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新潟市東 島町の町屋調査・解体報告

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新潟市東 島町の町屋調査・解体報告
新潟市東
島町の町屋調査・解体報告
新潟の町屋を生かす会
2003
目
東
ト
東
ト
東
次
島 町 の 町 屋 を め ぐ っ て 大 倉 宏 3
ピ
ッ
ク
ス
1
番
付
1
2
島 町 の 町 屋 実 測 調 査 に つ いて
岡崎篤行・黒野弘靖・水嶋貴之13
ピ
ッ
ク
ス
2
面
戸
瓦
1
7
島町の町屋の移築支援活動のこれまで
大 倉 宏 1 8
東
島町周辺略図
*表紙写真
通り土間には、以前はO家の苗字の一字を
染め抜いた暖
があったが、昔の屋号を復
活 さ せ 「 丸 に う の 字 」 す な わ ち 「 マル ウ 」
に 変 え た と い う 。 マル ウ と は 、 O 家 の 先 祖
の名前であるウヘイに由来する。
(撮影村井勇)
東
島町の町屋をめぐって
大 倉 宏
町屋の空気
ばでした。
島町(ひ
一例を挙げるなら、通り土間という空間のユニー
がしうまやじまちょう)のOさんのお宅(もう解
ク さ で す。 入 口 を 入 る と そ の ま ま 、 自 然 に 家 の 奥 へ
体されてしまったので、ここでは東
島町の町屋と
導かれ、中にいる人に声をかけることができる。私
書きます)に足を踏み入れた時の驚きは、鮮やかに
の声に御当主が姿を見せると、いつも上間に接した
覚 え て い ま す。 目 の 前 に 現 れ た 通 り 土 間 が 、 一 一 瞬 、
居間に、どうぞどうぞと誘っていただいたものでし
まるで時の壁にあけられたトンネルに思え、遠い時
た 。 こ う い う ス ム ーズ さ は 、 鉄 の ド ア や 玄 関 な ど の
代の風が向こうからながれてきて頬にあたったよう
障壁を持つ新しい住宅やマンションでは不可能で
でした。
す。 町 屋 で は 居 間 に あ が る ほ ど の 時 間 が な け れ ば 、
6 年 前 ( 1 9 9 7 年 ) 、 は じ めて 新 潟 市 東
10イ戈、20代を関東の新興住宅地で過ごし、新潟
立ったまま、あるいは通り土間沿いの細長い上がり
に 来 て か ら も アパ ー ト や 新 興 住 宅 地 で の 暮 ら し の 長
枢 に 腰 か け て 、 話 を す る こ と も で き ま す。 住 み 手 の
かったため、古い町屋の空間が新鮮に感じられたの
オ ープ ン で 明 る い お 人 柄 は 、 こ う し た 町 屋 の 空 間 と 、
でしょう。でも、それだけではなかったという気が
一つのもののように感じられました。
します。
ま た 中 に 入 っ て み て 感 じ た の は 、 明 る さ で す。 家
家は古いのですが、現在に生きているという感じ
と 家 が 軒 を 接 して 隣 接 す る 町 屋 の な か は 、 照 度 計 で
がありました。一人住まいのOさんと、まもなく
測 れ ば か な り 暗 い の に 、 け っ して 陰 影 で は あ り ま せ
親しくさせていただくようになりましたが、ひとつ
ん。土間に開けられた高窓や坪庭から差し込む明か
には住人の若々しさが、家の空気となって流れてい
りなどで、やわらかく照らされること、風通しがよ
るのを、最初に肌に感じたためだったかもしれませ
く、仕切壁が少ないために開放感があること、家の
ん。その後、空き家となり、やがて解体されていっ
奥深さや、ほのかな暗さが、対比的にそうした光を
た過程で、家は目の前でさまざまに変貌をとげまし
より繊細に感じさせることなどが理由でしょうか。
た。部材などの随所に刻まれた時の重みや傷みも図
町屋のそんな不思議な魅力に気づいたのも、この家
らずも目撃することになりましたが、この家は私の
で過ごさせていただいた時間のなかででした。
心のなかで、今も愉しげな風の通う、美しい場所と
この家で新潟の町屋に最初に親しませていただ
して 生 き て い ま す。 「 時 代 」 に 触 れ る こ と を 、 こ れ
き、旧い庶民の町の空気を呼吸できたのは幸せなこ
ほど実感させてくれた場所はほかにありません。
とでした。
家の空気はもちろん、そこに住まう人に左右され
ま す。 し か し 「 町 屋 」 と い う 建 物 そ の も の に も 、 ど
下町と東
こか人を生き生きさせる、やわらかい活力の種子が
島町
町屋のあった東
島町は、新潟市の旧新潟町地区
あ る よ う な 気 が し ま す。 そ れ は 、 私 た ち が な じ ん だ
内の下町(しもまち・通称新潟島の信濃川下流部に
団 地 や マ ン シ ョ ン、 新 興 住 宅 地 の 現 代 住 宅 が な く し
面 し た 市 街 地 ) の 一 画 に あ り ま す。
てしまった何かではないかと感じることも、しばし
下(しも)はもともと確定された地域というより、
3
図1東
島町の町屋(正面)
撮影村井勇
新潟町の下流「方向」を指す言葉でしたが、漠然と
成されました。背景には信濃川という大河の河畔と
下 流 側 の 「 地 区 」 を 指 す 言 葉 と して も 使 わ れて き た
い う 立 t t 川 犬 況 が あ り ま す。 江 戸 時 代 初 期 に は 新 潟 町
ようです。
と対岸の沼垂町(ぬったりまち)の間に、多くの中
明 治 の 中 期 に 、 そ れ ま で 市 内 に 分 散 して い た 「 貸
州かおり、洪水のたびに数や位置が変わりました。
座敷」が、当時の下地域のはずれの本町14番町に
中 州 ( 島 ) の い くつ か は 、 江 戸 時 代 中 期 以 降 、 次 第
集められたことから、一時この「新潟遊郭」の隠語
に新潟町に近づき、やがて島と町の間の河道を細い
と して 「 下 」 の 言 葉 が 使 わ れ た こ と も あ る よ う で す
水路の形で残しながら町の一部となりました。町が
(そのため、年輩の方のなかには、この語感を快く
河 側 に ふく ら んで い く こ の 現 象 は 、 主 に < 下 町 > で
感じない向きもあります)。
起こりました。この結果<下町>は計画的に作られ
現 在 、 新 潟 で 下 町 と い う 場 合 も 、 使 う 人 に よ って、
た 旧 市 街 地 に 、 後 に 自 然 現 象 で 拡 張 し 町 化 して い っ
指す範囲が一定しません。一番大きい捉え方では、
た地域、さらにはそこに近代以降の都市計画や人口
柾谷小路(まさやこうじ)より下流側全域を指しま
の増加で宅地化された地域(湊町通り、窪田町など)
す(ここでは、このエリアを<下町>と表記します)。
が つ ら な り 、 重 な り あ って い く こ と で、 総 体 と して、
