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戦前期日本のイスラーム政策と 東京モスク建設問題
シリーズ・世界史のなかの日本史 戦前期日本のイスラーム政策と 東京モスク建設問題 慶應義塾大学名誉教授 坂本 勉 第二次世界大戦後から今に至る時代において日 いうことにいち早く気づくのは、日露戦争時に満 本人がもっとも関心を抱き、注視してきたイス 洲およびその周辺地域で情報収集、工作活動に従 ラーム世界は、アラブ諸国、イラン、トルコなど 事していたロシア語に通暁する軍人たちである。 の国々がある中東地域である。これらの地域では 彼らは日本軍の捕虜になったロシア軍兵士のなか イスラエル建国にともなうパレスチナ問題、石油 にスラブ系とは異なるトルコ系のタタール人が多 エネルギー問題、脱イスラーム化と国民国家形成 く交じっていることを知り、彼らがスラブ系の兵 をめざす動き等をめぐってさまざまな民族・宗教 士たちに対して強い敵意を抱いていることに驚か 紛争が相次いで起こされ、それらは現在でも出口 された。この民族的・宗教的な反目を利用すれば、 の見えない状況が続いている。これを深刻に受け 対ロシア戦を有利に進めることができるはずだと とめ、向きあうなかから戦後の日本のイスラーム いうのが、実際にタタール人捕虜と接触した日本 世界に対する理解・認識は生まれ、関係・交流は の情報将校たちの思いであった。 深められてきた。 こうした軍事的、戦略的関心は、日露戦争が終 しかし、歴史的に日本とイスラーム世界との関 わった後も帝政ロシアに対する警戒心を緩めない 係を振り返ってみると、明治から昭和20年までの 陸軍の情報将校のあいだに根強く残り、少数民族・ 戦前期の日本にとってもっとも重要なイスラーム 少数宗派の権利をないがしろにする帝政ロシアの 世界とは、中東地域よりむしろ日本に比較的近い 体制に反発して自治の拡大、独立をめざす動きを ところに位置する帝政ロシア・ソ連領内のムスリ 活発にしていたトルコ系タタール人への働きかけ ムが住む地域であった。とりわけボルガ川中流域 につながっていった。これを中心になって推し進 から西シベリアにかけてのトルコ系ムスリムのタ めたのは、当時の陸軍のなかで情報収集・工作活 タール人たちが居住する地域と、ロシア革命前後 動のシンクタンクともいうべき参謀本部第二部を の時期にさまざまな政治的、経済的、文化的な事 統轄し、日露戦争後は参謀本部次長に栄進した福 情・経緯から国外への離散を余儀なくされ、満洲 島安正と、その部下で戦後退役して東亜同文会に から朝鮮半島、さらには日本にもディアスポラ・ 入った大原武慶という元情報将校である。 コミュニティをつくっていくようになるタタール この二人の戦略的思惑は、軍人以外にも大アジ 人社会が重要である。この極東にまで及ぶムスリ ア主義を唱道する頭山満、中野常太郎といった国 ムたちの社会とそのネットワークの存在に気づき、 粋主義者や日露戦争後も対ロ強硬論を主張し、大 その重要性が認識されるなかで打ち出されたのが アジア主義にも共感を寄せる河野広中、犬養毅な 戦前期における日本のイスラーム政策の根幹をな どの政治家をも引きこんで1910年、タタール人の していた。 パン=イスラーム主義者として帝政ロシア領内で 反体制運動を続けていたアブデュルレシト=イブ 1.日露戦争とイスラーム認識の深化 ラヒムの日本への招致につながった。彼が有する このタタール人社会とその海外コミュニティが タタール人も含む帝政ロシア領内のムスリムおよ つくりだすネットワークが日本にとって有用だと びそのネットワークに対する影響力を使って日露 −2− 戦争後も依然として仮想敵国として日本に厳しく 対峙する帝政ロシアに備えるというのがイブラヒ ムを招いた日本側の期待であったのである。 