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時の流れを越えた場に向かって ―死に直面する人間の希望

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時の流れを越えた場に向かって ―死に直面する人間の希望
東大出版会死生学シリーズ原稿
40 枚=16000 字
時の流れを越えた場に向かって
―死に直面する人間の希望
清水 哲郎
死に直面している人にとっての〈希望〉の可能性について考えてみたい。例えば、患者
が「最後まで希望を持つことができる」ためにはどうしたらよいか、といった問いが、重
篤な疾患に向かう医療現場でよく問われる。重篤な疾患であることが知らされる――だん
だん状態が悪くなることを知り、有効な対処法はないことも知る――実際に、自分の身体
がだんだん悪くなり、できることがどんどん減って行く――死を間近に感じるようになる
――そういう時にいったいどのような希望があり得るというのか。
私たちは誰でもいつかは死ぬ。重篤な疾患に遭うことなく人生を過ごしたとしても、事
故や致命的な発作によって突然死ぬのでもないかぎり、高齢により右に描写したのとそれ
ほど違わない状況に直面する。そう遠くない未来に、私たちの多くは死に直面する最後の
日々を送ることになる。その時に、
〈希望〉ということは私たちにとって意味を持つのだろ
うか?衰えてできることがどんどん減っていく日々を送り、死に直面しつつも、最後まで
希望を持って生き続けることができるのだろうか。
もし、死が間近に迫ってきた時点では、私たちはもはや希望を持つことは適わないのだ
としたら、突然に死ぬのでもない限り、私たちは人生の終わりに希望のない、暗い時間を
過ごすことが運命づけられていることになろう。私たちが現在前向きに希望をもって生き
ているとしても、それはそうした絶望の時へと向かってのことなのだろうか?
例えば医療現場においては、このような状況で、「最後まで希望を捨てない」とは、「治
るかもしれない」という望みを持ち続けることだと思う人がいる。あるいは「自分の場合
は通常よりもずっと進行が遅いかもしれない」と期待することもあろう。いずれにしても
まさに「希望的」観測である。だが、望んでいることが起きる可能性が全くなければ、「こ
うなって欲しい」「こうなると好い」と望むこともできないので、たとえ低い確率であって
も「良い」経過を辿る可能性を見出すことができなければならない。では、希望とはこう
した類の予測のことなのだろうか。もしそうだとすると、そうした患者の多数においては、
はじめに立てた希望的観測が次々と覆されるという結果にならざるを得ない。それでは「最
後まで望みをもって生きる」ということにはならないだろう。そもそも、「癌」と総称され
る疾患群をモデルとして、「告知」の正当性がキャンペーンされてきたのは、患者が自分の
置かれた状況を適切に把握することが今後の生き方を主体的に選択するために必須の前提
であったからではなかったか。右に述べたような望みの見出し方は、非常に悪い情報であ
っても真実を把握することが人間にとってよいことだという考えとは調和しない。さらに、
人生の半ばで病に罹った人の場合にはこのような回復への希望があり得るとしても、高齢
により死に直面するに到った人については、このような希望は成立し得ない。「もしかした
ら若返ることが可能かもしれない」とは言わないし、思わないからである。では、他に希
望の可能性はないだろうか。
ここに、「死は終わりではない、その先がある」といった考え方が登場する。多くの文化
にそのような考え方が根強く定着している。人の「この世」でのいのちは、死によって終
わり、その人は現世にはいなくなる(=現世内不在化)。だが、それによって人は全く消滅
してしまうのではなく、どこか別の場所・別の世界(死者の世界としての他界)へと移る
のだ――と語られる(=他界移住)
。他界として想定される場所は様々であり、人々になじ
みの深い近くの山や森であったり、地下の国であったり、はるか西方のどこかであったり、
天上であったりする(天といっても、必ずしも空高い場所ということとは限らず、異次元
の世界の表現と見られる場合が多いが)。他界の描写は必ずしも明るいものとは限らず、死
後の存在の持続に望みをかけられるとも思えないものもあるが、苦しみも悩みもない至福
の状態が語られることもある。だが、伝統的にはそのように人々が語り合い、信じてきた
のだとしても、現代の人々がそのような理解を受け入れ、安心しているわけではなさそう
である。伝統的にも、このような死後の世界が(誰も行ってきた人はおらず、何の証拠も
ないにもかかわらず)語られ続けてきたということは、それだけ死ぬということに対する
人々の不安が強いということでもあろう。
人々がそれぞれの文化の中でこのように語ること自体は自由だとしても、公共的な活動
である医療や介護活動の中で、死に直面した人の希望についてこのような語り方を採用し
て、希望を時間的な未来における死後の幸福な生に託すというのはいかがなものか、と私
は長らく思ってきた。だが、最近では、このような語り方にそう目くじらを立てなくても
いいか、と思い直すようになってきている。そこで、まず「さしあたっての語り方」とし
て、死後の生を語り合うことの意味について考えたい。その上で、「さしあたっての」語り
