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現在に至るまで、 しばしば学校の国語教科書に採録されている

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現在に至るまで、 しばしば学校の国語教科書に採録されている
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︿教科書﹀的規範の機能
ー 井 伏 鱒 二 試 論
はじめにー
︵二︶・﹁遥拝隊長﹂についてー
大 原 祐 治
井伏鱒二の文章は、現在に至るまで、しばしば学校の国語教科書に採録されている。しかし、当の井伏本人が、自らの文章
が教科書に採録されることに伴って生ずる、次のような微妙な違和感について記していることは、今日あまり記憶されていな
いかもしれない。
[:.]終戦後は文部省検定済教科書の種類が増えて来て、ときたま見知らぬ遠方の子供さんから問ひあはせの葉書を貰
ふことがある。しかし、そんなのは別に不快というほどのこともない。このごろの国語教科書には、章の終りごとに﹁研
究の手引﹂または﹁学習の手びき﹂﹁研究﹂﹁問題﹂といふやうな小見出しをつけた余録がある。たいてい四項目か五項目
に分け、﹁この文章の作者は何を云はんとしたか﹂﹁国語の規範に関する著者の見解について述べよ﹂といふやうな問題が
提示されている。無論、それは結構なことかもしれないが、その教科書を習ふ生徒から、その文章の作者へその問題に対
する答案を要求してくるのである。私の以前に書いた短篇も二つ三つの種類の教科書に出てゐるため、遠方の子供さんた
ちから葉書が来る。しかもその大半は、教室で質問に答へる準備のため問ひあはせて来るものと思はれる。平均それには
時期があって四通とか五通とか、たいてい同じ頃に届いて来る。これに対して私は︵私だけでなく誰でもさうだと考へる
ユ が︶返事を出さないことにきめてゐる。
岩波書店の雑誌﹁文学﹂一九五二年八月号の﹁国語教科書の問題と批判﹂と題した特集の中の﹁教科書と私の文章﹂という企
画に応じて書かれた文章である。この特集に掲載されている調査結果によれば、一九五二年度までの高等学校国語教科書︵全
一二種類のべ五二冊︶の中で、井伏の文章を採録しているものは一〇点にのぼる。作品としては、﹁山椒魚﹂が六点、﹁﹁槌ツア﹂
と﹁九郎治ツアン﹂は喧嘩して私は用語について煩悶すること﹂と﹁屋根の上のサワン﹂がそれぞれ二点である。これは、一五
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点の島崎藤村、一四点の夏目漱石、=二点の志賀直哉、=点の川端康成に次ぐ第五位に相当する︵同じく五位だったのは、他
に阿部次郎、佐藤春夫、清少納言、谷崎潤一郎、寺田寅彦︶。すでに拙稿で論じた施、この三作品のうち、方言と標準語の対立
および学校教育による標準語への一元化という仕掛けを用いて、ある村落におけるちょっとした騒動の顛末を描いた﹁﹁槌ツア﹂
と﹁九郎治ツアン﹂は喧嘩して私は用語について煩悶すること﹂︵﹁若草﹂一九三七・一一︶などは、確かに﹁国語の規範に関す
る著者の見解﹂を読み取るための教材として、戦後の﹁国語﹂教科書に登場させられたと考えられる。しかし、当然のことなが
ら小説本文にわかりやすい形で﹁この文章の作者は何を云はんとしたか﹂というような﹁見解﹂が、明記されているなどという
ことはない。そこで、作者に対して直接ハガキでの問い合わせが舞い込むということになったのだろう。
しかし、﹁返事を出さないことにきめてゐる﹂という井伏は、たかだか四、五通の問い合わせに対して返信を書くことが億劫
でならない、ということを言いたいわけではないだろう。井伏にとって﹁そんなのは別に不快といふほどのこともない﹂。むし
ろ、年若い読者からの声が届くことは、書き手にとって嬉しいことかもしれない。
では、井伏はこのようなエピソードを、何のために紹介するのか。先の引用部分の後で明言されていたのは、﹁国語教科書に
は物故作家の作品を載せるべきだと思ふ﹂という主張であった。つまり、ここで井伏は、﹁教科書﹂という権威を帯びた形で自
分の言葉が読者の下に届き、それが生身の書き手としての自分自身にフィードバックされてしまうという構図に、違和感を表明
しているのである。たとえば教科書の定番教材となっていった﹁山椒魚﹂︵﹁文芸都市﹂一九二九・五︶に対して、晩年になって
こ
物議を醸すような大胆な改稿︵末尾部分の大幅な削除など︶を施したりする井伏にしてみれば、現存している作者としての自分
の与り知らぬところで、自らの文章が勝手に権威づけられてしまうことは、違和感を禁じえない出来事だったのだろう。
夏
ところで、その井伏自身は、この﹁国語読本のこと﹂というエッセイに先立つこと二年、一九五〇年の作品﹁遙拝隊長﹂︵﹁展
望﹂一九五〇・二︶の中に、物語展開上の重要な仕掛けとして、﹁教科書﹂を登場させていた。
テクスト末尾近く、シベリアからの帰還者である与十が、兄・棟次郎ら三人と共に、﹁気違ひ﹂となって先に帰還していた元
陸軍中尉・岡崎悠一の家の前を通りかかると、悠一の母が﹁車井戸で水を汲んでゐた﹂。﹁その釣瓶縄は鉄の鎖で出来てゐ﹂て、
﹁甲高く部落ちゆうに響き渡る﹂音を立てる、というこの箇所で、テクスト内の時間は、悠一の母がこの井戸を﹁改装した﹂時
分へと遡行する。そこに記されていたのは、次のようなエピソードである。
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[:・]いつか村長が、悠一のお袋の前でその音を讃めた。村長が小学校長と同伴で、悠一に受験応募するやうに勧誘に来
た と き の こ と で あ る 。 校 長 も そ の 音 に は 関 心 を 持 つ や う な こ と を 云 つ て ゐ た 。 読 方 の 国 定 教 科 書 にこ
も、鉄の釣瓶縄の音につ
いて美文の一章がある、と校長先生は云つた。若山牧水といふ歌人の書いた名文ださうである。