1905年の第1次ロシア革命においてイブラヒム は、帝政ロシア領内に住むタタール人をはじめと するトルコ系の諸民族・ムスリムに呼びかけてク リルタイ(会議)を四度にわたって開催、互いに 協力してマイノリティに甘んじる自分たちの地位 向上に努めた。しかし、1907年ドゥーマ(議会) で反動化の嵐が吹き荒れると、彼は政治の表舞台 から逐われた。こうした状況を日本側はとらえて 失意の時を過ごすイブラヒムと密かに接触、彼を 日本に招いて帝政ロシアに対する防衛網強化の一 オスマン帝国から来日した宗教的指導者イブラヒムが、1935年 に設立された東京イスラーム学校の生徒たちとともに写した写真 (写真提供:東京ジャーミイ&トルコ文化センター) 助にしていこうとしたのである。 カ・リビアを植民地化しようとするイタリア軍が 1910年日本側の軍人、政治家、国粋主義者は、 侵略してくると、モスク建設に関係した人たちは シベリア鉄道とその支線の東清鉄道に沿ってある それぞれ革命運動、戦争の支援に忙殺され、計画 タタール人コミュニティに寄りながら来日したイ は頓挫するに至る。大原武慶と犬養毅は大アジア ブラヒムと共同で東京に亜細亜義會という政治結 主義の立場から辛亥革命の支援に奔走し、一方イ 社を立ち上げる。この過程で日本とムスリムとの ブラヒムは、イスタンブルで山岡と別れたあとそ 間の友好関係を示す象徴として東京にモスクを建 のままオスマン帝国に留まり、パン=イスラーム 設することが計画された。ただ、実際に着工する 主義の活動を続けていたが、イタリア軍がリビア にはイスラーム世界の精神的指導者たるカリフの に進駐すると、それに対するレジスタンス運動の 職を兼ねるオスマン帝国のスルタンから建設許可 支援に忙しく、日本と連絡をとってモスク建設を を得ることが必要だとの意見がイブラヒムから出 進める時間的余裕などなくなった。結局、タター され、これにしたがって彼自身が日本を発ち、オ ル人のイスラーム・ネットワークを利用して対ロ スマン帝国の首都イスタンブルに赴くことになっ 防衛網を構築するとの意図から発したモスク建設 た。 計画は、明治の末年にいつしか立ち消え、忘れら この旅は南シナ海からインド洋・アラビア海方 れていったのである。 面へ抜ける海の道を使ってなされたが、途中イン ドのムンバイから日露戦争中、大原武慶の下でロ 2.満洲事変後のイブラヒム再来日と 東京モスク建立 シア語通訳として情報収集・工作活動に従事した ことのある山岡光太郎が合流、同行した。イブラ 東京にモスクを建設する計画が再び浮上するの ヒムに伴われてイスタンブルへの旅を続けた山岡 は、1931年の満洲事変、翌年の満洲国建国に続い は、彼に案内されて聖地メッカに立ち寄る機会に て1937年に日中戦争が始まった頃のことである。 恵まれ、日本人初の巡礼者の栄誉をになってイス 日本は植民地の満洲を足がかりに華北に進出、さ タンブルに到着、市民から大歓迎を受け、また首 らに内蒙古およびその西に広がる寧夏、甘粛、青 尾よくオスマン帝国のスルタン=カリフからモス 海、新疆といった西北四省も押さえてそれらの地 ク建設の許可状も得ることができた。 域を日本の勢力圏下に入れていこうとした。この しかし、東京の旧赤坂大谷町に建設用地が確保 過程で情報収集と工作活動に従事する陸軍の軍人 され、準備は万端整ったにもかかわらず、1911年 は、改めてこれらの地域に回民ないし回族と呼ば 中国で辛亥革命が起き、またそれと時を同じくし れる中国系のムスリムとトルコ系のウイグル人ム て遠く離れたオスマン帝国でも属領の北アフリ スリムが多く住んでいることに気づき、彼らを懐 −3− 柔・統治していくためにイスラーム政策が重要だ ということを再認識するに至った。 