を越えた語りを求めることとしよう。
1
日本語における死の語り方
日本語には死についての様々な語り方があるが、他界移住という思想を表現するものが
圧倒的に多い――「逝く・逝去」、
「亡くなる」、
「旅立つ」、
「永久の別れ」など。
「死ぬ・死」
、
「息を引き取る」、「(永久の)眠り(につく)」などは、他界移住とは別の系統の表現であ
るが、語彙の数からいえば、少数派である。
古い表現を見渡しても「みまかる(身罷る)」
(この世から罷り去るという意)、
「隱れる」、
「他界(す)」などが、現世内不在化から他界移住につながる語であろう(「没する(歿す
る)」もこの系統といえるかもしれない)。別系統の表現としては、「こと切れる」、
「絶え入
る」、「あへなくなる」、「はかなくなる」といった、身体に現れた変化に基づくと思われる
もの(ただし、現世内不在化も含意しているかもしれない)、「不諱・不忌(いみはばから
ずに言うこと→避けることのできないこと:死ぬこと)」、
「物故(す)
」などがある1。人の
経験に沿った表現としては、やはり現世内不在化―他界移住という理解を示すと思われる
ものが目立つ。
死ぬことは、生きて遺された人々から見た語りになる。それは人々の前から当人が〈居
なくなる〉
(亡くなる=無くなる)ことであり(=現世内不在化)、したがって、
〈別れ〉
(交
流の断絶)である。誰かの死を、その者がいなくなってしまったこととして捉えることは、
遺された者たちと死んだ者との関係において、その関係の喪失として捉えることに他なら
ない。私たち人間は、自らのこの世界における位置を、世界の諸構成要素との関係におい
て見定めていると思われる――ことに諸人間関係のネットワークの網の目の一つとして自
らを位置づけている。そうであればこそ、ことに自分と関係が深かった人の死は、自らの
世界における位置を不安定にするものであり、単に死んだ者の喪失ではなく、自らの一部
の喪失でもある。人の死は、遺された者にとって、何よりもこうした関係において起きる
喪失に他ならない。であればこそ、この経験を表す語彙が多くあり、よく使われることに
なる。
死という人間関係の喪失は、遺された者にとって不条理なことであり、「なぜだ?」とい
う問いを喚起せずにはいない2。どうしていなくなってしまい、別れることになってしまっ
たのか?――あの世へと逝ってしまったからだ。こうして、他界移住は、親しい者の死と
いう経験に際して、人々が発する「なぜだ?」に応えて提出された理由である。
「理由」と
いっても、私はここで、現代の私たちが「原因」と呼ぶようなものよりは広い意味で使っ
ている。「なぜだ?」という問いは、元来、不条理なこと、生起して欲しくないことが起き
た時に発するものであり、したがって、問う者の問いに伴う気持ちを静め、諦めさせる効
果をもつ応えが、答えとしての理由となる。「そうなのか、それなら仕方ないや」と、ある
いは「そうなら、まあ良いか」と思うように仕向ける(言ってみれば「気休め」の)物語りが、
私たちの文化を含む多くの文化において語られる「他界移住」である。
ところで、日本語には「死ぬ」という語があり、これが死について語る際にもっとも明
確にこれに言及する語であろう。以上の記述においても私は多用してきた。だが、具体的
に人の死について語ろうとする時には(親しい人については特に)、
「あの人は死にました」
と語ることには、私はいささかの抵抗を覚える(読者諸氏もそうではないだろうか)。仙台
周辺で在宅ホスピスを展開している岡部健医師によると、地元の人たちは「死ぬ」話をし
ても乗ってこないが、「あっちゃさいぐ(=あっちに行く)」というなら話に乗ってくる傾
向があるという。では、どうして私は、また「あっちゃさいぐ」を好む人たちは、「死ぬ」
の使用に抵抗感を覚えるのだろうか。
「死ぬ」は、死の場面に立ち会った経験に基づき、身体に起きる目に見える変化に基づ
く言葉であると思われる。身体的変化とは、
・ それまで動いていた生命あるものの動きがとまり、再び動き出す可能性はない(つ
まり不可逆的に動かなくなる)、
・ この不可逆性は、そのものが変質し始めることによって明らかとなる(腐り始める
等)、
という内容のものである。こうした身体的変化については、人も動物も変わりない。
「死ぬ」
は動物についても使われる所以である。これは生から死への移行を判別する場面で使われ、
呼吸や脈がとまるという仕方で《いのちがなくなる》ことに言及している。そこで、生き
ていたものについて「生きている」か「死んでいる」かという状態の違いを判別する使い
方がされるし、「目が死んでいる」といった表現で、いきいきとした勢い・活気がなくなっ
ている状態を表す使い方もされる。このように、「死ぬ」は、生命あると考えられている物
体を主語にして、これについて述べられる語であり、変化を述べるときには「死ぬ」と、
またその変化の結果としてある状態については「死んでいる」と語られる。このようにし
て、「死ぬ」は本来、身体に定位した語なのである。
だが、「死ぬ」には、「X は死んでしまった」という表現で、かつて生きていた時の X を
指して、死ぬということが起きてしまったと、過去のこととして語る用法もある。この用
法の場合は、
「父は 10 年前に死にました」とは言うが、「父はこの 10 年間死んでいます」
とは言わない(後者のような表現は、日本語を母国語とする人には奇異な言い方に聞こえ