新潟町は1640∼50年頃の町立て(古新潟からの
道の方[紆|生に整序感のない「迷路のような」町とい
移転)の際、湾曲する信濃川河口の左岸河畔のライ
う 性 格 を 帯 び る よ う に な り ま す。
ン に 平 行 して、 現 在 名 で 言 う 西 堀 通 、 古 町 通 、 東 堀
東
島町は、江戸時代にあらたに「寄り付いた」
通り、本町通りなどの通りが新設され、上流側から
島のひとつ「
島」(実際に馬が飼われていたこと
現在それぞれ1番町、2番町……と町名がつけられ
から付けられた名前と言います)の東側にあったこ
ています(西堀通りは12番町、古町通は13番町、
と に 基 づ く 町 名 で す。 現 在 の 家 は 二 十 数 軒 。 下 町 に
東堀通りは13番町、本町通りが14番町まであり
多 い 小 町 内 の 一 つ で す。 「 こ ん ぴ ら 通 り ( 旧
ます)。<下町>は、それぞれの通りの7番町(現
通り)」商店街の大半を含む西
町名では「西堀通り」は6番町*)を含む下流側が、
こんぴら通り東側の裏通り(旧
島大
島町がt両隣にあり、
島中通り)の中程
一帯が町内です(通りの北端は住吉町と並木町、南
古い市街地です(なお、本町通りの川側を平行に走
る上大川前通りは、町立ての際には名前の通り川岸
端は株川岸通り(まぐさがわぎしどおり)1丁目)。
近くの南毘沙門町、北毘沙門町は、現在の湊町通
であったところが、後に通りとなったものです)。
<下町>は、この古い(初期の)市街地に、徐々
り 一 帯 を ふくむ か つ ての 「 下 島 」 の 南 側 を 指 して い
に新たな地域が付加され、拡張されていくなかで形
わ れ た 「 毘 沙 門 島 」 に 由 来 す る 町 名 で す。 現 在 の 広
4
図2住吉町の町並み手前2棟は取り壊されて現存しない
小路から住吉町、並木町へとつながる道の北側は、
年 だ っ た そ う で す。 そ れ 以 前 、 こ の 家 は 八 家 で し た 。
島と毘沙門島間の河道跡と思われ、江戸時代中期
今回の解体作業中に屋根裏からA・K氏あての葉書
には「一文字川」と呼ばれる水路があり、信濃川に
44通、電報3通(ほか長岡市賓田石油株式会社あ
通じる川岸には対岸の沼垂への渡し場がありました
ての印刷葉書1通)が発見されました。消印や日付
(図2)。
が明治40(1907)年と41年のものですが、宛先
下町一帯の上大川前や本町や東堀などの界隈や、
の住所を見ると40年10月までが豊照町(東
島
こんぴら通りや住吉町、並木町周辺は、全体的に古
の近くの町名、但し2通は味方町山岸合名会社あて。
い家が多く(水嶋貴之さんの調査ではこの界隈では、
A ・ K 氏 の 勤 め 先 と 考 え ら れ ま す。 ) に 、 同 年 1 1 月
1日付けの葉書から東
約40パーセントが50年以上たつ家と見られるそ
島町になっていて、A・K
うです)、道を歩いていても、どこか歴史的な情緒
氏が明治40年10月頃、豊照町から東
が家々の軒下や小路の奥から匂ってくる感じがあり
いを移したことが分かりました。この転居時が町屋
ま す。 特 に 旧 小 川 家 の あ っ た 道 沿 い に は 、 他 に も 古
の新築時と考えるなら、建物の竣工は明治40年秋
島に住ま
い建物が幾棟もあり、5年前には歴史を感じさせる
と い う こ と に な り ま す が 、 購 入 し た ケ ース も 考 え ら
趣のある道でした。しかし、旧O家を含む一部が
れ、確定はできません。
道路拡張の法線にかかり、線内の家々が壊されたの
葉書には日本練炭、金津石油、賓田石油、大和石
に加え、そうでない場所にあった家も相次いで取り
油などの株主総会の知らせや株の交付書、借金の返
壊されてしまい、歴史的な風格がくずれてしまった
還延期を乞う私信などもあり、A・K氏が燃料関係
のは残念でなりません。
の企業の株を買ったり、金を貸し付けるなどする資
産 家 だ っ た ら し い こ と が う か が え ま す。
*以前の堀を挟んだ西堀通りと西堀前通りは、西堀通
一方O家は明治時代には長らく湊町通りに家が
り上手にある裁判所の敷地が「学校町通り」になっ
ありましたが、昭和6年11月に西湊町通りに移り、
て い る た め 、 向 か い 合 わ せ の 番 地 が 一 つ ず つ ず れて
昭和9年IO月に豊照町に転居、昭和12年に東
います(西堀通りが西堀前通りより一つ少ない)。
島 の 家 を A 家 か ら 買 っ て 移 り ま す。 当 主 も 長 男 も
勤 め 人 で、 今 で い う サ ラ リ ーマ ン 家 庭 で し た 。
A家と○家
Oさんのお話では、今回解体された東
新潟の町屋の多くは店舗(あるいは仕事場)兼住
島町の町
宅 で 、 通 り に 面 す る 部 分 が 店 舗 に な っ て い ま す。 東
屋が、O家の所有となったのは、昭和12(1937)
島町の町屋はこの店舗部分のない専用住宅の町屋
5
図3平入りの町屋奥が妻人りになっている
でした(おそらく建築当初からそうであったので
土壁から出てきた紙片
しょう)。店舗にあたる部分は板塀で囲われ、庭が
Oさんから、以前家を改築したときに万延元
作られていました(今も同じ様な形の住宅が、近く
(1860)年という年号の入った墨書が出てきたと、
の北他門町などに見られます)。新潟の町屋は江戸
大工さんが言っていたとのお話をお聞きしました。
時代から明治にかけては妻入り型が主流でしたが、
改 めて 確 認 して い た だ い た と こ ろ 、 人 口 腸 の 壁 の
明治後半から行政指導もあり、平入りに改変する
中から墨書のある板が見つかったとのことでした。
家が増えました。しかし、上越市高田地区や村上市
し か し 板 は す で に 破 棄 さ れて し ま っ た と の こ と 。 墨
旧町人町のような、通りから敷地後方まで平入りで
書 が 事 実 と して も 、 板 が 再 利 用 さ れ た も の で あ る 可
大屋根をかける家はなく、通り側の店舗部分を平入
能 性 が あ り ま す。
り総2階建てにし、奥に続く住居部分は旧来の妻入
何度か屋根裏にも上がって棟札がないかと探しま
りの平屋として作るタイプが普及しました(図3)。
し た が 、 見 つ か り ま せ んで し た 。 解 体 作 業 が 始 ま り 、
旧小川家は新潟の町屋が変貌していった以後も根強
柱や梁のほぞなど、表に見えない部分から手がかり
く継承された妻入り平屋型の町屋住居部分の典型的
が出てこないかと期待しましたが、番付などは書か
な形を伝える住宅であり、その妻入りの外観は新潟
れていたものの、建設年代推測の手がかりになりそ
町屋の古型を伝えるものと考えられます。
う な も の は 出 て き ま せ んで し た 。
