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被保険者過失と傷害保険の保険事故

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被保険者過失と傷害保険の保険事故
生命保険論集第 187 号
被保険者過失と傷害保険の保険事故
-アメリカ傷害保険事故論の形成-
大塚 英明
(早稲田大学法務研究科 教授)
1 はじめに
「非故意性は傷害にとって概念本質的な要求である」1)。これは、
傷害保険の保険事故研究を行おうとする後進にとって羅針盤ともなる
べき名著からの引用である。そこに言うように、傷害保険の保険事故
の概念自体には故意という要素が反面的に組み込まれている。現在、
この点に疑いを持つ論者はいないであろう。
それでは、過失はどうだろうか。同じ著作では次のように述べられ
ている。「傷害保険においては…人間の意思の不自由性を強調する必
要があり、さらにはその人保険性を顧慮すれば、『各人が自己の生命
と健康の維持について有する当然の利益』が人は常に傷害の危険に対
しての必要最小限の注意義務は遵守するであろうということを保証し
ている」2)。被保険者に対するこうした「注意義務遵守の期待」は、
これを、傷害保険における保険事故概念の「要件」にまで高めること
1)山下丈「傷害保険契約における傷害概念(二・完)」民商法雑誌75巻6号
42頁(1977)。
2)前掲注(1)同所。
―79―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
が可能なのだろうか。おそらく過失については、傷害保険(ないし保
険全般)の役割として本来的に要請される、「過失は保険で補償する」
という命題が、事故構造自体に過失を組み込むことと矛盾するおそれ
があろう。しかし、そもそも被保険者過失によって発生した傷害保険
事故に保険金を支払うことは、盲信すべき公理なのだろうか。
どのような学説をとるにせよ(とくにわが国では重過失に関してい
くつもの見解が提示されている)、傷害事故の発生に被保険者自身が
「寄与」したことをまったく意識しないことは不可能ではないだろう
か。とくに人を事故の発生の「場」とする傷害保険において、その本
人の関与は事故の構造論に影響を及ぼさないはずはあるまい。本稿の
目的は、傷害保険において、被保険者過失が故意と同様の事故要件性
を持ち得るかどうかを検証することにある。
とはいえ、傷害保険の事故概念はともすると抽象論に流れやすい。
そこで、アメリカで19世紀後半の傷害保険黎明期から20世紀初頭にか
けて展開された傷害事故論争を、主として判例を中心に概観すること
によって、
本稿の問題意識にできる限りの具体性を維持していきたい。
ア メ リ カ の 不 法 行 為 の 分 野 で は 、 「 寄 与 過 失 ( contributory
negligence)」3)という論理が損害賠償請求権を阻害したことで有名
である。実は、この寄与過失の考え方は、補償という役割において不
法行為体系と隣り合わせに位置づけられる傷害保険においても、やは
り根強い思想であった。
3)ここで寄与過失について詳細に論じる余裕はないが、さしあたり、Andrew
Grubb,"The Law of Tort", 5-2(pp.145-)(Butterworths, 2001).等を参照。
なお、本稿で論じる時期には、寄与過失は賠償請求を全面的に排斥していた
点に注意されたい(後になってアメリカではそうした過酷な効果が立法によ
って修正された)。
―80―
生命保険論集第 187 号
2 被保険者の「相当の注意義務」と「身をさらす」免責
(1) 傷害保険領域への過失理論の援用
傷害保険の事故概念についてアメリカの判例が形成されていく過程
で、その初期には、不法行為的な過失の概念をそのままの形で援用す
るものがあった。最も有名なのは、1867年ケンタッキー州控訴裁判所
Morel判決4)であろう。この事件では、被保険者は列車旅行中、走行す
る車両の窓から「不注意で(inadvertently)」腕を外に出していたこ
とを自ら認めている。そのため、線路脇の支柱に右手を激しく打ち付
け、中指に重度の人身傷害を受けてしまった。彼は外科医であったた
め、その後長期間にわたって休職を余儀なくされた。彼が加入してい
た傷害保険契約には、事故により「高度障害(disability)」に陥っ
た場合には、この障害が継続する間26週を超えない範囲で、週25ドル
を保険給付として被保険者に支払うことが定められていた。そこで、
被保険者は、保険会社に対して上記給付金の支払いを求めた5)。ケン
タッキー州控訴裁判所は次のように判示し、被保険者の請求を認めな
かった。
「控訴人〔被保険者〕が、通常の速度で走る車両の窓から腕を外に
出しており、しかもそうする必要性がほんの僅かもなかったことは明
らかである。にもかかわらず、控訴人自身の供述からも引用できるよ
うに、彼は着座している車両の窓から不注意に(carelessly)腕を外
に出していたのであり、
その姿勢のまま本件事故が発生したのである。
4)Morel v. Mississippi Valley Life Insurance Co., 67 Ky, 535(Ct. App.
Ky, 1868). なお、本稿で取り上げた判決のほとんどで、民事陪審のシステ
ムが利用されている。その場合、裁判所の「教示(instruction)」が陪審の
意見を左右する。本稿では主としてこの教示(ないし教示に対する上級審の
判断)をもって各裁判所の見解と捉えることにした。
5)Id. at 536.
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被保険者過失と傷害保険の保険事故
本件人身傷害は、本件の鉄道およびその他の鉄道に乗車する乗客に
共通する何らかの危険により生じたものではなく、控訴人が必要なく
かつ不注意に(negligently)腕を置いていた危険な姿勢によるもので
あった。すなわち、腕を置いていた姿勢から予見(expected)はでき
ないとしても、少なくとも蓋然的に(probable)発生するべき人身傷
害だったのである。…控訴人が腕を車内に置いていたとすれば、人身
傷害を被らなかったことは完全に確かである。人身傷害は彼自身の過
失(fault)によって引き起こされたものである以上、あらゆる補償請
求権(right to compensation)を剥奪されることになる」6)。
確かに傷害保険の領域では「賠償」義務者という概念を容れる余地
がない。しかし、人身傷害の「補償」という高次の概念の下で、不法
行為と傷害保険は並列させるのが望ましい。そのため、必ずしも賠償
義務者対被害者という対立構造がなくても、もっぱら「受傷者」の側
だけの考察から、過失という概念を補償請求権との関係において考慮
に容れることができる。おそらくはこのような論理から、Morel判決は
躊躇することなく被保険者の「寄与過失」を認定したのである。
そうした捉え方は、時代が経過しても散発的に登場している。例え
ば1903年ミシガン州最高裁判所Robinson判決7)の事案では、連絡デッ
キを通って車両間を移動しようとした被保険者が、デッキの外扉が開
いてしまったためそこから転落して死亡した。判決は次のように「寄
与過失」の有無を判定する。
「〔被保険者〕が争いのない事実関係の下で、列車が全速力で走行
しているにもかかわらず、自身の乗車した車両から食堂車に移るに際
して寄与過失があったと主張されている。…車両間連絡デッキ付きの
列車では、車両から車両への移動は、同一車両の席から席への移動と
6)Id. at 537.
7)Robinson v. United States Benevolent Society, 94 N.W. 211(Sup. Ct. Mich.
1903).
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生命保険論集第 187 号
同じぐらい安全である。食堂車が連結されていたが、連絡デッキ付き
にした一つの目的は、乗客の車両から車両への移動を安全にするため
であった。〔被保険者〕は、連絡デッキの外扉が閉まっており、デッ
キを通り抜けても安全であると考えるのも当然であった。鉄道会社が
そうした安全策を撤去していたとすれば、〔被告〕は、〔被保険者〕
がそのことを知っていたないし知るべきであったことを立証しなけれ
ばならない。そうした証明は行われていない。鉄道会社が車両間通行
の安全性を確保し、〔被保険者〕にその通行を誘因していた以上、そ
の誘因を受けただけの〔被保険者〕に過失はない」8)。
この判決の結論を見る限り、被保険者の「寄与過失」は結局認定さ
れていない。だとすれば、被保険者に有利な判決と評価されてしかる
べきであろう。しかしながら、問題はその結論ではなかった。寄与過
失を主張する保険者側の主張に裁判所が応じたこと自体に、より本質
的な問題が潜むのである。つまり、傷害保険の保険事故認定において
不法行為におけるような過失準則を持ち込む必要がないのであれば、
この保険者側の主張はそもそも容れられていなかったはずである。と
ころが裁判所は、被保険者の過失の評価のためその行動分析に取りか
かってしまった。すなわち、事故の成否に関する被保険者対保険者の
対立ポイントは、被保険者不利の方向に大きく動いた。注意義務違反
があったかどうかを「検証しなければならない」ということ自体、被
保険者の保険金請求の前提として極めて高いハードルを置いたことに
なる。
(2) 「相当の注意」遵守条項
いうまでもなく、こうした被保険者過失志向型の論議は保険会社の
歓迎するところである。保険者は、傷害保険契約にも寄与過失論理を
8)Id. at 212-213.
