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戦後初期の日産における人員体制の構築 女性労働者を中心
社会科学論集 第14 3号 戦後初期の日産における人員体制の構築 2 0141 .1 ─女性労働者を中心に─ 《特 集》 戦後初期の日産における人員体制の構築 ─女性労働者を中心に─ 吉 田 誠 本稿では第二次大戦後初期の日産重工業(現在 生産の場は再び男性を労働力の中心とした戦前の の日産自動車:以後,日産と略)の人員体制の構 状態に戻ったかのような印象」(佐藤, 2003, 263 築過程をとりあげる。高度成長期以降の日産の人 頁)をもたれてきたのである。 事労務管理が,戦後初期の労使関係に強く規定さ (1) れながら形成されてきたことは多数の研究 つまり,戦時中の総動員体制から戦後の男性職 が 場化へと至るプロセスの検討が特になされずにき 示すところである。とりわけ,上井喜彦(1994) (2) たことを意味しているのである。京谷栄二は,R. は労働組合の職場規制に着目し,戦闘的労働組合 Milkman(1987)などの米国の研究を参照しなが の下で形成されたそれが組合分裂後に主流派とな ら,日本における「女子労働力戦時動員にかんす る第二組合にも継承されてきたことを明らかにし る研究」は「その数と内容においてまだ不足」 た。そして,この日産の組合特有の職場規制のス (2007,40頁)と指摘したが,その戦時動員体制の タイルが,その後のライバル企業との大きな生産 戦後における継承あるいは断絶についても,やは 性の差の要因となったことを指摘していた点で, り明らかになっているとは言いがたいのである。 19 90年代のポスト・フォーディズム論争に多大な 影響を与えた。 では日本の自動車産業における戦時動員体制 は,ジェンダー的な観点にたつとどのようなもの 他方で,これらの戦後初期の日産における労使 であったとすることができるのであろうか。数少 関係史の分析枠組みが,基本的には“男性本工主 ない研究の一つである佐藤千登勢(2003)による 義”という特徴を有してきたことは看過できない。 ならば,戦時中の総動員体制は,性別職域分離 つまり,女性も臨時工も登場しない労使関係史な を伴いながら,すなわち女性の仕事(女性に適し (3) のである 。これを広く日本の自動車組立メー たとされる仕事)を生み出しながら構築されてい (5) 。例えば,戦前のトヨタ自動車においては カーを対象とする研究をとってみても,その事情 た は大きく変わらない。女性についていえば,管見 「組立,鋳物,プレス,機械加工,塗装,設計, するかぎり,近年の辻勝次(2 011)や拙稿(2010a) 研究」などに女性労働力が活用されていたが,戦 による女性従業員の排斥の指摘を除いては,戦後 時期になると「ボール盤工」,「塗装工」,「機械検 初期の自動車組立メーカーにおける女性労働力の 査工」,「鋳造工」,「機械組立工」,「剪断工」,「鍍 存在を意識的に取り上げた研究はないのである。 金工」において女性労働者の比率が高かったこと それは自動車産業が日本のリーディング産業と を明らかにしているのである(佐藤, 2003, 158 なった高度成長期以降の人員体制を前提として, (4) 戦後の自動車組立メーカーが男性職場 頁)。 である このような性別職域分離を伴って形成されてい ことを自明視してきたことに他ならない。このた た戦時中の総動員体制は,戦後どのような経緯を め「女性労働者が戦時期に軍需産業で従事してい 経 て 男 性 職 場 と な る の で あ ろ う か。既 に 拙 稿 た仕事は,彼女達が離職した後,自然に消滅し, (2010a)において,日産の戦後初期の人員体制 91 社会科学論集 第143号 が,当事者の証言や人員構成の男女比率に基づ まず『神奈川新聞』上の募集広告の掲載状況を (7) き,「自生的に形成され」た「戦中的な人員体制 示しておこう を引きずっていた」として,この体制からの転換 整理までの期間において,同紙に日産が従業員募 に画期をなすものとしてドッジ・ライン下の人員 集の広告を掲載していた時期は, 1945年1 1月から 整理に着目した。しかし,終戦時点から1 949年 1946年5月末までの時期と1 948年7月から8月 の人員整理に至るまでの人員体制の構築プロセス にかけての時期に二分される。この二つの時期は についてはほぼ等閑視していた。 日産が大量採用を行っていた時期と重なってい 本稿では,この欠落を埋めるべく戦後初期の日 。終戦後から1949年10月の人員 る。 産がどのような枠組みで,人員体制を再構築して 前者の時期は,GHQ から自動車製造許可がお いったのかを検討する。まず今回活用する資料の りることを念頭に生産体制の再構築に向けて動き 一つである『神奈川新聞』における日産の従業員 出した時期である。当該期間205日中,日産の募 募集広告の概要を提示する。次に日産の女性従業 集広告の掲載日数は181日に及び,掲載日数の比 員の募集状況を明らかにしたうえで,組合誌に掲 率は9割近くに達し,ほぼ毎日のように募集広告 載された職場紹介の記事により具体的にどのよう を出していた。しかも日産の複数の工場(そのほ な職場に配属されていたかを確認する。そして, とんどが横浜の本社工場 拙稿(2010a)では検討できなかった1 949年の人 が,戸塚工場も2件ある)の広告を同じ日に別々 員整理以前の女性の職員と工員の比率を新資料に に掲載しているだけでなく,場合によっては同一 基づき提示した上で,その人員整理後の変化と比 工場が複数の募集広告を同じ日に掲載することも 較する。最後に,当時の女性労働者の主観的状態 あった。このため掲載件数は181を大きく上まわ を,組合婦人部の動向や女性労働者によって書か り415件となる。この時期には宣伝手段として新 れた記事,エッセー,座談会での発言などの言説 聞広告を相当重視していたことが伺える。本社工 によって確認し,これと人員整理との関係を考察 場と鶴見工場の募集広告を掲載していた日数は, しよう。 4年間で197日に及ぶが,実に9割以上がこの期 (8) と鶴見工場からなる 間に集中しているのである。 1. 新聞の募集広告の概要 また後者の時期は一時的な生産の復調から会社 が「1000人」増員に動き,組合がそれを批判して 日産は終戦直後の1945年9月30日に「社内体 いた時期にあたる(吉田, 2013, 62頁)。1948年の 制を一新するため,全従業員を9月3 0日付で解 はじめには「傾斜生産方式の効果があらわれはじ 雇し,そのうち1/3にあたる約30 , 00名を,10月 め」, 「鉱工業の生産水準はいちじるしく上昇」 (日 1日付で再採用」 (日産, 1965, 139頁)して戦後の 産, 1965, 179頁)するとともに,春には政府によ (6) 企業活動を再開させた 。しかし,その後まもな る大型車生産の日産への割当が月400台から600 (9) く積極的な採用に転じた(吉田, 2010a, 5-6頁)。 台へと増加する見通しになったなど この結果,1946年3月時点で7433人,1947年3 生産が続いていた。