『新潟市史通史編2近世(下)』(1997)92ペー
軸組が撤去され、土台まわりの片づけが始まった
ジに、幕末期の新潟の町屋「田辺忠蔵の家」の間取
ころ、解体を担当した杢WOrkISの平野さんと大工
りが掲載されています。この図と東
島町の町屋の
さんたちから、興味深いものが出てきたと連絡があ
間取り(原型)を比較すると、通り土間に沿って、
りました。くずした土壁の中から出てきた紙に字が
2列に居室が並び、住まい部分の表側の奥(通り土
書 か れ て い る と い う の で す。 土 壁 を 崩 し は じ め た 時
間に接しない側)に床の間、仏壇を並べる座敷のあ
点 で 注 意 して い れ ば 良 か っ た の で す が 、 木 部 ば か り
ること、その裏に坪庭を作り、土間奥に土間部分と
に 気 を 取 ら れて い た た め 、 気 づ か な か っ た の で し た 。
板間からなる炊事スペースがある点など、よく似て
あわてて、堆積した残土の中から、やぶれた紙片類
います。内部構成の点でも、東
島町の町屋は新潟
や紙の挟まった壁のかけらをできるだけ拾い集めて
る)形を伝えていると言え
もらいました。どの壁の破片であるかも、大工さん
の町屋の古い(近世に
ます。
のお話でチェックしましたが、建物がほぼ解体され
て し ま っ た 状 態 で は 直 接 確 認 は で き ま せ んで し た 。
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焦 げ た リ サ イクル 材 と 建 設 年 代
解体中のもう一つの発見は、床下から出てきまし
た。事前の調査の際にも一部確認されていたのです
が、床下部材である大引きのほとんどに黒い焼け焦
げの跡があり、ほぞやほぞ穴もあることから、柱
などの再利用材であることが分かりました(図5)。
ほぞ穴は小屋束の一部にも認められ、表に出ない部
分 に か な り の リ サ イクル 材 が 使 用 さ れて い る こ と が
分かりました(焼けた部材は屋根裏からも1本、母
屋と梁に差し掛ける形で置かれているのが発見され
図5焼け跡の残る大引
ました。)
直 さ れ た と い う こ と で す。 な ぜ こ の よ う な 塗 り 直 し
炭化した部分は、焼け方から見て意識的に焦がし
がなされたのかは、定かではありませんが、痛んだ
たものとは思われないので、火事で焼け残った部材
壁の化粧直しと解釈するのが自然でしょう。
と考えるべきでしょう。他の家の焼けた木をリサイ
い くつ か の 新 聞 紙 に 大 正 2 ( 1 9 1 3 ) 年 の 年 記 が
クルすることは考えにくいので、町屋が一旦火災で
発 見 で き ま し た 。 新 聞 紙 は 、 お そ ら くそ の 消 費 紙 的
焼失し、その再建時に利用できる木材が再利用され
な性格から考え、比較的新しい不要のものを使った
た と い う こ と で は な い か と 推 測 さ れ ま す。 焼 失 前 の
と 考 えて い いで し ょ う ( 例 え ば 1 0 年 以 上 前 の 新 聞
町屋が同じ場所にあったかは確定できませんが、リ
紙を使うようなことは、ないことではありませんが、
サ イク ル の 理 由 が 経 費 削 減 で あ っ た と す れ ば 、 遠 く
考えにくいことです)。とすれば上層の壁はこの年
離 れ た 場 所 の 焼 け 残 り を 運 搬 して き た と 考 える よ り
か、この年からほどない頃に塗られたと考えられま
は、同じ場所か、さほど遠くない場所に、焼失前の
す 。塗り直しが前の壁の傷みや汚れの結果行われ
町 屋 が あ っ た と 考 え ら れ ま す。
たとすれば、上層下層の壁にはそれなりの時間のへ
乗
島町周辺の火事で注目されるのが明治23
だたりがあったはずで、下層の壁はほぼ確実に明治
( 1 8 9 0 ) 年 の 大 火 で す。 新 潟 新 聞 の 記 録 に よ れ ば 、
期 に 塗 ら れ た と 推 測 で き ま す。 下 層 に 塗 り 込 め ら れ
同年4月3日午後11時45分頃住吉町花沢作次郎
た厚手の紙の字は、新潟県立文書館の本井晴信氏に
方から出火した火事は住吉町、並木町、南・北毘沙
見ていただいたところ、貸付金などを記す大福帳的
門町、相生町、見方町、東湊町通り一ノ町、乗・西
な帳面の一部と思われ、書体は明治中期以後のもの
島町、抹川岸町二丁目等の戸数293戸を全焼失
した大火災でした。このとき東
と思われるとのことでした。
島町の55戸も全
焼 して い ま す * 。 狭 い 町 内 で こ の 戸 数 か ら 、 東
*壁土から出てきた紙類には、明治40年のA・K氏
島
の 建 物 すべ て が 全 焼 し た と 考 えて よ く 、 町 屋 の 建 設
宛の封筒もありました。塗り直しの壁に使われたと
年代は少なくともこの年を
ることはないことにな
思われますが、このことからも2度目の壁塗りはA・
り ま す。 下 町 の 大 火 で 、 こ の 地 区 に 被 害 が 及 ん だ 可
K 氏 の 時 期 に 、 A ・ K 氏 が 関 与 して 行 わ れ た こ と が
能性のあるものはほかに明治35年5月と41年3
分 か り ま す。 前 記 の 葉 書 と 重 な る 時 期 の も の で あ る
月のものがありますが、前者は火元が古町通り8番
ことから、この壁塗りの時、A・K氏から提供され
町で、東堀で焼け止まっており、また41年には上
た 反 古 紙 と しての 手 紙 類 の う ち 、 壁 の 補 強 に は 役 立
記のA・K氏あて葉書が3、4、5月と東
たない葉書だけが除外され、屋根裏によけて置かれ
宛先で届いていることから、この町屋には関係しな
たまま放置された可能性が考えられます。
か っ た こ と が 分 か り ま す。
以上の手がかりが語ることをまとめると、
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図6大戸内側から見たところ。板
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戸
戸 を 閉 めて い る
1。明治40年10∼11月頃、A・K氏は豊照町か
ら東
改 装 と い う こ と に な り 、 新 築 と 改 装 の 間 隔 と して は
島に転居した。
自 然 に 思 わ れ ま す。
2.大正2年の新聞紙を中に塗り込めた(この年か
*新聞によれば出火原因は煙草の吸い殻の不始末でし
ら程ないころに塗られたと思われる)上層の壁に
は A ・ K 氏 が 関 与 して い た と 思 わ れ る 。
た。網干嘉一郎「新潟のII住吉神社リこついて」(『郷
3.下層の壁に塗り込められた反古紙の字は明治中
土新潟こ第8号、1966年』には、花沢方に泊まっ