この末尾部分は、先行研究の中でもしばしば言及されてきた箇所である。最初にこの箇所を問題にした相原和邦は、﹁兵力狩
り集めの実態を﹁模範的な一家﹂という徳目で覆う発想そのもの﹂を描きとってはいるものの、﹁近所ぢゆうに釣瓶の音をきか
せるため、必要以上に水汲みをしていた﹂悠一の母を﹁かなしと見るよりむしろおかしと見る作者の姿勢が目立ち過ぎてはいま
いか﹂と批判的に評し残、その策栗坪良樹はこの箇所を痴呆になった悠一になり代った︿お袋﹀のささやかな抵抗感覚を
フ 表現しているのが面白い﹂と肯定的に評し、佐藤義雄もまた、﹁美文によって事態を曖昧に進行させ、その曖昧さによって責任
の所在を無化してきた彼ら︵引用者注、戦後の場面では描かれることのない小学校長や村長︶﹂を﹁彷彿させる機能を果たして
ぞ いる﹂と論じ、概して肯定的に受け止められているようである。しかし、その後﹁国家という共同体の言説の一角を国定教科書
さ
せ
て
い
る
﹂
︵
河
崎
典
さ
れ
た
こ
と
は
あ
っ
た
も
と い う 形 に 鋭 く 集 約
子 ︶ と い う 見 方 が 提 示
の の、この部分についての言及は概ね
﹁笹山部落での悠︵﹃︶親子の生活が続く限り、.﹂の同じ立・が変わる.﹂となく続いていくだろうと想像させるL罪常に重い余韻を残
す作品﹂︵小菅健一︶という︿鑑賞﹀の水準に落ちついており、そもそも、ここで﹁教科書﹂に採録されているとされる若山牧
水による﹁美文の一章﹂そのものが、実際にはいかなるものであったのか、ということさえ確認された形跡はない。
しかし、この小説の末尾について、否定的にであれ肯定的にであれ、﹁余韻﹂に浸らずに批評的に論じようとするのであれば、
まず必要なのは、ここで話題に上ることになる﹁読方の国定教科書﹂の内容そのものについて確認することであろう。
そもそも、村長と小学校長とが連れだって悠一宅を訪れ、陸軍幼年学校への推薦を口にしたのは、具体的にはいつのことだっ
たのか。このことは、テクスト中の次のような記述から、うかがい知ることができる。
もうそのころは、大陸戦争が拡大して、軍関係の学校は莫大もない数で生徒を入学させてゐた。同じ軍関係の低年者を収
容する学校でも、躍起となって生徒の大量獲得を急いでゐた。軍当局から全国の各市町村長に命令して、学童たちが受験す
るやうに推薦制度で応募させる手段をとつてゐた。悠一もそれに応じた一人である。
﹁大陸戦争﹂すなわち中国との戦争が拡大していたころ、悠一は小学校を卒業し、陸軍幼年学校へと進学している。﹁悠一が小
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学校の高等科を出るころには、お袋の働らきで一家ちよつと息つける程度にまで漕ぎつけた﹂という記述と併せて考えれば、悠
一はおよそ一九三六∼三七年ごろ、すなわち満州事変以後、日中戦争に突入していくという時代状況の中で高等小学校を卒業し、
陸幼に入学したことになる︵このことは、悠一がその後、士官学校を経て、二十二歳で少尉に任官、さらにその三年後に小隊長
ユ
としてマレー戦線に派遣され、負傷によって敗戦前に内地に送還されている、という経緯とも矛盾しない︶。
以上のことから考えれば、悠一宅を訪れた小学校長が口にした﹁読本﹂の内容とは、一九三六年前後のもの、ということにな
るだろう。しかも、﹁若山牧水﹂のような書き手の固有名が登場する読本は、尋常小学校用のものではなく、高等小学校用のも
のである。
この時期に高等小学校で用いられた読本は﹃高等小学読本[一般用]﹄︵第三期、一九二六年使用開始︶、あるいはそのマイナー
チェンジ版︵いくつかの教材を差し替えている︶である﹃高等小学読本 女子用﹄︵一九二六年使用開始︶、﹃農村用高等小学読
本﹄︵一九二八年使用開始︶のいずれかである。悠一の育った環境がいわゆる︿農村﹀であることを勘案すれば、悠一が卒業し
た高等小学校では、これらのうちの﹃農村用﹄が使用されていたのかもしれない。
ヨ
中村紀久二が指摘するように、この教科書は﹁もっぱら農村に教材を求め、農民としての自覚、生活に対する信念.努力、農
によってその精神を暗示することに重点が置かれ﹂た結果、﹁三木露風、与謝野晶子、若山牧水等の現代詩や現代和歌も提示さ
民精神を培うものや、農業の改善、経営の合理化を求める教材が多﹂く、﹁努めて実際的知識教材を避け、主として文学的教材
れ﹂ている︵傍点引用者︶。つまり、小学校長が口にする﹁若山牧水﹂の名は、最も新しく読本に登場することになった文学的
な固有名の一つであり、そのような固有名を持ち出すことによって、悠一の母を﹁見えすいたお世辞﹂で持ち上げ、その息子を
幼年学校へと送りこむことに成功していたことになる。
しかし、実際にこの﹃農村用高等小学読本﹄を確認すると、若山牧水︵若山繁︶の名を見出すことはできても、その牧水によ
る﹁鉄の釣瓶縄についての美文の一章﹂なるものを見出すことはできない。牧水の文章として見出しうるのは、わずかに短歌三
首︵巻四第二十課﹁土の匂﹂に金子薫園、与謝野晶子、前田夕暮の歌と共に収録︶と随筆がひとつ︵巻五第五課﹁海﹂、末尾に
﹁若山繁﹁比叡と熊野﹂二拠ル﹂と注記されている︶だけであり、﹁鉄の釣瓶縄﹂どころか、井戸についての話題さえ記されては
ロ いないのである。つまり、小学校長は、最近になって教科書に登場し、権威が付与されることとなった﹁若山牧水﹂という固有
名を持ち出し、虚偽混じりのお世辞で悠一の母親を持ち上げており、その結果、悠一をめぐる悲劇が引き起こされることとなっ
たのである。
とはいえ、このときの校長のお世辞が全く無根拠のデタラメだったかといえば、若干の留保は必要である。というのも、﹃農
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村用﹄以外のヴァージョンの読本にまで視野を広げるならば、一般用読本の巻四第十四課に収録された﹁賢母の教﹂と題された