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被保険者過失と傷害保険の保険事故
持ち込み、保険金支払を厳しく制限する方向を強く望んだ。そのこと
は、保険会社が傷害保険契約に挿入した次のような規定に端的に表れ
ている。すなわち、「被保険者は、自身の安全および保護のためにあ
らゆる相当の注意(all due diligence)を尽くさなければならない」。
アメリカで傷害保険契約が売り出されたかなり早い時期から、多くの
契約にこの条項が盛り込まれた9)。
1871年ニュージャージー州最高裁判所Stone判決10)は、この「相当の
注意」条項の適用という形で、不法行為法準則を傷害保険の保険事故
認定に反映させた。事案は極めて単純である。被保険者は建築中の物
置の進捗状況を確かめるために2階に昇ったところ、足場の木材が折
れて墜落し、地面に叩き付けられて死亡した。裁判所は次のようにい
う。
「…被保険者が、自身の安全性および保護のために相当の注意を尽
9)Morel 事件の保険契約にこの条項が盛り込まれていたかどうかは、判決文
からは必ずしも明確ではない。したがって本文では、この条項がないものと
して論じた。Robinson事件ではこの種の契約条項は存在しなかった。Morel
判決と同時期にアメリカの傷害保険の初期判例としてやはり有名なSouthard
判決(Southard v. Railway Passengers Assurance Co., 34 Conn.574(Sup. Ct
of Errors, 1868))が下されているが、そこで問題となった保険契約にはこ
の条項が設けられていた。Southard判決では被保険者過失が直接に争われた
わけではない。そこでは被保険者の行動と人身傷害を「事故」とみなせるか
どうかが問題とされた。そのためあくまで傍論ではあるが、この条項に触れ
る判旨部分がある。「本件で被保険者が仮に車両から飛び降りる際にバラン
スを崩して転倒し、もしくは目視できなかった物体に激突して、人身傷害を
負ったとすれば、または疾走する際に躓いたり凍結路面で滑ったとしたら、
その人身傷害は偶然かつ急激な手段によるものとされる可能性があり、被保
険者の側に相当の注意(due diligence)が欠如していない限り、その災害は
保険契約の補償の対象とされたはずである」(id at 580)。この表現を見る
限り、相当の注意条項を保険事故発生の要件として読み込んでいると捉える
こともできる。
10)Administrators of Stone v. The United States Casualty Co., 34 N.J.L.
371(Sup. Ct. N.J. 1871).
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くさなかったという抗弁が主張されている。…この事故の当時、被保
険者はコートを2枚も着込み、動きが鈍かったと証言されている。そ
うした事実は、被保険者の側で彼自身の安全性を軽んじていたことを
示すものではない。〔2階〕のその位置に自らの体を移すのは、軽率
であったわけでも不適切であったわけでもなく、死亡の相当の原因と
なった木材の破断は、純粋な事故であった。『これらすべての事情を
考慮して…彼の行動が、通常の慎重人であれば服したであろう行動だ
ったかどうか、つまり彼が、通常の慎重人であれば要求されたはずの
程度の注意を尽くしたかどうかを決定するにあたり…』〔被保険者有
利に判断し〕…被保険者の保険金請求を容認する原審の評決は、証拠
から十分に是認することができる」11)。
ここでも前掲Robinson判決で述べたと同様の指摘を行うことができ
る。すなわち、たとえ結果が被保険者過失の否認であっても、「相当
の注意」条項を有効と解し、それが不法行為法の過失の認定を促すこ
とを当然の前提としたことで、被保険者の側に不利な論理構造を打ち
立てているのである。
(3) 「身をさらす」免責規定の導入
ところが保険者は、この「相当の注意義務」遵守規定だけでは飽き
たらず、より積極的に一つの包括免責規定を傷害保険契約に挿入する
のが常であった。すなわち、「不必要な危険および危険な冒険に自主
的に身をさらす(voluntary exposure)」ことを免責とする規定であ
る。
この免責規定の導入経緯は比較的明瞭である。もともと英米では、
傷害保険の発展は鉄道網の発達と歩を併せていた12)。ただ、大規模災
11)Id. at 372-373.
12)「1859年、コネチカット出身の著名な建築家が英国を旅行したおり、リー
ミントンからリバプールまでの鉄道乗車券を購入した。James G.Batterson
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被保険者過失と傷害保険の保険事故
害への対処を想定する傷害保険の設計思想に反して、現実問題として
鉄道「事故」として最も頻発したのは、動き始めた列車への飛び乗り、
または減速した列車からの飛び降りであった。そこで鉄道切符と同時
に販売されるような原初的旅行傷害保険契約には、次のような免責規
定が挿入された。すなわち、「本契約は、次に掲げる原因に全部もし
くは一部で、または直接もしくは間接に起因して生じた事故、または
死亡もしくは人身傷害について保険金をお支払いしません。…動いて
いる蒸気機関車牽引列車に乗車しもしくは乗車しようとし、またはこ
れから離れること…」という免責文言である。この種の免責規定につ
いて、裁判所はその適用を躊躇することはなかった。例えば1888年ミ
ネソタ州最高裁のMiller判決13)の事案では、被保険者が駅を出発しよ
は1000ポンドの保険付き切符を購入していたのだから、明らかに一等旅客で
あった。Battersonは傷害保険に魅了され、事業として成り立つのかそしてア
メリカに導入することが期待されるのかを調べた。帰国後も調査を続け、4
年のうちにTravelers Insurance社が設立された。Battersonの友人達は、そ
の事業が短命に終わると信じていた…。確かに、その事業は凶兆から始まっ
た。Travelers社の最初の保険契約は保険料2セントの口頭による契約にすぎ
ず、Batterson 自身がようやく同社の最初の書面による契約者となるありさ
まだった。しかし、英国におけると同様、災害によって成功への必要要素が
整えられていった。普通旅客事業が1830年のクリスマスに開始された当時、
アメリカの鉄道旅行は比較的安全であった。いずれにせよ列車の数も非常に
少なく、低速で運行していた。しかしながら1850年代にいたると、貧弱な設
計の施設や安全に対するいいかげんな対処のために、いわゆる『奈落に続く
奇跡的不注意』が生じるようになった。1864年には、140件の鉄道事故で2250
名もの死傷者がでた。翌年Travelers社は52万1千ドルもの保険料収入を得
た。『1865年ないし1867年の鉄道事故および蒸気船事故は、この新形式の保
険の価値に大衆の関心を向けた』ために、増大する需要を満たすために何十
社もの新会社が設立された。1871年までに、これら新会社は事業を廃止しま
たはTravelers社に吸収された」(Adam F. Scales, 'Man, God and the
Serbonian Bog: The Evolution of Accidental Death Insurance', 86 Iowa L.
Rev. 173(2000) at 185-186.)。
13)Roswell Miller v. Travelers' Insurance Co., 40 N.W. 839(Sup. Ct. Minn.
1888).
―86―
生命保険論集第 187 号
うとして動き出した列車に友人と一緒に乗り込もうとしたが、一旦は
手すりに手をかけたもののその友人の動きがじゃまをして、結局は車
両のステップから滑り落ちてしまった。そして被保険者は、この車両
の床下機器に叩き付けられて死亡した。
裁判所は次のように判示した。
「被保険者が動いている蒸気機関車牽引列車に乗車しようとし、ま
たはそれに乗り込もうとした際に死亡したことは確かであり、この事
故または死亡が直接に免責原因として言及されていることも確かであ
る。保険契約には、この場合を補償しないことが特に明示されている
のである…。この種の特定の危険について契約上合意されたこの条件
が有効であり、契約の一部を構成することに疑問の余地はない。この
危険は、その程度がどうあれ、被保険者が自主的に背負い込んだもの
であり、契約を最大限平明に解釈しても、その結果生じた事故が当該
保険契約の補償範囲に含まれることはない」14)。
これに見られるように、この個別免責は必ずしも過失という概念に
関連するものとして明認されているわけではない。むしろ当事者の合
意する契約上の個別免責項目として、「危険の程度」にかかわらず機
械的に保険者の保険金支払責任を免除する事象と捉えられ、その意味
でその輪郭はかなり明確なものであった15)。
しかし傷害保険契約が鉄道だけではなく、広く社会全般に潜在する
危険に対処する手段として急速に普及すると、保険者はこうした個別
免責を挿入することに限界を感じた。そこで、飛び乗り・飛び降りに
類する危険を包括的に排除すべく、「身をさらす」免責規定を設けた
14)Id. at 840.
15)もっとも、「動いている客車、機関車もしくは車両への飛び乗りまたは飛
び降り」が明示的に免責とされているにもかかわらず、「事故の発生時、列
車は駅を出たばかりで、時速約3km程度、すなわち本裁判官の経験からいえ
ば、牛の群れの歩みほどで動いていた」に過ぎないことから、危険の実質的
軽さを理由にこの免責を適用しなかった例も見られる(Travelers Preferred
Accident Ass'n v. Stone, 50 Ill. App. 222(Ct. App. Ill. 1893).)。
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被保険者過失と傷害保険の保険事故
のである16)。保険者は個別免責規定の適用と同様に、この包括免責規
定の機械的適用を期待していたが17)、以下に述べるように、ことはそ
れほど簡単には運ばなかった。
(4) 二つの規定
以上の経緯から、ほとんどの傷害保険契約で「相当の注意」遵守条
項と「身をさらす」免責規定が併存することになった。当然に問題と
なるのは、両者をどのように整合させるのかという点である。判例の
中には、これを明確に意識していない、あるいはあえて曖昧にしてい
る例も多い。
例えば、控訴理由として、「明白な危険に不必要に身をさらすこと
のような、自身の安全の配慮義務違反」が示されていたにもかかわら
ず、「相当の注意義務」の認定に拘った判決がある。1895年アーカン
サス州最高裁判所Langston判決18)は、夜間に列車が行き交う操車場で、
線路端の枕木に座って休んだところ寝込んでしまい、そばを通った列
16)Scales, supra note (12) at 243.
17) 皮肉はことに、「身をさらす」免責の導入後、この免責から「生じる問
題が過失に関する問題と同質である(of a nature akin to issues on
questions of negligence)」ため、むしろ敬遠された例さえある。1895年の
ネブラスカ州最高裁Snowden判決の事案で、被保険者は、自己の所有する畜牛
を12両の「貨車」に乗せて、同州のオマハでの畜牛市場に出荷するため運搬
していた。被保険者自身もこの列車に連結された「客車」に乗車していたが、
途中駅で列車が停車した際に畜牛の様子を見るために貨車に移動した。その
うちの一両でへたり込んでいる牛を立たせようとしていたところ、発車の汽
笛がなったためその貨車に乗り込んだ。そして列車が再度停車したおりに客
車に移動しようとしたが、列車が急発進したため貨車から振り落とされ腕を
轢断された。ネブラスカ州最高裁は、「蒸気を動力として動いている車両へ
の飛び乗りもしくはこれからの飛び降り」に加え、「旅客を輸送するために
装備されていない車両の内部もしくは外部に乗車すること」という免責項目
を優先適用し、この被保険者の保険金請求を認めなかった(Travelers
Insurance Co. v. Andrew Snowden, 63 N.W. 392(Sup. Ct. Neb. 1895) at 394.)。
18)Standard Insurance Co. v. Langston, 30 S.W. 427(Sup. Ct. Ark. 1895).
