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Title ブラジルの日系芸術家たちの軌跡 共生と創造

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Title ブラジルの日系芸術家たちの軌跡 共生と創造
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ブラジルの日系芸術家たちの軌跡 共生と創造―(
Digest_要約 )
都留, 恵美里
Kyoto University (京都大学)
2016-03-23
URL
https://doi.org/10.14989/doctor.k19790
Right
学位規則第9条第2項により要約公開
Type
Thesis or Dissertation
Textversion
none
Kyoto University
ブラジルの日系芸術家たちの軌跡
――共生と創造――
都留恵美里
1
本論文は、日系ブラジル人芸術家の独自性と、ブラジル芸術への同化の問題を考察する
ものである。日系人芸術家のなかでも画家に焦点を当て、彼らを独特の社会統制を築いた
日系社会の観点から、またより広義に彼らが属していたブラジルという社会的コンテクス
トのなから考察し、彼らの作品や作風、そして成功を重層的にとらえ直そうという試みで
ある。いかに「日本人」の芸術が「ブラジル的」となり得たのか、またどのようにして、
異なるアイデンティティの狭間で、
「日系人芸術家」たちが「ブラジル人」として活躍し
始めたのか。こうしたことをブラジル近代芸術というコンテクストのなかで考察し、そこ
から導き出される、ブラジル芸術の特質の一面を明らかにしようと試みた。
ブラジルで人気を博したアンフォルメルの日系人画家と、日系コミュニティの中で大き
な存在感を持った聖美会という芸術家グループに焦点を当て、これらをブラジル芸術とい
うコンテクストの中でとらえ直してみた。この時に鍵概念となったのがブラジルのモダニ
ズムから生まれた<食人主義>という概念であった。
研究、調査の方法としては、文献調査・資料収集とその分析が主である。また、可能な
限り実地調査(インタビュー)も行った。実地調査機関は 2012 年 8 月から 2013 年 7 月
までと 2014 年 3 月である。
「はじめに」では、どのような日系人芸術家がブラジルで名声を博したのかを紹介し、
またこの研究の出発点となった動機を述べている。20 世紀のモダニズム以降のブラジル芸
術を振り返るとき、1950 年代の末から台頭してきたアンフォルメルの潮流がある。このア
ンフォルメルの画家には、日系人が非常に多かった。こうしたブラジルにおける日系人の
活躍は、2002 年、ブラジルの芸術を俯瞰するというテーマで開催されたブラジル銀行文化
センターの展覧会や、2004 年に開かれた 50 年代から 70 年代初頭の作品を集めた別の展
覧会「動作と表現――JP モルガン・チェースと MAM のコレクションに見られるアンフ
ォルメルな抽象主義」の開催からも確認できる。トミエ・オオタケ(大竹富江 Tomie
Ohtake,1913[京都]-2015[サンパウロ]
。1936 年に渡伯)やマナブ・マベ(間部学
Manabu Mabe,1924[熊本]-1997[サンパウロ]。1934 年に渡伯)
、フラヴィオ=シロ
ー・タナカ(田中駟郎 Flávio-Shiró Tanaka5,1928[札幌]-。1932 年に渡伯)などがそ
の代表的な日系人芸術家である。彼らはいずれも 50 年代から活躍し、当時のブラジルの
芸術の重要な一角を牽引した芸術家であった。こうしたブラジル芸術の一角を担った日系
人画家たちをみていくと、ひとつの疑問が浮上してきた。彼らは、ブラジルの代表的画家
とされる一方で、別の展覧会、別の文脈では「日本人画家 pintor japonês/pintor
nipônico」ないし「日系人 Nikkei」
、あるいは「ブラジルに帰化した日本人 japonês
2
naturalizado brasileiro」として紹介されているのである。つまり、「ブラジル代表」であ
る「日本人」としてしばしば紹介されるのである。本論文は、日系ブラジル人作家の存在
と彼らの作品に初めて触れたときの、筆者のこうした素朴な疑問を出発点としている。ア
