
に理解できた。つまり彼は軍部のほぼ頂点に立っておきながら、未
だにあの人物に頼るのかと言っているのである。
だが逆にその問いかけに対し、エインスは一つの疑問を覚えた。
それはこのような問いかけが、まったくもってアレックスらしか
らぬということである。
そう、目の前の赤髪の男なら、このような問いかけを口にする事
無く、シンプルに行動を促すことを好む。
だからこそ、ここに至り彼はひとつの事実に辿り着いた。
つまりこの問いかけ自体が、とある黒髪の男の頭の中から出てき
たものだということに。
﹁アレックス先輩。今の言葉は、あなたからではなくあの人からの
1273
言葉ですね。つまり先輩は、僕に⋮⋮いや、クラリスに対して独り
立ちしろと?﹂
エインスの口から発せられたその言葉を受けて、アレックスは一
瞬口元の笑みを消す。しかし僅かな間の後に、彼は先ほどとは異な
る嬉しそうな笑みを浮かべ直した。
﹁ふふ。鋭くなったね、エインス﹂
﹁わかりますよ。あなた方お二人よりも、僕の方があの人と過ごし
た時間は長いんですから﹂
自らの回答が眼前の男の期待以上であったことを理解し、エイン
スは肩を落としつつも、やや誇らしげにそう口にする。
一方、アレックスはそんな彼に向かって大きく一度頷くと、再び
ゆっくりとその口を開いた。
﹁そっか⋮⋮まあ、君の想像通りさ。そしてもし君が彼に気づいた
場合、これだけは伝えるように頼まれていたことがある。﹃私の存
在を度外視して、クラリスにとって最善と思われる選択を行ってく
れ﹄、これが彼から君への伝言さ﹂
﹁クラリスにとって、最善と考えられる行動⋮⋮﹂
アレックスから伝言を受け取ったエインスは、顎に手を当てなが
らその場で静かに考えこむ。
すると、そんな彼に向かって、アレックスは静かに語りかけた。
﹁ああ、あくまでクラリスにとっての最善。それこそ彼が君に求め
るものさ。おそらく彼はとても大きな絵を描こうとしている。それ
はこの大陸西方⋮⋮いや、大陸全土を見渡した上でのものかもしれ
ない﹂
そこまで口にしたところで、一度アレックスは小さく息を吐きだ
した。
1274
彼は自らの口にしていることが、普通ならば途方もなく、そして
突拍子もないものだと自覚している。だが彼の知る親友ならば、お
そらく当たり前のようにそこまで考えていて不思議ではないと、ア
レックスは奇妙な確信を持っていた。
だからこそ、彼は親友の期待するであろう役割を、目の前の後輩
に告げる為、再びその口を開く。
﹁ただし、エインス。いかに彼であっても、それはとても一人では
描ききれない代物さ。だからこそ彼は、その絵の一部を君によって
描いてもらうことを前提にしているのだと、僕は思う。この意味が
わかるかい?﹂
﹁⋮⋮要するに、いつものようにあの人の無理難題に応えてみせろ
ってことでしょ? わかりますよ、これまで散々な目にあってきた
んですから﹂
あえて皮肉げに言ってみたものの、それはエインスの本心ではな
かった。彼は自らへの信頼を理解したからこそ、内心では期待に応
える覚悟を定めていたのである。
アレックスにしてみれば、そんなエインスの本音はまるわかりに
等しかった。だからこそ彼は、念を押す様に目の前の青年に課され
た役割を口にする。
﹁ふふ、それは結構。ただしこれまでは、君は色を塗る役割だけだ
った。でも、今回から彼の下絵は存在しない。つまり君が担当する
箇所は、すべて君が描き切るんだ﹂
﹁僕が全てを⋮⋮ですか﹂
﹁ああ、どうだい。彼の存在に気づいてしまったこと、正直言って
後悔しないかい?﹂
ほんの僅かに戸惑いを見せたエインスに向かって、アレックスは
1275
答えのわかりきった問いかけを行う。
すると、彼の予想したとおり、表情を引き締め直したエインスの
口から、力強い返答がなされた。
﹁しませんよ、もちろん。後悔なんて﹂
﹁ふむ⋮⋮つまり彼の信頼に応える自信はあるということだね﹂
﹁当たり前です。そうでなければ、英雄の最初の弟子なんてとても
口にできませんから﹂
女性であれば誰もが見惚れるであろうエインスの微笑み。
ある意味、場にそぐわぬような彼の笑みを目にしたところで、ア
レックスはその内心を誰よりも深く理解する。そしてそれ故に、彼
はもともと細いキツネ目を一層細めると、満足そうに大きく一つ頷
いた。
﹁結構。ならば僕も、しばらくは君がキャンバスに絵を描く手伝い
をしよう﹂
﹁いいんですか?﹂
﹁彼にダメとは言われていないしね。それに、陸軍省の次官が、軍
務大臣代理を手伝うのは当たり前じゃないかな?﹂
両手を左右に広げながら、なんでもないことのようにアレックス
は肩をすくめてみせる。
他の誰よりも心強い剣士の協力。
それを仰ぐことができる感謝を、エインスはこの場にはいない人
物に向けて高らかと宣言する。
﹁⋮⋮ありがとうございます、アレックス先輩。ならばせいぜいあ
の人に見せつけてやるとしましょう。あの人が描ける以上のクラリ
スの未来を﹂
1276
キスレチン共和国のほぼ中心部に位置する外務本省。
その最上階に備えられた一室で、部屋の中に隠し置いていた琥珀
色の液体を、ハムゼは躊躇することなく喉へ流し込んでいた。
﹁申し訳ありません、大臣。ただいま来客がありまして⋮⋮﹂
ノックとともに部屋の外から発せられた警備兵の声は、明らかに
緊張感に満ちている。
もちろんそれは二つの理由から、やむを得ないものであったとい
えた。
その一つが、大臣執務室へ入る際にハムゼが強い口調で誰も通す
なと言明した直後であったためである。
だからこそハムゼは、不機嫌さを隠しきれぬ声色で部屋の外に向
かって怒鳴りつけた。
﹁馬鹿者、こんな時間に来客だと。先程、私はいないことにしろと
いったばかりではないか。第一、今日はもはや人と会える気分では
ないわ﹂
﹁そこを曲げて、なんとか私と会ってやってはもらえませんか。ハ
ムゼ君﹂
ハムゼの同意を確認することなく開け放たれた扉。
そこから姿を表したのは、この国において彼が最も敬服する人物
その人であった。
それ故にハムゼは、長いあごひげを伸ばしたその姿を目にするな
り、慌てて居住まいを直す。
﹁こ、これは失礼いたしました。どうぞお入りください﹂
1277
﹁ああ、いやいや楽にして下さい。今日のところは、迷惑を承知で
きたのですから。それに今の私は、表向き病気療養中ということに
なっています。この場にいるのは多少問題かもしれませんからね﹂
動揺隠せぬハムゼの姿をその目にしながら、長いあごひげを蓄え
た初老の男は、ゆっくりと首を左右に振る。そしてそのまま、手近
な椅子に腰掛けると、彼は足を組むと同時に再び口を開いた。
﹁しかし、実に素敵な見世物でした。君はそう思いませんでしたか
?﹂
﹁い、いらっしゃっていたのですか!?﹂
﹁ええ、一般の客席に混じって。隣に座っていた若者に、生ぬるい
エールを分けてもらいましたよ。ふふ、実に貴重な体験でした﹂
男はあごひげを撫で付けながら嬉しそうに笑う。
一方、眼前の男がコロセウムに来ていたなど全く寝耳に水の話で
あり、ハムゼは困惑した表情を見せた。
﹁お忍びであったとて、言ってくださればしかるべき席を用意させ
て頂いたのですが⋮⋮しかし此度のこと、ご不快ではありませんで
したか?﹂
﹁不快? 一体、何のことですか﹂
﹁ご覧になられましたとおり、ウフェナのあの醜態です﹂
思い出すだけで腸が煮えくり返り、ハムゼは絞りだすような声で、
どうにかそれだけを告げる。
しかしハムゼの眼前にいる男は、その様子を目にして苦笑を浮か
べてみせた。
﹁おかしいですね。私にはそんなものを見た記憶がありません。た
だ実に素晴らしい戦いを観戦させてもらった記憶しかです﹂
﹁素晴らしい⋮⋮ですか。しかし結果としては最悪もいいところで
しょう。帰路につく市民の様子が、全てを物語っていましたよ﹂
1278
卑怯な技があったためとはいえ、キスレチンを代表するウフェナ
がラインドルの代表の前に敗北したことで、あわや暴動が起こりか
ねないほど観客の不満は鬱積していた。
酒が入っていた客はいたるところで小競り合いを起こし、そして
八つ当たりの対象はコロセウムの警備を行っていた兵士にまで向け
られる。その結果として、数十名を超える市民が負傷し、そしてそ
の数倍の逮捕者が発生することとなった。
もし戦いの後に、仮面の男が意識を失ったウフェナを担いで運ば
なければ、暴動が起こってもおかしくはなかったと彼は考えている。
そしてそれ故に、ハムゼは肌でひとつの事実を直感していた。
この日の敗北は、現政権にとって厳しい結果をもたらす種となり
かねないと。
しかしあごひげを伸ばした男は、現政権の閣僚であるにもかかわ
らず、まるで他人ごとのような発言を口にした。
﹁ふむ、市民の皆様の不満が政権へと向けられましたら、確かに内
閣の一員としては最悪といえるかもしれませんね。でも、それはあ
くまでトミエル内閣という視点からの物差しですよ。つまり少し視
点を変えてみれば、全く異なる解釈が成り立ちます。言いたいこと
はわかりますか、ハムゼ君﹂
﹁そ、それは、現政権の倒れた後の事をおっしゃっていると⋮⋮そ
ういうことですか?﹂
現内閣の一員でありながら、あまりに大胆な発言。
それを耳にしたハムゼは声を震わせながらそう問いかける。
すると、一切の迷いを見せること無く、眼前の男の首は縦に振ら
れた。
1279
﹁ふふ、我々は与党の一員といえども、全ての最終的な責任はトミ
エル氏と民主改革運動が負うのです。もし彼等が違うというのなら
ば、我々が手助けして、その背中にくくりつけてやればいい。簡単
な事じゃないですか﹂
﹁なるほど⋮⋮確かにわれらに矛先が向けられるのは避けねばなり
ませんからな﹂
﹁その通りです。我らに不満が向くということは、我らの神に不満
が向けられるのと同義。残念ながら、そんなことは許されることで
はありません。たかがキスレチン程度の国家に住む者達が、我らが
神を冒涜するなどと許されざる話です。哀れな彼等は、神への供物
にすぎないのですから﹂
﹁⋮⋮はい。おっしゃる通りです﹂
目の前の男から垣間見える狂気に当てられて、ハムゼは震えなが
ら返事を行う。
すると、あごひげの男は頬を歪ませながら軽く笑い声を上げた。
﹁はは、まあ君がこの国を思うこと自体は決して悪いことではあり
ません。いずれこの国は、我らが神に捧げられるのです。そのため
の供物は、できるだけ良い状態でなければいけませんから。さて、
まあそれはいいとして、そろそろ君も気づきましたか?﹂
﹁気づいた? 一体、何をでしょうか?﹂
﹁我らの仇敵のことですよ﹂
それまでの寛容な口調とは一変し、粘りつくような声で男はそう
口にする。
途端、ハムゼの表情はまさに一変した。
﹁す、少しお待ちください。それは一体どういうことですか!﹂
﹁⋮⋮君達も薄々怪しんでいたのじゃないですか? あの仮面の男
のことを﹂
眼前の男の口から飛び出した特定の人物を指すその言葉。
1280
それを耳にした瞬間、ハムゼは顔面を蒼白にさせると、一つに事
実を突きつけられたことに気がつく。
﹁まさか⋮⋮それでは奴の中身は!﹂
﹁ええ。だが私が奴の存在に気がついたのと同様に、奴もそろそろ
私のことに気づいておる頃でしょう。いや、もしかするとその探り
を入れるために、わざわざラインドル国王を利用したのかもしれま
せんね﹂
﹁⋮⋮あの男が⋮⋮つまり仮面の男が調停者だと言われるのですか
?﹂
もう一人の調停者は既に消え去り、現存するものはただ一人。
その最後の一人であり、近年の大陸西方において最も有名な人物
があのマスクの下にその素顔を隠しているのかと、改めてハムゼは
問いなおす。
そしてその問いは、眼前の人物によってあっさりと肯定されるこ
ととなった。
﹁その通りです。冷静に考えてみなさい。ウフェナ君を無手で倒す
者など、剣の巫女の後継者を除いて他に思い当たる人間など、そう
はいませんよ。違いますか?﹂
﹁だからこそ奴は、あの厄介な腐れジジイ⋮⋮そう、フォックス・
レオルガードと会いたがっているわけですか﹂
できることならば早急に亡きものとしたいこの国に居座る厄介者
の名を、ハムゼは吐き捨てるように口にする。
それを受けて、あごひげの男はそのとおりだとばかりに大きく頷
いた。
﹁ふむ、ようやく君も状況が理解できたようですね﹂
﹁⋮⋮いかがいたしましょう。秘密裏に密殺いたしますか?﹂
1281
もはや真実を理解した今、ハムゼとしては躊躇する理由を有して
はいなかった。そしてだからこそ、迷うこと無く非合法な手段を第
一に模索する。
仮に彼がたどり着いた真実が誤りであったとしても、殺害してか
ら確認すれば良いと思うほどに、彼がこれから相対する敵は、早急
に手を打つべき相手であった。
だが真剣な表情で語ったハムゼの提案を、眼前の男は軽く笑い飛
ばす。
﹁無手でもってウフェナ君に勝ち得る者を、情報部如きがですか?
よほど多数の人員を動員する、派手な案件となることでしょうね﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
思わず反論を口にしかかるも、ハムゼは否定材料が乏しいことを
すぐに理解した。
何しろ仮面の男は、前夜祭でも料理はおろか、水でさえ一切手を
付けなかったことは既に調査済みである。毒殺が困難である以上、
確実に彼を殺害出来るだけの人員を動員する必要があった。
だが、確かに眼前の男が言うように、相手はこの国の英傑を無手
で倒した男である。それ故、殺害するのに必要な人員を考えれば、
確かに密殺などと呼べるシロモノでなくなることは明白であった。
一方、眼前の男は押し黙ってしまったハムゼに対し、軽い口調で
そのまま指示を与える。
﹁ハムゼ君、今は奴を泳がしておけばよいのです。むしろ蠢く虫ど
もをあぶり出すのには、まさに好機でしょうからね﹂
1282
﹁蠢く虫⋮⋮ですか﹂
﹁ええ。私達の神に仇なす者達には、等しく死を与えねばなりませ
ん。そして調停者の周りには、特に神に仇なす不届き者が集まるに
違いないのです。だからこそ、奴と奴に近づく者たちへの監視を怠
ってはいけませんよ。この国を我らが主へと捧げるその時まではで
すが﹂
﹁はっ、全てはケティス様のご指示通りに﹂
そう口にするなり、ハムゼはこの国の軍務大臣であり、そして統
一宗教主義戦線のケティス・エステハイム枢機卿に向かって深々と
頭を垂れる。
その仕草を軽く頷きながら受け止めると、ケティスは愉悦に満ち
た笑みを浮かべた。
﹁さて、それでは約束の時まで、私達の掌の上で踊り狂うのを眺め
るとしましょうか。愚鈍なトミエルさんに、西方会議にノコノコと
姿を現した各国の脳なしさんたち、そして我らが仇敵である調停者
ユイ・イスターツの姿をね﹂
1283
フォックス・レオルガード
キスレチンの首都ミラニールから馬車で北上すること半日。
山間ののどかな道をのんびりと進みながら、アインは嬉しそうに
一つ背伸びをした。
﹁いやぁ、やはり田舎のほうが落ち着くものだね。人々の喧騒がな
いというのは、実に素晴らしいものさ﹂
﹁ミラニールにおられた時も、護衛の際以外はほとんど屋敷内に引
きこもっておられた気がしますが?﹂
アインの発言を耳にして、馬車に同乗させられたフェルムは、思
わずそう口にする。
だが彼の眼前の男は、とんでもないとばかりにブンブンと首を左
右に振った。
﹁いやいや、何を言っているんだい。ほら、少しは自然に耳を傾け
てみたまえ。野鳥のさえずる音、そして小川のせせらぎ。それに比
べれば、例え屋敷の中にいたとしても、極めてひどい騒音環境の中
にいたも同然さ﹂
﹁はぁ⋮⋮しかし護衛の仕事を放り出してきて本当に良かったんで
すか?﹂
どうにも納得はいかなかったが、これまでの付き合いからこの手
の話題で抗弁しても無駄なことを理解していたフェルムは、溜め息
を吐き出すとともに話題を転じる。
﹁カイラの護衛かい? 基本的にはマルフェスさんにまかせておけ
ば大丈夫さ﹂
﹁もちろん僕も、マルフェス将軍の護衛に問題があるとは思いませ
1284
ん。ですが、その⋮⋮先生がいらっしゃった方が、会議でも色々と
都合が良いのじゃないかと思いまして﹂
﹁はは、なんとなく何を言いたいのかはわかるけど、私はアドバイ
ザーではなく、ただの護衛の一人だよ﹂
﹁表向きはでしょ﹂
建前を口にしたアインに向かって、既に眼前の男の正体とその能
力を正しく理解しているフェルムは、呆れたようにそう指摘する。
すると、アインは頭を掻きながら、もはや彼の言葉を否定はしな
かった。
﹁まあね。でも今現在、各国の官僚たちが中心となって行われてい
る議論は、主に商取引や住民の移動がらみの利害調整さ。実はその
辺りのところは、元々今回の会議が始まる前にした交渉は終わって
いる。まあその程度には、どの国の外交官も優秀なものさ﹂
﹁じゃあ、西方会議での議論は無用の長物と?﹂
﹁そんなことはないさ。世の中、形式とか箔付けっていうのは大事
なものだからね。それに何より、最終日には協定案の策定がある。
あれに関しては、どこぞの国がすんなりと話をまとめたいと企んで
いることだろう。となれば、おそらくこの時期に無用なトラブルは
避けようとするだろうね﹂
西方会議の最終日に行われる協定案の策定。
これこそがまさに西方会議の肝と呼べるイベントである。
この西方会議は基本的には発足時から対帝国がその主題であり、
彼の国に対して各国の責任と方針を明確化する協定の意義は非常に
大きいものがあった。
そしてこれまで協定に関しては、多数決と言う名の数の暴力によ
って、旧キエメルテ共和国の三カ国の考えが反映され続けている。
もっともそこに含まれぬクラリス王国も、単独では帝国と戦い得
1285
ぬことから、これまで一度たりとも実質的な西方会議の支配者であ
るキスレチンの意向に対し、反対を示したことはない。
ましてやラインドルは帝国と隣接していないこともあり、各国が
重要視する協定案には、元よりそれほど関心を示してこなかった。
﹁なるほど。しかし今回の協定案ですが、例年通り対帝国がやはり
重要視されるのでしょうか?﹂
﹁まあ、基本的には対帝国のための会議であり協定案だからね。も
ともと彼の国を封じ込め、そしていつか打倒することがキスレチン
の悲願さ。だから、以前より国力の衰えた帝国を前にして、彼らが
強硬論を主張するのも無理の無いところだろうね。何しろ次の選挙
も控えているしさ﹂
﹁選挙⋮⋮ですか﹂
王政国家に生まれたこともあり、比較的馴染みのない単語ではあ
ったが、フェルムはあまりいい印象をその政治的手法に持たなかっ
た。
すると、そんな彼の内心を見透かしてか、アインは軽く肩をすく
めて見せる。
﹁まあ、民主主義っていうものは、人気取りが大事だからね。皆の
共通の敵を作ることが、円滑な政権運営には欠かせないのさ。そし
てそれ自体は別に良いことでも悪いことでもない﹂
﹁敵を作ることがですか?﹂
﹁ああ。正しいことだけを行う政治。そんなものはただの机上の空
論、いや、それ以下かもしれない。だって人の数だけ、正しいもの
は存在するんだからね。となれば、比較的大多数の人にとって不利
益でない方向に国を進めることが、政治を司る者の使命さ。それも
出来る限り円滑にね﹂
アインの説明に対し、フェルムは余りピンとこなかったものの、
その主張したいことだけはどうにか理解する。
1286
﹁円滑に進められなかった場合、つまり政治が淀んでしまった場合
は、国が停滞して大多数の人が不利益を被ると?﹂
﹁おおまかに言えばそんなところかな。ただ劇的に、そしてドラス
ティックに物事を進めるのが正しいとは限らない。もしそうなのだ
としたら、ラインドルやクラリス、そして帝国のような王政や帝政
国家が完璧な政治体制であるはずさ。だけどラインドルで例えるな
ら、ムラシーンの政治体制が良かったのかといえば、現実的には決
してそうではない﹂
﹁ええ、それは確かにその通りです﹂
アインの喩えを受けて、暗黒期とも言えるムラシーン時代を思い
出したフェルムは、すぐに賛意を示す。
﹁まあ政治形態がどうであろうと、その下で暮らす人が幸せであれ
ばいいのさ。そして一研究者である私のところに、予算がたくさん
回って来れば言うことはないね﹂
﹁それを言わなければ、素直に良い話だと言えたんですが、なんだ
かなぁ⋮⋮ともかく、どんな体制でも民衆の支持を得ることができ
れば、上手く国が回るということはわかりました﹂
﹁ああ。そして出来る限り国家内部での争いを起こさず、国民の意
思統一を図る。その為に、仮想敵国を作ることは極めて有効な手段
さ。もっとも、これは民主主義国家に限らず、ラインドルでも同じ
だね。例えばかつての宰相であるムラシーンを悪と断じることで、
国家の統合を図る。これもまた、極めて重要で有益な手段さ。それ
が真実かどうかは別にしてね﹂
人差し指を一本突き立てながら、アインはそう口にする。
すると、すぐにフェルムが怪訝そうな表情を浮かべた。
﹁あの⋮⋮真実も何も、ムラシーンが悪であることは極めて当然の
ことじゃないんですか?﹂
1287
﹁良いとか悪いとかっていうのは、極めて相対的なものだからね。
当時の大多数のラインドルの民衆にとって、彼は確かに悪だった。
でも、彼の部下たちにしてみれば、そうではなかったかもしれない。
つまるところ、視点の置き方の問題だよ﹂
﹁ムラシーンを実際に打倒された方の発言とはとてもお思えないの
ですが⋮⋮﹂
目の前の人物の正体を理解しているがゆえに、フェルムはその説
明に違和感を覚える。
しかし眼前の男は、そんな彼の発言に苦笑を浮かべた。
﹁それは一体誰のことかな? 今の私はアイン・ゴッチだからね。
宰相殿とは会ったことがないことになっている。少なくとも、今は
そういう設定さ﹂
﹁設定って⋮⋮﹂
﹁はは、でもまあ本題に戻すと、彼がいなければ生活がままならな
かった彼の子飼いの兵士たちもいる。その中には、彼が雇い入れた
からこそ、子供にミルクを飲ませてやることが出来た者もいるかも
しれない。もちろん、そうではないものも多数いただろうし、ムラ
シーンを肯定するつもりは全くないよ。だけど、視点の置きどころ
によって、ものの見方なんて容易に変わる。このことは、覚えてお
いて損はないかもね﹂
両手を左右に広げながら、アインはそう口にする。
するとフェルムは、頷きつつも一つの疑問点を口にした。
﹁おっしゃられたいことはわかります。ただその上で、あなたはム
ラシーンを打倒されたわけですよね﹂
﹁だからさ⋮⋮まあいいか。ともかく何のことかわからないけど、
あの時の私にとってはそれが必要だったし、それが正しかった。た
だそれだけの話さ﹂
アインはそう口にすると、もうこの話は終わりだとばかりに視線
1288
を外の景色へと移す。
ミラニールの北に位置するサルヴァツァ。
それが今回の目指すべき目的地であり、彼等が面会する人物の住
む土地でもあった。
﹁もうそろそろのはずですけどね﹂
﹁ああ。無粋な人達が立っているから、多分あの集落がそうかな﹂
フェルムの声を受けて、アインは前方に見える小さな農村を指さ
す。
そこには十数軒程度の小さな家屋が等間隔で密集しており、少な
からぬ兵士が村の外縁を取り囲むようにして警備にあたっていた。
﹁さすがにフォックス師の住む村ということですね。しかし、彼ら
の目があるかもしれないのに、堂々とそれを持ち出してきて本当に
良かったんですか?﹂
﹁それ?﹂
フェルムが何を指しているのかわからず、アインは軽く首を傾げ
る。
すると、目の前の青年はその視線を馬車の片隅に立てかけた長い
包みへと移した。
﹁もちろん先生の刀ですよ﹂
﹁なるほど⋮⋮こいつのことね。いや、こいつを持ってくることが
目的の一つだったからさ。他に理由がないわけでもないけど、持っ
てこなければ話にならないからね﹂
﹁話にならない?﹂
アインの口にした言葉の意味がわからなかったフェルムは、怪訝
そうな表情を浮かべる。
1289
﹁ああ、せっかくフォックスの爺さんに会うんだ。多少の準備くら
いはしないとね﹂
﹁準備ですか。というか、あのフォックス師を爺さんって⋮⋮先生、
本当にわかっていますか? この村にいるのは、あの四大賢者の一
人なんですよ!﹂
これから会う人物の重要性を理解していないかのようなアインの
素振り。それを目の当たりにして、フェルムは思わず声を荒らげた。
フォックス・レオルガード。
復元師とも呼ばれるかの人物は、現在唯一その存在が公に確認さ
れている大陸四賢者の一人であった。
彼を表す際に必ずついて回る大陸四賢者という称号は、ノルトレ
ーベンの悲劇とも呼ばれるブルグント王国消失事変において、悲劇
の拡大を防いだ四名の魔法士たちに贈られたものである。
一人は事件後にその存在をくらまし、別の一人である先々代の魔
法王は病によってこの世を去った。またもう一人の男は古き名を用
いて、クラリス王国のとある一室で世俗から離れ研究を続けている。
それ故に、首都ではなく愛する故郷で生活してはいるものの、現
在も変わらずその姿を公に晒しているのはフォックス・レオルガー
ドただ一人であった。
﹁フォックスの爺さんがねぇ⋮⋮まあ、偉い人なのかと言われれば
そうなんだろうけどさ、正直言ってただの変人だしなぁ﹂
﹁ああもう、これだから先生は。大陸四賢者の一人をなんだと思っ
ているんですか!﹂
目の前の人物が普通では無いことは十分に理解できていた。そし
てその人脈もである。
1290
だが、夢や憧れを潰すかのような発言を前にして、フェルムは憤
りを見せずにはいられなかった。
﹁いや四大って言っても、生きているのは二人だけだし。亡くなっ
たフィラメントのカーラ・マイスムさんがどんな人だったかは知ら
ないけど、今残っている二人は、どちらも相当な変わり者さ。ま、
つべこべ言うよりも、フォックスの爺さんは会えばすぐにわかるさ﹂
﹁普通なら信じられないところですが、その口ぶりからみるに⋮⋮
やはりお知り合いなのですか⋮⋮﹂
﹁私が小さかった頃の話だけどね。でも、たぶんまったく変わって
いないだろうな﹂
そう口にすると、アインはゆっくりと頭を掻いた。すると、その
行為によって金髪のかつらがずれ、彼は慌ててセットし直す。
その情けない一連の行動を目の当たりにして、フェルムは深々と
溜め息を吐き出した。
﹁なんというか、先生といると、次々と僕の憧れが崩れていきます
よ﹂
﹁憧れ?﹂
﹁はい、マルフェス将軍があんな豪快な人とは知りませんでしたし、
国王陛下が学生のふりをして声をかけてくるような方だとも思って
いませんでした。それに何より⋮⋮﹂
フェルムはそこで言葉を止めると、眼前の男に視線を向ける。
だがその視線を浴びせられた当人は、全く気にする素振りも見せ
ず、馬車が止まったことにだけ反応を見せた。
﹁おっと、どうやら着いたようだよ。さて降りるとしようか﹂
そう口にすると、アインは扉を開けて馬車からスルリと降りてい
く。そして馬車の御者にこの場で留まっていてくれるよう頼んだ後
に、彼は一つ大きく伸びをした。
1291
﹁ふぅ、やっぱり田舎道はこたえるなぁ。体が辛いよ﹂
﹁歳だからじゃないんですか、先生?﹂
自らの手で肩をもみほぐし始めたアインをその目にして、フェル
ムは呆れ混じりにそう口にする。
すると、アインの手の動きはピタリと止まった。
﹁歳って⋮⋮私はまだ言われるほどの年齢じゃないよ﹂
﹁⋮⋮もしかして、お気にされているんですか?﹂
普段ならば滅多なことで動揺を見せぬ男が、明らかに声を上ずら
せたことにフェルムは気づいた。それ故に、彼はさすがに言い過ぎ
たと反省する。
一方、そんな彼に向かい、アインは頬を引き攣らせながら、すぐ
に否定を口にした。
﹁はは、そんなことはないさ。でもまあ、君よりはほんの少しだけ
歳を食っているから、少し疲れたのは事実だ。というわけで、若い
君がフォックス爺さんの家を探してきてくれ給え﹂
﹁え⋮⋮まあ、もちろんいいですけど﹂
ちょっとした用事を頼まれることは、自身の立場から当然のこと
だと思っている。
しかし先ほどのアインの口ぶりはいつになく平坦なものであり、
それ故に僅かな引っ掛かりをフェルムは覚えた。
だが、確たる理由の見当たらなかった彼は、そのまま小さな農村
の中央に止められた馬車から歩き出す。
﹁すいません、誰かいらっしゃいませんか?﹂
フェルムの声が周囲へと響く。
この村を警備していた兵士は、かなり遠くに点々と配置されてお
1292
り、そこまで聞きに行くならば馬車に戻って向かう方が早い。だか
ら彼は、この村に住む住民にフォックスの居場所を訪ねようとした
のである。
しかしながら残念なことに、彼の声に対して、反応するものは周
囲に誰も存在しなかった。
﹁おかしいな。家もあるし、生活している様子もあるのに、どうし
て人が見当たらないんだろう﹂
馬車から少し離れたところまで見回ったところで、フェルムは思
わず首を傾げる。
そしていくつかの角を曲がり、馬車から離れてほぼ集落の外れに
近い場所まで来てしまったところで、突然背後から若い青年の声が
彼の鼓膜を叩いた。
﹁そこのお兄さん。この辺りでは見かけない顔だね。一体どこのど
なたかな?﹂
周囲を見回しながら歩いていたこともあり、まさか誰かに声を掛
けられるなどと思っていなかったフェルムは、思わず腰を抜かしそ
うになった。
だが寸前のところで、どうにか気を落ち着かせた彼は、慌てて後
ろを振り返る。
すると、こんな農村には似つかわしくない美青年が、白銀の髪を
掻き上げながら立っている光景を、彼は視界に捉えた。
﹁えっと、お兄さんっていうのは僕のことかな?﹂
十代後半といった年頃の自らより若く見える青年に向かい、フェ
ルムは確認するように、自分を指さしながらそう問かけた。
1293
﹁ああ、そうさ。さっき村に入ってきた馬車に乗っていた人でしょ。
この村に外から人が来るのは珍しくてね。一体どこから来たのかと
思ってさ﹂
﹁えっと、僕自身はラインドルから。と言っても、今はミラニール
に滞在しているんだけど⋮⋮﹂
﹁へぇ、それは遠くから来たものだね。しかし、なんでわざわざこ
んな片田舎に?﹂
未だ戸惑いを隠せぬフェルムに向かい、身なりの良い美青年は矢
継ぎ早に問い掛けを続ける。
﹁うちの先生がどうしても大賢者にお会いしたいって言ってさ。そ
ういえば、この国の政府から、村に何か連絡が来ていたりしないか
な?﹂
﹁いや、特にそんな連絡が来たなんて聞いたことないな。しかし先
生って言うのは、一体誰のことかな?﹂
フェルムの口にした一つの言葉に、青年はこれまで以上の興味を
示す。
すると、説明不足だと思い、フェルムはすぐに説明を追加した。
﹁ああ。僕の大学の先生でね。一緒にこの村に来た人なんだけど⋮
⋮それで君、フォックス師の居場所を知らないかな?﹂
﹁ふむ、教えてあげてもいいけど⋮⋮その前に一つ。君の先生は、
さっきの馬車に一緒に乗ってきた仮面のおじさんで間違いないかい
?﹂
﹁おじさん⋮⋮先生が聞いたらまたショックを受けるだろうな﹂
先ほどのアインの反応を踏まえ、フェルムは彼が年齢を気にして
いることは間違いないと確信していた。それ故に彼は、青年の言葉
に対して思わず苦笑を浮かべる。
﹁はは、あの年頃の大人はデリケートだからね。しかし彼が訪ねて
1294
きたとなると、相手をしてあげなきゃいけないか⋮⋮いいだろう、
彼の元に案内してくれたまえ﹂
﹁え⋮⋮えっと﹂
突然の青年の言葉に、フェルムは戸惑いを見せる。
すると、彼を安心させるかの様に、青年はニコリと微笑んでみせ
た。
﹁いや、お二人を案内しようと思いますので。このまま村の中をウ
ロウロしているわけにもいかないでしょ﹂
﹁うん。それは確かにそうだけど⋮⋮﹂
青年の微笑みの奥に、何か言い知れぬ違和感をフェルムは覚えた。
しかし、現状において他の選択肢がないこともまた事実であり、
彼は青年を先導する形でゆっくりと馬車のある村の中心に向かって
歩みだす。
そうして、村の中心にたどり着くための最後の曲がり角を曲がる
直前で、フェルムの脳裏には一つの疑問が浮かび上がった。
﹁そういえば、君。さっき先生の事をおじさんって言ったよね﹂
﹁ああ。僕らから見れば、おじさんって言われてもおかしくないと
思うけど﹂
﹁なんで、そう思ったんだい?﹂
﹁え?﹂
突然足を止めたフェルムの問いかけに対し、青年は軽く首を傾げ
る。
すると、フェルムは青年へと向き直り、そして腰に差した剣へと
手を伸ばした。
﹁君自身が言ったはずさ。仮面のおじさんって。なぜ顔の半分以上
を隠している先生に対して、僕らから見ればおじさんなんて言葉が
出てくるのかな?﹂
1295
﹁はは、それは君が彼のことを先生と呼ぶからさ﹂
急に嫌疑を向けられた青年は、両手を左右に広げながら、そう反
論する。
だが、フェルムの表情と疑念がその言葉で晴れることはなかった。
﹁確かに、その可能性は否定しない。でも、先生ならもっと年上の
人物かも知れないはずさ。でも君の口ぶりでは、明らかに中の人物
に対する確信があった﹂
﹁ふむ⋮⋮六十点かな。母親よりは、人に物事を教えることができ
るようだ﹂
﹁⋮⋮君は何者だ? 何の目的で、僕を先生のところに案内させよ
うとしている﹂
目の前の人間は、決して信用に足る人物ではない。
そうフェルムは結論づけた。だからこそ彼は、問いかけと同時に
剣を抜き放ち正眼に構える。
﹁おやおや、これは減点かな。ともあれ、物騒なものは仕舞いたま
え。少なくとも君に危害を加えるつもりはないからさ﹂
青年はそう口にすると、フェルムに向かってニコリと微笑みかけ
る。
その笑みを目にしたフェルムは、何一つ根拠となるものは存在し
なかったものの、直感的に一つの危険性を理解した。
つまり眼前の青年は、ラインドルにおいては同年代において右に
出る者はいないと自負する己より、遥か高みにあるのではないかと
いうことを。
﹁ほう、どうやら僕に関して見た目で判断しようとはしていないよ
うだ。素晴らしいね、君の評価を五点程加点してあげるとしよう﹂
﹁おやおや、何処で道草を食っているのかと思えば⋮⋮そうなるん
じゃないかとは思っていましたが、案の定ですか。若者をからかっ
1296
て遊ぶのは、あまりいい趣味とは言えませんよ﹂
青年の言葉に呼応するかのように、フェルムの後方から放たれた
ややくたびれたかのような声。
それを耳にした瞬間、青年は嬉しそうに右の口角を吊り上げた。
﹁ふふ、君こそ僕が彼にちょっかいをかけると思って、送り出した
んだろ? ともあれ、久し振りだね。ユイ﹂
﹁ええ、こちらこそ。しかし見事に昔と変わりませんね。フォック
スの爺さん﹂
溜め息を一つ吐き出しながら、アインはそう口にする。
彼の視界に映し出された人物。
それは、幼き頃に目にした時とかけらも変わらぬ、青年のような
若々しさを保ったままのフォックス・レオルガードその人であった。
1297
輝きよ再び
﹁なんですかこれ⋮⋮え⋮⋮﹂
集落の最奥に立つやや大きな家屋。
そこへ足を踏み込んだ途端、フェルムは目を白黒させた。
﹁ふふ、ようこそ我が家へ。うちの子猫ちゃんたち共々、君たちの
来訪を歓迎するよ﹂
二人を先導するように前を歩いていたフォックスは、後ろを振り
返るとともにニヤリと笑みを浮かべる。
途端、出迎えのために周囲に並んでいた若々しい女性たちは一斉
にその頭を下げた。
その光景は、一言で言えばあまりに異様。
もちろん、その場に存在する女性たちは、気品と美貌と若さを兼
ね揃えたまさに麗しき姫君といった様相である。
だがそんな女性たちが二桁も、片田舎のさして大きくない家の中
で一堂に会している状況は、華やかさを通り越してある種の奇妙さ
をフェルムに強く感じさせた。
﹁はぁ⋮⋮やはり相変わらずですか。というより、昔より女性の数
が増えていらっしゃいますよね﹂
﹁当然だろ。ここは自由の国だ。子猫ちゃんたちには相手を選ぶ自
由がある。そして私の存在を目にしてしまったからには、ここへや
ってくるのはまさに自然の摂理さ﹂
泰然としながら、フォックスはアインに向かってそう語る。
そして入り口で立ち話は何だとばかりに、彼は奥の応接室へと二
1298
人を案内すると、自らの向かいのソファーをアイン達に勧めた。
﹁で、なんでこんなところまで来たのかな?﹂
ややエキゾチックな浅黒い肌を持つ女性の一人が、三人分のコー
ヒーを運んで来る。
微笑みながらそれを受け取り、彼女が部屋から退室したところで、
フォックスはそう切り出した。
するとアインは、両手を軽く左右に広げながら、シンプルに答え
る。
﹁それはもちろん、あなたに会いたかったからですよ﹂
﹁ほう、それは光栄だ。噂では、大陸でも指折りの有名人になった
そうじゃないか。そんな英雄殿がこんな片田舎に来てくれるとはね。
しかし一つ残念なことは、私は男に会って喜ぶ趣味はないというこ
とさ﹂
アインに向けて右の手のひらを突き出すと、フォックスは意味あ
りげに笑う。
すると、この場において自らを偽る必要を感じなかったアインは、
マスクとかつらを外し、そのままゆっくりと頭を掻いた。
﹁はぁ⋮⋮そう言われると思いましたよ。というか、一つ聞きたか
ったんですが、女性にモテるための若作りですか、その姿は?﹂
最後に会った二十年前と全く変わらぬその姿。
それはお互いの実年齢とは大きくかけ離れ、むしろアインの方が
かなり年上に見えるほど若々しかった。
﹁それだけじゃないけど、もちろんそれもあるかな。ふふ、羨まし
いかい?﹂
﹁いいえ。彼女たちの姿と併せて、相変わらず御盛んだなと思った
だけですよ﹂
1299
﹁ふふ、まあ褒め言葉と受け取るよ。そういえば、君の結婚は?﹂
女性に関する話題となったところで、フォックスはアインに向か
ってそう問いかける。
すると、わずかに渋い表情を浮かべながら、彼は言葉を選んで否
定した。
﹁していませんよ。あなたと同じです﹂
﹁僕と同じ? その割には、君からは欠片も女性の匂いを感じない
な。帝国の姫との婚約話の噂や、メディウムの娘と一緒にいたなん
て話は聞いてはいるけどね﹂
﹁予め独身とわかってのご質問は、性格が悪いですよ。というか、
ナーニャのこともご存知だったのですね﹂
思わぬ人物の事が話題に登り、アインは驚いた様子を見せる。
その表情を目にして、フォックスはニヤリと笑みを浮かべた。
﹁君は有名人だからね。しかし、我が教え子たるメディウムの娘は
あんな素敵なレディだった。にも関わらずだ、一緒にいながらなぜ
彼女に手を出さなかったんだい? あんな本物の深窓の令嬢なんて
二人といないよ﹂
﹁そういえば、貴方はディオラム魔法学校の出でしたよね⋮⋮なる
ほど、当時の彼女のことを知っていても、まあ無理が無いというわ
けですか﹂
﹁当時?﹂
アインの発言を耳にして、フォックスは眉間にしわを寄せる。
しかし、アインは意味ありげな笑みを浮かべるとともに、その口
を開いた。
﹁いえ、お気になさらず。機会があれば、今の彼女をご紹介します
よ。まあそれはともかく、基本的には独り身で勝手気ままにやるの
が気楽で性に合っているんですよ﹂
1300
﹁それは愛の素晴らしさを知らないからさ。あえて君の母親の国の
言葉で言えば、井の中の蛙というやつだね﹂
﹁いや、貴方と比較されたら、誰だって愛の解釈は違うと思います
けど。しかしなるほど、この家の環境を見るだけで、この国の政府
があなたをここに押し込める理由がわかりましたよ﹂
部屋の外で、家主を待ちわびているだろう女性たちのことを思い
ながら、アインは呆れたようにそう口にする。
途端、眼前の男は抗議を口にした。
﹁おいおい、偏見を持つのはやめてくれ給え。先程も言ったように、
この国は自由の国さ。だから彼女たちは自分から望んでここにきて
いる。そこに嘘偽りはなしさ。政府が私を監視しているのとは全く
無関係にね﹂
﹁でも中には、彼らのスパイもいらっしゃるでしょ?﹂
﹁スパイだとしたら何だと言うんだい? 止むに止まれぬ事情を持
つ女性にも愛を注ぐ。それが真の博愛主義者というものさ﹂
嘘偽り無しといった様相で、フォックスは堂々とそう言い放つ。
その潔さを前にして、アインは苦笑を浮かべずにはいられなかっ
た。
﹁いやぁ、私にはさっぱり理解できない領域ですね﹂
﹁ふむ、まあ君ももう少し歳を重ねたらわかるようになるさ﹂
﹁そうですかねぇ⋮⋮アズウェル先生も歳を重ねていますが、愛し
ているのは書物と情報だけのようですが﹂
とある堅物の老人の名前をアインが口にすると。フォックスはや
や懐かしげな表情となり、そして世間一般で知られている彼の戦友
のもう一つの名を口にした。
﹁ダドリーの奴は無粋な男だからね。でも、例の落ち延びた娘を引
き取ったんだろ?﹂
1301
﹁ええ。今は私のそばで働いてくれていますよ﹂
﹁ほら、やっぱり。だからあいつはダメなんだ。せっかく若い花を
手に入れたというのに、ものの価値のわからぬ若造のそばになんて
置くから。私なら絶対に自分のそばから手放さないね﹂
﹁そういう愛の形もあるということですよ﹂
昔から花があれば必ず自分で摘み取ると公言している男に対し、
アインは呆れながらもそう反論する。
すると、フォックスはわずかに眉をひそめた。
﹁親子の愛とでも言いたいのかい? 残念ながら、それこそ私には
理解不能さ﹂
﹁わかろうとすれば出来るでしょ。両手に花という言葉では足りぬ
ほど、美しい方に囲まれておられるのです。実際に、どなたかと子
どもを作ってみられれば良いじゃないですか﹂
﹁私の年齢のことは知っているだろ?﹂
やや不機嫌そうな口調でフォックスがそう口にすると、アインは
チラリと隣りに座るフェルムの表情を確認した上で、一つの問いか
けを口にした。
﹁⋮⋮つまり、いくら貴方でも中身は戻せないと?﹂
﹁見かけ上なら可能さ。ただしテロメアの伸長はできない。だから、
もし彼女らが妊娠したとしても⋮⋮わかるだろ? それに第一、そ
んなことをすれば、僕の愛でた子猫たちの愛情が子どもに移ってし
まう。僕はね、僕だけを好きでいてくれなければいけないのさ﹂
ややうつむき加減となりながらも、フォックスは自らの考えをは
っきりと告げる。
その彼の表情が、彼の本音がどこにあるのかを何よりもアインに
伝えた。
﹁はぁ⋮⋮やっぱりあなたは変わり者ですよ﹂
1302
﹁ふふ、それはよく言われる。でも僕に言わせれば、変わっている
のは僕と僕の子猫たち以外さ。ま、それは良い。そろそろ本題に入
ろうか。で、僕に何を直せって?﹂
その言葉がフォックスの口から放たれた瞬間、アインは目を白黒
させる。そして頭を掻きながら、ゆっくりと口を開いた。
﹁わかりますか﹂
﹁そりゃあわかるさ。じゃなければ、ダドリーに負けぬほど無粋な
夫婦の息子が、わざわざ僕に会いに来たりしないだろう?﹂
﹁噂には聞いていましたが、母があなたではなく父を選んだこと、
まだ根に持っていらっしゃるんですか?﹂
自宅で深酒をしていた酔っぱらいから聞かされた一つの物語。
ある意味、全てが自慢話に等しく、話半分に聞いていた物語であ
ったが、彼はここにその中の一つが事実であったことを理解する。
﹁根に持つ? そんなことはないさ。ただ僕の子猫となる価値のあ
る女性が、あんな無粋の極みを選んだことが理解できないだけさ﹂
﹁まあ、あの人が無粋の極みということだけは同意しますよ﹂
﹁だろう。まったく何であんな唐変木と⋮⋮まあいい、話を戻そう。
改めて聞くけど、僕に何を直して欲しいんだい﹂
軽く両手を広げた後、フォックスはアインに向かってそう問いか
ける。
すると、アインは持参してきた一つの細長い包を差し出した。
﹁これですよ﹂
アインから包を受け取ったフォックスは、ゆっくりと中に包まれ
ていた一振りの長刀を手にする。そしてゆっくりと鞘から刀を取り
出し、窓から差し込む光に刀身をかざした。
﹁彼女の刀か⋮⋮確かに、僕のところ以外に、持って行く先はない
1303
だろうね﹂
﹁ええ。これまでは母さんに教わった方法で、自分で研いではいま
した。ただ⋮⋮﹂
そこまで口にしたところで、アインは口ごもる。
フォックスは彼の言葉を受けて、そっと自らの指で刃をなぞった。
赤い一筋の血液が刀身を伝う。
そしてその瞬間、フォックスは小さく頷いた。
﹁なるほど、これではただのよく切れる刀だ。剣の巫女のものだと
胸を張って言えるシロモノではないな﹂
そう口にしたところで、フォックスはニヤリと笑う。
そんな彼に向かい、アインは真剣な表情で依頼を口にした。
﹁お願いできませんか。可能ならば、こいつを出来る限り元のよう
に﹂
﹁元のように⋮⋮か。ふむ、君は代償として私に何を用意できる?﹂
﹁金銭で良ければお望みの額を﹂
間髪入れずアインはそう提案する。
だが、そんな彼の発言はフォックスによって一蹴された。
﹁そんなものには困っていないし不要さ。わかるだろ?﹂
彼を取り巻く女性たちの華やかな装いを見るだけで、眼前の男が
金銭的なものを必要としていないことは明らかであった。
だからこそアインは、自らの懐に手を伸ばすと、一つの紅い結晶
を取り出す。
﹁ですよね。となれば、こいつでいかがですか﹂
﹁なんだい、魔石かい⋮⋮君が魔石産地の領主をしていることは知
っているけどさ﹂
1304
目の前のローテーブルに置かれた魔石を一瞥し、フォックスは軽
く鼻で笑う。
しかしそんな彼に向かい、アインは改めて自らの置いた結晶を勧
めた。
﹁はは、まあそう言わずに手にとって見てください﹂
﹁ん? ⋮⋮っ、おい、こいつは!?﹂
大して興味は惹かれなかったものの、アインに勧められるまま目
の前の結晶を手にしたフォックスは、頬を引き攣らせるとともに目
を見開く。
すると、アインはしてやったりとばかりに、ニコリとした笑みを
浮かべた。
﹁ええ。物質のソースに干渉できる貴方ならお分かりかと思います。
それは魔石の魔力を抽出し結晶化したものですよ﹂
﹁⋮⋮信じられん。いや、君があの男の息子だとしてもだ﹂
眼前に存在する高密度な魔力結石。
その存在が如何に途方も無いものであるか、それは賢者とさえ呼
ばれるフォックスの震える声が、何よりも雄弁に物語っていた。
﹁で、如何です。こいつと引き換えにお願いできませんか?﹂
﹁⋮⋮いいだろう。引き受けてやる。但し少し時間をもらうぞ﹂
先ほどまでの青年口調がすっかりと消え失せたフォックスは、表
情から笑みを消したまま、アインに向かって受諾を伝える。
一方、対照的に黒髪の男は満面の笑みを浮かべた。
﹁それは良かった。それでは交渉成立で︱︱﹂
﹁そこにいるのは誰だい? ノック無しに部屋に入ってくるのは、
いくら淑女でもあまり歓迎できないな﹂
突然、フォックスによって遮られたアインの言葉。
1305
それが発せられた瞬間、一同の視線は部屋の入口へと向かう。
そこには、ほんの僅かに驚きを見せる小柄な黒髪の女性の姿があ
った。
﹁四大賢者が一人、フォックス・レオルガード。さすがね﹂
﹁ああ、クレハか。そういえば、君は会ったことがないのだったね﹂
彼女の姿を認めたアインは、苦笑を浮かべながらそう口にする。
すると、フォックスは興味深げに無断で部屋に忍び込んできた女
性を眺めやった。
﹁ふぅん、なるほど。彼女が例のね。で、何の用だい? 見たとこ
ろ、僕の魅力に誘われて来たわけではなさそうだけど﹂
﹁せっかくだけど、あなたには用はないの﹂
四大賢者の問いかけを、クレハはあっさりと切り捨てる。
そんな彼女の応対を前にして、アインは思わず頭を掻き、彼女の
来訪があまり良くない案件であることを理解した。
﹁はあ⋮⋮ということは私に至急の用件というわけかい。あまり聞
きたくはないけど、一体何かな?﹂
﹁ユリが動き出したわ﹂
その言葉が発せられた瞬間、アインの表情は強張る。
クレハの口にしたユリという言葉。
それはとある国家の象徴であった。
﹁ユリの花びらが舞おうとしている⋮⋮か。つまりトルメニアは本
気だということだね﹂
﹁ええ。極秘裏に国境周辺に軍を動かしているわ﹂
﹁そしてその情報は、おそらく西方会議の面々には伝わっていない
⋮⋮いやわかっていて、あえて伏せられているという方が正しいか
な﹂
1306
渋い表情を浮かべながらそう口にすると、アインは思わず右手を
自らの顎に添えて黙りこむ。
そうして、一瞬場が鎮まりきったタイミングで、これまで遠慮し
て口を開くことがなかったフェルムが、不安そうに教師に向かって
問を口にした。
﹁先生、どういうことですか? トルメニアが何かを企んでいるの
ですか?﹂
﹁ああ。どうやら彼らは、大きく前へ踏み出すつもりのようだ。は
ぁ⋮⋮だとしたら、私達も動くとしようか。クレハ、例の計画を第
二段階へと進めてくれ﹂
大きな溜め息を一つ吐き出したアインは、クレハへと視線を向け
ると、以前より予定していた一つの計画を実行することを宣言する。
﹁本当にいいのね?﹂
﹁ああ。もう少しアインのままで居たかったけど、どうやら許され
ないようだ。実に⋮⋮そう、実に残念なことだけどね﹂
﹁前に進むと決めたのなら覚悟を決めなさい。ともかく、それじゃ
あ計画通り、貴方の正体に関する情報をミラニール内に流すわ﹂
﹁ちょ、ちょっと待って下さい﹂
クレハの発言した内容を耳にした途端、フェルムは驚きを見せる
とともに、思わず口を挟む。
﹁どうしたんだい、フェルム﹂
﹁いきなり入ってこられたこちらの女性が、一体どなたか知りませ
んが⋮⋮ともあれ、先生の正体を流すって本気ですか?﹂
その正体を知った時の衝撃を思い起こしながら、フェルムは目の
前の男の真意をつかむことが出来ず、震える声でそう問いかける。
一方、そんな教え子の動揺を目の当たりにしながら、アインは迷
うことなく首を縦に振った。
1307
﹁ああ。情報を隠す段階は終わりということさ。ここからは逆に、
私が誰かということを伝える段階さ。彼等の視線を集めるためにも
ね﹂
﹁彼等?﹂
アインの言葉が何を指しているのかわからず、フェルムはすぐさ
ま問い返す。
すると、眼前の黒髪の男は、ゆっくりとその口を開いた。
﹁ああ。この国を⋮⋮いや、大陸西方をクレメア教という絵の具で
塗りつぶそうとしている連中がいる。そんな彼等に対し、素直にキ
ャンバスを差し出すわけには行かないのさ。だから私は表舞台に戻
ることにするよ﹂
﹁いいのかい? こんな片田舎に住んでいる私が言うのも何だが、
歴史の潮流の中心に立つ以上、もはやあと戻りできないかもしれな
いよ﹂
この空間にいるものの中で最年長であり、そして最も若い男性の
声。
それが発せられると、アインは苦笑を浮かべながら、彼に向かっ
て言葉を返した。
﹁はは⋮⋮昔、あなた方は成すべきことを果たされた。不肖ながら、
今度は私達の番だということですよ﹂
﹁バトンは引き継がれる⋮⋮か。いいだろう、新しき英雄。こいつ
のことは私に任せておきたまえ。君が必要とする時までには、仕上
げてみせよう。魔法排斥主義者なんて言う無粋な連中に、ここを踏
み荒らされたくはないんでね﹂
フォックスはそう口にすると、その若く端正な顔に笑みが浮かべ
る。
その言葉を受けて、アインは眼前の賢者に向かい一つ頭を下げる
1308
と、その視線を隣の教え子へと向けた。
﹁よろしくお願いいたします。というわけで、クレハ。例の客人た
ちの案内は頼む。市内についたら、あとはフェルムに引き継いでも
らっていいから﹂
﹁⋮⋮本当に大丈夫なの?﹂
クレハは値踏みするような視線を、アインの隣に腰掛ける青年へ
と向ける。
すると、黒髪の男はニコリと微笑んでみせた。
﹁誰の教え子だと思っているんだい?﹂
﹁だから余計によ⋮⋮まあいいわ。私も彼らばかりにかまけている
訳にはいかないしね﹂
自信あり気なアインの言葉を受けて、クレハは無表情のままその
提案を受け入れる。
一方、いつの間にか全く知らない案件に巻き込まれる形となった
フェルムは、オロオロした様子を見せながら、疑問を口にした。
﹁ちょ、ちょっと待って下さい。僕は何をしたらいいんですか。そ
れに客人とは一体?﹂
﹁はは、いやちょっと変わったお客さんたちがミラニールへ着いた
ら、その後のエスコートをお願いしたいという話さ。予定通りなら
ば、最終日の前日にはミラニールに到着する予定でね﹂
﹁もちろんエスコート自体は構いません。それよりも気になるのは、
変わったお客さんというのが、どなたかということですが⋮⋮﹂
﹁ああ、それなんだけどね。一人はとある国の赤い髪を持つ女性。
そしてもう一人は⋮⋮﹂
そこまでを口にしたところで、アインは太陽が沈みゆく方角へと
視線を向ける。
そしてその口から、想像だにせぬ二人目の人物の名が告げられた。
1309
﹁え⋮⋮ええ!?﹂
その名を耳にするなり、フェルムは驚愕のあまり、口を開けたま
まその場で硬直する。
その表情を目にした瞬間、アインは嬉しそうに笑みを浮かべた。
1310
一つの噂
﹁ふむ、トルメニアが動いたかね﹂
大統領官邸の一室。
そこで報告書類に目を通したトミエルは、眼前の男に向かいそう
問いかける。
すると、深々と頭を下げる第二情報部部長のクルーソンは、報告
書に記載されていない人物名を口にした。
﹁はい。ザムラン枢機卿からも、直接大統領にお伝えするようにと、
ご連絡を頂いております﹂
﹁ほう、ザムラン殿から⋮⋮ちなみに、この情報は統一宗教主義戦
線の連中には?﹂
﹁もちろん伝えられておりません。上会の方々は、あの男を警戒し
ておられますから﹂
上会と呼ばれる枢機卿のみで構成される会議。
そこに名を連ねる面々は、唯一本国外に存在するとある枢機卿を、
以前より敵視していることは有名であった。
だからこそトミエルは、納得したとばかりに大きく首を縦に振る。
﹁なるほど、ならばこの私と同じだ。あの男は我らクレメア教団に
とって劇薬。その認識は衆目の一致するところというわけだな﹂
﹁はい。ですが、あの男の背後には大主教猊下がおられます。警戒
は怠るべきではないでしょう﹂
﹁猊下もどうしてあんな誇大妄想家を重用されようとするのか⋮⋮
正直言って、まったくその気がしれんな﹂
首を左右に振りながら、トミエルは呆れたようにそう口にする。
だがそんな彼の発言を、敬虔なクレメア教の信者であるクルーソ
1311
ンは聞きとがめた。
﹁大統領⋮⋮﹂
﹁ああ、すまん。今のは失言だ、忘れてくれ。悲願が成就される日
が迫り、いささか心が浮ついているようだ﹂
トミエルは慌てて自らの発言を取り消すと、苦笑混じりに言い訳
を口にする。
クルーソンはそんな彼を冷ややかな目で見つめながらも、これ以
上彼をその話題で追い詰めることはしなかった。
﹁まあいずれにせよ、願い続けた日が訪れようとしております。ク
レメア教への信仰をひた隠しにしながら、改革派にあえて身を投じ
られ、その成果が現れる日がです。大統領のお気持ちはお察し致し
ますよ﹂
﹁うむ。自由競争などというまやかしを口にして、不平等を是正す
る気のなかったフェリアムから政権を奪い、ついにここまで来た。
生まれながらにして自由で平等。その国家理念を破壊しうる魔法士
という存在を、今こそ消し去る時だ﹂
﹁然り。そしてこれがなされれば、大統領はこの地の唯一の枢機卿
に推挙される予定。我々、前大主教猊下の意を汲む正統なるクレメ
ア教の信徒たちも、全て大統領のお考えを実現できるようお味方を
するつもりです﹂
トミエルの発言に続き、クルーソンは力強くその後押しがあるこ
とを彼へと伝える。
すると、その意を受けたとばかりに、トミエルは拳を握りしめな
がら高らかと宣言した。
﹁フェリアム、そしてケティス。彼ら共々、この機に乗じて西方の
主だった者たちを一斉に排除する﹂
﹁はっ、既に準備は着々と進めております⋮⋮ただそれに際しまし
1312
て、一つお耳に入れておきたいことがございまして﹂
そう口にしたところで、クルーソンは渋い表情を浮かべる。
一方、トミエルはそんな情報部長の表情に違和感を覚えたものの、
特に気にする素振りも見せず、彼に先を促した。
﹁ほう、耳に入れておきたいことか。一体何かね?﹂
﹁はい。先日来、ミラニール市内で聞き捨てならぬ噂が広まってい
ること、大統領はご存知でしょうか?﹂
﹁特に気に留めるような噂を耳にしたことはないが⋮⋮﹂
心当たりのなかったトミエルは、軽く首を傾げる。
すると、そんな彼に向かい、クルーソンは声を潜めながら噂の概
要を口にした。
﹁その噂なのですが⋮⋮カイラ国王の護衛を務めている仮面の男、
奴の正体が、現在行方不明となっているあの男ではないかという話
なのです﹂
﹁あの男? 一体誰だね? クルーソン君、もったいぶらずに教え
てもらえるかな﹂
﹁救国の英雄などと吹聴されている男。ユイ・イスターツです﹂
その名がクルーソンの口元から発せられた瞬間、トミエルは目を
見開くと、驚愕の表情を浮かべる。
﹁ユ、ユイ・イスターツだと!? ばかな、あの男は帝国に暗殺さ
れたのではなかったのか?﹂
﹁それは帝国で突然足取りが消えたことから流布された一つの仮説
に過ぎません。そもそも帝国にとって、レムリアックという魔石の
供給元を握るあの男を暗殺する理由はないのですから﹂
トミエルに対し、クルーソンは首を左右に振ると、そのまま彼の
発言を否定する。
だがそんな第二情報部部長の言葉に対し、トミエルは理のあると
1313
ころを認めながらも、そのまま素直に頷くことは出来なかった。
﹁うむ、確かにそれはそうだが⋮⋮だが仮面の男が本当にあの英雄
だとするならば、なぜカイラ王などに付き従っているというのだ?﹂
﹁カネ⋮⋮ということはないでしょうな。何しろ彼の男は、あのレ
ムリアックを有しているわけですから。となれば、クラリスとライ
ンドルの間で、何か密約が存在しているのかもしれません﹂
クルーソンが険しい表情を浮かべながらそう口にすると、トミエ
ルはこの西方会議が始まる前に行われた、一つの奇妙な軍事訓練の
存在に思い至った。
﹁密約か。それが真実であれば、ラインドルのクーデター中に行わ
れた、あの奇妙極まる軍事訓練の意味が通る。なるほど、最初から
クラリス王家と対立している貴族院をけん制するための訓練だった
とそういうことか﹂
﹁ええ、確かに辻褄は合いますな﹂
眉間にしわを寄せながら黙り込んだトミエルに向かい、クルーソ
ンは頷きながらその見解への理解を示す。
﹁ああ。ただこの解釈は、あくまであの仮面の男が本当にユイ・イ
スターツであればの話だ。結局のところ、その噂が本当かどうか、
何か証拠はつかめているのかね?﹂
﹁現在のところ、決定的な証拠はまだ⋮⋮ただ市中の複数の情報源
から同一の噂の報告がありました。またもう一点掴めている情報に
よりますと、例の老人に張り付かせている者から、仮面の男が東方
の刀を預けに来たという連絡があった由にございます﹂
これまでのいずれの政権においても、完全に持て余され続けてき
た大賢者。
監視下においていた彼への面談を許可したのは、他ならぬトミエ
ルである。そしてそれ故に、この情報は彼らにとって、あたかもひ
1314
とつの事実を指し示しているかのように思われた。
﹁⋮⋮確かユイ・イスターツの扱う得物は、東方の刀であったな﹂
﹁はい。そう伝え聞いております﹂
東方特有の黒髪を持ち、そして東方の反りのある刀を腰にさす。
それはあまりに有名な、ユイ・イスターツの特徴であった。
それ故に、どのような経緯で広まりを見せているかわからぬもの
の、広がりを見せる噂が確度の高いものであるとトミエルは判断す
る。
﹁クルーソン君。この情報は第一情報部の連中、つまりケティス達
は掴んでいるか?﹂
﹁わかりません。ですが、市中で広がり始めている噂です。連中が
掴んでいても不思議はありません。それに、あの極度に女にだらし
ない男のところに、連中からもスパイが送り込まれている可能性も
極めて高いかと﹂
フォックスの元に入り込むことが如何に容易であるか、それは部
下を送り込んでいるクルーソンが他の誰よりも深く理解していた。
そしてそんな彼の発言に対し、トミエルは苦々しい表情を浮かべ
ながら同意を示す。
﹁だろうな⋮⋮ともあれ、ラインドルとクラリスが極秘裏に結託し、
その後ろにあの男が居るとなれば、極めて厄介なことになりかねん。
クルーソン君、至急クラリス及びラインドルの連中の動向を追って
くれ。特に仮面の男には念入りにだ﹂
﹁はっ、了解いたしました﹂
﹁うむ。根も葉もない噂であれば良い。だが⋮⋮仮にあの男だとす
れば﹂
そう口にしたところで、ユイ・イスターツが関与したとされる様
1315
々な伝聞が、トミエルの脳裏を埋め尽くした。
そして彼が導き出した答えはただひとつ。
﹁もしも奴がユイ・イスターツとするならば、いかなる手段を用い
てもよい。すみやかに⋮⋮そう、すみやかにあの男を抹殺するのだ﹂
1316
白昼堂々
﹁今日はやけにお客さんが多いようだね﹂
ゆっくりと大通りを進む馬車の窓から、視線を外へと向けたアイ
ンは苦笑混じりにそう呟く。
すると、向かいの席に腰掛けていた青年は、当然だとばかりに溜
め息を吐き出した。
﹁もはや公然の事実と化していますからね。先生の正体が﹂
﹁ふむ。となれば、思ったより順調というところかな﹂
フェルムの返答を受けて、アインはニコリと微笑む。
そんな彼の微笑みを、大通りの至る所に配置された各国の諜報員
達は、神妙な面持ちで監視していた。
北のサルヴァツァの街から戻って以降、アインへと向けられる視
線は尋常な数ではない。
もちろんそれは、その正体の確認を命じられている者たちの視線
が中心ではあった。だが現在、仮面を付ける彼に向けれられる視線
は、好奇心を抱く一般市民のものも少なくないのが実情である。
つまり自分たちの誇る英傑を倒した仮面の男がとある英雄である
かどうか、それは彼の正体の噂を耳にした者たちにとって共通とな
る興味と疑念であった。
もちろん一般の市民たちがこれほど強い関心を抱くのは、この噂
はある意味、彼等にとっての慰めとなるものであるからである。
何故ならば、彼等の誇る英傑がどこぞの馬の骨に敗北したという
よりも、高名な英雄に敗北したという方が、先日の戦いの結果を納
1317
得できるというのが彼等の一致する心境であった。それ故に、市中
で広まりつつある噂は、この情報を意図的に流した当人たちの考え
ている以上の早さで、順調に広がりを見せつつある。
﹁で、今日のおでかけはどちらへ?﹂
﹁差し当たって、どこでもいいんだけどね。どうせなら人目のつき
やすいところがいいからさ、西方会議の開かれているミラニール国
立会議場へ向かってくれとバールさんには頼んでいる﹂
アインはそう答えると、前方の白髪の御者を指さす。
一方、フェルムはその仕草ではなく彼の発言に対し、呆れたよう
に言葉を漏らした。
﹁どこでもいいって⋮⋮﹂
﹁はは、まあ本当にどこでもいいわけではないけどさ。大事なこと
は、彼等を引き連れて市内をうろつくことだけだからね。それなら
ば、より注目度の大きい所に行くほうが遥かに⋮⋮ん!?﹂
両手を広げながらフェルムに向かいそう口にしかかったところで、
アインは右手の視界の端に、キラリとした輝きが生まれたことに気
がつく。
途端、彼は前方の御者に向かって叫んだ。
﹁バールさん、今すぐ手綱を放り出して左手に飛べ!﹂
突然のアインの叫びに馬車内にいたフェルムはもちろん、突然の
命令に御者も驚きを見せる。
だが次の瞬間、馬車の横っ腹に炎の弾丸が直撃した。
なぎ倒され発火する馬車。
突然の事態に暴れだす馬。
そしてフェルムの首根っこを掴み、間一髪で外へ飛び出す仮面の
1318
男。
﹁ちっ、油断していた。まさかこんな人通りの多い街中で仕掛けて
くるとは﹂
バランスを崩しながらも、青年を掴んだままどうにか着地したア
インは、すぐに御者を確認しようと周囲を見回す。
すると、路上に投げ出されながらも、どうにか起き上がろうとし
ている白髪の壮年を視界に捉え、彼はその名を叫んだ。
﹁バールさん!﹂
未だ何が起こったのか理解できず、オロオロしているフェルムの
肩をポンと叩くなり、アインはそのまま御者の下へと駆け出す。
しかし今度は左手の方向から、彼に向かって一つの物体が高速で
襲いかかった。
﹁ちっ、襲撃者は複数か!﹂
自らの頭部めがけて放たれた矢。
姿勢を沈めることで、その矢をぎりぎり回避すると、彼は舌打ち
を一つする。そして慌てて駆け寄ってきたフェルムへと視線を走ら
せ、彼はその口を開いた。
﹁襲撃者以外の監視者も混じっているから、敵が判別しづらいな。
その上、大通りではさすがに死角がなさすぎる。フェルム、とりあ
えずここから逃げるとしようか。というわけで、その角を左に曲が
ると、一区画向こうに白い大きな建物が見える。君はそこへバール
さんを誘導してくれ﹂
﹁白い大きな建物ですね?﹂
﹁ああ、それが同盟派の本部さ。あそこなら、この国の軍が警備を
しているから、彼等も流石に手を出せないだろう﹂
そう口にしながら、以前フェリアムを訪ねた際に、フェルムも連
1319
れておくべきだったとアインは後悔していた。
一方、アインの命を受けたフェルムは、頷くとともに一つの問い
を放つ。
﹁分かりました! でも、先生は?﹂
﹁ほんの少しだけ、ここで時間を稼ぐ﹂
﹁で、ですが!﹂
アインの言葉を耳にするなり、それが誰と誰のためか理解したフ
ェルムは、抗議の声を上げる。
しかし、首を左右に振ってそんな彼を黙らせると、アインはニコ
リと笑みを浮かべた。
﹁大丈夫、無駄に彼等と遊ぶつもりはないさ。ただ丸腰と言うのも
なんだからね、ちょっとこいつを借りるよ﹂
そう口にすると、アインはフェルムの腰に備えられていたブロー
ドソードを拝借する。そして、もう話すことはないとばかりにフェ
ルムから視線を外し、彼は剣を構えながら周囲をゆっくりと見回し
た。
﹁⋮⋮分かりました。僕達、先生を待っていますので﹂
﹁ああ、わかっているよ。予定外の労働は私の趣味じゃないからね。
っつ、先ほどの射手か! 早く行きなさい!﹂
先ほどとほぼ同じ方向から放たれた矢に気づき、アインは拝借し
た剣を振るうと同時に、フェルムを急がせる。
そうして、迫り来る矢をアインが剣で弾いたタイミングで、バー
ルを連れながらフェルムは駆け出した。
﹁しかしやはり狙いは私だけか。どちらの方々の企みかわからない
けど⋮⋮って、おやおや、姿まで現すとはやり過ぎじゃないかい?﹂
たまたま大通りに居合わせた民衆達は既にパニックとなっている。
1320
しかしそんな混乱著しい人混みを抜けだし、明らかに物騒なものを
手にした四名の男たちがアイン目掛けて迫っていた。
眼前の四名に加え、建物の影に潜みながら彼を狙う魔法士と射手。
アインは圧倒的な不利を理解すると、僅かに下唇を噛んだ。
そして数ある選択肢の中から、最もリスクを下げることが出来る
と思われる決断を彼は下す。
そう、迫り来る四名の男たちに向かって、駆け出すという決断を。
﹁何だと!?﹂
予想外の行動をとったアインに対し、先頭で彼に向かい駆けてい
た男は驚きの声を上げる。
すると、アインは迷うことなく、男に向かい右上段から剣の一撃
を放った。
﹁ぬう⋮⋮だが、受け止め︱︱﹂
アインの一撃を自らの剣で受け止めた男は、このまま彼を押し留
めれば、他の仲間と囲むことが出来ると、ほんの一瞬だけ気を緩め
る。
しかしそんな彼の言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
﹁ごめん。西方の剣は余り得意ではなくてね﹂
剣に込めた力を急に抜き、男の剣が正中からずれた刹那、アイン
はそのまま深々と敵の首元にエルボーを突き立てる。
次の瞬間、呼吸困難と痛みに襲われた男は、その場にうずくまっ
た。
﹁さて、あと三人⋮⋮か﹂
1321
そう口にするなり、アインは後方に大きく飛ぶ。
そして間髪入れることなく、先程まで彼がいた空間を矢が切り裂
いた。
﹁いや、少なく見積もっても残り五人か。治安部隊が駆けつけるま
で粘るのは少し手間だね。魔法士と射手はここから離れているし。
となると⋮⋮﹂
アインはそう口にしながら、視界の端で一つの炎が生み出されつ
つあることに気づいていた。
そしてだからこそ、彼はわずかに口元を歪めると、迫り来る男た
ちに相対しながら、一つの呪文を口にする。
﹁マジックコードアクセス﹂
突然、意味不明な呪文を口にし始める仮面の男。
そんな彼に向かい地上の男たちは迫り、そして狙撃用の炎の弾丸
を編み上げ終えた魔法士は迷うことなく解き放った。
それらはほんの僅かな時間差で、アインへと襲いかかる。
すると、炎の弾丸と男たちが共に視界に収まった瞬間を見逃すこ
となく、アインは発動の鍵となる呪文を口にした。
﹁クラック!﹂
その呪文が紡がれた瞬間、アイン目掛けて放たれた炎の弾丸は、
その直前で進行方向とは逆方向に向かって爆ぜる。
﹁な、なんだと!?﹂
魔法に続く形で、アインに襲いかかろうとしていた者たちは、突
然の魔法の爆発を真正面から浴び、叫び声を上げたまま弾き飛ばさ
れた。
1322
﹁さて、どなたの手元から送り込まれたのかしらないけど、基本的
に肉体労働は私の趣味ではなくてね。申し訳ないが失礼するよ﹂
両目を押さえる男たちに向かってそう口にすると、アインは迷う
ことなくその場を駆け出した。
それまでに彼目掛けて放たれた矢と魔法の軌道。
脳内でその軌道を再現し、大通りから脇道に逸れるなり、アイン
は彼等の死角へ死角へと移動しながら、目的としていた場所へと辿
り着く。
すると、彼の姿を認めた一人の男性が、血相を変えながら声をか
けてきた。
﹁キスレチン軍治安警備部所属のモロビックであります。ラインド
ルのアイン護衛隊長で間違いありませんでしょうか?﹂
﹁ええ、そうです。申し訳ありませんが、彼等から事情は聞かれて
いますでしょうか?﹂
﹁はい。国立会議場に向かっている最中に、突然見知らぬ連中に襲
われたと⋮⋮しかし、先ほどの爆発音は一体?﹂
自由都市同盟の本部警備を任されているモロビックは、大通り方
面から発せられた爆発音を耳にしたことから、不安げな表情を浮か
べつつそう問いかける。
その問いかけを受けてアインはほんの僅かに視線を逸らすと、眼
前の髭の男に向かって事実の一端を明かした。
﹁ええ、複数の者に突然襲われまして⋮⋮ともあれ、実に恐ろしい
相手です。先ほどの爆発も、連中が市内で躊躇なく放った攻勢魔法
によるものでして﹂
﹁し、市内で攻勢魔法ですと!?﹂
白昼堂々、市内で魔法を使用するなどという行為が行われたこと
1323
に驚愕し、モロビックは思わず目を見開く。
すると、アインはゆっくりと首を縦に振った。
﹁常識と良識を疑う話ですが、残念ながら事実です。申し訳ありま
せんが、至急軍に連絡を取り、連中の捕縛及び排除をお願いできま
せんでしょうか?﹂
﹁わ、分かりました。至急手配いたします!﹂
アインの言葉を受けるなり、髭面の男は慌ただしく部下へと指示
を下した。
そうして、同盟派本部に派遣されている警備兵達が慌ただしく動
き出すのを見て取ったアインは、先にこの場にたどり着いているは
ずの青年の姿を探そうと、周囲をぐるりと見回す。
﹁先生、こちらです﹂
アインが自らを探していることに気づいたフェルムは、彼に向か
って大きく手を振る。
そうして本部入り口の側で壁にもたれかかっている青年の姿を確
認したアインは、ホッとしたように一つ溜め息を吐き出した。
﹁はぁ⋮⋮無事だったようだね。それでバールさんは?﹂
﹁先ほどの襲撃で転倒した際に、すこし肩を打った様で⋮⋮今は館
内の医務室に案内されています﹂
﹁そうか。ともあれ、どうにか切り抜けられてよかった。流石に、
あんな場所で仕掛けてくるとは私も思わなかったよ﹂
軽く肩をすくめながら、アインは首を左右に振る。
そうして、二人がお互いの無事を確認して笑みを浮かべたタイミ
ングで、突然入口の扉が開け放たれると、険しい表情を浮かべた一
人の男が姿を現した。
﹁おい、エイス! 一体何の騒ぎだ?﹂
1324
﹁おやおや、前大統領自ら外へ足を運ばれるとは⋮⋮ですが、まだ
追手が来ないとは限りません。申し訳ありませんが、中へお戻り下
さい﹂
自分たちを呼びつけるのではなく、わざわざ足を運んでくるあた
りがフェリアムらしいとは思いながら、アインは苦笑交じりにそう
忠告する。
しかしそんな彼の気遣いは、フェリアムに鼻で笑われることとな
った。
﹁ふん、貴様がいれば心配も無かろう。で、実際のところ何があっ
た?﹂
﹁ちょっと、私の周りがきな臭くなっているなと思ってはいたので
すが、全く見知らぬ集団に襲われまして﹂
﹁その程度の話は、既に聞いている。わたしが知りたいのは何者が
このような⋮⋮いや、貴様に聞くならこう聞いたほうがいいだろう
な。このような馬鹿げた事態を引き起こした者を、お前は誰だと考
えている?﹂
これまでの付き合いから、単純に回答を求めればわからないと返
されることが目に見えていた。だからこそフェリアムは、彼の考え
ている見解を求める。
すると、アインは降参とばかりに軽く両手を上げた。
﹁はぁ、貴方とのつきあい方を間違えましたかね。誰が企てたもの
かはわかりません。ですが、おたくの国の情報部が最も怪しいとは
思っていますよ﹂
﹁情報部⋮⋮それは第一か第二か?﹂
﹁そこまでは流石に⋮⋮というわけで、私の考えを伝えたところで、
迎えが来るまでしばらくここにおいて下さい。本当は後日にしよう
かと思っていたのですが、少し予定を繰り上げて貴方に伝えておき
たいこともありますし﹂
1325
﹁伝えたいこと? エイス⋮⋮いや英雄殿、それは我が国にとって、
重要な問題かね?﹂
そのフェリアムの口にした言葉。
それは何よりも雄弁に、彼の下へも一つの噂が届いていることを
物語っていた。
だからこそアインは、ニコリと微笑むと、軽く両手を左右に広げ
る。
﹁さてさて、どなたに言っているのか今はまだわかりませんが、と
もかく貴国にとっては少々重要な話だと思いますよ。トルメニアの
侵攻を、無抵抗で受け入れるかどうかという話ですので﹂
﹁は? 貴様、今なんと言った!?﹂
その言葉を耳にした瞬間、フェリアムは思わず声を荒げると、ア
インへと詰め寄る。
すると、アインは軽く苦笑を浮かべながら、軽やかな口調で再び
言葉を紡いだ。
﹁今にもトルメニアの侵攻が行われると言う話ですよ。いや、どう
やらご興味を持って頂けたようですね。それでは、中でお話しさせ
て頂くとしましょうか。ああ、そうそう。ついでにコーヒーとお菓
子など用意して頂けると、実にありがたいですね﹂
1326
伏せたカード、そして⋮⋮
﹁⋮⋮で、そんな与太話を私に信じろと?﹂
アインたちを執務室へと通したフェリアムは、眼前の男から告げ
られた事実を前にして、そう問いかける。
すると、眼前の男は両手を軽く左右に広げながら、わずかに口元
を歪めた。
﹁ふふ、信じるか信じないかは、貴方次第です。いずれにせよ、こ
れで私の手元に伏せているカードが無くなったことは事実ですがね﹂
﹁伏せたカードはない⋮⋮か。改革派の中に潜むクレメア教徒が、
トルメニアを我が国に引きこもうとしている。明かされたこのカー
ドが本物なら大変な話だ。だがそのカードを提示してみせたのが、
真の名前を伏せ続けていたお前というのがいささかな﹂
アインによって告げられたトルメニア軍の行動。
口では揶揄して見せながらも、それを告げた人物が人物であった
だけに、フェリアムの表情は固いものであった。
一方、そんな彼と相対するアインは、彼の言葉に含まれた毒に思
わず苦笑を浮かべる。
﹁はは、もはや伏せているつもりもあまりありませんが、一応まだ
私はアインのつもりですよ。いや、貴方に対してはエイス・クロー
サーでもいいですが、ともかく今のところは、その方が何かと都合
が良いので﹂
﹁お前の都合など知らん。だが、お前のせいでこちらの都合は散々
だ。窓から外を覗いてみろ。貴様がここに来たせいで、第一及び第
二情報部をはじめ、各国の諜報機関の連中がズラリと雁首を揃えて
いる。あんな騒ぎを起こした直後にもかかわらずな﹂
1327
立ち上がり、窓の外へと視線を向けたフェリアムは、苦々しい口
調でそう告げる。
その言葉を受けて、アインは僅かに視線を逸らした。
﹁いやぁ、申し訳ありません。でも、基本的には彼らを集めるため
に動いていますので。もちろん、先ほどのような襲撃は予定にはあ
りませんでしたが﹂
﹁彼らを集めるため? 一体どういうことだ。まさか朱を呼んでき
て、連中を一網打尽にするなどと考えているのではなかろうな?﹂
﹁流石に、そんな外交上の大問題になるようなことはしませんよ。
それに第一、まだ表向きは私と彼は見知らぬもの同士ということに
なっておりますので﹂
フェリアムの冗談を否定しつつ、アインは改めて建前を口にする。
すると、フェリアムは彼に向かい鋭い視線を走らせた。
﹁ふむ⋮⋮では何のために? 奴らに警戒されればされるほど、お
前も動きづらいと思うのだが﹂
﹁ええ。おかげさまで、最近は息がつまりますよ。外にいると、常
時二桁以上の人間に睨まれていますから﹂
﹁だが、その方が都合が良いと? エイス、伏せていたカードでは
なく、貴様が後手に隠しているカードを開かせ。話はそれからだ﹂
現在は野党に甘んじているとはいえ、フェリアムは歴戦の政治家
である。
だからこそ彼は、アインの手元にはまだ隠された手札が残ってい
るのではないかと当たりをつけていた。
一方、真正面から要求を受けたアインは、渋い表情を浮かべなが
らも、肌身離さず持ち歩いていたとある人物からの返書を懐から取
り出す。
﹁はぁ⋮⋮仕方ないですね。正真正銘、これが私の持つ最後の切り
1328
札ですよ﹂
アインが取り出した封書を、フェリアムはまるでひったくるかの
ような勢いで奪い取る。
そして彼がその文面へと目を落とした瞬間、彼はその場に凍りつ
いた。
﹁⋮⋮ば、馬鹿な。貴様何を考えている。今開かれているのは、西
方会議だぞ﹂
﹁ええ、仰るとおり西方会議です。何しろ、そのために私はこのミ
ラニールに来たのですから﹂
フェリアムの口にしている言葉の意味を正確に理解しながら、ア
インはゆうゆうと返事をする。
そんな彼に向かって、もはや皮肉を口にする余裕をなくしたフェ
リアムは、真正面から念を押す様に確認を行った。
﹁本気でこのカードを切るつもりか?﹂
﹁もちろんです。というよりも、その文面を御覧頂いたのならお分
かりのように、既にカード自体は切った後でして﹂
軽く肩をすくめながら、アインはそう返答する。
すると、フェリアムは一つため息を吐き出した後に、問いかけの
方向性を修正した。
﹁⋮⋮確かにな。しかし、なぜこれを私に明かす気になった?﹂
﹁え? それはもちろん、貴方が隠しているカードを明かせと言っ
てきたからですよ﹂
﹁違うだろ。いずれにせよ、どこかの段階でお前はこのカードを明
かすつもりだった。お前の考えている通りに、この私を動かすため
にな。違うか?﹂
その問いかけは、ある種の確信に満ちたものだった。
だからこそ問われた男は、困ったように苦笑を浮かべる。
1329
﹁はは、ご想像にお任せしますよ﹂
﹁ふん、落ち目の元国家元首を相手にしているとはいえ、よくもま
あ偉そうに⋮⋮だが、トルメニアの侵攻が本当ならば、我が国にと
っては未曾有の危機といえるだろう。この男が動くほどにな﹂
そう口にすると、フェリアムは改めて手にした封書の差出人の名
前を眺める。
すると、アインは僅かに彼の計画にズレが生まれていることを敢
えて示唆した。
﹁本当のところは少し順番が逆ではあるんですけどね。まあ、それ
は今更どうでもいい話です。それよりも如何ですか、フェリアム前
大統領。迫り来る彼らに対抗するためにも、私の計画に一枚噛んで
いただけませんか?﹂
﹁その返事を行う前に一つ尋ねる。これから聞くお前の計画に参加
し、そして全ての事がうまく運んだとしよう。その場合、お前に対
して、私たちは何をもって報いれば良い?﹂
﹁別に何もいりませんよ﹂
それはあまりに自然で、そしてあっさりとした回答であった。
だからこそフェリアムはその視線を強め、改めて眼前の男に問い
ただす。
﹁ならばただの粋狂とお人好しで、お前は動いているというのか?﹂
﹁はは、流石にそれはありません。私は別に霞を食べて生きている
わけじゃありませんから。ただ少なくとも一つの理由としては、私
が私の理想の生活を実現する上で、どうしても彼らがネックになり
そうでして。ですから、これは必要に迫られてとご理解ください﹂
﹁必要に迫られて⋮⋮か﹂
その回答が全てではないことは、フェリアムにとって明白であっ
た。
1330
しかしながら、彼はこれ以上の回答が得られないことを、これま
での付き合いから理解していた。そして眼前の男が敢えて告げない
ならば、基本的に彼にとって支障とならないこともである。
一方、黙りこくってしまったフェリアムの表情を眺めやりながら、
アインははっきりとその口から一つの宣言を行った。
﹁ええ、必要に迫られてです。そしてそのために、少しだけ隠居の
身から表に顔を出してみようかと思ったわけですよ﹂
﹁表に⋮⋮か。救国の英雄⋮⋮いや、これからは大陸西方の英雄と
呼ぶべきかな?﹂
眼前の男のもう一つの名とともに、代名詞とされる英雄という言
葉。
それをフェリアムが口にしたところで、アインは気恥ずかしげに
首を左右に振った。