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生命保険論集第 187 号
車に腕を轢断された被保険者の例を扱った。裁判所は次のように、あ
くまで慎重人の注意義務への言及に終始する。
「〔保険者〕が〔被保険者〕に対し人身傷害に関する保険給付の支
払を約した条件の一つに、被保険者が常に『自身の安全および保護の
ために相当の注意を尽くさなければならない』というものがある。
〔被
保険者〕がこのような注意義務を怠ったために発生した人身傷害につ
いては、保険会社に対して保険給付の請求を行うことができない。本
件保険契約に基づく保険給付請求を維持するための条件として、被保
険者は常に、慎重人が尽くすと想定される注意義務を尽くさなければ
ならないのである」19)。
またマサチューセッツ州最高司法裁判所Morse判決20)の事案では、被
保険者は、ガイド員に止めるよう警告されたにもかかわらず強風が吹
く湖上にカヌーを漕ぎ出し、転覆して溺死した。裁判所はこれを次の
ように判断する。
「死亡被保険者およびその同僚は、経験からしても地元民であるこ
とからしても、強風および天候の現況についてのその意見を聞き入れ
配慮すべきであった人たちから警告されていた。被保険者達は、カヌ
ーを乗り出すにはあまりに危険と考えられたために、湖上にはカヌー
が一艘もなかったことを認識していた。彼らは、湖上に乗り出した場
合に遭遇する状況について誰にも相談していなかった。彼らは、その
朝無事に湖まで漕いできたという事実、および岸から見える範囲の湖
上の様子だけに信頼を置いていたようである。しかし、死亡被保険者
が行ったように湖上に漕ぎ出すことは…被保険者の側に通常の注意義
務および慎重さが欠如しており、また、彼の死亡に寄与しこれを惹起
した不必要な危険に自ら自主的に身をさらすものと認定することがで
19)Id. at 428.
20)Frederick M. Morse v. Commercial Travellers' Eastern Accident Ass'n,
98 N.E. 599(Sup. Jud. Ct. Mass. 1912).
―89―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
きよう。したがって、保険契約の明示的条件によって、保険金請求を
行うことはできない」21)。
ここでは「相当の注意」遵守条項と「身をさらす」免責規定が一か
らげとして扱われており、両者の相違についての配慮は一切ない。
さらに、1883年のマサチューセッツ州最高裁判所Tuttle判決22)では、
両規定の相違への考察は、保険金請求者の側の主張の陰に隠れてしま
った。この事件では、夜間に被保険者が複線線路の一方の上を、対抗
側から来る列車に飛び乗ることをもくろんで歩いていたところ、自分
の後方から来た逆方向への列車にはねられて死亡した。被保険者の傷
害保険契約では、「死亡または人身傷害が、明白または不必要な
(obvious or unnecessary)危険に身をさらした結果発生した場合」
が免責とされ、また「被保険者は、自身の安全性維持および保護のた
めにあらゆる相当の注意を尽くさなければならない」という義務条項
が挿入されていた。ところが、保険金請求者の側はこれらの契約条項
の適用を正面から争うのではなく、むしろ傷害保険の保険事故の本質
論にそって実際の事案を分析し、保険金請求の妥当性を訴えた。すな
わち、死亡を引き起こしたそもそもの原因は、被保険者が危険に身を
さらしたこと、すなわち被保険者の「過失(negligence)」ではなく、
蒸気機関車が汽笛も警笛も鳴らさずに接近したことにある。そして、
「このことは、新たに介在する力または作用(force or power)とな
り、それ自体、本件の災難の原因とするに足りるものとなる」。そし
てこの点で鉄道会社に過失があったとすれば、「被保険者の過失は、
たとえそれが認められるとしても、保険契約の各条項に抵触するには
遠因にすぎる(too remote to defeat the policy)」23)。しかし裁判
21)Id. at 600.
22)Ann O. Tuttle v. Travellers' Insurance Co., 134 Mass.175(Sup.Ct. Mass.,
1883).
23)Id. at 176.
―90―
生命保険論集第 187 号
所は、こうした原告の主張を受け容れず、次のように判示した。
「ある者が自主的に、明白な危険に身をさらす立場に自身を置き、
脅威となるべき人身傷害がまさにその身に生じたとすれば、本件保険
契約の〔両条項〕がこの場面を企図せず、またこの場面に適用されな
いと解釈するのは、公平とは言えまい。例えば、ある者が鉄道線路を
歩いている際に、強盗もしくは犬に襲われ、または雷に打たれたよう
な場合には、彼がそこを歩いていたという行為は、人身傷害を発生さ
せる誘因となってはおらず(no tendency to produce the injury)、し
たがって人身傷害の発生に寄与すべき原因とみなすべきではない。し
かしその一方で、戦闘に向かった者が銃弾に撃たれ、気球に乗った者
が気流のために海上に流され、または鉄道の線路を行程として歩いて
いた者が機関車に轢かれたときは、通常であれば法的にどのように捉
えようとも、彼は結果を招く危険をおかしたと判断されなければなら
ない。これらの場合のそれぞれには、原因と結果の組み合わせが存在
し、前者が後者の発生に寄与したと判断しなければならない。仮に、
本件で被保険者の死亡が、彼自身が危険に身をさらしたことからでは
なく、新たに介在した力または作用によって発生したと判断するなら
ば、保険契約の策定実務に携わる人々の解釈または考察に、あまりに
細かい形而的な区別を持ち込んで、契約文言を台無しにしてしまうこ
ととなろう。被保険者は契約条項を読んでいるのであり、その文言を
知らされており、そしてその文言に何らかの実務的意味をくみ取って
いるのである」24)。
保険金請求者側が理屈づけるように「無警笛での接近」を因果の鎖
に割り込む要因だとしてしまうなら、保険契約の条件としてそれに相
当するようなあらゆる些細な「割り込み」事象を想定しておかなけれ
ばならない。判決の言うようにそれは明らかに不当であろう。その点
24)Id. at 176-177.
―91―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
についてはまさに優等生的解答ではあるものの、この判決でもまた、
「相当の注意」条項と「身をさらす」免責との相関関係は触れられて
いない25)。
(5) 整合性を求めて
これに対して、「相当の注意」遵守条項と「身をさらす」免責規定
の両者を分け、両者の相関関係を考察する判決も多い。
1894年マサチューセッツ州最高裁のKeene判決26)は、傷害保険契約に
挿入された両者についてかなり詳細な分析を加える。この事件では、
被保険者が鉄道の線路を横切ろうとしていたところ、牽引機関車から
切り離されて惰性走行をしてきた車両にはねられて死亡した。被保険
者の横断箇所は、何年もの間、一日あたり千人から2千人の人々が慣
習的に横切ってきた利便性のよい場所であった。鉄道会社は横断を禁
止する警告看板を立ててはいたものの、それ以上の措置をとることも
なかった。被保険者の横断時は折悪しく雨が降っていたため、低く差
した傘のために視界を遮られ、惰性走行のため音を立てずに接近して
くる車両に気づかなかったのである。判旨の大部分は、二つの契約文
言の解釈に向けられることになった。
「…『本件保険証券の所持人は身体の安全性維持および保護のため
に、あらゆる相当の注意(all due diligence)を払わなければならな
い』という規定…は、きわめて概括的であるが、被保険者が事故に対
して自身の安全を確保しておかなければならない(must guarantee
25)もっとも、これら3判決について、両者の区別を認識した上で、「『相当
の注意』条項を効果的に焼き直して」適用した事案であると評価するむきも
ある。これらがいずれも「かなりとんでもない事実関係(fairly egregious
lapses)」を扱うものであるため、その場合の立証責任を保険会社有利に調
整したものという趣旨である(Scales, supra note (12) at 244.)。
26)Carrie I. Keene v. New England Mutual Accident Association, 36 N.E.891
(Sup. Judicial Ct. Mass., 1894).
―92―
生命保険論集第 187 号
himself against accidents)という意味でないことは確かであり、ま
た、被保険者の側に何らかの注意の欠如があり、それが寄与した事故
については被保険者が保険金を受領できないということを意味するも
のとも思われない。被保険者は必ずしも考え得るすべての注意
(diligence)を尽くすことを要求されるものではなく、もっぱらすべ
ての相当の注意(due diligence)を尽くせば足りる。相当の注意およ
び注意義務(deligence and care)は、場合によっては合理的な注意
および注意義務と言われ、合理的な注意義務とは、慎重人(prudent
person)の通常の注意義務と言われる。それは絶対的な意味の語では
なく、相対的な語である。傷害保険契約においては、被保険者がこの
条項によって、慎重人が日常用いると想定されるよりも高度の注意を
尽くさなければならないとするのは合理的ではなかろう。もしこのよ
うに解釈してしまうと、傷害保険契約によって備えようとする人がほ
とんどいなくなってしまう。ここで被保険者に要求される相当の注意
は、軽率(inadvertence)という概念と矛盾せず、慎重で用心深い
(causious)人が日常冒すような危険を冒すことと相反するものでは
ない。証拠からは、本件死亡被保険者の行為は、必ずしもこの条項に
抵触するものではない」27)。
最も注目されるのは、「相当の注意」と「軽率」とが矛盾しないと
された点である。そもそも、保険契約を締結したからといって、被保
険者が通常の慎重人の注意義務を脱ぎ捨ててよいことにはならない。
保険契約には注意義務軽減作用はない。とはいえ、通常の「慎重人」
も軽率によって事故を起こすことがあり得る。そして保険が過失を持
つとは、まさにこの部分のことをいう。そのように解してこそ、社会
的要請に最も適合した保険契約像が導き出される。だとすれば、この
範囲を逸脱する事故はどのように捉えるべきか。
27)Id. at 892.
