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異世界に転生したら村八分にされた

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異世界に転生したら村八分にされた
異世界に転生したら村八分にされた
狐谷まどか
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
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囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
異世界に転生したら村八分にされた
︻Nコード︼
N9669CT
︻作者名︼
狐谷まどか
︻あらすじ︼
俺は異世界で全裸にされたうえにロープです巻きにされていた。
ちょっとしたドMな格好だが、そういう店に来たわけではなかった。
バイトの帰り、確か駅前の立ち飲み屋で一杯だけひっかけて帰ろう
と思っていたところ、気が付けば異世界でとある村人に拘束されて
しまったのだ。
怪しいよそ者の俺が、転生先で村八分にされながらもハーレムを築
1
きなり上がっていく物語、ここに開幕!
︵マッグガーデンノベルズから﹁異世界に転生したら全裸にされた﹂
の題名で刊行した本作のボイスドラマ化&コミカライズ企画が進行
中です!︶
2
1 今日から家畜小屋が俺の家︵※ 表紙有り︶
http://15507.mitemin.net/i1719
58/
<i171958|15507>
◆
﹁もう一度聞こう。お前にはいったい何ができる?﹂
俺は今、全裸にされた上にロープです巻きにされている。
ちょっとしたドMな格好だが、そういう店に来たわけではなかっ
た。
そんな趣味もないし、そんな金もない。
ただし、今の状況を少しだけ俺は理解していた。
俺は今、気が付けば異世界にやって来たのだ。
バイトの帰り、確か駅前の立ち飲み屋で一杯だけひっかけて帰ろ
うと思っていたところまでは覚えている。
3
﹁た、体力には自信があります。色々なバイトをしてきたので、大
概の事は順応できると思います⋮⋮﹂
目の前にいる村長と思しき妙齢の女性を前に、俺は声を振り絞る
ように言った。
ここで回答を間違えれば、たぶん俺はとんでもない目に合うだろ
う。
考えるんだ。考えるんだ修太。
自分にそう言い聞かせながら、砂を含んでざらついている口の中
の違和感と戦った。
﹁ほう、そのバイトとやらが何かは知らんが、わらわをガッカリさ
せないでもらいたいものだ﹂
﹁⋮⋮ご期待に応える様に頑張ります﹂
﹁フン。この村には無駄飯を食わせる様な余裕はないからな。けれ
ど労働力はいくらあっても足りないんだ﹂
あごをしゃくってみせた妙齢の女村長は、側にいた筋肉隆々の青
年に俺を引き下がらせる。
筋肉隆々の青年は俺を乱暴に引きずりながら、家畜小屋に放り込
むのだった。
◆
俺の名は吉田修太。今年で三二歳になる日本人だ。
元の世界ではフリーターをしていた。高校時代からあらゆるバイ
トをして大学在学中もそれは同じ。
ただし転落人生がはじまったのは大学に通いだしてからだった。
とにかくアルバイトをするのが楽しかった。稼いだ分だけ自分の
4
ものになる。
金は少しでも多い方がいい。
これは高校時代にバイトをはじめた時から思っていた感覚だが、
三流大学に何とか入って自由な時間を大量に手に入れてから確信に
かわった。働けば金が手に入る。勉強なんてやっているだけ馬鹿ら
しい。
だからとにかく大学在学中はアルバイト三昧で、とうとう留年す
る羽目になった。
親にはその事でこっぴどく怒られたあげくに、学校を辞めさせら
れてしまった。俺の家は三人兄妹だし俺は長男だ。後に続く妹たち
の進学を考えれば当然の事だった。
大学を中退した俺は、それからも様々なバイトをした。高校時代
から異世界にやってくるまでに経験したそれらは、なかなか居酒屋
トークに花を咲かせるにはちょうどよい内容だった。
定番のコンビニ、飲食店、ホームセンターにはじまり、造り酒屋
やレストラン、新聞配達もやった。解体業者やリサイクルショップ、
運送の集配、劇場の大道具なんてのもある。
それから建設関係や土木関係。中には餅つきのパフォーマンスを
するものや、ライター業の真似事なんてのもあった。
けれど全体を通してみれば、大学中退という学歴なので単純労働
か肉体労働が多い。
基本は人づてにヘルプの仕事を紹介してもらっていたので、助っ
人を終えると仕事がなくなってしまう。
何をやっても長く続ける事はできなかった。
そんな俺だけれども、ひとつだけ二〇年以上続けているものがあ
った。
空手だ。
子供の頃は強制的に親の命令でやらされていたものだったけれど、
5
これが小中学校を通して生活の一部、当たり前のものになった。
中学では高校受験まで続けて、受験のためにいちどは辞めた。
けれど辞めてみると世間は当時格闘技ブームまっさかりだった。
テレビで年末などに試合風景を見ていると、また自分でもやって
みたいと思うようになったものだから、高校進学と同時に空手部に
所属した。
高校時代はこれまでやっていた流派とは別だったが、そんなの関
係ねえ。
今まで強制的にやらされていたのと違って、この頃から空手が楽
しく感じた。
大学でも、そこまで本気印の部活ではなかったが、格闘技サーク
ルに所属していろんな武道や空手の選手と交流したもんだ。
ただしメインはあくまでアルバイトだ。金稼ぎの合間に、ちょっ
とだけ体を動かしてストレス発散するのだ。
当時は親に勘当同然で家を追い出されていたものだから、お世話
になった古流空手の先生の自宅に住まわせてもらって、師範代みた
いなことをしていたのだ。
あのころは楽しかったなぁ。
今の俺は家畜小屋にいる。
とにかく臭い。
最後にやっていたバイトがなかなか評判の定食屋でひたすら皿を
洗う仕事だったので、それに比べればここは清潔感の欠片も無い場
所。
しかも俺は全裸ときたもんだ。
服ぐらいは欲しいと思ったものだが、気が付けば異世界に飛ばさ
れて林の中をさまよっている時に、俺を見つけたこの村の住人に捕
まって身ぐるみはがされた。
6
俺を捕まえた村の住人は、茶色い肌をした猿と悪魔のハイブリッ
ドみたいなやつだった。
俺と同じ様な見た目の村の人間たちは、ハイブリッド悪魔を確か
ゴブリンと呼んでいた。
ここはファンタジーの世界らしい。
しばらく暗がりの中でもぞもぞと体を動かしていると、徐々に目
が冴えてきた。
時刻はまだ陽が出ている頃だろう。
ボロい家畜小屋の壁はすきまだらけで、そこから太陽光が差し込
んでいた。
俺がこの村に捕まったのが確か早朝。女村長の前に引き立てられ
たのが、確か昼前。その間、飯は食っていない。
腹が減っていることは間違いないが、まだ状況を飲み込めていな
い俺はそれどころじゃなかった。
むしろ尿意の方が危険で、残念ながら俺は先ほどジョビジョバし
た。
どうせ家畜小屋だし、気にすることはない。
しかし寒いな。
俺はそんな事を考えながらふたたび家畜小屋の中を見回す。
家畜小屋はわらが敷き詰められていて、そこに俺が転がっている。
喉が渇いたが、家畜用と思われるエサ皿に水が入っているだけで、
人間用とは思えない。飲むのは少し考えた方がいいだろう。
最悪、このまま放置されているのなら飲むしかないが、ここで腹
を壊せばもしかしたら死ぬかもしれない。それは怖い。
俺はいったいどういう理屈でここに飛ばされたのか、未だにわか
らなかった。
妙齢の女村長は俺に言った。﹁お前には何ができるのか﹂と。
過去の雑多なバイト経験からすれば、何でもできるし、何もでき
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ないという事だろうか。
空手はできるが、実のところさほど強いわけではない。実際に人
間をボコスカ殴った事があるわけでもないし、工場や職場でいろい
ろとモノを作ったと言っても、それは文明の利器たる工具やパソコ
ンがあるからできた事だ。
ここには何もない。
ゴブリンがいるんだから、ここが異世界であるとして。この時代
は元の世界だとどの程度の文明発達具合だろうか。
俺は何ができるのだろうか。
何もできなければ、たぶん殺される事は容易に想像できた。
女村長も言っていたが、きっと村は余分な人間を食わせていける
ほど、裕福ではないのだろう。
だとすれば、俺は労働と空手でそれなりに鍛えた体で、貢献する
以外にない。
それにしても喉が渇いた。
寒い。せめて服を返してほしい。俺があの時持っていた荷物はど
うなるのだろうか。
何を持って異世界に迷い込んだのか、今にしてみると覚えていな
い。
それらは返してくれるのだろうか。
そんな事を考えていると、ギイと不気味な音がして家畜小屋のド
アが開いたのだった。
﹁ついてこい、飯を食わせてやる﹂
そう俺に告げたのは、林をさまよっていた俺を捕まえたゴブリン
だった。
◆
8
ゴブリンにす巻きにされたロープをほどいてもらうと、俺は家畜
小屋から外に出る事ができた。
小屋の前には、俺を連れまわしているいかつい青年がいる。
﹁こっちだ﹂
青年は監視役だったらしく、ゴブリンと軽く相槌をうちあうとそ
のままついて来る。
俺はゴブリンに従って後についていく。
外は眩しかった。
片手で太陽光をふさぎながら、もう片手で股間の前を隠す。風は
冷たいが、太陽光は少しだけ温かい。季節は春か、秋といったとこ
ろだろうか。
前を行くゴブリンに続きながら、俺は周囲を観察した。
まばらに土壁の家が建っている。
煙突があるから、それなりにしっかりした内装の家々なのだろう。
最初にこの村に連れてこられた時にも思ったが、たぶん数百人程度
の規模をかかえる村のはずだ。
周辺が林に囲まれていて、村の集落の辺りだけが切り開かれてい
た。家の側には小さな畑もあれば、家畜小屋の様なものもある。
﹁なああんた、名前は何て言うんだ。俺は修太だ﹂
前を行くゴブリンに向かって俺は自己紹介をした。
ゴブリンは立ち止まると、一瞬だけ俺の顔を見た。
年齢は何歳ぐらいだろうか。ゴブリンは俺よりも頭ふたつぶんぐ
らい低いが、とてつもなく筋肉質だ。
例えるならジュニアヘビー級のプロレスラーみたいな体型だ。そ
れをミニチュアにしたような感じだ。
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顔は皺深いが、たぶんこれがゴブリンのデフォルトなのだろう。
だから年齢が解らない。
ゴブリンは俺を無視してまた歩き出した。
﹁連れないな。名前、あるんだろ?﹂
返事はくれなかった。
あまりしつこく会話をして嫌われてしまうと、どうなるかわから
ない。
本当は現状を把握するためにもいろいろ知りたいのだが、この辺
りで我慢する事にした。
それにしても、異世界であるのに会話が通じるのは不思議だ。
連れてこられた場所は、あの女村長の家の裏手の様だった。
カフェテラスではないが、裏手には木組みの縁側みたいなものが
あって、そのそばに土窯があった。ここで煮炊きをしているのかも
しれない。
﹁座れ﹂
言葉数少ないゴブリンに命じられて、俺は木組みの縁側に腰掛け
た。
土窯の側で煮炊きをやっていた若い女が、おたまで木の食器にド
ロドロの液体を注いでいた。
若い女は明らかに俺を警戒していた。
﹁やあ、ありがとう﹂
女の差し出した食器を受け取りながら笑顔を見せたが、残念なが
ら手渡してすぐに若い女は逃げ出す。
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嫌われたもんだ。いや、よそ者はここでは珍しくて、あまり関わ
り合いになりたくないのかもしれない。
俺は渡された食器の中身を見る。
ドロドロのそれは、オートミールか何かだろう。赤いピーマンの
様なものやオートミールと何かの豆、芋、それからベーコンか何か
の破片がひときれだけ確認できる。
﹁食え。食ったら仕事だ﹂
ゴブリンはそう言うと、自分も若い女から皿を受け取っていた。
チラリと中身を確認したが、こっちは量も多いうえに、どういう
わけかベーコンの破片が多い。
木のスプーンですくって食べると、味は薄かった。
あまり美味しいものではないが、それでも腹を空かせていたので
それなりに嬉しい。
ほんの十回ほどスプーンを事務的に口へ運ぶと、オートミールは
食べ終わってしまった。
﹁おかわりはありませんよね?﹂
もちろんその質問は無視された。
飯が終わると、俺はそのまま服を渡された。
もともと着ていたものではなく、ボロボロの麻布の服だった。
いや、村人たちが着ているしっかりしたそれではなく、ただの腰
巻きだ。そして小ぶりな斧をわたされた。
﹁この薪を割れ。割ったらそちらの山に積み上げろ﹂
ゴブリンは俺にそう言いながら薪の山を指さした。薪割りの仕事
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が俺に与えられた仕事らしい。
﹁薪割りが終わったらどうすればいい?﹂
﹁ここにある薪全部だ。薪は分配して村で使う。この隣に積んだ薪
の山もやれ、それが終わればその隣の薪も﹂
言われた俺が、薪の山の連なりをぐるりと見回す。おおう。これ
は一日で終わる仕事ではない。一週間ぐらいかかるんではないだろ
うか。
俺は無感動な笑いを浮かべて返事をした。
﹁わ、わかった﹂
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2 異世界で薪割りの仕事はじめました
やあみんな、俺の名は吉田修太。
とある異世界の村で薪割り職人をやっている男さ。
腰巻き一丁に手斧がひとつ。
それが俺の職場でのファッションスタイルである。
今日も朝から薪を割っている。
季節は春だそうだ。
冬場のうちに使い込んでしまった薪を補充するために、木こりの
ゴブリンたちが集めてきた木をたたき割って、村のそれぞれの家で
使える様に形をそろえていく。
とても簡単な仕事だ。ただしとにかく体力がいる。
初日の俺はこうだ。
まず、切り株の上に適当に切りそろえられた大き目の薪に手斧を
振り下ろした。
慣れていない作業なので、手斧は薪に食い込んで取れない。
薪がひっついた状態でもう一度切り株に叩き付けると、薪が割れ
る。
最初のうちは不揃いで、無駄な動きもとにかく多い。
手を振っているうちに五分もすればまず掌がしびれてきた。
これは手にマメができる前兆だった。摩擦で皮膚がこすれて熱く
しびれはじめるのだ。
それから次の五分で腕がダルくなる。
続いて二の腕だ。最後に腰が重たくなってきて、どうにもならな
くなる。
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これらは過去のバイトで経験がしたことがあった。
そのむかし、年末年始に餅つきのアルバイトをやっていた事があ
ったからだ。
あの時は両手持ちの木の杵でやるので、両腕ともいかれてしまっ
た。
あれを毎日やっていると、そのうち楽をするために体が力を抜く
様になるんだが、薪を割る作業はちょっと違った。
こいつは片手でやらなくてはならないのだ。
片手はとにかく辛い。しかし片手でやらなくてはいけない。何故
なら、腕を休ませるために交互にやるのが肝要だからである。
それを知らなかった俺は、初日のうちは両手でやっていた。
小さな手斧を両手で振ると確かに楽なのだが、何となく無駄が多
いことに気付いた。
二日目には片手でやる事を覚えて、少し楽になった。こういう作
業は、とにかく力んで作業をしていると、続かないのだ。
あらゆる肉体労働系のアルバイトをしていた俺にぬかりはない。
手抜きのやり方を覚えた三日目には、俺は立派な薪割り職人にな
りつつあった。
﹁ふむ。お前は自分で言っていた通り、確かに体力だけは少しはあ
ったようだの﹂
妙齢の女村長が、俺の職場見学にやって来てそんな事を言った。
嬉しい事を言ってくれるじゃないの。
自慢じゃないが、俺はいろんなバイト経験をしてきたから、特に
上手くはないが何でもそつなくこなしてみせる自信がある。
俺はそれをいつも六〇点主義と呼んでいた。
一〇〇点を取ってしまうと、人は満足してしまう。
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だから常に六〇点の出来栄えを目指す。
できたらそれを五〇点としてさらに一〇点大目に頑張る。これの
繰り返しだ。
﹁ありがとうございます。ありがとうございます﹂
﹁まあ、いきなり農作業をやらせるわけにはいかないからな。勝手
に畑の作物を食べられたら大変だ﹂
女村長は俺にそう言ってフフフと笑った。
なかなか美人だ。
こうしてみると茶色い髪を腰あたりまで伸ばした妙齢な村長は、
三〇そこそこといったところだろうか。
いつだったかモノの本で読んだが、昔は人間の寿命なんて五〇か
そこらだったらしい。
だから結婚も早ければ、出産も早い。それだけ人間が大人になる
のが早かったんだろう。
そういう意味で三〇過ぎの女村長がいたところで、どこもおかし
くはないのだ。
なかなかの美人であるところの女村長は、満足したのか監視役の
筋骨隆々な青年に目くばせをすると、自分の屋敷へと戻って行った。
初日以来、俺の監視をしている青年は、深々と頭を下げて女村長
を見送っていた。
さて、俺の仕事は続く。
何が悲しいのか、ここ数日にわたって薪の山の連なりを消化して
いたはずだったが、木こりのゴブリンが次々にあたらしい薪を持っ
てくるので、この作業がひとつも終わらない。
監視役の青年はずっと俺の側に居るが、こいつはひとつも仕事を
手伝わなかった。
その代わりに、時おり腰にさした剣を抜いて、チャンバラの真似
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事をやっていた。訓練を兼ねた、俺に対する威嚇でもしているつも
りなんだろう。いい身分だぜ。
四日目になると、腰巻きがこすれて俺は衣擦れで怪我をした。
腰骨の辺りがどうもヒリヒリすると思ったら、皮膚が軽く破けて
いるではないか。
それにしばらく腰巻きを洗っていなかったので、村長の家の若い
女を見つけて、話しかける事にした。
﹁お嬢さん、ちょっといいかな?﹂
当然、全裸で腰巻きをぶら下げた俺に、女は警戒心をあらわにす
る。
だって全裸だもん、当然だよな。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁この腰巻を洗濯して干しておきたいんだけど、この井戸は使って
もいいものですかね?﹂
言葉は丁寧に、だ。
最初はフレンドリーにゴブリンへ話しかけたが、あの時は失敗し
た。ガン無視された。
だったら次は丁寧にと思ったが、これもどうやら失敗だったらし
い。
わずかの間、俺の話を聞いていた若い女は恐怖の顔を浮かべると、
そのままあわてて村長の屋敷に引っ込んでしまった。
﹁ええと、俺は井戸水をですね⋮⋮﹂
使いたかっただけなんだ。
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すると背後で剣を磨いていた筋肉青年が言う。
﹁駄目だ﹂
﹁でも、ずっと洗っていないので不衛生ですし。できれば体も洗い
たいんですが﹂
﹁駄目だ﹂
﹁じゃあどうしたらいいんですかね?﹂
﹁我慢しろ﹂
青年は無慈悲な言葉を俺に告げた。
とても悲しくなって俺は作業を再開する。
衣擦れがひどいし痒いので、全裸のまま薪割りの仕事を続ける事
にした。
◆
﹁今日の飯は何かな∼?﹂
お昼時になると、日々の最初の食事が支給される。
俺がこの世界に来て一番の楽しみにしているのがこの食事だ。そ
してもうすぐお昼休みだ。
初日にオートミール風の雑炊を食べてから、ふかし芋に揚げた川
魚、蛇のかば焼きやら煮込み野菜のスープなどを食べさせてもらっ
ている。
肉は貴重品だ。肉はあくまでも村でも地位の高い人間の食べ物ら
しく、この村のカーストで一番低い位置にいる俺は肉は肉でも、ベ
ーコンの破片を少し食べさせてもらえるだけだ。
かわりに蛇やら川魚を少し食べさせてもらえるのだが、とにかく
脂の乗ったものが食べたくてしょうがなかった。
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何しろ朝から晩まで薪割りという単純だが肉体を酷使する仕事を
しているのだ。
本日で異世界の薪割り職人になって一週間が過ぎた。
最初の数日は筋肉痛で死ぬほどつらかったが、働けなくなると殺
されるのではないかという恐怖で、ダラダラながらも薪割りを続け
た。
今はその苦しみから抜け出して、薪割りなんて目ではなくなった。
ただし悲しいことがひとつだけあった。
腰巻きを着用していると死ぬほど痒くなるので、装着するのをや
めた。
衣擦れもひどいから、ちょうどいい。
問題は、近くの木の枝に腰巻きを天日干ししていたら、それが飛
んでいったのだ。目の前で汗をぬぐいながら﹁ふひゅう﹂などと言
っている瞬間の事だった。
﹁あ、待て。俺の腰巻き!﹂
悪戯な風が枝に引っ掛けていた腰巻きを晴れ渡った空に躍らせる。
あわてた俺は手斧を放り出して、股間の息子をぶらぶらと躍らせ
る。
それを見た筋骨隆々の青年が、腰の剣を抜き放って躍り出るのだ。
﹁どこに行く!﹂
﹁俺の一張羅が飛んでいきます!﹂
﹁仕事をしろ!﹂
﹁でも俺の一張羅なんですよ! つけると痒いけど、ないと夜寒い
んです!﹂
﹁持ち場に戻らないか!﹂
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融通のきかない青年は白刃をちらつかせて俺の前にずいと出た。
殺される。
俺は格闘技経験者だから、相手の殺気ぐらいはわかる。
こいつは本気で俺をいつでも殺せる様に構えやがった。
睨み合う俺たち。
一瞬だけチラ見すると、腰巻きは地面に落ちた後も、土をずるず
るやりながら風に乗って村長の屋敷の入り口あたりに飛んでいく。
入口はここからは見えない。
﹁キャア!!﹂
大きな悲鳴が聞こえた。
あの若い女のものだろうか。村長の屋敷で下働きしている。
﹁持ち場に戻れ﹂
青年はふたたび俺に命じた。
﹁わ、わかりました﹂
﹁それでいい﹂
﹁べ、別に逃亡しようとか思ったんじゃないんだからね。一張羅が
飛んで行ったから取り返したかっただけなんだからね。あれがなく
て夜に風邪を引いたら、あんたのせいなんだからねっ﹂
悔しいので不満をたらたらと言ったら、また白刃を青年に突きつ
けられた。悲しくなった俺は、しょうがなく手斧を拾って薪割りに
戻った。
ちなみに昼飯は逃亡をはかった罰という事で、飯抜きにされてし
19
まった。
◆
飯は一日の仕事が終えると、ふかし芋を五つほど毎日もらえる。
昼間なら少しは手の込んだ料理をもらえるが、夜は作り置きして
いた冷たいものしかもらえない。
しかそ昼抜きだった今日は、冷めていようが芋をもらえるのはと
ても嬉しい。
ほんと一日ぶりの飯だ。
ちなみに朝飯はもらえない。一日に二食しか食わせてもらえない
のだ。
とても悲しい。
そういえば。
今日は夕食に瓶がついた。
中身はあまり美味しくないぶどう酒だ。まだぶどうの皮かすがの
こっているものだ。生水はあまり体によくないらしく、これが水が
わりらしい。
どうやらこれが女村長から俺への給料という事だった。
﹁最低限の仕事はしっかりとこなしてくれているらしいな﹂
﹁ありがとうございます。ありがとうございます。ぶどう酒までい
ただけて、感謝しております﹂
全裸で平伏した俺は、上目遣いで妙齢の女村長を見上げた。
別に嬉しくもなんともないが、飲み水もまともにもらえないのだ
から、ぶどう酒の搾りかすでつくったような酒でも、ありがたいの
は確かだ。
20
﹁うん。いい具合に順応してくれているらしい。おいギムル! こ
の男にこれからも仕事を終えたらぶどう酒の瓶をひとつだけおやり﹂
﹁しかし村長、いいのですか?﹂
﹁構わないとわらわが言っている﹂
女村長の命令に、とても嫌そうな顔を青年がした。
青年の名前はギムルというのか。今日初めて知ったぜ。
◆
陽が落ちる前に俺は家畜小屋︵我が家︶に戻る。
家畜小屋といっても、以前ここが家畜小屋に使われていただけで
あって、今の住人は俺だ。
正確には俺と、昼間は外でえさをついばんでいるニワトリの同居
人がいるだけだ。 その日の薪割りが終われば、こいつら同居人を迎えに行って家畜
小屋に戻すと、俺も大人しくしているわけである。
体中が痒くて、寝るのもつらいのだが、さてどうしたものか。
そんな事を思っていると、村長の屋敷で下働きをしている? ら
しいいつもの若い女が、桶にぬるま湯を持ってやってきた。
当然、その側には筋骨隆々な青年ギムルが控えている。
何か悪さをするのではないかと思われて、監視役は未だに外され
ていない。
﹁湯を持ってきた。このへちまで体を洗え﹂
話しかけてきたのは青年の方だった。
若い女は俺の顔を一瞬だけ見ると、汚いモノでもつまむように、
ボロ布を持っていた。俺の一張羅であるところの腰巻きだ。
21
﹁おお、それは俺の﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
早く取ってくれと言わんばかりに、グイと腰巻きを突き出す若い
女。
﹁ありがとうお嬢さん。お名前は何というのかな?﹂
優しいスマイルを浮かべたつもりだったが、かわいこちゃんは鼻
をつまんで逃げ出してしまった。痒いし、もう数日風呂に入ってな
いのだから、そりゃ臭かろう。
俺はゲンナリした顔で青年ギムルに向き直るとお礼を言った。
﹁ありがとうございます﹂
﹁小屋に戻れ。それと、明日からは薪割りをしなくてもいい﹂
﹁え、それじゃ俺、首ですか? もしかして処刑されるんじゃ⋮⋮﹂
﹁ふん、どうだかな﹂
青年はそう告げると、俺を家畜小屋に蹴り込んで外から閂をかけ
やがった。
暗がりの中で俺は、へちまのたわしをお湯につけて全裸をこすり
あげた。
最後に残り湯で腰巻きをしっかり洗って干す。
これでもう明日から全裸とは言わせないぜ。
吉田修太、三二歳。
薪割りのヘルプバイトを完遂。
ちなみに今回のバイト代は搾りかすで作ったぶどう酒。
22
3 ニワトリ小屋からブタ箱にお引越しします 前編 ︵※ 挿
絵あり︶
異世界住人であるところの俺の朝は早い。
具体的にはまだ陽も昇らないうちから、同居人のニワトリたちが
騒ぎ出すのだ。
﹁コケコッコー!﹂
朝ですよ。
ぐいと伸びをしたら暗闇の中で俺の一張羅、腰巻きを装着する。
俺の全装備だが、あるとないとではまるで安心感が違う。
ただし腰のあたりが擦れるので、そろそろいいおべべを手に入れ
たい。
すると突然、家畜小屋の閂が外される音がした。
乱暴にドアが開き、青年ギムルがぬっと体を突っ込んできた。
﹁起きろ、お前は今日からここを出るんだ﹂
いきなり顔を出したかと思うと、遠慮なく俺の手を引っ張って外
に放り出した。
筋肉塊の青年ギムルに引っ張られると、俺は簡単に放り出される。
まったく乱暴な男だぜ。
﹁ここを出るって。それじゃ俺は今夜から野宿ですか? そろそろ
温かくなってきたからいいけど、さすがに夜は人恋しいですし、で
きれば相棒たちと一緒がいいんですが﹂
23
﹁黙れ﹂
俺は黙った。
ニワトリたちはドアが開いたら元気よく次々に家畜小屋を飛び出
していく。
現金なもんで、転がっている俺の上を容赦なしに踏み越えていっ
た。
やめろ。俺の屍を超えるんじゃない。
どうやら相棒だと思っていたのは俺の方だけだった様だ。恋はい
つでも一方通行。
﹁それで俺はどうしたらいいんですか。今日から薪割りはしなくて
いいんですよね?﹂
﹁ついてこい。お前は今日から家畜の世話だ﹂
﹁家畜の世話! ちょっと仕事内容がグレードアップしたぜ﹂
そんな事を言いながら腰巻きの位置を調整しつつ立ち上がる。
朝はまだ寒いが、少しでも体を動かせば暖かくなるだろう。早く
家畜の世話をしたいものだ。
俺は青年ギムルの後をついて歩いた。
﹁俺は家を追い出されたわけですが、それじゃあこれからはどこで
生活すればいいんですかね﹂
﹁あそこより大きい畜舎がある。そこで寝起きしろ﹂
おお、それは嬉しいじゃないか。
三畳一間の部屋からデカい家畜の屋敷に移動か。今度は牛か馬が
相棒になるのかな?
⋮⋮ブタでした。
24
数十匹のブタがいて、ブヒブヒ言っている。とにかく臭い。
家畜小屋は臭かったが、たぶん悪臭はそれ以上だろう。
﹁お前はここで、今日から糞の掃除をするんだ﹂
青年ギムルは俺にそう命じると、いつもの様に少し離れた場所に
移動して俺を監視しはじめた。
こいつ、もしかしてニートか?
腰に剣をさしているところを見ると、あの女村長の側近なんだろ
うがまるで働いているところを見た事が無い。いいご身分だぜ。
そんな事を思っていると、女にしてはがたいの大きいおばさんが
こちらにやって来た。
﹁あんたが今日から糞掃除をする男かい?﹂
﹁やあはじめまして。俺は修太です﹂
﹁御託はいいから、そのショベルで樽いっぱいになるまで糞をかき
あつめな。それが終わったら樽をあっちの小山まで運ぶんだ﹂
﹁小山? それは何でしょう﹂
﹁見ればわかる。いいから仕事をやんな!﹂
おばさんは手に持っていた木の棒で俺の尻を叩いた。
﹁アヒィ!﹂
﹁口を動かすんじゃないよ、ちゃっちゃと手を動かしな!﹂
おばさんはとても厳しかった。
言われるままにあわててショベルを手に取ると、ブタたちがそこ
ら辺りにまき散らした糞をすくって、樽に放り込む。
25
昨日までの薪割り仕事のおかげでちょっとやそっとの事では疲れ
る事は無かったが、それでも腰はすぐにだるくなった。
畜舎は割合と大きい。各階に四宅入っているアパートぐらいの大
きさはあるのではないか。
そこに三〇あまりのブタがブヒブヒ言っている。
衛生管理という概念が無いのだろうか、畜舎は汚らしく、ハエが
ぶんぶん飛び回っていた。
とても嫌な仕事だが、食べ物を与えてもらうためには仕事をしな
ければならない。
おばさんは俺の事を少しの間だけ見ていたが、満足したのか木の
バケツに入れていた布きれを絞って、ブタたちの体を丁寧に拭きは
じめた。
いくら体を綺麗にしたところで、そいつらすぐに寝そべるから汚
れるだろうよ。
そんな事を考えていると、糞をある程度樽に詰め終わったあたり
で、ついでの仕事を俺に命じてきた。
﹁あんた、ボサっとしてないでその汚れた藁を外に出すんだよ﹂
﹁藁をですか?﹂
﹁そうさ。新しい干し藁と入れ替えるんだ。ほれさっさとするんだ
よ!﹂
おばさんはすぐに怒り出したので、俺はあわてて命令に従った。
俺はこれまでもいろいろなバイトをしてきた。
家内制の小さな工場なんかで手伝いをしていると、時折こういう
おばさんがいる。
とにかく厳しく、とにかく口うるさい。右も左もわからない仕事
場なのだから、俺は当然右往左往する。するとお叱りひとつ飛ばし
26
て俺をこき使うのだ。
あれは俺が学生服を作っている下町の工場で働いている時の事だ
った。
経験者優遇とあったが、まったくひとが集まらなかったので、工
場の近所に住んでいる主婦のお姉さんたちと一緒に働くことになっ
た。
やれ指が不器用だ。そんなんじゃ売り物にならない。とにかく言
葉で責め抜かれた。俺だけだ。
一緒に来ていた主婦のお姉さんたちは、過去にもこの工場で働い
たことがあったらしい。
初心者は俺だけ。
俺は工場オーナーの社長仲間のおじさんから、ちょっとだけ手伝
ってやってくれと繁忙期に応援に行っただけだったというのに。
ただし、一週間もして俺がこなれてくると、文句を言われなくな
ったもんだ。
おばさんばかりの町工場では、荷物運びをする時は男手がいると
助かったわけだ。
今回も畜舎のおばさんは、俺をていのいい労働力と見たのか藁の
入れ替えに糞運び、何でもかんでも俺に肉体労働をさせた。
ただし、絶対にブタそのものの世話は俺にやらせなかった。
ブタは賢い生き物というのをモノの本で読んだことがあった。一
説には犬よりも賢いらしい。
なので、村社会のカーストで最底辺にいる俺にはまるで懐かなか
った。
青年に監視され、おばさんに折檻される俺は、あくまでもブタの
世話をするブタさまの下人だ。
ブタはまだいい。
27
こいつはブタと言ってもたぶんイノブタとかいう類のものだろう。
牙が生えていて、毛もわさわさしている。俺の知っているブタとち
がって、つるつるしていない。
ところが俺は腰巻き一丁だ、ブタより悪い。
最初に命じられた糞樽を捨てる小山というのは、せっせと運んで
みるとすぐに見つかった。
汚泥というのか、糞や汚れた藁、土をこんもり盛った堆肥の山で
あった。
帰って来るのが遅くなるとまた木の棒でしばきあげられそうだっ
たので、俺は糞樽をひっくり返して捨てると、すぐに次の糞樽を運
ぶ。
都合七往復ぐらいすると、腰がいいかげん苦しくなって背筋を伸
ばしたりトントンしたりしていた。
﹁サボってるんじゃないよ!﹂
﹁すませんおばさん﹂
﹁誰がおばさんだい。あたしにはジンターネンっていう立派な名前
があるんだよ!﹂
﹁すいませんジンターネンさん!﹂
バシリと太い木の棒で腕を思い切りたたかれた。
たぶんこれはアザになるな。
俺は空手経験者だからこの痛みがわかる。
ミドルキックを腕で受け損ねた時の様な衝撃が走った。
◆
昼飯はいつだって楽しみだ。
今日は特に体全体を使って労働したから、いつもより倍ぐらい腹
を空かせている。
28
どこで飯を食わせてもらえるのだろうとソワソワしていたら、今
日は女村長の屋敷の裏手には連れていかれず、かわりにジンターネ
ンおばさんが籠を持って登場した。
﹁あんたは今日から玉子を食べる事を許された。感謝しな﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます!﹂
俺は昼飯に、ふかし芋と茹で玉子を食べていい事になった。
玉子なんてどれぐらいぶりに食べるだろうか。
元の世界に居た頃は、コレステロール値を気にしてあまり食べな
かった。
モノの本によると実は一日に玉子を何個食べても関係ないらしい
が本当だろうか。まあここは異世界で俺にとって異世界初の玉子で
ある。そんな事を気にしていられるか。
俺に与えられた茹で玉子はみっつもあった。ふかし芋もみっつだ。
幸せ。
﹁あんた﹂
ジンターネンさんは言った。
﹁名前は何て言うんだい。別に名前なんてどうでもいいが、そこに
いるブタにだってそれぞれ名前がついてるんだ。あんたにだってあ
るんだろう?﹂
ちなみに畜舎で一番手前につながれているブタの母親はパンピと
いう名前らしい。
なかなかかわいらしい名前じゃないか奥さん。
俺は最初に挨拶で名前を言ったはずだが、それはすでに忘れられ
ているらしい。
29
﹁修太です﹂
﹁シューター? フン、偉そうに﹂
ジンターネンおばさんはそう言って急に不機嫌になると、最後に
﹁さっさと食べちまいな!﹂と言って太い木の棒で俺の頭をおもい
っきり叩いた。
俺は悲しくなって急ぎ最後の茹で玉子を飲み込むと、のどを詰ま
らせた。
ブタの世話が一段落すると、俺は堆肥を混ぜこぜにする仕事を命
じられる。
﹁今日中によく混ぜて、上から土をかけておくんだよ﹂
ジンターネンさんが俺に指示する。
返事はもちろんイエスしかない。
﹁それが終われば?﹂
﹁終わったら川から水を汲んでおいで、家畜用の水桶の中身を入れ
替えるんだ﹂
﹁わかりました。それが終わったら?﹂
﹁それが終わったら今日は終わりだ。けどたぶん、ぐずぐずしてる
と大変な事になるよ﹂
﹁大変な事?﹂
俺が聞き返すと、ジンターネンおばさんは腰に手を当ててふくよ
かな胸を揺らした。
﹁もうすぐひと雨くるだろうからね。急ぎな﹂
30
空を見ると、北の山あいに大きな雲が広がっている。灰色のどこ
となく嫌な感じの雲だった。
俺はあわててショベルを持つと、堆肥を混ぜ返す仕事をはじめる。
これがまたとてつもなく重労働だったが、この手の仕事は土木作
業を経験していると、多少は似た感じなのでできない事は無いと思
った。
ただし最近は土木建築関係の仕事はやっていない。
というのも保障の問題やら保険の問題やら、よくわからないが、
身元のハッキリしていない俺みたいなフリーのアルバイターは土木
会社や建設会社が嫌がる様になったからだ。ちゃんとした正規の人
間はともかくとして、いざ事故にあってしまうとこういうバイト君
は扱いが大変だ。
それでこういう体力仕事をやるのは、実のところ久しぶりだった。
しばらく堆肥をこねまわした後に、土を近場から運んできてかぶ
せる。
しかし発酵した堆肥はとても臭い。新鮮な糞と糞まみれの藁も臭
い。先日までは俺自身が臭かったが、今は周辺の空気全体が臭かっ
た。
こんな仕事、やりたがる人間がいないわけだ。
だからよそ者の異世界人である俺がやらされているのだろう。
ようやく堆肥を混ぜ終わると、今度は畜舎にあるたくさんの水桶
を交換する。
畜舎の中でぶちまけたらジンターネンさんに殺されかねないので、
四角い木組みの水桶をどうにかして運ばなければならない。
これが死ぬほど重かった。
水はなみなみと注がれているわけじゃなかったが、抱き上げられ
るものではない。
いろいろ考えて小さな桶ですくって捨てて、ある程度中を空にし
31
てから、引きずってこれを外に出すと水を排出した。
空の雲行きとにらめっこしながら、とにかく急いでそれをすべて
捨てる。
捨てたら今度は天秤棒の両方に水桶を引っかけて、川まで水汲み
だ。
本当はすぐ近くにある井戸を使わせてもらいたいところだったが、
青年ギムルにお願いしたところ、
﹁駄目だ﹂
すげなく拒否された。
﹁どうして⋮⋮﹂
﹁駄目なものは駄目だ﹂
﹁じゃあどこで水を汲んだらいいのですか﹂
﹁川で汲め﹂
川は村の外れにあるらしい。ちょっと遠すぎやしませんかね?
なんでも井戸は、利用できる人間が限られているらしい。
とても悲しくなった俺は、天秤棒を担いで急いで川に行った。
天秤棒は俺になじみのあるものだった。
空手では生活の周辺にある道具を武器にする。
拳はもっとも身近にある武器だ。そしてサイというフォークのバ
ケモノや天秤棒もまた武器となるのだ。
天秤棒はおおよそ一間、一八〇センチ程度の長さがある。
ちょっと大柄な人間の身長なみである。
振り下ろす、突く、振り上げる、叩き突く、そして足を引っ掛け
る、抑え込む。
こういった動作で相手を制するのだ。
32
捕縛術の道具としても優れており、また相手に致命傷を与える事
も容易だ。
俺も武器の中で一番得意な獲物は何かと聞かれれば、間違いなく
棒の類を口にするだろう。
空手道場でも慣れ親しんだ武器だった。
しかしこの天秤棒を日常の相棒にする日が来るとは思わなかった。
それこそ十往復もしていると、水を汲んだ帰りは肩に天秤棒が食
い込んだ。
手押し車でもあれば、きっと楽なんだ。だがそんなものは俺には
ない。
いやこの異世界にはあるのかもしれないが、見た事が無かった。
何往復しただろうか、ふと木陰で座り込んでいる青年ギムルを目
撃した時である。
あいつは瓶を片手で持ち上げて口に運んでいた。
あの瓶は見覚えがある。俺が昨日、妙齢の女村長に褒美としてい
ただいたぶどう酒のはずだ。
﹁ちょっとギムルさん、あんた何やってるんですか!﹂
俺は水桶と天秤棒を放り出して青年ギムルにくってかかった。
﹁見ればわかるだろう。喉を潤していたのだ﹂
﹁しかしそれは、俺のぶどう酒だ﹂
﹁だから何だと言うのだ﹂
﹁それを飲んだという事は、対価を払ってくれるんだろうな。代わ
りに何かくれるのか?﹂
﹁黙れ﹂
33
俺が必死でくってかかっていると、青年ギムルはぶどう酒の瓶を
置いて立ち上がった。
そのまま腰に下げた剣を引き抜く。
やばい。こいつ目が本気だ。
ぶどう酒を飲んだせいで気持ちが座っているのか、そもそも俺な
んかの事を何とも思っていないのか。
いや、もしかしたらその両方かも知れない。
剣を無造作に抜いた青年ギムルは、それを両手に構えた。
こいつ斬る気だ。
そう思ったのは構えながらずいと前に踏み込んだ時、ちょうどそ
の距離が青年ギムルの身長と武器の長さを足した幅だったからだ。
武器の長さと身長を足した距離、それが戦う際の適切な射程距離
である。
俺は咄嗟にはだしの足で、転がっている天秤棒をつまんでひょい
と持ち上げる。
宙を舞った天秤棒を取ると、命の危険を感じて構えるのだった。
http://15507.mitemin.net/i1695
56/
<i169556|15507>
34
4 ニワトリ小屋からブタ箱にお引越しします 後編
どうも、中学三年次の県大会で三位になった事もある、空手家の
吉田修太です。
空手初段、ボロボロの黒帯を持つ男。
さあかかってきなさい。
俺は青年ギムルと対峙しながら、天秤棒を構えた。
軽く両手に持ちながら、ぞうきんを絞る要領でぐっと力を込める。
青年ギムルは無駄に筋肉隆々な体をしていた。
貫頭衣の親戚みたいな服を着たその上からでもわかるが、それは
人種的な特徴に過ぎない。
俺のいた世界だって、白人や黒人はムキムキ度が高かった。
だが俺は違う。
どちらかというと三十路を迎えて肥満体になりかかっていた俺の
体は、それでも続けていた空手のおかげで戦うための筋肉をまとっ
ている。
たぶん、まだ使い物になるはずだろう。
ちなみに県大会で三位になったのは型の試合だったので、本心で
は怖い。
しかし青年ギムルが時々やっていたチャンバラを見た限り、あれ
は素人剣法だった。
俺はむかし映画の撮影所で斬られ役のバイトをしていた事がある
ので、その時に剣術道場にも通っていた事がある。
あれは間違いなく弱いヤツのイキがった剣の構えだ。
35
﹁俺に逆らえばどうなるかわかっているな﹂
剣を数度振って見せた青年ギムルは、恐ろしい顔つきでそう言っ
た。
﹁逆らっても、逆らわなくても殺す気だろう。あんた﹂
俺はそう返事をした。
間違いなくこの男、俺を斬るつもりだった。
じわり、と距離を縮めようとした様だが、俺はそれを察してスっ
と足を後ろに運ぶ。
相手に好きなように間合いを取らせるわけにはいかない。
俺だってここで反抗するつもりは毛頭ないが、ただしここで殺さ
れるわけにはいかないから、必死で考えている。
どうしたらいい。
ひとまず武器を奪って制圧するしかないが、その後どうする。
制圧するためには転がす必要がある。
転がしてどうするか。めった撃ちにでもして戦意を喪失されるか。
あるいは叫んで誰かに助けを求めるか。
いやそれは悪手だ。もし俺が制圧後に誰かが来たら、俺がこの男
を襲っている様に見えるかもしれない。
青年ギムルはいいヤツではなかったが、それでも恐らく帯剣して
いる事から村の幹部格だろう。
あ、もしかして俺は詰んだかもしれない。
こいつの剣と服を奪って村から脱走しようか。
そんな事を脳で高速演算していると、青年ギムルが剣を肩担ぎに
構え直して襲ってきた。
西洋剣術には詳しくないが、力任せの一撃だった。
36
俺はそれを横に避けながら体を接近させる。
長柄の武器を持っているとアウトレンジで戦うものという印象を
持たれがちだが、棒術は違う。
長い柄の持ち手場所を変える事で縦深の幅をいくらでも変えて戦
う事ができるのだ。
鋭い一撃は、勢いがあったが刃の確度は間違っていた。
それを証拠にシュっという空を切る音がする。刃の角度がぶれて
いるから、そんな音がするのだ。
こいつは素人だと確信した俺は、そのまま振り下ろされた剣を持
つ手をピシリと天秤棒で叩いてやった。
﹁キサマぁ!﹂
怒り狂う声を上げながら、ギムルは右手を放した。
残念ながら両手持ちしていたので、今はまだ左手で剣は持ったま
まだ。
大きく振りかぶって、今度は水平に薙いでくる。
やはり素人だ。
俺の腰巻きをかすめる様に走らせた剣だが、そのまま勢いあまっ
て背中を見せたではないか。
すかさず俺は天秤棒をギムルの足に差し込んで、転がした。
﹁うおっ﹂
情けない声を上げたギムルが倒れる。
俺はそのまま天秤棒でギムルの剣を弾き飛ばして、彼の肘をした
たかに叩いた。
いくら筋肉の鎧をまとっていても、人間の接合部は弱い。
別に骨折させるつもりはなかったが、しばらく戦意を喪失させる
つもりでギムルの利き腕らしい右肘に一撃を加えたのだ。
37
そのまま仰向けになって右肘を抑えながらギムルはうめき声をあ
げた。
今がチャンスとばかり、俺は天秤棒を喉元に突きつけてやる。
﹁動くな、動くとこのまま棒のへさきを喉仏に押し込むぞ﹂
﹁こんな事をして、ただですむと思うなよ⋮⋮﹂
﹁よく言うぜ、ひとのものに手を付けて、その上俺を殺そうとした
じゃないか﹂
﹁証拠はない。お前はよそ者だ。お前は殺される﹂
痛みに耐えながら俺を見上げるギムルは明らかに戦意を喪失して
いなかった。
これだから田舎者は嫌いなんだ。
俺はそう思った。
俺も田舎の育ちで、田舎気質の抜けない人間だが、田舎者はとに
かく忍耐強い。
大学に入る時に都会に出てきたが、同じ空手をやっている人間で
も田舎のヤツはとにかく痛みを我慢するのだ。都会のヤツはその点、
痛いものは痛いとすぐ根を上げる。
どちらがいいとか悪いとかではない。
この場合、厳しい農家で育った人間なんてのは、痛みに耐性があ
ったりするのだ。とんだドMだぜ。
﹁じゃあ、せめて道連れにしてやろうか。その剣一本あれば、俺は
逃げ出せるかもしれない﹂
少しだけ天秤棒に力を入れてギムルの首に押し込もうとするが、
﹁あんた、何て事をやってくれたんだい! みんな、みんな来てお
くれ。よそ者がギムルを殺そうとしているよ!﹂
38
突如あらわれたジンターネンおばさんは、案の定というか俺を見
て叫び声をあげていた。
そして指を差しながら俺に非難の言葉を投げかけてくる。
﹁村でせっかく飯まで食わせてやって、仕事までやったのにどうい
う仕打ちだい! こういうのを罰当たりって言うんだ! さっさと
その棒を放すんだよ!﹂
おばさんが叫んでいるうちに、ゴブリンやら中年のおじさんやら
が木の鍬やショベル、はたまた剣や何かの農具を持って集まって来
たじゃないか。
当然俺は囲まれた。
恐らく、上手くいなせばこの人数は倒せない事は無いと思う。
どう見ても全員素人だ。
ひとりナタの様なものを構えているヤツが動きがいいが、こいつ
は一番距離を置いている。
猟師か何かか?
だとしてもここで全員を蹴散らして逃げても、俺は土地勘が無い。
しかも俺だってこんな大立ち回りをやったのは人生ではじめてだ。
訓練や稽古でできた事が、実戦でできるとも限らないので、俺は天
秤棒を放り投げて両手を頭に持っていった。
降参である。
そうした次の瞬間に、立ち上がった青年ギムルにおもいきり顔面
を殴られた。
俺は一撃で意識を失ってしまった。
◆
ようこそ我が家へ。
39
今朝まではニワトリ小屋で生活をしていると思ったら、これから
はブタ箱暮らしだ。
なかなか快適だぜ?
腰巻きは青年ギムルとの戦闘中に斬られてしまってロストした。
避けたつもりだったがどうやら間一髪だったらしいぜ。まいった
な!
かわりに今は新鮮な干し藁が部屋の中に敷き詰められている。
これで肌寒い夜も安心だ。しかも賦役は免除ときたもんだ。やっ
たね修太!
だが嬉しくない。
俺は今、ブタ箱にいる。
正確には、この村にある唯一の牢屋にぶち込まれてしまったとて
も残念な服役囚の立場である。
しかもトイレ付きを与えられた特別待遇だった。今までと違うの
は、部屋が地上にないという事だ。
じめじめしていて、臭い。
臭い理由は間違いなくトイレが原因だ。
トイレとは、そこにある木の桶だ。こんなものは文明人に言わせ
るとトイレとは言わない。
﹁あんたも災難だな。こんな太陽もあたらないところに繋がれて、
絶望にうちひしがれる御身分だ﹂
俺は新たな相棒に声をかけた。
たぶん年齢は二十歳前といった感じの女だ。
一張羅の腰巻きをロストした俺よりは少しだけ上等な、麻布の貫
頭衣を被っている女だった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
40
﹁俺の名は修太だ。あんた、名前は?﹂
返事が無い。眼を合わせても口を利いてくれない。
﹁何をしたら若い女のあんたが、こんな地下房に捕まるかね。村長
さまも厳しいひとだな﹂
俺はへらへらと笑って女を見た。
よく見ると若い女は美人だった。この異世界の女には美人しかい
ないのだろうか。
グラビアアイドル
女子プロレスラー
いやいや、ジンターネンおばさんは美人ではなかった。美人とい
人気女優
うか怖い。
柴崎コ○か上戸○やかで比較すると、神取し○ぶだ。
女村長のところで下働きをしていた若い女は、あれは美人ではな
かったが気立てのよさそうな女の子だったな。ただし、俺には気立
てのいところは一切見せてくれなかったが。
女は体育座りをしていた。そうしてぼんやり俺を見ている。
見ているというか警戒しながら俺を観察していた。
彼女は自由の身だが、俺は両手両足に鎖でつながれた手枷足枷を
されている。
約三〇センチぐらいのそれで繋がれているので、まともに何かを
する事すらできない。
たぶんウンコをするのも不便だろう。まだしていないのでアレだ
が、少なくともオシッコをするときは不便だった。
女は俺の前でも平気で用便をしていたが、ジロジロ見たら嫌そう
な顔をした。そりゃそうだろう。
俺はというと、あぐらをかいて天井を見上げていた。
ここは石でできた塔かなにかだったはずだ。
41
村でも一番高いところに位置していて、ビルの三階か四階ぐらい
の高さがあったと思う。
俺は意識を失ったままここに連れてこられたから覚えてないが、
家畜小屋と村長の屋敷を行き来している時に見かけた中で石造りの
建物はここだけだったはず。
その地下牢である。
目の前にはぐるりと螺旋状の階段が上にのびていて、コツコツと
誰かの歩く音が響くものだから、間違いなく高さがあるのだろう。
歩く音?
そんな風に音に反応しながら螺旋階段を見やると、妙齢の女村長
のご登場である。
﹁派手に暴れてくれたねぇ﹂
俺はゴクリとつばを呑んだ。
女村長の側には、潰れた顔の青年ギムルが付き従っていたのだ。
あれ、俺そこまでやってませんよね?
42
5 今日から猟師小屋が俺の家
俺は地下牢にいる。
そして俺は今、女村長に尋問されていた。
﹁お前は家畜の世話をしているところ、ギムルと口論になってこの
男に暴力を働いた。違いないね?﹂
﹁間違いありません﹂
静かに俺は返事をする。
たぶん言い訳をしたところで立場がよくなるわけではないし、村
長の質問は間違っていない。
﹁そこにジンターネンが出くわして取り押さえられた。違いないね
?﹂
﹁そうです。その顔面の潰れたギムルさんに殴られて意識を失いま
した﹂
﹁お前の顔も潰れているよ。鏡を見てみるがいい﹂
フフフと女村長は笑ったが、もちろん皮肉だ。ここには鏡なんて
贅沢品は無い。
かわりに手で顔を触ってみると、鼻のあたりが死ぬほど痛かった。
たぶん潰れているのだろう。骨折だろうか? 痛くて触りたくな
い。
﹁けど、俺はギムルさんの足をこかしただけで、暴力はそれ以上働
いていませんよ。ギムルさんの顔は俺じゃないです﹂
43
女村長が落ち着いて尋問をしてくれていたので、俺も言うべき事
はしっかりと言っておいた。
青年ギムルは筋骨隆々の肩を縮こまらせてシュンとしていた。
体育座りをしていた牢屋の中の女も、姿勢を崩して壁際に逃げて
いる。
誰もが女村長を恐れているのだろうか。
﹁義息子はわらわが殴ったのだ﹂
﹁むすこ⋮⋮﹂
﹁そうだ義息子だ。わらわは後添えでね、死んだ夫はこの村の村長
だった。この男は夫の忘れ形見さ﹂
﹁なるほど﹂
﹁この男は暴力にすぐ走る傾向があって、今回もきっと酒に酔って
悪さを働いたのだろう。わらわがお前にかわって折檻しておいた﹂
﹁それで⋮⋮﹂
﹁この村のルールでは、泥棒は指を落とす、殺人には死を持って償
ってもらう、という決まりがあるのだ﹂
女村長は言った。
だから俺の顔面を潰したギムルは、同じ様に顔面を潰されたのか
もしれない。
女村長恐るべしだ。
﹁だからお前の疑いは晴れたというわけだ。出てよいぞ﹂
つまりブタ小屋から解放されるわけだ。
ガチャガチャとゴブリンがカギをあけてくれる。このゴブリン、
いつぞやの木こりの悪魔だ。
44
﹁助かりました。ありがとうございました﹂
﹁感謝する必要はないさ。だがわらわはお前に謝罪もしない。これ
でおあいこだ﹂
つまり義理の息子の顔面を潰したのでこれで相殺しろという事な
んだろうな。
﹁ところでお前、もとは戦士だったのか? 剣を振り回す義息子を
棒きれ一本でぶちのめしたそうじゃないか﹂
﹁まあ、戦士といえば戦士の訓練を受けていましたが⋮⋮﹂
﹁そうか。それはいい拾い物をした﹂
かわいた女村長の笑いが石の塔内を響き渡った。
﹁それでこの女の人は、何なんですかね﹂
﹁その女か。そいつはお前の世話をするためにそこに連れてきた女
だ。まあいいからついて来な﹂
女村長に促されて俺は地下牢を出た。
それはいいんだが、いいかげんこの手枷足枷をとってもらえませ
んかね?
﹁ああ忘れていた。ッンナニワ、はずしておやり﹂
従っている木こりのゴブリンに女村長が命じた。
村長、今何て言いました?
ッンナニワ? 発音できません!
俺は手枷足枷をはずしてもらい、それを委縮した青年ギムルに押
し付けてやった。
とても嫌そうな顔をしたギムルだったが、今は噛みつくわけにも
45
いかずという具合で黙ってそれを受け取ってくれた。
いい気味だぜ。ざまぁ。
そうして地上に出ると、久しぶりに外がまぶしかった。
﹁本来、今日からお前が住むはずだった家に案内してあげる﹂
﹁ブタの畜舎ですか?﹂
﹁そんなわけがないだろう。誰だ、そんな事を言ったのは?﹂
歩きながら振り返った女村長が俺に言った。
俺は意趣返しのつもりで後ろから付いてきていた村長の義理の息
子を見やった。
とたんにギムルはバツの悪い顔をして視線をそらす。
その横についていた牢屋の女も俺の視線に驚いている。わたしは
関係ないという風にふるふると顔を振っていた。
﹁ギムルだな﹂
﹁まあ、そうですね﹂
﹁安心するんだ。わらわはそのうちにちゃんとした村の一員として
お前を迎え入れてもいいと思っている﹂
﹁マジですか? ありがとうございます!﹂
﹁村の一員になる以上、お前は年齢も年齢だし、嫁も家も必要だろ
う。この女と結婚しろ﹂
嫁は必要ないかな。もともと定職にはついてなかったわけだし、
家も借りていたボロアパートだぜ。
住めるならどこだっていいし、性処理はとりあえずひとりでもで
きるモン。
だがもらえるものはもらう。当然の権利だ。
﹁ありがとうございます。嫁ともども村に貢献します﹂
46
こ
俺がそういうと、名も知らぬ嫁が俺を見てまたビビっていた。
この娘、俺に懐いてくれるんかなぁ。
﹁それで家というのは﹂
﹁あれだよ。村の外れにある、もとは猟師の男が住んでいた猟師小
屋だ﹂
﹁その猟師さんは?﹂
﹁この冬に森に入って死んだ。相手はワイバーンだったらしい﹂
﹁わ、ワイバーン﹂
ワイバーンって何ですかね。
ワイの名はバーンや。そういうのですかね?
ちょっと自分の中で問いただしてみたが、もちろん俺はそれを知
っていた。いや、見た事は無かったがファンタジーの世界によくい
る空飛ぶトカゲの親戚だろう。とにかくデカイ事で有名だ。
﹁殺されたんですか?﹂
﹁相打ちだ。お前、確か名前はシューターだったな?﹂
﹁はい、修太です﹂
﹁弓使いとはいい名前だ。明日からお前には弓を与えるから猟師に
なれ﹂
﹁?﹂
﹁その名前を持っているんだ、狩りはやった事があるんだろう?﹂
名前って、俺。名前は修太です。
シューター? それなんかカッコイイけど、俺もう三〇過ぎなん
だなぁ。中二病わずらわせる年齢でもないんだわ。
﹁ありますけど﹂
47
確かに俺は狩りをしたことがあった。
正確には、俺の母方のおじさんが鴨射ちの猟師さんだったのだ。
小学生の頃、おじさんの家には確か猟犬が何匹もいて怖かったの
を覚えている。飼い主のおじさんには懐くのに、俺にはひとつも懐
かないのだ。
俺はおじさんの家に夏休みや冬休みになるといつもあずけられて
いたものだが、そこでのカーストは最下層だった。おじさんが一番、
おばさんが二番、そして猟犬たちが三番で、俺が四番。
悲しいが猟犬は飼い主にしか懐かない。あいつらは賢いのだ。
よくおじさんと、鴨射ちや山鳩射ちに行った。
ただしその時に使ったのは銃であり弓ではなかった。
それからむかしアパレルショップで勤務していた事があるのだが、
そのバイト先の店長がもと自衛隊の空挺隊員という経歴で、休日に
なるといつもサバイバルゲームに俺たち従業員を連れ出していた。
山に入るとリペリング講習会などと称して、崖をロープで上り下
りさせていた。
俺は山になじみがある。
その時に蛇を捕まえて食べた事もあるので、蛇ぐらいなら捕まえ
る事ができるだろう。食べた感想を正直に言うと、ヤマガカシは美
味い。シマヘビもそこそこ美味いが、アオダイショウは不味い。
あとジムグリは捕まえた事が無かった。
﹁そうかい。明日の朝までには道具を一式用意させるから、しっか
り働くんだよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁家も嫁も与えるんだ。しっかり家庭を守れる男になるんだね﹂
あっはっはと女村長は笑った。
48
﹁ちなみにこの女は、死んだ猟師の娘だ。しっかりと世話してもら
うのだ!﹂
﹁はっハイ﹂
◆
俺は異世界で一戸建ての家を手に入れた。
はじめは家畜小屋、次はブタ箱ときて、猟師小屋と言えどちゃん
とした土壁の家だ。
屋根だってしっかり茅葺だ。これで雨風はしのげる。
しかも嫁まで与えてもらった。
いや、本当にこれでいいのだろうか。
嫁と言うが、目の前の女は本当にそれで納得しているのだろうか?
俺のいた世界では嫁は与えられるものじゃなくて、契約するもの
じゃないだろうか。
婚姻届を提出するのは一種の契約なはずだ。
﹁あんた、名前は何て言うんだ?﹂
返事が無い。やはり納得をしていないようだ。
しかし女村長によって決められてしまった夫婦の関係なのだから、
少しでも打ち解けておきたい。
嫁の名前も知らないでは、やっていけないではないか。
﹁やあ俺はさっきも言ったが、修太だ﹂
﹁⋮⋮シューター?﹂
﹁なんだ、ちゃんと喋れるじゃないか。そうシューター﹂
修太と言ってもシューターとこの世界の住人には言い直されるの
で、もうシューターでいいか。
49
どうせこの世界には戸籍もなければ住民票もないだろう。ちょっ
と外国人ぽくてカッコイイし、このままいこう。
﹁それで、あんたの名前は? いつまでもあんたじゃ、問題がある
だろう﹂
だって俺たち、その、夫婦になるんだぜ?
﹁⋮⋮カサンドラです﹂
﹁カサンドラか、いい名前だ﹂
俺たちは死んだ猟師の家で、カサンドラの家でもある小屋みたい
な家で向き合っている。
ベッド
家畜小屋よりははるかに広い。八畳一間といったところだろうか。
室内には細長い寝台がふたつあり、壁側に窯がある。
これだけのささやかな猟師小屋だが、ワンルームマンションだと
思えば納得はできる。
ただしユニットバスだ。
部屋の隅に糞壺が置かれているのと、大きなタライがある。たぶ
んこのタライが浴槽だ。
いままでのわずかな湯でへちまのタワシでごしごししていた事を
考えると、家も嫁も手に入ったのだから大満足だ。
一週間余り異世界で生活してきて、ようやく手に入れたもの。
やっと人心地を手に入れたもの。
﹁カサンドラ。いきなり夫婦になろうなんて言っても、君もきっと
動揺している事だろう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺だってそうだ。
バイト帰りにいきなり異世界にやって来てす巻きにされた。毎日
薪割りの仕事をしてようやく家を与えられたのだ。
50
﹁今すぐに夫婦になる事なんてできないだろうけど、少しずつ本物
の夫婦になって行こうね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そう言った俺に、カサンドラはすごく嫌そうな顔をした。
新婚早々、家庭内別居の危機である。
﹁⋮⋮服、お父さんのがありますから﹂
そう。
家も嫁も手に入れたのに、俺はまだ全裸のままだったのである。
ありがたく死んだ義父の服を頂戴する事になった。
51
5 今日から猟師小屋が俺の家︵後書き︶
20000字使ってもまだ全裸!
52
6 今日から猟師になったので狩り道具をもらう
やあみんな。今日から猟師になった吉田修太だ。
みんなは気軽に俺の事をシューターと呼んでくれ。
とりあえず新妻のカサンドラが、亡き義父が使っていた服をくれ
た。
これまで一張羅だった腰巻きを青年ギムルに斬られて裸一貫にな
ってしまった俺にはありがたい話だった。
新妻カサンドラは、俺に服をくれた。
服は、毛皮のチョッキだった。
﹁あの、カサンドラ。下はないのかな?﹂
﹁生活が苦しかったので、手放しました。お父さんの服はチョッキ
があるだけです﹂
何という事だ。
新妻が俺にくれたのは三枚の毛皮のチョッキだけだった。そのう
ちの一枚は俺が今着用している。残りは小さな藤編みのタンスにし
まってある。ズボンはまだない。
仕方がないので俺はフルチンのまま毛皮のチョッキを着ていた。
さすがに下着が無いのは悲しいので、今はボロボロになった手ぬぐ
いを腰巻きがわりにしている。
以前使っていた腰巻きよりさらに状態が悪く、しかも腰に巻いて
みると短かった。
これではあまり意味があるとは言えない。
とても悲しいので、ファッションモデルよろしくグルリと回転し
て新妻に確認してみる。
53
﹁どうかな?﹂
﹁と、とてもよくお似合いです﹂
眼をそらしながらカサンドラが言った。
﹁そうかそうか?﹂
﹁⋮⋮死んだお父さんも喜んでいると思います﹂
﹁ありがとう。そう言ってくれると俺も嬉しいよ﹂
眼をそらしたままカサンドラがまた言った。
本人はお世辞を言っているつもりなのかもしれないが、絶対に嘘
だ。似合っているはずがない。
感謝だけして俺がペコペコやってると、腰巻きにするには縦にも
横にも短すぎたボロ布が取れてボロリしてしまった。
﹁じゃ、じゃあ行ってくるよ。村長さんに呼ばれてるから﹂
﹁あのう、お気をつけて⋮⋮﹂
新妻カサンドラに特に見送られるでもなく、俺は村はずれにある
猟師小屋を出発した。
ちなみに昨夜は新婚初夜というやつだったが、まだ新妻の手も握
ってはいなかった。
何しろ猟師小屋は親子で住んでいたので、寝床がそれぞれ別の寝
台なのだ。しかも部屋の両端に離れていた。
明らかに俺の気配に怯えながらカサンドラは背中を向けてまるま
っていたので、悲しくなった俺はふて寝をするしかなかった。
だってしょうがないじゃないか。
俺は妻を娶ったんだぞ! 奥さんができたら次は子供ができるか
な? とか期待するじゃないか!
54
期待ばかり膨らんで、息子も膨らんだ。だから新妻は俺に恐れを
なしたのだろう。
しょうがない。
外にはゴブリンの男が待っていた。
名前はッワクワクゴロというらしい。
木こりのッンナニワさんとの見分けが俺にはつかないが、別に兄
弟というわけではないらしい。
﹁村長がお前の狩り道具一式を用意している﹂
﹁ありがたい事です﹂
﹁お前、ここに来る前は戦士だったそうだな。戦士は狩りも訓練の
一環だと言うから、狩りはお手の物だろう? 期待している﹂
﹁狩りに出た事はありますが、さすがに得意とまでは言えませんよ。
ハハッ﹂
﹁だがお前、名前はシューターと言うんだろう。弓使いという意味
だ。無学な俺でも知っているぞ﹂
ッワクワクゴロさんは、これまで話してきたここの村人の中では、
誰よりも気さくな人だった。
何しろ、女村長の屋敷に向かう道すがら、絶えず俺に話しかけて
きてくれるのだ。
﹁カサンドラはいい女だ。この冬に親父を亡くしてしまって生活は
苦労していたが、お前が娶ってやった事でこれからは暮らしぶりも
きっと楽になるだろう﹂
﹁そうだといいんですがねぇ﹂
﹁一人前の男というもんは、女子供をしっかり養うものだ。しっか
りせい!﹂
55
そう言って背の低いッワクワクゴロさんが俺の丸出しケツをバシ
リと叩いた。
すると風も無いのに息子が揺れる。
しかし嫁さんか。
俺はもともと三十路を過ぎてもフリーターをしていた男なので、
結婚なんて考えた事も無かった。
そもそも、だ。恋愛をするつもりがなかった。
大学を中退して家を追い出されてからしばらくは、沖縄出身の古
老の家にお世話になっていた。古老の家には空手道場があったから、
そこで寝泊まりしながら道場の手伝いをしていたのだ。いわゆる内
弟子というやつである。
内弟子だけでは食べていけないので、当時は配管工のアルバイト
や花火職人の手伝いをしていたけれども、師範の家に寝泊まりして
いるのに恋愛なんてする余裕は無かった。
そういう時、男ならたまにはこっそり風俗に行くものだろう。
だが俺は宗教上の理由でそこには行かなかった。
宗教上と言っても別に宗教じゃない。俺は武道の神様に貞操をさ
さげたわけではなく、金が無いので仕方なく紙媒体の女の子に片思
いして誤魔化す事にしたのだ。
エロマンガはいい。見ているだけでエロい気分になれるからな。
ただし虎の巻だったエロマンガは、沖縄古老の師範のお孫さんに
あたる女子高生の女の子に見つかって、先生のご家族にさらされた
挙句、捨てられた。
わけがわからないぜ。当時すでに成人男性だった俺がエッチな本
を持っていても何も問題ないはずだ。
しかもちゃんとベッドの下に隠していたので、わいせつ物を陳列
したわけではない。
わいせつ物陳列罪にもし問われるなら、今がそうだろう。
56
﹁それにしてもお前、服はなんとかならんのか﹂
﹁残念ながら、あの猟師小屋には毛皮のチョッキしかなかったんで
すよ⋮⋮﹂
悲しくなった俺は自分のお股を隠した。
﹁そうかい、じゃあ後で俺の腰巻きをやろう。寝間着代わりに使っ
てるものだが、無いよりましだろうよ﹂
﹁ありがとうございます。謹んでいただきますよ﹂
﹁ところでお前は、今年でいくつになる?﹂
﹁年齢ですか? それなら三二歳ですね﹂
﹁三二歳?! とてもそうは見えないぞ﹂
ッワクワクゴロさんは驚きの顔をしていた。
それはどういう意味だろうか。
﹁もっと若造かと思っていたが。お前、結構若作りだな﹂
﹁ありがとうございます。よく言われます﹂
人生このかた若作りなんて言われた事も無かったが、異世界に来
てから伸び放題の無精ヒゲを撫でて、俺は返事をした。
﹁それならお前、カサンドラとは親と子ほども年齢が離れているの
か﹂
﹁カサンドラは今年でいくつになるんですか?﹂
﹁確か一六だったか一七だったか﹂
ワーオ、軽く犯罪だ。
もしかするとカサンドラの亡くなった親父さんは俺とさほどかわ
らない年齢なのかもしれない。
57
﹁まあお前はヒト族だから、俺たちゴブリンよりは長生きするし気
にしなくていいだろう。歳の差夫婦なんてのは別に珍しくも無いか
らな、ヒト族ならな﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁そうともよ。村長は今年で三一だが、死んだ前の村長と結婚した
のは一九だった。前の村長はその時、五〇の爺さんだったよ﹂
﹁後添えだったらしいですね。村長﹂
﹁ああ、隣の村から輿入れして来たんだ。残念ながら村長は石女で
な、村長も再婚だったんだよ﹂
﹁へぇ﹂
石女というのは、ウマズメの事だろう。つまり身体的な理由で子
供ができない女というわけだ。
息子の世話をするためにと、前の村長が今の村長を後妻に迎えた
わけである。
なかなかの美人な気がするが、もったいない話だ。
息子のギムルからすると、母親といよりも姉と言った方が近い様
な年齢だ。
フフン。もしかするとあの男、義母に懸想しているのか?
だからいつも女村長の前では大人しくしているのだろうかね。
フヒヒ。
﹁ここで俺がしゃべった事はナイショだからな?﹂
﹁も、もちろんです、ッワクワクゴロさん!﹂
しかしこのゴブリンたちの間で使われている名前、何とかならん
のか。
俺みたいな日本からやって来た人間には、ちょっと発音が難しい。
俺たちは屋敷の前で待っていた女村長のところまでやって来た。
58
◆
﹁お前は今日から猟師になる。したがって狩猟道具の一式を与える
が、これは村の一員として、わらわが認めたから与えるものだ。決
して人間にこれらの狩猟道具を向けてはいけない﹂
女村長は睥睨する様にチョッキ一枚で平伏する俺に向けて厳かに
言った。
﹁ありがとうございます。ありがとうございます﹂
最近はこの土下座スタイルが身についてきたものだ。
この異世界はどうやら中世かそれ以前といった文明状態だ。まだ
ルネッサンスを向かえた様な気配が無いぐらいにのんびりとした田
園風景が広がっている。
俺が元いた世界と違うのは、中世暗黒時代まっさかりの癖にフォ
ークが各家庭にある事ぐらいだろう。
ただしフォークの形状が違う。フォークと言うよりも二叉に分か
れた串と言った方がわかりやすいかも知れないフォークの親戚だ。
したがって俺に与えられた狩猟の道具一式というのは弓と矢、そ
れに手槍だった。
これは由緒正しき、マタギと同じ狩猟スタイルではないか!
モノの本によれば村田銃が普及する以前のマタギたちは、弓で射
かけて獲物を損傷させ、手槍でトドメをさしたらしい。
この弓と手槍の他に、ポシェット状になっている皮のフィールド
バッグが支給された。それとブーツである。
今の俺ははだしスタイルだ。
さすがにはだしで森をうろついていたら、足を痛めてしまうのは
間違いなしだ。これはとてもありがたかった。
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﹁では今日からッワクワクゴロや他の猟師たちの下について、狩り
をする様に。ある程度村の地形を理解する様になったら、自由に狩
りをしてもいい。その時はわらわが猟師株を授けようぞ﹂
﹁わかりました。家で待っている奥さんのためにも、そして村長さ
まのためにも、頑張って狩りをしてきます!﹂
﹁そうするがいい。では行って来いシューターよ﹂
﹁ハハァ!﹂
俺は改めて平伏した。
◆
さっそく俺は村長の屋敷の裏手で、狩猟道具一式を装備する。
まずは足の裏を掃除してブーツを装着する。
ブーツと一緒に支給されたソックスは、ソックスと言うより足袋
だった。伸縮しない布の靴下みたいなもんだ。
むかしウォーキングインストラクターのアルバイトをしていた時
に学んだのだが、靴下というのは足の皮膚の延長線上にあるらしい。
何が言いたいかというと、靴下を頻繁にかえると、それだけ足の
裏の負担が軽減されるのである。
そういう事を女村長が理解していたのかどうかは知らないが、靴
下の予備は全部で十セットもあった。とてもありがたい事だ。
その靴下の上に編上げのブーツを履く。
聞けばブーツは高級品で、何年も靴底を交換しながら大事に使う
ものらしい。
そして腰にフィールドバッグを装着した。腰鞄のベルトが直接皮
膚にあたると、また衣擦れで皮がめくれてしまうといけないので、
すぐ取れてしまうボロ布の腰巻きを当て布がわりにする。
フィールドバッグの中には水筒と硬い黒パンが入っている。これ
60
は下働きの若い女が用意してくれたものだ。あとは乾燥してカピカ
ピになったチーズもふた切れ。
それから弓と矢を背負った。矢筒には無理やり十五本あまりの矢
がつまっている。形状は用途によって違うものだったが、そのあた
りは割愛する。
そして杖代わりにもなる手槍と、草深い山野を切り分けるために
使うナタだ。
ナタは裸の状態で持っていると危ないので、革の鞘に収まってい
る。
﹁おう。いっぱしの猟師みたいな格好になったじゃないか﹂
﹁そうでしょう。俺も今日から猟師ですから﹂
ッワクワクゴロさんの言葉に俺は嬉しくなって返事をしたが、苦
笑したゴブリンの猟師はこう言葉を続けた。
﹁腰巻きが短すぎる事を除いてな﹂
つまり下半身ボロリは相変わらずである。
明らかに元の世界では変態おじさんの格好だが、どうもこの世界
の住人はさほど全裸を気にしないのか、俺の大事な一人息子を見て
も大騒ぎする事は無い。
確かに新妻のカサンドラや村長の下女である若い女は目を背けて
いたものの、あれは年齢的な気恥ずかしさに違いない。
俺は自分の中でそう思う事にした。
﹁狩りで余分な獲物を手に入れたら、服と交換してもらえばいい﹂
﹁そうさせてもらいます。俺はこれでも文明人を気取っている人間
ですからね。パンツじゃなければ恥ずかしくないモンとかは言わな
いわけです﹂
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﹁お前は時々、意味不明な事を言うな﹂
呆れた顔をしたッワクワクゴロさんに連れられて、俺たちは森の
中に入った。
途中、村人たちが俺とッワクワクゴロさんを茫然と見ている姿が
あった。
誰も俺たちに声をかけようとはしない。ッワクワクゴロさんも同
じだ。彼らは誰も、猟師には声をかけようとしなかった。
﹁みんな俺たちの事、遠巻きにしていますけど。誰も挨拶とかして
こないんですね?﹂
﹁猟師はな、もともとこの村じゃはなつまみものなのさ﹂
寂しそうにッワクワクゴロさんはそう言って村人たちから視線を
外すのだった。
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7 狩場の中心でコボルトが叫び俺は楽天的思考になる
猟師は自分の狩場についてあらゆる事を知っている。
俺の母方のおじさんは鴨射ちの名人だったが、自分が足しげく通
う猟場の地形と、そこで仕留められる鳥たちについては隅から隅ま
で熟知していた。
連れている犬についても同じだ。彼らはとてもよく訓練されてい
て、猟場の複雑な地形を、彼らだけが知っているけもの道を伝って
獲物を追い立てていくのだ。
けれど、知り合いとともにおじさんが知らない猟場に出かけた時
は、基本的に地元の猟師さんを水先案内人にして、そういう時はい
つもゲスト感覚で楽しんでいたものだ。
つまり、猟師とは自分のフィールドで狩りをしている限り頂点捕
食者なのである。
ちなみに俺のフィールドは、モンスターをハントするゲームの中
だった。なので俺は猟場という言葉よりも狩場という言葉の方がど
ことなく自分の中でしっくりくるのである。
ワイがバーンを仕留めるんや! ただしゲームの中でならな!!
さて早朝、村を出発した俺とッワクワクゴロさんは、村の東側に
ある林を抜けて、闇深い森に分け入った。
﹁地元の人間はここら一帯をサルワタの森と呼んでいるだ﹂
﹁サルワタ?﹂
﹁そうさ。ここで巨大な猿人間のハラワタが見つかったから、そう
呼んでいる﹂
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巨大な猿人間というのはゴリラかイエティ、はたまた大型猿人か
何かの親戚だろうか。
﹁ハラワタが見つかったという事はですよ。そいつは死んでいて、
何者かがハラワタを喰い散らかしたという事なんですかね?﹂
﹁まあそうなるな⋮⋮﹂
ッワクワクゴロさんは自分の鷲鼻をさすって、ため息交じりに返
事をした。
﹁この森のずっと奥まで行くと、ワイバーンの営巣地があるんだよ﹂
﹁⋮⋮ワイバーン、確か妻の親父さんが相打ちになったという?﹂
﹁そういうこった。おいシューター﹂
﹁はい?﹂
﹁まさか妙な義侠心なんて持ち出してくれるなよ? お前がいくら
戦士だとしても、昨日今日この猟場に来た猟師がワイバーンを相手
に狩りを挑むなんて、できやしないんだ﹂
背の低いッワクワクゴロさんは、俺を見上げながら真剣な眼差し
で忠告をしてきた。
﹁当然です。俺はただのバイト戦士、そして俺はここでは新参者だ。
猟場を熟知するまではッワクワクゴロさんの言いつけはしっかり守
りますよ﹂
当たり前だ。俺はワイバーンがどんな姿をしているのかもわかっ
ちゃいないのだ。
相手がどんなヤツかなんて、正直なところ興味が無い。できる事
ならこの異世界ライフで一生涯出くわしたくない相手である。
64
そもそも、俺のいた世界にあてはめれば、ワイバーンといえば天
翔ける飛龍の事だ。そんなヤツに猟銃のひとつも無しに挑むのは馬
鹿のする事だ。
﹁それでいい。俺たちの獲物は別にいる﹂
﹁ですね。ッワクワクゴロさんは普段、何を専門に狩りをしている
のですか?﹂
先ほど俺はおじさんの話をした。
おじさんの場合は普段、専門にしているのは鴨や山鳩、雉といっ
た野鳥である。
単純に猟師といっても、野鳥を専門にする者、鹿やカモシカなど
の野獣を専門にする者、狐や野兎を専門とする者と、それぞれ得意
分野はわかれている。
特に難易度が高いと言われているのが猪や熊といった、暴れると
手におえない連中だ。
これらは待ち伏せして、組織的に包囲をかけて仕留めるのがもっ
とも安全だった。
猟師たちの連れている猟犬らも、場合によっては命を落とす事も
あるのだ。
﹁俺か? 俺の獲物はコレよ﹂
冗談めかしたッワクワクゴロさんは、小指を立てて下品に笑った。
﹁お、女ですか﹂
﹁特に若いメスがいいな。といっても人間の女じゃないぞ?﹂
﹁ゴブリンですか﹂
ッワクワクゴロさんはゴブリンなのだから、若いロリータのゴブ
65
リン専門であっても別におかしくはない。
﹁そんなわけが無いだろう。女のゴブリンを捕まえてどうするんだ、
村長に処刑されてしまうだろ﹂
では何かというと、ッワクワクゴロさんは説明を続けた。
﹁コボルトよ。メスのコボルトは普通、子供たちを連れて行動して
いる。コボルトの群れを襲えば高確率で子連れのメスが脱落するわ
けよ。そこを仕留める﹂
嗚呼、ここはファンタジー世界でしたね。
ッワクワクゴロさんはゴブ専ではなかったわけだ。
﹁その、コボルトというのはどういう獲物なんですかね?﹂
﹁何だお前、コボルトを知らないのか。ちっちゃい小人みたいな姿
をしたジャッカル面の猿人間よ﹂
なるほど、たぶん俺の知っているファンタジー知識のコボルトと
さほど外観は変わらないらしい。
﹁それを捕まえるわけで?﹂
﹁何分、あいつらはポコポコ繁殖しやがるからな。畑を荒らすので
迷惑するんだ﹂
﹁なるほど⋮⋮。コボルトは害獣、と﹂
それで捕まえられたコボルトは、その場で潰されて罠のえさにな
る。
潰されるのか⋮⋮と少し可哀想になったが、相手は害獣なので容
赦している場合ではないのだろう。
66
おじさんもよく家で飼っているニワトリに手出しするイタチを捕
まえていたし、わからんでもない。
﹁その上、家畜も襲う。あいつらは百害あって一利なしなうえに小
知恵が働く﹂
﹁猿人間ですもんね。で、潰したコボルトはどうなるんでしたっけ
?﹂
﹁潰したコボルトを餌に、本命のリンクスを誘い出す。こいつは毛
皮が上等で、行商人に売れば外貨が得られる﹂
﹁リンクス﹂
また知らない単語だ。
いや待て。モノの本によれば、確かオオヤマネコの仲間の事をリ
ンクスと言ったはずだ。
なるほど、オオヤマネコの毛皮か。
﹁すると、食べるための肉は取らないと?﹂
﹁少なくともそれは俺の本命じゃねえ。ただし普段は兎や鹿は仕留
めるぜ、そいつらはこのサルワタの森のあちこちにいるからな。こ
っちは自分で食っていくための獲物だ﹂
﹁兎に鹿ですか﹂
﹁そうさ。この辺りの鹿はそれほど大きくもねえし、単独で活動し
ているヤツを狙えば無理はねえ﹂
ついて来な。ッワクワクゴロさんはそう言うと、俺の背中を軽く
叩いて、ナタを器用に使いながら森のさらなる奥へと進んでいった。
◆
俺は今、とあるブッシュの中に身を潜めている。
67
ッワクワクゴロさんによれば、この辺りは草食動物たちがよく利
用するけもの道のすぐ側にあたるらしい。
当然、鹿や猪といった連中やコボルトもここを通るのだ。
﹁お前、弓の腕の方はどの程度なんだ?﹂
背中に担いでいた短弓を下ろした俺たちは、いつでも姿を現した
獲物を仕留めるために準備だけはしていた。
俺は以前、とある演歌歌手の舞台公演に参加して、時代劇をやっ
た事があった。
その時に少しだけ狩人の役をしたので、カーボン製の弓であれば
触った事があるが、さすがに実射した事は無いので、弓をその場で
というわけにはいかない。
そこで俺は言い訳をした。
﹁俺が使っていた弓は長弓だったので、ちょっと使い勝手が違うん
だよなぁ﹂
﹁なるほどお前は戦士だからな。だが短弓はいいぞ、腕がそれほど
なくても、慣れればすぐに使いこなせる様になる﹂
マタギたちの狩りでもそうであったように、弓は相手に出血を強
いるための武器だ。
相手のとどめを刺すために使うのは、杖代わりに使ってきた手槍
である。
俺は棒の類は得意にしている獲物なので、たぶん少し使えばこっ
ちの方は問題無く扱えるだろう。
問題は短弓だ。
﹁ちょっと試してみたいですね﹂
﹁そうだな。今日のノルマをしっかりとこなした後であれば、お前
68
にやらせてもいいだろう﹂
さて、コボルトが来るか、はたまた兎が顔を出すか。
俺は露出しすぎた肌を見事に虫刺されにやられながら、ひたすら
待ち続けるのだった。
どれぐらい時間が経過しただろう。
早朝に村を発って現地に足を運んだのが、おそらく正午まで少し
は時間を残していた。
おしゃべりで世話好きなッワクワクゴロさんだったが、けもの道
を見渡せて体を隠せられるブッシュの中に身を潜めてから、口数は
少なくなってしまった。
その間に早めの昼食と、お互いに持ち寄ったお弁当を食べる。硬
い黒パンを食べるとひどく喉が渇いた。
しかしあれだな。
草むらの中にいると、痒い。
羽虫に刺されるのもあるのだが、どうも全裸に限りなく近いスタ
イルだと、ケツに小石は食い込むし草が肌に擦れて切れるので、や
ってられないね。
次からはそのあたりの対処法をッワクワクゴロさんか、かわいい
い新妻のカサンドラに聞いておかなければならないだろう。
しょうがないので俺は、ありあわせの手段として、泥を皮膚にこ
すりつけて塗り込んだ。
﹁お前、なかなか知恵がまわるじゃないか﹂
お肌を泥パックしていた俺を見て、ッワクワクゴロさんは小声で
感心している様だった、
69
﹁むかし、消火ポンプをかついでキャンプに出かけた事があるんで
すよね﹂
﹁消火ポンプ? 何だそれは﹂
俺はアパレルショップでバイトをしていた頃、完全武装に消化ポ
ンプ、それから二リットルのペットボトルを担いで山を行軍した経
験があった。
店長が率いるサバゲーチームが、とある山のフィールドでキャン
プしている敵対チームを襲撃する作戦に参加したのだ。
あの時、俺たちは虫に悩まされていた。虫ジュースと呼ばれてい
る、まったく役にたたない除虫液を俺たちは持っていたが、それの
効き目があまりにも無いので、かわりに泥を皮膚の見えるところに
塗りたくって対策したのである。
さすがにヒルまでは防げなかったか、少々の虫ならばそれで防げ
た。
﹁消火ポンプというのは、火事を消すために使う魔法の道具ですよ﹂
﹁お前、戦士だけじゃなくて魔法まで使えるのか?﹂
﹁ごめんなさい使えません。でも魔法の道具なら誰でも使える便利
なものなんですよ﹂
そんな事を言っていると、俺たちはいつの間にか周辺をコボルト
の群れに囲まれていたのだった。
﹁コボッ!﹂
コボルトがいっぱいいる!
俺は咄嗟に変な声をあげそうになったが、そこはッワクワクゴロ
さんに止められて我慢する。
連中はまるで俺たちの存在に気が付いていない。
70
どうやら群れになって、餌場だか水場だかに移動する際中だった
のだろう。
コボルトの数は全部で十数頭、親子連れもいる。
肘でつついたッワクワクゴロさんは、俺に手槍を構える様に指示
をした。不得手な弓を使わせるより、仕留める側にまわってもらお
うという事だろう。
指示を出しながらッワクワクゴロさんは素早く弓をつがえ、狙い
を定めたのである。
惚れ惚れするような手慣れた動作である。無駄が無い。
そしてひときわ大きな群れのボスが、仲間たちを集める様に咆え
た。
﹁コボーッ!﹂
楽天的に考えてもいいのかもしれない、俺の初狩りは成功するの
だと。
71
7 狩場の中心でコボルトが叫び俺は楽天的思考になる︵後書き
︶
キンドルかコボかでいうと、わたしはイルカブックス愛用者です。
72
8 嫁がまだ懐かないのは俺が全裸だからか
ゴブリンの猟師ッワクワクゴロは勇敢だった。
ブッシュの中に身を潜めて弓を引きしぼったかと思うと、流れる
様な動作で矢を放ち、それは一頭のメスコボルトに吸い込まれてい
った。
群れで移動中のコボルトたちは、一瞬何が起きたのか理解できな
かっただろう。
﹁コギェー!!﹂
甲高い悲鳴がメスコボルトから飛び出した。
冷静なッワクワクゴロさんは続けざまに、足元に用意していた次
の矢をつがえて放つ。
この間おそらく五秒あまりだろう。
コボルトの群れは間違いなく混乱していた。
狙われた若いメスコボルトは二射目ですぐに倒れてしまい、すぐ
そばに居た子供たちは母親に駆け寄る。
ボスと思しきひときわ大きなオスコボルトは、手に持っていた棒
切れを振り回して辺りを見渡していた。
ボスコボルトの視線が止まる。
その先にブッシュに身を潜めた俺がいたのである。
﹁よしシューター、いくぞ!﹂
三射目を射ち放ったそれは、近くにいる別のコボルトに刺さる。
俺はというと手槍を片手にがむしゃらに突進するのだった。
73
ブッシュに潜んで数時間、打ち合わせの時にッワクワクゴロさん
から言われた事は、一度射かけたら勢いで押しまくれという事だっ
た。
コボルトは非常に警戒心の強い生き物である癖に、一方でとても
注意力散漫な連中らしい。好奇心が優っていて普段は面白いものを
見つけると夢中になる事があるのだとか。
とんでもない矛盾だが、猿人間ゆえの習性だろう。
そして話には続きがある。
個々では弱いジャッカル面の猿人間コボルトは、それ故に群れで
生活をした。そして道具を使う事で身を守るのだが、どうにも勝て
ない相手と出くわすとパニックになるのである。
ッワクワクゴロさんは﹁コボルトは小知恵がまわる﹂と言った。
つまり恐ろしい事に出くわして頭で必死に考えると、結果的に自分
が襲われた後にどうなるか想像して恐怖するのだ。
勝ち馬に乗っている時は小狡く強いくせに、負けるとなると思考
停止する。まるで人間みたいなヤツもいたもんだ。
だから俺はおもいっきり暴れる様に連中の前に躍り出た。
ここでコボルトどもに余計な時間を与えると、小賢しい知恵を働
かせて反撃に出てくるかもしれない。それを防ぐためである。
﹁ホゴボゲェ!﹂
何かの単語だろうか、コボルトのボスが咆えると、数頭が付き従
って俺の方に向かってくる。
逆に若いのやメス、子供の個体は逃げ出そうとする。
俺は手槍を低く構えると、先頭になって突っ込んできたまず一頭
のコボルトの胸をブスリと刺してやった。
嫌な感触だ、こんな感触は過去の武道経験でもしたことが無い。
肉は吸い込まれるように手槍の刃を受け止めた。
すぐさまそれを抜く。そうしなければ筋肉が凝縮して抜けなくな
74
るのではないかと考えたからだった。
モノの本によれば、刺されたり撃たれた瞬間の人間というのは筋
肉が委縮して変な動きをするらしい。
だから俺は手槍を抜き様に周囲を警戒しながら、すぐにそいつと
の距離を取った。
﹁シューター、ボスが来るぞ!﹂
声に反応して見れば、俺よりも上等そうな腰巻きをしたボスコボ
ルトが、木の棒きれを武器に襲い掛かってくるところだった。
しっかりと木の先端をとがらせてくる。
コボルトはただの猿人間ではなかった。少なくとも猿人なみの文
化享受があるらしい。
﹁うおっ! こいつ早ぇ﹂
しかも力は強そうだ。
木の棒が地面にたたきつけられた時、おもいきり泥が舞った。な
かなかの勢いじゃないか。
だが倒す必要はない。相手を恐怖に陥れればいいのだ。
﹁おらエテ公、食らえ!﹂
こういう時は威勢がいいのは大事なことだ。叫びながら、ぞうき
んを絞る様に柄を両手で握り込んで、さらにボスコボルトめがけて
突き出すと、それすらも避けられる。
かまうものか。右に左に現れた別のコボルトを威嚇する様に手槍
を大きく振り回した。すると、
﹁ラッテンコボゥ!﹂
75
ボスコボルトは大きく咆えて後退すると、そのまま俺が手槍で仕
留めたコボルトを引きずって、森のさらに奥に向けて逃げ出したの
である。それに続くオスコボルトたち。
サルワタの森に静寂が戻った。
﹁さすがシューターは戦士の出身だけあって、やるじゃないか﹂
俺は肩で息をしながら、ッワクワクゴロさんを振り返った。
ッワクワクゴロさんも今は手槍を獲物に変えていた。周囲を警戒
しながらも、ゴブリンよりもさらに小さな成獣コボルトを一体足で
転がしていた。
﹁若いメス一頭に、このオス一頭か。独りならせいぜいがメスだけ
のところだったが、お前がいてくれたお蔭で潰せるえさが倍になっ
たぜ﹂
﹁いやぁさすがにこういうのははじめてだったので、俺も内心ビビ
リましたよ﹂
﹁そうか? なかなか様になった動きだったぞ﹂
﹁ッワクワクゴロさんひとりのときは、どうやってコボルトの群れ
を相手にするんですかね。一頭は確実に弓で仕留めるとして、その
後はどうするんですか?﹂
﹁一射加えたら即座に手槍に持ちかえて、何も考えずにボスコボル
トに飛びつくんだよ。あいつらが小賢しい事を考えるよりも早くボ
スに傷をつけてやるんだ。雑魚は相手にしねぇ﹂
そうすれば群れ全体に恐怖が電波して、ヤツらは勝手に逃げ出す。
ッワクワクゴロさんは悪魔顔に白い歯を浮かべて笑うと、即座に
ナタに獲物を持ち替えて、一頭のコボルトを潰した。
76
﹁ああ、わざわざ迎え撃つ必要はないわけですか⋮⋮﹂
﹁そうだな。お前はご丁寧にボスコボルトの取り巻きも相手をして
いたが、ああいうのはスピード勝負だぜ﹂
﹁すいません﹂
﹁次からボスだけ目もくれずにやるんだ。ボスはどのみち体格もい
いから、ゴブリン族の俺では互角がいいとこだ。けど不意打ちをす
れば傷ぐらいはつけてやれるからな。怪我をするとコボルトはすぐ
ヘタレるから、あとは今日と同じ流れだぜ﹂
こんな大立ち回りをしたのは、むかし焼肉屋でバイトしていた時
に酔ったお客さん同士が喧嘩をはじめて大暴れをしたのが最後だろ
うか。止めに入ったところを二発殴られたので制圧したら、俺は店
をクビになった。店長は元気にしてるかな。
一頭のコボルトはすでに首元にナタを差し込まれていて、ドバド
バと鮮血を垂らしていた。
そのまま転がったコボルトの足を持つと、ッワクワクゴロさんは
容赦なく引きずりながら移動する。
﹁それは何をしてるんですかね﹂
﹁血の臭いを撒いているんだ。仕掛け罠をつけるぞ、荷物を持って
こい﹂
ッワクワクゴロさんが解説してくれる。俺はあわてて自分とッワ
クワクゴロさんの道具をかかえて後を追った。
◆
スネア
仕掛け罠は単純なものだった。
一般的には括り罠と呼ばれる、獲物が足を引っ掛けると紐がしま
77
るタイプの簡単な罠だ。
さすがにオオヤマネコ相手に安っぽい紐では対抗できないので、
括り罠は金属をこよって作った丈夫なワイヤーだった。
ただし構造は、獲物が触れると反応するタイプとかそういうので
はなく、原始的にキュっとしまるだけのものだ。
この世界の文明度合ではこれが限界なのかもしれない。あるいは
予算の関係か。
トラバサミでもあればもっと効率はいいんだろうが。後で質問し
てみよう。それでも、
﹁なかなかよく考えられてますね﹂
﹁単純な構造だが、ワイヤーがしまった状態で獲物が暴れれば脚に
食い込む﹂
﹁複数仕掛けるんですか﹂
﹁単純なだけに、数で勝負するんだ。仕掛けたスネアに、落ち葉を
かけていく、そしてスネアの先端を杭か木の幹に縛り付けておけば
完成だ﹂
俺は素直に感心しながらッワクワクゴロさんの作業を手伝った。
﹁お見事な手つきで﹂
﹁毎度の事だからな。トラバサミがあればもっと効率がいいんだが、
あれは国法で領主の許可が必要になっている﹂
俺が質問するよりも先にッワクワクゴロさんが教えてくれた。や
ったね。
なるほど、元いた世界でもトラバサミは強力すぎて非人道的であ
り動物愛護観点からもよろしくないので、特別な許可がないものは
所持も購入もできないと聞いたことがある。
78
﹁つまり大物、ワイバーンを倒すなんて時だけは使用許可が下りる
ぞ﹂
﹁なるほど。それで領主さまはどこに?﹂
このあたり一帯の村々を束ねる領主さまがいるわけだな。どこか
に城でもあるのだろうか。いよいよこの世界がファンタジックに感
じてくる俺だった。
﹁村長の屋敷にいるに決まっているだろう﹂
﹁?﹂
﹁村長が領主だ。あのひとは騎士爵の叙勲を受けているからな。こ
のあたりの支配者さまだぞ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁この辺りは辺境の開拓地帯だからな。当然だ﹂
まじかよ。村長ってあれで騎士さまか。
女騎士という事はくっ殺せ! とか言うのかな。オークに捕まっ
たら。
先々が楽しみである。
﹁おいシューター、何で股間を押さえてるんだ? もう一匹を別の
場所にしかけにいくぞ﹂
﹁何でもないですハイ、行きましょう﹂
俺の息子は多感なんだよ。
◆
スネア
サルワタの森の二か所に括り罠を仕掛け終わると、ッワクワクゴ
ロさんがひと仕事終えたという顔をした。
79
﹁今日のところはこれで帰るぞ﹂
﹁もう帰っちゃうんですか? 兎とかとらないんですかね﹂
﹁帰りに見かけたらな。スネアにリンクスがかかるまで、しばらく
様子見だ。血の臭いが森に広がるまで時間がかかるからな﹂
ひと仕事を終えたッワクワクゴロさんは、またもとの様に口数が
多くなって色々と話をしてくれた。
やれ﹁カサンドラとはもう寝たのか?﹂とか、﹁子供は何人欲し
いんだ、ん?﹂とか、﹁しばらく新婚生活を楽しみたいなら、避妊
のために司祭さまを紹介してやる﹂とか言ってきた。
だから俺は﹁まだですねぇ。まずはお友だちからスタートです﹂
とか、﹁あ、でもウンコしているところは見ましたよ。夫婦だから
恥ずかしがらなくていいのに、すごく嫌そうな顔をしてました﹂と
か適当に返事をした。
家に帰り着くと、新妻のカサンドラは特に俺を待ってなかった。
﹁ただいま∼。煙突から煙が出ていたけど、そろそろごはんかな?﹂
﹁⋮⋮!!﹂
立てつけの悪い猟師小屋のドアを強引にあけながら俺が話しかけ
ると、寝台に横になっていたカサンドラさんが驚きの表情を浮かべ
ていた。
何やら両腕を股にはさむようにして、丸まっていたらしい。
﹁お、おかえりなさい⋮⋮﹂
﹁ただいま。あれ、料理していたんじゃないの?﹂
﹁はっはい。今はお湯を沸かしていました。体を洗うのに⋮⋮﹂
﹁ああいいね、さっそく使わせてもらうよ﹂
80
さっそく俺は狩猟道具を背中から降ろした。まずは全裸になって
体をきれいきれいしましょうね。
水を浸していた丸い木の桶に、俺は﹁あっちっち﹂とか言いなが
ら鍋を手にしてお湯を流し込んだ。
はじめカサンドラはそんな俺の作業を見ていた。
しばらくすると義父の形見のチョッキを俺が脱ぎ始めたところで、
側まで来てそれを受け取ろうと手を伸ばした。
けれども。
彼女の手と俺の手が触れた瞬間に、何故か手を離して逃げてしま
った。
少しだけカサンドラの指先がねっとりと濡れていた。
﹁⋮⋮ッ﹂
﹁?﹂
そして視線を背けて部屋の隅に移動してしまう。
何なんでしょうね。何で手が湿っていたのかな?
この子ぜんぜん懐かないよな。やっぱり村長に命じられて結婚と
か嫌だったんだろうな。
吉田修太、三二歳で新婚二日目。
嫁がまだ懐かないのは俺が全裸だからか。
81
9 とりあえず服を着ようか
暖かい毛布に包まれて俺は夢を見ていた。
いつ頃の夢だろうか、たぶんわりと最近の姿を俺はしていた。長
袖のシャツに中はTシャツ、下は職場の作業ズボンのままの姿だ。
その格好で俺はリュックを背負って駅前の繁華街を歩いている。
いつも顔を出していた立ち飲み屋が、おぼろげな視野の中に納ま
った。
ああ、これは元いた世界で最後に見た光景じゃないだろうか。
俺は確かバイト帰りに、一杯だけビールを飲みたくていつもの立
ち飲み屋に足を向けていたのだ。
家で飲むビールも嫌いじゃないが、店員の若い姉ちゃんに﹁いや
ぁ今日も疲れたよ!﹂と話しかけながら、安い﹁お疲れ様セット﹂
を頼むのが極上の喜びだった。
少ないバイト代でやりくりしていた俺としては最高の贅沢である。
確かあの時も、俺はのれんを潜ろうと立ち飲み屋に足を運んだん
だ。
もしかしたら、俺はあの時に死んでしまったのか? 車にひかれ
たとか。
視野の中にくだんの立ち飲み屋と、道路交通量もそれなりにある
狭い繁華街の道が映っている。
行きかう車が見えた。だが俺は別に車に引かれたわけじゃないら
しい。
なぜならば俺は何を思い立ったのか、立ち飲み屋を前にして、ぐ
るりと方向を転換してしまったのだ。
82
今朝の夢はそこで終了した。
俺の名は吉田修太。
異世界では猟師見習いをやっている三二歳のワイルドメンだ。
嫁のカサンドラと朝の挨拶もそこそこに、俺は鍬をもって外に出
る。
カサンドラから、自宅である猟師小屋の前にある畑を耕してくれ
と頼まれたからである。
彼女がひとりこの猟師小屋で生活していた頃は、男手が足りなく
ておざなりになっていたらしい。
季節は春だ。
カサンドラに聞いてみると今は暦の上で四月の終わりという事だ
った。
山野の雪が解けるのが二月の末で、そこから徐々に過ごしやすい
季節が広がっていく。
時期的に畑を耕すには遅いぐらいらしいが、それはカサンドラひ
とりではしょうがない。自分だけの食い扶ちを得ていた頃は芋を育
てているだけだったそうだ。
芋は手軽に手入れが出来て、寒さにも強く水も少なくていい。
俺は言われるままに痩せこけた土に鍬を振り下ろし、たがやして
いく事にした。
カサンドラの持っている畑は、小屋の前の四枚である。そのうち
のひとつが芋畑だから、今日は手前のもうひとつを手入れしよう。
これから毎日やっていく事だし、早くカサンドラの暮らしを楽に
してやらないとな。それが男ってもんだぜ。
﹁お前、朝から何をやっているんだ﹂
83
俺がしばらく枯れた土をまぜかえしていると、そこに猟師のッワ
クワクゴロさんがやって来た。
彼はいつもの猟師スタイルで、背中には弓も背負っている。
﹁おはようございます、ッワクワクゴロさん。今日はどこかにお出
かけですか?﹂
﹁リンクスがかかっているか、これから見に行くぞ。お前もついて
こい﹂
﹁おお、もうそんな時間ですか﹂
というわけで、畑一枚のごく一部を耕したところで、俺はサルワ
タの森へと出かけなければいけない。
コボルトを潰して括り罠スネアを仕掛けた場所の様子見に行くの
だ。
﹁それじゃあ今日も行ってくるよ。大人しく待っているんだよ?﹂
俺は愛妻に声をかけた。
﹁でも、畑の手入れもしないといけませんし﹂
﹁そんな事は俺が帰ってからやるから、君は家事でもやっていなさ
い﹂
﹁⋮⋮あのう、鍛冶ですか? わたし鍛冶はやった事が無いんです
が﹂
﹁ふうん、そうなのか﹂
料理をしたり洗濯をしたり、俺がいてもいなかった頃もやってい
たはずだけど、はて。
女村長も俺の世話をしろとカサンドラに言いつけていたのに、お
かしいなあ。
84
もしかすると謙遜をしているのかもしれない。
得意じゃないんですけど、わたし精一杯がんばりました!
うん、カサンドラは必死萌えを武器にするひとか。
ウンコする時いつも必死だもんな。
﹁じゃあまあ適当でいい。俺が帰ってから手伝うよ﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます。お気をつけて、いっていらっしゃい﹂
そんなやり取りをして、待たせていたッワクワクゴロさんと森へ
出かけた。
﹁何だ、俺がいるのも忘れてイチャついてやがるなぁ。このこの﹂
﹁そうですか? まだ手を触れてもお互いキョドっている感じなん
だよなぁ﹂
﹁なんでぇ、まだヤってないのか。もしかしてお前はムッツリか?﹂
﹁女の子は大好きなんですけどねえ、妻は俺と顔を合わせるたびに、
すごく嫌な顔をするんですよ﹂
﹁全裸だもんな﹂
﹁全裸ですもんね。今はチョッキつけてますけど﹂
﹁だがほぼ全裸だ﹂
違いない。
俺は股間をさすりながらけもの道を進んだ。
聞くところによると、ッワクワクゴロさんは猟犬を使役していな
いらしかった。何でも育てるだけでも犬の食い扶持がいるし、躾を
するのもかなり大変なものらしい。
そういう理由でこの村の猟犬は一か所に集められて、猟師たちを
束ねている男ッサキチョさんというリーダー格の男が預かっている
のだとか。
またしてもゴブリンである。
85
﹁ゴブリン族は立場が低いからな。普通どの村でも小作人か、猟師
に木こりと相場が決まっている﹂
﹁そうなんですか、コブリンって大変なんですね﹂
﹁優れたゴブリンはみんな街に行くからな。そいつらは傭兵や冒険
者となって、己の腕を頼みに面白おかしく生きているだろうさ﹂
﹁ッワクワクゴロさんはそうしなかったと﹂
﹁するわけがねぇだろう。家族を捨てて街に出るなんてどうかして
いる﹂
と、ッワクワクゴロさんは憤慨しながら言った。
﹁俺が街に出てみろ、残った兄弟や家族はどうなる。猟師は立場が
悪い。狩りに失敗すれば村からただ飯を食わせてもらう身分だから
な。その上、真冬のもっとも厳しい時期は森に入る事が出来ない﹂
そうなのである。雪に荒野が閉ざされてしまう冬季は、基本的に
森の奥で狩りをする事が出来なかった。
とすれば猟師たちは比較的森の浅い地域で鹿を狙う様になる。
この時期の鹿たちは深く雪の積もった山林ではえさを取る事が出
来ず、草原地帯に移動してしまうのだった。
そして森から出た鹿は、猟師にとってとても捕まえにくい相手だ
った。
フィールドがだだっ広い草原のために、待ち伏せする場所が限ら
れてしまうからだ。
﹁じゃあ狩場に入れない時期はどうやって生活するんですか﹂
﹁内職をするんだよ。ブーツを作ったり槍を研いだり、鏃をこさえ
たり。冬場は鍛冶の季節だ﹂
﹁ほほう、鍛冶までやるんですか﹂
86
﹁村にも鍛冶師はいるが、ドワーフの爺さんも忙しくてな。俺たち
猟師はいつも後回しだ。それにホレ﹂
ッワクワクゴロさんは矢筒から一本を抜き取ってそれを見せる。
﹁石の鏃は自分でこさえたほうがいい﹂
モノの本によれば獲物の獣皮に対して、金属の鏃に比べて石の鏃
は貫通力と殺傷力が非常に高いらしかった。
鉄の鏃は量産できて規格がそろっているかわりに、こちらは対人
用なのである。
俺は納得した。
それにしても狩猟を生活基盤にするというのはとても不安定なの
だな。
改めてそれを思い知らされたのは、サルワタの森に仕掛けたひと
つ目のスネアのところにやってきた時だった。
◆
﹁餌だけ見事に喰い荒らされている﹂
舌打ち気味にッワクワクゴロさんが言った。
しゃがんでスネアの周辺を探っているが、土に足跡を見つけて微
妙な顔をしていた。
ネコ科の足跡である。だが、女性の掌ほどの大きさがある。デカ
くね?
﹁デカいですね、リンクスですか⋮⋮﹂
﹁ワイバーンや熊を除けば、ここいらで一番の大物だからな、当然
87
だ﹂
餌だけをやられたついでに、このリンクスは獲物をねぐらに持ち
帰ったらしく、コボルトを地面に引きずった跡が残っていた。
そして二個目の罠も不発に終わってしまった。
﹁⋮⋮駄目だったな﹂
﹁駄目でしたね。いやぁ残念﹂
﹁まあ毎日狩りをしていればこれが普通だ。大物がかかる時はこれ
でしばらく生活できるが、獲物がかからない時は、ひたすら無駄に
なる﹂
猟師の生活には、どこかバイトを掛け持ちしたり、転々と短期の
派遣をやっていたフリーターの俺の生活と重なる部分があった。
それはいい事なのか悪いことなのかわからんが、それでも元の生
活に近いライフスタイルは、俺にとって馴染みやすいともいえるだ
ろう。
元のライフスタイルと明らかに違うのは、俺が今限りなく全裸に
近いという事だけだろう。
﹁リンクスを張って、ここで待ち伏せするのは駄目なんですかねえ﹂
﹁それは子育ての時期が過ぎたらやる。子育て時期は警戒して手が
付けられんからな﹂
﹁なるほど!﹂
俺はひとつ賢くなった。
確かおじさんが言っていたな。子育て時期の母熊には気を付けろ
と。
ツキノワさんでも猟師が手を焼くのだから、トラなみのデカさが
想像できるリンクスはマジでやばい。
88
帰りに俺たちは狐を一頭仕留める事が出来た。
たまたま村のすぐ近くまでやって来たところで、俺と狐の視線が
交差したのである。
﹁シューターやれ!﹂
咄嗟に叫んだッワクワクゴロさんは、即座に背中の短弓を下ろし
ながら惚れ惚れするような動作で矢をつがえたが、俺も同じ様に動
作を見習って、矢を放った。
距離はたぶんわずかに十メートル足らず。
一瞬立ち止まってキョトンとしていた狐目がけて二本の矢が飛ん
だ。
俺の矢は外れて、ッワクワクゴロさんの矢はしっかりささった。
﹁お前、名前のわりに弓使いが下手だな!﹂
まあ、はじめての弓だからね。しょうがないね。
◆
むくっ。起きました!
何がって、そりゃあねえ。たまってたんだよ、言わせんな!
どうしてそうなったかと言うと⋮⋮
実は俺、ッワクワクゴロさんと別れて帰ってくると、猟師小屋に
は新妻のカサンドラちゃんが留守をしていたのでガッカリした。
どこにいったのだろう。
89
紙もペンも無い不便な生活なので、書き置きなんてものはもちろ
んない。
かわりに洗濯ものが猟師小屋の入り口に干してあるのと、室内の
ボロいテーブルに、茹でた豆と玉子が置いてあった。
ひとりで食べるには多いところを見ると、俺の分もあるのだろう。
そして俺は縛り罠スネアの様子を見るだけと言って出てきたから、
お弁当は持ってきていなかった。
いつまでたってもカサンドラちゃんが帰ってこないので、俺は悲
しくなってひとりで食べるとふて寝したのだ。
とても寂しかったので妻のベッドで横たわり、毛布についた妻の
臭いを嗅ぎながら寝た。
そしたら息子が起床した。
むくっ。おっきくなりました!
﹁あの、シューターさん⋮⋮﹂
目が覚めると。
どういうわけか大きく成長した我が息子に当惑の顔を浮かべるカ
サンドラが、おずおずと怯える様に俺を覗き込んでいた。
隣には毛むくじゃらのおっさんがいる。
誰だこのおっさん?
﹁とりあえず服を着ようか?﹂
おっさんはヒゲをしごきながら、腰巻きを俺に寄越すのだった。
90
10 異世界に転生したら村八分にされた
毛むくじゃらのおっさんを目の前にして、俺は飛び起きた。
息子をいつまでも荒ぶらせているわけにもいかない。おっさんか
ら受け取った貧相な腰巻きで慌ててカバーする。
﹁お、おはようございます。えーとカサンドラ、こちらは?﹂
俺は飛び起きた。息子をいつまでも荒ぶらせているわけにもいか
ない。おっさんから受け取った貧相な腰巻きであわててカバーする。
﹁わたしの死んだお父さん⋮⋮﹂
﹁死んだお義父さん?!﹂
﹁⋮⋮の、お兄さんの息子さんです﹂
俺は死んだ義父が復活したのかと思って驚いたが、違ったらしい。
背格好は俺とかわらない身長でずんぐりむっくりしている。腕も
V字ネックの貫頭衣から見えている胸元も毛むくじゃらではないか。
もっさりとしたヒゲも蓄えていて熊みたいなおっさんだ。
﹁カサンドラの従兄のオッサンドラだ﹂
おっさんが言った。
名前、まんまじゃねえか。
俺が隆起した息子を押さえていた手で握手をしようと差しのべた
が、おっさんは微妙な顔をしただけで握手をしてくれる事は無かっ
た。
91
精一杯フレンドリーな俺にとても失礼なおっさんだ。
﹁カサンドラに婿ができたと聞いたから来てみたのだが、お前がそ
うか﹂
﹁はじめましてシューターです。今は死んだカサンドラの親父さん
の跡を継いで、猟師見習いをやっています﹂
俺はペコリ頭を下げた。
﹁お前、元は戦士だったそうだな。、裸を見せつけているだけあっ
て無駄のない体作りだ。それと祝儀がわりだ、これをやる。あと食
料を持ってきてやったから、少しは食の足しにしろ﹂
﹁⋮⋮気を使ってくださらなくても﹂
﹁ありがとうございます。ありがとうございます﹂
いつもの癖で俺は低姿勢で頭を下げた。
受け取ったそれは短剣だった。ショートソードというやつである。
どうせ祝儀をもらえるなら服の方がいいのだが、まあ剣は何かあ
った時に質にいれるという手もあるか。
﹁この男のためではない、苦労をしているカサンドラのために持っ
てきたのだ﹂
﹁オッサンドラ兄さん⋮⋮﹂
二人は妙に向き合って、見つめ合っていた。
あの、俺そっちのけで妙な感じなんですけれども。俺、席外した
方がいいですかね?
﹁それで今日は何をしに?﹂
92
いたたまれなくなった俺は質問をしてふたりの妙な雰囲気を妨害
してやった。
人の嫁と変な雰囲気作ってるんじゃねえ!
﹁オッサンドラ兄さんは鍛冶職人なんです﹂
﹁へえ。それで?﹂
﹁⋮⋮シューターさんが、鍛冶をやる様にと言っていたので連れて
きました。その、鍛冶をするなら兄さんを紹介した方が早いと。わ
たしは矢に鏃をつけるだけの簡単なお仕事しかできませんし⋮⋮﹂
﹁?﹂
何を言っているんだうちの奥さんは。
鍛冶? 俺はそんな事を言っただろうか。
﹁猟師なら狩猟道具の手入れや槍、鏃の準備もいるだろう。いい心
がけだ﹂
﹁? ど、どうもありがとうございます?﹂
﹁だが、その前に格好はどうにかならんのか、鍛冶場に出入りする
なら裸だと火傷するぞ﹂
﹁ですよね。よく言われます﹂
でも着るものがないからしょうがないよね。
﹁お前、全裸がいいのか﹂
﹁いや服が無いんです。服、この家にはこれしかなくて﹂
カサンドラからチョッキを受け取った俺はそれに袖を通しながら
返事した。
﹁鍛冶場の手伝いをしたら駄賃をやる。あまったらそれで服を買え﹂
93
﹁それはもう。よろこんで!﹂
というわけで、俺は義従兄のおっさんに連れられて鍛冶場に行く
ことになった。
カサンドラにあんたは来ないのかと質問したところ、拒否された。
﹁わたしは家事があるので、その﹂
新婚夫婦はすれ違いのままである。
◆
今俺は、鍛冶場の裏手にいる。
そして全裸の俺は、手斧を片手に薪を割っている。あれ、デジャ
ブじゃね?
確かこの世界に来たばかりの頃も、そんな事をやっていたよね?
なぜまた全裸なのかというと、それは暑いからである。
汗をかくとチョッキが臭くなってしまうので、これは仕方がない。
腰巻は一心不乱に薪を割っていると、サイズがあわないのでボロリ
した。
まあ、全裸の方が動きやすいしな。
呆れた顔のオッサンドラも、隣で俺の割った薪を運ぶ作業をして
いた。
﹁猟果はどんな調子だ﹂
﹁先日からリンクスを仕留めるのに罠を仕掛けてまわったんですが、
駄目でしたねぇ﹂
﹁だろうな。あいつらはなかなか仕留められない﹂
﹁ベテランっぽいッワクワクゴロさんというひとと一緒にまわった
んですがね﹂
﹁そうか﹂
94
﹁かわりに今日は、森から帰る途中に狐を一匹仕留めました﹂
﹁なら、そのうち腰巻きが立派になるな﹂
なるほど。ボロ布の腰巻きより毛皮の腰巻きの方が立派だ。
ッワクワクゴロさんに狐皮をなめしおわったら譲ってもらえない
か交渉しよう。
そんな事を考えながら薪を割る。
鍛冶場では大量の薪が必要らしかった。この薪を木炭にするらし
く、自分たちが使う分を用意するのも鍛冶職人はそれもまた仕事の
範疇なんだそうだ。
俺は下働きをここでやった後に、慣れた頃合いを見計らって槍の
とぎ方や鏃の加工の仕方を教えてもらう事になった。
猟が無い時は、頑張ってここで働こうじゃねえか。
ちなみに。
オッサンドラは見た目こそおっさんだが、年齢はまだ二十歳過ぎ
という事だった。なんだ俺より若いじゃねえか。
﹁おっさんは、鍛冶の方はやらなくていいんですかね?﹂
﹁うちの鍛冶場には親方を含めると五人いる。今日はお前の相手を
していてもいいと言われている﹂
﹁そうなんですか。大変ですね﹂
俺はへえと適当に返事をした。
﹁シューターと言ったな﹂
﹁はい﹂
﹁お前、この村に骨をうずめるつもりか?﹂
95
カコンと薪を割ったその瞬間、その質問に俺は手を止めておっさ
んを見やった。
おっさんはヒゲぼうぼうの面に真面目な表情を浮かべていた。
﹁そうですね。カサンドラを嫁にもらいましたし﹂
そう返事をしたものの。
俺はあまり、これからの事を考えたことが無かった。
俺は異世界人だ。地球人で日本人だ。ゴブリンがいてワイバーン
のいるこの世の中はきっとファンタジーな世界だ。地球の過去でも
未来でもないだろう。
そうすると俺は元いた世界に帰る事ができるのかできないのか。
今朝、俺は夢を見た。
夢の中でこの世界に飛ばされる直前の記憶を追体験した様な気が
する。
あれは俺が異世界に飛ばされた、あるいは死ぬ直前の夢だったん
だろうか。俺、死んだのかな。死んだんだったら、それは転生した
事になる。死んでないなら転移だ。
しかしどうだろう。
俺は元のままの姿でこうしてこの世界にいる。記憶だって残って
いる。死んだとすれば俺は中年のままこの世界に生まれてきたのだ。
そういえば、俺が林の中でさまよっている時、どんな格好をして
いたのか覚えていない。もしかしたら全裸で生まれてきたんだろう
か⋮⋮。
生まれ変わったんなら、普通はあかちゃんからスタートだろ。
リセットしろよ神様!
たまらず俺は心の中で文句を言った。
﹁それならば覚悟を決めろ。この村で猟師への風当たりはとにかく
96
辛いぞ。おじは大変苦労していた﹂
生活も、人間関係も。と、おっさんは小さく続けた。
﹁村八分か⋮⋮﹂
俺はつぶやく。
どうして猟師が村八分にされるのだろうかと、俺は考えながらま
た手斧を振った。
慣れたもので、少し前まで一週間余り続けた作業だから今では体
が苦に思わない。
ひとつは、生活収入が不安定で猟果が無いと村にただ飯を食わせ
てもらわないといけないからだろう。
かつて狩猟採集で生計を立てていた人類は、やがて農耕を覚えた
わけだ。
農耕生活はその日暮らしの狩猟採集生活よりも、ぐんと暮らしぶ
りが安定する。不作もあるにはあるだろうが例年蓄えておけばそれ
が不作の年に放出する事ができる。
生活が苦しければ、それだけ嫁の貰い手がいないのかもしれない。
この世界にどこまで恋愛結婚が存在しているかわからないが、た
ぶんそんな自由はほとんど許されないだろう。
あってもそれは街での話だ。
ここでは俺とカサンドラの婚姻を決めたように、きっと女村長や
親たちが取り決めるのだ。
だとしても若い娘を持つ親として、わざわざ生活の安定しない猟
師に嫁がせようという人間はいないのかもしれない。逆にカサンド
ラの様な猟師の娘はもらい手が無いのかもしれない。
なるほど、だから厄介者である猟師たちは村八分なのか。
97
もうひとつは、たぶんこうだ。ッワクワクゴロさんの言葉を思い
出してみると、猟師や木こりにはゴブリンが多いと言っていたはず。
ゴブリンに娘を嫁がせたいヒトの親はあまりいないのかも知れない。
なるほどゴブリン差別か。
ヴィレッジカースト
悲しいけれどゴブリンは村長を頂点としたこの村の階層で最下位
にいるのだろう。
ファンタジー世界でもゴブリンは雑魚だもんな。ホブゴブリンに
なって出直してこいってか。
﹁村を出たいなら手引きをするぞ﹂
ふと、バラバラになった薪を集めている俺に向かって、オッサン
ドラがそんな事を口にした。
﹁村から出る?﹂
﹁そうだ。脱柵だ。よそ者のお前がこの村に居ついたところで誰も
いい顔はしないだろうが、逃げ出したところで誰も気にもしないだ
ろう﹂
﹁でもそれなら、残されたカサンドラの立場が悪くなるんじゃ⋮⋮﹂
もらったばかりの嫁の事を考えて俺は返事をした。
﹁それも含めてしっかり考えるといい。逃げる気になったら、旅銭
ぐらいは用意してやる。村に残るなら、覚悟を決めてお前が認めら
れる様に頑張る事だ。あとはお前次第だ、よそから来た戦士よ﹂
おっさんはそう言って、鍛冶小屋の中に引っ込んでいった。
◆
98
おっさんの言葉は何を意味するのか。
俺は色々と考える。
俺は田舎の育ちだが、あいにく村八分の経験はした事が無い。な
ぜなら祖父母がとても社交的な人間だったからだ。
特に、誰にでもきさくな祖母は地元周辺ではよく知られた世話役
で、漁業組合の副会長まで任されるほど顔の広さがあった。
おかげで家族は何不自由なく地元で生活をしていたもんだ。
けれども地元には、どの家族ともあまり親睦を交わさない一家が
いた事を俺は知っている。
今にして思えば、あれが村八分というやつだったのかも知れない。
年の近い女の子がその一家にはいたが、普段からあまり一緒に遊
んだことは無かった。少女はいつも年の近い妹とふたりで遊んでい
た気がする。俺たち兄妹も何かの遠慮が働いてあまり声をかけなか
った。
そんな家の婿として俺がやって来たと思えばいい。
なるほど村八分は大変そうだ。
この村で生活をしていくなら、当然その覚悟が必要というわけだ。
そりゃ当然の事だな。だとすれば自分の暮らしをよくするために
は地位を築く、つまり村人に認められるためには結果を出さねばな
らないわけだな。
そして俺は猟師だ。
少し前の事だが、俺はとあるマーケティングを専門にする会社で
バイトをやっていた事があった。
その会社では、クライアント企業に新規の事業を提案したり、現
在進行形のプロジェクトを改善を提案するのが主な業務内容だった。
つまり、最近流行りのコンサル会社というやつである。
小さな会社だったので、バイトに過ぎない俺がそこの取締役の若
い青年と一緒に営業回りをするのが日々の仕事だった。
99
その時に青年取締役が教えてくれたことがある。
コンサル屋が提案を持ち込んでクライアントを籠絡する方法はい
くつかある。
まずはは﹁これは面白い﹂と思われる事と﹁それが実際に可能で
ある﹂と思わせる事だ。企画書の内容はその様に作ればいい。俺が
苦手なパワーポイントで提案を作ると、いつもそれを青年取締役が
清書してくれた。
面白い提案にはいつもクライアントが食いついてくれたものだ。
それと、クライアントの信頼を得るためにまずトップを取り込ん
でしまう事である。
担当部署のリーダーや、経営者そのもの。これを味方にしてしま
えば大概の要求や提案はアッサリ通過してしまうのである。
では、この村にそれを置き換えると誰か。
村長だな。
あの女村長にまず認めてもらう事だ。彼女は確か騎士爵の位を授
けられた立派な領主さまである。女村長さえ籠絡できれば、俺はこ
の村で村八分にされる事も無いだろう。
たとえ不満があったとしても実績があれば表だって文句は言われ
ないし、女村長が言わせない。そのはずだ。
そのためには実績が必要だ。
コンサル会社が求められる成果は、売上だろう。経営コンサルな
ら全体の、企画コンサルならプロジェクトごとの。
置き換えるなら、この村でなら暮らしぶりをよくするのか、ある
いは猟師として大物を仕留めるのか。
そうすると、リンクスの一頭や二頭は簡単に仕留められるぐらい
の腕前を磨かんといかんなぁ。
いろいろと考え事をしながら俺は額の汗をぬぐった。
100
空には雲ひとつなく晴天で風は穏やかだった。
春の小風は心地よいな、などと思っていると雲ひとつないはずの
空に黒々とした妙な雲が見える。
その黒い雲は風の割りに翔る様に俺の視界を横切っていき、降下
していく。
﹁わ、わい、ワイ、ワイバーンだ!﹂
ワイはバーンやないで?
どこからともなく聞こえてきた誰かの悲鳴に、そんな頓珍漢な事
を俺が思っていると。
次々に村の散在する家々から、村人たちが飛び出してくるのであ
った。
﹁あれワイバーンだ!﹂
ワイバーンは家畜を襲った。
101
11 飛龍を狩る者たち 前編
俺はワイバーンを目撃した。
元いた世界では想像上の産物でしかないものだったけれど、目の
前で確かにその生物は動いている。
大きさはおおよそ全長がマイクロバス程度だ。
鱗におおわれた潰れた様な顔に牙がずらりとならんだ大口、そし
てずんぐりとした胴体に長い尻尾だった。マイクロバス並の全長と
いってもその半分が長い尻尾だった。こいつも鱗がびっしりと張り
付いていて、まさに空飛ぶトカゲの王様だ。
そんなトカゲの王様が、村の中心地より少しだけ外れた場所で放
し飼いにされていた牛を襲っていた。
哀れなその牛は﹁ブモーッ﹂と悲痛な叫びを上げながら、抵抗空
しく転がされて、ワイバーンはその脚で爪を立てていた。
強そう⋮⋮
俺は確信した。
村人たちは口々に何事かを叫びながら指を差したり、物陰から様
子をうかがったりしていた。
けれど絶対的な空の王者に近づこうとする者はいなかった。
そりゃそうだ。この村を構成する大半の人間が農民であり、その
家族だ。
ワイバーンを相手にできるとすれば、カサンドラの親父さんほど
のベテラン猟師でなければ不可能なはずだ。
そしてカサンドラの親父さんは今となっては亡き人だ。
102
﹁外が騒がしいが、何事だシューター?!﹂
﹁あれを見てください、ワイバーンですよオッサンドラさん!﹂
炭を抱きかかえて外に出てきたおっさんに向かって俺は言った。
おっさんは抱いていた炭を腕から取りこぼして、唖然とした顔を
している。
﹁ワイバーンが、どうして⋮⋮﹂
﹁わ、わかりませんが。突然飛来したんですよ⋮⋮﹂
﹁なんという事だ﹂
茫然とワイバーンの捕食風景を眺めていた俺たちだったが、そん
な中でも勇敢に空の王者に戦いを挑もうとする集団を目撃した。
ッワクワクゴロさんをはじめ、猟師のひとたちである。
彼らは少し前まで狩りに出かけていたのか、普段の狩猟スタイル
のまま数名ひとかたまりとなってワイバーンを目指していた。
他にもワイバーンに向かう、別の集団がいた。
村長だ。あの妙齢の女村長とその義息子ギムル、それから他の武
装した集団だった。最後尾には木こりッンナニワさんもいた。
ふたつの集団は村に点在する家々を遮蔽物にしながらジグザグに
向かっている。
先着しつつあったッワクワクゴロさんたち猟師集団が、ここで二
手にわかれた。一方が複数の矢筒を手に持っていたグループで、も
う一方が弓と手槍を装備している。手槍の集団がさらにひとつ先の
遮蔽物まで駆けて行った。
なるほど、ッワクワクゴロさんたちは援護射撃を受けながら肉薄
攻撃をするつもりなのか。
空の王者はそんな襲撃者の存在など無視するかの様に、ムシャム
103
シャと牛の腸をくちばしで啄み、引きずり出していた。
グロいぜ⋮⋮。
モノの本によれば、大型の捕食哺乳類は相手の首に噛みついて完
全に仕留めてから捕食すると聞いていたが、牛はまだ弱弱しい悲鳴
を上げている。
これでワイバーンが哺乳類でない事は確定だな。
そうして女村長の従える戦士の集団は、弓を構えていた猟師の援
護射撃集団のところに合流して、何事か激しく会話を交わしていた。
女村長は、いつものゆったりとしたドレス風の服の上から、簡易
的な胸当てをしていた。
あわてて飛び出してきたので、とりあえずそれだけ装備したとい
う感じだろうか。
そして腰には長剣、由緒正しい女騎士のスタイルだった。
これまであっけにとられて状況を眺めているだけだった俺だが、
そこにきて脳が覚醒した。
このままワイバーンに捕まってしまった女村長に﹁くっ殺せ!﹂
なんて台詞を言わせるわけにはいかない。
ワイバーンはもしかすると、女村長の言葉を待たずに喰い殺して
しまうに違いない。
俺がこの村で自分の立ち位置を築くためにも、少しでも女村長の
ために槍働きをするべきだ。
何より、美人は無条件に保護されるべき対象だ、間違いない。
﹁槍働き⋮⋮﹂
自分でつぶやいた単語に、俺は振り返った。
﹁おっさん、鍛冶場に武器はありますか。長物なら何でもいい﹂
104
﹁武器はあるが。まさかお前、どうするつもりだ︱︱﹂
ツーハンド
﹁何でもいい、貸してください。槍か薙刀みたいなものはないんで
すかね?﹂
﹁長物がいいなら、槍とハルバートか、両手持ちのメイスがあるは
ずだが﹂
困惑したおっさんの背中を押して、俺は急かした。
﹁何でもいい、貸してくれ﹂
﹁お前ワイバーンに勝負を挑むつもりか? どう見てもあれはオス
の成獣だぞ?!﹂
﹁このままじゃ村長がくっ殺せとか言うだろうが。そんな展開、俺
は望んでねぇんだよ!﹂
勝手に鍛冶場に飛び込んだ俺は、ドワーフの爺さんを突き飛ばし
そうになりながらも屋内を見回した。
﹁オッサンドラこいつは誰だ!﹂
﹁俺の義従妹の夫でシューターです、親方。武器を借りたいとこい
つが⋮⋮﹂
そんなやり取りを背中で受けながら、俺は振り返った。
﹁おっさん、武器はどこにある﹂
﹁そっちの奥にあるのが長物の武器だ。槍なら手前のヤツより奥の
ものが上等だ。メイスなら手前のを使え
!﹂
﹁馬鹿者。オッサンドラよこの若者をつまみだせッ﹂
ドワーフの親方を無視して俺は言われた奥の部屋に入り、武器立
105
てにずらりと並んだ槍のうち最奥部のものを引き抜いて外に飛び出
した。
吟味している場合ではない。時間が惜しい。
﹁お前が死んだらカサンドラが悲しむぞ﹂
﹁ふん、あいにく俺は妻とまだ抱き合った事すらないんだ﹂
﹁だがおじもワイバーンと相打ちになっているんだ。また辛い思い
をするぞ﹂
﹁ウンコしてるところはガン見したがね、情が沸くほど俺たちは夫
婦生活をしちゃいないんだよ。死んだらあんたがもらってやれ。惚
れてるんだろ?﹂
﹁いや俺は別に⋮⋮﹂
俺を引き留めようとするおっさんの言葉が煩わしくなって、黙ら
せた。
そうこうしながら、槍の鞘を抜いていつでも駆けだせるようにす
る。
牛を啄んでいたワイバーンが、ふと潰れた顔を持ち上げて咆哮し
た。
地響きの様な低い、空気を震わせるのに十分な恐怖が俺たちに伝
播した。
その咆哮に耐えきれなくなったのだろうか、ッワクワクゴロさん
たち弓で援護射撃する集団が一斉にその弦を引き絞る姿が見えた。
﹁くそ、俺もここで槍働きをしておかないとな。いつまでたっても
村八分はごめんだ﹂
俺はニヤリとしておっさんを見返すと、駆けだした。
本心では恐怖がどこかにあった。
106
当たり前のことだ。俺が今までに相手した事のある連中といえば、
焼肉店バイト時代に酔っ払いどもを数人と、空手で全国二位まで進
んだ男と県大会でかちあったぐらいである。
あとは素人剣士の青年ギムルか、インディースプロレスの選手た
ちぐらいだな。
槍一本で虎を相手にしろと言われても、たぶん平常な状態なら大
喜びで、いや即答で拒絶する。
しかし今は脳内に変な分泌物でも出ているのか、恐怖は頭の片隅
に追いやる事ができた。
アドレナリンだ。
試合の時、自然と体にエンジンがかかった時だけは、恐怖心がぶ
っ飛んで、怖いもの知らずになるのだ。
俺が走っている間にも状況は動いていた。
ッワクワクゴロさんたちの射かけたのとほぼ同時に、呼応して突
撃集団が一射だけ矢を放っていた。ッワクワクゴロさんたちはその
まま速射する具合で二射目にかかる。
見ていると正確に狙いをつけているわけではないらしい。
相手はマイクロバスの王様だ。適当に狙ってもどこかに命中する
って寸法だろう。そして猟師の突撃集団がワイバーンに迫った。
ふたたび、ワイバーンが低い咆哮を村にまき散らした。
俺は走っている途中、たまらず腰を抜かしそうになる。
アドレナリンとは何だったのか。先ほどまでの絶対無敵精神は、
一瞬にしてぶっ飛んだ。
俺が腰を抜かした場所は、ワイバーンまでおおよそ五〇メートル
もないだろうという距離だ。
空の王者は数字上の全長以上に、巨大な存在に俺には見えた。
107
俺はとても怖かった。
◆
異世界はとても理不尽だと俺は思う。
勇敢にもワイバーンに突撃して行ったひとりのゴブリンは、ただ
の一撃、空の王者が尾を振っただけで宙を舞っていた。
ひとが宙を舞うなんてものは、普通の人生を歩んでいるぐらいで
は見れないだろう。
俺はある。目の前でな。
それは、むかし俺がスタントマンのバイトをしていた時にやった
様な段取りがあるわけじゃない。
名も知らぬゴブリンの猟師は理不尽な暴力によって、みごとな放
物線を描いて飛んで行った。
次に手槍を持った別の男が仲間の犠牲を利用して懐に飛び込んだ
が、これは巨大な翼を広げたワイバーンがバックステップした時に
風圧で吹き飛ばされた。
器用なワイバーンは、バックステップをしながら潰れた顔のくち
ばしで男を噛んだ。
男はどう見てもゴブリンではなかった。異世界流に言うなら俺た
ちと同じヒト族だ。
彼は悲鳴を上げながらすぐ死んだ。
むごい。
怯んだ突撃集団の仲間たちは広く散開しながらワイバーンを遠巻
きにした。
数射にわたって援護射撃をしていた弓隊も、もはや敵味方が接近
し過ぎていてそれも叶わない。
とても残念な事に、鏃はワイバーンの皮膚を捉えてもその鱗の表
層にしか届いていなかった様だ。
108
そして女村長の一党が、とうとう抜剣してワイバーンを取り囲む
一団に加わった。
ようやく自分を奮い立たせながら一団の後方にたどり着いた俺。
かっこいい事を言って鍛冶場から槍を持ち出した俺だったが、ま
ったくもって情けなかった。
腰を抜かした姿は、きっと全てが無事に終わったら笑われるだろ
う。
いや犠牲が出ているのだから、冷たい仕打ちを受けるのだろうか。
﹁村長、下がってください!﹂
﹁わらわはこの村の支配者ぞ。ここで引き下がれるわけなかろう﹂
﹁ではせめて最後尾に﹂
そんなやり取りを義息子のギムルたちと交わす村長を尻目に、飛
龍を狩る者たちたる猟師は果敢に二度目の突撃を加えた。
当然、空の王者は簡単に隙を見せなかった。
ぐるりと潰れた顔を回したワイバーンは、威嚇をしながら器用に
尻尾を振り回す。
だがワイバーンを仕留める気概のある猟師は確かにいた。
ひとりのゴブリンだった。
他の猟師と明らかに動きの違う男は毛皮の服の上から革鎧の様な
ものを装備して、両手にそれぞれメイスを構えていた。
﹁目的はひとつ! 今はワイバーンに手傷を負わせてここから撤退
させることだ!!﹂
女村長が指示を短く飛ばした瞬間、そのゴブリンは真っ先に懐に
109
入った。
たぶん、あれはいつかッワクワクゴロさんの言っていたッサキチ
ョさんという猟師のリーダーじゃないだろうか。ギムルと揉めた時
に見た事がある。
彼の動きに合わせて、他の猟師たちが手槍や短弓を構えた。
俺もその包囲網に加わった。
﹁おお、シューターお前か﹂
女村長の声が聞こえるが今は無視だ。
飛び込んだ毛皮の猟師は、連続してメイスでしたたかにワイバー
ンの腹を叩く。
そして転がって離脱した。
痛みを感じないのかワイバーンは首をもたげて毛皮の猟師に噛み
つこうとするが、その瞬間に弓矢がワイバーンの翼を襲う。
なるほど、鱗の鎧をまとった空の王者も翼は弱いか。
これにはたまらずワイバーンが甲高く咆えて、再び翼をばたつか
せた。
そして。
いったん宙を舞ったワイバーンは、ヤツを取り巻く俺たちの集団
の後方にいた女村長めがけ、鍵爪を立てようとした。
俺は映画の撮影所でスタントマンのバイトをした事がある。
アクションクラブの出身ではない俺だが、もぐりでそういう事を
一時期した事があったのだ。さすがにワイバーンを相手にしたこと
はないが、疾走する騎馬武者に蹴散らされた経験ならある。
今の恐怖はその時以上。
だが、恩の売り時は今だと俺は確信した。
大きさには違いがあるが、接近する相手をギリギリで回避するの
110
にはワイバーンも騎馬武者もたいした違いなどないと自分に言い聞
かせる。それに今回はもっと簡単だ。
槍を捨てた俺は一心不乱に走り出すと女村長に体当たりをかまし、
身代わりとなる覚悟をした。
﹁グオオオオッ!﹂
ワイバーンは雄叫びを上げて女村長の前に飛び出した俺に爪を立
てようとした。
女村長は俺に突き飛ばされて、尻もちをついたまま唖然としてい
た。
俺は、咄嗟にオッサンドラにもらった短剣を引き抜くと最後の、
せめてもの無駄なあがきをしようとした。
こりゃ死ぬかもしれんね。
運が良くても重体か。やっぱ猟師の戦い方は、待ち伏せに限るね。
そんな諦めを脳裏に浮かべたとき、毛皮の猟師がワイバーンの顔
面にダブルメイスを振り込んでいた。
111
11 飛龍を狩る者たち 前編︵後書き︶
すみません!
いったん投稿したのですが、大幅に後半を加筆しました。
ちょっと半端なところで終わっていたので⋮
112
12 飛龍を狩る者たち 中編
毛皮の漁師が放ったダブルメイスは、確実にワイバーンのもとか
ら潰れた鼻先にめり込んだ。不気味な音を立てた事、そしてワイバ
ーンが怯んだ瞬間を、俺は目撃した。
助かった!
まずはその気持ちが浮かんだ。
﹁お前、村長を早く!﹂
毛皮のゴブリン猟師は叫びながら俺に振り返ると、村長を助け起
こすように指示した。
あわてて俺はうなずく。
片手で強引に女村長の腕をとって駆けだした。
女村長はこうして引っ張り上げてみると意外にも華奢で、顔面蒼
白のまま俺に従ってくれる。
くっ殺せなんて事には絶対にさせない。
﹁村長を頼んだぞ!﹂
毛皮の猟師は俺に叫び、そして改めてワイバーンに対峙するのだ
った。
頼もしいじゃねえか。俺の世話になっていた沖縄の古老、空手の
師匠にも似たオーラが感じられた。
だが、それが彼の最後の言葉だった。
彼も油断していたわけではないだろう。
113
相手は圧倒的存在たる空の支配者だ。
次の瞬間には、一瞬だけ怯んでいたワイバーンが怒りの咆哮を、
それこそこれまでよりはるかに強烈な雷鳴の如くとどろかせたのだ。
ワイバーンの咆哮には何か人間たちを思考停止させる魔力でも持
っているのかもしれない。俺は女村長を抱きなおしながら振り返っ
て毛皮のゴブリンを見ると、彼は両手を振り上げて果敢にワイバー
ンに挑もうとしたままの姿で立ち止まっていた。
けれど、この戦いの幕引きはあっさりと終わった。
翼をめいっぱい広げ、恐ろしく巨大な鍵爪を大地から持ち上げた
ワイバーンは、毛皮のゴブリンをぐしゃりと掴みあげて、空高く舞
い上がって行ったのである。
﹁させるな、射かけろ!﹂
咆哮の魔力が解けたのだろうか、先ほどまでなすすべもなく茫然
としていたッワクワクゴロさんが覚醒したかと思うと、号令をかけ
ながら自らも短弓をつがえた。
しかしもうそれは手遅れだった。
放たれたいくつかの矢は空を切ってアーチ状を描きながら、空し
く地面にふりそそいだだけに終わった。
ワイバーンは天高く翔け上がると、村の上空をぐるりと一周した
後に、遠くサルワタの森の先にある山へと飛び去って行ったのであ
る。
◆
俺は今、女村長の屋敷にいる。
室内に招き入れられたのは今回がはじめてだ。
腰を抜かしてしまった女村長は自分で歩く事もかなわず、義息子
114
の青年ギムルが手を貸そうとしたのだが﹁シューターに任せる﹂と
小声で女村長が言ったものだから、そのまま村長の屋敷まで連れて
きたのだ。
しかも女村長は失禁していた。
ワイバーンが毛皮の猟師を連れ去った後に改めてへたり込んだ女
村長は、その場に黄金色の水たまりを作っていた。
さすがに義息子にそんな自分を触れさせたくなかったのだろう。
すでにお漏らし姿を見られちゃったし別にいいじゃんとは思った
が、それでも最後の尊厳が働いたのだきっと。
じゃあ俺に触らせるのはどうなのかとも思うが、俺はこの村のカ
ーストの最下層だし人間扱いされていないのかもしれない、
﹁死者三名、重傷者一名、行方不明者一名。それから牛一頭の被害
だ﹂
先ほどのお漏らしなんて無かった、という顔をした女村長は、自
分の書斎に招き入れると俺たちを見回して状況確認を行った。
行方不明者というのは、毛皮の猟師の事だ。名前は俺が想像して
いた通り猟師たちのリーダー格、ッサキチョだった。
今この場に集まっているのは、ッワクワクゴロさんの他、猟師た
ち、村の主だった幹部たち、それにこの屋敷の人間たちである。
俺はたぶん女村長を運んだついでにいるだけだ。
部屋の片隅で壁に背中を預けながら、おっさんにご祝儀でもらっ
た短剣を弄んでいた。
﹁善後策を決めなくてはならない。ッワクワクゴロ、ワイバーンか
らッサキチョを救出する事は可能か﹂
﹁⋮⋮生きて取り返すというなら、不可能ですね﹂
﹁当然だ。せめて亡骸だけでも取り返す事ができるなら、それは可
能か﹂
115
﹁⋮⋮営巣地まで足を踏み込めばあるいは﹂
歯切れの悪いッワクワクゴロさんは、言葉を選びながらそう返事
をした。
まあ牛を捕えてお食事中だったワイバーンを邪魔したのは俺たち
だ。せめてもの腹いせに、ッサキチョはお土産として持ち去られた
んだろう。
もちろんそんなワイバーンの道理は村の人間からすれば知った事
ではないし、取り返したいという気持ちはわかる。
人情ってもんだからな。と俺が思っていたところ、
﹁人間の味を覚えたワイバーンは、必ずまた襲ってくる。そうだっ
たなッワクワクゴロ?﹂
﹁そうです。絶対に許しゃしねぇ⋮⋮﹂
絞り出すようにッワクワクゴロさんはそう言った。
﹁もしも人間を子育て中の子供のえさにでもされようものなら、そ
れこそまたわらわの村を襲いに来る。それだけは絶対に阻止せねば
ならぬ﹂
﹁しかし村長、村や周辺の集落の人間をかき集めても、あのワイバ
ーンを倒すのは恐らく厳しいかと。あれは俺がこれまでに見た中で
もひときわ大きいオスの個体だった⋮⋮﹂
ッワクワクゴロさんは言った。
曰く、ワイバーンというのはメスよりもオスの大きさが際立って
大きいらしい。
この冬にワイバーンと相打ちになって果てたカサンドラの親父さ
んは、冬季に入ってえさが不足していたワイバーンを相手に、罠を
使って仕留めようとした。
116
成獣でもメスであるなら、これは猟師が罠と地の利を駆使して勝
つこともできるのだとか。
けれど成長した、ゆうに百年は生きている様な成獣のオスともな
ると、これは話が違ってくる。
人間の仕掛けた罠では対処できるにも限界があり、そもそも突然
飛来するワイバーンを相手には有効な手立てが無いのだと言うでは
ないか。
﹁ギムルよ﹂
﹁ははっ﹂
﹁お前は急いで馬を飛ばし、街に冒険者を派遣してもらう様、救援
を要請しろ﹂
﹁わかりました﹂
女村長は安楽椅子に腰かけたまま義息子に命じた。
もはや村ひとつで、どうにかできる次元ではないと判断したのだ
ろう。ギムルはうなずくと急いで部屋を退出しようとする。
去り際に、息子を弄んでいた俺に向かって小声で﹁こんな事を言
えた義理ではないが﹂と青年が口を動かした。
﹁村長を、義母上が無茶をしない様によろしくたのむ﹂
﹁へいへい。しっかり護衛をするさ﹂
﹁チッ、調子に乗るなよ﹂
お願いしているのか喧嘩を売っているのか、どっちかにして欲し
いぜ。青年ギムルは部屋を退出すると、馬屋にでも向かったのだろ
う。
﹁このままただ手をこまねいているわけにもいかない。ワイバーン
を仕留めるのは冒険者が到着してから手を打つとしても、以後は村
117
の塔に監視を立てて、周辺警戒を怠らない様に。ッワクワクゴロ、
細かいところはお前に任せるぞ﹂
﹁わかりました﹂
﹁それと、襲われた人間の葬儀を行う。メリア、村人たちにすぐに
手配する様に伝えてまいれ﹂
﹁はい、アレクサンドロシアさま﹂
女村長の下女が頭を下げると、こちらも部屋を飛び出していく。
去り際にやはりギムルと同じ様に、ケツをかいていた俺をチラリと
見やったが、こちらは無言で出て行った。
へぇ。女村長の名前、アレクサンドロシア様というのか。長いな
⋮⋮
﹁それとシューターよ﹂
﹁はい﹂
﹁お前。血まみれのわりに平気そうだが。その怪我の具合はどの程
度なのか?﹂
﹁え?﹂
﹁ん?﹂
どうやら俺は血まみれらしい。
これまでアドレナリンが出ていて気が付かなかったが、俺は胸に
大きな傷を持つ男になっていた。
いったいどこで怪我したんだよ俺、ワイバーンには指一本触れて
ないはずだぞ?!
痛ぇ!
﹁すまない。わらわのせいだというのに﹂
◆
118
俺は村に唯一ある教会堂に緊急入院した。
原因は簡単だ。女村長を助けようと突き飛ばしたときに、村長の
持っていた長剣が俺の胸をかすめていたらしい。
情けない。
ワイバーン戦では何の役にもたたなかった上に、自傷しているっ
てね。オウンゴールじゃねえんだからさ⋮⋮
しかしここはファンタジーの世界である。
村唯一の教会堂には司祭さまと助祭さまが詰めており、そのうち
の助祭さんというのが聖なる魔法のエキスパートだった。
裂傷の類は傷を塞ぐ事ができるのだとか。
俺はワイバーン戦で重症を負った狩人たちと共に、治療をしても
らうべく寝台に横たわっていたわけである。
﹁血まみれになって平気な顔をしていると思ったら、皮一枚をすっ
ぱり斬っただけだったんだな﹂
心配して損したぞ、と女村長は続けた。
そんな事言って、アレクサンドロシアちゃんはちょっと涙目だっ
た。俺の前でジョビジョバしても無かった事にできる強い精神力の
持ち主なのに、俺の怪我ごときで涙目とはかわいいところがあるん
じゃないの。
﹁いやまあ、おかげさまで助祭さまに助けていただきました﹂
﹁うむ。これからは戦士の力が必要だ。傷が大事なくこの程度でよ
かった﹂
デレた女村長は俺との会話もそこそこに、隣に寝たきりになって
いる猟師に先ほどの声音で話しかける。
119
何だよ。
デレたかと思ったらリップサービスかよ。
村の支配者としてパフォーマンスしているだけという事が発覚し
たので、俺は悲しくなってしまった。
﹁しっかり傷も塞がってますね、それじゃ退院していいですよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁しばらく体の血が少し足りない様な事を感じるかもしれません。
そういう時はお肉をしっかりと食べて、力をつけてくださいね。そ
れと、﹂
﹁何ですか?﹂
﹁血まみれのチョッキは不衛生なので、こちらで処分しておきまし
た﹂
またもや俺は全裸に舞い戻ってしまったのだ。
◆
教会堂に併設されている診療所を出ると、そこには嫁のカサンド
ラを伴ったッワクワクゴロさんがいた。
﹁おう、もう退院か?﹂
﹁なんか肉まで深くは切れてなかったそうで、聖なる魔法で治療し
たら傷口も塞がっちゃいました﹂
﹁そうか、お前運がいいな﹂
俺とッワクワクゴロさんが軽口を言い合っていると、思いつめた
顔をした嫁が俺を見ていた。
﹁どうして嫁がここに?﹂
120
﹁俺が呼んだのよ。ワイバーン戦で怪我をして診療所に運び込まれ
たってな。そしたらカサンドラがあわてて来てくれたってわけよ﹂
﹁迷惑かけたな﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
うつむいた感じでカサンドラが言った。
何だ、多少は心配してくれていたのは確からしい。
﹁カサンドラも親父さんの事を思い出して、いてもたってもいられ
なかったんだろう﹂
﹁あのう、それは⋮⋮﹂
﹁気にしなくていいぞ、俺は簡単にワイバーンなんかにやられたり
はしない。何しろ素人は邪魔だから端っこでじっとしてるだけだか
らな﹂
茶化すつもりでッワクワクゴロさんと嫁の会話に茶々を入れたが、
嫁は真顔で返事する。
﹁そうですね﹂
﹁うん、そうなんだ⋮⋮﹂
﹁そのう。それで兄さん、オッサンドラ兄さんは無事なんですか?
現場に居合わせたんですよね?﹂
﹁あーうん﹂
なるほどそういう事か。
俺はとても悲しい気持ちのなったので、その気持ちを誤魔化すた
めに親切丁寧に説明をした。
﹁死者や重傷者も出たって聞きましたが﹂
﹁無事だよ、鍛冶場にとどまってたからな。俺は槍を持って飛び出
121
しちゃったから腰抜かして怪我もしたけど﹂
﹁そう、ですか。よかった⋮⋮﹂
惚れてんだもんよ。両思いで。
俺は何も不満を口にせず﹁そうですね﹂とだけ返しておいた。
興ざめしてしまった俺に比べると、ッワクワクゴロさんは違う。
﹁おい、嫁に他の男の事を心配させていいのかよ。男だろ﹂
﹁いやでもほら、おっさんと嫁は従兄妹同士だしいわゆるひとつの
幼馴染ってやつでしょ?﹂
俺の元いた世界では幼馴染同士の恋愛事情といえばファンタジー
なおはなしと言われていた。
そしてここはファンタジー世界だ。まあ、そういう秘めた事情な
んだろうけどさ。
何か胸糞悪いよな。何でだろう。これは何で?
俺は自問する。
けど、つとめていい笑顔を作りながら、嫁を気遣った。俺は大人
だからな⋮⋮。
﹁おっさんならまだ鍛冶場にいるはずじゃね? 行ってくるか﹂
﹁いえ、大丈夫です。それよりお召し物は⋮⋮?﹂
﹁ああチョッキね。血まみれだし不衛生だからって、教会堂の助祭
さまが処分してしまいました。ごめんね﹂
俺はいつもの癖でペコペコした。
﹁でも、チョッキだけで済んでよかったです。ご無事で﹂
本当に良かったと小さくカサンドラは呟いた。
122
あ、デレた?
123
13 飛龍を狩る者たち 後編
村の共同墓地ではしめやかに三人の犠牲者の葬儀が行われていた。
ワイバーンによって命を奪われた勇敢な猟師たちの亡骸を前に、
俺たちは司祭さまの聖訓を聞きながら黙祷をささげる。
しかし参列者がわずかに十数名というのが解せない。何しろ村を
襲撃したワイバーンを撃退するために命を落としたのだ、もう少し
村人たちが集まってもいいはずだというのに。
女村長と亡くなった猟師の家族、そして猟師仲間だけ。
ここにも猟師たちに対する村の態度が表れている様に俺は思った。
猟師ははなつまみもの、ッワクワクゴロさんは俺にそう言ったの
を覚えている。
理由はわかる。
女村長の命令で放牧されていた家畜たちはそれぞれの畜舎の中に
集められていたし、村人たちは遠出する事も禁じられていた。最低
限の農作業を除けば、極力外出しないように村民たちはしている。
けれども葬儀ぐらい顔を出してもいいもんじゃないのかね。
よそ者の俺ですら嫁のカサンドラと参列して、亡くなった猟師た
ちに手を合わせているというのに。俺は薄情者の村人たちに心の中
で文句を垂れながら、股間の位置を修正した。
葬儀に参列した者たちは、この地域の風習に従って首に紅のスカ
ーフを巻いている。
しびと
それは喪章の様なものであり、死人が無事に次の人生を見つけ異
世界にわたっていくまで身に着けるのだという。
124
司祭さまの語る聖訓の一説を聞きながら、なるほどこのファンタ
ジー世界の住人にも異世界という概念があるのかなどと感心した。
時間がある時に、司祭さまにそのあたりの事、この世界の神話体
系についてでも聞いてみようかと思った。
だが今は亡くなった先輩猟師たちの仇を討つ事が、残された猟師
たちと俺の役割だ。
葬儀を終えてカサンドラとともにいったん我が家に引き上げよう
としていた俺に向けて、女村長が声をかけてきた。
﹁納得いかないという顔をしているな。村人が葬儀に参列しなかっ
た事が気に入らないのか﹂
女村長は俺にそんな事を聞いてきた。
﹁いえ、そういうわけではないんですがね。何か事情があるのだろ
うと﹂
﹁当然ある。ワイバーンは自分の仕留めた獲物に対して執着する傾
向がある、という伝承が残っている﹂
それが事実かどうかまでは定かでないと、女村長は続けた。
﹁つまり、亡骸を目当てにまたワイバーンが来るかもしれないと、
村人たちが考えていると﹂
﹁あくまで言い伝えだが、確認するすべがないのだから村人たちは
恐れているのだ﹂
よく言えば自分たちが二次災害に巻き込まれるのは怖い。
まして亡くなったのは村のはなつまみ者である猟師たちである。
ともすれば村人たちは迷惑にすら思っているかもしれない。
125
﹁どうしてここまで猟師たちは嫌われなくちゃならんのですかねえ﹂
﹁もともとこの村は、開拓のためにわらわと、わらわの夫であった
先代の村長と二代にわたって切り開いてきた場所なのだ。そして猟
師や木こりたちは、もともとこの土地で生活をしていた人間だ﹂
そうなのか? と俺は俯きながら隣で話を聞いていたカサンドラ
に振り返って聞いた。
﹁はい。わたしのお父さんは、もともとこの村ができる前からサル
ワタの森で狩りをして生活をしていました⋮⋮﹂
﹁ユルドラは腕のいい猟師だった。昨日命を落とした猟師たちも、
さらわれたッサキチョもまた、優れた猟師であった﹂
しみじみとしながら嫁の言葉を引き継いで女村長が言う。
ユルドラとはカサンドラの父親さんの事だろう。
﹁開拓のために移民してきた村人からすれば、猟師どもは赤の他人
だ。それに村人どもは、猟師たちがワイバーンを仕留めそこなった
事を責めるだろうな﹂
﹁そんな理不尽な。あんな化物相手に俺たちはどうすりゃいいって
んだ﹂
つまり俺たちはスケープゴードにされるって事かよ。
﹁ワイバーンを仕留めねばおさまりがつかんのだろう。昨夜な、﹂
言葉を区切った女村長がコホンと咳払いをして髪の毛を耳にかけ
た。
おや。
いつもは腰まで長いストレートの髪を垂らしている女村長だった
126
が、サイドの髪を耳にかけた瞬間にいつもは隠れているその耳が姿
を現した。
村長の耳はやや先端が尖っていた。
エルフか? エルフなのか? エルフの女騎士で、村長なのか?
アレクサンドロシアちゃん記号てんこ盛りだな。
﹁殺された牛の飼い主のジンターネンが、わらわの屋敷まで苦情を
言いに来ていた。牛の保証はいったい誰がやってくれるのか、外出
禁止令が出ている間の牛の餌はどうするのか﹂
この村の牛や羊は普段放牧させる事で餌は勝手に食べてくれるも
のだとか。すると畜舎に繋がれている間は干し草を用意してやらな
ければならない。
なるほどワイバーン悪けりゃ猟師まで憎いという寸法である。
猟師が憎いのかよそ者が憎いのか、猟師は移民の村人にとっちゃ
他人でよそ者だ。つまり両方だ。
ジンターネンさんは恐ろしい人物で、俺にも敵愾心まるだしだっ
たしな。
﹁わらわも村の支配者として、ワイバーンの危険は排除しなければ
ならぬ﹂
﹁そうですね﹂
﹁そうしなければ村の統率が乱れ、わらわの施政に抗うものが出て
くる﹂
﹁そうなるかもしれませんね﹂
何と答えていいかわからない俺は、嫁と顔を見合わせながら適当
に相槌をうっておいた。
カサンドラはこういう時、俺の背中に少し隠れるようにして逃げ
る。
127
俺を頼ってくれていると思えばかわいくもあるが、どう考えても
逃げているだけだ。
ここで俺の服の袖でも掴んでくれれば、ちょっと萌えるんですけ
どねぇ?
あ、俺全裸だわ。
服無いから袖もないわ。
スカーフ、つまんでみます? なんなら息子でも⋮⋮
元気になった息子を両手で覆い隠しながら、俺は咄嗟に笑って誤
魔化した。
﹁今度こそ俺が役に立って見せますよ﹂
﹁期待しているぞ。よそ者の戦士よ。ところでッワクワクゴロはど
うしている?﹂
﹁ああ、ッワクワクゴロさんなら、石塔で見張についているはずで
すよ﹂
俺たち三人は村で一番の高さを誇る石塔に振り返って見上げた。
以前にあそこの地下牢にぶち込まれていた事がある。嫁ともそこ
で出会った。うんこガン見してたの懐かしいなぁ。今でもしてるけ
ど。
あそこのてっぺんに見張り台があるのだ。
ッワクワクゴロさんたちは生き残った猟師、怪我のない無事な猟
師たちと手分けして監視のローテーションを組んでいた。
もしもワイバーンが飛来すれば来襲を知らせる鐘が鳴る。
ワイバーンは基本、昼行性なので見張は夜明けとともにはじまり、
夕陽が落ちるまで続けられる。
戦いで亡くなったり傷ついたりした者を除いて、五体満足な猟師
で残った人数は俺を含めてもたった八人しかいなかった。
128
﹁今はふたりで詰めているはずですね﹂
残りの猟師った俺を含む六人は葬儀に出ていた。
そして猟師たちはみんな復讐を誓った顔をしていた。
﹁おそらく今日の未明か、あくる朝にでも街から冒険者たちが到着
する。ッワクワクゴロに伝えてもらえるか﹂
﹁ギムルさんが戻ってきたのですか?﹂
﹁いや、義息子が街を発つ前に伝書鳩を飛ばしてきた。できるだけ
早く向かっているそうだ﹂
﹁なるほど。伝えておきます﹂
俺と嫁は女村長にペコリと頭を下げて、女村長を見送った。
去り際にひとつ質問。
﹁村長さまはもしかしてエルフなんですか?﹂
、、、
﹁ああ、この耳か。残念だがわらわはゴブリンハーフだ。ヒトとゴ
ブリンの愛の子だよ﹂
﹁あ、愛の子﹂
﹁フフっ。エルフじゃなくて残念だったな﹂
﹁いえ、とんでもない﹂
なるほど、アレクサンドロシアちゃんが猟師や木こりに気を使っ
てくれるのは、ゴブリンの血が入っていたからなのか!
◆
冒険者は夜明が訪れる前にこの村へ到着した。
いかにもファンタジー世界を想像できるような強烈な印象の冒険
129
者たちを俺は期待したのだが、現実はそんなもんじゃなかった。
全身を鎖帷子でキメたヴァイキングみたいな集団だった。
まさかり
手に持つ武器は様々だ。
槍に鉞のついたハルバートや、槍の先端がクロスボウみたいにな
っているもの、巨大な網にトラバサミ。トラバサミは国法で領主に
のみ許可されるものと聞いていたが、彼ら冒険者は王とギルドの許
可のもとに自由にそれを使う事ができるそうだ。
そして、切れ味よりも耐久性を重視した様な刃広の長剣をお揃い
で腰にさしていた。
傭兵集団か何かと見間違える様なものものしい武装だが、さもあ
りなん。
時に領主間の紛争ともなれば、傭兵たちにまじって戦にも参陣す
るらしい。
彼ら冒険者たちは、猟師と同じ様にワイバーンの様なモンスター
級の獲物を仕留める事も生業としているが、猟師たちが自分たちが
熟知したフィールドで罠をはり、長い時間をかけた経験で狩りをす
るならば、冒険者たちは力技でモンスターどもをねじ伏せる。猟師
は弓などのアウトレンジで獲物をしとめるが、冒険者は近接戦闘だ。
たのもしいじゃねえか。
﹁遺体を餌にして、ワイバーンをおびき寄せるだと?!﹂
まだ太陽が昇り切る前に村長の屋敷前に集められた俺たちは、冒
険者たちのリーダーが切り出した秘策を耳にして驚愕していた。
素っ頓狂な声を出したのは、生き残った猟師たちの中でもっとも
ベテランのッワクワクゴロさんである。
﹁お前たち、死者を冒涜するつもりか!!﹂
130
怒声を上げるッワクワクゴロさんに、いつもの愛嬌の良さは欠片
も無かった。
当然だろう、仲間たちの死体を掘り起こして、村の空き地に晒せ
というのである。
﹁そうだ。貴様たちもゴブリンの猟師であるなら、そのぐらいの事
は理解しているはずだろう。ワイバーンは自分の仕留めた獲物に執
着する。必ず取り戻すためにここへまた飛来するはずだ﹂
﹁それは当然俺たちも知っている。だが伝承じゃないか﹂
﹁事実だ。俺たちは何度もあのワイバーンと戦ってきた。もう一度
言うが事実だ﹂
﹁⋮⋮しかし、しかしその亡骸は俺たちの仲間だ。仲間だった猟師
だ。簡単にはいと差し出すわけがないだろう! 村長も何とか言っ
てやってください!﹂
説明をした長身の中年冒険者に向かってッワクワクゴロさんは食
ってかかった。
助け舟を求めて女村長を見やったが、残念ながら彼女は眼を閉じ
て考え込んでいるのかすぐには返事をしない。
﹁もしかしてお前ら、死んだ猟師の死体がどれもゴブリンだからと
言ってこんな計画を口にしたんじゃないだろうな。そもそも死んだ
仲間たちの家族には何と言って説得するんだ。その役は俺たち村の
人間がやる事になるんだぞ!﹂
﹁めちゃくちゃな事を言っているのは俺も理解しているつもりだ、
ゴブリンの旦那﹂
中年冒険者はため息交じりに言葉を続けた。
﹁それでも、確実にヤツを仕留める方法はこれしかないんだ。考え
131
てもみろ、ワイバーンの営巣地まで俺たちが分け入って、ヤツの縄
張り内で俺たちがどうやってワイバーンを仕留められるんだ。もし
もそれをやるならば何日もの下準備をして、長期戦で挑まなければ
ならなくなるぞ﹂
﹁それはわかっているが、しかし。人情というもんがあるだろう﹂
﹁放置すれば被害が増えるぞ。俺は依頼人に従うまでだから拒否す
るならば別の手を考えるが⋮⋮﹂
そうしている余裕はこの村にはない。
ワイバーンの襲撃時に仕留め損なったせいで、村の人間はいつま
た空の王者が飛来するのだろうかと怯えて暮らしていた。
すでに最初の襲撃から数日が経過していて、腹を空かせたワイバ
ーンがまたいつ襲いかかってくるのかは知れない。
﹁いいんじゃねえか? 死んだ猟師も状況は理解してくれるさ。オ
レが犠牲者だったら喜んで自分の亡骸を差し出すさ﹂
ッワクワクゴロさんと冒険者たちが睨み合っていると、そこに横
槍が挟まれた。
声の主は女で、ポンチョをまとい背中に長い弓を背負っている。
﹁もっとも、死んじまったら喋る事はできないがね。アッハッハ﹂
何がおかしいのか周囲の空気も無視して笑い出すその女に、ッワ
クワクゴロさんたちはしかめ面をしていた。
﹁おい、誰が鱗裂きを呼んだんだ。アイツは昼間から酒を飲んでい
る様なロクデナシだぞ﹂
﹁⋮⋮いやぁ人手が足りないと思ってな。それにアイツの腕は確か
だし﹂
132
小声でゴブリンの猟師たちが女の話をしている。
何者なんだポンチョの女。有名人か? そんな疑問を俺が脳内で
浮かべていると、
﹁だ、そうですな。そちらの女性は賛成みたいですが。説得は村長
さん、お願いできますね? 高い金を払ってもらったうえに、俺た
ちだってこんな事は頼みたくないがね、成獣のワイバーンを短期決
戦で仕留めるにはこれしかないんだ。最善の策であると進言します﹂
冒険者たちは女村長に向き直って言葉をぶつけた。
完全武装の冒険者たちの集団は、そこに存在しているというだけ
ですさまじい圧迫感がある。
何れも歴戦のツワモノというように面構えは恐ろしく、顔や腕な
ど露出している場所にも傷だらけという具合で、とても逆らえる様
な雰囲気ではなかった。
空気に飲まれそうになった俺たち猟師の雰囲気を切り崩す様に、
女村長か口を開いた。
﹁わかった。わらわが全責任を負う形で、その作戦を許可する。死
んだ猟師たちの家族はわらわが説得する﹂
﹁村長、それでいいんですかい?!﹂
﹁ッワクワクゴロよ、ワイバーンに埋葬した共同墓地を掘り起こさ
れるよりも、それはわらわたちの手でやった方がよい。そして何か
失敗した時は、すべてわらわの責任だ。首なり叙勲なりをかけても
よい﹂
苦りきった顔をした女村長はそう言って手を振ると、会見を打ち
切ってしまった。
◆
133
冒険者の応援とともに、女村長の支配権が及んでいる周辺集落か
らもぞくぞくと猟師たちがかき集められた。
村の総人口は六〇〇人を超えるというなかなかの規模だったが、
周辺集落はせいぜい五世帯、七世帯とまばらな家族な集まりがある
だけで、村との距離もそれほど離れていない範囲だ。
周辺集落より呼集された猟師の数も、あわせて十名そこそこだっ
た。村の猟師、周辺集落の猟師、冒険者たち、そして俺。せいぜい
三〇名に満たない面々が討伐隊となった。
埋葬されたばかりの亡骸は墓地から掘りだされ、牛の襲われた牧
草地に野ざらしにされた。
早くも悪臭を放ち始めた亡骸を餌にするために、女村長が遺族の
説得をした。
意外な事に、遺族たちは無言でその案を受け入れたのだ。
﹁どうして家族はあっさりと引き受けたんだと思う?﹂
どうしてもそれが理解できなかった俺が、俺と一緒に見張り台で
監視役に立っていたカサンドラに質問した。
俺たちは互いに背中を向けあって、互いに反対側の視界を睨み付
けている。表情は知れないが、うかばない声音がそよ風にのって聞
こえる。
﹁⋮⋮それは、もしも遺体を差し出す事を拒否したら、もうこの村
に居場所がなくなるかもしれないからです﹂
嫁の言葉はかすれ声そのものだった。
﹁あんたもまさか、そういう理由で俺の嫁になる事を受け入れたの
134
か﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
カサンドラは答えなかった。たぶんそういう事なのだろう。
﹁よそ者の俺のせいで、とんだ人生設計に不具合を生じさせて悪か
ったな﹂
﹁いえ、大丈夫です。わたしは平気ですから﹂
﹁安心しろ。このワイバーン退治が無事に終わって少しは生活に余
裕ができたら、今よりマシな生活ができるだろうさ。そのためにも
ワイバーン退治で、今度こそひと働きしないとな⋮⋮﹂
﹁あのう、くれぐれもご無理はなさらないように⋮⋮﹂
気を使って俺の方を振り返ったカサンドラだったが、どうも嫌そ
うなのが顔に出ている。
やっぱおっさんと結ばれたかったよね、幼馴染だし。
そんな事を考えていると、次の瞬間に嫁は俺の腕にすがりついた。
﹁おいおい、まだ昼間だぜ? 仕事中にいちゃいちゃしてるのを村
長に見つかったら⋮⋮﹂
こまったちゃんだなカサンドラは、と言いかけたところで嫁はき
っぱり否定した。
ごまつぶ
﹁違います! 見てください、あれ。空に黒い胡麻粒が!﹂
何を言っているのかと思って嫁の指し示す方向を俺は凝視した。
俺には何も見えない。どこに胡麻粒がある?
よーく眼をこらしていると、確かに何か黒い粒がある。
ステルス機かな?
135
﹁あれ、カタチがしっかり見えてきました。ワイバーンです!﹂
普段は控えめで大人しいカサンドラが、俺の腕を何度も引っ張っ
て声を荒げた。かなり遠目が効くのは猟師の娘だからかな。
﹁まじかよ。敵襲!﹂
俺はあわてて石塔の鐘を鳴らすべく、鐘からぶら下がるロープを
何度も振り回した。
不規則に舌が鐘に当たると大音響で村中に伝わり、すぐさま村の
罠の周辺に討伐隊の人間たちが集まって来るのだった。
ここで必ず仕留めてやる。
俺は嫁と心に誓った。
136
13 飛龍を狩る者たち 後編︵後書き︶
今回で決着をつけるつもりが思ったより文字数が多くなってしまい
ました。
そろそろワイバーン編を終わらせたいと思います。
137
14 この中にひとり全裸の男がいる︵前書き︶
それが俺。
138
14 この中にひとり全裸の男がいる
塔の上から、今しも村の空き地に飛来したワイバーンの姿を見や
りながら俺は息を飲んだ。
傍らの妻カサンドラが、ワイバーンのあまりの大きさと禍々しさ
に、恐怖一杯の顔を浮かべているのをチラリと確認した。
だからだろう、先ほどからずっと俺の腕にしがみついてずっと離
さない。
誰かに頼られる事は悪い気はしない。頼られれば人はその気にな
るものだ。
ここで死ぬ気は毛頭無いが、可能な限り結果は出しておきたい。
恩の売り時だという事は大いに理解していたが、果たしてそれを
どう成し遂げるかが問題だ。
﹁たぶんここは安全だ。君はここで見張を続けて、もしもヤツが逃
走を図ったらその方向を教えてくれ﹂
﹁わ、わかりました。シューターさんは?﹂
﹁俺は下の討伐隊と合流する。ここで槍働きをしておきたいからな﹂
﹁⋮⋮でも、ご無理は﹂
﹁心配してくれてるのか?﹂
﹁ええと、そのう⋮⋮﹂
﹁かわいいな、だがそういう態度はワイバーンを退治してから続け
ようぜ﹂
俺は妻に指示を出した後、最後に白い歯を見せてそう言った。
すると心配してくれていたはずの嫁が、とても嫌そうな顔をした
ので俺は寂しくなった。
139
何だよ、やっぱりおっさんの方がいいのかよ。当然といえば当然
だよな⋮⋮
俺と嫁とは知り合って間もない間柄だからな。
悲しい気持ちを紛らわせるために俺は﹁じゃあいってくる﹂と断
って、石塔の螺旋階段を駆け下りた。
俺が石塔から飛び出した時、その視界に飛び込んできたのは村の
空き地に着地したワイバーンが、巨大な潰れた顔を振って周囲を睥
睨しているところだった。
何者も恐れていないという、わがもの顔の表情はたいへんふてぶ
てしい。
空き地のすぐ先にある前回の戦闘場所、猟師たちの亡骸の置かれ
ている場所に、潰れた顔が注目した。
周辺にある家や干し藁の束の中には、討伐隊の冒険者や猟師たち
が潜んでいる。
来襲の鐘を鳴らした時に彼らが駆け込む姿は俺も見ていた。
本来は監視任務についていなければならないはずだったが、それ
はこの通り嫁に任せている。
これから向かうのは、見張に出ていない時にワイバーン襲撃があ
れば分担する予定だった所定の位置だ。
周辺はまだ静かにしている。
冒険者たちも、まだ飛び出す機会を伺っている様だ。
家の陰に身を潜めてワイバーンを見ている猟師たちも確認できた。
俺は、ゆっくりとワイバーンに背中を向けながら、ひとつの干し
藁に向かった。
そこが俺の待機場所に指定されたところだった。
中には自分の手槍と短弓、それから鍛冶場から借りっぱなしにな
っていた長槍が仕舞ってある。
140
長槍は無理をおしておっさんから使わせてもらっているものだが、
ドワーフの親方はかなりお怒りだったはずだ。
しかし槍働きをするためには、文字通り槍は必要だ。手槍もある
にはあるが、あれは扱いやすい長さであるかわりに、巨大なワイバ
ーンを相手にするにはリーチが短すぎるし、槍の刃もやはり短い。
天秤棒を応用できる長柄の武器はどれも俺の得意な獲物だが、や
はり長槍は一番扱いやすいはずだった。
さて、藁束の中にもぐりこんだ俺は、手槍を手元に引き寄せなが
ら空の王者を観察した。
先ほどからずっと鼓動は高鳴りを覚えている。
はじめてワイバーンを見た時よりも、ずっと緊張している。当然
だ。最初の遭遇の時はワイバーンを舐めていた。相打ちとはいえ、
猟師がひとりで倒せる相手だというから、どこかで俺でも倒せると
モノを見るまでは高をくくっていたのだ。
だが今は違う。
全裸に限りなく近い俺は震えていた。寒さからじゃない。恐怖か
らで。
空を切り抜ける様に翔けるワイバーンも、地上に降り立てば歩む
速度は緩慢なものだ。
のし、のしといった具合に猟師たちの腐乱しはじめた亡骸に迫る。
俺は文字通り固唾をのんだ。
くそう、美味そうに食ってやがる。バキバキと不気味な音が、静
まり返った村の空き地で響いた。
まだか。
まだ罠は発動させないのか。
あの戸板に乗せられた亡骸の下は、落とし穴になっている。
141
そんな事も知らないワイバーンは続けてバキバキと咀嚼をしてや
がる。
はじめは巨大な空の王者が落とし穴の上の戸板に乗れば簡単に割
れてしまうのではないかと俺は心配したが、それは杞憂だった。
聞けばワイバーンはその巨体に反してとても体のつくりが軽いの
だそうだ。
骨はその中身が空洞状になっていて、空を飛ぶために非常に軽量
化された進化をしているのだとか。
なるほど、それなら多少戸板を補強しておけば問題ないのかもし
れない。
ただし。
三体並べられた亡骸のうち中央を持ち上げると、戸板は崩落する。
ワイバーンのいる箇所のもっとも近い蛸壺の中に身を潜めている冒
険者数名が、その瞬間に有刺鉄線状になっている分銅付き鎖を投げ
込む手はずだ。
そして、その瞬間が来た。
周囲を警戒するでもなく熱心に亡骸を咀嚼していたワイバーンは、
ガツリと中央のそれを持ち上げた瞬間、落とし穴の罠が作動して戸
板が崩落した。
景気の良い崩落音を立てて地獄の入り口のごとく落とし穴が開く
と、鈍く震える咆哮を上げてまんまとワイバーンが罠にはまりやが
った。
あの下には、村長の屋敷にあったものと冒険者が持ち込んだあり
ったけのトラバサミが無数に配置されている。
そしてそれらトラバサミにも分銅付きの鎖や、打ち込んだ杭にワ
イヤーが巻き付けられていた。
142
カンペキだ。
この瞬間に身を伏せていた冒険者や猟師たちが飛び出した。
﹁掛かれぇ!﹂
リーダーの中年冒険者の掛け声のもと、まずは遠距離で十字砲火
になる様に配置されていた弓の使い手たちが、次々に矢を射掛けて
いった。
そして続いて、号令とともに分銅を振り回していた数人の冒険者
たちが、アーチを描く様にそれを飛ばした。
せっそう
﹁接争!﹂
聞きなれない号令が飛び出したかとと思うと。
槍の先にクロスボウを取り付けたような変ちくりんな武器を持っ
た冒険者たちが、次々にワイバーン目がけて走り出した。
空の王者は地鳴りの様な悲鳴を上げた。
複数の有刺鉄線の鎖を被り、穴に落ち、恐らくは仕掛けられたで
あろうトラバサミのどれかに足を取られたのだ。
そしてクロスボウの付いた槍を手に近づいた冒険者たちは、苦し
みながら首を振っている空の王者の顔面めがけて次々に矢を放った。
面白い機構だ。槍の先端から垂れるヒモを引くと、矢が発射され
るのである。
俺はというと、暴れる尻尾を避ける様にして接近した。
俺はスタントの経験がある。
こう書くと大それた経験をした様に見えるかもしれないが、人手
が不足している時は俺程度の空手を経験した事がある様な痛みにド
Mな人間が重宝されるのだ。
143
車にはねられ、馬に蹴散らされ、城門から落とされ、階段から転
げ落ちた。回避と受身にはそれなりに自信がある。
絶対的な王者にはなれないかもしれないが、一撃を入れて離脱す
る事に関しては、やってできない事ではない。
問題はその覚悟があるかどうかと、あとはリハーサル無しな点だ。
リハ無しはかなり問題だが、打ち合わせだけはやっている。
俺は走りながら自分の覚悟を高めるためにも叫んだ。
﹁おおおおおおっ!﹂
間抜けだがかけ声は何でもいい。とにかく自分を奮い立たせるこ
とだ。
そして握る手を引き絞り、体に腕を密着させる。
最後に槍を力いっぱい両手で繰り出した。
狙うのは顔や首、尻尾のあたりである必要はない。俺はベテラン
の猟師でも、歴戦の冒険者でもなく、ただのバイト遍歴だけが多い
元スタント経験もある異世界人だ。
ならばやる事はひとつ。どこでもいいからこのバカでかいワイバ
ーンに一太刀でも浴びせる事である。
俺はドテッ腹に力いっぱいブスリと差し込んだ後、槍を引き抜く
手間も惜しみながら必死で逃げ出した。
側では俺と同じ様に襲い掛かって行った人間が、槍や手槍を突き
刺して、離脱する。
案の定、痛みと怒りで狂った様にワイバーンが暴れだした。
穴から半分体を出す用にして身を乗り出し、巨大な翼をばたつか
せ、俺の隣にいた数人がその翼で叩き伏せられてしまった。
やっててよかったスタントマン。
俺はギリギリのところで回転しながら受身を取り、すぐさま槍を
構えなおした。
144
チャンバラ
普通の格闘技の受身とは違い、殺陣経験のあるスタントマンは、
武器を持ったまま器用に受身を取る事ができる。
俺はもう一撃可能かどうかだけ見ながら、今度は暴れる翼の被膜
に一撃加えてやるつもりで長槍を突き上げてやった。
﹁ワイバーンが落とし穴から出てくるぞ、全員下がれ!﹂
その言葉とともに、俺も転がる様にして退避する。
事実また隣のやつが本当に転がってしまった。
助けるために立ち止って手を引っ張り上げていると、ワイバーン
が怒りをあらわに落とし穴から完全に出てくるところであった。
潰れた様な顔をしかめ、嘴をすぼめ、そして怒哮を唸らせた。
ドオオオンという、これまでに聞いた事も無い様な呻きだった。
その瞬間にすべての人間たちが硬直した。
ただその咆哮の直前、俺たちが離脱した瞬間の入れ違いに最後の
放たれた矢の雨が、ワイバーンに降り注いだのである。
これにはワイバーンもたまらなかったのだろう。
ついに全ての自分に取りついた槍や矢、鎖やワイヤーを振り払う
か
様に身震いをし、不安定な腰つきで巨大な翼を動かし始めた。
空を掻くというのはこういう動きなのだろう。
もがき苦しむようにして周囲に風圧をまき散らしながら、よたよ
たと助走しつつワイバーンは飛び去って行った。
後に残された空地には、滅茶苦茶になった猟師たちの亡骸と、無
数の血だまりが広がっていた。
◆
145
﹁ワイバーンは杭に巻き付けていたトラバサミのワイヤーは引きち
ぎったが、完全に脚に怪我を負った様だな﹂
落とし穴の中に入って見分していた中年冒険者たちが、そんな事
を口にしていた。
家屋の中で待機していた女村長や青年ギムルも姿を現すと、それ
に向かって冒険者たちが報告する。
﹁見ろ、ワイバーンの鉤爪だ﹂
﹁でかいな。俺が過去見た中でもかなり巨大なオスの個体だったが、
こうして目の前で鉤爪を見るとそれも納得だ。目が錯覚していたわ
けではなかったんだな﹂
﹁それから片目に矢がささったのも見た。そう遠くには逃げてない
はずだな﹂
﹁逃げた方向は?﹂
落とし穴から出てきた冒険者たちが、俺たち猟師に向かって質問
した。
それは俺の嫁がしかと見届けていた。
﹁あ、あの。サルワタの森の左側の方向に向けて飛んでいきました。
営巣地のある方ではありません⋮⋮﹂
たくさんの視線が集まって驚いているのか、カサンドラはオドオ
ドしながら説明した。
時折、俺の腕をギュっと握ってくれるのが嬉しい。
もちろん俺になついてくれているわけじゃないんだろうな。なん
となくわかっているが、それでもこの場で頼れるのが俺しかいない
んだろう。わかっている。
146
﹁捜索隊を出すぞ。あの様子では遠くまでは飛べまい﹂
﹁そうだな、左翼におもいきり傷を入れた人間がいたはずだ。なか
なか度胸のある動きだったがやったのは誰だ﹂
俺です。
﹁うむ。あれはいい手だった。たしか裸の、身軽な格好の猟師だっ
たはずだが﹂
はいはい俺です。
この中にひとり全裸の男がいる。もちろんそれは俺の事ですぐに
俺に注目が集まった。
﹁おお、シューターの手柄か。よそ者の戦士はさすがだな﹂
女村長が手放しに喜んでくれると、明らかに場違いな格好をした
俺にいくらか当惑した冒険者たちが苦笑まじりに感嘆の言葉を続け
てくれる。
﹁おう、あんたがやったのか﹂
﹁咄嗟の判断でいい動きだった﹂
﹁彼は村の猟師で、この村に来る前は戦士だった男だ﹂
我が事の様に自慢げな顔をした女村長が説明を続けだした。
しかし次のひと事で、少なくとも村人たちは俺に恐ろしい視線を
向けてくる。
﹁だがまたも仕留め損ねた。手負いのワイバーンは手が付けられね
ぇ、もっとも厄介な相手だべ﹂
147
さらに、どうしてあの場で倒せなかったのかと物言わぬ視線が俺
に集まる。
チッ。また村八分モードかよ。
﹁⋮⋮う、うむ。それでは急ぎ手分けして追撃隊を送り出そう﹂
﹁どうします村長さん、少数の班に分けて送り出すか﹂
﹁村の猟師ひとりに冒険者と周辺猟師のチームを作るのがよろしか
ろう﹂
空気を察した女村長がすぐに場の雰囲気を破壊した。
148
14 この中にひとり全裸の男がいる︵後書き︶
ワイバーン編はもうちょっとだけ続くのじゃ。
149
15 鱗裂きのニシカとオマケ俺
﹁おいお前、オレに付いて来い﹂
班決めをしている最中、俺はひとりの猟師のご指名を頂いた。
その猟師は村の周辺集落で生活をしている、普段は単独で狩りを
するソロハンターだった。
名前は、ニシカ。
紫がかった様な異世界独特の黒髪をショートカットにして活発な
印象がある。ついでに言うと片眼にアイパッチをしていた。
狩りで負った傷なのだろうか。なかなか勇ましい顔つきだが、十
代の通る幼い表情もできる。
そして黄ばんでしまった古いブラウスの上から革ベストを纏って
いて、こちらも革製なのだろう、ホットパンツの様なものを履いて
いた。
ただし、腕や太ももの見えるところを保護する様に、こちらも革
製の手甲と脚絆を付けている。ちょっとしたガーターみたいな格好
を連想するとよいだろう。
エロいな。
そう。
この猟師ニシカは、女だった。
女村長の長髪に隠れている耳も先端が尖っていたが、彼女のそれ
は完全なる長耳というやつだった。
﹁それはもしかして俺の事かな?﹂
﹁他に誰がいるよそ者の戦士。あの左翼を割いたのはお前だろう﹂
﹁はあ、そうですが﹂
150
腰に手を当てた猟師ニシカは﹁お前変なやつだな﹂と言った。
その瞬間にベストをおもいりき押し上げていた胸がばるんと揺れ
た。
でかい確信。
﹁いいか、抜け駆けするぞ﹂
猟師ニシカは俺にすっと近づくと、そう囁いたのだ。
彼女のプランはこうだ。
今、手分けして班決めされた捜索隊は、放射線状にサルワタの森
へと入る予定だ。
水先案内人は地元の人間たる村の猟師であり、土地勘のある彼ら
を先頭に四、五名で森に入るのだ。
武器はこの際、新兵器が投入される。スパイクと呼ばれる、大型
獣を仕留めるために使われる、槍の刃に螺旋状の溝が掘ってある武
器だった。
スパイクの螺旋には毒が含まれていた。抵抗して引き抜く際に、
毒が肉にまぶされるという優れものである。
これを持ち込んでいた冒険者たちに、こんないいモノがあるなら
さっさと出せよ! と思った。
だがこれは重量があるので、ある程度ワイバーンが弱らない限り
は使えないと、先ほどの襲撃では二の武器に指定されていたのだ。
使いどころが難しく、今回こそトドメを差すために有効である。
という触れ込みだったが、
﹁あんなものは重いばかりで使い道が無い。そんな事よりシュータ
ー、だったか?﹂
﹁はい、俺がシューターです﹂
151
﹁お前は武器は、何でも使いこなせるのか?﹂
﹁ええまあ大概は、槍やたぶんハルバートも、剣もそこそこなら使
いこなせます﹂
ただしそれらは道場剣法か殺陣のはなしだ。
エア
スポーツチャンバラの地域大会で優勝した事があるが、あれがせ
いぜい相手をチューブの剣で実際に斬りつけた唯一の経験だ。
﹁なら弓はどうなんだ。ん?﹂
﹁弓ですか。引き絞って射つだけならできますよ﹂
ただし命中はお察しだったと言い添えた。
﹁それは構わなねぇ。オレが仕留めてやる﹂
﹁?﹂
﹁お前は力も強そうだから、遠くまで飛ばせ。そしたらオレが後は
当ててやる﹂
﹁ご自分の弓でしょう? 俺よりよほどうまく扱えるんじゃないで
すかね﹂
﹁馬鹿野郎、オレは矢を導くのに集中したいんだ。速射で弓を射て
それで矢を的に当てるという作業は、想像以上に大変なんだよ。だ
からお前がオレの代わりに矢を放て﹂
おっしゃる意味がまったくわからなかったが、俺はハァと返事を
してその場は納得しておくことにした。
◆
というわけで、俺たちは抜け駆けに出た。
先ほども言ったように追撃隊は村から放物線上を描く様に追手を
152
かけていた。
だいたいの方角は嫁が指示した森の左側、外れに位置する湖があ
る方向だと言っていた。
なのでその方向に向かって捜索隊が放たれたわけである。
冒険者や猟師たちは焦る必要はないと思っていたらしい。何故な
らば傷を負っているワイバーンは失血でさらに体力を落とす可能性
もあるし、夜になればいかにワイバーンと言えど活動が停滞するら
しい。
夜が明けると同時に追撃隊の包囲網は完成、というわけである。
﹁だがそんなのを待っていたら、たぶん余計に手が付けられなくな
るぜ﹂
意味ありげに男口調の長耳猟師娘が言った。
﹁何でそんな事がわかるんですかねぇ﹂
﹁お前、オレを知らないのか? オレはこの地域ではちょっと名を
知られたニシカさまだぞ!﹂
﹁いや俺、よそ者なんで﹂
﹁チッそうかい。ッサキチョからは何も聞いてなかったんだな﹂
﹁というかッサキチョさんとはひとことしかお話しした事ないんで
すよね﹂
追撃隊が隊列を整え終えないうちに、俺たちはさっさとニシカに
従って森に分け入った。
ほんの数日前までリンクスを仕留めるのに仕掛けていた罠の辺り
を通過して、さらに奥へ奥へと進んでいく。
女村長が俺たちが抜け駆けに気づいた時は、もう後の祭りという
わけだ。
153
俺は先ほどの遭遇戦でそこそこの活躍はできたと自負しているが、
地元の猟師や冒険者たちもわれこそはと自分たちの事に集中してい
るはず。
激しい攻防が予想される手負いのワイバーンへのとどめともなれ
ば、よそ者の俺は外されるかもしれない。
そこのところは想像でしかない。
しかし長耳猟師娘は、深い森を分けて先々と行く。
﹁何か、ワイバーンの行き先がわかっているみたいな足取りですね﹂
﹁当然だねえ。この森はオレ様にとっちゃ庭みたいなもんだからな
あ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁当たり前だ! オレを誰だと思っている?﹂
﹁男口調のガサツな女?﹂
﹁ばっかちげぇ! そうじゃなくてだなあ﹂
﹁女だてらに猟師さんをしている気丈なところもある巨乳﹂
﹁何言ってんだお前。ちょ、何で股間隠してるんだよ!﹂
からかい甲斐があったので、ちょっと調子にのってやった。
けれども、そんなやり取りをしながらも絶対に周囲への警戒心を
解いていなかったのは理解できた。俺の空手経験でそれはわかる。
この耳長巨乳はできる。俺は確信した。
﹁オレの二つ名を教えてやる﹂
周囲を見回しながら手槍を杖代わりに森へと分け入っていく。
自分で二つ名とか言い出すとか、こいつは中二病でも患っている
のか。アイパッチつけてるしさもありなん。などとは言わずにその
先をうながす。
154
うろこさ
﹁うかがいましょう?﹂
﹁オレの二つ名は鱗裂きってんだ。鱗裂きのニシカ様とはオレ様の
事だ﹂
﹁鱗裂き、それはまた強烈な二つ名だ﹂
まさか魚さばきの名人という事はないだろうから、俺はこれ以上
茶化すのをやめた。
﹁オレはこれまでに、猟師になって冬を越した数だけワイバーンを
仕留めてきた。冒険者どももなかなか経験を積んだ連中みたいだが、
オレは常にそれを単独でやって来たんだ。この土地のワイバーンの
事なら何だって知ってる﹂
﹁だから迷わず森を進んでいるというわけですね﹂
﹁当然ここはオレのフィールドだからな、この森である限りはオレ
が一番ワイバーンを上手く相手にできるぜ﹂
村の中なら別だがね。
そんな風に白い歯を見せて可愛い顔が言って見せた。
﹁じゃあワイバーンはどこに向かってるんですかね﹂
﹁お前の嫁が言ったろう、湖の方向だって﹂
﹁嫁! 見ていたんですね俺たちを⋮⋮﹂
﹁公然と腕を組んでいる様な人間は目立つからな。イチャつくのも
ほどほどにするんだ﹂
別にイチャついていたつもりはないのだが、俺は黙り込んでしま
った。あれは嫁がたぶん周囲の人間に注目されてオドオドしていた
だけだからな。
鱗裂きのニシカか。
155
彼女がたすき掛けにして背中に背負った長弓は、およそ和弓なみ
の大きさがあった。強烈に胸元を強調しているが、胸は弓を放つの
に邪魔にはならないのだろうか。
﹁それでその弓は、短弓じゃないんですね﹂
﹁ふん。あんな命中だけがいい弱弓でワイバーンを仕留める事はで
きないぜ﹂
﹁鱗も貫けないかもしれません﹂
﹁そうだ。寝ているところを一撃で射ぬくなら、この弓じゃないと
いけないからな﹂
﹁寝ているところを?﹂
俺は質問をした。
するとニヤリとして鱗裂きのニシカが白い歯を見せた。
﹁ああそうさ。知っているか、ワイバーンは魔法を使えるんだぜ﹂
﹁魔法を使えるんですか。獣なのに﹂
﹁獣だろうが、人間だろうが、世に生を受けたものなら、誰だって
使える可能性がある﹂
﹁もしかしてあれですか、長生きしたワイバーンの成獣は、エンシ
ェントドラゴンとかになるんですかね?
そしたら人間の言葉をも理解できるようになるとか﹂
﹁そんなわきゃないだろう。馬鹿かお前は﹂
手槍をグサリと地面にさして、ニシカさんは振り返った。
﹁ヤツらはあの巨体だろう。あれを維持するためにとんでもない大
きさの獲物を食べる必要があるんだ。そのうえ空を飛べば運動量も
156
多い﹂
﹁そうですね﹂
﹁だから、自分の体力を維持するために普段は大物を襲う﹂
﹁なるほど理解できます﹂
ふんふんと俺はうなずいた。
﹁だから、相手に毛むくじゃらのマンモスやら、巨大な猿人間選ん
で襲うわけだ。当然、相手も体が大きいから自分が返り討ちにあっ
たり、手負いになる事もある。そこで自分で治癒の魔法をかけて、
傷を癒す事ができるという次第だ﹂
どういう理屈かはわからないがな、とニシカさんは言う。
ただ人間ができる事を、ワイバーンができないとも限らないとも
言う。
なるほど、ロープレゲームのボスみたいなヤツだな。
いや考えてみればこのファンタジーな世界ではボス並の存在で間
違いない。
﹁湖の畔に、あのワイバーンが身を隠せるサイズの洞窟がある。あ
そこがヤツの休眠時のねぐらだ﹂
﹁その口ぶりだと、元からあいつの事を知っていた様な口ぶりです
ね﹂
﹁知っているさ。オレはこの森の事なら何でも知っている﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁ここいらの村が開拓をはじめてオレたち人間も同じ獲物を狙う様
になって、ヤツらも餌が不足しはじめた。だから連中は森の外に出
て来はじめた﹂
だから嫁カサンドラの父ユルドラもまた、ワイバーンと遭遇して
157
合い果てたのだという。
ふたたび手槍を杖にして前進しはじめた鱗裂きのニシカに、俺は
あわててついて行った。
﹁背中の弓はお前が射かけろ。命中なんて気にせず、力いっぱい放
ってくれ﹂
﹁命中しなけりゃ意味が無いでしょう﹂
﹁そうだな。だからオレが魔法で、当ててやる。お前は貫通させる
事だけを考えて力いっぱい引き放ってくれればいい﹂
これで手柄は等分だぞ。悪い話じゃないだろうとニシカさんは言
う。
﹁ん? 乗るか﹂
﹁乗ります。乗らせてください﹂
﹁さあ、もうすぐ湖の近くに出るぞ。風下に回る﹂
たのもしニシカさんの後について、俺はつばを飲み込みながら緊
張感を高めていった。
◆
ワイバーンは傷ついたその身を湖畔に横たえていた。
力なくぐるぐると時折小さな唸り声を上げているが、恐ろしい咆
哮の事を思えばかわいらしく感じてしまうそれに、俺は驚いてしま
った。
﹁翼と射かけられた眼を再生する魔法を使った後、しばらく休眠す
る必要がある。ただヤツらはすぐに魔法は使えない、時間をかけて
それを再生するのだ﹂
158
﹁時間というと、どれぐらいですかね﹂
﹁半日という事はないだろう。もっとだ。だから今が狙い目だ。明
日になればあいつは回復している可能性がある。休眠に入る前がも
っともやっかいだ。気が立っているからな﹂
まだ、他の猟師や冒険者のグループは誰もたどり着いていない。
ニシカさんはこの森が自分の庭先だと言った様に、地元の猟師す
らも知らない抜け道を通って、ここまでたどり着いたのだ。
ッワクワクゴロさんがリンクスを獲物にしていた様に、ワイバー
ンは彼女の普段から得意にしている獲物なのだ。
﹁よし、ここから先は会話は無しだ。お前にこの弓を預けるから、
合図で打ち込んでやれ﹂
﹁狙うのはどこですかね﹂
﹁狙いは眼だ。視界が開けていて、狙いやすい場所にしよう。もう
片方の眼を先に射潰して、それから肺蔵か脳髄にぶち込んでやれば
いい﹂
﹁⋮⋮一発必中で目つぶしですか。いけますかねえ?﹂
﹁いけるかどうかじゃねえ。やるんだ﹂
そう言って長弓と矢筒を押し付けるニシカさん。
俺は黙ってそれを受け取ると、うなずき返した。
﹁オレは風を操る魔法にだけは自身がある。まかせな﹂
﹁今度俺にも教えてください﹂
﹁機会があればな﹂
そう最後の言葉を交わすと、地べたに這いずりながら湖畔の草原
を進んだ。
ここは風下だ。
159
仕留めるべき獲物に匂いで悟られないために、風下に立つ必要が
あるのだ。
風下にいれば匂いだけでなく、音もまた相手に伝わりにくい。
捕食獣はかならず風下から獲物を襲う。そして数々のワイバーン
を仕留めてきた鱗裂きのニシカは、間違いなくこの森の頂点捕食者
だろう。本人の弁が嘘でなければ。
完全に腹這いになって肘と膝で前進する俺たち。
ニシカさんはもっとも狙いがつけやすい位置に、じりじりと体を
動かしていった。
俺はそれに続く。
遮蔽物になる岩を見つけるとそこに俺たちは身を隠した。
矢筒から石の鏃を一本引き出した。黒曜石の鏃というのだろうか、
不揃いな石を叩いて切り出した様な鏃だった。
俺の引き抜いたそれを見て、ニシカは満足げにうなずく。
前にッワクワクゴロさんがやっていた様に、速射に対応するため
もう数本を矢筒から取り出しておく。
岩陰に立てかけておいて、いよいよ腰を上げた。
距離はおおよそ五〇メートルをきっているだろうか。
ワイバーンがあまりにも巨体であるが故に、実際の距離よりもか
なり近く感じてしまう。体感ではほんの二、三〇メートルではない
かと思う。
これは距離を狂わせて、うまく射手が狙いをつけられない。そん
な事を考えつつ、考慮しながら矢を握り、弦を絞った。
やれ。
ニシカさんが手をサっと振って合図すると、俺はめいっぱい引き
絞った弦を放つ。
160
素人目にも弓勢だけはあるけれど、当たりそうもない矢が放たれ
てシュンと空を切り裂いた。
すると、隣で何か小さく呟いた鱗裂きのニシカが、とても顔に向
かっていそうも無かった矢を操ったではないか。
いや、違う。
矢はワイバーンの潰れた顔に吸い寄せられる様に飛んでいったの
だ。
スポッター
なるほど、摩訶不思議な魔法とやらに集中したいために、俺にわ
スナイパー
ざわざ弓を任せたのだ。
狙撃班で言えば、射手と観測手みたいなものかな? いや違うか。
ドスリと刺さった。
いや別に音がしたわけではないが、そういう風に俺の脳が補完し
たのだ。
次の瞬間にワイバーンはけたたましい悲鳴を上げると、ぐったり
していたはずの頭をもたげ、のたうちまわる。
﹁次だ、早く!﹂
言われるまでもなく俺は矢をつがえ、また放つ。
ふたたび空を翔けた矢が、今度もまた頭に吸い寄せられていく。
ドオオオンという地鳴りの様な咆哮を空の王者がまき散らした。
二本の矢のうち、どちらかは確実に眼を潰していたらしい。
首を右、左と振りながら、見えるはずのない周囲を見回している。
三射目を俺はつがえた。
﹁だいたいでいい、胴体を狙え。まだだ、オレがいいといったら。
やれ今だ!﹂
161
ニシカさんの指示に従って矢を放つ。
三射目もまたワイバーンに吸い寄せられていった。狙ったのは肺
なのだろう。
暴れるワイバーンが都合よくこちらに腹を見せていたからだ。内
腹は柔らかいのか、思ったよりもドスリとまた深く鏃が突き刺さっ
た。
もんどりを打つワイバーンは、やがて今までの暴れっぷりが嘘の
様に、どかりとその身を横たえた。
マシェット
先ほどまで俺の側にいたはずのニシカさんは、そしてもう俺の側
らにはいない。
いつの間にか駆け出していた彼女は背中に背負っていた山刀の様
なものを引き抜くと、まだ息の根のあるワイバーンの首元に飛びつ
く。
大丈夫なのか、と俺は思ったが、そんな事など気にもしていない
のか、一心不乱にマシェットを突き立てた。
逆鱗、とでもいうのだろうか、そこがワイバーンの急所でもある
のか喉仏あたりに深く。
僅かに抵抗すべく顔をもたげた空の王者も、肺を射ぬかれ眼を潰
されて、空しく小さな嘆きを上げて、くたばった。
◆
動脈が断ち切られたのか、すさまじい勢いで血だまりが広がって
いく。
そんな事など気にも留めていない鱗裂きのニシカは、俺に預けて
いた矢筒から一本の矢を引き抜いて弓を奪うと、空に向けてそれを
発射した。
162
﹁今のは?﹂
質問しているうちに、笛のような響きをキーンとたてながら矢は
どこかに飛んでいく。
﹁見たまんま、矢笛だね。お前ははじめて見たのか?﹂
﹁はじめて見ました﹂
﹁居場所を教えるための、連絡用の矢だ。しばらくしたら他の追撃
隊が集まって来るだろう﹂
矢筒を受け取って背負いなおしながら、あっけらかんとニシカさ
んが言うと、向き直って先ほどのマシェットでワイバーンをごりご
り解体しはじめるではないか。
﹁うっわきつい。臭いっすね﹂
﹁歯も磨いていない様なケダモノだからな。当然だ﹂
さも当たり前の様に、ふくよかな胸を揺らしながら規則正しく腸
にマシェットを差し込んでいく。
臓器をすばやく抜き取るのは、解体の基本だ。
ここはすぐに腐り始めるので、さっさと捨ててしまうのに限るの
だ。
それに今回は、食われた猟師たちの遺体を取り戻す必要があった。
それにしても鱗裂きのニシカとはよく言ったもので、ワイバーン
の解体が手慣れてやがる。
時折、ぶしゃっと血しぶきが腸から飛び出して俺に飛沫がかかっ
たが、ニシカさんは綺麗な顔を血まみれにしながら平気で続けてい
た。
﹁食うか?﹂
163
﹁いらねえょ﹂
肉を一切れ切り落としたニシカさんが俺にそう聞いてきたが、丁
重にお断りした。
◆
都合、六人の犠牲者を出して行われたワイバーン戦は、これにて
終了だ。
最初の襲撃で命を奪われた三人と、二度目の襲撃で重症を負った
後に死んだ二人。
そしてワイバーンを解体した際に胃袋からゴブリンの勇者、猟師
たちのリーダーであったッサキチョの遺体が見つかった。
未消化であった事がさらに悲惨さを誘った。
今はこの土地の風習に従って清潔な布に巻かれ、棺の中に収めら
れている。
何れもがこの村と近郊の集落から集められた猟師、あるいは若い
労働力だった。
特に二度目の襲撃に加わっていた村の幹部青年が死んだのは、村
としても痛手だっただろう。
﹁終わってみればあっけないものだな﹂
俺は二度目の葬儀に参列している。
場所は共同墓地の前。今度こそ、村人たちが総出で葬儀に参列し
ていた。
まあ、そうは言っても手の空いた者たちだけでであるが、それで
も一〇〇人を超える大人たちが集まっている。
そして討伐に参加した冒険者らも。
俺、嫁、おっさん。身内である三人は並んで手を合わせていた。
164
宗教上の理由で嫁とオッサンは指を組んで手を合わせ、俺は仏教式
に拝むスタイルだ。
何に祈りを捧げようがこの際はどうでもいい。大事なのは犠牲者
への哀悼の心だたぶん。
俺は、俺たち村人のかわりになって死んでいった者たちを懇ろに
葬った。
少し離れた場所には、誰ともつるむ態度を示していない眼帯女が
ぼうっと立っている。
鱗裂きのニシカだ。
血まみれになった服を改めて、やはり黄ばんだブラウスと革のチ
ョッキにホットパンツで、今日はハンドガードと革タイツは履いて
いないが、代わりにロングブーツを履いていた。もちろん誰もが紅
のスカーフを首に巻いている。
はじめて知った事だが、このスカーフの紅は、人間の血を模して
染めたものなんだそうだ。
死者の血と糧は、俺たち残されたものに受け継がれていく。
血は次代に受け継がなければならない。そうでなければ滅びてし
まうからだ。
﹁多くの犠牲者を出しながらも、村の民一丸となって凶悪なワイバ
ーンを討伐できた事をわらわも嬉しく思う﹂
女神と犠牲者への祈りと毎度お決まりの聖訓を述べた司祭さまに
代わって、女村長がみんなを見回しながら言った。
﹁何が村一丸だよ。お前らなんにも手出ししなかったじゃないか﹂
口の悪い眼帯女が悪態をついたその声が俺の耳にまで届いた。
まあその通りだ。俺たちが最初の襲撃でワイバーンを仕留め損な
った時は、生活の事ばかりを気にして苦情を村長にぶつけていたぐ
らいだ。最初の葬儀にも参加した村人はいなかった。
165
村八分というのは冠婚葬祭を除き無視を決め込まれるものだ、と
いうぐらいに俺は日本の風習から理解していたものだが、ここでの
村八分は村九分九厘でいいんじゃないか。
それでも今回撃退した事で、その中に猟師でもゴブリンでも無い、
連中が思っているであろう仲間から犠牲者が出たので、集まってく
れたんだろうか。
﹁特にこの村にとってかけがえのない猟師たちの中から多くの犠牲
者が出た事は、わらわはまことに遺憾である﹂
女村長は俺たち猟師とその家族の方を向いて言葉を区切る。
﹁先代から続くこの村の開拓は、道半ばである。ここで村にとって
絶対不可欠な猟師を失ったままでは、今後の開拓に支障をきたす。
よって、街に向けて、新たな猟師のなり手と開拓団の募集をかける
事とする﹂
何を言っているのかよくわからないが、死んだ猟師の補充をかけ
るつもりなのだろう。
また、よりこの村の発展を続けるために、さらなる開拓団を呼び
込むという事か。
﹁フン、また出来の悪い連中を連れてくるつもりか。態度ばかりデ
カいデクの棒どもを﹂
ひどい文句もあったもんだ。眼帯女は俺たちにだけ聞こえるか聞
こえないかという風に巨乳を揺らしながら悪態を吐く。
だが嫁もおっさんも何も言わない。
猟師の家族からすれば、また新しく自分たちを虐げる人間がやっ
てくるだけの事だ。
166
聞けばここは辺境にある開拓の最前線になる村だ。
いずれは発展を遂げて辺境の中心地になるかもしれない場所だが、
今は何もない寂れた寒村そのものだ。
してみると、街やその周辺の村から移民してきた人間など、猟師
はやはり見慣れないだろう。
たぶん今いる連中と同じ様に、俺たちを格下扱いで見下すのだ。
﹁ああまったくだぜ。デカい面をしていいのは、覚悟があるヤツだ
けだ﹂
だから俺も鱗裂きのニシカの弁に乗っかってそう言ってやった。
嫁とおっさんは驚いた顔をして俺を見たが、それ以上のリアクシ
ョンは何もしなかった。
本当に素っ頓狂なリアクションをしてしまうのは、次のタイミン
グだったのである。
﹁そこで、開拓団募集のために街へ人を派遣する。ついてはシュー
ターよ、お前が派遣される幹部の護衛を受け持ってもらいたい﹂
言われてるぞ? とニヤついたニシカさんが俺を見た。名前が飛
び出して嫁とおっさんも俺を見た。
﹁お、俺ですか?﹂
﹁そうだ。お前はまだ森以外の村の外を見ていないだろう。いい機
会だから、外の見聞を広げてこい。わらわが工面するぞ﹂
女村長アレクサンドロシアが張りのある声でそう俺に命じたのだ
った。
167
15 鱗裂きのニシカとオマケ俺︵後書き︶
ワイバーン編終了で一区切りです。
ここまでのお付き合いありがとうございました。
引き続きよろしくおねがいします!
168
閑話 街へ行くので恥かしくない格好をします︵※ 挿絵あり︶
http://15507.mitemin.net/i1843
42/
<i184342|15507>
ある日、ゴブリンの猟師ッワクワクゴロさんが朝から俺を訪ねて
きた。
ちょうどいつもの様に荒れ放題の畑を耕していた俺に向かって手
を振っているではないか。
﹁おーい、シューター。お前にいいものをやる!﹂
朝から何でそんなに上機嫌なのか、ッワクワクゴロさんは紅のス
カーフをなびかせて白い歯を見せていた。
彼の足元には狼の親戚みたいな犬が大人しく従っていた。
﹁おはようございますッワクワクゴロさん。今日も相変わらず元気
ですね﹂
﹁あたぼうよ、俺はいつだって元気はつらつだ。何しろワイバーン
がいなくなったお蔭で、毎日安心して仕事ができるからな﹂
﹁そうですか。本当はッサキチョさんの代わりに猟師のリーダーに
命じられたから嬉しいんでしょ。俺は知ってますよ﹂
169
彼は先日のワイバーン戦で命を落としたッサキチョさんに代わっ
て、新たな猟師のリーダーとして女村長から指名を受けたのである。
これからは猟犬の世話をしなくてはならず、食わせていくために
これまで以上に大変なんじゃないかと思っていたが、そんな事は無
かった。
聞けばリーダーになる事で、上納しなければならない税が免除さ
れるだけでなく、親方手当がつくというので実のところはホクホク
だ。
﹁これからは家族や兄弟に肉を食わせてやれるからな。そりゃ上機
嫌にもなるだろう﹂
そう言ってッワクワクゴロさんは猟犬の頭をなでた。
あまり懐いていないからなのか、猟犬は迷惑そうにな顔をした後、
あくびをしている。
﹁うちでとれた新タマネギだ、カサンドラに持って行ってやれ﹂
﹁ありがとうございます。いいものというのは、このタマネギの事
ですかね?﹂
ざるに積み上げられたタマネギを見て俺が質問すると、ニヤニヤ
しながら毛皮を差し出した。
﹁喜べ、この前お前とリンクス狩りに行った帰りに仕留めた狐、い
ただろう。加工が終わったからお前にやる﹂
﹁おおっ、あの時の狐ですか。哀れな姿になってしまって﹂
おどけたッワクワクゴロさんに俺も調子を合わせるが。
170
﹁何だ、あんまり嬉しそうじゃないな。そんなに全裸がいいのかよ﹂
﹁嫌だなあ、俺だって服ぐらい着ますよ。チョッキはおってるじゃ
ないですか﹂
﹁だが股間がおろそかだ。街に行くんだろう。だったら村の恥にな
るから黙ってこれを着用しろ﹂
﹁いや全裸にこだわりがあるわけじゃないので、ありがたく頂きま
す。毛皮の腰巻きですか﹂
﹁猟師らしくていいだろう、それと清潔な布だ。カサンドラに渡し
て、下着にしてもらえばいい﹂
﹁ありがとうございます。ありがとうございます﹂
俺は毛皮の腰巻きとともに麻布を頂戴して、頭をペコペコ下げた。
◆
猟師と言えど、俺たちは毎日森に分け入っているわけではない。
特に俺はもうしばらくすると街に出かける予定があったので、こ
こ数日は先輩猟師の手伝いについていって、罠の回収をしてまわる
ぐらいの事しかしてなかった。
今から罠を仕掛けたのでは、街に出かけている間に獲物を回収で
きないのだ。
したがって午前中は弓の練習がてら、切り株を的に短弓を射掛け
る作業をしていた。
ちなみにこの先輩猟師というのが、周辺集落に住んでいる鱗裂き
のニシカである。
﹁馬鹿野郎、肘の位置がおかしい! 短弓は力で射つんじゃなく、
胸の張りで射つんだ!﹂
こんな調子で、四六時中ニシカさんの罵声が飛んできた。
171
﹁お前、街まで護衛につくんだろうが。弓ぐらい使いこなせるよう
になれっての!﹂
﹁初心者なんで、手とり足とり教えてもらわないとですね⋮⋮﹂
﹁貸してみろ、オレ様が手本を見せてやる﹂
そう言って強引に弓を奪ったニシカさんは、フンと鼻息荒く俺を
睨み付けた後に矢をつがえた。
胸を張る。自分が言った言葉通りにニシカは胸を張る様にして弦
をしぼるわけだが、そうすると当然の様に革のベストで抑え込まれ
ていたたわわな胸が天を突く。
でかいんだが、やっぱり弓を使うには邪魔そうだ。
﹁いいか? こう。そしてこうだ!﹂
バビュンと音がした気がする。
弓の放たれた音ではなく、胸が暴れた音である。もちろん響いた
のは俺の脳裏だ。
放たれた矢は切り株にささった。お見事!