﹁はは、やめてください。先ほども言ったように、私は自分と、自
分の好きな人たちのために、すこしだけ動くにすぎません。だいた
い、いつもみなさん大げさなんですよ﹂
﹁ふん、お前がそう言ったところで、皮肉にしか聞こえんな﹂
アインの発言をフェリアムは軽く鼻で笑う。
するとそんな彼に向かい、アインははっきりと一つの誘いを行っ
た。
﹁それほど皮肉とは思いませんがね。ともあれ、フェリアム様。こ
れから続く道を、この私と共に歩いてくださいはしませんか?﹂
﹁それはお前のためにか?﹂
﹁いいえ。このキスレチンを⋮⋮いや、この大陸西方を救うために
ですよ﹂
虚構や装飾の取り払われたアインの言葉。
それが鼓膜を打った瞬間、フェリアムは迷うことなく首を縦に振
1331
る。
ここに歴史の表舞台から姿を消した男と、政治の表舞台から排除
された男の約は成された。
1332
それぞれの前夜
日も暮れて薄暗くなったミラニールの大通りを、前後に少なから
ぬ護衛をつけた一台の馬車が走る。
その厳重に警戒された馬車は二人の人物を乗せ、西方会議の開か
れている国立会議場からの帰路にあった。
﹁ふふ、疲れているようだね﹂
背もたれに背中を預けたままぐったりとした表情を浮かべる青年
に向かい、赤髪の男はそう声を掛ける。
すると青年は、苦笑を浮かべながらゆっくりと首を左右に振った。
﹁否定はしません。いくら下交渉が終わっていたとはいえ、各国と
もに土壇場まで揺さぶりに来ますからね﹂
﹁ふふ、でもそれは君も同じだろ。今日の魔石関税に対する恫喝、
あれは悪くなかった﹂
アレックスはそう口にすると、日中のとある出来事を思い起こす。
下交渉で確定していた関税額を突然引き上げると表明してきた旧
キエメルテ系の各国代表団に対し、毅然として啖呵を切ったエイン
スの姿。
それは彼をして、頼もしいと思うに値するものであった。
﹁魔石事業に関しては、前回の西方会議が開かれた八年前と、全く
状況が異なりますからね。レムリアックの生産が軌道に乗ってきた
ことで、現在の我が国は西方で最大の魔石産出国です。その認識を
皆さんに正しく持って頂こうと、少しアピールしたに過ぎませんよ﹂
﹁ふふ、少しだけ⋮⋮ね。まあ、当人の認識はどちらでも構わない
1333
か。大事なのは引き出された結果だけさ。少なくとも、彼ならそう
言うだろうね﹂
軽く両手を広げながら、アレックスはそう口にする。
すると、エインスはやや前のめりの姿勢となり、小さな声で一つ
の問いを放つ。
﹁ところでアレックス先輩。あの人は何をされるおつもりなのです
か?﹂
﹁ふふ、気になるかい?﹂
エインスの問いかけを受けて、赤髪の男は意味ありげに笑う。
その笑みを目にした瞬間、やはりとばかりにエインスは自らの問
いが正しいものであったと理解した。
﹁そりゃあまあ⋮⋮もちろん、クラリスのことは任されたつもりで
す。その上で、我が国に関わりうることなら知っておきたいのです
よ。ほぼ間違いなく、あの人は何かやらかすおつもりでしょう?﹂
﹁ほぼ間違いなく⋮⋮か。どうしてそう思うのかな?﹂
﹁市中の噂ですよ。あれが流布したタイミングがあまりに奇妙過ぎ
ます。あの噂が流れたから、あの人がカイラ王と一緒に行動しなく
なったのならわかるんです。ですが、あの人がいつの間にかカイラ
王の護衛から外れ、そしてその後に噂が流れ始めた。普通ならば順
番が逆でしょう﹂
先日とある仮面の男は、ミラニールの大通りで襲撃を受けるとい
う騒動を起こしている。だからこそ、仮面の男が噂の存在を知った
後に、リスクを考えてカイラ王の側から身をおいたのならば筋が通
るとエインスは考えていた。
だが、実際に仮面の男がカイラ王の護衛から外れたのは、噂が広
がるよりも前のことである。
もちろん偶然やたまたまという可能性も否定できない。
1334
たが、仮面の奥の人物を知るが故に、エインスの脳裏からはその
ような可能性は排除されていた。
﹁ふむ。面白い視点だね。で、君が出した結論は、彼が意図的に流
したというところかな?﹂
﹁はい、それだと辻褄が合います。つまりあの噂は、何らかの目的
であの人が市中に流させたというわけです。ではその目的とは何か
ということですが⋮⋮残念ながら僕の手元にある情報だけでは、ち
ょっと思いつきません。ですので、知っていそうなもう一人の先輩
に尋ねてみたわけです﹂
目の前の男のいつもと変わらぬ笑みを目にして、エインスは彼が
全ての事実を聞かされているとここに確信する。
一方、見透かされたと判断したアレックスは、軽く肩をすくめて
みせた。
﹁ふふ、わからないことを素直に部下に尋ねられるというのは、君
の得難き資質かもしれないね﹂
﹁部下と言っても、尋ねる相手は他でもないアレックス先輩ですか
らね。資質と言って良いかには疑問符がつきますが⋮⋮ともかく、
その返答だとやはり全てをご存知のようですね﹂
﹁全てではないさ、あくまで要点だけ。君も知っての通り、彼はあ
の通りのめんどくさがり屋だからね。ともかく、彼からは君には伝
えるなと言われてはいない。というわけで、本当に聞きたいかい?﹂
ニコリと微笑みながら、アレックスは眼前の青年に向かって問い
かける。
すると、間髪入れることなく、エインスは首を縦に振った。
﹁もちろんです﹂
﹁要するにだ、彼は注目を集めようとしているのさ。本当に隠した
いものから目をそらさせるためにね﹂
1335
﹁本当に隠したいもの?﹂
アレックスの口にした言葉を受け、エインスはそのまま問い返す。
﹁ああ。一人は君も良く知る女性。そしてもう一人は君の会ったこ
とのない男性。そんな二人のゲストを秘密裏に、そして安全に招く
ための策さ。全ては明日のためのね﹂
﹁ということは、あの人の狙いは⋮⋮﹂
そこまで口にしたところで、エインスは思わずつばを飲み込む。
すると、そんな彼に向かって、アレックスははっきりと明言した。
﹁そう、彼の狙いはただ一つ。最終日に表明される協定案ただひと
つさ﹂
﹁大統領。クルーソンです。今、よろしいでしょうか?﹂
﹁ああ。入り給え﹂
疲労のため椅子にもたれ込んでしまっていたトミエルは、ノック
の後に廊下から発せられた声を耳にして、渋々体を起こす。
すると、その声と顔色から疲労の色を見て取ったクルーソンは、
すまなそうに頭を下げた。
﹁お疲れのところ申し訳ありません。例の男に関しまして、ほぼ確
証が取れました。そのご報告にと思いまして﹂
﹁ほう、それでどうだった?﹂
先程までぐったりした表情を浮かべていたトミエルは、その内容
を耳にするなり興味深そうに姿勢を正す。
すると、直ちにクルーソンは返答を口にした。
1336
﹁はい。大方の予想通り、仮面の男の中身は例の男です﹂
﹁やはり噂通り⋮⋮か。しかし、どうしてわかった?﹂
﹁フォックスのところに送り込んでいた諜報員から、奴が一振りの
刀の修繕を依頼されたと連絡がありまして﹂
その回答を耳にしたトミエルは僅かに首を傾げる。そして彼は、
かつて東方の珍しい展示物として、反りのある剣を目にした際の記
憶を蘇らせた。
﹁刀⋮⋮ああ、確か東方の剣だったな。そういえば、奴が好んで東
方の剣を扱うということは、話に聞いたことがある﹂
﹁はい。そして先日の模擬戦において奴が刀を用いなかったのも、
これで説明がつくかと思われます﹂
﹁なるほどな。つまり使いたくても、刀を使える状況ではなかった
と、そういうことか﹂
﹁あくまで情況証拠からの類推ですので、確証はありませんが⋮⋮﹂
トミエルの示した見解に対し、その可能性が高いと考えていたク
ルーソンは、小さく頷く。
﹁しかし、中身があの男ならば、やはり先日始末できなかったのは
痛いな﹂
﹁申し訳ありません。虚をつけたと思ったのですが、まさか同盟派
の本部に逃げこむとは⋮⋮﹂
子飼いの部下たちがリスクを覚悟で行った襲撃。
しかしその結果は惨憺たるものである。
彼にとってせめてもの救いは、仮面の男によって昏倒された部下
を回収することができた一点のみであった。
﹁まあこぼれたミルクを嘆いても仕方あるまい。明日の最終日まで
に、奴を排除しておきたかったのは山々ではある。だが、こうなれ
ば他国の馬鹿どもと一緒に消し去る他ないだろう﹂
1337
﹁はい。ただこれで、朱と英雄を同時に相手取らねばならぬ可能性
があります。その為、予定より多くの人員を会議場へ振り分けさせ
て頂ければと考えております﹂
そのクルーソンの提案を受けて、トミエルは顎に手を当てる。そ
してそのまま、一つの確認を口にした。
﹁それは構わん。だが、どの部隊を削るというのかね﹂
﹁治安維持部隊の本部制圧に割く予定だった兵士を、若干削ろうか
と﹂
クルーソンの回答を受けて、トミエルは眉間にしわを寄せる。
﹁何? 連中こそ、警戒すべき対象だと思うが?﹂
﹁はい、それは今も変わりありません。ですが治安維持部隊、その
中でも最も警戒すべき警備部の人間が腑抜けておりますので﹂
﹁警備部⋮⋮なるほどウフェナのことか﹂
先日の失態を機に、自らの警備主任から外した男の名をトミエル
は口にする。
すると、クルーソンはそのとおりとばかりに大きくうなずいた。
﹁はい。先日の敗北がよほど応えたようで、警備主任を外されて以
降、本部の自室に引きこもっているようです﹂
﹁あの図体に似合わぬほど意外に細やかな男だからな。まあ、わか
らんでもないか﹂
﹁色んな者が心配して、見舞いに訪ねておるようです。ですが、そ
れでも全く変わる様子はないと﹂
政府の閣僚であるハムゼや、野党の党首であるフェリアムなど、
この国の要人と呼べる人物が、この国の英傑を励ますために部屋を
訪ねている。
しかしながら、それらの励ましもまったく効果が見られることは
なく、依然としてウフェナは自室にて塞ぎこんでしまっていた。
1338
﹁ふん、不甲斐ない話だ。だが結果としてみれば、やつを取り込ま
なくてよかったということか﹂
﹁ですな。第一、所詮あの男は我らの神を理解できぬ者。例え能力
的に優れていたとしても、我ら神の使徒に加えるにはふさわしくな
い人物です﹂
この国でも有数の実力を有していると認めていたからこそ、いず
れクレメア教に改宗させることを前提として、手元においていた駒。
それがウフェナ・バルデスである。
しかしながら、その実力に陰りが認められた以上、特別扱いをす
る必要性は微塵も存在しなかった。
﹁まあ、あの実力が惜しいからこそと思ってはいたが⋮⋮しかし如
何にあの男が相手とはいえ、無手の前に敗北するようでは、今更拘
泥する必要もあるまい﹂
﹁ええ、私も同意見です。その上で、塞ぎこんだ男たちに向けて、
必要以上に戦力を割くのは無駄というもの。もちろん決して弱兵で
はないため、油断ならないことは事実でしょうが﹂
ウフェナがその実力を十全に発揮すれば、脅威となり得ることは
明白ではあった。しかしそれはあくまで適切に状況を把握し、他の
ものと連携して行動した場合に限定される。
個人として如何に強かろうとも、たった一人では朱でもない限り
脅威となりえぬ。それがクルーソンの出した結論であった。
﹁そうだな。いずれにせよ、用件は理解した。その辺りは君の良い
ようにしてくれて構わない。大事なことは、全てを根こそぎ片付け
る事にあるのだからな﹂
﹁了解いたしております。それでは、私は明日の準備がございます
のでこれにて﹂
そう口にすると、クルーソンは軽く頭を下げるとともに部屋から
1339
退室していく。
そうして部屋に残されたトミエルは、天井を見上げると、感慨深
げに呟いた。
﹁魔法などという忌まわしき邪術に心奪われた異教徒共を、ようや
く駆逐するその日が来たか。このキスレチンを神へと捧げ、そして
西方をユリの花で埋め尽くすまさにその時が⋮⋮な﹂
﹁おや、君か⋮⋮ということは、あの二人は無事ついたようだね﹂
与えられた個室の窓辺からミラニールの夜景を眺めていた黒髪の
男は、ゆっくりと部屋の入口に向かい視線を動かすと、音も立てず
中に入ってきた女性に向かってそう口にする。
すると、表情一つ変えることなく、やや皮肉げな口調で彼女は言
葉を返した。
﹁ええ。誰かさんが市内の監視の目を一手に引き受けてくれたおか
げで、易々とね﹂
﹁それは結構。私の努力も報われたというわけだ﹂
アインは苦笑を浮かべながら、両手を左右に広げる。
一方、そんな彼の言動に対し、クレハは僅かに眉をひそめた。
﹁案外監視されるのを楽しんでいたんじゃないの?﹂
﹁はは、人から見られるのを好むような趣味はないさ。残念ながら
ね。で、彼には引き継いでくれたかい?﹂
一度首を左右に振ったアインは、そのまま彼女に向かって一つの
確認を行う。
1340
﹁本当にあの子でよかったの? 二人を前にして、見るからにガチ
ガチだったけど﹂
﹁それもいい経験さ。彼にはこれからのラインドルを担ってもらわ
なければならないからね﹂
そのアインが口にした言葉。
それを耳にした瞬間、クレハは一瞬だけ納得したかのような表情
を浮かべた。
﹁それがあの子を抜擢した理由なのね。もしかしてラインドルへの
置き土産のつもり?﹂
﹁ラインドルには⋮⋮カイルには世話になったからね﹂
それは紛うことなく、アインの本心であった。
通常ならばとても頼める類ではない願い。
それを快く引き受けてくれたかつての戦友に対し、彼は深い感謝
の念を抱いていた。
一方、そんな彼の内心を理解しつつも、クレハは努めて現実的な
リスクに懸念を示す。
﹁まあ、貴方が何を考えていようと、彼が仕事さえこなしてくれれ
ばいいのだけど⋮⋮﹂
﹁それは安心してくれ。基本的にはとても優秀な子さ﹂
もちろん決して十分な期間といえるものではなかった。
だが、その間に教えておきたかったことの骨子は、可能な限りを
伝えることができたと彼は自負している。
そのわずかばかりの満足感が伝わったのか、それ以上フェルムの
ことへの言及をクレハは行わなかった。
﹁⋮⋮そう。じゃあ、そういうことにしておいてあげる﹂
1341
﹁ああ。あと明日の彼等に対する備えだけど、フェリアムさんの方
も支障ないと連絡があったよ﹂
﹁あの男の件も?﹂
明日の予期されうる事変において、まさにキーマンの一人と目さ
れる人物。
元々の繋がりから、必要があれば暗殺を考えねばならないと思っ
ていたクレハは、確認するようにそうといかける。
﹁ああ。協力の同意は取れたそうだ﹂
﹁ふぅん。でも油断しないほうがいいわ﹂
﹁わかっているよ。でも、大丈夫さ。一度かわした約束をやぶるよ
うな人じゃないからね﹂
クレハが懸念するのもやむを得ないと考えていたアインは、頭を
掻きながらそう補足する。
すると、小さな溜め息を吐き出すとともに、彼女はそのまま入口
の扉へと歩みだした。
﹁そう⋮⋮じゃあ私は行くわ﹂
﹁ああ。ありがとうクレハ﹂
﹁お礼をいうのは、まだ早いわ。事が全て済んでからにしなさい﹂
扉に手をかけたクレハは、後ろを振り返ることなくそう言い放つ。
そんな彼女の背中に向かって、アインは改めて感謝の念を込めて
言葉を紡いだ。
﹁そうかな⋮⋮でも、君には迷惑をかけっぱなしだからね﹂
彼がそう口にしている間にも、小柄な黒髪の女性の姿は、扉の向
こうに消えていった。
しかし彼は誰よりも深く一つのことを理解していた。
最も長い付き合いであり、無愛想に見える彼女が、誰よりも照れ
1342
屋であるということを。
そして扉が完全に閉められたところで、アインはゆっくりと自ら
の執務机に歩み寄る。そして、机の上に置かれた一枚のドミノマス
クをゆっくりと手に取った。
﹁さて、彼等同様に私も打てる手はすべて打った。今となっては名
残惜しいけど、こいつを使うのも明日で最後かな。そしてアインと
いう、この懐かしい名前も⋮⋮ね﹂
1343
ユイ・イスターツ
﹁それでは、来年度以降の各国関税に関する取り決めは以上で異議
はありませんかな?﹂
そう口にすると、議長を務めるキスレチンのトミエル大統領は、
会議室内の人間をぐるりと見回す。
そして、誰からも発言や挙手がないことを確認すると満足気に微
笑んだ。
﹁さて、これで基本的には予定していた全ての案件の採決は終了し
たわけだ﹂
﹁それでは、トミエル大統領。そろそろ本題に移るとしましょうか﹂
魔石に関する案件を除きこれまでもほぼ連日そうであったが、本
日の議事進行は全て各国官僚が事前に打ち合わせた通りのものであ
った。
だからこそ、ただ確認して了承するだけという退屈な会議に飽き
飽きしていたクロスベニア連合のシャドヴィは、すみやかに会議を
終了させようとトミエルを急かした。
あからさまに内心が垣間見えるその発言を受けて、トミエルは苦
笑すると、わかったとばかりに大きく頷く。
しかし、そんな折に思わぬ方向から予期せぬ声が発せられた。
﹁少しお待ちいただけますでしょうか?﹂
その会議に出席していた各国の代表と背後に控える部下たちは、
一斉に声の主へと視線を向ける。
そして彼等はすぐに、僅かにくすんだ金髪の青年をその視界に収
めた。
1344
﹁はて、カイラ王。一体何かな? 予定では、残すは協定案の締結
だけの筈だが﹂
面倒事を嫌うシャドヴィは、議長であるトミエルより早く、苛立
たしげな声をカイルへと向ける。
すると、カイルは苦笑を浮かべながら、申し訳無さそうにその口
を開いた。
﹁ええ。それは理解しております。ですが、その前に我がラインド
ルから一件緊急の提案がございまして﹂
﹁緊急の提案⋮⋮そのような話は聞いていないが﹂
議長であるトミエルは、眉間にしわを寄せながら、そう口にする。
それは他の各国の代表も同様であり、その場にいる者たちは揃っ
て怪訝そうな表情を浮かべた。
﹁申し訳ありません。確かに予定にはないのですが、それ故に緊急
というわけです。流石にあらかじめわかっているものならば、もち
ろん事前に皆様に提示させて頂きますので﹂
﹁ふむ。まあとりあえず、提案なるものを教えてもらえますかな?﹂
﹁はい。確か十六年前の事ですか。第四回の西方会議にて、一つの
決議がなされました。その御蔭で、我らはホスヘル公国と言う代え
難い友人を、この会議に招くことができました。そうですよね?﹂
トミエルの問いを受けて、カイルは柔らかい笑みを浮かべながら
そう口にする。
一方、自国の名を上げられたホスヘル公国のコルドインは、顎に
手を当てながら、青年の発言を肯定した。
﹁⋮⋮ええ。我が国は第四回会議において、各国の同意を頂き皆様
方の仲間となりました。しかし、それがどうかしましたかな?﹂
﹁はい。それでですが、実はこの会議の仲間になりたいと私に紹介
1345
を希望された方がおりまして。その方を今からこの場にお招きした
いと思うのですが、よろしいでしょうか?﹂
﹁紹介だと⋮⋮一体どこの国だね。既に西方の主だったものはこの
会議には
参加しているはずだが?﹂
議長であるトミエルは、ざわつき始めた皆を制するよう、代表し
てカイルに疑問をぶつける。
﹁実はこちらの方です。ナーニャ・ディオラム代表、どうぞお入り
下さい﹂
カイルは会議室の扉に向けて、そう声を上げる。
すると、ゆっくりと開かれた扉の外から、群青色の清楚なドレス
に身を包んだ妖艶な赤髪の美女がその姿を現した。
﹁皆様、初めまして。フィラメント魔法公国の魔法王代理を勤めて
おりますナーニャ・ディオラムと申します﹂
非の打ち所のない美貌と、そして柔らかく優雅な微笑み。
その姿を目にした各国の代表は、若干の例外を除き、あっという
間に彼女の姿に目を奪われてしまった。
﹁こ、これはフィラメントの魔法王殿でありますか﹂
﹁先程も名乗らせて頂きましたとおり、正確には代理でございます。
西方で最大規模の会議ということで、我が国も以前から参加させて
頂きたいと思っておりました。そこで今回、カイラ王にお願いしこ
の場に参らせて頂いた次第です。やはりご迷惑だったでしょうか?﹂
思わぬ事態に動揺するトミエルに対し、ナーニャはその表情を曇
らせながらうつむき加減にそう口にする。
途端、トミエルは慌てて首を左右に振った。
﹁いえいえ、そんな。貴国も我ら同様に大陸西方の仲間です。迷惑
1346
だなんて、そんなことはございませんよ﹂
﹁本当ですか。ありがとうございます、トミエル様。それでは、我
が国も西方会議の一員に加えて頂けますのね﹂
﹁いや⋮⋮それは私の一存だけでは決めかねるところでして﹂
ナーニャの柔らかい笑みを向けられ、トミエルは困り果てた表情
を浮かべながらも、どうにか明言を避ける。
するとそのタイミングで、カイルが二人に対し言葉を差し挟んだ。
﹁どうです、トミエル大統領。この場で決議を行いませんか? 確
か第四回会議の際は、会議初日に貴国が緊急提案をされ、ホスヘル
公国を私達の仲間へと迎えました。ご存知のように、フィラメント
魔法公国はその規模や場所の事も含め、十分に参加する資格を有し
ていると思うのですが﹂
そのカイルの言葉と表情は、非常に穏やかなものであった。だが、
その内容自体は、会議室内のものを動揺させるに十分であった。
たちまち室内のいたるところで、慌てて代表とその頭脳とも呼べ
る部下たちが小声で密談を開始する。
このままでは容易に収拾がつかぬ状況。
そんな折に、これまで発言を控えていたとある国家の代表が、ゆ
っくりと立ち上がるとともに、迷いのない言葉を発した。 ﹁我が国は大いに賛成です。緊急提案での前例もあることですし、
十分に参加条件を満たしておられると考える次第です。是非、私達
の仲間として、フィラメント魔法公国をお迎えしたいと思います﹂
若き美男子の理路整然としたその発言が会議室内に響くと、思わ
ず各国の代表者達は押し黙り相互の表情を探りあう。そして自然と、
皆の視線は議長であるトミエルへと向けられた。
会議室内の視線を一身に集めることになった大統領は、背後に控
える部下に向かって小声で問いかける。
1347
﹁ファッテソン君⋮⋮君はどう思う?﹂
﹁確かに前例はございます。ですが、気をつけなければならないの
はこれが何を目的としたものかということです﹂
農商大臣のファッテソンは、声を潜めながらそう注進を行う。
すると、トミエルも全く同意見だとばかりに一つうなずき、そし
て改めて口を開いた。
﹁このタイミングでの会議への参加⋮⋮となると、実質は協定案だ
けへの参加だ。対帝国という観点から見て、奴らが何かを企ててい
る可能性はあるか?﹂
﹁そこまではわかりません。ただ、参加を希望している魔法公国を
始め、歓迎しているクラリスも帝国とは隣り合わせの状況。少なく
とも、我らの力を必要としていることは事実ですが⋮⋮﹂
そこまで口にしたところで、ファッテソンは言葉を濁す。
すると、護衛を兼ねて背後に控えていたクルーソンが、ファッテ
ソンにも聞こえぬよう、トミエルの耳元で囁いた。
﹁大統領。協定案に関しましては、ラインドル達の三カ国が何か良
からぬ企みをしようと、所詮は半数で過半数を占めることはありま
せん。ですので、問題はないかと。採決で同数となれば議長国権限
で協定を決定できますし、何より例の作戦が決行されれば、もはや
協定など何の意味も持たないのです。ここはそのまま受け入れて構
わないかと﹂
そのクルーソンの言葉は、明らかにトミエルに対し、一つの方向
性を指し示すものであった。
そしてだからこそ、トミエルはニコリと微笑むと、会議室内の一
同に向かい語りかける。
﹁おまたせした。以前にも例のあることであるし、我が国はこの申
1348
し出を受け入れたいと思う。どなたか異論のある方はおられるかな
?﹂
その問いかけは、少なくとも旧キエメルテ系の二カ国に対して、
発言を許さないことと同義であった。
そして残りのラインドル及びクラリスが賛成である以上、ここに
フィラメント魔法公国の西方会議参加は決定される。
﹁ディオラム殿。この場に参加した一同、西方のさらなる発展のた
め、貴国の参加を歓迎します﹂
﹁本当ですか。ありがとうございます、トミエル大統領。そして各
国の皆様﹂
ナーニャはそう口にすると、一同に向かい恭しく頭を下げる。
途端、各国の代表たちから魔法公国の美女に向かって拍手が巻き
起こった。
﹁この通り、皆も歓迎しております。どうぞすぐに椅子を用意させ
ます故、しばしお待ち下さい﹂
﹁ああ、すいません。椅子が運ばれるとのことで、その前にもう一
つだけよろしいでしょうか?﹂
トミエルの指示が発せられるとほぼ時を同じくして、カイルは席
から立ち上がると一同を見回した上で言葉を発する。
﹁一体何かな、カイラ王。更に会議の進行を遅らせるつもりかね?﹂
ナーニャの美貌に気を取られ、彼女に視線を固定化していたシャ
ドヴィは、再び面倒事を言い出そうとするカイルに対して不快感を
露わにする。
﹁ああ、申し訳ありません。ただ先程ひとつ言いそびれた事があり
まして﹂
﹁言いそびれたこと? 一体、何かね?﹂
1349
カイルの発言を耳にしたトミエルは、首を傾げながらそう問いか
ける。
すると、カイルは苦笑を浮かべながら、先ほど敢えて口にしなか
ったことを皆に向かって告げた。
﹁実はこの会議への参加に関する紹介を求められたのは、もう一方
いらっしゃるのです﹂
﹁もう一方だと?﹂
﹁ええ。こちらの方なのですが⋮⋮どうぞお入り下さい﹂
カイルが再び部屋の外に向かってそう口にする。
そうして室内のすべての視線が集められた扉からは、ドミノマス
クをつけた金髪の男性が姿を現した。
﹁アイン・ゴッチ! この男はお前のところの護衛ではないか。護
衛を紹介する意味がどこにあるというのだ﹂
この会議場は、各国の代表が集う場であった。
それ故に、そんな場に一介の護衛を堂々と紹介し、時間を浪費さ
せることにシャドヴィは苛立ちを見せる。
しかし、そんな彼とは異なる反応を示したものがいた。
この会議の議長、トミエル大統領である。
﹁カイラ国王。既に私どもも、お入りになられた仮面の方がどなた
であるか、その調査を終えております。その上で、こちらの方をこ
の場所へお招きされたと、そう考えてよろしいのですかな?﹂
﹁おや、ご存知だったのですか?﹂
射すくめるようなトミエルの言葉を受け、カイルはややわざとら
しく驚きを見せると、逆に問い返す。
すると、軽く鼻息を立てた後に、苦笑を浮かべながらトミエルは
言葉を返した。
1350
﹁ええ。既に市内はその噂で持ちきりですし、何より我が国の情報
部は優秀にて、仮面の奥の素顔を正確に把握しております。しかし、
カイラ王。いくら伯爵領を経営されておられるとは言え、彼の地は
あくまでもクラリスの一部。残念ながら、伯爵殿が代表としてこの
会議に参加する資格はありませんな﹂
﹁ほう、トミエル大統領。この私に関し、貴公は随分お詳しいつも
りのようだ。ふん、とはいえこの私を伯爵などと言われるとは、あ
まりに見くびられたものだがな﹂
﹁な、何⋮⋮一体、どういうことですかな、レムリアック伯爵殿?﹂
仮面から覗く口元から発せられた低い声。
それを耳にするなり、トミエルは怪訝そうな表情を浮かべながら、
その中の人物の肩書と考えうるものを口にする。
しかし、そんな彼の言葉は、仮面の男によって鼻で笑われること
となった。彼は口元を軽く歪めると、不敵な笑みを浮かべたまま顔
につけたマスクに手をかける。
﹁さて、ナーニャと朱を除けば、この場にいる諸君には初めてお目
にかかる﹂
そう口にすると、男はマスクと金髪のかつらを取り外す。
そこから現れたのは、銀色の髪を有する威厳に満ち溢れた壮年の
顔であった。
﹁き、貴様は誰だ?﹂
伝え聞くある人物の容貌とは全く異なる目の前の男。
それを目の当たりにして、言い知れぬ不安を覚えたシャドヴィは、
その名を問う。
すると、銀髪の壮年は薄く笑い、そしてまさに敵地ど真ん中と呼
ぶべきこの場所で、隠すことなく堂々と自らの名を名乗った。
1351
﹁レンド帝国皇太子、そして次期皇帝のノイン・フォン・ケルムだ。
皆の者、以後よろしく頼む﹂
言うなれば宿敵ばかりの集まったこの会議室において、ノインは
一切怯みを見せることなく、そう口にする。
その胆力を目の当たりにして、トミエルは狼狽するとともに、彼
をこの場に招き入れたカイラを糾弾した。
﹁て、帝国の皇太子だと!? カイラ国王。貴様、帝国の人間を呼
ぶとは、一体どういうつもりだ!﹂
﹁いえ、申し訳ありませんが、僕がこの地に招いたわけではありま
せん。まあ、確かに頼まれて皆さんに紹介したのは事実ですが⋮⋮
一応、そこは勘違いなさらないで下さい﹂
﹁では、一体誰が帝国の人間などを招いたというのだね?﹂
まったく要領の得ないカイルの言い訳を耳にして、顔を真っ赤に
したトミエルは、続けざまにそう問いかける。
その言葉に対し回答を口にしたのは、嬉しそうな笑みを浮かべる
ノインであった。
﹁大統領。彼の言っていることは真実だ。何しろ、この私を呼んだ
のはそこで呆けている間抜け面の男だからな﹂
彼はそう口にすると、右手の親指で彼が入ってきた扉の入り口を
指し示した。
一瞬で、会議内にいる者の視線が集中する。
そんな彼等の視線の先、そこにはいつの間にか締められた扉にも
たれかかる、黒髪の男性の姿があった。
﹁こんな公の場で人を紹介するというのにさ、間抜け面っていうの
はちょっとひどくないかい、ノイン﹂
皆の視線を一心に集めた黒髪の男は、苦笑を浮かべながら頭を掻
1352
く。
一方、その場に佇む黒髪の男の姿を目にしたトミエルは、口元を
歪ませながら、思わず漏らすかのように彼に向かって問いを口にし
た。
﹁お、お前こそが⋮⋮﹂
すると、黒髪の男は頭を掻いていた右手をゆっくりと下ろす。
そして一同に向かい、この場の空気に不釣り合いな笑みをゆうゆ
うと浮かべてみせた。
﹁どうも初めまして大統領、そして各国の皆様。自己紹介させて頂
きます。私の名は⋮⋮ユイ・イスターツと申します﹂
この日、この時、そしてこの瞬間、英雄が歴史の表舞台に再びそ
の姿を表した。
1353
夢と現実の狭間で
﹁ユイ⋮⋮イスターツだと!? ほ、本物か?﹂
噂に伝え聞く通りのややだらしな気な黒髪の男。
それを目にしたホスヘル公国のコルドインは、状況の変化に驚き
つつもそう問いかける。
すると、黒髪の男は苦笑を浮かべながら、ゆっくりと頭を掻いた。
﹁はは、この場に及んで嘘をつく必要もありませんよ。それに何よ
り、私がアインと名乗ってラインドル王国と行動を共にしていた事、
それを他ならぬ議長殿がよくご存知のようですからね﹂
ユイはそう口にすると、その視線をトミエルへと向ける。
一転して、皆の視線を集める形となったトミエルは、忌々しげな
表情を浮かべその口を開いた。
﹁⋮⋮貴公らが帝国の皇太子とレムリアックの伯爵であること、そ
れを仮に事実としよう。その上でだ、一体何の目的でこの場に姿を
現した?﹂
﹁それはもちろん、それぞれ皆様に少しばかり用があったからです
よ﹂
﹁用だと?﹂
ユイの言葉を耳にするなり、クロスベニア連合のシャドヴィは食
って掛かるかのように問いなおす。
﹁ええ。とりあえず、ノイン。まずは君の案件を先に言ってくれる
かな?﹂
﹁ふっ、いいだろう。私の用件はシンプルだ。我が帝国は西方会議
に参加する準備を整えている。それを貴公らに伝え来た﹂
1354
その発言の衝撃はあまりに大きかった。
会場内のざわ付きは一瞬で消え去ると、動揺のあまりに会場内は
静まり返る。
本気なのか?﹂
そうして最初に精神的な動揺から立ち直ったのは、議長であるト
ミエルだった。
﹁て、帝国が西方会議に参加だと⁉
﹁もちろんだとも。長年、貴公らの活動を横で見ていてな、我らも
この西方の発展に寄与できると考えたわけだが⋮⋮はて、何か問題
がお有りかな?﹂
欠片も媚びる様子を見せることなく、ノインはトミエルに向かっ
てそう言ってのける。
すると、そんな彼に向かってシャドヴィの怒声が浴びせられた。
﹁問題だらけだ! 知らんとは言わせんぞ、この会議の目的を﹂
﹁貴公のクロスベニアも参加していなかった時代の話だが、第一回
会議において、この会議の目的は大陸西方に安定と平和をもたらす
ものだと宣言されたらしいな。となればだ、同じ目標を持つ我が国
とこの会議の参加国とは、進んで手を取り合うことができると思う
のだが?﹂
ノインは薄ら笑いを浮かべながら、シャドヴィに対し見下すかの
ような視線を向ける。
その笑みが癇に障ったシャドヴィは、苛立ちのあまり椅子から立
ち上がると、ノインを指差しながら強い口調でまくし立てた。
﹁そんな建前はいい。はっきり言ってやろう。この会議は、西方の
安定を乱す貴様ら帝国を封じ込めるために組織されたものだ。にも
関わらず、この会議に貴様達が参加するということが、問題以外の
何物だというのだ!﹂
﹁ふむ、我が国が敵視されていたことは実に哀しい話だな。だが、
1355
貴公の言う事をそのまま受け止めるならば、比類なく偉大な我が国
一国を掣肘するために、これだけの国家が集まったというわけだ。
そう思うと、誇らしくもある。だがいずれにせよ、それはすでに過
去のことだ。我が国は進んで貴公らと協力し、西方の安定に寄与す
る意志を有している﹂
室内すべての視線を一身に集めたノインは、一切怯みを見せるこ
となく、堂々とそう告げた。
その瞬間、会議室内は紛糾する。
怒りのあまり怒りを隠さぬもの、ノインに向け罵詈雑言を向ける
もの。そして端正な顔に苦笑を浮かべてみせるもの。
そんなまとまりを失った会議において、最奥の議長席のそばに立
つ男は、トミエルの耳元でそっと語りかける。
﹁大統領⋮⋮そろそろ時間です﹂
﹁うむ。しかしこうなれば、好都合と見るべきかな﹂
﹁ええ。飛んで火にいる夏の虫というやつでしょう。まあ、あの男
たちはまさに害虫そのものでしょうが﹂
そのクルーソンの辛辣な発言に苦笑を浮かべたトミエルは、その
まま前方へと視線を向け直すと、机を一度強く叩く。
途端、会議室内は時が止まったかのように凍りついた。
﹁静粛に。それでは、改めて確認させてもらうがノイン皇太子。貴
公の国は本当に西方会議への参加の意志がお有りということでよろ
しいですな?﹂
﹁もちろんだ、大統領。先ほど、西方会議への加盟が決まったフィ
ラメント魔法公国同様に、我が国も大陸西方に存在し、一定規模の
国家という加盟条件を満たしている。しかもラインドル王国の推薦
付きでな﹂
先ほど認められたフィラメント魔法公国の西方会議への参加。
1356
それを踏まえたうえでのノインの発言に、トミエルは彼らがグル
であることに確信を持つ。
だがこの時点において、既に彼にとっては、帝国の西方会議への
加入など瑣末な問題に過ぎなかった。
﹁なるほどなるほど。ふむ、となれば、せっかくなので貴国にも参
加していただくとしましょう﹂
﹁待ってくださいトミエル大統領。帝国を、我らの敵を会議に迎え
るとは冗談が過ぎます!﹂
トミエルの発言を耳にしたシャドヴィは、信じられないものを見
る表情を浮かべながら、強い口調でそう窘める。
しかしそんなシャドヴィの言葉も、トミエルには嘲笑の種に過ぎ
なかった。
﹁冗談? なるほど、確かに見方によれば冗談かもしれんな﹂
﹁何、では我が国を迎える気はないと?﹂
﹁いやいや、貴国は西方会議に迎えるよ。冗談かもしれぬというの
はな、そうやって貴国が入りたがっていた西方会議が、今回で最後
となるからだ﹂
先ほどからの見せるトミエルの明らかに普通ではない発言の対応
に、会議室内にいる各国の代表者達は不信の目を向ける。
そしてそんな彼らを代表するかのように、エインスがその言葉の
意味を問いただした。
﹁今回で最後? 一体どういうことですか?﹂
﹁それはこういうことだよ﹂
そう口にした瞬間、トミエルは軽く右手を上げる。
途端、彼の背後の扉から、一斉に武装した兵士たちが室内へと雪
崩れ込んできた。
1357
﹁な、何を!? 何のおつもりですか大統領!﹂
トミエルの背後に控えていたファッテソン農商大臣は、当然のこ
とながら全く何も聞かされていなかった。それ故に、不安げな声を
あげながら、状況が理解できずその場でへたり込む。
すると、民主改革運動派内において、かつて自らの政敵と目して
いた男の醜態に、トミエルは愉快そうな笑みを浮かべた。そしてそ
のまま、入り込んできた兵士達に、彼を拘束させる。
﹁ふふ、ファッテソン君。実に残念なことなのだがね、君を今日限
りで農商大臣を解任させてもらう。いや、全く申し訳ない﹂
﹁ふ、ふざけるのもいい加減にしてください。何のつもりかはわか
りませんが、こんなことをしても、決してキスレチンの為にはなり
ませんぞ!﹂
軍事力と各国要人という人質を用いた、大陸西方の制圧。
それを目的だと理解したファッテソンは、必死の形相でそう叫ぶ。
しかしそんな彼に対し、小馬鹿にするような笑みをトミエルは浮
かべてみせた。
﹁なるほど、確かにキスレチンの為にはならぬかもしれん。だが︱
︱﹂
﹁トルメニアの為にはなる⋮⋮ですか﹂
部屋の入口で状況の推移を見守っていた黒髪の男は、トミエルの
言葉を遮る形で、皆に向かいそう告げる。
自らの言葉を先んじられた不快感からか、トミエルは一瞬表情を
しかめた。しかし、すぐに不敵な笑みを浮かべなおすと、彼は黒髪
の男へと視線を向け直す。
﹁⋮⋮六十点だ。なぜなら、トルメニアではなくクレメア教団の為
1358
にだからな。だがいずれにせよ、イスターツ。さすが貴様は嗅ぎつ
けていたか﹂
﹁嗅ぎつけたというよりは、腐臭が臭ってきたという方が正しいで
しょうか。例えば、彼の国が既に、極秘裏にホスヘル公国の国境を
侵そうとしていることなどもね﹂
ユイがそう口にすると、誰よりも動揺を示したのは、当然の事な
がらホスヘル公国のコルドインであった。
﹁ど、どういう事だ、イスターツ。貴様、今我が国の国境と言った
な﹂
﹁ええ。そうですが⋮⋮何か?﹂
理解できないといった様相のコルドインに対し、ユイは全くなん
でもないことのように応じる。
すると、コルドインは肥満体の体を震わせながら、強い口調で反
論を口にした。
﹁何かではない! そんな話聞いたこともないぞ。本当にそんな動
きがあれば、当然私の元に連絡が届くはずだ﹂
﹁まあ先年までならば、おそらくそうだったでしょうね﹂
苦笑を浮かべたユイは、そう口にするとともに頭を掻く。
途端、コルドインは身を乗り出してその意味を問うた。
﹁先年まではだと?﹂
﹁ええ。改革派と戦線派が政権を取り、貴国の国境警備に派遣して
いる兵士達の幹部連中を、ここにいるノバミム教徒の兵士へ入れ替
えるまでは⋮⋮そうですよね、トミエル大統領﹂
その言葉が発せられた瞬間、一同の視線はトミエルへと集中した。
﹁ふふふ。そのとおりだ、イスターツ。しかしそこまで知っている
とは、やはり貴様は危険な男だな。のこのことこの場に姿を現して
くれたことを感謝せねばならん﹂
1359
﹁おやおや、私は荒事が嫌いなんですよ。できれば話し合いで解決
しませんか?﹂
﹁模擬戦で暴れていた男のセリフとは思えんな﹂
ユイの発言を耳にしたトミエルは、皮肉げにそう口にする。
途端、ユイは軽く肩をすくめて見せた。
﹁あれはあなた方が強いたのではないですか。ご丁寧にクジまで細
工いただいて﹂
﹁ふふ、怪しい男が、西方会議に入り込んでいたのだ。その中身が
君であったという結果を踏まえれば、あれはまさに当然の処置だっ
たというべきだろうな﹂
﹁当然ねぇ⋮⋮まあ貴方の見解はわかりましたよ。それで、話し合
っては頂けるのですかな?﹂
﹁冗談を。この状況で何を話しあうというのだね? 君たちに許さ
れるのは、我らへの恭順だけだよ﹂
ユイの問いかけに対し、トミエルは薄ら笑いを浮かべながらそう
告げる。
すると、ユイは頭を掻きながら呆れたように口を開いた。
﹁一方的な恭順をお求めとは⋮⋮自由の国の大統領という肩書が虚
しくなるお言葉ですね﹂
﹁大統領? ふふ、そんな古い肩書で呼ぶのはやめてもらおうか。
私のことは次期枢機卿と呼んでくれたまえ﹂
トミエルが引き換えとしたもの。
彼の発言から、その場に居合わせた一同はそれを思い知ることと
なった。
﹁クレメア教団の枢機卿という肩書は、大統領よりそんな魅力的で
すか? 私には宗教などというものがさっぱり理解できないので、
欠片もわかりかねる話ですが﹂
1360
﹁ふん、イスターツ。君たちのように神を理解しようとせぬ野蛮人
には、永久にわからんだろうね﹂
トミエルはユイの言葉を軽く鼻で笑うと共に、首を左右に振る。
一方、ユイは納得の行かない表情を浮かべながら再び頭を掻いた。
﹁理解⋮⋮ねえ。少なくとも、貴方よりは神なるものを理解してい
るつもりですが﹂
﹁ふん。軍人ごときが偉そうに﹂
﹁いえ、今は軍人ではなく研究者ですよ﹂
トミエルの発言に対し、ユイはあっさりとその誤りを訂正する。
しかしそんな彼の言葉が発せられたタイミングで、会議場の外か
ら激しい爆発音が伝わってきた。
﹁ふふ、どうやら外でも始まったようだ。貴様が無駄口をたたいて
いる間にな﹂
﹁始まった? トミエル大統⋮⋮いや、トミエル。一体、貴様たち
は何をしようと企んでいるのだ?﹂
もはや自国の明確な敵となった眼前の男に対し、ホスヘル公国の
コルドインは、敵意を隠すことなくそう問いただした。
﹁企む? その言われようは心外だな。我々が行うのは、仮初では
なく本当の自由と平等への行動だよ。この決起が成れば、我らが神
の下で、西方の人間は等しく真の平等を手にすることができるのだ﹂
﹁神の下で管理された自由と平等か⋮⋮実に結構。ちなみに、それ
を拒否する自由も与えられるのでしょうか?﹂
﹁もちろんだとも、イスターツ。ただしそれは、死という肉体の束
縛から開放された後に与えられる。さあ、そろそろ無駄口も終わり
としようか。これからは行動の時間だ﹂
トミエルがそう口にすると、彼の背後に控えていた兵士たちは、
一斉にそれぞれの武器を構え直す。
1361
その光景を目にして、ユイは深々と溜め息を吐き出した。
﹁はぁ⋮⋮やはり説得は無理だったか﹂
﹁おや、説得する気なんて本当にあったのかい?﹂
ユイの発言を聞きとがめたアレックスは、いつものキツネ目を細
めながらそう問いかける。
﹁もちろんさ。それだけで済めば、余った時間で昼寝できるだろ。
ともかく、アレックス。君には旧キエメルテ系の代表者達を任せて
いいかな?﹂
﹁ああ、いいよ。任されよう﹂
今や何の肩書もない男からの依頼を、クラリス王国の陸軍省次官
はあっさりと受け入れる。
すると黒髪の男は、その視線をドレスに身を包みながら不敵な笑
みを浮かべる女性と、早くも自らの愛剣を構える壮年の男へと向け
た。
﹁さて、非戦闘員のことはこれでいいとして、ノインとナーニャ。
君たちは偉い人なんだから、間違っても前に出て暴れないように﹂
﹁はっ、舐められたものだな。俺は俺の好きな様にやる。それはこ
の女も同様だろう﹂
﹁当然だ。隊長もしばらく会わないうちに、ずいぶん柔いことを言
うようになったものだね。くだらない猫をかぶらされてフラストレ
ーションも溜まってるんだ。今暴れないで、何時暴れるっていうん
だい?﹂
いつの間にかナイフで自らのロングドレスの裾をひざ上で切り落
とし、スラリと伸びた肢体を晒したナーニャは、先程までとは全く
異なる口調でそう言い放つ。
一方、そんな二人の発言を耳にしたユイは、頭を抱えながら大き
な溜め息を一つ吐き出した。
1362
﹁全く君たちは⋮⋮まあいい。あとエインス。君は出来る限り奮闘
して、敵の数を減らすように﹂
﹁ちょ、ちょっと待って下さい。久々の再会なのに、やたら僕だけ
扱いが適当じゃないですか。それに僕だって大公になったんですよ
!﹂
﹁いや、そこの二人は皇族と国のトップだし⋮⋮それと比べると、
大公なんて所詮中間管理職だろ。というわけで、キリキリ働いてく
れ﹂
発せられた抗議の声を、ユイはあっさりと切り捨てる。
そんな二人のやり取りを目の当たりにして、アレックスは思わず
苦笑を浮かべた。
﹁ふふ。相変わらずだね、君は。さて、クレメア教徒の皆さん方も
少しずつ包囲を縮めてきたことだし、模擬戦なんかじゃない、本当
の戦いを楽しむとしようか﹂
赤髪の男はそう口にした瞬間、前方に駆け出すと、コルドインに
迫ろうとしていた兵士を一閃のもとに切り伏せる。
会議室内に迸る紅い血しぶき。
ここに混乱と狂騒の戦いの幕は上がった。
1363
赤に染まりし会議室
﹁さて、それでは英雄君のご期待にこたえるとしましょうか﹂
赤い髪の男はそう口にするなり、広い会議室内を一気に加速した。
豊満な腹部を持つ男性に迫る敵兵の側面に飛び込むと、鋼の瞬きが
煌めく。
次の瞬間、彼の眼前に立っていた兵士は、体を真っ二つに切断さ
れていた。
﹁ア、アレックス次官!﹂
﹁ふふ、どうもコルドイン大公。ご機嫌はいかがですか?﹂
アレックスは軽い口調でそう問いかける。だが彼の体と剣は、一
瞬の停滞も見せること無く、迫り来る敵兵を次々と薙ぎ払っていっ
た。
一体、二体、三体。
紅い血しぶきとともに、もはや動くことができなくなった人間が
床に転がっていく。
そのあまりに凄惨で、そして圧倒的な光景に、凍りついたかのよ
うに敵も味方もその場に固まってしまった。
どうぞ何人でも構いませんよ?﹂
﹁おや、まだ始まったばかりだと思うのですが、もう終わりですか
?
明らかに挑発以外の何物でもないアレックスの言葉。
本来ならば、コルドインたちの保護を大前提とした彼の役回りに
おいて、それはありえない発言でもあった。
1364
だが、彼の眼前で武器を構える男たちは、獅子に射すくめられた
ネズミのように、ピクリとも動くことが出来ない。
そんな兵士たちを前にして、アレックスは思わず首を左右に振っ
た。
﹁ふむ、みなさん慎み深い性格のようですね。どこかの女性とはま
るで反対⋮⋮おっと、今のは失言です。忘れてください﹂
チラリと赤髪の女性の方向へ視線を走らせたあと、アレックスは
思わず苦笑を浮かべる。そして一歩だけ、彼は前方へと歩み出た。
﹁アレックス殿!﹂
﹁ああ、シャドヴィ様。それとコルドイン大公も無駄に動かないで
くださいね。下手に狙われるといけませんし、何より⋮⋮一緒に首
をはねてしまってはいけませんから﹂
赤い髪の男はそう口にした瞬間、後方の空気が強張ったことを彼
は背中で感じる。
すると、彼はわずかに口元を歪めた。そして、彼の言葉にたじろ
ぐ敵兵たちを見据えると、そのまま一気に前方へと駆け出す。
次の瞬間、会議室内には赤い血の華が次々と狂い咲いていった。
﹁オラ、ぶっ飛びな。エクスプロージョン!﹂
﹁ば、馬鹿。ここは建物の︱︱﹂
赤い髪の女性が爆発魔法を解き放つと、彼の側に立っていた男は、
目を見開きながら静止しようとする。だがそんな彼の言葉は、空間
に弾けた爆発音によってあっさりとかき消された。
﹁へへ、一丁上がりと﹂
1365
圧し曲がった椅子に、破損して散乱した長机。そしてまとめて弾
き飛ばされた敵兵達。
屋内にもかかわらず、まるで暴風雨が通り過ぎたかのようなその
光景を前にして、ナーニャは満足気に笑う。
一方、彼女の隣で惨事を目の当たりにしたノインは、頬を引き攣
らせつつ、苦言を呈さずにはいられなかった。
﹁ナーニャ、貴様は馬鹿か? どこに屋内で爆発魔法を使う奴がい
る? 貴様には常識というものはないのか?﹂
﹁はん、お小言はゴメンだね﹂
﹁小言ではない。俺が言っているのは常識だ!﹂
すぐにそっぽを向いたナーニャに対し、ノインは間髪入れず怒声
を発する。
だが、そんな彼の言葉は、赤髪の女性の機嫌を悪化させる以外の
意味を持たなかった。
﹁うるさいな。ちょっとでかい国の次期皇帝だからといって、常識
ぶってんじゃないよ。だいたいさ、あんただって敵国にのこのこや
ってきて、そんなもの振り回してるんだ。普通に考えれば、十分に
正気じゃないさ﹂
﹁程度の問題だ、馬鹿者!﹂
そう口にしながら、爆発を回避して踊りかかってきた兵士の一人
をノインは切り捨てる。
すると、その行為を目にしたナーニャは、魔法を編み上げながら
も隣で更に剣撃を振るう皇太子を鼻で笑った。
﹁どうせ怒られるなら、小さくても大きくても一緒だろ。結局、バ
レなければいいのさ、バレなければ﹂
﹁バレなければって、この眼前の惨状をどうやって隠すというのだ
?﹂
1366
﹁はっ、簡単さ。証言者を全部消しちまうか、喋れなくしちまえば
のさ。簡単なことだろ? そうすりゃ、フィラメントの代表は天使
みたいな女性だったと、伝わるに違いないからね﹂
そんな不穏な発言を口にしたナーニャは、隣国の皇太子であるノ
インの技量を確認して、そのまま側面の敵の迎撃を任せる。
一方、眼前の敵にのみ集中し始めたナーニャを目にして、ノイン
は若干不安そうな声を上げる。
﹁おい、百歩譲って敵の証言者を消すのは良いとしよう。だが、貴
様もしや俺たちまで消すつもりじゃないだろうな?﹂
﹁さあて、それはあんたらの心がけ次第だね。というわけで、間違
って喰らわないように避けなよ、アイスショット!﹂
ナーニャがその呪文を口にした瞬間、彼女の眼前には無数の氷の
弾丸が展開され、一斉に目の前の敵兵たちに向かい解き放たれる。
その内の一発を、頬をかすめながら回避したノインは、もはや怒
るどころではなく、呆れるしか無かった。
﹁なんてことだ、こんな女が国の代表とは⋮⋮﹂
﹁なんか言ったかい?﹂
﹁ちっ、何でもないさ。それよりもだ、背中がガラ空きだぞ!﹂
そう言い放つと同時に、ノインは回り込む形でナーニャの後背を
狙ってきた敵兵を切り伏せる。
すると、救われた立場のナーニャは、ほんの僅かにニコリと頬を
歪め、そしてカラカラと笑ってみせた。
﹁ガラ空き? はっ、何を言ってるんだい。あんたがいるから気に
していなかっただけさ。少しは仕事を分けてあげないとね。という
わけで、細々としたのは任せたよ、ノイン﹂
﹁なぜ俺が尻拭いをする羽目に⋮⋮まさか、これも奴の狙いか﹂
忌々しげにそう口にすると、ノインは苦い表情を浮かべる。
1367
そして彼は小さく吐息を吐き出すと、再び強く剣を握りしめ直し
た。
﹁ナーニャさんは相変わらずナーニャさんだし、先輩は相変わらず
先輩だし、敵の数には切りがないし⋮⋮﹂
エインスはそう口にしながら、剣を振るう。
右から左からと押し寄せる敵兵。ナーニャの魔法により大きく数
は減らしたものの、依然として同数以上であるのは事実であった。
そんな彼我の人数差を目の当たりにして、エインスは小さく首を
左右に振る。そして改めて右側面から迫り来る新たな敵兵に対処し
ようとした時、彼らの間に突然割り込む影が存在した。
﹁お手伝いしますよ、ライン大公﹂
少しくすんだ金髪の青年。
彼は駆けつけたそのままの勢いで、手にするやや細身の剣を振る
う。
途端、予想外の斬撃に対処しきれなかった敵兵はその場に崩れ落
ちた。
﹁カイラ国王!? だ、ダメです下がってください﹂
﹁はは、あなた方ばかりに美味しいところをお譲りするわけにはい
きませんからね﹂
そう口にすると、カイルは新たに迫り来る敵兵と剣を交じわせる。
そのタイミングで、新たな加勢者が彼らの元に駆けつけた。
﹁全く、目を離すとすぐにこれですから。少しは自重してください﹂
﹁と言いながらマルフェス。君の口元は嬉しそうだけど﹂
1368
駆けつけるなり、交戦を開始したマルフェスの表情を目にして、
カイルはそう軽口を叩く。
その言葉に対し、マルフェスは否定をしなかった。
﹁まあ、俺は本来現場屋ですからね。宮廷の奥で書類を前に、うん
うん唸っているのは趣味じゃないんですよ﹂
﹁君の上司が聞いたら、きっと頭を抱える話だね。まあカイル・ソ
ーマである僕には、関係のないことだけど﹂
﹁おやおや、誰かの真似をするのはあまり感心できませんな﹂
目の前の青年が、とある黒髪の男たちに向かって使用したとされ
る偽名。
それを耳にするなり、マルフェスは苦笑を浮かべる。
﹁というわけで、ライン大公。僕たちのことはお気遣いなく﹂
﹁いや、そんなわけにはいかないでしょ。というか、貴方方は先輩
の悪影響を受けすぎですよ﹂
予想外に加勢を受けて、少しばかり状況が好転したエインスは、
助太刀してくれた二人に向かって苦笑交じりにそう告げる。
すると、無精髭を生やした壮年は、楽しそうに口を開いた。
﹁すまないな。国王陛下はわからないが、我らレジスタンスのリー
ダーであるカイル様は、あの男のファンらしいのでな﹂
﹁その通りです。でも、きっと我が国の国王こそ、世界で一番あの
人を尊敬していると思いますよ。南にある某国に帰したくないと思
っているほどにね﹂
ある意味挑発的とも呼べるその言葉。
それを耳にするなり、エインスの眉はピクリと吊り上がる。
すると彼は、返答代わりに眼前の敵兵を切り捨てた。
﹁帰る帰らないは、あくまであの人が決めることですからどちらで
1369
もいいですけどね。どうせ周りが何を言おうと、自分の考えを変え
る人ではありませんし⋮⋮ただ残念ながら、あの人を世界で一番尊
敬しているのは、ラインドルのカイラ国王ではありませんよ﹂
そのエインスの発言に、カイルは思わず口角を吊り上げる。そし
て空気を読んだ彼は、予想された回答を引き出すために、あえて問
いを口にした。
﹁へぇ、それでは一体どなただと言われるのですか?﹂
﹁もちろん決まっています。英雄ユイ・イスターツの最初の教え子
⋮⋮このエインス・フォン・ラインですよ﹂
エインスはそう口にした瞬間、戦闘中にもかかわらず誇らしげな
笑みを浮かべる。そしてそのまま自らの技量を誇示せんと、彼は左
手を自らの剣の腹に添えた。
﹁フレイム⋮⋮オン!﹂
途端、彼の剣には炎が纏われる。そしてエインスはその剣を迷う
ことなく敵兵へと振るった。
﹁ナーニャはナーニャだし、エインスまで室内で炎の魔法を扱うし
⋮⋮まったく困ったものだ﹂
人数的には劣勢ながらも、五分以上で繰り広げられている戦いの
光景を目にして、ユイは愚痴を口にしながらも苦笑を浮かべる。
﹁ば、バカな⋮⋮五十名近い兵士を動員したんだぞ。なぜこのよう
なことになるのだ﹂
﹁それは数字で物事を考えてらっしゃるからですよ。いや、それ自
体が悪いわけではありませんが、少なくとも私達の命の計算を少し
1370
甘く見積もりすぎましたね、大統領殿﹂
﹁各国の要人がこの場にはそろっていたのだぞ。にも関わらず、何
処のどいつが会議室内で爆発魔法なんぞ使うと予想する。貴様らに
は常識がないのか!﹂
人数的には圧倒しており、瞬く間に各国の代表を捕らえて人質と
するはずであったトミエル達の計画。
それを決行する上で障害となるアレックスや眼前の黒髪の男の存
在は、当然の事ながら最初から想定され、十分以上の人員を彼らは
動員しているつもりであった。
実際に最も恐るべき朱の悪魔は、要人護衛のためにその動きに制
限を課すことができている。
だが、魔法王代理であるナーニャの存在、そして何より彼女が屋
内で次々と大規模魔法を放つなど、想定外の極みであった。
﹁いやぁ、常識がないのかと言われましてもねぇ⋮⋮別に私がやら
かしているわけではありませんし﹂
﹁でも先生は、あの魔法王代理が暴れられるだろうことも計算に入
れて、ここに呼ばれたんでしょ?﹂
普通ならば一生目通りさえ叶わぬかもしれぬ二人の人物。その者
たちをこの場へと案内し終え、少し肩の荷が降りた状態であるフェ
ルムは、隣に立つ彼の教師に向かって呆れたようにそう問いかけた。
﹁ふふ、さてどうだろうね。だけど仮にもあのフィラメントの代表
たる人間が、魔法の出力調整を間違えるなんてことは有り得ないと
は常々思っているよ﹂
﹁それは正しいでしょうけど⋮⋮ノイン様はともかく、あの人は本
当に苦労したんですよ。初対面にもかかわらず、口を開くなり酒を
買ってこいですからね。僕も魔法士の端くれですので、フィラメン
トの代表には憧れがあったのですが、まさかあんな︱︱﹂
1371
若き青年がそう口にしかかった瞬間、後方から彼の頬をかすめる
形で氷の弾丸が通り過ぎると、そのまま敵兵の顔面へと直撃する。
頬を引き攣らせたフェルムが慌てて後方を振り向くと、少し離れ
た位置から彼を睨みつける赤髪の女性の姿がそこに存在した。
﹁フェルム、とりあえずは眼前の敵に集中することだね。少なくと
も、これ以上後ろの怖いお姉さんを怒らせたくなかったらさ﹂
﹁そ、そうですね。少なくとも、今はそれが一番のようです﹂
﹁ああ、それが良い。何しろ、君の留学先の教師の心象を上げてお
くことは、決して悪いことじゃないからね﹂
ユイは何気無い口調で、そう口にする。
途端、隣に立っていたフェルムはその場に固まった。
﹁えっと⋮⋮それはどういう意味ですか?﹂
﹁ふふ、言葉通りだけど、さしあたっては目の前のおじさんの相手
をするとしよう。というわけで、そろそろ幕引きかと思います。こ
の辺で諦めることにされませんか?﹂
﹁バカな。多少優勢になったからといって、調子にのるな﹂
﹁多少⋮⋮ねぇ。でも、あなたの見積もりが甘かったのは事実でし
ょう。もはや状況はーー﹂
ユイがそう口にしかかった時のことである。
彼の眼前に立っていたトミエルは、何かに気づいたかのように歪
な笑みを浮かべた。そして嬉しそうに笑い声をあげる。
﹁見積もりが甘い? いやいや、君たちが思っていた以上に奮戦し
て、少なからず計算が狂ったことは認めよう。だが、すでに私の同
志たちは市内で次々と決起を開始している。そんな彼らには一つの
命令を告げておいた。何だかわかるかい?﹂
﹁え⋮⋮まさか!?﹂
トミエルの意味ありげな笑みを目にしたフェルムは、会議室の外
1372
の廊下を多くの人間が駆ける音がしたことに気がつく。
そして次の瞬間、次々とこの国の正規兵の装備に身を包んだ男た
ちが、彼らの後方の大扉から会議室の中へと入り込んできた。
﹁そう、その命令とは、目標地点の制圧を終えればすぐにこの場所
に集まるようにというものだよ。勘違いしてほしくは無いが、私は
模擬戦で見せてもらった君たちの実力を過小評価はしていない。た
だ、それでも問題がないと判断していただけの話だ﹂
トミエルは右の口角を吊り上げ、勝負は決したとばかりに嬉しそ
うに笑う。
一方、後方に展開されたその光景を目にして、フェルムはその表
情を凍りつかせずにはいられなかった。
﹁そんな。これでは挟み撃ちの格好だ。しかも敵の数は⋮⋮﹂
そこまで口にしたところで、フェルムは状況を受け入れがたいと
ばかりに、首を左右に振る。
だが、彼の隣に立つ黒髪の男は、依然として涼しい顔をしていた。
彼は騒がしくなった後方を振り返ることさえせず、頭を掻きなが
らまるで何事もなかったかのように、先ほど中断させられた言葉を
続ける。
﹁もはや状況は決しました。というわけで、そろそろ終わりにしま
せんか?﹂
﹁おやおや、予想外の状況を受け入れられず、気でも触れたかね?﹂
﹁いいえ、本当に言葉通り聞いているんですよ。というか、むしろ
あなたの方こそ、状況を正しく理解できていますか?﹂
﹁なに?﹂
ユイの言葉を耳にしたトミエルは、一瞬眉間にしわを寄せる。
そして彼の表情が驚愕で歪み、その目が見開かれたのは、まさに
その直後であった。
1373
﹁な⋮⋮お、お前は!?﹂
﹁ふむ、部下を回してくれるだけで良かったんだけど。わざわざ来
てくれるとは⋮⋮いやぁ、超過勤務ご苦労様﹂
ようやく後方を振り向いたユイの視線の先。
そこには一人の武人の姿が存在した。
﹁トミエル大統領。すでに貴方が扇動したクーデター部隊はすべて
鎮圧した。そしてこれより貴方を扇動罪、国家機密漏洩罪、そして
外患誘致罪にて逮捕する﹂
会議室の入り口に悠然と立った大柄な武人は、手にした紙の内容
を高らかと読み上げた。そして改めて表情を引き締めなおすと、読
み上げた逮捕状を室内の者たちに向かって掲げる。
その行為を目の当たりにして、トミエルの顔色は真っ赤に染め上
げられた。
﹁う、ウフェナ、貴様!?﹂
そう、最後にこの会議室へと足を踏み入れた人物。
彼は大統領の前警備隊長であり、そして国家治安維持部の副部長
を務める英傑ウフェナ・バルデスであった。
1374
信仰の果てに
﹁本当に良かったのかい?﹂
ウフェナ達の侵入を確認するなり、各国要人を彼等の下まで護衛
しながら移動したアレックスは、隣に立つ大男に向かいそう問いか
ける。
﹁朱か⋮⋮ふん、勘違いしてもらっては困る。私はこの自由を愛す
る国家に忠誠を誓う者だ。その国家の指導者がどのような宗教を信
仰していようが、それは自由であり私には関係無い。そして国家の
ために必要とあらば、宗教の後押しをすることもやぶさかでは無い。
だが︱︱﹂
﹁それがこの自由の国を害するならば、君の敵となると。ふふ、な
かなか難儀な性格をしているね、君も。ある意味、自由を守るため
に自由を失っている気がするけど﹂
アレックスは目の前の武人の言葉を奪うような形で、そう口にす
る。
だが、ウフェナの表情はピクリとも動かなかった。
﹁好きに言え。私は、私の選択の自由によって、私に与えられた自
由の権利を国家へと捧げたのだ﹂
﹁自由を受け取らないのも、君の自由⋮⋮か。ふふ、気に入ったよ。
今度、この戦いが終わったら、一度手合わせしよう﹂
アレックスはクスリと笑うと、彼の評価したものにしか告げぬ言
葉を目の前の武人へと告げる。
すると、謹厳な大男は初めて口元を歪ませ、一度大きく首を縦に
振った。
1375
﹁ふん、面白い。だがすべてが終わるまでは、戦わぬ自由を選ばせ
てもらう。この情勢下にもかかわらず、貴様の相手をして、体の自
由を奪われるわけにはいかんからな﹂
﹁さて、チェックメイトですね。というわけで、逮捕状が出てしま
っているわけですが、偶然にも乱戦の中でそのお命を失いたくなけ
れば、降伏されませんか?﹂
両腕を軽く左右に広げながら、ユイは目の前の大統領に向かいそ
う問いかける。
すると、トミエルは苦々しげな表情を浮かべながら首を左右に振
った。
﹁⋮⋮ありえん。なぜこんなことが⋮⋮認めん、私は認めんぞ。こ
れは何かの間違いだ。我らクレメア教徒は神の思し召しに従って、
この地上に光を照らさねばならぬのだ。にもかかわらず、こんな⋮
⋮く、クルーソン。すぐにザムラン枢機卿に、な⋮⋮グホッ!﹂
後ろを振り返りながら、第二情報部のクルーソンに向かいそう口
に仕掛けたトミエルは、自らの腹に熱い衝撃を覚える。
そして次の瞬間、彼はこみ上げてきた赤い液体を吐き出した。
﹁この期に及んで、ザムラン枢機卿に一体何ですか? まったくま
だ我らに迷惑をかけようとするとは、これだから無能者は困ります。
傀儡として使うにはちょうど良いですが、こうも無能で役立たずだ
と、正直補佐を命じられていた私としても、面倒が見きれませんね﹂
﹁な⋮⋮貴様、何を⋮⋮﹂
自らの腹に突き刺さった短刀。
それが真っ赤な液体にまみれながらクルーソンの手元にあった。
1376
急速に鈍る思考をいくら働かせようとも、目の前で薄ら笑いを浮
かべる人物の行為を、トミエルは理解できなかった。
だからこそ彼は、驚愕の表情を浮かべたまま、前のめりに崩れ落
ちる。
﹁枢機卿のご命令により、貴方の魂の救済をさせて頂きました。お
めでとうございます、トミエル枢機卿候補殿﹂
﹁⋮⋮なるほど、トルメニアは端から使い捨てのつもりだったわけ
だ﹂
如何に彼でも予期し得なかった眼前の出来事に、ユイは嘆息しな
がらそう漏らす。
すると、クルーソンはニコリとした笑みを浮かべ、そして嬉しそ
うに口を開いた。
﹁いえ、使える間は使うつもりでしたよ。色々と知恵の回る前大統
領には何度も煮え湯を飲まされていましたが、我々の提案を全て受
け入れるこの男はその点においても、まさに理想的な傀儡でしたか
らね﹂
﹁ふぅん、ということは前回の選挙も君たちの努力が実ったと、そ
ういうことかな?﹂
﹁否定はしませんよ。あちらの御仁のお父上が手助けをしてくださ
ったのを、最大限活用させて頂きました。そうでもなければ、この
男を擁してあのフェリアムを引きずり落とすのは難しかったでしょ
う﹂
チラリとノインに視線を向けた後、クルーソンは右の口角を僅か
に吊り上げる。
帝国と魔法公国の戦いの折に、キスレチンの介入を阻止するため、
帝国がフェリアム派へとばらまいた多額の賄賂。
それはキスレチンの目を内へと向けさせるには十分であった。だ
1377
が、その行為が最終的に引き起こしたこの顛末を前にして、最初に
ノインに向かい策を提案した黒髪の男は、苦い表情を浮かべながら
口を開く。
﹁なるほど、私の視野が狭かったということかな。こうなるとわか
っていれば他の手段を取るべきだったのだろうけど⋮⋮ともあれだ、
君たちにしてもせっかく作り上げた大事な御輿。そんな簡単に切り
捨てて本当に良かったのかい?﹂
﹁おや、この状況下でこの男に未来が存在したと? まあ仮に今回
の件が上手くいったとて枢機卿になれぬ身でしたけどね。となれば、
余計なことを喋って神を汚す前に、大統領の肩書のまま死ぬことが
出来て本人も幸福だったと言えるでしょう﹂
﹁おかしいな。確か君のところの信者は、死後は地母神セフエムの
もとに送られると聞いている。なら、別に大統領なんて肩書きを失
っていても、幸福は必ず訪れるものじゃないのかな?﹂
クルーソンに向かって、ユイは警戒を隠さぬままそう口にする。
一方、そんな何気ないユイの言葉に、クルーソンは怒りを隠せな
かった。
﹁こんな俗物が、我らが神のもとに? 冗談はやめていただきたい
ですな。間違ってもそのようなことは口にしないでください。でな
いと⋮⋮﹂
﹁でないと?﹂
﹁貴方のその汚らわしい口が、二度と開けなくなりますよ﹂
クルーソンはそう口にするなり、空いた左手を胸元へと動かす。
その行為を目にしたユイは、反射的に顔を左へと傾けた。
そして次の瞬間、ほぼノーモーションで放たれたスローイングダ
ガーが彼の頬を掠めていく。
1378
﹁⋮⋮躱していなければ、もう今頃喋れなくなっているよ。君もあ
まり気が長くないんだね﹂
﹁貴方のような汚らわしい人間と喋りますと、やむをえないところ
でしょう。ねぇ、調停者﹂
その言葉が発せられた瞬間、ユイはすべての事情を悟る。
そして彼は、思わず首を左右に振ると、大きなため息を吐き出し
た。
﹁はぁ⋮⋮ということは、君も修正者の一味というわけか。やれや
れ﹂
﹁残念ながら、私はあの方々のような世界に干渉する奇跡は起こせ
ませんよ。あの方達を崇め尊敬する、ただの人間ですからね。でき
ることといえば、この程度のことだけです﹂
その言葉を口にするなり、クルーソンは一足飛びで間合いを詰め
る。
そして右手に握った短刀をユイへと振るった。
﹁早い!? フェルム、下がって!﹂
先ほどの投擲から、目の前の男がかなりの力量を持つとユイも予
期していた。
だがそんなユイの予想よりも、眼前の男の動きは上回っていた。
だからこそ彼は、すぐそばに立つ教え子に指示を下す。
﹁ほう、この状況下でも、教え子を気にする余裕がありますか﹂
﹁君が私に対する餌に使おうと、彼に注意を払ったのに気付いたか
らね﹂
短刀をユイへと向けながらも、チラチラとその視線はフェルムへ
向けられている。
もちろんクルーソンの狙いは、フェルムを利用しユイの隙をつく
ことにあった。
1379
ユイはそれに気づいたからこそ、フェルムとクルーソンの間に立
つ形で、迎撃を行う。
﹁なるほど、やはり剣の巫女が息子に技を伝えていたという話は事
実でしたか﹂
わざと間合いを取らせるために放たれたユイの蹴り。
それを止む無く黒髪の男の意図通り、大きく後ろに飛んで回避し
たクルーソンは、忌々しげにそう言い放つ。
﹁伝えていたというか、体に叩きこまれたというか⋮⋮まあ、そこ
は議論の分かれるところだね﹂
ユイは軽い口調でそう口にしながらも、その足はサイドステップ
を刻む。
そして、再びノーモーションで放たれたスローイングダガーの一
撃を回避すると、思わぬものをその手にして前方へと放り投げる。
﹁なに!?﹂
クルーソンが目にした自らに迫り来る物体。それは会議で使用さ
れていた一脚の椅子であった。
彼は側面に飛ぶ形で慌てて回避を行う。そして同時に、彼は直感
的に自らの危機を感じ取った。
だからこそ彼は手にしていた短刀を横薙ぎに振う。
﹁ちっ、不意をつけたと思ったんだけどね。そううまくはいかない
か﹂
クルーソンの注意が投じた椅子へと移ったと感じたユイは、体を
沈めながら死角に入り込む形で間合いを詰めていた。
しかしながら、とっさに放たれたクルーソンの斬撃により、やむ
を得ず彼は改めて距離をとり直す。
1380
﹁貴様⋮⋮本当に英雄と呼ばれているのですか。この卑怯者!﹂
﹁いや、別に英雄だなんて自分で名乗ったわけではないし、何より
君が卑怯と言うのはどうかと思うけど⋮⋮﹂
軽い口調で答えながらも、一度間合いを取り直されたが故に、ユ
イの表情は苦々しげなものであった。
そんな彼に向かい、クルーソンは首を左右に振りながら言葉を漏
らす。
﹁しかし世界への干渉権を持った上にその技量。やはりウイッラ様
は貴方に敗北したのですね﹂
そう口にするなり、クルーソンは目の前の黒髪の男を睨みつける。
すると、ユイは頭を掻きながらゆっくりと否定を口にした。
﹁ああ、それは違う。ウイッラにとどめを刺したのは私じゃない。
だからそんな目で睨むのはやめてくれないかな﹂
﹁では一体誰が?﹂
﹁彼さ﹂
そのユイの言葉が発せられた瞬間、クルーソンの背筋にはゾクリ
とした感覚が走る。
そして振り向いた彼は、そこに朱い悪魔を見た。
﹁朱だと!﹂
﹁ふふ、背中ががら空きだよ﹂
そう口にした赤髪の男は、迷うことなく手にした剣を振るう。
それは慌てて体をかばうように差し出された短刀を破壊し、その
ままクルーソンの右腕を薙いだ。
﹁グゥッ⋮⋮わ、私の右腕がぁ!﹂
右腕を失ったクルーソンは、痛みと怒りで顔を真っ赤にしながら、
大きく後ろに飛び退る。
1381
一方、アレックスはそんな彼の行為をゆうゆうと眺めやりながら、
ゆっくりと口を開いた。
﹁まったく⋮⋮ユイの悪い癖だよ。人にすぐ厄介ごとを押し付けよ
うとするのはね﹂
﹁でも戦いに関する厄介事は嫌いじゃないだろ?﹂
﹁まあ君といれば飽きないのは事実だね﹂
ユイの発言に対し、アレックスは肩をすくめながら苦笑を浮かべ
る。
﹁で、各国の要人方は?﹂
﹁ウフェナくんと彼の部下が、順に室内から脱出させている。そろ
そろ好きに喋っても、余計な耳は無くなったよ﹂
ユイの言葉に秘められた本当の意図を察し、アレックスはそう口
にする。
すると、ユイは満足そうに大きく頷いた。
﹁ふむ、それは結構。というわけでさ、クルーソン君。降伏してく
れないかな? それともそこの赤い髪のお兄さんを倒して、その窓
から逃げるかい﹂
クルーソンが常に逃走経路として、会議室に備え付けられた後方
の窓を背にしながら動いていたことをユイは感づいていた。
そしてだからこそ、その逃走経路を赤髪の男が塞ぐまで、彼は敢
えて積極的な攻勢に出なかったのである。
一方、完全に黒髪の男に絡め取られたことを知ったクルーソンは、
悔しげに唇を震わせる。
﹁⋮⋮地母神に仕えるこの私が、神を裏切って降伏などすると?﹂
﹁余り思わないけどさ、じゃあ、ここで私とアレックスを同時に相
手取るかい?﹂
1382
憤怒に満ちたクルーソンの視線に対し、ユイは頭を掻きながらそ
れだけを口にする。
その言葉がクルーソンの鼓膜を震わせると、彼は強く唇を噛み締
め、そして
﹁次はない。そして貴様らに未来はない。我らに対し最初で最後の
勝利、せいぜい噛み締めるのだな。我が主、地母神セフエム。今、
クルーソンは貴方の御許へ参ります﹂
そう口にするなり、クルーソンは残された左手で懐のスローイン
グダガーを握りしめる。
そして次の瞬間、迷うことなく自らの首を切り裂いた。
頸動脈から吹き出す朱い血しぶきが、ユイの視界を赤く染める。
同時に一人の殉教者は床へと崩れ落ちた。
﹁クレメア教⋮⋮か。どうも一筋縄では行かなそうだね﹂
死への恐怖ではなく満足の表情を浮かべた亡骸を目にして、アレ
ックスは首を左右に振りながらそう口にする。
すると、彼の眼前に立つ黒髪の男は大きなため息を吐き出した。
﹁彼の行為を見事というのは、私の主義に反するかな。ただ彼の死
に、彼が敬愛する神の御加護があるといいね。セフエムなどという
名の、人によって作り上げられた神様が本当にいるとすればだけど﹂
1383
戦いの鐘は鳴らされた
キスレチン南部の代表的主要都市ナポライ。
その海の玄関口とも呼ぶべきサンタンルシア港には、デローヴォ
と呼ばれる要塞が存在する。
﹁ケティス枢機卿。ただ今、首都の報告が届きました﹂
﹁ほう、それでどうなりましたか?﹂
海側に面した要塞の一室で、一人佇んでいたケティス・エステハ
イムは、慌てて部屋に駆け込んできた男に向かいそう問いかける。
﹁ハムゼ外務大臣よりのご連絡ですが、大統領は決起に失敗したと﹂
﹁⋮⋮なるほど。そうなりましたか﹂
そう口にすると、初老の年齢にさしかかりながらも、どこか精悍
さを残す彼は小さな溜め息を吐き出した。そして再びその視線を窓
の外に広がる、ナポライ湾へと移す。そしてこの国の軍務大臣の役
職に付いているはずの男は、クレメア教の枢機卿として、寂しそう
にその口元を動かした。
﹁立ち位置は違えど、同じ神のもとに仕える者として、私は実に寂
しい。そう、たとえその死が、予め定められていたものだったとし
ても﹂
﹁ケティス枢機卿、如何が致しましょうか?﹂
ケティスの独語に気が付かなかった部下は、部屋の入口で頭を下
げたままそう問いかける。
すると、ケティスは小さく頭を振り、そして部下の方へ向き直っ
た。
1384
﹁何も焦ることはありません。全ては総主教猊下の予定通りです。
ですから、計画通りに我らは立ち上がるとしましょう﹂
﹁了解致しました。ではトミエル大統領及び民主改革運動の腐敗を
正すため、我らは決起を開始します!﹂
﹁ええ、許されざる横暴を働き中央で国家を私物化する彼等、その
ツケを地方に押し付けた報いをくれてやるとしましょう。私も敬愛
すべき地母神セフエムの思し召しに従い、腐敗の温床たるミラニー
ル討伐の指揮を執るとしましょう。それがこの国の軍務大臣に課せ
られた使命でしょうから﹂
ケティスはほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべながら、はっ
きりとそう宣言した。
ナポライ市民を始めとする一般の民衆と異なり、全ての事情を知
る彼の部下は、そんなケティスの物言いに一瞬苦笑を浮かべる。
だが、視線の先の表情があまりに真剣であったため、すぐに彼は
佇まいを直した。
﹁失礼しました。す、枢機卿、もう一つご報告が﹂
﹁もう一つ? はて、何でしょうか?﹂
目の前の部下の動揺をまったく気にした素振りも見せず、ケティ
スはニコリと微笑みながらそう問いかける。
﹁本国。いえ、トルメニアから例のものが届いております﹂
﹁ふむ、まるで謀ったかのようなタイミングですね。おそらくは総
主教猊下の思し召しによるものでしょうが⋮⋮それで運用は可能で
すか?﹂
﹁はい。ものだけではなく、部隊も併せて送ってくださいましたの
で﹂
ドラグーン
﹁部隊⋮⋮もしかして銃歩兵隊ですか?﹂
﹁いえ、竜騎兵部隊を﹂
その言葉を耳にした瞬間、初めてケティスの表情に僅かな驚きが
1385
浮かぶ。
だが、それはあくまで一瞬のことであり、すぐに彼はその口を開
いた。
﹁まさか総主教猊下直属の部隊が来てくださるとは、なんとありが
たきことでしょう。改めて、猊下にお礼の書状を送らねばなりませ
んね。それではまず、早速我らが決起に参加する者たちに、銃の御
指導をお願いして下さい。ただし、くれぐれも彼等がトルメニアの
人間だと悟られぬように﹂
﹁了解致しました。それでは失礼致します﹂
ケティスの命令を受けた部下は、再び深々と頭を下げると、その
まま部屋から立ち去る。
そうして海辺のこの部屋に存在する者は、再びケティスただ一人
となった。
﹁直属部隊を送りつけてくるということは、猊下も存外本気だとい
うことですか。いや、おそらくは私の監視も兼ねてでしょうが⋮⋮
いずれにせよ、賽は振られました。あとは神聖軍の方々が、彼の、
そう油断ならぬ調停者の注意を引きつけてくださる事を祈るとしま
しょう。この国を、いやこの世界をあるべき姿へと正すために﹂
時を同じくして、ホスヘル公国との国境を臨む位置に存在するト
ルメニアのフェレロリムス砦。
砦の周辺はトルメニアの兵士により埋め尽くされており、彼らは
今か今かと出陣の準備を行っている。
一方、意気揚々と準備を行う兵士達と異なり、彼等の首脳陣が集
まる砦の一室では一つの騒ぎが起こっていた。
1386
﹁報告致します。キスレチン首都ミラニールでの決起は失敗した模
様﹂
﹁何だと!? それは本当か?﹂
キスレチン侵攻に際し、トルメニア神聖軍の参謀を務めることに
なっていたマフズン司教は、予期せぬ報告を受け表情を歪める。
すると、報告を行った兵士は、険しい表情を浮かべたまま重い口
を開いた。
﹁はい⋮⋮既にクーデターは鎮圧され、関係者は次々と捕縛されて
おるようです﹂
﹁首都にクーデターを発生させ、連動する形で我ら神聖軍が行動を
開始する。計画は完璧であったはずだ。にも関わらず⋮⋮なんと情
けないことだ﹂
神聖軍の将軍を務めることとなったヌルザーン枢機卿は、そう口
にするなり首を左右に振ると、深い溜め息を吐き出した。
すると、長いヒゲを蓄えた隻腕の男が立ち上がる。
﹁やはりトミエルなどという半端者を信用したのが間違いだったの
だ﹂
﹁バイラム司教、今更そんな事を言い出しても意味は無い。問題は
これからどうするかだろう﹂
参謀を務めるマフズンは、バイラム司教の気持ちを理解はしたも
のの、早急に建設的な論議を行う事を提案する。
そんな彼の言葉を受け、一団の長であるヌルザーンは、苦い表情
を浮かべながらその口を開いた。
﹁こうなれば、一度撤退することも視野にいれるべきだろうな﹂
﹁て、撤退ですと? 馬鹿な、ルコンキシュタは⋮⋮神地回復運動
は始まったばかりですぞ。何一つ成果を上げること無く、撤退など
1387
できるものですか!﹂
ヌルザーンの発言を耳にするなり、今回の派兵強硬派であったバ
イラムは、顔を真っ赤にする。
だがそんな彼に向かい、派兵に対し慎重論を唱え続けてきたヌル
ザーンは、与えられた現実を彼に突きつけた。
﹁なら、あのキスレチンと正面から戦うか? 我ら神聖軍は八万と
はいえ、連中の総兵力は我らを上回ろう。いたずらに信徒を犠牲に
したいというのなら、構わんが﹂
﹁む、むぅ⋮⋮﹂
﹁結論は出たようだな。では、我らは帰還の︱︱﹂
バイラムが黙りこくったのをその目にしたヌルザーンは、そのま
ま結論を口にしようとした。
だがそんな彼の発言を遮るものが存在した。
﹁少しおまちくださいますかな﹂
﹁⋮⋮ユダナ助祭か。一体何かね?﹂
参謀のマフズン司祭は、枢機卿の発言を遮った若いユダナに向か
って険しい視線を向けると、直ちにその真意を問いただす。
すると、血走ったかのような瞳を有する痩せこけた助祭は、口元
に笑みを浮かべながらその口を開いた。
﹁兵をお退きになるなんてとんでもないことです。せっかく敵国が
クーデターで混乱の渦中にあるというのに、これを突かぬとは⋮⋮
それは神意に背く行為ではないかと思いますな﹂
﹁何だと? 貴様、軍の監査役という大任を任されたにも関わらず、
今の話を聞いていなかったのか? 報告にあったように、既に計画
されていた王都のクーデターは失敗に終わったのだ﹂
ユダナの発言を耳にするなり、マフズンは呆れたような表情を浮
かべながら、そう口にする。
1388
だが、格上の司祭の発言を、ユダナは鼻で笑って見せた。
﹁ふふ、なるほど。確かに首都ミラニールでのクーデターは、無能
者のトミエルくんのせいで失敗に終わりました。ですが、南部ナポ
ライのクーデターは如何です?﹂
﹁は? なんだナポライのクーデターとは?﹂
キスレチン南部の大規模都市であるナポライ。
突然その地でのクーデターを口走ったユダナに向かい、マフズン
は怪訝そうな表情を浮かべる。
途端、ユダナは小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、いやらしい口
元をゆっくりと動かした。
﹁おや、マフズン司祭。もしやご存じないのですか?﹂
﹁なるほど⋮⋮また貴様ら真言派の秘密行動か﹂
僅かに下唇を噛み、そして忌々しげにそう口にしたのは、ヌルザ
ーン枢機卿であった。
﹁ふふ、自分の勉強不足を棚に上げて秘密行動などとは、まったく
人聞きの悪い。それに枢機卿、真言派などというものは存在しませ
んよ。我らはただただ総主教猊下の指示に従う者。総主教猊下が深
いお考えのもとで、その命令を伝えるべき者のみ伝えられておられ
る。そのどこが問題であると?﹂
﹁むぅ⋮⋮だが事が今回の作戦に関わるのならば、参加する信徒の
ためにも、必要な情報は告げられているべきであろう﹂
ユダナの発言に苛立ちを覚えた隻腕のバイラムは、総主教の威を
借るキツネめと言わんばかりの表情を浮かべる。
だがそんな彼の言葉も、ユダナは鼻で笑ってみせた。
﹁ふふ、必要な情報? ああ、確かにそうかもしれませんね。です
が言い換えれば、現段階まではあなた方に告げる必要がなかったと、
1389
ただそういうことでしょう﹂
﹁⋮⋮もういい。貴様とここでこれ以上問答するつもりはない。そ