―93―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
「…保険会社がその抗弁の論拠とする…規定は、『不必要な危険も
しくは危難、または危険な冒険に自主的に身をさらすこと』である。
必要な危険に自主的に身をさらすこと、あるいは不必要なそれでも自
主的でなく身をさらすことは禁じられていない。本件保険契約では、
直面することの必要ななんらかの危険、すなわち危急の危険に陥って
いる者を救出するというような危険が存在することは認められている。
…それとは別に、暴走馬や迫り来る車両のように、人が事前にその存
在を認識していれば、通常は直面する必要のない危険がある。この種
の危険でも、軽率に意図せずに(advertent and unintentional)身を
さらすにすぎないのであれば、
それは自主的ではなく非自主的となる。
不必要な危険に自主的に身をさらすとは、意識上故意に身をさらすこ
とを意味する。つまり、意識し望んで(consciously willing)危険を
引き受けることである。傷害保険契約を締結することによって、人は
当然に、全部または一部において彼自身の軽率(inadvertence)に起
因する事故に対して補償を受けることができると考えられるのである。
…本件の傷害保険契約において…被保険者が危険に自主的に身をさら
したと認定すべきとは言えまい。死亡被保険者は不法侵入者ではなか
った。証言から伺えることとして、死亡被保険者が横切った地点で当
該鉄道の線路を渡るのはふつうのできごとであったようである。確か
に鉄道会社によって横断禁止の警告板が立てられていた。しかし実際
の横断を阻止するためにその他のことは何もなされていなかった。…
証人によれば、日に千人から2千人の人がそこを渡っており、その横
断慣行は数年にわたって継続していた。このことから、死亡被保険者
が不法侵入者でなかったことが証明されよう。死亡被保険者は線路上
を歩行していたわけではなく、あるいは線路上に留まろうとしていた
わけでもない。彼は単に急ぎ足で横断しようとしていたにすぎない。
彼は蒸気音を轟かせた機関車ではなく、切り離され惰行のために押し
出された車両にぶつかったのであり、しかもその車両は傘のために視
―94―
生命保険論集第 187 号
界から遮られていた。傷害保険契約の本旨にてらし、かつ、同一の文
の中にある故意行為についての他の契約文言との関係をも踏まえて、
『不必要な危険に自主的に身をさらす』
という契約条項を解釈すれば、
証言から描かれる死亡被保険者の行為は、必ずしもこの文言に抵触す
るものではない」28)。
ここであらためて確認しておくと、まず慎重人の注意義務を果たし
ても「軽率」によって発生する事故はある。「慎重人の軽率」は保険
の対象内なのである。ところが、この注意義務を果たさずに、しかも
これを果たさないことに(全部または一部)起因して発生した事故に
ついては、不法行為法的な「寄与過失」が認められる。そのために保
険金支払も行われない。そして、この寄与過失的免責領域の少なくと
も一画を占めるのが、「身をさらす」免責の対象事象なのである29)。
(6) 理論分析
このKeene判決よりむしろ先立つが、連邦裁判所も「身をさらす」要
件の解釈指針を提示している。第6巡回区連邦控訴裁判所のDorgan事
件30)によれば、「ここでいう身をさらすとは、人が普通に行おうとす
28)Id. at 892.
29)判決は、傷害保険契約のこうした解釈の適用にあたっては、「コモンロー
の原則に基づいて加害者に責任を転嫁する場合に比べて、被保険者にとって
有利となるように広く解釈すべき」と指摘する(id. at 892.)。
30)Manufacturers' Accident Indemnity Co. v. Dorgan, 58 F. 945(6th Cir.
1893). 被保険者は島の崖から浅瀬に墜落し、前頭部を強打して鼻腔を海水に
つけた状態で溺死しているのを発見された。もともとこの被保険者は、てん
かんと脳疾患を患っていたが、その点については告知義務違反もあった。そ
うした背景から、この事件ではかなり多くの争点が提起されている。その中
で保険会社側は、多少強引とも思われるが、次のような主張を保険金支払の
拒絶理由の一つに挙げた。すなわち、「〔被保険者〕の死亡に寄与する条件
は、自身を当日の危険-冷え込み-に軽率かつ無謀にも身をさらしたことに
よって引き起こされ、当時の彼の体調からしても、そのように身をさらすこ
との軽率さはきわめて重いものである。したがって、この軽率さが彼の死亡
―95―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
ること、すなわち日常的慣行や生活上の慣例に伴う行動をいうもので
はない。…危険に身をさらすことが寄与的な原因とされ、そのために
本件原告の保険金請求権が否定されるためには、
それが、
通常の程度、
すなわち人のふつうの生活過程における行動と表現できるような無思
慮(wanton)、粗雑な行為(a piece of gross)、または不注意
(carelessness)を超えるものでなければならない。確かに、〔被保
険者〕の体調が当時弱っていたとすれば、彼が軽率に(imprudent)、
無思慮かつ無分別(reckless)に身を-そして生命・健康を-危険に
さらしたかどうかを決定するためにはそれを考慮に容れるべき場合も
ある。しかし、被保険者が危険に身をさらした程度がそれほどまでに
至らないとすれば…保険契約上の免責条件には該当しない」31)。
つまり「寄与過失」的な構成から危険に身をさらすことによる免責
を適用するためには、「通常の程度」、Keene判決と照らし合わせてい
えば
「慎重人の生活過程」
を逸脱する重度性が求められることになる。
さらに先立つ1891年、ニューヨーク州上級裁判所Duncan判決32)は、
「自主的(voluntary)」の語についていささか哲学的ともいえる分析
を試みた。
「本件保険契約では、死亡が『不必要な危険に自主的に身をさらす
ことから』発生した場合は保険会社は免責とされる。
〔保険会社〕は、
証拠からは本件被保険者がこの条件に違反したことが明らかであると
に寄与しているとすれば、死亡は当該保険契約の支払い対象とはなら」ない。
31)実は、この判旨は原審のそれである。第6巡回区連邦控訴裁判所は、「原審
の論旨は、『不必要な危険および危険な冒険に自主的に身をさらす』という語
句の意味するところを適切に…説明するものである」としている(id. at 952.)
32)Duncan v. Preferred Mut. Acc. Ass'n of New York, 13 N.Y.S. 620(Superior
Ct. N.Y. 1891). この事件では、駅構内で頻繁に列車の往来する中、何本もの
線路を横切って自分の乗ろうとするプラットフォームに向かっていた被保険者
が、駅員に列車の接近を警告されたにもかかわらず、立ち止まらずむしろ小走
りに渡りきろうとして轢過された。
―96―
生命保険論集第 187 号
主張する。この点については、もっぱら『自主的に』という語に注目
すべきであろう。もちろん、この語はある意味では意思(will)に基
づく行動に関係する。…しかしながら、意思は、外的事象から意思へ
と流れ込む動機付けという要因によって行動に移されるのであり、そ
うした動機付けは多かれ少なかれ意思を左右し、ある一定の方向の行
動をとるよう意思に影響を及ぼす。外的状況が通常の慎重さおよび知
性を有する者に、ある一定の行動をとらせるほどの影響を及ぼしたと
すれば、この行動は彼の側から発した自主的なものであるとは考えら
れないであろう。彼の行動は自由にとられたものではない。それは外
的事情に支配されたものである。本件においては、〔被保険者〕が外
的状況にどの程度影響されまたは支配されたのかが…事実認定上の問
題となる。そして、通常の慎重さを持つ人であれば、外的状況によっ
てそのように行動せざるを得ないとなれば、彼の行動は自主的ではな
いと…判断しなければならない」33)。
これによれば、慎重人が自らの「意思」をもって行う行動すべてが
「自主的」となるわけではない。意思形成の過程で外的環境から慎重
人がふつう有するにいたる意思は、あくまで「非自主的」なものであ
る。外的環境にもかかわらず、慎重人の形成する「はずの」意思から
大きくかけ離れた意思を有した場合、はじめてそこに「自主的」の領
域が登場することになる。
もっとも、Keene、DorganおよびDuncanの各判決は、それぞれの判旨
で極めて優れた論理を展開しながらも、その分析が問題の解決にはほ
とんど役立っていない。Keene事件およびDuncan事件では、結局のとこ
ろ「相当の注意」義務への違反さえ認定されなかったため、「身をさ
らす」要件の事実に即した検討が行われておらず、Dorgan事件の判旨
部分は傍論にすぎなかったからである。
33)Id. at 621.
―97―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
(7) 厳格解釈の実際の適用
1890年代には、上記各判決に見られる理論的背景を維持し、「身を
さらす」免責規定の厳格解釈を実際に援用する判決が相次いだ。
1896年のバージニア州最高裁Chamvers判決34)はその代表例であろう。
「『自主的に身をさらす』という語は、傷害保険契約で用いられる
場合、意識的かつ意図的に(conscious, intentional)身をさらすこ
と-すなわち、人が意欲して危険を背負う(is willing to take the
risk of)ことを意味する。この免責の範囲に含めるためには、当該行
為が、
合理的かつ一般的な慎重人であれば危険と判断する行為であり、
かつ、その行為の結果として事故が発生したということを証明しなけ
ればならない。したがって、必ずしもあらゆる過失行為がこの条項に
もとづき補償を排除するわけではな」い35)。
この事案で被保険者は、ちょうどカーブの切れかけた位置にある鉄
道線路の上に鞄を置き、その上に腰掛けていた。列車の接近を知らせ
る通行人の言葉に応じ、線路を離れようとしたが、鞄を取り上げる際
に屈んだところで列車にはねられた。そうした状況の下にあって、
「死
亡被保険者が、正刻もしくは正刻前後に列車がやってくることを認識
しており、または認識すべきであったという証明は少しもなされてい
ない。彼が列車の接近していることに気づき直ちに線路を離れようと
したことは、意識的かつ意図的に危険に身をさらすことという概念に
は反する。証拠からせいぜい言えることは、線路から鞄を持ち上げる
だけの時間があると考えた点で、彼が単純に判断を誤ったということ
にすぎない」36)。
不必要な危険に身をさらすという行動は、その危険自体を明確に認
34)The Fidelity & Casualty Co. v. Chambers, 24 S.E. 896(Sup. Ct. Va, 1896).
