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新潟市東 島町の町屋調査・解体報告
新潟市東 島町の町屋調査・解体報告 新潟の町屋を生かす会 2003 目 東 ト 東 ト 東 次 島 町 の 町 屋 を め ぐ っ て 大 倉 宏 3 ピ ッ ク ス 1 番 付 1 2 島 町 の 町 屋 実 測 調 査 に つ いて 岡崎篤行・黒野弘靖・水嶋貴之13 ピ ッ ク ス 2 面 戸 瓦 1 7 島町の町屋の移築支援活動のこれまで 大 倉 宏 1 8 東 島町周辺略図 *表紙写真 通り土間には、以前はO家の苗字の一字を 染め抜いた暖 があったが、昔の屋号を復 活 さ せ 「 丸 に う の 字 」 す な わ ち 「 マル ウ 」 に 変 え た と い う 。 マル ウ と は 、 O 家 の 先 祖 の名前であるウヘイに由来する。 (撮影村井勇) 東 島町の町屋をめぐって 大 倉 宏 町屋の空気 ばでした。 島町(ひ 一例を挙げるなら、通り土間という空間のユニー がしうまやじまちょう)のOさんのお宅(もう解 ク さ で す。 入 口 を 入 る と そ の ま ま 、 自 然 に 家 の 奥 へ 体されてしまったので、ここでは東 島町の町屋と 導かれ、中にいる人に声をかけることができる。私 書きます)に足を踏み入れた時の驚きは、鮮やかに の声に御当主が姿を見せると、いつも上間に接した 覚 え て い ま す。 目 の 前 に 現 れ た 通 り 土 間 が 、 一 一 瞬 、 居間に、どうぞどうぞと誘っていただいたものでし まるで時の壁にあけられたトンネルに思え、遠い時 た 。 こ う い う ス ム ーズ さ は 、 鉄 の ド ア や 玄 関 な ど の 代の風が向こうからながれてきて頬にあたったよう 障壁を持つ新しい住宅やマンションでは不可能で でした。 す。 町 屋 で は 居 間 に あ が る ほ ど の 時 間 が な け れ ば 、 6 年 前 ( 1 9 9 7 年 ) 、 は じ めて 新 潟 市 東 10イ戈、20代を関東の新興住宅地で過ごし、新潟 立ったまま、あるいは通り土間沿いの細長い上がり に 来 て か ら も アパ ー ト や 新 興 住 宅 地 で の 暮 ら し の 長 枢 に 腰 か け て 、 話 を す る こ と も で き ま す。 住 み 手 の かったため、古い町屋の空間が新鮮に感じられたの オ ープ ン で 明 る い お 人 柄 は 、 こ う し た 町 屋 の 空 間 と 、 でしょう。でも、それだけではなかったという気が 一つのもののように感じられました。 します。 ま た 中 に 入 っ て み て 感 じ た の は 、 明 る さ で す。 家 家は古いのですが、現在に生きているという感じ と 家 が 軒 を 接 して 隣 接 す る 町 屋 の な か は 、 照 度 計 で がありました。一人住まいのOさんと、まもなく 測 れ ば か な り 暗 い の に 、 け っ して 陰 影 で は あ り ま せ 親しくさせていただくようになりましたが、ひとつ ん。土間に開けられた高窓や坪庭から差し込む明か には住人の若々しさが、家の空気となって流れてい りなどで、やわらかく照らされること、風通しがよ るのを、最初に肌に感じたためだったかもしれませ く、仕切壁が少ないために開放感があること、家の ん。その後、空き家となり、やがて解体されていっ 奥深さや、ほのかな暗さが、対比的にそうした光を た過程で、家は目の前でさまざまに変貌をとげまし より繊細に感じさせることなどが理由でしょうか。 た。部材などの随所に刻まれた時の重みや傷みも図 町屋のそんな不思議な魅力に気づいたのも、この家 らずも目撃することになりましたが、この家は私の で過ごさせていただいた時間のなかででした。 心のなかで、今も愉しげな風の通う、美しい場所と この家で新潟の町屋に最初に親しませていただ して 生 き て い ま す。 「 時 代 」 に 触 れ る こ と を 、 こ れ き、旧い庶民の町の空気を呼吸できたのは幸せなこ ほど実感させてくれた場所はほかにありません。 とでした。 家の空気はもちろん、そこに住まう人に左右され ま す。 し か し 「 町 屋 」 と い う 建 物 そ の も の に も 、 ど 下町と東 こか人を生き生きさせる、やわらかい活力の種子が 島町 町屋のあった東 島町は、新潟市の旧新潟町地区 あ る よ う な 気 が し ま す。 そ れ は 、 私 た ち が な じ ん だ 内の下町(しもまち・通称新潟島の信濃川下流部に 団 地 や マ ン シ ョ ン、 新 興 住 宅 地 の 現 代 住 宅 が な く し 面 し た 市 街 地 ) の 一 画 に あ り ま す。 てしまった何かではないかと感じることも、しばし 下(しも)はもともと確定された地域というより、 3 図1東 島町の町屋(正面) 撮影村井勇 新潟町の下流「方向」を指す言葉でしたが、漠然と 成されました。背景には信濃川という大河の河畔と 下 流 側 の 「 地 区 」 を 指 す 言 葉 と して も 使 わ れて き た い う 立 t t 川 犬 況 が あ り ま す。 江 戸 時 代 初 期 に は 新 潟 町 ようです。 と対岸の沼垂町(ぬったりまち)の間に、多くの中 明 治 の 中 期 に 、 そ れ ま で 市 内 に 分 散 して い た 「 貸 州かおり、洪水のたびに数や位置が変わりました。 座敷」が、当時の下地域のはずれの本町14番町に 中 州 ( 島 ) の い くつ か は 、 江 戸 時 代 中 期 以 降 、 次 第 集められたことから、一時この「新潟遊郭」の隠語 に新潟町に近づき、やがて島と町の間の河道を細い と して 「 下 」 の 言 葉 が 使 わ れ た こ と も あ る よ う で す 水路の形で残しながら町の一部となりました。町が (そのため、年輩の方のなかには、この語感を快く 河 側 に ふく ら んで い く こ の 現 象 は 、 主 に < 下 町 > で 感じない向きもあります)。 起こりました。この結果<下町>は計画的に作られ 現 在 、 新 潟 で 下 町 と い う 場 合 も 、 使 う 人 に よ って、 た 旧 市 街 地 に 、 後 に 自 然 現 象 で 拡 張 し 町 化 して い っ 指す範囲が一定しません。一番大きい捉え方では、 た地域、さらにはそこに近代以降の都市計画や人口 柾谷小路(まさやこうじ)より下流側全域を指しま の増加で宅地化された地域(湊町通り、窪田町など) す(ここでは、このエリアを<下町>と表記します)。 が つ ら な り 、 重 な り あ って い く こ と で、 総 体 と して、 新潟町は1640∼50年頃の町立て(古新潟からの 道の方[紆|生に整序感のない「迷路のような」町とい 移転)の際、湾曲する信濃川河口の左岸河畔のライ う 性 格 を 帯 び る よ う に な り ま す。 ン に 平 行 して、 現 在 名 で 言 う 西 堀 通 、 古 町 通 、 東 堀 東 島町は、江戸時代にあらたに「寄り付いた」 通り、本町通りなどの通りが新設され、上流側から 島のひとつ「 島」(実際に馬が飼われていたこと 現在それぞれ1番町、2番町……と町名がつけられ から付けられた名前と言います)の東側にあったこ ています(西堀通りは12番町、古町通は13番町、 と に 基 づ く 町 名 で す。 現 在 の 家 は 二 十 数 軒 。 下 町 に 東堀通りは13番町、本町通りが14番町まであり 多 い 小 町 内 の 一 つ で す。 「 こ ん ぴ ら 通 り ( 旧 ます)。<下町>は、それぞれの通りの7番町(現 通り)」商店街の大半を含む西 町名では「西堀通り」は6番町*)を含む下流側が、 こんぴら通り東側の裏通り(旧 島大 島町がt両隣にあり、 島中通り)の中程 一帯が町内です(通りの北端は住吉町と並木町、南 古い市街地です(なお、本町通りの川側を平行に走 る上大川前通りは、町立ての際には名前の通り川岸 端は株川岸通り(まぐさがわぎしどおり)1丁目)。 