る)3。つまり、この用法においては、現在死んでいるという状態は語ることができない。
換言すれば、主語は、現在どこかに存在する X を指してはいない。「死ぬ」のこの用法は、
先に述べた人間関係の喪失を語る語彙の用法に連なるものである。――主語は生きていた
時の主体(右の例でいえばかつての父)を指しており、その主体に過去のある時に死ぬと
いうことが起き、それ以降主体は不在となってしまっているということの故に、主語は現
在存在するものを指せないと解すことができる。こうして、この用法は、「亡くなる」など
と同様に、現世内不在化を語っており(他界移住までは含意していないとしても)、身体に
ついての語りではなく、人格についての語りである。こうして、「死ぬ」はその由来からす
れば身体の状態変化を語るものであるが、人格の現世内不在化を語る用法も派生しており、
両方にまたがる意味の幅があるため、身体と人格の二重の経験としての死を語るのに適当
な語となったということができよう。
以上のように死を語る際の語彙について見た上では、人々は人々の関係の中でおきる別
れの経験について、ある人がいなくなり、他界に行ってしまったということについては語
るけれども、そのことを身体に起きた変化としては語りたがらないため、身体の変化への
言及が随伴してきてしまう「死ぬ」は使いたがらない(使うことに抵抗を覚える)のだと
推定してもよいだろう。
2
さしあたっての望み―他界移住
だが、なぜ人々は、他界移住として人の死を語らなければならない・語りたがるのだろ
うか?「なぜ?」に対する気休め、理由だと先に私は言った。このことを更に考えてみた
い。
他界移住の語りは別れの否定である、と私には思われる。このことに関して印象的な思
い出がある。何年前だったか、妻の親しくしている知人が癌のため死に直面し、緩和ケア
病棟に入っていた。その知人を妻が訪ねたとき、私もついていったのだが、その方は妻が
部屋に入っていくと、「やちよさん、私もう頑張れない!」と、また続けて「あっちでお茶
の用意をして待っているからね」と語ったのだった。親しい交流が今や終わりになろうと
していること、それでも交流は全くなくなるのではなく、やがて再開するのだ、という語
り方で、親しい交流を肯定し、確認することばだと私には聞こえた。妻もまた、その語り
に肯定的に応じることによって、友人としてのつながりを確認したのである。また、前述
の岡部医師は患者・家族の間に見られる「お迎え」現象について報告し、それを検証する
研究も行われている4。幻覚とも思われるような仕方で、あるいは夢で、先に逝ったものが
現れたと、死に向かっている人が思うような事例である。人々はそれを、先に逝ったもの
たちが「迎えにきた」ことと解釈する。こうした人々の語り合いには次のような理解が込
められている(と私は解する)――死ぬことは人々の群から独り離れて、孤独になること
ではない。「あっち」には先に行った人たちがいて、私たちを待っている。だから、私も順
番がきて「あっち」に行き、後からくる仲間たちを待つことになる――すなわち、これが
「死者の列に加わる」ということなのだ。
だが、このように語り合う人々の多くは、死後の世界について正面きって聞かれると、
「分
からない」と答える。分からないにもかかわらず、葬送の折など、死後の世界を前提する
かのような語り方が横行する――「ご冥福をお祈りします」「旅立たれました」などなど。
ということは、死後の世界の人間関係について信じているかどうかにかかわらず、人々は
これを前提しているかのように、遺されるものとは分かれるが、先に逝ったものたちと一
緒になる、また、死ぬことは孤独になることではなく、先に逝った人たちと再会すること
だ、と異口同音に語り合っていることになる。私たちはこのようにして《言葉によって、
死後の世界を造り上げている》と言うべきだろう。私たちは決して他界を何らかの仕方で
見出し、それについて描写しているのではない。そうではなく、何の証拠もないのに、他
界を既成の事実であるかのようにして、語る――語ることによって創り出している(構成
主義的解釈)
。
語ることによって創り出すのは、誰でも死ぬという事態をめぐって抱く不安や怖れを和
らげたいからだということは、私たちの周りでなさえる語り合いの現象を見れば、私たち
自らが認めることであろう。そのように思いつつも、私はなお、他界移住的発想による言
説を語る。他者の納得を壊さないために。あるいは、死に行く人に向かってとても「これ
で全ておしまいだよ」とは言えないから。以前は、そのような有無を知りもしない他界を
あたかもあるがごとくにして、人を慰めるのは不適切だと言っていたこともあった。だが、
今私は、死後の世界があるともないとも判断せずに、しかもこのように語り合う人々の思
いに共感できるようになっている。死に行く人に、またその人との別離に深い悲しみを抱
きつつある人に、他にどういう言い方ができるというのか、と思うからである。
ことばによって世界を創り出す
語り合うことによって世界を創り出す(世界を構成する)
という営みは、私たちの周囲においてしばしば起きている。しばしばどころか、考えてみ
れば、日常の身の回りの世界の把握自体がそうなのだが、日常生活の通常の場面では、ほ
とんどの人が自ら構成に参加している世界を実在的(編集注:ルビ:リアル)なものと思
っていて、疑いを差し挟むことなく、語り合いが進んでいく。だが、語っていることに疑