35)Id. at 898.
36)Id. at 898.
―98―
生命保険論集第 187 号
識していることを前提とする。それが認められない限り、単に「危険
性が高い」
とういだけではこの免責要件を満たすことがないのである。
そして判決は最後に、こうした厳格解釈を採用すべき理由を、傷害保
険の役割についてのまさに定石ともいえる論理をもって明言する。
「本件が、寄与過失の問題の関わってくる鉄道会社への賠償請求訴
訟ではないという点を想起しなければならない。仮に、『意識的かつ
意図的に身をさらす』という要素を欠くために事故を招来する場合も
含め、被保険者のあらゆる過失行為または注意義務違反行為が傷害保
険金請求訴訟において保険者側の抗弁を形成するとすれば、この種の
保険契約はほとんど無価値になってしまうであろう」37)。
ここで裁判所は、不法行為における「過失」との相違を際立たせる
ため、傷害保険の存在意義がまさに被保険者の過失を補償することに
あるという命題を敢えて強調する。これにより、この事件での傷害死
亡保険金の支払請求を認容した。
1899年のイリノイ州最高裁Sittig事件38)でもまた、被保険者の行動
の評価が問題となった。そのため事実認定はかなり詳細である。ここ
では、死亡被保険者が発車してしまった列車に飛び乗ろうとした。列
車はすでに時速13ないし16km程度で走行していたが(鉄道会社従業員
証言による)、彼は手すりを掴みステップに足をかけることに成功し
た。ところが、プラットフォームから離れたところにあった切符売場
の小屋が線路にかなり接近して建てられていたため、被保険者は車内
に体を乗り入れる前にこの小屋と激突して落下し、
死亡したのである。
裁判所はまず、次のように「身をさらす」免責について明確な解釈指
針を展開する。
「『自主的に身をさらす』という語は、動き出した列車に乗車しよ
37)Id. at 899.
38)The Fidelity and Casualty Co. v. Hannah M. Sittig, 54 N.E.903(Sup.Ct.
Ill, 1899).
―99―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
うとする行為が単に自主的すなわち意識的かつ意図的に遂行されるだ
けでは足りず、
被保険者が自身の身をさらすべき危険を認識した上で、
または、通常の知見を持つものであれば当該状況の下で必然的にその
危険を認識するほど当該危険が明白である場合に、被保険者が自主的
にその危険を引き受けることをも意味する。人は、危険を理解しない
まま、また危険がそれほど明白でない場合に、重大な危険に身をさら
す行為を自主的に行うこともある。そのような場合は、自主的に危険
に身をさらしたということはできまい。その者が危険を認識していな
いのであれば、彼がその危険を自主的に引き受けた、すなわち自主的
に危険に身をさらしたということができようか?
通常の注意義務
(ordinary care)を怠るだけでは、過失による不法行為訴訟のように、
契約に基づく補償を排斥することはできまい」39)。
その上で、この事案を次のように評価した。
「切符売場の小屋が近接していたことを被保険者が知っていた、す
なわち、彼が車内に身を乗り入れる前にそうした障害物と接触する危
険に身をさらそうとしていたと信じるべき合理的理由を有していたと
いう証拠は一切ない。証拠による限り、被保険者の経験、壮健さおよ
び活動性からして、多くの人にとって走行し始めた列車に飛び乗る場
合に存在する危険と比べ、彼にとっては証言にあるような速度で走行
中の列車に飛び乗ることはそれほど危険ではなかったかもしれず、走
行中の鉄道列車のステップによじ登る旅客が、不必要な危険に自主的
に身をさらしているという見解を法的定義として採用し、そう判示す
るとすれば、不合理であろう。-もっとも、彼がそのような行動をと
ることで、過失を犯していることは認めなければなるまい」40)。
39)Id. at 904.
40)Id. at 904. 判決はこれに続けて、「合理的な判断力を持つ者であれば、
最速でまたは高速で走行する通過列車に飛び乗る試みが明らかに危険である
ことは認めよう」が、「だからといって、列車が発車してから30メートルか
―100―
生命保険論集第 187 号
前述したとおり、傷害保険契約における免責規定として「身をさら
す」規定が設けられた理由の一つには、保険会社側の便宜があった。
これによって保険会社は、どのような事案が発生するか予想して個別
免責を創設する煩わしさから解放される。包括的な「過失」免責を志
向するあまり、保険者はかつての「動いている列車に飛び乗る」とい
う個別免責を「身をさらす」免責に入れ替えた。その際、保険者の側
では本件のような事案は前者の個別免責に該当する以上、後者の包括
免責にも含めることを企図していたといえよう。ところが、「身をさ
らす」免責の包括性ないし抽象性は、かえって傷害保険契約における
被保険者過失の理論分析を促す方向に作用し、このSittig判決に見ら
れるように、結局は保険者の当初の思惑を覆すこととなった。ただ別
の見方をすれば、事故概念そのものとの「表裏性」が高い包括免責規
定は、個別免責規定を考察するよりも論理的分析が行いやすいという
性質を有する。その意味で、前掲Miller判決と本件Sittig判決との対
称性は注目に値する。
(8) 単なる約定免責か本質的要件か
以上の判決は、「身をさらす」免責規定の「重い」程度が否定され
た例である。それに対して、その程度に達する行動があったとして寄
与過失論理の援用によって保険金請求が認められなかった事案は意外
に少ない。その意味で1896年のウィスコンシン州最高裁判所Shevlin
判決41)を挙げておく必要があろう。もっともこの判決は、「身をさら
す」免責の適用を認めた以上に、実は、もう一つ重要な意味を持つ。
ら40メートルほどしか進行しておらず、僅かに証言にあるような速度でしか
走行していない本件の場合」まで、それを当てはめることはできないとする
(id. at 904.)。
41)Shevlin v. The American Mutual Accident Ass'n, 68 N.W. 866(Sup. Ct.
Wisc. 1896).
―101―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
比較のために、Shevlin判決が「踏襲」した先例から見ておきたい。
ウィスコンシン州ではすでに1869年、
同州最高裁判所によるSchneider
判決42)が、かなり明確に「身をさらす」免責規定の解釈方針を打ち出
している。ここでは、被保険者が発車直後の列車に(人の歩くほどの
速度で走行していたとされる)停車場のプラットフォームから飛び乗
ろうとしたところ、誤って落下しその列車に轢過され死亡した。この
被保険者の傷害保険契約の文言では、「意欲してかつ無思慮に
(wilfully and wantonly)不必要な危険に身をさらす」場合が免責と
規定されていた。州最高裁判所は次のように言う。
「この規定ぶりからは必然的に、『意欲してかつ無思慮に不必要な
危険に身をさらす』というまでには至らない程度の過失は、傷害保険
金の支払を排斥しないという意味に捉えられる。被害者の過失によっ
て発生した人身傷害についての損害賠償訴訟におけるように、被保険
者の側で相当の注意義務および配慮義務(due care and skill)を遵
守することが保険金請求権の前提要件だとすれば、この免責規定は契
約でわざわざ設ける必要はなく、無意味なものとなってしまう」43)。
もし傷害保険に不法行為の過失原則をそのまま援用することが、デ
フォルトルールだとすれば、とくに契約文言としてこの点に関する規
定を挿入しなくても寄与過失免責が導き出せるはずである。だとすれ
ば、わざわざ「身をさらす」免責規定が設けられている以上、そこに
何らかの意味があると解するのが順当である。「危険に身をさらす」
という語そのものは、過失行為を保険法的視座から見た一表現にすぎ
ないから、そこに何らかの特徴を見いだすことは難しい。むしろ、
「意
欲してかつ無思慮に」という修飾辞に焦点を当ててこそ、この規定全
体に積極的な意味を持たせることが可能となる。
この点、
前掲のDuncan
42)Schneider v. The Provident Life Insurance Co., 24 Wis. 28(Sup. Ct. Wis.
1869).
43)Id. at 32-33.
