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統合ヘルスケア供給ネットワーク(IHDN)
FRI 研究レポート No.78 May 2000 医療介護分野の効率化と満足度向上 ―統合ヘルスケア供給ネットワーク(IHDN)構想について 主席研究員 松山 幸弘 医療介護分野の効率化と満足度向上 ―統合ヘルスケア供給ネットワーク(IHDN)構想についてー IHDN=Integrated Healthcare Delivery Network 主席研究員 松山 幸弘 【要旨】 1. 2000年に予定されていた医療改革が白紙撤回された大きな理由の1つは、 高齢者と現役勤労者の負担ルールのコンセンサスを作ることなく、高齢者医療介護 費用について 「社会保険料か?税か?」といった具合にファイナンスの仕組みを議 論していることにある。70歳以上高齢者の医療介護費用のうち受益者自身が負担 している割合は現在24%と推計される。高齢化進行とともにこの受益者負担割合 をどこまで引き上げるかに関する国民の合意を作ることが先決と思われる。 2. その具体案として、69歳以下の医療費も含めた国民医療介護総費用合計ベース において一人あたり負担増の倍率が高齢者と現役勤労者間で等しくなるようにする ことを提言したい。これは、70歳以上人口増による医療介護費用増加と69歳以 下人口減による医療費減少の効果を高齢者と現役勤労者間で折半する仕組みである。 ただし、この場合でも高齢者と現役勤労者の一人あたり負担額は、今後40年間に 実質ベースで少なくとも1.4倍になる。また、上述した70歳以上高齢者の医療 介護費用の受益者負担割合は現在の24%から34%に高まる。従って、医療介護 費用抑制により国民の負担軽減を図ることが重要である。 3. 一方、高齢化と共に医療費が増加することが不可避であることを考えると、医療 改革の目標としては、 「医療費がある程度増えても制度運営の安定化に資するよう な仕組みを構築すること」の方がより相応しいと思われる。そのための具体策とし て、高齢者医療保険を創設し基礎給付保険と補完保険の2階建てにすることを提言 したい。 4. 医療介護分野で無駄を排し国民の満足度を高めるためには、地域医療介護圏で情 報と経営資源を共有する仕組み作りが必要と思われる。その具体策として統合ヘル スケア供給ネットワーク(IHDN)を提言したい。 目次 Ⅰ.はじめに 1 Ⅱ.社会保障制度改革のための政策提言 1 【提言1】 1 【提言2】 2 【提言3】 5 【提言4】 7 Ⅲ.日本の10年以上先を行くアメリカ 8 1 ヘルスケア供給者垂直統合の歴史 8 2 IT活用の現状と評価 11 3 ヘルスケア市場でもインターネットが革命を起こす 14 4 消費者への徹底した医療情報提供 16 Ⅳ.日本版IHDNのイメージ 17 1 情報と経営資源の共有 17 2 IHDNプロジェクトの留意点 19 3 IHDNプロジェクトの効果 20 Ⅴ.おわりに 21 (参考文献) 23 Ⅰ.はじめに 2000 年度に予定されていた年金改革、医療改革、介護保険導入のうち、医療改革が 事実上白紙撤回され改革実施スケジュールが 2003 年度以降に先送りとなった。しか も診療側と支払い側の利害衝突のみが目立ち、医療改革を断念せざるをえなかった理 由が国民には極めて分かりづらいままである。 一方、1999 年 10−12 月期に2四半期連続のマイナス成長となったことからも明ら かのように、赤字国債発行による公共投資を続けてマクロ経済の自律回復開始を待つ 政策にも限界が見え始めた。既存の制度の枠組みや価値観に捕われた政策では、高齢 化に備えた社会保障制度の抜本改革や経済、社会の立て直しはできない。 私見によれば、日本再生のキーワードとして民間需要創出、IT、社会保障制度抜 本改革、個人の選択とインセンティブ付与、地方分権、財政再建の6つが重要である。 日本再生に資する政策提言に向けた次のステップは、「国民のニーズが高く今後最も 成長が期待できる分野でこれらのキーワード全てに関係するものは何か」という問題 提起の解を探求することである。そして、この問題提起の最適解の1つとして「医療・ 介護」をあげたい。 そこで本稿では、政治的にも最重要課題の1つである医療・介護分野の効率化と満 足度向上に資する方策を提示することを目指すこととしたい。 Ⅱ.社会保障制度改革のための政策提言 社会保障制度改革の具体的内容は、 「財源が限られる中で増大するニーズに応える」、 「受益とコスト負担における世代間の公平性を確保する」、「日本経済の国際競争力の 維持・向上に資する」といった条件を満足する必要がある。結論を先に言えば、本稿 ではこれらの必要条件を踏まえた上で、社会保障制度改革のために次の4つの政策提 言を行いたい。 [提言1]公的年金縮小により世代間不公平是正と同時に医療介護財源を確保する。 社会保障制度改革が上記条件を満足するために公的年金縮小が不可欠である理由に ついては、FRI研究レポート No.60 October 1999 (年金制度等の改革:総人件費 コントロールの観点から)で詳述した。 平成12年3月に国会で成立した年金改革は、給付削減幅を約15%に抑えるかわ りに2004年までに保険料率を現行の17.35%から引き上げ始めることを前提 1 にしている。しかし、厚生省が5年毎に予定している保険料率引き上げは、経済成長 率に約0.7%のマイナスのインパクトを与える可能性がある。経済の安定成長への 復帰にまだ時間がかかること、赤字国債発行により公共事業を高水準に維持し続ける ことが既に限界に達しつつあること等を考えると、2004年頃から保険料率引き上 げを開始し2019年に25.2%(現行対比プラス7.85%)にするという改革 は政治的にも実現困難と思われる。 そこで筆者は、給付削減幅を厚生省案の15%ではなく30%とすること、200 0年から2020年までの期間、給付の物価スライドを「実際の物価上昇率マイナス 1%」とすること、保険料率を20年間17.35%に据え置くこと等を提言した。 [提言2]69歳以下の医療費も含めた国民医療介護総費用合計ベースにおいて一人 あたり負担増の倍率が高齢者と現役勤労者間で等しくなるように制度設計する。 図表1は、70歳以上高齢者の医療介護費用のうち受益者自身が実質負担している コスト割合を厚生省データに基づき試算したものである。受益者である70歳以上高 齢者がコスト負担するルートには、保険料、受診時自己負担、公費負担の3つがある。 