わしさを抱く人が多いようなことであっても、そのことについて「あたかも事実であるか
のように」語り合うことがあり、それが何らか私たちの思いに影響を与えることもある。
例えば、血液型と性格の連関についての言説がこれである。正面きって聞かれると、相
当数の人が「関係ないでしょ」「科学的にはナンセンス」などと答える(もちろん、「関係
ある」と思っている人も相当数いるが)。ところが、関係ないと思っている人の多くが、そ
れにもかかわらず血液型と性格や相性の連関についての言説に参加し、あたかもそういう
ものを認めているような口をきく。この私自身が、血液型と性格の関係については全く否
定的である。それを信じさせるような言説がどういう手を使っているかも知っているつも
りである。それでも、時に、軽い話題のなかで、血液型と性格の関係に言及する。振舞い
方から性格を論い「典型的な B 型だね」などと評されてもあえて反論しない。
「え、ご夫婦
共に B?最悪!」と言われて、「はい、うちの場合の愛のかたちは〈罵り合い(愛)〉だと、
かみさんは言ってます」などと応える。他人の困った振舞いについて、血液型のせいにす
る説明をして、妙に納得する。このように、根拠ないと理性的に思っていても、語ってい
るうちになんだかその気になる、あるいは、問題の原因を血液型のせいにできると、落ち
着いたような気になる、といったことがある。
つまり、血液型と性格の連関についての言説には、いわば疑似的な理由の充足という効
果がある。先にも述べたように「なぜ?」への答えに納得すると、「そんなら仕方ないや」
という気になるわけだが、この場合は「納得」というよりも、語り合いの繰り返しによっ
て、答えが私たちの考える回路に定着するといったことが起きているように思われる。だ
から、私独りで勝手に思っているのではなく、皆が一緒にそう思っている、否、思ってい
るかどうかはともかく、語り合っているという共同性が必要であり(共同幻想)
、そうであ
ればこそ、私たちが「その気になる」(答えが定着する)ために、言い合う必要、繰り返し
語る必要があるのである。
他界移住という説明も、こうした類の言説に他ならない。ただし、これは日常生活にお
ける皆がリアルなことと思っていて疑いを抱かない言説と、血液型のように、理性的には
いくらでも反証できるものとの中間あたりに位置するものであろう。また、血液型につい
ての言説は、それこそ「たわいない」ものであって、否定したところで通常は混乱がおき
たり、他者を不安に陥れたりといったことは起きない。これに比し、他界移住説は、誰に
も明らかな仕方で反証することはできそうもない(保証もできないが)が、ことの真偽は
多くの人にとって相当重大な関心事である。
こう考えると、以前私は死後の世界を想定する語り方について、本当かどうか分からな
いことに望みをかけるとして、消極的に語ったのだが、それは人々が共同で紡ぎ出してい
る世界を壊すことであり、そういうことをするのは心ない行為だともいえそうである。皆
の語りの輪に入り込んで、私も同じように語り、そのようにして私自身いつしかその気に
なるという仕方で、死に直面する術を身に付けることも悪くはない、かもしれない。
ただし、
「死んだらあっちに行く」と思うことは、多くの人にとって気休めではあっても、
積極的な望みにはなっていないように思われる。確かに先にあっちに行っている人に会う
のが楽しみだという人は時にいるかもしれない。死後の生のほうが豊かで幸いだという強
い宗教的信念を持つ人は、それに大いに期待するかもしれない。だが、私が見聞きする限
りでは、大半の人はなるべく長く生きたいのであり、そう簡単に死にたくはないのである。
そうであれば、他界移住という思想は、死に対する怖れ・不安を緩和しはするが、積極的
に残りの生を生きることを推進しはしない。今を生きる希望のよすがとはならない、とい
うべきではないだろうか。
ところで、多くの宗教は死後の私の存在の持続を教えとして含み、そこに希望を見出そ
うとしてきた。中には以上で見出したような、死後の生への「まあ仕方ないや」というよ
うな消極的な思いではなく、現在の生に優ったものとして、死後の生を位置づけ、これの
ために現在の生(ないし生と死)があるとする教説も見出される。自爆テロを行う人々は、
神のための聖戦を戦って死ぬことによって、死後天国における快楽に満ちた幸福に与ると
信じて、そのような道に突き進むという。それは人間の生来の価値観、生来の欲望を肯定
しつつ、提示される希望である。だが、宗教的な思想の内部でも、死後の生に望みをおく
考え方を拒否する流れもあり、そこでは、人間はもっとラディカルに自己の望み、自らが
抱く希望の実体を突き詰める――「死後も生き続けたいという思いがそもそも我欲である」
とか、「自己の幸福を追求するというあり方自体が問題である」というように。それは生来
の価値観を覆しつつ提示される考えである5。
ここで、死後の生といっても、自らの死後の自らの生ではなく、他者の生に望みを持つ
というあり方もある。次の世代に期待し、そこに自ら志向してきたことを託すというあり
方(世代継承性
generativity)であるが、これもまた、自らの最後の日々を積極的に生き
るように働くとは言い難い。確かに、自らの生を通してしてきたこと、あるいは自らの生
の歩み自体が次世代によって継承されていくということは、自らの生全体の意味を支える