近くの南毘沙門町、北毘沙門町は、現在の湊町通 であったところが、後に通りとなったものです)。 <下町>は、この古い(初期の)市街地に、徐々 り 一 帯 を ふくむ か つ ての 「 下 島 」 の 南 側 を 指 して い に新たな地域が付加され、拡張されていくなかで形 わ れ た 「 毘 沙 門 島 」 に 由 来 す る 町 名 で す。 現 在 の 広 4 図2住吉町の町並み手前2棟は取り壊されて現存しない 小路から住吉町、並木町へとつながる道の北側は、 年 だ っ た そ う で す。 そ れ 以 前 、 こ の 家 は 八 家 で し た 。 島と毘沙門島間の河道跡と思われ、江戸時代中期 今回の解体作業中に屋根裏からA・K氏あての葉書 には「一文字川」と呼ばれる水路があり、信濃川に 44通、電報3通(ほか長岡市賓田石油株式会社あ 通じる川岸には対岸の沼垂への渡し場がありました ての印刷葉書1通)が発見されました。消印や日付 (図2)。 が明治40(1907)年と41年のものですが、宛先 下町一帯の上大川前や本町や東堀などの界隈や、 の住所を見ると40年10月までが豊照町(東 島 こんぴら通りや住吉町、並木町周辺は、全体的に古 の近くの町名、但し2通は味方町山岸合名会社あて。 い家が多く(水嶋貴之さんの調査ではこの界隈では、 A ・ K 氏 の 勤 め 先 と 考 え ら れ ま す。 ) に 、 同 年 1 1 月 1日付けの葉書から東 約40パーセントが50年以上たつ家と見られるそ 島町になっていて、A・K うです)、道を歩いていても、どこか歴史的な情緒 氏が明治40年10月頃、豊照町から東 が家々の軒下や小路の奥から匂ってくる感じがあり いを移したことが分かりました。この転居時が町屋 ま す。 特 に 旧 小 川 家 の あ っ た 道 沿 い に は 、 他 に も 古 の新築時と考えるなら、建物の竣工は明治40年秋 島に住ま い建物が幾棟もあり、5年前には歴史を感じさせる と い う こ と に な り ま す が 、 購 入 し た ケ ース も 考 え ら 趣のある道でした。しかし、旧O家を含む一部が れ、確定はできません。 道路拡張の法線にかかり、線内の家々が壊されたの 葉書には日本練炭、金津石油、賓田石油、大和石 に加え、そうでない場所にあった家も相次いで取り 油などの株主総会の知らせや株の交付書、借金の返 壊されてしまい、歴史的な風格がくずれてしまった 還延期を乞う私信などもあり、A・K氏が燃料関係 のは残念でなりません。 の企業の株を買ったり、金を貸し付けるなどする資 産 家 だ っ た ら し い こ と が う か が え ま す。 *以前の堀を挟んだ西堀通りと西堀前通りは、西堀通 一方O家は明治時代には長らく湊町通りに家が り上手にある裁判所の敷地が「学校町通り」になっ ありましたが、昭和6年11月に西湊町通りに移り、 て い る た め 、 向 か い 合 わ せ の 番 地 が 一 つ ず つ ず れて 昭和9年IO月に豊照町に転居、昭和12年に東 います(西堀通りが西堀前通りより一つ少ない)。 島 の 家 を A 家 か ら 買 っ て 移 り ま す。 当 主 も 長 男 も 勤 め 人 で、 今 で い う サ ラ リ ーマ ン 家 庭 で し た 。 A家と○家 Oさんのお話では、今回解体された東 新潟の町屋の多くは店舗(あるいは仕事場)兼住 島町の町 宅 で 、 通 り に 面 す る 部 分 が 店 舗 に な っ て い ま す。 東 屋が、O家の所有となったのは、昭和12(1937) 島町の町屋はこの店舗部分のない専用住宅の町屋 5 図3平入りの町屋奥が妻人りになっている でした(おそらく建築当初からそうであったので 土壁から出てきた紙片 しょう)。店舗にあたる部分は板塀で囲われ、庭が Oさんから、以前家を改築したときに万延元 作られていました(今も同じ様な形の住宅が、近く (1860)年という年号の入った墨書が出てきたと、 の北他門町などに見られます)。新潟の町屋は江戸 大工さんが言っていたとのお話をお聞きしました。 時代から明治にかけては妻入り型が主流でしたが、 改 めて 確 認 して い た だ い た と こ ろ 、 人 口 腸 の 壁 の 明治後半から行政指導もあり、平入りに改変する 中から墨書のある板が見つかったとのことでした。 家が増えました。しかし、上越市高田地区や村上市 し か し 板 は す で に 破 棄 さ れて し ま っ た と の こ と 。 墨 旧町人町のような、通りから敷地後方まで平入りで 書 が 事 実 と して も 、 板 が 再 利 用 さ れ た も の で あ る 可 大屋根をかける家はなく、通り側の店舗部分を平入 能 性 が あ り ま す。 り総2階建てにし、奥に続く住居部分は旧来の妻入 何度か屋根裏にも上がって棟札がないかと探しま りの平屋として作るタイプが普及しました(図3)。 し た が 、 見 つ か り ま せ んで し た 。 解 体 作 業 が 始 ま り 、 旧小川家は新潟の町屋が変貌していった以後も根強 柱や梁のほぞなど、表に見えない部分から手がかり く継承された妻入り平屋型の町屋住居部分の典型的 が出てこないかと期待しましたが、番付などは書か な形を伝える住宅であり、その妻入りの外観は新潟 れていたものの、建設年代推測の手がかりになりそ 町屋の古型を伝えるものと考えられます。 う な も の は 出 て き ま せ んで し た 。 『新潟市史通史編2近世(下)』(1997)92ペー 軸組が撤去され、土台まわりの片づけが始まった ジに、幕末期の新潟の町屋「田辺忠蔵の家」の間取 ころ、解体を担当した杢WOrkISの平野さんと大工 りが掲載されています。この図と東 島町の町屋の さんたちから、興味深いものが出てきたと連絡があ 間取り(原型)を比較すると、通り土間に沿って、 りました。くずした土壁の中から出てきた紙に字が 2列に居室が並び、住まい部分の表側の奥(通り土 書 か れ て い る と い う の で す。 土 壁 を 崩 し は じ め た 時 間に接しない側)に床の間、仏壇を並べる座敷のあ 点 で 注 意 して い れ ば 良 か っ た の で す が 、 木 部 ば か り ること、その裏に坪庭を作り、土間奥に土間部分と に 気 を 取 ら れて い た た め 、 気 づ か な か っ た の で し た 。 板間からなる炊事スペースがある点など、よく似て あわてて、堆積した残土の中から、やぶれた紙片類 います。内部構成の点でも、東 島町の町屋は新潟 や紙の挟まった壁のかけらをできるだけ拾い集めて る)形を伝えていると言え もらいました。どの壁の破片であるかも、大工さん の町屋の古い(近世に ます。 のお話でチェックしましたが、建物がほぼ解体され て し ま っ た 状 態 で は 直 接 確 認 は で き ま せ んで し た 。 6 ∼4 小 ご 脚 暗 低 臍 c W j 皿 瑠 低 洋 ト こ び コ 冷 附 け d ふ 弓 叫 ) ( 図 ふ ) ゜ 暗 ダ 氏 に N U j 1 1 o j N m L 1 1 1 i l l i W y j 1 J 1 1 1 0 1 1 1 1 o 1 3 1 1 1 1 1 o 1 2 1 1 1 1 1 叫 小 ? 凸 蔵 藻 塩 0 丿 阿 湛 扮 晋 べ 、 つ 扮 C 沁 . ぷ 胴 咎 臼 ぶ 7 ぶ 鳶 3 ふ 瑠 O Q q 泄 訟 尽 卜 3 沁 咎 べ 而 屈 0 岸 R I 肺 一 、 〇 塩 j l o o W X y l l 1 獣 囲 拡 に ー 琳 卜 [ 5 府 叫 無 1 o l j 5 o 4 1 N o J O j l o l j 1 t W U j l 1 1 1 1 l 1 1 1 1 1 9 1 1 1 3 1 1 0 ぺ . で 扮 c 冷 ・ 吻 c の W W 4 1 1 j W 1 9 j m M 海 蔵 藻 低 茜 纒 司 ) 微 賤 湛 扮 芳 八 。 