このうち公費負担は、投入される公費全体に70歳以上人口の比率(2000年現在 11.6%)を掛けて算出した。2000年度における70歳以上高齢者の医療介護 費用合計(市場規模)は、約15兆円である。このうち70歳以上高齢者が負担して いるのは約3兆5千億円であり、その負担割合は約24%と推計できる。また、69 歳以下の人々が70歳以上高齢者の医療介護のために負担している金額は約11兆2 千億円である。 図表1 70歳以上高齢者が医療・介護で実質負担するコスト割合 (2000年度推計) (単位 10 億円) 医療 10,060 2,716 900 1,006 315 2,221 22.1% 7,839 A 市場規模 うち公費(消費税)負担 保険料 受診時自己負担 70歳以上 公費負担分 高齢者 B 計 負担割合(B/A) 69歳以下の負担額 A − B 2 介護 4,690 2,390 479 545 277 1,301 27.7% 3,389 合計 14,750 5,106 1,379 1,551 592 3,522 24 % 11,228 図表2は、2000年と2040年の人口比較である。70歳以上人口は、今後4 0年間で1500万人から2500万人に1.69倍に増加する。従って、70歳以 上高齢者の医療介護費用も一人あたり金額が変わらないとすれば15兆円から25兆 円(1.69倍)になる。一方、この間総人口は1億2700万人から1億1000 万人に14%減少する。経済活動の担い手である20−64歳人口が7900万人か ら5600万人に29%も急減するからである。これは、70歳以上高齢者の医療介 護費用の受益者負担割合を現在の24%に維持した場合、現役勤労者一人あたり負担 額が急増することを暗示している。 図表2 2000年と2040年の人口比較 (単位 百万人) 70歳以上 20−64歳 総人口 2000年 15 79 127 2040年 25 56 110 増加倍率 1.69倍 0.71倍 0.86倍 (出典)厚生省「日本の将来推計人口」(平成9年1月推計)より作成 図表3 70歳以上医療介護費用の一人あたり負担額 (実質ベース=人口変化のみ反映、2000年貨幣価値換算) 70歳以上高齢者 全体で実質負担す る割合 70歳以上の 一人あたり負担額 20−64歳の 一人あたり負担額 国民のコンセンサス 24 % 2000 年の 年間負担額 (千円) 238 2040 年の 年間負担額 (千円) 238 142 338 44% 1.0倍 2040 年の 年間負担額 (千円) 426 2.4倍 254 増加倍率 増加倍率 1.8倍 1.8倍 図表3は、70歳以上高齢者の医療介護費用の一人あたり負担額を示している。2 000年現在の一人あたり負担額は、70歳以上が23万8千円、20−64歳が1 4万2千円である。仮に受益者負担割合を24%に維持すれば、2040年時点の一 人あたり負担額は、70歳以上が23万8千円と不変であるのに対し、20−64歳 は2.4倍の33万8千円に膨らむ。人口変化によるコスト増加分を全て現役勤労者 3 に転嫁することは、明らかに不公平である。 そこで、70歳以上と20−64歳の一人あたり負担額を同じ倍率で増やすことが 考えられる。その場合の増加倍率は1.8倍であり、受益者である70歳以上高齢者 の一人あたり負担額は42万6千円になる。しかしその結果、受益者負担割合は24% から44%に上昇する。しかし、高齢者の政治パワーがますます強くなることを考え れば、受益者負担割合を44%まで引き上げることは政治的に不可能と思われる。 従って、この受益者負担割合を高齢化の進展と共にどの程度引き上げるかという点 に関する国民のコンセンサスを作ることがまず必要である。そのための具体案として、 一人あたり負担増の倍率を69歳以下の医療費も含めた国民医療介護総費用合計ベー スで等しくなるようにすることが考えられる。 図表4 国民医療介護総費用の一人あたり負担額の増加倍率を 世代間で等しくなるようにした場合の試算 (実質ベース=人口変化のみ反映、2000年貨幣価値換算) 70歳以上の一人あたり負担額 20−64歳の一人あたり負担額 うち 69歳以下のための費用 70歳以上のための費用 2000 年の 年間負担額 (千円) 238 383 241 142 2040 年の 年間負担額 (千円) 339 545 241 305 増加倍率 1.4 1. 4 1.0 2.1 (注)①65−69 歳層の負担については増加倍率への影響が小さいこともあり無視した。 ②人口変化のみを反映した国民医療介護総費用の想定は以下のとおり。 2000年 2040年 69歳以下のための費用 19兆円 14兆円 70歳以上のための費用 15兆円 25兆円 合 計 34兆円 39兆円 図表4がその試算であり、70歳以上の一人あたり負担額の倍率を前述の1.8倍 から1.4倍に引き下げることができる。これは、69歳以下の医療費が人口減によ り実質ベースで2000年現在の19兆円から2040年に14兆円まで減少する効 果を高齢世代と現役世代で分かちあった結果である。この場合、図表3で示した70 歳以上の医療介護費用を受益者自身が負担する割合は、34%である。また、20− 64歳による70歳以上のための医療介護費用一人あたり負担額は、14万2千円か 4 ら30万5千円に2.1倍となる。しかし、20−64歳の一人あたり負担額の増加 倍率は自らの医療費も含めて考えれば1.4倍であるから、70歳以上との比較で公 平性は保たれていると言える。 [提言3]高齢者医療保険を創設し基礎給付保険と補完保険の2階建てにする。 筆者は、医療改革の目標が医療費抑制そのものにあるかのような議論の進め方に疑 問を感じている。上記のとおり一人あたり負担額は実質ベースで1.4倍になること から、医療費抑制が重要であることはもちろんである。しかし、高齢化の進行と共に 医療費が増加することが不可避であることを考えると、医療改革の目標としては、 「医 療費がある程度増えても制度運営の安定化に資するような仕組みを構築すること」の 方がより相応しいと思われる。そして、過剰投薬や過剰検査などの無駄を排し国民の 満足度向上を伴うのであれば、マクロ経済の観点からも医療費増加が是認される余地 があるように思われる。ちなみに、医療経済研究機構の研究報告書「医療と福祉の産 業連関分析(平成11年12月)」によれば、医療分野の生産誘発波及効果は公共事業 を上回ると推計されている。 