期以後のものと思われる。
た 旅 役 者 に 恨 み を 抱 い た 女 の 放 火 と 書 か れて い ま
4.建物は以前の建物が火事で焼けたあと、その部
す が 、 根 拠 は 不 明 で す。 な お 新 聞 に も 花 沢 家 は 「 指
材 を 一 部 使 用 して 新 築 し た と 思 わ れ る 。
5.東
物 職 兼 旅 人 宿 営 業 」 と あ り ま す。 南 り ヒ 毘 沙 門 町
島町は明治23年4月の住吉町大火で全焼
はそれまで貸座敷、娼妓の営業許可区域になってい
したと思われ、町屋の建設はそれ以後と考えられ
ましたが、この火事以後許可区域から除外されまし
る
。
た(ご新潟市史通史編3近代(上)ム1966年、
6 . 明 治 2 3 年 以 後 、 A ・ K 氏 が 転 居 してくる 明 治
40年まで、東
131P)。
島が焼けた大火はない(小規模
の火災は不明)。
町屋の生活と杉の文化
私 が お 訪 ね し た と き 、 O さ ん は お 一 人 暮 ら しで し
以上から言える確実なことは、明治23年の大火
た 。 お 話 で は 、 1 0 人 以 上 の 人 の 暮 ら して い た 時 期
から、壁の塗り直された大正2∼3年頃の間に、町
もあったとのこと。最後に私の体験した町屋の内部
屋 が 建 て ら れ た と い う こ と で す。 さ ら に 3 ∼ 6 か ら
空間と、聞かせていただいた往時の生活の様子の一
推定されるのは、明治23年の大火後まもなく町屋
部 を 記 し て お き た い と 思 い ま す。
が建設されたのではないかということで、とすると
明治40年のA・K氏の東
通り土間の入口には大戸がありました(図6)。
島町への住所変更は新
私のお訪ねした頃は外側に玄関室が増築され、サッ
築 しての 入 居 で な く 、 築 後 1 5 年 以 上 の 家 へ の 転 居
シの引き戸がはめられていましたが、外出されてい
と 考 え ら れ る こ と に な り ま す。 そ の 約 6 年 後 の 大 正
る時には、時折中の大戸が閉じられていることかあ
2∼3年の内壁の塗り直しも、築20年ほどの家の
りました(外出時と夜間には閉じるのが原則だった
9
囲炉裏があったことが分かりました(図8)。最後
ま で 使 わ れ て い た の が 、 チ ャノ マ の 炉 だ っ た わ け で
す)。
Oさんが昭和28(1953)年にお嫁に来たとき、
この家にはOさん夫婦と両親、弟2人と妹の7人
が 暮 ら して い ま し た 。 両 親 は ッ ギノ マ に 、 夫 妻 は 昭
和10年代に増築された2階奥の6畳に寝起きしま
した。妹と下の弟がイマに、上の弟がロクジョウに
いて、部屋はそれぞれの住人の名をつけて∼の部屋
と 呼 ば れて い ま し た 。 夜 、 老 夫 婦 が ッ ギノ マ に 引 っ
図 8 ツ ギノ マ の 床 下 か ら 出 て き た 炉
込 む と ほ か の 家 族 が チ ャノ マ に 来 て 、 冬 は 矩 燧 に あ
と の こ と ) 。 大 戸 に は 仕 掛 け が あ り 、 くぐ り 戸 を 通 っ
た っ た り して 、 団 楽 の 一 時 を 過 ご し た そ う で す。 そ
て 外 に 出 て か ら 、 そ の 仕 掛 け を 用 いてくぐ り 戸 を
んな折りに来客があると、一同は隣りのトオリノマ
10センチほどしか開かないようにすることができ
に 移 り 、 チ ャノ マ は ま た 客 室 に 早 変 わ り し た と の こ
ました。帰宅した時はその
と
。
間から手を入れて仕掛
妹と弟が家を出ると、下の弟がロクジョウに移り
け を 操 作 し て 、 戸 を 開 け る こ と が で き ま す。
大 戸 の 枢 を こ えて 中 に 足 を 踏 み 入 れ る と 、 土 間 ( 昔
ましたが、やがて出ていきました。夫妻に子が生ま
な が ら の 土 を 固 め た 土 間 で し た ) に 最 初 に 接 して い
れるとイマが子供部屋になりましたが、大きくなる
る の が ッ ギノ マ で す。 こ の 部 屋 の 土 間 側 は 1 間 が 壁 、
と、物置だった2階の手前の2室が子供部屋に改装
1 間 が 板 戸 で、 直 接 外 か ら は 見 え ま せ ん 。 板 戸 を 開
され、夫妻は下のイマに移りました、最後にOさ
け る と 、 正 面 奥 に ブ ッ マ の 仏 壇 が 見 え ま す、 板 戸 は
んがお一人暮らしをされていたときには、イマが居
平 常 は 使 わ ず、 葬 儀 時 の 出 棺 の 時 に だ け 開 け ら れ る
室になっていました。
婚礼の祝言も、葬儀も自宅で行われました。大勢
死者の出□でした(図7)。
の 人 が 集 ま る 時 は ブ ッ マ、 ッ ギノ マ、 チ ャノ マ の 間
ッ ギノ マ と ブッマ の 前 面 に は 庇 が か け ら れ 、 以 前
は 板 塀 に 囲 わ れ た 庭 に 面 して 縁 側 が あ り 、 端 ( 入 口
の 敷 居 を は ず して 畳 を 詰 め 、 3 室 を 一 体 化 して、
に近い方)に便所がありました。庭には桜、爽竹桃、
の手になった22畳の座敷にしつらえました。婚礼
さ ざ ん か 、 松 が 植 え ら れ 庭 石 が 配 さ れて い ま し た 。
の 式 の 時 は 板 前 さ ん が 流 しで 調 理 を してくれ た そ う
です。
チ ャノ マ は 土 間 側 2 間 か 一 一 部 ガ ラ ス の 入 っ た 障 子
戸 で 、 来 客 は こ こ で 迎 え ら れ ま す。 こ の 部 屋 に 接 す
父や母の亡くなった時も3室は一体化され、ブッ
る と こ ろ か ら 、 土 間 の 外 壁 に す り ガ ラス の 入 っ た 窓
マの床に幕がはられて祭壇が作られました、板戸が
と高窓がはめられ、隣家が建っていた頃も、この高
開けられて焼香場が設けられ、前述のようにここか
窓から差しこむ光で思いのほか明るくなっていまし
ら棺が運び出されました。
た ( ヽ ジ ギノ マ に 接 す る 土 間 部 分 に 窓 は な く 、 暗 い 場
夏には部屋の間仕切りの障子や
が すべ て
戸
所を通り抜けるので、高窓からの光が不思議に明る
に変えられ、家を風が通り抜けて涼しかったそうで
く感じられました)。この土間側の障子や欄間と、
す。 平 面 図 で 分 か る よ う に 押 入 の あ る の は イ マ と 口
坪庭から差し込む光で、室内はやわらかく照らされ
ク ジ ョ ウ だ け で し た 。 ヽ ヅギノ マ で は 上 げ ら れ た 布 団
ていました。ここには炉が切ってあり、冬は来客の
は部屋の隅に置かれ、屏風で目隠しされました。屏
ある日中は来客用の柾をはめ、夜になると矩燧用の
