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csij-journal 017 yamaguchi

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csij-journal 017 yamaguchi
『市民科学』第 17 号(2008 年 6 月)
【書評】
『これだけは伝えておきたいービキニ事件の表と裏』
大石又七
著/かもがわ出版 2007
評者:山口直樹(北京大学科学と社会研究センター)
この本の著者、大石又七氏は、アメリカのビキニ環礁での水爆実験で被曝した第五福竜
丸の乗組員だった人である。
私が、この本の著者の大石又七氏にはじめてお会いしたのは、2004 年 7 月のことだった
と記憶している。市民科学研究室の会員の笹本征男氏が主宰する「ビキニ事件の真実を学
ぶ会」を第五福竜丸記念館でやったときのことだった。私が、ゴジラに関心を持っている
ということを知った笹本氏が、声をかけてくれたのである。ゴジラに関心を持って科学技
術史の観点から研究している私のような人間がいることを知って大石氏は、尐し驚いたよ
うだった。
そして、その約一年後の 2005 年 6 月、私は大石氏を囲む「ビキニ事件の真実を学ぶ会」
で「ゴジラの誕生と第五福竜丸事件」と題する報告を行うことになった。実は、私はその
報告会の後で行われた二次会の席で大石氏にゴジラのおもちゃをプレゼントしたことがあ
る。第五福竜丸の元乗組員にゴジラのおもちゃをプレゼントした人間は、私ぐらいのもの
なのかもしれない。しかし、ともかく大石氏は、私がプレゼントしたゴジラのおもちゃを
気に入ってくれたようだった。その頃から大石氏は、「孫たちが来ると山口さんのくれたゴ
ジラで遊んでいます。
」などと書いた暑中見舞いや年賀状を北京まで送ってくれるようにな
った。
また、あるとき大石氏から北京まで録音テープが送られてきた。なんだろうとおもって
その録音テープを聞いてみると神戸のラジオ局がゴジラ特集を組んだときの番組が録音さ
れていた。大石氏は、そのラジオ番組にゲストとして招かれていたのだが、そこで「中国
の北京でゴジラに関心をもって研究している人がいる」といって私のことにも言及してく
れていたのだ。だから私のところに録音テープを送ってくれたというわけである。
ゴジラという存在が、大石氏と私を結びつけてくれたのだが、本書もまた大石氏から「感
想があったら聞かせてください。
」という紙を添えて 2007 年 7 月 27 日という日付の署名入
りで北京にいる私のところに送られてきた。帯には本書を推薦する吉永小百合、筑紫哲也、
黒田征太郎、鳥越俊太郎といった著名人の名前が記されている。
現在は孫もいる大石氏だが、ここまでくるまでには、普通の人には想像できない苦難が
あった。それは普通の漁師だった大石氏が、三冊も本を書いていることからも容易に想像
できる。もし大石氏が自らの人生を決定的に変えたビキニ事件に遭遇していなければ、本
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『市民科学』第 17 号(2008 年 6 月)
書はかかれなかっただろう。
第一章「最後の航海」は、やはりこのビキニ事件の出来事の記述から始まっている。
大石氏は、ここで第五福竜丸で被爆したときのことをできるだけ具体的に当事者の観点
から回想している。船頭はビキニが危険区域に加わり核実験の舞台になっていたことを知
らなかったが、機関長と相談して3月 1 日を最後の操業の日と決めていたという。大石氏
はそのとき船室の入り口にあるベッドに横になり、戸口から暗い外を何気なく見ていた。
「そのときである。
「サアー」という夕焼色が空いっぱいに流れた。驚いて外に飛び出す
と、右の水平線から左の水平線まで空も海も船もその色に染まっている。そして、その光
が消えないのだ。
」
(24 頁)水爆実験に遭遇したときのことを大石氏はこう回想している。
二時間ほどすると白い物が空からぱらぱらと降り始めた。これが死の灰であった。
3 月 14 日第五福竜丸は、52 日間の航海を終えて焼津港に帰る。乗組員は病院へ向かい検
査を受けるが、白血球は通常の半分しかなかったという。この事態を最初に報道したのが、
のちに「原子力の平和利用」のキャンペーンをはってビキニ事件の記憶を風化させること
に貢献することになる読売新聞だったことは皮肉なことだったといわなければならない。
また、アメリカ側の動きも記されている。コール原子力委員長は「漁師たちは危険区域
内で実験をスパイしていたこともありうる」と発言し、広島・原爆傷害調査委員会(ABCC)
モートン所長、医師の J・ルイス海軍大佐、血液学者メリー・シアンズ博士などもやってき
ていたが遠くからみていただけで何もしなかったという。おそらく彼らは、大石氏たちを
治療対象としてではなく実験の対象としてみていたのであろう。
さらに 3 月 31 日になるとコール原子力委員長が再び、
「日本人漁師は漁業以外の目的で
危険区域内に入り核実験をスパイしていたかもしれない。
