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錬達への秘決 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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錬達への秘決 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
錬達への秘決
旧・ローマ書の福音 12
錬達への秘決
5:1-11
1.こうして信仰によって義とされた今、私たちは私たちの主イエス・キリ
ストの仲立ちにより神との平和を持っています。 2.現に私たちが足を踏まえ
1
ているこの恵みに、私たちが信仰で近づくことができて今日あるのも このキ
2
リストの仲立ちがあるお蔭 です。そして私たちは神の栄光を見る希望で勝利
者の喜びに浸っているのです。 3.それだけではありません。私たちは今の苦
3
しい経験 の中で、もうその勝利の喜びに浸っているのであります。それは他
4
ならぬこの苦しい経験が働いて、しっかり踏みとどまる力 が養われ、 4.そ
5
の踏み止まる力はテストを経たほんものの品格 を培い、更にそのほんものの
6
品格が希望を身につけさせる ―ということを見きわめているからです。し
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かもこの希望は決して人を裏切らない 希望です。 5.その証拠に 現に神の愛
が、私たちが頂いた聖霊を通して、溢れるほど私たちの心に注がれているの
ですから。
上の訳文で「テストを経たほんものの品格」と訳した単語は一語です。口語
訳ではこれに「錬達」という漢語を当てています。「錬達の士」と言えば日
本語では普通は技術や物事に慣れて経験の深い人のことを言うのですが……
パウロがここに使った「ドキミー」あるいは古典発音で「ドキメー」とい
5
う言葉は もともと「テスト済みであること」を表わす名詞で、言い換えると、
テストに耐えて使いものになること、本物として保証付きであることを言い
ます。英語の聖書は approvedness(定評あること)と訳していましたが、
新しい NEB 訳は proof that we have stood the test(我々がテストに耐えた
という証拠)という長い訳語を配しています。私の訳語もこれに勇気を得て
作ったものです。パウロは、今の苦しい経験の中で信仰に生きていれば、そ
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錬達への秘決
の苦しみの経験がやがて効を奏して「踏みとどまる力」を養い、更にそれが
錬達―テストを経た本物の品格を培い、そういう人にとっては、希望は真
に身についた正味のものになると保証しました。
1.錬達の信仰者になろうとする人たちの色々な努力
体を鍛えるために毎朝ランニングをしたり、ヨガやいろいろな健康法を実
行する人たちがいるように、いざと言う時に真価を発揮するような「テスト
済みの本物のクリスチャン」になりたい悲願から、人は各人いろいろな霊的
自己鍛練の方法を見つけて実行しています。
たとえば毎週 1 回早朝に集合して、聖書を読み、祈りの会をする人たちも
います。大阪クリスチャン・センターや土佐堀の YMCA で 7 時頃から祈祷
会をし、集った信者同志で朝食を共にして、励まし合って出勤する人たちを
私は知っています。中にはもう 10 年、20 年も続けている熱心な方たちもお
られます。自分の生活を切りつめて、教会の献金以外に自分で献金を積み立
て、施設や海外の医療伝道に振替で送っている人や、伝道者教育のための聖
書学院の経営の一部を個人で負担している人もいます。病人や養老院のお年
寄りを訪れて慰めている人もあれば、励ましや慰めを要する人に定期的に手
紙を書き続ける人もいます。月に一回とか週に一回とか、人を訪ねては聖書
をすすめキリストを伝える人もあれば、町角に立って人に呼びかけるという
方法を取る人もあります。教会で何か一つの務めや責任を自発的に引き受け、
時間とエネルギーをさいてコツコツとつとめる人、それによって自己の肉の
怠惰に打ち克ち、キリストの思いとキリストのなさった業とを少しでも自分
のそれにしたいものと願って励む人たちもいます。
それぞれの人に、正味内から突き動かされるままに選んだ各人の道があり、
自発的に働かせた「信仰生活の知恵」があります。そうしなければ救われな
いとか、肩身が狭いとかいう次元じゃなく、「本当は何もしなくてもキリス
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トによって救われる」という信仰の原則に立つと同時に、その人の本当のも