図表5は、日米における国民医療費と名目GDPの増加率比較である。アメリカの 場合、1980年代は国民医療費増加率が平均11%と名目GDP成長率7.5%を 3.5ポイントも上回り、マクロ経済が医療費倒産するのではと心配された時期があ った。しかし、最近は国民医療費と名目GDP成長率がほぼ同レベルの状態が続いて いる。これは、マネジドケア効果により国民医療費増加率が5%前後と1980年代 の約2分の1に低下した結果である。マネジドケアとは、ヘルスケア供給者と保険者 が一体となり医療の質の向上とコスト抑制を同時に追求する仕組みである。 一方、日本の場合、バブル経済崩壊以降の景気低迷の中で、国民医療費増加率が名 目GDP成長率を上回り続けている。しかし、名目GDPに対する国民医療費の割合 を見ると、アメリカの13.5%に対し日本は6.1%と2分の1以下である。国民 医療費を負担としか見ない立場からすると、名目GDP比で日本の2倍以上医療を消 費しているアメリカ経済の方が力強いことは理解できない現象である。しかし、1国 のGDPの構成内容は経済活動を行う国民の価値観の加重平均であり、名目GDPに 占める国民医療費の最適割合というものは理論上存在しない。 アメリカ厚生省は、今後は国民医療費増加率が名目GDP成長率を若干上回る状態 が続き、2008年には国民医療費の名目GDP比が16.2%まで上昇すると予測 している。しかし、1998年秋に発表されたアメリカ競争力会議の報告書では、ヘ ルスケア産業を21世紀における経済成長のエンジンと位置付けている。その背景に 5 は、バイオ、遺伝子といった先端技術への期待の高まりに加え、医療情報提供の充実 により消費者が医療に対する満足度を自ら評価することが可能になりつつあるという 事実がある。消費者に情報が与えられずコスト負担増のみ強いられた1980年代は、 アメリカでも国民医療費増加は忌み嫌われた。しかし、他の財・サービスを消費する 場合と同様に、支払った費用に見合った満足度向上を伴うのであれば、国民医療費増 は経済成長の原動力になるという考え方が出てきたのである。 図表5 日米における国民医療費と名目GDPの増加率比較 アメリカ A国民医療費 日 本 B 名目GDP C国民医療費 A / B 3.0% 495.0 ▲0.4% 6.1% 29.2 0.2% 497.3 ▲2.0% 5.9% 1,149 1997 1,088 4.7% 8,111 5.9% 13.4% 29.1 1.9% 505.0 0.2% 5.8% 1996 1,039 4.6% 7,662 5.4% 13.6% 28.5 5.8% 503.8 2.9% 5.7% 1995 993 4.8% 7,270 4.6% 13.7% 27.0 4.5% 489.7 2.3% 5.5% 1994 948 5.5% 6,947 5.9% 13.6% 25.8 5.9% 478.8 0.4% 5.4% 1993 898 7.4% 6,558 5.0% 13.7% 24.4 3.8% 476.7 1.0% 5.1% 1992 837 9.1% 6,244 5.5% 13.4% 23.5 7.6% 471.9 1.9% 5.0% 1991 767 9.6% 5,917 3.0% 13.0% 21.8 5.9% 463.2 5.6% 4.7% 1990 699 5,744 20.6 12.0 10 年 平均 6.0% 4.7% 8.9% 10 年 平均 5.6% 438.8 247 10 年 平均 7.5% 12.2% 1980 10 年 平均 11% 1999 8,511 C / D 1998 2008 16.2% 兆円 増 加 率 増 加 率 10 年 平均 6.6% 5.6% 10 億 ドル 2,177 増 加 率 10 年 平均 4.7% 4.9% D 名目GDP 10 億 ドル 13,446 2,784 兆円 増 加 率 30.1 13.5% 245.5 (注)アメリカの名目 GDP は1999年改正前ベース。 日本の1999年度国民医療費は厚生白書、名目 GDP は日本経済研究センター。 上記データのうち 1998 年までが実績値、1999 年以降は推計値。 このように満足度向上を伴い国民医療費が増加する中で医療保険制度を安定させる ための有力な方法としては、医療消費のあり方を国民一人一人に選択させることが考 えられる。具体的には、医療保険を全国民共通の基礎給付保険と地域毎に保険料・給 付内容の異なる補完保険の2階建て構造にするのである。そして、補完保険及び民間 保険が医療介護関連ニュービジネス市場の財源となるように商品設計するのである。 6 4.9% 図表6は、この考え方を高齢者医療保険に適用した場合の具体案である。高齢者医 療保険への加入義務年齢は、改革後の年金受給開始年齢に合わせて65歳とする。基 礎給付保険の給付割合は6割であり、保険料は全国一律である。補完保険に3種類設 定したのは、健康管理努力のインセンティブ付与のためである。「基礎給付+プラン C」が現行制度 (9割給付)に近くなるように設計すれば、現在より大きく不利にな る高齢者は発生しない工夫ができる。逆選択による保険財政悪化を防止するため、6 5歳時点で選択した内容は10年間変更不可という制約を設ける。プランAまたはB を選択し途中で気が変わった場合には、民間保険に加入することでニーズを満たす道 が残されている。 図表6 2階建て高齢者医療保険のイメージ 補完保険 65歳時点でいずれかに加入 基礎給付保険 給付 受診時 被保険者は 65 歳以上全員 プラン 割合 自己負担 保険料 保険料と給付は全国一律 A 1割 3割 低 給付割合は 6割 B 2割 2割 中 C 3割 1割 高 健康管理のインセンティブ付与 [提言4]質の向上とコスト抑制を同時に追求し医療消費に対する満足度を高めるた めに、地域医療介護圏で情報と経営資源を共有すると同時に、一般国民に対する医療 情報提供を充実させる。 具体的には後述する統合ヘルスケア供給ネットワーク(IHDN)のことであるが、 その説明に入る前に、医療先進国アメリカの最新事情を概観することとしたい。 7 Ⅲ.日本の10年以上先を行くアメリカ 1.ヘルスケア供給者垂直統合の歴史 アメリカのヘルスケア(=医療+介護)市場参加者たちは、市場原理に基づく激し い競争を強いられている。このため、ヘルスケア供給者たちは、生き残りを賭けてラ イバルとの合併 ・買収を繰り返してきた。これにより、その特定分野において規模の 経済効果を享受することは可能であった。