て ぶ 臼 ぼ 賤 寸 ひ こ W i 1 1 l j L 0 1 j l l o l 0 1 暗 賄 暗 卜 0 口 口 l 匪 ひ 7 蔵 藻 低 臍 n l 1 1 1 1 1 1 1 2 9 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 o m J 1 i l l l l t 咄 d 咄 苛 訟 き 0 獣 知 叫 萍 冷 沌 鸞 0 盾 耳 低 泡 j べ 7 叫 口 汐 ・ 犀 蔀 所 μ 小 吋 沁 咄 甘 こ 陥 口 5 ふ 叶 而 屈 5 爾 吋 獣 E m l 1 l に { に 瑠 阿 t 雲 爾 耳 砥 部 ぶ 卜 而 叫 0 微 戸 畑 司 〈 叫 c 吋 n 紬 咎 E N j l x R O 0 0 1 1 W h W i 1 1 M 1 1 1 1 M E i o 1 1 5 1 1 1 0 1 1 1 1 1 1 0 1 1 1 1 1 1 1 o 3 囮 暇 暇 c 匹 咎 の N U N l n m 9 1 U 丑 氾 弧 暇 2 叫 r o o j 9 1 4 j l l l 0 2 1 1 1 o l l j l M l l H I W H W E y 9 j 洋 洋 」 に 諏 弧 ベ ベ 0 聯 爾 暇 暇 焦 げ た リ サ イクル 材 と 建 設 年 代 解体中のもう一つの発見は、床下から出てきまし た。事前の調査の際にも一部確認されていたのです が、床下部材である大引きのほとんどに黒い焼け焦 げの跡があり、ほぞやほぞ穴もあることから、柱 などの再利用材であることが分かりました(図5)。 ほぞ穴は小屋束の一部にも認められ、表に出ない部 分 に か な り の リ サ イクル 材 が 使 用 さ れて い る こ と が 分かりました(焼けた部材は屋根裏からも1本、母 屋と梁に差し掛ける形で置かれているのが発見され 図5焼け跡の残る大引 ました。) 直 さ れ た と い う こ と で す。 な ぜ こ の よ う な 塗 り 直 し 炭化した部分は、焼け方から見て意識的に焦がし がなされたのかは、定かではありませんが、痛んだ たものとは思われないので、火事で焼け残った部材 壁の化粧直しと解釈するのが自然でしょう。 と考えるべきでしょう。他の家の焼けた木をリサイ い くつ か の 新 聞 紙 に 大 正 2 ( 1 9 1 3 ) 年 の 年 記 が クルすることは考えにくいので、町屋が一旦火災で 発 見 で き ま し た 。 新 聞 紙 は 、 お そ ら くそ の 消 費 紙 的 焼失し、その再建時に利用できる木材が再利用され な性格から考え、比較的新しい不要のものを使った た と い う こ と で は な い か と 推 測 さ れ ま す。 焼 失 前 の と 考 えて い いで し ょ う ( 例 え ば 1 0 年 以 上 前 の 新 聞 町屋が同じ場所にあったかは確定できませんが、リ 紙を使うようなことは、ないことではありませんが、 サ イク ル の 理 由 が 経 費 削 減 で あ っ た と す れ ば 、 遠 く 考えにくいことです)。とすれば上層の壁はこの年 離 れ た 場 所 の 焼 け 残 り を 運 搬 して き た と 考 える よ り か、この年からほどない頃に塗られたと考えられま は、同じ場所か、さほど遠くない場所に、焼失前の す 。塗り直しが前の壁の傷みや汚れの結果行われ 町 屋 が あ っ た と 考 え ら れ ま す。 たとすれば、上層下層の壁にはそれなりの時間のへ 乗 島町周辺の火事で注目されるのが明治23 だたりがあったはずで、下層の壁はほぼ確実に明治 ( 1 8 9 0 ) 年 の 大 火 で す。 新 潟 新 聞 の 記 録 に よ れ ば 、 期 に 塗 ら れ た と 推 測 で き ま す。 下 層 に 塗 り 込 め ら れ 同年4月3日午後11時45分頃住吉町花沢作次郎 た厚手の紙の字は、新潟県立文書館の本井晴信氏に 方から出火した火事は住吉町、並木町、南・北毘沙 見ていただいたところ、貸付金などを記す大福帳的 門町、相生町、見方町、東湊町通り一ノ町、乗・西 な帳面の一部と思われ、書体は明治中期以後のもの 島町、抹川岸町二丁目等の戸数293戸を全焼失 した大火災でした。このとき東 と思われるとのことでした。 島町の55戸も全 焼 して い ま す * 。 狭 い 町 内 で こ の 戸 数 か ら 、 東 *壁土から出てきた紙類には、明治40年のA・K氏 島 の 建 物 すべ て が 全 焼 し た と 考 えて よ く 、 町 屋 の 建 設 宛の封筒もありました。塗り直しの壁に使われたと 年代は少なくともこの年を ることはないことにな 思われますが、このことからも2度目の壁塗りはA・ り ま す。 下 町 の 大 火 で 、 こ の 地 区 に 被 害 が 及 ん だ 可 K 氏 の 時 期 に 、 A ・ K 氏 が 関 与 して 行 わ れ た こ と が 能性のあるものはほかに明治35年5月と41年3 分 か り ま す。 前 記 の 葉 書 と 重 な る 時 期 の も の で あ る 月のものがありますが、前者は火元が古町通り8番 ことから、この壁塗りの時、A・K氏から提供され 町で、東堀で焼け止まっており、また41年には上 た 反 古 紙 と しての 手 紙 類 の う ち 、 壁 の 補 強 に は 役 立 記のA・K氏あて葉書が3、4、5月と東 たない葉書だけが除外され、屋根裏によけて置かれ 宛先で届いていることから、この町屋には関係しな たまま放置された可能性が考えられます。 か っ た こ と が 分 か り ま す。 以上の手がかりが語ることをまとめると、 8 島町の 1 1 1 1 川 | | | l y l 9 1 F I r F i l 1 1 7 1 1 1 1 M 1 7 1 1 闘 | 眉 | ? ● l i ? 1 9 1 吸 図6大戸内側から見たところ。板 一 戸 戸 を 閉 めて い る 1。明治40年10∼11月頃、A・K氏は豊照町か ら東 改 装 と い う こ と に な り 、 新 築 と 改 装 の 間 隔 と して は 島に転居した。 自 然 に 思 わ れ ま す。 2.大正2年の新聞紙を中に塗り込めた(この年か *新聞によれば出火原因は煙草の吸い殻の不始末でし ら程ないころに塗られたと思われる)上層の壁に は A ・ K 氏 が 関 与 して い た と 思 わ れ る 。 た。網干嘉一郎「新潟のII住吉神社リこついて」(『郷 3.下層の壁に塗り込められた反古紙の字は明治中 土新潟こ第8号、1966年』には、花沢方に泊まっ 期以後のものと思われる。 た 旅 役 者 に 恨 み を 抱 い た 女 の 放 火 と 書 か れて い ま 4.建物は以前の建物が火事で焼けたあと、その部 す が 、 根 拠 は 不 明 で す。 な お 新 聞 に も 花 沢 家 は 「 指 材 を 一 部 使 用 して 新 築 し た と 思 わ れ る 。 5.東 物 職 兼 旅 人 宿 営 業 」 と あ り ま す。 南 り ヒ 毘 沙 門 町 島町は明治23年4月の住吉町大火で全焼 はそれまで貸座敷、娼妓の営業許可区域になってい したと思われ、町屋の建設はそれ以後と考えられ ましたが、この火事以後許可区域から除外されまし る 。 た(ご新潟市史通史編3近代(上)ム1966年、 6 . 明 治 2 3 年 以 後 、 A ・ K 氏 が 転 居 してくる 明 治 40年まで、東 131P)。 島が焼けた大火はない(小規模 の火災は不明)。 町屋の生活と杉の文化 私 が お 訪 ね し た と き 、 O さ ん は お 一 人 暮 ら しで し 以上から言える確実なことは、明治23年の大火 た 。 お 話 で は 、 1 0 人 以 上 の 人 の 暮 ら して い た 時 期 から、壁の塗り直された大正2∼3年頃の間に、町 もあったとのこと。最後に私の体験した町屋の内部 屋 が 建 て ら れ た と い う こ と で す。 