そしてこの生産回復に伴い残 月時点には9 002人にまで急増しているのである 業の問題が顕在化していた。 (日産, 1983, 270頁)。 ,好調な 吉原工場の工機課では「ボロ機械の修理や,三 以下ではこの時期の採用のあり方について『神 〇〇台増産の治具整備,加うるに競争車の試作ま 奈川新聞』に掲載された従業員募集広告や組合資 で押しつけられて,連日残業に次ぐ残業,休日出 料などから検討することにし,日産がドッジ・ラ 勤に次ぐ休日出勤」が「数ヶ月」におよび,職場 イン下の人員整理までに確立してきた人員体制 大会で残業休日出勤を拒否し職場闘争に突入する が,性別の観点からするとどのように形成されて という状況にまでなっていた いたのかを明らかにしていく。 制から発生する問題に対して,会社は人員増での 92 (10) 。こうした増産体 戦後初期の日産における人員体制の構築 ─女性労働者を中心に─ 解決を考えた。他方,組合の主張では「最近の材 料入手の不円滑や機械老朽化による故障続出の結 2.新聞の募集広告における女性労働者 果,昨今の増産に際し組合員各位が相当オーバー ロードであることは認めているがこのようなオー 『神奈川新聞』に掲載された募集広告はほとんど バーロードが単に人員の増加だけで解消するとは が本社工場と鶴見工場のものであるが,鶴見工場 考えられない面もあるので,会社に提案して,各 は「男性従業員」の募集しかしていないため,こ ママ 現場と直接深重討論の上絶対必要人員を決定する (11) よう申し入れ」したとのことである 。 こでは本社工場の募集広告を検討していくことに する。募集人員の性別という観点から大きく分け さて,この二つの時期以外についての募集状況 ると募集広告には4つのタイプが存在しているこ は不明である。まったく採用を行っていなかった とになる。 「男女従業員」募集という両性が記さ のか,あるいは新卒に限って定期的に採用を行っ れている広告,性別の記載がなくなってただ「従 (12) ,それとも退職者の補充などを継続 業員募集」とされた広告,女性のみを対象とした 的に行っていたのかは新聞広告からは判断がつか 募集広告,そして男性に限った募集広告である。 ない。ただし,この時期には自己都合退職者が多 なお,新規学校卒業者を対象とした募集広告も存 ていたのか (13) ,また組合が1947年7月の組合大 在するが,これにも明確に女子を含んだものと, 会において「採用を全面的に止め配置転換を準備 性別が記載されていないものとに分かれている。 かったこと (14) する」 という目標を掲げていることを踏まえる 募集人員の性別に基づき募集広告がどのように と,1946年6月以降もある程度の採用が継続して 推移してきたのかを示したのが表1である。当初 いたことの状況証拠は存在している。しかし,こ は「男女従業員」の募集でスタートし,それが3 の間には新聞広告の掲載は全くないのである。 月まで続く。他方,女性のみを対象とした募集広 つまり,従業員を一定数募集しながらも新聞広 告が1月からスタートして,4月まで行われる。 告を出さなくなった可能性が高いが,この理由と 5月における募集は「男女従業員」募集から性別 しては募集ルートの変化が考えられる。というの を記載しない「従業員」募集へと変わり,『神奈 も,1948年夏の募集では,応募者は従来(1 945 川新聞』を用いた募集広告は一旦終了する。 ∼46年)の直接工場の人事課に出向くという方法 1948年7月に復活した募集広告においては, 「資 以外に, 「横浜,鶴見公共職業安定所」を介する 格」として「年齢20歳−35歳の男子」 「高小卒程 方法も提示されていた。すなわち,通常の人員の 度の通勤可能者」が記載され,男性のみの募集に 補充については,新聞を用いた大々的な募集をせ なる。しかし翌月に掲載された募集広告では性別 ずに,公共の職業紹介施設を介した募集に転換し の記載がなくなっている。 ていた可能性がある。 なお,1946年3月,4月には新卒者を対象とす 表1. 日産本社工場の性別募集広告の掲載件数 男女従業員 女性のみ 男性のみ 性別記載なし 女子を含む新卒 性別なし新卒 1945年 11月 12月 17 35 1月 28 11 2月 26 27 1946年 3月 18 20 4月 5月 1948年 7月 8月 34 7 20 6 6 8 7 7 筆者作成 単位:件 93 社会科学論集 第143号 る募集広告が掲載されていた。2種類の募集が同 ○休日 原則トシテ毎日曜日及祭日 日の紙面に掲載され,一つは性別に関する記載が ○待遇 年齢及経験ニ応ジ優遇ス 尚加配米 まったくないもので,「中等学校」と「国民学校」 及昼食ノ副食物十五銭ニテ支給ス の「新規卒業者」を募集したもの。もう一つも同 ○申込 毎日午前中(日曜祭日日ヲ除ク)履 じく「中等学校」と「国民学校」の「新規卒業者」 歴書持参第二人事課ヘ来談ノコト,即日採 を募集したものであるが, 「中等学校」としては 否ヲ決定ス 「工業・中学・高女」を「本年三月ノ卒業者」と ○営業品目 自動車製造 し,「国民学校」については「高専科二学年ヲ本 横浜市神奈川区宝町二番地 日産重工業株 年三月修了セル男子」としていた。「中等学校」 式会社 卒業者については女性も対象となるが, 「国民学 (省線,京浜,市電何レモ『新子安』下車) 校」修了者については女性を除いた募集となって (『神奈川新聞』1946年2月8日) いる。前者が事務・技術系の職員,後者が工員に 対応するとするならば,新卒の工員には男性のみ を募集していたことになる。 この時期,鋳造工や鍛造工といった職種を明示 して募集がなされており,現業職だと明確に限定 されている場合でも,男女両者を明確に意識して 2-1. 「男女従業員」の募集 募集していたということになる。ただし,どのよ 募集広告を上記の性別記載による分類に基づき うな職種に女性が配置されていたのかは,募集広 ながらより詳細に確認していこう。第一に「男女 告からは垣間見ることはできない。 従業員」募集について見よう。1945年11月の前 さて,男女の年齢制限は当初, 「男子」が「満十 半までは「社員」と「工員」が募集対象となって 六才以上−四十五才未満」,「女子」「満十六才以 おり,社員としては「医師(内科・外科・眼科)」, 上−二十五才未満」とされていた。「女子」につ 「歯科技工士」 , 「レントゲン技師」 ,「保健婦」 , いては2 4歳を上限としているので,未婚の者を 「看護婦」となっており, 「工員」としては「鋳 念頭においた年齢制限と考えることもできる 造工」「鍛造工」「熱処理工」などの職種が提示さ しかし,1946年1月以降の募集広告では,年齢条 れていた。 件における性別の区別がなくなり, 「満十六才以 11月後半以降は,「社員」がなくなり,「工員」 (15) 。 上四十五才未満」に変更されている。 の募集だけとなるが, 「男女従業員」の募集とい これは1945年12月に GHQ から自動車製造許可 う枠組みは変わっていない。以降, 「寮勤務者(男 が下りた時期と重なる。