の、いやその人の受けた本当のものが各人なりにいろんな形を取り始めます。
これは外からは見えないことも多いし、聖霊だけが人の心の中を見て知って
おられます。ですから、真の大人のクリスチャンは人と自分を見くらべてう
ぬぼれたり、また反対に自信喪失の真似をして騒いだりもしません。各人自
分のペースでコツコツやっている隠れた霊的修練のようなものです。
しかしこう言う霊的練達法は実はそれぞれの人に向くやり方、ふさわしい
し方があります。決して誰もが月曜日の暗がりから起きて、片町線に乗って
玉造まで祈祷会に行くものではないし、誰もが本を買う金を切りつめて聖書
協会や新改訳に献金を送るわけではない。誰もが花を持って分冊聖書を携え
て病院を訪れるものじゃないし、誰もが人を慰めたり励ましたりする仕事を、
同じ形でするわけではありません。こういうことは大体、自分の内から溢れ
ても来ないことや、それほどしたくないこと、自分に合わないことを、見栄
や背伸びでやっておりますと、忽ち信仰まで失なって躓くものです。
先日「あおによし」というテレビドラマを見ておりましたら、これは戦争
中の物語ですけれど、「日本帝国のためにこの体をお役に立てんならん」と
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言うので、ある旅館の軟弱な若主人が、一念発起して井戸水で冷水摩擦 を始
めたまではよかったのですが、忽ち風邪を引いて熱を出して、震えが来て、
ふとんをかぶって寝てしまう場面がありました。
霊的錬達、練られた品性、テストを経たホンモノの品格という目標を目ざ
しても、各人よほど謙虚に自分の道を選びませんと、バテて潰れて消え去る
か、或いは消え残って鼻持ちならない「教会お化け」になり果てます。もっ
とも反対に(これは遂に本当の意味でキリストに触れることなく形だけ改宗
した場合など)何の努力もせず、また少しずつ努力を減らして怠惰とこの世
の生き方の中へドップリ漬かり切って、遂にはキリストを仰ぐのも面倒にな
って沈没……というケースも無くはないですが、これはまた全く別な次元の
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話なので、詳しくはまたの機会に譲ります。
ところで、以上のべたような霊的鍛錬法は、キリストを仰いで自発的に選
んだ「信仰生活の知恵」である限りにおいて貴重ですし、少しも悪いことで
はないどころか、大いに良いことであります。けれども、これらは本当のこ
とを言うと、人が「錬達」に至る道のほんの補助物であって、あなたや私を
「テスト済みのホンモノ」に作り上げる主要な原動力は、それとは全く別な
所にあります。そしてそれに比べると、人間の修練法などは、「有れば有る
に越したことはない」程度のお添えものに過ぎないのです。
2.錬達のためにハッパをかけてくれないパウロ
ところで、ローマ書の著者は「錬達」という言葉を口にしながら、少しも
私たちにハッパをかけて奮い立たせるようなことを言ってくれません。霊的
冷水摩擦の号令もかけてくれませんし、鍛錬の方法を暗示もしてくれません。
「苦しい経験が働いて、しっかり踏みとどまる力が養われる」とは言います
が、「そういう苦しい経験になるようなことを見つけて人一倍苦労したら本
物のクリスチャンになる」とも言ってくれません。それを言って欲しい人も
ありましょうし、これでは何となく物足りないと感じる人もいるに違いない
のですけれど。
ローマ書の著者は、むしろ、「苦しい経験は、求めないでも、その人その人
にいろいろな形で降りかかって来る。いやでも向こからやって来る。当り前
のものだ。騒ぐな! いばるな! 黙って耐えて、キリストを仰いでいてごら
ん。錬達は神から来る。自然にあなたの身につく。それは自分で大声上げて
冷水摩擦みたいにこすり出すものじゃない!」とでも言うように、まるで何
かこう、自動的に次々に加工されて出て来る製品の名を呼ぶように、苦しい
経験―踏みとどまる力―テストを経たほんものの品格―希望という
順序で名を呼んで、それが一つひとつ順々に次のものを生み出して行くこと、
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それをすでに「見きわめて」それで勝ち誇って喜んでいる、という書き方を
しています。
これは、前講で学んだパウロのアブラハム観ともつながるのですが、「錬
達」についてパウロが教えていることは、言いかえれば錬達の秘決は、私に
はこう聞えます。「自分の義(の有無)を拠り所にせず、神の義を拠り所にし
て信仰によって生き続けよ。自分に何ができたか、何ができなかったかを誇
ったり悩んだりせず、キリストが与えて下さるものを仰いで受けて、喜んで