風は実際に風よけにも使われ、また儀礼などで
柾 に 変 えて 矩 燧 櫓 を 立 て た そ う で す ( 解 体 作 業 で 各
壁に変えたいときには平らに広げた屏風を、長押の
室の畳や床をはがしたとき、奥のロクジョウを除く
上から竹のとめ具でとめました。
を
新 潟 の 古 い 町 屋 に は 土 間 部 分 に 天 丼 を は ら ず、 小
6室に炉の跡が見つかり、ほとんどの部屋にかつて
1
0
このように、東
島町の町屋は時代によって増築
や改装を加えながら、それぞれの時代に応じた使い
方 を さ れて き た よ う で す。 昭 和 3 9 ( 1 9 6 4 ) 年 6 月
の新潟地震の時には、土台の上全体が数十センチ後
方 へず れ た と の こ と で す が 、 全 体 に 大 き く 傷 む こ と
は あ り ま せ んで し た 。 お 話 で は と に か く 「 人 だ け は
た く さ ん 来 た 家 た っ た 」 と の こ と 。 住 んで お ら れ た
方々の雰囲気もあったに違いありませんが、町屋の
入 り や す さ と 出 や す さ 、 開 放 性 が や は り 作 用 して い
た の か も 知 れ な い と 思 い ま す。
図 9 ダイ ド コ の 天 井 を 撤 去 し た と こ ろ 土 壁 が 黒 く
最後に建物の材料ですが、棟札を探しに屋根裏に
な って いて , か つ て 吹 き 抜 け に な って い た こ と が わ か る
入ったとき、農家のような松などの曲がった梁が見
屋組を見せている家が多いのですが(私の見た限
ら れ る の で は 、 と 何 と な く 想 像 して い た の で す が 、
り で も 、 大 西 家 、 アイ ト 商 会 、 高 杉 家 な ど ) 、 O 家
目の前にあったのは、意外にも細身のまっすぐな杉
で は は ら れ て い ま す。 た だ 、 ダイ ド コ と ダイ ド コ に
の丸太梁でした。東
接 す る 土 間 の 上 だ け は 当 初 天 丼 が は ら れ ず、 吹 き 抜
要 部 材 が すべ て 杉 で す。 そ の 後 見 た 、 や は り 明 治 に
けになっていたことが解体の結果分かりました(図
建てられた町屋(高杉邸など)も、同じ杉の家でした。
9)。この部分の小屋組は土壁で囲われて、煙など
よく言われる「新潟には杉と男の子は育だない」と
が屋根裏のほかの場所に逃げていかないようになっ
いう言葉は、新潟が「女町」であることを評したも
ていました(ここの梁と土壁は真っ黒になっていま
の と 解 釈 さ れ る こ と が 多 い よ う で す。 し か し あ る 時
し た ) 。 仕 切 壁 が も と は な く 、 イタ バ と 一 一 体 に な っ
期 ま で、 新 潟 の 家 は すべ て 杉 で 建 て る 習 慣 ( あ る い
島町の町屋は柱と梁などの主
て い た ダイ ド コ に は 、 大 き な 石 の 囲 炉 裏 が 切 ら れ ( 解
は 伝 統 ) が あ っ た の で は な い か と 考 えて み れ ば 、 そ
体作業中に床下に放置されたその石炉が出てきまし
れだけ必要な杉を、町中では育てられない(自給で
た)床下が炭や野菜の収納になっていましたっ土間
きない)ことを嘆いた言葉とも読むことができるの
の奥の突き当たりに以前はかまどがあったとのこと
で は な いで し ょ う か 。
で す。 裏 庭 の 奥 に は 以 前 2 階 建 て の 物 置 小 屋 が あ り 、
新潟の町屋は杉の建築文化であったのではない
母屋との間に屋根が差し掛けられていました。家の
か 、 と の 推 測 は 、 今 後 さ ら に 検 証 して い く 必 要 が あ
中にあったかまどは、後にこの屋根の下に移されま
り そ う で す。 ( お お く ら ひ ろ し ・ j 1 1 術 評 論 家 )
した。
□
□□□□□□11E kトピックス
番付
1□□□□□□□
東
におうかがいしたところ、古い民家では、こういう
島町の町屋の番付は、解体した大工さんの話
付け方はよくあるとのこと。茅葺き民家では、軸部
では、軸組が正面左(北東)隅を起点に桁行き(南
と屋根の作り手が違うことが多く(屋根は村人の共
北)方向が3尺間隔で〈一〉∼<二十一〉(漢数字)、
同作業で葺くことが多かった)、また柱は大黒柱や
梁行き(東西)方向が3尺間隔でくい〉∼〈る〉(い
差し鴨居などで補強してとばされる(省略される)
ろは)で番付がつけられていました(下図参照)。
ことがあるため座標軸を設定しての番付が比較的早
しかし小屋組は桁行き(南北)方向が〈一〉∼◇一八〉
く採用された(座標軸を用いての番付は歴史的に新
(漢数字)、梁行き(東西)<一〉∼<九〉(漢数字)
しい)が、小屋束が省略されることは基本的にない
と束の位置(実体)でつけていくという番付で、軸
ため、小屋組の方では柱の実体でつけていく方法が
部と小屋組で違う方法の番付が採用されていました
遅くまで残ったとのことでした。
乗
(図)。今ではほとんどこうしたことはないと、大工
島町の町屋の番付は、こうした古い民家の形
を 残 し た も の の よ う で す 。 ( 大 倉 )
さんも意外そうな顔をしておられました。
古民家に詳しい宮滓智士氏(長岡造形大学教授)
上
古い番付(墨書)と新しい番付の板
右
小屋束の番付
ここからが
コンクリート基礎
南
→
柱の番付
北
る
1
三
尺
間
隔
い
芋
­
2
尺
1
2
間
隔
 ̄
東
島町の町屋実測調査について
岡崎篤行・黒野弘靖・水嶋貴之
調査の概要
切妻・妻入り、瓦葺き
1)調査日程
規模:間口5間、奥行14.5間
主に平成13(2001)年12月20日、Z7日の2
建築年代:明治後期(推定)
日間に実測、ヒアリング等を行い、随峙補足調査を
外観の特徴:平屋建て、切妻・妻入りで前面に下屋
行った。
を持ち、妻面の壁は押縁下見板張りとなっている
(立面図参照)ぃそのファサードは、現在の新潟で
2)調査体制
は見かけない意匠であり、むしろ塩谷、桃崎浜、
調査の参加者は以下の通りである。なお、調査図
岩船などによく見られる町家のファサードを彷彿
面のとりまとめ、清書などは水嶋貴之が行った。
と さ せる 。 通 り に 面 して 前 庭 が あ る の も 、 こ の 家
の特徴である。
新潟大学
聞取りの特徴:屋根は、土間と床上を一体に切妻の
岡崎篤行(工学部建設学科都市計画研究室助教授)
・黒野弘靖(同意匠・計画研究室助教授)・潭
大 屋 根 を 架 け て い る に も か か わ ら ず、 間 取 り は 、
村明(経済学部経済学科助教授卜寺尾仁(工学
すなわち、ツボニワの道路側を接客用の続き間座
部建設学科助教授)・多田克彦(工学自ふ技官)・小