ポイントとなりはするだろう。だが、後世に望みを託し、自らこれまでしてきた仕事をバ
トンタッチしてしまえば、自らの残りの生の日々は余計な時間であり、「もう私にはやるこ
とが残ってないから人生を終りにしたい」ということになりかねない6。
こう考えてくると、目下の残された生を積極的に生きるように人々を支える希望は、あ
るとしたら、
「死へと向かう目下の生それ自体に」あることになる。だが、死に直面した事
態において、生のどこになお希望の可能性があるだろうか。
3
現在の生の中に希望を見出す
「希望は現在の生のどこに見出され得るか」と問う時、
《希望》とは何であろうか。それ
は、「私の前方に見出され、私をそれに向かって積極的に生きるようにするもの」と言うこ
とができるのではないか。もし、このように定義してよければ、希望は、必ずしも何かあ
る物として私の前方にあらねばならないわけではない。むしろ、私が前向に積極的に生き
ようとしている時、私が向っている彼方に希望がある、否、投映されている。つまりは、
「希
望がある」とは私の外部、私の未来に《ある》ものごとについて語るものではなく、私の
「前向きに積極的に生きる」姿勢を語る表現である。そうであれば、こう言うべきだろう
――「希望を最後まで持つ」とは、
「現実への肯定的な姿勢を最後まで保つ」ということな
のだ、と。《希望》という表現によって語られていることは、自己の生の肯定――これでい
いのだ、という肯定――に他ならない。
ここで、「自己の生」といっても、生を生きてしまっている生(完了形)としてみること
と、生きつつある生(進行形)としてみることとの二重の視線を差異化しておこう。双方
とも現在の生のことではあるが、ただアスペクトが違う――今のこの生の生成した状態と、
一瞬先へと一歩踏み出す活動としての生と。完了したものという生のアスペクトにおける
肯定は「これでよし」との満足である。他方、生きつつある生、つまり一瞬先へと一歩踏
み出す活動のアスペクトにおいて、前方への期待、前方に向かっての肯定が、希望に他な
らない。
こうして見ると、「希望を最後までもつ」とは、「尊厳ある死」の本来の用法(=尊厳を
持って最後まで生きる)が言及していることと同じ事態に言及するものであることになる。
「尊厳を持って with dignity」とは、自らの現在の生を肯定する姿勢を指しており、「尊厳
をもって死にいたる dying with dignity」は、そのような姿勢で死に至るまでの最後の生を
生きることを語る表現だからである7。だが、最近では「尊厳死」といった訳語と共に、こ
の表現を、「尊厳を保つための死」というような、いわば「死の選択」を肯定するものとし
て理解する傾向が強く感じられる。日本で「尊厳死」というと、徒な延命治療をしないと
いう仕方で死に至ることを指すことが多く、またインターネット上で death/dying with
dignity を検索すれば、オレゴン州の「尊厳死法」に関連するサイトばかりがヒットする。
オレゴン州では「尊厳死」と言えば、「医師に幇助された自殺」のことだという。
もちろん「希望をもって死に至るまで生きる」姿勢も死を拒否しているわけではないが、
これと「死の選択」としての尊厳死とは、死・生への姿勢が異なっている。つまり、死を
肯定するとしても、それが一歩踏み出した先が死であろうともよいのだという肯定的な前
向きの姿勢におけるものか、あるいは一歩踏み出すことから退く方向、生を否定する方向
におけるものか、が異なっている。それは希望ある死への傾斜と絶望からの死への傾斜と
の区別である。前向きであり得るかどうかは、完了形の生(これまで歩んできた生)を肯
定できるかどうかにかかる。絶望は、現状の否定(「もはや私の尊厳は失われた」といった)
の上での、一歩踏み出すことの拒否である。
では、どこにそうした肯定的な姿勢の源を求めることができるだろうか――人間の生の
そもそものあり方に、だと思う。生は独りで歩むものではない。共同で生きるように生ま
れついている人間は、皆と一緒に、あるいは、少なくとも誰かと一緒に、歩むのでなけれ
ば、肯定的姿勢を取れないようにできているようだ。そうであればこそ、希望は「自分は
独りではない」ことの確認と連動する。死に直面している人と、また厳しい予後が必至の
病が発見された人と、医療者が、家族が、友人が、どこまで共に在るかが鍵となるのは、
このような事情による。――もちろん、悲しみが解消されるわけではない。悲しみは希望
と共にあり続ける。それが死すべき者としての人間にとっての希望の在り方なのであろう。
居るだけの生を肯定すること
高齢により、あるいは疾患が進行することにより、死が
近づいてくる(先がだんだん短くなってくる)と、通常、できることがだんだんなくなっ
て行く。これまで先行きの見通しをいろいろと立てながら、いろいろなことをしてきた人
は、このような事態に適応するために、状況に対する自らの姿勢や認識を改めなければな
らなくなる。「自分の身の周りのこともできなくなって、人さまの世話になるようじゃあ、
もう私なんか生きていても仕方ないねえ。」――このような発言がよく聞かれる。でも、そ
の人は今ここに《居る》ことはできる。また、
《居る》ことができるように環境を整えるこ
とが、周囲の者たちの務めとなる。先の発言に続いて、「でも、私はまでここに居ていいん
だねえ」と言えるように、つまり、ここに「居られる」ように、「居心地」を良くすること
