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沖縄の自由民権運動の父−謝花昇

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沖縄の自由民権運動の父−謝花昇
沖縄の自由民権運動の父−謝花昇
自由民権運動というのは、明治10年代に板垣退助らが、
専制政治を行う明治政府に対して、国民の政治参加を実現す
るために国会の開設を要求した運動である。政府の度重なる
弾圧にもかかわらず、やがて全国的な運動に発展し、ついに
1888(明治22)年の大日本帝国憲法の発布によって、
国会が開かれることになったのである。
ところで、わが沖縄県にもこれと同じようにしいたげられ
ていた県民の権利を獲得するために懸命になって活動した人がいた。その中心と
なったのが「沖縄の自由民権運動の父」とよばれる謝花昇である。
謝花昇は、1865(慶応元)年に東風平間切(現在の東風平町)の農家で7
人兄弟の長男として生まれた。このころの農家はどの家も貧しく、重い税のため
に一日中働いても生活を維持するのがやっとという状態だった。
昇も幼い頃から、畑仕事の手伝いや家畜の世話、また、弟や妹の子守などの仕
事を任され、遊ぶ暇もなかった。朝早くから畑に出て、暗くなってくたくたに疲
れて帰ってくる両親を見ると、幼心にも「たくさん手伝いをして、少しでもお父
さんとお母さんを楽にさせてあげよう 。」と考え 、いつも進んで働くのであった 。
学校に通うようになってからも、勉強はもちろんのこと家の仕事もこれまで以
上に頑張り、学校では常に優秀な成績を修めていた。その後、優秀な成績が認め
られ、17歳の時の1882(明治15)年には、県で最初の留学生5名の中に
選ばれ、東京の学習院で勉強することになった。学習院では、農民出身の昇のほ
かはみんな華族や上級階級の息子たちばかりでしたが、成績は常にトップであっ
た。2年後、級友のほとんどが法律や政治への道を選んだのに対し、昇は、郷里
のことを考え農業への道を志して農科大学へと移った。
9年にも及ぶ東京生活での学業を終えた昇は、郷里への帰途についた。17歳
の若さで留学した彼も、今や26歳の立派な若者に成長していた。港には家族を
はじめ、郷里の人々が大勢で迎えにきていたが、久しぶりに会う父や母の姿を見
ると、涙がとめどなくあふれ出るのをどうすることもできなかった。
休む間もなく昇は県庁の技師に任命された。しかし、当時、県知事は中央政府
の任命によって決められたので、知事をはじめ、県庁の重要な地位も本土出身者
で占められていた 。また 、農民たちの生活も相変わらず貧しい状態が続いていた 。
昇は、このような沖縄の状態を見て、やるべき課題の多さを痛感するのだった。
県庁に勤務するようになった昇が、最初に手をつけたのは、農民たちにかけら
れている重い税を少しでも軽くすることだった。長年続いてきたことなので、反
対する役人も多く 、極めて困難な仕事だったが 、知事や関係者を熱心に説得して 、
ついにこれまで現物で納めていた砂糖や米などの税を、現金で納めることができ
るようにした。これによって、農民たちの負担もかなり軽くなったのである。ま
た、農科大学で学んだ造林や養蚕技術なども広く農民たちに教えたので、農民た
ちから大いに喜ばれ 、「東風平謝花」という名で人々の尊敬を一身にあつめるよ
うになった。はじめ、彼のやり方に反感を持っていた本土出身の役人も、彼の人
柄や、農民たちを救おうとする熱心な態度に心を動かされて、次第に協力的にな
ってきた。このように、昇に対する人々の期待はますます高まっていた。
鹿児島出身の奈良原繁が沖縄県知事に任命されたのは、昇が県技師になった翌
年である。
奈良原知事は、沖縄の人々のことよりも自分の利益を優先する人だった。知事
は、就任後まもなく、廃藩置県によって職を失った沖縄の士族に土地を与えると
いう理由で、各地にある山林を開墾することを計画した。開墾主任をしていた昇
は、これらの山林が農民たちの生活になくてなならないものであると猛反対した
が、開墾は進められていった。
ところが、実際に開墾されると、これらの土地を手にしたのは士族ではなく、
他府県の金持ちや知事に味方した特権士族、そして知事自身だった。このことを