敷 、 奥 側 を 家 族 用 の 寝 室 や 台 所 と して い る 。 ま た 、
林治郎(都市計画研究室修士Z年ド耶‥川岳人(都
上 開 か ら 床 へ は 、 ツ ボ ニ ワ を 正 面 に 昆 た チ ャノ マ
市計画研究室4年)・小柳健(同上)・貝瀬秀人(同
か ら 上 が る 。 そ して チ ャノ マ に は 天 坪 が あ る 、 こ
上)・坂田杏見(同上)・佐藤憲明(同上)・豊田
うした特徴は京都の町家と共通する、北陸地方の
伸哉(同上)・水嶋貴之([司上]・薮田充彦(同上)・
町 家 一 般 が ツ ボ ニ ワ を 持 た ず、 チ ャ ノ マ を 吹 き 抜
渡辺豊(同上)・渡辺寿紀(意匠・計画研究室4年)
け と して 天 窓 か ら 採 光 す る こ と と は 、 大 き く 異 な
チ ャノ マ と ツ ボ ニ ワ の 位 置 で 二 つ に 分 け て い る 。
青稜短期大学
る
。
藤井由香(講師)
新潟下町の歴史的景観を愛する会
各部屋の説明
大倉宏(美術評論家)
ブッマ
トオリドマから見て突き当たりの向かって右側
3)調査内容
(北側)に床の間、左側(南側)に仏壇がある。
平面図、配置図、断面図、各室展開図の実測調査、
ツ ギノ マ
写真撮影、ならびに家業の変遷、各部屋の使われ方
お年寄りの部屋。玄関脇に便所、縁側があり、お
の変遷などに関するヒアリング調査を行った。
客 さ ん も こ こ を 使 用 して い た 。
チ ャノ マ
東
島町の町屋の建築概要
家族集合の部屋ぃお客さんがくると家族はトオリ
構造:木造平屋建て(増改築により一一・部2階建て)、
ノマに移動する。冬の夜、囲炉裏はコタツに変わ
1
3
①
位置図1
①
で;お言二こ
ご
ぐ
汽
ぶ
ぶ
白
回
E
F
小
路
に
面
し
て
い
る
イタ バ ・ ダイ ド コ
る
。
イマ
昭和30(1955)年ごろまではドマで座る流しだっ
主のいる部屋。女中さんの部屋、受験期の勉強部
た 。 現 ダイ ド コ で 莫 蘆 を 敷 い て 食 事 を し て い た 。
屋に使われた。
昭 和 5 卜 年 に 現 ダイ ド コ に 移 動 し た 。 そ れ ま で の
ロクジョウ
ダイ ド コ は 石 で で き た 囲 炉 裏 の ほ か 何 も な い 部 屋
だ っ た 。 穴 倉 が あ って 炭 、 野 菜 等 を 保 存 して い た 。
勉 強 部 屋 と して 使 用 す る た め 、 畳 の 部 屋 を 板 に 変
えた。
2階階段両脇および奥の部屋
イタ マ
昭和15、6(1940、41)年ごろに2階を増築し、
もとは畳が敷いてあった。窓がなく明かりが漏れ
同 時 に 屋 根 裏 を 改 造 して 階 段 両 脇 に 2 部 屋 を 設 け
ないため、戦時中の灯火規制時には、ここで食事
た。
を と って い た 。
(おかざきあつゆき・新潟大学工学部助教授、
くろのひろやす・同工学部助教授、みず
トオリドマ
しまたかゆき・藤田社寺建設株式会社)
冬は三輪車に乗ったり、まり投げをしたり外部空
間 と して 使 用 して い た 。
1
4
ブゾ
犬
止
2階平面図
1階平面図
1
5
西側立面図
東側立面図
南側立面図
北側立面図
隣地
道路
配置図
瓦 を 表 現 して あ る 部 分 が 、 釧 可 部 材 を 解 体 ・ 保 存 し た 部 分
1
6
□□□□□□jl訟トピックス
面戸瓦(めんどがわら)
東
2□□□□□□□
ることがあると建築辞典にはでていますが、こうし
島町の町屋の瓦の取り外し作業の時、軒瓦の
た素焼き陶器によるものは、棟積みび:)下端の
間(こ
下から写真のような、素焼きの文鎮のようなものが
れも面戸という)をふさぐものはよくあるものの、
出てきました。軒瓦は「鎌軒瓦」といわれるタイプ
軒先部では珍しいとのこと、新潟は風が強く、その
です。軒先に垂れ下がる「垂れ」の下端ラインが瓦
風で雨やみぞれ、雪なども吹き込むため。水に弱い
上面の湾曲に平行している上、隣接する瓦の正面の
板や漆
接合部(合端)をおおう「万十巴(まんじゅうども
か
。
え)」がないため、接合部に三角形の 間が生じます。
その
丸い取っ手様の突起がついた形は、どこか愛らし
間を埋めるような形で、軒瓦の先端下部に置
くもあり、大工さんや建築関係の人々もこんなもの
かれていました。
こう し た
でなく、陶器のものが使われたのでしょう
を 見 る の は 初 めてと の こ と で し た 。 ( 大 倉 )
間を面戸といい、板や漆
でふ さ が れ
面戸瓦
前庇の瓦部分面戸瓦がみえる
面戸瓦のおさまり方
1
7
東
島町の町屋の移築支援活動のこれまで
大 倉 宏
町屋が壊される
東
年10月9日、新潟市北部総合コミュニティセン
島町の町屋が、やがて取り壊されなければな
ター、「シンポジウムフ原点
から考える新潟」
らないことは、1997年に最初にお訪ねしたとき、
2000年5月13日、新潟市中央公民館(図2A、B)
O さ ん か ら お 聞 き して い ま し た 。 国 が 進 め る 道 路 拡
**「消える「しも」の面影町屋再開発の波に」新
張 計 画 の 法 線 に か か っ て い た か ら で す。
潟日報、2001年11月26日
新潟の古い町屋に興味ある方々を、その後何度も
この町屋にご案内しましたが、ほとんどの方が、こ
専門学校による移築計画
の町屋が壊されることを残念がってくださいまし
も う 一 人 、 記 事 を 読 んで 関 心 を 持 って 下 さ っ た
た。
のが、新潟市内の専門学校キャリアテクニカ環境
数人の仲間たちと1999年に作った「新潟下町の
情報専門学校の理事長五十嵐忠司さんと学校長の
歴史的景観を愛する会」で開催したシンポジウムで
五 十 嵐 実 さ んで し た 。 同 校 で は 、 こ れ ま で に も 亀 田
も、町屋について語り合ったりしました
町 の 水 倉 や 巻 町 の 庄 屋 の 座 敷 を 移 築 して、 教 育 施 設
比較的大きな話題となったのは、Oさんが用地
として活用していましたぃ話題となったO家も新
買収に正式に応じられ、取り壊しが目前に迫った
た な 移 築 対 象 と して 考 えて 下 さ る と い う 意 向 を 示 し
2 0 0 1 年 秋 の こ と で す。 私 た ち の 下 町 ウ ォ ー キ ン グ
て下さったのが、Oさんが新しいお住いに移られた
に 参 加 して 町 屋 を 見 学 し た 新 潟 日 報 写 真 部 の 米 倉 正
2 0 0 2 年 1 月 で す。 私 が 仲 介 さ せ て い た だ い て 、 移
雄さんが、新聞の一面をつかって中の様子をカラー
築を検討するとの前提で、町屋の解体(あるいは取
写真で紹介し、記事を書いてくださったのです
り壊し)を同校が行い、部材等も同校で引き取ると
( 図 1 ) ( 新 潟 日 報 はそ の 後 も 「 住 吉 町 ・ 並 木 町 物 語 」