一文などは、︿母と井戸﹀という主題を扱ったものとして、校長の﹁お世辞﹂と接点を持ちうるからである。文末に﹁村井寛
﹁近江聖人﹂二拠ル﹂と注記されたこの文範のあらすじは、概ね次のようなものである。
主人公.藤太郎少年は、故あって祖父のもとに預けられ、母とは別れて暮らしていたが、ある冬の日、母に一目会おうと思い
立ち、祖父に無断で雪山を越える。危うく凍死しかかりながら何とか母の暮らす生家にたどりつくと、﹁見れば門は旧によりて
立ちたれども、半ば雨に朽ちて柱も傾き、土塀も崩れたるところあり﹂という状態であった。その門をくぐって中に入ってみる
と、﹁[⋮]勝手の方を見れば、車井戸のきしる音さも寒げに聞えて、何人か水を汲めり。﹂この母の姿に胸がいっぱいになった
藤太郎は、思わず駆け寄って自分が水を汲もうと申し出るが、息子が無断で訪れたことを知った母は、心を鬼にしてコ旦国を
出たからは、りつばな人にならない中は、決して中途で帰るな、とあれ程堅く言聞かせたではないか﹂と突き放す。そして最後、
母子はともに涙を流しながら別れるー。
このような藤太郎母子がいかにも︿教科書﹀的な母子像だとするならば、悠一母子のあり方は、このような母子の物語と道具
立てを共有しつつ、そこから奇妙に逸脱したものだったと言えるだろう。﹁りつば﹂になるために家を出て出稼ぎをしたのは息
子ではなく母の方であるし、その結果、悠一の家の門は﹁雨に朽ちて﹂傾くことはなく、むしろりっぱな﹁コンクリート造の膨
大な門柱﹂に建て替えられる。加えて、﹁車井戸﹂には﹁鉄の釣瓶縄﹂まで取り付けられたのである。
きこゆ﹂という言葉を持ち出していた。村長はこれを﹁めでたいことの意味﹂だと言うのだが、この表現の出典をたどるならば、
さらにこの校長のお世辞に重ねて、村長の方は、﹁釣瓶縄﹂の音を﹁鶴の鳴き声﹂になぞらえ、﹁鶴、九皐に鳴きて、声、天に
そこには﹁めでたい﹂ということ以上の意味がこめられていたと解すべきだろう。
この表現は﹃詩経﹄﹁小雅﹂篇に収められた﹁鶴鳴﹂の詩二篇のうちの後者に由来するが、その内容は﹁民間に居る賢者を挙
げる必要を述べた﹂ものであり、﹁天子が一人聡明であつても、ウツカリすると天子の妨げをするやうな者も出て来るから、余
ほど気髄付けて悪い者を取除き、善い者を挙げ用ひて、所謂賢者を然るべき地位に置くやうに努めなければならぬ﹂とされるも
のである。
つまり、村長は悠一のことを、﹁天子﹂を助ける﹁賢者﹂として、﹁九皐﹂︵折れ曲がった坂道の奥11地方・周縁︶から中央へ
と登用すべきだという、かなり大仰な表現を持ち出して、悠一の母親をおだてていたことになる︵その詩篇の意味を解さないで
あろう悠一の母のことを考えて、内容については﹁めでたい﹂という一言で済ませてはいるが︶。
従って、この﹁門柱﹂と﹁釣瓶縄﹂を話題にして悠一の母をおだて、その息子を陸軍幼年学校に送りこませた小学校長らは、
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︿教科書﹀的な母子像には該当しない悠一親子に対して、わざわざ﹁読方の国定教科書﹂に登録された﹁若山牧水﹂という固有
名や﹃詩経﹄の一節などを持ち出して﹁見えすいたお世辞﹂を述べている点で、かなり悪質な存在だということにもなるだろう。
もっとも、このような悠一母子のありようだけが描かれ、この小説において、この村から出た他の士官や、少なからぬ数に及
んだはずの出征者たちが描かれていないことには、ある種の違和感が伴うのも事実である。一ノ瀬俊也によれば、日中戦争期以
降、︿郷土﹀から戦地に赴く者たちは、︿郷土Vの期待を一身に背負って送り出されたが、その見送りの仕方.慰問文の書き方か
ら戦死を遂げて戻ってきた者の弔い・称揚の仕方にいたるまで、綿密なマニュアル化がなされており、兵士たちは、︿郷土﹀の
側から寄せられる多大な期待に恥じぬよう、型どおりの兵士として戦地に赴き、死んでいったという。しかし、この小説の記述
からは、そのような村11︿郷土﹀の光景がうかがわれない。
とはいえ、考えてみれば、悠一こそはく郷土Vの期待を過大に背負って戦地に赴くことになったという意味では、もっとも象
徴的な人物だったはずである。そして、そうであると同時に、あるいは、そうであるからこそ、悠一とその母親は、︿郷土﹀そ
のものからは、奇妙に浮き上がった存在でもあったのであり、二人が一般的な︿郷土﹀の光景の中で描かれることはない。﹁し
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つかり者の女でも気が上ずつてゐたものだらう﹂と語り手が述べるのは、村長や校長による悪質な﹁お世辞﹂にのせられ、︿郷
土﹀から浮き上がった状態で、しかし︿郷土﹀を代表するものとして、息子・悠一を戦地に送り込むことになった母親の悲劇に
ついての評言なのである。
自らのテクストが国語教科書に採録されることに対して微妙な違和感を表明していた戦後の井伏が作中に配置した︿教科書﹀
という仕掛けに注目しつつ﹁遙拝隊長﹂というテクストを読み返すとき、そこに照らし出される光景は、以上のようなものであ
る。
長︵かつて悠一の従卒を務めていた人物︶から聞かされたエピソード 戦地への輸送船の中で、悠一が﹁笹山童謡﹂という田
この二人を︿帰還者﹀という形で対と見なして論じた鄭實賢は、シベリアから帰還する与十が汽車で乗り合わせ上田五郎元曹
を補助線として読解することで、より立体的に把握することが可能となる。
だけに限定されない。以下に論じるように、この小説に登場するもう一人の帰還者・与十に関わる物語もまた、このく教科書V
しかし、︿教科書Vという仕掛けに注目することで見えてくる問題は、ここまで確認してきた悠一とその母親についての物語
II
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舎の埋謡を歌っていたということーを重視し、﹁帰還者二人の心には[⋮]純粋な心で僅謡を歌っていた幼年時代の村が憧れ
としてあったのかもしれない﹂と述べる髄、実際、﹁奉天﹂への移住者︵与十︶、あるいは陸軍士官︵悠一︶として村を離れた彼