ンフォルメルで特に知られる日系人の芸術だが、実際にはアンフォルメルに止まらず多様
であった。また、ブラジルの芸術はそれ以上に多様である。ブラジルにおける日系芸術と
はどういったものなのかを網羅的に考え、答えを出すのは難しい。そこで「はじめに」
で、本論文では考察の対象を絵画に限定した。
第一章と第二章では、日系人芸術家の活動と彼らを取り巻く日系社会を中心にみている。
今日でも、ブラジルにおけるアンフォルメルを振り返るとき、日系人の存在は無視できな
い。この時代の代表的な存在として知られているのがマベやオオタケである。マベは最も早
くに日系人としてブラジル国内外の表舞台に立った画家であった。オオタケは今年(2015
年)に亡くなるまで、精力的に活躍し、今日でも根強い人気を博している芸術家である。今
日振り返ると、アンフォルメルの画家たちがまっ先に思い起こされるが、ブラジルには、こ
うしたアンフォルメルの画家と同時期、あるいはそれ以前から活躍している日系画家も大
勢いた。
第一章では、具象画家と抽象画家それぞれ二人をとりあげて、彼らの画家としての経歴と
作品を見た。具象画家のなかでも、日系人画家のグループ「聖美会」の創設者の一人で日系
人画家たちの草分け的存在である半田知雄(Tomoo Handa,1906[栃木]-1996[アチバイ
ア]
。1917 年に渡伯)と、アンフォルメルで活躍した画家と同世代か、若いくらいだが具象
画家であり続ける日系二世で、早熟の画家であったジョルジ・モリ(森ジョルジ Jorge
Mori,1932[サンパウロ]-)をとりあげた。抽象画家としては、代表格であるマベとオオ
タケをとりあげた。彼らの例を通して、日系人の画家が、その経歴において、またその作風
においても多様であるということを確認した。
続く第二章では、こうした日系人たちが活躍してくる背景を、日系移民の歴史と照らし合
わせながら考察した。日系人は移民後の早い段階から高い組織力を発揮し、新聞などを通し
て文化水準を高めようと努めたが、同時にその結束力は諸刃の刃となった。組織力と結束力
は、ブラジルにおいては閉塞的に映ったのである。ここで参考になったのが、細川周平が日
系人文学の活動に関して提案した時代区分である。次に目を向けたのは、日系人芸術家が数
多く携わった「聖美会」である。このグループは戦前に発足し、戦後 1972 年まで続く、息
の長いグループであった。ここではこのグループの結成から解散までの変遷を見た。その特
徴は、自画像の多さとグループ内の画風の統一性の欠如である。日系人の自画像を、20 世
紀前半のモダニズムの画家の描いた日本人の絵画と比較し、パウロ・エルケンホフの見解を
3
踏まえながら、
「自画像」という主題を通して、日系人画家たちがブラジルという社会のな
かで個性/人格を主張してきたこと、さらにはこの社会のなかでの自分たちの存在を主張
してきたことを読み取った。同時に、統一性の欠如は逆説的に、具象と抽象という当時対立
関係にあった二つの運動の聖美会の中での共存を可能にしたこと、また、聖美会には日系人
に対する教育的な期待が課せられていたことを確認した。さらに、オオタケやモリの発言か
らは、一部の戦後の画家たちの聖美会との距離が読み取られる。また、1930 年から翌年に
かけての、当時の人気画家、藤田嗣治(Tsuguharu Foujita, 1886–1968)の来泊と、ブラジ
ルでの彼に対する評価についても触れた。
第三章と第四章では、これまで見てきた日系人の社会とその芸術が、ブラジルという社会
的コンテクストの中ではどういう位置づけになるのかを考察した。
第三章ではまず 20 世紀のブラジルの政治的の動向を確認した。ブラジルの 20 世紀は
1929 年の経済恐慌、1930 年の革命以降、独裁政権や軍事政権、度重なる革命などを経験す
る、激動の世紀であった。そのような環境のなか、戦後、日系人芸術家が幅広く活躍し始め
た時期にブラジルでは数多くの美術館が設立され、南米最大のサンパウロ・ビエンナーレの
開催がはじまった。そこでは、コンクレチスモという幾何学的抽象が主流であった。本論で
は、それに対するネオコンクレチスモやアンフォルメルの存在も確認した。
また、ロベルト・シュワルツ(1938-)やマリオ・ペドローザ(1900-1981)といった
ブラジルの文芸批評家や美術評論家、画家で評論家のマルコ・ジアノッティらの芸術批評に
依拠しつつ、シュワルのいうところの〈場違いの思想 as idéias fora do lugar〉という観点