さ ら に 3 ∼ 6 か ら 空間と、聞かせていただいた往時の生活の様子の一 推定されるのは、明治23年の大火後まもなく町屋 部 を 記 し て お き た い と 思 い ま す。 が建設されたのではないかということで、とすると 明治40年のA・K氏の東 通り土間の入口には大戸がありました(図6)。 島町への住所変更は新 私のお訪ねした頃は外側に玄関室が増築され、サッ 築 しての 入 居 で な く 、 築 後 1 5 年 以 上 の 家 へ の 転 居 シの引き戸がはめられていましたが、外出されてい と 考 え ら れ る こ と に な り ま す。 そ の 約 6 年 後 の 大 正 る時には、時折中の大戸が閉じられていることかあ 2∼3年の内壁の塗り直しも、築20年ほどの家の りました(外出時と夜間には閉じるのが原則だった 9 囲炉裏があったことが分かりました(図8)。最後 ま で 使 わ れ て い た の が 、 チ ャノ マ の 炉 だ っ た わ け で す)。 Oさんが昭和28(1953)年にお嫁に来たとき、 この家にはOさん夫婦と両親、弟2人と妹の7人 が 暮 ら して い ま し た 。 両 親 は ッ ギノ マ に 、 夫 妻 は 昭 和10年代に増築された2階奥の6畳に寝起きしま した。妹と下の弟がイマに、上の弟がロクジョウに いて、部屋はそれぞれの住人の名をつけて∼の部屋 と 呼 ば れて い ま し た 。 夜 、 老 夫 婦 が ッ ギノ マ に 引 っ 図 8 ツ ギノ マ の 床 下 か ら 出 て き た 炉 込 む と ほ か の 家 族 が チ ャノ マ に 来 て 、 冬 は 矩 燧 に あ と の こ と ) 。 大 戸 に は 仕 掛 け が あ り 、 くぐ り 戸 を 通 っ た っ た り して 、 団 楽 の 一 時 を 過 ご し た そ う で す。 そ て 外 に 出 て か ら 、 そ の 仕 掛 け を 用 いてくぐ り 戸 を んな折りに来客があると、一同は隣りのトオリノマ 10センチほどしか開かないようにすることができ に 移 り 、 チ ャノ マ は ま た 客 室 に 早 変 わ り し た と の こ ました。帰宅した時はその と 。 間から手を入れて仕掛 妹と弟が家を出ると、下の弟がロクジョウに移り け を 操 作 し て 、 戸 を 開 け る こ と が で き ま す。 大 戸 の 枢 を こ えて 中 に 足 を 踏 み 入 れ る と 、 土 間 ( 昔 ましたが、やがて出ていきました。夫妻に子が生ま な が ら の 土 を 固 め た 土 間 で し た ) に 最 初 に 接 して い れるとイマが子供部屋になりましたが、大きくなる る の が ッ ギノ マ で す。 こ の 部 屋 の 土 間 側 は 1 間 が 壁 、 と、物置だった2階の手前の2室が子供部屋に改装 1 間 が 板 戸 で、 直 接 外 か ら は 見 え ま せ ん 。 板 戸 を 開 され、夫妻は下のイマに移りました、最後にOさ け る と 、 正 面 奥 に ブ ッ マ の 仏 壇 が 見 え ま す、 板 戸 は んがお一人暮らしをされていたときには、イマが居 平 常 は 使 わ ず、 葬 儀 時 の 出 棺 の 時 に だ け 開 け ら れ る 室になっていました。 婚礼の祝言も、葬儀も自宅で行われました。大勢 死者の出□でした(図7)。 の 人 が 集 ま る 時 は ブ ッ マ、 ッ ギノ マ、 チ ャノ マ の 間 ッ ギノ マ と ブッマ の 前 面 に は 庇 が か け ら れ 、 以 前 は 板 塀 に 囲 わ れ た 庭 に 面 して 縁 側 が あ り 、 端 ( 入 口 の 敷 居 を は ず して 畳 を 詰 め 、 3 室 を 一 体 化 して、 に近い方)に便所がありました。庭には桜、爽竹桃、 の手になった22畳の座敷にしつらえました。婚礼 さ ざ ん か 、 松 が 植 え ら れ 庭 石 が 配 さ れて い ま し た 。 の 式 の 時 は 板 前 さ ん が 流 しで 調 理 を してくれ た そ う です。 チ ャノ マ は 土 間 側 2 間 か 一 一 部 ガ ラ ス の 入 っ た 障 子 戸 で 、 来 客 は こ こ で 迎 え ら れ ま す。 こ の 部 屋 に 接 す 父や母の亡くなった時も3室は一体化され、ブッ る と こ ろ か ら 、 土 間 の 外 壁 に す り ガ ラス の 入 っ た 窓 マの床に幕がはられて祭壇が作られました、板戸が と高窓がはめられ、隣家が建っていた頃も、この高 開けられて焼香場が設けられ、前述のようにここか 窓から差しこむ光で思いのほか明るくなっていまし ら棺が運び出されました。 た ( ヽ ジ ギノ マ に 接 す る 土 間 部 分 に 窓 は な く 、 暗 い 場 夏には部屋の間仕切りの障子や が すべ て 戸 所を通り抜けるので、高窓からの光が不思議に明る に変えられ、家を風が通り抜けて涼しかったそうで く感じられました)。この土間側の障子や欄間と、 す。 平 面 図 で 分 か る よ う に 押 入 の あ る の は イ マ と 口 坪庭から差し込む光で、室内はやわらかく照らされ ク ジ ョ ウ だ け で し た 。 ヽ ヅギノ マ で は 上 げ ら れ た 布 団 ていました。ここには炉が切ってあり、冬は来客の は部屋の隅に置かれ、屏風で目隠しされました。屏 ある日中は来客用の柾をはめ、夜になると矩燧用の 風は実際に風よけにも使われ、また儀礼などで 柾 に 変 えて 矩 燧 櫓 を 立 て た そ う で す ( 解 体 作 業 で 各 壁に変えたいときには平らに広げた屏風を、長押の 室の畳や床をはがしたとき、奥のロクジョウを除く 上から竹のとめ具でとめました。 を 新 潟 の 古 い 町 屋 に は 土 間 部 分 に 天 丼 を は ら ず、 小 6室に炉の跡が見つかり、ほとんどの部屋にかつて 1 0 このように、東 島町の町屋は時代によって増築 や改装を加えながら、それぞれの時代に応じた使い 方 を さ れて き た よ う で す。 昭 和 3 9 ( 1 9 6 4 ) 年 6 月 の新潟地震の時には、土台の上全体が数十センチ後 方 へず れ た と の こ と で す が 、 全 体 に 大 き く 傷 む こ と は あ り ま せ んで し た 。 お 話 で は と に か く 「 人 だ け は た く さ ん 来 た 家 た っ た 」 と の こ と 。 住 んで お ら れ た 方々の雰囲気もあったに違いありませんが、町屋の 入 り や す さ と 出 や す さ 、 開 放 性 が や は り 作 用 して い た の か も 知 れ な い と 思 い ま す。 図 9 ダイ ド コ の 天 井 を 撤 去 し た と こ ろ 土 壁 が 黒 く 最後に建物の材料ですが、棟札を探しに屋根裏に な って いて , か つ て 吹 き 抜 け に な って い た こ と が わ か る 入ったとき、農家のような松などの曲がった梁が見 屋組を見せている家が多いのですが(私の見た限 ら れ る の で は 、 と 何 と な く 想 像 して い た の で す が 、 り で も 、 大 西 家 、 アイ ト 商 会 、 高 杉 家 な ど ) 、 O 家 目の前にあったのは、意外にも細身のまっすぐな杉 で は は ら れ て い ま す。 た だ 、 ダイ ド コ と ダイ ド コ に の丸太梁でした。東 接 す る 土 間 の 上 だ け は 当 初 天 丼 が は ら れ ず、 吹 き 抜 要 部 材 が すべ て 杉 で す。 そ の 後 見 た 、 や は り 明 治 に けになっていたことが解体の結果分かりました(図 建てられた町屋(高杉邸など)も、同じ杉の家でした。 9)。この部分の小屋組は土壁で囲われて、煙など よく言われる「新潟には杉と男の子は育だない」と が屋根裏のほかの場所に逃げていかないようになっ いう言葉は、新潟が「女町」であることを評したも ていました(ここの梁と土壁は真っ黒になっていま の と 解 釈 さ れ る こ と が 多 い よ う で す。 