いなさい。そうすれば「錬達」はちょうど樹木が時が来れば実を結ぶように、
自然に生じてあなたのものになる!」
ガラテヤ書の 5 章に有名な「御霊の実は」というくだりがあります。22 節
と 23 節の所です。「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です」(新改訳)。ちょうどその前の「肉の行ない」に対してこれ
は「御霊の実」the fruit of the Spirit と書いてあります。この「実」という言
葉がまことに示唆に富んでいることにお気付きですか? 実(果実)というも
のは、樹木が鉢巻しめて顔を真っ赤にして必死で内から絞り出すものではな
く、地面にちゃんと植わって根をおろしていれば、結びたくなくても結んで
しまうものです。錬達や希望も全く同じプロセスで自然に与えられるもの。
だから、あせるな。上から与えられた各人各人の環境や体験の中で、キリス
トから頂く義だけをより所として生きよ。そうすれば踏みとどまる力も、ホ
ンモノの品格も希望も、順次みなあなたのものとなる。
希望の根拠や希望の内容は、すでにキリストの復活と共に存在しているの
ですから「錬達は働いて希望を生み出す」は何か新しい内容の希望ができる
ことではなくて、すでにそこにある希望が単なる理論や教義ではなく正味自
分にとっての希望となり、切っても切れぬもの、自分の一部になるという意
味であることはすでに本講の初めに掲げた訳文と註(6)に述べておきました。
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「しかもこの希望は決して人を裏切らない希望です」と使徒パウロは言い
ます。直訳すれば、「この希望は恥をかかせない」です。今の流行語で言う
なら「この希望だけはズッコケる
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心配はない」と言ったらよいでしょう。
信じ望んで生きた者が裏切られるような、実体のない空しい希望とは違うの
です。このことを信じてどっしり落ち着いていられるか……それが問題です。
イザヤ書の中に「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。こ
れは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者
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は、あわてることがない 」という言葉があります。このイザヤ書を昔ヘブ
ライ語からギリシャ語に訳した人たちは、この「あわてることはない」とい
う所、いまのローマ書 5:5 と全く同じ動詞を使って、「恥をかかない」「ズ
ッコケない」というような意味に訳しているのは
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とてもおもしろいと思い
ます。キリストへの信頼だけで「初めも信頼なら最後まで信頼」で安心して
いられるか、それとも信じて行った末にズッコケるかも知れぬぞと、あらか
じめ手を打って置くかです。
でも、どうしてそこまで安心して信じていられるのでしょう。3 節と 4 節
に示された三段階の自動的生産力! の秘密は何なのでしょう? 人間の修錬
法も「有れば有るに越したことはないが」、この霊的生産
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の主要な原動力
は全く別の所にあると断言できる理由は何でしょう? その秘密は実は、信じ
る者の中に住んで下さっている聖霊であります。この聖霊の生命力の秘密を、
パウロはやがて 8 章で詳しく展開することになりますが、すでにここでもそ
の秘密の一端をごく簡潔に明かします。
3.終点まで見きわめて勝ち誇らせた原動力
この 1 節から 5 節までの箇所を貫く中心テーマ、と言うより、これは 11
節の結びでもう一度出て来て、
1 節から 11 節までの全体を貫く中心テーマは、
「勝利者の喜びに浸っている」という宣言です。元来この言葉は一語
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であ
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りまして、ギリシャ文学などは一貫して「誇る」「誇りを持つ」「自慢する」
という意味に使いますが、七十人訳の中での用法を調べてみますと、漢語の
「矜持」に近い意味から、「自身を持って喜ぶ」「勝ち誇って喜ぶ」「感謝
して喜ぶ」等、高度な意味での優越者・勝利者の喜び