らには、相通ずるメンタリティが存在することは確かだろう。そして、以下で確認していくように、こうした︿帰還者﹀たちの
メンタリティは、村に留まり続けた悠一の兄・棟次郎ほかの村人たちとは共有されない。
ここで捉え返しておきたいのは、そのような認識のズレは何を意味するのか、ということである。それはすなわち、陸軍士官
あるいは海外移住者として戦時中に村を離れていた者︵悠一・与十︶と、村に留まり続けた者︵棟次郎ら︶の問の落差である。
言いかえればそれは、生まれ育った地から遠く離れて︿故郷﹀を思う者と、生まれ育った地を離れることなく、その︿郷土﹀に
生きる者との問に存在する認識の落差である。このような落差は何ゆえに、そしてどのように生ずるのか。 このような問題
を考えるとき、先にも参照した﹃高等小学読本﹄は格好の補助線となる。
すでに確認したように、この読本には一般用︵一九二六年使用開始︶と農村用︵一九二八年使用開始︶が存在し、両者の問で
少なからぬ数の教材が差し替えられている。農村用の教科書を別途編集する意図は﹁もっぱら農村に教材を求め、農民としての
り 自覚、生活に対する信念・努力、農民精神を培うものや、農業の改善、経営の合理化を求める﹂ことにあったとされるが、ここ
で参照しておきたいのは、一般用読本の巻一第三〇課に置かれていた﹁故郷﹂と題する文章と、農村用読本においてこれと差し
替える形で収録されだ﹁郷土﹂と題する文章との間の差違についてである。
一般用読本の﹁故郷﹂の内容は、概ね次のようなものである。1人は故郷を離れると故郷が恋しくなる。それは﹁祖先墳墓
の地にて我が幼時嬉戯せし処﹂ゆえであるが、その﹁故郷﹂なるものは、実は﹁其の範囲一定ならず﹂、村∩郡∩県∩国という
ように下位概念から上位概念に向けて包含されていくのだから、﹁愛郷心﹂は﹁愛国心﹂へとスライド可能だということになる。
﹁故郷を愛する心は、故郷を遠ざかるに随ひて益々深きを加ふるものにして、我が領土を出でて遠く他国に在る時、其の最も強
烈なるを覚ゆべし﹂云々1。
まさしく、陸軍士官として﹁我が領土を出でて遠く他国に在る時﹂、すなわち南方戦線へと向かう﹁輸送船﹂の中で、悠一は
︿故郷﹀の埋謡である﹁笹山童謡﹂を繰り返し歌っていたのだし、戦後しばらくの間シベリアに抑留され、ようやく日本への帰
路につくことのできた与十は、汽車で同席することになった上田元曹長から聞かされた、悠一に関するこのエピソードに引きつ
けられていた。二人のメンタリティは、離郷者にとっての典型的な︵それこそ︿教科書﹀通りの︶望郷の念として、説明可能で
あるように見える。
しかし、同時に注目しておきたいのは、この﹁故郷﹂という文章が、以上の内容だけでは終わっていないことである。さらに
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続けて、教科書には次のような結びの言葉が付せられている。1﹁然れども今は昔と異なりて、通信・交通の機関発達﹂した
時代なのだから、﹁各国民互に海外の発展を競ふ今日、徒に故郷に恋々として国内に小利を争ふは、故郷を愛する所以に非ず、
又国を愛する所以に非ず﹂云々⋮。
つまり、この文章は愛郷心と愛国心とがひとつながりのものとしてあり、前者ば後者に包含される関係にあるとしながら、同
時に、ドメスティックに︿故郷﹀へと恋着することは否定している。ここには、ある種の矛盾が存在しているだろう。人々は、
︿故郷﹀への愛着を出発点としながら、その愛着をナショナルな欲望へとスライドさせられ、しかもその結果、︿故郷﹀への愛着
そのものから切り離されてしまうのだ。
このことは、﹁遥拝﹂を過剰に繰り返しつつ、その一方で︿故郷﹀の﹁裡謡﹂を繰り返し歌っていた悠一のありように、その
まま対応するのではないだろうか。つまり、悠一という存在は、愛郷心と愛国心という、本来イコールで結ばれ得ないはずのも
のが結ばれてしまうという点において、徹底して︿教科書﹀通りの存在なのである。従って、悠一の狂気とは、イコールでは結
ばれないこの両者の間のズレー1裂け目にはまり込むことによって、︿戦後﹀の︿日常﹀へと帰還できないままであるという状態
をこそ意味する。
上田元曹長から聞かされた、︿故郷﹀の埋謡を歌う悠一の姿に与十がこだわるのは、与十自身が、戦後シベリアに抑留された
ことによって、ある意味で悠一同様の状況に置かれていたからであろう。よく知られるように、シベリアの抑留者たちは、抑留
期間中にソ連において思想教育を受けて帰国している。その教育のく成果Vは、﹁すべての宗教を否定すると云い張﹂り、﹁封建
時代の残津であると同時に宗教的に画一された姿を持つ墓に詣る﹂ことを拒むという与十の姿に顕著である。しかし、その与十
は、﹁笹山童謡﹂という︿故郷﹀の埋謡をめぐるエピソードにこだわりを見せてしまう。この狸謡に歌われるハツタビラ池とい
う﹁よその人には目につかない問題外の池﹂も、長らく抑留されていた﹁シベリヤからの帰途にあつた与十には郷愁の対象にし
たいのが当然﹂なのだった。
しかし、このような屈折を孕んだ与十の︿故郷﹀への思いは、当然のことながら、現にそこH︿郷土﹀に生活し続けてきた村
人たち︵与十の兄である棟次郎ら︶の感覚とはすれ違ってしまう。村11︿郷土Vに在り続けた者たちのメンタリティーは、先に
触れた教科書の内容で言えば、農村用教科書が編まれたときに﹁故郷﹂という教材と差し替えられる形で登場した﹁郷土﹂とい
う教材によって説明され得るだろう。そこに記されているのは、﹁我等の父母はもとより、祖父母も曾祖父母もかつて此の郷土
に嬉戯し、此の郷土に人となり、彼の田圃を耕し、彼の森林を養ひつらん﹂という内容であり、一般用教科書の﹁故郷﹂の方に
見られた、﹁故郷を遠ざか﹂り﹁我が領土を出でて遠く他国に在る﹂というような状況は、端から想定されていない。農村に暮
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らす者に求められたのは、﹁都会は其の基礎を農村に有せざるべからざる﹂ことを知り、﹁農業の尊き使命を知り、之に従事する
