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No.20 - 青山学院大学山岳部

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No.20 - 青山学院大学山岳部
緑 ケ丘 通 信
青 山学 院 大 学 体 育会 山 岳 部 O B会
31「 1
昭 和 58年 12月
発行所
緑 ケ丘 山岳 会
〒103 東京都中
央区日本橋3213
(有 )中 条印刷所内
理事 長
鈴木
こば し い。 いま厚 木 に、 山 岳 部 員 の
ト レ ー ニング のた め の、 あ る施 設 を
作 って頂 く こと を 学 校 側 にお願 いし
て いる が、 これ が出 来 れば ま た青 山
現 実 にな る か ど う か は、 と にか く と
は新 し い話 題 を提 供 す る こと と な ろ
う。
若 いO B諸 君 の努 力 で、 今 日ま で続
け ら れ てき た こと に、 敬 意 と 感 謝 を
表 し た い。
昨 年厚 木 に分 校 が でき て、 体 育 会
し て、 矢 張 り これ は我 々が 絶 えず 考
え て いき た い こと だ と 思 って いる。
私 は O B諸 君 に、 ま た 現 役 の諸 君
に幾 つか の夢 を 抱 い て いる。 そ れ が
の活 動 な ど 一体 ど う な る のか と 思 っ
た が、 な ん と か う ま く 運 用 さ れ て い
そ の 一つは遭 難 の絶 滅 であ る。 遭
難 す ると 思 って山 に入 る者 は 一人 も
あ と に、 創 刊 さ れ た と 思 って いる。
も う 八年 近 く にな ろ う が、 そ の間 、
丘 通 信 が 二〇 号 を 迎 え た。 私 の記憶
では、 O B会 の現規 約 が制 定 さ れ た
O B会 の会 員 相 互 を 結 ぶ こ の緑 ケ
﹃
緑 ケ 丘 通 信 ﹄第 二0 号 を 迎えて
No.20
る ようだ し、 現 役 諸 君 の活 動 が、 次
第 に活 発 にな ってき て いる こと は喜
いな い。 が 現実 は 遭 難 は起 って いる
のであ る。 こ のた め には、 ま ず 現 役
諸 君 に、 体 力 、技 術 両 面 にわ た って
の基 礎 訓 練 を 徹 底 的 にや って貰 う こ
と が第 一であ る が、 O B会 と し ても
現 役 諸 君 に対 し て の指 導 教 育 を 日頃
か ら疎 か にし な いよ う に心 掛 け ねば
な ら ぬし、 そ し てあ っては な ら ぬが
万 一に対 し て の対 策 を普 段か ら考 え
準 備 し てお く こと、 これ は O B会 の
義 務 であ ると さ え 思 って いる。 今 夏
の アク シデ ントも 、
一つ間違 えば 大
変 な こと にな った筈 であ る。 更 に 一
言付 け加 え さ せ て貰 えば 、 こ の遭 難
対 策 は な る べく 早 い時 期 に、 短 大 、
高 等 部 を 含 め たも のにま でし な け れ
ば な ら な い。 関 係 者 のご 理解 を得 て、
そ の道 を 拓 き た いと念 願 し て いる。
更 に夢 を 語 れ ば 海 外 遠 征 が あ る。
青 山 も 十 年 に 一回 ぐ ら いは や れ な い
も のだ ろ う か 。 更 には山 小 屋 の建 設、
これ は O B会 でも 話 題 にな って いる
が ま だ 夢 の段 階 であ る よ うだ 。
こう し た いろ いろな夢 を 理実 のも
のと し て いく そ の力 は、 即 ち O B会
の力 であ ろ う 。 O B会 に力 が な け れ
ば 、 ど ん な夢 も 夢 で終 ってし ま う 。
従 ってO B諸 君 の結 束 を よ り強 いも
のと し て、 O B会 により 力 を つけ る
努 力 を 私 は会 員 の皆 さ ん と とも に や
って いき た いと 願 って いる。
☆ 会 費 納 入 のお 願 い
今 年 度 O B会費 を ま だ 納 入 さ
れ て いな い方 、 至急 お 振 り 込 み
下 さ い。
何 かと 出 費 の重 な る 時 期 と は
存 じ ま す が 、 O B 会 の運 営 に 支
障 を き た し てき て いま す の で 、
是 非 と も お 願 い致 し ま す 。
ま た 、前 回 の ﹁
通 信 ﹂ でお 送
り した 歌 集 の制 作 費 に カ ンパ を
お 願 い致 しま す 。 す でに会 費 を
同 時 にご 協 力 下 った 方 も お り ま
す が 、 皆 様 よ ろ し く お 願 い申 し
上 げ ま す 。︵一□ 五〇 〇 〇 円 です
が 、 金 額 はと いま せ ん ︶
幹 事 長代 行 下 河辺史 郎
会 計 担当 幹 事 安 本 出
ク 若 杉 延 夫
●お 振 り 込 み先
富 士 銀行
八
重
州 □支 店
普通預金 一一一
四 ︲五四八四七八
青 山 学 院 大 学 緑 ヶ丘 山 岳 会
中 條好 司
-1-
行
発
す ぎ 、 こ こに第 二〇 号 を 刊 行 す る に
至 りま した。
今 、 創 刊 号 を 見 ると 、 発行 日は 昭
緑 ケ丘 通 信 を 発 行 以 来 、 七 年 半 が
苦 労 は 大変 なも のだ と 思 いま す 。 あ
る程 度 の企 画 を し、 原 稿 を 集 め、 時
には 自 身 で筆 を と り 、 情 報 を 集 め、
信 であ っても 、 それ を編 集 し て いく
栗 林 、 下 河 辺 と 御 子 息 、 西堀 と娘
さ ん、 藤 沼、 石 黒 、 安本
ま した。
□参 加 O B
0 0
曜 日だ った のが 、 昭 和 8
5年 1月 3 日
は ″
本 当 の 日曜 日 〃だ った の です 。
変 わ った のは 登 山 界 では な く 自 分 自
身 であ る事 を つく づ く 思 い知 ら さ れ
ンのな い結 末 にな り ま し た 。 社 会 人
になり 山 か ら離 れ て3年 目 登 山 界も
変 ったも のだ と 思 いま し た。 が、 よ
く考 え てみ る と 学 生 時 代 は 毎 日が 日
な山 ︵前 回 は山 頂 ま で 一人 の人 も 合
わ なか った。︶の中 で各 々語 り合 え る
場 を 企 画 し て いた の です が 、 実 際 は
ラ ッシ ュ、 太 っ腹 ? 宴 会 等 甚 だ ロ マ
広 が る平 野 等 が我 々 の目 を 和 ま せ ま
す 。 しば ら く のんび り し た 後 、 帰 路
は 一気 に鳩 の巣 駅 へ。 4時 着 。
とも かく 当 初 は 青 空 、 紅 葉 、 静 か
″
養 老 乃 瀧 川苔 山 店 ″と いう感 じ で
し た 。 我 々も 負 け じ と ビ ー ルを 買 い
こみ 、隣 の曲 谷 北 峰 で登頂 の祝 杯 を
あげ ま し た 。 混 雑 し て いる と は いえ
紅葉 し た奥 多 摩 のなだ ら か な山 稜 、
て いる パ ー テ ィ ーも あ り、 さ な が ら
一杯 で中 には鍋 を つ つき 酒 盛 り を し
ズ太 中四︵
由
昭和6
5年卒︶
,
奥多摩 懇 親山行 の報 告
0月 0 日、 栗林 O B他 8名 の