れよりもナポライのクーデターとは一体何なのだ?﹂
会議室内の温度が急速に高まり、バイラムが怒りを爆発させよう
としたのを見て取ったヌルザーンは、機先を制する形でそう問いか
ける。
﹁ふむ⋮⋮本当ならば総主教猊下のご命令無くば、貴方方にお話し
すべきか悩ましいところですが、まあ良いでしょう。情報を伝える
なとのご命令もありませんでしたし。要するにですね、貴方と同格
の御方が彼の国に一人おられる。その御方が少しばかり神意に従わ
れた行動を取られようとしていると、それだけの話ですよ﹂
﹁私と同格⋮⋮まさかのケティス・エステハイムか!﹂
クレメア教団に存在する八人の枢機卿。
その中で、唯一国外に居住し続けており、総主教の息の掛かった
不快な男の名をヌルザーンは口にする。
途端、ユダナはニコリと微笑むとやや芝居がかったしぐさで、そ
の発言を肯定した。
﹁ご名答。彼の御方は総主教猊下の命令を受け、今頃は神意のまま
に兵を起こされておられることでしょう﹂
﹁実は同時多発クーデターであった⋮⋮だと。もしや貴様ら、最初
からトミエルたちを囮に!?﹂
﹁さて、何のことでしょうかな? まあ、枢機卿団の皆様もキスレ
チンに人を送り、あれこれと画策されていたようですが、結局のと
ころ大した成果は挙げられなかった。そうなる可能性を危惧されて
いた偉大なる総主教猊下は、万が一に備えてもう一つ手を打ってお
られたと、ただそれだけのことです﹂
ユダナ助祭は涼しい顔をしながら、一同の眼前でゆっくりと右の
口角を吊り上げる。
1390
その表情を目にして、ヌルザーンは強く拳を握りしめながら、は
っきりと自分たちの置かれた立場を理解した。
﹁そういえばトミエルに張り付かせていたクルーソンは、貴様と同
じアンクワ神学校の出身だったな。もしやあいつも貴様らの!﹂
﹁はて、クルーソン。そんな者もおりましたかな? ともあれ、既
に亡くなった者、そして終わったことはどうでもよいでしょう。そ
れよりもマフズン司祭殿ではありませんが、問題はこれからどうす
るかだと思います。違いますかな?﹂
そう口にしたユダナは、意味ありげな視線をヌルザーンへと向け
る。
﹁⋮⋮もし撤退を決断すれば、総主教猊下の名の下で、この場にい
る我々の首のすげ替えをすると、そう言いたそうな表情だな﹂
﹁ふふ、そんなことはありませんよ。たぶんですがね﹂
﹁たぶん⋮⋮か。貴様ら真言派のたぶんほど当てにならんものはな
いな﹂
﹁ヌルザーン枢機卿。繰り返しますが、真言派などというものは存
在しませんよ。我らはただ︱︱﹂
いやらしい笑みを浮かべながら、肩をすくめつつ先ほどと同じ発
言を繰り返しかけたユダナ。
そんな彼の言葉を、もはや聞くに堪えぬとヌルザーンは遮る。
﹁もういい。貴様達の考えはわかった。ならば、我々は貴様達の思
惑に乗ってやる。いや、それを上回ってみせよう。貴様達の手駒で
あるケティスがミラニールへとたどり着くその前に、我ら神聖軍が
先に首都ミラニールを落とす﹂
﹁ふむ、結構結構。きっと我らが神も、目的のために競争心を持っ
て邁進される皆様方を、祝福されることでしょう。ですが、一つだ
けご忠告を。貴方方の競争相手は何もケティス枢機卿だけではござ
1391
いません﹂
﹁なに?﹂
突然ユダナの口から発せられた言葉の意味がわからず、ヌルザー
ンは眉間にしわを寄せる。
それはその場に居合わせた軍の首脳たちもまったく同様であった。
そんな彼等に向かい、ユダナは見下すような視線を向けながら、
その口をゆっくりと開く。
﹁ふふ、どうやら他にも彼の地を狙っておる不敬者がおると噂を聞
きますな。それも海を隔てた向こう側に。はてさて、神は誰に微笑
まれることでしょうかね。願わくば、ブリトニア人などという野蛮
な者たちではなく、この場におられる信心深い皆様のもとに、地母
神セフエムの祝福があらんことを﹂
1392
戦いの鐘は鳴らされた︵後書き︶
平素より﹃やる気なし英雄譚﹄をご愛読頂きありがとうございま
す。
この場をお借りまして、皆様に一つご報告をさせて頂きます。
﹃やる気なし英雄譚﹄の書籍版ですが、第5巻が平成28年1月
25日に発売予定となりました。
内容はレムリアック編と帝国編の間の時期に、ルート分岐により
発生したクラリス内乱編となり、シリーズ最大となる約19万字の
完全書き下ろしとなります。
最後にこのようなご報告ができるのも、全ては日頃より当作品を
御愛読頂いた皆様の御支援の賜です。
今後もWEB版はほぼ週1回のペースにて継続させて頂き、より
一層楽しんで頂ける作品を目指し頑張ってまいります。
どうぞ今後とも﹃やる気なし英雄譚﹄をよろしくお願いいたしま
す。
1393
孤高の女王
大陸からラ・マンテア海峡と呼ばれるやや狭い海峡を経て、その
北に複数の国家を内包する一つの巨大な島が存在する。
大ブリタンニア島。
彼の地にはスケルプランド、フォールズ、そしてブリトニアと呼
ばれる三国家が存在した。
それらの三カ国の中で、島の南部に存在し、最大の勢力を誇るの
がブリトニアである。
彼の国はかつて幾度も西方の諸国家と相互に侵略戦争を繰り返し
ていた。
しかし、まるでそんな日々に飽きたかのように、二百年前から一
切の同盟や協調政策を破棄するに至る。そして今、栄光ある孤高と
自負する立場を堅持し続けたが故、いつしか大陸の一般の人々の記
憶からはその国家の存在さえ忘れ去られようとしていた。
そんなブリトニアにおいて、現在至尊の冠を頂いているのは、一
人のうら若き女性である。
女王オリヴィア。
整いすぎたその美貌と、怜悧冷徹で知られるその施政から、人は
彼女のことを氷の女王と称する。
そして今、ブリトニア首都ロンディニウムの中央に立つ豪奢な館
1394
の一室で、冷たき美貌を有する彼女は、眼前で跪く男に向かって一
つの問いを放った。
﹁フランツ、それで邪教徒共からは連絡はありましたか?﹂
﹁はい、女王陛下。トルメニアから陛下宛に大陸進出を促す書状が﹂
黒ずくめの服に身を包んだフランツと呼ばれた壮年は、恭しくそ
う答えるなり、一通の書状を女王へと手渡す。
オリヴィアは軽く文面に目を通すと、あっさりとした口調で国の
方針を決定した。
﹁ふむ、結構です。それではフランツ、我らも動くとしましょうか﹂
﹁⋮⋮本当によろしいのですか?﹂
表情一つ変えること無く戦争を決断した女王に対し、フランツは
うつむいたまま確認するようにそう問いかける。
一方、そんな忠臣の言葉を耳にして、純白の清楚なドレスに身を
包んだ女性は、初めてほんの僅かだけ口元を歪ませた。
﹁フランツ、あなたは一体何が言いたいのですか?﹂
﹁はい。二百年前の大陸との戦いを経て、我が国は栄光ある孤高を
これまで保ってまいりました。それを邪教徒共に唆される形で︱︱﹂
フランツがそこまで口にしたところで、その言葉を遮るように目
の前の女性はその口を開く。
﹁勘違いはおよしなさい。我らは邪教徒の求めに応じるのにあらず。
ただただ、我らが民のために、大陸へ進出するのみ。貴方だってわ
かっているはずです。この痩せたブリタンニアの大地を、スケルプ
ランドやフォールズの二カ国と奪い合ったところで、未来は存在し
ないと﹂
﹁それはそうですが⋮⋮﹂
﹁他に選択肢はありません。第一、空腹で飢えきった我々の前に、
1395
大陸の方々は貪れとばかりに餌を用意してくださったのです。だと
すればそんな彼らに対し、自らの傲慢さを思い知らせてやるべきで
しょう﹂
﹁⋮⋮確かに仰せの通りです﹂
本心を言えば、フランツとしては全面的に同意できる話ではない。
そして彼は女王の右腕として、彼女を諌めねばならぬ時はその身
にかえても直言する覚悟を有していた。
だがそれでもなお、女王が白といえば黒いものも白色でなければ
ならぬ。
女王の第一の部下である自らこそが、その施政を率先しなければ
ならぬと常々考えていた。
だからこそ、既に方針が定められた今、彼が行うべきは女王に対
し抗弁することではなく、これからそれをどのように演出して国民
になすべきことを伝えるかであった。
﹁わかればよろしい。ノーレンフォーク公と協議して、早急に準備
を行うように。こういうものは、機先を制さねば意味がありません
から﹂
そう口にすると、オリヴィアは手元にあったカップを口元へと運
ぶ。そして少し冷めた紅色の液体を喉の奥へと流していった。そし
て彼女はソーサーの上にカップを置くなり、少しばかり険のある口
調で眼前の男へと問いを放つ。
﹁ところで、フランツ。秘密警察の長である貴方には、戦争の準備
以外にもう一つの命令を与えていたはずです。あちらの件はどうな
っておりますか?﹂
﹁残念ながら、彼の者と聖遺物の足跡は途絶えたままで⋮⋮﹂
そう口にすると、フランツは気まずげな表情を浮かべながら、再
1396
び深々と頭を垂れる。
そんな彼に向かい、オリヴィアはやや皮肉げにその口を開いた。
﹁ほう。議会において、その方は我が国の治安維持に関し、常々万
全だとうそぶいていると聞くが、はてさてどちらが本当なのですか
?﹂
﹁返すお言葉もございません。ですが、これだけ調査を続けても、
奴をたどる痕跡一つ見つけられておりません。もしかしたら、とっ
くにこの国から逃げ出しておるやもしれず⋮⋮﹂
フランツとしては、自らの傷口に何度も塩を塗りこまれるような
思いで、調査に進展がないことを改めて女王へと告げる。
途端、女王の脳裏には犯人と思しき一人の男性の顔が浮かび上が
り、その眉間にはくっきりとした皺が浮かび上がった。
﹁あの男め⋮⋮まったく忌々しい。フランツ、絶対に貴族どもや国
教会の司祭共には悟られないように﹂
﹁はい、わかっております。ただ彼等の目に注意しながら、極秘裏
の捜査を継続するとなると、調査が難航するのは必定にて⋮⋮﹂
もはや主の顔を見上げることすらできず、うつむいたままのフラ
ンツは次第にその声も弱々しくなっていく。
そんな彼に向かい、目の前の若きこの国の君主は冷たい言葉を投
げかけた。
﹁フランツ、その返答はこの一年の間に聞き飽きました。私が求め
ているのは言い訳ではなく、ただ結果のみです。少しの間借り受け
るなどという馬鹿げた借用書一枚を残し、忽然と姿を消したあの男。
彼から我が国の聖遺物を回収し、その罪を償わせたという結果だけ
をです﹂
﹁わかっております。カリブルヌスを盗んだ大罪人エイス・クロー
サーには、必ずその罪を贖わせてみせます﹂
1397
昨年、魔石商人と名乗ってこの国に姿を現した黒髪の怪しげな男。
いつも飄々とした態度を見せていたあの男は、いつの間にかこの
国の中枢にいる貴族たちと懇意となるも、ある日忽然とその姿をく
らました。
そう、ブリトニア国教会が秘蔵していた一振りの剣と共に、たっ
た一枚の走り書きに等しい借用書を置き去りにして。
その事実が、秘密警察の長を務めるフランツの頭をどれだけ悩ま
せたかは筆舌に尽くしがたい物があった。実際に彼は、もし犯人の
黒髪の男を捉えれば、その罪を償わせる前にその耳元で彼の辛苦を
一晩中語り続けてやりたいとさえ考えている。
﹁⋮⋮まあいいでしょう。いずれにせよ、もしあの男が国外に逃げ
出しているとなれば、ちょうど良い機会です。今回の大陸進出とあ
わせて現地でも調査を進めるように﹂
﹁はい、了解いたしました﹂
﹁それでは予ての予定通り、大陸進出を開始しなさい。本来我らが
領地であるべきブルトーニュ。まずは魔石の宝庫でもあるあの土地
を押さえるとしましょう。確か、クラリスの愚か者たちがカーリン
などと呼んでいる彼の地をね﹂
そう口にすると、ブリトニア女王オリヴィアはゆっくりと豪奢な
椅子から立ち上がる。そしてその視線は薄暗い曇り空が広がる窓の
外へと向けられた。
その視線の遥か彼方には、彼女に支配されるべき広大な土地が存
在した。
エウレシアと呼ばれる、その広大な大陸が。
キスレチンの分裂とトルメニアの西方進出、そして栄光ある孤高
1398
の楔から解き放たれたブリトニアの大陸侵攻。
後に西方戦争と呼ばれることになる史上最大の戦いは、このブリ
トニアと呼ばれる古き偉大なる国家の参戦によって、その歴史を刻
み始めることとなる。
1399
突きつけられた刃
国家指導者である大統領自身がクーデターを企てたという事実。
その事実はキスレチン市民にとって、まさに青天の霹靂と呼んで
よい衝撃であった。
そして当事者であり責任者であるトミエルがいなくなった今、市
民たちの怒りは政権与党である民主改革運動とトルメニアの手先と
目された統一宗教主義戦線へと向けられている。それを端的に表す
ものとしては、彼らの本部前では激しい抗議集会が開かれていた。
だが視点を変えてみれば、クーデターが蜂起されたにも関わらず、
すぐに抗議集会を行えるほどの余裕が市民にあったこともまた事実
である。
そのことを市民たちも十分に理解していた。
そしてそれ故に、与党への信頼が地の底へと落ちるのと時を同じ
くして、二人の男の名が市民の中で英雄視されるのもやむを得ない
ことといえるだろう。
一人はもちろん、今回のクーデターを直接的に制圧して見せた国
が誇る英傑ウフェナ・バルデス。
そしてもう一人はこの国の出身ではない黒髪の男であった。
当然のことながら、市民たちも彼がこの国の出身でないことを知
っている。だからこそ、キスレチンの市民たちは彼のことをこう呼
んだ。
西方の英雄、と。
1400
そんな市民たちの反応を横目にみながら、西方に存在する各国の
代表者たちは、喉元に突きつけられた剣に対し、その対処に関する
結論の出ない会議の最中にあった。
﹁先ほども申しましたように、西方会議にご出席の各国のみなさま。
今すぐ救援軍を我が国へと派遣ください﹂
﹁だが、足下でクーデターが起こったばかりなのだ。今、軍をこの
ミラニールから派遣するのは危険きわまる。それにトルメニアもこ
のミラニールでの失敗を受け、強引に侵攻してくるとは限るまい﹂
コルドイン大公の発言に理解を示しながらも、現在キスレチン臨
時政府の首班の座にあり、西方会議議長と大統領職の代理を務める
ファッテソンは険しい表情を浮かべた。
一方、そんな彼の発言に対し、ホスヘル公国の先に存在するクロ
スベニア連合のシャドヴィは、自国の危険性を十分に理解しており、
あわてて反論を口にする。
﹁大統領代理、あなたは自国のことしか頭にないのですか? ホス
ヘル公国が侵略されれば、我が国も、そしてその先にある貴国も狙
われることとなるのですぞ﹂
﹁そうです。それを未然に防ぐためにも、我が国に十分な兵力を向
けていただき、トルメニアを牽制すべきです﹂
シャドヴィの発言に背中を押されたかのように、コルドインはつ
ばを飛ばしながら、重ねて援軍の要請を行う。
すると、この厳正なる会議室に琥珀色の液体を持ち込んだ一人の
女性が、二人の慌て振りをその目にして揶揄するかのように口を開
く。
﹁ふん、どうなんだろうかね。逆に連中を刺激する結果にならない
1401
かい?﹂
﹁ナーニャ殿。貴国はトルメニアから遠く離れておるから、そんな
他人事のようにいえるのです。良いですか、我らの国を突破されれ
ば、いずれ最終的には貴国にまで、連中の手は伸びる。それを理解
していただきたい﹂
一応、正装だけはしてきてはいるものの、明らかにできあがった
顔色のナーニャをその目にしつつ、コルドインは怒りを抑えながら
そう口にする。
すると、やや堅くなった場の空気を見計らいながらも、若き国王
は自らの立ち位置を主張せねばならぬと、その重い口を開いた。
﹁とりあえず、うちからも多少の援軍は送ろうと思います。ただ、
まだ国の中は混乱に満ちており、大規模な援軍の派遣は難しいとこ
ろです⋮⋮何しろ、どこかの国によって、クーデターを誘発された
りした直後ですので﹂
﹁そ、それはあくまでトミエルの企んだこと。我が国の意志ではな
かったことをご理解ください﹂
カイルの発言の中に含まれていた棘を受け、ファッテソンは険し
い表情を浮かべながら、そう言い返す。
だが、そんな彼に向かいカイルの口が止まることはなかった。
﹁でもあなたは、同じ与党であり閣僚の一員であった。責任がない
といわれるのはいささか苦しいかと﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁申し訳ありませんが、うちも同様です。我が国も内部に獅子身中
の虫を飼っており、大規模な援軍の動員は困難を極めます。申し訳
ありませんがご容赦のほどを﹂
場の空気を見計らっていた金髪の美青年は、このときとばかりに
自国の状況を主張する。
すると、手元にあった琥珀色の液体をクイッと飲み干した赤髪の
1402
女性は、ファッテソン達に向かい情け容赦ない現実を突きつけた。
﹁結局さ、今現在において、兵をあんたらの国に送れる国なんて、
一カ国しかいないんだよ﹂
その言葉が発せられた瞬間、一同の視線は会議室の後方に陣取っ
た、一人の男性へと向けられる。
そして彼の表情に皮肉げな笑みが浮かべられたところで、ファッ
テソンは忌々しげな口調で一同に向かい一つの宣言を行った。
﹁⋮⋮オブザーバーである国家を頼りにはしない﹂
﹁はん、プライドってやつかい? そんなもん、豚のクソにしかな
らないさ。少なくとも⋮⋮いや、それはいい。それよりも、議長代
理殿には、他に腹案があるのかい?﹂
とある黒髪の男を指す言葉を口にしそうになったところで、ナー
ニャは一度言葉を飲み込むと、改めてそう問いかける。
するとそのタイミングで、一人の兵士が息を切らせながら部屋の
中に飛び込んできた。
﹁た、大変です!﹂
西方会議中にも関わらず、正規の手順をとらぬ突然の兵士の入室。
それが意味するところは、決してよくない報告であると、ファッ
テソンは早期に理解した。だからこそ、彼は直ちにその理由を問い
ただす。
﹁なんだ、何があった?﹂
﹁ご、ご報告いたします。ホスヘル公国の国境に設置されたカザン
チ砦ですが、トルメニアの強襲を受け陥落間近の模様。それと︱︱﹂
﹁待て、今なんと言った?﹂
兵士の報告を遮る形で、顔色を変えたコルドインは彼に向かい確
認を行う。
1403
﹁トルメニア軍は宣戦布告なく、突然大軍を以って襲来し⋮⋮おそ
らく砦はあと数日もこらえることはできないとのことです。﹂
﹁なんということだ﹂
さらなる報告を耳にして、コルドインは現実を受け入れ難いとば
かりに首を左右に振る。
一方、会議室内で比較的冷静さを保っていた金髪の美青年は、さ
らなる情報を兵士へと問いただした。
﹁それで敵の規模はどれくらいなのですか?﹂
﹁正確ではありませんが、少なくとも八万人近い模様﹂
﹁な、なんと。それでは連中は、総兵力の七割近くを投入してきた
ということか﹂
十数万人規模と言われる、トルメニアの宗教兵。
その大部分を投入してきた事実を受け、シャドヴィは驚きを隠せ
なかった。
一方、現状を冷静にその報告を受け止めたカイルは、その数字に
疑念を呈さずにはいられなかった。
﹁おかしくはないかな? トルメニアは大陸中央のルーシェ王国と
長年に渡り戦い続けていたはず。にも関わらず、なぜ西方にそれほ
どの兵力を割けるというんだい﹂
﹁詳細はわかりません。ですが、噂ではルーシェ公国は国土の荒廃
が著しいと聞きます。おそらくその為ではないでしょうか?﹂
﹁それは私たちも耳にしたことがある。しかし⋮⋮﹂
兵士の見解を受けて、コルドインは眉間にしわを寄せる。
だがそんな彼に向かい、エインスは一度事実として受け入れるべ
きだとはっきりと告げた。
1404
﹁受け入れ難いことは私にもわかります。ですが、コルドイン大公。
今は現実を見つめましょう。経緯はどうであれ、連中が大軍を貴国
に向けられたのは事実。そしておそらくその最終的な目的地は⋮⋮﹂
﹁この地、ミラニールであろうな﹂
そう口にしたのは、議長代理を務めるファッテソンであった。
途端、会議室内に沈黙が包まれる。
すると、一同の沈黙を破るかのように、報告に訪れた兵士が視線
をはずしながらさらなる凶報を口にした。
﹁申し訳ありません、もう一つご報告すべき事が﹂
﹁何だ、連中が降伏勧告でも送りつけてきているのか?﹂
﹁いえ、連中からは何も⋮⋮ただ、ナポライで異変が﹂
その言葉はこの国の大統領代理を務めるファッテソンの表情を激
しくゆがめた。
﹁異変⋮⋮異変だと? 何だ、ナポライで何があったというのだ?﹂
﹁クーデターです﹂
﹁は? 何を言っているのだ。クーデターは先日̶̶﹂
何を言っているのかわからないと言いたげな表情で、ファッテソ
ンはそう口にしかかった。
だがそんな彼の言葉を、今度は兵士が遮る。
﹁違います。彼等ではなく、全く別の者達がです。それも既にキス
レチン南部の大部分を支配下に置いたようでして﹂
﹁な、なんだと。馬鹿な、そんな事ができるものが、どこに﹂
﹁軍務大臣です﹂
動揺著しいファッテソンに対し、兵士ははっきりとした口調でそ
の役職を口にした。
途端、ファッテソンは拳を会議机にたたきつける。
1405
﹁軍務大臣!? つまりケティスの奴か!﹂
﹁はい。中央で国政を壟断するトミエルを初めとした自由の敵を排
除するとの話でして⋮⋮﹂
﹁狙われたな⋮⋮おそらく﹂
コルドインはそう口にすると、そのまま疲れたかのように肩を落
とす。事ここに至って、自国への援軍派遣がより困難となったこと
を、彼は理解せざるを得なかった。
そうして空間が重苦しい空気に包まれた時、一同の注目を集める
ことなく、一人の男が正規の手順を踏んで会議室へと入室する。そ
して彼は、一同の後方に座する男の耳元で何事かをささやいた。
途端、ノインの両目は大きく開かれる。
﹁何⋮⋮それは本当か?﹂
﹁はい。どうも間違いないと⋮⋮﹂
ノインの後を追う形で、少数のみ入国していた彼の部下は、深刻
な表情を浮かべながら首を縦に振った。
その瞬間、ノインは一度両目をつぶると、ゆっくりとその場から
立ち上がる。そしてそのまま、会議室の入り口に向かいまっすぐに
歩み出した。
﹁どこに行かれるのですかな、ノイン殿﹂
その問いを発したのは、議長代理のファッテソンであった。
その声を受けて、一度足を止めると、やや皮肉げな口調でノイン
はその声を発する。
﹁おや、オブザーバーであるこの私が口を利いてもかまわないのか
ね?﹂
ノインのその発言に対し、議長代理は渋い表情を浮かべる。
その表情を目にして、ノインは苦笑を浮かべるとともに、改めて
1406
その口を開いた。
﹁いずれにせよ、諸君。この私はあくまでオブザーバー扱い。なら
ば、基本的にはこの場にいなくても問題はないはずだ。というわけ
で、少し失礼させてもらう﹂
それだけを口にすると、ノインは後ろを振り返ることなく会議室
から足を踏み出す。
そして彼は、求めていた人物をそこに認めた。
﹁待っていてくれたようだね、フェルム君﹂
﹁は、はい。先生から、あなた方を案内するように言われています
から。それで、もう会議は終わられたのですか?﹂
他の人物が出てくる様子がないことに違和感を覚えながら、フェ
ルムは目の前の異国の皇太子に向かいそう問いかける。
すると、ノインは思わず苦笑を浮かべた。
﹁いや、結論の出ぬくだらない会議は続いている。答えは一つしか
なかろうにな。それよりもだ、急に君に頼みたいことができた。申
し訳ないが、今から案内をしてくれないかな?﹂
﹁案内ですか。えっと、ノイン皇太子、どちらにご案内すれば﹂
突然の依頼に、フェルムは戸惑いを覚える。
すると、そんな彼の動揺に気づいたノインは、少し柔らかな声を
発した。
﹁フェルム君。君は私の部下ではないのだ、そんなに気を使わなく
ていい﹂
﹁ですが⋮⋮その﹂
﹁確かに私は大国の跡取りだ。この西方において重要な人間だと自
認もしてはいる。だから気を使いたくなるのはわかるが、君はそれ
以上に重要な人物のそばにいるのだ。その事実をもう少し客観的に
1407
理解した方がいい﹂
ノインは目の前の青年に向かい、ゆっくりと諭すようにそう口に
する。
すると、フェルムはやや心外だという表情を、その顔に浮かべた。
﹁先生のことですか。いえ、わかってはいるつもりです﹂
﹁全然わかっていないさ。あいつのそばにいられるということが、
どれほどのことかをな⋮⋮まあそういうことは、離れてみて初めて
わかるものか﹂
そう口にすると、黒髪の男がクラリスからの大使として滞在した
わずかばかりの時間を思い出し、ノインはやや懐かしげな表情を浮
かべる。
だが彼はすぐに切迫した現状を思い出すと、その表情を引き締め
直し、改めて青年に向かい声を発した。
﹁ともかくだ、どうやらこの西方は少しまずい事態になりそうだ。
おそらく、北と東とから同時に攻められるという事態にな﹂
﹁北? いえ、東はわかります。でも、もう一箇所のクーデターを
起こしたのは、南のナポライではありませんか?﹂
何かの聞き間違いではないかと思い、フェルムはすぐに問い直す。
一方、その問いかけを耳にして、ノインは目の前の青年の評価を
さらに上方修正した。
﹁ほう、ナポライのクーデターに感づいていたのか?﹂
﹁いえ。ただ先生がその可能性は考えられると⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なるほどな。しかしナポライを加えるならば、三方向という
べきか。もっとも連中は実質東からのものだとして扱うべきだろう
が﹂
途中から次第に小さくなっていったノインの声。
それをどうにか聞き取ったフェルムは、困惑した表情を浮かべる。
1408
﹁あの⋮⋮申し訳ありませんが、話が見えなくて﹂
﹁要するに、暗黒戦争の再来だ。それだけ言えばわかるだろう﹂
暗黒戦争。
それはかつて北の島国が大陸への侵略を試みて大兵団を送り込み、
そして各地で激しい戦いが長期にわたり繰り広げられた黒き戦いの
ことであった。
だからこそ、その単語を耳にするなり、フェルムの瞳は見開かれ
る。
﹁暗黒戦争!? まさかブリトニアが!﹂
﹁ああ。トルメニアとブリトニア。この二カ国が西方を切り取ろう
と動き出した。それは我が帝国にとっても、恐るべき脅威となりう
る。だから今こそ、アイツの力が必要なんだ。この西方にとって最
重要な人物。つまり英雄ユイ・イスターツの力がな﹂
1409
英雄、立つ
ラインドル王国の借り上げた宿舎の一室。
その部屋で窓から外を眺めていた青年は、後方の扉が開けられる
音を耳にするなりその口を開く。
﹁遅かったね、ノイン﹂
自らの来訪を予期していたその言葉。
それを耳にしたノインは、眼前の黒髪の男に向かって、わずかに
その視線を強める。
﹁⋮⋮なるほど。つまりお前は知っていたのか﹂
﹁いや、手を打っていたつもりだったからね。正直知らなかったさ、
つい先程まではね﹂
黒髪の青年はそう口にすると、手にした一通の封書を放り投げる。
それを受け取ったノインは、自らの得た情報と全く同じ内容を、
目の前の青年が得ていると確認した。
﹁あの黒髪の女か⋮⋮しかし、今お前はなんと言った。手を打って
いただと?﹂
﹁ああ。彼らが動きづらくなるように、先手は打っていたんだ。だ
けど、やはり個人でできることには限りがあったみたいでね。どう
もうまく行かなかったみたいだ。残念ながら⋮⋮ね﹂
そう口にすると、ユイは深い溜め息をつく。
一方、そんな彼の発言を耳にしたノインは、迷うことなく胸に秘
めていた言葉をまっすぐにぶつけた。
﹁⋮⋮貴様が何をしたのかは知らん。だが、肩書きのない個人で動
1410
くことが限界だと理解したのなら、ちょうどいい機会だ。ユイ、お
前が先頭に立ってこの西方を救え﹂
﹁君ではダメかい?﹂
﹁俺が先頭に立って、西方をまとめ上げる⋮⋮か。お前ならわかる
だろ。それが本当に受け入れられるかをな。クラリス一国にしてみ
ても、貴様等の国を攻めた過去は消せん。ましてや、これまで実質
的に西方諸国の中心を担っていたキスレチンと、我が国がこれまで
何度やり合ったか﹂
﹁でも、過去の敵より目の前の脅威さ。それくらいは各国も理解で
きると思うけど?﹂
﹁目の前に脅威が迫りながら、この俺をオブザーバーとしてしか会
議に参加させない連中がか?﹂
トルメニアと相対する上で、後方の憂いは立ちたい。だが国民の
視線を気にして、直接的に帝国の力を借りる訳にはいかない。
そんな各国の事情が、帝国の代表であるノインをオブザーバーと
いう曖昧な立場に制限する事となった。
﹁確かにそれは⋮⋮でも﹂
﹁もちろん永遠に我が国が、他国に受け入れられないとは思わん。
だが、今すぐは無理だろう﹂
﹁そうかもしれない。でもそれを言えば、帝国にとって私も同じ立
場さ﹂
クラリス王国の軍人として、かつて帝国軍と戦った過去。
ユイはそれをノインへと突き付ける。
だが目の前の男は、あっさりと首を左右に振った。
﹁違うな。お前は別だ、いや特別だ。貴様と一時対峙した、うちの
国民の誰もが知っている。魔法公国との戦いでどうして勝てたのか
ということをな。更にその際に戦った敵を今現在率いているのは、
1411
貴様の部下であったあの赤髪の女だ﹂
﹁だけど、私は無位無冠の身だよ﹂
﹁それがどうした?﹂
ユイの反論を、ノインは迷うことなく一蹴する。
その発言には、さすがのユイも僅かにたじろぎを見せた。
﹁それがどうしたって﹂
﹁わかっているんだろ、本当は。お前がやらなければ、この大陸西
方は取り返しのつかないことになると。ただお前は逃げ道を失うこ
とが怖いんだ。普段はやる気がないと嘯きながら、一度引き受けた
ら逃げ出せない性格をしているからな。それにだ、唯一自らでは越
えられぬと認めた男以外に、俺は帝国の兵を預けたくはない﹂
﹁ノイン⋮⋮﹂
キスレチンの現状を踏まえるならば、現在この大陸西方において
実質的に頂点にある国家の後継者。
そんな彼によって告げられた言葉に、ユイは思わず言葉を失う。
﹁短い期間であったが貴様とともに帝都レンドで過ごすことが出来
たこと、それは俺にとって本当に得難き時間だった。そして理解し
たさ。俺の器量は帝国一カ国を多少大きくする程度でしか無いと﹂
﹁おいおい、あの帝国を更に巨大にさせると言いながら、その程度
という言い草はないんじゃないかな﹂
ノインの口から発せられた発言の矛盾を、ユイはすぐに指摘する。
だが、ノインは迷うことなく首を左右に振った。
﹁そんなことはない。俺の目の前には、その気になれば西方を⋮⋮
いや大陸を統一しかねない器を持った男がいる﹂
﹁過大評価だよ。それに仮に私の器がそんなに大きいとして、おそ
らくその底には大きな穴が空いているさ﹂
﹁ならば、その開いた穴を俺が埋めてやる。いや、俺だけじゃない。
1412
お前の周りには、お前の足りない穴を埋めようとする人間が何人も
いる。ライン公やカイラ国王、あの朱やお前のかつての部下たちも
な﹂
そう口にしたノインは、一切含むところのないまっすぐな視線を
ユイへと向ける。
途端、ユイは小さく吐息を吐き出す。そして小さく首を左右に振
ると、その口をゆっくりと開いた。
﹁⋮⋮理想は私が何もせずとも、西方の安定が保たれることだった。
私には、それ以外に一つやらなければいけない仕事があるからね﹂
﹁やらなければならない仕事? 何だそれは﹂
全く予期せぬ事をユイが口走ったため、ノインは怪訝そうな表情
を浮かべると、眉間にしわを寄せる。
すると、ユイは軽い苦笑を浮かべた。
﹁親が残したちょっとした借り。それを返すという話さ。ともかく、
君が言いたいことはわかったよ。だけど︱︱﹂
﹁だけど何だ? 繰り返すようだが、はっきり言ってやる。お前抜
きで、本当にこの西方をまとめることができると思うか?﹂
ユイの発言を遮る形で、ノインは彼に向かって強い口調でそう問
いただす。
その問いかけを受けて、ユイは二度頭を掻いた。
﹁⋮⋮よほど私を働かせたいようだね﹂
﹁ああ。俺は功利主義者だからな。貴様を煽って働かせなかった場
合、帝国に、いやこの大陸西方に少なからぬ損害が出るのは明らか
だ。ならば、一人の男の苦労ぐらい安いものだろう﹂
﹁苦労ややる気なんてものは、何かと比べるべきものじゃないよ﹂
自らに向けられる言葉に不快感を覚えながら、ユイはノインに向
かって苦言を呈する。
1413
すると、ノインは一度大きく頷くとともに、一つの提案を彼へと
提示した。
﹁わかっている。だからその際は、帝国が全面的に貴様をバックア
ップする。多少は貴様の苦労が減るようにな﹂
﹁はぁ⋮⋮繰り返すようだけど、表向き今の私はただの学校の教師
で、本当に無位無官の男だ。そんな善良な一市民を、大国が担ぎ上
げようなんて気がふれているとしか思えないね﹂
﹁いいさ、気がふれていようがな。それで帝国の未来が守れるのな
ら、如何なる罵倒も受け入れよう﹂
はっきりとした帝国の後継者であるノインによる意思表示。
それを目の当たりにして、ユイは目の前の男が本気であることを
理解する。
そして彼は、初めて小さく首を縦に振った。
﹁わかったよ、ノイン。一軍を預かり受けよう。どうも私の敵と対
抗するにも、もはや個人では難しそうだし⋮⋮ね﹂
﹁ふふ、ようやく覚悟が決まったようだね﹂
突然向けられたその言葉は、彼等二人の後方から発せられた。
慌てて部屋の入口へと視線を向けたユイは、完全に気配を消し去
った赤髪の男性を視界に捉える。
﹁アレックス!﹂
﹁ユイ、彼女から連絡はもらったよ。というわけで、ノイン皇太子。
クラリスの陸軍省次官として、正式に援軍を要請したい。君たち帝
国にね﹂
﹁いいだろう。俺の義理の弟を指揮官として、貴国に送ろう﹂
アレックスの要請を耳にするなり、一切迷うことなくノインは返
答を行う。
そのあまりの即断に、ユイは口を挟みかける。だがそれ以上に懸
1414
念すべき単語が、彼の発言の中に含まれていることに、彼は気づい
た。
﹁おいおい、こんなところでそんな簡単に決めて⋮⋮というか、ち
ょっと待ってくれ。義理の弟だって!?﹂
﹁いや、一切待たんぞ。少なくとも軍を率いる決意をしたんだ、そ
の程度の肩書きは背負ってもらう﹂
﹁おやおや、ちょっと待ってください﹂
ノインの言葉を耳にしたアレックスは、ユイが反論を口にする前
に二人の会話に割り込む。
﹁なんだ、援軍を率いるのがこいつであることが、何か不満か?﹂
﹁いえ、ユイが貴国の軍を率いて我が国に来てくれるのは全く問題
ありません。むしろ、最良のご提案でしょう﹂
アレックスはいつものキツネ目を更に細めながら、あっさりとそ
う言い放つ。
﹁では何が不満だというのだ?﹂
﹁彼の肩書きですよ。貴方が口にしたユイの肩書きを受け入れると、
援軍要請に失敗した以上に、うちの女王陛下に怒られかねない。そ
うですね⋮⋮ミリア嬢の婚約者という辺りで手を打ちませんか?﹂
﹁婚約者か⋮⋮多少苦しいが、とりあえずはその辺りで妥協すると
するか﹂
アレックスの提案を受け、ノインは一瞬迷いを見せる。だが、最
終的にはその提案を受け入れた。
一方、完全に会話の中心から外された当事者は、困惑した表情を
浮かべながら二人に向かって声を発する。
﹁ちょ、ちょっと待ってくれ。何で私抜きのまま話が進んでいるん
だい﹂
1415
﹁ユイ、少し黙っていてくれ。君抜きではなさないと、まとまるも
のもまとまらないんだから﹂
﹁そうだ。この件にお前は関係ない﹂
﹁いや、どう考えても当事者はこの私なんだが﹂
眼前の二人によって軽くあしらわれたユイは、頭を抱えながら反
論を口にする。
だがそんな彼の発言を、目の前の二人はあっさりと無視した。
﹁部外者は放っておいて、これで決まりということで良いですね?﹂
﹁⋮⋮仕方ないな。では、うちの一軍を義理の弟候補に預け、貴国
へ向かわせる。必要な公文書や条件面に関しては、後日送らせても
らおう﹂
﹁はい。援軍要請の受諾、ありがとうございました。これですべて
が丸く収まりましたね﹂
そう口にすると、アレックスはニッコリと笑みを浮かべ、ノイン
と硬い握手を交わす。
一方、完全に蚊帳の外に置かれた当事者は、困惑した表情を浮か
べながら、何度も首を左右に振った。
﹁いや、全然丸く収まっていないぞ。私は、この私の権利は﹂
﹁黙れ。それともうちのミリアでは不満というのか?﹂
﹁いや、不満だとか、不満じゃないとかの問題ではなくて︱︱﹂
ノインの発言に対し、そのまま否定を出来なかったユイは、慌て
て話をそらそうとする。
だがそんな彼の発言は、赤髪の親友によってあっさりと遮られる
こととなった。
﹁そういえば、ユイ。君は確かミリア様と約束をしていたよね。彼
女の依頼を納得のいく形で成し遂げたら、彼女を報酬として貰うと。
約束を破ることが嫌いな君が、いつまでも約束を先延ばしにしてい
1416
るのはよくないと思うな﹂
﹁ア、アレックス!﹂
突然、信頼していた親友に後ろから刺されたユイは、表情を引き
つらせながら彼の名を叫ぶ。
﹁あきらめろ、ユイ。とりあえずは婚約者で手を打ってやる。まあ
全ての戦いのけりが付けば、盛大な催しを開くつもりだがな﹂
﹁ふふ、しかし帝国がそう出るとすれば、我が国も色々と手を打た
ねばなりませんね。これは帰って相談が必要そうだ﹂
ノインの発言を受け、アレックスも意味ありげな笑みを浮かべな
がらそう口にする。
そんな二人を目の当たりにして、ユイは深い溜め息を吐き出すと、
疲れたように言葉をこぼした。
﹁はぁ、仕方ない⋮⋮か。とりあえず彼女と約束したことは事実だ。
婚約者。この肩書きでよければ、とりあえず仮のものとして受け入
れることにしよう﹂
﹁仕方ないだと? ふふ、あのミリアをそんな扱いにするとは、う
ちの軍の連中が聞けば、貴様を後ろから刺したくなるだろう発言だ
な﹂
﹁やめてくれよ。自分が率いることになる人たちに、背中を狙われ
るのはごめんだからね﹂
ノインの悪意ある言葉を受け、ユイは疲れたように首を左右にふ
る。
そんなやり取りを耳にして、アレックスはクスリと笑う。そして
彼は、二人に向かってニコリとほほえみかけた。
﹁ともあれ、すでにブリトニア軍は動き出しているようだ。僕たち
も急ぐとしよう。漁夫の利を得ようとする彼等の首を、軽く一薙ぎ
してあげるためにね﹂
1417
夏の終わり
首都ミラニールをして、まだ人気が見当たらぬ早朝。
旧コニーク邸と呼ばれる屋敷の裏庭に、生まれも年齢も異なる三
人の男が顔を突き合わせていた。
一人は腕を組みながら眉一つ動かさぬとある国の皇太子。
一人は赤い髪を有した狐目の剣士。
そしてもう一人は、約束の時間を過ぎたことに不快感を示すかつ
てのキスレチン代表。
本来ならばこんな場所で一堂に会するはずのない面々が、会話も
なくこの場に立ち続ける理由。
それはただ一人の人物の為であった。
﹁おや、少しだけ待たせてしまったかな?﹂
コニーク邸の裏口から、若い青年を連れてのんびりと姿を現した
黒髪の男は、その場にいる男たちに向かって、頭を掻きながらそう
口にする。
途端、三人の中で最年長の男が、眉間にしわを寄せながら怒りを
露わにした。
﹁少しではないぞ、エイス。いつもの事ながら本当に貴様は!﹂
﹁ふふ、フェリアムさん。怒っても一緒ですよ。たぶんユイは反省
しませんから﹂
﹁朱⋮⋮いや、アレックス殿。そう言われるが、それも全てあなた
方がこの男を甘やかしすぎているからではないかな?﹂
いつもの狐眼を細めながら苦笑を浮かべるアレックスに向かい、
1418
フェリアムはわずかに口を尖らせながらそう主張する。
すると、腕を組んだまま彼らのやりとりを目にしていた銀髪の壮
年が、おかしそうに口元を歪めた。
﹁ふふ、それはあるかもな。しかしよくもまあ、この三人を待ちぼ
うけさせて、堂々としていられるものだ﹂
﹁ノイン、それはもしかして褒めてくれてるのかな?﹂
﹁⋮⋮絶対に違うと思いますよ、先生﹂
ユイの発言を耳にしたフェルムは、額を押さえながら彼の隣でそ
う口にする。
すると、軽く肩をすくめながら、ユイは首を小さく左右に振った。
﹁そっか、それは残念﹂
﹁お前は本当に⋮⋮まあいい、それよりもだ。本当に行くんだな、
エイス﹂
これ以上無駄な時間を使うことを望まなかったフェリアムは、当
初からぶつけたかった問いを投げかける。
ユイは軽く頭を掻きながら、小さく一つ頷いた。
﹁ええ。たぶんあなたの元には、彼女からの連絡が届いているかと
思いますが﹂
﹁⋮⋮ああ。最初は半信半疑だったが、この場にケルムの皇太子が
いるのなら、ブリトニアの件は本当なのだろう。とはいえ、お前を
彼の国にさらわれるのは気にくわんがな﹂
フェリアムはそう述べるなり、帝国の後継者の顔を見る。
そんな歴戦の政治家の仕草を受けて、ノインは軽く右の口角を吊
り上げた。
﹁ほう、前大統領殿。貴公はこの男の事を好いていないように見て
いたが、違ったかな?﹂
1419
﹁好きか嫌いかだけで物事を判断するようなら、政治家なんてやっ
ておれんさ。それは如何に帝政を敷いているとはいえ、貴国も同様
だろう﹂
﹁まあ⋮⋮な﹂
そう口にしたところで、ノインは軽く苦笑を浮かべる。
そうしてわずかな間が生まれたところで、ユイは頭を掻きながら、
フェリアムに向かって口を開いた。
﹁ともかくです、私はこれから彼と共に帝国へと向かいます。です
ので、この国のこと、そして西方会議の始末をお願いします﹂
レームダック
﹁頼むのなら野党の私ではなく、大統領代理を務めるファッテソン
に言うべきだろうな﹂
﹁そうかもしれません。でも、死に体の彼らに頼むよりも、あなた
にお願いしたほうが効果的でしょう。あなたが主導権を握らなけれ
ばこの国がどうなるか、それは自明の理ですよ﹂
ユイはそう告げるなり、意味ありげにニコリと微笑む。
その表情の意味を正確に理解したフェリアムは、忌々しげな表情
を浮かべながら、しぶしぶ首を縦に振った。
﹁⋮⋮わかっている。私なりにこの国家のために打てる手は打とう﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁ふん、貴様に礼を言われる筋合いは無い。とっとと帝国に向かい、
北の野蛮人どもを倒して手伝いにこい。その際は、我が国への援軍
として散々こき使ってやるからな﹂
軽く鼻息を鳴らしたフェリアムは、ユイに向かいはっきりとそう
告げる。
すると、ユイは途端に困った表情を浮かべた。
﹁はは、勘弁してください。給料の出る見込みの無い超過勤務は、
私の趣味じゃ無いんですよ﹂
1420
﹁一文の得にもならんことを、これからなそうとする者のセリフで
は無いな﹂
﹁そうかもしれません。でも、一応建前はありますよ。私の領地を
守るという建前が﹂
﹁建前⋮⋮か﹂
フェリアムとは小さくため息を吐き出すと、力なくユイの言葉を
繰り返す。
そんな彼に向かい、ユイは小さく首を縦に振った。
﹁ええ、建前。と言っても、建前を奪ったというのに、攻めてくる
島国もあるようですから困ったものです﹂
﹁ユイ、建前を奪ったとはどういうことだ?﹂
黒髪の男の発言に只ならぬ予感を覚えたノインは、彼に向かって
端的に問いかける。
すると、ユイは軽く顎に手を当てたあと、隣に立つ青年に向かっ
て口を開いた。
﹁それはね、えっと⋮⋮フェルム、例の剣をアレックスに﹂
﹁例の⋮⋮ですか。レジスタンスの隠れ家からわざわざ持ってきた、
この包みに入った剣の事ですよね?﹂
﹁ああ、それそれ﹂
ユイはニコリと微笑むと、正しいとばかりに小さく首を縦に振る。
一方、そんな彼の同意を目にして、フェルムは赤髪の剣士のもと
に歩み寄ると、手にしていた包を手渡した。
アレックスは軽く首を傾げながら、布の包を取るとずっしりとし
た質量を持つ一振りの剣を手にする。
﹁ふむ、思ったより重いね。ユイ、これは僕が貰っていいものなの
かい?﹂
﹁いや、ごめんあげられないんだ。残念ながら、預けておく事しか
1421
ね﹂
苦笑いを浮かべながら、ユイはそう口にする。
そんな彼の発言に違和感を覚えたアレックスは、やや装飾過剰な
鞘からゆっくりと一振りの剣を抜いてゆく。
そしてその剣身が半分ほど露出したところで、思わず彼は息を呑
んだ。
﹁これは⋮⋮なるほど。噂にしか聞いたことがないものではあるけ
ど、よくもまあこんなものを。とはいえ、君の言ったことの意味が
わかったよ。ユイ、つまり君が奪った建前とは、まさにこの剣のこ
とだね﹂
﹁ああ。その剣の存在こそが、彼らの王が権力を有する表向きの理
由。神からカリブルヌスを預かる者こそが、かの国の王であり、神
の代行者である証拠だからね﹂
﹁な!? か、カリブルヌスだと!﹂
ユイの言葉を耳にして、最初に驚きの声を上げたのはフェリアム
であった。彼は信じられないという思いとともに、アレックスの手
にする剣へとその両眼を近づける。
一方、その剣をアレックスへと預けた当人は、まったくもって涼
しい顔のままあっさりと頷いてみせた。
﹁ええ、そうですよ﹂
﹁⋮⋮ユイ、お前は我が国を抜け出した後、ブリトニアに行ってい
たのか﹂
驚きの余り言葉を失ったフェリアムに代わり、目の前の男ならや
りかねないと考えていたノインは、それよりも気になっていた事実
を問う。
すると、少しばつの悪そうな表情を浮かべながら、ユイはその問
いかけを肯定した。
1422
﹁まあね。といっても、正確に言えばブリトニアにも行ったという
のが正しいけど﹂
﹁なるほどな。どうりでこの西方中を探し回っても見つからなかっ
たわけだ﹂
ユイが姿をくらますと同時に、多くの人材と予算を投じながらも、
その目星さえ掴むことができなかった理由。
それを知ったノインは、目の前の男がブリトニアに対する牽制だ
けではなく、自分たちから完全に逃亡するために、ほとぼりが覚め
るまで彼の国に渡っていたのだと理解した。
一方、この話題に気まずさを覚えたユイは、頭を掻きながら話の
矛先をアレックスへと向ける。
﹁ともかくアレックス。そいつなら、たぶん彼らとも戦える。だか
ら君が持っていてくれ﹂
﹁彼ら⋮⋮か。でも、盗品紛いを振るうのは僕の主義に反するんだ
けど﹂
ユイの頼みを受ける形となったアレックスは、この場にノインと
フェリアムが居合わせていることから、敢えて目的としている者た
ちの名を直接口にする事無く会話を続ける。
﹁盗品じゃ無いさ。ちゃんと借用書は書いてきた。だから、正真正
銘それは借り物さ﹂
﹁ふむ、先方は同意したのかい?﹂
長い付き合いから、ユイの行動を正確に見抜いていたアレックス
は、確信を持って一つの問いを放つ。
すると、ユイは僅かに視線を逸らしながらその口を開いた。
﹁さて、どうだったかな﹂
﹁まあいいや。これなら、僕が遊べる相手も増えそうだ。それじゃ
あ、君に押し付けられたということで又借りしておくとしよう。で
1423
も本当にいいのかい?﹂
﹁何がかな?﹂
アレックスの問いかけの意味がわからず、ユイは僅かに首を傾げ
る。
﹁彼らと対峙するに当たり、これを君が持たなくていいのかという
ことさ﹂
﹁ああ、私には極々短い隠居生活の間に作り上げたものがあるから
ね。それにもう一つ頼んでいたものが、そろそろここに届く手はず
になっている﹂
首に付けた紅色の結晶のペンダントを弄びながら、ユイは僅かに
困った表情を浮かべつつそう口にした。
途端、アレックスは狐目を一層細めながら、目の前の男に問い直
す。
﹁もう一つ?﹂
﹁そうさ、もう一つ。とはいえ、あの人は時間の概念が私たちと違
うからね。まあルーズなのは困ったものだけど﹂
﹁一体だれのことを言っているのかな、君は。私なら、とっくに来
ているよ﹂
その言葉が発せられたのはまさに突然の事だった。
声の主を求め、一同は一瞬周囲を見回す。
すると、突然彼らの上方から、やや小柄な青年が大地へと降って
きた。
﹁へぇ、二階のベランダの上に潜んでいたんだ。僕が気づかなかっ
たとは⋮⋮ふふ、面白いね﹂
目の前に姿を現した青年を目にするなり、アレックスは右の口角
を吊り上げる。
1424
そんな彼の視線を受けて、青年の姿をした大賢者は、敢えて不敵
な笑みを浮かべてみせた。そしてそのまま、嬉しそうに頬を緩める。
﹁いやはや、上から見させてもらっていたが、なかなか面白い面々
を集めているようじゃないか。そのうえ、カリブルヌスなんて代物
を、まさか彼の国から引っ張ってくるとはね﹂
﹁ちょ、ちょっとお待ちください。何故あなたがここに?﹂
﹁この青年を知っているのか、フェリアム殿﹂
青年の顔を目にするなり狼狽を見せたフェリアムに対して、隣に
立っていたノインは、眉間にしわを寄せながら詳細を求める。
すると、その問いに答えたのは当の本人であった。
﹁ああ、彼は僕のことを知っているよ、リアルトの息子君。何しろ
彼が若い頃、一度私の元に頼み事をしにきた事があったからね。し
かし君も立派になったものだね、フェリアム﹂
﹁いえ⋮⋮私はこの国の未来を正しく担えなかった未熟者です﹂
﹁ふぅん、そう。でも彼によって、君はこの場に呼びつけられた。
つまりキスレチンの未来を担うべき人間と認識されてね。いくら僕
の前だとはいえ、君はもう少し自分に自信を持ってもバチは当たら
ないよ﹂
ニコリと微笑みながらそう口にすると、彼はフェリアムの肩を軽
く叩く。
その見た目と全く矛盾する二人の関係。
それを目の当たりにして、ノインは黒髪の男へと説明を求めた。
﹁ユイ、この青年は⋮⋮﹂
﹁彼はフォックス・レオルガードさ﹂
﹁フォックス・レオルガード⋮⋮だと!? 馬鹿な、ではこんな青
年が、大陸四賢者の︱︱﹂
思いもよらぬ名前を耳にし、驚きをかくせぬノインの言葉。
1425
それを途中で遮ったのは、フォックスその人であった。
﹁リアルトの息子君。物事を見た目で判断してはいけないよ。君も
十分理解しているんじゃないかな。そこのやる気なさげな黒髪と接
してね﹂
﹁それは⋮⋮﹂
フォックスの発言にノインは思わず口ごもる。
すると、側に立っていた黒髪の男は、頭を掻きながら口を開いた。
﹁私を比較に出すのはやめてくださいよ。それにどうみたって、私
のほうが見た目と人物が一致しているでしょ﹂
﹁さてどうだろうね。四つもの名前を使い分けている君となら、余
り変わらないと思うけど。ともあれだ、君に頼まれていたものを渡
せば、私の仕事は終わりさ。というわけで、フェリアム。君はここ
で私を視なかった。いいね?﹂
﹁わ、わかりました﹂
﹁結構。じゃあ、約束のものを渡すとしようか。さあ、受け取り給
え﹂
フェリアムに向かってニコリと微笑むと、フォックスはユイに向
かって手にしていた一振りの刀を放り投げる。
それを軽く片手で受け止めたユイは、ゆっくりと刀身を引き抜く
と、思わず感嘆の溜め息を漏らした。
﹁約束通り、かつて君の母親が振るっていた状態に限りなく近づけ
た﹂
﹁素晴らしい。なるほど、これがかつての姿ですか⋮⋮ありがとう
ございます﹂
﹁なに、如何に影打ちとはいえ元が良ければこそさ。もっとも、君
の母親が持ち出したのが真打ちならば、さすがの私も手が出なかっ
ただろうけどね﹂
1426
意味ありげに頬を歪ませながら、フォックスはそう口にする。
すると、ユイは苦笑を浮かべながら首を左右に振った。
﹁さすがにそんな事をしていれば、今頃私はここにいませんよ。と
もあれ、深く感謝を﹂
﹁ふふ、感謝は結構。代金を既に頂いたからね。ただし、一つ忠告
をしておこう。あれだけ酷使していても、君がきちんと手入れをし
ていたからこそ、刀は君と共にあり続けた。だが、それにも限界が
ある。私は完全に壊れたものは⋮⋮つまり折れてしまったものは直
せない。この世界における存在としての連続性を失うからね。この
意味はわかるかい?﹂
﹁はい﹂
周りの男達が怪訝そうな表情をうかべる中で、ユイだけははっき
りと首を縦に振った。
それを目にしたフォックスは、満足そうに笑う。そしてユイに向
かってはっきりと彼の役目を口にした。
﹁ふふ、なら結構。それでは西方を、そして世界を救ってきたまえ﹂
﹁⋮⋮かつて誰かが通った道ですか﹂
﹁そう。歴史は繰り返す。ただしどうせならば、常により美しい形
で歴史というものは刻まれていってもらいたい。それが山奥に潜む
老人の願いさ﹂
そう口にしたところで、フォックスの眼差しは遥か彼方を見る。
そんな彼に向かい、受け取った刀を腰に差したユイは、頭を掻き
ながらその口を開いた。
﹁いい歳をしながら、女性をはべらせている老人の願いとはとても
思えませんね﹂
﹁まあね。でも私は私のなすべきことを終えたからこそ、余生を自
由に生きている。君も隠居したいというのなら、さっさとこの世界
1427
を救ってしまうのだね。というわけで、私は先に帰らせてもらうよ。
うちの子猫ちゃん達が、寂しくて泣いているといけないからね﹂
そう言い残すと、スッと静かに彼は歩み出す。
そして瞬く間に、彼の後ろ姿はユイ達の視界から失われた。
﹁世界を救う⋮⋮か﹂
フォックスが口にした言葉を、ユイは虚空に向かって呟く。
そして思わず真っ青な空を見上げたところで、彼に向かい一つの
声がかけられた。
﹁ユイ、もういいのかい?﹂
﹁ああ、ごめんね。どうも老人にお尻を叩かれてしまったようだ﹂
アレックスの呼びかけに対し、苦笑を浮かべながらそう口にする。
すると、目の前の赤髪の男は、狐目をさらに細めながら薄く笑っ
た。
﹁ふふ、それは結構。君は誰かに急かされているくらいがちょうど
いいものさ﹂
﹁ひどいなぁ、まったく。ともあれ、出来るところから手をつける
としようか。というわけで、フェリアムさんこの地をよろしく﹂
フェリアムへと向き直ると、ユイは頭を掻きながらそう口にする。
﹁ふん、この地のことを思うなら、さっさと行って向こうを片付け
てこい﹂
﹁まあ出来る限りで。それじゃあ、ノイン。案内をよろしくね﹂
フェリアムの返答を確認したユイは、ノインへとその視線を移す。
途端、彼の言動を受けて、ノインはおかしそうに笑った。
﹁ふふ、皇太子に道案内をさせる男か。お前らしくて実にいいな。
朱よ、お前はどうする?﹂
1428
﹁僕はエインスくんがまだここにいますからね。でも、なるべく急
ぎますよ。何しろ最初に狙われるのは、貴国ではなく我が国でしょ
うから﹂
ノインの問いに対し、アレックスははっきりとそう告げる。
その彼の回答を、ユイもすぐさま肯定した。
﹁だろうね。というわけで、アレックス。次は戦場で﹂
﹁ああ。君も無理をしないように⋮⋮そしてサボりすぎないように
ね﹂
﹁はは、わかったよ。それじゃあ﹂
珍しく冗談交じりのアレックスの言葉。それを耳にしたユイは、
思わず苦笑する。
そして彼らは軽く拳を握り締めると、コツンと重ねあった。
そうしてそのまま、ノインの背中を追う形でユイは歩み出す。
﹁キスレチンを出発し、帝国に軍を借りて、ブリトニアと戦い、ク
ラリスを救う⋮⋮か﹂
普通に考えれば、矛盾に満ち溢れたかのような未来予想図を思わ
ず口にし、ユイは足を止めて思わず頭を掻く。
そして大きな溜め息を一つ吐き出すとともに、彼は再び前に向か
って歩みだした。
夏の終わりを感じさせるような、体にまとわりつく僅かな熱気を
振り払って。
1429
翼を得て
軍の出立式を控えたまるでお祭りのような喧騒。
それが帝都の外れにある帝国軍第二駐屯地の四方八方で生じてい
た。
普段は謹直で物静かな帝国軍人も、直前に行われた極秘発表を受
けて、まるで熱に浮かされたかのように一人の男の名を口にする。
そう、先だってひっそりとその姿を表し、内々にこの国の皇女と
の婚約が発表された一人の男の名を。
英雄ユイ・イスターツ。
それはかつて最大の敵と目され、そして後に彼らとこの国を救っ
た英雄の名である。
実際の所、雲隠れしていたこの数年の間も、帝国軍人にかぎらず
この国の人々は絶えずその存在を噂し続けていた。
だが思いもよらぬ命令とともに、突然姿を消したはずの他国の英
雄が彼らの指揮官に就任したと発表されると、如何に帝国の軍人で
あろうとも、とても心境穏やかではいられなかった。
一方、話題の中心である当人は、駐屯地にある最も背の高い本部
施設の最上階から、そんな慌ただしい兵士たちの動きを、まるで人
事のようにぼんやりと眺めていた。
﹁英雄殿。帰ってきてそうそうだが、ミラニールと比べてこの帝都
は如何かね?﹂
1430
突然背後から掛けられた聞き覚えのある声。
それを受けて、ユイはゆっくりと後方を振り向く。
﹁リアルト陛下⋮⋮﹂
﹁ふふ。久しいな、英雄殿﹂
リアルトはそう口にすると、そのままユイの隣まで歩み寄る。そ
して軽くユイの肩に手をおいた。
﹁ご無沙汰いたしておりました﹂
﹁ああ、本当にご無沙汰じゃのう。前回は最後でまんまと逃げられ
たからな。しかしあれは初めての経験じゃった。余が真に欲するも
のを手に入れ損ねたのはのう﹂
苦笑を浮かべながら、リアルトは軽く肩をすくめる。
その仕草を目の当たりにして、ユイは軽く下唇を噛みながら二度
頭を掻いた。
﹁そうですか⋮⋮ですが、結局こうしておめおめと貴国を頼りに来
ました﹂
﹁それは情勢の変化というものじゃよ。だいたい英雄殿にその気が
なければ、そのまま隠遁することも可能であっただろう? 結局は
余自らの力で、手に入れられなかったに等しいものじゃ﹂
﹁そうでしょうか?﹂
リアルトの見解を耳にして、ユイは疑問を口にする。
すると、目の前の老人は軽く右腕を突き出すと、ゆっくりとその
拳を握りしめた。
﹁ああ。余は欲するものをこの手で掴みとる。それを信条にこの老
年になるまで生きてきた。見渡すかぎりのこのレンドの大地も、有
能な家臣達も、そして愛する妻たちもな﹂
そう口にしたところで、リアルトはニコリと微笑む。そして目の
1431
前の男に向かい、改めてその口を開いた。
﹁それで英雄殿⋮⋮いや、婿殿。ミリアとは会ったのかね?﹂
﹁ええ、涙を流されましたよ﹂
﹁ふふ、まあ失踪した想い人が突然帰ってきて、そしてすぐに出征
する。あやつの気持ちもわからんでもない。しかし、女を泣かせる
とは⋮⋮いや、我が娘を泣かせるとは、お主は本来なら極刑ものじ
ゃな﹂
皇帝は軽く笑い声を上げながら、ユイへとその視線を向ける。
そんなリアルトの瞳は、その表情と異なり一切笑っていなかった。
﹁全くもって、言葉もないところです﹂
﹁一応、反省はしておるようじゃな。ならばいい。できればあの子
を幸せにしてやってくれ﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
﹁結局だ、どんな権力を持つ皇帝であろうとも、子の前ではただの
親にすぎんものだよ﹂
皇帝は視線を遠く離れた帝都の街並みへと移しながら、苦笑交じ
りにそう口にする。
隣に立つユイは、同じように帝都の街並みを眺めやりながら、呟
くかのように言葉を発した。
﹁そういうものでしょうか。私には子がおりませんのでわかりませ
んが﹂
﹁それはそうだ。だいたい英雄殿に隠し子が居れば、余もミリアの
ことを考えなおさねばならんところじゃ。とはいえ、正直なところ
懸念は少しばかり残っておるがな﹂
﹁懸念? 何のですか?﹂
﹁ふふ、隠し子はおらんだろうが、貴様を狙っておる女性がおると
聞く。例えば、クラリスの至尊の座を頂いている女性とかのう﹂
1432
リアルトはそう口にすると、意味ありげな笑みを浮かべる。
ユイは頭を掻きながら、すぐにその口を開こうとしたが、そんな
彼の発言は突然後方から発せられた一人の男性の声にかき消された。
﹁親父殿。私の個人的な調査によると、どうやら他にも女がいるみ
たいですよ、そいつにはね﹂
﹁ノイン!﹂
発言者へと視線を向けるなり、ユイは抗議をするかのようにその
名を呼ぶ。
だが動揺を見せるユイとは対照的に、この国の皇帝は高らかと笑
った。
﹁はは、英雄色を好むか。まあ基本的には結構なことだ。ただしミ
リアを最優先にしてもらわねばならんがな﹂
﹁いや、何か色々と誤解があるようですが⋮⋮﹂
困惑した表情を浮かべながら、ユイはそう口にする。
すると、リアルトは急に真剣な表情を浮かべなおすと、ユイの耳
元に顔を寄せて、小さく呟いた。
﹁ふふ、まあいずれにせよだ、基本的に余とその方の思惑は一致し
ておる。英雄殿、まずはブリタニアを、次にトルメニアを⋮⋮そし
て修正者を排除してみせよ﹂
﹁な⋮⋮リアルト皇帝。あなたはどこまで⋮⋮﹂
リアルトの発言の中に含まれていた一つの言葉。
それを耳にしたユイは、驚きを隠すことが出来ず、思わず目を見
開く。
そんな彼の反応を目にして、リアルトは満足気に笑うと、ニンマ
リと笑みを浮かべてみせた。
﹁ふふ、余はただの人間じゃ。だが、ただの人間だからこそできる
1433
戦いもある。その方と初めてあった時はその存在を知らなかったが、
余も時間を無為に過ごしたわけではないということじゃな﹂
﹁⋮⋮まったく、貴方にはかないませんよ。これだから御老人は﹂
若いままの姿を保つ男、髭を蓄えた偏屈教授、そして眼前に立つ
皇帝リアルト。
未だ若者の決して及ばぬところにいる老人たちの顔が次々と脳裏
に浮かび、ユイは思わず首を振りながら深い溜め息を吐き出した。
﹁まだまだその方ら若い者達に負けてやるつもりはないからのう。
そこのところ、よく覚えておけ、ノイン﹂
﹁はい。でもいつか実力で、貴方を越えて見せましょう﹂
話を向けられたノインは、皇帝である父親に対しまったく怯むこ
と無く、はっきりとそう言い切る。
その返答を受け、リアルトは満足気に大きくうなずいた。
﹁ふむ、その意気や良し。さて、それでは余は一足早く、出立式の
会場に向かうとしようかのう。そうそう、会場ではろくに話せんだ
ろうから、先に言っておこう。英雄殿、ブリトニアを排除した後に
正式な婚約発表を行う。この地で大々的に行っておくからのう。戻
って来た際は、楽しみにしておくことじゃな﹂
ニンマリとした笑みを浮かべながらそう口にすると、リアルトは
年齢を感じさせぬしっかりとした足取りで、そのままバルコニーか
ら立ち去っていった。
そうして、その場に残されたユイは、深い溜め息を吐き出す。
﹁はぁ⋮⋮まったくあの人は﹂
﹁ユイ、お前のお迎えがきたようだ。ともかく、幕は上がったんだ。
こうなれば、貴様の目指す未来に向けて最善を尽くすんだな﹂
リアルトと入れ変わるように姿を表した一人の士官をその目にし
て、ノインはユイに向かってそう告げる。
1434
すると、目の前に広がる帝都の空に向かって、ユイは呟きを発し
た。
﹁目指す未来⋮⋮か﹂
自らが口にした言葉に思わず苦笑しながら、ユイは思わず左右に
首を振る。
そして彼はゆっくりと後方を振り返ると、彼を迎えにきた顔なじ
みの士官に向かって、苦笑を浮かべながらその口を開いた。
﹁さて、これだけお膳立てされたからには動くとしようか。という
わけで、今回もよろしく頼むね、ロイス君﹂
歴史上に燦然と輝き、後にイスターツ軍と呼ばれることになる一
つの軍隊。
それはかつて指揮官の仇敵であったグラム帝国にて、ここにその
産声を上げることとなった。
1435
海峡を駆ける
快晴の空と澄み渡る青い海、そして海原を駆ける無数の船団。
それはまさに数百年ぶりにラ・マンティア海峡に広がる光景であ
った。
公式、非公式を合わせて極々小規模な商取引などは現在も続けら
れている。しかしながら、これほどの大船団がこの海を渡るのは、
かつて暗黒戦争と呼ばれた時以来であった。
そしてそんな船団の中央には、他の船より一回り大きな帆船が存
在する。
﹁船長、我らが船団で遅れているものはいないか?﹂
小さいながらも船内に用意された彼の執務室において、ブリトニ
ア軍の司令官を務めるフランツは、椅子に腰掛けたまま引き締まっ
た声を発する。
すると、この部屋へと報告に訪れた船長のワットーは、軽く頭を
下げた後に、堂々と口を開いた。
﹁いえ現在のところ、我ら第一陣に問題ありません。予定通りル・
エーグの港へ揃って入港できるかと思います﹂
﹁そうか。ならば結構﹂
予定通りの報告を受け、フランツは満足そうに一度頷く。そして
そのまま足を組むと、再びその口を開いた。
﹁まあ、いずれにせよだ、船のことは君たちに任せる。問題が無い
ようならば、このまま予定通り進めてくれ﹂
﹁了解いたしました﹂
1436
そう返答を行うと、ワットーは颯爽と部屋から立ち去っていく。
それを見送ったところで、フランツ付きの副官であるマリアーヌ
は、ゆっくりとその端正な口を開いた。
﹁どうやら、ここまでは予定通りのようですわね﹂
﹁ああ。ここまではな﹂
マリアーヌの方へと視線を向けること無く、フランツは謹厳な表
情を保ったまま言葉を返す。
普段は部下に対し愛想の良い上官にも関わらず、あまりにらしく
ない反応。それに違和感を覚えたマリアーヌは、上官に向かって疑
問を投げかけた。
﹁何かご懸念でもありますでしょうか?﹂
﹁済まない、心配させたかな。いや、特に懸念するといったような
ことではないのだ。ただ⋮⋮﹂
渋い表情を浮かべながら言葉を途切れさせたフランツに向かい、
マリアーヌは先を促す。
﹁ただ?﹂
﹁ただ、到着地で待っている連中が、本当に信頼できるか⋮⋮そこ
に若干の不安があってな﹂
そのフランツの言葉を受け、マリアーヌはようやく上官の懸念を
理解する。
﹁ル・エーグを実効支配しているのは、彼の国の四大大公であるブ
ラウ公⋮⋮ですか﹂
﹁そのとおりだ。能力あるものを要職につける。それを信念とする
我らが女王陛下と異なり、彼らは血筋のみで国の未来を動かそうと
する者たち。例え約定を交わしているとはいえ、そんな彼らと、本
当に手を取り合うことができるものかと不安でな﹂
1437
﹁確かに、もともと約定の文面にも、些か彼らのおごりのようなも
のを見受けました﹂
今回のクラリス侵攻にあたり、貴族院との間に極秘裏に結んだ協
定。
その際に互いに交わした文面には、彼らクラリス貴族の鼻持ちな
らぬ傲慢さがにじみ出ていた。
一方、彼女が口にした文面を思い起こしたフランツは、ややうつ
むき加減のまま小さく溜め息を吐き出すと、ゆっくりとその視線を
マリアーヌへと向ける。
﹁ああ、君の言うとおりではある。だが、上陸作戦を無傷で行える
という条件は、他の何ものにも代えがたいほど魅力的だ。如何に懸
念があろうとも、そして連中の手が汚らわしいかろうとも、握手は
交わさねばならん。部下たちの命には代えられんからな﹂
﹁望まぬ握手もやむを得ない⋮⋮ですか﹂
そう口にすると、マリアーヌも小さくため息を吐き出した。
元々一市民にすぎない彼女は、眼前のフランツに見出されて、今
やこの大部隊の副官という地位まで引き上げられた者である。
それ故に、血筋を何よりも重んじるクラリスの貴族院の考え方は、
彼女自身にとっては決して相容れぬものであった。
そうして狭い室内に沈黙が訪れたところで、突然部屋の扉がノッ
クされると、外に待機させていた護衛兵の声が響く。
﹁フランツ司令官。あの⋮⋮同行者として乗船されておられる少年
がお見えなのですが﹂
一瞬、この場にはそぐわぬ単語を耳にして、フランツは眉間にし
わを寄せた。だが、すぐに該当すべき人物を脳裏に浮かべると、彼
は入室許可を与える。
1438
﹁少年? ⋮⋮ああ、彼のことか。どうぞ入ってもらいたまえ﹂
フランツのその声が部屋の外へと響き渡ると、一拍の間をおいた
後に、船室の扉がゆっくりと開かれた。
そしてそこからは、この軍船とはまるで不釣り合いの華奢な銀髪
の少年が姿を現す。
﹁やあ、船旅は順調なようだね﹂
﹁ええ、予定通り我が軍は進んでおります。それでいかがしました
かな、ゼス殿?﹂
フランツは目の前の少年に向かい、意識して対等に接するよう努
力しながら、来訪の目的を尋ねる。
すると、少年はその頬を僅かにゆるめ、同年代の少女ならば一瞬
で心掴まれそうになる笑みを見せた。
﹁いやぁ、我が国にはここまで優れた船はありません。ですので、
せっかくですから、少し見て回らせてもらえればと思い、その許可
を頂きに参ったのです﹂
﹁それはそれは。そうですね、現地に到着するまでの間でしたら、
ご自由に見て回って頂いて構いませんよ﹂
努めて穏やかな表情を浮かべながら、フランツは目の前の少年に
向かいそう答える。
すると、ゼスはまるで天使のような笑みを浮かべ、そして喜びの
隠せぬ声で問い返した。
﹁本当に良いのですか?﹂
﹁ええ、ただ乗員の運行の邪魔になるようなことだけは、控えて頂
けると助かります﹂
﹁もちろんですよ。フランツさん、いや、フランツ司令官ありがと
うございます﹂
1439
そう口にすると、銀髪の美少年は軽い足取りで部屋から退室して
いく。
そうして船室の扉が閉められた瞬間、マリアーヌの呆れたような
声がフランツへと向けられた。
﹁司令官、いくらトルメニアの使者だからとはいえ、あのような子
供に対して、遠慮し過ぎではありませんか?﹂
﹁言いたいことはわかる。だが、彼がトルメニアからの使者である
ことは、紛れも無い事実なのだ。だからこそ、無碍に扱うわけには
いかないのだよ。見た目が如何に子供であろうとな。それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
いつものようにフランツの言葉が途切れたのを受け、マリアーヌ
はその先を促す。
すると、フランツはゆっくりと首を左右に振った。
﹁いや、たぶん私の思い過ごしだ。気にしないでくれ﹂
そう口にすると、フランツは足を組み替え、その後にゆっくりと
ため息を吐き出す。
そんなフランツの姿を目にして、マリアーヌは思わず眉間に手を
当てた。そしてしばし悩んだ末、目の前のブリトニアの柱石たる上
官の内心を慮り、彼女はそれ以上その話題を口にするのを辞める。
代わりに彼女は、たった今出て行ったつかみどころのない不思議
な美少年の名をその口にした。
﹁トルメニア最年少の枢機卿、ゼス・クリストファー⋮⋮か﹂
1440
再会と再開
涼しい風が吹き始める秋空の下、武装を固めた数百名規模の一団
が、帝国北部の街道をまっすぐに北上していた。
無駄口一つ叩くこと無く、黙々と進みゆく重武装の騎兵集団。
そんな中に、ほぼいつもと変わらぬ服装のまま、眠たげに大あく
びをする一人の黒髪の男が存在した。
﹁⋮⋮イスターツ殿下。もうまもなくで国境となります﹂
寝ぼけ眼をこすろうとしていたユイは、突然側方から掛けられた
実直な声に、苦笑を浮かべる。そしてすぐさま、彼の方へと向き直
った。
﹁殿下は止めてくれないかな、ロイス君。別にさんでも、くんでも、
いっそ呼び捨てでもいいけどさ、ともかく他の呼び方をしてもらえ
るとありがたいんだけど﹂
﹁そ、そんな呼び方など出来ません。貴方はミリア様とご婚約なさ
れたのですよ。となれば、この呼び方に慣れて頂きたく﹂
ユイからの言葉を耳にするなり、ロイスはとんでもないとばかり
に首を左右に振る。
すると、ユイは困った表情を浮かべながら渋々苦言を呈した。
﹁別に王配というわけでもないしさ。それに君に言うのも何だけど、
あくまで婚約だよ。籍を入れたわけでもないんだから、ちょっと気
が早過ぎるんじゃないかな⋮⋮それとも、もしかしてノインあたり
のいたずらかい?﹂
そのユイの発言を耳にした瞬間、ロイスの頬が僅かに引きつる。
1441
それを見過ごさなかったユイは、その場で深々と溜め息を吐き出
した。
﹁⋮⋮さすがよくお気づきで﹂
﹁まったく、油断も隙もない。こうやって足元から既成事実を積み
上げようとするあたり、だんだん親父殿に似てきたね、彼もさ﹂
そう口にすると、ユイはくしゃくしゃと頭を掻きむしる。そして、
再びロイスへと向き直ると、その口を開いた。
﹁ともかくさ、元々の役職を前提に呼んでくれたら良いよ。クラリ
スの三位を解任されたわけじゃないしさ﹂
﹁お言いつけに背くことになりますが、やむを得ない⋮⋮ですか﹂
﹁そんな大層な話でもないと思うけどね﹂
苦い表情を浮かべるロイスをその目にして、ユイは改めて目の前
の男の実直さと誠実さに少なからぬ評価と、そしてそれ以上の疲労
を覚えずにはいられなかった。
一方、そんなユイの内心を知らぬロイスは、どうにかノインから
の言いつけに反する覚悟を決めると、険しい表情を浮かべながら先
ほどの言葉を言い直す。
﹁⋮⋮では、改めてイスターツ閣下。もうまもなくレムリアックで
すね﹂
﹁ああ、そうだね。えっと、ロイス君は来た事あるのかい?﹂
目の前の壮年将校の苦悩を感じ取ったユイは、苦笑を浮かべなが
ら、敢えて彼の会話に付き合うこととした。
﹁いえ、恥ずかしながら﹂
﹁まあ、そうだろうね。レムリアックは主要の街道からは外れてい
るから﹂
1442
﹁はい。正直なところこの地に来るといえば、おそらくノバミム自
治領の連中くらいでしょう﹂
帝国内でのレムリアック産の魔石取り扱いは、未だその全てをノ
バミム自治領を介して行われていた。
もちろん帝国とクラリスが直接ぶつかり合った先年の戦いから時
間が経過し、相互の緊張関係はやや薄れつつはある。しかしながら、
お互いの中に存在する不信の種は未だに拭えるものではなく、表向
きは依然としてクラリスからの魔石輸出は停止されたままの状態で
あった。
だからこそ、年々ノバミム自治領の帝国内での役割と存在感は増
してきている。しかしノバミム自治領に関しては領主こそ存在する
ものの、オメールセンという名の犯罪者がその実質を取り仕切って
いることから、帝国内で自治領に対し警戒心が年々増していること
も事実であった。
﹁確かにオメールセン君くらいしか、うちには来ない⋮⋮と言うか
来れないか。彼らは商売がかかっているから、そのあたり必死だろ
うしね﹂
﹁ええ。ただそれ故に、オメールセンたちへの対策案が考えられて
いるのも正直なところです。レムリアックのせいで、彼らは少し力
をつけすぎました。もっとも、そんなことも貴方の計算の内だった
のかもしれませんが﹂
﹁はは、どうだろうね。でも、彼らがそれなりに力をつけてくれた
からこそ、この部隊の大部分を預かってもらうことができたんだ。
今回ばかりは素直に感謝することにしないかい?﹂
眼前の将校の複雑な内心を見て取ったユイは、ニコリと微笑みな
がらそう提案する。
だがロイスは渋い表情を見せるのみで、けっして首を縦に振るこ
1443
とはなかった。
﹁それはまあ仰るとおりなのですが⋮⋮﹂
﹁ふふ、まあ君達の懸念しているところはわかっているよ。だから
それもあって、レムリアックに部隊を駐留させたのさ﹂
﹁な⋮⋮では、彼らに対する監視も兼ねてだと?﹂
ユイの発言を耳にするなり、ロイスは驚きのあまりその双眸を見
開く。
﹁はは、まあそこまでしっかりしたものではないけどね。でも、帝
国軍が大規模に駐留しているならば、当然彼らの振る舞いにも制限
がでる。まあ最近、少し中抜きが目立っていたからね。ちょっとし
た私からのメッセージも含んでいると理解してくれればいい﹂
﹁⋮⋮貴方という人は﹂
﹁いやいや、あまり感心しないでくれ。これはただのおまけだよ。
本当の理由は別にあるんだからさ﹂
ロイスから向けられる視線に、はっきりと尊敬と警戒心が強まっ
たことをユイは感じ取った。だからこそ、彼は隠しておくべきはな
いと判断してそれ以外の理由が存在することを示唆する。
﹁本当の理由⋮⋮ですか﹂
﹁ああ、本当の理由。狙いは二つ、一つは先日も説明したように我
々の行動を気取られない為、そしてもう一つは処置が間に合わない
為さ﹂
﹁気取られない為というのは、今回の作戦行動の根幹ですので私に
もわかります。ですがその⋮⋮処置が間に合わないとは、一体何の
ことでしょうか?﹂
ロイスは何か言い知れぬ不安を覚えながら、ユイに向かってそう
問いかける。
すると、ユイは苦笑を浮かべながら、一つの秘密をあっさりとそ
1444
の口から吐き出した。
﹁実はレムリアックに入る際は、一人一人にちょっとしたおまじな
いが必要でね。流石に全軍をまとめて処置するのは不可能だからさ﹂
﹁おまじない⋮⋮ですか﹂
﹁ああ。ルゲリル病というちょっとした病にね、罹らずに済むこと
ができるっていうおまじないさ﹂
さらりとユイの口から告げられたその言葉。
それを耳にしたロイスは、思わず大声をあげずにはいられなかっ
た。
﹁な!? では、ルゲリル病は本当に!﹂
﹁ああ。ルゲリル病は魔法で予防できる。これは事実だよ。そして
だからこそ、レムリアックの魔石をノバミム経由で、帝国に輸出で
きるようになったわけさ﹂
これまで一切正式には公表してこなかった事実を、ユイは笑いな
がら述べる。
途端、ロイスは一瞬表情を固くした。
レムリアックの領主としてユイ・イスターツが封じられて以降、
彼の地の魔石採掘量は急激な増加を認めている。
元々、彼の地に大量の魔石があることは、帝国でさえ情報として
は有していた。しかしながら、それでも彼らが彼の地を切り取りに
かからなかったのには理由がある。
そう、恐るべき死の病であるルゲリル病が蔓延しているが故であ
った。
そんな彼の地で莫大な魔石が採掘されているということ。
それはたったひとつのことを意味していた。
1445
つまりユイ・イスターツは何らかの手段を使って、ルゲリル病へ
対処したということである。
そして当然の事ながら、帝国に限らず西方の各国も、そして国内
の貴族院の者たちさえ、その秘密を暴こうと情報戦に躍起になって
いた。
まさにその、確信とも言える情報が、あっさりとユイの口から飛
び出したことに、ロイスは狼狽せずにはいられなかったのである。
﹁し、しかし⋮⋮よろしかったのですか?﹂
﹁何がだい?﹂
本当にわからないといった様子で、ユイは僅かに首を傾げる。
すると、ロイスは一瞬躊躇したものの、単刀直入にユイへと疑念
をぶつけた。
﹁いえ⋮⋮そんなレムリアックの機密を私にお話しになられて﹂
﹁はは、面白いことを言うね。君はこれから一緒に戦ってくれる仲
間だよ。そんな君に隠しておく必要があるかい?﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
たしかに現在は皇帝の命令の下、ロイスはユイの部下となっては
いる。
しかしながらそれはあくまで、西方でこれから起こるであろう騒
乱を収束させるための一時的なものであると彼は考えていた。
だからこそ、ロイスは素直に目の前の男の言葉を受け取ることが
出来ずにいる。
一方、そんな彼の内心に気づいたユイは、軽く頭を掻きながら苦
笑交じりに口を開いた。
1446
﹁ロイス君。君とは敵として一度は刃を、そして二度目は味方とし
て共に戦った。だから私なりに君のことは理解しているつもりさ。
だから君から尋ねられたら、こんなこと別に隠す気なんてさらさら
ないさ﹂
﹁⋮⋮ですが、二度目も貴方に騙された気がしますが﹂
﹁ひどいな、ロイス君。別に騙してはいないよ。君が集合魔法に夢
中になっていたから、ちょっと声を掛けずに前線に行ってきたとい
うだけじゃないか﹂
まったく悪びれる様子も見せず、ユイは笑いながらそう告げる。
すると、すっかり緊張感を消し去られてしまったロイスは、小さ
な溜め息を吐き出すとともに、話の矛先を僅かに変えた。
﹁はぁ⋮⋮まあ過ぎたことは良いです。それよりも、これからのこ
とを話しましょう。先ほどのお話を元にしますと、レムリアックに
着き次第、部隊全員にルゲリル病の予防を行って頂く。それでよろ
しいのですね﹂
﹁ああ、その予定さ。さしあたって決まっていることはそこまでか
な。残念ながら、今回は先手を取ることが出来ないからね﹂
顎に手を当てながら、ユイはやや残念そうにそう口にする。
すると、すぐにロイスはその言葉の意味を問うた。
﹁先手⋮⋮ですか﹂
﹁うん、先手。海を挟んでの戦いとなる以上、どうしても先手を打
ってくるのはブリトニアさ。私達の方から攻めるって選択肢はあり
えないしね。となれば、敵の最初の一手に対し、正しい手を打ち返
すことが肝要さ﹂
﹁なるほど、確かにそのとおりですね﹂
﹁そう、だから大事なものは、正確な情報。そして迅速に動ける準
備が⋮⋮﹂
ユイが自らの中ではっきりと定めていた今後の方針を口にしかか
1447
ったその時、彼は思わず言葉を飲み込み、馬の歩みを止めさせる。
そんな彼の行動に疑念を持ったロイスは、慌ててユイの顔を覗き
込んだ。
先程までの笑み混じりだった顔が引き締められ、そしてその瞳は
真正面のただ一点へと向けられていた
そう、国境線に佇む一人の女性へと。
﹁セシル⋮⋮﹂
おもわず彼は、レムリアックを預かり続けてくれた、懐かしき女
性の名を口にする。
すると、そんな彼の姿に気づいた亜麻色の髪の女性は、あの頃と
同じ柔らかい笑みを浮かべながら、ゆっくりと黒髪の青年に向かっ
て口を開いた。
﹁久し振りだね⋮⋮そしておかえりなさい、ユイ君﹂
1448
胸の内
レムリアックの中心地であるアモキサート市。
ほんの数年前までは、クラリスにおいて最も忌避される土地とさ
れていた場所に存在する都市である。
街は寂れはて、人の姿は見当たらず、ゆっくりと朽ち果てるだけ
であったこの地。そこに大きな変化が訪れたのは、ほんの四年前の
ことである。
そして現在、大陸西方の中でも幾つかの理由から最も有名な場所
の一つとなり、また最大の魔石生産量を誇る一大産業都市へとこの
地はゆるやかに変貌を遂げつつあった。
街並みはかつてとは一変し、人々が大通りを次々と行き交う。
そんな中、たった一つだけ変わらない建物が存在した。
そう、アモキサート市のまさに中枢ともいうべき、アモキサート
市庁舎である。
﹁クレイリーさん、王都からの搬入品なんですが、サイン頂けます