―102―
生命保険論集第 187 号
判決と同じ着眼である。その結果、上掲判旨前段に言うように、「意
欲してかつ無思慮に」行った「重い」過失行為と、その程度にまで至
らない「軽い」過失との区分けが想定されることとなる44)。
30年が経過した後、Shevlin判決は上掲のSchneider判決を踏襲しよ
うとした。
ところが、
前者は事案においても保険契約文言においても、
後者とは異なっていた。Shevlin判決の事案では、ただ乗りのために友
人と密かに貨物列車に乗り込んだ被保険者は、降車予定の駅を列車が
通過してしまうときは駅近辺で速度の落ちる列車から飛び降りること
を計画していた。ところが、列車がその駅を通過する際、予想に反し
てその速度は落ちなかった。それでも敢えて飛び降りたところ、被保
険者が死亡するに至った。裁判所はまず、この事実関係を過失概念に
てらして次のように評価する。
「過失法として、判例上確実に要請される程度にまで洗練された何
かがあるとすれば、それは、走行中の列車からある者が不必要に飛び
降りそのために人身傷害を被った場合、発生した損害の賠償は寄与過
失を理由として排斥されるという法則である。…明らかに、夜間に高
速で走行する貨物列車の屋根または側面から何ら合理的理由なく飛び
降りる行為は、通常の過失を超えた行為である。つまりそれは重過失
44)そして判決は、次のように結論づけた。「被保険者の行動は軽率であった
かもしれない。それは、鉄道会社に過失があったとすれば、それに基づいて
提起される損害賠償訴訟において、賠償請求を妨げたような過失であったか
もしれない。しかしそれは、意欲してまたは無思慮にと表現されるような要
素を当然には含んでいないように思われる。彼は普段どおり仕事を終えたと
ころだった。彼はその列車に乗って帰ることを欲しており望んでいた。その
列車が動き出したにせよ、それに乗り損なえば取り残されてしまう。この点
を考慮すれば、彼が飛び乗りを試みたことも十分に自然なことであった。取
り残されることに対し人が持つ強い嫌悪感が、彼にそれを強行させたのであ
る」。このように多分に同情的な行動分析を行い、裁判所は、この行為を「意
欲的かつ無思慮」な程度に達していないものと結論づけた。したがってこの
事件では保険金請求が容認されたのである(id. at 33.)。
―103―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
行為(an act of gross negligence)となる。合理的な慎重人の行為
基準によってこの行為を評価すれば、この行為は身体の安全を意識的
に無視することによってしか行い得ない」45)。
ここで述べられたとおり、
不法行為法にいう重過失と保険法的な
「危
険に身をさらす」行為が同等のものなのかについては論議の余地があ
ろうが、少なくともこの判決ではそれが認定され、保険金請求が認め
られなかった。
だが問題は、それに続く判旨部分にある。
「過失法の一般原理は適用されないと…主張される。その前提に賛
成の判例も反対の判例も引用できるが、それらすべての判例を注意深
く検討すると、この種の事案に過失法の一般原則がどの程度適用され
るかは、契約によって決定されなければならないように思われる。契
約が一般的なものであり、つまり本件で考察するような免責なしに、
外来かつ急激に発生する事故に対して被保険者を補償するものである
場合には、寄与過失はその保険契約に基づく保険金請求訴訟において
抗弁とはならない。…確かに、人身傷害が被保険者自身の過失に起因
する場合に、事故とはいえないと判示する判決もある。…しかしなが
ら、判例の大部分はそれとは反対の結論をとる。ただ本裁判所では、
十分に熟慮した判決で、寄与過失を抗弁とすることができるかという
問題は、これを契約文言によって決しなければならないと決定された
ことがある」46)。
つまり、Schineider判決以来踏襲された解釈として、傷害保険のデ
フォルトルールは、寄与過失の抗弁の否定、すなわち不法行為の過失
理論の排除にある。その上で、寄与過失論に相当する免責を設けたい
のであれば、保険者が特に「契約的制約」をもって臨まなければなら
45)Supra note (41) at 867.
46)Id. at 867.
―104―
生命保険論集第 187 号
ない。「人身傷害が被保険者の過失に起因する場合に、事故とはいえ
ない」とする解釈、すなわち傷害保険の事故概念そのものに過失を組
み込む理論構成をとることはできない。
Shevlin判決のこの指摘が正し
いとすれば、
「身をさらす」免責は、傷害保険の故意免責とは異なり、
保険事故の構造的要因とはみなされないことになる。
3 保険事故の因果的構造-「偶然の手段」47)と「偶然の結果」-
(1) 「偶然の手段」と「偶然の結果」との区別
「相当の注意」遵守条項または「身をさらす」免責規定は、いずれ
も保険事故そのものの定義規定に織り込まれているわけではない。別
規定で設けられた要因である以上、形式的に事故概念外の約定制約に
すぎないという捉え方をされ易いことも確かである。
現に前掲Shevlin
判決は、実際にそうした傾向を見せている。保険者の側とすれば、事
故概念そのものに寄与過失的な免責構造を組み込むことができれば、
不法行為的構造の取り込みをより盤石な形で実現することができる。
ところで、前掲のTuttle判決には、「相当の注意」遵守条項と「身を
さらす」免責の解釈として、「これらの場合のそれぞれには、原因と
結果の組み合わせが存在し、前者が後者の発生に寄与したと判断しな
ければならない」という一節があった。またこれも前述したChamvers
判決には、「身をさらす」免責について「…この免責の範囲に含める
ためには、当該行為が、合理的かつ一般的な慎重人であれば危険と判
断する行為であり、かつ、その行為の結果として事故が発生したとい
うことを証明しなければならない」という一節があった。いずれも、
47)このaccidental meansの訳について、筆者はこれまで様々な試訳をあてて
きた(「偶然の原因行動」等)。しかし、結果に対する出発点という意味で、
やはり「手段」が最も穏当であるように思われる。そこで、二転三転するよ
うだが、本稿では「偶然の手段」を使うことにする。
―105―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
寄与過失の全体像における因果的構図に着目するものである。とりわ
け「身をさらす」免責では、因果の「因」の部分が「自主的」な要素
としてクローズアップされるため、これを人の行動の絡んだ因果の流
れとして捉えやすい。
実は、アメリカではかなり早い段階から、傷害保険の保険事故の定
義規定に一つの大きな特徴があった。傷害保険契約の根幹をなす保険
金支払規定では、通常、「本保険契約は、外来、急激かつ偶然の手段
によって発生した人身傷害から生じた」損害について保険金を支払う
と規定されていた。「偶然の手段(accidental means)」と「偶然の
結果(accidental result)」(これが人身傷害にあたる)の区別であ
る。「因」の部分に偶然性を求めると、例えば、「被保険者が自身の
膝を撃つつもりで銃を足に向けたが、失血死に至った場合には、保険
者に支払責任は生じない。死亡は単に偶然の結果だけにしかすぎない
からである。その一方、被保険者が銃を掃除している間にそれが暴発
して死亡した場合には、その手段こそ事故と表現することのできるも
のである」。こうした単純な事案を想定するとき、偶然の手段と偶然
の結果との因果の流れは、「まことしやかに(plausible)」48)聞こえ
る。
保険者は、「身をさらす」免責の本旨を、この「偶然の手段」と「偶
然の結果」の因果の流れに置き換えようとした。寄与過失論の因果性
をそのまま投影する形で、傷害保険の保険事故の構造自体にそれを取
り込む試みであった。
ところが現実問題として、それは様々な箇所で軋みを生じさせた。
その最も有名な例の一つが、「自招闘争(mutual afray)」である。
(2) 自招闘争とは
48)Scales, supra note (12) at 234.
―106―
生命保険論集第 187 号
自招闘争の構造については、実際の判決の事案を見ればこれを容易
に理解できる。
1897年第8巡回区連邦控訴裁判所Taliaferro判決49)は、自招闘争論
理が形成される初期の代表例である。この事案で被保険者は、妻とと
もに知人宅に一時止宿していたが、妻および家主と争い、そこを追い
出された。夜分になりその知人宅に戻った被保険者は、家主およびそ
の息子と押し問答を繰り返したが、激高して拳銃を取り出し、家主の
息子の顔面を銃で殴った。息子が危険を感じて自分の拳銃を取り出し
て被保険者に向け発砲をした。その結果、被保険者が死亡したという
ものである。なお、この被保険者が加入していた傷害保険契約にはい
わゆる「闘争行為免責」規定は設けられていない。そのため裁判所は、
事案が傷害保険における「事故」概念に含まれるかどうかという、事
故概念論からことを解決する必要に迫られた。
「〔被保険者の行為〕は、どう見ても死に至る反撃を招致するもの
としか捉えることができず、死亡被保険者はその反撃に自主的に自身
の生命を賭け、意図的に(deliberately)殺されるべき機会を設けた
のである。このようにある者が、他人をして死に至る反撃を誘因し、
しかもそれを自主的に行う場合は、その者の死亡は…これまで採用さ
れてきたいかなる定義においても、事故とみなすことができない。あ
る者が故意に、接近する列車の前で線路を横切ろうとし、絶壁から飛
び降り、または致死性の毒薬を飲む場合でも、死亡が事故であると主
張されることもあろう。これらの行為のいずれによっても、死亡が生
じない可能性があるからであるが、しかしながら、死亡は、当然に予
期される結果であり、そうだとすれば、事故とはならない。…本件で
争いのない事実によれば、死亡被保険者は死に至る武器をもって自主
49)Taliaferro v. Travelers' Protective Ass'n of America, 80 F. 368(8th
Cir. 1897).
―107―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
的に攻撃を加えたのであり、それによる結果は、あり得ない結果では
なく、合理人であれば予見することのできる結果だったのである」50)。
この判決の判旨内で挙げられた例はいずれも「故意」的な事案に偏
向しており、かえって誤解を生じるおそれがある。ここで判決が導き
たい論理は決して故意免責のそれではない。むしろ判旨最後に触れら
れた予見可能性の問題なのである。
この点、
結果においてTaliaferro判決とは相違したにもかかわらず、
同時期に下された1894年ミズーリ州最高裁Lovelace判決51)の方が論旨
において明確である。この事案で、死亡被保険者はあるホテルに宿泊
していたが、接客態度の悪い従業員を注意しているうちにトラブルと
なった。激高した被保険者はその従業員をオフィスから押し出そうと
して、平手で殴りながらオフィスの壁に押しつけた。その従業員は反
撃のためにポケットから拳銃を出して被保険者を撃ち、そのために被
保険者が死亡した。裁判所は、この事案の被保険者の死亡の経緯を「事
故」と認定し遺族による傷害保険金請求を容認した。
「〔保険者〕側の弁護士は、事故という語の通常の意味には、かな
りの定義論争があることを認めるが、被保険者が自身を死に至らしめ
た闘争に参加することによって、死に至ることの明らかな危険を自主
的に引き受けた場合には、いかなる事故定義も適用できないと主張す
る。
しかし、この主張には一つの弱点がある。被保険者が〔当該従業員〕
をホテルからつまみ出そうとする行為に着手したとき、彼が撃たれて
殺されることを予期していたとすべきいかなる論拠も合理的理由も証
明されていない。この小競り合いの始まる前に、〔当該従業員〕が拳
銃を見せていた、またはそれを撃つ明白な気配を示していたことの立
50)Id. at 370.
51)Lovelace v. Travelers' Protective Ass'n of America, 28 S.W. 877(Sup.
Ct. Mo. 1894).