し か し あ る 時 し た ) 。 仕 切 壁 が も と は な く 、 イタ バ と 一 一 体 に な っ 期 ま で、 新 潟 の 家 は すべ て 杉 で 建 て る 習 慣 ( あ る い 島町の町屋は柱と梁などの主 て い た ダイ ド コ に は 、 大 き な 石 の 囲 炉 裏 が 切 ら れ ( 解 は 伝 統 ) が あ っ た の で は な い か と 考 えて み れ ば 、 そ 体作業中に床下に放置されたその石炉が出てきまし れだけ必要な杉を、町中では育てられない(自給で た)床下が炭や野菜の収納になっていましたっ土間 きない)ことを嘆いた言葉とも読むことができるの の奥の突き当たりに以前はかまどがあったとのこと で は な いで し ょ う か 。 で す。 裏 庭 の 奥 に は 以 前 2 階 建 て の 物 置 小 屋 が あ り 、 新潟の町屋は杉の建築文化であったのではない 母屋との間に屋根が差し掛けられていました。家の か 、 と の 推 測 は 、 今 後 さ ら に 検 証 して い く 必 要 が あ 中にあったかまどは、後にこの屋根の下に移されま り そ う で す。 ( お お く ら ひ ろ し ・ j 1 1 術 評 論 家 ) した。 □ □□□□□□11E kトピックス 番付 1□□□□□□□ 東 におうかがいしたところ、古い民家では、こういう 島町の町屋の番付は、解体した大工さんの話 付け方はよくあるとのこと。茅葺き民家では、軸部 では、軸組が正面左(北東)隅を起点に桁行き(南 と屋根の作り手が違うことが多く(屋根は村人の共 北)方向が3尺間隔で〈一〉∼<二十一〉(漢数字)、 同作業で葺くことが多かった)、また柱は大黒柱や 梁行き(東西)方向が3尺間隔でくい〉∼〈る〉(い 差し鴨居などで補強してとばされる(省略される) ろは)で番付がつけられていました(下図参照)。 ことがあるため座標軸を設定しての番付が比較的早 しかし小屋組は桁行き(南北)方向が〈一〉∼◇一八〉 く採用された(座標軸を用いての番付は歴史的に新 (漢数字)、梁行き(東西)<一〉∼<九〉(漢数字) しい)が、小屋束が省略されることは基本的にない と束の位置(実体)でつけていくという番付で、軸 ため、小屋組の方では柱の実体でつけていく方法が 部と小屋組で違う方法の番付が採用されていました 遅くまで残ったとのことでした。 乗 (図)。今ではほとんどこうしたことはないと、大工 島町の町屋の番付は、こうした古い民家の形 を 残 し た も の の よ う で す 。 ( 大 倉 ) さんも意外そうな顔をしておられました。 古民家に詳しい宮滓智士氏(長岡造形大学教授) 上 古い番付(墨書)と新しい番付の板 右 小屋束の番付 ここからが コンクリート基礎 南 → 柱の番付 北 る 1 三 尺 間 隔 い 芋 2 尺 1 2 間 隔  ̄ 東 島町の町屋実測調査について 岡崎篤行・黒野弘靖・水嶋貴之 調査の概要 切妻・妻入り、瓦葺き 1)調査日程 規模:間口5間、奥行14.5間 主に平成13(2001)年12月20日、Z7日の2 建築年代:明治後期(推定) 日間に実測、ヒアリング等を行い、随峙補足調査を 外観の特徴:平屋建て、切妻・妻入りで前面に下屋 行った。 を持ち、妻面の壁は押縁下見板張りとなっている (立面図参照)ぃそのファサードは、現在の新潟で 2)調査体制 は見かけない意匠であり、むしろ塩谷、桃崎浜、 調査の参加者は以下の通りである。なお、調査図 岩船などによく見られる町家のファサードを彷彿 面のとりまとめ、清書などは水嶋貴之が行った。 と さ せる 。 通 り に 面 して 前 庭 が あ る の も 、 こ の 家 の特徴である。 新潟大学 聞取りの特徴:屋根は、土間と床上を一体に切妻の 岡崎篤行(工学部建設学科都市計画研究室助教授) ・黒野弘靖(同意匠・計画研究室助教授)・潭 大 屋 根 を 架 け て い る に も か か わ ら ず、 間 取 り は 、 村明(経済学部経済学科助教授卜寺尾仁(工学 すなわち、ツボニワの道路側を接客用の続き間座 部建設学科助教授)・多田克彦(工学自ふ技官)・小 敷 、 奥 側 を 家 族 用 の 寝 室 や 台 所 と して い る 。 ま た 、 林治郎(都市計画研究室修士Z年ド耶‥川岳人(都 上 開 か ら 床 へ は 、 ツ ボ ニ ワ を 正 面 に 昆 た チ ャノ マ 市計画研究室4年)・小柳健(同上)・貝瀬秀人(同 か ら 上 が る 。 そ して チ ャノ マ に は 天 坪 が あ る 、 こ 上)・坂田杏見(同上)・佐藤憲明(同上)・豊田 うした特徴は京都の町家と共通する、北陸地方の 伸哉(同上)・水嶋貴之([司上]・薮田充彦(同上)・ 町 家 一 般 が ツ ボ ニ ワ を 持 た ず、 チ ャ ノ マ を 吹 き 抜 渡辺豊(同上)・渡辺寿紀(意匠・計画研究室4年) け と して 天 窓 か ら 採 光 す る こ と と は 、 大 き く 異 な チ ャノ マ と ツ ボ ニ ワ の 位 置 で 二 つ に 分 け て い る 。 青稜短期大学 る 。 藤井由香(講師) 新潟下町の歴史的景観を愛する会 各部屋の説明 大倉宏(美術評論家) ブッマ トオリドマから見て突き当たりの向かって右側 3)調査内容 (北側)に床の間、左側(南側)に仏壇がある。 平面図、配置図、断面図、各室展開図の実測調査、 ツ ギノ マ 写真撮影、ならびに家業の変遷、各部屋の使われ方 お年寄りの部屋。玄関脇に便所、縁側があり、お の変遷などに関するヒアリング調査を行った。 客 さ ん も こ こ を 使 用 して い た 。 チ ャノ マ 東 島町の町屋の建築概要 家族集合の部屋ぃお客さんがくると家族はトオリ 構造:木造平屋建て(増改築により一一・部2階建て)、 ノマに移動する。冬の夜、囲炉裏はコタツに変わ 1 3 ① 位置図1 ① で;お言二こ ご ぐ 汽 ぶ ぶ 白 回 E F 小 路 に 面 し て い る イタ バ ・ ダイ ド コ る 。 イマ 昭和30(1955)年ごろまではドマで座る流しだっ 主のいる部屋。女中さんの部屋、受験期の勉強部 た 。 現 ダイ ド コ で 莫 蘆 を 敷 い て 食 事 を し て い た 。 屋に使われた。 昭 和 5 卜 年 に 現 ダイ ド コ に 移 動 し た 。 そ れ ま で の ロクジョウ ダイ ド コ は 石 で で き た 囲 炉 裏 の ほ か 何 も な い 部 屋 だ っ た 。 穴 倉 が あ って 炭 、 野 菜 等 を 保 存 して い た 。 勉 強 部 屋 と して 使 用 す る た め 、 畳 の 部 屋 を 板 に 変 えた。 2階階段両脇および奥の部屋 イタ マ 昭和15、6(1940、41)年ごろに2階を増築し、 もとは畳が敷いてあった。窓がなく明かりが漏れ 同 時 に 屋 根 裏 を 改 造 して 階 段 両 脇 に 2 部 屋 を 設 け ないため、戦時中の灯火規制時には、ここで食事 た。 を と って い た 。 (おかざきあつゆき・新潟大学工学部助教授、 くろのひろやす・同工学部助教授、みず トオリドマ しまたかゆき・藤田社寺建設株式会社) 冬は三輪車に乗ったり、まり投げをしたり外部空 間 と して 使 用 して い た 。 1 4 ブゾ 犬 止 2階平面図 1階平面図 1 5 西側立面図 東側立面図 南側立面図 北側立面図 隣地 道路 配置図 瓦 を 表 現 して あ る 部 分 が 、 釧 可 部 材 を 解 体 ・ 保 存 し た 部 分 1 6 □□□□□□jl訟トピックス 面戸瓦(めんどがわら) 東 2□□□□□□□ ることがあると建築辞典にはでていますが、こうし 島町の町屋の瓦の取り外し作業の時、軒瓦の た素焼き陶器によるものは、棟積みび:)下端の 間(こ 下から写真のような、素焼きの文鎮のようなものが れも面戸という)をふさぐものはよくあるものの、 出てきました。