去 る1
3
参 加 者 に よ り、 奥 多 摩 川苔 山 に て0
B会 懇 親 山 行 が 行 わ れ ま し た 。 川 苔
山 は私 が 学 生 時 代 、 最後 に登 った 山
でせ せ ら ぎ の音 、 澄 んだ 青 空 を バ ッ
ク に眩 いば か り の紅葉 等 の印 象 的 な
静 か な山 でし た 。 今 回も 前 回 と 同 じ
が 美 し く な るが、 人 も 増 し、 所 々伐
採 が 進 む 等 少 々興 を削 が れ ま し た 。
、
、
2
︲時 半 頃 山 頂 に着 き ま す が 人 で
チ に誘 わ れ て百 尋 の滝 手 前 ま で 一本
で行 き ま し た 。
百 尋 の滝 か ら は山 道 ら し く な り 山
頂 に近 づ く に つれ 展 望 も 広 が り 紅 葉
つ腹 ? に喘 ぐ 。 それ でも 、 川 苔 谷 沿
い の道 を よ う やく 色 づ き 始 め た 紅 葉
を眺 め な が ら栗 林 O B の軽 快 な ピ ッ
多 摩 駅 よ リ バ スに乗 り 川 乗 橋 で降 り
ると 林 道 歩 き が始 ま る。 久 し ぶ り の
林 道 歩 き 、 昔 は重 荷 に喘 ぎ 、 今 は 太
と 同時 に轟 音 と共 になだ れ こむ そ の
光 景 は さ な が ら 通勤 電 車 でし た 。 奥
に分 れ て立 川 駅 に て合 流 。 青 梅 線 の
ホ ー ムは 既 に人 だ か り で、 電 車 到 着
の ル ートを 登 り ま し た 。
午 前 7時 新 宿 駅集 合 、 先 発 、 後 発
Ⅶ
渤
戯
肉
叫
敏
祈
野
蒙
い
豹
耐
蜘
乱
風
耐
手 元 に集 った原 稿 の文 字 数 を 数 え、
ま
レ イ ア ウ トを し 、
あ き が あ れ ば 埋
足 な いよう にし、 あ て名 印 刷 を し 、
封 筒 詰 め、 切 手貼 り 、 そし て、 よ う
やく ポ スト に ⋮ ⋮。
これ は、 やは り、 面 倒 な こと です 。
そ の気 にな ら な け れ ば 、 な か な か で
担 当 者 にと って企 画 、 原 稿 集 め が
最 も 苦 労 す ると ころ です 。 今 号 の最
終 ページ に掲 載 し て いる ア ンケ ー ト
き な いも のだ と 思 いま す 。
り し た。
ま
﹁通 信 ﹂ の編 集 は何 人 か の編 集 担
ヘの回 答 、 さ ら に投 稿 を 是 非 と も お
お 願 い申 し 上 げ ます 。
も う 亡 く な ら れ た方 の文 章 も いく
つか あ り ま す 。 海 外 登 山 、 遭 難 も あ
ます 。
ぞ れ抱 負 を 述 べ て いま す 。
以来 、 ﹁通 信 ﹂ は 年 間 3 回 く ら い
の発 行 回数 を 重 ね、 現在 に至 って い
角 田新 監 督 が 、 あ いさ つに立 ち それ
め る算 段 を し、 写植 や タ イプ の手 配
を し 、 校 正 を し て間 違 いを直 し 、 印
刷 に回 わす 。 さ ら に封 筒 を 絶 え ず 不
幹事会 「通信担 当」
和 ︲年 6 0 日と な って いま す 。 巻
月
5
1
頭 の記 事 は ﹁︲
5年 度 総 会 開 催 さ れ る﹂
と あ り 、 そ の中 で、 徳 久 部 長、 坂 岡
新 会 長 、 鈴 木 弘 新 理事 長 ︵理事 会 は
こ の年 に発 足 し た ︶ 、 西 村 幹 事 長 、
7年 余
当 の幹 事 か ら幹 事 へと 引 き 継 が れ て
き た わ け です 。 た か が数 ペ ージ の通
-2-
20疑計
鹿 島槍 北槍 の登攀
大塚 ・ 中隈両先輩 の記録 に つい て
勺
武 昭和
"年
・日本 山 岳 会 ルー ムで山 岳 史 の権 威
であ る山 崎 安 治 さ ん に会 った。 ﹁青
山 学 院 のO B で大 塚 さ ん と いう人 、
知 って いる か 。﹂ とき かれ、﹁会 った
事 は な いが知 って いる。﹂と 答 え た。
す ると 、 ﹁誠 に申 し わ け な いが、 私
の調 べたと ころ によ る と 厳 冬 期 の北
槍 を 初 登 攀 し た 人 ら し い の で、 そ の
記 録 と感 想 を書 いて会 報 に のせ た い
んだ け ど た のん でも ら え るか 。﹂ ﹁
出
来 るだ け や ってみま す 。﹂ ⋮ ︰。
誠 にはず か し い話 であ るが 、 我 が
青 山 学 院 の先 輩 が そ ん な事 を や って
いる と は夢 にも 思 わ な か った ので、
す ぐ O B に電話 し てみ た。 何 人 か の
人 に聞 いた が よ く わ か ら な いと いう。
一日 ︵
金 当日山 学 院 に て会 合 が あ ると
そ れ では何 を お いても 大 塚 さ ん に連
絡 を と ろう と 思 い、 電 話 し た 。 四月
いう の で、 そ こ で会 う こと にし た。
いそ が し いさ な か会 った の で、 二十
分 位 し か話 せ な か った が、 快 よく 引
受 け てく れ て、 ルー トが わ か る写真
ま で用 意 し てく れ た 。 数 週 間 の後 に
原 稿 が 届 いた ので、 早速 会 報 の岡 沢
さ ん に事情 を話 し て山 崎 さ ん に渡 す
よ う にた のんだ 。 五 月 号 に出 る のか
と 思 って いた ら、 忘 れ た頃 六 月 号 の
一面 に山 崎 さ ん の山 岳 史 の背 景 入 り
で そ の文 が載 せ ら れ て いた ので大 塚
さ ん に送 附 し た。 数 日後 、 大 塚 さ ん
よ り 電 話 が あ り、 中 隈 さ ん と 何 十 年
振 り か で会 う の で こな いか と さ そ わ
激 し て涙 を な が し な が ら当 時 の思 い
出 話 を 語 って いた 。 自 分達 の計 画 が
為冬 山 のな ん た る か を し ら ず、 大 塚
登 行 は言 葉 も 出 な い程 の先 見性 を 感
ず る。 恐 ら く そ の後 の厳 冬 期 と いえ
ども 、 こ の ルー トを 使 って北槍 に登
計 画 のす ば ら し さ を 感 ず る とと も に、
今 ま だ誰 れ も 登路 と し て使 った事 の
な い こ の ル ンゼ を スキ ーを使 って の
行 はき いた事 が な い。 それも 鹿 島 槍
と 言 った ら南 峰 を さ し て いた時 代 に、
あ え て北 峰 を ね ら った と ころ に こ の
各 大 学 の優 秀 な パ ー テ ィが 鹿島 を き
わ め て いる が 、
一年 生 を 連 れ て の山
った根 性 は ま った く 頭 のさ が る思 い
が す る。 それ も 山 の こと は ほと ん ど
し ら な いと いう 一年 生 を 連 れ て の登
行 は相 当 難 儀 を し て いる の では な か
ろう か。 こ の当 時 立 教 大 学 を は じ め
は考 えも 及 ば な いく ら い急 な ルンゼ
状 のと ころを 雪 崩 を 気 にし なが ら 登
出 なく な って いた の で、 こ の記録 は
レポ ート Ⅱ号 に簡 単 に のせ たも のら
し い。 記 録 を み ると 、 と ん でも な い