しかし、同業者同士の水平統合に止まって いたため、その地域住民が求めるヘルスケアサービスの最適な組み合わせを構築する 観点からは、依然として無駄を排除できなかった。 そこで1993年頃から、クリニック、一般病院、専門病院、精神病院、介護施設、 在宅サービス拠点などその地域医療介護圏で活動する全ての種類のヘルスケア供給者 と保険会社が一体となり、医療介護の効率化と質の向上を図るビジネスモデルが登場 し始めた。このビジネスモデルがIHDNであるが、IDNまたはIDSとも略称さ れている。(IDS= Integrated Delivery System) 現在大小合わせて全米に500以上 のIHDNがあると推計されている。 効率化のメカニズム ヘルスケア供給のハード投資のあり方は、その地域医療介護圏の年齢構成、地理的 条件等により異なる。IHDNの場合、関係しているヘルスケア供給者と保険会社が 利害を共にしているため、最適な組み合わせに向けた調整が容易である。保険加入者 となった住民一人一人のヘルスケア情報を一元管理することで、必要なサービスを迅 速に提供すると同時に重複受診や過剰検査・投薬をチェックできる。これがIHDN による効率化のメカニズムである。 地域住民参加社会のダイナミズム 注目すべきことは、地域住民を巻き込んだ社会的実験とも言えるIHDNのような ビジネスモデルが競争のプロセスの中で民間ベースで生み出され、成功したものが全 米に広がって行くというアメリカ社会のダイナミズムである。また、ビジネスモデル という言葉から営利法人による市場支配戦略を連想するかも知れないが、非営利形態 のIHDNの方がむしろ強者である。ちなみに、同業者間の水平統合や異種業者間の 垂直統合が繰り返されてきた中で、非営利病院は病床数でみて8割以上のシェアを維 持している。 「非営利」は税制上の言葉であり、その組織の資本形態とは関係ない。非営利病院 には、非課税優遇措置を享受するかわりに貧困者に対する無料医療の義務がある。そ 8 して、ヘルスケアビジネスの世界では、税制上の分類によって買収、合併といった事 業拡大戦略が制限されることはない。 過去15年間、営利病院による非営利病院買収が積極的にに行われたことは事実だ が、その逆も盛んである。地域住民からの寄付により非営利病院の財務内容は営利病 院より概して良好に保たれている。大手非営利病院の中には十億ドルを超える手元流 動性を持つ所もあるほどである。従って、IHDN構築のためヘルスケア供給者の囲 い込み競争が起きた場合、自由に資金調達できる営利病院より非営利病院が不利とい うことはない。むしろ、多額の負債を抱え、株主から一定以上の利益率を求められて いる営利病院の方が不利と言える。 例えば、1997年財政均衡法の介護関連給付抑制により介護事業の利益率が低下 した結果、営利病院が核となったIHDNで介護事業を売却する動きが見られた。し かし、非営利病院のIHDNでは、介護事業の収益低下がIHDN全体の存立を困難 にするといった事態にならないかぎり、介護事業を切り捨てる必要はない。 長年にわたり寄付で支えられてきた非営利病院は、地域住民の共有財産という考え 方が定着している。従って、非営利病院が買収対象になった場合に住民投票が行われ ることも珍しくない。例えば、最大手の営利病院チェーンであるコロンビアHCAが、 1995年ダラスのセントポール・メディカルセンターを買収しようとしたが、住民 の支持が得られず、結局セントポール・メディカルセンター側が非営利病院であるハ リス・メソジスト・ヘルスシステムにタダで身売りした。 層が厚いボランティア IHDNが供給するサービスの中で最も労働集約的でマンパワーを必要とするのが 介護である。アメリカの場合、教会等をバックにしたボランティア組織が地域社会に 根付いており、介護サービス供給の担い手として多くのボランティアが活動している。 ボランティアによりIHDNの人件費を節約すれば、地域住民がIHDNに支払う保 険料も安くすることが可能になるので、地域住民全体でボランティアの成果を享受で きることになる。 また、介護分野のボランティアの事例として、介護オンブズマンプログラムが注目 に値する。アメリカでは30年前の時点で介護施設が提供するサービスの質に問題が あることが国民の関心を集めていた。このため、1972年に厚生省、教育省、精神 病管理局などが中心となり、5つの州で介護オンブズマンプログラムの実験を行った。 また1973年には、様々な高齢者問題を担当する部署を集約する形で高齢者管理局 の拡充強化が行われた。 9 図表7のとおり、今日では全ての州、600近い地域において介護オンブズマンプ ログラムが実施されている。約1万3000人のボランティアに支えられている結果、 運営費用は年間4300万ドル(約46億円)にすぎない。介護オンブズマンはあく までサービスを受ける要介護者と介護施設の仲介役に徹し、自らが介護サービスの評 価をして苦情の当事者に陥らない訓練を受けている。そのような活動の積み重ねによ り、現在では要介護者、介護施設双方から信頼されているとのことである。 図表7 米国の介護オンブズマンプログラムの基礎データ (1997会計年度) 介護オンブズマンの陣容 地域拠点 有給フルタイムスタッフ ボランティア 州政府から研修を受けた 公認ボランティア・オンブズマン その他のボランティア 586ヶ所 887人 12,844人 6,795人 6,049人 監視対象となる施設 介 護 施 設 施設数 18,244 ベット数 1,853,245 食事・ケア等を提供するその他施設 施設数 38,910 ベット数 700,821 合 計 施設数 57,154 ベット数 2,554,066 介護オンブズマンによる苦情処理案件数 1996年に取り組んだ件数 新規に発生した件数 問題を解決した件数 191,005 130,709 113,027 介護オンブズマン・プログラム運営費用の財源 (単位 百万ドル) 会計年度 連邦政府 連邦政府以外 合 計 1991 19.1 14.9 34.0 1992 21.7 13.4 35.1 1993 21.5 13.7 35.2 10 1994 25.5 16.3 41.8 1995 26.5 14.4 40.9 1996 26.3 15.2 41.5 1997 26.8 16.3 43.1 このことは、わが国でIHDNと類似の仕組みを作り成功させるためには、情報と 経営資源の共有にとどまらず如何にして地域住民参加の社会システムを構築するかが 重要であることを示唆している。 