から、日系人芸術家を分析した。そしてこの〈場違いの思想〉が日系人画家にもブラジルの
芸術にもかかわっていることから、この概念が重層的に両者を絡めとって互いを惹きつけ
あっているのではないかと推論した。
また、ブラジルには日系人から持ち込まれる以前から、日本の俳句が〈ハイカイ〉という
名で人気を得ていた。作家たちはこの新しい表現方法〈ハイカイ〉に、ヨーロッパに追随す
るようなブラジル文化からの脱却の可能性を見出していたのであった。
第四章では、日系人が活動した土壌としてのブラジルを思想性の観点から考察している。
ブラジルには、20 世紀の初めにモダニストのオズワルド・デ・アンドラーデ(Oswald de
Andrade, 1890-1954)により提唱され、今日も脈々と受け継がれる〈食人〉の思想があっ
た。これは、他者を〈食〉してその相手の力を自分の中に取り込めると考えていたといわれ
る、ブラジルの原住民トゥピ族を引き合いに出して、オズワルド・デ・アンドラーデが、従
来のヨーロッパ追随型のブラジルから脱却、さらに言うならば関係の転覆を唱えたマニフ
ェストであった。これが提唱された背景には、ブラジルにおけるナショナル・アイデンティ
4
ティへの関心の高まりがある。この『食人宣言』に見られる対立の構造や、
〈食人〉の思想
を、筆者の行ったその本文の日本語訳から抽出した(日本語には未訳)。そしてそこから、
オズワルド・デ・アンドラーデにとっての〈食人〉の意味するところを分析した。この概念
が 1920 年代から今日まで続くブラジルの通底概念であるとしたうえで、日系人をこのアン
トロポファジックな関係の中でとらえ直した。
結論では、全体を振り返り、また、
「はじめに」での疑問点に立ち返った。本論文の出発
点には、いかに「日本人」の芸術が「ブラジル的」となり得たのか、またどのようにして、
異なるアイデンティティの狭間で、
「日系人芸術家」たちが「ブラジル人」として活躍し始
めたのか、という問いがあった。それは、言い方を換えれば、日系人芸術家たちはブラジル
で、その芸術を通していかに独自性を保ちながら、この異国の地での共生を模索し、可能に
していったのか、彼らの独自性をも取り込み得るブラジルの芸術的環境はいかなるもので
あったのか、という問いでもある。
日系人のブラジルにおける生活、つまり共生と、創造行為を追っていく中で見えてきた
のが、日系人社会の独特で、ともすると閉塞的でもあった自律的な組織のあり方であり、ま
た日系人をブラジル社会に表立って結び付けることを可能にしたアンフォルメルという芸
術表現であった。日系人は、ブラジルという社会の中で独自のコミュニティを築きながら、
独自の芸術を創造していくが、それがブラジルの芸術として消化吸収されていった。こうし
たことを可能にしたのが、近代ブラジルの根幹にある〈食人主義〉という概念である。この
〈食人主義〉は日系人の持つ異質性をも取り込み、日系芸術家たちを「ブラジル化」したの
だった。日系人の芸術もまた、アントロポファジックにブラジルを吸収していったのである。
そこから生まれてきたアンフォルメルをはじめとする日系人の芸術は、独自性が保たれな
がらも、ブラジル人が自己を投影し、自己と同一視できるような作品であったのである。こ
れは、共生することが、いかに創造することにつながるか、ということである。
〈食人〉の
思想は、いかに日本人でありながらブラジルの代表画家たりうるのかというパラドクシカ
ルな問いにもひとつの答えを提示してくれているように思われる。
ブラジルのアンフォルメルの隆盛期から、すでに 40 年以上が経とうとしている。50 年代
から 70 年代の変遷を経て今日では、オスカル・オオイワ(Oscar Oiwa, 1965-)やアンド
レ・コマツ(André Komatsu, 1978-)
、チチ・フリーク(Titi Freak, 1974―)などといっ
た数多くの日系芸術家たちが様々なジャンルで、ブラジルのみならず世界中で活躍してい
る。
〈食人〉の地が生み出した彼らが、今後いかに世界を〈食ら〉っていくのだろうか。ブ
ラジルに移り住んだ日本人たちの軌跡は、グローバル化する世界の中での共生と創造のあ
り方に関して、新たな可能性の地平を垣間見せるものだとはいえないだろうか。
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