知った昇は、激怒し、知事に激しく抗議したが、逆に知事の命令に背いたとの理
由で開墾主任の職をやめさせられてしまったのである。
その後も、県庁の重要な地位を鹿児島県出身者で固めたり、県民の共有金を勝
手に使用するなど、知事の県民を無視した悪政はとどまることを知らなかった。
知事を恐れて言いたいことを言わない人が多い中で、昇は、たった一人で直接抗
議したり、仲間を増やす活動などを行ったが、知事の強大な権力の壁を崩すこと
はできなかった。
ついに昇は大きな決意をした。それは、7年間続けた県庁勤務を辞めることで
あった。このことを知った友人や郷里の人々は、何とか思いとどまらせようと昇
を説得したが、昇の意志は固く、決意は変わらなかった。県庁を辞めた昇は、本
格的に知事をやめさせる運動を展開した。以前から昇の活動に協力していた同志
を集めて「沖縄クラブ」を組織し 、「沖縄時論」という雑誌を発行して、知事の
悪政を県民に知らせた。また、県知事がこのような勝手な政治ができるのは、沖
縄に選挙権がなく、国会の場に県民の代表である議員を送ることができないから
だと考え、沖縄からも国会議員を送ることができるように参政権獲得運動を進め
た。さらに、何度か上京して、有力な政治家に会い、沖縄の状況を説明して協力
を訴えることも行った。
ところが、このような昇の動きを、奈良原知事が黙っているはずがなかった。
知事は雑誌の発行を禁止したり、警察を使ったりするなど、さまざまな方法で活
動を妨害した。そして、東京の知人宅に泊まったある晩、昇は突然日本刀を持っ
た暴漢に襲われた 。暴漢は昇の胸ぐらをつかんで日本刀を首すじに当て 、
「 おい 、
貴様、今やっていることをやめろ!今すぐここで約束しないと殺すぞ!」と、今
にも突き刺しそうな剣幕だった。一瞬たじろいだ昇だったが、逆に暴漢をにらみ
返した。そのすきに騒ぎを聞きつけた同志が部屋に入ってきたため、暴漢は逃げ
だし、昇は危うく難を逃れることができた。
この事件には、さすがの昇も動揺の色を隠すことができなかった 。「もし私が
死んだら、残された妻や2人の子供はどうなるのだろうか。しかし、たとえ命を
落とすことがあっても、決してやめるわけにはいかない 。」そう考えると、逆に
決意を固めるのであった。
その後の昇は、さらに必死になって、活動を続けた。ところが、長年の無理が
たたったのだろうか、これまで病気一つしなかった昇が、突然精神の病に倒れて
しまったのである。その後7年にも及ぶ妻や友人の手厚い看護にもかかわらず、
明治41年(1908年 )、43歳の若さで、ついに帰らぬ人となってしまったので
ある。
謝花昇の死後8年たって、条件付きながらも沖縄で参政権が確立された。本土
より22年遅れての施行であった。
沖縄に参政権が実施された日を見ることもないまま、昇はこの世を去ってしま
ったが、彼はそれ以上のものを私たちに残してくれた。それは 、「沖縄を愛する
心」である。自分や家族を犠牲にしてまでも沖縄の人々のために尽くした彼の一
生は、今でも人々に深い感動と勇気を与えている。
道
徳
学
習
指
導
案
中学校3学年
1.主題名
県民のために生きる(郷土愛)
2.資料名
沖縄の自由民権運動の父−謝花昇
内容項目
4−(8)
3.主題設定の理由
(1)主題観
人間は一人で育ったものではなく、一人で生きていけるものでもない。現在の地域社会を築
いてくれた先輩や先人たちが、それぞれの立場で努力をしてくれたおかげで、現在の生活があ
り、今の自分がある。
社会に尽くし、自己の人生を大切に生きてきた先輩や先人たちへの尊敬の念を深めると同時
に、その生き方を学ぼうとする心情を深めることは、自己の向上へつながるばかりではなく、
社会生活の発展・向上には欠くことができないことである。
(2)生徒観
中学生の時期は、自我の確立を意識するあまり、ともすれば、自分が自分だけで存在してい
ると考えがちである。この結果、親や教師・周囲の大人に対しても批判的な考え方をする傾向
にある。
このような時期にある生徒を考えた場合、自分が自分だけで存在しているのではなく「家
族」や「社会に尽くした先人」によって自分が生かされていることに気づかせ、同時にその生
き方を学ぼうとする心情を育てることが大切である。
(3)資料観
謝花昇は、弱い立場におかれた沖縄の人々や農民たちのことを常に考えてきた人物である。