2.IT活用の現状と評価 図表8は、医療機関における情報システム化の流れを示している。わが国の場合、 漸くオーダリングシステムが普及した段階であり、電子カルテシステムの普及率は 1%以下、クリティカル・パスシステムについてはノウハウ蓄積に努め始めたレベル である。 アメリカでも電子カルテシステムの普及は遅れ気味であった。しかし、HIMSS (医療情報管理システム協会)の調査によれば、患者情報を電子カルテ等でデジタル 化し医療全体の効率化を目指す本格的な情報システムを導入済みである医療機関の割 合は、1998年の2%から1999年には11%に急上昇している。入院から退院 までの診療計画を患者に明示しチーム医療による質向上を目指すクリティカル ・パス システムについては、マネジドケアを通じて実績が積まれている。また前述のとおり、 近未来に常識になると想定される地域医療介護圏ネットワークシステムと類似のビジ ネスモデルがIHDNとして実践されている。 図表9は、アメリカにおける医療費請求電子化の普及状況である。医療機関が保険 者に対して請求する事務処理件数は1999年に約47億件であったが、そのうち電 子処理されたのは64.5%である。これに対し、日本における医療費請求事務の電 子処理率は、1999年現在約0.3%(年間事務処理件数12億件のうちの約30 0万件)にすぎない。アメリカで医療費請求の電子化が進んだ背景には、医療機関が 公的医療保険に請求する場合(図表 10)、 「紙による請求であれば28日以内に支払い、 電子化した請求であれば14日以内に支払い」というインセンティブを与えたことが ある。 筆者は、1989年にメトロポリタン社の医療保険部門に取材を行った。その際、 「全米をカバーする医療データベースが遂に完成し今年から稼動する。これにより、 当社の医療保険加入者全員の病歴、投薬歴、医療機関による診療歴等を把握し、コス ト抑制と質の向上を目指すことができる。」と聞いて驚嘆したことを昨日のように覚え ている。単純に比較することはできないが、わが国の保険者の情報システムは10年 前のメトロポリタン社よりも劣っているように思われる。 11 図表8 医療機関における情報システム化の流れ [効果] 医事会計システム(業務系システム) 部門システム(業務系システム) オーダリングシステム(部門統合) ◆コード、通信プロトコルの統一 電子カルテシステム ◆蓄積したデータを活用する技術 ・部門内合理化 ・転記、再入力作業とミスの削減 ・診療行為情報の精度向上 ・診察科をまたがった情報共有 ・外来―入院―在宅の一貫情報 ・紙カルテ管理コストの削減 ◆セキュリティ ◆プライバシー保護 ・疾病統計の基盤整備 ・患者の待ち時間削減 わが国は医療費請求の電子化すら遅れている [医療・介護分野 IT 投資推進上の課題] ・会計業務の迅速化 クリティカル・パスシステム (計画―評価系システム) ・診療行為の標準化 ・チーム医療の強化 ・診療の質とコスト管理のレベルアップ ネック解消 ●全ヘルスケア機関による情報共有 <近未来> ・重複投資、重複受診の排除 地域医療・介護圏情報ネットワークシステム ・公立病院と私立病院の役割分担明確化 ・予防、QOL 重視の体制作り ●地域住民の満足度向上 12 図表9 アメリカにおける医療費請求電子化の普及状況 1995年 百万件 全体 病院 請 求 者 別 内 訳 割合 51% 3,061 64.5% 紙処理件数 1,768 49% 1,685 35.5% 計 3,607 100% 4,746 100% 電子処理件数 320 80% 399 84.5% 紙処理件数 80 20% 73 15.5% 計 400 100% 472 1,077 80% 1,814 88.5% 269 20% 236 11.5% 1,346 100% 2,050 100% 416 27% 789 43% 紙処理件数 1,125 73% 1,046 57% 計 1,541 100% 1,835 100% 電子処理件数 26 8% 66 17% 紙処理件数 294 92% 323 83% 計 320 100% 389 100% 紙処理件数 電子処理件数 歯科医 百万件 1,839 計 医師 割合 電子処理件数 電子処理件数 薬局 1999年 100% 図表 10 アメリカ公的医療保険における医療費請求電子化の普及状況 1995年 百万件 メディケイド 貧困者医療補助制度 メディケア 高齢者医療保険制度 パートA 入院費用 内訳 パートB 医師報酬 1999年 割合 百万件 割合 電子処理件数 600 75% 929 89% 紙処理件数 200 25% 115 11% 計 800 100% 1,044 100% 電子処理件数 617 79% 747 84% 紙処理件数 163 21% 145 16% 計 780 100% 892 100% 電子処理件数 125 95% 147 97% 7 5% 4 3% 計 132 100% 151 100% 電子処理件数 492 76% 600 81% 紙処理件数 156 24% 141 19% 計 648 100% 741 100% 紙処理件数 (出典)図表 9、10 ともに FAUKNER & GRAY’S HEALTH DATA DIRECTORY, 2000 13 3.ヘルスケア市場でもインターネットが革命を起こす 1999年2月、ヘルシオン社がナスダック (アメリカ店頭株式市場)に公開され た。ヘルシオン社は、ネットスケープの創業者として有名なジム・クラークによって 1996年に設立された会社である。医療分野のあらゆる取引にインターネットを取 り込んだのは、アメリカでも同社が初めてである。 前述のとおり、アメリカの医療費請求事務処理件数は年間47億件にのぼるが、こ の1件毎の医療費請求には、被保険者確認、受診が適正な医療機関で行われているか どうかの確認、請求理由の妥当性チェックなど最低7つ以上の取引が関連している。 つまり、ヘルスケア産業における事務処理が必要な取引総件数は年間300億件を超 える。情報化が進んだアメリカにおいても、これら関連取引の大部分は未だ電話、フ ァックス、郵便で行われており、その効率化が課題となっていた。ヘルシオン社は、 この膨大な取引をインターネット上で行うことで管理コストが大幅に節約される(1 /10から1/20)ことに着目したのである。 一方、インターネットを通じて個人の医療情報が交換され始めたことに対して、プ ライバシー侵害の不安が高まっている。