か?﹂
若い市職員は、やや焦ったような声を発しながら、部屋の最奥で
黙々とデスクワークに励む、一人の男性に向かって声をかける。
市庁舎の二階に用意されたそのスキンヘッドの男性の机の前には、
既に彼の決済を待つ山のような書類が積み上げられていた。そんな
1449
書類の束の奥から、無精髭を生やした明らかにその場に似つかわし
くない男の声が返される。
﹁おう、ちょっと待ってくれ﹂
クレイリーはそう口にすると、手元の書類に目を通した後にサイ
ンを行う。
そして矢継ぎ早に男性の持参してきた書類を受け取ると、あっと
いう間に内容に目を通していった。
﹁ん、少し足りねえんじゃねえか? 聞いてただろ、しばらく食料
品関係は多めに持って来いって﹂
﹁いや、これでも昨年同月の倍は買い付けてきたんですが﹂
明らかに強面の男性の叱責を受けて、若い男性はやや小声になり
ながらも、はっきりと自分の意見を口にした。
なぜならば彼は、目の前の男がその見た目に似合わず面倒見が良
い事、そして仕事に誠実であるならば理不尽な説教を行う男でない
ことを知っていたためである。
﹁馬鹿野郎。確かに倍買ったことは悪いとは言わねえ。だが、今の
この街の姿を見てみろ。とても二倍で足りるかよ。この調子なら三
倍だ、三倍。余っても、誰かが腹をすかせて働けなくなるよりまし
だ。すぐに追加の発注をかけておけ﹂
クレイリーはやや厳しい口調でそう告げるも、受け取った搬入書
類に彼なりの予想追加必要量を記載し、ぶっきらぼうに若い職員へ
と突き返す。
すると、次は別の方向から、新たな確認の問いかけが彼へと向け
られた。
﹁すいません。昨日届いた魔石なんですけど、予定通りノバミムに
回したら良いですかね?﹂
1450
﹁ああ、それはちょっとストップだ。しばらく向こうの在庫に問題
がないうちは、ノバミムへの運びこみは中止にする﹂
確認内容を耳にするなり、クレイリーは慌てて指示を彼へと伝え
る。
すると、その話を持ち込んできた大柄な男性職員は、わずかに眉
間に皺を寄せながら、改めてクレイリーに向かい確認を繰り返した。
﹁良いんですか?﹂
﹁構わねえ。領主代理の許可はもらっている﹂
﹁そ、そうですか。ではとりあえず、市庁舎裏の大蔵におさめてお
きます﹂
﹁おう、任せたぞ﹂
大柄の職員は慌ててそのまま準備に向かおうとし、クレイリーは
努めて明るい声で、彼の背中に向かい声を発した。
そしてクレイリーは再び目の前の山積みの決済書類へとその手を
伸ばしにかかる。
しかしその瞬間、思いもかけぬ声が彼のその行為を静止させた。
﹁やあ、クレイリー。どうやら結構忙しそうだね﹂
﹁だ、旦那!?﹂
突然向けられた声を耳にして、クレイリーは思わず席から立ち上
がる。
彼の眼前に佇んでいる男。
それは彼が誰よりも敬愛する、あの黒髪の男であった。
﹁というわけで、クレイリー久しぶり。と言っても、彼女と違って、
君とは何度も会っていたけどね﹂
ユイはそう口にすると、少し遅れて部屋へと入ってきた亜麻色の
1451
髪の女性へと視線を向ける。
途端、セシルは僅かに頬を膨らませ、目の前の強面の男に向かい
抗議を口にした。
﹁本当、そのことはちょっと納得していないんだけどね。私が代わ
りにユイくんに会いに行くって言っても、絶対に変わってくれなか
ったんだから﹂
﹁いや、ただでさえ領主がいないんでやすよ。なのに領主代理まで
いなくなるわけにはいかないですぜ﹂
ユイの不在中に何度も繰り返すことになった発言。
それをクレイリーは改めて口にする。
すると、セシルは納得行かないような表情を浮かべながら、以前
より長くなった髪とともに首を左右に振った。
﹁そんなことないでしょ。君がいたら、ほとんど問題なんてないん
ですから﹂
﹁はは、まあね。でもセシル、クレイリーは意外とサボる時がある
からさ。昔カーリンにいた頃も、私の監視の目を逃れて、何度決算
前に飲みに行っていたことか﹂
﹁いや、旦那。旦那は決算前なのに、ずっと居眠りしているだけで
やしたぜ。だから監視の目も何も⋮⋮というか、旦那にサボるなん
て言われたくないですぜ﹂
一方的に責められていることに理不尽さを覚えたクレイリーは、
目の前の黒髪の男に向かい反撃に出る。
しかし、そんな彼の発言はユイによって軽く流されることとなっ
た。
﹁はぁ⋮⋮ああ言えばこう言うんだから。全くこの市庁舎と一緒で、
1452
君も全然変わっていないよね﹂
﹁いや、それだけは旦那に言われたくないでやす﹂
﹁そうかな。しかしまあ君のことは良いとして、なんでこの市庁舎
はそのままなんだい。少し街並みの中で浮き始めているし、十分な
予算はあると思うんだけど﹂
市内に入ってからは目立たぬよう注意しつつも、ユイは僅かな驚
きを覚えながらここまでやってきた。
もちろんその驚きの対象はこの街の変貌である。
しかしながら、唯一全く変わりを見せなかったこの市庁舎の事を
目にした時、彼は安堵とともに肩をすくめながら溜め息を吐き出す
こととなった。
﹁ああ、それでやすがね。実は、セシルさんがどうしても旦那の帰
りを待って︱︱﹂
﹁何かいいましたか、クレイリーさん?﹂
クレイリーがその理由を口にしかかった途端、それを遮るように
セシルの凛とした声が彼の鼓膜を叩く。
途端、クレイリーは慌てて口をつぐむと、ブンブンと首を左右に
振った。
﹁いえ、なんでもありやせん﹂
﹁ふむ⋮⋮なんか君たち、すっかり仲良しになったようだね。結構
結構﹂
セシルとクレイリーのやり取りを目にしていたユイは、笑いなが
ら少しピントの外れた言葉を口にする。
すると、敢えて話題を逸らすかのように、セシルはユイの後ろに
付いて来た一人の青年のことを問いかけてきた。
1453
﹁それでユイくん、さっきから聞きたかったんだけど、そちらの子
は誰かしら?﹂
﹁ああ、そういえば国境からの道中に紹介していなかったか。彼は
私の教え子でね。フェルムっていうんだ﹂
﹁実はあっしの教え子でもありやすぜ﹂
フェルムの姿を認めたクレイリーは、ニヤリとした笑みを浮かべ
ると強く自らを主張する。
しかしそんな彼の主張を耳にして、当の本人は困惑の表情を浮か
べた。
﹁クレイリーさんはただ僕をいたぶっただけというか⋮⋮いえ、ご
めんなさい﹂
すごい勢いで強面の男に睨まれたフェルムは、自らのトラウマを
思い出して、思わず一歩後ずさる。
しかしそんな彼らのやり取りも、ユイにしてみれば先ほどのやり
取りと同じ扱いに分類された。
﹁はっはっは、すっかり君たちも仲良しのようだね。よし、しばら
くはここで時間が取れるだろうから、クレイリー。時間が取れた時
に、ちょっと彼をまた鍛えてあげてくれ﹂
﹁了解しやした。ふっふっふ、フェルム。また仲良くやろうぜ﹂
﹁ク、クレイリーさん、勘弁して下さいよ﹂
クレイリーの意味ありげな笑みを目にして、フェルムは頬を引き
つらせながら慌てて首を小刻みに左右に振る。
一方、そんな二人のやり取りから少し距離をおいていたセシルは、
先ほどとは異なり真剣な表情を浮かべなおすと、ユイに向かって聞
きたかった問いを口にした。
﹁えっと、それでユイくん。あの人達と一緒にいた時は聞けなかっ
たけど、本当に帝国の人達にアンチルゲリル処理を行ってしまって
1454
いいの?﹂
その問いをセシルが口にした瞬間、クレイリーは一瞬で真顔に戻
ると、ユイの表情を伺う。
一同の視線が自分に集まったことを理解したユイは、苦笑を浮か
べながら軽く頭を掻き、そしてゆっくりとその口を開いた。
﹁ああ、別に構わない。肝心の部分さえ伝えなければ、いくらでも
やりようがあるからね﹂
﹁肝心の部分⋮⋮ですか﹂
ユイの言葉を耳にして、フェルムは眉間にしわを寄せながらそう
問いかける。
すると、ユイは大きく一度首を縦に振った。
﹁ああ、肝心の部分。君も隣でロイスくんとの会話を聞いていたよ
ね。まあ実際彼に明かした通り、ルゲリル病の予防方法はある。そ
してその事実を彼らに公開したわけだ。でも、短期的にはそれで問
題は生じないのさ﹂
﹁なぜですか? だって対策があることがわかってしまったんです
よね。だとしたら⋮⋮﹂
ユイの発言が意味できなかったフェルムは、険しい表情を浮かべ
たままユイへと説明を求める。
﹁フェルム。なぜ今回、帝国から借り受けた部隊の大半をノバミム
自治領に置いてきたと思う?﹂
﹁それは先生がロイスさんに言われていたとおりじゃないのですか
? つまりルゲリル病の予防処置が間に合わないのと、ブリトニア
や貴族院に対し僕達の行動を嗅ぎつけさせないため、そして最後の
一つがオメールセン氏への警告。この三つを同時に行うためだと伺
いましたが﹂
道中におけるロイス達との会話を思い出しながら、フェルムはユ
1455
イが語った三つの目的を口にする。
すると、ユイは意味ありげにニコリと微笑む。そしてゆっくりと
その口を開いた。
﹁うん、そうそう。まあ七割方はそれで間違いじゃないんだけどね﹂
﹁七割方? ⋮⋮では、残りの三割は?﹂
思わぬユイの言葉を耳にして、フェルムはすぐに問いを重ねる。
途端、ユイは一つ頷くと、思いもしないことをあっさりとその口
にした。
﹁それは単純なことさ。つまり彼らにアンチルゲリル病処理を行い
たくなかったからだよ﹂
﹁なるほど、旦那らしい話でやすね。つまり最初の会話で相手を思
考停止にさせたわけでやすか﹂
﹁なんか人聞きが悪い言い方だなぁ。一応彼にはちゃんと言ったよ。
君から尋ねられたら隠す気はないって。ただ尋ねられなかったから、
それ以上答えなかっただけさ﹂
クレイリーの言葉に対し、ユイは全く悪びれる様子も見せず、あ
っさりとそう言い切る。
﹁はぁ、これだから旦那の敵に回る連中は大変なんでやすよ。味方
でさえ、こんな目に合うんでやすからね﹂
﹁はは、まあでも今回のはあくまで予防的なものさ。この戦いが終
わり西方に安定が訪れたら、そんな危惧は必要がなくなるかもしれ
ない。その時はアンチルゲリル処理も公表してしまっていいと思っ
ているからね﹂
﹁だ、旦那。本気でやすか?﹂
思わず突然のユイの発言に、クレイリーは目を見開き動揺を見せ
る。
しかし、そんな彼に向かって、ユイはあっさりとした口調で、先
1456
ほどの自らの発言を肯定してみせた。
﹁本気も、本気さ。むしろ秘密を有することは、逆に今後このレム
リアックの平和を脅かしかねない。だとしたら、そんな危険なもの
はさっさと手放してしまうべきさ﹂
﹁⋮⋮ユイくん。つまり君は、それでもこのレムリアックに十分に
勝算があると考えているのね?﹂
﹁まあね。少なくとも私が隠居してここでのんびり暮らせる程度に
は、この地は安泰さ﹂
セシルの問いかけに対し、ユイは笑いながら首を縦に振る。
しかしそんな彼の発言を耳にして、セシルは国境で出会ってから
ずっと胸に秘めていた問いを彼へと向ける。
﹁この地に⋮⋮ね。そういえばユイくん。どうしても君に聞いてお
きたいことが一つあるのだけど﹂
﹁何だいセシル? はは、ロイスくんに対してじゃないけど、君の
質問ならなんでも答えるよ﹂
普段よりもやや強い口調のセシルに対して、若干の違和感を覚え
ながらも、ユイは敢えて軽い調子でそう返す。
途端、セシルの口元が僅かに歪められた。
﹁そう、なら教えてもらえるかしら。この手紙にかかれていること
は本当なのかしら?﹂
そう口にすると、セシルはポケットに入れていた一通の手紙をそ
の手にする。
一方、全く話の見えないユイは、困惑を見せながらそのまま問い
返した。
﹁手紙?﹂
1457
﹁ええ、お手紙。差出人の名前を目にした時は驚いたけど、中身を
見た時は更に驚いたわ。それで、何時ミリア皇女とご結婚するのか
しら?﹂
その言葉が発せられた瞬間、一瞬でその空間は吹雪が吹きつけた
かのように凍りつく。
そしてセシルの強い視線が顔面に突き刺さるのを自覚したユイは、
わずかに狼狽しながら、両手を前に突き出しつつ、脳内から必死に
適切な言葉を探ろうとした。
﹁いや、あの、それは⋮⋮えっと、セシル、ちょっと目が怖いんだ
けど﹂
﹁そうかしら? 全然いつもと変わらないわ。そうそう、さっきユ
イくん言っていたよね。しばらく時間はあるって。だからこの際、
じっくりとお話を聞かせてもらいましょうか。ええ、貴方とミリア
皇女の間に何があって、そしてこれからどうするつもりなのかをね﹂
1458
交わされた約束
クラリス北部にはポーツポーンとル・エーグと呼ばれる二つの海
運都市が存在した。
ポーツポーンは古来より王家の直轄地として栄え、現在もエルト
ブールとの間には日夜荷馬車が相互に行き交うほどの繁栄を見せて
いる。
一方、ル・エーグは基本的にそのような環境にはない。
彼の地は元々巨大な漁港であったが、ブリトニアとの暗黒戦争を
経る中で、巨大な軍港として長らくその存在意義を有する事となっ
た。
しかしながらブリトニアとの停戦がなり、海戦などという行為が
程遠くなって以降、その存在意義は急速な低下を認める。そしてい
つしか彼の地に住む人々でさえ、忘れ去られた軍港などと、その存
在を自嘲するようになっていった。
そのような状況が一変したのは、ちょうど三十年前のことである。
エリーゼの祖父である先々代国王のカペセルは、その即位直前ま
で弟であるベバルチフと政争劇を繰り広げることとなった。
この際に、表立ってカペセルの後押しをしたのが若き日のクラム
フェルト・フォン・ブラウ、つまり現在のブラウ大公である。
結果として、彼はその功績を認められ、ブラウ公爵領にほど近い
ル・エーグの独占使用をカペセルによって許可されるに至った。
そして現在、ル・エーグはブラウ家を支える貴重な商業港として、
1459
その役割を担っている。
所狭しと商船がずらりと並ぶル・エーグ港。
だがこの日、明らかにその様相は普段と異なった。
道を行き交う商人たちの姿はなく、また港に停泊しているのは無
骨な無数の軍船。
しかもその船のいずれにも、クラリスとは異なる旗が立てられて
いた。
そう、かつて暗黒戦争にて長らく雌雄を決したブリトニアの旗が。
﹁ようこそ、お待ちしておりましたぞ。フランツ・ウィレンハイム
伯﹂
﹁こちらこそ、初めましてブラウ公。この度のご厚意、厚く御礼申
し上げます﹂
港へと降り立ち、彼を待ち受けていた老人。
その蛇のような目を持つ老人に向かい、フランツは深々と頭を下
げる。
途端、ブラウはにやりと右の口角を吊り上げると、目の前のブリ
トニアの壮年の男に向かって軽やかに笑いかけた。
﹁はは、フランツ殿。あなた方を迎え入れるのは、むしろ我らの総
意。こちらこそよく来てくださったと感謝を述べたいところでして
な﹂
﹁かたじけないお言葉です。しかし噂に聞いておりましたル・エー
グ港は、所狭しと商船が行き交う港と聞いておりましたが⋮⋮これ
はまさか?﹂
﹁さよう。貴公たちを迎え入れるために、一時的に港を封鎖させて
頂いた。もちろん、一時的に商人たちにも退去してもらってですな﹂
1460
先程までの恐縮が嘘のように、ブラウは敢えて恩着せがましい口
調でそう告げる。
もちろんそれは、ブリトニアのためにここまでの事をしてやった
というブラウの主張以外の何ものでもなかった。
一方、そんな意図を見て取ったフランツは、敢えて悠然とその厚
意を受け止める。
﹁それは流石ですな、ブラウ公。貴公のこの地における治世が素晴
らしいからこそ、民たちが従うのでしょうから。いや、ただただ感
服致しました﹂
ただその手腕を褒められるだけに終わったブラウは、機先を制し
そこねたと内心で舌打ちする。だがその表情からは笑みを絶やすこ
となく、彼は更にフランツに向かって言葉を重ねた。
﹁いえいえ、そんな大したことではありませんよ。うわさに聞く、
オリヴィア女王の治世に比べましたら、私などはまだまだといった
ところ。真に仕えるべき女王がいらっしゃるあなた方が実に羨まし
い﹂
﹁ありがたきお言葉。あのブラウ公がそのようにおっしゃっておら
れたこと、本国に戻りし際は必ず女王陛下にお伝えいたします﹂
﹁これはこれは恐縮ですな﹂
ブラウは内心で二度目の舌打ちをする。
それは暗にこの国の女王を貶める発言を行ったにもかかわらず、
フランツが喰い付いてこなかったためであった。
そして同時に、目の前の男は一筋縄ではいかないと彼はここに確
信する。
一方のフランツは、会話の主導権をそろそろ奪わんとして、敢え
て正面から本題を切り出した。
1461
﹁さて、ブラウ公。予定としてお伝えいたしておるとおり、後から
やってくる第二陣を迎えたところで、我々はこの地を発つ予定とし
ております。その際に、後背のことをお任せすると書状を送らせて
頂いておりましたが、問題はございませんかな?﹂
﹁ああ、そのようなお話でしたな。もちろん何一つ問題などござい
ません。万が一クラリス軍が貴公たちを襲わんとするならば、我々
がその背後を討つ。その準備は既に整えております﹂
﹁ありがたい話ですな。では事が上手く運びましたら、我々はブル
トーニュ地方を割譲頂き、貴公らのこの国を正す為の活動に協力す
る。予定通りその形で進めさせていただきます﹂
フランツは矢継ぎ早に、この場にて条件の確認を行っていく。
そのあまりに性急な対応に、目の前の男を取り込み、そして自身
の目的のための一助とせんと目論んでいたブラウは、ほんの僅かに
苦い表情を浮かべた。
だがそれはほんの一瞬だけの出来事であり、目の前のやや神経質
そうな可愛げのない男に向かい、彼はすぐに温和な笑みを浮かべ直
す。
﹁まあその辺りは、ゆっくりと膝を詰めて話し合うことにしません
か。長旅でお疲れのことでしょうし、その慰労も兼ねて宴の準備を
行っております。よろしければ、これよりご案内させていただきま
しょう﹂
そのブラウの言葉に、フランツは一瞬考えこむ。
そしてその顎を軽く右手で擦りながら、彼はブラウの予想外の事
をその口にした。
﹁それは実に嬉しい話ですな。ですが、申し訳ありませんが少しお
待ち頂けますでしょうか。歓待頂くとなれば、どうしてもお連れせ
ねばならぬ同行者が、先ほどから見当たらず困っておったところで
して﹂
1462
﹁ほう⋮⋮同行者ですか?﹂
﹁ええ。トルメニアという国の枢機卿をやっている少年でしてね。
本来ならば、この場でご紹介させていただく予定だったのですが⋮
⋮はてさて、どこへ行ったものやら﹂
フランツは溜め息を吐き出しながら、船の中でも目を輝かせなが
らあちこちを見て回っていた少年のことを口にする。
一方、全く情報にない同行者の存在を耳にして、ブラウは改めて
目の前の男に問い直した。
﹁トルメニアの枢機卿が一緒にいらっしゃると、つまりそういうこ
とですか?﹂
﹁ええ、船が寄港するまでは、デッキの上におられたのですが⋮⋮
何分まだお若くて好奇心があまりに旺盛のようでして﹂
﹁ほう、しかし好奇心旺盛な少年と言われますが、如何ほどのお歳
で?﹂
﹁確か、まだ齢十四と伺っております﹂
その年齢をフランツが口にした瞬間、さすがのブラウも目を大き
く見開く。
そして目の前の男の口ぶりから、彼と若き枢機卿がそれほど親密
でないと見て取ると、ブラウは敢えて皮肉げな言葉を吐き出した。
﹁⋮⋮それはそれは。然しその歳で枢機卿だとは、一体どんな理由
があったものやら﹂
﹁ともかく、彼を見かけましたら、ともに向かわせて頂きます﹂
﹁分かりました。では、一足先に会場にて、お待ち申し上げており
ますぞ﹂
ブラウはそう口にすると、案内役の執事を一人残して、そのまま
立ち去っていった。
そうして、その場に残されたフランツは、後ろに控えていたマリ
アーヌに向かって声をかける。
1463
﹁で、本当にあの子は何処に行ったのかね?﹂
﹁それが全く見つからぬようでして⋮⋮﹂
﹁物珍しいのはわかるが、これが一国の代表として同行していると
いうのだから困ったものだ。しかしまさか、異国の地で子供の御守
りをさせられることになろうとはな﹂
フランツはそう口にすると、虚空に向かって大きく息を吐きだし
た。
積み荷を下ろす作業を行っている者以外、全ての者が降り立った
はずの船の一室。
そこに一人の少年と、黒い一つの影の姿があった。
﹁ふふ。少し待たせたようだね、エミオル。フランツもおせっかい
というか、なかなかに諦めが悪くてね。諦めて一人でブラウのもと
に向かわせるのに、時間がかかってしまったよ。それで、噂の英雄
君はどうしてる?﹂
薄ら笑いを浮かべながらゼスは、エミオルと呼んだ目の前の黒き
影に向かいそう問いただす。
﹁はい、極秘裏に帝国入りしたと報告を受けております﹂
﹁ふぅん、帝国か。やはりね﹂
﹁予想されておられたのですか?﹂
黒き影は、些か驚いた口調でそう問いかける。
するとゼスは、軽い口調で右の口角を吊り上げた。
﹁予想というよりも、他に選択肢がないと思っていたのが正直なと
ころかな。我が国がキスレチンを攻めている今、この国を助ける余
1464
力を有しているのは何処かという話でね﹂
﹁⋮⋮なるほど。確かにそう考えれば、他に手はないですな﹂
ゼスの言葉に納得したエミオルは、深々と頭を下げながら同意を
示す。
一方、そんな彼の前に立つ少年は、その思考を既にその先へと進
めていた。
﹁で、帝国に入った彼はどうしたんだい?﹂
﹁それがかなり厳重な情報統制が敷かれているようでして、残念な
がら詳細は⋮⋮ただ帝国軍内部で、まったく新たな編成が行われて
いるとの噂が存在しています﹂
黒い影から告げられた情報。
それを耳にして、ゼスは小さく溜め息を吐き出した。
﹁ふぅん、このタイミングで⋮⋮か。おそらくそれかな。彼はああ
見えて、皇帝たちに気に入られてそうだしね﹂
﹁となると、此度も帝国は我らに牙を向けてきますか﹂
﹁おそらく、それが自然な彼らの役割なんだろうね。実にくだらな
い役回りだけど、彼らがそうしたいっていうのなら邪魔はしないさ。
もちろん後悔だけは、させてあげるけどね﹂
それだけを口にすると、少年の口元にいびつな笑みが浮かぶ。
それを目の当たりにしたエミオルは、わずかに声を震わせながら、
確認すべき問いを口にした。
﹁それで今後は如何なされるおつもりでしょうか? 一度本国に︱
︱﹂
﹁戻らないよ。色々と面白いことも分かったし、せっかくだから、
もう少し彼らと行動をともにするつもりだ﹂
影の言葉を遮る形で、ゼスははっきりとそう告げる。
すると、黒き影は僅かに意外そうな表情を浮かべた。
1465
﹁それは結構ですが⋮⋮しかしあんな連中に、貴方の興味を引くこ
となどございましたか?﹂
﹁まさに今、十分楽しませてもらっているところでね。何しろ、彼
らの邪魔をしなければ船の中を好きに見学して良いと言ってくれる
お人好したちだ。おかげで、彼らの持っている機密文書の殆どを見
させてもらっている最中でね﹂
その言葉は、中性的な美しさを備える少年の口から、何気ない出
来事の一つのように紡がれた。
一方、その意味するところを理解した黒き影は、小さく首を左右
に振り、小さく吐息を吐き出した。
﹁⋮⋮相変わらずですね、貴方様は﹂
﹁ふふ、そうかな? 僕はただ、約束の範囲内で動いているだけさ。
実際にまだ彼らには迷惑をかけていないのだからね。ともかくその
御蔭で、とても興味深いことがわかったよ。そう、オリヴィアがカ
リブルヌスを持っていないということをね﹂
厳重に管理された機密書類に記されていたその事実。
それをゼスが口にするも、エミオルは思いもかけぬ内容故に、一
瞬理解ができなかった。
﹁は⋮⋮今なんと?﹂
﹁今現在、オリヴィア女王はカリブルヌスを所有していない。信じ
られない話ではあるが、どうやら事実のようさ﹂
﹁し、しかし、ブリトニアの王とはつまりカリブルヌスを持つ者。
つまりあの神剣こそが権威の象徴と聞きます。にも関わらず、女王
が持っていないとは⋮⋮では、カリブルヌスは一体何処に有ると言
われるのですか?﹂
﹁彼の手元さ﹂
その短い言葉は部屋の中に冷たく響いた。
1466
途端、それが何を意味するのかを理解したエミオルは、信じられ
ないとばかりに確認を口にする。
﹁で、では⋮⋮あのカリブルヌスを有しているのが、まさに我らに
とって忌むべき人物であると、そう言われるのですか?﹂
﹁おそらくね。それを確認するために、今しばらく彼らと行動しよ
うと思っている。物を知らぬ名ばかりの枢機卿としてね。多分そう
していれば、自然と彼に出会えると思うんだ。この国の英雄と呼ば
れる男、そう、ユイ・イスターツという名の調停者とね﹂
ゼスはゆっくりとその名を口にすると同時に、端正なその口元を
歪ませる。
それは冷酷な暗殺者と名高いエミオルの心を震わせるほどに、あ
まりにも美しく、そして歪な笑みであった。
1467
辺境の地
築六十五年の古びた建物。
それがこの市で最も大きな建築物である、カーリン市庁舎であっ
た。
その最上階の一室に、軍務長室と呼ばれる部屋が存在する。
市長であるサムエル伯爵がこの建物にはほぼ姿を表さないことか
ら、実質的に最高責任者と呼んでもよい人物が住まう部屋。
その執務席では、ビートリー・フォン・エルネンリフトと呼ばれ
る壮年の男が、ふくよかな体を揺らしながら、めんどくさそうに書
類へのサインを繰り返していた。
﹁ビートリー軍務長、よろしいでしょうか?﹂
﹁どうぞ入り給え﹂
突然外から響いた聞き覚えのある声を耳にして、ビートリーは溜
め息を吐き出しながら許可を告げる。
そうして部屋の中へと入ってきたのは、予想通り彼の副官である
レムリポットであった。
﹁ビートリー軍務長。たった今、王都から早馬が到着致しまして、
至急のご連絡事項をと﹂
﹁至急? 一体何だ。王都で政変でもあったというのか?﹂
レムリポットから用件の記された書簡を受け取りながら、ビート
リーはあまり興味なさげにそう問いかける。
するとレムリポットは、王都からの連絡兵から伝え聞いた情報を、
端的に彼へと伝えた。
1468
﹁いえ、そのようなことはないのですが、どうやら当別警戒を行う
ようにと軍務大臣が各地に連絡しているとの由にございます﹂
﹁軍務大臣⋮⋮ああ、あのライン家のボンボンか﹂
ビートリー自身は下級貴族出身であるが、士官学校の八十期を次
席で卒業している。そして軍の会計畑で細やかな功績を重ねた上で、
ようやくこの五位という地位にまでたどり着くことが出来ていた。
しかし軍で大きな顔をしている顔がいいだけのボンボンは、自ら
より一回り若いにもかかわらず、また大した戦功を上げたわけでも
無いのに、すでに軍務大臣の地位にある。
もちろんあの著しい功績を上げた英雄であるならば、例え一回り
下のものとはいえ、彼としてはその命令に喜んで従う所存ではあっ
た。
だが彼に言わせれば、現在の軍務大臣はライン家と女王の子飼い
という二つの幸運により、実力なくその地位を確立したに過ぎなか
った。
﹁軍務長。声が些か大きく御座います﹂
﹁構わん構わん。あの男は前任者の功績を掠め取り、そして門地と
女王の信任で出世した人間だぞ。叩き上げに近い次官連中はともか
く、あの大臣のことを俺は好かん﹂
明確な軍務大臣に対する侮辱発言。
それを耳にしたレムリポットは、慌てて周囲を見回す。そしてす
ぐさま上官をたしなめた。
﹁お気持はわかりますが、この地は元々女王派の土地柄。発言には
十分お気をつけ下さい﹂
﹁ちっ、まったくこんな田舎に左遷しておいて、そんな俺に対して
無意味な命令をよこすとは⋮⋮もともとあの方が昔居られた土地で
1469
なければ、絶対に断ってやるところだったのだ。しかし、親と女王
の力を背景に、貴族院と奴が対峙しているこの国の状況。まさに皮
肉だと思わないか?﹂
﹁否定はしませんが⋮⋮ともかく、軍務長。警備の増強の件ですが、
いかが致しましょう?﹂
﹁夜間の警備兵を一名増やせ﹂
レムリポットに問われたビートリーは、迷うこと無くそれだけを
告げた。
一方、そんな上官の指示に動揺したのはレムリポットである。
﹁い、一名!? あの、他には?﹂
﹁他にだと? それ以上何をする必要がある﹂
﹁で、ですが、ブリトニアの侵攻があるかもしれず、その為の警戒
だと使者殿からは伺いました。にも関わらず、たったそれだけで本
当によろしいのですか?﹂
﹁ブリトニアは来ない。そして予算がない。だから無理だ。以上﹂
ビートリーはそれだけを告げると、手にしていた書簡を机の上へ
と放り投げた。
それをチラリと目にしたレムリポットは、その書簡の最も注目す
べき文面を敢えて口にする。
﹁ですが、そこにブリトニアが攻めてくる可能性が極めて高いと書
いて︱︱﹂
﹁暗黒戦争を忘れたかレムリポット。あれを覚えているならば、侵
攻などという馬鹿げたことをブリトニアはせんよ。海を渡っての戦
争なんぞ割に合わんからな。それがわからんほど。ブリトニアの連
中も馬鹿ではないさ﹂
﹁し、しかし⋮⋮﹂
﹁お前もしつこいやつだな。いずれにせよ、現実的に無理なのだ。
我らには金も人もないのだ。それはお前も知っていいるだろ?﹂
1470
そう、そのビートリーの言葉はまさに事実であった。
もともとこの辺境地の治安維持のためだけに存在するのが、カー
リン軍である。その予算は、王都からの補助も当然存在はしたが、
中心は市の予算から割譲されている。
そして治安が安定している現状、当然ながら市から降りてくる予
算も、それに見合ったものとなっていた。
﹁それはそうですが、でしたら市長に予算を掛けあう事も、検討さ
れては如何かと?﹂
﹁市長は女王派だ。下手に借りを作ると、私まで女王派に見られか
ねん。貴族院と女王派との政争が帰結するまでは、迂闊な行動は避
けるべきだろう。というわけでだ、夜間の警備を一名増強する。以
上﹂
ビートリーはそれだけ告げると、もう副官に用はないとばかりに、
その視線を机の上の書類へと向ける。
彼にしてみれば、これは踏み絵ではないかと思われた。
ブリトニアなどというありえぬ敵の侵攻をネタにして、現在の軍
首脳部の指示に従うかどうかの踏み絵。
その為、ビートリーは予算の都合という建前を使いながら、極々
最低限の対応は行ったという形式だけを取ろうと決意していた。
そんな彼の選択に対し、答えが出たのは約一ヶ月後のことであっ
た。
1471
王都からの使者がカーリンを訪れてから、一ヶ月がすでに経過し
た頃。
市庁舎でそんな出来事があったことさえ知らぬ男たちは、このカ
ーリンにおける最も豪奢な建物の一室にて、白熱した戦いを行って
いた。
﹁はっはっは、また腕を上げられましたな﹂
目の前のチェスボードの戦況を目にしながら、白髪の老人は愉快
そうに笑う。
すると、彼の対戦相手である金髪の中年男性は、嬉しそうに微笑
んだ。
﹁そうかい? 指導者がいいものでね、この歳にして自分が成長し
ているのがわかるよ﹂
﹁まだまだ伯爵はお若いから、これから強くなられるでしょう。お
教えしている私でさえ、最近腕を上げた自覚がありますからな﹂
老人はそう口にすると、ニンマリと微笑む。
一方、そんな老人の言動を耳にして、サムエル伯爵は思わず肩を
すくめた。
﹁更に腕を上げられるとは、一体どれほど遊んでおられるのやら。
やはり軍務長をやめてからは、よっぽどお暇なのですな﹂
﹁まあ槍の代わりに、こうやって駒を握っているだけですから。今
なら、現役時代には勝てなかった、あの男にも勝てる気がしますよ﹂
エルンストは軽くあごひげを撫でながら、サムエルに向かってそ
う宣言する。
途端、サムエルは興味深そうな視線を目の前の前軍務長へと向け
た。
﹁へぇ、君でも勝てなかった相手がいるとはね。実に興味深い﹂
﹁いえ、市長もご存知でしょう。彼ですよ﹂
1472
﹁彼? ああ、なるほどね。だとしたら納得だ。しかし、彼も今は
何処で何をしているのだろうかね﹂
﹁この地に居た頃とは、もはやその立ち位置はまったく異なります
からな。はてさて、何をしていることやら﹂
同級生の前で必死に言い訳を口にしているなど当然知る由もない
エルンストは、笑みを浮かべながらそう言葉を紡ぐ。
﹁しかし、彼がこの地を離れてもう五年か。月日が流れるのは早い
ものだね﹂
﹁ふふ、まったくですな﹂
﹁個人的には、一度早めに会いたいのが正直なところだ。何しろ、
レムリアック産の魔石による相場の乱れを、少し考えてもらわない
とならんからね﹂
国内でも有数の魔石産地であるカーリン市。
しかし現在、新興の巨大な魔石供給地が誕生したため、市場価格
は長期下落傾向にあった。だからこそ、そのあたりの調整も兼ねて、
一度当人にあっておきたいというのは、サムエルの本音である。
だが同時に、伝え聞く噂からそれが難しいであろうことも彼には
わかっていた。
﹁まあ私の老後生活に影響しそうなら、やむを得んので、あの男を
探しに旅にでも出るとしますかのう﹂
﹁ふふ、単純に旅をする口実がほしいだけだろ。でもダメだよ。残
念ながら、まだ貴方に一度も勝てていないのでね﹂
﹁案外、伯爵も負けず嫌いでいらっしゃいますな﹂
サムエルの言葉を受け、エルンストは苦笑を浮かべる。そして彼
は、目の前の市長に対し、形勢を決定づける駒を動かそうとその手
をチェスボードの上に伸ばしかけた。
しかしその瞬間、ノックさえされること無く、部屋の中へと伯爵
の部下が飛び込んでくる。
1473
﹁た、大変です。今すぐお逃げください﹂
﹁は? 一体何を言っているのかね?﹂
普段ならば規則的にも絶対ありえぬ部下の行動。
それ故に、サムエルはただならぬことが起こっていることを薄々
察する。しかしそれが何かは、思い当たるものがなかった。
すると、そんな彼に向かい、部下は息絶え絶えになりながらも、
どうにか肝心の言葉を口にする。
﹁て、敵が来たのです!﹂
﹁敵だと?﹂
思いがけぬ単語を耳にして、市長は眉間にしわを寄せる。
一方、そんな二人の会話を前にして、歴戦の武人は一つの仮定を
口にした。
﹁まさか、貴族院か?﹂
﹁違います、エルンスト様。敵は⋮⋮敵はブリトニアです!﹂
﹁は?﹂
サムエルもエルンストも、一瞬何のことだから理解できなかった。
むしろ部下にからかわれているのではないかという可能性さえ、
彼らの脳裏を横切る。
しかし目の前の悲壮な表情を浮かべた男は、あまりに厳しい現実
を二人に向かって突きつけた。
﹁ブリトニア軍の旗を掲げる大軍が、カーリン目指し進軍中とのこ
とです。今すぐ脱出のご準備を!﹂
1474
先手と後手
アモキサート市のはずれに存在する、軍事演習場。
もちろんその名称は名ばかりのもので、見た目はただの広い原っ
ぱに過ぎなかった。
だが、早朝からそこで行われている模擬演習を目にして、ロイス
は思わずつばを飲む。
﹁あの⋮⋮クレイリー殿。本当に彼らは現地採用兵なのですか?﹂
﹁へぇ、そうでやす。まあ、見た目どおりと思っていただけやした
ら﹂
そう、現在演習を行っている者達の姿格好は、まるで傭兵の集団
かのように、まったくのバラバラと言っていい惨状であった。
しかしながらそんな見た目と異なり、その行動の迅速さと臨機応
変さは、この地に同行した帝国兵に勝るとも劣らなかった。
﹁いえ⋮⋮しかし、まさかうちの連中と五分以上とは﹂
﹁昔からあっしらが旦那にさせられてたことを、そのままあいつら
にやらせただけでやす。まああの人は言いっぱなしでよく昼寝をし
ていやしたが﹂
自分はきちんと訓練を最初から最後まで仕切ってきたという自負。
それがクレイリーには少なからず存在した。
一方、そんな彼の発言を受けて、ようやくロイスは苦笑を浮かべ
る。
﹁はは、最近なんとなくわかるようになりました。しかし、まさに
少数精鋭と言ったところですな﹂
﹁いえ、ただ人が集まらないだけでやすよ。もともとこの地は人口
1475
が少ないでやすし、外から働きに来る連中も軍には見向きもしやせ
んからね﹂
拡大を続ける魔石産業。
それに伴い、レムリアックの人口は飛躍的な増加を遂げつつあっ
た。
しかしながら、軍を預かるクレイリーとしては、それも悩みの一
つである。つまり軍人よりも圧倒的に魔石絡みの仕事の方が実入り
が良いため、彼は人集めにかなりの労苦を強いられていた。
﹁なるほど、そういうものですか﹂
﹁へえ。あと気になってるのは、実戦経験でやすね。その辺り、こ
うやってもう少し帝国の方たちと模擬戦を繰り返すことができれば
︱︱﹂
﹁クレイリー、ちょっといいかい?﹂
会話を交わしていたクレイリーたちの背後から、突然掛けられた
声。
それを受けて、クレイリーが振り返ると、そこには思いもしない
人物が存在した。
﹁ど、どうしたんでやすか、旦那。こんな時間に起きてるなんて。
悪いものでも食べて、寝れなかったでやすか?﹂
こんな早朝にここにいるはずない人物。
それを目にしたがゆえに、クレイリーは驚きの表情を浮かべる。
しかし反射的に口にした彼の軽口は、普段ならばありえぬことに、
目の前の黒髪の男に無視される結果となった。
﹁クレイリー、今すぐ君に動いて欲しいんだ﹂
﹁今すぐ⋮⋮でやすか?﹂
ユイの口調から、ただならぬ事態が起こっていることをクレイリ
ーは察した。それ故に、彼はすぐに態度を一変させ、上官に話の先
1476
を促す。
するとユイは、先ほど黒髪の女性からもたらされた、一通の報告
書を懐から取り出す。
﹁ああ、今すぐだ。これを見てくれないか﹂
﹁⋮⋮ル・エーグ!? もしかしてこれは!﹂
その報告書に記されていたもの。
それはル・エーグの街の商船が、他の地域へと強制的に移動され
ている内容であった。
それから想像されることは一つ。そう、ブラウ公がブリトニアを
迎え入れるために、行動を起こしている可能性である。
﹁まだ結論を出すのは早い。極秘裏に動いているものの、これ自体
が陽動の可能性もある。その場合、ブラウ公はブリトニアに与して
いないと表向き強弁できるからね﹂
﹁ル・エーグでの動きを感づかせて、無警戒のポーツポーンを襲撃
してくる可能性でやすか⋮⋮﹂
﹁まあね。いずれにせよ、地形を考えればその二つが本命ではある。
ただ、船を捨てる覚悟があったりした場合、他の地域から上陸して
くる事も考えなければならない﹂
ブリトニアとの距離とおそらく動員されるであろう人員数を考慮
すれば、やはりクラリスの北に位置する、ル・エーグかポーツポー
ン周辺への上陸をユイも第一に考えていた。
しかしやり方次第では、それ以外の地域から侵攻してくる可能性
も否定出来ない。それ故に、この地にて即応体制を整えながら情報
を待っているのが彼の現状でもあった。
﹁確か暗黒戦争の際にも、片道切符で来た連中が居たと聞きやすか
らね。連中は、今回どうするつもりなんでやしょうか⋮⋮﹂
﹁わからない。しかし、偶然かそれとも必然かは保留にしても、敵
1477
のしっぽはちらりと見えたわけだ。このまま座して先手を取られる
のは癪だと思わないかい?﹂
﹁そりゃあそうでやすが⋮⋮しかし、いつになく、旦那が積極的で
やすね﹂
﹁今回、連中がル・エーグに上陸した場合、個人的にはちょっとね﹂
﹁ル・エーグに上陸した場合? ⋮⋮まさか!﹂
﹁ああ、たぶん君の考えているとおりだよ。もし連中がポーツポー
ンから攻めてきたならば、そのまま南下してエルトブールへ向うル
ートが本命だろう。ただル・エーグに連中が降り立った場合、エル
トブールを狙うか、それともかつての旧領を狙うか、正直予想でき
ない﹂
﹁ブリトニアの旧領であるブルトーニュ⋮⋮つまりカーリンでやす
ね﹂
暗黒戦争の引き金となった、ブルトーニュ割譲事件。
それは当時のブリトニア国王であるエルメザール二世の母方に、
カーリン領を支配していたアントハイムの血筋が流れていたことに
端を発する。
アントハイム家の家系が絶たれた時点で、ブリトニア国王にして
アントハイム伯爵であると称したヘブライト二世は、彼の地を勝手
にブルトーニュと改称して、魔石利権を全てブリトニアの財政へと
組み込む強攻策をとった。更にその上、彼の地もブリトニアの一部
であると彼は宣言したのである。
当然のことながら、そのような事実を認めるわけにはいかぬクラ
リス王国は、クレンベルク・フォン・サムエルという名の新興の子
爵を彼の地の領主へと任命した。
結果として、その主権争いが後に百年に渡る戦いのきっかけとな
1478
ったわけであるが、それほどまでに当時のブリトニアが彼の地の魔
石資源を重要視していた事がここから伺える。
﹁帝国ほどではないにせよ、ブリトニアも魔石資源はあまり豊富な
国ではない。それに貴族院と何らかの密約が存在するなら、直接彼
らだけで王都を狙う可能性は高くなさそうだ。となれば、十分にあ
りえるだろうね﹂
﹁で、どうしやす?﹂
﹁うん、それなんだ。現時点は全て仮説に拠るものだし、先程も言
ったとおり、多方面の警戒も続けなければならない。だから現時点
で打てる手といえば、万が一のための保険といったところかな﹂
悩ましげな表情を浮かべながら、ユイはそう口にする。
するとクレイリーは、確認するように問いなおした。
﹁保険⋮⋮でやすか﹂
﹁ああ、保険。というわけで、申し訳ないがクレイリー。君はその
部隊を率いて、北に向かってもらえないかな?﹂
﹁北⋮⋮ってことは!﹂
﹁ああ、カーリンに向かって欲しい。正直言って、君が一番適任だ
ろうしね﹂
クレイリーの故郷にして、彼の地で最も顔が利く人材。
それを誰よりも理解するユイは、今回の任務にあたって残念なが
ら彼以上の人材を見つけることが出来なかった。
﹁カーリンに向うのはわかりやした。しかし、万が一連中の狙いが
彼の地なら、正直言ってあっしらだけでは⋮⋮﹂
﹁違う違う。君たちの仕事はカーリンの防衛じゃないんだ。差し当
たって君に頼みたいことは、この二通の手紙をそれぞれの人物に渡
してもらうことでね﹂
ユイはそう口にすると、寝ぼけ眼のまま走り書きしてきた二通の
1479
手紙を手渡す。
すると、その表面に記された宛名を目にして、クレイリーは思わ
ず眉間にしわを寄せた。
﹁二通でやすか? もちろん一通がサムエル伯爵宛なのはわかりや
す。ですが、こっちのビートリー五位っていうのは聞き覚えがあり
やせんが⋮⋮﹂
﹁知らないのかい? エルンスト軍務長の後任なんだけど﹂
﹁ああ、ミレフェスの奴が言ってたいけ好かないって噂の⋮⋮﹂
休暇にてカーリンに帰省した際に、かつての同期であったミレフ
ェスから耳にした評判。それを思い出して、クレイリーはげっそり
とした表情を浮かべる。
一方、そんな彼の反応を目にしたユイは、苦笑を浮かべながらゆ
っくりと頭を掻いた。
﹁手厳しいなぁ。事務屋としては優秀な人だよ。どの派閥にも属さ
ず仕事は黙々とこなしていたし﹂
﹁ご存知なんでやすか?﹂
﹁戦略省時代に少しだけね。いずれにせよ、自分の領分以上の事柄
には絶対手を出さない人だから、ちょっと背中を押しておく必要が
ある。だから、忘れずにそれを渡してくれよ﹂
﹁へぇ、それはわかりやしたが⋮⋮ならつまり、その人と一緒に迎
撃の準備をするわけでやしょうか?﹂
これまでの話の流れから、クレイリーは最悪のケースにおける対
応を確認する。
しかしそんな彼の発言は、目の前の黒髪の男によってあっさりと
首を横に振られる結果となった。
﹁いや、そうじゃない。さっきも言ったように、間違っても防衛な
んて意識は持たないでくれ﹂
1480
﹁え⋮⋮でやすが⋮⋮﹂
﹁いいかい、クレイリー。カーリン軍を全部かき集めても、たぶん
ここにいる君たちと同じくらいしかいないはずさ。この五年で大幅
に人員増強なんてしていなければね﹂
﹁つまり迎撃は不可能だと⋮⋮そういうことでやすね?﹂
﹁ああ。だから⋮⋮少し見方を変えてみようと思う。というわけで、
君にお願いしたいのはね︱︱﹂
そこまでを口にしたところで、ユイはクレイリーの耳元でちょっ
とした方針を口にする。
途端、スキンヘッドの強面の男は、頬を引き攣らせて彼の上官を
まじまじと見つめることになった。
﹁え⋮⋮ええ! ま、マジでやすか。しかしそれは⋮⋮﹂
﹁わかっている。自分がなにを言っているのかは。だから君を向か
わせるんだ。万が一の際に、本当に守らなければいけない者を守る
ために。そしてそうでなければ、次のための一手となるようにね﹂
いつになく真剣なユイの表情。
それを目にして、クレイリーは思わずゴクリとつばを飲み込む。
そう、彼には理解できた。どれほどの決意を秘めて、ユイが自分
にこの役割を託したのかと言うことを。
﹁⋮⋮わかりやした。出来る限りやってみやす﹂
﹁頼む。あとひとつだけ言っておくよ。どんなことがあっても、君
は私のもとに帰ってくること。君にはまだまだ、私のぶんの仕事を
肩代わりしてもらわなきゃいけないんだからね﹂
﹁自分の分くらいは自分で働いてくだせえよ。ま、いずれにせよ無
理はしやせん。というわけで、早速準備に行ってきやす﹂
それだけを告げると、クレイリーは部下たちのもとに駆け寄り演
習を中止させる。そして矢継ぎ早に、指示を告げ始めた。
1481
﹁閣下、どういうことですか?﹂
ユイとクレイリーの会話を側で見守っていたロイスは、脳裏に浮
かんでいた疑問をユイへとぶつける。
﹁あいつは義理堅い男だからね。一応、あくまで最悪の事態に備え
ての保険なんだけど、やはり保険の保険もかけておいたほうが良い
か。それとポーツポーンからのケースは、第一師団に任せるとして
⋮⋮ともかくロイス君、私達も動くとしよう。すぐに出発の準備を
頼む﹂
﹁わ、分かりました。すぐカーリンへと軍を向けられるよう、準備
いたします﹂
﹁ああ、ちょっとまってくれ。我々の目的地はちょっと違うんだ﹂
その場を駆け出そうとしたロイスに対し、ユイはすぐに彼の行動
を静止する。
すると、ロイスは途端に怪訝そうな表情を浮かべた。
﹁は? ですが⋮⋮﹂
﹁ブリトニアの目的地がカーリンの可能性。それは現時点で三割く
らいだと思っている。その上でカーリンに向かうことも悪手ではな
いんだけどね。でもこの国の被害を最小限にして、確実に勝ちを得
るためには、別の方角へと部隊を向けるべきかな﹂
ユイはそう口にすると、一つ大きな溜め息を吐き出す。そしてロ
イスから視線を逸らすと、彼はゆっくりとその視線を日の登る方角
へと向けた。
1482
エレンタム
王都エルトブールの東に存在するひときわ高い建築物。
その最上階の一室に、若い金髪の青年が溜め息を吐き出しながら、
分厚い資料と向き合っていた。
﹁これでもまだマシになったと言うんだから、本当に困ったものだ
よね﹂
彼が目にしている資料。
それは過去の軍予算に関する報告書類に他ならなかった。
そこから彼が見て取ったものは、どれだけの軍の予算が、各貴族
家に流れていたのか、また現在のクラリス軍の軍備増強が如何に困
難であるかである。
そして同時に、彼は前任のラインバーグに深く感謝の念を覚えて
いた。
これらの資料を集積し、彼に引き継いでくれたのが、紛れもなく
彼であるのだから。
そんな事を考えながら、改めて彼は今年の予算案の書類へと目を
向ける。そして大きな溜め息を吐き出したところで、彼は部屋の扉
が大きくノックされたことに気づいた。
﹁軍務大臣、アーマッド戦略省次官がお越しです。お通ししてもよ
ろしいでしょうか?﹂
﹁どうぞ、お願いします﹂
外から響いた警備兵の声を受け、エインスはすぐさま返答を行う。
そうして一拍も置かぬうちに扉が開かれると、以前以上に白いも
のが目立ち始めた金髪の壮年が、ゆっくりとその姿を現した。
1483
﹁どうも、お忙しい中申し訳ありません。軍務大臣﹂
壮年の男はそう口にすると、完璧に節度を保った敬礼を行う。
だがそれを向けられた青年は、なんとも言えぬ表情を浮かべた。
﹁あのですね、おじさん。今は他に誰も居ませんし、公の場ではな
いんですから、エインスで構いませんよ﹂
むしろ今のような応対をされたら迷惑だ。そう考えているのを一
切隠さぬ表情で、彼はアーマッドへとはっきり告げた。
一方、その言葉を向けられたアーマッドは、思わず苦笑する。そ
して懐から少し汚い筆跡で書かれた一通の手紙を取り出すと、その
ままエインスへと手渡した。
﹁ふむ、そうかい⋮⋮なら、エインス。ちょっと手紙が一通届いた
んだがね、至急読んでくれないかな?﹂
﹁これは⋮⋮﹂
手渡された手紙の文面へと目を落とした瞬間、エインスは思わず
言葉を失う。そして彼は慌てて顔を上げると、アーマッドは大きく
一つ頷いた。
﹁まさかうちの情報局より早く掴むとはね。たぶんアズウェル先生
か、クレハくんの仕業なんだろうけど、本当に⋮⋮﹂
﹁おじさん⋮⋮つまり彼らは旗色を決めたと?﹂
手紙に記されていたル・エーグ港の異変。
このタイミングにおいてそれをストレートに解釈するならば、貴
族院はブリトニアに協力する姿勢を示したこととほぼ同義と考えら
れた。
﹁元々旗色自体は決まってはいるさ。お前たちによって、テムス達
がここから一掃された時にね。というわけでだ、さてどうするかね
1484
?﹂
﹁先輩はル・エーグが本命かもしれないと危惧しつつ、一点張りす
ることのリスクも同時に書いておられます。しかし、このクラリス
全体に警戒を張り巡らせることは些か⋮⋮﹂
そう、五年前の帝国との戦いを経て、クラリス軍はいまだ再建途
上に他ならない。
そして貴族院の抱える私兵が期待できない今、この国の領土を守
ることが如何に困難か、それは容易に想像がついた。
﹁確かに、正直言って現実的ではないね。無理に行えば、兵士の中
に貴族院の息のかかったものもいるだろうし、逆に嵌められる可能
性がある。となればだ、やはりポイントを絞るしか無いだろうな﹂
﹁ええ。いずれにしても、貴族院が彼らに与するならば、最終的に
はこのエルトブールこそが彼らの目指す地となる。それ故、この地
を守ることが大前提。ただ問題は、先輩の危惧するカーリン⋮⋮で
すか﹂
﹁戦略上の重要性としては二ランク程下がるが、歴史的経緯やブリ
トニアの現状を踏まえると十分にありえる選択肢だろうね﹂
かつて一時的にではあるが支配下に収めたことのある歴史的事情
と、魔石資源に乏しいと言われるブリトニアの内情。
その二つを勘案するならば、クラリス北部で最も良質な魔石産出
地であるカーリンに目をつけることは、アーマッドにとってまさに
妥当だと思われた。
﹁そうですね。貴族院との取引材料として、彼の地の割譲が最初か
ら含まれているのかもしれません。それに僕らの警戒も薄いことが
目に見えているでしょうし﹂
﹁しかしカーリンに主力を割くのは無理だな﹂
﹁となると、結局先輩のこの提案に乗るしか無いですか⋮⋮﹂
手紙に走り書きされていた二つの提案を目にしながら、エインス
1485
は溜め息を吐き出す。
そんな彼の反応を目の当たりにして、アーマッドも思わず首を左
右に振った。
﹁普段より一層汚いその字。彼がどんな思いでそれを書いたかが偲
ばれるよ。ともかく私たちにできることは、出来る限り、連中の思
い通りにさせないということだけさ﹂
﹁では、ル・エーグとポーツポーン周辺への警戒を強めてください。
彼らの足取りがわかったら直ぐに連絡が届くように。それと⋮⋮﹂
﹁遠征軍の準備だな﹂
エインスの言葉を引き取る形で、アーマッドはそう告げる。
すると、そのとおりだとばかりにエインスは首を縦に振った。
﹁はい。本隊の指揮を取るのは、先輩方のどちらかにお願いすると
しますか。さすがに揃ってここを空けるわけにも行きませんし﹂
﹁ふむ⋮⋮エインス、第一師団を動かす形ではどうかな?﹂
エインスの発言を受けて、アーマッドが行った提案。
それを受けて、金髪の青年は眉間にしわを寄せる。
﹁第一師団⋮⋮ですか。確かあそこの師団長は⋮⋮﹂
﹁ああ、私の同期さ。多少の贔屓目は置いておくにしても、軍の傍
流を歩き続けながらにして、一個師団の指揮官にたどり着いた男だ。
少なくとも、私ので良ければ有能だと太鼓判を押すよ﹂
言葉では多少の遠慮を見せながらも、アーマッドの表情にははっ
きりとした自信が見て取れた。それに気づいたエインスは、数度ば
かり顔を合わせたことのある男の名をその脳裏に浮かべる。
﹁確かおじさんが主席で、師団長が次席だったんですよね。名前は
確か⋮⋮﹂
1486
﹁エレン。で、受けてくれるかい?﹂
アーマッドは手にしていたオー・ド・ヴィのグラスをテーブルに
置くと、隣りに座る壮年へとそう問いかけた。
エレンタム・フォン・ラムズ。
かつての彼の親友であり、ライバルであり、そして現在の王立軍
第一師団長でもあった。
﹁ふむ⋮⋮次官殿に言われてしまうと、現場の人間としては断りか
ねるところだな﹂
きっちりと固めた髪をトレードマークとする壮年は、敢えてアー
マッドと視線を合わせること無く、グラスの中に注がれた琥珀色の
オー・ド・ヴィを見つめたままそれだけを告げる。
そして彼はもう一度グラスを口元へと運び、そして軽く香りを楽
しんだ後に口へと含んだ。
口の中がとろけるようなその味わいと、喉が焼けるような感覚。
それを軽く彼は楽しんだ後、彼はようやくアーマッドに向かって
視線を向け直す。
﹁はぁ⋮⋮君なら、嫌だったら嫌だっていうだろ。それで私の前任
者に随分嫌われていたと聞くけど﹂
﹁テムス次官はこの国や軍のこと以前に、貴族院が最優先だったか
らな。まあ意見があわないのは致し方ないところさ。先方もそれを
わかっていて、その上で私を使っていたようだしな﹂
テムス前戦略省次官に嫌われながら、遠ざけられつつもついぞ切
られること無く軍生活を送り続けた男。
1487
そんな彼は、自らの歩みを振り返り、自嘲気味に笑う。
一方、彼の隣に座るアーマッドは一つ深い溜め息を吐き出した。
﹁まあ切り札は手元においておきたかったんだと思うよ。それ以上
に気の合わぬものが、軍で跋扈し始めた時期でもあったし﹂
﹁そんな彼らが今や軍の主流だ。さてさて、こんな老兵に本当に出
番をくれるつもりなのかね﹂
エレンタムが何気なく口にしたその言葉。
それを耳にするなり、アーマッドはすぐさま言葉を差し挟む。
﹁おいおい、待ってくれ。君が老兵なら、この私も老兵ということ
になる。年は一人で取るもんじゃないんだ。私まで一緒に巻き込ま
ないでくれ﹂
﹁はは、それは済まなかった。でも、時々思うんだ。自らの志を成
すこと無く、他者に全て成された自分に、もはや居場所はあるのか
と﹂
﹁軍改革は士官学校時代からの君の夢だったからね﹂
﹁ああ。そして君と共有した夢さ。でも、最終的には君の思いを託
した彼らが事をなした。結果としては満足している。ただ⋮⋮﹂
そこまで口にしたところで、エレンタムは再び目の前のグラスを
煽る。
そんな彼の姿をその目にしていたアーマッドは、首を左右に振り
ながら彼に向かって言葉をかけた。
﹁違うよ、エレン﹂
﹁違う?﹂
﹁ああ。軍改革は始まっただけで、まだ何もなしえていない。だか
ら君に声を掛けたんだ﹂
それは紛れも無くアーマッドの本音であった。
そしてだからこそ、彼はエレンタムの瞳から視線をそらさず、更
1488
に言葉をつづける。
﹁今回のことで僕らは、いや、私たちは貴族院を一掃する。その決
意にゆるぎはない。だからさ、そのために君の剣を振るってくれな
いかな﹂
﹁貴族院を一掃する⋮⋮か﹂
それははるか昔、彼ら二人で話し合っていた理想に近い夢であっ
た。
この国の現状に憂いを感じた、若き青年士官だった二人。
だが、それを実際にこと成さしめようとしているのは、彼らより
ひとつ下の世代となるまばゆいばかりの才能たちであった。
エレンタムがそのことに嫉妬を覚えていないかといえば嘘となる。
しかしたとえ自らの手で成し遂げられなくとも、この国に光が差
すのならばそれは⋮⋮
﹁⋮⋮いいだろう﹂
﹁エレン!﹂
望んでいた返答。
それを受け取ったアーマッドは思わずその表情を明るくさせる。
一方、そんな親友の表情を目にして、決断を行った壮年は、はっ
きりと自らの決意を口にした。
﹁正直言って、自分抜きで進んでいくこの国の軍改革が羨ましくも
あり、そして妬ましくもあった。だが、そこに私の力が必要だとい
ってくれるのなら、喜んでこの剣を差し出そう。この国の未来の為
にならな﹂
1489
掲げし旗は
突然の激しいノック音と、断りなく開かれた扉。
それにより、業務への集中を切らされる形となったビートリーは
不快気な表情を浮かべながら、目の前の部下であるレムリポットへ
と視線を向けた。
﹁どうしたのかね、騒々しいな﹂
﹁ぐ、軍務長、大変です。たった今、カーリン東部にこの地へと向
かって侵攻を続ける一団が存在したと報告が!﹂
息を切らせたレムリポットの部下の口から発せられたその言葉。
それを受けて、ビートリーは眉間にしわを寄せる。
﹁侵攻してくる一団だと?﹂
﹁そ、それが、ブリトニアの旗を掲げていると﹂
部下のその言葉が鼓膜を打った瞬間、ビートリーの瞳は大きく見
開かれた。
﹁な、馬鹿な。では、あの馬鹿げた情報は本当だったというのか?
しかし奴らは⋮⋮ブリトニアの連中は脳なしか。なぜこんな愚行
を⋮⋮﹂
﹁そんなことを言っている場合ではありません! 連中は遠からぬ
うちに、このカーリンに到着するとのことです。至急、防衛のため
の手配を﹂
レムリポットははっきりと首を横に振りながら、上官に向かって
そう進言した。
しかしビートリーは、下唇を噛み締めながらわずかに視線をそら
すと、そのまま沈黙を続ける。
1490
彼の脳裏にははっきりとした迷いが存在した。
実際に敵が来たのならば、打って出るべきか、それともここを守
るべきか。
そして市民をどうすべきか、市長達への対応をどうするか。
じっくりと提出書類を審査し、そして決断を下すタイプの彼にと
って、この差し迫られた状況は不快極まるものであった。正直言っ
て、とても一瞬で決断できることではない。
そう、それだけがすぐに出すことが出来た唯一の結論であった。
一方、そんな彼の姿を目の当たりにしていたレムリポットは、ま
た上官の悪い癖が出たと理解し、険しい表情を浮かべる。
ビートリーの副官としてこの地に赴任してきた彼は、目の前の人
物を決して過小評価してはいない。
むしろ軍官僚としては優秀な部類の人材であり、どの派閥にも属
さず、そして大きな失態も見せることなく、着実に仕事をこなし続
けてきた。
しかしながら事務官僚という枠組みを一歩でもはみ出す仕事にお
いては、上官の能力の欠如もまた、彼は理解している。
だからこそ、自らが助言を行わねばと彼は焦っていた。
しかしながら、彼の脳裏にも、このような事態において適切と思
われる選択肢など何一つ浮かばない。
そうして、この危機的状況にもかかわらず会議室内に訪れた沈黙。
それが破られたのは、開けっ放しであった扉の外から、現地採用
兵である生え抜きのソレネン十位が姿を現した時であった。
1491
﹁失礼致します。たった今、親書を携えてクレイリーの兄貴が⋮⋮
いえ、クレイリー五位が到着されまいした﹂
﹁クレイリー五位? 誰だそれは?﹂
聞き慣れぬ名を耳にして、ビートリーはやや棘のある口調で問い
返す。
すると、ソレネンが答えるよりも早く、部屋の外からスキンヘッ
ドのいかつい男が姿を現した。
﹁すいやせん。ちょっと時間がありやせんので、失礼しやすぜ﹂
﹁⋮⋮誰かね、君は? 今は緊急事態なのだ。出て行きたまえ﹂
風貌といい、姿格好と良い、明らかにカタギの人間とは思えなか
った。
それ故にビートリーは、一瞬気後れしそうになったが、部下の前
でもありどうにか毅然として振る舞う。
そんな彼を目にしたソレネンは、少し気まず気な表情を浮かべな
がら、その口を開いた。
﹁あの⋮⋮軍務長。こちらがクレイリー五位です﹂
﹁すいやせん、軍務長。初めてお目にかかりやす。あっしはレムリ
アック軍副長のクレイリー・アームと言いやす﹂
ツルツルの頭を軽く撫でながら、クレイリーはニッと笑うと、そ
う口にする。
一方、彼と対峙したビートリーは、彼のその言葉に驚きを隠せな
かった。
﹁レムリアック⋮⋮では、まさか彼のところの?﹂
﹁へぇ、軍務長は旦那とご面識があると聞いておりやす。そこで旦
那から、これを軍務長にお渡しするようにと連絡を受けてまいりや
した﹂
1492
クレイリーはそれだけ告げると、先任の五位であるビートリーに
向かい、汚い文字が綴られた一通の手紙を手渡した。
﹁な⋮⋮これは本気なのか﹂
封を開けて、その文面へと目を落としたビートリーは、頬を引き
つらせながら、思わずそう口にする。
すると、クレイリーは迷うことなく大きく首を縦に振った。
﹁へえ。旦那はそこに書かれている全てを、レムリアック伯の名の
下に保証すると宣言していやす。その証としてたぶん今頃は、まっ
たく同じ内容の手紙が王都へと届けられている頃でやしょう﹂
﹁だが、何もせず敵に︱︱﹂
﹁いえ、それこそが最も被害を少なく、そして敵を撃退するために
有効だと、旦那は言っていやした。だからこそ、責任は自分が取る
とのことです。ビートリー軍務長⋮⋮既に連中は、この街の側まで
来ていやす。どうか今すぐご決断くだせえ﹂
クレイリーによるその言葉。
それを受けて、ビートリーは再び下唇を噛む。
だが彼は、先ほどと異なりすぐに自らの決断を口にした。
﹁決して彼の厚意に甘えるだけのつもりではない。だが、このカー
リンを守るため、彼の⋮⋮いや、イスターツ閣下のご提案に従わせ
ていただこう﹂
﹁それでは、軍務長。私はすぐに皆に指示を出してまいります!﹂
ビートリーの決断を受けて、レムリポットもすぐに自らのなすべ
きことを理解する。
すると、そんな彼を後押しするように、ビートリーは大きく頷い
た。
﹁ああ、頼む。市民には、至急この街から退去するよう連絡を。手
1493
助けが必要な者は、市の職員及び軍の人員を割いてでも、退去を手
伝え﹂
﹁たぶんイスターツ隊長⋮⋮いえ、イスターツ閣下の名前を使えば、
渋る市民達も同意してくれるでしょう。私も一緒に参ります﹂
ビートリーたちの会話を耳にして、生え抜きのソレネンもこの街
の誇りである人物の名を使い、市民の背を押すことを提案した。
﹁旦那なら、いつもみたいに頭を掻きながら、名前を使うぐらい喜
んで事後承諾してくれやすよ。では、あっしは連中の足を止めるよ
う、部下たちを連れて打って出てきやす﹂
﹁しかし君たちだけでは⋮⋮﹂
クレイリーの提案に対し、それがどれだけリスクの有る行為かを
理解したビートリーは、申し訳無さそうに言葉を発する。
しかしクレイリーははっきりと首を左右に振ると、凄みのある笑
みを浮かべながら、ビートリーに向かいその口を開いた。
﹁多少人数が増えても、敵の数が違っていたら一緒ですぜ。むしろ
小回りがきく人数の方が、色々と嫌がらせも出来やす﹂
﹁⋮⋮クレイリー五位、かたじけない﹂
﹁いえ、良いってことでやすよ。それより、部下に連絡して市長た
ちにも同じ行動を取るよう伝わっていることと思いやす。どうか協
力して、南に向かい至急避難を完了させてくだせえ﹂
カーリンの街から馬で数時間ほど東へと走らせた街道沿い。
そこにはブリトニアの国旗を掲げる数百名から成る部隊が存在し
た。
1494
﹁手はずは如何でしたか?﹂
たった今、カーリンから戻ってきた部隊長に向かい副長のヘルミ
ホッフはそう問いかける。すると、彼の目の前のスキンヘッドの男
は、その表情にニヤリとした笑みを浮かべた。
﹁へへ、今のところは予定通りだな。色々と渋り始めたり、勝手に
暴発したらどうしようかと思っていたが、流石に旦那の目は確かだ﹂
﹁ということは、カーリンの軍務長は予定通り動かれたということ
ですね﹂
﹁ああ。尻に火が付いた状態で水場のありかを教えてやれば、のろ
まな奴でも慌てて走りだすってとこだ。で、そっちの首尾は?﹂
﹁現在のところ、我々の存在に気づいた者達は、申し訳ありません
が、全て拘束致しております﹂
やや苦笑交じりに、ヘルミホッフはそう告げる。
たしかに彼とて、無関係の市民を拘束することには気が引けるも
のを感じてはいた。
だが、現在のカーリンにははっきりとしたブリトニアの影こそが
必要なのである。
そう、近いうちにやってくるはずの、本物の影が。
﹁くれぐれもよく謝っておいてくれ。あと、カーリンの連中が退去
したら、そいつらも一緒に南へ誘導するんだ。俺達の戦いに巻き込
むわけにはいかねえからな﹂
﹁了解致しました。では、作戦は第二段階に移るとしましょうか﹂
﹁おう、良いようにやってくれ。というわけでだ、くだらねえ芝居
はおしまいだ。俺たちの本来の仕事を始めるとするか﹂
スキンヘッドの男はそう口にすると、軽く自らの頭を撫でる。
見た目も風貌も完全に異なるが、その仕草は彼の敬愛する上官と
うり二つであった。
1495
不可解な襲撃
ミルカポルテ街道。
それはクラリス北部地域の東西を繋ぐ主要街道の一つであり、ル・
エーグからカーリンへと向う上での最短ルートでもあった。
この街道は古くからカーリンの魔石を海上ルートで各地へ運ぶた
めに使用されており、現在は海上輸送に関してはあくまで限定的と
なってはいるものの、当然ながら日常的に行商人が行き交う道では
ある。
しかしながら今、この街道に行商人の荷馬車は見当たらなかった。
そんな街道において、はっきりと見受けられるもの。
それは海の向こうの国の旗を掲げる大規模な一団の姿であった。
﹁ふむ、思ったよりも全軍集結に時間がかかってしまったな﹂
﹁やむを得ません。流石に全軍を一度に輸送できるほど、我が国も
余裕がありませんから﹂
指揮官の隣で馬を操る副官のマリアーヌは、淡々とした口調で上
官に向かいそう告げる。
すると、指揮官であるフランツは大きく一つ溜め息を吐き出し、
そして彼女の見解を肯定した。
﹁残念ながらその通りだ。それに済んだことを嘆いても仕方がない。
差し当たって、まず第一の目的を成すとしよう。それで、ブルトー
ニュまではあとどれくらいかかりそうだ?﹂
﹁そうですね。貴族院の連中が同行させてきた監視者⋮⋮もとい案
内役は六日前後だと言ってました﹂
1496
﹁六日か。ふむ⋮⋮﹂
そこまでを口にしたところで、フランツは顎に右手を当てる。
天候の悪化により、本国からの第三陣到着が僅かに遅れ、既に予
定をオーバーしてはいた。しかしながら、行程自体は特にトラブル
なく進んでいる。敵地にもかかわらず、そして大きなトラブルもな
く。
言うなれば、あまりに静かすぎる行軍。
それが逆に、心配性のフランツにとって、逆に気味の悪さを感じ
させていた。
﹁どうかされましたか、司令官?﹂
﹁いや、順調すぎて何か見落としやミスはないかと思ってね﹂
﹁相変わらずですね、貴方は﹂
それだけを述べると、マリアーヌは深い溜め息を吐き出す。
フランツの下に配属されてからこれまで、数多い愚痴や心配事を
その耳に入れてきた。しかしながら、順調だから心配に成るという
この矛盾した性質だけは、未だに慣れない。
一方、フランツの方も副官の表情から呆れていることに気づいた
のか、思わず苦笑いを浮かべる。
﹁いや、いつも言っているように気にしないでくれ。こればかりは
性分なものでね﹂
﹁わかっていますよ、もう長い付き合いですから﹂
﹁ああ、すまない。そしていつもありがとう、マリアーヌ﹂
自然と上官の口から発せられたその言葉に、マリアーヌはほんの
少しだけ顔を赤らめる。
一方、その反応を目にしてフランツが困ったように視線をそらし
1497
かけた時、突然部下の一人が馬を走らせて近づいてきた。
﹁司令官、少しご報告したいことが!﹂
﹁何かな。敵の待ち伏せでも見つけたかね?﹂
﹁いえ、そのようなことではないのですが、実は前方で怪しげな動
きをする行商人を捉えまして﹂
﹁行商人?﹂
部下の告げた言葉を耳にするなり、フランツは眉間にしわを寄せ
る。
すると、間違いないとばかりに部下は頷いた。
﹁はい。何故かこちらに向かって全力で馬を走らせてきたのですが、
突然我らの旗を見るなり、街道を外れて森の中へと逃げ出そうとし
まして⋮⋮あまりに行動が怪しいので、先発隊が捕らえてきたので
す﹂
﹁⋮⋮それは単に、我らの軍を目にして驚いたというだけではない
のですか?﹂
部下の報告を耳にしたマリアーヌは、怪訝そうな表情を浮かべな
がら、そう問いかける。
しかし、彼女のそんな疑問に対し、部下は思わぬことを口にした。
﹁いえ、それなのですが、どうも奇妙なことを口走っておるのです。
意味がわからないのですが、彼が言うには﹃後ろからも前からもブ
リトニア軍が来た﹄と﹂
﹁後ろからも前からも⋮⋮だと? 一体どういうことだ﹂
フランツは眉間にしわを寄せながら、顎を右手で軽く擦る。
すると、彼の報告に駆けつけた部下は、わずかにうつむき加減の
まま、その口を開いた。
﹁わかりません⋮⋮何かの勘違いかもしれませんが﹂
1498
﹁ふむ⋮⋮﹂
あまりに奇妙な物言いではあった。
当初、自分たちに向かって馬を走らせてきたのだから、一方にブ
リトニア軍がいたということは当然のことではある。
しかしながらそれでは、反対側にもブリトニア軍がいたという意
味が説明できない。
﹁我々以外にも、この国に派遣された部隊があったのでしょうか?﹂
﹁それはない⋮⋮と思う。我らの出兵案でさえ議会は揉めに揉め、
女王陛下の英断と強いご決意によって、どうにか海を渡れたのだ。
にも関わらず、他の部隊が簡単にこの地に来ているはずはない﹂
﹁ましてや、我々より早く⋮⋮ですか﹂
マリアーヌは上官の言葉を引き取る形で、そう述べる。
一方、フランツはそんな彼女の見解に頷きながら、その視線を頭
を垂れる部下へと移した。
﹁とりあえずだ、もう少し詳しい情報をその商人から︱︱﹂
﹁司令官、たった今ですが先遣隊に送っていた部隊が敵の攻撃を受
けた模様。数名が負傷したとの由にございます﹂
フランツが下しかけた指示を遮る形で、新たに彼の下へと駆けつ
けてきた兵士が、思わぬ報告を行う。
途端、フランツのその表情は凍りついた。
﹁敵襲だと!? まさか奴ら感づいていたというのか。それで敵は
?﹂
﹁それが矢の一撃のみを放っただけで、その後は何処かへ逃亡した
と﹂
﹁⋮⋮逃がしたというのか!﹂
不快感を隠さず、フランツはその兵士を叱責する。
すると、彼は恐縮しながら深々と頭を下げた。
1499
﹁申し訳ありません。あまりに敵の数が少数であり、地の利も向こ
うにあったため、どうしても捕まえきれず﹂
﹁済んだことは良い。だが⋮⋮﹂
﹁はい、偶然の遭遇戦という可能性が零とは申しませんが、まずあ
りえないかと﹂
そう、遭遇戦ならばお互いにもう少しの混乱や動揺があってしか
るべきである。何しろ、敵はブリトニアの存在を知っているとは限
らないからだ。
しかしながら、一撃の後に反撃を受けず離脱してみせた鮮やかな
手口。
それは明確にその可能性を否定していた。
﹁だろうな。おそらく敵は、我々の行動に感づいている。だからこ
そ、先手を打ってきたのだろう。しかし、一体何の目的で⋮⋮﹂
彼の抱いた疑問。
それは敵が絶好の好機をみすみす無駄にしたのではないかという
疑念であった。
つまり敵のみが自分たちの動向を知っているという圧倒的優位な
状況を、ただ先遣隊に矢を放つのみで放棄したという事をそれは意
味している。
一方、この状況下において、マリアーヌはまったく別のことを懸
念する。つまり、彼らの現在地や存在の漏洩原因を。
﹁目的はともかく、何故我々の動向がバレたのでしょうか。もちろ
ん貴族院の方たちが、彼らに情報を流した可能性もあるでしょうが﹂
﹁彼らにとって、それを行うメリットがあまりに少ない。もしある
とすれば、彼らが女王との和解を目指す生け贄としてくる可能性だ
1500
が⋮⋮しかし、まず考えにくいだろうな﹂
ブリトニアを供物として、女王派との和解を目指す。
その可能性自体は、決して否定できるものではない。だが現実的
にはあまりに愚策であり、そして彼らの性格からもほぼ否定しうる
ものだと思われた。
いずれにせよ、このまま無為無策で前進するのはあまりにも危険。
そう考えたフランツは、すぐに言葉を続ける。
﹁いずれにせよ、敵の網に引っかかった上に、注意が必要だ。何し
ろ我々と対峙しようとしている連中の規模もわからんのだからな。
ここからは慎重に行動せよ。前衛後衛ともに警戒態勢を、また周囲
の索敵部隊を各隊より割り振るように﹂
﹁首尾はどうだった?﹂
数十機からなる騎馬部隊の帰還をその目にして、スキンヘッドの
男はニンマリと笑いながらそう問いかける。
﹁五位のご命令通り、長居せず一射のみで撤退してきました﹂
﹁へへ、ごくろうさん。で、もちろん次の準備も整えているんだろ
うな?﹂
﹁はい。ご指示通り、柵や大岩を用いた街道封鎖に関しましては、
予定通りに進めております﹂
実行部隊を指揮するヘルミホッフは、よどみない口調でそう答え
る。
1501
それを受けて、クレイリーは満足そうに大きく一つ頷いた。
﹁よし、完璧だ。あとは敵の警戒を喚起するよう、適度に襲撃を加
えるぐらいだな。ただ、絶対に深追いはするなよ﹂
﹁心得ております。何しろ、もともとあまりに数が違い過ぎますか
ら⋮⋮しかし、本当によろしいのですか?﹂
﹁何がだ?﹂
突然向けられた疑問に対し、クレイリーは僅かに首を傾げる。
すると、ヘルミホッフは少し戸惑い気味ながら、自らの中に抱い
ていた疑問をそのまま口にした。
﹁いえ、こんなくだらない罠や、襲撃に⋮⋮その貴重な物資や時間
を浪費することがです﹂
この短期間の間に、ほぼ無害なものでも良いから、とにかく数だ
けを優先して作れと指示された罠の数々。正直言ってそれは、容易
に回避したり無効化できる程度の、あまりに質の低いものばかりと
なっていた。
だからこそ、その有効性に疑問をいだいたヘルミホッフは、上官
に向かってそう問いかける。
一方、そんな彼の上官は、右の口角を吊り上げると、嬉しそうに
にやりと笑った。
﹁へへ、気にすんな。元々、敵を害するための罠ではないからな﹂
﹁害するための罠ではない?﹂
罠とは本来、敵に損害を与えるために使用するもの。
その目的を根本から否定するクレイリーの言葉に、ヘルミホッフ
は思わず目を白黒させる。
しかしながら、悪党面が似合う目の前のスキンヘッドの男は、意
味ありげに笑うと、彼に向かい作戦の継続を高らかと宣言した。
1502
﹁ああ。どっちにしろ、かかった資材や経費はどうせ全部旦那への
つけだ。だからカーリンに残されていたもんは、遠慮せずあるだけ
使っちまえ。旦那の顔が、あとで青ざめるくらいにな﹂
1503
それぞれの狙い
王国北部に存在するブラウ公爵領にそびえ立つ巨大な邸宅。
その中でも最大の規模を誇る円卓会議場において、残された貴族
院の面々は、それぞれ異なる表情を浮かべながら途切れること無く
言葉を交わしていた。
﹁第一師団がブリトニア軍討伐に向かったか。つまりようやくこの
時が来たというわけだ﹂
﹁ああ。本当に長かった。王都から追放同然で排除されたあの日か
ら、どれだけこの時を待ち続けていたか﹂
八時方向の椅子に腰かける元陸軍省次官であったエミリオッツは、
二時方向の椅子に座るテムスに向かってそう答える。
一方、彼らのその会話を受け、四時方向に座していた元外務省次
官のレーベは、ゆっくりと周囲を見回し一つ溜め息を吐き出した。
﹁しかし本当に寂しくなったものだ﹂
﹁コートマン事件、そして帝国との戦いでもともと四つの椅子は空
席となっていました。しかしロペンに続き、スクロート殿までもが
我々を裏切るとは﹂
十時方向の席に腰掛けていた最も若いフィール侯爵はそう口にす
ると、だれの姿も存在しない三時と六時方向の座席を順に見る。
かつてこの円卓会議に存在する十二の座席はその全てが埋まって
いた。しかしながら現在、まるで歯抜けのようにその半分が空席と
なっている。
そう、栄光あるこの円卓会議の座席がである。
1504
﹁奴らのこともどうせ、また奴の仕業なのだろう。忌々しきあの悪
魔のな﹂
﹁ユイ・イスターツ⋮⋮か。今思えば、最初にコートマン事件でケ
ーニッヒ侯爵がこの会議から失われた時に、手を打っておくべきだ
ったということだろうな﹂
テムスの発言を受け、レーベはつかれたような口調で、皆に向か
いそう告げる。
すると、そんな彼に向かいエミリオッツは敢えて話題の転換を図
った。
﹁その場合は、後の帝国侵攻で全てのみ込まれていた可能性もある。
だが、全ては過去の話だ。問題はこれからどうするかだろう。まさ
にこの好機をな﹂
﹁そうだな。貴公の言うとおりだ。あの悪魔に一泡吹かせるために
も、この好機を我らは有効に利用せねばならん﹂
エミリオッツの意見に賛同したテムスは、大きく頷く。
それを目にしたレーベは、彼に向かって一つの問いを放った。
﹁それで、テムス殿。貴公はどうされるがよろしいかと思われます
かな?﹂
﹁第一師団が王都をたった今、我々の取るべき選択肢は二つだ。ブ
リトニアとの約を守り第一師団の後背をつくか、それとも第一師団
がいなくなり、がら空きになった王都をつくかのな﹂
レーベの問いかけに対し、予め用意していた二つの選択肢をテム
スは提示してみせる。
それに対し、エミリオッツはニコリと微笑んでみせた。
﹁二者択一とはいえ、どちらもなかなかに魅力的な選択肢だな﹂
﹁ああ、この状況下でキャスティングボードを握っているのは我々
だ。第一師団、女王派、そしてブリトニア軍。彼らの命運は、全て
1505
我々次第だということだよ﹂
﹁ふふ、実に愉快な話ですな。さて、ブラウ公、どう致しましょう
?﹂
テムスの発言を受けて、フィール侯爵はこの円卓会議における主
へと意見を求める。
すると、沈黙を保っていたブラウは、顎を軽くさすりながらその
口を開いた。
﹁テムス。我々が介入しなかった場合、第一師団とブリトニアはど
ちらが勝つと思うかね?﹂
﹁難しいところですね。数的にはブリトニアがやや有利ですが、地
の利は第一師団にある。となればあとは指揮官の問題ですが、ブリ
トニアのフランツ・ウィレンハイム伯は、女王の信頼厚い将である
と聞いております﹂
そのテムスの見解に、ブラウも一度頷く。
確かに短い期間ではあったが、彼が目にしたフランツという男は、
物腰は柔らかいながらも用心深く、そしてその瞳の奥にはっきりと
した知性を宿していた。
だからこそ、彼は敢えてもう一方に関して問いなおす。
﹁では、第一師団の方はどうかな? 確か元々君の下にいた男だと
思うが﹂
﹁⋮⋮エレンタムは癖のある男です。有能という意味ではそのとお
りですが、はてさて若い軍務大臣如きが飼い慣らせるかどうか﹂
苦虫を噛み潰す表情を浮かべながら、テムスはそれだけを答える。
当然ブラウも、彼とエレンタムとの間に存在する根深い確執を知
ってはいた。そのせいで、エレンタムという男がドサ回りをさせら
れ続けていた事実もである。
1506
それ故にブラウが眉間にしわを寄せながら押し黙ったところで、
テムスの向かいの席に腰掛けているエミリオッツが、まどろっこし
い回答に辟易したのか、敢えて直接的に問いを放った。
﹁テムス殿。結局のところ、貴公はどうするのが最善と考えておら
れるのかな?﹂
﹁短期的に見れば、互いに潰しあって漁夫の利を得ることが最上。
だが、長期的に見れば、やはり交わした約定どおりブリトニアにつ
くのが良いと私は考える﹂
﹁ふむ、理由を聞かせてもらえるかな﹂
﹁約を守るため⋮⋮というのはあくまで建前。戦いの後の事を考え
ての話です﹂
ブラウの問いかけに対し、テムスは端的にそう応える。
するとブラウは、確認するように彼に言葉を向けた。
﹁つまり今後も、ブリトニアと協力体制を維持するのが最上だと?﹂
﹁それもあります。何しろ我々が王都を落としたとして、貴族院に
非協力的な南部や東部の者たちを駆除せねばなりません。その為に
無駄な諍いの相手を増やしたくないのが一つ。そしてそれ以上に、
海を有する旨味を捨てるのはいささか惜しいのではないかと考えま
す﹂
﹁確かにその通りですね。金のなる木をわざわざドブに捨てること
は無駄と言えましょう。私はテムス殿のご意見に賛成です﹂
テムスの言葉に納得したフィールは、はっきりと自らの見解を口
にする。
一方、ブラウはあくまで慎重に、もう一度テムスへと確認を行っ
た。
﹁テムス。卿の考えをまとめるならば、まずは第一師団の後背をつ
き、ブリトニアと挟撃の上殲滅する。そしてそのまま返す刀で王都
1507
を落とす。そういうことで良いかな?﹂
﹁はい、間違いございません﹂
短くそう答えると、テムスはブラウに向かって頭を下げた。
それを受けて、盟主たるブラウは大きく一つ頷く。そしてその場
に居る一同を順に見回すと、ゆっくりとその口を開いた。
﹁結構。皆の者、他に意見はないな? では、テムス。お主に我ら
の全軍を預ける。この国の軍の頂点が誰であるべきだったか、自ら
の力で示して来たまえ﹂
﹁はっ、承りました。では、早速準備に当たらせて頂きます﹂
﹁第一師団が王都を立ったわ。そしてつられるように、彼らも動き
を見せている﹂
﹁ふむ、なるほどね。やはりブリトニアと貴族院は協力関係にあっ
たというわけだ﹂
見回りの兵士を除き、野営地に居る部隊の誰しもが寝静まった夜。
魔石灯の下でコーヒーを飲んでいたユイは、突然背後から掛けら
れた女性の声に対し、特に驚いた様子も見せずそう応える。
一方、返された言葉を耳にした黒髪の小柄な女性は、目の前の男
に向かい今後の指針を問い質した。
﹁そのようね。で、どうするの﹂
﹁そうだね。あとはブリトニア軍を指揮するのがどちらかを確認す
るだけだけど、それ次第でそろそろ部隊を動かすとするかな﹂