を以て誇とする﹂﹁自覚と決心﹂を持つ︵農村用教科書巻三第十九課﹁土に立脚せよ﹂︶ことであった。離郷者が観念的に夢想す
る︿故郷﹀と、そこに住まう者が自らの生活を継続していく<郷土﹀とは、こうしてすれ違うことになる。
だからこそ、﹁ハツタビユラ池﹂という灌概用の池について歌った﹁笹山童謡﹂を悠一が輸送船で歌っていたという証言を感
慨深いエピソードとして伝えようとする︿帰還者﹀与十の言葉を、村に生きてきた棟次郎は次のような言葉で遮る。
﹁いや、もうよいわ与十、樋はわしが抜く。南方で歌をうたつたのが、お前は満洲やシベリヤにゐてもわかるんか。あの凝
りかたまりの滅私奉公が、あんな子供の歌をうたつたら見ものやね。なるほど、ハツタビユラの池は有名になつたもんや。
結構なもんやね。うん、わしは、有名なハツタビユラの池の樋を抜く。﹂
直前に棟次郎らは、翌日に行われる予定のハツタビユラ池の池干しの当番について話していたのであり、与十の語る悠一のエ
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ピソードなどに大して興味も持たない。むしろ、棟次郎からしてみれば、悠一の歌う﹁笹山童謡﹂に妙にこだわった与十の話し
ぶりは、墓詣りを﹁封建的﹂だといって拒もうとした直前の態度とも矛盾しており、村の中で過去から現在まで継続されてきた
︿郷土﹀の日常生活からは全く遊離した、観念的なものとしか受け止められないのだ。
離郷者/帰還者としての悠一や与十が甘やかに夢想してしまう︿故郷﹀と、棟次郎らが生活し続けてきた︿郷土﹀ このよ
うなダブル・スタンダードを提示し、人を引き裂く装置こそが、一般用/農村用といった別ヴァージョンを並行させて編まれた
︿教科書﹀であり、そうした︿教科書﹀を用いて行われた、戦前の教育なのである。
敗戦後の村の状況を描写しつつも、その中には悠一が戦時中に村へと送還されてきた事情にはじまり、﹁敗戦後第二回目か第三
そもそも、この小説の構成は単純ではない。基本的には﹁気違い﹂の元陸軍中尉・岡崎悠一が村内に引き起こす騒動を中心に、
で描くことには、どのような意義があったのだろうか。
テクスト冒頭の表現を用いれば﹁村が、めげる﹂あるいは﹁こうちが、めげる﹂状況が生起することーを以上のような形
ところで、この小説が一九五〇年に発表されているということを考えるとき、戦後における帰還者たちと村人たちとの齪酷
In
181
回目の発作を起したとき﹂のことから﹁何十回目かの発作を起し﹂た時のことにいたるまでの推移が点描されているし、さらに
物語内時間は悠一が小学生だったころにまで遡っている。また、この村にもう一人の帰還者・与十が登場し、その彼が汽車の中
で上田元軍曹から伝え聞いた話として、戦争中の﹁遙拝隊長﹂としての悠一の物語が挿入されるのである。
ここで改めて重視しておきたいのは、このように複雑に異なる時間が挿入される構造を持つこのテクストが、最終的にベース
となっていたはずの敗戦後の時間に戻り、その情景を描くというシンプルな閉じ方で終わらず、悠一の母が車井戸で水を汲んで
いる場面に重ねて、戦前、村長と小学校長がこの母の元を訪れ、﹁お世辞﹂を言って、息子に陸幼を受験させることを促しに来
た戦前の場面を描くことで閉じられている、ということについてである。
この場面はすでに一度、テクスト内に挿入されていたものである。ただし、最初にこの場面が挿入されるとき、そこで語られ
ていたのは専ら﹁コンクリート造りの膨大な門柱﹂についてであった。村長はこれを﹁非常に見事だと誉め称え﹂て母親をその
気にさせたのであり、このことは、汽車の中で上田元曹長と会話する与十が、﹁君に、悠一ツつあんのうちの、コンクリートの
門柱をみせてやりたいな。あれをみなくつちやあ、悠一ツつあんの正体は、つかめない﹂と語っていたこととも対応する。
しかし、テクスト末尾で、同じ場面がもう一度描かれるとき、そこで強調されているのは﹁コンクリートの門柱﹂ではなく、
むしろ﹁鉄の釣瓶縄﹂の方である。つまり、与十がそうであったように、ここまでどちらかといえば、門柱に関わる一連の経緯
によって悠一の﹁正体﹂を説明するかに見えたこのテクストは、末尾になってわざわざ、すでに見て来たように、﹁読方の国定
教科書﹂や﹃詩経﹄のことばによって権威づけられる﹁鉄の釣瓶縄﹂を、今日の悠一の状況を生起させた特権的な記号として登
場させるのである。
さらに、戦地において悠一が、﹁戦陣訓を熟読翫味すれば﹂﹁遥拝の妙諦﹂がわかり、﹁陶酔の境が展開される﹂と語っていた
ヨ ことを想起しておけば、悠一という人物の在りようは、より明確になるだろう。広田照幸が指摘するように、陸軍士官学校で求
められていたのは結局のところ﹁軍人勅諭﹂のような︿規範﹀から﹁適当な語句を抜い﹂た﹁作文﹂をなす能力であり、その内
容を充分に咀囎した上での﹁軍人﹂精神の内面化などではなかったことを思えば、まさしく悠一とは﹁軍人勅諭﹂や﹁戦陣訓﹂
といった︿規範﹀を充分に咀囎することもないままに受容し、ただ﹁陶酔﹂するだけの人物だったということになる。だから、
﹁遙拝隊長﹂としての悠一は﹁訓辞をしたいばつかりに遥拝させるのだ﹂という、戦地における兵卒たちの悪口は、悠一という
人物の本質を言い当てていたことになるし、そのような悪口を言われながらも、趣旨をはき違えているともいうべき、悠一によ
るこの﹁遥拝﹂は、その行為そのものにおいて﹁軍規違反じゃない﹂︵軍における︿規範﹀に抵触しない︶以上、非難されるに
は当たらないし、むしろ︿教科書﹀どおりの行為とみなされることになるのだ。
(62)
180
本稿﹁はじめに﹂で確認したように、一九五〇年前後の井伏鱒二は、自身の作品が少なからぬ数の国語教科書に採録されると
いう境遇にあった。その井伏が、自らの小説の中に書きつけたのは、あたかも︿教科書﹀的な権威性と規範性を帯びた言葉によっ
て規定された、過剰に規範的なーまさしく<教科書﹀通りの 人物が展開する、戦中から戦後に跨る悲喜劇であった。本稿