高 度 ま で スキ ーで登 って いる。 今 で
た のか、 ま ったく 知 ら ず に登 り た い
か ら登 った と いう感 じ であ った ら し
い。 ﹃尾根 伝 い﹄も 、 そ の頃 にな る と
当 時 ど う だ った のか、 初 登攀 だ った
のか、 記 録 的 に価 値 が あ るも のだ っ
さ ん の指 示 ど お り歩 いた事 。 次 か ら
次 へと話 が つづ いた 。 中 隈 さ んは感
れ た 。 お 二人 の山 の話 を 聞 く た め よ
ろ こび 勇 ん で会 合 場 所 へ出 掛 け た 。
大 塚 さ ん と は 二度 日、 中 隈 さ ん と は
初 対 面 であ った 。赤 坂 の﹁ね ば す け ﹂
と いう料 亭 で心 ゆく ま で酒 を く み か
わ し な が ら、 次 か ら次 へと 山 の話 が
つづ いた 。
そ の当 時 山 行 は ガ イ ド付 の山 行 が
多 く 、 自 分 達 は ガ イ ド レ スで行 こう
と は り き って いた事 。 先 輩 に鹿 島 槍
は い い山 だ か ら や ってみ た ら ど う か
と 針 ノ木 山 行 で いわ れ た 事 。 中 隈 さ
ん は高 校 時 代 ラグ ビ ーを や って いて
体 が し っか り し て いた事 。 ト レ ー ニ
ング を 赤 坂 の スケ ート リ ンク で行 っ
た事 。 バ ラ ン スが よく な ると いう の
で い っし ょう け んめ いや った 。 偵 察
に何 回 も 鹿 島 に行 った事 。 スキ ーを
出 来 るだ け使 用 し、 可能 な 限 り上 部
ま で スキ ー利 用を 心 が け た事 。 こ の
ルー トか ら の鹿 島 槍 は地 元 の人 でも
あ ぶ な が って近 よ ら な か った事 。 帰
途 中 隈 さ ん のザ ックが とば さ れ てし
ま い、 大 塚 さ んか ら手 袋 を 借 り た事 。
そ れ ら が原 因 で凍傷 を負 った 事 。 帰
途 は さ ん た ん た る状 態 で下 山 し てき
た事 。 中 隈 さ ん は そ の凍 傷 が原 因 で
しば ら く 山 に いけ な か った事 。 当 時
四年 生 の大 塚 さ んが計 画 し た が 仲 間
が いな か った の で、 一年 生 の中 隈 さ
んを 連 れ て い った事 。
一年 生 であ る
-3-
6月 号 (No.456)
蝦 日本 山岳 会
The Japanese Alpine Club
定価一部 150円
次
Trf鵠
厳 冬 期 鹿 島 北 槍 の登 頂
︵北俣本谷より︶
大 塚 信 久
…
を
呑蠅 靴・苦
甚
ミ
:S
I」
(10)∼
(6)(10)
〉日本山岳会事務取扱時間
月,火 ,木 ,土 曜 10時 ∼20時
13時 ∼20時
水 ,金 曜
不登 の記録 は除
のようにな る。 ︵
日曜・奈 日・月曜を除
鬼露是20時
、
`´
‐
,″ ●
´´
ら′
´
・′´^′・′
ヽ
.′ ′´
'^´ ´´ン・^′・′
墾
騎み
』
墨奮
ミ〉
いた︶
一
①大 正十五年 二月 二十 一日、
高旅行部浜 田和雄、石原巌、鹿島
村 から爺岳を経 て積雪期初 登 ︵
石
原氏 は ﹁三局旅行 部 五 十 年﹄ の
﹁雪 の鹿島槍 ヶ岳 ﹂に ﹁ようやく
鹿島槍 ヶ岳北峰着、午 後 二時 二十
分、 ン
れま でが精 一杯 であ った﹂
﹂
と書 いているが、北峰 とあ るのは
鹿島 山荘︶ に泊 っ の ﹁昭和 五年 十 二月十 八日、快晴 南峰 であ る︶
おばば の家 ″ ︵
狩野きく能 を迎 ひ鹿島槍 ヶ岳 に登頂す。昭和
②昭和五年 二月 二十 二日、立大
たとき、 まだおばば ︵
さ ん︶は元気 で、有名 な ﹁登高 記 五年十 二月 二十 六日﹂と いう記帳 逸 見真雄、小原勝郎、案内桜井 一
念帳﹂を 見 せても ら った ことが あ など いく つか ノートに書 き留 めて 雄、鹿島村 から北 俣中岩 沢を つめ
昭和 七年十 二月 国境尾根 に立 ち鹿島南槍積 雪期第
る。おばばが 亡くな った のは昭和 きた。そ の中 に ﹁
五十 二年 一月だから、 そ の 一年 ほ 二十 四日、青 山学院 山岳部大塚信 二登。
③昭和五年 四月 三日、神 戸商大
ど前 の夏 のことだが、堀 田弥 一氏 久、中 隈武夫、鹿島造林小舎を出
発、笹喰 より左俣を登 り、ゴ ルジ 田中伸 三、藤井隆蔵、 富 川 清 太
ュ状 の に スキー ・デ ポす。斜面 郎、鎌 尾根 から第 二登。
上
北槍 と南槍
④昭和 五年十 二月十 八日、立大
急 にして非常 に悪 し ︵
の間 のゴ ルジ ュを登 り 北 槍 に 登 斯波悌 一郎、堀 田弥 一、案内桜井
頂
モしてあ る。 ソ 内
雄、鹿島造林小屋 より鎌 尾根を
ご
と
カ
コ
一
メ
はも っ 詳 しく記さ れていた のを
て厳冬期初 登。
と
経
要点だけ書 いたも のだが、積雪期
⑤昭和 六年 一月 一日、東京商大
の鹿島槍 ヶ岳 登頂 の記録を集 めて 磯 野計蔵 ら、案 内山中彦 一、爺岳
み ると、厳 冬期 の鹿島北槍 に、北 小屋 から国境線伝 いに厳冬期第 二
俣本谷をダ レクトに登 り、 吊尾 登 。
イ
根 に達 し登頂 した のは青 山学院 の
⑥昭和 六年 二月十 二日、加藤文
記録が最初 のも のであ った。
太郎単 独 で鹿島村 から冷池を経 て
積 雪期 の鹿島槍 登頂 の年譜は次 厳冬期第 二登。
青山学院の鹿島槍の記録
山崎安治・… (1)
新緑の河内で
播隆上人顕頌砕除幕式
富山支部……(2)
一海外の山から一
… …(2)
メスナーの意欲 …… ……
カナダ山岳会
夏季キャンプ参加記 (下 )
斎藤健治…… (3)
門田のアイゼ ンが世に出た頃 (_L)
広i頼 潔 ¨ (4)
東西南北 ……・……………………… …(5)
第二十回
この一本展 (1)図 書委員会 (6)
報告 指導委,図 書委 … … … … (7)
○︶
︱西俣 出 合︱笹 喰 六六 ・〇〇︶ス キ ー ・デ ボ
︱造林小屋 ︵八 ・三
︱北槍 ︵三 。○○︶
︵二 ・〇〇︶
〇︶
基地を鹿島村より造林小屋 へ移す。西俣出合 ︵二
俣 ︶ への道は夏道を避け沢筋 にとる。水量少なく渡
渉数 回、二俣より笹喰までは夏に見られた数米 の岩
石も檀雪に埋もれて起伏もない純白 のスキーゲレン
デ である。高度を増す につれて笹喰付近は亀裂が生
しており粉雪が舞 い上がる。この付近は黒部側から
の風 の影響が大きく、本窪付近に達した頃は吹雪と
なり、時折り猛烈な奴がや ってくる。
これから上部は急斜面で雪も深く、輪かんでは不
能。ターンは困難だが狭 い谷をジグザグ に登る。左右
の岩壁から小さな泡雪崩が降り注ぐ。二五〇〇米 の゛
コ
ルジ ュ状 の上部に達したのは二時。本窪より八時間近
くを要した。このあたりは両側が壁状 になり尾根 に取
り付けない。ゴルジ ュを抜けた上部を スキー ・デボと
してここから輪かんで登る。胸までもぐる五十度近 い
っ
一
蹴
﹁
潔
知
強
瑚
端
″
“
嘔
可
識
哺
嚇
畑
“
か
帥
崚
鍔
瑚
混一
婦
爆
ぃ
献
岬
調
年
山 崎 安 治
青山 学院 の鹿島槍 の記録
1983年 (昭 和 58年 )
〇 ・三
昭和七年十二月二十四日、鹿島 造 林 小 屋 ︵
-4-
腎
:場 ЪTPF&12∵ 雪
∬ 4m硼腕 :甘 ."