ユイはそれだけを口にすると、手にしていたコーヒーカップを木
製の簡易テーブルの上に置き、ニコリと微笑んだ。
1508
﹁⋮⋮それはつまり私に行けってこと? 人使いが荒いわね﹂
﹁いや、今回は既に手は打っている。わざわざ君に行って貰う必要
はないさ﹂
﹁手は打っている?﹂
ユイの言葉を耳にして、クレハは眉をピクリと動かす。
すると、軽く両手を左右に広げながら、目の前の黒髪の男はその
口を開いた。
﹁ああ。クレイリーに頼んでおいたからね。適当な罠を出来る限り
多く仕掛けること。そしてそれに対する彼らの対応と反応を見るよ
うにってね﹂
﹁どうしてそれが、手を打ったことになるのかしら?﹂
ユイの口にしたことの意味がわからなかったクレハは、抑揚の乏
しい声でそう問い返す。
黒髪の男は苦笑を浮かべながら軽く頭を掻くと、右手の二本の指
を立ててみせた。
﹁ブリトニア軍、その中でも女王直属とされる指揮官は二人。フラ
ンツ・ウィレンハイム伯と、ウィルベルト・ノーレンフォーク公だ
けさ。この二人、仲は良いんだけど性格はまさに真逆でね。まあ実
際に会って確認してきたから間違いないんだけど、石橋を叩いて渡
るフランツに、猪突猛進のウィルベルトと言われているのさ﹂
﹁⋮⋮なるほど。つまり敢えて雑な罠を用意して、その反応でどち
らかを確認するつもりだったというわけね﹂
﹁正解。もちろんそれだけではなくて、ノーレンフォーク公がもし
来ていた場合、その側近の力量や、指揮官とのパワーバランスも確
認できると思っているんだけどね。まあクレイリーには自由にやっ
てくれとは言っているから、そろそろ結果が出ている頃じゃないか
な﹂
1509
ニコリと微笑みながら、黒髪の男はあっさりと自分の出した指示
の意味を口にする。
それを真正面から目にすることになったクレハは、小さく吐息を
吐き出した。
﹁はぁ⋮⋮貴方らしいといえば貴方らしいけど。でも、本当に彼に
任せっぱなしでいいの? 彼も少しやり過ぎるところがあるわ。ま
るで何処かの誰かさんのようにね﹂
﹁どこぞの赤髪のお姫様みたいにかな? いやぁ、身近な人間の影
響を受けすぎるのも考えものだね﹂
﹁本気で言ってる?﹂
のらりくらりと答えるユイに向かい、クレハは貴方のことだとい
う言葉の代わりに冷たい視線を彼へと向ける。
その眼差しを真正面から受け止める形となったユイは、苦笑を浮
かべつつも、自らの責任を認めることはなかった。
﹁はてさて、彼に悪影響を与えていそうな人物があまりに多すぎて
ね。まあ、多少のやり過ぎくらいはいいさ。それよりも、君には今
から別のことをお願いしたいんだけどいいかな?﹂
﹁やっぱり人使いが荒いわね⋮⋮で、何かしら﹂
﹁これをとある北の青年に渡してきて欲しいんだ。それもできるだ
け早急に﹂
ユイはそう口にすると、書き上げていた一通の書状を彼女へと手
渡す。
その書状を受け取ったクレハは、その文面に目を通したところで、
呆れたような表情を浮かべた。
﹁よくもまあ、こんな手紙を書けたものね﹂
﹁はは、ダメでもともとさ。それに頼むのはタダだろ﹂
﹁タダより怖いものはないわ。それはあなたが一番良くわかってい
1510
ると思うけど?﹂
﹁ああ。まったくその通りさ。というわけで、もし身ぐるみを剥が
されそうになったら、今度はどんな名前を使って逃げたものかな﹂
軽く肩をすくめながら、ユイはまったく他人事のようにそう口に
する。
途端、クレハの端正な口から深い溜め息が吐き出された。
﹁はぁ⋮⋮ほんとうに困った人ね。でも、わかったわ。今から行っ
てあげる。くれぐれも私がいないからって無茶をしないようにね﹂
﹁ああ。心がけておくよ。ありがとう、クレハ﹂
彼がそう言い終わるより早く、彼女は彼の目の前から消え去って
いた。
そうして、再び一人となったユイは簡易テーブルの上のコーヒー
カップを手に取る。そしてすっかり冷めてしまった黒色の苦い液体
をその喉に通していった。
﹁さて、下準備は終わった。そろそろ私も動くとしようか。クレハ
やクレイリーにばかり、危ない目にさらすわけにもいかないし⋮⋮
ね﹂
1511
残されし者
カーリン郊外となるソバルトイ草原。
そこにはカーリンから避難してきた市民達の列が、まるで草原を
横切る川のように存在していた。
﹁エルンスト軍務長、市民の避難が完了しました﹂
市民たちの最後尾の位置にて周囲を警戒していた白髪の老人は、
背後より駆けつけてきた青年からそう報告を受ける。
途端、彼の表情には苦笑が浮かんだ。
﹁元軍務長だよ、ラムリッツ君。しかし、順調のようだな﹂
﹁はい。ビートリー様は、この手の作業が非常に得意とのことでし
て⋮⋮﹂
決断は遅かったものの、その後の処置は実に鮮やかであったこと。
それ自体が、ラムリッツに非常に複雑な心境を抱かせる一因となっ
ていた。
一方、そんな若者の内心に気づいたエルンストは、ニコリと微笑
みながらその口を開く。
﹁いや、それは素晴らしいことだよ。もちろん皮肉ではなく本心だ。
人には向き不向きというものがあるからね﹂
﹁はぁ、それはそうですが﹂
﹁私ではこんな上手く、市民たちを誘導できなかった。それは紛れ
も無い事実さ。だから私は、自分がカーリンのためにやれることを
やるだけだ。この老体にムチを打ってな﹂
それだけを告げると、エルンストは軽く顎ひげを撫でる。
そんな彼に対し、カーリン軍生え抜きのラムリッツは、左右を見
1512
回しながら小声でそっと呟いた。
﹁ビートリー様の実力は認めます。ですが、何もせず逃げるという
のは些か⋮⋮﹂
﹁軍人として、戦わないということが不満かね?﹂
若者らしい血気盛んさを見せるラムリッツの表情を目にして、エ
ルンストは改めて彼が何を考えているのかを理解する。
すると、不承不承の呈で、ラムリッツはその口を開いた。
﹁不満とは言いません⋮⋮ですがあまりに消極的ではないかと﹂
﹁その気持ちもわからんではないがね。だがおそらく、この行軍の
絵を書いたのは、かつての私の部下さ。今では雲の上の存在となっ
てしまったがね﹂
﹁雲の上⋮⋮それはもしかしてあのイスターツ隊長ですか﹂
ラムリッツが入隊した直後の一年間だけ、この地で職場をともに
した伝説的な英雄。
その名を出された瞬間、彼はそれ以上何も言えなくなった。
そんなラムリッツの姿を目にして、エルンストは苦笑交じりに口
を開く。
﹁ふふ、納得したようだな。なら話は終わりだ。あとは私達に何が
出来るかさ。どうしても君が不満ならば、私とともに殿を務めるか
と言いたいところだが⋮⋮残念、君はまだ若すぎる﹂
﹁私とともに殿? どういうことですか。軍務長は現役を︱︱﹂
﹁ああ、引退している。だから軍務長の前に元がつくわけだが、万
が一の際に命を捧げるのは、この老骨の方が良いと思ってね。予め
ビートリー君の同意もとっている﹂
人手不足故に、やむを得ずその提案を受け入れたビートリーの姿
を思い出しながら、エルンストは愉快そうに微笑みかける。
すると、そんな彼の言葉を受け、ラムリッツは渋い表情を浮かべ
1513
た。
﹁ですが、なにもそんなことを軍務長がなされなくても﹂
﹁ふふ、万が一の備えさ。市民の避難もほぼ完了しているし、まだ
敵の影はない。いや、正確にはあったのだが、はてさて本物だろう
かね?﹂
そこまで口にしたところで、エルンストは意味ありげな笑みを浮
かべる。
﹁え⋮⋮では、ブリトニアの侵攻は誤報だと?﹂
﹁いや、それはないだろう。イスターツ君がわざわざ誤報を送って
よこすはずがない。となればだ、可能性は一つしか無いわけだが⋮
⋮そうなると、なおさら殿は若いものに譲れんね﹂
そこまで口にしたところで、エルンストは右の口角を僅かに吊り
上げる。
すると、そんな彼らの会話を耳にしていたのか、大柄な老人が年
配の兵士たちばかりを引き連れ、彼らの側まで歩みよってきた。
﹁はっはっは、軍務長。既に一同、準備は出来ております﹂
﹁ケレンツ九位! アナタまで殿を?﹂
ラムリッツが目にした人物。
それは一昨年にカーリン軍を退役したはずの老兵、ケレンツ元九
位その人であった。
﹁ふふ、もちろんだ。軍務長のご命令とあれば⋮⋮おっと、元軍務
長だったか。ともかく、軍を退役したチェス仲間の頼みならば素直
に従うさ﹂
﹁ありがとう。では、若者たち現役組に市民の避難は任せて、予定
通り我らは背後の警戒に当たるとしよう。あくまで、万が一の事態
に備えてな﹂
1514
﹁ふぅむ、明日くらいにはカーリンに着きそうだな﹂
カーリンを包むようにそびえるクロセオン山脈の中腹。
そこから遠方に大軍の姿を見て取ったスキンヘッドの男は、顎を
軽く撫でながら小さく息を吐き出す。
すると、彼の側についていた副長のヘルミホッフは、南の方向を
指差しながらニコリと微笑んだ。
﹁どうやらギリギリ間に合いましたね。市民達の姿もほとんど見え
なくなりましたし、これで奴らも事情を理解することは出来ないで
しょう﹂
﹁ああ。奴らの驚く顔が見たいものだ。もっとも、人の家に土足で
足を踏み入れようとしているんだから、これくらいで許してはやら
ねえがな﹂
自らの生まれ故郷を、敵へと譲り渡す行為。
如何に作戦行動のうちとはいえ、クレイリーの中には忸怩たる思
いが存在していた。
一方、それは彼の副官とて同様である。
ヘルミホッフはレムリアック出身であり、カーリンとは直接の縁
はない。
しかしながら、この国の一人の人間として、自らの国の都市を敵
に明け渡すということには、複雑な心境を覚えずにはいられなかっ
た。
1515
﹁まったくです。この借りは必ず⋮⋮で、如何致しましょう。我々
の初期任務は滞り無く終了いたしました。あとは予定している多少
の嫌がらせを終了したら、カーリンの人達とともにレムリアックに
帰還しますか?﹂
﹁そうだな、それも悪くねえ。ただ、旦那は既に動いている頃合い
だろうし、そうなると第二幕に間に合わなくなる。となればだ、で
きれば予定された戦場で合流したいところだが︱︱﹂
長年黒髪の英雄の右腕として行動をともにしていたクレイリーは、
彼の上官の行動を予測して、自らの行動予定を口にし始める。
しかしそんな彼の声は、突然遮られることとなった。
﹁隊長。クレイリー隊長、大変です!﹂
﹁どうしたんだ、ミセボラ? 連中が反転して国に帰りでもし始め
たか?﹂
クレイリーが率いる部隊の中で最年少の青年に向かい、クレイリ
ーは軽い口調でそう問いかける。
だがそんな上官の言葉に対し、ミセボラは一切表情を緩めること
なく、眉間にしわを寄せながら一つの報告を行った。
﹁いえ、もちろんそんなことではなく⋮⋮実は少しばかり、思わぬ
ものをこの目にしまして⋮⋮﹂
﹁思わぬもの?﹂
カーリン市内の見回りを命じていたミセボラの報告に、クレイリ
ーは僅かに首を傾げる。
すると彼は、大きく頷くとともに、自らが目にしたものをその口
にした。
﹁ええ⋮⋮実は、夜間にカーリンで数名の人影を目にしまして。ど
うも未だに空き巣を行っている者達がいるようなのです﹂
1516
﹁は? 市民の避難は完了したと聞いているぜ。誰が空き巣なんか
するんだ?﹂
﹁それがその、市内に潜んでいたスラムの子どもたちが、この隙を
狙っていたようでして⋮⋮﹂
その言葉を耳にした瞬間、クレイリーの両目が見開かれる。
そして彼は下唇を強く噛みしめると、急にその場から歩き出した。
﹁あいつらか。当然、ブリトニアが迫っていることなんて知らねえ
よな。ちっ、クソ!﹂
﹁ど、何処へ行かれるのですか、隊長﹂
突然動き出したクレイリーを追いかけながら、副官のヘルミホッ
フはそう問いかける。
すると、スキンヘッドの上官は一度立ち止まり、そして彼に向か
って怒気混じりの声を放った。
﹁街の糞ガキどもをぶん殴りに行ってくる。お前らはここで待って
ろ﹂
﹁ぶん殴るって⋮⋮やめて下さい。もうすぐ、ブリトニアの連中が
ここに来るんですよ!﹂
ヘルミホッフは慌てて、憤りを隠さぬ上官を止めにかかる。
しかしながらクレイリーは、彼の静止をあっさりと振り払った。
﹁うるせえ! あいつらは必死なんだよ。そうしなければ生きてい
けねえんだ。だからこそ、それがわかっている俺が行かなきゃ行け
ねえんだよ﹂
苦く暗い幼少期の記憶。
生きるためには全てのことをしなければならなかったあの時代の
記憶が、クレイリーの脳内を一瞬で駆け巡る。
そして彼は迷うことなく再びまっすぐに歩みだした。
1517
﹁隊長⋮⋮﹂
﹁やっていることが犯罪な上に、今の状況なら滑稽極まりねえ。自
分の首を絞めるだけっていうな。だからこそ、大人が正しに行かな
きゃならねえだろ。人生の、そして奴らの先輩のこの俺がな﹂
1518
スラムの子
カーリン市の西地区に存在するスラム街。
その中心には、廃棄されたまま放置されている無数の荒れた倉庫
が存在する。
かつてはタリム伯爵という一人の男により、魔石の集積用に使用
されていたこれらの建物。
しかしながら、数十年前に魔石採掘所近くに新設されたことを契
機として、そのまま放置される形となっていた。
そんな倉庫の奥には、一つの地下室が存在する。
かつてはタリム伯が税逃れのために使用していたその一室。
そこでは現在、四名の少年少女たちが、お互いの戦利品を嬉しそ
うに持ち寄っていた。 ﹁へへ、ホイス見てみろよ。今日入った家には、でっけえハムがそ
のまま置き去りにされていたぜ﹂
﹁やるな、マルティンス。俺なんかほら、新品のナイフだ﹂
青年期に差し掛かりかけたといった印象の少年二人。
彼らは満面の笑みを浮かべながら、お互いのくすねて来た品を嬉
しそうに見せ合う。
するとそんな二人に向かい、その場に居合わせたやや大柄な体格
の少年が、嬉しそうに背に隠していた一品を提示してみせた。
﹁ばぁか。お前ら、盗んでくるものがしょべぇな。俺なんかこいつ
だ﹂
﹁ディック⋮⋮えっと、これは何なの?﹂
1519
それまで沈黙を保っていた、少し年下の少女。
彼女はボサボサの頭を軽く振りながら、少しぽかんとした表情で
そう尋ねる。
すると、ディックと呼ばれた少年は、胸を張りながら短く答えた。
﹁絵だ﹂
﹁絵? ていうか、上手いか下手かよくわかんねえけど、そんなも
んなんの役に立つんだよ。まあ金の額縁は売っぱらってしまえそう
だけどさ﹂
やや浅黒い肌を持つホイスは、少し小馬鹿にした口調でそう言い
放つ。
途端、ディックは心外だとばかりに、強い口調で手にしている絵
の出元を口にした。
﹁市長の家にあった絵なんだから、たぶんそんなナイフより遥かに
高いもんだぜ。だいたい貴族ってのは、こういうものを有り難がる
からな﹂
﹁ほんとかねぇ。この美味そうなハムのほうが、よっぽど良い気が
するけどな﹂
﹁俺も俺も。なあ、マルティンス。少しわけてくれよ﹂
既に絵から興味を失ったホイスは、手にしたナイフを弄びながら、
マルティンスに向かってそう告げる。
しかしながら、彼の願いはあっさりと左右に首を振られることに
なった。
﹁やだよ、せっかく盗ってきたんだし。それに、まだ他にも食いも
んはあったぜ。家は教えてやるから、行ってこいよ。まあ、こいつ
より良いものはもうないけどな﹂
﹁ちっ、仕方ねえな。大人たちも、だぁれもいなくなっちまったし、
他にも金目のもん探しに行ってみるか﹂
1520
断られる形となったホイスは、軽く肩をすくめると、しぶしぶと
いった体で、再び空き巣に向かうことを宣言する。
すると、絵を部屋の片隅に置いてきたディックが、思わぬ提案を
口にした。
﹁なあお前ら。外の奴ら誰もいなくなったんだしさ、いつまでもこ
んなしみったれた場所に住むのやめねえ?﹂
﹁それいいわね。私、市長のお家を貰うわ!﹂
﹁カリン、あんな馬鹿でかい家に住んでどうするんだよ﹂
はしゃぎながら、とんでもないことを言い出したカリンに向かっ
て、ホイスは窘めるようにそう告げる。
すると、マルティンスもハムを片手に、ここから出る様子を見せ
始めた。
﹁俺はどこにしようかな。せっかくだし、昔、英雄が住んでた家を
貰うとするかな﹂
﹁あ⋮⋮ずりいぞ、マルティンス。お前ばっかり﹂
彼らでさえ知っている英雄が、この地に滞在していた時に生活し
ていた官舎。
誰しもが憧れるその場所を宣言したことに、ホイスは抗議を口に
した。
一方、そんな彼らの会話に乗り遅れたディックは、慌てて会話に
割ってはいろうとする。
﹁くそ、じゃあ俺は︱︱﹂
﹁わりいが、お前らみたいな糞ガキには、ここでさえ上等すぎるな。
というわけで、ちょっとおじさんについてきてもらおうか﹂
突然部屋の中に響き渡った声。
それを耳にした少年たちは、慌てて背後を振り返る。
するとそこには、まるで山賊のようなスキンヘッドの厳しそうな
1521
男がいつの間にか立っていた。
﹁誰だ、おっさん。どうしてここに入ってこれた! ってか、あん
た何もんだ!﹂
﹁ふん、どちらもお前らが知る必要はないさ。ともかくガキども、
今すぐここから出るぞ。嫌でも俺についてきてもらう﹂
威勢のいいホイスの言葉に対し、スキンヘッドの男はまったく怯
むことなく、淡々と命令口調でそう告げる。
途端、マルティンスは不快感を覚え目の前の男を睨みつけた。
﹁は? なに言ってんの、おっさん?﹂
﹁こいつ、俺達ばかりいいもの盗ってるから邪魔しに来たんじゃね
?﹂
﹁おい、一人みたいだし、囲んで袋にしちまおうぜ﹂
ディックとホイスが次々にそう口にして、スキンヘッドの男の周
囲を取り囲む。
一方、この状況を眺めやりながら、クレイリーは深々と溜め息を
吐き出した。
﹁はぁ⋮⋮時間がねえから、体で教えるしか無いでやすかねぇ﹂
﹁ブツブツ言ってんなよ、おっさん。死ね!﹂
最初に躍りかかったのはナイフを手にしたホイスであった。彼は
クレイリーの側面から、一足飛びで迫り来る。
﹁遅い。あのフェルムよりも更にな!﹂
ラインドル出身の青年と比較しながら、クレイリーは薄ら笑いを
浮かべつつ軽やかに少年の動きを先回りする。
そして突き出してきた少年の腕を取ると、そのまま勢いを利用し、
反対側にいたマルティンスに向けて放り投げた。
1522
﹁ま、マジかよ!?﹂
突然迫ってきたホイスの体に押し潰される形で、マルティンスは
地面に倒れる。
それを確認した瞬間、クレイリーは残った一人の少年に向かい駆
け出した。
﹁クソ、ふざけるなよ﹂
少年たちの中では最も体格がよく、自分の力に自信があったディ
ックは迫り来るクレイリーに向かい、逆に体当たりを仕掛けた。
全体重と力を乗せたその一撃。
しかしながら、それは目の前にスキンヘッドの男性にとっては、
日常茶飯事のレベルであった。
﹁まだまだ、軽いな。だが悪くはない﹂
カインスなどと比較すれば、むしろ貧弱と呼べるであろう青年の
タックル。
だが、それを放ったのが少年ということを考慮し、クレイリーは
ニコリと微笑む。
﹁馬鹿な。俺の体を受け止めるなんて﹂
﹁そうだ、ディックは馬鹿だけど、この辺で一番強えんだ⋮⋮おっ
さん、あんたホントに何ものだ﹂
﹁ここ出身の、ただの小間使いさ。そしてお前らに教えておいてや
る、このスラムの中⋮⋮いや、カーリンの内側しか知らないうちは、
どこまで行っても井の中の蛙だってことをな﹂
かつてカーリンの地において、戦略部と言う特異な場所に集った
化け物たち。
そして王都で、ラインドルで相まみえることになった更なる化け
物たち。
1523
本当に世の中に化け物は尽きないものだと考え、クレイリーは苦
笑を浮かべる。
だがその中でもとっておきの化け物の下で働いている我が身の幸
福を、彼はその瞬間にも感じ取った。
だからこそ、彼はディックを地面に尻餅をついたままの少年たち
に向かって投げ捨てると、今なすべきことを行う。
﹁お前ら、ここの先輩として今から外に連れて行ってやる。すぐに
支度しろ﹂
﹁ここの先輩って⋮⋮あんたまさか!﹂
スラムでさんざん悪さを重ね、そして前の軍務長に見込まれて腕
一本で地方軍に入り込んでいった一人の男の噂。
それを彼らも耳にしたことがあった。
だからこそ、彼らは理解する。
この隠し部屋を知り、そして軽く三人をなぎ払って見せた男こそ、
紛うことなきその当人であると。
﹁まあ、そういうこった。ともかく、すぐにこの街は戦場になる。
つべこべ言ってる暇はねえ﹂
﹁た、隊長、まずいです。すでに奴らの先遣隊が街の中に﹂
部屋の入口となる天井の一角から、急に顔を突き出してきた男。
彼はクレイリーに向かって、こわばった表情でそうさけぶ。
途端、スキンヘッドの男の額には、深いシワが刻まれた。
﹁ちっ、まずったか⋮⋮仕方ない、強行突破するぞ! お前ら、こ
いつらを拾っていけ﹂
﹁隊長は?﹂
﹁俺が最後尾だ。とろとろ走ってる奴は、後ろから槍でケツを突き
1524
回すからな。全力で逃げるんだぞ﹂
﹁フランツ司令官、先ほど市内へ向かわせた先遣隊の一部が戻って
きたのですが、些か奇妙な報告が﹂
﹁奇妙? 確かにここから見る限りでも十分に奇妙だが、それ以上
に何かあるというのか﹂
カーリン市内を遠目でその目にしながら、あまりに静かすぎるこ
とにフランツは強い違和感を覚えていた。
すると、そんな彼の違和感を肯定する内容がマリアーヌの口から
まず述べられる。
﹁はい。まるで街の中から忽然と人が消えたかのように、市内にほ
ぼ人影が存在しなかったと﹂
﹁何だと? このブルトーニュは現在も国内で有数の魔石の産地だ
と、ブラウ公は言っていたではないか。にも関わらず、街に人がい
ないということは⋮⋮まさか騙されたということか?﹂
そう、この地に向かう前にブラウは彼に向かってブルトーニュ、
つまりこの国で言うカーリンの現状を語って聞かせていた。
にも関わらず、マリアーヌから告げられた内容は、ブラウから聞
いたものとはまったく異なっていたのである。
﹁いえ、ブラウ公のお話は間違っていないかと思います﹂
﹁どういうことだ?﹂
マリアーヌの口から紡がれた、現状と一致せぬ内容。
それを耳にしたフランツは、眉間にしわを寄せながら、すぐに問
い返した。
1525
﹁どうもつい先日まで、この街では人々が普通に過ごしていた形跡
があるとのことで﹂
﹁では、住民全員がいきなり神隠しにあったとでも言うのか? ⋮
⋮まてよ、先日小賢しい罠を仕掛けてきた連中がいたな。もしやあ
いつらの狙いは﹂
﹁ええ、おそらくそうでしょう。この街から人々が逃げ出す時間を
稼いでいたのだと思います﹂
このブルトーニュに向かう道中、大なり小なりの小賢しい罠を仕
掛けてきた敵。
その罠自体はどれも程度の低いものであり、彼らにはほとんど被
害は出ていない。
しかしながらその目的が、彼らを攻撃することではなく、その進
軍を遅れさせことにあったと二人は気づいた。
﹁ちっ、警戒しながら進軍したのが裏目に出たか﹂
﹁おそらくは⋮⋮﹂
﹁そういえば、先ほどほぼ人影がいなかったと言っていたな。つま
り少数のものが残っていたと?﹂
﹁はい。どうもそのようです。姿格好から、先日我々に嫌がらせを
重ねていた奴らのようですが、子供を連れて突然街から逃げ出した
と﹂
マリアーヌのその報告を受けて、フランツは僅かに気を取り直す。
そしてすぐさま、最も肝心な点を彼女に向かって問い質した。
﹁で、捕まえたのかね?﹂
﹁現在、先遣隊の主力が彼らを追跡中です。ですが、確保は時間の
問題と思われます﹂
﹁結構。では、絶対に捕えるんだ⋮⋮そうだな、第二小隊も向かわ
せろ。絶対に逃がすなよ﹂
1526
﹁はい、至急手配いたします﹂
上官に向かって敬礼を行うなり、マリアーヌはさっとその場から
歩み去っていく。
その背中を見つめながら、フランツは誰にも言えぬ言いようのな
い不安を、虚空に向かって一人つぶやいた。
﹁頼むぞ。ここで何があったのか、そして奴らの狙いがなんなのか
全て吐いてもらわねばならん。この地についてから、どうにも見え
ざる網の中に捕らわれている気がするからな。だからこそ全てを暴
き、私を絡め取ろうとしている何者かに逆撃を加えてやる⋮⋮絶対
にな﹂
1527
老兵の戦い
﹁軍務長。どうやらクレイリーの奴が、ブリトニア軍に追われてい
るようだな﹂
﹁クレイリーの奴が? どういうことだね﹂
後方の偵察から戻ってきたばかりのケレンツに向かい、エルンス
トは問いかける。
すると彼は、連れてきた若い兵士の背を押して、エルンストの前
に突きだした。
﹁すいません、レムリアック軍のフィンレーと申します。実は隊長
たちが、街に残されていたスラムの子供たちを助けに行き、脱出が
遅れまして⋮⋮﹂
カーリン軍に連絡という目的はあったものの、隊長をおいて逃げ
た形となった為、フィンレーは気まず気な表情を浮かべながらそう
告げる。
それを受けて、エルンストは小さくため息を吐き出した。
﹁なるほどな。あいつもスラム育ちだから、気持ちはわからんでも
ないが⋮⋮で、君が知る範囲で状況はどうなっていたのかね?﹂
﹁私がカーリンを飛び出したのとほぼ同時に、先行する連中の騎馬
兵がカーリンの中へと入ってきました。その数は隊長たちより多く
⋮⋮さらに背後には敵の本体がおります﹂
﹁その上、クレイリーたちは子供連れというわけか。あいつの甘さ
は嫌いじゃないが、どうする軍務長?﹂
大柄な髭面のケレンツは、エルンストに向かい方針を示すよう促
す。
それを受けて、エルンストは軽く自らの顎を撫で、そしてゆっく
1528
りとその口を開いた。
﹁元軍務長だよ。ともかく、子供も抱えてなら振りきれんだろうな。
ふむ、クレイリーたちは逃げる。そして奴らは追う。となれば⋮⋮
ケレンツ、至急うちの部隊の者を集めてくれるかな﹂
﹁ほう、じじいばかりの部隊でやる気かね﹂
﹁ふふ、君もひなたぼっこをしながら、チェスでばかり戦うのも飽
きただろ? たまには駒ではなく、この両の手で戦ってみるとしな
いかね?﹂
エルンストがそう口にすると、老人たちはニヤリと笑い合う。
そんな二人の表情を目にして、フィンレーはその場に立ち尽くし
たまま戸惑わずにはいられなかった。
﹁おら、お前ら急げ!﹂
﹁隊長、無理ですよ。こいつらを連れてですから、まもなく追いつ
かれます!﹂
後方から迫り来る敵兵の姿をその眼にして、副長のヘルミホッフ
は悲鳴に近い声を上げる。
しかしそんな彼の泣き言を、クレイリーは迷わず一蹴した。
﹁うるせえ、つべこべ言わず逃げるんだよ﹂
﹁とは言っても、無理なものは無理ですよ﹂
﹁ああ、もうわかった。俺がなんとかする。ガキを連れてる奴は先
に行ってろ﹂
﹁で、ですが︱︱﹂
スラムから連れだしてきた少女を抱えるヘルミホッフは、上官の
指示に対して反論を口にしかける。
1529
だがそんな彼の発言は、クレイリーの怒声によってかき消された。
﹁命令だ。行け!﹂
﹁⋮⋮はい﹂
有無を言わさぬ声を耳にして、子供を抱えたヘルミホッフ達たち
は、速度を落とし始めたクレイリーたちから先行する。
﹁ざっと二百騎近くか⋮⋮すまねえな、お前ら。貧乏くじを引かせ
ちまった﹂
最後尾の位置で自らとともに敵を迎え撃つ形となった兵士たち。
そんな彼らに向かい、クレイリーは申し訳無さそうにそう告げる。
すると、最古参の兵士であるヒートパインは、自分たちの隊長に
向かいニッと笑ってみせた。
﹁なに、報告のために一足先にカーリン軍の下へ向かわせた連中も
じきに戻ってきます。そうすれば、おおかた数は五分ですぜ。問題
ありません﹂
﹁まあな。だがちんたらしていると、奴らの本軍が来る。そうなれ
ば二百だろうが三百だろうが、俺たち程度の数ならゴミみたいなも
んだ﹂
もちろんクレイリーも、ただ単純に追手だけならば五分の戦いは
可能だと考えている。
しかしながら、その後ろに控えるブリトニア軍本体を考慮すると、
まともな戦いは望むべくもなかった。なぜならば、極めて短時間に
同数の敵を圧倒しないかぎり、押し寄せる敵に一呑されて終わるた
めである。
﹁となれば、やはり逃げながら戦うしか無いですな﹂
﹁逃げながら戦うと言っても、カーリンの市民たちの下へ案内する
わけにもいかねえ。ちっ、ままならねえものだ﹂
1530
﹁そんなことをすれば、何のためにここまで来たのかわからなくな
りますからね﹂
クレイリーの言葉に、ヒートパインは溜め息を吐き出しながら同
意を示す。
するとクレイリーは、多少の冷静さを取り戻し、目の前の古参兵
に向かって軽い冗談を口にした。
﹁なあヒートパイン。どこかの誰かみたいに、一人で連中を引き受
けるとか言ってくれねえか?﹂
﹁残念ながら、どこかの赤い髪の人とは違いますからね。過大な期
待は諦めて、みんなで立ち向かうとしましょうぜ﹂
﹁まあそうだな。はぁ⋮⋮やっぱりマジでやらかしたな﹂
﹁そうかも知れませんな。ですが、俺は隊長の取った行動を支持し
ますよ﹂
迷いないヒートパインの賛意。
それを受けて、クレイリーは眉間の皺を僅かに緩める。
﹁ありがとよ。まあ、気合入れて命を張るとするか。上手く時間を
稼げば、ガキどもだけじゃなく、カーリンの連中の安全にも繋がる
しな﹂
﹁ですな。いずれにせよ、代償のない戦いなんて、そんな都合のい
いものはありませんよ﹂
﹁お前、旦那みたいなことを言うな。ともかくだ、この辺で迎え撃
つと⋮⋮って、おい。ここに来て敵の増援かよ﹂
後方を振り返ったクレイリーが眼にしたもの。
それは追手の側方から新たに出現した、見知らぬ騎馬隊の一団で
あった。
﹁百騎近く追加ですか⋮⋮まずいですね、これは﹂
﹁詰みだな。仕方ない、ここでできるだけ時間を稼ぐ。いいな﹂
1531
﹁はい。了解です、隊長﹂
自らの甘さを恥じながらクレイリーが行った決断、それをヒート
パインもそのまま受け入れる。
﹁たぶん帰ったら、絶対旦那にどやされるなぁ。めったに怒らねえ
から、たまに見せる沈黙がこええんだよ。まあ、帰れたらの話だが﹂
物分りの良い部下に感謝を覚えながら、クレイリーは一人虚空に
呟く。そして一つの決意を成すと、付き従う部下たちに向かって大
きく声を発した。
﹁良いか、ガキどもと、そしてカーリンの人々を守る。ここでな。
行くぞ!﹂
﹁待ってください、隊長。なんか変ですぜ﹂
慌てて発せられたヒートパインの声。
それを耳にして、クレイリーは改めて敵へと視線を向け直す。
するとそこには、混乱と一方的な戦闘行為が開始されていた。
﹁何だ? さっきの増援の連中が仲間割れを始めた。いや、あれは
⋮⋮おやっさん達!?﹂
﹁はっはっは、突撃だ! ルークの駒のように、ひたすら前に突っ
込み、連中の尻に槍を突き刺してやれ!﹂
部隊の他の老兵たちに向かって、ケレンツは豪快に笑いながらそ
う告げる。
一方、そんな彼の側で愛槍を構えたエルンストは、苦笑を浮かべ
ながら茶々を入れた。
﹁ケレンツ、ルークなら横にも動けるぞ﹂
1532
﹁軍務長、戦いは祭りだ。イメージさえ伝わればいいだろ﹂
﹁まあ、それに関しては否定はせんよ。でもそんなだから、君はチ
ェスで勝てないわけだがね。ともかく、老人の強さを見せてやると
しようか!﹂
﹁おうとも。年季の違いを見せてやるぞ、ひよっこどもめ!﹂
ブリトニア兵が前方のクレイリーたちばかりに意識がとらわれ、
その後方から回りこむことで完全に敵兵の不意をうった形となった
エルンスト達。
彼らが一斉に敵軍の中に突入すると、途端にブリトニアの兵士た
ちは混乱に陥った。
もちろん兵士一人一人の質も数も、圧倒的にブリトニア兵たちが
上である。
だが完全に思わぬタイミングで、そして考えてもいない方向から
攻撃される形となった彼らは、その優位性を活かすことは出来なか
った。
一人また一人と、統率の取れた老兵たちの前に倒れていくブリト
ニア兵達。
彼らの指揮官は、混乱と狂騒の最中で一つの決断を行う。
そう、前方のクレイリーたちの追撃を断念し、小賢しい老兵たち
にその牙を向けるという決断を。
だがその判断は、更なる混乱を引き起こすこととなった。
そう、クレイリーたちが混乱するブリトニア軍目掛けて、反転し
て来たために。
﹁何やってるんですやすか、おやっさん!﹂
﹁おお、クレイリー、久しぶりだな。囮役ご苦労﹂
慌ててエルンストの側へとやってきたクレイリーに向かい、ケレ
1533
ンツは笑いながら言葉を差し挟む。
﹁ケレンツ九位! っていうか囮って、もしかして必死で逃げてる
あっしらを、囮にしたっていうんですかい!?﹂
﹁まあそういう見方もできるかもしれないな。ものは言いようだか
らね﹂
動揺隠せぬクレイリーをその眼にしたエルンストは、苦笑を浮か
べながらそう告げる。
すると、近づいてきた敵兵を一人薙ぎ払った図体の大きな老人が、
スキンヘッドの男を豪快に笑い飛ばした。
﹁はは、お前らが情けなく逃げとるから、わしらがガツンとやって
やっただけだ﹂
﹁いや⋮⋮まったく意味がわかりやせんぜ。てか、引退した爺さん
ばかりで、なにを考えているんでやすか?﹂
頬を引きつらせながら、クレイリーはどうにかそう問いかける。
その表情を目にして、エルンストは右の口角を吊り上げてみせた。
﹁どうにも地獄へお迎えがくるのを待てんものが多くてな。年寄り
たちってのは、ことごとく気が短いからものだからね﹂
﹁おやっさん、気が短いとかそういうものではないでやしょ。と言
うか、あっしらが気づいて戻ってこなかったら、一体どうするつも
りだったんでやすか。いくら後ろをとったからって、数は倍以上い
たんでやすよ﹂
自らの苦言が全く届いていないことに困惑しながら、クレイリー
はかつての上官に改めて反省を促す。
しかし、そんな彼に答えたのは、陽気に槍を振るうケレンツであ
った。
﹁その時はその時で考えたさ。チェスと同じで、戦いには臨機応変
1534
さが必要だからな!﹂
﹁だから、チェスを基準に戦いを考えるのはやめてくだせえ﹂
﹁はは、細かいことは気にしていると禿げるぞ? って、お前には
関係ないか。それはともかく、軍務長。そろそろじゃないか?﹂
酷い発言をサラリと口にしながら、ケレンツはエルンストに向か
ってそう問いかける。
すると、白い髭を蓄えた老人は、一つ大きく頷いた。
﹁確かに、敵の本体が来る前に逃げるとしようか。よし皆の者、撤
収せよ! ほら、クレイリー。お前たちも急げ!﹂
エルンストはそう口にすると、混乱のさなかにある戦場から、我
先にと撤収を開始する。
そんな元気あふれる老人たちをその眼にしながら、古参兵である
ヒートパインは、クレイリーに向かい次の行動を問いかけた。
﹁隊長⋮⋮どうしますか?﹂
﹁あの人の指示に従って撤収する。と言うか、これだけじいさんた
ちに美味しいところをもってかれると、後で旦那になんて言われる
か。はぁ⋮⋮﹂
1535
序曲
﹁で、まんまと逃げられたというわけか﹂
目の前で頭を下げ続ける先遣隊の部隊長をその目にしながら、フ
ランツは深い溜め息を吐き出す。
すると、レッセン部隊長は改めて震える声で言葉を紡ぎだした。
﹁申し訳ありません。何分、地の利を有する敵が突然奇襲をかけて
きたため⋮⋮﹂
﹁問題はそこじゃないと思いますよ。後で送った第二小隊の到着ま
で持たせられれば、数は五分以上。更に私達の到着まで保たせれば
︱︱﹂
﹁もういい。反省は大事だ。だが終わったことを言っても、今から
結果が変わるわけではない﹂
部隊長を攻め立てるマリアーヌの言葉を、フランツはピシャリと
遮る。
途端、彼の副官は謝罪を口にした。
﹁申し訳⋮⋮ありません﹂
﹁ああ。ともかく、レッセン。君は動ける者をまとめ、まずはカー
リン市内の調査に従事してくれ。その後のことは、また考えておく﹂
﹁分かりました。失礼致します﹂
改めて深々と頭を下げ直し、レッセンは退室していく。
それを見送った後に、改めてフランツは深々と溜め息を吐き出し
た。
﹁⋮⋮まあ理想通りとはいかなかったが、最小限の被害だけでこの
地は押さえることができた。気になることは少なくないが、まずは
1536
これからのことを考えるとしよう﹂
﹁そうですね。仰るとおりです﹂
﹁うむ。差し当たっての問題は、やはり住民に逃げ出されたことだ
な。これでは、何のためにこのブルトーニュを押さえようとしたの
かわからない﹂
そう口にするなり、フランツは顎に手を当てる。
するとそんな彼に向かい、マリアーヌが口を開いた。
﹁如何に魔石の採掘地を押さえようと、それだけでは魔石を手に入
れることはできないというわけですね﹂
﹁そのとおりだ。となれば、クラリスの他の地域から連れてくるか、
それとも本国から人員を運んでくるかをせねばならないが⋮⋮﹂
﹁ですがその前に、クラリスの正規軍と戦わねばならないでしょう﹂
そう、マリアーヌの言葉は間違いないとフランツも確信していた。
それどころか、既に敵は動き始めているだろうと。
帝国との戦いと貴族院との争い。
この二度の混乱で、以前よりも明らかにクラリスの兵力と国力は
低下してはいる。しかしそれでもなお、彼らが長期に渡って、他国
の軍を国内で野放しにするなど考えられなかった。
﹁それほど先の話ではないだろうな。そのためにもだ、彼らとの連
絡は絶やさぬよう注意してくれ﹂
﹁司令官⋮⋮貴族院の連中にあまり過大な期待を抱かれるのは、控
えられた方がいいかと思います﹂
﹁わかっているさ。もちろん自分たちだけでも、クラリスの正規軍
に負けるつもりはない。そのための準備もしてきたのだからな。だ
が犠牲を減らせるなら、それに越したことはないという話だ﹂
マリアーヌの忠告には感謝しながらも、フランツは自らの考えを
明白に伝える。
1537
それを受けて、マリアーヌは上官の見解に同意した。
﹁おっしゃるとおりですね。ともあれ、戦いに専念するという意味
で言いましたら、この地から住民がいなくなったことは一概に悪い
とはいえませんか﹂
﹁管理コストは少なくてすむわけだからね。となればだ、あとは彼
らをどこで待ち受けるかだが⋮⋮﹂
﹁このカーリンは戦闘になることをまったく想定して作られていま
せん。やはり、外で迎え撃たねばならないでしょう﹂
元々、戦いとは一切無縁であったがゆえに、最低限の地方軍しか
存在しなかったこのカーリンである。街の設計思想に戦闘行為が盛
り込まれているはずがなかった。
﹁そうだね。あと、あまり狭隘な地形で戦うのは望ましくないな。
彼らに地の利を使用されるのは避けたいところだし、何より貴族院
の彼らと私達の総兵数はクラリス軍を上回る。できるかぎり遊兵は
作りたくない﹂
﹁となりますと、ルシーダ平原は如何でしょうか?﹂
﹁途中で通ってきた、あの海から少し離れた平原か⋮⋮見晴らしも
よく奇襲の危険性も少ない。まずはそれを第一案として、早急に準
備を行うとしよう﹂
﹁あの、先生⋮⋮本当にこのまま行かせてしまってよろしいのです
か?﹂
眼下を見渡すかぎり続く兵士たちの姿。
それをその目にしながら、フェルムは隣に立つ黒髪の男へとそう
1538
問いかける。
﹁ああ、もちろんさ。彼らには頑張ってもらわないといけないから
ね﹂
﹁いや、それはそうなのですが⋮⋮その、すぐ側に居るのに無視す
るのはどうかなと﹂
ユイの言うことに僅かな戸惑いを見せながら、フェルムは自らの
担当教官に向かいそう口にする。
すると、黒髪の男は軽く笑った。
﹁はは、無視は確かによくないね。でもまあほら、僕らには僕らの
仕事があるし、別に彼らから隠れているわけではないからね﹂
﹁確かにコソコソ動いているわけではないですが⋮⋮どうも中途半
端というか、どうせ姿を見られるなら、きちんと連絡を取られたら
いいじゃないですか﹂
﹁ふむ、それも悪くはないかな。だけど、今回ばかりは不要さ。私
達の存在に気づかなければ気づかないでいいし、気づいたとしても
それを活かすかは彼ら次第さ。まあその際は心配していないけどね﹂
﹁ど、どういうことですか?﹂
ユイの発言を理解できなかったフェルムは、眉間にしわを寄せな
がらそう問いかける。
﹁第一師団の師団長さんはなかなかに優秀な人だからね。彼らの中
にいる草は理解できなくても、あの人は理解できるんじゃないかな。
だから、むしろ私達が出すぎた真似をすると、彼を失望させること
になる。何しろ、私達が本当に見送りたいのはまったく別の存在だ
からね﹂
﹁別の存在⋮⋮ですか﹂
詳しい作戦内容を聞かされていなかったフェルムは、その表情に
疑問符を浮かべる。
1539
途端、黒髪の男の右の口角は僅かに吊り上がった。
﹁ふふ、クラリス軍の第一師団はブリトニア軍と戦う。うん、大い
に善戦し、戦果を上げてもらいたいところさ。だからこそ、私たち
はそのための後押しを行う。実に簡単な話さ﹂
﹁後押し⋮⋮こうして無視しているにもかかわらずですか?﹂
﹁ああ。無視しているにもかかわらずさ。だって、むしろ前のめり
に手伝うほうが、彼らの邪魔になるのだからね﹂
協力して動くのならば、相互の連動性が重要ではないかとフェル
ムは考えていた。
そのためにも、予めお互いの間で作戦案の詰めを行い、行動に移
すべき。それが彼の考える戦いの協力の形であった。
しかしながら、英雄と呼ばれる目の前の男は、そんな当たり前の
ことを不要だと言ってのける。それがフェルムにはまったく理解で
きなかった。
﹁あの、やっぱりよくわかりません﹂
﹁大丈夫、君ならすぐに分かるさ﹂
ユイは苦笑を浮かべながら、教え子に向かい優しくそう告げる。
するとそのタイミングで、美しい亜麻色の髪の女性が、二人のも
とへと駆け寄ってきた。
﹁ユイ君、君の予想通り、少し離れたところに彼らの姿を見つけた
わ。多分、明日か明後日にはここを通り過ぎるはず﹂
﹁そっか。そちらさんには見つかる訳にはいかないな。とりあえず、
しばらくは姿を隠してのんびりするとしようか﹂
セシルの報告を受け、ユイは軽く頭を掻くと、大きく背伸びをす
る。
一方、彼らの間でかわされた言葉の意味がわからず、フェルムは
1540
慌てて疑問を口にした。
﹁あの⋮⋮彼らとは誰ですか? それに戦いが始まろうというのに、
本当にこんなところでダラダラと時間を過ごしていて構わないので
すか?﹂
﹁構わない。だいたい万と万の兵が戦うというのに、二千名程度の
我々が正面切って戦いに加わる必要はないさ。それならば、同じ位
の相手と戦ったほうがより有効だと思わないかい?﹂
﹁同じくらい⋮⋮ですか﹂
その言葉を口にするとともに、フェルムはその脳内で、自分たち
と同数程度であり、また対峙する可能性のある敵の名前をあげよう
とする。
しかしながら、彼がその答えを口にするより早く、亜麻色の髪の
女性は、ユイに向かい彼の言動に苦言を呈した。
﹁同じくらいっていうのは、少し言いすぎじゃないかしら。少なく
とも彼らは、五千名以上を動員しているみたいだし﹂
﹁おやおや、財布の紐が堅いブラウ公も、流石に今回ばかりは別だ
ということかな。となれば、やはりタイミングが重要だね﹂
再び頭を掻きながら、ユイは思わず苦笑を浮かべる。
すると、そんな彼の発言を耳にして、フェルムはその両眼を大き
く見開いた。
﹁待ってください、先生。今、ブラウ公とおっしゃられましたよね。
つまり、僕らの相手は⋮⋮﹂
﹁ああ。クラリス軍はブリトニア軍と、正規軍同士でやりあっても
らう。だから私たちは、同じ私兵同士で仲良く戦おうと思っている
のさ。貴族院の私兵達とね﹂
1541
錯綜する思惑
﹁師団長、一つご報告が﹂
﹁何かな、ミカムル﹂
カーリンに向かい馬を勧めていたクラリス軍第一師団において、
一軍を束ねるエレンタム三位は、馬を寄せてきた副官のミカムル五
位に向かいそう問いかける。
﹁部下からの報告なのですが⋮⋮どうも先程から、我が軍が監視さ
れていたようでして﹂
﹁ほう、監視⋮⋮か﹂
﹁はい。あの崖の上を御覧ください﹂
ミカムルに促される形で、エレンタムはその視線を上げる。
すると崖上の岩場の間に溶けこむような形で、彼らの動向を見続
けている複数の者たちの姿があった。
﹁ふむ、なるほどな。で、彼らが我々を攻撃しようとしたり、どこ
かに連絡を行おうとする素振りはあるのかね?﹂
﹁いえ、それは特にございませんが⋮⋮﹂
﹁なら結構。そのまま放置しておきたまえ﹂
ミカムルの返答を受けて、エレンタムは関心を失ったかのように
その視線を自らの前方へと移す。
﹁あの⋮⋮よろしいのですか?﹂
﹁むしろ何か問題があるのかね? どうせ我々の存在や部隊規模は、
貴族院を通して連中にはバレている。更に、カーリンからまだ距離
があるこんな場所で、いきなり待ち伏せされる可能性は皆無だ﹂
﹁それはそうですが⋮⋮﹂
1542
エレンタムの発言に素直に納得できなかったミカムルは、食い下
がるようにそう声を発する。
すると、エレンタムは苦笑を浮かべながら、まだ若い副官に向か
い一つのヒントを提示した。
﹁一度、前提条件を考えなおしてみるといい。彼らは果たして本当
に敵の部隊かな?﹂
﹁え⋮⋮ですが、それ以外の者が私達を監視する必要など無いと思
います﹂
﹁我々の監視が目的ならば、確かにそうかもしれん。でも、そうで
なければ違う解釈も成り立つのではないかな。つまり彼らが真に監
視したい対象が異なっているという解釈がね﹂
﹁我々が目的ではないとなると⋮⋮まさか!﹂
エレンタムの意図するところを理解したミカムルは、その両眼を
見開く。
一方、その反応を目にした彼の上官は、満足そうに一つ頷いた。
﹁気づいたようだね。もちろん彼らの狙いが我々である可能性は否
定出来ない。だが、それならばもう少しやりようがあるだろうな。
つまり、何も発見されるほどの人員で行う必要が無い。つまりあれ
は、見つかること自体がメッセージなのだろう。何しろ、彼はなか
なかに素直な男ではないからな﹂
﹁彼⋮⋮ですか﹂
﹁ああ。おそらくは、私の親友の教え子の仕業さ。そうだね、救国
の英雄といえば、君もわかるのではないかな﹂
その単語が発せられた瞬間、ミカムルは驚愕の表情を浮かべる。
﹁ま、まさか!? では、あの方がこの国に戻ってきていると!﹂
﹁アーマッドの奴が、彼が動いていることをほのめかしていた。と
1543
なればだ、たぶんあれは私たちに前だけ見ていろと伝えるのが目的
だろうな。もちろん、ただ状況を確認しているだけかもしれないが﹂
それだけを口にすると、エレンタムは軽く肩をすくめてみせる。
だが、そんな彼の隣で馬を並べるミカムルは、上官の言葉の意味
をまったく理解できなかった。
﹁一体、どういうことですか?﹂
﹁邪魔者を彼らが排除してくれるということだろう、たぶんだがな。
つまり後ろのことは気にせず、ブリトニアと対峙してこいと言って
いるのだよ。まあ言い換えれば、ケツを叩かれているとも解釈でき
るがね﹂
﹁つまり後方の安全は、あの者たちが担ってくれると?﹂
﹁そういうことだろう。だからこそ、表立って我らに接触してこな
い。この部隊の中に、貴族院の草が紛れ込んでいるのは間違いない
からな。しかしそれはいいとして、レムリアックにいる程度の兵数
だけで、果たして英雄殿はどうされるおつもりかな﹂
レムリアックに駐在する地方軍の数は、当然のことながらエレン
タムも把握している。
そして同時に、彼らの数が貴族院より遥かに少ないこともである。
﹁やはり後方からの奇襲に注意すべきでしょうか?﹂
﹁それは当然だな。実は英雄殿が動いておらず、あれが間抜けな敵
の偵察兵と言う可能性もあるのだから。もっともその場合は、数の
上でも陣形的にも、不利となることは否めないがね﹂
﹁となれば、あれが英雄殿の兵士だとそう祈るばかりです﹂
それはミカムルのまさに本音であった。
だからこそ、エレンタムは一つ頷き、そしてそのまま呟く。
﹁そうだな。いずれにせよ、あまり積極的に働くことを好む男では
ないが、黙って状況の推移を見物している人物でもない。彼の暗躍
1544
に期待しつつ、我々は目の前の敵に専念するとしようじゃないか。
何しろ、任せる相手が彼⋮⋮そう、ユイ・イスターツなのだからね﹂
﹁ゼス様。クラリス軍がこの地への進行を開始したそうです。それ
に対しフランツ達は、近日中にもここから討って出ると﹂
カーリンのほぼ中央に存在する、比較的綺麗な宿の一室。
ブリトニア軍に同行し、そこを間借りしていたゼスは、いつの間
にか姿を現した青年の報告を聞き首肯する。
﹁まあ妥当だろうね。こんな場所で敵に包囲されたら一網打尽さ。
で、何処で戦うことになりそうだい?﹂
﹁クラリスの連中が応じるならば、ルシーダ平原になるかと﹂
フランツ達から得た情報から、彼らが第一に考えている戦場をエ
ミオルは告げる。
それを受けて、ゼスはニコリと微笑んだ。
﹁はは、なるほど。フランツらしい手堅い選択だね。で、ブラウ君
達は?﹂
﹁クラリス軍の後背を突かんと、既に動き出した模様です﹂
﹁ふむ⋮⋮なるほど。さてそうなると、彼はどう動くかな?﹂
エミオルから告げられた情報を脳内で整理し、そしてゼスはおそ
らくカギを握る人物のことを、敢えてその口にする。
﹁彼と言いますと、調停者のことですか?﹂
﹁ああ、そのとおりさ。帝国に行ったあと、彼の動向は掴めていな
い。でもね、たぶん彼が姿を表すならこのタイミングさ。もしそう
でなければ、ただの無能者だから今後無視をしていい﹂
1545
薄く笑いながら、ゼスはそう告げる。
一方、そんな彼の表情を目にして、エミオルは正直な印象を口に
した。
﹁楽しそうですね、ゼス様﹂
﹁楽しい? ふふ、確かにそうかもね。自分の財布を使わずに、馬
鹿騒ぎが見れる。これが楽しくなくて、何を楽しむんだい﹂
﹁それは確かにその通りです。して、いかがされますか。我らに対
してカーリンに留まるよう、フランツは要請して来ていますが﹂
エミオルとしては、当然の要請だと思われた。
普通に考えるならば、ゼスが戦場に出ることなど、彼らにとって
邪魔者以外の何物でもないからである。
しかし、当の本人はそんなフランツの願望など欠片も歯牙にかけ
なかった。
﹁ははは、要請か。残念ながら、彼は私の上官ではない。そして正
式な同盟関係も締結したわけではない。だから残念ながら、そんな
ものに従う義理はないかな﹂
﹁よろしいのですね?﹂
念を押すように、エミオルはそう問いかける。
すると、眼前の少年は軽く首を縦に振った。
﹁もちろんさ。もっとも、色々と骨を折ってくれた彼らを無下には
出来ない。だから今回の戦いは、手出しだけはしないことにしよう。
エミオル、君もそれでいいね?﹂
﹁⋮⋮ゼス様がそうおっしゃられますなら﹂
些か思うところは存在したものの、ゼスの期待にそぐわぬ行動を
慎むことを優先し、エミオルは不承不承に頷く。
その反応に満足したゼスはニコリと微笑んだ。
1546
﹁結構。さて、どんな戦いになるかな。高みの見物をしている彼女
を引っ張り出し、彼と対峙するように仕向けられるようなものにな
れば、今後が面白くなるのだけどね﹂
﹁高みの見物をしている彼女⋮⋮ですか﹂
﹁ああ、まだこの舞台に上がりきっていない女王。つまり無様にも
神剣を失ったオリヴィアさ﹂
好機と見て軍こそ派遣したものの、全面的な介入を決断しえてい
ない異国の女王の名。それを口にして、ゼスは思わず右の口角を吊
り上げる。
一方、そんな彼の願望を正確に理解したエミオルは、起こりうる
一つの未来をゆっくりとその口にした。
﹁そうなると、いよいよ大陸西方は混沌となるでしょうな﹂
﹁だろう? さて、それじゃあ私達も彼の顔を拝みに行くとしよう
か。我が宿敵にして、調停者たるユイ・イスターツのその顔を﹂
1547
両軍、相対する
﹁報告します。敵、クラリス軍第一師団はもう間もなく平原に姿を
あらわす模様。その数はおよそ一万とのことです﹂
フランツへと報告する。
息を切らせながら駆けつけて来た兵士は、たった今偵察部隊によ
りもたらされた情報を、
﹁やはり貴族院からの情報通り、ほぼ同数⋮⋮か﹂
﹁一昔前ならば四万を動員すると言われたクラリスですが、相次い
だ混乱で見る影もありませんね﹂
副官のマリアーヌは、事前に収集していた情報と照らしあわせ、
敵軍の現状をそう評してみせる。
そんな彼女の見解に、フランツは一度頷く。しかし彼がその警戒
を緩めることはなかった。
﹁ああ。帝国との戦い、そして貴族院との内乱か。だが今回動かし
てきたのは、まさに奴らの虎の子だろう。甘く見るのは禁物だ﹂
﹁はい、わかっております﹂
﹁それで、彼らの動きはどうなっているのかね?﹂
フランツは改めて、報告に訪れた兵士へとそう問いかける。
﹁第一師団の後方を追ってきているようです。おそらくは少し遅れ
て平原入りするかと﹂
﹁ふむ。それで第一師団の連中に、気づいているそぶりはあったか
ね?﹂
﹁さすがに内部に入り込んで調査を行えたわけではありませんので
⋮⋮ですが、貴族院の部隊は五千近い兵数にのぼります。気づいて
いたとしてもおかしくはないかと﹂
1548
﹁確かにな。にも関わらず、まっすぐ我らへと兵士を向けてきてい
る⋮⋮か。いささか気に入らないな﹂
フランツは眉間にしわを寄せながら独り言のようにそう吐き出す。
すると、そんな彼の側に控えるマリアーヌは、自らの見解をフラ
ンツへと告げた。
﹁おそらくですが、短期決戦を狙っているのでしょうはないでしょ
うか﹂
﹁挟み撃ちになる前に、戦いを終えるつもりか。それならば、我ら
は守勢に徹すればいいだけだが⋮⋮﹂
敵が戦いを急ごうとしようとも、敢えてそれに乗ってやる必要は
ない。フランツはそう考えながらも、何か自らの考えの中に見落と
しがないか考えなおす。
一方、そんな彼の性格を熟知するマリアーヌは、あくまで無難な
見解をその口にした。
﹁いずれにせよ、敵より多数で戦うこと自体は悪手ではないかと思
います。現状として、敵がほぼ我々の思惑通り動いている以上、粛
々と作戦行動を進めるべきかと﹂
﹁確かにそうだな。敵が新たな動きをとった場合は、適宜対応する
としよう。いずれにせよ、各部隊長に通達せよ、敵の狙いに乗せら
れぬよう、決して先走るなとな﹂
﹁エレンタム閣下、敵はやはり予想通りルシーダ平原にて我らを待
ち構えている模様。その数はほぼ同数です﹂
エレンタムの副官を務めるミカムル五位は、たった今届けられた
1549
ばかりの敵の情報を、上官へと報告する。
﹁ご苦労。で、彼らは何か動きを見せているのかね?﹂
﹁いえ、今のところは﹂
﹁ふむ、我々が彼らに気づいたように、彼らも我らに気づいていて
も良さそうな頃合いだ。にも関わらず、動きがないとすれば⋮⋮ふ
ふ﹂
そこまで口にしたところで、エレンタムはニヤリと満足気に微笑
む。
一方、上官の笑みの意味を理解できなかったミカムルは、あくま
で一般論を口にした。
﹁彼らが動かないということは、やはり我々の背を追う犬に期待し
ていると、そう考えるべきでしょうね﹂
﹁ああ、たぶんな。まあ、私が彼らの立場でも基本的には同じこと
を考え、そして選択するだろう。守勢に徹して、挟撃体制が整うま
で待てば良いと﹂
指を一本立てながら、エレンタムはミカムルに向かってそう告げ
る。
その上官の言動を、妥当なものだとしてミカムルも頷いた。
﹁消極的ではありますが、確実な選択ですね﹂
﹁うむ。そしてだからこそ、彼らはこう考えているはずだ。我らが
貴族院の犬どもに気づいているのならば、短期決戦に持ち込むこと
を狙っているだろうと﹂
﹁実際のところ、その手しかないでしょうから﹂
そのミカムルの言動。
それを耳にした瞬間、エレンタムは小さく首を左右に振る。そし
て意味ありげな笑みを浮かべると、ゆっくりとその口を開いた。
1550
﹁果たしてそうかな? ここから大きく敵軍を迂回し、彼らの後背
へと回り込めば、挟撃は免れる事ができる﹂
﹁それはそうかもしれませんが、一度に多数の敵と相対せねばなら
ないのは変わりません。ましてや敵も、すんなりと迂回を見逃して
はくれないでしょう。それならまだここで反転し、貴族院を先に殲
滅することを狙ったほうが上策かと思います﹂
すぐに人を試す上官の悪癖が出たと思いながら、ミカムルは次に
問いかけてくるだろうエレンタムの仮説を先回りして潰しにかかる。
一方、そんな部下の内心を洞察したエレンタムは、敢えて意地の
悪い問いかけを重ねた。
﹁そして自らの後背を、ブリトニア軍に晒すというわけかい?﹂
﹁短期決戦を前提とするのならば、まだ少数の敵と一戦交えること
を考えたほうが、幾分マシかと思います。違いますか?﹂
ミカムルの正論ともいうべきその問いかけ。
その回答をこそ求めていたエレンタムは、満足そうに一つ頷く。
﹁違わんな。私も当初はブリトニアと適度な距離に達したところで
急反転し、貴族院をまず叩き潰すつもりだったのだから﹂
﹁そして慌てて急進してきたブリトニアに逆撃を加える⋮⋮ですか。
私も自分で言い出しておきながらなんですが、人数を上回る敵に対
し些か虫の良すぎる計画ではないかとも思います﹂
ミカムルは先ほど自分が逆提案を行ったこともあり、わずかに苦
い表情を浮かべながらそう口にした。
途端、そんな彼の見解をエレンタムは素直に認めると、改めて彼
は自らの考えを述べる。
﹁まあな。だが先に貴族院を討伐しにかかれば、彼らはおそらく自
領に引きこもる。それはブリトニアに時間を与えることと同義だ。
それ故に、彼の描いている絵に乗るのが最善だと判断したわけだよ﹂
1551
﹁なるほど⋮⋮しかし、本当に彼らは動いているのでしょうか?﹂
﹁心配かね?﹂
ミカムルの言葉と声色に、少なからぬ不安の成分が含まれていた
ことに気づいたエレンタムは、端的に彼へと問いかける。
すると、ミカムルは神妙な表情を浮かべながら、ゆっくりと頷い
た。
﹁否定はしません。いえ、もちろんあの方の実力を疑っているわけ
ではないのですが⋮⋮﹂
﹁一度、表舞台から姿を消した英雄は、果たしてかつての英雄のま
までありえるか否か⋮⋮か。ふむ、実に興味深い疑問だ。だが、私
は別の問いかけを彼に投げかけたいと思う﹂
エレンタムがそこまで口にしたところで、ミカムルが彼へとその
先を促す。
﹁別の問いかけですか﹂
﹁ああ、別の問いかけだ。我が親友の教え子たるあのだらしない英
雄は、果たして心を入れ替えてきたのか否かというな﹂
﹁それはまた⋮⋮ですが、確かに戦略省次官の教え子に当たるので
すよね、あの方は。とはいえ︱︱﹂
ミカムルが更に言葉を続けようとしたその時、彼の配下に当たる
一人の壮年の兵士が、慌てて彼らに向かい声を発した。
﹁報告します。まもなく前衛の魔法士隊が敵部隊をその射程に捉え
ます﹂
﹁ふむ、了解した。どうやら雑談の時間は終わりのようだな。ここ
からは我が軍の力を見せることにしようか。海をわたってきた目の
前の敵兵達と、そして後方に控えているだろうあの男にな﹂
そう口にすると、エレンタムは不敵に笑い、そして自らの手を軽
く掲げるとなめらかに前方へと振り下ろす。
1552
後にルシーダ平原の戦いと呼ばれるブリトニアとクラリスとの戦
い。その戦いの幕はここに切って落とされた。
1553
ルシーダ平原の戦いⅠ
﹁魔法士隊、一斉射撃。撃て!﹂
エレンタムの指示が発せられると同時に、予め打ち合わせされて
いたとおり、前線からは無数の氷の魔法が解き放たれる。
だが結果を目にするより早く、エレンタムは部下たちに向かい指
示を下した。
﹁騎馬隊、一斉に突撃する。私に続け!﹂
その言葉を発するなり、エレンタムはまさに先陣をかける形で馬
を走らせ始める。
それを目にした兵士たちは、指揮官に負けまいと一斉に突撃を開
始した。
﹁お待ち下さい、エレンタム様。いくらなんでも危険すぎます﹂
﹁ふ、まあな。だが、このタイミングなら悪くはない判断のはずだ﹂
血相を変えて追いすがってきたミカムルに対し、先陣を駆けるエ
レンタムはあくまで冷静極まりない表情で、そう言葉を返した。
﹁ど、どういうことですか?﹂
﹁ミカムル、我が師団はこれまで王都最後の守りを担ってきた。し
かしだ、このような野戦で攻めることには慣れていないものが多い。
だからこそ、私の背中を見せるのだよ。この一番安全なタイミング
でな﹂
そう口にすると、エレンタムはニヤリと笑った。
一方、彼と並走するミカムルには、その言葉の意味がわからず、
思わず声を張り上げて上官を窘める。
1554
﹁最前線のどこが安全だというのですか!﹂
﹁少なくとも、敵が魔法を放つ準備をしておらず、そして我らの魔
法を防がねばならぬこの機。このタイミングのみは安全だよ﹂
﹁な⋮⋮では、閣下の突撃はあくまでの演出だと﹂
﹁ああ。見てみろミカムル、我らが兵士たちの顔を﹂
エレンタムがそう告げるなり、ミカムルは周囲を見回す。
すると、彼らの兵士たちの顔からは先ほどまでの戦いを前にした
恐怖が薄れ、ただまっすぐに敵に向かい駆け続けていた。
﹁もちろん、私が最初にやられればこの戦いは終わりだ。だから本
格的な戦闘が開始すれば、私は後方へと下がる。だがその分も、今
はこの背中を彼らに見せねばならんのだ!﹂
﹁⋮⋮分かりました。では、万が一の際は私が御身を守らせて頂き
ます﹂
感情的には同意しがたかったが、実際に兵士たちの表情を目の当
たりにしたミカムルは、エレンタムに向かいそれだけを告げる。
﹁すまない、迷惑をかけるな﹂
﹁いえ、これも副官の仕事ですから﹂
そう口にすると、ミカムルはもはや上官へと視線を向けることな
く、ただ正面だけを見据えた。
そう、まさに氷魔法が襲いかからんとしている敵陣だけを。
﹁司令官、まもなく敵魔法が着弾します!﹂
敵陣より迫り来る無数の氷の刃。
それはマリアーヌの報告を受けるまでもなく、フランツにもわか
っていた。
1555
だが、それは予測されていた敵の行動であり、彼は部下を立てる
ために敢えて確認を行う。
﹁魔法士隊の準備は?﹂
﹁既に整っております﹂
﹁では、予定通り魔法障壁を展開させよ!﹂
まさに予定通りの敵の行動に対し、フランツ率いるブリトニア軍
は予定していた対応を行う。
その結果は、当然の事ながら予想通りのものであった。
﹁敵魔法、着弾。ですがほぼ防ぎきりました。被害軽微です!﹂
﹁よろしい。では突進してくる、敵騎馬隊と歩兵部隊に対応する。
全軍予ての指示通り鶴翼陣を取れ﹂
またしても、敵の行動はフランツの予想通りのものであった。
つまり短期決戦を意識するが故、遠距離戦を早々に切り上げるだ
ろうというと言う読み、それがまさに目の前で展開されつつあった。
一方、完全に敵の行動が予定通りであるため、マリアーヌはフラ
ンツの指示に対し、戦闘中にもかかわらず僅かに笑みを浮かべる。
そして大きく一つ頷くと、彼女は幕僚たちに向かい、指示を繰り返
した。
﹁はっ、中央部は後退。左右両翼は中央とのバランスを見ながら敵
との距離を計れ!﹂
司令部から下されたその命令。
それは予め訓練が重ねられていたものであり、全軍は比較的スム
ーズに、中央部へと敵を誘い込む陣形を取る。
﹁敵の動きに変化はないか?﹂
﹁いえ、今のところは変わりありません。このまま後退した中央部
1556
目掛けて飛び込んでくるものと思われます﹂
﹁⋮⋮そうか。おそらく我らの対応も予想していただろうが、思っ
た以上に奴らに選択肢がなかったということだろうな﹂
﹁はい。奴らの後方を御覧ください。どうやらこの機を窺っていた
ようです﹂
マリアーヌは右手の人差指を迫り来る敵の更に向こうへと向ける。
そこには、予てより約を交わしていた者たちの姿が存在した。
﹁貴族院のお出ましか。よし、彼らが奴らの背後を蓋するまでは、
予定通り守勢に徹する。もし陣営が手薄になったり、突破されかか
った場合は、早急に報告するよう指示を徹底しろ﹂
﹁はい、了解いたしました﹂
戦いが始まり、そしてここまではその全てが彼らの思惑通りに進
んでいた。
だからこそ、彼らは決して口には出さないものの、その内心では
一つの確信を抱いていた。
そう、この戦いにおける自軍の完全なる勝利の確信を。
﹁テムス、完全に奴らの背後を取ったぞ﹂
﹁ふふ。ご苦労、エミリオッツ殿﹂
総指揮官をブラウより任されたテムスは、部隊の直接指揮をとっ
ていた元陸軍省次官であるエミリオッツに向かって、ねぎらいの言
葉を掛ける。
﹁なに、陸軍の奴らに比べれば動きは悪いが、ブラウ公の金払いが
良いだけあっていうことはよく聞く。流石と言ったところだな﹂
1557
﹁ああ。さて、我々が後背を押さえたことで、戦いはほぼ決まりだ
な。あとは、どうするかだが﹂
エミリオッツの言葉に一つ頷くと、右の口角を僅かに吊り上げな
がら、テムスはそう口にする。
﹁どうするかだと? あの小生意気なエレンタムを挟み撃ちにする
のではないのか?﹂
﹁それはもちろん、やらねばならん。だが、大事なものはタイミン
グだ﹂
﹁連中がブリトニアと接触した今こそが好機だと思うが、何か違う
というのか?﹂
テムスの言葉の意味がわからなかったエミリオッツは、眉間にし
わを寄せながらそう問いかける。
すると、テムスは意味ありげな笑みを浮かべてみせた。
﹁違いはせん。ただな、この戦いの後のことを考えておくべきだと
いうことだ﹂
﹁この戦いの後だと⋮⋮そうか、奴らを疲弊させておきたいという
ことか﹂
この状況下で部隊を急進させない理由。
それに思いが至ったところで、エミリオッツは目の前の策士の意
図をようやく理解する。
﹁そのとおりだ。ブリトニアの連中は本国から離れこの地に存在す
る。となればだ、今後しばらくは、この戦いを終えた時点での彼我
の戦力で、相互の力関係が決まるということだ。もちろん無用な緊
張を生む必要はないから、程よいタイミングで部隊は動かさねばな
らんがな﹂
﹁なるほど、奴らがある程度傷つきつつも、我々に不審を抱かぬギ
リギリのタイミング。そこでエレンタムたちへと襲いかかるという
1558
わけだな﹂
テムスの企みを完全に理解したエミリオッツは、そう口にするな
り、歪んだ笑みを浮かべる。
すると、正解だとばかりにテムスは大きくうなずいた。
﹁そのとおりだ。しかしそうとなれば、エレンタムにももう少し働
いてもらわねばな﹂
﹁ふん、元上官は人使いが荒いな。今や敵対する関係になりながら
も、奴を働かそうとするか﹂
﹁なに、反抗癖のあるものわかりの悪い部下だったのでね。苦労さ
せられた分を今回返済してもらうとしよう﹂
﹁はは、なるほどな。しかしエレンタムも我らの存在に気づいてい
ただろうが、それでも前に進むしかないか。まさに苦肉の策といっ
たところだな﹂
テムスの物言いに苦笑を浮かべながら、エミリオッツは第一師団
の行動をその目にして、思わずそう評する。
﹁鼻持ちならぬ自信家の奴には良い薬だ。家の格もわきまえず、我
らにしばしば楯突いた報いは、労働の後に受けてもらおう﹂
﹁働かせるだけ働かせて、最後はその息の根を止めるか。実にテム
ス殿らしい策だ。良いだろう、いつでも部隊を動かせるように。準
備だけは行っておく﹂
﹁頼む。と言っても、負けのない戦いだから焦らずに︱︱﹂
微笑を浮かべながらテムスが、軽口を口にしかかったその時、突
然後方から駆けつけた兵士が彼の声を遮った。
﹁総指揮官、少しご報告よろしいでしょうか﹂
﹁なんだ、突然に。急ぎの用かね?﹂
会話を中断させられたテムスは、不機嫌さを隠すことなく、兵士
1559
に向かってそう問いただす。
すると、中年の兵士はやや狼狽しながらも、恐縮気味に言葉を発
した。
﹁その⋮⋮周囲の警戒に向かわせておりました、十数名ばかりの部
隊がいるのですが、戦闘開始前に帰還するよう指示しながら未だ帰
還しておりませんで﹂
﹁十名? 間違えてエレンタムの陣に近寄りすぎて、戦闘前に奴ら
に捕らえられたのではないか?﹂
﹁いえ、それが前方ではなく主に後方の確認を行わせていた部隊で
して﹂
後方の安全確保と、逃亡兵の抑止。
その為に用意していたうちの一つの部隊が一向に帰ってこないこ
とを受け、索敵部隊を束ねる部隊長の彼は司令官のもとに報告へと
やってきていた。
一方、あまりの数の少なさからテムスはまったく興味をそそられ
ることなく、その報告を軽く鼻で笑う。
﹁ふん、どうせさぼっておるのだろう。如何に金払いが良かろうと
も、サボる奴はサボるからな﹂
﹁はぁ⋮⋮どう致しましょう。捜索に部隊を向けますか?﹂
﹁馬鹿か、貴様は。たかが十名のために戦闘を前にして人員を割け
るか﹂
すぐさま発せられたテムスの叱責。それを受けて、部隊長はその
場に凍りつく。
そんな二人のやり取りを見ていたエミリオッツは、部下の扱いが
厳しいテムスに嘆息しながら、気の毒に感じた部隊長に向かって助
け舟を出した。
﹁まあ、待てテムス。どうせすぐには部隊を動かさんのだ、少しく
1560
らいは構わんだろ。そいつらを見つけて罰を与えれば、他の連中を
引き締めることになるだろうしな﹂
﹁⋮⋮ふむ。ならば、貴公に任せる﹂
﹁ああ、一任されよう。しかし、サボるなら確かに後方配置の部隊
や警備のものだわな。さて、どんな薬をつけてやるかだが⋮⋮ん?﹂
テムスの許可をとったエミリオッツは、苦笑を浮かべながらその
視線を後方へと向ける。そこで彼は、思わぬものを目にして、突然
その思考を停止した。
﹁どうした、エミリオッツ。サボっていた連中でも見つけたか?﹂
急に身動きを取らなくなったエミリオッツをその目にして、テム
スは訝しげな表情を浮かべながらそう問いただす。
すると、エミリオッツは後方に視線を向けたまま、一つの疑問を
口にした。
﹁いや、違う。だが⋮⋮あれは何だ?﹂
﹁あれ?﹂
﹁あの東に見える、光っているものだ﹂
エミリオッツはテムスにわかるよう、空に浮かび上がった眩い球
体を指差す。
それを目にして、テムスはその眉間に深いしわを寄せた。
﹁太陽⋮⋮違う。それは頭上にある。他にあんなものは⋮⋮いや、
馬鹿なそんなはずは﹂
たった一つだけ思い当たるものが存在することに気づくと、テム
スは突然血相を変える。
一方、そんな彼の動揺を理解できず、エミリオッツはただ感じた
ことをそのまま口にした。
﹁テムス⋮⋮なんか近づいてきてないか? しかも気のせいか、暑
1561
い﹂
﹁太陽の如き輝きを放ち、さらに地を焦がす炎の如き熱を⋮⋮いや、
判じている場合ではないっ、全軍、散開せよ!﹂
﹁は? 何を言って︱︱﹂
突然発せられたテムスの命令を理解できず、エミリオッツは彼に
向かってその理由を問い返そうとする。
しかしそんなエミリオッツの問いを遮ると、顔を青ざめさせたテ
ムスは悲鳴の如き言葉を発した。
﹁馬鹿者、わからんか。議論している場合ではないと! 命が惜し
かったら散れ。あれは⋮⋮あれは、集合魔法だ!﹂
1562
ルシーダ平原の戦いⅡ
﹁直撃、直撃しました。貴族院の部隊は混乱している模様!﹂
﹁ふむ、さすが集合魔法。この人数でさえ、これだけの威力がある
とはね。いやはや、この部隊を編成してくれたノインには頭が上が
らないところだ﹂
伝令兵からの報告を受け取ったユイは、ニコリと微笑みながらそ
う告げる。
一方、そんな彼の発言を耳にしたロイスは、やや呆れ気味にその
口を開いた。
﹁兵士数は半分でも良いから、大半を集合魔法が使える魔法士にし
てくれないと部隊は預からない。兵士を借りる側の人間が、普通で
はありえないそんな図々しい要求をされたと伺っていますが?﹂
﹁はは、どうだったかな。でも最終的に気のいい彼が色々と骨を折
ってくれたことは、私も流石に覚えているよ﹂
軽く肩をすくめながら、ユイはまったく気にした素振りも見せず
そう言い放った。そして彼は、ゆっくりとその場を歩み出すと、自
分の馬へ向い歩み出す。
そんな彼に向けて、ロイスは迷いの捨てきれぬ口調で、言葉を口
にした。
﹁閣下⋮⋮本当にあとを私にお任せになられてよろしいのですね?﹂
その言葉が向けられると、ユイはその場に立ち止まり、頭を掻き
ながらゆっくりと振り返る。
﹁もちろんだよ。魔法公国と戦った時と同じさ。何か問題でもある
のかい?﹂
1563
﹁あの時とは状況も、任される権限も違います。それは貴方もおわ
かりでしょう!﹂
自らの指摘しようとすることを、まったく気にした素振りを見せ
ぬユイに向かい、思わずロイスは声を荒げる。
それに対し、ユイは思わず苦笑を浮かべると、ごまかすようにそ
の口を開いた。
﹁確かにそれもそうか。あの時は戦いが終わってから、勝手に君に
部隊を押し付けただけだったしね﹂
帝国と魔法公国との戦いにおいて、集合魔法を放ち終えたあと、
忽然とその姿をくらませたユイ。
その目的は、帝国軍抜きでナーニャの父である前魔法王と話し合
いを行うためであったが、その際には何一つ告げることなく、彼は
部隊をロイスに押し付ける形となっている。
﹁イスターツ閣下、あらためて言うまでもないことですが、本来あ
なたと私は異なる旗の下に属する身です。もしあなたを消し去るよ
う陛下から密命を帯びていた場合、この状況はまさに最高のシチュ
エーションと言えるでしょう。預けられた部隊が貴方の背を撃てば、
帝国は易々とこの国を手に入れられるでしょうから﹂
目の前の黒髪の男から一切視線をそらすことなく、ロイスはそう
告げる。
一方、生真面目な彼の言葉を受けて、ユイは二度頭を掻くと、は
っきりと自らの考えを口にした。
﹁ふむ⋮⋮それはそうかもしれないね。でもね、それでも君にすべ
て任せるよ。それはこの作戦を実行する上での大前提だからさ﹂
﹁本当に良いのですね? かつて私は、あなたによって苦汁をなめ
させられた身です。それでも信用されると?﹂
﹁はは、本当に迷っている人間は、目の前の相手にそんなことは言
1564
えないさ。それに何より、君を信用せずこの戦いに負けたら、どう
せこの国は滅びる。だったら人を信じて負けた方が、まだ有意義な
最後だと思わないかい?﹂
ユイはそれだけ告げると、ロイスの肩にポンと手を置き、再び愛
馬に向かって歩み始める。
そんな彼の背に向かい、ロイスは慌てて声を発した。
﹁イスターツ閣下⋮⋮﹂
﹁はは、私の背中は君に預ける。頼んだよ、ロイス君﹂
ユイはそれだけ告げると、既に準備を整えていたレムリアック兵
たちの先頭に立ち、目指すべき場所に向かい、馬を走らせていった。
﹁ロイス隊長⋮⋮いかがしましょうか?﹂
そうしてその場に残されたロイスに向かい、魔法士隊を率いる魔
法士長が恐る恐る声をかける。
すると、ロイスは一度目をつぶり、そしてその視線を、狙うべき
ターゲットへと向け直した。
﹁グレーツェンクーゲル、再準備。目標は予ての指示通りだ﹂
それは自軍と敵が接触するまさに直前の出来事であった。
突然後方で熱と光を撒き散らしながら、激しい魔法の爆発が起こ
ったのは。
﹁あの時よりも遥かに小型ではあるが、その威力はやはり集合魔法
といったところだな﹂
1565
エレンタムはかつての記憶から、すぐにその存在を理解した。
当時士官学校の教授職をつとめていた彼は、その屋上から一つの
魔法を目にしたことがある。王都エルトブールに向けて放たれ、そ
してある男の介入により、敵に向かって突然反転したその光と熱の
魔法を。
そしてだからこそ、彼は改めてここに確信した。
何者がこの絵を描いているのかということを。
﹁奴らの部隊の一部は、既に貴族院に向かって突撃を開始している
⋮⋮か。なるほどな、そういうことか﹂
﹁エレンタム様?﹂
ブリトニア軍を前にしながら、突然独り言をつぶやきはじめた上
官に向かい、ミカムルは疑念を示す。
すると、彼の上官は思いもよらぬことを口走り始めた。
﹁よし、全軍反転。後方の貴族院に向けて、行動を開始せよ。但し
それはあくまで擬態だ。もう一度指示を下した際に、再び再反転を
行い、ブリトニア軍と対峙する﹂
﹁ど、どういうことですか? 如何に我が軍の練度が高いとはいえ、
そんな無茶な用兵は敵に隙を見せることになるだけかと﹂
副官を務めるミカムルは、理解できない上官の指示を耳にして、
慌てて反論を行う。
しかしそんな彼の忠言を、エレンタムはあっさりと却下した。
﹁それでも構わん。君の危惧には結果をもって答えよう。それこそ
が、奴が最も望む行動のはずだからな﹂
﹁奴⋮⋮ですか﹂
上官の言葉を受けて、ミカムルは確認するようにそう言葉を発す
る。
1566
すると、エレンタムは迷うことなく、大きく一つ頷いた。
﹁ああ、奴だ。しかし俺が試すつもりであったが、これは逆に俺を
試しているつもりか、ユイ・イスターツ﹂
エレンタムはそう口にすると、ブリトニア軍の眼前まで進めてい
た兵を突然反転させる。
それはブリトニアと交戦を開始する直前、まさにギリギリのタイ
ミングであった。
﹁敵魔法の被害甚大です。直接魔法が直撃した周囲には生存者はお
らず、数百名以上が巻き込まれた模様﹂
慌ただしく届けられる無数の報告。
敵の後背を突くだけのつもりでこの地に来ていた兵士たちは、ま
さか自分たちが背後を突かれることになるとは思っておらず、まし
てやそれが通常目にすることない魔法によるなどとは考えてもいな
かった。
それ故に各部署から司令部へと送られる報告は、そのいずれもが
動揺と恐怖に満ちており、現状を冷静に見渡せるものは誰ひとりと
して存在しない。
そしてそれは司令部であるテムス達の周囲も、まったく他と変わ
らぬ状況であった。
﹁くそ、なぜ帝国の兵士たちが我が国に侵入しているというのだ!﹂
﹁わかりません。それよりも、突如現れた敵軍の上空に再び集合魔
法が形成されつつあります。こ、このままでは!﹂
幕僚達の苛立ちと悲鳴が、司令部内に響き渡る。
1567
そんな彼らを目にして、最初に冷静さを取り戻したのは、元陸軍
省次官のエミリオッツであった。
﹁慌てるな! ソーバクリエンの野戦でクラリス軍が受けた被害よ
り、今のは遥かに極小だ。つまり連中の魔法士の数は少ないことを
意味している。ならばだ、やられる前にやればいい。そうだろ、テ
ムス﹂
﹁あ⋮⋮ああ、そのとおりだ﹂
エミリオッツに話を振られたところで、テムスはどうにか正気を
取り戻す。
そんな彼を目にしたエミリオッツは一つ頷くと、すぐさま自分た
ちの後方に存在する一団を指差した。
﹁見ろ、連中は我々の半分もおらん。誘爆の危険性から魔法が使え
なくなる距離まで接近し、そのまま取り囲んでしまえば勝負は決す
るぞ﹂
﹁報告します。敵二百名規模の小集団がこちらに突入してきました。
まもなく、この司令部に到達する模様。至急ご避難を!﹂
エミリオッツが自らの考えを実行に移すその直前、司令部に走り
こんできた部下の一人が、慌ててその報告を行う。
﹁何だと! 確かに被害は出たが、我らの十分の一にも満たぬ数で
はないか。にも関わらず、なぜ避難などする必要がある!﹂
﹁それはそのとおりなのですが、指揮系統が混乱しておりまして⋮
⋮﹂
明らかに不機嫌となったエミリオッツのその表情を目にして、報
告兵はそれ以上言葉を紡ぐことができなくなる。
一方、彼の隣でその報告を耳にしていたテムスは、苛立ちを隠せ
ず地面を蹴りつけた。
1568
﹁またしても先手を取られたということか。後方に注意を払ってい
なかったとはいえ、なんと狡猾な⋮⋮帝国兵どもはやはり卑怯者の
集まりだな﹂
﹁いえ、それがその⋮⋮突入してきた部隊は、どうも我が国の装備
に身を包んでおるようでして﹂
指揮官達の怒りをその目にして、口にするかしないか迷いながら
も、兵士はその事実を彼らへと告げる。
途端、テムスの怒りに満ちた声がその場に発せられた。
﹁バカな、奴らが先ほど使ったのは、集合魔法だ。何者が、帝国と
結託してこのような真似を︱︱﹂
﹁すみません、テムス次官。ちょっと人手が足りなかったもので、
私が彼らをお招きしたんですよ﹂
エミリオッツの言葉を遮った存在。
それは突然この司令部へ乗り込んできた、黒髪の一人の男性であ
った。
﹁ゆ、ユイ・イスターツだと!?﹂
その姿を目にした瞬間、テムスは声を上ずらせながら後ずさりし
た。
それは彼の部下たちも同様であり、場の空気は途端に硬直する。
しかし、直後に次々とレムリアックの兵士たちが雪崩れ込んでき
たことで、司令部はまさに混乱と混沌に包まれていった。
﹁イスターツ、貴様なんのつもりだ!﹂
怒気を隠すことなく、顔を真っ赤に染め上げながら、エミリオッ
ツはユイ目掛けて愛槍を振るう。
陸軍省時代に鍛え上げられたその一撃に対し、ユイは馬から飛び
降りて一度距離を取る。
1569
﹁お久しぶりです、エミリオッツ次官⋮⋮いや、お二方とも元次官
ですか。ともかく、私もそろそろ働かないと、色々と状況がまずく
なってきましてね。こうしてやむなく表舞台に帰ってきたわけです﹂
﹁ふざけるなよ。貴様、この国を帝国に売るつもりか!﹂
﹁いえ、彼らにはちょっとお手伝いをお願いしただけですよ。と言
うか、カーリンをブリトニアに売り渡した貴方がたに言われるのは
如何なものかと﹂
再び距離を詰めて槍を振るわんとするエミリオッツに対し、ユイ
は逆に一瞬で間合いを詰める。そして彼は、エミリオッツの手にす
る槍の柄を掴み取った。
﹁ぬう、貴様!﹂
﹁さて、これはちょっと預からせていただきますね﹂
ユイはそう口にすると、エミリオッツとの間合いを更に詰め、そ
してその胸に肘の一撃を叩き込む。
その衝撃に思わずエミリオッツは槍を手放して転げまわる形とな
った。
﹁エミリオッツ!? くそ、たしかに貴様は強い。だが、ここで我
々を倒したとして、それだけの数で逃げられると思うなよ﹂
﹁この混乱に乗じたら、逃げることはそう難しくは無いとおもいま
すよ。ですが残念ながら、今逃げるわけには行きませんもので⋮⋮
と言っている間に、そろそろ次が来る頃合いですね﹂
エミリオッツの槍をその手にしながら、何気ない素振りで後方を
振り返ったユイは、その視界に光り輝く球体が動き出したのをその
目にする。
﹁次⋮⋮だと。ま、まさか! 馬鹿な、お前たち自身を生け贄に!