い う こ と で、 O さ ん に ご 同 意 を い た だ き ま し た 。
という題で、道路拡張で失われる町並みを惜しむ連
しかし、その後解体、移築の経費の問題で移築を
載 記 事 を 掲 載 して く れ ま し た ) 。
断念するかも知れないとの意向が、学校から私に伝
記 事 に 反 応 して 下 さ っ た の が 、 新 潟 大 学 の 若 い 先
えられてきました、そこで、経費の問題が障害なら
生方でした。経済学部助教授でまちづくりが専門の
ば市民から募金をつのり、移築計画を支援しようと
潭村明さん、工学部助教授で都市計画が専門の岡崎
活動を始めることになりました乱
篤行さんのお二人が、特に関心を寄せてドさり、お
二人の働きかけで、新潟大学の学生たちによるO
*この間、3月9日、10日両日に舞踏公演「堀川久
家 と 浜 田 家 ( O 家 の 通 り を 挟 んで 向 か い の 昭 和 初 期
子独舞感覚考H「路地」下町にて(5)」が、空
の町屋。やはり道路拡張で取り壊されることになっ
き家となった町屋を会場に開催され(10日は町屋
ていました)の実測調査(2001年12月20日、
の一般公開も実施)、のべ300人もの観客が訪れる
27日)が行われました。
出来事がありました。
*「シンポジウム町は、昔と今の語らう場所JI999
1
8
図1町屋を紹介した新聞記事
すが、この成果をもとに五十嵐理事長と話し合いま
移築支援の募金活動始まる、が目標に達せず
活 動 を 単 発 で 終 わ ら せ ず、 今 後 に も つ な げ て い き
し た 。 会 と して、 今 後 も 募 金 活 動 を 続 ける の で、 移
たいとの思いもあり、これまで新潟の町屋や歴史的
築 を 実 現 して い た だ ける か は 今 後 さ ら に 検 討 して い
建造物に関心を寄せて下さったり、シンポジウムに
ただくこととし、できれば再築可能な形での手作業
参 加 して い た だ い た 方 々 に 呼 び か け、 発 起 人 と して
での解体と、解体部材の当面の保管を学校側にお願
加わっていただくようお願いしました
い し た い と 要 請 して、 こ れ を 了 承 して い た だ き ま し
初の発起
人会を2002年4月4日に開催し、募金活動の具体
た
。
的な方法を話し合いました。6月末まで500万円
解体は募金活動を始めた後に、抱えの大工に古い
を目指すという1次目標をたて、実際に印刷物を郵
家 の 解 体 に ボ ラ ン ティア で 参 加 さ せ た い と の 申 し 出
送 、 配 布 な ど して 活 動 を 開 始 し た の が 、 5 月 は じ め
を い た だ いて い た 杢 W o r k s さ ん に 、 事 情 を 了 解 し
でした(作業には、多くの学生さんたちも手伝って
ていただいた上で、見積もりを依頼し、その後お願
下さいました)(図2C)。活動にかかる実費は、発
いすることになりました。結果から言うと、解体は
起人からの支援金を充てることにしました。
廃材処理まできっちりおこなって400万円近くの
新 聞 、 テ レ ビ、 ラ ジ オ な ど か ら 取 材 が い くつ も あ っ
経費を要する工事となりました。最終的には小川さ
たこともあり、5月末で早くも120万円ほどの募
んから単純取り壊しの場合の経費負担をいただき、
金が集まりました。が、目標にはまだ遠い、という
残 額 を 募 金 か ら 拠 出 して 全 額 を 捻 出 す る こ と が で き
ことで、実際に町屋の内部を公開し一般市民に見学
たのですが、当初はまだ行き先の不透明な状況のな
して も ら う 催 し 「 町 屋 へ あ が って み な せ や 」 を 、 6
かで、工事をお引き受けいただき、丁寧な仕事をし
月後半2週間の週末4日間(22、23、29、30日)
て下さった杢WOrkISさんには、振り返っていま頭
に行い、29日は町屋を会場に、発起人による「新
の 下 が る 思 い で い っ ぱ い で す。
潟下町再発見シンポジウム」を開催しました(図
*発起人に名を連ねて下さったのは下記の方々です。
2D)。公開期間中に1094人の来訪者があり、会場
で実施したアンケートにも町屋の保存を望む声が多
伊藤純一(建築家)・伊藤信行(家具作家/新潟下町
く書かれていました。発起人の拠出金と会場での募
の 歴 史 的 景 観 を 愛 す る 会 ) ・ 上 田 浩 子 ( デ ザイ ナ ー
金も含め、7月初旬に募金額は2、003、629円に達
/新潟下町の歴史的景観を愛する会)・大熊孝(新
しました(但し活動経費を引いた残額が1、801、953
潟大学工学部教授)・大倉宏(美術評論家/新潟下
円)。1次目標は残念ながら達成できなかったので
町の歴史的景観を愛する会)・岡崎篤行(新潟大学
1
9
A
B
新潟町屋公開
6 胆
新
参
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1●「
新
七
県
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み
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ウ
ム
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励
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図 2 町 屋 を め ぐる 活 動 の パ ン フ レ ッ ト
潟
の
町
屋
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見
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栞
A シ ン ポ ジ ウム 「 町 は 、 昔 と 今 の 語 ら う 場
F三;万万j黛言゛……・J・­.
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7
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j
タ
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4
i
U
9
ぷ
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W
卜
,
:
4
Q
S
・
1
所」(1999年10月9日)
五
戚
B シ ン ポ ジ ウム 「 「 原 点 ニ か ら 考 える 新 潟 」
言
総
ご
回
ゑ
了
謡
二
謡
ご
乃 筏 t R 圧 正 員 難 白 7
ここ乱に;゛ ̈・ ..