登攀記"ほ か
お知 らせ ……………………
ルーム日誌 。会員移動 ―
斜面である。北槍からの支稜 に取り付き、アイゼ ンに
はきかえ、やせた岩場をすぎると吊尾根である。南槍
の北面は優秀 に雪を付けている。黒部側より吹き上げ
る激しい風 で目が痛 い。叡は日前 に控えている。太陽
がかすかに現われ、遠見尾根を隔 てて、真白な八方尾
根が望まれる。カクネ里は見えないが、天狗尾根は雪
庇を乗せてのしかか っていた。
︵付記︶登高中、笹喰付近 で数 力所板状雪崩 の潜在
個所を目撃した。この現象はこのあたりの地形がオー
プンにな っており、黒部側 の烈風が運びくる風成雪の
作用であろう。この日、造林小屋内 の午前零時半 の温
度は摂氏零下二十度。鹿島村でも異常な冷え込みであ
ったという。二五〇〇米 の、
コルジ ュ付近では風 の影響
我 々 の部 を 振 り か え る時 、 O B の
足 跡 を伝 聞 でし か知 ら な か ったり 、
あ る いは それ さ えも し ら ず 先輩 の輝
し い業 績 が わ か ら な く な って いる。
よく部 の伝 統 と いわ れ る が、 まず そ
の部 の歴 史 を 正 確 にし ら ず し て部 の
伝 統 を 云 々す る のは お か し いと 思 う 。
代 々O Bか ら伝 わ ってき た事 は現 在
でも残 さ れ て いる が、 徐 々 に少 な く
な って いると 思 う 。 時 代 や時 間 が た
てば た つほど それ は少 な く な ってし
ま う。 そ の為 にも 部 の正 確 な部 史 を
こ こ であ ら た め て掘 り お こす 事 が 必
要 な のでは な か ろ う か。各 年 代 の御
健 在 の方 々 に聞 く のも よ か ろう。 尾
そ の翌 年 、 冬 期 の早月 尾 根 初 登 を ね
ら って基 部 近 く ま で い った 話 を 聞 か
さ れ る に及 ん で、 こ の時 代 の人 達 の
か ってく る よ う な気 が す る。 昔 、
一
度 作 ろ う と いう 話 が あ った が途 中 で
ま で の部 史 を、 な んと か し て作成 出
来 な いも のだ ろう か 。 それ が出 来 れ
ば 今 の現 役 にと っても 、 青 山 の部 と
は何 か を 理 解 し ても ら え るし、 そ の
根 伝 いか ら は じ ま って レポ ー トー号 、
Ⅱ号 を ひも ど く のも よ か ろ う。 A A
Cを ひ ろう のも い い。 やり 方 は ど う
であれ 、 部 創 立 か ら は じ ま って現在
登攀 欲 旺 盛 さ には、 ただ ただ 感 心 さ
せ ら れ るば か り であ った 。 結 果 的 に
は 雪 が 多 く て断 念 し た ら し いが、 も
た ちぎ れ てし ま った 。 た し か に労 力
が多 大 にか か る仕 事 だ か ら大変 だ ろ
うと思う。しかし い つま でも は ってお
上 で現在 の自 分 が 何 を す べき か が わ
し か し た ら状 態 によ っては や って い
た かも し れ な い のであ る。
こ の記 事 が載 ってか ら 山 岳 会 に行
いていいも のでも な い。上国か ら あ った
事 を整 理 し ま と め 、 次 代 の人 にひき
つぐ事 が 我 々 の務 め では あ るま いかc
った 登 山 者 は いな か った だ ろ う し 、
今 後 も 現 わ れ な い のでは な か ろ う か 。
こ の鹿 島 槍 の登攀 も さ る こと な が ら、
は少ないが、登高は急斜面と湿潤性 の雪 、地形 の狭小
のためスキーのターンは思うにまかせず苦闘した。冬
期登山者には、この地域 の風成雪雪崩が 一大関心事で
ある。特 に風成凍雪 の滑落と、その流動に伴う乾燥性
新雪雪崩 は予期し得な い。
北槍より派出する右俣 の積雪期 の登高は非常に困難
であろう。四月末、後立山縦走 のとき、この谷を下降
するのにザイル使用を余儀なくされた。雪が春 の陽光
でくさり、苦労 の末二俣 へ下り鹿島村 へ出た。
︵後記︶この登高記は半世紀前青学OBレポートⅡ
に載せた記録 に添記したものである。この登高に同行
した後輩 の中隈武夫君が凍傷 で両指 の切断は免 れたも
のの、以後 の山行 に支障を来 たしたのは残念 である。
⑦ 昭和 六年 二月 二十 日、立大堀
一月 四日、立大斯波悌 一郎 、湯浅
田弥 一、小原勝郎 、東谷 野営 地 よ 巌が厳冬期 の自馬岳 、鹿島槍 、爺
り鹿島槍 登頂 、
越中側 から の初登。 岳初縦走 の途中 、キ レ ットから稜
以上 の記録を総括す ると いず れ 線 沿 いに北槍 に達 し、南槍 を通過
も 三角点 のあ る南槍 の登頂 で、昭 した のが最初 であ った。青 山学院
和 六年 四月 二日、京大伊藤 原 、工 の記録 は これに先 立 つ厳 冬 の北俣
楽英司、長谷川清 三郎 の隊 は五竜 本谷 から の北槍初登 で登山史上 か
から鹿島槍 への積雪期初縦走を記 らもきわめて重要なも のであ る。
したが 、 これも キ レ ット の露営 地 このほど鹿島 の ﹁登高記念帳﹂ の
から越中側 を巻 き、北槍 と南槍 の 話 から青 山学院OB中川武氏を通
じ大 塚氏が健在 であ る こ と を 知
り、同氏 にそ の登山概要をあ らた
めて書 いていただ いた ので、 ここ
に発表 しておきた い。
コルに出 て南槍 に立 っていて、北
槍 は踏 ん でいな い。
これま での記録 から いうと、積
雪期 の北槍 に立 った のは昭和 八年
> 日本 山岳 会 ﹁山 ﹂よ り 転 載
く と、 里日山 学 院 の記 録 読 んだ よ。﹂
と 何 人 か の人 か ら いわ れ少 々鼻 が高
か った。
-5-
20
moo。
450‐・
mD世
9E―
再会
剣岳
朝 日が 、 直 接 身 体 を 包 む頃 、 快 調
にも う 別 山 乗越 だ 。 これも 上 天気 に
雷 鳥 沢 の板 だ け の、 お そま つな橋