このためアメリカ厚生省は、1999年11 月、デジタル化された個人医療情報保護法案を発表、現在関係者からの意見聴取を行 っている。その解説書は600ページを超える大部のため詳細は別の機会に譲るが、 次のようなことが議論の焦点になっている。 ①保護される医療情報の範囲 被保護医療情報は「電子的に転送・保管されている記録」に限定される。従って、全 ての医療情報がこの法律で保護されるわけではない。 ②この法律が適用される事業体の範囲 適用対象事業体はヘルスケア供給機関、保険者、ヘルスケア決済機関の3つであるが、 これらの事業体の取引先にも実質的に規制が及ぶ。 ③他の法律との優先順位 他の法律の規制内容がこの法案より厳しい場合は他の法律が優先される。逆に、他の 法律の規制内容がこの法案と直接矛盾するか被保護医療情報に対する保護の程度が弱 い場合には、この法案が優先する。 ④罰則の強化 従来からある統一医療情報法では、刑事罰を 「一万ドル以下の罰金、1年以下の禁 固」としていた。今回の法案では、 「その犯罪が商業上の利益、個人的利益、悪意の加 害を目的に、個人特定可能な医療情報を販売、転送、使用する意図を持って行われた 14 場合、25万ドル以下の罰金、10年以下の禁固」と著しく厳しくした。 なお、前述したHIMSSの調査によれば、個人医療情報が漏洩する最大の原因は 組織内部の犯行にあり、電子化された医療情報がハッカーにより被害を受けるリスク は意外と小さい。また、専門家の中には「情報保護技術が発達すればむしろ電子化し た方が安全」という意見もある。 インターネットの普及と共に、薬や医療器具を一般消費者向けに販売するオンライ ン薬局が数百誕生した。例えば、承認薬をオンライン薬局から購入することの利点と して次の点があげられる。 (オンライン薬局の利点) ・他の消費財と同様、品物を選択し注文する際のスピードと簡便性、豊富な品揃え。 ・大幅な流通コスト削減の成果が消費者に還元される。 ・患者の家庭のプライバシーを守りつつ薬剤師の相談サービスを受けることができる。 ・オンライン薬局のホームページを通じて、購入した薬の説明文書のみならず、最新 の医療情報に何時でも何度でもアクセス可能。 しかし、中には当局の警告を無視して営業を続ける悪質業者もあり社会問題化して いる。 (危険な悪質業者の事例) ・未承認のエイズウイルス検査器具<不正確な検査結果は弊害が大きい>。 ・家庭中絶キットや不妊キット<出血多量による死亡や出産障害のリスクがある>。 ・サメの軟骨をガン治療薬と称して販売<誇大広告>。 FDA(食品医薬品局)長官は、 「インターネットは消費者に対して製品購入をより 便利に行う多くの新たなオプションを提供した。しかし、同時に脆弱な患者を害する 非良心的な輩たちに巨大な新しい機会を提供している。」と危機感を募らせた。そのた めFDAは、1999年7月、違法なオンライン薬局に対するモニター力を強化し強 制執行など積極的措置をとると宣言、規制強化に乗り出した。 (オンライン薬局規制強化の内容) ・患者が偽医者からではなく適法な店から買っていることを確認できるようにインタ ーネットで情報提供する。1999年12月、そのための「消費者アドバイスWeb ページ」を開設した。 ・消費者や医療関係者からの通報があればFDAが直ちに問題があるとされるオンラ イン薬局を査察する。 ・FDAと州政府が連携して取り締まりにあたる。 15 4.消費者への徹底した医療情報提供 1999年10月、アメリカ医師会は、インターネットによる医療情報提供会社「M edem」を設立すると発表した。出資者にはアメリカ医師会のみならず眼科学会、 小児学会、アレルギー・喘息・免疫協会、産婦人科協会、精神病協会、整形外科協会 が加わっている。 2000年から営業開始するMedem社の使命は、「最も信頼できる医療情報を 提供することで医師と患者の信頼関係向上のインフラ整備を行い医療の質を高めるこ とにある」とのことである。これには、患者が医師に対面する前に医師の知識と同レ ベルの情報を獲得できるようにすることで医師側のスキルアップ努力を促す狙いがあ る。確かに、一般消費者のうち医療情報の提供を受けて医師と対等に議論できる人は ごく一部にすぎない。しかし、1999年11月ニューオリンズで開催されたアメリ カ健康保険協会のフォーラムでは、「医療情報提供と医師のアドバイスにより診療内 容を自ら選択できる患者が1∼2割いるのであれば、医師側は全ての患者が豊富な情 報を持っていると想定して真摯に対応しなければならなくなる」という考え方が多数 説であった。 アメリカ厚生省は、1998年12月、大規模な診療ガイドライン・データベース 構築を開始した。2000年3月時点で承認された診療ガイドラインは700症例を 超える。診療ガイドラインは、対象となった疾病の診療内容の標準モデルと位置付け られる。医師は、患者に診療内容や手術の選択肢を説明するにあたり、常に診療ガイ ドラインを念頭に置く必要がある。診療ガイドラインどおりに診療する義務はないが、 診療ガイドラインと異なる診療を行う場合は根拠を明確にすることが求められる。ま た、一般消費者は、インターネットで診断ガイドラインを何時でも無料で見ることが できる。このデータベースが完成した時の医療現場に与えるプラス効果は計り知れな い。 アメリカでは全ての医師の個人情報をインターネット上で買うこともできる。Me di−Net社のWebサイトによれば、医師個人情報1件あたり価格は14ドル7 5セントである。その情報内容には、医師の学歴、訓練歴、勤務歴に加え、医療過誤 賠償などの訴訟歴まで含まれている。従って、一旦悪評が立った医師がリカバリーす ることは難しい仕組みになっている。驚くべきことに、その情報源の1つはアメリカ 医師会自身である。 読者に是非見てもらいたいのが、エトナUSヘルスケア社のWebサイトである。 同社はジョンホプキンス大学との合弁事業で200万ページの医療情報を提供してい 16 る。一般消費者から専門家に至るまで全てのニーズに応えられるよう医療情報が網羅 されている。前述した医師の個人情報に加え、最寄りの病院の評価情報にもアクセス 可能である。 医療の質と対費用効果を購入者である患者自身が評価できない「情報の非対称性」 の問題が、依然と残っていることも事実である。しかし、アメリカの場合、消費者に 対する徹底した医療情報提供により「情報の非対称性」が解消されつつあるように思 われる。 Ⅳ.日本版IHDNのイメージ 1. 