?﹂
迫り来る小型集合魔法をその目にして、テムスは思わず後ずさり
1570
する。
しかしそんな彼に向かい、目の前の黒髪の男は、苦笑を浮かべな
がらゆっくりと首を左右に振った。
﹁はは、流石に私も命が惜しいのでそれはありませんよ。方向は同
じなんですけど、先ほどとはちょっとだけ狙いが違うんです﹂
ユイはそう口にすると、テムスの彼方に存在する集団を、彼はそ
の視界に収める。
そう、そこには追う一段と、追われる一団が存在し、極めて大規
模な追いかけっこが行われていた。その光景を目にして、ユイは思
わず虚空に呟く。
﹁しかし完全に私の意図を汲み取ってくれているとは、さすがです
ね﹂
その言葉は一人の男性へと向けられていた。
ユイをして称賛以外の言葉が見当たらぬ状況把握と判断を行って
みせた男、エレンタム・フォン・ラムズへと。
1571
ルシーダ平原の戦いⅢ
彼方より飛来する巨大な光と熱の集合体。
それを目にしたマリアーヌは、隣に立つフランツに向かって悲鳴
に近い声を上げた。
﹁し、司令官。先ほどの謎の巨大魔法が、我が軍中央部に向かって
います!﹂
﹁急ぎ散開させろ。直撃だけは避けるのだ!﹂
貴族院に直撃した際の光景を目にしていたフランツは、最悪の事
態を想定しながら、素早く指示を下した。
もはや眼前のクラリス軍の背を追うことも忘れて、彼らはひたす
らに予期されうる着弾地点からの回避を図る。
そんな彼らの努力は、見事に実ることとなった。
地面と衝突すると同時に放たれる光と熱。
そのまさに中心部からの退避に、殆どのブリトニア兵は間に合っ
たのだ。
﹁ちゃ、着弾しました。ですが、被害は軽微。ギリギリですが散開
が間に合った模様です﹂
次々と届けられる報告を確認し、マリアーヌは安堵の表情を浮か
べながらそう告げる。
すると、フランツもようやく眉間の皺を解いて、満足そうに頷い
た。
﹁間一髪のところだったな。しかし距離があったおかげとはいえ、
一度見ていなければ、手のうちようがなかった﹂
1572
﹁はい。しかしあのとんでもない魔法は、何なのでしょうか?﹂
﹁おそらくは⋮⋮集合魔法だろう﹂
フランツは苦い表情を浮かべながら、たった一つだけ考えられた
その魔法の名を告げる。
しかしそんな彼の仮説を、マリアーヌは素直に同意することが出
来なかった。
﹁集合魔法⋮⋮帝国が開発したと言われるあの魔法のことですか。
では、帝国とクラリスは手を結んだと?﹂
﹁わからん。だが、あの遠くに見える小集団は、帝国の者たちなの
かもしれん。いずれにせよだ、第二撃をくらわんためにも、います
ぐクラリス軍を一飲にして︱︱﹂
﹁司令官、敵です!﹂
フランツの言葉を遮るような兵士の叫び声。
それを耳にして、フランツは咄嗟に東の上空へと視線を移す。
﹁敵だと⋮⋮まだあの化け物のような集合魔法は見当たらんが﹂
﹁違います。魔法ではありません。クラリス軍です。先ほどの魔法
が直撃した場所に、突如としてクラリス軍が殺到して来ました﹂
﹁なん⋮⋮だと!﹂
慌てて下げた視線の先。
そこにはその背を追いかけていたはずのクラリス軍が存在した。
彼らはいつの間にか反転し、我が軍へとその矛先を向けている。
その狙いはたった一点。
先ほど魔法が直撃した地点、つまり部隊が最も手薄となっている
ブリトニア軍の中央部であった。
1573
﹁進め、進め。敵陣の中央突破を図る好機は、今この時をおいて存
在しないぞ!﹂
エレンタムの覇気溢れる声が、戦場にこだまする。
指揮官のその言葉を受け、戦場を駆ける兵士たちは、次々と敵中
央部目掛けて突入していった。
﹁さすがです、エレンタム様。敵陣の中央が薄くなることを見越し
て、再反転中央突破を図られるとは﹂
賛辞を口にしながらも、上官のエレンタムが行おうとした反転に
対し一度は疑念を呈したミカムルは、自らを恥じずにはいられなか
った。
一方、そんな副官の内心を知ってか知らずか、エレンタムは首を
二度左右に振る。
﹁ミカムル、それは違うな。その賛辞は私ではなく、あの男に与え
られるべきだ﹂
﹁あの男⋮⋮それはやはりユイ・イスターツのことですね﹂
﹁ああ。集合魔法はたしかに素晴らしい魔法だ。どんな取り引きを
したのかは知らんが、彼らをこの戦場まで連れてきただけでも、十
分称賛に値するだろう。だがしかし、それ以上に賞賛されるべきは、
彼のその運用方法だ﹂
エレンタムは険しい表情を浮かべながら、この状況を生み出して
みせた男のことを、ほぼ手放しで賞賛してみせた。
一方、彼の副官であるミカムルは、上官の口走った一つの言葉が
理解できず、わずかに首を傾げる。
﹁運用方法⋮⋮ですか﹂
﹁集合魔法には、致命的な欠点がある。あの破壊力故に、味方を巻
き込みかねぬというな。だからこそ、普通に考えればその運用には
1574
少なからぬ制限が課されることになる﹂
﹁例えば既に我々と彼らが交戦を開始していた場合、彼は集合魔法
を撃てなかったというわけですね﹂
敵味方入り交じる混戦状態において、集合魔法を撃つことが何を
意味するか、それは自明の理であった。
そんなミカムルが出してきた喩えに対し、エレンタムは迷わず首
を縦に振る。
﹁その通りだ。だからこそ、奴はまず貴族院へと集合魔法を打ち込
んだ。自分たちの存在と切り札を見せつけるためにな﹂
﹁見せつけるためというのは、もしや我々にだけではなく、ブリト
ニアにも?﹂
﹁ああ。もし集合魔法の狙いが、最初からブリトニア軍であった場
合、その後どうなっていたと思う?﹂
﹁それは先程以上の損害を敵に与えられていたと思いますが﹂
ミカムルは迷うこと無く単純な回答を口にする。
すると、彼の上官はそんな彼の言葉を否定すること無く、ただ一
言だけ付け加えた。
﹁一度だけはな﹂
﹁一度だけ?﹂
﹁そうだ。集合魔法の威力を目にした敵は、死にものぐるいで我々
に取り付いてくるか、早期撤退を決心しただろう。前者ならば、味
方である我々を巻き込む集合魔法は撃てない状況で戦いを継続する
ことになる。そして後者ならば、集合魔法を警戒された状況で、今
度は我々以上の総数となる貴族院とブリトニア連合と正面切って戦
うことになっただろう。いずれにせよ、あまり芳しい未来とはいえ
んな﹂
エレンタムが口にした仮定。
それを頭のなかで反芻したミカムルは、確かに否定出来ないこと
1575
をすぐに理解する。
﹁確かにそのとおりですね。イスターツ閣下の率いておられる帝国
兵はその数があまり多くないご様子ですし、かつて我が軍を壊滅さ
せたような威力の集合魔法は使えないでしょう。となれば、正面決
戦となった場合、結果がどう転ぶかは予断を許しません﹂
﹁そう、だから彼は我々がブリトニアと接敵する直前に、貴族院に
最初の一発目を撃ちこんだのだよ。私に対して自分の描く絵に乗れ
という意味も込めてな﹂
﹁それほどまで考えられた先手だったというわけですが⋮⋮﹂
エレンタムの解説を受けて、ミカムルは思わず黙りこむ。
もちろん彼も救国の英雄の能力は十二分に知るところであった。
しかしながら、目の前で次々と動く戦況を、最も兵士数の少ない部
隊を率いる男が、完全に支配しているという事実に驚愕を禁じ得な
い。
だが、彼に驚いているだけの時間が与えられることはなかった。
なぜならば、先頭部隊に同行していた兵士が、大急ぎで司令部へ
と駆け込んできたためである。
﹁司令官、先頭部隊は完全に敵の後衛を完全突破。敵軍の分断に成
功しました﹂
﹁ユイ先生! クラリス軍の先陣が中央突破に成功しました!﹂
後方から駆けつけてきた一人の青年。
彼は槍を手にする上官に向かいそう報告を行う。
1576
﹁そっか。で、彼らはどう動き始めている?﹂
﹁敵左翼を包み込むように動き出しています。おそらく半分に分断
した敵を半包囲すると思われます﹂
そのフェルムの報告を受け、黒髪の男は一度息を吐きだす。そし
て槍の穂先を喉元に当てた初老の男へと、彼はその視線を移した。
﹁チェックメイト⋮⋮ですね﹂
﹁なぜ、こんなことに。我らのほうが数的に優位だったはずだ。そ
れが⋮⋮﹂
自らに向けられた槍先へとその視線を向けながら、エミリオッツ
は首を左右に振りつつそう口にする。
そんな彼の言葉を耳にして、ユイは手元へと槍を戻すと、その視
線をもう一人の敵指揮官へと向けた。
﹁残念ながら勝敗はほぼ決しました。私としては、クラリスの人間
同士でこれ以上戦いたくはありません。どうか降伏してくださいま
せんか、テムス次官﹂
﹁クラリスの者同士で殺し合い⋮⋮か。確かに貴様の言っているこ
とはわかる。だがここで我々が降伏すれば、貴族院に連なる者達、
そして彼らの家族や治めている民たちの運命が終わることになる﹂
貴族院の後押しがあったとはいえ、テムスとて戦略省の頂点にま
で上り詰めた男であった。もはや自分たちに勝機がないことは理解
できている。
だがそれでもなお、彼は突きつけられた現実を、そのまま受け入
れることは出来なかった。
﹁そんなことはありません。ええ、貴族院の中枢たる円卓会議の面
々は流石に無罪とは出来ないでしょう。ですが、それ以上の人間に
累が及ぶことを私も、そしてこの国の女王陛下も望まぬはずです﹂
1577
﹁望む、望まないの問題ではない。これは先祖代々受け継がれてき
た、我々の誇りを失うことと同義なのだ。だからこそ、私は貴様を
︱︱﹂
﹁止めろテムス。それは私の仕事だ﹂
ユイに向かって一歩踏み出そうとしたテムスを、横から制したの
は既に愛槍を失ったエミリオッツであった。
﹁エミリオッツ次官⋮⋮﹂
﹁無茶をするな、エミリオッツ﹂
再びユイと対峙しようとするエミリオッツに向かい、テムスは慌
てて彼を止めようとする。
だがそんな彼を、エミリオッツは一喝した。
﹁貴様には、この部隊の指揮官としての仕事がある。ここで貴族院
の武人として、奴に立ち向かうのは⋮⋮そして最後を飾るのは私の
仕事だ﹂
﹁な⋮⋮では、お前は奴の勧告を受け入れるつもりなのか﹂
﹁そうだ。それが私の意志だ。覚えておいてくれ、テムス﹂
そう口にすると、護身用に備えていた腰の剣をエミリオッツは抜
く。
その姿を目にして、ユイは大きく息を吐きだした。
﹁エミリオッツ次官。貴方自身は受け入れてくださらないのですか
?﹂
﹁無理だな。俺はテムスほど知恵が回らん。信じられるものは、貴
族として流れるこの血と誇り、そして陸軍軍人としての力だけだ﹂
そう口にすると、エミリオッツはテムスを後方に突き飛ばし、一
歩前へと歩み出た。
﹁⋮⋮やむを得ませんね﹂
1578
﹁行くぞ、イスターツ!﹂
その言葉を吐き出すとともに、エミリオッツは手にした剣を大上
段に掲げ、一気にユイに向かって振り下ろす。
裂帛の気合とともに放たれた一振り。
だがそれは、彼の愛槍によって受け止められることとなった。
﹁あなた方の誇りは何処で歪んでしまったんでしょうね、エミリオ
ッツ次官﹂
その言葉が吐き出されると同時に、槍をくるりと回転させたユイ
は、その後頸部の部分に柄の一撃を叩き込む。
そして一人の老武人は地面へと崩れ落ち、黒髪の男がその場に残
された。
﹁エミリオッツ!﹂
﹁大丈夫です。意識をなくしただけですよ。申し訳ないですが、こ
の戦いの責任者にはまだ消えてもらうわけにはいきませんので﹂
慌ててエミリオッツへと駆け寄ったテムスをその目にしながら、
ユイはため息混じりにそう告げる。そして彼は、改めて目の前の元
上司へと問いを口にした。
﹁テムス次官、改めて問います。降伏を受け入れて下さいますね?﹂
﹁⋮⋮やむを得んな。わかった、貴様達の︱︱﹂
﹁ダメですよ。全然ダメ。なんですかこれは? あまりにつまらな
い。少しは観客の立場に立ってくださいよ。こんなワンサイドゲー
ム、誰が楽しめるっていうんですか?﹂
テムスの言葉に被せる形で発せられたその言葉。
それはユイ達の側方から発せられたものだった。
声の主を視線で追った瞬間、ユイは久しく感じて来なかった悪寒
1579
というものを覚える。同時に脳内では、けたたましく危険を訴える
鐘が鳴りだした。
そう、目の前の少年は、ユイにとって⋮⋮いや、この世界にとっ
て本来は存在してはならない類のものであることを、彼は直感的に
理解したが故に。
﹁君は誰だい?﹂
そう問いかけながら、自分の額に嫌な汗が流れるのを感じる。
これは、そう、かなり、よくない。
居てはならない存在。こんな戦いなど、軽く霞んでしまうほどの
災厄。
にも関わらず、ユイにすら気配を悟らせることなく、銀髪の少年
はまるで最初からそこにいたかのように存在した。
そして道ばたで友人にであったような気軽さで、彼は声をかけて
くる。
﹁初めまして。トルメニアの枢機卿でゼス・クリストファーと申し
ます。以後お見知り置きをお願いしますよ、調停者さん﹂
1580
修正者
﹁枢機卿⋮⋮神に仕える聖職者は、他国の戦争に介入することも仕
事の内なのですか。寡聞にして、そんなことは知らなかったよ﹂
トルメニアの枢機卿を名乗る眼前の少年をその目にしながら、ユ
イは内心の動揺を押し殺しながらそう口にする。
すると、少年はその整った表情を僅かに歪ませながら、おかしそ
うに笑った。
﹁はは、そうでしょうね。僕も枢機卿という役職に、そんな仕事が
あるとは聞いたことありません﹂
﹁聞いたことがない⋮⋮か。ならば君は独断でここにいる。そして
その目的は、クレメア教のためではないと、つまりそういうわけだ
ね﹂
﹁はてさて、どうでしょう。その辺りは貴方の解釈に委ねますよ﹂
ユイの指摘に対し、ゼスは冷笑を浮かべながら、自らの見解を示
すことはなかった。
そんな彼に向かい、ユイは再び真正面から問いを放つ。
﹁で、改めて聞くけど、こんな場所に何の用かな?﹂
﹁いえ、あまりに一方的なゲームへとなりかけてましたのでね、先
程も言った通り、一観客としてクレームを付けに来ただけですよ﹂
軽く肩をすくめながら、ゼスは当たり前であるかのような口調で、
そう口にする。
一方、そんな彼の言動に、怒りを見せる青年が存在した。
﹁戦争をゲームなんて⋮⋮何様のつもりなんだ、君は!﹂
﹁何様ですか。ふふ、そうですね。敢えて言うなら、君たちの監視
1581
者といったところでしょうか﹂
怒気に満ちたフェルムの言葉に対し、ゼスはまったく気にした素
振りも見せず、むしろ小馬鹿にしたような口調でそう答える。
その回答に、フェルムは苛立ちを爆発させ、たちまちに魔法を解
き放った。
﹁フードル!﹂
フェルムの手元から解き放たれた一本の稲妻。
それを目にしたゼスは、まったくその場から動くことはなかった。
access⋮⋮erase﹂
そしてフェルムが直撃を確信したその瞬間、ゼスはとあるコード
を口にする。
﹁Magiccode
ゼスの口からそのコードが発せられた瞬間、彼の眼前まで迫った
稲妻は、まるで幻であったかのように、一瞬で消失した。
﹁そ、そんな⋮⋮今のは⋮⋮﹂
﹁さて、お返しだよ。lightning!﹂
動揺隠せぬフェルムに向かい、ゼスは一つの力ある呪文を口にす
る。
途端、彼の眼前には先程フェルムが編み上げた三倍近い稲妻が生
み出され、そして同時に解き放たれた。
空間を駆ける光の奔流。
誰しもが息を呑むような高等魔法を前にして、たった一人の男だ
けは予めそれがわかっていたかのように一つのコードを口にする。
﹁マジックコードアクセス⋮⋮クラック!﹂
黒髪の男の口からその言葉が発せられた瞬間、フェルムに向けら
れた稲妻は突然天に向かってその方向性を変えた。
1582
﹁ふむ⋮⋮ソース解析能力は中々のようですね。では、こちらはど
うでしょうか﹂
そう口にすると、ゼスは腰に下げていたレイピアをゆっくりと手
に取る。
その姿を前にして、ユイは隣に立つ青年へと、小さく声を掛けた。
﹁フェルム、申し訳ないけど少し下がっていてくれるかな﹂
動揺隠せぬフェルムの肩をポンと叩き、ユイは手にしていた槍を
彼へと手渡した。
そして腰の刀へと手を添えると、彼はそのまま眼前の銀髪の少年
と対峙する。
﹁⋮⋮まったく、もう仕事は終わりだと思っていたんだけどね。超
過手当を払ってもらいたいところだよ﹂
﹁はは、観客としては、まだ貴方の働きが足りないと思っています。
だからもう少しばかりタダ働きして下さい﹂
ユイの反応をその目にして、ゼスは嬉しそうに笑うと、一歩前へ
と歩み出る。
それは一切の警戒なく、ただ前へと体を動かすだけの動作。
自然体極まりないその動きの中に、一切の隙がないことをユイは
その目で見て取った。
﹁本気で働かせる気なのに、タダっていうのはひどいんじゃないか
な。その上、許可無く舞台に上がろうとするし、世の中にはひどい
客もいるものだね﹂
﹁貴方の行いに比べれば微々たる悪行でしょう﹂
﹁認識の違いかな。でもどうしても私を働かせたいというなら、申
し訳ないけどその分の代金は頂くよ!﹂
1583
そう口にした瞬間、ユイは一気に間合いを詰め、刀を一閃させる。
一切の無駄なく、美しささえ感じる一筋の剣閃。
しかしそこで生み出されたものは、鮮やかな赤色ではなく軽い金
属音であった。
﹁抜刀術⋮⋮ですか。実に興味深い技です。ですがその程度なら、
やはり剣の巫女には遠く及んでいませんね﹂
自身に接触する直前に、レイピアで刀の軌道を逸らせたゼスは、
涼しい顔をしながらそう口にする。
一方、ユイは小さく息を吐き出すと、僅かに下唇を噛んだ。
そう、自らと目の前の青年の間に存在する、明らかな差を理解し
たが故に。
﹁今のを防ぎ、そして母さんを知っている⋮⋮か。どこぞの爺と同
じで、見た目で人を騙そうとするのは、あまりスマートとはいえな
いな﹂
﹁フォックス・レオルガード如きと、この僕を一緒にしないで貰え
ますか? この身に生を受けたのは、本当に十四年前なのですから﹂
﹁へぇ、にも関わらず母さんの剣と比較できるわけか。集積知に触
れ、そしてコード改変まで行うとなると、ようやく本物と巡り会え
たようだね﹂
ユイはそう口にすると、改めて手にした刀を握りしめ直す。そし
て先程までとは異なり、右足を一歩踏み出して脇構えの姿勢を取っ
た。
そんな余裕のない彼の様子を目にして、ゼスは嬉しそうに笑う。
﹁おやおや、やる気のない英雄殿と伺っていましたが、ちょっと肩
1584
に力が入り過ぎじゃないですか。そんなことでは、この僕に傷一つ
負わせることはできませんよ﹂
﹁じゃあ、試してみるだけさ﹂
ユイはそう口にすると、再びゼスへと迫る。
一閃、二閃、三閃。
高速で放たれるユイの連撃。
しかしそれは全て、ゼスのレイピアによって軽く弾かれ続ける結
果となった。
﹁残念ながら、本当に期待はずれのようですね。この程度が今代の
調停者とは﹂
﹁⋮⋮がっかりさせてしまったかな。それは申し訳ない﹂
﹁その口ぶり、なにか勘違いしていらっしゃるようですね。当然、
貴方が自分の力と手札を隠しながら、私と対峙しているのには気づ
いてますよ。それを差し引いても、残念ながら見劣りすると言って
いるのです。これならば、貴方の母親のデータなど参照する必要な
ど無かった﹂
ゼスはそう口にするなり、これまで守勢一辺倒だったのを一変さ
せ、ユイめがけて突きを放つ。
ただ前方に向かって突き出されただけのレイピア。
しかし、その速さは常人の反射速度を軽く超えていた。
﹁くっ、まさかここまでとは﹂
ゼスの動きを目にしてから動き出していたら、確実に己が胸に穴
を開られていただろう。
そのゼスの気配が変わった一瞬を掴み、予備動作を開始していな
かったならば。
1585
﹁今のは悪く無いですね。へぇ、これは思ったよりもマシかもしれ
ません﹂
ギリギリのところでレイピアを回避されたゼスは、まるでそのこ
とを喜んでいるかの様な笑みを浮かべる。そして再び、レイピアを
構え直すと、彼は一気にユイめがけて踏み込んだ。
﹁それでは再テストです。これは如何でしょうか?﹂
その言葉が発せられると同時に放たれたレイピア。
それは先ほどよりも、遥かにその速度を増していた。
だからこそ、ユイは理解する。
この攻撃は避けることはできないと。
そしてそれ故に、彼は一つの決断を行う。
自らの左腕を犠牲にすることで、目の前の少年に一太刀浴びせる
ことを。
だがそんな彼の決意は、霧散することとなった。
彼と少年が交差するはずの空間に、一本のスローイングダガーが
投擲されたが故に。
﹁ユイ、一人で馬鹿なことはやめなさい﹂
そのダガーに水を差され、同時に後方へと飛び退った二人。
彼らが直後に目にしたのは、小柄な黒髪の女性の姿であった。
﹁へぇ、僕達の戦いに割って入る⋮⋮ですか。面白いですね。しか
もよりによって黒髪ですか。はは、東方の人間は本当に困り者ばか
りですね﹂
黒髪の女性を目にしたゼスは、皮肉げに右の口角を吊り上げる。
1586
一方、彼と対峙していた黒髪の男は、首を左右に振って、彼女に
警告を行った。
﹁クレハ、だめだ。君が介入できるレベルじゃない﹂
﹁できる、できないじゃないわ。あなたを失うなんてできない。例
え私の命と引き換えでもね﹂
ユイの制止にもかかわらず、クレハは新たなダガーをその両手に
握り締めると、ゼスを真正面から睨みつける。
その瞬間、ゼスは薄く笑うと、一瞬にして彼女へとその標的を変
更した。
﹁僕は邪魔されるのが嫌いなんです。だから彼同様に、貴方にも消
えてもらいます﹂
その言葉と同時に、振るわれるレイピア。
その鋒が彼女を捉えようとしたそのタイミングで、彼女は手にし
たダガーをほぼ同時に投擲した。
生み出される赤い血しぶき。
それはクレハの右肩からのみ生み出されたものであった。
﹁クレハ!﹂
ユイの叫びが空間にこだまする。
だがその声に反応したのは、彼と対峙していた銀髪の少年であっ
た。
﹁ふふ、いい覚悟だ。今のは本気で相打ちも辞さないつもりだった
ね。でも僕のは、君程度と引き替えにしていい命ではないのさ﹂
捨て身の反撃に晒されたと感じた瞬間、ゼスはダガーの回避を最
優先する。しかしながらそれでもなお、レイピアでクレハの肩を切
り裂くだけの余裕が彼に存在した。
1587
﹁本⋮⋮当に、ばけ⋮⋮もの⋮⋮ね﹂
右肩からの出血を左手で押さえながら、クレハは意識して平静を
装いそう口にする。
﹁化物⋮⋮か。はは、まさか君たちのような存在に、そんな表現を
使われる日が来るとは。しかしどうやら、力の差は理解してもらえ
たようだね﹂
﹁⋮⋮許さないよ、修正者﹂
ゼスの視界からクレハの体を遮る形で、眼前に立ちはだかった男。
彼は手にした刀を強く握りしめながら、怒りに震える声でそう告
げる。
﹁おやおや、どうやらお怒りになったのかな。しかし幾ら本気にな
ろうと、君のような三流ハッカーに、この僕を打つことはできませ
んよ﹂
﹁勘違いしないで貰いたいな。私はハッカーではなく、クラッカー
だ﹂
﹁力の足りぬものが、なんと名乗ろうと虚しいだけです。しかし味
見のためにここに来たわけですが、どうにも歯ごたえが足りません
⋮⋮やはりあの赤髪のバグと会いに行った方がずっと有益でしたね﹂
﹁赤髪のバグ⋮⋮アレックスのことか﹂
脳裏によぎった親友の顔。
彼がその名を口にした瞬間、ゼスはその口元を歪ませる。
﹁さてさて、どうでしょう。ともあれ、あまりにつまらないので、
お開きとしましょうか。貴方にはもう用が︱︱﹂
﹁ゼス様、そろそろお時間です﹂
突然、ゼスの声を遮る形で発せられた声。
蒼髪を有するその声の主は、後方からゼスの下へ歩み寄ると、小
1588
さく頭を下げる。
﹁⋮⋮そっか。じゃあ仕方ない。今日はここまでにしておくとしよ
う﹂
﹁待て、ここまでしておいて逃げるつもりかい﹂
ゼスの声を耳にして、ユイは刀を再び握り直すと、いつでも飛び
かかれるように構える。
一方、彼のそんな姿を目の当たりにして、ゼスは再びその口元に
冷笑を浮かべてみせた。
﹁逃げる? この状況でよく言えたものだね。その勘違いを正して
あげたいところだけど、君とこれ以上遊んであげる時間はないんだ。
代わりに僕からのおみやげを受け取ってよ﹂
﹁おみやげ⋮⋮だと﹂
言葉の意味がわからず、ユイは眉間にしわを寄せる。
すると、ゼスは隣に立つ蒼髪の青年に向かい、笑みを浮かべたま
ま問いかけた。
﹁えっと、そろそろかな。エミオル﹂
﹁ええ、頃合いかと﹂
﹁何を言って︱︱﹂
二人の会話を耳にして、苛立ち混じりに発せられようとしたユイ
の言葉。
それは途中で完全にかき消されることとなった。
西の方角⋮⋮ちょうどカーリン市の存在する地域で、とてつもな
い光と音の爆発が生じたがゆえに。
﹁な⋮⋮何が⋮⋮﹂
鼓膜が破れるかと思うほどの爆音。それがこれだけ離れた距離ま
1589
で、到達した。
だからこそ、ユイは口にはせぬとも一つの事実を理解する。
先ほど生じた現象は、集合魔法などとは比べ物にならぬほどのも
のだということを。
﹁ふふふ、気に入ってくれたかな。僕謹製の素敵なカーリンの花火。
残念なことに、もう再現することが出来ないんだ。ごめんね﹂
﹁カーリンの花火⋮⋮だと。貴様、何をした!﹂
﹁何って、ほら、魔石とか汚らわしい石があるでしょ。あれをさ、
消し炭にさせてもらっただけだよ。ついでに街ごとね﹂
まるで息をすることと同じと言わんばかりの軽い調子で、ゼスは
先ほど生じた信じがたい現象の事実を口にする。
途端、ユイの表情は凍りついた。
﹁な⋮⋮じゃあ、街は、カーリンは!﹂
﹁ふふ、あとで自分の目で確かめてみなよ。それとこれはあまりも
のだから君に上げるね﹂
ゼスはそう口にすると、ポケットから魔石の欠片を取り出し、ユ
イに向かって放り投げた。
瞬間、先ほどの出来事がフラッシュバックしたユイは、背中にい
るクレハを抱きしめながら後方へと転げる形で飛び退る。
途端、激しい爆発がその場に生じた。
﹁ふふふ、じゃあまた気が向いたら、少しくらいは遊んであげるよ、
調停者くん﹂
その声は巻き上がった砂埃の奥から、ユイに向かって告げられる。
そして次の瞬間には、その場から人の気配は完全に消失した。
﹁先生、一体何が!﹂
1590
﹁イスターツ。今のは何だ、これはどういうことだ!﹂
それまで完全に止まっていた時間が急に動き出したかのように、
今の爆発を契機に周りの人々は敵も味方もユイのもとに駆け寄って
くる。
だが、当人はそんな彼らに向かい言葉を返すことはなかった。
ただ彼が口にした言葉。それは先程まで対峙した、一人の少年の
その名前だった。
﹁ゼス・クリストファー⋮⋮君のことは許さないよ﹂
1591
後始末
街を包囲する圧倒的多数の兵士たち。
その鎧には尽く同じ紋章が付けられていた。
そう、北のとある国を示す紋章が。
﹁カイラ陛下! 敵、ブラウ公の部隊を完全に包囲しました。敵も
どうやら降伏に応じるとのことです﹂
﹁そうですか。流石ですね、マルフェスさん﹂
国王のために用意された陣の中に待ち望んでいた報告がもたらさ
れ、ラインドル国王はニコリと微笑む。
﹁いえいえ。カーリンに主力を派遣し、襲ってくださいと言わんば
かりの状況でしたからな。更に先日の国境付近での演習のこともあ
り、奴らも侵攻してくるとは思っていなかったのでしょう。結局の
ところ、あいつが負けない戦いを依頼してきただけの話ですよ﹂
﹁はは、確かにそのとおりですね。その辺り含め、ユイさんは相変
わらずユイさんというところですか﹂
クレハを介して彼の下へと届けられた一通の信書。
そこには二つの事が記されていた。
一つは、南部での演習を装い、そのまま軍を動かしてブラウ公を
打倒して欲しいというもの。
そしてもう一つは協力への見返りとして、このブラウ公が治める
クラリス北部一帯の割譲案であった。
﹁で、確認しますが、本当にタダ働きするつもりですか?﹂
1592
﹁ええ、基本的には。もちろん押さえてしまってもいいわけですが、
お隣の情勢が読めませんからね﹂
カイラはそう口にすると、先程までの笑みを消して、苦い表情を
浮かべる。
﹁キスレチンはかなり苦戦していると聞きます。となれば、万が一
を考えると、確かに備えは必要でしょうな﹂
﹁トルメニア方面だけならば、まだ対処の仕様もあったのでしょう
が⋮⋮おそらく、南部のナポライで起こったクーデターが計算違い
だったというところでしょう。いずれにせよ、あとはユイさんが良
いようにしてくれますよ﹂
カイルは誰かのように軽く頭を掻きながら、あっさりとした口調
でそう告げる。
それを受けて、マルフェスは眉間にしわを寄せながら確認を行っ
た。
﹁エリーゼ女王ではなく⋮⋮ですか﹂
﹁ええ。別に彼女でも構いませんが、はてさて、この先誰がこの西
方で最も影響力を持つでしょうね﹂
﹁あいつはきっと何もしたがりませんよ﹂
それは確信に満ちた言葉であった。
そしてそれが真実だと理解しているからこそ、カイルは自らの考
えを口にする。
﹁でしょうね。でもそうだとしたら、僕が勝手に担ぐだけの話です
よ﹂
﹁はぁ⋮⋮他国の国王に担がれる男ですか。それだけ聞くと、クー
デターの首謀者にほかなりませんな﹂
カイルの発言に呆れながらも、マルフェスは決して諌めたり否定
することはなかった。
1593
そんな彼の反応を当然のことのように受け止めたカイラは、ニコ
リと微笑みながらその口を開く。
﹁はは、まあ僕自体が元々クーデターの首謀者だったわけですし、
良いじゃありませんか﹂
﹁良くはないでしょう。最近そういうところが、ちょっとあいつに
似てきた気がしますよ。あ、喜ばないで下さい。決して褒めている
わけではありませんからね﹂
似ていると言われた瞬間、カイルが嬉しそうな表情を浮かべたた
め、マルフェスはすぐさま彼に釘を刺す。
それに対し、カイルは軽く肩をすくめてみせると、支配下に置い
た眼前の街へとその視線を移しながら、新たな指示をその口にした。
﹁わかっていますよ。ともかく、私達の仕事は終わりです。敵の首
脳部を捕らえたら、最低限の人員のみ残して引き上げるとしましょ
う﹂
﹁了解いたしました﹂
先程までの軽いやり取りが嘘のように、マルフェスは完璧な敬礼
を行ってみせると、足早に立ち去っていく。
そうして、頼もしい将軍が立ち去ったところで、カイルは未来を
予期するようにその言葉を虚空へと投げかけた。
﹁北は僕たちが押さえました。というわけで、たぶん東の戦場でお
会いしましょう。ユイさん﹂
1594
﹁報告します。第一師団及びイスターツ閣下率いる部隊は、敵戦力
の打倒に成功された模様﹂
凛々しい銀髪の男が、その報告をこの軍会議室へと持ってきた瞬
間、室内は喜びの声に沸いた。
﹁リュート先輩、本当ですか。やりましたね﹂
﹁うんうん。まあユイがいて、更にエレンタムまでいたら、当然と
いったところかな﹂
軍務大臣代理のエインスに引き続き、戦略省次官のアーマッドは
納得したように二度首を縦に振る。
だが報告に沸く彼らと異なり、報告を持ち込んできた親衛隊長の
表情はいつになく険しいままであった。
﹁いえ、それなのですが⋮⋮些か⋮⋮﹂
﹁どうしたんだい? 何か問題でも?﹂
かつての教え子でもあるリュートの様子に不信を抱いたアーマッ
ドは、軽く首を傾げながらそう問いかける。
すると、眉間に深いしわを寄せたリュートは、この国の西で起こ
ったその事実を彼らへと告げた。
﹁貴族院とブリトニア軍は確かに降伏しました。ですが、カーリン
が⋮⋮カーリンが壊滅しました﹂
﹁え? どういうことですか。予定に反して、カーリンが戦場とな
ったということですか?﹂
当初から、敵がカーリンで防衛戦を行うとは誰も思っていなかっ
た。
それほどカーリンは、敵と交戦するには不向きの都市でもある。
だからこそ、リュートの口から告げられたその報告に、エインスは
驚きを覚えずにはいられなかった
1595
﹁いや、戦闘自体はルシーダ平原で行われたようだ。そしてその戦
いにおいて、我が軍は完勝といっていい結果を手にしている。だが
⋮⋮だがその戦闘中に突然カーリン市内で謎の爆発が起こり、街一
つが完全に消失したとのことだ﹂
﹁街一つが⋮⋮そんなバカな!﹂
何かの間違いではないかと思い、首を左右に振るエインス。
それはその場に同席していたアーマッドとて同様の思いであり、
念を押すようにリュートへと問いかけた。
﹁⋮⋮その報告に間違いはないのだね?﹂
﹁はい。ユイの部下からも、またエレンタム師団長の部隊からも、
いずれも同様の報告が届いています﹂
いつものようにユイ本人が書いたあの汚い字で無かったことに、
リュートは軽い懸念を覚えていた。だが、そこまで話す必要はない
かと判断し、リュートはただ事実だけを告げる。
一方、彼にその問いを放ったアーマッドは、胸の前で腕を組みな
がら、もう一つの懸念事項を問いかけた。
﹁そうか⋮⋮で、カーリンの市民たちは?﹂
﹁カーリンの市民たちは、爆発の前に街を離れており、無事であっ
たとのことです。現在は一路レムリアックを目指していると﹂
アーマッドの問いかけに対し、リュートは断片的な情報でありな
がらも、現在彼が知るその情報を彼らに開示する。
それを受けて、この室内で最上位の立場にあるエインスは、必ず
確認しておくべき一つの内容をリュートへと尋ねた。
﹁そうですか⋮⋮わかりました。ちなみにエリーゼ様とアレックス
先輩は?﹂
﹁エリーゼ様には既に報告は済ませてある。ブラウ公のことで、今
はあの二人も手一杯だからな。落ち着いたら、合同で一度会議を行
1596
うべきだろう﹂
そのリュートの提案に、エインスも深く頷く。そして彼は、責任
者として、今後行うべき方針をその口にした。
﹁そうですね。ユイ先輩とエレンタム将軍の帰還に合わせ、準備す
ることにしましょう。ともあれ、ブリトニアとの外交交渉の準備と、
レムリアックへ向かうカーリン市民への対処を進めていく形としま
す。よろしいですね?﹂
ルシーダ平原の片隅に設営されたとあるテント。
一人の金髪の壮年が、警備の兵士の敬礼を受けながらその中へ入
って行った。
﹁イスターツ、久しぶりだな﹂
スラリとした体格を誇る壮年は、目的としていた黒髪の男を目に
すると、その背に向かって声をかける。
だが、そんな彼に返された言葉は、背中越しのものであった。
﹁すいません、ここでは少し静かにしてください﹂
﹁これは失礼﹂
黒髪の男の視線が、目の前で苦悶の表情を浮かべながら眠りにつ
く女性に注がれていることに気づくと、壮年の男は事情を察したの
か自らの過ちを謝罪した。
﹁いえ⋮⋮ああ、エレンタム教授ですか。すいません、外に出まし
ょう﹂
1597
ようやく後方を振り返ったユイは、来訪者を理解すると、彼に向
かってそう促す。
そうしてテントの外へと出た二人は、軽く歩きながら会話を開始
した。
﹁彼女は?﹂
﹁私の身内のようなものです。それで、いかがされましたか?﹂
エレンタムからの問いを受け流し、ユイは逆に来訪の目的を尋ね
る。
すると、エレンタムは軽く肩をすくめてみせた。
﹁なに、君が来ないから私から出向いてきただけの話だよ。今後ど
うしたものかと思ってね﹂
﹁ああ、確かにそうですね。彼らの方は?﹂
﹁ブリトニア軍の大半は降伏に応じたよ。ただ問題は、カーリンに
彼らの物資の大半を置いていたようでね、正直備蓄が少ないそうだ﹂
小さな溜め息を吐き出しながら、エレンタムはブリトニア軍の実
情をそう告げる。
すると、ユイも頭を掻きながら、仕方ないとばかりに一つ頷いた。
﹁まあ、必要以上に物資を輸送する必要はありませんからね﹂
﹁ああ。物資の運送や護衛に兵士を割くことを思えば、後方に拠点
を構えていた彼らとしては妥当な選択だったと考える。もっとも結
果としては実に困ったことになったわけだがね﹂
﹁私達も、多少余力を持ってここまで来ましたが、流石にあれだけ
の捕虜を長期間支えることは不可能です﹂
ユイの率いる帝国とレムリアックの合同軍の総数は千名弱。
その備蓄で、数倍以上となるブリトニアの捕虜たちの面倒を見る
ことは正直不可能あった。
1598
﹁だろうな。それは君たちより規模が大きい我々も同様だ。となれ
ばだ、結果が出たからには、早急に次なる行動を実行すべきという
のが本音なのだが、如何だろうか﹂
﹁確かにそうですね。とはいえ、カーリンがあの状況である以上、
これ以上西進しても意味は⋮⋮ありませんから﹂
その言葉を紡ぎきるのには、僅かな躊躇が存在した。
もちろん調査に向かわせた部下からの報告は、彼も理解している。
そのあまりに絶望的で、あまりに虚無感に襲われる内容は。
しかしながら、第二の故郷とまで思っていた彼の地を失っても、
部下たちの命を預かる彼は、前へと進まねばならなかった。
﹁ああ、私もそう思う。なら、帰還する方針でいいな?﹂
﹁ええ、結構です。それとエレンタム教授⋮⋮いえ、師団長。申し
訳ありませんが、ある捕虜がご健在と伺っておりますので、後で彼
と会わせて頂けませんか?﹂
﹁ある捕虜? ブリトニアの者のことか?﹂
思わぬユイの申し出を受け、エレンタムは眉間にしわを寄せる。
すると、そんな彼に向かい、ユイはその理由を口にした。
﹁ええ。おそらく私を知っているものが中に混じっていると思いま
すので﹂
﹁⋮⋮驚いたな、君はブリトニアにも知己がいるというわけだ﹂
ユイのその言葉を聞いて、エレンタムは実際に意外そうな表情を
浮かべる。
それに対し、ユイは顎に手を当てながら、軽く苦笑を浮かべてみ
せた。
﹁知己と呼ぶべきかは悩むところですね。何しろ私の知り合いであ
りながら、ある意味私の知り合いではないという関係ですから﹂
1599
﹁知り合いでありながら、知り合いでないだと。どういうことだ?﹂
意味がわからないという表情で、エレンタムはそう尋ねる。
すると、ユイは軽く頭を掻きながら、その口を開いた。
﹁正しく言えば、ユイ・イスターツとしての知り合いではないとい
うことです。なので、彼にはこうお伝え下さい。ちょっとした剣を
預かっているエイス・クローサーが、貴方と話したいことがあると﹂
1600
盗人の正体
クラリス第一師団の陣地におけるとある一角。
そこには周囲よりも明らかに厳重な警戒が敷かれている急ごしら
えの一つの小屋が存在する。
その中では一人の壮年の男性が、まるで置物の人形のように、う
つむき加減のままピクリとも動くことなくただ呆然した表情でイス
に腰掛けていた。
﹁フランツ司令官、失礼致します﹂
﹁⋮⋮確かネクサール君だったね。一体何ごとかな?﹂
小屋の中へ姿を現した若き士官を目にして、フランツは僅かに顔
を上げるとそう問いかける。
するとネクサールは、僅かに緊張した面持ちでその口を開いた。
﹁司令官、その⋮⋮面会の要請がありますが、お受け頂けますでし
ょうか?﹂
﹁敗軍の将に拒否権はあるのかね?﹂
﹁いえ、それは⋮⋮その⋮⋮ただただお会い頂ければと思う次第で
す﹂
フランツの問いかけに対し、拒否権はないと言い出しづらかった
ネクサールは、明らかに困った様子を見せながらそう告げる。
そんな若き士官の反応の言葉遣いから、目の前の彼をここへと向
かわせた人物が無視できる相手ではないと、フランツは容易に理解
できた。
﹁要するに高位の者というわけだな、面会者が。で、誰かね?﹂
1601
﹁そのご本人が言われますには⋮⋮剣を預かっているエイス・クロ
ーサーと伝えれば、貴方ならばわかるとおっしゃられておりまして﹂
その言葉がネクサールの口から発せられた瞬間、フランツの表情
はそれまでの虚脱したものから一変した。
﹁エイス⋮⋮だと! なぜ奴がここにいる!﹂
﹁そ、それはその、私の口からは⋮⋮﹂
突然フランツから発せられた怒気。
それを目の当たりにしたネクサールは一歩後ずさると、どうにか
言葉を絞り出す。
一方、そんなネクサールの困惑した表情を目にして、フランツは
すぐに心を落ち着かせる。そして一度大きく深呼吸した後に、元来
の冷静な表情を取り戻してその口を開いた。
﹁よりによってこの状況で、探し人が我が前に現れる⋮⋮か。いい
だろう、私は敗北者だ。勝者たる君たちが会えと言うならば、誰と
でも会うさ﹂
﹁ありがとうございます。では、今しばらくお待ち下さい﹂
ネクサールは慌てて頭を下げると、そのまま慌てて小屋の外へと
駆け出していく。
そして幾ばくかの間をおいた後に、見覚えのある黒髪の男がその
小屋の中へと姿を現した。
﹁本物⋮⋮か。我が国を愚弄しただけでは飽きたらず、敗軍の将ま
でも愚弄しに来たか?﹂
﹁はは、そんなつもりは毛頭ないのですが⋮⋮ともあれ、ご無沙汰
いたしております。フランツ司令官﹂
黒髪の男は苦笑を浮かべながらフランツの前へと歩み寄ると、頭
を掻きながらそう口にした。
1602
﹁ああ。しかしよくも私の前に顔を出せたものだな、エイス﹂
﹁どうもその様子だと、もしかしてアレをお借りしたの怒ってらっ
しゃいますか?﹂
﹁当たり前だ、馬鹿者! よくも我が国の聖遺物を!﹂
黒髪の男の問いかけを受け、フランツは押さえ込んでいた怒りを
再び露わにした。
その姿をみれば、おそらくブリトニアの兵士たちは絶句するであ
ろう。
あの理性的で、紳士然としたフランツが唾を飛ばしながら人を怒
鳴りつけているのだから。
一方、そんな良識人を激怒させた張本人は、苦笑を浮かべながら
目の前の男を慌ててなだめにかかる。
﹁ああ、怒らないで下さい。ちょっとお借りしているだけです。ち
ゃんと用が済んだらお返ししますから﹂
﹁用だと! あのような神剣を何に使うというのだ!﹂
﹁切れないものを切るため⋮⋮でしょうか? いや、私自身も疑心
暗鬼ではあったのですが、やはりおそらく必要だと確信を抱いたと
ころでして﹂
フランツの怒りを受け止めながら、黒髪の男は曖昧極まりない言
い訳を口にする。
それ故に、いやだからこそフランツの怒りが収まることは欠片も
無かった。
﹁何を訳のわからんことを。ともかく、一刻も早く女王陛下に返却
するのだ! もし貴様がしないというのならば、力ずくでも剣の在
り処を吐かせるぞ﹂
そこまで口にしたところで、フランツは勢い良く椅子から立ち上
がる。
1603
途端、黒髪の男は両手を体の前に突き出しつつ、苦い表情を浮か
べながら数歩後ずさった。
﹁いやその、返せるものならそうしたいところですが、既に私の手
元にはなくてですね⋮⋮﹂
﹁な、何だと貴様。一体どこへやったというのだ! まさか既に売
り払ったのではなかろうな、この強欲商人!﹂
﹁いや、売りはしないです。売りはしていないですから落ち着いて
下さい。あくまで返さなければならないものですから。ちょっと又
貸ししているだけですので﹂
とんでもないことを全く悪気なさ気な表情で口にする黒髪の男。
彼のそんな言葉を耳にした瞬間、いよいよフランツは両目を大き
く見開くと、殺意を込めながら目の前の男を睨みつけた。
﹁又貸しだと!﹂
﹁いや、はは⋮⋮そうでした。別のものが使うと借用書に書いてい
ませんでしたよね。これは気づかず、誠にもうし︱︱﹂
﹁あんな借用書など無効だ! 大体、貴様が一方的に押し付けてい
っただけだろうが。我が国は一度足りとも同意した覚えはないぞ﹂
適当な言い訳を口にしだした目の前の男の言葉を遮るかたちで、
フランツは怒声を叩きつける。
途端、目の前の黒髪の男は少しばかり視線を逸らすと、わずかに
小さな声でボソリとつぶやいた。
﹁だって、貸してくれと言ったら許可頂けなかったでしょ?﹂
﹁当たり前だ!﹂
﹁ですよね。ならこれでどうでしょうか? 貸借料の代わりとして、
ブリトニア兵を無傷で貴国にお返しするというのは。これだと、決
して一方的な条件ではないと思うのですが﹂
今にも掴みかからんばかりの勢いで黒髪の男に詰め寄りかけてい
1604
たフランツは、その条件を耳にした瞬間、その場に硬直すると僅か
に冷静さを取り戻す。 ﹁なに⋮⋮貴様、今なんと言った?﹂
﹁いや、一方的な条件ではないといいましたが﹂
﹁その前だ。我が兵士たちを無傷で返すと言ったな。だが、そんな
こと貴様にできるわけがあるまい﹂
再びフツフツと怒りがこみ上げてきたフランツは、全く信用なら
ないといった口調でそう口にする。
一方、黒髪の男は本気でわからないといった様相で、軽く首を傾
げた。
﹁どうしてですか?﹂
﹁どうしてだと。一介の強欲商人に捕虜を自由にする権利があるわ
けがないだろう。私を騙すつもりなら、もう少し上手く騙すのだな﹂
﹁いや、そんなつもりはなくてですね⋮⋮全くもって本気なのです
が、もし何なら私の名前で契約書でもなんでも書きますよ﹂
﹁よりによって、貴様の契約書など信用ができるか!﹂
本来、カリブルヌスの安置されていた場所に置かれていた一枚の
借用書。
その存在を思い出したフランツは、首を左右に振りながらそう告
げる。
﹁確かに⋮⋮しかし、そこは信用頂けませんかね。えっと、ネクサ
ール君。申し訳ないのだけど、用意していた契約書を持ってきてく
れないかな﹂
﹁はい、こちらになります﹂
小屋の外に向けて声が発せられた瞬間、先ほど姿を現したネクサ
ールが一枚の書面と、ペンを携えて足早に駆け寄ってくる。
1605
﹁ありがとう。では⋮⋮と﹂
ネクサールから道具を受け取った黒髪の男は、予め用意していた
書面に、さらりとサインを記す。そしてそのまま、フランツへと手
渡した。
﹁これでいかがですか、フランツ司令官?﹂
﹁こんなもの、何の信用も⋮⋮待て⋮⋮何だこれは﹂
無理やり手渡されたフランツは、たった今書かれたばかりの箇所
に目を留めると、眉間にしわを寄せながらそう問いかける。
﹁何だと言われましても、契約書ですが﹂
﹁だからそれはわかっている。問題はそこではない。この名前⋮⋮
貴様、またこの私を騙すつもりか?﹂
そのフランツの声は、僅かに震えていた。
あまりにも状況が、そして話が出来過ぎている。
だがしかし、自らが目にしたその署名が事実ならば、受け入れが
たいことではあるが、全ての状況と可能性が一致していた。
そしてそれを裏付けるように、目の前の男は軽く笑いながら自ら
の名が一つではないということを示唆してくる。
﹁はは、だから一度も騙したことはありませんよ。エイス・クロー
サーという名前も、商人としての私が昔から使っている名ですから﹂
﹁⋮⋮まさか本物なのか。本当に貴様がユイ・イスターツなのか?﹂
未だ半信半疑。
それどころかひどい詐欺に会っているのではないかと、フランツ
は正直感じていた。
しかしながら、そんな彼の疑念に対して、黒髪の男は迷わず首を
縦に振る。
1606
﹁その問いかけに関しては、イエスです。と言うか、偽物なんてい
るんですかね。面倒事を全部引き受けてくれるのなら、名前なんて
喜んで差し出したいところなのですが﹂
﹁しかしそんなことが⋮⋮まさか⋮⋮﹂
﹁ふむ⋮⋮そうですね。まあいきなり契約しろというのも無理があ
りますか。では、こうしましょう。明日にはクラリス軍の本体は王
都エルトブールへ向かい帰路につきます。ですので、そこまでの旅
路の間にゆっくりとお考え下さいな。ちなみに契約書には剣の貸与
以外にも色々条件を書いておきましたので、確認しておいてくださ
いね﹂
黒髪の男はそう口にすると、ニコリと笑みを浮かべながら踵を返
す。
途端、そんな彼の背中に向かい、紳士然とした冷静さを取り戻し
たフランツは一つの疑問をぶつけた。
﹁待て、エイス⋮⋮いや、イスターツ。君の真の狙いはなんだ?﹂
そのフランツの問いかけ。
それに対して、エイス・クローサーことユイ・イスターツは頭を
掻きながら一度後方を振り返る。
﹁さて、何でしょうかね。さしあたって今は、トルメニアのとある
人物に、ちょっとした借りを返すことでしょうか。それでは失礼﹂
それだけを告げると、黒髪の男はフランツの元から歩み去ってい
った。
残されたブリトニア軍の司令官は、疲れたようにイスへ腰掛ける
と、そのまま頭を抱えることとなった。
1607
クレメア教の頂点
トルメニア首都アンクワット。
大陸中央に於いては最大規模を誇る宗教都市であり、その規模は
キスレチンの首都であるミラニールに勝るとも劣らないものであっ
た。
そんなアンクワットは大陸中央を中心に東西に多くの信者を抱え
るクレメア教団のまさに聖地でもある。それ故、街の中にはいたる
ところに礼拝施設が存在し、教団が設立した大規模な宗教施設の数
もほかの都市とは桁が一つ違っていた。
そのような特異な街のまさに中心に一つの古びた聖堂が存在する。
周囲を豪奢な宗教施設に囲まれる形で、一般の信徒はその姿さえ
拝むことの出来ない今や崩れ落ちそうな建物。
それこそがこのクレメア教団発祥の地であり、総主教が生活を行
う場所でもあった。
﹁総主教猊下、大変恐縮ながらお耳に入れたいことがございます﹂
聖堂の奥に佇む地母神の像に向かい無言のまま祈りを捧げていた
老人は、その言葉を耳にした瞬間ゆっくりと後ろを振り返る。
彼の視線の先には、深々と頭を下げたまま、決して視線さえ上げ
ることのない警備責任者である武装司祭の姿があった。
﹁カロナーク司祭ですか⋮⋮何かありましたか?﹂
﹁クリストファー枢機卿が猊下への面会を希望されておられます﹂
﹁ほう、クリストファー枢機卿が﹂
1608
彼の眼前でピクリとも動くこと無く、頭を下げ続ける司祭に向か
い総主教はそう口にする。
途端、カロナークは慌てて震えながら一つの提案を口にした。
﹁はい。あくまで予定にない面会。もしご迷惑でございましたら、
至急日を改めるよう枢機卿には伝達いたします﹂
﹁いえいえ、その必要はありません。私は構いませんよ。お会いし
ましょう﹂
﹁よろしいのですか?﹂
普段であれば総主教に続く地位にある枢機卿の立場にあるもので
さえ、易々と面会など叶うものではない。
それ故、カロナークは最初からまさか許諾が下りるなどと思って、
報告を行っていなかった。だからこそ、彼は驚きとともに思わず問
い返す。
途端、総主教の口から僅かに棘を含んだ言葉が発せられた。
﹁私が良いと行っているのに、なにか問題でも?﹂
﹁い、いえ⋮⋮失礼いたしました。至急、手配いたします﹂
そう口にした瞬間、カロナークは慌てて総主教の前を辞すると、
聖堂から立ち去る。
そして再び彼がこの場所に姿を現したのは、総主教がちょうど神
への祈りを捧げ終わったタイミングであった。
﹁枢機卿を連れてまいりました、猊下﹂
そのカロナークの声を受けて、総主教はゆっくりとその視線を聖
堂の入口へと向ける。
そこには見慣れたカロナークの姿と、一人の銀髪の少年の姿が存
在した。
1609
﹁クリストファー枢機卿⋮⋮お久しぶりですね﹂
﹁ええ、ご無沙汰いたしておりました猊下﹂
総主教の言葉を受け、ゼスは深々と頭を下げる。
その光景を目にした総主教は、改めてカロナークへとその視線を
向けた。
﹁カロナーク司祭、申し訳ありませんが枢機卿と二人で話がしたい。
人払いをお願いします﹂
﹁え、ですが⋮⋮﹂
通常、総主教に続く地位を有する枢機卿が面談に来たとしても、
総主教の警備が外されることなどありえない。それ故に、想定外の
言葉を受けて、カロナークは困惑した表情を浮かべた。
しかしそんな彼に向かい、総主教は改めてその口を開く。
﹁私のお願いを聞いてもらえませんか?﹂
﹁いえ、そんなことは⋮⋮わかりました。では、我々は外にて待機
いたします。何かありましたらお呼びを﹂
重ねての命を受け、カロナークは僅かな違和感を覚えながらも、
部下たちに指示を下す。
そうしてこの古びた聖堂の中には、一人の老人と一人の少年だけ
が残された。
﹁お疲れ様でした、ゼス様﹂
二人の内、最初に言葉を発したのは、総主教と呼ばれる老人であ
った。
お互いの肩書とはまるで真逆の立場であるかのように、彼は深々
と頭を下げる。
一方、銀髪の少年は、それを当たり前のことのように受け入れた。
﹁教団の方は順調そうだね、ラムール﹂
1610
﹁はい、これも修正者の皆様の御蔭にて﹂
自らのファーストネームで呼び捨てにされた総主教は、改めて恐
縮そうに深々と頭を下げる。
一方、ゼスの方はそんな彼の反応には特に興味なさそうに、話題
の矛先を変えた。
﹁しかし、これほどまでに人が出払うと、如何にこのアンクワット
と言えど、静かなものですね。いつもはもう少し賑わっているイメ
ージでしたが﹂
﹁既に総勢八万近い武装信徒達が出払っておりますが故、致し方な
きことかと﹂
もちろんすべての兵士が、もともとこの首都アンクワットで暮ら
していたわけではない。しかしながら、やはりトルメニア各都市の
中で、最も多くの兵士を戦場へ送り出したのはこの首都であった。
﹁ふむ、まあそうだろうね。中規模な街ひとつ分くらいの兵士を送
り込んでいるわけだしさ。で、キスレチンとの戦いはどうなってい
るんだい?﹂
﹁枢機卿団率いる神聖軍は、現在のところ優位に事を進めていると
聞いております﹂
﹁優位⋮⋮か。つまり時間がかかっているということだね﹂
ラムールの曖昧な物言いを受けて、ゼスはズバリとその要点を口
にする。
途端、ラムールは申し訳無さそうな口ぶりとなり、その理由を慌
てて説明した。
﹁キスレチンも戦いの直前までは分裂しておりましたが、いざ事が
始まると思いの外頑強となり⋮⋮やはり自由都市同盟のフェリアム
が国の実権を握り直したのが誤算でした﹂
﹁要するに、選挙前の状態に逆戻りってわけだ。案外うまくいくと
1611
思ったんだけど、演者の力が些か足りなかったかな﹂
ゼスはそう口にしながら、僅かなばかりの反省を行う。
すると、そんな彼に向かってラムールが口を開く。
﹁ただ、南部のナポライは依然としてケティス枢機卿が押さえてお
り、じわりじわりとその支配地域を拡大しております。我がドラグ
ーンも送り込んでいるが故、いずれは奴らを押しきれるかと﹂
﹁へえ、虎の子の銃騎兵隊まで投入しているんだ。なかなか思い切
ったものだね﹂
﹁此度は戦力の逐次投入は望ましくないと、以前からエミオル殿に
言われておりましたが故﹂
脳裏に蒼髪の青年の姿を思い浮かべながら、ラムールはゼスに向
かってそう説明する。
すると、ゼスは満足そうに一つ笑った。
﹁はは、彼らしいね。ともあれ、これでキスレチンにとっては、実
質二正面作戦になっているのと同義だ。本当は三正面にしてあげて
も良かったけど、そちらの方は上手くいかなかったからしかたない
かな﹂
﹁それはブリトニアの件でございますか?﹂
﹁そうそう、ちょっと煽ってみたんだけどね、彼らこそ演者の力不
足だったよ。まあ、相手方に余計な人物がいたせいでもあるけどさ﹂
ゼスはそう口にすると、苦笑を浮かべながら軽く肩をすくめてみ
せる。
一方、ラムールは先程の彼の言葉を受け、その詳細を求めた。
﹁余計な者⋮⋮ですか﹂
﹁ああ、調停者。そうだね、君たちに説明するならユイ・イスター
ツという名前のほうが通りが良いかな﹂
﹁ユイ・イスターツ⋮⋮またしてもあのアンフィニの!﹂
1612
その名を聞いた瞬間、ラムールの両眼が大きく見開かれる。
そしてそんな彼の解釈が正しいとばかりに、ゼスは大きく一つ頷
いた。
﹁ああ、この間と同じく彼の息子のせいさ。まあ息子と入ったとこ
ろで、中身は彼よりも、妻である剣の巫女の血のほうが濃く感じた
けどね﹂
﹁忌むべき裏切りの賢者。その息子が再び我らの前に立ちはだかっ
たとそういうわけですか﹂
ゼスの言葉を苦い表情で噛み締めながら、ラムールはそう口にす
る。
それに対し、ゼスは薄い笑みを口元に浮かべてみせた。
﹁西方会議に引き続きというわけだ。つくづく君たちにとって、彼
は目の上のたんこぶになりつつあるよね。まあ今回は少しだけから
かっておいてあげたから、あとは君たちでとどめをさしておいてよ。
僕は忙しいからさ﹂
﹁からかっておいた? では直接お会いされたと、そういうわけで
すか﹂
﹁ああ、少しだけね。まあ彼のことは良いよ。それよりも二正面作
戦というからには、うちの東の方はどうなんだい? おとなしくし
ているのかな﹂
ゼスは苦笑を浮かべながら、大陸中央に存在するもう一つの大国
のことを問いかける。
すると、ラムールは一度首を縦に振った。
﹁今のところ彼の国に動きはありません。連中も砂漠化にはほとほ
と手を焼いている様子にて﹂
﹁だろうね。でも、対岸の火事だと笑ってはいられない。いずれは
この地にまで砂漠化は広がってくる。だからこそ、やるべきことは
1613
わかっているね?﹂
﹁はい、もちろんです﹂
ゼスの問いかけに対し、ラムールは迷いなくそう告げる。
途端、ゼスの表情にはにこやかな笑みが浮かび上がった。
﹁結構。ではこのまま貴方の思うように戦いを続けて下さい。私は
しばらく、監視業務に戻りますので﹂
﹁監視業務⋮⋮ですか。それは一体?﹂
聞き慣れぬ言葉を耳にしたラムールは、目の前の少年に向かいそ
う問いかける。
しかし、ゼスはそっけない声で逆に彼へと問いなおした。
﹁貴方がこの私の成そうとすることを知る必要がありますか?﹂
﹁こ、これは失礼しました﹂
ゼスの言葉を耳にするなり、ラムールは深々と頭を下げる。
その反応に苦笑を浮かべたゼスは、ラムールに向かい優しい声色
で言葉をかけた。
﹁いえ、謝るほどのことはありません。ともあれ、また必要があり
ましたら、エミオルくんを通してご連絡下さい。それでは﹂
それだけを告げて、ゼスはゆっくりと聖堂から立ち去っていく。
彼のその姿を完全に視界から消えるまで、ラムールは深々とその
頭を下げ続けた。
1614
英雄の帰還
﹁おい、帰ってきたぞ!﹂
﹁第一師団だ。それに⋮⋮おい、夢じゃないよな﹂
﹁ああ、見間違えるものか。我らの英雄様だ!﹂
外敵であるブリトニア軍の討伐。そして貴族院の打倒。
これらの大業を成した兵士たちを見ようと、王都エルトブールの
南門へは数えきれぬほどの群衆が集まっていた。
彼らは無数の兵士たちに惜しみない賞賛と拍手を贈っていたが、
特にお目当てとしていた人物はもちろんただ一人。
長らくその姿を人前から隠していた、彼らの英雄その人であった。
﹁イスターツ様だ。イスターツ様が帝国軍を従えて帰還されたぞ!﹂
英雄ユイ・イスターツの凱旋。
それはカーリン陥落による凶報に胸を痛めていた人々にとって、
まさに待ちに待っていた瞬間であった。
一方、そんな人々の熱狂の渦中にある当人は、正直な所あまりに
複雑な心境を抱いていた。
﹁好意を持ってくれているのはわかるけど、なんというか見世物み
たいな形だよね﹂
﹁いいじゃないですか、先生。罵声を浴びながら門をくぐるより、
遥かにマシですよ﹂
隣に馬を並べていたフェルムは、民衆に向かい不器用に手を振る
ユイに向かいそう口にする。
1615
すると、ユイはすぐに深い溜め息を吐き出した。
﹁それはそうだけどさ、昔からこういうのはどうにも慣れなくてね﹂
﹁というか、普通はこんな凱旋なんてそうそう経験するものじゃな
いですよ。先生が特別すぎるんです。もちろん、僕もいつかはライ
ンドルでと思っていますけど﹂
将来はラインドル軍での立身出世を目指すフェルムは、自らの隣
りにいる人物に対して複雑な感情を覚えつつ、自らの決意を口にす
る。
だがそんな青年の思いを理解しつつも、ユイは正直な内心を口に
した。
﹁華やかな凱旋という事自体、その前に良くないことが起こったこ
ととセットだからね。皆に喜ばれなくていいから、私は静かで平穏
な日々が続くことを願いたいものだよ﹂
﹁また隠居願望ですか? 本当にもう﹂
民衆には聞こえぬよう注意しつつ、フェルムは呆れたように溜め
息を吐き出す。
するとそんな彼に向かい、黒髪の青年は抗議を口にした。
﹁またってなんだ、またって。私は昔も今もそしてこれからも、ず
っと隠居したいと思っているよ﹂
﹁無理ですよ、先生。もうそろそろ諦めましょうよ﹂
万感の思いがこもった口調で、フェルムはユイに向かいそう告げ
る。
だがそんな彼に向かい、ユイは窘めるような声を上げた。
﹁こらこら、君もいずれはラインドル軍のトップになりたいんだろ。
その夢を諦めろと言われたら素直に頷くかい? 違うだろ﹂
﹁いや、僕と先生の夢を同列に語るのは如何なものかと思いますけ
1616
ど﹂
﹁そんなことはないさ。夢は夢。どちらも大事なものだよ。だから
私の隠居の夢も、それはそれで立派なものさ。でも⋮⋮またこれで
しばらくは遠のいたかな﹂
そう口にすると、ユイはこっそりと虚空に向かい溜め息を吐き出
す。
一方、そんな自らの教師の反応から、先日目にすることとなった
油断ならぬ人物のことが思い起こされると、フェルムは思わず眉間
にしわを寄せた。
﹁それは、あのトルメニア人のせいですか?﹂
﹁⋮⋮うん、もちろんそれもある。あとはキスレチンの現状のこと
もね。ただそれ以外にも一つ長期的な問題を抱えてしまったからさ﹂
やや苦い口調で、教え子の青年に向かいユイはそう告げる。
途端、フェルムはその眉間にしわを寄せた。
﹁長期的な問題? この国の運営とかですか?﹂
﹁おいおい、私は正規の軍人ではあるけど、正規の役職には付いて
いない宙ぶらりんの軍人だよ。間違っても、この国の政治になんて
欠片も責任を負うところはないさ﹂
民衆の歓声をその一身に受けながら、彼らに聞こえぬ程度の声で、
ユイはサラリとそんなことを口にする。
そんな状況とのギャップに呆れたフェルムは、頬を引きつらせな
がら黒髪の男に向かい問いを口にした。
﹁それはこの国の人が許してくれないと思いますけど⋮⋮ともかく、
それでは何に悩まれているんですか?﹂
﹁それはね︱︱﹂
﹁要するにカーリンのことかな﹂
ユイの言葉を遮るその声は、彼らの真後ろから発せられた。
1617
咄嗟に後方を振り返った彼らは、そこに赤髪を有する一人の剣士
の姿を目にする。
﹁アレックス⋮⋮﹂
﹁やあ、ユイ。僕もちょうど北からの帰りでね。面白そうな行列を
見つけたから、こっそり混ぜてもらったよ﹂
行列は街の中心部に近づき、周囲を取り囲む民衆は明らかにその
数を減らしつつあった。
そんな中、いつの間にか赤髪の男は集団の中に混じると、いつも
の食えない笑みを浮かべながら、全く悪びれることなく声をかけて
きたのである。
一方、そんなアレックスの行動に苦笑を浮かべつつ、ユイは彼の
存在から一つの結果を理解した。
﹁北からの帰りということは、彼が上手くやってくれたと言うとこ
ろかな﹂
﹁ああ。ブラウ公は捕らえたよ。近日中にその身柄は王都に護送さ
れる。全てはカイル君の手腕だね﹂
アレックスは馬上で軽く両手を広げながら、嬉しそうにそう語る。
途端、その話を耳にした一人の青年は驚きの声を上げた。
﹁か、カイル!? そ、それってもしや﹂
﹁おや、久し振りだね。確かユイの教え子でフェルム君だったかな。
元気にしていたかい?﹂
フェルムの反応をその目にしたアレックスは、ニコリと微笑んだ
後に軽い口調でそう問いかける。
すると、フェルムは二度首を縦に振り、そして話を本題へと戻そ
うとした。
1618
﹁は、はい。ご無沙汰いたしております、アレックス次官、それで
あの、今口にされたのは⋮⋮﹂
﹁うん、もちろん君のところの王様さ。僕たちが手を打てなくて困
っていたら、うちの貴族院を代わりに討伐してくれた。しかもロハ
でさ﹂
﹁ロハって⋮⋮参ったな。北部は割譲する形でもいいと思ったのに﹂
ユイは頭を掻きながら、常識的に考えればとんでもないことをサ
ラリと口にする。
それを耳にしてギョッとするフェルムに対し、この国の重臣は軽
く微笑んだ。
﹁はは、まあその辺りは彼もちゃんと考えてのことさ。いずれにせ
よ、これで国内は平定された。一先ずはね﹂
﹁そうだね。少なからぬ負債を背負う事にはなったけどさ﹂
﹁でもさ、ユイ。君はあの地の人々からたった一人の犠牲も出さな
かったんだ。それは十分に賞賛に値することだと思うよ﹂
アレックスはまっすぐにユイの顔を見つめながら、正直な感想を
口にする。
しかしそれでも、黒髪の男の表情が晴れることはなかった。
﹁それは偶然だよ。あくまで幸運が重なったにすぎない。それに、
命を拾った彼らにもう帰る家はないのだからね﹂
﹁それはそうだけど⋮⋮ふむ、その様子だと、本気で彼らのことを
レムリアックで面倒見るつもりなわけだ﹂
﹁そういう約束を彼らとも、そしてこの国とも交わしたからね。も
ちろんこんな事態になるとは思っていなかったにしろさ﹂
そう口にしたところで、ユイは深い溜息を吐き出す。
それを目にしたアレックスは、笑顔を浮かべたまま、まさにとん
でもないことを口にした。
1619
﹁でもさ、ユイ。契約書というものは偶然紛失してしまうこともあ
るものだよ。もちろんちょっとした不幸があればだけどね﹂
﹁⋮⋮残念ながら、私は私なりに第二の故郷が好きなんだ。だから、
不幸な事故が起こることはないし、起こすつもりもないよ﹂
遠回しに契約の破棄を勧められたユイは、あっさりとその提案を
はねのける。
それを受けて、赤髪の男は小さく息を吐き出すと、苦笑を浮かべ
た。
﹁はぁ、相変わらず君はそういうところが義理堅いよね。普段はあ
んなにいい加減なのにさ﹂
﹁どうだろうね。でも、カーリンに関しては私がすべての責任を取
る。これはもう決めたことさ﹂
﹁楽な未来に憧れながらも、相変わらず茨の道を行くのが好きだよ
ね、君は。でもまあ、君がそういうのなら止めないよ。それになん
なら手伝うことも吝かではないかな﹂
こんな面倒くさい性格をした親友だからこそ、アレックスはこれ
まで彼とともに道を歩んできた。
そんな事実を改めて考えなおし、赤髪の男は目の前の男に向かい
手を差し伸べる。
その差し伸べたはずの手は確かに握られることとなった。
ただし、彼自身が全く予期しない形でである。
﹁ありがとうアレックス。それじゃあ言葉に甘えて、少し別件でお
願いしたいことがあるんだ﹂
﹁別件で? 何かな一体﹂
﹁少し剣の指導をしてくれないか﹂
その内容は極めてシンプルで、そしてアレックスの想像の範疇に
無かった。
1620
それ故に、赤髪の男は僅かに口元を歪めてみせる。
﹁へぇ、でも彼に耐えられるかな。見たところまだ体が出来上がっ
ていない気がするから、先にレイスかフート君あたりに面倒を見さ
せたほうが良い気がするけど﹂
アレックスはそう告げると、その視線をユイの隣を行く青年へと
向けた。
途端、フェルムは驚愕とともに目を見開き、黒髪と赤髪の男を交
互に見比べる。
一方、そんなフェルムの反応に苦笑を浮かべつつ、ユイが思考し
ていたのは全く異なる人物のことであった。
﹁フェルムのことかい? うん、そうだね。彼に関してはそれもあ
りだと思う﹂
﹁おや、その回答だと彼以外のことなのかい? では、この僕に誰
の面倒を見ろっていうのかな﹂
﹁今、まさに君に話しかけている人物さ﹂
ユイのその言葉が発せられた瞬間、フェルムの耳には周囲の雑音
が全て消え去ったかのように感じた。
黒と赤の二人の周囲だけまるで別空間となったかのように、明ら
かに彼の体感温度は急速に低下する。
そして思わずフェルムが身震いしそうになったタイミングで、初
めてアレックスの唇が僅かに動いた。
﹁⋮⋮本気かい?﹂
﹁ああ。少しばかり⋮⋮いや、本気で鍛えなおさなければいけなさ
そうなんだ。そうでないと、たぶん届かない﹂
﹁キスレチンの時とは違い、今度はどうやら本気のようだね﹂
普通ならば、絶対に彼の親友が言い出すようなことではなかった。
少なくともアレックスは、彼のそんな言葉を聞いたことがない。
1621
そして何より、いつも程々に適当で、そして程々に余裕を持ちな
がら言葉を紡ぐ親友が、真剣な表情で口にしたからだ。
﹁でなければさ、君たちにお願いするつもりになんてならないさ﹂
﹁君たち⋮⋮か。つまり彼にも頼むつもりなわけだ﹂
﹁うん。できれば三人で⋮⋮もちろん君たちは偉い人になってしま
ったから、執務に支障のない範囲でだけど﹂
すでに彼自身は、この国の軍において正規の役職にはない。
だが彼が求める二人は、今まさにこの国の軍の柱石に他ならなか
った。
﹁ユイ。それはもしかして、僕たちにもリハビリをさせるつもりか
い?﹂
﹁⋮⋮否定はしない。唯一、君だけは届くかもしれないけど、私で
は確証が持てなかった。それくらいに次元が違ったよ。修正者の少
年はね﹂
些か自嘲気味に発せられたユイの言葉。
それが赤髪の男の鼓膜を打った瞬間、彼は小さく溜め息を吐き出
した。
﹁なるほど⋮⋮やはり彼らが暗躍しているというわけだ﹂
﹁その意味では、それを君に預けておいてよかったと思っている。
何しろ、彼らに肉薄し得る君でも、剣が届かなければ戦いにはなら
ないからね﹂
ユイはそう口にしながら、アレックスの腰元に下げられた借り物
の剣へと視線を走らせる。
それを受けてアレックスは、軽く顎に手を当てるとゆっくりとそ
の口を開く。
﹁種が割れていればウイッラ君くらいならやりようはあるかな。で
1622
も、君がそう言ってくるということは、彼の比じゃないわけだ⋮⋮
いいね、面白い。受けるよその話﹂
﹁迷惑をかけるけど、本当に良いのかい?﹂
﹁ふふ、君に迷惑をかけられるのはいつものことさ。それに今回は、
君と剣を重ねることができる。こんな幸せなことはないさ﹂
満面の笑みを浮かべながら、アレックスはユイに向かってそう告
げる。
﹁ありがとう。これで決まりだね﹂
﹁決まり⋮⋮か。まあたぶんそうだとは思うけど、一応彼の意向を
確認してからかな﹂
ユイの言葉を受けて、アレックスは右の口角を吊り上げながら、
含みのある言葉を口にする。
それを受けて、ユイは僅かに首を傾げた。
﹁彼?﹂
﹁ほら、あそこにいるよ。ふふ、もういい歳だってのに、たぶん待
ちきれなくて出てきたんだろうね﹂
﹁リュート⋮⋮か﹂
彼らの視線の先には、一人の銀髪の男性が仁王立ちしていた。
そう、まさに王城の入口の前で、まるで彼らを待ち構える門番の
ように。
﹁ふふ、わざわざ親衛隊長が王城の前でお待ちとはね。さて、さっ
きの話だけど、たぶん彼が一番乗り気だと思うよ。何しろ、君によ
って付けられた土の借りを、返したいと思っているのは間違いない
だろうからね﹂
﹁付けられた土⋮⋮ね。私の手品はすでに種が割れているから、今
回は苦労しそうだ﹂
﹁だからこそ良いんじゃないか。それでこそ、実戦に即した訓練が
1623
できるってものさ。さて、それじゃあ先に行ってるよ﹂
そう口にすると、アレックスは行列の脇へと馬を操り、そのまま
先行していく。
そんな彼の背中は、明らかに歓喜に満ちていた。
﹁はぁ⋮⋮別に君を喜ばせたいからではないんだけど。まあアレッ
クスらしいといえばらしいか﹂
少しずつ小さくなっていく赤髪の男の背中を追いながら、彼は一
つ溜め息を吐き出す。
そしてそのままゆっくりと右の拳を握り直すと、彼は自らの決意
を口にした。
﹁次に会うときは好きなようにはさせない。西方のためにも、そし
て私自身の為にもね﹂
ユイは虚空に向かって、ゆっくりとそう呟く。
そして彼は頭を掻きながら、その視線を東の空へと向けた。
彼が目にした空は、きっと続いている。
彼自身が向かうべき新たな戦場へと。
1624
懐かしくも新たなる日々
﹁マジックコードアクセス﹂
眼前の銀髪の青年の左手に編みあげられた強大な風の束。
それを目にした瞬間、黒髪の男は迷うこと無くその呪文を口にす
る。
しかしそんな彼の行動。そして行った選択。
それは銀髪の男の想定の範囲内だった。
﹁甘い! ホワールウインド!﹂
左手に編みあげられた魔法への干渉を感知した瞬間、銀髪の青年
は瞬時に右手に新たな風の束を編み上げる。
そう、一つの魔法にしか干渉できないが故、黒髪の男が手出しで
きない第二の魔法を。
だが、黒髪の男は迷うこと無く最初の魔法を乗っ取る。
﹁クラック!﹂
その言葉が紡がれた瞬間、リュートの左手に編みあげられていた
風魔法は、まさに放たれんとしていた右手の風魔法に向かい直進す
る。
次の瞬間、風の束と風の束が起こり、二つの魔法は激しい音と不
規則な気流の流れを生み出しながら互いに相殺しあった。
﹁チェックメイト⋮⋮だね﹂
眼前での風の乱れにより、一瞬視界を遮られたリュートは、自ら
の首元に手刀が伸ばされている事を理解する。
彼は大きく舌打ちすると、その場にドスンと座り込んでしまった。
1625
すると、そのタイミングで突然軽い拍手が二人へと向けられる。
﹁ふふ、お疲れ様。しかし意外と長引いたね﹂
二人に向い歩み寄ってきた赤髪の男は、薄い笑みを浮かべながら
そう口にする。
﹁まあ、ほぼお互いの手の内が見えてきたからね。正直、今のは二
撃目の魔法式を予測して書き換えてなかったら間に合わなかったさ。
昨日みたいにね﹂
﹁ちっ、だが今回は俺の負けだ。まだ魔法が侵食される感覚が掴み
きれん。クソ!﹂
大地に座り込んだまま、リュートは悔しそうにそう言い放つ。
そんな彼に向かい、ユイは苦笑を浮かべながら、冷静な戦いの評
価を口にした。
﹁例のアレを実行するには、世界が侵食するタイミングを掴まなけ
ればならない。だから早く慣れて欲しいんだけど、いくら君でもも
う少し時間が⋮⋮いや、そんな目で見ないでよ﹂
﹁ふん。言ってろ。次はものにして俺が勝つ﹂
ユイを睨みつけながら、リュートは吐き捨てるようにそう口にす
る。
するとアレックスが、顎に手を当てながら嬉しそうに口を開いた。
﹁まあいずれにせよ、今日の夕食は君のおごりということでよろし
くね﹂
﹁うん、よろしく﹂
アレックスに続く形で、ユイも嬉しそうにリュートへとたかりに
かかった。
途端、リュートはへそを曲げたように視線を逸らす。
それを目にした二人は、こらえきれないとばかりに軽い笑い声を
1626
上げた。
ルシーダ平原における戦いから早一ヶ月。
もちろん毎日というわけではなかったが、彼ら三人はこうしてエ
ルトブールから少し離れた草原において、あの頃のように互いの魔
法と剣を重ね合わせていた。
しかしながら、彼ら三人はあの頃とはまったく異なっている。
もちろんその技量に関してもそうではあるが、それ以上に異なる
ものはそれぞれの立場であった。
かつて士官学校で魔法科の麒麟児と呼ばれたリュート・ハンネブ
ルグは、現在この国の第三代親衛隊隊長を務めている。
極々僅かな在任期間しか無かった初代隊長の頃とは異なり、既に
親衛隊は軍の各省と同格としての扱いを受けており、クラリス王国
において確固とした地位を築くに至っていた。
そんな急速に拡大しつつあった組織を、前任者から引き継いだリ
ュートは、持ち前の厳格さによって適切な運営を行い、その声望を
高めつつある。
次にクラリス王国、いや既に大陸西方最強の剣士として名高いア
レックス・ヒューズは陸軍省次官。
もちろん歴代最年少での就任であったが、彼がその地位につくと
同時に、陸軍省の規律と統率、そしてその戦闘力は劇的な上昇を見
せていた。
それは省の頂点にいる彼自ら、部下のフートやレイスを率いての
実戦訓練の敢行にあり、かつては三省の中で最も格下と見られてい
た陸軍省は、今やその立ち位置を大きく異にしている。
そして最後にユイ・イスターツ。
1627
かつて救国の英雄と呼ばれ、そして今や大陸西方の軍神などとま
で評されることもある彼であるが、現在この国の軍組織において、
彼は無役である。
もちろんそれは様々な思惑の絡まった結果であり、すべての事実
を表しているわけではない。
だが実際の所、現在の彼は昼にこうして親友たちと剣を重ね、そ
して大学に存在するある老人の研究室にふらふらと足を運ぶだけの
日々を過ごしていた。
そんなかつて同じゼミで机を並べた三人の現在。
それはまさに三者三様と呼ぶにふさわしいものであった。
一方、現在はそんな立ち位置にある彼らがこうして街外れで一堂
に会しているという事実。
それは同時に、ある一人の男性に絶望的なまでの負担を掛けてい
ることを意味していた。
﹁先生、ユイ先生!﹂
くすんだ金髪を振り乱しながら、馬を走らせてくるある男性は、
大声でユイの名を呼ぶ。
明らかにその胸板はたくましくなり、些か大人びた顔つきとなっ
たかつての教え子。
現在、大臣副官を務めるレイス・フォン・ハリウールである。
﹁おや、どうしたんだい?﹂
自分たちのところへ近づいてきた青年に向かい、ユイは頭を掻き
ながらそう問いかける。
すると、そんな成長を見せていたはずの青年は、昔と変わらぬ調
子でかつてのだらしない教官に向かって、怒りを露わにした。
1628
﹁先生、ダメじゃないですか。今日は軍の方針会議があるから、午
後は軍務庁舎に来てくださいって言ったはずですよ⋮⋮というか、
師匠にリュート隊長まで、こんな時に何をされているんですか!﹂
﹁あれ、おかしいな。今日は出ないって手紙を送っておいたはずな
んだけど﹂
レイスの怒りを目の当たりにしながら、ユイは軽く首を傾げると、
そんなことを口にする。
途端、かつての教え子はダメな教師にむかって詰め寄った。
﹁出ないっていう手紙って⋮⋮いや、なんですかそれは。そんなの
通用するわけ無いでしょう!﹂
﹁そう? でもダメだって言ってこなかったから、てっきり許可が
出たものだと思っていたんだけどさ﹂
頭を掻きながら、そんな意味のわからぬことをユイは口にする。
すると、ゆっくりと地面から起き上がったリュートが、疑念の眼
差しを彼へと向けた。
﹁おい、まさかあいつの許可をとったというのは嘘だったのか?﹂
﹁嘘じゃないって。ダメって言われなかったのはホントだからさ﹂
心外だとばかりに、ユイは軽く両手を広げてみせる。
一方、そんな彼らの会話を耳にしていたアレックスは、一つの可
能性をその脳裏に浮かべた。
﹁ユイ、もしかして彼の自宅に送りつけたりしていないよね﹂
﹁え、そうだけど⋮⋮ああ、なるほど。確かにこれは迂闊だった﹂
アレックスの言葉から、ユイはようやく自らのミスに気がつく。
﹁まったく、最近の彼はストレスが溜まっているせいか、女性のと
ころを転々としているって話だよ。家になんて帰っているはずがな
1629
いさ﹂
﹁というか師匠。そのストレスの原因って、師匠やリュート隊長が
度々こうやって先生と⋮⋮いえ、なんでもありません﹂
レイスの先程までの怒りと勢いは、アレックスの冷たい笑顔一つ
であっさりと消え去ってしまう。
そんな師弟の微笑ましい会話を目にしたユイは、軽く顎を撫でな
がら本人が聞けば泣き叫びそうなことを口にした。
﹁しかしまだ女性のところに行く余裕があるわけだし、もう少し仕
事を任せられそうだね。いやぁ、エインスが有能で本当に良かった﹂
﹁や、やめてあげてください。これ以上仕事が振られると、大臣が
過労死してしまいます﹂
とても軍務大臣に対する発言とは思えぬことを口にするユイに対
し、レイスはその気の毒さに胸を痛めると、慌てて言葉を差し挟む。
それに対し、ユイは頭を掻きながら、ひどい一般論を口にした。
﹁トップが一番働くというのは、組織として健全なことだと思うけ
どね﹂
﹁だったら先生が一番に働いてくださいよ﹂
﹁いや、だって今の私は無役だしさ。言うなれば一番下だろ。それ
に今、私は私なりにそこそこ忙しいからね﹂
軽く肩をすくめながら、ユイはなんでもないことのようにそう告
げる。
すると、そんな彼の発言を聞いたアレックスが、一つの問いかけ
を口にした。
﹁そういえば、教授のご機嫌はどうなんだい?﹂
﹁聞くまでもないだろ。いつもどおり不機嫌だよ。私が厄介事を持
ち込んだせいで自分の研究が進まないって、顔を合わせる度に言わ
れるくらいにはね﹂
1630
首を左右に振りながら、ユイは小さく溜め息を吐き出す。
一方、そんな彼の発言に呆れきっていた銀髪の男は、やや疲れた
表情を浮かべながらその口を開いた。
﹁まあいずれにせよだ、今日はこれくらいで引き上げて、会議に参
加するとしよう。貴様の連絡不行き届きで遅刻することになりそう
な会議にな﹂
﹁だから不可抗力だって。っというか、最近会議に出るとエインス
が冷たいんだよ。まったく困った話でさ﹂
リュートの皮肉を耳にしながら、ユイはまったく悪びれること無
く、そう言い放った。
途端、レイスは頬を引きつらせた。
﹁困っているのは軍務大臣で、困らせてるのは先生なんです。ホン
トにもう﹂
困惑と諦めと怒り。
それらが交じり合った言葉は、今日も再びレイスの口から吐き出
されることとなった。
1631
キスレチンは苦境にあり。
キスレチン共和国の首都ミラニール。
そのやや外郭部に建てられた軍務省庁舎はこの数カ月の間、内部
でひっきりなしに人々が行き交い、まさに戦場さながらの状況であ
った。
そんな庁舎の最上階。
その最奥に存在する一室においては、キスレチン軍の制服組と背
広組のトップが、頭を抱えながら今後の戦略を見直しつつあった。
﹁やはりトルメニア軍の士気は高い⋮⋮か﹂
届けられたばかりの東部戦線に置ける状況悪化の報告。
それを受けて、現在の背広組のトップである軍務副大臣のオプジ
ーム・ペネルマンは、深い溜息を吐き出した。
一方、制服組のトップであるエルロブ・カタフィリム軍務省次官
は、小さく頷くとともに、その要因をあげつらってみせた。
﹁奴らは宗教軍ですからな。戦場にて死すれば、地母神の元へたど
り着けると信じこんでおります﹂
﹁死兵程怖いものはない。当然、我が民主国家においては、そのよ
うな選択を兵士に押し付けることは出来んからな﹂
﹁民主主義を象徴する神でもおればまた違ったのでしょうが⋮⋮い
え、これは失言でした﹂
政治家を前にしながら、些か踏み込んだ発言をし過ぎたと反省し
た、慌ててエルロブは発言を訂正する。
するとそんな彼の発言に対し、オプジームは苦笑を浮かべてみせ
た。
1632
﹁まあそうでもいいたくなるのはわかるさ。数は五分で兵士の練度
はこちらが上。ならば当然勝てるはずだ、本来はだが﹂
﹁だが、ジリジリと奴らに押し込まれつつあります。南部も含めて
ですが⋮⋮﹂
そう口にすると、エルロブは小さく首を左右に振る。
﹁南部か。ナポライ戦線はサービアン将軍が指揮をとっているはず
だったな﹂
﹁はい。圧倒的多数で攻めこみ、電撃的に制圧して二正面作戦を回
避する予定でした。しかし、奴らのアレのせいで、そんな甘い計画
は無残に消え去りましたが﹂
﹁銃⋮⋮か﹂
彼らの投入した主兵器にして、自軍が苦戦を強いられている最大
の要因。
その存在の名をオプジームは小さく呟いた。
﹁あれを持てば、一般人でさえ魔法士に肉薄する戦力となり得ます。
もちろん制約やコストを考えれば、魔法と同等とは言いませんが﹂
﹁あとはトルメニアから派遣されてきている例の部隊の存在か﹂
﹁大主教直属の竜騎兵部隊。騎馬の行動力に、銃の破壊力、そして
何より奴らは練度においても我らを上回っています。正直言って、
厄介極まりないのが本音です﹂
ドラグーンこと竜騎兵部隊。
本来ならば大主教直属であり、トルメニアを離れることなどあり
えない彼らが、東部戦線ではなく敢えてナポライの地にその姿を表
していた。
この意味するところは明白である。
つまりトルメニアは、二方面のいずれの戦いにおいても、勝利を
得るつもりなのが明白だった。
1633
﹁⋮⋮どうするつもりだね。このまま手をこまねいていては、南部
も東部もいずれこの首都ミラニールまで後退してくるハメになるが﹂
﹁一つだけ選択肢があります。東部戦線にはあの男を投入するとい
う選択肢が﹂
﹁あの男?﹂
エルロブの意図する人物がわからず、オプジームは僅かに首を傾
げる。
すると軍務省次官は、迷うこと無く一人の人物の名をその口にし
た。
﹁あの男⋮⋮カロウィン・クレフトバーグです﹂
﹁ば、馬鹿な。彼は既に退役した。いくら若く有能とはいえ、一市
民を徴用するなどということは︱︱﹂
﹁できます。その為に、彼の退役書類は手を打っておきました。ケ
ティス前大臣と彼が喧嘩別れをしたあの日にです﹂
オプジームの言葉を遮る形で、エルロブははっきりと自らが行っ
た非合法行為を告白する。
途端、オプジームは驚きの表情を浮かべた。
﹁で、では、君はこんな日が来る可能性があると、そう考えていた
のかね?﹂
﹁いえ、流石にそんなことはありません。どちらかと言うと、帝国
と戦う日のために、彼を無理やり予備役扱いとしておいたのです。
まさかこんな形で、役に立つとは思いませんでしたが﹂
当たってほしくなかった未来が、より悪い形で的中しただけ。
エルロブは自らの判断の是非以前に、ただ単純にそう感じていた。
しかしながらオプジームは、そんな彼の判断をここに追認する。
﹁例え非合法な手段を君がとっていたとはいえ、ありがとうという
1634
べきだろうな。しかし、これで書類上の問題は乗り越えたとはいえ、
はたして彼は戻ってきてくれるかね﹂
﹁わかりません。何しろ、あの皮肉屋は素直ではないですので。で
すがそれでも、彼の力なしに東部戦線での勝利はおぼつかぬかと﹂
﹁⋮⋮確かに。で、具体的に呼び戻すあてはあるのかね?﹂
﹁ありません。ですので、私自身が説得に行って来ようかと思って
います。彼のいるツイリッヒまで﹂
ミラニールから大きく北に離れたツイリッヒの街。
それは前統合作戦本部長にして、帝国の天敵とまで言われたカロ
ウィン・クレフトバーグの故郷で知られている。
しかし、このミラニールからの距離を踏まえると、エルロブの判
断は通常ならば却下されてもおかしくはない考えであった。
﹁君自身がか? しかし往復にかかる時間を考えると、この国の中
枢に長期間穴を開けることになるぞ﹂
﹁わかっています。ですが⋮⋮だとしても、彼を連れ戻さなければ、
このままジリ貧です。それならばまだ、可能性にかけるべきでしょ
う﹂
﹁⋮⋮やむを得んな。良いだろう。その間は私がなんとか切り盛り
しておく。制服組時代の杵柄でな﹂
軍官僚出身で、それを母体として選挙活動を行ってきたオプジー
ムは、本来ならば禁じ手に等しいその決断を行う。
それは同時に、彼が政治家としての領分を踏み越えると言ったも
同然であった。
﹁すいません。そしてもう一つだけ、副大臣のご厚意をお願いでき
ませんでしょうか?﹂
﹁なんだ。我が国を利するのならば、何でも聞いてやる﹂
﹁では、お言葉に甘えて。もう一人だけ、この地に招きたい男がい
るのです。ですので、私が不在の間に外務省を通じて、その手配を
1635
してもらえませんでしょうか﹂
﹁招きたい男? ⋮⋮まさか﹂
この状況下で外務省を通じて招きたい人物。
そんな存在は、オプジームの脳裏にはたった一人しか思い浮かぶ
ことはなかった。
そして想像が正しいとばかりに、エルロブは小さく一つ頷く。
﹁ええ、英雄です。この国を救ってくれた他国の英雄。いや、西方
の英雄と呼ぶべきでしょう。噂によると、クラリス王国を再び救っ
たと聞きます。ですので、なんとしてもこのタイミングであの人物
を招聘したいところです﹂
﹁だがあの国が本当に出してくれるか? 伝え聞くところによると、
カロウィン以上にクセのある人物とも耳にするが⋮⋮﹂
様々な流言飛語がその人物に関しては飛び交っている。
それ故に、その人物に関しては一概に信用に足るのかはオプジー
ムには判断がつきかねた。
しかしながら同時に、その人物の築き上げてきた実績は、ほかの
何人を寄せ付けるものでないことは確実な事実であった。
﹁自由都市同盟のフェリアム殿は、あの英雄と親交があったと伝え
聞きます。ですので、ご無理を承知で申し上げますが、政党間の関
係を無視して、あの人に仲介をお願いしてもらえはしませんでしょ
うか﹂
﹁フェリアム君⋮⋮か。いいだろう、もはや国の危機を前に主義や
政策の違いなどを言っている場合ではない。この頭を下げるだけで
物事が進むのならば、喜んで下げさせてもらうよ﹂
﹁ありがとうございます、副大臣﹂
オプジームの言葉を耳にした瞬間、エルロブは深々と頭を下げる。
しかしオプジームはすぐに首を左右に振ると、エルロブの肩に手
を置き、彼に向かって強い口調で語りかけた。
1636
﹁なに、まだ何も実現したわけではない。それよりも早速とりかか
るとしよう。この国の未来を、そして民主主義を守るためにな﹂
1637
変わらぬ関係
士官学校に存在する校舎別棟。
そこには、普段は学生が立ち寄らない部屋が一つ存在する。
部屋の中には、いつも老人が一人。
普段通り椅子に腰掛けたまま論文を眺め読む彼は、不快なノック
音を耳にすると、不機嫌そうなその表情を来訪者へと向けた。
﹁今日も来おったか⋮⋮﹂
あからさまに不快そうなその声。
それを真正面から受け止める形となった黒髪の男は、軽く肩をす
くめながら
抗議するかのように口を開く。
﹁そんな嫌そうな顔をしないでくださいよ。明日も行きますって言
っておいたじゃないですか﹂
﹁お前の言っていることは当てにならん。特に予定に関してはな。
だからわざわざ覚えていられるか﹂
﹁いや、そんな堂々と言われましても⋮⋮﹂
普段の行いから強く反論しかねたユイは、頭を掻きながらそれだ
けを口にする。
一方、髭面の老人は、やや鋭い目でユイを見つめると、一つの問
いを口にした。
﹁で、あいつは使いこなせているのか?﹂
﹁そうですね。正直に言えば、もう少し⋮⋮といったところですか﹂
﹁そうか。ふむ⋮⋮﹂
1638
ユイの回答を耳にして、アズウェルは軽く顎髭を撫でる。
﹁大丈夫ですよ。彼は魔法科の麒麟児の後継者ですから﹂
﹁ふん、周りが勝手にそう言い出しただけで、あいつを後継者に指
名したことなどない。第一だ、わしは一度足りとも自分でそんな名
を名乗ったことはないぞ﹂
﹁亡国の賢者の名もですか?﹂
ユイの口からその言葉が発せられた瞬間、アズウェルの眉がピク
リと動く。
しかし彼はすぐに気を取り直すと、そんな彼の発言を鼻で笑った。
﹁ふん、今は存在しない国のことを言い出してもしかたがないだろ
う。どうせ生きている奴の中で、彼の国の存在を知る者自体がほと
んどおらん。全ては過去の話だ﹂
﹁そうですね。まあいずれにしても、リュートに関しては近いうち
に扱えると思います。それにそうでなければ。些かまずい状況にな
りますし﹂
﹁受け身に回るというのはそういうことだ。だから昔から、出来る
限り状況は作る側でいるべきだと言ったじゃろ。にも関わらず、お
前はいつもいつも﹂
もはや説教以外の何物でもないアズウェルの発言。
それに対し、ユイは苦笑を浮かべると、軽く頭を掻いた。
﹁いや、これでも出来る限り善処してきたつもりですよ﹂
﹁そんなことは知らんな。まあいずれにせよだ、リバースエンジニ
アリングに関しては、あとはあやつ次第。わしの技術は全て奴に預
けたからな﹂
﹁ですね。でも、正直先生にも先生なりの思惑があるんじゃないで
すか? 例えば、自分の研究の跡を継げる者を残しておきたいとか﹂
右手の人差指を立てながら、ユイは一つの仮定を口にする。
1639
しかしそれは、目の前の老人によってあっさりと否定されること
となった。
﹁ないな。第一、自分で成果が見れないものを残しても仕方ないじ
ゃろう﹂
﹁はぁ、素直じゃないんですから﹂
ユイはそう口にすると、軽くため息を吐き出した。
一方、そんなユイの反応を不快に感じたアズウェルは、さっさと
話題を切り替える。
﹁言っとけ。で、お前さんの方はどうなっとるんだね?﹂
﹁予定通り⋮⋮ですかね﹂
﹁そうか、ならいい。こいつの方もほぼ解析は終わった﹂
そう口にすると、アズウェルは一振りの剣を無造作に机の上に置
く。
そう、こんな場所に本来存在するはずのないその剣を。
﹁流石ですね。それで、如何でしたか?﹂
﹁因果を絶つ剣。まさに言葉通りだ。詳しくはこれにまとめてある﹂
アズウェルはそう告げると、ユイに向かって紙の束を放り投げる。
些か分量のあるそれを受け取ったところで、ユイは苦笑交じりに
本音を口にした。
﹁えっと、これは頂いて良いですか?﹂
﹁バカモン。なぜわしがもう一度書き直さねばならんのだ。必要な
ところだけ写すか覚えたら、さっさと返しに来い。この常識無しめ﹂
﹁いやぁ、この剣を前にして返せとかそんな言葉を吐きかけられる
と、些か耳が痛くて。いずれにせよ、やはりこいつは使えますね﹂
走り書きに近いそのレポートをパラパラと目にしながら、ユイは
一つ頷きつつそう述べる。
1640
﹁なんなら、奴を使うんだな﹂
﹁奴⋮⋮ですか?﹂
﹁ああ、若作りしてる馬鹿ジジイだ﹂
﹁なるほど、フォックス・レオルガードの爺さんですか﹂
アズウェルの指す人物を理解したユイは、その名を口にすると、
軽く頭を掻く。
﹁あの変態ジジイならその理論を扱えるはずだ。たぶんな﹂