を 渡 る。渓 谷 の橋 と いう感 じ が あ っ
た の に⋮ ⋮ ⋮早 く も なげ き 節 の始 ま
り か ? も っと も 丸 いより板 のほう
が安 全 では あ る が 。
別 山 の稜 線 が 自 く 明 るく輝 き 始 め
た。 ﹁デ ッパ ツだ 。﹂雨 でし っと り と
マイ ルドな感 じ のな か、 重
柔 かく、
い登 山 靴 の音 さ えも 優 し く 響 く 。
た のに。 全 く ツイ て いる事 を 喜 び 、
心 は 早 や剣 を 想 う。
9
中 條好 司 昭和3
象︶
二〇 年 振 り の 一日を迎 え る そ の朝
︱︱ グ ッスリと 寝 込 んだ体 に、 き つ
い寒 気 を感 じ る。 昨 夜 来 のテ ンテ ン
と た た く 音 が な く 、 ﹁降 っては いな
いぞ ﹂と は 思 いな が ら、午 前 5時 、
天 幕 を 開 け る。 想 像 を越 え る ピ ー カ
ンでは な いか 。 真 正 面 の立 山 の稜 線
が ク ッキ リと ダ ー ク ・ブ ルーを 背 景
に ″ま だ 眠 む いよ ″と言 いたげ に、
うす く 、 黒 く、 あ く ま でも ド ッシリ
と 浮 ん で いる。 破 顔 一笑 ″ さ あ 〃
大変 。
一発 勝 負 の こ の日が大 吉 と出
た のだ 。 昨 晩 は せ っか く こ こ迄来 た
のに、 雨 だ った ら 剣 はあき ら め ガ ッ
クリと 下 山 し な け れば と迄 考 え て い
誘 わ れ て、 早 く ﹁お山 ﹂を 拝 み た か
だけしか会 っていいな い田中 君 の面 影
一気 に登 る。 目 を 閉 じ る。︱︱ 一度
ィ メ ージ が 全 然 違 う のであ る。 ヤ バ
イ のであ る。 取 付 き な ん ぞ は 少 々カ
ブ って いる様 にさ え見 え て来 る の で
チ。 二〇 年 前 には、 す っ飛 ん で歩 い
た ガ レ場 を 、 今 は、 ゆ っく り と、 ゆ
っく り と 歩 く 。 鎖 場 に出 た 。 見 上 る。
さ て、 いよ いよ 最後 の ワ ン ・ピ ッ
し て いる。 今 日 一日は、 風も なく 快
晴 だ と 思 って いた のに、 早 々と仕 事
を終 え る のは やは り秋 の空 か 。
馬 も 、 五 竜 も 、 鹿 島 も 、 も う店 終 い
とば か り に白 いガ スの中 に見 え隠 れ
こ の頃 か ら 早 月 尾 根 の上 部 に、 ガ
スが 上 り 始 め る。 ふと 振 り向 く と 白
打 ち な が ら の 一服 は、 何 とも セ ツな
いし 、 又 、 ホ ットな味 だ った。
自 く う ね って、 員 砂 の滝 さ えも 見 え
な い。 毎 日、 通 った あ の頃 が、 な つ
か しく 思 い出 さ れ る。庸 の上 で の ラ
ジ オ体 操 、 そ のあ と の、 今 日も しご
か れ る んだ ろ う ナ ァと 思 い、 キジ を
ゼ ェー、 や っと の事 で前 剣 だ 。
こ こま で来 て、 な つか し い員 砂 平
が 目 に入 る 。 剣 沢 の雪 の状 態 か ら 、
平 蔵 も 長次 郎 の出 合 も 、 ズ タズ タな
んだ ろう と 思 って いたが 、 き れ い に、
がボ ンヤリと浮 ぶ。冥 福 を祈 るだ け だ 。
頑 張 り 過 ぎ た のだ ろう か 。 そ れ か
ら の登 り は 、 ヒ ィ ー ヒ ィ ー、 ゼ ェー
った のだ ろ う。 こ の苦 し い登 り を 一
時 間半 でやり 終 え る。 ︵途 中 、 これ
も快 調 に ハイ松 の中 で、 ゆ る∼ い 一
服 を 吸 いな が ら キ ヂを打 つ。 な んと
も いえ な いネ ェ⋮ ⋮ ⋮ これ が出 来 る
か ら山 へ来 る のだ 。︶
一ケ月前 、 盆 休 み に家 族 と 一諸 に
同 じ 別 山 に立 って剣 を な が め、 今 度
こそ時 間 が許 せば 剣 だ と 想 い、 2年
間 の山 登 り が、 や は り 剣 の為 にあ っ
た のか と自 問自 答 し た 。 今 こうし て、
な が め る剣 では な く 登 る剣 を 目 の前
にす る と、 初 め て こ こ に立 った、 大
学 一年 夏 合 宿 のあ の大 き な 喝釆 が蘇
り、喜び の波が全身を 激しく包 み込む∩
先 を急 ご う。 何 せ 雷 鳥 迄 、 戻 ら な
け れば 寝 る所 が な いんだ か ら。
前 剣 を従 え て圧 倒 的 に覆 いか ぶ さ
ってく る 一服 剣 か ら の眺 め は、 何 と
も いえず 、 や っぱ り 大 き いし、 高 い。
ス ッパリと 切 れ て いる東 大 谷 側 を 目
で追 いな が ら、 五 年 前 の田中 君 の事
故 を 想 う。 右 と 左 に別 れ る、 人 の定
め の重 さを 感 じ、 同時 に リ ーダ ー で
あ った 近 江 が、 ど こを ど う し て降 り
た んだ ろう と、 ゾ ッーと し な が ら、
黒 い岩 だ け の重 な りを 見 比 べる。 も
し俺 が リ ーダ ーだ った ら彼 と 同 じ様
に降 り ら れ た のか し ら ⋮ ⋮ ⋮と 。
こ こだ ろう と 目 星 を つけ た所 ま で、
-6-
のホ ー ルド に手 を掛 け る。 あ と は そ
あ る 。 思 わ ず 目 を落 と し、 女 でも 登
って いる ぞ と ⋮ ⋮ 一大 決 心 ″ 最初
年 の時 の重 さ を 感 じ さ せず には いら
れ な い。 変 ら な い彼 ら 3人 の姿 が、
間 を思 い出 す 。 二〇 年 前 のま ま の三
人 の顔 が 、
つぎ つぎ にき ぎ る。 二〇
幸 せ そう に笑 う彼 等 の純 な心 を想 う
と、 ま さ に不憫 。 これ 以 上 言 葉 に な
れ でも ス ムーズ に手 と 足 が出 る。 雷
鳥 を出 てから五 時 間半 、十 一時 四〇 分
︱︱ ま ず 頂 上 の桐 に手 を 合 わ せ る。