﹁やってみろ﹂
﹁はあ。じゃあまあ﹂
短弓を渡されて俺が矢をつがえようとすると、背後にニシカさん
がやってきて俺の姿勢を正してくれる。
胸が当たる事をとても期待していたが、それよりもご褒美をいた
だいた。
俺よりもわずかに背の低いニシカさんの顔が、ちょうど俺の首の
あたりにくるのだ。
そうすると彼女の鼻息が、首筋をくすぐる格好になる。
172
﹁いいか、もう一度言う。胸を張りながら引き絞る。腕の力に頼ら
ずに胸の張りだ。そう﹂
﹁なるほど、いいかんじですね﹂
俺は押し付けられた豊かな胸にちょっといい気になりながら、ニ
シカさんのやる様に身を任せた。
がそれも一瞬の事。
﹁ちがう、そうじゃねえ! 前のめりになるなよ。何でだよ!﹂
何でって言っても、さすがにちょっと密着時間が長すぎた。
狐の腰巻きが張りつめてきたので、どうしょうもないじゃないで
すか。
バビュンと矢が放物線上を描き、あらぬ方向へ飛んで行った。
﹁ほれみろ、しっかり胸の貼りで狙わないからこうなるんだ!﹂
﹁いやわかってるんですけどねえ。どうしても前のめりになる事情
がありまして⋮⋮﹂
俺が股間の位置を手で押されていると、ん? とニシカさんが微
妙な顔をした。
しかし少しすると、顔を真っ赤にしてふたたび罵声をあびせつけ
てくる。
﹁て、手前ぇ﹂
﹁ほんとすいませんねえ、生理現象なんで﹂
﹁新嫁がいるのにオレに欲情してたのかよ﹂
﹁いやすまんことですわざとじゃないんです。ほんの少し吐息が刺
激的だったもんで﹂
173
ちょっと爆乳な胸を押さえながらニシカがいやいやをして見せる。
﹁カサンドラに言いつけるぞ! このケダモノが!﹂
俺は股間を蹴り上げられた。
とても痛かったので、俺はその場で悶絶した。
◆
先輩猟師に頼まれて俺が雉の羽毛をむしっていると、夕方になっ
ておっさんがソワソワした態度で訪ねてきた。
場所は表の作業台だ。
カサンドラの事を気にしているのか、おっさんは小声で話しかけ
る。
﹁お前、気は変わらないか?﹂
﹁脱走の件か﹂
﹁今ならまだ間に合うぞ﹂
﹁まあ知らない土地にいきなり放り出されるよりはなあ。金もない
し、もう少し様子を見るつもりなんですけど﹂
﹁少しは工面してやってもいいんだぞ﹂
﹁借金はしない主義なんですよねえ﹂
﹁⋮⋮そ、そうか﹂
﹁そういう事なんですよ、わかったらお引き取り下さい﹂
﹁待て早まるな。その、﹂
オッサンドラは相変わらず、俺をこの村から放逐したいらしい。
やはり嫁の事か。
174
﹁留守中、カサンドラの事は任せてもらいたい﹂
﹁そうかい。せいぜい気を付けてやってくれ、嫁はりんご酢が不足
していると言ったぞ。あるなら俺の留守中に届けてやれば喜ぶかも
ね﹂
馬鹿らしい気分になりながら、嫁の機嫌取りのためのアドバイス
を、おっさんにしてやった。
ここまで露骨な反応をしてくるとはな。
◆
夕食はワイバーンの肉をベースに芋と豆、ケールの葉とタマネギ
を加えた鍋である。
解体されたワイバーンは亡くなった人間の供養のためにと、村人
たちに振る舞われたのである。
俺と嫁はふたりで寝台に腰掛けて、小さなテーブルに鍋をつつく。
ふたりは無言だ。
箸がないので、おたまですくった鍋の中身は二叉のフォークとス
プーンを使って食べる事になる。
しかしワイバーンの肉は不味い。
筋張っていて歯ごたえもありすぎ、脂身もないスカスカの味だ。
この味をどうにかするためにぶどう酒に付け込んでひと晩寝かせて
から鍋にしたのだが、柔らかくはならなかった。
きっとどの家庭でも不評だろうが、肉は貴重なので、しょうがな
しに食べるのである。
﹁親父さんが亡くなった時も、ワイバーンの鍋をしたのか﹂
﹁⋮⋮はい。あの時はたくさんのお肉が家に届けられて、しばらく
食事には困りませんでした﹂
175
ふう、ふうしながらスプーンを口元に運びつつ、カサンドラが返
事をする。
食事には困らなかったと言うが、生活はかなり苦しかっただろう
に。親父の服まで手放して生計を立てていたのだ。男手が無いから
畑も放置していた。
嫁は果たして今、幸せなのだろうか。
俺がこの猟師小屋にやって来た事で、男手には苦労しなくなった。
見よう見まねで畑の手入れをしはじめて、今は芋と豆を栽培して
いる。それから放置していても収穫できるハーブだ。
しかし俺の猟果がないうちは、食事もたくわえの持ち出しになる。
それに嫁には幼馴染の従兄がいた。おっさんだ。
聞いてはいけない事なのだろうけれど、ふと俺の口から言葉が飛
び出す。
﹁今、幸せか⋮⋮﹂
並んで座ったその隣、カサンドラはおずおずといった具合で顔を
上げて不思議そうに俺を見る。
﹁食べるものに困らなくて、養っていただけて、これ以上の幸せは
今のわたしには贅沢すぎます﹂
﹁そ、そうか。もっと頑張って立派な猟師にならないとな﹂
﹁そうですね。明日からは街へ出発します。しっかりお食事をとっ
て、体を休めてください﹂
食事が終わる。空になった鍋に木の皿を入れて持ち上げたカサン
ドラを見送りながら、少し俺は考えた。
嫁は思考停止をしている。俺の知っている元いた世界の幸せの形
は、いろいろあったはずだ。
176
けれどこのファンタジーな世界では、生きる事が必死なのだ。だ
から幸せについて考えている余裕なんてあるはずがない。
今が生きていけるなら、それは幸せな事なのだ。
本来ならばおっさんと結ばれる事が彼女にとっての幸せだったの
だろう。
いや、女村長や亡くなった親父はそうさせるつもりがはなからな
かったのかも知れない。
たまたまよそ者の俺が現れたので、俺がちょうどカサンドラの相
手に選ばれたのだが、そうすればカサンドラの夫はおっさん以外の
誰かだったわけだ。
考えると、ますますわからなくなってしまう。
俺は明日から村を出て街に向かう。
ワイバーン戦で数を減らした村の猟師を補充するために、街に募
集をかけに行くのだ。同時に村の開拓に必要な新たな移民も募る。
このまま村を出て、街で姿をくらますのもひとつの方法だ。
では残されたカサンドラはどうなるのか。
父が死んで夫にまで逃げられたら、ただでさえ村でははなつまみ
者の扱いを受ける猟師の嫁は、今以上に立場が悪くなるのではない
か。
くそう。
考えても結論が出やしねえ。
不幸ですとでも言われれば、おっさんに話をつけて手引きをして
もらうつもりだったんだけどな。
嫁とおっさんが結ばれる未来があるのなら、それもありかもしれ
ない。
何しろ俺は、まだ嫁の指先しか触れたことが無いのだ。
大変困った。
177
﹁あの、シューターさん﹂
思考のるつぼに俺が陥り、狭い寝台に寝転がっているとカサンド
ラが声をかけてきた。
﹁ん? 何ですか奥さん﹂
﹁これはその、街でシューターさんが恥をかかない様に、下着を縫
いました。ッワクワクゴロさんに頂いた布で﹂
﹁おお、パンツか。パンツは大事だな﹂
俺は寝台を起き上がって、カサンドラからパンツを受け取る。
ふんどしみたいなものを想像していたが、想像以上にヒモパンだ
った。
越中ふんどしみたいな前垂れのあるやつじゃなくて、女子がつけ
てるみたいなヒモパン形状だ。
﹁腰巻きがよごれないように、使ってくださいね﹂
旦那さまの大切な一張羅なんですから。
クスリと笑ってカサンドラが言った。
あ、かわいい。
美人のカサンドラだったが、たぶん俺ははじめて嫁が笑う顔を見
た気がした。
﹁ありがとうございます。ありがとうございます﹂
言葉にできないうずきというか、急に抱きしめたくなるような感
情に苦しめられながら、俺は新妻に感謝した。
嫁がフリーなら、たぶんここで押し倒してたと思う。
だが、おっさんの顔が脳裏をよぎった。
178
◆
村長の屋敷の前。
そこには、一頭仕立ての二輪荷馬車が用意されていた。
村唯一の乗り物である。幌はない。
乗り込むのは青年ギムルと俺で、荷台にはワイバーンの骨が積ま
れている。ブルーシートはないので、防水予防に何かの獣皮でこさ
えたシートがかけられていた。
街で売り払って、少しでも外貨を獲得しなければならないらしい。
ワイバーン退治の手痛い出費で、行商人が次に来るまでは待ってい
られないのだとか。
見送りで集まったのは女村長と木こりのッンナニワ、それからい
つもの下働きの若い女だ。
﹁ではお前たち、しっかり交渉をしてくるように﹂
﹁お任せください村長﹂
女村長とその義息子が、妙に他人行儀な態度でやりとりをしてい
る姿を俺は見ていた。
準備万端、旅装束はいつもの猟師スタイルに少し豪華な獣毛腰巻
きがワンポイントだ。今日は下着だってある。
﹁委細はギムルに任せているが、荷物と義息子の護衛はしっかりた
のむぞ﹂
﹁任せてください。むかし護身術のインストラクターをやっていた
事があるので、痴漢撃退はお手のものです﹂
179
俺は過去のバイトの思い出を引っ張り出しながら、腰にさした短
剣をぽんと叩いて返事をした。
﹁うむ。お前の勇敢さはワイバーン退治でも証明されている、期待
しているぞ。家族との別れはよかったのか?﹂
﹁あー妻は恥ずかしがり屋さんなので、家にいるんですよねえ﹂
﹁じゃあ出発する。義母上、それでは﹂
﹁うむ﹂
最後だけは親子らしい会話を短くして、俺が荷台に飛び乗るとギ
ムルが馬に鞭を入れた。
荷馬車から俺もペコリと頭を下げると村長が手を振ってくれたの
で、俺はちょっぴり嬉しくなった。
村長の屋敷から続く道をゆったりと進む。
サルワタの森をのぞけば俺はこのファンタジー世界について何一
つ知らなかった。
これからはじめて外の世界に踏み出すのだ。まあ、楽しみじゃな
いと言えば嘘になるな。
﹁お前の家がここから見えるぞ。嫁が顔を出してる﹂
御者台から振り返ったギムルの言葉に俺は驚いた。
見れば、カサンドラが手を振っている姿が目に飛び込む。
とても意外な気分だが、悪い気はしない。街についたら土産物で
も買って帰ろう。
俺はおっさんに対して妙に勝ち誇った気分になりながら、手を振
り返した。
妻は何をプレゼントしたら喜ぶだろうかねえ。
180
16 荷馬車揺れれば乳揺れる
風に震えている草原の道を、荷馬車に揺られて街に向かう。
俺の名は吉田修太、三二歳。
異世界で猟師をやっている村人だ。
今は女村長の命を受けて、街へ向かう青年ギムルの護衛として同
行していた。
﹁街まではどのくらいの距離があるんですかね﹂
御者台でのんびりと馬を操っているギムルに、俺は大声を上げた。
穏やかな小風日和だったが、お互いに背中を向けている格好なの
でどうしても声が大きくなるのだ。
﹁このままのペースで行けば三日ほどだ。早馬なら一日ぶっ通しで
駆ければ夜には到着するが、今回は急ぐ理由が無い﹂
﹁なるほどな。宿はどうするつもりですか、村長さまからは何も聞
かされていないんですけど!﹂
﹁野宿をする。雨は降らないだろうから近くの村で宿を借りる予定
は無い﹂
以前の青年ギムルはもっと身もふたもない態度で﹁駄目だ﹂﹁我
慢しろ﹂ばかりを言う男だったが、今回は大人しいもんだ。
理由はいくつかあるが、酔って暴れた際にぶちのめした事と、ワ
イバーン戦で俺がそれなりに村に貢献した事。
だが最大の理由は女村長が俺を何かと気にかけてくれるからであ
る。
181
人間、組織のキーパーソンに認められれば周りも文句を言わなく
なるのだ。
俺がずっと以前、コンビニ弁当を作る工場で働いていた時の事だ
った。そこではラインの責任監督者として若い社員がいたが、俺が
常に気を付けていた相手はバイトリーダーのおばちゃんだった。
この道二五年のベテランで、若い社員がおぎゃあおぎゃあ言って
いた時にはすでに工場で俵おにぎり弁当箱を詰めていた。
最初、友達に誘われて短期バイトで入って来た俺は、周囲から浮
きまくっていた。髪も染めていたので明らかにそこでは異邦人扱い
だった。今とあんまかわらんな。だから、認めてもらうために俺は
バイトリーダーのおばちゃんの言う事だけはしっかり守った。若い
監督者の話しよりもだ。
こういう時に絶対に八方美人になってあちこちにいい顔はしない。
俺も村では女村長の事だけはしっかりと観察して、取り入る様に努
力したわけだしな。
おかげでギムルは今、大人しい。
もしも俺が村で八方美人をかましていたら、今より立場が悪かっ
た可能性がある。
ギムルに取り入らなくてよかったぜ。
あの時の経験を活かして、今後も女村長だけは裏切らないように
していきたいね。
﹁ところでギムルさん﹂
﹁何だ!﹂
御者台から振り返ってギムルさんがどなり返してきた。
182
﹁さっきから、ずっと後を付けてくる人間がいるみたいなんですよ
ね﹂
﹁どういう事だ?!﹂
手綱を引っ張って馬車を止めたギムルが、俺の方に身を乗り出し
て来た。
﹁ほらあそこ。街道に出てしばらくしたあたりで、誰かが付けてき
たんですよ﹂
﹁本当だな。あれは誰だ﹂
﹁わかんないですねぇ。盗賊かな?﹂
﹁こんな辺境に盗賊がいるわけがないだろう。商人がもっと行きか
う街の向こう側の街道なら話は別だが⋮⋮﹂
そう言いながらギムルは腰の長剣を手にかけて警戒した。
田舎育ちとは言え、嫁のカサンドラほど視力がよくないのだろう
か。小さな人影を判断できないギムルは不機嫌に鼻を鳴らして俺に
一瞬目くばせをした。
﹁俺の剣を使うか﹂
﹁いえ、おっさんにご祝儀でもらった短剣があるので十分ですね﹂
俺は一時期スポーツチャンバラをかじっていた経験があり、小太
刀のエア剣は使い慣れていた。
短剣はちょうどその長さと同程度なのでいける。
どういうわけか空手経験者はスポチャン経験者が多いが、俺もそ
のひとりである。
﹁弓は使わんのか﹂
﹁いやあ、まだ練習中の身分でして。当たらない弓よりも剣の方が
183
確実です﹂
そんな会話をしながら俺たちは警戒を強めた。
ところが、よくよく見てみると近づいて来る小さな人影が、手を
振っているではないか。
﹁誰だ、知り合いか?﹂
﹁みたいですねえ。手を振ってますよ﹂
﹁馬鹿め、俺だってそれぐらいはわかる﹂
俺たちが顔を見合わせてそんな話をしていると、駆けてくるその
姿がこう叫んだ。
﹁おい、オレを街に連れてけ!﹂
◆
後を追ってきたのは旅装束をしたニシカさんだった。
いつものブラウスと革ベスト、革ホットパンツの上からポンチョ
姿である。
小さく息をしながら俺たちの荷馬車に強引に乗り込むと﹁さっさ
と出発しろ!﹂と命令をしてきたもんだから、とたんにギムルは不
機嫌になった。
鱗裂きのニシカと言えば村周辺に知られたワイバーン狩りの名人
で、つい先の戦闘でも活躍した長耳娘である。村に貢献した人間だ
けに頭ごなしに拒否するのも難しく、青年ギムルも扱いに困ったの
だろう。
俺が息子の位置を修正しながら知らんぷりを決め込んでいると、
﹁シューターだけ街に行くのがだんだん羨ましくなってきてな。街
184
は行った事が無いんだ﹂
荷馬車の揺れに合わせて乳を揺らしながら、ニシカさんが興奮気
味に語った。
﹁いやギムルさんも俺も村の役目で行くわけですからね、遊びじゃ
ないんですよ﹂
﹁オレもせっかくだから見物に行く事にした。護衛の役はひとりよ
りふたりの方が頼もしいだろう? そういう事だからよろしく頼む
ぜ!﹂
などと手前勝手な事を言うから大変だ。
俺の話を聞いちゃいねぇ。
ギムルは﹁駄目だ﹂とか﹁引き返せ﹂とか最初のうちは御者台で
抵抗していたけれど、眼帯娘が荷台から御者台に身を乗り出して、
﹁お前、男の癖にケチ臭い事を言うもんじゃない。嫁の貰い手がな
くなるぞ﹂
そんな事を言ったものだから押し黙った。たぶん押し黙った原因
は肩に腕を回された時に、顔が揺れる巨乳に押しつぶされて嬉しく
なったからだろう。羨ましい。
そういう事があって再出発した俺たちだったが、道中は限りなく
暇である。
定員がそもそも何人なのかは知らないが、大の男ふたりに女性に
してはかなり大柄なニシカさんに加え、ワイバーンの骨まで山積み
なのだから、一頭曳きの二輪馬車はトロトロ走るわけである。
暇つぶしのついでに俺は前々から気になっていた事をふたりに質
問してみた。
185
﹁前から聞こうと思ってたんですけどね﹂
﹁何だよ、狩りの事なら何でも聞いてくれ。ワイバーンはオレの獲
物だ﹂
﹁違います。ワイバーンの事から離れてくださいね?﹂
﹁じゃあ何だ。オレの好みの男か? 残念だがシューターは好みじ
ゃないな﹂
聞きもしない事をニシカさんは言ってきた。
その間、ギムルは御者台に座って完全に黙ったままだった。どう
もニシカさんが苦手らしい。
﹁そうじゃなくてですねえ。何で村の人たちは朝飯を食べないんで
すかね。どうせ二食しか食べれないにしても、朝飯を食った方が元
気が出るじゃないですか﹂
このファンタジー世界にやって来てから、どうも慣れないこの土
地の習慣である。
﹁そりゃお前。朝飯を我慢したら、昼飯が美味いからに決まってい
るだろう﹂
ニシカさんは何の疑問も抱かずに即答して来た。
すると御者台に座っていた無言のギムルが噴き出したらしい。咳
払いを何度か繰り返してから、彼は振り返った。
﹁その女の言っている事は嘘だ。朝に飯を抜くのは、そうすれば飢
えに強くなり体が栄養を蓄えるからだ﹂
﹁へぇなるほどねえ。だそうですよ、ニシカさん?﹂
﹁ももも、もちろんオレ様だって知っていた。知っていたが、ちょ
っとシューターをからかっただけだ。お前は見事に騙されたな!﹂
186
さすが村長の義息子というだけあって上流階級は学があるね。
それに比べてこの男口調の眼帯女は⋮⋮
つまりアレか、意図的に飢餓状態を演出して、体が飢えに強くな
る様に習慣付けているという事か。
モノの本によれば、現代人は朝飯を抜きがちだが、最後に食べた
飯から睡眠をとりいきなり労働すると、軽い飢餓状態になるのでや
めた方がよいそうだ。
つまりそれをわざとやって、耐性を得るというわけなのね。過酷
な異世界生活が故の生活風習という事なのだろう。
﹁これもう効率がいいのか悪いのかわからんな﹂
俺は妙に納得してひとりつぶやいた。
道中の飯は、基本的に保存食である。最初の飯は嫁の用意したお
弁当を食べたが、夜はそれもなくなって、いよいよ不味いビスケッ
トと燻製肉だ。
ギムルはとにかく硬いワイバーンの燻製肉を、必死になってかじ
っていた。苦々しい顔をして、俺が意外にも平気な顔で食べている
のを見たギムルが話しかけてくる。
﹁お前はワイバーンの肉を美味そうに食べるな﹂
﹁んなわきゃぁない。ただ狸の燻製肉を食べた経験があるので、こ
れぐらいは想像の範疇です﹂
獣肉のうち、狸ほどあたりはずれのある肉は無い。とにかくその
狸が何を食べて育ったかで、肉の味がかわってくるのだ。俺が食べ
た事のある狸はどれも不味かった。
それこそこのワイバーン並に硬くてがさがさして筋張っていた。
187
ニシカさんは何の問題も感じないのか﹁うまい、うまい﹂と言っ
てワイバーンを食らっていた。さすがワイバーン狩りの専門家。
こうして野宿を二泊繰り返しながら、俺たちは街へと向かった。
夜のうちは交代で荷台にもぐりこんで寝る。
三日目、さすがに野宿の連続で疲労がたまってきた辺りで、お目
当ての街に到着した。
辺境伯の統治する街ブルカである。
◆
﹁なかなかデカいなおい﹂
開口一番、俺の素直な感想だった。
もっと村の規模をひとまわりほど大きくした様な想像をしていた
が、なかなか立派な造りではないか。
﹁街全体が城壁で囲まれているのか。人口は何人ぐらいいるんです
かね﹂
﹁街とはこういうものだ。ここで一万人以上もの人間が生活してい
る。俺たちの村と周辺の集落をあわせた数の十倍はいるだろう﹂
﹁へえ、そりゃ都会だな﹂
もちろん俺が元いた世界からすれば小さな小さな町だろうが、こ
のファンタジー世界ではきっと大都会なのだろう。
実際、城門の前を活発に出入りする人々を見て、俺の知るものと
は違った意味でエキゾチックかつ都会的な空気を感じた。日本生ま
れの俺にとって、石畳と石造りの街は新鮮だからな。
一方のはじめて街にやって来たニシカさんは、片眼を点にして口
188
をあんぐりとあけていた。
﹁おい。この街には森で見た鹿の大群より人間がいるぞ!﹂
ニシカさんはちょっと狩猟から考え方を切り離しましょうね。
189
17 俺たちの旅ははじまったばかりだ 前編
ブルカの街に入る検問を前に、俺は自分の身だしなみを改めた。
上着は嫁の亡き父から受け継いだお下がりのチョッキ︵残り二枚
のうちのひとつ︶、下は嫁のこさえたヒモパン、プラスで狐皮の腰
巻きである。
その他に旅装束としてポンチョを羽織っており、それからいつも
の狩猟道具を最低限持っていた。短弓と短剣は持参だが、手槍は街
で不必要と判断して持ってきてはいない。
季節は春。少々薄着すぎるんじゃないかと思うが、全裸だった以
前の事を考えれば立派な村人猟師だ。
街でもたぶんきっとおかしくないはず。
俺が自分の格好を気にしながらファッションモデルよろしくグル
リと回っていると、馬車の御者台に座っていたギムルが胡乱な視線
を送って来た。
﹁馬車からわざわざ降りたと思ったら、何をやっているのだお前は﹂
﹁いや、この格好は変じゃないですかね?﹂
﹁全裸男だった分際で、何を今さら言っている﹂
﹁そんな事言ったって俺は好きで全裸だったわけじゃないですから
ね。ッンナニワさんに身ぐるみはがされたから全裸だったんだ﹂
﹁馬鹿を言うな、お前は最初から全裸で森をさまよっていたぞ﹂
﹁えっ?﹂
それは知らなかった。
俺はてっきり異世界に迷い込んだ時に、元着ていたシャツに作業
190
ズボンの格好をしていたとばっかり思っていたのだが。
すると俺は異世界にやって来た時、全裸になって登場したのか。
やっぱり転移じゃなくて転生だったのかな。
おっさんで生まれ変わるとか⋮⋮神様ひどい。人生しっかりリセ
ットしてから生まれ変わらせて!
たっと
﹁だからてっきり、お前は全裸を貴ぶ部族の生まれだと思っていた
ぞ﹂
﹁そんなわきゃあない。俺が元いた場所じゃ、全裸は犯罪でした﹂
﹁なら、街でも気を付ける事だな。全裸でうろついているのは奴隷
身分の者たちか、頭のおかしい賢者どもだけだ﹂
呆れた顔をしたギムルが忠告をくれた。
しかし、頭がおかしいのに賢者とはこれいかに。
ただまあ、全裸でも国法に触れるというわけじゃないのだけはあ
りがたいな。いつまた何時、全裸になるか知れないしな!
などと糞真面目に俺が考え事をしていると、
﹁おい、このまま街に入るのか。オレはまだ心の準備ができてない
ぜ﹂
鱗裂きのニシカともあろうひとが、その身を震わせながら俺にし
がみついてきた。
片眼を潤ませて、俺の腕に豊乳を押し付けてくるの、やめなさい。
この世界にはブラジャーなんてものはないんだから、衣服を通し
ても限りなくお肉の感触が俺へとアプローチしてくるのだからな。
俺の股間が御柱祭になりそうになったので、あわててフォローし
た。
191
﹁落ち着いてくださいニシカさん。堂々としていないと飛龍殺しの
名が泣きますよ? それでギムルさん。この検問で何をするんです
かね?﹂
﹁通常なら税を納めるのだが、俺たちには村長の委任状があるので
関税の類は免除される。簡単な持ち物チェックで通過できるはずだ﹂
説明してくれたギムルさんになるほどと返事をして、行列の先を
見た。
三〇人あまりが街をぐるりと囲んだ城壁の入り口に向かって並ん
でいる。
それぞれが荷物を背負った旅人であったり、馬車を使った商人た
ちであったり、幌付きの立派なものも見かけるのであるいはお貴族
さまもまたいるらしい。
しばらく震えるニシカさんを宥めていると、俺たちの持ち物検査
の番になった。
﹁どこから来た﹂
﹁サルワタの開拓村だ。村長の命令で冒険者ギルドに用がある﹂
短くギムルが応答しながら馬車を降りて俺たちの隣に並んだ。
検問の番兵は俺たちの体をべたべたと触って、持ち物検査をして
いく。
ギムルの時は事務的に、そしてニシカさんの時は熱心にだ。
胸の谷間には隠せるスペースがあるのではないかと番兵さんが言
いだしたり、女は女だけに隠せる場所があるとか妙な事を言い出し
たり。
しかし徐々に人間ばかりの空気に慣れてきたニシカさんが、飛龍
殺しの眼光をひとつ飛ばしてやると、番兵さんは途端におとなしく
なって、ひとしきりサラリと触り心地を堪能した後、問題なしと解
放された。
192
もうちょっと熱心に仕事しろよ番兵さん!
武器の持ち込みは辺境伯への反逆と取られるので厳しく制限され
ているのだから、番兵が熱心に持ち物検査をするのも理解はできる
んだけどね。
とは言っても護身用の武器程度なら問題は無いらしく、大がかり
な魔術の護符や呪いがかかっている様な武器の類が禁止項目にあた
るらしい。
ちなみに俺は全裸の呪いがかかっているはずだか問題なく通過し
た。男に触られるのは嫌なのでこちらはウィン=ウィンだね。
﹁先に予定を言うぞ。このまま荷台のものを、村と取引のある商会
に持ち込んで売り払う。それから馬車を馬車預り所に入れて、宿を
探す。こちらも村の人間がいつも使っている場所にする﹂
﹁わかりました﹂
﹁冒険者ギルドにはその後で向かう﹂
﹁そんな事より街の見物いこうぜ! な!﹂
俺とギムルさんが今後の予定を話し合っていると、空気を読めな
いニシカさんがまた余計な事を言い出した。
街を見回せば、びっしりと石造りの家が大通りの周囲を所狭しと
ひしめき合っている。
元いた世界で言えば観光地のお土産屋の並びみたいになっていて、
昼間という事もあって往来がさかんだった。
まさに地元の商店街の賑わいだ。
村に唯一という俺たちの乗って来た荷馬車の事を考えれば、ここ
では馬車は当たり前で、俺たちの村のものよりずっと立派だった。
ひとつの商会の前で、荷馬車は止まった。
荷台から俺がまず降りて、防水加工の革シートを引き剥がす。
193
ニシカさんが飛び降りるタイミングでぶるりんと胸が荒ぶった。
いいね!
そんな事をしていると、商会の中から出てきたゴブリンとギムル
さんが何かの交渉をはじめたではないか。
﹁久しぶりだな。ワイバーンの骨を持ち込んだので買い取ってもら
いたい﹂
﹁ご無沙汰しております、サルワタの次期村長さん﹂
﹁次期村長は時期尚早だ。義母上が再婚した場合は俺でなくなる可
能性がある﹂
うばづめ
﹁またまた。あなたは先代村長さんの嫡子でしょう。それにアレク
サンドロシアさまは石女だったはずではないですか?﹂
﹁馬鹿野郎、声が大きいぞ﹂
ギムルは俺に目くばせをして、俺はその中からワイバーンの骨を
数本取り出した。
肉を剥いだ後に洗浄して、しっかりと手入れが行き届いている。
よくあるファンタジーの世界では、この骨が何か武器や防具の素
材になる事を想像していたのだが、どうやらそれは違うらしい。
何しろこれは鳥と同じ様に、骨の中身がすかすかのスポンジ形状
だ。飛ぶために軽量化して進化した産物なので、こんなのを削って
武器にしたところで、知れている。すると何に使うのだろうと疑問
に思っていると、何と薬になるのだとか。
モノの本によれば漢方薬の材料として、恐竜の骨も重宝されたと
いうから、さもありなんだ。
一方の飛龍の鱗革については防具として活用できる。
軽くそして丈夫だ。その防御力に関しては戦って体験した俺が身
をもって保障できるぜ。
﹁骨は顔を除く部位が揃っている﹂
194
ぶい
﹁顔はどうされたんですか?﹂
﹁村の武威を示す目的で、義母上が手元に残した。鱗の方はしっか
りと持って来ているので、改めろ﹂
﹁こちらは最終仕上げを済ませれば良質な防具になるでしょうね﹂
うちではやりませんが。とゴブリンの丁稚が笑って納得していた。
荷台の上に乗ったゴブリン丁稚が、その他の部位を改めながら骨
やら何やらをひっくり返している。
﹁いくらで引き取るか﹂
﹁顔の剥製まであればきっといい値段になったんですがねえ﹂
﹁そうか﹂
﹁まあ、ブルカ辺境伯金貨二〇枚と、修道会銀貨で五枚といったと
ころでしょうか﹂
﹁わかった。それでいい﹂
ふたりのやり取りを俺が見ていると疑問が沸いてくる。ギムルは
商会のゴブリンと交渉らしい交渉をひとつもしなかったのだ。
もう少しごねておけば取り分の金貨は増えたのじゃないだろうか
と思うわけだ。
商売気が無さ過ぎて不安になっている俺の隣で、まるで興味が無
さそうなニシカさんは暑いのかブラウスの胸元を少し広げてバタバ
タしていた。
ガン見してやると、ニシカさんはとても嫌そうな顔をしたのでバ
レたらしい。
﹁おい、あんま見るなよ﹂
﹁見せるためにやってたんじゃないんですか。サービスだと思いま
した﹂
﹁んなわきゃねえだろ。ジロジロ見られるとこっちも気になるんだ
195
よ﹂
おっぱい大きいの気にしているのだろうか。
﹁気になると言えばですよ、ギムルさんは交渉とかしないんですね。
もう少しふっかけてやればいいのに﹂
﹁馬鹿お前、ブルカ伯金貨で二〇枚と言えば大金じゃねえか。柔ら
かいパンと肉のスープが一〇年間毎日食べられるんだぞ!﹂
﹁そうなんですか。それってどれぐらいの価値なんすか﹂
﹁飛龍の防具一式が何と二〇セットも作れるぐらい大金だ! だか
ら十分もらっているはずだ﹂
﹁本当っすか? ニシカさんは狩りの事しか知らないから、怪しい
なぁ﹂
﹁お、オレを馬鹿にしたな? オレだって金の数え方ぐらい知って
いる!!﹂
よくわからない例えを言ってニシカさんが興奮していた。興奮す
るたびにばるんばるんいいよるわ。俺も興奮しちゃうね!
そんな俺たちに、ゴブリンが店の奥に入っていくのを見届けてか
らギムルさんが振り返った。
﹁交渉をしなかったのは、大人しくここで相手の要求を呑んでおく
と、取引材料にできるからだな﹂
﹁あーなるほど。今ここでは損して得取れというわけだったんです
ね﹂
﹁村で入用な道具は基本的に全てここで仕入れているからな。いつ
もは安く買いたたかれていても、いざという時にこちらの無理難題
を聞いてくれるのは普段使いの商会なのだ。一見の店ではそうはい
くまい﹂
196
なるほどな。ゴブリンが言っていた様にギムルはさすが次期村長
という事もあってよく勉強しているのだろう。
俺はむかしとあるベンチャー企業で、決済代行システムを組み込
むプロジェクトのメンバーだった事がある。
当たり前だがただのバイトでプロジェクトチームが使うフロアの
後始末をするだけの簡単なお仕事だったのだが、そこでひとつ上司
が言っていた言葉を思い出した。
手数料をあえて高く設定しようとするのには理由がある。土日も
充実したサポートをするためだ。
競合他社が安い手数料を売りにしている時、土日も審査を行う事
で決済審査の待ち時間を無くせるのだと。手数料の安い競合他社に
はできないサービスである。
なるほどなるほど。この商会を使うという事は、いざ村の危機で
もあった時に融通を利かせてくれる事を期待してるんだな。
﹁安いには理由がある。高いのにも理由があるか。損して得取れ、
ひとつ賢くなったな﹂
俺がそんな事をつぶやいていると、ギムルがおやっと不思議そう
な顔をして俺を見ていた。
﹁何ですか、俺のファッションが猟師スタイルすぎておかしいんで
すか﹂
﹁馬鹿め。小知恵がまわるなと警戒していただけだ﹂
ギムルはそう言ってそっぽを向いた。
◆
197
場所を移して馬車を預け荒れる馬車預り所に持って行く。駄賃を
管理人に払うと、今度は宿屋に向かった。
﹁しかしこうして見ると、ヒトとゴブリンばかりですね。他の種族
はいたいりしないんですかね?﹂
﹁そうだな。オレと同じ長耳がいるかと思ったんだが、同朋はひと
りもいねぇ﹂
馬車を預けて身軽になった俺たちは、人ごみをかき分けながら青
年ギムルを盾にして道を練り歩く。
表通りは馬車が走るために広く作られていたけれど、一歩裏路地
に入ると、そこはところ狭しと露店が並んでいて、よりエキゾチッ
クな雰囲気だった。
ニシカさんと俺が顔を合わせて雑談していた様に、世の中ゴブリ
ンがいっぱいである。
だいたいが使用人として働いているのだが、中には立派な格好を
した戦士の様な男たちもいた。
あれがッワクワクゴロさんの言っていた﹁優れたゴブリンが街に
やってきた﹂結果なのだろう。
冒険者でもやってるのかもしれんね。
﹁長耳というのは珍しい人間なんですか?﹂
﹁いや、エルフは普通に村周辺の集落にいる﹂
俺の質問にギムルが答えた。
あぁやっぱり長耳はエルフだったのか。
しかしニシカさんは白人っぽいエルフというより黄色人種みたい
なエルフだ。紫がかってるけど髪も黒いしな。
黄色エルフね。
198
﹁ただブルカの街では珍しいだろう。このあたりのエルフは大概が
サルワタの森周辺にいる﹂
﹁するとあれですか、エルフというのは街で生活をするのを嫌がっ
て深い森や山野で生活をしていると? ドワーフともめちゃくちゃ
仲が悪かったりして﹂
﹁お前は馬鹿か。中央にいけばエルフはいっぱいいる。王家はエル
フの血を引いているぐらいだぞ﹂
だそうである。
何で? って顔をしてニシカさんを見たら、
﹁お、オレたちの部族はちょっと特別なんだよきっと﹂
あんたが特別なの黄色いお肌と巨乳だろ。
﹁それでこのブルカの街は、中央とは離れた辺境都市だからな。高
貴な家柄や都会派のエルフはいない﹂
﹁なるほど、黄色は蛮族と﹂
﹁蛮族じゃねぇ!﹂
ところで俺は宿屋に何か妙な期待感を込めていたのだが、これは
果たして宿と言えるのだろうか。
旅館やビジネスホテルなんて贅沢は言わない。せめてちょっとだ
けゆったりしたカプセルホテルを想像していたのだが、現実は簡易
宿泊所だった。
喜びの唄亭というのが俺たちが泊る宿の名前だ。
村長の義息子ギムルだけはひとり部屋だが、俺とニシカさんは、
狭い三畳一間の二段ベッドである。しかもベッドはどう見ても編上
げのハンモックの親戚みたいな造りである。
やっとゆっくりできると思ったのはギムルさんだけで、俺は不慣
199
れなハンモックである。
差別だ! 村八分だ!
モノの本で読んだことがある木賃宿だった。
﹁とりあえず旅荷を解いたら、飯を食いに出るぞ。貴重品は持って
くるんだ﹂
﹁裸一貫で村から出て来た俺が、狐皮の腰巻き以上に豪華なものな
んて持ってませんよ﹂
﹁黙れ、その短剣は持ってくるのだ﹂
俺はあんたの護衛だからね、一応肌身離さないよ。
200
18 俺たちの旅ははじまったばかりだ 後編︵前書き︶
総合評価3000ポイントありがとうございます!
楽しく書いたものを、楽しく読んで頂けて本当に感謝です!
201
18 俺たちの旅ははじまったばかりだ 後編
午後の昼下がり、俺たちは宿屋・喜びの唄停を出て飯にする。
食堂の様なところに行くのかと思ったら、屋台の買い食いだった。
空き樽に腰かけて、硬いパンに肉を挟んだだけのサンドイッチみ
たいなのと、野菜の煮込みスープを回し飲みした。
この世界の豆知識だが、野菜は絶対に生で食べない。
寄生虫や病原菌が恐ろしいので、必ず火を通すのである。
アテが外れたのかニシカさんはご不満の様だ。
﹁都会の飯はもっと美味いと思ったが、たいしたことねぇな﹂
﹁いい店に入れば、いいものが食えるんでしょうけどね。酒場とか
行ってみたいですねぇ﹂
﹁酒場!﹂
ばるんと胸を揺さぶってニシカさんが歓喜したが、あえなくギム
ルが否定する。
﹁駄目だ。まだ時間があるので、これから冒険者ギルドに行く﹂
﹁おい馬鹿言っちゃいけない。酒の一杯ぐらいは引っ掛けたって問
題ないだろう﹂
﹁駄目だ。お前は無一文でここに来ているのだ。誰が宿賃を払って
いると思ってるんだ﹂
ふたりのやり取りを見ながら、おれはぶどう酒をすすった。
﹁何でシューターだけぶどう酒を呑んでるんだ! オレ様にも呑ま
202
せやがれ!﹂
﹁いやこれは自分の金で呑んでますから﹂
いきなりニシカさんに絡まれたのできっぱり否定する。
金は女村長が手間賃といって工面してくれた銅貨である。誰がや
るか。
﹁おい、何だっけ。こ、こういう時は損して得取れだぞ。ここはひ
とつ黙ってオレに酒をおごれ﹂
﹁何言ってるんだあんたは﹂
﹁ここで損した気分になるかもしれないが、オレに後で何か要求し
ろ。そしたらお前は幸せになれる﹂
﹁はあ、さっきの商会の話ですか﹂
﹁だから今はまずオレをだな。幸せにさせるんだ﹂
ワイバーン狩りで見せた頼もしさはどこへやら、鱗裂きとは思え
ない様なセコい口上を口にしたニシカさんにオレはあきれて、ぶど
う酒の瓶を差し出した。
﹁もういいです。後はニシカさんが呑んでくださいよ。俺はもう喉
を潤したんで﹂
﹁いいのか? 本当にいいのか?! あっ後で返せとか言ってもも
うオレのもんだからなっ﹂
﹁言わないですよ。そのかわり後日、得を取ります﹂
ニシカさんは大変嬉しそうに瓶を受け取ると、ひといきにグビグ
ビ煽った。
クックック、今度何してもらおうかな。
﹁うまい!﹂
203
﹁この女は赤鼻のニシカなんてふたつ名があってな、酒が好物なん
だ﹂
﹁その様ですね。それにしても赤鼻のニシカか。鱗裂きよりそっち
の方がぴったりですね﹂
﹁しかも酒にだらしない。あまり呑ませるなよ﹂
さて、俺たちはお仕事にとりかかりましょうかね。
冒険者ギルドに行き、腕利きの猟師とか紹介してもらわないとい
けない。
﹁おい、冒険者ギルドには酒場があると聞いたぞ! ギムルそこで
呑もうぜ!﹂
赤鼻のニシカ駄目だこれ⋮⋮
◆
冒険者ギルドという場所は、はじめ俺の頭の中で西部劇の酒場風
のイメージがあったのだが、半分あたっている様で半分間違ってい
た。
銀行の窓口みたいな場所だ。
なんでも、もともと冒険者ギルドの出発点は、職業案内所だった
そうだ。
日銭暮らしをしている無頼の傭兵や冒険者たち、はたまた雇われ
人足や猟師たちの集まる場所だったのだ。
建物の造りは西部劇の酒場か娼館みたいな風になっているんだが、
壁とその他にパーテーションがあって、そこにところ狭しと掲示板
が張り出されている。
カウンターはモンスターをハントするゲームの様に受付嬢がいる
204
わけではなく、どちらかというと商人風の口の立つ男性が多い様だ
った。
このカウンターと別に、相談員みたいなのが座っている場所があ
って、そこにも人間が何人かいる。
もっと村にやってきたバイキングみたいな冒険者どもがひしめき
あっている場所を想像したのに、普通の民間人の老若男女も結構あ
つまっていた。
なるほど冒険者ギルドとして機能しながらも、かつての職業案内
所としても引き続き機能しているのか。
﹁酒場はどこにあるんだ。酒の臭いがしないぞ?﹂
キョロキョロと辺りを見回しているニシカさんを無視して、俺た
ちは予定を詰めた。
﹁これから俺は相談員のところに事情を話しに行く。しばらく時間
がかかるから、隣でニシカの相手をしているといい﹂
﹁事情というと、猟師と開拓団の話をですか。どっちかと言うと俺
もそっちの方が気になるんですよねえ﹂
﹁しかし赤鼻をひとりにもさせられないだろう﹂
﹁おい、酒場に行くのか? なぁ少しだけでいい、呑んでもいいだ
ろう? なあ﹂
﹁確かにそうですね。赤鼻さん行きますよ、場所は隣の建物でした
ね?﹂
俺の腕をグイグイ引っ張るニシカさんを連れて、ギムルと別れた。
﹁おい知ってるかシューター、街ではビールが飲めるらしいぞ。村
ではぶどう酒と芋酒ばかりだからな。オレはいい酒が飲みたいぞ﹂
﹁一杯だけですよ? 俺だって金の使い道は決まっているんだから﹂
205
皮の巾着袋をジャリンと言わせて、しなをつくって上目遣いをし
てくるニシカさんをけん制した。
﹁わ、わかってるって。噂のビールを、一杯だけな。あと何かツマ
ミがあればオレはそれで満足だ﹂
﹁へいへいわかりました。その代わり今度、風の魔法も教えてくだ
さいよ。さっきの貸しとは別にです﹂
﹁いいだろう。お前が使いこなせるならな﹂
本当は村長の命令で、新しく猟師たちのリーダーになり忙しくな
ったッワクワクゴロさんに代わって、ニシカさんが俺の教育係にな
っているのを俺は知っていた。
こんなビール一杯で取引をしなくたって、本当は当然の権利とし
て狩猟技術を教えてもらえるはずなのだが、ここは人と人の関係で
ある。
という訳でギルドに隣接する建物に来ると、カウンターで代金を
払い酒と味の濃い干し肉を受け取った。
俺たちはそのまま丸太を加工して作ったテーブルと椅子に座る。
不味い。
ビールはぬるくて不味かった。
不純物も多く、何だか濁っているのもいただけない。
ジョッキは樽と金具でこさえた、いかにもドイツかどこか風の雰
囲気のあるものなのだが、そもそも俺はラガービールで育ったのだ。
あるいは贅沢をする時にベルギービールを飲んだりするのが楽し
みだった。
しかしこれは、よくわからない発泡した麦酒にサクランボを付け
込んだ謎のドリンコだ。
206
﹁いいじゃねえか。このビールってのは芋とぶどう以外の味がつい
てるぞ!﹂
﹁そうですかよかったですね。俺のも呑みますか?﹂
﹁マジかよ。じゃあありがたくもらおうか﹂
遠慮の欠片も無いニシカさんにビールを差し出して、俺は味の濃
い干し肉をぼそぼそと噛んだ。
ビーフジャーキーを期待したが、こっちもスルメみたいな味でが
っかりだ。
悲しくなった俺は、ニシカさんがテーブルに置いた水筒の水を飲
んで噴き出した。
﹁焼酎だコレ!﹂
さすが赤鼻ニシカ。侮れないぜ。
しばらくすると。
しかめ面したギムルが、自分のジョッキを持って俺たちのところ
に合流してきた。
﹁要件は済みましたか?﹂
﹁ああ、欲しい人員の募集を貼りだしてもらう様に手配した﹂
﹁それは何よりですね。これで村に戻るんですか?﹂
﹁そうしたいのだが、このまま村の開拓を本格的にやっていくのな
ら、村にもギルドの出張所を置くべきではないかと言われた﹂
﹁冒険者ギルドの、ですか﹂
﹁そうだ。毎回街に人を派遣してもらうより、何人か常駐の冒険者
を置く方が都合がいいというのだ。例のワイバーンの事もあるしな﹂
ぐびぐびとビールを煽ってい泡を服の袖でふいたギムルを見て、
207
俺は返事をした。
俺の隣のニシカさんは、相変わらずビールを﹁うまい、うまい﹂
と言って飲んでいるので無視をする。
﹁今後も開拓を続けると、ワイバーンと遭遇する機会が増えるかも
しれませんしね。ユルドラさんでしたか、妻の父親の事もあります
し﹂
これは飲んだくれのニシカさんが以前言っていた事だったか。開
拓が進んで獲物がバッティングする様になったワイバーンと人間が、
こうしてたびたび遭遇しているのだと。
﹁そうだ。そこでお前の出番だ﹂
﹁?﹂
﹁村の基盤となる敷地と開墾は、すでに三〇年をかけて義母上と死
んだ親父が成し遂げた。後は開拓を推し進めるために移民を募る必
要があり、移民を護衛するためには冒険者はやはり村に欲しい。だ
が誰でもいいという訳ではない﹂
﹁すると俺が冒険者になるという訳ですかね?﹂
﹁それもいいだろう、村長が許すならばな。だがそれよりも、お前
の戦士の腕を見込んで、何人か面接をしてもらいたい﹂
﹁はあ﹂
﹁ようは試合の相手をすればいい﹂
﹁え? 俺がですか?﹂
俺は素っ頓狂な声を出した。
ニシカさんは隣で干し肉をかじっていた。
◆
208
俺は今、天秤棒をもって立っている。
﹁おう、いつでもかかってこいや﹂
そして目の前にはバイキングの様なヒゲ面の中年がいる。
上半身裸だが、ムキムキである。アメリカのプロレスラーみたい
な体型だった。
まさかり
ここはギルドの裏にある練兵場、俺は猟師スタイルで武器は天秤
棒。
相手は鉞だ。
ちょっと武器が違いすぎやしませんかね?
天秤棒じゃバキっと折れてしまいませんかね?
﹁よし、シューターよ。軽く相手をしてやれ!﹂
お前ギムル他人事だと思って適当こいてんじゃねえよ! お前が
やれよ!
ニシカさんはビールジョッキを片手に﹁うまい、うまい﹂と言っ
ていた⋮⋮
助けてよ!
209
19 やはり俺が着衣するのは間違っている
﹁どういう事ですか試合って﹂
﹁言葉通り、お前が軽く揉んでやって相手の腕前を確認してくれれ
ばいい。簡単な仕事だ﹂
ビールをグビリとひと口含んだギムルに向かって、俺は抗議した。
揉んでくれとか簡単な事を言ってくれるじゃないの! 相手は冒
険者なんだろ?
﹁いいですか、俺は妻の胸もまだ揉んだ事が無いんですよ! 荒く
れどもの冒険者の相手だなんて冗談じゃない。揉むどころか揉まれ
て死にますよ。ニシカさんも何とか言ってくださいよ!﹂
﹁お、お願いされてもオレの胸は揉ませないからなっ!﹂
酔った赤鼻のニシカさんはおかしなことを言っていた。
﹁何をビビる事があるか。お前は以前、天秤棒で俺を倒したことが
あっただろう。あれと同じことをやればいい。面接では全力で志願
者が襲い掛かってくるから、それを倒せばいいのだ﹂
﹁全力の相手に天秤棒なのかよ。他の武器はないのかよ﹂
﹁心配するな。相手が怪我をしても、新鮮なうちはギルドの司祭が
治療して来るからな﹂
こいつ意趣返しのつもりか。
以前俺がボコった事を根に持ってるんじゃねえだろな?!
俺が不信感いっぱいの視線をギムルに送ると、筋骨隆々の肩をゆ
210
すってギムルが白い歯を見せた。
﹁お前は強い。我が村一番の優秀な戦士だからな、期待している﹂
その白い歯の意味はどっちだよ?! 恨みか? 期待か?!
◆
﹁お前から来ねぇなら、こっちから行くぞ。おらぁ!﹂
まさかり
上半身裸の男が鉞をぐいんと頭上で山をきって、咆えた。
でかい、この男やはりアメリカのプロレスラーみたいな体格だ。
身長は一九〇センチは間違いなくあるんじゃないだろうかという巨
漢で、のっそりとした動きで攻め立ててきた。
冗談じゃない!
むかし俺はある空手団体の強化選手のスパーリングパートナー兼
トレーナーをやっていた事がある。
強化選手と言えば全国大会でも優秀な成績を残せる猛者だが、そ
んなのを相手に朝から晩まで練習に付き合わされたのはとてもいい
迷惑だった。
何しろ俺は県大会三位どまりの雑魚だからな、しかも型の方が専
門だ。
しかし型が得意であるという事は自分自身の所作が基本に忠実で
あり、裏返せば選手の動きをしっかりと指摘できる。
確かに俺が村のために常駐させる冒険者選びを任されたのは正し
い適材適所なんだろう。
だが、痛いのは誰だっていやだ。
強化選手のスパーリングパートナーをやっていた頃、俺は打ち身
や筋肉痛に耐えかねて、象やサイとか大型草食哺乳類に使うという
211
動物用軟膏が手放せなかったものだ。
大型動物用軟膏だぞ?!
と、警戒していたが拍子抜けだった。
鉞はもちろん、本物の武器である。
半裸冒険者はタッパもあり、筋力も優れていた。それを最大限に
生かす武器として鉞はよく考えられた獲物だと言えるだろう。
格闘技や武道が大好きで、さまざまな経験をしていた俺が応用が
利く棒術に頼るのと似ているだろう。
ただしこの半裸冒険者は普段めっぽう力任せの戦い方をしている
と見えて、やや動きが粗雑で、腰の落とし具合も緩慢だ。
冷静になれば最初の初撃は避けられた。
﹁殺す気か!﹂
それでもあたれば腕一本ぐらいバッサリやられかねないので、こ
ちらも必死だ。
怯えが出るとこちらも一気に動きが硬くなるので、自分に俺は大
丈夫だと言い聞かせながら一歩踏み込んで戦う事にした。
鉞は、言わば棒の柄の先端に斧刃がついているロングリーチの武
器だ。
相手の懐に入ってしまえば、先端の重みで一撃を決めるタイプの
あの武器は威力半減である。
足払いで転ばすのもいい。
そんな事を考えながら、俺は無意識に体を動かしていた。
むかし取った杵柄というやつで、何度も練習した動きは簡単に体
から抜け落ちないらしい。
袈裟にぶるんと振り回されると、一歩下がりながら天秤棒で払い、
前に踏み込み返す。
212
相手が胴薙ぎにもう一撃かまそうとするところを、棒の柄で脇腹
を突く。
痛かろう。﹁ぬおっ﹂とか悲鳴を上げた冒険者に、俺はそのまま
体重を乗せて押し込んでやった。
冒険者は転がった。
﹁やったなシューター! お前、さすが戦士だけあって強いじゃね
えか!﹂
まるで他人事、ビールジョッキを天に突き上げて喜ぶ赤鼻ニシカ
さんを無視して、俺は冒険者を助け起こした。
﹁いつつっ、すまん助かる﹂
﹁あんたもなかなか剛腕だったな。もう少し足腰を鍛えると縦深の
戦い方が楽になるぞ﹂
﹁そうか。足腰か﹂
﹁足腰は武器を扱う基本だからな﹂
そんな短いやり取りを半裸の巨漢と交わして、握手した。
こんなタイプの男はたぶんゴロゴロいるだろうから、採用するか
は保留だ。
ちょっと面接官をやるのが楽しくなってきた俺は、ギムルと目く
ばせして﹁これでいいか?﹂と確認の視線を送った。
﹁次は女だ。細剣の使い手だが、お前はそのまま天秤棒でいくのか﹂
﹁マジかよ女かよ。いや、腰の短剣でお願いします﹂
でっかい半裸中年冒険者にかわって、今度は女だ。
村に現れた冒険者がバイキング仕様だったので、女冒険者は珍し
いのかと思っていたが。
213
うん。ヴィーナスやヴァルキリーという言葉で想像できる女性像
を期待してはいけないな。
アマゾン。アマゾネス。いやカマゾネス?!
痩せてはいるが短髪で、男みたいな体格だ。顔も男だ。
よく見たらヒゲが生えているんじゃないかと疑ってしまう様なオ
トコマエだ。そのおっぱいは大胸筋プロテクトと呼ぶべきだ!
﹁あんたを倒せばあたしは採用なのかい?﹂
﹁お手柔らかにお願いします﹂
﹁フン、あたしに勝とうなんて思っているのか。十年早いよ!﹂
言葉とともに切りかかって来るカマゾンさんの一撃は鋭かった。
やばい。
突きを主体として足さばきも軽やかに。攻守の連係ができている。
俺はあわてて縦深の攻撃に対応する様に体裁きの動きを心がけた。
円だ。相手が来たら、相手の斜め前に出る。
これで逃げ切るぞ!
と思っていたら、チョッキの前を細剣が走り抜けた。
﹁どうした。攻めてこないのかい?﹂
﹁ひい。このひと殺す気マンマンなんですけど?﹂
﹁逃げ続けるなら服をズタズタにしてやるよ!﹂
﹁冗談じゃねえ!﹂
メスゴリラはその体格に似あわない細い剣で、今度は確実に喉元
を狙ってくる、と見せかけてフェイントだ。
今度は脇腹あたりに剣先を差し込んできた。
俺は咄嗟に短剣で払ったが、大事な狐毛の腰巻きのファーが数十
本切り取られた。
214
やめろ! やめてくれ! また服が台無しになってしまう。俺の一張羅だぞ!
﹁待った、タンマ、ストップストップ!!﹂
﹁どうした降参かい? 案外あっさり負けを認めたね﹂
﹁違うんです。ちょっとタイムです。まず服を脱ぎます。それから
次に俺も本気を出します!﹂
あわてて両手を広げてオトコマエな姉さんの動きを封じると、チ
ョッキと腰巻きを外した。
愛妻に縫ってもらったヒモパンは絶対に失わせない。
せっかくのヒモパンが台無しになったら、妻に合わせる顔が無い
じゃないか。
﹁よしこれでいい﹂
脱いだ服を丸めてニシカさんに渡すと、酔っているのか鼻先だけ
でなく頬まで赤くなった彼女が驚いた顔をしていた。
﹁早く受け取ってくださいよニシカさん。相手を待たせてるんです﹂
﹁え、だってでも。何でパンツをオレに渡すんだ。脱ぎたてだぞこ
れっ﹂
﹁いいからはやく﹂
俺は身軽になったその姿で、首に紅スカーフと短剣一本という出
で立ちで改めて勝負を再開した。
﹁お待たせしました。さあ、いつでもどこからでもかかってきなさ
い!﹂
﹁キャァー変態!!﹂
215
都会の女冒険者は案外ウブらしい。
◆
という具合に冒険者を相手にし終わった。
宿屋に帰る道すがら。
ギムルと相談しながら誰を選ぶのか、あるいはもっと他を探すの
か話し合った。
﹁冒険者に求められる基準か?﹂
﹁そうです。ただ強いだけなら、たぶんあのカマゾン⋮⋮いえメス
ゴリ⋮⋮お名前何でしたっけ﹂
﹁エレクトラだ﹂
﹁そう、あの細剣の遣い手のエレクトラさんが一番だと思うわけで
すよ﹂
ただ腕っぷしがあるとか、対人戦に優れているとかだけじゃ駄目
なんじゃないかと思う。むしろ冒険者には村周辺のモンスターの相
手もしてもらわなくちゃいけない。
﹁そういう意味では問題を起こさない人間を雇い入れるのがいいな﹂
﹁けどよぅ、冒険者ってのはどいつもこいつも荒くれ者なんだろ?﹂
﹁確かにそうだ。贅沢は言えない﹂
ギムルとニシカさんが言い合う。
冒険者はやっぱり荒くれぞろいだよな。確かに贅沢は言えない。
﹁まあ、あの二人は面接をした後の態度も悪いものではなかったで
すよ﹂
216
﹁うむ。エレクトラはそれどころではなかったが﹂
喜びの唄亭の前に到着する。
﹁では明日、採用の話をあの二人に告げよう。後は引き続きもう少
しだけ使えそうな人間をあたってくれ﹂
﹁わかりました。俺たちいつまで街で過ごすんですかね。帰るなら
妻にお土産を買いたいんですよ﹂
﹁そうだな! まだブルカに来て一日だし、オレ様もまだ街の観光
を十分に堪能してないぞ﹂
ニシカさんが名残惜しそうに言った。
﹁俺は冒険者ふたりと先に村にもどる。お前はこの街にしばらく残
れ﹂
﹁え?﹂
﹁さっきも言ったが、冒険者を探すのに専念しろ。猟師と開拓移民
については、すぐに集まるものではないのでこのまま冒険者ギルド
で募集をかけてもらう。だが、よそ者を招き入れるのは慎重でなけ
ればならない。お前の眼で、できるだけ村でやっていけそうな人間
を見定めてくれ﹂
﹁え、ええそれはもう﹂
﹁猟師と開拓団については進捗があれば、伝書鳩を使え。冒険者ギ
ルドに鳩舎がある﹂
﹁わかりました⋮⋮けど、ギムルさんの護衛はどうすれば?﹂
﹁これから雇う冒険者がいるだろう。護衛は問題ない﹂
そう言ってギムルさんが皮の巾着袋を俺に出した。
ずっしりと重い。
中を見ればさすがに金貨というわけではなかったが、修道なんと
217
か銀貨と呼ばれていたものと、また別の銀貨、銅貨が詰まっていた。
﹁滞在の駄賃だ。足りない分は自弁で何とか稼げ。ここで仕事をこ
なせば、村長から別の報酬が出るだろう﹂
﹁いいんですかこんなに﹂
﹁逃げるなよ。逃げれば追ってをかける﹂
﹁⋮⋮しませんよ、そんな事﹂
俺は脳裏に、おっさんに逃げる計画を持ちかけられたことを思い
出してぞっとした。
ギムルが頭の上で腕を組んでいたニシカさんを見やった。腕を持
ち上げると、胸が天を突いておるわ。
でかい迫真。
﹁赤鼻、お前はどうするつもりだ?﹂
﹁しばらくブルカを観光して堪能したら、集落に帰るぜ﹂
﹁金はどうするんだ?﹂
﹁シューターが持ってるだろ?﹂
﹁これは俺のですから⋮⋮﹂
ニシカさん、今後も俺にたかるつもりだったのかよ!
﹁お前は自弁で何とかしろ﹂
﹁えー何でだよ! 差別だろ絶対! 何でシューターだけいいんだ
よ?!﹂
﹁駄目だ。これは公金だ﹂
ニシカさんはとても悲しい顔をして、宿の相部屋へと戻って行っ
た。
悲し顔したって、絶対同情しないんだからなっ。酒は奢ってやら
218
ないんだからな!
219
20 俺は裸と裸のお付き合いをする
宿屋、喜びの唄亭に戻った俺たちは、それぞれの部屋にもどった。
ギムルは四畳半ほどだがちゃんとしたシングルの部屋。木でこし
らえたベッドに、机と椅子がちゃんとあるまともなビジネスクラス。
俺たちの部屋は三畳一間に釣り床二段ベッドだ。机と椅子なんて
豪華なものは無くて、部屋の中には灯りもない。
唯一部屋に光源をもたらしてくれる窓は、まだまだ宵の口とばか
り人々の往来と喧噪を風に乗せてもたらす。道沿いの灯りがわずか
に俺たちの足元を照らしてくれた。
﹁どっちにする。オレは断然上がいいぜ!﹂
﹁どっちでもいいですけどね。俺は下がいいかな﹂
何の話かと言えば、上下段どちらで自分が寝るのかである。
むかし俺がとある料理屋の住み込みをしていた頃の話だが、先輩
料理人は必ず二段、三段ベッドの下を使っていた。
寝ぼけている時に、小さなはしごの上り下りはとても面倒くさか
ったからだ。必ず悪酔いする人間が出て来て、ベッドに登れないや
つが現れる。
先輩たちはそういう事を経験的に心得ているから、新しい部屋割
りになるとすぐに下の段を希望する。あるいはベテランの料理人が
抜けると、ベッドの下段にお引越しをするわけである。
ところでこの喜びの唄亭の二段ベッドには、はしごが無かった。
とても不親切だが、もし選べば自力でこの上に登らなければなら
ないわけである。呑むなら下の段の方が楽なんだよね⋮⋮
220
﹁じゃあオレ様が上だ! シューターはオレ様に見下ろされながら
生活をするわけだぜ。あっはっは﹂
﹁馬鹿となんとかは高いところが好きなんて言葉が、俺の故郷にあ
ります﹂
﹁ばっ馬鹿となんとかって何だよ!﹂
﹁阿呆だったかな? 間抜けだったかな?﹂
﹁なんだテメェ、オレを今馬鹿にしたな? オレはサルワタ一番の
飛龍殺しだぞ! オレの二つ名を言ってみろ!﹂
﹁赤鼻かな?﹂
﹁キーッ!!!﹂
そう返事した俺にとても怒ったニシカさんがぽこぽこ拳を振り回
すのを無視して、俺はぬるま湯の入ったオケを廊下から持ち込んだ。
﹁何だお前、何で服を脱ぐ﹂
﹁体をふくんです﹂
受付カウンターにいたゴブリンの番台さんに、代金を払って湯を
購入したのだ。
清潔な布とへちまのたわし、そして湯は体を綺麗にするためのセ
ットである。
ニシカさんが落ち着くまで相手にしていたら、せっかくのお湯が
もったいない。そう思って俺はさっさと服を脱ぎだした。
普段から村では全裸だったので、今さら見られたってどうってこ
とはない。
ついでにニシカさんを軽くからかってやるつもりだったのだ。
﹁そうだな、湯が冷めないうちに体を洗わないと風邪ひくもんな﹂
﹁え? ええええ?﹂
221
ところが同時にニシカさんまで脱ぎだした。
チョッキを脱いで釣り床に放り投げると、革のホットパンツに手
をかけ、そしてブラウスのボタンを外す。
よく見るとブラウスのボタンは小さな獣の牙を削り出したものら
しくおしゃれだった。
ブラウスのボタンを外し終わったところで、ぴたりと手を止めた。
お、先にパンツを脱ぐか。重畳。
ヒモパンはこのファンタジー世界では標準装備なのかと思ってい
ると、最後にブラウスを脱いだ。
ぶるりん。
裸と裸のお付き合い。
そんなわきゃねえ!
﹁おい、背中を流してやるから座れ﹂
﹁えーでも俺。妻を村に残している身分ですので﹂
﹁だから小奇麗にしとけって言ってるんだよ。おう、帰る前に街で
服を買うといいぞ﹂
﹁そうですね。妻への土産と自分の服と、って。やばくないですか
ね﹂
﹁いいから座れ! 湯が冷めちまう﹂
椅子も無い狭い部屋なので、桶のふちに腰を下ろした。
ケツに食い込むが少々のガマン。
前髪をピンか何かでとめる様にして腕を上げたニシカさんのわき
が見えた。わき毛だ。異世界人はわき毛を処理しないらしい。
俺は新しいフェチに芽生えそうになった。
﹁前は自分で洗えよ﹂
222
﹁わ、わかっています﹂
湯をしぼったへちまのたわしをひとつ、ニシカさんがよこした。
そして俺の背中にニシカさんのたわしが這う。
﹁あの、あんまり優しく撫でられると気持ちよくなってしまうんで
すけど﹂
﹁体を洗ってさっぱり気持ちよくなるのは当たり前だろうが。こそ
ばゆいなら我慢しろよー﹂
﹁同じところを何度もやるのは、なんでなんでしょうね﹂
﹁しっかり垢を落とすためだよバッカ。しかしシューター、お前無
駄に背中デカいな﹂
﹁男ですからね。男の背中はデカいもんです﹂
この部屋は暗いからいい。
暗くなければもっと俺は興奮したかもしれない。いや、暗いので
余計に今興奮しているのかもしれない。
しかしこれはこの世界で普通の事なのだろうか。
俺は恥ずかしながら大人になってこのかた、浅い関係の女性と一
つ屋根の下で過ごしたことはない。
つまり浅い関係の異性と浅からぬ中になった事が無いわけだ。
遊びダメ絶対、といよりも遊ぶ金モッタイナイ。
フリーターはお金に余裕が無いのでこれはしょうがないのだ。
﹁よし交代だ。今度はお前がオレの背中を洗っておくれよ﹂
﹁え、いいんですかね。俺頑張っちゃいますよ?﹂
﹁当たり前だろ、ギブアンドテイクだぜ。やれよな﹂
振り返りざま。暗がりの中でニシカさんの暴力的な胸が見えた。
暗いのが憎たらしかった。
223
﹁俺、何やってるんでしょうね。妻の柔肌にも触れたことが無いの
に、ニシカさんの背中流してるんですよ﹂
たっと
﹁こんぐらい普通だろ。別にやましい事やってるわけじゃねえし、
お前なんか全裸を貴ぶ部族出身のくせに﹂
﹁ご、誤解ですよ。裸は女性に限るのです!﹂
最後に足を湯につけて、よくほぐしながら洗う。
そんな事をやっていると、ドンドン、と宿部屋のドアを叩く音が
して、勝手にドアが解放された。
ちょっと待って俺たち今全裸なんですよ特にニシカさん全裸!
プライバシーもへったくれもない異世界人は誰だとあわてて視線
を送ると、犯人はギムルだった。
﹁ぎ、ギムルさん?!﹂
﹁おう。シューターお前に話がある﹂
﹁ようギムルの旦那。オレたちゃ風呂の最中だからちょっと待って
くれ﹂
﹁わかった。後で俺の部屋に来い﹂
ギィバタン。
何もおかしいことはないという風にギムルは去って行った。
﹁へ、変な誤解とかされてないでしょうね。俺には新妻がいるんで
す﹂
﹁何か問題があるのか?﹂
﹁問題があったら問題なんですよ!﹂
俺はとても恥かしい気分になって桶から飛び出すと服を着た。
224
225
21 青年ギムルと少し打ち解けた気がします
青年ギムルの部屋を訪ねる。
時計のない生活を続けているので時刻は定かではないが、体感的
には陽が落ちて一、二時間というところだから、春なら八時頃だろ
うか。
ドアをノックして﹁入れ﹂という言葉を聞いてから、中に入る。
﹁失礼します﹂
﹁待っていたぞ﹂
﹁先ほどは恥ずかしいところをお見せして⋮⋮﹂
﹁全裸のお前でも恥ずかしがる事があるんだな。驚いた﹂
﹁ちょっとやましい気持ちがあったから、ですねえ﹂
俺はテレテレしながらドアを閉める。
青年ギムルは筋骨隆々の体を縮こめて、安っぽい机に向かってい
た。手元には蝋燭と紙。
﹁冒険者ギルドに提出する書類を書いていた﹂
﹁遅くまで大変ですね。おふたりを受け入れる件ですか?﹂
﹁違う。それは口頭でいい。まあ座れ﹂
寝台を指示したギムルに従って俺は腰を下ろした。
﹁お前をギルド会員に推薦する書状だ﹂
﹁⋮⋮あれ、村長さまのご許可を頂いてからという話だったんじゃ
226
?﹂
﹁お前が残るなら、日銭を稼ぐ必要がある。それにお前も冒険者を
経験しながら人集めをした方がいいんじゃないか。義母上には俺か
ら言っておくので安心しろ﹂
﹁なるほど、お気づかいありがとうございます﹂
﹁書状は、ギルドには俺たちの村出身のコミュニティーもあるので、
ギルドとそこへの顔つなぎだ﹂
青年ギムルは俺に紙面を寄越した。ここはファンタジー世界なの
で羊皮紙を期待したところだが、再生紙みたいな出来の悪い麻紙だ
った。いや再生紙よりも程度が悪いな。
モノの本によれば、エジプトのパピルスは非常に手間のかかる工
程を踏むので、あまり量産には向かなかったらしい。してみると、
これは別の技術で作られているのだろうか。
ところで俺には、見せられた紙面の文字が、
﹁読めません。何と書いてあるんですか?﹂
﹁サルワタの開拓村で猟師をしているシューターという男と、ニシ
カという女をよろしく頼むと書いてある。ふたりは出稼ぎに来てい
るのでしばらく街に滞在する費用を稼ぐ必要があるとな。それから
俺の代理人である旨も書いてあるので、悪さはしないように﹂
﹁も、もちろんです。ギムルさんにご迷惑はおかけしない様にしま
す﹂
俺はあわてて苦笑いした。
﹁それで、もしよろしければなのですが。妻に伝言をお願いしたい
のです﹂
﹁ん、何だ言ってみろ﹂
227
﹁妻はその、字は読めないでしょうか﹂
﹁お前の嫁なのにそんな事も知らないのか。読めないだろう﹂
﹁何しろ新妻ですので⋮⋮﹂
﹁チッ、夫婦そろって無学め﹂
もじもじしながら俺が返事をすると、ギムルは悪態をついて新し
く小さな紙を用意した。インク壺に羽根ペンを付けて俺に向き直る。
﹁言え。俺が代筆してやる﹂
﹁え、でも。妻も読めないんですよね?﹂
﹁俺が代読してやる。早く言え﹂
とんだツンデレ青年である。
本当にデレて欲しいのは女子だけなんだけなんだがなぁ。
﹁前略、カサンドラはお元気ですか。こちらはよろしくやっており
ます。ブルカの街はとても大きいです。夜も灯火があちこち溢れて、
都会の雰囲気に圧倒されますが、飯はカサンドラの作ったものが一
番です。ところでギムルさんの命令で街にしばらく滞在す︱︱﹂
﹁長い。紙は貴重だ、短くまとめろ﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
﹁早くしろ﹂
所要により滞在延期となりました。早く逢いたいですがこれも役
務です。愛する妻へ
﹁こ、これでいいですか。てれてれ﹂
﹁いいだろう﹂
﹁明日、妻に土産を買いますのでそれと一緒に渡してやってくださ
い。何がいいかな?﹂
228
﹁赤鼻に聞け﹂
そう言って手紙を乾かすために放置すると、ギムルは向き直って
酒の瓶を出してきた。
﹁さて、話しがあると言ったが﹂
﹁き、聞きましょう?﹂
青年ギムルが改まった顔をするので、俺はちょっとビビった。
もしや前々から俺の事が気に入らなかったとかそんな事を言い出
すのではないか、と思ったのだ。
俺が村にやって来た頃のギムルは、俺を警戒して、確実に嫌がら
せをやっていた様な気がする。
今でも、女村長が俺に目をかけている事について、あまりいい気
分ではないのかもしれない。
何か釘を刺されるのだろうか。
﹁呑むか﹂
﹁いただきましょう﹂
﹁いつぞやぶどう酒を奪ったわびだ。遠慮なく呑め﹂
﹁ああ、あれはギムルさんの顔が潰されておあいこだったじゃない
ですか﹂
﹁それでは俺の気持ちがおさまらんからな﹂
ずいとぶどう酒の瓶を進めてきた。
ここまでされたら呑まないのも悪い。この世界のビールはまだ馴
染まないので、不味い皮かすだらけのぶどう酒の方が俺の口には合
う。
﹁俺たちの村は、荒れ放題の山野から親父と跡を継いだ義母上が三
229
〇年にわたって切り開いてきた場所だ﹂
ギムルが酒を舐める俺を見ながら突如語りだした。
﹁ええ、伺った事があります﹂
﹁何も無ければ、俺か、弟か妹が継ぐことになるだろう﹂
﹁まあそうですね。ギムルさんにはご兄弟がおられましたか﹂
うばづめ
﹁今はいないが、後日はわからぬ﹂
﹁あれ、失礼ですが村長さまは石女なのでは⋮⋮﹂
﹁義母上が言ったのか?﹂
ジロリと見られて俺は委縮した。
確か商会のゴブリンも言っていたし、この事はッワクワクゴロさ
んも知っていた事だ。
顔をそらした瞬間に、筋骨を揺さぶってギムルが面をしかめた。
﹁あの猿人間が言ったのだな。口の軽いゴブリンめ﹂
﹁も、黙秘します﹂
﹁いい。だがそれは事実ではない。もしかすると義母上は言い寄る
人間を避けるために、そういう噂を流したのだろう﹂
﹁するとギムルさんは村長さまが石女ではないと?﹂
﹁当たり前だ。もし石女ならば教会堂の助祭が治療にあたっている﹂
言葉を区切ったギムルが、自らも酒の瓶を口に運んでひと息つい
た。
﹁はっきり言う。俺はよそ者が嫌いだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁村は俺たちの家族が育て上げてきたものだ。村人は俺たちの家族
だ。よそ者はそれを、俺たちから奪おうとしている﹂
230
押し殺した声でギムルが言ったのを聞いて、俺はとても恐ろしく
なった。
何か過去の経験がそう言わせているのだろう。
﹁義母上がまだ若いというのをいい事に、周辺の領主や村長たちが、
義母上に言い寄って来たこともある。騎士と名乗って己を売り込ん
できた馬鹿者もいた。それらは俺が力づくで排除した﹂
ギムルは剣の腕こそ素人剣法だったが、この通り筋骨隆々で腕っ
ぷしは確かだ。称号だけは騎士の下手な男よりは確かに強いだろう。
﹁だから俺を警戒していたのですか﹂
﹁その点はすまん事をしたと思った。お前はただの全裸だった﹂
﹁ただの全裸でしたね。何の意図もなく林の中をさまよっていまし
たから⋮⋮﹂
﹁俺に協力しろとは言わん。義母上に協力してくれ。俺は亡き親父
と義母上を敬愛している。村の開拓は俺たちの手で成さねばならん。
誰にも、渡す気などない﹂
なるほどこの男。前々から思っていた様に相当のマザコンだった。
まあ美人で切れ者の義母上だ。歳も近ければお姉さんとしての憧
れも相当だろう。
そして俺に協力しろかぁ。
俺にできる事なんて、たぶん猟師ぐらいじゃないのかな。あと空
手の指導ができます。
妙に熱い視線を送って来るギムルに俺がきょどきょどしていると、
﹁バッカそれじゃまず、お前が嫁さんもらって義母ちゃんを安心さ
せることだな。孫ができたら村も安泰だぜ﹂
231
突然ドアが開いて、赤鼻もとい鱗裂きのニシカが入って来た。今
は黄ばんだブラウスにヒモパン一枚だけのラフな格好である。
﹁と、突然何を言い出すのだ。貴様はどうしてここに来た。これは
男同士の話しだ!﹂
﹁お前ケチケチしすぎなんだよ普段から。よぉシューター、これ豚
鼠の団子な、下の食堂でもらってきてやったぜ。あとビールだ!﹂
その金は誰が払うんだ。もしかしてツケか。俺のサイフをちょろ
まかしたのか?!
乱入して来たニシカさんは団子とビールの小樽をかかえてドカリ
と寝台に座ると、
﹁なんでオレだけノケもんなんだよ。酒呑むなら誘えよなぁ!﹂
﹁赤鼻さん酒の匂いには敏感ですね﹂
﹁お前はお呼びではない。帰れ﹂
﹁うるせぇ! 男はみみっちい事をうだうだ言うな。シューターに
わびるのか、協力してもらいてーのかしっかり決めやがれ!﹂
ニシカさんが俺にウインクひとつ飛ばして笑って見せた。
ウィンク? あれ、ニシカさんアイパッチ外してるわ。
﹁あれ、ニシカさん眼帯は?﹂
﹁あー顔洗った時についでに洗って干してきたわ。んな事はどうで
もいい﹂
﹁いいんですか⋮⋮﹂
﹁それよりこの男、義母ちゃんを他の男にとられるのが嫌なんだぜ。
笑っちゃうな!﹂
232
とても嫌そうな顔をしたギムルをニシカさんが茶化していた。笑
うたびに、ぼよよん揺れよるわ。やめろ、俺の肩に腕を回してくる
な!
こうしてろうそく一本で遅くまで酒を飲み、俺たちははじめての
街の夜を明かした。
233
22 愛妻に手鏡の土産を買います
このファンタジー世界に来て、俺は久しぶりに夜更かしをした。
ろうそくは貴重品で、薪もランタンの燃料も貴重品だ。だから村
の猟師小屋で生活している時には、陽が落ちるとともに夕飯を食っ
て、さっさと寝仕度をしたものだ。
それが、街で初日の夜を明かしたのは、たぶん元の世界で日付が
変わる前後頃だったはずだ。
不思議なもので、したたかに酒を飲んだはずだったがそれでも朝
は夜明けとともに目が覚める。
いや、目が覚めたのは俺だけの事だった様だ。
部屋の隅で焚かれている乾燥した草の匂いで目が覚めた。
お香なんて贅沢品ではなく、ただの除虫菊を焚いていただけであ
る。蚊取り線香の原材料で、情緒もへったくれも無い。
吊り床の下段で目を覚ました俺は、狭苦しいその場で大きく欠伸
をして、抱き枕をむにゃむにゃとやった。
むにゃ。
柔らかいそれはもうひと寝入りを誘うのに十分だったが、すぐに
も俺は覚醒した。
この狭い部屋に抱き枕なんてものはない。
果たしてそれは鱗裂きのニシカだった。ニシカさんの爆乳の片割
れだったのだ。
﹁同衾かよ!﹂
234
ひと咆えした俺は飛び起きて、転がる様に吊り床から出た。
確か俺はべろべろに酔ったニシカさんを肩に担いで連れ帰り、無
理やり上のベッドに乗せたところまでしっかり記憶がある。
ちゃんとボロボロの毛布をかけてやったところまで記憶にあるの
で間違いない。
それが、何で、ニシカさんは、下の段にいるんだ!
﹁おいシューター、酒もってこい! ふぁ⋮⋮むにゃ﹂
夢の中でも酒に溺れているニシカさんは、そんな寝言を言いなが
ら俺がのいた事でできた空きスペースに寝返りをうって、片足を吊
り床から放り出した。
よく見ると、このファンタジー世界ではおなじみの糞壺に水たま
りがあった。
ニシカさんが恐らく、トイレのために起床してここで用便した後、
俺の吊り床に潜り込んだのだろう。
ラッキースケベなシチュエーションは大いに嬉しいのだが、俺は
新妻をもらったばかりの新婚さんである。
まだ嫁とも床を共にした事が無いのに、ムラムラして間違いがあ
ってはいけないのだ。
﹁間違い、起きてないだろうな?﹂
しっかりと装着したヒモパンを確認した。
大丈夫だ、問題ない。
朝から疲れるるシチュエーションに小さくため息をつくと、俺は
吊り床に引っ掛けていたチョッキと腰巻をとって装着した。
﹁まったく、朝からびっくりするぜ。あんまり無防備だと襲うから
235
な。いつまでも我慢していられるほど枯れてないんだぜ⋮⋮﹂
﹁ふん。意気地なしの癖によくいうぜ。むにゃ⋮⋮﹂
そんな寝言に俺はドキリとした。起きてるのか?! とも思った
が、ニシカさんか口を開けて﹁くかー﹂といびきをかいている。
冗談半分、本気半分というつもりで口にしたのだが。
それにしても飛龍殺しの長耳女はだらしのない姿だった。
上段の吊り床から垂れ下がる洗濯したアイパッチ数本とヒモパン。
そう言えばニシカさんは昨日、眼帯をはずしていたが酒を見て両
眼をキラキラさせていた気がする。
やっぱりファッション眼帯なのだろうか、あるいはふたつ名を名
乗るぐらいだから魔眼がどうのという中二病をこじらせているのだ
ろうかね。
馬鹿な事を考えていると、ドアがノックされた。
ギイバタン。
﹁起きていたか。冒険者ギルドに行くぞ、付いて来い﹂
いつもの貫頭衣に袖を通した青年ギムルの姿だった。
ちゃんと腰には長剣をさしていて、背中には旅荷の詰まったずた
袋が背負われている。
﹁ニシカさんまだ寝てますけど﹂
﹁この女はうるさいいので放っておけばいい、先にギルドで冒険者
に合い、街の商店で買い物をする﹂
﹁わかりました。では俺も荷物は置いて出かけますね﹂
﹁その前に連泊する事はカウンターで伝えておくといい。先に料金
の前払いだ﹂
ギムルとそんな話をしながら入口に向かい、連泊の料金を払い終
236
えると冒険者ギルドに向かった。
陽が昇ってまだ一時間と少し位しか経っていないというのに、街
の人々はすでに盛んに動き出していた。
野菜を露店に並べるもの、魚の肉を並べるもの。鶏の籠を用意す
るもの。
村では見られない光景にちょっとしたエキゾチックさを感じなが
ら、馬車を避け人ごみを回避して、ギルドへと入る。
﹁昨日、そちらの紹介で面接を行ったふたりについてだが、採用し
ようと思う。連絡はとれるか。名前はエレクトラという女と、巨漢
のダイソンだ﹂
ギムルがカウンターの受付に話を切り出していた。
その間俺は、せっかくだからギムルに書いてもらった紹介状で冒
険者登録でもしようかと思ったが、よく考えればニシカさんがいな
い。
チッ、出直すか。
﹁そのお二人でしたら、いつも午前中にこちらに顔を出しますよ。
もうじき来られるでしょうから見かけたらここで待っている様に伝
えます﹂
﹁そうしてくれ。俺たちは村に戻る前に買い物をしておきたい。市
場に出るのでしばらくしたら戻る﹂
﹁わかりました。午前中の待ち合わせという事で﹂
﹁頼む﹂
そんなやり取りを終えて、ギムルが俺に話しかけた。
﹁朝から食糧以外の土産品は手に入りますかね。妻に何か気の利い
たものを買いたいんですよね﹂
237
﹁職人も朝は早いからな、問題無いだろう﹂
冒険者ギルドを出ると、先ほどの食糧を売り出していた露店の辻
とは別の場所を通った。
こちらは小間物というのだろうか日用品や雑貨、化粧品の類を売
る通りだった様だ。
﹁お詳しいですね、ギムルさん﹂
﹁以前、義母上に土産物を求めた事がある﹂
﹁なるほど。親孝行ですなぁ。でも一番の親孝行はやはり嫁をもら
って孫の顔を見せてあげる事ですよ﹂
﹁黙れッ﹂
顔を赤くしたギムルが俯いて小さく咆えた。
フフン。
俺も孫の顔を見せていなかったから、お前さんの気持ちはよくわ
かるぜ。などとは言わなかった。
うちは上の妹が早くに結婚したおかげでそこは安泰だったしな。
ただし子供はしばらく作らない家族計画だったので、そこだけは心
配だ。共働きでしばらく貯金を作っておくといっていたか。無計画
な俺と違って、妹夫婦はとても素晴らしいぜ!
思考を巡らせていてとても悲しくなった俺は、気持ちを切り替え
るべく次々に小間物屋通りを回って行った。
そして。
﹁⋮⋮手鏡か﹂
装飾の施された可愛らしいもの、シンプルだがとても綺麗な光沢
のもの、あるいはその中間のもの。
猟師小屋には鏡は無かった。
238
まずもって鏡が必要になる生活をしていなかったが、妻もまた女
性である。
あればあるで、困るものではない。そんな事を考えながら、いく
つもの手鏡を手に取って俺は吟味をはじめた。
女性にプレゼントをするのはどれぐらいぶりだろうか。
革の巾着袋の中身を改めた俺は、売り子の娘に﹁これをください﹂
と差し出した。修道会銀貨で二枚。決して安い額ではないが、これ
くらいの贅沢は貧乏暮らしの妻にプレゼントしてもいいだろう。
うん。
﹁決まったか﹂
﹁はい。この手鏡を購入しました﹂
﹁見ていたが金は大丈夫なのか﹂
﹁そ、村長さまより頂いたお駄賃をはたけば、たぶん銀貨二枚ぶん
ぐらいになるはずです。ただ、これで俺の服を買う代金は自分で稼
がないといけませんね。滞在費も馬鹿になりませんし﹂
少し金の計算をしながら手鏡をギムルへ渡した。
べっこう柄の手鏡。少々地味ではあるが、もともとここは異世界
なので俺の感覚とこの世界の感覚は違うはずだ。
妻はあまり派手な格好をしていなかったし、例えそれが貧乏暮ら
しがゆえの事だとしても、これぐらいの方が妻には似合う気がする。
半ば無理やり女村長の命令で結婚を決めた俺たちがだ、少しずつ
信頼関係を気付いていけばいい。
ただ、おっさんの事は頭の片隅に引っかかっているが⋮⋮
◆
冒険者ギルドで新しく雇い入れるふたりの男女と合流し、馬車の
預け所に寄った俺たちは、村唯一の乗り物を引き出してブルカの城
239
門側まで向かう。
そこでギムルと挨拶をして別れる事になった。
帰りの馬車には冒険者ギルドから連れてきた鳩舎の伝書鳩が入っ
たかごが積まれている。
﹁それでは引き続き冒険者探しをよろしく頼む。何かあれば伝書鳩
を飛ばせ﹂
﹁わかりました。おふたりの冒険者さんも、ギムルさんの護衛、し
っかりお任せしますよ﹂
ギムルさんの言葉にうなずいた俺は、新しい村の仲間に頭を下げ
た。
﹁わかっているわ。あんたほど強くはないけれど、あたしは対人戦
にはちょと自信あるんだ﹂
﹁そうだな。ここから先の辺境に向かう街道ならコボルトぐらいし
かいないだろう。俺たちでも何とかなるぜ﹂
カマゾンさんと巨漢レスラーさんは笑って俺に返してくれた。
よし、後は妻にくれぐれもことづけを頼んでおけばいいか。俺、
嫁を大事にしていますアピールがしっかりできるはずだ。
﹁では、妻にくれぐれもよろしくお伝えください﹂
﹁心得た﹂
﹁真っ先に渡してくださいよね!﹂
﹁黙れ。それ以上のろけるな﹂
最後に俺の言葉を制止した青年ギムルだったが、その顔には白い
歯が浮かんでいた。
240
さて、村へと戻るギムルたちの馬車と別れた俺は、ひとまず喜び
の唄亭へ戻る事にした。
そろそろ時刻は午前九時ぐらいだろう。
通りの往来は朝にも増してごった煮状態である。
俺は混雑を避けるために、確かこの路地をギムルさんも通ってい
たなと思い出しながら、裏の細道へと入った。
こちらは夜の歓楽街という感じの場所で、午前中はほとんど人通
りも無い。
汚らしく空の酒樽が転がっていたり、捨てられた野菜くずが木箱
にたんまりと積まれていた。
時おり見かける人影も、どうやら朝まで飲んだくれていた様な景
気の良いお兄さんたちか、あるいは酌婦のお姉さんだった。多少、
治安が悪そうな気もするが、俺も一応は帯剣しているのでイザとい
う時は斬り抜けられるはず。
むかし俺は、とある治安の悪い歓楽街のストリップ劇場で支配人
代行をやっていた事があった。
劇場の支配人は基本的に週に二日の休みをもらっているが、その
彼がいない間を受け持つのが俺の役目だった。
雇われたのにはいくつか理由がある。俺自身がいろんな接客業を
バイト経験していたので安心できると思われた事と、それなりに長
い空手経験があるからだ。
いざ暴力沙汰になった時に、俺が出て行って制圧できるとでも思
って誘われたのだろう。
ひとつだけ恐ろしい体験談を口にする。
俺が支配人代理として働きだした初日の事。表の受付側で、親切
にも落とし物のサイフを拾った青年が、因縁をつけられた事である。
いかにもガラの悪そうなおっさんが﹁俺のサイフを盗みやがったな
!﹂と親切な青年を殴り飛ばしたのだ。その上、慰謝料を寄越せと
241
暴れだした。
俺の初仕事、初勤務についてたったの五分後の事である。
あんときゃあまいったぜ!
ダンサーのお姉さんは﹁ここはうちの敷地の外だから、支配人サ
ンは手を出しちゃダメ!﹂って言うし、すぐさま誰かが警察に通報
してパトカーが飛んでくるし。事情聴取をさせられて、初日から仕
事がまともにできなかった記憶がある。
とんでもない思い出だが、それも元の世界で起きた過去の出来事
だな。
うん。
などと過去を懐かしんでいたら、俺はガラの悪いおじさんたちに
肩をぶつけてしまった。
その拍子に何かの壺を落としてしまう。
チッ朝から酔っ払いどもめ。
そう思ったのは一瞬の事、俺はいつもの様に低姿勢で頭をさげる
べくペコペコした。
﹁どうもすいません。以後気を付けます﹂
﹁んだとおらぁ! 手前ぇ何してくれてるの殺すぞこらぁ!﹂
怒声を浴びせかける姿を、ペコペコしつつも視線だけは絶対に外
さない様にチンピラどもを観察する。
男は五人、態度は最悪。鎖帷子を羽織った冒険者たちだった。
ついでに間の悪い事に、男のひとりが手から取りこぼしたその壺
は割れていた。
何が入っていたのかな?
ほんの一瞬だけ壺に視線を送った事を俺は後悔した。
242
まったく挙動の察知できない素早さで、咆えた男の腕がフック気
味に俺の顎を捉えていたからである。
俺は一撃でぶっ飛ばされた。
243
章末 登場人物紹介︵前書き︶
一章に登場したキャラクターの紹介です。
244
章末 登場人物紹介
登場人物紹介
シューター
■吉田修太
異世界からやって来た三二歳のフリーター。空手経験と無数のバイ
ト遍歴がある。裸一貫で人生やりなおし。
アレクサンドロシア
■女村長
村長であり、騎士爵の称号を持つ周辺村落の支配者。ゴブリンとヒ
トの愛の子を自称する。
ぎむる
■ギムル
村長の義息子。筋骨隆々で腰に帯剣した村の幹部格だが、酔ってシ
ューターと諍いを起こし女村長に制裁された。
かさんどら
■カサンドラ
異世界からやって来たシューターに嫁がされる。無口で一七歳な彼
女は亡き猟師ユルドラの娘。
おっさん
■オッサンドラ
鍛冶職人でカサンドラとは従兄妹。自分の嫁とこの男が相思相愛で
はないかとシューターに疑われている。
っわくわくごろ
■ッワクワクゴロ
面倒見の良いヴェテランのゴブリン猟師。得意な獲物はリンクス。
245
っんなにわ
■ッンナニワ
寡黙なゴブリンの木こり。女村長の命令でこき使われている。
っさきちょ
■ッサキチョ
猟師たちのリーダー格の男。襲われた女村長とシューターを守り、
さらわれ犠牲となった。
じんたーねん
■ジンターネン
酪農家のおばさん。柴崎こうか上戸あやかでいえば神取しのぶ。尻
叩き用の棒切れを持つ。
うろこさきのにしか
■鱗裂きのニシカ
黒髪ショートの長耳猟師。ちょっと爆乳なオレ様一人称。得意な獲
物はワイバーン。
ぼうけんしゃ
■冒険者たち
街からやって来た冒険者ギルドのベテランども。全員お揃いの鎖帷
子を身に着けている。モンスターと近接戦闘する職。
用語紹介
□リンクス
サルワタの森にいるオオヤマネコ。この世界ではヒョウなみにデカ
い。
□コボルト
サルワタの森にいるジャッカル顔の猿人間
246
□キツネ
アカギツネ。毛皮はシューターの腰巻きにされる予定。
□ワイバーン
翼をもったトカゲの親戚。空の王者で大きな個体はマイクロバス並。
□サルワタの森
森の中で巨大な猿人間のハラワタが見つかった事でそう呼ばれるよ
うになった。
□狐谷まどか
作者。小説を書きます。
247
23 俺の村八分が街でも継続される訳がない 前編︵※2章表
紙あり︶
http://15507.mitemin.net/i1800
25/
<i180025|15507>
意識のトンネルを潜り抜けると、そこは異世界の牢屋だった。
﹁前にもこういう事があったな﹂
薄暗い石造りの部屋に、廊下に面して鉄格子がはまっている。
村の石塔地下にぶち込まれた時よりましなのは、手枷足枷を付け
られていないという事だろうか。
しかし全裸だ。
あいつら、俺の装備を全部奪いやがった畜生め!
いや、畜生の扱いは俺の方だ。枷こそはめられていないが、檻に
繋がれた家畜人間である。
せめて妻に土産を送った後に暴力沙汰に巻き込まれた事を感謝し
なければならない。
俺は腫れ上がった顎をさわりながら胡坐をかいた。
まずここはどこだ。
周囲を見回しても、位置情報を得られるものは何もなかった。
248
せいぜい同じような造りをした石牢が廊下に沿って対面で並んで
いる事だろう。
老人のうめき声の様なものがこの石牢長屋に時おり響いていた。
不気味だ。不気味過ぎて怖い。
鉄格子に身を乗り出して観察すると、ゴブリンが対面の石牢に居
た。汚らしい格好で寝そべっている。俺の視線に気が付いたのか顔
だけ少し持ち上げてチラリと見てきたが、それも一瞬の事だけ。す
ぐにもまた姿勢を調整したら寝入ってしまった。
何だこいつらは、奴隷か何かなのか。
しがみついていた鉄格子を離して、俺も姿勢を楽にした。
牢屋の背後には小さな蓋つきの窓があって、光が差し込んでいる。
たぶんまだ陽の明るい時間帯だ。してみると、俺はチンピラ冒険者
にボコられてから、まだ数時間しか経過していないという事だろう。
あるいはまる一日が経過してしまったのだろうか。
考えてもはじまらんと思った俺は、向かいのゴブリンを見習って
寝そべると、体力温存に励むことにした。
村で家畜小屋暮らしをしている時もそうだったが、無駄な体力を
使うと翌日の活動に支障をきたす。
飯も水もまともに支給されるとも限らないからな。
しかし、昨晩したたかに酒を呑んだのもきっと今日不覚をとった
原因のひとつかもしれない。
以後気をつけよう。
そんな事を考えてじっとしていると、金属の扉が開くような錆び
ついた音響が石牢長屋に響きわたった。
誰か来たな。
耳だけで俺はそんな事を考えながらも、相変わらずじっとしてい
る。
するとコツコツと連なる複数の足音は俺の牢屋の前で止まった様
249
である。
足音からすると三人、いや四人か。何人かつま先から足を下ろし
て歩いているところを見ると、何かの格闘技術の心得があるヤツが
いる。
冒険者含む、だな。
﹁起きろ若造。旦那、こいつ寝てやがりますぜ﹂
﹁水でもぶっかけて起こしてやれ﹂
﹁へい﹂
いらっしゃいませ。ご指名は俺かな?
そんな風に考える余裕も無く、鉄格子ごしにビシャリとバケツを
引っくり返した水に見舞われた。
野郎何しやがる! という時代劇ででも口にしそうなセリフが浮
かんだが、俺はそれでもだんまりを決め込んでじっとしていた。
不意打ちを食らったとはいえ、朝に一方的にやられたのが癪にさ
わったのだ。
じっとしていれば牢の鍵を開けて、俺を起こすなり引っ張り出そ
うとするなり中に誰かが入ってくるはずだ。
﹁どうします、こいつピクリとも動きませんぜ﹂
﹁引っ張り出せ!﹂
男の質問と同時にガチャガチャと錠前をいじる音がして、ギイと
鉄格子のドアが開いた。
気配が近づく。つま先から足を下ろしたな。こいつは冒険者だ。
そして俺の腕を掴んだ。
﹁さっさと起きやがれ!﹂
250
その瞬間、強烈な蹴りが尻にぶつけられるが、それと引き換えに
俺は相手の腕を掴み返してやった。
尻などは多少蹴られたところで痛いだけでどうにでもなる。
だから俺はぐっと力を入れて、男が抵抗して腰だめになったの確
認したらぐいと腕を引き込んで立ち上がってやった。
そのまま頭突きを相手の顎に入れてやる。
﹁ぐお、手前ぇ!﹂
﹁おらどうした、お返しだよ!﹂
ガツンと一発脳天に相手の顎が刺さったが、今は復讐する気まん
まんで痛みは我慢できた。
そのまま横蹴りで檻の外側まで冒険者らしい男を蹴り飛ばしてや
る。
連中の仲間だろうか視界に三人の男たちが見えた。
高価そうな赤のベストを着た男と、鎖帷子の冒険者が二人。彼ら
のうち冒険者のひとりが蹴飛ばされた男を抱き留めてくれる。
目の前の蹴飛ばしてやった男は見覚えがあった。
﹁おう、あんた。さっき俺の顎を殴ったヤツだな﹂
﹁てっ手前、殺してやる!﹂
﹁何だ、さっきは拳ひとつで殴り掛かったくせに、今度は剣とは物
騒だな﹂
蹴られた男はやや痩せたスキンヘッドの男だ。
香港映画のスターみたいな筋肉をしてやがるが、こいつは俊敏な
ボクサータイプなのだろうか。
ちょっとやっかいだ。
﹁ヌプチャカーンさま。こいつぶっ殺してやりまさぁ﹂
251
﹁待て、こいつには話があるんだぞ。それに大切な商品だからな﹂
﹁へへっじゃあ半殺しで勘弁してやる。覚悟はできたか﹂
丸坊主ボクサーが啖呵を切ったが、さてどう処理する。
むかし俺は護身術の稽古に通っていたことがあるから、型だけな
らナイフ裁きは理解できるが。
﹁いいぜ。俺は丸裸だ。服なんか捨ててかかって来やがれ!﹂
俺が考えなしに余計な事を言うと﹁上等だおら!﹂などと安いセ
リフを飛ばして剣を放り投げ鎖帷子をご丁寧に脱ぎ捨てると、殴り
掛かって来やがった。
逆上している。動きが緩慢だ馬鹿。
こんなところで長く暴れてもいい事は何もないので、相手の心臓
をかき乱してやる。
相手は俺を最初に倒した時と同じ、振り込む様なフックの一撃。
一発もらうのは覚悟して、俺はみぞおちの上にある胸骨の中央下
を一撃だけ拳を差し込んでやる事にした。
これで相手は動悸が著しく乱れる事になるだろう。しばらくまと
もに運動もできない。
へへ、ざまぁ。
ドンッと丸坊主野郎の胸骨下部を打ち抜くと、ほぼ同時にフック
が俺の後頭部をかすめた。
どうやら俺の方が一歩前に踏み込めていたらしく、間一髪で一撃
をもらわなくて済んだ。
代わりに倒れた丸坊主と入れ違いに二人の冒険者たちが牢屋に飛
び込んできた。
当たり前だが俺はあっけなく制圧された。
空手家は一対一、冒険者は多数対一が基本だもんな。
252
数発ボコられて軽く抵抗したものの、高貴そうな服を着たおっさ
んの前に強制土下座をさせられてしまった。
﹁ヌプチャカーンさまの前だ、頭が高いぞ﹂
﹁今回はなかなかイキのいいのが手に入ったじゃないか。でかした
ぞ﹂
﹁ありがとうございます。まさか拳一発で伸びたやつが牢屋の中で
暴れるとは﹂
﹁冒険者か何かか﹂
﹁いえ。所持品を確認したところ、辺境の開拓村から出稼ぎに出て
いた猟師という事です。もうひとり女がいるそうなので、そいつも
捕まえれば儲けもんですねえ。げへへ﹂
﹁そうか。まあイキのいい奴隷は高く売れる。顔のいい女はもっと
高く売れる。しかし国法は守らなければならん﹂
こいつら、奴隷狩りをしていたのか。
何が国法だ、俺を牢屋にぶち込んでおいて⋮⋮
﹁お前、名前は何て言うんだ?﹂
﹁⋮⋮シューターです﹂
元来こういう時にすぐペコペコする習性が飛び出て、俺は下手に
名前を口にした。
そうすると高貴な男がしゃがんで来た。
俺の顎を引き上げると、声をかけてくる。
﹁わたしの名前はルトバユスキ=ヌプチュセイ=ヌプチャカーンだ。
わかるか? ん?﹂
ぬ、ヌプなんだって? 長たらしい名なので覚えられず、俺は焦
253
ってしまう。
﹁⋮⋮ルトバユスキさん﹂
﹁ルトバユスキ=ヌプチュセイ=ヌプチャカーン、さまだ。馬鹿野
郎!﹂
せき込みながら起き上った丸坊主に腹をしたたかに蹴り上げられ
た。
ぐぅ痛い。いつか仕返ししてやる。
﹁お前は、わたしの大切にしていた骨董品の壺を台無しにしたそう
だな。ん?﹂
﹁そうですかね﹂
俺はあいまいに返事をした。
確かに丸坊主とぶつかって小さな壺を落とした事は確かだが、あ
れがそんなに高価なものには見えなかった。
もちろんファンタジー世界の価値観なんて知らない俺の見当違い
かもしれないがね。
ただこれは絶対に、俺が元いた世界で当たり屋商法と呼んでいた
様な詐欺まがいの方法だった。
じっこん
﹁あの壺は大変気に入っていてね、無理を言って昵懇にしてた商会
から譲ってもらったものだったのだよ。しめて辺境伯金貨で十枚、
それがあの壺の価値というわけだ﹂
﹁な、なるほど﹂
絶対そんなわきゃねえ。
二束三文に決まってる、銅貨で数枚程度だ。あれは百均で売って
る壺みたいなもんだ!
254
だがそういう詐欺手法なのだ。
こんな異世界で価値もわからない俺に、それを確かめるすべはな
い。
﹁もう一度質問する。君は、わたしの壺を割った。間違いないね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は言葉に窮した。俺が壺を割った事は間違いないだろう。しか
し不可抗力だ。
ぶつかった拍子に割れたのであり、俺が割ろうとして割ったもの
では断じてない。そればかりか、最初から割れてくださいと言わん
ばかりにあっさりと割れてしまったのだ。
ここでイエスと言ってしまえば、言質を取られてしまう。その後
に待っているのは、とんでもない借金をふっかけられるという事実
である。
﹁言え、言わなければツレの女に迷惑がかかるぜ?﹂
しかしこの現状、俺は否定するだけ無駄だと悟った。
俺がどう反応したところで籠の中の鳥、逃げられるものでない。
ニシカさんにまで手を回されても困る。
﹁まあ、事実です﹂
﹁そこで君には代金を弁償してもらいたいんだが、金貨十枚払って
もらおうか﹂
﹁ざ、残念ながら今の俺には手持ちがありませんでね。そうだ、俺
はこれから冒険者になろうと思っていたんですよね。少し、ほんの
少しでも待っていただければ稼いでお返ししますよ﹂
﹁そう言って逃げる人間もいるからねえ⋮⋮﹂
255
ルトバユスキさんは薄ら笑いを浮かべて俺を見た。
﹁君の持ち物を改めさせていただいたところ、身分を証明するもの
はおろか、所持金はわずか銀貨数枚というところだった。街の門で
発行された通行手形だけだ。つまりこの街に戸籍が無い﹂
﹁確かに街の人間ではありません﹂
﹁他の荷物は短剣とギルド紹介状。その手紙には猟師とあったが違
いないないかい?﹂
﹁はい。今は猟師見習いの身分でしたが、以前はえっと、戦士でし
た⋮⋮﹂
みんなが俺の事を戦士と言っていたので、まあ間違いはないだろ
う。
﹁すると冒険者じゃないんだな? ん?﹂
﹁冒険者じゃありません。冒険者登録をする前に、こんな事になっ
ちまいましてね。へへ﹂
俺は愛想笑いを浮かべてそう言った。
冒険者になっていたらギルドが守ってくれたのだろうかね。する
とルトバユスキさんは革の巾着袋を弄びながら中にある貨幣をジャ
リジャリといわせた。
﹁そ、その銀貨は村の公金なんですよ。へへ、それを使い込んだら
村長さまに殺されてしまいます﹂
﹁本当に公金なのかね? 言い逃れをするために言っているのでは
ないかね? だがそれを調べるすべはないので、ひとまずわたしが
預かっておこう。そうすると君はどうやって弁償してくれることに
なるのかな。壺を。ん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
256
あんなものは元いた世界じゃ梅干しの入っている壺。こっちの世
界じゃ糞壺だ!
言い訳を考えろ。せめてこの場を切り抜ける方法を考えろ。こい
つらさっき、奴隷どうのこうのと口にしたはずだ⋮⋮
﹁そこでわたしから、君にひとつの提案があるのだけれどね﹂
﹁何ですかね﹂
お前たちは奴隷商人なんだろ⋮⋮?
どうせロクな提案なはずがねえ。
みのしろ
﹁君の身代を代価に、壺の弁償をしてもらう、というのはどうだろ
うか。君はイキだけはいい様だから労働奴隷にはもってこいだろう﹂
﹁そ、そんな無法がまかり通るのかよ⋮⋮﹂
﹁金が払えなければ、自らの体を差し出して金を作る。国法によっ
ても認められている行為だよ? 君の村ではなかったかね、余剰労
働力を奴隷として差し出すという事は﹂
﹁いや、あいにく景気のいい村だったんでね⋮⋮﹂
﹁そうか、それは幸せな村で君はすごしてきたんだね﹂
ワイバーンとの戦いで多くの犠牲が出たぐらいだ。
人ではまるで足らない。奴隷を売るよりも買い付ける側じゃない
かね、あの村は。
﹁しかし困ったねえ。君が奴隷となる事を拒否するというのなら、
連れの女というのにでも肩代わりしてもらわないといけないわけだ
が⋮⋮﹂
ニヤリとしたルトバユスキさんは居場所を言えと催促した。
257
馬鹿め誰が言うか。
﹁残念ながら街に出て来てからはぐれてしまいまして。そちらの冒
険者さんたちと出くわした時には、女を探して途方に暮れていたと
ころなんですよ。へへへ﹂
﹁本当かね?﹂
﹁もちろん本当ですとも。そ、それに女は同じ村の出身というだけ
で、特に関係があるわけじゃないですしね。あの女は俺の事なんて
助けてはくれやしないですよ。すいませんねぇ﹂
疑いの目を向けるルトバユスキさんに、俺は必死で抗弁した。
ニシカさんに迷惑をかけるわけにいかない、と言うよりも、そこ
から情報が村に流れて居残っている妻に迷惑がかかるのも怖い。
だが、これもルトバユスキさんの手法なんだろう。俺が自分から
奴隷になる事を言わせるための。
﹁わかりました、俺を奴隷にしてください。自分の体で代金を支払
います﹂
だが飲むしかない。
こんな調子で田舎から出てきた人間を奴隷に嵌め落としているの
だとしたら、サルワタの森以外を知らないニシカさんは、余裕で奴
隷堕ちしてしまうか、暴れて官憲のお世話になってしまうのは目に
見えている。
﹁では契約は成立だ。君は自身を代価に壺を弁償した、奴隷契約書
を作ろうか。これにサインしてくれたまえ﹂
﹁字は、読み書きできません﹂
﹁なに簡単だ。拇印を押してくれればそれでいい﹂
258
冒険者たちが俺の右手を出させ、親指を短剣で斬られた。
血が滲むと、ルトバユスキさんの持っていた羊皮紙の様な紙に捺
印させられる。
﹁もういい、用は済んだ﹂
﹁こんの田舎者が!﹂
俺が愛想笑いを浮かべてルトバユスキさんを見上げたところ、彼
は奴隷契約書をヒラヒラとさせて部下の冒険者に指示を飛ばす。
ドカリと顔面を蹴り潰されて、ふたたび俺の意識は暗転した。
◆
﹁喜べ、さっそくにもお前の買い手候補のお客様が見つかったぞ﹂
鏡を見ればさぞかし立派なイケメンになったであろう俺は、水を
ぶっかけられて目を覚ました。
今度はありがたい事に手枷足枷がはめられている。腹いせにこの
前暴れたからな。
無理やり牢屋から引きずり出された俺は、廊下を急かして歩かさ
れて外に出た。石牢長屋を去り際に、牢に繋がれた何人かの視線が
飛んできた。連中は塩漬けにされていた奴隷だろうに、何で来たば
っかりの俺が売れたのだろうか。連中は可哀想なものでも見る様に
俺を眺めていた。畜生め。
庭に出ると大量の水を桶でぶっかけられて、蹴飛ばされるとモッ
プで体を洗われる。
次に俺は庭に刺さっている一本の柱に縛り付けられて、頬の無精
ヒゲを剃り落された。
まだ体も乾かないうちに引きずられて、客の待つという部屋に全
259
裸で連れていかれたのである。
むかし俺は派遣会社に登録して、来る日も来る日も配送センター
で荷物を運ぶ仕事をしていた。集配の荷物を一時預かりする中継基
地だ。主に盆暮れのお中元お歳暮の季節によく働いたものだ。
場所はその時々でまちまちだったが、安い賃金で働かされる俺た
ちは不満のひとつでも言うならすぐに派遣先から会社に苦情が行っ
て首になってしまう。
ある時、バイト帰りに俺が派遣先近くの居酒屋で飲んでいた時の
事だ。派遣元と派遣先の会社の担当者がそろってビールを不味そう
に飲んでいる姿を目撃した。
その時に派遣元の若い担当者が言った言葉は今でも忘れない。
︱︱世の中、一番儲かる商売は人身売買つまり奴隷商売なんですよ。
合法のね、それが人材派遣会社です。
俺は恐ろしい言葉を聞いたとその時思ったものだが、きっとそれ
は事実なんだろう。
たぶんルトバユスキさんだったか、あの高貴な男の商売もとても
儲かるはずだ。壺を潰して弁償のできない俺みたいな人間が、何と
か代金を稼ぐために身を落として稼ぐのだ。
壺代は二束三文。元いた世界で払えない家賃や税金も、せいぜい
長い年月で見れば安い金だ。だがそれが払えなくて、俺たちは奴隷
身分となって、人身売買されていく。
﹁へぇ、これがイチオシ奴隷戦士さんですか? しっかり体が引き
締まっていて、タフそうだなのです。少々傷があるのが考え物だけ
ど、これくらいはガンギマリーが治せるのです﹂
甲高い声が背後から聞こえた。
260
連れてこられた部屋に、買い手のお客様が見えたのだろう。
女? 子供? わからない。もしかしたらそういう種族なのかも
しれない。
ルトバユスキの部下に頭を押さえられて首を垂れていると、お客
さまの方が正面に回って来たらしい。
小首を傾げながら俺の顔を覗き込んできた。
﹁どれぇ! お名前は何というのですか?﹂
少女。もとい、ようじょだこれ!
261
23 俺の村八分が街でも継続される訳がない 前編︵※2章表
紙あり︶︵後書き︶
読者様からのご指摘内容を改善・補完するため、8/3に加筆修正
を加えました。
262
24 俺の村八分が街でも継続される訳がない 中編
愛らしいようじょは、小首を傾げて俺の顔を覗き込んだ。
金髪碧眼、ふわふわのカールが柔らかくかかった背の低い女の子。
耳は女村長と同じく少しだけ先端が尖った外開き。胸元が編上げに
なっているワンピースタイプのドレス姿だ。
金貨十枚もする奴隷を購入するのだから、それなりに身分卑しか
らぬ立場なのだろう。
﹁お、俺の名前はシューターです。よろしくお願いしますご主人さ
ま﹂
俺は気がつけばいつもの低姿勢でペコペコと自己紹介をした。し
かもつい口をついて﹁ご主人様﹂なんて言っちゃった。
﹁いいですねぇ、ッヨイの名前はッヨイハディ=ジュメェだょ﹂
おっと来ました読めない名前。
ッからはじまるという事は、ゴブリンかゴブリンハーフのようじ
ょだ。
人間の子供の様な容姿をしているが、それはきっと背の低いゴブ
リンの血筋が濃厚だからだろう。そのあたりは女村長と対極的であ
る。
﹁はじめまして、ッヨイ⋮⋮さま。どうぞわたしをお買い上げくだ
さい﹂
﹁こら、ッヨイハディ=ジュメェさまだ! 名前をしっかり覚えな
263
いか!﹂
無理だ、いちいちこのファンタジー世界の住人は名前がややこし
い。
丸坊主野郎に叱咤されたけど、発音できないものは発音できない
のだ。
﹁いいですよ。ッヨイはあまり気にしないので、細かい事は。どれ
ぇはどこの出身なのですか?﹂
﹁辺境の、出です⋮⋮﹂
異世界人ですなどと言って余計な警戒をされてはいけない。
面接は心象第一だ。いけすかないルトバユスキの元に残されるよ
りは、高貴な身分のゴブリンにもらわれた方が絶対に幸せになれる
はずだ。
しかも相手はようじょ。隙を見て逃げ出す事もできるかもしれな
い。
俺には妻が村で待っているのだ⋮⋮
﹁ふむ。ッヨイが求めているのはダンジョンに潜って戦う事のでき
る優秀などれぇなのです。どれぇは戦う事ができるのですか?﹂
﹁は、はい。槍や剣は多少使えます。弓は、修行中です⋮⋮﹂
﹁なるほど。戦士というのは本当なのですね? このどれぇは幾ら
ですかぁ?﹂
ふんふんうなずいていたッヨイさまは、微笑を浮かべていた赤い
チョッキの奴隷商人ルトバユスキに向き直った。
﹁さすがッヨイハディ=ジュメェさまはお目が高い。ブルカ辺境伯
金貨二〇枚と騎士修道会銀貨十八枚、大変お買い求めやすいお値段
264
となっております﹂
﹁うん、悪くない。けどちょっと高いかなあ⋮⋮﹂
流暢にようじょのフルネームを呼んでみせたルトバユスキは、手
もみをしながらようじょに胡麻をすった。
あの奴隷商人め、俺の価値は金貨十枚とか言っておきながら、倍
近い値段でふっかけやがって。
人身売買は割のいい商売だな!
ッヨイさまは値段が高いと拗ねた顔をしてしまったが、こんなと
ころをさっさとオサラバするためにも、自分で自分を売り込んでお
かなければならない。
ただダンジョンに冒険者という言葉が気になって仕方が無かった
が、そこは今聞いたところで教えてもらえるものでもないだろう。
﹁よ、ッヨイさま。どうかこの俺をッヨイさまの忠実な奴隷として
お買い求めください。何でもしますからッ﹂
﹁ふむ。いま、何でもしますからって言った?﹂
﹁言いました!﹂
﹁さっきも言ったけど、ッヨイはダンジョンに潜るつもりなのです。
だからどれぇにはお仕事をいっぱいしてもらう事になります﹂
﹁何の問題ありません。肉体労働のバイト経験はいっぱいあります
から。へへ﹂
満面の笑みを浮かべて俺は返事をした。
笑った瞬間に潰れた俺のイケメン面が痛みで悲鳴を上げたが、今
は我慢だ我慢。
﹁⋮⋮ねえ、どれぇ商人。もう少しお値段はまかならないのですか
?﹂
﹁そうですねえ。少し体が傷物である事を考えて、金貨十九枚と修
265
道会銀貨八枚。これでどうでしょう﹂
﹁うーん。いい戦士は欲しいけど、他にはいないですか?﹂
﹁他と申しますと、若いゴブリンの男なら何人でもいますよ。その
奴隷の代わりにゴブリンをふたり購入するのもありでしょう。でし
たらこの半値でふたりが購入できます﹂
﹁ゴブリンは嫌だなぁ。だって安いしゴブリンだし﹂
自分の事を棚に上げながらッヨイさまは思案していた。ゴブリン
は嫌いなのだろうか。
ゴブリンの奴隷相場は安いものと決まっているらしい。
﹁ゴブリンがお嫌でしたら、元冒険者という中年の男がいますねえ。
こちらは三〇歳と少々年齢がいっていますのでお安くできます。金
貨十二枚と、銀貨五枚といったところでしょうか﹂
﹁中年はすぐ病気になるから、いらないです﹂
残念ながら元冒険者はお断りされてしまった。
いや、問題はそこじゃねえ。俺はその中年冒険者より年配なんだ
が、それはいいのか。
黙っていればわからない事なので俺は聞かなかったことにして無
言を貫く。
それにしても、ッワクワクゴロさんも言っていた気がしたが、俺
はこの世界で若く見られるのだろうか?
こちらに来てから伸ばしっぱなしだった無精ヒゲを剃ったからか
も知れないな。
﹁うーん﹂
﹁わかりました。それでしたら辺境伯金貨十八枚と銀貨二枚、これ
でいかがでしょう﹂
﹁それでいいです。どれぇ契約書を﹂
266
﹁賜りました﹂
満面の笑みを浮かべたルトバユスキがパチンと指を鳴らして、契
約書とやらを取りに走らせた。
俺はブルカ辺境伯金貨十八枚と騎士修道会銀貨二枚で売却が決定
したのである。
﹁よろしくね、どれぇ!﹂
﹁ッヨイさま、ありがとうございます。ありがとうございます﹂
俺は全裸でようじょに平伏した。
◆
俺は全裸で街を歩いている。
首には首輪が巻かれており、そこから鎖が垂れてその先端をよう
じょが握っている。
まるで犬だ。散歩をしている犬の様だな、などと俺は思いながら
ブルカの街を歩いていた。背中にはもともと俺の所持品だった短剣
とポンチョを入れたズタ袋がある。残念ながらチョッキと腰巻はル
トバユスキの手下どもに乱暴されて、ズタボロになってしまったら
しい。愛妻ヒモパンは行方不明のままだった。
畜生め!
しかし。
てっきり複雑な奴隷契約の過程があるとばかり思っていたが、実
際にはルトバユスキとッヨイさまが契約証を取り交わしてサインを
しただけだ。
後は俺の血で拇印を取っただけ。この契約書に何か魔法的な呪縛
があるというわけではない。
267
奴隷が主人を殺せば殺人罪、逃亡は追手がかかり、見つかれば殺
される。
だがそんなのはうまく逃げればいくらでもやりようがあるだろう
さ。代わりに俺のヘソに奴隷である事を示す外せないピアスをぶち
込まれただけである。
吉田修太、三二歳はこの齢で初ヘソピアスをしました。
イケてるかい?
﹁ッヨイはね、冒険者なのです﹂
﹁ほう、ッヨイさまは冒険者だったのですか﹂
﹁そうです。これからはダンジョンを攻略するために、護衛ができ
て荷物運びができて、いざという時に盾になってくれる冒険者のど
れぇが必要だったのです﹂
﹁荷物運びはお任せください。護衛もお引き受けした経験がありま
すよ。いざという時の盾は、未経験ですが⋮⋮こちらは頑張って善
処します﹂
ダンジョンというのがどういう場所かは知らないが、古代遺跡と
か天然の洞窟迷宮とか、そういうのを想像すればたぶん大きくは外
れていないはず。
﹁だからまず冒険者ギルドに行って、どれぇの冒険者登録をします﹂
﹁おお、冒険者登録!﹂
﹁今日はその後にどれぇの武器と冒険者道具を購入しないといけな
いからね。それからあいぼーを紹介します﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
本来ならば今頃、ねぼすけニシカさんとふたりで紹介状を持って
ギルドに足を運んでいた頃だろうか。
ニシカさん、今何しているんだろうな。
宿代は十日分ほど前払いしておいたので寝床には困らないが、ニ
268
シカさんはほとんど無一文だったはず。持ち込んだ携帯食料が無く
なれば飢える。
アイパッチやヒモパンを換金してもたいした金にはなるまい。
落ちぶれて繁華街の裏をさまよう鱗裂きの眼帯女を想像して、ち
ょっと俺は心配になった。
それにしても。
こうして街を歩いていると、ひとつ気が付いた事がある。俺と同
じ様な全裸姿のゴブリンが、時折だが目につくのである。あれがギ
ムルの言っていた奴隷身分という事なのだろう。多くはゴブリンだ
が、中には首輪だけ付けた裸の男女も見かける。彼らはぱんぱんに
詰まった麻袋を荷運びしていたり、高貴な身分の人間に付き従って
いる。
しかし、全裸に武器を装着している姿はかなりシュールだぜ。 そしてこの辺りは高貴な身分の人間ばかりが多いという事、それ
は見落としてはいけない点だろう。
ブルカの街に入って来た時には気が付かなかった発見だ。そして
この界隈は、街に到着して二日目ではじめて足を踏み入れたエリア
でもある。
猥雑で汚らしい感じの初見感想を持ったブルカに対して、ここは
人々の行き来こそ多いが、やや清潔で整然とした街並みだった。
ぎちぎちに石造りの建物が並んでいる点は同じだが、それでも建
物の高さはどこも三階建て以上という感じ。
﹁大変失礼な事をお聞きしてしまうかもしれませんが、ッヨイさま﹂
﹁何ですかどれぇ?﹂
﹁ッヨイさまは高貴なお方なのでしょうか? その、決して安くな
い金額で俺を買い取ってくださいましたし。冒険者というのはそれ
ほど儲かるのでしょうかね﹂
269
﹁うんと。ッヨイはもともと魔法使いなのです﹂
﹁魔法使いですか﹂
﹁うん魔法使いは希少価値だからね。どこにいってもお仕事に困ら
ないのです。それに冒険者は成功すれば儲かるのです﹂
魔法使いというとあれか、ニシカさんみたいに風の魔法を操った
りするのかな?
いやニシカさんが使っていたのは風の魔法だけ、とすると魔法使
いの定義は複数の魔法を使いこなす事なのだろうか。
﹁ッヨイさまはいくつもの魔法が使えるのですか﹂
﹁んと、そうです。ッヨイが得意にしているのは土の魔法。それか
ら火の魔法や水の魔法も使えます﹂
﹁風の魔法はどうですか?﹂
俺もニシカさんみたいに弓矢を駆使して獲物に一撃を与えてみた
いものだと常々思っていた。可能ならば教えてもらう事はできるの
だろうか。
﹁土の魔法ほど得意じゃないけど、できますよ?﹂
﹁おお、そうですか。それはすばらしい!﹂
﹁だから、冒険者パーティーでは火力の中核を担っていたのです。
エッヘン﹂
立ち止まったようじょが腰に手を当て胸を張った。
無い胸は、何の主張もしなかった。
﹁さ、さすがですねッヨイさまは。ぜひ俺にも教えていただきたい
ものです﹂
﹁ふむ。どうですかねぇ﹂
270
歩きながら考え込んでいたッヨイさまだったが﹁まあそのうちね﹂
と返事を短くした。今の俺はこのようじょの奴隷だ。まあ、悲しい
けれど学ぶ時間はあるるだろうさ。
しかし奴隷か。
この世界における奴隷とはどの程度の過酷さなのだろうか。
モノの本によれば、一概に奴隷と言っても様々な形態があったと
いうのは読んだ記憶がある。古代ローマの時代では奴隷はわりと余
裕があったらしく俺たちの元いた時代、元いた世界の派遣労働者み
たいなものだったはずだ。
しかし翻って大航海時代らか産業革命にかけての奴隷とはすり潰
されるための労働力だったはず。
理由は簡単に推測できる。
戦争捕虜や破産したり食い詰めて奴隷となった連中というのは、
自国や隣国など基盤となる生活圏とその周辺に存在する人間だから
な。
しかし、大航海時代以後の奴隷というのははるか遠くアフリカ大
陸やアジア、南北アメリカにそれを求めて、植民地での消費が前提
だったものだ。
鉱脈や荘園の運営に、これら単純労働の使い捨て労働はとても便
利だったのだろう。
してみると、俺は奴隷ライフにワンチャンあるかもしれない。少
なくとも奴隷を使った鉱脈採掘なんて事をさせられるわけではない。
たかがダンジョン行きのパーティーで荷物持ちか、いざという時
の捨て駒だ。
﹁普段はあいぼーとふたりでダンジョンに潜っているんだけど、そ
れだと出かけられるダンジョンも限られるし、あまり深層に向けて
271
前進できないのです。だからどれぇが頑張ってくれたら、きっとい
い結果を出せるのです﹂
﹁はい。時には荷物を運び、時には剣を取って戦います!﹂
ようじょは金貨一八枚も払って俺を買ったのだ。
金貨二〇枚でワイバーンの骨や皮一式。ニシカさん曰く十年贅沢
な飯が食える額と言ったかな。
だとしたら捨て駒で終わってしまうわけにはいかない。もちろん
捨て駒にされるわけにはいかない。
そして、ようじょには悪いが何とか逃げる算段でも考えるべきか。
俺たちは冒険者ギルドにやってきた。
272
25 俺の村八分が街でも継続される訳がない 後編
﹁あれ? 俺が来た事がある冒険者ギルドと違いますね。造りは似
たような感じですが、場所が違う﹂
﹁そうなんですかぁ? ギルドの出張所は街の何か所かにあるから、
別の場所に行ったのかなあ﹂
俺の鎖を引きながら小首を傾げるゴブリンようじょ。
まるで犬の散歩の様なありさまでも、周囲の人間は別に気にもし
ていないらしい。もしかしたら成功した冒険者が奴隷を使役するの
は、俺が思っている以上に普通の事なのかも知れないな。
そのまま案内カウンターに行き、冒険者登録の作業に入る。
ギムルが使っていた質の悪い麻紙ではなく、ここでは保存に適し
た羊皮紙の書面に俺はサインを求められた。
﹁すいません。ッヨイさま、俺は字が書けません﹂
﹁じゃあ、ッヨイが代筆したげますから拇印だけ押してね﹂
ようじょ主人を持ち上げて、カウンターの書面に代筆してもらっ
た。そして朱肉で拇印。
すると若いセールスマンみたいな受付の男が説明してくれる。
﹁はい、これで冒険者登録が完了ですよ。今から冒険者タグを作成
しますので、しばらくお待ちください﹂
﹁冒険者タグ?﹂
﹁そうですね。ふたつセットになった首から下げる小さな金属板で
すよ。登録情報が彫ってあるものです﹂
273
こういうものです、と受付の男がサンプルを見せてくれる。
なるほど、若者が集まるアメ村やアメ横的な露店で手に入る、軍
隊が使っている様な認識票。ネームタグ、ドッグダグというやつか
な。
俺はジャラリと冒険者タグを持ち上げて吟味した。
続けて話を聞いていると、対になった冒険者タグの片方を、所属
したギルドの出張所に預けておき、もう片方は自分が所持しておく
仕組みになっているらしい。
冒険者が旅に出て別の冒険者ギルドの出張所に拠点を移す際は、
これを元の出張所から回収して別の場所に持って行く。
現在の俺はブルカの街にある冒険者ギルドの西門前辺りの出張所
にいる。
聞けば青年ギムルとともに俺たちが最初に訪れたギルドは、東門
近くにあるギルド出張所だったわけだ。
別に魔法的なすごいシステムで一元管理されているわけではなく、
たったひとつの冒険者タグで管理をしているらしい。とても原始的
だ。
なるほどなぁ。
では作成に入ります、と言って記入した羊皮紙の登録用紙を手に
奥へ引っ込んだ受付のひとを見届けると、俺たちはギルド内にある
ベンチへと移動して待つことにした。
﹁どれぇは文字が読み書きできないのですか?﹂
﹁はい。俺は辺境の生まれなので、文字のことはよくわかっていま
せんね﹂
﹁それじゃあ、自分の名前は書ける様に練習しておくといいのです﹂
﹁そうさせていただきます﹂
274
ベンチに向かいながらそんなやり取りをした。
このファンタジー世界で生活をしていくためには、確かにそろそ
ろ文字の勉強をした方がいいかも知れない。
ギムルによれば妻も文字を読むことはできないらしく、多少のい
びつさはあるものの、文明度合いが中世欧州と同じぐらいの発達で
ある事を考えると、農民たちの識字率はあまり高くはないはず。
三十路を過ぎての学習ともなれば覚えは遅いかも知れないが、最
低限、自分の名前を書ける程度と、簡単な文章ぐらいは読める様に
なっておきたいと思った。
冒険者になるなら、掲示板に張られた依頼の募集告知ぐらいは読
める様になっていないと、誰かにだまされかねない。
ルトバユスキの様な人間は絶対に他にもいるはずだ。
だが、この世界でひとつだけ読める文字があるぞ。それは﹁冒険
者ギルド﹂だ。
今日でギルドの建物に来るのは三度目だから、看板の文字は読む
だけなら覚えたぜ。
俺は自分の学習能力も捨てたもんじゃないな、などと考えながら
ベンチに腰を下ろそうとしたところ、
﹁こぉら。何をやってるのよお前は!﹂
いきなり女の声がしたかと思うと、蹴り飛ばされた。
あわてて受け身をとりながら、ズタ袋に突っ込んでいた短剣の柄
に手をかける。冗談じゃねえ! また冒険者にからまれたのかよ!
俺は警戒しながら、蹴った主を見た。
果たして女だった。
﹁手前ぇ何をしやがるんだ!﹂
﹁何をやってると言うのはこっちのセリフよ。奴隷の分際で、ご主
275
人さまの許可も無くイスに座ろうとするのはどういう了見かしら?﹂
女は腰に手を当てながら不機嫌な顔をして、俺をにらみつけてい
た。
黒い髪のストレートにどんぐりの様な眼、そしてメガネ。メガネ
をかけた異世界人を目撃したのはこの世界に来てたぶんはじめてだ。
体にフィットした様なノースリーブのワンピースの上から革か何か
の鎧、それにポンチョを羽織っている。腰には長剣。
﹁そ、それは失礼しました。ッヨイさまごめんなさい﹂
﹁いいょ。気にしないのです!﹂
俺は咄嗟にようじょへ謝罪し、ようじょは笑って許してくれた。
それにしても誰だこのメガネ女は。初対面で俺を蹴り飛ばすとか、
異世界の女はおっかねぇ。
﹁ふん、ッヨイが許すってなんなら別にあたしは気にしないけれど
もね。以後は気を付けなさいよ﹂
﹁ありがとうございます。ありがとうございます﹂
﹁ガンギマリーも来てたのですね?﹂
﹁午後からギルドでって約束だったでしょ。それにッヨイも奴隷を
ちゃんと購入できたみたいね﹂
﹁そうなの、もともと田舎で戦士をやっていた猟師さんの奴隷なの
です。近接武器全般と、弓が使えるらしいよ﹂
﹁あ。弓は練習中です⋮⋮﹂
ふたりのやり取りを聞きながら、俺は最後に補足説明をした。
それにしてもこの女、まるで日本人みたいな顔をしているな。か
わいらしいと言えばそうだが、だんご鼻にまるい眼だ。いわゆる縄
文人顔というのだろう。
276
﹁どれぇ。どれぇにッヨイのあいぼーを紹介します。彼女は騎士修
がんぎ
道会に籍を置いているあいぼーの修道騎士、冒険者のガンギマリー
だよ﹂
﹁ふん。あたしは雁木マリよ、よろしくね奴隷﹂
﹁はじめまして、俺は奴隷のシューターです﹂
俺がいつもの様にペコペコと頭を下げる。あんた薬物でもキメて
るのかよ。ガンギマリーとか。ぷっ。ひどい名前だぜ。
するとガンギマリーさんは、聞こえるか聞こえないかというぐら
いの小さな声でボソリと何かを言った。
﹁なーにがシューターよ。日本人みたいな顔しちゃってさ、本当は
シュウタとかダサダサの日本名だったりして⋮⋮顔も平たいし、あ
たしの好みじゃない。包茎だし﹂
﹁おいあんた。今、日本人って言ったね?﹂
今、確かにこのメガネ女は﹁日本人﹂と言った。確かにだ。
俺はたまらず聞き返す。すると、
腰に手を当てていたガンギマリーはそれを解いて、右拳でいきな
り俺の顔面に腰の入ったパンチをしてきた。
バキッ、痛ぇ。
奴隷身分なので抵抗できないのが腹立たしい。
だがそんな事よりも、今は﹁日本人﹂という単語の方が問題だ。
俺は空手経験があるから、殴られても多少我慢できる場所を意図し
て差し出せることができるからな。それに食らったフリをして軽く
のけぞってやった。
そんな事もわからずガンギマリーは言葉を吐く。
﹁奴隷の分際で口の効き方を知らないらしいわね﹂
277
﹁待て、話せばわかる! あんた今確かに日本人といったな? ガ
ンギマリーという名前、本当は名字が雁木で名前がマリなんだろ?
!﹂
﹁だったら何だって言うのよ。奴隷の分際で! お前こそシュウタ
なんでしょ。名字は何だったの?!﹂
﹁やめろ。殴るな、蹴るなッ。吉田だ、名字は吉田。吉田修太だ!﹂
﹁ほれみろ、お前も日本人じゃないの!﹂
暴力メガネ女は容赦なく俺を数発殴る蹴るして満足したのか、フ
ンと鼻をひとつならしてメガネの位置を調整しやがった。
俺は殴られた頬を腕で拭いながら、睨み返してやった。畜生この
暴力メガネ女め⋮⋮
そんな俺たちのやり取りを見て。
﹁どれぇ、どれぇとガンギマリーは知り合いなのですか?﹂
﹁ええと何と説明したらいいのかな⋮⋮﹂
﹁知り合いじゃないけど。あたしとコイツ、どうやら出身地が同じ
なのよ﹂
﹁ガンギマリーは貼るか異世界の生まれと言っていたけど、そうな
のですか?﹂
ようじょの曇り無きまなこに見つめられて俺は言葉を失った。ど
うやって説明したものかな。
こうして俺は、このファンタジー世界に来てはじめて、同じ境遇
の日本人に遭遇したのである。
◆
﹁お前、どうやってこの世界に来たのよ﹂
﹁バイト明けに地元の立ち飲み屋に行こうと思ってな。そこまでは
278
覚えてるんだが、以後の記憶は曖昧だ。気がついたら辺境の村近く
の林をさまよっていて、地元の木こりに捕まえられた﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
﹁あんたは?﹂
﹁学校の帰りに気がついたら聖堂の中よ、この世界の教会ね。みん
なが熱心に祈りを捧げているところに、あたしが降臨よ。修道会じ
ゃ聖少女が降臨したとか大騒ぎになったんだから﹂
﹁なるほどな。全裸か?﹂
﹁全裸よ。けどメガネだけはかけてたけど⋮⋮﹂
俺と雁木マリは、冒険者タグが完成したと呼ばれてとてとて受付
カウンターに向かったようじょの留守中に、お互いが異世界にやっ
てきた経緯を軽く確認していた。
ベンチに座るメガネ修道騎士女と全裸奴隷。メガネ女の手には俺
の首から垂れ下がった鎖の先端がある。
﹁するとメガネは体の一部というわけか﹂
﹁知らないわよそんな事!﹂
何がそんなに気に入らないのか、右手を握りしめた雁木マリは俺
を殴り飛ばそうとした。
おっと、毎回殴られるわけにはいかないぜ。
俺は華麗によけてやった。
﹁わたしは埼玉出身よ。高校一年生の十五歳の時に飛ばされて来た
わ。今は十九歳ね﹂
﹁もう四年もこっちにいるのか、先輩だな。ええと俺は京都でフリ
ーターをしていた、三二歳だ。出身はド田舎だが﹂
﹁フリーターねぇ。元の世界でも異世界でも社会のゴミだったのね﹂
﹁うるせぇわい﹂
279
偏見に満ちたジト目を送ってくる雁木マリに俺は力なく文句を言
った。
﹁それで、どうして奴隷墜ちしたのよ。その捕まった村から売り飛
ばされてきたの?﹂
﹁いや。村の用事で街まで出てきたんだけど、いろいろあって奴隷
商人の手下をしている冒険者に当たり屋みたいな詐欺に持ち込まれ
てな⋮⋮高価だという壷を割ってしまってこのザマだ﹂
﹁ふうん。お前とことん運が無いわね﹂
﹁街に俺の連れがいる。金は俺が持っていたんで、今頃路頭に迷っ
てるだろうよ。それに村には結婚したばかりの妻もいてなぁ⋮⋮﹂
いろいろと情けない事を俺が説明していると、まるで興味なさげ
に雁木マリはあくびをした。
俺の話を聞けよ!
﹁ま、どうでもいいけど。今はッヨイの奴隷なんだから逃げるなん
て事、考えないでね。逃げたら奴隷逃亡罪でお前、死刑よ⋮⋮﹂
﹁そんな事言うなよ、同郷のよしみだろ? なあ﹂
﹁関係ないわよ。警察にでも相談したら? まあこの街に警察なん
ていないし、衛兵に相談してもこういうのは民事不介入ってやつか
しら﹂
そんな知りたくなかった情報をつらつらと雁木マリに説明されて、
俺はとても悲しい気分になったのでションボリした。
﹁どれぇ! どれぇ用の冒険者タグもらってきたよ﹂
﹁ありがとうございます。いただきます、いただきます﹂
280
カウンターから戻ってきたようじょが、冒険者タグを俺の首にか
けてくれた。
ホント俺、これからどうなるんだよいったい⋮⋮
﹁じゃあ。どれぇの武器を買って、家に帰りましょう!﹂
昼下がりの異世界午後。
冒険者ギルドを出た俺たちは、武器屋のあるストリートへと足を
運ぶのだった。
鎖につながれた俺に視線が集まっている。
あんまり見るなよ恥ずかしい、奴隷ならこれが普通なんだろ?
ダンジョンで野垂れ死ぬわけにはいかないので、せめていい武器
をようじょにおねだりしないとな!
281
26 ダンジョン・アンド・スレイブ 1
やあみんな。君たちはようじょの下着を洗濯をした事はあるかい?
俺はある、今している。
ヒモパンのクロッチ部分を優しく丁寧に手揉み洗いしているが、
断じて犯罪行為ではない。
俺はようじょご主人さまであるとこのッヨイハディ=ジュメェの
奴隷として、彼女の身の回りのお世話をさせていただいている。
名前は吉田修太、三二歳。近頃はどれぇとかシューターとか呼ば
れている男さ。
高校生の頃からあらゆるバイト遍歴のあった俺だが、残念ながら
クリーニング屋でバイトをした事は無かった。
とは言っても、こういうシチュエーションがはじめてというわけ
ではない。
沖縄出身の古老である空手師匠のご自宅に居候していた頃は、よ
くご家族の洗濯物を洗っていたものだ。
古老の孫娘は年頃の女子高生で、やれこの洗い物はネットに入れ
ろとか、これは手洗いでないといけないとか、そういう事を小うる
さく言われた。
その中でも特に口うるさく言われたのが下着関係だったが、文句
を言う事に疲れたのかやがて﹁自分でやるからさわらないで!﹂と
ある時を境に言いだした。
どうしてあんなに顔を真っ赤にして怒っていたのか原因は謎だが、
高校生になって色気づいたのもあったのかもしれんな。
そこでッヨイさまのご自宅に住んでおられるもうひとりの住人の、
282
雁木マリである。こいつは元女子高生だったにも関わらず、下着は
自分で洗おうとはしなかった。それどころか俺に下着を洗われる事
も、まったく気にしていない様子だ。
年頃の女が繊細になるのは当然という気もしたが、違うのか。俺
にはさっぱりわからなかった。
さて、奴隷がご主人様のお世話をするのは当然だろう。
このブルカの街を見渡してみると、そこかしこで奴隷が使役され
ている事実を目の当たりにするのだ。
俺や雁木マリがもといた世界には奴隷など存在していなかったわ
けだが、ここではそれこそ当たり前のように主人に従って街を歩い
ている奴隷の姿を見たものだ。あるいは何かの使役を命じられて、
荷運びやお使いに出ているのだろうと想像できる姿を見るのだ。
彼女がこのファンタジー世界に来てから何を見たのかはわからな
いけれども、ここでの現実を雁木マリは当たり前の事だと行けとめ
ている証拠だった。
雁木マリのこの世界での地位は修道騎士という宗教団体の運営す
る武装集団の一員であり、恐らくは街の権力者たちとも近しい関係
だ。
日本の歴史に当てはめれば僧兵という事になるが、日本の歴史で
も僧兵は一定の権力を持った連中だったはずだ。つまり、彼女と俺
の身分差は天と地ほども離れているのである。
人生やり直しのスタート地点が違うのだから、この差は歴然だっ
た。
どれぇ!
﹁お前、そういう奴隷働きしている姿ってホント似合ってるわよね﹂
﹁そういうあんたは、男の俺に下着を洗わせても何とも思わないん
だな﹂
283
﹁当たり前じゃない。お前は奴隷なんだから、奴隷に雑務全般をさ
せるのは当然の事よ﹂
﹁雁木マリよ﹂
﹁あ? 雁木マリさまだろう!﹂
俺の態度が気に食わなかったのか、洗濯板でゴシゴシとこいつの
寝間着であるキャミソールを洗っていると、雁木マリがキレて前蹴
りをカマしてきやがった。
もう毎度の事なので、すかさず飛びのいて蹴りをよける。
﹁何でよけるのよ! 大人しく蹴られなさいよ!﹂
﹁嫌に決まっているだろ。あと邪魔をするな。俺は奴隷の仕事中な
んだよ﹂
﹁ふん。で? 何よ﹂
やまとなでしこ
﹁あんたはアレだな。日本で生まれ育ったのなら、もう少し恥じら
いというものを覚えたほうがいいんじゃないかね。大和撫子の嗜み
ってやつだ﹂
﹁お前ホント馬鹿ね。この世界でそんなヤワな考え持ってる様じゃ、
生きていけないのよ﹂
どんぐり眼にどす黒い何かを浮かべて雁木マリが言った。
こいつが最初に異世界から人生やり直しを初めてまる四年。最初
に飛ばされたブルカ聖堂で彼女に何があったかまで、俺にはわから
ない。
けれども、こいつはこいつなり苦労して来た事が、そういう言葉
を言わせるのだろう。思春期として一番多感な時期をこのファンタ
ジー世界で過ごしてきたのだ。
しかも雁木マリは女であり、苦労は相当にあったのかも知れんね。
◆
284
俺は余念無く自分の冒険者道具を手入れをする。
そうして知った事だが、ダンジョンに入るための道具だが、武器
はある程度汎用性のあるものを選ぶものらしい。
﹁メイスというのも面白い武器だよな﹂
ボロ布で購入したばかりの中古のメイスを磨きながら、俺はフン
フンと鼻を鳴らす。
鈍器に分類される様な武器を実際に使う事になるのは今回が初め
てだ。
打撃系という意味なら天秤棒もその仲間だし、空手で使うトンフ
ァーもまたそうだ。
使い方は同じ打撃系でも、メイスとトンファーではまるで違う事
になるが、打撃系の武器に共通している事がひとつある。
それはどれも扱いがひどく簡単な事だろうね。
単純に叩きつける事で攻撃力を得るものだから、剣の様に刃筋を
しっかり気にしなければならない斬撃系の武器とはそこが違うぜ。
剣や刀は刃筋が少しでもずれていれば、攻撃力が格段に落ちてし
まうところがあるので、知らない斬撃系の武器をちゃんと会得しよ
うと思えば慣れるのに時間がかかる。
そういう意味では斬撃武器でも比較的扱いやすい短剣と、メイス
を使い分けられるのはありがたい事なのかもしれんね。
ありがとうございます、ありがとうございます。
俺は心の中でご主人さまに感謝した。
﹁メイスと言えば、ゴブリンのッサキチョさんを思い出すな﹂
二週間ほどでしかないのだが、村に居た頃を思い出た。
285
その僅かな村の滞在経験の中でもほんのひと言しか話したことは
なかったけれど、ダブルメイス遣いだったッサキチョさんの事をメ
イスから連想した。
彼がまだ健在であったのなら、メイスでの戦い方を教わる機会も
あったんだろうか。
いやいや。そもそも彼が健在であるのなら、村で猟師が大量に不
足して俺が街にやってくる事もなかったはずだな。
ままならんものだ。
﹁それにしてもなあ﹂
武器はいいのだが、まともな防具は無かった。
というのも、ッヨイさまは魔法使いなので重い防具は必要として
おらず、雁木マリは前衛という立場上防具をしていたが、俺はただ
の荷物持ちだ。ポーターというやつなので靴と寝袋替わりにも使え
るポンチョがあればそれでいい。
俺が初見で感じていた荒くれの冒険者どものイメージと言えばず
ばりバイキングの様な鎖帷子を着た集団だったんだが、少なくとも
うちのご主人さまと相棒は例外らしい。
というわけで、さっそく靴擦れを起こさない様にブーツを履き慣
らしておく事にした。
全裸ブーツ。
履いてみて思った事だが、明らかにおかしい。その上にポンチョ
を羽織ってみると、さらに考えたくない結論に至った。
これ、露出狂だ確信。
市街地の暗がりから突如飛び出してくる怪しい変態が、こんな格
好をしていませんか!
﹁どれぇ! よくにあってます﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
286
ようじょにそう言われてもあまり嬉しくない俺だが、ブーツとポ
ンチョを拝受した事は感謝せねばならない。
しかし、奴隷はやはり全裸というのがデフォルトらしい。悲しい
事にこの親切なようじょも、奴隷に服を着せるという発想がそもそ
もないんだろうな。他の冒険者と違ってうちのパーティーが比較的
軽装に感じるのは、何か理由があるのだろうかね。
俺もこの世界に来てからほぼ全裸で過ごしてきたから今さらとい
うのもあるが、少々どころか防御力に欠ける現状は一抹の不安を覚
えていた。
まぁ色々あって準備は完了した。
こうして自分の冒険者道具とッヨイさま、雁木マリの荷物を受け
持った俺は、いざダンジョン探索へと向かうのだった。
◆
﹁そもそもダンジョンというのは、先人たちの古代遺跡と、自然発
生の洞窟迷宮のふたつがあるのです﹂
ようじょ邸を出発し街の外に出ると、俺たちは街道からは逸れた
田舎道を歩いていた。
道すがら、ようじょが俺に説明してくれた。
ッヨイさまは魔法使いらしくようじょとは思えないほど博識だ。
屋敷にはこの時代にはきっと貴重だろう書籍の類が山の様にあっ
た。魔法使いの読む本だから魔導書、いわゆるグリモワールという
やつなのかもしれない。
勉強家さんなので夜更かししちゃうのはいいんだけど、夜はラン
タンの油がもったいないから早く寝ましょうね。
昨晩は魔導書を開いたまま、おねむになったのか伏せて寝落ちさ
287
れておいでだった。
ついでに油断したのか、寝ながらジョビジョバもしておられた。
さすがようじょ。そんなところもお約束を外さないぜ!
だから俺が今朝、熱心にヒモパンのクロッチを洗っていたとして
も、それは仕方のない事だったのだ!
ま、仕事だからな。
﹁規模も様々なのです。ダンジョンの場所も様々ですが、例えばこ
れから向かうブルカの近くにある遺跡は、とても小さいのですよ!﹂
﹁それは自然発生と古代遺跡、どちらのダンジョンに分類されるの
でしょうか﹂
しょいこ
俺が背負子を背負い直しながら言うと、ようじょは唇に手を当て
て返事をする。
﹁はんぶんはんぶん、かなぁ﹂
﹁半分半分?﹂
﹁そうです。遺跡といっても最近ッヨイがあいぼーとふたりだけで
通っていたのは、小さな遺跡中心だったからなのです。例えば今回
の場所ですが、もともとは自然洞窟だったのを、古代の人間が遺跡
にしちゃった感じ。その後また自然遺跡になった感じ。深さもそん
なにないけれど、大事をとって深部まではいってないのです﹂
﹁⋮⋮なるほど複合的要因で遺跡は成り立っていると。なので、ど
ちらか一方に明確にこうだ! と言えるものは少ないのかもしれん
な﹂
﹁そうなのです﹂
﹁ではもうひとつ、質問をよろしいでしょうか?﹂
﹁なんですか? どれぇ﹂
愛らしいようじょの返事に嬉しくなった俺は、弾んだ声音で質問
288
する。
﹁ダンジョンの定義とは?﹂
﹁定義ですか﹂
きょとんした表情も、とても愛らしい。
宝があるからなのか魔力的な何かがあるからなのか、恐らくそう
した回答がようじょから飛び出るだろうと予想していたが、返事を
したのは雁木マリである。
ぬし
﹁ダンジョンと定義されるのは、主の有無よ﹂
あんたには聞いてねえよ!
﹁主の有無? つまりボスモンスターがいるかいないかが、例えば
ただの史跡と遺跡ダンジョン、自然洞窟と洞窟迷宮の差という事か﹂
﹁そういう事ね。古くなった遺跡なんかは巨大な魔物が巣として利
用したり、自然発生的に変な魔物が出現したりするからね。自然洞
窟の場合はオーガとかが住み着いたり﹂
﹁オーガがというのはあれか、人相の悪い巨人みたいな連中か﹂
﹁まあだいたい、わたしたちの世界で想像していた様な連中よ。文
化的にはまったく相容れない感じの﹂
﹁ほう﹂
俺が雁木マリと話し込んでいるのを見たようじょは、急に嬉しそ
うに声を上げる。
﹁どれぇはおりこうさんですね!﹂
﹁へ? そうですかね﹂
289
うんうん、とようじょがうなずくと、背伸びをして手を伸ばした。
ん。どうやら俺の頭を撫でたいらしく、俺はしゃがんで首を垂れ
た。
﹁よしよし﹂
﹁ありがとうございます。ありがとうございます﹂
俺はついついいつものクセでペコペコしたのだが⋮⋮
はっ?! 俺はようじょに調教されているのではないか!
こんな事ではいけない。慣れてここが居心地のいい場所だと錯覚
してはいけない。
妻に会うため、村に帰るのだ。
俺が決意を新たにしていると呆れ半分、軽蔑半分の眼差しで俺を
見下す雁木マリが口を開く。
﹁まあ。コイツも一応は義務教育受けてるからね、大卒?﹂
﹁いや中退だ﹂
﹁やっぱ社会のゴミだったか⋮⋮﹂
俺は殺意を芽生えさせた。
この女のこういうところはいつまでたっても慣れない。
歯ぎしりをしたが、まだ我慢だ。
ほんの一瞬前まで少しはわかりあえたと思ったが、すぐにこれだ。
絶対に許さねえ。
だが、危険な場所に潜るのに意識を散らしてるわけにもいかない。
ぐう。 ﹁それじゃみんな、街道を外れてダンジョン近くにあるベースに行
きましょう!﹂
290
ようじょだけは元気に声を上げる。
目的地はもう目の前だった。
291
27 ダンジョン・アンド・スレイブ 2
俺たちがやってきた場所は、ブルカの街から半日あまりの距離が
あるかつて村落のあった遺構だった。
全部で十数棟の家屋と、集会所か何かだったらしい、それよりひ
とまわり大きな古代建築があった。
屋根は完全に崩れ落ちてしまっていたが、その代わりに丈夫な石
組みの壁面は残されていて、サルワタの開拓村が土壁の民家だった
事を考えると、より立派な印象があった。
周辺はまばらな低木林と、鬱蒼と生い茂った広葉樹が広がる。
広葉樹だけが繁栄しているのは、人間の手が長らく入っていない証
拠だ。
﹁ここはブルカ辺境伯がこの土地を統治しはじめる以前にあった、
集落の跡地なのです。家の数から考えると、だいたい人口は一〇〇
人ぐらいかな? この奥にダンジョンがあります﹂
いったん基礎の残った石の家屋跡に入った俺たちに、ッヨイさま
が説明してくれた。ここをアタックのためのベースにしていたのだ
ろう。
すでにダンジョンの近くに到着しているという事で、ッヨイさま
も雁木マリも周囲警戒を怠っていない。
ッヨイさまは魔法使いなので、武器らしい武器と言えば腰後ろに
護身用ナイフをさしているだけだが、その代わりに豪華な装丁の魔
導書を手に持っていた。
これが魔法発動の媒体にでもなるのだろうか。
それともうひとつ、野外用ランタンの様なものをダンジョン侵入
292
にあたって用意していた。
﹁これは?﹂
﹁魔法のランタンだょ。魔力をエネルギーにして火を燃やすのです。
中の台座に魔法の発動式が刻まれていて、血を入れる事で使用者の
魔力を吸い上げて燃焼する様になっているのです。だから魔法が使
えなくても安心ですどれぇ﹂
﹁なるほど便利なものなんですね。で、血っていうのは?﹂
﹁どれぇは手を出してください。はい、この付属品の針で指を差し
ます﹂
﹁痛いのやですよもぅ﹂
俺はいやいやをしながらも黙って指を針で刺された。
すると、ぷつっと小さな血の雫が出て、その針をランタンの台座
のところにッヨイさまが差し込む。
ッヨイさまは説明を続ける。
﹁後はこのノブを捻ると火が付くよ﹂
﹁火が付きましたね﹂
﹁ッヨイとか魔法が使える人間はできるだけ魔力を温存しておかな
いといけないので、普段はあまり使いません﹂
﹁へえへえ﹂
ポーター
﹁魔力は誰にでも備わっているものなので、こういう道具は前衛の
戦士系のひとか、荷物運びが魔力を供給するかして発動させるので
す。わかりましたか?﹂
﹁わかりました。ッヨイさま!﹂
一方、雁木マリの方もダンジョン入りの準備をしはじめている。
こいつはノースリーブのワンピースに、鉄皮合板の鎧を装着して
いた。
293
革鎧とばかり思っていたのだが、鉄板の型をなめし革でプレスす
る様に加工したものらしい。
金属鎧は防御力の意味ではすぐれているが、そのかわりに重くか
さばり熱しやすく冷めやすい。だから人間の体力を容易に奪ってし
まう。そこである程度防御力では劣る革と、薄い鉄板を組み合わせ
ているというわけだ。金属部分が皮膚に触れると冷えると熱を奪い、
暑くなると熱を伝えると最悪なので、その保険にもなる。
恐らく値段は相応にお高いのだろう。
そして長剣だ。この世界の人間がどういうわけか好んで使ってい
る様に見える刃が厚く広いタイプの長剣である。斬れ味よりも耐久
度を重視している様で、剣の斬れ味が落ちはじめた時に遠心力で相
手にダメージを与えようという意図だろう。
鞘から抜いて刃の状態を確かめたり、柄の留め金の具合を確かめ
ている辺り、雁木マリも実戦経験がそれなりにあるという事なんだ
ろうな。
むかし俺がとある劇団で若い団員に殺陣の指導を臨時でしていた
頃も、模造刀を使う時はきっちりと目釘を確かめる様に口を酸っぱ
くして説明したもんだが、これと同じである。
俺はふと雁木マリに質問をした。
﹁あんた、人を斬った事はあるか?﹂
﹁愚問ね。あたしは騎士修道会の修道騎士だもん、盗賊の討伐命令
が出れば躊躇なく斬るわよ﹂
﹁そ、そうか﹂
さも当たり前の様に雁木マリは濁ったどんぐり眼でそう返事をす
ると、長剣を鞘に納めた。
それから剣を吊るしている腰のベルトに手をやり、いくつかのガ
294
ラスか何かに入った様な小さなカプセルの様なものを確かめはじめ
た。
﹁それは何だ﹂
﹁ポーションよ、必要に応じて使い分けるの。体力強化、筋力強化、
知覚強化、回復強化、興奮促進。そういうのがあるわ。お前もいる
?﹂
﹁薬かよ。薬は結構だ⋮⋮﹂
﹁ふん。そう?﹂
恐らくこのファンタジー世界では合法な、さまざまな医薬品か何
かなのだろう。
ファンタジーゲームで言えばHP回復薬や耐久力強化薬みたいな
位置づけなのだろうが、現実にこれを多用するのは、ほとんど薬物
常習者みたいで気後れする。
しかし雁木マリは平気な顔をして、そのうちのひとつを取りだす
と、器具に挿入して腕に押し当てた。
異世界の注射器というわけか。
﹁こうして専用の器具にカプセルポーションをセットしたら、押し
込むのよ。ッく⋮⋮﹂
﹁今使ったのは?﹂
﹁筋力強化よ。効力は半日ぐらい継続するから、序盤に力押しでダ
ンジョンの深部に入る時に効果的よ﹂
﹁複数同時に使ったりしたら副作用はないのか?﹂
﹁そうね。わたしは魔法も使えるから、身体操法は自分である程度
コントロールできるわよ。素人が同時にいくつも使うのはやめてお
いた方がいいかもね。ふぅ⋮⋮﹂
カプセルポーションをキめた雁木マリは恍惚とした表情を浮かべ
295
て、傍らでマップを広げてチェックにいそしんでいたようじょに向
き直った。
﹁こっちは準備できたわ﹂
﹁はいです。あいぼーはいつも通りの前衛で、最後尾がどれぇ。前
回入ったところまで、障害になりそうなものは排除できてるから、
一気に奥まで行きましょう﹂
﹁わかったわ﹂
ふたりのやり取りを眼で追うと、俺もうなずいて荷物を担ぎなお
した。
ダンジョン進入にあたり、右手にメイス、左手に先ほどのランタ
ンという格好だった。
﹁よし、行くわよ﹂
◆
自然洞窟というだけはあって、入口は少し広めの大きさがあった。
だいたいマンションのエントランスホールみたいな感じだ。削り
出されてつるりとした壁面になっているので、古代人たちがここを
住居か倉庫か、そういう意図で加工を加えたのだろう。
もしかしたら神殿だったのかも知れない。
﹁奥はすぐに陽の光が差し込まなくなるからね。あたしは自分の魔
力で光を出すから、奴隷は明かりの死角を作らない様にッヨイをサ
ポートしなさい﹂
﹁わかった。あんた、この世界の人間じゃないのに魔法が使えるの
か﹂
﹁いっぱい訓練したのよ。四年間、血反吐を吐くような努力をし続
296
けてね﹂
あっさりとそう言ってのける先頭の雁木マリ。
なるほど、だが異世界人の俺でも訓練すれば魔法が使える事が確
実にわかったのは嬉しい。
いやよく考えれば俺の持った魔法のランタンも、俺から魔力の供
給を受けて稼動しているわけだから、あとは理屈さえ覚えれば俺で
も使えるのか。
しかし血反吐を吐く様な努力か。
サルワタの森以外に何もない様な辺境の開拓村に全裸で登場した
俺と違って、雁木マリは聖堂に降誕したのだ。
いけ好かないヤツである事に違いはないが、聖女降誕などと言わ
れて騒がれたらしいから、それ相応に期待されて、その期待に応え
るために必死に頑張ったんだろうな。
片手の自由を確保するために左手にランタンとメイスを両方持っ
た俺は、洞窟の壁を触りながらゆっくりと奥に入った。
﹁情報によれば最深部に神殿があるのです。最後にこのダンジョン
に人間が入ったのは十五年前という事だけど、以後は掃討のために
冒険者は派遣されてないのです﹂
﹁それでこのダンジョンの主というのが、長らく放置されている間
に出現したんですね﹂
﹁そうですねー。ダンジョンの主と、それからここを根城にしてい
たコボルトなんですどれぇ﹂
ジャッカル顔の猿人間か、どこにでもいるなアイツらは。
すると、ッヨイさまの代わりに今度は雁木マリが口を開く。
﹁洞窟系の史跡なんかはコボルトの巣に利用されたりするからね。
それから鉱山跡地。そういうところが、連中の集団営巣地になりや
297
すいらしいわ。道具や武器も資材庫に放置されていたりするしね﹂
﹁なるほど勉強になります﹂
﹁あとは大蛇の類かしら。ここは湿度も高いし冬も暖かいから、い
る可能性はあるわ。前回入った時に、あらかたコボルトは処分した
んだけど﹂
処分か。雁木マリにしてみれば猿人間は狩りの対象ではないんだ
な。
﹁問題は最深部ね。ここは古代人が礼拝所として使っていた跡地な
んだけど、奥に地底湖があるの。そこがどうやらダンジョンの主の
住処になっているはずなんだけど﹂
﹁相手は何だ。ワイバーンとかか?﹂
﹁違うわよ。でも、似たようなものかしら﹂
コツコツとブーツを響かせながら少しだけこちらに視線を向けた
雁木マリが言った。
﹁似た様なものって何だよマリ﹂
﹁お前、バジリスクって知ってる?﹂
俺の質問に、雁木マリが質問で返して来やがった。
嫌なヤツがよくやる返し技だ。
﹁いや知らない。コミックか何かのタイトルかな﹂
﹁チッ。これだから無学低能は﹂
﹁俺は異世界に来てまだ日が無いんだよ。そういう事を言うなよな﹂
﹁どれぇ、バジリスクは頭にトサカのある化物トカゲです。地上を
這うドラゴンだと思ってくださいどれぇ﹂
﹁お、ドラゴンか。ッヨイさまありがとうございます﹂
298
俺は教えてくださったッヨイさまに感謝した。
嬉しくなったのでついついッヨイさまの頭をなでなでする。
すると﹁えへへ﹂とッヨイさまが笑った。
ッヨイさまか∼わいい。
しかし。
どこにでもいるな、ドラゴンの仲間。
﹁あたしらのいた世界のゲームじゃ、毒を持ってるとか視線で石化
する能力があるとか言われてるけど﹂
﹁こっちでもそいつは、そんな能力があるのか?﹂
﹁ないわよ。石化はしないかわりに、遭遇した人間は恐怖で硬直し
てしまうのよ﹂
﹁それは咆哮でか﹂
﹁⋮⋮ええ。何よお前、知っているじゃない?﹂
﹁村に居た時に、共同でワイバーンを仕留めた事がある﹂
﹁へぇ?﹂
俺がドヤ顔でそう説明すると、チラリと面白くなさそうな顔を雁
木マリが送って来た。
﹁どれぇはワイバーンを仕留めたのですか?﹂
﹁はい。辺境のサルワタの森にある開拓村の猟師をやっていたので
すがね、森から出てきた悪いワイバーンのオスが、村で悪さをした
のですよ。そこで俺は、村周辺で一番腕のいい狩人である、鱗裂き
のニシカさんというひとと、ふたりで討伐したんです﹂
﹁どれぇはすごいですね!﹂
﹁本当かしらね。この世界に降誕して、たかが一年にも満たないん
でしょ? そんなのお前にできるはずがないわ﹂
﹁それができたんだなぁ﹂
299
﹁じゃあ、ちょっと証明してみなさいよ﹂
雁木マリは洞窟を進む足どりを止めて、剣に手をかけた。
﹁ん?﹂
﹁この先に広場になっている場所があるわ。そこにまだ、処分しそ
こねたコボルトか何かが残っているみたい。数は二桁は行かないは
ずだわ。相手できる?﹂
﹁わかった。やってみよう﹂
﹁あたしが右、お前が左﹂
俺は背中の荷物を下ろした。いつでも戦闘態勢を取れるように腰
の短剣も確認した後で、右手にメイスを握りなおす。
﹁ッヨイは﹂
﹁なんですかガンギマリー?﹂
﹁ここであまり大きな音を出すと、バジリスクに気づかれてしまう
可能性があるわ。攻撃魔法は無しで﹂
﹁わかったのです﹂
﹁代わりに広場の天井に、魔法で光を打ち上げてくれる?﹂
﹁任せてください!﹂
三人はうなずき合った。
俺は姿勢を低くしながら、雁木マリといっしょに壁伝いにこの先
の広場を見やる。
コボルトだ。
一、二、三、四、五、六。思ったより多いな⋮⋮
ワイバーン対峙をいっこうに信じてもらえないのはまあしょうが
ない。
300
にしても、活躍して役に立てば、少しは早く奴隷から解放される
かもしれない。
﹁じゃあいくわよ?﹂
﹁いつでもいいぜ!﹂
俺たちは気合とともに、広場に向かって踊り出した。
301
28 ダンジョン・アンド・スレイブ 3
俺とともに低い姿勢で駆けだした雁木マリは、長剣を引き抜くと
右腰構えに剣を運んだ。
こいつ、剣道経験でもあるのか? かなり堂に入った動きである
事に俺は舌を巻く。
いや、これは剣道経験じゃないな。
柄の持ち方が、両手の握りに拳ひとつぶんの隙間を作っていない。
遠心力を多用して振り回す方法だ。
だが少し、危うさがある。
その危うさは殺意の衝動とでも言う様な、向こう見ずの猪突猛進
な動きが見えるからだ。隙をカバーするよりも先に一撃を入れる戦
い方だ。
ポーションの力が乗っている分、攻撃を優先した方がいいと考え
ているのか。まあそれもありだろう。
ッヨイさまが打ち出した魔法の発光が、洞窟内の広場を照らし出
した。
照光魔法によって照らされた雁木マリの動きを観察している間に
も、右翼に固まっていたコボルトの集団に斬り込んでいく。
血祭だ。
一気に引き上げの一撃をコボルトの頭に叩き込んだかと思うと、
返す刀で周辺のコボルトも巻き込む様に横一線で斬り返す。
おお、負けていられねえ。
俺も意識を左翼に集中させながら、メイスを振りかぶった。
302
こんなものは過去の俺の格闘技経験の中でもまるで使った事が無
い獲物だが、誰でも簡単に使える入門編の武器という意味ではあり
がたい。すぐに使いこなせる感触を覚えながら、ドシャリとコボル
トの頭蓋に振り下ろしてやった。
蹴り飛ばしてすぐ次の獲物を探す。弓で相手にするよりも、よっ
ぽど大立ち回りをかました方が楽だぜ。
コボルトどもは何かの骨を削り出した棍棒を持っていたが、動き
が緩慢だ。
余裕を持って避けながら、とにかく顔に一撃を入れて集団を切り
崩した。
﹁メタイ!﹂
﹁メタイメタイ!!!﹂
何語かわからない言葉︵恐らくコボルト語︶をわめきちらす連中
は、散り散りになって俺を囲もうとする。
固まっている方がこちらとしては対処しにくいが、攻守の隙間を
作ってくれるなら処理しやすい。
ジャッカル顔の猿人間は、どういうわけか逃げずに俺に襲いかか
って来た。ッワクワクゴロさんに聞いていた﹁コボルトは臆病﹂と
いう証言に反する動きだ。
だがコボルトの顔には明らかに恐怖がある。
バジリスクが奥にいるからだろうか。
一撃ずつ、確実に、頭だけを狙って。
ごちゃりという不気味な感触が俺の持つメイスの柄を通して伝わ
って来るが、数匹程度を相手にするなら手がしびれる事は無かった。
振り回す事、五度。こちらのコボルトどもは一瞬で制圧完了だ。
ただやはり使った事の無い武器だけに筋肉は驚いた様だな。
303
﹁お前、そっちは?!﹂
﹁制圧完了だ。全員仕留めた!﹂
﹁いいわね。あたしも完了よ。ッヨイ、どっちが速かった?!﹂
軽く肩で息をしながら、余裕の表情で雁木マリが血振りをした。
びゅっというキレのいい血振りから、ゆっくりと長剣を鞘に納め
る姿はなかなか様になるな。
﹁ちょっとだけ、どれぇの方が速かったのです﹂
﹁ちょ、本当?!﹂
﹁俺は五匹相手だ、そっちは?﹂
﹁四匹よ⋮⋮。あんた何者?﹂
﹁元の世界では空手経験があってな。あと武道経験いろいろ﹂
﹁チート過ぎでしょ⋮⋮﹂
﹁だが人間を殺した事は無いぞ。俺のはしょせん道場剣法だ﹂
悔しそうな顔をしてどんぐり眼で睨み付け来た雁木マリに、俺は
笑って返事をした。
﹁な、何よ。余裕ぶっこいてるのかしら?﹂
﹁違う、あんたは野趣味があったが地に足の着いた剣術操法だった。
惚れ惚れする様ないい腕だ﹂
続く言葉は笑いを消して、俺がしっかりと眼を見返して言った。
するとすぐに雁木マリは視線を外して﹁フン﹂と鼻を鳴らす。何
だ、顔がやけに紅いじゃないか。照れてるのか? ん?
﹁急いで部位を回収しましょうか。どれぇはそっちの、ガンギマリ
ーはそっちのです﹂
304
﹁部位。どこを回収すればいいんですかね?﹂
﹁コボルトの犬歯だょ。持って帰れば少しだけどギルドで討伐報奨
金が出ます。コボルトは街の周辺でも悪さをするので、常時駆除の
ための報奨金がかかっているのです﹂
なるほどな。俺はうんとうなずくと、潰れたコボルトの顔を足蹴
にしながら犬歯を確認した。
ちょっとグロテスクすぎる作業だがやらねばなるまい。
﹁これ使いなさい﹂
﹁んっ﹂
雁木マリが肉厚のナイフを差し出す。
ちゃんと元日本人というだけはあって、自分が革の鞘を持って相
手に柄を向けた。
﹁先に柄で歯茎に一撃を入れてこう。その後に刃でほじくって﹂
﹁手際いいな﹂
﹁害獣の駆除もあたしたち修道騎士の仕事よ。規模が大きい時は騎
士隊を組織して処理するわ﹂
俺も見よう見真似で犬歯をかき集めた。
水筒の水を含ませた清潔な布をッヨイさまが用意してくれたので、
顔や手に付いた血をふき取っていく。
﹁ありがとうございます。ありがとうございます﹂
﹁どれぇのお世話をするのも、飼い主のお仕事なのです﹂
えっへんとようじょが胸をそらした。
そこですかさずいい子いい子してあげると、ほわほわ∼とッヨイ
305
さまが表情を崩す。
﹁お前たち何やってるのよ。コボルトどもの様子が変だわ、先を行
くわよ﹂
﹁へい﹂
こちらは頬に血をつけたままの雁木マリ。
それ以外のところは普段から手慣れているだけあってあまり血を
被っていなかった様だ。
俺も見習わねばならんな。
背負子を背負いなおした俺は、ッヨイさまと手を繋ぐと先行する
雁木マリに従ってダンジョンの深部へと進みだした。
◆
﹁ずいぶん空気が生臭いですねぇ﹂
﹁この前に侵入した時は、だいたいこのあたりまでだったはずね。
目印に刻んだ壁の傷があるわ、もう一度つけ直しましょう﹂
もとからあった壁の傷に、バッテンになる様に雁木マリがナイフ
で傷をつけた。先ほどの解体に使ったものである。
﹁この先はどれぐらいあるんだ?﹂
﹁過去の作成地図だと最深部まではあと一〇〇〇歩ぐらい。そうで
すね、直線距離ならすぐだけど、他にも変なモンスターがいる可能
性があるから、すぐにってわけにもいかないですどれぇ﹂
ふと口から飛び出した俺の質問に、ようじょが親切丁寧に教えて
くれた。
306
﹁ここ、比較的小規模なダンジョンなのですよね。本格的なダンジ
ョンになると数日にわたって攻略する事になるのか﹂
﹁そうね。中にはどういう意図で作られたのかもわからない様な古
代人の複雑なダンジョンが存在するわ。あるいは鉱山跡地がそのま
まダンジョンになったような場所は、何日もかけて少しずつ攻略し
ていく感じ。ここならそうね、行って帰って二、三日の行程で何も
無ければいける。問題はバジリスクよ﹂
思案しながら雁木マリが言った。
﹁大型モンスターのバジリスクみたいなのは、普通は大きな体を維
持するために、相応の獲物を必要とするのじゃないか。ダンジョン
の奥に居座って主然としている様では、生きていくのもままならん
だろう﹂
﹁考えられるのはふたつですどれぇ﹂
﹁ほう?﹂
慎重に手元から魔法の発光体を現出させて前方に探りを入れる雁
木マリの後ろで、手を繋いでいたようじょが教えてくれる。
﹁ダンジョンに別の出入り口があって、そこから自分の縄張りに出
かけているのか。それとも、休眠期に入っているからなのです﹂
﹁休眠期か、それならば理解できます。俺たちもワイバーンを仕留
めた時は、怪我を負ったあいつが休眠用の洞穴に入る直前を狙って
仕留めました﹂
﹁どれぇは賢いですねえ!﹂
﹁まあ元猟師見習いなので、それに腕のいい相棒がいたのですよ﹂
﹁どれぇのあいぼーですかぁ?﹂
ようじょがぷにぷにの頬に人差し指を押し付けて小首を傾げた。
307
﹁そうですよ。鱗裂きのニシカと言って、村の周辺では知らない者
がいないワイバーン狩りの名人でした。猟師になって冬を過ごした
数だけワイバーンを仕留めたという猛者なんですが、実はもうひと
つありがたくない二つ名がありましてね﹂
﹁ありがたくなぃ?﹂
﹁そうです、赤鼻のニシカとも言うんです。とってもお酒にだらし
がないのですよ。街に出て来た時も、やれビールが呑みたい、酒場
に連れていけとうるさくて﹂
﹁あはは。ニシカさんはお酒大好きなのですねー﹂
﹁でも、腕は確かですよ。俺では扱うだけでも大変な長弓を使って、
ワイバーンの急所を一撃で打ち抜く腕があります。あの女はサルワ
タの森最高の狩人ですね﹂
ニコニコしながら俺の話を聞いてくれるようじょだ。
一方の雁木マリは、途中で歩みを止めると俺の方に向き直った。
﹁ふうん。女なんだ?﹂
﹁お、女だとまずいのかよ﹂
﹁異世界に飛ばされてきて、たいした苦労もせずにやれ嫁だ、やれ
女の相棒だ。いい身分だ事﹂
﹁いい身分なわけがないだろう、俺は奴隷だぞ﹂
嫌味な発言につい俺はカっとなって反論した。
奴隷がいい身分なはずがない。ニシカさんは確かに女だが、何か
妙な関係があったわけでもない。
﹁あたしは、死ぬ様な思いと血反吐を吐く様な努力を⋮⋮﹂
売り言葉に買い言葉。
308
雁木マリはどんぐり眼をすぼめて何事か畳みかけようとしたけれ
ど、途中で言葉を濁した。
何か言いたくない事でも過去にあったのだろうか。俺には理解で
きなさそうな何かが。だが不満を口にするのを思いとどまったのに
は理由があった様だ。
どうやら雁木マリは何かを見つけたらしく、視線を地面に向けて
いた。
﹁三つめの可能性を説明するわ﹂
﹁みっつめ?﹂
﹁バジリスクが、ここに住居を構えている原因よ﹂
そう言った雁木マリが、前方に警戒を怠らない様にしながら、足
元にしゃがみこんだ。
猿人間の頭蓋だろうか、一部が欠損しているが霊長類っぽい特徴
の骨だ。
それの近くに別の骨。こちらは蛇の様なものだ。
﹁こっちはコボルト、こっちはマダラパイク。それからダンジョン
ワームの糞﹂
﹁パイクにダンジョンワーム?﹂
﹁ニシキヘビみたいな大蛇と、大型の芋虫よ。死骸漁りをして大き
くなるのがダンジョンワームの仲間。このダンジョン、小さいみた
いに見えて、かなり濃密な生態系になってる。ここなら外に出なく
ても多少の獲物が得られる構造になってると言えるかしらね﹂
雁木マリはメガネの位置を調整しながらそう言った。
﹁コボルトやマダラパイクが食べていける様な餌になるものがいる。
そっちがこれ﹂
309
﹁ん? 何だ﹂
﹁チョウバエよ。知らない? あたしらのいた世界にもいたはずだ
けど﹂
言うが早いか雁木マリは長剣を引き抜くと、壁に剣を突き刺した。
よくみると、ガかチョウかハエか、よくわからないが岩壁に擬態
した平べったい飛翔昆虫が剣で貫かれている。
大きさは分厚い百科事典みたいなサイズだ。
モンスター
﹁奥に地底湖があると言ったでしょう。そこから羽化したチョウバ
エが大量発生しているのでしょうね。こっちの動物は何でもかんで
もアメリカンサイズだから嫌になるわ、ねっ﹂
ごりごりっとチョウバエと呼ばれた百科事典サイズの飛翔昆虫を
にじった雁木マリは、とても嫌そうな顔をしながら長剣を引き抜き、
鞘に納める。
﹁コボルトやマダラパイク、それからダンジョンワームの糞が溶け
出して、地底湖に流れ込む。それをチョウバエの幼虫が食べて羽化
すると、それをコボルトやマダラパイクが食べる。まあ他にもたぶ
ん、そういう大型昆虫がいっぱいいるんでしょうけどね﹂
﹁チョウバエの成虫は何を食べてるんだ﹂
﹁知らないわよそんな事。あとは洞窟内のコケでも食べてる動物が
いるのかもね。壁がきれいだから、たぶんそう﹂
博識を披露しながら、また歩みを進めだした。
おのの
途端、洞窟のずっと奥から響きわたる様な、ドオオオオンという
慄きが聞こえた。
聞き覚えのあるそれは、たぶんワイバーンの親戚みたいなヤツに
違いない。
310
バジリスクだ。
戦慄した俺は、たまらず委縮する息子を確認した後、不安そうな
顔を浮かべたようじょの手を握ってやっ
た。
ところがパシリと拒絶されて手を離される。
﹁どれぇ、どれぇはバッチぃです!﹂
いやぁすまんことです。
311
29 ダンジョン・アンド・スレイブ 4
不整地を歩くという作業は、人間にとって想像もしない負担を強
いる事になる。
たとえば江戸時代、旅をする人間たちは一日にだいたい二〇数キ
ロの道のりを歩いたそうだ。
フルマラソンだと四二・一九五キロを選手なら三時間足らずで走
破するのだから、数字だけ見るとこれは物足りなく感じてしまうか
も知れない。
けれど当時の旅人たちは、どこまでも続く整地されていない街道
あるは山道をひたすら、何日もかけて歩くのだ。
足への負担は整地の比ではない。また直線距離でもない。
山道を三キロ歩く行為と、アスファルトの道を三キロ歩く行為が、
まるでかかる時間が違うのと同じだ。
してみると、当時の人間は不測の事態に備えて、ある程度の余力
を残した状態でその日の行程を切り上げたのだ。
ダンジョンの深部を目指す俺たちも同じだった。侵入直前に軽い
昼食と装具点検をとって、それから侵入。
初日である今日はコボルトの残党を掃討した後にこの階層の少し
先まで進み、周囲から身を隠しやすい通路のくぼみを見つけてそこ
をベースにした。
﹁実際に大規模ダンジョンに攻略をかける時は、複数のパーティー
が同時に進行して、ベースを設置しながら奥に奥に進んでいくのよ。
遺跡タイプの場合は、全ての通路と部屋をしらみつ潰しにしてモン
スターの発生源を排除する。そこまで安全路を確保したうえで、中
312
層に向けてアタックをかける主力パーティーが攻略に挑むの﹂
ランタンの吊るしを外して簡易コンロにしたその上に、雁木マリ
がはんごうの様なものを設置しながら俺に言った。
聞いているとそれは、エベレスト登頂を目指す登山隊のやり方に
似ている。
この世界では登山攻略の代わりにダンジョン攻略というのが置き
換わるのかもしれないね。
﹁そもそもなぜダンジョンを攻略するかだよな。俺たちは今、過去
に先人が一度は潜ったダンジョンにアタックをかけているわけだろ
う? というと、ゲームじゃないんだから目ぼしい財宝や貴重品が
見つかると言う事もないわけだろ。それとも金銀財宝が自動発生で
もするのか﹂
﹁それはですね、どれぇ。ダンジョンの主を討伐する事が最大の目
的なのです﹂
﹁なるほど、それは重要ですね。ッヨイさま﹂
曇りなき眼を向けたッヨイさまに、俺は相槌を打った。
そこで雁木マリが代わって説明してくれる。
﹁それに領主の庇護というのかしら、この土地ならばブルカ辺境伯
の統治責任というものがあるわ。領主は税を徴収する権利と引き換
えに、その領民を庇護する義務があるの﹂
﹁その割には俺はあっさり奴隷堕ちしたわけだが、ブルカの領主さ
まは何をやっているんだろうね。あんな奴隷商人と冒険者が好き勝
手をやっているのはおかしいだろ。俺、伯爵さまに守られてないし
ー﹂
﹁なにもおかしくないわ。だってお前、ブルカ領民じゃないでしょ
う﹂
313
﹁⋮⋮なん、だと?﹂
侮蔑の視線を送り付けてきた雁木マリに俺は驚愕した。
何だよ、女村長は辺境伯の部下とかじゃないのかよ。
﹁お前、サルワタの開拓村から来たって言ったわね。あそこ一帯は
別の領主がいたでしょうが﹂
﹁いや確かにそうだが。どういう事だ説明しろ。うちの領主さまは
騎士爵という爵位を持っていたが、辺境伯からすると位はかなり低
いだろ。部下とかじゃないのか﹂
﹁そこが難しいのよ。辺境一帯には、さまざまな領主が入り組んで
領地経営をやっているのよ。それらのまとめ役、こちらの言葉でい
うと旗頭を務めているのが辺境伯よ﹂
﹁じゃあうちの領主さまは何なんだ。旗担ぎか?﹂
﹁寄騎って言うのよ。上司と部下の関係ってよりは、先輩と後輩み
たいな関係と思いなさい。いや違うわね、選手会長とその他選手み
たいな感じかしら﹂
﹁ようわからん例えだが、何となくわかった。旗頭な﹂
はんごうの中に砕いた小麦をサラサラと入れていくようじょ。そ
れに乾燥野菜と定番のベーコン。隣でいもを剥いていた俺は、小さ
くカットしてそれもぶち込んだ。
﹁そうすると領主間の対立問題になるんじゃないか。この世界じゃ
人口は権力基盤とイコールだろ。うちの領主さまが黙っていないん
じゃないか﹂
﹁残念ながら、国法によって領地外に出た自領民についての手出し
はできないのよ。犯罪もしかり、庇護もしかり。その土地の領主が
許可を出さない限りは手出しはダメ、そして開拓村の領主と辺境伯
では、選手会長と入団テストを受けて入って来たばかりの無名選手
314
ぐらいに力の差が歴然よ﹂
またよくわからない説明をしながら雁木マリがはんごうの中身を
掻き雑ぜた。
よし、しっかり沸騰して来たところを見て、俺はランタンの火を
弱めてはんごうに蓋をする。
﹁つまり同じ領主と言っても、爵位と同じだけ力関係が歴然として
いるという事か﹂
﹁そうね。お前は奴隷になったぐらいだから、自分の身分を証明で
きるものも何も持っていなかったのでしょう。だから余計にカモに
されたのよ﹂
﹁冒険者ギルドに登録した後だったら違ったのか?﹂
﹁あまり、違わないわね。冒険者はどちらかというと金遣いも荒い
し、借金をこさえまくって首が回らなくなれば、奴隷堕ちする人間
もいっぱいいるわ﹂
ぐうっと伸びをした雁木マリが、最後にボソリと言い添えた。
﹁この世界は優しくないわ。人間の生活圏の外に出れば獰猛な野獣
がいるし、生活圏の中には支配者がいる。実力主義かと思えばそう
でもないの。実力があってはじめて最低限の人間たりえるのよ。お
前はその事実に気づく前に奴隷になった。でも、同情なんてしない﹂
﹁そうかい﹂
﹁あら、でもどれぇは悪いことばかりじゃないですよ?﹂
そんな事を、ようじょが言った。
﹁というと⋮⋮﹂
﹁どれぇは契約どれぇなのです。犯罪どれぇや捕虜どれぇじゃない
315
ので、資産価値ぶんの働きをすれば、どれぇは解放されるものなの
ですどれぇ﹂
﹁マジかよ。じゃあ槍働きしまくって稼ぎまくったら、自分で自分
の身代を買い取る事もできるのか﹂
あまり期待はせずに、俺はようじょに返事をした。
期待をして結果が違ったら、このようじょを恨んでしまう事にな
るからな。
しかし本当か? という視線を、一応雁木マリに送っておく。
﹁まあ事実ね。ただしそんな働きを証明するなんてご主人さまの心
ひとつじゃないの。ッヨイが手放さなかったらいつまでたってもお
前は奴隷。残念でした﹂
﹁ッヨイはそんな悪い事はしません! どれぇがしっかり働いてく
れたら、その働きにちゃんと応えます!﹂
あわてて俺をフォローしてくれたッヨイさまかわいい。
一方、雁木マリは舌を出してあっかんべーをしやがった。
うっぜえこいつ。いちいち言い方が腹立たしいので、俺は悔さの
あまり仕返しをしてやろうと決心した。
それはいつか先の話しじゃない、できるだけ早くだ。
雰囲気の悪くなった空気の中で俺たちははんごうを回し食いし、
ぶどう酒の瓶を回し飲みした。
潮時だな。
タイミングを見てこれから雁木マリさんを教育してやるか。
時刻は元の世界で言えば午後六時ぐらいだろうか。
恐らくダンジョンの外ならば、そろそろ太陽の位置が地平線に見
える山すそに移動している頃だろう。
316
そう。この世界では街や村の外に出ると、地平線を見れるのだ!
寝るには早すぎる時間ではあったけれども、始終体を動かしてき
たのだから体は相応に疲れている。
﹁どれぇ、ッヨイはそろそろおねむなのです﹂
﹁はいはい。ッヨイさまはお若いので、たくさん寝てお体を休めま
しょうね。オシッコは大丈夫ですか?﹂
﹁どれぇはッヨイの事をお子さま扱いするのです! オシッコして
きます﹂
ぷりぷり怒ったッヨイさまが、窪みからダンジョン通路に出てフ
リルワンピースを持ち上げるとお尻を出した。
お尻を出したようじょは一等賞!
不用意にッヨイさまがモンスターに襲われてはいけないので、メ
イスを持ち上げて警戒に立った後、荷物をクッションがわりにでき
る様にして、ッヨイさまにポンチョをおかけした。
おやすみなさい。
見張の順番はお子さまのッヨイさまを先に寝かせたので、雁木マ
リが最初、次が俺、最後に早起きしたッヨイさまという順番だ。
しかし好機到来と見た俺は、むくりと起き上がると枝毛をいじっ
ていた雁木マリに声をかけた。
﹁おい雁木マリ﹂
﹁お前、いちいちフルネームで呼ぶのやめてくれないかしら﹂
﹁じゃあ、あんたも俺の事をお前とか言うな。シューターと呼んで
くれよ﹂
﹁嫌よ﹂
﹁かわいくねえな!﹂
﹁お前⋮⋮シューターにかわいがってもらう必要なんてない﹂
317
何だ、言いな直したな。ちょっとは気を遣う気になったのか?
﹁⋮⋮そうかい。嬉しいぜマリ﹂
﹁ふん﹂
﹁お願いついでにもうひとついいか﹂
﹁何よいきなり﹂
﹁俺と剣の稽古をしようぜ。今日はもうこのまま休眠に入るだろう
? 寝るにはちょっと体力を持て余しちまってな、俺と手合せして
くれよ﹂
俺は別段、下卑た笑いを浮かべたつもりも無かったのだが、急に
雁木マリの表情が一変した。
先ほどまでは少なくとも愛想のない顔はしていたけれど、感情の
機微が見えた。
俺を呼ぶ時に言い直した瞬間なんかは、年頃の女の子らしいちょ
っとはにかんだ様にも見えなくない表情だった。
それが今は土色をしている。
顔面が痙攣している様に表情を消して、眼から生気が消えたよう
になった。
ん。どうしたんだ。
﹁稽古、ね﹂
﹁そうだ軽く手合せだ。別に獲物は何だっていいが、剣ならマリも
使えるだろ?﹂
﹁目的は何よ﹂
押し殺した声で雁木マリが言った。
ようじょがすかーと寝息を立てているからではない。もちろんそ
れもあるんだろうが、殺意のこもったそれを俺は感じた。
そういうのは空手経験からよくわかる。こいつは発言次第じゃ本
気で殺しにかかるつもりなんだろう。
318
ゆっくりと雁木マリの手が長剣の鞘に伸びる。
﹁目的は簡単だね。あんたは俺を馬鹿にし過ぎた。俺だって人間だ、
プライドはあるぜ? 人をゴミでも見る様な態度でこれまで過ごし
てきただろう﹂
﹁だから意趣返しっていうの? お前は奴隷、あたしは修道騎士。
明らかに地位も立場も違う﹂
﹁そういうところがかわいくないんだよ﹂
俺がそう言うと、雁木マリは鞘に手を置いたまま睨み付けてきた。
生気が少し宿った。いや、何かを考えているのだ。
﹁そろそろガス抜きしようぜ、俺たちはパーティーを組んでダンジ
ョンにアタック中だぜ? いつまでもこんな調子じゃ、俺はあんた
を助ける気にもならない。マリだって俺を助ける気なんてサラサラ
ないんじゃないか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁俺はワイバーンを倒した事があるが、マリはどうだ?﹂
﹁ない、わよ﹂
﹁空を飛ぶか地を這うか、違いはあるだろうが生半可な相手じゃな
いだろうぜ。大人数でかかってやっと傷をつけるのが精いっぱいだ。
そんな時、仲間内でいがみ合っているのじゃ、はたして怪我で済め
ばいいけどな。全滅だってあり得るぜ?﹂
﹁チッ﹂
﹁だから、わだかまりはここいらで捨てようぜ。でも簡単にはでき
ないだろ? だから賭けをしよう。俺が負けたら、今後はお前の命
令には絶対従ってやる。立場が対等だなんて言わない。ッヨイさま
の奴隷であり、雁木マリの奴隷、それでいい﹂
法的にはどうかわからんがな。
319
負けたら諦めがつく。だって俺、負ける気がしないね。
殺意の衝動だけで動いている様なヤツは、どうとでも対処できる。
﹁それで俺が勝ったら、﹂
﹁いいわ。勝負を受けましょう。あたしが負けた時の事なんて考え
る必要ない、だってあたしが必ず勝つから﹂
﹁いいのかそんな余裕ぶっこいて。俺は県大会で三位になった事も
ある実力なんだぜ?﹂
﹁お前のその余裕こそ、あたしがぶち壊してやる。殺す⋮⋮﹂
こいつ、長剣を引き抜きながら立ち上がった。しかも殺す発言。
俺も荷物の側に放り出していた短剣を引き寄せて、ゆっくりと立
ち上がった。
320
30 ダンジョン・アンド・スレイブ 5
長剣を引き抜いた雁木マリは、気だるそうに剣先を地面にこすり
つけながら通路へと移動する。
あごだけで俺についてこいと指示をした。
背中を見せて歩みだしてはいるが、その背中は十分に警戒をして
いた。
抜き身の短剣を右手に持って俺が後についていくと、向き直った
雁木マリがカプセルポーションを注入器具にセットしていた。
ぷしゅうと注入器具が音を立てて、雁木マリの腕にポーションを
挿入していく。
針のないタイプなので、魔法陣か何かを通して体内に投与してい
るのだろう。
おいおい薬を使うなんて聞いてないぜ? 雁木マリさんよ。
カプセルポーションは色がついているから、その色で何のポーシ
ョンを投与したかはわかるはずだが、あいにく俺はポーションに疎
いのでそれは知れない。
恐らく興奮促進か何かのヤバいポーションだろう。
こいつは自分がポーション中毒になる事はありえないとか言って
いたが、本当だろうか。
一瞬だけアヘ顔をキめていた雁木マリの眼が、より一層濁るのが
見えた。副作用で精神に異常をきたさなかったとしても、体を酷使
する事には変わりない。筋肉を使いすぎた翌日は疲労で筋肉痛にな
るものだ。
そこまでして、俺に勝つってのか。
321
最初にレギュレーションを打ち合わせておかなかったのは俺のミ
スだな⋮⋮
﹁おい、魔法は無しだぞ﹂
﹁当然よ。ハンデにしたげる﹂
﹁ポーション使っといてハンデもへったくれもないだろうよ!﹂
俺は言うが早いか駆けだした。
向こうが仁義無用でポーション使ったんだから、こっちが先手に
出たって問題なかろう。
短剣というのは想像以上に使いやすい武器だ。
剣を持つという意識をするよりも、たぶん自分の拳が刃物になっ
た様なイメージを持った方が正解だろう。パンチを繰り出すつもり
で、短剣を刺し込んでいけばよいのだ。
逆に防御は体の一番硬い部分で受けるつもりで、それが刃だと理
解していればいい。
パンチで戦う以上はいかにして相手の懐に飛び込むかだ。
一方の雁木マリは長剣である。
それも遠心を利用して勢いで振り回す操剣スタイルなので、ひとつ
ひとつの振りの間に隙が必ず存在する。
案の定、俺が飛び出した瞬間を見て雁木マリは剣を低く構えた。
例の右腰構えから、重心を利用した勢いのある胴薙ぎ一閃を狙う
つもりなのだろう。
甘いぜ。
俺はそれよりも早く、すでに相手の懐に飛び込んでいた。
真剣をお互いに抜いているとはいえ、まさかパーティーメンバー
322
を殺すわけにもいかない。
いや、雁木マリは殺す気だ。
だから怒りで肩が吊り上がっていて、コボルト相手の時よりも少
し動きが緩慢だ。いきなり試合終了というわけにもいかないので、
俺は軽く雁木マリの首脇をすり抜ける様に剣を刺し込んでやった。
さくりとマリの髪の毛が斬れる。
みるみる表情をかえた雁木マリが、引き下がりながら振り込んで
いた剣を正面に勢いで持ってくる。
俺は剣ではなく、彼女の手を左手で押さえつけた。
﹁飛び出しが一歩遅かったな﹂
﹁くっ死ね!﹂
ポーションの影響からか、女の筋肉と油断していたら両断されて
しまいそうなパワーで俺は押し返された。
あわてて俺の目の前を走り抜ける剣筋を避けて、今度は距離を取
る。
雁木マリの方から数撃の攻勢が続いた。
力任せとは言っても、それなりに剣の扱いは様になっていた。
仕掛けてやるか。
あまり戦いを長引かせると後日に影響が出るので、俺は雁木マリ
を誘って油断した構えを取ると、彼女が力づくで一撃をぶちかまし
てくるのを待った。そして見事にそれに乗っかってくれる。
大上段に構えた雁木マリは、地面まで勢い叩き付ける様にして真
っ向斬りを俺にしてきたのだ。
その瞬間に体を入れ替えながら、俺は雁木マリの足をかけて転が
す。
そのまま白兵戦をするつもりで飛びついた。
323
がらんがらん、とけたたましい剣と短剣が転がる音がしたが、そ
んなの気にしちゃいられねえ。
俺たちはダンジョンの地べたにへばりつくようにしてお互いにマ
ウントポジションを取ろうと転がりまわった。
だが、両手両膝を自分の手足で押さえつけた俺の大勝利だ。
﹁残念だったな、雁木マリさんよ﹂
﹁は、離しなさいよ﹂
﹁離したらマリがまた暴れるだろう。そんな事はしません﹂
﹁くっどうする気?﹂
必死で抵抗しながら、首をもたげて噛みつきそうな勢いの雁木マ
リさん。
いや参ったね。
﹁降参か?﹂
﹁降参なんかしない。殺せ!﹂
こいつからくっ殺せいただきました。
﹁暴れるなよ。暴れるともっと痛い思いをするぞ﹂
﹁な、何よ。あたしを乱暴する気? 巨大な猿人間みたいに⋮⋮﹂
﹁バッカちげぇし! いいか、そうじゃねえ!﹂
﹁じゃあどうするつもりなの⋮⋮﹂
﹁俺はただ、お互いにストレス発散してわだかまりを無くしたかっ
ただけだよ。同胞に、同じ日本出身の人間に、認めてもらいたかっ
ただけなんだって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁もういいだろう。俺だってその、マリに巨大な猿人間みたいな扱
いをされるのは嫌なんだよ。だから負けを認めてくれ﹂
324
﹁⋮⋮⋮⋮ふん﹂
雁木マリの抵抗する動きが止まった。
それを確認して俺も押さえつける力を弱める。
﹁俺とあんたは対等。パーティーの仲間だ。わかるな?﹂
・・
﹁ええそうね、パーティーメンバーね﹂
﹁対等なパーティーメンバー、だ﹂
﹁チッ調子に乗るな﹂
立ち上がった俺は、頑なに認めようとしない雁木マリに手を出し
てやる。
すると彼女が面白くなさそうに毒を吐いた。
﹁さて、じゃあ俺からの勝利のご褒美を要求するのはそれだけだ﹂
﹁それだけ?﹂
﹁ああ、仲間として認めてくれればそれでいいさ。今はまだな﹂
﹁⋮⋮今はまだってどういうことよ。あとで請求する気なの?﹂
﹁そういう事もあるかもな。それとマリ、﹂
﹁何よ﹂
俺はさっきからうつむき加減の雁木マリを観察しながら続ける。
﹁⋮⋮巨大な猿人間に襲われた事があるんだな?﹂
﹁ッく﹂
やはりそうか。
血相をかえてまた殺意まじりの眼で睨みつけてきた雁木マリに、
俺は確信した。
325
﹁ち、違うわ。あるわけないでしょ!﹂
﹁そうだな。ない、無かった﹂
犯されたのか。
だから雁木マリは頑なのか。
この異世界で屈辱的な経験してた結果、ポーションにすがる様に
なったのか。
悔しさを力にするために、ポーションを使ったのか。
﹁⋮⋮忘れなさい。この話は絶対に﹂
﹁忘れるも何も、俺たちは剣の稽古をしただけだ﹂
後和地の悪い空気の中、お互いに絞り出すように言った。
雁木マリは自分の長剣を拾うと、ようじょの寝入っている通路の
くぼみまで戻って行く。
それを見送りながら俺も自分の短剣を拾った。
この世界は優しくない。
日本のどこにでもいる女子高生を襲って犯す様な巨大な猿人間が
いる。
ポーションで身を守り強くならなければ、ただの女子高生はただ
の女子高生のまま死ぬしかない。
座して死を待つか、悪あがきするか。
落ちていたカプセルポーションの殻を踏み潰してしまった俺は、
そんな事を考えた。
326
閑話 その頃のニシカさん ︵※扉絵あり︶︵前書き︶
鱗裂きのニシカさんを、てすん︵G.NOH︶さまに描いていただ
きました。
ありがとうございます、ありがとうございます。
作者は全裸で平伏した。
327
閑話 その頃のニシカさん ︵※扉絵あり︶
http://15507.mitemin.net/i1609
48/
<i160948|15507>
目が覚めるとオレは無一文になっていた。
﹁おげぇ、気持ちわる。シューター水をおくれよ﹂
何しろ部屋の中はがらんどうで、オレだけが吊り床に取り残され
ていたのだ。部屋の中に刺し込む陽の光はずいぶんと急角度だ。
ついでに昨晩燃やしていた除虫菊の残り香がただよっているだけ
だった。
水だ。水をくれ。オレはもそもそと吊り床から這い出すと、ブラ
ウスの胸元ボタンを閉じた。
ちくしょうめ。
シューターどこいったんだよ。
吊り床から降りるのも苦労してフラフラになりながら干していた
アイパッチをひとつ掴んだ。
左目に装着すると気分がちょっとだけ引き締まった。昨日から普
段と違う左目にアイパッチをしているが、誰からも特に反応が無い。
328
オレとしては、だ。
右目も似合ってるけど、左目もステキだぜニシカさん! という
くらい言って欲しかったのだが、あいつら男どもはまるでわかっち
ゃいねぇ。
はて。オレは確か上の段で寝ていたはずだが、何でシューターの
吊り床で目が覚めたのだ。あわてて服が乱れてないが確かめたが、
ちゃんと下着は付けていたのでオレは安心した。まさか酔った勢い
でとんでもねぇ事になったかと思ったが、大丈夫だ。
とにかく喉が渇いてしょうがないので、吊り床に転がっていた水
筒を持ち上げるとオレは口に含む。
﹁ぶへっ、焼酎だこれ!﹂
シューターのかと思ったが、これはオレの水筒だった。
水はないのか水は。
オレは二段ベッドに吊るしていた山刀とベルトを取ると腰に巻く。
とにかく水だ。それから連中の居場所だ。階下に降りてゴブリン
の番台を捕まえると、あいつらがどこにいったのか聞いた。
﹁ああ、ギムルの旦那たちなら朝一番で出かけたよ﹂
﹁行き先はどこなんだよ!﹂
﹁んなもん知らねえよ。ただ十日分の宿の前金だけはもらってるよ、
お嬢ちゃん﹂
じゃあ、そのうち帰って来るのか。
ギムルの旦那は確か今日村に帰ると言っていたから、冒険者ギル
ドに昨日の面接した連中を迎えに行ったのかな。するとギムルたち
329
が村に向けて旅立ったならシューターは帰って来るな。
今いつ頃だ。昼飯時だから戻るならそろそろか。
﹁おいオッサン。水をくれ﹂
オレがゴブリンの番台にそう言うと、番台は手を出して来やがっ
た。
﹁何だよその手は﹂
﹁金だよ薪代、払うもん払ってくれないと水は出せないな﹂
﹁馬鹿野郎、水っつったら飲み水だろう﹂
﹁馬鹿はあんただ、お嬢ちゃん。飲み水だって湯を沸かすだろう、
ほれ銅貨一枚払いな﹂
ケチくさいやつだぜまったく。
オレはポケットを探ろうとしたが、ブラウスと下着一枚で降りて
きた事を思い出した。しかもオレは金なんて持ってねえ!
ちくしょうめ。しょうがないのでオレ様は井戸水をもらって、芋
の酒を割って飲んだ。
すきっ腹に向かい酒は、胃に沁みた。
◆
いつまでたってもシューターは宿に戻っては来なかった。
いいかげん、そろそろ日が暮れはじめるんじゃないかとオレが不
安を覚え始めた頃、オレの胃袋も限界になってしまったので、携帯
食料の不味いビスケットとワイバーンの干し肉を食った。本当は茹
でて雑炊にしようと思ったのだが、薪代も払えないのでしょうがな
い。
330
そもそもオレは所持金ゼロだ。
シューターがいなければまともに飯も食う事ができねえ。
べ、別に無計画に生活をしてきたわけじゃないぜ! 集落に残し
てきた妹が不自由しない様に、ちゃんと金を置いてきただけだぜ!
けどまあ、いざという時の金ぐらいは持っておくべきだった。今
のオレが持っている金目のモノといえば、せいぜい首飾りにして吊
っているワイバーンの逆鱗だけだろう。
こうずか
こいつは猟人として自分の腕前を証明するものになるし、金持ち
の好事家が集めているという話しは聞いた。何でも砕いて薬にする
らしいね。
冒険者ギルドの部位換金カウンターに行けばいくらかにはなるだ
ろうか。シューターの足取りがつかめない時はそうするか。
そう思いながら昨日たどった道を通って冒険者ギルドに向かった。
オレは田舎者だが猟師である。道順をいち度で覚えるのは必須スキ
ルだ。
などと思っていたら冒険者ギルドのカウンターに到着した。
﹁軽装の戦士さんなら、朝早くにこちらにこられてから今日は戻っ
てきていませんよ﹂
昨日とは違う女の受付が、オレに対応してくれた。
困った、シューターのやつここにも戻ってきていない。いったい
どこにいったんだよ⋮⋮
﹁ひとつ聞くんだが﹂
﹁はい何でしょう?﹂
﹁ところでこいつを見てくれ、どう思う?﹂
﹁⋮⋮どう思うって、すごく立派な逆鱗ですね。ドラゴンの仲間で
331
すか?﹂
﹁ワイバーンさ。オレ様はこれでも猟師になって過ごした冬の数だ
けワイバーンを仕留めてきたんだ﹂
﹁なるほど。で?﹂
オレが熱心に自慢をしてみたが、受付の女はまったく相手にして
くれなかった。
﹁つ、つまりだな。ここの換金カウンターで、この逆鱗は幾らぐら
いになると思う?﹂
﹁そうですねえ。銅貨二〇枚ぐらいでしょうか﹂
﹁銀貨一枚もないだと?﹂
﹁あくまで買い取り価格ですからねえ﹂
﹁それじゃ飯もまともに食えないじゃねぇか。オレ様は腹が減って
るんだ、もう少し高く売れるところを紹介してくれよ⋮⋮﹂
銅貨二〇枚枚の価値なんてのは、きっとこの街じゃ酒を呑んで飯
をたらふく食えばあっという間になくなる。
集落よりもずっと物価が高いんだ。
シューターを探している間に資金が尽きたら、オレはどうすりゃ
いいんだ⋮⋮
﹁何とかしてくれ。頼むよ!﹂
﹁いやいやお客さま。お客さまはご自身でワイバーンを仕留められ
る実力がおありなのですから、ここはひとつ冒険者ギルドに登録さ
れた方が、将来的にもいいと思いますよ?﹂
﹁⋮⋮ふむ﹂
受付嬢の言う事もまあ確かにもっともだ。
オレは猟師だからモンスター討伐なら簡単にできる。持ってきた
332
狩猟道具が心もとないが、コボルトや暴れグマぐらいだったらどう
にでもなるしな。
それに、冒険者は別にモンスター狩りだけが仕事じゃないと聞い
た事があるぜ。
﹁その話、詳しく聞かせてくれ。冒険者ギルドに登録するには金と
か取られねえんだろな?﹂
﹁わかりました。それではこちらの登録カウンターにどうぞ。もち
ろん登録費用はありませんからご安心くださいね﹂
ニッコリ笑った受付嬢にフンと鼻を鳴らして返すと、オレは隣の
カウンターに移動した。
◆
﹁あー。オーガの緊急討伐クエストは、こちらで受付をやってまー
す。オーガ退治のパーティー結成はこちらになりまーす。臨時で野
良パーティー集めてまーす﹂
オレは今、冒険者ギルドの入り口で呼び子をやっている。
即金でもらえる仕事をくれと受付嬢を脅したら、この仕事を振ら
れた。
時刻はもう陽が暮れはじめていたけれども、近郊の村でオーガの
群れが現れたというのでギルドの前は活気づいていた。
オレ様もこのパーティーに参加した方が絶対に分け前が多いんじ
ゃないかと思ったんだけど、これが終わったら飯を奢ってくれると
受付嬢が言ったから、そうした。シューターがいつまでも帰ってこ
ないから、これはしょうがないんだ。
清算が終わるのを待っていたら明日以後になっちまう。
333
﹁オーガの討伐クエストですー。緊急ですー。参加可能な方は入口
の特設カウンターで申請してくださーい。すでに参加された方はこ
ちらに集まってくださーい﹂
これはしょうがないんだ。シューターが突然消えたからしょうが
ないんだ。
シューターの馬鹿野郎めが!
閑話 その頃のシューターさん
﹁びえっくしょい!﹂
ようじょのヒモパンの大事な部分を丁寧に手洗いしていたところ、
俺は盛大にくしゃみをした。
全裸のせいかな?
334
閑話 その頃のニシカさん ︵※扉絵あり︶︵後書き︶
︵申ω`︶
335
31 ダンジョン・アンド・スレイブ 6︵前書き︶
ダンジョン攻略編、再開です。
336
31 ダンジョン・アンド・スレイブ 6
むくっ、起きました!
朝を迎えると俺は息子を覚醒させていた。
ポンチョにくるまって寝ていたのだけれど、問題はポンチョが上
半身をすっぽり隠してくれるだけで、下半身は丸出しという事だっ
た。
悲しい事にダンジョンの中でも生理現象が現出するわけで、俺は
朝から息子が元気だったのだ。パーティーメンバーのッヨイさまは
ようじょだ。これは教育上よろしくない。
という事で、雁木マリが朝から不機嫌に俺を蹴り飛ばしてきた。
﹁お、お前という男は。いったい朝から何てものをおっ勃ててるの
よ!﹂
勢いよく足蹴にされたので、俺はあわてて起きながら息子を庇っ
た。
そうしなければ怒り狂った雁木マリに、息子まで児童虐待されか
ねなかったからだ。
﹁痛ぇ、やめろよマリ。俺がどうしたっていうんだよ。俺たち仲間
だろ?!﹂
﹁ガンギマリー、どれぇがどうしたのですか?﹂
﹁この男、事もあろうにあたしたちの前で、ちちち⋮⋮アレを勃起
させていたのよ! この変態!﹂
﹁全裸だけど俺は変態じゃねぇ! ただの生理現象であって、俺が
健康な奴隷男である証拠だ!﹂
337
とまあ、朝からひと波乱あったわけである。
ッヨイさまにいらぬ心配をかける前に俺の息子が落ち着きを取り
戻したので、雁木マリはそれ以上言わなかったが、それでもいろい
ろ気になっていたらしい。
﹁あ、あれがただの生理現象って本当なの﹂
﹁本当だ。モノの本によれば男は生命の危機を感じると、元気にな
るというぞ﹂
﹁嘘じゃないでしょうね?﹂
ダンジョン攻略の準備中、コソコソと雁木マリがそんな事を質問
して来た。
﹁さあ俺も専門家じゃないからな、そんな事はわからんぜ。だけど
バジリスクだっけ、そりゃドラゴンの親戚相手に戦うんだから生命
の危機っちゃ生命の危機だろ﹂
﹁確かにそうだけれども。そ、そのッヨイの前であんな事、できる
だけ見せないでもらいたいわね。き、教育上よろしくないわ﹂
﹁いや、すまんことをした。お前も年頃だしな、それに嫌な事を思
い出させたかもしれない﹂
﹁そ、それはいいのよ﹂
顔を桜色にした雁木マリはお茶を濁して、ダンジョン内のマップ
で表情を隠してしまった。
さて問題のダンジョン攻略である。
昨日の行程は、前回のアタックでッヨイさまと雁木マリが調査し
ていた入り口付近と表層を通って、中層部分までやって来ていた。
ッヨイさまが最初に説明していてくれた通り、このダンジョンは
数日の行程でアタックできる程度に比較的小規模なものという事だ
338
が、それは過去の踏破者が作成したこのダンジョンのマップから読
み取ったものだ。
ただしそれは十五年前に入ったこのダンジョン最後の踏破者のマ
ッピングを複写したものだった。
これとは別にッヨイさまが今回、改めてダンジョンへのアタック
にあたり新規のものを作成している。
理由を聞いたところ、
﹁中には以前の攻略時と経路が変わっている様な、そういう仕掛け
がある本格的な魔法装置が機能しているダンジョンもあるのよ。古
代人が作成した、ね﹂
雁木マリがそう教えてくれた。
古代人恐るべし。
﹁そんなダンジョンはめったにないわ。でも事前のチェックを怠っ
た事で複数同時攻略のパーティーが連携を失って、モンスターに各
個撃破された事がある﹂
﹁そういう経験があるのか﹂
﹁それが南にある巨大な猿人間のダンジョンだったわ。ッヨイとは
そのダンジョン攻略で知り合ったの﹂
なるほど。そういう経験に従ってふたりは緻密なマップ作製を怠
らなかったのか。
待て。もしかするとそのダンジョン攻略で、雁木マリは⋮⋮
いやそれ以上は考えまい。
﹁このダンジョンは心配ないのですどれぇ。魔法装置のある様な遺
跡タイプじゃないし、バジリスクがいるだけなのです﹂
﹁そうですね。ッヨイさまがお利口さんなので、どんな時も手を抜
339
いていないだけですもんね﹂
﹁えへへ﹂
よしよしすると、ようじょは嬉しそうに口元をほころばせた。
﹁でも自然洞窟系のダンジョンでも洞窟の崩落はあるのです。だか
らしっかりマップ情報はチェックしておくと、後発の冒険者にとっ
ては非常に有効だといえるのですどれぇ﹂
﹁とてもよい心がけだと思いますッヨイさま。無事にひと仕事おえ
たら、冒険者ギルドに提出しましょうね﹂
﹁はい、どれぇ!﹂
うわようじょかわいいなぁ。
むかし俺が大学生だった頃、いつもお世話になっていた先輩空手
家の息子さんの相手をしていた。
ベビーシッターというほどではない。
そもそも息子さんは当時三歳ぐらいにはなっていたと思うので、
本当に幼児にかかるだろう苦労というものはなかったわけだが、よ
く肩車をせがまれたり一緒に昼寝をしたりなんて事をしたもんだ。
ほんの少しの間、自主稽古中の先輩の代わりに相手していただけ
だから本当の苦労は分からないけれど、お子さまのかわいさの、い
いところだけを集めると、今のッヨイさまを相手にしている様な気
分になる。
ッヨイさまは利発的なので、とてもお相手をしていて心地がよい
のである。
だが早まるな。俺は決してロリコンではないし、過去の俺もショ
タコンだったわけではない。ちょっとだけうわようじょきゃわいい。
って思っただけなのだ。
ようじょはかわいいから、仕方ないね!
340
﹁では出発するわよ﹂
ッヨイさまにデレデレの俺に呆れた顔を浮かべた雁木マリは、手
元に光の魔法を現出させるとダンジョンの先に進んだ。
あわてて荷物を背負い、ッヨイさまと手を繋いで後に続く。
その後モンスターはマダラパイクに遭遇したり、例のチョウバエ
を見かけたので叩き潰したりしながら進んだ。
いくつか側道になっている場所を確認したが、そういう場所がモ
ンスターのねぐらになっている場合が多いので、きっちりとマッピ
ングしていくついでに討伐しておく。
そして懸念というほどではないが、今朝がたの話題にも上がって
いた洞窟の崩落場所を発見したのである。
◆
﹁道が崩れているわね⋮⋮﹂
手で触りながら、本来なら奥に続いていくだろう洞窟の崩落個所
を前に雁木マリがため息をついた。
﹁崩落したのは最近ね、まだ洞窟の天井が経年変化した形跡がない。
一年か半年か、そんなにまだ経っていないかもしれないわ﹂
照明魔法をかかげる雁木マリにつられて、俺もランタンを持ち上
げた。
雁木マリが長剣を引き抜くと、背伸びをしてガリガリと崩落した
天井部分を確かめている。
341
逆にッヨイさまはしゃがみこんで、崩れた土の感触を確かめてい
た。こちらは俺がランタンを持ち上げてしまったので、自前で小さ
な魔法の照明を作り出していた。
魔法、便利だね。
雁木マリも使えるんだから、俺もいつか覚えられるよな。
﹁どうも自然に崩落したという感じでもないですねえどれぇ。ここ
だけ洞窟が少し狭まっているので、無理やり何かが通り抜けるため
に、洞窟の天井や壁をこすった感じがするのです﹂
ようじょはそう言って、壁や天井、それから地面を観察した。
﹁しっぽのあとがあるのです﹂
﹁ほう。これは確かに尻尾のあとね。マダラパイクのものとは違う
わ﹂
ふたりの冒険者が顔を寄せ合う。
なるほど。図体のデカいバジリスクが、恐らくここを通り抜けた
ために崩落したというわけか。
﹁迂回路は?﹂
﹁ないですガンギマリー。この先の地底湖まではこのルート一本な
のです﹂
﹁じゃあ、バジリスクがあたしたちのいる側に来るためには、ここ
を通る必要があるわけね。土は、そんなに硬くないから、また強引
に通過する事もできるかも﹂
﹁そうですねえ。魔法でッヨイがこじ開けます。どれぇはこれを持
っていてください!﹂
立ち上がったようじょが、俺にダンジョンの地図を渡した。
342
複写したマップと、マッピング中の自作品両方だ。
しおり
するとようじょはパラパラと魔導書をめくり、そこに栞を挟んだ。
﹁ちょっと強引に穴をこじ開けるわよ。あんたも下がって背を向け
ていた方がいいわ﹂
﹁大丈夫かよ。無理やりやったらまた崩落するんじゃねえのか﹂
﹁どうかしらね。他に方法もないし、強引にといっても瞬間的な力
で突破するわけじゃないから。見てなさいよ﹂
雁木マリが説明してくれたので、俺はうなずいてマリとともに背
を向けた。
すると背後で空気の感触が変わるのを何となく実感した。
これまでようじょが使っていた魔法は、いわゆる照明を発光する
魔法であるとか、どれも実用的なものだ。今度のはもっと本格的に
魔力を使うものなのだろうか。
ヒュンと股下がそら寒くなるのを感じて、俺は股間を片手で押さ
えた。
すると隣の雁木マリがとても嫌そうな顔をする。
﹁何やってるのよこんな時に﹂
﹁タマヒュンってやつだぜ。何か股間の心地が悪い﹂
その直後、ズモモモモという様な妙な効果音が発生して、やがて
俺の背中に小石や土がバチバチと叩き付けられた。
ちょっと俺、全裸ポンチョなんですけど。ケツは丸出しなんです
けど。
痛い! 小石痛い!
やがて魔法がおさまったらしく﹁ふぅ﹂というようじょの吐息が
343
聞こえた。
うまくいきました! という声を俺は期待していた。元気なッヨ
イさまならそういう返しを普段ならするはずだ。
ところがいつまで経っても言葉が無いので雁木マリが振り返り、
俺も続く。
すると、俺の視界には信じられないものが飛び込んできた。
﹁あれは?﹂
﹁し、知らないわよ﹂
﹁どう見てもドラゴン系の何かですよね﹂
﹁そうだけど!﹂
﹁例えて言うなら、ティラノサウルスが四足歩行になってトサカを
生やしたような感じですよね﹂
﹁そんな例えはどうでもいいわ! ッヨイ下がって!﹂
ッヨイさまの魔法で崩落した土砂を吹き飛ばしたところ、明らか
にトカゲの親戚の様な姿をした軽バンサイズのモンスターがいた。
こんにちは、バジリスクさん!