また、かつて日本が対ロ防衛網の一助にしよう としたタタール人コミュニティのネットワークの 状況も1917年の第2次ロシア革命、22年のソ連の 成立によって社会主義体制が確立すると、それを 嫌うタタール人の多くは故郷を去り、難民として 満洲のハルビン、奉天、大連、朝鮮半島のソウル、 釜山、そして海を渡って日本の下関、神戸、東京 などの諸都市へと移住し、それぞれの町にコミュ ニティを広げていった。彼らがつくるこうした ネットワーク網は、対ロ政策という点からは反共 の砦の役割を果たす一方、中国国内のムスリムと 1938年開堂の東京ジャーミイ[「大日本回教協会関係写 真資料 CD-ROM Ver.1」より(早稲田大学図書館所蔵)] 連絡をとり、彼らを懐柔・統治していくうえでも 役立つと考えられた。 こうしたなか、かつて明治の末年に日本と深い ラヒムを宗教的なシンボルとして押し立てながら 関係を結んだイブラヒムを再登場させ、彼の力を 中国国内に数多く住む回民やトルコ系のウイグル 借りてイスラーム政策を進めようという構想が改 人、そして満洲国内の諸都市においてディアスポ めて出てくる。これを主導したのは陸軍参謀本部 ラ・コミュニティをつくるタタール人たちに影響 ロシア班に所属する情報将校で、1932年から34年 力を及ぼしていこうとした。しかし、こうした思 にかけてイスタンブルにある日本大使館に武官と 惑はそれぞれのムスリム社会のありようがあまり して駐在し、ソ連に対する情報収集・工作活動を にも多様であったということもあって、それらを 行っていた神田正種という軍人である。彼は、オ 糾合して日本の側に引きつけていくことはできな スマン帝国滅亡後も脱イスラーム化が進むトルコ かった。イブラヒムの威信がもっとも及ぶと思わ 共和国に留まり、アナトリア中部の都市コンヤ近 れるタタール人コミュニティにおいてすら、民族 郊の村で逼塞した生活を送っていたイブラヒムと 主義の立場から自分たちの地位向上をはかろうと 接触、日本に送る手はずを整えた。 する人たちが数多く存在し、パン=イスラーム主 これによって1933年イブラヒムの再来日が実現 義と距離をおく人も少なくなかった。 し、以後、日本は彼をタタール人を中心とするム この意味でイブラヒムのパン=イスラーム主義を スリム・コミュニティの宗教的指導者に据えてイ 政治的・戦略的な観点からだけ利用しようとする スラーム政策を推し進めていくが、その一環とし 日露戦争以来連綿と続く戦前期の軍を中心とした て浮上してくるのが東京モスク、正式には「東京 日本のイスラーム政策は、ムスリム社会の多様性 ジャーミイ」と呼ばれる礼拝施設の建設であった。 に対する考慮を欠いたため有効に機能せず、1945 すでに1920年代から難民として東京に多く住むよ 年の敗戦をもって破綻した。しかしながら、その うになっていたタタール人たちは、自分たちの力 情報収集・工作活動のなかから蓄積されたイス でモスクをつくろうと旧渋谷区代々木大山町に用 ラーム世界に対する理解、認識、夥しい研究成果 地を取得していた。これを日本が支援するかたち には侮れないものもあり、それらを負の遺産とし で1938年、念願の東京モスクが竣工し、盛大な開 て一方的に斥けるのではなく、軍が戦前期に行っ 堂式典が執り行われたのである。 た活動を批判的に見つめ直し、それが戦後の日本 日本はこの東京モスクのイマーム (礼拝指導者) のイスラーム世界認識にどのようにつながってい を務め、 また東京イスラーム教団、 大日本イスラー くのか、連続と断絶の両面から探りながら新たな ム教団連合会の代表も兼任することになったイブ 交流・関係の途を探っていくことも必要である。 −4−