において、︿教科書﹀という存在を、テクストを読解する補助線として導入してきたことも、このようなテクストの構成に基づ
いてのことである。
もっとも、このテクストに備給されている以上のような批評性は、必ずしも一九五〇年当時において、リアルタイムに理解さ
れていたわけではないようである。この小説に対するいくつかの同時代評を眺めてみるならば、そこに見出されるのは、﹁戦傷
によつて発狂した将校を描いて、戦後日本の何となくうら悲しい気分を見事に描き出している﹂﹁ペーソス﹂に満ちた作品︵白
れ 井明︶、﹁元中尉によつて具現されてゐる狂信的ミリタリストに対する怒りと憎しみを、適度のユーモアをまじえながら﹂記した
作品︵河盛好灘︶、﹁遥拝好きの、いさ・かまのぬけた頑迷一徹の巷将極﹂が﹁敗戦の村の野道にさ迷ふ悲しい老白痴﹂となった
姿を﹁くすんだユーモアにつ・﹂んで描いた作品︵亀井勝一郎︶という評言である。つまり、戦争の悲惨さを主題としている点
で注目されつつも、結局は﹁ユーモア﹂と﹁ペーソス﹂という井伏評価の常套句に回収されてしまうのだ。
この小説を収録した単行本﹃本日休診﹄︵一九五〇・六、文藝春秋新社︶は、第一回読売文学賞の小説賞を受賞しているが、
その受賞に際して寄せられた選考委員の一人、正宗白鳥の評言もまた、﹁戦場帰りの精神病者が、一村落で巻起こす人騒がせを、
くすぶつたユーモアで包んだ、完成した短編﹂というものであった。この年の年末に書かれた回顧記事の類を見る限り、それな
りに注目を集める作品ではあったものの、その評価は従来の井伏に対する評価に大きく変更を迫るものではなかった。
ゐ しかし、︿教科書﹀およびそれが実際に運用される学校教育をめぐる一九五〇年前後の動向がいかなるものであったかという
ことを考え合わせるならば、この小説に備給されていたはずの批評性の本質が、より鮮明に照らし出されるはずである。最後に、
このような観点から、﹁遙拝隊長﹂という小説が持つ批評性について確認しておきたい。
河盛好蔵は﹁平和の問題があらゆる知識人にとって今年ほど切実に考えられたことはないが、文学作品においてそれが真剣に
とりあげられたのは川端康成﹁天授の子﹂井伏鱒二﹁遙拝隊長﹂のほかはあまり見当たらなかった﹂と述べているが、実際、こ
の年に文学者たちが﹁知識人﹂として何をしていたのか、試みに﹃文芸年鑑 昭和二六年度版﹄︵一九五一・四、新潮社︶で確
認するならば、そこに見出されるのは、次のような記事である。
八月末日来朝し、一ヶ月にわたつて教育界を視察した第二次アメリカ教育使節団が、帰国に際し、提出した報告書の第六
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章第四項に、
﹁作家や学者が、国語簡素化の第一歩として当用漢字と新かなつかいを採用するよう促すこと﹂
を、勧告して居る。
[⋮]
協会︵引用者注、文芸家協会︶はアメリカ使節団の勧告について文部省の見解をた“し、かたはら、
談する為、天野文部大臣に会見を申し入れた。
文芸一般について懇
この会見において、天野貞祐文相は作家側の意見について基本的に賛意を表し、その後﹁文相と作家側のあひだに、文化一般
について、和やかな意見の交換があ﹂った、と﹃文芸年鑑﹄の記事にはある。
同じく﹃文芸年鑑﹄の中で、この年の文壇を概観する亀井勝一郎は、﹁文学者のもつ平和的気分は、気分としてでも維持して
行きたい。かうした気分が暗然の裡にひろがつた点を記しておきたい﹂とし、この年、作家の還暦や各賞の受賞を祝う祝賀会が
ど
﹁殆んど毎月連続して行はれ﹂たことは﹁めでたいことだ﹂などと、それ自体がおめでたいコメントを記している。この年、井
伏に読売文学賞が与えられたことも、こうした﹁めでたいこと﹂に数え上げられるのである。
しかし、天野文相が教育に関して当時示していた方針を考えるなら、彼に会見を申し入れた作家たちの態度は、何とも生ぬる
いものだったと言わざるを得ないだろう。少なくともそこには﹁平和の問題﹂について﹁切実に考え﹂る対話が行われる可能性
は、見出しようもない。教育に関して天野と対話すべき重要な問題は、漢字とひらがなに関する用字法だけではなかったはずな
のだ。 ・
この年の一〇月一七日、天野は全国の教育委員会や各大学に対し、国民の祝日には国旗を掲揚し、君が代の唱和を行うよう、
通達を出している。倫理学者であり、戦後のいわゆる︿オールド・リベラリスト﹀の一人である天野を文相に起用したのは、
﹁終戦以来、占領下すでに五年を経過﹂し、﹁国民の独立心、愛国心がいささか沮喪するに至ったのではないか﹂という憂慮を施
ハゆり
政方針演説で表明した吉田茂首相である。この演説において吉田は、北朝鮮軍が三十八度線を突破し、朝鮮戦争が始まったこと
は﹁対岸の火事ではな﹂く、﹁共産勢力の脅威がいかにわが国周辺に迫っておるかを実証する﹂ものだ、と語っているが、こう
した危機的状況を踏まえ、早期講和を実現するためにも、﹁愛国心﹂の酒養は急務だというムードが高まっていったのが、この
一九五〇年という年の状況であり、こうした空気が文相からの通達という形で、教育の場に直接届けられたのであった。しかも、
小熊英二が指摘するように、敗戦直後に移入された︿アメリカ﹀的“経験主義的な教育プログラムが行き詰まりを見せる中、当
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時の進歩系11左派教育学者たちもまた、この時期、総じて愛国心教育の必要性を説いていた。いわゆるく逆コースVの時代の始
まりである。
こうした時代状況の中に、井伏の﹁遙拝隊長﹂というテクストを置いてみるならば、とりわけその末尾部分に置かれた︿教科
書﹀に関わる記述から見出される批評性は際立っていると言えるのではないだろうか。左右両方の論者たちが、教育における
︿愛国心﹀の重要性を説く<逆コース﹀の時代に井伏が描いてみせたのは、戦前の教育において︿教科書﹀通りの愛国心を過剰