募集人員の規模もそれま 女賄人)」や「理髪師(男女)」といった福利厚生 での3000人から1946年の1月半ばには5000人へ に係る人員の募集が一時的に加わることがある 増加し,本格的な大量採用へと転じたために,未 が,基本的には「工員」の募集対象として「男女」 婚・既婚の別なく募集する方針に切り替えたので が設定されているのである。 あろう。なお同年5月以降は性別記載のない募 一例を示すと1 946年2月8日においては以下 のような募集がなされていた。 集,すなわち「従業員募集中」へと変化するが, その際の年齢条件は「満二十歳以上三十五歳未満 ノ者」となっている。 男女従業員緊急募集 94 1948年7月から8月にかけて「従業員緊急募 ○募集職種 鋳造工 鍛造工 熱処理工 運搬工 集」として復活した募集広告を確認しておこう。 ○年齢及資格 満十六才以上四十五才未満ノ 7月8日から7月26日まで掲載された「鍛造工」 体力強健志操堅固ナル男女 や「鋳造工」などの現業職に対する7回の募集広 ○勤務時間 自 午前八時 至 午後四時(八 告では「年齢2 0歳−35歳の男子」 ,「高小卒程度 時間) の通勤可能者に限る」が応募「資格」として定め 戦後初期の日産における人員体制の構築 ─女性労働者を中心に─ られており,明確に男性のみの募集に変化してい この4職種について募集条件を確認しておこ る。拙稿(2010a)で論じたように「女子保護規定」 う。いずれの職種についても年齢制限は付されて を定めた労働基準法の施行の影響により,女性労 いなかった。 「英会話ニ堪能ナル女子」は当初「若 (16) 働を忌避する傾向が出てきた時期でもある 。男 性職場化の徴候と見てよいかもしれない。 他方で8月1 3日から8月2 0日にわたって毎日 干名」としての募集であったが,3月に入ると 「若干名」が落ちている。学歴の条件は付されて いない。 掲載された募集広告ではほぼ同じ職種が指定され 「英文タイピスト」と「邦文タイピスト」は同一 ていたにもかかわらず,資格が「満十八歳以上卅 の募集広告に掲載されていた。そして,いずれも 五歳未満中卒以下の自宅通勤者に限る」に変化し 募集人員の規模は示されていない。学歴等の条件 ている。資格から「男子」という性別が落ちると については当初「女学校出身三年以上ノ経験者」 ともに,もう一つの資格も「通勤可能者」から が付されていた。しかし,三年以上の経験者を確 「自宅通勤者」へと微妙に変化している。男女と 保することが難しかったのであろうか,1ヶ月後 はなっていないが,女性をも念頭においた募集へ には「女学校出身ノ経験者」に改められ,職歴要 と変化したことを示唆している。 件が緩和されている。 1948年夏の募集広告が示していることは,男性 「計算事務」についても募集人員の規模は示され のみの募集では募集人員を満たすことが難しいた ず,採用条件として「経験者又ハ珠算ノ熟達者」 めに,採用の幅を広げるために性別の枠を消した とされていた。この計算事務については計算課の 可能性である。すなわち,基本的には男性が望ま 「工賃係」に配属されたと考えてよいであろう。 しいが,それでは人員を充足できないために女性 日産労働組合婦人部長の経験を有する大竹綾子 にも枠を広げたということであり,それは女性の (旧姓:市原)は聞取り調査において「女子商業 採用に消極的になってきたことを示しているので 卒の女性たちが算盤でタイムカードの計算にあ あろう。 たっていた」旨の発言をしている(吉田, 2010a, 11頁)。ま た『日 産 旗』1 巻 5 号 に 掲 載 さ れ た 2-2. 女性のみの募集 (1) 「計算課」の職場紹介では,工賃係の女性たちが 次に女性に限定された募集について確認してお 業務に励む様を次のように紹介している。 こう。女性のみに限定された募集については大き く二つのタイプに分かれる。一つは職種や職務が 「本館正面玄関を突抜けて奥へ入ると,明る 明示されて女性が募集されている場合と,もう一 い右側の一角に,明朗な乙女の一群と溌剌たる つは職種が明示されずに募集されている場合であ 青年の一団,総勢四六名が孜々として執務して る。 いる職場こそ,諸君と馴染深い計算課である。 職種や職務が明示されていたのは基本的には事 日産重工全工場に亘り自動車製造過程の動態 務的職務の募集である。1946年1月末から3月末 を係数的に把握し,総合し分析して,企業の将 にかけて募集された「英会話ニ堪能ナル女子」, 来に確実な指針を提供するのが計算課の仕事で 「英文タイピスト」・「邦文タイピスト」,そして ある。親切,迅速,正確を旗印に原価係と工賃 「計算事務」がそれに該当する。これらの広告 係が課長を中心にガツチリとスクラム組んで, は,この期間においてほぼ毎日交代で掲載されて 颯爽と而かも力強く仕事と取組んでいる。 い た も の で あ る。 「英 会 話 ニ 堪 能 ナ ル 女 子」は 毎月二十日に諸君のタイムカード四千枚が貴 GHQ との交渉・折衝時に必要となる通訳と推測 い労働の汗と脂を滲ませて訪れると,カード計 されるが, 「女子」という限定が付けられていた 算担当の乙女達の手で締切集計せられて工賃係 し,残りの3職種については「女子社員募集」と の最多忙期に入る,給料明細書記入,給料計 いうタイトルの下での募集広告となっていた。 算,検算,現金準備手配,袋詰,領収書発行 95 社会科学論集 第143号 等々の量的な,期限付きの,而かも気骨の折れ 堅固ナル男女」という表現がたびたび使われてい る流れ作業が続く。此の期間の乙女達の奮闘は た。4月7日以降の女子従業員に対する募集広告 物凄く,豊頬は緊張に赤く上気し,算盤は機関 の「身体強健」という募集条件はこの表現を踏襲 銃の如くに唸り,ペンは稲妻の如く紙面を走 したものと考えられ,工員を念頭においた「女子 る。夕闇の訪れにホツとつく溜息とともにペン 従業員」募集であったと考えられるのである。 を○(一文字不明)く事も幾度か。 二十八日の支払を済ませると休む暇なく生産 3. 現業部門における女性労働者 奨励金の計算支払だ。そして統計資料の整備整 頓,次の給与計算の諸準備が待つている。」 (大賀, 1946, 21頁) これまで確認してきたように,工員に限定され た募集広告において「男女」が募集の対象とな り,また女性のみを対象とした募集広告にも配属 コンピュータや計算機などない時代に,膨大な 先が現業部門であることを類推させるようなもの 人手を必要とする算盤による賃金計算の作業は女 があった。では,女性が活用されている現場作業 性の仕事として設定されており,大竹の証言を裏 としてはどのようなものが存在していたのであろ 付ける文書資料と考えてよいであろう。 うか。そしてそこに性別職務分離は成立していた のだろうか。この点について検討してみよう。 2-3. 女性のみの募集(2) 日産労働組合の機関誌『日産旗』は1巻2号か 最後に,職種を示していない女性の募集につ ら2巻1号までの7号において「職場紹介」とし いてどのようなものであったのか確認しておこ た連載を掲載し,13職場(鍛造課,鋳造課,熱処 う。