が肝要だろう。それには、その人の〈居る〉を肯定する仲間が居なければならない。「あな
たは居ていいのだ、否、居て欲しい」と語りかけ、語り合う、共に生きる人々の繋がりの
中で、人は居所を見出すことができる。
4
時の流れを越えた場に向かって
最後に、死後に何らかの希望がないと人には救済がないことになるかということ、言い
換えれば、たとえこの世の短い生だけが私の存在であり、生であるとしても、それで十分
ではないか、ということを述べたい。
過去・現在・未来という時の流れを見つつ生きる人間 私たち人間は過ぎ行く者である。
今私たちが生きている場である世界を固定したものとして言えば、私はこの世に生まれて
来、そして、そう遠くない未来にこの世を去る。この意味で、私はこの世界を過ぎ行きつ
つある。また、こうも言える――私のすることなすことは全て、過ぎ去って行く。今私は
パソコンに向かって「私」と打ち込む。それはその次の瞬間には過去のこととなる。もう
一度同じく「私」と打ち込んでも、それは先に「私」と打ち込んだこととは別のことであ
り、先の私の動作はもう二度と再び現前することはない。それどころか、「今この瞬間私は
ここにいる」は、次の瞬間には過去のこと、つまり「一瞬前にも私はここにいた」となっ
てしまう。また、私を固定したものとして、以上のことを言い直すならこうも言える――
一瞬一瞬の出来事が私の前に現れ、過ぎ去っていく、と。いや、これは私を固定して言っ
ているというわけでもなさそうだ。一瞬一瞬の出来事が私の前を過ぎ去るのは、その出来
事を見ている私が過ぎ去ることと対になったことだからである。・・・このように語る時、
私は何が過ぎ去ると言っているのだろうか?私がここにあり続けるとしても、
「私は今ここ
にいる」は「さっきここにいた」となるというのであれば、それは時が流れた、時が過ぎ
去ったということに他ならないだろう。私たちはそうした時の流れを意識し、時が過ぎ行
くことと、自らが過ぎ行くこととを裏腹のこととして理解している。
だが、時が過ぎ行く、すべての出来事が過ぎ行くと把握し、私自身が過ぎ行くと自覚す
る――そのような認識が人間にできるのは、人間が時に流され、ただ過ぎ行くだけの存在
ではないからだとも言える。人間は、ほんのわずかながら時を越え、時の流れを流れとし
てみることができる、流れを越えてとどまる視点に立っている8。
そもそも、私たちは過去・現在・未来という時の区別、ないしは出来事の区別をし、そ
れに従って私たちの今の居場所、今の位置を把握している。「昨日、編者から死生学の原稿
は未だ出来ていないのか、と催促された」と、私は過去の(つまり過ぎ去った)出来事を
記憶している。それに応えて原稿をまさに書いている私は、
「来週早々には仕上げられよう」
と、未来の(つまり未だ来ていない)出来事を予想している。原稿を書くという、目下の
(つまり私に現前している)作業は、このような過去と未来についての把握を伴って、私
の現在の位置を定めているからこそ、できる(あるいは、やらねばならぬと自覚できる)。
この時私は、ある範囲の過去―現在―未来を鳥瞰することができる視点に立っている。も
し、この視点自体が時の流れとともに過ぎ去るものであるとしたら、私は時々刻々、その
時点における現在の(現に在る)出来事を把握するだけで、過去や未来を眺めることなど
なかっただろう。いや、確かにこの視点自体もある意味では過ぎ去っている。昨日の編者
から催促されていた時点において、私の視点はそこにあり、今日の今原稿を書いている時
点は未来であった。だが、今、私に視点は原稿を書いているここにあり、昨日の編者との
やりとりは過去のこととなっている。昨日の視点は過ぎ去った、ということもできる。が、
昨日の視点から現在の視点にいたるまでの視点は連続しており、同一だとも言える。それ
は昨日の私と現在の私は同一であるということと連動していることだ。同一の私が過去か
ら未来へと連綿と紡がれる物語りを語る。物語りの同一性が私の同一性の本質である。
そもそも「私は現在原稿を書いている」という時、「現在」とは本当に現在と言ってよい
のか。現在とは、この私に未来から、一瞬現前し、過去へと消えてしまう、その瞬間――
未来が過去へと移り行く境界――を指しているとしたら、私は「原稿を書く」と私の行為
を把握できないだろう。そればかりか、「左の薬指で「W」キーを叩く」というその一瞬の
「動き」すら、そのような動きとして把握できないだろう。そのような動き自体にも、ほ
んのわずかとはいえ時間がかかる――境界としての現在のみならず、過去と未来からなる
――からである。
幅のある現在
だから、その動きを現在の動きとして私たちが把握しているからには、
私たちにとっての現在は、一瞬(未来と過去の境界)ではなく、幅を持つものでなければ
ならない。薬指が W キーに近い位置にある―さらに近い位置にある―W キーに触れており、
W キーが他のキーよりもボードの奥に引っ込んでいる―W キーから離れている・・・とい
った一連のことを併せ把握するのでなければ、
「動いた」とは分からないからだ。同様にし
て、
「原稿は未だですか?」と催促された際に、私は「ゲン・コ・ウ・ワ・マ・ダ・デ・ス・
カ」という声を(それらは次々と鳴り響いては消えて行ったのであり、どの二音節も同時
に存在することはなかったにもかかわらず)、ひとまとまりのものとして聞き、理解した。
それを聞いた時点において、「原稿は未だですか」はひとまとまりのものとして、私に現前