俺たちは荷物や道具を放り出して、武器を構えた。
344
32 ダンジョン・アンド・スレイブ 7
突然現れたバジリスクに、俺は身構えた。
片手に持ったメイスは、いかにもライトバンほどのサイズがある
地を這うトカゲの暴君には心もとない様な気がしたが、頼れる武器
はこれしかない。どうやら短剣は、重厚なうろこの鎧をまとった相
手には通用しなさそうだった。
もしも弱点があるとするならばワイバーン狩りの名人、鱗裂きの
ニシカがそうしていた様に一撃必中で眼を射ぬくしかないわけだが、
弓は無い。
こんな事なら村から弓を持ってくればよかったぜとも思ったが、
あの技はニシカさんがいなければ成立しない。
弱点はどこだ。
人間に置き換えれば眼以外なら鼻頭、耳、呼吸器が集中する部分。
子供の頃に読んだモノの本によれば、恐竜は脳を複数個所持つなん
て書かれていた気がするが、だとすると脳を揺らすという行為も果
たしてどこまで効果的かはわからない。
その上、記憶もあいまいだ。
ドーモ、バジリスクさん! ひとつ手加減をお願いします!
そんな事を必死で考えていると、ようじょが魔導書を広げて例に
よって栞を特定のページに挟んでいた。
﹁ッヨイさま、下がって!﹂
﹁大丈夫なのですどれぇ、ッヨイがまず一撃を入れます!﹂
345
手を引っ張ろうとした俺はようじょの言葉で躊躇した。
いや相手はライトバン=トカゲだぞ?!
ゴルルルル、とバジリスクが低い唸り声を上げた。どうやら相手
も俺たちといきなり邂逅した事で戸惑っているらしい。
先手を取るならば今なのだが、ご主人さまを引き下がらせて俺が
飛び出るべきか⋮⋮
﹁お前、ッヨイの一撃が終わったら入れ違いに突入するわよ﹂
﹁いいのかよッヨイさまに任せて!﹂
﹁見てなさい、ッヨイは強いわよ⋮⋮﹂
雁木マリにたしなめられて俺は思いとどまった。
よし、一撃を食らってどれだけバジリスクの体力を削れるかはわ
からないが、その後に柔らかい懐を攻めるか、可能なら鼻っ柱に一
撃だ。
﹁倒す必要はないわ。次の一撃まで相手をけん制︱︱﹂
雁木マリがそう言い終わるよりも早く、ようじょの魔法攻撃の準
備が整ったらしい。
全身にオーラをまとったゴブリンの子供が、圧倒的である様な存
在感をまき散らす。
そしてようじょの手元が印を踏んで、
﹁フィジカル・マジカル・どっかーん!﹂
次の瞬間に、洞窟の地面から次々と触手が伸びた。
戸惑って攻めあぐねていたバジリスクに、次々とそれが襲いかか
る。
346
触手形状のうねうねしたもの、それから明らかに楔の様に尖った
もの、それらが複数入り乱れて下腹からバジリスクを攻撃した。
﹁今よ、左右別れて攻撃!﹂
何の打ち合わせも無く、俺は雁木マリに急かされて攻撃態勢に移
った。
雁木マリはようじょに信頼を置いているのか、まったくその動き
に焦りや不安が無い。
地面から伸びた棘の数本は、確かにバジリスクの腹を何本かが差
し込んでいた。
当然抵抗した地上の暴君は後ろ脚で棹立ち姿勢を取ろうとしたが、
ここは洞窟の中でもかなり道幅が狭まっている場所である。
それができないために一瞬前足を浮いただけで、うねうねした触
手に胴体が絡まれて大地に引き戻された。
﹁行けぇ!﹂
隣で雁木マリの手先から、先ほどまで小さな照明魔法だったそれ
がテニスボールほどに燃え上って、地上の暴君の顔を攻撃した。
威力がどれほどのものかまではわからない。けれども確かな手ご
たえがあって、バジリスクが咆哮した。
ドオオオオンという、洞窟の隅々にまで響きわたるドラゴンの仲
間たち特有の恐怖の戦慄だ。
俺は必死になって踏みとどまろうとするが、やはり駆け込んでバ
ジリスクの側まで来たところで棒立ちになってしまった。
だが雁木マリは違う。
ファイアボールを放った後、立て続けに何かのカプセルポーショ
ンをキめて、バジリスクの咆哮を無効化させていたのだ。
347
なんて頼もしいやつだ。
そして硬直した俺を蹴り飛ばすと、自らも長剣を逆手に持って、
バジリスクの額に一撃を入れたのである。
﹁はあああああっ!﹂
﹁グオオオオン﹂
やばい。
俺は直感的に、硬直が解けた瞬間には駆け出していた。
バジリスクの事を俺は四足歩きのティラノサウルスと比喩した。
だがあれは間違いだ。
こいつは熊の様な存在だ。前脚の一撃を食らってしまえば、雁木
マリは一瞬で殺される。
だから駆けだした俺は雁木マリに飛びついて、あわや彼女の首を
消し飛ばしかねないチョップの一撃を回避した。
そのまま地上を転がって受身を取りつつ、短剣を引き抜いて地面
に刺す。
﹁これを使え!﹂
雁木マリの長剣はバジリスクの額に刺さったままである。手を離
したから今命があるのだが、彼女にはもう武器が無い。だから俺の
短剣を使ってもらう。
俺は少々心もとないが、メイスでどこかに攻撃をするしかない。
拘束されているが暴れ続けるバジリスク。
特に尻尾の周辺が危険そうだ。そしてッヨイさまの拘束魔法はそ
ろそろ限界らしい。
﹁どれぇ! もう少しだけ時間稼ぎできますか?!﹂
348
﹁何とかしてみます﹂
ちょっと厳しいなぁ。
眼を狙うのも厳しいが、他があるとしたらどこだ。耳か。耳だ!
うねうねの拘束が緩みそうになった瞬間に、俺は大地を蹴って走り
出し、おもいきりバジリスクの耳の穴に一撃叩き付けてやった。
ドオオオオオオンッというかつてない怒声で、俺は吹き飛ばされ
た。
痛みか、それだけでは無く怒りか。
そのバインドボイスには衝撃の魔法でも乗っている様に風圧を叩
きつけた。
怯むな立ち上がれ!
視界の端に、背後に走り込む雁木マリがいた。
やはりこの女、実戦経験があるからだろうか、少々の不具合があ
った程度では心が折れないらしい。
その雁木マリがバジリスクの尻尾先端を斬りつけた。
後ろにバジリスクの意識を持っていかせるつもりか。
俺も立ち上がると、びるびるの泥触手から抜け出したバジリスク
の隙をうかがう。ヤツめの意識は俺と雁木マリのどちらに向けるべ
きか迷っているらしい。
だがその戸惑いは命とりだったな。
何しろ、ここは人工遺跡ではなく自然洞窟だ。ダンジョンの道幅
が一定していないので、地形を使えば人間さまの方が有利に戦える
んだ。
ッヨイさまがいる方は洞窟の幅が狭くなっていて、俺の側は広さ
が少しあるが、ここで向きを変えるにもバジリスクには大変だろう。
そして雁木マリのいる場所はまた狭まっている。
349
無理にでも向きを変えようとしたのが失敗だったね、熊トカゲく
ん。
﹁脚をやる!﹂
﹁すぐに頸根を断つわ!﹂
意志疎通があったわけではないが、ほぼ同時にそう叫んだ俺と雁
木マリは、やはりほぼ同時に動いた。
向きを変えようと左前脚を差し出したバジリスクに、俺はメイス
を思い切り振りかぶって攻撃してやるつもりだ。
狙うは小指辺りに痛恨の一撃だ。
どんな硬い動物だって、面積の狭い場所は防御力も低いんだぜ。
問題は攻撃した後がノープランという事だろうか。
まともに避ける場所が足りないダンジョンでは、受身回避をしな
が戦いづらい。
雁木マリさん、修道騎士だったよね。村の教会堂の助祭さんたち
とは同じ神様を崇めてるのかな。だったら癒しの魔法頼むぜ。
俺はバジリスクの小指の骨を粉砕してやった。
当然の様に、いや想像以上に痛がったのだろう。
天井が低い事も忘れて後ろ脚立ちになったバジリスクである。そ
してその瞬間にポーションをガン決めで狂人化した雁木マリが、首
元に短剣の一撃を見舞ってくれた。
だが当然の様に暴れたバジリスクの前脚で、いとも簡単に雁木マ
リは弾き飛ばされる。
さすがに庇ってやれない。俺も絶体絶命だ。
﹁どれぇ! 逃げてください﹂
350
そんな言葉が俺たちを救ってくれた。
俺の、俺たちのようじょさん。小さいゴブリンの冒険者の手元か
ら、グリモワールから、炎を帯びた一本の土の槍が翔け走った。
まさに処刑人の一撃。大地の炎槍はバジリスクの左胸を貫いた。
見とれている場合ではなかったが、わずかの間それを観察してし
まった俺である。
心臓を貫かれて崩れ落ちてくるバジリスクを避けながら、見苦し
く這いずりまわって俺は逃げた。
うわようじょッヨイ。じゃなくて、強い。
もし初撃でこれが可能なら、俺たちの出番はまるでなかったな。 ◆
ぴくりとも動かない雁木マリに俺は不安になったけれど、こいつ
はまだ生きていた。
﹁大丈夫かよ﹂
﹁ポーションを、水色のポーションをちょうだい⋮⋮﹂
口だけを動かして、大の字になって転がっている雁木マリは、必
死の視線で俺に訴えた。
言われた様に、弾帯みたいにベルトに装着していた無数のポーシ
ョンの中から、水色のものを外す。そして戦闘中にどこかへいって
しまった注入器具を探して拾い上げた。
セットの仕方は簡単だった。
ガラス玉のカプセルをどうやって人体に注入させるのか不思議だ
ったが、雁木マリの土で汚れた二の腕に乗せて、注入の押し込み口
に力を入れるとそれは雁木マリの体へと移転していった。
351
﹁ふああ、脱力するぅ﹂
薬でもキめた様な顔をしやがるぜ。
むかし俺はオカマバーでボーイをやっていた事がある。剃り残し
のヒゲが青々と残ったママが閉店後の掃除をしている時に、野太い
声で悲鳴を上げた時の事ふと思い出したのだ。
店が入っている雑居ビルの共同トイレから注射器が見つかって大
騒ぎになったのだ。どうやら誰かが違法の薬物をここで摂取したの
だろう。
案の定、雑居ビルにある階段踊り場で、どこかの店の客が脱力し
て転がっていたのだ。今の雁木マリは、その顔をしている。
大丈夫かこいつ。
﹁しばらくすれば回復するわ。今使ったのは回復のポーションよ﹂
とても幸せそうな顔をした雁木マリがそう言うので、まあ納得し
ておいた。
ッヨイさまは。
小さな俺のゴブリンのご主人さまは、心配そうに雁木マリに膝枕
なんかしてやっている。
﹁ガンギマリーはすぐ無茶をするのでいけないのです﹂
﹁しょうがないじゃん。あたしはけん制役で、あんたが主攻撃役な
んだから。もう少し戦うスペースがあればやり方もあったんだけど、
咄嗟近接戦だからしょうがないね﹂
そう。咄嗟戦だった事と、戦うスペースが狭すぎた事で俺たちは
苦戦を強いられた。
雁木マリのファイアボールも、たぶん一定の広さがあればけん制
攻撃としても何射かできたのではないか。
352
だがあれは命中すると爆発するので、何発も打ち込めば俺たち自
身の視界を妨げるしな。
使いどころが難しい。
﹁それより。平気そうな顔をしていますけど、どれぇは大丈夫なの
ですか?﹂
﹁どういうわけか無傷ですッヨイさま﹂
正確には無数の擦り傷、打ち身はあるだろう。
けれども体を普通に動かす分には無理のない状態だった。
﹁このまま雁木マリーの回復を待って、地底湖の状態だけ見ていき
ましょう。マッピングの詳細を取り直すのは、今回はちょっとあき
らめるのです﹂
﹁そうですね。マリにもあまり無理はさせられませんし、それがい
いでしょう﹂
もうこのダンジョンの主は倒したんだしな。
振り返った俺は、雁木マリの剣が額にささったまま転がっている
地上の暴君を見てそう思った。
353
33 ダンジョン・アンド・スレイブ 8
戦闘の直後というのは、もっとも油断する瞬間である。
残念ながら俺はそれをリアルで体験した事はなかったが、モンス
ターをハントするゲームの中でならある。
沖縄の古老の家に居候をしていた頃、古老の孫娘とそのゲームに
興じている時に何度か経験したものだ。
ターゲットのモンスターを時間内に仕留めてぬか喜びし、ふたり
でテレビモニタを前にあそこがよかった、ハンマーが綺麗にヒット
した、部位破壊もバッチリだと言い合っていたところ、画面の中に
今回のターゲットモンスターではない、あちこちのマップをうろつ
いている凶悪なモンスターが登場したのである。
当然、負けた。
だから油断をしてはいけない。
ましてやここはリアルの世界である。
リアルは命を落とす。そしてここは優しい世界じゃない。
﹁どうしたのですかどれぇ?﹂
手を繋いでいたようじょが俺を見上げた。
﹁いいえ何でもありません。バジリスクを仕留める事ができました
が、俺は元猟師であり元戦士ですからね。常に油断はしないわけで
す﹂
﹁さすがどれぇ! お買い得などれぇでしたね!﹂
﹁ありがとうございます。ありがとうございます!﹂
354
お褒めの言葉に誠心誠意、俺は心から感謝した。
﹁でもでも、どれぇが大活躍しちゃったら、予定より早くどれぇと
バイバイしないといけません。どれぇ! どれぇはどこにもいかな
いで!﹂
﹁はい。奴隷めは、ッヨイさまがこれからもすくすく成長する姿を、
しっかり見届けますよ﹂
バツの悪い顔をして俺はフォローした。
村に帰りたいのは本心だが、大人としてはこんなようじょの顔を
見てしまって拒否反応を示すのも難しい。
俺が浮かべた大人の微笑に、雁木マリだけは振り返って不信の顔
を見せていた。
おい、雁木マリよ。今は何も言うな。
俺たちは今、バジリスクを仕留めた場所からさらに続くダンジョ
ンの深層、地底湖のある場所を目指していた。
先人のマップと実際の地形を見比べながら、ッヨイさまはマッピ
ングを再開している。
が、今回は主要なルートだけを描き込んで、細かい枝道について
は無視をする事を話し合っていた。
そもそも今の段階では、バジリスクの解体すらやっていない。
これが猟師としてならば大失格なのだが、今の俺たちがいるのは
冒険者パーティーである。
従って、一部の部位を持ち替えるだけにして、モンスターの大部
分は放置する事にした。
﹁あのバジリスクの遺骸、放置してたら他のモンスターのえさにな
って綺麗に解体されるんですかねえ﹂
﹁そうね。他のモンスターの腹におさまって、そいつが新たなこの
355
ダンジョンの主になるという可能性はあるけれども。マダラパイク
という大蛇は、放っておいて成長するとかなりの大型になるという
話だから﹂
﹁マジかよ﹂
﹁かなりの大型と言っても、さすがにバジリスクよりはマシだろう
けれども﹂
そんなやり取りをしながら、いよいよ地底湖の場所にやって来た。
地面は、地底湖の側という事もあるのだろうか、かなり足場がぬ
かるんでいたので、油断していると足を滑らせる可能性がある。
ブーツを履いていなかったらやばかった。恐らく粘土質で、直に
歩いてあまり気持ちの良い感触ではなかろう。
﹁思ったより広いですねどれぇ﹂
﹁本当ですねッヨイさま﹂
俺たちは茫然と、学校の体育館ほどはあるだろうスペースをぐる
りと見渡す。
ダンジョンと言ってもここは元が天然の自然洞窟だ。
そこを利用して古代人たちがつくった神殿だった様で、ほんのい
くつかの場所に人間の痕跡を見る事ができた。
壁面の削り出された柱の様なもの、それから精巧な天使か使徒か
何かの彫刻、歴史物語の様に作り込まれている場所もあるが、風化
著しくただの岩にもどってしまった場所もある。それがたぶん、洞
窟の上を貫いて太陽光が降り注いでいる、地底湖の対岸側にある女
神像だろう。
騎士修道会に所属する修道騎士の雁木マリが、片膝をついて祈り
を捧げていた。彼女の出身は日本であるけれど、今の信仰対象はあ
の女神なのだろう。
356
﹁大地を産みし母なる女神様。日々の糧を感謝します⋮⋮﹂
村の葬儀でも司祭さまが口にしていた言葉に、今眼の前で雁木マ
リが口にしたものがあった気がする。
そうだ。死者は異世界へと転生していく話。ダンジョンから無事
にブルカへ戻ったら聞いてみるのもいいかもしれない。
ッヨイさまと雁木マリ、それぞれの反応をしばらく見やった後に、
このだだっ広い地底湖のドームを捜査しなければならない。
俺たちは戦闘を終えた後でそれなりに消耗しているので、多少の
焦りがあった。
もうバジリスク並のモンスターは存在しないだろうが、マダラパ
イクは油断すればッヨイさまぐらいは絞め殺して飲み込めるぐらい
の大きさがあるのだ。
油断していい相手ではない。
﹁よし、ざっと周辺の事情だけは探索しておきましょうねぇ。どこ
かにバジリスクのねぐらになっている場所があるのです﹂
﹁わかったわ。手分けしてさっさと終わらせましょ。シューターは
あっちをッヨイと見てきなさい。あたしは反対を見るわ﹂
ッヨイさまと雁木マリがうなづきあって動き出す。
お、俺の事ちゃんとシューターって呼んでくれたじゃん。嬉しい
じゃねぇの。
﹁地底湖の対岸はどうする﹂
﹁泳いで誰かが見に行くしかないわね。お前、全裸なんだし行きな
さいよ﹂
またすぐお前呼ばわりに戻ったので、俺は悲しくなってッヨイさ
まの手を引いてガンギマリ女から離れた。すぐこれだよ。俺はちゃ
357
んとマリって呼んでるのに。今度からマリちゃんにした方がいいか?
◆
﹁これはあかんやつですわ﹂
俺は見てはいけないものを発見した。
大きな玉である。大きさは潰れたバスケットボールぐらいの玉で、
長い楕円。いや卵型をしている。
というか卵そのものだ。
ニワトリの卵を連想するとそれは違う。もう少しノッポな感じだ
と思えばいい。
モノの本で小学生頃に見た事があるものに酷似していた。恐竜の
卵の化石に。
﹁ど、どれぇ!﹂
﹁バジリスクの卵でしょうかね。あるいはマダラパイクか⋮⋮﹂
﹁ッヨイもバジリスクそのものを見るのがはじめてなので、わから
ないのです⋮⋮﹂
そのバジリスクのものと思われる卵がひとつふたつ、そしてみっ
つめが殻だけだった。
孵化した後なんだろうか。なんだろうな。
するとそいつはどこにいる?
しゃがんだようじょが卵の殻を調べている。それで何か状況がわ
かるのか、俺はようじょの反応に期待した。
だが素人の俺でもわかることがある。卵があるという事は親がい
るという事だ。夫婦ペアだったという事なら、もう一頭バジリスク
がいるんじゃないかと。
358
﹁どうしたの?﹂
﹁とても不味い状況の様な気が、俺はする﹂
背後から声をかけてきた雁木マリに、俺は言った。
なによと不機嫌に鼻を鳴らしたマリだったが、それはわずかの事。
すぐにバジリスクの卵の顔を見て彼女の顔は硬直した。
﹁ひとつが割れている。孵化した直後なら、もうすぐこれも孵化す
る可能性があるわよ﹂
﹁無精卵じゃなきゃね﹂
﹁しかも、孵化した後だって言うなら、そいつはどこにいるのかし
らね﹂
疑問形ではあるが、それ以上に恐怖が言葉に張り付いている。
﹁親が、もう一頭いる可能性があるのです﹂
﹁バジリスクの親ですね、それは俺も考えました。さっき倒したの
はパパかな? ママかな?﹂
これは重要な問題だ。
もしもバジリスクがワイバーンと同じ様にオス個体とメス個体で
著しい大きさの違いがあるとする。オスの方がメスよりひとまわり
大きかった場合。しかも先ほど倒したのがメスだった場合。先ほど
のバジリスクより大きいと考えるのが、妥当だろう。
﹁いずれにしてもこのまま卵は放置できないわね﹂
﹁当然だ﹂
放置すれば新しいバジリスクをダンジョンから放つ事になるわけ
で、それによって被害がどこかで発生するかもしれない。
359
ブルカ周辺の村に出現した場合は、それこそ大混乱だろう。
俺は雁木マリとうなづきあうと、メイスを構えた。
孵化させるわけにはいかない。
﹁ッヨイさま下がってください。俺が卵を潰しますので﹂
﹁はいどれぇ!﹂
そう言って俺が思い切り振りかぶった瞬間。
﹁あ、﹂
ペキリ。と、卵が割れはじめた。
ペキベキバキベリっ。
殻が硬いからか、何度も嘴の先端でよいしょよいしょとやってい
る。
やがて手でいやいやをする様に暴れだしたそいつは、尻尾をふり
ふりしながら殻から外に飛び出してきた。
こんにちは、あかちゃん!
とても元気なバジリスクですよ!!
﹁キュイ?﹂
俺とバジリスクの雛が熱い視線を交わしてしまった。
◆
振り上げたメイスの降ろしどころを見失ってしまった俺は絶句し
た。
しまった、こんな事になる前に振り下ろせば、良心の呵責的なも
のはなかっただろう。
360
赤ん坊というのはどんな存在でも可愛く見えると言うが、視線を
下手にあわせてしまった俺は、この状態でメイスを叩き付ける事に
後ろめたさを感じてしまった。
﹁ど、どうするのよこれ﹂
﹁どうするって、言ってもなぁ﹂
﹁早くしないと、お父さんかお母さんバジリスクが帰ってきてしま
うのです。ひとまずここから離れたほうが﹂
俺と雁木マリが顔を見合わせていると、ようじょが俺の手を引っ
張った。
﹁逃げるってどこにですかね。マップを﹂
﹁この近くだと、地底湖の対岸の礼拝所のあたりに、隠れられる石
室があるのですどれぇ﹂
﹁泳ぐのか。俺は大丈夫だがふたりは﹂
﹁わ、わたしは鎧を捨てれば何とか﹂
﹁ッヨイは泳げません。どうしよう⋮⋮﹂
﹁キュイー﹂
ダンジョン地図を広げながら三人で顔を突き合わせて思案する。
時折、雁木マリが周囲を警戒した。
俺は別の手段もいちおう聞いておく。ようじょだけなら連れて泳
ぐことは、やってできなくはない。
けれども雁木マリが防具を放棄するというのは、いざという時の
事を考えると避けたい。荷物もここで放棄しなければとても泳いで
対岸には逃げられないだろう。
こんなところで雁木マリの水にはりついたノースリーブワンピー
スを見たいとは俺は思わないぜ。
361
﹁他の候補は?﹂
﹁元来た道を急いで引き返す手もあるかな。ガンギマリー、ポーシ
ョンで筋力強化のおくすりを摂取したら、移動速度はどれぐらい早
くなりますか﹂
﹁キュイキュイ﹂
﹁あまり意味はないわ。ポーションの効力が定着するのに少し時間
がかかるから⋮⋮﹂
ベルトにあるポーションカプセルの数を確認しながら雁木マリが
言った。
それでも地底湖を泳ぐよりはまだマシだ。
﹁そっちでいこう、やらないよりはマシだろうし。ポーションでア
ヘったらしばらく動けなくなるとかあるか?﹂
﹁大丈夫よ。ほんの数十秒、気持ちよくなるだけだから﹂
﹁やっぱりやばい薬じゃないだろうな﹂
﹁大丈夫ですどれぇ、騎士修道会のみんなはよくつかっています﹂
くそ、教団ぐるみでガンギマリーかよ!
俺が悪態をつきそうになっていると、雁木マリは手早くポーショ
ンをセットしだした。そして自分の注入器具を肌に押し当てる。
次はそして俺だ。
ふたりそろって顔面神経を緩めた俺たちだったが、いち早く回復
した彼女がッヨイさまを抱き上げた。
﹁あれぇ、ッヨイは?﹂
﹁ほら、ッヨイはまだお子さまだから無しね﹂
﹁ガンギマリー?﹂
﹁お前は荷物があるから、ッヨイはわたしが連れていくわ。それで
もヤバくなったら荷物は放棄して逃げる﹂
362
﹁了解だ。いざという時は俺が足止めをするから、あんたらはダン
ジョンの外に出ろ。まぁ俺は奴隷だから、ご主人さまを守る義務っ
てやつがあるしな﹂
﹁キュイ!﹂
俺たちがやり取りをしながら逃げる準備をしていると、さっきか
らバジリスクのお子さまが俺の脚にまとわりついてくる。
懐いてるのか?
﹁とにかく。いったんここを脱出して、応援を入れてアタックし直
す。死んだら終わりよ⋮⋮﹂
﹁わかっているさ!﹂
﹁はいなのです!﹂
俺たちは駆けだした。
だが、逃げる事は許されなかった様だ。
目の前に何と、ダンプカーがいた。ダンプカーサイズの、バジリ
スクだ。
﹁あ、これはもうだめかもしれんね⋮⋮﹂
ドオオオオオオオオオン!
その咆哮で、俺たちは硬直した。
363
34 ダンジョン・アンド・スレイブ 9
バジリスクの咆哮による硬直に見舞われていた俺たちの中で、い
ち早く正気を取り戻したのは雁木マリだった。
彼女は複数のポーションをキめているので、それだけ耐性が強か
ったのだろう。
茫然としていた瞬間に腕から取り落としそうになったッヨイさま
を抱きかかえ直しながら、マリは足で俺を蹴ってくれた。
たいへん女の子らしからぬやり方だが、両手がふさがってる現状
では俺も不満はない。
あわてて硬直化から脱却できた俺は、荷物しょいなおして逃げる
準備に入った。
その瞬間。
﹁あ、あかちゃん﹂
﹁ちょ、ッヨイ。ちょっと考えてるの!﹂
﹁でもこのままにできないし、ギルドに報告する必要があるのです
!﹂
﹁とにかく逃げるぞ!﹂
ッヨイさまが雁木マリの腕から落ちそうになった時に、猫ほどの
サイズしかないバジリスクの雛を拾い上げてしまったのだ。
対極にいるバジリスクは、当初出会ったライトバンほどのサイズ
のものよりもひとまわり大きいダンプカーだ。
足元には小さなバジリスクがいた。恐らくようじょが拾い上げた
雛の兄か姉だろう。
364
﹁けん制するわ!﹂
﹁今のうちに逃げる﹂
雁木マリが叫んだかと思うと、ようじょを抱くのとは反対の右手
にテニスボールサイズの火球を出現させた。
そのままバジリスクの顔面をめがけて放出する。
相互の距離は三〇メートルだろうか。
かなり近く感じるが、大きさに圧倒されてるからだろう。きっと
そうだと信じる他無い。
マリの行動を見届けるまでも無く俺は走り出して、元来たダンジ
ョンの細い道に走り出した。荷物はどうする、やはり捨てるべきか。
迷っている暇はないと思って、俺は捨てる事にした。
﹁ッヨイさまをこちらへ!﹂
﹁あたしの方がドーピング決めてるわよ?﹂
﹁マリはさっきのファイアボールで、適度にけん制してくれ!﹂
﹁いいけどっ﹂
いつの間にか追いついた雁木マリと並走しながら、ッヨイさまと
仔バジリスクを受け取る。
背後がどうなっているかは気になるのも確かだが、今は振り返っ
て現状を確認する暇は無かった。
それでも、怒り狂ったバジリスクが再びバインドボイスをまき散
らしている事は耳で、そして背中で体感できる。
今は体が咆哮に襲われる事を覚悟していたので、走りながら硬直
して転げる事は無かった。
だとしても恐怖で体がすくみ上りそうになる事は間違いない。
﹁ッヨイさま、照光魔法を!﹂
﹁わかっているのですどれぇ。あかちゃんを落とさないように﹂
365
﹁キイキイィ﹂
﹁わかっていますよ!﹂
荷物を捨てざるを得なくなった俺たちだ。最悪はバジリスクのあ
かちゃんなんて捨ててしまいたい。
そもそも、怒り狂ってバジリスク︵推定パパ︶が追いかけてくる
原因のひとつは、自分の子供を俺たちが誘拐したからに他ならない
だろう。
ヤツが恐竜かそれに近い程度に頭が回るやつだったら、自分の子
供を守るために戦うぐらいはするだろう。
子供の頃大好きだった恐竜図鑑か何かによれば、マイアサウラと
いう草食恐竜は子育てをしたらしいしな。ティラノサウルス・レッ
クスもまたそうだとかそうではないとか、モノの本で後日読んだ記
憶もあったはず。
バジリスクも産みっぱなしジャーマンならこんな事にはならなか
っただろうに、とても残念だ。
﹁くそ、思ったよりずっと脚が速いわ!﹂
ッヨイさまを抱きかかえているので直ぐ俺に追いついたドーピン
グ雁木マリも、また振り返ってファイアボールを打ち込むので遅れ
だす。
バジリスクの唸り声がどんどん近づいて来るところを見ると、あ
まりけん制のファイアボールは意味が無いのかもしれない。
それに、一度通った道とは言っても、ダンジョンの通路は暗くて
足元も確かではなかった。
俺たちはここでは部外者であり、猟師の鉄則に従えばこのフィー
ルドにおいてはバジリスクが頂点捕食者だ。やはり自分のフィール
ドで戦ってはじめて猟師は頂点捕食者になれるというのに、俺たち
は下準備が足りなかったという事だろうか。
366
油断したつもりはなかったんだがなぁ。
そんな焦りとも後悔ともとれる自虐を心内で渦巻かせながら、ッ
ヨイさまの指示に従って深層から中層にかかるあたりのルートを走
り続ける。
﹁どれぇ、ここを左です。反対側は行き止まりです!﹂
﹁わかりました。くそ、雁木マリは?!﹂
﹁大丈夫よ、あいつ通路が狭くなりだして全力出せないみたい!﹂
﹁キュイイイ!﹂
追いつかれる瞬間に、通路の幅が狭まったらしい。俺たちの倒し
ていたバジリスクより大型のオスというのは、そういう意味でも不
利なのだろう。
じゃあどうやってこのダンジョンに入ってこれたんだという話だ
が、きっと別に出入りできるルートがあるのかもしれなかった。
たぶん地底湖から流れ出る水道か、対岸の礼拝所のあたりに、地
図には記されてないルートがあったのだろう。
とんだ失敗のダンジョン攻略だったが、命あっての物種だ。
﹁もうすぐ今朝倒したバジリスクがいる場所ですどれぇ!﹂
そうようじょが叫んだ瞬間に、強烈な地震がダンジョン全体で起
きた。
違う。これはあのバジリスクが、細い通路を破壊しながら前進し
ようと通路にタックルをかけているのだ。
一度、二度、俺は足元がおぼつかない状態でふらつきながら、先
ほど一頭目のバジリスクを倒した場所を通過した。
﹁マリ、急げ!﹂
367
﹁このあたりは崩落しやすくなっています! 早く!﹂
﹁わかっているけど。ここ突き崩すよ!﹂
俺とようじょの叫びを無視して、雁木マリが洞窟通路の天井に向
けて一発、二発とファイアボールを打ち込む。
だが焼け石に水だ。雁木マリの火球の威力は、対人戦や自分とそ
う体格の変わらない相手には効果的な攻撃力があるだろうけど、洞
窟の岩面にはその効果も薄い。
﹁ッヨイがやります。どれぇ降ろして!﹂
﹁わかりました。雁木マリ下がれ、ここをふさぐぞ!!﹂
土魔法が大得意だと言っていたッヨイさまなら適任だ。お任せし
てもいいだろう。
﹁どれぐらいかかる?﹂
﹁息を止めている時間ぐらいだよ﹂
﹁それならもう少し下がっておきましょう﹂
雁木マリとようじょが短く会話する。
俺たちの顔を交互に見比べていたバジリスクのあかちゃんを俺は
受け取りながら、雁木マリと後退した。
ようじょもグリモワールを開きながら、例によって指定の場所に
栞を挟み込んでいる。
ズン、ズンと今もバジリスクのタックルは続いている。
きっとラッセル車の様に強引な全身ダックルを繰り返しているの
だろう。
さすが大地の暴君だぜ。もしかしたらあの勢いで地上に繋がる洞
窟の別ルートを切り開いている可能性がある。このバジリスクの勢
いならできるんじゃないかと思う。
368
俺はメイスを握りしめて、いつでも無駄な抵抗ができる様に準備
した。
腕の中では心配そうにバジリスクが震えている。
震えて、いるのだ。いっぱしの動物のあかちゃんの様に。
俺たちはとんでもないお荷物を拾ってきてしまったのではないの
か。こいつ、親が助けに来ている状況を理解していないかもしれな
い。
﹁いきます。フィジカル、マジカル。どっかーん!!!﹂
通路の向こう側に、バジリスクの鼻づらが飛び出した瞬間の事で
ある。
魔力の放出をはじめんとおかしな呪文を唱えたようじょから、暴
君に負けず劣らずの大地を震わす様な共振とオーラを放たれた。
そして地面から無数の棘が飛び出して通路の頭上を突き刺してい
く。
五本、十本、もっと。
今回はぴるぴる触手の方は出番なしだ。より攻撃的に天井の岩盤
を突き上げていく。
﹁もう十分ですッヨイさま﹂
﹁いくわよ!﹂
俺の言葉に頷いた雁木マリが、背後からようじょを抱き上げて走
り出した。
走り出したその瞬間からパラパラと天井が岩盤破片を落とす。
魔法の棘は今も天井をごりごりやっているらしく、徐々に迫って
来るバジリスクに土と岩盤を浴びせていた。
﹁おまけよ、紅蓮の炎よいっけー!﹂
369
逃げる途中に立ち止った雁木マリが、最後のファイアボールをよ
うじょの魔法が作り上げた土の柱に飛んで行った。
この瞬間に勢いよくダンジョンの通路は崩落して、バジリスクと
俺たちを繋いでいた唯一の通路は隔たれたのだった。
◆
荒い息をしながら、俺たちはダンジョンの外まで必死で駆け抜け
てきた。
規模として小さなダンジョンとは言え、二日かけて慎重に走破し
て来た場所をたぶん一時間ちょっとで走破したはずだ。
先日の昼間パーティーで休憩した場所、集落の遺構までやって来
る。それぞれはもうボロボロだったが、いったんは安心だった。
バジリスクが外まで出てくる気配は今のところない。
決していい事ではない。冒険者装備らしいものはほとんど全て放
棄して、ここまで逃げてきたのだ。
まともに戦えばたぶん勝ち目のないサイズで、そもそも俺の持っ
ていたメイスがいったいどういうダメージをあのダンプカーに与え
られるか想像もできなかった。
ぶっちゃけ、今こそ村に現れた冒険者の持っていたスパイクとい
う、龍種狩りに使う専用武器を使うべきだ。
ッヨイさまの魔法ですら、たぶんあのワイバーンには火傷を負わ
せる程度で終わるのではないか。
そうだ。雁木マリのドーピングを使ってスパイクを使おう。それ
がバジリスクを倒す方法じゃないかな。
あるいはニシカさんだ。彼女ならたぶん、最適な手段を提案でき
るのではないか。
370
﹁喉が渇いたな。シューター水は?﹂
﹁荷物は放棄して来た。水筒なら地底湖のドームがある場所で転が
ってるだろうよ﹂
﹁あかちゃんより水筒を死守すべきだったわね﹂
地面に降ろしてやった後はキイキイとこうるさいバジリスクのあ
かちゃんである。恐らく腹が減っているのであろう、最初のうちは
俺にまとわりついていたが、今は雁木マリの脚にかじりついている。
﹁くすぐったいわね。何なのよコイツ﹂
﹁マリを食べようとしてるんじゃないのかね。若いピチピチの女の
子だから﹂
﹁フン、冗談にしては笑えないわ。歯も無い様な子供に相手にされ
ても嬉しくない﹂
﹁何か餌になるものでもあればいいんだが⋮⋮﹂
﹁兎でも捕まえなさいよ、あんた猟師だったでしょ?﹂
自分の脚からあかちゃんを引きはがした雁木マリが、俺に押し付
けてきた。
﹁ッヨイが相手をしているのです。しばらく休憩を挟んだら、少し
でも早く街に戻ろう。いいですかどれぇ?﹂
﹁わかりました。何か食べれるものを探してきますね、あかちゃん
の﹂
﹁いってらっしゃいなのですどれぇ!﹂
ようじょの頭を撫でた後、大人しくしていろよとバジリスクのあ
かちゃんもなでなでして、俺は立ち上がった。
生憎と、狩猟道具の類は今ない。
弓があっても扱い切れるとも限らないので罠がいいが、こちらも
371
かかるのを待っている時間がない。
やはりこのファンタジー世界の住人は朝食を食べるべきだ。俺た
ちはまともに食事をしていないので腹が減っているのだ。
﹁ついでに水源が無いか探して来なさいよ。食べ物は期待していな
いから﹂
﹁おう﹂
周囲を見渡して、まばらに草と木と、岩や石ころが転がっている
風景を確認した。
兎や狐を捕まえる余裕はないな。
雁木マリの言う通り、俺たちの飯は諦めたほうがいいかもしれな
い。
最悪はあかちゃんを潰して食べるという方法も無くはないが、そ
こまで俺たちは飢えていない。まだ我慢できる。
あかちゃんが生きている方が冒険者ギルドに説明しやすいしな。
いや、それは自分自身への言い訳か。どうも殺さずに連れて来た
事を今もって後悔している。
俺は無意識にそこいらの大き目の石をひっくり返して、蛇はいな
いか探し回った。
むかしアパレルショップの店長とサバイバルキャンプ講習会をし
た時、蛇を捕まえて食べる訓練では大きな石の裏に潜む蛇を探して
回ったものだ。アオダイショウはどうしてあんなに不味かったのだ
ろうか。ヤツは悪食で、いいものを食っていないに違いない。
まさかマダラパイクみたいなのが出てきたら大変だが、大丈夫だ。
無数にひっくり返しているうちに、蛇を見つけた。
頭の形状は三角形をしていない。元いた世界のルールが通用する
なら、こいつは毒がないタイプだ。
何を食っているやつかわからんが、ネズミ専門の蛇ならたぶん美
372
味い。
ポンチョを脱いで腕に巻き付けると、まず蛇の首元を手早く押さ
えつけた。ブーツを履いていてよかったぜと思いながら、ポンチョ
を撒いた腕に巻き付いて来る蛇を強引に引き剥がすと、代わりにブ
ーツで蛇の頭を押さえつける。
急いで短剣で首を切り落としてやった。これであかちゃんのえさ
は確保したわけだが、後はご主人さまとその相棒の水を探さねば。
蛇も炙れば食えるから、まあ人間さまが食べてもいいな。
しばらく血抜きを兼ねて手にぶら下げながら俺は小川でもないか
と周辺を探った。
俺って文明人を少し前まで気取っていたけど、案外ワイルドに異
世界ライフできてるな。
なんて思うと、自然と俺の口元がニヤついてしまったのである。
373
35 誰が言ったか1匹見たら30匹
ここからも見える集落遺構を中心に、俺は水源を探し回った。
なかなか見当たらない。見回りのついでに、見つけた大きな石を
ひっくり返す作業を俺はやっておいた。二匹目のドジョウで蛇がま
た見つかるかとも思っていたのだが、そうも都合がよく見つかるわ
けでもない。
そして井戸の遺構を見つけた。筒状の大きな井戸の跡地を覗き込
んでみると、埋まっていた。
まあ、その昔存在した村だから、そうそう都合がよくも行かない
か。
しかしまだ諦めない。
かつてここに集落があったという事は、恐らく近くに川かあった
と考えるのが妥当だ。
四大文明︵今ではこの表現は適切でないらしいが︶の発生地もま
た大河を中心に出現したというぐらいだし、人間と水源地は常にセ
ットなのである。
つまり、その理屈に従っていると考えれば、この近くのどこかに
水源地があるはずなのだが。そう思いながら、少しだけみんなのい
るベースから離れた場所までやって来た。
はたして川は存在した。
ちょうどダンジョンの入り口がある丘の方向とも、街道が存在し
ている方向とも反対側になる場所である。
しかも低木林や広葉樹が茂っている地帯だったので、見逃してい
たのだ。
374
やはり俺の読みは当たっていたな、などと上機嫌で川辺までやっ
て来ると、ひとまずぶらさげていた蛇を置いて手をよく洗い、水を
飲んだ。
ここまでくれば生水は体にあまりよろしくない、などとは言って
いられない。
飲み過ぎないように軽くゆすぐ程度にして、続きはみんなを連れ
てきてからにしよう。そう思って姿勢を上げた時に俺は気が付いた。
この世界に来てひとつだけ以前と違うものを俺は手に入れた。
コボルトやバジリスクなんてモンスターどもを相手にしてきたの
でチート級の能力に目覚めたとか、特にない。
ましてや未だ自発的に魔法が使えるわけでもないのでシックスセ
ンスにも目覚めていないわけだ。
してみると、この違和感の正体は視力であった。
むかしより、遠くが見える様になっている。
俺は子供の頃から視力は一・五から一・〇といったぐらいだった。
極端に悪いわけではないので雁木マリみたいにメガネをかけていた
わけではいけれど、俺の嫁カサンドラほど圧倒的に遠くを見渡せる
わけではない。
なんとなく、以前だったら絶対に気がつかなかった距離で、何か
の集団がもぞもぞ動いている姿を目撃した。
﹁なんだあのノッポの人間は﹂
血色の悪そうな土色の野人みたいなのがいる。
俺と同じ様に腰巻きをしていて⋮⋮ではない、かつての俺と同じ
様にだ。していた。
何となくあまりよろしくないものを目撃した事を自覚した俺は、
ここが風下である事を肌で感じて、ゆっくり後退した。
375
短剣は、腰にしっかりある。
蛇の尻尾を引っ捕まえて俺は低姿勢で駆けだした。
何だよあの血色の悪いノッポたちは。
巨人か? 明らかに二メートルを超えてるようなデカい連中だ。
だが三メートルまではいかない。
背後をチラリと気にしながら、急いで集落の家屋遺構まで走った。
よし、連中は俺にも気づいていない様だし、こちらにもまだ来てい
ない。
そして音も無く遺構のところまでやって来た俺に、雁木マリが驚
いて長剣を抜こうとした。
﹁お、脅かさないでよ! どうだったの水は﹂
﹁不味い事になった。ノッポの変な現地人みたいなのがいたぞ。こ
の辺りは確か、もう人間は住んでいないはずだよな?﹂
﹁ん。そういう話は聞いてないけれど。ッヨイ?﹂
﹁ッヨイも知らないですどれぇ﹂
あかちゃんバジリスクの相手をしていたッヨイさまは、しゃがみ
込んだままの姿勢で俺を見上げた。
﹁二メートルは超えてそうな巨人だぞ。この先の低木林で川を見つ
けたんだけどあれは何なんだ。腰巻きもしてたし。文明人か?﹂
﹁腰巻きのノッポ? それって⋮⋮﹂
﹁顔つきというか肌の色とかはわかりますかどれぇ?﹂
短剣を引き抜くために蛇を放り出した俺に、雁木マリとようじょ
が口々に言葉を投げかけて来た。
のんきなもので、あかちゃんバジリスクは俺の放り出した蛇に食
らいついている。
やはり腹が減っていたんだな。しかしお前には申しわけないが、
376
すぐにここを移動しないといけない。
﹁色は土色というか茶色というか、何か血色の悪そうな連中だった
な。数は数人しか見ていないが、あれはいったい何なんだ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮たぶんだけど、オーガですどれぇ。一匹見たら三〇匹はいる
と思った方がよいのです﹂
﹁そうね、あいつらは集団で狩りをしながら移動する種族だから。
ここで連中を見かけたのなら、すぐ近くに本隊というか、他の家族
がいるはずだから﹂
ッヨイさまと雁木マリの言葉に俺は顔をしかめる。一匹見たら三
〇匹って、ゴキブリかよ。
﹁どうする? 水源は確かにあったが、移動した方がいいんじゃな
いか﹂
﹁その方がいいわね。連中はコボルトよりも高度な武器を持ってい
るわ。少なくとも文明度合はあたしたちに限りなく近い﹂
﹁オーガって、何かもっと低能なイメージがあったんだが、どうな
ってるんだよ﹂
﹁そうね、こうイメージしなさい。この世界の人類の進化の中で、
今の人間とは別の分岐を遂げて進化した人類みたいに﹂
﹁化石人類がまだ生きてましたパターンかな﹂
雁木マリも改めて刃広の長剣の具合を確かめるべく白刃を抜き放
っていた。
ずいぶん刃こぼれをしている様子だが、さすが耐久性を重視して
こさえられた剣だけあって、まだ武器として用を成している。
﹁マリ、切る時はここを使え。それから受け太刀をする時は刃の腹
を使うんだ。そうすればできるだけ剣が痛めないからな﹂
377
﹁詳しいわね?﹂
﹁俺は元殺陣をやっていた経験があってな﹂
俺は刃の痛みが少ない切っ先から三〇センチあたりを差しながら
言った。
むかし俺が殺陣の稽古をしていた頃、ヴェテランの殺陣師に愛用
の木剣を見せてもらった事があった。
時代劇などの役者さんたちの間で、木刀の事は木剣と呼ばれる事
がある。
特段、区別される様な差異はその両者には存在していないが、業
界の慣習というやつである。
で、ヴェテランの殺陣師の先生の持っている木剣は、必ず同じ場
所に集中して受け太刀した傷跡が残っていたものだ。
それだけより正確に剣を弾いたり、受け太刀していたのだろう。
あるいは刃の腹で剣を受け流すので、刃の痛みが最低限なのである。
﹁最初はできないだろうが、意識だけはしていろ。筋肉と一緒で、
意識し続けたらそのうちできるようになる﹂
ましてや今回は相手の数がわからないのだから、こういう努力は
少しでもしておくべきだ。
あのオーガの体格から考えるに、骨を断ち斬るとなるとかなり刃
を痛めそうな気がする。意識しておいて損はないだろう。
﹁逃げる方向でいくのか、先手を打って襲う方向で行くのか﹂
﹁逃げる方向がよいです。少しでもブルカに近づいた方がチャンス
が広がるよ!﹂
ッヨイさまがそう決断して、俺たちはうなずきあった。
首なし蛇を飲み込もうと悪戦苦闘していたあかちゃんを拾い上げ
378
たッヨイさまに続いて、雁木マリが動き出す。
俺は自然と最後尾を警戒する様にして続いた。
ついでにボロボロになったポンチョは脱いで、腰巻き代わりにし
ておいた。もうポンチョとしての役割は成しそうもないし、腕に胸
にとまとわりつくと集中力をかき乱しそうだしな。
右手にメイス、左手に短剣。
どこから襲われても対処できる様に武装状態は万全だ。
相手がバジリスクじゃないところも、斬り抜けて逃走を図るにし
てもありがたかった。
巨人とは言ってもただの大きいだけの人間だ。筋力はそれこそゴ
リラ並みかもしれないが、当たらなければどうという事はない。
次に装備が支給される時はぜひにも盾を要求しよう。うん、それ
がいい。
さすがに二頭のバジリスクと連続して戦闘をしたために、体のあ
ちこちは重たかった。
これでも一応は筋力強化のポーションをキめているのだから、こ
れがなければ疲労困憊だったろうな。
俺たちはずいぶんと運がいい。そう思えばここからもうまく逃げ
だせる気がした。
などと考えながら俺は、パーティーと共に足早で風に震える草原
を足早に進む。
しかし、広葉樹林の茂みを避けて街道を目指しているところ、俺
たちはついにオーガと遭遇してしまったのである。
ようじょパーティーはオーガに回り込まれた。
ようじょパーティーは逃げられない?!
﹁オーガよ! 先攻を!!﹂
379
雁木マリの悲鳴の様な指示が、陽が陰りだしていた大地に響きわ
たった。
◆
不意の遭遇から強襲に移りかわる俺たちのパーティーメンバーは、
さすが冒険者というべき切り替えの早さだった。
俺が道場で空手をやっていた時なんてのは、一度でも予想しない
攻撃を練習相手にされてしまえば、それだけでモチベーションを崩
していたものだ。
だが命がかかると、人間は割り切りが異様に速くなるらしい。
雁木マリは当然として、ようじょのッヨイさまも素早くあかちゃ
んバジリスクを地面の置くと、グリモワールで魔法を発動させた。
どうやら、事前に遭遇戦をする可能性を警戒して、例の栞を魔導
書にセットしていたらしい。
初撃ならば時間短縮で発動できるというわけか。頼もしいね!
﹁フィジカル! マジカル! ファイアボール!﹂
相変わらずの呪文を唱えると、手元の印を踏んだ場所からようじ
ょビームはが発射された。遭遇してしまった哀れなオーガの数は全
部で七体。
恐らく先ほど川の側で見かけたのと同じ部族なんだろうが、別の
集団だ。毎度やりにくい展開だと思ったのが、オーガの中には子供
をかかえたメス個体もいた様で、もしかするとこちらが部族の本集
団なのかもしれなかった。
しかも俺の元いた世界で言うと、西洋人とアフリカ系人種の混血
みたいな顔をしている。妙にやりにくく感じるのはそのせいもある
のだろう。
だがようじょは何の躊躇も無く、まずその非戦闘員っぽいオーガ
380
の首を一撃で吹き飛ばした。
うわあ、えげつない。
それよりわずかに遅れて、左手にファイアボールを浮かべた雁木
マリも、屈強そうな戦士めがけて火球を放っていた。
とにかくこいつらを瞬殺して、少しでも距離を稼がなければいけ
ない。連中に合流されるわけにはいかないのだ。
コボルトの時よりもはるかに嫌な気分になりながら、俺も駆け出
した。
ほぼ同時に向こうからも俺に向かって攻撃してくるやつがいた。
こいつ、剣を持ってやがる。
その体格には不似合だが、明らかにこの世界の人間がよく愛用し
ている長剣の類だ。
だが剣術を知っている者の動きではない。力任せの剣筋だ。
俺は他のパーティーメンバーが奮戦しているのを見ながら、こん
なヤツは一撃で倒してやろうと少しだけ強気に、前に飛び込んだ。
正面から振り込まれた一撃を、短剣でいなしながら、ヤツの顔面
めがけてメイスを振り上げてやる。
ゴシャっという骨の砕ける音を確認して次に行く。
ようじょに襲い掛かろうとしているオーガに飛びつこうとしたが、
ようじょはその心配も必要無かった様にまた次のファイアボールを
襲撃者にぶち込んでいた。
明らかに雁木マリのファイアボールより威力が段違いだった。
しかも次々に連射が可能な様だ。
バジリスクを相手にしていた時の様な大威力魔法ではないので、
連射がそれなりに可能なのだろうか。あるいは事前にセットしてい
たからだろうかね。
俺はひとまず安心して、最後に残っていたオーガの一体に飛びつ
381
いた。
雁木マリを相手にしていて、こちらからは背中を見せている。
やるなら今だとばかり、左手の短剣を背後からぶすりと差し込ん
でやった。
あわててこちらを見ようとしたが、馬鹿め、油断するから悪いん
だ。
まだ抵抗するつもりだった刺されたオーガへ、振り返り様に裏拳
の要領でメイスの一撃を顔面に叩きつけてやる。
そいつが倒れると、目の前で雁木マリに斬り伏せられて膝をつき
ながら倒れる別の一体を目撃した。
﹁ハァハァ、これで全部かしら?﹂
﹁クダナンオナンオ!﹂
雁木マリの言葉とほぼ同時に、広葉樹林からまたオーガが出現し
た。
今度は五体。
﹁くそ、まだいる油断するな﹂
俺は駆け出して、連中の中に飛び込んでいく。
こりゃ、相手が俺たちとよく似た何かであることに躊躇している
場合ではない。
肺の中に溜まった恐怖と嘆息を全部まき散らしながら、俺は覚悟
を改めてメイスを振りかぶった。
382
36 裸で剣を持つ男
﹁デンナデンナ!﹂
オーガの言葉は難しすぎる。
何を言っているのかわからないが、歓迎の言葉でない事だけは確
かだ。
新たに表れたオーガの五体に俺は問答無用で突入した。
ありがたい事に集団は固まって行動していたらしく、それも不意
に俺たちに気づいたという具合だ。
俺は確かに長い格闘技経験があったが、あくまでも一対一の徒手
格闘の訓練をしてきたまでだ。一方で俺が殺陣の経験を学んできた
のは、人生の中でもせいぜい五年ぐらいのものだった。
しかし殺陣の経験から学んだことがいくつかある。
例えば戦国時代の撮影をするのに、城門を攻略するシーンで俺は
足軽として参加した事があった。
その際に、何度もリハーサルをやったのに、どういうわけかみん
な本番では槍を構える向きは逆、友軍の騎馬武者には驚く、ぶつか
ってこける、なぜか味方が行方不明と大混乱になったのである。
こんな経験は空手経験があっても得られるものじゃないし、歴史
書が好きでどれだけ読み込んでも読み取ることはできない。
あともうひとつは、県警察の剣道部で師範をしていた恩師の一人
がいつも馬鹿にしていた事をふと思い出した。
時代劇の役者たちの操剣方法がリアリティに欠けるというご指摘
383
だったが、間違いなくこのひとつだけはリアルだと確信したものが
ある。
密集戦闘を再現する際に、武器をどう構えるかについて俺たち斬
られ役は死ぬほど練習をしてきたものだ。
大上段に構えた時、剣は立てるか後ろに寝かせるか、仲間との距
離が近い時は八双構えにするのはどうか。
これについてはこのファンタジー世界に来てコボルトの集団を相
手にしたりする際はとても役に立った気がする。
最後に二刀流だ。こんなものは実戦では何の役にも立たないから
廃れたんだと俺は思っていたが、将来の時代劇役者を目指す斬られ
役の男たちは、真剣にこの型や構えについて考察を必死にしていた。
何しろ一部のスポットがあてられる役付きの俳優にしか二刀流な
んてものは許されないのだが、とにかくカッコイイので練習だけは
人一倍するのだ。いつか来る日のために片手でひたすら木剣の素振
りをしたりね。
今俺は右手にメイス、左手に短剣という二刀流スタイルだ。
駆けだした俺は体をたたむ様にして集団に躍り込むと、まだ戦闘
態勢に移行していない前にいた二体に一撃を加えて転がった。攻撃
はどこでもいいから相手の痛覚を刺激するところを狙っておいたが、
正解だった様だ。
転がって集団から飛び出したところを、雁木マリが例の長剣で前
の二人を斬り伏せてくれる。
転がる勢いのまま立ち上がった俺は、さらに問答無用で脇腹を刺
し、メイスで殴りつけて一体を片づける。
残り二体。
ようじょビームが少し離れたところから一体を焼き焦がし、もう
一体は雁木マリがドスリと長剣を突き立てて終わった。
384
﹁タッコテンナ、ウォ⋮⋮﹂
何事か呟いた最後のオーガは息を引き取った。
さすがに俺も体力の限界だ。
もうオーガはいないかと周囲を見回しながら、ついに片膝をつい
た。
﹁シューター、怪我は?﹂
﹁無い。そっちは?﹂
﹁問題ないわ⋮⋮﹂
ふたりで目くばせしながらお互いに呼吸を落ち着けようと努力し
た。
すると同じ様に疲れの表情を幼い顔に浮かべたようじょが、小さ
な声で俺たちに言う。
﹁かなしいおしらせです。もう魔法はしばらく使えません⋮⋮﹂
﹁十分です。さすがッヨイさまの魔法は圧倒的でしたよ﹂
﹁即応発動させるのにもう少し集中して魔力をたかめておかないと
いけないのです﹂
﹁そうですね、さあ少しでも逃げましょう。あかちゃんを連れて﹂
俺はがくがくの膝を持ちあげて立ち上がった。
雁木マリも長剣を杖代わりにしている有様だった。
あかちゃんはどこかと見回すが、オーガの死体に歯のない嘴を立
てて食べようとしているところだった。
﹁そいつはバッチイから食べたらだめだぞ。さ、行こう﹂
385
抱き上げながら低木林一帯を振り返った。
オーガはこれでもう終わりだろうか。そうであって欲しいぜ。
ッヨイさまに頂いたメイスは、さすが単調な武器というだけあっ
て未だに使用可能な状態である。短剣もできるだけ刺すための道具
に使っていたので、これも問題は無い。最後は体力か。
雁木マリは修道騎士を名乗るだけあって、元女子高生とは思えな
いぐらい必死で草原を歩いていたが、問題はようじょである。
ふらふらと幽鬼の様に歩いていて、できればこちらも抱き上げて
あげたいところなのだが、俺も体力の限界だった。
せめてと思って手を繋いでいるが、握る指に力がこもっていない
事は明白なのだ。
たぶん次の襲撃を受けたら、俺たちは全滅だな。
あまり考えたくない現実を俺は脳裏に浮かべながら、夕暮れの草
原を踏み歩いていた。
◆
だが現実はそれほど甘くないらしい。
俺たちがようやくの事で休憩できる場所を見つけたのは陽がもう
完全に落ちてしまう直前の川縁だった。
腹を壊す恐怖よりも喉の渇きに負けたみんなが生水をむさぼる様
に飲んで、近くの岩をひっくり返して例によって蛇を探し求めた後、
これを焼いて食べた。
こいつはアオダイショウだ。名前は違うだろうがアオダイショウ
と同じく臭みと苦みがあった。
食べ終わって眠気に襲われた頃、最初の見張りについていた雁木
マリが、俺を起こしたのである。
386
﹁オーガ、来たわ。何でこっちの居場所がわかったのよ⋮⋮﹂
﹁連中も川に沿って移動しているんじゃないか﹂
俺たちは疲弊しているにもかかわらず、少しでも往来の多い街道
に近づける様にと足を急いだ。
その結果、疲労困憊の度合いは最高に達していたんじゃないだろ
うか。
眠気と疲れがない交ぜになって顔だけで雁木マリの言葉に反応し
ていた俺は、体を持ち上げるのがひどく億劫だった。
﹁それにしてもおかしい、あたしたちをつけてくるなんて。オーガ
は普通、人間と接触する事はひどく嫌がるのに。村や集落を襲った
りしても、獲物を巻き上げたらさっさと引き上げていくのよ普通は﹂
﹁普通じゃないから向こうも必死なんだろうな。何か異常な事態が
発生しているとかね﹂
例えばオーガたちは、バジリスクに怯えて場所を移動しているの
ではないかと考えた。
遭遇した場所が近かったので、もしかするとダンジョンの別の出
口があって、そちら側ではバジリスクの夫婦たちが子育てのために
せっせと獲物を狩っていたというのは想像できる。
そのために、あの辺りを生活圏にしていたオーガたちが、移動を
余儀なくされたとか。
考えてもはじまらないので、どうにか上体を起こして俺は雁木マ
リに問いかける。
﹁どこだ﹂
﹁あっちの川の上流の方で火の手が見えた。たぶん松明だと思うわ﹂
﹁やばいな。あいつら火まで使うのかよ﹂
387
このファンタジー世界で一般的な長剣みたいなのを持っていたの
を思い出せば、当然火ぐらいは使えて当たり前なのだろうが、知恵
が回る相手はやはりやりづらい。
﹁コボルトや巨大な猿人間の親戚とは思わない事ね。あたしたちに
限りなく近い野蛮人どもよ﹂
﹁ッヨイさまを起こしてくれ。こっちに気づかれる前に距離を取ろ
う﹂
﹁わかったわ。あかちゃん、連れていくの?﹂
﹁ここまで連れて来たんだ。ここで置いて行っても連れて行っても
大差はないだろうからな。街道まではあとどれくらいだっけ⋮⋮﹂
﹁本来ならば道に出ていてもおかしくないんだけど。どうかしらね﹂
疲れて無理をしてでも距離を稼いだのだが、本来ならば半日足ら
ずででブルカの街へ通じる街道に出る距離も歩けていない可能性が
ある。
しかも途中でオーガとも戦闘したので、もと来た道を正確に引き
返したわけでもない。
もしかすると方角がずれている可能性すらあった。
街道に出てしまえば、街道に沿って周辺の集落があるので、逃げ
込む事は可能なはずだ。
集落や村には多少は猟師たちがいるはずだ。
だが、その場所がわからなければ意味が無い。
﹁ッヨイ、悪いけど起きなさい。オーガの追手よ﹂
﹁はいあいぼー、覚悟はしていたのです。あかちゃんもいきましょ
うね﹂
﹁キュ?﹂
俺たちは無言で、着の身着のままの格好で歩き続けた。
388
すでにッヨイさまのフリルワンピースは土や返り血で見る影もな
い汚れ様だし、雁木マリは鉄皮合板の鎧の表面が傷だらけになって
いて、白かったノースリーブのワンピースも泥だらけだ。
俺に至ってはズタボロのポンチョを腰巻きがわりにしているので、
メイスを持った見た目は原始人だろう。
ウホ。オレサマ、オマエ、マルカジリ。
くそったれのオーガたちは、まだ俺たちの存在には気づいていな
い様だが、こっちは逃げる立場で手元明かりをつける事もできず、
足取りは遅かった。
最後尾の俺が何度も振り返り、確認する。その度に揺れる松明が
近づいてきて、その数も確認できるものが増え続けていた。
詰んだな。
俺は覚悟をした。
別に義侠心めいたものが頭をもたげたわけでもなかったんだが、
こうでもしなけりゃッヨイさまも雁木マリも助からんだろう。
俺が囮になってこのふたりを逃がす。悪いがあかちゃんはこちら
で引き取ろう。
この子がいるのでは、ふたりの機動力はさらに遅くなることは間
違いない。
武器は、できれば雁木マリの刃広の長剣を貸してもらいたかった
が、これを取ってしまえば雁木マリに武器がなくなってしまう。
ッヨイさまはどうだ。あれから魔力を使っていないので、少しは
溜め込んでいるだろうか。いざという時に最後の一撃ができるなら
いいことだ。
雁木マリは巨大な猿人間に凌辱された経験もあるし、知っている
以上これよりひどい凌辱はされてもらいたくない。
大人の良心というやつだ。義侠心じゃねえ。
389
﹁よし、二手に分かれよう﹂
﹁どうするのよここで別れて﹂
﹁生き残る可能性が少しでもあがる方法をとるんだよ。雁木マリは
ッヨイさまとこのまま先に進め。だが川沿いは離れたほうがいいぞ﹂
俺が提案を切り出すと、ふたりは振り返って俺を見上げた。
﹁どれぇはどうするのですか?﹂
﹁あかちゃんと別の方向に逃げる事にしますよ、ッヨイさま。さ、
おじさんが守ってやるから、こっちに来なさい﹂
俺はバジリスクのあかちゃんをようじょから取り上げた。
﹁感謝はしないわよ。お前が選んだ事だから﹂
﹁わかっている。お互い無事を祈りあおう﹂
﹁ふん、不信心者の日本人が何に祈るのかしらねえ﹂
﹁聖女ガンギマリーさまにだよ﹂
軽口を言い合って、ここで別れた。
雁木マリはたぶん俺の意図に気づいているだろうな。だいぶ悲壮
感漂う顔をしていたが、俺がこの提案を持ち出すとちょっと驚いた
顔をしていた。日本人好みの美談じゃねえか。だから気付いたのか
ね。仲間を助けるための犠牲の精神。
いいや、別にそのまま死ぬつもりはない。
暗がりの中で俺は身を低くしながら、雁木マリとッヨイさまとは
反対の方向に歩き出した。
すなわちオーガたちを引き付けるためにな。
﹁あかちゃん。君には申しわけないけど、君はこれからひとりで生
きて行きなさい。ちょっと早いがひとり立ちだ。男は黙って海兵隊
390
だぞ﹂
﹁キュウウ?﹂
言い聞かせてみたが、小首をかしげたあかちゃんには理解しても
らえなかった様だ。
ま、当然だな。そのうちコボルトかオオカミか何かに見つかって
殺されてしまうかもしれないが、俺もオーガに殺されてしまうかも
しれない身分だ。運が良ければ生き残る可能性があるのも一緒だ。
じゃあおじさんは行ってくるよ。
俺は闇を進む。
◆
元自衛隊の空挺隊員だったという店長が創業したアパレルショッ
プは、ミリタリー装具を専門に扱うお店だった。
ひとに説明する時に何と言っていいのかわからなかったので、俺
はアパレル店員ですと言っていただけの事である。
実際には元方面隊で一番の腕っこきという射撃手が電動エアーガ
ンのカスタマイズをやっていたり、元通信隊にいたという戦争映画
ばかり集めているひとがいたり、とても怪しいお店だった。
おかげで休日はフィールドにサバゲに出かけたものだし、夜な夜
な河川敷で夜戦を楽しんだ事もあった。
しかし、アパレルショップで間違っていない。
メインの商材はあくまでも軍装なので、軍服や戦闘服が一番の売
れ行きだった。
ちょっとリペリング講習会や野外襲撃行動講習会、それに夜間行
軍訓練をやったのはあくまでおまけだ。
けれど今は感謝しないといけないな。
391
ほんの斬られ役をやりながらの掛け持ちバイトに過ぎなかった俺
が、少しでも疑似戦場体験をしていたので、こういう時にどうすれ
ばいいかわかっている。
闇にまぎれて相手を混乱に陥れる事だ。
﹁お探しものはここだぜ? 俺は全裸だ、服なんか捨ててかかって
こい!!﹂
俺はあかちゃんと別れてしばらくの間オーガを観察した後に、ヤ
ツらの移動列の中ほどあたりで突如叫びを上げてやった。
もはや腰巻きはブッシュの中でこすれて音を出すので、放棄せざ
るをえなかった。
相手も裸族だ、別に恥ずかしがる必要はねえ。
﹁さ:p;えおtfcpざs@ぺふじこ!﹂
発音できない何かを叫んだオーガが俺を指差して咆えた。次々に
武器を手に手に俺のところに走って来る。
よし釣れた。
俺はひとまず暗闇に影を消す。チラリと見た感じじゃ十人以上い
た。
俺がもし暴れん坊な将軍だったら倒せるんだろうが、俺は全裸で
剣を持つただの中年だから、ひとりずつ倒すしかない。
というわけで、釣れた順番に確実に殺す。俺を探すつもりで首を
振りながら通り過ぎたひとりのオークに対し、音も立てずに草むら
から這い出て背後を取った。
﹁こんばんは、さようなら!﹂
最後ぐらいは声をかけてやる。
392
まだだ。もうひとりが近づいて来るので、また草むらに俺は姿を
隠す。
こいつは松明を持っていたので、殺された仲間にすぐに気がつい
たらしい。大声を上げて仲間を呼びながら仲間の死体の前でしゃが
んだ。
﹁残念でした、油断だな!﹂
後頭部に一撃メイスを叩きつけてやる。
握る手には永遠に忘れられない様な衝撃と感触が残った。
集まって来る連中をまくために、また草むらに俺は引っ込む。そ
のまま連中が来た側に匍匐前進しながら進んでいったわけだが、と
ても残念な事にブッシュが途絶えてしまった。
不用意に俺が顔を出した先に、巨人オーガの見下ろす顔があった。
万策尽きた。
手には長剣を持っている。この巨人が長剣を持つと、俺たちがち
ょうど短剣を持っている様な錯覚に陥る。俺を見下ろすオーガが軽
々と長剣を振りかぶった瞬間、俺は一応挨拶をしておいた。
﹁やあ、こんばんは。さ、さようなら﹂
初対面で挨拶は大事だもんな。
みなさん、さようなら。奥さん、さようなら。
393
37 やっぱり俺は人生ツイている方だと思います
限界まで戦った後に訪れる、妙に潔い気分。
空手の試合で負ける直前に持つ覚悟に似た感情になって、俺は巨
人オーガの振りかぶった長剣を見上げていた。
ああ、俺はこの一撃で殺されるに違いない。
頭を一撃で斬られるというのは、たぶん幸せな方だろうと思った。
だが眼を閉じる事は無かった。
そうしようと思う直前、星明りだけが照らす暗闇の中で今にも俺
を殺さんとしていたオーガの首に、矢が刺さったからである。
開けててよかった両目玉。
﹁おお、俺。助かっちゃった﹂
何が起きたのか、もちろん一瞬理解できなかった。
けれども今何をするべきかは俺にはちゃんと理解できている。ま
だ、俺は死ななくて済んだのだ。
ほとんど最後の力を振り絞って、俺は両腕で体を持ち上げた。
メイスよし、短剣よし。
間違いなく誰かが、俺とオーガたちの戦いに参戦したのだ。
立ち上がって周囲を見回すと、俺の周辺だけで五体のオーガがい
た。いったい次から次へと、どこから湧いて来やがるんだ。
オーガの事について詳しくは知らないけれど、すでに倒した連中
を合わせても全部で五〇以上の集団がこの周辺にいたんじゃないか
と俺は計算した。
むしろ、まだまだこの一帯にはいるのか、理解不能な言語で何事
394
か怒鳴りあっている声や、戦闘の怒号が飛び交っているではないか。
弓の飛んできた方向を見る。
すると、暗闇から月光に一瞬だけきらめいた矢が、俺のすぐ近く
こわゆみ
にいたオーガの胸を貫いた。
あまりの強弓に勢いよくオーガの胸を貫いて、地面に突き刺さる。
こんな弓の手練れが、鱗裂きのニシカ以外にもいるのか。
驚いている場合ではなく、俺は極端に落ち切った握力と四肢の張
りに最後の刺激を与えて、すぐ側にいたオーガに向けて肉薄した。
二体。普段なら互角の勝負に持ち込むのも恐怖が尾を引いて難し
かったかもしれない。
不思議と体力の限界である今の方が、戦闘に対する恐怖よりも興
奮が優っていて、大胆にいつもより半歩前に体を押し込むことがで
きた。
﹁おら、相手はこっちだぞ!﹂
暗闇に突如現れた新たな敵に混乱していたオーガは、俺の存在に
気づいた時には胸に短剣を刺し込まれていた。
だがこのオーガ、一撃では死ななかった。
いきなり胸を刺されたものの急所を外してしまったらしく、短剣
の先は不幸にも骨のどこかにぶつかる感触まであって、俺はあわて
て手を離した。
しかし遅かった。傷を負ったオーガは手槍の様な武器を取り落と
してしまったものの、俺を力任せにおもいきり殴り飛ばしやがった。
俺もメイスを取り落とそうになりながらも必死で足で堪えて、お
返しにメイスで顔面を殴りつけてやる。
しかし背後から別のオーガに斬りかかられた。
あわてて体勢を入れ替えながらメイスを相手の剣を持つ手に叩き
付けてやったが、怒り狂ったオーガに、反対の拳で殴りつけられた。
395
ほとんど十ラウンドを戦い抜いたボクサーの気分だった。
大振りになったメイスの一撃は相手の腕におもいきり当たった様
だが、そんな事も気にしないのかオーガが飛びついて来る。
そのままグラウンドに持ち込まれそうになったので体の重心を動
かしながら背負い投げの要領で転がしてやった。
短剣はどこだ。あった!
俺は拾い上げながら倒れたオーガに圧しかかる。
しかし蹴り飛ばされて、俺の方が地面に這いつくばる立場になっ
てしまった。
ちくしょう、俺の短剣はどこだ。
次の瞬間に、風の様にオーガに体当たりを食らわる人間の姿が見
えた。
腰だめに剣かナイフの様なもので一撃入れたらしい。
どうっと倒れる巨人の姿を見届けてから、俺はいよいよ重たくな
った瞼を、今度こそ閉じた。
﹁おい君、大丈夫か? こっちだ、こっちに人間が倒れているぞ!﹂
﹁冒険者の負傷者が出たのか﹂
﹁いやわからん。首からタグが見えるが、ブリーフィング時にはい
なかったはずだ。起きろ、怪我はどうなってる﹂
﹁っておま、シューターじゃねぇか?! おい、しっかりしろ︱︱﹂
遠く耳に聞こえる人間たちの言葉が妙に嬉しかった。そして剣が
重なり合う金属音も耳にする。
どこのどいつだか知らないが、誰かが助けに来てくれたんだろう。
ありがとうございます。ありがとうございます。
安堵した俺は意識を失った。
396
◆
目を覚ましたのは、あれからどれぐらい時間が経ったのだろう。
俺はずいぶんと体中が重たいのを自覚しながら、同じく重たい瞼
をゆっくりと開けた。
ここはどこだ。
天幕が見え、ランタンか何かの灯りが揺れているのもわかる。
そしてひとつ眼が俺を覗き込んでいた。
﹁何だニシカさんじゃないですか。ご無沙汰しています﹂
﹁お、おおうシューター目を覚ましたか!﹂
﹁はあ、なんだか頭の心地がいいじゃないですか。ん? ニシカさ
んの膝枕か、悪くない。いいにく﹂
﹁⋮⋮お前は何を言っているんだ。いきなり行方不明になったと思
ったら、ボロボロになりやがってまったく﹂
﹁でもニシカさんにこうして会えたじゃないですか﹂
なるほど、体中が重たくて動かない俺だが、頭の感触だけはとて
も心地よい。
ニシカさんの太もも最高やなぁ。夢心地だ。
﹁まあ何にしても、よかったな﹂
﹁ところでここはどこですか? 天国かな?﹂
﹁んなわけあるか、テントの中だ﹂
﹁そうか、じゃあ夢心地だけど夢じゃないんですね。安心したらま
た眠くなってきました⋮⋮﹂
﹁お、おう。寝ろ寝ろ。早く体力を回復させるんだ﹂
﹁ありがとうございます。ありがとうございま⋮⋮﹂
397
俺はふたたび眼を閉じた。今度は安心してゆっくり寝られる。仮
眠でもなく、気絶でもない睡眠は大切だ。
次に目を覚ますと、そこに俺を覗き込んでいる七つの目玉があっ
た。
鱗裂きのニシカさん、どんぐり眼の雁木マリ、そしてうわようじ
ょッヨイさまに、あかちゃんバジリスクだ。
これは夢じゃなかろうか。俺はぱちくりと眼をしばたかせてもう
一度みんなの顔を見回す。
やっぱり生きてるらしく、体中がまだ痛い。これはポーション後
遺症だろうか。
﹁おおう。これは天国か。みなさんごきげんよう﹂
﹁どれぇ? みんなどれぇが目を覚ましたよ! 大丈夫ですかぁ?
!﹂
﹁キュイ?﹂
﹁あら、ずいぶんと遅いお目覚めね。このまま死ねばよかったのに
チッ﹂
﹁心配させるじゃねえかシューター。もうあれからまる一日だぞ。
キャンプが出発するから起きろよな!﹂
﹁お、おう。誰か俺を起こしてくれ⋮⋮﹂
体がまったく言う事を聞かないのは、どうやらポーションの副作
用だけが原因ではないらしい。体中に包帯がぐるぐる巻きになって
いる。
むっちりバディのニシカさんが腕を差し入れて、俺を起こしてく
れた。
﹁助かります﹂
398
﹁いいぜこれぐらい﹂
さて、どこから話したものだろうか。
安堵の表情を浮かべたッヨイさまと、ニシカさんがお互いに顔を
見合わせていた。
雁木マリだけが俺の事をジトリと睨み付けている。
﹁まさかこんなところでお前に出会うとは思わなかったから、ビッ
クリしてたんだ﹂
﹁いや俺もビックリですよ。一度目を覚ました時には、夢を見てい
たのか死んで天国にいるのかと思ったぐらいですから﹂
﹁それで、こっちのふたりは何モンなんだ。この先の草原でこいつ
らを保護したまではいいんだけどよ、お前の事を探しているみたい
だから連れて来たんだけど﹂
﹁キイキイィ!﹂
・・
﹁そ、そうなんですか。ッヨイさま、雁木マリ、迷惑をかけました
?﹂
すると。
・・
﹁ん。その、さまってのは何ださまってのは。何でようじょに敬語
なんだよ﹂
﹁話せば長くなるのですが。俺、実は奴隷になっちゃんたんですよ
ね⋮⋮﹂
﹁どれぇだと?﹂
﹁そうなんですよ。ギムルさんを送り出した帰りに、宿に戻る途中
で下手うっちまって⋮⋮﹂
﹁マジかよ。ヘタって何されたんだ﹂
みのしろ
﹁いやぁチンピラみたいな冒険者に不意打ちでボコられまして。お
高いツボを壊した賠償だと言って身代を借金カタに﹂
399
﹁村一番の戦士のお前が、チンピラに負けたのか? 戦士だろ?﹂
﹁いやあすまんことです﹂
﹁キュゥ!﹂
呆れた顔をしたニシカさんがようじょを見た。
ようじょは待ってましたとばかり白い歯を見せて挨拶をする。
心配かけちまったが、ッヨイさまも俺が寝ている間に元気になら
れた様だ。血色もいい。
﹁はい! ッヨイはどれぇを購入した、ッヨイハディ=ジュメェで
す﹂
﹁あーオレ様はサルワタの開拓村の集落に住む、鱗裂きのニシカだ。
シューターの猟師仲間でな。それでアンタは?﹂
﹁どうもはじめまして。騎士修道会に所属する、修道騎士の雁木マ
リです﹂
いつもの無礼千万な態度を引っ込めて、雁木マリはおしとやかに
おじぎをしてみせた。何だ、ちゃんとよそ行きの顔もできるんじゃ
ないか。ちょっとしおらしいマリの顔はかわいかった。
大人しくしてたら別嬪だと思うんだけどなあ。
﹁おおう、修道会の騎士さまだったか。で、ふたりが今のシュータ
ーのご主人さまというわけか⋮⋮﹂
﹁いいえあたしは違うわ。ご主人さまはッヨイの方で、わたしはあ
くまで冒険者仲間ね﹂
ちょっと気恥ずかしそうに﹁冒険者仲間﹂と言う姿も悪くない。
ちゃんと仲間として認識してくれはじめたのかもしれないのと、
視線をそらすところが何とも。
いいね!
400
﹁という事は、シューターも冒険者登録したのか?﹂
振り返るニシカさんを見て、俺がそうなんですと経緯を切り出し
た。
ブルカを経ってこの先にある古代人の聖地だったダンジョンを攻
略した事と、そこにバジリスクがいた事。
倒したと思っていたバジリスクがつがいで、しかも卵まで孵化し
はじめていたというオマケつき。
そして逃げ出したところをオーガたちに遭遇して、撤退しながら
ここまで流れてきたのだと。
﹁実はオレも、シューターが行方不明になってから生活に困ってな。
今はシューターを探しながら冒険者をやってたんだわ。シューター
が見つからなかったら途方にくれていたところだったよ⋮⋮﹂
ボリボリと頭を掻きながらニシカさんが言った。
﹁そ、それは大変迷惑をかけてしまいましたね﹂
﹁ホントだよ! 飯を食う金も困ってね。ちょうどオーガが近郊の
村に頻出しているっていうので緊急討伐クエストが発表されてたん
だ。数が多いので連日討伐パーティーが送り出されたんだけど、日
銭を稼ぐだけじゃラチがあかないので、最後の討伐パーティーに加
わったってわけだ﹂
﹁それでブルカの街の外に﹂
﹁まあそういう事だ。武器はみんな借り物だしな、連中も武装して
いるからなかなか面倒だったんだ。ベースキャンプをここに張って、
今は残敵掃討をしているところだぜ﹂
それもほぼもう終わって、これからベースキャンプを引き払うと
401
いうタイミングだったらしい。
いやあこのまま寝込んでいたら迷惑をかけるところだった。目が
覚めてよかったぜ。
﹁オーガたちは大分数がおおいのですか? 黄色いえるふさん﹂
﹁んにゃ、まあ部族総出で移動中だったらしくて二〇〇そこそこっ
てところだな。まあ小さい方だな﹂
﹁に、二〇〇?!﹂
ニシカさんの説明にようじょは驚いていたけれど、当の言った本
人は別に驚くべき言ではないらしい。
﹁うちらの辺境あたりじゃオーガは普通に大集落を作って生活をし
ている。人間様の感覚ではそりゃもう村って感じだぜ。だから首の
数だけ追加褒賞が出るってのでやる気マンマンだったんだがなあ。
シューターを見つけて放っておくわけにもいかないから。オレだけ
稼ぎ損ねたんだよ。ケッ﹂
ハァとため息をこぼしたタイミングで胸がぼいんぼいんいいよる
わ。
ああこの感覚懐かしい。
悪態をついているが、心底嫌そうではないニシカさんは俺を見て
言葉を続けた。
﹁まァシューターが元気ならオレは別にそれでいい⋮⋮﹂
﹁おかげさまで﹂
﹁それでこの肥えたエリマキトカゲはどこから連れて来たんだ。倒
れたシューターの側にこいつがいたんで連れて来たんだが。なんだ
コイツ、めちゃくちゃ食欲旺盛で迷惑だ﹂
﹁ああ、そいつがバジリスクです﹂
402
﹁へえこれがバジ⋮⋮ん、おま、なんだって?﹂
﹁先ほど言ったわよね。その、バジリスクのつがいがもう一頭いて、
卵も孵化しているって。証拠として冒険者ギルドに提出するため、
苦労して連れ帰ったのよ﹂
驚いて俺を二度見したニシカさんに、雁木マリが説明してくれた。
403
38 ふたたびブルカの街にやって来ました
お世話になったオーガ討伐隊のベースキャンプを引き払った俺た
ちは、ブルカの街に引き返した。
﹁改めて見上げると、この城壁はデカいな。それにあちこち戦った
跡が残っているのも面白い﹂
﹁ん、ここは辺境諸民族との戦いの最前線だからね。聞いた事無い
? ヨーロッパで辺境伯と言えば武門の筆頭貴族が受け持つものな
のよ﹂
﹁ああ、モノの本で読んだことがあるな。辺境伯はただの伯爵位で
はなく侯爵にも匹敵する権限と富を持っていたとか﹂
﹁大学中退の割りに詳しいじゃないの﹂
﹁へっへっへ。残念でした、俺は文学部史学科だったんだ。各地域
の通史はこれでもしっかり勉強してるんだぜ?﹂
﹁見直したわ﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
城門を見上げながら俺が隊列に従って歩いていると、雁木マリが
意外そうな顔をして俺を睨んでいた。
いや、睨んでいる様に見えるマリだが、これがこの女のデフォル
トなのだと最近思う様になって来た俺である。
無感動な顔と言うよりも、単純に誰にも気を許さない様なオーラ
を纏っているだけなのだ。
だが、言葉の端々に少しだけ心を開いている事が見えるところが
よかった。
仲間として少しでも認めてくれるのは嬉しい事である。
404
﹁ニシカさんはもう街は慣れたんですね。鹿の群れより人間がいる
! とか言って驚かない、よしよし﹂
﹁ば、馬鹿にするな。ワイバーンも倒す鱗裂きのニシカさまが、い
つまでも人間ごときを恐れるわっきゃないだろうが!﹂
﹁そうですね。猟師は柔軟性がないとやっていけませんからね、あ
らゆる獲物を知り学びそして受け入れる﹂
﹁へへへ、そういう事だぜっ﹂
ニシカさんの扱いをちょっとわかってきた気がする俺である。猟
師である事に非常に高いプライドを持っているので、その点を軽く
持ち上げると上機嫌になる。
とはいっても猟師としての腕は超一流だ。女性にしては長身で、
肉付きも良く強弓も簡単に引き絞るし、風の魔法は一撃必倒の威力
と命中率を矢にもたらしてくれる。
今もブツクサとバジリスクのあかちゃんをあやしながら﹁お前の
弱点はどこだ、ん?﹂などと研究熱心だ。
たわわな胸に挟まれそうになっていやいやをしているあかちゃん
だが、かなり羨ましいぜ。
﹁それで、いったん冒険者ギルドに戻ったら状況経過を報告するん
でしたよね、ッヨイさま﹂
﹁そうですどれぇ。ギルドの情報では当初、ダンジョン内にバジリ
スクがいるらしいというお話でした。近くに踏み入った冒険者が咆
哮を聞いたという事で﹂
ぬし
﹁なるほど、で討伐依頼の内容はどうだったんですか?﹂
﹁簡単ですよどれぇ。ダンジョンの主、バジリスク一頭の討伐です。
けど実際はつがいで、あかちゃんまでいたのです﹂
﹁確かにそうでしたね﹂
﹁再討伐をするか、状況を報告だけして辞退するかなんですどれぇ﹂
405
﹁どっちにされるのです?﹂
﹁そうですね。どうしましょう?﹂
手を繋いでいたッヨイさまが、思案しながら俺を見上げていた。
新しい戦力か。村で雇い入れた様に、龍種と戦った事のある冒険
者の一団をまるまる助っ人にするのがいいだろうか。
いやあ。確かに彼らは優秀だったと思うが、ニシカさんはそれ以
上に優秀だった事を考えると、人数が居ればいいという問題でもな
かろう。
﹁ニシカさん、これからの予定とか決まってるんですかね?﹂
﹁ん? ひとしきり街を堪能したらオレは集落に帰るぞ。しばらく
街にいられる金もこれでできたしな﹂
﹁なるほど。それじゃあ今後の予定は特にないと﹂
﹁おう﹂
ニシカさんの確認を済ませた俺はッヨイさまに向き直った。
﹁再討伐をするなら、俺としてはニシカさんを助っ人に誘う事を提
案しますよ。何しろ俺のいた村周辺では、鱗裂きのニシカと言えば
誰でも知っているほど凄腕の猟師でしてね。しかもワイバーンを数
多く倒した経験があるのです。ですよねニシカさん?﹂
﹁そうだな。オレ様は猟師になって冬を越した数だけワイバーンを
倒したことがある。バジリスクを見た事はねえが、たぶんこいつを
観察していれば、弱点も見えてくるだろうよ﹂
同意を求めたところ、いつもの自己紹介のフレーズであかちゃん
を高い高いしながらニシカさんが答えてくれた。
頼もしい言葉である。
406
﹁どうですかね。冒険者の助っ人を頼むにしても、あまり人数をそ
ろえると取り分が減ってしまうでしょう﹂
﹁確かにそうだよね、ニシカさんは大丈夫ですか?﹂
﹁いいぜ、オレは別に暇だし﹂
﹁あたしも賛成ね﹂
﹁うん、じゃあそうしましょうか。どれぇは賢いですね!﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
俺はようじょの頭をなでなでしながらお礼を口にした。
まあ、リベンジするかここで手を引くかは、冒険者ギルドの対応
次第で考えるとの事だった。
無理をして死んだら何にもならないからな。
リベンジできないのは多少悔しいが、状況はしっかり掴んでから
行動しないとな。
しばらくすると番兵たちがやってきて、俺たちの荷物を改める番
になった。
﹁お前たちはどから来た。身分を証明するものはあるか﹂
﹁あたしたちはダンジョン攻略から帰還した冒険者よ、こっちが仲
間のふたり﹂
﹁タグを拝見。ふむ、間違いないな﹂
﹁帰りにオーガ討伐隊と一緒になったので便乗させてもらったの、
装備その他はほとんど戦闘中にロストしたわ。今は着の身着のまま
の状態ね﹂
ノースリーブワンピースの胸元から冒険者タグを引き出した雁木
マリは、番兵が顔を近づけてタグを覗き込むととても嫌そうな顔を
した。
そもそも男嫌いなのかもしれないが、さすがに官憲に暴力をふる
407
うわけにもいかないのか大人しい。
﹁で、お前は奴隷か。ん? お前、前に来た時はどこかの村の出稼
ぎじゃなかったか? ハハァ食い詰めて奴隷堕ちしたか。ついてな
いな﹂
﹁ど、どうも。あっ、へそピアス引っ張らないでください痛いから
!﹂
﹁フン。で、こちらの小さなレディがご主人さまかな?﹂
﹁はい! ッヨイはどれぇのご主人さまです。ブルカ伯金貨三〇枚
で購入しました!﹂
﹁こんな全裸の若造に金貨三〇枚?﹂
だいぶ盛ったお値段でッヨイさまが番兵に報告する。
いくらで奴隷を購入したかを自慢する風習でもあるんだろうかね。
番兵は疑わしそうに俺のヘソピアスを引っ張って睨んできた。
俺は首からかけた冒険者タグを持ち上げて見せたが、番兵は﹁い
らんいらん﹂と手をひらひらさせる。相変わらず男には仕事熱心で
はない。
だが、ようじょには熱心だった。こいつゴブ専ロリ好きか? と
んでもない合併症患者だなっ!
﹁よ、ッヨイは何か問題でもありましたでしょうか﹂
﹁その問題があるかないか、確かめるためにしっかり調べるんだ﹂
﹁おい、﹂
怯えるようじょが俺の腕にしがみついたところで、ニシカさんが
恐ろしい顔をして番兵をひと睨みした。
ワイバーンも殺しそうな眼光である。
﹁お前、また性懲りも無くべたべた触ってるのかよ﹂
408
﹁うおほん。本官はこれが職務なのである﹂
﹁うるせぇぶち殺すぞ。オレたちゃオーガと一戦交えて気が立って
るんだ。さっさとオレ様の身体チェックをしやがれ﹂
﹁ご、ご協力ありがとうございます。問題ありません!﹂
番兵はニシカさんがブラウスのボタンを外して胸元から引き出し
た冒険者タグをチラリと見ると、血相を変えた。
しかし名残惜しそうにチラ見しつつ次の荷物チェックに移るあた
り、とても残念な番兵である。
とは言え、何しろ討伐隊は長蛇の列だ。
番兵も次の仕事に取りかからざるを得なかろう。
オーガ討伐隊が守る荷駄の台車には、ずらりとオーガの首が並べ
られていたからである。
巨人族の並べられた首には、どのチームがこの獲物を倒したのか
一目瞭然になる様に、額にタグが釘で打ち込まれていた。
その中に、実は俺たちが倒したオーガのものも含まれている。
親切にも討伐隊を指揮したリーダーとニシカさんが話し合って、
回収できる範囲でタグを付けてくれたのである。
﹁す、すごい量のオーガの首級だな﹂
﹁これでもまだ全部を回収できたわけじゃねえ。夜戦で戦った時の
やつは、まだ残ってるだろうよ﹂
そう言ってニシカさんがマシェットの鞘をパシリと叩いて笑うと、
ビクつきながら番兵が﹁はあそうですか﹂と返事をしていた。
今のニシカさんは、どこからどう見ても荒くれ集団のベテラン冒
険者みたいな顔をしていた。
さすが村界隈で一番の猟師だ。適応能力が違うね。
409
◆
﹁つまりダンジョン攻略は失敗したという事ですか?﹂
﹁お前はいったい何を聞いているのかしら。あたしたちは当初、一
頭だけだったと聞いていたバジリスクがつがいだったという報告を
しに来たのよ!﹂
﹁という事は、その二頭のつがいとも討伐する事ができたという事
ですよね?﹂
﹁だから、どうしてそういう話になるのよ! 当初のバジリスク一
頭の討伐は果たしたわよ。これがその証拠ね﹂
冒険者ギルドの相談カウンターにやって来た俺たちは、状況報告
をする雁木マリと営業スマイルの受付青年のやりとりを見守ってい
た。
絶対に笑顔を崩さない受付青年は、自分たちギルドの情報収集に
誤りがあった事を認めなかった。
﹁なるほど、これが討伐証明部位ですか﹂
ドカンと勢いよくカウンターに置かれたのは、バジリスクの嘴か
ら引き抜いてきた巨大な犬歯と、それから尻尾の先端、そして逆鱗
だ。
逆鱗は頸筋の喉仏あたりにある
ギルドから指定の討伐証明の部位は倒さなければ手に入らない様
なところだった。
牙なんてものはあれだけ巨大なバジリスクがじっとしていなけれ
ばもぎ取る事はできないし、尻尾の先端も不可能だ。
とは言え、よしんばひとつだけ手に入れられる可能性も考えて、
もっとも入手難易度が高い逆鱗も提出するわけらしい。
410
﹁確かに逆鱗と尻尾、それに牙ですね。だが一頭ぶんしかない﹂
﹁お前。あたしが騎士修道会の人間だという事を知っていて、なお
その様な態度をとっているのかしら﹂
﹁滅相もありません。わたくしどもは、どなたさまにも公平ですよ
? 騎士修道会の修道騎士さまであっても、ここでは冒険者のひと
りです。冒険者であるならば、討伐失敗の場合は規則通り罰金を払
うのが決まりになっています﹂
という具合で、ふたりは堂々巡りを繰り返していた。
心配そうに事の成り行きを見守っていたようじょである。膝に乗
せたあかちゃんをいい子いい子しながら、俺を見上げて来た。
﹁やっぱり、ッヨイが説明をしたほうがよかったのですかどれぇ?﹂
﹁そんな事はありませんよ。ッヨイさまにはあかちゃんのお世話を
する大事なお仕事があるじゃないですか﹂
﹁そうですねどれぇ。それにしても頭の固い受付さんなのです﹂
﹁やっぱりそうなんですか﹂
﹁あのひとだけ特別な感じですどれぇ﹂
すると、ようじょの向こう側にいたニシカさんが口を挟んでくる。
﹁んだよなあ。オレに冒険者登録しろって言ってくれた姉ちゃんは、
いいやつだったぜ﹂
﹁そうなのですか?﹂
﹁そうだぜ。オレが逆鱗の首飾りを売って飯代にしようとしたら、
それより儲かるからと紹介してくれたんだぜ﹂
﹁情けない話を自慢気に言わないでください。こっちまで村の恥に
なる﹂
﹁うう、シューター手前ぇ、そんな顔をするなよ﹂
411
しかしまた厄介な受付にあたったものである。
荒くれ者の多い冒険者を相手にしているのだから、ごねる相手に
は取りつく島も無い態度でかわしてみせるのが受付の正しいやり方
なんだろうが、俺たちは予定に無い二匹のバジリスクを相手にした
のだ。
明らかに間違っていた情報を流したのは冒険者ギルドなのだから、
討伐失敗と見なすというよりは、追加褒賞を出して俺たちを送り出
すのが正しいんじゃないかね。
ただまあ誰しも自分の担当領域でミスを受けるのは嫌だろうから、
わからんでもないが。
でも俺たちは命かかってるんで、引き下がるわけにはいかない。
﹁じゃあ聞くわ。お前たちの情報が間違っていた点について、ギル
ドはどう思っているの﹂
﹁情報が間違っている? わたくしどもは不確定情報としながら、
ダンジョンの主であるバジリスクの討伐を依頼したはずです。その
際の報奨金はバジリスク一頭ぶん。これで間違っていませんよね?﹂
﹁なら、あたしたちも。この一頭分の討伐部位を差し出したのだか
ら、このクエストは成功とみなされないとおかしいはずだわ﹂
﹁しかし、二頭いたのですよね? では二頭倒さなければ討伐成功
とはみなせません﹂
﹁あたしたちは二頭倒す用意があるわ。追加の仲間も加わった。け
ど、赤字になる様なクエストなら、最初から討伐失敗の違約金を払
って引き払ってもいいのよ?﹂
雁木マリとようじょはあまり金に困ってはいないのだろうか、こ
こでマリは強気の態度に出た。
そうしながら、俺にチラチラと目くばせをしてくる。
412
なるほど、ちゃんと仲間と認めている証拠だろう。雁木マリは俺
に助けを求めてきたのだ。俺はちょっとどころか嬉しくなって助け
に入る事にした。
413
39 タフにネゴする俺物語
雁木マリの挑発に、受付青年は笑顔を浮かべた。
﹁わかりました。では討伐失敗という事で、こちらにサインをお願
いします。違約金はあなたの修道会が発行している銀貨で十五枚で
す。よろしいですか?﹂
﹁その前に、﹂
羊皮紙の討伐失敗を認める書類を差し出した笑顔の受付青年に、
雁木マリが制止した。
よし、俺の出番である。
むかし俺は地方の消費者金融で回収のアルバイトをしていた事が
あった。回収というのはつまり貸した金を回収するという事だ。ち
ょっと法律をかじったお客さんは、だいたい笑顔でなしのつぶて、
適当な小理屈を並べて返済を拒否してきたものである。そういう時
にはだいたい電話での督促をした後は、正社員がスーツで名刺を持
ってご挨拶をし、それでも駄目な時は俺みたいな人間の出番になる
のが基本だった。何をするかって、もちろん脅すんじゃない。そん
な事をしたら警察に訴えられてパアだ。
だから、相手が必ず要求をする様にタフ・ネゴシエイションする
わけである。もちろん喜んで相手が支払いをする様に、こちらから
落としどころの提案はしなければならない。俺はそれを考える立場
ではないが、それを持って口八丁手八丁でタフでネゴな交渉をする
のだ。
特に俺はブルカの街に来て直ぐ奴隷商人に酷い目にあわされてい
414
たので、今回同じ失敗をしないためにも慎重に事を運びたい。
﹁シューター。その子を連れてきなさい﹂
﹁わかった。ッヨイさまちょっとお借りしますね﹂
﹁わかりましたどれぇ!﹂
俺は雁木マリの合図に応えると、ようじょの膝の上で体を舐めて
いたあかちゃんバジリスクを抱き上げた。
﹁いい子だ。ちょっと挨拶しましょうね∼﹂
﹁何ですかこのエリマキトカゲは?﹂
俺はカウンターの上にあかちゃんを乗せた。
﹁あんたもはじめて見るかい?﹂
﹁そうですね。長い事ギルドの受付を担当していますが、こんな肥
えたエリマキトカゲを見るのははじめてです。おや?﹂
﹁歯も生えそろっていないだろう。こいつはこのサイズで赤ん坊だ﹂
猫ほどのサイズがあるあかちゃんの頭をなでなでしながら、俺は
ちょっと嘴を開いて見せてやった。
まだ孵化して数日のバジリスクだ。成獣の様にギザギザの歯は生
えそろっていない。
ついでに喉をごろごろしてやると、あかちゃんは﹁キュウキュゥ﹂
とかわいらしい猫なで声を口からもらした。
﹁見えるか? これが逆鱗だ﹂
﹁ほう、トカゲにも逆鱗があるんですね⋮⋮﹂
﹁あんた、わかっていてしらばっくれているらしいから、はっきり
言おう。これはバジリスクのあかちゃんだ﹂
﹁ほう? ご冗談ではないのですね?﹂
415
﹁そうだ。だろ?﹂
俺は雁木マリを見やってうなづきあう。続いてようじょの隣に座
っていたニシカさんにも視線を送る。
ニシカさんは面白くもなさそうにフンと鼻を鳴らすと、ようじょ
の頭をぽんぽんとやって立ち上がった。
﹁で、こちらにおられる長耳のひとは、鱗裂きのニシカさんという
のですがね。辺境のサルワタの森からやってこられた、ワイバーン
狩りの名人なんですよ﹂
﹁おう、鱗裂きのニシカとはオレ様の事だ﹂
﹁はじめまして、黄色いエルフのお嬢さん﹂
俺たちは目くばせをしあう。
﹁このひとは猟師になって冬を迎えた数だけワイバーンを単独で仕
留めた猛者でしてね、今年なんかはこの春にも一頭、余分に倒して
いるんですよ。ニシカさん、ほら首から下げた逆鱗を﹂
俺が大仰にそんな説明をすると、ニシカさんが首に吊るした飛龍
の逆鱗を外してカウンターに置いてくれた。
さらにアイパッチを指で差し、
あかし
﹁これが飛龍殺しの証だ。ついでにこの眼はな、いつでも遠く空を
飛ぶワイバーンを見据える事ができる様に、女神様へ生贄として捧
げたのさ。オレは龍の事なら何でも知っている﹂
﹁というわけです、受付のお兄さん﹂
﹁はあ、それで⋮⋮?﹂
鱗裂きのニシカがかつて赤鼻だった時、俺はニシカさんの両眼が
416
どちらも健在だった事を知っているが、それは黙っておく。
ニシカさんは白い歯を見せて言葉を続けた。
﹁このあかちゃんは、龍の仲間に共通する逆鱗が、産まれたばかり
になのにすでにあるな。ざっと生後五日といったところかな。間違
いない、オレが保証する﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
今度は俺がたたみかける。
ニシカさんは何が面白いのかニヤニヤしたままだった。
﹁我々がバジリスクの討伐依頼を放棄したとすれば、どうなるかわ
かるかわかりますかね﹂
﹁誰か別の冒険者パーティーが、バジリスク討伐の依頼を受けるで
しょうね﹂
愛想笑いを浮かべた受付青年が、少し困惑の表情をしていた。
﹁残念でした違います。バジリスクは地上の暴君です。そうですね
?﹂
﹁ええ﹂
﹁バジリスクは産まれたその日には歩き出すんですよ。この子がそ
うでした。するとですよ、子育てをするために巣を作って卵をかえ
した親は、餌を取りやすい場所に移動を開始するわけです﹂
﹁そうなんですか?﹂
ついそれが事実なのか受付青年がニシカさんを見た。
﹁ワイバーンは体のつくりがしっかりして飛ぶまで時間がかかるが、
バジリスクは地上の生き物だから、外敵を避けるためにすぐに巣を
417
移動する﹂
﹁な、なるほど﹂
俺は身を乗り出して受付青年を見やる。
全裸の俺が凄んでみせると、青年はとても嫌そうな顔をした。
﹁そこで確認なんだがね、受付のお兄さん﹂
﹁な、何でしょうか﹂
﹁このダンジョン討伐の依頼というのは、二頭倒さなければ成立し
ないんでしたっけ?﹂
﹁そそそうです。二頭しっかり倒していただかなければ、依頼達成
とは認められませんねっ﹂
﹁つまり、一頭だけ倒している俺たちでは依頼完遂をしたとは言え
ないと﹂
﹁その通りです﹂
﹁まあじゃあ、別の冒険者をギルドが雇うのは結構でしょう。しか
し、彼らは絶対に依頼を達成できませんよ﹂
﹁と、言うと?﹂
混乱した受付青年の顔にもはや笑顔はない。
俺が次に何を言い出すのか、明らかにビビっている。
﹁俺たちはダンジョン攻略のために一通りのマップを作成して状況
がどうなっているかもよくわかっている。ついでにバジリスクが外
に逃げ出さない様にちゃんと洞窟の一本しかない通路も破壊してふ
さいできました﹂
﹁ほ、ほほう﹂
﹁いったん討伐依頼失敗を俺たちは認めてもいいが、このバジリス
クを討伐した部位は引っ込めさせてもらいますよ。違約金まで払わ
された上に部位まで取り上げられたんじゃ、大赤字ですからね﹂
418
﹁そ、そんな困りますよ﹂
﹁困るって言われましてもねえ、これは俺たちの取って来た部位だ。
あんたらのもんじゃないよ?﹂
﹁確かに、そうですが⋮⋮﹂
﹁あんたは確かに言いましたよね。討伐成功の条件は二頭を倒す、
俺ははっきり聞いた。みんなもそうだろ?﹂
そろってパーティーメンバーがうなずき、嬉しそうにニシカさん
も﹁そうだぞ﹂と腰に手を当てて、ぽよよんと巨乳が揺らした。
十分に困らせたところで、今度は落としどころの提案をする番だ。
引きつった顔の青年が俺を睨み付けてくる。
﹁こんなの詐欺の手口じゃないか、上司を呼びますよ!﹂
﹁まあ聞いてくださいよ。ここで俺たちから提案なんですけどね﹂
﹁聞きましょう⋮⋮﹂
詐欺みたいな方法で討伐失敗に持ち込もうとしたのはどっちだよ。
って話しだが、まあそれはいい。
﹁もういち度、改めて依頼を受けさせてもらうというのはどうでし
ょうかねえ。もちろん、今はこの部位は回収させてもらい、もう一
頭を討伐したら二頭分を揃えて提出します﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁さて、二頭分のバジリスクを含むダンジョン攻略依頼はおいくら
になりますか。前回の討伐依頼の報奨金がええと﹂
﹁金貨三〇枚よシューター﹂
﹁そう。金貨三〇枚という事は、二頭ならその倍はいただかないと
いけませんねぇ。悪い話じゃないと思うんですけどねえ?﹂
雁木マリの助け舟をいただきながら、俺がずずいと青年に顔を近
419
づけた。
﹁う、上の人間と相談してきますのでしばらくお待ちください!﹂
結果、冒険者ギルドは一頭分の褒賞金をまず俺たちに払い、改め
て再討伐の依頼を支払うという判断をした。
その際に、どうやら受付青年は厳しく叱責を受けたらしい。
まあしょうがないよね、嫌なヤツだったし!
◆
バジリスク再討伐の依頼を引き受けた俺たちは、改めて装備を整
えてダンジョンへのアタックをかける準備に入っていた。
前回の反省を失敗して、より有効な装備を手に入れようと考えた
からだ。
メイスは、確かにコボルトやマダラパイク、あるいは帰りに遭遇
したオーガとの戦いでは大活躍だったが、巨体のバジリスクを倒す
ためには有効な打撃が与えられなかった。
なので、武器は手槍へと変更される事になったのである。
リーチのある武器は攻撃範囲がある相手と戦う時には有効だ。
あえてスパイクにしなかった理由は、ニシカさんのアドバイスに
従ったからだった。
﹁スパイクは一撃が決まれば有効な攻撃になりえるが、それよりも
手数で勝負した方がいいだろうぜ。特にコイツは︱︱﹂
バジリスクのあかちゃんを武器屋で持ち上げて見せたニシカさん
はが説明を続ける。
﹁腹の下がとても柔らかい。成獣はたぶんコイツよりも当然硬くな
420
っているだろうが、それでもワイバーンや他の龍の仲間に共通して、
体の内側は比較的打撃が通りやすい﹂
という事だったからである。
特に体の大きい今回のバジリスクの片割れを相手にするのなら、
俺たちは下から見上げる格好で戦う事になるので、上手く相手に接
近する事さえできれば、突き立てる槍が有効となるわけである。
そこで俺とニシカさん、雁木マリのための手槍を三本購入した。
手槍の長さはちょうど俺の肩ほどの長さがあり、狭いダンジョン
で振り回すにも手ごろな大きさだ。
それに杖代わりになるところもいい。
﹁それからガンギマリーは、武器を研ぎに出しておいた方がいいぜ。
ワイバーンもそうだったが、あいつらの鱗を斬りつけると極端に切
れ味が落ちるし、あの表面のイボイボな鱗で刃も欠けているだろう﹂
﹁ええ、そうするわ。シューター、この剣まだまだ使えそう?﹂
ニシカさんのアドバイスにうなずいた雁木マリが、自分の長剣を
差し出しながら俺に質問をしてくる。
別に俺は歴戦の戦士ではなく、元いた世界ではただのバイト戦士
だったんだけどな。まあでも何かにつけて相談してくれるのは嬉し
いので、できるだけ応えてやる事にする。
﹁どれ、うーん。まだ使える状態だとは思うけど、ずいぶん丈夫に
できているんだなこの世界の剣は﹂
﹁そうね。あしかけ二年ぐらいこの剣を使っているのだけど、人を
断ち切ってもモンスターを叩き潰しても、これまで問題なく使用で
きたわ﹂
﹁それは、もともとこの世界の長剣が肉厚で刃広くできているから
だな。研ぎに出して刃が痩せ細っても、まだまだ使えるというのが
421
いい。ああでも、この場所はパックリ割れてるけど、骨を叩いた場
所だな﹂
﹁ん、見せてみな﹂
ニシカさんと俺が身を寄せ合って剣を確認するのだが⋮⋮
胸が近い以上に、吐息が俺の全裸に吹きかかる。
息子の居心地が悪くなってそわそわしはじめたので、俺はあわて
て話題を切り替えた。
﹁み、店の人間に聞いてみるといい。たぶんまだ使えると思うが、
専門家の意見は大事だ﹂
﹁そうね。ありがとう﹂
さてようじょの方も新しい装備を買うそうである。
どういう構造になっているのかわからないがグリモワールを新調
するのかと思ったら違うらしい。
そっちじゃなくて栞の方だった。
へえ、栞も武器屋さんで売っているのか。
﹁どれぇ、この栞はどうでしょう!﹂
﹁うーんかわいらしい絵が入っていますね。とてもお似合いです﹂
﹁えへへ。この絵文字は、やみをすべるものという意味があるので
す!﹂
﹁やみをすべるもの⋮⋮﹂
イラストと思ったが絵文字だったのか。
しかし、やみをすべるもの⋮⋮ようじょの将来が心配だ。
ニシカさんみたいな中二病を患わせると大変だな。
﹁今回の戦いはダンジョンですどれぇ。先手を取って背後からのい
422
ちげきをいれるのに、最適な加護ですどれぇ﹂
﹁そうだぜようじょ、よくわかっているじゃねぇか!﹂
﹁ようじょって言わないでくださいきょにゅう!﹂
﹁うるせぇオレも巨乳じゃねえ!﹂
中二病仲間のニシカさんがうんうんうなずきながら、ようじょに
同意していた。
さて、俺はというと。
前回からの経験を生かして、重装備で防具を固めるかどうか悩み
どころである。
戦闘の基本は回避を中心に行っていくので、村にやって来た連中
やよく冒険者ギルドで見かけるヤツらみたいな鎖帷子というのはで
きるだけ避けたい。
かといって鉄皮合板の鎧は明らかに高級品なので、修道騎士さま
の雁木マリぐらいでないとこれは手が出ない。
というわけで、最低限の盾を購入できないか、ようじょにお願い
するのである。
﹁どれぇは、さっきから盾を見ていますけど欲しいんですか?﹂
﹁欲しいですはい。俺はどちらかというと回避系の戦士だったので、
軽装備だしこれがあるととても嬉しいです﹂
﹁じゃあガンギマリー、これも受付に持って行ってください﹂
﹁おお、ありがとうございます。ありがとうございます。
﹁わかったわ。あとシューター⋮⋮﹂
受付に持っていくために円盤状の盾を受け取った雁木マリが、俺
を足元から顔先まで観察した。
﹁そろそろ服を買いなさい。ッヨイの教育上よろしくないし、粗末
423
な包茎を見ているとその、不愉快よ﹂
﹁いいんですか? 俺奴隷ですけど、服着ても﹂
﹁そのへそピアスだけわかるようにしていればいいわ。そうでしょ、
ッヨイ?﹂
ズボン
﹁はい、そうですねどれぇ。この後お服を買いましょう!﹂
その後、俺はねんがんの服を手に入れた!
424
40 バジリスクを狩る者たち
新たな装備を手に入れた俺たちは、バジリスクのダンジョンにリ
ベンジするべくアタックをかけた。
今回は飛龍殺しの専門家、鱗裂きのニシカがいる。
﹁なんだろう。ニシカさんが仲間にいるというだけで俺は勝てそう
な気がする﹂
﹁馬鹿野郎、勝てる様に作戦を練り、装備を準備したんじゃねえか。
お前こそ手抜かりはないな?﹂
﹁大丈夫ですよ、ズボンのはき心地も最高です﹂
俺の装備は次の通りだ。
新調したポンチョの内側には義父の形見である毛皮のチョッキに、
下は愛妻ヒモパン、そしてズボン! ズボンを俺は履いているのだ
った。
みんなの荷物を預かる立場なので背負子を背負っているが、そこ
に予備武器のメイスをぶら下げて、今回は腰に短剣、手には杖代わ
りにもなる手槍と円盾である。
ようじょを除く全員が手槍を装備しているので、そういう意味で
予備の武器は充実していると言えた。
ニシカさんは、集落から持ってきていたマシェットの他に、街の
武器屋で見繕った強弓を持参している。
普段使いのそれとは違って真新しい長弓は、ニシカさんもたいそ
うお気に入りの様だ。
これは今回の作戦で肝になるものなので、どうしても必要だった
425
のだ。
﹁しなりが違うな。手製のものも悪くないが、やはり値が張るだけ
あって悪くねぇ﹂
﹁手槍も村で支給されたものより、材質がいいんですかね。とても
軽いです﹂
﹁キィキィィ﹂
俺たちがそんな会話をしていると、あかちゃんが騒ぎ出した。
﹁どうした。お前の故郷に帰って来たのが解るのか? ニシカさん、
龍の仲間には帰巣本能とかあるんですかね﹂
﹁いやあオレはそこまでバジリスクに詳しいわけではないからな。
ただワイバーンの場合は、生まれた場所の周辺に巣をつくる習性は
あるので、似たようなところはあるのかもしれねえな﹂
﹁なるほど﹂
俺は納得するわけである。
とは言っても、あかちゃんの騒ぎ方はおかしい。
俺たちは今、ダンジョンの中層を進んでいた。前回の最後の戦闘
で崩落させた通路を突破して、倒したバジリスクの遺骸を尻目に地
底湖のドームへ向かっていたのである。
遺骸はすでに腐食が進んでいたが、何かの動物たちによってその
遺骸は解体されつつあった。コボルトとの遭遇は無かったので何か
別のモンスターの仕業だろう。
それにしても、あかちゃんは騒がしい。
生まれ故郷に帰って来たからこんな事をしているのかと思ったら、
突然。
﹁キイイイイィィィ!﹂
426
耳をつんざくような咆哮を、この小さな体から放出したのである。
俺たちはたまらずこの金切り声に身を縮めた。これはもうあかち
ゃんとは言うものの、バインドボイスそのもだった。
﹁ど、どうした。落ち着くんだ﹂
﹁シューター、なんとかしなさいよ! 成獣にあたしたちの侵入が
バレてしまうわッ﹂
俺が取り乱していると、雁木マリがあわてて俺にどうにかしろと
言ってくる。
それもそのはず、奥にはバジリスクの親子がまだいるはずなので
ある。
もしかすると、親に助けを求めているのか?
俺の脳裏に一瞬そんな不安がよぎったけれど、どうやら違った様
だ。
俺が抱き留めているバジリスクのあかちゃんは、怯えていたのだ。
怯えて、俺に助けを求める様にしがみ付いて来る。
﹁この子を連れて来たのは失敗でしたかね、どれぇ﹂
﹁いや。まさかギルドに預けるわけにもいかないし、ニシカさんの
作戦だとおびき寄せるのに使うはずだったわけで﹂
ようじょが俺のズボンの布に掴みながら、やはり心配そうにして
いる。
作戦では、囮になる人間が風上に移動している間に、ニシカさん
が風下から長弓の一撃を急所にぶちこむという作戦であった。
あかちゃんはバジリスクにとって取り返したい存在である。
この純真無垢あかちゃんを囮に使うのだから俺たちはとんでもな
い外道なんだが、知恵を使わなければバジリスクを倒す事なんて簡
427
単にはできない。
将来、この子に殺されても俺たちは文句言えんな⋮⋮
弓を使うというところはサルワタの森でワイバーンを仕留めた時
と同じ方法だった。
ただ今回は仲間に魔法使いがいるので、雷撃系の一撃で相手を仕
留めるというものだったのである。
わかりやすく言えば鋼でできた矢を打ち込んで、ここに雷撃魔法
をぶちこむ。
これはニシカさんが発案したもので、急所への一撃に、さらに追
撃の魔法が重なれば、より効果が強まるのじゃないかというものだ
った。
﹁図体が出かければ、それだけ毒がまわるのが難しい。だが魔法な
ら一瞬で効果が出るだろ?﹂
その提案にみんなもそれには﹁いいね!﹂と賛同したのだけれど、
このままだと遭遇戦をしながら弓を射掛ける必要が出てくる。
そして警戒しながらダンジョンの先を進んでいると、
ドオオオオオオン! という怒号が、通路のずっと先の方から響
きわたって来た。
間違いなく成獣バジリスクの咆哮である。
﹁やばいわね、完全に聞こえていたみたい﹂
﹁急ごうみんな。どれぇは荷物をここに置いて、ドームに入る事だ
けを考えるのです!﹂
﹁わかりましたッヨイさま﹂
雁木マリとッヨイさまがうなずきあって、俺に指示を飛ばした。
ニシカさんはというと、落ち着き払った態度で矢筒から一本の鋼
428
の矢を取り出す。
﹁安心しろ。魔法使いがいるなら、あわてる事はねぇ。どこから打
ち込んでも鱗の装甲さえ通して刺さってくれれば、一撃を加えるの
はわけねえぜ。ようじょ魔法も即応準備はできてるんだろ?﹂
﹁まかせてくださいニシカさん!﹂
ニシカさんは、身軽な軽装姿が故にようじょを抱き上げると、駆
け出して行った。
俺たちもそれに続く。
ニシカさんの手槍は予備として俺が預かる。
雁木マリも手槍での攻撃をする腹積もりだったったが、あくまで
も俺たちは魔法攻撃が失敗して長期戦になった際の控えみたいなも
んだ。
今日の主役は、鱗裂きのニシカである。
◆
地底湖のドームにたどり着いた俺たちは、ニシカさんを先頭に成
獣バジリスクを探した。
どうやら地底湖で咆えたのではないらしく、どこか地底湖ドーム
へとつながる別の通路を移動中らしい。
足音からすれば、むしろ俺たちが通路の道幅よりも広いんじゃな
いかと想像できた。
そこがもしかすると、地上へと延びる別のルートなのかもしれな
い。
ズンズンと地鳴りの様な響き地底湖に近づいている。
﹁あっちに別の通路を見つけました! ニシカさん準備はできまし
たか?﹂
429
﹁おういいぜ、速射で二本はぶち込める。それで時間稼ぎはできる
か﹂
﹁可能です!﹂
﹁今回はあえて目は潰さない。それより一射目は腹部に一撃だ! あかちゃんを観察してたら、こいつら時々、後ろ足で立ち上がるだ
ろう。その瞬間に肺にぶち込んでやる﹂
舌なめずりをしながら、ニシカさんがようじょとやり取りをした。
ッヨイさまも真面目なはなしをしている時は、ニシカさんを巨乳
とは言わないらしい。
﹁冒険者のお前たちを悪く言うつもりはないが、猟師は獲物と知恵
比べをする職業だ。力でねじ伏せる冒険者のやり方も悪くはねえが、
今日はオレ様の流儀で仕留めてやる。見てな⋮⋮﹂
近づいて来る地響きに警戒しながら別口の通路を俺たちは見守っ
ていた。
あかちゃんの震えはまだ止まらない。
自分の親がこれから現れるというのに、やはりこの子は親を親と
思っていないのだろうか。
俺にしがみついて、時折俺を見上げるあかちゃんは、明らかに俺
に対して助けを求めている様だった。
最後にぎゅっと俺も抱いてやる。
手槍の握る片手にも力が入った。
﹁よしいい子だ。お前はここでじっとしているんだぞ。おじさんが
お前のパパを倒してしまうけど、許してくれよな。恨みがある時は、
いつか大きくなってから苦情を言ってくれ。その時が来たら相手に
なってやる﹂
﹁キュウウ!﹂
430
﹁お前、何を言っているの。来るわよ﹂
俺が予定では囮に使うはずだったあかちゃんを地面に降ろした時、
雁木マリにたしなめられてしまった。
改めて手槍を握りながら、お互いに距離を広げて走る。
固まっていると一撃を食らった際に全員助からない可能性がある
からだ。
そして、ポーション投与を拒否したニシカさんと年齢制限に引っ
かかったようじょ以外のふたり、つまり俺とマリはポーション投与
で体力強化と興奮促進をキめている。
恐らく俺がわけのわからない事を口走っているのは、このポーシ
ョンの影響だろう。
俺が改めて別口の通路を見た時。
ぬっと禍々しい表情をしたバジリスクの顔が突き出されたのであ
る。
さあ戦いの始まりだ、すべての準備はできたのだ。
リベンジといこうや。
◆
﹁いくぞ、作戦開始だ。挑発してやれ!﹂
ニシカさんの合図とともに、雁木マリが手元からファイアーボー
ルを出現させて飛ばす。
前回の経験からファイアボールは鼻を撫でる程度の威力しかない
事はわかっている。
じゃあ何の目的だというと、もちろん威力を頼みにしているので
はなく、ただ注意を引き付けるための一撃だった。
バシンとバジリスクの鼻面にそれは吸い込まれ、爆散した。
431
目の前での事となれば、
ゴオオオウと低い嘶きをしたバジリスクの成獣が、広いこの地底
湖ホールで立ち上がる。
﹁馬鹿め、狙い通りだぜ﹂
小さいが確かにニシカさんがそう口にしたのを俺は耳にした。
弓を構える左手に予備の一本を持ちながら、右手で弓を引き絞っ
て打ち込む。
ギュンという空気を切り裂く音をまき散らしながら、それは立ち
上がったバジリスクの胸に吸い込まれた。
見事!
バジリスクが呻き声を上げて前脚をつくが、ニシカさんは次の矢
をつがえて左後ろ脚の膝を射抜いた。
成獣はたまらず前脚を付いた。
﹁的がデカいと、魔法で誘導してやる必要もねえ!﹂
そう叫んだニシカさんが矢継ぎ早にまた弓をつがえ、
﹁もういっちょいくぞ!﹂
そして今度は脳天に一撃を放つ。
矢を受けて悲鳴を上げたバジリスクだが、これぐらいではまだ力
尽きるはずがない。それだけ巨体で防御力も圧倒的なのだから、当
然だ。
ニシカさんは冷静に四射目の弓を矢筒から抜いていた。
距離があり巨体を相手にしているので冷静でいられるが、それで
も暴走するダンプカーの様に速度は止まらない。
四射目が放たれる。また脳天に突き刺さった。
432
最後の矢によって、バジリスクはまた嫌がる様に低い呻きを漏ら
し、前脚で額の辺りをまさぐった。
そこに、
﹁フィジカル、マジカル、サンダーボルト!﹂
調子っぱずれなようじょの呪文が唱えられると、ようじょの手元
にあったグリモワールが光り、雷撃魔法が成功した。
ファイアボールは手元から出現する魔法だが、サンダーボルトは
天井からカッと光を伴って撃ち落とされるのだ。
ドガンという巨大な響きがドーム内に広がった。
煙とともにバジリスクが呻きを上げる。落雷した先は、どうやら
俺たちが最初に想定していた胸ではなく、脳天の矢の方だった様だ。
だがまだバジリスクは呻きながらも立っている。
﹁まだ生きてるわ。予定変更!﹂
くそ、もしかして作戦失敗か?
次の一撃をようじょが打ち出すためには時間がいる。確かにバジ
リスクはある程度弱っている様だが、痙攣をしている様にも見えず、
まだ戦えるという意思を示していた。
だから雁木マリが肉薄戦闘に入ろうとしていたのだろう。
﹁待て、そのままじっとしてろ!﹂
ところがニシカさんはそれを制止した。
ドスリドスリとまだ前に進もうと足を差し向けたバジリスク。
けれども、数歩足を進めたところでその暴走は止まり、バジリス
クは腹這いになって倒れてしまった。
433
﹁神経が麻痺しているんじゃねえか。まだ息はあるが、動くのが難
儀になってるんだろう﹂
﹁な、なるほど﹂
﹁それにオレ様は別にむやみに矢を射ち込んだわけじゃないぜ。全
部急所に刺さっている。まだ生きちゃいるが、トドメを差せばいい
だけだ。ようじょ、時間がかかってもいい。もう一回雷撃魔法を使
えるか?﹂
﹁は、はいつかえますニシカさん﹂
あわてて返事をしたようじょは、雷撃の鉄槌を落とすために魔法
詠唱に集中するのだった。
◆
すでに抵抗力を失っている獲物を相手に、強力な魔法の一撃を打
ち込むのは気分のいいものじゃない。なぶり殺しも同然だ。
しかしこれだけ巨大なバジリスクを倒すためにはこれしか方法が
無いのも確かだった。ニシカさんは平然とようじょに指示を飛ばし、
俺たちを少し後方に下がらせた。
あかちゃんを抱き上げた俺は、できるだけこの子に親が殺される
姿を見せたくないと思った。当たり前だ。自分がそんな事を経験す
れば、大人になって確実に犯人を恨む。
もちろんそれは人間の考えそうな手前勝手な理論で、バジリスク
が将来それを理解して、俺を恨むかどうかなんてのはわかりゃしな
い。
それでも気分のいいものではなかった。
﹁ではいきます。わが精神に宿りし魔法の力よ、今こそ解き放ちわ
が鉄槌となって打ち下ろせ。フィジカル・マジカル・サンダーボル
ト!﹂
434
いつもより長い詠唱にはとびっきり強力な一撃をぶち込むという
意味がある。
時間をかけて溜め込んだ魔力の放出によって、ひときわ大きな雷
鳴がカッと鳴って、動かなくなって浅い息を繰り返すバジリスクに
落雷した。
すべてが終わったわけではない、生焼けの様な悪臭を漂わせるバ
ジリスクに近づくと強引に牙をもぎ取るニシカさんは、相変わらず
鱗裂きの二つ名にふさわしい手際よさだった。
俺たちはそれをニシカさんひとりに任せて、別の役割を担う。
生き残ったバジリスクの二頭の子供を潰すのだ。
﹁どれぇ。この子の兄弟たちを殺しちゃわないといけないんですか
ね﹂
﹁そうですね。この二頭は俺たちが連れて来たあかちゃんと違って、
俺たちには懐いていませんからね﹂
﹁そうですけれども。まだあかちゃんですし、かわいそうなのです﹂
﹁かわいそうですね。でも自然はそれだけ厳しいんですよ﹂
俺はようじょに何を諭しているんだ⋮⋮
生かしておけば、必ず後日またこのダンジョンの主となるだろう
存在だった。だから例え雛と言って差支えのない子供を仕留めると
いう内容であっても、やらなくてはいけない。
﹁冒険者なら、こういう事をやる時もあるのよ。わりきりなさい﹂
地底湖ドームの端で隠れ潜んでいた体格差のある兄弟︵姉妹?︶
を前にして、雁木マリさんは冷酷にそう告げた。
435
腰に吊るした刃広の長剣を引き抜くと、具合を確かめながら二匹
に近づこうとしている。
表情をチラリと見たが、マリ自身もこんな事をやりたいとは思っ
ていないらしい。だから俺は雁木マリを制止した。
﹁なあ、マリ。その役目、俺にやらせろよ⋮⋮﹂
﹁え、シューターでも﹂
刃広の剣を構えようとした雁木マリの手を持って、俺がそれを奪
う。
この世界は優しくない。そういえばマリはそんな事を言っていた
なあ。だがわざわざあえて厳しい方向に進む必要なんて、ありはし
ないんだよ。自分からそれを背負い込んでしまう様なタチのマリは、
もう少し楽な立場になってもいいはずだ。
女子供に苦労を背負わせたくないという俺の残念なフェミニズム
だかロリコン精神だかの理由もそこにはあるだろう。
けど、俺がやるべきだとどことなくそう思ったのだ。
﹁俺は少しだけ剣術をやっていた経験がある。だから苦しませずに
こいつらを殺すなら、たぶん俺の方が上手い﹂
﹁わ、わかったわ﹂
俺の意図を理解していたのかもしれない。雁木マリは複雑な顔を
して、剣を俺に譲った。
怯えるバジリスクの子供たちに、俺は長剣を振りかぶった。
横薙ぎの一撃と、山を切っての真向切り。うまく斬れると啖呵を
切ったわりに、あまりいい斬りっぷりではなかったと思う。
でも、これまでも苦労してきた女にそれをさせるよりは、マシだ
436
ったと俺は信じたいぜ。
ッヨイさまは眼を潤ませながら泣きそうになっていた。
雁木マリも疲れた顔をして俺を見守っていた。
長剣を血振りした俺は、それを雁木マリに返しながら質問する。
﹁あかちゃんはどうするよ﹂
﹁潰さないの?﹂
﹁あのッヨイさまを見ていて、そんな事ができるか?﹂
﹁無理ね、今にも泣きそうじゃない。ていうか、もう泣いてるか﹂
チラリと振り返って、あかちゃんを抱きながら涙をボロボロとこ
ぼしているようじょを見やった。
﹁おい、熊の子供を保護して育てているおじさんのニュースとか見
た事ないか?﹂
﹁ロシアとか北海道の? あるけど﹂
﹁まあ、バジリスクは熊トカゲみたいなもんだ。俺が引き取って育
ててみようと思うんだけど、どうだろう﹂
﹁どうだろうって。食事代、大変そうじゃない⋮⋮犬や猫を引き取
るのとはわけがちがうのよ?﹂
﹁まあな。ま、それでもせめてもの罪償いとでもいうか。人間のエ
ゴなんだろうけどさ﹂
そんな俺たちのやり取りに、
﹁いいんじゃねえか?﹂
ニシカさんが、こそぎ落とした逆鱗を片手にこっちに近づいてき
437
た。
﹁聞いた話じゃ、遠くの国ではワイバーンの子供を捕まえて使役す
るらしいぜ。育てる事は可能だと思う﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁ああ、けど。育てるなら、いつまでもあかちゃんはねぇだろうよ。
名前、つけてやんな。親はシューターだ、お前がつけるんだ﹂
ニシカさんは真面目な顔をして俺たちを見比べて言った。
﹁そうだな。じゃあ、バジルで。バジリスクだからバジル﹂
﹁⋮⋮なんかハーブみたいな名前ね。でもま、覚えやすくていいわ﹂
﹁気に入ったぜ、いい名前だ!﹂
俺の適当なネーミングに、雁木マリとニシカさんがそれぞれの意
見を口にした。
﹁ッヨイさま、ところであかちゃんの名前を考えたのですがね。バ
ジルというのはどうでしょう? 俺の故郷の古い言葉の意味によれ
ば、王様という由来があるそうです。地上の暴君にはぴったりの名
前じゃないですかねぇ︱︱﹂
俺たちのダンジョン攻略は、こうして終了した。
吉田修太、三二歳。
奴隷であり、元バイト戦士の村人だ。
今はブルカの街で冒険者をやっているが、村には嫁もいる男。
俺はこの世界に根を張って、バジルと共に過ごしていこうと思っ
ている。
438
439
閑話 夫からの手紙
夫はとてもいいひとです。
いつも裸で過ごしていて少し寒そうになさっているけれど、貧乏
なわたしの家にやって来ても、何ひとつ文句を言いませんでした。
本当はいい服を着ていただきたのですが、生活の苦しいわたしには
何もしてあげる事はできません。
けれども、時々その視線が怖かったのも事実です。
夫は、わたしが寝ている時も、服を着替えている時も、体を洗っ
ている時も、それからおトイレをしている時もよくまじまじと見て
くるのです。遠い故郷の生まれというので、夫はわたしのやる事な
す事が珍しいのかも知れません。
でも、目つきが怖いです。
夫と結婚する事になったのは、村長さまのご命令があったからで
した。
遠い土地からやって来てサルワタの森で迷子になっているところ
を、見つけられたそうです。全裸を貴ぶ部族のご出身だそうで、保
護した時には全裸でした。
けれど村のみなさんはそれを訝しみ、要領を得ない説明をする夫
を捕まえてしまったのだとか。
いろいろあって許された夫と、わたしは村の物見の塔の地下牢で
知り合いました。これからはこの男の世話をしろとお命じになられ
た村長さまは、とても無慈悲な方だと思いました。父を亡くして身
寄りも少ないわたしをよそ者に嫁がせるなんて。
全裸を貴ぶ部族の方と聞いたので、あの巨大な猿人間の仲間なの
440
かとわたしはとても恐ろしかった。
けれど、普通の人間でした。
安堵したのもつかのま、全裸で地下牢の主みたいにくつろいでい
る当時の夫は、どこかとても得体のしれないものの様で、不気味で
した。
わたしが結婚するという知らせを聞いたオッサンドラ兄さんは、
すぐにも飛んできてわたしを心配してくださいました。
夫が留守の時、
﹁よそ者で、元は戦士だったという全裸を貴ぶ部族の男と聞いた。
今からでも村長にかけあってやめさせる﹂
﹁そ、その様な事を村長さまに言ってはいけません。オッサンドラ
兄さんにもしもの事があったら、わたしはいよいよ少ない身内をな
くしてしまいます﹂
﹁そこは大丈夫だ。あの怪しい男の方から自分の口で離縁を言い渡
す様に工夫する、任せるんだ﹂
﹁で、でも﹂
オッサンドラ兄さんは齢が近い事もあって、むかしから頼れるお
兄さんという感じの従兄でした。
けれどこの頃、どこか兄さんの態度はおかしいです。
特に父がなくなってから、何かあるとすぐに﹁ひとりは何かと不
便だろう﹂と、言ってくださいます。
それはとてもありがたい事なのですが、兄さんはただの親戚とい
う以上に、わたしによくしてくれるのです。
今のわたしは夫のある身分ですからあまりよくしていただくと、
ただでさえご近所の眼がよくないのに、ますますわたしは追いつめ
られてしまいます。
441
﹁おい小僧、いい加減にカサンドラに近づくのはやめにするんだな﹂
ある時、ッワクワクゴロさんがわたしの家を訪れて、いつもお土
産を持ってきてくれるオッサンドラ兄さんをご注意なさいました。
﹁しかし、カサンドラはその。身寄りも無く苦労をしているので﹂
﹁ばっかかお前は、カサンドラはシューターの嫁だ。夫がいる人間
なら、夫が身寄りだろう﹂
﹁俺とカサンドラは、それこそカサンドラが生まれてからずっと続
く仲だ。昨日今日の出て来たあの男と俺を比べれば、どちらがより
深い身寄りかわかるものでしょうに﹂
オッサンドラ兄さんは、わたしへの気遣いか食い下がってくださ
いましたが、ッワクワクゴロさんにアゴ髭を引っ張られて折檻され
たみたいです。
これ以上はオッサンドラ兄さんにもご迷惑をかけれれません。
だからもう、うちにはこないでくださいとわたしは言いました。
オッサンドラ兄さんはとても悲しい顔をして、それからしばらく
わたしの顔を見に来ることはなくなりました。
◆
夫が街にお出かけになるという事が、村長さまの命令で決まりま
した。
夫婦の生活というのは、まだどのようにしていいのかわたしには
わかりませんでした。
まだ新婚で十日あまりを過ごしたばかりですし、わたし自身は覚
悟を決めていたのですが、夫はどういうわけかわたしに手を出そう
とはしませんでした。やはり村長さまのご命令で決められた結婚が
442
ご不満だったのでしょうか。
けれどもその一方で、夫はわたしにこう言いました。
﹁いきなり夫婦になろうなんて言っても、君もきっと動揺している
事だろう﹂
だからゆっくりと夫婦になっていこうと仰ってくださったのです
が、あの時の夫はとても興奮気味で、このまま押し倒されるんじゃ
ないかと思うと、その時まだ心の準備のできていなかったわたしは、
拒絶してしまいました。
今にして思えば、夫はそれ以後、わたしに手を付けようとしなか
ったのです。
わたしから、よそ者の夫を受け入れる様に、努力しなければ。
ッワクワクゴロさんが時々訪ねてきてくださり、お芋や清潔な布
を下さいました。
夫の事を支えるのが嫁の役割です。わたしはその布でいつも全裸
で寂しそうにしておられる夫のために、下着を作ってみました。た
いそう喜んでくれた矢先に、夫は街に旅立っていきました。
少し、夫との距離が狭まった気がします。
夫がいつ戻って来るのかは村長さまからも夫からも聞かされてい
ませんでした。だから、夫が街道を旅立っていく姿を、せめてひと
目お見送りしようと、家の前でお待ちしておりました。
気恥ずかしかったわたしですが、夫を見かけると、ついつい手を
振ってしまいます。
すると、夫もわたしに応えて、手を振ってくださいました。
443
﹁いってらっしゃ、シューターさん﹂
夫が旅立ってからはまた父が亡くなってからと同じ様に静かな生
活にもどりました。
非力なわたしでは猟師の娘であっても、できる事は知れています。
近所の猟師さんの奥さんがたと、皮をなめす作業をしたり、畑の
手入れをしたり。
シューターさんが耕してくれた畑だけは、わたしひとりででも守
らなければなりません。
そう勇んでみたものの、やはりわたしひとりでは限界がありまし
た。
腰を軽く痛めてしまって、ッワクワクゴロさんにお叱りを受けま
した。
﹁こういう事は、俺んちの馬鹿弟どもにやらせればいいんだ。いつ
でも俺に言ってくれ﹂
﹁ありがとうございます。ありがとうございます﹂
﹁おう。その言い方を聞くと、シューターを思い出すな。あいつ元
気にやってるかな﹂
﹁そうですね。夫がよく言っていましたね﹂
ッワクワクゴロさんと、寝台に横になったわたしとでふたりでこ
ろころと笑いました。
ある日、久しぶりにオッサンドラ兄さんが訪ねてきました。兄さ
んはわたしが腰を痛めていると聞いて、居てもたってもいられずに
来てくださった様です。
嬉しいのです。嬉しいのですけれど、夫が不在の家に、例え身内
と言っても、未婚の男性が来たのでは、あらぬ誤解をまねいてしま
444
います。
だからわたしは、やんわりとオッサンドラ兄さんにお断りを入れ
たのですが⋮⋮
﹁シューターに聞いていた。りんご酢が無くなっているから、届け
に来たぞ。酢は薬にもなる、これを飲んで元気になってくれ﹂
﹁オッサンドラ兄さん。ご近所に妙な噂が立ってはいけません、だ
からうちに来られるのはその⋮⋮﹂
﹁何だ、何でも俺に言ってくれ。数少ない家族じゃないか﹂
﹁か、家族といいましても。わたしたちは従兄妹ですし﹂
いつもより強気のオッサンドラ兄さんは、怖かったです。
けれどもその時、ちょうど村長さまの跡取り息子さまであるギム
ルさまが来られたのでした。
﹁入るぞ。貴様⋮⋮﹂
﹁ぎ、ギムルさま﹂
﹁お前、この家で何をしている﹂
﹁俺はカサンドラの従兄です。家族がここにいたって別におかしい
ことじゃねえ﹂
ギムルさまはその言葉を聞いて、腰の剣を引き抜かれました。
オッサンドラ兄さんが殺されるのではないか、わたしは一瞬そう
思ったのですが、剣を突きつけられた兄さんは、腰を抜かしながら
逃げていかれたのでした。
斬られなくてよかった。
そんな風にわたしがほっと胸をなでおろしているところ、
﹁無事でなによりだ。いや、村長にお前が腰を痛めていると聞いた
ので、無事ではないか﹂
445
﹁いいえ、たいした事ではないので大丈夫です﹂
﹁そうか。ならいい﹂
ギムルさまはわざわざそれを言いに来られたのでしょうか。
それだとしたら、興奮して見境の無くなったオッサンドラ兄さん
から偶然守っていただき、とても感謝しなければいけません。
兄さんはとてもいいひとですが、同時にとても思い込むと一途な
ひとでした。何か悪い道にふみはずさなければいいのだけれど。
﹁そうだ。実は今しがたブルカの街から戻ったところでな﹂
﹁お勤めお疲れ様です。すると、あの。シューターさんは﹂
夫が帰って来る。
そう思ってわたしは胸が高鳴りました。
けれども、どうやらそれはぬか喜びだった様です。
﹁残念だが、シューターは今しばらく街に残る事になっている﹂
﹁そう、ですか⋮⋮﹂
﹁そうだ。俺の命令だ、恨むなら俺を恨め﹂
﹁恨むだなんて、そんな⋮⋮﹂
ふうとため息を口にしたギムルさまは、申しわけなさそうな顔を
して懐を探っておいでです。
お役目なのだから、夫の帰りが遅くてもしっかりと家を守らない
と、シューターさんにお叱りを受けてしまいます。
ギムルさまがわたしに差し出したのは小さな紙と、それは手鏡で
した。
﹁これをお前に渡しておく。シューターからの土産と手紙だ﹂
﹁ギムルさま、たいへん申しわけございません。わたしは字が、読
446
めません﹂
﹁お前たち夫婦が無学であることは俺が知っている。だから代わり
に代読する。コホン⋮⋮﹂
前略、カサンドラはお元気ですか。
こちらはよろしくやっております。ブルカの街はとても大きいで
す。
夜も灯火があちこち溢れて、都会の雰囲気に圧倒されますが、飯
はカサンドラの作ったものが一番です。
ところでギムルさんの命令で街にしばらく滞在する事になりまし
た。
早く逢いたいですがこれも役務です。愛する妻へ
﹁という様な事を確かお前の夫が言っていたはずだ﹂
﹁言っていた、と言うのは? あの手紙に書いて、あるんですよね﹂
﹁書いてあるのは、所要により滞在延期となりました。早く逢いた
いですがこれも役務です。愛する妻へ、とだけだ。だが手紙に書け
なかった分を、あいつが口にしていたのはこんな内容だったはずだ﹂
﹁手鏡はその⋮⋮﹂
﹁お前のために、あいつが手ずから選んだものだ。後生大事にしろ﹂
﹁あっありがとうございます、ありがとうございます﹂
﹁フン、そういう言葉はシューターに言え。それと似たもの夫婦み
たいな礼を口にするな﹂
﹁あっはい。そうですね、そういたします﹂
わたしはギムルさまから受け取った手紙と手鏡を見ました。
鏡を覗き込むと、そこには頬っぺたを桜色にした女がこちらを見
ていました。
447
シューターさんのご無事を毎日お祈りしています。
はやく帰ってきてくださいね。
448
閑話 夫からの手紙︵後書き︶
これにてブルカの街編は終わりです。
以後もよろしくおねがいします!
449
41 フリーター家に帰る 1 ︵※ 扉絵あり︶
http://15507.mitemin.net/i1673
32/
<i167332|15507>
ダイナミックおはようございます。
吉田修太、三二歳は今朝もお仕事に余念がありません!
俺は今、ヒモパン一丁でお屋敷の掃除をしている。
なぜなら俺がこの屋敷のご主人さまに仕える奴隷だからである。
﹁こら、バジル! バケツで遊ぶのはやめなさい﹂
﹁キュゥゥ﹂
しかし床の水拭き掃除をしている端から、遊びたいさかりのバジ
ルが悪戯をするので大変だった。
バジルというのはバジリスクのあかちゃんである。
肉食動物の子供というのは、遊びの中で狩りを学んでいき成長す
るのだそうだ。
しかしブルカの街という、いちおうは城壁に囲まれて外敵のいな
い場所ですくすく成長しているバジルにとって、遊びはどこまでも
450
ただのお遊戯であるのだ。
﹁だからやめなさいって言っているでしょ!﹂
﹁キィキキィ!﹂
ひとつもいう事を聞かないバジルは、俺がひっくり返されたバケ
ツを起こしてひとつ大目玉を食らわせてやろうと思ったところで、
トテトテと走って逃げ去ってしまった。
行先はだいたいわかる。
甘やかす大人たちがいる場所に遁走して、俺から守ってもらおう
という寸法なのだろう。
﹁こら、待ちなさい!﹂
﹁キュッキュッブー﹂
あっかんべーとでも言わんとしているのだろうか、腹立たしい事
に一瞬だけ振り返りやがった。
今晩のエサは豚鼠から川魚に変更だ。
ひもじい思いをして反省しなさい。
鼻から憤慨の息吹を放出させながら逃走先に向かったところ、果
たしてそこには大人を気取っているようじょがバジルを抱きかかえ
て、ぷりぷりしていた。
﹁あ、おはようございます。ッヨイさま﹂
﹁どれぇ、あんまりあかちゃんを厳しく怒ってはいけないのです。
あかちゃんが怯えているのです﹂
まるでそうは見えない様に後ろ足でエリマキの後ろをボリボリや
っているバジルなのだが、いちおうはご主人さまのお言いつけなの
で、うやうやしく首を垂れておく。
451
﹁かしこまりましたッヨイさま。お言いつけ通りにいたします﹂
﹁そそ、それとですどれぇ。朝起きたらベッドのシーツがびしょび
しょでした⋮⋮﹂
﹁それはいけませんッヨイさま。昨日の夕飯にぶどう酒を呑み過ぎ
ましたね﹂
﹁ごめんなさいなのですどれぇ﹂
﹁ッヨイさまははやく大人になりましょうね。はい、ぬぎぬぎしま
しょうね﹂
﹁⋮⋮⋮はぁぃ﹂
小さい大人は今朝もおもらしをしていた。緊張感のある冒険中は
大丈夫だったのに、お屋敷にもどると緊張と一緒に膀胱もゆるんじ
ゃったんだね。
寝間着のフリルワンピースの裾を掴んだようじょが、しゃがんだ
俺を恥ずかしそうに見守っていた。
毎度の事なので、俺はすばやくヒモパンの紐を外して下着を脱が
してさしあげた。
﹁おねしょしたシーツを持ってきてください。これからたらいを用
意しますので、お股をきれいきれいして、お洗濯しましょうね﹂
﹁はいどれぇ!﹂
俺がようじょの頭をなでなでしてさしあげると、元気に返事をし
て寝室に走って行ったのである。
うむ。世の中は極めて平和だ。
むかし俺の家のふたつ隣に住む幼馴染の女の子がいた。
正確な事は覚えていないが、確か俺が三歳の頃だったはずだ。
いつも幼稚園に一緒に出掛けたり、お家まで遊びに行っておまま
452
ごとをしたりした気がする。
まだ妹たちが生まれる前の話なので、当時は俺が近所で一番のお
子さまだった。
そして俺は幼馴染の家でおもらしをした事があった。
ジュースの呑み過ぎである。
実家では炭酸ジュースはお出かけする時しか許されていない﹁子
供にはまだ早い飲み物﹂だったので、幼馴染の家でこっそりと飲ん
でいたのである。
幼馴染は俺がお昼寝している時におもらしをしたので、びっくり
して母親にパンツの替えをもらいに行ってくれた。
今思えば幼馴染のかなえちゃんは、とてもいい子だったな。
ちなみに、ズボンもジョビジョバだったので、パンツ一丁で過ご
していた記憶がある。
遠い遠いむかしの俺物語だった。
﹁おいシューター。口をニヤつかせてようじょのパンツを持ってい
る姿を嫁が見たら悲しむぜ﹂
ふとした拍子に、背後からニシカさんの声がして俺は振り返った。
紫がかった黒髪ショートに、時々向きが変わる眼帯姿。鱗裂きの
ニシカさんだった。
﹁おはようございます、ニシカさん。これは決してやましい事では
なくてですね、俺の子供の頃を思い出して懐かしんでいたのですよ﹂
﹁お前もよくおもらししたのか﹂
﹁ええもう、ジョビジョバでしたよ﹂
バジリスク討伐を完了してから、ちょうど五日ほどが経過したと
ころだった。
453
先日はその足で冒険者ギルドにクエスト完了の報告をしに行った
のだが、ブルカ伯金貨三〇枚を即金で支払うにはたまたま手元にな
かったという事で、出直しを要求されたのである。
時刻が夕方だった事と、大規模なオーガ討伐等々で準備金が不足
していたのでしょうがない。
本日はそのために改めてギルドに行かなければならないという事
で、朝からニシカさんがようじょのお屋敷に顔を出したというわけ
だ。
﹁⋮⋮お前、ちょっと奴隷生活に染まり過ぎじゃないか﹂
﹁なんも言わんでください。俺だって好きで奴隷生活をしているわ
けじゃないんですから﹂
﹁村と嫁はどうするつもりなんだよ。オレはこの換金が終わったら、
そろそろ戻ろうと思うんだ⋮⋮﹂
﹁そう、ですね。せめてギムルさんに頼まれていた冒険者の斡旋と、
開拓者や猟師の募集経過だけは報告しないといけませんからね﹂
ため息ひとつこぼしながら俺は気になる息子の位置を調整した。
﹁今日、金が手に入るんだろう﹂
﹁まあそうですね﹂
﹁オレの取り分で、お前を奴隷として買い取るってのはどうだ﹂
﹁ニシカさんが新しいご主人さまに。いや悪くはないですが。いい
んですかそんな大金を俺に使って﹂
﹁ああ構わねぇぜ、どうせ金を持っていても酒に化けるぐらいしか
ねえんだ。どのみち村じゃ金貨なんてものは使い道がねえからな﹂
ニシカさんはそう言って赤くない鼻をこすり上げた。
なんと素晴らしい提案だろう。
確かに二頭のバジリスク討伐で、俺たちはパーティーで金貨六〇
454
枚もの大金を手に入れた。
そのうちニシカさんが参加したのは二度目の討伐だが、奴隷であ
る俺を差し引いて仮に三等分したとすれば、金貨一〇枚が手に入る
という寸法である。
俺が奴隷商人から売られた額には足らないが、ニシカさんはオー
ガ討伐の報酬もいくらかもらっているので、合わせればもしかした
ら買取り可能と計算しているのだろう。
ちなみに雁木マリに聞いたところ、ブルカ伯金貨一枚の貨幣価値
は日本円にして二〇万円相当になる。つまり俺を除いて三等分をし
たとするなら、、ニシカさんが手にするだろう金は二〇〇万円とい
う事になる。
大金だ。フリーターだった頃の俺の収入の半年以上の収入なので
ある。
だから受け取るには躊躇する。
﹁さすがに太っ腹すぎやしませんかねぇ、俺はもともと借金はしな
い主義なんで⋮⋮﹂
﹁お前、奴隷の分際で何をわけのわからない心配してるんだ。村に
帰りたくないのか? ﹂
﹁とんでもない! 俺たちは新婚ですよ。カサンドラに早く逢いた
い﹂
﹁そうだろう。オレに任せておけ。それともようじょの事を気にし
ているのか﹂
﹁そりゃ、買い取ってくださって良くして下さったのは事実ですし、
懐いてますからね﹂
﹁じゃあこうすればいい、村に周旋する冒険者というのをようじょ
と雁木マリにすれば何も問題ねぇんじゃないのか﹂
ちょっと気の利いた提案をニシカさんがしてくれたので、俺は考
え込んだ。
455
﹁⋮⋮そうですね、なるほど。時間はそんなにいりませんので、少
し考えさせて下さい﹂
﹁おうわかったぜ、変な遠慮はいらねぇから﹂
ニシかさんはそう言って腰に手を当て白い歯を見せた。
おっぱいの付いたイケメンというのは、こういうひとの事を言う
んだろう。
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
﹁礼は上手くいってからでいいって事よ!﹂
俺の言葉にニシカさんのおっぱいが返事した。
◆
﹁それではバジリスク討伐を祝してカンパーイ!﹂
﹁乾杯だぜ、ビールうめぇ﹂
﹁おつかれさまね﹂
﹁おめでとうございます、おめでとうございます﹂
﹁キュイ!﹂
というわけで、無事に冒険者ギルドで討伐資金の受領をした俺た
ちは、ギルドのすぐ隣にある食堂で不味いビールの入った樽ジョッ
キで乾杯した。
不味いビールは相変わらず不純物が多くてぬるく、やっぱり不味
かったので一口呑んでテーブルに戻した。
未だに慣れないと言えばビールもそうだが、このファンタジー世
界の住人はあまり年齢に拘りなく酒を飲む事である。
ようじょは美味しそうに樽ジョッキをグビグビやると、口元に白
456
い泡を置いてプハァと吐息を吐き出した。
いい呑みっぷりだが、さすがに将来の体の発育が不安になてしま
う。
ようじょの隣で舐める様にビールを口にしていた雁木マリなどは、
一部の成長にまだ期待を込めているのだろうか、呑みっぷりが穏や
かだ。
﹁浮かない顔をしているわね﹂
﹁いや、ビールがあまり美味しくないからな﹂
﹁冷えてないと飲めないなんて、贅沢な証拠よ﹂
﹁まあそうなんだが﹂
雁木マリとマジマジと会話しながら、あまり発育よろしくないそ
の胸をガン見していると、酒に弱いののか桜色に頬を染めて俺を睨
み付けて来た。
﹁ちょっとジロジロ見ないでよ。今日は鎧も着てないしボディライ
ンが出てるから恥ずかしいのよ﹂
﹁眼福です。ありがとうございます、ありがとうございます﹂
言われて見れば、クエストに出かける訳でも無いので雁木マリは
鉄皮合板の鎧を着ていなかった。
いつものノースリーブワンピースには、ささやかな胸のふくらみ
とその先端の突起物が浮き出しているではないか。
いいね!
これも悪くない。眼福、眼福。
しかしこの世界の人間はどういうわけか同じ柄の服をいくつも仕
立てている。
ッヨイさまや雁木マリなどは、いったいいくつのワンピを持って
457
いるのだろうかと思うし、ニシカさんも上に着ているブラウスは半
ばトレードマークである。
俺も同じようなチョッキを四六時中羽織っているが、こいつは一
張羅で義父の形見だからしょうがない。
﹁どうせコイツは胸ばかり見てたんだぜ。いつもオレの胸を見たり
する助兵衛だからなシューターは﹂
﹁ちょ、そうなのシューター? この変態! ブラも着けてないん
だから見るんじゃないわよ!!﹂
﹁どれぇはえっちなのです!﹂
﹁え、違いますから。違いますからね! ここのひとは同じ様な柄
の服を着ているから、それで気になっただけですから!﹂
ニシカさんが赤鼻をひと擦りしながらそんな茶化しを入れたので、
反応するパーティーメンバーに慌てて釈明した。
やばいやばい。
﹁まあそれは簡単な理由よ。服の型紙を作るのもお金がかかるから、
どうしてもね。それに染色した服は高級なのよ﹂
﹁そうなのです。ッヨイははついく真っ盛りだから、高い色付きの
服を作っても、もったいないのですどれぇ﹂
小さな胸を押さえながら雁木マリが言うと、ようじょも真似して
胸を押さえた。
じゃあニシカさんの黄色いブラウスは何なのだというはなしだが、
﹁オレはただ貧乏だったから、行商人から買ったブラウスを着まわ
してただけだぜ﹂
﹁そうですか。いや田舎のヤンキーが黄色いブラウスを学校に着て
いたので、あれかと思いました﹂
458
﹁お前ぇは時々わけのわからん事を言うな﹂
﹁そんな事よりも、注文した料理が運ばれてくるまでにさっさと清
算を済ませてしまいましょう﹂
雁木マリが俺たちのやり取りを制止して、金貨の詰まった革袋を
テーブルに置いた。
それを見たようじょとニシカさんもそれぞれ革袋を取り出す。
バジリスク討伐の報奨金のブルカ伯金貨六〇枚に、オーガ討伐分
のおまけ報奨金である。
オーガの方はニシカさんの分はすでに差し引かれていて、金は俺
たち三人分だ。
﹁じゃあ計算しましょう﹂
﹁キュイ﹂
ようじょと雁木マリが金をテーブルに広げて金貨を振り分けてい
く。
俺たちのパーティーが利用している冒険者ギルドには酒場が併設
されてないかわりに、すぐ隣に何軒も食堂が並んでいる。
基本的にこのあたりは金持ちが多い地区なので、食堂で金を広げ
ても安全なのだそうだ。
清算を待っている間にあかちゃんのバジルがみんなと同じ様にビ
ールを呑もうとしたが、俺は慌てて制止した。
バジリスクに食べさせてはいけないものについて詳しくないが、
これはお前の呑んでいいものではないからな!
﹁じゃあとりあえず、うちのパーティーの一人当たりの報酬はこれ。
ブルカ辺境伯金貨十六枚と、銅貨六六枚よ﹂
﹁これがガンギマリーのぶん、これがッヨイのぶん、それでこっち
がどれぇのぶんです!﹂
459
﹁ニシカさんのぶんは助っ人として活躍してくださった分、追加討
伐の資金を半分の金貨十五枚という事で問題ないかしら。まあほと
んどニシカさんのおかげで倒せた様なものだしね﹂
﹁ああ、申し分ないぜ﹂
それぞれのテーブルにようじょが振り分ける。
いやまて。俺のところにも報奨金を差し出してきたが、俺はッヨ
イさまの所有物なのでもらう権利はあるのか?
﹁あの、ッヨイさま。俺もいただいちゃっていいんですか?﹂
﹁当然ですどれぇ。どれぇは労働の対価としてちゃんとおちんぎん
をもらう事が許されています!﹂
さも当たり前の様にようじょが説明した。
が、雁木マリが間に割って入る。
﹁とは言え、シューターはあくまでもッヨイの奴隷だから、お金の
受取人はッヨイよ。装備の代金はこの子が立て替えていたわけだし、
食費にパーティーの資材や家賃分も貰う必要があるし⋮⋮﹂
雁木マリは指を折りながら必要経費を捻出している。
まあ、やはりそんなに簡単に奴隷解放というわけにはいかなかっ
た。
ほんの少しだけ俺は家に帰れる事を期待しつつ、その際にはご主
人さまに何と説明しようかと考えたが、無駄だったな。
﹁けれども、今回のバジリスク討伐はいつもより報酬もよかった事
もあるので、これだけは当座の小遣いとして渡しておくわ﹂
﹁ど、どうも﹂
﹁普通、奴隷にこんな金を渡す事なんてありえないんだからね? 460
シューターは特別に同胞だからそうしてあげるんだし、感謝しなさ
い。ッヨイにはしっかり奉公するのよ?﹂
﹁あ、ありがとうございます。ありがとうございます﹂
そう言った雁木マリが、色々経費を差っ引いた残りを俺に差し出
した。
ケチくせぇ。
十五枚もあった金貨が五枚に目減りしてしまった。
しかし金貨五枚俺の手元に残るのなら、ニシカさんの所持金と合
わせる事で、俺がようじょに買い取られた金額を上回る事になるの
だ。 そう思ってニシカさんを見やると、向こうもこちらを見てこくり
と頷く。
本当はもう少し考えさせてもらいたかったところだが、俺として
も切り出すなら後回しにするよりも今この瞬間の方がいい気がした。
考えてみれば状況を先延ばしにしたところで、ッヨイさまとの思
い出ばかりが積み重なって、余計に別れ別れになるのが辛くなるば
かりだ。 これ以上ご主人さまに懐かれると、それだけ大変になるのだ。
そう判断した俺もニシカさんに頷き返す。
﹁ところでおふたりさんよ。オレ様からちょっとした提案があるん
だが、いいだろうか?﹂
﹁なんでしょうニシカさん﹂
キョトンとした顔でようじょがニシカさんを見上げた。
﹁実はな。お前さんの奴隷、つまりシューターを買い取らせてもら
いてぇんだ﹂
461
﹁それはいったい、どういう事でしょうか?﹂
鱗裂きを前にして一歩も引くつもりが無いのか、雁木マリが表情
を変えてニシカさんを睨み返した。
そんな雁木マリに臆する事も無く、ニシカさんが言葉を続ける。
﹁この男はサルワタの開拓村の人間だ。村には嫁もいるし、村長か
ら命じられた仕事もある。いつまでもこんな街で油を売っているわ
けにゃいかねえんだよ﹂
﹁それはシューターの意志なの?﹂
雁木マリが今度は俺を睨み付けて来た。
﹁ああそうだ。俺は新妻を村に残しているし開拓団と猟師の募集、
それから優秀な冒険者を村に斡旋する仕事を命じられている。可能
なら出来るだけ早く仕事をして、村に帰りたいと思っている﹂
﹁では、ッヨイを裏切るつもりなの?﹂
裏切るって何だよ。
奴隷としていいご主人さまに出会えたことは間違いないと自覚し
ている。
バジリスクの討伐をしない限り、当たり前だがこんなに簡単に自
分の身代を買い戻すだけの金は手に入らなかっただろう。
だが、村に帰りたい気持ちは本当だった。
﹁ッヨイさまに買い取って頂けた事はたいへん感謝しています。し
かし、いつまでもというわけにはいかない。ッヨイさまがお許しい
ただけるなら、俺が頂くこの金とニシカさんの金とを合わせて、出
来れば奴隷解放をしていただきたい﹂
462
俺がそう言うと、悲しそうな顔をしたッヨイさまが俺を見上げて
押し黙っていた。
悲しいのだろうか。
十分俺に懐いてくださっていたしな。
﹁そうなんですかぁ⋮⋮﹂
﹁ほれみなさい。だから奴隷をあまり甘やかさない様にってあたし
が言ったのよ﹂
﹁でも、どれぇはッヨイの成長を見守ってくれるって、いいました﹂
﹁そんなの、大人のおためごかしよ﹂
﹁キュイ﹂
何だかとても居たたまれなくなった俺は、不味いビールをひと息
にあおった。
不味いビールがますます不味かった。
﹁ッヨイは、どれぇと離れ離れになるのは寂しいです﹂
﹁ありがとうございますッヨイさま。俺も出来ればいつまでもご一
緒にいたいのです﹂
﹁でも、どれぇはお家に帰りたいんだよね?﹂
﹁妻がいますからね。ご無理を承知で言うなら帰りたいです。妻に
心配はかけられません﹂
﹁ふぇぇ﹂
ああ、ッヨイさま泣いちゃった。
﹁でもまあ、ようじょが断ってしまったらどうにもならねぇがな。
オレとしてはこの男を身請けする用意があるとだけ言っておこう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁それに、オレたちは村に来てくれる冒険者を探していると言った
463
な? あれは本当だ﹂
﹁冒険者、ですかぁ?﹂
﹁そうだ。お前ぇたちがよければ、その冒険者はふたりに来てもら
えばいいんじゃねえかと、オレは思っているわけだ﹂
ニシカさんも白い歯を見せてそう言いながらビールを口に運ぶ。
﹁なるほど。どうするッヨイ?﹂
﹁サルワタの村、ですかぁ﹂
﹁屋敷の事もあるし、この先すでに予約をしてあるクエストもある
から、直ぐにというわけにはいかないけれど、まあそれも検討可能
な要件ね﹂
﹁じゃ、じゃあ。お仕事がきっちり完了したら、そのサルワタの村
に行きます!﹂
泣きべそをかいていたッヨイさまが、椅子の上で立ち上がってそ
う宣言した。
﹁ありがとうございます、ありがとうございます。村人を代表して
歓迎させていただきます﹂
﹁いいんじゃねえか。強力な魔法を使える魔法使いなんてのは村ど
ころか冒険者にも数えるほどしかいねぇ。オレもオーガ討伐に参加
してしったが、貴重な人材らしいぜ﹂
﹁ははあ、やはりッヨイさまはお強かったのですね﹂
ひとまず料理が運ばれてくるまでのうちに、この話題は決着がつ
いたらしい。
﹁わかりました! どれぇの事は、ニシカさんにお譲りする事にし
ます﹂
464
﹁おう。いくらだ﹂
﹁どれぇは金貨十八枚ぐらいで買いましたので、それでいいです。
明日にでも主従契約を更新しに、奴隷商人のところに行きましょう
!﹂
え、もしかしてまた名前の長いお高い壺を集めるのが趣味のルト
バユスキさんのところに行くの?
ちょっとやだな。
465
42 フリーター家に帰る 2 ︵※ 挿絵あり︶
﹁今日はこれから、どれぇの譲渡契約のためにどれぇ商人の館に行
こうと思います!﹂
ようじょの家に集まった俺たちを見上げて、バジルを抱きかかえ
たッヨイさまがそう宣言した。
雁木マリはいつものノースリーブワンピに帯剣用のベルトを回し
ただけの軽装、それにロングブーツ姿。
鱗裂きのニシカさんはブラウスに革製のチョッキとホットパンツ、
それからこちらも革タイツ。
ようじょはいつものフリルワンピに肩掛けポーチある。
俺はというと、俺は決して長くない奴隷生活の中でちゃんとチョ
ッキを着てパンツを履き、腰にはオッサンドラソードを帯びている
という成長ぶりだ。
全員がお揃いのポンチョを着ているのが、今までと違うところだ
ろうか。
別にパーティー結成を記念して揃えたわけじゃないのだが、同じ
店で買ったら必然的に同じ柄になったというだけの話である。
﹁どれぇの契約更新、譲渡契約などの手続きは、どれぇ商人が無償
でやってくれる事になっています。これはブルカ辺境伯の名のもと
にさだめられた、どれぇ商人の権利と義務の法度にもとづいている
のです﹂
よくわからないが難しい街の決まり事を羊皮紙を片手に、ようじ
ょがつらつらと読み上げた。
466
それによれば、奴隷に関する相談、契約等は奴隷商人側で無償サ
ービスする事が条例で定められているという事だろう。
﹁なのでこの際お金はかからないのですが、どれぇ譲渡の契約書を
作ってもらうので、お土産を持っていきます!﹂
だが、つつがなく契約などを通すためには、ある程度袖の下を渡
しておくことは常識でもあるらしい。
しかし俺を騙してくれた相手にお土産だなどというのは、正直を
言って腹立たしい限りだ。
すると、
﹁これが今回、どれぇ商人に持っていくお土産です﹂
バジルを床に置いてかわりに持ち上げた小箱を、ようじょは俺た
ちに見せてくれた。
雁木マリは特に何か反応をしないところを見ると、小箱の中身が
何なのかを知っているのかもしれない。
よって、俺とニシカさんが顔を寄せ合って、小箱の中身を覗き込
んだ。
﹁お、これはお高い壺というやつですか﹂
﹁その通りですどれぇ。以前どれぇが、どれぇ商人はお高い壺を集
めるのが趣味だと言ってました!﹂
元気良くッヨイさまがそう言った。
はて俺はそんな事を言っただろうかと首をかしげていたが、確か
に騙された経緯をしゃべった時にそんな愚痴を言ったかもしれない。
ただアレは、ただの手口を説明しただけである。
すると、雁木マリが意地の悪そうな笑みを口元に浮かべていた。
467
﹁その壺、ッヨイが土の魔法で作ったのよ﹂
﹁え、ッヨイさまが魔法で?﹂
つまりこれはッヨイ式土器というわけである。
中を覗き込んでみると、色々と文様が描き込まれていて、ちゃん
と本物の壺みたいに見えるから不思議だ。
ついでに小箱の蓋の裏に、ちゃんと羊皮紙の鑑定書みたいなもの
が張り付けてあった。
﹁何て書いてあるんですかね?﹂
﹁ばっかオレに聞くな読めねぇよ﹂
俺たちが顔を見合わせていると、雁木マリが悪い笑みをますます
歪めて説明した。
﹁それは騎士修道会の名義で作成した鑑定書よ﹂
﹁何と書いてあるんですかね﹂
﹁女神の聖壺ね、特に意味がある訳じゃないわ。王都のあたりで最
近流行っている、免罪のための壺という触れ込みの壺ね。原材料が
聖地の土を使っているのでありがたがっているのよ﹂
なるほど、聖地の土を使った壺か。
ッヨイさまが魔法でこれを作った訳か。
﹁これをつくるのはちょっと時間かかったのです。だからッヨイが
おねしょしたのはしょうがないのです。本物にそっくりにするため
に、魔法陣の方程式を描き込んで再現したの︱︱ああ、だめだよ触
ったら!﹂
468
腰に手を当ててエッヘンしていたようじょが、さらりと昨夜のお
ねしょは悪くないと言ってのけた。
ついでにニシカさんが小箱から壺を取り出そうとしたところ、慌
ててそれを制止した。
﹁んだよケチ臭ぇな。ちょっとぐらいいいだろう﹂
﹁それは簡単に壊れる様に細工がしてあるから、触っちゃダメなの
よ﹂
﹁何でそんな面倒くさい事をするんだ。これは袖の下なんだろ?﹂
ニシカさんが説明を加えた雁木マリの方を向く。
確かにお土産で持っていくものが簡単に壊れたらまずいだろう。
けれども雁木マリがニヤニヤしている事を考えると、何かこいつ
は考えているに違いない。
﹁まさかお前、あの奴隷商人に一杯食わせるつもりなのか﹂
﹁騎士修道会と奴隷商人というのは、もともとライバル関係にある
のよ﹂
﹁というと?﹂
﹁騎士修道会は娼婦の取り仕切りを、国王によって独占的に認可さ
れているのよ。つまり性病や避妊、不妊治療を手掛ける関係上、ね。
ところが連中は裏で非認可の奴隷娼婦を売買しているからね﹂
﹁はああ、俺の契約更新にかこつけて、嫌がらせをするわけか。俺
は嬉しいが、どうなっても知らんぞ?﹂
﹁文句があるなら騎士修道会が相手になるって言ってやればいいわ。
もともとブルカ伯との話し合いで、修道会が取締りを実行するとい
う話も上で出ているくらいだから﹂
いや、そいつは面白い。
469
﹁ちなみに、発案者はわたしだけど。ッヨイもノリノリで作ってた
わよ﹂
魔法で壺を作ったところで、それはお高い壺にはならない。
魔法で作った壺が高級品になれば、それは錬金術だろう。
ようじょまでいよいよ口元に悪い笑みを浮かべていた。
﹁キュイキュイイイ!﹂
こら、バジルは騒ぐんじゃありません。
これは奴隷商人に渡したら壊れる予定なんだから、まだ壊しちゃ
いけません。
◆
むかし俺は、古道具の買取りを生業にしているとある人生の先輩
のもとで、手伝いの仕事をしていた事がある。
古道具とは言っているが、いわゆるアンティークというやつであ
る。
道具を家々を回って集めるのが仕事なのだが、先輩はいつも俺に
こう教えてくれたものだ。
金持ちはモノに頓着をしない。
執着はしても頓着は決してしないのだと。
まだ三十路にもなっていなかった当時の俺は、その意味はさっぱ
りとわからなかった。
そもそも執着と頓着の意味が解らない。
ちなみに、執着とは深く思い込んで忘れられない事で、頓着とい
うのは心にかけて気にする事をいうそうだ。
欲しいものが出来た時、とにかく欲しくてしょうがないので手に
470
入れる。これが執着。
しかし時間がたつとある程度はモノを手に入れた事で満足し、そ
れをどうするか気にはならない。これが頓着。
その上、金持ちというのは案外騙されやすい連中だと教えてくれ
たものだ。
古い屋敷の蔵に眠っている古物蒐集品の中には、けっこうな確率
で贋物が含まれていた。
いいものだと聞かされて購入したまではいいが、それが本物かど
うかまでは疑ってかかっていなかったらしい。
奴隷商人とうのがどれほど儲けているかは知らないが、一般市民
階層よりは明らかにランクがひとつ上の連中だろう。
ちなみにこのお高い壺、割れると雁木マリが仕込んだポーション
が揮発する細工がしてあるらしい。
﹁何のポーションが入っているんだ﹂
﹁興奮促進よ。アレの﹂
えっ?
雁木マリがしれっとそんな事を言った。
いや、ようじょ連れてるときにそれはまずいんじゃね?
◆
﹁これはこれは、ようこそ我が紹介にお越しいくださいました﹂
﹁先日ぶりですねどれぇ商人﹂
﹁今日はまたどうされましたか? まさか先日の奴隷が何か粗相を
して、他の奴隷と交換という話でしょうか。ええ、もちろんいい商
品を取り揃えておりますので、いつでも交換可能です!﹂
471
揉み手をしながら登場したルトバユスキ=ヌプチュセイ=ヌプチ
ャカーンは、ようじょをひと目見ると満面の笑みで近づいてきた。
俺はとても気分が悪くなったのでルトバユスキさんから視線を外
す。
﹁そうじゃないのです。実はこのどれぇを知人の女性に譲ろうと思
ったのです。お譲りするのがこちらの、鱗裂きのニシカさんだよ﹂
﹁おう、鱗裂きのニシカとはオレ様の事だ﹂
どこにいってもブレない自己紹介で、偉そうに腕組みしてニシカ
さんが言った。
ルトバユスキさんは困惑している。
彼が連れている取り巻きの冒険者たちは、ニシカさんの胸に釘づ
けらしい。
雁木マリはそれを見て嫌そうな顔をしていたが、まあおっぱいの
魅力には叶わないよね。そんなマリにひとりだけ警戒した顔を向け
ている。
それにしても雁木マリ、冒険者界隈では評判が悪いのだろうか。
﹁これはどうも、う、うろこざきのニシカさま⋮⋮﹂
﹁この奴隷をオレのものにする。譲渡契約書を作成してもらいたい。
だがオレは字が読めねえ、そこでこの女を立ち会人に指名した﹂
そう言いながらニシカさんがアゴで雁木マリを差した。
﹁女神様の名のもとに厳粛かつ公正である事を確認するわ﹂
﹁おう。そういうわけだからちゃっちゃとやってくれ﹂
案内された豪華なソファにドカリと腰を下ろすニシカさんは、さ
472
っそくにもくつろぎはじめた。
ようじょと雁木マリも続いてソファに腰かけると、対面にルトバ
ユスキさんも座る。
俺や冒険者はお互いの主人の背後に立つ格好だ。
﹁かしこまりました。それではッヨイさま、権利書をこちらに﹂
﹁これだよどれぇ商人。あとそれから、﹂
ッヨイさまは羊皮紙と、持ってきた小箱を一緒に差し出す。
﹁これは?﹂
﹁お前ぇが壺を集めるのが趣味だと聞いたんでな、譲渡契約の書類
を作る謝礼にこいつを持参した﹂
﹁それはそれは、わざわざお気づかいを頂いて。中身はなんですか
な?﹂
﹁タダの壺じゃねえぜ、聖地の土で作成された聖壺だぜ。オレ様と
ようじょからのキモチだ。キモチ﹂
﹁受け取ってくださいどれぇ商人﹂
中身はッヨイ式土器だが、ニシカさんが堂々とそんな事を言うも
のだからルトバユスキは感心した顔で小箱を受け取った。
﹁開けてみても?﹂
﹁好きにしろ。気に入ったらお前にくれてやる。﹂
﹁ほほう、鑑定書付きですか。ちゃんと王都の司祭さまの鑑定書名
までございますな。どれどれ⋮⋮﹂
http://15507.mitemin.net/i1843
43/
473
<i184343|15507>
どっかりとソファに背中を預けているニシカさんは、あくまで横
柄だった。
もともと口の悪いところに自信家の女傑なので、ニシカさんがこ
ういう態度を取ると、なかなか偉いひとっぽく見える。
これくらいの聖壺を用意出来る大物に見えなくもないかもしれな
い。
対して、身を乗り出したルトバユスキは壺を取り出してふんふん
と観察をはじめた。
﹁やあ、これは素晴らしい輝きを感じますな。それに、確かに壺か
ら僅かながら魔力を感じます﹂
﹁聖なる土で作られたものよ、当然だわ﹂
ようじょが魔法で作ったッヨイ式土器なんだから魔力を感じるの
は当然だろう。
が、雁木マリが首ひとつだけ振って綺麗な姿勢のまま返事をした
ので、ルトバユスキはなるほどとうなずき返した。
﹁いや素晴らしい。素晴らしいよい壺です。お高かったんでしょう
?﹂
﹁そうだな、金貨十八枚といったところだろうか。安いもんだぜ﹂
無一文で街に出て来たくせにニシカさんは鼻をひくつかせながら
そんな事を言った。
その瞬間、
﹁びえっくし! ああすまねぇ、くしゃみをしてしまった﹂
474
鱗裂きのニシカさんが年頃の女性らしからぬ盛大なくしゃみをし
て、その瞬間にルトバユスキの持っていた壺が粉砕された。
﹁えっ﹂
﹁あ∼あ、やっちまったな!﹂
475
43 フリーター家に帰る 3
﹁いや、これは。わたしとした事が、壊れてしまいましたね?﹂
手元でバリンと壊れてしまったッヨイ式土器を前に、ルトバユス
キ=ヌプチュセイ=ヌプチャカーンが言い訳をした。
かなり大混乱をしているらしく、みるみる奴隷商人の顔は青白く
なっていった。
当然、背後に控えている冒険者たちも騒ぎ始める。
﹁壊れてしまいましたね、じゃねえだろ。その聖壺が幾らするかわ
かってるのか?! あ?﹂
ニシカさんの飛龍殺しの眼光が奴隷商人を射止めた。
当たり前だが、この恫喝はかなり効果があったらしく、一瞬でビ
クリと奴隷商人たちが縮み上がった。
﹁まあよ。これはお前にくれてやると言ったものだから、お前が壺
を潰そうが何をしようがかまわねえ。しかし聖壺を潰してしまった
というのはどういう事だ。ん?﹂
ゆっくりとソファから身を起こしたニシカさんが、目の前の奴隷
商人を睨みつけながらそう言った。
すると待ってましたと言わんばかりに、雁木マリがずれたメガネ
を押し上げながら解説をはじめたのである。
﹁それは騎士修道会の名のもとに、職人が聖なる地の土で丹精込め
て作り上げた免罪の壺よ。人間は生きているだけで何かしらの罪を
476
背負うもの﹂
﹁人間は罪深いいきものですからねえ。ッヨイも今日、おねしょを
してしまいました﹂
﹁その通りよ。そんな人間の業を払い落とす事が出来るのが、この
聖壺なの。女神様に許しを請う者のために、これは寄進をした人間
を許した証として、この壺は与えられるの。あるいは関係の深い相
手に、今回の様にプレゼントする事も世間では流行っているらしい
わね?﹂
雁木マリとッヨイさまが相槌をうちながら場の空気をさらに悪く
した。
いや。ッヨイさまのおねしょは、この際関係ありませんからね?
﹁つまりどういう事だってんだ? 許されるための聖壺が割れた、
という事は女神様にこの男が許されなかったとでもいうのか? あ
ははそいつは傑作だぜ!﹂
ニシカさんが手を叩いて大喜びをした。
わなわなと震えていた奴隷商人が、ボロボロと手元からッヨイ式
土器の破片を取りこぼしながら俺たちを睨み付け来たではないか。
すると、先ほ雁木マリに対して警戒心をあらわにしていた冒険者
のひとりが食ってかかった。
﹁こ、これはお前たちの罠だな! そこの女がくしゃみをした瞬間
に壺が割れた。この片目の女がくしゃみの魔法を使ったんだ!!﹂
﹁何だ手前ぇ、オレ様に言いがかりをつけようってのか? 世の中
にくしゃみで魔法を使う馬鹿がどこにいるんだ。ええ?﹂
﹁お、お前がいるじゃないか。どういうつもりでルトバユスキさん
にこんな恥をかかせるんだ? さてはこの聖女たち騎士修道会の仕
業だな!!﹂
477
﹁馬鹿言っちゃいけねえ。オレたちは、よかれと思ってこの壺を手
土産にしたんだぜ? そんな事よりさっさと奴隷の譲渡契約をして
もらおうか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁別にオレは奴隷商人にくれてやった壺がどうなろうと、究極関係
はねえからな。これ以上オレに絡んでくるなら、ぶち殺すぞ!﹂
鱗裂きのニシカさんが恐ろしい怒声を上げた。
冒険者のうち何人かは今にも斬りかからんと腰の剣に手を伸ばそ
うとしていたが、そのひと言でやめてしまった。
奴隷商人を見やると、どういうわけか高価な絹か何かのズボンの
お股がテントを貼っていた。
雁木マリの興奮促進に効果があるというポーションが、効果てき
面に効果を発揮していたらしい。
それを見たニシカさんはなおもゲラゲラと笑って手を叩いている。
﹁じ、譲渡契約の書類を用意しろ﹂
﹁しかしルトバユルキさま、これは絶対に修道会の⋮⋮﹂
﹁いいから早くしろ!﹂
﹁は、はい﹂
﹁ではしばしお時間を。ッヨイハディさま、ニシカさま⋮⋮﹂
相当に恨みのこもった視線を俺たちに向けながら、奴隷商人はテ
ントの張ったズボンのまま立ち上がって退出した。
アレの興奮促進ポーションはやり過ぎという気もしないではない
が、こんなシリアスシーンでフル勃起とか、相当の屈辱を与えられ
ただろうね、名前の長い奴隷商人は。
◆
478
﹁予想通り連中、つけてきたぜ﹂
奴隷商館を出てしばらくした後、そう言ったのは村一番の猟師で
あるニシカさんだった。
背後にも目が付いている様に、裏路地を歩きながらそんな事を言
ったのだ。
ここは確か、俺が奴隷堕ちした時にガラの悪いチンピラ冒険者に
絡まれた場所でもある。
昼間だというのにかび臭い雰囲気が漂っていて、表通りからの死
角も大きい。
時間が陽の射している頃合いというのもあって、酩酊した酌取り
女や酔客の姿は見当たらなかった。
これらはすべて、奴隷商館に向かう途中で俺たちが話し合ってい
た予定通りの結果である。
あえて襲われやすい様に俺とニシカさん、ようじょと雁木マリは
分かれて行動する事にしたのだ。
実際のところは雁木マリたちが、いったん表通りに出てから様子
を見て駆けつける。俺たちは何食わぬ顔をして裏路地を宿屋に向か
う、そういう寸法だ。
奴隷の権利がニシカさんに委譲したのだから、ニシカさんが泊っ
ている喜びの唄亭に向かったところで、何らおかしい事はないのだ。
ついでに雁木マリが、近くの礼拝所に詰めている騎士修道会の修
道騎士を呼びに向かっているので、上手くすれば美味い仕上がりに
堕ちるというわけである。
﹁どうします。あえて囲まれる場所に移動して暴れますか﹂
﹁いいんじゃねえか? お前は村一番の戦士だからな、対人戦はお
手の物だろう?﹂
﹁いやぁ俺、ひとを斬った事はないんですよね﹂
﹁シューターなら剣を抜かなくてもあいつらぐらい制圧出来るだろ
479
う﹂
﹁無茶をお言いなさる﹂
俺としては、以前に油断してチンピラ冒険者どもにボコられた経
験があるので、ちょっとビビっているのは確かだった。
あの時は油断していたつもりもないのに、一瞬だけ視線を外した
瞬間にアゴを打ち抜かれたからな。
今回は絶対にそういう事が無い様にしなければならない。
まあ、今回は完全に向こうが襲ってくる事がわかりきっているの
で、そういう意味では覚悟が違う。
﹁おいでなすったな﹂
﹁じゃあまあ、短剣の鞘でお仕置きをしてやる事にします⋮⋮﹂
頭の後ろで腕を組んでいたニシカさんがそれを解いた瞬間、ぶる
りんと巨乳を揺らした。
マシェット
俺は白刃で相手を傷付ける気はないが、ニシカさんの方は容赦す
るつもりがないのだろうか。山刀を無造作に抜いて、周囲を見回す
様に咆えた。
﹁隠れてないで出てきたらどうだ? 猟師のオレにそういう素人の
尾行は無意味だぜ﹂
マシェットをクルリと器用に手で回して見せたニシカさんが、背
後を振り返りながらそう言った。
振り向くとそこには数人の冒険者の姿が、そして前面にも人相の
悪い連中が行く手を阻む。
﹁貴様ら、ルトバユスキさまをコケにした落とし前をつけてもらお
うか﹂
480
﹁後悔させてやるぜ。長耳の巨乳は奴隷堕ち、男は殺しても構わん
そうだ。やってしまえ﹂
まるで悪人のテンプレみたいな事を口にしたのは、いつだったか
俺のアゴを殴り飛ばした張本人だった。
先ほどは姿を見せていなかったので、別の場所か奥で待機してい
たんだろう。
﹁は、よく言うぜ。お前には借りがあるんだ。せいぜいぶちのめし
てやる!﹂
﹁なんだと、やれ!﹂
俺が言い返してやると、顔を真っ赤にした丸坊主の冒険者が抜剣
した。
同時に俺は踏み込む。
そんな呑気な調子じゃ、殺すなんて事は出来ないぜ!
むかし俺はスポーツチャンバラの地区大会で優勝した翌年、一回
戦敗退をしたことがある。
相手は初心者で、以前に格闘技経験はあったらしいが体のつくり
が甘そうな相手だったので油断していた。
だが、そいつは日本拳法をかじっている男だったのである。
日拳の連中はとにかく飛び込んでくる。体当たりでもかますんじ
ゃないかというぐらい、前傾姿勢丸出しの獰猛な戦い方をするとい
う印象が俺の中にはあった。
向き合って礼をし、試合が始まればいの一番に相手の懐に飛び込
む。
その時の俺などは余裕をぶっこいて、試合が始まればまず距離を
取ろうなんて甘ちゃんな考えを持っていた。
ところが、試合がはじまった瞬間に距離を詰められてしまったの
481
だ。
戦う態勢にない選手は簡単に一本を取られてしまう。
そして俺は開始数秒もたたずして負けてしまった。
今がまるでその時と同じだった。
短剣を抜いた俺が左手に鞘だけで突きをかましてやったら、見事
にぐさりと首にそれが飛び込んだ。
力は入れていない。相手が油断している状態で首に突きを刺し込
んだら死んでしまうからな。
かるーく小突く程度に首に刺し込んだだけで、丸坊主は戦闘能力
を喪失した。
こいつはちょっと徒手格闘が出来るというので、自分に自信があ
って油断したのだろう。
もうひとりの相手は﹁この野郎!﹂とか通り一遍な言葉を口にし
た。
﹁遅い!﹂
まるで素人の動きだ。
よくもまあ、こんなへなちょこ動作で冒険者がつとまるもんだ。
俺は斬りつけて来た冒険者の一撃を鞘で受け流してやり、そのま
ま胴にビシリと一撃を加えてやる。
脇腹ではなく、攻撃対象は脇そのものだ。鍛えられない場所を叩
くのは基本中の基本だ。
しかし俺は俺でビビった。
鞘で受け流した瞬間に、俺が想像していたよりも鞘すべりしやが
って、あやうく手を斬られそうになった。
やはり鍔がないと手を守るのは難しいぜ。
どう、とか変な声を出して苦しんだ男を、それこそ顔面に拳をぶ
482
ち込んでやる。
そのまま倒れた男は放置して﹁野郎ぶっ殺してやる!﹂などと口
にしていた残りのふたりに対峙した。
ビビっているのか、完全に腰が引けた状態で白刃を差し出して揺
らしているだけである。
バシンと鞘で剣を弾いてから、俺はそのうちのひとりに肩ごと体
当たりをかましてやった。
そのまま壁に叩き付ける。
もうひとりが何事か悲鳴めいた事を叫びながら斬りかかって来た
のを避けると、そいつは剣を路地裏の壁にしたたかに叩きつけやが
った。
かわいそうなのでそいつの後頭部の髪を掴んだ俺は五、六度ほど
壁に叩き込んでやった。
これで刃こぼれしてしまう剣の気持ちがわかるだろう。
俺の担当するチンピラどもは、カタがついた。
さてニシカさんである。
実は俺、ニシカさんが人間を相手にどんな風に戦うのかとても興
味があった。
ワイバーンだろうが簡単に射殺してしまう女傑だから、チンピラ
などは赤子の手をひねる様なもんだろう。
そう思っていた時期が俺にもありました。
振り返ると、そこには黄色い蛮族エルフが風の魔法で竜巻を起こ
していた。
﹁あははシューター見ろよ、ひとが紙切れみたいだぜ!﹂
ウィンドカッターとでも言うのだろうか、冒険者どもの服をズタ
ズタに切り裂く風の魔法で、どいつもこいつも全裸にされていた。
これではニシカさんに攻撃を仕掛ける場合ではない。
483
﹁ひえええ、やめてください。何でもしますから!﹂
﹁うるせえ四の五の言わずに掛かって来いよオラァ!﹂
これはひどい。
チンピラ冒険者よりたちが悪い。
鱗裂きのニシカさんは風の魔法を解くと、ズタボロになった全裸
冒険者たちを相手にマシェットの峰でボッコボコに打ち据えはじめ
た。
﹁黄色は蛮族、と⋮⋮﹂
﹁蛮族じゃねぇ! これは恨み骨髄だろうシューターのためにやっ
たんだからな、正統な仇討だからな!!﹂
蛮族のニシカさんは爆乳を揺らしながら慌ててそれを否定した。
484
は、本日でまる1ヶ月の連日
43 フリーター家に帰る 3︵後書き︶
異世界に転生したら村八分にれさた
更新をする事が出来ました。
これもひとえに読者さまあっての事です!
1500ブクマとあわせて御礼もうしあげます!!
485
44 フリーター家に帰る 4
﹁騎士修道会よ! 武器を捨てて大人しくしろ!!﹂
風を切って颯爽と姿を現した雁木マリが、路地裏に踏み入った瞬
間にそう宣言をした。
俺たちはちょうど、奴隷商会に雇われたチンピラ冒険者たちを相
手に暴れていた直後である。
すぐにも両手を上げて無抵抗の意志を示した俺だった。
けれどニシカさんの方は呑気なもので、緩慢な動きで冒険者ども
を峰で打ち据えていたマシェットを止めただけだった。
﹁遅かったじゃねえか、待ちくたびれてボコボコにしてやったぜ﹂
﹁礼拝所に詰めていた修道騎士だけでなく、衛士も応援に呼んだか
ら遅くなったのよ﹂
雁木マリは、同僚らしい修道騎士数名だけでなく、白いマントを
着た兵士たちも伴っていた様だ。
白いマントは確か、ブルカの城門を守護する番兵も着用していた
もので、きっとブルカ辺境伯の領兵なんだろうな。
﹁ヌプチャカーン奴隷商会は騎士修道会とブルカ辺境伯の連名によ
り、一斉取り締まりの対象となったわ。お前たちはこれより連行さ
れる。抵抗すればその場で斬り捨てるので覚悟なさい!﹂
メガネを太陽光にキラリと輝かせながら、全裸の傭兵たちをお縄
にかける雁木マリは、なかなか凛々しくカッコイイ。
問題は拘束ワイヤーをかける際に﹁粗チンね﹂とか余計な事を言
486
わなければいいのにな。
﹁シューターも安心したんじゃない? この世界の男はそろって包
茎で﹂
﹁うるさいよ、そんな事はどうでもいいから、さっさとこいつらを
連れて行ってくれ﹂
﹁それは同僚に任せておけばいいわ。仲間が証言者のッヨイと一緒
に商館の方にも向かっていると思うから、ルトバユスキもこれでお
終いね﹂
﹁あの奴隷商人はどうなるんだ?﹂
﹁罪状を認めるまで、拷問されるんじゃないかしら。吐けばそのま
ま罪人として奴隷堕ちよ、因果応報ね﹂
ニヤリとしてみせた雁木マリが、俺にそんな事を言った。
この世界は優しくない。
弁護士を雇う権利も無ければ、取り調べ中の拷問も合法らしい。
冤罪であれば恐ろしい事このうえないけれども、奴にはいい薬だ
った。
まあ嫌な奴だったので、自分のしてきた事を自分で体験して悔い
るがいいさ。
こうして俺の意趣返しは終了した。
◆
奴隷の主従契約が無事にようじょからニシカさんに移り、俺たち
が村に帰るための準備が本格的にはじまった。
帰郷するといっても、ただ帰るという訳にはいかない。
サルワタの森の開拓村では、ワイバーンとの戦いによって亡くな
った猟師の補充を求めていたし、同時に村の開拓を推し進めるため
487
の開拓移民を募っている最中だ。
冒険者ギルドと村長の義息子ギムルとの間でも、冒険者ギルドの
出張所を村に作るという事で、常駐する冒険者を村で抱える事が話
し合われてた。
そもそもギムルからは、俺たちが最初に立ち寄った冒険者ギルド、
宿場前出張所で渡す様にと紹介状を受け取ったままで、色々とあっ
たせいでそれもまだ宿場前出張所には提出できていない。
俺たちは喜びの唄亭に俺の荷物とバジリスクのあかちゃんを届け
た後に、ギルドに向かいながら雑談をしていていた。
﹁村出身者のコミュニティがあるという話でしたが、結局それらの
方とはお会いしていませんでしたね﹂
﹁どうせ村出身者が街にいるといっても、どうせゴブリンどもだろ
うぜ。あいつら猿人間は異常に都会への憧れを持ってる連中がいる
からな﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁そりゃあそうだろう。村や周辺集落にいれば、どうしても労働力
としてこき使われるからな。優れたゴブリンは出世欲に駆られて街
に出ようと考えるもんだ﹂
そういえばッワクワクゴロさんも、そんな話をしていた気がする。
ッワクワクゴロさんほどのベテラン猟師になれば、きっと街の冒
険者になった方が生計を立てやすいんじゃないかなんて思うが、ど
うだろうか。
彼自身はあまり街や街に出ていくゴブリンたちにいい感情を持っ
ていなかった気がするが、何故だろうか。
同じ様にニシカさんも、その言葉にいくらか軽蔑がこもっていた
気がする。
488
﹁ニシカさんは、このまま街に残ろうなんて思わないんですか?﹂
﹁何でだよ。街にいたってしょうがないだろ﹂
﹁ほら、だって街には美味しい酒の飲める店がいくらでもあるじゃ
ないですか﹂
﹁確かにいい酒はいくらでもあるからな。ビールにブランデー、ど
れも最高だ。焼酎やぶどう酒は不味くていけねぇ。だがな、﹂
言葉を区切ったニシカさんが、その豊満な胸を張ってから続けた。
﹁街には張り合いがないね。オレは猟師で、猟師は獲物を狩るもの
だ。オレの獲物は酒じゃなく、ワイバーンだからな。まあ生活のた
めには鹿でも熊でも仕留めてみせるが﹂
﹁ちょっとニシカさんが鱗裂きっぽい事を言った﹂
﹁オレに惚れると怪我するぜ? 何しろワイバーン狩りに付き合わ
されるからな﹂
あっはっはと胸を揺らしてニシカさんが笑う。
﹁するとあれですかね。ニシカさんの奴隷になった俺は、惚れなく
てもワイバーン狩りに今後も付き合わされそうですね﹂
﹁ばっかお前は嫁がいるだろう。いやしかし、この場合はどうなる
んだろうな? オレがお前を養う義務が国法によって定められてい
るわけだが﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます。妻ともども末永
く養ってください﹂
﹁ふん、村に戻ったらッワクワクゴロに相談するか﹂
そんな会話をしながら冒険者ギルドに到着した。
さて。ニシカさんはギルドの受付前に来ると、以前にも面識があ
489
ったのだろうかとある受付嬢に手を上げて挨拶をしていた。
向こうもニシカさんを見止めると、おやっという表情をして首を
垂れる。
迷う事無く受付女性に近づいていく。
﹁おう、久しぶりだな。最近は隣の出張所で世話になっていたので、
こっちのギルドに来たのは何日ぶりだ?﹂
﹁心配していたんですよニシカさん。全裸の戦士さんは合流出来ま
したか?﹂
﹁ああそうだ。見ての通りコイツとは合流で来たぜ﹂
﹁⋮⋮?﹂
ニヤリとしたニシカさんに、受付嬢は不思議そうな顔をする。
﹁何だよ、コイツの事をお前はしっていただろう?﹂
﹁ああ! 思い出しました、このひとは確かにギムルさまと一緒に
来られていました。お肌の露出が少なかったのでわかりませんでし
た!﹂
カウンターから身を乗り出して、受付嬢が俺を足のつま先から頭
のてっぺんまで観察した。
今の俺はポンチョを被りズボンも履いている。
あの時の俺はチョッキに腰巻きだったけどさ⋮⋮
とても悲しくなった俺はケツに食い込んだズボンをずらして息子
を楽にしてやった。
﹁どうも、ご無沙汰しています﹂
﹁ししし失礼しました。ご無事だった様で何より? あれ、おへそ
にピアスが⋮⋮﹂
﹁そうなんですよ。いろいろあってニシカさんの奴隷になっちゃっ
490
たんですよね。あ、ピアス引っ張らないでください⋮⋮﹂
﹁あっ失礼しました、そういえば今日はどういったご用件で?﹂
へそピアスを引っ張った受付嬢が、気恥ずかしげに手を引っ込め
て俺たちの顔を見比べた。
﹁これをちょっと見てくれ。オレには何と書いてあるかわからない
が、サルワタの森の開拓村出身者がこの街にいるというので、ギル
ドで話を繋いでくれという内容をギムルが言っていたんだ﹂
﹁どれどれ、拝見しますね﹂
ニシカさんが差し出したギムルの書いた紹介状を受付嬢が受け取
る。
丁寧に蝋印をした羊皮紙を広げて彼女は顔を近づけた。
﹁へぇなるほど。この街におふたりの村の村長さんの親戚が、高級
住宅街の方にお住まいなのだそうですね。その方も冒険者だという
事で、何かあればそのひとを頼る様にと書かれています﹂
﹁ほう、そいつも冒険者なのか﹂
﹁その他にも職人街の方にご出身地の出稼ぎに出て来られた方々の
長屋があるのだとか。どちらもゴブリンですね﹂
なるほど、ニシカさんの想像した通りサルワタ開拓村のゴブリン
コミュニティだった様だ。
﹁そのゴブリンの冒険者というのは何というんだ。オレたちも高級
住宅街にちょっとしたツテがあってな、知り合いの冒険者なら知っ
ている可能性がある﹂
﹁ちょっとお待ちくださいね。ええと、読みにくい名前ね⋮⋮﹂
491
俺がようじょの事を連想しながら受付嬢に言うと、彼女が羊皮紙
と睨めっこをしはじめた。
﹁よ、ッヨイハディ=ジュメェさんという方です﹂
﹁えっ? ッヨイさま?﹂
﹁ようじょの事かよ?﹂
俺とニシカさんは受付嬢の言葉に異口同音の反応をしてしまった。
﹁あ、あれ? おふたりのお知り合いだったのですか?
﹁ああ、コイツの前のご主人さまだったんだ﹂
﹁そうなんですよ。ご主人さまだったんです﹂
俺とニシカさんはまた受付嬢に異口同音に返事をした。
ご主人さまという言葉に反応して、受付嬢が俺のへそピアスをま
たチラ見してて来た。
こらこら、俺のセクシーヘソピアス見るんじゃないよ。恥ずかし
いじゃねえか。
﹁そ、それは失礼しました。読みにくい名前だなんて言ったのは、
ご主人さまにはナイショでお願いしますね﹂
﹁もちろん忘れますよ﹂
﹁それと、この手紙には続きが書かれています。村に開拓団を送り
出す準備が整ったら、手紙を届ける様にとありますねー﹂
﹁なるほどわかりました﹂
手紙を寄越す様にというのは、例の冒険者ギルドから伝書鳩を飛
ばす様にギムルが言っていたアレだろう。
俺は受付嬢が読み終わった手紙を受け取りながらお礼をした。
492
﹁こちらのほうで開拓移民の募集は続けています。確かええと⋮⋮
あったあった、現段階では一〇〇人ほど募集に反応がありました。
もしご指定の日があれば、みなさんを集める様にこちらで手配しま
すよ? ギムルさまからは冒険者を護衛に雇って、送り出す様に言
われています﹂
﹁おお、一〇〇人も反応が﹂
﹁いいじゃねえか。これでオレたちも役目を果たして故郷に帰れる
な﹂
﹁じゃあいつにしようか。何日後ぐらいでいいかな﹂
俺とニシカさんが喜び合って相談していると、
﹁そうですね、数日いただけばひとまず連絡を回す事が出来ます。
反応があったというだけなので一〇〇人のうち全員が移民に参加さ
れるかどうかまではわかりませんが﹂
﹁それは構わないです。猟師の方はどうですか?﹂
﹁ええと、そちらのほうは⋮⋮残念ながら反応があまり芳しくあり
ませんね。おひとりほど手を上げておられる人がいるみたいです﹂
猟師の募集者は思ったよりも少ない様だった。
俺はふんふん頷きながら、受付嬢に羽根ペンを借りて紹介状の裏
にメモしていく。
﹁何だお前ぇ、字が書けるんじゃねえか﹂
﹁この土地の文字が読み書きできないんですよ。自分用にメモする
ぐらいなら。それより猟師の方はどうするんですか? 思ったより
集まりませんでしたけど﹂
﹁開拓移民の中から適当なやつを猟師の見習いにすればいいだろう
ぜ。村人出身なら兎くらいなら狩った事のあるやつがいるだろう。
そいつを教育すればいい﹂
493
ニシカさんが無難な落としどころを提案した。
﹁なるほどね、では三日後にでも集めてください。いけるかな?﹂
﹁はい。たまわりました﹂
﹁あとは冒険者だが⋮⋮﹂
確かッヨイさまたちは、直近でしばらくやらなければいけないク
エストがあると言っていたはずだ。
最終的にはようじょと雁木マリをアテにしていいのかもしれない
が、直近ではどうするか考えないといけない。
﹁そっちは誰かいい人間が手を上げてくれていませんかね? 村へ
の滞在はずっとお願いするというわけじゃないんですが﹂
﹁移民団の護衛に付く冒険者さんの数名が、しばらくなら村に滞在
していいとおっしゃっていましたよ。それと、おふたりのご出身地
にギルドの出張所を設けるという事で、当ギルドから一名現場を取
り仕切る冒険者をお送りする事になります﹂
﹁おう、それは面倒が省けていいな﹂
何事も面倒くさがるニシカさんが、そりゃいいやと合いの手を打
って俺を見た。
というわけで、俺たちは村に出来るギルド出張所の代理人と移民
募集者に、三日後この場で落ち合う事になった。
◆
﹁しかしあれだな。村長とッヨイが親戚同士だったというのは驚き
だぜ﹂
﹁確かに。でもよくよく考えてみれば村長さまも、余所から嫁いで
494
きたという様な話をッワクワクゴロさんに伺った事がありました。
すると村長さまは街のご出身だったんですね﹂
﹁そうだったかな? まあ詳しい事はようじょに聞けばいいだろう
ぜ﹂
俺たちは女村長宛てに経過報告をするための手紙をしたためるべ
く、ようじょの邸宅に向かっていた。
ついでにようじょと女村長の関係を聞いておけばいい。
しかしそんな事は早くにわかっていたのなら、ギムルも俺に教え
てくれればよかったのに。
あのツンデレめ!
﹁ところでニシカさん﹂
﹁ん?﹂
﹁何でゴブリンの名前はみんなッからはじまるんですかね?﹂
﹁そりゃお前、あいつらはッの部族だからだろうな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁おい、何だその疑いの目は。絶対間違ってない。間違ってないは
ずだ!﹂
鱗裂きのニシカさんが、適当に思いついた様な発言をした。
たぶん間違っている。
495
45 フリーター家に帰る 5
﹁えーっ、どれぇはドロシアねえさまと知り合いだったのですか?
!﹂
ようじょは自宅で驚いた。
俺が渡したギムルの紹介状を見て曇りなき眼をくりくりさせてい
る。
﹁そうなんですよ、俺もびっくりしました。うちの村長さまとはど
ういったご関係で⋮⋮﹂
﹁ドロシアねえさまは、ッヨイのおばさまなのです。でもおばさま
と言ったら怒るので、ねえさまなのです﹂
﹁おばさま、なるほど﹂
どうやら詳しく聞いてみると、サルワタの森の開拓村の女村長は、
もともと隣の村の出身らしい。
で、女村長の母方が街に住む魔法使いゴブリンのコミュニティー
出身だったというのである。
つまり、ようじょと女村長はおばと姪の関係。ようじょとギムル
は従兄妹の関係だというのだ。
﹁ギムルさんとッヨイさまは従兄妹だったのですか。ぜんぜん似て
ないからわかりませんでした﹂
﹁ばっかお前、村長とギムルは義理の親子だから当然だろう﹂
﹁あ、そうでしたね。ギムルさんがゴブリンと共通してるところっ
て筋骨隆々なところだけだったわ﹂
496
俺とニシカさんが馬鹿な話を間に挟んでいると、
﹁それにしてもドロシアねえさまが辺境の村で村長さんをやってい
るなんて、知りませんでした﹂
﹁ん。おいようじょ、ちょっと待て?﹂
確か女村長が俺たちの村に嫁いできたのは一〇年前という事だっ
たはずだ。
するともしかして、このようじょはロリのふりをしてけっこうお
齢を召しておられるのか⋮⋮?
俺とニシカさんが顔を見合わせた。
﹁失礼ですがッヨイさま﹂
﹁何ですかどれぇ?﹂
﹁ッヨイさまはいまお幾つなのでしょうか﹂
﹁ッヨイはいま九さいです!﹂
よかった。ようじょはありのままのようじょでした。
という事はいつようじょはあの女村長と会った事があるんだ。
そこが疑問だ。
﹁村長さまとッヨイさまがお会いした事があるのですよね?﹂
﹁そうです、五年前ですどれぇ! ドロシアねえさまが、街の偉い
ひととお話し合いに来た時に、会いました!﹂
﹁へえ。その時がはじめて?﹂
﹁そうですどれぇ。ドロシアねえさまは大きな子供がいたので、そ
の時におばさまと言っちゃって﹂
思い出すのも恐ろしいのか、ようじょがぶるぶる身震いした。
497
大きな息子というのはギムルの事だろうし、まああれだけ大きな
子供がいればおばさんだわな。
だが、あの女村長はそんな発言を許さなかったわけだ。
今から五年前なら二五歳過ぎか、ちょうど微妙なお年頃だからわ
からんでもない。
﹁⋮⋮それで、ドロシアねえさま宛てにお手紙を書けばいいのです
か?﹂
﹁そうですね。三日後に開拓移民の一部を連れて村に帰る旨をした
ためていただけると助かります。それから冒険者は護衛が一時残留、
猟師は一名﹂
﹁わかりました。三日後に開拓いみんですね、それと護衛の冒険者
が残留、猟師はひとり﹂
ふんふん頷いたようじょが、屋敷の棚にある壺に差してあったサ
ラの巻き麻紙を取り出して、手文庫と一緒に持ってきた。
手文庫から羽根ペンとインクを取り出すと、身を縮めて手紙をし
たためていく。
﹁三日後に開拓いみん出発、護衛の冒険者が残留、猟師はひとり。
どれぇとおっぱいは元気⋮⋮﹂
﹁おいようじょ、お前今オレ様の事をおっぱいって言ったな?﹂
﹁気のせいですニシカさん!﹂
麻紙をたたんで俺にようじょが差し出してくれる。
つとめて俺に明るく振る舞ってくれているのはわかっていた。
﹁マリはどうしたんですか?﹂
﹁今日は聖堂のお仕事で礼拝所をまわっています。ッヨイだけお家
でお留守番だよ﹂
498
﹁ッヨイさまは偉いですね﹂
﹁えへへ﹂
ようじょの頭を撫でてやると、元ご主人さまは嬉しそうな顔をし
たけれど、一瞬だけ寂しそうな顔を見せた。
﹁どれぇは、ッヨイの事をわすちゃいませんか?﹂
﹁忘れるなんてあるわけないじゃないですか。ご主人さまはかわっ
ても、心の中ではッヨイさまがずっとご主人さまですよ﹂
俺はいったい何を言っているんだろう。
隣のニシカさんも呆れた顔をしていたが、それでも何も言わなか
った。
﹁ッヨイはお仕事があるので、どれぇと一緒にサルワタの森の開拓
村に行くことが出来ません。でも、ちゃんと予約のクエストが終わ
って時期が来たら、向かうのです﹂
﹁ありがとうございます。マリにはくれぐれも、前向きに村の常駐
冒険者になってくれる様に、言っておいてください﹂
﹁わかりましたなのです﹂
そうやって俺たちは手を取り合った後に、ようじょの邸宅を後に
した。
﹁あれでよかったのか。案外あっさり出て来たけどよ﹂
﹁まあ、あまり引っ張ってもこう悲しい気持ちが一杯になるでしょ
う。それに今生の別れというわけでもないですしね﹂
﹁そうかい。だがオレは心配だったぜ﹂
﹁いったい何をですか﹂
499
繁華街に繰り出す途上、ニシカさんが珍しく真面目な顔をしてい
た。
俺たちは帰郷を前にいろいろと買い物をしていくつもりだった。
﹁いや、ようじょがよう。ッヨイが大人になったらどれぇのお嫁さ
んにしてください! とか言い出すんじゃねえかと﹂
﹁それはないでしょ。ッヨイさま九歳だし、大人になるまで待って
たら俺だいぶおっさんですよ﹂
﹁お前はだいぶ若作りだから、見た目はその頃にゃちょうどいいぐ
らいになってるんじゃねえか。あっはっは﹂
﹁悪い冗談です。俺は村に新妻を残しているんですよ﹂
﹁ま、新婚のうちから新しい嫁なんて話をしたら、カサンドラに怒
られるよな﹂
﹁当然です!﹂
そんな事にはならなくてよかったね。
いやまて新しい嫁。もしかして重婚出来ちゃう世の中なのだろう
かこの世界は。
﹁質問です。重婚はアリなんですね?﹂
﹁そのぶん税が厳しいだけだが、アリなんじゃねえか? おう、村
長と結婚しろよお前。そしたら税金がタダになるぜ!﹂
税金が厳しくなるのなら、普通はやらないんだろうね。
俺もやらない。大人しく新婚生活をしよう。
◆
街で過ごす残りわずかの時間で、俺とニシカさんは色々な買い物
をした。
500
とりあえず村に戻って着るものが無い生活を続けるのはまずい。
何せ、一張羅では破けてしまうと以後全裸になってしまうからな。
かつての腰巻きと同じ失敗は繰り返さない様に、古着屋をまわっ
て適当に服を買いあさった。
ニシカさんも例によってブラウスを買い集めていたが、こちらは
新品のもを購入したらしいので黄ばんでいない。
それからカサンドラのために布を購入した。ついでに料理に使う
りんご酢やはちみつも購入してみた。
果たして新妻は喜んでくれるだろうかね。
そしていよいよ三日目の朝、俺たちは冒険者ギルドの宿場町前に
ある出張所に集まった。
開拓移民のみなさんのところへ行く前に、先日お話をした受付嬢
さんと顔を合わせる。
﹁こちらがサルワタの森の開拓村にギルドから派遣されるカムラさ
んです﹂
﹁カムラだ。よろしく﹂
﹁シューターです。道中、それから村でもお世話になります﹂
﹁鱗裂きのニシカだ。よろしく頼むぜ﹂
そうそう、ちゃんとバジルの事も紹介しておかないとな。
足元をちょろちょろ走り回っていたバジルをニシカさんが抱き上
げてくれた、ふたりに向き直った。
﹁キュイ!﹂
﹁ああこの子は、バジリスクのあかちゃん、バジルです。大人しい
子なので安心してください﹂
﹁ば、バジリスクのか?﹂
﹁そうです。あの、バジリスクです﹂
501
﹁ギイイイ!﹂
﹁よ、よろしくバジルくん﹂
彫りの深い顔に紺碧の瞳、茶色い髪。
定番の鎖帷子を着こなしたその男カムラはイケメンの中年男性だ
った。
ちょっとハリウッド俳優をやってそうな貫禄もある。
握手をした瞬間に、俺はこいつがかなりデキる男であるのは薄々
理解出来た。
挨拶をする時も常にわずかに体を開いて半身を心がけているのは、
いついかなる時も事態に対処できる様に準備しているのだ。
むかし俺はお笑い劇場の大道具のバイトをしていた事がある。
雇われた人間の大半は俺みたいなフリーターか、何かの夢を目指
して頑張っている若者たちだった。
その中にボクシング選手をやっている青年がいた。彼はバイトを
しながらジムに通い、日々精進して東洋チャンピオンか何かのタイ
トルを狙っていたのをよく覚えている。
その青年、横断歩道前で信号待ちをしている時も、自然と足を軽
く広げて半身になっていた。
何でも以前、交通事故に巻き込まれそうになった事があったらし
く、いつでも対処出来る様に心がけていたのだとか。
ちなみに彼は後日、平台という舞台の下に引く木製の台を脚に落
としてしまい、あわや骨折するという瞬間もいつも心がけていた注
意力のたまものか、無傷だった。
けどまあ、彼は出来ちゃった婚をして、東洋チャンプにはなれな
かったんだけどな。
このカムラという美中年、腕のたつ冒険者だ。
いい男が村に来てくれるものだと俺は素直に喜んだわけである。
502
﹁では開拓移民のみなさまを紹介しますよ。冒険者ギルドの方で、
ギムルさんから依頼されていた移動中の食糧その他も用意出来てい
ます﹂
受付嬢を先頭に美中年、ニシカさん、俺の順番で続いた。
移動の際に俺がニシカさんに小さく声をかけると、ニシカさんは
意外な反応をする。
﹁彼、どう思いますかね﹂
﹁お前とどっちが腕が立つ。ん?﹂
﹁そうきましたか。たぶん相当腕がたつでしょうね、実戦経験の差
でカムラさんの勝ちだろうなぁ﹂
﹁うーん、なるほどな⋮⋮﹂
俺の質問には答えず、ニシカさんは巨乳を抱き寄せる様に腕を組
んで考え込んでいた。
◆
護衛の冒険者四人とともに、俺たちはブルカの街を出発する。
最初の開拓移民に参加したのは、反応のあった一〇〇人あまりの
うち八家族三〇人程度と、若い男たち数名、それから犯罪奴隷であ
る。
かつてきた道を村に引き返しながら、俺たちはゆっくりとした足
取りで移動した。
都合五日の行程となるが、来た時より時間をかけるのは荷車に馬
を使わないからだ。
五〇人あまりの旅人集団はその五日間、つつがなく行程を消化し
503
た。
そして予定より遅れた六日目の朝、
﹁おい遠くを見ろよ、あそこにワイバーンの営巣地がある山々が見
えるぜ﹂
誰よりも早く故郷が近づいた事に気が付いたニシカさんが、遠く
を差してそう言った。
確かに、見覚えのある山々が向こうに見えた。
その山から徐々に空のずっと天井を見上げると、黒い胡麻がゆっ
くりと動いている姿が見えた。
雲と雲の間を抜ける様に飛んでいる事から、あれは鳥なんかじゃ
ない。
﹁⋮⋮ニシカさん、空に﹂
﹁ドラゴンだな、ドラゴン。ああ、故郷に帰って来たんだって実感
するなおい﹂
﹁え、ドラゴンってどういう事ですか?﹂
﹁ドラゴンつったらドラゴンだろうぜ、ワイバーンの親戚だ。あい
つらはああしてこの時期になると山の向こうから渡りをしてくるん
だ﹂
﹁キュウ!﹂
あいつら。という言葉に驚いてふたたび空を見上げると、黒い胡
麻粒は無数に雲の狭間から見え隠れするのだった。
マジかよワイバーン一頭で村は大騒ぎしたというのに、あんな数
どうするんだ。
﹁ばっか安心しろ﹂
﹁ドラゴンに安心なんて出来るんですかね﹂
504
﹁あいつらはあまり人里には降りてこないし、どちらかというと草
食性の強い雑食だ。さ、そんな事よりも村の物見の塔が見えて来た
ぜ!﹂
﹁本当だ。カムラさん、もうすぐ村に到着です!﹂
石塔の先端が林の上に飛びだしているのを認めて、俺は集団を束
ねているカムラさんに声をかけた。
俺たちはやっとサルワタの森の開拓村へと到着したのである。
505
章末 登場人物紹介︵前書き︶
2章登場人物と用語のまとめです。
506
章末 登場人物紹介
登場人物紹介
シューター
■吉田修太
異世界からやって来た三二歳のフリーター。無数のバイト遍歴に猟
師と冒険者が加わった。まさかの奴隷堕ちで人生ふりだしにもどる。
うろこさきのにしか
■鱗裂きのニシカ
黒髪ショートの長耳猟師。ちょっと爆乳なオレ様一人称。森で見た
つよい
鹿の大群より多い街の人間に驚く。街で冒険者になる。
うわようじょ
■ッヨイハディ=ジュメェ
グリモワール
つよいようじょ。ゴブリンの魔法使いで、街で奴隷堕ちしたシュー
ターを購入した。魔導書と栞で強力魔法を使うが、おねしょもする。
がんぎまり
■雁木マリ
異世界からやって来た十九歳の元女子高生。ブルカ聖堂に降誕し聖
女と崇められ、そのままブルカ騎士修道会の修道騎士となる。ポー
ションでドーピングしている。
ぎむる
■ギムル
村長の義息子。村で不足する猟師や開拓者を募るため、シューター
とともに街へやって来る。
かさんどら
■カサンドラ
ブルカの街に旅立った夫シューターを、一途に待ち続ける十七歳。
従兄オッサンドラに言い寄られる。
507
どこにでもいる
きたない
おとな
■ルトバユスキ=ヌプチュセイ=ヌプチャカーン
ブルカの街でお高い壺を集める趣味がある奴隷商人。お高い壺が割
れると奴隷が手に入る。
■冒険者エレクトラ
痩せてはいるが短髪で、男みたいな体格と顔だが、とてもシャイ。
まさかり
大胸筋がよく発達している。細剣使い。
■冒険者ダイソン
巨漢レスラーみたいな男。鉞を振り回し上半身裸をよく鍛えている
が、下半身はおざなり。
用語紹介
□ダンジョン
先人たちの古代遺跡と、自然発生の洞窟迷宮のふたつのパターンが
ある。それらには最奥部にダンジョンの<ruby><rb>主
</rb><rp>(</rp><rt>ぬし</rt><rp>
)</rp></ruby>と呼ばれるモンスターが棲息している。
□ポーション
合法魔法医薬品。一時的に体力強化や興奮促進、疲労回復などをし
てくれる。魔力の少ない人が使うと中毒症状
や副作用などが出る。
□オーガ
数百人の部族単位で狩猟採集をしながら移動生活をする人々。身長
508
二メートルを超える大型人類種。
□マダラパイク
ダンジョンスネークの一種。大型種のヘビで、脱皮を繰り返しなが
ら大きく成長したものは、ダンジョンの主にもなる。
□バジリスク
見た目は四足歩行するティラノサウルス。地上の暴君はダンジョン
で子育てをしていた。バジリクスではない。
□ブルカの街
王国の国境線を守るブルカ辺境伯が治める街。四方を囲む城塞には
戦いの跡が今も生々しく残っている。辺境諸部族との争いが絶えな
い最前線のため治安が悪い。
□狐谷まどか
作者。夏はコミケでビールクズ。
509
祝50万PV感謝&記念SS 公衆浴場で俺全裸︵前書き︶
お色気回です。苦手な方は読み飛ばしてください。
510
祝50万PV感謝&記念SS 公衆浴場で俺全裸
﹁今日は公衆浴場に行こうと思います!﹂
朝一番でおもらしを俺にたしなめられたようじょが、突然そんな
事を言い出した。
この世界の風呂と言えば、基本はたらいに湯を張って行水する程
度である。
俺はもともと日本人らしからぬ精神の持ち主で、さほど湯船につ
かる事に固執していなかったので、この世界の習慣には気にもとめ
ていなかった。
しかし、ここブルカの街にはそんな習慣があるらしい。
いくら気にもとめていなかったとはいっても、入れるものには喜
んで入浴したいものである。
﹁でも、お高いんでしょう?﹂
﹁キュイ?﹂
バジルの体を拭いていた俺がそう質問すると、ようじょは白い歯
を見せて笑った。
ようじょはお風呂が大好きらしく、書斎の安楽椅子から飛び降り
て万歳をしてみせた。
﹁冒険者タグを持っていれば、冒険者割引がききます! 冒険者は
報奨金から税を天引きされているので特権なのです!﹂
﹁おお、噂に聞く風呂というやつか。オレ様も是非行ってみたいも
のだな﹂
﹁そうね、日本人ならお風呂はやっぱり気持ちいいもの﹂
511
﹁キィキキィイイ!﹂
ようじょの興奮が移ったのか、鱗裂きのニシカさんも雁木マリも
賛同する。
でもバジル、お前は家で大人しくしとこうな。
エリマキトカゲが湯船に浮いていると、ちょっと衛生上問題とか
管理者から怒られてしまうかもしれないしな。
俺がバジリスクのあかちゃんを寝床用の籠に入れて蓋をしようと
したところ、バジルが盛大に噛みつきやがった。
残念でした、君は歯もないから、こそばゆいだけでした!