に内面化した者が、戦後に至って﹁こうち﹂を﹁めげ﹂させるという皮肉についてであった。戦後を生きる人々は、﹁こうち﹂
を﹁めげ﹂させる悠一を黙認しつつ、黙殺する。それは、﹁のう、悠一ツつあん、もう帰ろうや﹂という呼びかけを、﹁中尉殿、
さあ、敵前迂回作戦であります。﹂という戦時中の兵士の言葉へとわざわざ翻訳し、﹁お墓に供へてあつた饅頭﹂を﹁恩賜の御菓
子﹂と見なすというような、欺隔的な態度において、悠一のような存在をただ受け入れ、誰もその責任を負わず、誰をも責めな
い、という態度においてしか、この村の日常は維持されない。これは確かに、敗戦後の日本における戦争責任の曖昧化の実相そ
のものであろう。
意気込みで、ぴしりぴしりと撲り
このような批評性は、注︵5︶でも触れたように、この小説が収録された単行本﹃本日休診﹄の改訂新版が一九五一年九月に刊
む
行された際になされた改稿によって、さらに際立つように思われる。この改稿の問題を初めて指摘した滝口明祥も注目するよう
つ つベルトで撲りつけながら歩いてゐた。
に、このとき、以下のような加筆がなされたことは重要である。
︵初版本文︶
彼は墓を一
︵改訂新版本文︶
彼は墓を一つ一つベルトで撲りつけながら歩いてゐた。墓石を兵卒と見倣したやうな
つけて、口のうちでつぶやいてゐた。
﹁ビンタを喰らへ、貴様も喰らへ。ビンタを喰らへ、貴様も喰らへ⋮⋮。﹂
本稿﹁1﹂で確認したように、︿教科書Vの言説が﹁祖先墳墓の地﹂として﹁故郷﹂を語りつつ、やがてその地を離れた者に
とっての﹁故郷﹂を﹁其の範囲=疋なら﹂ざるものとして曖昧にし、村∩郡∩県∩国というように下位概念から上位概念に向け
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て包含していく中で、﹁愛郷心﹂を﹁愛国心﹂へとスライドさせていったことを考えれば、悠一がここで﹁墓石﹂を撲りつける
生々しい描写が付け加わることの意味は深いように思われる。このとき悠一が撲りつけている﹁墓石﹂は、必ずしも﹁兵卒﹂で
はなく、むしろ、自らを現在のような状況へと追い込んだ︿故郷﹀そのものではないだろうか。初出の一九五〇年二月の時点か
ら単行本の改訂新版が刊行される一九五一年九月までの約一年半の間に、朝鮮戦争が勃発し、先に見た天野文相の施策に見られ
るようなく逆コースVの道筋を踏み出していることを思えば、井伏によるこの改稿にどのような意図や効果を読み取れるか、と
いうことは明らかだろう。
お 一九五七年の段階で中村光夫が評していたように、たしかにこの小説には﹁戦後日本の縮図﹂が刻まれている。しかしそれは、
﹁軍人たちはすでに戦争中から気違ひだつた﹂のであり、﹁敗戦はただそれを誰の眼にも明らかにしたにすぎない﹂のだ、という
中村の評言の水準にとどまってはいないということに注意しなくてはならない。重要なのは、この小説が末尾にいたって、悠一
のような﹁軍人﹂を作り上げたシステムとしての︿教育﹀の責任を示唆していたことである。結果として﹁ぺーソス﹂と﹁ユー
モア﹂という井伏評価の常套句に回収されてしまったのだとしても、少なくともテクストそのものには、︿逆コース﹀を歩み始
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めている同時代の︿教育﹀に対して届きうる批評性があった。
お その批評性は、一九五〇年代の読者には、必ずしも届いていなかったかもしれない。しかし、少なくとも教育に関する限り一
九五〇年前後と非常に似たコースを歩むかに見える現代において、この小説の提示する批評性について考えることは意義深いよ
うに思われる。
まう現状について、おかげで﹁文庫本の詩集などが急に売れるような結果にもなつてゐるのですから、決して損にはなりませんが、これは損得つくでな
︵4︶ 井伏と同じく一〇点の教科書において、自らの文章が採録されている佐藤春夫は、﹁事後承諾の形式的な通告﹂だけで自らの文章が教科書に載ってし
守る﹂ものとして位置づけている︵﹁注釈としての︿削除﹀ー﹁山椒魚﹂本文の生成についてー﹂、﹁日本近代文学﹂二〇〇三・一〇︶。
除﹀という行為によって、読者の﹁山椒魚﹂の読みへの︿注釈﹀を加えたのではないか、という仮説﹂を提示し、井伏の改稿行為を﹁作家が己の作品を
︵3︶ 戸松泉はこの改稿について、﹁読者の﹁誤読﹂の山︵注、末尾に山椒魚と蛙との﹁和解﹂を読みとる論文の積み重ね︶にうんざりした﹂井伏が、﹁︿削
︵2︶ 拙稿﹁小説の中の学校/学校の中の小説i井伏鱒二試論︵一︶ ﹂︵﹁学習院高等科紀要﹂二〇〇七・七︶
︵1︶ 井伏鱒二﹁国語読本のこと﹂︵﹁文学﹂一九五二・八︶
注
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く不愉快﹂だと述べ、﹁教科書に多く採用されてゐるといふ事は、一かどの反俗精神に生きてゐる気の我々にとつて、実は愚劣な現代常識の代表的なも
のを産出する文字の職人に過ぎないのを証明して見せたも同然で、採用する方では名誉を頒つたつもりかも知れないが、我々としては一向に名誉でも何
でもない﹂と強い調子で述べている︵﹁有難迷惑みたいな話ー拙作詩文教科書に採用に就てi﹂、﹁文学﹂一九五二・八︶。
︵5︶ 滝口明祥が﹁ある寡婦の夢見た風景 井伏鱒二﹃遙拝隊長﹄ ﹂︵﹁国文学研究﹂二〇〇六・一〇︶で指摘するように、この小説の本文は初版本と
改訂新版の間で、かなりの異同がある。この箇所は、改稿前の初版本では、﹁国定教科の読本にも﹂となっていた。
︵6︶ 相原和邦﹁﹃遙拝隊長﹄の構造と位置﹂︵﹁近代文学試論﹂一九七二・九︶
︵7︶ 栗坪良樹﹁﹃遙拝隊長一 戦争ワーカホリック﹂︵﹁解釈と鑑賞﹂一九九囚・六︶
︵8︶ 佐藤義雄﹁屈託からの反嘘−井伏鱒二の戦後文学・覚え書 ﹂︵﹁文芸研究﹂一九九二・二︶
︵9︶ 河崎典子﹁井伏鱒二﹃遙拝隊長﹄論 コ言葉﹂の戦争−﹂︵﹁成城国文学﹂一九九五・三︶
︵10︶ 小菅健一﹁﹁遙拝隊長﹂論ー形象化された戦争と︿運命﹀の縮図﹂︵﹁山梨英和短期大学紀要﹂二〇〇一・六︶