軒瓦は「鎌軒瓦」といわれるタイプ 軒先部では珍しいとのこと、新潟は風が強く、その です。軒先に垂れ下がる「垂れ」の下端ラインが瓦 風で雨やみぞれ、雪なども吹き込むため。水に弱い 上面の湾曲に平行している上、隣接する瓦の正面の 板や漆 接合部(合端)をおおう「万十巴(まんじゅうども か 。 え)」がないため、接合部に三角形の 間が生じます。 その 丸い取っ手様の突起がついた形は、どこか愛らし 間を埋めるような形で、軒瓦の先端下部に置 くもあり、大工さんや建築関係の人々もこんなもの かれていました。 こう し た でなく、陶器のものが使われたのでしょう を 見 る の は 初 めてと の こ と で し た 。 ( 大 倉 ) 間を面戸といい、板や漆 でふ さ が れ 面戸瓦 前庇の瓦部分面戸瓦がみえる 面戸瓦のおさまり方 1 7 東 島町の町屋の移築支援活動のこれまで 大 倉 宏 町屋が壊される 東 年10月9日、新潟市北部総合コミュニティセン 島町の町屋が、やがて取り壊されなければな ター、「シンポジウムフ原点 から考える新潟」 らないことは、1997年に最初にお訪ねしたとき、 2000年5月13日、新潟市中央公民館(図2A、B) O さ ん か ら お 聞 き して い ま し た 。 国 が 進 め る 道 路 拡 **「消える「しも」の面影町屋再開発の波に」新 張 計 画 の 法 線 に か か っ て い た か ら で す。 潟日報、2001年11月26日 新潟の古い町屋に興味ある方々を、その後何度も この町屋にご案内しましたが、ほとんどの方が、こ 専門学校による移築計画 の町屋が壊されることを残念がってくださいまし も う 一 人 、 記 事 を 読 んで 関 心 を 持 って 下 さ っ た た。 のが、新潟市内の専門学校キャリアテクニカ環境 数人の仲間たちと1999年に作った「新潟下町の 情報専門学校の理事長五十嵐忠司さんと学校長の 歴史的景観を愛する会」で開催したシンポジウムで 五 十 嵐 実 さ んで し た 。 同 校 で は 、 こ れ ま で に も 亀 田 も、町屋について語り合ったりしました 町 の 水 倉 や 巻 町 の 庄 屋 の 座 敷 を 移 築 して、 教 育 施 設 比較的大きな話題となったのは、Oさんが用地 として活用していましたぃ話題となったO家も新 買収に正式に応じられ、取り壊しが目前に迫った た な 移 築 対 象 と して 考 えて 下 さ る と い う 意 向 を 示 し 2 0 0 1 年 秋 の こ と で す。 私 た ち の 下 町 ウ ォ ー キ ン グ て下さったのが、Oさんが新しいお住いに移られた に 参 加 して 町 屋 を 見 学 し た 新 潟 日 報 写 真 部 の 米 倉 正 2 0 0 2 年 1 月 で す。 私 が 仲 介 さ せ て い た だ い て 、 移 雄さんが、新聞の一面をつかって中の様子をカラー 築を検討するとの前提で、町屋の解体(あるいは取 写真で紹介し、記事を書いてくださったのです り壊し)を同校が行い、部材等も同校で引き取ると ( 図 1 ) ( 新 潟 日 報 はそ の 後 も 「 住 吉 町 ・ 並 木 町 物 語 」 い う こ と で、 O さ ん に ご 同 意 を い た だ き ま し た 。 という題で、道路拡張で失われる町並みを惜しむ連 しかし、その後解体、移築の経費の問題で移築を 載 記 事 を 掲 載 して く れ ま し た ) 。 断念するかも知れないとの意向が、学校から私に伝 記 事 に 反 応 して 下 さ っ た の が 、 新 潟 大 学 の 若 い 先 えられてきました、そこで、経費の問題が障害なら 生方でした。経済学部助教授でまちづくりが専門の ば市民から募金をつのり、移築計画を支援しようと 潭村明さん、工学部助教授で都市計画が専門の岡崎 活動を始めることになりました乱 篤行さんのお二人が、特に関心を寄せてドさり、お 二人の働きかけで、新潟大学の学生たちによるO *この間、3月9日、10日両日に舞踏公演「堀川久 家 と 浜 田 家 ( O 家 の 通 り を 挟 んで 向 か い の 昭 和 初 期 子独舞感覚考H「路地」下町にて(5)」が、空 の町屋。やはり道路拡張で取り壊されることになっ き家となった町屋を会場に開催され(10日は町屋 ていました)の実測調査(2001年12月20日、 の一般公開も実施)、のべ300人もの観客が訪れる 27日)が行われました。 出来事がありました。 *「シンポジウム町は、昔と今の語らう場所JI999 1 8 図1町屋を紹介した新聞記事 すが、この成果をもとに五十嵐理事長と話し合いま 移築支援の募金活動始まる、が目標に達せず 活 動 を 単 発 で 終 わ ら せ ず、 今 後 に も つ な げ て い き し た 。 会 と して、 今 後 も 募 金 活 動 を 続 ける の で、 移 たいとの思いもあり、これまで新潟の町屋や歴史的 築 を 実 現 して い た だ ける か は 今 後 さ ら に 検 討 して い 建造物に関心を寄せて下さったり、シンポジウムに ただくこととし、できれば再築可能な形での手作業 参 加 して い た だ い た 方 々 に 呼 び か け、 発 起 人 と して での解体と、解体部材の当面の保管を学校側にお願 加わっていただくようお願いしました い し た い と 要 請 して、 こ れ を 了 承 して い た だ き ま し 初の発起 人会を2002年4月4日に開催し、募金活動の具体 た 。 的な方法を話し合いました。6月末まで500万円 解体は募金活動を始めた後に、抱えの大工に古い を目指すという1次目標をたて、実際に印刷物を郵 家 の 解 体 に ボ ラ ン ティア で 参 加 さ せ た い と の 申 し 出 送 、 配 布 な ど して 活 動 を 開 始 し た の が 、 5 月 は じ め を い た だ いて い た 杢 W o r k s さ ん に 、 事 情 を 了 解 し でした(作業には、多くの学生さんたちも手伝って ていただいた上で、見積もりを依頼し、その後お願 下さいました)(図2C)。活動にかかる実費は、発 いすることになりました。結果から言うと、解体は 起人からの支援金を充てることにしました。 廃材処理まできっちりおこなって400万円近くの 新 聞 、 テ レ ビ、 ラ ジ オ な ど か ら 取 材 が い くつ も あ っ 経費を要する工事となりました。最終的には小川さ たこともあり、5月末で早くも120万円ほどの募 んから単純取り壊しの場合の経費負担をいただき、 金が集まりました。が、目標にはまだ遠い、という 残 額 を 募 金 か ら 拠 出 して 全 額 を 捻 出 す る こ と が で き ことで、実際に町屋の内部を公開し一般市民に見学 たのですが、当初はまだ行き先の不透明な状況のな して も ら う 催 し 「 町 屋 へ あ が って み な せ や 」 を 、 6 かで、工事をお引き受けいただき、丁寧な仕事をし 月後半2週間の週末4日間(22、23、29、30日) て下さった杢WOrkISさんには、振り返っていま頭 に行い、29日は町屋を会場に、発起人による「新 の 下 が る 思 い で い っ ぱ い で す。 潟下町再発見シンポジウム」を開催しました(図 *発起人に名を連ねて下さったのは下記の方々です。 2D)。公開期間中に1094人の来訪者があり、会場 で実施したアンケートにも町屋の保存を望む声が多 伊藤純一(建築家)・伊藤信行(家具作家/新潟下町 く書かれていました。発起人の拠出金と会場での募 の 歴 史 的 景 観 を 愛 す る 会 ) ・ 上 田 浩 子 ( デ ザイ ナ ー 金も含め、7月初旬に募金額は2、003、629円に達 /新潟下町の歴史的景観を愛する会)・大熊孝(新 しました(但し活動経費を引いた残額が1、801、953 潟大学工学部教授)・大倉宏(美術評論家/新潟下 円)。