大人しくしていなさい。
おじさんはちょっと絶景を堪能して来るからな!
◆
これは俺がバジリスク再討伐から戻って翌日の出来事である。
しばらくバジリスク討伐の換金がなされないという事で暇を持て
余していた俺たちが、ようじょの家でゴロゴロしていた時の話だっ
た。
村でも体を洗う事が許されなかった時はひどい臭いに自分自身が
辟易したものだが、クエストでダンジョンに入っている時はその比
ではなかった。
なにしろ返り血を浴びたまま数日過ごせば臭いは強烈である。
俺たちもようじょ宅にもどってから熱心に体を拭いたのだが、そ
れでも限界があった。
どこまでもまとわりつくケモノの臭いは、睡眠妨害である。
﹁ところでこの世界に来て、はじめて銭湯に行くな。村には無かっ
たし、そもそも湯につかる習慣があったのが驚きだ﹂
﹁そう? あたしは普通にいつも利用してたけど、文明の度合いが
512
違うから毎日というわけにもいかないけれど﹂
公衆浴場なるものに向かう途中、隣に並んだ雁木マリに話しかけ
てみると、そんな事を言われた。
これだよ。
降臨した場所が違うだけで、この扱いの差だ。
この女は女神様に愛されていて、俺は愛されてないのだろうか。
﹁でも久々ね、ゆっくりとお湯につかれるのは日本人ならだれもが
求めている事じゃないかしら﹂
両手を頭の後ろに回した雁木マリは、鼻歌でもまじりそうな勢い
で天を仰いだ。
すると、ノースリーブワンピのおかげで無防備なわきが眼に飛び
込んできた。
ニシカさんがそうであったように、雁木マリも処理をしていない。
俺がその点に気になって俺がじっくり観察していると、
﹁ちょ、あんまり見ないでよ。こ、この世界では当たり前だから処
理していなかったのよ。やっぱり同じ日本人として気になるの?﹂
﹁いや、ありのままでいいんじゃないか。俺はどちらかというと好
きだぜ﹂
何を言っているんだ俺は。
街にやってくる途中だったか宿でだったか、ニシカさんの紫がか
ったわき毛を見て妙な性癖に目覚めそうになったのを思い出して、
あわてて俺は咳払いをした。
﹁そ、そう。ありのままね﹂
﹁そうだぞ毛はあったほうがいい。俺の親父は毛が薄くなって残念
513
がっていたぞ﹂
﹁ふ、ふうん﹂
俺は適当に話を誤魔化して、公衆浴場に向かう足取りを早めたと
ころ、
﹁んだよお前ぇら、何の話をしてるんだ?﹂
﹁おおう、ニシカさんびっくりさせないでください﹂
﹁や、やめてってニシカさん!﹂
鱗裂きのニシカさんが、音も無く背後から俺たちふたりに腕を回
してきたではないか。
ニシカさんは身長がほんの少し俺より低いだけなので、こういう
事が簡単に出来る。
だがこの、腕を回したタイミングで勢いニシカさんに寄せ付けら
れてしまい、俺と雁木マリはニシカさんのたわわな胸の顔を押し付
けられそうになった。
嫌じゃないんだが、嬉しい顔を露骨にするわけにはいかない。
﹁ちょっと毛の話をしていました。毛は大事ってはなしです﹂
﹁何の毛だよ﹂
﹁ニシカさんのアホ毛でについてすよ﹂
﹁ばっかこれはおしゃれヘアーだ!﹂
寝ぐせのついた髪の毛をなでつけるニシカさんだが、その度にア
ホ毛はぴこぴこ立ち上がった。
はたして公衆浴場は、それぞれ個室の浴槽を借りるタイプの風呂
屋だった。
イメージ的にはカラオケボックスみたいなもんだろう。
514
受付で風呂を借りる予約をして、それぞれ人数にあわせて部屋を
あてがわれる。
小さな旅館の風呂場ぐらいのサイズというのだろうか、たたみ六
畳分ほどの浴槽と何に使うのかわからない寝台が置かれているので
ある。
そして最大の問題点がひとつ。
旅館にある家族や恋人用貸し切りの風呂を想像してもらいたい。
当然、家族で入るのだから男女差別なく全裸である。
﹁おい雁木マリ﹂
﹁なによ﹂
﹁マリはこの状況、ありだと思うか﹂
﹁まあ、ここでは誰も気にしないからね。この世界は優しくないの
よ⋮⋮﹂
当たり前の様に脱衣所で服を脱ぎはじめるニシカさんはまあ置い
ておいて、雁木マリもさほど気にしていない。
ようじょにいたっては﹁バンザイです!﹂といってフリルワンピ
を屋敷でそうしているように、俺に脱がせる様に催促してくる。
雁木マリの事を気遣った俺がひと事言う。
﹁まずいだろ﹂
﹁お前がいやらしい目線でジロジロ見なければ問題ないわ。奴隷は
人間以下。奴隷に見られても犬に見られた様なもの⋮⋮﹂
そんな事を言いながら、背を向けた雁木マリは剣を置きベルトを
外し、ノースリーブワンピを脱ぎ始めた。
言ってはいるが、だいぶ気恥ずかしそうにしているのはわかる。
そんな雁木マリを見ると、白い肌の背中には無数の小さな切り傷
が残っていた。
515
この世界の剣術をひたすら雁木マリが稽古した跡なのだろう。あ
おたんというのだろうか、アザも無数にあった。
あまり見ていては俺の息子も困惑するだろうから、視線を外して
自分のズボンを降ろす。
マリは手ぬぐいで前を隠しながら俺たちの方に向き直った。
油断していると、
﹁包茎⋮⋮﹂
﹁うるさいよ!﹂
全裸の俺を見て、雁木マリは容赦が無かった。
さて、ひとつ驚いた事がある。
ムキムキのゴブリンが風呂場に現れたかと思うと、俺たちを垢す
りしてくれるのだ。
サウナ室と明確に区分されているわけではないのだが、蒸気に満
たされた浴槽のフロアに通された俺たちは寝台に横たわり、柑橘類
の入った湯でよく湿らせた布を体に乗せられる。
しばらくそのまま放置されて、よくわからないオイルをかけられ
てマッサージされた。
﹁どれぇ。こそばゆいですね!﹂
﹁そうですね。ちょっといろいろなところが危険信号です﹂
もしこのゴブリンがおっさんじゃなければあぶなかった。
それにしても、ようじょを熱心に洗うゴブリンはかなり問題だ。
何しろようじょもゴブリンであるからして、このゴブリンがゴブ
リンようじょに公衆浴場で欲情なんて事になってしまったら大変で
ある。
しかしこのムキムキのゴブリンは慣れているのか、ようじょを見
516
ても興奮はしていなかった様だ。
﹁お客さん、だいぶ垢が溜まってるね。たまには公衆浴場に来ない
と男前が台無しになるよ!﹂
﹁いやあ銭湯に来たのは久しぶりなんですよ。へそを見てください。
俺、奴隷なんで﹂
﹁なるほどお客さんは奴隷だったか。ちゃんとご主人さまに、浴場
に連れてきてもらう様にしないとな!﹂
﹁どっどれぇはまだ最近買ったばかりなので、仕方が無かったので
す! 文句があればどれぇ商人に言うのです!﹂
﹁はいはい。小さなご主人さまは大人しくしましょうぜ。垢すり中
です﹂
そんな俺とゴブリンのやりとりを見ていたようじょが、首だけ持
ち上げて苦情を言う。
凹凸のないボディの上に布を被せているのだが、オイルマッサー
ジ中なのでゴブリンが暴れるようじょをたしなめていた。
一方ニシカさんは気持ちよくなったのか、イビキをかいて寝てい
た。
かぶさった布の上には大きな山脈が出来ていて、とてもマッサー
ジがしにくそうである。
口まで開けてだらしない。
そしてマリは、
﹁ちょっと、変なところを触らないでよ。そこは、やっ、駄目、で
も⋮⋮いっぱいマッサージしたら大きくなるかしら?﹂
﹁いやぁお嬢さん、そういうのは余所のお店で頼んでくださいよ。
ウチは垢すり屋なんで﹂
ゴブリンにおかしな注文をしようとして、たしなめられていた。
517
◆
垢すりを終えて体を清めた後は、いよいよ湯船に浸かるわけであ
る。
モノの本によりば心臓を湯に沈めるまで体を浸すのはよくないら
しいけれど、久々の湯船に入ってそんなケチくさい事は言いっこな
しだ。
俺はザバンと湯が浴槽からあふれ出るのも気にせずに肩までつか
った。
﹁どれぇ、気持ちいいです!﹂
﹁そうですねえ、ッヨイさまこっちにきますか?﹂
﹁はい! どれぇのひざの上に座ります!﹂
俺は元の世界でも独身だったわけだが、もしも子供がいればこん
な事をやっていたのだろうか。
年齢的にも三二歳であるわけで、ッヨイさまぐらいの子供がいて
もおかしくない。
もしかしたら、いいパパになれたかもしれないし、向いていなか
ったかもしれない。
村に戻ればカサンドラが待っているので、子供の事も真剣に考え
ないと行かんなあ⋮⋮
などと考えていると、
雁木マリとニシカさんがやって来て、片脚ずつ浴槽に浸かりはじ
めた。
うん、ニシカさんデカい。めちゃデカイ。
いいね!
諸君、知っているか。
518
おっぱいは湯船に浮かぶんだぜ?
そんなニシカさんの爆乳を堪能し観察した後に、雁木マリの控え
めな胸もしっかり観察する。
あんまり見ていると、雁木マリが嫌そうな顔をするだろうし、続
きはバレないようにしようね。
などと考えていると息子がとても嫌そうな顔をしてもっと見るん
だと訴えて来た。
﹁あのどれぇ、なんかお尻のあたりがゴソゴソ動いてるんですけど
⋮⋮﹂
﹁ふぇ?﹂
油断していた俺は変な声で返事をしてしまった。
次の瞬間に、俺は自分の息子が元気になっている事に気が付いた。
﹁お前、何てことをしているの!﹂
﹁いや違う。これはお前のおっぱいを見てブベッ﹂
﹁このロリコンが!!﹂
諸君、知っているか。
濡れた布は武器になる。
血相変えた雁木マリは、十分に水分を含んだ手ぬぐいを振りかぶ
って俺の顔面に強烈な一撃を加えた。
俺はそのまま意識を失ったのである。
519
祝50万PV感謝&記念SS 公衆浴場で俺全裸︵後書き︶
本日おかげさまで50万PVを達成する事が出来ました。
これもひとえに読者のみなさまのおかげです!
ありがとうございます、ありがとうございます。
作者は全裸で平伏した。
520
46 半裸で俺は平伏した︵※ 3章表紙あり︶
http://15507.mitemin.net/i1890
74/
<i189074|15507>
久方ぶりの村を眼にした俺は、とても感慨深い気分になった。
この村を出発したのが五月頃だったはずだから、ひと月そこそこ
村を離れていた事になる。
その頃と比べれば村を囲む木々が新緑の枝葉を太陽に伸ばして、
元気いっぱいに自己主張していた。
夏はもうすぐそこまで来ているのだろう。
ポンチョを羽織っていると、日中は少し汗ばむぐらいになってい
た。
開拓移民を連れた一行は、徒歩で村の家々が見える景色を眺めな
がら、村長の屋敷に向かう。
先頭はこの村の周辺集落に住むニシカさんと俺、一団を取り纏め
ている街から派遣された冒険者のダンディ中年カムラ。
その後ろに八家族三〇人あまりの移民の人々と、荷車を押すゴブ
リンの労働者や犯罪奴隷たち。
家財の積まれた荷車の空きスペースには交代で移民の家族が座っ
たりしていたが、それを守る様にして冒険者たちが護衛についてい
521
る格好だ。
﹁何とか無事に到着出来た。俺も肩の荷が下りたよ﹂
﹁まあ街よりこっちの街道は平和ですからね。盗賊もいなければコ
ボルトすらいないという話でした﹂
ようやく村長の屋敷が見える位置まで一同が進んでいるところで、
美中年カムラが俺に話しかけてきた。
訓練された冒険者というのをこれまでも何人か見てきたが、その
中でも油断のない体配りの出来る男だけに、むしろ俺としては盗賊
に襲われても、この男なら安心だと思っていたぐらいだ。
もちろん襲われないに越したことはない。
﹁先日、ブルカの近くでオーガの部族が大量発生した話を聞いただ
ろう。ああいう事を考えれば、多少の不安があったんだよ﹂
﹁ははあ、あれか。オレはいい稼ぎになったぜ﹂
﹁キュイ﹂
﹁そうだな。お前ぇともその時に出会ったわけだな﹂
﹁ムギュウ!﹂
ニシカさんの足に纏わりつく様に小走りしていたバジルを、彼女
が抱き上げて見せた。
豊かな胸にうずめられる格好になって、バジリスクのあかちゃん
も大変満足そうである。
オーガの集団といえば、ニシカさんが食うに困って参加していた
討伐クエストである。
あれは村からすると街の反対側の周辺農村が襲われたものだった
ので、そのあたりは美中年の取り越し苦労である。
522
﹁だが油断はできないだろう。あの巨人族たちの集団移動の原因は
今もって判別していないので、ギルドを離れる時に耳にした情報で
はパーティーを派遣して鋭意追跡調査中だそうだね﹂
﹁ああ、そういえば雁木マリとッヨイさまがしばらく街にいるとい
うクエストの予約も、確かオーガ関係の調査だという話を聞いてい
ましたね﹂
﹁君は騎士修道会の聖女と知り合いなのかな?﹂
美中年の説明を聞いて俺が思い出した様にそう言うと、彼が器用
に片眉を上げて質問をしてきた。
何と説明するべきだろうか。
同郷といっても雁木マリは全裸で聖堂に爆誕した手前、神秘性を
否定する事にならないだろうか。
しまった。そもそも俺たちが転移だったのか転生だったのか、そ
のあたりの意見交換をする前に別かれてしまったな。
返事に困ってしまった俺は、へそピアスをいじりながらお茶を濁
した。
﹁元のパーティーメンバーだったんですよ。一時的にですが、彼女
の相棒の奴隷だった事があるので﹂
﹁なるほどそれで、そのピアスか。今はそちらのニシカさんの所有
物なのかな?﹂
﹁そういう事です。もともとニシカさんとは同郷なので、村に戻る
ために買い取って頂きました﹂
﹁ふむ、君も色々大変な様だな﹂
ブロンドの髪をかき上げながら美中年が言った。
おうおう、イケメンおやじがそういう仕草をすると様になるね。
俺たちが村の到着して村長の屋敷を目指していると、村人たちが
523
何事かと次々に農作業をやめて注目していた。
ただし遠巻きに俺たちを観察しながらヒソヒソ話をするだけで、
こちらに何かリアクションをしてくるわけではない。
それどころか、あからさまに警戒して視線が交差すると慌てて家
に飛び帰る連中もいるぐらいだ。
﹁何だかあまり俺たちは歓迎されていない様だね?﹂
﹁村長さまの義息子ギムルさんが以前言っていましたけど、この村
はむかしからとても排他的なんだそうですよ。よそ者は信用ならな
いと﹂
﹁何だそれは、俺たちを開拓のために招き入れたんだろう?﹂
整った顔に不愉快な表情を浮かべて美中年カムラが鼻息を荒くし
た。
まあそのうち、八つの家族は受け入れられるだろうさ。
問題は付き従ってきたゴブリンの労働者とか犯罪奴隷の連中だろ
う。
﹁まあ、時間が解決してくれますよ。それにあなたはイケメンなの
で、上手くやっていけるんじゃないですかね﹂
﹁イケメン! 俺はこの歳でもまだ独り身の男だぞ。そういう冗談
はやめてくれ、君は若者だからいいだろうが﹂
﹁そうっすかね。俺これでも今年で三二歳なんですよ﹂
﹁本当か信じられない?!﹂
美中年カムラが驚いた顔をしていた。
いやぁいったい何歳ぐらいだと思われていたのだろうか。
﹁俺より若いとばかりてっきり思っていた。年上だなんて⋮⋮﹂
﹁えっ?﹂
524
﹁もしかして君はそちらのニシカさんと同じ長耳の一族か、その血
を引いているのか?﹂
﹁いや違います。この黄色い蛮族とは赤の他人です。それより今お
かしな事を言いましたよね? カムラさんはおいくつで⋮⋮﹂
﹁俺は三一歳だ。君の事はアニキと呼んだ方がいいかね?﹂
﹁いや遠慮しておきます﹂
俺と美中年がヒソヒソ話をしていると、耳ざといニシカさんが長
耳をひくつかせながらぐいと顔を寄せて来た。
﹁おいお前たち。今、黄色い蛮族とか言わなかったか?﹂
﹁いやぁんでもないです。ニシカさんは黄色い薔薇だと言ったんで
すよ!﹂
こういう時は適当言って誤魔化すに限る。
ニシカさんはジト眼で俺を睨み付けていたが、黄色い薔薇と言わ
れて表情を緩めた。
ちょろいぜ!
﹁薔薇は棘があるが、同時に可憐でもある。うら若い君にぴったり
の情熱的な花だ。そういう話をシューター君としていたんだ﹂
身振りを交えて美中年が白い歯を見せて言った。
モノの本によれば黄色の薔薇には、あまりよい花言葉の意味が無
かったはずである。記憶によれば嫉妬心や愛情の薄れというものが
あった気がする。
何故そんな事を知っているかというと、むかしお世話になってい
た沖縄空手の古老の孫娘に、誕生日プレゼントで渡したからである。
男は花言葉なんて気にもしないし、その時いちおう調べたところ
によると﹁かわらぬ友情﹂という意味があったらしいのに。
525
しかし薔薇を受け取った女子高生の孫娘は、さっそくスマホで花
言葉を調べた後、激怒しやがった。
花言葉というのは当たった出展先でそれぞれ手前勝手な事を書か
れているので、実に役に立たないのだ。
花屋め、そういう事は早く教えてくれればいいのにな。
﹁お、おう。オレの美しさは情熱的だしな。オレ様に惚れると怪我
するしな!﹂
﹁ちなみに黄色い薔薇の花言葉はかわらぬ友情というらしいですよ。
俺たちこの村の冒険者仲間にぴったりな言葉じゃないですか。ねえ、
カムラさん﹂
﹁まったくだ。そのうち冒険者を集めて乾杯をしようじゃないか﹂
道中も事ある毎に酒を舐めていたニシカさんの事をよく観察して
いたのか、美中年カムラがうまい合いの手を入れてくれたので、赤
鼻のニシカさんがご機嫌になったのである。
﹁さて、もうすぐ村長屋敷前だぜ。シューターお前、ちょっくら走
って報告してこいよ﹂
﹁何で俺が。奴隷にやらせりゃいいじゃん﹂
﹁お前も奴隷だろう。早くいけ! 蛮族を怒らせると怖いぜ。ウシ
シ﹂
﹁キキィブー﹂
上機嫌だと思われたが、ニシカさんにはバレていたらしい。
大きな胸に挟まれたバジルまで一緒になって俺を馬鹿にしている
様に見えるから、おじさんは悲しい。
トホホ⋮⋮
◆
526
屋敷の前に集まった俺たちを女村長は睥睨していた。
﹁シューターはこの度、よい働きをしてくれた。猟師の数は揃わな
かった様だが、かわりに冒険者を連れて来てくれたことは感謝する。
また、最初の開拓移民をこれだけ集めた事も併せて礼を言おう。追
って沙汰ある故、期待していいぞ﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
俺は半裸で平伏した。
﹁それから鱗裂きのニシカ﹂
﹁お、おう﹂
﹁お前はどうやら勝手に村の領地を抜け出して街に出かけていた様
だが、何をしに行っていたのだ﹂
﹁ち、ちょっと狩りの道具を新調しようと買いに出かけただけだぜ﹂
﹁狩りの道具というのには、奴隷も含まれているのか。ッヨイハデ
ィから買い取ったらしいじゃないか﹂
﹁へへ⋮⋮そういう事もあるかな﹂
そう言われてニシカさんがとても嫌そうな顔をした。
目ざとく俺のへそピアスを見つけた女村長である。
伝書鳩ではあらましを軽く伝えただけだったはずだが、ようじょ
が懇切丁寧に私信を付けていたらしい。
﹁村では奴隷の私有は禁止しているので、その奴隷は没収する。残
念だが他の狩猟道具を探すといいな﹂
﹁ま、マジかよ﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
527
とても嫌そうな顔をしていたニシカさんだが﹁しゃあねぇな﹂な
どと小さく漏らしていた。
﹁まあいいぜ。もともとシューターを村に連れ帰るのに買い取った
事だしな。よろしく解放してやってくれ﹂
﹁残念だが、村には奴隷商人がいないので領主命令で取りあえず、
わらわ預かりとしておく。新妻がいる男が奴隷で、女主人に仕えて
いるでは聞こえが悪かろう﹂
ニシカさんと女村長のやり取りを、俺は唖然としながら見守って
いた。
どうやら俺は解放される事は無いにしても、村長預かりという事
で一応の後見人になってくれるらしい。
﹁あ、ありがとうございます。ありがとうございます﹂
﹁お前はそれだけの働きをしているし、わらわは今後も期待してい
るぞ﹂
ドロシアねえさまがようじょのおばさんという事だが、言われて
みれば何となく似ているところがある気がする。
具体的にどこがと言われると難しいのだが、目元のあたりや厚ぼ
ったい唇は似ている。
ようじょが成長したドロシアねえさまになるのかーなどと考え込
んでいたら、女村長の側に控えていたギムルと、美中年たち冒険者
の一団が細かい打ち合わせをはじめたようだった。
﹁さて、シューター。お前の嫁が屋敷の中で下女たちと、開拓移民
のための食事を用意している、行って顔を見せてくるのがよいだろ
うの﹂
﹁お、仰せのままに﹂
528
﹁あまり皆の前でのろける様な事が無いようにな?﹂
チラリと片眼をつぶりながら女村長がそう言った。
俺は立ち上がり一礼をすると、屋敷の入り口に向かった。
ちょうどギムルさんが集められた開拓移民に今夜の宿について説
明をしていたが、一瞬だけ俺をチラ見すると、アゴで屋敷の奥を指
示してくれた。
﹁へそピアスが似合っているな﹂
﹁大きなお世話です﹂
﹁お前もこれから忙しくなるぞ。嫁を大事にしておけ﹂
﹁ギムルさんも、移民の中にいい嫁候補がいるといいですね﹂
﹁黙れ、いや。そうだな⋮⋮﹂
そんな青年ギムルの反応に少し笑いながら、俺は女村長の屋敷に
入った。
529
47 ぼくたち幸せになります
やあみんな、新婚ホヤホヤで単身赴任するハメになった吉田修太
だよ。
三二歳、新婚一か月とちょっと。
久々に嫁の顔を見るというので、俺の心は年甲斐も無く高鳴りを
覚えていた。
ぽっ。
屋敷の奥にある厨房で、女たちの声が聞こえる。
恋愛結婚でも見合いをしたわけでもなく、村長の命令によってな
された結婚だ。
仮にそうだったとしても俺自身はカサンドラを奥さんとしてしっ
かり心の中で迎え入れていた。
しばらく離れ離れになっていたのもあって、余計に奥さんが恋し
かったもんね。
カサンドラはどうかな?
俺が留守にしている間、苦労をかけただろうな。
何か問題事は無かったかな?
俺の顔を見て、久しぶりに会えたことを嬉しそうな顔をして喜ん
でくれるかな?
村を旅立つ最後の時の顔を想像すれば、手を振ってくれたのを思
い出す。
懐かしさと、拒絶した時の怖さ。
それから愛おしさの様なものがない交ぜになって俺はきっと気持
ち悪い顔をしていただろう。
530
女たちのいる厨房へ、覚悟を決めて首を突っ込んだ。
﹁すいません。うちの妻がこちらにいると聞いてきたんですがね?﹂
﹁あ、シューターさん﹂
厨房に飛び込んだ矢先、俺とカサンドラは視線を交差させてしま
った。
栗色の長い髪に白い肌で、相変わらず質素な貫頭衣を着た格好で、
手に寸胴鍋を持っていた。
するとカサンドラはとても嫌そうな顔をして俺から視線を外して
しまった。
あれ、やっぱり妻は俺と久々に逢うのが心底嫌だったのだろうか。
違うぞ待て。
嫌そうな顔はともかくとして、カサンドラの白い顔がちょっぴり
朱色に染まっているのを俺は目撃した。
﹁何だいこら、何をボサっと立ってサボっているんだい。今日は新
しい村人たちが街から腹を空かせてやって来たんだから、突っ立っ
てる時間なんてありはしないんだよ!﹂
棒切れを持った神取しのぶみたいなおばさんが、俺のかわいい嫁
を折檻しようとする。
ジンターネンさんである。
﹁すいません、すいません。俺が余計な事をしたせいで、ホントす
いません﹂
﹁何だいあんたは。へそピアス? 奴隷が偉そうに口答えをするな
んていい度胸じゃないのさ!﹂
慌てて俺がカサンドラとジンターネンさんの間に飛び込んだとこ
531
ろ、容赦なくジンターネンさんが俺の腕をしたたかに殴りつけた。
筋肉の発達している場所をわざと叩いて、抵抗力を奪う叩き方だ
った。俺は空手経験者だからわかる。
﹁痛い、わりと痛い。やめて﹂
﹁うるさいよ! 村の人間に楯突く奴隷なんてのは、見せしめが必
要なんだ。どうせ移民団から逃げ出してきたんだろう﹂
﹁シューターさん! ジンターネンさんやめてください、このひと
はわたしの夫です!﹂
すっかり俺の事を忘れていたのだろう、ジンターネンさんはへそ
ピアスだけで俺を判断して棒切れで折檻するものだから、カサンド
ラが慌てて俺の事を止めに入ってくれた。
今度は俺と妻の立場があべこべである。
そこに騒ぎを耳にしたギムルがぬっと姿を現した。
後ろには俺たちが街で雇った冒険者の半裸男ダイソンと、おっぱ
いがついたイケメンのエレクトラを連れていた。
早く助けてくれ!
﹁何をやっているのだお前たちは﹂
﹁ギムルさん助けてください、ジンターネンさんが酷いんです﹂
﹁ばあさんが酷いのは昔からだ。我慢しろ﹂
にべもない事を言ってギムルがジンターネンさんを俺から引き剥
がすと、騒ぎを鎮めて次々と命令を飛ばしはじめるではないか。
﹁手の空いている者は出来上がった鍋を外に運び出せ。村に来た街
の連中は全部で五〇人弱だ。エレクトラたちも食器を運び出すのを
手伝ってやれ。それからカサンドラはもうこれで上がっていい﹂
﹁あの、ギムルさま﹂
532
ギムルさんが不満そうなジンターネンを無言の圧力で押さえつけ
ながら、言葉を続けた。
﹁シューターと家に帰っていいぞ。それから食事も特別にここから
持って帰れ﹂
﹁⋮⋮あの、いいんですか?﹂
﹁そういう嬉しそうな顔は俺に見せるな、この男に見せてやれ﹂
﹁あの、ありがとうございます。ありがとうございますっ﹂
妙に親しげにギムルと妻が顔を見合わせて会話をしていた。
最後にはどこかでよく耳にするやら口にするやらな言葉まで飛び
だした。
﹁というわけだシューター。暑苦しい顔はしばらく見たくないので、
今日一日は家から出てくるなよ。明日にまたここへ来い﹂
珍しく白い歯を見せたギムルは、おもいきり俺の背中をバシリと
叩きやがった。
ジンターネンさんから俺を救い出したのがよほどご機嫌だったの
だろうか。
しかし俺たちが蒸かした芋をもらって屋敷を出ていくところ、我
慢していたジンターネンさんの激怒する声が耳に飛び込んできたの
である。
﹁誰がばあさんだって? 誰に物を言ったのか、教育してやるよ!﹂
ばあさんは昔からああだったのかな? ギムル諦めろ。
◆
533
﹁これは街で人気があるという柄の布地で、こっちは紫、こっちは
赤の布だ。カサンドラはいつも質素な服を着ているから、たまには
こういう服をきるのもいいと思ったんだよね﹂
﹁⋮⋮はい﹂
持ち帰った荷物を狭い自分用のシングルベッドに広げながら、俺
は得意満面の笑みで説明する。
﹁それからこれはな。街で俺が仕事をしている時に、お世話になっ
たご主人さまからいただいた、ありがたい魔法のランタンだ。ちょ
っと痛いが、ランタンに自分の血を入れてセットすると、魔力を吸
い上げて油が無くても燃え続ける優れものなんだよね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
どれもカサンドラのために購入したものだが、一部は俺のために
服を作ってくれたりしたら嬉しいかな。
﹁どういうわけか壊れてしまって、俺以外の血を入れても反応しな
くなったみたいなので、もらってきたんだよ。これでもう、俺がい
る限り俺たちは油がなくても夜は明るく過ごせるよ。明るい夜の家
族計画、なんちゃって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮えっと﹂
﹁あと君にはこれをあげよう。ベニバナの色素で作った口紅だよ、
商人が言うには肌の白い女性にはこの色が似あうというので買って
来たんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮シューターさん!﹂
カサンドラは、いつもはどちらかと言うと控えめ。
いや、あまり俺と口を利くのも嫌そうな顔をしていたように、村
534
を出発する前の記憶には残っていたはずだ。
さほど新婚生活に時間を費やしていなかったけれど、それは覚え
ている。
それが今はとても嫌そうな顔をして、少し膨れた顔で俺を睨み付
けていた。
﹁はい、シューターさんです﹂
﹁わっわたし、まだシューターさんにおかえりなさいをしていませ
ん⋮⋮﹂
ああ、今わかったわ。
俺ずっと勘違いしていたわ。
カサンドラのとても嫌そうな顔を、俺はまじまじと覗き込む。
するととても嫌そうだけど、その嫌そうには様々な表情が見え隠
れしていたのである。
今はどんな理由でとても嫌そうなのかな?
いや考えるだけ野暮な話だ。
だから俺はカサンドラの方に向き直ると、そっと彼女の両肩を腕
で抱き寄せて口を開いた。
﹁ただいま、俺の奥さん﹂
﹁はい。おかえりなさい、シューターさん﹂
その後、俺の息子が爆発した。
リア充だからしょうがないよね!
535
48 カサンドラはだれにも渡さん!
俺の名は吉田修太、十七歳の奥さんがいる三二歳の勝ち組だ。
ちょっと色々あって新婚初夜は寂しい独り寝を経験したけれど、
おかげさまで身も心も俺たちは夫婦になれた。
ひとつ問題があったとすれば、俺の息子がちょっと気をはやらせ
て暴発気味だった事かな。
そういう事も長い夫婦生活の中ではあるだろうから、ここはご愛
嬌だ。
さてふたりの気持ちを確かめて、抱き合いながら小さなベッドで
俺たちが過ごしていたところ、俺にはとんだお邪魔虫がいる事を思
い出させられたのである。
﹁キュイイイ!﹂
﹁し、シューターさん。ベッドの中に肥えたエリマキトカゲが⋮⋮﹂
﹁おっといけない。説明の途中で盛り上がっちゃったから、バジル
の事を忘れていたぜ﹂
そうなのである。
村に戻って来てからは、バジリスクのあかちゃんを寝床代わりの
籠に入れたまま旅荷と一緒に持ち帰ったのである。
どうやらバジルは籠の中で寝ていたらしいけれど、俺たちが魔法
のランタンに照らされながら愛を確かめ合っていると、寂しくなっ
たのか籠からごそごそと出て来て、ベッドに這い上がって来たので
ある。
寝床の籠は用意しているけれど、俺の事を親と思っているのかバ
ジルはいつも夜になると、俺の寝床にやってくるのである。
かわいいところがあるじゃないの。
536
と、素直に喜べないのが今の俺である。
﹁ええと、さっきは説明の途中でこんな事になってしまったけれど、
こいつはバジリスクといって、ワイバーンと同じドラゴンの仲間の
あかちゃんだ﹂
﹁ワイバーンの仲間?!﹂
カサンドラは仰天して狭いベッドの上で後ずさった。
そんなに怯えた顔をしなくてもいいじゃないか。俺まで恐れられ
ている様な気分になる。
俺がバジルを抱きかかえて頭を撫でてやると、カサンドラがおず
おずと俺の方を見て来た。
﹁あの、シューターさん大丈夫なのでしょうか?﹂
﹁ん? 歯も生えそろっていない様なあかちゃんだからな、噛みつ
かれたって痛くないぞ。それにこいつは産まれてはじめて見たのが
俺だったからな。もしかしたら、鳥のすり込みと同じではじめて眼
にしたものを親と認識する様な習性でもあるのかもしれん﹂
﹁すり込み、ですか?﹂
﹁そういう事だ。つまりバジルにとっては俺が父親なのさ。ああ、
この子の名前はバジルっていうんだ。バジル、お母さんにちゃんと
挨拶するんだぞ﹂
﹁キィキィキ!﹂
﹁は、はじめまして、バジルちゃん﹂
俺が少し警戒心を解いたカサンドラにバジルを差し出すと、彼女
はおっかなびっくりという感じにあかちゃんを抱き寄せた。
鱗裂きのニシカさんなら爆乳であかちゃんを圧死させてしまうと
ころだろうが、それよりいくらか小ぶりなカサンドラの胸なら心配
はない。
537
﹁よしいい子だぞバジル。これからはおじさんとお母さんのいう事
はしっかり聞くんだぞ? おじさんは時々森に出かけて狩りをしな
いといけないので、留守の間はしっかりお母さんを守るんだ﹂
﹁キッキッブー!﹂
頭を撫でてやろうと俺が手を出すと、バジルが歯のない嘴で噛み
つきやがった。
このやろう、すぐこれだよ。
バジルが雄なのか雌なのか今の段階では確認の仕方もわからない
が、とりあえず助兵衛野郎だという事は俺の中で確定している。
ニシカさんやようじょにはよく懐いていたからな。
例外は雁木マリだったが、あいつは動物に限らず、人間の扱いも
下手な奴だ。
愛情表現が下手くそなので、そういうところはバジリスクのあか
ちゃんにもしっかり伝わっていたのだろう。
﹁あの、シューターさん﹂
﹁ん? 何だ﹂
﹁どうしてシューターさんはお父さんじゃなくて、おじさんなんで
すか。わたしがお母さんなら、シューターさんはお父さんですよ﹂
﹁いやあ、そうなんだけどねぇ。最初にこいつに話しかける時にお
じさんって言ってたもんだから、つい。それにこいつの両親は俺た
ちが仕留めたという負い目もあって、父親というのはちょっと﹂
苦笑いをしながらあかちゃんの喉元を撫でてやると、不思議そう
な顔をしたバジルが俺たちふたりの顔を見比べていた。
もちろん俺たちの会話なんてわからないだろうが、罪悪めいたも
のは込み上げてくる。
538
﹁カサンドラ﹂
﹁は、はい﹂
﹁いきなりこの子を連れて来てすまないな⋮⋮。本当はだよ、まだ
しばらく新婚夫婦気分を味わうために子供は早いかな? とか思っ
てたんだけど、いきなり子供が出来てしまい申し訳ない﹂
﹁い、いいえ。いずれシューターさんに授かる子供のための予行演
習だと思えば⋮⋮﹂
﹁そうか、ならいいんだけど﹂
﹁そうです。わたし、頑張って育てます﹂
健気にも、薄明かりの中でカサンドラが決意の表情を見せてくれ
た。
ちょっとずつだが、俺は妻の表情を読み取れるようになってきて
いる気がする。
﹁ただ、﹂
﹁ただ?﹂
﹁こいつはとても大飯喰らいだ。今はあかちゃんだから食べる量も
知れているんだけれど、それでも毎日よく魚を食べる。しかも大人
になったらこの猟師小屋より大きくなる﹂
﹁猟師小屋より大きく⋮⋮﹂
カサンドラは絶句していた。
﹁どうするんですか、大きくなったら⋮⋮﹂
﹁そうね。ッワクワクゴロさんに言って、狩りの手伝いをしてもら
えばいいかな?﹂
考えるのが面倒臭くなった俺は、適当な事を言った。
たぶんこんなドラゴンの親戚が巨大な成獣になるまでは、少なく
539
とも五〇年かそこいらはかかるはずだ。
こんな不衛生な異世界で生活している俺たちだ。
おじさんやお母さんが死んだ後も、すくすくと大きくなるんだよ、
バジルよ。
◆
幸せな夜を過ごしたところで、太陽が昇ってくればいつもの生活
がやって来る。
俺たちは黎明の時刻には自然と目を覚まして、朝の支度をはじめ
ていた。
残念ながらはじめての夜を過ごした後のカサンドラは、下腹部に
違和感があるのか歩くのもおぼつかない様子だった。
手を貸してやろうかと声をかけると、
﹁大丈夫ですシューターさん。わたしはむしろ幸せです﹂
などと拒否されてしまったので、どうしたものかと思った次第で
ある。
そんなこんなで、また村にいた頃の様に外に出ると、太陽が昇り
切らないうちから畑の手入れを俺はする。
しばらく俺が留守にしていたので、畑は荒れ放題かと思っていた
がそんな事は無かった。
豆の畑も芋の畑もしっかりと雑草が抜かれていて、土もほどよく
水分を含んでいた。
奥の放置気味だったトウモロコシの畑の方も、どうやら誰かが植
えてくれていたらしい。
そんな馬鹿な。
カサンドラは独り身でこの猟師小屋で生活をしていた頃、とても
540
ではないが女手ひとつで畑を耕せずに半ば放置気味だったはずなの
である。
という事は、妻がひとりでこの四面の畑を手入れしていたという
のはありえないはずだった。
するとオッサンドラか。
あいつは鍛冶職人で体力もあるだろうし、何しろカサンドラに気
があるのは間違いない。
仕事に出る前にちょっとばかり畑仕事を手伝ってから鍛冶場に出
かけてもおかしくないわけである。
くそ、あのもじゃもじゃめ。
こんなところで点数を稼いでいたのか。
考えてみれば、妻の内心がよくわかってなかった旅立つ以前には、
オッサンドラに気を使っていろいろとカサンドラの情報を教えてい
た気がする。
りんご酢が足りないから持って行ってやれとか。
ついでにおっさんがしきりにカサンドラの事は任せてくれと言っ
ていたのを思い出して、俺はとても不愉快な気分になった。
﹁くっそ馬鹿らしい。畑仕事なんかやってられるか!﹂
俺は怒りを覚えて咆えてみたが、腹いせに畑を荒らすというわけ
にもいかず、天秤棒に水桶を引っ掛けて、大人しく水汲みに行くこ
とにした。
まあ、畑が立派になっている事はカサンドラも喜んでいるだろう
から、八つ当たりするのはお門違いである。
すると、
﹁おう、シューター。街から帰ったばかりだというのに、朝からせ
いが出るな!﹂
541
﹁あっッワクワクゴロさん﹂
何やら手下のゴブリンたち数名を連れたッワクワクゴロさんの姿
が見えた。
まだ村に帰ってからッワクワクゴロさんにはご挨拶がすんでいな
かった。
近頃は猟師の親方株を手に入れたからか、ちょっと身綺麗な格好
をしていて、磨き上げられたブーツまで履いている。
後ろに控えている若いゴブリンたちは俺と同じ様な格好で天秤棒
に水桶を担いでいた。
﹁どうしたんですか、農夫でもないッワクワクゴロさんがこんなと
ころで﹂
﹁いやあ、しばらくお前さんが留守をしている間、うちの馬鹿弟ど
もにお前さんところの畑の世話をやらせていたんだよ﹂
﹁うっす﹂
﹁ちっす﹂
﹁ちゃっす﹂
三人の見分けがつかないゴブリンが、俺の顔を見て軽薄そうなス
タイルで頭を下げた。
﹁馬鹿野郎、シューターさんにしっかり頭を下げないか!﹂
ッワクワクゴロさんの口から﹁シューターさん﹂なんて言葉を聞
いて、俺は吹き出しそうになった。
﹁いや、シューターさんって﹂
ち
﹁いいんだよ。こいつらも来年、再来年からは猟師見習いに入るは
ずだったんだが、ほらよ。猟師がおっ死んじまってあちこち不足し
542
ているだろう。だから、近いうちに見習い身分にさせるんだ﹂
﹁ははあ、申し訳ない事に俺も猟師はひとりしか村に連れて帰って
いませんからね﹂
﹁それはしょうがねえってもんだ。猟師は地元から動きたがらない
からな﹂
ッワクワクゴロさんの言葉に、ニシカさんがサルワタの森周辺の
森に拘っていたのを思い出させてくれた。
とりあえず兄にどやされたから、しょうがなしにという感じで、
三人のゴブリンが﹁すんませんシューターさん﹂と頭を下げてくれ
た。
﹁そしたら俺の留守中、畑の草むしりや水やりをやってくれたのは
君たちだったんだねえ。今度街からいい女が来たら紹介してやるぜ﹂
﹁﹁﹁本当っすか!﹂﹂﹂
俺が社交辞令もまじえてそんな事を言ったら、ッワクワクゴロさ
んの下の三兄弟が声をそろえて鳴いた。
またッワクワクゴロさんにどやされているのを見て、ああ村に帰
って来たんだな、などと俺は一安心したものである。
﹁ところでシューター。お前、オッサンドラには会ったか?﹂
﹁おっさんですか? いや顔はまだ見てませんが。土産を買って来
たんでそのうち顔を出したら渡そうかと﹂
﹁それならしばらく顔は合わせない方がいい。ギムルの旦那からは
話を聞いていないんだな﹂
﹁?﹂
弟たちを俺の代わりに畑に送り出したッワクワクゴロさんは、ち
ょっと上等な上着をいじって居住まいを正しつつ身を近づけて来た。
543
﹁留守中、度々カサンドラに言い寄って来たのでな。見かけるたび
に俺も注意していたのだが、ギムルの旦那がお前の手紙をもって訪
ねた時、とうとう手籠めにしようとしていたらしい﹂
﹁⋮⋮!?﹂
﹁それで村長の命令でしばらくの間、カサンドラの側に近づくこと
は禁止された﹂
だからその土産とやらは渡してやる必要が無い、とッワクワクゴ
ロさんは鷲鼻にしわを寄せて言い切った。
﹁マジかよ﹂
おっさんがそれだけ本気だった事は頭で理解はしちゃいたんだが、
それでも行動を起こしていたという事実には衝撃だった。
そりゃそうだ、俺だってずっと一緒に過ごしてきた妹みたいなか
わいい幼馴染がいたとして、いきなりどこの馬の骨とも知れないや
つが幼馴染を奪っていけば、取り返したい気分になる。
だがそれよりも。
俺が今一番驚いているのは、おっさんより先に、俺自身がカサン
ドラと結ばれた事にこれほど安堵しているという事実にだった。
俺は、カサンドラを好きになっていたんだ。
544
49 野牛の一族 前編
﹁支度が出来次第、お前たちは村長の屋敷まで付いて来い﹂
畑仕事の後、俺は呼び出されていた村長の元に出かける身支度を
していると、ギムルがやって来て夫婦そろっての呼び出しを命じた。
俺が今後の事について、女村長たちと何か打合せすると言うのな
らわかる。
もともと今日は女村長の屋敷に出かける話だったしな。
ところがカサンドラも一緒にというのはどういう事だろう。
俺たち夫婦はそろって顔を見合わせて﹁すぐに後を追いかけます﹂
とギムルに返事した。
ひとつ思い浮かんだのは、おっさんの事である。
しばらくカサンドラとの接見を禁止する旨を女村長から言い渡さ
れていた件で、何か説明があるのかもしれない。
そう思った俺が、慌てて出かける支度をしていた新妻に質問をし
たところ、とても慌てた顔をしあとに咳払いをして、俺にこう言っ
た。
﹁そういう事があったのは事実ですが、オッサンドラ兄さんは結果
的にわたしには指一本触れていません﹂
﹁もちろんカサンドラの事は信じているからいいんだが、カサンド
ラ自身は本当に俺でよかったのかってちょっと思った﹂
﹁シューターさん﹂
﹁ん?﹂
少し俯き加減のカサンドラが、けれど意を決したように言葉を続
545
けた。
﹁⋮⋮むしろ、わたしが結婚のお相手ではご不満でしょうか? わ
たしは身寄りもない貧乏な猟師のひとり娘ですし、その。鱗裂きさ
まの様に立派な体もしていませんから。もしかしたら昨晩もご満足
していただけなかったのではないかと﹂
何を言っているのだ奥さんは。
﹁とんでもない。俺はカサンドラが奥さんでとても果報者だよ﹂
﹁キュイイ!﹂
ほら、朝から元気なバジルも同意してくれているではないか。
﹁あ、ありがとうございます、ありがとうございます﹂
﹁いやありがたがられても気恥ずかしいな⋮⋮むしろ俺は、おっさ
んと結ばれる方がカサンドラには幸せなんじゃないかとずっと思っ
ていたぐらいだ﹂
貫頭衣の上からポンチョを羽織ったカサンドラを、ベッドに座っ
たまま照れながら眺めて俺がそう言った。
すると、カサンドラはきっぱりと口にする。
﹁オッサンドラ兄さんとはただの従兄妹同士です。とてもいい人で
頼りになるお兄さんでしたが、結婚は村長さまや親族の大人が話し
合って決めるものですから、それに不満はありません﹂
﹁本当に?﹂
﹁ほ、本当です。時々ちょっといやらしい眼で見られるのが恥ずか
しいですけれど⋮⋮﹂
546
俺が糞壺にまたがったカサンドラをガン見していた件を言ってい
たのだろうか。
﹁そういうところもありますが、今はお慕い申し上げております⋮
⋮﹂
かわいい。好き。
しかし、だからこそいたたまれなくなった俺は頭を下げてごめん
なさいをした。
こら、俺の指を噛むんじゃないバジル。
◆
女村長の屋敷にやってくると、裏手には昨日村に到着したばかり
だというのに野良着を身に着けて農具を手に持った開拓移民の家族
が集まっていた。
どうやら村の幹部が指示をしながら、新たに与えられた畑を耕す
ところらしかった。
﹁お前たちはぁ、これから新たな畑の候補地をぉ︱︱﹂
女村長やギムルたちが姿を現すまで少し耳を傾けていたが、今年
一年は納税が免除され食料が保障される代わりに、村の西側に新た
な開墾地を設けるという内容を話し合っていた。
ちょうどジンターネンさんの畜舎の水替えをするのに利用してい
た川の向こう側という事らしい。
この村は将来の発展を見越してなのか、村勃興の常道にのっとっ
て川側にあるというだけでなく、長年かけて村全体を囲む様に用水
路を掘削していたのである。
用水路の方は所詮はこの世界のひとの手で掘削した人工河川にす
547
ぎないので、一間あまり約一・八メートル程度の細い水路だがね。
きっと後日そちらの外苑も開墾されるな。
﹁これ、わたしたちも呼び出されたという事はお手伝いをする流れ
なんでしょうか?﹂
﹁どうだろう。俺ならあり得るけど、カサンドラに力仕事はなぁ﹂
聞けば俺が留守中に張り切り過ぎて、畑仕事の最中に軽く腰を痛
めたと言っていた。
さすがに事情を知っている村の人間が肉体労働をさせるだろうか。
すると俺たちの背後から筋骨隆々のギムルが姿を現して声をかけ
る。
﹁お前たちはこっちに来い。別の用件がある﹂
﹁先ほどはどうもギムルさん﹂
俺が挨拶をすると、隣の新妻も頭をペコリと下げた。
付いていく途中、チラリと別の集団が何やら鎌を手に話し合いを
している姿も見えた。
こちらはどうやら雑草を切り取る作業を割り振られているらしい。
集まった人間は村に連れてこられたゴブリン労働者とへそピアス
集団、つまり犯罪奴隷である。最後にもうひとり、見慣れた顔があ
った。
もじゃもじゃだ。おっさんがどういうわけかその集団に加わって
いた。
その姿に気が付いたのか、カサンドラが不安そうに俺の腕に手を
回しながら顔を見上げて来た。
おっさんは俺たちに気が付くとこちらを睨む様に見ていた。
﹁こういう時、どうしたらいいんでしょう﹂
548
﹁あまり顔を見るな。向こうも思うところがあるだろうからね﹂
俺たちは草刈り集団を無視する様にギムルの後に続いた。
﹁今日集まってもらったお前たちには、我が村に冒険者ギルドの出
張所を立ち上げるにあたって村周辺の詳細な調査を行ってもらいた
い﹂
ギムルを中心に街からやって来た美中年カムラ、それからギムル
と先行して村に入ったエレクトラにダイソン、そして移民団の護衛
だった冒険者たちが集まっている。
その他にも猟師の親方になって最近ご機嫌のッワクワクゴロさん、
この界隈一の巨乳ニシカさん、それに俺の先輩である猟師たち複数
人がここで顔を突き合わせているという次第である。
それに街からやって来た猟師が一名。
どちらかというとこの中で、猟師としても村人としても新参者の
俺や素人丸出しのカサンドラは、この場で浮いた存在であろう。
﹁地図を作成するという事だがね、猟師総出で協力して参加すると
いう事になったら狩猟の方はおざなりになってしまう。その点はど
うするんだねギムルの旦那﹂
﹁ある程度は我慢するしかないだろうが、まず手始めに村と周辺集
落を繋ぐ道とその一帯だけは、早めに終わらせておきたい。以後に
ついては交代で猟師を差し出してもらえばよい、全員が毎日出猟し
ているというわけではないのだろう﹂
猟師親方としては当然の質問をッワクワクゴロさんがしたところ、
難しい顔をして小さなゴブリンの親方を見返した。
﹁まあそうだがね。村長には協力した事で猟果がイマイチだと言わ
549
れない様にクギを差しておいてくれ﹂
﹁当然だ﹂
ギムルが相変わらずぶっきらぼうな口調で言うと、その言葉を受
け取る様に美中年が手を上げて口を開いた。
﹁続きは俺から話そう。ここに集まっているみんなはこの村の地元
猟師と、外からやって来た新参者の俺たちだ。特に冒険者諸君にと
って、地理的条件を理解しないまま冒険者として活動するのは難し
い。今後この村のギルドの基幹要員となってもらう必要があるから
だ﹂
茶髪ロングをかき上げながらカムラが言葉をいったん区切った。
﹁簡単ではあるが、ここに昨夜のうちに用意した村周辺の見取り地
図がある。それぞれにパーティーを作ってもらい、各員でマッピン
グをやってもらいたい﹂
﹁面子分けはどうするんだ﹂
﹁ここにいる冒険者の数は村の人間が二人、それから街から来た人
間が八人の十人だ。街から来た人間と猟師とでパーティーを組んで
もらうのがいいな。猟師は何人いる?﹂
﹁使える人間は俺を含めてここにいる五人だけだ。周辺集落にもあ
と数人はいるが、そっちは狼を退治するのにどうしても今手が離せ
ないと言うので、好きにさせている﹂
﹁それならッワクワクゴロさんは除いて、猟師ひとり冒険者ふたり
のパーティーでいいだろう﹂
﹁どうする、俺やカムラの旦那は置いておいて、そうするとこの道
沿いにいちパーティー、それからこっちにひとつ、ここにもひとつ
︱︱﹂
550
それぞれの代表者が顔を突き合わせて見取り図をにらめっこし始
めた。
どうやら俺とカサンドラ、それからニシカさんはこの探索には加
わらないみたいだがどういう事だろう。
もうひとり加わる予定が無い街から来た猟師が、ぼんやりと様子
をうかがっていた。
これまであまり接点が無かったので、俺はあまりよく観察する事
が出来なかった。
しかしこの街から来た猟師には、特筆すべき特徴がひとつあった。
銀の髪色をしていた小柄な人間なのである。
このファンタジー世界にいくらか馴染んできた俺だったが、こう
いう髪色をした人間はこの村にはいない。
かわりに何度か街で見かけたような気がするが、それはゴブリン
であったり人間であったり。
だがこの街から来た猟師は違った。
まず間違いなくひとでもゴブリンでもない。
なぜなら頭に耳が付いていたからである。
けもみみというやつだ。そして尻尾がある。
いいね!
﹁あの、シューターさん⋮⋮﹂
﹁ウオっほん。げふん﹂
俺の側に立っていた妻が、とても嫌そうな顔をして俺を見上げて
いた。
◆
﹁さてシューターとカサンドラ、お前さんたちにはニシカとそこの
551
お嬢ちゃんと一緒に湖の畔に行ってもらうからな﹂
猟師と冒険者に役割を割り振ったッワクワクゴロさんが、俺たち
残り物の方にやって来て白い歯を見せた。
何だか最近のッワクワクゴロさんは親方株を手に入れて貫禄が出
て来た様に思う。
悪魔顔のちっちゃいおっさんだったのに慣れてみると渋みのある
ゴブリンの小さな巨人みたいに見えてくるから不思議だ。
﹁何だよシューター。あんまりジロジロ見るんじゃねえ、話しにく
いだろが﹂
﹁そうですね、失礼しました﹂
﹁さて俺たちで行く先というのは湖畔なわけだが、実はちょっと困
った事があってな﹂
毛皮のチョッキを引っ張って居住まいを改めたッワクワクゴロさ
んである。
どうやら聞いてみると、俺たちがいない間に深刻な事実が発見さ
れたというのだ。
﹁ニシカ。お前が前に村を襲ったワイバーンを倒したあの洞窟の前
の草原、覚えているか﹂
﹁ああもちろんよく覚えているぜ。というか、ここいらの森の中は
わざわざひとでをやって調べなくとも、オレ様の頭の中にはしっか
りとマップが出来上がっているぐらいだ。お前ぇらも面倒臭い事を
考えるもんだな﹂
﹁まあそれはいいだろう、村に来たばかりの連中には地理感を覚え
させるという役割があるんだ。それよりも、だ﹂
不機嫌に鷲鼻をひくつかせたッワクワクゴロさんが、ため息交じ
552
りに言葉を続けた。
﹁あそこにあった洞窟な、どうやらダンジョンになっているらしい﹂
﹁あ? 何だって?﹂
驚いたのはもちろんの事、ニシカさんである。
何しろサルワタの森一帯の事は何でも知っているという自負心が
ある彼女の事だ。
知らないうちに自分の庭にダンジョンがひとつ出来上がっていま
した、では納得がいかないだろう。
﹁それはオレ様たちが村を留守にしている間にそうなったのか﹂
﹁いや、そうじゃない。どうやら長い事あそこには誰も入っていな
かっただろう。ワイバーンもあの洞窟には数年ほど近寄っていなか
ったはずだ。違うか?﹂
﹁ああ確かにそうだぜ。前にあの洞窟に入り込んだワイバーンはオ
レ様自身で中に入って仕留めたからな。その時は間違いなく他にダ
ンジョンの主という様な奴はいなかったはずだ﹂
﹁それは俺も覚えているよ。一緒に入ってワイバーンを解体したん
だからな。前回はどうだ?﹂
﹁この前の馬鹿デカいワイバーンの時は、洞窟に入る前にシュータ
ーとしっかり仕留めただろう。⋮⋮なるほど、その時にはすでに何
か得体のしれないやつが、そこに住み着いていたというわけだな﹂
部妙な顔をしたニシカさんが、考え込む様にして大きな胸を抱い
て腕組みした。
うん、とても大きい。
ついでに隣のけもみみの銀髪猟師を見ると、まるでまな板何もな
い。
最後に新妻を見ると⋮⋮
553
﹁⋮⋮
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
無言で見つめ返された。
そうだね、今は真面目な話をしている時だったね。
﹁まだ確認はとれていないんだが、ギムルの旦那が連れて来たふた
りの冒険者と、俺があの辺りを見回っている時に、蛮族の集団がど
うやら住み着いているのが分かった﹂
﹁蛮族?﹂
蛮族という言葉に俺とニシカさんが顔を見合わせる。
黄色は蛮族、などと俺がニシカさんを最近からかっていたものだ
が、まさかニシカさんと同族の黄色い長耳エルフが住み着いている、
という事はないだろう。
﹁お、オレは関係ないぜ。妹もちゃんと家で大人しく待っていたか
らな﹂
﹁じゃあ何者なんでしょうねえ﹂
﹁ずばり野牛の一族だ﹂
ッワクワクゴロさんが唐突にそう言った。
554
49 野牛の一族 前編︵後書き︶
本日はお仕事で終日お留守にするので、予約投稿をさせて頂きまし
た。
次回投稿予定は本日夕方18時になります。よろしくおねがいしま
す!
555
50 野牛の一族 中編
野牛の一族。
新しい言葉が出てきました。
野牛というとあれか、牛面の顔をした人間一族という事だろうか?
﹁野牛の一族というとあれですか﹂
﹁あいつらは牛面の猿人間のオスと、角を生やしたメスってやつだ。
シューターみたいな裸を貴ぶ部族だが、オーガみたく人間とは決し
て交わらない連中というわけだ﹂
﹁もしかしてミノ何とかというんですかね?﹂
俺が質問すると、懇切丁寧にッワクワクゴロさんが説明してくれ
た。
﹁ミノタウロスって言うんだが、どうやらシューターの故郷にもい
る様だな?﹂
﹁いやいるというか、知っているというか。モノの本で読んだこと
があるだけです﹂
﹁そうか﹂
﹁で、そいつらを討伐するんですか?﹂
俺が当惑気味に質問をすると、ずっと黙って事の成り行きを見守
っていたギムルが口を開いた。
そういえばいたな、こいつ。
﹁今、この村には労働力が必要だ。よって野牛の一族を捕まえて、
奴隷にする﹂
556
はい、いまギムルさんが重要な事を言いましたよ?
みんなちゃんと聞いてましたか?
﹁で、誰がそれをやるんですかね⋮⋮﹂
﹁もちろんワイバーンにバジリスクを倒したという腕前の赤鼻とお
前だ﹂
無慈悲があるとすれば今のオレの状況だろう。
ニシカさんはわかる。普段は酒ばかり要求する様なだらしない女
だが、鱗裂きのふたつなは伊達ではない。
だが俺はどうだ? 魔法も使えなければ得意の獲物は天秤棒ぐら
いの新米冒険者を兼務する駆け出し猟師だ。見習いだ。
しかも何でそこにカサンドラが入っているのだ。
カサンドラは猟師未満ではないのか。
﹁本気ですか?﹂
﹁もちろんだ﹂
﹁拒否権はありますか?﹂
﹁駄目だ。お前は奴隷身分だからな、ご主人さまの命令は絶対だ。
拒否権は無い﹂
心底嫌そうな顔をしてしまった俺に、こんな時にギムルは白い歯
を見せて宣言しやがった。
﹁だが悪く思うなよ。お前が村一番の戦士である事はみなが知って
いる事だし、ワイバーンやオーガ、バジリスクを倒したというはな
しも、昨日の晩しっかりそこの赤鼻から聞いたからな﹂
慌ててニシカさんを見やると、今は赤くない鼻をひと擦りしなが
557
ら俺から視線を反らしやがった。
しかし、すぐにも何かを思いついたらしく、ニシカさんがギムル
を睨み付ける。
﹁まて、ギムルの旦那。もしかしてお前ぇ、今日の野牛の一族狩り
をするのに、いろいろオレにシューターの事を聞いてきたんだな?﹂
﹁そうだ﹂
﹁じゃァあれか、このオレ様に酒を呑ませて気持ちよくさせたのも、
その目的だったんだな?﹂
﹁その通りだ﹂
昨日の晩、俺とカサンドラが結婚について幸せというものが何か
確認作業をしていた頃、このひとたちは旅の土産話をニシカさんか
ら聞き出していたわけか。
ちっ、酒に溺れる女は嫌いだよ。
俺とカサンドラが顔を見合わせながら成り行きを見守っていると、
美中年がぼそりと耳打ちをしてくれた。
﹁いや、ミノタウロスを捕まえて奴隷にすると言い出したのは、村
長さんなんだよ。俺もそんな話は事は聞いた事が無かったから驚い
たんだけど、どうやらむかし、先代の村長さんの頃にもオーガやミ
ノタウロスを捕まえて使役していたらしい﹂
﹁はあ。そうなんですか⋮⋮﹂
﹁まあミノタウロスはオーガほど大規模な部族を構成しないから、
その点は安心してくれたまえ﹂
﹁じゃあミノタウロスとオーガ、どっちが強いんですかね?﹂
俺が不満を覚えながらそう質問をすると、腰に手を当ててニシカ
さんとギムルの口論をニヤニヤ見守っていたッワクワクゴロさんが
口を開く。
558
﹁ミノタウロスだな。オーガは巨人だが、それほど筋肉質な体格と
いうわけではないだろう。だがミノは強いぞ、戦士の部族だ。まあ
棒切れ一本でギムルの旦那を制圧したり、バジリスクを倒したお前
さんならわけがないだろ。ん?﹂
ん? じゃねえ!
何言ってんだッワクワクゴロさんは!
﹁せめてカサンドラを連れていく理由を教えてください。妻を危険
にさらす馬鹿がどこにるんですか!﹂
﹁何を言っているんだ、カサンドラは猟師の娘だぞ。成人もして、
結婚もしたんだから仕事をする。当然の事だ。お前にしっかりとつ
いて、そろそろ狩猟のいろはを勉強した方がいいだろうからな﹂
そんな事をしれっと言ってのけるッワクワクゴロさんだった。
﹁カサンドラ、君はこの話を聞いていたのか?﹂
﹁⋮⋮はい、シューターさんが帰ってきたら、少し猟の勉強をした
いとは言いましたけど⋮⋮その、野牛の一族を捕まえるのに参加す
るとは﹂
ほら見ろ、カサンドラはそんな事は承知していないという顔をし
て怯えているではないか。
﹁なあに、いきなりリンクスやコボルトを相手にするというのでは
ない。女は兎や狐狩りを覚えればいいんだ。それに今回は湖畔周辺
を下調べするだけだから、連れていく。そこの獣耳のお嬢さんも連
れてな﹂
559
そう言って、俺とカサンドラが獣耳の銀髪猟師を見た。
すると、いままでぼんやりとした表情だったけもみみが口を開く。
﹁あの、ひとついいですか﹂
﹁何だいお嬢ちゃん﹂
けもみみにッワクワクゴロさんが笑顔を向けた。
﹁ぼく。おとこのこですから?﹂
男の娘でしたー。
いいね!
◆
湖畔に向けて偵察に出るのは午後過ぎという事になった。
それぞれが出立に向けて準備をするために、狩猟道具や冒険者道
具の支度を急ぐ。
基本的には湖畔周辺まで陽のあるうちに前進し、陽が落ちた後で
洞窟周辺まで近づく。
今回はあくまでも状況を確認するために近づくのが目的で、ミノ
タウロスをとっ捕まえるというのは後日が本命だった。
村にやって来た冒険者たちにマッピングをさせているのは、ある
程度この村周辺の状況を身に付けさせておいて、いざ本番のミノタ
ウロス捕縛の時に包囲網に抜け道を作らせない様にという事らしか
った。
﹁それで、どうしてミノタウロスがこの森の湖畔に住み着いている
事に気が付いたんですかね?﹂
560
﹁俺と冒険者エレクトラがあの湖畔にな、お前たちが倒した場所を
案内しに出かけてたんだよ。そしたら湖畔の周辺にいくつか足跡が
あった﹂
﹁ほう﹂
﹁冬はあの辺り一帯が雪に覆われるので、普段俺たち猟師はあの辺
までは出張らなねえ。その代わりに森の周辺や草原の鹿を追いかけ
るか、それを狙って降りて来たワイバーンを仕留めたりする。だか
らその妙な足跡を見て驚いたというわけだ﹂
サイズが人間よりも大きい。しかも少しばかり古いものだったそ
うだ。
先日のワイバーンに止めを刺した時の人員が残したものにしては
合点がいかないので、周辺を散策してみたところ、ついにはミノタ
ウロスの姿を目撃したという話だった。
﹁まさか俺たちがワイバーンを倒した目と鼻の先に、ミノタウロス
どもが住み着いているとは思いもしなかったからな。フィールドの
中にいるのなら、もっと早くに気が付いても良かったはずだ﹂
﹁その洞窟というのは、かなり奥に深いのですか?﹂
﹁そうだな、深さについては俺たちも実はよくわかっちゃいないん
だ。何しろワイバーンが入り込めるサイズの洞窟ではあるんだが、
それは洞窟の入り口周辺あたりまでの事でな﹂
﹁なるほど﹂
﹁奥にはさらに細い洞窟の道が続いている事はわかっちゃいたんだ
が、そもそも俺たちはワイバーンにゃ興味があるが、それ以外につ
いては猟師にとって門外漢だ﹂
とすると、以前ッヨイさまや雁木マリが説明してくれたふたつの
ダンジョンの区分に従えば、
561
﹁それは自然洞窟から発生したダンジョン、という事になりますね﹂
﹁詳しいじゃないかシューター。ええ? 街ではいっぱしの冒険者
をやっていたらしいじゃないか、一か月そこそこしかいなかったく
せに﹂
バシバシと俺の尻を叩くッワクワクゴロさんだが、俺はズボンを
履いているので皮膚は痛くても心まで痛むことはないぜ。
そんな会話をしながらに、俺たちは猟師小屋に向かっていたので
ある。
ッワクワクゴロさんは俺たちと同じで村はずれに住んでいる身分
だ。
ちょうど道すがらというわけなんだが、ここにはけもみみの男の
娘もついてくる。
﹁名前はエルパコと言ったかな﹂
﹁⋮⋮うん﹂
どこからどう見ても年若いけもみみ少女猟師にしか見えない男の
娘エルパコだが、れっきとした息子の付ている男子である。
ところでエルパコはイヌ科獣人族の血を引く人間という事だった。
街からここに向かう間もずっとその耳と尻尾の事は気にしていた
のだけれど、相手にいきなりそういう事を聞くのも失礼なので控え
ていたのだ。
だが、この子は俺たちの猟師小屋でしばらく預かる事になったの
である。
エルパコについて質問しても、今ならバチはあたるまい。
﹁少し耳を触らせてもらってもいいかな?﹂
﹁し、シューターさん﹂
﹁だってその耳気になるじゃん。動くかどうかとか、尻尾も気にな
562
るし﹂
﹁⋮⋮そうですけれどぉ﹂
俺がニコニコしながら正論を言うと、やっぱり妻も気になってい
るのか少し遠慮気味だが同意の姿勢を示してくれた。
﹁⋮⋮さわるくらい、なら﹂
﹁どれどれ、自分で動かす事は出来るのかな﹂
﹁くすぐったい、よ。自分で意識しては、無理かな﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なるほど、つけ耳ではなかった。ちゃんとひと肌の熱が感じられ
る本物である。
﹁ほら、カサンドラもさわらせてもらいなさい。本物だぞう?﹂
﹁で、ではちょっとだけ失礼して﹂
﹁ひゃんっ﹂
こんな声をけもみみは出すのである。
やっぱりどっからどう見ても俺はこの子が男子だなんて信じない
からな。
﹁お前ら、遊んでいるのは構わないが、しっかり森に入る準備はし
ておけよ﹂
﹁了解しました。カサンドラにも何か武器を持たせた方がいいでし
ょうかねぇ?﹂
﹁そうだな、身を守る最低限の護身だけでいいんじゃねえか。弓矢
と山刀か短剣でいいだろう﹂
﹁だったら街から持って帰ったメイスがあるので、持たせます。あ
563
れなら素人が使っても振り回して殴るだけなので。遠心力をつけれ
ば非力な女性でも効果があります﹂
カサンドラにはこれから、少しは空手か武器の稽古をつけた方が
いいのだろうか。
奥さん恋人を相手に武術指導というのは、ちょっと俺が密かに憧
れていたものである。
﹁エルパコは、武器の方は大丈夫かな?﹂
﹁⋮⋮大丈夫、弓矢と手槍を持っているから﹂
そう言って街から持ってきてまだ荷解きをしていないリュックを
揺すって見せる。
リュックの一部からは弦を解いた弓と矢筒がのぞいていたし、手
には杖代わりの槍を持っていたから安心だ。
564
50 野牛の一族 中編︵後書き︶
今回で第50話目に到達して、ちょうど折り返し点に来たんじゃな
いかな? と思っております。
これからも﹃異世界に転生したら村八分にされた﹄を応援していた
だけると幸甚です!
565
51 野牛の一族 後編
村の外れにて再集合した俺たちは、村から見てサルワタの森の左
翼側にある湖畔を目指した。
先頭を行くのは、この森の事ならば何でも知っているという鱗裂
きのニシカさんである。
何か道中で見逃しているものはないかと再確認するために、ッワ
クワクゴロさんと並んで丁寧に足元を、そして周辺の木々の様子を
伺っていた。
その後ろに俺とカサンドラにエルパコ、最後尾はベテランの美中
年カムラである。
むかし俺は、とある大人向け怪しい商品を売る通販会社のコール
センターでバイトいていた事があった。
もちろんバイトなので、ひたすらかかってくる電話の応対をする
だけという簡単なお仕事をマニュアルに従ってこなすだけだ。
しかし、お客様の苦情を一手に引き受ける部署でもあるので、と
にかくストレスが溜まるのだ。
そうすると正社員の上司がよく、俺たちを誘って息抜きを仕様と
野外に連れ出した。
バーベキューである。
世の中にはどんな場所にも自衛隊出身のひとがいるもので、バー
ベキューの出来る河川敷やキャンプ場に連れて行ってくれたその上
司は、サバイバルのプロらしく手際のよい準備や下ごしらえの指示
をしてくれた。
大自然の中で美味い肉を焼いて食べるのは、最高の息抜きだった
ものだ。
ところでその上司、もとはレンジャー集合過程を突破したレンジ
566
ャー隊員だったらしく、林の中を歩く時に音も無く草木を分け入っ
ていくのだ。
そこで、何でそんなにニンジャみたいな事が出来るのか聞いたと
ころ、こう返事をしてくれた。
︱︱むやみに歩いていると、枝を踏んだりして音が鳴るだろ? 強
引に草をかき分けると折れて人間が通った事がすぐにわかる。足跡
を見ると歩き方の癖が出ているので、いちど覚えてしまえばだいた
い何者かがわかる。
そんな事をさらりと言ったわけである。
たったそれだけの情報で色々わかるものなのか! と驚いたもの
の、今のニシカさんやッワクワクゴロさんは、まさにそんな痕跡を
探しながら湖畔に向かっている。
元々が街周辺で猟師をやっていたというエルパコについては、若
いながらにそういう所作が身についていた。
村のベテラン猟師ふたりほどではないにしろ、確かにこの子も音
を立てずに俺たちのすぐ後ろを付いてきている。
一方のカサンドラを見ると、さすがに村の生まれというだけはあ
って森歩きは慣れているらしく、疲れは覚えていない様だった。
ただし、やはり音を立てずに痕跡を残さずにというわけにはいか
ならいらしく、本来は俺の持つ手槍を杖代わりにして歩いていた。
﹁カサンドラは、短弓は使えるのか?﹂
﹁はいえっと、子供の頃からお父さんに習っていたので、兎や狐を
仕留めるぐらいなら出来ますよ﹂
何という事でしょう。たぶん新妻は俺よりも弓の扱いが上手いら
しい。
567
﹁ただ、獲物を追いかけたり待ち伏せしたりという事は、出来ませ
ん。ただ目標に向かって射つだけで⋮⋮﹂
﹁そういうのはこれから覚えればいい事だしな。俺も猟師見習いだ
から一緒に覚えような。格闘技でよければ教えてやれるし、代わり
に俺に弓を教えてくれ﹂
﹁はいっ﹂
それこそ、手とり足とりお互いに。
などと場違いな事を俺が妄想していると、後ろからエルパコが小
さな声をかけた。
﹁ぼっぼくにも、教えて⋮⋮﹂
﹁ん。格闘技の事かな?﹂
俺が質問すると、コクリとけもみみがうなずいた。
まあ、ひとりを教えるよりもふたりを教える方が楽かもしれない。
一緒に勉強する相手がいる方がライバルというか、お互いに負け
ないように頑張るかもしれないしな。
教えるのはやぶさかではないので俺は﹁いいぜ﹂と軽く返事をし
ておいた。
やがて俺は見覚えのある風景を確認する。
最初はッワクワクゴロさんとリンスクの罠を仕掛けた場所で、そ
の先はワイバーンを追いかけて進んだ道だ。
そうこうしているうちに森が少し開けて来て、湖畔がもうすぐ近
くになる事を理解した。
振り返ったニシカさんが、
﹁見つけたぞ﹂
﹁ミノタウロスの足跡か?﹂
568
﹁ああ。だがそれだけじゃねぇ、獲物を狩った場所らしいのを見つ
けた﹂
ニシカさんの言葉に美中年が反応した。
ッワクワクゴロさんも一度それを見止めたところで、彼だけは周
囲警戒をしている。
俺たちは先頭に駆け出したカムラさんに続いて、ニシカさんの指
示した場所に注目した。
ちだまり
どす黒くなった地面、恐らくこれは血溜の跡だろう。
何かを引きずった形跡があるのを見つけて、ニシカさんが視線で
その跡を追っていた。
カムラさんも熟練の冒険者らしく、鎖帷子をジャリンと言わせな
がらどす黒い土の状態を確かめたりしていた。
﹁数日は時間がたっているみたいだな﹂
﹁獲物は鹿か、この足跡は蹄だ。それとこっちは靴だな﹂
カムラさんとニシカさんがそれぞれそんな事を言うと、ッワクワ
クゴロさんが周囲警戒から視線を外して戻ってくる。
しかし靴という単語に俺はつばをゴクリと飲み込んだ。
ミノタウロスは靴を履く程度に文化が発達した連中という事なの
である。
オーガは大変失礼な言い方をするのならば、せいぜいが縄文人か
弥生人の様な連中だった。
金属の武器は持っていたが、恐らく自作したであろう武器につい
てはそこまで精巧なものではなかったし、それ以外の出来のいい武
器については、たぶん交易で得たのか他の部族から奪ったもので、
恐らく後者が当たりだろう。
569
﹁その靴というのは、どんなもんなんですかね﹂
﹁ブーツだろうな。ほれ見ろ、しっかりとした型のある足跡だ﹂
ッワクワクゴロさんが、ひとつの足跡を差していった。
大きさは三〇センチはあろうかというデカいものだ。十六文キッ
クが出来そう。
﹁足跡の特徴を見ると、狩りをしていたのは三人ほどみたいだな﹂
﹁そんな事までわかるんですか?﹂
﹁ああ。靴の裏のすり減り方を見れば、それぞれの特徴が出ている
からわかるぜ﹂
当たり前の様にニシカさんが鼻をひとなでして言った。
それを当然の様にッワクワクゴロさんやカムラさんが同意してう
なずいている。
﹁という事はこの猟師の規模から考えて、七家族から十家族ぐらい
だろうな﹂
﹁鹿は比較的人間を集めて狩る動物だからな、それに対応した人間
が三人という事は、多くても四〇人程度の一族という事か﹂
思案気にッワクワクゴロさんが言うと、カムラさんが言い添えた。
むかしのバイト先の上司と同じ様に、それだけの情報をわずかな
痕跡からかき集めたのだ。
ただし、そのあたりの計算はニシカさんにとってあまり興味のあ
る内容ではなかったらしく、それよりも近くに転がっていた石ころ
に注目していた。
﹁鏃だぜ﹂
﹁お、磨製石器の鏃ですね。俺たちが狩りに使ってるのによく似て
570
いる﹂
﹁これは鍛冶師が手を入れた鏃だ。かなりやっかいな連中なんじゃ
ねえのか。ッワクワクゴロさんよ﹂
ニシカさんは拾い上げた石の鏃をッワクワクゴロさんに差し出し
た。
モノの本によれば磨製石器というのは、素材となる原石を叩き割
って成形した後に、研磨を加えて鋭くさせたものだった。
村で使っている石鏃にはガラス質の黒曜石の鏃と、これと同じ研
磨石器の鏃がある。
量産力のある鉄鏃と比べて数をそろえるのは手間もかかる。
さらに、鋭利だがすぐに破損してしまう黒曜石の鏃に比べると、
磨製石鏃は再利用を目的にしているものだ。
部族集団の規模が小さいとなると、生産力に限りがあるので再利
用可能な石器を利用しているという事だろうな。
ニシカさんが俺に石鏃を見せてくれたところ、興味深いものを発
見した。
﹁アスファルトだ﹂
﹁ん? 何だそれは﹂
﹁石器の接着剤に使っている材料ですよこれ、油の成分から取り出
したものです。このあたりには原油が取れる場所があるんですかね
?﹂
﹁原油? 何だそれは﹂
俺が唐突にそんな質問をしたものだから、ニシカさんやッワクワ
クゴロさんも首をひねっている様だった。
そもそも原油のそんざいをしらないらしい。
これもモノの本による話なのだが、古い時代の石器を使っていた
ひとびとは、天然のアスファルトを熱して石器の接着剤に浸かった
571
り、壺などの道具の補修に使われていたことが知られている。
俺は大学時代に考古学がやりたくてそういう学校に入ったので、
多少なりともそういう事を文献で見た事があったのだ。
﹁その、アスファルトというのが使われていると何か問題があるの
かねシューター﹂
﹁みなさん原油もアスファルトも知らないという事になれば、恐ら
くこのサルワタの森周辺にもともといた連中じゃないんでしょうね、
この野牛の一族は﹂
カムラさんが不思議そうに質問をしてくるので、俺がそんな返事
をした。
ついでに言うと俺がそんな事を口にしたものだから、エルパコが
ぽかんとした顔でこちらを見ている。
カサンドラにいたっては、とても真面目な顔を作って俺をガン見
していた。
も、もしかしたら、ふたりとも俺の事を尊敬してくれているのか
な?
﹁まあそんな事はどうでもいい。もう少し周辺を散策して、洞窟の
近くまで移動するぜ﹂
ニシカさんは俺の手にしていた石鏃を奪うと、そのまま腰後ろの
フィールドバッグの中に仕舞い込んでしまった。
確かに今は、彼ら野牛の一族がどこから来たかよりも、相手の戦
力と状況を理解する方が先決だ。
◆
夜を迎えるまで、俺たちは湖畔の周辺をかなり警戒しながら足で
572
歩いて情報収集をした。
まかり間違ってばったり遭遇してしまえば、相手の数が三〇人だ
か五〇人だかいるので、応援を呼ばれてしまえば負ける可能性もあ
る。
それにオーガよりもミノタウロスの方がやっかいだという諸先輩
がたの意見を考えるならば、出来ればやり過ごすかこちらから奇襲
する形で戦いたいものである。
まあそもそも、今回は戦う事が目的ではなく、あくまで状況を確
認する事だった。
そして好都合な事に、俺たちは野牛の一族と出くわす事なく夜を
迎える事が出来た。
﹁やっぱり緊張するか?﹂
﹁⋮⋮はい。こんなに森の奥深くまで入った事は無いので﹂
﹁実は俺もこれで三度目なんだけどね。通ってるうちに慣れてくる
から、今はしょうがないさ﹂
﹁はい﹂
干し肉と蒸した芋をかじりながら、俺とカサンドラは会話をして
いた。
ここから少し先に洞窟の入り口がある。
ぽっかりと丘の崖ぶぶんに開いているそれが、ダンジョンと化し
た洞窟の入り口だというのだ。
アリの巣であれば、そこに見張が立っている様なものなのだろう
が見当たらなかった。
今は夜まで交代で休憩をしながら、内部探索の時を待っているの
だった。
﹁それでもカサンドラがいてくれて、正直助かっているよ﹂
573
﹁ホントにそうでしょうか⋮⋮﹂
﹁飯の支度をしてくれる人間がいるだけで、かなりね﹂
これから戦闘を行うニシカさんやッワクワクゴロさん、エルパコ
には少しでも雑用をせずに休んでもらう必要がある。
俺はまあいざ戦闘となれば多少は空手の心得があるから使えるだ
ろうが、猟師っぽい探索作業というのはてんで駄目だ。
美中年カムラさんはそれより猟師たちよりだろうが、それでも猟
師たちの様に気配を消して獲物を追跡するというタイプにはどうし
ても見えなかった。鎖帷子を着ている時点で、多少うるさい。
そんな気配を消しての情報収集の中で火を使っても大丈夫なのか
とニシカさんに質問したところ、
﹁あいつらはどうも、基本は洞窟の中で生活をしていて、あまり外
には出てきていないみたいだから平気だろ﹂
という様な事を言って、自炊の許可をくれた。
もちろん火を使って暖かい飯を食えるのはありがたいので喜ばし
いが、本当に大丈夫なのだろうかと思ったぐらいだ。
﹁まぁ。それを目印にあいつらが出てくるってんなら、そん時は状
況を利用して連中の規模を確認すればいいだけだぜ﹂
というので、なかなか頼もしい。
﹁変なフラグを立てた事にならなきゃいいんですがねえ。ま、そう
いう作戦なら了解です。フラグが立っても責任とってニシカさんが
へし折ってくださいね﹂
﹁フラグ? おいカサンドラ、シューターがまた変な事を言ってい
574
るから、どうにかしろ!﹂
俺の日本風な返事はどうやらニシカさんには通じなかったらしく、
妻に頭を心配されてしまった。
そして完全な月明かりが夜空に上り切った頃。
眼を閉じて休憩をしていたッワクワクゴロさんがむくりと起き上
がって、俺たちを見比べた。
﹁そろそろ頃合いだな、洞窟の中に入るぞ。俺とシューター、エル
パコの嬢ちゃん、それにニシカで中に入るから、万が一のためにカ
サンドラとカムラの旦那は残ってくれるか?﹂
﹁俺は行かなくていいのか?﹂
﹁カムラの旦那はいざという時の予備だと思ってくれ。腕が立つ人
間が後ろに控えていると頼もしい﹂
ッワクワクゴロさんの指示に美中年は了承を伝えた。
﹁それから、エルパコの嬢ちゃん﹂
﹁ぼく、おとこのこだから⋮⋮﹂
﹁すまねえ嬢ちゃん。もし俺たちが途中でまずい事になったら、俺
たちを見捨ててでも洞窟の外に向かえ、カムラの旦那とカサンドラ
に伝えて、三人の誰でもいいから村にこの事を伝えるんだ﹂
まあ、そんな事にはならないと思うがな。と鷲鼻をひくつかせて
ッワクワクゴロさんが締めくくる。
﹁じゃあいこうか、シューターとオレで先頭な?﹂
﹁鱗裂きのニシカさんが隣なら心強い﹂
そんなニシカさんと俺の会話の後ろで、エルパコが小さな抗議の
575
声を上げていた。
﹁ぼく、おとこのこなのに⋮⋮﹂
576
52 ダンジョンの最深部に都市が存在しました︵前書き︶
昨夜は電車で寝落ちしてしまい、知らない駅で目を覚ましてしまい
ましたorz
更新が出来ずに申し訳ございませんでした!
577
52 ダンジョンの最深部に都市が存在しました
ダンジョン化した自然洞窟に入るのは、俺にとって三度目の事で
ある。
最初と二回目はバジリスクの住み着いたあの洞窟だった。
前回と大きく違う点があるとするならば、手元明かりの類が一切
存在しない点だった。
つまり真っ暗闇の中でダンジョンを前進しなければならないので
ある。
これはかなり厄介だった。
最初のうちはワイバーンが休眠する事が出来る様な大きな口が開
いているのだけど、数十メートルほど先に進むと急激に洞窟が狭ま
り、いくつかの細道が走っている具合になる。
この先の細道では月光なり星明りなりが入り込む余地はないだろ
う。
﹁それならですよ、少しでも陽の明かりが差し込む昼間のうちに入
ればよかったんじゃないですかね﹂
﹁バッカお前ぇ、夜なら暗がりに眼が慣れてだいたい状況がわかる
だろ﹂
俺が当然の様に質問したところ、ニシカさんがそう返事をしてッ
ワクワクゴロさんも同意した。
いや、長時間暗い所にいれば目が慣れるという理屈はわかります。
わかるけど、わかんねぇよ。
昼間の方が視界に飛び込んでくる情報も多いと思うんだけどね。
星明かりや月明かりで十分だっていうのは、ニシカさんが長耳族
でッワクワクゴロさんがゴブリンだからというのも関係しているん
578
じゃないだろうか。
あるいはそもそも猟師として子供の頃から慣れ親しんでいたから
可能なんだと思う。
﹁このトンネルは比較的新しくくり抜かれたものだな﹂
﹁ほんとだ、表面がやわらかい。変色もない﹂
ニシカさんとけもみみがそれぞれ洞窟の壁面を触って確認してい
る。
そういえば雁木マリやッヨイたちも、洞窟の壁面を触って似たよ
うな事を確認していたのを思い出した。
なるほど情報はこうやってしっかり見落とさない様にしなければ
ならないのか。
二人が確認を続ける。
﹁するとミノタウロスが掘って広げたのかな﹂
﹁何かのモンスターが広げた可能性と、ミノタウロスの可能性の両
方があるぜ。まあこんな硬い山肌を削るんだ、ミノがやったんだろ
うけどね﹂
俺にはこういう穴掘りはドワーフの専売特許なんじゃないかと勝
手なイメージで思っていたが、いやよくよく考えてみると、あいつ
らは迷宮の主なんて呼ばれたりもする連中だ。
もしかすると洞窟を加工してとんでもない大迷宮でも作っている
かも知れない。
おぼつかない足元のために、俺は地面の具合を確かめる様にして
ニシカさんと並んで歩いた。
時々、俺の体を触って合図を送って来るのだが、俺は下半身こそ
ズボンを手に入れて心が満たされていたけれど、上半身はお肌丸出
579
しの上からささやかなチョッキを着ているだけだった。
お肌とお肌の触れ合いはやっぱりドキドキする。
もしかするとダンジョン侵入のために心がドキドキしているのか
もしれないが、少しだけ冷たいニシカさんの手にドキドキしている
のかも知れない。
色々と馬鹿な事を考えながら前進していると、またニシカさんが
俺の腹のあたりをぐっと触った。
今度のは優しげなタッチではない。
前方に何かを発見したという具合だろう。
﹁ッワクワクゴロ、後方警戒﹂
﹁おう﹂
﹁シューター、お前はオレ様と低姿勢のまま前進。けもみみ女男は
バックアップだ﹂
マシェット
小声で次々に指示を飛ばしたニシカさんは、いつでも不意の遭遇
戦に備える様に山刀を抜くと、俺の手を引っ張った。
さすがベテランのッワクワクゴロさんは油断なく手槍を片手に背
後を警戒した。
エルパコは、けもみみ女男と言われてとても嫌そうな顔をしなが
らも、ニシカさんの命令に従って短弓を構えた。
予備の矢も短弓を構える手に持っているので、いつでも速射でき
る体制だった。
ニシカさんと俺がツーマンセルになって前進する。
俺はこの洞窟を前進しながら、まるでここは蟻の巣だなんていう
見当違いな感想を抱いていた。
こんな狭い場所に野牛の一族が生活しているというのは、きわめ
て疑わしい。
580
ぴたりと足取りを止めたニシカさんが、出来るだけ頭の位置を低
くしながら、その先を覗き込もうとしていた。
﹁いたな。野牛が眠りこけている﹂
ほとんど吐息の様な小さな声で、ニシカさんが呟いた。
すぐに俺と立ち位置を入れ替えて、俺も洞窟の向こう側を覗き込
む。
顔を出そうとした瞬間に、ニシカさんがぐっと俺の頭を押さえこ
んできた。
もっと姿勢を低くしろと言いたいのだろう。
見ると、オーガほど巨体ではないけれど、それでも青年ギムルや
冒険者ダイソン程度にはムキムキの牛面が、そこで寝息をかいてい
た。
服を着ている。俺より上等な服を着ている。くやしい⋮⋮
その上、しっかりと寝台に横になっていてはだけてはいたが毛布
まで被っている。
俺はてっきりオーガの様な蛮族を想像していたが、それよりも文
化度合いはずっと高いらしい。
俺が首を引っ込めると、今度はかなり堂々とニシカさんが通路を
進んでいく。
振り返って俺たちに手招きをした。
エルパコと顔を見合わせて、さらに後ろのッワクワクゴロさんに
合図をしながら、さらに道の先に進む。
不思議なもので、暗くてまるで見えないと思っていた暗闇の中で
も、気が付いたらある程度ものを判別出来るぐらいまで眼が慣れは
じめていたではないか。
それによれば、牛面の猿人間はよだれを垂らして爆睡していた。
581
殺るなら簡単にニシカさんがとどめを刺してしまいそうだが、村
長によれば労働力として期待しているらしいから、数を減らすのは
まずいだろうか。
さらにしばらく前進していると、またニシカさんが俺を手で制止
した。
いちいちお腹のあたりや胸のあたりを触るので、またドキドキし
てしまった。
﹁この先はオレも良くしらねえんだが、音の響きが悪くなっている﹂
﹁つまり?﹂
﹁たぶんここを進むと、大きく洞窟が広がってるんじゃねえか﹂
﹁と言うと、バジリスクのダンジョンみたいに?﹂
そう言われて俺がバジルを保護した地底湖を思い出して質問した。
﹁たぶんな。生活音が聞こえるだろう﹂
﹁生活音。ミノタウロスのですか?﹂
﹁ほんとだ、聞こえる﹂
俺には何も聞こえないわけだが、ニシカさんとけもみみが顔を見
合わせて何事か納得した様だ。
慎重に歩き出したニシカさんがやがてまた足を止め、その先を伺
った。
今度はそれほど警戒している様子が無い。
俺もじゃあという事でひょこりと先を覗き込んだところ、絶句し
てしまった。
どういう風に説明すればいいのだろうか。
そこにあったのは洞窟の天盤をくり抜いてつくられた、ひとつの
582
都市であった。
土か岩かまではわからないが、しっかりとした文化的なブロック
状の家々いが並んでいて、月光に照らされたそのどの壁もが鮮やか
な装飾の施されていたのだ。
オーガどころじゃない。
俺たちの村よりもはるかに文化的な生活をしていることは間違い
ない。
家の数は、ざっと見たところ五〇から七〇ぐらいはあって、その
中央にひときわ大きな建物がある。
最初の予想では数十人いればいいほうだと俺たちが予想していた
けれど、建物の数から想像するに、もっとこの集落、いや都市の人
口は多いはずだ。
ちょっとした家庭菜園の様なものもあちこちに見えるし、家々か
ら明かりが漏れている。
どこからか野牛の一族たちの談笑が聞こえてきた。
﹁あれはオレたちと同じ言葉を使っているな﹂
﹁人口も、思ったより多そうだ。ざっと見ても数百人規模なんじゃ
ないかな﹂
ニシカさんの言葉に俺もうなずきながら一言添えた。
ッワクワクゴロさんもエルパコも、揃って茫然とした表情でその
半地下都市を眺めていた。
規模こそ俺たちの村より小さくても、明らかに都市なみの文化だ。
こんな連中と捉えて使役するなんていうのは、ちょっと難しいん
じゃないですかね⋮⋮
﹁帰るぞ、もう十分だ﹂
﹁⋮⋮あそこに、犬がいるよ。犬を飼っている。早く引き返した方
がいいかも﹂
583
﹁ああ﹂
ニシカさんの言葉に、エルパコがけもみみを器用に動かしながら
反応していた。
俺たちはすぐにも引き返した。
筋骨隆々なミノタウロスを想像して二〇〇、三〇〇人規模の半数
が男、そのうちさらに半数が成人だと考えてみる。
一方の俺たちは冒険者と猟師をあわせてもせいぜい二〇名に満た
ない。
恐らく女村長や幹部も多少は武技が使えるとしても、数の上でど
うにか対等という程度だ。
これはとんでもないものを見つけてしまったかもしれんね。
洞窟を足早に、ニシカさんを先頭にして進んだ。
途中で例の寝いびきをかいているミノタウロスの部屋を通過した
が、野牛の男は寝返りをうっていたらしく俺たちとは反対方向を向
いて寝ていた。
たぶんこいつは、湖畔に抜ける洞窟の道を守衛している人間なの
だろう。
注意して見てみると、例によってこの世界で愛されている刃広の
剣が壁に立てかけてあった。
野牛の守衛部屋を突破し終わると、ニシカさんの歩みはさらに早
まった。
﹁しかし洞窟がこんな風になっていたのは知らなかったな。人生四
〇年、まだまだこの森について知らない事がある﹂
音も無く歩いていたッワクワクゴロさんが、そんな言葉を吐き出
した。
584
﹁あんなしっかりとした都市機能は、恐らく一朝一夕に出来るもの
ではないだろう。恐らく最近はワイバーンも洞窟にやってこなくな
ったと見て、洞窟同士を繋いだのかもしれんな﹂
﹁あり得る話だが、これを村長にどうやって説明するつもりなんで
すかね﹂
﹁見たまんまを伝えるしかないだろうぜ。ニシカは口が足らないか
ら、俺とシューターで説明する他ないだろう﹂
俺とッワクワクゴロさんがそんな会話をしていると、気分を害し
たのかニシカさんが鼻息を荒くして振り返った。
﹁お、オレ様にだって状況を説明するぐらい出来るぜ。オレに任せ
てもらおうか﹂
﹁いやシューターに任せた方がいいだろう。お前さんと違ってこの
男は学があるからな﹂
﹁チッ、全裸を尊ぶ部族の出身の癖に⋮⋮﹂
ニシカさんが俺の事を馬鹿にしてそんな事を言ったではないか。
しかしやぶへびってもんだ。俺はひとつからかってやった。
﹁まあ、ニシカさんは黄色い蛮族だからしょうがないですね﹂
﹁ニシカさん、蛮族なんですか?﹂
﹁そうだぜエルパコ、ニシカさんはワイバーンを生で食べてしまう
様な蛮族だから、怒らせると怖いぞ﹂
﹁蛮族じゃねえ!﹂
ほら怒った。黄色は蛮族なのである。
◆
585
洞窟を出て来た俺たちは、美中年カムラとカサンドラと合流した。
カムラの方はッワクワクゴロさんと何か会話をしていたが、俺は
待っていたカサンドラを気遣って側に行く。
﹁どうでした、シューターさん?﹂
﹁洞窟の向こう側には、野牛の一族が住む都市があった。かなりし
っかりした作りで、人口も俺たちが予想していたよりも多いみたい
だった﹂
﹁都市、ですか? 集落ではなく?﹂
﹁ああもうあれは集落なんてショボいもんじゃない。俺たちの猟師
小屋より立派な家がいっぱい並んでいたよ。俺たちもあそこに引っ
越そうか?﹂
俺がそんな冗談を言ったところ、カサンドラはちょっと頬を膨ら
ませて嫌そうな顔をした。
﹁心配していたんですから、茶化さないでください﹂
﹁うむ。俺は無事だよ﹂
むくれたカサンドラの顔もかわいいね。
そして俺たちは一刻も早く女村長の元に情報を届けるべく、道を
急いだ。
さて女村長がどんな判断をするのか、見ものだね。
あれを捕まえて使役するのは、やっぱりどう考えても無理だ。
それにニシカさんが確か言っていたが、俺たちと同じ言葉を喋っ
ているという事なので、意思疎通は可能だ。
してみると、この土地の領主である女村長は、土地の領有権を主
張して税を納める様に野牛の一族に交渉を働きかけるか、少なくと
も領境線を確定するための話し合いの場は持つように考えるだろう。
586
いや、考えなくても俺から提案する必要がある。
村が総出で野牛の一族狩りをしても、たぶん被害の方が大きくな
って割に合わないからな。
俺はそんな事を考えながら、常夜灯の燈った石塔を目印に道を急
いでいた。
587
53 野牛の一族には勝てそうもないので、女村長を説得します
﹁野牛の一族が洞窟の最深部に都市を作っていただと?﹂
俺たちは今、女村長専用の安楽椅子が置かれた彼女の執務室に通
されている。
はじめ、女村長は俺たちの話をまるで取り合わなかった。
明け方前に村に到着した俺たちが女村長の屋敷を訪れると、当然
だが女村長以下屋敷の人間はみんな寝入っていた。
事は急を要するというので、何度も玄関口の扉を叩いていると、
例の下働きの女が眠たそうな眼をこすりながら出て来た。
俺も何度も顔を合わせている若い女は、はじめ俺の顔を見て怯え
た顔を見せた後、その他にもッワクワクゴロさんや美中年にニシカ
さんという顔ぶれを見て、ようやく状況を理解したらしい。
言葉数は少なかったが、あわてて中に引っ込むとギムルを起こし
てくれ、さらに女村長が不機嫌そうな顔で出てきたわけである。
﹁あれは蛮族とは名ばかりで、かなりの文化的生活を送っている連
中でしたよ﹂
﹁野牛の一族がか? わらわをからかっているのか? 馬鹿も休み
休みに言え﹂
﹁残念ながらからかっているわけじゃないんですよねぇ﹂
﹁ならば本当に洞窟に街があったというのか﹂
﹁俺はこの土地の人間ではないので、都市や街の定義についちゃは
っきりとした事はわかりませんがね。この村の藁ぶきで土壁の家よ
り、はるかに立派な家々が立ち並んでいましたよ。それもどの壁面
にも鮮やかな色模様が描かれていました﹂
﹁壁面に色模様をか?﹂
588
疑わしげに女村長が俺たちを見やるのである。
しかし事実を目撃したッワクワクゴロさんもニシカさんも、俺の
説明に一切言葉を挟まない。
エルパコは相変わらず何を考えているのかわからない、ぬぼっと
した表情をしていたけれど、それでも否定はしなかった。かわいい
のに、女の子じゃないのも残念だし、ちょっと不気味だ。
﹁文化というのはですね、心に余裕が無いと発達しないもんなんで
すよ。つまりミノタウロスのみなさんは、とても心に余裕のある生
活をしているのです。生活が安定し、余暇の時間があり、俺たちが
探りに入ったところ、夜だというのにどの家からも明かりが漏れて
いて、そのうえ笑い声まで聞こえてきました﹂
﹁夜中に贅沢品の油を焚き、あまつさえ夜遅くまで笑って過ごせる
ほど生活に余裕があると言うのか﹂
﹁そういう事です。大変失礼を覚悟で申し上げますが、我が家では
油がもったいないので、陽が落ちれば幾らもしないうちに寝ます。
村長だって蝋燭やランタンの油は贅沢品でしょう?﹂
﹁ふむぅ﹂
見たままを俺が説明して、ッワクワクゴロさんやニシカさんをチ
ラ見した。
同意する様にニシカさんは鼻をひとつ鳴らし、ワクワクゴロさん
は﹁ああそうだ﹂と返事を返してくれた。
﹁ちなみにおふたりによると、ですね。連中は俺たちと同じ言葉を
しゃべっていた様ですよ。つまり、意思疎通が可能な相手です﹂
﹁言葉まで通じるのか。いや、文化が高いのならそれも当然だのう
⋮⋮﹂
﹁そんな連中がざっと数えても二〇〇か三〇〇人、下手をするとこ
589
の村よりも戦力がありそうに見えましたね。手ごわい相手ですよ﹂
﹁シューターよ、それはお前の戦士としての勘でそう言っているの
かの?﹂
俺を試すような視線で、ネグリジェの胸元を苦しそうにいじりな
がら女村長が言った。
女村長が戦士、戦士というものだから、周りの人間たちは俺をひ
とりの戦士として注目した。
実際のところはバイト戦士という意味で、本来この世界で言う意
味の戦士などではない俺である。
ただし空手経験はあるので、個人として強いか弱いかを言われれ
ば、対人戦闘に限っては、限定的に強いかもしれない。
県大会三位程度の型の実力的には⋮⋮
﹁どうですかね。住居の数から推測してそれぐらいの人口は抱えて
いると思いますよ。総人口三〇〇人として男はその半分、戦える人
間がさらにその半分として、七〇名。俺たちの村の戦力を総出で集
めてもちょっと厳しいんじゃないでしょうかね⋮⋮﹂
女村長が真剣な表情で安楽椅子から俺を見上げているので、俺も
思ったままの事を口にした。
時々、この女村長は俺にこういう視線を向けてくることがある。
俺が石塔の牢屋に放り込まれたときもそうだったが、ある種の信
頼を感じられる視線というのは悪い気がしないものだ。
むかし俺はコンビニの雇われマネージャーをやっていた事があっ
た。
多少長く直営店でバイトをしていたので、新規立ち上げ店舗のオ
ープニングスタッフに選抜されたのである。
新進気鋭の店長は俺と同い年ぐらいの女で、ちょうど雰囲気は女
590
村長みたいな感じだった。
オープニングスタッフは大変だ。
半数は勤務経験のあるベテランを揃えるが、残りの半数はコンビ
ニ経験の無いスタッフが揃えられた。
どうしてコンビニ経験の無い人間を集めたのかと店長や本部の応
援スタッフに聞いたところ﹁他社のルールに染まっていない人間の
方が望ましい﹂などと教えてくれた。
なるほど、自分たちの色に染めるというやつか。
しかしそのコンビニのいろはを学ぶために、若い大学入りたての
学生や高校生にバイト教育をする際、女店長はいつも相手の眼を見
て、しっかりと教育を施していたものだ。
いわく、女であるという理由で舐められないために。
いわく、相手の眼をしっかりと見れば、相手はその視線から絶対
に反らす事が出来ない。
彼女は確かその当時二五歳になるやならずだったはずだが、バイ
トで小銭稼ぎをする事だけが楽しみだった当時の俺に、いろいろと
大切な事を教えてくれたものである。
一番はやはり、眼を見て話す事だろうか。
そんな俺が出来るだけ真摯な眼差しで女村長を見返していると、
当の女村長はちょっと頬を赤くして視線を外してしまった。
ついでに俺の隣に立っていたカサンドラが、ギュッと俺のチョッ
キを握りしめたのが伝わる。
ん? 俺は何か問題行動をしたか?
﹁ギムルよ! わらわの領地から集められる戦士の数は幾らになる
のかの﹂
﹁村長ッ﹂
俺が暗にミノタウロスを捕縛して使役させるのは不可能だと説明
591
した話、女村長には伝わらなかったのだろうか。
少し語気を強めた彼女は、苛立たしそうに安楽椅子の側らに立っ
ていた義息子に問いただした。
﹁答えよ﹂
﹁我が村一番の戦士シューターを筆頭に、この屋敷に詰めている戦
士が五名、元冒険者や元兵士の経験者、それに周辺集落の猟師など
を集めて、あらかた三〇名ほどかと。村に迎えた現役の冒険者を集
めれば数は多くなりますが、冒険者は契約によって仕事を依頼する
形になるので、拒否をされればこの数に加える事は⋮⋮﹂
﹁ふむ、数ではこちらが半数以下という事か﹂
﹁村長、まさか⋮⋮﹂
思案する義母を見下ろしながらギムルが絶句した。
しかし女村長はそれを無視して、ッワクワクゴロとニシカさんを
見やる。
﹁野牛の一族が弓を得意にするという話は聞いた事があるかの?﹂
﹁あいつらの中にも猟師はいるだろう。が、鱗裂きのニシカほどの
腕前を持った人間はそうそういやしねえですぜ、村長﹂
﹁へへ、そこは安心してもらっていいぜ﹂
女村長の質問に、慎重に言葉を選びながらッワクワクゴロさんが
言った。
やはり女村長はやる気なのだろうか。
それに応えてニシカさんの方も自信満々の返事をしたではないか。
村長、あんた何か秘策でもあるのか。
﹁ふむ、ふむ⋮⋮﹂
592
どうしたものかの、と小さく女村長が言葉を漏らすと、最後に俺
を見上げた。
俺はゴクリとつばを飲み込んだ。
いったい何を切り出されるのやら戦々恐々で、俺の側で新妻が震
えているのが解る。
チラリと視線を横に向けると、案の定不安な表情で俺を見上げて
いた。
その隣でぼんやりとしたけもみみが、まったく空気の読めない表
情で半分口を開けた状態でけもみみを器用に動かしている。
その耳、無自覚に動かしているのかな?
﹁シューターよ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁お前ひとりなら、野牛の一族相手に何人まで相手に出来る﹂
﹁俺、ひとりでですか? 難しいですね、普通の人間なら三、四人
ならまず間違いなく不意を突ければ制圧出来ます。それ以上となる
と、天秤棒を持たせていただければ時間稼ぎは出来ます﹂
﹁そうか、さすが我が村一番の戦士だ﹂
俺ただのバイト戦士なんですけどね⋮⋮
そんな事を心の中で俺が思っていると、うんとひとつ頷いて見せ
た女村長は安楽椅子から立ち上がった。
﹁腹は決まった﹂
﹁で、では村長、連中を攻めるのですか? シューターたちの言葉
を聞いても﹂
義母の言葉にギムルが筋骨隆々な体躯に似合わないほど血相を変
えて抗議しようとした。
何だかんだでギムルはマサコンであり、義母にもしもがない様に
593
細心の注意を払っているのだろう。
それに、この青年とは腹を割って話したことがあるからわかるが、
俺に最近はデレているからな。
味方をしてくれているつもりなのだろう。
そんな事を考えていると、フフフと女村長が笑って改めて俺を見
やった。
﹁勘違いをするな、戦争はする﹂
﹁ではやはり?! しかし無茶では⋮⋮﹂
﹁このサルワタの森一帯の土地は国王によってわらわに与えられた
領土だ。わらわはこの領土を誰にも譲るものではないし、しっかり
と守り、そして義息子へと伝えていくのが、夫と交わしたわらわの
義務である﹂
﹁しかし、先ほどシューターも申しました通り、戦争では勝てない
のでは﹂
てくだ
﹁わらわをあまり甘く見るな、戦争は何も血を流すだけを差すので
はない。外交もまた戦争の手管であるぞ﹂
女村長は快活に笑ってバシとギムルのたくましい背中を叩いた。
﹁夜が明けたなら、ただちに湖畔に向かうぞ。わらわは野牛の一族
と交渉の席を設ける!﹂
なるほど。
モノの本によれば戦争とは外交の一手段に過ぎない、なんて文章
を見かけたことがあるが、そういう事か。
俺は感心して納得の表情をしていたけれど、ッワクワクゴロさん
とニシカさんは、イマイチ状況が理解できていないらしかった。
ついでに新妻は相変わらず不安そうな顔をしていて、もうひとつ
ついでにエルパコはぼけっとした顔をしていた。
594
こいつらはいい。
あまた
﹁わらわとて数多の戦場を渡り歩いた騎士だ。臆するものではない
が、万にひとつは備えねばならぬ。ゆえにシューターよ、交渉中片
時も側を離れずに、何かあればその命に代えてもわらわを護衛せよ
!﹂
﹁お、俺ですか? わかりました﹂
﹁もしも事が上手く行った際は、わらわの出せる最高の褒美をくれ
てやる﹂
﹁ははっ、おおせのままに﹂
女村長の命令に、ついつい俺は体が反応して平伏してしまった。
しかしアレクサンドロシアちゃん。
どうも指揮官先頭という矜持に何か特別な思い入れでもあるのか
も知れない。
ワイバーンが村に襲撃をして来たときも、ドレスの上に甲冑を着
て帯剣して飛びだして来た。
そのまま腰を抜かしてジョビジョバしたのもいい思い出だが、や
はりその指揮官先頭の姿勢が、村の統治に何か役立っているのかね。
ふと妙齢の女村長のジョビジョバ姿を思い出して俺がニヤけそう
になっていると、ギムルが鋭くこちらを見ていた。
眼が、義母上を頼むと言っていた。
ああ任せておけ。
むかし俺は護身術をたしなんでいた事もあるんだぜ。
痴漢撃退用だが、たぶん役に立つはずだ。
それにしても、アレクサンドロシアちゃんの出せる最高のご褒美
って何かな?
595
◆
俺は今、全裸である。
せっかく街で布をたくさん買って来たし、ズボンだってッヨイさ
まに買い与えて頂いたというのに。
どうしてこうなったと小一時間自分を問い詰めたい。
俺は今、全裸で白い布を括り付けた木の棒を持っていた。
即席で作られた白旗の白い布地は、俺のヒモパンであった。
無抵抗である事を示すために、女村長の命令で俺は全裸にされた
のだ。
悲しい。
背後を振り返ると、騎士装束の女村長や武装したギムルにニシカ
さん、新妻と、武威を誇示するためにかき集めた冒険者や猟師たち
がずらりと並んでいた。
場所はサルワタの森西域にある湖畔の大きな洞窟の前で、向こう
に数名の野牛の一族が見えた。
連中はちゃんと服を着ていた。
普段の俺よりもカサンドラよりも、たぶん女村長よりも上等そう
な。
くやしい。
ミノタウロスたちは、全裸の俺を見て指を差して何事か言い合っ
たり、武器を構えたりしていた。
﹁待て! 俺は丸腰だ、お前たちと実りある交渉のためにここに来
た!!﹂
丸腰どころか丸裸の俺は、攻撃されてはかなわないので精一杯出
せる大声で叫んだ。
ミノタウロス相手だけに、ミノりある交渉になればいいな⋮⋮
596
54 全裸でも交渉がしたい︵前書き︶
時間調整してたら投稿1分遅刻マンです。許して!
597
54 全裸でも交渉がしたい
﹁ハロー、こんにちは。俺の話は通じるか? 俺はシューターだ、
シューター。よろしくな﹂
俺の名は吉田修太。今日も全裸で交渉役をする三二歳の村人だ。
ヒモパンを括り付けた木の棒を振りながら近づいてくる俺に、三
人の野牛の一族が白刃をを突きつけて来た。
俺のフレンドリーな挨拶にも関わらず、この対応だよ。
これ以上近づくなと、俺の身長ぶんほどの距離まで進んだ辺りで
包囲されてしまう。
こいつらは対人戦闘技術がそれなりに発達しているらしい。
自分の身長プラス武器の距離が、そいつの有効攻撃範囲だという
事を理解しているらしかった。
﹁おいおい、そう警戒するなよ。俺みたいな全裸丸腰の人間に何を
恐れているんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あんたらに話がある、あんたらの代表者に状況を説明したい。俺
は見ての通り丸腰で、﹂
グサリと木の棒を地面に突き刺した俺は、振り返って背後の村の
人間たちを見やった。
騎士装束の女村長は長剣を杖代わりにしてこちらを睨んでいる。
その他、ギムルや村の幹部連中に冒険者、猟師たちがずらりと並
んでいるわけだが、
﹁この森の一体を収める領主の意向を伝えに来たという次第だ。も
598
ちろん争う事が目的ではない、話し合いだ﹂
どう見ても武威を背景にして俺が話し合いを求めて来た事は、し
っかりと野牛の一族にも伝わっているらしい。
﹁⋮⋮何が目的だ﹂
﹁だから言ってるだろ、話し合いが目的だって﹂
両手を上げて無抵抗の意思は示しているけれど、駄目っぽかった。
突きつけられていた白刃で俺は座る様に指示されて膝を折る。
﹁もう一度聞く。話し合いの目的は何だ﹂
﹁あそこに見えている、甲冑を着た女騎士がいるだろう。あれがこ
の土地の領主で騎士爵の貴族アレクサンドロシアさまだ。領主さま
は、自分たちの領内にミノタウロスのみなさんが移住している事を
知って、視察にこられたのだ﹂
俺の勘だが、たぶん村の人間が多用している﹁野牛の一族﹂とい
うフレーズがミノタウロスのみなさんを激昂させるんじゃないかと
思うので使わない。
むかし俺がバイトでコールセンターで働いている時の事だが、電
話口のお客様がどんな言葉に反応して怒り出すかなんてのは千差万
別だった。
特に俺の記憶に残っているお客さまの怒りの内容と言えば﹁あり
がとうございました﹂だ。
過去形とはどういうことだ?! というお叱りの内容だったわけ
だが、俺からするとわけがわからなかった。
怪しい大人のネットショップのお買い物で取り寄せた商品のカラ
ーが違っているというご指摘だった訳だが、お電話いただいた際の、
最後の最後でお客様の怒りの琴線に触れてしまったわけである。
599
ありがとうございました、はもうお客様として過去形、ありがと
うございます、は今後もごひいきにというニュアンスが含まれてい
るそうだが、これはお客様の独自理論なのか、実際にサービス業を
する際に気を付けるべき点なのかは、今もってわからない部分であ
る。
これらはおおよそ何がお怒りになるのか理解できなかったパター
ンだが、野牛の﹁野﹂は野蛮の﹁野﹂である。
文明人を気取っている人間にこんな言葉を言ってしまえば、きっ
と俺なら不愉快だろう。
人間どもめ、また俺たちを差別的発言をしやがる、などと状況が
こじれてしまっては交渉人大失敗だ。
﹁つまりですね、ミノタウロスのみなさんがいつからこの土地に移
住なさったのか、今後も生活圏を拡大するとなれば、我々の領民と
の諍いも可能性がありますよね? そのあたり、問題が発生し大き
くなる前に、手を打っておこうという寸法です﹂
﹁本当にそれだけか﹂
﹁本当にそれだけですよ。だからあんたたちの代表者、例えば領主
さんとか族長さんとか、そういうひとがいるなら、話をさせてもら
いたい﹂
﹁話し合いをするのはお前たちの領主と、でいいのだな﹂
﹁領主アレクサンドロシアさまと、そちらの代表者さまとイーブン
に、対等にだ﹂
そこに俺たちは何も挟まない。
という事をしっかりと説明する。
女村長はこれも血の流れない戦争だと言っていたけれど、まあい
かにしてイニシアチブをとるかだからな。
俺たちには何も話さなかったが、いざという時は何か秘策でもあ
るのかもしれない。
600
﹁しばし待て、どうする?﹂
﹁人間どもの言葉など信用出来るか。どうせ俺たちにこの洞窟から
出て行けと脅してくるに違いない、あの兵士どもの姿を見ろよ⋮⋮﹂
﹁確かにそうだが、上に報告しないわけにもいくまい﹂
﹁だが話し合いと言っておきながら襲われれば、俺たちはひとたま
りもないぞ⋮⋮﹂
筋肉ムキムキのビーフマンの癖に、こいつらは身を縮めて弱気な
発言を繰り返していた。
もしかすると、文化度合いの発達にあわせてこの野牛の一族たち
は蛮族の勇を失ったのかもしれない。
逆か、匹夫の勇を捨てた事で文化的な連中になったのかな?
﹁わ、わかった。話し合いに応じるかどうかは族長がお決めになる
が、しばらくここで待て﹂
﹁了解だ、待ちましょう?﹂
少しだけ強い風が吹いたりやんだりすると、俺の息子がその度に
ぶらりと揺れた。
何かあった時はニシカさんが風の魔法で合図送って来るという事
前の取り決めがあった。
恐らくはしびれを切らした女村長が指示を出したのだ。
事前の取り決めによれば、腰に手を当てれば交渉順調、腕を組め
ば交渉決裂、股間を触ればしばし待て。
つまりこの状況でしなければならないのは、息子をいじることで
ある。
﹁まあ、領主アレクサンドロシアさまはとても寛大なお方なので、
少々の時間を潰すのは問題ない。何しろ俺たちは話し合いにやって
601
きたんでね﹂
俺は出来るだけ違和感が無い様に女村長たちを振り返ると、息子
を両手で隠して見せた。
﹁何をしている?﹂
﹁いやあ、真面目な話をしながら全裸というのはマヌケですね。は
は﹂
三人いたミノタウロスのうちのひとりが長剣を鞘に納めると、そ
のまま駆け足で洞窟の中に走って行った。
◆
﹁あんたら、ここに来て何年になる﹂
﹁街の事を言っているのか? あそこに俺たちの部族が居留地を構
えたのはほんの冬ふたつ前だ﹂
﹁それじゃ三年目ってところなんだな﹂
﹁そうだ。お前は、この辺りの人間にしては不思議な顔立ちだな。
あまりのっぺりとした顔で、まるでエルフみたいだ。エルブンハー
フか?﹂
族長さんへの知らせに走った男を待つ間、俺は洞窟の入り口にあ
る岩に腰かけて、ミノタウロスのひとりと交流を深めていた。
もうひとりのミノタウロスは不機嫌そうに未だ白刃を俺に突きつ
けて無言で立っている。
﹁残念ながらどこにでもいるヒト族さ。ちょっと遠くの出身なんだ﹂
﹁そうなのか。名前は? いい体つきをしている、戦士なのか?﹂
﹁名前はシューターだ。まあ戦士だ﹂
602
﹁そうだったな、シューター。弓使いか﹂
﹁そういうあんたの名前は何て言うんだい?﹂
俺の隣に腰かけた牛面の男に出来るだけフレンドリーに接する。
上等な服着やがってこん畜生め。
エルパコと同じ様なけもみみの牛面たちだが、時折その耳をぷる
ぷる、と揺らして見せるあたりがちょっと動物的だ。
というか牛そのものの顔だからな。
﹁俺か、俺はタンスロットってんだ。見ての通り兵士をしている。
あんたとご同業というわけさ﹂
﹁どーも、タンスロットさん。兵士という事は、ここで歩哨の仕事
を?﹂
﹁ああそうだ。つい昨夜だったが、俺たちの街に何者か侵入した足
跡があったというので、念のために見張りをしていたのさ。これも
兵士の務めでね﹂
﹁それは大変ですねぇ﹂
侵入者というのは俺たちの事だな。
すまんタンスロットさん、仕事を増やしてしまって。
﹁まあでも、おかげでキツい戦闘訓練をやらなくてよくなったから
いいんだぜ﹂
﹁おお、戦闘訓練か。ミノタウロスさんの戦闘訓練には興味がある。
機会があればスパーリングをやろう﹂
武道大好き人間の癖が飛び出して、つい俺はいらん事を言ってし
まったぜ。
﹁スパーリング? 何だそれは﹂
603
﹁剣でも拳でも、練習試合をやろうという事さ﹂
﹁なるほど闘牛か。あれは楽しいが、俺はあまり得意じゃないな。
そういうのは族長の専売特許だ﹂
族長というのは闘牛で強いのか。
それにしても試合の事を闘牛というのは、まんまだな。
俺はちょっと笑ってしまった。
するとのんびりしていた俺たちにまた、少し強い風が連続して吹
き付けたりやんだりしてきた。
﹁どうした?﹂
﹁いやぁ今日は変な風が吹いて来るなぁと﹂
恐らく苛立っているアレクスサンドロシアちゃんが、ニシカに命
じてやらせたのだろう。
俺は﹁裸だとケツがいたいな﹂などと適当な事を口にしながら立
ち上がって、ずらりと並んだまま立ちっぱなしの女村長たちに見え
る格好で息子を隠した。
しばし待て! しばし待てだ!
﹁丸腰で無抵抗を示すために全裸だったんだがね、ミノタウロスの
皆さんに俺の想いが伝わってよかったぜ﹂
﹁立ったり座ったりするな! じっとしていろ!﹂
残念ながら俺のフレンドリーは、もうひとりのミノタウロスには
伝わらなかったらしい。
おもいっきり白刃をケツに押し当てられて、俺はあわてて座った。
しばらくすると、洞窟からゾロゾロと野牛の一団が姿を現した。
604
その中に、ひときわ大きい野牛の男がいるが、あれが族長だろう
か。
文化人的野牛集団を率いているのでそうではないと信じたいが、
族長は闘牛好きと言っていたから確信は持てない。
いや違う。あのちょっと細身の上等な服を着た男がたぶん族長だ。
細身だがムキムキには違いない。
他のミノタウロスと比べて細いと言うだけだ。だが、格闘家の様
な引き締まった体だった。
﹁族長がお見えになられた。立て!﹂
俺は岩から転げるように立ち上がると、三〇人ぐらいはいるだろ
う野牛の一族に囲まれた。
﹁お前が人間どもの使者だという男か?﹂
﹁はい。領主アレクサンドロシアさまの使いで参りました﹂
﹁フンス。そうか﹂
﹁族長さまにおかれましては、わざわざご足労いただきありがとう
ございます。是非にも我が領主との会談をしていただきたく⋮⋮﹂
誰かに脚を転がされて強制土下座をさせられるとたまらない。
俺は全裸で平伏した。
﹁フンス、いいだろう。俺たちは蛮族にも寛容だからな﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
◆
会談のやり方はまずこうだ。
まず族長が数名の護衛を従えて村の一団と野牛の一団の間に前進
605
した。
そこまで俺は付いていき、そこで大きく白旗を振って女村長に合
図を送る。
すると、当初の打ち合わせ通りに正々堂々といった格好でアレク
サンドロシアちゃんが単身前進して来た。
しかし、いつでも援護射撃が可能なように鱗裂きのニシカさんが
弓を用意している。
いざとなれば恐らくはッワクワクゴロさんも加勢の弓を射かけて
くれるだろう。
そこで族長と女村長が向かい合った。
﹁わらわはこのサルワタの森一帯を領する騎士爵アレクサンドロシ
ア・ジュメェである。この度はわらわの会談要請に応じてくれ、大
義であった﹂
﹁蛮族の領主が言いおるわ。俺はタンクロードヴァンダム、一族を
統べる長だ。気軽にタンクロードと呼んでくれ﹂
お互いに差し出した手を握った。
背格好からすれば、まるで大人と子供だ。
牛面のタンクロードは女村長を見下ろす格好だったが、彼女はお
びえた表情などまるで見せずに口元をニヤリとさせた。
しかしあれだな。ニシカさん風に言うと、こいつらタンの一族と
いうやつか。
﹁あっはっは﹂
﹁何がおかしい、蛮族の女領主よ?﹂
﹁よもや野牛の一族に蛮族と言われる日が来るとは、わらわは思い
もしなんだわ!﹂
﹁フンス、それは他の部族を見てその様な事を言っているのだろう
606
が、俺たちは違うぜ﹂
﹁それはシューターより聞いておるわ。立派な家屋を幾棟にも建て
連ね、壁には色模様を施して、さぞかし繁栄している様ではないか﹂
﹁シューターというのは?﹂
﹁ああ、全裸の彼です﹂
牛面を傾げたタンクロードに、護衛のひとりとしてついてきたタ
ンスロットが返事をした。
﹁フンス、お前だな? 昨日俺たちの居留地に侵入した者というの
は﹂
俺は慌てて息子をいじりながら視線を反らした。
﹁我が村一番の戦士だ。それでいて猟師と冒険者の経験もある、わ
らわの切り札だからの﹂
﹁フンス、まあいい。それで要件は何だ﹂
﹁先ごろも言った通り、この辺り一帯の領土はわらわのものだ。聞
けばお前たちは我が領土の中に、あろうことか勝手に立派な都市を
作っていると言うではないか。これは領主として、はいそうですか
と見過ごすわけにはいかぬのでの﹂
﹁見過ごさなければどうするつもりだ﹂
﹁いつから洞窟の中に都市を築いたのだ﹂
﹁この三年といったところだな。以前はずっと向こうの山を越えた
場所で、オーガたちを使役しながら生活をしていたんだがな。ひと
きわ巨大なワイバーンの襲撃に度々見舞われてな、こうして引っ越
してきたというわけだ﹂
﹁ワイバーンか、それならばわらわの村にも災害をもたらしたこと
がある。災難であったの﹂
﹁そいつはどうも﹂
607
何だ聞いた事がある様な話だぞ。
もしかすると俺たちの村を襲ったワイバーンが、タンの一族にも
迷惑をかけていたのだろうか。
﹁だが、はいそうですかと見過ごすというのは領主としては無能を
意味する﹂
﹁なら戦争でもするか、お前たち蛮族らしく?﹂
﹁ふふっそれもまた一興だのう﹂
そんな言葉を言った瞬間、タンスロットさんと一緒に来ていた、
あのひときわ大きな野牛の男が腰の剣に手を伸ばそうとした。
すかさず俺は棒切れを構える。
﹁よせタンダロス。いや、俺の言葉が悪かったな。つまりお前たち
はどうしたいんだ。俺たちに出て行けと言うつもりだったのか﹂
﹁わらわも回りくどい言い様は好かん、よってはっきりと言う﹂
﹁俺もその方がうれしいね﹂
﹁わらわの領土に住む者には税を課す決まりがある。税を納めるの
ならば、領内で過ごす事を許可する。何度も言うが、領主の体面と
いうものがあってな、領地の接する他の領主たちの手前これは譲れ
ない﹂
﹁フンス﹂
﹁もちろん無理な要求をするつもりはない。基本は友好と、交流だ。
お前たちも、ようやく三年がかりで築き上げた街をわらわたちに荒
らされるのは迷惑だろう。ん?﹂
こちらの内情を見せながら、さらりと言うべき要求も口にしてい
る。
適度な税を納めればミノタウロスたちを見逃すというやり方は、
608
なかなか巧妙、いや光明なように思えるぜ。
他の領主たちに対する女村長の面子を保ちながら、実質は友好的
にやって行こうという事か。
しかし戦争とまで言ったわりには、なかなか大人しい手口である。
女村長の言葉に、タンクロードは一考しているらしい。
少し腕組みをして﹁フンス、フンス﹂と鼻を鳴らしてみたあとで、
﹁その条件は魅力的だ。だがお前たちは蛮族だ、裏切らぬという保
証はなかろう﹂
﹁では古来よりこういう場合、婚姻を結ぶという手法で互いの信用
関係を作って来ただろう。こちらと、タンクロードの縁者とで、婚
姻を結べばよい﹂
その様な事を女村長が言ったのである。
609
55 ミノりある会談の行く末
﹁俺の縁者とそちらとで婚姻関係だと?﹂
フンスと鼻を鳴らしたタンクロードが、アゴに手を当てて考え込
んだ。
モノの本によれば、歴史上ヨーロッパの王侯貴族たちは姻戚関係
を結ぶことで強固な縁を作り上げていったという。
そうしておけば、いざという時に敵対する王侯との援護射撃も期
待できるし、うまくする事で跡目問題に口を挟むことだってできる
という寸法だ。
そんな事は欧州に限らず、戦国時代や江戸時代にはよく見られた
血縁同盟の類である。
家臣は縁者を人質に出して、君主は家臣に娘を娶らせるという事
もある。逆もまたしかりだ。
女村長の考えていた血を流さない戦争、あるいは外交と言う言葉
は、きっとこれを意味していたんだろう。
いやまて、これも権力闘争の一環なのかもしれない。
女村長はこれでも貴族であり領主だ。
こういうパワーゲームを俺たちが知らないところで日常的にやっ
ているのかもしれない。
﹁悪い提案ではないだろう。ん?﹂
﹁それはお前たちが誰を差し出すかにもよるがな﹂
﹁わらわがタンクロードと結婚というのも一興だが、お前もとうが
立った年増女を嫁にするのでは、旨みが無いだろう。それにこの男、
シューターと将来の約束があってな、出来ればわらわの義息子か縁
610
者の女か、そのあたりで手を打ってもらえれば幸甚だ﹂
さらりと女村長がとんでもない事を口にした。
俺とアレクサンドロシアちゃんが将来の約束をした? そんな話
は俺も聞いていない。
ま、まさか俺が女村長の夫⋮⋮
驚いてそんな事を考えていると、フンスフンスと鼻息を荒くした
野牛の族長が決断をする。
﹁俺はそれで構わないぞ。よし、では互いにさっそく人質を差し出
すというのがいいか。おい、タンヌダルクはいるか!﹂
﹁は、はい兄さん﹂
タンクロードが振り返って野牛の一族を見回すと、中から角の生
えた女が一歩前に出て来た。
よかった。ちゃんと人間みたいな顔をした女だ。
ミノタウロスは女性なら人間に限りなく近いんだね。
牛か人間かで言うと、限りなく人間に近い牛だ。
ギリギリ人類だ。いける。
角は男どもより小さいし、胸は人間じゃ比較にならないほど立派
だ。
ただしニシカさんにはちょっと届かない。
やはり鱗裂きのふたつ名はサルワタの森最強の称号だぜ。
﹁あ、あの。わたしに何か⋮⋮﹂
﹁お前を嫁候補とする。一族の者から人質を出さねばならんとなれ
ば、お前でどうだ。まだ独り身だろう﹂
﹁ば、蛮族の嫁に嫁ぐのですか?! 兄さんひどいっ﹂
﹁こら、言葉を慎め。仮にも親戚となる相手の前だぞ﹂
﹁あうぅ、ですがぁ。こいつ全裸の野蛮人じゃないですか⋮⋮﹂
611
全裸の俺と女村長を見比べた牛娘タンヌダルクは、すこぶる嫌そ
うな顔をしていた。
安心しろ、俺は嫁さんがいるから俺と結婚させられる事は無いぞ。
ないよね?
俺が女村長を見やると、何がおかしいのかフフッと笑っていた。
﹁あっはっは。この男は全裸を貴ぶ部族の出身だが、普段はちゃん
と服を着ておるぞ。安心しろ﹂
﹁そ、そうなんですか? ホントですか?﹂
﹁シューター、そうだろう?﹂
﹁そ、そうですけど、まさか俺とこのタンヌダルクさんが結婚です
か?﹂
﹁わらわの差配に口を挟むな﹂
﹁し、失礼しました﹂
﹁タンヌダルクといったな。娘御もそう臆するな、この男に嫁ぐと
決まったわけでもないからの﹂
俺が抗議の声を上げようとしたところで、女村長の怒りを買って
しまった。
やはり何か考えがあるのだろう、ここは黙って成り行きを見守る
か⋮⋮
﹁では、わらわは義息子を人質に差し出す。ギムルよ! ここまで
来い﹂
疑り深く俺をを見ていた野牛妹に笑ってみせた女村長が、振り返
ってギムルを呼びながら手を振った。
こちらを眺めていたギムルもそれに気づくと、慌ててこちらに駆
けてくる。
612
﹁お呼びでしょうか村長﹂
﹁お前をこれから野牛の一族に対する人質として差し出す事になっ
た。お前にミノタウロスの一族から嫁をとらせるのでな。結婚おめ
でとう﹂
﹁ひ、人質? 俺がですか﹂
﹁野牛の族長も一族から人質を出すと申し出て来たのだ。相手が血
縁を差し出すのに、わらわがそうしないのでは釣り合いが取れぬだ
ろう。交換条件だ、呑め﹂
﹁お、俺は構いませんが﹂
歯切れが悪そうにギムルが返事をした。
チラチラと同じ人質仲間にされてしまうタンヌダルクを見て、ま
た女村長に向き直る。
マザコンのギムルの事だ、命令が嫌と言うよりも義母親の側を離
れる事に対して、単純に気が引けているのだろう。
こうして、お互いの人質が誰になるか決められた。
﹁では最後に確認だ。三日後この湖畔で、お互いの親睦を深め人質
を交換するための宴席を設ける﹂
﹁了解だ。俺たちの居留地にはいい牛がいるので潰して食べるとし
よう﹂
﹁う、牛を食べるのか?﹂
﹁何を言っている、お前たち人間どもだって、牛ぐらい潰して食べ
るだろう﹂
﹁で、ではこちらも鹿肉を差し出すとしよう⋮⋮﹂
この時ばかりは驚いた顔をしたアレクサンドロシアちゃんが聞き
返していた。
いやあ、野牛面の猿人間が牛を食べると言うから、共食いになら
613
ないか心配しているんですよねぇ⋮⋮
◆
村に引き上げていく道すがら、
﹁村長さま、まさかあのタンクロードバンダムの妹を俺に嫁がせる
つもりじゃないでしょうね﹂
﹁あっはっは。お前が望むならそれでもよいが、相手が嫌がるなら
他の手も考えねばな。当てはある﹂
俺は行列の中ほどを歩いている村長を追いかけながら質問をした。
周辺にはあまり聞こえない様に小声でだ。
﹁俺にはカサンドラがいるじゃないですか﹂
﹁奴隷が嫁を多くもらってはいけないという法は無いぞ﹂
﹁ギムルさんとくっつけるという作戦じゃだめなんですか﹂
﹁まあそれはどうなるかわからんな。わらわとしてはどうころんで
も構わないのだ。三日後に宴席を設けると言っただろう﹂
﹁まさか、宴席で一網打尽⋮⋮本気ですか﹂
﹁連中をまとめて皆殺しにするか? シューターは戦士らしく物騒
な事を考えるな﹂
まるで他人事の様に女村長がころころと笑った。
俺はこの会話が他の人間に聞かれてやしないだろうかとあわてて
周囲を見回した。
特にニシカさんあたりは長耳を立てて聞いている可能性があると
思ったが、彼女は風上の先頭を歩いているので問題が無かったよう
だ。
614
﹁わらわの縁者はギムル以外にもおるでな。それまでに呼び寄せれ
ばよい、あの野牛の妹に選ばせればよい﹂
﹁村長さまのご実家、ですか?﹂
俺はふとようじょのいたブルカの街の事を思い出した。
﹁そうではない。わらわはもともとこの村に嫁いだ時は再婚だった
のだ。前の夫の実家に義弟がいるので、呼び寄せる﹂
﹁ははあ、そういう手があったか﹂
﹁やつらを宴席に呼び寄せて皆殺しにするというのは、最後の手段
だ。そういう事にならぬ様、あれこれと手を打たねばならん﹂
﹁なるほど﹂
やはり女村長の脳裏には宴席でミノタウロスを一網打尽という計
略は存在したらしい。
ふと俺はとあるモノの本を思い出した。確かアイヌのとある部族
が和人に懐柔される宴席で、毒を盛られた話を。
毒なり薬なりを混ぜ込めば、いかに筋骨隆々なミノタウロスと言
えどもイチコロだろうが、それでは今後生き残った連中と敵対す続
ける事になるからな。
むかし俺がお世話になっていたコンビニの女店長や、コンサル会
社の青年取締役の人心掌握術を思い出す。
してみると、ビジネスの大半が根回しなのだと常々言っていた気
がする。
敵は必ずどのような組織の内外に存在している。
だが、少しでも多く味方を多く作っておくことが、ビジネスを円
滑に進める秘訣と言うわけだ。
仕事の段取りのうち八割は、この根回しという事をふたりによく
言われたものだ。
それをしなければ、思わぬ場所から反対や計画を潰しにかかる人
615
間が出てくる。
﹁わかったかの?﹂
﹁よくわかりました、段取り八割という事ですね﹂
﹁ふむ。よくわからんが、わかってくれたようで何よりだ﹂
﹁ところで村長さま﹂
俺はひとつ聞きそびれていた質問を口にしようと決めていた。
女村長とヒソヒソ話をしる絶好のチャンスだ。この機会に聞いて
おかない手はない。
﹁ん? 何だ﹂
﹁今回の件が上手くいけば、俺にご褒美をくれると言う様な事を言
っておれれましたね﹂
﹁そうだったかの?﹂
﹁さっきも言っていましたよ、将来の約束があってな、みたいな。
意味深に﹂
﹁ふふっ、何を期待しておるのか?﹂
﹁何をいただけるんでしょうかねえ、ご褒美﹂
くすりと笑った女村長に俺が下卑た顔を浮かべると、ぷいとそっ
ぽを向いて先を行ってしまった。
俺は慌てて後を追いかける。
﹁気色の悪い顔をするものではないわ、ご褒美はお預けだ﹂
嫁にはナイショでキスのひとつでもくれるのかと思ったが、アレ
クサンドロシアちゃんはご立腹したらしい。
とんだツンデレさんだぜ。
616
56 ひょんなことから獣人について耳にしました
俺たちは村に戻ると、その足で女村長に屋敷へ集まる様に命じら
れた。
呼び出された面子は主にッワクワクゴロさんやニシカさんといっ
た猟師連中である。
もちろんその中に俺と、どういうわけか俺のところで見習いをす
る事になったエルパコも含まれていた。
﹁三日後に、野牛の一族と親睦を深めるための宴席を設ける事にな
ったが、わらわたちは宴席で必要となる振る舞いの獲物が必要とな
る。そこでお前たちは三日以内に鹿を仕留めて来てほしい﹂
可能か? と、例によって執務室の安楽椅子に腰を落ち着けた女
村長が、俺たちにそう問うてきた。
俺は野牛の族長と行われた会談の際に一部始終を聞いていたから
知っているが、ミノタウロスたちは自慢の牛というのを、俺たちは
代わりに鹿をという事が野牛の族長と女村長との間で話し合われた。
牛面の猿人間が牛を料理に差し出すというのは共食いじゃねえか
と思わないでもないが、それに見合うだけの食材を俺たちが差し出
すのであれば、それはもう肉しかない。
俺たちの村でも家畜は存在していたが、ミノタウロスたちが牛を
出すと言い出したので牛はこれで不可能になった。
となれば、それに見合う大物は豚ぐらいしかいないが、
﹁ジンターネンの豚をという事もわらわとて考えたのだが、今この
村は開拓のために移民を多く集めようとしているのでな。ここで無
617
暗に屠殺してしまうと、食糧難になった時に問題が起きる﹂
﹁なるほどそれは理解しました。で、何頭。鹿を仕留めればいいん
でしょうかねえ﹂
ッワクワクゴロさんが鷲鼻をいじりながら、安楽椅子の女村長を
見上げて言った。
﹁そうだな。宴会にはわらわたちの主だった人間には参加してもら
いたい。それから、有力者を接待するというのであれば、若い女も
動員せねばなるまい。それらも含めてとなれば、両者一〇〇人を満
足させるだけの鹿が必要になるの⋮⋮﹂
﹁うーむ。とすると、五頭から七頭ぐらいは最低でも仕留めておき
たいところですぜ。足りない分は鶏かやはり豚を潰してもらうよう
にしてください。やるだけはやってみます﹂
﹁それでよい。ではよろしく頼むぞ﹂
了解したッワクワクゴロさんやニシカさんたち主だったベテラン
猟師たちは、ぞろぞろと執務室を退出していった。
俺も最後にそれに付いて出ていこうとしたところ、
﹁シューターはしばし待て﹂
女村長が部屋の外に出る直前に声をかけて来たではないか。
一緒に付いて出る予定だったエルパコと一緒に、俺たちは立ち止
まった。
﹁その獣人は先に出ていろ、二人だけで話がある﹂
﹁だ、そうだ。エルパコ悪いが出ていてくれ﹂
﹁⋮⋮うん、わかった﹂
618
困惑の表情を浮かべたけもみみは、そのまま俺と女村長の顔を見
比べながら退場して行った。
ドアが完全に閉まるのを見届けてから、俺は改めて女村長の顔を
見やった。
俺ひとりだけを残したという事は、何か内々の話がある事は間違
いない。
いよいよご褒美について教えてくれるのかな?
ちょっぴり俺の息子が反応しそうになるのを抑えて、どうにかズ
ボンをテント立ちさせずに済ませた。
﹁何を考えておる﹂
﹁俺を残した意味が何なのか﹂
﹁ふむ。まあ、そう緊張するのではない。あの獣人、見てくれは小
娘の様な姿をしているが、れっきとした男なのだそうだな﹂
﹁そうなんですよ。ちょっとびっくりしました﹂
﹁ギムルにその話を聞いた。わらわも正直驚いたが、お前の家で預
かる様になったと聞いてな﹂
﹁ああ、そうですね。俺が身の回りの世話をしろとッワクワクゴロ
さんから言いつかっていますねぇ﹂
﹁村の空き家が足りていないので、猟師は猟師で面倒を、空いてい
る家は優先的に移民にという事を決めておったからな﹂
村には移民がやって来た事もあって、あちこちの家々で似たよう
なことが起きているという。
住人が不在となった空き家については家族持ちの移民に譲られた
が、労働者ゴブリンや犯罪奴隷などは、むかし俺がこの村にやって
きた頃と同じ様に家畜小屋にでも住まわされているのかも知れない。
猟師についても、俺は街に出ていて知らなかったが、多数の人間
が移住する様な事になっていれば手分けして猟師たちの家で居候を
差せる羊蹄だったのだろう。
619
﹁新婚早々に申し訳ない事をお願いするが、しばらく我慢してくれ﹂
﹁いえ、むさくるしい男と同居するならアレですが、見た目がアレ
なのが救いですね。妻も多少はやりやすいでしょう﹂
﹁野牛の一族の件が片付けば、すぐにでも新居の建築にとりかかる﹂
﹁ほう﹂
﹁なに、家の足場さえ造ってしまえば、土魔法で家の壁を作るのは
すぐにできる。わらわも魔法使いの一家なのでな、任せてくれ﹂
女村長はそう言って笑って見せた。
言われてみればッヨイさまと女村長は一族だ。
しかもこのジョビジョバの一族、魔法が使えるらしくついでにッ
ヨイさまも土魔法が得意と言っていたな。
﹁それともうひとつ、宴席ではカサンドラを借りるからな﹂
﹁?﹂
﹁若い女が必要だと言っただろう。接待させるのだ、気持ちよく野
牛の一族どもを懐柔させるためにな﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁ただ酌をさせてまわるだけだ。何かおかしな事があれば、それこ
そわらわたちが野牛の族長に付け入るチャンスでもある。その点は
安心してよい﹂
何とも計算高い女だ。
もちろん、もしもなんて事はあってはならないし、おかしな事に
でもなれば俺が黙ってはおけない。
﹁わかりました。ではせいぜい野牛の一族と上手くいく様に俺なり
620
に努力させてもらいますよ﹂
﹁よろしく頼むぞ。上手くいったあかつきには、ご褒美な﹂
引っ張るなぁアレクサンドロシアちゃん⋮⋮
俺はご褒美が何なのか知りたくてウズウズしちゃってます。
◆
屋敷の外で待っていたエルパコと合流し、俺たちは家路につく。
﹁エルパコ﹂
﹁⋮⋮うん?﹂
﹁お前、獣人族って言うけど、何の獣の猿人間なんだ?﹂
このファンタジー世界でいうと、人間とゴブリン以外はたいてい
獣人の事を何かの猿人間と言う。
それに従えば、こいつは犬か狸か狐か、そのあたりの猿人間だろ
う。
いやまて、狸はこの世界で見かけたことが無い。すると何だろう。
ジャッカル面の猿人間と言えばコボルトだが、あいつらはケモナ
ーレベルがかなり高い、ジャッカルの顔そのものだった。
﹁狐だよ。狐の獣人。猿人間なんて言わないでよ⋮⋮﹂
﹁そ、そうか悪かったな﹂
ぶすっと頬を膨らました顔が何とも愛らしい。
いかんいかん、こいつは男だ!
﹁シューターは、獣人の発祥について、知ってる?﹂
﹁いや知らん。俺はこの辺境よりずっとずっと遠くからきた田舎者
621
なんでな、そういう事には詳しくないんだ。俺のいた場所には、ち
ょっと有名な青狸のバケモノがいたぐらいだからなあ﹂
﹁青狸?﹂
﹁そういう動物がいたんだ﹂
﹁ふぅん、そう﹂
俺が自分の元いた世界について適当に誤魔化していると、エルパ
コがこちらをおずおずと見上げていた。
﹁すべての獣人のはじまりは、犬獣人だって言われているんだ﹂
﹁ほう、犬は人類の相棒なんて言われているからな。最初に家畜に
なったのもモノの本によれば狼から別れたばかりの犬だったらしい﹂
﹁そうなんだ? 人間はさ、身勝手な生き物なんだよ。古代人の人
口がいっぱい減った時に、犬の雌を魔法で人間にしてしまって、人
口を増やしたんだってさ。変態だよね?﹂
俺に同意を求める様にエルパコが言った。
さらりと軽く言われたが、このファンタジー世界の古代人は何を
やっているのだ。
とんだ変態さんだぜ。
﹁ぼくたち狐獣人はずっと後になって生まれた種族だって聞いたけ
ど、ミノタウロスというのもそうして生まれたんだよ﹂
﹁ほう、牛の女を人間にさせて産ませた子孫が、野牛の一族なのか。
人間とは業が深い生き物だな﹂
ある意味で興味深い内容ではあったが、聞いていてあまり気持ち
のよい内容ではない。
俺はしかめつらをしながら、我が家である家畜小屋へと戻ってき
て、立てつけの悪いドアを強引に明けた。
622
﹁あ、おかえりなさいシューターさん。それからエルパコちゃん﹂
﹁やあただいまカサンドラ﹂
﹁た、ただいまです﹂
﹁キュイ!﹂
新妻にエルパコちゃんなどと呼ばれたけもみみは、何だか気恥ず
かしそうにうつむいてしまった。
年頃の男の子なので、こういうのは恥ずかしいやら何やらあるん
だろうな。
﹁お湯、沸いてますよ。お風呂になさいますか?﹂
﹁おうそうするか﹂
﹁シューターさんと一緒に、エルパコちゃんも入ってしまいなさい
な﹂
﹁キュイキュイ!﹂
俺の足元に走って来た肥えたエリマキトカゲを好きなようにさせ
ていると、ずりずりとズボンに体をこすりつけだしたではないか。
こらやめなさい、おじさんの一張羅のズボンなんだからな。
﹁そういえばシューターさん、今日のお出かけはどうなったんです
か?﹂
﹁ああ、無事に野牛の一族と会談になってな、女村長の提案で三日
後に宴会をする事になった﹂
﹁まあ﹂
﹁なので明日は鹿狩りに出る事になった。当日はカサンドラも野牛
どもに酌をして回る様に、女村長に命じられたからな﹂
俺はそんな話をしながらチョッキを脱いで、ズボンに手をかける。
623
エルパコもきょどきょどしながらも俺に続いて服を脱ぎはじめた
のだが、どうも華奢なその体のラインが女子っぽいのだ。
男の子だと言わなければたぶんわからなかっただろう。
そして脱いだ。
ちゃんと脱いだら、エルパコにも息子が付いていた。
よかった、ちゃんと皮も被っている。
﹁そんな風に遠慮せずに、ゆっくり入ってくださいね。お湯はまだ
沸かしてありますので気にせずに﹂
﹁そうだぞ。よし俺が背中を流してやろう﹂
カサンドラと俺が揃って風呂用のたらいに入る事を進めると、モ
ジモジとしていたエルパコが遠慮がちに脚をすっと中に入れた。
﹁い、いいよ。背中はやらなくても﹂
﹁そうだな。男がやると色気が無くていやか、お前も年頃の女だし
な!﹂
﹁そうじゃなくて⋮⋮﹂
﹁じゃあ、わたしがやりましょうか?﹂
﹁えっ﹂
エルパコが遠慮しているので、カサンドラがへちまのたわしを手
にして、エルパコの背中に手を回した。
﹁早くしないと湯が冷めちゃうからな、さあ体を洗おう﹂
﹁キイイキイィ!﹂
こうして俺たちはふたりがかりでエルパコの体を洗った。
途中でたらいに乱入してきた肥えたエリマキトカゲが、お湯で気
持ちよくなってウンコを湯の中で粗相したのはちょっとしたハプニ
624
ングである。
﹁おま、バジル! 何をやってるんだよ!﹂
﹁キィ⋮⋮﹂
625
57 ミノック・アウト 前編
俺の名はシューター。
異世界で猟師をやっているはずだったが、近頃はまるで猟師らし
い事をやっていない三二歳の村人だ。
ところで今日は総勢十名からなる猟師や冒険者たちが、鹿の群れ
を追って森の中を移動していた。
俺も猟師として久しぶりに短弓と手槍を持って、猟師らしいこと
をやっている。
少し前から猟師と冒険者がパーティーを組んで、村周辺に広がる
広大な森と草原をマッピングしていたわけだが、その際に見つかっ
た野生動物たちの情報が、有効活用されているのだ。
村の倉庫だった場所が、新しく村に出来た冒険者ギルドだ。
そこに各パーティーの集めた情報が大きな地図に書き込まれてい
き、動物の情報もピンを刺すなどして、最新のものを記してある。
俺の元いた世界に比べれば恐ろしくアナログな手法なんだろうが、
ここでは有効だった。
﹁あっちに見えたぞ。数は五、六〇頭ばかりの小集団だ。たぶん話
にあった情報の群れから別れた傍流だろう!﹂
新しく村にやってきた冒険者が、小さく、けれども通る声で通告
した。
最前列を移動していたニシカさんとッワクワクゴロさんが、まる
でここが林の中ではない様に高速で移動していく。
向かう先は鹿の小集団そのものではなく、それより先回りをする
様な格好だった。
逆に俺たちは手槍や弓を構えながら、正面からじわじわと近づく
626
方となる。
当初決められていた通りの役割だった。
ニシカさんはまだ弓を用意はしていない。
ッワクワクゴロさんは、自分の手足としてッサキチョさんから譲
られた遺産の猟犬たちに指示を飛ばしていた。
猟犬たちの半分がッワクワクゴロさんから別れて、俺たち正面か
ら近づく先頭に移動していた。
ついでにその猟犬の中に、ずんぐりむっくりの肥えたエリマキト
カゲがいる。
バジルだ。
えさだけ食べさせているわけにもいかないのでッワクワクゴロさ
んところの猟犬と一緒に訓練をしてもらおうかと思っていたのだが、
ッワクワクゴロさんはさっそく実戦投入を命じてきやがった。
俺のいう事はたいがい聞くので問題ないという事らしいが、子供
のうちから狩場に慣れさせておくのも猟犬の正しい躾の方法らしい。
でも、バジルはまだあかちゃんだぞ?
普段ならキィとかなきり声で泣くのがあかちゃんの癖だが、今日
はちゃんと狩りに出ているという事を理解しているのか終始無言だ
った。
これ、大きくなったら確かに狩りに使えそうね。
﹁どのタイミングで飛び出すんですかね?﹂
﹁わからん。ッワクワクゴロさんかニシカさんはもう見えなくなっ
てしまったからな。たぶん矢笛で合図があったら俺たちが飛び出し
て、鹿を誘導するのがいいんだろう﹂
俺が隣にいる青年猟師に質問したところ、そういう段取りを教え
てくれた。
627
すぐ背後にはカサンドラとエルパコも控えている。
ブッシュをかき分けながら前進する。
俺たちはみんな低姿勢だ。
俺はあまり弓が得意ではないのであまり使いたくはないのだが、
最初の取り決めでは合図とともに一斉に矢を放つという事だ。
二射目、三射目は弓が得意な人間がやればいいが、俺などは手槍
片手に飛びだす役割だった。
これは俺と付いてきた冒険者ひとり、それにカムラさんが担当す
る。
カムラさんはたぶん弓も器用に使える人間の様だったが、追い立
て役が冒険者ひとりと俺だけなので、こちらに加わったのだ。
額の汗がうっとおしかった。
いよいよ夏になって来た実感をそれで覚えるが、この草蒸すブッ
シュの中でこの湿気はかなりきつい。
鹿どもは、少し移動しては地面の草をむしゃむしゃやっていたり、
時折首を上げて周囲を見回したりしている。
俺たちは狩りの常道にのっとって風下から西上する形で移動して
いたので、まだ連中は気付いていないらしい。
猟犬たちまでが低い姿勢でジリ、ジリと進んでいるのを見て、俺
がおじさんたちと猟に出かけていた頃の事をふと思い出させてくれ
た。
ついでにバジルまで同じ様な格好を肥えた体でしているのが微笑
ましい。
ただしあいつにはまるで緊張感の欠片もなく、どちらかというと
遊びの延長線上に見える。
真似して遊んでやがるのだ。
反対に風上には、こういうのを一番に得意としているニシカさん
がいる。
628
ッワクワクゴロさん自身は、ベテラン猟師ではあったがニシカさ
んほど機動力がないらしく、やや遅れて付いていくという話だった
が、すでにもうここからはうかがい知ることが出来なかった。
よくよく考えると、ワイバーンを狩った時の事を除けば、本格的
にこれほど大規模な狩りに参加する事そのものがはじめてかも知れ
ない。
しかも今日は運がいい。
こうして比較的簡単に獲物たる鹿の群れに出くわしたのだからな。
泥臭い匂いと草蒸す匂いが鼻に纏わりつきながら、俺は矢筒から
矢を一本抜き取った。
雰囲気で、そろそろ仕掛けると言うのが分かったからだ。
隣の青年猟師は矢を三本片手に持っている。速射するつもりなの
だろう。
ふと風に乗ってキューンという矢笛の響きが空を翔け抜けた。
当然だが、ブッシュの切れ間から見える鹿たちが、一斉にもたげ
ていた首を上げた。
何事か、という感じなのだろう。
その途端に、猟犬たちが咆えながらブッシュの中から飛び出した。
﹁射て!﹂
青年猟師の言葉と共に、俺たちが一斉に引き絞った短弓を射掛け
る。
俺もカサンドラやエルパコと一緒に矢を放ったが、カサンドラの
矢は力が足りないのか群れのやや手前に落ちてしまい、エルパコの
ものは距離だけは稼いだが、これも外れた。
ふたりは慌てて二射目にかかったけれど、俺は犬やバジルと一緒
に走り出す。
629
駆けながら見ると二頭にうまく矢が刺さっているのが見える。
一頭は間違いなくニシカさんが長弓で一撃を加えたものらしく、
どぅっと倒れ込んだ。雄鹿だ。
もう一頭はたぶんッワクワクゴロさんや別の猟師たちのものだろ
う。うまく尻に数本ささっているので、みんな狙いやすそうなのを
射かけたところ集中したという事だろうか。
と、思ったところで、バジルがとんでもない事をしでかした。
グオオオオオオオン!
その体のどこからそんな咆哮が出るのやら、バジルがバジリスク
特有のバインドボイスを口から吐き出したのである。
当然、駆けだした俺はつんのめりそうになりながら⋮⋮というか
転がって受身を取りながら立ち上がった。
おいおい、そういう事は最初の打ち合わせでちゃんと言っておい
てくれ。
俺はうまいことそのまままた走り出したが、カムラさんともうひ
とりの冒険者は耳をふさいで縮こまってしまったみたいだ。
ついでに一斉に逃げ出した鹿どもも大混乱だったらしい。
棹立ちになってしまったものや、そのまま何もない場所でずっこ
けた鹿、中には四本足で立ったままジっとしているやつまでいる。
これは入れ食いだ。
俺が必死で鹿の群れに近づくと、手ごろな転げた鹿の肺臓あたり
めがけて手槍を思い切り刺し込んでやった。
すぐにも手槍を抜いて次の獲物をと思っていると、まだ鹿は健在
らしく起き上がろうとしているので慌ててナイフを抜いて首に突き
立てる。
よし、これでいい。
などと思っていると、今度は味方から次々と矢が飛んできたので
630
俺は焦った。
﹁やめろ! 俺がいるのに! 適当に弓を打つな!﹂
俺が慌てて大声を上げると、さらに恐ろしい事に強弓から放たれ
た矢が俺の目の前を過ぎ去るじゃないか。
その矢に度肝を抜かれた俺だったが、見事に立ち上がって一目散
に逃げようとしていた鹿の肺臓にぶすりとささりやがった。
﹁ニシカさん、やめろ! 寿命が縮まる!!﹂
バジルの硬直化をもたらす咆哮とニシカさんの強弓のおかげで、
いとも簡単に鹿を約束通り七頭、仕留める事が出来た。
あっけないぐらい上手く行ったが、俺としては生きた心地がしな
かったね。
何しろ目の前を雨あられと矢が飛んできて、ニシカさんにはわざ
となのか目の前を射抜かれたんだからな。
抗議してやろうかとブッシュの中から姿を現した鱗裂きのニシカ
さんを睨み付けると、彼女はぼりぼりと頭を掻きながらとんでもな
いことを言いやがった。
﹁ったくよ、張り合いがねえな。なあやっぱ、これからワイバーン
仕留めに行こうぜ﹂
﹁行かねえよ!!﹂
◆
三日後、その宴は湖畔の草原で行われた。
双方の人間が簡易天幕を張り巡らしたりして宴席の準備を前夜か
ら続けていたが、朝になるとそこに食材がわんさと持ち込まれて、
631
これもまた双方の料理人たちがせっせと食べ物を用意する。
俺たちの村ではぶどう酒に付け込んだ鹿肉や肝を使った煮物など
を用意していたので、事前に寸胴鍋に入れて運び込まれた。
一方の野牛の一族は牛を潰してバーベキューをするつもりだった
らしい。
網にかけて焼くアメリカンなバーベキューというわけにはいかず、
どちらかというとモンスターをハントするゲームスタイルの鉄串に
刺して火に炙りつける様な感じだった。
まあ、料理は順調である。
村の女どもはジンターネンさんの指揮のもとに出来上がった鹿肉
スープや贓物煮つけを木の皿に盛りつけて、双方の要人たちに配り
始めた。
女村長と野牛族長、それにギムルさんタンヌダルクになぜか俺、
がちょっと上等な天幕を囲んでいくスタイルなのは不思議な気分だ。
﹁なかなか上等な牛肉の様だがお前たちの都市、居留地と言ったか
? ではこんな美味いものをいつも食べているのか?﹂
﹁フンス、まさかそんなわけがあるか。こうして祝い事がある時に
何頭か潰して食べるんだ。普段は必要分だけを潰して、街で少しず
つ流通させている。こんなに大量に牛を潰す事はめったにないぞ﹂
﹁そうか、機会があれば種牛を分けてもらいたいものだな﹂
﹁そういうお前たちこそ、よくこの短期間にこれだけの鹿肉を用意
したものだな。フンス、味はともかくとして、お前たちは蛮族とい
うだけあって狩りに長けているらしい﹂
﹁あっはっは、言ってくれるわ牛面が﹂
例によって不味いぶどう酒を口に運びながら、俺はぼそぼそした
鹿肉を噛みしめていた。
ぶっちゃけた話をして、国産和牛のいい肉を食べていた俺からす
632
るとミノタウロスたち自慢の牛はさほど美味いものじゃなかった。
味はこういうところだけアメリカンだ。
ただし、俺はそれほどこのファンタジー世界の味付けに悲観して
いるわけじゃない。
慣れてくるとこの赤身の牛肉もなかなか歯ごたえがあって悪くな
いなと思い出すから不思議だ。
だがぶどう酒は不味い。
何しろもとからしぼり粕が残っている様な酒なのに、権力者たち
の駆け引きを楽曲にして飯を食っているのだから不味いに決まって
いるのだ。
俺がため息まじりにぶどう酒の酒杯をおひとりさま用ちゃぶ台に
置いたところで、チラリと青年ギムルの顔が見えた。
これから人質として差し出される身分なので、いい気がしないの
だろう。
相変わらず考えていることが表情に出る男だ。
﹁呑んでるか、ギムルさん﹂
﹁黙れ﹂
﹁黙ってたら親睦会にならないだろう。覚悟はまだ出来てないんで
すか﹂
﹁親睦は野牛とやれ。俺にかまうな﹂
﹁あのですね、ギムルさん﹂
不味いけれど、呑んでいて気の大きくなった俺はギムルに身を寄
せて囁く。
﹁こうなっちゃったもんは、しょうがないでしょう。この状況で何
が最善なのかを考えて行動する事ですよ。ピンチは最大のチャンス
なんです﹂
﹁お前は野牛の一族から綺麗どころの嫁を貰う立場だからいいだろ
633
う。族長の妹となれば、有力者の一族だぞ。それに比べて俺は、ま
だ誰と結婚させられるかもわからんのだ。村に残る人間は偉そうな
事を言うな﹂
苦々しい顔をしてギムルがぶどう酒を一気にあおった。
この男、そういえば酒を呑むと態度が悪くなる傾向があった。
出会ってはじめの頃も、俺のぶどう酒に手を出して剣を抜いたぐ
らいだ。
街に出た時はわりかし大人しくしていたが、それは旅先という事
で本人も自重していたのかもしれない。
今ギムルを見ていると、手酌でぶどう酒を瓶から酒杯に注いで、
またごくごくとやっている。
﹁村長を、義母上の事はくれぐれも頼んだぞ。野牛の誰かが義母上
と結婚などという事になったら、俺は暴れるぞ﹂
﹁それは駄目です。あんたの義母上がわざわざあんたの将来のため
にと足場固めをしてくださってるんだ、親の思いやりはしっかり受
け止めなさい﹂
﹁嫁が増える人間は羨ましいな! 俺の婚約者も美人だといいんだ
がな⋮⋮﹂
本音はそこか。
まだ誰がギムルに嫁いでくるかも話し合われていないので、もし
かすると気が気でないのかもしれない。
ついでに母親の側を離れるのも嫌だというわけだ。
﹁おい、もし義母上が再婚するなどと言い出した時は全力で止めろ。
他人に渡すぐらいなら、お前が俺の父親になれ﹂
﹁はぁ? 何だって?﹂
634
ギムルの言葉に素っ頓狂な声を俺が上げてしまった。
﹁いいか、形の上だけでも義母上が再婚してしまえば誰も手出しを
してこんだろう。そうだこれは名案だ。シューター、お前そうしろ﹂
﹁あんた、大分酔ってるね?﹂
﹁馬鹿を言うな。俺はいつでも元気だ﹂
酔っているらしい。
ギムルの名案とやらは適当に流しながら、俺はチラリと反対の席
に座っているタンヌダルクを見やった。
ちょうど俺たちの村の女がやって来て、不味いぶどう酒を野牛妹
に勧めているところだった。
カサンドラが顔を出すかと思ったら、よりによってジンターネン
さんだ。
いつもは不機嫌な顔をしているはずなのに、愛想笑いを浮かべて
いるのが気持ち悪い。
女村長は若い綺麗どころを集めるとか言ってたけど、ジンターネ
ンさんのどこが綺麗どころだよ!
あ、ジンターネンさんの勧めをタンヌダルクちゃんが拒否した。
途端にジンターネンさんの顔がみるみる不機嫌になっていったの
で、俺はあわてて立ち上がって介入した。
﹁まあまあ、ジンターネンさん。綺麗どころのお姉さんは男たちの
相手をしてやってくださいよ。村一番の戦士であるところの俺が、
タンヌダルクちゃんの相手をしておきますから﹂
﹁ふん、村一番の全裸奴隷がよく言うよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その場は何とか治めたものの、問題はタンヌダルクちゃんだ。
俺はつーんと澄ました顔をしているタンヌダルクちゃんをまじま
635
じと観察した。
さて、どう取り繕おうかな。
﹁何ですか気持ち悪い。どうせわたしの胸をじろじろみていたんで
しょう? あのオーガどもみたいに﹂
﹁いやあ大きくて目立つものに眼が行ってしまうのは人間の性分っ
てものでしてねぇ﹂
﹁やっぱり蛮族じゃないの⋮⋮﹂
﹁とんでもない。これでも俺は文明人を気取っているんですよ﹂
俺の中で蛮族といえばニシカさんなので否定する。
﹁ところで、そんなに人間に嫁がされるのが嫌なんですね﹂
﹁当然です。聞けばあなたはもうすでに奥さまがおられる立場だと
いうじゃないですか。わたしは第二夫人ですか? 何さまですか?
蛮族さま?﹂
﹁そうなんです、俺はこの春に妻をめとったばかりの立場でしてね、
ありがたい事です﹂
﹁わたしはちっともありがたくないです!﹂
﹁ですよねー﹂
﹁ですよねーではないです! どうしてくれるんですか!﹂
﹁まあ俺も困ってるんだ正直。村長さまに逆らうわけにはいかない
し、カサンドラをどうやって説得したらいいかわからないし。そう
だ、タンヌダルクさんが俺は嫌だと言えばいいんじゃないかな?﹂
タンヌダルクちゃん思い切り嫌だと拒否反応を示せば、結婚の相
手は他の誰かに自動的に決まる。例えば美中年カムラあたりなら、
生涯フリーの男だし顔も悪くない。
﹁わたしが兄さんに逆らえると思うの? それともあなたが兄さん
636
を説得してくれるんですかぁ?﹂
﹁いや、闘牛のプロフェッショナルらしいので、怒らせるのはちょ
っと嫌ですねえ﹂
﹁じゃあどうするんですかいったい!﹂
タンヌダルクちゃんはフンスと鼻を鳴らしたついでに、たわわな
胸を揺さぶった。
そのまま不機嫌に酒杯を手に取ると、ひと息にぶどう酒を呑みほ
してしまう。
ふうと息を付いた後に、ついついげっぷが飛び出してタンヌダル
クは慌てて口を押えた。
無理をしているらしい。
﹁あの、お酒はあまりお強そうでもないんですけど。大丈夫ですか
ねえ﹂
﹁大きなお世話です。お酌、してくださらないの? 村一番の全裸
奴隷がわたしの相手をすると言ってたじゃないですか。口だけだっ
たんですか?﹂
何という口答え。
でもまあ若い女の子がツンケンしているのは、可愛げがあってい
いですね。
ジンターネンさんがツンケンしていると更年期障害かな? とか
思ってしまうからな。
俺は口を押えたまま酒杯を差し出したタンヌダルクに、ぶどう酒
を注いでやった。
﹁だからね、実はまだ妻には新しい嫁をもらう話、してないんです
よ﹂
﹁まあ。蛮族と言ったら奥さんを何人もはべらせるのが普通だと伺
637
ったんですけど、違うんですか?﹂
﹁いやあ俺、見ての通りの奴隷なんで、蛮族かも知れないけど村の
カーストじゃ最下層なんだなぁ﹂
俺はへそピアスを自分で引っ張って見せて説明した。
﹁そのピアス、あなたは村一番の戦士なのに、どうして奴隷なので
すか﹂
﹁いろいろ事情があるんですよ、大人の﹂
﹁わかりました、あなたに足枷をはめるためにあの蛮族の女族長が
あなたを奴隷身分に落としたのですね。でも強い戦士の子種は欲し
いから、わたしが嫁がされて子供をつくらされるのね﹂
お前はいったい何を言っているんだ。
ぶるりんおっぱいを揺らしながら思案気にタンヌダルクちゃんが
ため息をついた。
﹁わたしの予定では、自由恋愛をして素敵な白牛の騎士さまと結ば
れる予定だったのに。こんな蛮族の全裸戦士と結婚だなんて兄さん
にはホントがっかりです⋮⋮いまどき政略結婚なんて蛮族のする事
なのに﹂
﹁こら、蛮族蛮族とうるさいよ。大人に失礼な事を言うんじゃない﹂
﹁ひっ﹂
いいかげん腹の立った俺は、タンヌダルクちゃんの頭を掌ではた
いてやった。
﹁⋮⋮⋮⋮!﹂
﹁ん? 痛かったか?﹂
﹁あなた、いま、わたしの、角を、さわりましたね?!﹂
638
﹁ああ、ちょっと当たったかもしれない﹂
﹁自分もわたしと結婚するのは困ってるとか言っておきながら、ち
ゃっかりわたしに求婚するなんてやっぱり蛮族だわ﹂
﹁蛮族って⋮⋮別におもいきり叩いたわけじゃないんだからDVっ
て事は無いだろうが。ポカリともしていないはずだぞ。てか、球根
?﹂
球根なんかどこにもないじゃないか。
﹁⋮⋮兄さん、兄さん!!﹂
見ていると、腰を抜かしてわなわなと震えているタンヌダルクち
ゃんが、突然に悲鳴を上げた。
﹁何だタンヌダルク、義弟どのと上手くやっていたんじゃないのか﹂
﹁ん、シューターどうした﹂
何やら政治的な駆け引きの応酬を延々とやっていたふたつの組織
の代表者たちが、そろって立ち上がると俺のところにやって来たで
はないか。
﹁ここここ、この男が、全裸を貴ぶ蛮族が、わたしの角を素手で触
ったんですよぉ⋮⋮﹂
﹁何、本当か。もう求婚なんかしやがって気の早い男だな!﹂
何がどうなったのか、俺はわけがわからなかった。
あまりにもタンヌダルクが大きな声を出すものだから、ぞろぞろ
と野牛の一族と村人幹部たちが、俺たちの天幕に集まって来るでは
ないか。
ついでに新妻がいるとえらい事だと思って周囲を見回したら、ひ
639
ょこりと天幕からニシカさんと一緒に顔を出しているところを目撃
してしまった。
最悪だ!
ニシカさん助けて!
﹁シューター、お前なにをやらかした﹂
﹁俺は何もしてませんから!﹂
女村長の詰問口調に俺は慌てて釈明した。
﹁いやなに、この戦士がさっそく俺の妹に求婚をしたらしいのだ。
俺たちの一族にとって、角を触らせてよいのは夫となる男だけだか
らな。なかなか度胸がある男じゃないかこの若造は!﹂
﹁そうかシューター、覚悟を決めたか。結婚おめでとう、ふたりの
嫁を養うのであればご褒美はやはり屋敷をひとつ新築しよう。わら
わも内々に考えてた事だが急いだ方がいいの﹂
何を言ってるんだこの年増村長。
あんた、その顔は状況を何となく理解している上で、わかった上
で、あえてみんなの勘違いに乗っかっている態度だぞ!
しかもご褒美って新居だったのかよ。ちょっとムフフ期待してた
のに損した!
俺は心の中で色々と叫びまくったが、結局何かを言う前にカサン
ドラがとても悲しそうな顔で俺を見ていたので絶句してしまった。
◆
﹁シューターさん、そういう事はもっと早く教えて下さらないと。
今後の生活費の事もありますし⋮⋮﹂
640
嫌々をして天幕を飛び出したタンヌダルクのおかげで、追いかけ
た野牛の一族の大半がいなくなったので俺だけ取り残された様な格
好になってしまった。
カサンドラとニシカさんが近づいてきたかと思うと、開口一番嫁
がそんな事を行ったのである。
﹁ちょっと待ってね、これは完全なる誤解だからね﹂
﹁誤解もへちまもありません。うちはただでさえ貧乏なんだから、
家の増築もしないと⋮⋮バジルやエルパコちゃんもいるんだから﹂
カサンドラが指折り数えてぶつぶつと言った。
最後に例によってとても嫌そうな顔を俺に向けた。
﹁結婚というものは村長さまや大人の親戚が決めるものです。わた
しもそういう事は理解しているつもりです﹂
﹁う、うん﹂
カサンドラ、そんな顔で俺を見ないでくれ。
﹁でもわたし怒ってます。悔しいです。シューターさんはわたしが
独占できると思ってたので⋮⋮﹂
ぷいとそっぽを向けたカサンドラは立ち上がると、天幕を出て行
ってしまった。
こういう時に男同士のギムルが助けてくれるかと思ったが、呑み
過ぎて早々に潰れてしまっていたのか、酩酊して舟をこいでいた。
使えねぇと思ったのも事実だが、こういう時は誰かに頼る様では
いけない。
むかし俺がとある企業で企画立案のアイデアを出すだけの簡単な
641
お仕事をしていた事があった。
様々な立場のバイトがかき集められた会議室で、朝から晩まで頭
を捻り続けるのである。
俺たちバイトの担当者は四十絡みの男だったけれど、究極まで俺
たちを追い込んで、無理難題の中でアイデアを捻り出させたものだ。
予算は無い。だけど何とかこの商品を広げる手段は無いかな?
あるわけねーだろ! ではこのバイトは務まらないので、ギリギ
リまで自分たちを追い込むしかなかった。
だがこの追い込まれた状況でいろんなアイデアが出た。
あるペット商品を売るのに、他社より買わせるために同列の値段
ではなく、あえて値段を上げてセット売りをするだとか、それによ
って付加価値を作ったり、同じ価格帯で比較させないという方法だ。
担当の男はとにかく切れ者だったな。
彼自身ももちろんアイデアをばんばん出していったが、彼のその
追い込まれてなおアイデア捻り出しをするのが、辛くもあり、仕事
をしたぜという達成感があったんだな。
達成感については置いておいて、今このピンチをどうにかしなく
てはいけない。
俺は妻を怒らせた。
妻は俺を独占したいと言っている。
俺は妻が好きであるわけだが、アレクサンドロシアちゃんの命令
も一方で絶対である。
今この危機的状況だから自分自身で解決をしなければならない。
今後俺はどうしていくのか、わかんねえよ!
﹁おい、シューター。あの牛チチ女と結婚するのかお前?﹂
﹁するかどうかわかりませんが、女村長はそのつもりみたいですね﹂
﹁他人事みたいに言うんじゃねえ。お前ぇ自身のことだろうが﹂
﹁実は知らないうちに俺、野牛の一族の作法でプロポーズしてしま
642
ったらしいしんですよ。もちろん女村長は相手が嫌がるなら他の候
補も考えるが、婿候補のひとりだと俺を最初から員数には入れてい
たみたいですけど﹂
﹁ふうん、そうかい。なら逃げられない運命じゃねえか﹂
﹁けど、俺の故郷じゃ結婚はおひとりさままでって国法で決まって
いるんです﹂
﹁だがここはお前の故郷じゃないだろ﹂
﹁そうですけどね⋮⋮﹂
ため息をついて、ギムルのいびきだけが聞こえる部屋で不味いぶ
どう酒をあおった。
﹁結論なんてわかってんだ。あとはしっかりカサンドラとよく話し
合って、タンヌダルクとどう関係を作っていくか決めないとな。あ
くまで最初にもらった妻はカサンドラなんだから、大事にしないと﹂
﹁何だよ、ちゃんと理解してるじゃないか。それでいい﹂
ニシカさんはそう言うと、ぶどう酒の瓶をラッパ飲みした。
うまい、うまいと言っているところが彼女らしい。
まったく。この世界は俺に優しくない。
◆
そんな甘ったれた事を考えていた俺に、この世界の神は天罰でも
下したかったのかもしれない。
天幕に戻って来た女村長とタンクロードバンダムが、ずかずかと
俺の前までやって来た。
どういうわけかそこにカサンドラと、タンヌダルクも一緒に後ろ
についてきた。
タンヌダルクちゃんは後ろで気恥ずかしそうにもじもじしていて、
643
何でかカサンドラがそれを慰めている。
何があったんだわずかな間に?!
﹁話し合った結果、タンクロードの妹御は本当にお前が村最強の戦
士なのか、それを証明したらこの結婚を呑むと言っていた﹂
﹁あの、どうやって証明するんですかね、その最強は﹂
俺が事態を飲み込めず不思議な顔をしたところ、野牛の族長が歯
並びのいい白い歯を見せてニヤリとしやがった。
﹁俺と闘牛で勝負して、漢を見せればいいだけだ。なあに簡単だろ
う? 全裸を貴ぶ戦士よ﹂
﹁ふぁっ?!﹂
﹁頑張ってくださいシューターさん。応援しています!﹂
﹁そうよ、わたしは戦士の元に嫁ぐのだから、戦士の証明をしてみ
なさいよ﹂
嫁と嫁候補までそんな事を言っている。
カサンドラは例によってとても嫌そうな顔をしていたので、俺が
黙っていたことがやっぱりご立腹なんだ。
﹁ちなみにシューターとかいったな。闘牛は正式な試合をする時、
お互いに掴み投げが出来ない様に下着一枚で勝負するのが習わしだ。
お前も全裸を貴ぶ部族というから、ちょうどいいな﹂
よくねえ! 何でそこで全裸なんだよ!
﹁そういう次第だ。わらわも楽しみにしておるので、この勝負、必
ず勝て﹂
﹁負ければ?﹂
644
﹁負ける事は無いと思うが、無様な負け方をすれば奴隷としてお前
をミノタウロスに引き渡す取り決めをした﹂
非情を告げる女村長に、この世の理不尽さをひしひしと感じた。
何としても、全身の毛穴でこの野牛の族長の暴威を受け止めなけ
ればならないのだ。
645
58 ミノック・アウト 中編
このファンタジー世界で闘牛といえばミノ式パンツレスリングで
ある。
もともとこの格闘技が発祥したのは、元いた世界のアジアにおけ
る相撲と同じく、神に捧げるためや部族の間で競うためのものだっ
たらしい。
俺はミノタウロスについて詳しいわけではないが、どうやら人間
の生活圏の中で孤立している野牛の一族は文化程度があまり高くな
いらしい。
逆に辺境の向こう側には、少なくともタンクロードバンダム率い
る部族と同程度に発達した文化の部族たちがいるのだとか。
ではなぜ文化人の癖にミノ式パンツレスリングなんだよ。
文化人なら服着ろよ、という論はごもっともである。
その事を俺が質問すると、
﹁わたしたちの武器は優れているので、訓練と言えど相手に怪我を
させてしまうんですよ﹂
﹁だったら練習用の武器とかでいいんじゃないんですかね⋮⋮﹂
﹁でもそれだと、わたしたちの優れた防具が攻撃力を完全に防いで
しまうんですよ﹂
﹁なんという矛盾。なんという理不尽⋮⋮﹂
ヒモパン一丁になった俺に、なぜか得々とタンヌダルクちゃんが
いろいろと教えてくれた。
最強の武器と最強の盾という話をして、いかに自分たちの文化が
優れているのか俺に伝えたいのだろうけれど、俺にはむかしの故事
に出てくる﹁矛盾﹂そのものを感じて苦笑した。
646
俺が苦笑を浮かべると、俺たち人間が負けを認めたのかと、タン
ヌダルクちゃんはますます勝ち誇った顔をした。
﹁兄さんは武器を使った戦いも強いですが、素手でも負け知らずで
すよ。何しろ近隣部族で随一の腕前でしたから﹂
﹁し、シューターさんは荒ぶるワイバーンを倒した村一番の戦士で
す。ギムルさんだって棒切れで制圧した事あるんですから⋮⋮﹂
それまで黙って俺の拳にテーピングをしていたカサンドラが、突
然立ち上がってタンヌダルクちゃんに食って掛かった。
言ってから、俺たちの側で黙って腕組みして見届けていたギムル
さんは、とても嫌そうな顔をしたのが視界に飛び込んだのだろう。
慌ててカサンドラのトーンが尻すぼみになって行った。
ギムルはごほんと咳払いをすると、ちょっと恥ずかしそうな顔を
して口を開く。
﹁黙れ﹂
﹁⋮⋮黙ります﹂
﹁俺もあの時の事は反省している﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ギムルって意外といいやつなんだよな。
考えていることがわかって来ると、案外と可愛げがあるのである。
第一に義母上、第二に義母上に構われない時の嫉妬。うんわかり
やすいね。
よし、テーピングというほど立派なものではないが、自分の拳を
保護する程度に包帯でしっかりと手を固定した。
相手がどんな格闘スタイルでやって来るかはわからないが、空手
はそれなりに万能な格闘技・武道だと思っている。
647
脚を止めて打ち合いをしない様にさえすれば、勝負になるはずで
ある。
﹁シューターさん頑張ってください﹂
﹁おう、ありがとうな﹂
﹁兄さんに無様に負けたら結婚相手として認められませんからね。
でも、兄さんは近隣最強だからあなたに倒せるかわからないです、
残念でしたね﹂
健気なカサンドラに比べると、応援したいのか兄を自慢したいの
かわけのわからないタンヌダルクちゃんである。
まあ、俺は格闘技大好き人間なので、勝負する事は嫌じゃない。
たぶん自分の得意のパターンに持ち込めば勝算もある。
無様な負け方というのさえしなければ、俺としては楽しんだもの
勝ちだな。
ただ嫌な予感がするのも確かだ。
ミノ式パンツレスリングはあやういのだ。
パンツ掴み投げで股間大破は間違いなしだからな。
﹁ちなみに勝利条件というのはどうなってるのかな?﹂
﹁戦意喪失したら負けですよ﹂
これっていち度形成が不利になったら、自分から絶対に負けなん
て認められないじゃないか。
痛いのが嫌だから負けってのはさすがに無様だから、言い出せな
いパターンだわ。
◆
648
拳を固めた俺は、やんやと騒がしい外野をいち度睥睨した後に集
中する様に自分に言い聞かせた。
道場でスパーリングというか練習組手をする事はこのファンタジ
ー世界にやってくるちょっと前まで、よくやっていた事だ。
けれども、試合ともなると数年ほどブランクがある。
ギャラリーがあるというのは、それだけで精神状態が平常とは違
うものだから、ドキドキもひとしおだった。
野牛の一族たちは﹁族長ぶっ殺してしまえ!﹂などと激しく危険
な野次を飛ばしていたけれど、それは村の人間たちも同じだった。
ニシカさんなどは﹁シューター、内臓だ! 内臓を潰せ!﹂とか
言ってくるし、ッワクワクゴロさんは﹁首だ、首に一撃を入れれば
どんな相手も一瞬で片が付くぞ!﹂などととんでもない事を言う。
俺がお世話になっていた沖縄空手の古老は、特に肝臓への一撃、
首の頸動脈への一撃、胸骨への一撃が人間を簡単に戦意喪失へ導け
るとよく口にしていたけれど、実際にそんな技を日常的に練習して
いたわけではない。
唯一俺が得意にしているのが胸骨の付け根に一撃を入れて、相手
の呼吸のリズムを崩す技だった。
相手が人間である以上、危険極まりない首の頸動脈への攻撃など
練習のしようもないからな。
だが今は余裕をかましている場合ではなかった。
このファンタジー世界には、傷口すらも縫合してしまう癒しの魔
法があるぐらいだ。
さすがに殺意丸出しで挑むわけにはいかないが、あらゆる手段で
タンクロードバンダムに挑まなくてはいけない。
﹁シューターさん、絶対に無理だけはしないでください﹂
649
﹁そういうわけにもいかないよ。無理してでも勝つさ﹂
負ければ野牛の一族に奴隷として引き渡されると言われている。
まさかやっとこの優しくない世界で手に入れたささやかな幸せ、
カサンドラとの新婚生活を手放すわけにはいかないのだ。
俺がそういう覚悟の顔で、つとめてイケメン顔を演出して見せた
ところ、
﹁そんなにダルクさんと一緒になるのがいいのですか?﹂
﹁え? いやそうではなくて、﹂
とても嫌そうな顔をした新妻が、俺の方をギロリとひと睨みした
のである。
これはいけない、何かカサンドラは俺の事を勘違いしている。
﹁シューターさんなんて負けちゃえばいいんです﹂
﹁ちょっと待った。こら、話を聞きなさい。俺はカサンドラのため
にだな、﹂
﹁嘘です。じゃあおもいっきり野牛の族長さまに勝ってくださいね﹂
プイとした顔を急に俺に近づけて来たかと思うと、突然カサンド
ラは破顔してちゅっと俺の頬に唇を触れさせてきた。
いいね!
なんだかんだ言って、俺の事を信頼してくれている新妻はとても
かわいい。
カサンドラのためにも俺は勝たなくてはならないのだ。
いや違う、俺は勝てると確信した。
一方、野牛の一族の方はいかにも屈強な兵士軍団が族長の周辺を
固めて何やら盛り上がっていた。
650
もちろんそこには先ほどまで俺の側にいたタンヌダルクちゃんも
いる。
タンヌダルクちゃんは今のところどちらの味方なんだろうか。
兄さんに勝てる、いや負けない事を証明してくれと言った手前、
自分の旦那さまになるひとに期待する気持ちはあるのだろう。
けれども一方で、兄が負けるという姿は想像が出来ないと言うか、
負けて欲しくないという複雑な気持ちもあるんだろうな。
現にタンクロードバンダムに向かって﹁兄さん、負けないでくだ
さいね!﹂などと言っており、結局この子はどういう結果になって
欲しいのかと俺も苦笑してしまった。
﹁俺が今まで闘牛で誰かに負けた姿を見た事があるか?﹂
﹁兄さんは最強のミノタウロスです。そうだよねみんな﹂
﹁おう、ダルクお嬢の言うとおりだ﹂
﹁例え蛮族の戦士だろうと負けるはずがない﹂
などと盛り上がっている。
確かにこうして観察してみると、タンクロードバンダム氏はあま
りにも無駄のない筋肉を纏っていた。
恐らくあれは、闘牛なり何なりの格闘技を通して、体を動かす事
で身について来た筋肉である。
どれだけミノタウロスが人間たちが予想していたよりも文化的生
活を送っていたとしても、ここは封建制度まっさかりの政治構造を
しているのだ。
強いリーダーは何より求められている。
そして、多分あいつは強い。
俺の知っている強そうだと感じたのは鱗裂きのニシカさん、美中
年カムラ、そしてこいつだ。
ただし、国際交流の広がりでお互いの武道や格闘技が激しく刺激
を与え合って化学反応した、俺の元いた世界の格闘技とはモノが違
651
う。
きっとタンクロードバンダムは戦うセンスはあるのだろうが、格
闘スキルだけならそれほどでもないはず。
そこに、勝機を見出す他はない。
﹁おい若造、準備は出来たか?﹂
﹁若造ですか。俺、これでも三二歳なんですがね﹂
﹁何だと? フンス、俺をおちょくる戦法だな。そんな話が信じら
れるか﹂
﹁まあお好きに受け止めてください。タンクロードバンダムさん﹂
俺がニヤリとしてみせると、鼻息荒くタンクロードさんが身震い
をした。
お互いに距離を置くと、そこに俺も知っている野牛の兵士タンス
ロットさんがやって来た。
﹁闘牛のルールは簡単です。どちらか一方が戦意喪失するまで勝負
は続けます﹂
﹁はい﹂
﹁おうわかってる﹂
﹁目潰し、金的など後遺症の残る攻撃は違反です﹂
﹁わかりました﹂
﹁フンス。どうやっても、人間死ぬ時は簡単に死ぬんだ。細かい事
は気にしていられるか﹂
﹁どうですかねえ、俺は簡単には壊れませんよ﹂
お互いに接近して睨み合った。
どちらも上半身裸の下着姿。俺はヒモパンで、向こうは捻じりふ
んどしみたいなやつだ。
こういうの、空手の試合ではまずありえないけれど、プロレスや
652
格闘技イベントではよくあるお互いのあおりだった。
近くまで上半身丸出しの男同士が接近すると、とても居たたまれ
ない気分になった。
パンツレスリングはまあいい。
しかし野牛族長のフンスという鼻息がお肌にかかるたびに、ぞわ
ぞわと鳥肌が立つような気分になるのだ。
俺の頭半分ぐらい身長が高いので、たぶん一九〇センチあまりの
長身だ。
デカい。とてもデカい。
そして鼻息荒い。そこから吹き降ろされる山おろしは強烈だ。
両者下がった。
改めて、互いの距離は二メートルあまり。
相互に飛びだしたとしても、わずかに自分の打撃圏内に届かない
あたりが小憎い、そんな距離だ。
俺は構える。
空手や立ち技格闘技でいうところの、サウスポースタイル。
闘牛は殺し合いではないので、やはり一対一の格闘技スタイルは
絶対に有効なはずだ。
右利きの俺がサウスポーに構えるのにはわけがある。
むかし俺が日本拳法の指導者とちょっと親しくなった時に、胸の
張りと腰の落とし込み、そして上半身の伸び込という三つを使って、
通常の追い突きでは不可能なロングリーチによる突きのやり方を教
えてもらったからである。
これは相手のガードのパンチが潜ったところで、一気に上半身を
伸ばして顔を一撃するのだ。
ガードが邪魔をして、相手には一瞬だけ何が起きたのかわからな
い。
そこを付いて上半身の伸びで顔にパンチが飛び込んで来れば、相
653
手は度肝を抜かれると言うわけである。
強い相手には奥の手などと手段を秘匿していれば、必ず負ける。
県大会で散々辛酸を舐めて来た俺は、そういう事をおとなになっ
て少しずつ体得して行った。
俺はこの試合に、時間をかけるつもりはない。
そして、タンスロットさんが合図を送った。
﹁互いに構えて、はじめ!﹂
654
59 ミノック・アウト 後編
戦闘開始の合図とともに俺たちは互いに飛び込んだ。
ほとんど何も考えないで相手の顔面だけを狙う拳の攻撃。
少しでも様子見をしようなんて後ろ向きな戦い方ではたぶん勝て
ないだろうと俺は思っていたが、案の定タンクロードバンダムは俺
と同じ様に、初撃から顔面を打ち抜くつもりだったらしい。
俺の拳はサウスポースタイルから左打ち。
タンクロードバンダムはオーソドックスの構えから右打ち。
だが俺の方に若干の有利さがあった。
体は俺の方が小さく本来的にはリーチでタンクロードには届かな
いのだが、俺のパンチは下半身の飛び込み、腰の回転、上半身の伸
び、胸の張りといった四つの動作によって、通常よりぐいっと前に
攻撃が伸びるのである。
逆にタンクロードの方は通常の打撃なので、これは威力では申し
分ないが、自分のパンチの陰に俺の拳が入り込む格好になって、何
が起きているのか一瞬伝わらなかったはずだ。
﹁おおいいぞ、シューターやれ!﹂
﹁兄さん!!﹂
ギャラリーの声が俺の意識のどこかに聞こえて来た。
タンクロードは殴り掛かる途中で俺の攻撃が顔面を捉えようとし
ているのを察したのか、拳に腰を乗せ続ける事が出来なくなって体
制を若干崩した。
655
俺の拳はアゴを外れたが、代わりに首に一撃を加えてやることが
出来た。
だがここで終わらないのがタンクロードバンダムが最強の闘牛マ
ンたるゆえんだろう。
俺の伸び切った体はある意味で捨て身な攻撃をした結果なので、
軸足がぶれている。
今なら蹴り放題と思われたのか、タンクロードも軸がぶれながら
もハイキックを見舞って来た。
それこそアクション俳優の様な、綺麗な弧を描く一撃だ。
構えが不バランスの状態でもこんな蹴りが出来るなんてのは、と
んでもない格闘センスだ。
俺は腕を引き揚げながらそのハイキックを受け止めた。
ダンッという重い一撃で、俺はそのキック一発で腕の筋肉がヘタ
る様な感覚を覚えた。
攻撃がガードされても、それが一切無駄にならない事をこの野牛
の族長は知っているのだ。
打撃や蹴りをガード出来たからといって、盾である腕は何度も攻
撃を受ければ耐久力が落ちてやがて破壊されてしまうのだ。
すぐにも俺は距離を詰めようとインファイトに入った。
距離が少しでも空くと、ハイキックを自在に使えるタンクロード
ローキック
にとってかなり有利であることがこれでわかった。
本当は下段回し蹴りで徐々に相手の機動力を奪う作戦もあったの
だろうが、これはすれ違い様にやっていく事にしよう。
また距離を縮めながら裏拳気味の一撃をタンクロードの顔に浴び
せる。
何度も顔を狙っておけば、野牛族長の意識をそこに持っていける
はずだ。
656
むしろそういう試合の組み立て方をしないと、隙が作れない。
けれどもタンクロードの振りかぶる様なフックが俺を狙って来た。
暴力的なその腕の振り込みを避けるべく俺が体を畳んで回避しよ
うとすると、今度は膝を突き立ててきやがる。
これはあかん。
こいつは完全に俺たちの知っている現代的格闘技スタイルを習得
している。
俺たちの元いた世界で格闘技が急速に発展したのは、二〇世紀の
中盤になってからの事だ。
つまり最近の事なのだ。
中世ヨーロッパのノリであるこのファンタジー世界で、すでにこ
こまで格闘スタイルが確立していたのは驚きだった。
それが証拠に、俺が現代的格闘技ならばどの流派や集団でも活用
している横への動きとでもいうか、回り込んで対応しようとするス
タイルに、タンクロードはしっかりと付いてきていた。
古流空手なんてものは、完全に縦深の戦闘スタイルに特化したと
ころがあって、回し蹴りや側面に移動しての裁きなんてのは、ごく
最近になって取り入れられていたというのに。
野牛族長は俺の回り込みの動きに合わせて、同じ様に側面に移動
して絶対に不利な場所を晒さない様に動きやがった。
今こそローキックだ!
俺がタンクロードの動きを止めるべく下段回し蹴りをしてやった
ところ、ガードのために脚を上げて対処された。
まじか!
しかも今度はタンクロードからローキックを仕掛けて来た。
俺も慌ててガードの脚を上げたにもかかわらず、ドンという何も
657
かも破壊するようなハンマーの一撃が俺の膝を叩いた。
そうなのだ。
どうやら俺たちの知っている下段回し蹴りと、この世界の下段回
し蹴りとでは、破壊しようとする場所が違うらしい。
俺たちの元いた世界は関節の付け根からやや上を叩いて、筋肉ご
と破壊するというイメージだったのだが⋮⋮
タンクロードは骨の接合部ごと潰すような勢いだ。
人間は関節部分がとにかく弱いからな。
﹁いってぇ!﹂
めちゃくちゃ痛かった。
これはアレだ、むかし木で出来た電信柱をひたすら蹴り続けて鍛
えていたという、少林寺拳法の武道家が修行して体得したとされる
ローキックだ。
俺も一度だけ少林寺をやっていた中年にこの蹴りを見舞われた事
があるが、骨の髄までビリビリして、そのまま転げた事がある。
だが、ここで痛いと泣き言を口にしたら無様に負ける事が確定し
て、まさかの奴隷転売堕ちである。
﹁フンス、どうした。来ないのか?﹂
﹁そんな安い挑発には乗らないんです、よ!﹂
やり返すつもりで言葉に乗せてミドルキックを放った。
俺の蹴りは、元いた世界ではそれなりにしっかりとした体格だっ
たので、威力はそれなりに期待できるものだったはずだ。
しかしこの世界で、しかもミノタウロス相手となると身長差も体
格差もあるので、こんなものはけん制にしか使えないかもしれない。
せめてガードを崩すためにと思って左のミドルキックを放ったが、
658
例によって現代的格闘技の動きを見せたタンクロードが腕でガード
しながら前進して来た。
くそったれめ!
ミドル攻撃を潰されて着地とともに、俺と野牛は殴り合った。
あい
何でビーフマン相手に完全不利なインファイトをしているんだ俺
は。
突きの応酬と、時おりローキック。
何だこのフルコン空手みたいな殴り愛は。
殴り合いじゃない、殴り愛だ。
こういう、突進力のある未知の相手と戦う場合は相手の下段を意
識的に集中して攻撃するとよいとされる。
俺もそれにのっとって今対処しているのだが、外野はもっと俺た
ちに激しい殴り合いを要求しているらしく、激しいブーイングや発
破の声が飛び込んできていた。
﹁くるくる回って、どういうつもりだ!﹂
﹁顔だ、その牛面を潰せ!﹂
﹁シューターさんガードが下がってます!﹂
﹁村最強の裸族はその程度なの?!﹂
いったん距離を取った瞬間に、すぐにタンクロード自慢のハイキ
ックがやってくる。
だがちょっと待ってほしい、大ぶりの蹴りは隙も大きいのだ。
﹁ちょこまかと!﹂
﹁くっ!﹂
﹁フンス!﹂
659
ハイキックが空を切った。
残念でしたまた今度!
そんな狂人めいた強靭なキックはいりません。
そう思った時期が俺にもありました。
ハイキックが空を切ったと思ったらもうひと回転して、後ろ回し
蹴りが飛んできた。
ほげぇ!
咄嗟にガードの腕を上げたが、完全にガードの上から押しつぶさ
れる様に俺は顔で威力をもろに受けてしまった。
あしげ
反則だろ、威力ありすぎだろ!
丸太ん棒みたいな脚で俺を足蹴にするな!
﹁何やってるんだシューター! ケチョンケチョンにしてやれよ!﹂
﹁脚だ、脚をつかえシューター!!﹂
﹁そうだ魔法は。魔法で圧倒したらどうですかシューターさん!﹂
﹁兄さんの背中に追撃です!﹂
気楽なもんで、ギャラリーからニシカさんとッワクワクゴロさん
が野次を飛ばしていた。
意識が朦朧としながらも俺は距離をとらずに一気に前蹴りをして
やった。
タンクロードも姿勢が崩れる。
ざまあみろ!
﹁そうだやれ! 目潰しだ!﹂
﹁それはいかんぞ、目潰しは反則だ!﹂
﹁シューターさんしっかり!﹂
﹁兄さんはこの程度じゃやられませんよ!﹂
意識を一瞬でもそちらに回してしまえば負けてしまうので、ギャ
660
ラリーに手だけで﹁まだ俺はやれる﹂と声の方に合図をしてタンク
ロードを睨み続ける。
むかし俺が沖縄空手の古老に指導していただいた際、言われた言
葉があった。
技は必ず掛け合わせるものだ。ひとつを軸にしてそこから相手の
弱点の穴を広げろ。
何を言っているのか意味が解らなかったが、先生がやってみせる
と簡単だ。
沖縄北部育ちの先生は体の小さな方だったが、だいたい平均的身
長で他の人間より若干だけ肩幅のある俺が相手になると、古老と俺
では大人と子供みたいなサイズ違いだった。
してみるとリーチに劣る先生は、俺を誘ってさらりと懐に入り込
ませると、俺の姿勢を崩す事だけに集中して技をかけ、気付けば先
生の肩が俺のみぞおちに入り込んでいて、俺は悶絶して倒れた。
後は倒れた俺に先生が馬乗りになっていて、殴られはしなかった
がそのまま実戦なら死んでいただろうと覚悟したものだ。
流れるような動作だった。
まあその流れる様な動作をすぐに今ここで再現する事は不可能だ
が、技ひとつに頼らずに連携は大事なのだ。
ボクシングでもワンツーで終わらずに三打目を出していく事はと
ても大事である。
たぶん泥仕合に持ちこめば勝ち目もあるかもしれないが、逆もあ
りえる。
泥仕合の中で形勢不利になると、一撃で試合が決まらずにズルズ
ルとボコボコにされる可能性がある。
しかも事実上、まいった禁止。
661
得意の崩しから、決め技に持っていくために俺は改めて試合を組
み立てる事に集中する。
﹁どうした、だいぶ焦った表情だな。フンス﹂
その挑発には返事をしない。
代わりに俺が何発か下段回し蹴りをしてやると、脚への負担を警
戒してインファイトに持ち込もうとしてきた。
その瞬間に俺は握りしめた拳で思いっきり、胸骨をしたたかに叩
き込んだ。
完全に俺のアゴだか頬だかを殴り抜けるつもりのパンチを狙って
いたはずだ。
だが、それよりわずかに早く、精一杯の一撃が胸骨に打ち込まれ
た。
沖縄古老に教わったその一撃に、ミノタウロスの表情が変わった。
野牛の一族からすれば明らかに体の小さい相手の一撃が、どうも
彼の体の中の何かを変化させたのだ。
つまり呼吸を乱れさせたわけだ。
それに気づいた瞬間の驚きを見届けながら、俺は一瞬にして距離
を取った。
そのままサウスポーからの左手追い突き、何か特別な名前を付け
ていたわけではないが、その切り札のパンチを送り出した。
完全に呼吸が乱れて混乱したタンクロードバンダムが、俺の攻撃
から身を守るためにガードを咄嗟にあげた。
だが残念でした。
お約束通りに彼のガードの下を俺のパンチが走り、そこから軌道
が変更してアゴを捉えた。
タンクロードバンダムは倒れたのだ。
662
59 ミノック・アウト 後編︵後書き︶
今日は2秒間に合わなかった!
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい⋮
ついでに内容に納得いかない箇所があったので修正入れました。
663
60 ラフストック・シューター︵前書き︶
ラフストックとは、カウボーイたちが野性の牛馬を乗りこなす競技
だそうです。
664
60 ラフストック・シューター
武道の基本には残身という動作がある。
相手を倒した後も、完全に制圧しきれない場合を考慮して次の手
を備えておく心構えである。
俺の一撃パンチを食らって崩れたタンクロードバンダムだが、タ
フで格闘センスに溢れる野牛族長がこんなに簡単に戦闘不能になる
とは、俺の中では確信が持てなかった。
武道や格闘技を長くやっていると、攻撃を食らった瞬間にわずか
に身を引いて、相手の打撃を逸らしたりダメージを軽減させる様な
テクニックは確かにあった。
このファンタジー世界式闘牛の発達したミノタウロスたちが、こ
の手法を体得していないとは思えなかった。
実際に俺も奴隷商人たちの雇っていたチンピラ冒険者どもを相手
にした時などは、ダメージ軽減のために食らいながらも体を逸らし
たりしてやり過ごす方法は使っていたのだ。
自分に使えるものが、相手に使えると思って挑むのは、空手家の
心得として同然だ。
したがって俺は、タンクロードバンダムが膝を折って崩れるよう
に倒れた時、考えるよりも早くタックル気味に飛びついていた。
マウントポジションを取って、ここぞとばかり打撃を入れるチャ
ンスだった。
飛びついた時にほとんどタンクロードの抵抗は無かったので、か
なり理想的なマウントポジションに飛びつけたはずだった。
相手が脚などを使って反攻できず、腕もうまい具合に膝で押さえ
られれば最良だったが、片腕は咄嗟の飛びつきでうまく押さえつけ
る事が出来なかった。
665
それはしょうがない。
代わりにさっそく拳を握りしめて、その底面で駄々っ子パンチよ
ろしく殴りつけてやる。
四度、五度と相手の顔面の中心をとにかく叩いた。
人間の顔とは違ってタンクロードは野牛の一族である。
したがって鼻頭がとても高いところに飛びだしているので、これ
が思った様に殴れない。
﹁いいぞ、トドメをさせシューター!﹂
﹁違う違う正面じゃない、横から殴りつけるんだ!﹂
今の言葉はッワクワクゴロさんだろうか。
がむしゃら
正面ではなく横から殴りつける、なるほどな!
俺は我武者羅になって言われるままに殴りつけたのだが、今度は
問題が発生した。
禍々しいまでに隆起した水牛の様なミノタウロスの角が邪魔で、
冷静に一打一打を放たなければ、手を怪我してしまいかねないのだ。
﹁兄さん! 兄さんまだ負けていませんよ、まだ頑張れます!﹂
﹁シューターさん、頑張って!﹂
村人たちの応援は加熱して、いよいよ殺せとばかり怒声が周辺に
響きわたった。
殺すなんてとんでもない事だが、少なくともこのチャンス決定打
だけは入れておきたい。
そう思って腰を振って一撃に渾身の力を入れようとした瞬間、
﹁フンス!﹂
膝で押さえ損ねて自由になっていたタンクロードの右腕が不意に
666
伸びたかと思うと、俺の首に回して来やがった。
次の瞬間、抵抗する俺の努力もむなしく、たった片腕で俺は野牛
族長の顔面とごっちんこさせられた。
ほげぇ!
俺は一撃で昏倒した。
たった一撃で昏倒したにもかかわらず、片腕で野牛族長が俺を支
えていて、あまつさえそのまま何度も俺の額にそれを叩きつけてく
るので、俺のダメージは凄まじい勢いで削られていく。
駄目だ、やめてくれ、死ぬ。さすがに死ぬ!