上記の4職種が「社員」という枠組み,すな 理課,機関課,伝導課,車軸課,計算課,工具製 わち事務的職務に対する募集広告であったのに対 作課,厚生課,圧造課,機械修理課,機関組立課, して,明確に職種を提示して女子工員を募集する 主計課)の生産状況や労働内容を,当該課所属の 広告は存在しなかった。しかし,以下に示すよう 組合員が報告している。この記事のなかで女性労 な,1946年4月7日に登場し,同月いっぱい掲載 働者に言及している課は鋳造課,計算課,機関組 された「女子従業員募集」とする広告は,工員の 立課の3職場である。このうち計算課は事務部門 募集と考えられるのである。 で既に紹介したので,残り2つの課についてどの ような状況であるのかについて確認しておきた 女子従業員募集中 身体強健ニシテ十六歳以上三十歳未満ノ者 い。 鋳造課の紹介において女性労働者が言及されて 申込 履歴書持参第二人事課ヘ来談ノコト いるのは,「中子作業」である。「中子作業場は特 横浜市神奈川区宝町二番地 に女性の活動範囲が広く,各作業に多数の女性が 日産重工業株式会社 従事している」と記されている(小浜, 1946, 17 (省線,京浜,市電共『新子安』下車) 頁)。中子とは鋳造により物を作る際に,鋳型の 中に置かれ空洞を設けるための型である。まず「鋳 その根拠は,この募集広告には「身体強健」と 物砂に中子油を入れて,混砂機で撹拌し」 ,その いう募集条件が付けられていることにある。先の 砂を「中子取り金型に入れて」形状を作成する。 「英会話ニ堪能ナル者」など女子社員の募集にお 次に,この中子を「電気乾燥爐」に入れて乾燥さ いては,こうした条件は付されていなかった。他 せ,最後に「仕上げを施した後,黒鉛を塗装」す 方,同年1月4日の「男女」を対象として「鋳造 るという作業からなる。これら一連の作業工程の 工」,「鍛造工」,「熱処理工」などの「工員」を募 各作業に女性労働者が投入されていたのである。 集した募集広告からは条件として「体力強健志操 すでに別稿(2010a, 11頁)において大竹綾子の証 96 戦後初期の日産における人員体制の構築 ─女性労働者を中心に─ 言により中子の製作過程において女性労働者が多 く活用されていたことを示したが,この記事によ り文献的にも確認されたことになる。 4.女性労働者の人員構成および人員整理 後との比較 もう一つの職場である「機関組立課」は,エン ジンの組立を担当している課となる。女性労働者 では,量的にはどの程度の女性が採用され,現 について言及があるのは,その最終工程であり, 場に配置された女性労働者の規模はどの程度で エンジン組立が終了し検査に合格すると「女子の あったのであろうか。既に拙稿(2010a, 9∼10頁) 方達も優しい気持ちでラジエータフアンやエヤー において1948年1 0月3 1日時点での性別の組合員 クリーナー等を付けたり油汚れを拭き取つたりし 数を提示し,組合員のうち「1割強」が女性であ てくれる」 (野口, 1947, 14∼15頁)とある。最終 ることを示した。しかし,職員・工員別における 組付けや仕上げの作業を専ら女性労働者が担って 男女比率については不明であった。新資料に基づ いることが示されているのである。 き当時の日産における女性従業員の数量的な就業 また1 947年8月18日に開催された横浜工場の 状況を確認しておこう。今回ここで取り上げる数 婦人部大会において発言に立った女性の所属部門 値は,横浜労政事務所に提出された「労働協約締 は,発表順に購買,工具製作,診療所,生産課, 結届」 に掲載されていたもので,本社工場に限 工賃,営業部,厚生,部品検査,機関課,鋳造と 定されたものである。しかし,1948年2月時点で (17) (18) 。現業部門として関係してくるのは の性別, 「職員」・「労務者」別の従業員数が明ら 工具製作,部品検査,機関課,鋳造である。これ かになっている点で取り上げるに足る貴重な資料 ら全てが女性職場であったとは直ちに断言するこ となる。 とはできないが,労働組合での発言者が職場の代 この表2に基づくならば以下のことが明らかに 表的な性格を持って選ばれることが多いことを勘 なる。本社工場の従業員(含む非組合員)に占め なっている 案すると,比較的多くの女性がいた職場であった る女性の比率は1 47 . %,職員では2 53 . %,労務者 と推察される。そして工具製作や診療所などの職 では1 09 . %となる。職員における女性の比率が労 場は,上記の大竹証言における女子の多い職場と 務者のそれより高いが,他方女性従業員のうち過 も一致している。 半が労務者となっている。 こうした職場紹介の記事は,戦後直後に女性を こうした女性労働者の比率を高いとみるか,低 も包含しながら行われた積極的募集において,採 いとみるかの評価は難しいが,参考までにほぼ同 用された女性が現場労働へと配置されるととも 時期(1947年4月)の米国の自動車産業における に,一定の職務に偏在していることを示唆してい 生産労働者中の女性労働者の比率を確認すると るのである。 95 . %であり(Milkman, 1987, p. 113),日産の方が 女性労働者比率としては若干高くなる。ただし, 米国の自動車産業では戦時下に一時は約1/4に 表2. 1948年2月時点での日産本社工場における性別従業員構成 職 員 組合員数 非組合員数 男 722 35 労務者 女 257 ─ 男 2498 ─ 女 305 ─ 出所:「労働協約締結届」 1948年2月24日 単位:人 97 社会科学論集 第143号 表3. 1950年12月時点での日産本社工場における性別従業員構成 事務員 技術員 現業員 特務員 男 562 319 2530 137 女 111 2 46 81 出所:日産(1951,22頁) 単位:人 まで達していた女性労働者の比率が,戦後のレイ (19) オフにより,最も低下していた時期となる 。 人員整理との関係を確認しておくことにする。 日産労働組合においては1946年5月に婦人部 では,日産ではドッジ・ライン下での人員整理 が組織される。組合結成から3ヶ月ほど経っての によってどのように変化するのであろうか。拙稿 ことである。婦人部の当初の課題は,女性の労働 (2010a)で用いた1 950年の有価証券報告書と比 問題に直接かかわる課題を扱うというよりも, 較しておこう。同有価証券報告書においては従業 「婦徳の涵養」すなわち, 「日本婦人」として「情 員の分類が,「労働協約締結届」とは異なり,「事 操の向上」をはかることを目的としていた。その 務員」,「技術員」 ,「現業員」,「特務員」の四分類 ため婦人部内には,文化体育班と生活班が置かれ, となっている。ここで前二者が「労働協約締結 「文化班には書道,茶の湯,図書,芸能,講演等」 届」における「職員」 ,後二者が「労務者」にあ を担当し,女性の「精神修養」を目指し,生活班 (20) たると仮定する 。 では「衣食住に重点を置き」, 「裁縫,更生,調理, 実は男性従業員は人員整理後より増えている。 