―108―
生命保険論集第 187 号
証はない。〔被保険者〕が上述したような態様で争いに参加した、ま
たは巻き込まれたという事実それだけでは、彼が死を求めていた、ま
たは自身の行為の結果として死を予期してしかるべきであったという
ことは示されないのである」52)。
つまり、こちらの事案では被保険者が死亡危険を予期しないまま行
為に出たため、Taliaferro事件とは異なり、事故が成立するものと認
定された53)。これら二つの判決からは、被保険者の「行為」時におけ
る結果の予見可能性が重要な役割を担っていることがわかる。因果の
「因」にあたる「手段(means)」は、いずれも被保険者の「自主的」
行為であることに違いはない。しかしそこから「結果」が予見される
と、「因」も「果」も一気に偶然性を失う。逆に結果を予期できなけ
れば、その結果はもちろんのこと、「自主的」に着手されたはずの手
段もまた、あくまで発生した結果との関係に限られるが、「偶然」で
あったことになる。したがって、結果の予見可能性は、事故構造の中
に組み込まれた実質的寄与過失的効果を左右する要であった。
52)Id. at 879.
53)もっとも、相手が拳銃を有していることを知らなかったという事実は、予
見可能性との関係で、必ずしも定型的に重視される要因になるとは限らない。
1933年のケンタッキー州控訴裁判所Overby判決の事案では、被保険者がナイ
フをもって相手に切りつけたところ、相手が拳銃を取り出して被保険者を射
殺した。裁判所は、次のように判示する。「〔被保険者〕の死亡が、〔相手〕
にナイフで襲いかかるという理不尽かつ意図的な行動の産物であったことは、
まったく疑いようのない事実である。襲いかかった時点で、〔相手〕が死を
もたらす武器を所持しており、その攻撃に対して防御するつもりであったと
いうことを、〔被保険者〕は認識していなかったかもしれない。しかしなが
らそのような事実があったとしても、被保険者は、〔相手〕に対する自身の
意図的かつ執拗な攻撃から死をもたらす武器が用いられ、被保険者自身の死
亡を引き起こしたという経緯から解き放たれるわけではなく、彼の法的評価
も変わることがない」(Prudential Life Insurance Co. v. Overby's Adm'x,
65 S.W.2d 1006(Ct. App. Ky, 1933) at 1007.)。
―109―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
(3) 自招闘争と保険事故概念論
20世紀に入ると、この種の判決には、理論的に事故概念を掘り下げ
る傾向がつよく現れるようになった。その中でもよく他判決に引用さ
れるのは、1914年のアラバマ州控訴裁判所Curry判決54)である。この事
案で被保険者は、日頃確執のあった知人が自宅前を通りかかるのを見
て、ライフル銃を携えてその知人を追いかけた。被保険者はその知人
の前に回り込み、近距離でライフルの撃鉄を起こして脅し文句を投げ
かけた。その知人は大いに危険を感じ、ちょうどライフル銃を購入直
後のことで自身が新銃を携行していたため、すばやく構えてから先に
被保険者に向けて発砲した。
その結果、
被保険者が死亡したのである。
裁判所はまず、傷害保険における「事故」の定義を模索する。
「事故という語の意義は、原因とその結果との関連を考慮すること
によって最もよく理解できる。事故とは、手段が、その当然かつ蓋然
の(natural and probable)結末ではない結果を生み出す場合をいう。
用いられる手段の当然の結末とは、その手段の利用によって通常たど
り着く結末-すなわち当該手段の利用から合理的に予期でき、また予
期すべき結果を意味する。ある手段を用いた場合の蓋然の結末とは、
そこにたどりつかない確率と比べその手段の利用によってそこにたど
りつく可能性がはるかに高くなる場合の結末を意味する。ある行為ま
たは一連の行為の当然かつ蓋然の結末が発生したとすれば、そこに事
故は存在せず、その結末は偶然の手段によってもたらされたものでも
ない。そのような結末は、実際の意図(design)の結果である。
…事故による人身傷害または死亡とそれ以外の様々な原因による人
身傷害または死亡とをあらゆる場面で正確に区別する境界線を引くた
めに、傷害保険契約で用いられる『事故』という語を定義するのは、
まったく不可能とは言わないまでも難しいことである。本裁判所も普
54)Prudential Casualty Co. v. Curry, 65 So. 852(Ct. App. Ala. 1914).
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生命保険論集第 187 号
遍的に適用できる定義を述べるつもりはない。しかし、人身傷害を負
った当事者の行為が自主的なものであり、いかなる過失行為としての
性質も有せず、そのため過失または注意義務違反(negligence or
carelessness)の要素を考慮に容れることが当然にはできないような
本件の事案に適用すると、事故とは、当該当事者自身の過誤
(misconduct)が当然のかつ相当の原因となってはいない、予見でき
ず予期できない事象ということができ、したがって、被保険者の行動
から通常当然に生じる結果は、たとえその結末を被保険者が予見して
いなかったとしても、事故とはいえない。…ここで考察している意味
において事故と呼ぶに相応しい事象が発生したというためには、予見
できないばかりではなく、
被保険者の企図や介在があってはならない。
…そして、結果が企図されず予見できず、または予期できなかったと
しても、それが自主的に行われた行為または自主的に引き受けられた
状況の当然かつ直接の結果である場合には、事故があったとは言えな
いのである」55)。
そして本件の結論として、裁判所は次のように結ぶ。
「〔被保険者〕の行動が生み出した結果は、彼の一連の行為の当然
かつ蓋然の結末であり、たとえ彼が実際にはそれを予見せず意図しな
かったとしても、彼はそれを予見し意図すべきであったと判示しなけ
ればならず、それにより自身が自主的に行った行為の当然かつ蓋然の
結末に責任を負うこととなる。…本件の状況の下では被保険者は死亡
危険を自主的に引き受けたのであり、また、死亡はそれを惹起するも
のとして合理的に計算できるはずの手段によって引き起こされたので
ある以上、被保険者の死亡は、偶然の手段による死亡に保険金を支払
うとする契約文言の下では、事故に該当するということはできない。
つまり、偶然の手段によって引き起こされたと言うことができないの
55)Id. at 853.
―111―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
である」56)。
ここでは、被保険者が実際に予期していたかどうかという基準に加
えて、結果を予期「すべきである」場合が追加されている。もっとも
このような「すべき」基準を導入すると、おのずとことの複雑さは増
大していくことを否めない。
翌1915年のイリノイ州最高裁判所Hutton判決57)もまた、「偶然の手
段」を巡る解釈論が戦わされた典型的事件であった。この事案で被保
険者は、日頃から確執のあった知人にレストランで殴りかかったとこ
ろ、逆襲にあって足を骨折した。これによる傷害保険金の支払を保険
会社に求めたところ、保険会社の側は次のような論陣をはって支払を
拒絶した。すなわち、「もっぱら偶然の手段により発生した人身傷害
を支払い対象とする傷害保険契約では、当該人身傷害が被保険者の自
主的行為の結果であるときは、たとえその結果が必ずしも完全に予見
され企図されていなかったとしても、
保険金を支払うことはでき」
ず、
「被保険者が自主的に闘争に参加し、受傷した人身傷害がそのことの
当然かつ蓋然の結末にすぎない以上、人身傷害が偶然の手段によって
発生したことは一切証明されない」。これに対して、請求者側は、
「〔知
人〕を攻撃した被保険者の行為は、予見できない異常な結果-被保険
者の足の骨折-をともなうこととなったが、この結果は合理的に予期
することができず、またその発生を意図したものでもなかった」と主
張した。
上掲のCurry判決の事故概念分析が早くも導入されていること
がわかる。最終的に裁判所は保険会社の論理を支持し、次のように判
示した。
「人が自主的かつ故意に(deliberately)闘争または喧嘩に参加し、
相手をして自身を防御しなければならない立場に追い込んだ場合、闘
56)Id. at 854.
57)John W. Hutton v. The States Accident Insurance Co., 108 N.E. 296(Sup.
Ct. Ill. 1915).
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生命保険論集第 187 号
争参加者の一人または双方がいずれにせよ重傷を負うことは、当然の
結果であり、また分別のある者なら誰でも発生しやすいと認識するは
ずの結果なのである」58)。
(4) 限界事例の登場
事故的手段を巡るこうした解釈は、それがルールとして確立してい
くにつれ、ある意味での限界事例まで徹底して適用されるようになっ
た。すなわち、これまでに見た各事案では、被保険者が闘争に身を投
じたことにそれほどの「正当性」が見いだされない。ところが、1928
年テネシー州最高裁判所Distretti判決59)の事案では、被保険者が攻撃
した相手は、被保険者が営む店舗に押し入った強盗であった。2人な
いし3人組の強盗は被保険者の店の駐車場に車を停め、店舗に入って
から被保険者とその妻をピストルを突きつけて脅した。そしてレジか
ら金を強奪した後、車で逃走しようとした。被保険者は強盗が店舗を
出た直後に自身の拳銃を携えて飛び出し、発進した強盗の車に向けて
発砲した。ところがこれに対して強盗が車中から応射し、そのうちの
一発が被保険者の首から肩にかけて貫通し、被保険者が死亡するに至
ったのである60)。
裁判所は慎重に事実関係を確認したうえで、次のように判示した。
「本件のような事案に適用すべき法則は堅固に確立している。人身
58)Id. at 297.
59)The Mutual Life Insurance Co. v. C. Distretti, 17 S.W.2d 11(Sup. Ct.
Tenn. 1928).