ら な い。 た だ た だ 彼 等 の分 も 、 長 く
生 き て、 彼 等 とご 両 親 の事 を 想 い出
は、 流 石 に冷 た い。 お ま け に頭 の上
で、 ゴ ロゴ ロが 始 った 。 気 味 が悪 く 、
だ んだ ん怖 く な る。 ザ ック の中 のホ
ェーブ スが気 にな る。 それ でも 一時
間 も 経 つと、 え えま ま よ ″ と 開 き
直 り、 雨 の中 、 足許 だ け を 見 て、 ひ
たす ら歩 く 。 歩 い て いるわ り には捗
ら な い。 乗 越 ま で の遠 か った事 。 勿
論 、 稜 線 通 し は やめ て黒 百合 の コル
か ら ダ イ レク ルー ト。 と にか く 休 む
と 寒 い。 だ か ら歩 く だ け の2時 間 半 。
火 事 で新 し く な った御 前 小 屋 に、
青 い顔 を し な が ら 飛 び 込 む 。昔 は絶
体 に小 屋 な ど に入 れ てく れ な か った
し、 入 れ も し な か った の に⋮ ⋮。
一
杯 四〇 〇 円也 のう ど ん で生 き 返 り 、
これ で や っと雷 鳥 ま では大 丈 夫 と ホ
ッと す る。 な んと ホ ッと す る事 の多
い山 行 か、 昔 も 、 こん な に ホ ッと し
て いた のだ ろう かと 、 ボ ンヤ リ スト
ーブ にあ た る。
突 然 の雷 の来 襲 だ 。 カ ニの横 這 い の
嫌 ら し い所 を やり終 え て良 った と 、
遠 く に雷 鳴 を 聞 いた と 思 いき や、
す ボ ンヤリと し た 流 れ の早 い暗 や み
と か 。 デ ッパツし てから十 一時 間三〇
分 。 あ の剣 岳 に登 って来 た のだ 。 う
い て来 て、 日 の前 に、 白 い小 さ な天
幕 が 浮 ぶ。 何 と 長 い 一日 であ った こ
小 屋 の暖 か さ に慣 れ た体 には 、 雷
鳥 沢 を 吹 き 上げ てく る 風 の冷 た さ は、
冬 山 の吹 雪 のそれだ 。 全 く 応 え る か
ら、 ま た 飛 ぶ よう に ハ ッチ ャ気 にな
って下 る 〃 下 る 〃 沢 の音 が近 づ
雨 合 羽 を 取 り 出 す 。 時 折 強 く降 る雨
流 れ も 早 い。
る頂 き は、 ま す ま す ガ スを 厚 く し て
う し ろ に追 いや る。 前 剣 だ 。 ふり 返
か れ た身 体 には、 こ の下 り は応 え る。
それ でも ﹁下 り の青 山 ﹂右 に左 に バラ
ン スを 取 り な が ら、 何 パ ー テ ィか を
く な いは ず だ 。 心 の中 で ﹁さ よ な ら
剣 〃 ﹂ と 言 いな が ら 大 き な岩 を さ
け、 ルー ト通 り に下 る。 登 り でしご
き れ いな ピ ーク に変 身 し て いま し た 。
時 間 だ け は、 やけ に速 い。感 傷 に
ド ップ リ漬 って いら れ る程 帰路 は甘
陽 も な いか わ り に、 空 き 缶 も な い、
と幸 せを 、 胸 一杯 に つめ 込 む。 そう
いえば 、 当 時 ″太 陽 が い っぱ い〃
空 き缶 も い っぱ い″ 〃 と言 って、 大
笑 いを し て いた、 こ の頂。 今 日は 太
そ う。
今再 び 、 こ のピ ー ク に立 てた喜 び
今 日、 登 頂 を 許 し てく れ た 、 お 天 道
様 に、 自 分 の我 儘 を 聞 い てく れ た、
ま わ り の大 勢 の人 達 に、 感 謝 ″ 感
謝〃
想 像 し て いた よりも 狭 い。 も っと
広 く て、 平 ら で、 大 き か った の では
な いか と 、 印 象 の違 いにキ ョト、 キ
ョトと 一周 り す る。 これ は 、 き っと 、
当 時 しご か れ なが ら や っと 這 い上 っ
た、 こ の頂 き が嬉 し か った んだ ろ う
し、 やれ や れ、 も う今 日は これ で登
り が なく な った と いう安 心感 が、 そ
う思 わ せ て いた のであ ろ う。
瞬 間 、 ガ スの中 に源 次 郎 が、 輝 き
を増 し て目 に入 って来 る。 長次郎 の
雪渓 だ 。 六 峰 のC フ ェイ スは ⋮ ⋮。
早く ガ スよ切 れ ろ。 見 せ てく れ 二〇
年振 り に。 必 死 になぜ か息 を 吸 い込
む 。 待 って いる時 間 は た ま ら な い。
こ の為 に剣 に来 た の に。 三〇分 待 っ
た。 と う と う ハツ峰 は 雲 の中 だ 。 足
許 だ けを 見 せ て、 顔 は 見 せ て呉 な い。
長 く て短 い黙 襦 ︱︱ 昭 和 三十 六 年
八 月 二 日午 前 八時 一〇 分 の、 あ の瞬
の中 に、星 を 一つみ つけ、ホ ット ウ イ
スキ ーを 口にし て、 心 豊 か な 山 行 が
今 終 った のでし た。
昭和五十 八年九月 二十七 日記 ︶
︵
懇 親 スキ ー の
お知ら せ
昨 年 度 の大 変 好 評だ った O B
会 の スキ ー、 今 年 も計 画 し てお
りま す。
詳 細 は お ってお知 ら せ 致 しま
す が と り あ えず 、 日程 を お 知 ら
せ し ま す ので、 スケジ ュー ルに
入 れ て下 さ い。 昭和 五十 九 年 一
月 二十 七 ∼ 二十 ユ抽 ︵金 ・土 ・
日 ︶ で、
場 所 は蓼 科 です 。
-7-
甲 斐路 便 リ
我 家 の ベラ ンダ に出 る と 、 右 側 に
は 甲斐 駒 、 鳳 凰 三山 、 そし てひと き
か って登 ぅた多 く の山 々。 今 は 一年
中 でも 最 も 山 の美 し い委 節 であ り ま
す。
た め飲 み歩 く 訳 にも いき ま せ ん。 私
にと っては ま あ 、 お 金 が 減 らず け っ
こう な こと であ り ま す が ⋮ ⋮。
そ ん な私達 を慰 め てく れ る のは、
自 称 シテ ィボ ーイ の井 沢良 平 ︵何故
か私 の主 人 な の です が ︶は車 通勤 の