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のニュアンスが含ま
れて来ます。ローマ書のパウロは恐らくここでそういう旧約的意義を踏まえ
てこの語を使ったと思えるので、私は英語の exult に近い意味を何とか表わ
そうとしてみました。長い訳語ですがお許しを願います。
パウロはキリストを信じて神の義を受けたとき、キリストの仲立ちによっ
て神との平和を得ていることを実感しました。彼は一方的な大きな恵みの中
にしっかり足を踏まえて立つ自分が、もうその時点で、神から賜わる最終的
栄光を見たも同然の人間になった
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のです。ですからパウロはもうその時点
で、その終点まで、栄光の完成まで見てしまって、文字通り「勝利者の喜び」
に狂喜する人になっているのです。しかも「今の苦しい経験」の中で、その
先の先のもう一つ先まで、三段階の神の作業、自動的プロセスの地上での仕
上げまで「見きわめ」てその喜びを噛みしめているのであります。パウロは
ここで終始、「私たち」と言っておりますが、「この経験は私たち共通のも
のだ。信仰の澄んだ目をこらせば、この三段階の神の作業は諸君にも見える
はずだ。信じてこの同じ勝利者の歓喜を味わおう」と呼びかけていることに
なります。
パウロにとって、この希望が絶対間違いない証拠は、彼の聖霊体験でした。
聖霊体験と言っても、よく使徒行伝やコリント書を早合点する人たちが考え
るような宗教病理学的な異常で派手な現象ではなく、静かに彼の霊の深みで
着実に起こっている、否定できない確かなできごとでした。聖霊が事実、自
分の霊の深みに住み込んで救いを保証し、この死ぬベき体まで生かしてしま
うベく、自分の中に恵みの業を開始しておられる……パウロはそのことをや
がてローマ書 8 章で告白するのですが、今その体験の一部を、5 節の「その
証拠に」という言葉に続いて語ります。
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「その証拠に現に神の愛が、私たちが頂いた聖霊を通して溢れるほど私た
ちの心に注がれているのです。」パウロがここで言う「神の愛」とは、私たち
が次講で学ぶ 6,7,8 節の神の愛が自分のためだと言うことの感得と玩味
(appreciation)です。パウロは、このことが実に神から自分に与えられた
聖霊を通して示され、現にその愛が自分に豊かに注がれていることもその聖
霊のお働きでありありと自分にはわかる。これがこの希望の確かさの何より
の証拠だ、と言ったのです。
(1972~75)
《研究者のための注》
1. 直訳、「近づきを得てしまっているのも」、「……今日あるのも」で完了時称
の意味あいを表わそうとした。
2. 節頭の
を強調構文のように訳した。
3. 「苦しい経験」
は
(摺り潰す)に由来する語で、つぶれてしまうよう
な苦しい体験。迫害や極度の苦労についても言う。
4. 「しっかり踏みとどまる力」は
(自分の場に踏み止まって耐える)の名詞形。
単に耐え忍ぶことでなく、信仰の立場を一歩も動かぬこと。
[_@kim`"/d@ki(mE:]は
5.
(テスト済みのホンモノとして受け入れられ
た)の名詞形。抽象名詞で本来の意味は「試験」であるが、転じて換喩的に「試験を
経たもの」「承認済みのホンモノ」を意味して使われる。「テストを経たほんものの
品格」と訳した。
6. 最初の主語
の動詞
(働いて生み出す)が次の二つの語の動詞を
も兼ねる。希望を「生み出す」とは希望の原因や対象を作り出すのではなく、現実に
実感させることを言う。
7.
は「恥をかかせる」、つまり、希望を裏切られ挫折して赤面する結果に
させること。
8.
は
という断定の根拠。
9. 寒中に冷水に浸して絞った手ぬぐいで体をこすり皮膚を鍛える一種の健康法。
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10. 1973 年頃の流行語。腰くだけになって倒れる意に由来するが、当てにしていたものが
全く期待と違っていたため突然支えを失なってよろける身振りを伴って「期待外れ」
「幻滅」を表現するのに使われた。
11. イザヤ 28:16。新改訳。
12. LXX.
13.
ローマ 5:5 にも同じ動詞を使ってあり、
は「働いて生み出す」、「効力を発揮して作り出す」意。三段階のプロ
セスを仮に「霊的生産」と呼んだのはこのため。
14.
,ここは一人称複数
15. Kittel,T.D.N.T.
の項 B1-4.
16. 雑誌「牧歌」188 号所載、「見えないものの栄光」(織田)を参照。
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