しかし俺は気絶と覚醒を、頭突きを食らうたびに繰り返して、最
後の頭突きを食らった瞬間についに眼を覚ました。
たぶん、これが殺意というやつなのだろう。
殺さないと殺されるとでも思ったというか、痛みの限界を超えて
体が動いたのだ。
具体的にはこうだ。
いつのまにか俺の膝押さえつけを解除して両腕で俺を持ち上げよ
うとしていたタンクロードバンダムに、顔面まるごと削り飛ばして
やるつもりで、膝をぶつけたのだ。
たぶん普通にスパーリングじゃやらない。
格闘技の試合でもありえない。
総合格闘技でも、やればレフリーに止められてしまうのではない
か。
そういうえげつない角度から、体重をのっけて頭突きのお返しを
していたのだ。
一度、二度、たぶん三度か四度、顎を砕く勢いで膝を立てたのは
覚えている。
失敗した一回で、角にしたたかに膝が刺さったののも覚えている
が、痛みやおれる気持ちより先に膝蹴りの継続を俺は選んだ。
667
﹁もういい、やめろシューター﹂
﹁うるせぇ野牛ぶっ殺してやる!﹂
﹁野牛はもう意識を失ってるぜ、落ち着けよ!!﹂
気が付けば俺はギャラリーから飛び出してきた無数の人間によっ
て羽交い絞めにされて、タンクロードから引き離されたらしい。
何度か抵抗したらしく、とても恐ろしい事にッワクワクゴロさん
を一撃で昏倒させ、あまつさえ鱗裂きのニシカさんの顔に振り回し
た腕があたったり、美中年の腹にまで喧嘩キックを蹴り込んだとい
うではないか。
ギムルは最後まで俺を必死に後ろから拘束していたが、これも俺
が背負い投げて、立ち上がったところをハイキックで倒してしまっ
たらしい。
とんでもない無双状態だが、その事を統べて俺は知らない。
最後にそんな状況にも恐れ知らずに飛び出してきたカサンドラと、
やや遅れてそれに従ったタンヌダルクが、俺を説得したのだとか。
本来は余興として盛り上がるはずだった闘牛の試合は、それどこ
ろではなくなって、お開きとなった。
◆
眼が覚めると、そこは見知らぬテントの中であった。
前にもこういうことがあった気がして、もしかするとこれはオー
ガに遭遇して冒険者の討伐隊のキャンプに救出された直後じゃない
だろうかと俺は錯覚した。
けれどもそれは違ったらしい。
﹁シューターさん、眼が覚めましたか?﹂
668
﹁おう、お前ぇ。いいパンチくれたじゃないかええ?﹂
新妻の顔がまず視界に飛び込んできて、次に隣で白い歯を見せて
はいるが片眼が確実に怒っているニシカさんの顔があった。
﹁おはようございます。俺の名は吉田修太、野牛の族長と闘牛をし
て意識を失った三二歳の村人です。あってますか?﹂
﹁何を訳の分からない事を言ってるのだお前は。安心しろ、お前は
勝利したぞ﹂
第三の顔が飛び込んで来たかと思うと、それは女村長のものだっ
た。
女に囲まれて、まるでハーレムみたいな気分だ。
しかしハーレムといっても俺の新しい奥さんになる予定のタンク
ロードの妹がいない。
﹁あの、タンクロードさんはどうなりました?﹂
﹁闘牛の直後は意識不明という有様だった﹂
﹁そんなに悪いんですか﹂
﹁まあ、心配はするものではない。決闘を申し出てきたのは野牛の
一族の方だし、わらわたちの面目が立った。何より今は教会堂の助
祭が癒しの魔法で手当てをしておるので、すでに全快してるだろう
からな﹂
それはよかったぜ。
にしても、ニシカさんがずっと俺を睨み続けている。
﹁そういえばニシカさん、目の周りが青いですがどうしたんですか、
その青たん﹂
﹁手前ぇがオレ様を殴りやがったんだよ!﹂
669
﹁え、そんな。俺は女性に手を上げるようなことはしませんよ﹂
﹁ばっか、お前を取り押さえようとした時にお前が腕を振り回した
からやられたんだ⋮⋮﹂
﹁あの、それはすいません⋮⋮﹂
﹁わざとじゃないのがわかっているぶん、怒りのぶつけ先がなくて
イライラしてんだよ。チッ﹂
プイと視線を反らしたニシカさんに俺は心底申し訳ない気持ちに
なった。
あの、この後で助祭さまに手当てしてもらう様に手配してあげて
くださいよアレクサンドロシアちゃん⋮⋮
﹁しばらく我慢するとよいだろう。今は気絶したッワクワクゴロが
手当て中だし、そのあとはわらわの義息子の番だ﹂
﹁え、そんなに暴れたんですか俺﹂
﹁ああそうだ、全裸で暴れていたお前は誰にも止められないほど敵
なしだったと、今後わらわたちの領内の語り草となるだろう﹂
あっはっはと笑った女村長は立ち上がって、居住まいを正した。
﹁ただし、以後女に手を上げる様な事があってはならん。お前には
ご褒美として騎士叙勲をせねばならんのでな、女子供に暴力を振る
う男が集落の代官と言うのでは聞こえが悪い﹂
そう言って天幕を出て行ったアレクサンドロシアちゃんを、俺た
ちはぽかんと口を開けたまま見送った。
﹁どういう事ですかね奥さん?﹂
﹁あ、あのですね。村長さまが野牛族長の妹御を嫁にもらうのだか
ら﹂
670
﹁うん﹂
﹁村長さまが相互の釣り合いをとらせるために、シューターさんを
騎士に叙勲するとおっしゃっていました﹂
﹁ふん、オレを殴って騎士さまになれるとは、偉い身分だな! せ
いぜい全裸の奴隷騎士さまは俺たち配下をしっかりと養ってもらい
たいものだぜ﹂
何を言われているのかさっぱりわからないが、俺は奴隷で騎士に
なるらしい。
﹁なるほど、今は疲れているので状況がわからない。そもそも俺は
パンツレスリングしてたんだから全裸じゃないぜ﹂
俺がそんな事を真面目な顔で行ったところ、カサンドラとニシカ
さんがお互いに顔を見合わせていた。
何だよ、何がおかしいんだよ。
ふたりの残念そうな表情を見て俺は不思議な気分になりながら、
体を起こそうとしたところ、右膝が死ぬほど痛かった。
﹁いってぇ!﹂
﹁動いちゃだめですシューターさん﹂
﹁そうだぞお前、筋まで見えるほど角で突き刺されたんだから﹂
慌てて七転八倒しながら俺は痛みを再確認した。
そうだった! 俺は膝蹴りの時にタンクロードの角で怪我をした
んだった。
マジで痛い。誰か、誰か鎮痛剤をくれ。
そんな事をしていると、俺は自分がヒモパンを履いていない事に
今さらながらに気が付いた。
すると、
671
﹁全裸さまー。兄さんが目は覚ましたかって、呼んでましたよう⋮
⋮きゃあ全裸変態死ね!﹂
ちょうど俺の様子を確認しに来たタンヌダルクちゃんが、息子丸
出しの俺に侮蔑の言葉を投げつけた。
野牛族長に馬乗りでボコスカやっているうちにヒモパンが脱げて
しまったらしい。
悲しい、泣きっ面に蜂とはこの事である。
672
60 ラフストック・シューター︵後書き︶
明日9月6日はこみトレ26にイベント参加するため、更新をお休
みします。
お暇な方はぜひ遊びに来てください! チ35b
次回から本格的な辺境開拓に入っていけたらいいなと思っています。
673
61 新たな集落をつくります
俺の名はシューター、三二歳。
猟師だけど最近騎士にもなった奴隷身分の村人だ。
俺の家は猟師小屋だ。
この猟師小屋の住人は都合四名である。
ワンルームマンションに大人四人が生活している図を想像してほ
しい。
とても狭い。
﹁おはようございます、シューターさん﹂
﹁やあおはよう。昨晩はゆっくり眠れたかな?﹂
﹁おかげさまで窮屈でした﹂
朝の挨拶を正妻カサンドラに俺がすると、率直な意見が帰って来
た。
﹁お、おはようタンヌダルクちゃん﹂
﹁おはようございます旦那さま。ベッドが狭くて夜中に三回転げ落
ちそうになりましたよ。早く何とかしてくださいよ?﹂
﹁しょうがないだろ。君の嫁入り道具が無ければさらに狭かったと
思うよ﹂
﹁蛮族の領主さまにお願いして、早く新居を作ってもらって下さい
よ! ご褒美でお家がもらえるんでしょ??﹂
俺は野牛の族長から妹の結婚祝いにと、この部屋には不釣り合い
なほど大きなダブルベッドをプレゼントにもらった。
674
ただしこの世界の常識に照らし合わせて大きい、というだけだ。
元いた日本ではたぶんセミダブルにも届かない大きさだ。
ここに夫婦三人で川の字になって寝ていたので、一番外側にいる
タンヌダルクちゃんは、誰かが寝返りを打つたびに転げ落ちそうに
なったのだ。
時期を見て早めにどうにかしないといけない。
﹁キュウウウ!﹂
﹁バジルは寝台で暴れてはいけません。あと、おしっこの時はちゃ
んとお母さんか、タンヌダルクちゃんを起こすんですよ?﹂
﹁キュッキュッベー!﹂
近頃反抗期のバジリスクのあかちゃんは、昨夜から我が家にやっ
て来たばかりのタンヌダルクちゃんをまだお母さんと認めていない、
親戚のお姉ちゃんより酷い扱いだ。
こちらも早くどうにかせねばなるまい。
﹁おはよう、シューターさん﹂
﹁やあおはよう、昨日はゆっくり⋮⋮﹂
﹁独り寝は、寂しかったよ﹂
﹁おうそうか、快適だったようだな﹂
けもみみのエルパコは、もともと俺が使っていた細長いベッドで
寝てもらったのだが。
そりゃそうだ、カサンドラとも新婚だったのに、そこに新しい嫁
タンヌダルクがやって来たわけだ。
そんな新婚夫婦の家に同居させられる立場のエルパコは、さぞも
んもんとした夜を過ごしただろう。
ごめんねエルパコ。
これもどうにか何とかしなくちゃいけない。
675
猟師小屋はとにかく狭いまどりだったのに、ダブルベッドまで運
び込まれてしまったので、居住空間がますます狭くなっていた。
どうにかしなければならない、本当に。
ちなみに前にカサンドラが使っていた寝台は、移民の寝床が足り
なかったので、さっそく女村長によって運び出されてしまった。
無駄なものは何ひとつないのである。
﹁そ、それじゃ俺はエルパコと畑の手入れをしてくるからな。奥さ
んたちふたりは、さっそくお洗濯にとりかかりなさい﹂
﹁シューターさん、そういうわけにはいきませんよ。村長さまに朝
一番でお家の事をかけあうと言ってたじゃないですか?﹂
﹁そうですよう、はやく広いお家に引っ越したいですわたし。小さ
な小屋に四人も詰め込まれて、これじゃまるで奴隷小屋じゃないで
すかぁ﹂
﹁ちょっと、ダルクちゃん。わたしの旦那さまのお家を、奴隷小屋
だなんて失礼じゃないですか!﹂
﹁でも旦那さまは奴隷だし、わたしたち奴隷の妻ですよう﹂
﹁そうですけど⋮⋮﹂
妻と妻に両腕をホールドされていたが、慌てて引き離すとエルパ
コを引っ張って畑に向かった。
﹁行くぞエルパコ、男は黙って野良仕事だ﹂
﹁い、痛いよシューターさん、やさしくして⋮⋮﹂
◆
畑仕事を終えたところで女村長に呼び出しを食らった俺である。
新妻たちには﹁一日も早く新居を用意してもらう様に女村長に言
676
ってください!﹂と念押しされてしまった。
しかたなく女村長の屋敷に行くと、彼女の命令で連れだって湖畔
へと足を運ぶことになった。
アレクサンドロシアちゃんと俺、労働ゴブリンやら犯罪奴隷たち
を引き連れてである。
女村長によって騎士爵アレクサンドロシア配下の騎士に叙勲され
たからと言って、日々の生活に何か大きな変化があったかというと、
そういう事は無かった。
いつも通り森に出かけて生活のために狩りをする事は当たり前で
あり、朝には畑に出て草むしりや水やりする事も変わりない。
ただひとつ、村から女村長の跡取り義息子ギムルがいなくなった
ので、俺がその代わりに女村長によく呼び出されるようになったこ
とぐらいだろうか。
﹁この湖畔を望む小高い丘を中心に、新たな集落をつくる事にする。
現在の村の中心地から少し距離があるが、ここは守りにも最適で、
また村と野牛の一族の居留地とも近い。将来はここを領地経営の中
心地として考えておるゆえ、お前は人員を差配して、ここに城と集
落を築け﹂
﹁この丘に城を築く、ですか﹂
﹁そうだ、ここからは周辺がよく見渡せるだろうシューター。我が
サルワタの森とその開拓村は、王国から見ればただの最果ての国境
地帯に存在する僻地の村だ。しかし考え方によってはこの先には誰
のものでもない土地が無尽蔵に広がっているのだ﹂
まと
ドレス風のいつもの服の上から騎士装束を珍しく纏ったアレクサ
ンドロシアちゃんは、小高い丘から湖一帯と、その周辺には広大な
サルワタの森を見回してそう言った。
確かにサルワタの森は広大だ。
677
村人たちの知っている森の地理関係というのは、せいぜい村や集
落から歩いて半日程度の距離範囲までである。
さらにその外側の地理となれば、これまでは猟師たちだけが知っ
ているエリアだった。
その猟師たちも半数近くがワイバンーンとの戦いによって死んだ
ので、ッワクワクゴロさんやニシカさんといったヴェテランだけが
詳しくその情報を知っているという有様である。
女村長は現状を打開しようと考えているのだ。
新たに街から呼び入れた冒険者たちを使って、今もマッピング作
業が地道に行われていた。
﹁わらわたちの村は開拓村だ。開拓村という性質上、今までは無秩
序に家を建て増しするという方法で発展して来たのだが、﹂
丘から見下ろせる、俺たちの足元にあつまった人間たちを見下ろ
して、女村長が続けた。
﹁湖畔の集落は何れ、恒久的にこの土地を支配するための街へと発
展させるつもりだ﹂
﹁なるほど、恒久的な街﹂
﹁そうだ。お前もブルカを見て、この村を見た時に気が付いた事が
あっただろう。ん?﹂
﹁家の造りが街に比べて、貧相という事ですか﹂
﹁痛い事をあっさりと見抜いておる様だが、まったくその通りだ﹂
ころころと笑ったアレクサンドロシアちゃんが、腰に手を当てて
そう言った。
ブルカの街は石畳の路面と石造りの屋敷が整然と立ち並んでいた。
一方の開拓村の家々は、木組みの柱に土壁を張り巡らせた藁ぶき
678
の家ばかりだった。
外見は角度の付いた三角形の小屋である。
モノの本によれば、こういう建築スタイルの家を拝み小屋と言う
らしい。
明治の北海道開拓史で活躍した簡素な家で、横から見た景観が、
両手を合わせた様に見えるから拝み小屋、というらしい。
ただし、北海道開拓史の拝み小屋と明確に違う部分もある。
こんにち
元いた世界の拝み小屋は、あくまでも開拓村で農作物の収穫が出
来るまでの一時しのぎのものだった。
けれどもこのファンタジー世界では、開拓村が切り開かれて今日
まで、ずっと拝み小屋だったのである。
確かに俺が旅行か何かで見学してみた拝み小屋よりは、ひとまわ
りばかり大きいし、元の世界では土壁の壁面は無かったがこちらに
はあるという小さな差異はあるだろう。
﹁開墾・開拓という事業はいつ失敗するとも限らないのでな、これ
まで家は立派なものを作るわけにはいかなかったのだ﹂
﹁住民が増えれば、いずれ恒久的な家屋も必要ですしね。お城もで
しょうか﹂
﹁わらわも領主である以上、領民を守る必要があるでな。自分の村
だけ守ればよいというものでもなく、周辺の集落の人間を、緊急時
に招き入れられるだけの城塞は必要だ﹂
﹁なるほど、とすれば城壁で家々をぐるりと囲むわけか⋮⋮﹂
俺はアゴに手を当てて考え込んだ。
森から間引いて切り出された材木を、集落の建設予定地に運び込
んでいるゴブリンたちが見える。
ここで作業をしている人間は、せいぜいと五〇人に足らない数だ。
アレクサンドロシアちゃんの命令でかき集められるのは、現段階
ではこれが限界である。
679
﹁シューターは街と村の明確な区分について知っているか﹂
﹁いえ存じ上げませんが⋮⋮﹂
﹁国法によって定められた街の定義は、市壁の有無だ。わらわたち
の村は人口が一〇〇〇人あまりをかかえる比較的大きな村ではある
が、市壁を持たない。すなわち村だが、ブルカの周辺にあるいくつ
かの街はそれより人口が少なくても市壁を持ち、街を名乗っている
のだ﹂
﹁なるほど、市壁の有無ですか。すると、今後俺たちも城壁を作る
のですが﹂
﹁それはならん。街と村では国王に納めるべき税の違いがあるでな、
開拓によって領地が繁栄しようと、わらわたちの村はあくまでも村
のままでなくてはならん﹂
もちろんいつまでも言い逃れできるものではないが、と女村長は
言いながら俺を見やった。
なるほどな。街と同等に村を発展させたいが、出来る限り便宜上
は村であり続けたいというわけだ。
﹁しかし野牛の一族の様に、この辺境はどの勢力にとっても空白地
帯ゆえに、ここを狙ってくる人間は必ずいる﹂
﹁では、やはり城壁かそれに代わる何かは絶対に必要だと﹂
﹁そういう事だの﹂
﹁村長さま、その城壁だか市壁だかの定義というのはどうなんです
? 例えば石組みで出来た壁は城壁や市壁ですよね﹂
俺がそんな質問をすると、女村長はとても不思議そうな顔をした。
何を言い出すんだという感じである。
﹁まあ、そうだの﹂
680
﹁ではたとえば、土塁を築きですね、木の柵で家々を囲ったとしま
す。これは市壁であると言えますか?﹂
﹁街というのは恒久的にそこを支配する中心地を差すものだ。従っ
て土塁や木柵などで防塁を作ったりしたものは、あくまでも簡易の
陣地のものだろう﹂
﹁じゃあ、そういう手もあるのですね。言い逃れするためには﹂
﹁恒久領土を守るのに土塁に木柵では心もとないだろう。修繕の手
間もかかるし、住居を守るにはいかにも心もとない﹂
俺の言いだした事を理解したのだろう。
女村長はフムと小首を傾げながら考え事をはじめたようだった。
俺の元いた世界でも、書類上の定義と実際が伴わない、なんて事
はよくある話だった。
国法とやらの抜け道があるのなら、それを利用しない手はない。
﹁ではもうひとつ。一部を城壁にしておいて、また別の一部を土塁
なり木柵で作っておくと言うのは言い逃れ可能ですか? 防衛上ど
うしても必要な箇所やすぐに土塁を築けない様な場所は石組みの市
壁にして、それ以外の場所は木柵や土塁で簡易的に作っておくんで
す﹂
﹁ほう?﹂
じょうさく
俺は歴史の教科書や資料集で見た、多賀柵や出羽柵といった城柵
を思い出した。
むかしの日本の朝廷の東北地方進出に従って、俘囚だったか蝦夷
だったか、とにかく東北地方の現地勢力と敵対しながら開拓を進め
るために作られた政治的・軍事的拠点だ。
モノの本で後日見た予想イラスト図によれば、粘土質の土塁と木
の柵を用いて拠点をぐるりと囲んでいた様である。
日本にはあまり集落一帯を囲むタイプの町家や村が歴史的に少な
681
かったり限られたりしているが、あの当時は蝦夷との攻防が激しか
った時代で、いざとなれば城柵の中に周辺住民は避難する様に出来
ていたらしい。
﹁面白い提案だな、シューター﹂
﹁ありがとうございます。可能ですかね﹂
﹁完全に居留地を防塁や城壁で囲んでしまわなければ、言い逃れが
出来るのではないかの。数か所のみ、あえて造らないでおけば、市
壁として欠陥があるので街ではないと言い切れる﹂
﹁可能ですか﹂
﹁将来は街とするにしても、現段階では予算も人員も不足している
のでその段階にないとでも言い訳すればよい﹂
ふふふと笑った女村長は、今までに見たことが無いぐらい悪い顔
をしていた。
何か野心を企んでいる人間の顔だ。
純粋な眼をしているとは言い難くて、何かここからは見通せない
ずっと向こう側を捉えている者の眼だ。
﹁開拓を進め領地拡大を続けた先に、村長さまは何を見ているので
すかね﹂
﹁何だろうの。救いであろうか?﹂
﹁救い﹂
言葉を区切った女村長を俺は見やる。
﹁わらわは若い頃、王宮やブルカで騎士として長らく軍役に就いて
おった。王宮という場所は権力闘争の舞台でな、一族をいかに生き
残らせるのか、貴族どもはこぞって王と王族、有力貴族を相手に駆
け引きをしていたものだ﹂
682
﹁へぇ⋮⋮﹂
﹁わらわはゴブリンハーフであるから、この幼顔であろう? 辺境
の田舎貴族と笑われもしたし、子ども扱いも長らく受けた。政治権
力の舞台ではずいぶんと嫌気もさしたものだ。だから故郷の近くに
嫁ぐ事になった際は、せいせいしたものであった﹂
﹁ははぁ﹂
﹁しかし嫁いだ先の夫はゴブリンなどに懸想をする酔狂ものだ。ど
んなやつかと思ったら、種無しの貴族軍人の跡取りだったのだ﹂
思い出話を、あまり嫌そうでも無く女村長は語りだす。
﹁出会った時には、戦地で蛮族の女を買いあさって性病をもらって
いたという大馬鹿者だ。様子がおかしいと修道会で見てもらった時
には手遅れだという有様だった。わらわは思ったよ、自分の居場所
は自分で作らなければならんとな。夫はその後、性病を押して蛮族
の討伐に出たまま死によった。結婚生活はたったの一年だ﹂
﹁それは災難でしたね﹂
﹁男は大抵そんなものだろう。お前も何かある度にわらわの胸ばか
り見ておるのは知っているぞ﹂
﹁ハハハ、ご冗談を﹂
ちょうどドレスの胸元を観察していた俺は、慌てて視線を外した。
ニシカさんや新妻タンヌダルクに比べればやや小ぶりだが、未亡
人の色気はその大きさじゃ計り知れないんだよね。
だからその魅力に俺は抗いきれなかった。きれなかっただけだ。
俺は悪くない。
﹁冗談で済む程度にしておいてくれ。わらわが仲人を務めたカサン
ドラやタンヌダルクの手前、何かあればわらわの面目が立たん﹂
﹁ももも、もちろんですとも﹂
683
﹁まあいい。それ故に亡くなったこの村の領主、夫がわらわを後添
えにと話を持って来た時は躊躇したよ。わらわには男の性病が移っ
ているやもしれぬし、ゴブリンハーフを妻になど外聞もわるかろう﹂
﹁けど、村長さまは引き受けたと﹂
﹁そういう事だ。夫が死んでしまった後の実家で過ごすのは苦痛だ
し、ゴブリンの血が流れているので当たりもキツい。あそこも王宮
や街と何も変わりが無かった。だからこの村に来たのだ﹂
女村長もいろいろ大変だったんだな。
少しは彼女のこれまでの苦労に報いてあげたいものだと思う。
﹁それは救いを求めてですか、それとも居場所探しのためですかね
?﹂
﹁ふん、さあわからん。けれど今はわかるぞ﹂
﹁今は?﹂
﹁夫は十年前にぽっくり死んでしまったが、後妻のわらわを母と慕
ってくれる義息子もいる。夫と手がけた開拓地も、こうして広がっ
ている﹂
﹁確かに﹂
﹁何をやっても上手くいかなかったわらわの人生に、この辺境の土
地は可能性を与えてくれる。ひとの寿命はせいぜい五〇か六〇だろ
う、まだ残り半分近くはある﹂
手に持った羊皮紙の見取り図を握りしめながら、女村長は言った。
﹁残りの人生で、ここにわらわだけの街を築くつもりだ。可能なら
ば王国に取って代わりたいものだな﹂
﹁本気ですか?!﹂
さらりとそんな事を言った女村長は、悪相を浮かべていた。
684
﹁もちろん可能ならば、だぞ。夫が国王に命じられた辺境の開拓は
苦難の連続だった。わらわたち村の人間は、そろそろ報われてもい
い。そうは思わんか?﹂
野心の眼が俺を睨み付けた。
開拓の苦難について俺は知らない、が辺境地ブルカの街とその周
辺はオーガやらコボルトやらミノタウロスやら、あまつさえワイバ
ーンにバジリスクまで出没する様な危険地帯だ。
さぞ大変だっただろう事はなんと無く想像出来る。
しかし、可能ならば王国に取って代わるという言葉はいかにも大
胆だ。
それに危険な思考でもある。
封建領主の時代について俺は元いた世界についてもそこまで詳し
くないが、そんな事を考えるのは並大抵の発想ではないはずだ。
日本の歴史を見ても、天皇家に取って代わろうなんて考えた人間
は、たぶん数えるほどしかいないだろう。
平将門か足利義満か織田信長か、事実はともあれ、それぐらいし
か名前があがらない。
﹁ま、俺は村長さまの奴隷ですから? 言われれば命じられたこと
をやるしかないんですけどね﹂
﹁それではやる気が起きんだろう。何が欲しい。ん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
試す様に女村長が俺を妖艶な眼で見つめて来た。
ちょっとドキドキする未亡人の魅力だ。
﹁そろそろ、家をやろう騎士の位をやろうではご褒美が釣り合わん
685
な﹂
﹁ではアレクサンドロシアちゃんは何なら釣り合いが取れると思う
んですかね﹂
これはもしかして、今度こそ期待していい展開ですか? アレク
サンドロシアちゃん俺の嫁来る?
しかし、俺は口にしてしまってから、しまったと思った。
脳内でいつもアレクサンドロシアちゃんなどと変換しているもの
だから、ついつい口を滑らせてしまったのだ。
やっちまったな俺⋮⋮
﹁アレクサンドロシアちゃん、か。ふふふ⋮⋮﹂
﹁ま、まあ俺より年下ですからね。アレクサンドロシアちゃんは妹
みたいなもんですよ﹂
言い逃れはせず、ニヤリとして堂々と言い返してやった。
﹁そうか、ならば妹の頼みを聞いてくれるかの。お兄ちゃん﹂
﹁お、お兄ちゃん?!﹂
﹁わらわは妹がおったけれども、兄はおらなんだ。これからはお兄
ちゃんに頼る事にしよう。ご褒美はそうだな、﹂
﹁ご褒美は?﹂
ゴクリ、と俺は生唾を呑んだ。
すると妖艶な未亡人はクスリと笑って見せて、年齢らしからぬ悪
戯っぽい口調でこう言ってのけた。
﹁わらわと二人っきりの時は、わらわがお兄ちゃんと呼んでやる権
利をやろう。お兄ちゃん、わらわのために領地拡大、頑張ってね!﹂
686
お兄ちゃんはふたつ返事でうなずきを返してしまった。
くっそ、未亡人に弄ばれる俺くやしい! でも嬉しい!
687
62 静かな湖畔の森のお城 前編
この数日、村を出て湖畔に至るけもの道は、何度も大人数の往来
があったせいか徐々に踏み固められてきたんじゃないか、なんてふ
と思った。
今日も俺と嫁のカサンドラ、エルパコを連れて湖畔側の作業現場
に朝から向かっている。
家族が増えたせいで毎朝の日課にしていた農作業も手早く済ませ
られるのはいいね。
それから洗濯や昼食のお弁当の支度も、妻がふたりいるおかげで
とても捗る。
家の事を済ませると俺は嫁のどちらかとエルパコを連れて、作業
現場に出勤するわけだ。
﹁村長とはいずれこのけもの道も、しっかりと道路工事した方がい
いだろうと話していたが、こうしてみるとずいぶん歩きやすくなっ
たな﹂
﹁たくさんの方が歩いたので、だいぶ土が固まったのでしょうね﹂
﹁今はまだひとがふたり並んで歩くのが精一杯という有様だからな、
集落の建築がひと段落したら、こっちにもひとを回す様にアレクサ
ンドロシアちゃんに上申するか﹂
俺が思案げにそんな事を口走りながら、先頭になって歩く。
湖畔集落の建設作業が始まって、ちょうど十日余りが過ぎていた。
一応は騎士爵アレクサンドロシア領サルワタの森の防衛拠点とな
る予定の湖畔の城が最優先事項という事になっている。
けれども作業現場の人足が圧倒的に足りないので、お城の方は基
688
礎作りの段階でドワーフの大工集団が何やら苦労をしているらしい。
﹁シューターさん⋮⋮﹂
﹁どうした、カサンドラ﹂
﹁村長さまの事、めったな呼び方をされてはギムルさまに睨まれて
しまいますよ﹂
﹁⋮⋮あっ、そうね。気を付けます﹂
お弁当袋を両手に持ったカサンドラが、おずおずと俺の方の様子
を伺いながらご注進してくれた。
どうやら気が付かないうちにいつものノリで口走ってしまったら
しい。
その日の作業が終えて村に戻ってくると、家族を先に家に帰す一
方で、俺は毎日村長の屋敷に向かっていた。
そこではあの日の湖畔で約束した﹁お兄ちゃん﹂﹁アレクサンド
ロシアちゃん﹂という、三十路も過ぎたいい大人がちょっと人目に
は見せられない様な会話を繰り返している。
ついその時のクセが出てしまったらしい。
﹁シューターさん﹂
﹁ん?﹂
俺が気恥ずかしさでいっぱいになりながらこの場の空気を誤魔化
そうとしていたところ、エルパコがけもみみを動かしながら、ぐっ
と俺の毛皮のチョッキを引っ張った。
エルパコの表情を見た瞬間に、俺はけもみみの意図を理解した。
すぐにも腰に刺している短剣の柄に手をかけて、もう片方の手で
カサンドラにじっとしている様に制止する。
﹁動物か﹂
689
﹁人間だよ、どうも少し離れたところからこっちを監視しているみ
たい﹂
﹁殺気みたいなのは感じられるか﹂
﹁わからないけど、何か出来る距離ではないみたい﹂
﹁弓で攻撃の可能性は?﹂
俺は湖畔へと続く森のけもの道を見回した。
エルパコが視線を送っている方向に視線を飛ばしてみるが、木々
が生い茂っていて、おおよそ俺の感覚では弓の奇襲は大丈夫そうだ
が、念のためだ。
﹁この距離じゃ、無理だよ。徒歩で一〇〇歩以上は離れているみた
い。この茂みの中を射抜くのは、よほどの強弓じゃないと無理だ﹂
﹁でもそれが可能な人間がひとりは知り合いにいるからなあ。油断
するな﹂
﹁ニシカさんですか?﹂
俺たちの会話に、カサンドラが怯えたような表情で質問をしてき
た。
﹁まあニシカさんなら可能だという話だ。あのひとが俺たちを付け
て来て監視しているんじゃなくて、そういう事が出来る人間がいて
もおかしくないという話だな﹂
﹁向こうから仕掛けてくる気配はないよ﹂
﹁じゃあ、こちらも堂々と移動するまでだ。エルパコ、最後尾にま
われ。カサンドラは俺たちの間にいなさい。何かあったらエルパコ、
頼りにしてるぞ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
俺たちは何者かの気配を感じながら、作業現場へとゆっくり向か
690
う事になった。
ふむ、何でこんな回りくどい事をやってくる人間がいるのだろう
か。
盗賊か、村の人間か、あるいは近頃領民の一員となったミノタウ
ロスか。
考えてみればどれが正解なのか俺にはぱっと判断出来なかった。
﹁果たして盗賊か、村人か、野牛の一族か﹂
﹁わたしにはわかりません、シューターさん﹂
﹁牛じゃないと思うよ。あのひとたちはもう少し足音がうるさいか
ら﹂
俺のつぶやきに、俺の背後から声がした。
﹁うう、猟師の娘なのにそんな事もわからなくてすいません﹂
﹁俺だって一応猟師だけどわかんないし、気にする事無いんじゃな
いのかな﹂
﹁はっはい。シューターさん﹂
﹁しかしエルパコのけもみみは優秀だな。ッワクワクゴロさんやニ
シカさんも、こういう時にすぐに遠くの音に気付いたりする。猟師
をしばらく続けているとそういう耳になるのかな﹂
﹁わからないけど、そうなのかも﹂
俺が歩きながら背後を振り返ってエルパコを見ると、ちょっと気
恥ずかしそうな顔をしたけもみみが、眼を伏せがちにそう言った。
﹁もう、距離が少し離れたから大丈夫だと思うょ﹂
﹁頼りになるなぁエルパコは﹂
﹁そんな事、ない﹂
﹁もうすぐ作業現場だから行きは安心だ。けど、帰りもまた妙な気
691
配が感じた時はすぐに教えてくれ。もしもの時は必ず妻を守って家
に帰るんだぞ。村長さまに情報を伝えるんだ﹂
俺が素直に称賛すると嬉しそうな顔をしたけれど、話が後半にな
ると途端にとても嫌そうな顔を浮かべた。
こいつ何も言われなかったらホント年頃の女の子だよな。
かわいい顔してるのに男の娘だ。
﹁おい何が不満なんだ﹂
﹁だって、シューターさん置いて行ったらシューターさんが危ない
じゃない。ぼく、出来ないよ﹂
﹁そうですよ旦那さま。シューターさんは一家の大黒柱なんだから、
めったな事をいっちゃいけません。ね、エルパコちゃん﹂
﹁う。うん﹂
ちょっと君たち、俺のことを心配してくれていたのかい。
つまさき
たまらなく嬉しくなった俺は、ちょっと涙ぐんでしまったじゃな
いか。
と、油断をしていたら、俺は大きな石に爪先をぶつけて、蹴つま
づきそうになってしまった。
﹁ほげっ!﹂
ブーツが無かったら大変な事故になっていたぜ!
妻優先は夫として大切な事だが、妻からすれば夫優先なんだね。
以後、言葉には気を付けよう。
◆
さて、作業現場に入った俺はいつもの様に朝礼を行うのだが、そ
692
の前にやる事がある。
むかしからバイト現場に入る時は出来るだけ早めに家を出る様に
していたのだが、このファンタジー世界でもその俺ルールは継続中
だ。
おかげで今日も一番とはいかなかったが、わりと早めに到着して
いた。
そういう事をしていると、少しでも仕事以外の時間でゆとりが出
来るので、バイト仲間や職場の正社員たちとコミュニケーションが
取りやすいのである。
城の建設予定地である丘の上の作業小屋にお弁当や土木作業具を
放り込んだ俺たちは、さっそく三々五々集まって来た人足の集団を
観察した。
機会を見て少しでも積極的に話しかけていかないと、人間関係は
作れないからな。
﹁どうですか、石を運び込む作業は難航しているという話だったけ
ど﹂
﹁そうなんですよ奴隷騎士さま。村側の川から船で運び込んでいる
でしょう。かなり大回りをして川伝いに持って来ているんですがね、
どうも効率が悪くっていけねぇや﹂
﹁石切り場もこことは反対の場所ですからね﹂
ふしん
築城中の作業員たちは、村にいる本職の大工職人や普請職人のド
ワーフたちだ。
大工は文字通り建物をくみ上げる専門家で、普請は土木作業員だ
と思ってくれればいい。
普請の人間は本来なら集落の拝み小屋にも人間を回さないといけ
ないのだが、どうしてもリソースが築城に集中してしまっていて人
手が足りていなかった。
693
まあ、報告に会った様にくみ上げるべき石材がなかなか運び込ま
れないので、今は人数の半数が集落の建設にまわっているけれども。
﹁予定では数日中に家を三軒は立ててしまおうという話でしたが、
どうなってますかね。見たところどこも足場ばかりが出来ていて、
まだ家の木組みも終わっていない様ですが﹂
﹁それはアレだ。普請職人の数が今いるうちに、さっさと足場だけ
全軒ぶん作っちまおうという話になったので、優先してやらせてい
る﹂
﹁ははあ、考えましたね﹂
﹁あたぼうだ。何年俺っちが村や集落の家を手掛けて来たと思って
るんだよ。最初に完成する石造りの家は奴隷騎士さまのって決まっ
てるんだから、楽しみにしていなよ﹂
﹁おっと、それは大きな声で言わない約束ですよ親方﹂
ドワーフの大工職人のひとりと話し込みながら、家の方はどうな
っているんだと確認をしておく。
こちらは一部の職人が作業監督者として家屋建築を指揮している
んだが、この中の一つに将来の俺の家になるものが含まれているか
ら、ちょっと気が気ではない。
職権乱用と言われてしまうが、これぐらいは役得だろう!
ただしこの家は将来の住居というだけであって、ここでひとが生
活を始めるのは次の春を迎えてからになるんじゃないかな。
石造りの家をいくつも作り上げるのは、とても大変だからな。
だから村の方にとりあえずの新居を早く作ってもらわなくちゃい
けない。
二度手間のように思えるが、別に俺たちが猟師小屋から村の新居
に引っ越した後、湖畔の集落が完成して引っ越したところで、村の
家の方は新たな移民に与えればいいだけだ。
694
﹁広場の草刈りはどうなってますかね。どこまで草を抜いて地慣ら
ししても、この調子じゃ終わらなさそうなんですけどね﹂
﹁まあオレ様が厳しくキビキビ働かせるんで、問題ないぜ。シュー
ターは大船に乗ったつもりでいてくれや﹂
﹁あんまりこん詰めて作業させると、奴隷が暴動起こしますよ﹂
﹁そん時ゃ、オレとお前で皆殺しにすればいい。なあ奴隷騎士さま
よ﹂
﹁めったな事を言わないでください。労働力は足りていないんです
から!﹂
敷地の拡張をするために、ひたすら草を抜き岩を転がして更地に
しているのは、犯罪奴隷のみなさんである。
鱗裂きのニシカさんが彼ら犯罪奴隷の集団をとりまとめて指図し
ているわけだが、相変わらずこのひとはひと使いが荒い。
奴隷だと思ってこき使うのである。
ついでに俺の事も奴隷騎士さまなどと立ててはくれるがその実、
敬意の欠片も見当たらない態度は相変わらずだった。
これぐらいの気楽な関係の方が、今まで通りのノリでやっていけ
るので俺は有り難いがね。
ひとしきりのコミュニケーションが取れたところで、ニシカさん
が指図する犯罪奴隷の集団がこちらを睨み付けているのに俺は気が
付いた。
愛妻カサンドラもその視線に怯えて俺の陰に逃げ込んでしまう。
恨めしそうな視線そのものだった。
何となくわかる。
彼ら犯罪奴隷からすれば、俺とお前はへそピアス仲間だ。
どうして俺と同じ村の最下層カースト身分である奴隷が、自分た
ちをアゴで指図しているのか、納得できないというか不満でしょう
がないのだろう。
695
俺は肩からぶら下げていた編み籠から一本の羊皮紙の巻きを取り
出しながら、ため息をついた。
まあ納得はできないだろうが頑張ってちょうだい。
﹁さてみなさん、本日も元気いっぱいお仕事に励みましょう。お仕
事の基本は安全第一、材木を運び込むときは必ず周辺をよく見まわ
してから移動しましょう﹂
さて、今日も一日作業を頑張りますかね。
俺は毛皮のチョッキを脱ぐと、作業員にまじって石を運ぶ事にし
た。
696
63 静かな湖畔の森のお城 中編
騎士爵アレクサンドロシアちゃんの命じたお城イメージは、女の
子が考えそうなメルヘンなお城とは程遠い様なものだった。
元日本人の俺の中でお城のイメージと言えば、純和風の天守閣を
備えたチョンマゲ殿様の住居か、グリム童話の世界に出てきそうな
三角形のトンガリ屋根を連ねた近世ドイツ風である。
しかし、俺の手元にある羊皮紙に描かれた完成予想図は、ブロッ
クを積み重ねた要塞みたいな構造で、それに教会みたいな本館が付
随しているというものだった。
﹁石を運べども運べども、お城づくりは終わらない﹂
﹁頑張ろ、シューターさん﹂
俺とエルパコは、天秤棒に吊った石をえっほえっほと運ぶわけで
ある。
石のサイズはレンガの様に綺麗に切り整えられていた。
正確には多少の大小はあるんだろうが、これを接着剤がわりの粘
土で隙間を埋めながら城壁を構成させていくわけである。
木組みの支柱と木版にあわせてこの石は積み上げられていくけれ
ど、城の内側の壁面は、例によって土魔法で粘土質の土壁が作られ、
最後に壁面に焼きを入れて終わりだ。
これは毎日午後からやって来る女村長によって造られる。
﹁むかし俺は土木作業現場と劇場の大道具をやっていた事があるけ
れど、今日やっている作業はどちらかというと大道具のバイトの方
だな。今の土木作業は機械化が進んでいる。これは平台を運ばされ
た大道具のバイトを思い出す﹂
697
﹁あの、シューターさんは、戦士だったんでしょ?﹂
﹁ああそうだったな。俺はこの村にやって来る前はいろんな職を転
々としているバイト戦士だったんだ﹂
﹁凄いねシューターさんは⋮⋮﹂
﹁いやあ、いい大人になって定職に就かないのは、褒められた事じ
ゃないぞ﹂
﹁何でも出来るのは凄い事だよ。んしょ﹂
丘の上に石をみっつ運び終えた俺たちは、天秤棒を肩から外して
ひと息つくのだった。
俺が汗まみれの上半身を首から下げた手ぬぐいで拭いていると、
エルパコも同じ様に白い前開きの編上げシャツを汗に濡らしてシー
スルーしてた。
俺はシースルーをスルー出来ずにガン見してしてしまう。
厚手の生地なのではっきりしているわけではないが、シースルー
の向こう側にぱいのぱいが見えた。
男の娘じゃなければ思わずドキドキしていた事は間違いない。
胸の先端がツンととんがっているあたり、小憎い。
﹁どうしたの、シューターさん。恥ずかしいからあんまり見ないで
よ⋮⋮﹂
﹁汗をかいたままだと風邪をひいてはいけない。カサンドラいるか
な?﹂
とても心配した俺は近くに嫁がいないだろうかと声を上げた。
カサンドラは騎士という村の支配階層の婦人なので、別段みんな
と一緒になって働く必要のない立場だ。
もちろん俺やその従者であるエルパコもその必要が無い立場なの
だが、俺たちの方は作業の遅れを取り戻したいので一緒にやってい
るだけである。
698
普段のカサンドラは作業小屋で全体の進捗を見守っているはずな
のだが。
﹁お呼びですか、シューターさん?﹂
﹁エルパコが汗かいちゃって、服が濡れてるんだ。着替えて休憩さ
せてくれ﹂
﹁はいわかりました。エルパコちゃん頑張ったね﹂
﹁あ、ぼくは﹂
カサンドラは笑顔で近づいてくると、自分より少しだけ背の低い
けもみみを見てそう言った。
﹁お前はここで休んでいなさい。作業は今日明日終わる様なものじ
ゃないから、俺と交代でしっかり働こう。な?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
俺がついつい癖でエルパコの頭を見ていると、なでなでしてしま
った。
すると﹁自分もまだ一緒に働くよ﹂と言いたげだった顔がみるみ
る大人しくなって、尻尾をくねくねさせはじめた。
狐獣人のエルパコは犬じゃないのだから、嬉しいからと言って激
しく尻尾をふりふりするわけではないらしい。
﹁じゃあ俺は石運びを再開する事にする。この短剣も作業するのに
は邪魔だな、預かっておいてくれ﹂
﹁わかりました旦那さま。シューターさんもあんまり無理なさらな
い様に﹂
﹁ああ、君たちも暑いから木陰に入ってなさい﹂
﹁わかりました。さ、エルパコちゃん。木陰に入ってお休みしまし
ょう?﹂
699
﹁うん⋮⋮﹂
腰から短剣を外した俺は、カサンドラにそいつを預けておいた。
一応は騎士さま身分なのでと気取って腰に吊ってみたが、作業す
るのにはいかにも邪魔でしょうがない。
こうして上半身裸で装備も外してしまえば、少しでも体が軽くな
るというものだ。
﹁奴隷騎士さま。村長さまが午後から、応援の人足が合流するとい
う話しだそうですが聞いてますか?﹂
﹁聞いてるけど、新しい犯罪奴隷か何かが街から来るって話しだっ
け?﹂
﹁違いまさぁ、確か周辺の集落から人をかき集めたんですよ。これ
から夏でしょう? すると畑仕事もさほどやる事が無くなるので、
こっちに人間を回すそうですよ﹂
ドワーフ大工のひとりが俺に話しかけて来て教えてくれた。
季節は七月だった。これからますます暑い時期になってくるとこ
ろだ。
戦国時代の日本なんかだと、田んぼの手入れがひとしきり終了し
たこの季節と言えば戦争シーズンだったそうだ。
農民たちが徴発されて長槍を持たされて足軽になる。
このファンタジー世界では別にしょっちゅう戦争をしているわけ
ではないので、農夫は夏になると領主の建設事業に駆り出されるわ
けである。
去年は用水路の整備に従事していたらしいが、今年はかわって築
城作業である。
お城はその領地の顔みたいなものだから、女村長もそれだけ本気
であるらしいね。
700
﹁犯罪奴隷の新しい買取りはもう少し先ですなあ。あんまり奴隷ば
かりかき集めても、暴動にでもなったら大変なので困るんですわ。
村で奴隷を使い潰したとなれば、ご近所の村に聞こえも悪いでしょ
う﹂
﹁そりゃそうだな。というかこの村では奴隷が騎士をやっている様
な場所だけどな﹂
﹁旦那もそう言えば奴隷でしたね、奴隷騎士さま﹂
あっはっはとドワーフが笑い出したので、俺は苦い顔をしてしま
う。
よくよく考えれば今の俺は、どこからどう見ても立派な労働奴隷
の出で立ちである。
初夏の陽光に照らされて、へそピアスがキラリと輝いていた。
﹁それと大工の数人が今日は作業現場に来ていなかったみたいだけ
ど、体調不良か何かかな?﹂
﹁何言ってるんですか奴隷騎士さま、旦那の新居を作るのに出かけ
ているんですよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁そうですよ、村長さまが資材の用意が出来次第、一日で作って見
せると豪語していたじゃないですか﹂
それは知らない話である。
野牛族長に勝利、というかミノタウロスとの話が上手くいけばご
褒美に新居をくれてやるとは言われていたがね。
確かにアレクサンドロシアちゃんは土魔法の名人だと言っていた
ので、任せてくれという様なニュアンスはそう言えば口にしていた
けれども。
﹁きっと立派な猟師小屋が完成しているはずですぜ﹂
701
﹁猟師小屋じゃ困るんだよ。奥さんがふたりに、同居人がひとりも
いるんだから、前より広くないと困る﹂
﹁まあ、騎士さまの家が拝み小屋のまんまじゃいけませんわな!﹂
また笑い出したドワーフに何が面白いのかと不機嫌になりながら、
適当に﹁そうだな﹂と返事をしておいた。
◆
昼になるとカサンドラとエルパコがやって来て、俺にお弁当の時
間だと知らせてくれる。
湖畔の側の、まだ撤去されていない大きな岩を背もたれにして俺
がわくわくしていると、ニシカさんもやって来てランチタイムとな
った。
﹁今日のお弁当は何かな?﹂
﹁いつも蒸かし芋だと栄養がよくないので、今日はインゲン豆と兎
肉の煮つけにしたんですよ。それから黒パンです﹂
﹁オレは干し肉だ。まだワイバーンの肉が腐るほどあまっているの
で、これを食べようぜ!﹂
カサンドラの広げた料理に俺たちはニコニコしながら期待してい
たけれど、ニシカさんが干し肉を汚らしい布を広げて披露して見せ
た途端、一同そろって嫌な顔をした。
カサンドラは俺が留守中にほとんど毎日の様にワイバーンの燻製
肉を食べていたので、飽きている様だ。
俺はこの筋張って硬い干し肉に何ひとつ魅力を感じられないし、
エルパコはいつものぼけーっとした表情を消して下を向いていた。
街の猟師には物珍しいはずのけもみみにすら嫌がられている。
702
﹁んだよ、お前らそんな顔して。肉は元気になるからたくさん食べ
ろよ!﹂
﹁いえ、ワイバーンは間に合っているので遠慮します﹂
﹁ぼくもいらない、な﹂
カサンドラがぴしゃりとお断りを入れた後、エルパコもおずおず
とそう言った。
とたんに不機嫌になったニシカさんを取り繕う様に俺が手を出し
てワイバーン肉に手を出したところ、
﹁シューターさん、ワイバーンのお肉は硬いからお腹によくないよ﹂
小さくエルパコが俺に忠告したのだった。
◆
午後になるとやって来た普請の人足たちは、俺のところに集まっ
てくる。
俺は例によって作業しやすそうな格好をしているので、いっしょ
になって集まると、誰がリーダーで誰が人足なのか一見するとわか
らないぐらいである。
街で俺が買って来た生地で上品な服を仕立てたカサンドラが、俺
の短剣を腰に差していると、むしろカサンドラこそが作業現場の責
任者みたいに見えるから情けない限りだ。
まあ、誰がリーダーでも早いところお城を完成させないとな。
見た目なんて作業効率には何も関係ない。
﹁さてみなさん。今日からしばらくの間、この丘の上にお城を築く
作業を手伝っていただきたいと思います﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
703
﹁複雑で本格的な作業は、大工のみなさんがやってくださいますの
で、みなさんは素材運びに従事してください﹂
うろん
俺がそうやって説明を始めると、胡乱な眼をしたひとりの男が前
にすっと出て来て、こう言った。
﹁奴隷の分際で、偉そうに俺たちに指図するな﹂
その瞬間、俺たちと作業員の空気が一気に凍り付いた。
704
64 静かな湖畔の森のお城 後編
俺に鋭い視線を飛ばしてきた男は、薄汚れた貫頭衣を来た三〇絡
みの農夫だった。
いかにもハツラツとした働き盛りの印象で、毎日の農作業で鍛え
上げられた体をしていた。
せいかん
筋骨隆々のギムルほどではないが、過酷な農作業に従事している
者特有の精悍な面構えと体躯を持った男だ。
一方の俺は、奴隷身分を現すへそピアスを付けた上半身裸の男で
ある。
別段、作業現場において半裸の男は珍しいわけではない。
重たい足場用の材木や加工した石材を運ぶとなれば汗まみれにな
るし土まみれ、埃まみれになる。
だから多くの人足たちや大工たちは、平気で上半身を晒していた
のである。
けれども、現場監督の俺がへそピアス丸出しの上半身裸だったの
は大問題だった。
﹁何で奴隷の分際で、普請作業を取り仕切る様な態度を取っている
んだ。貴様はいったい何なんだ、ええ?﹂
失念していた事だ。
普通に考えれば現場監督が半裸になってみんなと汗をかき、作業
をしているのはある意味でおかしい。
そして彼らは村人ではなく、村の周辺に散らばっている集落の人
間だ。
つまり、彼らは俺の事を知らない。
705
﹁大変失礼しました、お詫び申し上げます﹂
何はさておき低姿勢で謝っておくほうがいい。
俺は咄嗟の判断でそうしておくことが得策だと感じた。
余計な揉め事はたくさんだ。すぐに平伏した俺は首を垂れた。
﹁ふん。質問に答えてもらおうか、お前は何なんだ﹂
﹁猟師のシューターです﹂
﹁奴隷のくせに、猟師だと?﹂
﹁はい。奴隷になる以前は猟師でした﹂
自己紹介をどこまでしたものか俺は頭を下げながら思案した。
いさか
下手な事を口走って普請のために集めた人足を不愉快にさせたり、
諍いになってはいけない。
そもそも俺を現場監督に命じたのは女村長で、ここで揉め事にな
ってしまっては女村長の任命責任にまで追及する声が上がるかも知
れないしね。
そうなるとアレクサンドロシアちゃんの領地経営に影が差してし
まうし、どうやら現場指揮をしている俺に不満を持っているらしい
犯罪奴隷にまで問題が波及してしまうかもしれない。
これはいけない。
むかし俺が色んなバイト経験をしてきた中で、こういう場合にど
うすればいいか必死に考える。
そうしていると、少し離れていた場所で俺たちを見守っていたカ
サンドラとエルパコが、血相を変えてこちらに走ってくるのが見え
た。
顔の位置は出来るだけそのままに、視線だけを妻とけもみみに送
る。
﹁お、お待ちくださいみなさん﹂
706
﹁これはいったいどういう事なんだ﹂
チェック柄の生地のシャツにエプロンスカートを身に着け、腰に
俺の短剣を差したカサンドラが俺と村人たちの間に入って手を広げ
た。
すぐ隣にはエルパコが控えて、いつでもナイフを抜ける様にて構
えている。
﹁争い事はいけません! シューターさんは村長さまに命じられた
現場の責任者なのですよ?!﹂
﹁そういうあんたは何者ンだ。俺たちは村長さまの命令で、築城を
取り仕切る騎士さまの配下で作業するためにここへ来たんだ。ギム
ルさまはいったいどこにいる。騎士さまと言うのは新たにギムルさ
まが就いた役職ではないのか?﹂
﹁わたしがその騎士の妻、カサンドラです。ギムルさまは野牛の一
族の居留地に、お嫁さんを探しに行っています﹂
﹁ギムルの旦那が、野牛の一族のもとへ? そんな話は聞いていな
いぞ﹂
精悍な農夫の代表者が困惑して背後の仲間たちを振り返った。
お前たち何か聞いているかと互いに言い合ってる。
いつまでも妻に状況を任せているのではいけないと、俺は立ち上
がってカサンドラとエルパコを制止した。
﹁みなさんは、先日村長さまと野牛の一族との間で会談が行われた
事はご存知ですか?﹂
﹁いや、そんな話は知らないから俺たちは驚いているんだ。そもそ
もミノタウロスがどうしたと言うんだ﹂
﹁ここから見える場所に、湖畔の大きな洞窟の入り口があるでしょ
う。あの洞窟は奥まで行くと最深部の空洞を地上までぶち抜いて作
707
られた街があるんですよ、ミノタウロスたちの﹂
﹁本当か?!﹂
驚く集落の農夫たちに、カサンドラとエルパコが頷いて見せた。
﹁まさか、そんな場所に。だからここに城を築くのか、奴らと戦う
ために﹂
﹁いえ違います﹂
﹁ならばどういう事か説明しろ!﹂
﹁わかりました、わかりました﹂
むかし俺は居酒屋のホールでバイトをしていた事がある。
接客対応でこちらが不手際をしてしまった時に、どういう風に言
い訳をして逃げ切っていたのか必死で考えていた。
何をしても相手が怒る時はとにかく低姿勢で切り抜ける。
とにかく相手が怒ったり文句を言ったりしている間は黙って頭を
下げる。
してみると相手は説明を求めてくるのである。
言い訳をするとしたら、その時のタイミングだ。
この瞬間を見逃さず、俺は女村長が領地内にミノタウロスが居住
する事を許可するために、税の支払いを要求した事を説明した。
会談によって互いの親睦を深めるために宴会が行われた事、相互
に人質を差し出す事について。
パンツレスリング
﹁その際に俺と、野牛の族長との間で、彼らの伝統である闘牛とい
う決闘方式で勝負をしたんですよ。ほんの宴会の余興でそれをした
のですが、俺が勝利したわけです﹂
﹁奴隷の貴様がか。にわかには信じられん﹂
﹁村長さまより与えられたそのご褒美が騎士叙勲なんだなぁ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
708
農民たちが一斉にカサンドラの方を向くと、コクリと彼女が頷い
て見せた。
納得がいかないという顔はそのままだが、証言者がいるのでそれ
以上は強く出られないらしい。 ﹁奴隷が騎士だと、こういう場合どうなるんだ﹂
﹁こんなへそピアス奴隷に命令されて賦役をするなど、おらは納得
がいかねえぞ!﹂
﹁そうだそうだ﹂
ただし不満はやはり残る。
奴隷のくせに生意気だ、頭が高い。そういう事なのだろう。
俺も立場があるので彼らに奴隷扱いされるわけにもいかないが、
せめて同じ目線にしておけば頭が高いも低いも無い。
よし、ここで俺はひとつ提案をしておこう。
﹁みなさんそこはほら、こういう事ですよ。奴隷は最下層の身分で
あり、騎士というのは領主に仕える支配階層です。足して二で割っ
た身分の俺は奴隷騎士というわけで、あなたたちと同じ立場と言え
るのではないでしょうかね﹂
そう切り出すと、農民たちもカサンドラも眼を丸くして俺を見て
いた。
﹁みなさんは俺の事をあまりご存じない様ですが、その通り。俺は
数か月前にこの村にやって来たよそ者、新参者です。つまりみなさ
んは俺の先輩であるからして、後輩の俺はみなさんにこうしてお願
いをする立場です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
709
﹁村長さまの言葉を伝える立場だと思って、聞いてやってください。
俺もみなさんと一緒に築城のために精一杯働きますので、どうぞご
理解ください﹂
俺がそう言ってペコペコと頭を下げると、先ほどまで不満の色を
浮かべていた集落の農夫たちは顔を見合わせて、押し黙ってくださ
った。
やれやれ。ずいぶん無駄な時間を使ってしまったが、女村長がこ
こに来るまでには抑え込むことが出来た。
農夫たちと一緒に石運びをしていると、少し離れた場所で奴隷た
ちをこき使っていたニシカがこちらをふと見ていた。
どうやら自慢の長耳で、先ほどこちらであった出来事を聞いてい
たらしい。
俺が農夫と一緒に担いでいた天秤棒から石を下ろして丘から降り
てきたところで、ニシカさんがズカズカとこちらに歩いてくる姿が
眼に飛び込んできた。
何かひと事言いたいんだろうな⋮⋮
﹁すいません、ちょっと席を外します﹂
﹁おいおい、サボるつもりじゃないだろうな?﹂
﹁ははは、そんなまさか﹂
あまり好かれてるとは言い難いけれど、一応は口をきいてもらえ
る様になった農民の相方にひと言断りを入れて俺はニシカさんの方
に駆け出す。
﹁何であいつらをビシっと殴り飛ばしてやらなかったんだ。ん?﹂
﹁いやあ。殴り飛ばしていう事を聞かせるなんてやり方じゃ、後々
俺の家族が村八分にされたらたまりませんからねえ﹂
﹁村八分? 何だそりゃ﹂
710
﹁共同絶交というやつですよ。みんなが結託して、のけ者にされる
んですよ﹂
﹁いじめかよ﹂
妙に腹立たしそうな顔をしたニシカさんが、鼻息荒く言った。
﹁俺のいた場所じゃ葬式と火事の時以外は無視を決め込むというル
ールだったかな、そういう感じです。俺は奥さんもらったばっかり
の身分だし、あんまり揉め事になるのはまずいんで﹂
﹁そうだけどよ。あいつらのあの態度は、お前を馬鹿にしくさって
いた感じだ!﹂
﹁まあまあ、それはいいんです。しかしこいつは何とかならんので
すかねえ⋮⋮﹂
へそピアスを引っ張って俺はため息をついた。
このへそピアスのせいで、村人たちの視線だけじゃなく犯罪奴隷
たちの態度も気になるところである。
﹁何だぁ。へそピアスが気に入らないなら、オレ様が引きちぎって
やろうか?﹂
﹁や、やめてください痛い事しないでッ﹂
﹁あっはっは冗談だ。だが冗談で済まない事もあるぜ﹂
笑った後にニシカさんが真面目な顔を作った。
わかっている。こうして俺たちが話し込んでいる間も、従順だと
はまるで言えない視線を時折こちらに見せながら、犯罪奴隷たちが
作業をしているのだった。
﹁農民どもについちゃお前ぇの好きにすればいいが、奴隷についち
ゃそうはいかないぜ。逆らう者にはケジメをつけなければ暴れる。
711
村の中で暴れられれば、おおごとだ﹂
﹁そうですね、村長さまにはしっかりご相談するべきでしょう﹂
﹁農民どもが騒ぎを起こしたことも併せてな﹂
﹁そうですね。気になる事と言えば少し前、ここに来る途中で誰か
に監視されていたんですよね道中を﹂
﹁お前たちをか? 野牛どもかな⋮⋮﹂
﹁いやあ、どうでしょうかねえ﹂
アゴに手を当ててニシカさんが考えている。
俺としても心当たりが無いので、この話題はここで終わらせてお
こう。
﹁ここで言うのもアレなので、村に戻った時に村長さまの屋敷で話
し合いましょう﹂
﹁ああ、そうだな﹂
俺たちは短くそんなやり取りをした後、それぞれの作業に戻った。
あちこちに不穏な空気はあるが、今はまだ問題が起きてるわけで
はない。
しかし、朝の監視していた連中は何者だろうね。
◆
その日も午後過ぎにやって来た女村長を小高い丘の上で迎えると、
彼女は感嘆の声を漏らした。
﹁作業の進捗はなかなか捗っている様だの。もうしばらく足場を組
むのに時間がかかると思っておったが﹂
﹁村長さまが手配してくださった、領民のみなさんの協力のおかげ
ですね﹂
712
﹁秋までに人手を使って可能なところまでは、終わらせておかねば
なるまい。収穫期になれば農夫は使えなくなるし、猟師どもも狩り
に精を出さねばならないからな﹂
基礎工事をどうにか終わらせて、足場作りと石組みが開始された
お城の周囲をぐるりと歩きながら、アレクサンドロシアちゃんが言
った。
俺はその後についてペコペコしながら歩く図である。
カサンドラとエルパコはそのさらに後ろを付いて回るという、や
やマヌケな具合だ。
﹁時にシューターよ、お前にいい知らせがある﹂
﹁新しい家の事ですか?﹂
振り返った女村長がおや? という顔をした。
﹁誰から聞いたのだ。わらわは内緒にしていたというのに﹂
﹁大工さんたちが言っていましたよ。だから今日は大工の数が足ら
ないのだと﹂
﹁まあ、基礎固めと足場を組む作業なら本職の大工はさほどいらん
だろうと思ったのでな。口の軽いドワーフどもめ﹂
﹁彼らを責めないでくださいね。大工の数が足らないので体調でも
崩したのかと俺が聞いたんです﹂
﹁お前は妙なところで目ざといというか、学があるから困るな。家
の方は棟上げも済ませ、土壁の生成までが住んでおる﹂
今、移住してきた開拓民たちや労働ゴブリンたちの家があちこち
で建てられているところだ。
してみると、その中のどれかひとつが俺たちの新居という事にな
るのだろう。
713
そう言えば俺の家のすぐそばの空き地でも、いくつか建物の基礎
工事をやっていたのをふと思い出した。
まさかそのうちの俺たちの新居だったとはね!
﹁たった一日で棟上げまでやってしまわれたのですか?﹂
﹁お前の新妻たちが急かしていただろう。ちょっと驚かそうと思っ
てな、基礎さえ出来ていれば平屋を組むのは一両日あれば出来るも
のだ﹂
﹁ははあ、土魔法さまさまだな⋮⋮﹂
﹁まあ土壁が馴染むまで数日はかかるだろうから、藁の屋根をかぶ
せるのはまた後日だ﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
俺が平伏すると、カサンドラとエルパコもそれにならった。
﹁新婚のシューターには寝室は別にあったほうがいいだろう﹂
﹁ハハ、ありがとうございます﹂
﹁猟師小屋よりは立派だが、木組み土壁の家だ。いずれはこの城の
側に石造りのを立てる予定だから、しばらくの間はその家で我慢せ
よ﹂
上機嫌にそう言った女村長はずいと身を寄せると、俺だけに聞こ
える声で﹁せいぜい励むんだよ、お兄ちゃん﹂と言ってころころ笑
い出した。
﹁さて、さっさとこの土壁を魔法で仕上げてしまうかの﹂
こ、この女村長、楽しんでやがる!
714
65 女村長と晩餐です
その夜、作業現場から村に戻った俺たちは、いったん猟師小屋に
戻って身綺麗にするとタンヌダルクを連れて女村長の家に向かう事
になっていた。
いつもなら作業監督に参加しているニシカさんや大工の親方たち
と作業進捗を伝えに行く。
けれど、この日は珍しく家族で訪ねてこいと、そんな事をアレク
サンドロシアちゃんが言ったのである。
﹁は、はあそれは構いませんが。家族というのは妻ふたりという事
ですか?﹂
﹁エルパコもいるであろう。それから何と言ったか、エリマキトカ
ゲもいたであろう﹂
﹁バジルまで? 何でまた⋮⋮﹂
突然そんな事を言い出した女村長に、俺は不審な眼を向けてしま
ったらしい。
昼間、築城現場で俺を面白そうに見ていた彼女が、少し咳払いを
した後でこう言ったのだ。
﹁お兄ちゃんも意地悪な事を言う様になったな。ギムルが野牛の婿
になったせいで、毎日の食卓が寂しいのだ。たまには遊びに来いと
言ってるのだぞ? 察しろ﹂
﹁はあ、そのままの意味とも思えませんがねぇ﹂
曖昧に返事をしておいた俺だが、どうやら女村長には何か含むも
のがあったらしい。
715
その辺りを察した俺はひとまずうなづくだけうなづいておいた。
夕方になって本日の作業が終了すると、俺たちは三々五々と踏み
固められたけもの道を通って村へと戻っていく。
帰り際に、俺は後ろを歩いているエルパコを振り返って、気にな
っていた事を質問する。
﹁エルパコ﹂
﹁んっ﹂
﹁例の監視する視線は、今も感じるかな﹂
湖畔での作業を開始した当初、この獣道を作業場に向かう途中に
感じたあの視線についてだ。
今になって振り返ってみれば殺気めいた視線は何だったのだろう
と思う。
だが俺は空手経験者だから、あれが間違いなく何かの意志力を帯
びた視線だった事はわかるぜ。
不思議なもので、このファンタジー世界にやって来て日常を過ご
していると、少しずつだがそうした感覚が鋭敏になっていくのが俺
にもわかった。
人間は環境適応力がある生き物だ。
ものの本によると特殊部隊の訓練を受けた軍人というのは、極度
に精神力が研ぎ澄まされて戦闘モード睡眠みたいなものが身につく
のだそうだ。
言ってしまえばただの神経過敏で浅い眠りについているだけなの
だろうが、その状態でも少しでも体力を回復しようと体が努力する
ので、どこでもこの戦闘モード睡眠で寝られるようになるんだと。
俺はさすがにそこまでは出来ない。
猟師小屋に帰ってくれば普通にベッドに横になって、家族と共に
快眠である。
716
毎日体を動かしているので、泥の様に寝ていると言った方が正解
だろう。
もっと言うと、俺とタンヌダルクちゃんは新婚さんであるけど、
いまはワンルーム猟師小屋なのでキャッキャムフフな事も特に発生
していなかった。
そこをいくと猟師であるエルパコは、戦闘モード睡眠ならぬ狩猟
モード睡眠が身についている事は、何となく理解できた。
警戒心はさすが狐獣人というところか、寝ている時も起きている
時もこのあたりは安心だった。
﹁今のところないよ。あの時の一回だけ﹂
﹁それは、俺たちが気付いていないだけで他にもあったという可能
性も無い、という事か﹂
﹁わからないな。たぶんだけど、少なくとも風下にいられた場合は
ぼくにもわからないから﹂
﹁なるほどそうか﹂
﹁ニシカさんなら、もっとわかる、かも﹂
エルパコのそんな言葉に、隣を歩いていたカサンドラはとても不
安そうな顔を浮かべていた。
﹁大丈夫でしょうか、ダルクちゃんは家にひとりでお留守番ですけ
ど﹂
﹁家にいれば村人のみんなもいるからな﹂
﹁けれど、ご近所の方は猟師のご家族を除くとあまり交流もありま
せんし⋮⋮﹂
﹁村八分って怖いよね﹂
今日はタンヌダルクちゃんがお留守番をしているけれど、日によ
っては交代でカサンドラが留守番をする。
717
そうして考えてみると心細く思ったのかもしれない。
実際に俺やエルパコ、タンヌダルクが猟師小屋で生活を始めてか
ら、まともにご近所交流をした事は無かった。
せいぜいが俺の留守中、ッワクワクゴロさんやその弟さんたち、
ギムルが世話を焼いてくれたぐらいだろう。
どうしても猟師というのは村のつまはじきものである様だからこ
れはしょうがない。
安定して村に収穫物を持ち帰れない猟師という職業の家は、村人
たちからするとタダ飯喰らいぐらいに思われているのだろう。
村八分とはいうけれど、ワイバーンとの戦いで最初に犠牲者が手
た時の葬儀には、村人のほとんどが参加しなかったことを思い出し
た。
元いた日本における村八分とは、確か火事と葬式の時だけは残り
二分として近所付き合いをやってもらえたというのにね。
﹁シューターさんはご立派な方ですから、何れ村のみなさんからも
認められる様になります﹂
﹁うん、そうだよシューターさん﹂
ふたりそろってイエスマンよろしく、俺を持ち上げるのでとても
複雑な気分になった。
褒められて嫌な気分になるほど俺は捻くれ者じゃないが、期待さ
れるとそれに応えなくちゃいかん。
そこは大変である。
﹁そ、そうだね。とにかくアレクサンドロちゃんにはしっかりと報
告して、対策を考えよう﹂
﹁はい、あの⋮⋮﹂
﹁築城作業中に何かあってはいけないし、建設中の集落に火をつけ
られたんじゃたまったもんじゃないからな﹂
718
﹁あの村長さまにちゃん付けは⋮⋮﹂
﹁あ、﹂
つい脳内のひとり言を聞かれてしまった俺は、ムっとしたカサン
ドラの視線に耐えられなくなって足を速めるのだった。
◆
そうしてやってきた女村長の屋敷である。
村でも唯一のしっかりとした、ブルカの街と遜色がない造りの屋
敷だ。
今建設中という俺の新居も立派ではあるが、所詮は大きくなった
拝み小屋の延長線上に過ぎない。
そこをいくと村の外からやってくる有力者を迎えるために、この
屋敷には応接間や食堂といった豪華な部屋が備わっていた。
まあさすが領主の館といった趣ではあるけれど、将来は王国に取
って代わる大領地の経営をと模索する野心家の住居としては、いか
にも小ぢんまりとしたものだった。
元いた世界の言葉で適切に言えば、そうだな。リアルスネ夫ハウ
スというところだとろうか。
﹁旦那さま。早くドアをノックしてくれませんかぁ? 何だか虫に
噛まれて痒くてしょうがないんですわたし﹂
﹁お疲れでしょうが、村長さまもお待ちですし⋮⋮﹂
﹁キュイ!﹂
﹁お、おう。そうだね﹂
俺がリアルスネ夫ハウスを眺めながら心の中で感想を抱いている
と、ふたりの新妻に促されてしまった。
性格はそれぞれ違うのでわかりやすい。
719
タンヌダルクはいかにも族長の娘という感じでちょっと自分を大
事にしろと言ってくる感じだ。
一方のバジルを抱いていたカサンドラは最近やたらと俺を立てて
くれるところを見ていると、きっと家族が出来た事がうれしいみた
いである。義父が亡くなってからはずっとひとりぼっちだったんだ
もんな。
﹁ダルクちゃん、あんまり外で旦那さまを悪くいっちゃいけません
よ﹂
﹁で、でも義姉さん。お肌が痒くてどうにもなりません⋮⋮﹂
俺がドアをゴンゴンと叩いている間に、姉ぶったカサンドラが牛
チチを叱りつけていた。
なるほど、俺もあまり気にしていなかったけれど、先に俺と結婚
したカサンドラが義姉で、タンヌダルクちゃんが義妹なのか。
﹁でももへちまもありませんよ。シューターさんは全裸を貴ぶ部族
の偉大なる戦士のご出身なのですから、夫をないがしろにしている
と、滅びてしまったシューターさんの部族のご先祖様に申し訳がた
ちません﹂
﹁はあぃ﹂
しゅんとしたタンヌダルクちゃんだったけど、チラリと俺の方を
見た時にあっかんべーをしていた。
カサンドラって意外と正妻するタイプなんだな。
完全に負けてしまった不服面のタンヌダルクちゃんはともかく、
エルパコまでちょっと怯えた表情をして俺に助けを求めようとして
いた。
﹁エルパコちゃんも、直ぐ何かあるとシューターさんの袖をひっぱ
720
って困らせるのはいけませんよ。そんな事では立派なシューターさ
んのお嫁さんにはなれませんッ﹂
﹁ぼ、ぼく男の子だから⋮⋮﹂
困惑した表情のエルパコかわゆす!
やがて若い下働きの女に屋敷へ招き入れられた俺たちである。
最初に屋敷の中に飛び込んでいったのは、カサンドラの胸元から
飛び出したバジルである。
慌てて﹁こら待ちなさい﹂と俺が追いかけていくと、バジルは腹
を空かせていたのか食堂の方まで案内してくれた。
﹁遅かったなシューターよ、家族も勢揃いの様だな﹂
﹁すいません村長さま。うちのバジルが粗相をしてしまって⋮⋮﹂
﹁よい。わらわもギムルがおらんようになったので、犬でも飼おう
かと思っていたところだ。たまにはこういうのもよい﹂
﹁そんな子供の手の離れた母親の様な事を言うのは早すぎですよ。
バジルこっちに来なさい﹂
﹁キュッキュッベー﹂
俺がペコペコしながら食堂に入っていくと、女村長の足元にバジ
ルが体をこすりつけていた。
猟師小屋でよく俺にやっている仕草である。
この肥えたエリマキトカゲめ、この村で一番誰が恐ろしい存在な
のかをよく理解しているとみえる。あかちゃんのくせにな。
﹁ようシューター、待ちくたびれたんで一杯やってたぜ﹂
﹁え、何でニシカさんがここに呼ばれてるんですか?﹂
﹁何でってお前ぇ、オレぁ近頃妹が嫁に嫁いでいったんで、夜はヒ
マなのさ﹂
721
﹁そんな話は聞いていませんがねぇ﹂
﹁そりゃそうだろうよ! 姉より先に妹が嫁いでいったんだぞ。恥
ずかしくて世間様の前で大きな声で言えるか!﹂
﹁そりゃ失礼しました。でもこの場ではいいんですか⋮⋮﹂
﹁いいんだよ。村長さまに訴えておけば、そのうちオレのこの気持
ちを汲み取って、誰かいい男を紹介してくれるだろうよ!﹂
赤い鼻をしたニシカさんが、ぶどう酒の入った瓶を振って大きな
声を上げていた。
すでに大分出来上がっているらしいのは、見てわかる。
ぞろぞろと遅れて入って来た俺の家族たちが下働きの女に案内さ
れて、長いテーブルに着席した。
当然の様に上座に女村長。
それから左側の長いテーブルに俺、カサンドラ、タンヌダルクと
並び、反対側にニシカさん、エルパコという並びである。
本来ならばきっと、赤鼻のニシカさんが座っていた場所が、ギム
ルの指定席だったのだろう。少しだけ大きな椅子が置かれていた事
から、その辺りうかがい知れた。
﹁さて、食事にしようか。今日はッワクワクゴロが猪を仕留めて来
たと言ってな、あいつが新鮮な猪肉を献上して来たのだ﹂
﹁おお、俺たちもたまには狩猟に出なければとは思ってたんですけ
どね。すっかりッワクワクゴロさんに任せきりになってしまって﹂
﹁それはよい。作業もある程度まで進んだら、現場監督を交代させ
る事も考えておるからの﹂
﹁ところでその現場監督の事なんですが⋮⋮﹂
本日のお食事メニューを自慢げに説明し始めたアレクサンドロシ
アちゃんに俺が切り出そうとすると、
722
﹁鱗裂きから聞いておる。犯罪奴隷どもが不穏だという事と、領民
がお前に抵抗しようとしたというのだろう﹂
﹁はい、それもあるんですがもうひとつ﹂
﹁何者かがこの村、あるいはその周辺に監視の目を向けているとい
う件だろう﹂
俺が切り出すよりも早く、女村長が着席した俺たちを見回してそ
う口にした。
﹁お前たちを集めた理由を話そう。野牛の一族にもこの件は知らせ
なければならぬ故な﹂
俺の耳には、家族のつばを飲み込む音が聞こえた。
エルパコだけがぼけーとした顔で湯気のたつ猪肉を見つめている
のだった。
723
66 猪肉のソテーと、蒸かし芋の若葉蒸しを食べます
﹁まずは暖かい食事を食べるとするかの﹂
湯気のたつ猪肉をじっと見つめているエルパコに苦笑して、女村
長がそう言った。
正直な事を言えば、俺は﹁焦らしプレイ﹂があまり好きではない。
夕飯を焦らされてつばを口の中に溜め込むのもあまり好きではな
いけれど、それよりも女村長が先ほど言いかけていた内容と言うの
が気になってしょうがないのだ。
サプライズそのものは嫌いじゃないが、決していい話ではない内
容を焦らされているというのは、精神衛生上よろしくない。
同じ様に思っていたのだろうか、カサンドラもエルパコも、屋敷
の使用人であるゴブリンが香草で蒸した猪肉を切り分けてれて皿に
盛られてもなかなかフォークを手にしようとはしなかった。
この世界独特の二本串のフォークに手を付けたのは、豪放磊落な
性格のニシカさんと、それからエルパコだけだった。
ところが、
﹁エルパコちゃんいけませんよ。旦那さまも村長さまもまだ料理に
手を付けていないのだから、我慢しないと﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
﹁いやいいよ。お腹がすいては頭が回らないだろうし、今日も一日
よく頑張ったんだからな﹂
ぴしゃりとけもみみを躾けようとしたカサンドラに俺は笑って制
止した。
724
そんなやり取りを見ていた女村長は﹁ふむ﹂と言って、自らもフ
ォークを手に持つ。
﹁上の者がまず行動で示すというのは大事だの、わらわも冷めてし
まわぬうちに口をつけるとしよう。シューターもそうせよ﹂
﹁なるほど、そうですね﹂
俺は本来なら腹ペコだったはずだけど、今は会話の先が気になっ
て仕方がない。
ただ家族が待ちぼうけを食らうのも申し訳が無いので、女村長を
見習ってテーブルに並べられた皿のひとつから蒸かし芋を手にした。
昼夜と欠かさず食卓に並ぶ蒸かし芋だが、これはうちの畑でもと
れる芋と同じものだ。
味は元いた日本でも栽培されていたサトイモの仲間らしく、俗に
太平洋諸州で食べられているタロイモの仲間という事だろう。
蒸かし芋はこのイモの若葉で包んで蒸し鍋にかける。
柔らかい若葉は蒸されるとほどよく苦味と青味を帯びて、猪の肉
汁で作ったソースに浸けて食べるとなかなかの美味だった。
ほんのりと苦みと辛みを感じるのは酒にもちょうどいい。
﹁さて食べながらでよいので聞いてほしい。近頃この村の周辺で何
者かの視線を感じているという事だったが、﹂
ぶどう酒の入った酒杯を口元に運んだ女村長が、俺の顔を見て言
葉を続けた。
﹁周辺をマッピングしている冒険者からも報告が上がっているので、
少し気になって調べさせておった﹂
﹁その話は、ギルド運営のカムラさんから聞いたのですか?﹂
﹁いいやギルドの方からではなく、エレクトラから直接聞いたもの
725
だ﹂
エレクトラというのは、俺とニシカさんがギムルとともにブルカ
の冒険者ギルドで直接面接した上でスカウトした冒険者のひとりだ
った。
たいへん失礼な物言いをすればメスゴリラみたいな筋骨隆々の女
冒険者である。
武器はこの世界では珍しい細剣を使用していたので印象深いけれ
ど、対人戦闘に関しては俺も舌を巻くほど腕が確かだったのを覚え
ている。
ただし得意にしている武器が武器だけに、モンスターとの戦いに
ついては未知数である。
﹁それはまたどうして﹂
﹁もちろん信用できる人間だからだ﹂
疑問に思った俺の質問に、女村長が口角を上げてそう答えた。
エレクトラはアレクサンドロシアちゃんと同性という事もあって、
最近よく一緒に行動をしている姿を村や作業現場で目撃している。
恐らく護衛として同じ女性なので安心できるのだろう。
対人戦が得意というのも護衛役としてはうってつけである。
﹁冒険者ギルドの出張所は、表面上滞りなく運営活動を行っている﹂
﹁ではなぜカムラから話が来ないのですかねえ﹂
﹁エレクトラやダイソンは、領内に先にやって来たのもあって仲が
良い。村の猟師と連れ立ってマッピングにも出かけているのだが、
そこで感じた違和感と言うか視線については必ず冒険者ギルドで報
告を上げていると言っておったぞ﹂
﹁するとカムラさんがその情報を握りつぶしていると?﹂
726
ちょっとありえない展開に、ぶどう酒を口にした俺は微妙な顔を
した。
ぶどう酒が渋いからというだけではない。
﹁ふむ。シューターはどう考える?﹂
﹁うーん、考えられることはいくつかあります。不確かな情報のう
ちは上に報告するべきではないと考えているか、そもそもそういう
事はあり得ないとカムラさんの基準で否定的に考えているのか、も
しくは理由があって黙殺しているのか﹂
﹁なるほどのう﹂
むかし俺は、とあるWEB制作会社のバイトをやっていた事があ
る。
その会社は営業さんがWEB制作に関連する仕事ならどんなもの
でも受注して来ると言う貪欲なひとだったので、通販会社のショッ
ピングページから、それこそソーシャルゲームの下請けまで取って
来るという有様だった。
運用チームや制作チームの社員の人たちは、その営業さんの事を
ダボハゼだと言っていた。
どんなものでも喰らいつくという意味だけれど、その際に俺が担
当を割り当てられたのが、とあるスマホゲームの背景画を管理する
というものだった。
背景を担当するイラストレーターさんと連絡をとり、これを元請
会社にしっかりスケジュール管理にのっとって提出するわけである。
しかし、作業進捗というのは様々な理由で遅延する。
イラストレーターさんの技術が追い付いていないという事もある
かもしれないし、単純に追加発注が入っててんてこ舞いになるとい
う事もある。
あるいは何度イラストを提出しても再提出を指示される事だって
ある。
727
結果、イラストレーターさんは﹁今、ほぼほぼ完成しています!﹂
という報告をして、何とか時間を捻出しようとしたり誤魔化そうと
したりするようになった。
世に言う﹁報告、連絡、相談﹂が欠落していたんだな。
それはイラストレーターさんにとっては嘘でもなんでもない事だ
ったけれど、最後の最後でどう直していいのか行き詰ってしまう。
まず俺のところに遅れてくる。俺は今度は言い訳を色々ならべな
がら元受にそれを報告する。
元受も、版元に言い訳をする。
言い訳の連鎖で、結局何が何だか分からなくなってしまったので
ある。
﹁どういう理由であれ、カムラさんが村長さまに報告しなかった事
は問題ですね﹂
﹁シューターはそう思うか?﹂
﹁ええ﹂
女村長に、俺は思った通りの事を伝えた。
俺はこの村にやって来てからこっち、全ての人間にいい顔をする
のだけは絶対にやめろと決めていた。
もしも顔色を窺う相手がいるのなら、それはアレクサンドロシア
ちゃんだけにしようと自分の中でルールを決めたのだ。
ああ、もちろんカサンドラとタンヌダルクちゃんは別だ。
彼女たちは俺の奥さんであり、家族はもっとも優先すべきもので
ある。
俺みたいな万年バイト戦士だった人間が家族を持てるなんていう
のは、元いた世界では想像もできなかったことだからね。
﹁鱗裂きはどう思うか﹂
﹁ああ、そういうのはシューターに任せておけば間違いないぜ。オ
728
レ様はカムラの事はよくわかっちゃいねぇが、シューターの事は信
用できるからな﹂
嬉しい事を言ってくれるじゃないの。
俺の方を向いて片眼をつむってアイコンタクトをとってくるニシ
カさんに感謝した。
ただしファッション眼帯をしたニシカさんがウィンクをしても、
それはただの眼をつむっただけじゃないかという風に内心で思った。
﹁という事は、やはりカムラさんが怪しいという事になりますね﹂
﹁そういう事になるだろうな﹂
﹁それじゃあ、そのカムラさまという蛮族は、何が目的でそんな事
をしているんでしょうね?﹂
俺たちのやり取りに、器用に骨にへばりついた残り肉をフォーク
とナイフで切り落としてたタンヌダルクちゃんが質問して来た。
﹁そんなものは簡単な事だぜ。まあ、都合が悪いから握りつぶして
るんだろうぜ。誰かと繋がってんだろう。この肉うめぇな!﹂
﹁誰かって誰ですかね。蛮族の領主さまが上手くいくのが気に食わ
ないなんて。そのカムラって蛮族はいやなひとですね、旦那さま﹂
ニシカさんがさも当然という風に言うと、残り肉をフォークとナ
イフですくいながらタンヌダルクちゃんがそう言った。
なかなか鋭い切り口で物事を見ているな野牛族長の妹は。
﹁シューターのふたり目の嫁はなかなか頭がキレると見える。わら
わにとってライバル関係にあると言えば、周辺の領主かブルカ辺境
伯だろう。わらわがこの領地で成功してもっとも都合が悪いのはブ
ルカ辺境伯だろうな﹂
729
眼を丸くしながらも面白がった様に女村長がそう言った。
﹁恐らく、開拓移民の中にそういう人間に含まされた者たちが潜り
込んでいると見るのが良いだろう。移民、労働ゴブリン、犯罪奴隷、
冒険者、これらの中に怪しい行動をする者がいる可能性があるのだ﹂
﹁なるほど、カムラさんはブルカ辺境伯か、周辺領主の差し金とい
う可能性があると﹂
﹁もちろんカムラ本人が、わらわのライバルと直接つながっている
とは言いきれぬ。場合によっては他に別の人間を通して間接的に繋
がっている可能性もあるのだ﹂
俺はそれを聞いてふとエルパコの方に視線を向けた。
疑っているという意味ではない。
エルパコは街からやって来た猟師なので、ここにやって来るまで
に移民や犯罪奴隷たちと長い時間行動を共にしてきたからである。
何か知っているだろうかとふと思ったのだが、
﹁ぼ、ぼくを疑ってるの?﹂
﹁違う違う、そういう事じゃないからなエルパコ。何か外から来た
連中の中に不審な動きが無いか、過去に無かったか、気になった事
を教えてくれればと思ったんだ﹂
煮込み野菜のスープを木のスプーンで口に運ぼうとしていたエル
パコが、とても悲しそうな顔をして俺の方を見返してきたので、慌
ててそれを否定した。
﹁不審な動き?﹂
﹁そうだ。エルパコは狐獣人だろ? その耳は遠くの気配も察知す
るほど頼りになるし、猟師だからなのか獣人だからなのか、相手の
730
動きもよく察知しているだろう﹂
俺が取り繕いながらそんな事を言っていると、不思議そうな顔を
したエルパコがちょっと照れた表情を浮かべた。
俺が言葉を続けようとした瞬間に、エルパコも何かを口にしよう
とした。
ちょっと口を開くのを抑えて様子見を仕様とした瞬間、さらに言
葉をかぶせてきた人間がいる。
アレクサンドロシアちゃんだ。
﹁狐獣人だと? シューター、それはエルパコから聞いたのか﹂
﹁あっはい、そうですけどねえ﹂
﹁この娘は狐獣人ではないぞ。何を言っているんだ﹂
﹁え?﹂
﹁ぼ、ぼくは男の子だから﹂
﹁そうではない。エルパコは、お前は自分が狐獣人だと誰に聞かさ
れたんだ。両親は狐獣人ではないだろう?﹂
少し語調を強めた女村長が詰問口調でけもみみに迫った。
この際は男か女かはどうでもいいと言わんばかりに、少し身を乗
り出して女村長がエルパコを睨み付けている。
するとけもみみはシュンとして身を縮めると、上目遣いで俺に助
けを求めるような視線を送って来た。
﹁ぼ、ぼくは孤児だったから、普通にゴブリンの里親の家で育った
よ。義父さんが、ぼくは狐の獣人だろうって﹂
そんな事を申し訳なさそうに訴えて来た。
マジかよ。
エルパコは孤児だったのかよ。
731
しかも両親はゴブリンの里親。つまりお前は何獣人なんだ?!
そう思った次の瞬間だった。
どこかでドンドンと扉を叩く様な音がしたかと思うと、荒い息遣
いが聞こえた。
ドカドカと乱暴に床を踏み鳴らす音と共に、食堂にふたりの冒険
者が姿を現したのだ。
﹁どうしたふたりとも。わらわたちはいま食事中だぞ﹂
冒険者エレクトラとダイソンだった。
﹁村長、大変だ。湖畔の方の空が赤く染まっている!﹂
﹁付け火だ。作業現場から出火したんだ!!﹂
その言葉を聞いた瞬間、俺たちは騒然となった。
◆
ひとつひとつ積み上げてきた積み木を崩される感覚というのだろ
うか。
子供の頃、親の留守中にそんな遊びをしていたところ、ふたりの
妹たちが俺にかまってもらいたくて、ひとり遊びをしていた俺の積
木のお城を壊された事があった。
俺の目の前には、一夜にして消し炭になってしまった建設途上の
集落の残骸。それから丘の上には黒く煤けた作りかけの城が見えて
いた。
ところどころ、くみ上げた石が崩れている。
アレクサンドロシアちゃんの積み木の城が崩されていたのだ。
732
733
67 奴はカムラ 1
延焼した建設途上の湖畔のお城を俺は見上げていた。
昨晩、俺の家族たちが集まって女村長の屋敷で晩餐をしていたと
ころ、この城の火災を知らせる一報が届いたのである。
時刻はどれぐらいだっただろう。
陽が落ちて一時間程度は経っていたとは思うから八時、いや九時
ぐらいかもしれない。
普段ならそろそろ飯も風呂も終えて寝仕度を始めるころだし、少
し夜更かししている頃ならばカサンドラとハッスルしている時間か
も知れない。
そんな頃合に火災の一報を聞いて村長の屋敷を飛び出してみると、
湖畔のある西の森の向こう側が朱く染まっていたのである。
﹁見事に振り出しにもどっちまったなぁ﹂
何と言っていいのかわからない俺は、翌朝になって消火活動が終
わった後に茫然とそんな言葉をこぼしてしまった。
ここまで建設にかかった日数は二週間以上。
元いた世界ならば長くかかるだろう建設の時間を見ればほんのわ
ずかなロスかもしれないが、この世界では別問題だ。
魔法によって簡単に土壁を作り上げる事が出来るので、いったん
基礎と足場を作ってしまえば、ほとんどあっという間に家そのもの
は作り上げる事が出来る。
問題はお城の方だ。
朝になって火災の静まった城周辺を見れば、苦労して掘り起こし
た井戸が破壊されていたり、基礎部分の石の柱が強力な魔法か何か
734
でヒビを入れられたりしていた。
かなり用意周到な破壊活動だね。
この世界には破壊活動防止法はないのか。
俺の二週間が、何もかも台無しだ!
ぜひとも当局には徹底的に調査究明をやって頂きたいものである。
﹁ふむ。ずいぶんと派手にやられたものだな。シューターよ、予定
の計画通りに城を作るためには、どれぐらいの工数がかかるかの?﹂
﹁そ、そうですね。ちょっとわかりませんけれども、当初の予定で
は秋を迎えるまでには棟上げを済ませてしまおうという話でしたっ
け﹂
すす
いつものドレス風の衣装の上から軽装な甲冑を身にまとった女村
長が、煤けた城の壁を見上げながらそんな事を口にした。
俺は慌てて手に持った羊皮紙の巻き物を広げる。
細かく書き込まれた工程表は、俺が日本語で書き込んだものであ
る。
同じ内容をタンヌダルクちゃんに書いてもらって、こちらはドワ
ーフの大工たちとも共有はしていた。
﹁この冬までに居住が可能なようには出来るか﹂
﹁ドワーフによれば基礎の部分は十分に耐久力がある事が、今回の
襲撃で証明されたと言っていました。問題は足場を完全に燃やされ
てしまったのと、一部の石柱にヒビが入っているのも発見されたの
で、これは急いで交換しないといけないという事でした﹂
いくつかの柱を指差して俺が説明した。
女村長は何の表情も無い顔でそれを見上げ、ひとつひとつ触りな
がら移動していく。
735
作業の工程全体を見れば、基礎をかため足場を作り、ようやく一
階部分の壁面が仕上がったばかりのところだった。
城の内側になる土の壁面は真っ黒に煤けていた。
木組みの足場やそれを覆う天幕が張られていたのが、余計に災い
したらしい。
﹁石柱を交換するのはさほど時間がかかるまい?﹂
﹁問題は予備の石柱を急いで用意する必要がある、という事でしょ
うね﹂
﹁急がせろ、これはわらわにとっても意地にかかる事だからの。冬
までに完成できませんでしたでは、周辺領主の介入を増長させる事
になる﹂
﹁どういう事ですか?﹂
﹁今回の事件ひとつをとっても、わらわに統治運営能力が無いと注
文を付けてくる人間がいるだろう。ブルカ伯か周辺貴族か中央か、
それはわからぬが、そうなればわらわと結婚して、この領地をわが
物にしようと考える不埒な輩がいるかもしれないからね﹂
ようやく女村長の顔に生気が宿ったのだが、その時彼女は唇を噛
んでいた。
何と言葉をかけていいかわからず、俺はひとまずため息をついた。
﹁それに、冬になればこの辺り一帯は雪に覆われるんでしたっけ?﹂
﹁そうだの。それまでに城と集落、可能ならば村の幹部たちの石の
家をしっかりと建設しておきたい﹂
﹁村と湖畔を繋ぐ道も、どうにかしないといけませんね﹂
﹁だからこそ、この様な事をやってくれた犯人が憎たらしくてなら
んよ﹂
736
女村長は俺の方に向き直ってそう言った。
よほど悔しい顔をしているかと思ったら、そうでもなかった。
どうやら怒りや悔しさよりも、覇気と面白がっている様な顔をし
ているではないか。
﹁お兄ちゃん。わらわを助けてくれると言ったな?﹂
﹁ああ言ったよアレクサンドロシアちゃん﹂
周辺に誰もいないのをいいことに、俺と女村長は茶番をはじめた。
﹁わらわのお城にこのようにした事、犯人に絶対後悔させてやりた
い﹂
﹁そうですねえ。俺も俺の仕事を台無しにされたのが悔しくてなり
ませんからね﹂
﹁そうだろう、そうだろう﹂
﹁率先して犯人捜しをやりましょう﹂
﹁じゃあ、さっそく死体を検分に行こうかの﹂
妙な意気投合でお互いにしばらく見つめ合った後に、俺たちは丘
の下に向かった。
本来は作業小屋で見張に立っていたはずの村人が、そこで消し炭
になって見つかったのである。
﹁おう、シューター来たか﹂
﹁ッワクワクゴロさん、死体の具合はどんな感じですかね?﹂
死体周辺で警備にあたっていたッワクワクゴロさんが俺を見上げ
て声を出した。
女村長は俺たちのそんなやり取りの隣をすり抜けて、ドレスの裾
をつまみしゃがみこんだ。
737
﹁殺された後に火の中へ放り込まれたらしい、この通り消し炭にな
っていて状況がわからん﹂
﹁冒険者やニシカさんたちの見解は?﹂
﹁カムラとかいったか、冒険者ギルドの旦那が周辺警戒から戻るの
で意見を聞いてみるとするか﹂
ッワクワクゴロさんが鷲鼻をいじりながらカムラという言葉を耳
にした瞬間、俺の背中に緊張感が走った。
しゃがんで死体を覗き込んでいる女村長もたぶん同じだ。
ビクリと背中を動かしたらしいのは、チラリと見ていてもわかっ
たのだ。
犯人と決めつける状況ではまだないが、余所から来た移民はこの
際等しく怪しい。
そしてエレクトラたちの上申を握りつぶしたという事実は拭えな
い。
俺もアレクサンドロシアちゃんの隣にしゃがみ込んで、ふたつの
まる焦げ死体を見やった。
見るもおぞましいとはこの事で、俺はとても気分が悪くなった。
どうやら女村長、義務感から覗き込んでは見たものの、詳しい事
もわからず、死体の残念な有様にも耐えかねて、嗚咽一歩手前とい
う具合だった。
いやあ、不謹慎かもしれないがふたりの妻を離れた場所に待機さ
せていてよかった。
﹁村長、シューターくん。この周辺の足跡を調べてみたがまるでわ
からない。作業員たちが踏み荒らしているので犯人のものと判別が
つかないんだよ﹂
738
すると、少し離れたところから美中年カムラの声がして俺たちは
振り返った。
美中年は移民の護送に付いてきた冒険者たち数名を連れていた。
鹿追いにも参加していた青年と、あまり会話のしたことは無い鎖
帷子姿の女冒険者だ。
それからまだ未婚の、村の女を数名連れていた。
確かギルドの運営に人手がいるというので、カムラがかけあって
手の空いている働き手を求めたのである。
それに応えたのがこの未婚の女たちというわけか。
﹁逃走経路なんてどうにでもなるだろうからな、足跡はこれだけ人
足が作業現場をうろうろしていれば、その線から犯人探しをするの
は無駄な事だろうぜ﹂
﹁シューター君は犯罪捜査の経験でもあるのかな﹂
俺がむかしテレビや小説で読んだサスペンスやミステリを思い起
こしながらそんな事を言うと、カムラが驚いた顔をしていた。
たぶんこれは真顔なんだろうな。あまり裏表のない顔でカムラが
言ったのだ。
するとッワクワクゴロさんが腕組みをしておかしな事を口にする。
﹁ふん、シューターは故郷で戦士をやっていた男だからな。役人と
してそういう事も経験した事があるに違いない﹂
﹁褒め過ぎですよ、ちょっとそういうのを見聞きしたことがあった
だけです。足跡はいざとなれば誤魔化す事も出来るでしょうが、手
口からは犯人像が浮かんでくるかもしれない﹂
俺はというと、感心しているッワクワクゴロさんは無視して棒切
れを拾い、改めてまる焦げの死体を検分した。
739
﹁これ、斬り殺されていますよね﹂
﹁ああこれは胸をバッサリだな﹂
死んだ人間が誰なのかはすぐにわかった。
何しろ見張りに立っていた村人が殺されたので、これはすぐに合
致する。
問題は殺され方だ。
ひとり目の斬り口を見る限り、肩口から脇腹あたりまで斜めにバ
ッサリと一刀のもとに斬られたというのが正しい。
もうひとりを見やると、こちらは突き殺された後に剣を引き抜く
際に斬り上げられている。
むかし俺は大学の格闘技サークルに所属していた頃、居合を学ん
でいる人間から聞いた事があった。
日本刀で人間を斬り付けるのはとても難しいと。
まず刃を正しく立てる事が出来ないので、そもそも袈裟斬りとい
うのは合理的な斬り方ではないのだと。
つまり素人は刃を突き立てる方がいいのだ。
刺すだけなら勢いをつけてやるだけなので、まあ根性さえ座って
いれば誰でも出来る。
この現場を見る限り、袈裟斬りひとつと刺殺がひとつ。
両方が当てはまるわけだけれども、ひとつめの死体は日本剣術だ
ろうが西洋剣術だろうが難易度の高い袈裟斬りだ。
もうひとつの刺殺だけれど、こっちもプロの仕業を示唆するもの
があった。
刺して切り上げる。
ただ刺すだけでなく引き抜く時に負荷を上にかけるのは内臓を切
断するためである。
やり方がえぐい。
740
もしかすると他にも止めを刺した様な斬傷はないものかと探すと、
やはり黒こげになった顔の付け根、つまり頸根の血脈が斬られてい
た。
﹁ああこれはプロの犯行ですわ﹂
俺が棒切れで傷口数か所をつついたところでそう断言した。
﹁本当かそれは﹂
﹁斜めに斬り伏せられていますよね、これは剣筋を確かにコントロ
ール出来る人間の仕業です。こっちは腹にひと刺しした上に、引き
抜く時に内蔵もぐちゃぐちゃに切断してる。ついでに首筋も太い血
管を斬っています﹂
ふたり目はあざやかに、ほとんどふた太刀で倒しているのだ。
その事をアレクサンドロシアちゃんに説明すると﹁なるほどな﹂
とうなずいてカムラを見上げた。
﹁村の中にこの程度の剣術が出来る人間が何人いる﹂
﹁冒険者登録をしている人間は全員出来るでしょう。俺もシュータ
ー君もそうだし、大変失礼ですが、騎士さまであられるアレクサン
ドロシアさまもそれが可能です﹂
﹁フフフ、そうだな。犯人という意味で絞り込める人間を今日明日
中に必ずわらわに上申せよ。また犯人を捕まえたものはわらわより
騎士叙勲させると冒険者どもに伝えてくれ﹂
﹁ははっ﹂
﹁シューターはただちに野牛どもに連絡を飛ばせ。ギムルに応援を
つけて寄越す様に伝えるのだ、警備の数を増やす﹂
﹁了解です、また後程﹂
741
アレクサンドロシアちゃんは美中年を試す様にそう言うと立ち上
がり、俺にも命令を飛ばすとすたすたと黒こげの造りかけのお城に
向けて歩き出してしまった。
途中で﹁エレクトラ、カサンドラ!﹂と叫んでいるところを見る
と、何か話をするつもりなんだろう。
742
68 奴はカムラ 2
﹁さて困った事になった。俺たちよそ者はこれから犯人捜しでお互
いに疑心暗鬼になるな﹂
やれやれ、という具合に天を仰いで美中年カムラがそう言った。
女村長の去った後、資材置き場に俺たちは集まった。
村の冒険者ギルド長となっている美中年カムラのところに、複数
の冒険者たち。
それからッワクワクゴロさんのところにニシカさん、若い青年猟
師、ッワクワクゴロさんの弟たち。
俺のところにはタンヌダルクとエルパコ、それから女村長の家で
下男をしている木こりのッンナニワである。
上手い具合にそれぞれの立場に人員が固まっているのが面白い。
カムラは村の新しい要素である冒険者グループの取り纏めである
し、ッワクワクゴロさんは猟師の親方株を持つベテランで中心人物
だ。
問題の俺はギムルがいなくなった後の村の幹部格なわけだが、お
かげで我が家で預かっているエルパコだけでなく、木こりのッンナ
ニワさんまで俺の後ろに控えていた。
ッンナニワさんは相変わらずのむっつり顔で俺とまともに会話を
しようとしないのがタマにキズだな。
﹁俺はこういうミステリ展開とか、あまり得意ではないんですがね
ぇ﹂
﹁ミステリ? シューターは時々おかしなことを言うな﹂
743
俺のぼやきにさっそくッワクワクゴロさんが不思議そうな顔をし
た。
すいませんねぇ俺は異世界出身なんですよ。
そんな事を考えていると、
﹁とにかく野牛の一族にも警備を手伝ってもらって、監視体制は強
化するしかないね。警備の担当責任者はシューター君だったね﹂
﹁そうですねぇ。俺は村の騎士だからね﹂
﹁じゃあ今回の事件の責任者は、シューター君という事になる﹂
責任者、という言葉のところを強調して美中年が言った。
とても嫌な響きである。
むかしから俺は、その責任という立場を負う必要の無いバイト戦
士として元いた世界では過ごしてきた。
せいぜいバイトリーダーが自分の役割上の一番の出世である。
いや。出世と言うのもちょっとおかしいが、とにかくそういう事
だ。
﹁責任者ですからね。今回の犯人を見つけ出した後は、しっかりと
責任を取りますよ﹂
﹁どうかな、俺はもちろんシューター君にあれこれ言うつもりはな
いけれど、村のみんなはどうだろう﹂
そう言った美中年カムラは振り返り、彼の部下であるところの冒
険者やギルドの若い女たちを見やった。
少なくとも女たちは、微妙な顔をして俺を見ていた。
何だ、俺に脅しでもかけてくるつもりか?
﹁⋮⋮どういう事ですかねぇそれは﹂
744
﹁それは直接彼女たちに聞いた方が早い。君たち言ってごらん﹂
﹁あ、あたしのお父さんが、犯人はよそ者に違いないって﹂
﹁最近は外から入ってきた人たちが村の中をうろついているからと
ても怖いって。野牛の一族とも交流を持つとか、村長さまが言いだ
したし。よそ者がきっとそのうち何かしでかすんじゃないかって兄
ちゃんも言ってたんです。そしたらこんな事が起きたので、家族が
みんなよそ者を恐れています﹂
カムラに促されて答えたふたりの若い娘たちの言葉に、俺はたま
らずしかめ面を作ってしまった。
けれども俺よりもっと腹を立てたのは、どうやらタンヌダルクち
ゃんの方だったらしい。
﹁よそ者よそ者ってさっきから聞き捨てならないですよ! 旦那さ
まは確かに全裸を貴ぶ部族のご出身かもしれませんが、兄さんを倒
したほどの辺境で最強の戦士ですよ! 全裸でも領地のために貢献
してるんです!﹂
こらこらタンヌダルクちゃん。
俺はもう全裸ではないよ。半裸ですらない。
村の周辺集落から集められた人足の農夫たちと諍いがあって以後、
俺はカサンドラが編んだ服をちゃんと身に着ける様になっていたの
です。
ブルカの街で購入した生地が役に立った。
へそピアスを見せているという事は、それだけでつまらない問題
を領内に起こしてしまうのである。
俺はしょせんこの村や領内ではよそ者で、よそ者である以上は領
民たちに顔を知られていないのだ。
どれだけ暑くても今後は服を着ていようと今回の事で痛感したの
である。
745
まあ、遅きに失したというところはあるんだがね。
﹁まあ俺の事はいい。タンヌダルクちゃんは、お義兄さんのところ
まで使いに走ってくれるかな。昨夜の火災の事と、周辺警備強化の
ために兵士の応援を寄越して欲しいと。出来ればギムルさんも来る
ように伝えるんだ﹂
﹁わたしだけのけものにするんですかあ?﹂
﹁違うよ、頼りになる相手だから頼むんだ。ニシカさん、護衛をお
願いできますか?﹂
﹁おう、任せときな!﹂
﹁じゃあタンヌダルクちゃん、よろしくな﹂
俺は野牛妻の頭をなでなでしてやると、タンヌダルクちゃんが﹁
ううん、人前で触るなんてっ﹂などと小さく呟きながらスネていた。
公衆の面前でイチャコラしていると勘違いされたのだろう。
野牛妻とニシカさんが去った後も視線が痛い。
俺がバツの悪い顔をしたところで、ッワクワクゴロさんがみんな
を見回して口を開く。
﹁まあシューターを責めている人間はここにはいやしねぇ。問題な
のは移民たちの集団を、元から領内にいた村人や集落の人間が警戒
し始めているという事だな。このままいけば、必ずどこかでぶつか
る事になる。その前に何とかしなければなんねぇという話だ﹂
﹁つまり早い段階で責任の所在をしっかりと出して、しかるべき立
場の人間がしかるべき説明をすべきだと。そういう事ですかねぇ﹂
﹁そういう事だ。開拓村のくせに元からいた人間と新しい移民が揉
め事を起こしている様じゃ、いつまでたっても領内は纏まらねぇ﹂
﹁説明責任か⋮⋮﹂
746
俺は腕組みをしてうんうん唸った。
消火活動を終えて燃えた残骸の資材を片付けている村人たちを見
る。
昨日までの作業がまるまる無意味になった事への虚無感というか
憤りというか、そういうものがどことはなしに漂っていた。
集まって作業している人間は新旧領民に加えて労働ゴブリンや犯
罪奴隷たち。
特に犯罪奴隷たちが領民の近くにいると、あからさまに嫌そうな
顔をしているのも見れる。
こりゃ揉め事が起こるのは時間の問題だね。
﹁とにかく問題が大きくなる前に、説明責任を果たす。つまり犯人
探しだ。疑うような真似をして申し訳ないが、みなさんにはご協力
してもらいますいいですね?﹂
俺が周囲を見渡すと、みなが一様に頷き返した。
◆
事件があった夜、現場にはふたりの村人が見張に立っていた。
名前は仮にッイチ、ッニとしよう。
死んだのはゴブリンの小作人だったのでこれでいいだろう。
ッイチは袈裟斬りの一撃、ッニは刺殺だ。
殺害手口からして、犯人は剣の心得がある人間だった。
この村で考えられる容疑者は次の通り。
冒険者に名を連ねるもの、あるいは猟師など刃物を頻繁に使って
いる者。
小さな領内なので、剣の心得がある者なんて数えるほどしかいな
い。
747
﹁見張を殺した犯人はたぶん、ひとり乃至ふたりです。が、建設途
中のお城や家々に火をかけたのはひとりとは限りません﹂
﹁お城や家の材木には油か硫黄をかけてあった可能性がある。詳し
い事は鍛冶の男を呼んで調べさせる必要があるな﹂
﹁つまり複数人の犯行が考えられるわけです﹂
現場周辺には連日昼間の作業で踏み慣らした足跡が無数にあり、
どれが犯人のものなのかはわからない。
なので逃走経路を調べようとしてもこれはわからなかった。
﹁領外から何者か集団がやってきて、犯行におよんだという可能性
があるんじゃないかな﹂
﹁その可能性は十分に考慮する必要があります。ただ、その場合で
も内部で通じていた人間がいたと考えるのが普通です﹂
﹁だったら剣やマシェットの扱いに慣れてる人間がここにあらかた
揃ってるんだ。みんなで剣を見せ合えばすぐに犯人が分かるだろう
ぜ﹂
ッワクワクゴロさんがもっともらしい事を口にしたので、みんな
がごそごそと逆手で剣を抜いて見せた。
だがこれは藪蛇になった。
﹁ッワクワクゴロさん、でしたっけ。あなたのマシェットは脂がこ
びりついていて、あまり手入れされていない様ですね? ここには
血糊もついている様だけども﹂
﹁こっこれは俺が獲物を捌いた時のものだ。たまたま昨夕に兎をだ
な﹂
しどろもどろになって釈明するッワクワクゴロさんおつです!
似たようなもので、猟師たちのマシェットはどれも刃こぼれや血
748
糊が残っていた。
綺麗なナイフを持っていたのはエルパコだけである。
﹁シューター君もあまり剣は手入れが行き届いていないようだが、
あちこちに刃こぼれがある﹂
﹁ああ、たぶん。むかしオーガとやりあった時のまま放置していま
したからねぇ﹂
カサンドラの従兄であるおっさんに手入れしてもらおうと思って
いたのだが、村に戻ってみるとおっさんは接見禁止を言い渡されて
いたので出来ずじまいだった。
﹁結局みんな言い訳ばかりして意味がないじゃないか。見張を殺し
た犯人は結局誰なんだシューター君﹂
﹁それがわからないから、こうやって調べてるんでしょう!﹂
綺麗な顔に綺麗な剣を持っていた美中年の言いくちに腹を立て、
俺は少し乱暴に返事をした。
こっちにはカムラさん、あんたが怪しい態度をしていたという証
拠があるんだぜ。
どうしてそんなに取り繕っていられるんだ。ん?
﹁じゃあまず、アリバイのある人間を除外しましょう﹂
﹁アリバイ?﹂
﹁事件と言うか、犯行があった時間に無実の証明が出来る人間とい
う事です﹂
俺がそう言うと、冒険者がひとり質問した。
﹁誰だそいつは﹂
749
﹁村長さまの家で食事をしていた俺とエルパコ、それから先ほど居
留地に向かったニシカさんです﹂
言い換えれば村長さまの家にいた人間は全員無罪という事になる。
﹁じゃあ俺にもアリバイがあるという事になるぜ、さっきも言った
が昨日の晩は弟たちと獲物の兎をサバいていたからなあ。なあお前
ら﹂
﹁そうだな兄貴﹂
﹁あれはいい兎鍋になった﹂
ッワクワクゴロ三兄弟が口々にそう言った。
身内で自分たちの事を証明しあうのは、俺の元いた世界では証拠
として採用されないんだが、この際は放っておこう。
たぶんッワクワクゴロ三兄弟は犯人じゃない。
﹁君たちはどうだ﹂
﹁お、俺たちは冒険者ギルドで寝泊まりしているので、仲間たちと
酒盛りをやっていた。なあ?﹂
﹁そうだな。これで俺たちの無罪は証明された﹂
冒険者たちも似たようなもので、アリバイの意味をよく分かって
いない。
どうすんだよこれ!
﹁そうするとカムラの旦那、みんなアリバイが証明されるって事で
すね﹂
﹁そ、そうなるな﹂
ッワクワクゴロさんが質問をすると、あからさまに怪しい態度を
750
カムラがした。
やはりカムラが怪しいと俺は踏んだ。
﹁ちょっと待った。カムラさん、本当にみなさんと酒盛りをやって
いたんですか? どうですかねダイソン君﹂
﹁ん。カムラの旦那は最初のうちはいなかったと思うぜ。確か最後
に連れて来たはずだ﹂
冒険者ダイソンは、俺たちが直接街でスカウトした人間だから信
用が置ける。
試しに質問するとツラツラと真実を話してくれたのでやはりダイ
ソンは筋肉ムキムキだけの男ではなかったぜ。
﹁と、ダイソン君は言っていますよカムラさん? 本当はどこにい
たんですかねぇ﹂
﹁じじ、実は彼女たちとちょっと、お話をしていた﹂
美中年は赤面して、彼のお手伝いをしているギルド娘たちを振り
返った。
どうも一緒になっていやいや顔をしているので、こいつら暗がり
で逢引きでもしたのかと思ってしまうぐらいだ。
ただし犯罪捜査を行わないといけない警備責任者の立場上、しっ
かりと聞かねばなるまい。
﹁お話しというのは、具体的にどういうものですかね。誤魔化せば
あなたのためになりませんよ。犯罪の容疑がかかったままなのです
からねぇ﹂
﹁近くの、使われていない家畜小屋にいた。そこでお話を﹂
ああ、家畜小屋というのは俺がこの村に来た当初寝起きしていた
751
我が家だ。
懐かしいね。
﹁それで?﹂
﹁そ。それで。この娘が鶏がうるさいというので、場所を変えたん
だよ。はは、静かな場所でもっとお話し合いをしたいとね﹂
﹁どこに移動したんですか?﹂
﹁石塔だ。あそこは夜になると見張がいなくなるので、ゆっくりお
話が出来ると思ったんだよ﹂
﹁なるほどわかりました。それでは石塔で、ふたりのお嬢さんと何
をお話ししていたのですか? 具体的におじさんに話してみなさい﹂
俺が強く迫ると、ふたりの娘は恥ずかしそうに下を向いてしまっ
た。
﹁れ、レディーにその様な質問をするのはよくない。俺が言おう。
ふっふたりと逢引をしていた﹂
﹁ふたりと? ふたり一緒にだと?﹂
けしからん。
そう思った俺はつい余計な事を口にしてしまったらしい。
するとどの口が言うんだと、一斉に非難の声が俺に向かって来た
ではないか。
﹁きっ君はいいだろう、美人の若奥様に愛人まで囲っていて。し、
しかし俺はこの年まで独身で、ようやく人生の春が来たんだよ⋮⋮﹂
真っ赤にしたまま美中年が顔をしわくちゃにした。
こいつは犯人かと思って問い詰めてみたが、これこそよけいな藪
蛇だったらしい。
752
いたたまれなくなった俺は美中年の背中をさすってこう言った。
﹁うっうっ﹂
﹁まあ元気出せよな。あとで一杯酒を奢るよ﹂
753
69 奴はカムラ 3
結局のところ、犯人捜しは振り出しにもどってしまった。
剣の扱いに手慣れている人間で、湖畔のお城や集落建設に否定的
な人間は誰か。
考えてみたところもっとも有力な存在が外部からの移民、その中
でも特に有力なのが美中年カムラだった。
けれどもふたを開けてみれば、美中年にはギルドに雇い入れた若
い女たちと逢引をしていたという、アリバイが存在していた。
そもそも見張りを殺害したのは剣の扱いに慣れた存在だが、ひと
りで建設途中の建物を燃やすには時間がかかり過ぎるので協力者が
いるのだ。
何か見落としているものは無いかと、湖畔の作業小屋で俺は頭を
悩ませていた。
﹁そもそも、怪しいと言えば移民が全員怪しいんですよね、旦那さ
ま﹂
﹁まあ疑い出せばいくらでも怪しいやつは出てくるだろうな﹂
俺にぶどう酒の瓶を差し出しながらタンヌダルクちゃんがそう言
った。
本日のお留守番担当はカサンドラである。
というか、どうやら女村長に命じられて何事かごそごそとどこか
で作業しているらしい。
﹁見張りのゴブリンを殺したという犯人も、冒険者に限った事では
ないからな。つまり、開拓移民の中に剣の心得がある人間が紛れ込
754
んでいてもおかしくない﹂
﹁ふうん。そうですよねえ﹂
タンヌダルクちゃんは俺の木のコップにぶどう酒を少し注いでく
れた後、自分にもそれを入れて外を眺めた。
ひとりなら瓶をラッパ飲みするところだが、族長の一族として育
ったタンヌダルクちゃんはやはり文化人、そういう事はしない。
作業小屋は三方を木の板でかこった粗末な建物だ。
けれど壁のない外が見える場所から、人足たちの作業風景をぼん
やりと眺める事が出来た。
安っぽい簡易椅子に腰かけた俺が外を眺めていると、村や集落の
農夫、それから労働ゴブリンに犯罪奴隷たちがせっせと資材を運ん
でいた。
﹁犯罪奴隷は、夜になると鎖につながれて、使っていない畜舎の中
ににぶち込まれる﹂
﹁そうですね﹂
﹁つまり連中の中に殺害犯や協力者がいるという事は考えられない﹂
﹁そうですかね? 実は魔法使いの犯罪奴隷が中にいて、それが出
来るかもしれませんよ。実は蜂起するその日のために潜伏している
とは考えられませんかあ?﹂
﹁蜂起!﹂
つまり、刑務所の暴動みたいなのを起こして集団脱走でも狙って
いるという事か。
﹁まあそれも考えられるが、もっと有力な線を当たった方がいいだ
ろう﹂
﹁そうですね﹂
﹁労働ゴブリンの線の方が有力だしな﹂
755
﹁そうなんですか?﹂
﹁タンヌダルクちゃんはゴブリンについて詳しく知っているかな﹂
﹁いいえ。蛮族が使役している、わたしたちで言うところのオーガ
みたいな種族だと理解しているぐらいかな。ちがいますかあ旦那さ
ま?﹂
だいたいあってるけど、あんまりゴブリンたちの前でそういう事
は言わないようにねっ。
仮にも俺が仕えている女村長はゴブリンハーフだし、猟師の親方
であるッワクワクゴロさんも職業上俺の上司みたいなものだしな。
君主や上司を使役するなんてとんでもない。
そのあたりを慌てて説明すると﹁蛮族の領主さまってゴブリンの
血が流れてたんですかあ。気を付けます﹂と納得顔をしながらタン
ヌダルクちゃんが頷き返した。
よしこれでいい。
﹁ゴブリンでも才覚に恵まれるやつは、生まれ故郷を出て街に出て
冒険者になったりするらしいよ。冒険者というのは鎖帷子姿でうろ
ついているひとたちね、カムラさんみたいな﹂
﹁美中年さんですね﹂
﹁そう、美中年みたいなひとたち。その冒険者で人生失敗して労働
者になっちゃったゴブリンが、村の移民の中にいてもおかしくはな
いだろう﹂
﹁言われてみれば、そっちの方が有力ですねえ﹂
暑いのでコップのぶどう酒をちびちびやりながら言葉を続ける。
﹁移民の連中と労働ゴブリンには特に監視が付いていたわけではな
いからな。犯人を絞り込むのなら、この線がいいんじゃないかと思
っている。後は、﹂
756
﹁後は?﹂
﹁犯人と言うのは、犯行現場に戻ってきて自己アピールをするとい
うらしいぜ﹂
俺も詳しくは知らないが、実際の事件なんかでも事件が発覚して
から犯人が現場に様子見をしに来ることがあるらしい。
よくサスペンスな小説やドラマではそういうシーンがあるけれど
な。
実際に自分が行った犯行がどの様にあつかわれているのか。心の
中で知りたくてしょうがないのである。
そんな事をしているより、少しでも逃げりゃいいのにとは思うけ
れど、まあ理解できなくはない。
﹁そんな事をしたら犯行がばれちゃうんじゃないですかあ?﹂
﹁きっと不安でしょうがないんだろうぜ﹂
﹁ふむ。確かにそうかもしれないけれども﹂
﹁自分がしでかした放火がどの程度の被害をもたらしたか、確認す
るためには人足の中に混じってる方がいいからな。理に適ってる﹂
﹁旦那さまって蛮族のわりに賢いですねえ﹂
蛮族は余計だよ!
しかし、あれだね。
タンヌダルクちゃんは先日も思ったけれど、なかなか頭の回転が
速いんじゃないかと思う。
こうして色々と話を振ると食いついて来るし、理にかなった回答
も返してくれる。
カサンドラは俺の最愛の初妻ではあるけれども、彼女はどちらか
と言うとイエスマン、いやイエスレディーだ。
だいたい俺が言った事に﹁はい﹂か﹁わかりました﹂という感じ
で返事をして、疑う事を知らない。
757
そんな風に思いながら側らのタンヌダルクちゃんを見上げると、
角の横から突き出した牛耳をプルプルと小刻みに振るわせて、小首
をかしげながら俺を見てきた。
﹁どうしましたか旦那さま?﹂
﹁いやぁタンヌダルクちゃんは、俺のところに嫁いできて何か不満
は無いのかなと﹂
﹁不満ならありますよ! 家が狭いから寝台で寝ると起きている時
よりよけいに疲れちゃうんです﹂
﹁ああそうね。もうすぐ新居が出来るから我慢だね﹂
藪蛇な事を聞いてしまったと俺は後悔した。
﹁けど、旦那さま辺境最強の全裸を貴ぶ戦士さまですからねえ。自
慢の旦那さまです﹂
﹁うおっほん。俺はもう全裸じゃないから、そういう事は言わない
様に﹂
﹁よく言いますよ、家に帰るとすぐ服を脱ぎたがるくせに﹂
﹁だって夏だぞ、暑いんだもん﹂
冷房も扇風機もないんだからしょうがないじゃん⋮⋮
そう言われてとても嫌そうな顔をしてしまった俺に、タンヌダル
クちゃんは﹁もー旦那さまったら﹂ところころ笑って見せた。
カサンドラはお淑やかな少女という感じだが、こうしてみるとタ
ンヌダルクちゃんは利発な少女だ。
うちの同居人であるエルパコは寡黙な少女、もとい男の娘といっ
たところかな。
そんな話をしていると、向こうの方からエルパコが、ギムルを連
れてやってくる姿が見えた。
758
﹁シューター、ああそのまま座ってていい﹂
軽く手を振りながらやって来たギムルさんは、勝手に俺の隣にあ
る簡易椅子に腰かけた。
﹁どうでしたか、人足たちの様子は﹂
﹁駄目だな。せっかくこの二十日ほどの作業が全部台無しになった
と、あちこちで文句を言っている﹂
テーブルに置かれていたぶどう酒の瓶に手をかけたギムルが無造
作に栓を抜いて口に運ぶ。
タンヌダルクちゃんがあわててコップを差し出そうとしたが、そ
れは手で制止されてしまった。
相変わらずのいい飲みっぷり。
﹁ぷはっ。村長は今日中に作業再開と犯人を見つけ出せと言ってい
たが、それは可能か﹂
﹁再開の方はご覧の通りはじまっていますよ。けど、犯人はね。正
直難しい﹂
﹁目星は付いていないという事か?﹂
﹁ええとですね。エルパコ﹂
俺がそう言ってけもみみを見やると、ぼんやりと外を眺めていた
エルパコが反応してこちらを向いた。
耳を何度か動かしたのは、周辺を探ったからだろう。
狐獣人ではなかったけれど、やはり何かの捕食動物系男子なのだ。
﹁大丈夫、だよ﹂
﹁よし周囲に聞き耳を立てている人間はいない、と﹂
759
俺は改めてギムルに向き直った。
﹁俺が想定していた犯人というのは、冒険者ギルド長のカムラさん
です。剣の実力はたぶん俺と同じか上ぐらい、街から来た人間でギ
ルドから派遣されたというのも、場合によっては村長さまと敵対す
る立場が送り込んだ工作員かと思ったぐらいです﹂
﹁ふむ﹂
﹁それに俺たちが面接したエレクトラやダイソンは、領内のマッピ
ング中に何者かの視線を感じたと言っていました。カムラさんはそ
れを黙殺して、村長には報告しなかったそうです﹂
﹁ではカムラが犯人で決まりではないか﹂
鼻息を荒くしたギムルが、ドンとぶどう酒の瓶をテーブルに置い
て立ち上がろうとした。
﹁まあ待ってください。けど、あの美中年は殺人放火事件があった
夜にギルドの若い女たちとしけ込んでいました。つまりアリバイが
あるんです﹂
﹁なら誰だ犯人は﹂
﹁わかりません。だから困っているんですよ﹂
﹁フンっ﹂
ギムルは鼻息を荒く噴き出すと、またぶどう酒の瓶を片手に持っ
てぐびりとやった。
﹁まあ怪しい事には違いはないので、監視を付けましょうかねえ。
むしろ犯人がいると思われるのは移民の中じゃないかと俺たちは話
し合っていたんです﹂
な、とタンヌダルクちゃんの方を向くと、こくりと彼女がうなず
760
いた。
とりあえず熟練の冒険者カムラの監視役をさせるなら獣人エルパ
コが適任だろう。
何獣人かは結局わからずじまいだが、今もこうしてぼけーっと立
っている様に見えて周辺だけは警戒している。
﹁カムラさんの監視はエルパコにやってもらうとします。俺も夜は
村の人間たちが怪しい動きをしないか、チェックをする様にします
ね。ニシカさんには声をかけておいた方がいいかな﹂
﹁野牛の一族から警備の人間を借りてきている。訓練を受けた兵士
を五人だ。それに洞窟の入り口にも常時ふたり立っているので、監
視は十分だろう﹂
﹁では、村長さまに報告に上がりましょうかね﹂
俺たちは密談を終えると、作業現場を応援でしばらく湖畔に残る
ギムルさんに任せて女村長の屋敷に向かった。
◆
﹁湖畔の見張りは、ギムルさんが連れて来たミノタウロスのみなさ
んがやってくれる事になっています﹂
﹁そうかありがたい。野牛の族長には例の手紙を書くゆえ、明日に
でもギムルに持たせるとしよう﹂
﹁それから怪しいと俺たちが踏んでいたカムラさんですが、エルパ
コに監視役をさせようと思ってます。彼なら耳もいいし、ある程度
身を守る事も出来ますからね﹂
﹁彼女、な﹂
執務室の安楽椅子に座った女村長に俺は説明をしていた。
俺がエルパコを彼と呼ぶと、またいつかみたいにアレクサンドロ
761
シアちゃんが修正を加える。
﹁確かに女の子みたいな外見ですが、男の子ですよ。息子も付いて
いたし﹂
﹁ふん、何度も言わせるな。あれは女だ﹂
俺がズボンの股間をいじりながらそう言うと女村長はそれを見て
鼻で笑った。
エルパコが狐獣人と言うのなら幻術か何かでお股の息子を偽装し
ているという線もあったかもしれないが、狐じゃないのでこれは消
えた。
﹁アレクサンドロシアちゃんもわからないひとだな。息子が付いて
たんですよ息子が﹂
﹁その息子は立派だったか。ん?﹂
﹁いやまあ皮を被ってかわいらしい感じでしたね。って、今はそん
な事はどうでもいいだろ!﹂
領主さまを相手につい興奮して俺は声を荒げてしまった。
﹁わからないひとなのはお兄ちゃんのほうだ。わらわとて領主であ
る前に女だからな、あいつはメスの眼をしているし間違いないぞ。
それで、村の中の監視はどうするんだ﹂
﹁そこです﹂
﹁お兄ちゃんが怪しいと踏んでいる移民全員に監視を付けるなんて
出来ないぞ﹂
﹁そこは俺とニシカさんで交代で村の中を見回りするとしますよ﹂
﹁そうすると昼も夜も起きている事になるが、大丈夫かの?﹂
そこである。現状では圧倒的に人材が足りていない。
762
特に信頼できる腕の立つ人間が不足しているのである。
そこで俺は提案した。
﹁街から応援を呼びましょう﹂
﹁冒険者か。しかし身元の知れない冒険者をこれ以上呼び込んでも、
わらわのライバルの息のかかった連中を招き入れる事にしかならん
のではないかの﹂
﹁そこです。なのでアレクサンドロシアちゃんがッヨイさまに手紙
を書いてください﹂
﹁ほう、その手があったか﹂
ブルカの街に残ったッヨイさまと雁木マリは、街の周辺で暴れま
わっているオーガたちの追跡調査をギルドから依頼されていたはず
だ。
﹁その依頼ですが、結論はもう出ていますよねえ?﹂
﹁ミノウタウロスどもがこの湖畔の洞窟に移住する際に解雇したの
が原因だろう﹂
﹁その点を手紙にしたためてですね、ッヨイさまにギルドへ報告し
てもらうんです﹂
﹁さすがお兄ちゃんだ。いい案だ﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
俺はペコペコと頭を下げた。
﹁ッヨイさまは雁木マリという騎士修道会の聖女さまとパーティー
を組んでおられるので、雁木マリを味方に付ければ騎士修道会を味
方につけたも同然ですよ。ついでに湖畔の城下に立派な礼拝所か聖
堂でも作らせればいいんですよ。そうすればブルカ伯と言えども手
出しできませんよね?﹂
763
﹁なるほどそれは名案だ!﹂
まだブルカ伯と決まったわけでも無いが、大物には大組織で対抗
するのがいい。
ポーションジャンキーの雁木マリが聖女と言うのもお笑いだが、
全裸で聖堂に降臨したのだからしょうがない。
一方俺は、全裸でサルワタの森に降臨したがな!
﹁じゃあお兄ちゃん、ちょっと教会堂に行って司祭に手紙を書いて
もらう様にしてくれ。湖畔に礼拝堂を建設したいので援助してくれ
る様に書き添えてもらうのだ﹂
﹁わかりました、じゃあ行ってきます。あ、ところでうちの妻はア
レクサンドロシアちゃんのところに来ていますよね?﹂
﹁ああカサンドラか、それなら食堂辺りで読み書きの勉強をしてい
るところだろう。エレクトラが教えているはずだ﹂
女村長は立ち上がると俺をいざなって食堂に向かった。
読み書きの勉強? 何でまた。
﹁騎士の正妻たるもの、教養は必要だろう。お前は字が読めないら
しいから代わりに手紙を書くこともあるだろうからな﹂
﹁ああそうでした。俺も勉強した方がいいですかね?﹂
﹁確か野牛の嫁も文字は書けるのだろう? そちらは妻たちに任せ
て、お前は犯人を必ず殺せ﹂
食堂の手前。
俺の方に向き直った女村長が、鋭い視線でそう言った。
﹁俺が、犯人を﹂
﹁そうだ。お前はわらわの領民にその実力を示して、納得させる必
764
要がある。わらわの叙勲した騎士は確かに有能であったと。カムラ
が相手だろうが、他の誰であろうが、必ずお前の手で殺すのだ﹂
俺はゴクリと生唾を飲んだ。
765
70 奴はカムラ 4
食堂でカサンドラと合流し、応接室で待機していたタンヌダルク
ちゃんとエルパコを連れて女村長の屋敷を出た。
向かう先は領内に唯一無二の宗教施設、教会堂である。
﹁俺はこの土地の宗教について詳しくないが、教会堂に祀ってある
女神様以外に何か別の神様を信仰している集団と言うのはいるのか
な?﹂
歩きながら左右に並んでいる妻たちを交互に見比べながら俺が言
った。
元いた日本では多種多様な神様がいた、はじまりの神から鍛冶の
神、商売の神にトイレの神。ネットにも神様がいるらしい。
しかし西欧や中東では唯一神が主流だろう。
﹁そうですね、わたしたち王国では女神様信仰が一般的ですが、ダ
ルクちゃんたちはどう?﹂
﹁わたしたちも同じですよう。むしろ旦那さまは何を信仰されてい
るのですか?﹂
妻たちの言葉を聞きながら俺は何と応えたものかと首をひねる。
格闘技大好き人間だし、通った様々な道場には武道の神様が祀っ
てあったのを覚えている。
たとえば鹿島大明神とか香取大明神とか。
だが、宗教はとっても複雑だ。
おかしな発言をして家族の中に不和をもたらしてはいけない。
郷に入ったば郷に従え。
766
﹁もちろん女神様かな﹂
﹁そんなはずはないですよ。旦那さまはずっと遠い場所からやって
きた全裸を貴ぶ戦士の部族のご出身なのでしょ? きっと全裸の女
神様がおいでだったはずです﹂
いねーよ馬鹿。
失礼な事を言う牛嫁に俺はムッとしながら返事をする。
﹁道場⋮⋮戦士の訓練所には鹿島大明神という神様が祀ってあった
な﹂
﹁カッシーマダイミョウジン?﹂
﹁鹿島さまだ。大明神というのは神様の尊称だと思って﹂
﹁やっぱりいるじゃないですか。カッシーマ女神様が﹂
妙に上機嫌になりながらタンヌダルクちゃんが言った。
すると今度はカサンドラが、またおかしなことを言い出す。
﹁それではわたしたちも、カッシーマさまを奉らないといけません
ね。旦那さまの武運長久をお祈りして﹂
﹁当然ですね。カッシーマさまの礼拝所を教会堂の中に作ってもら
いますよ。これからそのお願いに行くんですかあ?﹂
﹁違うから。教会堂には湖畔の城下に聖堂か礼拝堂を作ってもらお
うっていうお願いだから﹂
放っておくとすぐにおかしな方に話題がそれるので、俺は慌てて
矯正した。
何だ違うんですかとか、オッサンドラ兄さんに今度カッシーマさ
まの女神像を作ってもらいましょうとか妻たちが言い合っている。
面倒くさいので俺は話題を変える事にした。
767
﹁エルパコは何の神様を拝んでいるんだ?﹂
﹁ぼ、ぼくは無宗教だから。お義父さんもお義母さんも宗教はお金
がかかるから嫌いだったので﹂
なるほど、都会育ちの猟師さんは無宗教か。
そんなやりとりをしながら歩いていると、俺たちは周辺から様々
な視線を浴びていた。
視線の主たちは村の住人たちだった。
主に、視線を集めているのはタンヌダルクちゃんだろう。
頭に立派な牛の角を生やしているし、立派なお胸は男の視線を釘
付けにさせるだろう。
ついでにエルパコにも視線が集まっているのがわかる。
この村に獣人と言えばこのふたりしか滞在していないのだから当
然だ。
そんな連中を引き連れて歩いているのだから、作業を止めてこち
らに視線が集まるのはしょうがない。
﹁何だか失礼な視線がこっちに集まってるんですけど﹂
﹁それはダルクちゃんが美人さんだからですよ﹂
﹁そうですかねえ? 何だかわたしの胸ばかり見られている気がし
ます、あそこの蛮族の男とか﹂
そう言ってタンヌダルクちゃんが畑で農作業の手を止めていた若
い男を見やると、男はあわてて視線を外して逃げて行った。
どれだけ視線をあつめてもけもみみの方はいつも通りぼけーっと
後について来る。
俺も周辺を見回す。
どうやら、野牛の嫁とけもみみだけに視線が集まっているわけで
はないらしい。
768
俺にも、しっかりと視線が集まっていたのだ。
そうこうしているうちに教会堂のそばまでやって来たのだけれど。
ここへ来るのは何度目だろう。
ワイバーンとの戦闘で女村長の剣で胸を斬ってしまった時と、葬
式の時に来たぐらいだが。
おや?
向こうから、ずいずいと歩いて来るひとがいる。
ジンターネンさんだ。
手には例によって木の棒を持っていて、肩は吊り上がっている。
怒気を含んだ表情で俺を一瞥して来た。
﹁こんにちはジンターネンさん﹂
﹁ふん。挨拶なんてどうでもいいんだよ。あんた、今は村の騎士を
やってるんだって?﹂
﹁そうなんです。みなさんのお引き立てのおかげで﹂
﹁だったら騎士は村長さまのもとで、警備責任者をやってるんだろ
う? 村のみんなが怖がっているんだよ、いったいどうしてくれる
んだい!﹂
どうしてくれると言われても、犯人は俺じゃない。
﹁ただいま絶賛、犯人の洗い出し作業を実施中です﹂
﹁何が絶賛だい!﹂
﹁アヒィ!﹂
﹁あんたがこの村に現れてから、村はめちゃくちゃになってるんだ
よ!﹂
﹁ごめんなさい、ごめんなさい﹂
村人たちの注目が集まる面前で、俺は棒切れで叩きまわされた。
769
慌てて俺をかばう様にカサンドラとタンヌダルクが止めに入る。
さっきまでぼんやりしていたエルパコまで駆け出して、ジンター
ネンさんを引き剥がしにかかった。
﹁村のみんなは言っているよ。あんたが現れた途端に村にワイバー
ンが現れるし、野牛の一族まで現れた。今度は殺人だよ。あんたは
疫病神だ! 祟り神だ! 出ていけ!!﹂
﹁失礼ですねあなたは何なんですか! このひとは村長さまに命じ
られた、仮にも騎士ですよ!﹂
﹁騎士なんてよく言うよ。こいつが村に現れた時は全裸の浮浪者だ
ったんだよ。村で仕事を与えてやって生かしてやったんだ。それな
のに街に行けば奴隷にされるし、騎士になれば無能の固まりで村人
は殺されちまったんだよ!﹂
タンヌダルクちゃんが反論した事は焼け石に水だった。
ジンターネンさんの叫び声とともに、村人たちが続々と集まって
くるじゃないか。
最悪だ。最悪のパターンだ。
このまま放っておくと暴動になってしまう。
だが女村長の任命責任にならないだけましか。
どうやって切り抜けるんだ。
﹁出ていけ! あんたのせいで村人が死んだんだ。あんたがこの村
に来て何人ひとが死んだと思ってるんだい!﹂
﹁そうだ、全裸は出ていけ!﹂
﹁奴隷の分際で騎士とかふざけるな!!﹂
﹁落ち着いてください。必ず近日中に犯人を俺の手で捕まえます!﹂
﹁とにかく、中に入ってしまいましょう﹂
カサンドラが慌てて教会堂の扉を開ける。
770
俺たちは急いで教会堂の中に飛び込んで扉を閉めた。
﹁みんな無事か、ちゃんといるな?﹂
﹁何なんですかあのおばさんは。これだから蛮族は駄目なんですよ
!﹂
﹁ジンターネンさんのいう事はもっともなんで、気にする事は無い
よ⋮⋮﹂
﹁気にしますよ! 疫病神だなんて、非論理的すぎますよう!﹂
とにかく落ち着いて、目的の司祭さまと話をしなければならない。
﹁失礼します。司祭さまはおられますか?﹂
誰もいねえ。講堂の中はがらんどうみたいだ。
するとエルパコがけもみみを動かして指を差した。
講堂の脇にある扉に俺たちの視線が集中する。
﹁あっちに、ひとの気配がするよ﹂
﹁おう、行ってみよう﹂
とにかく急いで扉の前に移動する。
もしも村人たちが教会堂に突入してくる様な事があれば、司祭さ
まにおすがりするしかない。
まさか剣を抜いて連中を威圧するのは悪手だ。
﹁失礼します、村長さまのご命令で司祭さまにお話があってまいり
ました﹂
﹁おお、これは失礼した。すぐに開けます﹂
扉の向こうからややくぐもった声がして、やがてその扉が開いた。
771
﹁やあいらっしゃい。ええと確かあなたは猟師の何と言ったかな﹂
﹁シューターです。騎士のシューターです﹂
﹁そうだった。シューターさま、この度は騎士叙勲おめでとうござ
います﹂
﹁ありがとうございます、みなさまのお引き立てのお蔭で﹂
俺はいつもの様に低姿勢で司祭さまに頭を下げた。
下げながら、例によって視線だけは外さずに観察をする。
四十絡みの皺だらけの顔をした壮年の男が、司祭さまである。
騎士修道会という組織を持っている様に、この世界の宗教家とい
うのは若い時に軍事教練でも受けているのか、彼はなかなか居住ま
いが立派だ。
むかし俺がお世話になっていた沖縄古老の空手道場にも、サラリ
ーマンをやりながら訪ねてくる中年空手家は何人かいた。
まさにそんな感じの、年齢のわりにキリっとした体格である。
﹁あなたが有能だから村長さまがお命じになられたのです。ところ
で外が少し騒がしい様ですが?﹂
﹁実はですね。ちょっと村のみなさんからお叱りを受けていたとこ
ろでして。湖畔の建設現場でひとが殺されたでしょう。犯人が未だ
に捕まっていないものだから⋮⋮﹂
﹁それは災難でしたね。さあこちらにおかけになってください﹂
俺たちは司祭さまに招かれて、応接セットの木のソファに腰を掛
けた。
どうやらここは司祭の事務所といった感じだろうか。
﹁それで村長さまからのお話と言うのは、どういったご用件でしょ
うか﹂
772
﹁実はですね、折り入ってお願いがあるというのは⋮⋮﹂
俺が居住まいを改めて司祭さまの方に視線を向けた時。
ちらりと彼の掌が視界に飛び込んできた。
司祭さまの手には、真新しい剣を握った時に出来る様なまめが存
在していたのだ。
俺は何かを悟った様な気がした。
773
71 奴はカムラ 5
﹁今、湖畔でお城と集落を建設中というのはご存知だと思います﹂
俺は居住まいを改めながら司祭さまの表情を見た。
視線の端には右手をしっかりおさめている。
あまりその手に意識を持っていきすぎると相手に疑われるかもし
れないので、そこはうまく柔軟にだ。
すると司祭さまの方から先制のジャブがぶち込まれて来た。
﹁村人が殺害された件は、大変痛ましく思っております﹂
﹁そうなんですよねえ。犯人の捜索がかなり難航しておりまして、
お恥ずかしい話がジンターネンさんをはじめとする村のみなさんが、
たいそう不安がっておりまして﹂
﹁ああそれで外が騒がしいのですね?﹂
司祭さまは右手のを握ったり開いたりした後に、すっとテーブル
の下に隠してしまった。
怪しいな。
これは怪しい。
﹁さてそこで問題なのですが、せっかく二十日あまりかけて作り上
げたお城や集落が付け火で台無しになってしまいました。犯人捜し
は村長さまの指揮のもと、これは必ず解決させます。しかし簡単に
は解決できない問題もある﹂
﹁ほう、それは何でしょう?﹂
﹁村長さまの事業を、邪魔したい人間たちを何としても封じ込めな
いといけないという事です﹂
774
俺は言葉を区切って司祭さまを見やった。
﹁村長さまは、湖畔の新しい集落に礼拝堂か教会堂か、そういうも
のを建設する事は可能かとお考えです﹂
﹁ほう、村長さまがそんな事を?﹂
﹁今回の建設現場の付け火は、村長さまと敵対する領主が行った可
能性が高いと考えているのです。そこで騎士修道会との関係を強化
する事で、ライバル勢力を排除したいという狙いがあるわけですよ﹂
左右に腰かけたカサンドラとタンヌダルクちゃんを司祭さまが交
互に見やった。
最後に俺たちの背後に立っているエルパコにも視線を送ったらし
い事がわかる。
﹁村長さまの敵対勢力、ですか? ふむ。今回の事件、わたしはて
っきり騎士さまに対する邪魔だてをする者の犯行かと思ってしまい
ましたが﹂
﹁俺のですか? まさか。俺を陥れて何かいい事があるんですかね﹂
﹁あなたはよそ者だ。それだけで村の人間が疎ましく思うのは十分
だと思いますよ。その上ご本人は奴隷堕ちした御身分、そのご正妻
は村では鼻つまみ者の猟師の娘、第二夫人はあろう事か野牛の女、
さらに愛人まで獣人ときたものだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁村の人間からすれば、得体の知れない奴隷騎士が怪しい女たちを
集めて力を持つ事ほど恐ろしい事は無いでしょう。辺境の田舎村と
いうのは、とにかく排他的なのです﹂
﹁司祭さま、あんたもそう思っているのか?﹂
﹁はっはっは、とんでもない。わたしは街の生まれですからね。わ
たしがこの村にやって来てはや十年が経ちましたが、その間に似た
775
ような扱いを受けたからわかることですよ﹂
司祭さまはそう言って笑ったけれど、見事に話題をはぐらかされ
てしまったような気分だった。
もしも俺だけを狙った事件だと言うなら、それは直接的に俺の関
係者を狙い撃ちすればいいだけの話だ。
やはりこの男は怪しい。
騎士修道会の勢力を村長さまの領内に引き入れるのは、もしかし
たら早計なんじゃないかね。
少し俺は考えを巡らせたけれど、答えは出なかった。
そもそも雁木マリがもうすぐやってくるのだ。
騎士修道会の聖女さまがここにいるのだから、騎士修道会の事に
ついては彼女に聞いた方がいいのかもしれない。
﹁まあとにかく、要件は理解いたしました﹂
﹁ありがとうございます。ぜひ騎士修道会に掛け合っていただき、
宗教施設を湖畔の集落に建設していただければ幸いです。出来るだ
け立派なものであれば、それだけ村長さまと修道会の結びつきが強
ふみ
いという事の証左になりますからね﹂
﹁わかりました。さっそくにも文をしたためましょう﹂
﹁よろしくお願いします﹂
立ち上がって執務机に向かう司祭さまを見やりながら俺はため息
をついた。
ついでだ。
疑問に思った事はこの際確認しておく事にしよう。
﹁ところで司祭さま﹂
﹁何でしょう騎士さま﹂
﹁騎士修道会に所属するみなさんは、みんな若い時に修道騎士かな
776
にかになって軍役に就くものなんでしょうか?﹂
﹁軍役、ですか﹂
﹁そうですね。具体的に言えば軍事訓練みたいなものを受けて剣術
や馬術、魔法の練習なんかはやったりするものなんでしょうかねえ﹂
﹁ああ、剣術ですか。騎士修道会はもともと辺境の教化のために組
織された武装教団でしたので、慣例としてそういうものも残ってい
ますね﹂
きねづか
﹁すると司祭さまも?﹂
﹁ははっ昔取った杵柄というやつでして﹂
撃剣の真似事をして見せる司祭さまを見て、俺はますます怪しい
と思った。
﹁それでは今も武術の稽古を続けておられるのですか?﹂
﹁まさか。この歳でそんな事をやると腰を痛めてしまいます。まあ、
そこいらの農民よりは使えると思いますが﹂
この発言は嘘だな。
今も司祭さまは背筋をぴしゃりの伸ばしているし、掌の握りまめ
は新しい。
この男が建設現場で見張りに立っていた男たちを殺したのか?
﹁わかりました。今はとにかく村の警備をする人手が足らずに困っ
ています。見回りのためにお力をお借りする事もあるかと思います
が、その際はよろしくお願いします﹂
﹁そうですか。まあわたしよりも若い、助祭の方が仕えると思いま
すが、数が足らないという事なら見回りには喜んでご協力させてい
ただきますよ﹂
◆
777
司祭さまのご配慮で教会堂の裏手から外に出る事にする。
俺たちを追いかけて集まっていた村の連中は、すでに三々五々解
散していたらしい。
村人だって暇じゃないからな。
﹁エルパコ。司祭さまの態度にどこか不審な点は無かったか?﹂
﹁ん。少し鼓動が速かった、かな﹂
﹁鼓動が速い、つまり何か嘘をついていたという事かな﹂
何か怪しい事があれば、ドキドキしたという事は考えられる。
俺が武術の話を振った時に鼓動が高まったという事なら、これは
嘘をついたという事も考えられた。
エルパコは優秀だなぁ。
﹁どうかな。そこまでは、わからないよ⋮⋮﹂
﹁いやいいよ。怪しい事に間違いはないからな。それだけわかった
だけでも収穫だ﹂
教会堂を振り返って俺が言った。
裏口に立った司祭さまは、俺を見てお辞儀をしていた。
距離はもう百メートルほど離れているから、俺たちの会話を聞か
れたという事は無いだろう。
相手がッワクワクゴロさんやニシカさん、あるいはエルパコなら
別だが、安心していいはずだ。
俺もそれを見てペコペコしておく。
﹁司祭さまが怪しいとは、どういう事でしょうか?﹂
﹁ああ、それな﹂
778
カサンドラが俺を見上げながら質問をしてきた。
もともと信心深いのか、司祭さまを疑うという考えが奴隷騎士婦
人にはないらしい。
﹁司祭さまの掌に、まだ真新しいまめがあったんだ。あれは剣か何
かを手に持った時に出来るまめの類だ﹂
﹁まめ、ですか﹂
﹁普段から剣を握っているのならまめは潰れて硬くなって、やがて
剣だこになるが、あれは久々に剣を持ったという感じだったな﹂
俺が教会堂を離れて猟師小屋を目指しながら話を続けた。
﹁つまり、怪しい人間がもうひとり浮上したという訳だ﹂
﹁あの蛮族の司祭さまが怪しいわけですね。ねえ旦那さま、野心の
強い男は禿るといいますよ、あの司祭さま、禿てるから丸い帽子を
被ってるんですきっと﹂
タンヌダルクがそんな事を唐突に言い出した。
野心の強い男は禿るか。
モノの本によれば、男が年齢とともに髪の毛が薄くなるのは男性
ホルモンとの関係があるらしい。
性欲が強い男は禿るという事だろうか。俺はそのモノの本を、話
半分で読み飛ばしていたので覚えていない。
俺も奥さんをふたりも囲っているから、やっぱり性欲が強い男だ
ろうか。
そのうち禿ちゃうのかな。
﹁奥さんたち﹂
﹁はい、シューターさん﹂
﹁なんですかあ旦那さま?﹂
779
咳払いをして俺が言うと、ふたりの妻たちが不思議そうな顔で見
上げて来た。
﹁俺が禿ても、嫌いにならないでね?﹂
そんな俺の必死のアプローチを、傍らに立っていたエルパコがぼ
けーっと見上げていた。
お前はまだ若いから安心していられるだろうが、男はいつか禿る
か白髪になるかの二択なんだ。
二択なんだからな!
◆
さて。司祭さまに用意してもらった文と、女村長がッヨイさまに
あてた手紙、それからオーガが流浪している原因についての証言を
まとめた手紙の三通が揃ったわけである。
この村には伝書鳩が飼育されているので、これを使って街のッヨ
イさま宛てに飛ばす事になる。
﹁この伝書鳩は特別でな﹂
﹁ほう?﹂
﹁特に魔力に優れたもの同士を掛け合わせて、子孫を残したものだ﹂
ふたたび女村長の屋敷にやってくると、アレクサンドロシアちゃ
んがそう言って屋敷の裏手にある鳩舎にいざなってくれた。
この鳩は確か、ギムルが冒険者ギルドから連れ帰って来ていた様
に記憶している。
﹁特定の航路を覚えたこの魔法の伝書鳩は、猛禽よりも早く飛んで
780
目的地に届ける事が出来る﹂
﹁なるほど、こいつは確か冒険者ギルドから連れて来た鳩たちなん
ですね﹂
﹁ああそうだ。他にもこの足の目印が赤いのがわらわの実家、こち
らの黄色いのが王都の親族に飛ぶ﹂
﹁それでこの青いのが冒険者ギルド産まれの子たちなんですね﹂
﹁そうだの。ギムルは今や人質として野牛に差し出した手前、馬を
走らせて使いにやるわけにもいかん。シューターも馬には乗れんの
だろう?﹂
﹁馬には乗れませんが、馬に引かれた事ならありますよ﹂
むかし俺は馬に蹴散らされた事があるが、それはまた別の話だ。
﹁お兄ちゃんのそういう冗談は好きだが、今は一刻を争うので続き
はまた今度にしようかの﹂
﹁はは、お兄ちゃんはよせ﹂
妻たちの前で堂々とからかう様に﹁お兄ちゃん﹂などと言う女村
長に、俺は顔をしかめた。
案の定、村の絶対権力者であるアレクサンドロシアちゃんが﹁お
兄ちゃん﹂などと言うものだから、カサンドラもタンヌダルクちゃ
んもびっくりしている。
いつも通りの顔をしているのはけもみみだけだ。
﹁では、この魔法の鳩に頑張ってもらう事にしよう。今回はこの赤
い目印の鳩を使う。実家経由でッヨイに届けるので、一両日中には
返事が返って来るであろう﹂
﹁そんなに早く?﹂
﹁何事もカンペキという事はない。建設現場に付け火があったよう
にな﹂
781
﹁はぁ﹂
﹁が、上手くいけばそうなるという話だよお兄ちゃん﹂
フフフと笑った後に、女村長は掌から伝書鳩を解放した。
伝書鳩はバサバサと羽ばたいたのちに屋敷の上空をぐるぐるとま
わり、やがて遠くに向けて空高く翔け上がっていった。
すっかり流してしまいそうになったが、お兄ちゃんドロシアちゃ
んの間柄は、ふたりだけの秘密だったんじゃないのかよ。
﹁それで司祭が怪しいという話だったな﹂
﹁はい﹂
﹁カムラに続いて、司祭も怪しいという事か﹂
﹁剣や刃物の心得がある人間は、まず冒険者、次に猟師や軍役に就
いた人間が疑わしいという風に睨んでいましたが、教会堂の関係者
も剣が出来るという事を見落としていました﹂
﹁ならば村の司祭、助祭も犯人候補という事になるかの﹂
親しく会話している俺たちに驚いた顔をしたままの妻たちはそっ
ちのけで、会話は続く。
﹁助祭もですか﹂
﹁そうだろう、助祭も騎士修道会の人間だから、剣の訓練を受けて
いるだろう﹂
﹁確かに﹂
﹁しかしこれは困ったな。疑えば疑うほど、誰が犯人だかますます
わからなくなってきたではないか。他のみにする騎士修道会まで怪
しいとなれば、どこでだれがわらわのライバルたちと繋がっている
のか見当もつかん﹂
思案しながら鳩舎の扉を閉める女村長を見ながら、俺はまだ見落
782
としているものはないかと頭を巡らせる。
﹁あの、シューターさん﹂
﹁ん? どうしたんだいカサンドラ﹂
﹁司祭さまが、今回の事件は村長さまを妨害するのが目的ではなく、
シューターさんを妨害するためなのではないかと仰っていた件は、
どう理解すればいいでしょうか?﹂
おずおずとカサンドラが質問をしてきた。
ああ、確かに彼はそんな事を言った気がする。
だがあれは俺の疑念をかく乱するために彼が口にしたのではない
か。
﹁そう言えば旦那さまにそんな事を言っていましたねえ、義姉さん。
わたしはてっきり言い訳を並べているだけかと思っていましたけれ
ど﹂
﹁俺もそう思っていたんだけどね﹂
タンヌダルクちゃんと俺が顔を見合わせてそう言っていると、鳩
舎から振り返った女村長が興味深いと言う顔をしているじゃないか。
﹁司祭がそんな事を言ったのか﹂
﹁は、はい。そうです﹂
﹁申してみよ﹂
﹁シューターさんはよそ者ですしわたしは鼻つまみ者の娘、ダルク
ちゃんは野牛だしエルパコちゃんも獣人でしょう? だから、その
⋮⋮﹂
﹁つまり、個人的な犯行でこんな事が行われたという事か。ありえ
ぬ﹂
783
俺の立場だけを狙い撃ちにして、女村長の計画を阻止する大それ
た人間がこの村にいるという事か?
果たしてそんな奴が何処にいるんだ。
俺の事を快く思っていない人間は領内に多くいるだろうけれど、
さすがにそんな事がバレたら死刑だ。
いったい誰がそこまで俺を恨むって言うんだよ。
﹁は、はい。申し訳ございません﹂
﹁よい。わらわが意見を求めたのだ。気にするな﹂
﹁それに軍事訓練か稽古を受けた事も無いのに、剣の扱いが出来る
人間がいるというのもちょっとね。建設現場の付け火の犯行も、間
違いなく共犯者がいないと出来ない訳だし。少なくとも何者かと繋
がっていないとこれは出来ないよ。個人で俺に恨みがあるからだけ
じゃ不可能だ﹂
そう。
恨みだけでひとをふたり殺し、そのうえで建設現場を付け火して
回ったというのはひと一人だけでは達成不可能なのだ。
いずれにしても犯人をのさばらせていては、この上付け火に殺人
を重ねられてはいけない。
﹁村長さま。とにかく今夜から、警備を強化しましょう﹂
﹁うむ﹂
﹁エルパコは予定通りカムラさんの動きを見張れ﹂
﹁うん、わかった⋮⋮﹂
﹁それと俺とニシカさんは交代で村を見回りする様にするか。後で
ニシカさんと相談する事にします﹂
﹁うむ。しかしひとりで大丈夫か?﹂
ニシカさんは恐らくひとりでも大丈夫だろう。
784
周辺を警戒する能力も猟師だからか長耳だからか優れているし、
けどまあひとは多い方がいい。
﹁ニシカさんは猟師の誰かと組む様にするのがいいかな﹂
﹁あのう、わたしも兄さんや旦那さまほどじゃないですけど、剣は
使えますよ?﹂
そこでタンヌダルクちゃんが手を上げた。
﹁見張る眼は多い方が良い。わらわも後日は加わるとして、野牛の
娘も夫と共に巡回に加わるがよいぞ﹂
﹁わかりました﹂
俺は女村長に頷き返した。
﹁頑張ってね、ダルクちゃん﹂
﹁はい義姉さん!﹂
﹁それじゃあ俺の剣も、いざという時のために昼間のうちに研ぎな
おしてもらった方がいいな﹂
俺は腰に差した短剣を抜いて白刃を改めた。
いくつか刃こぼれがあるし、血脂は自分で手入れしていても限界
がある。
﹁久しぶりに鍛冶場に顔を出して帰るか﹂
俺がそう言った時、カサンドラの顔に緊張が走ったのが見えた。
同時に女村長もぶすりとした顔をした。
まあ、おっさんとは色々あったからなあ。
鍛冶場で顔を合わせなければいいんだがねえ⋮⋮
785
72 奴はカムラ 6
鍛冶場にやってくると、その裏手で何やら作業をしているひとり
の鍛冶職人がいた。
もじゃもじゃのおっさんではなかった。
家族そろって村の中を移動していたので、もしカサンドラとおっ
さんが顔を合わせればどうしたものかと思ったけれど、よかった。
カサンドラにエルパコでも付けて先に家に帰そうかとも思ったの
だけれど、またジンターネンさんたちに囲まれて、仮にも暴力沙汰
にでもなったら大変だと躊躇したのだ。
結果的にはこの選択は間違っていなかったらしい。
﹁やあ、こんにちは。少しお願いしたい事があるのだけどねえ﹂
俺が気さくに挨拶をしながら近づいていくと、どうやらキラキラ
と白刃輝かせている刃広の剣を手に持った若者がこちらを向いた。
﹁あんたは確かよそ者の⋮⋮﹂
﹁はい、猟師のシューターです﹂
一瞬だけ気さくに返事を返してくれそうに手を上げてくれたけれ
ど、俺が俺だとわかった途端にそのトーンは低いものになってしま
った。
やっぱり今もって村の中では不審人物かよそ者扱いされているの
かもしれない。
ついでにここで騎士と名乗るべきか猟師と名乗るべきか、ちょっ
と悩んでしまったではないか。
まあ自分からへりくだって奴隷のシューターですと言う気はない。
786
今の俺は全裸でもないし、半裸でもない。
ちゃんと上等な生地でカサンドラが仕立てたシャツを着ていたし、
その上から義父の形見のチョッキを着ていた。
夏だからこんな恰好をするのも実は気が引けるのだけど、どうい
うわけかカサンドラが毎朝かならず﹁お召し物です﹂と出してくる
ので着ている。
いち度だけ﹁暑いからいいや﹂と言ったところ、とても嫌そうな
顔をされたので以後大人しく身に着けている訳だ。
カサンドラは思っている事がすぐに顔に出るタイプなので、あれ
は嫌そうというよりも悲しいという風に理解している。
まあ何にせよ、このチョッキは猟師のスタンダードな格好だ。
猟師親方のッワクワクゴロさんも四六時中身に着けているし、鱗
裂きのニシカさんも黄色いシャツの上から身に着けている。
俺も猟師の誇りを忘れないために、これを着けておくべきだろう。
そういう意味で猟師のシューターと名乗ったのは良かったらしい。
﹁あんたが付けあがって偉そうにしない点は評価できるな。この鍛
冶場でも奴隷堕ちしたよそ者は疫病神だから、さっさと追い出した
方がいいとみんな言っている﹂
﹁はあ、恐縮です﹂
何が恐縮なのかわからないが、俺はいつもの通りペコペコしてお
いた。
すると青年鍛冶職人が、俺の後ろに控えているカサンドラやタン
ヌダルクちゃんたちを胡乱な眼で見やった後に質問して来る。
﹁で、何の用だい?﹂
﹁実はこの短剣を研ぎなおしてもらいたくて﹂
﹁ふん、貸してみな﹂
787
俺が鞘ごと差し出したオッサンドラソードを受け取った青年は、
剣を抜いて刃の具合を確かめた。
﹁かなり使い込んでいるな。これは確かオッサンドラが叩いた剣だ
ったはずだが。もじゃひげは、こんな状態であんたに差し出したの
かい?﹂
﹁いやあ。実は村を出ている際に、ちょっとオーガと一戦やりあい
ましてね﹂
﹁この欠けた部分は、骨にあたったものだな。それとこの刃こぼれ
も、妙に一か所に集中している﹂
﹁ええ。受け太刀をする場所はかならず決めた場所でする様に心が
けていますので﹂
﹁ふうん、騎士に任命されるだけの腕はあるってこったな﹂
そう言った青年が、すっと一瞬距離を取って見せた。
まさか俺に斬りかかるつもりか?! と驚いて距離を縮めようと
すると、
﹁はっはっは、やっぱり腕は確かだな。僕が剣を振り回せる距離を
潰そうとしてみせたわけか﹂
﹁あまり試さないでくださいよ。俺はこれでも臆病者でね﹂
格闘技大好き人間だが、人殺しが大好きなわけじゃない。
しかし俺は驚いた。
この青年、先ほども剣の扱いについて色々と言葉を並べてみたし、
今も剣の心得がある様な構えを取って見せた。
﹁その、鍛冶職人というのは武器にも精通しているのでしょうかね
え﹂
788
﹁あ? そりゃそうだろう。僕たちは武器の特性がわかってないと、
武器の作りようがないし改良も出来ないだろう﹂
﹁ははあ、そりゃそうだ﹂
﹁まあ、あんたほど武器が扱えるわけじゃないよ。あんた、棒きれ
一本でギムルさまを打ちのめしたって噂じゃないか。そんな人間は
この村にあんたぐらいしかいないから、安心していいよ﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
釈然としないまま褒められて、俺はひとまず礼を口にしておいた。
﹁さて、剣の研ぎ直しだったな。親方は今、あんたたちが使う建設
用の釘やら針金やらを作っているところだから、手が空いていない。
何人か職人も現場に引っ張り出されているからなあ﹂
青年はいったん短剣を鞘に納めながら俺の方を向き直った。
﹁職人が駆り出されているんですか? 何のために﹂
﹁新しい集落に鍛冶場を作るって話、村長さまが言い出しただろう﹂
﹁ええ確かに﹂
﹁だから炉をこさえるのに僕たちが駆り出されているんだ。オッサ
ンドラとッピタゴラが確か行っているはずだ﹂
オッサンドラという言葉を聞いて、また背後にいるカサンドラが
ビクリとするのが伝わって来た。
ッピタゴラというひとは知らないけどたぶんゴブリンだろうな。
で、おっさんがここにいないのは彼もゴブリン鍛冶職人と駆り出
されていたからなのか。なるほど。
﹁オッサンドラも大変だよね。村長さまの命令で強制労働を命じら
れたと思ったら、炉造りのためにまたひと仕事だ。まあ、あいつは
789
辛気臭いし、居ない方が鍛冶場も楽しいけどね。じゃあついて来な﹂
俺たちは鍛冶場の中に案内されて、付いていく。
﹁いつまでに仕上げればいい?﹂
﹁刃を研ぐのはすぐに終わるんじゃないんですか﹂
﹁包丁やナイフじゃないんだから、欠けた部分も鉄を足すし、刃幅
も合わせないといけないだろう。研いで刃がちびれば鞘も合わなく
なる。数日は預かる事になるよ﹂
それは困った。俺が持っている武器らしい武器と言えば、このオ
ッサンドラソードか後はメイスぐらいである。
﹁代わりの剣を借りて置くというわけにはいきませんかねえ。護身
の武器がないんじゃちょっと見回り警備するのも心もとないです﹂
﹁それならこれを持っていくといいよ﹂
奥の部屋の、武器が武器立てに立てかけてある部屋に案内された。
いつぞやワイバーンに襲われた時に、ここから武器を拝借した事
があったはずだ。
﹁こっちにならんでいるのが、武器の預かり時に貸し出す武器だ。
好きなのを持っていきな﹂
﹁ありがとうございます。では遠慮なく﹂
とりあえず短剣の代わりは短剣にしておこう。
警備用の武器は一応、天秤棒でも持っておけば何とかなりそうな
んだけど、それでは騎士として格好が付かないしな。
騎士なら帯剣は大事だ。
790
﹁それでいいのか?﹂
﹁ああ、これにします。サイズもだいたい同じぐらいだし、腰に差
しても違和感がないでしょう﹂
﹁わかった。じゃあ三日後にでも取りに来てくれ﹂
そんな事を言いながら青年鍛冶職人が頷き返した。
奥の武器部屋から出てくると、タンヌダルクちゃんとカサンドラ
が、商品棚に並んでるいくつもの瓶を物珍しそうに見ている。
そのうちのひとつを手に取って、タンヌダルクちゃんが中をのぞ
き込んでいた。
﹁あ、こら。それは硫黄の粉末だから扱いに気を付ける様に!﹂
﹁?﹂
﹁ああ、燃える砂ですね﹂
﹁そうだよ! それは炉の火力を上げる時に使う粉末なんだ。だか
ら君たちは勝手に触らないで!﹂
血相を変えた青年が、タンヌダルクちゃんから瓶を奪って元の場
所に戻した。
これだから素人は、とか小声で呟いているのを聞いて、タンヌダ
ルクちゃんがぶすりと頬を膨らませた。
﹁だめですよダルクちゃん。素直に謝らないと旦那さまのお立場が
悪くなってしまいます﹂
﹁でもぉ義姉さん、ちょっとぐらいいいじゃないですかぁ﹂
﹁ふん、でっかいおっぱいで胸を張っても、僕は許さないからな。
さあ用も済んだ事だから出て行ってくれ﹂
俺たちは追い出されてしまった。
まあ当初の予定である剣を研ぎに出すという目的は果たしたから
791
いいか。
鍛冶場から追い出されたところで。
﹁旦那さま﹂
﹁ん?﹂
﹁わたしわかっちゃいました!﹂
ふと立ち止まったタンヌダルクちゃんが、大きな胸を揺らしてこ
ちらに近づいて来る。
何だよ、落ち着け。荒ぶる胸はニシカさんだけで十分だからねっ。
﹁硫黄です﹂
﹁硫黄? さっきのか?﹂
﹁そうです硫黄です。建設現場の付け火でも、確かシューターさん、
硫黄か何かが使われていたと言っていましたよね!﹂
﹁あ!﹂
勢い勇むタンヌダルクちゃんの言葉に続いて、カサンドラまでぽ
んと手を叩いてそう言った。
﹁確かに油か硫黄を使っていたと、お調べになられていた時に仰っ
ていました。でも、それって⋮⋮﹂
﹁ああ、硫黄は確かに火の回りをよくするために使うかもしれない﹂
むかし俺が子供の頃に読んだ三国志か何かで、名軍師諸葛亮も硫
黄を火計かなにかで使っていたような気がする。
仮に油と硫黄を両方使えば、どういう効果が得られるんだろうか。
俺は理系か文系かで言えば体育会系だ。
だから細かいところはわからないが、よく燃える事は確かだろう
な。
792
﹁なるほど。硫黄の粉末がある場所といえば、火の取り扱いをして
いる鍛冶場という事か﹂
﹁し、しかもオッサンドラ兄さんは建設現場にも出入りしているみ
たいですし﹂
﹁いやそれは今は関係ないだろう。俺が現場にいた時は、おっさん
はいなかったし。いや、待て﹂
鍛冶職人は武器の仕上がりを確かめるために、試し切りをする事
があると言っていた。
おっさんも多少は剣の心得があるという事か。
武器の使い方については少なくとも良く知っているという事だ。
﹁個人の恨みという事であれば、おっさんも怪しい﹂
﹁そんなまさか、オッサンドラ兄さんが﹂
俺がボソリと言うと、悲壮感漂うカサンドラが立ちくらみの様に
ふらりとした。
慌ててタンヌダルクちゃんと俺が支える。
﹁とにかくもう家に帰ろう。どのみち俺たちは夜回りしないといけ
ないからな、早く帰ってひとっ風呂あびて、仮眠しておこう﹂
﹁は、はい﹂
﹁タンヌダルクちゃん、肩を貸してやりなさい﹂
﹁わかりました旦那さまっ﹂
◆
俺の名は迷探偵シューター、三二歳。
湖畔の建設現場で殺されたふたりのゴブリンと放火の犯人を追っ
793
て、真相究明に奔走している男である。
少し前までは猟師で奴隷で騎士だったんだけど、今は聞き込み調
査と事情聴取ばかりを繰り返してる。
とりあえず犯人の目星はついていないが、容疑者は数名浮かんで
いた。
﹁はい旦那さま、お風呂が沸きましたので順番に入ってくださいな﹂
﹁お、おう。ちょっと待って今ぬぐから﹂
ひとりはサルワタ領内の冒険者ギルド長カムラ。
剣術の心得は当然あり、ブルカの街からやってきた。
当然ブルカの冒険者ギルドから派遣された人間なので、ブルカ領
主との繋がりがあるという可能性は大だ。
しかもマッピング中のエレクトラたちを付け回していた不審人物
の情報を握りつぶしていた。
怪しい。
﹁シューターさん、お背中をお流しします﹂
﹁ありがとう、ありがとう﹂
もうひとりは教会堂の司祭さま。
むかしは騎士修道会で軍事訓練を受けていたので、武器の取り扱
いは昔取った杵柄だ。
手には真新しい剣を握ったと思しきまめがあった。
考えてみれば教会堂の関係者という事は中央の権力者や各地の領
主たちと関係があってもおかしくない。
そもそもこの村に派遣されてくる以前は、どこに配属されていた
のだろう。
これは怪しい。
794
﹁旦那さま、ぼーっとしてないでわたしの背中も流してくださいよ
う﹂
﹁タンヌダルクちゃんは相変わらずお胸が大きいね﹂
﹁旦那さまの助兵衛!﹂
最後に浮かんだのが、俺も見落としていたおっさんだ。
彼は俺の最初の妻カサンドラの従兄であり、妻に懸想していた人
間である。
鍛冶職人という立場上、仕上げた武器の試し切りをやっていると
いう事がこの際鍛冶場を訪れた時に発覚した。
つまり多少の剣の心得があったという事だ。
しかも鍛冶場の炉の火力を上げるために、硫黄などの取り扱いの
知識があり、これを手に入れるのも立場上容易であるという事だ。
これはますます怪しい。
﹁しゅ、シューターさん痛いです。もう少し優しくこすってくださ
い﹂
﹁ご、ごめん。ついボーっとしてて⋮⋮﹂
サルワタの森の開拓村一帯を治める騎士爵アレクサンドロシアは、
辺境の中でも最も僻地に領土を持つ王国の領主だ。
当然、そこから先に広がる土地は切り取り勝手次第、つまり開拓
すれば開拓するだけ自分の領地にする事が出来る。
ただしその開拓作業は自弁であり、ミノタウロスもいればワイバ
ーンまでいるこの僻地の事だから、これは一種のギャンブルである。
しかし亡き夫の意思と義息子のために財産を残すと決意の固いア
レクサンドロシアちゃんは、この土地に自分だけの領土を築き上げ
るのだと宣言した。
それが湖畔の城とその城下である。
これは危機感を持った周辺領主たちを犯行に及ばせる可能性を高
795
めるのではないか。
﹁だ、旦那さま! 前はわたし自分で出来ますから。結構ですよう
!﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
ひるがえって個人の犯行という事であれば、結果的にではあるけ
れど、自分から想い人を奪ったおっさん、もといオッサンドラは重
要参考人としてしょっぴいてもいいぐらいだ。
個人か組織か。
さて犯人は誰だ。
考え様によっては、オッサンドラとカムラ、あるいは司祭さまが
共闘しているという可能性もある。
どれも怪しい。
﹁旦那さま、さっきからずっとぼんやりしてますよね﹂
﹁犯人の事できっと悩んでおいでなんですよ。お裸のままずっと寝
台に腰かけてますし﹂
﹁湯冷めしちゃいますって言ってるのに、これだから全裸を貴ぶ部
族は⋮⋮﹂
﹁ほら、ダルクちゃん。ご先祖さまの悪口を行ってはいけません﹂
﹁はぁい。じゃあちゃっちゃと、エルパコちゃんの体を洗っちゃい
ましょう﹂
いずれにせよ、繋がっている繋がっていないという事は抜きにし
て。
カムラほどの使い手はエルパコを常時つけておくのが正しい。
司祭さまは、俺の勘では多少腕が鈍っている感じだった。
刺殺されたゴブリンの死体は腹にひと刺し、頸根を切断。
首の血脈を断ち斬るのはそれなりに日常的に剣を触っていないと
796
できない技術のはずだ。
これは昨日今日、剣を持ち出して訓練したところで出来る事じゃ
ないだろうか。
わからんな、結論を急ぐのは良くない。
﹁ぼ、ぼくはいいよ﹂
﹁そんな事を言わずにこっちに来なさいよ﹂
﹁そうですよ。身綺麗にしておかないと、シューターさんの立派な
お嫁さんになれません﹂
﹁ぼくは男の子だって。あ、やめて⋮⋮﹂
あとはおっさんか。
オッサンドラが剣の扱いに慣れているというのはまったく失念し
ていた。
だがおっさんから剣が出来る様なオーラみたいなのは、感じた事
が無い。
普段は人を殺すための訓練をしていないから、そういう雰囲気が
外に出ていないというのも考えられる。
ふむ。毎日型の練習をしているだけの中学生ぐらいの道場生に、
俺は殺気めいたものを感じた事は無いからな。
そう考えるとおっさんの動向がもっとも怪しい。
﹁どうしてエルパコちゃんはそんなに恥ずかしがるのですか?﹂
﹁ぼ、ぼく。お尻のあながふたつあるから、恥ずかしくって⋮⋮﹂
﹁?﹂
﹁女の子なんだから、当たり前でしょう﹂
﹁そっちはお尻の穴じゃないんですよ、エルパコちゃん﹂
君たち、俺は考え事をしているんだから、ちょっと静かにしてく
れないかな。
797
おじさんは今、考え事をしているんだ。
俺はもそもそと膝の上に這い上がって来たバジリスクのあかちゃ
んを抱き上げながら続きを考えた。
よし、エルパコにカムラは任せるとして、俺はもっとも怪しいお
っさんの周辺をまず夜回りの最初のルートにして、そこから教会堂
の方まで回るとしよう。
﹁キュウ?﹂
バジルくん、君はおじさんが夜回りに行っている間、しっかり番
バジリスクとしてお母さんの事を守る様に。
怪しいやつが近くに来たら、しっかり臭いを覚えておくんだぞ。
あとバインドボイスで警報を出す様に。
﹁びえっくしょい!﹂
そんな事を考えながら肥えたエリマキトカゲの頭を撫でていると、
俺の方が口からバインドボイスを吐き出してしまった。
﹁だから言ったんですシューターさん。夏でもちゃんとお召し物を﹂
﹁あーっ駄目です。旦那さまの腰巻き、返しなさいエリマキトカゲ
!!!﹂
798
閑話 花嫁修業 ∼カサンドラの場合 前編︵前書き︶
昨夜投稿した内容に大幅に加筆を加えてみました。
799
閑話 花嫁修業 ∼カサンドラの場合 前編
村の娘たちは、年頃を迎えると行儀見習いのために下働きに出る
のだそうです。
そういう事情をわたしが知ったのは、実のところ夫との結婚が決
まった後の事でした。
幼い頃に母を亡くしたわたしは、猟師の父とふたりで苦しい生活
をしていたし、その父もこの冬にワイバーンを仕留め損なって亡く
なってしまいました。
猟師の家族というのは、この村では鼻つまみ者に見られているの
です。
獲物が捕れなければ、村長さまよりいただける僅かな扶持におす
がりするより他のないわたしたちです。
なかなか行儀見習いのために奉公へあがるお屋敷もありません。
それに年頃の顔見知りというのも、ほとんど親戚内か猟師の家族
にしかいませんでした。
父のお手伝いをする程度の家事とほんの少しの編み物が出来るだ
けのわたし。
そんなわたしも十七歳を迎えた頃に父も死んで、本当にこの先わ
たしは結婚が出来るのだろうかと思っていたものです。
シューターさんの妻になれた事は、わたしにとって本当に幸せで
した。
ありがとうございます、ありがとうございます。
それに、花嫁修業らしい事もした事が無かったわたしです。
本当にこれから、夫を支えてやっていけるのか不安があったのも
800
事実でした。
夫は最近、野牛の族長さまの妹にあたるという新しい奥さんを家
に迎える事になったのです。
ふたり目の奥さんと、ますますこれからどうしていけばいいのか。
わたしはそんな不安で一杯でした。
その事をご危惧なさっていたのでしょうか。
ある日、夫が湖畔の建設現場にお出かけになった際。
村長さまはわたしをお呼びになられて、次のような事をお尋ねに
なられました。
﹁野牛の族長の妹をシューターに押し付ける事になってしまい、カ
サンドラには迷惑をかけたの﹂
﹁い、いえ。とんでもございません﹂
﹁わらわとしても、野牛の娘を誰かれと娶らせるわけにもいかない。
シューターならば安心だと思っての事だ﹂
﹁もちろんです﹂
﹁カサンドラならば納得してくれると思った。これからも悪い様に
はしないゆえ、安心いたせ﹂
突然そんな話をされたので、わたしはびっくりしました。
ワイバーンを倒し、ミノタウロスの族長を倒すような立派な夫が、
村長さまから信頼されるのは当然の事です。
いずれは新しい奥さんが家にやってくることは覚悟しておりまし
た。
ただ、もう少しだけ夫とふたりきりの生活が続くものと、わたし
は思っていたのですが。
その事だけがわたしは心残りでした。
﹁それでどうだ、シューターとの結婚生活は。何か問題などは起き
801
ておらぬかの?﹂
﹁お気遣いありがとうございます。シューターさんには大変よくし
ていただいております﹂
花嫁修業もした事のないわたしが夫に尽くす事が出来ているので
しょうか。
それでもシューターさんはわたしをとてもかわいがって下さいま
した。
﹁ほう、例えば?﹂
﹁た、例えばですか﹂
﹁そうだ、どの様にかわいがってくれるのかの?﹂
﹁お風呂に入る時はいつも体を丁寧に拭いてくださいますし、髪も
洗ってくださいます﹂
最初のうち、もちろん自分の事は自分でやりますと遠慮しようと
したのです。
けれどもそうすると、夫はとても悲しい顔をする事がわかったの
で、ありがたくやっていただく事にしました。
体を拭いていただく時は、どうしてなのでしょう。いつも念入り
です。
そこまで丁寧にしていただかなくてもと言うのですが、夫はそう
言うとまた悲しい顔をするので、お言葉に甘える事にしました。
﹁ほほう。全裸を貴ぶ部族というのは、よほど女が大事とみえる﹂
﹁あ、あまりしつこい時もあるのですが、わたしの顔を見ると夫は
悲しい顔をしておやめになります。それから、髪を洗ってくださる
ときはとても気持ちいいです﹂
村長さまに正直にお話しすると、安楽椅子に腰かけていた村長さ
802
まは興味深そうに身を乗り出してきました。
わ、わたしは村長さまに何を言っているのでしょう。
急に恥ずかしくなって、言葉を詰まらせてしまいます。
﹁なるほど、夜の生活にも満足しておる様じゃな﹂
﹁⋮⋮いえ、そんな﹂
﹁よいよい、聞いたのはわらわじゃ﹂
わたしの顔を見た村長さまは、少し意地のお悪い顔をされてお笑
いになられました。
﹁しかし野牛の娘が嫁いで来たり、猟師の娘を引き取ったりと、あ
ちらの方はご無沙汰であろう﹂
﹁は、はい。それは仕方がありません﹂
家族も増えた事ですし、しばらくはお預けです。
けど、そんな事はさすがに村長さまには言えません。
夫には村長さまがお約束くださった新しい家について、出来るだ
け早くお願いする様にと言っていました。
この際だから直接お願いしたものでしょうか。
けれどそれでは夫のお立場を悪くしてしまうでしょうか。
﹁よい。新しい家についてはもうしばらくすれば目途も立つ。安心
せよ﹂
﹁あ、ありがとうございます。ありがとうございます﹂
そう思っていたのを見透かされたのか、村長さまに先に言われて
しまいました。
村長さまは何でもお見通しです。
803
﹁ところでカサンドラよ﹂
﹁は、はい?﹂
﹁お前も今や騎士の妻である﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁騎士といえば、わらわに代わり村人を統べる身の上であるの。騎
士の婦人として間違いのない礼儀作法を身に着けねばならぬ﹂
﹁はい、そうですね﹂
﹁特にお前はシューターの正妻であるから、他の妻たちの見本であ
らねばならぬだろう﹂
﹁あっはい﹂
﹁聞けばお前は年頃にユルドラを亡くしておるし、行儀見習いに出
ていないそうだの。これはいい機会だからわが屋敷で花嫁修業をす
るといいだろう﹂
そう言って村長さまは、わたしに遅ればせながらの花嫁修業をお
命じになられました。
﹁家の事もあるだろうからカサンドラとタンヌダルク、ふたりは交
互に屋敷へ来るように。お前には読み書きと礼儀作法、家事の差配
を学ばせる。タンヌダルクにはわらわたちの風習を覚えさせるかの﹂
﹁わ、わたしの方が覚える事が多い様な気がするのですが⋮⋮﹂
﹁正妻であるならば当然だ。精進せよ﹂
わたしは騎士シューターの正妻なのだそうです。
わたしは正妻。シューターさんの第一夫人。
こうして自分で言い聞かせてみると、とても責任が重大だと思う
様になりました。
◆
804
村長さまのお屋敷にはルクシちゃんという今年で十五になる女の
子がいます。
わたしよりふたつも若いのに、行儀見習いとして毎日ご奉公にあ
がっているいい子です。
村にいる年頃の女の子とお話をするのは、猟師の家族を除くとは
じめての事でした。
どうやって仲良くしていいのかわからなかったけれど、ルクシち
ゃんと一緒にお屋敷の家事一切をお手伝いするうちに、お話をでき
る様になりました。
村長さまのお屋敷でまずはじめにお手伝いしたのは、お料理、お
洗濯、お皿洗いです。
行儀作法の前に、お屋敷のお仕事は何をするのか基本を学びます。
特に料理の工夫と味付けは、働き盛りの夫のために頑張って覚え
ないといけません。
﹁あのう。カサンドラさま﹂
﹁何でしょう?﹂
お屋敷の裏手にある調理場でお鍋を煮ていたところ、その日もお
ずおずとルクシちゃんが話しかけてくれました。
何だか﹁カサンドラさま﹂なんて言われ慣れていないので、とて
も恥ずかしい気分です。
けれども村長さまがルクシちゃんに﹁騎士の正妻であるから、敬
う様に﹂とおっしゃられていたので、拒否するわけにもいきません。
﹁カサンドラさまは、あの全裸を貴ぶ部族の奥様になられたのです
よね?﹂
﹁そうですよ?﹂
﹁あの男、目つきがとても嫌らしいし、いつも変な笑いを浮かべて
何を考えているかわからないひとなのに、カサンドラさまは大丈夫
805
なのですか?﹂
ルクシちゃんはあまり夫の事がお好きではない様でした。
聞けば村にやってきた当初から夫の事を知っていて、あまりいい
印象は無いようです。
夫は時々わたしたちの事をじっと観察している事があるのですが、
とても好奇心旺盛そうです。
﹁きっと少しでもこの村に馴染める様にと、一生懸命にとわたした
ちの風習を観察していたのですよ﹂
﹁そうかなあ? ただの助兵衛な視線だったと思うけど。顔と胸ば
かりよく見ていたし﹂
そんな事はありません!
シューターさんはお尻もよく見ていますから⋮⋮
夫の疑惑を正すために、わたしが代わりに弁明しなくては。
﹁シューターさんはとても立派な方ですよ。いつもお優しくしてく
ださいますし﹂
﹁立派というほどアソコは大きくなかったと思うけど﹂
﹁そ、そういう問題ではありませんから﹂
﹁ねえカサンドラさま。夜の方はどうなんですか? やっぱり結婚
したばっかりともなると、毎晩お楽しみなんですか? 怖くありま
せん?﹂
まだ未婚でお年頃のルクシちゃんは、とてもわたしたちの夫婦生
活に興味津々の様でした。
こういうのを耳年増というのでしょうか。
わたしの時は、いつも家畜をさばく時にお呼びくださっていたジ
ンターネンさんが、熱心に教えてくださいました。
806
ねや
ジンターネンさんはまだ未婚なのに、とてもお詳しいです。
夫との閨をお話しするのは恥ずかしいですね⋮⋮
﹁わたし、てっきりカサンドラさんはオッサンドラさんのところに
嫁ぐものだとばかり思っていました﹂
どうやって説明したものか困り果てていたのですが、すると唐突
にルクシちゃんが思案しながらこんな事をいいはじめました。
﹁だからあの全裸とカサンドラさまが結婚すると聞いて、村長さま
もご慈悲がないなぁって思ったんです﹂
﹁オッサンドラ兄さんとはただの従兄同士ですから、それ以上何も
ありませんよ﹂
どうしてここでオッサンドラ兄さんの事が出て来たのでしょうか。
わたしはとってもビックリしました。
村長さまのお屋敷に花嫁修業に来るまで、わたしは少なくてもル
クシちゃんとはほとんどお話もした事が無かったのに。
わたしだけでなく、兄さんの事までどうして知っているのかしら。
﹁そうなんですか?﹂
﹁そうですよ。結婚は村長さまや親戚の大人たちが決めるものです
から﹂
もしかすると、こうして年頃の娘たちが顔を合わせては、いつも
恋愛話に花を咲かせていたのかもしれません。
わたしはご奉公の経験も無いので、そういう事を知らなかったの
です。
﹁でもオッサンドラさんが、いつかお話をしていましたよ﹂
807
﹁まあ、どんな事を?﹂
﹁自分とカサンドラさんは近く結婚するって﹂
﹁そんな話はわたし、聞いていません﹂
﹁え、でも。カサンドラさんのお父さんが亡くなる少し前の事かな。
あれ?﹂
わたしは聞いていません。
亡くなった父も、わたし嫁ぎ先は猟師になるといつも言ってまし
た。
﹁わ、ごめんなさい。あたしったら余計な事を言ってしまったかし
ら!﹂
﹁いいえ、お気になさらないで﹂
﹁そ、そう? じゃあ今度はお洗濯をしましょうか﹂
お料理とお洗濯、時には村長さまからお食事のマナーを教わりな
がら、わたしの花嫁修業は続きます。
わたしは正妻なのだから、もっとしっかりシューターさんを支え
ないといけません。
気落ちしていては、駄目。
﹁村長さまはいつも毎朝寝台のシーツをお取替えするのですよ。そ
れには色々と事情があって⋮⋮﹂
808
閑話 花嫁修業 ∼カサンドラの場合 中編︵前書き︶
前回の閑話についてですが、プロットの変更に伴い大幅に加筆修正
を加えました。
まだお読みでない方は、そちらの方もぜひお目を通していただける
と幸甚です!
809
閑話 花嫁修業 ∼カサンドラの場合 中編
﹁カサンドラさま、あんたは騎士の妻だ。騎士と言えば貴族の末席
だよ﹂
﹁は、はい。そうですね﹂
﹁貴族なら読み書き計算ぐらい出来ないと恥ずかしいね﹂
﹁シューターさんの妻として恥ずかしくない様に、がががっ頑張り
ます﹂
その日も夫とダルクちゃんを送り出した後に村長さまのお屋敷に
向かいました。
すると村長さまの警護をなさっている冒険者のお姉さんが、わた
しに読み書きを教えてくださるのだそうです。
今は誰も使っていない食堂に案内されると、麻紙を用意されて、
文字の書き写しをする勉強です。
﹁まずは文字を覚えようか。あたしでも覚えられるぐらいだからす
ぐに出来るよ﹂
﹁ほ、本当でしょうか?﹂
﹁ああ本当さ、見ても覚えられないからこういう時は書いて覚える
んだ﹂
﹁わかりました。あの書き方とかお作法はあるのでしょうか?﹂
﹁文字なんて読めればいいんだよ。書き方なんてどうでもいいさ、
まず書き写しな﹂
﹁はい﹂
冒険者のお姉さんはエレクトラさんと言うそうです。
少しお話をするようになったのですが、エレクトラさんはシュー
810
ターさんが街からスカウトして来た方なのですね。
﹁あのひとは強いねえ。あたしが知っている限り、あんなに強いひ
とは街でも聞いた事が無い。ただ全裸を貴ぶ部族というのがいけな
いだけだ﹂
﹁シューターさんも、さっ最近はお召し物を着ていますから。全裸
なのはお家にいる時だけですよ?﹂
﹁やっぱりシューターさんも故郷が恋しいのかな?﹂
﹁どうでしょう。旦那さまはあまり故郷のお話をされませんので﹂
時々ですが、朝になるとお家の入り口から外を眺めている事があ
りました。
遠い故郷を思い出してみているのでしょうか。
そう思って夫に質問をしてみると﹁あそこで村長ンとこの下女が
ウンコしてるよ﹂と言っていたので、たぶんそういう事は無いと思
います。
あまりジロジロ見るのは失礼ですよとたしなめようとしたら、夫
はおびえた顔をして家の中に逃げ込んでしまいました。
わたしの顔はそんなに怖いのでしょうか。
後でシューターさんに頂いた手鏡で顔を見てみましたが、いつも
の顔をしていたと思うのだけれど。
近くの植え込みでで用を足していたのは、畑を挟んで向かい側の
農家の娘さんでした。
年頃は確かわたしとおなじぐらいで、今は村長さまのお屋敷で行
儀見習いをやっておられるメリアさんです。
気さくなルシアさんと違って、鼻つまみ者のわたしにはあまり話
しかけてくださらないので、あまり詳しくは知りません。
﹁どうした、手が止まってるじゃないさ﹂
811
﹁ごめんなさい。ここで下女をされているメリアさん﹂
﹁ああ、あの朗らかな娘がどうしたんだい﹂
﹁わたしのお家のお向かいさんなんですけれど、あまりお話しした
事が無くって﹂
﹁そうなのかい? あんたが騎士さまの若奥さんだから、身分違い
だと思って遠慮しているんじゃないかな﹂
﹁そうだといいのですが﹂
わたしたち親子とお話をしなかったのは、何も今に始まった事じ
ゃありませんからね。
◆
そんなあまり交流の無いメリアさんと会話する機会を得たのは、
その数日後でした。
その日は夫の二人目の妻であるダルクちゃんを連れて、村長さま
のお屋敷に来たのですが。
まだ村にやって来て日の浅いダルクちゃんが、ひとりで村の中を
歩くのは大変です。
もと猟師だったわたしたち家族に嫁いで来たというだけで白い眼
で見られるのに、ダルクちゃんは野牛の一族の若い女性ですし、そ
の族長の妹さんです。
普通に接していれば年の近い妹みたいな女の子なので、姉妹のい
なかったわたしはとても嬉しかったです。
ダルクちゃんもわたしの事を﹁義姉さん﹂と呼んでくので、張り
切っちゃいます。
そんな、性格は普通の女の子ですけれど、ダルクちゃんには立派
な牛角が頭に生えていました。
812
いち度さわってみたいなと思っていたところ、夫がダルクちゃん
の頭や角をなでなでした際に﹁角を触ってもいいのは旦那さまだけ
なんだからねっ﹂と言っていたので、わたしは触らなくてよかった
です。
村の中を歩いていても、鼻つまみ者のわたしとよそ者のダルクち
ゃんがふたりして歩いていると、とても注目を集めます。
わたしはもう慣れてしまったので監視される様な目線を浴びても
あまり気になりませんが、まだ村に来たばかりのダルクちゃんは困
ったような顔をしていました。
﹁何ですかぁあのひとたちは。失礼じゃないですか! ずっとわた
したちの事をジロジロと見てくるんですよ﹂
﹁ダルクちゃん、声が大きいです﹂
﹁でも義姉さん、あんな態度を取られたら、わたしじゃなくたって
怒っちゃいますよ? ひとを見世物みたいに!﹂
困ったのじゃなくて怒ってたのですね。
けれどもわたしは騎士シューターの正妻です!
ここで甘い顔をしていては、夫に恥をかかせてしまいます。はじ
めての第一夫人としてかわいい義妹を躾なければまりません。
わたしがしっかりしなくっちゃいけません。
﹁あまり外で揉め事を起こすと、旦那さまのお立場が悪くなってし
まいますよ。わたしもダルクちゃんも騎士さまの妻なのです。堂々
としていればそれでいいのですよ﹂
﹁さすが義姉さんです。かっこいい!﹂
ダルクちゃんはわかってくださいました。
そうやって村長さまの屋敷までやって来たところ、メリアさんと
813
ルクシちゃんがそこで待っていたのでした。
﹁メリアさん、ルクシちゃん。おはようございます﹂
﹁はじめまして、おはようございます。騎士シューターの妻、タン
ヌダルクです﹂
わたしが挨拶をすると、隣でダルクちゃんも元気よく挨拶をして
くれました。
それに応えていつも話をしているルクシちゃんも﹁おはようござ
います。わあ、野牛の一族の女性はおっぱい大きいですね! さわ
ってもいいですか?﹂と元気よく挨拶をしてくださったのですが、
﹁⋮⋮陽はもう十分に昇っています。村長さまがお待ちです、お急
ぎを﹂
わたしたちを見比べるとメリアさんは、あまり感情のこもらない
声でそう言いました。
﹁はい。失礼しました。ダルクちゃん行きましょう﹂
﹁わかりましたぁ﹂
﹁下級とは言え貴族の末席なのですから、妻たるあなたたちはしっ
かりしてもらわないと困ります﹂
﹁ご、ごめんなさい﹂
お屋敷に入る間際にそう言われて、あわててわたしは謝罪しまし
た。
そして村長さまの書斎に招かれてメリアさんが退出する間際。
確かにわたしは彼女がこう呟いたのを耳にしたのです。
﹁ふん、成り上がり者とよそ者が偉そうに﹂
814
やはりメリアさんは、わたしたちの家族を快く思っていなかった
ようです。
ダルクちゃんがわたしたちの領内における掟をお勉強するという
ので、村長さまの書斎に彼女を残して退出しました。
すると廊下で待っていたメリアさんに連れられて、食堂に案内さ
れました。
夫は今頃、エルパコちゃんたちと一緒に早朝の畑仕事をしている
はずです。
わたしたち妻の仕事は毎日交代で夫と一緒に現場に出かける事で
す。
今日はわたしの当番ですけれど、お出かけにはまだ時間がありま
した。
﹁お仕事までまだ時間、あるんでしょう?﹂
﹁はい。まだ少しは余裕があります﹂
﹁それならカサンドラさま。少しわたしたちとお茶でもしない?﹂
﹁ええ少しだけなら﹂
わたしたちの事をあまり快く思っておられないメリアさんにお茶
に誘われてびっくりしました。
年の近い同性のお友だちが出来るのはとても嬉しい事です。
ダルクちゃんやエルパコちゃんがお家にやって来た時は、シュー
ターさんとのふたりっきりの生活がしばらく続くと思っていたので
悲しい気持ちになりましたが、家族が増えてしまうと別の気持ちが
出来ました。
今まであまり猟師のご家族やオッサンドラ兄さんぐらいとしか交
流が無かったので、もっと社交的にならないとって思ったのです。
騎士たる夫はこれからも村のために忙しくお仕事なさるでしょう
815
から、正妻たるわたしも、しっかりしないといけません。
食堂にやってくると、すでにわたしたちが来る事を予測していた
のでしょうか。
ルクシちゃんが屋内の炊事場から暖かいヤカンを片手にして食堂
に入って来たのでした。
﹁さあお座りくださいな。村長さまがおられないときは、食堂はわ
たしたち下女も自由に使っていいのですよ﹂
﹁はい、じゃあまずカサンドラさまに、それからメリアさんにお茶
を。最後にわたしにもっと⋮⋮﹂
お茶はこの村では貴重品です。
行儀作法をこのお屋敷で学んだ際に村長さまに教えていただいた
ところによると、セージ、ローズマリー、ラベンダーを煎じたお茶
は、体内の毒を洗い出してくれる効果があるのだそうです。
それから、おねしょをする小さな子供にも効果があるらしく、だ
から村長さまはいつもこれを飲んでおられると言っていました。
どういう意味でしょうか?
とても酸っぱい味がするのでわたしはあまりたくさんは飲めませ
ん。
﹁それじゃお作法にのっとっていただきましょう﹂
﹁いただきます﹂
﹁いただきまーす﹂
わたしたちは並んで陶器のティーカップを持ち上げると、少しだ
け口に含んで香りを楽しみました。
ひと口だけなら、とても酸味が口の中に広がって美味しいです。
ふた口の飲むと、さっぱりとした味わいで口の中に清涼感で満た
816
されました。
高貴な身の上の方は、これにお菓子などを一緒に食べられるそう
ですが、わたしたちは行儀見習いの立場ですし、わたしも下級貴族
の正妻といってもシューターさんは奴隷です。
貧乏なのでそこまではしません。
夫には早く立派な騎士さまになっていただかなくてはいけません
ね。
﹁さて、と。ひといきついたところで、あなたに質問したい事があ
ったのよ。騎士婦人さま﹂
﹁何でしょうかメリアさん?﹂
﹁まどろっこしい事を言うの、わたし嫌いだわ。だから端的に言い
ます﹂
高価なティーカップをテーブルに置いたメリアさんが、わたしの
方をじっと見つめて来ました。
何でしょう。とても嫌な気持ちになります。
これから切り出される事はきっとよくない事だとわたしはは確信
しました。
﹁あなた、身の程をわきまえなさい﹂
身の程を、わきまえる。
わたしはその言葉を口にしたメリアさんの真意を、耳にしたその
瞬間には理解できませんでした。
817
閑話 花嫁修業 ∼カサンドラの場合 中編︵後書き︶
次話において、読者さまにとって大変ご不快に思われる可能性のあ
る描写が書かれております。
寝取られ展開、強姦展開などお好きでない方は、申し訳ございませ
んがこのままブラウザバックなされるか、ご了承の上で次話の展開
に進めていただくことをお願い申し上げます。
818
閑話 花嫁修業 ∼カサンドラの場合 後編︵前書き︶
先日分更新、また遅刻してしまいました⋮
すいません><
819
閑話 花嫁修業 ∼カサンドラの場合 後編
﹁あの、どういう事でしょうか?﹂
言葉の意味を理解できなかったわたしは、メリアさんにもういち
度聞き返しました。
﹁ホント学のない猟師の娘は嫌になってしまうわ。はぁ、あなた身
の程をわきまえなさいと言っているのよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁腕も無いからワイバーンに殺された猟師の娘風情が、たまたま嫁
いだ先の男が騎士になったからと言って、貴族夫人ですって? そ
んな冗談はまるで笑えないわ。その上、新しい家まで下賜されると
いうじゃないの。とんでもない話だわ﹂
食堂で対面同士に座っていたわたしとメリアさんは、互いに顔を
見合わせました。
眼を細くすぼめて、じっとわたしを睨み付けています。
どうしてこんな事を急にメリアさんが言い出したのかわからず、
わたしは当惑してしまいました。
けれども、何となく見当はついています。
貧しい独り身だったわたしが夫と突然結婚して、その夫が騎士さ
まに叙勲されたのです。
毎日が大変な重労働だという農家の娘さんからすれば、わたしは
やっぱりいけ好かなかったのでしょう。
シューターさんはとても立派な方なのでご出世なさる事は当然で
すが、同年のわたしが玉の輿に乗ったのがきっとお嫌なのです。
820
けれど、そのまま言わせておくわけにはいきません。
﹁すべては村長さまのお決めになった事です。わたしにはどうする
事も出来ません﹂
﹁だから気に入らないと言っているのよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
語気を強めたメリアさんに、わたしはびっくりしてしまいました。
これ以上わたしが言葉を続けても、きっと聞く耳は持ってくださ
りません。
それにこれ以上の口論になってしまっては、夫の立場を悪くして
しまいます。
正妻として、こういう場合どういう風に振る舞ったらいいのでし
ょう?
﹁⋮⋮本当なら、今頃結婚しているのはわたしのはずだったのに﹂
﹁あの、メリアさんどういう事ですか?﹂
﹁わたしがこうして村長さまのお屋敷で行儀見習いをしていたのは、
ご奉公を終えれば村の幹部さまと結婚させてくださると言ってたか
らだったのに。だから年頃になって婚期が少しぐらい遅れてもご奉
公を続けていたのに⋮⋮﹂
わたしが押し黙っていると、メリアさんとルクシちゃんがふたり
で会話を始めました。
お話を聞いている限り、村の幹部と結婚するつもりだったメリア
さんは、当てが外れたのでお怒りなのでしょうか。
﹁あなたみたいな猟師崩れの娘が⋮⋮﹂
﹁メリアさんは、シューターさんと結婚したかったんですか?﹂
821
わたしは思い切って、頭に浮かんだ疑問をぶつけてみました。
﹁この村に、あんな裸の奴隷と結婚したい年頃の娘がいるなんて、
そんな事あるわけないでしょう!﹂
﹁それならばわたしが誰と結婚しようと関係ないはずです。シュー
ターさんが騎士に叙勲されたのは、シューターさんが優れた人物だ
ったからです﹂
﹁どうかしらね、あの男は村長さまに取り入ったのよ!﹂
やっぱりメリアさんは聞く耳を持ちません。
いさか
﹁全裸奴隷は前から村長さまが気をかけておられたし、ギムルさま
と諍いになった時も何故か許された。きっと村長さまと大人の関係
なのね。だから許された。つまりあなたはただのダミーという事か
しら? あははっ、そう思ったら傑作だわ!﹂
急に笑い出したメリアさんに、隣に座っているルクシさんも唖然
としています。
夫はわたしの事を大切にしてくださっています。
メリアさんがどういう言葉を並べようと、わたしは正妻として夫
をしっかり信頼するつもりですから。
ちょ、ちょっとだけ村長さまと夫の関係が気になりましたけど、
正妻はわたしだと、村長さまも言ってくださいましたし。
きっと大丈夫です。
﹁同じよそ者に騎士叙勲をくれてやるなら、カムラさまを騎士にす
るべきだったのよ。街では名のしれた冒険者だと言うし、とっても
お強いんですって。何より素敵じゃない?﹂
﹁まあ、カムラさまはお年のわりに独身だと言うし、有望株ですよ
822
ねえ﹂
﹁まったく、どこかの奴隷騎士さまとは違うわね﹂
﹁カムラさまが騎士になられても確かにおかしくないですねえ。冒
険者のギルド長ですもんね﹂
ルクシちゃんの言葉を聞いて同意したメリアちゃんが、嫌味っぽ
くわたしを見ながら笑いました。
なるほど、メリアさんはシューターさんじゃなくて、カムラさま
が騎士になるべきだとお思いなのね。
けれどもその冒険者ギルド長のカムラさんには、つい先日起きた
建設現場の殺人と付け火で、犯人の疑いがかけられているのを、わ
たしは知っていました。
情報を漏らせば夫の立場が悪くなるので、言わないでおくことに
します。
かわいそうなメリアさん。
そう言えば。
少し前に夫が﹁村長さまンところの下働きの女は、気立てがよさ
そうだね。俺には気立てがいいところを見せてくれたことが無いけ
ど﹂と言っていました。
ところが、目の前にいるメリアさんには、気立てのよさそうなと
ころはまるでありません。
確かに村長さまの側ではいつもメアリさんは明るく振る舞ってお
られましたし、村長さまのご子息のギムルさまの前でも、とても気
の利く女性だなあと思っていました。
けど、これが彼女の本心なのでしょうか。
きっとそうなのでしょう。
﹁まあ、あなたはせいぜい奴隷の妻として幸せになってくだされば
いいわ。その代わり奴隷の妻らしく身の程をわきまえなさい﹂
823
わたしは言い返す事をやめました。何を言っても無駄ですからね。
けれども、わたしはとても悔しかったです。
その時です。
﹁へえー。蛮族の農民というのは、貴族に向かってそんな無礼な言
葉を使っても許されるんですか? 義姉さん﹂
﹁あ、ダルクちゃん﹂
ダルクちゃんの声がして振り返ると、そこには村長さまの書斎で
礼儀作法と領内の掟をお勉強していたはずの彼女が立っていました。
正々堂々、胸を張ってわたしたちを見比べているダルクちゃんは
かっこよかったです。
さすが族長の娘として育ったんだなって羨ましくなりました。
﹁義姉さん、そろそろ時間だから旦那さまのところに行った方がい
いですよう﹂
﹁でもダルクちゃんはお勉強があるんじゃ?﹂
﹁今日はお家に帰って、この本を読みなさいと言われたのです﹂
﹁本、ですか?﹂
﹁国法をまとめた本ですよ。ここは色々うるさい小鳥がぴいちく、
ぱあちく鳴いていますからね。落ち着いて勉強するならお家に帰っ
た方がいいと、蛮族の領主さまが言っていたのです﹂
チラリとメリアさんを見たダルクちゃんは、わたしの腕に手を回
して外に連れ出そうとしました。
﹁さっ、お家に帰りましょう。旦那様たちが待っていますから!﹂
﹁は、はい﹂
824
◆
その日は、わたしを除く家族総出で夜回りに出かける事になって
いました。
建設現場の付け火をした犯人はまだ見つかっていませんが、次の
殺人や放火が起きない様に、見回りと監視をするのだそうです。
旦那様さまは、いつも水汲みに使っている天秤棒を手に持って、
腰にも鍛冶場でお借りした剣を腰に差しています。
ダルクちゃんも旦那さまのメイスを借りて、死んだお義父さんの
チョッキを服の上から羽織っていました。
夫とお揃いだと言って喜んでいるダルクちゃんは、かわいいです。
エルパコちゃんは別行動をするそうですが、いつでも合図を出せ
る様にと短弓と矢笛を持って家の外に出ます。
外には鱗裂きのニシカさんが、いつもの格好で暗がりに現れまし
た。
﹁おう、みんな揃ってるな。今日は初日だからしっかり見回りしよ
うぜ!﹂
﹁こんばんはニシカさん。声が大きいですよ﹂
これから夜回りに出る夫たちは、何かむずかしい打ち合わせをは
じめました。
わたしは家の外までバジルちゃんを抱いて出てきたのですが、打
ち合わせを終えた夫がわたしの顔をまじまじと見てきます。
﹁夜回り、お気をつけていってらっしゃい﹂
﹁しっかり戸締りして、今日は早く寝て置く様にね﹂
﹁はい。わたしだけ寝てしまうのは申し訳ないのですが⋮⋮﹂
825
そんな風にわたしが言うと、
﹁そのかわり家をしっかり守ってくれればいいからね。バジル、お
母さんの事をしっかり助けるんだぞ﹂
﹁キュイ!﹂
﹁何かあったらおじさんたちを呼ぶんだ。いつものギャーっていう
アレな﹂
﹁キュウウウ﹂
﹁よーしよしよし。よろこんでますねえ、ちゃんと理解してますね
え。偉いぞあかちゃん﹂
夫はバジルちゃんの首をなでなでしてあげて、改めてわたしを見
ました。
﹁それじゃあいってきます﹂
﹁はい。ダルクちゃんもエルパコちゃんも、しっかり﹂
﹁わかってますよう。もしもの時は旦那さまにしっかり守ってもら
いますからね﹂
﹁ぼくも、大丈夫だから⋮⋮﹂
﹁おう、じゃあお前ぇら行くぜ!﹂
﹁だからニシカさん声が大きいです。夜ですからね?﹂
夫たちは夜回りに出かけていきました。
いつまで使っても油の無くならない魔法のランタンを持った夫た
ちが遠くまで行ったのを見届けて、わたしは戸締りをしてドアに閂
を降ろしました。
﹁じゃあバジルちゃん。ちょっと早いけどお布団に入りましょうか﹂
﹁キイイィ﹂
826
﹁駄目ですよ? 旦那さまがいないからって、甘やかしていてはシ
ューターさんに怒られるんだから。あかちゃんはたくさん寝ないと
大きくなりませんからね﹂
﹁キュゥ﹂
土窯の火を落として寝台に潜り込むと、いつも三人で寝ているそ
の場所はとても広々と感じました。
父と生活している時も寝台はお父さんとわたしでひとつずつ。
父が亡くなってからは、この家にひとりでした。
シューターさんと結婚してからもそう。
しばらく夫は街に出かけていたので、その間はひとりきり。
やっぱりいつも三人で寝ている寝台は、ひとり寝には寂しすぎま
す。
﹁おいで、バジルちゃん。夜は冷えるので毛布をかぶりましょうね﹂
﹁キゥ⋮⋮﹂
あかちゃんを抱いてしばらくしていると、とても寂しい気持ちが
こみ上げてきました。
シューターさんが街から戻ってしばらくは、狭い寝台にふたりで
寝ていたのを思い出してしまったのです。
エルパコちゃんが来て、タンヌダルクちゃんが来てからは、ふた
りきりの夜もご無沙汰ですもんね。
バジルちゃんが寝入ってしまったのを見届けて、寂しさを紛らわ
したくなって。
わたしは体の芯が疼くような気持になって、自分で慰めてしまい
ました。
気が付くとわたしは寝てしまっていた様です。
お家の外で何かの物音がした後、閂がずれる音がしました。
827
もしかするとわたしは長い時間眠りについていたのかも。
夫たちが帰って来て、わたしが寝ているのに気を使って静かにド
アを開けているのかもしれません。
そう思うと申し訳ない気持ちになって、わたしは静かに寝台から
起き上がりました。
暗がりの中でも、寝ぼけまなこのバジルちゃんが少し首を持ち上
げて﹁キュイ?﹂と鳴いたのがわかりました。
静かにドアが開き、そしてまた閉まると閂をかけなおしています。
頭が冴えてくるとどうやって閂をはずしたんだろうとふと疑問に
思いました。
おかしいです。
﹁シューターさん お帰りになられたのですか?﹂
どういうわけかひとつだけの気配にわたしは恐ろしくなって、夫
の名前を問いました。
夫よりも肩幅が広く、恰幅のいい感じに見えるシルエット。
なぜか息遣いも荒くこちらに近づいてきます。
﹁⋮⋮違う、あなたシューターさんじゃないですね?﹂
シルエットはその質問には答えてはくれませんでした。
かわりに、
﹁カサンドラ。カサンドラ!﹂
そう荒い息で口にしたのはオッサンドラ兄さんでした。
兄さんはそう言った直後に、寝台から体を起こしていたわたしを
828
無理やり押し倒したのでした。
﹁カサンドラ、俺はもうこうするしかなかったんだ﹂
﹁やめてください兄さん! どういうつもりですか?!﹂
﹁カサンドラが、カサンドラが悪いんだ。あんな男に体を許すから、
どうして俺じゃなかったんだ﹂
﹁やめて、ください⋮⋮ひとを呼びますよっ﹂
兄さんは強引に私の体を押さえつけて。
わたしの服を脱がそうとしました。
これ以上いけません。
﹁お願いです、兄さん⋮⋮﹂
暗闇の中で目を覚ましたバジルちゃんの尻尾を、わたしは強く握
りました。
たすけて、シューターさん⋮⋮
829
73 奴はカムラ 7
俺はその夜、妙な胸騒ぎを覚えていた。
最近は夏だと言うのに俺は世間体を気にして上等なおべべを着て
いるから、多少暑いのは間違いない。
それでも今噴き出してくる汗は、妙にべとついていて手ぬぐいで
拭いても拭いても額から吹き出してくるのだ。
汗はただ暑いからと言うよりも冷や汗と言うやつだ。
﹁どうしたんですか旦那さまあ﹂
﹁ちょっと暑いね今日は﹂
﹁そうですかあ? ずっとさっきからソワソワしているみたいです
けど﹂
そんな風にふたり目の妻が心配してくれるが、気持ちがどうも落
ち着かないので﹁何でもないよ﹂と言っても説得力がない。
カサンドラにしっかり戸締りをする様に言った後、俺たちは猟師
小屋を離れて鱗裂きのニシカとエルパコと別々に分かれた。
エルパコはもともとカムラの動向を探るためという理由で別行動
だ。
冒険者ギルド長のカムラはギルドのあるむかしの倉庫を利用した
建物の離れで寝起きしている。
普段カムラは夜は遅くまで事務作業をやっているらしく、ギルド
の執務室で書面と格闘をしているだろう。
所属する他の冒険者たちは陽が落ちると酒盛りをはじめるのが日
々の慣わしなので、宴たけなわでギルドが騒がしくなってくると、
自分の寝起きしている離れに移動するらしい。
830
そういうある程度の行動ルーティンは理解している。
だからエルパコはギルドの周辺で待機して、美中年の動きを監視
するというわけだった。
先日は酒盛りをはじめた冒険者たちを避ける様にして、カムラは
ギルドを出て職員として雇い入れた村の若い女たちとお楽しみだっ
たらしいからな。
酔った冒険者たちが寝室がある離れの建物に出入りしていると、
落ち着いて若い娘たちとお楽しみというわけにはいくまい。
俺の感覚だと美中年は剣術の方もかなり出来るオーラを出してい
る。
何か動き出してからでは村の人間では止めようがないけれど、獣
人で気配を察知したり自分の気配を消して行動できるエルパコなら、
監視役には適任だ。
そしてニシカさんと俺たちは手分けして村の周辺を夜回りするわ
けである。
ニシカさんは単独になってしまうため女村長の屋敷周辺と、村に
新たにやって来た開拓移民、労働ゴブリン、犯罪奴隷たちの住居周
辺を見回る事になっている。
こちらは移民や労働ゴブリンたちに目を配っておく以外に、犯罪
奴隷や女村長の屋敷についてはついでだ。
アレクサンドロシアちゃんのところにはメスゴリラ、もとい冒険
者エレクトラが護衛についているし、犯罪奴隷は鎖に繋がれている
から悪さはたぶん出来ないだろう。
それらを除外したところで残るのがオッサンドラの動向と、司祭
さまの動向である。
﹁にしても、村の中は真っ暗ですねえ﹂
831
﹁そりゃこの季節は陽の出ている時間も長いからな、暗くなりゃさ
っさと寝るんだよみんな﹂
﹁そうなんですかあ? 夜になったら家族のみんなで団らんするの
が普通じゃないですかあ。何かすぐに寝てしまうのはもったいない
ですねえ﹂
あまり緊張感のなさそうな間延びした声で、メイスを肩担ぎにし
たダルクちゃんがそう言った。
確かに、夜になった村の中はほとんど明かりが無い。
俺たちが持っている油を使うランタンの明かりの他には、ぼつぼ
つとわずかな家々から弱弱しい光が漏れているだけだった、
﹁油や蝋燭は高価なものだからな、そんなに無駄遣いは出来ないん
だ﹂
﹁やっぱりここは蛮族の村なんだなあって思いますよ。わたしのい
た居留地では、夜もこんなに真っ暗になる事は無かったですからね
え﹂
﹁そのかわりほら、空は星で一杯だろう。ん?﹂
﹁ほんとうだぁ。えへへ﹂
﹁ど、どうしたんだ急にタンヌダルクちゃん﹂
﹁何だかとってもロマンチックですねえ、旦那さま!﹂
俺たちは公務の最中である。
夜回りのために鍛冶職人たちの住居が集まっている鍛冶場と、そ
の周辺をぐるりと回りながら警戒中なのだ。
それなのに、たわわな胸を押し付けて俺の腕に手を回してくるタ
ンヌダルクちゃんのせいで、妙な気分にならざるをえない。
俺は股間に手を回し、息子の位置を調整しながらドキドキした。
この胸騒ぎ、何か悪いことが起きるというだけの理由ではない。
832
﹁き、急に積極的になられても、今夜は何もしてあげられないんだ
からねっ﹂
﹁いいじゃないですかたまにはあ。いつもは義姉さんやエルパコが
いるからふたりっきりになれないんだし﹂
﹁そっそもそもタンヌダルクちゃんは、俺と結婚するの嫌だったん
じゃないの?﹂
﹁べ、別に嫌だとか言ってないですし、ただ蛮族のくせに兄さんに
負ける様な蛮族なら嫁ぎ甲斐がないからやだなって思っただけです
し﹂
どっちが蛮族の思考なんだか。
まあ、中世まっさかりみたいなこの世の中じゃ指揮官先頭みたい
な勇敢さはリーダーにとって必須のスキルなのかもしれんね。
﹁それで、義姉さんの従兄の家というのはこの辺りなんですか?﹂
﹁あそこに見える、夜も明かりが灯っている大きな建物が鍛冶場だ
な。覚えてるか?﹂
﹁はい覚えてますよ。感じの悪いお兄さんがいたところですね﹂
その周辺というか、裏手側にぐるりと散らばっているのが鍛冶職
人たちの住居である。
最近は鍛冶場のまわりにも新しい住居建設がはじまっていたが、
これは近い将来の新たなる移住者を見越してのものだった。
村長は次の開拓移民誘致で本格的に大人数を村に呼び込むつもり
なのだ。
その鍛冶場だが、この村ではかなり珍しいガラスの窓が何か所か
にはまっている。
ガラスそのものはぶどう酒の瓶でも使われてるように珍しくはな
いが、ガラス窓となれば別だ。
833
女村長の屋敷や、職人の工房など、領内の有力者が利用している
住居だけがその対象だった。
もちろん俺たちの猟師小屋にはそんなぜいたく品は無いが、ただ
いま土壁を乾かしている新居にはこれがある。
やったね!
﹁鍛冶場は遅くまで作業をやってるんですね﹂
﹁それはね、金属を溶かす炉の火をいちいち付けたり消したりして
いたら、効率が悪いからだよ。炉に火が入っているうちは出来るだ
け作業を続けてるんだ。かわりに休みをまとめてとったりね﹂
﹁そうなんですか?﹂
むかし俺が働いていた工場でもラインを停止する時は連休などま
とまった時にして、その分は連休直前の土日なども工場勤務をして
いたもんだ。
職人たちは鍛冶場カレンダーで作業をしているんだろうな。
﹁それであれがおっさんの家だ﹂
﹁へえ、うちより小さな家ですよ。兎小屋かな?﹂
﹁失礼な事を言うんじゃありません。そっちじゃなくてその隣な﹂
確かオッサンドラは独り暮らしをしている。
むかしは家族と一緒に生活をしていたはずだが、姉だか妹だった
かはすでに嫁いでいたし、俺から見れば義理の伯父夫婦もすでに亡
くなっていたらしい。
俺たちの家畜小屋よりは大きな家に住んでいるのだから、きっと
暮らしぶりはそれなりだったに違いない。
﹁鍛冶職人というのはやっぱり暮らしが出来るんだな﹂
﹁そうなんですかあ? その割にはひとり者なんでしょ、おっさん
834
さんは﹂
﹁おっさんの結婚相手を決める親戚の大人たちがみんな死んじゃっ
てるからな、カサンドラの親父さんもおっさんの両親も﹂
﹁でも。知ってます?﹂
おっさんの家の周りを見回りながら、俺はタンヌダルクちゃんに
振り返った。
﹁おっさんさんは近々義姉さんと結婚するんだって﹂
﹁マジかよ。やっぱりふたりは結婚の約束があったの?﹂
俺の知らない事実である。
もしかして妙な胸騒ぎはこの事だったのだろうか。
婚約相手だったカサンドラを俺が寝獲った格好になったので、お
っさんは激怒しているのだろうか。
﹁そんな風にに漏らしていたらしいですよう。村長さまの家で、下
女と義姉さんが話しているのを聞きましたから。けど、義姉さんは
知らなかったって驚いてたみたいだけど﹂
﹁そうかよかった。おっさんの片想いだったのがわかった安心した
ぜ⋮⋮﹂
そりゃそうだよな。何かある度に﹁兄さんとは従兄妹同士という
だけで他人です﹂ってカサンドラはキッパリ言ってたもんな。
﹁なんですかぁ。わたしと一緒にいるのに義姉さんに嫉妬してるん
ですかあ?﹂
﹁そういうんじゃないから。こら、手を引っ張らない。ちゃんとし
っかり仕事するぞ﹂
835
俺は第二夫人の唇に人差し指を立てて静かにする様に指示すると、
おっさんの家の裏手に近づいた。
まず煙突を見ると、頼りない煙が上がっているのが見える。
たぶん土窯の火が入っているんだろうか。
弱弱しいそれを見た限りだと、燻製でも作っているのかもしれな
い。
この村の住人は豚や牛を潰した時は分配して近所同士でシェアす
るわけだ。
肉は貴重品なので保存するために燻製にするのである。
してみると、おっさんはまだ寝ていないのだろうか。
結婚して家事をしているカサンドラを観察していると、火の後始
末だけは俺の元いた世界の何十倍も気を使っているような気がした。
江戸時代でも火事はもっとも恐れられた災害だし、付け火は恐ろ
しく重罪だったはずだ。
不始末があってはいけないと、きっとおっさんも起きているのだ
ろう。
しかし、こういう時にガラスの窓が無いというのは具合が悪い。
中を覗き込んで観察したくても、この家は板窓なので中の様子が
わからないのだ。
けれども、中でごそごそと何かが動いている音も聞こえてくる。
ならばおっさんは今のところ安心か。
﹁行こうか﹂
﹁はい﹂
小声で互いに合図をしたらその場を静かに離れる。
そのまま鍛冶職人たちの集落を離れて、今度は教会堂の方に歩き
出した。
836
◆
このサルワタの森にある開拓村は、ひとくくりに村と言っている
けれどややこしい。
領内の人間たちは、かつては林であった場所を切り開いて広い平
地にした場所を便宜上の村と呼んでいる。
川と用水路に囲まれた開かれた土地は芋や豆、トウモロコシの畑
に、そのまま湿地を利用した場所は冬麦の畑が広がっていた。
この田園地帯のあちこちに住居がひと塊になった集落がいくつか
ある。
俺たちの猟師小屋があるのは、猟師集落というわけだ。
この川と用水路に貌まれた場所が元いた日本で俺が学んでいた近
現代史にあてはめて解釈すると、本郷という事になる。
村人たちが周辺集落と呼んでいる場所は、開墾の発展にあわせて
外に広がっていった過程で作られた集落で、これは農村史的な言い
回しにあてはめると枝郷である。
木の幹である本郷たる村と、広がる枝葉にあたる枝郷たる周辺集
落。
鱗裂きのニシカさんはこの枝郷に住んでいる集落の住人で、この
枝郷は村の周辺に複数点在していた。
きっと川の向こう側を開墾中である事から、次の新しい枝郷が作
られるのは湖畔のものとあわせてこの二か所だろうね。
さて教会堂はそのどれにも当てはまらない事にある。
便宜の上では村の中に存在しているが、ここは領主であるアレク
サンドロシアちゃんの権限が及ばない、領内の独立法人というわけ
だ。
騎士修道会が所属している、女神を崇拝するブルカ聖堂会から司
837
祭たちが派遣されているからである。
﹁一応は村の掟に則って司祭さまも助祭さまたちも生活しています
けれど、村長さまに強制権限はないという事らしいですよお﹂
聞けば最近はアレクサンドロシアちゃんのもとで国法を学んでい
るらしいタンヌダルクちゃんが、暗がりの道すがらそんな話を得意
げに語ってくれた。
﹁するとあの坊さんには外交特権があるという事なのかな﹂
﹁外交特権? ですかあ?﹂
﹁ああつまり一応は独立した組織のブルカ聖堂会の所属なので、カ
タチの上では騎士爵アレクサンドロシアちゃんと対等の関係という
わけなんだなあ﹂
ふたりで思案をしながら、あちこちの家々に一応は目を配りつつ
会話を続ける。
俺は夜回りをしている事をおおっぴらにするべきか、こっそり回
よくしりょく
るべきなのかわからなかった。
けれども抑止力だと思えば、俺たちは犯人に対して﹁監視してい
るぞ!﹂というアピールをしておくべきかもしれない。
警備員というのは、そういうための存在だと警備員バイトをして
いる時に偉い人から聞かされたことがある。
さしずめ、警察官立ち寄り所ならぬ奴隷騎士立ち寄り所といった
ところだろうか。
﹁なるほど、確かにそんな事が書いてあった様な気がしますよ。村
人の治療にかかわる命令権は領主にあるそうですねえ。それから冠
婚葬祭の取り仕切り﹂
﹁冒険者ギルドについては何か書かれていたかな?﹂
838
﹁ええと確か、この村にあるギルドは出張所なので、なんとかとい
う街のギルドの組織に所属しているそうですねえ﹂
﹁ブルカの街だな。俺も行った事があるぜ﹂
﹁でも、湖畔のお城が完成したら、出張所からちゃんとした村長さ
まのもとで独立したギルドになるそうです﹂
﹁まあその方がいいな。いつまでもどこかと繋がっていたんじゃこ
っちの情報がダダ漏れだ﹂
さて、どこにも所属していないブルカ聖堂会の教会堂の側までや
って来た。
うんこうして見ると、女村長の屋敷と石塔を除けば、この教会堂
は村でも有数の立派な建物だった。
ひときわ大きな教会堂の建物に併設して、診療所と住居がある。
診療所の方は病人か怪我人でもいなければ、夜になればここは無
人になる。
診療所の側を通って板窓の隙間から明かりが漏れていないのを確
認したら、住居の方に移動した。
静かに歩いていたのだが、どうも足場が湿っていて、これは歩く
と足跡が残ってしまうじゃないかと俺は顔をしかめた。
タンヌダルクちゃんの方はサンダル履きだったので、ランタンに
照らされた表情がとても嫌そうだったね。
﹁こっちもひとの気配がないですよう﹂
﹁いや、向こうの居間? があるところから声が聞こえますよ奥さ
ん﹂
俺たちが耳を凝らしながらそっと近づく。
すると﹁うん、どうだい﹂という男の声がした。
これは司祭さまの声だ。
839
さらに耳を凝らすと﹁いけませんそんな﹂という女の声もする。
これは助祭さまの声だ!