慣 れ た身 にと っては 刺 激 不 足気 味 。
カ ラオ ケ スナ ックと 平 べ った い スー
パ ー マーケ ットが点 在 す る のみ のう
ら寂 し いと ころ で、 渋 谷 の街 で遊 び
の灯 り が な つか し く 感 じ ら れ る今 日
こ の頃 です 。
私 達 の住 む 所 は中 央 高 速 の甲府 昭
和 イ ンタ ーチ ェンジ のす ぐ 近 く で、
山 の帰 り にう ろう ろ し た 甲府 駅前 の
繁 華 街 ︵と い っても し れ たも のです
が ︶と は少 し離 れ て い て、 さび れた
4年卒︶
斗
オ油
八圭
天大不 ︵
昭和5
御 報 告 が 遅 れ ま し た が、 今 年
の五 月 十 五 日 に、 荒 川 美奈 さ ん
と 井 沢良 平 君 ︵
︵
五 十 四年 卒 ︶
五
ど う いう は ず み
十 六 年 卒 ︶が、
でか、 め でた く 結 婚 さ れ ま し た。
これ で、 四組 目 のカ ップ ルが、
O B会 内 に誕 生 し た こと にな り
ま す 。 心 より 、 お祝 い申 し 上 げ
ま す 。 二人 は新 婚 間も なく、 井
沢 君 の突 然 の転 勤 により、 甲府
へ移 ら れ ま し た 。
以 下 、 新 妻 の井 沢美奈 さ んか
ら の甲斐 路 便 り を お届 け し ま す 。
一九 八 三年 も いよ いよ終 わ り に近
づ こう と し てお り ま す 。 O B 。O G
の皆様 は お変 わ りあ り ま せ ん でし ょ
う か。
私 共 が こ の甲府 のは ず れ の片 田舎
に移 り住 ん では や五 ケ月 が過ぎ よ う
と し てお り ま す 。 さ す が に東 京 の夜
わ純 白 に輝 やく 間 ノ岳 と 農 鳥 岳 。 左
を向 く と、 御 坂 の山 波 か ら ギ ラリと
富 士 が顔 を出 し て いま す 。 北 側 の窓
か ら は 金 峰 山 、 茅 ケ岳 、 そし てわざ
と ら し い程 美 し い八 ケ岳 の連 な り ⋮。
自 宅 か ら こ の様 な パ ノ ラ マが 望 め る
な ん て、 引越 し て来 た頃 は も う う れ
し く てう れ しく て、 やれ モ ルゲ ン ロ
ー トだ やれ新 雪だ と 、 早朝 か ら 大 騒
ぎ でし た が、 最近 は な れ てし ま って
﹁北 ア ルプ スが 見 た い ﹂な ど と 、 ぜ
いた く な こと を言 ってお り ま す 。 地
元 の人 達 は驚 く程 山 の名 称 に無 関 心
です が 、 それ も わ か る様 な 気 が し ま
す 。 ︵先 日、 タク シ ー の運 ち ゃん に
奥 秩 父 辺 り の山 の名 を 問 う た と ころ
﹁あ り ゃあ ヤリガ タ ケず ら 。﹂ と い
う返 事 が 返 ってき た時 には さ す が に
び っく り し ま し た が o︶
し か し、 近 く に見 え る山 々も 実 際
登 ってみ る と仲 々け わ し いも の で、
夏 に御 座 石 鉱 泉 か ら鳳 凰 三山 へ行 っ
た時 は 二人 共 バ テ バ テ で特 に私 な ど 、
下 り は得 意 とば か り に馳 け降 り た と
ころ ヒザ が ガ クガ ク にな り、 半 分 泣
き ベ ソ、 日頃 車 ば か り使 って いる た
め か、 と ても 山 岳 部 に いた と は恥 ず
か しく て言 え な い状 態 でし た 。 最近
はご く 近 所 の夜 叉神 峠 ︵車 で 三〇 分
位 で夜 叉 神 荘 です ︶や清 里 な ど でお
茶 を 濁 し て いま す 。 近 く にあ り て遠
き 山 々と い った と ころ です ね。
こち ら の冬 は か な り の寒 さ で、 特
に晴 れ た 日は地 元 では ﹁八 ケ岳 お ろ
し ﹂と 言 わ れ る冷 た い風 が 吹 き 、 バ
イ ト先 の ホ ー ム スト アーに通 う私 の
ホ ホを も ろ に打 ち のめ し てく れ ま す 。
一月 二月 が 思 いやら れ ます 。
こ の様 な 具 合 で、 何 と か暮 や し て
いま す 。 あ と 一∼ 二年 は いる 予 定 で
す の で皆 様 も 山 の帰 り にはぜ ひ ﹁民
宿 井 沢 屋 ﹂にお 立 ち寄 り下 さ い。 宿
泊無 料 。 ただ し持 ち 込 み歓 迎 。 ほう
と う のお いし いお店 に御 案 内 いた し
ます ″ ︵ ﹁ほう と う ﹂と は、 味 噌 汁
に、 き じ め んを ぐ っと素 朴 にし た よ
う な麺 と 、 カ ボ チ ャを は じ め と す る
野菜 を 入 れ てグ ッグ ッ煮 た よ う なも
ので、 ぶ ど う の無 い季 節 の山 梨 にと
っては信 玄 餅 と 並 ん で貴 重 な名 物 で
す 。︶
それ では、 O B山 行 な ど でお会 い
でき る 日を楽 し み にし てお り ま す 。
良 いお年 を お 迎 え下 さ いノ
甲府 市 徳 行 四 ノ 一ノ八
コーポ シ マダ 二〇 四号
井 沢 良 平 ・美 奈
-8-
井
胤
昭46
藤
沼
裕
瞬日47
須
藤
板橋 区赤塚 新 町 3-32-5-304
博
〒 201
狛江市岩 戸北 コー ポ永 田201 ■103-488-6074
〓一
中
原 川
〒 175
樹
昭48
千代 田区二 番 町 14 大橋 ビル 4F
■103-496-3411的
1701 Golf Road,RoHing Ⅳleadows IL.60008
草
野
順
夫
昭34
伊
藤
琢
二
〒 810 福 岡市 中央 区今泉 2-4-24-1001
■1
富士 銀行博 多支店 ■1092-751-5131
〒 460 名古屋市 中区栄 2-2-1
昭34
三
須
絹
一
〒 336 浦 和市瀬 ケ崎 4-6-17
昭39
中
川
武
〒 102
昭39
桜
井
稔
己
彿 島田屋本店
昭40
斉
藤
建
一
NISSEI SANGYO AMERICA LTD.