﹁そうですね。確かにその通りです。となれば、やはり︱︱﹂
﹁先輩! 至急の来訪者が来ました。今すぐ戻ってきて下さい!﹂
部屋の中に無造作に置かれた紙の束を勢い良く崩しながら、一人
の青年が急ぎ飛び込んでくる。
すると、ユイは意外そうな表情を浮かべながら、その青年へと視
線を向けた。
﹁あれ、エインスじゃないか。わざわざ大臣自らどうしたんだい?﹂
﹁この部屋に来るのみんな嫌が⋮⋮もとい、教授の部屋と伺ったの
で、当然のことながら僕自ら来た次第です﹂
アズウェルにギロリと睨まれたエインスは、慌てて自らの失言を
訂正する。
一方、そんな彼の発言と行動から、ユイはその理由をあっさりと
洞察してみせた。
﹁そっか。で、先方は誰が来たのかな?﹂
﹁どの国がとは聞かないんですね﹂
﹁そりゃあ、お隣さんしかありえないからね。それを待っていたわ
けだし﹂
軽く右の口角を吊り上げながら、ユイはそう口にする。
途端、エインスの脳裏には疑問符が浮かび上がった。
1641
﹁待っていた?﹂
﹁ああ。どうせ動くなら、今後を見据えて動かなければならない。
その為にも、正直言ってこちらから押しかけるわけには行かなかっ
た。もっともそれ以上の優先事項があったことも事実だけどね﹂
エインスの問いかけに対し、ユイは簡潔な説明を加える。
それを受けて、ようやくエインスも心得たとばかりに一つ頷いた。
﹁なるほど⋮⋮どうせ売るなら高く売りつけるっていうやつですね﹂
﹁先方に買う余裕が有る間はだけどね。ともかく、向こうはカード
を切ってきた。となれば応えるとしよう。で、改めて聞くけど、誰
が来たのかな?﹂
﹁ウフェナ・バルデス氏です﹂
その名を耳にした瞬間、ユイは一瞬渋い表情を浮かべる。
﹁⋮⋮なるほど。参ったな、これは駆け引きは難しそうだ﹂
﹁あまり楽をしようとして、相手の足元を見過ぎないほうが良いで
すよ。先輩の悪癖なんですから﹂
﹁全くだ。貴様は楽をするためなら、人をこき使う癖がある。早め
に直した方がいいな﹂
エインスに続く形で、アズウェルも目の前の黒髪の男をこき下ろ
す。
ユイは思わず苦い表情を浮かべると、髭面の老人に向かい言い返
した。
﹁二人してひどいな。それに少なくとも、教授には言われたくない
ですよ﹂
﹁ふん、知らんな﹂
﹁この教授あって、そしてこの教え子ありってやつですか﹂
アズウェル、そしてユイと順に視線を動かしながら、エインスは
1642
呆れた口ぶりでそう述べる。
すると、アズウェルは軽く舌打ちをしながら、ユイに向かって出
て行けとばかりに右手で払い立てた。
﹁ちっ、まあいい。もういくのならさっさと行け。研究の邪魔なの
でな﹂
﹁はい、それじゃあまた後日伺います﹂
﹁では失礼します、アズウェル先生﹂
ユイに続く形で、エインスも軽く頭を下げる。
そしてそのまま部屋を出ようとしたところで、背後からアズウェ
ルの声が響き渡った。
﹁待て、ラインの小倅﹂
﹁へ? 僕ですか﹂
まさか呼び止められるとは思わず、エインスは首を傾げながらも
う一度アズウェルへと向き直る。
﹁エインス。おまえはやることがあるだろう?﹂
﹁え、えっと、やること⋮⋮ですか?﹂
何を言われているのかわからず、エインスはその場に固まる。
するとそんな彼に向かい、アズウェルは厳しい口調で一つの命令
を告げた。
﹁そうだ。さっき入ってきた時に散らかした書類の整理。それだけ
は終わらせていけ。いいな﹂
﹁あの、いや、でも、その、えっと⋮⋮はい﹂
クラリス王国が誇る若き軍務大臣。
彼はキスレチン共和国との交渉の席に遅れたとされるが、その理
由は後世に於いて不明とされている。
1643
下交渉
﹁すいません、お待たせしてしまったようで﹂
エルトブール城の正面やや左手に備え付けられた一室。
そこに足を踏み入れたユイは、頭を掻きながら中で待ち受けてい
た二人の男性に向かい謝罪の言葉をのべる。
﹁いや、突然押しかけたのは我々の方だ。そして久しぶりだなアイ
ン⋮⋮いや、ユイ・イスターツ﹂
﹁はは、どうも。お久しぶりですウフェナさん。それで、今回はど
うして貴方が我が国に?﹂
彼ら二人が腰掛けていたソファーの向かい側に腰を下ろしたユイ
は、単刀直入にそう問いかける。
すると、ウフェナは端的にその理由を口にした。
﹁フェリアム殿に頼まれたのでな﹂
﹁あのタヌキおやじの差配ですか。なるほど﹂
フェリアムの気難しそうな顔が脳裏に浮かび上がったユイは、思
わず苦笑をこぼす。
﹁いずれにせよ、外交使節団の団長を任命されたのだが、私には外
交がわからん。だから我が国の外務省からも今回の訪問に際し外交
官に同行頂いた﹂
ウフェナがそう口にすると、彼の隣に腰掛けていた壮年の男性は
ニコリと微笑む。
﹁フレーグと申します。どうも﹂
﹁なるほど。それでウフェナさんと、外交官の方が来られて、具体
1644
的に私にどうしろと言うのですか?﹂
ユイは二人の顔を順に眺めながら、単刀直入にそう問いかける。
すると、やや窮屈そうな礼服をまとった外交官は、軽く肩をすく
めてみせた。
﹁いきなり本題を求められるとは、話が早いですな、イスターツ殿﹂
﹁いやぁ、昔から駆け引きは嫌いなもので﹂
頭を掻きながら、ユイは外交官に向かいそう答える。
途端、ウフェナは呆れたような表情を浮かべた。
﹁嘘をつけ﹂
﹁本当ですよ。同じ結論を出すために無駄に頭を使う位なら、でき
るだけ労力をかけないほうがマシというのが信念でして。もちろん、
同じ結論が引き出せる場合の話ですが﹂
軽く両手を左右に広げながら、ユイは彼自身の本音をあっけらか
んと口にする。
一方、そんな彼の対応に苦笑を浮かべながら、外交官の男はあっ
さりと来訪の理由を口にした。
﹁⋮⋮ではお望み通り端的に申しましょう。我が国への援軍をお願
いしたい﹂
﹁それはクラリス王国に対する依頼ですか?﹂
﹁そうだ。そして貴公に対してでもある﹂
ユイの問い掛けへの回答と、外交官の言葉を補足する意味も兼ね
て、ウフェナは隣の男性に目で確認をとった上でそう述べる。
だがそんな彼の返答に対し、ユイは軽く顎に手を当てながら、軽
い口調で自らの立ち位置を口にする。
﹁残念ながら、それはイコールではないのですよ。現在、私はこの
国において無役の身でしてね﹂
1645
﹁建前上はであろう。先日のカーリンでの一件、我が国にも情報は
届いている﹂
﹁お耳が早いことですね。ただあれはあくまで、私の第二の故郷を
守るために、私兵をもって戦いに参加しただけの話です。別にこの
国からの依頼を受けたわけではありませんし、見返りも頂いてはい
ません﹂
損害賠償だけは自分が被ることになったがと、ユイは内心で思い
つつも、それは敢えて口にしなかった。
一方、このままでは埒が明かぬとばかりに、外交官は目の前の黒
髪の男にざっくりとした要求を述べる。
﹁ではこうしましょう。つまり。この国の軍と、そして貴方の両者
に対して援軍を要請させて頂く。いかがですか?﹂
﹁個人に援軍を要請されるとは、いやはや⋮⋮ともあれ、クラリス
に関しては、後で軍務大臣が来ると思いますのでそちらに頼んで下
さい。私が答えられるたぐいの問題ではありませんので﹂
﹁⋮⋮むう﹂
ユイの口にした原則論を前にして、ウフェナは思わず黙りこみ、
隣の外交官へと視線を向ける。
一方、彼の隣に腰掛けた外交官は、全く諦める素振りを見せず更
に食い下がってきた。
﹁イスターツ殿、聞くところによると、現在のこの国の軍の中枢は
すべてかつての貴方の部下や友人たちばかりとか。実質的に貴方が
彼らに動員を依頼されれば、自然と我らの要請に応じて頂けるもの
と思いますが?﹂
﹁それはルール違反ですよ、外交官殿。それに何らかの理由で私が
貴国に協力した際に、私だけが代償を頂くことに成れば背任行為に
なりかねない﹂
﹁つまり、頷いて頂けるだけの代償をお支払いすれば、貴方個人と
1646
しては、我が国への協力もやぶさかではないと⋮⋮そう解釈してよ
ろしいわけですね﹂
外交官はユイの言葉を耳にするなり、よどみない口調でそう問い
返す。
すると、ユイは軽く頭を掻きながら言葉を濁した。
﹁いやぁ、どうでしょうかね﹂
﹁イスターツ、一体貴公は何を求めているのだ。金か、名誉か?﹂
しびれを切らしたウフェナの問いかけ。
それに対し、ユイは軽く顎を撫でながら、ゆっくりとその口を開
いた。
﹁そうですね、お金は多少必要です。但し私以外の者のためにです
が﹂
﹁ふむ⋮⋮それはおそらく、貴方が保護した者達のためにですね﹂
﹁よくご存知ですね。ええ、ですので正直言えば、私というよりも
レムリアック伯爵として、多少の⋮⋮いや、それなりの金銭があれ
ばありがたいとは思っています﹂
カーリンの人間を受け入れた現状において、ユイとしても金銭的
な見通しは短期的にかなり苦しいのが正直なところであった。それ
故に、ユイは全く遠慮すること無くそう告げる。
﹁ならば、それで手を打ちたいところですね。具体的に︱︱﹂
﹁ああ、ちょっと待って下さい。金銭にことはもちろんなのですが、
それ以上にお願いしておきたいことがありまして﹂
﹁それ以上にお願いしたいこと? 一体何だ?﹂
外交官の言葉を遮って言い放ったユイの発言に対し、ウフェナは
眉間にしわを寄せながらまっすぐに問いただす。
﹁はい。戦闘時における撤退権を頂きたい﹂
1647
﹁⋮⋮つまり、あくまで我らの指揮下に入らず、不利と見れば逃亡
も辞さないというわけだな﹂
﹁当たらずしも遠からずといったところですね。金を払ったから死
兵となって、使い捨てにと言うのは、流石に困りますので﹂
ユイは頭を掻きながら、敢えて辛辣な仮定を告げる。
だがそんな彼の発言に対し、外交官はすぐに反論を口にした。
﹁ですが、その条件を受け入れるといささか問題かと。何しろ、貴
方がたは自由に撤退できるとなれば、金だけ受け取って逃亡するこ
とも可能ですし、最悪、敵国たるトルメニアの懐柔を受けての撤退
と言う可能性もありましょう﹂
﹁それはそうですけど、仮にトルメニアに懐柔されたら、別に撤退
権がなくとも彼らに与するはずですよ。違いますか?﹂
薄い笑みを浮かべながら、外交官の表情を覗き込むと、ユイはそ
う尋ねる。
だがそんな彼の発言を、もう一人の男がはっきりと否定した。
﹁それはないな﹂
﹁どういうことですか? ウフェナさん﹂
﹁貴公が彼らと何らかの因縁を有していることは理解している。だ
から、それはないと言えよう﹂
確信を持った口調で、ウフェナははっきりと断言する。
途端、ユイは弱ったように頭を掻いた。
﹁やれやれ、ではどうしましょうか﹂
﹁指揮権を貴公に譲渡しよう﹂
﹁は⋮⋮ウフェナ君、今なんて!?﹂
驚きの声を上げたのは、ウフェナの隣に腰掛ける外交官であった。
だがそんな彼の驚きに目もくれず、ウフェナは重ねてユイに対し
言葉を向ける。
1648
﹁我がキスレチン軍南部方面軍の指揮権を貴公に委ねる。それでど
うだ?﹂
﹁隣の外交官殿は驚かれているようですが⋮⋮本気ですか?﹂
﹁本気だ。それに指揮権を貴様が持てば、理不尽な命令などと言う
ものは存在しなくなり、我軍と貴公の軍は対等となる。違うかね﹂
そのウフェナの表情。
そこからユイは、彼が本気なのだと理解した。
そしてだからこそ、彼はやや慎重な口調で確認の問いを口にする。
﹁確認しますが、私に指揮権を委ねる権限がウフェナ殿にお有りな
のですか?﹂
﹁今回の外交交渉において、私が全権大使ということになっている﹂
﹁少し待ってもらえますか。如何に目の前の人物が英雄殿とは言え、
我が国の兵士は自由の民の兵です。その指揮権を専制君主の部下に
預けるのは如何かと思いますが﹂
外交官は眉間にしわを寄せながら、ウフェナに向かって問題点を
口にする。
だがウフェナは二度首を左右に振ると、改めて自らの見解を述べ
た。
﹁専制君主のもとで特権階級にあるものにその指揮権を委ねるのは
誤りかも知れませんな。だが、自由が失われようとする今、自由を
守るために行えることは全て試みるべきでしょう﹂
﹁それは当然です。ですが、その全てを試みたのかと言う問題が残
ります。実際に︱︱﹂
﹁あ、えっと⋮⋮盛り上がっているとこ悪いのだけど、お二人共ち
ょっといいですか?﹂
外交官の声を遮る形で、ユイは二人に対して声を向ける。
1649
﹁なんだ、イスターツ﹂
﹁あのですね⋮⋮すでにあなた方の結論は出ていると思いますので、
無駄なお芝居は止めにして、早く本題を続けませんか﹂
﹁は、お芝居?﹂
ユイの言葉を耳にするなり、外交官は虚を突かれたような表情を
浮かべる。
しかし彼のそんな反応を目にしながら、ユイは苦笑交じりにその
口を開いた。
﹁だからわかっていますから。もともと私に権限を譲渡させるつも
りだったんでしょ。ただそのまま素直に譲渡はできない。何しろ民
主主義国家で選挙という信任問題がつきまといますから。だから、
表向きは私が権限を求め、貴方がたはやむなく譲歩した。フェリア
ム殿があなた方に与えたのはそんな筋書きではないですか?﹂
ユイのその言葉が紡ぎ終わった瞬間、室内には一瞬ばかり静寂が
支配する。
そしてわずかな間の後に、先程まで驚いた表情を浮かべていた外
交官は、その顔に薄い笑みを浮かべてみせた。
﹁ふふ、なるほどなるほど。フェリアム殿やウフェナ君が尊敬とと
もに、本気で貴方を警戒するわけだ﹂
﹁はてさて、どうなのでしょうか。私にはその辺り分かりかねると
ころですが。それで、貴方は一体どなたなのですか?﹂
軽く肩をすくめながら、ユイは返す刀でその根本的な問いをぶつ
ける。
一方、その問いかけに対し、壮年の外交官は苦笑を浮かべながら
先ほどと同じ名をその口にした。
﹁貴方はといわれましても、外務省クラリス王国外交使節団副団長
のフレーグですが﹂
1650
﹁なるほど。では、その前は何をされておられましたか。そしてこ
の後は?﹂
意味ありげな笑みを浮かべながら、ユイは更に問いを重ねる。
すると、降参とばかりに外交官は軽く首を左右に振った。
﹁⋮⋮素晴らしいですね。しかしなぜ気づかれました?﹂
﹁ウフェナ殿が自らの判断で何かを述べるとき、必ず貴方を確認さ
れておられました。おそらく、台本外の事の決定権は貴方にあった
のだと考えたまでです﹂
﹁ふむ、なるほど﹂
﹁その上で考えるに、貴方は本来、軍の人間ではないですか? で
あれば、礼服の下に隠れた張りのある身体の説明がつきますしね﹂
そう口にすると、ユイはその視線を外交官の顔からその体へと移
す。
その視線の移動を受け、外交官は軽く溜め息をついた。
﹁本当にフェリアム殿が言われた通りのお人ですね。改めて自己紹
介いたしましょう。元帝国方面軍将軍であり、現外務省クラリス王
国外交使節団副団長を拝命したソラネント・フレーグ・アットフィ
ールドです﹂
﹁帝国方面軍の元将軍⋮⋮ですか﹂
﹁ええ、主に帝国側の守りを一手に引き受けていたのですよ﹂
﹁ちなみに付け加えておくとだ、私の以前の職場の上官でもあられ
る﹂
もはや不得意な演技をする必要が無いと判断したのか、ウフェナ
はソラネントに向かい敬意を隠すこと無くそう述べる。
﹁なるほど。しかし、これで話が見えました。つまり、私が組むこ
とになるのは貴方というわけですね﹂
﹁その通りです。ですから、指揮権の委譲に関しては、この場で約
1651
束して構いませんよ。私は勝ちさえすれば形式にはこだわりません
ので。もっとも、あまりにも理不尽な指示を貴方がされるようでし
たら、その時は拒否権を有させてもらいますが﹂
﹁仕事が増えず勝てるのならば私も形式にはこだわらないのですが
⋮⋮ふむ、まあ指揮権に関して構わないのでしたら、面倒事が増え
ない範囲でお預かりさせていただきましょうか﹂
顎に手を当てながら一つ頷くと、ユイは僅かな迷いの後にそう述
べる。
﹁ふふ、まあ私もできるかぎりの協力は約束しましょう。さて、と
なれば後は金銭の問題だけですが、はてさて、どれくらいご入用で
?﹂
﹁まずさしあたって、今回の遠征に関わる兵糧をお願いしたいとい
うのが正直なところです。何しろ、我が国から輸送するのは余りに
非効率的ですからな﹂
﹁まあわからなくもない要求ですね。可否はともかく、政府にはお
伝えしましょう。それで他には?﹂
﹁今後、うちの魔石に関する関税を割り引いて頂けませんか?﹂
何気ない口調で発せられたその要求。
それを耳にしたソラネントは、一瞬で首を左右に振った。
﹁それは難しいでしょう。何しろ、先日各国の関税率は西方会議で
決まったばかりですので﹂
﹁ええ、そのとおりです。ですが、何事にも例外があるものでしょ
?﹂
ユイはニコリと微笑みながら、要求を引っ込めること無くそう口
にする。
だがそれに対し、ソラネントは渋い表情を変えることはなかった。
﹁つまりクラリスにだけ例外を認めろと? 本当にそんなことが通
1652
るとお思いですか?﹂
﹁無理でしょうね。クラリスは契約を交わしたのですから。ですが
全く異なる新規契約なら如何です?﹂
ユイの口から発せられたその言葉。
それを耳にしたソラネントは、一瞬反応が遅れる。
﹁は⋮⋮それはどう云う意味で?﹂
﹁今後とある地が独立した場合において、その地の責任者は貴国と
新たに関税交渉を行いたいと思うのです。何しろ、彼の地は西方会
議時点において、貴国と何らの契約も交わしていなかったのですか
ら﹂
﹁イスターツ、貴様まさか⋮⋮﹂
ユイの提案を耳にしたウフェナは、驚きを隠すこと無く、その視
線をユイへと向ける。
一方、黒髪の男は軽く頭を掻くと、苦笑交じりにその口を開いた。
﹁はい。我が領地レムリアックが独立した場合において、クラリス
王国と交わした契約よりも関税率を下げていただきたい。それが貴
国の依頼を受ける上での条件です﹂
1653
真意の在り処
軍務庁舎の最上階に存在する会議室。
その中には現在のクラリス軍首脳部と、そして至尊の冠を頂く一
人の女性がその場にて顔を突き合わせていた。
﹁つまり共和国の要望は、我が国が援軍を送り込むこと。この一点
だけなのね?﹂
端正なその顔の眉間にしわを寄せたエリーゼは、キスレチンとの
交渉の場に唯一居合わせた若き軍務大臣に向かいそう問いかける。
﹁はい、そのとおりです。少なくとも彼らはそれ以上の要求を何一
つ言ってきませんでした。それどころか、諸経費は可能なかぎり負
担すると﹂
﹁彼の国の国庫も火の車のはずだがな﹂
﹁おそらくは直面している喫緊の課題が優先されるということでし
ょうな﹂
親衛隊長であるリュートの懸念に対し、この場における最年長に
して唯一代替わりをしなかった魔法省次官のスクロートが、彼の顔
に視線を向けながら自らの見解を述べる。
その次官の発言に対し、リュートは一度頷いては見せたものの、
あくまで彼は慎重論を繰り返した。
﹁おっしゃられることはわかります。ですが、安請け合いしてその
後に何らの見返りも行われない⋮⋮いや、彼らが行えないという可
能性もあります。その辺りは話半分にとっておくべきでしょう﹂
﹁そうだね。ただいずれにしても、彼の国が負ければ次は僕らさ﹂
それまでキツネ目を細めながら発言を控えていたアレックスは、
1654
一同を見回しながらはっきりとその危険性を告げる。
するとそんな彼の言葉を受け、エリーゼがすぐに確認の問いを口
にした。
﹁トルメニアは我が国を侵攻してきますか?﹂
﹁そうですね、間違いないと僕は思います。何しろ、我が国はクレ
メア教国家ではありませんから﹂
﹁利害よりも宗教です⋮⋮か﹂
エインスによる回答を受け、エリーゼは渋い表情を浮かべながら
納得したようにそう呟く。
そんな彼女の表情を目にしながら、最年長のスクロートは改めて
話を前に進めた。
﹁いずれにしましても、私はやはり援軍は送るべきかと考えます﹂
﹁僕もそう考えます。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
エインスが口ごもったのを目にしたリュートは、彼に向かってそ
の言葉の先を促す。
﹁その⋮⋮共和国は我が国には確かに援軍を要望してきたわけなの
ですが、もう一つまったく異なる要望を伝えてきていまして⋮⋮﹂
﹁もう一つ? 彼の国の要望は一点だけって、聞いたばかりと思う
けど?﹂
エインスの発言を耳にするなり、アレックスは軽く首を傾げなが
らそう問いかける。
それに対しエインスは、困惑した表情を浮かべながら、ゆっくり
とその口を開いた。
﹁その通りです。我が国に対しては⋮⋮ですが。ただもう一つは別
の対象に、つまり一個人に向けられたものなのです﹂
1655
﹁一個人だと⋮⋮まさか!?﹂
キスレチンが交渉を持ちかけるような一個人。
そのだらしな気な顔が脳裏に浮かび上がったリュートは、思わず
その頬を引きつらせる。
﹁はい。先輩に⋮⋮そう、英雄ユイ・イスターツ個人に対し、彼の
国は要望を持ち込んできました﹂
﹁我が国の頭越しに好き勝手言ってきたものだな﹂
スクロートはそう口にすると、小さく溜め息を吐き出す。
一方、エインスの言葉に内心動揺を覚えずにはいられなかったエ
リーゼは、端的にその目的を問いかけた。
﹁で、彼らはユイにどうして欲しいと言ったのですか?﹂
﹁指揮権を譲渡するが故に、彼の国の一軍とともに戦って欲しいと﹂
エインスの告げたその回答。
それを受けてリュートは小さく首を左右に振る。
﹁⋮⋮なるほどな。だから個人に対してというわけか﹂
﹁一頭の虎に率いられた羊の群は、一匹の羊に率いられた虎の群に
勝る。確かにそれは真実かもしれないね。もっとも、彼の普段の行
いは虎というよりは羊だけど﹂
アレックスは古い故事を引用しながら、敢えて冗談めかしてそう
口にする。
それに対しリュートは、彼のその調子に合わせること無く、さら
にその先をエインスに求めた。
﹁それで、あいつはなんと回答したんだ?﹂
﹁一つの条件を飲んでもらえるなら、協力もやぶさかではないとい
うことでした﹂
﹁条件?﹂
1656
エリーゼは目を僅かに見開きながら、そう口にする。
﹁はい。魔石の輸入関税を割り引いてもらえるならと﹂
﹁無理だな。いや、もちろん国が滅びるかどうかとなれば可能性は
あるだろうが、しかし西方会議の盟主たる彼の国が、その約束を飲
むというのは難しいだろう﹂
長くこの国の中枢に関与し続けてきたスクロートは、冷静に今回
の提案をそう評する。
しかし、そんな彼の見解をエインスが肯定することはなかった。
﹁と、思われますよね。最初この話を聞いた時、僕もそう思いまし
た。ただその⋮⋮先輩が提案したのはクラリスと彼の国ではなく、
レムリアック独立領と彼の国との間で⋮⋮と﹂
﹁な、なんだと! エインス、一体どういうことなんだ!?﹂
まったく予期せぬ単語を耳にして、リュートは思わず声を荒げる。
それに対し、エインス本人も困惑極まりない表情を浮かべながら、
しどろもどろに口を開いた。
﹁いえ、僕も何がなんだかわからなくて⋮⋮﹂
﹁でも貴方がついていたんでしょう?﹂
エリーゼに寄る容赦無い追求。
それに対しエインスは、言いそびれていた一つの事実を告白した。
﹁その⋮⋮こう遅刻している間に話が進んでしまっていたというか、
着いたらもう話は殆どまとまっていたというか⋮⋮﹂
﹁おい、あの馬鹿ではなくお前が遅刻したのか?﹂
本来ならば上官にあたる軍務大臣に対し、リュートの口調は全く
容赦がなかった。
それに対し、エインスは視線をそらせながら慌てて言い訳を口に
する。
1657
﹁あの、その、アズウェル先生に無理やり部屋の片付けをさせられ
ていて︱︱﹂
﹁言い訳はいい。それよりもどうするつもりだ?﹂
エインスの言葉を遮る形で、間髪入れぬリュートは詰問を行う。
﹁ど、独立なんて普通ならとても認められませんよ。でも⋮⋮﹂
﹁そんな当たり前のことを、ユイが理解していないわけがない。要
するに、君が引っかかっているのは、そんなところかな?﹂
まさに助け舟を出すような形で、アレックスはエインスが口にし
そびれたその内容を敢えて口にする。
﹁はい、そのとおりです。あの怠惰極まりない先輩が、なにか面倒
事をしようとする場合、それ相応の理由があるはずなんです﹂
﹁後々の面倒事を回避するためというのがほとんどだがな﹂
数々の苦い記憶が蘇ったリュートは、やや棘のある口調でそう告
げる。
一方、そんな彼と同様の苦労を体験してきたエインスは、苦笑混
じりに言葉を続けた。
﹁まあそれは⋮⋮でも今回の案件はどう考えても、先輩に取って面
倒事でしか無いんです。ですので、そこがあまりピンとこなくて﹂
﹁少なくともカーリン絡み⋮⋮よね﹂
﹁それは間違いないかと。ですが、なぜ独立という選択なのかがま
ったく見えてこないんです﹂
エリーゼの発言に頷きつつも、エインスは最大の疑問点を口にす
る。
それに対し、顎に手を当てた赤髪の男が、一つの疑念をボソリと
呟いた。
1658
﹁本当に関税が目的なのかな?﹂
﹁アレックス?﹂
赤髪の男の言葉に、眼前の席に腰掛けていたリュートは思わず反
応する。
それを受けて、今度は皆に向かって伝わる程度の声で、アレック
スは自らの疑問点をその口にした。
﹁いや、あの土地が仮に独立した場合、大陸西方においてどういっ
た意味を持つのかと思ってね﹂
﹁大陸西方における意味⋮⋮か。つまり関税の減額と言うのは、あ
いつの真の目的を隠すための隠れ蓑だと?﹂
﹁どうだろう。本人以外それはわからないさ。ただ少なくとも、関
税の減額ってだけだと彼らしくないよね﹂
それは決して何らの根拠のある発言ではなかった。
しかしながら、アレックスのその言葉の説得故か、リュートはそ
れ以上言葉を紡ぐことなく口を閉じる。
そうして場が静まり返ったところで、エリーゼが一つの結論を出
した。
﹁いずれにせよ、直接ユイから聞くしか無いようね﹂
﹁⋮⋮それでエインス。ユイの奴は?﹂
﹁先輩はその⋮⋮お墓参りに﹂
リュートの問いかけに対し、ろくな説明もなく目的地だけを告げ
て立ち去ってしまった黒髪の男の行動を、エインスは口にする。
その回答を受け、エリーゼは困惑した表情を浮かべながら、改め
てエインスへと問いなおした。
﹁墓参り?﹂
﹁はい。かつてご両親と共に住まれていた村へ向かわれる⋮⋮と﹂
1659
エルトブールより少しばかり北に位置する農村。
その村外れにある寂れた墓地へと、あの男は再び訪れていた。
﹁前回は四年ぶりに⋮⋮そして今回もまた四年ぶりとなってしまい
ました。申し訳ありません、母さん﹂
黒髪の男はそれだけを告げると、その瞳を閉じる。
そして瞼の裏側に映る人物に向かい、彼は再びその口を開いた。
﹁彼らと再び出会いました。貴方なら敵討ちなんて野暮なことをす
るなと鼻で笑われるでしょう。僕も⋮⋮いや、私もそのつもりでし
た﹂
彼はそれだけを口にすると、小さな溜め息を吐き出す。
﹁ヴァンダルが組み上げたこの不安定なシステムが土台である故に、
その理念には同意できなくとも、この世界を維持しようとする彼ら
の志は理解できます。ですが、それでもなお私は再び彼らと対峙せ
ねばならないようです﹂
ユイはそこまでを口にしたところで、墓石に向かい手を合わせる
と、ゆっくりと踵を返す。
そして吹き付けてきた北風に身を震わせながら、彼は虚空に向か
い呟いた。
﹁結局、また私は泥沼へと足を踏み入れるわけだ。ならば、少しで
も犠牲者は少ないほうがいい。その為に⋮⋮いずれにせよ、全ては
彼ら次第⋮⋮か﹂
彼が吐き出した言葉は、誰の耳に入ることもなくそのまま空中に
1660
霧散していく。
そして彼は再び王都に向かい、この荒れ果てた村から歩み出した。
彼がその姿を消したところで、一層北風は強くなり、村の入口に
立て掛けられていた古い木製の立て札は、力なく風に煽られて地面
へと落下する。
地面に接吻することになったその立て札は、そこに記されていた
村の名前を、もう誰にも伝えることはない。
そう﹃イスターツ村﹄と書かれた、この村の名称を。
1661
歩むべき道
王都エルトブールの外れに存在する小さな家屋。
それはとある人物が極個人的に使用するために借り受けていた家
である。
しかしながら、そんな現在の主が入口の扉を開けた瞬間、彼は誰
も居ないはずの暗闇の中から、皮肉交じりの言葉を浴びせかけられ
ることとなった。
﹁あらあら、こっそり戻ってきたってわけ? 独立なんて言い出し
た問題児の英雄さん﹂
﹁クレハか⋮⋮右肩の調子は良さそうだね﹂
家の中に体を滑り込ませたユイは、手近な魔石灯に火を灯すと、
眼前の女性に向かいそう応じてみせる。
だが当然の事ながら彼の問いかけは無視され、そして改めて先ほ
どの問いかけに答えるよう迫られることとなった。
﹁話を逸らすつもり?﹂
﹁いや、別にそんなつもりはないさ。それと勘違いしてほしくない
のだけど、彼らに説明していないことにも深い意味は無い。何しろ、
独立なんてものはその先の話だからね﹂
ユイは苦笑を浮かべながら、先日の自らの発言に関してそう言及
してみせる。
途端、クレハの口からは辛辣な言葉が吐き出された。
﹁その先⋮⋮ね。また投げ出すの?﹂
﹁正直、そうしたいのはやまやまなんだけどね。でも、今回ばかり
はそういうわけに行かないことが悩みの種でさ。いや、こう見えて
1662
意外と義理堅い性分だと自分では思っているんだ。ほんとだよ﹂
まったく信用されていない気がしたユイは、軽く両腕を左右に広
げながら、念を押すようにそう告げる。
しかし当然の事ながら、彼のそんな発言は鼻で笑われることとな
った。
﹁さて、どうだか。ともかく、キスレチンへ行くつもりなのね﹂
﹁まあね。というわけで、今回はお留守番をよろし︱︱﹂
﹁いやよ﹂
ユイの言葉を遮る形でなされた回答。
その口調の強さには、彼女の引かないという意思がはっきりとそ
の言葉に込められていた。
それに対しユイは、一瞬苦い表情を浮かべる。
そして一歩クレハの下へ歩み寄ると、何気ない仕草で彼女の肩に
ポンと手をおいた。
﹁ッ!﹂
﹁ごめんね。でも、この肩じゃ無理さ﹂
クレハの肩から手をどかしたユイは、首を左右に振りながらたし
なめるようにそう告げる。
それに対し彼の眼前の女性は、何一つ口にすることなく、ただた
だ抗議の視線を彼へと向けた。
﹁⋮⋮そんな目で見ないでよ。それに申し訳ないけど、楽をしても
らうつもりはないんだからさ﹂
﹁一体、何をしろっていいたいのかしら?﹂
棘と苛立ちの混じったクレハの問いかけ。
それを受けたユイは、部屋の奥に置かれた本棚へ一度歩み寄ると、
そこから三番目に厚い本を取り出す。そしてその真ん中やや手前の
ページに挟まれていた汚い文字がびっしりと書かれた用紙を取り出
1663
すと、そのままクレハへと差し出した。
﹁さしあたって、彼らにこれを渡しておいて欲しいんだ﹂
﹁これは?﹂
﹁敢えて言うなら旅のしおり⋮⋮かな﹂
ユイはそう口にすると、わずかにその口元を歪める。
一方、受け取ったその紙へと視線を落としたクレハは、その内容
を確認した瞬間、溜め息混じりに正直な感想をその口にした。
﹁⋮⋮また散々に怒られるわよ﹂
﹁仕方ないさ。全軍を率いて寄り道をする訳にはいかない。状況的
にも、道義的にもね。となれば、現地で合流するのが最も合理的だ
と思わないかい?﹂
苦笑を浮かべながら、ユイは自身が出した結論をクレハへと告げ
る。
それに対しクレハは呆れたように小さく首を二度左右に振った。
﹁指揮官としては、最も最低な選択肢だわ﹂
﹁はは、耳が痛いな﹂
﹁ウソをつきなさい。痛くなるほど敏感な耳を持っていたら、この
状況下でのうのうとこんな場所にいるはずがないわ。まあいい、ど
うせ貴方が悔い改める気なんて無いでしょうし、引き受けてあげる
わ。ただし⋮⋮﹂
﹁ただし?﹂
言葉を止めたクレハに向かい、ユイは先を促すよう繰り返す形で
問いかける。
すると、ほんの少しばかり口元を吊り上げたクレハは、ユイに向
かい一つの宣告を行った。
﹁この内容を伝える際に、貴方のことは一切庇ってはあげないから。
1664
後でちゃんと自分で謝ることね﹂
﹁はぁ、それまでにほとぼりが冷めてるかなぁ⋮⋮﹂
﹁無理よ。どうせ貴方の顔を見れば、銀髪の彼が沸騰するに決まっ
てるもの﹂
現在は親衛隊長を務める一人の人物のことを示唆しながら、クレ
ハは確信を持ってそう告げる。
途端、ユイは苦い表情を浮かべながら軽く頭を掻いた。
﹁かも⋮⋮ね。まあ、そのへんは最初から予測済みだから、仕方な
いよ﹂
﹁予測済みって、本当に貴方という人は﹂
予め怒られることは前提で動くあたり、本当にタチが悪い。
それが正直なクレハの感想であった。
しかしながらその当人は、言葉の上では謝罪を口にしつつも、全
く気にした素振りを見せず、その視線は更に未来へと向けられる。
﹁ごめんね。でもさ、ここからは最善手を取り続けないと、絶対に
ビジョンを描くことができないんだ。いや最善手をとったとしても
⋮⋮﹂
﹁途絶えるはずの道、存在しないはずの道を歩き続けるためのビジ
ョン⋮⋮ね﹂
﹁まあもともと、王道とかそういうものには縁がないからさ。外れ
の道を行くことは慣れっこなんだけどね﹂
現在の立ち位置はどうであれ、経歴上左遷を繰り返してきたユイ
は、あくまで笑いながらそう告げる。
それに対しクレハは、軽く鼻で笑ってみせた。
﹁決して自慢できることではないと思うけど﹂
﹁違いない。でもね、今回ばかりは変な方向へ踏み外すわけには行
かなそうなんだ。とてもそんな余裕はなさそうだからね﹂
1665
﹁つまり単独行動の寄り道が、最も本筋を走る行為だと貴方は考え
ているのね?﹂
ユイから一切視線を外すこと無く、クレハは彼の目を見つめなが
らそう問いかける。
それに対しユイは、小さく一度だけ頷いてみせた。
﹁ああ。ある若作りした爺さんに会うことが、おそらくこの道を走
り切るのには必須なのさ。たぶんだけどね﹂
﹁若作りした爺さん⋮⋮フォックス・レオルガードね﹂
ミラニールの北に位置する小さな農村。
サルヴァツァと呼ばれるかの村で、その見た目と反し悠々自適な
老後を送っている人物の名をクレハは口にした。
﹁ああ。あの人に、もう一人の賢者が作り上げたこいつを渡さなけ
ればいけない。狂った因果を正当化するためにね﹂
ユイはそう口にすると、眼前の人物の義父が作り上げた一束のレ
ポートを指し示してみせる。
しかしクレハが言及するのは、そのレポートではなく、彼が口に
した一つの単語であった。
﹁狂った因果⋮⋮自覚はあるのね﹂
﹁ないさ。でも客観的に見てそうだと言われれば、正直否定出来な
いのは事実かもね﹂
ユイはそれだけを口にすると、そのまま入口の扉に向けて踵を返
す。
﹁つれないのね﹂
﹁残念ながら、時間は有限なものでね﹂
﹁貴方らしくない言葉だわ﹂
﹁そうかな? まあでも、たまにはいいんじゃないかな。私が時間
1666
に厳格でもさ﹂
背中越しにユイはそれだけ述べると、そのまま入り口の扉に手を
かける。
そのタイミングで、彼の後方からそれまでとは僅かに異なる声色
の声が発せられた。
﹁ユイ⋮⋮無理はしないでね﹂
それはまるであの頃の彼女のような声色だった。
そう、あの村で共に日々を過ごしていたあの頃の。
﹁もちろんさ。基本的に、私の辞書に無理とかやる気とか、献身な
んてものは存在しないからね。というわけで、彼らに怒られる役は
よろしくね、クレハ﹂
それだけを口にすると、ユイは軽く手を上げてそのまま外へと歩
み去っていく。
そうしてその場に残されたクレハは、小さく溜め息を吐き出す。
そして虚空に向かい小さく呟いた。
﹁本当に成長しないわね。貴方も⋮⋮そして私も﹂
1667
南部戦線
クレメア教とキスレチン共和国との戦い。
それはブリトニア軍を相手にクラリス軍が奮闘する最中も、常に
一進一退の攻防が繰り広げられ、彼の国が戦後処理を開始した今も
それは続いていた。
キスレチンにとって、現状の状況は決して芳しいものではない。
それは彼の国がまさに二正面作戦を強いられていることにあった。
東部戦線においては、敵であるトルメニア軍の本体とも言える神
聖軍が総力を動員して侵攻を続けており、現状においてはどうにか
食い止めるだけで精一杯という状況が持続している。
そして南部戦線においては、国内で勢力を拡大し続けていたクレ
メア教徒たちが、かつてこの国の軍務大臣を務めた一人の男を旗印
として集い、さらにキスレチン軍の勢力を削ぐ現状となっていた。
そんなキスレチン南部において、まさに中核をなしているナポラ
イ市。
民主国家を謳うこのキスレチンにおいて、すでに現実的にこの都
市だけは大きくその様相を変え始めていた。
言うなればそれは宗教都市。
そんな都市において、現在信徒達の旗印となっている男は、デロ
ーヴォと呼ばれる要塞の中にその姿があった。
1668
﹁軍の連中も、案外不甲斐ないものですな。初戦の敗北に懲りてサ
ービアン将軍は守勢に徹し続けております。これはもはや趨勢は決
しましたな﹂
キスレチン共和国前外務大臣であるハムゼ・パミルは、度重なる
部下たちの進言を受けて、目の前の枢機卿に向かいそう告げる。
だが、そんな彼は思わぬ反応をその目にすることとなった。
﹁いえ、楽観は禁物です。ここ数日⋮⋮いえ違いますね。もう少し
以前からでしょうか、彼らの行動が若干変わった気がします﹂
﹁行動が変わった⋮⋮ですか﹂
﹁はい。以前までは初戦の敗北で動揺し、自信を失ったまま戦闘を
継続していたように感じられました。ですが今は、何らかの意図を
持って戦闘行動を自粛しているかのようです。少なくとも、私の目
にはそう映っています﹂
少しばかり伸びたあごひげを軽くさすりながら、ケティス・エス
テハイムはそう告げる。
ケティス・エステハイム。
キスレチン共和国前軍務大臣にして、この国の第三政党であった
統一宗教主義戦線の代表、そしてクレメア教の枢機卿という肩書を
有する男である。
そして今、彼はこのナポライに集うクレメア教の人々の指導者で
もあった。
﹁自粛⋮⋮しかし、未だ散発的な戦闘は継続しておりますが?﹂
﹁彼らにも彼らなりの事情があるのでしょう。それは士気の維持の
ためかもしれませし、それ以外の理由があるのかもしれません。と
ころで、東部戦線の状況はどうなっていますか?﹂
﹁それが陸路は奴らに封鎖されているため、海路経由でしか連絡が
とれず、今現在どうなっているかは⋮⋮﹂
1669
ケティスを中心とするキスレチンのクレメア教団軍とトルメニア
神聖軍は、相互の関係としては決して良好とは言いがたいものの、
戦いに際して最低限の連絡だけは取り続けている。
しかしながら、両軍の間に存在する距離の問題もあり、相互連絡
にはどうしても時間的なズレが生じていた。
﹁それは仕方ありません。ですので、最も新しい情報で結構です﹂
﹁先月届けられた報告となりますが、その時点では向こうも一進一
退が続き戦況は膠着状態であったとのことです﹂
﹁ふむ⋮⋮そうですか﹂
その報告を受け、ケティスは渋い表情を浮かべる。
それを目の当たりにしたハムゼは、すぐさま問いを口にした。
﹁何かご懸念が?﹂
﹁いえ、東部戦線が硬直している上に、こちらでも動きが乏しいと
成れば、彼らは一体何を考えているのかと思いましてね﹂
ケティスは顎を軽くさすりながらそう告げる。
それに対しハムゼは、ケティスのその意図するところを敢えて口
にして言語化しようとした。
﹁何を考えている⋮⋮ですか。つまり何らかの軍事行動の前触れだ
と?﹂
﹁そこまではわかりません。ですが、状況とは常に悪化するもの。
そう考えながら行動は行うべきでしょう。少なくとも私は、それが
正しい指導者のあり方と考えます﹂
﹁悪化するものですか﹂
﹁ええ、悪化するものです。そうですね、例えばですが、敵の指揮
官が変わるに際し引き継ぎを行っている最中なども考えられますか﹂
指を一本突き立てながら、ケティスはハムゼに向かってそう口に
する。
1670
それを受けてハムゼは、明らかに狼狽を見せた。
﹁で、では、サービアン将軍が更迭されると、そう仰りたいのです
か?﹂
﹁だからあくまで例に挙げてみただけですよ⋮⋮でも、もし私が今
も軍務大臣なら、迷わずトップを入れ替えるでしょう。後任にはそ
うですね、例えばカロウィン・クレフトバーグなどが適任でしょう
か﹂
ケティスがサラリと口にしたその人名。
それを耳にした瞬間、ハムゼの両目は大きく見開かれた。
﹁な⋮⋮しかしあの男は既に退役し、野に下りました。あのひねく
れ者が果たしてもう一度軍に戻るでしょうか?﹂
﹁そのあたりは、今ミラニールで権力を握っている彼らの器量次第
でしょう。もちろん、他にも可能性は低いでしょうが、より最悪の
ケースも考えられます。ですので、面倒事が起こる前に主導権を握
るのがやはり望ましいでしょうね﹂
﹁は、はあ、主導権を握りに行くことに全く異存はありませんが⋮
⋮その、より最悪のケースとはなにをさしておられるのですか?﹂
先ほどのケティスの言葉の中に含まれていた、聞き逃すことの出
来ぬ単語。
ハムゼはやや迷いつつも、その単語に対する率直な疑問をぶつけ
た。
﹁それは自明の理ですよ、ハムゼさん。サービアン将軍に代わり、
この西方にて最も厄介な男がやってくる可能性です﹂
﹁厄介な男⋮⋮まさか!﹂
﹁ええ、西方の英雄。クラリスとしても、先を見越すならば、彼を
送り込んできても不思議ではありません。もちろん可能性は低いで
しょうがね﹂
1671
あの男がこの地にやってくる可能性は、ケティスとしては二重の
意味で低いと考えていた。
その理由の一つは、もちろんクラリス王国の領域外の戦いである
ということ。そしてもう一つは、この南部における戦いは、表向き
内戦の様相を呈しているとも言えることにあった。
前者は他国の戦争に介入するということを意味している。ただし
これは、西方会議時の彼の振る舞いもあり、一概には否定できるも
のにない。
しかしもう一つの理由は彼にとってはそれなりの確信を持ってい
る理由であった。
つまりトルメニア本体とも言える神聖軍が侵攻してきている東部
戦線は、いうなれば国対国の戦いである。それ故に、クラリス王国
の立場を踏まえれば、もし仮にあの男の参戦があったとしても、そ
の向かう先はどちらかと言えば東部戦線方面であろうと彼は考えて
いた。
しかしながら、これらのような理屈が成り立とうとも、それらは
あくまで可能性の問題である。
常日頃から状況の悪化を前提として行動するケティスは、万が一
に備え、次の手を打っておくべきという考えを改めて決断した。
﹁いずれにしてもです、この状況下で敵に時間を与えることに何ら
価値はありません。それに我々の北上に時間がかかれば、神聖軍に
ミラニールを先に落とされかねない。そうなればどうなるかわかり
ますか?﹂
﹁この国が枢機卿たちの草刈り場になりかねない⋮⋮ですか﹂
ハムゼはようやく、ケティスの危惧するところを理解する。
現在、東部戦線を構築している神聖軍は枢機卿会が主導して編成
1672
した一団である。
そして彼らは、この国のクレメア教に対してあまり好意的ではな
い。むしろ所詮は傍流であり、異質なものと捉えているふしさえ存
在した。
だからこそそんな彼らがこの地に入ってくればどうなるか、それ
は火を見るより明らかといえる。
﹁この国にはこの国なりのクレメア教、そして地母神への向き合い
方があると思うのです。もちろんその根幹は同じなわけですが、信
徒たちは同じと考えないでしょう。こういうものは時間を掛けてゆ
っくりとすり合わせるべきでしょうから﹂
﹁その為にも、主導権を押さえねばならない⋮⋮ですか。わかりま
した。至急、新たな作戦プランを構築するよう準備いたします﹂
そう口にした瞬間、ハムゼは深々と頭を下げる。
ケティスはそんな彼に対し、いつもの穏やかな声を向けた。
﹁よろしくお願いします、ハムゼさん。全ては地母神たるセフエム
の為に﹂
﹁これで本当によろしいのですね?﹂
出撃していく少数の兵士たちをその目にしながら、大柄な体軀を
誇る壮年の男性は、隣に立つニコニコした笑みを浮かべる男に向か
いそう問いかける。
﹁ええ。完璧ですよ、サービアン将軍。急に無理を言ってすみませ
1673
んでした﹂
﹁いえ、私の方こそ、お預かりした兵を無駄に損ない申し開きので
きぬところ。にも関わらず、信頼してこの役目をお与えいただいた
こと、ソラネント副司令官には深く感謝をいたしております﹂
クラリスとの外交交渉をまとめ、キスレチンに戻るなりこの最前
線へとその姿を現した男。彼に向かい、サービアンは深く感謝の意
を伝える。
一方、そんな彼の言葉に対し苦笑を浮かべたソラネントは、その
まま小さく首を左右に振った。
﹁はは、その感謝の言葉は、私ではなく貴方の続投を希望したあの
方に言って下さい﹂
﹁それは⋮⋮しかし⋮⋮﹂
ケティスによって手痛い敗戦を被ることになったサービアンは、
この地に残り戦う要望を許諾してくれた眼前の軍官僚に向かい、深
い感謝を覚えている。
しかしながらそれでも、その物言いを全てそのまま受け取ること
は出来なかった。
﹁まだ抵抗がありますか?﹂
﹁無いといえば嘘になります。もちろんあの男の実績と能力には十
分以上に敬意を払っているつもりです。ですがそれでも、我らが自
由の民の兵士たちを、そうでないものに預けることは、なかなかに
︱︱﹂
﹁受け入れがたいと⋮⋮そういうわけですか。まあ、わからなくも
ありません。でも、彼は約束してくれました。この国と民主主義を
守るために協力することを。それで結構ではありませんか﹂
ソラネントのあまりにもあっさりした言葉。
それに戸惑いを覚えつつ、サービアンは不承不承に一つ頷く。
1674
﹁それは、まあ⋮⋮﹂
﹁民主主義とは多様な思想、考え方を受け入れてこそと私は考えま
す。だからこそ、上は彼に要請をした。結局のところ、そういうこ
とですよ﹂
﹁⋮⋮閣下はお受け入れされることに抵抗はないのですか?﹂
﹁私? もちろんです。使えるものは何でも使うのが私の性分です
から﹂
まったく言いよどむことなく、ソラネントははっきりとそう言い
切る。
それに対し、サービアンは一瞬戸惑いを見せた。
途端、ソラネントは再びその口を開く。
﹁いずれにしても、連中の好きにさせるわけには行きません。その
為に、まずは戦線を出来る限り自然な形で後退させ、彼らを引きず
り出します﹂
﹁はい、了解いたしております。ただその⋮⋮﹂
そこまで口にしたところでサービアンは言いよどむ。
﹁なんですか?﹂
﹁本当に末端の兵士に至るまで、あの男が来ることを伝えてしまっ
てよろしいのですか?﹂
それは好む好まざるにかかわらず、サービアンの危惧するところ
であった。
つまり無闇矢鱈と情報共有を行うことは外部へと、つまりこの場
合、敵に情報が漏れるリスクが有るのではないかと彼は考えていた。
﹁ええ、もちろんですよ﹂
﹁で、ですがその、中には連中の捕虜に成るものも出るでしょう。
またクレメア教徒が軍の中に潜伏している可能性も少なからず存在
します。もしあの男の来訪が奴らに知られては、おそらく奇襲もま
1675
まなりません﹂
﹁はは、確かにそのとおりですね。ですが、それで構わないのです﹂
サービアンの危惧するところをその耳にしたソラネントは、ニコ
リと微笑みあっさりとそう言い切る。
そのあまりに自然極まりない反応を前にして、サービアンは僅か
に首を傾げながら、これ以上食い下がること無くその言葉を受け入
れた。
﹁は、はぁ⋮⋮ともかく了解いたしました﹂
それだけを告げると、サービアンは敬礼を一つ残しその場から歩
み去っていく。
そうしてその場に一人残されたソラネントは、先日クラリスであ
ったはずの男を脳裏に浮かべながら、虚空に向かい呟いた。
﹁今回の案件を引き受けていただくにあたり、色々と面倒なご注文
を頂きましたから、ここからが大変そうです。でも勝てるというの
ならば、貴方のリクエストには可能な限り応えさせて頂きますよ。
西方の英雄、ユイ・イスターツさん﹂
1676
カロウィン
キスレチン共和国首都ミラニールに存在する軍務省庁舎。
その最上階の一室にその男はいた。
齢四十にしてこの国の統合作戦本部長まで上り詰め、そして今は
野に下ったはずのカロウィン・クレフトバーグが。
﹁それで、エルロブのとっつぁんに呼びだされたわけですが、一体
この私に何のようですかね?﹂
﹁それはこれから説明する。とりあえずは掛けたまえ、カロウィン
君﹂
現在軍務副大臣の任にあり、実質的のこの国の軍における頂点に
位置するオプジーム・ペネルマンは、そう口にすると目の前のソフ
ァーに腰掛けるようカロウィンに勧める。
﹁これはどうも﹂
﹁君の予備役扱いはたった今を持って解除し、本日より対トルメニ
ア神聖軍の最高指揮官に任命したいと思っている。もちろんすでに
エルロブ君から聞き及んでいることかと思うが﹂
オプジームはややふてくされた表情のままのカロウィンに向かい、
前提を確認する形でそう切り出す。
すると、カロウィンも特に否定すること無く、皮肉を加えて切り
返した。
﹁ええ、それはとっつぁんから聞いていますよ。しかし大胆なこと
をなされたものですな。まさか勝手に書類を書き換えて、私を予備
役扱いにしているとは。いやはや、自由の国の看板が如何に建前倒
1677
れか、この身を持って思い知る次第ですな﹂
﹁相変わらず手厳しいな、君は。もっともその指摘には返す言葉も
無いわけだが、エルロブが超法規的な措置をとっておいてよかった
と私は心から思っている﹂
カロウィンの皮肉を真正面から受け止めつつも、オプジームは微
動だにすること無く眼前の壮年に向かいそう告げる。
それに対し、カロウィンは思わず小さく首を左右に振った。
﹁また大胆なことを言われる。今の発言が表に出たら票どころか、
下手をすれば議席を失いますよ﹂
﹁それはどうかな? この戦いで君が軍を率いて勝てば、逆に私の
席は安泰と成る気がするが﹂
﹁これだから政治家って連中は。ともかく、私はまだ一度もお話を
受けるとは言っていませんからね﹂
小さくため息を吐き出したカロウィンは、念を押すようにそう発
言する。
そんな彼に向かい、オプジームはすぐさま問いを口にした。
﹁ふむ⋮⋮ではこのまま一市民として推移を見守りたいかね?﹂
﹁⋮⋮放っておいても、あなた達が勝ってくださるのならそうした
いですな﹂
﹁なるほどな。だが残念ながら、情勢から言って我々は負けそうだ﹂
現在この国の軍の頂点にいるオプジームのその言葉。
それを耳にした瞬間、カロウィンは初めて薄ら笑いをその表情か
ら取り去ると、その眉間にしわを寄せる。
﹁流石に軍のトップが、あっさりそんなことを口にするのは如何な
ものかと思いますがね﹂
﹁だが事実だ﹂
一切迷うこと無く放たれたその言葉に、カロウィンは僅かに戸惑
1678
いを覚える。
そして彼は初めて、自ら話を先へと進めた。
﹁⋮⋮で、具体的に指揮官としてこの俺に何をしろと?﹂
﹁先ほど言ったとおりだ。対神聖軍の最高指揮官、つまり東部戦線
を君に任せたい﹂
目の前の壮年がどのような回答を求めているのか、それはオプジ
ームとて理解していた。しかしながら彼は、重ねてカロウィンのう
ちに秘められた答えと異なる回答を行う。
それを受けてカロウィンは苦い表情を浮かべた。
﹁つまりあいつとは戦わせてくれないと、そういうわけですか﹂
﹁君と前軍務大臣との確執は知っている。それ故に君が軍を去った
こともな。だが我が国にとって、現状における最大の危機は神聖軍
なのだよ﹂
﹁正直、気乗りはしませんね⋮⋮ですが国が滅びて、あいつの信仰
するクレメア教に改宗させられるのはたまったものでないのも事実。
やむを得ん⋮⋮ですか﹂
カロウィンはそう口にすると、降参とばかりに両手を軽く広げて
みせる。
﹁おお、では頼めるか﹂
﹁とっつあんには昔からお世話になりましたしね。ただ、一つ条件
があります﹂
﹁条件?﹂
思わぬカロウィンの申し出に、オプジームは一瞬戸惑う。
するとカロウィンは、はっきりと自らの要望をその口にした。
﹁ええ、有能な人材を参謀に付けて下さい。繰り返しますが、有能
なやつをね﹂
1679
﹁今、東部戦線に配置している面々では不満かね?﹂
﹁事務仕事に関してのみ有能な面々が集まっています。残念ながら
ね。実際のところ彼らが無能だからこそ、数で上回りつつも連中に
押し込まれているわけじゃないですかね?﹂
身もふたもないことをカロウィンが口にするなり、オプジームは
弱った表情を浮かべながら問いを口にする。
﹁それはある意味真実ではあるが⋮⋮では君は誰を希望するのかね
?﹂
﹁ソラネントを﹂
全く躊躇も迷いもなく発せられたその人名。
それを耳にして、オプジームは些か意外そうな表情を浮かべる。
﹁ソラネント⋮⋮か。確か君たちは不仲だったと思うが?﹂
﹁ええ。ですが、あいつは有能です﹂
﹁それは私も知っている。だが残念ながら彼は無理だ﹂
﹁なぜです?﹂
﹁彼を南部戦線の実質的な責任者に任命したばかりなのでね﹂
オプジームの口からその事実が告げられた瞬間、カロウィンは舌
打ちすると、顎に手を当て悩み始める。
﹁ちっ⋮⋮しかし、他に使えそうな奴と言ってもねえ。あいつ以外
の軍官僚は頭でっかちばかりで、俺の補助脳として役立ちそうなの
は見当たらないのが正直なところですよ。無能なくらいなら、むし
ろいないほうがマシなことも多々あるもので﹂
﹁補助脳⋮⋮か。まあ一時的で良ければ、優秀な補助脳を用意する
手配はあるのだが﹂
その言葉がオプジームの口から発せられた瞬間、カロウィンは心
底意外そうな表情を浮かべる。
1680
﹁ほう⋮⋮俺がここを出るときに、あいつ以外にそんなできる奴が
いた覚えはありませんが﹂
﹁ああ。確かに君がいた時にはいなかった。いや、今もいないとい
うべきかもしれんが﹂
﹁話が見えませんな。一体誰のことを言われているのですかね?﹂
怪訝そうな表情を浮かべながらカロウィンは眼前の初老の男に向
かいそう問いただす。
そうしてオプジームがそれに対する回答を述べかけたところで、
突然部屋の扉がノックされると一人の男が姿を現した。
﹁オプジーム副大臣、失礼するよ﹂
﹁大統領!?﹂
自由都市同盟の党首であるフェリアム・グルーゼンパークをその
目にした瞬間、カロウィンは僅かに目を見開くと驚いたようにそう
声を発する。
﹁元だよ、カロウィン君。それと副大臣、到着したばかりのあいつ
を連れてきたぞ﹂
﹁そうか。ご迷惑をお掛けした﹂
﹁なに、構わんさ。こんな情勢下でも自由に動けるのが我ら野党の
特権だからな﹂
そう口にすると、カロウィンは右の口角を僅かに吊り上げる。
一方、二人の会話を耳にしたカロウィンは、率直な疑問を口にし
た。
﹁あいつとは誰ですか?﹂
﹁君が求めている人材だよ。いや、それにはとどまらぬ人物だがね﹂
﹁どういうことですか?﹂
オプジームの回答に疑問をいだいたカロウィンは、すぐさまそう
問い返す。
1681
するとそのタイミングで、フェリアムの背後から一つの小柄な人
物がその姿を現した。
﹁子供? い⋮⋮いや、貴方は!?﹂
その場に姿を現した少年の姿を目にして、カロウィンはその両目
を見開く。
だがすぐに少年は首を左右に振ると、薄く笑ってみせた。
﹁勘違いしないでくれ、カロウィン。僕じゃないよ﹂
﹁フォックス様、あの男は?﹂
四大賢者が一人にして、若き姿を保ち続けるフォックスに向かい、
フェリアムは振り返るなり確認するようにそう問いかける。
﹁もうすぐ来るさ。ほらね﹂
フェリアムがそう口にした瞬間、その人物は頭を掻きながら苦笑
を浮かべつつ姿を現す。
﹁この間までちょっと滞在してはいましたけど、基本不慣れなんで
すよ。人を勝手に置いて行かないでください、フォックスの爺さん﹂
その空間へと姿を現した黒髪の男。
その人物を目にした瞬間、カロウィンは思わず引きつった笑みを
浮かべずにはいられなかった。
﹁な⋮⋮はは、冗談きついぜ﹂
﹁冗談ではないさ、カロウィン。この怠け者を君に貸してやる。そ
れが僕と彼との取引の一部だからね﹂
﹁取引というか、一方的な命令というか。まあ東にもタッチしたほ
うが、最終的には楽にそして上手くやれそうですから、渡りに船で
はありますけどね﹂
少年の姿をしたフォックスの言葉を受け、黒髪の男は溜め息混じ
1682
りにそう口にする。
﹁だろ? というわけで、私の仕事はここまでだ。後は君たちで頑
張ってくれ﹂
そう口にすると、フォックスはもはや役目を終えたとばかりに部
屋から立ち去っていく。
そうして部屋の入口に残された一人の男を目にして、カロウィン
はいまだに信じられないとばかりに首を何度も左右に振る。
だが、すぐにこれが現実であると受け入れると、途端に彼はニコ
リと微笑んだ。
﹁なるほど、優れた⋮⋮いや、望みうる最高の参謀ってわけか。こ
うまでお膳立てを頂けるというなら、私もご期待にそうとしましょ
う。なにか色々含むところがおありのようですが、よろしく頼むよ、
西方の英雄さん﹂
そう口にしたキスレチン軍の皮肉屋は、目の前の黒髪の男に向か
い右手を差し出した。
後にカセルタ宗教戦争と呼ばれる戦い。
それは、この二人の邂逅をもってその転換点を迎えることと成る。
1683
二人の密談
首都ミラニールから東に向かい走り続ける馬車。
その車上には二人の男性の姿があった。
一人は無精髭を生やしスラリとした体躯を誇る壮年男性、そして
もう一人は外を眺めながら大きなあくびをする黒髪の男であった。
﹁この辺りの人はまだ避難していないんだね﹂
外の光景を眺めていたユイは、農村地区に入ったところで、未だ
畑で働く人々の姿を目にしてそう呟く。
﹁まあな。いよいよ切羽詰まったら別だが、彼らには彼らの権利が
ある。だから今のところは、強制的にどこかに移すわけにも行かな
くてな﹂
﹁権利⋮⋮か﹂
そのまま視線を外へと向けながら、ユイはその言葉を繰り返す。
すると、向かいに座っていた男は、意味ありげな視線をユイへと
向けてきた。
﹁王政では存在しない言葉かね、英雄どの﹂
﹁そんなことはないさ。ただ正直言うと、クラリスに限らず帝国で
も、もう少し早い段階で彼らを退去させているだろうね﹂
﹁なるほどな。まあその辺りが我らの誇りというやつさ﹂
﹁誇りねぇ⋮⋮いや、悩ましいところとは思うけど、まあそれに口
出しする権利は私にはないかな﹂
カロウィンに向かいそう口にすると、ユイは軽く肩をすくめてみ
せる。
そうして一瞬会話が途切れたところで、改めてカロウィンは本題
1684
を切り出した。
﹁で、南部戦線の責任者たる英雄どのが、どうして東部戦線に?﹂
﹁理由は色々あるんだけどね。でも一番は、それが一番効率がいい
選択肢だったからかな﹂
頭を掻きながら、ユイはそう答える。
すると、カロウィンはほんの僅かに口元を歪め、そして改めて問
いを口にした。
﹁効率⋮⋮か。まあそれはそれでいいがね。でも、本当にそれだけ
なのかな?﹂
﹁というと?﹂
﹁英雄どのはいろいろと小細工がお得意と聞く。それ故に、他にも
多々含んだところがあるのではと考えるのは自然なことだと言えん
かね﹂
疑惑と興味が入り混じった視線をユイへと向けながら、カロウィ
ンはそう告げる。
それに対しユイは、軽く笑い声を上げてみせた。
﹁はは、小細工か。と言っても、元々手間がかかることはしない主
義だよ。少なくとも私はね。ただ単純に、ちょっと趣向を凝らせば
後で楽を出来る状況の場合のみ、先に手を打っておくっというだけ
でね﹂
﹁まあ物は言いようですな﹂
ユイの発言を受け、カロウィンは軽く両腕を広げてみせる。
﹁本当に含むところはないつもりさ。少なくとも今回はね。正直、
フォックスの爺さんに言われたのもあるし、私自身も東部戦線と連
動して色々と策を練りたいと思っていたところだから、言う成れば
渡りに船だったというところさ。だから顧問としての同行の話を受
1685
けたと、そう考えてくれればいい﹂
﹁ほう⋮⋮連動か。しかし連動などと言っても、お互いの戦線間で
余りに距離がありすぎると思うが? 連動どころか、向こうの戦線
のことさえ把握できない可能性が高いのではないかな?﹂
そう、現状において東部戦線と南部戦線とはまさに全く離れた場
所に存在する。
それ故に緊密な連絡や連動など、カロウィンにはとても考えられ
るものではなかった。
﹁現状では仕方ないし、そしてそれに関しては問題もない。あくま
で必要なときに、必要な環境を構築すればいいだけの話だからね﹂
﹁必要なときに必要な環境を構築するだと?﹂
ユイの言葉の意味するところがわからなかったカロウィンは、眉
間にしわを寄せながらそう問い返す。
すると、ユイは僅かに自分の言葉を補足してみせた。
﹁ああ、言葉通りさ。必要になったら、必要なだけ手を打つつもり
だよ。お互いの情報を適時入手できるような手をね﹂
﹁お互いの情報を適切に⋮⋮か。なるほど、話が見えてきた。つま
りその点こそが、彼らの優位に立つ要だと、そう考えているわけだ﹂
ユイの言葉に秘められた意味を完全に汲みとったカロウィンは、
二度大きく頷くとニヤリと笑みを浮かべる。
その反応を目にして、ユイは眼前の人物に対し、事前に聞いてい
たとおりだと判断した。
﹁まあね。しかしなるほど、フォックスの爺さんが褒めるわけだ﹂
﹁フォックス師が何か?﹂
﹁君のことを絶賛していたよ。あの、見た目同様の変わり者がね﹂
未だ彼自身の魔法により少年の姿を維持し続ける四大賢者が一人。
その彼をしてキスレチン内において見るべき人物とユイに告げた
1686
一人が、眼前のカロウィン・クレフトバーグその人であった。
﹁それは恐悦至極。ただ、褒められてもそれが勝利に結びつかなけ
れば意味が無い。老人の好き嫌いで戦争は勝てるわけではないから
な﹂
﹁はは、それは真理だね。まあ、私の考えるところは理解してもら
えたみたいだけど、君の方は何か考えがあるのかい?﹂
自らの構想を告げたユイは、今度は君の番だと言わんばかりの調
子でそう問いかける。
だがその問いを向けられた男は、薄い笑みを浮かべた後にあっさ
りとこの場での回答を拒否した。
﹁もちろん多少は。でも、それは後でにするとしよう﹂
﹁なぜそう思う。敵に内通するとでも?﹂
﹁その心配はしていないさ。ただ、もうすぐ東部戦線の司令部に着
けば同じことをしゃべることに成る。私も貴方同様に二度手間は嫌
いでね﹂
そのカロウィンの発言に、ユイは思わず苦笑を浮かべずに入られ
なかった。
﹁はは、そう言われると弱いな﹂
﹁で、どうするつもりなのかな?﹂
﹁何がだい?﹂
﹁まさかその姿のまま、現地に降り立つつもりと?﹂
カロウィンはそう告げると、以前この地を訪れた時と違い、全く
変装などしていないユイの全身をそのまま眺めやる。
そんな彼の視線から意味するところを理解したユイは、軽く頭を
掻いた後、服に備え付けられたフードを被ってみせた。
﹁ああ、そういうこと。大丈夫、こいつをこうやって被るからさ﹂
1687
﹁実に胡散臭い姿を⋮⋮そんな適当に顔を隠そうとするくらいなら、
まだ前のマスクをした方がマシではないかな?﹂
フードで顔だけ隠した状態のユイに向かい、カロウィンは呆れ半
分の声を向ける。
だがそんな彼に向かい、再び顔を露出させたユイは、やや自虐的
に笑ってみせた。
﹁自分で使っておきながらこういうのは何だけど、あれもどうかと
思ったものだけどね﹂
﹁本当に自分で言っていたら世話は無いな﹂
やや呆れた口調で、カロウィンはそう応える。
だが、当人は全く気にした素振りを見せず、堂々とした口調で頷
いてみせた。
﹁はは、まったくだね。ともかく、会議には出ない形にしようと思
っている。もし仮に姿を表すなら、それはその時が来た場合さ﹂
﹁確かに宗教を相手取るのならば、いくら警戒しても警戒し過ぎる
ことはないからな。間違った判断だとは思わんが、しかし⋮⋮﹂
ユイの見解に一定の理があることは認めながらも、カロウィンは
どこかすっきりとしないものを覚える。
しかしながらユイは、そんな彼に向かい軽く笑うと、改めて先ほ
どの疑問をぶつけてみせた。
﹁そのへんは上手くやるよ。というわけで、会議に出ない手前、先
ほどの答えを教えてはもらえないかな?﹂
﹁結局、早く聞いておきたかっただけじゃないのかな、貴方は? まあいい。東部戦線で勝利を得るために、私は三つの策を用意した。
もっともすでに一つは使えなくなったが﹂
﹁なぜかな。まだ現地も見てないっていうのに﹂
﹁あなたが二つの戦線を統合しようと考えていそうだからだよ﹂
1688
そのカロウィンの口から発せられた回答。
それを耳にしたユイは、目の前の人物に対する評価をすぐさま上
方修正する。
﹁⋮⋮それは済まなかった。でも、なるほど。君となら話が早そう
だ﹂
﹁誰かと同じで面倒事は嫌いですからな。というわけで、今から基
本方針を話すので、せっかくだから添削をしてもらえるかな。でな
いと、本当にただの二度手間となってしまうのでね﹂
そう口にすると、東部戦線における戦略構想をカロウィンは告げ
始めた。
それを耳にしたユイは満足気に微笑むと、カロウィンを絶句させ
るに足る一つの大きな修正を加える。
一人の呆れる指揮官と、一人のしてやったりとした表情を浮かべ
る英雄。
ここに二人の間で、対トルメニアにおける戦いの方針は定まった。
1689
両陣営
﹁なんだと、敵の指揮官が交代するだと?﹂
たった今、神聖軍の司令部に届けられた報告を耳にし、この軍の
将軍を務めるヌルザーン枢機卿は眉を僅かに吊り上げた。
一方、その情報を伝える役割を担った参謀役を務めるマフズン司
教は恐縮しながらもさらなる詳細を口にする。
﹁は、はあ⋮⋮部下の報告によりますと、どうもカロウィン・クレ
フトバーグなるものが指揮をとることになると﹂
﹁カロウィン? 知らん名だな﹂
ヌルザーンは眉間にしわを寄せながらそう告げる。
途端、司令部の後方の席に腰掛けていた痩せこけた男は、歪んだ
笑みを浮かべながら笑い声を発した。
﹁ははは、これは実に頼もしいお言葉ですな﹂
﹁なんだ、ユダナ助祭。何がおかしい?﹂
﹁いえ、将軍と参謀ともあろうお方々が、まさかカロウィン・クレ
フトバーグをご存じないことがですよ。いや、本当に驚きました。
警戒すべきあの男でさえお二方の眼中にはないと知り、このユダナ、
実に頼もしいと思い直した次第﹂
参謀のマフズンの険のある問いに対し、ユダナは一切動じること
無く堂々とそう皮肉を述べる。
それに対し、いらだちを見せたのはバカにされた二人ではなく、
沈黙を保っていた武闘派のバイラム司祭であった。
﹁貴様、将軍を愚弄するか!﹂
﹁バイラム、構わぬ﹂
1690
立ち上がって今にもユダナ助祭に突っかからんとしていたバイラ
ム司祭に対し、ヌルザーン枢機卿は抑止の声をかける。
﹁ですが、いかに総主教の覚えがめでたいとはいえ、この者を放置
しておりますと軍の規律が乱れますぞ﹂
﹁構わぬ。もちろん、もう少しユダナ助祭にも謹んでもらいたいと
ころだが、いずれにせよこの会議の場では各人の立場にかかわらず
発言自体は認める。で、助祭、貴様はそのカロウィンなる男を知っ
ているわけだな?﹂
﹁もちろんです。私めのような小物には、警戒を怠らずに済む名で
はございませんので﹂
ヌルザーンの問いかけに対し、ユダナはいやらしい笑みを浮かべ
ながらあっさりと頷いてみせる。
﹁では、その警戒すべき男について、貴様の知りうるところを教え
てくれるかな﹂
﹁おや、では将軍たちのような別格の方々はともかく、この場にい
る大半の方がご存知かと思いますが、一応念の為にお話させていた
だくとしましょうか﹂
司令部内をゆっくりと見回し、重ねて皮肉っぽい笑みをユダナは
浮かべる。
そして皆のいらだちと嫌悪の表情をその目にしたところで、ユダ
ナは再びその口を開いた。
﹁カロウィン・クレフトバーグ。彼はかつて対帝国戦線で功績を上
げた男です。ええ、クラリスでの一件が起こり、国力が低下する以
前の帝国に対し、常にキスレチンが一歩も引くこと無く戦い得たの
は彼の者が前線指揮官を務めていたからと噂されますな﹂
﹁帝国相手⋮⋮か。なるほど﹂
トルメニア側となる東部ではなく、主にキスレチン南西にて功を
1691
重ねていたことを理解し、ヌルザーンは一つ頷く。
その反応に対し再び口元を歪めながら、ユダナは説明を再開した。
﹁さて、そのような対帝国の功労者でありますが、彼の国との戦い
がやや沈静化した後に、中央に戻されて統合作戦本部長に就任して
おりました。もっとも、極々短期間の話ですが﹂
﹁短期間だと?﹂
﹁ええ、何しろ就任直後に彼の国の前軍務大臣と衝突し、そのまま
野に下ったものですので﹂
バイラムの苛立ち混じりの問いかけに対し、ユダナはひょうひょ
うとした口調でそう返す。
するとその発言を受け、マフズン司祭は一つの事実に気づいた。
﹁彼の国の前軍務大臣⋮⋮それはまさか?﹂
﹁ご想像のとおりですよ。ケティス・エステハイム前軍務大臣、い
や、枢機卿とお呼びしたほうがよろしいでしょうか?﹂
ケティス枢機卿。
それは現在、キスレチン相手に国内の信徒を動員してナポライで
の決起を成功させた男の名である。そして同時に、総主教の独断に
より枢機卿に任じられた経緯から、ヌルザーン達のような先任者た
ちと決して相容れぬ男の名でもあった。
﹁あの男と揉めたわけか⋮⋮まあいい。いずれにせよ、有能な将帥
と解釈するとしよう。もちろん愚将であればそれに越したことはな
いがな﹂
﹁しかし枢機卿、敵の指揮官が変わったと成れば、ここはやはり慎
重をきすべきところでしょう﹂
ヌルザーンの見解を耳にしたマフズンは、周りを一度見回した後
に慎重論を唱える。
それに対し、隻腕の猛将として知られるバイラムはすぐさま反対
意見を口にした。
1692
﹁恐れながら枢機卿。私は反対です。そのような厄介そうな男が何
らかの手腕を発揮する前に、一気に突き崩してしまうことこそまさ
に上策ではないかと愚考いたします﹂
﹁気持ちはわかるがなバイラム司教、これだけ連日のように小規模
な衝突が続いているのだ。彼らが新たな指揮官を得て再度体制を整
える動きを見せるなら、その機に合わせて我々も兵士たちに休息を
取らすべきだろう﹂
バイラムの反論に対し、すぐさま参謀のマフズン司祭は改めて自
説を繰り返す。
その発言に対しては、バイラムも頷くべきところがあった。
﹁休息⋮⋮か。確かに四六時中戦い続けることなど不可能ではある
が﹂
﹁そのとおりだ。それに我々は侵攻してきた立場であり、敵と違い
兵士たちにも望郷の念と不安が見られている。このまま疲労が蓄積
すれば、それらが不満となって爆発しかねん﹂
﹁参謀、それはわかる。だが、このまま決定的な結果を出さねば、
いずれ補給の問題から我々は撤退を余儀なくされるのだ。となれば、
敵に隙が生まれる可能性が高いこの機にこそ、一気に奴らを粉砕し、
兵士たちに勝利の高揚を与えるべきではないか?﹂
相手に敬意を払いながらも、マフズンとバイラムはお互いに自説
を譲らない。
それを受けてユダナは薄く笑うと、話の矛先を将軍たる枢機卿へ
と向けた。
﹁おやおや、お二方の意見が割れてしましましたな。はてさて枢機
卿、如何なされますか?﹂
﹁⋮⋮まずは情報収集だ。その上で敵の動向が落ち着いている間は
兵士たちに休息を。但し、敵に隙が見受けられれば、いつでも打っ
1693
て出れるように準備しながらな﹂
﹁通してきたぞ、あの馬鹿げた修正案をな﹂
赴任後初となる東部方面軍作戦会議を終えたカロウィンは、気だ
るげな表情を浮かべながら将軍専用のテントで待機していたフード
姿の男に向かいそう告げる。
﹁はは、ご苦労さま。新指揮官どの﹂
﹁ふん、ここに居座ることになった連中には、散々に叩かれる羽目
になったさ。まあ連中にしてみれば、無理も無いところだが﹂
眼前のフードの男と彼で構築した作戦案に対し、会議はつい先程
まで紛糾し続けていた。だが最終的に中央での後ろ盾の存在を示唆
することで、カロウィンは反対者達に強引に自案を押し通したので
ある。
﹁その辺りも予想通りではあったんじゃないかな?﹂
﹁まあな﹂
﹁だとしたら、その苦労は必要経費のうちさ。というわけで、無事
作戦案を押し通した司令官どの、いつから始めるとしようか﹂
フードの男は軽く肩をすくめながら、カロウィンに対するねぎら
いもそこそこに、そのまま本題を問いかける。
﹁ふむ⋮⋮イスターツ、そちらの方の準備は?﹂
﹁五日以内に予定地点へ到着するとうちの連中からは報告があった
よ。だからその点に関しては心配いらないさ﹂
1694
名を呼ばれたユイはフードを外すと、とある黒髪の女性から告げ
られた現状を伝える。
それを受けてカロウィンは一つ頷くと、口元を僅かに歪めてみせ
た。
﹁そうか、なら早速始めるとしよう。品定めをしている様子のトル
メニアの連中に対し、舞台の幕は既に開いたのだと教えてやるべき
だろうからな﹂
﹁了解。では、私はギリギリまで君の参謀として、こっそり同行さ
せてもらうよ﹂
そう口にすると、ユイは再びフードをかぶり直す。
その彼の行為に対しカロウィンは苦笑を浮かべた。
﹁ああ、お前の好きにすればいい。必要なときに必要なだけ働いて
くれさえすればな﹂
﹁じゃあ決まりだね。というわけで、それじゃあ始めるとしよう。
この東部戦線における第二幕をさ﹂
1695
公然の事実
﹁やはりあの方はそうだよな?﹂
キスレチン東部方面軍として今回の戦いに動員されていた若き兵
士であるロトリーは、同じ部隊に所属するリックルに向かいそう問
いかける。
すると、ロトリーの視線の先に存在するフード姿の男を確認した
リックルはすぐさま頷き返した。
﹁たぶん⋮⋮今回はマスクさえされていないしな﹂
﹁しかし変じゃないか? 俺は南部の指揮官として、我が国の今回
の戦いに協力されると聞いていたぞ﹂
﹁ああ、それは俺も聞いた。うちの兵長の奴も、話が違うって憤っ
ていたな﹂
そう、彼らの耳にも西方の英雄は南部方面軍を指揮するという噂
は届いていた。しかしながら現在、明らかに同一人物と思しき男が、
新たなる彼らの指揮官とともに行動をともにしているのである。
当然のことながら予定外の出来事に対し、心良く思わないものは
無数に存在していた。
﹁うちの兵長は軍学校上がりだろ。まあそう言うだろうな。でも末
端の俺達にとっては、一人でも優秀な上官が来てくれるのはありが
たい話だぜ﹂
﹁しかもそれが西方の英雄となればなおさらな﹂
ロトリーの発言に対し、違いないとばかりにリックルは深く頷く。
一方、そんな会話を彼らが行っていたタイミングで、彼らの部隊
の隊長が慌ただしくその姿を現した。
﹁ロトリー、リックル、お前たち命令を聞いていなかったのか。敵
1696
に対し攻撃再開の指示がなされたのだ。すぐに部隊にもどれ!﹂
不機嫌さを隠さぬ彼らの部隊長は、苛立ち混じりの口調で二人に
向かいそう告げる。そしてそのまま足早に立ち去っていった。
﹁へいへい、わかっていますよ部隊長殿。まったく、いろいろして
るからって俺達にまであたってほしくないものだな﹂
﹁まったくだ。じゃあ行くとするか﹂
地面に横たわらせておいた剣をその手にすると、リックルはゆっ
くりとその場から立ち上がる。
だがロトリーは、そんな彼に向かい苦笑いを浮かべつつ、別方向
へと歩み出す。
﹁リックル、ちょっと先に行っておいてくれ。俺もちょっと腹の用
事を済ませたら、すぐに追いつくからよ﹂
﹁なんだ、こんな時に厠か。まったく、遅れてまたどやされても知
らねえからな﹂
やや呆れた口調でそう口にしたリックルは、そのままロトリーを
置いてその場を駆け出す。
そうしてその空間に残されたロトリーは、懐から一枚の紙を取り
出すと、再び遠く離れた場所に立つフード姿の男を睨みながら、小
さなつぶやきをその口にした。
﹁さて、あの忌むべき男がこの陣営に来たことを何としても連絡し
なければならんな。となれば、やはり矢文にして送るしかあるまい。
我が生命よりも、我らが地母神たるセフエムをこそ汚されぬために﹂
﹁むぅ⋮⋮先手を取られたか⋮⋮﹂
1697
それまで一時沈黙を保っていたキスレチン軍による突然の襲撃。
それを目の当たりにして、司令部にいたマフズンは思わず呻くよ
うにそう口にした。
すると、その言葉を耳にしたバイラムは、眉を吊り上げ彼をなじ
る。
﹁だから言ったのだ、我らが攻めこむべきだったと。敵の指揮官が
変わったからとて、敵が手を休めるなどとは限らんのだからな﹂
﹁それはそうだが、一般的に︱︱﹂
﹁そこまでだ、二人とも﹂
司令部内で突然言い争いを始めた二人に向かい、この軍の将軍を
務めるヌルザーンは、強い制止の声を放った。
それを受け二人は慌てて口をつぐみ、彼らの指揮官をその目にす
る。
﹁過ぎたことを言っても仕方あるまい。それにだ、最終的に折衷案
を選択したのはこの私だ。だから君たちはこれからのことだけを考
え、奴らの迎撃に専念してくれ﹂
﹁はっ、では私は直属部隊とともに、我らの前衛を突破しつつある
敵を、一薙ぎにしてまいります﹂
﹁うむ、任せた﹂
ヌルザーンの許可の言葉を受け、猛将と名高いバイラムは司令部
から慌ただしく立ち去っていく。
﹁しかし、我らが一息つこうとしたまさにそのタイミングに合わせ
てくるとは⋮⋮連中の新たな指揮官はかなりの戦争巧者のように思
われますな﹂
﹁ああ。しかしこのまま無様に戦い続けるわけにはいかん。銃撃隊
は?﹂
﹁はっ、準備出来ております。ただし、残弾に関しましては補給部
1698
隊の到着が遅れており、些か心もとない状況かと﹂
神聖軍がキスレチンへの侵攻を開始してから、常に彼らの切り札
で在り続けた銃撃隊。
訓練された弓兵たちに劣る部分はあるものの、十分以上の火力を
有した彼らは、常に軍の前進を支え続けていた。
しかしながら同時に、銃撃隊の有する火薬と弾丸は常に補充が必
要であり、こうして本国からの補給タイミングの直前においては、
その残弾を考えながら運用しなければならないのが常にネックとな
っている。
﹁それは当然だ。だが敵の指揮官が変わったこのタイミングこそ、
我が軍の力を知らしめる好機。となればだ、やはり彼らを投入せね
ばなるまい﹂
﹁仰るとおりです。では、敵陣中央にまず一斉射撃を行い、その後
に騎馬隊を突入させる形で如何でしょうか﹂
﹁うむ、では直ちに準備を︱︱﹂
﹁お待ちくださいますかな、枢機卿﹂
ヌルザーンが方針を定め指示を下そうとしたまさにその時、突然
司令部に姿を現したガリガリの男が制止の声を放つ。
﹁⋮⋮ユダナ助祭。今までどこにいた?﹂
﹁そんな目で見ないでくださいよ。決してサボっていたわけではあ
りませんから。それよりもです、こんな矢文が届きましてね、それ
をお届けしようとこうして参った次第でして﹂
いやらしい笑みを浮かべながら、ユダナは一切悪びれた様子を見
せず、ゆっくりとヌルザーンのもとへ歩み寄っていく。
﹁矢文だと?﹂
﹁はい。実は敵軍は極秘裏にある男を招いたようなのですよ。まあ
詳しくは中を見て下さいな﹂
1699
口元を歪ませながらそう告げると、ユダナは手にしていた一枚の
文を差し出す。
ヌルザーンはひったくるような形でそれを受け取ると、その文面
へと目を走らせる。
そして同時に、彼は頬を引きつらせた。
﹁なっ⋮⋮い、イスターツ。ユイ・イスターツが敵の中に紛れ込ん
でいるだと!﹂
﹁ふふ、もちろん確実とは言いがたいのですが、実はほぼ同様の内
容を示す矢文を、既に四通ほど回収いたしております。少なくとも
誤報との可能性は少ないでしょうな﹂
ユダナはそう口にするなり、懐から四通の文をかざしてみせた。
それを目にしたヌルザーンはすぐさま顎に手を当てると、たった
今知った事実を元に、現在の状況を整理し始める。
だがそんな折に、司令部には一つの報告が飛び込んできた。
﹁バイラム司祭のご活躍もあり、突出していた敵の中央部隊は撤退
を開始しました﹂
﹁おお、さすがバイラム司祭。どうされます、枢機卿。すぐに追撃
準備を開始しますか?﹂
報告兵の情報を耳にしたマフズンは、感嘆の声を上げると同時に、
ヌルザーンに向かいそう提案する。
だがヌルザーンは眉間の皺を一層深くすると、突然はっとその顔
を上げた。
﹁ユイ・イスターツ⋮⋮伝え聞くあの男のやり口⋮⋮まるで計られ
たような奇襲と撤退⋮⋮いかん、追うな、追うんじゃない!﹂
﹁ど、どういうことですか。奴らは撤退を図っており⋮⋮﹂
突然のヌルザーンの指示にマフズンは驚くと、彼は慌てて抗弁を
試みる。
1700
しかしながらヌルザーンは撤退を開始した部隊ではなく、まるで
羽根を広げる鳥のように、側方に向かい軍を動かし始めた敵の動向
を指さした。
﹁あれを見ろ。確かに敵中央部は退却を開始したように映るが、両
側はそのままゆっくりと我が軍の側面に回り込もうとしている。あ
れは我らが全軍で突出したら、一気に後方を遮って包囲殲滅するつ
もりに違いない﹂
﹁ということは、まさか中央部の退却は擬態!﹂
ヌルザーンの説明の意味するところを理解したマフズンは、首を
左右に振りながらその事実を理解する。
すると、彼らに対し沈黙を保っていたユダナが、皮肉げにその口
を開いた。
﹁ふふ、おそらくカロウィンなる新しい指揮官とユイ・イスターツ
の企てでしょうな。で、どうするので。追わないだけで、ここで立
ち尽くしておられるつもりですか?﹂
﹁そんな訳があるか。わざわざ奴らの策に乗ってやる必要はないし、
無意味に戦場で時間を浪費する理由もない。このまま奴らの退却の
動きは放置し、我らも奴らに合わせ一度全軍を引く。側方の連中に
は警戒を怠るなよ﹂
1701
公然の事実︵後書き︶
次話となる11章12話は9月24日︵土︶更新予定となります。
また並行して執筆している﹃ネット小説家になろうクロニクル﹄も
昨日発売となり、全国の書店様で並び始めているかと思います。
やる気なしともども頑張ってまいりますので、どうぞ今後とも宜し
くお願い致します。
1702
プランB
戦場全体を見渡すことができる小高い丘。
その上には、二人の人物が佇んでいた。
﹁ふむ、連中は追撃してこなかったか﹂
﹁まあここで包囲させてくれたら、それはそれでよかったけど、さ
すがにね﹂
トルメニア神聖軍が緩やかに前線を後退させていくのをその目に
して、黒髪の男は頭を掻きながらそう告げる。
すると、隣に立つ壮年の男性は苦笑を浮かべながら一つ頷いた。
﹁まあ予定通りといったところか。で、どうする? プランBに移
行するので構わないな?﹂
﹁現状ではそれがベストではないかな。同じことを繰り返すと露骨
過ぎて不信を感じさせるだろうし、昨日の今日だからもう少しさり
気なく動いても気づいてくれるはずさ。段々と餌の匂いは遠ざけて
嗅がせてあげるくらいがベストだろうからね﹂
ユイは軽く肩をすくめながら、カロウィンに向かいそう告げる。
途端、隣に立つ指揮官は眉間に僅かなしわを寄せた。
﹁匂いを遠ざける⋮⋮か。どうも貴公のやり口には、近寄りたくな
い腐臭しか感じられん。ならば、遠ざけられたほうがありがたく感
じる気がするが﹂
﹁はは、手厳しいね。でもまあ、味覚や臭覚は個人差があるからね。
出来る限りトルメニアの彼らにとっては、良い匂いのように演出し
たいものさ﹂
兵を引く神聖軍をその視界に捉えながら、ユイは薄く笑いつつそ
1703
う告げる。
﹁匂い自体が臭いことは否定しないんだな。まったく貴公は⋮⋮と
もあれだ、何かの間違いで敵が突出してきた場合はどうする?﹂
﹁その時は予定通り、プランCに移行することなく、ここでケリを
付けるだけさ﹂
まったく迷いのない口調で、ユイはそう言葉を返す。
それに対しカロウィンが、新たな皮肉を口にしかかったところで、
突然後方から部下の声が発せられた。
﹁カロウィン様、我が軍の再編が完了いたしました﹂
﹁そうか⋮⋮ならば、兼ねての予定通り本日は警戒を行いつつこの
まま待機。その上で明日の早朝に行動を開始するよう伝えてくれ﹂
﹁はっ、直ちに﹂
部下は深く頭を下げると、そのまま慌ただしく駆け出していった。
その後姿を見送った二人は、再びその視線をトルメニア神聖軍へ
と向ける。
﹁はてさて、彼らはどう出るかな?﹂
﹁どう出ても構わんだろう、貴公にとってはな﹂
敬意半分呆れ半分と言った口調で、カロウィンはそう応じる。
それに対し、ユイは苦笑を浮かべてみせた。
﹁はは、否定はしないさ。でも⋮⋮﹂
﹁でも?﹂
﹁どうせならば、私が一番楽な選択肢を取れることを強く願っては
いるよ﹂
1704
﹁枢機卿、お休みのところ、申し訳ありません﹂
﹁マフズン⋮⋮か。どうした?﹂
枢機卿個人のために用意されたテント内にて、睡眠をとっていた
ヌルザーンは、突然来訪してきたマフズン司祭に対してやや不機嫌
な表情を見せつつ応対する。
それに対しマフズンは、真剣な表情を浮かべながら端的に事態を
報告した。
﹁はっ、つい先程奴らが強襲を仕掛けてきました﹂
﹁なんだと!﹂
その報告を受け、ようやく眠気が吹き飛んだヌルザーンは、閉じ
かけていた両目を大きく見開く。
そしてそのまま、眼前の司祭に向かい状況の報告を求めた。
﹁で、被害状況とうちの対応は?﹂
﹁はい。さすがに今回はさもありなんと、十分に警戒しておりまし
たので、現状ではほぼ被害なく、敵の侵入も防げております﹂
﹁なら良い。で、銃撃隊の準備は?﹂
頭の中を整理しながら、ヌルザーンは迷わず次の一手が打てるか
どうか確認する。
すると、枢機卿に向かってマフズンは力強く首を縦に振った。
﹁既に整っております。ご指示がありましたら何時でも前線に向け
られます﹂
﹁結構だ、ならば奴らに自分たちの考えの甘さを︱︱﹂
﹁失礼致します。枢機卿、連中が突然反転。またしても逃亡を開始
しました﹂
ヌルザーンが反撃の一手を指示しかけたそのタイミングで、隻腕
のバイラムが憤りを見せながらテント内に飛び込んでくる。
途端、ヌルザーンの眉は大きく吊り上がった。
1705
﹁なんだと!﹂
そのバイラムの報告を受け、一同は一斉にテントの外へと飛び出
す。
そして慌ただしく兵士たちが駆け巡る最中、敵の姿が僅かにその
視界に映った。
﹁ちっ、実に勘のいい奴らですな﹂
普段は比較的温厚なマフズンも、この時ばかりは苛立ちを隠せず
舌打ちをしてみせる。
するとそんな彼に向かい、ヌルザーンは一つの問いを放つ。
﹁マフズン、連中に背に向けて、射撃することは難しいか?﹂
﹁今から銃撃隊を前面に押し出してとなるとさすがに⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
マフズンの回答を受け、ヌルザーンは苦虫を噛み潰した表情を浮
かべた。
一方、そんな枢機卿に向い、バイラムはやや迷いながらも確認を
行う。
﹁枢機卿、追撃はいかが致しましょうか。何やらまた、奴らの動き
がきな臭そうですが﹂
彼の視線が捉え、そして懸念するところ。
それは敵の両翼の後退速度が些か中央部に比べ緩やかであること
にあった。
﹁先日ほど露骨ではないが、やはり我らを引き込んで戦いたそうな
陣形だな﹂
﹁おそらく敵は我らの主力たる銃撃隊を警戒しているのでしょうが
⋮⋮﹂
1706
ヌルザーンの発言に対し、マフズンは最も考えられるその理由を
口にする。
途端、バイラムは苛立ち混じりの言葉を吐き出した。
﹁一撃離脱を繰り返し、慌てて突出した我々を包囲殲滅する⋮⋮か。
我らも甘く見られたものだ﹂
﹁基本的に奴らの思惑に乗ってやる必要はない。此度は追い払うだ
けで十分だ。先日と同じ小細工を見せるとなると、連中も手詰まり
ということだろうからな﹂
バイラムの不機嫌さを肌で感じながら、ヌルザーンは極めて冷静
に敵の動きをそう評してみせる。
それに対し、マフズンも同意見とばかりに大きく頷いた。
﹁ですな。枢機卿、報告によると十日後に追加の補給部隊が到着す
るとのことです。そのタイミングに併せて一気に殲滅されるという
のは如何でしょうか?﹂
﹁確かに、これで残弾の問題は解決か。いいだろう。小細工など通
じぬ力。それを連中に見せてやるとしよう。ただしだ、その時まで
警戒を怠るな。そして兵士たちには、連中の下らぬ挑発に応じぬよ
う徹底させろ﹂
キスレチン側の出方を見きったと判断したヌルザーンにとって、
既に警戒すべきは、味方の暴発による予定外の事象の発生のみであ
った。
そんな枢機卿の懸念を理解したマフズンは、深く頭を下げるとも
う一つの確認事項を問いかける。
﹁わかりました。命令を徹底いたします。あと枢機卿、奴への連絡
は如何いたしますか?﹂
﹁奴?﹂
﹁ケティス枢機卿です﹂
1707
その名を耳にした瞬間、ヌルザーンは渋い表情を浮かべる。
しかしながら、無視することは出来ないと判断すると、シンプル
な回答を口にした。
﹁そういえば定期連絡の頃合いか⋮⋮まあ現状をそのまま書いてお
け。敵はクラリスのユイ・イスターツとカロウィンなる男を投入し
てきたものの、依然我らが有利とな﹂
﹁了解いたしました。ではそのように記させていただきます﹂
必要な回答を得たと判断したマフズンは、すぐさま手配の準備に
動き出す。
そんな彼の後ろ姿を目にしながら、ヌルザーンは正直な内心を虚
空に呟いた。
﹁奴を図に乗らさぬためにも、さっさと敵を蹴散らさねばならんな。
敵は目の前にいるものだけとは限らんから⋮⋮な﹂
こうして、キスレチンとトルメニアとの二度目の交戦は極々短期
間にて終結し、後のトルメニア神聖軍の方針は定まった。
しかしながら、彼らの計画は大きく狂うこととなる。
そう、まさか繰り返されると思っていなかった三度目のキスレチ
ンによる強襲によって。
1708
三度目の狙い
﹁今度は夜襲か⋮⋮﹂
﹁はい。しかも全く同じ形で三度⋮⋮奴ら何を考えているのでしょ
うか﹂
眼前で繰り広げられている戦闘。
それを目の当たりにして、マフズンは軽く首を傾げながらそう呟
く。
﹁で、現在の被害は?﹂
﹁ご覧のとおり、万が一に備えて敵の動向を伺っておりましたので、
現在はほぼ我が軍優位に進んでおります。被害も極々軽微かと﹂
軽く頭を下げながら、完璧な対応をしたと自負するマフズンは、
自信を持ってそう答えた。
それに対し、ヌルザーンは満足そうに一つうなずき、そして次の
一手を確認する。
﹁そうか。して、銃撃隊はどうなっている﹂
﹁そちらも既に手配済みです。ご指示頂き次第、何時でも敵に向か
い射撃可能です﹂
﹁ならば、すぐ動かすとしよう。バカの一つ覚えというものが如何
に危険か、奴らの体に弾丸という形で叩き込んでやれ﹂
﹁はっ、直ちに!﹂
ヌルザーンの指示を受けたマフズンは、すぐさま命令を実行に移
すため、その場から駆け出そうとする。
しかしそのタイミングで、一人の兵士が彼らの下へ駆け寄ってき
た。
1709
﹁⋮⋮枢機卿。奴らですが、またしても撤退を開始しました﹂
﹁またか⋮⋮一体どういうつもりなのだ奴らは!﹂
その報告を耳にするなり、ヌルザーンは苛立ちを隠す事なく怒気
を露わにする。
そしてそれはバイラム司祭も同様であり、彼は地面を強く蹴り飛
ばしながら、怒声を発した。
﹁二度目の折も大概早く尻尾を巻いて逃げやがったが、今回は輪を
かけて早いではないか。奴らは恥というものを知らんのか!﹂
﹁此度の撤退は、おそらく我らの守りと準備が整っておったからと
思われますが、しかし⋮⋮﹂
指揮官であるヌルザーンの顔色を伺いながら、慎重派のマフズン
は冷静な此度の撤退理由を口にする。だがしかし彼とて、このよう
な無謀な急襲を繰り返すことに、違和感を覚えずにはいられなかっ
た。
﹁二度も繰り返し、我らが警戒を強めることを奴らが理解できぬは
ずがない。となれば、なんらかの目的があってしかるべきだが⋮⋮
そういえば、此度は敵の両翼はどうしている?﹂
﹁特に包囲を狙うような動きもなく⋮⋮というよりも、今回はもは
や諦めたかのように連中は全軍で後退をしております﹂
﹁ふむ⋮⋮三度馬鹿を行い、ようやく自分たちの策の愚かさに理解
したということか﹂
マフズンの返答を受け、ヌルザーンは顎に手を当てながらそう評
して見せる。
それを受けバイラム司祭はすぐさま確認の問いを口にした。
﹁そうかもしれませんな。何れにせよ、追撃はいかがいたしますか