1次目標は残念ながら達成できなかったので 町の歴史的景観を愛する会)・岡崎篤行(新潟大学 1 9 A B 新潟町屋公開 6 胆 新 参 lj1 1●「 新 七 県 S J f C み シ . y ホ ジ ウ ム ・ 2 励 新 図 2 町 屋 を め ぐる 活 動 の パ ン フ レ ッ ト 潟 の 町 屋 を ・ 網 8 洛 4 ; お 見 直 そ S g 栞 A シ ン ポ ジ ウム 「 町 は 、 昔 と 今 の 語 ら う 場 F三;万万j黛言゛……・J・. : E 丿t 7 . 1 j タ ・ ノ . R ・ ζ ・ ・ ・ l 呪 : ・ ・ i 4 i U 9 ぷ . ゞ a W 卜 , : 4 Q S ・ 1 所」(1999年10月9日) 五 戚 B シ ン ポ ジ ウム 「 「 原 点 ニ か ら 考 える 新 潟 」 言 総 ご 回 ゑ 了 謡 二 謡 ご 乃 筏 t R 圧 正 員 難 白 7 ここ乱に;゛ ̈・ .. (2000年5月13日) C[新潟町屋移築支援のお願い]支援を 呼びかけるパンフレット(2002年5月) D町屋の公開「町屋にあがってみなせや」 (シンポジウム開催2002年6月29日) E シ ン ポ ジ ウム 「 新 潟 の 町 屋 を 見 直 そ う 」 (2002年8月24日) E 20 う 図3壁土をおとしたところ 図4通り土間の小屋組 工学部助教授)・小川弘幸(文化現場/新潟下町の よる村上の町屋の調査にかかりきりになる時期に 歴史的景観を愛する会卜小船井秀一(雑誌編集人 重なってしまい、結局私が可能な限り現場に足を運 /新潟下町の歴史的景観を愛する会)・兼松紘一郎(建 び、写真記録を撮り、墨書などが出てこないか注意 築家)・吉川真嗣(村上町屋商人会)・黒野弘靖(新 するということになりました(発起人の方々もそれ 潟大学工学部助教授)・小林洋士(4 t行肩下町の歴史 ぞ れ 、 何 度 か 足 を 運 んで 下 さ り 、 現 場 を 見 て 下 さ い 的景観を愛する会)・小山芳寛(郷土の文化に親し ました)。 む会理事長)・後藤哲男(長岡造形大学教授)・滓村 と言っても私自身、かなり多忙だった時期で、重 明(新潟大学経済学部助教授)・佐久間邦昭(建築 要な時に現場に行けない口もかなりあり、十分な記 家)・高橋照子(KMM研究所)・田村時蔵(新潟下 録ができたとは言えません。それでも手元のメモで 町日和編集人会)・寺尾仁(新潟大学工学部助教授)・ たどってみると、8月2日の現場の片づけから作業 土沼隆雄(要松園コーポレーション代表)・西村幸 が 始 ま っ て い ま す。 6 日 、 仮 設 ト イ レ 設 置 、 隣 地 フ ェ 夫(東京大学大学院工学系研究科教授)・野内隆裕(に ンス取り壊し。7日畳、建具に番付入れ、足場資材 いがたなじらねっと)・ 口忠彦(新潟大学工学部 搬入。8日前面庇の鉄骨解体。畳をはがし、建具、 教授)・藤居由香(清陵女子短期大学専任講師)・堀 上がり柾、敷居まわり等取り外しぃ9日イマより 川久子(舞踏家)・本間龍夫(新潟あきんど塾代表 土 壁 を く ず し 始 め る 。 と 作 業 が 進 んで、 お 盆 休 み を 理事)水嶋貴之(新潟大学建設学科学生)・皆川袈 は さ んで 岬 日 に 天 丼 は ず し ( 解 体 部 材 は キ ャ リ ア 裟雄(KMM研究所)・皆川美智子(KMM研究所)・ テクニカ環境情報学校敷地の屋外保管されることに 宮潭智士(長岡造形大学教授)・武蔵靖之(建築家 な っ た の で、 屋 外 保 管 で くる い の 出 や す い 建 具 類 は 、 /JIA新潟)・村井勇(写真家/新潟下町の歴史的景 発起人の一人で家具作家の伊藤信行さんの仕事場に 観を愛する会)・村尾欣一(新潟職業能力開発短期 預かっていただくことになり、16日に発起人とボ 大学助教授卜村木薫(造形作家)・横山蒼鳳(書家) ラ ン ティア で 運 搬 し ま し た ) 。 1 9 日 、 解 体 足 場 組 み 立て。20日には瓦降ろしが始まります(瓦の手作 解体工事始まる 業での取り外しと保管も検討しましたが、経費の問 題と、瓦の状態から再利用が難しいと分かったため、 解体工事は、できる限りきちんとした記録を残そ 一 部 を サ ン プル と して 残 す こ と と し 、 こ の 日 新 潟 大 うと、発起人会で話し合ったのですが、頼りの新潟 学の先生方と学生たちによる前面庇部分の瓦の取り 大学の先生方と学生たちが、ナショナルトラストに 2 1 図5野地板が撤去され光が射し込む 図 7 番 付 を 付 して は ず さ れ た 軸 部 図6垂木の撤去 外しも行いました)。26日には瓦のなくなった屋根 人になっているので、実質は「町屋を生かす会」の から野地板も取り去られました。屋根から100年 活 動 の 一 貫 と して、 東 近く陰のなかにあった空間に、明るい夏の光がさん る意図をもって、開催したものです)(図2E)。基 さんと差しこみ、梁や柱を照らし出した時の美しさ 調講演に京都大学の高田光雄さんをお招きし、シ に、息を呑みました。翌27日には小屋組(棟木、 ンポジウムの前に解体中の町屋も見ていただきまし 母屋、束)が、新たに番付を記した板を打ち付けら た 。 パ ネ ル ディス カ ッ シ ョ ン に は 新 潟 日 報 論 説 委 員 れながら、とりはずされました。28日から軸組の の 篠 田 昭 さ ん に も パ ネ リ ス ト と して 参 力 [ ] して い た だ 解 体 開 始 。 結 局 解 体 作 業 は 8 月 中 に 終 わ ら ず、 O さ いたのですが、篠田さんはそれからまもなく新潟市 ん か ら 再 度 延 期 の お 願 い を して い た だ いて、 土 台 ま 長選挙への出馬を表明され、日月10日の選挙で ですっかり撤去されたのが、9月中旬に入ってから 当選し新しい市長になりました(その時は予測もで でした。その間にあった、いろいろな発見は別に記 きないことでした)。 島町の町屋への関心を高め し た と お り で す。 私 自 身 に と っ て も 家 の 解 体 作 業 を つぶさに見るのは初めての体験で、たいへん印象的 解体後の経過 な1ヶ月半でした(図3∼7)。 解体は無事終了し、明治期に建てられた建物で 解体作業中の8月24日、「新潟下町の歴史的景 あったこともほぼ確実と判明しましたが、肝心の再 観を愛する会」主催で、新潟市中央公民館を会場 建計画は、支援募金が目標額に達しなかったことも に「新潟の町屋を見直そう」というシンポジウムを あり、終了後の会と学校との話し合いでも、実現の 開催しました(「新潟下町の歴史的景観を愛する会」 見 通 し を 示 して い た だ け ま せ んで し た 。 加 えて 当 初 のメンバーは全員「新潟の町屋を生かす会」の発起 計画された学校施設への転用も、活用方法などで検 22 告書を郵送しました。寄せられた意見は数の多いも 討するべき点が多々あるとの考えが示されました。 また、移築支援募金活動などを通じて多くの市民 の で は あ り ま せ んで し た が 、 概 ね 公 的 活 用 を 探 る べ の関心が寄せられたことから(募金は積極的な再活 きとの内容で占められました。これを受けて、今後 動 を し な か っ た に も か か わ ら ず、 そ の 後 も 少 し ず つ 解体された町屋の公的移築・再現吋酎月を目指す方 寄せられ、最終的に458人、2、902、669円に達し 向での活動を展開しようということになりました。 ました)、学校側から、より公的な形での移築再建 行政機関等への早速の働きかけも検討されました が相応しいのではとの意向も示されたため、同校に が、町屋そのものが、市や県のレベルで文化財とし よる 移 築 支 援 を 目 的 と して 活 動 して き た 会 と して、 て扱われることの、まだ少ない現状を鑑みて、解体 逡巡を感じざるを得ない局面に立ち至りました。