人事等に分類」し,「封建時代の悪弊を悪習を打 既に述べたように1948年夏に従業員の大規模な 破改善して,各々職場を家庭を明朗」にすること 採用を行っており,その増加分が存し,人員整理 を目指していた(岩田, 1946, 11頁)。したがって 後もプラスとなっていたと考えられる。他方,女 「婦人部が,先づ採り上げたのは,勤労女性に欠 性は「職員」においても, 「労務者」においても け勝ちな而も希望の多い家庭的教養即裁縫及び華 大きく減少している。職員層では4 40 . %,労務者 道の講習会の開催であった」 (田辺, 1946, 22頁)。 層では4 16 . %にまで減少しているのである。職員 戦後の女性の解放とは, 「婦徳の涵養」すなわち 層,労務者層を問わず6割弱の削減が実行された 女性労働者の教養や生活力の向上を意味していた ことになるのである。したがって本社工場の従業 のだ。 員全体に占める女性の数は,1 47 . %からわずか 60 . %にまで減少することになったのである。 最初はこのような課題でスタートした婦人部 だったが,その後の活動の柱になっていったのは, (21) 男女の賃金均衡是正問題 5. 女性の解雇と婦人部 と解雇に対する危機 意識であった。ここでは後者について確認してお こう。人員整理が行われた場合には女性が標的と 最後に,女性と1 949年の人員整理の関係につ なるのではないかという危惧が存在していた。 いて補足しておきたい。既に拙稿(2 010a)におい 1947年夏に各支部の婦人部では「巷間企業再建 て残業,夜勤,休日出勤,また生理休暇など労働 整備の実施にともない相当の犠牲者が出るという 基準法の女子保護規定が,職場での摩擦を生み出 噂を聞きます。組合におかれてはこのような事態 し人員整理における女性の排除の契機となってい が起らないように全力を尽しておられることとは たことを論じた。すなわち,女性を取り巻く客観 存じますが不幸にして万一そのような事態に立ち 的な状況と人員整理との関係を取り上げたのであ 至りましても婦人だけが特に犠牲にならないよう るが,以下では組合婦人部の女性たちによる言説 努力して頂くこと」 という決議を挙げている。 を検討することで,女性の主観的な状況を中心に 同年8月1 8日に開催された横浜支部婦人部の大 98 (22) 戦後初期の日産における人員体制の構築 ─女性労働者を中心に─ 会では,この決議を挙げた理由として「企業整備 制をつくる事」が「婦人解放」にとって必要だと から起きるかも知れない首切り問題に就いても, する声も出てきている(白井, 1947)。女性が労働 女であるといふ意味で先づ首を切るということは 者たらざるを得ないことを前提としたうえで,婦 反対である」という趣旨が婦人部副部長から表明 人部が取り組むべき課題を論じているのである。 (23) されている 。 しかし他方で,婦人部における多くの無関心層 1949年の人員整理後の座談会で吉原支部の中山 の存在と活動の停滞が問題となってきていた。青 智恵子は「女の人は,首切りは先ず女の人がやら 年部のある男性組合員は,婦人部主催の華道や裁 れると云う覚悟は,持つていました。でも皆でや 縫の講習会について, 「この講習会も恐らくは最 れば大丈夫だと,思つていました」と述懐してい 初の意図に反し多数の者に利用され開放される事 る(山田他, 1951, 71頁) 。この発言は整理解雇が なく,一部部員の偏見の為か,特定少数者の私的 実施されれば女性がその標的となると危惧を抱い な集合的色彩を帯びているのが現状かと聞く」と ていたことを示すのみならず,婦人部の活動が積 して,大多数の部員にとって関係ないものとなっ み上げられていくなかで,女性組合員の側に会社 ている状況を嘆いている。さらに「男女の機会均 の力を退けていく自信が生まれてきていたことを 等」に関する「重大問題」についても, 「この激 示唆している。 しい時代に溺れきつて封建的社会制度因習的家族 他方で,同じ座談会において善方ますは「あの 制度の弊害より脱せんとする努力に対しての無関 時は女の人が多かつたのですが,女だから,手易 心さ」に陥っている「一般部員」と「幹部の高踏 く首を切られると云うのはどうしても納得出来な 的高名主義的急進的態度」との「遊離」を批判し, い,それでなくても女の人は,結婚と云う事に依 「今までの活動にみられた如き足の地について居 つて自然淘汰されて行くのですから」(山田他, らぬ小児麻痺病的方針を一擲し,より根本的な現 1951,77頁)と発言している。職場に雇用されて 状の判断に基づく,一般部員を対象とする教育啓 いた女性たちの多くが結婚を機に退職していくこ 蒙活動に主力を注ぎ,より広汎な基盤に立つ運動 とを前提としながらも,しかし1949年の人員整 をして欲しい」としている(田辺, 1946, 22∼23 理では女性が狙い撃ちされたことの理不尽さを訴 頁)。 えている。 また1947年7月には益田哲夫組合長が青年婦 では,仕事と結婚,あるいは職業と家庭につい 人対策部長を兼任することになったが,その背景 ての意識は,終戦直後の日産の女性労働者にとっ には婦人部の活動の停滞ということがあった。益 てどのように意識されていたのであろうか。一方 田組合長はこの兼任にあたって「日産の婦人部殊 では,戦時中の動員体制における仕事の経験を通 に横浜支部のそれは今迄の動きを見ても何等見る して,確かに結婚後も女性が社会に出て働くのは べきものがない,これは単に婦人部のみに責任を あたり前という気運が現われてきていた。最初期 問うと云ふのでは勿論ない,幹部にも責任があ の婦人部の組合員の論考には「戦争によつて人手 る,青年部は一応おいて婦人対策を樹立するには 不足により女子の会社工場採用を見,女性独自の 先づその数の過半を占める横浜の婦人部の再建を 零細的技能はその特殊性を発揮し能率の好調を一 実現しなければならないと思ふ云い換へれば大手 般社会に知らるるに至り女子の職場進出の途は開 術が必要だと云ふことだ,この手術なしには全日 かれた」(岩田, 1946, 11頁)や,「私達が職場を 産婦人部の向上はあり得ないと思ふ」 と発言し 求め,働かなくてはならなかつたのも社会文化の ている。先述の婦人部による決議がこの組合長の 発展に起因するので,私達は現在最早や封建時代 兼任後だったことを考えると,組合幹部による梃 の如く家にいたのでは喰えないのです」 (大久保, 入れの結果,ようやく婦人部の活動が活性化して 1946)といった表現が見られる。さらには「婦人 きたとみてよいであろう。 が有用な生産労働に入つて行く様な仕組の経済体 (24) こうした婦人部の活動の停滞や関心の低さの背 99 社会科学論集 第143号 景に関連していると考えられるのが,この時期の い工場での仕事から家庭に回帰することによる 女性たちが子育てをする性であるとの意識に強く 「解放」を語っているのである。この時期,未婚 縛られていたことである。例えば,女性事務員が の女性労働者における,婦人部の活動に最も熱心 業務中に男性工員から「女は黙つて居ればよい」 であった層においてさえも,職場・組合という経 と「旧来の因襲」に基づいて対応されたことに抗 験は,母親という立場になるためのよき準備とい 議した吉原工場 TS 生(女性)による投書におい う位置付けになっていたことを示唆しているので ては,唐突に最後において「次代の産業再建,祖 ある。 