?﹂
﹁取り敢えずは放置しておけ。三度も失敗を繰り返せば、奴らもこ
1710
れ以上の無駄な強襲をせぬことだろう。あとは我らの補給が整った
ところで、連中を叩き潰せばよい﹂
﹁⋮⋮確かにその通りですな。では、我が軍も戦闘態勢から警戒態
勢へと移行させます﹂
追撃を行いたかったバイラムはわずかに不満そうな表情を浮かべ
たが、妥当な指示である事は彼にも十分理解できたため、素直に頭
を下げた。
しかしその時、敵の動きを見つめていたマフズンは怪訝そうな表
情を浮かべる。
﹁枢機卿、なにか奴らの動きが変ではありませんか?﹂
﹁動きが変? 何が変だというのだね、マフズン﹂
﹁その⋮⋮敵が自陣ラインに戻っても依然として後退を継続してお
ります﹂
そう口にすると、マフズンは敵本隊を指差す。そこには戦前に拠
点として固めていたはずの地点を越えて、さらに後退を続けるキス
レチンの者たちの姿があった。
﹁⋮⋮どういうことだ。誘い込むつもりにしては余りに後退が過ぎ
る﹂
﹁我らを大きく連中の陣内に引きこむつもりなのでしょうか? し
かしそれにしても些か⋮⋮﹂
そこまで口にしたところで、マフズンは理解できないとばかりに
言葉を途切れさせる。
すると、苛立ちを覚えていたバイラムが怒気をはらんだ声で言葉
を紡ぎ出した。
﹁三度も繰り返しているのだぞ。奴らとて、我らが馬鹿な追撃はし
ないとわかっているはずだ。だからこそ我々は追撃を断念している。
第一、今奴らのもとにはあのユイ・イスターツがいるのだ。そんな
1711
馬鹿げた策をあの男が︱︱﹂
﹁待て、今なんと言った﹂
突然顔色を変えたヌルザーンは、バイラムの言葉を遮る形でそう
問いかける。
それに対しバイラムは、眉間にしわを寄せながら、思わず戸惑い
を見せた。
﹁は?﹂
﹁馬鹿な追撃はしないとわかっている。そう司祭はおっしゃられて
いましたね﹂
その言葉を口にしたのはヌルザーンではなかった。
そう、それは皮肉げな表情を浮かべたままこの場に姿を現したユ
ダナ助祭である。
﹁ユダナ、貴様持ち場は?﹂
﹁はは、敵が来ないのに、持ち場を死守するも何も無いでしょ。そ
れよりも皆さま、本当によろしいのですか?﹂
まるで叱責のようなバイラムの問いかけに対し、ユダナは涼しい
顔をしながら逆にそう問い返す。
その問いに対し反応を示したのは、指揮官であるヌルザーンであ
った。
﹁⋮⋮一体、何がだ?﹂
﹁彼らをこのまま行かせてしまうことに関してですよ﹂
﹁このまま行かせる⋮⋮つまり貴様は、連中の目的を陣払いだと考
えるということか﹂
﹁そりゃあそうですよ。二度急襲を行い、その追撃を誘うかのよう
な行動を繰り返す。すると、三度目もまた同じ行動を繰り返したの
だと相手は判断し、追撃を行わないだろう。多分その辺りが彼らの
狙いじゃないでしょうかね﹂
1712
そう口にしたところで、ユダナは小馬鹿にした笑みを浮かべて見
せた。
その表情に不快感を覚えながらも、ヌルザーンは冷静に彼の発言
を咀嚼する。
﹁二度の偽装撤退で我らの追撃手を緩めさせ、本体を無傷で撤退さ
せる。となれば彼らのその目的は⋮⋮いや、そもそもここに姿を現
したユイ・イスターツは、本来南部の指揮を取るはずだった。とな
れば⋮⋮まさか奴らの狙いは!﹂
﹁おそらく枢機卿のお考えのとおりでしょう。だから私は確認しに
来たのですよ。本当にこのまま行かせてしまっていいのですかと﹂
皮肉げな口調でユダナはヌルザーンに向けてそう告げる。
だがそんな彼のことなど無視する形で、ヌルザーンははっきりと
指示を口にする。
﹁⋮⋮追え!﹂
﹁す、枢機卿﹂
そのヌルザーンの剣幕に、マフズンは一瞬後ずさりする。
しかしそんな彼に対し、ヌルザーンは間髪入れず今なすべき命令
を口にした。
﹁今すぐ追うのだ。奴らの狙いは南部戦線に全軍を投入し、その後
に時間差で我らを叩くことにある。だが絶対にそんなことは許さん
ぞ!﹂
1713
﹁ふむ、あの反応だとどうやら釣れたようだな﹂
馬を走らせながら後方を振り返ったカロウィンは、行動を開始し
た敵軍をその目にして苦笑を浮かべる。
すると彼の隣で馬を走らせていた黒髪の男は、大きく一つ頷いて
見せた。
﹁みたいだね。少なくとも予定していた程度の距離も稼げたし、昨
日のうちに敵部隊から南部戦線への報告船が出たことも確認できて
いる﹂
﹁つまりここまでは貴公の理想どおりの展開というわけだ﹂
﹁といっても、一点掛けというわけではないし、そんな大した話で
はないさ。釣れなかったらプランEで予定通り各個撃破の方針の予
定だったし⋮⋮何れにせよ、東部戦線での私の仕事はここまでかな。
というわけで、あとはよろしくね﹂
さらりとした口調で、ユイはこの軍の指揮官に向かいそう告げる。
それに対しカロウィンは、わずかに拗ねたように舌打ちをしてみ
せた。
﹁ちっ、美味しいところだけ楽しんでいきやがって﹂
﹁はは、すまないね﹂
その愚痴を耳にしたユイは、苦笑を浮かべながら軽く頭を掻く。
﹁ふん。ともかく、適度に餌の匂いを嗅がせながら約束の場所まで
奴らを連れて行く。そこからはお前の仕事だからな﹂
﹁本来の私の仕事というべきかは悩むところだけど、その辺りは当
初のプランDの通りに。というわけで、カセルタでまた会おう、カ
ロウィンくん﹂
そう告げると同時に、ユイは馬の速度を速めカロウィンたちと別
れる。
1714
彼が目指す先。
それはカセルタと呼ばれるミラニールに向けて南部と東部の街道
が合流する土地の名であった。
1715
戦線崩壊
クレメア教徒とキスレチン軍の南部部隊が攻防を繰り広げていた
南部戦線。
長きに渡り一進一退の攻防を続けていた両軍であるが、その膠着
状態は次第に崩れつつあった。
その要因は明確である。
そう、それはクラリス軍の参戦にあった。
そしてその結果として、キスレチン軍はかえってジリジリと後退
の二文字を余儀なくされつつあった。
﹁いい加減にしてくれ、ライン公! 昨日も予定外の貴公らの攻撃
により、我が軍の撤退タイミングが遅れたのだぞ!﹂
キスレチン軍の首脳部が一斉に集った中、サービアン将軍の怒声
が周囲に響き渡る。
それに対しわずかに小馬鹿にしたような声が、間髪入れず彼に向
かって返された。
﹁お言葉をそのままお返ししますよ、サービアン将軍。貴公らが前
線で粘りすぎたせいで、我らの突入が遅れたのです。むしろ反省し
てもらいたいものですな﹂
﹁ふざけるな! あんな混戦の中、後退がどれほど困難かは自明の
理だ。にも関わらず、それを無視して混乱を拡大させるのがいかに
愚策かわからんのか﹂
﹁だとしたら、そもそも前線を入れ替えるなどと言った無謀な作戦
1716
を押し付けてきた、あなた方が愚かだったと言うことでしょう﹂
軽く両手を左右に広げながら、エインスは眼前の大柄な壮年に向
かいそう告げる。
途端、目に見えてわかるほど、サービアンの顔面は真っ赤に染ま
った。
﹁貴様達がいつまでたっても自軍の権利を主張し、全く作戦行動を
連動できぬから、やむを得ずあのような策を選択したのだ。貴公ら
はそのことを少しはわきまえろ﹂
真正面から怒鳴りつけるように放たれたその言葉。
それを耳にしたエインスの副官であるセロックスは、呆れた表情
を浮かべながらその口を開く。
﹁おやおや、よくもまあそんなことが言えたものですね。もともと
クレメア教団に東も南もいいようにやられて、泣きながら我らの助
成を求めてきたのはあなた方でしょう。さて、わきまえるべきは果
たしてどちらでしょうかね﹂
﹁口を挟むな、小僧!﹂
若い副官であるセロックスの発言を受けて、今度はサービアンの
参謀であるモッテツェッレがいきり立つかのように立ち上がってそ
う発言する。
一層険悪になった場の空気。
にも関わらず、セロックスは全く気にした素振りも見せず、目の
前の参謀に向かって言い返した。
﹁会議で意見を封じるとは、民主主義とは実に高慢な思想なのです
ね﹂
﹁その物言いこそ、貴様ら貴族主義の高慢さの現れにほかならん﹂
セロックスとモッテツェッレは途端に、空中でお互いの視線をぶ
つけ合う。
1717
そんな光景を眺めやりながら、現在この南部方面軍を指揮するソ
ラネントは深い溜め息を吐き出すと、たしなめるようにその口を開
いた。
﹁⋮⋮君たち、少しは落ち着き給え。我らが仲違いしては敵の思う
壺になる﹂
﹁ふん、敵の思う壺⋮⋮でやすか。数で上回ったというのに、こう
して情けなく押し込まれているこの状況こそ、奴らの思う壺だと思
いますがね﹂
それはエインスに付き従う形で会議に参加したスキンヘッドの男
の発言であった。
それを受け、彼らの上官たるソラネントを侮辱されたと感じたサ
ービアンは、再びその場で激怒した。
﹁貴様らが不甲斐ないからだろう。元々我らだけで戦線を構築して
いたときは五分、いや五分以上で戦えていた。全ては貴様らが来て
からこうしていいようにやられているのだ!﹂
﹁おやおや、おかしな話ですね。あなた方がやられていたから我々
が呼ばれたと記憶しているのですが? それに今の物言いだと、む
しろ我々が来たのが迷惑だったとそう聞こえますが﹂
﹁だからそう言っている。わざわざあんな田舎からやってきたのだ
から、少しくらいは役に立ってみせろ! でなければ貴様らなんぞ
いないほうがマシだ﹂
そのソラネントの発言の効果は劇的であった。
エインスはその端正な顔を歪ませると、そのまま椅子から立ち上
がる。
﹁⋮⋮それがあなた方の本音ですか。では結構、ならばあなた方だ
けで好きになさい﹂
1718
﹁待ち給え、ライン公﹂
憤慨しながら立ち去ろうとするエインスの背中に向かい、ソラネ
ントは慌てて声をかける。
しかしながらそんな彼に対しても、エインスの言葉は冷たかった。
﹁待って下さいでしょう? いずれにせよ我々はあなた方の要望に
て参戦したまで。あなた方が求めぬのなら、助ける義理など何一つ
有りはしない。今日限りで軍を引き上げさせていただきます。では、
失礼﹂
﹁主導権争い? ⋮⋮それは本当ですか﹂
クレメア教団軍の陣において、ケティスは彼らしくないやや驚い
た声を上げる。
一方、そんな彼に向かい、元外務大臣であったハムゼ・パミルは、
周囲を見回しながら一つ頷いた。
﹁はい。連中の中に潜り込んでいる信者からの連絡にて、どうやら
ほぼ間違いないかと思われます﹂
﹁しかし、まさかそこまで連中の関係が悪化していたとは⋮⋮﹂
クレメア教団軍の前線を取り仕切っているローマン・ベイヤーは、
呆れた表情を浮かべながら、言葉を見失う。
それに対しハムゼは、情報は間違いないとばかりに彼なりの見解
を口にした。
﹁ここのところ、明らかに彼らの連動性が悪かったのは事実。おそ
らく表面化こそしていなかったものの、以前より彼らは揉めていた
1719
のではないかと﹂
﹁どういたしますか、枢機卿﹂
ハムゼの見解を受け、ローマンはケティスに向かいそう問いかけ
る。
だがケティスが口にしたのは、全く異なることであった。
﹁東部戦線はどうなっているのですか?﹂
﹁昨日到着しました連絡船からの報告によりますと、キスレチン軍
が奇襲を繰り返すも、神聖軍はそれをなぎ払い戦況は優勢とのこと
です﹂
昨日、トルメニア神聖軍からやってきた連絡兵からの報告。
それはキスレチン軍が無謀な奇襲を仕掛け、その尽くを神聖軍が
追い払ったという内容であった。
﹁ふむ、彼らの立場上、自軍が不利と言ってくることはないでしょ
うが⋮⋮何れにせよ、東部戦線は膠着していると解釈すべきでしょ
うか?﹂
﹁そのようです。次の補給を機に、神聖軍は大規模な戦闘行動を計
画しているようですが⋮⋮ただ気になるのは、東部戦線にユイ・イ
スターツが姿を現したという報告です﹂
そう、報告書に記されていたその名前。
それこそがハムゼの最も目を引く内容に他ならなかった。
﹁ユイ・イスターツ⋮⋮あの厄介な男は東部戦線に身を投じている
ということですか。となれば、連中は東部戦線を重視していると考
えるべきでしょうな﹂
﹁クラリス王国としては、援軍本体は南部に向け、そしてユイ・イ
スターツを西部に送り込む。つまり両方をケアするように手配した
のでしょう﹂
ローマンの言葉に続く形で、ケティスはそう口にする。
1720
それに対しハムゼも大きく一つ頷いた。
﹁状況からみて、おそらくそうでしょうな。ある意味、あのユイ・
イスターツを一軍と同等だとみなしているのかもしれませんが﹂
﹁何れにせよ、あの厄介な男がこちらにいないことは僥倖。これは
我らにとって、まさに好機とみるべき︱︱﹂
﹁ご報告します。敵の一部が突如撤退を開始しました﹂
更なる戦闘を求めていたローマンの言葉を遮る形で、突然駆け寄
ってきた兵士がそう告げる。
途端、ハムゼはその目を見開き驚いた声を上げた。
﹁なに⋮⋮まさか!?﹂
﹁はい、クラリス軍が北上を開始。おそらく、本当にこの戦いから
手を引く模様です﹂
﹁これは好機です、枢機卿!﹂
報告兵の言葉を受け、ローマンは詰め寄るかの勢いでケティスに
向かい視線を移す。
それに対しケティスは、顎に手を当てながら渋い表情を浮かべて
いた。
﹁わかっています。しかし、何か罠が秘められてはいないか⋮⋮﹂
﹁その可能性は低いでしょう。何しろあの厄介な男がいないのです。
クラリス軍にまとまりがかけるのもやむを得ないかと﹂
この状況を逃したくないという思いが、ローマンの背を強く押し
ていた。だからこそ彼は、ケティスに向かい迷うことなくそう告げ
る。
それを受けケティスは、冷静に状況を見直す。
東部戦線は最新の報告において、膠着状態にあることは明白。
そして眼前の敵は仲間割れを起こし、現在混乱状態にある。
1721
ならば彼が取るべき選択肢は一つであった。
﹁そう⋮⋮ですね。何れにせよ、このまま混乱し孤立したキスレチ
ン軍を叩かぬは戦略上ありえないでしょう。結構です。行動を開始
しましょう﹂
﹁その言葉、お待ちしていました!﹂
期待していた回答を得て、ローマンは満面の笑みを浮かべる。そ
してもはや迷うことなく、彼は自らの指揮する部隊に向かい駆け出
していった。
一方、そんな彼の背中を見送ったケティスは表情を引き締め直し、
敵軍の、そしてキスレチンの首都が存在する北へとその視線を向け
る。
﹁キスレチン軍を打ち倒し、首都ミラニールを落とす。これがその
端緒となればと願わずにはいられません﹂
﹁はい。そのためにも東部戦線にはできるだけ頑張っていただきた
いものです。彼らの主力をひきつけてもらうためにも﹂
﹁ええ、そのとおりです。何れにせよ、信者の方たちの力あっての
こと。私もドラグーンの方がたとともに前線に出ます﹂
﹁枢機卿⋮⋮それは!﹂
思わぬ決意表明に、ハムゼは慌てて大声を発する。
だが、ケティスは首を左右に振ると、はっきりと自らの決意を口
にした。
﹁いえ、もちろん無茶をするつもりはありませんし、兵の指揮は皆
さんにおまかせします。私が成すべきは、兵士たち一人一人の思い
を強くさせることでしょうから﹂
1722
待ちし者達
クラリス軍の撤退。
それが意味するところは二つである。
一つはクラリスがこのキスレチンとクレメア教団との戦いから手
を引くことを示唆するということ。
そしてもう一つは、相互の協力体制としては不完全極まりない状
況だった南部戦線において、彼らの合流直前の状況まで巻き戻され
たも同様であるということである。
そしてそんなキスレチン軍の下へ、クラリス軍の撤退直後に一つ
の報告がもたらされた。
そう、キスレチン軍の将兵の大多数にとって、最悪極まりないそ
の報告が。
﹁このタイミングを狙って攻め込んで来たというのか。くそ、ケテ
ィスの奴め!﹂
司令部の陣内にサービアンの怒鳴り声が響き渡る。
彼の眼前で急速に迫りつつあるクレメア教団軍。
まさに機を逃さぬといったその攻勢を前にして、キスレチン軍の
陣内は混乱極まりない状況となりつつあった。
﹁くそ、こうなればクラリス軍に頭を下げてでも帰ってきてもらう
べきだ﹂
﹁そんなことができるか。元々我らだけで、奴らとほぼ互角に対峙
1723
していたのだ。跳ね返してやればいい﹂
陣内の誰もが好き勝手に持論を述べながら、迫りくるキスレチン
に対して彼らは手をこまねき続けていた。
﹁もう時間がありません。ソラネント様、どうしましょうか﹂
﹁そうですね⋮⋮ふむ、ここは引きますか﹂
参謀のモッテツェッレの問いかけを受けて、この場における最高
位のソラネントはあっさりとした口調でそう口にする。
途端、サービアンは陣内に響き渡るほどの声で、疑問を呈した。
﹁ひ、引くですと!? 一体、どういうつもりですか!﹂
﹁ここで彼らと真正面から対峙しても意味は無い。むしろクラリス
軍の撤退でうちの兵士たちの士気も落ちているし、今戦闘を行うの
は愚策かな。だったら、クラリス軍を追いかける形で、ここを引く
のも悪くないんじゃないかな﹂
﹁お待ち下さいソラネント様。せっかく築いたこの陣地を放棄する
おつもりですか?﹂
サービアンに続く形で、モッテツェッレも驚愕の表情を浮かべな
がらそう問いかける。
だがソラネントは涼しい顔をしながら、逆に彼へと問い返してき
た。
﹁ええ、何か問題が?﹂
﹁問題だらけです。現在、東部戦線は膠着状態で、首都にまとまっ
た部隊は存在しないのですぞ﹂
﹁ええ、知っています。だから引くのですよ﹂
ニコリと微笑みながら、ソラネントはそう告げる。
しかしながらモッテツェッレは、首を左右に振りながら改めて正
直な感想を口にした。
1724
﹁意味がわかりません。なぜです?﹂
﹁東部戦線は硬直している。ならば、少なくともトルメニアの神聖
軍は無視できることを意味していますよね。となれば、目の前のク
レメア教団軍さえ倒せばいいわけです。それを踏まえると、この場
は引いたほうが良いと思いませんか?﹂
﹁だからその意味がわから︱︱﹂
﹁つまり狙いは連中の戦線を引き伸ばすことにあると⋮⋮そういう
わけですか﹂
モッテツェッレの言葉を遮る形で、サービアンは顎に手を当てな
がらそう口にする。
そんな彼の言葉を耳にしたソラネントは、笑いながら一つ頷いた。
﹁正解。彼らはナポライを根拠地としていますが、あれだけの信者
を養うにはおそらくギリギリなはず。そんな状況下で、さて補給に
負担をかければどうでしょうか?﹂
﹁前線に動員できる数が減少するというわけですか﹂
眼前の飄々とした壮年の上官をその目にしながら、ややオーバー
アクション気味ながらも驚いた様子を見せながらそう告げる。
その仕草に苦笑を浮かべながら、ソラネントは陣内の者たちをぐ
るりと見回したあと、はっきりと今後の方針をその口にした。
﹁そうです。何も戦って倒すばかりが敵の数を減らす方法ではない。
というわけで、さっさと引くとしましょう。彼らが付いてくればよ
し。付いてこなければ、その時はその時。より適切な選択をなすと
しましょう﹂
1725
﹁報告します。我らの行動に呼応する形でキスレチン軍もクラリス
軍に続き撤退の動きあり﹂
﹁⋮⋮つまりこの地を放棄するおつもりですか﹂
敵軍に向かい前進を行っていたクレメア教団軍。
その前線とされる位置で馬を走らせていたケティスは、眼前で報
告どおりの行動を取る敵軍の動きをその目にしながらそう呟く。
すると、彼の隣で不安そうな表情を浮かべていたハムゼは、そん
な彼に向かい次なる指示を求めた。
﹁どう致しましょうか、枢機卿﹂
﹁我々をおびき寄せる罠のようにも見えますが⋮⋮さて、彼らの真
の狙いはいずこにあるか﹂
﹁真の狙い? ですが、あれが罠なのだとするならば、苦し紛れに
過ぎないでしょう。何しろちゃんと計画性を持って物事を進めてい
るのなら、クラリス軍と揉めることなどするはずがなかったでしょ
うから﹂
﹁そういう見方もありますね。しかし何か違和感があります﹂
ハムゼの発言に一理ある事は認めながらも、ケティスはちょっと
した引っかかりを覚えて再び黙り込む。
するとそのタイミングで、一人の報告兵が彼らの下へとやってき
た。
﹁報告いたします。敵に潜り込んでいる複数の信者から、このよう
な矢文が﹂
﹁ほう⋮⋮﹂
馬を走らせる速度を緩め矢文を受け取ったハムゼは、その文面に
目を走らせる。そしてそのまま、彼はその文をケティスへと手渡し
た。
﹁なるほど﹂
1726
その矢文の内容を目にするなり、ケティスはそうこぼす。
そこにはキスレチン軍の狙いが、長期的なクレメア教団軍の兵糧
と補給にあることが記されていた。
﹁枢機卿、もしここで彼らを追撃せぬ場合、おそらくこの戦いは長
期化します。現状として、我々はこのナポライだけでは信徒たちを
ギリギリ維持するのがやっとなのです。トルメニア軍が優勢と言い
ながらも攻めあぐねている現状を踏まえれば、やはり果断速攻こそ
が最善と考えます﹂
﹁ご決断を、枢機卿﹂
ハムゼに続く形で、実働部隊を指揮するローマンは重ねてケティ
スへと迫る。
そんな彼らの発言。
それを前にしてもなお、ケティスは首を縦に振ることはなかった。
だからこそローマンはもうひと押しとばかりに、改めて最も懸念
する事象をその口にした。
﹁この地を守っているだけでは、万が一東部戦線を神聖軍が突破し
た場合、キスレチン本土を彼らに押さえられます。枢機卿、その事
態だけは防がねばなりません﹂
﹁そう⋮⋮ですね。彼らが膠着状態にある以上、我らの好機を放棄
することは出来ません。わかりました。ローマンさん、お願い致し
ます﹂
そのケティスの命令を耳にするなり、ローマンは力強く頷く。
そんな彼に向かい、ケティスは念を押すように更に言葉を続けた。
﹁まずはこの敵の撤退に合わせて追撃を行いましょう。但し、キス
レチン軍の動向には細心の注意を払って下さい。何か怪しげな動き
1727
を見せれば、絶対に深追いは避けてくださいね﹂
﹁南部戦線もキスレチン軍の後退にともないクレメア教団軍は順調
に北上中。このまま行けば明後日にもこの地にたどり着くわ﹂
﹁そっか。だとすれば、今のところは予定に狂いはない⋮⋮かな﹂
黒髪の女性の報告を受け、ユイは小さく息を吐き出すと一つ頷く。
それに対し、クレハはやや険のある視線を彼へと向けた。
﹁計画をした本人はこうしてのんびりしていていい身分ね。ミラニ
ールの人や、貴方の部下たちは土にまみれながら仕事をしてたって
いうのに﹂
﹁それにはもちろん感謝しているさ。でも、私も東部戦線ではそれ
となく姿を見せるという大事な仕事もこなしたわけだし、十分に超
過勤務だよ。むしろ褒めて欲しいと思うくらいにね﹂
﹁そのセリフ、憎まれ役を無理やりやらされたライン大公にも聞か
せてあげるわ﹂
﹁はは⋮⋮たぶん次にあった時は怒られるかな、うん。まあ全てが
終わるまではできるだけ顔を合わさないようにするとしよう﹂
だから手紙でお願いしたわけだけどと思いながら、ユイは苦笑を
浮かべつつ頭を掻く。
それに対しクレハは、呆れたように首を左右に振った。
﹁ともかく、全ての仕上げは貴方の⋮⋮いえ、貴方の軍の仕事よ。
最後くらいキリキリ働くのね﹂
﹁耳が痛いね、まったく。ともあれ、そろそろ私たちも準備を始め
1728
るとしようか。このキスレチンに於ける戦いに終止符を打つために﹂
そうしてユイはゆっくりと後方を振り返る。
この地にてその時を待ち続けた者たちがそこに存在した。
そう、帝国とレムリアック兵によって構成されたイスターツ軍と
呼ばれる一団が。
こうしてキスレチンとトルメニアとの戦いは新たな幕が上がるこ
ととなる。 首都ミラニールのわずか南に位置する、カセルタという名のこの
地において。
1729
カセルタの戦いⅠ
﹁ローマンさん、キスレチンの連中は捕まえられそうですか?﹂
逃げ続けるキスレチン南部方面軍を追い続けるクレメア教団軍。
しかし本拠地であるナポライから大きく北上してきたものの、キ
スレチン軍の抵抗はしぶとく、彼らは未だ決定的な損害を敵に与え
られずにはいた。
﹁そうですな。ここまでの撤退で奴らにそれなりの損害は与えてお
ります。ですが、それでもどうにか秩序を維持しながらミラニール
へ向かっている。正直申しますと、このままでは首都に逃げ込まれ
るかと⋮⋮﹂
﹁そうですか﹂
前線の実働部隊の指揮をとるローマンの率直な回答に、ケティス
は苦い表情を浮かべる。
すると、彼の傍に控えていたハムゼが自らの見解を示してみせた。
﹁ケティス様。この調子ですと首都にて、奴らと対峙する事になり
そうですな﹂
﹁いえ、それはないでしょう。ミラニールの規模ではとても防衛戦
は不可能。となればその直前には打って出てくるはずです。しかし
⋮⋮﹂
ケティスとしては様々な点で不可解なことだらけであった。
突然の仲間割れから始まり、陣の放棄だけではなくひたすら逃げ
続けるだけの敵の行動。
もちろん元々ケティスたちがキスレチン軍を圧倒しており、勝敗
が明らかとなっていたのなら考えられなくもない行動であった。
1730
しかしながら、クラリス軍の参戦がなくとも敵はこれまでほぼ互
角の戦いを続けていたのである。それが少なからぬ損害を出してま
でひたすら撤退に専念することに、正直言って納得の行く理由を彼
は見出すことが出来ていなかった。
﹁おそらくですが、ミラニールに残っている守備隊やら治安維持部
隊まで全て動員し、最大限の人員で我らに立ち向かうためじゃない
でしょうか﹂
﹁ハムゼさん、その可能性は確かに否定できません。ですが、その
為だけにこれほど被害を出し続けているのは、どうにも理屈に合わ
ない﹂
﹁⋮⋮確かにその通りですな﹂
キスレチン軍も緩急や偽装反撃などを用いながら、出来る限りそ
の損害を少なくするようこれまで行動してはいた。
しかしながら、それでもなお追撃戦故に、ここまでの道のりでほ
ぼ一方的にクレメア教団軍だけが戦果を上げ続けてきたのである。
そのことへの違和感をハムゼも次第に感じ始めていた。
そしてそれは無骨なローマンも同様であり、彼なりに考えうる事
態をその言葉にする。
﹁首都で政変などでも起こったのでしょうか﹂
﹁わかりません。首都ではなく何処かで決戦を挑んでくるつもりか
もしれませんが⋮⋮﹂
﹁首都以外ですか⋮⋮あるとすれば、東街道と合流するこの先のカ
セルタくらいでしょうね﹂
ケティスの懸念を受け、ハムゼが現実的に考えうるその地名を口
にする。
﹁カセルタには確か要塞がありましたね﹂
1731
﹁はい。ただこれだけ我々と距離が近い状況で、そのまま要塞内に
奴らが駐留するかどうかは⋮⋮﹂
﹁要塞内に伏兵を用意している可能性もあるやもしれませんな﹂
ケティスに対するハムゼの回答を受け、ローマンは彼なりの考え
を口にする。
それを一考した上で、ケティスはゆっくりとその口を開いた。
﹁否定はできません。ですが、奴らが何かを仕掛けてくるにしても、
あらかじめ予想さえできていれば対処のしようもあるでしょう。連
中の距離が近すぎれば、何ら有効な手を打てないでしょうし、遠け
れば十分に対応も可能でしょうから﹂
﹁その通りですな。それに第一、キスレチン軍はそのほぼ全軍を東
部戦線と我らが南部戦線に投入しています。結局のところ、残され
ているのは先程もお話しした守備隊や治安維持部隊くらい。おそら
く規模としても知れているかと﹂
ハムゼがそう口にした瞬間、ケティスは突然何かの可能性に気づ
いたかのように、ハムゼを見つめる。
﹁⋮⋮一つだけ確認させて下さい。最初に逃げたクラリス軍が、要
塞内に駐留している可能性はありませんか?﹂
﹁彼らの動向はわかりませんので断言はできませんが、ただ喧嘩別
れした相手を自軍の要塞に招き入れる理由はないかと思われます﹂
ケティスの問いかけに困惑しながら、ハムゼはそう答える。
するとそのタイミングで、前線から一人の騎兵が彼らの下へと駆
けつけてきた。
﹁報告いたします。敵軍の先頭部隊は既にカセルタ要塞の脇を通り
抜け、そのまま北上している模様﹂
﹁駐留はなし⋮⋮か。となれば、連中は首都決戦を選んだわけです
な﹂
1732
その報告を受け、ハムゼは重々しく一つ頷く。
すると、ローマンはわずかに口元に笑みを浮かべ、そのまま口を
開きかけた。
﹁となれば状況は極めてシンプルだ。このまま︱︱﹂
﹁待って下さい、あれはなんですか?﹂
ケティスは前方を指差しながら、ローマンのことばを遮る。
その彼の指し示した先。
そこには砂埃を上げながら行軍を行っている膨大な数の一団が存
在した。
ヘプタグラム
﹁て、敵の伏兵⋮⋮い、いや、あれはクレメア教を示す七芒星の旗。
そんなバカな。なぜ、なぜ彼らがここに!﹂
﹁くそ、連中はまだ捉えられんのか!﹂
﹁はい。完全に出し抜かれた形で撤退された上に、地の利さえ連中
にあり⋮⋮﹂
苛立ちを隠せぬバイラム司教に対し、彼の副官はうつむき加減の
ままそう口にする。
するとそんな二人のやり取りを耳にしたヌルザーン枢機卿は、溜
め息を一つ吐き出した。
﹁落ち着け、マフズン。奴らとて永遠に逃げ続けられるわけではな
い。結局辿り着く先は一つしか無いのだからな﹂
1733
﹁首都ミラニールですな﹂
ヌルザーンの言葉に、マフズン司祭が反応する。
それに対し一つ頷くと、ヌルザーンは再びその口を開いた。
﹁そうだ。キスレチンがミラニールを放棄でもせん限り、奴らはあ
の地を守らねばならん。となれば、いずれ追いつくのは自明の理。
だからここで焦る必要はない﹂
﹁そのようですな。連中はカセルタの要塞さえも無視して北上して
おりました。となれば、ここから先にまとまった戦力を交わせる場
所などなく、やはり首都にて決着をつけに来るつもりかと﹂
﹁ちっ、このまま要塞に逃げ込めば話が早いものを﹂
マフズンの見解に対し、好戦派のバイラムはやや不満そうな言葉
を発する。
しかしながらそんな彼の発言に対し、マフズンは首を左右に振っ
てみせた。
﹁あの大軍が要塞を得たとて身動きが取れんだろう。妥当な判断と
いえるだろうな﹂
﹁二万や三万の数ならともかく、あの数なら要塞への駐留は不可能
だ。まあ何れにせよ、我らは追撃するだけということだな﹂
やや不満そうな口調ではありながらも、眼前の要塞を占拠するこ
とにバイラムは何ら軍事的意味を見出していなかった。
そしてそれはマフズンとて同様であり、彼は冷静な口調で自らの
考えを表明しかかる。
﹁ですな、ミラニールはもはや目と鼻の先。慌てて反転する奴らを
そのまま食いちぎって︱︱﹂
﹁枢機卿、所属不明の大量の兵士たちが前方に存在します﹂
慌てて彼らの下へとやってきた兵士の口から発せられたその報告。
それを耳にした瞬間、ヌルザーンの眉間には深いしわが刻まれた。
1734
﹁前方だと?﹂
﹁はい、どうもキスレチン軍のようなのですが⋮⋮﹂
そこまで口にしたところで、兵士はそれ以上は判断に余るとばか
りにその口を閉じる。
一方、その報告を隣で聞いたマフズンは、悩ましげな表情を浮か
べながらその口を動かした。
﹁⋮⋮どうも我らの追いかけていた兵士たちとは違いそうですな﹂
﹁ああ。だが向かっている先は同じだ。となれば、首都決戦の為に
呼び出された者たちということか﹂
﹁何れにせよ、奴らの足取りは重そうです。このまま行けば、追い
つくことも可能かと﹂
ここのところ、敵にしてやられてばかりであったこともあり、バ
イラムは強い口調でヌルザーンに決断を促す。
するとヌルザーンも、ほぼ迷うことなく首を縦に振った。
﹁そうだな。決戦のときの敵兵は少なければ少ないほどいい。とな
ればだ、ここで少しでも減らしておくに越したことはないか﹂
﹁お待ち下さい、枢機卿。南の方向からも、所属不明の軍が出現し
たとのことです﹂
その報告は参謀を務めている一人の助祭の口から発せられた。
途端、一同の視線は北から南へと移され、バイラムが苛立ち混じ
りに疑問をぶつける。
﹁南だと! 首都を目指す他の敵か?﹂
﹁い、いえ⋮⋮それが、その南の一団はクレメア教を示す七芒星の
旗が掲げられております﹂
﹁この地にいる七芒星を掲げる部隊だと⋮⋮まさかケティスの連中
が!?﹂
1735
紋章までは確認できなかったものの、その一団の存在を目視した
ヌルザーンは、頬を引きつらせながらその言葉を発する。
そして同時に、バイラムの怒声がこの場に響き渡った。
﹁なぜ、なぜ奴らがここにいるのだ!﹂
その疑問と怒気を孕んだバイラムの問いかけ。
それに対し答えられる者は、この司令部の中に誰ひとりとして存
在しなかった。
わずか離れたとある陣内にて一つの疑問が発せられたその時、そ
の問いかけに答えを返すことのできる人物は、小高い丘の上に於い
て頭を掻きながらその地域一帯の動きを見下ろしていた。
﹁ふう、ソラネントくんも無茶するなぁ﹂
﹁先生の本命はトルメニア神聖軍だったわけで、南部方面軍が無理
する必要は無かったということですか?﹂
隣に立つかつての恩師に向かい、レイスはそう問いかける。
すると黒髪の男は、頭を掻きながら正直な感想をその口にした。
﹁兵数が五倍くらい違うからね。下手をすると、要塞周辺で交戦と
なって彼ら南部方面軍を巻き込む羽目になっていたわけだしさ⋮⋮
まあ予め彼には神聖軍の位置を伝えていたから、間に合う確信があ
ったわけだろうけど﹂
それだけを口にすると、ユイは大きなため息を吐き出す。
一方、そんなユイをその目にしながら、レイスは苦笑交じりに言
1736
葉を口にした。
﹁まあ、世の中割り切れることだけでは無いということじゃないで
すか? 自分には誰かの命令で無茶をさせられてる上官の気持ちが
わかりますし﹂
﹁はは⋮⋮耳が痛い。ともかく、楽しい山登り中のエインスの方は
大丈夫そうかな?﹂
そう口にすると、このカセルタと呼ばれる盆地を取り囲む高い山
々へとその視線を向けながら、ユイはレイスに向かいそう問いかけ
た。
﹁予定の場所に到着したとつい先程報告を受けました。ただ後で覚
えておいてくださいねと、報告に言葉が添えられていたようですが﹂
﹁はぁ⋮⋮小さなことにこだわるとモテなくなるよってあとで言っ
ておいてくれ﹂
﹁あの人は多少モテなくなるくらいでちょうどいいんですが⋮⋮と
もかく軍務大臣の気持ちは僕にもわかりますよ。何しろ無理をさせ
られた上に、事にあたる際にクラリス軍の最高の右手と左手抜きで
やれと一方的に言われたわけですからね﹂
自らの師匠と、そして銀髪の魔法士のことを暗に示しながら、レ
イスははっきりとそう告げる。
それに対しユイは僅かに苦笑を浮かべた後、そのままこの話題を
打ち切った。
﹁まあ苦労すればいずれいいこともあるさ。とにかくだ、目の前の
彼らの動きを見るに、どうやら神聖軍が南部方面軍の尻尾に食いつ
きたそうだ。となれば、急いで作戦を次の段階に進めなければなら
ない﹂
﹁エインス様達のクラリス軍はもちろん、東部方面軍もほぼ準備が
整っております。もういつでも始められます﹂
1737
そのレイスによる報告。
それを受けて、ユイは頭を掻きながら小さく息を吐きだす。
﹁それじゃあ、彼らが余計なことに気づく前に始めるとしよう。ロ
イスくん﹂
﹁はっ、心得ております。魔法士隊、始めるぞ﹂
ユイの呼びかけを受け、帝国軍の一団を預かるロイスはすぐさま
行動を開始する。
そして彼らの一団は一様に精神の統一を行うと、一斉に目的とす
る呪文を唱えていった。
﹁グレンツェン・クーゲル﹂
﹁﹁グレンツェン・クーゲル﹂﹂
黒色の兵士たちの声が大気中にとどろき、そして彼らの頭上には
熱と光を凝縮させた巨大な球体が形成されていく。
ゆっくりと確実に肥大していくその灼熱の球体。
それをその目にしながら、ユイはほんの僅かに口元を歪めると、
その口から力ある言葉を発する。
﹁マジックコードアクセス⋮⋮クラック!﹂
そのコードが発せられた瞬間、頭上に存在した球体は立ちどころ
にその性質を、そしてその役割を書き換えられた。
1738
カセルタの戦いⅡ
﹁何だあれは?﹂
南から出現したクレメア教団軍に忌々しさを感じていたバイラム
は、まったくそれとは逆方向、つまり進行方向である北の小高い丘
の上に突然巨大な光が出現したことを訝る。
すると、その光に気づいたマフズンはその直下に存在する黒色の
鎧を身にまとった兵士たち目にして、一つの存在に思いが至る。
そう、ある国が開発した一つの魔法の存在に。
﹁巨大な光の球体⋮⋮黒一色の鎧を纏う兵士たち⋮⋮まさか﹂
最後まで言葉を紡ぐことをせず、ただ目の前の光景に圧倒された
様子のマフズンに、バイラルは急ぎ先を促した。
﹁まさか何だと言うんだ﹂
﹁わかりませんか? 帝国が開発した一軍さえ消し尽くす魔法。つ
まり集合魔法ですよ﹂
﹁な、なんだと!? 集合魔法だと!﹂
マフズンの口走った言葉を受け、目を見開いたバイラムは驚愕の
表情を浮かべながらそう口にする。
しかしマフズンは自分の言葉さえ否定するかのように、ブンブン
と首を左右に振った。
﹁いや、あり得ない。いかにキスレチンが追い詰められようとも、
奴らが帝国軍を受け入れるなど︱︱﹂
﹁違う、あの男の軍だ﹂
それはヌルザーンの言葉であった。
1739
彼はマフズンの言葉を遮ると、更にその言葉を続ける。
﹁思えば、単独で姿を現す事自体おかしかったのだ。何しろ、クラ
リスとブリトニアとの闘いを決定づけたのは奴個人の部隊だったの
だからな﹂
﹁ということは、あれはユイ・イスターツの!﹂
ようやくその存在に思いが至ったバイラムは、頬を引きつらせる。
だがそんな彼の言葉に反応することなく、ヌルザーンは急ぎ足元
をそして周囲を見回す。そして駐留することなく側を素通りするこ
ととした要塞へと、その視線は釘付けとなった。
﹁キスレチンの東部方面軍も、そして目の前の連中も要塞を無視し
て北へ向かっている⋮⋮ということは⋮⋮くそ、今すぐ全軍この地
から退避しろ!﹂
﹁な、なにを。確かにあれが集合魔法となればおそろしいものです。
ですが、うわさに聞くほど大規模なものではありません。むしろ敵
は我々が陣形を崩すことを意図して︱︱﹂
﹁違う、違うのだ。あれはきっと我々を狙っているのではない。ア
レが狙っているのは要塞なのだ﹂
一部の損害は無視してでも、敵への接近を優先しようとするバイ
ラムに対し、敵の意図するところを理解したヌルザーンは、悪辣な
敵の意図を理解し顔面を蒼白にしながらそう告げる。
﹁は? 要塞?﹂
﹁つべこべ言うな。このままでは、このままではフィラメントの二
の舞いとなる。とにかく一人でも多く、この場所から皆を逃がすの
だ!﹂
1740
﹁枢機卿、トルメニア神聖軍と思われる連中ですが、ひどく混乱を
きたしているようです﹂
﹁一体、何があったというのだ?﹂
実働部隊を仕切るローマンの発言に対し、ハムゼは眉間にしわを
寄せながらそう尋ねる。
すると、彼らの会話を耳にしていたケティスが、前方の小高い丘
の上をスッと自らの右人差し指で指し示した。
﹁おそらくアレでしょう﹂
﹁光の魔法⋮⋮いや、アレはまさか﹂
距離のあるこの場所から目にしても、はっきりと分かる膨大な魔
力を秘めた球体。
それが意味するところは、ローマンとてたったひとつしか思い当
たらなかった。
﹁集合魔法。そういうことでしょう﹂
﹁噂ではイスターツの直属軍は一部帝国から借り受けた兵士で構成
されていると聞きます。おそらくはその影響でしょうが﹂
ケティスの言葉を受け、ハムゼは顎に手を当てながらそう答える。
だが次の瞬間、ケティスははっと顔をあげると、すぐにその口を
開いた。
﹁なるほど、そういうことですか。今すぐです、今すぐこの地から
引き返しなさい﹂
﹁はっ⋮⋮ど、どういうことですか﹂
﹁このまま神聖軍とともに北上してはまずい。危うく一杯食わされ
るところでした﹂
1741
ケティスは苦い表情を浮かべながら、はっきりとそう口にする。
そんな彼に対し、ローマンは一つの懸念を示した。
﹁はぁ⋮⋮ですが、そうするとせっかく追い詰めた南部方面軍は神
聖軍の連中に横取りされかねませんが﹂
﹁横取りできるとしたらそうでしょう。ですが、今は撤退が優先で
す。私たちはフィラメントとは⋮⋮そう、ウイッラとは違うのです
から﹂
﹁ウイッラ?﹂
聞きなれぬ名を耳にしたハムゼは、とたんに怪訝そうな表情を浮
かべた。
それに対しケティスは、それどころではないとばかりに今なすべ
き行動を優先させる。
﹁私の友人です。ともかく時間がありません。混乱に巻き込まれぬ
ためにも、さあ行きますよ!﹂
﹁ケティス様、敵です﹂
﹁は?﹂
まさに今、撤退を開始しようとしたこのタイミング。
その時を図っていたかのように、血相を変えた一人の信者によっ
て、まったく予期せぬ報告がケティスの下へともたらされる。
﹁この地を囲む側面の山の斜面から、武装した無数の兵士たちがす
ごい勢いで⋮⋮﹂
﹁あれはクラリスの旗!?﹂
彼らの側方に位置する山の斜面に突如姿を現した一軍。
彼らの掲げる旗には獅子の刻まれた盾に王冠を有する紋章、つま
りクラリス軍の紋章が刻まれていた。
一方、時を同じくして彼らの後方では次なる動きが生じる。
そう、彼らにとって決して望ましくない動きが。
1742
﹁後方、敵の集合魔法。トルメニア神聖軍に向けて放たれ⋮⋮い、
いえ、あれはカセルタ要塞に!﹂
その悲鳴の如き兵士の叫びは、膨大な爆発音によって一瞬でかき
消される。
通常のものより小型であった集合魔法は、カゼルタ要塞に直撃し
た瞬間、突然周囲一体を包み込むように膨大な光量を放つと、周囲
にいた神聖軍を飲み込みながらそこに爆ぜた。
﹁軍務大臣、予定通りカセルタ要塞に直撃し、内部と周囲に埋め込
んでいた魔石ごと爆発を示した模様﹂
﹁耳をふさいでいたけど、まだじんじんするね。ともかく了解。で
はこのまま、僕たちは作戦を継続する﹂
副官である士官学校上がりのセロックスの大声での報告を受け、
エインスは一切足を止めることなくそのまま返答を行う。
﹁分かりました。それでは予定通りここからは部隊を二つに分けま
す。クレイリーさん、お願い致します﹂
﹁本当にあっしで良いんでやすかね。まあ、あの人達がいないので
仕方ないでやすが﹂
まっすぐに斜面を下りつつ、打ち合わせ通りとは言えクレイリー
は僅かな懸念をエインスへと示す。
するとエインスは、返事代わりとばかりに深い溜め息と愚痴を吐
き出した。
1743
﹁はぁ⋮⋮全てはあの人ですよ。あのお二人抜きでこの重要な戦い
をやれなんて、ほんとむちゃもいいところですよ﹂
﹁そ、それは軍務大臣やクレイリー四位を信頼されているからで﹂
この戦いの直前に、四位へと無理やり昇格させられたクレイリー
たち二人をその目にしながら、セロックスは慌ててこの作戦を立案
した人間をかばう。
しかしながらそんな彼の発言は、眼前に二人によってあっさりと
否定された。
﹁信頼? 違いますよ。あの人は自分が楽をするためなら、どんな
苦労でも押し付けてくるのですから﹂
﹁そうでやす、そうでやす。本当にあの人は⋮⋮﹂
﹁と、ともかくです。先に戦場を離脱し、山越えをして兵を隠して
いたのはこの時のため。早速行動に移りましょう!﹂
二人が溜め込んだ不満を一斉に吐き出し始めたため、セロックス
は慌てて直近の課題へと話題をそらす。
一方そんな彼の発言に対し、エインスは訝しげな表情を浮かべる
も、しかたなく首を縦に振った。
﹁セロックス、先輩から袖の下をもらってないだろうね。まあいい。
ともかく、クレイリーさん。神聖軍をお願いします﹂
﹁わかりやした。軍務大臣もお気をつけて﹂
そう口にすると、クレイリーは彼が指揮をする一団の進路を変更
する。
﹁というわけで、私たちはあの人の予定通りクレメア教団軍の相手
を務めるとしようか﹂
﹁はい。ここで彼らを逃がす訳にはいきません﹂
エインスの発言に続く形で、セロックスは大きく頷いてみせる。
だがそんな青年の力強い言葉に対し、エインスの表情が晴れるこ
1744
とはなかった。
﹁それに逃したら逃したで、仕事が増えたとあの人に愚痴られそう
だしね。まったく﹂
﹁ま、まあここでキスレチンに貸しを作っておけば、今後の西方会
議は色々とやりやすくなると思われます。決して無駄ではないかと﹂
﹁無駄ではなく、そしてぎりぎり無理じゃないことを押し付けてく
るからたちが悪いんだよ。ともかく、まずは目の前のことを成し遂
げてから愚痴を続けるとしよう。さあ、みんな行くよ﹂
1745
カセルタの戦いⅢ
﹁報告します。トルメニア神聖軍は中央部が崩壊。ですが、クレメ
ア教団軍は被害は極々軽微な模様。またクラリス軍が行動を開始し
ました﹂
﹁ふむ、まあ満点とは行かないかな。敵も私たちのために動いては
くれないから﹂
レイスの報告を受けて、ユイは苦笑交じりに小さく頷く。
すると、レイスはすぐさま、次なる行動を彼へと尋ねた。
﹁で、このあとは如何なさるおつもりで?﹂
﹁そうだね。この戦闘における私たちの仕事は、基本的にはこれで
終わりさ。あとは彼らに任せるよ﹂
それだけ口にすると、ユイは軽く頭を掻く。
﹁彼ら⋮⋮ですか﹂
﹁ああ、彼らさ。全て手柄を取ってしまっては色々と差し障りがあ
るからね。エインス達にきっちりと足止めをしてもらった上で、最
後の美味しいところはこの国の彼らに持っていってもらわないと﹂
ユイはそう口にするなり、すごい勢いで行動を開始した二つの軍
の姿をその目にする。
一方は先程まで追われ続けていた軍であり、もう一方は彼自身も
撤退に関与した今や圧倒的な人員を誇る一軍であった。
﹁つまりあとは東部方面軍と南部方面軍の仕事だと? よろしいの
ですか?﹂
﹁このあとは混戦になるからね。集合魔法が使えなくなる以上、お
となしくしているとしよう。仕上げが必要かもしれないしね﹂
1746
﹁仕上げ?﹂
ユイの発言を受け、レイスはわずかに眉をピクリと動かす。
﹁ああ。必要なかったらそれに越したことはない。必要な場合は面
倒事が起こったときだしね。ともあれ、彼らの好きそうなやり口は
封じるに限る。とう言うわけで護衛を務める兵士君たち、もうしば
らく待機でよろしくね﹂
そう口にしたユイは、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには黒色の鎧と兜に身を包み、顔を隠した護衛役の二人の兵
士の姿が存在した。
﹁まったく、全てはあいつの手のひらのうえってわけか﹂
東部方面軍を反転させ、全力で神聖軍に向かい突入を開始させた
カロウィン。
指揮官である彼は、一方的に敵を切り崩しつつある自軍をその目
にしながら、深い溜め息を吐き出した。
﹁勝ちつつあるのに溜め息とは贅沢な話ですな﹂
﹁美味しいところを全部あいつに持っていかれたからな﹂
副官の言葉に苦笑を浮かべながら、カロウィンはそう答える。
それに対しやや年配の副官は、釣られるように苦笑を浮かべた
﹁我が国の戦いなのに、ゲストたる彼にすべて持っていかれたのは
事実ですからな。もっとも本人は、美味しいところを我々に譲り渡
したなどと言っていそうですが﹂
﹁そういうやつだよ、あの男は﹂
1747
短い付き合いながらも、西方の英雄と呼ばれる男の人間性を大ま
かに把握したカロウィンは、やや疲れたような口調でそう答える。
﹁ともかく、我々はまともな軍人らしく、最後まできっちりと仕事
するとしましょう﹂
﹁だな。さて、うまく背面展開も開始したようだ。あとはゆっくり
と確実に締め上げていくとしようか﹂
視線の先では、混乱する敵の中央を突破した部隊が、クラリス軍
の一部部隊と合流し背面展開を開始する。
この状況は、まさに二人の男が意図していたとおりの盤面図であ
り、そしてまさに東部方面軍としての終局図でもあった。
そしてこの光景を目にした副官は、わずかに迷いつつも一つの提
案を口にする。
﹁司令官、状況的に我らには多少余裕があります。南部方面軍に援
軍を送られてはいかがですか?﹂
﹁申し訳ないが、それは既に手配している。あいつらの魔法が成功
した時点で彼我兵力差は決定的となったからな。そして集合魔法を
使った際に、南部方面軍への被害が少なければ一部兵士をそちらに
振り向ける。いわゆるプランFⅡというやつだ﹂
﹁⋮⋮一体、何パターンの計画を立てておられたのですが、あなた
方は?﹂
カロウィンの発言を受けて、彼の副官は頬を引きつらせながらそ
う問いかける。
それに対しカロウィンは、僅かに肩をすくめてみせた。
﹁まあ細かい条件まで含めればざっと三桁か。だが結局のところ、
選択は常に一つ。というわけで、これ以上はあいつみたいに無駄口
をたたかず、殲滅に専念するとしよう﹂
﹁了解いたしました。あと⋮⋮確認いたしますが、司令官は本当に
1748
南へ向かわれなくてよろしいのですね?﹂
﹁⋮⋮あいつが高みの見物をしている今、俺以外に誰がこれだけの
数を指揮できる? それにこう見えても作戦行動には私情は挟まな
いことにしているんだ﹂
それは明らかに何かを押し殺した言葉であった。
だからこそ、彼の副官は直ぐに頭を下げる。
﹁失礼いたしました。では、私は包囲殲滅を徹底させるよう指示を
行って参ります﹂
﹁おう。よろしくな﹂
カロウィンが鷹揚に返事をすると、彼の副官は足早にその場を離
れる。
そしてその場に残されたカロウィンは、その視線を集合魔法が放
たれた丘へと移した。
﹁しかし、これからどうするかねぇ。西方会議に続きここまであい
つの実力を見せられちまった以上、我が国としては色々と悩ましい
ところではあるが⋮⋮まあカセルタ要塞のことで俺は責任を取って
辞めるわけだし、あとの面倒事は上が考えるか﹂
それだけを口にすると彼は再び目の前の戦場へと視線を移し直す。
そこはまさに最終局面へと戦いが移行しつつあった。
﹁駄目です、枢機卿。後方はもちろん両側面も敵影で溢れておりま
す﹂
﹁完全に囲まれた⋮⋮か﹂
1749
マフズンの言葉を受け、周囲をぐるりと見回したヌルザーンは肩
を落としながら深い溜め息を吐き出す。
そんな彼に向かいバイラムが、強い口調で一つの提案を口にした。
﹁枢機卿、如何致しましょう。強行突破するならば、やはり後方か
と思いますが﹂
バイラムが口にしたその選択。
だがヌルザーンはそんな彼の提案に対しあっさりと首を左右に振
った。
﹁我らがそう意図するだろうことは敵もわかっている。だからこそ
の中央突破背面展開だったのだろう﹂
﹁我らの背後を押さえたのが、突破と後方遮断を任せられた敵の主
力だというわけですか﹂
﹁うむ。そして下手に動けば、おそらくあの魔法が襲ってくる。た
とえ先程のような威力がなかろうともな﹂
マフズンに対し先程の魔法が放たれた丘を指し示しながら、ヌル
ザーンは疲れた口調でそう口にする。
その言葉を受け、好戦派であり常に積極策を口にしてきたバイラ
ムは、力が抜けたかのようにその場に座り込み、弱々しい言葉をゆ
っくりと紡いだ。
﹁我々の負け⋮⋮ですか﹂
﹁ああ⋮⋮講和の準備を﹂
そのヌルザーンの発言。
それを耳にしたマフズンは念を押す形で確認を行う。
﹁よろしいので?﹂
﹁やむをえん。この決断を行うことこそが、私に課せられた︱︱﹂
﹁おやおや、お待ち下さいな枢機卿。それは貴方の権限にはありま
せんよ﹂
1750
突然陣内で発せられたその言葉は、小馬鹿にした笑みを浮かべる
男によって発せられた。
﹁ユダナ?﹂
地面に座り込んでいたバイラムは、そのいやらしさを感じさせる
言葉にその視線を上げる。
そして彼は総主教派とされる一人の助祭と、彼の子飼いの部下た
ちの姿をその目にした。
﹁ユダナ助祭。権限がないとはどういう意味かな?﹂
﹁ふふ、口で話すよりもこれを見てもらったほうが早いでしょう。
どうぞ御覧ください﹂
そう口にしながらユダナは手にしていた書面をヌルザーンへと手
渡す。
ヌルザーンはその書面を目にした途端、頬を引きつらせると、ま
じまじとユダナの顔を見つめた。
﹁⋮⋮な、そんな馬鹿な。なぜこのようなものが﹂
﹁総主教猊下はおっしゃいました。万が一戦いに敗北した場合、敵
との講和においてはこの私が全てを取り計らうようにと﹂
ニヤニヤした笑みを浮かべながら、ユダナははっきりとそう告げ
る。
﹁ほ、本当に猊下がそのようなことを⋮⋮しかしお前はただの助祭
に過ぎ︱︱﹂
﹁そうだ一つ言い忘れておりました﹂
ヌルザーンの言葉を遮る形で、ユダナは軽く手をたたく。
そして彼は満面の笑みを浮かべながらさらに一歩前へと踏み出す
と、次の瞬間、軽くその右腕を振るった。
1751
﹁敗北を喫した馬鹿者の首は、自由にしろという話でした﹂
﹁な、ユダナ貴様!﹂
一つの首が地面へと落下した瞬間、大地にふさぎ込んでいたバイ
ラムは怒声を放つ。
だがそんな彼に向かい薄い笑みを向けると、ユダナはそっと空い
た左手を上げた。
﹁おっと、あなた達首脳陣も敗北の責任を取るお時間ですよ。おと
なしく的になってください﹂
彼の言葉が発せられた瞬間、無数の発砲音が陣内に響き渡った。
そしてユダナの部下たちによって全身に銃弾を打ち込まれたバイ
ラムとマフズンは、そのまま大地へと崩れ落ちる。
そうして一瞬で静まり返った陣内において、ユダナはその視線を
遥か南へと向けた。
﹁どうやらケティスくんはまだ戦っているみたいですね。まったく
野蛮極まりないものです。目的を達するには一に効率、二に効率と
いうのに。吐き気のする話ですが、そのあたりは調停者の方が私と
気が合うかもしれませんね﹂
1752
そのやり口は知っている
既に一方的な戦況も収束を始めていた頃合い。
そろそろ降伏勧告を送ろうかと考えていたタイミングで、キスレ
チン東部方面軍を指揮するカロウィンのもとに、一人の兵士が駆け
込んできた。
﹁カロウィン司令官、敵から降伏の使者が参りました﹂
﹁ほう。神の使徒っていうのはもう少し諦めが悪いと思っていたが、
意外だな。で、どっちの方だ?﹂
現在、このカセルタにおいては二つの戦闘が同時並行で生じてお
り、答えを予想しておきながらも念のためにカロウィンはそう尋ね
る。
すると、彼のそばまで近寄ってきた兵士は、すぐに返答を行った。
﹁もちろん我らが担当している神聖軍の方です。ただ、どうも少し
様子がおかしく﹂
﹁というと?﹂
﹁既に責任者は敗北の責を神に謝罪し自害したとのことで⋮⋮﹂
やや苦い表情を浮かべながらそう告げてきた兵士に向かい、カロ
ウィンは顎に手を当てるとわずかに思案する表情を浮かべる。
﹁確か枢機卿の一人が奴らを率いているんだったな﹂
﹁ええ、ただそのヌルザーン枢機卿が既に自害。さらに参謀を務め
ていたバイラム司祭やマフズン司祭もそれに続いたとのこと。現在
彼らをまとめているのはユダナ助祭という人物のようなのですが﹂
﹁ふぅん、そうか﹂
特に見聞きしたこともない名前であったため、カロウィンは軽く
1753
頷くとそれだけを返す。
﹁その現在彼らの指揮を取っているユダナ助祭が降伏を申し出てお
り、出来ましたら司令官と直接今後について話し合わせて頂きたい
と要請してきているようです﹂
﹁ふむ⋮⋮そうか。何れにせよだ、差し当たって全軍に攻撃の中止
を命令させるとしよう。その上で、このあと︱︱﹂
﹁司令官! たった今、イスターツ様のもとから連絡兵が参りまし
た﹂
カロウィンが今後の指示を更に追加しようとしたそのタイミング
で、今度はやや大柄な兵士が大声を上げながら彼の下へと走り寄っ
てくる。
﹁イスターツから? それで用件は﹂
﹁それがその⋮⋮そろそろトルメニア神聖軍から降伏と会談の求め
が来る頃だろうから、その場に同席させてほしいと﹂
その大柄の兵士の報告が告げられた瞬間、降伏の報告にやってき
た兵士は驚いた表情を浮かべる。
一方、司令官であるカロウィン本人には驚きはない。短期間では
あるが、彼が共に行動した男であるならば、さもありなんと思って
いたからである。
そして同時にカロウィンは、この連絡に込められた真のメッセー
ジに気がついた。
﹁⋮⋮そうか。いや、つまりはプランYというわけだな﹂
﹁は? Y?﹂
突然カロウィンが口走った内容に、彼の眼前の兵士たちは戸惑い
を見せる。
すると、そんな彼らに気づいたカロウィンは、すぐに苦笑を浮か
1754
べ、そして追加の指示をその場で下した。
﹁いや、なんでもない。こっちの話だ。ともかくイスターツの要請
は了解した。ならば奴の到着に併せて、例のユダナとの会談をセッ
ティングしろ﹂
﹁よろしいのですか? 彼はあくまで我が軍への助っ人。そのよう
な交渉の場に同席させるのは些か⋮⋮﹂
その功績と実力は理解していたものの、今回の会談がデリーケー
トなものであるが故に、降伏の連絡を持ってきた兵士は僅かな懸念
を示す。
しかしながらそんな彼の発言を、カロウィンは笑い飛ばしてみせ
た。
﹁違う違う、あいつは政治的な目的で動いているわけじゃないさ。
むしろ嫌がるタイプだからな﹂
﹁では、なぜ?﹂
﹁あいつに言わせれば、たぶん時計の針を早めるためってとこだろ
う。何れにせよだ、俺の最後の仕事だから好きにさせてもらう﹂
それだけを口にすると、カロウィンは右の口角を僅かに吊り上げ
てみせる。
一方、そんな彼の発言を聞いた大柄な兵士は、慌てて言葉を挟ん
だ。
﹁お、お待ち下さい。最後の仕事とはどういうことですか?﹂
﹁あん? それは決まってる。あそこで派手に壊したものの責任を
取るから最後なのさ。何かやらかした時に、責任者は部下ではなく
自分の首を差し出すためにいるわけだからな﹂
1755
﹁いやぁ、まさか今回のキスレチン軍の司令官と、更には西方の英
雄に同時にお目にかかることができるとは、思いもしておりません
でした﹂
カロウィンの指揮する陣内へと単独で足を運んできたガリガリの
男は、眼前の二人の男を交互に見た後に、頭を下げながらそう口に
する。
一方、今回の場の責任者であるカロウィンは、その発言にさした
る興味も見せず、淡々とその口を開いた。
﹁今回は事が事だけにな。で、何か持ってきているみたいだが、そ
いつは何かな?﹂
ユダナと名乗る男の真隣に置かれた三つの木箱をその目にして、
カロウィンはほんの少しだけ苦い口調でそう問いかける。
するとユダナは、すぐにその箱を自らの前へと動かしてみせた。
﹁我らが将の首にございます。将からはこう言われておりました。
自らたちの首をもって、この度の幕引きとさせて欲しいと﹂
﹁少し確認させてもらいますね﹂
カロウィンの隣に立っていた黒髪の男は、そう口にするなり彼の
背後に控えていた二人の兵士へと指示を与える。
それを受けて顔まで大型のヘルムによって覆った男たちは、ゆっ
くりとユダナの持参した木箱へと歩み寄る。そして、わずかにヘル
ムをずらした後に、その中身を確認しユイに向かって一つ頷いた。
﹁我々の誰もがご本人を見た事ありませんので確証はありませんが、
どうやら本物のようですね﹂
﹁こんな時に嘘をつきましても何にもなりませんので﹂
1756
ユイの言葉に対し、すぐさまユダナはそう言葉を返す。
﹁で、トルメニアとしては今回の負けの落とし所をどうするつもり
だ﹂
﹁いきなりですな﹂
﹁ああ、俺もこいつも忙しいのでね﹂
ユイを右の親指で指し示しながら、カロウィンは単刀直入に答え
を求める。
そんな彼に向かい、ユダナはほんの僅かに口元を歪め、そしてカ
ロウィンにとって予想通りの回答を口にした。
﹁それはそれは⋮⋮いずれにせよ、細かい交渉事は本国の意向を確
認せねば即答できかねます﹂
﹁だとしたら、この会談自体が無意味ということになるな﹂
﹁そんなことはございません﹂
それは明らかに力強い言葉であった。
だからこそ、カロウィンは眉間にしわを寄せながらその理由を求
める。
﹁ほう? なぜだ﹂
﹁決まっております。この会談の席につくことこそが、この度の戦
いの私達の目的だったからです﹂
意味ありげにそう口にすると、ユダナはくぐもった笑い声を上げ
る。
﹁言葉の意味がわからんな﹂
﹁でしょうね。あなた方の価値観で言えば︱︱﹂
﹁違う違う、そういう意味じゃない。わからんのは貴様の物言いだ
よ﹂
ユダナの言葉を遮る形で、カロウィンは苦笑を浮かべながら自ら
1757
の発言を補足してみせる。
一方、そんな彼の言い回しに、先程まで小馬鹿にした笑みを浮か
べていたユダナは僅かに眉間に皺を寄せた。
﹁は?﹂
﹁つまり言葉は正確に使えということさ。私たちの目的ではなく、
総主教派の目的はだろ?﹂
﹁な、それは!?﹂
予想外の事実を突きつけられ、ユダナは思わず後ずさる。
するとそんな彼に向かい、カロウィンの隣にたっていた黒髪の男
が、更なる訂正をその口にした。
﹁ああ、ちょっと待ってカロウィン君。それもちょっと違う。より
正確に言えば、総主教派ではなく君たち修正者の目的。つまりそう
いうことだろ、ユダナ君﹂
﹁⋮⋮貴様!﹂
修正者という単語が紡がれた瞬間、ユダナの表情は大きく歪む。
一方、そんな彼の表情を目にしたユイは、軽く肩をすくめてみせ
た。
﹁顔は言葉より正直なものだね。というわけで、君たちの希望を叶
えるためにこの場をセッティングさせてもらった。君たちの降伏も
受け入れるし、君の願いも叶える。ここまでしたわけだから、お礼
はそれ相応のものでお願いしたいな﹂
﹁どこまでも人を食ったような言い回しをするな、調停者。だがこ
れで手間は省けた﹂
先程までのすました表情を一変させ、苛立ちを露わにするユダナ。
そんな彼に向かいユイは、敢えてニコリと微笑んでみせた。
﹁うんうん、お互い様にね﹂
1758
﹁⋮⋮そんな顔ができるのも今のうちだけだ。俺たちをウイッラと
同じだと思うなよ。ここで貴様は死ぬ﹂
﹁どうやってかな? 見たところ君は一人だし、カロウィンにも僕
にも護衛がついている。更に陣の外には無数にね﹂
ユイはそう口にすると、わざとらしく周囲を見回してみせる。
それに対しユダナは、まったく動揺した素振りを見せず、むしろ
敢えて見下した笑みを浮かべてみせた。
truth
hide
me
in︱︱﹂
﹁ただの護衛如き幾らいようと関係ないさ。こうするのでな。Th
e
﹁ホワールウインド!﹂
ユダナがある呪文を唱えかかった瞬間、それを上回る速度で一つ
の魔法が解き放たれる。
その瞬間、ユダナは慌てて側方へ回避すると、魔法を唱えたユイ
の背後に立つ護衛の兵士を睨みつけた。
﹁不意打ちとは卑怯な。だが今のを外した以上、お前たちは終わり
だ﹂
﹁さて、それはどうでしょう﹂
その冷たい声はユダナの背後から発せられた。
同時にユダナは理解する。彼の首元に冷たい刃があてられている
ということを。
﹁馬鹿な。あの一瞬で⋮⋮﹂
﹁以前に一度ばかりあなた達の芸は見せてもらったものでして。さ
すがに二度も同じ目にはあいかねます﹂
ユダナの背後をとった兵士はそう口にすると、顔をすっぽりと覆
っていたヘルムを空いた手で外す。
﹁赤い髪⋮⋮まさかクラリスのアレックス・ヒューズか!?﹂
1759
﹁ご名答と言いたいところですが、残念ながら外れです。現在の僕
はクラリスの陸軍省次官ではなく、ただの一兵卒ということになっ
ています。お間違えの無いように﹂
そこまで口にすると、アレックスはニコリと微笑む。
そしてそんな彼の発言に続く形で、先程の魔法を放った兵士も、
そのヘルムを取り銀髪の髪を露わにした。
﹁勝負はついた。貴様がコードの中に潜ろうとするなら、その前に
その首は世界と分離する。もっとも悪あがきとして魔法を向けてき
てもいいぞ。この俺の魔法障壁を破る自信があるのならな﹂
﹁ユダナ君。君たちが得意とする工作は、残念ながら未然に防げば、
何一つ意味をなさない。まさかこの方法が最も効率が良いと思って
たなんてそんなわけがないよね? だとしたら、君たち修正者はす
でに劣化コピー品ばかりなんだろうね﹂
﹁イスターツ!!!﹂
リュートに続く形で発せられたユイの言葉に、ユダナはただただ
怒りの声を発する。
そんな彼を冷めた目で見ながら、ユイの視線は既に残る戦場へと
向けられていた。
﹁何れにせよチェックメイトさ。まだケティスくんの方は時間がか
かりそうだから、それまでに色々と歌ってもらうよ。君がまだ、こ
の世界に未練があるのなら⋮⋮ね﹂
1760
隠れ蓑
静かになった陣内。
既に悪意を放つ男の姿はない。
それどころか彼への尋問のため、陣内の兵士はその殆どが姿を消
していた。
その場に残されたのはたった四名。
黒髪の男と彼の護衛を自称する二人の男、更にこのキスレチン軍
の責任者だけであった。
﹁まったく、面倒事ばかり増やしやがって。事前に話を聞いていな
ければ、正直頭を抱えていたぞ﹂
手近な簡易椅子に腰掛けながら、壮年の男はそう吐き出す。
一方、その言葉を向けられた黒髪の男は、そんな彼の言葉にまっ
たく気にする素振りを見せなかった。
﹁そうですか? どうせ首を差し出すつもりだったなら、特に気に
もしてなかったんじゃないですか?﹂
﹁そんな訳はないさ。これでも責任感あるこの国の軍人なものでね。
そちらに居られる某国の親衛隊長や陸軍省次官ならおわかりいただ
けると思うが﹂
カロウィンはそう口にすると、顔を覆い隠すヘルムを脱ぎ去った
二人の自称護衛兵へと視線を向ける。
﹁はてさて誰のことを言っておられるのやら。今の僕と彼は、こち
らのレムリアック伯付きの一介の護衛兵に過ぎませんので﹂
﹁はぁ、クラリスの連中はどいつもこいつも⋮⋮﹂
1761
赤髪の男の返答を耳にした瞬間、カロウィンは深い溜め息を吐き
出す。
だがそんな彼のボヤキに近い言葉に対し、銀髪の男性はすぐさま
抗議の言葉を放った。
﹁こいつと一緒にしないでくれ。私はただ押し付けられているだけ
なのでな﹂
﹁そのわりには、一番に彼の護衛を引き受けたのは君だったと思う
けど?﹂
﹁こいつを野放しにできると思うか? お目付け役が必要なのは当
然のことだ﹂
横から入れられたアレックスの茶々に対し、リュートは眉間にし
わを寄せながら全く迷うことなくそう言い切る。
途端、ユイの口からは深い溜め息が吐き出された。
﹁お目付け役って⋮⋮子供じゃあるまいしさ﹂
﹁おやおや、自分が子供じゃなかったつもりなのかい?﹂
間髪入れず発せられたアレックスのその言葉に、ユイはさらに溜
め息を重ねる。
そんな彼らのやり取りを目にしていたカロウィンは、口元を僅か
に歪めると、嬉しそうにその口を開いた。
﹁ふむ、やっぱりお前の周りのやつはそう認識しているわけだ﹂
﹁勘弁してくれないかな。これでも今回は、それなりに勤勉に働い
たつもりなんだからさ﹂
いつの間にか三対一の状況になりつつあることに、ユイはそう述
べると軽く肩をすくめてみせた。
﹁勤勉ね⋮⋮まあそこは認めるとしようかな。で、ユイ。これから
どうするつもりだい?﹂
1762
いつもの笑みを浮かべながら、アレックスは話を本題に向けよう
とそう問いかける。
すると、ユイは軽く顎に手を当てたあと、極めて妥当な回答を口
にした。
﹁そうだね。そちらの司令官さんと相談は必要だけど、ケティス君
達の方が制圧し終われば一度ミラニールに帰り、その後にトルメニ
アと本格的に交渉する形かな﹂
﹁連中の司令部は既になく、代理もあのざまだ。となれば、奴らの
本国からコンタクトを待つのが正解か﹂
ユイの回答を受けて、リュートも納得すると彼なりの見解を示す。
それをユイもすぐに首を縦に振って肯定してみせた。
﹁ああ。こちらからわざわざ慌ててあげる必要はない。彼らの出方
を見るためにも、とりあえずしばらくはのんびりしたいところさ。
そうだね、いっそこの機会にキスレチンの保養地にでも︱︱﹂
﹁大変です! て、敵が、ケティスたちが!﹂
ユイの描いた自身の甘い夢は、突然陣内へと飛び込んできたカロ
ウィンの副官によってその言葉を遮られる。
一方、副官が口にしたその人名故に、カロウィンは途端に険しい
表情を浮かべた。
﹁ケティスの奴がどうした?﹂
﹁包囲網を突破され⋮⋮逃げられました﹂
﹁すいません、先輩。してやられました﹂
1763
うなだれる金髪の青年。
その彼に向かい、誰が口火を切るか男たちは互いに視線を向け合
う。
当然のことながら、結果として一人の黒髪の男に視線が集まる結
果となった。
﹁えっと⋮⋮何があったんだい?﹂
﹁彼らの兵器を⋮⋮いえ、彼らの力を甘く見ていまして﹂
﹁兵器というと例の鉄砲のことかな。いや、別に君を糾弾するつも
りはないけど、それを扱う彼らの力は予め織り込み済みだったんじ
ゃないかな﹂
エインスの回答を受け、アレックスはやや淡々とした口調でそう
問いただす。
すると、エインスは額にその手を当てながら、苦い口調で説明を
口にした。
﹁ええ、僕もそう考えていました。魔法の様な威力はなくとも、魔
力が必要なく油断ならぬ兵器を彼らは扱う。それ故に、彼ら一人一
人を一流の魔法士と同等と見なして包囲を敷いていたつもりだった
んです。でも、そんな彼らの中に異様な連中がおりまして﹂
﹁異様な連中?﹂
エインスの言葉に、ユイは眉間にしわそ寄せながらそう問いかけ
る。
すると、すぐにエインスは首を縦に振った。
﹁はい。戦場にも関わらず異様なまでに軽装な衣服を身にまとい⋮
⋮そう、頭にターバンを巻き、見慣れぬ衣服に身を包んだ彼らが突
然包囲網の一郭に姿を表したのです。それで⋮⋮﹂
﹁エインス大臣。そこからは僕が説明するよ﹂
言葉を言いよどんでいたエインスに向かい、突然彼らの視界の外
1764
から、別の人物の声が掛けられる。
途端に視線を動かした彼らは、そこにやや痩せ気味の一人の壮年
の姿を目にした。
﹁ソラネント、戻ってきたのか﹂
﹁残念がら、包囲網を破られましたので⋮⋮と言っても、逃げられ
たのは連中の一部の部隊だけです。残りの兵士は指揮官を失い、先
程降伏に追い込みましたよ﹂
南部方面軍を実質的に指揮していたソラネントは、カロウィンに
向かいそう報告を行う。
一方、そんな彼に向かい、ユイはすぐに最も気になることを問い
ただした。
﹁ソラネントさん。今言われた一部の部隊というのが、その異様な
衣服の連中なのですか?﹂
﹁ええ。クレメア教団総主教直属の銃騎馬隊、通称ドラグーン。今
回の南部戦線に於ける彼らの切り札です﹂
やや憎々しげな表情を浮かべながら、ソラネントはその存在を告
げる。
すると、カロウィンは怪訝そうな表情を浮かべた。
﹁ドラグーン? 何度か南部戦線で姿を表していたと聞いていたが﹂
﹁開戦当初は戦場でも何度か見かけました。ええ、その時点で警戒
すべき対象だとは思っていたのです。あの銃という兵器も厄介でし
たし、騎馬兵ゆえの行動の迅速さも厄介でしたから。しかしまさか
⋮⋮﹂
﹁まさか? えっと、ソラネントさん。彼らが厄介なことは以前か
らわかっていたのですよね。当然、織り込み済みだったのでは?﹂
その場に立ち尽くしたままのソラネントに向かい、アレックスは
そう尋ねる。
1765
それに対しエインスが、苦悩の表情のまま代わりに返答した。
﹁予想外⋮⋮いえ、完全に想定外だったのです。彼らはただ練度の
高い鉄砲騎馬だと思っていました。ですが、魔法士なのです﹂
﹁何だと! そんな馬鹿な。トルメニアの⋮⋮いや、クレメア教徒
が魔法を扱うなどあり得るわけがない!﹂
魔法排斥こそその教理の柱。
そのことはこの場にいるものだけではなく、西方に住む誰もが知
る事実であった。
だからこそ、その場にいたほとんどの面々は何かの間違いではな
いかと考える。
しかしながら、そんな彼らに向かいソラネントは彼らが直面した
事実をゆっくりとその口にした。
﹁ですが、実際に彼らの見たこともない魔法により、我が軍の包囲
網は一瞬で亀裂が生まれ⋮⋮そして簡単に突破されたのです。そう、
あのケティスを連れて﹂
1766
正すべきもの
キスレチン南部の街道を全速力でかけ続ける者たち。
その姿は明らかに敗軍のそれではなかった。
兵士一人一人の表情に一切の動揺はなく、それどころかまるで凍
りついたかのように、そこから一切の感情を読み取ることはできな
い。
しかしながら集団の中には例外も存在した。
部隊の実質的な指揮をとる若い男と、敗軍の指揮者であったはず
の男。
もっともそんな彼らの表情は、明らかに全く異なっていたが。
﹁まさか総主教猊下の懐刀たちが、尽く魔法士だったとはな﹂
疲れた表情を浮かべたままのケティスは、溜め息とともに隣の男
に向けてそう呟く。
北上を始める直前になって、ドラグーンの責任者として突然姿を
現した青年。彼はその言葉を受け、敢えて軽い笑い声をあげてみせ
た。
﹁おや、ドラグーンの本質に関して、あなたはとっくにご存知だっ
たと思っていましたが﹂
﹁そうであれば、色々と説明のつきやすいことは多々あった⋮⋮が、
正直それを信じたくはなかったものでな﹂
やや棘のある口調のまま、ケティスは隣の青年に向かいそう告げ
る。
途端、さらなる小馬鹿にした笑いが周囲に響いた。
1767
﹁現実主義者のケティス枢機卿が、自分の見たいものだけを見られ
ていた? はは、それこそありえないでしょう﹂
﹁ふん⋮⋮で、いつの間にかドラグーンを取り仕切っている貴公は
何者だ?﹂
南部で武装蜂起するにあたり、枢機卿から送り込まれたドラグー
ン達。
その指揮を取っていた男は、ランティスと名乗る壮年の武人であ
った。
しかしながら包囲網を突破する際より、明らかに部隊指揮は彼で
はなく眼前の青年が取るようになっていた。
そう、ケティスにとって見覚えのない蒼髪の青年が。
﹁ああ、これは失礼を。少し野暮用にてある方の護衛をしておりま
したので、ランティスに隊長職を任せておりました。総主教猊下直
属であるドラグーンの長、エミオル・フレッサンドにございます﹂
﹁知らん名だな⋮⋮いや、魔法士であるならば妥当だろうが﹂
魔法排斥を掲げるクレメア教団において、魔法士の存在を表に出
すのはタブーと言えた。
だからこそ、枢機卿とは言え外様扱いの自分が知らないのもやむ
を得ないとケティスは考える。
しかしながらエミオルと名乗った青年は、小馬鹿にした笑みを浮
かべたまま、ケティスの発言をあっさりと否定してみせた。
﹁冗談はやめてほしいですね。彼らはともかく、この僕は違います。
魔法士などという汚らわしいものとは決して一緒にされないようご
注意ください﹂
目の前の人物がケティスであることを知りながらも、そして魔法
士の部下たちの前でありながらも、エミオルは一切躊躇することな
1768
くそう言い放つ。
それを受けて他の兵士たちにかけらも動揺が走らなかったことを
受け、ケティスはそこに全ての事情を察してみせた。
﹁なるほど。貴様も修正者というわけか﹂
﹁ふふ、ご想像にお任せします。はぐれ修正者のケティスさん﹂
意味ありげな表情を浮かべながら、エミオルはそれだけを口にす
る。
一方、そんな彼の発言を目にして、ケティスは苦々しげな表情を
浮かべた。
﹁私のことはどうとでも言えばいい。それよりも言外に認めたわけ
だな﹂
﹁だからそのあたりはご想像におまかせしますって。とりあえず、
それよりも大事なことをお伝えしたく﹂
﹁大事なこと?﹂
﹁ええ。現時点をもって、貴方はこの私の指揮下に入って頂きたく
⋮⋮ご同意頂けますでしょうか?﹂
表向きは探り探りと言った口調ながらも、その表情は満面の笑み
が浮かべられていた。
だからこそ、ケティスはその意味するところを彼なりに理解する。
﹁⋮⋮それは脅しかね?﹂
﹁まさかまさか。枢機卿相手に脅しなんてとんでも無い話です。こ
れはあくまでただのお願いですよ。もっとも従って頂けなければ、
ちょっとお願いの仕方を変えければならないでしょうが﹂
一切変わらぬ笑みを浮かべながら、エミオルは当たり前のように
ケティスに向かってそう告げる。
途端、ケティスの口からは深い溜め息が吐き出された。
1769
﹁はぁ⋮⋮そういうのを脅しというのだよ。何れにせよ私は多くの
信徒を失った敗北者だ。君の指示に従おう﹂
﹁それは実に素晴らしい。では、急ぐとしましょうか。ナポライに
は既に貴方を待つ船が到着しているはずですので﹂
﹁なんだと、もう一度言ってみろ﹂
﹁はい⋮⋮キスレチンへと侵攻した我らが神聖軍は壊滅。枢機卿以
下司祭は全て死亡し、そして助祭であったユダナは敵に拘束された
とのことです﹂
枢機卿会の中でも武闘派で知られるクレメンス枢機卿の怒声に、
報告者であるトルティナ司祭は震える声で手元の報告書を読み上げ
ていく。
途端、クレメンスの両拳がテーブルへと叩きつけられた。
﹁馬鹿な! 敵は後退し、首都ミラニールへ逃げ込もうとしていた
のではなかったのか﹂
﹁いえ、それはどうやら奴らの擬態だった模様。敵は撤退の演技を
行なった上、集合魔法を我らに向け︱︱﹂
﹁集合魔法だと!﹂
次に司祭の声を遮ったのはパンポリーネ枢機卿であった。
普段は温厚なパンポリーネのその言葉に、トルティナ司祭は再び
声を震わせる。
しかし彼は自らの役目を放棄することはなかった。
﹁は、はい。間違いなく集合魔法です。敵の集合魔法により我が軍
は混乱に陥り敗北。おそらく帝国からの協力があったと思われます﹂
1770
﹁奴らは犬猿の仲だったはずだ。それがなぜ⋮⋮﹂
いまだに信じられないと言った表情のパンポリーネは、首を左右
に振りながら弱々しい声でそう口にする。
すると、それまで沈黙を保っていた白髪の初老の男が、彼に向か
ってその口を開いた。
﹁パンポリーネ枢機卿。西方会議に帝国の皇太子が姿を現していた
のはすでに聴いているはずだ。最低の結果ではあるが、驚くべきこ
とではないだろう﹂
﹁よく落ち着いていられるな、イエール。我が軍が破れ、敵の背後
に帝国の影まであるのだぞ﹂
﹁クレメンス、落ち着いてなどはいないさ﹂
そう口にすると、イエール枢機卿は自らの手のひらをクレメンス
へと見せる。
そこでクレメンスが目にしたものは、爪が食い込み変色している
イエールの手のひらだった。
﹁む、むう⋮⋮﹂
﹁ともあれだ、早急に次の手を打たねばならん。このままではキス
レチンの奴らが余勢を駆って我が国へ乗り込んで来かねんからな﹂
クレメンスの沈黙を契機に、会話の主導権を取ったイエールは、
枢機卿会に集う一同に向かってそう告げる。
だがそんな彼に向かい、思わぬ意見を口にする者が存在した。
そう、この枢機卿会において最年長に当たるベルクである。
﹁ああ。だがその前にだ、今回の戦いの責をどう取るかを考えるべ
きだろうて﹂
﹁そんなことを言っている場合ですか﹂
ベルクの言葉に、クレメンスはすぐさま反発を示す。
しかしながら逸る彼に向かい、ベルクはゆっくりと首を左右に振
1771
ってみせた。
﹁いや、やっている場合だ。現状ではまとまるものもまとまらん。
我らが二つに割れている間はな﹂
﹁二つに⋮⋮ま、まさか、やるつもりですか?﹂
ベルクの意味するところを理解したイエールは、思わず頬を引き
つらせる。
しかしそんな彼に向かい、ベルクははっきりとその意図するとこ
ろを口にした。
﹁今を置いて他にはないかろう。幸いなことに、猊下が懐刀まで送
り込んだ南部方面軍もまとめて敗退したのだろ? ならば、その責
を迫る形を取ればよかろう﹂
﹁やむを得ん⋮⋮ですな﹂
ベルクの発言にクレメンスは苦い表情を浮かべつつも一つ頷く。
そしてそれに続くよう、その場に居合わせた枢機卿たちは次々と
同意を示していった。
そうして、場の同意を得たベルクは一同を見回した後にその口を
開く。
﹁ならば早速、銃士隊に連絡を取り、首都アンクワット全域に戒厳
令を︱︱﹂
﹁どうも、こんばんは﹂
場にそぐわぬあまりに明るい声。
それを耳にした者は、一斉に突然開け放たれた入り口の扉へと視
線を向ける。
彼らの視線の先に存在したもの。
それは華奢な銀髪の美少年の姿であった。
1772
﹁クリストファー枢機卿!? な、なぜここに﹂
﹁いえ、エレンプトでの雑事が終わりましたので、先ほど帰国した
ところだったのですよ。そうしたら、何やら緊急の枢機卿会が開か
れているというじゃないですか﹂
銀髪の少年ゼス・クリストファー枢機卿は、パンポリーネ枢機卿
の問いかけに対しなんでもないことのように笑いながらそう答える。
そして場の誰もがお互いの顔を見つめあい戸惑っていることを確
認すると、右の口角を吊り上げながら再びその口を開いた。
﹁おや? もしかして枢機卿会にも関わらず、この僕が顔を出して
は何か都合が悪かったのですか?﹂
﹁い、いや⋮⋮そんなことはない﹂
﹁いや、問題はある﹂
パンポリーネと百八十度異なる回答。
それを口にしたのは、その場を立ち上がったクレメンス枢機卿で
あった。
﹁ほう、何でしょうか。お伺いしましょう﹂
﹁この国の一大事の折に、枢機卿会に断りなく他国に行っていたと
いうこと。それが問題以外の何ものでもないだろう、違うか?﹂
﹁はは、確かに。でもクレメンス枢機卿、私のエレンプト行きは総
主教猊下のご許可の元ですよ﹂
クレメンスの追求に対し軽くほほ笑みを浮かべたまま、ゼスは堂
々と自らの主張を行う。
しかしそんな彼の発言を、クレメンスはすぐに問題視した。
﹁猊下のご許可があることは知っている。だが他国へ向かう際は、
必ず枢機卿会へ報告義務があったはずだ﹂
﹁ああ、そういえばそんなものもありましたね﹂
﹁ありましたねだと? ふざけるな。如何に猊下の推挙とは言え、
1773
貴様のような無責任なガキに枢機卿を務めることは不可能だ﹂
クレメンスは怒りを募らせると、右拳をテーブルに叩きつける。
空間にその音が響き渡った瞬間、場の空気は一瞬で静まり返った。
そして、まさにそのタイミングを見計らっていたかのように、最
年長の老人がゆっくりとその口を開く。
﹁然り。申し訳ないがクリストファーくん、今回のキスレチンとの
戦いへの敗北の責も合わせ、この場にて君の枢機卿解任決議を行わ
せてもらおうかの﹂
﹁おやおや、いくらなんでもそれは苦しいでしょう﹂
﹁ふふ、正確な罪状など後でいくらでも訂正しておこう。君が心配
する必要なども無いようにな﹂
それはつまりお前はこの場にいる資格はないという、はっきりと
した宣告であった。
一方、ゼスは軽く肩をすくめてみせると、先程まで以上に口元を
いやらしく歪めてみせた。
﹁なるほど、結論ありきというわけですか。だとしたら、この僕も
良心の呵責を覚えずにすみそうですね﹂
﹁良心の呵責だと?﹂
ゼスの口にした言葉の意味がわからなかったクレメンスは、眉間
にしわを寄せながらそう問いかける。
それに対し、返された言葉は枢機卿たちがまったく予期せぬもの
であった。
﹁ええ。この場を持って、キスレチンとの戦いにおける責任者の処
罰を執行させていただきます。どうかご容赦のほどを﹂
そう口にするなり、ゼスは自らの入ってきた扉を大きく開けてみ
せる。
1774
途端、頭にターバンを巻き手に銃を手にした男たちが一斉に会議
室内へとなだれ込んできた。
﹁な、ドラグーンだと⋮⋮﹂
﹁ええ、残存していた部隊にご協力頂きました。あ、そうそう。ち
ゃんと正確な罪状は後で訂正しておきます。と言っても、この会合
自体総主教猊下への叛意の表れでしょうから冤罪の心配はいりませ
んね。では失礼﹂
それだけを告げると、ゼスはそのまま部屋の外に向かい歩み出す。
途端、彼に背に向かって慌てたクレメンスの声が発せられた。
﹁ま、待て。こんな一方的な話があるか。話し合いだ、話し合いを
求める﹂
精一杯のクレメンスのその主張。
それに対して返されたものは、無数の銃声であった。
激しい発砲音が響き渡り、そして一瞬の間の後に会議室から発せ
られる音は消失する。
ゼスがその場で生じた結果を確認することは無かった。
彼はそのまま、無人の廊下をゆっくりと歩んでいくと、虚空に向
かい呟く。
﹁介入しすぎてはいけないという気遣いが、彼らにとっては仇とな
ったかな。とはいえ、あるべき未来を切り開くのは彼らの役割。に
も関わらず、彼らはどうしてこうも愚かなのだろうね﹂
1775
パレードの傍らで
首都ミラニール。
この日、この街を包むのは人々の歓喜の声であった。
なぜならば彼らを、そして国を守った兵士たちが、この首都へと
凱旋する日であったからだ。
ミラニールにおいてクーデターを引き起こし、あまつさえ突然の
領土侵攻を開始したクレメア教団の撃退。
首都決戦さえ囁かれていたこともあり、市民たちの感動と喜びが
街中に溢れかえり、ミラニールはまるでお祭りのような様相を呈し
ていた。
そんな中、いよいよ兵士たちが街へと入ってくると、人という人
が建物の中から飛び出し、彼らの凱旋を歓迎する。
中でも、歓声が一際大きくなったのはこの国ではない者たちが姿
を現したときであった。
隣国であるクラリス王国の中の小規模な一地方領主。
そう、そんな彼が率いていた一団が姿を現したときである。
﹁大したものだ。まさかこの国の兵士たちよりも歓声を浴びるとは
な﹂
自由都市同盟本部の一室から窓の外の光景を眺める、髪を後ろへ
と流した威風溢れる壮年は、隣に立つ黒髪の男に向かってそう口に
する。
それを耳にして、隣の男性は頭を掻きながら苦笑を浮かべた。
1776
﹁はは、クラリスの田舎者がお上りさんで入ってきたわけですから
ね。きっと珍しいものを見る感覚でしょう﹂
﹁ふん、そんなわけがあるか。で、なんで凱旋中のはずのお前がこ
こにいるのかね﹂
元大統領にして自由都市同盟の代表であるフェリアム・グルーゼ
ンパークは、やや苛立たしげにユイへとそう問いかける。
すると、ユイは軽く肩をすくめながらさらりと言い訳を口にした。
﹁私のことを目障りだと思っている人が多いでしょうから、ちょっ
と気を使っただけですよ﹂
﹁目障りと思っているもの⋮⋮か。ふん、これを見てみろ﹂
そう口にしたフェリアムは、机の上に置かれていた一枚の紙を彼
へと見せつける。
それを目にした瞬間、ユイは眉間にしわを寄せ、低い声でフェリ
アムへと問いかけた。
﹁⋮⋮なんですか、これは﹂
﹁政府による調査結果だよ。そして最も大きい数字は貴様の支持率
だ。良かったな、この俺を抜いて大統領候補筆頭だ﹂
フェリアムの言葉を受け、ユイはその内容へと目を通していく。
すると確かにそこには、市民調査の結果として次期国家元首として
最も支持されている者の名としてユイ・イスターツの名が記されて
いた。
﹁はぁ⋮⋮私は他国の人間なんですがね。と言うかそもそも、なぜ
私が調査対象となっているんですか﹂
﹁西方会議と今回の戦い。二度もこの国を救った張本人だ。流石に
調査対象に加えたのは国務省の担当者の独断だろうが、いずれにせ
よ俺から見れば妥当な結果とは思っている﹂
1777
﹁だからこそ、余計に政治屋の皆様には嫌われていそうな気がしま
すがね﹂
二度に渡ってこの国の危機を救ったことは確かに事実ではあった。
しかしながら、自分自身は王政で育った人間であり更に当然のこ
とながら被選挙権も存在しない。
だからこそ、彼にとって何の意味もないこんな調査結果は、やっ
かみを買うだけで彼にとって全くもって望ましいものではなかった。
﹁まあ貴様を引き込めば十年は政権は安泰だからな。少なくとも次
のこの国の頂点を目指すものたちは、本気でお前を取り込みたいと
思っているだろうよ﹂
﹁頂点を目指すものねぇ。それはあなたもですか?﹂
﹁ふん、誰が貴様みたいな詐欺商人を政府に取り込むか﹂
軽く鼻で笑い、フェリアムはユイの問いかけを軽く一蹴する。そ
して彼は再び外の凱旋パレードへと視線を向けると、仮面を付けた
一人の青年が最大の歓声を浴びながら、市民たちに向かい手を振り
ながらゆっくりと馬を進めているところであった。
﹁以前連れてきた少年か⋮⋮かわいそうに手が震えているぞ﹂
﹁はは、大丈夫です。おつきの二人はしっかりしていますから﹂
ユイは苦笑を浮かべながら、両脇を固める赤と銀の髪の男たちを
視界に収める。
そして彼らが窓から覗く視界の中から過ぎ去ったところで、フェ
リアムは改めてユイへと疑問を投げかけた。
﹁それで凱旋までサボって私のところまできた狙いはなんだ?﹂
﹁悲しく、そして望ましくないことですが、たぶん今晩から私は身
動きが取れません。ですので、今のうちにこれをあなたへと渡して
おきたかったのですよ﹂
この国の現政権とクラリスの代表達によって作られた過密という
1778
次元ではない予定表。
それを思いげっそりした表情を浮かべながら、ユイは懐から紙の
束を取り出すとそのままフェリアムへと手渡す。
﹁何だこれは?﹂
﹁残念ながら、貴方の支持率の調査では無いです。ですが、今後貴
方と私にとって必要となるものかと﹂
意味ありげな笑みを浮かべながらユイはそう告げた。
一方、訝しげな表情を浮かべたフェリアムはゆっくりと視線を紙
の束へと落とす。そしてほぼ同時に、その頬を引きつらせた。
﹁⋮⋮俺は野党の党首だということを理解しているか?﹂
﹁ええ、もちろんです。同時に、レームダックとなった現代理政権
と異なり、唯一話が通じる交渉相手ということも﹂
フェリアムの問いかけに対し、ユイはあっさりとした口調でそう
告げる。
途端、フェリアムは深い溜め息を吐き出すと、小さく首を縦に振
った。
﹁いいだろう。トルメニアとの和平交渉のためにお前が作ったこの
仮案、参考にはさせてもらう。あくまで参考にな﹂
﹁もちろん参考で結構です。押し付ける権利なんて、この国の民で
はない私にはありませんから﹂
軽く肩をすくめながら、ユイはそう答える。
それに対し、フェリアムは軽く鼻息を立てると、ユイに向かい一
つの問いを発した。
﹁ふん⋮⋮で、お前はこのあとどうするつもりだ?﹂
﹁どうすると言われましてもね。基本的にそれはトルメニアに聞い
て下さい。私の手元には何らの選択肢もありませんので﹂
1779
﹁そんな先のことではない、凱旋パレードを抜け出してきた英雄は、
このあとどうするつもりだと聞いているんだ﹂
この場所を出たあと、彼がどのように動くのか気になったフェリ
アムは改めてユイへと問い直す。
すると、ユイは軽く顎に手を当てながら苦笑い混じりに答えた。
﹁現代理政権主催の夜のパーティは流石にフェルムくんに押し付け
られませんからね、それには出ますよ。ただその前に、ちょっと捕
虜と会ってこようかとは思っています﹂
﹁噂の魔法ではない魔法を扱うとされるトルメニアの助祭だな﹂
﹁魔法ではない魔法ですか。ふむ、確かにそんなところですかね﹂
フェリアムの口にした言葉に対し、ユイはわずかに言葉を濁しな
がらそこで口を閉じる。
だがそんな彼に向かい、フェリアムはさらなる問いかけを重ねた。
﹁それであいつみたいな⋮⋮いや、お前みたいなやつがあの国には
他にもいそうなのか?﹂
﹁カマをかけようとされているのはわかりますが、残念ながら外れ
ですよ。彼と私が扱っているものは違います﹂
﹁本当か?﹂
﹁ええ、本当です。むしろこの上なく相性が悪いと思っていただけ
れば良いかと﹂
ゆっくりと頭を掻きながら、ユイはフェリアムに向かってそう答
える。
一方、その回答を受けてフェリアムは、あえて質問の切り口を変
えてみせた。
﹁ふむ⋮⋮で、他にいるかどうかに関してはどうなのだ﹂
﹁おそらくいるでしょうね、少なくとも二人以上は。それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
1780
言いよどんだユイに対し、先を促すようにフェリアムはそう問い
かける。
だがユイは首を軽く左右に振ると、それ以上の言及を避けた。
﹁いえ、仮説の域を超えませんので、また確信が持てたらお話しま
すよ﹂
﹁ふん、まあ良い。今は我慢してやる﹂
﹁納得してくれたわけじゃないんですね、まったく﹂
そう口にしたユイは、頭を掻きながら踵を返す。
そして彼が扉に向かって歩みかけたところで、背後から小さな声
が発せられた。
﹁イスターツ⋮⋮助かった﹂
﹁いえ、これも仕事のうちでしたから﹂
それだけ述べると、ユイはそのまま廊下へと出る。そして後手で
扉を閉めたところで、彼は虚空に向かって呟いた。
﹁いや、仕事ではないな。仕事なら私がするわけがない。あくまで
これは、けじめ⋮⋮だな﹂
1781
修正者
首都ミラニールの一角に存在する小さな窓のない建物。
それはこのキスレチン共和国において表に出せぬ犯罪者を収容す
るための牢獄であった。
そして今、この建物の地下には、たった一人の男だけが捕らえら
れている。
そう、先日の戦いにおいて捕らえられたトルメニアの男が。
一足早
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