」と発言するのに対応して衆議院
外務委員会で岡崎勝男外務大臣が、
「原子灰がソ連に持ち去られたという噂を聞いている」
と発言し、大石氏たちは内外から疑いの目で見られ、CIA(米中央情報局)と日本の公安か
ら身元調査をされることにもなった。実際は普通の漁師でしかなかったのだが、これは、
米ソ冷戦がもたらした異常事態である。そしてビキニ事件によって原子マグロや放射能雤
という言葉が流行語になり、国民の放射能に対する恐怖が、増大する状況のなかで大気圏
と海洋汚染調査を迫られた政府は 5 月 15 日に調査船を出港させるにいたる。その結果わか
ったのは、放射能は魚を介して強力な放射能に濃縮されて人間の口にもはいっていたとい
うことだった。
9 月 23 日、ついに第五福竜丸局長の久保山愛吉さんが、息を引き取るにいたり、国民の
不安と怒りは頂点に達する。ところが、翌年、重光葵外務大臣とアリソン駐日大使との間
で書簡が交わされ、合意文書(日米交換公文)が調印される。わずか 9 ヶ月でこの事件は
見舞金だけで政治決着され、被爆の後遺症問題は、置き去りにされることになった。
また、これに加えて大石氏らは、被害を受けながら何の補償もされない他の船の船員や
漁業関係者から騒ぎをおこした上に見舞金までもらってまだ生きているということで「妬
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み」を受け二重の苦しみを味わうことになった。怒りの矛先は、この問題の根本に向かう
ことがなかったということである。大石氏の苦難は、まさにこのようにしてはじまること
になった。
第二章「ビキニ事件の裏側」は、とりわけ興味深く読みごたえのある章である。
ここで大石氏は、半世紀近い時間が流れる中で公開された資料をもとに「なぜビキニ事
件が、はやばやと政治決着されてしまったのか」ということに関して考察を加えているの
だが、ここでの大石氏は、普通の漁師だった人と思えないぐらいの切れを見せている。
まるで気鋭の学者の論文を読むような記述が、続出する。おそらく大石氏は、この半世
紀の間に勉強に勉強を重ねたのだろう。その勉強が、普通の漁師だった人を、学者のよう
にかえたとおもわれる。われわれはここに一人の市民科学者の姿を見出すことができるだ
ろう。
まず、大石氏は、1991 年 10 月に公開された、戦後三十年間の三万ページにもおよぶ日米
外交文書の一部に注目する。なぜならここにビキニ事件関係の文書も 3000 ページほど含ま
れていたからだ。
この文書を調査した結果、大石氏は、1954 年 3 月 17 日付の文書で外務省は、第五福竜丸
が、アメリカ軍の指定した危険区域外にいた場合は、米側の過失に基づく不法行為に対し
て損害賠償の請求ができる、また危険区域内にあってもアメリカが実効的な警告措置をと
っていなければ同様請求できるといっていることを発見する。しかし、実際には裁判をお
こそうとしたものがいたにもかかわらず、政府が介入してきて、被爆者や被害者に補償せ
ず、はやばやと政治決着を結び、事件にふたをしてしまった。これは当時の日本政府が、
アメリカとの関係を最優先させていたことを示す根拠となるものであろう。
これに関して日本政府が、アメリカとの友好関係維持のために事件の被害額は 25 億円に
達しているとみつもられていたのに、最終的には 7 億 2000 万円で「日本政府はこの見舞金
でビキニ事件に関してのアメリカの責任を一切問わない」という政治決着を結んでいるこ
とがわかってきた。 大石氏は、この公文書の欄外に外務省の中川アジア局長の「一人 200
万は多すぎるという意見もあるところを外務省としてこれを値切った惑いを与えることは
これは望ましくなく、他方、原爆障害の内容不明にして日本人医者の言によれば一生本当
には治療せざるべしということである。」という言葉を発見し、驚きと怒りを禁じられな
かったと書いている。
では、なぜこれほどまでに日本政府は、アメリカとの関係を優先させビキニ事件をはや
ばやと政治決着したのだろうか。その背景にはなにがあったのだろうか。このことに関し
て大石氏の筆は冴えを見せる。大石氏は、ビキニ事件の「政治決着」の理由は日本の原子
炉が導入される経緯とその人脈になかにこそ潜んでいたのだと思い至るようになる。この
経緯を述べている大石氏の筆の運びは、私には、まるで気鋭の学者のように感じられた。
大石氏によれば、事の経緯はこうである。ビキニ事件が政治決着した 10 日後の 1955 年 1
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月 14 日、ソ連は、中国、東欧の五カ国に対して原子力技術や濃縮ウランの援助を行うと発
表していた。このころソ連も共産圏に核のブロックを作ろうとしており、世界初の商業原
子力発電所の稼動に成功していたのだった。先をこされたアイゼンハワー大統領は、原子
力の国際管理案を棚上げにして、西側同盟諸国と「濃縮ウランや原子力技術の協定」を結
ぶ方針を打ち出し、濃縮ウランを外交カードにし、核の軍事ブロックを作ろうとしていた。