発 された町屋についての解体経過をも含む報告書を作 起 人 会 議 で 議 論 し 、 結 論 と して、 ひ と ま ず 募 金 活 動 成し、またシンポジウムなどを改めて開催するなど は 中 断 し 、 状 況 を 率 直 に 募 金 を して い た だ い た 方 々 して、 町 屋 の 価 値 、 保 存 、 活 用 の 意 義 を 広 く 訴 えて に 報 告 して 意 見 を 寄 せ て い た だ き 、 そ れ を ふ ま えて いくことから始めようということになりました。 以上が、町屋移築支援の活動、およびこの報告書 今後の活動を考えようということになり、やや時間 が 編 ま れ る こ と に な っ た 経 緯 で す。 は経過したのですが、12月末に支援者の方々の報 の い 1 港 だ ろ 叫 う I l t n ア 珊 I 代 が W 肪 の m . を 、 ` I 岱 そ 地 W I l i l i l 1 い ろ と い う 八 ・ り 『 w N 7 n 的 に も 1 5 1 1 1 1 1 o l 5 1 1 o o l r l o l o 1 か 唄 の J I . J I N φ涌 り 』・ . 1 ス-1 タ j イ 1 ル而 し 、 以て . 下 前『 U y のE 彫 侃 ひ に 成 丿 し た が 、 . M j E l 1 j l o o l l l 1 0 1 1 1 l o の j Ql o n y m 4t l に Eょ かれ は のー ぼそ 卜 { 5 と ほ わ れ る 住 七 建 築 で . せ 1l 1 i 1 5 l 1 y 1 o l j 1 y l E i l 7 0 1 l j 7 1 1 1 1 l 1 t ご 町 ・ M の 陶 M ぶ 伍 か j か h tt p :/ /w w w .. g r. jp . 旧 小 川 y 陸 宅 は 、 . m W N I W W E I l j か ろ う じ て 卜 っ て い る 巾 内 l y l y g j 1 1 1 1 1 よ ろ 拝 i s j i l g l l S 1 1 1 l い る 。 と 人 ど 宍 わ れ て し 1 O E M 0 0 1 1 j 1 l j o し よ ・ う と い の 川 哉 み で あ っ た が 、 1 1 1 1 1 1 5 1 9 1 1 s 1 1 1 1 1 川 W 忙 て 、 戦 前 の 糾 心 そ の E j l 1 t l j 1 1 1 1 j 2 j 0 1 1 1 0 1 0 1 靉 器 ` 2 9 日 、 新 潟 で シ ン ポ u h 域 の 歴 史 残 す 試 み % ド の の 。 . が が 戦 戦 前 前 に a に a て て ら れ ら た れ た 函 い 剛 り か 立 ち 酸 ん で い も . ロ 心 に μ ト そ 卯 匍 t ・ 新 潟 に 遊 び に 1 l j t l i o l i o l 1 1 地 凹 の 励 泌 物 の 諮 ポ 町 み た り は 、 1 1 1 1 y j a l 1 1 0 い う ・ 巾 四 民 の 箪 外 ち ・ A 1 1 1 l j l 1 I y U l i J I 1 1 0 2 り 入 学 の 馴 な 心 、 下 町 E E 1 1 1 1 t l 1 a E l y l j 1 1 1 2 ら l y Q 1 1 1 1 s 1 1 1 1 1 1 s s s l l s s s l s l が 、 る 。 M 庁 所 卜 池 で . あ る か ly in . i1 1 1 . 1 1.1 19 . 1ro いg . な1 。. ・ i ヽ は な い 。 踊 聊 都 人 a べ の ア ク セ ス む y 叱 心 と し 。 5 1 1 1 1 1 W j j l l o l i I I I i i i l o l 代 局 ル ー 1 1 s l l 1 1 Q れ る り に I つ が ・ 口 政 に よ っ て い J ・ y は 、 M 旅 征 心 谷 部 巾 小 に に W え W 1 1 E I l t 1 5 1 l . jp .o w :/ tp h I れ つ つ あ る 。 柚 に 也 亀 。 心 肺 の j l 1 1 j t i l l h tt p :/ /w w w . ば れ る 一 儡 を 巾 心 に 、 。 そ の 風 儀 は 砂 ほ で 六 わ 叫 川 な る 恐 喝 と し て I い だ ろ う か . 勾 乱 は 、 新 E 5 1 1 l o l l 1 0 1 0 1 0 1 0 2 0 の F 町 と 呼 る 。 わ れ り 。 ・ 。 も の へ の で 感 じ ら れ る ま ち で は し l a i 4 4 1 2 9 Q n i z 4 わ い を し の は せ て く 1 y J I N D j l 1 t l 1 1 1 l i 5 1 l W j E C I j 3 j J o i l 1 い と る け 1 1 1 1 t 1 1 l i l j l 1 1 j l j t 4 1 1 て M n N j 7 j o 7 l て お 焉 心 い る 。 山 R の 申 か ら 、 こ の 1 大 m l 図82002年6月の町屋の公開とシンポジ る p j j F y i g i 9 、 そ の と 曹 い n 、 w 所 の 皿 1 刎 1 心 1 み 搦 を 1 砿 せ 1 た に 占 は い 欠 H E 1 1 1 W t j 1l 1 1j j yi 1 1 W j j 1 y 1y I T 1o 1 j E j 1 l 2 5 j 9 o t 1 1 1 11 1 j 1 j l i 1 j J ハ る シ ン ポ ジ ウ ム が 川 か れ る新聞記事(2002年6月19日付) 2 3 こ 十 九 日 に は 允 吸 入 に よ ぐ 呂 作 l か は わ か ら な 卜 し か し 、 じ ー 風 た 格 と を い 感 え よ じ う さ 』 せ る 郎 市 に j i 屋 l ら 旧 小 川 息 が 公 間 さ ウム 「 町 屋 に あ が って み な せ や 」 を 紹 介 す ま ち ・ 、 吋 皿 も 画 . れ 9 ヽ な 日 に け 卜 j畢 1村 1明 1う 1 1ヒ 1 1カ ビ 1 1『 1カ 1の 11 1り 1だ 1っ 1叫 1 4治 o の R 0 1町 m o U 洵 1 、 J 1 て 5 1 憲 1 i 7 5 R o 1正 の 1 E E I 1 淘 o 1 。 し 昭 川 の 。 9 潟 a 4 え て く れ、 1 1 1 か に 5 、 l 9 l l W W 1 5 1 W 1 l 1 5 1 l j j o a 内 l o 空 、 ど こ か 剛 懐 か し は く I 、 見 l i l る 人 9 1 1 、 3 、 2 9 、 3 0 曰 に は 町 3 8 1 の 旧 小 F 沁 動 が 成 功 す る か ど ぅ い 、 。 所 仕 焙 の 又 秘 郁 巾 か ら 、 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 心 も 小 な ・ る n 庁 半 か ら 勒 沁 市 画 然 勧 町 2 ホ ジ ウ ム は 3 口 脊 振 ̶ 叶 恨 む の 魅 力 と は 回 た ろ じ り せ る 凪 輿 あ る い は も の で あ る と い う 。 た し そ の 刈 り 工 川 か ら 片 慶 を y W g j i g i l j l D i い り で よ よ う な 準 勁 が 刈 工 λ だ こ 一 新 洵 ト 町 l i 1 1 l 1 1 1 1 ありし日の町屋ツギノマから チ ャノ マ を 見 る 。 奥 が 通 り 土 間 に な って い る ( 撮 影 村 井 勇 ) 2 4 新潟市東 島町の町屋調査.解体報告 2003年6月28口発行 編 集 ・ 発 行 新 潟 の 町 屋 を 生 か す 会 代 表 事 務 局 大 倉 宏 〒9502064新潟市寺尾西2929 Tel・Fax0252604342 http://www.xv.n卯rand.co.jp/ikasu.lnachiya・html レイアウト 千早和子 印刷 笹勇印刷株式会社 〒950」217白根市大字白根13581 Te10253732191