60)事実関係の争いとして、保険金請求者の側は、被保険者が、強盗の車がか
なりの距離を走行したのを確認した上で発砲したと主張した。すなわち、
「〔被
保険者〕は、強盗団が撃ち返してこない、または、たとえ応射してきたとし
ても、走行中の車からの応射にはほとんど危険がないと信じるにつき、合理
的理由があった」というのである。もしこの主張が容れられれば、結果の予
見可能性にも影響があったかもしれないが、裁判所は証拠からそのように推
認することは困難であるとして、この主張を排斥した(id at 12.)。
―113―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
傷害が他人により故意に惹起されたとしても、被保険者がこの人身傷
害を当然には予見できないときは…傷害保険契約における意味での事
故による人身傷害となる。…この法則は、さらに条件を付して語られ
ることが多い。
すなわち、
被保険者が、
不当行為の責任を負わず
(guilty
of no misconduct)、すなわち自身に人身傷害を加えた者に対して何
らの攻撃も加えていないという条件である」61)。
ここで裁判所は最も基礎的な原理、つまり他人の加害行為による人
身傷害も当然に傷害保険の保険事故に含まれるという、言わずもがな
の前提をわざわざ持ち出している。その本意は、「条件を付して」と
いう語からうかがうことができよう。つまり、「自招闘争」による事
故該当性の否定は、本来は極めて特殊な法理に属する。それを、ごく
一般的な傷害事故概念の「条件」として置くことで、その例外性を薄
め、あたかも本来的原理の「一部」であるかのように性格付ける。あ
る意味でかなり巧妙に、自招闘争論理の「正当性」を強調しようとし
ているのである。そして裁判所は、この事案での被保険者の行動に一
定の同情は示しながらも、自招闘争論理の徹底を優先する。
「本件で[被保険者]はいかなる不当行為をも犯していない、つま
り彼は強盗に入られたら賊を止めるために何らかの行動をとる権利を
有していると認められるかもしれない。しかしながら、彼が自主的に
かつ意図して
(voluntarily and intentionally)
何らかの行為を行い、
合理人としてその行為により死亡または人身傷害が生じると予見しま
たは予見すべきであった(foresaw or should have foreseen)場合に
は、その死亡または人身傷害は事故にはならない」62)。
そして裁判所は事実関係にてらし、この事案の被保険者の行動を次
のように厳しく評価する。
61)Id. at 12.
62)Id. at 12.
―114―
生命保険論集第 187 号
「強盗達は自暴自棄になっており、まさに違法性の高い犯罪を犯し
たところであった。
合理人であれば、
この種の武装した無法者たちが、
銃撃を受け容れておとなしくふるまい、身を護り逃げ切るために強盗
自身が所持していた武器を使わないままでいると想定するとは、とう
てい考えられまい。合理人であれば、この状況下での〔被保険者〕の
行動による致命的結果の蓋然性がかなり高いことを予期すべきであっ
たと思われる。したがって…被保険者の死亡を事故とみなすことがで
きるとは思わない」63)。
この結果、結論的にはかなり奇妙に映る危険性を残しながらも、裁
判所はこの事件の保険金受取人による保険金支払請求を認めなかった
のである。
(5) 自招闘争論理は正しいのか
ところが、傷害保険の事故概念決定原理としての「自招闘争」は、
さらに奇妙な方向に展開した。
1931年の第5巡回区連邦控訴裁判所Sargent判決64)の事案では、被保
険者死亡の状況について二人の証人の証言がまったく食い違った。死
亡被保険者と確執のあった加害者は、道路に妨害物を置いて被保険者
の車を道理脇の溝に脱輪させた。加害者はその場で拳銃を振りかざし
たので周りの通行人が逃げ、残されたのは被保険者および加害者以外
には、二人の証人だけとなった。ところがその後の経緯について、一
方の証人は、殺害された被保険者が「奴を撃ってやる」と罵りながら
コートから拳銃を取り出し、加害者の方向に向かっていったと証言し
ているが、他方の証人は、加害者の方が罵りながら被保険者に拳銃を
向け発砲したと証言した。裁判所は、「この事件では、人々が何をし
63)Id. at 12.
64)Mutual Life Insurance Co. of New York v. Sargent, 51 F.2d 4(5th Cir.
1931).
―115―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
何を言ったかのみならず、彼らを突き動かした動機や彼らの言動の原
因さえ疑問である」以上、
「〔加害者〕の許し難い攻撃性(inexcusable
aggressiveness)を理由として、原審が〔保険金請求者〕の請求を容
認した…のは、より合理的ではないかもしれないが、一応合理的なこ
とであった」65)とした。要するに、事実関係が不明な場合は、闘争当
事者の「攻撃性」という状況的・抽象的な要因によって保険事故の成
否が決まるものとされたのである。
1937年のScales判決66)でも、同じ第5巡回区連邦控訴裁判所で同様
の状況的要素が問題となった。この事案では、農園管理者である被保
険者は、小作人間の噂からある小作人が拳銃を隠し持っているとの情
報を得た。農園運営上の風紀にかかわるため、被保険者はその小作人
の住居に赴いて拳銃を確保しようと考えた。そこで、被保険者は事務
所で自身の拳銃に油を差して試し打ちまでした上で、それを携えて当
該小作人のもとに向かったのである。被保険者に拳銃を突きつけられ
た小作人は、おとなしく自分の住居の寝室に入ったが、その中で被保
険者と闘争となった。そして最終的には、被保険者の拳銃からの発砲
で被保険者自身と小作人の双方が死亡するにいたった。原審は、被保
険者の死亡が「彼自身が引き起こした争議の結果」であるとし、そこ
に自招闘争論理をそのまま適用した。
これを不満とする保険金請求者の側は、控訴理由の中でかなり奇妙
な論陣を張る。
「〔当該小作人〕は、ずっと〔被保険者〕と友好的な黒人(negro)
であった。被保険者はこの小作人に小作人頭や運転手その他の仕事を
65)Id. at 6-7. なお原審では、加害者が「酩酊し危険であ」り、「〔被保険
者〕に対するいわれのない恨みのために逆上していた」という認定がなされ
ており(民事陪審による)、その上で加害者の側から発砲してきたという証
言が採用された。
66)Scales v. Home Life Insurance Co., 89 F.2d 580(5th Cir. 1937).
―116―
生命保険論集第 187 号
与えてきた。この小作人は意欲的な黒人であり、求められたことには
すべて従順であった。〔被保険者〕はその死亡の朝、〔当該小作人〕
に会うに先立ち…行って銃を取り上げるのに何の危険もないと思うと
述べた。つまりその小作人が常に良い黒人であり続けてきたことから
すれば、被保険者は何のトラブルもないと考えていた」67)。
こうなると、
もはや自招闘争の論理は法的な枠付けを大きく逸脱し、
「どちらが先か」あるいは「どちらが悪い」というような子供の喧嘩
のごとき様相を帯びてくる。さすがに第5巡回区連邦控訴裁判所はこ
の主張を容れなかった。しかし、いずれにせよ自招闘争論理は、結局
のところ「保険金が問題となっていなければ、とうてい持ち出されて
こないような意味論的(semantic)解釈」68)に堕するおそれがかなり
高い。
4 終わりに
保険者の側からすれば、傷害保険の事故発生に何らかの影響を与え
た被保険者に保険金を支払うことに何の抵抗もないということはあり
得ない。保険契約における過失について、「軽過失との明確な区別の
基準も設定できないまま、軽過失の場合について保険者が全部の給付
義務を負い、重過失の場合については保険者が全部免責されるという
オール・オア・ナッシング的な処理を行うことは、保険契約者の立場
から見れば、合理的なものとは考えにくい」69)という指摘がある。確
かに保険契約者は、重過失の場合に免責とされることに潜在的不満を
持っているはずである。
だがこれとは全く逆の意味で、
保険者もまた、
67)Id. at 582.
68)Scales, supra note (12) at 247.
69)潘阿憲「重過失による保険事故招致と保険者免責の再検討(一)」法学会
雑誌47-2、106頁(首都大学東京、2007)。
―117―
被保険者過失と傷害保険の保険事故
軽過失について保険金を支払うことについて心底納得できるかといえ
ば、必ずしもそうではあるまい。この点、前掲引用部の論者は、その
後半部分にウェイトを置き、結論的には被保険者過失の程度を反映し
た割合的保険金支払のシステムを導入すべきとする。しかし、重視さ
れるべき点はむしろ、引用前半部に指摘されているような理論分析の
不完全性なのではあるまいか。すなわち、「軽過失との明確な区別の
基準も設定できない」ことにこそ、問題の根が潜在する。
不法行為法で寄与過失理論が発達してきたアメリカでは、
補償の
「被
害者」はdue diligenceを果たすべきという被保険者サイドへの強い要
請が、「過失を持つ」という保険原理と真っ向から対立した。それが
最も鮮明に現れたのが、傷害保険の分野であった。とくに補償という
大きな傘の下で、損害賠償法体系の法理論の影響を受け続けざるを得
ない保険法の領域では、「過失について保険は持つ」という前提命題
そのものについて、まず盤石な理由づけをしておく必要がある。そし
てその軋轢は、
「身をさらす」免責規定の導入を促すことになったが、
この段階ではじめて、「補償」体系で本来正当性を持つはずの寄与過
失が、傷害保険法理論における独自の合理性を模索していく前提が整
った。そしてその模索の過程で、おそらく「身をさらす」免責に該当
する範囲にある過失は、単なるdue diligence遵守とは質的に異なるも
のとして捉えられるようになった。
しかし、保険事故自体を定義する規定に組み込まれない限り、傷害
事故のデフォルト概念が、過失を容れるものなのか容れないものなの
かは結局のところ判然としない。そこでアメリカでは、傷害事故の構
造そのものに、故意以外に被保険者側の帰責的要素を溶かし込もうと
した。ところがその試みは、かなりの軋轢を生み、自招闘争に見られ
るような限界を露呈するようになった。
実は、アメリカの傷害保険における保険事故概念の形成史は、この
段階で一つの大きな節目を迎える。偶然の手段と偶然の結果とを区別
―118―
生命保険論集第 187 号
した事故定義は、本稿で扱った判決群のすぐ後に強力な批判を浴び、
急速に衰えていくことになる。このアメリカ傷害保険法の理論的展開
において、本稿は、その第1期を見てきたにすぎない。
そこで、この第1期の経緯だけから早急な結論を出すことは控え、
第2期の展開を詳細に見ていく必要があろう。とりわけ、傷害保険の
事故概念の「因果的」手法が、何故に一掃されてしまうのか。その点
は、本稿での考察を補完する意味でも、ぜひとも知りたいところであ
る。ただ本稿では、もはやそこまで触れていく紙面的余裕もない。そ
こで次稿では、アメリカ傷害保険における事故概念の形成史の第2幕
を紹介したいと考えている。
―119―
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