お前たちはもしかして何かいけない事をやっているのではないか。
とんでもない現場に遭遇したのではないかとふたりしてドキドキ
しながらさらに近づく。
ここは教会堂という金の羽振りがいい場所なので、ありがたい事
にガラス窓である。
﹁くくく、いけませんとか言って、本当は僕の事を誘ってるんだろ
う。君というやつはいつもそうだ﹂
﹁そ、そんなことありません﹂
﹁とても狡猾で、男をそうやって鴨にする。嫌がっているふりをし
ていつも僕を本気にさせるんだ﹂
ふたりはチェスをやっておられた。
見た事のないコマを使って盤上を挟んでにらみ合うふたり。
たぶん異世界チェスで間違いない。
窓を覗き込んでガッカリした俺とタンヌダルクちゃんは、教会堂
の木の壁にもたれかかってズルズルとへたりこんだ。
﹁ちょ、ちょっとはわたしも期待したんです﹂
﹁でもチェスでした。残念﹂
﹁だって旦那さまはもう、義姉さんとは済ませているんでしょう?
おっお互い夫婦なんだから﹂
﹁そうですね。夫婦ですもんね当然ですね﹂
﹁だ、だからこの際どういう風にするのかべべべ勉強というか何と
いうか﹂
本日の見回りミッション終了。
840
うん、おっさんも司祭さまも特に悪い事をしていなかった。
帰りは別のルートを使って本郷集落の他の場所を見てから帰りま
すか。
そんな風に俺たちのドキドキを返せとばかり教会堂を立ち去った
時のことである。
静寂な村の中に、けたたましい咆哮が駆け抜けたのだった。
もちろんその意味は飼い主である俺にはよくわかる。
バインドボイスだ。
ワイバーンと同じく巨大なトカゲの仲間たちは咆哮によって人間
の体を硬直させる魔法が使えるのだ。
ランタンを持った手を取り落としそうになるのをあわてて堪えな
がら、天秤棒を杖代わりにどうにか倒れずに済んだ。
以前に戦ったバジリスクの咆哮より魔力が強い。
もちろんバジルのはじめての咆哮より強力だった。いったい何事
だ?!
俺は奥さんを振り返った。
タンヌダルクちゃんは手からメイスを取りこぼして倒れ込みそう
になる。
急いで腕を回して助け起こすと、
﹁し、シューターさま。今のは﹂
﹁あかちゃんの悲鳴だ﹂
﹁という事はお家で義姉さんに何かあったんですか?!﹂
落としたメイスを俺が拾ってタンヌダルクちゃんに渡すと、
﹁奥さんもう走れるか﹂
﹁走れます。急ぎましょう!﹂
841
タンヌダルクちゃんとともに俺はランタンを激しく揺らしながら
猟師小屋へと駆け出した。
842
73 奴はカムラ 7︵後書き︶
次話において、読者さまにとって大変ご不快に思われる可能性のあ
る描写が書かれております。
寝取られ展開、強姦展開などお好きでない方は、申し訳ございませ
んがこのままブラウザバックなされるか、ご了承の上で次話の展開
に進めていただくことをお願い申し上げます。
843
74 奴はカムラ 8︵前書き︶
今回の最新話ではたいへん不快な表現が含まれています。
ご容赦くださいますと幸甚です。
844
74 奴はカムラ 8
俺たちは暗闇の中を駆け走った。
バジリスクのあかちゃんが咆えたのだ。
それは猟師小屋で何かが起きた事を知らせているに違いない。
何者かが俺たちが留守にしている間を突いて侵入したのである。
片手に天秤棒を持って、もう片方の手にランタンを持って、途中
で転がりそうになるのを必死に耐えながらひたすら走った。
タンヌダルクちゃんはフリルのついたスカートを着ていたけれど、
それを両手で持ち上げて全速力で走っている。
﹁旦那さま、わたしの事はいいですから先に!﹂
背後からそんな声が聞こえたけれど、俺は今年で三二歳になるお
っさんだからこれで全速力だった。
元いた世界では普段から膝に負担をかけないようにウォーキング
と軽いジョギングしかしていなかったことが悔やまれる。
畜生、こんな事ならもっと全力で走る練習をしていれば⋮⋮
教会堂から猟師小屋までの道のりは単純だった。
草道を照らす明かりが何もない場所でも、せめてほとんど一本道
だった事が救いだ。
あかちゃんの激しすぎる夜泣きを聞いたからだろうか。
途中の家々から不安そうに顔を出している村人たちの姿があった。
﹁おいよそ者、何があった!﹂
﹁わかりませんよう。とにかく今は急いでいますので!﹂
845
また背後で会話する声が聞こえ、それが遠ざかっていく。
タンヌダルクちゃんと村人が何言か言い合っていた様だけれど、
それは彼女に任せておいた。
また足が絡まりそうになって転がるのを必死に耐えた。
距離にして一キロもないはずだが、それでも何もかもがもどかし
い。
疲弊して、徐々に足が遅くなっていくのがわかる。
くそ。俺よりもひと周り以上若いタンヌダルクちゃんは、徐々に
追いついてきたらしい。
あと少し、あと少しで、猟師小屋に到着する。
俺は最後の力を振り絞って全速力を出した。
ペース配分もあったもんじゃねえ。
もしも俺たちの留守にしている間を狙ってカサンドラを襲ったと
いうなら、きっと体力配分を考えて少しは余力を残しておくべきな
のかもしれない。
けれどそれが今の俺ではわからない。
脳が働かず、焦りと不安とでいっぱいいっぱいだ。
脳に酸素が行き届いていないのだろう。
そんな状態で荒い息をしながら、俺は猟師小屋に到着した。
﹁カサンドラ、どうした! 開けてくれ!﹂
﹁義姉さん、大丈夫ですか?!﹂
小屋の扉に手をかけて押し開けようとしたけれど、出来ない。
中からは何事か争う声が聞こえる。
閂だ。中から閂が降ろされているのだ。
俺は何度も蹴ったり体当たりをしたりして必死にこの扉をどうか
しようとした。
846
﹁旦那さま、どいてください。わたしが開けます!﹂
﹁え?!﹂
﹁こうして、やるんです!!﹂
どこにそんな力があるのかという具合に、俺を強引に押しのけた
タンヌダルク。
きし
扉から距離をとって、おもいきり肩から扉に体当たりをかました。
さすがに野牛の一族のタックルは強烈だ。
ドゴンッ! という激しい音とともに、閂が軋む音がした。
もういち度タンヌダルクが勢いをつけてぶつかる。
俺がやるよりも腰が入っていて、タックルは破壊力がありそうだ。
﹁ちっくしょう。これでもだめなんですか!﹂
﹁俺もやる。一緒に!﹂
﹁はいっ。せーの!!﹂
ドガンッ! と数度目のタックルを一緒にやった後で勢いよく扉
が割れて、ふたりそろって猟師小屋の中に飛び込んだ。
猟師小屋の中で俺が目撃したものは、下半身だけを丸出しになっ
て妻カサンドラを押さえつけているおっさんの姿だった。
﹁ん゛ん゛ん゛ん゛ッ﹂
﹁誰だ俺とカサンドラの幸福を邪魔する奴は﹂
﹁ギイイッギイイイイイッ!﹂
カサンドラの服は乱れ、口には布の様なものを押し込まれていた。
必死で抵抗したのだろう、家の中は滅茶苦茶になっている。
バジルは、バジルはどうしているのか。おっさんの脚に必死でか
847
じりついていた。
歯も無い嘴で必死に喰らいついていた。
考えるよりも早く俺は動いていた。
必死で走り抜けた後の虚脱した俺の体は、無駄に力を籠める様な
余力など残っていなかった。
妻を押さえつけているおっさんの背中を強引につかむと、そのま
ま寝台から床に引きずり倒す。
そのまま数発おっさんの腹に蹴りを入れてやる。
﹁手前ぇ、俺の妻に何してるんだ!﹂
﹁シューターか。遅かったな﹂
﹁言え、何をしているんだって聞いてるんだこのやろうッ﹂
﹁これはすべてお前がいけないんだ。お前さえいなければ!﹂
﹁何だと?!﹂
﹁お前さえいなければ、カサンドラは不幸にならなかったんだ。俺
と結ばれて幸せになったんだ﹂
おっさんは狂気の顔を浮かべて笑みを浮かべていた。
耳からは血が流れている。
バジルのバインドボイスでやられたのだろうか。
気色の悪い顔をしやがって。
俺は拳におもいきり力を入れて、顔面を殴りつけてやった。
﹁義姉さん、大丈夫ですか?!﹂
﹁ん゛ん゛んッ。ごほっカハッ⋮⋮﹂
﹁怪我はないですか? 乱暴されたんですね? もう大丈夫です。
わたしと旦那さまが側にいますから﹂
﹁⋮⋮⋮けほっ﹂
﹁旦那さま、怪我はしていません。傷は無いみたいですけど⋮⋮﹂
848
﹁どうしたッ﹂
﹁あの、えっと﹂
まさか、このおっさんに穢されたんじゃないだろうな。
﹁お前いったい何てことをしてくれたんだ!﹂
﹁シューターがすべて悪いんだ﹂
こいつ、耳がいかれてるのか。狂ってるのか?
俺が何度も殴る、蹴るを繰り返しているにもかかわらず、顔は決
してニタついた気色の悪い顔を崩そうとはしない。
俺の拳はとうとう皮が破けて、使い物にならなくなってしまった。
腹が収まらない。怒りが収まらない。
息遣いもあらく次は拳の腹で殴りつけてやろう、ぶち殺してやろ
うと覚悟の拳を振り上げた時。
﹁シューター、もういいだろう。いい加減その辺りにしとけ﹂
背後から俺にしがみつく奴がいた。誰だ俺を止めるやつは、放せ
っ。
﹁どけ、放せよ﹂
﹁これ以上やったらおっさんが死んでしまう。落ち着けシューター﹂
声の主は鱗裂きのニシカだった。
馬乗りになっておっさんを押し倒している俺を、ニシカさんが必
死に抑え込んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁そうだシューター落ち着け。さあ、立ち上がれ﹂
849
﹁はい⋮⋮﹂
﹁この騒ぎだからじきに村長も来るだろうぜ。な? 今は落ち着い
てな﹂
﹁そうですシューターさん。今は村長さまを待ちましょう、それよ
り義姉さんを﹂
﹁ああ﹂
ニシカさんとタンヌダルクに諭されて、しぶしぶおっさんから離
れる。
おっさんが上体を起こすと、俺の方を見上げてまだ潰れた顔でニ
タついた顔をしていた。
今は耐えるんだ⋮⋮
﹁カサンドラはもう俺のものだ﹂
その言葉を聞いた瞬間に。
俺は最後の理性が吹き飛んでしまう。
﹁殺してやる﹂
俺は貫手で喉笛をひと息に突いた。
◆
俺の名は吉田修太、三二歳。
異世界で家族を手に入れた幸せ者だった男だ。
そのはずだった俺が、どこでボタンを掛け違えたのか妻カサンド
ラを凌辱された。
怒りのあまり、俺はおっさんを殺しにかかった。
そこまでははっきりと俺の意識の中にある。
850
その後で手の付けられなくなった俺は、ニシカさんやかけつけた
周辺の村人たち、それに妻たちが必死になって取り押さえた事でお
っさんから引き離されたらしい。
今の俺は石塔の地下にある牢屋の中にいる。
ひとをひとり殺したのだから当然の結果なのかもしれない。
それでも妻を穢した男を、俺は許してはおけなかったのだからこ
れでいい。
この村のルールに従った場合、俺はどういう風に処断されるのだ
ろうか。
盗みには腕を、殺しには死罪で。
その理屈であれば俺は殺されるのかね。
やってられるか⋮⋮
あぐらをかき、鎖に繋がれ、じっと汚らしい天井を見上げながら
時間の経過もいつしかわからなくなってしばらくした後、女村長と
ニシカさん、もうひとりの妻タンヌダルクが俺の元へ訪ねて来た。
﹁こういう結果になったのは、わらわにも責任がある。たいへん申
し訳ない事をした﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
言葉も無く女村長を睨み上げていた俺に向かって、目を伏せた彼
女は言葉を続けた。
﹁カサンドラは今、診療所にいる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁もちろんオッサンドラは最後まで出来たわけではないが、それで
も助祭が念のために避妊の施術を施しているので、間違いで子が産
まれる事は絶対にないので安心してくれ﹂
851
オッサンドラという言葉に俺の胸が疼く。
まだ殺しても、殺したりやしねえ。
﹁それとオッサンドラは一命をとりとめたぞ﹂
﹁しぶとい男です。喉が潰れて声が出なくなったらしいですけど、
まだ生きているんですよ﹂
あんな男に、助祭が聖なる癒しの魔法を使いやがったのか。あん
な男に⋮⋮
悔しさのあまり、ギリギリと歯ぎしりをしてしまった。
死ねばよかったのにな。
﹁オッサンドラは容態が回復次第、罪の度合いにあわせて村の奴隷
身分とする。残念ながらここには奴隷商人がおらぬゆえ略式だが、
それで堪えてくれ﹂
﹁俺は、どうなるんですかね﹂
﹁もう落ち着いたか。暴れないと約束をするならすぐにも出られる
ぞ﹂
何もかもがどうでもいい。
俺はやっつけ気分になって女村長を睨み返した。
﹁この地下牢に入ってもらったのは、暴れるお前を誰も手が付けら
れなかったからだ。お前は強すぎる。罪に問うてここに入れたわけ
ではないのだけは理解してくれ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁さあ、ここを出ましょう旦那さま。診療所にいる義姉さんが会い
たがっていますから﹂
852
そうだった。
俺のことはどうでもいい。
カサンドラだ。カサンドラはどうしているんだ。
﹁その、カサンドラは男が近づいても大丈夫なんですか? 男を見
ると恐怖心が沸くとか、そういう事は⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですよシューターさん。義姉さんは旦那さまが来るのを心
待ちにしていますから﹂
﹁う、うん。そっか⋮⋮﹂
言葉を詰まらせながら女たちに問いかけたところ、寂しく笑った
タンヌダルクちゃんが俺にそう言ってくれた。
カサンドラ。俺が油断していたばっかりに⋮⋮
俺はそのまま嗚咽を漏らしつつ、解放された地下牢の扉から出た。
鎖も解かれて、石塔の螺旋階段を昇った。
外に出るとまぶしい陽の光に眼をすぼめながら、少し遠くにある
教会堂を見やる。
そうしていると鍛冶屋に預けていたはずの短剣をタンヌダルクち
ゃんが差し出してくれた。
﹁鍛冶屋さんかにお願いして、これから先も何があるがわからない
からと最優先出直してもらいました﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
﹁さ、行きましょう。義姉さんのところへ。それと旦那さまの手も
治療しないといけませんね。血が固まって真っ黒になってるんです
から﹂
﹁ああでも、その前にカサンドラに顔を見せないとな﹂
どういう感情と言い表したらいいのか俺にはわからない。
いろいろと虚脱した俺は力なく笑って、けれども足取りだけは少
853
しでも早くと診療所に向けるのだった。
854
75 奴はカムラ 9︵前書き︶
75話の描写内容を大幅に加筆修正しました。
それにあたり、75話後半の一部を76話に分割して掲載していま
す。
855
75 奴はカムラ 9
診療所に入ると俺は極度に緊張した。
俺たちを迎えてくれたのは、教会の助祭さまだった。
﹁あ、カサンドラさまの旦那さんですね?﹂
ゆったりとした灰色のチュニックを着用した助祭さまが、微笑を
浮かべて俺たちを見る。
改めてみると、俺がワイバーンとの戦いで自傷を負った時、その
際の犠牲者の葬儀に参列した時に顔を合わせた事があるが、それ以
外で助祭さまと親しく会話をした事は無い。
﹁シューターです。猟師をやっています﹂
﹁またまた、今はご立派な騎士さまじゃないですか。お待ちしてお
りました﹂
ちょっとした仕草に垢ぬけた印象がある。
きっと田舎の生まれではなく、都会出身なのだろう。
助祭さまの側らにはエルパコが立っていたところを見ると、カサ
ンドラの護衛という事でずっと付いていてくれたらしい。
﹁エルパコ、俺の留守中迷惑かけたな。ありがとう﹂
﹁問題、ないよ。家族だから⋮⋮﹂
ぼうっとした顔に眼だけはすこし正気を宿して頷き返してくるエ
ルパコ。
856
助祭さまに向き直ると、こちらも真剣な顔をして俺を見据えてく
る。
﹁さあ、奥様が奥の部屋でお休み成されていますよ。お入りくださ
い﹂
﹁あの。妻の様子というか、心の傷が残っているとかそういうのは
大丈夫でしょうか?﹂
﹁心の傷、ですか?﹂
質問する俺に、助祭さまが小首をかしげる。
情けない事ではあるが、今の俺はカサンドラに拒絶されたときに
どうすればいいかわからない。
オッサンドラの暴行で男に対して拒絶反応を示すようになってい
ないか。
綺麗ごとかもしれないが、俺がどういう扱いを受けるかよりも、
妻にこれ以上の負担をかける方がよほど今は深刻だ。
この世界にはこういう事態に陥った時のカウンセリングというか、
そういうノウハウはないのだろうか。
﹁はい、例えば男が近づいたら極端に怯えるとか。そういう事はあ
りませんか﹂
﹁どうですかね。今は治療室で香薬を焚いているので安静にしてい
ますが﹂
﹁香薬、ですか?﹂
﹁例えば、大きな事故や事件に巻き込まれたり、戦場から帰った戦
士を落ち着かせるために使うお香です﹂
﹁そういうものがあるのですか﹂
﹁はい。わたし聖堂会では治療魔法と薬学を学んでいたんです。だ
からそのお香はわたしのお手製なんですよ﹂
﹁へえ・・・⋮﹂
857
精神安定剤みたいなものだろうか。
﹁本来は高貴なひとのために使うお薬なのですが、カサンドラさま
は騎士さまのご夫人ですから使わせていただきました﹂
特別ですからね、と助祭さまが笑ったのを見て﹁なるほど﹂と返
事をした。
香薬のおかげか知らないが、カサンドラの気持ちが落ち着いてい
るのならそれはありがたい。
それに俺は今、情けない態度を今はすべきではない。
そうすれば辛い思いをするのはカサンドラである。
﹁とにかく今は俺自身がしっかりしないとな。家族が取り乱してい
てはカサンドラを不安がらせるだけだ﹂
地下牢で埃っぽくなった服をパンパンと叩いて、カタチだけでも
と居住まいを改める。
すると、小声でひとり言を口にしただけのつもりだったがタンヌ
ダルクちゃんが反応した。
﹁そうですねえ。わたしたちがしっかりしないとですよう﹂
﹁ああわかってる。助祭さま、妻のところに案内してください。お
願いします﹂
助祭さまがうなずいて、俺たちを治療室へと通してくれる。
ドアを抜けて中に入ると例の香薬を焚く匂いが治療室の中を支配
していた。
何と例えるべきだろうか、甘ったるさと青臭さが混じった様な具
合だ。
858
室内を見回すと、カサンドラはいくつかある寝台の一番奥に横に
なっていた。
カサンドラの上には、まるまったバジリスクのあかちゃん。
お前も頑張ってくれたんだよな。
そして俺たちが入って来るのを見るとカサンドラがこちらに視線
を向けてくれる。
﹁シューターさん﹂
﹁ギイィ!﹂
少々かすれた声をしているようにも見えるが、それでも気丈に振
る舞っている様に見える。
かすれた声なのは、香薬の焚く煙のせいだろうか。
顔色は穏やかとまでは言えないが、俺を見て拒否反応や緊張した
表情というのは見られない。
よかった。
いや、よくないがよかった。言葉に出来ないが、カサンドラの眼
は死んでいないように感じる。
途端に、いろいろと頭の中で渦巻いていた感情を放り出して、俺
は妻の元に走り出していた。
側まで行き、しゃがみ込む。
カサンドラはゆっくりと寝台から上体を起こそうとしたので、そ
れをタンヌダルクちゃんが手伝った。
﹁⋮⋮カサンドラ﹂
﹁シューターさん﹂
カサンドラの手を触れてもいいのだろうか。
可能なら手を握ってやりたい。だからどうだというのはわからな
いのだが、俺はそうしてやりたかった。
859
けれど、カサンドラがどういう反応をするかわからないのでほん
の少しの間俺の中で迷いが生じる。
すると俺を見上げて、右手を差し出そうとした。
握ってもいいんだ。そう思った瞬間にその手を両手で包んだ。
優しくそう出来たかはわからないが、とにかく怖がらせない様に。
﹁来るのが遅くなってしまってすまない﹂
﹁本当ですよ旦那さま。ひとりで寝台で寝ていて、わたしはとても
退屈でした﹂
カサンドラが力なくそう笑った。
違う、そうじゃない。そう言う事ではなく⋮⋮
上手く言葉にして説明する自信がないので、俺は必至で脳みそを
動かす。
こういう時に言葉をひとつ間違えれば、カサンドラは傷ついてし
まうはずだ。
だから正しい言葉が解らないのが怖いのだ。
﹁そうじゃなく。そうじゃなくて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あの時、来るのが遅くなってしまったせいで。すまん⋮⋮﹂
﹁キュウウウウ﹂
﹁バジルも、よく頑張って抵抗してくれたな。お前の夜泣きですぐ
に駆けつけられたんだぞ﹂
﹁⋮⋮シューターさん、わたし﹂
そこまで言ったカサンドラの瞳には、涙が溜まっていた。
どんな効果があるお香を使おうと、そんなもので心の傷口が簡単
にふさがるはずがないんだ。
だから、俺はしっかりとカサンドラの側にいてやるしかない。
860
俺はカサンドラの事が好きなんだから当然だ。
﹁わたし、その、あの⋮⋮﹂
﹁いやいい。何も言わなくていいからね。俺はずっと側にいるから﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂
たまらず抱きしめた。
ずっと側にいるなんて言葉はおためごかしだ。
側にいなかったからこういう事になったんだってのはわかってる。
言葉が無くてとにかく抱きしめる事しかできなかった俺だが、そ
の腕の中でカサンドラが涙をこぼしながら嗚咽しているのが伝わっ
て来た。
﹁義姉さん。旦那さま⋮⋮﹂
見ていたタンヌダルクまで俺たちのところに来て抱きしめてくれ
る。
俺たちは結局、情けない事に大人三人してしばらくの間、泣き通
していた。
◆
俺に警戒心がもっとあれば、こんな事にはならなかったのではな
いだろうか。
犯人をのさばらせていたから、こんな事になってしまったんじゃ
ないだろうか。
おっさんがまだ生きているという話は信じられない気分だ。
殺してやりたかった。この手で。
ひとを殺してやりたいなんて感情は生まれて初めて俺の中で芽生
えた。
861
喉笛を貫手で突き潰したつもりだったが、やはり日常的な稽古を
サボっていてはいざという時に使えないぜ。
いやいや、そうじゃない。
あの夜、猟師小屋で見たおっさんの表情は狂気そのものだった。
殴っても蹴っても、けろりとした顔で俺を見上げては気色の悪い
ニタついた顔を見せやがった。
はっきり言って狂人の眼だ。
だがおっさんには前科がある。
俺が留守にしている時にもおっさんはカサンドラに迫った前科が
ある。
あいつはあの時からおかしかったに違いない。
思いつめて今回爆発したんだろうぜ。
けどまてよ?
落ち着け、時系列はどうなっている⋮⋮
おっさんの家を夜回りをした時、確かに人間がいる気配がしたは
ずだな。
するとおっさんは、俺たちが監視しているのをやり過ごしてから、
猟師小屋に向かったのか。
ただの鍛冶職人にそんな気配の察知が出来るものなのか?
そんな馬鹿な。俺だって無理だ。
もし可能な人間がこの村にいるのなら、そのレベルの人間はまず
鱗裂きのニシカ、猟師の親方ッワクワクゴロ、それに獣人のエルパ
コ、あとはカムラさんぐらいじゃないか。
だったら最初から知っていたという事か?
それなら誰かが情報を漏らしたという事にならないか。
ニシカさんやッワクワクゴロさんを疑うのは馬鹿げているし、エ
862
ルパコはずっと俺の側から離れていなかった。
どういう事ですかねいったい⋮⋮
﹁義姉さん、少しお疲れになったのかお休みになったみたいですよ
う﹂
﹁お、おう。そうか﹂
思考の深層を泳いでいた俺に、タンヌダルクが声をかけてくれた。
治療室の簡易椅子に腰かけてカサンドラの顔を見ているうちに、
彼女はいつのまにか眠ってしまったらしい。
﹁とにかくカサンドラの命が無事でよかった。それがまず何より大
事だ﹂
﹁はい、旦那さま。命あってのものだねですからねえ﹂
おっさんは妻を襲った。これは間違いない事実だ。
そしておっさんの家には、誰かがいた。これもしっかり記憶に残
っている。
﹁なあ、タンヌダルク﹂
﹁え、ちょ。急に改まってどうしたんですか?﹂
﹁おっさんの家は、誰かすでに家探しをやったのかな?﹂
気がかりな点をタンヌダルクに聞いた。
俺が石牢に幽閉されている間に何か動きがあったかもしれない。
﹁ええとそれなら黄色い蛮族のひとがゴブリンを引き連れていきま
したよ﹂
﹁ニシカさんが?﹂
﹁そう、ニシカさんです﹂
863
おっさんの家から何か出てくるかもしれない。
これで少しでも事件の真相がわかればいいが⋮⋮
そう思いながら視線をふと移すと、部屋の壁にもたれかかって腕
を組んでいたエルパコが見えた。
このけもみみは俺が留守中もずっとカサンドラを守ってくれてい
たのだ。
﹁エルパコも、少し休憩するか。今は俺がカサンドラの側にいるか
らな﹂
﹁⋮⋮シューター、さん﹂
﹁ん?﹂
﹁外、誰かが大人数でこっちに向かってるよ﹂
組んでいた腕を解いて、窓の外を指差すエルパコ。
この診療所は教会堂の施設の一部だけあってガラス窓がふんだん
に使われている。
俺は簡易椅子を立ち上がって外をみやると、ぞろぞろと女村長を
先頭にッワクワクゴロさんやニシカさんといった村の幹部格の人間
たちがやってくる姿が見えた。
目指しているのはもちろん俺たちのいる診療所だ。
何か事件に進展があったのかもしれない。
﹁ぼくは、このまま義姉さんの側に、いるから﹂
﹁お、おう。すまんな。ちょっと行ってくる。タンヌダルクちゃん
もここにいなさい﹂
﹁はい旦那さまっ﹂
◆
864
治療室を出ると、助祭さまが女村長たちと何やら話し込んでいた。
﹁これはこれは村長さま、みなさま﹂
﹁司祭はおるかの。わらわが面会に来たと伝えてもらえるか?﹂
﹁はいっただいま。司祭さまは今礼拝所でお勤め中です。執務室の
方でお待ちいただけますでしょうか﹂
﹁うむ。それでは待たせてもらおう﹂
助祭さまは女村長たちに頭を下げた後、俺たちにも気が付いて一
礼すると講堂の中を駆けて行った。
しばらくそれを見送った後に俺は振り返って女村長を見やる。
﹁村長さま、おりいってお願いがあるのですが﹂
﹁シューターどうした﹂
﹁俺の勝手なお願いだという事はわかっているのですが、少しの間
だけでもカサンドラの側にいてやりたいと思っているのですが﹂
建設現場の殺人と放火の犯人を追いかけている時に、こんな事を
切り出すのは申し訳ない気持ちはある。
俺は現場の警備責任者だったし、今は引き続き犯人捜しの責任者
である騎士とやらだ。
﹁ふむ。カサンドラも辛いだろうから、そうしてやるのがよい﹂
﹁え、よろしいのですかね﹂
微笑んだ女村長が俺を見上げてそう言った。
﹁わらわも女だぞ。同じ目に合えば恐ろしいし、夫に側にいてもら
いたいと思うのは当然だ﹂
﹁あ、ありがとうございます。ありがとうございます﹂
865
﹁そのカサンドラの様子はどうだ?﹂
﹁妻は少し落ち着いた様でいまは寝ていますね。何と言ったかな、
薬のお香の安静効果でも少しは効いたんでしょう﹂
香薬の事を思い出して俺が口にする。
このファンタジー世界のアロマというか、ここは異世界なのだか
ら実際に魔法的効力のあるお香なんだろうさ。
﹁その様なものがあるのか。聖堂会の連中は色々と面白いものを持
っているの﹂
意味深な笑みを浮かべた女村長が俺を見上げた。
そしてアゴでニシカさんに指示すると、同じ様に眼帯女まで不敵
な笑みを浮かべているじゃねえか。
何かの包みを突き出してニシカさんが口を開く。
﹁おいシューター。おっさんの家から面白いものが見つかったぜ﹂
﹁何ですかこれは﹂
﹁いいから見てみろよ。きっと色々と納得するものが出てくるだろ
うぜ﹂
ニシカさんの差し出した包みを開くと、中から出てきたのは見覚
えのあるものだった。
﹁雁木マリの持っていた、カプセルポーションの注入器具?﹂
﹁それがおっさんの部屋からみつかった﹂
﹁と、いう事は、おっさんは犯行当日にこれをキめていたのか⋮⋮﹂
顔面を殴られても崩れないニタついた笑い顔。
蹴られてもまるで痛みを感じていない様なあの態度。
866
おっさんは、騎士修道会が使っているという、カプセルポーショ
ンを使っていたのか⋮⋮
﹁あともうひとつ。隣町に嫁いでいたはずのオッサンドラの姉が、
奴の家から見つかった﹂
﹁?﹂
どういう、事だ。
新たな情報に俺の頭が理解に追いつかず、混乱していた。
867
76 奴はカムラ 10︵前書き︶
76話執筆にあたり、描写内容の薄かった75話についても大幅に
加筆修正しました。
もし76話掲載前に既読の方がおられましたら、そちらもあわせて
お読みいただければ幸甚です。
868
76 奴はカムラ 10
俺は今、司祭さまと教会堂の執務室で向き合っている。
この木組みのソファに腰を落ち着けたのは何日ぶりだっただろう
か。
あの時にいた家族の代わりに、隣に座っているのは女村長とニシ
カさん、そしてッワクワクゴロさんである。
口上を切り出したのは、女村長であった。
﹁ニシカとッワクワクゴロの兄弟がオッサンドラの家を家宅捜索し
たところ、この様なものが見つかった。これが何なのかお前に見覚
えはあるかの﹂
﹁どれでしょう、まずは拝見﹂
例の包みに蔽われたそれを女村長が応接テーブルに置く。
司祭さまは興味深そうに包みの中身を確認したのだが、
﹁こ、これは。これをどこで?﹂
﹁オッサンドラの寝台の下に隠してあった。少し前に街に出かけて
いたニシカが言うには、これはポーションの注入器具だそうだな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁聞けばこれは、騎士修道会の修道騎士たちが使っているものに、
よく似ているらしい﹂
絶句した司祭さまが、困惑して俺たちの顔を見比べている。
﹁ニシカ、間違いないな?﹂
﹁ああ間違いないぜ。騎士修道会のガンギマリーという聖女さまが、
869
これを使っていたのを見た事があるから。なあシューター?﹂
﹁確かに見覚えがある﹂
驚いた顔の司祭さまがポーションの注入器具を取り上げて、ひっ
くり返しながら確認している。
雁木マリが使っていた注入器具と同じものだが、ただし彼女が使
っていたものよりも、少し大きい。
﹁これは確かに注入器具です。ポーションや常装薬を体内に注入す
る際に使う医療器具ですね⋮⋮﹂
﹁それと同じものがここの診療所にもあるのか?﹂
﹁あるにはあります。ありますが、これを使うのは聖なる癒しの魔
法が使えない司祭や助祭だけです。誰でも使用できるという点でこ
れは使いでの良い医療器具ですが⋮⋮﹂
﹁それで?﹂
﹁戦場や冒険に出ていて、手間のかかる癒しの魔法を使っている場
合じゃない修道騎士ならいざしらず、医療に従事するわれわれが装
薬にこれを使うというのは一種の腕の無さを露呈するものですから、
これは使いません﹂
かなり焦りの表情を浮かべている司祭さまである。
この焦り顔がもし演技であるなら、この壮年の男は相当の役者と
いう事になる。
﹁ポーションの効果について詳しく教えてくれ。この注入器具を使
って、オッサンドラが発狂していたという事はあり得るか﹂
﹁発狂、ですか﹂
注入器具にはポーションの入ったカプセルガラスが装填されたま
まの状態だった。
870
液体の残留物を調べればそのポーションの効能がわかるかもしれ
ない、という事を女村長は知りたいのだろう。
﹁⋮⋮これは、興奮促進に使われるポーションですね﹂
﹁効果は何だ?﹂
﹁ことば通り、これをキめる事で思考が興奮状態に陥ります。少な
くとも普段では出来ない様な事でも、今の自分には出来ると決心が
硬くなるというか、覚悟が強くなるというか﹂
﹁つまりこのポーションを使用したオッサンドラが、凶行に及んだ
と。そういう事になるのだな?﹂
﹁はあ、強姦に及んだという理由にはなるかと⋮⋮いや、待ってく
ださい﹂
何だ。
おっさんがポーション中毒でおかしくなって凶行したのではない
のか。
﹁これは興奮促進のカプセルに別の薬効を加えているものの様です
ね⋮⋮﹂
司祭が包みを広げた場所にカプセルポーションを置いて、改めて
包みなおす。
そしてバチあたりな事に聖典か何かの書物の角で、包んだカプセ
ルポーションを潰した。
広げ直す。
﹁これは、聖堂会では禁制の複合ポーションです﹂
﹁司祭さま、何が違うのですかね。俺が知っている教会の修道騎士
さまは、ポーションをいくつか同時にキめている姿を見ていたんで
すがね﹂
871
﹁違うのです﹂
そこまで静観していた俺も気になる事を口にすると、冷や汗を浮
かべた司祭さまが説明しはじめた。
﹁ひとつの効能を持つポーションを、ひとつずつ体内に摂取させる
のは問題ないのです。ところが、ひとつのカプセルの中に複数の薬
効を混ぜ合わせてしまうと、ポーションは効果が強くなる代わりに
副作用が強く出るのです⋮⋮﹂
だから聖堂会ではこの種のポーションを作成する事は禁止されて
いるはずなのに。
絞り出すようにそう言った司祭さまは、冷や汗を法衣の袖でぬぐ
った。
あわてふためいているその司祭さまに、女村長が言葉をさらにぶ
つける。
﹁それともうひとつ﹂
﹁ま、まだ何かあるのでしょうか﹂
﹁オッサンドラの家に、隣の村に嫁いでいたはずの奴の姉がどうい
うわけか舞い戻っていた。聞けば信仰心のあつい女であったそうだ
の﹂
﹁犯人の姉、ですか?﹂
﹁そうだ、名前はマイサンドラ。聞いた事は無いか? 三年前まで
はこの村の人間だったので覚えているのではないか﹂
マイサンドラという名前を聞いて首をひねって必死で考えていた
司祭さまは、何か思い当たることがあったのだろう。
ああッと思考の片隅から記憶を引き出して俺たちに向き直った。
872
﹁確かに、そういう方がいた様な記憶はあります。わたしはあまり
話したことは無いのですが、助祭ならあるいは⋮⋮﹂
﹁なるほどな﹂
言葉を一区切りした女村長が、居住まいを改めた。
そしてニシカさんの顔を見た後に、ッワクワクゴロさんの顔を確
認し、最後に俺を見た。
いや、女村長は教会堂の関係者を疑っているのだな。
してみると、この目配せはいざという時にすぐに動けるようにと
いう指示なのだろう。
﹁さて司祭よ、貴様は現状から何か思うところは無いだろうかの﹂
﹁⋮⋮思うところ、と申されましても﹂
﹁わらわとしてはだ。これら一連の事件が、教会堂関係者の協力に
よる犯行という風に見ているわけだがの。貴様にはその様には思え
ないかの?﹂
しごくまじめな表情を浮かべた女村長が、司祭さまを見やりなが
ら睨み付けていた。
司祭さまは勢い立ち上がった。
﹁ちょ、ま。待ってください村長さま。今回のオッサンドラによる
強姦事件が、われわれ聖堂会の協力で発生したとおっしゃるのです
か?﹂
﹁少なくともポーションとやらの注入器具は、騎士修道会で使われ
ているものであろう。そしてマイサンドラという教会堂で熱心に祈
りを捧げていた出戻り女が、何故かこの村に舞い戻っていたのだ。
この事件のタイミングでこういう事があれば、繋がりを疑うのは当
然であろう? ん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
873
﹁聖堂会としては、それをどう言い逃れするのだ!﹂
女村長の恫喝によって、司祭さまは委縮してしまった。
四人並んで座ったソファの両サイドが俺とニシカさんだ。
いちおうはかつて軍事訓練を受けていた経験のある司祭さまが抵
抗でもしようものなら、即座に剣を抜ける様にだけは気を付けてい
る。
だが、その必要は無かったらしい。
力なくうなだれた司祭さまは、ふたたびソファに腰を落とす。
﹁わ、わたしもお疑いなのですか?﹂
﹁そうは言っていないが、可能性はあるな﹂
﹁わたしはそんな大それたことの出来る人間ではありません! 殺
人と放火事件の捜査にも、わたしは騎士シューターさまに協力して
きました。騎士シューターさま、わたしをお助け下さいッ﹂
本来救いの道を示す司祭さまが、救いを求める顔で俺を見やった
のだ。
そんな眼で見られても、俺は妻をあんな目にあわせた人間を捕ま
えたいだけなんでね。
困るんだよ⋮⋮
﹁俺としてはですね。司祭さまが無実だとおっしゃるのなら、堂々
としていればいいんですよ。更なる捜査協力をお願いいたしますね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁何もお前をひとり疑っている訳ではない。お前にアリバイがある
というのならば、わらわたちが疑うべきはこの村のもうひとりの聖
堂会関係者の助祭という事になるかの﹂
﹁ま、まさか彼女が﹂
874
言葉の続きを受け取った女村長の言葉に、司祭さまはハっとした。
そこで俺はこれまでに気になっていた点を、頭で整理しながらひ
とつずつ質問する。
﹁あの助祭さまは、街でポーションだか魔法の薬だかを学んでいた
そうですねえ﹂
﹁確かに、彼女の聖なる癒しの魔法は、わたしよりも優れた力量で
す。ポーションや薬学に関係しても、ブルカの修道会で熱心に研究
していたはずです﹂
﹁それから、騎士修道会の関係者ってのは若い時にみんな軍事訓練
を受けるんでしょう? 建設現場の殺人事件、あれは素人の犯行じ
ゃなかったんですよね。剣の心得があった人間が犯人だ﹂
それとあんたが言った事だと思うがね、
﹁助祭さまというのも当然軍事訓練を受けていて、若いぶん司祭さ
まよりもよほど腕がなまっていないそうですねえ? とすれば、ア
リバイの無い助祭さまが教会堂の関係者で疑われるのは当然です﹂
﹁そ、それはそうですが。まさかそんな我が修道会から⋮⋮﹂
﹁助祭さまは、いまどちらにおいでなのでしょうか?﹂
俺が畳みかけて質問をする。
﹁⋮⋮彼女はこの時間なら、講堂の中を掃き清めているはずだと思
います﹂
司祭さまがその言葉を口にした瞬間、女村長は目くばせをしてッ
ワクワクゴロさんとニシカさんを動かした。
すぐに立ち上がったふたりはそれぞれの護身武器を改めて、そし
て講堂に向かった。
875
女村長もドレスの袖をつまんで続く。
俺も急いで立ち上がって講堂に飛びだしたそのタイミングで、ニ
シカさんが叫んだ。
﹁おい、司祭さんよ。助祭はどこにもいねえじゃねえか?!﹂
﹁そんなはずは? はなれの自分の部屋にいるかもしれませんが﹂
あわてる司祭さまも考えられる別の場所を口にした。
﹁よし、ッワクワクゴロ、オレは裏からまわるから、表にいるあん
たの弟たちと離れに繋がる通路から行ってくれ﹂
﹁わかった! おい、馬鹿弟ども。こっちに来いッ﹂
﹁逃げたとなればますます怪しいの。捕まえて必ず吐かせる必要が
ある。司祭どのもシューターと一緒についてまいれ﹂
﹁わ、わかりました﹂
これはもしかして、もう俺たちが司祭さまと面会をしている間に
感づいて逃げたんじゃねえか?
ぶつぶつと言いながらッワクワクゴロさんを追いかける女村長の
跡を追いかけながら、俺は思案した。
﹁騎士さま。騎士修道会の身内からこんな人間が出てしまい⋮⋮﹂
﹁まだ真犯人だか協力者だか、決まったわけじゃないんだから頭を
上げてくださいよ﹂
しおれてしまった壮年の司祭が道中立ち止まって深々と頭を下げ
る姿を俺は見やる。
﹁しかし、あなたの奥様があのような事になって﹂
876
まあ裏でこそこそ動き回っている犯人を、許すつもりなんて俺は
これっぽっちもない。
女村長からも殺人と放火の犯人は殺せと厳命されている。
ひとを殺すなんて事は、少し前までの俺なら出来るはずもないと
思っていた事だが、今ならその怒りにかけて簡単にできてしまうの
ではないかと思えるぐらいだ。
事実、俺はおっさんに対して明らかな殺意を持って貫手を放った。
結果的におっさんは死ななかったが、少なくともあの時俺の殺意
は本物だった。
﹁おっさんにそのご禁制のポーションを渡した犯人の事は許すつも
りはありませんよ﹂
﹁もちろん女神様がお許しになる事ではありません﹂
﹁けどま、また決めつけで動いて肝心なところを見落していたら犯
人の思うツボだ﹂
そもそもポーションをおっさんに渡したのが助祭さまだとして、
他にも共犯者が複数いるなんて事も考えられるからな。
決めつけと言えば、
﹁そう言えば司祭さま﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
トボトボ歩く壮年の司祭さまの手を俺は見やった。
﹁あんたはその右の掌に、剣か何かを握ったまめのあとがありまし
たねえ﹂
﹁まめ、ですか? ああ確かに﹂
それは剣の稽古をしたりしたときに出来るまめの跡だ。そのまま
877
しばらく続けていれば硬くなって剣ダコになる。
当初そのまめを俺は、久方ぶりに引っ張り出して剣を振るった跡
なんじゃないかと思ったんだがね。
﹁これは金づちを振り回した時に出来たまめですね﹂
﹁金づち?﹂
﹁村の大工がみんな湖畔の建設現場や村の中で新しい住居を作るの
に駆り出されていたものだから、自分で屋根の修繕をしていたので
すよ。教会堂の﹂
講堂の中を歩きながら天井を見上げて司祭さまが言った。
なんだ剣のまめかと思ったら金づちかよ。
やはり決めつけと思い込みは、真犯人を見失う事になりかねない
な。
教会堂と離れの住居を繋ぐ渡り廊下を歩いていたところ、ニシカ
さんの咆える声が聞こえた。
﹁畜生! こっちにもいやしねえぜ、この辺りに気配も感じられな
いから近くに隠れているという感じではない﹂
﹁だが屋内に紙を見つけたぞ﹂
﹁紙? オレは字が読めない。誰か読んでくれ!﹂
渡り廊下を抜けるとニシカさん、ッワクワクゴロさんとその兄弟、
そこに到着した女村長が顔を寄せ合っていた。
紙というのは、どうやら手紙らしい。
﹁どれ、わらわに見せろ。これは書き置きだな﹂
﹁お、おう。こんな事ならオレも字の練習をした方がいいな﹂
878
俺たちは急ぎ足で女村長のところに走った。
置手紙には次の様によくわからない文字で書かれていた。
﹁ふむ。﹃しばらく姿を隠します、わたしは女神様のご意思に従っ
たまでで、無実です﹄逃げたな⋮⋮﹂
879
77 奴はカムラ 11︵前書き︶
おかげさまで本日未明、本作﹁異世界に転生したら村八分にされた﹂
が100万PVを達成する事が出来ました!
これもひとえに全裸読者のみなさまのおかげです。ありがとうござ
います、ありがとうございます!!
880
77 奴はカムラ 11
もぬけの殻となった助祭さまの部屋を、俺たちは家宅捜索した。
してみると、彼女のクロゼットの中から、よそ行きの衣類一式と
旅荷がごっそりと無くなっているではないか。
﹃しばらく姿を隠します、わたしは女神様のご意思に従ったまでで、
無実です﹄
そう書かれた置手紙の通り、村から失踪したらしい。
改めて筆跡鑑定もした。
司祭さまにお願いして彼女が過去に書いた書類などを引っ張り出
してきて、俺たちも素人ながら見比べたところこれはほぼ疑いよう
も無く、彼女の文字だったのである。
﹁間違いなく助祭の文字ですね⋮⋮﹂
﹁なるほど、やはり助祭は犯人の一味あるいは共犯者という事で確
定だの﹂
司祭さまと女村長が並べた文字を見比べてそう結論を出した。
完全に気落ちしてしまった司祭さまは﹁女神様に仕える身分であ
りながら、何と大それたことを仕出かしたのだ﹂とぶつぶつ呟いて
いた。
﹁しかし逃げたとなると、どこに逃げたのだろうかの。ッワクワク
ゴロ、何かわかるか?﹂
﹁猟犬を使って追いかけてみますかい?﹂
881
﹁そういう方法もあるのか。無駄にならないのならやってみる手も
あるな﹂
﹁まあ何にしても俺の弟たちが今、村の中で聞き込みをやってます。
旅装束の助祭さまが逃亡を図ったのを見かけた人間もいるかもしれ
ねえ﹂
主不在の居室で、女村長とッワクワクゴロさんがそんな話をして
いるのを俺は耳にした。
クロゼットの中身だが、ラックにかけられている服がごっそり一
部無くなっている様な感じだ。
季節は夏もまっさかりなので、外見さえ気にしなければどんな服
でもいいだろう。
それに旅人が雨避けや寝袋替わりに好んで使うポンチョが無い。
俺は何度もクロゼットの中と部屋のあちこちを見比べながら首を
ひねっていた。
部屋の中はそういう意味では割合と雑然とした印象だった。
﹁司祭さま。彼女は普段から片づけ上手というか、綺麗好きだった
という事はありますかねえ?﹂
﹁綺麗好きですか? 確かに助祭はいつも仕事机や部屋を整理整頓
していた様な気がしましたが、それが何か?﹂
﹁いや、ちょっとですね﹂
クロゼットから適当に抜き出した荷物を寝台の上に広げた。
その後に必要な旅荷をズタ袋の中にでも押し込んで、逃走したと
いう流れだろう。
﹁彼女、部屋を見た限りだとだいぶ焦って逃げ出したみたいですね。
普段から整理整頓を心がけているというひとが、こんなふうに内履
きを脱ぎ散らすわけがない﹂
882
俺がスリッパのようなものを片方ひょいと持ち上げながら言った。
寝台の下には、本来ならば丁寧に並べられていたであろう靴の類
も、あわてた事がわかる様に乱れている。
旅人に愛用されるブーツの類はみんな綺麗に残っているので、編
上げ紐の無い靴を履いたのだろうか。
﹁うむ。すると何か証拠になる様な書類なども、引き続き家探しを
しているうちに出てくるやもしれぬな﹂
﹁ついでに司祭さまに、診療所の医療道具も確認してもらいましょ
う。カプセルポーションの注入器具の出どころがこの教会堂なら、
ひとつ無くなっているはずですからね﹂
妙に感心した顔の女村長にうなづいておいて、俺は司祭さまを見
やった。
もはや覚悟を決めたという顔をした司祭さまも黙って俺に従い、
カサンドラが眠っている診療所にあらためて向かう事になる。
調べてみると、
﹁やはり、診療所の注入器具を持ち出していたらしいです⋮⋮﹂
あるはずの場所に注入器具が無かったのである。
器具を普段納めておく箱だけが残っていて、中身はからっぽであ
る。
◆
このファンタジー世界において、科学捜査や鑑識作業なんてもの
は存在していない。
そうなれば犯人特定は本人の証言と状況証拠だけで行われる事に
883
なるのだ。
元いた世界の様に裁判があり科学検証やあらゆる証言と動機を検
証していく犯罪捜査の様にはいくわけにはいかない。
だから今の状況を整理したところで、村の幹部たちは助祭さまこ
そがおっさんにポーションを譲渡した人間だと確信を持っただろう。
そう思っていた人間のひとり、司祭さまはげっそりした顔で助祭
さまの動機が解らずに思案しているみたいだった。
﹁しかし後は彼女がどうしてこんな事に及んだかですな。わ、わた
しにはそのあたりがわかりません﹂
﹁女村長さまの領地開拓を快く思わないのでそうした、とか。そう
いう風には考えられませんかねえ?﹂
﹁まさか、彼女は騎士修道会の序列でも聖堂会の階位でも、ずっと
下の身分ですよ。そういう事を考える立場にあるとは、とても思い
ません﹂
女村長と幹部たちが村で助祭さまの目撃情報を聞きつけて飛び出
して行った後。
残った俺は司祭さまと診療所の診察室で向き合っていた。
司祭さまは女村長や騎士修道会の連中たち権力者のパワーゲーム
が背景にあるとは、考えていない様だ。
﹁つまり彼女が騎士修道会だか聖堂会だかの内密な指示を受けて司
祭さま、あなたも知らないうちに秘密の工作をしていたなんて事は
想像できないという事ですか?﹂
﹁ああ騎士修道会については間違いなくありえないと思います⋮⋮﹂
﹁へえ、その根拠というのは?﹂
﹁単純にこの辺境一帯は領主たちの仲が悪いことが有名ですから、
われわれ騎士修道会と、その下で運営されているブルカ聖堂会は中
立の立場を旨としています﹂
884
それなのに彼女は、村長さまの領地経営に介入してしまった事に
なります。
ますますしおれた司祭さまはそんな風に言って丸帽子を取ると、
白髪交じりの禿頭をつるりとなでまわした。
﹁なるほど。なるほどなあ﹂
そうすると助祭さまは個人的に、何かの理由でおっさんを支援す
る行動に出たことになる。
場合によっては建設現場の殺人や、放火についても。
そこで俺はふと思い出したことがあった。
﹁司祭さまは、騎士修道会の雁木マリという修道騎士をご存知です
よねえ﹂
﹁今日も村長さまのお話に出て来た、聖堂会に処女降誕したという
聖少女ガンギマリーさまでしょうか?﹂
﹁そうです、そいつです﹂
﹁ええもちろん。ご拝顔した事はありませんが、彼女は女神様の使
徒として降誕したともっぱらの噂がある偉大なお方ですから騎士修
道会の人間、聖堂会の人間ならば知らないはずがありませんよ﹂
﹁あいつが女神様の使徒? 埼玉生まれの女子高生がやけにデカい
扱いだ﹂
全裸メガネでブルカの聖堂に爆誕した雁木マリを連想して俺は苦
笑した。
﹁騎士さまは、彼女と面識があるのですか?﹂
﹁ああ、街に出かけていた時に知己を得ましてね﹂
﹁それはすばらしい﹂
885
﹁雁木マリは、たぶんもうすぐここに来ますよ。もともと俺が開拓
を手伝ってくれとあいつの話していたのでね﹂
﹁なんと!﹂
﹁それよりも彼女、魔法を器用に使っていたと思うのですよ﹂
ダンジョンに潜った時は発光の魔法や、ファイアボールを使って
いる姿を何度か見た。
血の滲むような訓練も何度もしていたという話も、苦々しげに俺
に語っていたものである。
﹁ええ。簡単な魔法であれば、修道騎士となったものは攻撃魔法か
ら癒しの魔法まで、一連の教育を受けるはずです﹂
﹁ファイアボールもですか?﹂
﹁火の魔法もですか。もちろん、使える人間は使えると思います⋮
⋮﹂
﹁じゃあ助祭さまはたぶん、建設現場で殺人を犯して、付け火をし
て回る事も可能という事だな﹂
﹁⋮⋮確かに﹂
﹁おっさんとふたりで協力して、これをやった可能性はあるな﹂
俺は頭の中を整理した。
硫黄の粉末を火の回りをよくするためにおっさんが散布して、そ
れを火の魔法で燃やし尽くす。
破壊されたいくつかの建物は、明らかに複数人でやった様にも見
えたが、これもファイアボールかなにかをぶち込んだのなら難しく
はないだろう。
ご丁寧に潰されていた井戸は、たぶんこれが原因だ。
﹁それなら、殺されたふたりの見張りゴブリンも、おっさんと助祭
さまのふたりなら、これは可能という事になる﹂
886
﹁しかし殺害の手口は、剣の腕が確かな人間がどちらもやったんで
したね﹂
﹁そうですね。ひとりは袈裟懸けにバッサリと、これは助祭さまが
修道騎士として腕が良かったのなら、わりと簡単でしょう﹂
﹁認めたくはないですが、彼女は剣術の筋もかなりよかった﹂
﹁もうひとりの殺害は腹にひと刺しと、頸根の血脈を切断だ。これ
は例えばおっさんが腹にひと刺しし、助祭さまが首の血管を斬った
というのなら、まあできるんじゃないか﹂
おっさんも鍛冶職人として自分たちが鍛えた剣の試し切りをして
いたはずだ。
しかしあいつの雰囲気から闘争心という様なオーラが漂っていた
ところを、俺は感じたことが無い。
すっとその事が俺の中で疑問に残っていたのだが、素人でも出来
る突きの一撃をおっさんがやったというのなら理解はできるのだ。
捜剣の技術も必要だが、何より頸根を断ち切るという大胆さとい
うか容赦のない一撃は、ひとを殺したことのある人間にしか出来な
い様な気がするのだ。
﹁ちなみに司祭さまはひとを殺したことがありますか?﹂
﹁わたしですか?!﹂
﹁もちろん公務での事です。あんたもむかし騎士修道会で修道騎士
だった事があるんでしょ?﹂
﹁ありますが、その頃ならば強盗を⋮⋮﹂
雁木マリは以前言っていたはずだ。
修道騎士ともなればモンスターに限らず、盗賊の類を討伐するた
めに駆り出される事もあると。
騎士修道会出身というのならば司祭さまでもそうなのだから、助
祭さまがひとを殺す経験があっても多分間違いない。
887
﹁助祭さまも当然、ありますよね﹂
﹁詳しい経歴は知らないですが、あると思います。騎士修道会とは
そういう組織ですから﹂
後はおっさん、助祭さまをどういう風に結びつけたか、だな。
おっさんの姉さんのなんとかサンドラの事についても調べれば、
これで何か見えそうな気がする。
うん、後少しだ。
俺が伸びをして立ち上がったところで、治療室に続くドアがちょ
うど開いた。
﹁シューターさんお話が⋮⋮﹂
妻カサンドラが、俺たちの方を見て立っていたのだった。
888
78 奴はカムラ 12
治療室の寝台で寝ているはずのカサンドラが、隣の診察室で話し
込んでいた俺と司祭さまのもとに顔を出した。
もしかすると俺たちの声が大きくて睡眠妨害をしてしまったのか
もしれない。
﹁これはすまんことを。起こしてしまったか?﹂
﹁いえ、大丈夫です。横になっていたら司祭さまとシューターさん
のお話の内容が聞こえて来たから⋮⋮﹂
扉の前に立っていたカサンドラを支える様に、あわててタンヌダ
ルクちゃんが側に駆け寄って来た。
すぐにぽかんとした顔のエルパコまでが顔を出す。
よくよく考えてみると、うちの一家のみんながこの診療所に全員
集合していたのである。
﹁あの、それで。シューターさんにお話が⋮⋮﹂
改めて寝ぐせの付いたうかない顔をしたカサンドラがそう言った。
俺は急いで立ち上がると、こちらに近づいて来るカサンドラを自
分が座っていたイスに座らせる。
﹁どうしたのかな、お話しというのは﹂
﹁実は、悪い事とは思っていたのですが、おふたりがお話しされて
いる内容が隣の部屋まで聞こえていたんです。それで気になった事
があったので、お話しておこうと思いまして⋮⋮﹂
889
﹁ほほう? ゆっくりでいいから話してごらん﹂
﹁はいシューターさん。ひとつは、マイサンドラ姉さんの事です﹂
マイサンドラと言えば、おっさんの姉でありカサンドラから見れ
ば従姉にあたる人間だ。
カサンドラを暴行したあの夜が明けておっさんの自宅を家宅捜索
したところ、隣の村に嫁いでいたはずの人物マイサンドラが、どう
いうわけか出戻りをしていたという事だったはずだ。
﹁マイサンドラ姉さんは、とても押し出しの強いひとでした。おじ
さんとおばさんが早くに流行病で亡くなってしまったので、マイサ
ンドラ姉さんがお父さんの見習いをしながら女手ひとつでオッサン
ドラ兄さんを育てていたんですね﹂
﹁お義父さんの見習いという事は、猟師だったのかい?﹂
﹁はいそうです。もともとわたしたちの家族はみんな猟師だったの
で﹂
なるほどなあ。
俺は話の先を促すために、言葉を挟まずにうなずくだけに留めて
おいた。
﹁けれど、やはり猟師というのはあまり安定する職業じゃないです
し、オッサンドラ兄さんが年頃になった時は手に職を持つようにと、
マイサンドラ姉さんが兄さんを鍛冶職人の見習いになる様にと決め
たんです﹂
﹁決めた、という事は強制的にかい?﹂
﹁はい。何でも家の事はご自分ひとりで決める性格でしたので、オ
ッサンドラ兄さんのお仕事についても、村長さまと掛け合ったり、
鍛冶職人の親方にお願いしたり、兄さんにはお話しせずに決定した
そうですよ﹂
890
だからオッサンドラ兄さんはとても嫌そうな顔をしていましたけ
れど﹁姉さんには逆らえないからな﹂と悲しい表情で言っていたの
を覚えています。
カサンドラは過去の事を思い出しながら、そんな風に言葉を続け
た。
なるほど、何となくおっさんがどうしてカサンドラに気があった
のか、だんだんわかって気がする。
﹁きっと義姉さんがお優しいひとだから、そのマイサンドラさんと
反対の性格の義姉さんがいいと思うようになったんですね、強姦ド
ラさんは。けしからん蛮族ですね!﹂
タンヌダルクちゃんは大きな胸を揺らして腰に手を当てると、俺
の代わりにプンスカ怒った。
たぶん俺もそう思う。
おっさんは自分の姉より大人しい性格で押しに弱いカサンドラな
ら、自分に同情してくれるとでも思っていたのだろう。
﹁そ、そのあたりの事はわたしにもわかりません。ただ、マイサン
ドラ姉さんはとても信心深いひとでした。いつも女神様への祈りを
欠かさず、猟に出る前には教会堂の前まで足を運んでいました﹂
そういう話は女村長の説明の中でも出てきたはずだった。
隣で静かに話を聞いていた司祭さまは、申し訳なさそうに俺を見
る。
たぶん彼の記憶の中ではあまりマイサンドラの事は記憶に残って
なかったのかもしれない。教会堂の前までという事は、礼拝所の中
まで何かの理由で入らなかったという事だろう。
891
﹁たいへん申し上げにくい話なのですが、猟師の方たちはその、村
では鼻つまみ者というところもありまして。恐らく朝の祈りに訪れ
ている村人とあまり顔を合わせるのがお嫌だったんでしょうな、そ
のマイサンドラさんは﹂
﹁なるほど、そういう風に見えるのか。それでマイサンドラさんは
おっさんに猟師にはなるなと言ったのかも知れないな⋮⋮﹂
思案しながら俺が頭の中を整理していると、カサンドラが﹁はい﹂
と返事をした。
﹁だから、そういう事もあってわたしのお父さんはオッサンドラ兄
さんとわたしが結婚する事は無いと、そう言っていました。猟師の
家系は猟師を受け継ぐものですから﹂
とすれば、マイサンドラさんはおっさんに裏で﹁お前はカサンド
ラと結婚するんだ﹂と日々洗脳でもさせる様に毎日言っていたのか
もしれないな。怖い洗脳。
﹁しかし元猟師のマイサンドラさんは、結局村の外に嫁いでいった
のですねえ﹂
﹁そうなんですダルクちゃん。そのご結婚をお決めになったのも姉
さんご本人でした。狩猟に出た時に立ち寄った村の男性と結婚した
んだとか。わたしはその、マイサンドラ姉さんの押し出しの強さが
苦手でしたので、詳しい話は聞いていませんが⋮⋮﹂
聞いている限りだと、マイサンドラさんはとんだお転婆さんであ
る。
おっさんの事は死んでくれと思うほど許し難い存在だが、ある一
面では同情したくなるのも事実だ。
892
﹁話はわかった。多分そのマイサンドラさんはすでに村長さまによ
って捕縛されているだろうから、詳しい話は後日聞く事が出来るだ
ろうな﹂
﹁はい。とても気性の荒いひとなので、気を付けてください﹂
﹁ありがとう、ありがとう。カサンドラはもうゆっくりしてくれて
いいからね﹂
俺が妻を気遣ってそう口にしたところ、まだ何かあったらしい。
﹁あのっ﹂
﹁どうしたかな?﹂
﹁もうひとつ気になる事があったんです。ねえ、ダルクちゃん?﹂
﹁そうですね旦那さま。旦那さまは村長さまの屋敷で下女をしてい
るメリアという女を知っていますかあ﹂
村長の屋敷のと言えば、いつもの俺にだけは気さくにしてくれな
い若い女のことだろうか。
﹁名前は知らないけど、気立てのよさそうな女の子のことなら知っ
ているよ。カムラさんの顔を見るといつも女の子の表情をしていた
気がする。あとギムルの旦那にも以前はニコニコしていたな﹂
俺がそう言うと、ふたりの妻は激怒しはじめた。
﹁そうです、それですよ! あの女はとんだ女狐ですよう旦那さま。
村の偉い男には色目を使う癖に、何かと言うと地位だ職業だと目先
の詰まらない事にばかりこだわるんです﹂
﹁メリアさんは、シューターさんの事を全裸奴隷と言いました。こ
れは許せません。どうせよそ者を騎士叙勲させるなら、シューター
さんではなくカムラさまの方がいいとも。わたしの事を言うのはし
893
かたがありませんが、優れた人物のシューターさんを悪くいうのは
妻として許せません﹂
﹁そうですよう。許せません!﹂
ふたりがそろって俺に主張する。
嬉しいやら、困惑するやらで俺は困ってしまった。だって俺が全
裸だったのは事実だし、今も奴隷身分なのも事実だし。
でも、対外的には今もってそうみられているという事だな。
﹁そんな事を、いったの? 義姉さんに﹂
﹁そうですエルパコちゃん。あのひとは敵なので義姉さんに近づけ
てはいけませんよ﹂
﹁わかった⋮⋮﹂
妙なところでエルパコまで鋭い顔をしてタンヌダルクちゃんの言
葉に反応している。
司祭さまもビックリしているから、話がこれ以上脱線してはいけ
ないので軌道修正せねば。
﹁わかったありがとう。君たちの気持ちは夫として嬉しいよ。それ
でカムラさんがどうしたって?﹂
﹁カムラさんは優れた冒険者で、村の冒険者ギルドの長だから、カ
ムラさんこそ騎士になるべきだと言ったのですよう、あの女狐が。
そしてその妻はわたしがふさわしいみたいな事を、ぬけぬけと!﹂
興奮気味のタンヌダルクちゃんがフンスと鼻息荒くすると、胸が
ぶるりんと身震いした。
あまりの興奮気味からちょっと話を盛ってるんじゃないの? と
カサンドラを見る。
毅然とした態度のカサンドラはしかし、しずかに首肯した。
894
という事は、タンヌダルクちゃんが言っている事はおおむね事実
という事だろう。
﹁お話には続きがあります。メリアさんもまた信心深い方で、いつ
も朝のお祈りをしていたのを子供の頃に見たことがありました。彼
女はお向かいさんの農家のひとなので﹂
カサンドラがそう言ったところで、司祭さまがてきめんにバツの
悪い顔をしていた。
どうやらそれも事実であるらしい。
﹁め、メリアという村娘の事は存じております。騎士さまのご夫人
が仰る様に信心深いひとでしたが﹂
﹁でしたが?﹂
﹁近頃は村長さまのお屋敷に行儀見習いに出ておられたので、教会
堂まで足を運んだことはありませんでしたよっ。その点だけは信じ
てください騎士さま﹂
司祭さまとしても、この上事件と教会堂が関係づけられるのは、
この場の責任者としては大弱りなのだろう。
しかし事実は事実として見逃すわけにはいかない。
﹁つまり、助祭さまとメリアさん、それにマイサンドラさんの三人
の接点が出て来たじゃないですか。信心深いという一点で。この事
は例えば村長さまとか、ッワクワクゴロさんとかは知っているのか
?﹂
﹁わかりません。知っているとは思うのですが、そこまでお考えが
至っているかどうかは、わたしには⋮⋮﹂
俺の言葉に返事をしている途中で、だんだんとカサンドラの表情
895
がうかないものになってきた。
どうしたのか。心なしか顔色もよろしくない。
﹁か、カサンドラ大丈夫か?!﹂
﹁義姉さん?!﹂
﹁し、司祭さま、つっ妻を助けてくださいよ!﹂
﹁わっわかりました。とにかく寝台に連れていきましょう﹂
俺たちはあわてて崩れ落ちそうになるカサンドラを支えて、急ぎ
治療室の寝台に運び出すのだった。
さっきまで表情はさほど悪くなかったのに、いったいどういう事
だ畜生め。
﹁⋮⋮し、シューターさん﹂
﹁しゃべるんじゃないカサンドラ。今夜はずっと俺も側にいるから
な、とにかく今はじっとしてなさい﹂
﹁はい⋮⋮﹂
とにかく無理をさせてはいけない。
やはりおっさんに酷い目にあわされて心だけでなく体も弱ってい
るのだ。
﹁それとエルパコ﹂
﹁うんっ﹂
﹁今の話、村長さまかッワクワクゴロさんを捕まえて、伝えてくれ
るようにしてくれるか。たぶん犯人特定までもう少しだ。けど俺は
ここを動けない﹂
﹁わかった﹂
俺が短く伝えると、けもみみをぴんと立ち上げたエルパコがこく
896
りとうなずいた。
﹁苦労をかけるな。よろしくたのむ﹂
﹁家族だから、当然だよ⋮⋮﹂
寝台の側を離れていくエルパコを見送って、カサンドラの手を握
った。
﹁タンヌダルク奥様、すいませんが向こうから水を持って来て下さ
い。カサンドラ奥様にはどうやら熱があるようだ﹂
﹁了解ですよ。お水だけでいいですか?﹂
﹁それと手ぬぐいも!﹂
﹁はいっ﹂
﹁あとは、脈も計っておきましょう。ああくそう。こういう時に助
祭がいたらどれだけ助かるか、彼女は聖なる癒しの魔法がとても優
れていたのに⋮⋮﹂
司祭さまはそんな文句をこぼしながら妻のもう片方の手を取って
脈を計りだした。
いやいや。助祭が犯人の一味だと思われるのに、そんなやつにカ
サンドラの事を任せておくなんてどうかしてる。
そもそも、昼間はあんな穢れなきすまし顔をしておいて、おっさ
んに禁制ポーションを渡していた様な奴だぞ⋮⋮
そう思うと何もかもが怪しく感じてくるものである。
部屋の中で治療のために焚かれている香薬も怪しいし、ほんとう
にしっかり妻に施術をしてくれているのかも怪しい。
雁木マリが村に到着したら、しっかりと再診察してもらった方が
いいんじゃないのかね。
ちくしょうめ! どうしてこの世界は優しくないんだ⋮⋮
897
79 奴はカムラ 13
どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
外はだんだんと暗がりになって、サルワタの森の向こう側にそび
える山々に太陽が陰っていった。
俺はというと、鎮静効果だかがあるという香薬の焚かれた皿はさ
っさと運び出して、タンヌダルクと一緒に部屋の空気を換気する。
それからカサンドラの側にずっと付いていてくれたタンヌダルク
は、エルパコが戻ってくると猟師小屋に戻る様に言っておいた。
﹁こういう事態があった後だから、ふたりとも必ず一緒に行動する
様にしなさい﹂
﹁はいわかりました、旦那さま﹂
﹁わかった﹂
カサンドラと一緒に鎮静の香薬を嗅いでいたふたりの事も気にな
ったが、司祭さまの見立てでは問題なさそうである。
﹁眼と舌を見た限りは何かの中毒症状が出ている様には見えません。
助祭が何かの細工をお香の中にした事はありえると思うのですが、
たぶん心が疲れているご夫人にだけ効果が出る様に工夫をしていた
のでしょう﹂
﹁まあとにかく、何か体におかしなことがあったらすぐに診療所に
来なさい﹂
﹁わかりました。旦那さまのお着替えは明日の朝にお持ちしますね﹂
﹁わかった﹂
898
眠りについたままのカサンドラを気にしながらも、タンヌダルク
とエルパコは退出した。
去り際にエルパコに確認したところ、
﹁村長さまが、夜になったら診療所へ相談に来ると言っていたから﹂
﹁わかった。例の三人の娘たちの共通点についてだな﹂
﹁うん⋮⋮﹂
女村長に伝わったのならそれでいい。
ふたりの家族が出ていき、夜のお勤めがあると司祭さまがいなく
なってしまうと、俺はカサンドラの手を取って静かに考え事をした。
犯人捜しはもちろん、しなくてはいけない。
けれども俺は今後の事を色々と考えなくてはいけない時期に来て
いるのではないかと思った。
俺たちの家族が生活するのに、村の中はあまりにも窮屈だ。
やれよそ者、鼻つまみ者の猟師、それに獣人だミノだとうるさい
わけだ。
これが俺ひとり村で生活をするというのならばいい。
俺だけなら誰に何と言われようと、適当にペコペコしておけばそ
の場はしのげるしな。
だが家族がいるのならそうはいかない。
俺の見えないところで何をされているのかわかったものじゃない
というのは、これほど恐ろしい事は無い。
むかし俺の妹のひとりが学校で軽いいじめにまきこまれそうにな
った時も、これはひどく腹を立てたものである。
原因が俺だった事もなおさらだ。
俺は子供の頃から空手をやっていたから、喧嘩には自信があった
899
んだな。
だから俺に何かいちゃもんをつけてくる人間は早々いなかったけ
れど、その妹ならば相手にしやすい。
仕返しに俺が飛び出して行ったら、両親にこっぴどく怒られるハ
メになったのもいい思い出だね。
小学生中学年頃の話である。
しかしこれを村の中でやるわけにはいかない。
そんな事をすれば村に俺の居場所は無くなってしまうだろうしな。
女村長を裏切るつもりはないけれど、ひとつの方法として村を出
る事も考えないといけないのかもしれない。
しかし、そうすると生活はどうなる。
俺の嫁はカサンドラだけではなく、タンヌダルクだっている。
エルパコは近頃、俺たちの事を家族だと言ってくれるけれど、ま
さか街に出て生活をするのに一緒に稼いでくれと言えるものではな
い。
そもそもタンヌダルクの兄タンクロードバンダムが、ここを出て
いくなんて事は許さないからな。
ドロシア・ミノ同盟が決裂である。
してみると、悲しいけれどこの村で居場所づくりをしていかない
といけないのだ。
そのためには、徹底的に俺と俺の家族にとって不利になる事は排
除していかなければいけない。
後ろ指をさされるだけならまだいい。
こういう暴力に訴えるやり方が、俺にとってまったくの無意味だ
と言う事をわからせる必要があるのだ。
ふとカサンドラの顔を見やると、濡れタオルの位置を調整する様
にして彼女が手を額に運んでいた。
900
﹁どうだ、少し落ち着いたか﹂
﹁はい。今はとても気分がすっきりしています﹂
﹁そうかそうか﹂
﹁さっきまでは、気持ちがぼんやりしていたというか。今は意識が
はっきりしています﹂
﹁うん。よかった﹂
カサンドラの髪をなでてやりながら俺はそう返事をした。
嬉しそうにカサンドラが俺を見上げてくる。
﹁⋮⋮何だか、ひさしぶりのふたりっきりですね﹂
﹁そうだなあ。今は家族が一杯になっちゃったからな﹂
﹁旦那さまにダルクちゃんにエルパコちゃん。それからバジルちゃ
ん﹂
﹁カサンドラ、君が抜けている。俺の大事な奥さん﹂
﹁そうでした。えへへ﹂
﹁俺の奥さんはとてもかわいいな。気丈で、献身的で、それでいて
美人だ。俺の自慢の奥さんだな﹂
﹁いきなり何を言ってくるんですか﹂
カサンドラの顔色はやや朱い様だが、まだ体調がすぐれないのか
な?
なんてね。
﹁旦那さま﹂
﹁ん?﹂
﹁わたし、こんな事になってしまいましたけど。これからもシュー
ターさんの妻でいてもいいんですね﹂
﹁当たり前だよ。これからもずっとカサンドラは俺の大事な奥さん
901
だよ﹂
そうやって俺はカサンドラとふたり見つめ合い、いつしか互いに
唇を重ね⋮⋮
﹁コホン⋮⋮お取込み中のところ申しわないが、少しよろしいかの﹂
﹁そ、村長さま﹂
﹁ししし失礼しました!﹂
俺とカサンドラがあわてて顔を上げると、そこには疲れた顔をし
た女村長が、やや意地の悪そうな顔をして俺たちを見比べているで
はないか。
﹁ああ、要件はすぐに終わらせるので、そうしたらふたりでゆっく
り過ごしてもらえばよい。なあに直ぐに終わるからの﹂
◆
咳払いをして居住まいを正した俺とカサンドラのところにやって
来た女村長は、ドレスをつまみながら空いていた簡易イスに腰を下
ろした。
﹁今しがた、街に送った伝書鳩が村に戻ったぞ﹂
﹁おお、そうするとッヨイさまに手紙が届いたのですか﹂
﹁それだけではない。ッヨイハディたちは今朝がた一番で、街を発
ったという知らせを届けてくれた﹂
女村長は先日、司祭さまに用意してもらった文と、女村長がッヨ
イさまにあてた手紙、それからオーガが流浪している原因について
の証言をまとめた手紙の三通を伝書鳩に託した。
902
﹁ッヨイさまに送った手紙の文面は何とあったのでしたっけ﹂
﹁村で人員が不足しているから、ただちに応援に駆け付ける様にと
いう内容だな。殺人事件に放火と、事が急を要していると書き込ん
でいたので、恐らくすぐに動いたのであろさ﹂
﹁なるほど、それで雁木マリも来るのですか﹂
俺はカサンドラの手を取りながら質問した。
村で最も聖なる癒しの魔法が得意である助祭さまが逃亡した上に、
まったく信用ならないという事がわかった今であれば、マリの到着
は待ち遠しい。
避妊の治療なんてなかった。なんて事になれば、これは手遅れに
なっては困る。
﹁そうだの。手紙によれば騎士修道会の聖少女たちも加わっている
らしい﹂
﹁たち、という事は複数人なのですね﹂
﹁恐らくそうだろう。司祭が湖畔に聖堂をという話をしていたし、
オーガの件も事情聴取をする必要があるから、大人数でここに向か
っているのかも知れぬ﹂
﹁なるほど﹂
﹁先ほどこの事はエレクトラとダイソンに使いをやって、湖畔で営
屯しているギムルと、冒険者ギルドのカムラの元へ走らせた﹂
つまり、しばらくの間は騎士修道会の人間の数が頼みに出来ると
いうわけか。
もちろん騎士修道会が陰謀と関わり合いになっていなければ、と
いう事だけどな。
﹁それならば安心です。ッヨイさまはようじょですがたいへん強力
903
な魔法使いですからね。いざ荒事になっても抑止力になるでしょう﹂
﹁うん。それぐらいに成長しておるのであれば、わらわも姉として
安心だ﹂
おばさん、ですよね。とは言わないでおいた。
﹁今夜は村に戒厳令を敷く﹂
﹁どういう事ですか?﹂
﹁窓の外を見てみよ、どうやらどす黒い雨雲が空を覆っているだろ
う。今夜は大雨が降るぞ﹂
﹁なるほどなぁ﹂
俺はカサンドラを手伝って上体を起こしてやると、ふたりして窓
の外を覗き込んだ。
﹁湖畔の向こうから雨雲が来るときは、決まって嵐になるといいま
す﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁お父さんが昔から言っていました。この嵐がやって来た後に、本
格的な夏がくるのだと﹂
なるほど、俺たちの元いた世界で言う梅雨みたいなもんなのかね。
﹁嵐はしばらく数日は続くだろうから、シューターも川の増水には
気を付ける様に。それに騎士修道会の連中が来るのであれば、これ
以上ひと死にを出すわけにもいかん。今夜は大事をとって外出禁止
を命じたのだ﹂
﹁それがいいでしょうね﹂
﹁ただし川の増水がひどい様であれば、水を外に逃がす必要がある﹂
﹁はい﹂
904
﹁堤防の一部を崩して、開拓中の湿地に水を流し込む際は動員がか
かるので、その時はお前も出て来る様に。カサンドラには申し訳な
いが、その時はシューターを借りるぞ﹂
﹁はい。その時は﹂
俺の顔を飛び越して、カサンドラとアレクサンドロシアちゃんが
お互いに顔を見合わせて会話した。
◆
女村長が﹁さてわらわはお邪魔虫なので、雨が降り出す前に退散
するとしよう﹂などとニヤニヤしながら退出していくのを見送ると、
俺たちは再びふたりきりになった。
アレクサンドロシアちゃんはからかって﹁頑張れお兄ちゃん﹂な
どと言ってきたが、さすがにいまはそういう気分ではない。
﹁嵐が来るのは毎年の事なのかな?﹂
﹁はい、そうですね﹂
﹁じゃあ、川が決壊する様な事も度々?﹂
﹁いえそれは何年かに一回です。この土地はあまり雨が降らない場
所ですけれど、サルワタの山に嵐がぶつかる事があるんですね。そ
の時に長い雨が続くことがあります﹂
山が近く雨の良く振るその場所から地下水が沸くので、普段はあ
まり雨が降らなくても森は緑豊かなのだろう。
しかし山に嵐がぶつかると、しばらく停滞するという事か。
やがて嵐が四散して、そして本格的な夏が来ると。
この土地の風物詩というわけか。
元いた世界ほど湿気の強い場所ではなかったけれど、夏が来ると
一気に湿り気たっぷりの暑い季節が到来するのかもしれない。
905
そんな風に今年の夏を予想していると、やや強い風が出来の悪い
この世界の窓をばちばちと叩く様になり出した。
やがてぽつぽつと雫が窓に付きはじめる。
﹁雨が降り出しましたね﹂
﹁ホントだ、戸締りしておこうか。ここには雨戸みたいなものはな
いのかな?﹂
﹁何ですかそれは﹂
どうやらないらしい。
妻は小首をかしげながら俺を見上げていた。
まあそもそもガラス窓があるのは女村長の屋敷か、ここ教会堂の
施設ぐらいのものだしな。
村人はそんな事を気にしなくてもよいらしい。
そう言いながら黒く塗りつぶされた外の景色を見やったところ。
ランタンかカンテラか何かを片手に、村の小道を歩く人間の姿が
見えた。
村人だろうか。
もしかするとこの嵐で畑の様子が気になって、川の増水を見に出
てきたのかもしれない。
アレクサンドロシアちゃんは戒厳令なんて事を口にして外出禁止
と言っていたものだけど、農業を生業にしている主だった村人にと
っては、命令よりも畑の方が気になるらしい。
﹁まあ、増水したら大変だしな。もしかしたら見回りの役割を持っ
た村人かも知れない﹂
﹁シューターさん。雨の夜は冷えるのでカーテンをしめしょうか﹂
906
俺が思考の一部を漏らしながら引き続き外を見ていると、寝てい
ればいいのに寝台から起き上がったカサンドラが、カーテンに手を
かけようとしていた。
﹁俺がやるから君は寝ていなさい﹂
﹁はい、でももう気分は落ち着いたので⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
会話の途中で、先ほどの村人が向かう先が気になって視線を戻す。
距離が少し近づいたのかずいぶんと人影ははっきりと見える様に
なってきた。
﹁奥さんちょっと﹂
﹁はい?﹂
﹁君は眼がいいよね。あれを見て、あの外を移動している村人が誰
なのかわかるかな?﹂
﹁どうでしょう。見てみないとわかりませんが﹂
ふたりして黒塗りの外の景色に眼をこらす。
揺れるカンテラに照らされて、鎖帷子がきらきらと光っているの
が見える。
殴りつける雨の中、低い姿勢で走り抜ける男の姿だった。
身を寄せたカサンドラが﹁冒険者さまでしょうか﹂と呟いた声が
聞こえた。
﹁奴はカムラだ⋮⋮﹂
俺はごくりと生唾を飲み込んだ。
907
79 奴はカムラ 13︵後書き︶
小題回収の話です。
908
80 俺とカムラと暗闇の情熱
嵐の夜。
どす黒く塗りつぶされた夜の世界を、ランタン片手に小走りにか
ける男の姿があった。
奴の名はカムラ。
ブルカの冒険者冒険者ギルドから派遣されて来た、この村のギル
ド長を務める美中年である。
俺と正妻カサンドラは、雨を打ち叩く窓にへばりつく様にして美
中年の行く先を視線で追いかけた。
﹁あいつ、こんな嵐の夜にどこへ行くつもりなんだ⋮⋮﹂
﹁わかりません。この先は村長さまのお屋敷でもないので﹂
﹁ギルドの宿舎とも反対方向だぞ⋮⋮﹂
カムラの姿はただならぬものだった。
街からやって来た冒険者たちの格好は鎖帷子を着こんでいるのが
定番だったけれど、嵐の夜にわざわざそんな格好をする人間はいな
い。
ついでに言うと、鎖帷子大好きの彼らも警備の配置にでも付かな
い限りは普段着に剣を吊るすラフな格好をしている。
けれども彼は腰に二振りの剣を吊るしているという重装備で、ラ
ンタンを持つ反対の手には手槍という姿であるから、異様だ。
夜回りという事もあり得るが、ひとりきりというのはいかにも怪
しい。
表情をうかがい知ることは出来なかったけれど、鬼気迫るという
風貌であるのは間違いなかった。
909
﹁くそ、このままじゃ見失ってしまう!﹂
﹁窓を開けて声をかけてみますか?﹂
﹁いや、うん。どうするかな⋮⋮﹂
俺は途端に考え込んだ。
わざわざ女村長が戒厳令を敷いた中だ。
冒険者ギルド長として村の幹部格という立場を手に入れつつある
美中年が、わざわざ率先してその命令を無視していい状況ではない
だろう。
これはもしかすると、いや、もしかしなくても殺人や放火事件と
何か関係あのではないかと俺は疑った。
疑い出すと、やはり怪しいのだ。
そもそも事件が起きた最初の段階から、彼は有力な容疑者のひと
りだったじゃないか。
しかし、カサンドラをひとりここに残すのは、不安でならない。
﹁ああ畜生。どうする﹂
﹁シューターさん﹂
えもんか
俺の気持ちを見透かしたように動いた妻は、咄嗟に寝台の脇にあ
る衣文掛けに手を伸ばして俺のポンチョを持った。
﹁行ってください、わたしは大丈夫です﹂
﹁しかしでも。君をひとりにさせるのは⋮⋮ああ畜生!﹂
﹁わたしはシューターさんの正妻です。旦那さまを支えるのが妻の
仕事ですから、立派にお役目を果たしてください﹂
カサンドラはキッパリと俺にポンチョを突き出しながらそう言っ
910
た。
迷っている暇がないので俺は咄嗟にうなずくと、ポンチョをかぶ
せてもらった。
﹁出来るだけ直ぐに戻る。それとこれを渡しておくから﹂
俺は腰に吊るした短剣を取って、カサンドラに渡す。
この護身の剣がおっさんからのご祝儀というのが気に入らないが、
何もないよりはいい。
﹁じゃあ行ってくる﹂
﹁はい!﹂
診療所を飛び出すと、横殴りの雨風を顔に受けながら視界を宙に
さまよわせる。
奴は、カムラはどこに行った。
﹁シューターさん、あっちです!﹂
強い風で声も途絶え途絶えに聞こえるのだけれど、診療所の方を
見ると窓を開けた妻がカムラが消えていったと思われる方向を指さ
して叫んでいた。
あわてて手だけを振って合図する。早く部屋の中に入りなさい!
カサンドラが指さした方向に駆け出した俺である。
いつも使っている護身の武器は俺が渡してしまったので、武器は
外出する時に近頃必ず持ち歩いていた手槍だけだった。
やっててよかった天秤棒。
棒術の応用があれば、手槍ほど安心できる武器は無かった。
短いが、何の問題も無く扱える。
911
先ほど降り出したばかりだと言うのに、強い雨はすでに地面を泥
んこに耕していた。
つま先から靴をおろさなければ足元をすくわれてしまう。
しばらく無言でひたすら暗闇を駆け抜けていると、ようやく暗闇
の向こうにランタンの灯を発見する事が出来た。
カムラだ。
あれだけの重武装だからこの風で足取りがおぼつかないのかもし
れない。
いったいあいつは、どこに向かっているんだ⋮⋮
俺は激しく揺れている広葉樹の幹に近づきながらそれを観察した。
ここはもう村はずれと言っていい場所だ。
何度か村の周りを散策した時に来たことがあるが、木こりのッン
ナニワさんが使っている休憩小屋があるぐらいのもので、他には大
したものは無い。
休憩小屋。
まさかそこで密会でもするという事だろうか⋮⋮
恐る恐る、姿勢を低くしながら美中年に接近する。
暴れ狂う風のせいでブロンドの髪を台無しにかき乱したカムラが、
やはり俺の想像をした通りに木こりの休憩小屋の側にまでやって来
たのである。
風向きがぐるぐると変わり続けているので、上手く風下に位置し
て観察するというわけにはいかない。
けれども、これだけ暴風でうるさければ、こちらの立てる音も聞
こえないはずだ。
じりじりとさらに俺は接近した。
休憩小屋の立てつけの悪い扉を必死にこじ開けようと悪戦苦闘し
た後に、ようやくドアが開いたらしい。
美中年は周囲を警戒する様に見回した後、休憩小屋の中に消えて
912
いった。
よし、これならギリギリまで接近する事が出来る。
俺は少しだけ大胆になって駆け足に休憩小屋に近づく。
ありがたい事に、休憩小屋ごときにはガラスの窓は使われていな
いので気付かれる可能性が低い。
いや、相手がッワクワクゴロさんやニシカさん、エルパコなら可
能か。
小屋で何をするつもりかはわからない。
だが密会でもしていたのなら、あるいは密会の相手がそいつらだ
ったらバレるだろうか。
小屋の扉の前を避ける様にして近づいた俺は、ボロボロになった
小屋の土壁に張り付きつつ板窓の側まで移動した。
この嵐だ。まるで何も聞こえやしねえ!
俺の立てる音も消してくれるついでに、小屋の中で何が起きてい
るのかもさっぱりわからかった。
そう思ってしばらくもしないうちに。
中でドカドカと何かが崩れるような音がした。
何事だ。
やはり中に誰かが待っていて、カムラはここで密会をやっていた
という事か。
ボロい板窓の隙間を見つけた俺は、そこから必死に眼を凝らしな
から中を覗き込んだ。
こうこう
室内を煌々と照らすランタンの明かりを確認した。
立てつけの悪い板窓だったが、隙間が狭すぎて揺れる光の有無し
か判別できなかった。
今度は代わりに、その隙間に俺は耳を押し当てる。
913
﹁んッ、はっ⋮⋮カムラさま、もうこういう事はこれっきりにして
ください﹂
﹁?!﹂
何事ですかねえ、女の声ですよ。
それも若い!
休憩小屋の中でご休憩しているとはけしからん。
鬼気迫ると表現するのがふさわしい風貌で、嵐の夜中に密会なん
ぞして何をしているかと思えばいかがわしい事でした。
これほど馬鹿らしい事は無いね。
俺の中でみるみる緊張感が失われていくのを実感しながら、壁に
もたりかかりそうになった。
﹁大丈夫、後少しだ。最後に君が、これを街に飛ばしてくれさえす
れば俺の任務は完了だ。そうしたら、﹂
耳を外そうとした瞬間に聞こえたその言葉の続きは、聞き捨てな
らないものだった。
﹁そうしたら、ふたりで街に出ようじゃないか。俺は晴れてブルカ
辺境伯の騎士となり、君は騎士夫人となる。こんな片田舎で騎士婦
人になどなっても、将来は何も楽しい事は無いだろう?﹂
﹁ああ、素敵ですわカムラさま。ン、いけません。これ以上の続き
は嵐が収まってから改めてにしないと﹂
﹁嵐が止むまで、我慢できるのかい?﹂
﹁そんな事、カムラさまのいじわる﹂
カムラがブルカ辺境伯の、騎士だと?
女は、相手の女は誰だ。
914
ついつい俺は焦ってしまったらしい。
壁に立てかけていた手槍を転がしそうになってしまい、あわてて
それを拾おうとする。
よくよく考えてみれば、これだけの嵐の中だから手槍がこけた程
度で雑音なんて気にする必要は無かったのに。
そのせいで俺は板窓から身を離す時に、別の音を立ててしまった。
押さえつけていた板窓から離れるとギギイという不気味な音響が
発生してしまったのだ。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
やばい。まずい。
俺はすぐにも体を硬直させてしまった。
休憩小屋の中も静まり返ってしまったが、俺がしばらく静かにや
り過ごしていると、また小声で会話を始めだした。
﹁⋮⋮だ、だいぶ外の嵐がひどくなってきたみたいです﹂
﹁あ、ああそうだね﹂
﹁これ以上酷くなってからわたしが屋敷を抜け出したことが分かっ
てしまいますと﹂
﹁そうか、残念だな⋮⋮﹂
どうやら逢引していたふたりは、続きをあきらめたらしい。
くそう。いいところだったのに。
いや、せっかくもう少し何かの情報を聞きだせたと思うのに。
﹁これが最後の地図ですね?﹂
﹁そうだね。もういち度確認をしておくけど、メリアくん。伝書鳩
の数までは村長さんも把握していないんだね?﹂
915
﹁はい。もともと鳩を管理しておられたのはギムルさまでしたが、
今はいませんのでわたしとルクシがお世話をしています﹂
﹁わかった。じゃあこれをギルドまで送る鳩に括り付けてくれれば、
君の仕事は終了だ﹂
カムラたちはそうして会話を終了させると、そそくさと身だしな
みを改めて休憩小屋を出て行った。
怪しまれない様にだろうか。
先に女を送り出した後にしばらく時間を潰して、それから美中年
が続く。
俺はこの目でしっかりと目撃した。
女の姿は間違いなく女村長の屋敷で下働きしていたいつもの若い
女だ。
メリアといったかな。名前もしっかり聞いたから間違いない。
仕事は終了。
確かにふたりの会話の中で飛び出した言葉だ。それに地図という
言葉も。
地図をブルカ辺境伯のところに届けるという意味は、ひとつしか
ない。
奴は、冒険者カムラはブルカ辺境伯のスパイだ。
916
80 俺とカムラと暗闇の情熱︵後書き︶
サブタイトルは小説﹁八つ墓村﹂の中で使われている小題からヒン
トをいただきました。
917
81 冒険者カムラを追跡します
頬を叩く風雨の中、俺はじっと去りゆくランタンを見つめていた。
このまま美中年カムラを追うか、いったん教会堂に戻るのか。
カサンドラと別れてから時間経過は、元いた世界の感覚で言えば
十五分というところだろう。
とにかく、途中まで道は同じなのだから、カムラがおかしな動き
をしない限りは途中まで追いかける事にする。
嵐はますます激しさを増している様で、俺は持ってきた手槍を杖
代わりにしてポンチョを頭から被る様にしなおした。
すでに全身濡れ鼠ではあるけれど、何もしないよりはましだ。
特に額をつたって眼の中に雨雫が入って来るのがかなりうっとお
しかった。
足元もおぼつかないとくれば、わざわざ嵐の夜に俺は一体何をや
っているんだと言う気分にもなる。
いや逆だ。
わざわざ嵐の夜にまでこんな事をしなくてはいけなかったのはカ
ムラなのだ。
明日の黎明頃にはようじょと雁木マリがこの村に到着する運びと
なっているからだ。
嵐の影響で多少遅れる事は考えられるけれど、ブルカの街からこ
の村にいたる街道は一本道だし、道中は盗賊やコボルトが頻繁に出
ると言う話しも聞いた事がない。
つまりカムラは焦っているんだと言う風に俺は理解した。
918
揺れるランタンは元来た道を引き返しているらしい。
教会堂の側近くまでやってくると、俺はそちらの方向を確認した。
ぼんやりと明かりの灯っている診療所の窓にカサンドラの姿は見
られない。
きっと警戒して短剣を抱いたままカサンドラは寝台へ横になって
いるのだろう。
妻の事は当然気になって、ランタンがこの先さらにどこへ向かう
かだけは確認した。
もしも石塔に向かうというのであれば、あそこの地下牢に捕まっ
ているマイサンドラを逃がされる可能性も考えた。
なるほど、カムラは俺が想像したとおりに石塔に向かうつもりら
しい。
冒険者ギルドとは方向が逆だ。
一瞬だけ時間の余裕が出来たと判断した俺は診療所の窓の側まで
駆けた。
してみると、俺が予想したとおりにカサンドラが短剣を抱いて寝
台の横になっていた。
コツコツと数度、窓ガラスを叩く。
この風雨で小刻みに窓は揺れていたけれど、警戒しながら横にな
っていたカサンドラは直ぐにも気が付いたらしい。
﹁シューターさん﹂
﹁やはりカムラは黒だった﹂
﹁黒?﹂
﹁あいつの尻尾を掴んだって事だよ。この先の休憩小屋で村長のと
ころの下働きの女とご休憩をしていた﹂
﹁それは、メリアさんですかルクシちゃんですか?﹂
﹁メリアの方だ。休憩所で大人の関係というやつだな﹂
﹁まあ﹂
919
カサンドラは口に手を当てて驚いた。
﹁俺はこのままカムラの動きを監視する。カサンドラは悪いが司祭
さまのところにいって状況を説明するんだ、それでタンヌダルクち
ゃんとエルパコを引っ張ってきてもらえ。それからッワクワクゴロ
さんだ﹂
﹁村長さまとニシカさんはどうしますか?﹂
そろそろ視界から消えそうになるランタンを見やりながら俺が考
える。
﹁村長さまはどちらかというと激情家だから、まだカムラを包囲し
きってしまうまで言わない方がいい﹂
﹁はい﹂
﹁ニシカさんは集落に住んでるひとだからな、距離があるから今回
はパスだ。この後の事はッワクワクゴロさんに相談してから決めよ
う。あのひとがうちのご近所さんでよかった﹂
﹁そうですね﹂
﹁後、そこで寝ている肥えたエリマキトカゲをちょうだい﹂
﹁バジルちゃんですか?﹂
寝台の脇でまるまっていたあかちゃんを抱き上げて、カサンドラ
が小首をかしげた。
産まれた時よりも少しだけ大きくなって、今は太った猫ぐらいの
サイズになっている。
俺は寝ぼけまなこのあかちゃんを懐に入れながら、
﹁キュイ?﹂
﹁何かあればこいつが村中に夜泣きで警報を鳴らしてくれるだろう。
920
おじさんがいいと言うまで、大人しくしていなさい。じゃあカサン
ドラ﹂
﹁ギィギィ!﹂
﹁わかりました。すぐに司祭さまのもとに行きます﹂
雨に髪を濡らしてしまうのも構わず、窓から身を乗り出したカサ
ンドラが俺の肩に一瞬だけ首を回して抱き着いた。
﹁短剣、しっかり持ってな﹂
﹁はい、シューターさんもお気をつけて。バジルちゃんもね﹂
﹁キュブー﹂
今生の別れじゃないので、軽く唇を交わしただけで俺たちはすぐ
に離れる。
やったね! と今はぬか喜びしている場合ではないのでひとつ頷
くと、踵を返した俺はまた駆け出した。
◆
行く先の見当が付いていた事はありがたかった。
少し距離を離されてしまっていたけれど、石塔に向かって駆けて
いると直ぐにも目印のランタンを発見する。
村の住人たちはこの嵐でさっさと戸締りをしたのか、どこの家か
らも明かりが漏れている事は無かった。
なるほど。これだけ村人が外を警戒して中にこもっていると、悪
事をやるにはかえって都合がいいというものだな。
カムラは﹁地図﹂という言葉を口にした。
それも最後の地図と言ったはずだ。
つまりカムラは、村の冒険者ギルド長という立場を利用して、女
921
村長の命じた村周辺のマッピング作業の情報をブルカ辺境伯に横流
ししたのである。
ちょっと待て、そもそも村周辺のマッピング作業をする様に進言
したのはいったい誰だったか。
考えてみれば俺はその経緯を覚えていない。
もしかすると地図作製そのものが﹁ギルドの出張所を村で運営す
るにあたって必要だ﹂と、カムラ本人が女村長に進言した可能性が
ある。
裏を取る必要があるな⋮⋮
マイサンドラは女神崇拝者という共通項から、恐らく以前から助
祭と繋がりがあったはずだ。
教会堂に通うものと導くもの。もしかすると相応に年齢も近いし、
仲が良かったのかもしれない。
そして恐らく助祭と、女村長の屋敷で働く若い女も繋がっていた
のではないか。
女神崇拝者という意味で助祭とメリアは共通項があるが、カムラ
と助祭は関連性がまだない。
おっさんはマイサンドラの弟で、助祭とも何らかの関係があった
と見るべきだな。
何しろポーションの注入器具は助祭が持ち出しておっさんに渡っ
たと考えるのが状況的に妥当だ。
これはおっさんが助祭から直接、助祭から受け取ったのか。ある
いはマイサンドラ経由だったのか。
隣の村に嫁いでいったはずのマイサンドラがいつの間にか出戻り
になっていた原因が知りたいな。隣村の男に離縁されたのか、里帰
りだったのかもわからない。
しかし一時期、村の外に出ていたというのを考えると、カムラが
この村にやって来た時期との接点が怪しい。
どこかでカムラとマイサンドラに接点があったと考えた方がいい
922
かもしれない。
何しろ、少なくとも今カムラは石塔に向かっている。
それは何かしらお互いに面識があるからこその行動なんじゃない
だろうか。
そして建設現場の放火と殺人、有力な容疑者のひとりは助祭で間
違いないだろう。
マイサンドラはどうか。彼女は元猟師だ。
会った事が無いので今の段階で確証は出来ないが、弟に硫黄の粉
末を融通させた上で放火に及んだ、あるいは見張りのゴブリンを殺
害した可能性がある。
マッピング作業中の冒険者たちや、湖畔の作業現場に向かう途中
で俺たちを監視していた人間というのも、ニシカさんやッワクワク
ゴロさんみたいな動きが出来る人間が誰かと考えれば、元猟師のマ
イサンドラなら可能なんじゃないだろうか。
なるほど、カムラを中心にそれぞれが放物線上を描いて繋がって
いる事がうっすらと全体像が浮き彫りになって来たのではないか。
カムラはブルカ辺境伯と確実に繋がりがある。
あの休憩小屋ではっきりと﹁この仕事が終わればブルカ辺境伯の
騎士﹂になると口にしたのを俺は覚えている。
なるほど、なるほどなあ。
石塔へとやって来たカムラは、相変わらず用心深そうに周囲を見
回していた。
低い姿勢で干し藁の積んであった陰にしゃがんでいる俺の姿には
気づいていない様で、満足したのか石塔の扉に手をかけている姿が
見える。
こうして見ると、やはり以前に建設現場に向かう途中で監視して
923
いた人間というのはカムラではない。
冒険者としての腕は確かなのがその身構えやオーラからもわかる
が、追跡術という点や周辺警戒という点では猟師たちの様には出来
ないらしいからな。
カムラが中に吸い込まれたのをしっかりと確認してから、俺は石
塔まで駆けだした。
と、思ったらふたたび扉が直ぐに開く。
やっべぇ!
と、あわてて姿勢を低くしながら何か遮蔽物は無いかと周囲を見
渡すが、なにも見つからないのでとにかくその場に伏せるしかない!
べちゃりと泥まみれの牧草地に俺はうつ伏せになった。
﹁プギュウ﹂
たまらずバジルが懐で小さな悲鳴を上げた。
ごめんな。出来るだけ体重をかけないようにするから我慢しなさ
い。
大丈夫みたいだ。
美中年は石塔の扉側に立てかけたままだった手槍を回収すると中
に引っ込んだ。
すでに泥だらけの格好なので、この際気にせずに四つん這いにな
って石塔まで急接近、扉の少し離れた場所まで移動した。
困ったな。
中に入るべきかやめておくべきか悩む。
石塔の構造はちょっと厄介で、扉を開ければ塔の中でたぶんかな
り響く事になる。
むかし俺がギムルを制圧して石塔にぶち込まれた時、歩いてもコ
ツコツという足跡が響いたのは記憶に残っていた。
924
うまく入り込めたとしても地下牢までは一本道なので、たぶん侵
入はバレるだろう。
ギィバタン。そんな心配をして躊躇しているうちに、また石塔の
扉が開いた。
ほとんど数分のうちに要件が済んだという事だろうか。
美中年はひとりだ。
脱走を手伝うわけではないらしい。
脱走用の鍵でも渡したのか、業務連絡でもしたのか。
そしてようやくカムラは夜の密行を終えて冒険者ギルドへと戻っ
ていった。
俺はしばらく石塔の側にいて中からマイサンドラが出てこないか
確認したけれど、いつまでたってもその気配は無かった。
だから慌てて美中年を追いかけた。
そして美中年がちゃんと冒険者ギルドの居住施設に入るところま
でを確認して、ようやく教会堂に引き返したのである。
﹁バジル、今日はお前の出番が無かったな﹂
﹁ムギィー!﹂
懐の中で不満そうに暴れるあかちゃん。
寝ているところを叩き起こされ、俺に押しつぶされて、そりゃ不
満だろうさ。
すまんなあ、でも出番がないという事はいい事なんだぜ。
事件はもうすぐ解決する。
解決したら、いっちょおじさんが兎肉でもご馳走してやろう。
明日、主だった人間で包囲網をかけてカムラを落とす。
ずぶ濡れになった俺は明りの灯った診療所の窓を見ながらそう思
った。
925
81 冒険者カムラを追跡します︵後書き︶
奴はカムラ編もそろそろおしまいなんじゃ。
926
閑話 聖少女遅参の事
吉田修太からあたしの元に伝報が届いたのは、ある晴れた昼下が
りの時刻だった。
あたしはその時、ッヨイのわがままでテラスに設置した真新しい
テーブルに書物を広げて、この世界の歴史について勉強をしていた。
少しでもこの世界に馴染む様に歴史や魔法の技術、それから物事
の道理を覚えようと頑張っていた。
そこをいくと。
何だかお気楽な調子の吉田修太、もといシューターはこの優しく
ない世界に突然送り飛ばされて来たとしても、元々いた世界とあま
り変わらない調子ですんなりと順応していたように思う。
彼はいろんな職種を転々としていたフリーターで、とてもバイタ
リティーのあるひとだった。
街にやって来たところを奴隷身分に叩き落されたというのに、さ
して大きな不満も言わずッヨイによく仕えてくれたぐらいだから、
能天気なところがあるのかもしれない。
この世界で奴隷身分に落とされてしまうなんて、あたしはとても
耐えられないと思う。
能天気なように見えて、それだけ彼はこの世界では優秀な人間な
のかもね。
剣術も、人間同士が日常的に剣を交えて争っている様な世界に飛
ばされたのに、普通にあたしよりも巧かった。
よく考えてみれば、あたしたちが元いた世界でいくら剣術や武術
が達人でも、試合に出るか道場でも開かない限り役に立たないもん
927
ね。
気が付けばあたしたちの元を去っていった元奴隷の事を、あたし
はいつも考えていた。
それが妙に癪に障ったので、ぶるぶるとかぶりを振って手元の魔
導書に意識を集中しようとしたところ。
いつもの様に元気なッヨイが、あたしの元に駆け走って来たのだ。
﹁ガンギマリー、どれぇからお手紙が来ました!﹂
﹁こらッヨイ。もうシューターはあなたの奴隷じゃないんだから、
奴隷なんて呼んだらダメでしょ﹂
﹁でもどれぇはッヨイのどれぇをやめたけど、ニシカさんのどれぇ
なのです﹂
﹁そうだけどさ、そうじゃないのよ﹂
あたしは何でシューターのために気を使ってこんな事を言ってい
るのかしら。
妙にその事が腹立たしく感じて来て、あたしは言葉の先を催促し
た。
﹁それで、シューターは何て言って来たの?﹂
﹁ええとですねー、言って来たのはどれぇではなく、ドロシアねえ
さまなのです﹂
﹁ドロシア姉さま? あら、シューターのいた村の領主の事ね。見
せなさいよ﹂
あたしはッヨイが差し出した紙片を受け取って、びっしりと小さ
く書き込まれた文章の内容に眼を通す。
この世界に来てふたつ目に苦労をしたのが、この土地の言葉を覚
える事だったのを思い出す。
活字出版の技術なんて無い世界だから書物の文章はどれもお手製。
928
文字を覚えるところから最初に努力した。
けれど、書いた人間の癖がよく出ていて、どれも読むのに時間が
かかる。せっかく覚えた文字も書いた人によってまるで別物に見え
るのよね。
この手紙もまたそうだった。
手紙の数はみっつ。
ひとつは騎士修道会の人間が使う様な、丸みを帯びた文字。これ
は聖典を複写する作業を重視するので、平均的な文字なのよね。
もうふたつは高貴な人間が使う様な、わりと癖の強い文字。文字
の角度が鋭角に折り返されていて、相手の事をあまり考えずに掛か
れた文字。
﹁どれぇが書いてました。オーガが街の周辺にあちこちいるのは、
辺境の奥地でワイバーン災害があったからなのです。オーガを使役
していたミノタウロスが、お引越しをしたのです﹂
﹁そうね。でもそれを書いたのはドロシアさんでしょう?﹂
﹁ドロシアねえさまは怖いので嫌いだょ﹂
何を思い出したのか、ッヨイのおばさまの言葉を口にしたッヨイ
は委縮した顔をしていた。
まあいいわ、続きは何と書いているのかしら。
湖畔に都市を建設中。なるほど、ッヨイのおばさまは新しい開拓
に着手をしたのね。
そこで殺人事件に放火⋮⋮
騎士修道会の人間が書いたと思われる手紙には、その湖畔の都市
に聖堂を建設してはどうかとある。
﹁どうやらサルワタの森の開拓村は、あまり領地経営がうまくいっ
てないみたいね﹂
﹁そうなのです。人死にと付け火が出たので、どれぇが困っていま
929
す﹂
自分の元奴隷の事を思い出してまた会いたいとでも思った様で、
ッヨイは語気を強めてわたしにそう言った。
﹁そうね。オーガの事が気になるし、こちらも調査は進捗なしだも
の。騎士修道会に掛け合って予定を早めましょうか?
﹁ッヨイもそれがいいと思います!﹂
元気一杯の相棒に苦笑したあたしは、ひとまず聖堂会に話を持っ
ていくことを苦笑しながら承諾した。
辺境一帯のパワーゲームに不干渉という立場を取っているあたし
たち騎士修道会だけれども、それは何も公正中立のたちばからそう
しているのではない。
ただ、どの領主とも一定の距離と関係を維持して自分たちの組織
を守ろうとしているだけ。
近頃はブルカ辺境伯が周囲の寄騎を押しのけて中央で力を着けよ
うとしているから、バランスを考えてサルワタのアレクサンドロシ
ア卿に肩入れをしておこうというだけだ。
すぐにも調査のための修道騎士派遣を手配しながら、あたしたち
も冒険者としての拠点移動をしようと手続きをしていると、事態は
さらに悪化したらしい。
﹁大変です! どれぇの奥さんがごうかんされました!﹂
ばしゃく
屋敷を引き払う準備をして馬借の業者と打ち合わせているところ
で、ッヨイが駆け込んできた。
﹁どういう事なの、落ち着いてッヨイ﹂
930
﹁どれぇの奥さんが、ごうかんされたのです!﹂
要領を得ないので手紙を受け取ると、先日の貴人が書いたと思わ
れる手紙に、いよいよ人手が足りず事態が切迫しているという事が
書き連ねてあった。
湖畔の建設現場の件で夜回りをしているうちに、シューターの妻
のひとりが、親族に襲われたらしい。
妻のひとりという言葉にあたしは眉を吊り上げてしまった。
シューターは新婚さんだと言っていたのに、妻が複数いたのね⋮⋮
今はそんな事を言及している場合ではないので、ずれ落ちたメガ
ネを引き上げながら文字を読み直した。
﹁急いで返信をしたためましょう。これが届いたのはついさっきな
のよね?﹂
﹁そうですガンギマリー、どれぇがききいっぱつなのです﹂
﹁わかっているわ。すぐに発ちましょう、荷物の事とか、後の事は
騎士修道会に頼んでおけば、後日送り届けてくれるでしょうし﹂
そういうことだからお前たちには申し訳ないわね、と馬借にいっ
たん引き取ってもらう。
あたしたちは時間が惜しいとばかり旅荷を急いで取り纏めると、
今回のオーガ調査のために待機していた騎士仲間たちと合流して、
サルワタの開拓村を目指した。
◆
﹁聖少女さま、どうして武装飛脚を使わなかったのですか。あれな
らば確実にサルワタ領主に連絡がとれたでしょう。われわれが派遣
に向かうのは、先方の返事があってからでもよかったはず﹂
﹁そうしていられない事情がこちらにも向こうにもあったのよ﹂
931
﹁どれぇがききいっぱつなのです! ピンチです!﹂
馬上のひととなったあたしたちは、合計五騎でサルワタの森を目
指した。
あたしの前にッヨイを乗せて、他の四騎はそれぞれの馬を駆る。
元いた世界では自動車免許をとるぐらいの感覚で乗馬の訓練をす
るのだけれど、それが自動車免許を取得出来るのがお金持ちだとい
う感覚でいればいいかしら。
車の免許を取る前にまさか自分が馬を乗りこなすようになるなん
て、あたしの人生も何があるかわからない。
何があるかわからないから、急がなくちゃいけない。
シューターの奥さんが強姦を受けた事がとてもあたしの中で気が
かりだった。
あたしには、わかる。
どれほどの苦痛なのか、あたしには⋮⋮
何があってどういう経緯でそうなったのかわからないのが何より
もどかしいけれど、その理不尽がこの世界で当たり前の様にあちこ
ちである事が辛かった。
だからあたしは、今も修道騎士として身を置いているのだ。
きっとシューターもその奥さんも、苦しんでいるはずなのだ。
シューターがッヨイやあたしたちをあのダンジョンで助けてくれ
たのだから、今度はあたしが力になるんだ。
そろそろ陽が陰りはじめていた。
何かを予感する様に太陽と入れ違いにどす黒い雲が空を囲い始め
ている。
とにかく急がないといけない様にあたしは感じた。
サルワタの村に派遣された事があると言う司祭に聞けば、一昼夜
932
で走破出来るとか。
するともう半分以上の距離は走破した事になる。
その一本街道を駆けていると、向こうからあたしたちと同じ騎士
修道会とその傘下にあるブルカ聖堂会の所属を示す外套を着た人間
を目撃した。
ブルカの街から辺境へ向かう田舎道には、ほとんど往来が存在し
ない。
せいぜい行商人ぐらいが時折見かけたぐらいなのに。
それに、あたしは自分が望んでそうなったわけではないけれど、
騎士修道会の聖少女という地位に祭り上げられている人間で、学校
で言えば生徒会長みたいな立場だ。
生徒会長、違うかな。PTA会長かしら。
とにかく周辺に派遣される人事については眼に触れる立場だから、
この時期に教会堂から人事異動があったなんて聞いてない。
﹁止まりなさい! 騎士修道会のガンギマリーよ﹂
馬の手綱を一斉に引いて旅装束の教会堂関係者をぐるりと囲んだ
あたしたちは、それぞれが手元に発光の魔法を現出させた。
あたしも最近ようやく手に入れたその魔法を手に灯す。
外套のフードを被った人物が声を上げた。
﹁ブルカの聖少女さま⋮⋮﹂
人物の顔を確かめるべく、あたしは下馬する。
もたついていたッヨイが降りるのを手伝うと、すぐに剣の鞘を握
りながら踵を返した。
軍事訓練を受けている修道騎士の仲間たちは、ふたりが下馬して
残りはそのまま待機してる。
咄嗟の時にすぐに駆けだせる様にそうしているのだ。
933
ところが、軍事訓練を受けたあたしたちと同じ様に、目の前の教
会堂関係者が半身になって身構えるのが分かった。
この女はつい最近まで修道騎士だったのかしら?
﹁お前、名前は﹂
﹁旅の修道士マテルドです。こうして女神様への信仰を確かめるた
めに、村々をまわって︱︱﹂
フードを取った修道士とやらは、果たして女だった。
直近の修道騎士引退者ならあたしはほとんど顔見知りだ。
けれどその顔は見慣れないものだった。この女は軍事訓練は受け
ていたかもしれないけれど、女神様の聖騎士たる叙勲は受けていな
い。
色白の、いかにも旅に慣れた顔をしていない小奇麗な顔をしてい
る。
日焼けしながら布教をして回る修道士なら、もっと陽にあたって
シミやそばかすがあってもいいはずなのに、やっぱりおかしいわね。
﹁ッヨイ、確かこの先にあるのはサルワタの開拓村だけのはずよね
?﹂
﹁地図によればサルワタ領の村の周辺集落がいくつもあるみたいで
すねえガンギマリー﹂
﹁ふん。という事はこの女はサルワタから来たという事になるわね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前、いかにも怪しいわ。もう一度聞きましょうか、お前は何者
なの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しばらく無言でいたので、これはおかしいとあたしが取り押さえ
ようとしたところ、女は外套をばんとあたしに投げつけながら走り
934
出した。
﹁ッく﹂
﹁お前?!﹂
よく訓練された動きで、あたしたちの意識を一瞬逸らしたかと思
うと、その隙にあたしの愛馬を奪って逃げだそうとしたみたいね。
けれども無駄。
抜剣して外套を斬り上げると、ちょうどそのタイミングでマテル
ドとかいう女が馬に飛び乗ったけれど、ッヨイがファイアボールを
一撃放った。
勢いづいて馬に飛び乗ったところで背中に一撃が命中したので、
女はそのまま転げ落ちたのだ。
﹁すぐに取り押さえなさい!﹂
言われるまでも無く女を取り押さえにかかった修道騎士の仲間た
ちが頼もしかった。
﹁神妙にしろこの似非修道女が﹂
﹁わっわたしはれっきとした聖堂会の人間です﹂
﹁なら何故逃げようとしたんだ!﹂
﹁そっそれは⋮⋮﹂
女は何事かまだもごもごと言いたそうにしていたけれど、あたし
はそれを遮らせる。
言い訳ばかり言うやつは大嫌いだ。
﹁舌をかまれると面倒だから、さるぐつわをかましてやりなさいよ﹂
﹁わかりました。おい口を空けろ﹂
935
﹁いや、やめてください。ふご⋮⋮﹂
ふたたび馬上のひととなったあたしたちは、とうとう夏の到来を
告げる嵐に捕まった。
濡れ鼠になって水分を吸った服に肌を冷やし始めてからしばらく。
ようやくあたしたちは林の中から突き出した物見の塔の常夜灯を
目撃した。
﹁あれがサルワタの村の開拓村ね⋮⋮﹂
﹁どれぇが待っています。いそぐのです!﹂
﹁ええ、みんな行きましょう!﹂
936
82 さあこの俺に真相を語ってもらおうか︵前書き︶
気が付けば総合得点7000ptを達成する事が出来ました。
これからも異世界村八分をよろしくおねがいします!
937
82 さあこの俺に真相を語ってもらおうか
俺が石塔から教会堂へと戻ってくると、講堂の中は完全武装の人
間たちが十数人あまり集まっていた。
ギイバタン。重たい扉を俺が閉じたタイミングで、一斉に注目が
集まる。
それに驚いたのは俺の方だ。
みの
何しろ家族とッワクワクゴロさんを呼びにはやったけれど、ここ
には蓑を纏った集団が集まっていたのである。
ついでに講堂の中に猟犬まで数頭いるから驚きだ。
よくも司祭さまのお許しがあったと思ったら、肝心の司祭さまま
で法衣の上から鎖帷子を着こんで、手槍を持っていた。
僧兵丸出しである。
止めるべき人間があれでは、だれも文句は言うまい。
﹁おう、速いじゃないかシューター。まだ出陣の支度は出来ていな
いぜ﹂
﹁ッワクワクゴロさん?! あんた何を言ってこんなに人間を集め
たんですか﹂
﹁カムラの旦那が裏切りやがったというのだろう。あのひとは腕が
立つだろうから猟師をみんな叩き起こして集めたんだ﹂
弟たちと何事か打ち合わせていたッワクワクゴロさんが俺を見て
近づいてきた。
彼だけは蓑ではなくまだらの獣皮を被った防水仕様である。手に
は愛用の弓を持っていて、いつでも出陣出来るという格好だった。
938
﹁犯人の頭目はカムラさんという事でいいんだな﹂
﹁俺の考えが正しければ、そういう事になりますかねえ。だがまず
石塔にいるマイサンドラさんを尋問したいと。裏が取れればカムラ
さんの身柄を押さえたいと思います﹂
﹁ふむ。お前さんがそう言うのなら、そうなのだろう﹂
俺の説明に、ッワクワクゴロさんはあっけらかんと納得した。
こういう時に俺に身を預けてくれるのは嬉しいけれど、これで冤
罪でしたというのではまずい。
責任重大だ。
﹁まあ、旦那さま! とても顔色がお悪いですね﹂
﹁夏と言っても夜は冷え込みますから、そんなビショビショの格好
ではお風邪をひいてしまいます﹂
今の俺はよほど顔色が悪かったらしい。
したたる雨雫を連ならせて、声をかけて来た妻たちを振り返った。
﹁バジルちゃんもこんなに水浸しになっちゃって。ダルクちゃん、
拭いてあげて﹂
﹁はい義姉さん。あかちゃんおいで﹂
﹁キッキッブー﹂
俺が懐からあかちゃんを出してやると、それをタンヌダルクちゃ
んが受け取った。
バジルはあまり懐いていないタンヌダルクちゃんが手を出すとい
やいやをして軽く暴れて見せたが、カサンドラがニッコリわらうと
無抵抗になった。
空気を読んで今は暴れている場合じゃないと思ったらしい。
939
﹁エルパコちゃん、新しい手ぬぐいをくださいな。シューターさん
に渡してあげてください﹂
﹁うん、あのこれ⋮⋮﹂
俺は手ぬぐいを受け取って濡れた顔を丁寧に拭う。
﹁あらましはカサンドラから聞いていると思うので、結論から言い
ます。カムラさんの正体はブルカ辺境伯の回し者です。彼は女を利
用して色々と情報を集めたり噂を流したりしながら、それらをブル
カの街に報告していたみたいですね﹂
俺がそう言った瞬間に司祭さまが難しい顔をしてつばを飲み込ん
で言う。
﹁すると、うちの助祭たちが動き回っていたのも、カムラさんの命
令によるものだったんでしょうか?﹂
﹁わかりません。今の段階ではそこまで明言出来ませんが、状況的
にはそう判断せざるを得ない﹂
﹁詳しい事はあいつをとっちめればわかる事だからな。それで、カ
ムラの行き先は休憩小屋と石塔だったか﹂
ごつい拳をバシバシと左手でキャッチしながら、ッワクワクゴロ
さんがやる気満々の態度を見せてくれた。
﹁はい。休憩小屋で村長さまんところの下働きの女メリアと密会を
した後に、石塔に捕らわれているマイサンドラのところに、ですね﹂
﹁うむ﹂
﹁なるほど﹂
﹁休憩小屋で、どうやらメリアに地図を渡していたらしいです﹂
﹁地図、ですか?﹂
940
俺の状況報告に、司祭さまが首を傾げた。
猟師たちも困惑した顔でお互いの顔を見合わせている。
﹁そうです。冒険者ギルドで近頃行っていたサルワタの領地周辺の
マッピング作業、その完成地図をブルカ辺境伯に伝書鳩で送るとい
う作業をやっていたみたいですね﹂
地理情報は恐らく戦争をするにもスパイ行為をするにも活用でき
る戦略的情報だ。
きっとブルカ辺境伯も喉から手が出るほど周辺領主たちの地理情
報を欲しがっているのだろう。
﹁ははあ、つまりあれだな。鳩を飛ばすために村長さまンところの
いけ好かない下女を使っていたというわけか﹂
﹁そういう事ですね。休憩小屋でちょっと大人の関係を匂わせる様
なやりとりをしていたみたいなので、たぶん想像通りでしょう﹂
﹁あの中年、確かギルドの職員になった女にも手を出していたんじ
ゃないのか?﹂
けしからんな、とうごめく様に呟いたッワクワクゴロさんが鷲鼻
をひくつかせて言葉を続ける。
﹁それでカムラの旦那はその後に石塔に向かったのか﹂
﹁ほんの数分。そうですね、息を止めていられる程度の時間で、さ
っさと石塔から出てきましたので、何か申し送りだけして引き返し
た感じです﹂
﹁それでは、情報漏えいを警戒して口封じをしたという様な事は考
えられませんね﹂
﹁カムラの態度を見て居た限りでは、マイサンドラさんを殺したと
941
は思っていませんけど。人数も集まった事ですから様子を見に行き
ますか。聞きたい事もありますからね﹂
司祭の言葉に俺がそう言うと、ふたりは静かにうなずいた。
﹁それで、どうするつもりなのだ﹂
﹁人数を集めたので、カムラを取り押さえます。だがその前にマイ
サンドラから証言を取っておく事だ﹂
猟師のひとりが質問した事に俺が答えた。
﹁尋問をして罪を自白したのなら、カムラも言い逃れが出来ないで
しょうな。それにこの人数なら一気にカタを付ける事も出来ますな﹂
カプセルポーションの注入器具を改めながら、司祭さまがそう言
った。
まさか﹁尋問﹂などという物騒な言葉が司祭さまから飛び出すと
は思わなかったので驚きだ。
いや、この世界にはまともな科学検証や調書なんてものは作成し
ないんだ。
尋問で強引に自白に追い込むのだから、当たり前の事か⋮⋮
罪人にも優しくない世界だぜ。いったい誰に幸せな世界なんだろ
うね。
﹁その注入器具を何に使うんですかねえ司祭さま﹂
﹁何にって、もちろん尋問ですよ。本当はカムラを捕縛した時に自
白させようと思っていたのですが、それより前に使う事になりそう
だ﹂
﹁な、なるほど⋮⋮﹂
﹁相手に苦痛を与えるカプセルポーションもありますから、安心し
942
てください。犯罪に手を染める狂信的な女神様の信望者には、普通
の拷問では駄目ですからね。これならばどんな精神の強い信者でも、
女神様の前に罪を認めるでしょう﹂
自白剤でも中に入っているカプセルを検品しながら言う司祭さま
はちょっと怖かった。
だが普通に質問して答えてくれなさそうなマイサンドラさんには、
効果てき面だろうね。
何しろ彼女は熱心な女神信望者だというし。
﹁そ、それでは行きましょうか﹂
﹁はい旦那さま!﹂
俺が一同を見回して出立を口にすると、元気よくタンヌダルクち
ゃんまで蓑を被った姿で返事をした。
手にはご丁寧に俺が渡しておいたメイスまで持っている。
﹁お、奥さんたちは危険だからお留守番をしていなさい﹂
﹁そんなあ。わたしも武器の扱いは得意ですよ?﹂
﹁カサンドラの側に誰かいてやらないと不味いだろう。武器の扱い
が得意というなら安心だ﹂
﹁はい、ダルクちゃんの事はお任せください﹂
気病み上がりのカサンドラが、あべこべにタンヌダルクちゃんの
腕を取って任せてくれと言ってくれた。
そして俺たちは互いにうなずき合うと、吹き荒ぶ夜の嵐の中を石
塔に脚を向けたのだ。
◆
943
教会堂を出て一同そろって石塔を目指した。
雨風は先ほどよりもさらに強くなって、路端に並んでいる暴風林
の枝葉を激しくこすりつけているのが見えた。
歩きながら常夜灯の燈った夜の石塔を見上げるけれど、視界の先
に見える石塔は横殴りの雨でぼやけていた。
まるで呪われた魔界にでもやって来たような気分だな。
さしずめゴブリンたちを率いて歩く側らのッワクワクゴロさんは
魔王だ。
ちょうどまだら模様の獣皮外套を羽織っているので、よりそうい
う蛮族臭というか悪党臭が出ていると思ったのは内緒だ。
﹁その毛皮がリンクスのものですか﹂
﹁そうさ。俺が仕留めた中でもかなり大きいものの皮でこさえたん
だ。お前さんも今じゃ騎士さまだからな、今度いいのが捕れたら献
上してやるよ﹂
献上という言葉に苦笑しながらも気を引き締め直す。
さて、家々の並びを過ぎて防風林の細道を抜けた辺りで、村の中
央付近にある広場あたりにやってきた。
石塔まで遮るものが無いというそこに、黒い影がふたつ見える。
﹁よおシューター、オレ様をのけ者とはいい度胸じゃねえか。ん?﹂
鱗裂きのニシカさんだ。
今回は急いで人間を集めるのが目的だったから、村の外にある集
落に住むニシカさんにまで声をかける予定が無かったはずだ。
ニシカさんの側らに立っているゴブリンを見つけて、俺はッワク
ワクゴロさんに振り返った。
﹁俺の弟をひとりニシカの使いにやったんだ。のけ者にするとこの
944
女はスネるからな、後が怖い﹂
﹁んだと猿人間、聞こえてるぞ﹂
意地の悪いッワクワクゴロさんの言葉にニシカさんがムキになっ
ていたけれど、本人はポーズだけで文句を言ったらしい。
この場ではあまり使い道がなさそうな長弓も一応は用意している
らしい。
役者は勢ぞろいというわけか。
﹁村長さまには申し訳ないが、マイサンドラさんから証言を取った
後に、冒険者カムラを捕縛します。何しろ村長さまの屋敷の下女が
カムラと通じているところを見ると、どこから我々の情報がカムラ
に伝わるかもわかりません﹂
﹁そうだな。村長には後で何とでも説明するのがいいだろう。ただ
あの方は激情家だから、お怒りになると誰が鎮めるのかという話だ
が﹂
﹁わかってますよ。それは俺がやればいい﹂
ッワクワクゴロさんの言葉に俺は笑って返事した。
俺は村の警備責任者らしいからな、騎士で奴隷だけど役割は果た
さねばなるまい。
大丈夫、お兄ちゃんの頼みなら妹はきっと聞いてくれるはずだ。
945
83 続・奴はカムラ 前
石塔の扉を開く。
中に入る事になったのは俺とエルパコ主従、ッワクワクゴロさん、
ニシカさん、それから司祭さまだった。
後の人間はぐるりと石塔のまわりを固めたり、眼のいい猟師のひ
とりが見張り台に登って監視する事になる。
この後捕縛しなければならない冒険者カムラのところにも、今ッ
ワクワクゴロさんの弟のひとりが監視についているらしい。
猟師見習いの駆け出しゴブリンが、俺よりも恐らく腕が立つと思
われるカムラの相手になるかという問題はある。
けれども監視任務なら出来るし、何かあれば石塔の見張り台から
下まですぐに連絡が来るだろう。
﹁マイサンドラと面識があるものは?﹂
﹁ああ、オレも顔は知っている。あいつも元は猟師だからな、しか
も女だ﹂
﹁俺もあるぞ。何しろむかしは近所づきあいがあったからな﹂
そういえば元猟師の女だったからみんな面識があるのか。
司祭だけが申し訳なさそうな顔をしていたが、気にする事ではな
い。教会堂に来たことが無いのでは顔も覚えられないだろう。
石塔の中を足音響かせながら螺旋階段を下り行くと、果たしてそ
こには石壁に背中を預けた女が、地下牢の中でくつろいでいた。
﹁聞き覚えのある声がするし誰かと思えば鼻たれニシカに、弱虫ッ
ワクワクじゃない。相変わらず景気の悪い顔をお揃えで、わたしに
946
何かご用かしら?﹂
たいへん不遜な態度で俺たちを見上げていたマイサンドラさんだ。
俺の顔を見つけておやっという表情をする。
﹁知らない顔ね。その身なりからすると高貴なお方の様だけど、わ
たしを尋問しに来たのかしら? わたしは何もしゃべらない。わた
しは尋問には屈しない。女神様はわたしをお守りくださるわ﹂
彼女は熱心な女神崇拝者というからな。
言い方は悪いが信じるものに疑いのない人間は、こういうところ
で心が強いんだろう。
ポーションで自白を迫られるとは知らないマイサンドラは覚悟の
顔をして俺を見上げていた。
﹁領主アレクサンドロシアに仕える騎士シューターです。いや、カ
サンドラの夫と言った方が伝わりますか?﹂
あえて俺はそういう風に自己紹介をした。
すると予想通り、急に睨み付けるような表情をしてマイサンドラ
が身を乗り出してくる。
﹁お、お前がわたしの弟からカサンドラを奪ったのね。それにカム
ラからも⋮⋮﹂
﹁そのあたり、詳しく聞かせてもらいましょうか。なに、必ず自白
する様に司祭さまもご協力してくださるんですよ﹂
﹁な、んで⋮⋮﹂
俺がそう口にしたところで、暗がりからぬっと司祭さまが顔を出
す。
947
白髪の禿げ頭を見た瞬間、信じられないという表情をしてマイサ
ンドラが俺たちを睨み付けていた。
まさか自分の信奉する宗教の司祭が、自分に味方せず俺に協力す
るなんて思ってもみなかったんだろうな。
﹁ッワクワク、ニシカ、あんたたちも、この男に協力するの? こ
の得体の知れないよそ者に、弟からカサンドラを奪った男に!﹂
﹁マイサンドラさん、あんたはもうこの村の人間じゃないんだから、
そういう口の利き方はないんじゃないですかねえ。しかもおっさん
は俺の嫁に手を出したような重罪人ですよ。あんたはこれから真実
をしゃべるんだ﹂
﹁この裏切り者、この不信心者! 司祭さままでが味方するなんて、
ああっ女神様!﹂
暗がりの中でマイサンドラが檻を掴んで咆えた。
狂った人間という印象はマイサンドラから感じなかったが、司祭
まで味方をしているのが信じられず、受け入れられないらしい。
古い知り合いとして見かねたのだろうか、ニシカさんが俺を急か
す。
﹁お、おい、ポーションで自白させるんだろ、鍵は誰が持ってるん
だ﹂
﹁あっ俺です。これでも村の警備責任者なんですよ﹂
ニシカさんの質問にズボンのポケットを探って数珠つなぎの鍵を
引っ張り出した。
するとそれを奪う様にして取り、ガチャガチャと鍵を開ける。
﹁マイサンドラ、悪く思わないでくれよ。おいッワクワクゴロ、見
てないで手伝え﹂
948
﹁お、おう﹂
﹁離せ、お前たち裏切り者がいなければ弟は、弟は幸せに﹂
暴れるマイサンドラをふたりが取り押さえて、そこに注入器具へ
カプセルポーションをセットし終えた司祭さまが腕に注入する。
﹁おやめください司祭さま。わたしは常に女神様への信仰を忘れた
ことはありません、決して女神様への教えに逆らった事はありませ
ん、どうかご慈悲をたまわりますよう。ああ女神様わたしをお救い
に下さい。信仰を捨てなければお救い下さるという言葉を信じてい
ます。わたしの不幸なこの身の上をお救い下さい。やめて、それを
わたしに近づけないで! あっ⋮⋮へぁ⋮⋮﹂
プシュウという音をたてた注入器具のポーション挿入が終わると、
一瞬にしてマイサンドラの激しい表情が奪われていく。
﹁これ、ポーションをキめるとどうなるんですかね?﹂
﹁抵抗はしなくなり大人しくなりますよ。その後、心の中で苦しみ
葛藤と戦う様になります﹂
﹁すると夢の中でうなされる感じなのか⋮⋮﹂
﹁その夢の中で、もっとも信頼する存在に導かれてる幻を見て、何
でも自白するようになるでしょう﹂
﹁えげつないなあ。教会堂にはそんなものが常備されているのです
か﹂
﹁異端審問はわれわれの独占するところですから﹂
辺境の女神信仰布教を担っている者らしく、司祭さまはきっぱり
とそう言ったのである。
◆
949
﹁あなたの名前は何ですかね﹂
﹁⋮⋮マイサンドラ、エルドラの嫡娘マイサンドラ﹂
﹁マイサンドラさんは隣の村に嫁いでいったと言いましたね。夫の
名前は何ですか? どうして村に戻って着たのですかね?﹂
﹁⋮⋮夫の名前はアゼル。今はクワズの村を出てわたしたち夫婦は
ブルカで生活している。⋮⋮復讐を果たすために村に戻った﹂
俺と司祭さまは顔を見合わせた。
さらりと衝撃的な事を言ったが、ひとまず自白ポーションの投与
は成功らしい。
時折、表情を失った顔を引きつらせてビクビクと身を揺すってい
るが、きっと心の中で悪夢にでもうなされているのだろう。
最も信頼するものに導かれると言うから、女神様に幻の中で拷問
でもされているのだろうか。
﹁偽装結婚をしていたという事か。マイサンドラさん、そのあたり
はどうなんですかね? あなたはどうして偽装結婚をしたのかな﹂
﹁アゼルは辺境伯のスパイだった。わたしは村に復讐を果たすため
にこの身を捧げた﹂
じわじわと自白をしはじめたマイサンドラの言葉をまとめると、
次のとおりである。
﹁わたしは村が憎らしかった、嫌いだった。子供の頃から猟師を蔑
みいじめを受け、あまつさえ両親が死んでからは食べるのも困った。
女神様に祈りを捧げる事だけが唯一の心の救いだった﹂
ある時、隣の村近くまで獲物である熊を追って猟に出た際、後に
偽装結婚をする事になるアゼルという夫に出会ったのだと言う。
950
アゼルは村での役割を終えるところで、クワズの村を引き払って
ブルカの街に引きあげる際、夫婦となって付いて行ったのだそうだ。
それが三年前の事。
ブルカ辺境伯は、こういう形で辺境周辺の村に息のかかった情報
提供者を潜ませているらしい。
﹁この村でその役割を担っているのは、誰ですか?﹂
﹁⋮⋮教会堂の助祭さま、それに﹂
﹁それに誰ですか?﹂
﹁冒険者カムラ﹂
よし、点と点がつながった。
俺たち全員が顔を見合わせてうなずきあった。
質問を続ける。
﹁あなたは復讐と言いましたね、あなたの復讐の内容は何でしょう。
カムラの目的は何でしょうね﹂
﹁⋮⋮わたしは両親を見殺しにしたこの村の人間を許さない。両親
が流行病に倒れた時、誰も助けてくれなかった。教会堂に助けを求
めた時も、村人たちはわたしに暴行を加えて追い払った﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そんな事があったのかと俺と司祭さまが驚いていると、ッワクワ
クゴロさんは身に覚えがあったらしい。
あの女村長ならばこういう時はまずもって救済処置をしそうなも
のだが、何も無かったのか。
﹁俺の両親もその時にポックリいった。前の村長さまもだ。あの時
はみんな流行病で死んだし、たぶん村の連中もそれどころじゃなか
ったんだろう﹂
951
﹁わたしが村にやって来たのは、その流行病の時ですね。ずいぶん
とひとがお亡くなりになった後で、最初の仕事は合同葬儀でしたか
ら⋮⋮﹂
ッワクワクゴロさんと司祭さまがそう言った。
わりと凄惨な過去がその頃にあったらしい。
確かに自分の夫が死ぬような事態になって、全ての村人を救済す
る様な余裕はその頃の村にはなかったのかもしれない。
きっと村の開拓も当時はそこまで進んでいなかったはずだ。
﹁この村にはさんざんな目にあわされた。だからこの村をブルカの
辺境伯さまのものにする計画に協力をする﹂
﹁つまりカムラはこの村の情報をかき集めて、それをブルカ辺境伯
に送り届けるのが仕事。という事で?﹂
﹁⋮⋮村の人間として生活を続け、やがて女神様のご指示ある時は
村を内側から崩壊させるのさ﹂
フっと笑って見せたマイサンドラが、俺の顔を見上げた。
ポーションが効いているのではないのか。
﹁せめてわたしは、弟に幸せになってもらいたかっただけよ。いず
れこの村が辺境伯さまの領地となった暁には、オッサンドラは晴れ
て騎士さまになるはずだったんだ。そうすればもう、わたしも弟も
お貴族さまよ、誰もわたしたちには逆らえない﹂
フフフフッ、アハハハハ!
突然笑い出したマイサンドラは、ぶるんと強く身震いして取り押
さえているッワクワクゴロさんとニシカさんに抵抗をはじめた。
おかしい。どうして自白ポーションが効いているはずなにこれほ
952
ど笑っていられるのだ。
俺が効果を疑って暴れるマイサンドラを押さえつけながら司祭さ
まを見る。
司祭さまは追加の自白ポーションを注入器具にセットしながら、
それをマイサンドラの首に押し付けた。
﹁これは、事前に抗ポーション処置がされていますね。すでに何か
のポーションをキめていた様です﹂
﹁マジかよ。するとカムラだな⋮⋮﹂
﹁女神様、お救い下さい!﹂
最後の抵抗のつもりか叫んだマイサンドラの声が、石塔の中を激
しく駆け抜けた。
だがこれで、カムラの目的とマイサンドラの目的が分かった。
ついでに助祭さまが、ブルカ辺境伯がこの村に送り込んだスリー
パーであったことがすべてわかった。
﹁カムラを、捕縛しましょう﹂
大人しくなったマイサンドラを干し草のベッドに寝かせて、俺は
皆にそう言った。
953
83 続・奴はカムラ 前︵後書き︶
第82話投稿時に、誤って今回の第83話の一部が混入してしまい
ました。
改めてこちらに転載いたしました。
954
84 続・奴はカムラ 後︵前書き︶
更新遅くなってスイマセン、お待たせしました!
955
84 続・奴はカムラ 後
雷鳴とどろく嵐の夜、俺たちは元は村の倉庫だった冒険者ギルド
の出張所をぐるりと包囲していた。
冒険者ギルドの建物は全部でみっつある。
受付の有る事務棟と、居住区閣のある宿舎、そして食堂だ。
カムラは普段、事務棟で遅くまで作業をしているが、今日はすで
に宿舎に戻っていることを確認している。
俺たちが眼を離したすきに移動しているという可能性もあるので、
猟師仲間たちの何人かは事務棟や食堂の方にも人員を割いて見張り
に付いた。
﹁よし、中に踏み込もう﹂
﹁おうし、いつでもいいぜ﹂
ニシカさんは小声だったけれど吠えて見せた。
屋内に踏み込むためには柄の長い武器は不利になるが、その点で
手槍はありがたかった。
自分の肩ほどの高さ︵長さ︶しかない手槍なら、屋内でも取り回
しがしやすい。
短剣は最後の最後で抜く予備の武器だ。
猟師はみんな手槍の使い手というのが最高の安心材料だな。
そして俺は村の警備責任者という立場だった事をこれほど感謝し
た事は無かった。
奴隷騎士などと一部の村人からはさんざん言われていたが、おか
げでこうして手元にあらゆる施設の鍵があるのだ。
956
音をたてない様に極力静かに鍵を開けると、水分を吸って重くな
った扉を開いた。
ここまで全員無言である。
ッワクワクゴロさんの指示で、ひとりがカムラが寝泊まりしてい
る事が解っている部屋割りの外壁に移動した。
内部を探っているのだろう。耳を当てて音を確認してから振り返
りうなずいた。
ここもガラス窓ではなく板窓というのが嬉しかった。
どうせ突入して捕縛する事が目的なら、相手からこちらの状況が
丸見えになってしまう可能性のあるガラス窓よりもありがたいじゃ
ないか。
まずニシカさんが侵入し、次に俺とエルパコ、そしてッワクワク
ゴロさん、司祭さまという順番に廊下を移動した。
残りのゴブリンたち数名が、他の冒険者たちが騒ぎを聞きつけて
飛び出した時用に追従する。
カムラの部屋を目指す途中で、冒険者たちのいびきや寝返りをう
つ音、衣擦れの音を耳にして、少しだけヒヤリとした気分になる。
背後でもみみをピクピクと動かしながら、エルパコが俺の服の袖を
握った。
部屋の目前までやって来た。
ニシカさんとッワクワクゴロさんが気配察知をしようと耳を立て
ている。
どうだろう、美中年は寝ているだろうか。
俺は胸の鼓動が早まっていくのを感じながら、手槍を握る手にじ
っとりとした感触が広がるのを覚えた。
たぶんそれは、雨に濡れただけが原因じゃない。
そっと扉に手を置いて中を探っていたニシカさんが、不意に俺の
顔を見た。
957
ハンドサインを送って来た。
ニシカさんが腰のナイフを二度叩き、扉の向こうを示す。
どうやらカムラは俺たちの侵入に気付いたらしい。
猟師でもないのにそんな事が出来るのか、いや死線を潜り抜けて
来た冒険者だからできるんだな。
きっと殺気を察知したのだ。
ッワクワクゴロさんがうなづき、俺も強行突破の覚悟を決めた。
背後でエルパコも身構え、そして僧兵スタイルの司祭さまも手槍
を身構えた。
ドカン。バキッ
俺が勢いよく扉を蹴りつける。
古い倉庫を改装した部屋だけあって、扉はだいぶ痛んでいたらし
い。
ほんの一撃で扉の板を破る事が出来たが、どうやら扉そのものを
蹴り飛ばす事は不可能だったらしい。
いちいち構っていられないので、そのまま体当たり気味に突入し
た。
﹁カムラ、神妙にしろや!﹂
俺に続いて突入したニシカさんが、手槍を構えながら寝台にいる
はずのカムラに槍を突きつける。
そこには肌着姿をした男女が三人いた。
ニシカさんが使った発光の魔法のおかげで顔の確認はバッチリと
出来る。
958
男は言わずと知れた冒険者ギルド長の美中年カムラ。どんぐりの
様な眼をして俺たちを見つめていた。
そして女たちふたりは村の年頃娘で、ギルドで事務作業をやって
いるはずの女たちだ。
女たちは状況を飲み込めないのか眼を白黒とさせて不安な表情を
している。
﹁さあ、俺たちに大人しく捕縛されてもらいましょうか。君たちも
抵抗しないように﹂
﹁なるほど。俺を捕まえると⋮⋮﹂
﹁そうだぜ。ネタは上がってるんだよ! 手前ぇが休憩小屋でしっ
ぽりしてた事も、石塔でマイサンドラと会っていた事もな。そろそ
ろオレたちの手をこれ以上わずらわせるのも飽きただろう。ん?﹂
本来は俺が言いたかった口上を、手槍を突きつけながらニシカさ
んが奪って言ってしまった。
だが、カムラはこういう時の常道よろしく、毛布をバサリと投げ
捨てて俺たちの視界を奪おうとした。
﹁そうはいくか! くらぇ!﹂
﹁キャア、風が﹂
﹁服がズタズタに?!﹂
﹁ちょ、ニシカさん待ってくだ︱︱﹂
叫びを上げたニシカさんが、狭い室内の中で竜巻の魔法を現出さ
せたかと思うと、俺たちに覆い被さろうとした毛布を強引に巻き上
げる。
肌着姿のまま剣を鞘走りさせようとする美中年カムラの姿が暗闇
に浮かんだ。
959
﹁させるか!﹂
後から突入したッワクワクゴロさんやエルパコも加わって手槍を
カムラに突き出そうとしたけれど。
カムラは無言のまま鬼の形相で右手を突き出すと、そこから竜巻
の中で水の魔法を発射したのだ。
﹁うおっ!﹂
﹁ちょまやめ!﹂
﹁わっ!﹂
竜巻に水の塊が突っ込んで、部屋の中いっぱいに大粒の水玉がぐ
るぐると巻き上がる格好になった。
自分が先ほど抱いていた女たちの事なんかお構いなしの美中年だ。
くそう、カムラが魔法を使えるなんて聞いていねえぞ!
だがそう後悔するには遅すぎる。
俺が片目で美中年を見やると、巻き上げる風圧でブロンドの髪を
滅茶苦茶にしながら、カムラが板窓から外に飛び出す姿がチラリと
見えた。
﹁逃げたぞ! ニシカさん竜巻を消してください!!﹂
﹁お、おう。待ってくれ!﹂
﹁女たちを取り押さえろ、お前たちこっちに来い!﹂
俺もカムラを追って板窓の外に飛び出す。
すでに美中年は外で見張りに付いていた猟師仲間たちを例のウォ
ーターボールを使って倒していたらしい。
雷鳴とどろく中を逃げようと駆け出したところだった。
﹁大丈夫か﹂
960
﹁いでえええ、腕をやられた!﹂
そんな叫び声を聞きながらも、俺が走り出しエルパコが背後から
少し遅れて追って来る様だった。
ニシカさんとッワクワクゴロさんは、チラリと見やったところだ
いぶ遅れている。
くそう。畜生!
美中年カムラは何故バレたんだという驚愕の顔をしていたけれど、
それは俺たちだって同じだ。
俺たちが包囲網を敷いていた事に気付かれたのは経験の差か、運
が味方をしているのか。
何としても俺はここで一連の事件の真犯人を捕まえて事件を解決、
村に、俺の居場所に平和をもたらすんだ。
嵐で泥まみれになった地面に足を捕らわれそうになりながら、必
死で逃げようとするカムラを追った。
あいつは、どこに逃げようとしているんだ。
この方角からすると⋮⋮
厩だ、村で数頭しかいない馬を繋いでいる厩に向かっている!
しかも美中年は俺と一歳違いでしかないのに、さすが冒険者だか
らなのか足が速い!
逃がしてたまるか!
俺そう心の中で悔しさを滲ませながら追いかけているところ、側
面から風雨を切り裂く様に一条の疾風が走り抜けた。
弓矢だ。
この強弓はニシカさんだ。いいぞ!
走り抜けた矢は鋭く美中年カムラの脚に刺し込まれたと思うと、
カムラはもんどりを打って転げた。
961
そのまま走りながら俺は手槍を構え直すと、起き上がろうとして
いるカムラに突き込もうとした。
手槍は空を切り、咄嗟に体を入れ替えたカムラが抜剣する。
剣を振りかぶった美中年は、慌てて俺が引き上げた手槍を見事に
断ち切った。
重く体重を乗せながら、それでいて素早い一撃だ。
たぶん俺とカムラの技量はほぼ同格なんじゃないかと改めて俺は
思う。
すぐさま真っ二つに割れた手槍を放り出して、短剣を抜いた。
互いにその瞬間、距離を広げた。
﹁シューター君⋮⋮﹂
﹁まさかあんたがブルカ辺境伯のスパイだったとは驚きだよ﹂
俺とカムラは互いに肩で息をしながら、ジリジリと剣を突きつけ
合う。
例え実力拮抗な気がしたとしても、残念ながらカムラは太腿に矢
を受けている。
﹁どこで気が付いた。君の言うアリバイとやらはしっかりと作って
いたはずだから、疑われるはずが無かった﹂
﹁だってそうでしょう? 美中年のくせにいままで女に不自由して
いたなんて言葉は、ブサイクの俺からすれば信じられないんですよ
ねえ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁しかも。女にモテた試しがないというのに、あちこちの女に手を
出しているじゃないですか。とんだ大嘘だ。村長さまのところのメ
リアに、ギルドの女たち、他にはいったい誰を垂らし込んだんです
962
か。ええ?﹂
﹁これも任務のためだよ﹂
﹁任務だと? 任務でおっさんをそそのかして、カサンドラを強姦
させたのか。言え!﹂
﹁あれは、助祭とマイサンドラが計画してやった事さ。俺には関係
ない﹂
﹁だがあんたがこの村を台無しにするための計画のリーダーなんだ
ろう。その辺りのところ、捕まえて自白してもらおうか﹂
﹁俺も簡単には捕まるつもりがないさ、そうされるぐらいなら死ぬ
方を選ぶ⋮⋮﹂
マジかよ。
カムラはそう言うと、改めて白刃を俺に突き出してきた。
だが、やはり太腿を射抜かれて脚に力がこもらないらしい。
あと一歩のところを俺はひらりとかわしながら、カムラの脇腹に
短剣を走らせた。
俺の短剣はさほど切れ味がいいものではない。
この世界で愛されている様な刃広の長剣ほど肉厚な刃も持ってい
ない。
ひるがえって数合ほど剣を交えながら互いに決定力に欠ける一撃
で斬り結んだ。
白刃を人間と交えるのは恐ろしい。
実力差があるならば多少心に余裕が出来るはずだが、カムラはや
はり剣達者だった。
太腿の傷を差し引いても、刃渡りの短い俺の剣で肉薄する事はか
なわない。
﹁大人しく捕まる気はないですかね﹂
﹁俺に舌を噛み切って死ねというのかい? 後生だよ﹂
963
﹁これまでさんざん村を滅茶苦茶にしておいて、好き勝手な事を言
ってくれますね﹂
﹁どのみち自白ポーションなんか打ち込まれるなら、舌をかみ切る
さ。君も騎士なら、情けをくれないか﹂
﹁何が情けだ!﹂
﹁オッサンドラは最後に希望をかなえられた。俺は情け深い男さ﹂
きっと俺は挑発に乗せられてしまったんだろう。
それをわかっていながら、挑発に乗って剣を突き込んでしまった。
また斬り結びながら互いに距離を測り合った。
らちがあかねぇ!
苛立ちを覚えた俺とカムラが、ほぼ同時に剣を繰り出した。
カムラは水平に腕の力いっぱいに長剣を振り込んでくる。
俺は覚悟を決めて、上段に山を返しながら短剣を振り下ろす。
双方ぶつかり合った。
相手の距離を詰めて攻撃を躊躇させる様に俺が前進すると、長剣
の刃の付け根が俺のあばらに強く叩き付けられる感覚が走り抜けた。
斬られた、という自覚と俺は引き換えに、カムラの頸根から胸元
に向けて深く強く、俺の剣が切り抜けた。
くそう。しくじった。熱い、痛い。
崩れ落ちるカムラを見下ろしながら、短剣を取りこぼして斬られ
た脇を俺はたまらず抑え込んだ。
結局、手加減する余裕は無かったな⋮⋮
﹁⋮⋮見事だ、シューター君﹂
﹁ああそうかい﹂
964
﹁君は俺の邪魔をする人間になるんじゃないかと、最初から思って
いたよ⋮⋮﹂
﹁あんたのおかげで、俺は死ぬほど痛い⋮⋮﹂
見下ろしているカムラは頸根からドバドバと流血をさせて、暗が
りの中でじわりと黒い血だまりを作っていく。
俺は脇を抑えながらカムラの手から剣を蹴り飛ばした。
抵抗する力も失ったカムラは、ただぼんやりと俺を見上げている
らしく、徐々に息が浅くなっていく。
これは、もう手当てをしても助からないだろうな。
血が流れ過ぎた。自白は期待できない。
どこかで冷静になった俺がそういう思案をしていると、最後の最
後でカムラが口を開く。
﹁⋮⋮これも仕事だ。情報は死んで異世界まで持っていく事にする。
悪く思うなよ﹂
﹁うるさいよ、あんたしゃべり過ぎだ﹂
その言葉を聞き届けて短剣を拾い上げると、冒険者カムラに止め
を刺した。
俺の腕で首を跳ね飛ばすなんて出来ないから、胸にひと刺しだ。
せめてもの情けのつもりだったが、上手くできたかはわからなか
った。
﹁シューターさん、大丈夫?!﹂
﹁みんな手を貸せ、傷口を抑えるんだ!﹂
意識が遠のいていく。
徐々に足の力がなくなっていく。
周囲で駆けつけて来た仲間たちの騒がしさを耳にしながら、俺は
965
脱力した。
俺もカムラの事は言えない、体から血を流し過ぎたな。
これはしばらく静養が必要になるかもな。
アレクサンドロシアちゃんは何というだろうか。よくやった? 怪我を負うとは何事か?
でも、おかげで家族水入らずゆっくりできるかな。
そんな事を考えていると、消えゆく意識の向こう側で、最後に何
かが聞こえた。
﹁おい、灯りと馬蹄の音が近づいて来るぞ!﹂
966
84 続・奴はカムラ 後︵後書き︶
本日、おかげさまを持ちましたブクマ3000、総合得点8000
ptに到達する事が出来ました!
これもひとえに読者のみなさまのおかげです。
ありがとうございます、ありがとうございます!
967
85 目が覚めると俺は新居に引っ越していた
俺はしばらくの間、夢うつつの状態を繰り返していた。
寝ている場所はどこだろうか、見覚えのない天井に真新しい室内。
それに時折、俺は確かに眼をしっかり開けていた感覚があるのに、
まるで体の自由が利かない。
発熱している事は明確に脳が意識していて、妙な吐き気もあった。
その状態で、俺は横になったまま時間の経過もよくわからない状
態で過ごしていた。
時間がたつとそのうちに極度に疲れた気分になり、また眠りにつ
いてしまう。
ところが眠りが浅いのか、周囲で人間が何事か会話している声も
しっかりと耳に届いているのだ。
やがて夜がやってくると、妙に意識だけはしっかりした状態で誰
かが俺を覗き込んでくるのが分かった。
俺はというと必死で起きてるぞ、要件は何だ、と訴えかけようと
するのだが、それが出来ない。
もしかしてこれが世に言う金縛りというやつかと妙な関心をして
いると、また意識を失っていた。
何度もそんな状態を繰り返した暗がりの中。
今度は俺の体の上を誰かが足踏みしている様な感覚に陥った。
陥った、という風に言うのは、実際にそうだったかどうか俺の記
憶が曖昧だからである。
曖昧といえば俺が横になっている間の記憶が全て曖昧で、それこ
968
そ夢うつつの中でそう勝手に俺が思っているだけなのかもしれない。
心霊現象でも経験している様に、ずっとぎしぎしと俺を踏みつけ
るような感覚に体中が苦痛を訴え続け、また気を失った。
もしもこれが何者かの呪いならこれは恐ろしい事である。
ここはワイバーンがいて、バジリスクがいるファンタジー世界だ
から、何があってもおかしくない。
最後に、俺は明確な記憶に残る様な夢を見た。
以前この村にやって来てしばらくした頃に見たものと同じ。
いや、その続きの夢と言った方がいいかもしれない。
バイトを終えた帰り、立ち飲み屋に向かう途中で繁華街を反れて
裏道に入った俺の記憶である。
いや、正確にはこれも実際の記憶とは違うのかもしれない。
何しろ俺はこの世界にやって来たときの事を、曖昧なものですら
覚えていないからだ。
立ち飲み屋に行くはずが、全裸でこの世界でサルワタの森の近く
をさまよっていたんだからな!
事実か仮想か、その記憶を紐解いてみると、あの時俺は小さな生
き物を追いかけていたらしい。
珍しいものを見た驚きで、ついそれがどこい行くのか見届けよう
と追いかけたのだ。
そしてこの世界に迷い込んだ。
これがどうやら、俺の見た記憶の全てだ。
ちなみに、小さな生き物というのはッヨイさまだった。
◆
眼がさめると、俺は体が自由に動く様になっている事に気が付い
た。
969
傷口はやはり疼く。聖なる癒しの魔法によって傷口そのものは縫
合されているみたいだが、体の芯の部分はまだ傷が治まっていない
という気分だ。
﹁ようやくお目覚めかしら、奴隷騎士さん。シューターはふた晩ほ
ど寝たきりだったのよ﹂
部屋の中を見回すと、壁際に小さな執務机みたいなのがあって、
そこに肘をついてイスに座っている灰色の法衣姿の少女がいた。
メガネが顔のワンポイントになっているロングヘアの聖少女と言
えば、雁木マリである。
﹁マリ、村に着いてたのか﹂
﹁ちょうどあたしたちが到着したタイミングで、おま、シューター
が意識を失ったのよ。大変だったんだから﹂
﹁そうか、じゃあ危機一髪で助かったんだな。ありがとうございま
す、ありがとうございます﹂
﹁ッヨイが思いっきり急かしてくれたから、こうして間に合ったん
だから。ッヨイには感謝なさいな﹂
﹁そうか。ッヨイさまありがとうございます﹂
しかしこの部屋にはッヨイさまはいなかった。
﹁ここはどこだ?﹂
﹁おま、シューターの家らしいわよ﹂
どうやら、いちいちお前と言いかけたところでシューターと言い
直そうと努力してくれているらしい。
以前などは身分通りの奴隷扱いで﹁お前﹂と侮蔑の表情と一緒に
罵ってくれたものだ。
970
それが今ではある程度の敬意を払って、俺の相手をしてくれてい
る。
久しぶりに会ったから、ちょっと嬉しくなってるんじゃないのか
雁木マリよ。ん?
﹁いや。俺の家ってもっとこう、八畳一間の小屋みたいな家だった
んですがねえ﹂
﹁ドロシア卿が用意した新居だと聞いたわよ。おま、シューターが
寝ている間にお引越しは完了。前の小屋みたいな家だと、あたしと
ッヨイが寝泊まりする場所がないでしょ?﹂
﹁ひとの家を小屋とか言うなよな﹂
﹁お前が自分で小屋みたいな家って言ったんでしょ! 奴隷にぴっ
たりの家だったとでも言わせたいわけ?!﹂
はい。雁木マリの本性いただきました。
やっぱりマリは、よそ行きの口調よりも口汚い方がマリらしいぜ。
﹁それで家族はどこにいるんだ。まさか俺だけ新居に追い出された
なんて事は無いよな﹂
﹁あんたが寝ているベッドは大きいでしょ。ドロシア卿が用意した
特注品よ、ひとが五人並んでも寝られるという特別仕様のね﹂
﹁いや、うちは四人家族なんでそんなに広くなくていいです。いや
バジルを入れると四人と一匹か﹂
エルパコを勘定に入れるなら四人だが、エルパコは奥さんじゃな
いので同じ寝台に寝る事は無い。
﹁まったく、シューターの奥さんたちは隣の部屋でお勉強会をやっ
ているわよ﹂
﹁お勉強会?﹂
971
お勉強会って期末試験でもあるのかな?
﹁新婚さんだって言うから、幸せいっぱいの初々しい夫婦生活が恋
しくて、ッヨイを捨てて村に帰って来たのかと思ったら。ひとりじ
ゃなくて三人も! しかも野牛にハイエナの獣人だなんて。シュー
ターはドスケベだわ﹂
ドスケベって言葉を久々に耳にした気がする。
ああ懐かしい日本語フレーズ。
﹁そのドスケベの旦那さまのために、奥様がたは読み書きのお勉強
会よ。ハイエナのご夫人が読み書きも出来ると言うし、ちょうどッ
ヨイもいるから四人でね﹂
﹁おい待てよ、ハイエナの獣人って誰だ? 俺の奥さんはふたりし
かいないんだが⋮⋮﹂
﹁ハイエナって言ったら、ハイエナでしょうが。お前は奥さんの出
自も知らないで結婚したの? ホント下半身が欲望の固まりみたい
な男ね。やっぱりお前はッヨイの奴隷をやっているぐらいが、奥様
がたの身のためになったのかも知れないわ。ああ失敗した﹂
もしかしてその、ハイエナの獣人というのはエルパコの事を言っ
ているのだろうか。
エルパコは狐のけもみみかと思っていたら、確か女村長もあれは
違うと言っていた気がする。
そんな事を言い出したのは、確か事件の発端になった建設現場の
殺人と放火の夜、女村長と過ごした食事会で言い出したことだ。
あの時がたぶん、エルパコと女村長がはじめてまともに顔を合わ
せたタイミングか⋮⋮
972
﹁エルパコ本人は、自分は狐獣人だと言っていたんだよね﹂
﹁そうなの? ハイエナなのに何でかしら﹂
﹁両親がゴブリンでな。いや、里親がゴブリンの猟師だったんだ。
だからたぶんお前は狐獣人と言われて育ったんだよ﹂
﹁あれだけ立派な銀の髪をしてるんだから、ハイエナ獣人の女性っ
てわかりそうなものだけど。それにほら、りっりっ立派な﹂
﹁ご子息﹂
﹁そう、ご子息がついているでしょう。あれは女性のあの部分が発
達して、そういう風に擬態しているのよ。ハイエナの特徴だわ﹂
﹁まじかよ。あれ女の子の芽だったのか。男も女もハイエナ獣人は
みんなそうなのか? ついてるの?﹂
﹁シューターまさか男か女かも確かめないで奥さんにしたの? 変
態このドスケベ! ご夫人に失礼じゃないの!﹂
﹁いやぁ奥さんじゃないから。しかも男だと思ってたから。本人も
ついてるから男だと思ってたみたいだし⋮⋮﹂
身も蓋もない会話をしたところで気恥ずかしくなったのか、雁木
マリがコホンと咳払いをして立ち上がった。
考えてみれば灰色の法衣姿を着た雁木マリの姿なんてはじめて見
る。
パイ
いつもはノースリーブのワンピース姿だったので、こいつが騎士
修道会の聖少女だって事を改めて思い出させてくれた。
胸元には騎士修道会をあらわす紋章というのだろうか、記号のΠ
みたいなロゴデザインが施されている。
パイはないのにパイの紋とはこれいかに。
﹁さ、手を出しなさい﹂
﹁おう﹂
﹁脈を診るから。大分無駄に血を流したのかと思ったけど、斬られ
た時に上手く脇を避けて胸の位置を斬らせたのは上手いやり方だっ
973
たわね﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁動脈を避けていたので、複数のポーションを投与しただけで大分
効果があったわ﹂
自分ではあまり意識していなかったが、もしかすると切られる瞬
間にとっさの判断で、受ける位置を調整したのかもしれない。
いや、そんな事が出来るほどあの戦いに余裕は無かったはずだ。
やはり俺はいろいろと運に助けられたんだと思っていた方がいい
かもしれない。
﹁しばらくは安静にしていないと駄目ね。ここふた晩は食事もして
いなくて、全部ポーションで栄養を摂取させたから、まずは食べて
胃を落ち着かせる事よ﹂
﹁そうかわかった。だがいろいろとやる事があるからなぁ騎士とも
なると。家族水入らずでゆっくりしたいんだが﹂
﹁聞いてるわ。今はドロシア卿に仕える騎士さまに出世というじゃ
ない。けど、サルワタ教会堂の助祭マテルドの尋問を行うのは、も
う少し体が生命力を蓄えてからにしなさい﹂
﹁⋮⋮え?!﹂
﹁これは騎士修道会の魔法医療従事者としても、なっ仲間としても
忠告するのよ?﹂
今とても気恥ずかしそうな顔をして雁木マリが俺に言葉を投げか
けながら、脈をとっていた手を離した。
何を気恥ずかしそうにしているのか知らないが、それより聞き逃
してはいけないフレーズが飛び出したじゃないか。
俺はたまらず離れようとするマリの手を両手で掴んだ。
﹁おい雁木マリ君!﹂
974
﹁きゃ何するのよ、あなた奥さんが三人もいるんでしょ?!﹂
﹁あんた今、助祭を尋問するとか口にしたな?﹂
﹁したわよ放しなさいよ、奥様に見られたら妙な誤解されちゃうか
ら﹂
﹁助祭はこの村にいるのか?! 逃げたんじゃないのか﹂
﹁ええそうよ、あたしたちが村に向かう途中で、怪しげな旅の修道
士を見つけたから捕まえたのよ。そしたら村から逃げ出した助祭と
いうじゃない。⋮⋮ねえ落ち着いてシューター、わたしはまだ結婚
とか考えてないの﹂
そうか。ブルカ辺境伯のもとへ逃亡する途中で、助祭さまは捕ま
ったか。
いつまでも雁木マリの手を握りながら助祭さまの顛末を反芻して
いると、いよいよ顔を真っ赤にしたマリが強引に手を離して距離を
取った。
﹁か、考えさせてちょうだい﹂
﹁何をだよ﹂
﹁これからの事よ! まずはお友だちからはじめましょう﹂
わけがわからないよ。
俺たち仲間だろ、友達じゃなかったの?
975
85 目が覚めると俺は新居に引っ越していた︵後書き︶
ただいま出先のため、感想レスは後日になってしまいます。
しばしお待ちを!!!!
976
86 俺、大家族になります︵前書き︶
977
86 俺、大家族になります
寝たきり生活をしている時に感じた、誰かが夜中に足踏みする感
覚。
あの正体は意外にもあっさりと発覚する事になった。
﹁駄目ですよバジルちゃん。旦那さまの寝ているところを邪魔して
は!﹂
寝台に横になっていた俺の上を足踏みしていたのは、バジリスク
のあかちゃんである。
肥えたエリマキトカゲの様な姿をしている彼︵もしくは彼女︶だ
が、ちゃんと理解をしているのか、傷口のある左胸のあたりを器用
に避ける様にして、腹の上で踊り狂う様に今日も元気だ。
﹁キュッキュッキュ!﹂
﹁バジルちゃん!!﹂
カサンドラの注意を無視してしばらく俺の腹でじゃれていたあか
ちゃんだが、とうとう堪忍袋の緒が切れたカサンドラが爆発して、
肥えたエリマキトカゲは捕縛されてしまいました。
﹁お父さんはお怪我をなさっているのです。あんまり言う事を聞か
ないと、お母さん怒りますからね? 今夜は川魚抜きでお野菜だけ
ですよ﹂
﹁キュウ⋮⋮﹂
978
哀れなあかちゃんは、カサンドラに抱かれて寝室用の編み籠に拉
致監禁されてしまいました。
寝室脇の小さな執務机の上に置かれた編み籠の中から、寂しそう
な視線を俺に送って来るあかちゃんだ。
俺をそんな目で見るな。
近頃は俺の新居で寝起きしている人間が増えたので、カサンドラ
も大変そうだった。
俺にカサンドラにタンヌダルクちゃん、それからエルパコ、ッヨ
イさま、雁木マリである。
一気に六人もこの家で寝起きしているのだから、奥さんたちの苦
労も今まで以上なのだろう。
それにしても、大変そうにしているカサンドラにひと声かけてみ
ると、
﹁わたしはシューターさんの正妻ですからね。家の事はしっかりと
差配しませんと﹂
﹁差配ですか﹂
﹁そうです、差配ですよ﹂
ちょっと小難しい言葉を使って俺を驚かせた。
それにしてもカサンドラは﹁正妻﹂という言葉を繰り返すので、
もしかすると俺がけがで寝込んでいる間にやっていたというお勉強
会で何か吹き込まれたのかもしれない。
﹁いち度、村長さまがお見舞いに来られたんですよ。シューターさ
んの怪我の具合がどうなのか、とても心配しておいでだったので﹂
﹁村長さま⋮⋮﹂
あ、すっかり忘れていたが、俺は今回の美中年カムラ討伐につい
ては、何ひとつアレクサンドロシアちゃんに相談せずにやってしま
979
ったのだった。
もしかしたら俺の怪我もさる事ながら、相当のおかんむりだった
のかもしれない。
恐る恐る、俺はカサンドラの手を取って質問する。
﹁奥さんや﹂
﹁はい? どうしましたシューターさん﹂
﹁あの、アレクサンドロシアちゃんは、何と言っていましたかね?﹂
﹁村長さまですか? 見事に犯人を突き止めて仕留めた事をたいそ
うお褒めになっておられましたよ﹂
嘘やん。絶対嘘やん。
俺の脳裏に、ニッコリ笑っているけれど眼が笑っていない女村長
の姿が思い浮かんだ。
﹁嵐の間はお城の建設作業も中断していましたし、その日は朝に夜
にと顔を出しておられたのです。何しろシューターさんがお怪我を
して運び込まれた場所が、村長さまのお屋敷でしたからねえ﹂
﹁マジかよ。めっちゃ迷惑かけたやん﹂
﹁そうですよ。みなさんとてもご心配なさっているのですから。早
く良くならないとですね。どうですかシューターさん、顔色はだい
ぶよろしい様ですけれども﹂
﹁ああ、おかげで傷口も塞がったみたいだし、ぶっちゃけ暇です﹂
実のところ、俺は傷口も塞がってぴんしゃんしていたのだけれど、
雁木マリの見立てではしばらくじっとしていろという事らしい。
体に造血ポーションの効果が馴染んでいないと言うので、大人し
くしているのである。
それにしても、俺は女村長の屋敷に担ぎ込まれた後、改めて止血
980
処理が終わった翌日には新居に運び込まれたらしい。
俺の乗った戸板を担いだのが雁木マリとニシカさんだという話を
聞いて、これはいよいよ方々に頭を下げなければならないという気
分になってしまった。
新居はすでに外装だけは完成している状態だったと見えて、嵐の
収まった翌々日にはあちこちから家財が運び込まれたらしい。
家財を調達したのがタンヌダルクちゃんの兄、野牛の族長である
タンクロードバンダムという事を聞いて、ますます申し訳ない気分
になった。
これはいちど、タンヌダルクちゃんの実家にご挨拶に行かないと
いけないね。
◆
﹁シューターさん。もう、動いてもいいの?﹂
新居の寝室を出てみると、ばったりと廊下でエルパコに遭遇した。
普段は猟師らしく軽装スタイルのけもみみだが、今日はどういう
わけか鎖帷子を着こんでいる。
﹁ああ、おかげさまで造血ポーションが効いてきたのか、血の巡り
が安定してきた気がする﹂
﹁そっか。それは、よかった﹂
ぼんやりした顔で俺の前に立ったエルパコが見上げて来る。
﹁ぼく、シューターさんの事守れなかったから。その﹂
﹁何だエルパコ、気にしているのか﹂
﹁うん。だって、家族の事は守らないといけないからね﹂
981
エルパコがそんな殊勝な心がけを口にするものだから、ちょっと
嬉しくなった俺は銀色の髪をわしわしと撫でてやった。
﹁それで鎖帷子なんか着こんでるのか?﹂
﹁うん。いつでも戦えるように﹂
﹁じゃあ、前に約束した格闘技をちゃんと教えてやらないとな﹂
﹁ほんと?!﹂
嬉しそうに顔をほころばせたかと思うと、けもみみとしっぽがく
ねくねしはじめる。
しかしあれだな。てっきり男の娘だと思っていたやつが実は竿付
き女の子でした、というのを聞かされて複雑な気分だ。
相手が女の子となれば、ますます気を使ってあげないといけない。
急に気恥ずかしくなって頭に置いた手を除けたところで、
﹁そういう事は、もうちょっと体が馴染んでからしなさいよ? こ
れは騎士修道会の医療従事者としての命令だからね﹂
﹁どれぇ!﹂
背後からふたりの声がしたのである。
俺の怪我を縫合した執刀医の雁木マリ先生と、ようじょッヨイさ
まである。
﹁おおお、ッヨイさま。ご無沙汰しております。大きくなりました
ね!﹂
﹁ききいっぱつでしたが、元気になってよかったですどれぇ!﹂
飛びついて来るッヨイさまを受け止めて抱き上げてみる。
本当のことを言うとようじょはようじょのままで特に大きくなっ
たように感じなかったが、そういう事を口にしたところ、ッヨイさ
982
まはとてもお喜びになられた。
﹁ッヨイはツメひとつぶん成長したのです。育ちざかりだから、成
長がはやいのです﹂
﹁そうですかそうですか、俺が寝ている間にオネショはしませんで
したか?﹂
﹁ドロシアねえさまのお布団で一回だけ⋮⋮でもそれだけです!﹂
はい。元気があってよろしい!
それにしても女村長のベッドでジョビジョバしたとか、大変勇気
の有る挑戦だな。
﹁ッヨイ、そろそろ降ろしてもらいなさい。それとシューター、こ
れからドロシア卿のところに挨拶に行くわよ。動けるんなら今後の
事とか、しっかり話し合っておかないとね。聖堂会にひとを送ろう
と思っているから﹂
﹁おう、寝たきり生活にも飽きたところだからな。ッヨイさま、そ
れじゃあ降ろしますよ﹂
俺がようじょを床に降ろしたところで、隣でぼけーおっと俺を見
上げていたエルパコが物欲しそうな顔をしていた。
﹁どうしたエルパコ﹂
﹁な、なんでもないよ⋮⋮﹂
◆
さて、妻たちに手伝ってもらいながら、出仕の準備である。
せっかく街で買って来た上等のおべべも布も、カムラとの戦闘で
台無しになってしまったが今回は安心だ。
983
何しろこういう事もあろうかと布や衣服は大目に買い込んでいた
し、予備はバッチリというわけだね。
﹁それにしても旦那さま。すごい切り傷ですねえ﹂
﹁本当です。胸にひとつ斜めに、それから脇にざっくり﹂
まじまじと上半身を観察されるので、俺はとても気恥ずかしい気
分になった。
むかし俺は全裸で村や街の中をうろついていたというのに、いち
度服に袖を通してしまうと急に文化人の心が目覚めてしまう。
﹁傷口はしっかり塞がっていますけど、体の中は大丈夫なのでしょ
うか﹂
﹁聖少女さまのお言葉だと、数日はまだ疼きがあるのだそうですよ、
ダルクちゃん﹂
﹁この傷、ちゃんと後日にしっかり消えるんでしょうね? 傷モノ
になった旦那さまとか、わたし嫌なんですけど?﹂
ぴとぴとと胸のあたりを指で押すのがいたたまれなくなったので、
俺はさっさと背を向けて服に袖を通した。
﹁あん旦那さま﹂
﹁シューターさんボタンが掛け違ってます﹂
﹁お、おう﹂
そそくさとズボンを履いてブーツを編上げると、俺は寝室から逃
げ出した。
寝室の外に出ると、待機していたエルパコが俺に剣を差し出して
くれる。
984
﹁これ。もう使い物になりそうもないけど、いちおう﹂
﹁サンキューな﹂
お礼をして短剣を抜いてみると、いよいよ刃こぼれがひどくて、
これは研ぎに出しても剣が痩せすぎてすぐに折れそうである。
カムラとの戦闘でかなり切り結んだのでガタがきたのだろう。
﹁まあこういうのは格好だけでも吊るしておかないといけないから
な。そのうち鍛冶職人の親方に新しい武器を用意してもらうとする
か⋮⋮﹂
﹁それまでは、ぼくが守るから﹂
﹁そうか、ありがとう﹂
しかしずいぶんと大きな家の様だ。
俺は白く塗られた土壁を触りながら部屋を見渡すと、ちゃんと家
に廊下があるので感動した。
廊下があるという事は、大きいという事だ。
元いた世界でも、俺は自分の金で長い廊下のある家に住んだこと
は無い。
﹁立派な家だな﹂
﹁ちょっとだけ、案内しようか﹂
﹁いいね、エルパコの部屋はどこかな?﹂
お言葉に甘えて﹁こっちだよ﹂というエルパコに付いていく。
新居のまどりは少し大きな寝室と小さな寝室がひとつ、居間がひ
とつと、客間がひとつである。
居間はまだ見ていないが、居間というからには広いんだろうな。
それに女村長の家にあったよりも小さめな食堂があるわけだが、
以前が猟師小屋だった事を考えるととても大きな家になった気がす
985
る。
ただし客間と小さい方の寝室は、四畳半ほどの狭いもので使用人
の居室という具合だ。
女村長のところに出かけるついでに、物珍し気にひとつひとつ部
屋を覗き込んでいると、客間は雁木マリとッヨイさまが使用してい
るらしい。
そして、どういうわけか小さな寝室にはくつろいだ格好のニシカ
さんが、いつもの黄ばんだシャツにホットパンツ姿でソファに腰か
けている。
ソファといっても使い込まれていそうな、古びた木製ベンチに獣
皮のシーツを敷いただけなのだが、いかにもニシカさんが喜びそう
なインテリアデザインである。
﹁おう、準備出来たみたいだな。死にぞこないの癖に元気そうでな
によりだぜ﹂
﹁あんたここで何をしているんだ﹂
﹁何をッて、自分の家だからくつろいでたんだよ﹂
﹁あんたの家は村はずれの集落だろう﹂
﹁それなんだがなぁ⋮⋮﹂
ニシカさんはボリボリと頭を掻きながら、気まずそうに俺の顔を
見上げていた。
﹁嵐のせいで、家の屋根が吹き飛んじまったんだ。しばらく厄介に
なるから部屋を借りるぜ﹂
﹁ここはぼくの部屋になるはずだったのに、ニシカさんがいるんだ﹂
何だ、エルパコの部屋を勝手に占拠していたのか。
﹁困るんですよねえ、いくら鱗裂きのニシカさんでも。勝手な事を
986
されては﹂
﹁そうだよ、ぼくの部屋だよ﹂
﹁お前はシューターの愛人なんだから、嫁たちと一緒に隣の部屋で
寝てればいいだろうが﹂
﹁そんな、ぼくはシューターの奥さんじゃないし⋮⋮﹂
ソファから立ち上がったニシカさんがニヤニヤしながら近づいて
くると、けもみみはしゅんとして俯いてしまった。
﹁お前ぇは実は女だったんだろ? じゃあ何の問題もないじゃない
か﹂
﹁も、問題あるよ。だって心の準備が⋮⋮﹂
﹁シューターも騎士さまに出世したから税金ぐらいいくらでも払え
るだろ。嫁がひとりやふたり増えたって問題ねぇ﹂
﹁じゃあニシカさんが奥さんになりなよ﹂
﹁ばば、バッカ。こういう事は若いおふたりでだな!﹂
いやいや、俺はもう三二歳のおじさんだから、あんたの方が若い
だろニシカさん。
放っておくと問題がさらにややこしくなるのですぐ止める。
﹁ふたりでこの部屋を使ってください。ベッドはどうなってるんで
すかね?﹂
﹁そんなものはねえ。オレはいつもこの木の長椅子で寝ていたから
な。ここにふたりはちょっと狭いぜ﹂
﹁エルパコが使うはずだったベッドはどこにいったんですか?﹂
﹁それならもう部屋から撤去されたぜ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
勝手な事をしているニシカさんに閉口していると、ニシカさんが
987
言葉を続けた。
﹁居間にいっぱい寝台が持ち込まれてるぜ。あそこでッワクワクゴ
ロが使うと言っていたな﹂
﹁え、ッワクワクゴロさんが?﹂
﹁そうよ。嵐でボロい家はみんなやられてしまったからな。ここは
新築で立派な家だから、みんなが避難してきて生活しているぞ﹂
なんという事でしょう。
俺は家族水入らずで真新しいお屋敷で家族団らん幸せな暮らしが
出来ると思っていたら、そうではありませんでした。
茫然と俺が事態を飲み込めずにいると、ぞろぞろと居間だという
場所からッワクワクゴロさんやその兄弟たちが顔を出す。
ついでに猟犬まで廊下を走り回って、バジルとじゃれあいはじめ
た。
﹁おうシューター、傷はふさがったか? しかしここはデカい家だ
な。嵐の後で家に戻ってみたらえらい事になったと思ったが、この
家のおかげで雨風がしのげる。ん、シューターどうした。顔色が悪
いぞ?﹂
俺のふたりの妻と両手に花の夫婦水入らずはしばらくお預けにな
ったのである。
988
87 アレクサンドロシアちゃんは大変お怒りの様です
女村長の書斎にて俺は緊張していた。
いつものように安楽イスに深々と腰かけたアレクサンドロシアち
ゃんは、こちらを見てなかなか妖艶な微笑を浮かべている。
まさに俺が新居で想像していた通りの表情だ。
優しい笑みを浮かべている様で、その実まるで眼が笑っていない。
俺はたまらず背筋がぞわりとしてさっそく言い訳からスタートし
た。
﹁村長さまにおかれましては、なかなかご機嫌なご様子で﹂
﹁言いたい事が他にあるんじゃないかの、お兄ちゃん﹂
﹁⋮⋮黙っていろいろと動いてすいません﹂
開幕早々大失敗である。
﹁何故わらわに黙ってカムラを捕縛しようとしたのだ。ん?﹂
﹁理由はいくつかあります。もしもアレクサンドロシアちゃんに教
えると、あの美中年を捕まえるなり殺すなりという事はきっと出来
なかったからな﹂
﹁ではその理由を聞かせてもらおうか。事と次第によってはお前に
厳しい処罰を与えなければならない﹂
俺は正直に話をする事にした。
ここでまた余計な事を口にすれば、きっとまた無理難題をお命じ
になられるに違いない。
989
﹁まずひとつは、アレクサンドロシアちゃん。最初に君へこの事を
報告すると、間違いなくアレクサンドロシアちゃんは激昂して話が
ややこしくなるからだ﹂
﹁⋮⋮続けてくれ﹂
不機嫌そうに俺を睨みながらも、言葉の続きを催促して来る。
きっと自分の性格の痛いところを突かれて微妙な気分なんだろう。
顔の表情から俺にはわかる。
﹁今回の事件のあらましは聴いていると思うが、カムラのやつが村
の若い女を垂らし込んで、いろいろと情報を集めていた事が問題だ
った﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁まず、このお屋敷で下働きをしていた女﹂
﹁メリアの事だな﹂
﹁そう、そのメリアがカムラとは良い仲だったわけだ。あんたの命
令や俺たちがここで話していた内容は、たぶんみんなメリアを通し
てカムラに流れていたと考えておいた方がいい﹂
﹁獅子身中の虫とはこの事だ。メリアにはずいぶん眼をかけてやっ
たというのに、わらわを裏切るような真似をしたからの。ただちに
暇をやって家から追い出したさ﹂
語気を強めながら拳を握る。
﹁処刑してやろうかとも思ったが、今回の件はまだ尋問が済んでい
ないし他の女もどれだけカムラに協力していたのかもわからぬ。し
ばらくは生かしておく必要があるのは、くやしいのう﹂
﹁そうそれ、もしも短気を起こして夜のうちにカムラを捕ようと密
談していたら、もしかしたらメリアなり、まだわかっていないカム
ラの協力者なりが冒険者ギルドに走った可能性がありますからね﹂
990
﹁ふむ。確かにそうだが⋮⋮﹂
﹁あの時点では唯一の情報源がカムラだったんです。助祭さまは騎
士修道会に捕まる前だったし、アレクサンドロシアちゃんにとって
誰が敵なのか、誰が意図してこの様な事をやろうとしていたのか、
カムラだけが握っていた﹂
﹁ぐぬぬぬ﹂
握った拳を解いて所在無げに女村長は俺を見やった。
そうなればカムラが逃げた後の村で誰がスパイで誰が信用に足る
かと、疑心暗鬼が渦巻いていたかもしれない。
得心がいったのか、少しして素の表情になった女村長が続ける。
﹁なるほど、シューターがわらわのためを思ってやってくれたとい
じんそく
うのはわかった。では他の理由というのは何だ。申してみよ﹂
﹁兵は神足を貴ぶという言葉もあるし、何より嵐の中でわざわざ密
会をしようとしていたんだ。カムラの方もかなり焦っていた可能性
がある﹂
﹁ふむ、それはどういう事かの﹂
﹁アレクサンドロシアちゃん、君がギムルさんやカムラに雁木マリ
を通して騎士修道会へ応援要請をした事を報告したでしょう。たぶ
んその事でカムラが、そろそろこの村での活動も潮時だと判断した
んじゃないですかね﹂
﹁確かにそうだの。地図情報をメリアに渡して、伝書鳩に送らせよ
うとしていたからな﹂
女村長はフンと鼻を鳴らすと安楽イスを立ち上がって、棚に並ん
でいる壺から刺さっている巻物をひとつ抜いて俺に寄越した。
﹁これがカムラからメアリに渡った地図だ。小さいものだが、湖畔
の城と集落の見取り図が描かれておった﹂
991
﹁見取り図は俺とドワーフの親方しか持っていないはずですがね﹂
﹁恐らくマイサンドラでも使って見取り図を作成させていたのだろ
うさ。何も設計図が無くてもだいたいの事は作れるだろう。しかし
これがブルカ辺境伯にわたっていれば、いざ戦争となった時に不利
になっていたし、せめてこの地図だけでも取り戻す事が出来たのは
幸甚というものだ﹂
そう言った女村長は俺の返した地図を受け取ると、指先に小さな
火の魔法を灯したかと思うと、麻紙の安っぽい地図を焼いてしまっ
た。
そのまま香を焚く壺の中に放り捨てる。
﹁メリアが隠し持っていたのですか?﹂
﹁そうだの。外は嵐で、いかに魔法の鳩と言えども飛ばす事は出来
ないからな。聖少女が尋問をかけて自白させたのだ﹂
雁木マリが嬉しそうに尋問する姿を連想してぞっとした。あいつ
は俺を何の躊躇も無く初見で殴り飛ばしたぐらいだからな。犯罪者
には容赦しないだろう。
﹁その尋問ですが、今日は助祭さまに行うんでしたね﹂
﹁うむ。聖少女が数日かけて下準備は完了したと言っておったから、
そろそろ吐くだろう﹂
不敵な笑みを浮かべたアレクサンドロシアちゃんは、そのまま書
斎の外に出て行った。
俺も慌てて続く。
◆
992
﹁あなたたちも懲りない方々ですね、わたしは女神様に全てを捧げ
た身。何を聞かれましてもお答えする事はありません﹂
﹁おいマリ、尋問の下準備は完了したんじゃなかったのか?﹂
女村長の屋敷の離れにある納屋の中で、哀れ助祭様は手足をイス
に縛り付けられて俺たちを見上げていた。
納屋の中は悪臭で満たされている。
たぶん清楚可憐な顔をした助祭さまがこのありさまで、糞尿垂れ
流しをしているからだろう。
﹁まあ見ていなさい。口で言う事を聞かなければ体にいう事を聞か
せるだけだから﹂
﹁ッく、例え暴力に訴えたとしても女神様のご加護がある限り、わ
たしは口を割りません﹂
﹁聖堂会の大司教がそれを聞いたらきっと喜ぶわよ。最後までその
セリフが言えたならね﹂
雁木マリは助祭さまの髪を掴むと、表情ひとつ変えずに可憐なそ
の鼻頭を殴りつけた。
見ていて俺と女村長は顔をしかめてしまった。
暴力じゃ効果がなさそうなものなのに、何の目的なのだろうか⋮⋮
後学のために尋問に立ち会わされていた司祭さまですらも、元は
自分と共に奉仕活動をしていた同僚の哀れなありさまに眼をそむけ
ているほどである。
数発殴った後に、マリは満足そうな顔をした。
﹁こんな事をしても、ゴホっ無駄です﹂
﹁まあ、こんなものね﹂
雁木マリはまだ抵抗の意思を失っていない助祭さまの顔を確認し
993
てから、仲間の修道騎士から注入器具を受け取った。
このタイミングで自白ポーションを使うのか。
﹁尋問というのはこうやってやるのよ。まず相手の体に傷をつけて、
抵抗力を分散させるようにするの。この女は治癒の魔法が使えるか
ら、体の意識を傷の治癒に向かわせておいて、ポーションを使うの
よ﹂
言うが早いか、睨み付けていた助祭さまの首元に注入器具を押し
当てた。
プシュっという投与音が響くが、最後まで助祭さまは抵抗しよう
としていた。
﹁お前も聞いたところによると魔法薬学に詳しいそうね。悪どいご
禁制の合成ポーションにまで手を出していたそうじゃない﹂
﹁わっわたしは自白ポーションには屈しませんっ﹂
﹁それじゃ、どちらがポーションに詳しいか試してみましょう、お
前の体でね﹂
同僚の修道騎士が、今度は色の違うポーションのセットされた注
入器具をマリに渡した。
また暴れる助祭さまへ強引にポーションが打ち込まれる。
﹁このポーションが持つ効能はわかる? 興奮促進よ。あなたの集
中力を台無しにする様にしてあげるわ﹂
﹁な、何をなさっても無駄です。わたしには女神様のご加護があり
ますから﹂
﹁何の興奮促進なのか聞かないのかしら?﹂
﹁聖少女さまにあるまじきポーションで快楽責めですか⋮⋮なんと
恥知らずな﹂
994
﹁そう、イき狂いしてみじめに自白するのは嫌なのね。じゃあ慈悲
をあげましょう、次は太ももあたりに剣を刺す事にするわ。ここな
らすぐには死なないし。シューター、あなたの短剣を貸してくれる
かしら?﹂
とんでもない事を言い出す雁木マリに、俺はドン引きした。
本気かよ。
﹁では質問する。お前は何者だ﹂
﹁わたしは女神様の子、わたしは女神様にすべてを捧げた者﹂
﹁女神様の子、助祭マテルドはいつからブルカ伯のスパイだったの。
これは騎士修道会の戒律に明らかに違反した行為よ。女神様にその
身を捧げたのであれば大人しく言いなさい﹂
﹁わたしはブルカ辺境伯ミゲルシャールのおじベネクトの子⋮⋮﹂
しばらく後、死んだ魚の眼をした助祭さまが、つらつらと真相を
語りだすのだった。
この際何が行われたのかについて、詳しくは割愛する。
995
88 雁木マリは尋問の手を緩めません ︵※イラストあり︶︵
前書き︶
本編頭に、マテルドさんよりいただいた鱗裂きのニシカさんのキャ
ラクター設定イラストをご紹介させていただきます!
996
88 雁木マリは尋問の手を緩めません ︵※イラストあり︶
http://15507.mitemin.net/i1680
45/
<i168045|15507>
雁木マリによる尋問は苛烈を極めた。
助祭が聖なる癒しの魔法の使い手である事を上手く利用して、体
に傷を負わせることで魔法を使わせるのだ。
そうする事で危機反応が働き、助祭の意思に反して体が怪我を自
己修復させようとする。
この状態で自白ポーションを打ち込むものだから、助祭マテルド
はポーションに対する抵抗力を阻害されて自白してしまうのである。
時には興奮促進のポーションを投与されたり、攻撃性を促進させ
るようなポーションなど、様々な薬責めをする事で、助祭は徐々に
口を割ったのである。
﹁そもそも聖なる癒しの魔法を使えるという事で精神力の高い彼女
は、かえってそのせいで複数のポーションの効果を発揮する土壌が
あったのよ。おかげでひとつひとつの効能にリソースを割かれた彼
女の体は、簡単に落ちたというわけね﹂
平然とした顔で説明した雁木マリである。
異教徒の教化は騎士修道会の得意とするものだと語った司祭さま
すらも、顔面蒼白で雁木マリのやり口を見守っていたのだから、相
997
当手慣れたものだったのだろう。
﹁いや本当に参考になりました﹂
﹁そう? 司祭も手強い捕囚がいる時はこの手を使えばいいわ。こ
の女の様にご禁制の複合ポーションなんて使わなくても、ありもの
を上手く掛け合わらせれば人間なんて簡単に操れるものよ﹂
マリは別に得意気になって語ったわけではないけれど、俺と女村
長は顔を見合わせながら背筋を寒くした。
ためら
﹁もし捕虜になるようなことがあれば、わらわは躊躇わず死を選ぶ
事にしよう﹂
﹁カムラが殺してくれと言った意味が何となく今ならわかりますね﹂
俺が最後に止めをさした美中年カムラ。
彼は決して雁木マリに尋問されることを想定していたわけではな
かっただろうけれど、大なり小なりこういう事をされるのだと知っ
ていたのだろうさ。
◆
さて、雁木マリの尋問を受けた助祭の言葉によれば、彼女の出自
というのはこういうものだった。
ブルカ辺境伯の一族に名を連ねる、街の有力者のひとりベネクト
の娘という事であったらしい。
ベネクトには五人の子供がおり、後に助祭となるマテルドはその
末娘だった。
﹁⋮⋮兄は家督を相続する立場で王宮に出仕しました。姉たちは他
の高貴なご身分の方たちに嫁いでいきました。わたしは末の娘だっ
998
たので、ブルカ聖堂会へ父から送り出されました﹂
聞けば、辺境一帯の豪族たちというのは一族の末弟妹がいた場合、
修行と称してブルカ聖堂会に子を送り出す事が半ば慣例になってい
るらしかった。
モノの本によれば、日本でも武士や貴族の家督継承者でない者が
寺院の修行僧になる事は珍しくなかったはずである。
この世界の騎士修道会と似た組織である中世の宗教騎士団にも、
やはり貴族の子弟たちが多く送り込まれていた様である。
宗教騎士団の場合、それぞれの地域出身ごとに騎士隊を組織する
事になる場合があるそうだ。
かの有名なロードス騎士団でも、フランス出身者で構成された騎
士隊や、イタリア出身者の騎士隊などがあったと、何かの文献で読
んだ気がする。
してみると、彼ら送り出された有力者の子弟たちというのは、宗
教騎士団の中でも本国の利益代弁者であったらしい。
﹁つまりお前は、ブルカ辺境伯の身内として騎士修道会の中で発言
権を求めて信徒となったのか﹂
﹁⋮⋮はい、わたしは聖堂会の中で起きた情報を辺境伯さまに逐一
お届けする様にと、父から命じられていました﹂
なるほど、これが助祭マテルドのスパイとしての役割であったら
しい。
本来ならば騎士修道会の中枢に出世して、ブルカ辺境伯にとって
は決して無視できない武装教団である騎士修道会の情報を横流しし
てもらう事が理想であったのだけれど、
﹁わたしは早い段階で聖なる癒しの魔法を使いこなせるようになっ
たので、騎士修道会で軍事訓練を受けた後に、助祭としてこの村に
999
派遣される事になってしまいました﹂
﹁それでお前は、このサルワタの開拓村領について情報を辺境伯に
報告していたというのだな﹂
それについて助祭は曖昧な返事をした。
何もそれは自白ポーションの効き目がイマイチだったからではな
い。
特に辺境の外苑に存在している様なサルワタには、ブルカ辺境伯
が欲しがる様な目ぼしい情報など何もなかったからである。
﹁そういう態度を取られると、わらわの領地経営を何か馬鹿にされ
たような気分になるな﹂
﹁流行病で先代村長さまが亡くなった後は、開拓の促進よりも復興
の方が大変だったでしょうから、これはしょうがないね﹂
﹁そうね。ドロシア卿が村の開拓を一気に拡大するつもりで私財を
貯め込んでおられたおかげで、辺境伯に眼を着けられなかったとも
いえるわ﹂
女村長と俺の会話に、マリが振り返って言い添えてくれた。
確かにそうだ。
女村長の話を聞いていれば、これまでは川の堤防を整備したり、
用水路を張り巡らしたりと、まだまだ村の内側に向かって領地経営
をやっていたのだ。
なるほどと首肯した司祭さまが、チラリと助祭さまに眼をやりな
がら言葉を口にする。
﹁ところがワイバーンの一件をひとつの機会にして大規模な移民を
募集した。それが冒険者ギルドを経由してブルカ辺境伯の耳に届い
たというわけですな﹂
﹁そうか、なるほど。冒険者ギルドというのはその土地の領主が形
1000
式上運営している組織だったっけ?﹂
俺がふと思い出してそういう事を口にすると、同時に雁木マリと
女村長がうなずいた。
﹁そうね。冒険者ギルドはその土地の領主の出資によって運営され
ているものだから。ドロシア卿、今はブルカの冒険者ギルドの出張
機関という位置づけだったのかしら?﹂
﹁うむそうだ。カムラが言うには、まずはギルドの立ち上げをブル
カ冒険者ギルドの支所として行い、後々に人員を拡充して領内の独
立したギルドとするという話を聞いておった﹂
﹁後々に人員を拡充して、か。つまりブルカ伯の息のかかった人間
をこの村に送り込む事を考えていたんだわ﹂
ふたりの女が顔を突き合わせて思案している。
﹁おいマリ、助祭さまがもともとカムラと面識があったのか聞いて
くれないか?﹂
﹁わかったわ。助祭マテルド、どうなの?﹂
﹁⋮⋮いいえ、わたしは存じ上げませんでした。ただ、先行して村
に入っていたマイサンドラから、カムラさまが来ると﹂
なるほど、マイサンドラはもともとこの村の住人だったわけだし、
連絡役としてこの村へ密かに侵入していたのか。
﹁マイサンドラが村に戻って来ていた事は、村の人間たちも気付い
てはいなかった様だとわらわは聞いている。夜中に出入りして、昼
間は村の周辺で監視任務をしていた様だからな﹂
﹁それで俺やエレクトラたちが不審な追跡者の存在を察知していた
のか﹂
1001
﹁いかにも腕は確かで実力もありそうな冒険者のカムラが、その事
情を知っていてエレクトラの上申を握りつぶしたのはおかしいと思
っていたけれど。そういう事情があった訳だな。得心がいったぞ﹂
女村長がふんふんとうなずいた。
初見のカムラはいかにも優れた冒険者然としていたけれど、やは
り情報収集を任される人間というだけあってそれは事実だったわけ
だ。
﹁お前の最終的目的とは何だったの? お前の信仰とは何?﹂
﹁わたしの目的は、神のご意思に従い一族に繁栄をもたらす事﹂
﹁なるほど、この女狂ってるわね﹂
事もなげに雁木マリがそう告げたあと、彼女の同僚たちによって
助祭は眠りにつかされて尋問は終了した。
◆
納屋を出た俺たちは女村長の執務室に移動する。
その途中で久しぶりに、野牛の一族たちと談笑している青年ギム
ルの姿も見かける。
﹁シューター、犯人を見事に討ち取ったそうだな﹂
﹁おかげさまでこちらも怪我を負ってしまいましたがね﹂
﹁だがお前は運がいい。騎士修道会の聖少女さまというのが治療に
当たってくれたのだろう﹂
チラリと鼠色の法衣姿をした雁木マリを見やって、筋骨隆々のギ
ムルがそう言った。
何だ、ギムルはマリみたいな和風美人がタイプなのか?
1002
﹁次期村長さま、あたしはプライベートであまり聖少女と呼ばれる
のが好きではないのです。よろしければ名前で呼んでくださらない
?﹂
﹁そうか、ではガンギマリーどの﹂
﹁ええ、ギムルさん﹂
雁木マリが完璧なよそ行きスマイルでギムルを見上げながらそう
言った。
なかなかこの世界の貴人的な作法を見せつつ、会釈して見せるマ
リ。
作法は完璧なのだが、袖を通した法衣の胸元は限りなく絶壁に近
い断崖であるのが多少残念だな。
まご
ちょうど食堂でぼんやりと俺を待っていたエルパコの胸元と見比
べる。
こっちは紛うことなき断崖絶壁だ。
﹁なにもないな﹂
﹁?﹂
俺のひとり言に不思議そうな顔をしていたエルパコの事は置いて
おいて、雁木マリを改めて観察した。
﹁それで、傷の経過はどうなのだ。もう動けるのか﹂
﹁あたしから説明します。シューターは今、体内の血が足りない状
態なので、造血ポーションを投与しています﹂
﹁血が足りない状態なのか。大丈夫なのでしょうか、ガンギマリー
どの﹂
﹁ええそうね。血そのものは足りない状態だけれど、体の傷はしっ
かりと塞がっているので、しばらくは栄養を取って、休養する必要
1003
があるわ﹂
雁木マリがそう説明してくれると、ギムルは﹁なるほど﹂とうな
ずいていた。
まあ休養させてもらえるのは願ったりかなったりだけどな。
﹁しかしギムルさんが顔を出しているのは珍しいですねぇ。しばら
く湖畔の建設現場で頓営されていたんじゃないですか﹂
﹁嵐の影響で村や周辺の集落も、それからミノの街も大変な事にな
っているのでな。いったん作業現場の警衛は解散して、居留地とこ
ちらに兵を振り分ける事になったのだ﹂
なるほど、すでにミノタウロスの中でもしっかりとリーダーシッ
プを発揮しているらしいギムルさん。
聞けば屋敷の外にもいくらかのミノ兵たちが待機しているらしい。
﹁外はそんなにヤバいのですか﹂
﹁うむ。お前の古い家の方も屋根がみんなやられてしまった。この
夏の嵐は例年より特にひどかったので、周辺の集落もかなり屋根や
壁をやられたという家が出ているらしい﹂
﹁まじかよ。俺、倒れているうちに新居に運び込まれたんですがね、
何かッワクワクゴロさんのご家族とか、ニシカさんとかが引っ越し
てきたんですよ﹂
﹁そうか我慢しろ﹂
身も蓋も無い口調でギムルが言い切った。
そして雁木マリも説明を続けてくれる。
﹁そうね、教会堂の方にも村の避難者を受け入れてもらっているか
ら、これはしょうがないわ﹂
1004
﹁知らなかったそうなのか﹂
﹁大工の親方に見せてもらった集落の見取り図に、湖畔に建設を予
定している石造りの家があっただろう。いずれはそこが終の棲家と
なるのだから、それまでの我慢だ﹂
少しマリの様子を気にしながら、ギムルがそう答えてくれた。
やっぱり気があるのだろうかと少しカマをかけてみる。
﹁ギムルさん﹂
﹁む、何だ﹂
﹁嫁探しの方は順調ですか?﹂
﹁そっその事か。タンクロードの紹介で、何人かと見合いをした﹂
﹁いいひとはいましたか﹂
﹁う、うむ。まあまあ、だな﹂
﹁へえ、ギムルさんもお見合いをされたの?﹂
﹁そうなんだよ。野牛の一族からはタンヌダルクちゃんが俺のとこ
ろに。俺たちの村からはギムルさんが野牛の一族のところに行った
んだ﹂
まだギムルさんはお相手を探しているところなんだけどな。
その見合いの話題は気になるのか、雁木マリも興味深そうに筋骨
隆々の青年を見上げた。
﹁野牛の女性はどなたも情熱的ですからねえ、きっと幸せになれま
すよギムルさんも。﹂
﹁そっ、そうだな﹂
﹁結婚、ね⋮⋮﹂
﹁だがギムルさんは次期村長さまですから、これは貴族の子弟だ。
貴族一門なら複数のご夫人をという可能性はあるのでしょう?﹂
﹁だ、黙れ。結婚は一生の事だから大事にじっくりと考えたい﹂
1005
ちょっとからかい過ぎただろうか、ふたりの様子を見比べながら
質問を飛ばしまくっていると、ギムルはやがて赤面して慌てた様子
になってしまった。
一方の雁木マリは何か繰り言をぶつぶつ漏らしてる。
﹁貴族なら複数の夫人は、確かに当たり前よね⋮⋮﹂
何だ、結婚はまだ考えてないとか言っていたくせに、マリも少し
はギムルに気があるのだろうか。
などと思いながら様子を伺うと、どんぐり眼を伏せがちにしなが
ら頬を少し膨らました様にして、マリが俺の方をチラチラと見て来
るではないか。
何、俺の方に興味があるの?
マジで?
﹁諸君待たせたな、これより善後策を協議したいと思う。でははじ
めようかの﹂
雁木マリと視線が交錯したところで、ッヨイさまを伴った女村長
がドレスをなびかせながら食堂へと登場したのだった。
俺は慌てて頭を切り替える。
一同領内の幹部揃っての作戦会議のはじまりである。
1006
89 村の幹部で善後策について協議します
﹁本来ならば執務室で協議を執り行いところだが、今回は参加人数
も多いため食堂で行う事にする。各々は適当に席にかけてくれ﹂
ドレス姿の女村長が一同ぐるりと見回してそう宣言すると、自ら
も上座のイスに腰を落ち着かせた。
隣に置かれた簡易の腰かけに座ったッヨイさまは身長が足りない
ので、かろうじて胸から上が飛び出している格好になってしまった。
俺たちは慌ててどの席につくか迷ってしまう事になった。
この場にはギムルをはじめとして彼の連れて来た野牛の一族たち
や、大工と普請に鍛冶職人の親方、それからベテラン猟師勢のッワ
クワクゴロさんとニシカさん、冒険者のエレクトラや酪農を代表し
てジンターネンさん、司祭さまに雁木マリと大人数である。
さらに協議をはじめると宣言したあたりで、先ほどまで別の場所
にいたらしい俺の家族まで食堂の入り口あたりに顔を出していた。
こういう場合の席は自分たちの地位に応じて上座から順に座って
いくものなんだろうが、次期村長であるところのギムルは当然の様
に村長の近くに腰を落ち着けたが、他のメンバーは微妙な空気にな
った。
﹁何をしておる、シューターは早くこっちに来ないか。聖少女どの
や司祭も遠慮なくこちらへ﹂
﹁り、了解しました﹂
俺は慌てて返事をしながらチラリと家族を見やり、雁木マリと共
1007
にギムルの反対側に着席した。
すると自然とその流れに任せる様に俺の隣にマリと司祭さまが座
り、その隣にッワクワクゴロさんが、さらに隣にニシカさんが腰か
けていく。
反対側には村の親方連中やジンターネンさんが座った。
残った席はあまりないが、下座のいくつかある簡易椅子にふたり
の妻も腰を落ち着けるのが見える。
エルパコだけは冒険者エレクトラやギムルの連れていた野牛の兵
士を見習ったのか、俺のすぐ背後まで歩いてきて席の背後にたった。
﹁ぼく、シューターさんを護衛しないといけないから﹂
﹁お、おう﹂
何やら他の護衛たちに対抗意識でも燃やしているらしく、けもみ
みの頬は少し上気して興奮がうかがえる。
﹁それではみな席に着いたな﹂
﹁はい、ドロシアねえさま﹂
ようじょの確認に首肯した女村長は、咳払いをひとつして口を開
いた。
﹁すでに諸君らは湖畔の建設現場で起きた殺人、ならびに放火には
じまる領内での不審事件について周知している事だとは思うが、こ
の度その犯行がブルカ辺境伯の手によるものであると発覚したので、
ここに報告する﹂
女村長が、居並んだ村の幹部たちを見比べながら言った。
俺が食堂を見回した限り、にわかにざわついていた。
事件が起きた事は村のみんながすでに知っている事実ではあった
1008
が、カムラの討伐劇は嵐の中で密かに行われた事なので、村の幹部
たちにはまだ知れ渡っていなかった。
﹁村長さま。それは外部の人間ですか、それとも内部の人間でしょ
うか﹂
﹁何と言えばよいかな。犯人の首謀者は冒険者ギルド長のカムラと、
教会堂の助祭だった﹂
親方のひとりがした質問にアレクサンドロシアちゃんが応えると、
ざわつきは一層強くなる。
﹁ただし内部にも手引きする人間が複数おり、その者たちがカムラ
や助祭に対して協力していた事も事実だ。今回の事件はわらわたち
この村が開拓をより推し進めようとする事に対する、ブルカ辺境伯
の妨害とわらわはうけとめておる﹂
﹁すると領主さま。ブルカ辺境伯さまというのは、この村に戦争を
仕掛けてくるという事なのですか﹂
おずおずと手を上げたのは、ギムルの背後に立っていた野牛の兵
士である。
﹁いや、今すぐに血を流す展開になる事はありえないだろう﹂
﹁わが族長にはその様に報告いたします﹂
﹁ただし。広い意味で言えば戦争はもう始まっている。何も兵士同
士が血を流すだけを指すのではない。外交もまた戦争であるし、経
済もまた戦争である。血を流すだけを手段とはせず、交渉上の駆け
引きもまた戦争だと言えるだろう。音を上げたほうがこの戦いの負
けだ﹂
﹁な、なるほど﹂
1009
女村長がかつてミノタウロスにそういう流血も辞さない覚悟で外
交に挑んだことが、野牛の脳裏に浮かんだかどうかはわからない。
あの時は外交による論戦もさほどデッドヒートしなかった代わり
に、俺と野牛の族長がお互いに流血しただけで済んだんだっけな。
だが、野牛の一族の時と同じように、ブルカ辺境伯とのせめぎ合
いが最小限に抑えられるとは思えない。
﹁村長さま、カムラの旦那はいったいこの村で何をやらかしたんだ
い。わたしらにはいつも愛想よく接してくれたし、たまには力仕事
を手伝ってくれたりと、あのひとはいいひとだったと思うんだよ﹂
﹁それもまたカムラの作戦であったのだろう。わらわに対しても、
表向きはよく献策をしてくれたのは事実だしな。例えば冒険者ギル
ドをこの村に立ち上げるにあたり、まずは領内一帯のマッピング作
業をすると、今後の領地経営と探索に役立つ、と奴は言ってきおっ
た﹂
その結果がどうなったかを俺たちは知っている。
そしてやはり地理情報の収集を提案したのは、あの美中年であっ
たのだ。
﹁役に立ったのならいい事をしたんじゃないのかい﹂
﹁その集めた地図の情報を、逐一ブルカ辺境伯へ横流ししていたの
だ。街の冒険者ギルドを経由してな﹂
﹁フン、やっぱりよそ者はどこまでいってもよそ者だね。わたしが
世話を焼いてあげても何の反応も無いわけだ﹂
ジンターネンさんも別に美中年の肩を持つつもりで質問をしたわ
けではないらしい。
だが聞き捨てならない事に、ジンターネンさんはカムラに色気で
も振りまいていたらしいぞ、この口ぶりだと。
1010
﹁それで村長さま、カムラの旦那はどうなっちまったんですか﹂
﹁安心せよ。わらわの命を受けて騎士シューターが、嵐の夜に逃走
を図ったき奴めを見事討ち取ったわ﹂
﹁ははあ、奴隷騎士さまが﹂
大工の親方が質問すると、我が事の様にニンマリとした女村長が
説明してくれた。
ちょっとは俺の事、見直してくれたかね。
﹁もうひとりの内通者である助祭についてだが、こちらもすでに街
から応援にやってこられた騎士修道会の聖少女どのが捕縛して、す
でに投獄している。また村の中でこの者たちに協力を働いた人間も、
現在はそれぞれの家に置いて軟禁しておるので安心せよ﹂
﹁ですが、これでこの村に対してブルカ辺境伯が敵対行動をとった
事がうきぼりになったのです﹂
そこでッヨイさまが言葉を受け取って説明を開始した。
しかしみんなはッヨイさまの事を知らないので、鍛冶職人の親方
が代表して不思議そうに質問を口にする。
﹁ところでこのようじょは何ですかね、村長さま﹂
﹁ッヨイはドロシアねえさまの、﹂
﹁わらわの妹だ。今回の件で人員が不足する事を見越して、ブルカ
の情報に詳しいッヨイを呼び寄せた﹂
ッヨイさまが自己紹介をするよりも早く、女村長が自分の﹁妹﹂
だと言い切りやがったぜ。
一瞬とても嫌そうな顔をして女村長を見上げたようじょだが、睨
み返されると慌てて視線を泳がせて俺に助けを求めて来た。
1011
ここでまた茶々を入れるのがジンターネンさんである。
﹁それは本当かい?﹂
﹁本当ですよジンターネンさん。俺たちが街で生活をしている時は、
村長さまの身寄りを頼ってッヨイさまのお屋敷でお世話になってい
ましたから﹂
俺が助け舟を出すと、
﹁フン、あんたには聞いてないんだよ﹂
﹁ならばわらわが改めて言う。ッヨイはわらわの妹であるから、今
後みなもわらわに接するのと同じ様にする事。いいな?﹂
ずいぶんと齢の離れたご姉妹だ事。
不機嫌にだがいちおうは納得した表情でジンターネンおばさんが
引き下がった。
さすがのジンターネンさんも、女村長に逆らう事は出来ないざま
あ。
﹁話の腰が折れてしまったが、妹よ続けるのだ﹂
﹁え、はい。つまりブルカ辺境伯は、ドロシアねぇさまが村の開拓
を推し進めるために移民を募った事を耳にして冒険者カムラを送り
込み、教会堂の関係者として潜伏していた助祭と協力して、村の情
報を辺境伯のところに届けたり、村の開拓を妨害する工作を働いて
いたのです﹂
﹁つまりこういう事か、ブルカの冒険者ギルドと繋がりを持ち続け
る限り、情報が何かしらの形で辺境伯のところに流れてしまうとい
う事だな﹂
﹁そうです、ギムルにいさま﹂
1012
ギムルの質問にようじょが元気に返事をした。
﹁それじゃどうするんだ。街に頼れないとなると移民を募る事が出
来なくなってしまうじゃないか。この先の開拓は頓挫しちまう﹂
﹁冒険者ギルドが頼れないとなると、どこから人集めをするんだ﹂
口々に参加者たちが不安を言い出して、食堂は騒がしさに包まれ
た。
こういう事は予想していたのだろう。女村長は議論を交わす村の
幹部たちには無視を決め込んで、俺の方に視線を送って来た。
﹁シューター、何か提案はあるかの?﹂
﹁村長さま、敵の敵は味方という言葉があります。ブルカが頼りに
ならないのなら、他の有力者と繋がりを作ればいいんじゃないでし
ょうかね﹂
﹁有力者? それは王都や本土の諸侯と連携を図れという事か。そ
れならばすでに八方手を尽くしている﹂
俺の提案にため息をつきながら女村長が返事をした。すると、
﹁ドロシアねえさま、辺境の中で探すの駄目なのですか? ブルカ
以外にも街はあるのです﹂
﹁だが、ブルカ辺境伯に対抗できる貴族と言えば、リンドルの子爵
家の街ぐらいしかないな。あそこはドワーフの岩窟都市とも交易が
あるので、辺境の外苑地帯では特に栄えていると聞いた﹂
﹁それならそのリンドルの街から、冒険者ギルドの支援を要請すれ
ばよいのです!﹂
ようじょは元気に返事をすると、さっそく書斎から持ち出してき
た巻物をいそいそと広げ始めた。
1013
果たしてその巻物の内容は地図であったのだ。
カムラが持ち出そうとした詳細な領内の地図ではなく、この辺境
広域を示す簡略地図である。
﹁みなさんみてください。ここがサルワタの村だょ﹂
テーブルに広げられた地図にみんなが覗き込む格好で注目する。
﹁ここが隣の村、こっちが別の村、そしてブルカの街。辺境の諸侯
は、ブルカの街から放物線上に広がる形でそれぞれ領地を経営して
いるのです﹂
﹁辺境伯って言うんだから、その伯爵さまが治める街が中心だわな﹂
ニシカさんが得意満面の笑みでそう言った。
珍しくニシカさんがまっとうな事を言ったと見えて、ッヨイさま
はこくりとうなずいた。
﹁その通りです。けれども辺境にはもうひとつ有力な街があるので
す。それがここ﹂
﹁ふむ﹂
﹁どこだ?﹂
﹁オッペンハーゲンの街なのです。この街はブルカと王都が主街道
で繋がれる以前から辺境で栄えた都市です。それからここがリンド
ルの街。こっちはドロシアねえさまが言った様にリンドルは岩窟都
市とも交易があって、今は勢いが盛んなのです﹂
﹁なるほど。オッペンハーゲンの男爵といえば、ブルカ辺境伯とは
積年のライバル関係ね﹂
﹁オッペンハーゲンとは考えたな。ッヨイ﹂
雁木マリと女村長がそろって感心している。
1014
ようじょがえっへんと腰に手を当てて鼻息を勢いづかせた。
オッペンハーゲンという場所は知らないが、我々には有力な味方
になりえるらしい。
﹁オッペンハーゲンはこの村からすると、ブルカの街のちょうど反
対あたりに位置するので直接的に敵対する事も無いのです。したが
ってなかよくできます。それにリンドルはオッペンハーゲンよりこ
の村に近いです。冒険者ギルドの運営のために、リンドルに支援を
要請すれば、ブルカへ情報漏洩する事はありえないです!﹂
何だかッヨイさま軍師みたいだ。
すると今度はギムルが質問をする。
﹁ガンギマリーどの﹂
﹁はい? ギムルさん﹂
﹁騎士修道会がこの土地に聖堂を築くという話がありましたが、将
来的にここに拠点を移すという計画を立てる事は出来ないだろうか
?﹂
きっと雁木マリとお近づきになりたい一心でそんな事を言ったん
じゃないだろうかと思ったのだが、どうだろうか。
﹁え、それはギムルさま、われわれ騎士修道会を世俗の権力闘争に
巻き込むという事ですかな?﹂
﹁そうだ。サルワタに騎士修道会の騎士隊が居座っているのであれ
ば、辺境伯もおいそれと刃を差し向ける事は出来まい﹂
あわてた司祭さまが確認をしようと口を開けたけれど、ギムルは
意に介さずイエスを口にした。
辺境諸侯に対して中立を旨としている騎士修道会ならびに聖堂会
1015
の人間としてはびっくりしたんだろう。
だが雁木マリは﹁なるほど、そういう手もあるわね﹂とあまり驚
いていなかった。
﹁せ、聖少女さま、公平をうたっている我々がそれをすると、規律
違反になるのでは⋮⋮﹂
﹁別に修道会の教えの中に、どこかの領主と手を組む事を禁止する
文言が書かれているわけじゃないでしょう? あれはあくまでも騎
士修道会を守るために適正な距離を保とうという訓示だったはずよ
ね﹂
﹁そ、そうですが﹂
﹁別にこちらから戦争を仕掛けるのでなければ、騎士修道会として
あちこちに保険を掛けておくことは組織の生き残り戦術としては正
しいのではないかしら。それにこの村には助祭の事で甚大な迷惑を
かけているのだから、身内の恥をそそぐ意味でも、可能な範囲で協
力するのは必要な事だと思うわ﹂
雁木マリは聖堂に全裸で爆誕した有力者なので、そういう人間が
味方に回ってくれるのは嬉しい。
﹁ふむ。大筋は見えてきたと思うが、しばらく休憩してから続きを
考える事にするか﹂
女村長は腕組みをしながら難しい顔で地図を睨み付けていた。
たぶん、オッペンハーゲンなりリンドルなりと連携する道を模索
しているのだろう。
あるいは騎士修道会を領内に呼ぶ込む事で、抑止力でも期待して
いるのだろうか。
そんな事に思いを巡らせている。と、アレクサンドロシアちゃん
1016
がとんでもない事をつぶやいた瞬間を、俺は見逃さなかった。
﹁問題はそれらの街まで誰を派遣するかだな。ふむ﹂
アレクサンドロシアちゃんと眼があってしまう。
この女また無慈悲にも妙な事を俺に押し付けて来るんじゃあるま
いな。
その予想は結果的にありがたくない方向で的中するのだった。
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祝100万PV感謝&記念SS シューターズ・サマーキャンプ
前編︵※ イラストあり︶︵前書き︶
お色気回です。苦手な方は読み飛ばしてください。
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祝100万PV感謝&記念SS シューターズ・サマーキャンプ
前編︵※ イラストあり︶
俺の名は吉田修太、三二歳。
タンヌダルク杯、異世界パンツレスリングのチャンピオンに輝い
た事もある男だ。
参戦者はたった二名の大会だったけど、気にしてはいけない。
何しろタンクロードバンダムは野牛の一族最強のパンツレスラー
だったからなっ。
ところでこうしてヒモパン一丁で自分の体をまじまじと観察するの
は久しぶりである。
元の世界で生活していた頃は道場に週一、二回通う程度の生活だ
ったので、体も今よりもなまっていたし、ついでに脂肪もほんのり
全身を包んでいた。
何より腹の肉はそろそろ自分が中年と呼ばれるべき年齢だと自覚
するところまでやって来ていたものである。
それがどうだ!