そのため、県庁をやめたり、命をねらわれながらも人々を救うために活動を続けるなど、自己
を犠牲にしてまでも郷土のために尽くそうとする彼の生き方は、読む者には深い感銘を与える。
このような昇の生き方は、先人に対する尊敬の念を深めるのに適した資料であり、おのずと、
その生き方を学ぼうとする心情を深めることができると考える。
4.ねらい
郷土の発展のために尽くした先人に対する尊敬の念を深めるとともに、その生き方に学ぼう
とする心情を育てる。
5.展開
区分
学習活動(主な発問と予想される生徒の反応など)
指導上の留意点
導入
1.沖縄の先人たちの名前をあげさせ、それぞれがどん
・郷土の先人たちへ関心
な業績を残したかを話し合う。
を持たせる。
展開
2.資料「沖縄の自由民権運動の父−謝花昇−」を読ん
で話し合う。
(1) 幼い昇が、進んで両親の手伝いをしたのはどうして
・自分が手伝った分、親
だろうか。
は助かることになる。
・父や母に楽をさせたいから。
・進んで手伝うことの大
・お父さんやお母さんは、畑仕事でとても疲れている
切さを理解させたい。
から。
・昇が手伝った分、両親は楽をすることができる。
(2) 昇はなぜ、県庁をやめたのだろうか。また、友人や
・自己の出世や生活の安
郷里の人々が思いとどまらせようとしたのはなぜだろ
定を優先する考え方と自
うか。
己を犠牲にしてまでも人
・知事をやめさせるための活動を始めるため。
々のために尽くすことを
・県庁に残った方が将来の出世につながる。
優先する考え方を対比す
・やめたら金銭面で苦労することになる。
ることによって、価値の
大切さを気づかせたい。
(3) 昇は、なぜ命を落とすことがあってもかまわないと
考えたのだろうか。
・命を狙われる恐怖感を
感じ取らせるようにする。
・自分のことよりも県民のことが大切だと考えたから。 そうすることによって、
・自分がやめたらやる人がいなくなるから。
昇の決意の強さをとらえ
させたい。
(4) 謝花昇の生き方から学んだことは何だろうか。
終末
・生徒自らの生き方の問
・常に貧しい人々のことを考えている。
題としてとらえさせるこ
・沖縄のために命をかけて活動した。
とによって実践意欲につ
・自分のことより県民のことを考えて行動している。
なげたい。
3.地域でボランティア活動を頑張っている人や、自治
・地域に役立つ活動の大
会活動などで地域社会に貢献している人の話を紹介す
切さをつかませることに
る。
よって、実践意欲を高め
たい。
<資料「沖縄の自由民権運動の父−謝花昇」を活用して>
1.生徒の感想
○
謝花昇って人のことはあんまり知らなかったけど、この話をよんで謝花昇さんはとってもす
ごい人だと思った。沖縄県民が選挙権を獲得できるように、たくさんの努力をして、刺客にも
負けないで「東風平魂」でがんばる姿はとっても感動しました。私だったら、すぐあきらめて
るかもしれないけど、謝花昇のように、強い信念をもてば、なんでもできるんだなと思いまし
た。あきらめないでがんばりつづけることが大切なんだと思いました。
○
私は、この資料を読んで、今私達が平和に暮らすことができるのは、このような人々たちの
おかげなんだということをしみじみと感じました。もしも、彼らのような人々がいなければ私
たちは今も苦しいくらしをしていたかもしれません。このように、昔にすばらしい業績をのこ
した人の分だけ私たちは毎日を楽しく生きる事ができるんだと私は思いました。私は、いろん
な業績をのこした人々の事を、よく知って感謝したいです。
2.授業に向けての留意事項
(1)資料について
(原版を修正した箇所)
原版29p18行(最後の行)
「全国から・・・」を「学習院では、農民出身の昇のほかは、
みんな華族や上級階級の息子たちばかりでしたが」に修正。
原版30p2行「郷里の事を考」を挿入
資料後半に「謝花昇の死後8年たって、条件付きながらも沖縄で参政権が確立された。本土
より22年遅れての施行であった。」を挿入。
(2)その他
社会科の歴史分野において、時代ごとの偉人について扱ってきているが、郷土沖縄にも命がけ
で尽くした人々がいることを再認識させる。
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