国再建に役立つ子供を育てる婦人の向上に協力し もし女性の側にこのような意識が存在し,それ て下さいます事を呉々もお願ひ致します」という が周知のことであったとするならば,人員整理に (25) 。つまり現在の労働現場 臨んだ経営側にとっては,女性労働者が御しやす での女性の待遇の改善は,次のステージである いカテゴリーとして浮上しても当然であろう。先 「子供を育てる婦人の向上」という観点からなさ の善方の論理の逆である。やがて女性は自主的に れるべきことであるとされているのである。吉原 辞めていくのであるから,この機に辞めさせたと 支部の婦人部長経験者,佐野治子の組合活動を回 しても,その反発は限定的なものに留まるであろ 想した文章も,同様の観点に立っている。 うということになる。実際,ドッジ・ラインの影 一文で締められていた 響で経営危機が深刻化していく1949年6月には, 「今私達がこうして婦人解放解放と叫んだ所 ある女性労働者から次のような趣旨の投書が送ら で決して私達の時代に実現されるとは思いませ れてきたとして,これに組合長が回答する記事が んが,次の世代を担う子女の母となる為,今私 『日産旗旬報』に掲載されていた。 達が考へるべきであると思います。総べて子供 と共に考へる事の出来る母親となりたいもので す。 「(1)首切りは必ず来る。他の工場で一万や二万 の金で右から左へバサバサやられている どうしても私達はこの望ましい女性となり, なぜ退職金制度を早く決めないのか 母となつて本当に解放された,女性の地位,確 (2) 自分は欠勤の多い女性だがこんな弱い女性, 立への先駆者とならねばならないと思います。」 年をとった女性のため有利な退職金制度を (佐野, 1951, 63頁) 会社に要求しないとは卑怯だ。 (3)首切りが会社から出るまで待つ気か。ひど 5年間の組合活動を振り返るなかで女性にとっ (26) い!」 ての「物を考へる」という事の大切さを学んだと する佐野が「子供と共に考へる事のできる母親と 会社の経営状況が悪化してくるなかで,一部の なりたい」としたうえで, 「五年間の尊い体験を 女性労働者にはこのように退職という選択も止む 大いに今後活用致し度い」としている。やはり職 なしという認識が出てきていたのである。おそら 場や組合での経験を,次のライフステージでの役 く会社もこうした女性の姿勢を見越していたので 割たる母親としての立場からの視点に回収して総 あろう。先の吉原工場の座談会では,会社が解雇 括しているのである。 対象者として女性を狙った理由をある男性組合員 婦人部の幹部らを集めて行われた「女ばかりの が忖度して「女にはあまり反対もされないだろう 解放座談会」 (村山他, 1948)では,斎藤美代(横 と云うのでね」と指摘している(山田他, 1951, 77 浜婦人部幹事)が「女性の解放が言われ始めた頃, 頁)。また「成績指数の影響」を指摘し,「日頃, 私は仕事の点では男の下積みになつていても,母 やはり女だから,と云う事で成績指数も悪かつた として解放されるだらうと考えていました」 (村 為だ」という発言もあり,日常から女性労働者は 山他, 1948, 15頁)と話しているが,これは厳し 人事考課において不利益に扱われており,かつそ 100 戦後初期の日産における人員体制の構築 ─女性労働者を中心に─ れが解雇において決定的に働いたというのであ (27) る 。 作業においても,鋳造工程における中子の製作, 工具製作におけるバイト磨き,完成エンジンの汚 もちろん,実際の解雇にあたっては女性たちも れ取りなど,女性に適切だと経営陣が考える職務 声を挙げた。女性だけのデモを行ったり(近藤, や職種について女性の活用が進められ,製造現場 1949),職場闘争で激しく部長を追及する局面も においても性別職務分離が行われていたのであ あった。 「清掃関係の従業員を係長だけを残して る。 (28) 全員解雇」 した庶務課では「何故女の人ばかり 最後に,人員削減とのかかわりで,女性労働者 首を切るのですか」と部長につめより,子供をか の主観的状況を考察した。彼女らの言説を検討す かえた戦争未亡人や高齢の両親を扶養する必要の ると,戦時動員体制での体験や,結婚しても食べ (29) ある女性労働者は「要保護者」 として解雇の対 るためには働かなければならない状況に置かれた 象外だと,徹底した職場闘争を繰り広げた(小 ことによって,労働者としての自覚を持ちはじめ 村, 1949)。しかし,こうした女性たちの抵抗もむ た女性も一部出てきていた。しかし,他方では育 なしく1949年10月の人員整理の結果は女性の約 てる性としての女性という意識に強く縛られてい 6割の削減に帰結したのである。 た。母になることによる女性の解放が意識され, 仕事や労働組合の体験はそのための準備,下積み 小括 として語られているのである。 日産は終戦直後の1945年9月30日に全従業員 こうした女性の意識は結婚などを契機に退職す の解雇を行い,翌10月1日に3000人を再雇用す ることを志向することになる。勿論,離職すると ることで戦後の企業活動を再開した。しかし,そ してもそれは自発的で自由なものであるべきで, の直後には GHQ から自動車の生産許可が下りる 経営から強制されるべきではないとして,人員整 ことを見越して,大幅な人員増に踏み切る。本稿 理の不合理を問う言説も当然存在していた。しか ではこの大量採用に際して用いられた新聞の募集 し,経営側からすればいずれ辞めていくことを考 広告を資料として,その内実を検討した。 えている層だから,経営危機に際して解雇したと その結果,この募集は戦時中の総動員体制の枠 しても抵抗は少ないと読んだのであろう。労働基 組みを継続するような形で行われたことが明らか 準法との関係で女性労働力の利用から生じていた になった。すなわち,事務員のみならず,現場労 職場管理上の摩擦をも踏まえて,この機に乗じて 働者についても,男性のみに限らず,女性をも包 総動員体制からの脱却をはかり,男性職場化を一 含する形で積極的に進められたのである。そして 挙に進めた。 現場労働者に占める女性の比率は本社工場におい 勿論,ここでは日産の女性労働者に関連する言 ては約1割となっていたのである。決して多いと 説を取りあげたに過ぎない。こうした言説が,当 はいえないが,しかし本社工場で働く女性のうち 時の女性労働をめぐる時代状況や,言論界の言説 ほぼ半数は現場労働者であったということになる とどのようにリンクしていたのかどうかについて し,1949年の人員整理後と比較するとかなり高い も検討することが必要となろう。しかしそれは本 比率であったことになるのである。とはいえ, 稿の課題を大きく超えるし,また筆者の能力を超 1948年夏に行われた大規模な従業員募集では当 えるものである。 初は男性のみに限られるなど,徐々に男性職場化 への兆しもあらわれていた。 本論文は平成2 6年度科学研究費補助金(基盤研 他方,こうした女性労働者の活用は性別職務分 究 C 課題番号2 4530631 「労使関係の展開と企業 離を伴う形で進められていた。