092-741-1276
昭29
こ こで切 る と名簿 と同 じ大 きさです 。
︵リ ー ダ ー ︶
な ら では 得 ら れ ぬ O Bと の人 間 関 係
を 大 切 にし て いき た いと 思 いま す 。
部 員 は 学 生 生 活 に励 み、 大 学 山 岳 部
と も あ れ、 ま ず 山 ︱ そ の自 然 を 通
し て山 に登 るば か り では なく 、 我 々
落 事 故 等 も なく 、 十 分 な 成 果 が 得 ら
れ ま し た 。 又、 個 人 的 に、 奥 秩 父 週
辺 で の岩 登 り を 多 く 行 ってき ま し た 。
ト レ スを 登攀 後 南 部 へ全 山 縦 走 、 十
月 に槍 の偵 察 山 行 、 十 一月 に富 士 山
合 宿 を 行 ってき ま し た 。 今 年 度 の富
士 山 は 雪 も 多 く 、 と り わ け 雪 崩 。滑
す 。 これ ら の合 宿 を 前 に九 月 に体 力
強 力 のた め、 南 ア ルプ ス、 北 岳 バ ッ
東 鎌 よ リ アタ ックす る計 画 でお りま
よ り 常 念 を 越 え大 天丼 に B Cを おき
でお り ま す 。 今 年 度 の冬 山 合 宿 は、
槍 を 新 穂 高 側 の中 崎 尾 根 よリ アタ ッ
クす る計 画 で、 又春 山 合 宿 は 上 高 地
め に決 め た部 員 の チ ー ム ワークを基
本 にし た槍 ケ岳 の登 頂 を 目 標 に励 ん
教 訓 を 生 か し、 これ か ら の山 行 に役
立 てよ うと 思 って いま す 。
冬、 春 の合 宿 に つい ては、 今 年 始
羽 田登 志 男
硯 役 か ら の個 リ
近 況 の報 告
現在 、 青 学 山 岳 部 は 一年 四名 、 二
年 四名 、 三年 一名 で活 動 を 行 って い
ま す が、 他 の大 学 山 岳 部 と 比 べると
人 数 も 決 し て少 なく は な く 平 均 的 な
活 動 を 行 って いま す 。 だ が 2年 前 か
ら生 れ た 問 題 が 一つあ り、 そ れ は キ
ャ ンパ スが 青 山 のみ でな く 厚 木 、 世
田谷 と 分 れ て いる こと であ り 、 全 員
が部 室 に集 ま る のは 週 に 一、 二回 し
か な く部 員 間 の コミ ユニケ ー シ ョン
に苦 労 し て いま す が、
一つのキ ャ ン
パ スが幸 い丹沢 の麓 の厚 木 にあ るた
め、 そ の場 所 を有 意 義 に利 用 し よ う
と 思 って いま す 。
本 年 度 の山 行 は、 ま ず 白 馬 岳 の新
人 合 宿 か ら始 ま り 、 三 ッ峠 で の岩 ト
レ山 行 、 越 後 三山 縦 走 、 谷 川 一ノ倉
鳥 帽 子南 稜 、 東 京 週辺 の沢 、 ゲ レ ン
デ等 の山 行 を 行 って いま し た が 、 と
り わ け剣 岳 で の夏 山 合 宿 では新 人 の
活 動 を期 待 し て いた わ け です が 、 す
でに御 承知 の通 り 、 別 山 で の落 石 事
故 が あ った こと は大 変 残 念 でし た 。
ま た、 諸 先 輩 にご 迷 惑 を お か け し、
申 し 訳 け な く 思 って いま す 。 夏 山 の
-9-
Te1 03-975-5623
日出男
昭48
フ ァ ミリー タウ ン東 陽 M-819
〒 135 江東 区東 陽 2-3-6
■103-645-6633
日進化 成彿関東支店 Tel o3-235-1131
司 (自 宅 )■ 1 0422-47-2608
建築資料研究所 ■103-988-4936∼ 8
護 (勤 務先 )■ 1022-58-5511
岩
夫
昭46
所/電 話及び勤務先/電 話
J住
名
氏
業年次
:卒
(裏 面 に続 く)
名簿訂正
Te1 312-981-8989
卒業年次
〒 650
′
ヽ林 イ
申
」
日
召49
易 住所 /電 話 及 び勤務先 /電 話
名
氏
52
員日
子
神 戸市 中央 区港 島 中 町 3-2-6
エバ ー グ リー ン ポ ー トア イ ラ ン ド 5-1301
Te1 078-303-0818
(日 井 )
昭 50
岡
野
達
朗
日進化 成 彿 大 阪営 業 所
日
召52
加
藤
信
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〒 272-01
■106-361-1601
市 川 市 福栄
1-7-15
Te1 0473-95-8773
昭 53
大
野
禾ロ 子
サ ンケ イ リ ビン グ新 聞社 京 阪 本 部
昭 53
箕
輪
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美
東 村 山市 富 士 見 町
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(宇 野 )
加 藤 コー ポ C号
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3-12-26
1-4-7
宇 野方
昭 54
近
江
幹
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昭 54
尾
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洋
介
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昭 54
井
奈
依
沢 美
川)
良
田 光
平
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ヤ マ ビ液化 ガ ス 船 Te1 0552-37-4640 Te1 0552-22-7439
セ ノ ー彿 ■10473-85-1111
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萩
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司
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56
(荒
昭 56
浩
世 田谷 区 奥 沢
渡 辺 パ イ プ帥 寮 内
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1-10-20
メ ゾ ン ドール ケ イ 202
Te1 03-726-4408
田
得
〒 243 海 老 名 市 国 分 195 エ ビナ コー ポ 105
■10462-31-3439
丸 紅 ニ チ レイ婉 ■10463-93-5115
9年 度 新 年 会
5
のお 知 ら せ
恒 例 の新 年 会 を 左 記 の通 り 開 催 し
ます。
お さ そ い合 せ の上 、 ぜ ひご 出 席 下
さ い。 楽 し いお顔 ぶ れ、 お 待 ち し て
いま す 。
記
◎ 日時 一月 二〇 日 ︵金 ︶
午後 六時
◎ 会 場 日本 橋 いづ み や
◎ 会費 五 、 〇 〇 〇 円
別送 の 新 年 会 出 欠 の返 信 ハ ガキ で ごL答 下 さい。
『 緑 ケ 丘通 信 』ア ン ケ ー ト
緑 ヶ丘 通信 は おかげ様 で20号 を迎 えま した。
幹事会 、編集担 当者 の 独断 でや って きた きら
いが あ ります 。 もっ とOB諸 氏 の 考 え を反映
させ た い と思 い ます。 ご意 見 をお寄 せ下 さい。
1.内 容 について
A
B
これ まで どお りで よい。
かえた方 が よい、 ど うい う記 事 が読
みたいか。
)
(具 体的 に
集
後
だれ に、 どんな原 稿 を書 いて も らい
たいか。
2.体 裁 について
A 従来 どお りで よい。
B か えた方 が よい
記
0号 を お 届 け し ま す 。
﹁通信 ﹂ 第 2
、
0
2号 を 記 念 し て も っと 充 実 し たも
のにし た か った のです か⋮ ⋮。 し か
し、 鹿 島 槍 の記 録 で救 わ れ た 感 が あ
り ま す 。 ま た ま た、 非 常 に渋 る中 条
氏 か ら ムリ ヤ リ、 原 稿 を 取 り 上 げ ま
した 。 そ の他 の方 も、 お 忙 し い中 、
御協 力 頂 き ま し て、 あ り が と うご ざ
いま し た。
編
C
(
発 行 回 数 、 ポ リュームについて
A
従来通 りで よい
(年
B
3回 くらい、 4∼
変 えた方 が よい
その他、 ご意見等
-10-
(
8P)
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