していた。ほんの少しの幅であるにせよ、
〈現在〉には幅があるのである。
「ゲン・コ・ウ・
ワ・マ・ダ・デ・ス・カ」を構成する音節のそれぞれはそれ自体としてみれば、次々と鳴
り響き、消えて行くものであって、決して暫しの間といえどもとどまって共にあることは
なかった。それにもかかわらず、それらは私に対しては暫しの間現前してとどまり、かつ
共に(一緒に)現前していた。ただし、それらの間には順序がある。構成する音節は「ゲン・
コ・ウ・ハ・マ・ダ・デ・ス・カ」という順序であることも把握している。
そのような幅のある現在(私に把握された)において起きた出来事が過ぎ去って、過去
の出来事(原稿を催促されたこと)として私たちの記憶にとどまる。それゆえ、過去の出
来事にも必ず時間的な幅がある。未来の出来事(原稿を脱稿する)も時間的幅のあること
として私たちが予想し、期待するものである。
人間にとっての現在に幅がないとしたならば、時の流れということもまた、人間は知ら
なかったであろう。その幅の中で、出来事にはかたちがあり、それは出来事を構成する諸
要素の順序のある配列として記述することができる。
「ゲン・コ・ウ・ハ・マ・ダ・デ・ス・
カ」という諸音節は、私の前に共に現前しているが、あくまでもこの順序で並んでいるの
でもある。また、編集者に催促されたこと、今原稿を書いていること、近い将来に脱稿す
ることが、過去、現在、未来のこととして私の前に共に現れており、かつその間には順序
がある。
人は時の流れをわずかに越えている
人間に〈幅のある現在〉が現前するということは、
人間が時の流れにただ流されるのみの存在ではなく、時の流れをほんの少しとはいえ越え
た存在であることを意味する。以上で指摘したように、もし私たちにとって現在が未来と
過去の境界であるに過ぎないとしたら、私たちは凡そ動きというものを把握できず、した
がって生成消滅を知る事もないであろう。かつて生まれ、やがて死ぬというような意識も
なく、時の移り行きに従って移ろい行くのみであったろう。だが私たちは時の流れを意識
し、幅のある現在を把握する存在である。そして、そうであればこそ、自らのこしかたを
反省し、時に悔い、行く末に希望をいだき、あるいは不安に思うことがある。また自らが
〈過ぎ行く身〉であることを知って悲しむ存在でもあるのだ。
時の流れを限りなく越えた永遠
時と永遠についての西洋の思索の基礎になったアウグ
スティヌスによれば、永遠とは無限の過去から無限の未来までの無限の時間のことではな
く、私たちが時の流れをほんの少し越えているのに対し、時の流れを限りなく越えている
あり方のことである。時の流れを少しだけ越えている私たちに対しては、少しだけ幅のあ
る現在が現前する――「ゲン・コ・ウ・ワ・マ・ダ・デ・ス・カ」を構成する諸音節は共
に同時に(ただし、順序を伴って)、かつしばらくの間、現前する。これに比して言えば、
時の流れを限りなく越えている永遠においては、ある言表を構成する諸音節どころではな
く「全てが」
、つまり、言ってみれば世の初めから終わりまでのすべての出来事が、また「暫
しの間」ではなく「常に」現前する。アウグスティヌスが永遠について語った「全てが共
に同時に(simul)、かつ常に(sempiterna)現前している」という記述は、このようなことと
理解できる。ここで永遠の神という存在を想定して言えば、人間が「ゲン・コ・ウ・ハ・
マ・ダ・デ・ス・カ」という発話を現在の出来事として一挙に把握するように、神は世界
の初めから終わりまでの全てを現在のこととして一挙に把握するということになる。永遠、
すなわち時の流れを限りなく越えているというあり方は、このようなこととして理解され
る。
ここで、「全てが共に同時に、かつ常に現前している」という定義に導かれて、時の流れ
を限りなく越えた場においては、時の流れがないことになることが理解されもする。「共に
(同時に)」は、事柄の生起の時間的前後関係に言及する語であって、あるものが別のあるも
のに時間的に先立つのでも、遅れるのでもないこと、つまり両者の生起の同時性を示す。
だが、全てが「共に(同時に)」だとなると、もはやどこにも時間的前後関係がないことにな
る------そういう仕方で、
「全てが共に(同時に)」は、時の流れを打ち消す。また「常に」は、
時の流れのなかで、少しの間持続するもの、長い間持続するものという多様性があるなか
で、「ずうっと持続する」ということを示す。だが、全てが「常に」であるならば、長い時
間、短い時間ということがそもそもなくなってしまう。このようにして、生起する諸事物
間の時間的前後関係、長短関係を打ち消すという仕方で、時の流れが打ち消される。永遠
においては、何物も過ぎ行かない9。ただし、付け加えていえば、ここで時間的順序関係が
ないことは、全てが混沌として共に在ることではない。事物間の順序関係は成立している。
そうでなければ、事物のかたち自体がなくなってしまうであろう。
永遠の視点から見れば何も過ぎ行かない
以上、時と永遠について、いささか立ち入っ
て考えたのは、この論点が、遠からず死に行く私――過ぎ行く私――をどう把握するかと
いうことに深く関わっていると思うからである。「人間は過ぎ行く存在だ」と見るのは、見
ているのが過ぎ行く私たちだからである。永遠というあり方をしている超越者を何らか想
定するならば、その超越者から見れば「全ては共にそして常に現前している」のであって、