情報と経営資源の共有 図表 11 は、医療先進国アメリカの最新事情をヒントに筆者が考案した日本版IH DNのイメージである。その仕組みの特徴は次のとおりである。 その地域医療介護圏で事業展開している全ての 種類のヘルスケア事業者で情報ネ ットワークを構築し、地域住民の医療介護情報を共有する。 患者情報をその患者に医療介護サービスを提供する事業者間で共有することにより、 過剰診療の排除、重複投薬の副作用防止などを通じてコスト抑制と質の向上を同時に 追求することが可能となる。情報共有のインフラとして全国共通の電子カルテとイン ターネットの活用が重要である。全国共通の電子カルテ体制が実現すれば、転居した り現住所以外の地域で病気になったりしても、インターネットにより患者情報を転送 し即座に診療に結びつけることができる。電子カルテは、わが国が立ち遅れている医 療データベース構築のインフラでもある。 専門人材を共有する。 現行制度では各病院は看護婦などの専門人材を業務のピーク時に合わせて確保する ことを強いられている。一方、同じ地域にある病院でも繁簡の時期がズレており、特 定時点をとって見ると、A病院では人手不足だがB病院では余剰人員がいるといった 事態が発生している。このようにピーク時に合わせて人員確保しなければならない仕 組みは、とりわけ私立病院の経営圧迫要因であるのみならず、地域医療介護圏全体か ら見ても非効率である。そこで、コア部分の専門人材は各病院が雇用する一方、バッ ファーとなる部分はIHDN運営会社傘下の人材派遣センターに所属させることが有 効と思われる。このようにすれば専門人材の勤務条件改善につながり時間に余裕が生 まれることから、再教育の機会提供も容易になる。 17 図表11 日本版IHDNのイメージ図 人材派遣センター IHDN運営会社 ― 国保が母体 ― ①保険者機能 ②企画調整機能 ③質とコストの評価機能 ④教育機能 18 検査機関 全国共通電子カルテ + インターネット 薬局 経営資源の共有 精神病院 専門病院 一般病院 中核病院 情報の共有 自治体 地域住民 診療所 介護施設 連携 在宅ケア業者 サービス供給機能 オンブズマン機能 身障者サポート施設 NPO IHDN運営会社には保険者機能、企画調整機能、質とコストの評価機能、教育機 能の4つの機能を持たせる。 このうち企画調整機能とは、その地域医療介護圏におけるヘルスケア供給体制の計 画作成・実行である。具体的には、各ヘルスケア供給事業者の役割分担を明確にした 上で過剰投資が発生しないように調整する等の仕事を指す。 ヘルスケア供給事業者の役割分担で重要な点は、公立病院が私立病院の経営を圧迫 しつつある状況を是正することである。わが国の私立病院は診療所から成長してきた ものが多く、地域医療介護圏での役割が必ずしも明確になっていない。一方、地方自 治体が経営する公立病院は、累積赤字が1兆円を超えているにもかかわらず、医療技 術の高度化に対応する等の理由から税金投入による設備投資を続けている。放漫経営 の公立病院に税金を追加投入するのであれば、納税者である地域住民に経営情報を公 開しその意思決定に参加させる必要がある。制度運営の欠陥から私立病院を窮地に追 い込むことは医療資源の非効率の一因となり、地域住民の損失につながる可能性があ る。これを打開するためには、公立病院と私立病院の役割分担の明確化に加え、独立 採算の原則の下に公立病院の運営コストがその地域医療介護圏の保険料に反映するよ うにする必要がある。IHDNは、そのような改革を地域住民が自治体当局と一体と なって実行する仕組みに他ならない。 なお、教育機能は、地域住民に対する医療情報提供とヘルスケア専門人材のレベル アップの2つを含んだ概念である。 IHDN運営会社の経営には自治体が責任を持つ。 IHDN運営会社の母体は既に現行制度下で地域保険の役割を果たしている国民健 康保険にすることが適当と思われるからである。 地域住民にはNPOのボランティア活動を通じて貢献することが求められる。 アメリカの事例で述べたとおり、地域住民のボランティアによるマンパワー確保は、 サービスの質の向上とコスト抑制に不可欠である。 2.IHDNプロジェクトの留意点 このようなIHDNをわが国で構築するためには、その企画・設計上のインフラで 解決しなければならない様々な問題がある。例えば、厚生省が現在取り組んでいる次 のような課題について前倒しで行う必要がある。 (取り組み課題の例) 電子カルテ用語の標準化、医療情報保護に関する個別法制定 19 レセプト提出の電子化、診療ガイドラインのデータベース構築 医療の原価分析、ボランティアや介護オンブズマンの支援 これらの課題が全て解決されることを待っていては、本格的なIHDN構築のため のノウハウ蓄積は進まない。そこで、自治体、住民、医療機関等の協力を前提に特定 地域でIHDNの実験プロジェクトを行う必要がある。 実験地域の選定方法としては自治体に立候補させることが適当である。実験地域は、 医療機関に電子カルテのフル活用を義務付けること、公立病院の合理化、自治体とN POの連携の仕組み作り等、政策意図を反映した条件をクリアーする必要があるから である。また、大都会、地方など性格の異なる医療介護圏を複数選定することもノウ ハウ蓄積には重要である。 このようなプロジェクトに必要な予算は、公費負担の対象をサーバー、端末機器の レベルに限定しプログラム開発費用を民間負担とするならば、数十億円程度と小さい。 3.IHDNプロジェクトの効果 IHDNプロジェクトの効果として次の4つがあげられる。 第 1 に、医療介護分野で無駄を排し国民の満足度を高めることは経済全体の効率化 につながる。前述のとおり、アメリカの国民医療費は名目GDPの13.5%を占め 1兆1000億ドル(120兆円)と巨額である。仮にその1割に当たる1100億 ドルが効率化され医療介護の追加財源または他産業の投資に振り向けることができる とすれば、マクロ経済に対するプラス効果は計り知れない。わが国の国民医療費30 兆円についても同じことが言える。他産業に比べてIT活用が遅れている医療介護分 野を効率化することは、日本経済再生の条件なのである。 第 2 に、IHDNには地方自治体統廃合促進材料の1つになる可能性が秘められて いる。現在3千以上ある国民健康保険は自治体が保険者になっていることから、加入 者規模に大きな格差がある。ちなみに「国民健康保険の実態(平成10年度版)」によ れば、町村が運営する国保の平均加入者数は4千人であり、地域住民全体で保険リス クを負担できない小規模な国保の統合が急務となっている。