静かな湖面に映り込んだ自らの体を見るに、このファンタジー世
界にやって来てからずいぶん体が絞れてきた事に俺自身、衝撃を隠
せなかった。
食習慣の変化もやはり影響しているのかも知れない。
いち度、自分の顔をカサンドラの手鏡を借りてまじまじと見たこ
とがあった。
その時に気が付いたのは、以前に比べても頬がずいぶんと細くな
ったなあという印象だった。
1019
きっと食事量よりも運動量が多くて、酒も毎日は飲まなくなった
ので健康的な体に一歩近づいたのだろう。
まるで十代の頃の自分の体を取り戻したような気分になって、湖
に写り込んだ自分の体にポーズを取らせてみた。
ムキッ。もしかして俺わりとマッチョなんじゃね?
﹁あの、シューター。何やってるのかしら?﹂
﹁えっと、ちょっと体の具合を確かめていたんだよ。ハハハ﹂
﹁まあ、別にいいけれど﹂
ヒモパン一丁で力こぶを作っていた俺にジト眼を送って来たのは
雁木マリだった。
本日はサルワタの森にある湖の建設現場から、少し離れた湖岸の
砂浜に、家族そろって遠出しに来ていた。
目的は一応、傷の全快した事を確かめるために軽く運動する事だ
ったけれど、実際のところは避暑のために行楽しに来たと言う方が
正しいかもしれない。
季節は夏の本格到来を告げる嵐を迎えた後で、ますます暑さが激
しくなりつつあったしな。
暑くて湖岸に遊び来れば、やる事はひとつである。
﹁どれぇ! 早く泳ぎましょー﹂
﹁こら待ちなさいッヨイ、準備運動してから水に浸かるのよ!﹂
すでにカサンドラにフリルワンピを脱がしてもらったようじょが、
肥えたエリマキトカゲと一緒にヒモパン一丁で砂浜を駆け回ってい
た。
この世界にやって来て無駄に使い込んだ傷だらけの俺の体である
が、それをマジマジと見たり視線を逸らしたり繰り返していた雁木
マリは、ッヨイさまが水辺に走り出したところで、あわてて注意す
1020
る。
日本人ならプールに入る前は準備運動しましょう、と教えられた
ものだからな。
﹁ちょ、見てないでシューターも何か注意しなさいよッ﹂
﹁しっかり体操しましょうねッヨイさま﹂
﹁はい、どれぇ!﹂
﹁キュビー!!﹂
雁木マリは言う事を聞かないバジルを抱きかかえて、ッヨイさま
と一緒に小石の少ない場所まで移動していった。
元気なのはよいことです。いっぱい運動してすくすく成長しまし
ょう。
俺がそんなほほえましい気分になってマリとッヨイさまを眺めて
いると、
﹁お、おう。びっくりした!﹂
﹁ぼく、おかしくないかな⋮⋮?﹂
気が付けば俺の隣には気恥ずかしそうにしたエルパコが立ってい
たではないか。
ふんどし
﹁これから泳ぐんだから服を着ていたらおかしいだろう? 男は黙
って越中スタイルだぞ﹂
﹁うんそうだね﹂
俺の口にした事の意味はまるで理解していないはずだが、けもみ
みはこくりとうなずくとはにかみ笑顔を見せた。
エルパコは今ヒモパン一丁だった。
俺たちは泳ぎに来たのだ。泳ぎに来たのであれば服を脱がなけれ
1021
ばならない。
ちなみにこの世界には水着などという気の利いたものは存在しな
い。
ここは女神さまが地上にお作りになったパラダイスなのである。
近頃は自分が女子だったという事が発覚して、エルパコ自身もど
う振る舞っていいのかわからないらしい。
お風呂に入る時は気恥ずかしそうにしてるものの、ちゃんとヒモ
パンを装着している時はあまり恥ずかしがる風でもなかった。
ヒモパンの有無が、このファンタジー世界の倫理観念を決定づけ
る一枚なのである。
よくわかんねぇな異世界。
﹁君もッヨイさまたちと水に入る前に準備運動の体操をしてきなさ
い。水の中で足がつったりしたら大変だからな﹂
﹁わかったよ。シューターさんは、いかないの?﹂
﹁俺は奥さんたちを待っているから先に行ってきなさい﹂
﹁でもそれだと、準備運動が出来ないよ?﹂
体が硬いのか、柔軟をやっているようじょの背中を雁木マリが容
赦なく押している姿をエルパコが指さした。
なるほど相手がいないという事か。
ひとりで準備運動とかぼっち過ぎるので急にかわいそうになった
ところで、ニシカさんが服を脱ぎ散らしなが近づいて来る。
それにしてもデカい確信。
普段はブラウスに隠れてその双丘、いや双球を拝顔する事は叶わ
ないのだが、こうしてみるとまるでドッヂボールがふたつ並んでい
るみたいだ。
これからは心の中でニシカさんの事をドッヂボールさんと呼ぼう
と決意した吉宗であった。
1022
﹁じゃあオレ様が相手になってやるぜ。おいけもみみ、ついて来な﹂
﹁それじゃお言葉に甘えて一緒にやってきなさい。ニシカさん頼み
ました﹂
﹁おうよ!﹂
けもみみの頭を撫でながらそう言うと、ふたたびこくりとエルパ
コがうなずいた。
それにしてもデカい。
ドッヂボール・ニシカさんが元気に返事をくれると、ドッヂボー
ルがばるんばるん暴れた。
﹁お前も獣人の端くれなら泳ぎは得意でないとな。オレ様が泳ぎの
特訓をしてやるぜ﹂
﹁べつに、いらないかな⋮⋮﹂
﹁何でだよ! 教えてやる代わりに酒をよこせとか言ってないだろ
?! 遠慮せずに教わっておけよ﹂
﹁ぼく、シューターさんに教わるから⋮⋮﹂
﹁なんだ手前ぇ、息子が付いてるくせにちっちぇえヤツだな! こ
れだから皮被りは駄目なんだ﹂
おふぅ。皮被りは駄目とかやめてください⋮⋮
不機嫌に抗議をするニシカさんのひと言に、俺まで反応して息子
を両手で庇ってしまった。
とても恥ずかしい気分になった俺は背を向けようとしたところ、
視界の端に写っていたエルパコが俺を指さしながら反論をしていた。
﹁シューターさんだって被ってるじゃん﹂
﹁だからこの村の男はみんな駄目なんだよ!﹂
﹁でも。ぼく、おんなのこだったから。ちっちゃくても問題ないよ
1023
⋮⋮﹂
﹁うるせぇ、けもみみはもう少し甘えるという事を覚えたほうがい
いぜ。さあついて来い!﹂
俺のハートがズタズタにされたところで、ふたりの狩人は雁木マ
リとッヨイさまのところに合流したのである。
ちょっと立っているのが辛いな。
雁木マリはもう動いても大丈夫だと全快を宣言していたが、もし
かしたらまだ血の量が足りていないのかもしれない⋮⋮
◆
ビーチパラソルの様な便利なものはないが、家族と共にやって来
たッワクワクゴロ四兄弟は簡易テントの様なものを設営していた。
彼ら猟師が長期間森に入って獲物を追跡する際に使っているもの
である。
休憩と日除け代わりに使う他、遊びに来た家族の荷物を置くのに
立てたのだが、悪魔面をした小さな筋肉達磨たちがヒモパン一丁で
せっせとテント設営していく姿は、正直見ていてもあまり嬉しくな
い。
とは言え俺も一緒に設営を手伝おうとしたところ、
﹁仮にも騎士さまに手伝わせるわけにはいきませんシューターさん﹂
﹁そうです。それよりも街の女の子を紹介してくださいシューター
さん﹂
﹁俺たち最近、文字書きを勉強し始めたんですよ。文通相手いませ
んかねシューターさん﹂
ッワクワクゴロさんの顔の見分けがつかない三人の弟たちが、口
々に俺はゆっくりとしていろと言ってくれた。
1024
﹁シューターはいちおう病み上がりだからな。こういう荷運び手伝
いは馬鹿弟にやらせておけばいい﹂
﹁そうですか、では遠慮なくお任せします﹂
ひとりだけ赤いヒモパンを着用したッワクワクゴロさんが、弟た
ちをどやしつけながら気を使ってくれた。
いつだったか街でようじょや雁木マリが言っていたが、染めの入
った布生地というのはそれだけで高価なものであるらしい。
してみると、近頃猟師の親方になって景気の良いッワクワクゴロ
さんは、わざわざ赤に染め抜いたヒモパンを用意したのだろうか。
まるで成金である。
﹁ん? どうしたシューター。俺をマジマジと見て﹂
﹁いやあ赤フンだなあって思いましてね。ッワクワクゴロさんにお
似合いですよ﹂
﹁そうか。俺も近頃は親方としての貫禄を身に着けないといけない
からな、うかうかしているとニシカに親方株を奪われかねん﹂
あまり気のない俺が適当な返事をしておくと、ッワクワクゴロ親
方は妙なところでニシカさんに対抗心を燃やした。
もっと猟の腕を競った方がいいですよ、と言おうと思ったがワイ
バーン殺しの鱗裂きを相手にしたら分が悪いので言わない事にする。
﹁ニシカのヤツ、最近色気づいて黒い肌着を身に着け始めたからな。
だったら俺は赤というわけだ﹂
﹁そう言えば街で買いこんだ肌着にそう言うのがあったかもしれな
い﹂
﹁おい、今度行く時は金を出すから、いい染物の生地を買ってきて
くれるか﹂
1025
﹁はあ⋮⋮﹂
話が脱線気味になったところで、ようやく簡易テントが設営完了
である。
ッワクワクゴロさんたちゴブリン四兄弟も、荷物をテントの隅に
押し込んだかと思うと、軽く体を捻じりながら準備体操らしきもの
をして、砂浜を駆け出していった。
﹁よしお前たち、マスを捕まえるぞ!﹂
﹁マジかよ﹂﹁遊ぶんじゃないのかよ﹂﹁普通に泳ごうぜ兄貴﹂
﹁馬鹿野郎。三人揃って半人前以下の分際で、偉そうな事を言うな。
誰のおかげで生活出来ていると思ってるんだ﹂
﹁シューターさんですよ﹂
弟のひとりがしたたかにッワクワクゴロさんに尻を叩かれたのを
見届けた俺は、興味がなくなってテントの中に入った。
テントの中では麻布を敷くふたりの妻がいた。
しゃがみ込んで風で吹き飛ばない様に、四方に石を置いたり水筒
の準備をしていたりしている。
もちろん、ふたりともヒモパン一丁である。
﹁おおおおっ﹂
﹁どうしましたシューターさん?﹂
﹁旦那さまったら、他のみなさんと泳ぎに行かないんですか?﹂
すばらしい。
カサンドラの肢体をお天道様の下でしっかりと見る事が出来るの
は、眼福である。
そして豊かな胸を持ち上げる様に腕を組んだタンヌダルクちゃん、
これはいけない。
1026
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
俺はたまらず前かがみになりながら感謝の言葉を口にすると、ふ
たりの奥さんは不思議そうな顔をしていた。
http://15507.mitemin.net/i1683
08/
<i168308|15507>
正妻カサンドラのキャラクター設定をマテルドさんに描いていただ
きましたので、ここでご紹介させていただきます。
1027
祝100万PV感謝&記念SS シューターズ・サマーキャンプ
前編︵※ イラストあり︶︵後書き︶
みなさまのおかげで総合評価10000ptを達成する事が出来ま
した。
これもひとえに読者のみなさまのおかげです!
ありがとうございます、ありがとうございます。
まもなく200万PVの到達が迫っていますが、これからも本作を
よろしくおねがいします!
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祝100万PV感謝&記念SS シューターズ・サマーキャンプ
後編︵前書き︶
お色気回です、苦手な方は読み飛ばしてください。
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祝100万PV感謝&記念SS シューターズ・サマーキャンプ
後編
このファンタジー世界を司る女神さまは地上に楽園をお作りにな
った。
それがここ、サルワタの森にある湖の砂浜である。
﹁やん、水に浸かっちゃったら下着が透けてます。恥ずかしいです
よう義姉さん﹂
﹁大丈夫ですよダルクちゃん。この村の人間は誰も気にしませんか
ら﹂
﹁蛮族はそうかもしれませんが、ミノタウロスは気にするんです∼
∼!﹂
うら若き乙女たちが、普段は決して表で見せる事のない胸を惜し
げも無く晒して、水辺で戯れているのである。
揺れる乙女の双丘に、この俺は心躍らせるのである。
いいね!
◆
﹁おい、ようじょ! オレ様から逃げられると思うなよっ﹂
﹁ッヨイは負けません、ニシカさん!﹂
ふたつのドッヂボールを備えた様なニシカさんの胸がばるんと揺
れた。
どうやらッヨイさまに水をかけて挑発しているらしい。
嬉しそうにしながらも怒って見せたッヨイさまは、反則にも魔法
の水鉄砲でやり返そうとする。
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ところが大人げないニシカさんが風の魔法で小さな竜巻を現出さ
せると、ようじょビームは見事に竜巻に巻き上げられたのである。
﹁ひゃん! やめてくださらないですかニシカさん?!﹂
﹁うるせぇオレたちゃ楽しく遊んでるんだ﹂
﹁早く止めてください、黄色い蛮族さん!!﹂
ついでに近くで泳ごうとしていたタンヌダルクちゃんのヒモパン
までさらいそうになったので、あわててタンヌダルクちゃんが股間
を抑える。
するとニシカさんにはやや負けそうになるけれども十分に豊かな
乳を両腕で押し上げる様な格好になるので、これはたまらない。
もちろんたまらないのはタンヌダルクちゃんだけではなく、俺自
身もである。
﹁こ、こうでしょうか。少し怖いですね⋮⋮﹂
﹁無理に体を動かそうとしてはいけないわ。人間の体はじっとして
いると浮く様に出来ているんだから﹂
﹁そうなんですか? じゃあまず仰向けに浮いてみます⋮⋮﹂
視線を少し外してみると、泳ぎ方を良く知らないらしいカサンド
ラを相手に、雁木マリがまずは基礎からレクチャーをしているとこ
ろだった。
カサンドラのお胸はお椀をふたつ並べたようなすばらしい美しさ
だった。
その形状は彼女の控えめではあるけれど淑やかで毅然とした性格
にふさわしく、例えて言うなら俺のもの。
一方の雁木マリは、その性格をそのまま表す様にこのファンタジ
ー世界に向かってツンと自己主張をしていた。
胸までがツンデレしていてマリらしいと思ったのは内緒である。
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﹁⋮⋮シューターさん。ジロジロみちゃやだよ﹂
ところでエルパコは断崖絶壁だ。
そこにはさくらの花弁が二枚載せられただけのまな板で、それは
まるで俺の気持ちを試す様にそそり立っているのだ。
よろしい、ならば登頂だ。
男たちを寄せ付けぬその切り立った崖の先にきっとまだ見ぬ何か
が⋮⋮
◆
﹁お兄ちゃんはみんなと一緒に遊ばないのか、ん?﹂
神のお作りになった地上の楽園を観察していたところ、声をかけ
られたのである。
振り返ればそこにはアレクサンドロシアちゃんが、胸を抱きかか
えるようにして威風堂々と腕を組んで立っていた。
ただしヒモパン一丁である。
サルワタの領主といえど泳ぐ時はヒモパンだけになるのだった。
そしてそこには乙女とはモノが違う、熟れた果実の様な胸であっ
た。
﹁まだ病み上がりというか、体は徐々に慣らしていかないとな。ハ
ハ﹂
﹁そうは言うが、聖少女どのに怪我の全快は宣言されているのであ
ろう。そもそも体を慣らすためにここへ来たのに、わらわとこうし
て砂浜に座っているのでは、意味がないとは言えないだろうか﹂
﹁俺はもういい齢のおっさんなんですよ、アレクサンドロシアちゃ
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ん﹂
俺は先ほどまで泳がせていた眼のやり場を誤魔化す様に湖の遠く
を見やりながら言った。
沖の方まで出ているのはッワクワクゴロさんとその弟たちである。
銛に網まで持ち出して、どうやらサルワタマスという魚を熱心に
捕まえようとしているのであった。
﹁そんな事より、村長さまが仕事を放り出してこんなところへ来て
もいいのですかね﹂
﹁いいんじゃないのか。わらわにだって休息は必要であるからな﹂
本来ならば村長さまであり、この一帯を統べる領主さまが部下も
連れずにこんなところに来ているのは論外である。
もしも義息子のギムルがこの場にいたのなら、とんでもない事だ
と大反対をしていた事だろう。
しかしそのご注進をすべきギムルはミノの居留地に引き上げてお
り、いつもは常に側に付いている冒険者エレクトラも側にはいなか
った。
エレクトラぐらいは連れてくればいいのにと密かに思わないでは
ないが、エレクトラにとっても今日は貴重な休暇なのである。
﹁今日は建設現場の方も休みにしておるし、護衛ならこうして領内
随一の戦士が目の前におるからの。安心さ﹂
﹁俺の事を言っているのなら、送り狼にならない事を心配した方が
いいですよ﹂
﹁何だそれは﹂
﹁アレクサンドロシアちゃんもご存知でしょう。新居が出来たのは
いいが、ここにいるみんなが俺の家に住んでいるんです。夫婦生活
もままならないのでね﹂
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溜まってんだよ、言わせんな。
アレクサンドロシアちゃんはそれを聞いてフフっと笑った。
﹁そうか。それもそうであったな。早いところ嵐の被害を受けた家
々は復旧せねばならん。そういう事もあって建設現場は本日作業休
止しているのだからな﹂
﹁頼みますよアレクサンドロシアちゃん﹂
﹁それで。村の若い女どもを集めてキャンプにやって来たシュータ
ーお兄ちゃんは、先ほどからどの娘に眼をつけておったのだ。ん?﹂
何もかも見透かしているという風に女村長は上目づかいに身を寄
せて来る。
甘い香水と鼻から抜ける吐息、それが肌に心に触れて俺はドキリ
とした。
アレクサンドロシアちゃんの色香は、乙女たちのどれにもない大
人の艶っぽさである。
﹁それはもちろん、妻たちを楽しんでおりましたでした﹂
﹁その割にはエルパコを熱心に見ておったではないか。エルパコは
どうだ? 世間ではふたりの妻と愛人ひとりと持てはやされている
ではないか。もう手は出したのか﹂
﹁とんでもない。まだタンヌダルクちゃんとだって、うおっほん⋮
⋮﹂
﹁そうか、ではまず野牛の乳娘を平らげた後に、であるな﹂
﹁いやいやいや。あの子は大切な家族ですが、本人の意思を無視し
ていただきますはないでしょう﹂
ようやく身を引いてくれたアレクサンドロシアちゃんに安堵しな
がら、俺は股間の位置を調整した。
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大丈夫だ、問題ない。
﹁では騎士修道会の聖少女はどうか﹂
﹁雁木マリですか?﹂
﹁聞けば街でも浅からぬ縁があったと言うし、お兄ちゃんが大怪我
を負った時も血相を変えて治療に精を出しておったぞ。カサンドラ
の避妊治療も大変熱心ではあったし、お兄ちゃんの時は何をもって
も特別だ。あれはお前に気があると見ていいだろう。お前の気を引
くために努力ひとしおというわけではないか﹂
﹁⋮⋮俺が意識を失っている間にそんな事があったのか。しかし雁
木マリは不幸な過去がある身で、ある意味でカサンドラには同情と
共感があったのではないかと﹂
﹁ふむ﹂
﹁それにあいつは結婚はまだ考えていないと言っていましたからね、
まずは俺ともお友だちから⋮⋮﹂
正直を言うと、近頃のマリは年頃の女をしている様な気配がある。
何というか、元いた世界ではまだ大恋愛らしきものをしていなか
ったと見えて、恋に免疫力がなさそうなのである。
もちろん気が付かないフリをするのは簡単な事だろうが、逆に今
更嫁が増えたところでこの村の人間は何も言わなさそうなところも
恐ろしい。
﹁となれば、鱗裂きのニシカなどは結婚適齢期であろう﹂
﹁あんたは何を言っているんだ。ニシカさんみたいな残念な蛮族エ
ルフを嫁にしたら、一家の統制が効かなくなるだろ?!﹂
﹁それも困った問題だ。あの鱗裂きは兼ねてより結婚相手の男を紹
介してくれと、わらわに願っておったのだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁鱗裂きの長耳に釣り合う男と言えばなかなかいない。あの長耳は
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あれで面食いだからな、ニシカのお眼鏡に叶う村の大丈夫ともなれ
ば、これはシューターを置いて他にいないだろう﹂
﹁せやかてドロシアちゃん⋮⋮﹂
﹁お兄ちゃんも熱心にニシカを観察していたではないか﹂
﹁あれちがくて、ニシカさんのドッヂボールがあまりにも球体して
いるから、ついな﹂
﹁お兄ちゃんは時々、おかしなことを言う﹂
よく言われますと軽く返事をしながらため息をついた。
しっかり俺がニシカさんの溢れる胸の膨らみに釘づけだったとこ
ろを目撃されていたのだ。
﹁それではもうッヨイしかいないではないか﹂
﹁それはあらゆる意味で犯罪だ! あんたがそれを許しても、世間
がそれを許さないだろう?!﹂
﹁そうだな。お兄ちゃんは国法を遵守し、あと一年ほど待てない様
な男ではないとわらわは信じているからな﹂
違う、そうじゃない。
国法では十歳になったら結婚が許されるのか知らないが、俺はそ
んな眼でッヨイさまを見た事なんて無かったんだ。信じてくれ!
﹁む。もしかするとお兄ちゃんは⋮⋮?!﹂
いにしえ
﹁なっ何だよ改まって﹂
﹁古の魔法使いたちが禁忌の呪印によって獣人を生み出した秘儀で、
あの肥えたエリマキトカゲに手を出すつもりではないだろうな。お
兄ちゃんそれはいけないッ﹂
やらねえよ!
この辺りで、たいがい女村長が俺をからかっているという事に気
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が付いたのである。
お腹をかかえてクスクスと笑い出したアレクサンドロシアちゃん
を見て、俺は呆れた顔をしたのである。
笑って背中をゆするたびに、熟れたふたつの果実がよく揺れた。
そこには大人の重みを持った存在感が見え隠れして、きっとカサ
ンドラのそれよりも柔らかいだろう誘惑が存在していた。
﹁ならばもう、シューターの新たな嫁候補はおらぬという事なのか
の﹂
﹁犬や猫の子供をひろって育てるとはわけが違うんですよ、アレク
サンドロシアちゃん﹂
﹁だがお兄ちゃんは肥えたエリマキトカゲをひろって育てているで
はないか﹂
﹁いやそうだけど﹂
意地の悪い笑みを浮かべたアレクサンドロシアちゃんに、俺はど
う返事をしていいのかわからなくなってしまった。
この話の終着点はどこにあるのだろうか。
するとしばらくして、女村長は静かに湖岸を遠く見ながら口を開
く。
﹁⋮⋮ところでお兄ちゃん。どこかに、わらわに釣り合う相手でも
おらぬものかの?﹂
﹁あ、アレクサンドロシアちゃん何を言ってくるの︱︱﹂
﹁天下に乙女は多いけれど、お兄ちゃんの次の嫁にこそふさわしい
のはわらわではないか。ッヨイなどは小便垂れの小娘だ﹂
言葉の最後に、流し目をして俺に寄りかかって来るではないか。
もしかして、このもったいぶった態度は俺に何かを期待している
のだろうか。
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度々のご褒美というのはそういう事だったのだろうか。
いけない、アレクサンドロシアちゃんの今の視線はヘビの眼だ。
このままでは食べられてしまう。俺はまだゴブリンハーフの魔女
に捕まってしまうわけにはいかないのだ。
そんな風に肝を冷やしていると、砂浜で遊んでいた乙女たちが集
まって、俺たちの方に歩み寄って来た。
﹁シューターさん、これからみんなで泳ぎの練習をしようって話し
ていたんです﹂
﹁わ、わたしも実は長く泳ぐことが出来なくって。いい機会ですか
ら旦那さま教えてくださいよう﹂
カサンドラとタンヌダルクちゃんが口々にそう言った。
﹁お、おう。雁木マリも手伝って、な﹂
﹁わたしはッヨイに教えてあげればいいかしら?﹂
﹁じゃあオレ様はエルパコに教えてやるか。しょうがねえなぁ!﹂
﹁ぼ、ぼくもシューターさんに⋮⋮﹂
集まって来た嫁たちが、俺の腕を引っ張って立ち上げる。
﹁ほら、せっかくの体慣らしなんだから、いつまでも座っていない
の。カサンドラ奥さま、ちょっとシューターを沖まで連れてってや
ってくれるかしら? こいつ元日本人なんだからいけるでしょ﹂
﹁おいこら待て、自分で立てるから!﹂
カサンドラとタンヌダルクちゃんが胸を押し付けてくると、違う
場所が立ち上がりそうになって慌ててしまう。
残されたアレクサンドロシアちゃんを振り返ると、彼女も笑いな
がら立ち上がる姿が見えた。
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﹁よし、ひとつわらわにも泳ぎを教えてくれるかの。村長命令だ、
まずわらわに教えるのだ!﹂
語気を強めてそう宣言したアレクサンドロシアちゃんは、強引に
俺の手を取ると砂浜に駆け出した。
﹁そんな、ずるいですよう領主さま! これだから蛮族は嫌いなん
です﹂
﹁ほらダルクちゃん、わたしたちも領主さまにシューターさんを取
られない様に行きますよ!﹂
﹁ぼ、ぼくも行くッ﹂
﹁どれぇ!﹂
﹁あっこらッヨイはこっちで、ってあたしもやっぱり!﹂
遠くの方で、網にマスを一杯に捕まえたッワクワクゴロさんの姿
が見えた。
助けてッワクワクゴロさん!
﹁おい、オレだけ置いていくんじゃねえ! オレ様もまぜてくれ!
!﹂
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章末 登場人物紹介︵前書き︶
奴はカムラ編まとめです。
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章末 登場人物紹介
登場人物紹介
シューター
■吉田修太
異世界からやって来た三二歳のフリーター。猟師だけど最近騎士に
しょうい
もなった奴隷身分の村人で、ふたりの妻と新婚生活を送る。現在は
村の警備責任者をやっているが傷痍騎士になっちゃった。
カサンドラ
■カサンドラ
控えめではあるけれど、お淑やかで毅然としたところのあるシュー
ターの妻。騎士身分となった夫を支えるために、女村長のお屋敷で
花嫁修業をはじめる。従姉のオッサンドラに言い寄られる。
タンヌダルク
■野牛の乳娘
ミノタウロスの娘で、豊かな胸をした族長の妹。政略結婚のために
シューターのふたり目の嫁となった。カサンドラの事を姉とも思っ
て慕っている。
けもみみ
■エルパコ
ゴブリン猟師の里親に育てられたけもみみ女子。自分の事を狐獣人
の男の子だと思っていたが、実はハイエナの娘だった。ついてる。
アレクサンドロシア
■女村長
村長であり、騎士爵の称号を持つ周辺村落の支配者。サルワタの森
の開拓を推し進めるために、湖畔に新たなる城塞都市建設をはじめ
る。
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うろこざきのにしか
■鱗裂きのニシカ
黒髪ショートの黄色い蛮族。街から村へ戻って来ると、妹は嫁いで
いってぼっちに。夏の到来を告げる嵐で家が損傷し、今はシュータ
ーの屋敷に居候している。
おっさんどら
■オッサンドラ
鍛冶職人で従妹のカサンドラに言い寄ったため、いち度は村長から
接見禁止を命じられた。姉を経由して手に入れたポーションを使い、
気を強くした事でカサンドラを襲い、シューターに喉笛を潰される。
わくわくごろ
■ッワクワクゴロ
猟師の親方株を手に入れてから近頃成金趣味のベテラン猟師。三人
の若い弟たちを猟師見習いとして教育し始めた。夏の到来を告げる
パンツレスリング
嵐で家が損傷し、今はシューターの屋敷に居候している。
タンクロードバンダム
■野牛の族長
サルワタの森のミノタウロスの族長で、闘牛のツワモノ。シュータ
ーと自分の妹をかけて勝負するが負けてしまった。
■美中年カムラ
彫りの深い顔に紺碧の瞳をした、茶髪髪のイケメン三一歳。ブルカ
の冒険者ギルドから派遣され、サルワタの開拓村に冒険者ギルドを
開設するためやって来たが、実はブルカ辺境伯のスパイだった。
■司祭
サルワタの森の開拓村にある教会堂の責任者。異教徒を教化するの
が得意だと思っていたが、雁木マリの尋問に立ち会った際は半ばド
ン引きしていた。
1042
■助祭マテルド
聖なる癒しの魔法を得意にしている教会堂の助祭。魔法薬学を学ん
だので詳しい。ブルカの街出身で、ブルカ辺境伯の縁者として騎士
修道会傘下の聖堂会に入信し、サルワタにはスパイとして赴任した。
あかちゃん
■バジル
シューターが育てているバジリスクのあかちゃん。肥えたエリマキ
トカゲみたいな外見をしている。
用語紹介
ミノタウロス
□野牛の一族
男性は野牛の顔で、やや高身長に筋骨隆々の体をしている。女性は
人間の顔に角を生やしたような姿で、豊かな胸を持っている。人類
未踏の地域では、人間に代わって文化的な生活圏を築き上げている
が、王国の支配が強い地域では各部族の文化交流は途絶えて細々と
生活している。
□ハイエナ獣人
いにしえの魔法使いたちが禁忌の呪印によって生み出した獣人族の
ひとつ。母系の部族社会を築き、ハイエナの特徴同様に女性器が肥
大化するため成長過程の見た目は男の娘である。
□湖畔のダンジョン
元はワイバーンが休眠するために使っていた巨大な入口の洞窟だが、
さらに奥にはミノタウロスの築き上げた半地下都市が存在していた。
□騎士修道会
1043
辺境の教化を目的に結成された武装教団で、傘下にはブルカ聖堂会
がある。入会者は軍事教練と医療教育を受け、修道騎士や医療従事
者に進むものと一般の聖職者になるものとに振り分けられる。
□夏の到来を告げる嵐
本格的な夏がやってくる前に辺境に訪れる自然現象。数日の豪風雨
が続き、去った後に暑い日々がやって来る。
□狐谷まどか
作者。代表取締役お兄ちゃん。
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90 アレクサンドロシアの挑戦状 ︵※ 扉絵あり︶︵前書き
︶
本日より第4章開始です!
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90 アレクサンドロシアの挑戦状 ︵※ 扉絵あり︶
http://15507.mitemin.net/i1683
95/
<i168395|15507>
てすん︵G.NOH︶さまより、女村長アレクサンドロシアさまの
イラストを提供していただきました。ありがとうございます、あり
がとうございます!
ある日、女村長の屋敷にある執務室に集められた俺たちは、アレ
クサンドロシアちゃんよりその様な意見を求められたのだった。
﹁わらわとしては、このままブルカ辺境伯に介入された事を黙って
やり過ごすわけにはいかん。ただちに抗議の書状を送り付ける所存
であるのだが、皆の者、何か意見はあるか﹂
集められたのはッヨイさまに雁木マリ、ニシカさん、そして俺と
エルパコである。
ギムルが留守になり、メリアも暇を出されてしまった現在は村長
の手足も人手が足りておらず、ふたりの妻は花嫁修業がてら屋敷へ
出入りし、俺たちは何かある度に集まっては協議に参加しているの
1046
だ。
少し前までは街からやって来た冒険者カムラがその相談相手にな
っていたらしいが、奴はもう死んだ上にブルカのスパイだった男だ。
その穴埋めは俺たちでしなければならない。
さっそく女村長の言い出した言葉にようじょが口を開く。
﹁ドロシアねえさま。もしブルカに抗議の書状を送り付けた場合、
今後ブルカと交易をする事が出来なくなってしまうのです﹂
﹁ふむ、その意見はしごくもっともであるな。だがそのために他の
辺境領主たちと交流を深めようと言い出したのはお前ではなかった
のか﹂
ようじょが言う様に、辺境地帯の最僻地にあるここサルワタの森
領内の生活必需品を、基本的に多くの部分でブルカの街に頼ってい
る。
例えば貨幣ひとつとっても、領内で使われている金貨はブルカ辺
境伯金貨であり麻布、木綿の布もまた全て街から行商人によっても
たらされている有様である。
街からもたらされる麻布は光沢を帯びた上布と呼ばれる高級品で、
村で産出される安いごわついたものとは肌触りがまるで違った。
﹁その通りです。けれども、リンドルやオッペンハーゲンと交易を
深めるためには、それらの土地の領主さまや商人たちによってお得
なものがなければいけないのです﹂
﹁お得なものか。わらわの領内には貨幣すら数が足らない始末だか
らな。さてどうしたものか⋮⋮﹂
貨幣についても、大領主や有力者ともなれば国王より貨幣鋳造権
1047
を付与されて独自に金貨・銀貨を作る事が許可されるのだ。
サルワタの領内に産するささやかなものと言えば、狩猟によって
得られる革製品と湖で取れるサルワタマスの燻製などが少々ある他
は、イモなどの農作物ぐらいのものだ。
﹁ブルカと言えば辺境交易の中心地よ。あたしが眼にした限り、王
都や本土の諸都市から運び込まれた名産品や特産物、それに辺境の
各地から集められた資源や農作物は、いったんブルカの街に集まっ
て、そこから再分配される様に出来ていたはずね﹂
﹁なるほど、ブルカは消費都市というわけか﹂
﹁消費都市とは何だ﹂
雁木マリの言葉に俺がひとりごちると、女村長が知らない単語を
耳にして聞き返してきた。
﹁モノの本によれば、消費都市というのは政治的や宗教的な中心地
として文物の生産に寄与しない街なんだそうだ﹂
﹁続けてくれお兄ちゃん﹂
﹁なるほどな。さしずめブルカにはブルカ聖堂があり、辺境交易の
中心地として栄えている街なので、特段何かしらの産物がブルカで
作られているわけではない﹂
逆に言えばブルカを経由していろいろな産物がやり取りされてい
るのだ。
俺がそんな事を説明してやると、ふと素の状態で聞き返したアレ
クサンドロシアちゃんの﹁お兄ちゃん﹂発言に、ようじょもマリも
エルパコも、ぎょっとした顔をしていた。
こらこら、人前でお兄ちゃんはやめなさい。
﹁え、えっと。ぶ、ブルカの街は辺境交易の中心地なので、いろん
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なものが街に集まっています。だからブルカからそれぞれの辺境領
地にものが運び出されていき、代わりに食べ物が送り出されていく
のです﹂
眼を白黒させながら俺と女村長の顔を交互に見比べながら、よう
じょが言った。
サルワタ領内は湖と河川が走り抜ける森を開墾した土地だけあっ
て、水耕栽培でよその土地よりも多産が可能なタロイモの仲間がと
れる。
ある意味で農産業だけが生命線の辺境において他の領地よりいく
らか産出量が多いと言えるが、それらはどの辺境でも大小の差はあ
っても似たようなものだろう。
﹁遠慮はいらんぞ、最後まで続けよ﹂
﹁ブルカとの敵対を鮮明にするサルワタ領と交流するためには、そ
れぞれの街にとってそれなりの魅力がないといけないのですドロシ
アねえさま﹂
ッヨイさま賢いなあ。
不機嫌そうな女村長にちょっぴり怯えながらも、はきはきと説明
をした。
雁木マリも腕組みをしながらうんうんと唸りはじめたではないか。
どうしたもんかね。
﹁しかし魅力ね、辺境伯を敵に回すのも簡単な事ではないわ⋮⋮﹂
﹁何言ってるんだよ、だったら話は簡単じゃねえか。この村にしか
ないものをよその街に売りつけてやれば簡単だ!﹂
鱗裂きのニシカさんが白い歯を見せてそう言い切った。
そりゃそうだ。ニシカさんのいう事はごもっともである。
1049
しかし俺はこの村で生活する様になって数か月になるが、村で自
慢が出来るものといえばワイバーンが定期的にやってくるぐらいし
かない。
﹁この村にしかないものって何かしらニシカさん。それがあればあ
たしたちに味方する辺境領主がいるかもしれないわ!﹂
﹁そうなのです、おっぱいエルフはもったいぶらずに言うのです!﹂
﹁うるせえ、おっぱいじゃねえ! お前たちはよそ者だから知らな
いだろうが、オレたちの領内の特産品と言えば、村長の机の上に置
かれているじゃねえか、なあシューター?!﹂
ニシカさんはぼよよん胸を躍らせて咆えて見せると、俺に同意を
求めながら女村長の執務机を指差すのだった。
唯一他にない特産品は何かと問われればそれは⋮⋮
ゴブリン人形である。
﹁わらわの村が辺境の諸都市と交易するために輸出可能なものと言
えば、このようなものしかない﹂
執務机の脇に鎮座した木彫りのゴブリン人形を睨み付けながら、
女村長がため息交じりにそう口にしたのである。
ゴブリン人形は、開墾のためにサルワタの森を伐採した際に出た
材木の一部を利用した工芸品である。
サルワタ農民の生活というのは春に冬麦の収穫をして夏は芋を育
て、秋にはまた冬麦の種を巻いて冬ごもりをする。
冬は内職をして過ごすのが一般的な領民たちの生活なのだが、い
つしかその冬の収入源としてゴブリンの木彫り人形を生産する様に
なっていたのだという。
北海道の特産品というヒグマが鮭を加えている木彫りの人形みた
1050
いなものだと思えばいい。
しごく真剣な顔でみんなの顔を見回したニシカさんは、語気を強
めながら力説した。
﹁これを辺境の領主との産物交流に売りつければいいんじゃねえか
? ん?﹂
﹁何よこれ。悪魔の人形なんか気味悪がって誰も欲しがらないわよ﹂
﹁悪魔では無くあくまでゴブリンだぜ! ガンギマリーもよその村
でこれと同じものを見たことがあるか? ねぇだろう﹂
﹁ないわね。というか頼まれたっていらないわ﹂
﹁い、いらない、だと?!﹂
驚愕の表情をしたニシカさんを無視して、俺はしごくまっとうな
提案をする事にした。
﹁村長さま、村の特産品と言えばワイバーンがあるじゃないですか。
あれは確か鱗や爪が防具の素材になるんじゃなかったでしたっけ﹂
﹁うむ、そうだ﹂
﹁だったら、他の領主や商会とは販売特約を結んでしまえばいいの
ですよ﹂
﹁特約か、つまりどういう事だ﹂
﹁えっとですね、冬に得られたワイバーンの鱗や骨は、優先的にそ
れらの取引先に卸す様にすれば、彼らにもお得感があるでしょう﹂
﹁さすがシューターだ。学のある者の意見は違うな﹂
喜んだ顔をした女村長がその場で採用してしまった。
﹁よし、さっそくその方向で他の交易する方向を検討しよう。これ
で正々堂々と抗議書簡を辺境伯に突きつけてやることが出来るな﹂
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﹁どれぇは賢いですね!﹂
﹁そうね、こんな人形に頼るより、そっちの方が堅実でメリットが
あるわ﹂
口々に賛同した協議参加者をよそに、ニシカさんはまだ抗議を口
にしていた。
﹁何でだよ、ゴブリン人形かっこいいだろ! なぁシューター何と
か言えよ!﹂
◆
俺は今、ゴブリンの木彫り人形を作成中である。
ゴブリン人形の素晴らしさをまったく理解できなかったこの俺に、
ニシカさんが懇切丁寧に教えてくれるのだそうだ。
がらんどうの屋敷の食堂の端で俺たちが座り込んで木片を削り出
していると、礼儀作法の練習をしていたというカサンドラとタンヌ
ダルクちゃんがやって来たのだ。
気が付けばみんなで、ゴブリン人形教室がはじまってしまった。
﹁むかしお父さんやおじさんと、冬になるとよくやっていました。
懐かしいです﹂
﹁へえ、ナイフ一本でこんなものを作るのですか蛮族は。ナイフに
魔法がかかっているのかしら?﹂
﹁ぼくも、やってみたい⋮⋮﹂
子供の頃に職人たちと混じって作っていた経験がカサンドラには
あるらしい。
それに、蛮族の民芸品に興味を示したタンヌダルクちゃんも参加
表明をしてくれた。
1052
けもみみは、自分の義理の両親を思い出しながら、顔を一心不乱
に削っている。
﹁いいかシューター、お前にはゴブリン人形の素晴らしさをみっち
り教えてやるからな!﹂
馬鹿にした事を後悔してやるぜと吠えるニシカさんだが、残念で
した。
むかし俺は、木工職人の隣の家に下宿していた事があるので、ち
ょっとだけかじった事がある。
京都の町屋の並んだ繁華の裏手には、料亭だけでなく版画工房や
染物工房、着物屋に小間物屋と、昔ながらの職人が住む工房が長屋
を形成していたのだ。
俺は当時料理屋の住み込みをやっていたのだけれど、時々暇を見
つけてはその木工職人の弟子になりたいと通っていた美術学校の女
子大生をひと目見たさに、よく工房を出入りして手伝いをしたもの
だ。
細かな仕上げはさすがに素人の俺には出来ないだろうが、なんと
なくひとの形にするぐらいなら道具さえあれば出来るのがありがた
い。
﹁何だよシューター、お前ぇなかなかセンスがあるじゃねえか﹂
﹁いやぁ昔取った杵柄というやつで、ちょっとだけ習った事がある
んですよ﹂
かわいこちゃんの女子大生にお近づきになりたくて、などと言え
ばふたりの妻に何を言われるのかわからないので黙っておく。
ちなみにその女子大生には彼氏がいた事が後日発覚したので、俺
は工房に通うのをやめた。
しかしいち度手伝った事もあって、俺が暇をしていると職人が手
1053
伝いをしたら小遣いをやるというので、しぶしぶ内職をしていたも
のだ。
当時は外国人向けなのか、変な顔の鬼のお面を作っていた。
﹁さんざんゴブリン人形を馬鹿にしていた癖に、はじめたらやたら
と熱心で、しかも上手いところがムカつくぜ﹂
講師役のニシカさんが、俺が彫っていたッヨイさま人形を見てぶ
うたれた。
ぶうぶう言う割には小器用にナイフを片手にゴブリン人形を彫る
のだ。
ん、いや違う。ちょっとゴブリンにしては上背があるし、顔がま
んまるだ。
﹁そういうニシカさんこそお上手じゃないですか。それは豚面の猿
人間か何かですかね?﹂
﹁ち、ちげぇよ! これはお前ぇの顔に決まってるじゃないか!﹂
﹁ゴブリン人形作るのに、何で俺の人形つくってるんですか。しか
もぜんぜん似てないし﹂
ついそんな事を口にするとニシカさんが発狂した。
講師の癖に、実はニシカさんあんまり上手くないんじゃないのか?
﹁えーっ。旦那さまはもう少し顔が細いですよ。ニシカさんは眼が
ひとつしかないので、もうひとつは節穴ですね?﹂
﹁そうですねぇ。シューターさんなら胸のところに傷がないといけ
ませんね﹂
﹁うるせぇ、顔はまだ削り出している途中なんだよ! ここに傷か、
わかったぜ﹂
1054
女性陣は俺をそっちのけで盛り上がり始めたので、ふうふうと木
くずを吹き飛ばしながら集中する。
俺はッヨイさま人形を彫り続けるのだった。
むかし俺がフィギュアの造形師でもやっていたのなら、きっとも
っと忠実にッヨイさまの顔を再現できるのだろうが、ちょっと難し
いな。
うんでも、なかなか上出来じゃないか。
眺めていると、何となくようじょっぽく見えてくるから不思議だ。
﹁おいシューター、お前の顔を参考にするからこっちに顔見せろよ﹂
﹁旦那さま笑顔ですよ。かっこいい顔を彫ってもらいましょう﹂
﹁あ、シューターさんはここにほくろがあるんです。ここですね﹂
﹁シューターさんはやっぱり服着てるとおかしいよ﹂
だがちょっと待ってほしい。
別に俺はロリコンじゃないからな。
ようじょがかわいいのは、この世界の摂理なのである。
奥さんたちの黄色い声に惑わされる事無く、俺は集中力を高めな
がらッヨイさま人形の顔を削り出しに取り掛かるのだった。
1055
91 わらわは本気であると女村長は言った
正直を言って、俺はずっと嫌な予感がしていたんだ。
女村長がブルカ辺境伯との敵対姿勢を鮮明にすると決意をした時、
では誰がその使者として派遣するのかとアレクサンドロシアちゃん
がつぶやいたのである。
これは戦争のはじまりだった。
血を流す戦争はまだずっと先になるかもしれない。
けれども、王国の辺境一帯に対して睨みを効かせるべくブルカ辺
境伯は巨大な軍事力と権限を兼ね備えているのだ。
これに対決するためには、他の辺境領主たちとの連携強化を作り
上げなければならない。
しかしどうだろう。
辺境の中でもさらに僻地に存在しているサルワタの森の開拓村と
その周辺集落は、それらの有力な辺境領主とは繋がりがまるでなか
ったのである。
﹁聖少女というツテがわらわたちにあるのだから、まずはもっとも
頼みにしなければならないのは騎士修道会であるな。味方に騎士修
道会がいるという事で、者どもに与える安心感はまるで違うであろ
う﹂
女村長の屋敷から教会堂へと向かう道すがら、そんな事をぼそり
と口にしたアレクサンドロシアちゃんである。
後に続くのは護衛の冒険者エレクトラと俺である。
1056
﹁シューターさん。ちょっといいかい﹂
﹁どうしたエレクトラ﹂
﹁あたしみたいな下っ端の護衛が口を出す事じゃないんだけどさ﹂
俺はメスゴリラみたいな外観のエレクトラに向き直りながら、ヒ
ソヒソ話をしてくる彼女に身を寄せた。
何か女村長に聞かれたら不味い話でもあるらしい。
﹁村長さまが何やら隠れて、旅支度をはじめていたんだよ﹂
﹁⋮⋮旅支度?!﹂
﹁しッ、声が大きいよ。そうさ旅支度だ。護衛のあたしにも何も聞
かされていないけれど、腹心のシューターさんなら何か聞いている
んだろ?﹂
﹁いや何も聞いていないけど﹂
俺は何も聞いていなかったけれど、だいたいの予想は何となくだ
が出来ていた。
これから俺たちは教会堂に向かう。
そこには騎士修道会として、聖堂会として今後このサルワタ領内
でどう立ち振る舞っていくかを、司祭と雁木マリ、そしてマリとと
もにここへ派遣されて来た他の修道騎士たちが協議を重ねているは
ずだったのだ。
その場所に女村長が向かうのである。
俺たち村の目的は明確で、ブルカ辺境伯と対決するための味方と
して騎士修道会を取り込む事だ。
雁木マリは俺の同郷で冒険者仲間でもあったし、個人的に味方で
あることは間違いない。
その雁木マリが騎士修道会の聖少女とあがめられている人間であ
1057
るのだから、彼女を利用して女村長は騎士修道会を説得させたいの
だ。
﹁⋮⋮まあ旅先の見当は何となくわかるぜ﹂
﹁どこだい。まさか敵の本拠地に乗り込もうって言うんじゃないだ
ろうね﹂
そのまさかだろうね。
俺はその言葉を口にしなかったけれど、エレクトラはすぐにそれ
を察したらしい。
とても嫌そうな顔をして﹁説得しとくれよ﹂とささやいた。
﹁何をしているお前たちは。おい、お兄ちゃんも、わらわをないが
しろにして護衛にまで手を出すとは何事か。女を口説いて回るにし
ても順序と優先度というものが大切だ﹂
﹁え? ちょ、手なんか出してないし﹂
﹁ふむそうか。ならばさっさと来るのだ。護衛ふたりがわらわから
離れていたのでは護衛の意味がないであろう﹂
俺たちに猜疑の眼を向けてきた女村長である。
エレクトラはそう言われて嫌そうな顔をしながらも慌てて女村長
の側に走っていった。
俺はというと、とても悲しい気持ちになっていた。
順序と優先度などと言われたが、別に俺は無差別に誰でも口説い
て回っているわけじゃねえ!
悲しい気持ちになった俺は、腹いせのつもりでひとこと女村長に
言ってやることにした。
﹁アレクサンドロシアちゃん﹂
﹁な、何だ。みんなの前で名前にちゃん付けで呼ぶではない﹂
1058
﹁じゃあアレクサンドロシアちゃんもお兄ちゃんと呼ぶのはやめよ
うな﹂
﹁う、うう。わらわは不愉快だ!﹂
そうかそうか!
年甲斐も無く照れたアレクサンドロシアちゃんかわいい。
◆
﹁それで、このあたしに騎士修道会総長に引き合わせて欲しいと言
っているの?﹂
﹁ありていに言えばそうだ。木端使者に書簡を付けて送り出すだけ
では、わらわの誠意が伝わらぬというものだからな﹂
場所は教会堂、司祭の執務室に対面で座った雁木マリと女村長が
会話をする。
﹁それは可能な事だけれど、じゃあどこで会談を執り行うつもりな
の? まさかこの村に修道会総長を引っ張ってくることは不可能な
のだけれども﹂
﹁よい。その様な無理な願い事をする必要はないぞ﹂
﹁じゃあどこで会談をする予定なのですドロシア卿?﹂
﹁ずばりわらわが直接、ブルカの街に赴く。それが誠意というもの
である﹂
女村長を挟んで反対側では、エレクトラがあちゃあという顔をし
ていた。
当然、その提案に司祭さまも雁木マリも、その向こうにいる修道
騎士たちも驚いた顔をしていたね。
そりゃそうだ。これから対決する事になるライバル領主のおひざ
1059
元に、わざわざ足を運ぶなんて、
﹁⋮⋮どうかしているわ。シューターあなた、その事を知っていた
の?﹂
﹁いや知らん。けどだいたい予想は付いていたかな﹂
﹁止める猶予も無かったのね⋮⋮﹂
﹁ここに来る道すがら、エレクトラが教えてくれたんだ。村長さま
がコソコソ旅支度をしているらしいってね﹂
お互いに呆れた顔を浮かべたあと、しごく真面目な顔をしていた
アレクサンドロシアちゃんを見やった。
﹁ドロシア卿が誠意をお見せくださるというのはわかりました。け
れど、何もブルカに足を運ぶ必要というのは無いんじゃないでしょ
うか﹂
﹁わらわは本気である。何としても湖畔に建設中の城下に聖堂を建
設させ、騎士修道会の一部でも頓営させる事が出来れば、これは強
力な味方になるのだからな﹂
﹁それはわかります。ですが、例えばサルワタとブルカの近郊で会
談を行うとか。そういう方法もあるわ﹂
﹁聖少女ガンギマリーがそう言うのならば、わらわとしてはそれで
も構わぬ﹂
これで少しはリスクを回避できるわ。とでも言いたそうに、警備
責任者たる俺の方を雁木マリがチラリと見やった。
ありがとうございます、ありがとうございます。
﹁それならば、わたしの同期にあたる司祭がいるブルカ近郊の村で
行うというのはどうでしょうか。人物はわたしがよく知っています
し、その村は辺境伯の領内ですからおかしなスパイがいる事もない
1060
でしょう﹂
司祭さまがそこで提案をした。
おかしなスパイというのは、辺境の領主たちの土地に潜ませてい
るブルカ辺境伯のスパイを指している事は明白だ。
まさか自分の領内に敵情を探るための間諜はいないだろうと司祭
さまは言いたいのだ。
﹁ふむ。その事についてはわらわも懲りたので、皆がその様に助言
するのならば任せるとしよう﹂
﹁それがいいわね。で、シューター。街に書簡を届ける予定はどう
いう風になっているのかしら?﹂
女村長が納得してくれたので、今後の予定を話し合っておく。
﹁ひとまず、この村に乗り物と言えば荷馬車がひとつしかないとい
うありさまなんで、今タンヌダルクちゃんが実家に馬車を借りれな
いかと族長にかけあいに行ってもらってるんだ﹂
﹁それじゃあ使節が乗るための馬車の手配は出来るのね?﹂
﹁たぶんな。無いと困るしな﹂
俺はこの世界の外交的なしきたりについて詳しくなかったけれど、
使節を送り出すためにはそれなりに見栄えというか外見というのが
必要なものらしい。
じゃあ今までどうしてこの村に馬車が無かったかというと、そも
そも先代領主と、当代領主の女村長も、貴族軍人の出身であるので
馬に乗れるのである。
だが俺は乗れない。
だから俺のために馬車が必要なのである。
1061
﹁で、やっぱりその使者というのはおま、シューターに決定になっ
たの?﹂
﹁うむ、その通りだ。わらわの腹心であり剣の腕もたつので、いざ
道中野盗に襲われても安心だし、今回はわらわも同道するからな。
なおさら適任と言える﹂
﹁そう、それはご愁傷さまね⋮⋮﹂
まったくだ。同行する俺の身にもなってくれよ!
と心の中で思っていたが、本来の護衛役であるエレクトラは、さ
らに嫌そうな顔をして俺に助けを求めてきたのである。
﹁シューターさん。あたしを鍛え直してくれないかい⋮⋮﹂
﹁お、おう。道中で空手教室でもやるか﹂
護衛役のエレクトラの心労もお察しである。
◆
﹁今回の使節の経路順は次の通りを計画しているのです﹂
食堂のテーブル前に集まったのは俺とニシカさん、それから雁木
マリとッヨイさま、それに冒険者エレクトラや修道騎士だった。
女村長には決定した事を報告するとして、俺たちは事前に安全な
経路を選びながらブルカ近郊の村、そしてリンドルとオッペンハー
ゲンに向かうルートを決めなくちゃいけない。
ようじょがイスの上に立って指揮棒で俺たちの村を指す。
﹁まずサルワタ領を出発したら、ブルカ近郊の村に向かうのですが
⋮⋮﹂
﹁司祭が言うにはツダという村だそうね。今頃は連絡のために伝書
1062
をしたためてくれてるはずよ﹂
﹁そのツダ村にドロシアねえさまを連れていきます。ここで騎士修
道会のそーちょーと会談を行う予定なのですが、どれぇの一団はそ
れが終わったらリンドルの街に向かいます﹂
先に辺境伯に書簡を届けに行くか、それとも他の領主と外交や修
道会総長と会談を行うかについては少し揉めた。
まずはじめに辺境伯に挑戦状ともとれる抗議文の書簡を届けてし
まえば、警戒した辺境伯が、修道会総長と女村長の会談を妨害して
くる可能性も考えられる。
という事で、俺たちはツダの村に先入りした後に修道会総長と会
談を行い、早々にアレクサンドロシアちゃんには退散してもらおう
という事になった。
その後に俺たちは外交作戦を開始する。
﹁リンドルは、ブルカとサルワタ領を結ぶ距離とほぼ同じぐらいの
道のりなのです﹂
﹁すると、だいたい三日ぐらいの距離という事だな。わかったぜ、
それぐらいなら緊張感を持って周囲を警戒出来る﹂
ニシカさんがうなずきながら地図に視線を落としていた。
気配を察知する能力を持ったニシカさんは、こういう旅路に非常
に頼もしい仲間と言える。
﹁リンドルから次に向かうオッペンハーゲンには、直接ブルカを経
由せずに田舎道があるのです﹂
﹁オッペンハーゲンは自分が赴任した経験があります。リンドル周
辺はわかりませんが、オッペンハーゲンに近づけばある程度土地勘
があるのでご安心を﹂
1063
修道騎士のひとりがそんな風に言った。おお頼もしい青年だぜ。
ところがこの修道騎士は当てに出来ない事がすぐに発覚した。
﹁いや、お前たちはそのまま聖堂に戻る事になるから、オッペンハ
ーゲンには行かないわよ?﹂
﹁ええええっ。そうなんですか?﹂
﹁当たり前よ。あたしはこの村に冒険者として残る事になるけど、
あんたたちは騎士修道会の修道騎士でしょうが﹂
﹁そんなずるい、何で聖少女さまだけ!﹂
﹁あたしは例えるなら学園の理事長みたいなものなの。校長である
修道騎士総長の指揮下にお前たちはいるのだから、当然お前たちは
学園に戻るのが当たり前じゃないの﹂
当然よ、と言いながら雁木マリがわけのわからない説明をした。
その例えでなんとなく状況を理解できたのは、たぶん俺だけであ
る。というところまで思い至って、雁木マリがわざわざ俺のために
説明してくれたんだなと理解した。
﹁マリって理事長だったんだな。騎士団トップより偉いのかよ﹂
﹁そりゃまあだてに聖少女じゃないわ。あたしの地位は騎士修道会
における枢機卿にして聖少女修道騎士というのよ。偉いんだから崇
めてくれていいのよ? フフっ﹂
ブルカ聖堂に全裸で降誕した雁木マリの正式名称は長い。
﹁そんな偉い人間がこの村にいて大丈夫なのかよ﹂
﹁あたしはそうね。強制力を持った騎士修道会の助言者という立場
だから、何か組織に問題が起きない限りは口を出すつもりはないの
よ。何しろ聖少女の影響力は修道会の中でも大きなものだから、今
は騎士隊には配属されていないの﹂
1064
﹁そうなのか。その口ぶりだといろいろと苦労があったんだな﹂
﹁こ、今度、その事について個人的に慰めてくれてもいいのよ?﹂
機会があればな。
今は議論の最中なので話を元に戻しておく。
﹁それで修道騎士のみなさんはそーちょーと共にブルカに帰ってい
ただくことになるのです!﹂
﹁﹁﹁はい⋮⋮﹂﹂﹂
何を期待していたのか、うなだれた修道騎士のみなさんはようじ
ょにさとされて返事をした。
ぼそぼそと不満を口にしている彼らの言葉をひろってみると﹁せ
っかく知らない土地を旅できると思ったのに﹂とか﹁異教徒といけ
ない恋路をしてみたかった﹂とか﹁擦れた都会の女より村娘だよな﹂
などと残念な事を漏らしていた。
ジロリと雁木マリが睨み付けると、一斉に彼らは背筋をぴんと伸
ばすのだった。
しかし問題は使節団の陣容とオッペンハーゲンからブルカへと向
かう最後の道程である。
﹁オッペンハーゲンで交渉を済ませた後に、使節団はブルカの街に
向かいます。それぞれの街での交渉もそうですが、ブルカ辺境伯を
相手に書簡をつきつけるので、馬鹿にされないだけの使節団の内容
じゃなければいけないょ﹂
﹁村長さまの護衛のためには冒険者エレクトラとダイソンが付いて
いくことになるな。俺たち使節団の方は、ニシカさんとエルパコが
いれば周辺警戒は問題ない。んが、それでは使節団と言えないよな
あ﹂
﹁そこはドロシアねえさまが、野牛の一族から兵隊を連れていく様
1065
に言っていたのです。村をからっぽにするわけにはいかないので、
ッワクワクゴロさんと野牛の族長が一時的に村に出て来るのです﹂
﹁ッワクワクゴロはいつも留守番ばっかりだぜ。きっとまた悔しが
るぜ﹂
ニシカさんが茶化してそんな事を言ったが、彼なら安心だ。
それにタンクロードバンダムの強さは俺が保証するぜ。
何しろ個人の武勇で言うならばあれはヤバいレベルで強かったし、
彼は部族のリーダーでもあるので人間を統率するのはお手の物だろ
う。
問題は村の人間がいう事を聞くかどうか、そもそも野牛の一族は
外見が恐ろしいので面と向かって抗議する人間なんていないだろう。
ッワクワクゴロさんとも面識はあるし、うまくやってくれるだろう。
そんな感じで旅行程のすり合わせも終わりを迎えた頃、ちょうど
女村長が司祭さまと一緒に執務室から出てくる姿が見えた。
﹁皆の者、騎士修道会総長への親書とツダ村の司祭宛ての伝書が用
意出来た。そこな修道騎士には申し訳ないが、ひとり馬術に長けた
者にこれを届けてもらいたい﹂
﹁はは、では俺が﹂
﹁うむ頼んだぞ。それから出発は明後日とするので、各々ただちに
準備をする様に﹂
アレクサンドロシアちゃんの宣言を聞いて、俺たちは慌ただしく
旅路の支度にとりかかるのだった。
1066
92 旅立ちの前夜 前編
俺たちは長く村を離れるにあたって、それぞれ武器を新調する事
になった。
美中年カムラとの戦いで、すでにおっさんに結婚のご祝儀として
もらった短剣はひどい刃こぼれ状態だった。
﹁何か新しい剣はないでしょうかね。これから街を歴訪する予定な
ので、長持ちするような﹂
﹁騎士の剣は信念を貫く武器なんて言われているけどね。それにし
てはあんたの持っている短剣は護身の武器の域を超えていないんだ
よなあ﹂
そう言ったのは鍛冶屋の青年だった。
いつぞや俺たちがオッサンドラソードを鍛えなおしてもらいにい
った際、対応してくれた彼だ。
一緒に来たニシカさんは矢を物色するために別の倉庫へと向かい、
ここにはカサンドラとエルパコが俺に従っているだけだ。
俺の剣は鍛え直してもすでに武器としては用を成さないほど刃が
痩せ細る事は眼に見えていたし、この世界の剣と言えば刃広の長剣
が主流である。
そんな剣を持った連中と敵対する事を想定するならば、護身の短
剣はいかにも心もとないだろう。
﹁あんたも今は立派な騎士さまだからね。それならばやはりこのあ
たりの長剣を差している方が様になっているよ﹂
﹁どれがいいかな。ここに来て剣を交える時にはよく受け太刀をし
1067
たから、出来るだけ鍔が頑丈なものがいいな﹂
﹁それならば、これを持っていけ﹂
俺と青年が剣の並んだ倉庫の中をぐるりとしながら会話をしてい
ると、その背後からドワーフの鍛冶親方が声をかけて来たではない
か。
﹁親方ぁ。こんなよそ者の奴隷騎士の相手なんか、俺に任せちゃっ
てくださいよ﹂
﹁お前はそういう態度だからいつまでも一人前になれないんだ。シ
ューターの旦那には村のみんながお世話になっているんだぞ。ワイ
バーンの討伐、スパイの討取り、それにオッサンドラの件もある﹂
﹁あの辛気臭いもじゃもじゃの事は関係ないでしょう﹂
﹁わしらには監督責任というものがあるだろう。あれがご禁制の魔
法の薬とやらに手を出していた事を、気味悪がっていたわしらは放
置していたのだ﹂
しわ深い顔にさらなるしわを寄せながらドワーフ親方が俺に近づ
いてきた。
﹁改めて、あんたがたご夫婦には大変なご迷惑をかけてしまった。
ご夫人の心中もお察しするものがある﹂
﹁い、いえ。わたしは大丈夫です﹂
側らのカサンドラがギュッと俺の服の袖を握りながらそう言った。
微妙な空気がお互いを包み込むのを察したのか、鍛冶親方はすぐ
にひとつの長剣を俺に差し出す。
手に持っているのは何の装飾も無い、分厚い刃広の長剣だった。
﹁伝統的な騎士の持つ剣だ。馬上に良し、平服に良し、旦那もよそ
1068
の土地に出かけるのなら騎士の持つ剣の方がいいだろうしのう﹂
﹁拝見しても?﹂
﹁ああもちろんだ、刃の腹に溝が入っているのは軽量化のためだな﹂
俺が鞘から抜いて手に持つ感触を確かめながらひっくり返してみ
る。
言われたように刃の腹はごっそりと削り出されていて、少しでも
剣が軽くなるような工夫が凝らされていた。
刃は鍔の付け根から先端に向かって徐々に尖っていく様な形状で
ある。
﹁刃渡りはお前さんの腕よりもやや短い程度だ。扱いはしやすいは
ずだが、試し斬りをしてみるか?﹂
﹁そうですねえ、ちょっと使ってみたい﹂
﹁よし。それならば護身の短剣もついでに試してみるといい。おい
ボルボルベ、ぼやっとしてないでショートソードを数本持ってこい﹂
﹁は、はいっ﹂
青年は慌てて奥の短剣が置かれた棚に走っていった。
あの青年、名前をボルボルベというのか。相変わらずこの世界の
名前はおかしいな。
エルパコは興味津々の様子で俺の持つ剣を覗き込んでいる。
﹁どうだ、振ってみた感触は﹂
﹁剣の柄が長いという事は、場合によっては両手持ちも考慮してい
るという事かな﹂
﹁相手や武器にあわせて持ち手を上手く使いこなせるようになって
いる。まァ普通は止めを刺す時の渾身の一撃で両手に持つのだろう
がな。わしは騎士ではないので作法までは詳しく知らん﹂
﹁俺もよそ者なので知らないですがね﹂
1069
数度ばかり振り込んでみてグリップが手に馴染む事を確かめてか
ら、いよいよ藁のかかし人形を斬り伏せてみた。
まずは片手で右に左にと斜め斬りにしてみる。
悪くない。
そのまま動きは止めずに両手持ちをしながら、今度は水平薙ぎ。
剣のやや中央で勢いをつけて斬ると、切っ先に走り抜ける様にし
てかかしを断ち切った。
芯の木がうまい具合に折れたらしい。
﹁なかなかいい剣だな。俺にはちょっと大きいかと思ったけど、そ
うでもなかった﹂
﹁見た目以上に軽いだろう。耐久度もさほど問題はないはずだ﹂
﹁たいへん気に入りました。ありがとうございます、ありがとうご
ざいます﹂
鞘に納めながら俺は満足した。
すると少し離れたところで俺とドワーフ親方を見ていたエルパコ
がおずおずと口を開く。
﹁あの、ぼくも同じものが欲しい﹂
そろ
﹁ん、この剣に興味があるのか? エルパコにはちょっと大きいだ
ろう﹂
﹁でも、シューターさんとお揃がいい。ぼくもこれで、シューター
さんを守りたい⋮⋮﹂
﹁だそうだけど、この剣と同じものはありますかね﹂
﹁待っていろ、それならもうふた振りほどある﹂
俺たちの会話を見た親方は、苦笑を浮かべると奥の倉庫に向かい
ながら﹁ちょっと待ってろ﹂と言ってくれた。
1070
迷惑をかけますね親方さん。
入れ替わりにやってくる青年ボルボルベさん。
﹁まあどれも並の数打ちだけど、仕上がりの状態は悪くないものを
数本選んで持ってきたよ﹂
﹁ありがとうございます。本当だ、どれもあんまり違いが無いな﹂
俺にならってエルパコとカサンドラも受け取った。
﹁あの、わたしも必要なんでしょうか?﹂
﹁せっかくなら護身の短剣は、家族でみんなお揃いにしようか?﹂
﹁いいんですか?﹂
﹁村長さまからは全員分の装備を整える様に許可もらってるしなぁ﹂
俺がそう言いながら青年を見やると、彼もうんとうなずきながら
口添えしてくれた。
﹁高貴な身の上の人は懐剣に装飾を施して持っているというからね。
残念ながらこの村じゃ実用的なものしか取り扱っちゃいないけど﹂
﹁まあ、そういう事ならタンヌダルクちゃんのものももらっていこ
う。これで家族みんなお揃いだ﹂
﹁やった!﹂
そう言ってカサンドラではなくエルパコが嬉しそうに返事をする
のだった。
﹁駄目ですよエルパコちゃん。そういう時はお礼をまず口にするも
のです﹂
﹁う、うん。えっと、ありがとうございます、ありがとうございま
す?﹂
1071
◆
女村長の屋敷前では、馬車と荷馬車が並んで駐車されていた。
タンヌダルクちゃんが実家からなかなか立派な馬車を借りて持っ
て来てくれたらしい。
これならば見栄が必要だという外交でも十分に見栄を張る事が出
来るんじゃないだろうか。
さすが野牛の一族は文化人を気取っているだけはあるぜ。
一方、村の倉庫から引っ張り出してきた木箱に詰められた荷物が、
犯罪奴隷たちによって運び込まれてくる。
エルパコを連れた俺が荷馬車の側までやってくると、ッワクワク
ゴロさんの弟たちのひとりが、現場指揮をやっているところだった。
﹁おお、タンヌダルクちゃんが戻って来たみたいだな﹂
﹁ダルク義姉さんの気配なら、うちの屋敷の方にあるよ﹂
﹁そんな事もわかるのか? エルパコすごいな﹂
﹁だって、ダルク義姉さんはいつも香水を付けてるし﹂
なるほどな。族長の妹というだけあって、オシャレを欠かさない
乳娘である。
しかし荷馬車に積まれている荷物は何だろう。
木箱はしっかりと梱包されていて、中身が確認できないので聞い
てみる事にする。
﹁これは食料というわけじゃなさそうだな。何を詰め込んでいるん
だ﹂
﹁鱗裂きの姉御のご命令で、ゴブリン人形を載せています﹂
﹁ゴブリン人形? あのひとまだ懲りてないのか⋮⋮﹂
1072
ニシカさんが黙って指図をしたらしい。
ゴブリン人形なんてこの村へ定期的に訪れる行商人が、せいぜい
月にいち度ばかり少量を買っていく程度なんだと俺は聞いていた。
こんなに大量に在庫がだぶついていたのだから、絶対にこの世の
中に需要があるとは思えない。
﹁何でも訪れた街や村に、これを売ってまわるそうですねえ。これ
で村の経済が発展するといいんですけど﹂
﹁今すぐその命令を撤回する。こんなものは倉庫に戻しなさい﹂
﹁え、でも姉御に八つ裂きにされてしまうので、その命令は聞けま
せん⋮⋮﹂
ニシカさんは何をやっているのだ。
俺とエルパコは顔を見合わせて呆れた顔をした。しかしこのまま
引き下がるわけにもいかない。
﹁君、名前は何と言ったかな?﹂
﹁ッジャジャマです⋮⋮﹂
﹁ええと、ッジャジャマくん。俺に八つ裂きにされたくなければ、
今すぐこれを元の倉庫に戻しなさい。それで空いたスペースに食料
や衣類と予備の武器を詰め込むんだ﹂
ッワクワクゴロさんの弟はとても嫌そうな顔をして俺を見てきた
が、エルパコが先ほど手に入れたばかりのお揃いの剣の柄に手をか
けたものだから、腰を抜かさんばかりの勢いで逃げ出した。
ニシカさんを見つけて文句を言わなければいけない。
俺はけもみみの方を向く。
﹁居場所はわかるか﹂
﹁ニシカさんなら、今さっきぼくたちを見てうちの屋敷に逃げて行
1073
ったよ﹂
﹁なるほど、エルパコは優秀だな。おっぱいエルフを成敗しに行こ
うか﹂
﹁うんっ﹂
俺がけもみみの頭を撫でてやると、嬉しそうにはにかんだ笑みを
返してくれた。
1074
92 旅立ちの前夜 前編︵後書き︶
さらっと流す予定のシーンがちょっとボリュームを持ちすぎてしま
いました⋮
予定していた残り部分は、後編として次回に続けたいと思います。
1075
93 旅立ちの前夜 後編︵前書き︶
お待たせしました、後編です!
1076
93 旅立ちの前夜 後編
逃走したニシカさんを追って自宅に戻ってくると、食堂ではタン
ヌダルクちゃんがティータイムの支度をしているところだった。
先に屋敷に帰っていたカサンドラと、それから野牛の族長が団欒
をしているではないか。
﹁旦那さま、おかえりなさい。馬車の手配が付きましたよう﹂
﹁ああタンヌダルクちゃん。いま村長さまのお屋敷の前で確認して
きたところだ。かなり立派な馬車の様で、タンクロードさんありが
とうございます、ありがとうございます﹂
﹁おう、いいって事だ兄弟﹂
俺がいつもの様に低姿勢で頭を下げると、義兄は牛面をニヤリと
させて軽く手を上げてくれた。
ティータイムをしているくせに、野牛の義兄からは闘志のオーラ
がこの瞬間も噴き出しているから恐ろしい。
しかも義弟どのという呼称からいつの間にか兄弟に呼び方が変わ
っているじゃないか。
﹁兄弟も、蛮族の諸領主との外交団に加わるそうだな﹂
﹁そうなんですよ、明日にも出発の予定です。タンクロードさんに
はご迷惑をおかけしますが、領内の事はよろしくおねがいします﹂
﹁そこのところは任せてくれ﹂
大きくうなずいたタンクロードバンダムは、その鍛え上げられた
肉体に似合わず器用にティーカップを持ち上げた。
1077
近頃、奥さんたちが凝っているこのファンタジー世界風のお茶で
ある。
確かセージにローズマリー、ラベンダーを煎じたもので、風味も
甘酸っぱい赤みがかった飲み物だった。
少なくともこの村でお茶と言えば、チャノキを原材料にした紅茶
でも緑茶でも烏龍茶でもなく、何か別の部位を使った加工物である。
つまりハーブティーの類だ。
﹁シューターさんもお掛けになってください。お仕事大変だったで
しょう?﹂
﹁そ、そうだね。ありがとう﹂
俺はカサンドラに勧められるがままに食堂の上座に着席した。
本来ならば野牛の族長たるタンクロードバンダムが上座に座れば
いいものを、そこはちゃんと空席になっていたのでちょっと微妙な
気分である。
どうやら居間の方を気にしているエルパコの様子から、眼帯長耳
はあちらに逃げ込んでいるらしい。
手招きをしてけもみみを呼び寄せた俺は耳打ちをした。
﹁ニシカさんを探して、次に勝手な事をやったら両眼アイパッチの
刑にすると俺が言ってたとだけ伝えておきなさい﹂
﹁うん、わかったよ﹂
エルパコを送り出すと、立ち上がったタンヌダルクちゃんがティ
ーカップを俺の前に差し出してくれ、お茶の支度をしてくれる。
﹁旦那さまが留守にするので、わたしはとても不安ですよう。どう
してわたしも連れて行ってくれないんですか?﹂
﹁そういう聞き分けの無い事を言うものではないぞダルク。ご領主
1078
によれば、外交というのは一種儀礼のものだそうだからな。そうい
う役回りは正妻の務めというものだろう﹂
とても悲しそうな顔をして俺を見やって来たタンヌダルクちゃん
だが、義兄がそう言って諭してくれたので不満顔のまま引き下がっ
た。
そういう次第でタンヌダルクちゃんは今回村でお留守番の役目な
のである。
﹁義姉さんが羨ましいです﹂
﹁ごめんなさいねダルクちゃん。わたしも同行していいのか不安で
しょうがなくて⋮⋮﹂
﹁大丈夫です。義姉さんはなんてったって正妻ですからねえ。義姉
さんのご苦労を少しでも楽にできる様に、わたしも花嫁修業がんば
りますよう﹂
ちょっと気を取り直して意気込んで見せるタンヌダルクちゃんだ
が、
﹁でもでも、わたしが知らない間に旦那さまにもしもの事があった
らと思うと⋮⋮﹂
﹁未開地の蛮族相手に交渉というのも大変だろうが、まあその武術
の腕は本物だから心配はないだろう。何しろそこは俺が保証してや
れるからな﹂
﹁そうですね。兄さんに勝った人間は旦那さまだけですからね。旦
那さまは全裸最強です!﹂
ちょっと興奮気味のタンヌダルクちゃんが、お茶を注ぎながら少
しだけこぼしてしまった。
1079
﹁あらいけない﹂
﹁駄目ですよダルクちゃん。お茶は貴婦人の嗜みなのですから、優
雅にしないと村長さまにお叱りを受けてしまいます﹂
﹁ごめんあそばせ旦那さま、オホホ﹂
カサンドラにたしなめられて、タンヌダルクちゃんはおかしな似
非貴婦人風の言葉を口にした。
女村長の屋敷ではいったい何を教えているんだ⋮⋮
そんな風に思っていると、カサンドラが何やらタンヌダルクちゃ
んを手招きしてコソコソと密談をはじめた。
何だ、気になるけど俺の方を時々見てはヒソヒソ話している。
俺がジロジロ見ているとさらに声を潜めて背を向けながら話を続
けた。
そして時おり﹁キャ﹂とか黄色い声が聞こえてくるから、ますま
す怪しい。
﹁と、ところでタンクロードさんは村に滞在中、どちらで寝泊まり
されるのでしょうか﹂
﹁おうその事だが、領内警備のために兵士をずいぶん連れて来たか
らな﹂
﹁それはまた大変で。どうされるのですか?﹂
﹁ご領主の命によって俺はジンターネンという者の屋敷を借り上げ
る事になった。他はこの屋敷やご領主の屋敷に分宿させる予定だ。
留守中というのに悪いな﹂
﹁い、いえいえいとんでもないです。自由に使ってくださって結構
ですよ﹂
しかしジンターネンさんの家に泊るのか。
俺が世話をしていた豚だけではなく、牛や羊なども多数抱えてい
る村でも有力な酪農家だし、女村長が宿所に借り上げる命を下した
1080
のだから家もかなりの広さなのだろう。
しかし、ジンターネンさんねえ。
﹁ご愁傷様です、ご愁傷様です﹂
﹁?﹂
牛面が首をかしげて俺を見ていた。
◆
出立前の最後の夕食という事で、家族みんなで食事を楽しんだ。
ニシカさんは相変わらず部屋に閉じこもって出てこなかったので、
居間に詰めているッワクワクゴロさんの弟たちや野牛の兵士たちと
一緒に食べているのだろう。
出てくればいいのに、悪戯を見つかった子供みたいにきっと委縮
しているのだろう。
しばらく野牛兄妹が談笑を楽しんだ後に、タンクロードバンダム
は待機していた野牛兵士たちを引き連れてジンターネンさんの家に
向かった。
ついでに自分たちの猟師小屋の修繕が終わったと言うので、ッワ
クワクゴロさんの兄弟たちも引き上げていく。
相変わらずエルパコの部屋に居候を決め込んでいるニシカさんの
家は、どうやら修繕に手が回っていないのか、まだ放置されたまま
なのだそうだ。
﹁オレの家はもうオレひとりのその日暮らしだからな。家財の一切
は妹に持っていかせて、家にはろくなもんが残っちゃいないんだ﹂
﹁そうなんですか。それじゃ優先順位が後回しになるのはしょうが
ないですねえ﹂
1081
﹁お前んちはどうなんだよ。ボロ屋だがまだ十分に使える家だった
だろう。オレんところは爺さんの代から使っているから、もうあれ
は建て直した方が早いからな、アッハッハ﹂
がらんどうになった食堂で、ようやく居間から出て来たニシカさ
んと俺は会話をしていた。
明日の出立に向けて、お互いに武器の手入れをしているところで
ある。
ニシカさんはいくつもの矢筒の中に詰め込まれた矢の数を数えて
確かめているし、俺はさっそく手に入れた騎士の剣というのを布で
丁寧に拭いていた。
刃こぼれひとつない騎士の剣を油を湿らせたボロ布でふいている
と、妙な高揚感が膨らんでくるから不思議だ。
だって俺も男の子だもん。
子供の頃は八代将軍吉宗が暴れるテレビの時代劇を見てはチャン
バラごっこをやっていたものだし、チャンバラが好きすぎて斬られ
役までやっていたぐらいだからな。
男の子は剣とか武器とかは本質的に大好きなのだ。
﹁なぁところでシューター。オレはいつまで両眼にアイパッチして
ないといけないんだ?﹂
﹁いつまででしょうねえ。反省するまで付けてるといいですよ﹂
右眼にいつものアイパッチ、左眼に予備のアイパッチをしたニシ
カさんは、つまり両眼がふさがっていた。
だというのにニシカさんはまるでモノが見えている様に器用に矢
筒の蓋をしたり、ヒモを結んだりしている。
﹁何不自由なさそうですから、そのまましばらく過ごしても問題な
いんじゃないですかね﹂
1082
﹁ばっ馬鹿野郎、オレ様を何だと思っているんだ。だいたいのもの
は暗がりでも作業が出来る様に訓練してきたが、オレだって眼を塞
がれていて色まで区別出来るわきゃぁないんだよ﹂
﹁色が見えないと何か不具合があるんですかね﹂
﹁そ、そりゃ相手の顔色が伺えないだろう。お前ぇがどれだけ怒っ
ているのかも今のオレ様にゃわかりはしないんだ﹂
﹁なるほど﹂
便利なニシカさんの狩猟スキルだが、さすがに顔色まではうかが
えないか。
﹁もういいだろう。オレがゴブリン人形を運び込ませたのは悪かっ
しるし
たよ、あれはオレたちの村に友好的なところには、配って回ればい
いかななんて思ったんだよ。友好の印にな﹂
﹁友好の印はいいんですが、旅荷を運べるにも限りがあるんだから
箱ひとつだけ残して倉庫にもどさせましたからね﹂
﹁そうかい。ありがとな⋮⋮﹂
俺がそう言うと、ニシカさんはため息を漏らしながら感謝を口に
した。
まあゴブリン人形も何かの使い道があるかもしれないので、ひと
箱だけまだ荷台に乗ったままである。
ニシカさんはどうやら気配で俺が少し許す気になったのを感じた
のか、勝手に眼帯を両方ともはずしにかかっている。
﹁こんなもの、オレに付けさせるんじゃねェ﹂
だったら普段から付けなきゃいいのに、きっとニシカさんなりに
何かのジンクスがあるんだろうな。
乱暴に眼帯ふたつをブラウスからのぞいた胸の谷間に突っ込んだ
1083
彼女は、さっさとテーブルに並べていたいくつもの矢筒を腕に抱い
て、不機嫌に自室へと戻っていった。
しかし胸の谷間に持ち物をしまうっていうのは、新しいな⋮⋮
俺も自分の長剣を磨き終えて鞘に納めると、護身用の短剣を掴ん
で寝室にもどろうとした。
すると、寝室から肥えたエリマキトカゲを抱いたカサンドラと、
ヒモで縛った毛布を持ったエルパコが出て来るではないか。
﹁キッキッベー﹂
﹁どうしたんだ君たち、村長さまから毛布を摘発する命令でもあっ
たのかな?﹂
﹁実はわたしたち、前のお家の修理が終わったので見に行こうと思
っているのです﹂
進捗は聞いていなかったが、修理が終わればいずれ移民の誰かが
新たな住人になるだろう。
﹁そうか、猟師小屋の修理が終わったのか﹂
﹁はい。それで明日に別の方に引き渡されていしまうと言うので、
最後の夜ぐらいは思い出の家で過ごそうかなと思ったんです﹂
カサンドラが言うと、意味が解っているとは思えないバジルが頷
く様に首を上下に振った。
﹁エルパコは護衛という事か﹂
﹁うん﹂
﹁じゃあ俺も用意しないとなあ。寝台はもうないんだよな?﹂
そう言って毛布をひとつ持っていこうと寝室に向かおうとしたと
1084
ころ、
﹁あ、シューターさんはこのままお屋敷に残ってください﹂
﹁?﹂
﹁タンヌダルクちゃんは明日からこのお屋敷にお留守番でしょう?
だからそのう⋮⋮﹂
ちょっと頬を朱色に染めたカサンドラが、意味ありげに上目遣い
で訴えかけて来た。
﹁な、なるほど。要件はわかったよ﹂
﹁しばらくわたしたちが留守にするので、きっとタンヌダルクちゃ
んも寂しいと思うんです﹂
だからその、優しく慰めてあげてください。
そう、みなまで言わなくても俺は理解した。
タンヌダルクちゃんとの本当の意味での初夜はまだだからな。
﹁うおほん。え、エルパコ、俺は臭うかな?﹂
﹁シューターさんのいい匂いがするよ﹂
俺は自分の体臭を気にしながらそんな事を言ったら、くんくんと
鼻を寄せたけもみみが確認をしてくれた。
これはどういう意味だ。どう解釈をしていいかわからない。
そんな風に服の袖を引っ張って確認をしているうちに、カサンド
ラが一礼をするとエルパコを従えて猟師小屋に向かってしまった。
寝室の前に立っている俺。
この扉の向こう側に、タンヌダルクちゃんがいる。
たぶん意を決して、そういうお膳立てをカサンドラがして、本人
1085
も納得づくで。
タンヌダルクちゃんは俺のふたり目の妻だ。妻であるならば公平
に扱わなければならない。
果たして俺にそれが今まで出来ていたかどうかは、はっきり言っ
てしまえば謎だ。
今夜せめて、留守の間寂しい思いをするだろう奥さんをなぐさめ
てあげなくてはいけない。
だがどうだろう、そんな安易なものでいいのだろうか。
いろいろと考えを巡らせてみたが、何かいいアイデアも浮かばな
いうちに寝室でガタッという音がしたのを耳にした。
きっと似たような事をタンヌダルクちゃんも考えているに違いな
い。
そんな風に思いながら扉を開けると、そこにはヒモパンひとつで
正座した野牛の奥さんが寝台の上にいた。
たわわな胸を抱き上げる様に腕を組んでいて、魔法のランタンに
照らされたその表情はどこか恍惚としている様にも感じる。
俺が何かを口にする前に、タンヌダルクちゃんが先に口を開いた
のだ。
﹁だ、旦那さま。お待ちしておりました!﹂
待たせたね、というのもおかしな話なので何を口にしていいかわ
からない。
もう覚悟の格好をしているタンヌダルクちゃんを前に、俺はゆっ
くりと歩み寄り、
﹁しばらく留守にするし、心配をかけてしまうけれど。家の事よろ
しくな﹂
﹁もちろんですよ!﹂
1086
俺は寝台に腰かけながらタンヌダルクを抱き寄せた。
すると俺の胸の中に体を預けながらも、野牛の奥さんは手を探っ
てランタンの明かりを消そうとしていた。
いいよそれは俺がやるから。
代わりに手を伸ばして明かりを消すと、ふうと吐息が俺の胸元に
かかるのがわかった。
暗がりの中でタンヌダルクちゃんの小さな柔らかい指先が俺のシ
ャツからのぞいている胸元をつたい、
﹁ふっふちゅちゅかものですが、よろしくお願いしましゅ!﹂
肝心なところでタンヌダルクちゃんは噛んでしまった。
かわいいなあ、俺の奥さん。
もちろんそれ以上の事は言わせないつもりで、そのぷっくりとし
た唇を塞いでやった。
1087
93 旅立ちの前夜 後編︵後書き︶
書きたいシーンがいろいろあって、物語の進行が遅くなってしまい
申し訳ございません!
1088
94 早朝に警戒せよ
陽が昇り始めるよりも早くに俺たち旅に出る人間は女村長の屋敷
前に集合した。
四頭仕立ての豪華な四輪馬車と、二頭仕立ての二輪馬車が俺たち
辺境の外交に回る一団の移動手段である。
これとは別に雁木マリたち騎士修道会の四騎と野牛の騎兵二騎、
予備の馬が数頭加わる。
﹁村に残る皆には迷惑をかけるが、しばらくわらわが留守にする間
をよろしく頼むぞ﹂
﹁おう、その点は心配なく俺たちに任せてくれ﹂
留守を預かる野牛の族長がタンヌダルクちゃんと並んで俺たちに
軽く返事を返した。
ッワクワクゴロさんも俺たちに向かって手を振ってくれた。
﹁それでは出発するとしよう﹂
﹁はっはいッ﹂
女村長が豪華な四輪馬車に向かって歩き出したので、従うカサン
ドラもそれに続いた。
馬車のドアを冒険者エレクトラが開けると、女村長は元は貴族軍
人だったと言うだけはあって身軽な仕草でドレス風の衣装の端をつ
まんで乗り込む。
カサンドラはそうは行かなかったので女村長に引き上げてもらい、
まったく身長の足りないッヨイさまはエレクトラに抱き上げてもら
1089
って乗り込んだ。
さて俺も乗り込もうとしたところで、どういうわけか馬車の扉が
エレクトラによって閉じられてしまった。
﹁おい、何でドアを閉めるのかな?﹂
﹁シューターさんはあっちでしょうが﹂
話がかみ合わず、何を言っているんだと言う顔をするエレクトラ
に俺の頭の中は﹁?﹂だった。
エレクトラの指す方向には馬がいた。
馬と言ってもサラブレットの様な背高い馬ではなく、小ぶりで腹
の出た馬である。
﹁俺にこの馬に乗れと言うのか?!﹂
﹁武器の扱いに精通したシューターさんが馬車の周辺で警護につい
ている方が、いざという時に安心じゃないさ﹂
﹁いや俺、馬はちょっと⋮⋮﹂
むかし俺は、馬に蹴散らされるというバイトをやっていた経験が
ある話は過去に振り返った事があったはずだ。
大長編時代劇の撮影で甲冑を着こみ、突撃する武士たちの最前線
で馬の直近で蹴り飛ばされるという演出の撮影だったのだが、馬は
恐ろしい生き物であると俺は思っていた。
﹁乗れるんだろう?﹂
﹁まァ⋮⋮﹂
確かに乗った事はあったけれども⋮⋮
﹁早くしなよ、出発が控えているんだ﹂
1090
﹁シューターさん、お手伝いします﹂
﹁お、おう⋮⋮﹂
名目上の外交使節のトップという事もあって立派なおべべを着て
いた俺である。
妻のひとりタンヌダルクが妙に艶やかでニコニコした表情をしな
がら注目しているのもあるし、馬車の窓から正妻のカサンドラもこ
ちらを見えているのがわかった。
エルパコは、妙にキラキラした目線で俺の側にやってくると、馬
にまたがるのを手伝ってくれようとしている。
これは、これは逃げられない。
今さら馬に恐ろしくて乗れませんとは言えない。
俺が恐る恐るへっぴり腰で馬のあぶみに片足をかけると、背後に
立ったエルパコが手伝って押し上げてくれた。
さすがに何度か乗った事があるので、たぶん無様な格好にはなら
なかったと思う。
しかしどうすりゃ馬は進むんだよ⋮⋮
﹁よ、よし。じゃあエルパコは馬車の上に、ニシカさんは荷馬車の
荷台に頼むぞ!﹂
﹁うん、わかったよ﹂
今さら騎士の威厳を取りつくおう様にして俺が叫ぶと、軽快な動
きでエルパコが走り出すと、そのまま勢いで馬車の上に飛び乗った。
エルパコはハイエナ獣人のはずだったが、まるで猿の様な身軽さ
だ。
ニシカさんも﹁おう﹂と返事をすると、もひとりの冒険者ダイソ
ンと一緒に後方の荷馬車に移動した。
豪華な馬車の御者台には野牛の兵士と、エレクトラ自身が配置に
1091
つくらしい。
野牛の兵士はいつぞや会話を交わしたタンスロットさんだ。
﹁こちらは準備出来たわよシューター﹂
﹁で、では出発﹂
軽やかに馬にまたがった修道騎士たちの指揮官、雁木マリに促さ
れて、俺たち外交使節の一団はサルワタの開拓村を出発した。
ブルカの街へと続く田舎道は夏を迎えて草原の葉が高く伸びあが
っていた。
雁木マリと俺が一団の先頭を並んで歩き、その後に豪華な馬車と
貧相な荷馬車が続く。
周辺を修道騎士の三騎と野牛騎兵の二騎が散って警護に当たって
いるが、実際のところそんなものものしさはまったく不要だった。
生ぬるい風がひとつ吹き抜けるとその草原がざわざわと揺れるの
だが、こんな行程がずっと街のすぐ近くまで続くのだ。
盗賊やモンスターの跳梁跋扈は、どちらかと言えばブルカの向こ
う側に広がる本土へ至る道が危険というからな。
馬を並べて雁木マリが微笑を浮かべて来た。
﹁どう、乗馬には慣れて来たかしら?﹂
おいおい気が付いてたのかよ、へっぴり腰を奥さんたちに見せる
ハメになったというのに⋮
﹁わかってたのなら助けろよ! 同郷のよしみだろ?!﹂
﹁久しぶりに乗ったんでしょ?﹂
確かに、俺は撮影で馬の手綱を握ったりまたがった経験があるに
1092
はあったけれども。
それは本当のところを言うと、修学旅行で北海道に行った時に数
度、それから撮影の時に足軽に扮した調教師に引っ張ってもらった
事が数度。
あと一回は、出来もしないのに﹁撮影で乗馬の経験があるひと﹂
と撮影現場で挙手を求められた時に、ついフィルムに写り込みたい
一心で手を上げた時のいち度だけだった。
それをひとは乗れるとは言わない!
﹁時代劇の斬られ役だったんでしょ? 乗馬戦闘もお手の物じゃな
い﹂
﹁端役の俺は馬に乗るより馬に蹴り飛ばされる側だったんだよ。ま
あ乗った事はあるが、久しぶりというかほとんど初心者だぞ﹂
﹁嫌がって敬遠するより、早く手を付けて慣れちゃった方がいいか
ら。ちょうどいい機会だったじゃない﹂
﹁習うより慣れろか。もう少し若ければもっと熱心だったんだがな﹂
﹁そうねえ。この世界だと三二歳ってずいぶんおじさんだからね﹂
﹁うるさいよ!﹂
こいつは最近、あまりツンケンしたところを見せなくなってきた。
出会いがしらなどは、いきなり拳を握りしめて殴る蹴るをしてく
る様な暴力女だったのだから、人間変われば変わるものである。
今もメガネの向こう側で眼を細めて笑っているのである。
笑えばかわいいんだけどな。
﹁この先の道で、確か隣の村に入る側道と街に向かう街道に分かれ
るのよね﹂
﹁予定ではこのまま街道を直進する事になっているけど、今のとこ
ろ遅れもないし、むしろ早いぐらいだな﹂
﹁そうね。今日中に次の村まで移動出来る感じだから、そのまま進
1093
みましょうか﹂
馬上で器用に地図を広げて見せた雁木マリが、現状のルートを確
認しながら俺に話しかけてきた。
ギムルやニシカさんたちとはじめて街を目指した時よりも、たぶ
ん移動速度はかなり早い気がする。
あの時は一頭仕立ての馬車に野営道具やワイバーンの骨皮を大量
に乗せての移動だったから、ほとんど歩いているのと変わらない速
度だった。
それを考えれば一両日とはいかないが、二日もあればブルカに到
達できる速度で移動しているんじゃないだろうか。
﹁昼休憩はこの先の見晴らしのいい場所でするか﹂
﹁そうね、これだけ何もない場所とは言っても、警戒はしておいた
方がいいわ﹂
そんな風に今後の打ち合わせを馬上でやりながら、順調に旅路は
続いた。
◆
陽が傾き始めた頃、俺たちは野営をする事にする。
街道から少し外れた場所に小川を見つけたので、その近くに馬車
を引き入れて野営の準備開始だ。
雑魚寝が基本の野営ではあるけれど、さすがに領主さまである女
村長のためには簡易テントを設営する。
カサンドラとようじょは簡易テントのお世話になる事になったが、
他の面子は冒険者と軍事訓練を受けている人間なので、ポンチョに
くるまって寝る事になる。
1094
﹁ッヨイも見張りに参加した方がいいですか?﹂
﹁今夜は見張りに立てる人間も多いので、あんたたちはゆっくり寝
ていても大丈夫よ﹂
キャンプファイアを囲みながらようじょは見張りに立つことを志
願してくれたけれど、これだけの大人数なのでそれは不必要だ。
子供はしっかりと寝て、すくすく育ちましょうね。
というわけで、野牛の兵士と修道騎士のメンバーが交代で見張り
に立つことになった。
俺やニシカさん、エルパコの猟師組三人はどうするかというと。
﹁もっとも警戒が必要な時間は明け方前だぜ。オレたちは早めに寝
て置いて、最後の見張りの交代の少し前に起きる様にすればいいん
じゃねえか﹂
﹁そうですね、ニシカさんとエルパコはそうした方がいいだろう。
俺は別に周囲警戒が得意なわけじゃないから、早番で見張りに立つ
ことにしましょうか﹂
股が妙に擦れて痛いので、息子の位置を調整しながらニシカさん
の提案に返事をしたところ、
﹁何を言ってるんだお前は。騎士さまは偉いンだから、さっさと寝
てくれた方がいいぜ。カムラみたいな盗賊が出た時はお前の出番な
んだからな﹂
﹁そうだよ、シューターさんはぼくが守るから⋮⋮﹂
あっさりと強制的にゆっくりしろと気を使われてしまった。
正直な事を言えば、一日中馬にまたがるという経験をしたのでか
なり疲れていたのである。
乗ってしばらくの間はよかったのだが、まだ体が馬に乗る事に慣
1095
れていなかったので、妙に筋肉に緊張感を強要してしまって全身が
重たい。
お言葉に甘えて俺は横になる事にした。
そして朝。
陽の昇り始める時刻に、ひときわ大きな悲鳴が野営地に響きわた
った。
﹁な、何だこれはああああっ!﹂
黄色い悲鳴の主は、間違いなくご領主さまのものだ。
簡易テントの中から転げる様に飛び出してきたアレクサンドロシ
アちゃんが、ドレスのスカート部分をつまみあげながら叫んでいる。
簡易テントの側で寝ていた俺はというと、寝ぼけまなこで顔をし
かめながら女村長の方を見やった。
ぐっしょりとドレスのスカートに大きな染みを作ったアレクサン
ドロシアちゃんが、血相を変えている。
あ、もしかしてジョビジョバしたんですかね。
やっぱり一族の宿命からは逃れられなかったのかな?
﹁ち、違うぞこれは。わらわではない!﹂
﹁でっかい地図が出来上がりましたねえ。ふむ、ここがサルワタの
森かな?﹂
﹁信じてくれお兄ちゃん、わらわはもうおねしょは卒業したんだ!
!﹂
﹁本当なんですかねえ?﹂
﹁本当だとも。昨夜は気を使って寝る前に水分は出来るだけとらな
いようにしていたのだからなっ﹂
﹁それより、騒ぐと他のみんなが起きてきますよ﹂
1096
案の定、アレクサンドロシアちゃんの悲鳴めいた叫びに驚いた人
間たちが眠気まなこをこすりながら、あるいは持ち場の見張り位置
から顔をのぞかせて注目している。
﹁違うのだ、違うのだお兄ちゃん。わらわは十五の時を最後に、お
出かけ先ではした事が無いのだ!!﹂
﹁な、夏とは言っても朝は冷えますので、お召し物を交換しません
と﹂
簡易テントの中から顔を出したカサンドラが、あわてて女村長を
なだめにかかる。
これ以上アレクサンドロシアちゃんをいじっていると、禍根が残
っちゃうね。
奥さん後は頼んだぞ。
﹁朝からどうしたのシューター? 敵襲でもないみたいだけれど﹂
﹁いや、村長さまは悪い夢を見ておいでだっただけだ。みんなも見
世物じゃないから解散解散!﹂
毛布にくるまったまま近づいてきた雁木マリに返事をした後、俺
はみんなに聞こえるように叫んだ。
向こうの方で見張りについていたらしい寝ぐせ頭のニシカさんが、
ニヤニヤしながら顛末を見ているが気にしない。
﹁ほら、テントに戻りましょう﹂
﹁わらわでは、わらわではないのに⋮⋮﹂
ガックリと気落ちした女村長の肩を俺とカサンドラで押しながら
簡易テントに戻る。
すると、むにゃむにゃ顔のようじょが毛布を引きずって立ってい
1097
た。
女村長の絶叫でおねむのようじょまで起こしてしまったとは、ま
ったくアレクサンドロシアちゃんは罪深いジョビジョバだ。
﹁どれぇ、朝からどうしたのですかあ⋮⋮﹂
﹁おおっッヨイさま起こしてしまいましたか。それがですねえ、﹂
そう言いかけたところで俺は見つけてしまった。
ようじょの寝間着代わりのキャミソールも、毛布もお湿りしてい
るではないか。
﹁ッヨイ、お前だな!﹂
﹁びえぇ∼∼。どれぇ∼?!﹂
女村長の激昂に、ジョビジョバの犯人ッヨイさまはもういち度ジ
ョビジョバしてしまったのである。
1098
95 豚面の猿人間の村に到着しました
旅立ち二日目の昼頃、俺たちはゴルゴライの村という場所に到着
した。
ゴルゴライはサルワタの開拓村とは違い教会堂や商店などが密集
したたたずまいだった。
領主の在所であるため、恐らく村から街へと移行期にさしかかっ
ているのだろう。
そして土壁と石造りの家が混在しているのは、サルワタよりも古
い時期から開拓が行われた事を物語っている。
﹁ここから俺たちは別行動という事か﹂
﹁そうね。ツダの村に外交使節の一団で乗り込んでしまうと、どう
しても辺境伯の耳にあたしたちの行動が届けられる可能性が高まっ
てしまうもの﹂
﹁そうだよな。いずれブルカ伯の耳に届くとしても、それは少しで
も遅い方がいい﹂
一団の先頭で馬を並べて入村した俺と雁木マリが言葉を交わした。
少なくともツダの村で騎士修道会総長と会談を終えた後、可能で
あるならばリンドルに到着して以後というのが望ましい。
オッペンハーゲンの領主はブルカ辺境伯とは長くライバル関係に
あるので、むしろ俺たちがブルカと対決姿勢を示したことで話に乗
ってくる可能性もある。
が、リンドルの旗色は今の段階ではわからないのだ。
仮にブルカ辺境伯に俺たちの行動が知れてしまった場合、リンド
1099
ルに対して辺境伯から何かしらの圧力が行われる可能性がある。
﹁しかしこの村には宿があるのだな。立派なものだ﹂
﹁ここも河川に沿って村が起こり、その反対側を用水路が流れてい
たでしょ?﹂
﹁ああ、サルワタよりも村そのものの規模は小さいが、同じ様にな
っていた﹂
環濠集落というやつである。
ゴルゴライの人口は恐らく五〇〇人を大きく超えるという事はな
い比較的平均的な村だろうが、ここに村をぐるりと囲む城壁が加わ
れば、立派な城郭都市になるだろう。
﹁村に宿屋があるという事は、ここも交易の重要な拠点のひとつと
いう事なのかな﹂
﹁どうかしらね。単純にサルワタ領は王国の最果てだから、宿屋が
ある必要がきっとないのよ。行商人はドロシア卿とだけ商取引をし
て、運び込まれた品物は彼女が村に分配するわけでしょう?﹂
﹁確かにそうだな。だとすると、行商人がそれぞれの集落を回る必
要も無いか。村長さまの屋敷には立派な客間もあったしな﹂
﹁そういう事なのでしょうね。さ、宿屋に到着よ﹂
石造りのなかなか立派な宿屋を前に、俺はおたおたしながら馬を
飛び降りた。
﹁あの、こんな豪華な部屋じゃなくても、わたしたちもみなさんと
同じ吊り床でいいのですが⋮⋮﹂
﹁一応、お前ぇは騎士夫人なんだから、カサンドラはここでいいん
だよ﹂
1100
宿屋にはふたつの部屋があった。
ひとつは高貴な者が公務で旅中に利用する豪奢な部屋と、申し訳
程度の敷居がある吊り床部屋である。
馬車の荷物を運び出して宿に入った時、はじめカサンドラはみん
なと一緒になって、吊り床部屋に向かおうとしていた。
そうすると、あわててニシカさんやエルパコが制止したのだ。
ほんの少し前まで貧乏暮らしをしていたので、まあ俺たちは吊り
床の方が当たり前に受け入れてしまいそうだ。
﹁こ、こんな豪華な部屋の調度品を壊してしまったら大変です﹂
﹁それなら安心よ。高貴な身の上の人間は、調度品が壊れても元か
ら不良品だったに違いない、不愉快だと言ってあべこべに宿屋に抗
議するわ。カサンドラ夫人もそうなされば平気よ﹂
目を白黒させていたカサンドラに、雁木マリがとんでもない入れ
知恵をしやがった。
さて、ゴルゴライの村でカサンドラたちと別れて改めて馬上のひ
ととなった俺たちである。
ツダの村を目指すのは、今回の会談の一方の主役であるサルワタ
騎士爵アレクサンドロシア=ジュメェとその郎党である俺、エルパ
コ、冒険者エレクトラとダイソン、それから雁木マリと修道騎士三
人である。
また、ゴルゴライの村にはニシカさんと野牛の兵士たちがカサン
ドラにもしもの事が無い様に馬車とともに待機している。
馬車を置いて機動力の増した俺たちは一路ツダの村に向けて加速
した。
照り付ける陽射しは強烈なものだったけれど、早駆けする馬上で
身一杯に浴びる風は涼やかだった。
1101
道程は今までの開けた平原の地形から、ブルカ領内に入ったあた
りで風景が変わった。
ほんのひと月前に通過した道だったけれど、ちょっとだけ懐かし
い気分だ。
街に近づくにつれ辺境僻地の風景はなくなり、いよいよ一面が田
園に囲まれた世界となった。
そしてしばらくすると、先導をしていた修道騎士のひとりが馬脚
を返して俺たちに叫んだ。
﹁この先でツダの村に分岐する三叉路にさしかかります!﹂
﹁あたしたちはこのまま総長と落ち合うためブルカ方面に向かうわ
よ。ドロシア卿はツダを目指してください﹂
雁木マリも馬足を止めながら女村長を見やる。
﹁わかった。それではダイソンよ、例の件を手配するために、聖少
女どのとともに街へ向かってくれ!﹂
﹁招致の件、承知だぜ!﹂
﹁しょうちのしょうち? 何のことだダイソン﹂
﹁へへ、旦那はお楽しみにしていくだせえ﹂
よくわからない事を女村長とダイソンが交わすと手に何かの巻物
を掲げて見せた。
それを見届けると﹁行くわよ﹂と馬に鞭を入れた雁木マリに従っ
て、修道騎士とダイソンが疾駆していった。
﹁さて、ツダの村というのはオークの治める村だと聞いている﹂
﹁オークというと豚面の猿人間か何かですかねえ﹂
﹁よく知っておるではないか。いかにもオークとは豚面の猿人間さ﹂
1102
モノの本によれば、オークと言えば姫騎士や女騎士をヒィヒィ言
わせる部族のみなさんである。
そんな場所に女騎士そのもののアレクサンドロシアちゃんが行け
ば、まさか﹁くっ殺せ﹂などというフラグが立たないだろうかと心
配になってしまう。
しかしこのファンタジー世界における豚面の猿人間は、そういう
人々ではなかったらしい。
﹁シューターは腸詰めのひき肉料理というのを知っているかの﹂
﹁ソーセージの事かな?﹂
﹁詳しくは知らんが、ヤツらは腸詰め料理を作らせれば絶品という
からな、今から楽しみではないか﹂
﹁料理ですか。まさか俺たちがひき肉料理のミンチに使われるとい
う事はないでしょうね⋮⋮﹂
﹁シューターさん。それは猫の猿人間の話だよ、ケットシーだかキ
ャットシーだかという部族だね﹂
俺の心配をよそに、冒険者エレクトラが俺の隣に馬を並べながら
説明をしてくれた。
なるほど、その何とかシーという部族は人間をミンチにして食べ
るのか⋮⋮。
猫面の猿人間に捕まる事が無い様に注意しなければならない。俺
は女村長に捕まって本当に幸せ者だったのだ!
恐ろしい想像を馬上で働かせて、俺は冷や汗を額に浮かべてしま
った。
﹁あっはっは、安心しろシューター。ケットシーがひき肉にするの
はジャッカル面の猿人間だけだ﹂
﹁コボルトを食用にですか。それにしてもいろんな猿人間がこの世
1103
界に入るのですね⋮⋮﹂
﹁そう聞いておるな。すべての獣人はいにしえの魔法使いたちより
はじまったと神話は伝えておるが、今となってはいにしえの魔法使
いたちによって多くの種とその混血が生まれておる﹂
このファンタジー世界をかつて支配していたという、いにしえの
魔法使いというのは本当に罪深いな。
動物を片っ端から擬人化して手を付けたんだからな⋮⋮
﹁それじゃいにしえの魔法使いたちというのは何者なんでしょうね
え﹂
﹁恐らくはそれがエルフ族であったのだろう。耳の尖った猿人間と
いうのは、たいがいが長耳の末裔なのだろう。ゴブリンやエルフな
どがそうだ﹂
﹁すると、ヒト族というのは何面の猿人間なのですか、村長さま﹂
俺たちの会話に興味を持ったらしい先頭のエレクトラが、振り返
ってそんな質問をした。
ふむ、確かに俺たちヒトもこの世界では何者かの猿人間なのかも
しれないな。
こわく
ところで女村長は炎天下にドレス姿でよほど熱いのか、馬に揺ら
れながら胸元のボタンを少しはずしていた。
てき
おおお、大きすぎる事はないが、それでもその谷間に見える蠱惑
的な肌はそそるものがあるね!
﹁ふむ。さしずめシューターの顔を見ていると、ヒト族というのは
アホ面の猿人間であるらしいの﹂
俺にジロリと視線を送った女村長は、口元を少しほころばせなが
らそんな冗談を口にした。
1104
しっかり俺がガン見していた事はバレてました!
◆
シューター
うちわ
俺の名は吉田修太、三二歳。
女村長のために団扇を仰ぐのを仕事にしている男だ。
﹁それにしても暑いな﹂
﹁真夏ですからね、こればかりはしょうがありませんねえ﹂
﹁だからと言って、なぜこのクソ暑い時期にわらわは正装をしてい
なくてはいけないのだ﹂
﹁まあこれも領主として、貴族としてのお役目ですから。諦めなさ
い﹂
俺が大きな団扇を仰ぎながら諭すと、女村長は不機嫌に鼻を鳴ら
すと眉間にしわを寄せた。
眉間にしわ寄せたアレクサンドロシアちゃんもかわいい!
昼下がり。ツダの教会堂の宿舎にある窓は開け広げられて、少し
でも外の空気を取り入れようとしていたけれど、入って来るのは熱
のこもった生ぬるい風ばかりであった。
どこから見つけて来たのか安楽椅子にいつもの様に腰を落ち着け
ていた女村長は、たまらず首元のリボンを緩めようと手を伸ばした。
すると、俺たちの会話をよそにせっせとカンバスに向かっていた
男が苦情を口にする。
﹁あああ動いてはなりません女騎士さまっ、じっとしていてもらわ
なければ﹂
﹁⋮⋮おい絵師よ﹂
﹁何でしょうか、アレクサンドロシアさま﹂
﹁わらわはいったいいつまでこの格好でじっとしていなければなら
1105
んのだ﹂
﹁し、下書をしている間はご自重下されば⋮⋮﹂
カンバスに油絵具を塗り付けようとしていた筆を止めて、しどろ
もどろになりながら男は諭した。
男の名はヘイヘイジョングノー。
見るからに芸術家肌の男らしくややこけた顔にすぼめた眼、それ
から神経質そうにねじれた髪を抑える様に三角帽を被った男だった。
これだけクソ暑いというのに、長袖の被り服を着ているのは思わ
ず神経を疑ってしまう。
ここは豚面の猿人間たちが治める村であるけれど、ヘイヘイジョ
ングノーはどこにでもいる人間である。
俺たちがツダ村の教会堂前へ到着すると、村の広場で絵を描いて
いる男がいたのだ。
それがヘイヘイジョングノーさんだ。
旅をしながら絵を描いてそれを売りつけるという生活をしている
らしいが、たまたま旅装束の俺たちが教会堂へ入っていくのを見つ
けて声をかけられたという次第だ。
﹁素晴らしい。そして美しい! ぜひその絶世の美しさを、僕の手
で後世に残したいとは思いませんか?﹂
そんな事を言われて気を良くしたアレクサンドロシアちゃんが、
ツダの村で騎士修道会総長を待つ間の暇つぶしにと、教会堂の宿舎
の中へ招き入れてしまったのである。
しかし絶世の美しさと言われたものだから、女村長はさっそく甲
冑姿を解いて、いざ騎士修道会総長と会談に臨むために用意してい
た正装のドレスを身に着けて絵を描かせる事にしたのだった。
これじゃ暑くても自業自得なのだけれど、しょうがないね。
1106
女の子はいつだって美しく着飾りたいものだし﹁後世に残しまし
ょう﹂と言われれば我慢ですよ我慢。
﹁暑くてかなわんぞ﹂
﹁ヘイヘイジョングノーさん、完成まであとどれぐらいかかるんで
すかねえ﹂
﹁も、もう少しの辛抱ですから。あとほんの一刻﹂
一刻というのはたぶん元いた世界で二時間ぐらいの事だろう。
見ているところ、俺は絵画について詳しくは知らないが、油絵ス
タイルみたいなので描いているんじゃないかと思ったのだが。
それにしては完成が意外に早いものだな。
試しにカンパスを覗き込んでみると、いかにも油絵を描く時にぐ
るぐるまるまる、よくわからない下絵から少しずつ人物描写が克明
になっていく描き方ではなかった。
なるほど。油絵具を使うと言うだけで基本的に別のお作法で絵を
描くのか。
しかし暑いな。少し前なら全裸で過ごしていたのに、服を着ると
こんなにも暑いのか。
全裸が急に懐かしくなった俺は、女村長の側に戻って来ると、つ
いつい自分自身を団扇で仰いでしまった。
この世界にある団扇は、どちらかというと三国志の名軍師が持っ
ている様な羽根で出来たアレである。
すると不機嫌に眉間へしわを寄せたアレクサンドロシアちゃんは、
俺の仰いでいる団扇を乱暴に奪い取ってこの部屋を退出してしまお
うとした。
﹁ええい、もうやってはおれぬ!﹂
﹁ああっお待ちください女騎士さまっ﹂
1107
﹁後はそちらで何とか致せ、その方も絵師であろう。さんざん待た
せて出来ませんでは良心がないぞ﹂
﹁そんなぁ⋮⋮﹂
アレクサンドロシアちゃんは文句を吐き出して出て行ってしまっ
た。
外で﹁エレクトラ、水と手ぬぐいを用意しろ!﹂と叫ぶ声がした
ので、体を拭きに出て行ったのだろう。
ま、これだけ暑いと人間もイライラするよね。
﹁どうするね、ヘイヘイジョングノーさん﹂
﹁⋮⋮僕の事はヘイジョンと呼んでください。親しい人間はそう呼
んでいます﹂
﹁じゃあヘイジョンさん。後はひとりで何とかなるかな?﹂
﹁何とかしますよ。僕も絵師の端くれだ、この目に焼き付いた猛々
しくも美しい女騎士さまを、このカンバスに再現してみます!﹂
そうかい。じゃあ俺はアレクサンドロシアちゃんの警護があるか
ら、ここで失礼するよ。
気を取り直してカンバスにかじりついたヘイジョンさんを残して、
俺は風呂仕度をしに出て行った女村長を追いかけた。
その後。
あわてて部屋に飛び込んだ俺は、服を脱ぎかけていた女村長にぶ
つかってしまった。その時に雷を落とされたのは、もちろん偶然で
あると言いわけしておく。
だがこれだけは言いたい。
やはり何度見てもいいものだ。アレクサンドロシアちゃんの胸は、
やや垂れてなおますます魅力的であったと。
1108
1109
96 ツダの両頭会談
ツダ村に騎士修道会の総長が到着したのは、陽が落ちてずいぶん
と時間の経過した頃の事だった。
俺たちはというと、ツダ村教会堂の司祭さまや助祭さまが手ずか
ら料理してくれた食卓を囲んでいた。
サルワタでは手に入らない、ひき肉の腸詰めを使った料理の数々
である。
腸詰めの玉ねぎ炒め、冬麦と葉野菜の腸詰めのオートミールケー
キ、それに煮込んだ根菜のスープだ。
そんな腸詰めをふんだんに使った料理に、きっとここにはいない
鱗裂きのニシカさんならば﹁うまい、うまい﹂と喜んだことだろう。
まあ俺たちはここでは客人に過ぎず、騎士修道会の総長が到着す
るまで深酒するわけにもいかない。
サルワタの開拓村のものより皮かすの少ないぶどう酒をちびちび
やりながら、それらの料理を少量ずついただいていた。
﹁どうですかな、この村の名物は﹂
﹁はじめてひき肉の腸詰めを食べたが、これはなかなか美味なもの
だな。特に香辛料が効いていてさぞ酒がすすむであろう﹂
﹁ブルカ近郊のオークたちの村では、それぞれ味付けの違うひき肉
の腸詰めを作っているのが自慢なのです﹂
﹁うむ、保存がきくのであればぜひわが村にも持ち帰りたいものだ﹂
﹁そこまで気に入って頂けたのなら何よりです﹂
腸詰め料理というのはブルカ近郊でもオークたちの食文化の工夫
1110
から生まれたものらしい。
実家が確かブルカだったはずの女村長も、これまで口にする事が
無かったんだな。
皿に分配された量が不満なのか見るからに不機嫌そうな顔をした
エレクトラを尻目に、残り少ない根菜スープを木のスプーンですく
っていると、俺の隣に座ってエルパコがけもみみをピクリと動かし
た。
どうやら何かの気配を察知したらしいけれど、けもみみに緊張感
があまり無い様子を見ると、敵襲といった具合ではないらしい。
﹁⋮⋮シューターさん、馬蹄﹂
﹁なるほど、マリたちが来たという事だな﹂
﹁うん﹂
小声でその事を教えてくれたエルパコにうなずきかえして、俺は
ナフキンで口元をぬぐった。
するとツダ村の司祭さまがおやっという顔をする。
﹁どうされましたか騎士さま。村の料理はあまりお口にあいません
でしたか⋮⋮﹂
﹁いや、大変美味しくいただいております。⋮⋮村長さま﹂
﹁ふむそうか。司祭どの、実は騎士修道会の総長が村に到着したら
しい﹂
﹁おお、そうでしたか。それは我々もこうしてはおれない﹂
女村長の言葉にあわてた司祭さまや助祭さまたちも、あわてて立
ち上がる。
まあ教会堂の本家にあたる騎士修道会の最高指導者がここに来た
のだから、あわてるのも当然か。
1111
俺たちは揃って食事を中断して身だしなみを改め、教会堂の入口
へと向かった。
﹁もし騎士どの、少々お聞きしたい事があるのですが﹂
﹁ん、何でしょうか?﹂
俺が剣のベルト位置を調整していると、ごっつい豚面の中年助祭
が声をかけて来た。
﹁気配だけで総長さまたちが村に来たのが分かったのですか?﹂
﹁いや俺にはわかりませんでしたよ、ただこの子がね﹂
﹁ああなるほど、イヌ耳の獣人騎士さまですか﹂
﹁ぼくは、ハイエナ獣人だよ。それと、騎士じゃない﹂
﹁それは失礼しました。女戦士さま﹂
教会堂の入り口に出ると、俺たちは女村長とツダ村司祭さまを真
ん中にして整列した。
入口のすぐ前は石畳になっていて、そこに暗闇の中をカポカポと
馬蹄を響かせる集団が近づいて来る。
数はそれほど多くないところを見ると、わずかな護衛だけを連れ
て騎士修道会の総長はこのツダにやって来たらしい。
先頭をランタン片手に馬を引く雁木マリの姿が浮かび上がり、そ
の背後から騎乗したままのマント姿の人物が見えた。
そして数名の屈強なマント男たちが見える。
きっと騎士修道会の精鋭たる修道騎士なのだろう。下馬してフォ
ーメーションでも組むかの様に総長のまわりをしっかりと警護して
いた。
総長と思われる甲冑にマント姿の男が、ヒラリと馬を飛び降りた。
年齢は五〇絡みぐらいだろうか。
1112
暗がりの中でランタンに照り返されて浮かんだ顔は鋭いワシ鼻に
口ヒゲを蓄えた男だった。
穏やかな眼と対照的に、眉は吊り上がっているのが特徴的だ。
﹁お初にお目にかかる、余は騎士修道会総長のカーネルクリーフだ。
この度は遠路ご足労であった﹂
﹁わらわは、サルワタ騎士爵アレクサンドロシア=ジュメェだ。こ
ちらこそ招きに応じてくださり、大変感謝しておる﹂
お互いに名乗りを上げながらも、どちらも明確に頭を下げようと
はしない。
恐らくこの瞬間から駆け引きが始まっていたのだろう。
﹁そ、総長さまにおかれましては、わざわざこの様な何もない村に
お越しいただき、大変恐縮至極にて︱︱﹂
﹁よい。それでは立ち話も何だ、案内してもらおう﹂
﹁は、はいではこちらに⋮⋮﹂
ツダ村の司祭さまは普段の俺みたいにペコペコと頭を下げながら、
教会堂の扉を開けて中へといざなった。
それにしても、街に出かけて行った冒険者ダイソンの姿が見かけ
ないがどうなってるんだ。
礼拝所に向かう途中で雁木マリに身を寄せて、その事について質
問する事にした。
﹁ダイソンは戻っていない様だが﹂
﹁彼なら、街についたその足でドロシア卿の用事のために別行動に
なったわ﹂
﹁何も聞いていないか?﹂
﹁知っているけれども、それはシューターには教える必要が無い事
1113
だから﹂
何だそれは、かなり気になるじゃないか。
ダイソン本人も女村長も﹁楽しみにしておけ﹂という様な事を言
っていたが、こういうサプライズは気になって仕方がない。
﹁まあ、悪い話じゃないから﹂
﹁お、おう﹂
今は会談の行方に集中しなければならない。
俺たちは礼拝堂にある長椅子の最前面に移動した。
騎士修道会総長はマントを翻すと、中央の祭壇の前で跪いた。
そして両手を握り人間サイズの女神像をじっと見やった後、その
まま祈りを捧げる。
﹁この度の会談は、女神様のご神前で行う事にするがよろしいか﹂
﹁わらわに異存はない﹂
﹁ならばそうさせてもらおう。女神様のおられる前で、腹を割って
裏のない話をさせて頂く﹂
ふたりの指導者はその様な会話をすると、それぞれ祭壇を向いた
まま長椅子に着席した。
その様子を見届けて、余人たちはこの場を退席するためにぞろぞ
ろと動き出した。
修道騎士たちが司祭さまに導かれて移動を開始するので、けもみ
みは俺がどうするのかを見ているらしい。
騎士修道会側では仲介者として雁木マリが残るようで、俺はけも
みみの視線を感じながら女村長を見やった。
俺が残るのか、エレクトラが残るのか。
1114
アゴを振ってふたりとも外せと女村長が言外に語った。
﹁では、後ほど⋮⋮﹂
それを見届けて俺は一礼し、エレクトラやエルパコたちと下がる。
チラリとワシ鼻の壮年騎士姿をしたカーネルクリーフを見やると、
やや垂れた彼の眼が俺を射抜く様に追いかけるのが見える。
ゴクリとつばを飲み込みながらも、俺は修道騎士たちの消えてい
った控えの部屋に急ぐのだった。
気になるな、余人を排しての会談内容。
エルパコならばそのけもみみでもしかしたら会談内容を聞き取る
事が出来るかもしれないが、それはアリかナシか。
礼拝所へとつながる控えの間の扉が閉まるとともに、俺たち従者
一同は互いに顔を見合わせるのだった。
◆
俺の視線で意図を理解したけもみみは、そっと礼拝所につながる
扉の側で、壁に背中を預けた。
その一方で俺は警戒されないために、談話スペースになっている
中央のソファに腰をかける。
見れば、修道騎士たちの面々は雁木マリが村へ連れて来た連中と
は面子が入れ替わっていた事を改めて確認出来る。
恐らくこれが騎士修道会総長の側近を務めるエリート修道騎士な
のだろう。
このファンタジー世界でよくいる筋骨隆々の人間とはちょっと違
う、どちらかというと痩せたタイプの人間たちだ。
しかし鉄皮合板の甲冑の上から灰色の法衣を被った彼ら護衛の姿
1115
は、研ぎ澄まされた日本刀みたいな雰囲気がプンプンだ。
その上、みんな無口でソファに腰かけている。
どちらかというと俺たちを敵とでも見ている様な姿勢は、とても
居心地が悪い。
こういう時はスマイルで距離感を縮めるのがいいな。
﹁こうして女神様によるめぐりあわせで知り合えたのだ、せっかく
だから自己紹介をしようじゃないか。ん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺がフレンドリーにそう言うと、誰もが無言のままで視線だけを
こちらに向けて来た。
こういう経験は村にはじめてたどり着いたころに経験しているの
で、早々めげることはないぜ。
﹁そうだな、こういう時は言いだしっぺから口にするのが作法だっ
た。俺の名はシューター、サルワタの森の開拓村で猟師をやってい
た男だ。こんな恰好をしているから猟師には見えないかもしれない
が、我がご領主さまのお引き立てで、騎士としてお仕えする事にな
ったんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
駄目だ、せっかくフレンドリーに笑顔を振りまいているのに、こ
いつらまったく反応がねえ!
悲しくなった俺は、それでもめげずに言葉を続ける事にした。
﹁し、しばらく前にな。ブルカの街で冒険者をしていた事があった
のだが、その時に何だ、女神様の枢機卿にして騎士修道会の聖少女
修道騎士? さまの雁木マリと知り合った。その際に冒険者仲間と
してバジリスク討伐にも参加したんだぜ﹂
1116
﹁お前はすると、ッヨイハディさまをご存知なのか?﹂
俺のめげない心が通じたのか、ひとりの屈強な修道騎士が口を開
いた。
おおっ女神さま! 修道騎士がデレました!!
﹁もちろん知っているさ。俺はッヨイさまの奴隷をしていた男だか
らな﹂
﹁本当かそれは?!﹂
またひとり、修道騎士が口を開いた。
﹁するとッヨイハディさまは、この村の近くに来ているのか?!﹂
﹁ああそうさ、今回の会談にあわせて少し離れたゴルゴライという
村まで来ている。俺たちはこれから外交団に出かける予定で︱︱﹂
ようやく口を開いた修道騎士たちに気をよくして、俺は今回の旅
について語りはじめた。
1117
96 ツダの両頭会談︵後書き︶
また1分投稿を遅刻してしまいました。
ごめんなさい、ごめんなさい⋮
1118
97 俺たちは聖少女とようじょの過去を知った
アレクサンドロシアちゃん
﹁そうだな。俺たちの目的はブルカ辺境伯の力に頼らず自立する道
を模索する事なんだ。それが我が領主さまが外交使節団を送り出し
た理由さ﹂
﹁ふむ。それがどうして我ら騎士修道会と会談する事になるのだ﹂
﹁そこはそれ、騎士修道会といえば辺境でも極めて有力な軍事力を
もった組織だ。辺境の前線指揮を束ねる辺境伯といざ敵対が表面化
した時に、教会堂の人間まで敵に回したのでは、俺たち辺境の小領
民では消し炭になるだけの運命だ﹂
若い修道騎士の質問に、俺はフレンドリーに説明をした。
﹁このご提案をしてくださったのは、おたくの雁木マリとッヨイさ
まだ。例えばサルワタの領内に大きな聖堂を建立して、可能ならば
修道騎士隊の一隊でも駐留してくださるのならばブルカ辺境伯と言
えど簡単には手出しできないだろうと﹂
﹁ふむ。そうなれば確かに辺境伯もおいそれとは手が出せぬであろ
うが、逆に俺たち騎士修道会の立場が悪くなってしまう﹂
不満そうに青年修道騎士が言った。彼らは基本的に世俗の権力闘
争には不介入という立場を形式的には取っているという話だ。
政治の世界はきっとそんな純真で単純な理屈では動かないのだろ
うが、少なくとも聖堂会の多くの人間はそうありたいと信じている
に違いない。
だが俺たちの村の教会堂にいた助祭マテルドなどは、まさに世俗
の権力闘争のために潜伏していた様な輩である。
1119
﹁そこは雁木マリにも考えがあるんだろう。詳しい事は会談が終わ
った後にでも聞いてみればいい﹂
﹁ふむ、そうさせてもらう﹂
アレクサンドロシ
﹁けどま、ブルカ辺境伯の圧迫と介入は今俺たちの領内では大きな
アちゃん
問題となっているからな。開拓を促進しようと考えている我が領主
さまが目障りなのだろうなあ﹂
助祭さまが村に反逆した件についてはここで口にするのはよして
おこう。
俺の隣に座っているエレクトラも、俺が余計な事を語らなかった
ので黙して視線だけで確認をしてくるだけだった。
どうせ総長との会談の中で話題に上がっている事は間違いないだ
ろうし、いずれそこから彼らも知る事になるだろう。
それに、せっかく少しデレたエリート修道騎士たちと、ここで関
係をこじらせるのはもったいないしな。
﹁それでッヨイさまのご提案で、ブルカ辺境伯といざ敵対姿勢が決
定的になった時に、自立して領内を運営するために、他の近郊領主
たちと交流を深めようという事になったんだ。リンドルと、そして
オッペンハーゲンという街にこれから向かう予定だ﹂
﹁なるほどさすが賢くもようじょさまだ。我ら修道騎士の中でもッ
ヨイハディさまの事を存じ上げている人間は、早熟の賢者であると
か、ッヨイ・ザ・ビヨンドなどと呼んでいる﹂
﹁ようじょ・ザ・ビヨンド?﹂
﹁そうじゃない、ッヨイ・ザ・ビヨンドだ﹂
ようじょ・ザ・ビヨンド。
ゴクリ。とても言い得て妙だが、何だかいけない響きをかもし出
している。
しかしこのエリート修道騎士たちはどこでようじょと知り合った
1120
んだろうね。
雁木マリ経由かな?
﹁それで、あんたたちはッヨイさまとどういうご縁があったんだい﹂
﹁あれは俺たちがアギトの森に遠征した時の事だったかな。その遠
征で俺たちはッヨイハディさまに助けられたのだ。まさに女神様の
小さな使徒とでもいうべきか﹂
そう言ってぼつぼつ過去の話を語りだしたのは、ひとりの修道騎
士だった。
たぶん三人の中で一番年配で、リーダー格なのだろう。金色の髪
をオールバックに撫でつけているが、なかなか様になっている。
﹁サルワタの騎士どのは巨大な猿人間というのは知っているか﹂
﹁実物を見たことはないが、名前だけはね﹂
サルワタの森の語源は、巨大な猿人間のハラワタがその森から見
つかったことに由来している。
あるいは雁木マリがひどく恐れている存在だったと俺の中では記
憶していたはずだ。
恐らくはサルワタの森周辺にも生息しているはずだが、あの場所
はワイバーンの狩場なので、今のところ俺は周辺で遭遇した事が無
かった。
﹁アギトの森という場所はブルカから南に十余の村を超えて進んだ
場所にある、山々に囲まれた場所だ﹂
﹁ほう、ずいぶんと遠方の土地に遠征したんだな﹂
﹁そこに巨大な猿人間たちが住む事でダンジョン化した山の砦があ
ったからな﹂
1121
アギト
アギトの森の由来は、万年雪をたたえる南の山々がモンスターの
咢の様に突き出した谷間に存在しているかららしい。
季節は冬か冬以外のふたつしか無い様な人間に厳しい環境なのだ
そうで、そういう次第からかほとんど未開の諸部族がそこで細々と
暮らしている程度だったらしい。
﹁山の砦というのは、むかしその場所に黄色い長耳の都市があった
遺跡なのだそうだが、黄色い長耳の部族たちはご存知の通り今はサ
ルワタの方面に移住してしまった﹂
﹁そうだね﹂
相槌を打っておいたが、俺は詳しい事はまるで知らない。
だが恐らく黄色い長耳というのは、ニシカさんたちの部族を指し
ている事は何となくわかる。
生活環境が厳しくて故郷を捨てたんだろうかね。
﹁問題は王国の領土と宣言するにも無理があるそれらの村々は、何
十年にもわたって俺たち騎士修道会が教化を施した場所だったんだ。
巨大な猿人間たちが砦を根城にしてしまったので、周辺の村や集落
は家畜は襲われる、人間も時には殺められるとさんざんで、いよい
よ現地の教会堂を通じて討伐依頼が舞い込んだというわけさ﹂
﹁なるほどなあ﹂
﹁俺たちはブルカの冒険者ギルドとともに討伐隊を組織して一〇〇
人からの遠征を行った。当時はまだ軍人訓練を終えたばかりのガン
ギマリーさまが、騎士隊の一隊を率いて参加されていた。その中に
ッヨイハディさまもいたのさ。ほんの二年前の話だ﹂
そこまで話したところで、古参の修道騎士は渋い顔をした。
たぶんあまりいい思い出話ではないんだろうな。
俺も雁木マリがお茶を濁しながらその時にあった話の一部を耳に
1122
していた記憶がある。
大規模なダンジョンを準備不足のまま攻略し、巨大な猿人間の集
団に圧倒されたまま各個撃破をされたという内容だったはず。
﹁俺たちは攻略にあたって周辺の村々から古い砦の情報をかき集め
たのだが、その時にッヨイハディさまが活躍なされた﹂
﹁今から二年前といえば、ッヨイさまは当時七歳か﹂
ッヨイさまは当時、まごうことなきようじょ・ザ・ビヨンドだっ
たという事になる。
幼い外見と裏腹にゴブリンというのは知性が早熟なのか?
うん。ようじょを知っている身としてはさもありなんだな。さす
が早熟の賢者。
その身は子供、知識は大人、しかして心はいかほどか。
ちょっとおませなジョビジョバようじょは、やはり総合的に見て
ようじょである。
いや、ジョビジョバを加味すると、やはりようじょか。
﹁まあッヨイハディさまは純潔のゴブリンだからな、早熟なのさ。
俺たちよりも賢くあらされたッヨイハディさまは、古い文献を精査
してだいたいの砦の見取り地図を作製したんだ﹂
﹁あの時のッヨイハディさまは、まさに賢者の知恵を持つ神童だっ
た﹂
﹁俺たちはそのッヨイハディさまの作られた見取り地図をもとにア
ギトの森にある巨大なダンジョン化した砦を攻略に向かったのだが、
砦の奥には巨大な猿人間が築き上げた地下集落もあって、それはも
う難儀した﹂
﹁黄色い長耳たちが長い年月使っていた鉱山の坑道が、それはもう
迷宮めいた作りになっていたんだ。これではその先、ッヨイハディ
さまの作られた地図も役に立たずで、奥に逃げた巨大な猿人間たち
1123
といたちごっこよ﹂
鉱山跡地の坑道見取り図までは文献を発見する事が出来ず、結果
的にマップなしで突入する事になったらしい。
だがそこは大規模な遠征部隊。
騎士隊までも組織して挑んだ騎士修道会と、複数参加していた冒
険者のパーティーたちが力攻めをして、物量で敵を圧倒しようとし
たらしい。
古参の修道騎士が口を開く。
﹁それが仇となった。本来ならば慎重にベースキャンプから徐々に
側道を倒破する事がダンジョン攻略の基本だったが、数百年使われ
た坑道は思いのほか複雑で、しかもあちこちがつながっているとい
う始末。騎士隊の一部が主攻略戦を分断されて、結果的にみっつの
小隊が壊滅したんだ﹂
﹁あんたたちもその騎士隊に参加していたのか?﹂
﹁もちろんだ。今の騎士修道会を支える主だった修道騎士は、皆あ
の死線を潜り抜けて来た古強者ばかりだからな。その騎士隊を率い
たのがガンギマリーさまだからな﹂
﹁そして今の騎士修道会総長カーネルクリーフさまが、遠征部隊の
第二陣を率いて駆けつけられたのだ﹂
俺の質問の残りのふたりが説明してくれる。
そしてその言葉を受け取る様に、古参の修道騎士がふたたび語り
始めた。
﹁前線で一度は孤立したガンギマリーさまを救出するために、賢く
も幼いッヨイハディさまが、土の魔法を使って坑道を遮断しながら
冒険者たちを率いて、孤立した騎士隊のもとへかけつけたのだ﹂
﹁そして雁木マリは助け出されたのか﹂
1124
﹁いや、ガンギマリーさまはすでにその場にはおられなかった﹂
どういう事だちょっと話がわからん。
俺が首をひねっていると、古参の修道騎士は難しい顔をして続け
る。
﹁ガンギマリーさまは仲間を逃がすために最後まで盾になって戦っ
ていたからな。残り少ない生きた仲間たちをかばい、そして巨大な
猿人間に最後の抵抗空しく捕まっちまったんだ﹂
﹁ああ、女神様をも恐れぬ猿人間たちは、ッヨイハディさまの救援
の直前に、ダンジョンの表層を放棄して、上の階層に逃げやがった
のだ﹂
﹁上の階層?﹂
ダンジョンが地下洞窟なら、普通は下に降りていくのではないか
と思ったのだがどうやら違うらしい。
﹁山の地形を利用して作られた坑道だからな、山頂近くに続くダン
ジョンの上層と、もともとの採掘のために作られた下層のふたつが
表層エリアとは別にあったんだ。黄色い長耳以外にもかなり巨大な
猿人間たちはダンジョンに手を入れていたわけだ﹂
﹁それで、ッヨイさまたちはその後どうしたんだ﹂
﹁俺はその助けられた主攻略部隊の生き残りだったんだが、合流し
てもちろん聖少女さまの足取りを追ったさ﹂
だがたとえようじょの土の魔法をもってしても、ズタズタに分断
された各パーティーを救出するのは至難を極めたらしい。
結局、救出部隊は全ての戦力をかき集めて一時的に突破を賭けた
後に、巨大な猿人間の主が逃げ込んだ部屋で雁木マリと出会った。
彼女は激しく抵抗をしながらもその身を主によって弄ばれたのだ。
1125
﹁聖少女さまをお救いした後に、さらに十日以上の時間をかけてよ
うやく攻略を完了した﹂
﹁壮絶な戦いだったんですね﹂
﹁恐らく近年騎士修道会が経験した戦闘の中で最も苛烈なものだ。
あの時、あの場に冒険者パーティーに加わっていたッヨイハディさ
まがおらず、第二陣としてカーネルクリーフさまの騎士隊が来なけ
れば、恐らくあのダンジョンは今も巨大な猿人間の巣窟だった事だ
ろうよ﹂
なるほど、それほどの死闘を演じた戦いにようじょの身でありな
がらッヨイさまは参加していたのか。
﹁ッヨイハディさまはこれから、サルワタの領内に移住されるのか﹂
﹁まあそういう風に聞いているが、少なくともしばらくは俺たちの
村で生活するんじゃないかな﹂
﹁そうか。ならば俺はサルワタの騎士爵閣下に刃を向けるわけには
いかんな﹂
どこまで本気でそう言ったのかわからないが、白い歯を見せた古
参の修道騎士はそう言って手を差し出してくれた。
﹁俺の名はスウィンドウだ。カーネルクリーフさまの副官をしてい
る﹂
﹁イディオだ、軍事訓練の格闘教官をしている﹂
﹁僕はハーナディンだ。君と同じ出身は元猟師だね﹂
次々に自己紹介をして差し出された手を握っていくと、何だか打
ち解けた気分になった。
1126
﹁では改めてシューターだ。奴隷騎士をしている﹂
﹁わ、わたしはエレクトラだ。彼の部下だ﹂
あわてて自己紹介に加わったエレクトラがそう言った。
あれ、エレクトラって俺の部下なのか? 村にいる騎士と言えば
唯一俺だけなので、警備責任者になっているが、なるほどそうする
と指揮系統的には俺の部下か。
知らなかったそんなの。
などと互いに少し打ち解け合っていると、礼拝所の前の壁に身を
預けていたエルパコが反応した。
そうだな、お前もいい機会だから挨拶しておきなさい。
﹁シューターさん、こっちに来るよ﹂
そう思ったのだがどうやら違ったらしい。
会談がひと段落したのか扉が開き、ひょいと雁木マリが顔を出し
たところだった。
1127
98 俺たちの会談ははじまったばかりだがすでに難航している
﹁ガンギマリーさま!﹂
談話用のソファに腰を下ろしていた俺たちは一斉に立ち上がる。
古参の修道騎士が少し疲れた顔をしている雁木マリに声をかけた。
﹁今夜はもう遅いから、続きは明朝という事になったわ﹂
﹁そうですか、お疲れ様です﹂
﹁司祭どの。申し訳ないけれど、我々に何か暖かい食事を用意して
くださらないかしら。昼間から移動の連続で何も食べていないから﹂
ちょうど控室に入って来た司祭さまを捕まえて雁木マリが言った。
そう言えばブルカとこの村までの間を往復してマリは休む間もな
かったのだろう。
﹁わかりました。お食事の場所はどうなさりますか﹂
﹁宿泊所が確かあるのよね、申し訳ないけれどそちらに運んでくれ
る?﹂
﹁了解です。ただちにご用意いたしますので﹂
司祭さまはペコペコと何度か頭を下げると教会堂の厨房の方に飛
んで行ってしまった。
雁木マリの表情を観察する。
まだ中から女村長が出てこないので、会談の進捗がどうなったの
かはわからない。
俺はそれが気になって、少しでもマリの表情から結果がどうなっ
1128
たのかを理解しようとした。
すると、ふと雁木マリが俺から視線を外して伏し目がちになる。
どうやら会談の前半は不調に終わったらしいな⋮⋮
そこに礼拝所から戻って着
来たカーネルクリーフ総長が姿を現した。
﹁総長、司祭どのに今食事を用意してもらっているわ﹂
﹁そうか、それはありがたいな﹂
﹁みんなも、宿泊所に移動するわよ。シューター、また後程⋮⋮﹂
﹁おう。じゃあな﹂
カーネルクリーフ総長とすれ違う直前に、彼は俺にまた例の猛禽
の射抜くような視線が送って来た。
何かカーネルクリーフ氏の気に障る事でもしたかと思ったが、そ
うではないらしい。
﹁ガンギマリーどのの事はよろしく頼むぞ、騎士シューターどの﹂
﹁?!﹂
﹁ちょっとカーネルクリーフ、いきなり何を言い出すのよ?!﹂
突然そんな事を言われて俺はビックリしてしまったが、それより
雁木マリの方が驚いていた。
そりゃそうだ、生きた心地のしないような鋭い視線を送り付けて
いる︵様にしか見えない︶騎士修道会の最高指導者が、そんな事を
口にするなんて誰が想像するか。
﹁早く行きましょうカーネルクリーフ。シューター、じゃあこれで
!﹂
ハッハッハなどと笑っている総長の背中を押して、雁木マリたち
1129
が退場していった。
ちょっと今の状況に面食らっている俺を尻目に、退出する総長に
頭を下げていたエレクトラが、俺に目配せで許可をもらいながら動
き出す。
未だに礼拝所から姿を見せていない女村長のところに駆けていっ
たのだ。
﹁シューターさん。ぼくたちも、行く?﹂
﹁お、おう。そうだね﹂
礼拝所の暗がりの中で、静かに女村長が女神像を見上げながらぼ
んやりと座っている後ろ姿を見止めた。
俺よりも先に駆け出したエレクトラが、その側に近づいたものの
声をどうかけていいのかわからずに固まっている。
気になった俺たちも急いでその側に近づくが、難しい顔をした女
村長は無言でじっと正面を見据えていた。
女村長の隣に、遠慮なく俺は腰を下ろした。
﹁無理難題を言われたと言う顔をしているな﹂
﹁わかるかの﹂
﹁まあわかりますよ。さしずめキッパリお断りされた方が村長さま
も態度に出していただろうから﹂
ふむ。いったい何を言われたらこういう難しい顔をするのだろう
か。
俺ははやる気持ちを抑えつけながら、アレクサンドロシアちゃん
の口から言葉が飛び出すのを待つことにした。
﹁皆も気になっているであろうから、ひとまず結論だけを言う事に
する。騎士修道会をわが領内に誘致する事は難しい様だ﹂
1130
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮アレクサンドロシアさま﹂
﹁安心せよ。騎士修道会との関係が悪化すると言う事はないし、基
本的には可能な範囲で協力を惜しまないという言質はとれた﹂
けれども、そのためには何か条件を口にされたと言う事なんだろ
うな。
﹁すると、今後のリンドルやオッペンハーゲンでの外交についても
再考する必要が出てきそうだな﹂
﹁そういう事になるかの。だが会談は明日も行う予定だから、そこ
で少しでも協力できる条件を引き出さねばならんという事だ。シュ
ーターには後で色々と相談がある故、体を貸してもらいたい﹂
﹁何なりとご用命を、村長さま﹂
すっくと立ちあがった女村長は、正装のドレスのしわを伸ばしな
がら俺に振り返った。
﹁さて、夕飯の途中で会談になってしまったから、少し小腹がすい
てきたな。食堂に戻るとしようか。エレクトラ、付き合え﹂
﹁はい、すぐに温めなおしてもらえる様にお願いしますので!﹂
女村長はつとめて明るい表情を作ると、エレクトラを従えて食堂
に向かって歩いて行った。
俺はもう飯を食う気分ではなくなっている。
騎士修道会が難色を示したか⋮⋮
やはり政治に介入する事に微妙な顔をされたのか、それとも彼ら
の立場としても微妙な状況という事なのだろうか。
うーん。
1131
﹁シューターさん、ぼくたちはどうしよう?﹂
﹁エルパコ、君はお腹はすいていないかな﹂
﹁ぼくは、もう大丈夫だよ﹂
﹁俺も何だか飯を食いたい気分じゃなくなったんだよなあ。宿泊所
で、村長さまが戻って来るまで部屋で待っているか﹂
﹁うん。ぼくも一緒に行くよ﹂
◆
ランタンを片手に教会堂に併設されている宿泊所に戻ってくると、
女村長が泊る部屋では未だにヘイジョンさんが絵筆を片手に肖像画
の製作を頑張っているところだった。
覗き込んでみると、ずいぶんと色の塗り込みが進んでいるみたい
だ。
数本のろうそくで照らされたような部屋で、よくこれだけ出来る
もんだと感心していると、
﹁わっ脅かさないでください! ビックリして手元が狂ったらどう
するんですか﹂
﹁悪い悪い、上手いもんだな。不機嫌そうなアレクサンドロシアち
ゃんの表情なんかもうカンペキだ﹂
﹁そうでしょうそうでしょう。僕もなかなか女騎士さまのあのお顔
を再現できたと思っています﹂
自画自賛するヘイジョンさんは、いったん筆を止めると三角帽の
位置を改めた。
なるほど。アレクサンドロシアちゃんそのものだ。
昼下がりのこの部屋で、暑さで不機嫌の極まった女村長が安楽椅
子に腰かけて肘をついている姿がそこには描かれていた。
問題は本人が気に入るかどうかだが、ちょっと不機嫌な表情をし
1132
たアレクサンドロシアちゃんの顔は、確かに威厳が備わっていて、
肖像画として間違っていない気がする。
うん、後は口八丁手八丁で褒めそやしておけば問題ない気がして
きた。
むかし俺がとあるWEB制作の営業代行会社でバイトをしていた
時などは、受注から納品までいかにクライアントに口を開かせない
ようにするかを苦心したものだ。
俺はあくまでも営業補助のバイト君に過ぎないので、最初の飛び
込み営業の時は本職の営業さんが付いてきてくれていたが、それで
もその後は自力でどうにかしなければならなかった。
そういう時クライアントの要望を聞きだすと納期までにとても間
に合わない様な注文を次々につけられたりした。
アレクサンドロシアちゃんはあれで乗せられやすい性格なので、
うまく彼女の機嫌をよくさせておいて、いかにこの肖像画が特徴を
捉えかつ素晴らしいか絶えず説明すれば、きっと喜んでくれるに違
いない。
ビジネスの基本はどうやって取引先に気持ちよくなってもらえる
かだからな。
﹁完成はいつになるのかな﹂
﹁そうですね。もう完成でも問題ないところまでは仕上がっている
んですが、せっかくなので最後の調整をやりたいです。僕としても
かなりこの絵は気に入っているので﹂
﹁そうかい。まあ体の負担にならない程度で頼むよ。今日はこの辺
で上がりにしてくれ﹂
﹁わかりました。ではまた明日にでも顔を出しますので、続きはま
た⋮⋮﹂
帽子をとって優雅に頭を下げたヘイジョンさんは、もういち度だ
け自分の描いた女村長の肖像画を見てひとつうなずいてから退出し
1133
た。
木のバケツに絵筆とパレットを放り込んでさようなら。
残された俺たちは、改めて肖像画を覗き込んでみる。
﹁これ、すごいね﹂
﹁そうだなあ。よく描けていると思う、不機嫌な表情なんかはアレ
クサンドロシアちゃんそっくりだ﹂
俺はそう言いながら昼間に女村長が座っていた安楽イスに腰かけ
てみた。
女村長が好んで座っているのは、いわゆる揺りイスと呼ばれる形
状のものである。
座って前後に揺らしてみる。
そういえばむかし家にこの揺りイスというのがあったのを覚えて
いる。
普段は妹たちが誕生日プレゼントか何かでもらった大きなぬいぐ
るみが座っていたが、座ってみるとその頃の記憶を思い出して妙に
懐かしい気分になった。
﹁シューターさん、飲む?﹂
﹁おう、ありがとうな﹂
俺がそんなむかしの事を思い出していると、けもみみが水筒を口
に運んだ後それを俺に差し出した。
いつだったか何も考えずに口に水筒を運んだら中身が芋の酒だっ
た事があったけれど、そこはエルパコの事。
ちゃんと普通の水だった。
そうしている間にエルパコは描きかけのカンバスを部屋の脇に片
付けてくれて、俺は水をチビチビやりながら揺れる安楽イスで人心
地つく。
1134
﹁お前も適当に座りなさい﹂
﹁うん﹂
﹁何だか、その絵。ずっと村長さまが監視しているみたいで落ち着
かないな﹂
﹁そうだね。とってもそっくりだから、ビックリだよ﹂
ほぼ完成状態の女村長肖像画は、カンバスの向こう側からずっと
俺たちを睨み付けている。
描いたはいいが、この絵は村に持ち帰ることになるのだろうか。
サイズはなかなか大きくて、畳一枚分ぐらいのサイズになるんじ
ゃないかと思えるほどだ。
﹁どうなるんかなあ外交使節団。色々と思いやられるぜ﹂
﹁上手くいってないんだよね⋮⋮﹂
﹁そうだな。どんな事でも完全に上手くいくなんてことはあり得な
いから、可能な手立ては出来るだけ多くやる方がいいし、どこかで
妥協も必要だ。会談の内容もそんな感じだったんだろう?﹂
礼拝所の会話内容に聞き耳を立てていたけもみみに質問すると、
﹁う、うん。そうだね、むつかしいはなしはわからないや⋮⋮﹂
簡易イスにチョコンと座ったけもみみが、イスの面に手を付いて
ポンと足を放り出した。
ボーイッシュな女の子という感じの銀髪けもみみが、天井を見上
げながら足をぶらぶらさせているところを見ると、思うところはあ
る。
例えブルカとの対決が避けられないものだとしても、血を流す戦
争は出来るだけ避けないといけない。
1135
エルパコは猟師の移民として俺たちの村にやって来たというのに、
早々戦争で殺し合いに参加させるのはしのびないじゃないか。
本人は俺の護衛役というポジションを気に入っているみたいだけ
れど、それはまた別問題だ。
﹁どうしたのシューターさん。こっちばかり見て﹂
﹁いやあ、エルパコはかわいいなあ﹂
﹁うぇ、うん。えっと⋮⋮﹂
﹁これからもそのかわいいエルパコを守るために、俺たちも頑張ら
ないとな﹂
どう返事をしていいのかわからずに戸惑っているけもみみかわい
い!
しかし女村長とカーネルクリーフとの間にどんな会話があったの
かますます気になる。
そう思っているところに、ちょうど雁木マリが扉を開けて入って
来るではないか。
﹁おうマリか。騎士修道会の連中は放っておいていいのか﹂
﹁総長たちが今、部下たちと話し合いをしているところなのよ。あ
たしは一応、サルワタ領に移住した冒険者だからね。遠慮したの﹂
﹁そうかい。色々迷惑をかけるな﹂
﹁い、いいのよそんな事。冒険者タグだってブルカから引き揚げて
いるしね。なっ仲間のいるところが、あたしの居場所だって思って
るから﹂
﹁そうだな、ッヨイさまもサルワタにいるんだしな﹂
﹁そうよ、シューターもね﹂
仲間か。嬉しい事を言ってくれるじゃないか。
妙にジロジロと俺の方を見て来る雁木マリにニッコリしてやると、
1136
マリはあわてて視線を外しやがった。
仲間なんて口にして、ついでに俺の名前も言葉にしてみたものだ
から、気恥ずかしくなっているに違いない。
﹁待たせてすまんな。腹がふくれて少し気持ちが落ち着いた﹂
照れた雁木マリを見てニヤニヤしていると、女村長がエレクトラ
を従えて部屋に戻って来たではないか。
俺はあわてて立ち上がるが、女村長は手をひらひらさせて制止し
た。
﹁よいお兄ちゃん、そのまま座っていていいぞ﹂
﹁お、おう。ではお言葉に甘えて﹂
﹁皆もくつろぐがいい。わらわは失礼して寝台に座らせてもらうぞ。
さすがに疲れた﹂
力なく笑った女村長が、ポフリとはならないせんべい布団と寝台
に腰を落とす。
それを見届けて俺たちも適当にくつろぐことにした。
雁木マリは俺の側に簡易イスを引き寄せて腰かける。
エルパコもそれにならい、エレクトだけは立ったまま女村長の側
に移動した。
﹁では早速だが、カーネルクリーフどのから騎士修道会がわらわた
ちに味方するためには条件があると、こう言われた﹂
その言葉が俺たちの腹に落ちるのを待って、ゆっくりと女村長が
言葉を続ける。
﹁条件はこうだ。助祭マテルドを引き渡す事。それに聖堂建設を依
1137
頼するのであれば、それはわらわからの寄進という形で聖堂を建立
する必要があるという事だ。教会堂など村々にある修道会の施設は
基本的に領主の寄進によって建立するのが建前になっておるが、そ
の代わりに医療の提供と葬儀の取り仕切りを修道会が行ってくれる。
修道騎士までも提供せよという事であれば、それは寄進によって聖
堂を建立する建前が必要だとカーネルクリーフどのは言っておられ
た﹂
なるほど、その理屈は非常にわかりやすい。
あくまでも建前として騎士修道会がサルワタに肩入れをするので
あれば、相応の理由が必要なわけだな。
あのカーネルクリーフという壮年、なかなか道理の通った話し運
びをするらしい。
﹁どうしても他の領主たちを納得させる理由付けが必要だって事な
のよ。今までに聖堂を建立して寄進した貴族なんていなかったし、
ブルカの聖堂は騎士修道会が自分たちで建てたものなのよね﹂
﹁するとあれか、ブルカの聖堂を超える様な立派なものを建てる事
が出来れば、それこそ騎士修道会の拠点そのものをサルワタに移す
事も検討してもらえるんじゃないか﹂
﹁そうね、それは確かに可能なんだけれど⋮⋮﹂
それならば悪い話ではない。
悪い話ではないのだが、女村長の顔は明らかに重苦しいものだっ
たし、雁木マリも困り切った顔をしていた。
対照的にあまり会話の理解が追い付いていないのか、エレクトラ
は不思議そうな顔をして、エルパコはぼけーっとしている。
つまり、今の俺たちには先立つものが無いのだ。
﹁ちなみにブルカのものを超える聖堂を建設するとなると、予算は
1138
どれぐらいの見積もりになるんですかねえ﹂
﹁そうね、ちょっとわからないけれど、ブルカ聖堂会は大理石をふ
んだんに使ったかなり豪華な礼拝施設よ。聞いた話では建設のため
にブルカ辺境伯金貨で一〇〇〇〇枚という話だったかしら﹂
﹁一〇〇〇〇枚!﹂
俺はたまらずすっとんきょうな声を上げてしまった。
奴隷として俺の価値がせいぜい二〇枚たらずのはした金だった事
を考えれば、途方もない数字に目まいすら覚えてしまうのである。
﹁そんな金はどうやってもわらわに捻出する事は不可能だ。しかも
それを超えるだけの豪華な聖堂となれば、金貨一〇〇〇〇枚でも足
りぬという事になる。そもそもそんな金があるのであれば、最初か
ら傭兵なりを雇い入れるし、より積極的に開墾を進める方に投資す
る。事実上それは騎士修道会から協力を断られたに等しい﹂
まったくその通りだ。
辺境一帯に横たわる諸貴族の領土と公平を期すためとは言え、そ
んな金はどうやったって用意出来ないだろう。
だがこれで驚いていたら話は続かない。
もうひとつ確認しておかねばならない事があるのだ。
﹁じょ助祭さまを引き渡せという件についてはどうなんですか。あ
の女は仮にも事件を起こした犯人だ。聖堂会の人間だからという事
で処分保留のまま薬漬けにされている状態だけど、むしろ俺たちの
手で裁く権利があってもおかしくないはずだろう﹂
﹁そこは安心して。組織を守るために引き渡しを要求するのではな
く、ブルカ辺境伯に事実を突きつけるためにも、彼女の身柄を引き
渡してほしいという事よ。理解してちょうだい﹂
﹁すると生き証人として必要だから、引き渡せと言う事か﹂
1139
﹁そういう事ね﹂
雁木マリが珍しく色を変えて抗弁したので、なるほどと耳を傾け
た。
だが俺は商人よろしく値引き交渉をしておく事も忘れない。
﹁しかし今回の件は騎士修道会にも責任があるんだろう。いかにも
大金が必要な聖堂の寄進を求めてくるというのは度が過ぎているぜ。
いくらかまかりなりませんかね?﹂
﹁それを具体的に話し合うために、明日も会談の続きをするのよ﹂
﹁そうか、そうだよな﹂
﹁わらわたちがその様な金貨を用意する事はどのみち不可能だ。そ
の半値でも無理なものだからな、何かもっと別の取引材料を探さね
ばならぬ﹂
俺と雁木マリの会話に、女村長が深くため息をつきながら言葉を
重ねた。
これでみんな黙り込んでしまった。
お金がないなら、お金を稼げばいいじゃない。
単純な理屈なのだが、俺たちの村にはまともな産業がないのは周
知の事実である。
ついでに、特産品になりえるワイバーンの素材は、これから先は
リンドルやオッペンハーゲン相手の交渉で取引材料にするものだ。
仮に何か面白おかしい名案が思い付くか、村の近くで金鉱でも発
見出来たのなら未来は明るい。
いや、それだとしても、それが実際に金となって流通するまでに
はしばらく時間がかかるだろう。
﹁まあ、今すぐに皆に何か必死でアイデアをくれと言ったところで、
1140
すぐには出てこぬであろう。会談は明日にするという事なので、朝
にまた改めて話し合いの場を持つことにする﹂
パンと手を叩いて立ち上がった女村長は、俺たちを見回して微笑
を浮かべた。
から元気なのだろうが、領主として立派な態度だな。
﹁さあ、各々の部屋でゆっくりと休むがよい﹂
俺たちは立ち上がって、女村長の部屋を退出した。
退出の間際、チラリともういち度アレクサンドロシアちゃんの顔
を見やる。
もしかすると心細くて俺にひとこと声をかけてくるかもしれない
と思ったからだ。
俺も自分が彼女から信頼を置かれている事は理解できるし﹁後で
体を貸せ﹂と言われていたのを覚えている。
このタイミングで何か話しかけるのではないかと思っていたので、
気にかけたのだ。
だがチラリと見た俺の視線に気付いたアレクサンドロシアちゃん
は疲れた笑みをこちらに見せただけで、何も言わなかった。
かわりに雁木マリだけは、簡易イスに座ったままじっと女村長を
見続けていた。
ん?
このふたり、何か会談の場であった出来事を隠しているのではな
いか。
そんな風に俺の直感が脳裏に告げている様な気がしたのだ。
1141
99 真夏の夜の長いお話し
女村長の宿泊部屋を出ると、俺たちは吊り床の雑魚寝部屋に移動
する。
浮かない顔はしていても政治的な問題には一切口を挟まないエレ
クトラは、むすっとしたままで四人ひと部屋の狭い寝床にさっさと
向かっていた。
俺は少し距離を置いてからけもみみを捕まえる。
﹁エルパコ、あのふたりの会話を探れ﹂
﹁う、うん﹂
明日の会談の行方を左右する重大な内容であるなら、アレクサン
ドロシアちゃんの野望を成就させるのだと誓っている俺としても、
出来るだけ詳細に知っておきたい。
エルパコならば少し離れた場所からでも情報収集する事はたぶん
出来るだろうから、ぜひお願いしておきたかった。
疲れているところ申し訳ないが、もうひと働きしてもらわなくち
ゃな。
ところが肝心のエルパコが、あまり乗り気じゃない様な顔をして
俺と部屋の方を何度も見比べている。
﹁えと⋮⋮﹂
﹁何を話していたか詳しく聞いて俺に報告するんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁どうした?﹂
俺が手に持ったランタンに照らされて、眼を白黒させているエル
1142
パコの表情がよくうかがえた。
﹁し、シューターさん。ぼくはやめた方がいいと思うよ﹂
﹁何でだよ?﹂
思いつめたような顔をして、小柄なエルパコが俺を見上げて来る。
と同時に、まるで警戒心を丸出しにしている様にぴこぴこと耳が
せわしなく動いているのがわかった。
その耳はもしかして、ここからでも部屋の中の会話が聞こえてい
るのかもしれない。
﹁何でって。ぼくは、シューターさんを守るのが役目だから﹂
﹁だったら俺を守るためにも、部屋の会話を聞いて来なさい。聞き
漏らしがあったら俺どころか村ごと危機に陥るかもしれないだろう
?﹂
俺は諭す様にエルパコの肩をそっと握って、言い含めた。
それでもけもみみは頑なに首を横に振って動こうとしなかった。
﹁エルパコくん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お前は何か大事な話を俺に隠しているね?﹂
﹁か、隠してなんかないよ﹂
﹁本当かな。ん?﹂
ずいと俺が顔を近づけてランタンを持ち上げると、けもみみの眼
を覗き込む。
するとまるでエルパコの瞳が魚の様にぐるぐると泳いでいるのが
よくわかった。
やはり何か隠し事をしているのは間違いない。
1143
俺がさらにエルパコの顔をしっかりと見据えてやろうとすると、
明らかに戸惑った表情が浮かんだ。
﹁こ、怖いよシューターさん﹂
﹁いや、すまん⋮⋮﹂
慌てて俺が肩から手を離して咳払いをした。
いかんいかん。大切な家族であり仲間を怖がらせて、俺は一体ど
うしようと言うんだ。
反省の意味も込めて銀髪をわしわしっと軽く撫でてやると、頬を
ぷくうと膨らせたエルパコが見上げて来た。
﹁そんな事されたって、ぼく教えないもん﹂
﹁じゃあどうやったら本当の事を教えてくれるんだ?﹂
自分でもう隠し事をしているとバラしてしまっているわけだが、
このけもみみはその事に気付いているのだろうか。
まあ、でもそうまでして俺に教えたくないという事なんだろうな。
エルパコがここまで拒否反応を示したのは、たぶんはじめての事
じゃないだろうか。
そんな風に思っていると、今度は珍しくエルパコの方から俺に体
を預けて、きゅっと力なく抱き着いてきた。
ちょ、どういう事ですか。
おじさんちょっと状況が理解できない!
﹁⋮⋮ね。シューターさん、ずっとぼくたちと一緒にいるよね?﹂
﹁そりゃ俺たちは家族だからな。ずっと一緒だ﹂
﹁そっか、それなら︱︱﹂
何か言いたげな表情のエルパコであるが、この子なりに必死で適
1144
切な言葉を探しているらしい。
﹁きっと本人が自分で言うと思うから。それまで待ってあげて﹂
それだけ言葉を残すと、エルパコはするりと俺の体から身を離し
て吊り床の雑魚寝部屋に駆けて行ってしまった。
何なんだよもう。
きっと本人が自分で言う事?
わけもわからず俺は振り返って、けもみみの消えた薄暗い廊下を
見やった。
◆
乾燥させた除虫菊を焚く臭いがどこからか漂ってくる。
エルパコとあんな事があって居心地の悪さを感じた俺は、そのま
ま四人部屋の寝所には向かわず宿泊施設の外に出て来た。
さすがに真夏の夜という事でじっとりと体にまとわりつく汗が気
持ち悪い。
宿泊所の外に出ると、井戸を探して俺はうろついていた。
水浴びでもして気分を落ち着かせたいところだが場所がわからな
い。
ぐるりと宿泊所のまわりを一周したところで、植え込みの陰にな
った場所に屋根付きの井戸があるのを発見した。
ランタンを持ったままでよかったぜ。
近くまでやってくるとそれを置き、井戸から縄を引き上げて桶を
取り出す。
井戸水は外気にさらされていないぶん冷たく、ばしゃりと顔を洗
うと少しだけ気持ちが紛れた。
1145
本人から聞けと言うのはどういう事だろうね。
恐らく女村長か雁木マリにかかわる事なんだろう。そして家族と
いうキイワードも気になるところだ。
などと思いながら、確か女村長の寝所の方を振り返ったところ、
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
寝所の窓が開け広げられていて、そこから雁木マリがこちらを見
ている姿が飛び込んできた。
﹁やあ、まだお話は続いているのかな?﹂
﹁シューター、そこで何をしているの⋮⋮﹂
﹁暑いから、ちょっと水浴びでもしようと思ってね﹂
﹁本当かしら? まさかあたしたちの話を盗み聞きしようとしてい
たんじゃないでしょうね⋮⋮﹂
俺に猜疑の眼を向け来る雁木マリである。
あわてて濡れ衣を証明すべく、半分空になった井戸の桶を持ち上
げて見せるが、その視線は鋭いままだ。
﹁いや、そういう事はニシカさんやエルパコじゃないから俺には出
来ないし﹂
﹁そう、ならいいわ。悪いけれど込み入った話があるので、遠慮し
てくれるかしら﹂
﹁お、おう。そういう事なら﹂
急いで桶を井戸の中に放り込むと、さっさとこの場から移動する
事にした。
いつまでも視線を背中に感じているのでしょうがない。
1146
﹁どうした、何があったのだ﹂
﹁いえ、気にしなくていいわドロシア卿﹂
フンと鼻を鳴らす音が聞こえて、雁木マリは板窓をバタンと閉じ
てしまった様だ。
どうやらエルパコの臭わせていた通りに、何か女村長と雁木マリ
との間で会話があったに違いない。
これはいよいよ、気になってしょうがない気分である。
◆
寝床についてしばらく、俺の介在しない場所で何かの企みでも起
きてるんじゃないかと考え事をしていた。
けれどもやはり慣れない乗馬のせいなのか、気が付けば瞼が重た
くなり思考は揺らいでいく。
どれぐらいの時間がたったのかはわからないけれど、四人部屋の
吊り床に誰かが近づいて来るのがわかった。
恐らく女村長と話し込んでいた雁木マリが、要件を済ませて戻っ
て来たのだろう。
俺のすぐ上で寝ているはずのエルパコが身じろぎしたので、一応
は誰かが近づいたのをエルパコが察知して、一瞬だけ警戒したのか
もしれない。
そしてしばらく深い寝心地に任せてじっとしていると、雁木マリ
と思われるその気配が俺の側にやってくるのがわかった。
マリのための寝床は俺の向かいの吊り床を空けてある。
暗がりだが、その上にエレクトラが寝ているのできっとわかるだ
ろうと思うのだが⋮⋮
1147
夢心地の中で何をしているのだろうかとわずかに思考が働いたと
ころで俺の手が握られた。
えええ。どういう事だ⋮⋮?
俺はさすがに脳みそが覚醒して、自然と雁木マリの手を握り返し
てしまった。
﹁?!﹂
すると暗がりの中で、マリがてき面に驚いているのが伝わってく
る。
何か思い詰めているらしいが、暗がりの中で目を開けたところで
残念ながら彼女の表情をうかがい知ることが出来なかった。
﹁話は何だ﹂
﹁えっとうん。ここでは何だから⋮⋮﹂
﹁そうだな、みんなを起こしちゃ悪いしな﹂
俺たちは小声でヒソヒソ話をする。
エルパコはたぶん雁木マリが切り出そうとする話の内容もちゃん
と理解しているし、たぶんこの会話そのものもきっちりと耳に入れ
ている事だろう。
けれども、マリとしてはここでは話しにくい内容なんだろうとい
う事は俺にだって理解できる。
体を起こして静かに立ち上がると、そのまま暗がりの中で廊下に
出た。
ちゃんとマリがすぐ後ろにいる事を確認して、とりあえず宿泊所
から出る。
﹁もう察しがついているかも知れないんだけれど⋮⋮﹂
1148
夕方遅くに会談が行われた礼拝所にやってくると、そのがらんど
うの中で雁木マリの声がよく響きわたった。
俺は何も察しが付いていなかったけれど、まあマリに言葉を続け
てもらう。
﹁カーネルクリーフがドロシア卿に協力する代わりに提案した要求
はね﹂
﹁うん?﹂
﹁あ、あたしとシューターが結婚する事が条件よ﹂
﹁?!﹂
雁木マリさん。いま何て言った?
きっと俺はかなり間抜けな顔をして雁木マリを見返しただろう。
ここが暗がりの中でなければ、マリは吹き出していたかもしれな
い。
◆
俺の名は吉田修太、三二歳。
ティーンエイジな聖少女さまと夜の密会をしている妻帯者だ。
﹁何で騎士修道会の総長さまが、俺とマリが結婚する事を条件に持
ち出してくるんだよ﹂
﹁そ、それが政治っていうものでしょう。ドロシア卿は騎士修道会
の協力が欲しい、騎士修道会はあなたが欲しい。この世界の領主た
ちだって自分たちの共闘関係や不戦協定を結ぶために、血の繋がり
を作るじゃないの。結婚を利用して﹂
確かにそれはそうだ。
俺は女村長の命令で、野牛の一族を仲間内にするためにタンヌダ
1149
ルクちゃんと結婚する事になったのは事実だ。
女村長の義息子ギムルもまた、同様に野牛の一族から嫁探しをし
ている。
しかしそれは領主や貴族間での話だろう。
基本的に血のつながりではなく、宗旨の繋がりによって結束して
いる騎士修道会という武装教団にはあまり関係のないことのはずだ。
﹁だけど騎士修道会は貴族ではないし領主ではない。それなら結婚
というカタチに拘る必要が無いだろう? そもそも騎士修道会は何
で俺が欲しいんだ、俺なんて元奴隷の地方領主に仕える騎士だぜ﹂
﹁いいえ違うわ。だってシューターはこの世界の人間にとって異邦
人じゃない﹂
異邦人という言葉を聞いて、俺は改めてマリの方へ向き直る。
雁木マリはブルカの聖堂で礼拝中に全裸で降誕した。
﹁わたしが聖堂に降誕した様に、シューターが異邦人である事はち
ゃんとカーネルクリーフも理解しているわ﹂
﹁マリが報告をしていたのか﹂
﹁⋮⋮ええ。そういう事例があたし以外にあったって事を、シュー
ターがサルワタ領に戻っている間に報告していたもの。ごめんなさ
い﹂
マリが申し訳なさそうに首を垂れたけれど、騎士修道会の人間と
しては当然の態度だろうから別にいい。
それはわかった。だけど、異邦人同士が結婚する事に何の意味が
あるんだ。騎士修道会は今後、血族集団で組織作りをする予定でも
あるのか?
﹁あたしは前にも言ったけれど、騎士修道会の中で聖少女修道騎士
1150
という立場なの。彼ら騎士修道会の人間は、あたしが女神様のご聖
断によってこのファンタジー世界に送り込まれたのだと思っている
わ。それはシューターも同じだと解釈しているのよ。だから騎士修
道会としてはシューターもまた女神様の起こした奇跡の片鱗であり、
宗教的にも政治的にも価値があるのよ。少なくともシューターの出
自を知れば、シューターを見る領主たちの眼も変わってくるはずだ
わ﹂
まじかよ。俺に政治的価値とかあったんか。
知らなかったそんなの。
﹁騎士修道会としてはシューターを他の領主に政治利用されるよう
な事態は教義的にも許せるものでないし、何よりあたしとシュータ
ーなら、女神様の使徒同士なのだから貴族の血の結びつきにも匹敵
するってカーネルクリーフは考えたのね﹂
﹁じゃあひとつ聞くが、本当に俺たちは女神様のご意思とやらで導
かれたのか?﹂
俺がどうしてこの世界にやって来たのかという疑問は、ずっと俺
の中にあったものだ。
そもそも転移だったのか転生だったのかも今の俺にはわからない。
ただし騎士修道会の聖少女である雁木マリ自身は、自分はブルカ
聖堂に全裸で﹁降誕﹂したんだと認識している。
生まれたままの姿ではあるが、元いたままの年齢で俺はこの世界
にやって来たのだ。
そのあたりどうなんだろうね。
﹁わからない。わからないけれど、聖堂会の大司教は少なくともそ
う解釈しているの。元いた世界といっしょで、神様を信仰している
からと言って、本当に神様の姿やお告げを受けた人間はあたしたち
1151
の生きている時代には誰ひとり存在していないから﹂
過去の降誕者や宗教的指導者の言葉に従えば、女神様のご意思と
いう事に思考が落ち着くらしい。
﹁ひとつだけ確かなのは、あたしがブルカ聖堂に突然裸で放り出さ
れたとき、元の世界にいた時ここにあったはずのホクロがなくなっ
ていたわ。シューターもそういうところ、ない? 例えば元はあっ
た傷跡がきれいさっぱり消えているとか﹂
雁木マリはそう言って、暗がりの中で右腕を指した。
ホクロが消えていたのか。
俺もそれを聞いて、あわててシャツを探る。
﹁本当だ。むかし俺が弾着の失敗で火傷した時に作った傷が、言わ
れてみれば確かに存在しない﹂
﹁だんちゃく?﹂
﹁ああ、学生時代に自主製作映画を撮っていた事があるんだけど、
銃撃で撃たれて倒れるシーンで火傷したんだ﹂
確か十年経っても消えない火傷跡が、へその右隣あたりにあった
と思ったが、そんなものは綺麗になくなっている。
ホクロについては⋮⋮まともに姿見で確認する機会が無かったの
で、気付きもしなかった事だ。我が家に鏡と言えば、ブルカ土産に
カサンドラにプレゼントした手鏡しかない。
﹁まあわかった、情報を整理しよう。突然いろんな事がわかって頭
が混乱している﹂
﹁ええそうね﹂
﹁それでカーネルクリーフ総長は、俺とマリの結婚を条件に出した
1152
わけだな﹂
﹁その通りよ﹂
ここまでは理解した。
問題はメリットだ。カーネルクリーフ総長は俺たちを結婚させて
どういう風にしたいのか。
﹁マリと俺が結婚したらどうなる? 具体的な協力というのはどう
いうものなんだ﹂
﹁まずサルワタ領内に聖堂を建てるという件だけど、あれは寄進と
いうカタチではなく共同でという話になるわ。少なくとも聖堂会に
は信徒から多くの寄進が寄せられているものだし、母体の騎士修道
会にも貴族から多額の寄進があるの。資金的にドロシア卿が一手に
金貨一〇〇〇〇枚を支払う状況は回避されるわ﹂
﹁そりゃ村長さまとしても確かにありがたい限りだ﹂
とりあえず資金の問題が大部分で解決するんじゃないか。
半値になるだけでも騎士修道会を領内に誘致するのが、実現に一
歩近づく。
細かい事はわからないが、金貨数千枚ならあるいは。
﹁まだあるわ。騎士修道会は銀貨鋳造権を国王より与えられている
から、両者一体になるという事はドロシア卿はその恩恵にあずかる
事が出来るの﹂
﹁おお、それは確かに大きい﹂
モノの本によれば、貨幣には実際と同等のものを鋳造したとして
もコスパフォーマンス的には大きな問題があるらしい。特にそれが
硬貨であれば重量がかさばり、鋳造の際には実際の価値以上に輸送
コストを乗せて発行する必要があったのだそうだ。
1153
このデメリットを解消するためのひとつの方策が、国家の主催者
である王権が諸侯に対して鋳造権の分有を許可したのだ。
自らが鋳造する権利を有すると言う事は、輸送コストにかかるぶ
んの差額を手にする事が出来るという経済的にも有利な立場になる。
逆に今のサルワタ領は、実際の貨幣価値以上の価格を物品で交換
しているというデメリットを受けている。
それならば、どうして女村長は難しい顔をしていたんだ。
彼女は間違いなく﹁騎士修道会を領内に誘致する事は難しい﹂と
口にした。
貨幣鋳造権の分有をさらに分有する様なものだから、聖堂寄進の
半分を捻出しなければならないとしても、実際にはさらにお安くな
るはずなのに。
どういう事だ⋮⋮
﹁アレクサンドロシアちゃんはそれに対して何と反応したんだ﹂
﹁シューターはわたさない、と﹂
そう、女村長は断言したらしい。
﹁こんないい条件をどうして﹂
﹁それはたぶん、あなたが村を退去する必要が発生するからじゃな
いかしら﹂
﹁村を退去⋮⋮﹂
俺が雁木マリと結婚すると言う事は、ブルカに俺を呼びつけると
言う意味だったのか?
それならば確かに女村長が渋い顔をするのは理解できる。
いや、アレクサンドロシアちゃんに惚れられているからな、など
と己惚れ発言をするのではない。
1154
野牛の一族を抑えるために俺はタンヌダルクちゃんと結婚したわ
けだから、サルワタ領内を退去するとなれば、この婚姻同盟が有名
無実化してしまう事になる。
あるいは女村長が常々口にしている様に、俺を戦士として評価し
ていて、その部分を頼りにしているのかもしれない。
俺たちの村は、兵士と呼べるようなまともな軍事訓練を受けた人
間もほとんどいないはずだし、確かに俺は頼りにされているのだ。
﹁ドロシア卿は仰っていたわ。シューターは自分の懐剣だから、こ
れを手放す事は到底できないとね﹂
﹁マリと結婚するという事はブルカに行く事になるのか? 豪華な
聖堂を建てれば、騎士修道会がこっちにやってきておわりって事に
はならないか?﹂
﹁ならないわ。仮にも立派な聖堂を建設するならば月日がかかるも
のだし、騎士修道会の軍事訓練のためのキャンプは、ブルカ近郊に
あるから﹂
そう説明をしてくれた雁木マリは、暗がりの中で改めて俺を見や
っている様だった。
言葉を続ける。
﹁あたしと結婚するという事は、シューターは修道騎士になるとい
う事なのよ。あたしが聖少女修道騎士だから、どういう肩書になる
のかしら⋮⋮。いずれにしてもそのための教育と訓練を受けるから、
その間はサルワタ領を離れないと行けなくなる﹂
わかった。なるほどそうなのね。
これから外交使節を派遣して諸領主と交渉すると言うタイミング
で、俺が抜けると言うのも最大の問題だ。
だからアレクサンドロシアちゃんはぶすっとしていたのか。
1155
いやそれだけじゃない。
雁木マリ本人はどういう反応をしたんだろう。
すごく大事なことじゃないか。そして一番気になるところだ。
﹁マリは、君はどう思ってるんだ。俺と結婚するなんて突然言われ
て、どういう反応をしたんだ?﹂
﹁あ、あたしはそれもいいかなって⋮⋮思ってるわよ? 聖少女な
んて立場だから、なかなか結婚相手とか見つからないし、それに変
な貴族とお見合い結婚とか絶対に嫌だし。その点ほら、シューター
の事は仲間、だし?﹂
暗がりでもわかる、雁木マリの吐息と上気。
もしかしてこれはモテ期か?!
一拍を置いてゴクリとつばを飲み込んだらしい雁木マリが続きを
口にする。
﹁そ、そんな事よりシューターはどうなのよ? あたしなんかと結
婚って。その、素敵な奥さんがふたりもいて、愛人だっているのに
⋮⋮﹂
﹁えっ俺か?﹂
愛人というのはエルパコの事を言っているのか⋮⋮
それはともかくとして、雁木マリが何となく俺に対して一種の感
情を抱いている節がある事は、少し前から薄々理解していた事だ。
雁木マリとの出会いはぶっちゃけ最悪だったと思うし、出会いが
しらに殴る蹴るされた事は今でもいい思い出としてよく覚えている
ぜ。ただ、
﹁マリは魅力的な女性だと思うよ。下品な言い方をすれば、いい女
だよ﹂
1156
﹁うぇ? い、いい女ってどこがよ?!﹂
﹁そういうのは一緒にいて気が楽な事というか、何だろうな。それ
に俺たち村が危機的状況の時にこうしてすぐに駆けつけてくれたの
は凄く嬉しかったし、仲間ってものにこれほど救われた事もなかっ
たよ﹂
変な声を出してあわてた雁木マリに俺が言った。
言葉にするのが難しいんだけれど、マリと結婚という事を考えて
みれば自然と受け入れられる気がするのだ。
﹁けど、本当に俺でいいのか⋮⋮﹂
﹁いっいいわよ⋮? そのえっと仲間だしね﹂
﹁⋮⋮そうだよな仲間だしな﹂
仲間だと結婚するという理屈は明らかにおかしいのだが。
どうやらテンパっているらしい少し鼻息の荒い雁木マリはその点
に気が付いているのだろうか。
床に置いたランタンを持ち上げて、マリの表情を改めて確認した。
俺の顔もちゃんと見てもらって、しっかり誠意があるところを見
せないとな。
ところが俺はちょっとニヤけ面をしていたらしい。
モテ期到来ですかとかぬか喜びした表情が出ていたのかもしれな
い。
﹁その顔、お前もしかして、ここまでくれば奥さんがふたりでも三
人でも一緒だとか思ったでしょ?!﹂
違うぞ落ち着け!
ランタンに照らされた怒った表情のマリが、ぐいと顔を近づけて
睨みつける。
1157
久しぶりに拳を握りしめたマリを見て、殴られるのかと俺は焦っ
た。
﹁そ、そんな事はないからな。ただ、こういう事はちゃんとカサン
ドラに報告してからじゃないと返事できないし、村長さまにも相談
しないといけないだろっ。俺たちが勝手に決められる事じゃ︱︱﹂
﹁黙りなさいよ﹂
メガネの向こう側で、恐怖と覚悟がない交ぜになった様な瞳を見
せながら、あろう事か雁木マリが俺の唇をふさいでしまった。
少し緊張して、硬く震える様な。
だがちょっと待ってほしい、大人を舐めるな。
いや俺は震えるマリの背中にゆっくりと手を回しながら、ランタ
ンをふたたび床に置いた。
マリの唇と俺の唇でつまみ、舌を差し入れてゆっくりと舐めま⋮⋮
﹁つ、続きはまた今度よ﹂
ビクンと背筋を震わせたマリが突然俺を押しのけて立ち上がると、
逃げる様に礼拝所の通路を走っていった。
少し俺も気がはやったかも知れない。
でも拒否はされなかったよな、続きはあるんだから⋮⋮
◆
ひとりになっても礼拝所の女神像をぼんやりと眺めながら俺は考
える。
雁木マリと結婚すると言う条件か。
女村長は俺を引き渡す事に難色を示しているんだよな。
さて、どうやって折り合いをつけるのか。
1158
俺も男だから何かの妥協案を捻りださないといけないね。
などと思っていると、背後に誰かの気配を感じて俺は振り返った。
もしかして雁木マリが何か言い残したことがあったのかな?
﹁⋮⋮し、シューターさん、ぼくは何も見てないからね。義姉さん
たちにはナイショにしておくから﹂
﹁エルパコ?! いつからいたんだ⋮⋮﹂
﹁ふたりが部屋を抜け出した、その後からだよ﹂
ずっとじゃねえか!
﹁大丈夫。ぼ、ぼく口は堅い方だから⋮⋮﹂
1159
閑話 サルワタを統べる者 序︵前書き︶
女村長アレクサンドロシアからの視点補完になります。
1160
閑話 サルワタを統べる者 序
貴族軍人の父とゴブリンの魔法使いの母との間に生まれたわらわ
は、幼少時をブルカ郊外にあるヌッギという村で育った。
父はその土地に王都より赴任してきて、母と出会いわらわが生ま
れたのだ。
後に生まれた妹たちは多くの魔法使いを輩出した母の出身たる名
族ジュメェの血が色濃いと見えて、たいへん優れた母の後継者たち
となった。
一方のわらわは、父が貴族軍人の後継者たらんと育てたいという
方針から剣を学んだのである。
魔法はそれなりに使いこなしたけれど、物心のついた頃より指導
を受けた剣と馬術のおかげで、十の齢になる頃には父より推薦を受
けて、ブルカに駐在する王国の兵団に騎士見習いとして入営した。
人生とはままならんものだ。
ただでさえゴブリンハーフという身の上である事に加えて若輩と
侮られ、あまり辺境という場所は居心地のいいところではなかった。
諸部族が入り乱れた辺境では多くの種族からなる貴族軍人の諸子
がいたものだが、ゴブリンは特に扱いが悪かった。
多くの魔法使いを出した名族ジュメェの家名であっても、中央の
貴族にとっては侮りの対象でしかないのだからしょうがない。
数年の従軍を経て王都に召喚されたわらわは、国王の臣下たる騎
士として叙勲を受けた。
王都ではじめ後宮の警衛をつとめたが、やがて国境線に在陣した
り不穏部族の討伐に従事した。
貴族軍人の子弟が入営した場合、普通は王都周辺の勤務が普通で
1161
あるものだが、やはりここでもわらわはゴブリンハーフと蔑ろにさ
れていたらしいが、その事はさほど気にならなかった。
大人たちの悪い真似なのか、中央で権力闘争にあけくれる貴族た
ちの子弟とは、過ごす事が無かったからだ。
そして十六の齢で、両親より見合いの話をもらった。
男の名はダリエルパークと言ってブルカ伯に寄騎をする辺境領主
の倅だった。
父もまたゴブリンの母と結婚をする様な一風変わった人間であっ
たけれど、ダリエルパークは事の他ヒトならざる人間に好色を示す
人物と見えて、出征の度に外地で蛮族の女に悪さばかりしている男
だったらしい。
ただし武門貴族の誉れは高く、数々の戦場を巡ったという点では
ひとりの英傑ではあった。
わらわとも知らずうちに、国境線の幕営では戦を共した事があっ
たと見合いで知った時は驚いた。
そろそろ身を固めると覚悟を決めたダリエルパークが、そのまま
最初の夫になった。
だが幸せというものは訪れなかった。
夫ダリエルパークは戦場から帰って結婚をしてつかの間に体調を
崩した。様子がおかしいと修道会に診てもらえば死の性病わずらい
ときたものだ。
それが原因か知らぬが、どうやらダリエルパークは種無しだった
らしく、病を押して蛮族の討伐に出たまま、夫はそのまま女神のお
導きによって異世界へと旅立ち死んだ。
結婚生活はたったの一年。
わらわに残されたのは義理の実家という窮屈な居場所と、子を成
さなかったという負い目である。
1162
早々に国許へ退散しようと思ったが、若い義弟が家督を継げるま
では代理としてわらわは残される事になった。
むしろ義実家はわらわに迷惑をかけたと気に病んでいたのか、新
しい見合いを持って来てくれた。
それがふたりめの夫、エタルだ。
齢はわらわとずいぶんと離れていたが、サルワタの開拓を進める
熱意にほだされ、義実家の勧めもあって再婚を決めた。
見合いの時にわらわを慕ってくれた先妻の子ギムルは、今でも実
の子の様に思っている。
このまま夫エタルと共にギムルを立派な後継者に育てようやく自
分の居場所をつくれるのだと思い始めた頃。
村に蔓延した流行病で夫エタルは死に、女神のお導きで異世界へ
と魂を旅出たれたのである。
ようやく領内と村の開拓に目途がついた矢先の事だった。
何事も上手くいかない事ばかりのわらわの人生の中で、女神はひ
とつの幸福をお与えくださった。
その男は、わらわにこう言った。
﹁⋮⋮ご期待に応える様に頑張ります﹂
みるからにたくましく鍛え上げられた体は、戦士そのものだった。
どこか飄々として、森をさ迷っていたというのに焦燥感の無い顔
は、恐らく多くの戦場を経験した者にだけにしか出来ない達観だろ
う。
わらわにはそれがわかる。
数多の戦場を駆け巡った中で見た古参の騎士の中に、そういう顔
をした者がいたはずだ。
1163
名前をシューターと言った。
弓を使う者という戦士の部族にふさわしい響きだ。
わらわは女神がシューターを遣わされて、このサルワタに自らの
居場所を作れとまるで仰っている様に感じたのだった。
これが女神の試練ならば、その試練に打ち勝ち、楽土を作るまで
だ。
1164
閑話 サルワタを統べる者 序︵後書き︶
本日更新短めですが、ごめんなさい!
1165
閑話 サルワタを統べる者 決意
今となっては懐かしい話だが、シューターの存在を快く思ってい
なかった義息子が彼を嵌めようとしたことがあった。
出自不明の人間ほど片田舎において不気味な存在はいない。
そう考えた義息子のギムルは、わらわが命じて置いたシューター
に村の雑事をさせて、少しずつ周辺に馴染んでもらえばよいという
考えを捻じ曲げ、機会を得れば亡き者にしようとしたのだ。
いくつもの畜舎を世話している酪農家ジンターネンの豚舎で作業
いさか
をさせている時、その事件は起こった。
諍いの原因はさだかではないけれど、どうやらシューターがギム
ルを叩きのめしたというのである。
﹁村長さま大変です、ジンターネンさんの豚舎でギムルさまがよそ
者殺されそうになったと!﹂
﹁どういう事だ、シューターは今どうなっている?!﹂
﹁よそ者はすでにジンターネンさんたちが物見の塔の地下牢に入れ
たそうですが⋮⋮﹂
下女のメリアによってそう知らせが飛んで来た時、何となくであ
るが事の成り行きをわらわは想像できた気がする。
ギムルはわらわには過ぎた大変よく出来た義息子ではあったが、
ひとつだけ欠点があった。
とにかく思い込めば前しか見えぬところで、それもその行動の原
理が、わらわに良かれと思ってやっている節がある点だ。
実の父を多感な時期に亡くしてしまった義息子は、わらわを唯一
の身内と過剰に崇めている事はわらわも理解していたのだが。
この時ばかりは﹁ああこうなるか﹂と妙な納得を覚えながらも、
1166
仰天もした。
﹁それでギムルはどうなったのだ。斬られはしなかったのか﹂
﹁はい、お体の方は棒きれで打ち据えられたそうですが、命に別状
はないという事で。すでに教会堂の診療所に治療へ向かわれて⋮⋮﹂
ギムルは亡き夫エタルの忘れ形見である。
わらわはこの土地の領主であり村長という立場だが、それは次代
の領主たる義息子のためにこの土地を守る事が役割なのだ。
シューターは確かに優れた戦士であったかもしれないが、義息子
びいき
と天秤にかけて義息子を失ってよいものではない。
だがそれはそれとして、過度の親贔屓はこの機会に正さねばなら
ぬ。
義息子が大事ないならば、今こそ自立を促さねばならぬのだ。
﹁ただちにギムルをわらわのもとへ呼びつけよ﹂
﹁え、お見舞いのご仕度はなさらないのですか?﹂
﹁そのようなものは必要ない。ジンターネンからは聞いておるか?
どうせわらわの命に反してシューターを挑発した結果なのだろう。
ん?﹂
﹁それは、わたしにはわかりかねます⋮⋮﹂
メリアがシューターの事をひどく毛嫌いしている事はその態度か
らもよくわかった。
もともと富農の娘という事もあって、この娘の両親はよい家に娘
を嫁がせたいと考えているからな。
可能ならばギムルのもとに嫁ぎたい、嫁がせたいというメリア親
子の考える事はわかるが、わらわにそのつもりはない。
将来のため、可能な限りギムルには外から嫁を迎え入れるべきだ
と考えているし、メリアの如き富農の娘は村の幹部に嫁ぎ領内の地
1167
場を固めねばならない。
﹁ではその場にいた者をひとり呼びだせ。誰がいた?﹂
﹁ジンターネンさんと、農夫の数名、それから猟師がひとり⋮⋮﹂
﹁では猟師を呼びだせ。この時間に村の中にいたという事はッサキ
チョではないか﹂
﹁えっ、ゴブリンの猟師ですか。ジンターネンさんでは駄目なので
すか?﹂
﹁あの女は齢を取り過ぎてモノの見方が凝り固まっている。しのご
の言わずッサキチョを呼びだせ﹂
わらわが睨み付けると、メリアはとても嫌そうな顔を隠しもせず
に退出した。
しばらくするとわらわのもとに、ッサキチョを伴ったメリアが戻
って来る。
﹁仔細を話せ﹂
﹁はっ﹂
﹁何をしている、言わぬか﹂
﹁⋮⋮では。大変申し上げにくいのですが、若大将が全裸の戦士を
斬ろうとしたところ、天秤棒で反撃されて倒されたのだと聞いてい
ます﹂
﹁原因は何だ﹂
﹁若大将が仰るに、ぶどう酒を飲んでいたところ全裸の戦士が奪お
うとしたのだと﹂
わらわはたまらず大きなため息をついてしまう。
﹁そのぶどう酒は、恐らくわらわがシューターに与えた褒美の酒だ。
ギムルめが勝手に奴の酒を拝借したのが諍いの原因であろう﹂
1168
﹁はあ、そういう事もあるかもしれん﹂
﹁ギムルは何かの理由を付けてシューターを亡き者にしようとして
いたのかもしれぬが、そうはさせん。あの男をッサキッチョはどう
見る?﹂
安楽椅子から少し身を乗り出して、小さな体のゴブリンを見やっ
た。
﹁腕は立つと思います。たかが天秤棒で剣を持った若大将を軽く子
ども扱いしたとなれば、本人が名乗る戦士という口上も事実でしょ
うな﹂
﹁お前と比べれば腕はどうだ?﹂
﹁体格差もありますし、戦士の経験を考えれば自分では勝ち目がな
いかと﹂
﹁シューターに猟師は可能か﹂
﹁もちろん、可能です。齢もまだ若い事を考えれば、これから一人
前の飛龍殺しに成長できるのではないかと思います﹂
何よりそういう人間が村にいる事は、これから開拓を推し進める
にあたって安心材料になる。
野盗が近郊に巣くったとしても、ワイバーンが襲ってきたとして
も、その点は期待できるというものだ。
助祭に治療を受けたというギムルが書斎でくつろぐわらわの元へ
来たとき、何の悪びれも無い顔をしていた義息子を見て、わらわは
折檻する事にした。
シューターの顔を殴り潰してやったと言うので﹁では村のルール
に従えばお前は顔を潰す罰を与える事になる﹂と言ってやったとこ
ろ、ずいぶんと納得のいかない顔をしていた。
まあ当然であろう。
1169
義息子にはシューターがわらわにどうやってか取り入ろうとして
いる様に見えたと話したものだから、わらわは大笑いである。
泰然とかつ腰の低い様は、見ようによってはそう感じられるか。
だが将来、村の発展を願うのであればこの様な逸材は手なずけね
ばならないのだ。
ギムルがそれを理解するには若すぎた。
﹁以後、シューターを父とも兄とも思い、学ぶのだ﹂
わらわのその言葉にしばらく驚きの顔をしていた義息子だが、少
しすると表情を変えた。
少しでもわかってくれたのであれば、わらわも母として嬉しい。
◆
そんなシューターの実力を知る事が出来たのは、それから幾日も
経たぬうちの事だった。
季節はずれにも、ワイバーンが我が村のに餌を求めて降り立った
のである。
それがまた間の悪い事に昼間の事で、村では多くの人間が農作業
をしている時間帯だった。
﹁そ、村長さま﹂
﹁何事だメリア、騒々しいの﹂
﹁村に、村にワイバーンが出没しました! 今、放牧地の牛が襲わ
れています!﹂
血相を変えたメリアがわらわの執務室に飛び込んでくると、わな
わなと震え状況を説明する。
またこれが間の悪い事に、ジンターネンの牛が襲われたと言うの
1170
だ。
着るものも取りあえずワイバーンを倒さねばならぬと、剣を片手
に屋敷の外に飛び出した。
けれどもそこに見えたのは、襲われている牛を基準に考えると大
きすぎるワイバーンであった。
あれは、わらわの見たことがある数少ない飛龍の中でも、ひとき
わ大きな存在だった。
﹁か、甲冑を用意せよ。せめて胸当てだけでも装備しておかねば、﹂
時間は惜しいが、このままではあれに歯が立たないと言葉を続け
たかったが、わらわは腰が引ける想いだった。
戦場は知っている。泣き叫ぶ女子供の中を蛮族討伐に駆けた事も
あれば、合戦場で隣国の騎士たちと命のやり取りをした事もあった。
だが、剣の一振りであのワイバーンを倒す事はわらわには出来な
いだろう。
﹁ギムル、猟師たちはどうしている!﹂
﹁すでに集まっている様です。指示を出しますか?﹂
﹁馬鹿者。常に支配者は前に出ねばならぬさ﹂
その言葉にギムルは必死で抗弁する。
﹁いけません。村長は前に出ては。俺たちが行きます!﹂
﹁馬鹿を言うな。支配者がぬくぬくと後方に居て、何を支配できる
というのだ。見ていよ、わらわとて戦場を駆け巡った騎士であるな
らば、この程度の事は﹂
ギムルをワイバーンの矢面に立たせるなどという事は、それこそ
亡き夫エタルに申し訳がたない。
1171
しかしこの村にはッサキチョをはじめ優れた猟師はいるのだ。
わらわが前に出ようとするだけで、その者たちがきっと我武者羅
になってワイバーンを仕留めようと考えるはずなのだ。
わらわはそろそろ引退だ。せめて母の小さな背中を見て一人前に
なってくれればエタルに申し訳が立つ。
そのためにも自立するのだギムルよ。
だから勇気を示すために、前に出ねばならない。
けれども。
村の若い幹部たちを連れ、覚悟を決めて猟師たちの集団に合流し
ようと前に出たものの、ほとんどその時の出来事は記憶に残ってい
ない。
戦場とは違う圧倒的な存在を前にした恐怖で、恐らく感覚がマヒ
していたのであろう。
猟師たちが簡単に蹴散らされ、禍々しいワイバーンの見てくれに
恐怖したわらわは腰を抜かした。
本来ならば森の中で猟師たちはワイバーンを仕留める事数多のは
ずだ。
なのに、森の外に出てはワイバーンにまるで歯が立たない。
もう駄目だと思い、猟師たちを蹴散らし迫りくるワイバーンのア
ギトを見上げている時、そこにひとつの人影が割り込んだ。それが
彼だった。
﹁おお、シューターお前か﹂
その言葉はあっけなく無視される。
強引に抱き寄せた彼は、そのまま勢いよくわらわを地面に押し倒
し、自らは身代わりにでもなるつもりか立ち上がった。
子供の頃に読んだことがある、絵巻物出て来る安っぽい子供だま
1172
しの英雄物語でも見せられる様に、彼はわらわを守ろうとした。
そしてさらに加勢に加わったッサキッチョが、ワイバーンにさら
われてしまう事態となった。
シューターも、わらわが持っていた剣で胸を削がれたという。
はっきりした事を覚えていないうちに、剣を振り回してしまった
のだろうか。
母の背中を見よとギムルに言ったところで、わらわは情けない姿
を見せてしまったものだ。
﹁この事は俺と村長さまのナイショという事でね﹂
シューターが腰を抜かしていたわらわの側に身を近づけたかと思
うと、そう小さくささやきかけた。
何を言っているのだと思えば、わらわは失禁していたのである。
ふんッ。
全裸の癖に言う事だけは言うではないか。
この様な情けない姿を見せてしまっただけではなく、気遣いまで
されてしまうとはな。
けれども、これでもこの男に何ひとつ恥ずかしがるものは無くな
ったのだ。
もはやこの身を惜しむところではない。シューターにくれてやっ
てもよい。
代わりにこの男にわらわの夢を共有してもらおうか。
1173
閑話 サルワタを統べる者 嫉妬
わらわはシューターを得たことで、ひとつの野心を膨らませてい
た。
どれだけの歳月をこの痩せ枯れた土地に尽くしてきたのか。
辺境の地というのは常に物資が不足しているものだ。
わらわが嫁いできた十数年前といえば、薬は常に足らず食料は厳
冬で麦が不作になれば飢餓に見舞われた。
流行病の到来も、森に踏み入った者がどこからか貰って来ては広
めるので、油断は出来ない。
ふたりの夫に先立たれ、あげく忘れ形見のギムルを託されたわら
わの心情は言葉に表せぬ焦燥感で一杯だった。
何をやっても上手くいかぬわらわの人生を呪いたい気持ちが無か
ったと言えば嘘になるだろう。
厳冬の影響で麦が不作の年には、自らの失政を認めた上で中央に
救済を求める書簡を送りだしたのは、まだ記憶に残っている。
けれども権力闘争に明け暮れる王侯貴族たるや、寄越したのはた
った一通の書簡である。
ブルカ辺境伯を頼れ。
わらわは国王によって命じられた騎士であり、その後サルワタを
受け継いだことで騎士爵の位を持つ国王の臣下である。
それをよりにもよってブルカ辺境伯を頼れと言うのは、いったい
どういう事か。
1174
国王の名で夫エタルが二〇余年かけて切り開いた開拓は、いった
い何だったのかとその時わらわは思った。
その事業の跡を継いだのは、わらわである。
さらにそれを次代に受け継ぐのは義息子ギムルなのである。
武に優れ学もあるシューターは、村に来てこれより役に立った。
野牛の一族と交渉を果たし、街に出ては移民を募り、これまであ
まり頼りにならない村出身の若い幹部のことを考えれば、これほど
いい男はいないな。
ダリエルパークは見合いであったし勝手に死んでしもうた。エタ
ルはふた周りも齢が離れて父娘の様な関係であった。
もはやわらわにとって一番の頼れる男はシューターになっていた
のである。
ふとした時、何を思ったか﹁アレクサンドロシアちゃん﹂とわら
わをからかった彼の事をお兄ちゃんと呼ぶようになった。
口にしてみると、さほど不快な気持ちはなかった。
◆
けれども。
シューターを我が手元に残したいと望むあまり、わらわは気付か
ぬうちにふたつの大きな過ちを犯してしまったらしい。
村に留め置くためには嫁でもくれてやれば里心が付くだろうと。
そうしたわらわの打算は、見事に裏目に出てしまった。
彼の嫁にと選んだのは猟師ユルドラの娘カサンドラだ。
ユルドラはこの冬にワイバーンを仕留めるために森へ入ったもの
の、暴れる飛竜と相打ち死んだ。
縁者の無いこの娘の救済をせねばならぬ事は村長として当然の事
1175
だし、生前のユルドラとの取り交わしで、村の生計を支えている猟
師の中でこれはと思う者があればカサンドラを嫁がせようと話して
いたのである。
シューターはその嫁ぎ先として最適であるとわらわも思っていた
のだが、これは早合点が過ぎた様だ。
ふたりの夫婦仲について言っている事ではない。
カサンドラははじめ、わらわが物見の塔の地下牢に放り込まれた
シューターを世話せよと命じたとき、たいへん不満の顔をしていた
ものだ。
それがしばらくしてシューターが街よりもどって少し経った後、
夫婦生活について訪ねてみたところ、
﹁お気遣いありがとうございます。シューターさんには大変よくし
ていただいております﹂
と言ったのだ。
もちろんこれは両者を引き合わせたわらわとして、これほど喜ば
しいことはない。であるのに、納得のいかぬ気持ちは何か。
内心の気に障る気持ちを少し表に出してしまい、わらわは意地の
悪い質問を繰り出す。
﹁ほう、例えば?﹂
﹁た、例えばですか﹂
﹁そうだ、どの様にかわいがってくれるのかの?﹂
﹁お風呂にはいるときはいつも体を丁寧に拭いてくださいますし、
髪も洗ってくださいます﹂
﹁ほほう。全裸を尊ぶ部族というのは、よほど女が大事と見える﹂
お兄ちゃんめ、わらわに対する態度とは偉い違いではないか。
1176
﹁あ、あまりしつこい時もあるのですが、わたしの顔を見ると夫は
悲しい顔をしておやめになります。それから、髪を洗ってくださる
時はとても気持ちいいです﹂
けしからん、何というノロケだ。わらわはたまらず安楽イスから
身を乗り出してしまう。
これではさぞ夜の夫婦生活も上手く行っているのであろう。
そんな事を考えていると、ついその言葉が口をついて出てしまっ
ていたらしい。
﹁なるほど、夜の生活にも満足しておる様だな﹂
しまったという顔をたぶんわらわはした。してしまってから、戸
惑いの顔を浮かべたカサンドラに、たまらず咳払いをしてしまった。
この時になって、ようやくわらわは自らの過ちのひとつに気付い
た。
この娘にシューターを押しつけておきながら、ひどく嫉妬してい
るのだと。
そしてもうひとつの過ちは、村にひとりだけカサンドラの縁者が
いた事。
亡きユルドラの弟夫婦の息子、オッサンドラである。
この男の両親もすでに死没し、齢の離れた姉マイサンドラも隣村
へと嫁いでいたのだが、この男はどうやらカサンドラに懸想してい
たらしい。
肥えた体格で若いくせにアゴ髭を蓄えた男だというのに、まるで
わらわの中からはぽっかりと失念していた。
この男がシューターの留守中、たびたびカサンドラに言い寄って
1177
いたのである。
何度かは亡きッサキチョの跡を継がせた猟師の親方ッワクワクゴ
ロによって追い払われたらしい。
しかし街より戻ったギムルが土産を片手に猟師小屋を訪ねたとこ
ろ、懲りないこの男はいよいよカサンドラを押し倒そうとしていた
らしい。
﹁村長。オッサンドラはこの際、厳しい処分を言い渡すべきです﹂
﹁ほほう。ギムルよ、お前はシューターの事をあまり快く思ってい
なかったはずであるが、この旅の間に何か成長があったと見えるな﹂
﹁い、いえ。あの男は信頼できる男ですので﹂
旅の道中に何があったのかは知れぬが、男としていっぱしの成長
を見せた義息子の進言に従って、わらわは当面カサンドラへの接見
禁止をオッサンドラに命じた。
しかしこれでもまだ足りなかったらしい。
いよいよ開拓の促進を宣言して森の湖畔に築城を開始したあたり
で、次々に不可解な事件が起きた。
付け火に殺人。
これらは、さすがわらわの見込んだ男というだけはあって、シュ
ーターの働きで犯人を見事仕留めた。
だがその引き替えに接見禁止を命じていたはずのあの男が、カサ
ンドラを強姦したのである。
やはりわらわの不埒な想いが施政者としての眼を曇らせて、こう
した可能性を予見出来なかったのだろう。
めと
カサンドラに続き、野牛の娘タンヌダルクを娶らせ、嫉妬を覚え
ながらもわらわ自身、将来はシューターに身を任せても良いとさえ
1178
想い、覚悟も定まりつつあった。
恐らくこれだけの女に囲まれて、シューターはもはやわらわたち
を裏切る事はないだろうと。
けれどもカサンドラに対する負い目は、今回の件でとても大きく
なり、そしてどの様に詫びていいものかと、わらわの中に重くのし
かかる。
◆
冒険者カムラの村入りに端を発した様々な事件の末、わらわは改
めてブルカ辺境伯との対決姿勢を村の主だった人間に宣言した。
兼ねてよりその意志はあったのだし、シューターにだけはその心
内を話しておったので、気負いはなかった。
何れ領内を富ますためには必要なことだったのだと幹部たちに、
ひいてはわらわ自身に改めて言い聞かせたのだ。
そのための協力体制を辺境広域に布くため、わらわは外交使節を
このサルワタから送り出すことにした。
辺境の鉱山都市リンドルと、中継貿易都市オッペンハーゲンへ向
かう使節の正使を務めるのは、当然の事ながらシューターをおいて
他無い。
けれども、その前に是が非でも騎士修道会との協力をとりつけね
ばらなぬという事で、わらわはシューター夫妻のために用意された
馬車に乗り込んだ。
カサンドラへの謝罪の機会はこれをおいて他ないと思ったからだ。
﹁あ、あの村長さま。わたしもこの馬車に乗っても良かったのでし
ょうか?﹂
﹁何の問題があるというのだ。ん? お前たち夫妻はわらわの送り
1179
出した外交使節団の使者であるだろう﹂
﹁ええと、使節団の使者を務めるのはシューターさんで、わたしは
どうして同行するのか未だによく⋮⋮﹂
野牛の族長より借り上げた豪奢な馬車の中で、萎縮していたカサ
ンドラがそんな事を申し訳なさそうに言った。
聞いたわらわは、申し訳ないと思いながらも、ついつい声を上げ
て笑ってしまった。
﹁アッハッハ、お前はそんな事を気にかけていたのか﹂
﹁うう、はい⋮⋮﹂
これ以上萎縮させてしまったのでは、謝罪どころではない。
少し落ち着かせるために、わらわは声音を改めて言葉を続ける。
﹁安心せよ。貴族の外交においてはだな、使節を送り出すときは夫
婦そろってというのがひとつの作法になっておる。だからわらわは
お前に花嫁修業をさせておったのだ﹂
﹁そうなのです。どれぇの第一夫人はカサンドラねえさまなので、
外交使節に同行されるのは、何もおかしいことはないのですねー﹂
わらわの言葉に、馬車へ同乗していたッヨイハディも言い添えた。
﹁そうだったのですか。まだまだ拙いですが、やっておいて本当に
よかったです﹂
﹁うむ﹂
ややホッとした表情を見せたカサンドラを馬車の中で見やりなが
ら、言葉をどう続けるのかわらわはタイミングを探った。
1180
﹁してカサンドラよ、﹂
﹁はい?﹂
意を決したわらわは、揺れる馬車の中で居住まいを改めながらカ
サンドラの眼を見た。
謝罪の言葉、そしてそれに続く言葉。
この様な仕打ちをカサンドラに与えておいて、果たしてこの娘に
許しを得ることは出来るのだろうか。
﹁わらわから、言っておかねばならぬことがある⋮⋮﹂
1181
閑話 サルワタを統べる者 謝罪
豪奢な馬車の車窓からは、陽を浴びて波打つ青い草葉が煌めいて
いた。
﹁えっと、村長さま。いったいどういうお話でしょうか⋮⋮?﹂
いつまでも口を閉ざしているのはわらわの性分ではないので、注
目が自分に集まっている事を意識しながら視線をカサンドラへと向
ける。
この娘はもともとひどく臆病な性格でもあったのだし、これ以上
は待たせられまいな。
カサンドラの顔を見据えて、わらわは深い息と共に謝罪の言葉を
口にする。
﹁カサンドラよ。わらわはそなたに対して、この春より色々と迷惑
をかけたことを心より謝罪する﹂
ガタガタとひどく揺れる馬車の中でわらわは首を垂れた。
ひと息にそう言ってしまわねば、上手く言葉が伝えられぬような
気がした。
それでも言葉が上手く形に出来たのかはわからない。
思った通りに、目を丸くしたカサンドラがこちらを見ながら不思
議そうな顔をしていた。
﹁あのうわたし、何か村長さまにご迷惑をかけられるような事をし
たでしょうか⋮⋮?﹂
﹁まあそうだの。いきなりこの様に切り出しても、伝わらぬものだ﹂
1182
﹁そうなのですドロシアねえさま﹂
同じ様に意味を理解できなかったらしいッヨイハディもきょとん
とした顔をする。
だがッヨイハディの事はいい。
姪はもともと村の事情を知らぬので、この際はわからなくても話
を進めるがいいだろう。
﹁シューターの嫁にと申しつけた事だ。その所為で春より以後は色
々と迷惑をかけたなと﹂
﹁いえ、その事は村長さまに感謝しなければなりません﹂
この娘はよくできた女だ。
そうではない、そういう事ではないというのに。
わらわはこの娘にシューターを押し付けたことで、オッサンドラ
に襲われるという結果をもたらしたのだ。
オッサンドラの事はもう少しだけわらわが気を付けていれば、防
ぎようもあった事なのではないか。
﹁だがその、不幸な事故もあった、しな﹂
﹁はい。確かに村長さまより夫との結婚をお命じになられたときは、
ご慈悲のない方だと嘆いた事もありました。わたし如きがとんだ思
慮の足らない事を考えたものですけれど、今にして思えば感謝して
もしきれません。シューターさんはとても頼りになる夫です﹂
﹁そうか、それは重畳だ。けれどもわらわにも思慮が足らない点が
あった﹂
﹁夫はお役目で旅に出たのです。立派な事です﹂
﹁うむ、よい心がけだと思うぞ。そなたもシューターの嫁として正
妻として、風格が付いてきたと言える﹂
1183
凛とした表情で正面を見据えてそう言ってくるカサンドラを見て、
わらわは改めて舌を巻いた。
この女はもはやただの村娘ではなくなった。
夫を迎え、今はひとりの女として立派な妻になったのだ。
いや、わらわが以前そう口にして心がけよと言った様に今はシュ
ーターの正妻である。
焦げる心の端をジリジリと感じながらも、肝心な事をはぐらかさ
れているのではないかと、わらわは続ける。
﹁オッサンドラの事だ、言いたかったのはそれだ。その、思慮が足
らず済まない事をした。謝罪して容易に許される事ではないと理解
している﹂
﹁いえ、もちろんああいう事になったのはとても悲しいですが。全
てはブルカの伯爵さまがおやりになった企みの結果ですから、仕方
のない事です⋮⋮﹂
﹁すまん⋮⋮﹂
﹁⋮⋮はい﹂
わらわたちが言葉を詰まらせたのを見て、要領を得ないッヨイハ
ディだけが、わらわたちの顔を見比べて不思議そうな顔をしていた。
まだ姪には深く理解できない会話であるのをいい事に、わらわた
ちは会話を続けた。
﹁その、聞きにくい事ではあるがシューターの様子に変化はないの
か﹂
﹁もちろんありません。夫はとてもいい人です、以前と変わらず﹂
﹁そうか﹂
﹁ただ、もちろん少し怖いと思う事はあります。ガンギマリーさん
に相談してお薬も出していただきましたが、ほとんど必要ありませ
んでした﹂
1184
この娘は本当に強い。
それだけシューターを信頼しているのだろうか、あるいはこの娘
がそれだけ成長したのだろうか。
﹁許してくれというのは都合が良すぎるだろう。何かわらわで出来
る事があるのなら、言ってくれるがよい。可能な範囲でそう致すゆ
え﹂
﹁それでしたら、﹂
カサンドラは姿勢を正したまま微笑を浮かべ、わらわを見やった。
﹁村長さまもご無理なさらないでください﹂
﹁⋮⋮どういう事だ?﹂
ドキリとした。
﹁わたしたちの夫は村の騎士さまで、村長さまにとっても片腕だと
仰っていたのを聞いています。それならば、夫の活躍はわたしたち
妻の誇りですから。むつかしい事はわたしにはわかりませんが、夫
をこれからもよろしくお願いいたします﹂
﹁う、うむ。もちろんだ﹂
わらわの心内を見透かされてでもいるのかと一瞬思ったが、それ
はわからない。
けれどもこの娘に謝罪し、許しを請うのであれば、これからもシ
ューターを大切にせねばなるまい。
﹁お前はもともと政治向きの話が得意な娘ではないと思っておった
が、わらわの考え違いであった様だ。改めて正妻として立派にその
1185
勤めを果たしておる。それゆえ、今後シューターと共に色々な場所
に出かける事が増えて来るだろう﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁今のうちから慣れてもらわねばならぬというのも酷な話だが、今
後も正妻として、よく夫を立てて励む様に﹂
﹁はい!﹂
わらわの態度に、カサンドラの表情は最初戸惑いを隠せないもの
だったけれど、わらわが話しているうちに少しずつ強い決意の表情
になっていくのがわかった。
◆
ゴルゴライを前にして野営をしている時。
簡易テントの寝袋におさまったわらわは、いつまでも眠気が来ず
にぼんやりと考え事をしていた。
同じ様に寝袋に収まったッヨイハディはすでに寝てしまっている。
カサンドラはというと、少し前までシューターたちと何事か談笑
していた様だが、夜も更けて来たと見えて簡易テントの中に潜り込
んできた。
﹁話はすんだのか﹂
﹁はい。明日からしばらくまたお別れになりますので、少し家族と
お話をしていました﹂
カサンドラはシューターにとってもうひとりの妻であるタンヌダ
ルクだけでなく、エルパコもまた家族のひとりと認めているのだ。
細やかな気配りが出来る様になったのはやはりひとりの妻になっ
たという事なのだろう。
1186
わらわはどうだろうか。
ひとり目の夫とは仮初の夫婦の様な生活をし、ふたり目の夫とは
もはや親娘の様な関係であった。
そこをいくと、わらわの半分ほどしか人生を過ごしておらぬ女子
に、負けている様な気がしてどこかなさけなかった。
わらわはギムルにとって正しい母であったのだろうかと、常々思
っている事をふと考える。
﹁こうして野営を貼って床に就くというのは、しばらくぶりである
な﹂
﹁そう言えば村長さまはむかし、騎士さまとして軍役に参加されて
いたのですか﹂
﹁うむ。野戦場で寝る事は日常茶飯事であったし、嫁いでからも野
盗が出た野牛が出たというので馬を駆って討伐に出たものだ﹂
それもここしばらくはご無沙汰であるがな。と笑うと、カサンド
ラもそれにつられて、ふふと笑みをこぼした。
﹁母になってからは、息子を放り出して早々陣頭指揮を執るわけに
もいかぬからな﹂
﹁ギムルさまですか﹂
﹁まだ誰にも話してはおらぬのだが、どうやら野牛の一族の中でこ
れといった娘がようやく見つかったらしい﹂
﹁⋮⋮まあっ﹂
﹁義息子のヤツは照れているのか、わらわには報告もせなんだがの。
タンクロードがこの前顔を見せた時、わらわに知らせてくれたのだ﹂
寝袋に収まったカサンドラの様子を伺いながら、わらわはそう言
った。
1187
﹁それはおめでとうございます。まだシューターさんたちも知らな
いのですよね?﹂
﹁こういう事はまず女がそれを聞いて、準備をするものだ。男ども
はそこをいくと粗忽で、すぐに酒の肴にして面目を潰してしまうか
らな﹂
﹁そうかもしれませんね﹂
今の村の幹部という顔ぶれは、ッワクワクゴロを含めて下世話な
ものばかりである。
﹁しかしまだ油断は出来ぬ。いい雰囲気だという事ばかりは聞いて
いるのだが、義息子めはまだその先に踏み込んでおらぬというでは
ないか﹂
﹁それはまた、どうしてなのでしょう?﹂
﹁わからぬ。だがもしかすると、わらわ自身が義息子にとって足か
せになっているのやもしれぬ﹂
﹁⋮⋮なるほど。それはあるかもしれません﹂
考えてみれば、ひとりわらわが領地経営に悪戦苦闘している背中
を見せているのが問題なのかもしれない。
﹁義息子がさっさと嫁を貰ってくれれば、跡取りは任せて楽になる
のだがの。やはりわらわは頼りない母であるのか﹂
﹁そんな事はありません。村長さまは立派なご領主さまですよ﹂
そう言ってくれるのはありがたい事だが、わらわとしてはやはり
気に病むものである。
もそもそと居心地の悪い尻の位置を変えながらポツリと本音を口
にした。
1188
﹁しかし領主と母は同じともかぎらぬであろう﹂
﹁それでしたら。村長さまがひとりではないところを、ギムルさま
にお見せすればいいのです﹂
﹁ふむ。それはどういう事だ?﹂
﹁うふふ、簡単な事ですよ。村長さまもご結婚なさればいいのです。
そうすれば、安心してギムルさまもご結婚を決断なさるのではない
でしょうか﹂
その言葉を聞き、わらわはハァとため息をついてしまうのだった。
﹁その様な事を簡単に言ってくれる﹂
﹁あっ、失礼しました⋮⋮﹂
﹁わらわは領主であるなれば、ホイホイとどこぞの領主と見合いを
する訳にもいかぬ。下手をすればこのサルワタをいい様に奪われて
しまう可能性すらあるではないか﹂
﹁⋮⋮そう、ですよね﹂
おおどしま
﹁そう出来れば一番簡単な事ではあるからな。それに、わらわの様
な大年増になってしまうと貰い手もおらぬゆえな﹂
あっはっはと乾いた笑いを漏らしそうになった。すると、
﹁村長さまがご正直になられるのでしたら、シューターさんと結婚
されるのがよろしいかと思います﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁かねてより、ギムルさまはシューターさんと結婚するのならば安
心だと、そんな事を漏らしていたそうです。わたしも野牛のみなさ
まと開かれた宴会でそのお話を聞いて、なるほどと思いました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁村長さまが他の領主さまとお見合いなさるのでしたら、確かにギ
1189
ムルさまも気を揉まれると思いますけれども、シューターさんなら
きっとギムルさまもご安心なさいますし、村長さまも幸せに﹂
簡易テントの中を静寂が支配する。
この言葉、まさか外にまで漏れているという事はあるまいな。
わらわの高まる動悸だけが薄い天幕の中を響いているように感じ
た。
やはりこの娘、わらわの心内を察しておったのか⋮⋮
﹁お前、それを本気で言っているのか?﹂
たまらず、その身を起こして暗闇の中でカサンドラを睨み付けた。
するとカサンドラも身を起こしてこちらを見返しているらしい。
﹁もちろんです。ですから、必要があればいつでもシューターさん
をお貸しします﹂
﹁貸す、か。面白い事を言う﹂
﹁はい、わたしはシューターさんの正妻ですから﹂
これは村長さまが仰ったことですよ?