私もまた過ぎ行くことなく現前している。それどころか私たちのこの一瞬一瞬が全て過ぎ
行くことなくとどまっている。永遠の存在の前に現前することによって、過ぎ行く存在が
永遠に与かる、ということである。まさに、瞬間もまた永遠であるのだ。
したがって、それぞれの人生には長短があって不公平であると思い、また、誰もがやが
て死に、別れなければならないと悲しむのは、過ぎ行く人間の過ぎ行く視点に立っての思
いである――永遠の視点からは、全ての人間の生はそれぞれの位置にとどまって永遠であ
る。さらに言えば、ここで永遠の視点に立つ超越者を想定して、その立場から見るならば
私もまた過ぎ行かないのだと論じなければならないわけでもなさそうである。――永遠と
いう視点を想定する私もまた、ある仕方で永遠の視点に立っている。そうであれば、超越
者を想定しなくても、私が今時の流れを越え、これを鳥瞰しているということから、同じ
ことを語り得ることになろう。
そのような視点に立つ時、天文学的時間の流れの中で私たちの生は皆、一瞬輝いては消
える線香花火の火花に過ぎない。人生長かろうが短かろうが、皆一瞬の火花である。だが、
無の闇の中に一瞬たりとも存在が輝いたということ自体は永遠にとどまる。時の流れを鳥
瞰する私の前に、点としての私の生は過ぎ行かず、とどまって在る。
私たちは共に過ぎ行く者であり、死に向かう存在である。だが、「過ぎ行く」というので
あれば、共に「現に存在している」のであり、
「死に向かう」のであれば、共に「現に生き
ている」のである。共に死に向かっていることが、生ある者の共同の根拠になる。闇の中
に今共に瞬いているという自覚こそが希望の源である。――このような迂路によっても、
希望は未来に対してあるのではなく、現在の自らの存在をそれとして肯定し得る途にこそ
あることが確認される。
*
*
*
*
*
以上、死に直面した時の希望ということについて考えてきた。それは結局、私たちがそ
の置かれた時々において、現在の生をどう見るかということに関わる。死に直面した状況
においても、〈既に生きた生〉としての現在の生を良しとし、「私は何もできることがなく
ても、ここに居ることができる」と分かることが、〈生きつつある生〉としての現在の生へ
の肯定的な姿勢――〈希望〉を持つあり方――につながる。いろいろなことが〈できる〉
に越したことはない。だがそうでなくても、共に生きる人々の中にあって、私は今を肯定
し、希望を持ち続け得る。また、その私の現在の生を、時を限りなく越えた視点に身を置
いて鳥瞰し「この一瞬一瞬の生は過ぎ行くことなくとどまる」と看做す視点からも、私の
一生を一瞬ではあっても、闇の中の瞬きとして、肯定的に捉えることが可能である。私の
生をそのようにして肯定する姿勢が、希望と表現される。お互いに瞬いては消えるいのち
として、繋がり合うことが、そのような肯定としての希望を支えるのである。
1
天皇らについての「崩御、崩ずる」、公候について使われる「薨ずる(こうずる)、薨去(こ
うきょ)」、四位・五位の人についての「卒す(しゅっす・そっす)」などは中国由来の表現
を適用したものであろうから、ここでは考えない。
2 問いを発するということについては、次の拙論を背景にしている。清水哲郎『世界を語る
ということ―「言葉と物」の系譜学』(双書 哲学塾)岩波書店, 2008 年(第一章)
3 この点、英語では “My father has been dead for ten years.” と、現在完了形の継続を表
す語り方があるのと、対照的である。
諸岡・??「」(『死生学研究』・・・)
5 このような考え方は、私たちの身近なものとしては仏教に見出すことができるだろう。だ
が、永遠の生命を唱道するキリスト教においても、幸福追求(そしてその最たるものとし
ての死後の生への望み)を批判する立場もある。次の拙論参照。清水「ルター」
(伊藤博明
責任編集, 哲学の歴史 第4巻 ルネサンス【15-16 世紀】, 393-428, 中央公論新社, 2007
年)
6 もっとも、世代継承ということを、何かを「遺す」ということとして考えれば、話はまた
別かもしれない――「生きた証しを遺す」とか「人は死んで名を遺す」というように。も
ちろんこうしたこだわり自体に否定的な考え方もあり得るが、「遺す」ということを、終わ
りに到るまでの生を通して行うことであり、その生の意義をそのようなアスペクトで見て
いると理解するならば、これは希望を目下の生自体に見出す仕方の一つということになろ
う。
7 詳しくは、さしあたって拙論「人間の尊厳と死」
(医療教育情報センター編,『尊厳死を考
える』127-152 頁、中央法規 2006 年)参照。ここからすると、「尊厳死」がしばしば、尊
厳を保つために死を選ぶことであるかのように使われる用法が、如何に本来の用法から隔
たり、頽落したものであるかが、分かる。
8 このこと、および以下の論については、そのことを指摘したアウグスティヌスの思索(『告
白』第 11 巻)を下敷きにして、以前考えたことがあるので、ここではそこで得られた結論の
みを記す。拙著『医療現場に臨む哲学』第 8 章参照
4
9
以上の議論については、清水 1990-1:191-206 、および 1990-2 も参照。
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