︵H︶ 登場人物たちの台詞が、井伏のいわゆる﹁在所言葉﹂︵井伏自身の故郷である広島県福山市周辺のことば︶となっていることから考えれば、このとき
悠一が進学したのは陸軍幼年学校広島校ということになるだろう。陸軍幼年学校は、一九二二年のワシントン海軍軍縮条約以後の世界的な軍縮傾向のな
かで相次いで地方校を閉鎖していたが、一九三六年、中国での戦局が拡大しつつある中で、広島校を皮切りに続々と地方校を復活させている。広田照幸
﹃陸軍将校の教育社会史−立身出世と天皇制﹄︵一九九七・六、世織書房︶他参照。
︵12︶ 中村紀久二﹁﹃復刻 国定高等小学読本﹄解説﹂︵一九九四・三、大空社︶
︵13︶ ちなみに、牧水はこの教科書の使用が開始された一九二八年の九月に没している。その没後には、すぐに改造社から全集が刊行されたのを始め︵全一
二巻、一九二九.八∼一九三〇・八︶、春陽堂文庫・改造文庫・新潮文庫といった各社文庫に歌集やエッセイ集が収められ、各地に歌碑が建てられるな
ど、一九四〇年代に至るまで、広く人口に謄爽した歌人であったことがうかがえる。大悟法利雄﹃若山牧水 伝記篇﹄︵一九四四・=、二見書房︶参
照。
︵14︶ 出典は、村井弦斎﹃近江聖入﹄︵一八九二・一〇︶。この作品は、博文館の少年文学シリーズの↓つとして刊行されたもので、江戸時代の儒学者中江藤
樹の幼少期を描いている。昭和初期に至るまで、しばしば修身の教科書や国語の読本に採録されていた。ちなみに、本稿で取り上げている教科書に採録
されている本文は、原作そのままではない。
︵15︶以下、﹃詩経﹄については、主に﹃経書大講 第七巻﹄︵一九三八・一一、平凡社︶を参照した。
︵16︶ 一ノ瀬俊也﹃近代日本の徴兵制と社会﹄︵二〇〇四・六、吉川弘文館︶
︵17︶ 鄭賓賢﹁井伏鱒二﹁遥拝隊長﹂論−二人の帰還者1﹂︵﹁近代文学試論﹂二〇〇二・一二︶
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︵18︶ ︿故郷﹀と︿郷土﹀との問のズレについては、拙著﹃文学的記憶・一九四〇年前後 昭和期文学と戦争の記憶﹄の第三章﹁裂罐としての郷土/幻視
される故郷﹂において、柳田國男と川端康成に即して論じたことがある。併せて参照されたい。
︵19︶ 注︵12︶参照
︵20︶ 例えば、﹁朝日新聞﹂一九四九年六月二九日の記事は﹁特異な今度の“引揚風景”徹底した﹁教育﹂ 歓迎に応える赤い歌﹂という見出しのもと、シ
ベリアからの帰還者たちが労働歌を合唱しながら舞鶴に入港してくるという﹁特異な空気﹂について報じている。
︵21︶ 広田﹃陸軍将校の教育社会史 立身出世と天皇制﹄︵注11参照︶
︵22︶白井明﹁メモラビリア 小説短評④﹂︵﹁読売新聞﹂一九五〇・二・四夕刊︶
︵23︶ 河盛好蔵﹁文芸時評 戦争への憎悪﹁遙拝隊長﹂の教えるもの﹂︵﹁朝日新聞﹂一九五〇・二・一九朝刊︶
︵24︶ 亀井勝一郎﹁井伏鱒二論﹂︵﹁読売評論﹂一九五〇・八︶
︵25︶ ﹁読売新聞﹂が年末に実施した﹁1950年読売ベストスリー﹂︵回答者11河盛好蔵・伊藤整・中村光夫・亀井勝︸郎・臼井吉見・福田恒存・青野季吉・
荒正人・中野好夫・平野謙の一〇名︶によれば、﹁遙拝隊長﹂をベストスリーとして取り上げた者は四名︵河盛・伊藤・臼井・中野︶だった。また、亀
井勝一郎は﹁今年の文壇 名作十篇﹂︵﹁読売新聞﹂一九五〇・一二・一一朝刊︶の中でも六番目にこの小説を挙げ、﹁敗戦後のふしぎな空虚の中に、こ
だまする一種鬼気をおびた亡霊の図である。[⋮]燥んだユーモアで包んであるが、空虚にか・る実態を与えた作品は他にない﹂と評している。他に、
河盛好蔵・神西清・中村光夫・福田伍存による座談会﹁文壇・ジャーナリズム・作家﹂︵﹁文学界﹂一九五〇・一二︶にも、この小説をめぐるやりとりが
見受けら れ る 。
︵26︶ 高見順は、この小説について次のように評している。﹁これはちよつと課刺小説みたいだが、井伏さんとしては訊刺小説を書くつもりで書いたわけじ
やないんだろうと思います。井伏さんとしては今迄の井伏さんのものを続けていながら、期せずしてこういうものができた、かなり辛辣な課刺小説がで
きたというところでしょう。﹂︵高見順・宇野浩二・平野謙﹁創作合評﹂、﹁群像﹂一九五〇・四︶。本稿の射程は、高見が言うように﹁期せずして﹂生ま
れたのかもしれない、この小説の﹁調刺﹂性11批評性の内実を問うことにある。
︵27︶ 亀井勝一郎﹁文壇の概観﹂︵﹃文芸年鑑 昭和二六年度版﹄、一九五一・四、新潮社︶
︵28︶ ﹁祝日には国旗を“国歌の唱和も”文相から通達﹂︵﹁朝日新聞﹂↓九五〇・一〇・一八朝刊︶、﹁祝日には“国歌”を文相から各学校へ通達﹂︵﹁毎日新
聞﹂一九五〇・一〇・一八朝刊︶他参照。
︵29︶ 一九五〇年七月一四日の施政方針演説。引用は、データベース﹁世界と日本﹂︵東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室︶7唇ミ≦≦≦°δ。°雫
δすo°8も、∼≦o︻昼唱艮による。
︵30︶ 小熊英二﹃︿民主Vと︿愛国>1戦後日本のナショナリズムと公共性﹄︵二〇〇二・一〇、新曜社︶
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︵31︶滝口﹁ある寡婦の夢見た風景﹂︵注5参照︶。なお、悠一母子を︿立身出世﹀主義に振り回された犠牲者と捉える滝口は、以下に取り上げる加筆につい
と評して い る 。
ては、﹁ここで示される狂気の異様な迫力の背後にあるのは、母親を囚え、また自身を抑圧した﹁家﹂意識への悠一の反逆であるとも考えられるだろう﹂
︵32︶ 中村光夫﹁現代作家論︵2︶井伏鱒二論﹂︵﹁文学界﹂一九五七・一〇∼一こ
︵33︶ かつて左右両陣営から批判された教育基本法がすでに改定され、教育現場における日の丸・君が代をめぐる︸連の騒動が過熱化したままであるという
現状を考えれば、事態は一九五〇年前後よりも危機的なのかもしれない。
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