事務部門において 内秩序の形成」研究代表者 : 吉田誠)の支援を得 は人手を必要とする賃金の計算業務に携わる業務 て執筆された。 に多くの女性が配置されていた。また工場の現場 101 社会科学論集 第143号 《注》 (1)代表的な研究としては山本(1981),熊谷・嵯峨 (1983),黒田(1984ab, 1986)などの研究を挙げる ことができる。 (2)上井(1994)は企業名を匿名化しているが,A 社 が日産であることは確実であることを踏まえ,ここ で言及する。 (3)もちろん個々の事象として女性の組合活動が取り 上げられてはいる。例えば,熊谷・嵯峨(1983,106 (10)日産重工労働組合「残業拒否:吉原工機課に地域 闘争」 『日産旗旬報』第51,52合併号 1948年8月1 日。 (11)日産重工労働組合「千名に及ぶ大増員計画:会社 の生産態勢」 『日産旗旬報』第51,52合併号 1948年 8月1日。 (12)1946年3月から4月にかけての一時期に新卒者 の募集広告が集中的に掲載されることがあったが, 1947年以降については掲載されていない。新聞広 告とは別ルートの募集へと転換したのであろう。 頁)には鋳物職場における女性の職場闘争の記事が (13)中村秀弥は食糧事情などで退職者が相次ぎ,補充 引用されている。しかしそれだけである。なぜ鋳物 採用を行ってもその人たちが辞めていくので, 「毎 工場において女性による職場闘争が生起すること 月,どれだけ採用し,どれだけ辞めたかはわかりま になったのか,鋳物職場における女性労働者の存在 せんが,とにかくひどい状態でした」(日産労連 , について対象化した分析はなされていないのであ 1992,107頁)と証言している。また1 947年10月1 る。鋳物職場の中子製作は女性職場であったという 日に会社名で発表された「会社の現状に就て」と題 認識を抜きにして,ただ職場闘争だけを記している した文書では「毎月100名くらいの自然減がある」 だけなのである。 また,臨時工については論及している研究も多い (日産 , 1965,172頁)とされている。 (14)日産重工労働組合「日産労働組合大会:生産復興 という指摘もあり得るであろう。しかし,自動車組 運動第二段階突入を決議す」 『日産旗旬報』1 7号 , 立メーカーにおける本工/臨時工という枠組みが 1947年7月21日。 確固として形成された後からの視点であり,戦前に も問題化していた臨時工問題が,戦後の平等観の (15) 1947年の女性の平均初婚年齢は229 . 歳であり(厚 生労働省, 2014, 31頁),ほぼこの年齢と近似する。 なかでいかに再登場したのか,またその背景にあっ (16)当時の日産社長,箕浦多一は『神奈川新聞』の座 た労使関係はいかなるものかという観点からなさ 談会において次のように語り,労働基準法の施行以 れた研究はない。筆者はこの研究について着手し 降,女性労働が問題化してきたことを示唆してい たばかりではあるが,拙稿(2013)において,従来 る。「具体的にいえば労働時間の問題,休日労働の の研究とは異なる視点から臨時工の登場について 問題または有給休暇や女子年少者の問題が,機会あ 取り上げた。 る毎に取りあげられ,しかもそれが多くの場合労働 (4)自動車組立メーカーの労働過程分析に最初にジェ 攻勢の材料として取りあげられている,ところがそ ンダー視点をもたらしたのは野村正實(1993)であ の取りあげ方は基準法の域をはるかに超えた労働 る。野村は自動車組立メーカーにおける女性の不 問題となつて,保護立体の精神を○○(二字不明) 在が,電機産業との人事管理のあり方や分業の構造 現実はまことに残念なことで,こうした点から今後 の違いに帰結しているとしている。 の在り方に対する大きい示唆が生まれて来ると思 (5)佐藤(2003)の研究対象は日米の航空機産業であ るが,その範型となった自動車組立メーカーについ ても概観しているので,ここではそれを活用する。 (6)残念ながら,この時の解雇者および再採用者の性 別分布は不明である。 (7) 『神奈川新聞』については横浜市立中央図書館が所 う」(箕浦他, 1949)。 (17)日産労働組合『日産旗旬報』第20号 1947年8月 21日。 (18)この「労働協約締結届」は神奈川県立公文書館に 所蔵されている1 948年の改訂労働協約の原本に添 付されていた書類であり, 「23年3月2 3日」付の 蔵するマイクロフィルムを利用した。同マイクロ 「横浜労政事務所」の受領印が押されている。 フィルムが収録しているのは1945年11月7日以降 (19)なお,Milkman は戦後の女性労働者比率の減少 であり,正確に述べるならば終戦後から同日以前の を,女性の先任権の序列の低さにより生じたもの 募集状況については不明である。 というよりも,経営側の若年男性労働者を選好する (8)以下では本社工場とは横浜の本社およびそれに付 設する工場を指すこととする。 (9) 「建設の希望:工場ルポルタージュ4 日産重工業」 『神奈川新聞』1948年4月14日。 102 ママ 採用政策によるものとしている(Milkman, 1987, p.p.110∼111)。 (20)有価証券報告書の「特務員」を48年「労働協約 締結届」における「労務者」としてよいかどうかに 戦後初期の日産における人員体制の構築 ─女性労働者を中心に─ ついては判断に迷うところがある。例えば,特務員 の扱いとなると考えられる清掃関係の労働者につ いては,1949年人員整理以前においては,庶務課 所属であったからである( 「会社遂に個人通告を強 行」 『日産旗旬報』第92号 1949年10月21日)。現 在であれば庶務課所属ということになれば職員扱 参照文献(アルファベット順) 岩田喜与(1946) 「婦人の結束とその活動」『日産旗』第 1巻2号 自動車産業経営者連盟(1957) 『自動車産業経営者連盟 十年誌』 いとも考えられる。もし「労務者」が有価証券報告 上井喜彦(1994) 『労働組合の職場規制』東京大学出版会 書の「現業員」のみに対応しているとするならば, 近藤 京(1949) 「ルポルタージュ 女だけのデモ」日産自 女性の工員は85%の削減となる。 (21)『日産旗』1巻6号(1 946年11月)の記事には 次のように書かれている。 「男女の賃銀統一問題を 引つさげて婦人部は今起ち上がらうとしている。女 動車労働組合横浜支部・日産文学サークル『斗争詩 集』第2編 厚生労働省大臣官房統計情報部(2014) 『平成2 6年 我が 国の人口動態』 性解放運動の第一段階として沈黙を続けていた婦 熊谷徳一・嵯峨一郎(1983) 『日産争議 1953』五月社 人 部 の 結 成 以 来 の 大 仕 事 で あ ら う。 」 (大 和 田, 黒田兼一(1984a) 「企業内労資関係と労務管理(I)」『桃 1946, 24頁)。