一方、IHDNを効率的 に運営するためには、加入者数を少なくとも市が運営する国保の平均である 3 万人以 上確保する必要がある。介護保険導入に伴い類似の議論が既に始まっている。従って、 IHDN構築を契機に地域住民自身によるコミュニティ作りの真剣な話し合いが一層 促進されるのではと期待できる。 第 3 に、近未来社会で確実視される医療介護IT投資を顕在化・促進させる。わが 20 国における医療介護ITの年間投資額は、国民医療費の1%弱にあたる約2500億 円と推計される。IHDN構築のためのインフラが整備されれば、国民医療費に対す る医療介護IT投資の割合が少なくともアメリカ並みの2%に上昇する潜在需要は十 分にある。 第4に、医療情報専門家を中心に雇用が創出される。IHDNを成功させるために は、臨床とシステムの両方を熟知している人材を多数育成する必要があるからである。 これは、21世紀のデジタル経済に有用な人材が増加することを意味する。 Ⅴ.おわりに 図表 12 は、わが国の医療産業の貿易収支を表わしている。1998年度実績で見 ると、全産業の貿易収支が16兆円の黒字であったのに対し、医療産業は1兆円を超 える赤字である。対米貿易収支も全産業が7兆2千億円の黒字であったのに対し、医 療産業は5千億円を超える赤字である。また、1990年以降医療用具の貿易収支が 黒字から大幅赤字に転落し、その大半が対米であることが目立つ。図表 13 は、アメ リカからの医療用具輸入拡大の品目別内訳である。医療用具の対米輸出が約1千億円 で頭打ちとなっている中で全ての品目で輸入が急増していることから、医療産業の競 争力は、アメリカの圧勝、日本の完敗と言わざるを得ない。 1999年7月、米国健康保険協会のヴァンゲルダー女史に6年ぶりにお会いした 際、次の指摘を受けた。 「アメリカが医療費膨張に苦しんでいた1990年頃は日本の医療システムが理想と 考え、あなたに随分教えてもらった。しかし、この10年間でアメリカがマネジドケ アにより医療の効率化に一応の成果を挙げたのに対し、日本は改革を先送りするのみ で制度破綻を招いている。今では、競争原理の下でコスト抑制と患者満足度向上を同 時に追求するアメリカ方式の方が規制で医療費コントロールを目指す日本方式より優 れていると確信している。ただし、別の意味でこれから日本が行う医療改革や公的介 護保険導入に注目している。なぜなら、日本の高齢化のスピードは他の先進諸国が経 験したことのないものである。日本がどのような方法で高齢化のインパクトを克服す るかを観察することは、アメリカの将来の政策に大いに参考になるからである。」 「日本が高齢化を如何に克服し、再生の活力に転換するかを諸外国が注目している」 ということを念頭におきつつ本稿執筆を行ったしだいである。 21 図表 12 医療産業はアメリカの圧勝、日本の完敗 1985年 億円 A国内生産金額 医 療 用 具 億円 1998年 対米 % 億円 55,954 対米 % 58,421 305 100 357 100 426 100 28 9.2 19 5.3 36 8.5 (3)輸入 3,090 100 4,695 100 5,662 100 (4)うち対米 1,200 38.8 1,244 26.5 1,027 18.1 (2)うち対米 B貿易収支 ▲ 2,785 ▲ 4,338 ▲ 5,236 C対米貿易収支 ▲ 1,172 ▲ 1,225 ▲ D国内生産金額 9,682 12,742 (5)輸出 2,071 (6)うち対米 808 991 15,214 100 2,898 100 3,273 100 39.0 1,014 35.0 1,048 32.0 (7)輸入 1,894 100 2,887 100 8,345 100 (8)うち対米 1,135 59.9 1,656 57.4 5,299 63.5 E貿易収支 177 11 ▲ 5,072 642 ▲ 4,251 49,700 68,696 73,635 貿易収支 ▲ 2,608 ▲ 4,327 ▲10,308 対米貿易収支 ▲ 1,499 ▲ 1,225 ▲ 5,242 F対米貿易収支 ▲ 国内生産金額 合 計 対米 % 40,018 (1)輸出 医 薬 品 1990年 327 ▲ (出典)薬事工業生産動態統計年報より作成。図表 13 も同じ。 図表 13 アメリカからの医療用具輸入拡大の品目別内訳 1990 年 (単位 億円) 1998 年 増加額 処置用機械器具 412 1,174 762 手術用品、外科、整形外科用品及び関連製品 301 891 590 生体機能補助 ・代行器 184 823 639 眼科用品及び関連製品 59 521 462 医用放射線関連装置及び製品 81 463 382 画像診断用装置 77 394 317 医科用鋼製器具 62 216 154 生体現象監視用機械器具及び装置 30 100 70 450 717 267 1,656 5,299 3,643 その他 合 計 22 (参考文献) 厚生省編(各年度版) 『厚生白書』ぎょうせい 医療経済研究機構監修(各年度版)『医療白書』日本医療企画 医療経済研究機構監修(1998 )『米国のヘルスケア・ビジネス』法研 医療経済研究機構(1999)『医療と福祉の産業連関分析報告書』医療経済研究機構 日本医療情報学会 10 周 年 記 念 出 版 編 纂 委 員 会 & 医 療 情 報 シ ス テ ム 開 発 セ ン タ ー 企 画・編集(1996)『医療情報学』日本医療情報学会 尾形裕也(2000)『21世紀の医療改革と病院経営』日本医療企画 広井良典(1997)『医療保険改革の構想』日本経済新聞社 川渕孝一(1997)『医療保険改革と日本の選択』薬事日報社 李啓充(1998)『市場原理に揺れるアメリカの医療』医学書院 西田在賢(1999)『マメジドケア医療革命』日本経済新聞社 二木立(1998)『保健・医療・福祉複合体』医学書院 厚生省健康政策局監修(各年度版)『薬事工業生産動態統計年報』薬業経済研究所 国民健康保険中央会編集(各年度版)『国民健康保険の実態』国民健康保険中央会 国立社会保障・人口問題研究所編集(1997)『日本の将来推計人口』厚生省統計協会 自治体病院経営研究会編集(1999 )『自治体病院経営ハンドブック 』ぎょうせい 自治省編(1999)『平成 11 年度版地方財政白書』 Al-Assaf A.F. 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