(2000年5月13日)
C[新潟町屋移築支援のお願い]支援を
呼びかけるパンフレット(2002年5月)
D町屋の公開「町屋にあがってみなせや」
(シンポジウム開催2002年6月29日)
E シ ン ポ ジ ウム 「 新 潟 の 町 屋 を 見 直 そ う 」
(2002年8月24日)
E
20
う
図3壁土をおとしたところ
図4通り土間の小屋組
工学部助教授)・小川弘幸(文化現場/新潟下町の
よる村上の町屋の調査にかかりきりになる時期に
歴史的景観を愛する会卜小船井秀一(雑誌編集人
重なってしまい、結局私が可能な限り現場に足を運
/新潟下町の歴史的景観を愛する会)・兼松紘一郎(建
び、写真記録を撮り、墨書などが出てこないか注意
築家)・吉川真嗣(村上町屋商人会)・黒野弘靖(新
するということになりました(発起人の方々もそれ
潟大学工学部助教授)・小林洋士(4 t行肩下町の歴史
ぞ れ 、 何 度 か 足 を 運 んで 下 さ り 、 現 場 を 見 て 下 さ い
的景観を愛する会)・小山芳寛(郷土の文化に親し
ました)。
む会理事長)・後藤哲男(長岡造形大学教授)・滓村
と言っても私自身、かなり多忙だった時期で、重
明(新潟大学経済学部助教授)・佐久間邦昭(建築
要な時に現場に行けない口もかなりあり、十分な記
家)・高橋照子(KMM研究所)・田村時蔵(新潟下
録ができたとは言えません。それでも手元のメモで
町日和編集人会)・寺尾仁(新潟大学工学部助教授)・
たどってみると、8月2日の現場の片づけから作業
土沼隆雄(要松園コーポレーション代表)・西村幸
が 始 ま っ て い ま す。 6 日 、 仮 設 ト イ レ 設 置 、 隣 地 フ ェ
夫(東京大学大学院工学系研究科教授)・野内隆裕(に
ンス取り壊し。7日畳、建具に番付入れ、足場資材
いがたなじらねっと)・
口忠彦(新潟大学工学部
搬入。8日前面庇の鉄骨解体。畳をはがし、建具、
教授)・藤居由香(清陵女子短期大学専任講師)・堀
上がり柾、敷居まわり等取り外しぃ9日イマより
川久子(舞踏家)・本間龍夫(新潟あきんど塾代表
土 壁 を く ず し 始 め る 。 と 作 業 が 進 んで、 お 盆 休 み を
理事)水嶋貴之(新潟大学建設学科学生)・皆川袈
は さ んで 岬 日 に 天 丼 は ず し ( 解 体 部 材 は キ ャ リ ア
裟雄(KMM研究所)・皆川美智子(KMM研究所)・
テクニカ環境情報学校敷地の屋外保管されることに
宮潭智士(長岡造形大学教授)・武蔵靖之(建築家
な っ た の で、 屋 外 保 管 で くる い の 出 や す い 建 具 類 は 、
/JIA新潟)・村井勇(写真家/新潟下町の歴史的景
発起人の一人で家具作家の伊藤信行さんの仕事場に
観を愛する会)・村尾欣一(新潟職業能力開発短期
預かっていただくことになり、16日に発起人とボ
大学助教授卜村木薫(造形作家)・横山蒼鳳(書家)
ラ ン ティア で 運 搬 し ま し た ) 。 1 9 日 、 解 体 足 場 組 み
立て。20日には瓦降ろしが始まります(瓦の手作
解体工事始まる
業での取り外しと保管も検討しましたが、経費の問
題と、瓦の状態から再利用が難しいと分かったため、
解体工事は、できる限りきちんとした記録を残そ
一 部 を サ ン プル と して 残 す こ と と し 、 こ の 日 新 潟 大
うと、発起人会で話し合ったのですが、頼りの新潟
学の先生方と学生たちによる前面庇部分の瓦の取り
大学の先生方と学生たちが、ナショナルトラストに
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図5野地板が撤去され光が射し込む
図 7 番 付 を 付 して は ず さ れ た 軸 部
図6垂木の撤去
外しも行いました)。26日には瓦のなくなった屋根
人になっているので、実質は「町屋を生かす会」の
から野地板も取り去られました。屋根から100年
活 動 の 一 貫 と して、 東
近く陰のなかにあった空間に、明るい夏の光がさん
る意図をもって、開催したものです)(図2E)。基
さんと差しこみ、梁や柱を照らし出した時の美しさ
調講演に京都大学の高田光雄さんをお招きし、シ
に、息を呑みました。翌27日には小屋組(棟木、
ンポジウムの前に解体中の町屋も見ていただきまし
母屋、束)が、新たに番付を記した板を打ち付けら
た 。 パ ネ ル ディス カ ッ シ ョ ン に は 新 潟 日 報 論 説 委 員
れながら、とりはずされました。28日から軸組の
の 篠 田 昭 さ ん に も パ ネ リ ス ト と して 参 力 [ ] して い た だ
解 体 開 始 。 結 局 解 体 作 業 は 8 月 中 に 終 わ ら ず、 O さ
いたのですが、篠田さんはそれからまもなく新潟市
ん か ら 再 度 延 期 の お 願 い を して い た だ いて、 土 台 ま
長選挙への出馬を表明され、日月10日の選挙で
ですっかり撤去されたのが、9月中旬に入ってから
当選し新しい市長になりました(その時は予測もで
でした。その間にあった、いろいろな発見は別に記
きないことでした)。
島町の町屋への関心を高め
し た と お り で す。 私 自 身 に と っ て も 家 の 解 体 作 業 を
つぶさに見るのは初めての体験で、たいへん印象的
解体後の経過
な1ヶ月半でした(図3∼7)。
解体は無事終了し、明治期に建てられた建物で
解体作業中の8月24日、「新潟下町の歴史的景
あったこともほぼ確実と判明しましたが、肝心の再
観を愛する会」主催で、新潟市中央公民館を会場
建計画は、支援募金が目標額に達しなかったことも
に「新潟の町屋を見直そう」というシンポジウムを
あり、終了後の会と学校との話し合いでも、実現の
開催しました(「新潟下町の歴史的景観を愛する会」
見 通 し を 示 して い た だ け ま せ んで し た 。 加 えて 当 初
のメンバーは全員「新潟の町屋を生かす会」の発起
計画された学校施設への転用も、活用方法などで検
22
告書を郵送しました。寄せられた意見は数の多いも
討するべき点が多々あるとの考えが示されました。
また、移築支援募金活動などを通じて多くの市民
の で は あ り ま せ んで し た が 、 概 ね 公 的 活 用 を 探 る べ
の関心が寄せられたことから(募金は積極的な再活
きとの内容で占められました。これを受けて、今後
動 を し な か っ た に も か か わ ら ず、 そ の 後 も 少 し ず つ
解体された町屋の公的移築・再現吋酎月を目指す方
寄せられ、最終的に458人、2、902、669円に達し
向での活動を展開しようということになりました。
ました)、学校側から、より公的な形での移築再建
行政機関等への早速の働きかけも検討されました
が相応しいのではとの意向も示されたため、同校に
が、町屋そのものが、市や県のレベルで文化財とし
よる 移 築 支 援 を 目 的 と して 活 動 して き た 会 と して、
て扱われることの、まだ少ない現状を鑑みて、解体
逡巡を感じざるを得ない局面に立ち至りました。発
された町屋についての解体経過をも含む報告書を作
起 人 会 議 で 議 論 し 、 結 論 と して、 ひ と ま ず 募 金 活 動
成し、またシンポジウムなどを改めて開催するなど
は 中 断 し 、 状 況 を 率 直 に 募 金 を して い た だ い た 方 々
して、 町 屋 の 価 値 、 保 存 、 活 用 の 意 義 を 広 く 訴 えて
に 報 告 して 意 見 を 寄 せ て い た だ き 、 そ れ を ふ ま えて
いくことから始めようということになりました。
以上が、町屋移築支援の活動、およびこの報告書
今後の活動を考えようということになり、やや時間
が 編 ま れ る こ と に な っ た 経 緯 で す。
は経過したのですが、12月末に支援者の方々の報
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チ ャノ マ を 見 る 。 奥 が 通 り 土 間 に
な って い る ( 撮 影 村 井 勇 )
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新潟市東
島町の町屋調査.解体報告
2003年6月28口発行
編 集 ・ 発 行 新 潟 の 町 屋 を 生 か す 会
代 表 事 務 局 大 倉 宏
〒950­2064新潟市寺尾西2­9­29
Tel・Fax025­260­4342
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レイアウト
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〒950」217白根市大字白根1358­1
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