また後述する1947年夏の婦人部の決 議では解雇問題と並んで, 「給料不均衡是正に際し て労働基準法第四条の趣旨を体し,男女間に不均衡 が起らないように会社側を充分監視して頂くと共 に万一不均衡が起つた場合には婦人部から再度の 是正を申し出ますからその節は万全の処置を取つ て頂くこと」との決議がなされている。 山学院大学経済経営論集』第26巻1号 黒田兼一(1984b) 「企業内労資関係と労務管理(II)」 『桃 山学院大学経済経営論集』第26巻2号 黒田兼一(1986) 「企業内労資関係と労務管理 (III)」『桃 山学院大学経済経営論集』第27巻4号 京谷栄二(2007) 「リベット工のロージーと女子挺身隊」 『長野大学紀要』第29巻2号 (22)日産重工労働組合「全支部婦人起上る 婦人部大 益田哲夫他(1951) 「創立の思い出を語る」全日本自動車 会」『日 産 旗 旬 報』第2 0号 1947年 8 月2 1日。な 産業労働組合日産自動車分会吉原支部編『斗いの お,この決議においてもう一つの課題として,賃金 における「男女間の不均衡」是正が取り上げられて いた。 (23)日産重工労働組合「全支部婦人起上る 婦人部大 会」『日産旗旬報』第20号 1947年8月21日。 (24)日産重工労働組合「俺も入つて大手術をやろう」 『日産旗旬報』第17号 1947年7月21日。 (25)吉原工場 TS 生「声」 『日産旗旬報』第37号1948 年2月11日。 (26)組合長「声:渡邊鐡子さんに答える」 『日産旗旬 報』79号(1949年6月1日)。 (27)組合に提示された人員整理の基準には「2 勤務 跡:創立五周年記念誌』 松浦俊雄(1951) 「あの頃と今と」全日本自動車産業労働 組合日産自動車分会吉原支部編『斗いの跡:創立五 周年記念誌』 Milkman, Ruth.(1987)Gender at Work. University of Illinois Press. 箕浦多一他(1949) 「施行二周年を迎え 労働基準法の 展望(下)」『神奈川新聞』9月3日 村山武久他(1948) 「女ばかりの女性解放座談会」 『日産 旗』第3巻1号 日産自動車(1951) 『有価証券報告書』第27期(自昭和 21年8月11日至昭和25年12月29日) 成 績 不 良 の も の」と い う 項 目 が あ る(自 経 連, 日産自動車(1965) 『日産自動車三十年史』 1957, 90頁)。 日産自動車(1983) 『21世紀への道:日産自動車50年史』 (28)日産重工労働組合「会社遂に個人通告を強行:組 合を無視した暴挙」『日産旗旬報』第92号1949年 10月21日。 (29)人員整理の基準には「扶養者なきもの」 (自経連, 1957, 90頁)という項目があり,彼女たちの場合は 扶養者がいるので解雇の対象外になることを「要保 護者」と表現していると解することができる。 日産労連運動史編集委員会(1992) 『全自・日産分会』上 野口 哲(1947) 「職場紹介・機関組立課の卷」『日産旗』 第2巻1号 野村正實(1993) 『熟練と分業』御茶の水書房 小浜正宏(1946) 「職場紹介・鍛造課の卷」『日産旗』第 1巻2号 小村和子(1949) 「女だつて働かねば食べられない !!」 『日産旗旬報』第93号 11月1日 大賀 博(1946) 「職場紹介・計算課の卷」 『日産旗』第 1巻5号 大久保セイ(1946) 「婦人部の諸姉に訴ふ」『日産旗』第 103 社会科学論集 第143号 1巻5号 大和田(芳雄) (1946) 「婦人部の胎動」 『日産旗』第1巻 6号 佐藤千登勢(2003) 『軍需産業と女性労働者』彩流社 佐野治子(1951) 「五周年に当つて」全日本自動車産業労 働組合日産自動車分会吉原支部編『斗いの跡:創立 五周年記念誌』 白井艶子(1947) 「声」『日産旗旬報』第3号 3月1日 田辺金一(1946) 「婦人部に寄す」『日産旗』第1巻7号 辻 勝次(2011) 『トヨタ人事制度の戦後史』ミネルヴァ 書房 山田盛他(1951) 「企業整備斗争座談会」全日本自動車産 業労働組合日産自動車分会吉原支部編『斗いの跡: 104 創立五周年記念誌』 山本 潔(1981) 『自動車産業の労資関係』東京大学出 版会 吉田 誠(2010a) 「ドッジ・ライン下における日産自動 車の人員整理」 『大原社会問題研究所雑誌』621号 吉田 誠(2010b) 「全自日産分会関係資料『浜賀コレク ション』について」『香川大学経済論叢』第83巻 1・2合併号 吉田 誠(2012) 「戦後初期における日産の再建危機と 配転規制」『立命館産業社会論集』第4 8巻2号 吉田 誠(2013) 「日産における臨時工の登場と労使関 係」『立命館産業社会論集』第4 9巻1号 戦後初期の日産における人員体制の構築 ─女性労働者を中心に─ 《Summary》 Composition of Labor Force at Nissan in the Aftermath of World War II Focusing on Female Employees YOSHIDA Makoto This paper deals with sexual composition of labor force at Nissan Heavy Industries Corp.(now Nissan Motor Co., Ltd)during the early era after World War II. Nissan dismissed its all employees, and , rehired 3000 employees in the fall of 1945. Its president, however, expected to get GHQ s permission to manufacture automobiles soon, and started to hire massive labor force. Nissan wanted to hire both male and female work force at that time. Almost 15% of its employees at Yokohama head office and works were female in 1 947. Females were assigned not only to non-production jobs, but also some production jobs though sexual divisions of labor existed. Half of the female employees were production workers. The company dismissed about 6 0% female employees in 1949 not only because the labor standard law since 1 947 had provoked some difficulties in female employment, but also because females were expected to agree dismissal more easily than males. 105