実際、ビキニ事件で日本が混乱しているさなかゴジラの宿命のライバルでもある陸海空 15
万人の自衛隊が発足している。このような状況の中でアメリカの太平洋での核実験には賛
成し、協力し、ビキニ事件の被害に対する膨大な賠償金もわずかな見舞金でいい、しかし
その代わりに日本が求めている原子力技術と原子炉導入を早急に進めてもらう、この点に
おいて日本側とアメリカ側の思惑が一致する。かくして大石氏はいう。「ビキニの被災者
たちは、日本の原子力発電の人柱にされたのだ。」(71 頁)と。
同時に大石氏は、この原子力技術の導入にはたした日本のメディアの役割をも見逃して
ない。ここで大石氏が注目するのは、CIA の文書や関係者の手紙、日記を分析した有馬哲夫
氏の『日本テレビと CIA』(新潮社)である。この本の中で有馬氏はこう述べている。
「当時アメリカは占領した日本をどのようにしていたか関係者たちが残した日記や資料
で明らかになってきた。まず「天皇制と財閥を残し、温存させて日本をアジアの工場にす
る。そして多額の政治資金を提供して反共産の保守大合同を実現させ、強力な親米政権を
作り上げる。それをメディアが支える。という政治、心理作戦を行っていた」
ここで述べられているメディアとは、「原子力の平和利用」キャンペーンを展開した日
本テレビや読売新聞のことである。日 本 テ レ ビ は そ の 正 式 名 称 を 日 本 テ レ ビ 放 送 網 と
いった。なぜ「網」という言葉が使われるのか。それはもともとアメリカのメデ
ィアのネットワークとひとつという意味だったからだ。すなわち戦後日本を反共
の砦とし、西側の自由主義世界に組み込むためのメディアとして誕生したのが、
警察官僚出身の正力松太郎やその懐刀の柴田秀利がおおきくかかわる日本テレビ
だったのである。
大石氏は、本書のなかで「当時第五福竜丸事件で高まった日本の反原子力の世
論をCIAは正力のもつ読売新聞と日本テレビを動員させて鎮静化し、これをは
たしたあとに日本への核兵器の配備を政府首脳に飲み込ませようとしていたの
だ 。」( 7 4 頁 ) と 述 べ て い る が 、鋭 い 指 摘 で あ ろ う 。さ ら に 、ゴ ジ ラ に 関 心 を も
つ も の と し て ひ と つ 付 け 加 え さ せ て い た だ け れ ば 、『 ゴ ジ ラ 』( 1954) に お い て ゴ
ジラはテレビ塔を破壊しているが、このテレビ塔は、実は日本テレビのものだっ
た 。 こ の こ と は 、 小 林 昌 男 『 ゴ ジ ラ の 論 理 』( 1992) で 確 認 さ れ て い る 。
第三章「命の岐路で」では、大石氏の被爆してからの今日までの人生の軌跡がつづられ
ている。大石氏自身の癌のはなし、死産だった最初の子供のはなし、マーシャル諸島を訪
問したときのはなし、死んでいった第五福竜丸の仲間のはなし、大石氏が発案したマグロ
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『市民科学』第 17 号(2008 年 6 月)
塚のはなし、大石氏が作った第五福竜丸の模型のはなし、若い人たちへのメッセージなど
重い経験に基づいた記述が続いている。
ここでわれわれが認識しておくべきことは、第五福竜丸の元乗組員で積極的にビキニ事
件や原水爆禁止運動について発言している人は、今のところ大石又七氏だけだということ
である。実は、第五福竜丸の元乗組員で一致団結して補償の問題に取り組んでいるのかと
いうとそうではない。大石氏によれば、元気なものほどこの問題には、口をつぐんでいる
おり、元乗組員の関係もばらばらなのだという。大石氏にしても最初は、差別や偏見から
逃れるために敀郷を離れ、東京という大都市の人ごみの中に隠れようとしていた。その大
石氏は、初めの子供が異常な死産だったということや消えたはずの第五福竜丸が、夢の島
のゴミ捨て場から浮上したり、また仲間たちは怒りを抱いたまま死んでいくというような
現実があり 1980 年代から発言をはじめる。もともとは、マスコミなど大嫌いな人だったら
しい。そんな大石氏だが、この本を読んで伝わってくるのは、できれば思い出したくはな
いが、これを言わずに死ぬわけにはいかないという大石氏の執念である。
まさに「これだけは伝えておきたい。」特に若い人には、という大石氏の思いが伝わって
くる本である。
「若い政治家のみなさんは、核兵器の本当の恐ろしさを知らないのかもしれません。私は
若い人たちにその恐ろしさを伝えようと「ビキニ事件の表と裏」をこのほど「かもがわ出
版」から出版しました。世界を核戦争から守るために命ある限りいい続けます。
」と大石氏
から送られてきた葉書には書いてあった。
「命あるかぎり言い続けます」という大石氏はまさに自らの人生をかけて発言している。
ゴジラに関心を寄せる科学史家の私は、この本を読んで、こんな感慨を抱かずにいられな
かった。すなわち「これまで会った人物のなかで大石又七氏以上にゴジラ的な人物を私は
知らない。
」と。■
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