さもそう言わんとする様にカサンドラがこちらを見ているのを感
じて、わらわはたまらず笑いを堪えきれなくなってしまった。
﹁あっはっは、これはしてやられた﹂
﹁そ、村長さま、ッヨイさまが起きてしまいます﹂
﹁すまぬ。いやしかし、そうだな⋮⋮﹂
しかしシューターと結婚などという事は、正直考えもしなかった
事だ。
いつまでも安い褒美でこき使っているわけにもいかないので、一
1190
度ぐらいは体を許す事を考えたのも事実だが、それも踏ん切りがつ
かぬでいた。
ここまで言われて気を遣われて、わらわはいったい何をやってい
るのだと言う気分になる。
さすがに自分で命じておきながら、その相手をわらわ自身が奪う
ことなどは出来ない。
わらわはさしずめ、シューターの愛人ぐらいがちょうどよいであ
ろう。
いかん。そのような事を考えていると気持ちが妙に落ち着かない。
﹁も、もちろん気持ちはありがたい。そういう選択肢があるという
事だけは心にとどめておく。今はまず外交を成功させて、義息子を
安心させる事が先決だぞ。お前もその様な事はシューターに言わぬ
ようにな。け、決してだぞ﹂
﹁くすっ。はい、わかりました﹂
あの男は気を許すとすぐに胸や尻ばかり見て来る好色だからな、
ああ見えて⋮⋮
結局、その言葉を最後にわらわたちは唇を閉じて、妙に眠れぬ夜
の静寂に身を任せる事にしたのだ。
1191
閑話 サルワタを統べる者 交渉
ツダの村にて騎士修道会の一行を出迎えたわらわたちの前に、ひ
とりの壮年騎士が馬から舞い降りた。
彼こそがわらわがどうしても直接会って口説き落とさねばならな
いと考えた人物である。
﹁お初にお目にかかる、余は騎士修道会総長のカーネルクリーフだ。
この度は遠路ご苦労であった﹂
﹁わらわは、サルワタ騎士爵アレクサンドロシア・ジュメェだ。こ
ちらこそ招きに応じてくださり、大変感謝しておる﹂
カーネルクリーフはお初にお目にかかると言ったが、実のところ
わらわは娘の頃にこの男を見た事があった。
この男は、わらわが王都にいた頃から王侯貴族の間では名の知れ
た人物だった。
甲冑の上から灰色の法衣を着た当時の青年修道騎士カーネルクリ
ーフは、若い女の間では噂の的であった。
彫りの深い顔立ちに惚れた女官や女騎士は数知れずだか、優れて
いるのは容姿だけではない。王都にある聖堂の修道騎士としてもす
ぐれた頭角を現していたはずだ。
ブルカ聖堂の設立に尽力したという話も聞いている。
わらわとしてはその力を頼りにしたいのであるが、今もそれは健
在であろうか。
ツダ村の司祭とカーネルクリーフの会話を軽く聞き逃しながら、
彼を観察した。
1192
油断なく、それでいて悠然と構えた仕草はわらわなどよりもよほ
ど領主の風格を持っているから面白い。
﹁どうされたかな?﹂
﹁ふむ。総長どのはお忘れであった様だが、わらわは若い頃に総長
殿がまだ王都の聖堂で修道騎士をやっていた頃を知っていたもので
な﹂
﹁なるほど、あの若い頃の恥ずかしい余をご存知であったとは、こ
れは少々交渉がやりにくくなるというものだ﹂
さあ、どうぞと言わんばかりに手を差し出し先を譲る。
わらわも微笑を返しながら胸元に手を置き貴人の礼を示しながら、
先導するツダ村司祭に続いた。
ちらりとすれ違う時に改めて観察する。
かつては王都の貴公子だったであろう相貌を残した壮年の修道騎
士で、わらわの齢の頃には騎士修道会の総長という第一人者に上り
詰めた男だ。
それより長きにわたり、辺境における布教と施しを行い続けてい
る大丈夫である。この指導者を口説き落とす事が出来れば、これよ
り頼もしい有力者はいない。
しかし色気を持った壮年というのはやっかいだ。齢は五〇近くだ
と聞いていたが、宗教者らしく背筋はピンと伸びて未だ馬を駆って
戦場を駆ける事もいとわない現場のひとである。
わらわが見たところ、皺深いその表情と突き出した鷲鼻から、交
渉の相手として一筋縄ではいかぬのではないかと一抹の不安を覚え
たほどであった。
そして案の定、わらわが危惧していた様に早々から難題を口にし
1193
たのである。
﹁この度の会談は、女神様のご神前で行う事にするがよろしいか﹂
これはつまり、他者を排してわらわたち両人の間でのみ会談の内
容を共有しようと言っているのだろう。
何事か話しにくい内容を提案してくることが想像できた。
今のわらわであれば、可能なら近くにシューターを置いておきた
いと思う。
何か助言を得る事が出来るかもしれぬし、それがなくとも頼れる
存在が側にいる事は安心できるのだ。
だが、ここで難色を示すのでは交渉のカードをさっそく使ってし
まう事になりかねない。
﹁わらわに異存はない﹂
﹁ならばそうさせてもらおう。女神様のおられる前で、腹を割って
裏のない話をさせていただく﹂
よくもまあそんな事が言えるものだ。
わらわたちは教会堂内の礼拝所にある女神像の最前列に配された
長椅子に腰を下ろした。
なるほど、これは一種の圧迫会談ともいえるのかも知れぬ。
こうして女神の前にわらわたち信者を置く事で、思考に足枷でも
させるつもりなのであろう。
次々と退出する総長の側近たちと対象に、わらわの手の者たちは
シューターに視線を集めていた。
彼はわらわを見て﹁俺が居なくても大丈夫なのか﹂とでも言いた
げな視線を送って来る。
ここは任せてほしい。と、そういう意思を込めて首を横に振った。
1194
﹁では、後ほど⋮⋮﹂
礼拝所に残ったのは長椅子に座ったわらわとカーネルクリーフ、
それから少し離れた場所に立っている聖少女である。
何だ、聖少女どのが残るのであれば、もしかしてシューターも残
しておいてよかったのやもしれぬ。
だがそれは後の祭りだ。
﹁さて。道中にガンギマリーよりサルワタの騎士爵どのが我々騎士
修道会に、そちらの領内に聖堂を建立してほしいと言う提案を受け
たのだが⋮⋮﹂
カーネルクリーフは全ての人間が退出して、礼拝所内が静まり返
るのを待ってボツリと口を開いた。
﹁ご熟慮いただけたであろうか﹂
﹁その前にまず、我が騎士修道会に籍を置く人間がアレクサンドロ
シア卿に多大なご迷惑をおかけした件、お詫び申し上げる﹂
すっと立ち上がったカーネルクリーフは、わらわの方に向き直っ
て膝を折った。
当然であろう。
我が村に騎士修道会の傘下・ブルカ聖堂会から派遣された助祭に
よって、村で数々の事件を起こされたのは、わらわにとっても記憶
に新しい事である。
またそれらの行為が、よりブルカ辺境伯との対決を決断させたの
だと言ってもよい。
カサンドラにもたらした心と体の傷は、本人がどれだけ気丈に振
1195
る舞ったところで簡単に癒えるものではないし、村内に禍根を残し
たのは事実だ。
﹁わらわとしても、その件を強く申し立てるつもりはない故、これ
にて水に流すとしようか﹂
﹁そう言っていただけるのであれば、余としてもありがたい限りだ﹂
だが、これは政治であるのだ。
わらわはカサンドラの受けた傷を引き換えに、最大限の譲歩と価
値を引き出さねばならぬ。
カサンドラには申し訳ないが、それがわらわなりに今出来る贖罪
であり、領主としての正しい行いなのだと言い聞かせた。
﹁可能であればサルワタ教会堂の助祭マテルドの身柄をこちらで引
き取り、宗教者の身でありながら政治に介入した経緯を洗い出した
うえで、その罪を問わねばならない。お引渡し願う事は可能か﹂
﹁これはわらわの村で起きた事件であり、本来ならば領内のルール
に従って捌くのが筋と言うものだ﹂
しかしサルワタの教会堂は騎士修道会という組織の傘下にある施
設であり、慣例としてこれに紐づく人間を裁く事はしない事になっ
ているのだ。
もったいぶった交渉はわらわの好むところではないので、さっさ
と差し出せるものは差し出す事にする。
﹁だが、この際お引渡しする事はよしとしよう。あの娘はブルカ辺
境伯の縁者という事なので、その点よく調べなおしたうえで、伯爵
どのにはどういうつもりなのかお答えを頂きたいものだな﹂
わたくし
﹁それはもちろん、余としても心得ている。近頃、ブルカ辺境伯の
専横は目に余るものがあって、辺境の旗頭という立場を私している
1196
とささやかれる始末だからな﹂
﹁なるほど、ブルカではそのような噂が?﹂
﹁左様、余たち騎士修道会に与えられた独占権を無視して、裏で色
々とな⋮⋮﹂
何のことを言っているのかと思えば、どうやら騎士修道会の持つ
娼館の既得権益につてなのか。
ギムルやニシカたちの報告では、奴隷商人どもと結託して街娘を
奴隷に、そして奴隷を娼婦に仕立て上げる事で、騎士修道会が持つ
娼婦の管理特権の抜け道で儲けているらしい。
﹁大いに伯爵どのを苦しませてくれれば、わらわとしてはこれから
先にやる事が非常に楽になるからな﹂
﹁そうさせていただこう。さて、アレクサンドロシア卿の求めてい
る、サルワタ領内に聖堂を建立してほしいというご要望であるが、﹂
カーネルクリーフは本題に踏み込んできた。
側らに立つガンギマリーは事の成り行きを見守って大人しくして
いたが、この段になって何か緊張の色をその顔に浮かべている様だ。
これはあまりよろしくない発言が控えているのだろうの。
﹁そのご要望にお応えするためには、いくつかの条件をアレクサン
ドロシア卿に呑んで頂く事になる﹂
﹁お伺いしようかの﹂
﹁ひとつは、余たち騎士修道会に求められているのはサルワタ領内
にある湖畔の城側に聖堂規模の宗教施設を建立する事だそうですな。
可能であればそこに騎士隊のひとつも置く事が出来れば、ブルカ伯
に対する睨みにもなるのでありがたいと﹂
﹁そうだ﹂
1197
﹁これはまず、余たちが一方的にサルワタの領内に聖堂を建てる、
正当な理由が存在しないため今のままでは無理だろう。ではどうす
ればいいいかと言うと、アレクサンドロシア卿からの寄進を受けて
建立、という形が望ましい﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
もともと、聖堂なり教会堂なりを湖畔の街作りにあわせて行うの
はどうかと言い出したのはシューターであり、続いてそれを本格化
させようとしたのはガンギマリーである。
寄進を求められると言う可能性は考えていた事だったが、はたし
てその額は⋮⋮
﹁いかほどであろうか﹂
﹁単純に聖堂というものを建立するとなれば、オルコス五世金貨で
ざっと六〇〇〇枚というところだろう﹂
オルコス五世金貨というのは、王都周辺域で流通している先王発
行の金貨である。
ブルカ辺境伯金貨よりも純度が高く、またリングのサイズも大き
い。
その様な金はわらわの領内で、
﹁簡単に用立て出来る資金ではない。不可能だ﹂
﹁もちろんそれは理解しているところだ。であれば、別の条件とし
て金銭を伴わない、互いにとってもっともメリットのある条件を提
示出来る﹂
何だそれは。
そのようなものがあると言うなら、是非とも聞いておきたいもの
だ。
1198
怪しくはあるが、考慮する余地はある。
こういう時にシューターを側に置いておかなかったのは失敗だっ
たと、わらわは密かにほぞを噛んだ。
﹁それは貴卿の領内に降誕した、聖使徒を余たちの身内に迎え入れ
る事だ﹂
﹁ん? その様な人間はわらわの領内にいるなどと聞いた事が無い。
その様な人間がいるのなら、喜んで差し出すものだがな﹂
﹁聖使徒、またの名を騎士シューター。アレクサンドロシア卿の側
近の男であるな﹂
わらわは一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
1199
閑話 サルワタを統べる者 驚愕
﹁⋮⋮シューターというのは、あの全裸を貴ぶ部族の出、シュータ
ーの事かの﹂
騎士修道会総長カーネルクリーフの言葉に当惑したわらわは、言
葉をかみ砕く様に口にして絶句した。
あの男は辺境のさらなる奥地から、流浪の果てにサルワタの森に
たどり着いたのではなかったのか?
﹁全裸を貴ぶ部族というのは初耳だが、何ひとつ身にまとわぬ姿で
降誕したのは、それが女神様のご意思によってこの世界に産まれ堕
ちた聖使徒である証拠だろう。それも大人のままの姿で﹂
﹁大人のままの姿で、生まれた?﹂
﹁左様。余たちが聖少女と呼んでいる彼女、ガンギマリーもまたブ
ルカ聖堂会で礼拝の儀を行っている最中、衆目の集まる中で降誕し
たのだからな﹂
わらわの疑念の眼に応える様にして、カーネルクリーフは言葉を
口にした。
ふと聖少女どのの姿を見やれば、確かに彼女は少し困った表情を
していたけれど、うなずいてみせる。
それは恐らく事実なのだろう。
騎士修道会の聖少女などと言われているのだから、女神の奇跡に
よって生まれたとしても何らおかしい事はない。
けれどもシューターがそんなはずはない。
1200
﹁お疑いの様であるが、騎士シューターどのもまた身ひとつ纏わぬ
姿で大人のままに生まれてきたというのは事実であろう。それが証
拠に、どこから彼がやって来たのか、貴卿はご存じないのではない
か﹂
﹁⋮⋮あの男は、我が領内のサルワタの森に、全裸の姿でさ迷って
いるところを、村の木こりが見つけたのだ﹂
﹁つまり彼が降誕した姿を直接見た者はいないと、そういう事だな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
森に迷い込み、ッンナニワに捕まえられて村に連れてこられた時
のシューター。
彼がどこをどう見たら女神のご意思によってこの世に生まれた聖
使徒だというのか、わらわには納得のいくものではなかった。
と同時に、その様な人間をわらわの召使も同然に使役をさせ、あ
まつさえ子飼いにしていたという事実に恐怖する。
もしも本当にシューターが女神の聖使徒であるというのならば、
わらわはそれ相応の罰を受けねばならぬと言う事なのだろうか⋮⋮
﹁なるほど、そういう可能性があると騎士修道会の諸氏はお考えな
わけだな﹂
ゴクリとつばを飲み込みながら、改めて冷静な顔を取り繕ってわ
らわは言った。
こんなところで騎士修道会の人間たちに付け入られるわけにはい
かない。
彼らは日頃からブルカの街で権力者たちとパワーゲームを演じて
いる様な人間たちなのだ。
ただの聖職者であるのとはわけがちがうし、カーネルクリーフと
もなれば王城でその冴えを振るっていたのである。
1201
﹁それゆえ、女神様の教えを正しく伝える立場の騎士修道会として
は、シューターどのを余たちの身内に迎え入れられるのであれば、
聖堂の建立という提案に乗る事が出来る﹂
﹁ちょっと待ってほしい。その身内に迎え入れるという意味、改め
て聴いてもよろしいかの﹂
わらわはいつまでも茫然としているわけにもいかず、言葉の中か
ら意味の隠されていそうなものをひとつひとつ潰して行こうと必死
に考える。
身内に迎えるとはどういう意味だ、引き渡せと言う意味か。
﹁言葉通り、騎士修道会の身内として迎え入れると言う事だ﹂
﹁詳しく申せよ﹂
﹁ふむ、ではこう説明したらよろしいか。アレクサンドロシア卿か
ら見て、ガンギマリーはどの様に見えるかな﹂
カーネルクリーフは蓄えた口ヒゲを撫でながら長椅子に腰を下ろ
した。
突然に話題を振られた聖少女どのは、相変わらず当惑した顔をし
てわらわと総長を見比べている。
恐らくこの娘は話の落としどころをすでに聞かせているはずだ。
けれどもこの様な展開になったので、困り切っているのであろう。
﹁聖少女どのは、見てもすぐわかる様にこの土地の人間ではあるま
い﹂
黒い髪は珍しくはないが、それでも透き通るような黒髪というの
は珍しい。
それに顔は彫りのないやや丸みを帯びたところがあるし、特徴的
なブラウンの眼は少なくとも辺境どころか王国の人間には聞いた事
1202
が無いものだった。
モノクル
何よりその顔にかけているふたつのガラス玉である。
王都の老人や魔法の研究者たちが片眼鏡をかけている姿は見たこ
とがあるが、これはまたそれと別のものであろう。
きっと女神の奇跡として降誕とともに聖少女に付与された聖具に
違いないのだ。
ジロジロをわらわが見たことに気を悪くしたのかも知れぬ、聖少
女どのは不機嫌な顔をしてそのふたつのガラス玉の縁を持ち上げて
ズレを直した。
するとカーネルクリーフがわらわに言葉を投げかける。
﹁それはもちろん彼女が女神様のお子、聖少女であるのだから当然
だ。そしてその様な聖少女を、どこぞの貴族なり領主なりが手に入
よこしま
れた先に見える事は何があると貴卿はお思いかな﹂
﹁もしわらわが邪な野心ある領主であるのなら、まず間違いなく女
神の奇跡を得たと言い回り、それを口実に勢力を拡大するであろう
の。可能ならば中央に権力を求めるし、もっと言えば王国の転覆す
らも考えるやもしれぬ﹂
もちろん今のわらわはその邪な野心がある領主であるのだが、そ
の様な事を言う必要はない。
それに今口にした事は多くの貴族であるのならば、機会を得れば
大なり小なりに多様な事を実行しようとするだろう。
そしてそれは、カーネルクリーフにも理解できているという事だ。
﹁左様。そうであるならば、女神様の奇跡たる人物の聖少女修道騎
士ガンギマリーは、余ら騎士修道会の象徴として身内にあってもら
わなければならないのだ﹂
﹁もったいぶった物言いは、わらわは好かぬ。何が言いたいのかは
1203
っきりと言ってくれるがよろしかろうの﹂
少々言葉遊びの過ぎるカーネルクリーフに対して、わらわは苛立
ちを覚えて攻撃的な言葉を口にした。
言いたい事はわかるぞ。
聖少女ガンギマリーと同じくシューターが女神の子であるという
ならば、大人しくわらわに引き渡せと言っているのであろう。
﹁先に言っておくが、わらわはシューターを手放すつもりなどない
からの﹂
シューターはわらわの片腕である。
いや、片腕どころではない。わらわはこの男を失いたくない。
﹁ほほう、余は貴卿に騎士シューターどのを手放せとまでは言って
はいないわけだが、貴卿はそれほどまでにシューターどのが惜しい
か﹂
﹁ま、まさかドロシア卿。おふたりの間にはそのような関係があっ
たのかしら⋮⋮?﹂
﹁べべっ、別に惜しいなどというわけではない。かの男は優れた戦
士であるし、せせせ聖少女どのも知っている通り、あの男には村に
妻がいるのだ。今さら妻たちから引き離して騎士修道会に差し出す
など、わらわには出来ぬ事だ!﹂
﹁え、異な事をおっしゃるわ。あたしはドロシア卿の命令によって
カサンドラさんもタンヌダルクさんも結婚する事になったと聞いて
いるけれども﹂
どういうわけか執拗に、聖少女どのが質問を打ちかけて来るのが
憎らしかった。
わらわには責任があるのだ。
1204
カサンドラに結婚を命じた事で、オッサンドラとの間に不幸な出
来事があったことは事実だ。
領主として以前に、村の長として結婚を取り仕切る事は何も間違
った事ではないけれども、それによってもたらされた不幸に対して、
責任を。
今まさに幸福を少しずつはぐくんでいるカサンドラから、シュー
ターを引き離すことなどは今のわらわには出来ない。
確かに自分の気持ちの中に嘘を付けぬ気持が芽生え、膨らみ続け
ている事は事実であるけれども。
そのどちらもが、わらわの正直な気持ちであるのだ。
だから怒気を隠しきれずに、聖少女どのを睨み付けて見上げてし
まった。
﹁聖少女どのも大人をからかうものではないよ﹂
﹁し、失礼したわね﹂
﹁まあまあ、余たちはそれほど難しい事を言っているわけではない
のだ。貴族がそうである様に、余たちも貴卿たちとの間に血のつな
がりを作るのもひとつの手ではないかと考えておってなあ。そのた
めにも、シューターどのをガンギマリーと結婚させるのは手ではな
いかと考えていたのだ﹂
縁を作る、余たちの身内にするというのはそういう意味である。
カーネルクリーフは口ヒゲの下に微笑を浮かべてそんな言葉を紡
ぎ出したのである。
縁を作る。
聖少女ガンギマリーどのと、シューターを結婚させる。
﹁⋮⋮政治か、なるほどそれはよく考えた手段である。わ、わらわ
としてもおふたりの前でつい取り乱してしまい申し訳ない事だの﹂
1205
﹁いえいえ、それは構わないのです。でもカーネルクリーフ? 肝
心な事をもうひとつ言っていなかったけれども⋮⋮﹂
ガンギマリーが様子を探る様に総長を見やったではないか。
どういう事だ。この上まだわらわを驚かせるような事を言い出す
のではないだろうの。
﹁ふむ。アレクサンドロシア卿のお気持ちを察するに、これはあま
り乗り気にはなってもらえない可能性があるのだが﹂
﹁それでも言うべきことはしっかりと言うべきよ。提案するだけな
らタダなんだから、それにドロシア卿もご自身がお命じになってし
てきた事でもあるし、政治と割り切ればやっていただけるかもしれ
ないわ⋮⋮﹂
﹁しかし仮にも領主どのに、この様な提案をするのもどうなのかな﹂
話が見えない。
このふたりの宗教者たちは何を言っているのだ。
﹁おふたりよ、はっきりとモノを言ってもらおうか。わらわは何度
も言うが回りくどいやり方は好かぬのでな﹂
﹁ではあたしから言うわね? ドロシア卿。あ、あたしとシュータ
ーが結婚をするだけではまだ足りないと思うのです。身内としての
結びつきが⋮⋮﹂
﹁つまりどういうのだ?﹂
﹁あなたの部下とあたしが結婚をしたというのでは、見方によって
は騎士修道会の枢機卿たる修道騎士のひとりが辺境領主の家臣の騎
士と結婚したという事実におさまってしまう可能性がある。それよ
りも、辺境の領主の夫と、騎士修道会の枢機卿が結婚をしたという
結びつきこそが事実としてお互いの協力関係を、政治的に象徴でき
るのでは、ないのかしら?﹂
1206
赤い顔をした聖少女どのが、たどたどしくも言葉を選びながらそ
ういう風に説明した。
﹁つ、つまり何か。わらわがまずシューターと結婚し、その上で領
主の夫となったシューターと、聖少女どのが結婚をするという事で
あるかの?﹂
ふたたびわらわは絶句するのであった。
もはや思考の処理は追いつけず、きっとわらわもまたガラス玉を
ふたつ並べた聖具を顔にかけた娘と同じ様に、わらわの顔は朱色に
染まり上がっているに違いない。
﹁そ、そういう事になるわね。シューター次第ではあるし、ドロシ
ア卿がお認めになるのならではあるけれど﹂
﹁なに、これは貴卿たちがもっとも得意としている政治の範疇では
ないか。政略の上での結婚だと割り切ればそれでいいのではないか
の、アレクサンドロシア卿﹂
そ、そんな事をわらわの口から言いだせるわけがない!
1207
閑話 サルワタを統べる者 葛藤
騎士修道会総長はわらわに対しさらに畳みかける様に語りだした。
﹁余たち聖職者の、騎士修道会の建前は常に一貫していると言える。
辺境とその先に広がる一帯の教化と、奉仕活動である。奉仕活動に
は基本、医療と野盗、それからモンスターの退治が含まれている﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あくまでも騎士修道会は辺境諸侯の政治には関わらぬことで、そ
れら布教と奉仕の活動を辺境諸侯たちから保護されるという相互関
係を保持して来た﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁余がまだ青き一介の修道騎士に過ぎなかった頃は辺境の開拓も始
まったばかりで、大身の貴族たちがオッペンハーゲンやブルカに土
着を開始したころであった。その当時と言えば領主となった貴族た
ちの間で常に諍いが絶えず、まだ誰が国王より辺境諸卿の旗頭であ
るかと任命を受けてもいなかった﹂
わらわはその言葉を静かに聞く。
もちろんその内心は自分が再婚など、シューターと結婚するなど、
と思考がぐるぐると回り続けていた。
自分で納得できる形に整理する事など、そう易々と出来るもので
ない。
﹁今でこそ、その勢力というのがおおむねブルカやベストレ、オッ
ペンハーゲンといった辺境の中心的都市にまとまったとも言えるし、
その表面上はブルカを旗頭とする事で落ち着いておるがな。余たち
1208
辺境に根差す騎士修道会の立場としては、辺境の勢力が一本化され
てくれるのであればこの建前論を覆す事は、何も問題を感じないと
言えるだろう﹂
﹁⋮⋮辺境勢力の一本化﹂
﹁左様。サルワタ騎士爵アレクサンドロシア・ジュメェ卿によって
一本化されるのであれば、余らの辺境における布教を妨げるものは
著しく減退すると言える。またそういう事があったとしても、その
ための騎士隊であるからな﹂
武装教団として成り立った騎士修道会の長らしい物言いに、わら
わはぐうの音も出ぬ気持でカーネルクリーフを見返した。
微笑を浮かべているその壮年の顔が憎たらしかった。
きっとわらわの頬は朱に染まったまま、血の気は引いておらぬで
あろう。
﹁さて、我々の提示する条件をお飲みいただけるのであれば、余は
騎士修道会の総力を挙げてサルワタの城下に聖堂を建立する事を命
じ、何れ騎士修道会の拠点そのものをサルワタに移す事を考えるの
であるが﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ブルカ辺境伯は、あれはやり過ぎている。近頃は大人しくなって
いたオッペンハーゲンでも、その不満に対する声が聞こえているの
だよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁アレクサンドロシア卿、これは貴卿が立ち上がるためにまたとな
い機会なのであるから、余らで縁を繋ぐ事、ご考慮なされよ﹂
わらわの心は正直傾いた。
シューターをタンヌダルクと結婚させたのは、これは政治の道具
としてである。
1209
それは認める。
当人たちはよろしくやっている事を既にカサンドラを介して聞い
ていたのだけれども、それはそれとしてやはり政治のために結ばせ
たことは事実であったのだ。
そうであるならば、わらわが部下に平然と命じた事をわらわ自身
が拒否するのは指導者として道理が立たぬ事も理解している。
その一方で、少しでもカサンドラを願いたいと言う気持ちもある。
もっと言うなれば、これまでいいところのなかった我が人生にも、
幸せの春が欲しいと願う心も、やはりあるのだ。
﹁⋮⋮ひとつお伺いしたい﹂
﹁何かしら、ドロシア卿?﹂
﹁わらわとシューターが結婚するという事の意義は理解できた。で
は、聖少女どのとシューターが結婚するという事は、具体的にどの
様な今後の展開が考えられるのかの?﹂
﹁ええと、そうね﹂
わらわの質問に応えた聖少女どのが、いたんカーネルクリーフと
顔を合わせた後に少し恥ずかしい顔をしてこちらを向いた。
﹁し、新婚だから、あたしたちの新居を作ると言うのが筋じゃない
かしら﹂
﹁新居だと?﹂
﹁そう。あなたが湖畔に建設を推し進めていたお城の事、すでに総
実家
である騎士修道会から資金が投入される
長たちにも話しているの。あたしたちが身内になるのだから、お城
の建設についても
というのは、おかしい事じゃないと思うし﹂
﹁な、なるほど﹂
1210
この娘が、わらわの村で司祭や修道騎士たちと肩を突き合わせて
何事を思案していたのかと思えば、その様な事を⋮⋮
﹁それと、シューターが聖使徒であるという事を世間に知らしめる
ことが必要よね﹂
﹁ふむ。それは必要な事だの﹂
わらわたちの村ではあの男、全裸を貴ぶ部族の出で、旅の末にこ
の辺境にやって来た男という程度の認識だ。
そんな男とわらわが結婚しても、わらわが好色に狂ったと思われ
るだけであろうし、ガンギマリーどのにしたところで、聖少女がと
んだ気まぐれを起こしたと、世間が教会堂の評判を悪く思うだけか
もしれない。
﹁それ故、騎士シューターどのには軍事訓練を受けていただくのが
よいだろう﹂
﹁軍事訓練?﹂
カーネルクリーフの言葉にわらわはそっくり聞き返す。
﹁左様だ。軍事訓練を受けた後に彼を修道騎士とし、騎士修道会に
よる聖使徒の称号を与える。ほんの数年ばかりシューターどのには
修行を受けてもらう事になるが、これで余らと貴卿らは文字通り家
族も同然となれる。これらの修行はブルカで行うもよし、なお効果
を考えるのであれば聖地において行うもよし﹂
素晴らしい計画じゃないか、とでも言わんばかりにわらわを見返
してくるカーネルクリーフ。
やはり自分の事と理解しているので気恥ずかしいのであろう聖少
女ガンギマリーどの。
1211
そして、きっとわらわはこの中でもっとも酷い顔をしているので
あろうな。
﹁それはお受け出来ぬ相談だ。今、サルワタからシューターを出す
という事は、ようやく纏まりつつあった我が領内の体制を無に帰す
事と同然さ﹂
﹁⋮⋮アレクサンドロシア卿、これは政治であるぞ?﹂
﹁政治であるなればこそ、ご理解いただきたいものだの。わらわは
領内に野牛の一族を抱えておる。ただの野牛ではなく、わらわたち
よりもよほど恵まれた生活をしておる文化的な連中だ。聖少女どの
は知っておるだろう? あの一族を身内に迎え入れるためにシュー
ターに族長の妹を嫁がせているのだ﹂
わらわの言葉に聖少女どのもうなずく。
それを見てまだまだある問題を口にする。
﹁さらに言えば、サルワタには戦士に適した人間が極端に少ない。
外敵と言えばほとんどがモンスターの類、言ってしまえばワイバー
ンだ。これを討伐するために領内で必要だったのは兵士ではなく猟
師であった。シューターはワイバーンにとどまらず、このブルカ近
郊ではバジリスクをも討伐した優れた猟師である。もちろん戦士の
出身で今は村唯一の騎士たるシューターは、わらわにとって文字通
り片腕なのだ﹂
﹁余たちから騎士隊を派遣すると言ってもこれは解決にならぬのか﹂
﹁それでは世間はどう見るだろうかの。サルワタの領主は聖堂を寄
進したのもなく、領地そのものを寄進したと侮られるであろう。そ
れでは外交に差支えが出る﹂
冷静になってみれば、これは領主の体面というものも関わってく
るのである。
1212
騎士修道会に言われるまま、家臣と結婚しその夫を奪われ、あま
つさえ領内に騎士隊を進駐させたなどとあっては、周りの領主はそ
の姿を見て、まずわらわが呼びかけるブルカ包囲網に協力する事を
約束するであろうか?
﹁ふむ﹂
﹁外交と言えば、まずもってこれよりシューターを使節の長として
送り出さねばならぬのだ。それは出来ない条件だとご理解いただけ
たであろうか﹂
﹁では、余たちの協力は必要ないという事だろうか﹂
﹁そうではない。そうではないが、また別の協力の形か、あるいは
条件をお出し願いたい。寄進という手があるのならば、その額面に
あった宗教施設を、わが領内に作る事も可能であろうさ﹂
やはり何もかもを簡単に物事運ばせる事は出来ぬのだ。
わらわは引きつった顔からようやく血の気が引いていくのを感じ
て、少しの安堵を覚えた。
それは、シューターを失わないための言い訳を思いついたからな
のか。
いや、そうではないはずだが、そういう気持ちも少しあったはず
だ。
﹁⋮⋮委細わかったわ。そうね、この話の続きはひと晩ほど寝かし
た方がいいわね。どうかしらドロシア卿?﹂
﹁カーネルクリーフどのもお疲れの事であろうの。それがよろしか
ろう﹂
﹁ではお言葉に甘えて、この続きは明日の午前にでも﹂
なればどう、騎士修道会から協力を取り付ける必要があろうのう。
カーネルクリーフと握手を交わしながらわらわは、その事を必死
1213
に考え続ける。
それはしばらく、騎士修道会の大人物ふたりが去った後も続けて
いた。
◆
いち度、食堂で腹を満たす事に専念したわらわは、護衛のエレク
トラを連れて今夜の寝所へと戻った。
宿泊施設では軽く会談のあらましを語ったて聞かせたのであるが、
その場所にはどういうわけか聖少女どのが顔を出していたので、た
まらずわらわは気分が悪くなった。
考えてみればこの娘もサルワタに移住をした人間であり、村の人
間であると言える。
本人も言っていた事だけれど、すでに気持ちはこちら側なのであ
り、騎士修道会の面々にも遠慮をしたというところだろうか。
やりにくいのはお互い様で、シューター本人を前にしてこの全裸
男とけけっ結婚の話が会談上で持ち上がった事には、きれいさっぱ
りと触れようとしなかった。
﹁まあ、今すぐに皆に何か必死でアイデアをくれと言ったところで、
すぐには出てこぬであろう。会談は明日にするという事なので、朝
にまた改めて話し合いの場を持つことにする﹂
その夜は簡単に部下たちへの説明を済ませてから、解散にした。
出来るだけ疲れた顔は見せぬように気を張って声を上げたものの、
シューターには気を遣われているのだろうか微笑を浮かべてうなづ
かれてしまった。
無理しなくていいと言わんとする様にだ。
1214
﹁さあ、各々の部屋でゆっくりと休むがよい﹂
立ち上がり、去り際になってもシューターはこちらを見やりなが
ら気を遣っていた。
この男のこういう気遣いにわらわはすっかり腑抜けになってしま
ったのやもしれぬ。
そしてわらわの寝所に聖少女ガンギマリーだけが残った。
﹁その方、最後まで結婚の話をせなんだの﹂
﹁あたし自身の結婚の事だもの。こういう事は、あたし自身の口で
ふたりっきりの時に、言いたいから﹂
﹁そうだの。わらわも政治を理由にして結婚せぬか、などとは言い
とうないな⋮⋮﹂
十の齢になれば立派な労働力の頭数に数えられるこの王国では、
女の結婚は早い。
貴族であればそれこそ十には婚約をする事もあるし、その適齢は
遅く見積もっても二四、五というところであろう。
わらわなどは政治的結婚ぐらいにしかその価値を見出せない大年
増となり果ててしまったものだ。
それでも年甲斐も無く﹁アレクサンドロシアちゃん﹂﹁お兄ちゃ
ん﹂などと呼び合う馬鹿げた恥かしい言葉の掛け合いに密かな幸福
を見出していたのも事実である。
﹁あたしなんかは、聖少女だなんて言われて持ち上げられています
けど。その実ただの女子高生だった様な普通の女ですから﹂
﹁女子高生? 何だそれは﹂
﹁それはね、ええとシューターからお聞きになっていないかしら﹂
﹁?﹂
1215
わらわの反応に様子をうかがう様な態度をしながら、言葉を選び
ながら聖少女が口を開く。
﹁あの。あたしとシューター、いえ吉田修太は同郷なのよ。同じ世
界からやって来たの﹂
﹁同じ世界から、つまり生前の意識をお前たちは有しているという
事であるか﹂
﹁そういう事になるのかしら、転生なのか転移なのかわからないけ
れど、そういう事になるかしらね﹂
その様な言葉は初耳であった。
あるいは女神の住まう天界から降誕したというのであれば、さも
ありなんという事だろうかの。
﹁ヨシュア・シューターというのがあの男の本当の名前なのか﹂
﹁ええと吉田修太? そうね﹂
﹁そうかヨシュアか⋮⋮﹂
口の中で何度もその名前をゆっくりと繰り返していると、聖少女
は話の先を続けはじめる。
﹁あたしはその世界で、どこにでもいる女子高生だったんです。女
子高生と言うのはまあ、学生かしら? 王都やブルカにある学舎で
学ぶ人間みたいな? まあ、あたしたちのいた世界では誰でも義務
教育を受ける様になっていたし、高校までは普通に学んでいたけれ
ども﹂
わからない言葉をいくつもならべながら、自虐する様に聖少女は
言った。
1216
なるほど、聞いていると学問を修める事がごくごくあたりまえな
世界にいたという事だろう。女神のおわす世界はさすがである。
などと感心していたら、
﹁だから、どこにでもいる女子高生だったから、恋愛ぐらいしたい
って願望があったんです。聖少女になってしまった今は、そりゃ不
満もあるけれど、ここまで泥水をすする様な思いをして立場を築き
上げてきた自負もあるから。それは悪い気はしないけど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁聖少女なんて、おいそれとだれとでも結婚というわけにもいかな
いでしょう。まして、よくわからない領主や貴族に嫁ぐなんて、も
ってのほか﹂
﹁それは何となくわかるのう。わらわもそういう事に憧れた事はあ
る﹂
そうなんですか? とガンギマリーが少し驚いたような顔をした。
﹁絵巻物の中にある様な、駿馬にまたがった聖騎士が救い出してく
れる英雄譚。わらわは姫君。そういう憧れは女であれば当然であろ
う。まあすでにわらわは姫君という齢では無いし、女の盛りは当に
過ぎておるがの﹂
﹁そんな事はないと思うわ。ドロシア卿はまだお子も産まれておい
ででないし、十分に若さがあると思うのだけれど﹂
﹁それはわらわがゴブリンハーフであるからだろう。ヒトの血が入
っておるゆえ少女になるのは早かったが、見た目の老いがなかなか
遅いのだ﹂
﹁あたしのいた世界だったら、みんな大喜びする事だわ﹂
﹁ふふっ⋮⋮﹂
ふたりでそんな意味のない笑いが漏れた。
1217
﹁ドロシア卿とあたし、シューターとの結婚のはなし。少なくとも
あたし自身の事については、自分の口から彼に報告しようと思いま
す﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ドロシア卿も、彼がドロシア卿の信頼に足る片腕だと仰るなら、
相談するべきだとあたしは思うわ。どうあったってこれは彼の意思
や意見をそっちのけに、出来る事じゃないから﹂
それは政治を知らぬ者の物言いだ。貴族にとって結婚は常に政治
である。
だけれども、聖少女だからなのか凛とした顔に純真な眼を向けら
れては、今さら反論する気にはならなかった。
﹁まあよい。ひとつの手段に固執して結論を急ぐのは愚考というも
のだしの。他の手がどれほどあるのかを考慮した上で、最善を選ぶ
ことにする﹂
﹁ドロシア卿⋮⋮﹂
﹁何だの?﹂
﹁あなたは、やはりシューターとの結婚がお嫌なのですか。部下と
するのは体面が悪いと⋮⋮﹂
﹁いや、そういう事ではなくて、だな。いや、結婚はいいのだ。何
というか⋮⋮﹂
気を遣った様な聖少女どのの視線に、ついわらわはしどろもどろ
になってしまった。
そうではないのだ、そうではないのだが⋮⋮
﹁せめて、あたしひとりが彼と結婚したのでも協力の半分は騎士修
1218
道会から得られることはできるわ。あたしはそのつもり﹂
﹁そうか。わ、わらわとしてはだ。せめてサルワタの手元にシュー
ターが居てくれるのであれば、やぶさかでは、ない⋮⋮﹂
﹁そう。それを考えましょ﹂
﹁うむ﹂
自分の意思をはっきりと口にしたガンギマリーどのは、そのまま
板窓の側に歩いていく。
何をやっているのだ。ちょっと前まで全裸だった男に振り回され
て、わらわたち女どもは。
そんな風に天井を仰いで深いため息をついたところで、突然パタ
ンと板窓が閉まる音がした。
﹁どうした、何があったのだ﹂
﹁いえ、気にしなくていいわドロシア卿﹂
ひどく取り乱した聖少女ガンギマリーが、先ほどぶりに顔を真っ
赤にしてこちらにツカツカと歩いて来るではないか。
やはり、結婚などと宣言をしてこの娘も恥ずかしかったのだろう
か。
わらわだって恥ずかしい。自分からシューターに結婚してくれな
どと、言うのは⋮⋮!!
1219
100 しかして俺は決断を迫られる
俺の名は吉田修太、三二歳。
ドキッ!
女だらけの宿泊所で眠れぬ夜を過ごした奴隷外交官である。
雁木マリと唇の接触をし、しかもエルパコにそれを目撃されると
いうとんでもない失態を昨夜はしでかした。
それからなかなか寝付けずに色々と考え事をしていたのだが。
そこで俺はとんでもない事実に気が付いたのだ。
﹁⋮⋮もしかして、この部屋にいるの俺以外全員年頃の女だ﹂
あの時、俺の思考は見事に口から飛び出していた。
自分ではもちろん頭の中だけのひとり言だったはずなんだけれど
も、ため息と一緒に思考の一部を吐き出してしまったらしい。
そしてこの部屋には俺だけではなく、三人の女たちがいた。
ひとりは安心しきって深い眠りについていた冒険者の女、エレク
トラだ。これは問題なくゆっくり寝ていてくれたのでいい。
けれども。先ほどまで俺と結婚の話をし、唇まで交わしてしまっ
た雁木マリは、きっと俺と同じ様に眠れない夜にさいなまれていた
はずだ。
そしてハイエナ獣人のエルパコは、間違いなくビクリと上の吊り
床で身を震わせるたのを俺は闇の中で感じた。
少なくともふたりの女は起きていて、俺のつい漏らしてしまった
1220
言葉に反応したのだ。
しまったと思ったものの、もはや手遅れである。
年頃の女だらけの寝所にいるという事よりは、今の俺の中では雁
木マリとの結婚という言葉がずっとグルグルとまわっていたのであ
る。
けれどそれは俺だけに限ったことで、年頃の女子にしてみればあ
まりいい気がしないかもしれない。
事実。
俺の余計なひとり言を漏らしてしまって以後、エルパコと雁木マ
リの吊り床の辺りからは、ずっと衣擦れの音や所在なげに寝返りを
打つたびにきしむ吊り床の網のギシギシ音が響いていた。
まあお預けを食らった様な悶々とした気分のまま、俺たちは寝つ
きの悪い夜を過ごしたのは事実である。
朝はとても不快な気分で、汗がとても肌着に纏わりついて気持ち
悪かった。
少しは寝たのか起きたのか、よくわからない感覚で数時間を過ご
した後に、俺は半開きの板窓から差し込む陽の光に目を覚ました。
部屋の中には除虫菊の煙がもたらすだけではない、汗と女の体臭
が混じった様な臭いが漂っていた。
もう少しだけ、もう少しだけ床の中でじっとしていたい気分を味
わいながら俺は寝返りを打つ。
けれども。
ムクリ、起きました!
悶々とした朝を迎えたおかげで、息子だけは元気だった。
悲しいね!
1221
﹁シューターさん、朝だよ起きよう﹂
いつもなら自然と朝には目を覚ますというのにこれだよ。
エルパコはそれでもしっかり目を覚ましてたらしく、俺の寝てい
た下段の吊り床までやってきて声をかけてくれる。
くれるのだが、俺は今起きられない。
﹁シューターさん。調子悪いの? ねえ﹂
﹁何をしているの﹂
﹁⋮⋮うんと、シューターさんが起きないんだ﹂
俺は狸寝入りをしていた。
今の俺は息子が起床している。
起床した息子はギンギンと脈打つありさまで元気いっぱいのあり
さまなのだが、それをエルパコに知られては不味いので、体を折っ
て背中を見せ、小さな毛布を腹にかけた状態でくるまっていた。
そうしているとすでに起床していたらしい雁木マリの声まで加わ
って、俺の背中で会話をしている。
﹁おかしいわね。シューターは割と寝起きがいい方だったと思うん
だけど﹂
﹁そうだよね。いつもは家族で一番に起きているから﹂
﹁⋮⋮じゃあやっぱり、昨日の事で悩んでいたのかしら﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
思案気な雁木マリの声が聞こえる。
あの場には俺の事を心配してこっそり付いてきたけもみみもいた
のだが、もちろんその内容をしっかりと聞いていたはずのエルパコ
は、無言でやり過ごそうとしているらしい。
しかし残念ながら、エルパコと日々を過ごしているうちに気付い
1222
たこのけもみみの癖を俺は知っている。
ソワソワしている時は、浅い吐息を数度ばかり繰り返すのだ。
案の定、その吐息の音を耳にした俺は、申し訳ない気分になって
しまった。
ここでさっさと俺が起きれば、きっと問題はないのに。
沈まれ、俺の男気!
﹁エルパコ夫人は何か知らないかしら?﹂
﹁えっふ、夫人?! ぼっぼくはシューターさんの奥さんじゃない
よ﹂
﹁あら、そうだったわね。では愛人、でもそう言うのはおかしいわ
ね。義姉さんがいいのかしら﹂
﹁どど、どっちでもないよ。ぼくはまだシューターさんの家族だか
ら⋮⋮﹂
ますます俺不在の場所でおかしな展開になっている。
とにかく気を落ち着かせろ。
俺の息子は気疲れからか、いつまでたっても収まるところを知ら
なかった。
本当にもう勘弁してくれ!
﹁聞いていたのでしょう。会談の内容も、あたしたちの会話も﹂
﹁き、聞こえていたんだよ﹂
﹁ならもう知っているのね、エルパコさんは。シューターに命じら
れたのかしら?﹂
﹁ううん。ぼくはシューターさんに聞かれても言わなかったよ⋮⋮﹂
﹁ちょ、ちょっと話があるわ。どこまで見たのか教えなさいッ﹂
﹁ぼ、ぼくは何も見てないよ。聞いただけだからっ﹂
1223
何やらふたりで会話をしながら寝所の外に出て行った様だ。
俺はべったりと汗を吸った毛布をガバリと飛ばして起き上がる。
ひとの姿が無いうちに顔でも洗って冷静にならんとね、いつまで
も息子の我がままには付き合っていられない。
などと吊り床に干していた手ぬぐいを片手に起き上がる。
寝所はすでに俺を残してみんなの姿は無かった。
エレクトラは女村長のところにでもいるのだろうか。
とにかく前かがみになりながら廊下に出ると、井戸のある場所に
向かう事にした。
誰にも顔を合わせないのは幸いだな。
ほんのひとむかし前は全裸だった事を考えると、この前かがみの
姿勢は全裸なら間違いなく大惨事になっていたはずだ。
などと馬鹿げた事を考えながら外に出ようとしたところ、
﹁お兄ちゃん、何という格好で歩いているのだ﹂
﹁い、いやあこれは。色々とありましてねぇ﹂
一番この瞬間に顔を合わせたくない人間に遭遇してしまった。
女村長は村から持ってきたネグリジェ姿で俺を見つけると、呆れ
た顔をしていたのである。
もちろん大人の女性であるところの女村長は、俺の息子が生理現
象で苦しんでいる事を理解しているので安心だ。
いや安心というのもおかしいが。
﹁ふむ。まあよい、話しておきたい事があるのでちょうどよかった﹂
﹁話、ですか⋮⋮?﹂
﹁付いてまいれ﹂
女村長は俺の反応など気にもせずにツカツカとどこかへ向かって
1224
歩き出した。
俺は顔を洗いたかったのだが、もはや勢いで押し切られてしまい
付いていく。
﹁寝所に戻るんじゃないのですかね﹂
﹁ヘイヘイジョングノーが画の仕上げとやらをやっておるので、今
は都合が悪い﹂
﹁エレクトラは一緒じゃなかったのですか?﹂
﹁あいつには今、村の市場まで腸詰めを買いに走らせておる。留守
だ﹂
その方が都合もよいしな、とひとりごちたアレクサンドロシアち
ゃんは宿泊施設の談話室までやってくると扉を閉めた。
他の人間がいる様では都合の悪い話。
つまり昨夜の件で、女村長自身の考えをこれから話すと言う事か。
閉まる扉を見やりながら、俺はゴクリとつばを飲み込んだ。
女村長は、これから外交活動を俺に託している手前、俺と雁木マ
リの結婚について快く思っていないのだろう。
俺について、事あるたびに褒めてくれて側に置いてくれている事
は理解できている。
そしてサルワタの現状を考えるならば、村に戦力になりそうな人
間が野牛の兵士ぐらいしかいない事を考えれば、俺を手放したくな
いというのも理解出来る。
アレクサンドロシアちゃんの俺に対する評価が、過大であるのか
等身大であるのかまでは俺には判断のつきかねるところではなった
けれど、俺が彼女の立場であるのなら、これ以上多少なりとも使え
るコマを手放すのは嫌だろうからな。
談話室の長イスに腰を掛けた女村長は、無言でその隣に座れとば
1225
かり、ポンポンとイスを叩いた。
俺も無言でうなずいて席に着く。
﹁聖少女どのからは何か聞いておるか﹂
﹁ああうん。昨夜寝静まってから呼び出されたよ﹂
﹁そうか﹂
﹁騎士修道会からの提案では、俺とマリとの結婚によって、我がサ
ルワタ領と騎士修道会の結びつきを強めるのが、サルワタに対する
支援の条件だと言われたのだっけ﹂
ふうとため息をつきながら俺はひと息に言った。
﹁でもアレクサンドロシアちゃんは、それに反対なんだろう? 俺
とマリが結婚するとなれば、そのために軍事訓練に出なくちゃいけ
ないらしいじゃないか。そうすると、これからの外交交渉のための
使節団に俺が出かけられなくなるとか。いや、そこまでは出来たと
しても、その先は軍事訓練でしばらくサルワタを留守にするからか﹂
そういう理由で不満なんじゃないのかね、と俺は隣に座った女村
長の顔を見る。
切れ長の眼に紺碧の瞳を浮かべたアレクサンドロシアちゃんの顔
は、ちょっといつもとは様子が違った。
﹁その話は、それで全てじゃないんだお兄ちゃん﹂
﹁まだ他に何かあるのか﹂
﹁ガンギマリーどのは自分の事については自分の口で説明したらし
いが、わらわの事については言っていないのだ。騎士修道会が提示
したのは、聖少女どのとシューター、そしてシューターとわらわと
の結婚だったのだ﹂
﹁え、俺とアレクサンドロシアちゃんが?﹂
1226
﹁そそ、そうだ。ただ聖少女どのとお兄ちゃんが結婚しただけでは、
それはわらわの部下と騎士修道会の枢機卿が結婚しただけになって
しまい、結びつきとして弱い。それよりもサルワタ領主の夫たるお
兄ちゃんとガンギマリーどのが結婚した、という方が結びつきとし
て強いはずだと⋮⋮﹂
まあ言わんとしている事はわかる。
わかるが、あまりに唐突な展開だったのでちょっと何を言ってい
るのかわかるのに時間がかかった。
﹁それで村長さまは今回の騎士修道会の提案に難色を示していたの
か⋮⋮﹂
﹁そ、そうだ。いや違う。違うそうじゃないのだが、そうだ。うう
うっ﹂
みるみる顔を桜色に染めたアレクサンドロシアちゃんかわいい。
だがそんな事を言っている場合ではないので、続きの言葉に耳を
傾ける。
﹁わっわらわには義息子がおる﹂
﹁はい﹂
ギムルは、アレクサンドロシアちゃんの血のつながっていないひ
とり息子だ。
そしてその言葉を聞いた瞬間に、俺は何を言おうとしているのか
すぐに察しがついた。
﹁義理とは言え、死んだ夫の忘れ形見であるギムルに跡を継がせる
事は、わらわにとって大命だ。そっそれをシューターと結婚してし
まえば、跡継ぎ争いの種を巻く様な結果になるのではと⋮⋮わらわ
1227
はそれを危惧している﹂
言われてみればその通りである。
俺は今の段階でもカサンドラとタンヌダルクちゃんという妻がい
る。
こういう場合どうなるのかはわからないが、俺がアレクサンドロ
シアちゃんと結婚してしまえば、俺も領主の一族になるので、俺と
妻たちとの間に生まれた子供もみんな家督継承権の様なものが発生
するのかもしれない。
さらに俺とアレクサンドロシアちゃんとの間に子供でも出来たも
んなら、後々ギムルと争うなんて事になったらえらいことである。
﹁わ、わらわはこの歳でまだ実の子を持った事がないのでな。いざ
自分の血を分けた子が出来た時にどういう態度に出るのか、想像も
つかぬのだ。それにギムルがどういう風な態度に出るのかもわから
ぬ﹂
﹁そりゃそうだろうな。大好きな母親が再婚でもした日には、怒り
狂う姿が想像出来る⋮⋮﹂
﹁⋮⋮わらわ自身も再婚については考えていないわけではなかった
のだがな﹂
その言葉を聞いておや、と俺は思った。
言われてみればアレクサンドロシアちゃんは独身の領主という立
場なので、上手くそれを利用して政略結婚をするという事も考えら
れるだろう。
﹁そうだったのか、どこかの領主との結婚を?﹂
﹁ち、違うそれはない。そんな事をすればギムルに残すべき領地を
奪われる危険があるであろう﹂
﹁ああ確かに⋮⋮﹂
1228
それもそうだ。
義息子の将来のために色々と考えている女村長が、そんな安直な
行動をとるわけも無いよな。
となると何だろう。そう思ったところで実はな、と言葉を続けら
れる。
﹁タンクロードの話によれば、ギムルは今いい仲の野牛の娘が密か
にいると言うのだ。わらわはそれを聞いて義息子からの報告はまだ
かと思っているのだが、これがなかなか本人の口から言い出さない。
どうやらわらわに対して遠慮をしている節がある﹂
﹁それはアレか、大好きな義母親を残して自分だけ幸せになるので
は気が引ける。義母が心配だと。ハハア、ギムルくんはマザコンで
ちゅからねえ﹂
﹁?﹂
﹁いや、何でもありません。続けて﹂
﹁そ、そうか。ゆえにわらわが結婚でもすれば、ギムルも安心する
だろうとはカサンドラとも話して言われていたのだが⋮⋮﹂
俺の奥さんとそんな話をしていたのか!
﹁わ、わらわとお兄ちゃんの結婚となると、義息子がどういう反応
をするかまではわらわにはわからん。それともうひとつ、もしも結
婚をするのならば、何事も手順を踏んでおかねばならない﹂
﹁手順と言うと、サルワタの後継者は明確にギムルであるという事
を定めておくって事か﹂
﹁そういう決めごとは大事だ。それに、お兄ちゃんをサルワタから
長期間引き離す事は、わらわとしては許容できぬ⋮⋮﹂
俺の事を重宝してくださり、ありがとうございます、ありがとう
1229
ございます。
﹁何かよい案はないかお兄ちゃん。わらわたち三者間の婚姻関係以
外の方法で解決策があるのであれば、それもよい。もしくはこの結
婚の落としどころがあるのであれば、なおの事よい﹂
﹁そうですね。それならまず確認しておきたい事があります﹂
俺は昨日の晩にもしたのと同じ様に、大切な事を聞いておく。
﹁アレクサンドロシアちゃん。あなたの気持ちはどうなのです? 俺みたいな奴隷と結婚してもいいのか。政治と割り切っていただけ
るのか。それで体面は保てるのですかね﹂
﹁わらわは二度も政治のために結婚したのだぞ﹂
﹁じゃあ問題ないって事ですね﹂
﹁違う。せ、政治と割り切ってだけの結婚などもうたくさんだ!﹂
﹁どっちなんですか﹂
﹁けっ結婚しても、いい⋮⋮﹂
いつもならその切れ長の眼で睨み付ける様な視線を送って来るア
レクサンドロシアちゃん。
それが伏し目がちな視線でおずおずと見上げながら言ってくるの
だから、これをかわいいと思わない俺ではない。
﹁言っておくがこれは政治に利用できる男ならだれとでも結婚する
という意味ではないぞ。シューターはわらわの村にやって来てこっ
ち、多大なる貢献をわらわにもたらしてくれたわけでもあるし、こ
れからも頼りにしておるからな。このまま騎士修道会の小娘にだけ
結婚をさせておいては、お兄ちゃんが騎士修道会になびいてしまう
やもしれぬので、繋ぎ止める必要があるのだ﹂
1230
﹁なるほどそうですか﹂
﹁そうだ褒美だ、これは日頃からわらわに貢献してくれている事に
対する褒美だ。新居やお兄ちゃんと呼んでやる権利だけでは足りぬ
故、わっわらわをくれてやろう﹂
放っていると眼をグルグル回しながらおかしな事を次々と言い出
すアレクサンドロシアちゃんである。
﹁ただし、タダでやるわけにはいかぬ。お兄ちゃんがサルワタを離
れる事なく、今後もわらわの側にいる事が出来る様に考えるのだ。
それを思い付く事が出来れば、わらわは晴れてお兄ちゃんのものだ
!﹂
こういうのをテンパっていると言うのだろう。
おう
まくしたてるアレクサンドロシアちゃんに圧倒されながらつい﹁
おっ応﹂と俺は返事をしてしまった。
返事をしてしまってから、どういう風に解決すればいいのか頭を
抱えてしまうのである。
﹁⋮⋮あっあのう。お取込み中のところで申し訳ないんだけど、い
いかしら?﹂
﹁?!﹂
振り返ると、唐突に談話室の奥からひょっこりと顔を出す雁木マ
リである。
すぐにももうひとつの顔、けもみみがぴょこんと続けて出て来る
ので俺たちは絶句してしまった。
マジかよ、全部俺たちの会話、聞かれてたの?!
1231
﹁い、いたのかよ﹂
﹁いたわよ、あなた達がこの部屋に入って来るよりも前から、エル
パコ夫人とね!﹂
﹁ぼ、ぼくまだ夫人じゃないから⋮⋮﹂
エルパコが遠慮がちに訂正しようとするが、それはあっさりと遮
られてしまい雁木マリが言葉を続けた。
﹁そっそれでね、しゅしゅシューターをサルワタにちゃんと居残り
させながら、ああっあたしたち三人が無事に結婚できる方法を思い
つちゃったのよねっ﹂
﹁な、何だ聖少女どの。その名案を早く聞かせるのだ﹂
照れ照れした顔の雁木マリが近づいて来ながら、俺たちの顔を見
比べた。
こほん、とひとつ咳払いをして口を開く。
﹁ま、まずシューターとあたしが結婚するためには、シューターに
軍事訓練を受けてもらって、聖使徒になるための修行を受けてもら
うのよね。その修行の場所は普通、聖地で行われるの﹂
﹁その話は昨夜も会談で、そしてその方と遅くまで話し合って結論
が出なかったであろう。聖地と言えば王都の近くにある女神の聖地
か、その方が降誕したブルカ聖堂しかないという話だったではない
か﹂
﹁その事なんだけどさ。シューターが降誕した場所も、聖使徒の降
り立った場所なんだから、聖地なのよね。それってサルワタの森の
奥地でしょ⋮⋮?﹂
俺はいったい何を話しているのかよくわからなかった。
けれども、おずおずとそう言ってのけた雁木マリの言葉に、隣で
1232
みるみる何かの確信に満ちた表情になっていくアレクサンドロシア
ちゃんを見て、何かの解決策が発見されたと言う事だけはわかった。
﹁なるほど。なるほど! するとその修行の地というのは我がサル
ワタ領内で行う事が出来るのだな!!﹂
﹁さすがに軍事訓練をどうするかという問題はあるけれど、こいつ
不在でブルカ辺境伯と事を構えるという事態は回避できるんだと思
うの﹂
﹁その問題は確かにあるが、少しでも空白期間を減らす事は可能だ
な﹂
﹁あとはその、ドロシア卿の義息子さんの事だけ解決すれば、あた
したちは今後もいい関係を築けると思うの﹂
俺とエルパコの事はそっちのけで、ふたりの奥さん候補が熱くな
っていた。
しかしその問題のギムルの事が解決しない限り、アレクサンドロ
シアちゃんは結婚にウンとは言わないのではないか。
﹁その事なんだけどな、俺たち結婚するとするだろ。その時に一緒
にギムルさんに結婚させてしまったらいいんじゃないかな、そして
アレクサンドロシアちゃんは家督をギムルさんに譲るわけだ﹂
﹁ど、どういう意味よ。あたしたちにもわかる様に説明しなさい﹂
﹁モノの本によれば、確か織田信長が本能寺の変で残念な横死を遂
げる前の絶頂期、彼は自身の嫡男・信忠に織田家の家督を継承させ
るという方法で﹃こいつは俺の後継者だから。天下人は相続される
もんだからね﹄と示したというのを書いてあった気がする﹂
﹁なるほど。そのオダノブ・ナーガという全裸を貴ぶ貴族のやった
手法を真似ればよいのか⋮⋮﹂
端で聞いていたアレクサンドロシアちゃんが、ふむと腕組みしな
1233
がら﹁一考の価値があるの﹂などと言っている。いや別に信長は全
裸を貴ぶひとではなかったと思うけどな⋮⋮
それでも、どうやら俺たちの元いた世界の事でも何となく理解で
きたらしい。
﹁それなら、あたしとシューターのけけけっ結婚は、いったん婚約
と言うカタチで公表して、時間稼ぎするのがいいと思うわ。その間
に外交使節でシューターには辺境歴訪をしてもらって、後ろ盾に騎
士修道会がいるというのを大いに利用すればいいと思うの﹂
﹁なるほどな、それは名案だ。どう思うアレクサンドロシアちゃん、
これで俺たち結婚出来るんじゃないですかね﹂
桜色に染めたままの顔で考え込んでいた女村長に向き直ると、彼
女はまた改めて俺を見上げて来た。
﹁そ、その。シューター。本当にわらわでも良いのか? わらわは
もう三十路にかかった大年増であるし、お前の若い妻たちに比べれ
ばいまひとつ魅力に欠ける事は自覚しておる⋮⋮﹂
﹁そんな事はない。アレクサンドロシアちゃんには大人にしか出せ
ない魅力があるし﹂
﹁ほっ本当か、わらわは政治だけで結婚するのはもう嫌だぞ⋮⋮﹂
﹁大丈夫だ、何の問題も無い﹂
いやあった。
カサンドラにちゃんと許可を取ってから、ふたりの結婚の事は進
めないといけない。
タンヌダルクちゃんの時みたいに悲しませてはいけない。
というか、こんなに嫁が増えるとなれば、やはりカサンドラは悲
しむのだろうか。
1234
﹁まず、カサンドラにこの事を相談してから、話を進めようね﹂
﹁もちろんである。何を持っても正妻をたてねばならぬしな⋮⋮。
これはわらわがカサンドラに言い出したことであるから、しっかり
守らねばならぬ﹂
近頃、正妻正妻と言っていたのは、アレクサンドロシアちゃんの
教えだったのか⋮⋮
だがとにかく、これで騎士修道会を味方につける事は出来るだろ
う。
後はカサンドラの了承をまず得るまで仮の条件という事で話を進
めて、そして辺境歴訪となるのかな。
﹁とにかく、これで騎士修道会に片手落ちの状態で交渉を進めるこ
とは避ける事が出来るな!﹂
少し気を取り直した女村長は、うんうんとひとりうなづいて立ち
上がった。
しかし、このまま一気に奥さんが増えてしまうとは誰が想像した
であろうか。
いや、俺だって驚きだ。
服を着替えると宣言して部屋に戻っていった女村長を見送って、
しばらくすると雁木マリも騎士修道会の仲間たちに話してくると出
て行った。
第二回目の会談は午前中、昼食の前にするというからまだ時間が
ある。
宿泊所の談話室に残ってため息をついていた俺は、ふとぼけーっ
と立っていたエルパコを見やった。
﹁どうしたエルパコ。君もここに来て座りなさい﹂
﹁シューターさん⋮⋮﹂
1235
﹁どうした?﹂
﹁ぼっぼくも結婚したい。ひとりだけのけものは寂しいよ⋮⋮﹂
えっ。
1236
101 両頭会談は落としどころを見つけた様です
騎士修道会総長カーネルクリーフとサルワタ騎士爵アレクサンド
ロシア・ジュメェの二度目の会談は、その日の午前中に行われた。
今回の会談には当事者のひとりとして俺も参加するように女村長
に命じられている。
というか、当事者がこの場に三人もいるのがとても不思議だ。
俺、アレクサンドロシアちゃんに、雁木マリ。
鷲鼻のカーネルクリーフめ、この時ばかりは状況を楽しんでいる
助兵衛親爺そのものの顔で俺たちを参加しているので腹が立つぜ。
あんたはそれでも聖職者の最高指導者なのか!
﹁では昨夜の会談の内容についてのご回答をお聞かせ願いたいが、
アレクサンドロシア卿。よろしいだろうか?﹂
﹁うむ、あれから後にわらわたちもよくよく検討をさせていただい
ての⋮⋮﹂
おおむね前回の会談中に騎士修道会からの条件は言い渡されてい
たし、逆にこちらがどう対処するかという点についても、早朝から
村の一同が集まって善後策を協議していた。
善後策と言えば聞こえがいいが、俺とアレクサンドロシアちゃん、
そして雁木マリが結婚するという事でお互いに確認したというだけ
の話である。
ただし、これらはそのまま今すぐに行われるというものではない。
俺には正妻のカサンドラがいるので、まず先に報告と相談をしな
ければならない。
1237
こう書き記すとまるで俺が恐妻家の様に見えるかもしれないが、
むしろ愛妻家だと言ってもらいたいね。
問題なのはそこではなく、そういう口実を作って、今すぐに俺と
雁木マリの結婚が進むことを阻止しようというのが本当の狙いだっ
た。
今すぐに結婚ともなれば、俺は外交使節団に出かけることもでき
ず、ただちにブルカに向かわなければならず女村長としては計画が
大幅にくるってしまう。
俺と雁木マリは、騎士修道会とサルワタ領の意向によって将来的
には結婚する。
つまりは婚約という形をこの会談で取り決めたいのである。
﹁前向きには検討させてもらっておるが、今すぐにカーネルクリー
フどのにご提案いただいた内容を許諾することはできぬ﹂
﹁つまり、聖少女ガンギマリーと騎士シューターどのの結婚は、今
しばらくは無理だと﹂
昨夜と同じ教会堂の礼拝所において、お互い最前列に腰を掛けた
指導者同士が顔を向き合わせる。
俺と雁木マリは立ったままで、事の成り行きを静かに見守ってい
た。
﹁わらわとしても、これから外交使節団を送り出さねばならぬ立場
ゆえにな。使節団の使者は騎士シューターだ、よって外交団の使節
がリンドル、オッペンハーゲンと交渉を行い、ブルカに入城した後
にこれを正式のものとして発表していただけると、わらわとしても
非常に助かる﹂
﹁おおっ、それでは余らと貴卿とは外交使節の歴訪を終えて後、晴
れてお身内となる事が出来るのだな。それではアレクサンドロシア
1238
卿ご自身のご結婚については考えてくださったか﹂
﹁も、もちろんその事についても鋭意検討しておるところである﹂
少し言葉を濁しながらアレクサンドロシアは言葉を続けた。
﹁これについても先ほど申し上げた通り、まず外交使節の使者・騎
士シューターの夫妻がブルカにて辺境伯に対する抗議文を提出する
にあたって後、行うのがよろしいだろう。まずもってシューターの
正妻カサンドラにこの事を報告し相談しておくのが筋道であるから
な﹂
﹁ふむ、兵は神速を貴ぶとという。可能であれば電撃的に余らの関
係を周辺に公表し、辺境伯の動きを封じるのがよろしかろうと余は
考えるが、それは難しいか﹂
﹁タイミングというのは重要だわ。ドロシア卿の側にも都合はある
と思うし、あたしたちもどのタイミングで公表するのがもっとも効
果的か、精査する必要があるの﹂
女村長とカーネルクリーフの顔を交互に見ながら雁木マリが言っ
た。
確かにその通りだろう。
今朝の話し合いの中でも多少触れていた事だが、俺たちの同盟関
係の発表は、早すぎても遅すぎても敵対する事になるブルカ辺境伯
に時間的余裕を与える事になる。
﹁ふむ。水面下でサルワタ領の外交交渉を進め、余たちも別の対策
を講じるのがよいという事だな﹂
その背後にはもちろんアレクサンドロシアちゃんの考え、そして
俺の本音でもある俺自身がどうやればブルカに出向せずに済むかと
いう点もある。
1239
﹁しかし、騎士シューターどののご夫人に許可と相談が必要という
のは、どういう事であるか﹂
﹁俺の妻には家の内向きのことはすべて任せておりますので、他の
妻たちとの実家の調整は彼女に任せているのです⋮⋮﹂
﹁なるほど、いやシューターどののご夫人は恐妻であるか﹂
カーネルクリーフはわずかに聞こえるか聞こえないかという声音
で、チラリと雁木マリの顔を見ながらそう口にした。
恐縮した顔をして俺は総長を見ておく。
俺自身が恐妻家と思われる事は、この際ありがたい事かもしれな
いしな。ここは何と思われようが実を取る方が先決だ。
﹁では余たちとしても、ただちに出来る手立てを打つ事にせねばな
るまい﹂
﹁そうね。まずはオーガたちの被害調査の一環という事で、サルワ
タ領に騎士隊の派遣を検討しましょう﹂
﹁規模はどの程度がよいか。支隊か、少なくとも分隊程度は送り出
しておく必要があるな﹂
﹁あまり目立った数でない程度がいいわ。かと言ってブルカ辺境伯
に無視される数字ではな意味がないし、分隊単位がいいと思うわ﹂
騎士修道会側の人間が、俺のよくわからない単位で派遣を検討す
る騎士隊の数を口にし始めた。
詳しくはわからないけれど、昨夜カーネルクリーフの護衛たちと
話しているときにも、騎士隊という単位と小隊という単位が出てき
たはずだ。
たぶんこれはこの世界の軍隊規模の単位を指す用語なのだろう。
﹁騎士隊の分隊というのはどの程度の規模なのでしょうかねえ﹂
1240
﹁修道騎士だけで編成した二〇人規模の集団よ。分隊をいくつかあ
つめて騎士隊を編成、分隊の下には小隊があるわ﹂
﹁なるほど。支隊というのは?﹂
﹁騎士隊から分派した遊撃部隊というところね。さすがに騎士隊規
模で送り出すとなればブルカ市中でも目立つと思うし、小隊を送り
出したというのでは意味がないわ﹂
俺のために説明をしてくれる雁木マリ。
そこに女村長が顔をあげて俺の方を見た。
﹁今、村に派遣されている野牛の兵士たちは何人だったかの﹂
﹁義兄にはごっそり居留地から二〇人ばかりを連れてきていると聞
いていますけどね、村全体を守るのにどれぐらいの人間が必要なの
か、さすがに見当もつきません﹂
俺は異世界の軍事事情についてははっきり言ってとても疎い。
何しろ総人口がどのぐらいいて、それぞれの領主がどれほどの軍
事力を抱えているのかも知らないのだから、村に駐留している野牛
の兵士がどの程度の抑止力を持っているのかも、よくわからなかっ
た。
なので、このあたりの話は貴族軍人出身である女村長や、武装教
団組織である騎士修道会のみなさんにお任せするのがいいだろう。
﹁ふむ。調査の名目で送り出すのであれば、やはり分隊規模という
のがよいかな。アレクサンドロシア卿、いかがか﹂
﹁わらわとしてはそれで異存はない。いったん村にわらわが戻った
のち、村でその旨の触れを出すので、いつでも送り出してくれるが
よろしいだろう﹂
﹁うむ。それでは余は聖堂会に戻り次第、人選に取り掛かることに
しよう﹂
1241
﹁それと助祭マテルドを引き渡すのであれば、その人間も送り出し
てくだされば助かる。この期に及んで、辺境伯がどう動くかわから
ぬでな。場合によっては口封じをけしかけるという事も考えられる﹂
﹁あいわかった。余の周辺警護についておる三人の修道騎士を向か
わせるゆえ、そのあたりは安心してくださるがいいだろう。彼らは
優れた軍人たちだ﹂
三人の修道騎士というのは、副官のスウィンドウ氏、軍事訓練の
格闘教官イディオ氏、そして元猟師のハーナディン氏の事だろうな。
この世界のムキムキ男性とは違った痩せ身の彼らを見て俺が思っ
たことは、例えばギムルや冒険者ダイソンがプロレスラー体系なの
に対して、彼ら修道騎士三名は軍の特殊部隊に所属している隊員み
たいなイメージだった。
どちらがいいという事はないのだろうけれど、非常に無駄のない
体のつくりである。これは雁木マリの体のつくりも似たところがあ
って、アスリート体系ではあるのだろうけれど、そこからさらに実
用的な体になっているという印象だ。
これと共通した人間と言えば、俺の記憶の中にあるのは美中年カ
ムラである。
カムラは明らかに武術の達人体系というか特殊部隊の隊員めいた
体のつくりだった。
やや細く、そして質実剛健。
﹁わらわとしてはシューターがその警護に当たってくれるのがもっ
とも信頼出来るのであるが、今回は外交の要件も頼んでおるのでの﹂
﹁ほほう、騎士シューターどのはそれほど頼りになるか﹂
﹁確かにそうね、シューターなら安心して任せられるけれど、そこ
はしょうがないわ﹂
1242
ちょっと持ち上げすぎじゃないですかね。
女村長に続いて雁木マリまで持ち上げるものだから、カーネルク
リーフの視線が何となく怖い。
またいつぞやの野牛の族長とやったパンツレスリングみたいに、
競わせてみようなどと言われては困る。
﹁自分の身を守る程度には﹂
﹁謙遜する必要はないわ。けど今回はあの三人に任せましょう、彼
らも十分に優秀な修道騎士だからあなたも安心して﹂
メガネの縁を持ち上げて見せたマリがそう言って笑った。
とんでもない話で、俺は別に彼らを問題視なんかするつもりはな
い。たぶん普通に戦えば経験の差で彼らに軍配が上がることは間違
いないのだ。
何度でも言っておくが、俺はあくまでも県大会三位程度の実力だ。
同じ県にだって俺より強いヤツがふたりもいたわけだし、全国に
はもっとヤバいヤツがゴロゴロいるのだ!
﹁他に何かサルワタ領で問題になっている事などはないだろうか、
アレクサンドロシア卿?﹂
﹁そうだの。常に不足していることは開拓のための人材というとこ
ろだろうか⋮⋮今後特にブルカとの交流が途絶えるとなると、人間
の流入が極端に少なくなる事になる。ブルカと敵対しながらもその
周辺から求めるとなれば、それらの人間の中にスパイが紛れ込んで
いる可能性もあるゆえな﹂
無作為に移民を受け入れていると、おっさんの姉マイサンドラや
カムラの様な人間が入り込んでしまうことになるからな。
ある程度の精査は必要だし、なかなか難しい事は確かだが信用の
おける移民がほしいというのも実情。
1243
﹁では蛮族の反乱で起きた戦災難民など、聖堂会で預かっている人
間を送り出す事はいいかもしれん﹂
﹁いいわねそれ、どうかしらドロシア卿?﹂
﹁ふむ。それをどのような理由で行うつもりだ﹂
三人が顔を合わせて試案しているので、俺が思いついた事を口に
する。
隠れ蓑があれば何だっていいんじゃないか。
﹁オーガ出没の原因究明のために調査キャンプを設営するという名
目で、労働力として送り出すのなら名分が立つんじゃないですかね。
まず今不足しているのは湖畔の築城、集落建設の労働力だから、そ
こに絞って人を送り込めばいい﹂
﹁それだと大規模なものは出来ないでしょうけれど、当座の労働力
確保にはなるかもしれないわね﹂
﹁なるほど。わらわもそれであるならば賛成だ、総長どのいかがか﹂
﹁問題ないだろう﹂
そんな次第で、残りの細かな事を打ち合わせた上で、二度目の会
談は終了となった。
この後に、ツダ村の司祭が作成した協定合意文書を二通用意し、
お互いに保管しあう流れになるが、それはまた後程である。
そして礼拝所から出る直前。
﹁軍事教練を受ける際には、ぜひ余も立ち会ってその実力を観覧さ
せてもらうことにしよう﹂
案の定、カーネルクリーフがそんな不穏な発言を最後に口にした。
絶対に軍事訓練など受けてたまるものか、俺は村から外には出た
1244
くないからな!
ホーリー・ブートキャンプ
俺は心の中で激しく反発した。
この齢になって騎士修道会の軍事教練なんてまっぴらごめんだよ!
そもそも体力的についていく自信がない⋮⋮
1245
102 さらば奴隷の日々よ︵前書き︶
本日の更新ふたつ目になります。
1246
102 さらば奴隷の日々よ
サルワタ騎士爵アレクサンドロシアと騎士修道会総長カーネルク
リーフとの間で取り交わされた協定合意文書は、改めて教会堂の礼
拝所、女神像の神前で行われた。
ツダ村司祭さまが羊皮紙に二通の文書を作成し、これを騎士修道
会側は副官のスウィンドウ氏が、サルワタ領側は雁木マリが確認を
行った。
本来マリは騎士修道会の人間だが、すでにサルワタの森の開拓村
に移住した立場ではあるし非公式とは言え俺の婚約者だ。
本当なら女村長の助言者という立場で言うと俺がそれをするべき
だったのかもしれないが、残念ながら俺はこの世界じゃ文盲だ。
密かに自分の名前だけは書けるように練習しておいたのだけれど、
今回はそれが役に立つことはなかったね。
残念!
もんごん
﹁も、文言の確認はこれでよろしかったでしょうか⋮⋮﹂
﹁問題ないわ。スウィンドウ、どうかしら?﹂
﹁拝見したところ、これでいいのではないかと思います﹂
たぶん達筆なんだろう文章で書かれた書面を確認したマリとスウ
ィンドウは、互いにうなずきあってそれをそれぞれの指導者に差し
出した。
女村長とカーネルクリーフが、署名用の専用台の前で人差し指の
先をナイフで切ってみせ、その血でペンを走らせて署名する。最後
に指紋の捺印だ。
1247
﹁これで互いに余らは文字通り身内となったと言える﹂
﹁まだ世間には公表出来ぬ事ではあるがな。シューターには必ずや
辺境歴訪を成功させ、ブルカ辺境伯には抗議文、いや弾劾を行わね
ばならぬ﹂
﹁いい結果をブルカで聞ける様、互いに今できる事なそうではない
か﹂
ふたりとも指先の止血を雁木マリから受けた後、女村長とカーネ
ルクリーフの間で握手が交わされた。
外交使節団の使者として、俺のしなければならない事はデカいな。
◆
騎士修道会とサルワタ領の相互が教会堂の食堂に並んで昼食を取
る事になった。
上座に位置するのは当然、女村長とカーネルクリーフである。
そこから俺と雁木マリがそれぞれ向かい合って、その後にそれぞ
れの従者が並ぶ。
今日もツダ村の教会堂関係者たちが手づから料理を用意してくれ
たのだけれど、みんなの食事に向かう姿勢はずいぶんと和やかなも
のだった。
ごく一部を除いてね⋮⋮
﹁シューターさん﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁ぼ、ぼく、まだ返事を聞かせてもらってないよ﹂
﹁そうだね⋮⋮﹂
1248
俺のすぐ隣の席に座ったけもみみが、食卓の下側で俺の袖を引っ
張った。
もちろんエルパコの要件は、彼女の言い出した結婚への俺の返事
であるのだ。
重要な会談の直前だったために俺はその場で返事をする事を先延
ばしにしてしまった。
男児としてこれは非常に恥ずかしい事の様にも思っていたけれど、
言い訳を許してくれるのならば仕方がないことだった。
ただひとこと﹁カサンドラに相談をして、からな﹂と言ったのだ
けれど、これは雁木マリに対してもアレクサンドロシアちゃんに対
しても口にしたことだ。
ここでエルパコひとりだけに﹁いいね!﹂とふたつ返事で答える
わけにはいかない。
ちなみに俺自身がエルパコとの結婚をどう思っているかというと、
正直を言えば﹁考えた事も無かった﹂というのが本音である。
はじめて顔を合わせたのはブルカから、サルワタの森の開拓村を
目指して移民団が冒険者ギルドを出発した時の事だった。
銀髪の獣人は胸が少しばかり残念な女の子という認識だったけれ
ど、後々それは本人の口から男の子だ言われ、それもまた事実と間
違っていて見た目通りの女の子だという事が発覚した。
ただし付いている。
何が付いているかというとナニが付いていたわけだが、これは一
緒にお風呂に入った時に俺もカサンドラもタンヌダルクちゃんも確
認した事だ。
しかし外堀は着々と埋められていたのではないかと、後になって
俺は思ったね。
何しろ村のご近所さん方は、エルパコの事を俺の愛人と認識して
いたらしい。
1249
そもそもが奥さんのカサンドラ本人からして﹁そんな事じゃ立派
なシューターさんの奥さんにはなれませんよ﹂などと口にしていた
のを、このけもみみにプロポーズされてから思い出したのである。
こうなってしまっては逃げ場がないわけだが、もちろん俺はエル
パコの事を大事に思っているわけだ。
何しろ家族だからな!
だが家族と言ってもそれは様々ではないか。
夫婦も家族というのなら、親子も家族である。
または自分の弟や妹、兄や姉だって家族なわけで、ペットも考え
方によっては家族というだろう。
我が家のペットと言えば肥えたエリマキトカゲみたいな存在のバ
ジルである。
近頃は食べ盛りも過ぎたところがあって、肥えた見た目がますま
す肥えていたのであるが、俺たちが留守にしている間に、またひと
まわり大きくなるんじゃないかな。
もちろん横にも。
けれどもエルパコを家族としてどういう位置づけに考えていたか
と言うと、これは俺の中で難しかった。
俺も男だから女の子をかわいいと思うことはある。
いいわけをすれば、エルパコが付いてはいるけれど女の子だとわ
かった事で、少しはそういう眼で見た事は⋮⋮あった。
何が付いていようと女の子は女の子だからな、差別はいけない。
野牛の奥さんをもらった時点でそんなことは考えていなかったの
だが。
どちらかというと、けもみみはバジル寄りの心情だったのも事実
だ。
1250
﹁やはり腸詰めのひき肉は美味だな。ブルカでも出回ってはいるも
のだが、あまりブルカ聖堂の食卓に並ぶ事はない﹂
俺の服を引っ張っているエルパコにどう返事をしていいものかと
苦い顔を浮かべていると、上座ではふたりの指導者たちの話に花が
咲いていた。
﹁そうなのか。わらわもブルカ郊外の生まれではあるが、これを口
にしたのは昨夜がはじめてだ。村への手土産にと少量だが市場で買
い求めたぐらいだからの﹂
﹁豚面の猿人間たちは、あまりブルカの街にはやって来ぬからな。
彼らはその容姿からあまり快く街の人間から受け入れられないとこ
ろがある﹂
﹁ふむ。そのあたりはゴブリンも似たようなものだ﹂
﹁ほう?﹂
﹁わらわもこれでゴブリンハーフだからな﹂
そうだ。差別はいけない。
ならばやはり結婚はしなければならないな。
けれど、女の子として改めてエルパコを観察すると、やはりかわ
いい。
﹁シューター、さん⋮⋮﹂
﹁仲間外れはしないから、ちゃんとカサンドラに報告して相談な﹂
﹁うん⋮⋮義姉さんにちゃんと許可もらうよ﹂
かわいい。
俺は口周りの筋肉がどうにも緩んでしまうのに苦慮しながら、ト
マトと挽肉の腸詰スープを口に運んだ。
油断すると口から零れそうになってしまうのがやばい。
1251
そうしながらふと視線を感じて正面を向くと、そこには俺と視線
を交錯させてやや上気してみせた雁木マリがいた。
伏し目がちになりながら上目遣いに微笑んで見せつつ、黒パンを
口に運ぶマリ。
やはり俺はいまモテ期が到来しているのだろうか。
元いた世界では決して得られなかった感覚に、俺はどうしていい
のかわからなくなるのである。
カサンドラは俺がいっきに三人の奥さんを迎え入れるというと、
どんな反応をするだろうね⋮⋮
◆
パイ
昼食を終えた後に騎士修道会の一同はブルカへと引き上げる事に
なった。
鉄皮合板の鎧の上からΠ記号みたいな刺繍の施された灰色の法衣、
そしてその上からさらにマントという出で立ちの修道騎士装束。
教会堂前の敷地から、カーネルクリーフとその護衛たる三人の幹
部修道騎士たちはその身も軽やかに馬上のひととなると駆け出した。
﹁それではシューター、総長を送ってくるわね﹂
﹁おう。ツダ村で待っていればいいんだな﹂
﹁夜半には戻れると思うから。ドロシア卿もそれまでこちらでおく
つろぎください﹂
﹁うむ。ではカーネルクリーフどのをよろしく頼む﹂
最後まで残っていた雁木マリだったが、俺たちと約束を交わした
のちに馬首を翻して先行する修道騎士たちの馬列に向けて走り出す。
1252
﹁シューターよ﹂
﹁何でしょう村長さま﹂
﹁お前がまさか女神のご意思によってこの世に降臨した使徒だとい
うのには、わらわも驚いたよ﹂
﹁俺も驚きなんだよなあ﹂
﹁そうだのう。てっきり全裸を貴ぶ部族だと思っていたさ。それと
も、ガンギマリーどのもやはり全裸を貴ぶ部族だったのかの?﹂
とんでもない。
そこのところはしっかりと否定しておかないと雁木マリ、ひいて
は日本人の沽券にかかわるところである。
裸の付き合いという言葉はあるが、それは時と場合によりけりだ
からな!
﹁本人の前で言ったらグーで殴られるからやめましょうアレクサン
ドロシアちゃんっ﹂
﹁ふふふ、少し肩の荷が下りた気分だな。話があるゆえ、お兄ちゃ
んはちょっと付いてまいれ﹂
上機嫌に笑った女村長は、俺の言葉も待たずに歩き出した。
向かう先は宿泊所の寝所だが、仕方がないので俺もけもみみもエ
うまや
レクトラもその後に続く。
移動の途中、厩の前を通過して先ほどより二頭馬が増えている事
にふと気が付いた。
騎士修道会の連中が自分たちの馬を連れて出て行ったのだから、
減っていないとおかしいはずなのにである。
﹁あれ、ダイソンが戻ったのですか?﹂
﹁うふふっ﹂
1253
俺がふと気になった事を女村長にぶつけてみるけれど、あっさり
とそれは無視されてしまう。
隠し事をする様な事でもないだろうにと首をひねりながら後ろを
振り返ると、今度はエレクトラも俺から視線を外す。
けもみみだけはほげーっという顔を俺のほうに向けて一緒に首を
かしげてくれたけれども、それじゃ疑問は何も解決しない。
﹁エレクトラ、お前何か隠しているな﹂
﹁シューターさん、あたしを困らせないでくださいよ﹂
困っているのは俺の方だと文句のひとつでも言いたいところだが、
先々行く女村長を置いてはいけないので、仕方なくそれに従った。
まったく、何なんだよもう。
寝所に戻ってくると、朝から肖像画の最後の仕上げをやっていた
はずのヘイジョン氏の姿が見当たらなかった。
そして寝所の入り口のところで振り返った女村長は俺とエレクト
ラ、けもみみの顔を見比べた後にこう言う。
﹁しばらく内密の話があるゆえ、お前たちは席を外している様に。
それからエルパコは、﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁これを絵師ヘイヘイジョングノーのところへ届けよ。大した額で
はないが、騎士修道会銀貨が十枚ばかり入っている。謝礼だと言っ
て渡すのだ﹂
女村長の命令にふたりが頷いた。
なるほど、あのアレクサンドロシアちゃんの肖像画はいつの間に
か完成していたのか。
それなら俺からもヘイジョンさんに言っておきたい事があるのだ
1254
った。
﹁エルパコ、ついでに俺からも頼まれてくれるか﹂
﹁?﹂
﹁ヘイジョンさんに、俺たちと一緒に外交使節団に加わる気はない
かと聞いてくるんだ﹂
﹁うん、わかった﹂
﹁付いて来てくれるのなら、衣食住の保証ぐらいはしてやれると言
ってくれるか?﹂
そう俺が口にすると、エルパコはこくりと頷いて﹁まかせてよ﹂
と小さく返事をした。
ふたりが廊下を遠ざかるのを見届けてから女村長は俺を室内に招
き入れて、そして扉を静かに閉める。
﹁お兄ちゃんはどうしてあの様な事を言ったのだ﹂
﹁ああ、ヘイジョンさんの事ですか﹂
﹁そうだ。確かにあの者の画はなかなか素晴らしいけれども、そう
いくつも肖像画があっても困るであろう﹂
﹁まあそうですね。けど結婚の記念に家族そろっての肖像画という
のも悪くないと俺は思うんだよなあ﹂
ふと思いついたことを俺が口にすると、突然アレクサンドロシア
ちゃんの顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。
まだ自分が俺と結婚するという現実が気恥ずかしく感じられるの
かな?
俺もこの展開には驚きを隠せないでいるから当然か。
﹁そ、そういうのは確かにありだな。せっかくだからギムルの結婚
祝いにするのがいいだろう﹂
1255
﹁ギムルさん、結婚するんでしたね﹂
﹁まだ本人からは報告はないが、お兄ちゃんと聖少女どのが結婚す
るまでにはさせておかねばなるまいよ﹂
顔を朱色にしたまま俺のほうを見上げて女村長が言った。
﹁それならちょうどいいじゃないですか。俺としては外交へ行く先
々で、少しでも俺たちが取り入るための手管は多いほうがいいと考
えたのでね﹂
﹁手管か?﹂
﹁物事を進めるために必要なのは八割がたが段取りと言いますから
ね。根回しをいかにしておくかが基本なんですよ﹂
むかし俺が父親の紹介でとある社長さんの運転手をしていた頃、
そんな話を聞いたことがあった。
ビジネスの基本は段取り八割。
実際のプロジェクトが動き出すまでに、いかに段取りを重ねて根
回しをしておくかが成功の秘訣なのだという話だった。
ひとつの商売を成功させるためにはまず多くの味方を作り、この
プロジェクトに理解を示してくれる人間をどれだけ作るのか、とい
うわけである。
さしずめ俺たちが進めている反ブルカ辺境伯同盟の結成のために
は、味方に引き入れるべき諸侯の周辺から、まずは攻略しなければ
ならない。
﹁要はこれから向かうリンドルやオッペンハーゲンのご領主さまが
たにお話を聞いていただくために、それぞれの領内の幹部の方々を
味方に引き入れたいわけですよ﹂
﹁ふむ。それがどうして絵師を捕まえておく事に繋がるというのだ﹂
﹁彼の腕前はアレクサンドロシアちゃんも知るところでしょう。写
1256
実のテクニックに加えて、なかなか綺麗に纏める力もある﹂
俺がそういって女村長の顔を見やると、何やら彼女は不機嫌そう
に鼻を鳴らして見せた。
﹁その様な物言いでは、まるでこの肖像画のわらわが、実際のわら
わよりも美しく描かれている様な物言いではないか。不愉快だぞお
兄ちゃん!﹂
http://15507.mitemin.net/i1685
22/
<i168522|15507>
﹁いやあ。確かにこの肖像画は素晴らしい出来栄えだし、アレクサ
ンドロシアちゃんの特徴をよく捉えているとは思いましよ。だけど
本物のアレクサンドロシアちゃんはもっとかわいいからなぁ﹂
﹁かっかわいいだと?! わらわをからかうものではないっ﹂
﹁き、気を悪くしたのならごめん﹂
﹁大年増にもなって、かっかわいいなどと⋮⋮﹂
慌てて俺が謝罪すると、アレクサンドロシアちゃんはブツブツ何
事かを言いながら下を向いてしまった。
やっぱりそういう態度を取るアレクサンドロシアちゃんかわいい!
﹁こほん。ととにかくだ。絵師ヘイヘイジョングノーが有用である
事はわかった。わらわにやった様に諸侯の女子どもの肖像画を描か
せて喜ばせておけば、何かの役に立つかもしれんしな。それに、﹂
﹁それに?﹂
﹁あの者が風景画でも描けるというのであれば、道中の街の見取り
図のひとつでも描かせるのがいいだろう﹂
1257
﹁おお、なるほど! いざ敵側に回った領主がいれば、何かの参考
になるかもしれないですね﹂
そういう事だ、とようやく平静を取り戻したらしい女村長が頷い
て見せた。
﹁さ、さて内密の用事があるというのは他でもない﹂
安楽椅子に腰を落ち着けた女村長が、そこから手を伸ばして小さ
な棚から巻物をひとつ取り出した。
その羊皮紙は先ほどの騎士修道会と取り交わした協定書簡で無い
事は確かだ。
あれは互いに調印しあった後に、いったんは蝋蜜で封を施したか
らな。
とするとこれは何だ。
﹁これが何か気になるか。ん?﹂
﹁そりゃまあ、気になるかどうかで言えば気になります﹂
﹁そうであろう。まあ喜べ﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
いったい何が起こるのかわからないね。
そう思っていると女村長の口角が吊り上がった。
﹁ではまず、お兄ちゃんは服を脱げ﹂
﹁え、ここでか?﹂
﹁そうだ。四の五の言わずに早くするのだ﹂
唐突にそんなことを言い出すものだから俺は戸惑う。
まさか、人を遠ざけておいていけない夜の営みに、昼間のうちか
1258
ら及ぼうというのでは⋮⋮
言われるままにシャツに手をかけて俺は黙ってそれを脱いだ。
﹁ふふふ。相変わらずいい体をしておる﹂
そう言ったドロシアちゃんが身を起こして寝所と続きになってい
る奥の部屋を覗き込むようにして口を開く。
この奥の部屋は小さな納戸になっていて、俺たちの旅道具が放り
込まれているだけであったが、はて。
﹁よいぞ、その方顔を出せ!﹂
﹁おーっほっほ。いつまでわたくしをお待たせになるのかと、首を
長くしてお待ちしておりましたのよ﹂
張りのある女村長の言葉に応えて、奥の納戸から女性の声音が聞
こえてきた。
顔を出したのはたまらず二度見してしまう様な、窓から差し込む
陽光に煌く金髪の美人だった。
たぶん、女性だ。エルパコの時みたいにややこしい事はない。顔
も白人っぽい美女であるし胸には豊かなふくらみがある。
たこあし
だがややこしいのは性別ではない。
その女性は蛸足の猿人間だったのである。
﹁殿方とのお話はお済になられたかしら?﹂
﹁は、恥ずかしいところを見せてしまったな。もう話は済んでおる﹂
﹁あら、へそピアスもなかなかお似合いの殿方だこと﹂
俺の上半身裸姿をじっとり舐めるように見回したその蛸足美人は、
そのまま流し眼を送ってくる。
が、そのぬるぬると動く触手に俺は釘づけだ。
1259
﹁わらわが王宮の軍へ入営していた折の同期でな、名をカラメルネ
ーゼというのだ。当時は国王の騎士たる貴族軍人であったが、今は
退役したのだったかの﹂
﹁そうですわね。お初にお目にかかりますシューター卿、国王の騎
士号を授かるカラメルネーゼでございますわ。またの名を奴隷商人
カラメルネーゼ﹂
﹁ど、奴隷商人⋮⋮﹂
も、モノの本によれば国王より直接騎士号を授かっているという
事は、王の直臣という事になるそうだ。
同期である女村長ももまた然りで、このファンタジー世界の位階
に当てはめるのなら、爵位のひとつという事になる。つまり騎士爵
というお貴族さまだ。
俺もまた女村長より騎士に叙勲されているが、これはただの階級
としての騎士であり、国王の騎士たるアレクサンドロシアちゃんや
カラメルネーゼさんとは身分が違う。俺は国王の陪臣たる騎士に過
ぎない。
わかりやすく言えば江戸時代の将軍様の家臣である大名や旗本御
家人と、大名旗本の家臣である藩士ぐらいの差があるといえばいい
だろうか。将軍様から見れば家臣の家臣。
つまりアレクサンドロシアちゃんやカラメルネーゼさんは大名で
あり、俺は藩士だった。
﹁父が王都で奴隷売買を商っておりますの。わたくしも今は辺境の
商流開拓をするために、やってまいりましたのよ﹂
﹁な、なるほど﹂
﹁ブルカまで足を延ばしたところで、アレクサンドロシアの実家に
手紙を出しましたの。そうしたら坊主頭の冒険者さんが、わたくし
をお迎えにおいでになったのですわ﹂
1260
いつぞやの名前の覚えられない奴隷商よりもかなり広域に手広く
人身売買をやっておられるカラメルネーゼさんは、ねっとり絡みつ
く様な視線で俺を見ながらそんな風に言った。
この蛸足触手に捕まったら、どんな男も逃げる事がかなわないだ
ろうな⋮⋮
﹁ごっ御託は良い。悪いがカラメルネーゼよ、この男の奴隷解放の
手続きをやってはくれぬだろうか﹂
お兄ちゃん
とお呼びすればよろしくてよ?﹂
﹁よろしいですわ。わたくしの事はお気になさらずに、先ほどと同
じ様に
俺のへそピアスに細い指を引っ掛けながら、カラメルネーゼさん
はそう言った。
そんな恥ずかしいところも俺たち聞かれていましたとさ。
顔をゆでダコみたいに真っ赤にさせたアレクサンドロシアちゃん
が、神経質そうに﹁いいから早くせよ!﹂と憤慨して見せた。
それにしても触手やべぇ。
どれが脚で、どれが触手なのか日本人の俺には皆目見当もつかな
いぜ⋮⋮
1261
103 一抹の不安を俺は覚えた
﹁それじゃあ、少しの間じっとしていてくれるかしら?﹂
艶のあるカラメルネーゼさんの言葉に少しドキドキしながら、俺
は心の内にある疑問を投げかけた。
内心不安でいっぱいである。聞けることは聞いておかないと⋮⋮
﹁い、痛くないですよね?﹂
﹁あら、はじめての時も痛くなかったはずですわ﹂
﹁⋮⋮ほ、ほんの最初の瞬間だけはやはり痛かった様な﹂
﹁なら最初だけ我慢すればいいのですわ。男の子でしょう?﹂
◆
俺は今、これから起こるであろう痛みに恐怖していたのだ。
やることは簡単である。
奴隷解放。
挑発的な視線を俺に送りながら、カラメルネーゼさんが俺のへそ
ピアスに指をかけ、引っ張って見せる。
これからこおへそリングを取り除くことで、体的にも奴隷の特徴
を無くそうというわけである。
すでにニシカさんがようじょ取り交わした際の奴隷契約書は、カ
ラメルネーゼさんによって破棄された後だった。
奴隷が装着するヘソピアスには、取り外しが効かない様に完全に
繋ぎ目が溶接でつぶされていた。
簡単に外れてしまう様では脱走される可能性があるからなのだと
1262
か。
なのでいったんピアスを通してしまった後に繋ぎ目ぶぶんを熱で
溶かしてしまうという荒業をするのだ。
ついでにその際に火傷をするのが、この奴隷化施術の恐ろしいと
ころである。
もうこれは便宜的な帳尻合わせにすぎないのだけれど、村長の強
制執行権でニシカさんから奴隷の権利を取り上げたという書類と、
それを開放する書類というのも、署名入りで作成されていた。
ニシカさんから権利を取り上げるのはこれは領主なのか村長なの
かの権限で可能なものなので、ニシカさんの署名捺印はいらないか
ら助かった。
もし不可能でも、もともとこのカラメルネーゼさんは必要ならゴ
ルゴライまで、あるいはサルワタの森の開拓村まで遠出をするつも
りがあったらしい。
﹁聞けばアレクサンドロシアがやる気になったというではないです
か。騎士見習いの同期としては、可能な範囲でお手伝い出来ればと
思っているのですわ﹂
そうやって俺と女村長の顔を見比べながら言ったわけである。
しかしヘソピアスは、ピアッサーなんて便利なものを使って明け
たわけではないので、どうするのかとビビっていたのである。
あの時は強制的にピアスをはめ込んだ後に、強制的に聖なる癒し
の魔法で傷を修復したのだ。
ちなみにその魔法を使ったのは、あの名前の長い魔法使いだった。
聖職者ではなくても使えるという事に当時驚いたものだが、効果
は助祭マテルドが行ったような高度なものではなく単なる止血であ
る。
1263
﹁それじゃ、いきますわね。ほら力を抜いて⋮⋮﹂
﹁っく﹂
﹁そんなに筋肉に力を入れたんじゃ、かえって痛いですわよ?﹂
﹁しかし、ですね﹂
﹁ほうら、わたしが優しくマッサージをしてさしあげますわ﹂
肌を露出した俺の上半身を、つつつと片方の指で撫でる。
筋肉の発達した場所に沿って、いくつもある触手の何本かが伝う。
こ、これは正直なんだか別の気分になってしまうね!
などと一瞬の油断をした瞬間、
﹁ッつが!﹂
走り出した触手によって俺の四肢が拘束され、熱したニッパーの
様なものでパチリとこれを切断されてしまう。
続けて、あれよあれよという間にへそピアスは引き抜かれてしま
った。
油断である。へその周辺というのは人間が想像するよりもずっと
皮膚が敏感で痛みに弱いんだね。
﹁お、お兄ちゃん大丈夫かっ?!﹂
﹁ちょっと痛かったけど、大丈夫です⋮⋮﹂
﹁おいカラメルネーゼ、おっお兄ちゃんはこれから結婚を控えてい
る大事な身の上なんだぞ。傷物になったりしたらどうするんだ﹂
いや、そこまで騒ぐほどは痛くなかった。
﹁ほら、痛くなかったでしょう?﹂
1264
だけど強引な手法で引き抜こうとしたカラメルネーゼさんには、
ちゃんと抗議しておかないといけない。
俺に続く犠牲者を出さないためにも!
﹁痛かったですよ!﹂
﹁大丈夫ですは、傷口はすぐに塞がりますわ﹂
何が大丈夫なのかわからないけれど、清潔な布に湿らせた消毒薬
品で何度もへその周りを清めて、その後に何かの薬草を揉んだもの
がガーゼとともに押し当てられる。
雁木マリなら聖なる癒しの魔法を使うかポーションで一瞬にして
治すところなのだろう。
けれども修道騎士ではなく、ただの騎士であるカラメルネーゼさ
んはごく一般的な処置をしてくれるだけだった。
さすが元いた世界の暗黒時代、中世ファンタジーなノリだぜ⋮⋮
◆
こうして俺は晴れて奴隷解放された。
ヘソのあたりに今もピアスがあったころの名残か違和感が残り続
けていたけれども、それもしばらくすればなくなるらしい。
﹁それじゃ、後の事は若いおふたりにお任せするとして、お邪魔虫
のわたくしはこれで失礼させていただきますわ﹂
などと口にしたカラメルネーゼさんは、妖艶な微笑を唇にたたえ
て女村長の寝所を退出していった。
呆れた顔をした女村長は﹁同期のくせに、まったくカラメルネー
ゼは﹂などと悪態をこぼしていたけれど、顔は真っ赤である。
1265
﹁しばらく安静にせよという事だったが、大丈夫かお兄ちゃん﹂
﹁まあ、別に手術をしたわけではないですしね。そのうちに雁木マ
リが帰ってくるでしょうから、聖なる癒しの魔法で処置してもらい
ますよ﹂
﹁そうだな。聖少女どのに見てもらうといい⋮⋮﹂
そう言ったきり、俺たちの間で会話は無くなってしまった。
どうしたもんかね。俺たちもういい齢なんだからもう少し大人の
人間関係というか、会話の間持たせぐらい出来てもいいものなんだ
がな⋮⋮
しかもどちらも結婚経験者である。
安楽イスに腰を落ち着けた女村長は、ぼんやりと窓の外を眺めて
いた。
俺はというと、施術が終わってからそのままベッドにいたので、
そのまま上半身裸のままあぐらをかいていた。
真夏の盛りという事もあって、久しぶりに上半身裸になっていて
もちょうどいいぐらいだった。
そんな馬鹿なことを考えていると、ふとこちらに視線を向けてき
たアレクサンドロシアちゃんがポツリと言葉を吐いた。
﹁とうとうお兄ちゃんはわらわのものではなくなってしまったの﹂
﹁⋮⋮何を言い出すかと思えば。こっこれから結婚すれば、また俺
はアレクサンドロシアちゃんのものになりますよ﹂
﹁そうではないぞ、お兄ちゃん。こういう言葉はあまり使いたくは
ないが、シューターはわらわからカサンドラに与えた夫である。で
あるならば、今のシューターは何を持ってもカサンドラのものであ
ると言えるのだ﹂
1266
何やらよくわからない理屈を口にして立ち上がったアレクサンド
ロシアちゃんは、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。
﹁支配者というものは勝手だの﹂
﹁どうした、またやぶからぼうに﹂
﹁わらわの都合でカサンドラにお前を押し付け、今度は必要になっ
たからと言ってカサンドラから取り上げる様な命令を出さねばなら
ぬ﹂
﹁これも世の中が世知辛いからですねえ。けど、アレクサンドロシ
アちゃんとの結婚、俺は嫌じゃないですよ?﹂
女村長は事ある度に自分の事を﹁こんな大年増の女﹂と卑下して
いるけれども、彼女には若い娘には出せない大人の魅力がムンムン
である。
﹁本当にそう思っているのか? わらわはまだ女として、お兄ちゃ
んの奥さんが務まるかの﹂
﹁大丈夫だ、問題ないさ﹂
このファンタジー世界の女性がよく着こなしている首周りをゆっ
たりと広く取ったその服装は、ただの女が着ているのではまるで魅
力が感じられない。
してみると、アレクサンドロシアちゃんは見る者から自分がどの
様に映っているのかを、まるで計算したようなファッションセンス
なのである。
もしかすると本人はそういうつもりではなく、まだまだ自分は若
い女なのだと言いたいがためにその服のチョイスだったのかもしれ
ない。
まあ聞くのはヤボというものなので、俺の心の中だけで感想をし
まい込んでおこう。
1267
そんな風に思っていると、俺の少し離れたところにいち度は腰を
下ろしたアレクサンドロシアちゃんが、気恥ずかしそうにすすと、
腰を近づけてくる。
﹁ならばせめて。お兄ちゃんの御身をカサンドラに返すまで、独占
してもよいかの﹂
﹁そうですね。俺でよければ⋮⋮﹂
この齢になってこんな気恥ずかしい会話をしたものだから、アレ
クサンドロシアちゃんの頬は先ほどにもまして朱色に染まり上がっ
て、かわいらしかった。
まだ昼間だけど、いいよね。
暑さから板窓を全開にしたのだけれど、閉めた方がいいだろうか。
チラリと見やった瞬間、こういう時に限ってけもみみあたりが護
衛任務と称して覗き見していそうな気がしないでもなかったけれど、
その姿も気配も感じられなかった。
もしかすると少し離れたところで聞き耳を立てているかもしれな
いなどと、いちいち気にしている様ではいけないからな。
お楽しみタイムの間はしっかりお楽しみに集中しましょう!
﹁まだ夜には早いぞお兄ちゃん﹂
﹁人払いの命令はまだしたまんまだろう? じゃあ大丈夫だ﹂
﹁う、うぬ⋮⋮﹂
俺はゆっくりとアレクサンドロシアちゃんの腰に手を回し、やさ
しく押し倒した。
◆
1268
正装のドレス姿から少し簡易的な服装に着替えた女村長と、これ
からの事を話している時の事だった。
﹁ひとまず騎士修道会との協定については交わす事が出来たけど、
あれって詐欺みたいな手法だったんじゃないんですかねえ﹂
﹁何か問題があったか?﹂
﹁だってほら、アレクサンドロシアちゃんと俺、俺と雁木マリの結
婚という形で両者の婚姻関係を形成する同盟だったわけじゃないで
すか﹂
﹁確かにそうだの﹂
﹁してみるとですよ。ギムルさまを結婚させてアレクサンドロシア
ちゃんが引退、爵位を移譲するという事になれば、騎士修道会とギ
ムルさまには直接の関係が無くなってしまうんですよ﹂
俺は協定の内容を詰めている間には特に気づかなかったけれど、
後々になって問題になるんじゃないかと思ったことを口にした。
せっかくの協定関係が成立しても、それでは詐欺めいた手法だと
罵倒されやしないかと思ったのだ。
﹁それについては慎重を期さねばなるまいさ。まずはわらわとシュ
ーターが結婚をする事。それからガンギマリーどのとお兄ちゃんの
婚約。ここまでをやっておいて、ギムルには早いところ結婚をさせ
る﹂
まあわらわがお兄ちゃんと結婚すれば、義息子も腹を決めるであ
ろう。と口元を緩めてアレクサンドロシアちゃんが言った。
﹁問題はどのタイミングで後継者指名をして爵位を譲るかという事
であるな。わらわとしては、この程度の手法は王都の貴族たちの間
1269
ではよく見られるものでな、特段気にするような事でも無いと思っ
ているのだが﹂
﹁けれど、対ブルカ伯協調のためには慎重を期した方がいいですよ﹂
﹁それならば、お兄ちゃんと聖少女どのが結婚をした後、ただちに
爵位を移譲する他はないな﹂
俺が元いた世界では、この種のせこい了承の取り方はビジネスの
世界でも多用される。
むかし俺はWEBマーケティングを専門とする会社でバイトして
いた事があった話は、以前にも振り返ったことがあった。
その会社ではよくWEBアプリなどを使ったデータバンクビジネ
スをセールスアピールに使っていたのだが、そういう場合に利用規
約を利用者にチェックさせて、同意をとる方法を徹底していた。
後で利用者がその事で不具合が発生した時に、文句をいってきて
も﹁でもあなたは利用規約に同意したでしょう?﹂と言えるように
するためである。
いわゆるパーミッションを取るというやつだが、これは利用者か
らすれば合法でも詐欺みたいな手法ではある。
﹁何か騎士修道会から文句を言われた時はどうします﹂
﹁その時は、わらわが義息子に爵位を譲る事で、この同盟関係は次
代にも続くという意思表示を世間に示したのだと説明すればよい﹂
女村長は澄まし顔でしれっとそう言ってのけた。
確かに、どんな契約書でも見落としがあった際の問題は、了承し
た側になるのだが⋮⋮
﹁本当に大丈夫ですかねえ﹂
﹁ま、まさかお兄ちゃんは、わらわとお兄ちゃんとの間に生まれた
子に、サルワタを継がせたいと思っているのか?﹂
1270
﹁いや、そういう事は考えたこともないですけども﹂
﹁ならばいいではないか。この話はこれで終わりだ。カーネルクリ
ーフどのにはその件、口頭でも触れておったゆえに安心いたせ﹂
﹁だといいのですが⋮⋮﹂
これ以上は話を抗弁するのもどうかと思い、少し俺は心の中で首
を捻りながらもすごすごと引き下がることにした。
まあ、このファンタジー世界の政治家・支配者であるアレクサン
ドロシアちゃんが言うのだから、大丈夫なのだろう。
大きく開けた背中を見せている女村長の背中を眺めていると、ふ
と寝所に近づいてくる気配を感じた。
近頃はこのファンタジー世界にもこの体が馴染みつつあるのだろ
うか、ずっと以前の元いた世界では考えられないほど、俺もちょっ
としたタイミングで気配を察知出来るようになってきた気がする。
まあもちろんニシカさんやッワクワクゴロさん、エルパコほどそ
の精度が高いわけじゃないんだけれどな。
そんな風に思っていると、少し足早にカツカツとブーツの底を鳴
らす音が床を近づいてきて、いよいよ寝所の扉の前で止まった。
数は複数。どうやら四、五人ぐらいらしい。
コンコンと扉を開く音は少し忙しなげで、何かあまりよくない知
らせを俺たちに知らせに来たような予感がするじゃないか。
俺と女村長は互いに顔を見合わせた。
ドレスの身だしなみを改めてから、女村長が声を上げる。
﹁よい、入れ⋮⋮﹂
ギイバタン。
許可を得たところで、護衛のエレクトラを筆頭に雁木マリ、エル
1271
パコ、そして騎士修道会総長の護衛のひとりとしてこのツダ村にや
って来た、もと猟師だという修道騎士の姿があった。
おや? 確か名前はハーナディンだったか⋮⋮
﹁お、お休みのところを失礼します。人払い中にもかかわらず⋮⋮﹂
﹁構わないさ﹂
﹁コホン。では火急の用事なので遠慮なく報告させてもらうわ﹂
申し訳なさそうにエレクトラがそういったが、あっさりと女村長
が手を振って返事をした。
そうしていながら、部屋の空気に漂う空気を敏感に察したらしい
雁木マリが、胡乱げに周囲を見回した後に俺たちの前に来た。
乱れたシーツへ一瞥をくれるマリさんの目線怖い!
﹁ブルカからツダ村に戻る途中の事だけど、こんなものが街道の脇
で見つかったわ⋮⋮﹂
内心に何を言われるのかと冷や冷やしていたのだけれども、どう
やらそんな事に意識を回している場合ではないらしい。
真剣そのものという表情で、マリが女村長と俺を見比べた後に、
修道騎士ハーナディンを見やった。
ハーナディンの手には羽毛のささくれだった、あわれな姿のカワ
ラバトが握られていた。
﹁アレクサンドロシア卿、これをご覧ください﹂
﹁何だこれは⋮⋮?﹂
﹁ご想像の通り、魔法の伝書鳩の亡骸です。脚に括り付けてあった
文筒が強引に外されています﹂
俺とアレクサンドロシアちゃんは互いに顔を見合わせて怪訝な顔
1272
をする。
ハーナディンの口にした意味を理解するのに、少しばかりの時間
がかかってしまった。
1273
103 一抹の不安を俺は覚えた︵後書き︶
遅くなってしまいましたが、昨夜分の投稿です!
1274
104 修道騎士ハーナディンの報告
修道騎士ハーナディンが俺たちに差し出したのは、一羽の伝書鳩
だった。
この世界での通信に使われているありふれた使役動物のひとつで
ある。
﹁どういう事だ。伝書鳩の死体があり、死体からは脚に付けられて
いる書簡筒が外されているのか?﹂
﹁そうですね。この鳩の脚が折れている事と、背筋がおかしな方向
にねじ曲がっていますよね、これは猛禽類に背後から襲われて蹴ら
れた痕だ﹂
あわれな姿になった伝書鳩を平気で持ち上げて見せたハーナディ
ンは、まず脚をぐいと持ち上げて状態を見せてくれたあと、ひっく
り返して背筋のあたりを指さした。
言われてみれば確かに脚は明後日の方向を向いているし、交通事
故にでもあった様に伝書鳩はくの字にへし曲がっている。
さすがに自分は元猟師出身の宗教戦士だと名乗るだけの事はあり、
こんな程度の鳩を触る様な事は手慣れたものなのかも知れない。
﹁たぶんこれは、意図的に渡りをしていた伝書鳩を撃ち落としたん
だと思いますよね﹂
﹁ほほう﹂
﹁アレクサンドロシア卿は、何か心当たりなどありませんか? 例
えばこの村から魔法の伝書鳩を使って、ご領地や拠点のお仲間とご
連絡を取り合っていたという様な事は?﹂
1275
モノの本によれば、俺の元いた世界で伝書鳩は古くは軍事利用や
報道、医療品などを僻地に運ぶために、それこそ紀元前の時代から
おおよそ五〇〇〇年にもわたる歴史があったとされる。
中央アジアでまず発祥し、それが中東に伝わり発展した。これが
十字軍の遠征を通じて中世時代のヨーロッパに伝わり、当時の貴族
階級の中で狩猟とともに一種の貴族階級のステータスになったとい
う書物を読んだ記憶がある。
俺のおじさんが鴨射ち猟師だったのも縁があったのか、本当にた
またま鷹匠に関する本に目を通していたのだ。
﹁残念ながら、わらわには身に覚えがないな。だが普段、サルワタ
の領内からブルカの関係者とのやり取りに伝書鳩を使っていたのは
確かさ﹂
ハーナディンの言葉に否と答えた女村長だったが、そのまま腕を
組んで片方の手でアゴに手を当てた。
考え込んでいるらしく、俺の方を見てきた。
﹁そうですか。ならよかった﹂
﹁ハーナディンさん、この状況から何か見てわかることがあるので
すか﹂
﹁ほら、この背中のねじ曲がり方、﹂
改めてハーナディンはあわれな亡骸を持ち上げて見せる。
﹁これは猛禽類に撃ち落とされたんでしたっけ﹂
﹁そうです。普通、この様にして獲物の背後から空中で蹴りつける
様に攻撃すると、獲物は地面にたたき落されるわけですね。蹴られ
た衝撃で背骨が折れて、獲物はその時に絶命します﹂
﹁それは確か、ハヤブサの仲間がやる狩りのスタイルだな﹂
1276
俺は元いた世界で見たことがあった動画だったか動物番組だった
かを思い出してそう口にする。
ハヤブサの仲間は、獲物に向かって急降下する際には実に時速三
〇〇キロを超えるスピードで獲物に蹴りつけるらしい。
時速三〇〇キロと言えばこれは新幹線なみの衝撃であるから、獲
物が高速で移動していたとしてもやはりひどい姿で撃ち落とされる
だろう。
﹁なるほど、さすが猟師のご出身だけあって詳しいですね﹂
﹁それでハーナディンさんは、これが獲物によって撃ち落とされた
と言いたいんですね? 脚の文筒が外されているという事は、つま
りこの伝書鳩は人為的に蹴落とされた可能性がある﹂
つまり鷹匠か何かを使って、意図的に通信手段に使われている魔
法の伝書鳩が狩られているという事実だ。
﹁それはまことか、お兄ちゃん!﹂
もはや人前ではばかる事無くそう叫んだ女村長に、慌ててエレク
トラと雁木マリが咳払いをして見せた。
﹁うおほん、そういう可能性があるという話だね。もしかしたら、
たまたまハヤブサに襲われた伝書鳩から、書簡だけを抜き出したと
いう可能性はありますが﹂
﹁それもおかしな話ですよ。もしこの土地の人間が墜落した鳩を見
わしたか
つけたとしても、それならツダ村の村長のところに届けるのが普通
はね
でしょう。たまたま野生の鷲鷹が襲ったんだったら、獲物を放置し
てどこかに行くのはおかしいですよね。事実、鷲鷹が伝書鳩の羽毛
をむしった形跡がないしなあ﹂
1277
猛禽類が鳥類の獲物を食する時は、だいたい羽根をむしってから
食べるのが普通だ。
それは俺も件の動画の中でそういう姿を見ていたので間違いない
と思うが、してみるとやはり鷹匠が、わざわざ伝書鳩を狙って捕ま
えていたという事になる。
そしてまず考え付くのが、ブルカ辺境伯だ。
﹁ツダ村という場所は、地形的にも山地に囲まれた場所よ。辺境の
中心地ブルカから南を見ると、ここはアギトの森に連なる大山脈に
続くわけで、ブルカの東に広がる辺境奥地一帯と伝書鳩を使って連
絡を取るのならば、必ずツダの周辺あたりを移動すると思うの﹂
ブルカ周辺に土地勘のある雁木マリが、俺たちに向かって説明し
た。
つまり意図的にこの辺りに鷹匠を配置して、情報を収集していた
というわけか。
そしてふと思い出した。
女村長は自分の鳩舎で飼育している鳩には、それぞれ片足に行先
をわかりやすくするために色付きか何かのタグを使っていたはずだ。
﹁この鳩のもう一方の脚に、タグは付いていないんですか﹂
﹁ないですねえ。こっちもはぎ取られている﹂
俺の質問に、ハーナディンが確認をしてくれた。
なるほど。どこから飛来した魔法の伝書鳩か、飼い主なり移動先
を特定できる証拠も隠滅されているのである。
﹁これは由々しき事態であるな。今後うかつに伝書鳩を使った連絡
1278
をするのははばかられる﹂
﹁ブルカ辺境伯もかなり趣味の悪いことをするわね⋮⋮﹂
女村長と雁木マリがお互いに顔を見合わせてそんなことを言った。
誰もこの犯人が辺境伯だなどと触れていなかったけれど、やはり
みんな同じ事を考えていたらしいね。
◆
翌朝。
結局のところ伝書鳩を狙った鷹匠の正体はわからないまま、妙に
不穏な空気を感じつつも俺たちはツダ村を退去する事になった。
女村長と俺、エルパコにエレクトラ、そしてブルカから戻ってい
たダイソンが俺たちの村のメンバー。
騎士修道会の側は雁木マリに加えて修道騎士ハーナディンが、彼
女に付き従って俺たち一行に加わる事になっていた。
﹁総長から婿殿の手足となって働く様にと仰せつかってまいりまし
た。よろしくシューターどの﹂
﹁お、おう。こちらこそよろしくお願いします﹂
貴人の礼にならって胸に手を当てたハーナディンを見やりながら
俺は曖昧な返事をする。
すでにこのファンタジー世界でふたりも奥さんを持っている俺だ
けれど、改めて婿殿などと言われると気恥ずかしい事はこの上ない
のである。
すると顔を真っ赤にした雁木マリが言葉を言い添えた。
﹁は、ハーナディンはね。あたしがサルワタに嫁ぐ事になったとい
1279
う話を聞いて志願してくれたのよ﹂
﹁そうだったんですか。いいひとですねえ、今後ともよろしくお願
いします﹂
﹁そうよ、自発的に志願したんだから、シューターの部下だと思っ
てこれからはこき使ってやればいいのよ﹂
﹁ははは、手厳しい。よろしくおねがいしますよ﹂
居合わせた全員が馬上の人となった俺たちは、軽やかにゴルゴラ
イの村を目指した。
恐らくこの馬列の中でもっとも馬の手綱捌きが下手くそなのが俺
だ。
同じ世界からやって来たはずの雁木マリは、騎士修道会の軍事教
練のカリキュラム内に乗馬でもあったのか、貴族軍人出身の女村長
と揃って先頭を駆けているのである。
一方のエレクトラとダイソンはあまり乗馬経験がないのか、護衛
だというのにやや手つきが安定しないところを見ると、俺と似たも
のだ。
実家が奴隷商をやっているカラメルネーゼさんも、当然の事なが
ら国王の騎士号を持つ貴族軍人だから馬の扱いは慣れたものである。
問題はエルパコだ。このけもみみはもとブルカに住んでいた猟師
の小娘だったはずなのに、どういうわけか馬とウマが合うのか、な
かなか巧みに乗りこなしていやがる。
今なども、ついついへっぴり腰で馬に乗せられている︵とても馬
を操ってるとは言えない︶俺のすぐ側にいてサポートしてくれてい
るという有様だった。
ハーナディンはまあ、同じ元猟師と言ってもホーリーなブートキ
ャンプ出身者なのでさすがだ。ツダ村で拾ってきた絵師のヘイヘイ
ジョングノーなどは、その背中にへばりついて振り落とされまいと
頑張っている。
1280
彼が自前で旅に使っているロバを連れていたが、こちらには旅荷
だけを乗せてお気楽に馬列の後を小走りについてきている。
俺はそのロバにすら負ける手綱さばきなのだ。
畜生め! こんな仕打ちってあるかよ?!
ここにはいない奥さんたちにはちょっと見せられない情けなさで
ある。
﹁何をしておるシューターよ。護衛のお前が遅れていては世話がな
いぞ!﹂
そんな事を言いながら先頭列で馬首を返して見せた女村長に、俺
は恨めしい視線をぶつけてやった。
たぶん領主の身の上になってからは馬駆けする様な事がめったに
なくなったので、ツダ村との往復路でこうして早駆けするのが楽し
いのかもしれない。
文句は内心にあったけれど、言うのをやめておいた。
きっと騎士修道会との交渉がそれなりに上手くいったと思い、女
村長も多少浮かれているのだ。
﹁そ、村長さま。あまり先を急がれますと、あたしたち護衛の仕事
がつとまらなくなります。あたしたちは騎士では無いので、そうい
う事には慣れてないんですってッ﹂
﹁む。そうか、では少し馬の脚を遅めるとしようかの﹂
エレクトラが俺の代わりに抗議してくれた。
まったく⋮⋮
あんたも自分だけの体じゃないんだから、あまり無茶はしないで
もらいたいものだぜ。
こうして早朝一番にツダ村の教会堂を出発した俺たちは、ブルカ
1281
と辺境奥地へと別れる三叉路を辺境奥地方面へと進み、昼過ぎ頃に
はふたたびゴルゴライ村の入口に到着したのである。
﹁こう度々俺たちサルワタの人間がこの村を出入りしている事は、
ここのご領主にどう思われているんですかねえ﹂
﹁フンっさあな。わらわはむかし、前の夫が死去した折に求婚され
た事があってな。ここの領主についてはあまり好かぬのだ﹂
ゴルゴライの村周辺を囲む防風林を見やりながら、馬上で苦い顔
をした女村長がそんなことを言った。
よほどこのゴルゴライの領主がお嫌いの様だ。
﹁そうなんですか。それなら尚更筋は通しておかないと、また何か
のやっかい事に巻き込まれやしませんかねえ﹂
﹁必要ない。わらわたちが出入りしている事はヤツらとて見ていれ
ばわかることであるし、ヤツら自身が必要性を感じれば調べるであ
ろう。逆にわらわたちの動きに興味を示さないのであれば、情報の
必要性に疎いそれまでの領主であるという事であるしな﹂
フフンと笑って見せた女村長は、顔を見合わせていた俺と雁木マ
リを見比べながら馬を降りた。
すでに下馬して周囲を警戒していたエレクトラとダイソンが、女
村長の左右をかためた。
なかなかいい仕事をしているなあ。こういう事をそういえば騎士
修道会総長カーネルクリーフの側近たちがやっていたのを思い出す。
あの時もその場で護衛をやっていたハーナディンはどうしている
かというと、なかなか馬から降りる事が出来ないヘイヘイジョング
ノーを手伝っているところだった。
軍事訓練を受けた彼であっても、さすがに出来ないか。
1282
﹁ヘイジョンさんを押し付けてしまうことになってすまないな﹂
﹁いえ、これぐらいは問題ないよ。具合はどうですか、ヘイジョン
さん﹂
﹁ろ、ロバより視界が高いので怖かったですね。あと、ずっと帽子
が飛んでいかないように抑えていたので腕が痛いです⋮⋮﹂
俺がふたりに馬を寄せて声をかけたところ、ヘイヘイジョングノ
ーのロバを引きながらハーナディンが周囲を警戒しつつ返事をくれ
た。
ヘイヘイジョングノーはまだ気分がすぐれないらしいね。
俺はというと、まだ下馬はしていない。
これは道中にハーナディンに聞いたことなんだが、騎士の基本的
フォーメーションというのは、いつでも一部の騎士が即応可能な様
に騎乗したまま待機する人間が必要なんだとか。
その話を聞いたので早速にも実践しているところだが、どうなん
だろうね効果はあるのか。
などと思っていると、女村長にお叱りを受けた。
﹁シューター、いつまでぼんやりしているのだ。さっさと村の中に
入るぞ﹂
﹁あっはい⋮⋮﹂
あわてて俺が馬から降りようとしたところ、同じく馬に乗ったま
まのエルパコがそれを制止した。
﹁シューターさん、あれ﹂
﹁ん、どうした?﹂
﹁義姉さんが、誰かに囲まれて困った顔をしているよ?⋮⋮﹂
1283
馬を寄せて俺の袖を引っ張るけもみみの視線の先に俺も眼を向け
る。
用水路を渡す石橋からずっと続く道の向こう側、太った男とその
仲間たちの姿がここから見えたのだ。
義姉さん、つまりエルパコが言うのはカサンドラの事であり、距
離にして一〇〇メートルも離れた場所からでもわかるデブを指して
けもみみが言ったのである。
﹁どうしたシューターよ?﹂
﹁俺には見えませんが、カサンドラがどうやら︱︱﹂
俺がそう女村長たちに説明をしようとしたところ、言葉を待つ事
も無くエルパコが馬を駆け走らせた。
何かあった事は間違いない。
おい、と声をかけるよりも先にその事を自覚した俺はエルパコに
続き馬に鞭を入れた。
またカサンドラが、何か良く無い事に巻き込まれているのではな
いか。
俺は焦りとともに馬にしがみつく様にして加速した。
1284
104 修道騎士ハーナディンの報告︵後書き︶
調べてみると、戦時下の欧州大戦でも英軍によって伝書鳩が通信手
段に使われ︵何と50万羽も用意されていたそうですね!︶、それ
に対抗して独軍も鷹狩を実施したそうですね。
歴史って面白い!
1285
105 これが諍いのお約束です!
村へと繋がる石橋を超えて、俺は先行するエルパコを追った。
視界にはデブとその取り巻きたちが、カサンドラに対して言い合
いをけしかけている様な姿が見える。
よく見るとカサンドラだけではなくようじょに、野牛の兵士タン
スロットさんやッワクワクゴロさんの弟ッジャジャマくんもいたり
する。
みんな揃って何があったんだと俺が緊張感を高めながら、先行す
るけもみみの動きを見た。
エルパコは滑る様に馬を走らせていたかと思うとその集団の中に
躊躇なく飛び込んでいった。
当然、驚いたカサンドラを取り巻くその集団が蜘蛛の子を散らす
様に四散して、するりと馬を飛び降りたのである。
俺はそのエルパコの鮮やかな動きに見とれながらも、多少不格好
でも強引に手綱を引いて馬を止めると転げ降りた。
エルパコはデブに向き直る。
デブはただのデブでは無かった。頭の上に丸いけもみみのカチュ
ーシャを付けたような間抜けな顔をしていた。人間顔をしているが、
こいつは何耳の猿人間だろうか。
﹁ぼくの義姉さんに、手は出させないよ!﹂
華奢な銀髪のけもみみ少女が、いつになく力強くそう宣言した。
そうするとデブと一緒にいた長剣を差した男が口を開く。
1286
﹁何だお前は、そこをどけっ!﹂
﹁どかない。ぼくは、どかないよっ﹂
﹁この俺の命令が聞けないのというのか、俺はゴルゴライの騎士さ
まだぞ﹂
﹁ぼっ、ぼくはシューターさんの新妻だよっ﹂
カサンドラをかばって両手を広げ、通せんぼをするエルパコであ
る。
しかもこのタイミングで新妻という言葉を口にしたものだから、
カサンドラが驚いて﹁えっ﹂という表情をしていた。
だが今はそんな事などどうでもいい。
俺は状況がどうなっているのかわからないので、すぐにも割って
入り、その集団の中で偉そうにしているデブに視線を向けた。
﹁すいませんねえ、いったい何があったのでしょうか﹂
﹁何だお前は。ナメルシュタイナーさまは今、取り込み中だ。邪魔
だてするとタダではおかないぞ﹂
﹁そいつは失礼しました﹂
﹁失礼したと思うなら、さっさと下がらないか、さもなくば︱︱﹂
言うが早いか鞘走りさせたゴルゴライの騎士とやらは、躊躇なく
俺に白刃を突き付けようとしてきたのである。
お貴族さまのなのだろうが、このパターンはすでに俺も学習済み
である。
ギムルの時にもジンターネンさんの畜舎で経験したやりとりだし、
ブルカの路地裏でもあった事だ。
こういう時は問答無用で、考えるより先に相手を制圧した方がい
いのだと俺は経験的に考えるようになった。
だから鞘走りさせた瞬間に俺は相手の騎士と距離を詰め、体勢を
1287
入れ替えながら剣を持つ腕を捻りあげてやり、そのまま足をかけて
引き倒した。
﹁ほげぇ! まぢいでぇよ﹂
﹁し、シューターさん?!﹂
﹁どれぇ!﹂
だろうな。
騎士は何事か叫んだが、たぶん意訳すれば﹁この腕はとても痛い
です﹂といったところだろうか。
腕は多分勢い任せに捻りあげたので、筋がずれたか骨が外れたか、
あらぬ方向にねじ曲がって騎士は地べたでのたうち回っていた。た
ぶん両方だ。
騎士を名乗る割に、大したことはなかったな。
空手ならこの場で追撃の拳を首か顔面に見舞ってやるところだが、
今はやる事がある。
﹁な、何をするんだ貴様は、これがどういう事なのかわかってやっ
てるのか! おっ俺に手をあげたらどういう事になるか⋮⋮ブべら
kつs﹂
﹁いやあ、すいませんねえ。いい大人のみなさんが、よってたかっ
て囲んでいる彼女ね。俺の第一夫人なんですよ﹂
俺はカサンドラに視線を送り彼女を安心させると、言葉をつづけ
た。
﹁俺はサルワタの騎士シューターだ。何があったか説明してもらお
うか、そっちが剣を抜いた以上はこちらも引き下がるわけにはいか
ないんだぜ﹂
﹁くっ、先に武器に手をかけたのはそちらだと言うのに、どういう
1288
了見だ?!﹂
デブが忌々しそうにそう言った。
彼は部下たちと違い腰に剣を差してはいたが、護身用の短剣でそ
れに手を掛けようとはしていない。
まだ冷静に話ができる相手と見えて、俺は周辺の取り巻きを警戒
しながらも言葉をつづけた﹂
﹁どういう事ですかねえ。順を追って説明してくれないと、俺には
暴漢どもに奥さんがいたずらされている様にしか見えないんですよ﹂
﹁そっそこの女が、俺の弟に投げナイフで怪我を負わせた犯人を引
き渡そうとしないから、この様な事になったのだ﹂
﹁そうなのかカサンドラ?﹂
﹁あのう、ですね⋮⋮﹂
振り返ってカサンドラに事情の説明を求めようとしたところで、
異変に気が付いて追いかけてきた女村長の姿が迫ってくる。
﹁どうしたシューター、宿屋の前で何があったのだ﹂
﹁それがですね。カサンドラがこちらの方、との間で何か揉め事に
巻き込まれたみたいでして﹂
﹁ぬ、貴様はハメルシュタイナーの息子だな。この様なところで、
わらわの家族に何をしておるのだ﹂
馬上から俺たちを見下ろしながら睨み付けていた女村長が、集団
の中に入るデブに目を認めるとそう言ったのである。
どうやら女村長とこのデブは、面識があるらしい。
ばいた
﹁だっ誰かと思えば、この女たちはサルワタの売女の身内だったか
⋮⋮﹂
1289
﹁その売女にたびたび求婚の文を送りつけてきたのは、貴様の父親
ハメルシュタイナーだからな。わらわを何と言おうがかまわぬが、
貴様は父を愚弄しているだけよ﹂
﹁そんな事はどうでもいい、弟がこの女の護衛に怪我を負わされた
のだ、俺はただその弟を怪我させた犯人を差し出せと言っていただ
けだ!﹂
﹁待ちなさい﹂
そんなお互いの主張を一方的に罵り合っていたところ、下馬した
雁木マリとそれに続く修道騎士ハーナディンが、さらに揉める集団
の輪の中に飛び込んで来た。
﹁今度は何だあんたは﹂
﹁この法衣を見てわからないかしら? あたしは騎士修道会におけ
る枢機卿にして聖少女修道騎士ガンギマリーよ﹂
﹁?!﹂
﹁お前。ゴルゴライの領主のご子息という事だけれど、違いないわ
ね?﹂
﹁そうだ、俺は誇り高き熊面の猿人間の血を引くゴルゴライ準男爵
の嫡男ナメルシュタイナーだ。騎士修道会だか聖少女だか知らない
が、女神とやらは犯罪者の片棒を担ぐというのか?﹂
﹁ふふん、お前は女神様の信徒ではないというのね?﹂
﹁俺が崇拝するのは国王陛下だけだ、存在も疑わしい女神などどう
して崇めるかッ﹂
悪態をつくデブが不信心者な態度を示した。
そしてこいつ、熊面の猿人間の一族だったのか。言われてみれば
ずんぐりむっくりのデブである。
しかし熊面という割に、部族の血筋が薄いのか人間の面に丸耳が
ついている感じでマヌケだ。
1290
﹁ふうんそう。そちらの一方的な主張を、ハイハイと聞けるわけじ
ゃないでしょう。まずは何があったのかお互いに聞いてから判断す
るのが公平というものよ。この口論、騎士修道会のガンギマリーが
預かるわ﹂
すぐ脇に膝をついてかしこまったハーナディンを控えたうえで、
刃広の長剣を引き抜いて天にかざした雁木マリがそう宣言した。
こういう事に慣れているのだろうか、マリの仲裁は正直助かるぜ
⋮⋮
◆
騎士修道会総長のカーネルクリーフとの会談のため、俺たちがツ
ダ村に出かけている間の事である。
貴人向けの宿屋の一室に宿泊する事になったカサンドラだが、ど
うやら落ち着かなかったらしい。
この部屋には村で女村長の妹という事になっているようじょも泊
まる事になっていたのだが、普段からブルカの高級住宅街で生活し
ていたようじょとは違い、近頃になって高貴な人間の仲間入りを果
たしたカサンドラにしてみれば、やはりどこか居心地が悪い空間に
感じたのである。
﹁カサンドラねえさま、何をしているのですかぁ?﹂
﹁ううんとお部屋でじっとしていても何だか落ち着かないので、お
掃除でもしようかと⋮⋮﹂
﹁ねえさま。ねえさまはどれぇの第一夫人なのだから、そんな事を
しなくてもいいのですょ﹂
﹁でも少し、落ち着かないので⋮⋮﹂
1291
そんな会話があったとかなかったとか。
村に出来た俺たちの新居は、女村長の屋敷を除けばいちばん立派
な建物であることは確かだ。
しかし豪奢なのは建物ばかりで、部屋の内装と言えば旧宅から持
ち込まれた食器類と藤編みのタンスがある程度のもので、残りは女
村長や野牛の族長から贈り物として頂いたものばかりだった。
家でもっとも値が張りそうなものが巨大なベッドと食卓だけとい
うささやかな有様を考えると、この宿屋の貴人向けの部屋は調度品
がどれも高価に見えたんだろうな。
どうにも落ち着きを感じなかったカサンドラは、そこで部屋の掃
除でもしたり、自分が旅の際に持ち込んだ荷物を飾ったりしようと
考えたらしい。
ひとつはリンクスの毛皮と、もうひとつがゴブリン人形である。
﹁よしっ。これで少し落ち着きましたね﹂
﹁このゴブリン人形、なんだかッヨイに似ている気がするのです﹂
﹁あら、本当ですねえ。確かこれはシューターさんが旅の出発前に
作っていたものですよ﹂
﹁どれぇがですか?﹂
﹁ええ﹂
﹁ねえさま、みっつぐらい並べておくといいのです。自分のおうち
みたいになるかもしれないのです﹂
﹁そうですねえ﹂
部屋に猛獣の毛皮を飾るというのは、やはり猟師の嫁ならではの
センスと言えるだろうか。
きっと亡き父ユルドラが戦利品をこうして壁に飾っていたのかも
しれない。
1292
だがちょっと待ってほしい、猟師の家ならそれも様になるのだろ
うが、ここは宿屋でありしかもカサンドラは高貴なご身分である。
ちょっと蛮族趣味すぎやしないかと思ったッヨイさまは嗜めよう
としたらしいけれど、ご機嫌の奥さんを見てそれをやめたそうだ。
慣れない旅に戸惑い、慣れない宿屋に落ち着かない年上のお姉さ
んを気遣うッヨイさまかわいい!
だがもうひとつの、ゴブリン人形については何だったんだろうね。
もしかするとカサンドラは一種のホームシックにかかっていたのか
もしれないが、遠慮がちな性格の俺の正妻は、そのあたりの自己主
張が下手でこういう形で表現してしまったのかもしれない。
とにかくゴブリン人形の詰まった箱からいくつかそれを持ち出し
て、調度品の並んでいる棚に並べたところで、ふたりは満足した。
満足したところで季節は真夏の盛りである。
部屋の掃除をやってみたり毛皮を広げたりゴブリン人形を並べた
り、と軽く動いただけでふたりはしっとりと汗をかいてしまったの
で、行水をすることにしたらしい。
高貴な人間が泊まるための部屋というのは、寝室ひとつ備わって
いるだけではなくテラスもある。
そのテラスはちょっとした坪庭があって、夏日和には行水するの
に最適だ。
ふたりはニシカさんを呼んで水風呂の用意を宿屋の主人に頼んで
もらい、ニシカさんを交えて水浴びをしたらしい。
したらしい、したらしい、と繰り返すのは女子たちが妙にその事
をぼかして説明するからである。
カサンドラ曰く﹁しゅ、シューターさんたちがお勤めをしている
時に、なんだか水浴びをして遊んでいたみたいで気恥ずかしくて⋮
1293
⋮﹂という事なので、あまり詳しくは聞かないでおいた。
概略だけを言うと、不埒な男どもが近づかない様に監視役でニシ
カさんがマシェットを持って待機している中、我が正妻とようじょ
が水浴びをしていたというわけである。
そこに事件が起きた。
﹁こうしてお水遊びをしていると、みずうみへお泊りに行った時の
事を思い出すのです﹂
﹁そうですねえ。あの時は家族みんなで、楽しかったですね﹂
﹁はい! また行きたいのです。どれぇは連れて行ってくれるでし
ょうか?﹂
水の魔法を使って噴水を作ったりして、全裸姿で行水をしていた
ようじょと妻は、ニシカさん曰く上機嫌だったそうだ。
ここが高貴な者専用の部屋という事で坪庭もテラスも外から遮断
されていた事もあり、油断してヒモパンも脱いでいた。
この世界ではヒモパンを履いているか履いていないかで羞恥心の
有無が決まる世界だからな⋮⋮
ところがである。
ふたりがゆっくりとタライに浸かってサッパリしているところで、
ニシカさんが何かの視線を察知したのだった。
﹁おい、ふたりとも﹂
﹁どうしたんですかおっぱいエルフ?﹂
﹁馬鹿野郎、そこで覗き見している不埒者がいるぞ!﹂
﹁えっ?﹂
1294
ふたりが慌てて手ぬぐいをお股に運ぼうとしたところで、ガサガ
サと宿屋の側に立っていた大きな街路樹が揺れた。
﹁手前ぇ、そこに隠れているのはわかってるんだよ! 出てきやが
れッ﹂
﹁えっどこですか? あそこ?!﹂
街路樹に向かって啖呵を切ったニシカさんは、すぐ側に用意して
いた投擲用のナイフを投げたらしい。
見事な軌道を描いたらしいその投擲用のナイフは街路樹の緑の枝
葉へ吸い込まれて、その後にズドンと盛大に落ちる音が聞こえた。
﹁ぐわっしゃあ?!﹂
その盛大な音を立てて街路樹から落ちてきたのがカフィアシュタ
イナー、どうやらデブことナメルシュタイナーの弟くんだったらし
い。
1295
106 雁木マリは武力解決手段に訴えることを提案しました
一方的主張を繰り返すばかりで要領を得ないゴルゴライの者たち
を引き下がらせた後、俺たちは宿屋の寝床でじっとしていたニシカ
さんのところに向かった。
ニシカさんは外の様子が気が気ではなかったらしく、そわそわし
ていたらしい。
﹁おおっシューター、いいところに帰ってきたじゃねえか!﹂
﹁表で話は聞きましたよ、ゴルゴライのデブと揉めたらしいじゃな
いですか、やっかいな事になっていますねえ﹂
﹁すまねぇ、オレのせいでとんでもねぇ事になっちまって。責任を
取って俺が出頭しようかと思ったんだけどよう、カサンドラに擦り
付ける様な結果になっちまって⋮⋮﹂
ツダから戻ってきた俺たちに、長耳をしおれさせたニシカさんが
うな垂れてそう返事をしたのである。
聞けば、時間が立つにつれて徐々に責任を感じていたみたいだ。
◆
彼女は今回の事件があってすぐ、ナメルシュナイターと取り巻き
がやって来たところですぐにも自分から出頭しようと思ったらしい。
﹁オレの投げたナイフで怪我をした不埒者が、ここの領主の馬鹿息
子だっただとぉ?﹂
1296
当然、護衛として当たり前の対処をしたニシカさんが、その程度
の事で動じるはずもなかった。
﹁そそ、そうなんですよう。表でニシカさんを出せとゴルゴライの
騎士さまという方が声をあげていて⋮⋮﹂
﹁上等じゃねえか、あろう事か貴人の全裸を覗き見しようとした様
な大馬鹿者ごときに、この飛龍殺しのニシカさまが怖気づくとでも
思ってるのか﹂
﹁さすがおっぱいエルフなのです。ニシカさん、ひとこと文句を言
ってくださいなのです!﹂
腕まくりして憤慨したニシカさんに、ようじょも強く賛同したら
しい。
けれどもカサンドラはそれを制止した。
﹁いけませんニシカさん!﹂
﹁何でだよカサンドラ﹂
﹁がっ外交使節団の留守居役をお預かりしているのはこのわたしで
す。責任はあくまで、わたしにありますっ﹂
﹁んな事言ったってどうするんだカサンドラ。ああん? オレさま
がぶちのめして黙らせてやればいいのよ﹂
﹁それは駄目です﹂
キッパリとニシカさんを否定した俺の正妻は、その時ひどく怯え
た表情をしていたらしい。
けれども俺たち夫婦がお揃いで持っている護身の短剣に手を当て
て深い息を何度も繰り返し、改めて振り返るとこう宣言をしたらし
い。
﹁事情は責任者として、わたしがこれから説明します。村長さまや
1297
シューターさんにご迷惑はかけられませんッ﹂
◆
そうした事情があって、宿屋における押し問答となったらしい。
﹁やっぱり直接オレがカサンドラの言葉を無理にでも断って出てお
けばこんな事にはならなかったんだぜ﹂
﹁安心してちょうだいニシカさん。あたしから見れば覗きをした人
間の方がはるかに悪いに決まっているわ。それだけじゃない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁仮にも貴族たる領主の息子という身分や立場もわきまえず、その
様なことをしたというのであれば、これはもうゴルゴライ準男爵ハ
メルシュタイナーの落ち度と言っても問題ではないわね﹂
メガネを押し上げながらつらつらとそう言ってのけた雁木マリが
まずニシカさんを見やってニッコリとした後、ふいと俺と女村長の
顔を見比べた。
先ほどまでは公平に預かるなどと言っていたけれど、結局は俺た
ちの身内である雁木マリは最初から俺たちの味方なんだよなぁ。
すまんねナメルくん。俺たちは婚約者だったんだ。
フェーデ
﹁ドロシア卿、武力解決手段をやりましょうか﹂
﹁うむ、わらわもそれを考えていたところだ。こういう場合は自助
救済に訴えるのがいいな、その先の事も考えると尚更、な﹂
﹁そうね、あたしたちにはシューターがいるし?﹂
﹁その通りだ、辺境最強の戦士がいるのであれば、これを使わない
手はない﹂
俺のよくわかってない中で、雁木マリと女村長の間でトントン拍
1298
子に盛り上がっていくのが恐ろしい。
そのフェーデっていうのはいったい何だ? どこかで聞いたこと
がある気がするが⋮⋮
そんな事を考えていると、カサンドラが俺の方を見やって小首を
かしげていた。
﹁あのう、武力解決手段って何でしょうか﹂
﹁わかりやすく言えば、決闘なのですねえさま﹂
﹁決闘? シューターさんと、ゴルゴライのお貴族さまが決闘をな
さるのですか?﹂
マリとアレクサンドロシアちゃんの代わりにようじょが答えてく
れた。ッヨイさま賢い!
そう言えば、モノの本で中世ヨーロッパでは自己の権利を著しく
侵害された被害者が、一族のものや知人の助けを得て、一種の仇討
ち手段を講じることができるというのを見たことがあった。
ファンタジー小説や映画が大好きな俺は﹁異世界やべーな野蛮だ
よ﹂とか思っていたが、江戸時代にも身内の恥辱を雪ぐために仇討
ち手段に訴えるという話はあったらしい。
国家の法整備が近代化されていない当時、自分の不利益は自分で
排除しなくちゃいけないんだよねぇ。
怖いね異世界!
と他人事で済ますわけにはいかない。
何しろその仇討ちの助っ人に、どうやら俺が期待されている風な
のである。
﹁そういう事ね。ニシカさんなら多分負けることがないと思うし、
1299
その助っ人が辺境随一の戦士なのだから、これはもう間違いなく勝
てると見ていいわ﹂
﹁しかしどうやってフェーデに持ち込むつもりだ、聖少女どの﹂
﹁あら他人行儀にそんな風に言わなくてもいいですよ、これからは
家族なんだから﹂
マリと女村長がふたりだけで色々と話を進めていくので、俺たち
は置いてけぼりである。
だがちょっと待て、これからは家族とか、まだカサンドラに説明
もしていないんだぞ?!
案の定、ふたりの会話を怪訝な表情で聞いていたカサンドラが﹁
これからは家族﹂というフレーズに及んで俺を見上げてきた。
ぎまい
﹁そうだな、義妹よ。わらわは先に結婚する事になるから、それで
いいかの?﹂
﹁構わないわ義姉さん﹂
とても嫌そうな顔をしたカサンドラが、その表情で﹁どういう事
ですか、旦那さま?﹂と訴えかけてくるではないか。
訴えかけるだけでなく、ぎゅっと袖の上から俺の腕をつねってく
る。
詳しい事は今夜、ゆっくり寝屋で話そうね⋮⋮
﹁手段は考えているわ。こちらで事情聴取をし、怪我をしたという
馬鹿息子のお見舞いついでに先方にも状況を伺った上で、女神様の
もとで武力解決手段に訴えるのがいいとあたしから提案するの。ま
あ地元の教会堂には筋を通しておけばいいしね﹂
フフンと腕組みをした雁木マリが、俺の方を見やりながら笑った。
こいつ、武力解決手段の﹁武力﹂って俺の事だと思っていやがら
1300
ないか?!
﹁シューターさんは辺境でも並ぶもののない最強の戦士だと、ガン
ギマリーさまから聞いたことがありますよ。さすが女神様の祝福を
受けた御子は違いますね!﹂
修道騎士ハーナディンは何を面白がっているのか、あっはっはと
笑いながら俺の背中をバシバシと叩きやがった。
痛いよ君、上等な服がなければ背中が紅葉マークで腫れ上がると
ころだったぜ。
そして、今もってかわいい正妻のカサンドラがジットリと俺を睨
み付けてくるのであった⋮⋮
﹁カサンドラ﹂
﹁はい、シューターさん﹂
俺の手を引っ張って宿屋の廊下に連れ出すカサンドラである。
近頃は正妻の風格が身についてきたのか、なかなか堂々としたも
のである。
おろおろした姿も確かにたまには見せることがあるが、やはり今
は第一夫人という気概が身について、正直ちょっと怖い⋮⋮
﹁わたしにお話しする事、ありますよね?﹂
﹁ちょっと夜にちゃんとした報告と相談をさせてもらいたいなと思
っているんだよね﹂
﹁心得ています、旦那さま﹂
﹁だから今は決闘の事に集中しようかなと思っていて﹂
﹁シューターさんは全裸を貴ぶ部族の戦士のご出身です。熊人間ご
ときに負けるはずはないので、その点は安心しています﹂
﹁ありがとう⋮⋮﹂
1301
﹁大丈夫ですよ旦那さま。こういう事になるのはわたし、ちゃんと
わかっていました﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁でも、ちゃんと今夜にはお聞かせくださいね﹂
我妻はそういうと、俺の手を握って改めて微笑を浮かべた。
﹁だ、大丈夫だ。問題ない⋮⋮﹂
1302
107 アレクサンドロシアの計略
﹁義妹ガンギマリーはこれからハメルシュタイナーの屋敷に向かい、
見舞いと称してこれから武力解決手段で決着をつけてはどうかと提
案する。また、その際は決闘の当事者を鱗裂きのニシカとし、これ
の介添人をシューターとする。皆の者、異存はないな?﹂
新たに女村長のために用意された寝所で、集まった俺たちは作戦
会議をしていた。
女村長は俺とニシカさんを交互に見やりながら確認を取ってくる。
﹁ああ、問題なんてひとつもないぜッ。本当だったら連中が文句を
言いに来た時点でこっちから決闘を申し込んでやればよかったんだ﹂
﹁俺は構いませんが、その決闘というのは命のやり取りまでする様
なものなんですか?﹂
ニシカさんは強く意気込んでいるが、やはり俺は決闘がどこまで
許されているものなのか確認をしなくちゃならない。
俺は人を殺すために空手や格闘技を習ってきたわけではないので、
心のどこかにやはり躊躇があるのだ。
幸いというべきか、俺がこのファンタジー世界にやって来てこの
土地で人間の範疇に入る者を相手に命のやり取りをしたことがある
のは、美中年カムラだけだった。
彼との死闘は文字通り思い出すのも恐ろしいものだったが、少な
くともあの瞬間だけは体中が興奮に包まれていて、冷静ではなかっ
た。
1303
﹁通常それはないものといえるが、不慮の事故は決闘に付き物だ﹂
﹁不慮の事故⋮⋮﹂
﹁もちろん、不慮の事故は常に想定外の中で起きるものだからな。
起きてしまったものはしょうがないと言える﹂
口角を引き上げた女村長が、わざわざ宿屋の丁稚ゴブリンに命じ
て用意させた安楽イスに深く座りながらそう言った。
そのまるで意味深な言葉を口にしつつ、雁木マリとようじょを見
やるではないか。
ようじょを観察してみると、コクリと頷いて見せるのだった。何
かを考えているらしい。
﹁とはいえ、まかり間違ってもこちらが負けることが許されぬゆえ、
気を引き締めて対処をしてもらわねばならぬ。このフェーデは辺境
でわらわの足場固めをするための第一歩であるのだからな﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
俺がひとまず返事をしたところで、雁木マリが言葉を続ける。
﹁問題は相手が介添人の数を増やしてきた時の事を考えておかない
といけないわね﹂
﹁フェーデには人数制限というのはないのか?﹂
﹁もちろんあるわ。普通は当事者と助っ人のふたり、場合によって
はもうひとりを加えた三人で行われるの﹂
﹁ふむ﹂
フェーデ
このファンタジー世界における一般的な決闘は武力解決手段と呼
ばれていた。
当事者が自らの名誉を回復するために設けられた制度で、当事者
の一方が申し込んだ場合は、立会人を仲介して決闘が行われる事に
1304
なる。
また当事者同士は助っ人を呼ぶ事が出来る。それがふたりないし
三人の介添人というわけである。
通常は二対二で行われるのが一般的だが、今回はどちらになるの
だろうか。
﹁ニシカさんと俺がいれば、とりあえずはふたり揃える事は出来る。
問題は相手が三人で挑んできたときの事だろう﹂
﹁今回はあたしが介添人になる事は出来ないわね、ハーナディンも
そう。あたしたちはフェーデを提案する立会人という立場に徹しな
いといけないわけだから﹂
そうなると、まさか女村長を介添人に指名するわけにもいかない。
いたいけ
俺はサルワタの仲間たちをぐるりと見まわしながら考えた。
まず目が合ったようじょはどうだろう。いやいや、こんな幼気な
小さなレディに決闘なんてさせられない。駄目ですダメー。
カサンドラは⋮⋮論外だ。そもそも奥さんは武器などまともに握
ったこともないだろうから駄目ですダメー!
では冒険者の二人組、ダイソンは少し不安が残るがエレクトラの
細剣の捌きはかなりのものだから安心出来る。
ぼんやりした顔のエルパコは、たぶんそこそこは動けるはずだろ
う。しかしこのけもみみがどの程度の対人格闘術を持っているのか
を俺は確認した事がなかった。
ッワクワクゴロさんの弟ッジャジャマくんと、野牛の兵士タンス
ロットさんは、まあ並と言えば並だろう。これを使うならエルパコ
かエレクトラを俺は指名したいね。
そしてカラメルネーゼさんと俺は目が合った。
妖艶な笑みを口元に浮かべると青味がかった不思議な髪色のそれ
をふさりとしてみせて、俺を見返してきた。
1305
エレクトラとけもみみ、それからカラメルネーゼさんがやってく
れるなら、この三人から選べばいいわけか。
だがひとつ確認しておきたい事がある。
﹁ちなみに、この決闘に拒否権はあるんですかね?﹂
﹁どうしたお兄ちゃん。まさか臆病風に吹かれたというわけではな
いだろうな﹂
﹁いやあ、そういうのは相手を見てからじゃないわかりませんねえ。
ワイバーンみたいな相手が出てきたら、さすがに俺は拒否したいで
すよ﹂
﹁あっはっは、そんな馬鹿な事などあるはずがないだろう。遠い国
ではワイバーンを使役しているというけれど、それは仔龍の頃から
餌付けをしてはじめて成功するというではないか。ありえんありえ
ん﹂
女村長は大笑いして手をヒラヒラさせ相手にしなかった。
すっかりアレクサンドロシアちゃんは失念しているようだが、俺
ん家には仔龍の頃から餌付けしている最中のバジリスクのあかちゃ
んがいるんですけどねぇ⋮⋮
ただ、可能性としては限りなく低いという事はわかったので黙っ
てうなずいておく。
﹁で、拒否権というのはあるんだろうな?﹂
﹁当然それはあるわ﹂
雁木マリに聞いてみると、決闘はもちろん拒否する事も出来るの
だが、その際は相応額の慰謝料や身代金などを要求される事になる
と続けてくれた。
1306
この様な物騒な法システムが存在している事に異世界の恐ろしさ
と理不尽さの一端を垣間見られると俺は生唾を飲み込んだものだけ
れど、それなりのルールが定められていた。
﹁まあ何も問題がない場合はそれでよし、三人目が必要な場合、お
頼みするのが可能なら実力的にカラメルネーゼさんにお願いするの
がいいと、俺は思います﹂
カラメルネーゼさんは貴族軍人の出身で騎士爵さまだからな、居
住まいを見ていても、恐らく剣術かなにかが出来る雰囲気は出てい
る。もしくはあの蛸足は何かを期待させてくれるじゃないか!
⋮⋮しかしまあこれはどうしてもという場合だ。自分で言ってお
いてなんだが、サルワタ領からすれば部外者であるカラメルネーゼ
さんにお願いするのもどうかと思うしな。
すると女村長が、
﹁ふむ。カラメルネーゼよ、シューターはそう言っているが、頼め
るかの?﹂
﹁わたくしはいつでも構いませんことよ。このところ槍を振るう事
もまるでありませんでしたから、いい腕慣らしになりますわ﹂
﹁そうだの﹂
﹁ですわねえ。その点わたくしは子爵家の娘ですし、わたくし自身
も騎士爵ですので問題ありませんわ﹂
やはり騎士見習い時代からの付き合いで、アレクサンドロシアち
ゃんも武芸の腕に信頼を置いているとかな?
しかし騎士爵だと何がいいのだろうか。騎士爵ふたりで納得顔を
してウンウン言っているので、俺は雁木マリに助けを求めた。
﹁あの、どういう事でしょうか?﹂
1307
﹁それはね、フェーデを使う事が出来るのは、原則として高貴な身
の上の人間に限られているからよ﹂
つまり貴族や領主、騎士の階級にある者にのみゆるされた自力救
済措置なのである。
一般人が、道端を歩いていて難癖をつけられ、いちいちフェーデ
が可能な世の中であるならば、道端であちこち決闘騒ぎが起きてい
る事になるだろう。
さすがにそれはない。
﹁じゃあニシカさんは猟師だから武力解決手段に持ち込めないんじ
ゃないですか?﹂
﹁お兄ちゃんは馬鹿だな、鱗裂きのニシカとエルパコはお兄ちゃん
の部下なのだから、これは騎士見習いだ﹂
どうしても一般領民がそれを行わないといけない場合のみ、領主
によってその階級が引き上げられ、例えば騎士身分としてフェーデ
が行われることになるのだそうだ。
そんなセコい手が使えるなんて⋮⋮
﹁逆を言えば、今回はカサンドラに懸想をした不埒者が領主の小倅
であったというのが幸いしたわね﹂
﹁その理屈はおかしいぞ。相手が農民の小倅であったならば、わざ
わざカサンドラに訴えてくる馬鹿はいなかったことになるじゃない
か。無礼討ちも出来る事だからな﹂
やはりこの世界は優しくない。
ある意味で俺はそう思った。
◆
1308
雁木マリは修道騎士ハーナディンを連れて宿屋を出て行った。
向かった先はまず話を通しに教会堂へ、そしてゴルゴライの領主
ハメルシュタイナーの屋敷である。
出ていく間際﹁任せてちょうだい﹂と意味深に女村長へ言って見
せたのが印象的だった。
だから各々の部屋にサルワタの人間たちが退出していったのを見
届けてから、俺は改めて女村長に質問したのである。
﹁何を企んでいるんだ、アレクサンドロシアちゃん?﹂
﹁ふむ、お兄ちゃんには何もかもお見通しとみえるな。まあそこに
座ってくれ﹂
女村長は宿屋の板窓をわざわざ手ずから閉めてみせると、光の魔
法を起こして安楽イスに腰を落ち着けた。
俺は寝台に腰を掛けながら前のめりになる。
アレクサンドロシアちゃんの顔を見ていると、とても悪い面をし
ていた。
やはり何かを企んでいるのに違いない。
﹁このゴルゴライをわらわたちのものにするぞ。今回の件はいい機
会だ、難癖をつけてきたのはゴルゴライ領主の馬鹿息子どもだった
が、お兄ちゃんは決闘でその馬鹿息子を殺してしまえ﹂
﹁?!﹂
いきなり何を言い出すのかと思えば、アレクサンドロシアちゃん
はひじ掛けに腕を置いて手を組んで見せ、冷酷にそう宣言をするの
であった。
1309
108 その不安を俺の胸で抱き留めてあげるさ
蒼い瞳の奥を光らせた女村長は、それと対照的にひどく冷え切っ
た声で俺にこう告げる。
﹁将来の禍根は断たねばならない。可能ならば一族皆殺しにしたい﹂
背筋がゾクリとする様な感覚に見舞われ、俺は目の前の未亡人に
恐怖した。
仮にもほんの少し前に肌を重ねた相手だというのに、寝台に腰か
け乗り出していた身をたまらず引いてしまいそうになる。
だが、そんな俺をアレクサンドロシアちゃんは観察していた。
﹁お兄ちゃんにお願いできるかの?﹂
﹁命令じゃなくてお願いなんだね⋮⋮﹂
﹁お兄ちゃんが望むのなら命令でも構わないが。そんなものは言葉
遊びだろう﹂
嫌な事を女村長は簡単に言ってのける。
だがそれは事実だろう。今ここでゴルゴライと揉めなかったとし
ても、辺境を巻き込んだブルカ伯との対決が表面化した時、もしも
ゴルゴライが敵に回る様な事があれば、どのみち殺し合いを演じる
ことになるんだからな⋮⋮
﹁ゴルゴライを手に入れるためには大義名分が必要だぞ。アレクサ
ンドロシアちゃんはそれを考えているんでしょうね?﹂
﹁そうだろうな、筋書きはこうだ﹂
1310
ぷるんと下唇を歯ではじいて見せた女村長も、俺と同じように前
のめりに身を乗り出してきた。
すると不謹慎にも熟れたたわわな胸の谷間が押し出されるので、
俺はつい視線を落としてしまった。
これ、もしもわざとやっているのなら、俺が油断している間にわ
ざと了承を取り付けようとしているんじゃないですよね?
あや
﹁お兄ちゃんがフェーデの最中、不幸な決闘中の事故によってカフ
はかりごと
ィアシュタイナーを殺めてしまう。当然、父親であるハメルシュタ
イナーは激昂するであろうから、その場は引き下がっても、謀を巡
らせるのならわらわたちが村に滞在しているうちに仕掛けてくるだ
ろう。けれどもそれはわらわたちに口実を与えるものさ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁だがしかし、わらわたちは武力解決手段によって正当な手段でこ
れに勝利したに過ぎない。よって復讐のために襲ってきた連中を排
除する事は、何ら恥じる行いではないという事になるな﹂
俺は呆れた顔をして女村長を見返した。
﹁カサンドラの裸を覗き見していたナメルシュタイナーさんの弟を
殺すという理屈と筋書きはわかった。けど、それは何も計画が決ま
っていないのと一緒じゃないですかねえ﹂
﹁それは確かにそうだ。お兄ちゃんに意見はあるか?﹂
﹁まず相手の兵隊の数とか、地理関係が無いと何とも言えないな。
そもそも相手の助っ人が強力な相手だった場合は、事故を装って殺
すなんて事は簡単にできないと思うんだけどな﹂
﹁ふむ﹂
﹁まずはこの村にどの程度の兵士と、武芸に秀でた有力な戦士がい
るのかいないのか、調べてみることにします﹂
1311
ひとまずどうするにしても調べてみない事にはどうにもならんな。
俺が了承して立ち上がると、つられて女村長も立ち上がる。
そうして胸の下で腕を組んだ彼女は、ゆっくりと俺の方へと近づ
いてきた。
﹁こんなお願いをするわらを、お兄ちゃんは軽蔑するか?﹂
﹁いいや。物事はひとつとって善悪何かを決めるもんじゃないだろ。
アレクサンドロシアちゃんは今そういう立場にいるから、こういう
事を俺にお願いしたんだろ﹂
俺の胸に頭を預けて、アレクサンドロシアちゃんはひとつため息
をこぼした。
そうしておいて首をもたげ不安げな相貌を見せてくれた。
﹁ハメルシュタイナーは欲深い男だ。生かしておけば後々になって
必ずブルカ伯に付く事は間違いない。サルワタを餌にされて、ギム
ルに弓引く事になる前に討たねばならん﹂
﹁母心か⋮⋮﹂
﹁せめても母から最期の贈り物だ。どうせわらわはもうすぐお兄ち
ゃんのものになる﹂
どうだろうな。むしろ俺が公私ともにアレクサンドロシアちゃん
のものになると言った方がしっくりくるけれども。
﹁こういう時に頼りに出来るのは、お兄ちゃんだけだ。こんな顔は
義息子の前でも、ましてや配下の前で出来るものではない﹂
﹁調子のいいことを言ったって、俺は出来る事をやるだけだぞ﹂
出来れば人殺しなんてものは誰だってしたくはないのだ。
だが、躊躇していたら殺しあう数が増えるというのならば、これ
1312
は致し方ないのかもしれない。
◆
アレクサンドロシアちゃんの寝所を退出した俺は、ため息をこぼ
しながらカサンドラの待つ部屋に戻った。
してみると、寝台に座ったカサンドラとけもみみがいて、何やら
武器の手入れをしている。
カサンドラは俺たち夫婦でお揃いの懐剣を、エルパコは俺とお揃
いの長剣をである。
﹁シューターさん、村長さまは何とおっしゃっていましたか?﹂
﹁⋮⋮今後の相談を少しね。えーと、ところで君たちは何をしてい
るのかな?﹂
﹁決闘の結果、いざという時にいつでも飛び込める様に準備してい
ます﹂
真顔で正妻がそう言った。
やめてくれ。うぬぼれているわけじゃないが、俺で太刀打ち出来
ない相手に挑む様な事はしないでください!
ふたりを押しとどめようと俺が慌てると、
﹁ぼくは本気だよ﹂
﹁お、おう。俺が死んだら仇討ちは頼んだ﹂
つい気迫に押されてそう返事をしてしまった。
いかん。目的を忘れるわけにはいかない。
﹁カサンドラ。忙しいところ悪いんだが、アレクサンドロシアちゃ
んのところに行って様子を見てきてくれ。少し気分が優れない様だ﹂
1313
﹁わかりました、シューターさん﹂
自分で命じておきながらも不安がっていた女村長の側に向かわせ
る。そしてけもみみには、
﹁エルパコ、君はこれから仲間を集めてきてくれ、俺からみんなに
指示をする﹂
﹁うん、わかったよ﹂
俺たちは吊り床の雑魚寝部屋に移動すると、関係者たちを集めて
車座になってもらった。
顔ぶれはようじょにニシカさん、エレクトラ、ダイソン、けもみ
み、そしてッジャジャマくんである。
俺と顔見知りの野牛の兵士タンスロットさんを呼ばなかったのは、
普通の村でミノタウロスがうろついていると悪目立ちするからであ
る。
珍しいと言えばけもみみのエルパコも珍しいのだが、この娘はそ
の性格からか、むしろあまり目立たない。
ゆうぎ
しかし、呼びもしないのにカラメルネーゼさんは、自分の愛用だ
ろうか長剣を抱いて吊り床部屋の端に姿を見せていた。
状況を面白がっているのだろうか、あるいは女村長に対する友誼
のつもりかね。
﹁何だシューター、むつかしい顔をして﹂
みんなを代表してニシカさんが俺に質問を投げかけてくる。
けれどもその顔は決して短くない関係から、何かを俺が言いだそ
うとしている事を察知しているものだった。
話が早いのはありがたい、さっそく俺は口を開くことにした。
1314
﹁村長さまの命令だ、この村の地理的な詳細と連中の兵力を調べた
い。万が一に、決闘の決着に納得がいかなかったゴルゴライの準男
爵さまが俺たちに牙をむいた時のために、こちらが先に手を打って
おく。いいな﹂
俺は仲間たちを見回してそう言った。
◆
それぞれの役割分担は簡単だ。
まず冒険者出身のエレクトラとダイソンのふたりには、この村の
冒険者ギルドを探ってもらう。
冒険者ギルドの出張所があるのならば、村に滞在している冒険者
はどれぐらいか、有力な人間はいるのかいないのか。
決闘の際に三人目の危険人物として出てくる可能性がある人間の
情報を先に得ておきたいし、村で騒乱になって敵に回られるのもま
ずい。
街でも村でもどこにでもいるゴブリンという立場のッジャジャマ
くんには、さりげなく村のまわりをまわって厩の位置や鳩舎の有無
を調べてもらうことにした。
怪しまれた時は手紙を故郷に送りたいからと切り返す。厩の時は
武装飛脚、鳩舎の時は伝書と言えばいいわけが立つのがいいね。
武装飛脚というのは文字通り武装した郵便配達傭兵だ。たいがい
は冒険者や行商人に手紙を預けて届けてもらうのが一般庶民だが、
緊急時や危険を伴う際はこれを使う。
そして探索と隠密に優れている猟師出身のニシカさんとエルパコ
1315
には、この村の界隈を探ってもらおうと思っていた。
特にニシカさんはベテラン猟師なので、領主の屋敷周辺を徹底的
に調べてもらう。エルパコはその間、この村の兵士の数をざっくり
と調べてもらう算段だ。
いざ決闘で俺たちが領主の息子を殺したとして、どれぐらいの数
で襲ってくるのかは知りたい。
みんなは俺のお願いを聞き届けると、ぞろぞろと吊り床部屋を退
出していった。
そして残ったのは俺とようじょとカラメルネーゼさんである。
何故かそこにいて微笑をたたえているカラメルネーゼさんはとも
かくとして、ようじょにはお願いがあった。
﹁ッヨイさまお願いがあります﹂
﹁あらたまって何ですかどれぇ?﹂
こんな事を賢くもようじょに問いただすのは気が引ける。
しかしッヨイさまはようじょ・ザ・ビヨンドだ。謀の相談をする
ならッヨイさましかいない。
﹁村長さまが今回のフェーデをきっかけに、このゴルゴライを簒奪
しようと考えている事はもうお見通しでしょうか?﹂
﹁ねえさまが、意味深な視線を送りつけてきたのです。ねえさまは
フェーデを利用して、ゴルゴライ領主のむすこを殺してしまうつも
りのなのです。それで逆上したゴルゴライの領主に付け入る隙を作
らせるつもりなのです。兵士の数と連絡手段がどうなっているか調
べさせたのは、そのためなのです。違いますかどれぇ?﹂
違ってない。
さすが賢くもようじょさまである。大正解!
1316
﹁村長さまの計画に、どこか見落としているところはありますかね
?﹂
﹁この計略が成立するのはどれぇが決闘に勝って、領主のむすこを
殺す事が出来るかどうかなのです。武力解決手段を公平かつ正義の
ものにするためには、ズルはいけないのです﹂
ズルはいけないという言葉を聞いて俺はドキリとした。
やはりこういうやり方はようじょにとって許容しがたいものなの
か⋮⋮
﹁それは、アレクサンドロシアちゃんが悪い事をしていると⋮⋮﹂
﹁違いますどれぇ。どれぇは絶対に決闘に勝つことが絶対条件なの
です。相手の介添人がめちゃんこつよいひとだった時は、これがで
きないのです!﹂
なるほど、言われてみればその通りだ。
﹁もしその時にみんなで加勢をしてしまうと、条件が破たんします。
ッヨイたちはお手伝いできないのです﹂
﹁うむ。その通りですッヨイさま。こうして言われてみると、とて
も肩の荷が重くなった気がしました﹂
﹁肩もみしましょうかどれぇ?﹂
お気持ちは大変嬉しいのですが、今は必要ないです。
﹁他には?﹂
﹁そうですねぇ。フェーデでむすこを殺す事は大前提として、その
時にゴルゴライの領主をしっかりと焚き付けておく事が肝要だと思
います!﹂
1317
﹁焚き付けておく?﹂
﹁そうなのです。フェーデの立会人は女神様の御子のガンギマリー
がするのです。これを覆すという事は女神様のご意思に不服とする
ものだから、この決定には従う様にと強く、強く戒めておきましょ
う﹂
﹁そんな事をしたら逆効果じゃないですか?﹂
﹁大丈夫です。ッヨイにひとつ考えがあります!﹂
そう言ってようじょは周囲をキョロキョロ見回した後、俺に向か
って背伸びをして見せた。
俺はすぐにも腰を落としてようじょに耳を差し出してやる。
﹁ガンギマリーが実はどれぇの婚約者だと、垂れ込みをするのです。
そうすればゴルゴライの領主は必ず怒りん坊になります﹂
なんということでしょう。
こんな年端もいかないようじょの鑑が、戦記小説に出てくる軍師
みたいな計略を口にするなんて。
﹁この武力解決手段が、はじめからドロシアねぇさまとガンギマリ
ーのはかりごとだと知れば、むすこの恨みを果たそうと必ず思うは
ずなのです﹂
確かにその通りだ。
騙されたと知れば人間は瞬間的に激昂するはずだ。
﹁してみると、この宿屋は守るにはちょっと不便な作りだ。ニシカ
さんとエルパコあたりを外に伏せておくのも手ですかね﹂
﹁そうですねえ。ッヨイも魔法が使えるお外にいる方が、もしかし
たらいいかもしれません﹂
1318
こうして雁木マリと修道騎士ハーナディンが戻ってくるまでの間、
俺と幼女は膝を突き合わせて計略の手順を確認した。
やる以上は絶対に失敗は許されない。
むかし俺がバイトしていた会社の青年役員が言っていた言葉、﹁
ビジネスは段取り八割でプロジェクトが始まる前に大方の根回しは
終わっているのだ﹂をまた思い出すのだった。
万が一にも失敗が無い様に、可能な手段は可能な限り打っておか
なければならない。
1319
109 フェーデしますか逃げますか 前編︵前書き︶
遅くなりましたが更新です!
1320
109 フェーデしますか逃げますか 前編
フェーデ
﹁双方の言い分を厳正に考慮した結果、ここは武力解決手段を申し
立てて決闘による決着を試みる事をあたしは提案するわ。もちろん
この騎士修道会の枢機卿にして聖少女修道騎士たるガンギマリーが
立会人として証人になる。女神様の御名の元、不正は許さないし逃
亡もまた罪と断じられるわ。どう?﹂
見舞いのため領主の館を訪れた雁木マリはこう告げたらしい。
ゴルゴライの領主にしてみれば、息子の言い分を聞いた限りこれ
は犯罪行為であった。
木登り遊びをしていた次男坊が、突如としてサルワタ騎士夫人の
護衛に襲われたというのである。
投擲されたナイフは次男カフィアシュタイナーの尻に深々と刺さ
り、そのまま教会堂の診療所に担ぎ込まれるという騒ぎとなった。
抗議のために跡取り息子のナメルシュタイナーを送り出したとこ
ろ、あろう事かサルワタ騎士夫人はその犯人の引き渡し拒絶し、入
浴の覗き魔扱いをされたというのである。
目の前の聖少女を自称する胡散臭い騎士修道会の尼が諍いを預か
アレクサンドロシア
るというので長男はしぶしぶ引き下がる事になったが、本来ならば
強引に兵を差し向けてでもサルワタ領主の売女風情ともども召し捕
らえてもいいと考えたぐらいである。
﹁まことその提案は売女風情に了承させられるのであろうな。姑息
な手段で逃げられてはたまらんし、安い謝罪金で済まされてはかな
わん﹂
1321
﹁サルワタのアレクサンドロシア騎士爵は本日この村の宿で一泊し
た後に、明日朝に領地に向けて出発するらしいわ。あたしはドロシ
ア卿と宿を共にする予定だから、お前たちがフェーデを訴えるとい
うのであれば、とりなす事は十分に可能よ﹂
ゴルゴライの領主ハメルシュタイナーは雁木マリの言葉に猜疑の
眼を向けながらも、その提案は一考の価値ありと考えたらしい。
熊面の猿人間の血を受け継ぐ人物という事だったが、彼はどこか
らどう見ても熊そのものの外見だった。
まさに熊面で、全身けむくじゃら。ずんぐりむっくりとしていて、
立ち上がった姿などは熊が上等な洋服を着て気取っている姿にしか
見えない。
熊とハメルシュタイナーの決定的な違いは、手のひらが人間と同
じ形をしている事だけだろう。
サイズも、全裸になって小柄な熊だと言い張れば、誰もが信じる
ほど熊だクマー。
﹁そもそも、だ。お前はどうしてあの売女風情と行動を共にしてい
るのだ。怪しいぞ﹂
﹁あたしたち騎士修道会は、近頃ブルカを騒がせているオーガの大
量出没を調査するためにサルワタの森へ向かうところなのよ。現地
の教会堂を経由して報告があったので、これから調査に向かうの﹂
﹁オーガか。聞かんな、そのような話は﹂
﹁そう? この様なド田舎には関係ない事だものね、気にする必要
はないわ﹂
なんの悪びれもなく、雁木マリは朗々とそう言ってのけたそうだ。
中央に各地にと派遣され、お貴族さまと交渉事をするのも日常だ
ったマリからすれば、この程度の駆け引きは日常である。
もうひとつ言えば辺境の田舎領主というのは、どちらかと言えば
1322
武断なところがあり、ついでに家格が軽輩というのもあってブルカ
近郊や本土の貴族に比べれば御しやすいところもあるらしい。
﹁しかしフェーデともなれば、勝負が付いた後に対価を要求するも
のだ。息子を愚弄するという暴挙に出た以上は、相応のものを頂か
なければわしは納得がいかんぞ﹂
﹁命まで要求する事はかなわないでしょうけれども、原因となった
女を差し出せぐらいは要求したらいんじゃないかしら? 騎士の妻
というのはたいそう美人じゃないの?﹂
﹁おお、それはいい条件であるな。フェーデである以上は謝罪金を
払って拒否される可能性があるものだが、ここまで愚弄されて引き
下がる事は出来ないからな! それに息子もさぞ喜ぶだろう﹂
雁木マリがとんでもない事にカサンドラを要求しろと言ったらし
い。
もちろんこう提案する事でゴルゴライの領主親子を乗り気にさせ
るつもりだったし、こんな要求をされては俺が死ぬ気で必死になる
事は間違いない。
この話を聞いた後に俺は雁木マリに対して激怒したものである。
お前何言ってくれちゃってるの?!
﹁だがそれだけではたらん。わしはあの売女風情、いやアレクサン
ドロシアを所望するぞ﹂
熊はアレクサンドロシアちゃんを所望したらしい。
ハメルシュタイナー準男爵は元々妻に逃げられた男だった。
ふたりの息子はそれぞれ別の母親であったが、どちらも下女に手
を付けて産ませた子供であり、家格を考えれば正妻を迎えねば格好
がつかないのであるが、そのお相手は四十を迎える前になってもい
1323
ないのが現実であった。
これは先に教会堂へ事情を説明に向かったマリたちが、現地の司
祭から聞かされたことであるらしい。
そしてアレクサンドロシアちゃんは言っていた。この男には過去、
度々求婚された事があるのだという話を。
また義息子のギムルも似たような事を語って聞かせていたが、恐
らく求婚してきた相手のひとりがこのハメルシュタイナーだったの
だろうね。
けれども過去のフェーデで領主の身代を要求した事例もないし、
これはさすがに成立しないものであったので、俺の奥さんであると
ころのカサンドラを要求してフェーデを発議するとゴルゴライの領
主親子は決めた。
そして雁木マリはフェーデの交渉については﹁任せてちょうだい﹂
と、俺たちの元を出発するときに口にしたのと同じ言葉を残してゴ
ルゴライ領主の屋敷を出た。
ついでに屋敷の内外を見回って、腕に覚えがありそうな人間がい
ないかどうか、ゴルゴライの経済状態はどうなっているかもしっか
りと確認していたあたりが、雁木マリの頼りになるところだった。
﹁面会に応じたのは領主のハメルシュタイナー準男爵とその嫡男の
ナメルシュタイナーよ。準男爵親子はああ見えて剣術の心得がある
とみて間違いないわ。応接室の壁には何本も刀剣や武器が飾ってあ
ったし、ご先祖伝来か何か知らないけど、使い込まれたものがいく
つもあった﹂
﹁するとフェーデを行った場合、次男のカフィアシュタイナーだけ
でなく、長男のナメルシュタイナーも出てくる可能性があるという
事かな⋮⋮﹂
1324
さっそく宿屋に戻って来た雁木マリを加えて俺と女村長にッヨイ
さま、カサンドラで作戦会議を立てる。
まさか自分の身代が要求される事になったカサンドラは、とても
嫌そうな顔をして雁木マリに抗議の顔を浮かべていた。
﹁気持ち悪い親子ですね﹂
﹁そうね、けれどもそのおかげで連中が釣れたとも言えるわ。安心
してちょうだい、どんな事があってもあたしたちのシューターが、
熊面の親子に負ける事なんてありえないんだから。こちらにはポー
ションもあるから、間違いないわ﹂
そう言ってカプセルポーションの注入器具を見せてくれる雁木マ
リ。確かにこれでポーションチート状態になれば、間違いなく俺は
今より強くなるけれども⋮⋮
素人の俺がこれを摂取しちゃった場合、妙な倦怠感とか中毒症状
が出やしないだろうな。
﹁大丈夫よ、最初のうちはみんなそうだから。慣れれば平気。ドロ
シア卿もこれで了承してくださるわね?﹂
﹁もちろんだ。わらわの身代まで求めようとした不埒な親子は、こ
こで誅せねばならない。ゴルゴライを奪い取る事に多少の罪悪感が
あったが、あの熊面はまだ懲りていないと見えるな⋮⋮﹂
アレクサンドロシアちゃんは憤慨の表情で了承し、俺の方を見回
してこう言った。
﹁ハメルシュタイナーめは、エタルの葬儀の時に村に来た。その夜、
喪も明けぬうちからわらわの寝室に忍んで来ようとした男だ。叩き
出して以後もどう断ろうと文を送りつけてくる日々がしばらく続い
た。あの男は死んで女神に詫びを入れるべきだ。あの男は好かん!﹂
1325
そんな女村長の言葉にカサンドラも雁木マリも深く頷きを返した。
このふたりは過去に似た経験があるだけに、心穏やかではいられ
なかったのだろう。
俺もあの男は好かん!
◆
仲間たちの調べ上げてくれた情報によれば、この村で兵士と呼べ
る数は二〇人そこそこという事らしい。これはサルワタの戦士の数
とさして違いはないし、平時は必要とされていないので最低限だけ
を整えているのだろう。
それから宿屋の完備されている村だけに冒険者はいた。ただしギ
ルドの出張所は存在しておらず、代わりに農業ギルドというのがあ
って、このギルドに雇われる形で定期的にモンスターの駆除を猟師
そういうの
たちと行っているのだとか。
なるほど、農業ギルドもあるのか。
問題の有力な戦士はいるのかいないのかという事だが、どうやら
件のナメルシュタイナーという領主の長男はあれでなかなか武芸達
者らしく、村の近郊に出没したというモンスターを冒険者たちと退
治した事があるのが馬鹿のひとつ覚えみたいな自慢なのだとか。
うーん、ナメルシュタイナーを見た限りで、強そうなオーラは感
じなかったんだけどな。
むかし俺が空手の試合でも感じた事だが、対戦してみると戦闘モ
ードにスイッチした瞬間に爆発的なオーラを発揮する種の人間は確
かにいる。
してみると彼がそのタイプの人間という風にも見て取れるが、俺
にはそう感じられなかった。恐らくは技術はないものの、熊面の猿
1326
人間がきっと筋力に勝る部族か何かで、それにモノを言わせて戦う
スタイルなのだろう。
やっかいだが、これは考えようによっては御す事が出来るはずだ。
馬の数、鳩舎の位置についても問題ない。
調べた限りでは農耕馬を除いて七頭の馬がいるそうだが、どれも
領主の屋敷内の厩で飼育されているので、ここを見張っていれば問
題はない。
それから鳩舎は領主の館と教会堂、それから農業ギルドにも何と
宿屋にも存在していた。
これは領内の集落と連絡するためであったり、街道沿いの村同士
で客が連絡に使うためであったり様々だ。
俺はその報告を受けた時に、サルワタに整備されたインフラがい
かにショボいのかを思い知った。
アレクサンドロシアちゃんに進言して、将来は魔法の伝書鳩の増
産に踏み込むべきだろう⋮⋮
ただしこのフェーデを行うにあたり、ひとつだけ大きな問題があ
った。
雁木マリが領主の屋敷にアレクサンドロシアちゃんがフェーデを
受諾した事を伝えに行った際、このフェーデはカフィルシュタイナ
ーとふたりの介添人、計三人で勝負に挑む旨の返事をされたのであ
る。
これで俺たちは三人でフェーデに挑む事になってしまったわけだ
が、もしもの時のためにお願いしていたカラメルネーゼさんの出番
となる。
三人目の相手がわからないという不気味さもさる事ながら、マリ
曰く彼らゴルゴライの連中が妙に自信満々だった事もあって、俺は
また妙な胸騒ぎを覚えずにいられなかったのだ。
1327
そうして、こういう決闘騒ぎになってしまった事で、カサンドラ
にしっかりと結婚と婚約の相談と報告する事は出来なくなってしま
った。
何せふたりきりになりたくても、ただでさえさほど大きくない宿
屋に多人数が滞在する事になったのだ。
俺とカサンドラの部屋に雁木マリとエルパコが割り振られたし、
アレクサンドロシアちゃんの部屋にはカラメルネーゼさん、ようじ
ょが割り振られたしね。
お貴族さまが個室ではないというのも不格好かもしれないが、こ
んな辺境の田舎に期待する事は出来ないしな。
そしてその事にかなり不満を覚えていたカサンドラは、例によっ
てとても嫌そうな顔をして俺にこう言った。
﹁だいたいの事はみなさまからすでに耳にしておりますけれども、
わたしはシューターさんの口からお聞きしたいんですからね?﹂
ですよね。男のけじめだ、わかっています。
俺は雁木マリとエルパコがいる事も一瞬忘れて、唇を封じてしま
った。
このフェーデが終われば、必ずやご報告させていただきます!
◆
そしていよいよフェーデの日を迎えた。
本来はこの朝一番にはゴルゴライを発って俺たちは鉱山都市リン
ドルを目指し、女村長はサルワタの森の開拓村を目指すはずだった。
けれども予定は変更だ。
このフェーデをきっかけにして、俺たちはゴルゴライを平らげる。
1328
﹁よぉシューター、準備の方はいいか?﹂
いつもの様にブラウス姿と革のチョッキ・ホットパンツ姿のニシ
カさんは、この戦いで使う予定をしている手槍とマシェットを持っ
て俺を凝視していた。
場所はゴルゴライの村中央にある石畳の広場だった。
これからフェーデがはじまると聞きつけて、村人たちがガヤガヤ
と集まってきているところだった。
貴賓席と言えば聞こえがいいが﹁妹﹂のッヨイさまと護衛の冒険
者を引き連れた女村長が、用意されたその席にずんずんと向かって
いる姿が見える。
すでに貴賓席に着席していたハメルシュタイナーは、やはり熊そ
のものだった。服を着た熊をしてハメルシュタイナーというのだろ
う。
﹁俺はいつでも問題ありませんよ。やる事はひとつだ﹂
﹁お前、その棒切れでフェーデに挑むつもりかよ。腰の剣じゃなく
て大丈夫なのかおい﹂
﹁一番慣れた武器を使うのが、戦士の心得です﹂
﹁違いねぇ﹂
﹁棒切れだろうと、あのデブを仕留めて見せますよ﹂
ニヤリとしてみせたニシカさんに対して、俺は獲物を倒す猟師の
口上できっぱりと言ってやった。
カサンドラを欲しがる愚かなる熊面親子に鉄槌を下すまでの事で
ある。
しかしその実、相手の出方をよく観察しながら、フェーデの最中
の事故にみせかけてナメルシュタイナーを殺害しなければならない。
殺すという事に躊躇が無いと言えば大嘘になるが、カサンドラを
おめおめと差し出すわけにはいかないのでやはりそこには殺意があ
1329
った。
握りしめる天秤棒に、自然と力が入る。
﹁あのデブ、まさかりで戦うつもりなのか⋮⋮﹂
﹁まさかり?﹂
つぶやく様に口にしたニシカさんが、密集した石造りの民家の中
から姿を出したデブ、ナメルシュタイナーに視線を送った。
デブは両手持ちの戦斧を手に持っていた。
かなり重量のある武器だけに、誰でも使いこなせるというもので
はない。それであるのに、軽々と持ち上げて見せる筋力は相当なも
ので、領主の息子でありながらモンスター討伐に出ていただけの事
はあると内心舌を巻いた。
やはり武芸は技術よりも力にものを言わせるタイプなのだろうか
ね。
﹁おっおい、本当にその棒切れで大丈夫なのかよ﹂
﹁た、たぶん大丈夫ですよ。あんなものはお飾りです、戦いは力だ
けじゃない事を思い知らせてやる﹂
口にしてみると負け惜しみの様に感じられてしまったのだろうか、
ニシカさんは心配そうに見返してくる。
するともう傍らに控えていたカラメルネーゼさんが、ご自慢の長
剣を鞘ごと抱いて視線を動かした。
﹁あの坊やが、カサンドラ夫人の全裸を覗き見したイケナイ不埒者
なのですわね?﹂
﹁あいつか、いかにも弱っちそうだ⋮⋮﹂
カラメルネーゼさんの触手が指さす方向に俺たちは注目する。
1330
おお、蛸足は脚と思っていたが、手の様に使うのが正しいのか?
年齢は十三、四歳ぐらいのお子様だ。このファンタジー世界では
十分に立派な労働力に数えられるのだろうが、身長ばかりが大人び
ているだけで、顔は少年のそれで背幅も体の線も細い。
あれが熊面の猿人間の血を引いているとはおおよそ思えないが、
耳だけはデブと同じに黒い熊耳カチューシャを付けた様な格好だっ
た。
だが顔がいただけない。
明らかに卑猥を粘土細工でカタチにしたらこうなりました、とい
う顔である。
カサンドラの美しい全裸を覗き見した相手だと思うとたまらず俺
は顔をしかめた。
おっかなびっくりという様子で熊耳デブの後について民家から出
てくると、俺たちの方をチラリと見てびくついた顔をさらにひどく
させた。
﹁シューター、顔がひどい事になってるわよ。まだフェーデは始ま
っていないのだから落ち着きなさい﹂
﹁くっわかっている。だがおかげで闘志に不足はない﹂
﹁せ、せっかくのいい男の顔が台無しだわ﹂
俺は雁木マリにたしなめられた。
一瞬だけ﹁顔がひどい事になっている﹂と言われて、よほど卑猥
を粘土細工で生成したような顔をしていると思ったが、そうではな
かったらしい。
だが今は褒められて喜んでいる気分ではない。
﹁三人目のフェーデ参加者はどこかしら?﹂
1331
雁木マリが視線を泳がせる。
広場の周りには村人と数人の兵士こそいるものの、他には何も見
当たらなかった。
びくついた顔のカフィアシュタイナーは左手に持った不釣り合い
なほど大きな盾で表情を隠していたが、その様子のまま熊耳デブの
兄に近づいて何事か言い合いをしていた。
すると、デブが大きく何かを吠えて指示を出しているのが見えた。
言葉は集まった村の聴衆のせいでよく聞こえない。
だけれども、何かの方向を差して叫んでいる事だけはわかったの
で、俺たちは視線の先に自然と注目してしまった。
そこには群衆を分ける様に何かの大きな箱が運ばれてくるのが見
えた。
箱、と言うよりもそれは檻という方が正しいのかもしれない。台
車の上に乗せられていて、何やら叫び声が聞こえる。
あれが、三人目の決闘参加者という事ですかね?
﹁あら、何という事ですの⋮⋮﹂
視線の先に注目して眼を点にしていたカラメルネーゼが、剣を抱
きしめながらそうつぶやいたのを見た。
そしてその反対側、雁木マリとニシカさんもまた、言葉を失う様
に口をあんぐりとあけている。
いや、雁木マリはそうじゃなかった。
一瞬にして体を硬直させていたのだ。そして後ずさりし、次の瞬
間には俺の腕にしがみ付いていた。
﹁ひっ⋮⋮!﹂
﹁お、おいどうしたマリ﹂
1332
﹁あっ、あれがわからないの、シューター⋮⋮﹂
わからないって、あれもしかして助っ人だったりしないよな?
﹁おいおいおい、そいつはないぜ。反則だろうが⋮⋮﹂
飛龍殺しを自認する鱗裂きのニシカさんすらも、驚愕の声をあげ
ているじゃねえか。
台車で運ばれてきた巨大な檻が、村の中央広場で開けられる。
中から出てきたのは、
﹁ウホッホ、ゴリマッチョ!﹂
キングコングの親戚が服を着た様な姿の人間だった。
そう、彼こそがゴルゴライ領主の親子が用意した三人目の助っ人、
巨大な猿人間だったのである⋮⋮
⋮⋮勝てるかな?
1333
110 フェーデしますか逃げますか 中編
圧倒的強者を前にして俺は恐怖した。
ささやかな俺の格闘技人生に照らし合わせても、ゴリラと戦闘を
した事はもちろんない。
しかしワイバーンやバジリスクと戦った経験はある。
俺たちの住んでいるサルワタの森の名称は、何と言っても巨大な
猿人間のハラワタに由来しているというほどで、そのハラワタを森
にぶちまけていたのもワイバーンによって捕食されたからという。
してみると、ワイバーンは巨大な猿人間より強く、そのワイバー
ン狩の名手である鱗裂きのニシカさんは巨大な猿人間よりも強いと
いう三段論法が成立するのではないだろうか。
いや、しないか⋮⋮
ゴルゴライ村の中央広場でのっしのっしと歩いている巨大な猿人
間は、ゴルゴライ兄弟の側までやってくるとナメルシュタイナーが
差し出した巨大な戦斧を片手で受け取った。
なるほど。あれはデブが使うための武器ではなく巨大な猿人間専
用の武器だったのか⋮⋮。
それを証明するように、華奢なカフィアシュタイナーには不釣り
合いなほど大きな盾もまた、巨大な猿人間が奪う様にして装着する
のである。
これは明らかに俺の予想の範囲を超えた出来事だった。
恐らく天秤棒でどうこう出来る相手ではない、しかも腰に吊った
剣でも、接近するのも難しいんじゃないのかしらね。
1334
こ、こんな時のためのポーションチートだ!
俺は腕に先ほどまで腕にしがみ付いていた雁木マリに視線を送っ
た。
雁木マリは懐からカプセルポーションの注入器具を取り出すと、
腕まくりをしてそれを押し付けていた。
﹁ふぅ、はぁ。くっ、ふうぅぅ⋮⋮﹂
どうやら鎮静効果が期待できる様なカプセルポーションをキめて
いるらしい。
大丈夫ですかねマリさん?
すると厳しい表情をしたニシカさんがあわてて俺に近づいてくる。
﹁ど、どうするんだシューター。あいつを倒すには接近して急所狙
いをするしかないぞ﹂
﹁どうするって、ニシカさん。あんたはワイバーンも倒してしまう
飛龍殺しの鱗裂きでしょう。巨大な猿人間もどうにかならないんで
すか⋮⋮?﹂
フィールド
﹁ならねぇよ! オレたち猟師が頂点捕食者であれるのは、自分た
ちの狩場内で戦う事が条件だ。どう考えたって、ここはオレたちの
ホームタウンじゃねえだろが﹂
﹁確かにそうだ。そうなると、役割分担をしっかり決めて、機動戦
で勝負を決めるしかないですね⋮⋮﹂
ウホウホと吼える巨大な猿人間を睨み付けながら俺は必死に考え
た。
同じく身を寄せてきたカラメルネーゼさんが口を開く。
﹁婿殿には勝算はおありですこと?﹂
﹁集団戦闘をするときの基本は、一番強いヤツを最初に倒してしま
1335
う事だ﹂
﹁そうですわね、戦場でも指揮官をまず倒すのが原理原則ですわ﹂
﹁だから、ニシカさんには近接武器は捨ててもらって、お得意の強
弓であの巨大な猿人間に一撃を加える戦い方をしてもらった方がい
いかもしれない﹂
﹁それだと、巨大な猿人間を相手にするだけなら可能だが、他のデ
ブとガリの相手はどうするんだよ﹂
俺の提案にニシカさんが難色を示す。
確かに全力で最初に巨大な猿人間を倒すことを考えるにしても、
他の熊兄弟をどうするかについて何かいいプランがあるわけじゃな
い。
﹁だったら、あの化け物の相手は誰かひとりが引きつけておいて、
早々にガリとデブを制圧する方法を考えた方がよさそうだな﹂
﹁いいですわ。わたくしの触手を使えば、最低ひとりはすぐにも制
圧する事は可能ですわね。あの不埒なお坊ちゃんならば開始早々に
絡めとってみせますわ﹂
俺がカラメルネーゼさんに視線を送ると、そう言いながら首肯し
てくれた。
問題はあの熊兄弟の実力だ。見た感じどちらも強者のオーラを感
じないというのは先にも触れたとおりだが、見ている限り巨大な猿
人間は兄のナメルシュタイナーの命令に従っている様に感じられた。
そうすると、あのデブが巨大な猿人間のご主人さまというわけか。
もしかすると俺がバジルを育てている様に、子供の時から巨大な
猿人間をペットにしていたという事も考えられるけれど、どうだろ
うな。
もしかすると実際の見た目以上に強者で、実力をもってあいつを
征服したという事も考えられないわけじゃない。
1336
﹁とすると、問題はナメルシュタイナーの方だけになりますが、ニ
シカさんは巨大な猿人間とデブ、相手にするのはどっちがいいです
かねえ?﹂
俺はニシカさんを見やった。
ニシカさんは村界隈で一番の猟師であり、恐らく戦闘をさせても
かなり粘ってくれる事は間違いない。
俺が巨大な猿人間の相手をするべきなのか、デブの相手をするべ
きなのかも迷うところだった。
﹁ニシカさんが巨大な猿人間の相手をしたことがあるのなら、まず
序盤はお任せしておくのがいいかなとも思いますわ。どうですの?﹂
﹁おっオレか。確かに巨大な猿人間をサルワタの森で仕留めた事は
あるが、あれは連中の部族からはぐれた若いやつだった。そもそも
アイツらは集団で行動をしているから、部族の連中相手に戦った事
はねえし、これはもうやってみなくちゃわかんねぇぞ⋮⋮﹂
そして目の前の巨大な猿人間は、間違いなく部族でも戦士階級だ
と言われてもおかしくないレベルでムキムキの個体らしい。
﹁だから、いくらオレ様でも、あれを御する自信はねえな⋮⋮﹂
﹁わかりました。じゃあアイツは俺が相手をすることにしましょう。
それならニシカさん、﹂
﹁んだよ﹂
﹁デブを決闘開始と同時に倒してしまうしかないですね⋮⋮﹂
﹁わかった、やるだけはやってみる﹂
そう返事をしたニシカさんが、会場の主賓席で控えていたけもみ
みに向かって﹁おい、オレ様の弓を持ってこい!﹂と叫んだ。
1337
エルパコはすぐにもコクリとうなずくと、もしものために用意し
ていたニシカさんの長弓セットを持ってこようとする。
それを見届けたニシカさんが俺たちに向き直って、苦しそうに言
葉を吐く。
﹁とにかく速攻であの熊兄弟を制圧しなければ、どうやっても詰ん
でしまうという事だぜ﹂
﹁ポーションチートでどこまで力の差を埋められるのか。おいマリ、
体力強化、筋力強化、知覚強化、回復強化、興奮促進、あるだけ全
部ポーションを使いたい。っておいマリ?﹂
足元には使い切った複数のポーションカプセルの殻が転がってい
る。
鎮静効果を期待できるポーションをキめていた雁木マリは、どう
やら完全にダウナー状態で虚ろに立っているだけの役立たずに成り
果てていた。
◆
完全に使い物にならなくなってしまった雁木マリにかわって、も
うひとりの騎士修道会の人間、修道騎士ハーナディンが試合の証人
として立ち会ってくれた。
﹁このフェーデはゴルゴライ領主ハメルシュタイナー準男爵の発起
によって、サルワタ騎士ニシカとの間で行われる。当事者たるカフ
ィアシュタイナーは、兄のナメルシュタイナーと騎士ゾンゴンアグ
バンジャビンを介添人とする。訴えられたサルワタ騎士たる鱗裂き
のニシカは、騎士シューターとカラメルネーゼ騎士爵を介添人とす
る﹂
1338
あの巨大な猿人間の名前はゾンゴンアグバンジャビンという長た
らしい名前らしいが、今はそんな事も気にならなかった。
倒してさえしまえば、その長たらしい名前も死んだ巨大な猿人間
のひとつで片づけられる。
一応は雁木マリも責任者としてその場に立ってはいるけれど、巨
大な猿人間を前にして彼女は相変わらず使いものにはならない。
過去の事を考えればそれも仕方がないのかもしれない。
そして彼女の過去のトラウマを克服するためにも、俺たちはここ
で巨大な猿人間を倒さなければならないのだが。果たしてそれは可
能なのだろうか⋮⋮
﹁それではお互いに前に出てください。勝負は双方どちらかの全員
フェーデ
が戦闘不能、あるいは降伏を認めた段階で終了します。異議が無け
れば、これより武力解決手段を開始しますよ?﹂
﹁おう。俺たちはそんなサルワタの田舎者なんかには負けない﹂
﹁言ってくれるじゃねえか、辺境の田舎者なのはお互い様だろ? さっさと勝負をはじめようぜ﹂
ハーナディンの言葉にデブとニシカさんが応酬した。
ここまでくればもう引き下がれない、ハーナディンが開始の合図
さえ出せば戦いの火ぶたは切られたのである。
﹁よし、それでははじめ!﹂
ハーナディンの号令とともに俺たちは動き出した。
相互の距離はおおよそ十数メートルといったところか。巨大な猿
人間があまりにも巨大なので、その距離感覚を見誤ってしまいそう
になるが、デブを見ている限りそのぐらいの距離がある。
そして戦いは実際に拳を交えてみないとわからないところがある
ので、俺は悲観ばかりをするつもりもなかった。
1339
事実、目の前の巨大な猿人間は緩慢な動きとともに戦斧をゆっく
りと持ち上げようとしている。
これはもしかしていけるんじゃね?
そういう期待感が一瞬だけ脳裏をよぎったのもつかの間、信じら
れない事に神速な動きでナメルシュタイナーとカフィアシュタイナ
ーが飛び出してくるのだった。
﹁ふたりとも!﹂
﹁チッ、わかってるぜ﹂
﹁承知していますわ﹂
俺の叫びに呼応して、ニシカさんが素早く距離をとりながら弓を
射かけようとする。狙いは適当だが、これはきっと風の魔法で軌道
修正するつもりで放ったのだろう。
一方のカラメルネーゼさんは、ニシカさんと反対に抱いていた剣
を抜き放つと、暴れる触手をうごめかせながら前に出る。
俺もまた天秤棒を握りしめながら駆け出した。
本来ならば巨大な猿人間から真っ先に潰すつもりだったのに、出
だしからその作戦は台無しになってしまったのである。
熊兄弟は見かけによらず軽やかな身のこなしだった。
最初は大きな戦斧を武器にするのかと見えていた兄ナメルシュタ
イナーの方は、短剣をふたつ抜き放つと両手に広げて俺の方に迫り
来る。
弟のカフィアシュタイナーも似たような戦闘スタイルで、こちら
も短剣二刀流という格好だ。
﹁連中は機動力を生かして俺たちの連携を阻害し、動きが止まった
1340
ところを巨大な猿人間で仕留める作戦だ!﹂
俺は斬りかかってくるデブの連撃を天秤棒で払いながら、巨大な
猿人間の動きにも気に払わないといけないというひどい有様になっ
たのである。
カラメルネーゼさんもまたアテが外れたのか、ニシカさんに襲い
かかろうとするガリの弟をけん制に走る。
﹁くそ、そんな棒切れで俺を倒せると思うなよ下郎が!﹂
﹁うるさいよ、デブのくせにちょこまかと﹂
子供の喧嘩みたいな口上を言い合いながらも、絶え間なく斬りか
かってくるデブの攻撃を必死で受け止めた。
本来ならば天秤棒の出来るだけ端を握る様にしてリーチによる戦
闘を心がけるところだが、今回はデブの連撃に対応するために、握
りを短く持つ。
というよりも、天分棒の中心軸近くを持つ様にして、棒の前後を
うまく攻守に使いこなせるようにしないといけなかった。
くそう、こいつかなり強い。
悪い方の予想通りに、いざ戦闘になるとめっぽう強くなるタイプ
の戦士さんでしたわ。
けれども不思議と負ける気はしなかった。
ギリギリのところで実力差があるらしく、双剣による連撃こそ恐
ろしい早さだったけれど、見切れないほどではない。
慣れとは恐ろしもので、俺がこのファンタジー世界で剣を振るっ
て戦った経験を蓄積した結果、どうやら萎縮せずに戦えているらし
いのだ。
それにポーションの効果も上乗せされているはず。
1341
だけれども。
何とか天秤棒を振るって押し返し、こちらから反撃に出ようとし
た瞬間に、巨大な猿人間が邪魔をしてくるのである。
﹁ウホッホ、ワンパン!﹂
中央広場の石畳に叩きつける様な戦斧の一撃。
初動は緩慢なくせに、攻撃の終末運動に入る瞬間だけはめっぽう
迅速の攻撃だった。
俺はかなり腰の引けた状態になりながらそれをかわすが、その瞬
間にナメルシュタイナーが短剣を突きさしてくるのである。
﹁ちっ、しくじったか﹂
﹁やられてたまるか⋮⋮﹂
荒い息をしながら飛びすさり、何とか距離を取ろうとした瞬間に
巨大な猿人間の戦斧が俺の目の前に迫りくる。
たまらず天秤棒で受けようとしたが、そんなもんは巨大な猿人間
にとっては枝葉程度の防壁でしかなかったらしい。
見事に一撃で破壊されたかと思うと、俺は慌てて天秤棒を打ち捨
てて刃広の長剣を引き抜いた。
長剣なら斬撃による裂傷を相手に期待できるけれど、リーチが短
くなったぶんもしかすると不利になるのかもしれない。
冷静なのか興奮状態なのか、まぜこぜのポーション効果でおかし
くなっている脳がそう考えた。
それにしても、どうして俺だけ二対一の構図なんですかねえ?!
ニシカさんとカラメルネーゼさんは何やってるんですかッ。
1342
俺の悲痛な心の叫びが届いたのだろうか。
一瞬だけ背後を気にするチャンスがあってチラリと見やったとこ
ろ、見事に無数の触手によって絡めとられたカフィアシュタイナー
の姿が飛び込んできた。
カラメルネーゼさんの腰から無数に生えるその蛸足が、痩せすぎ
の少年を死の抱擁でくびり殺そうとしているのである。
カフィアシュタイナーの体にはニシカさんが放ったであろう弓が
深々と刺さっており、もしかするとカラメルネーゼさんの触手攻撃
がなくてもやがて死ぬ運命だったのかもしれない。
そしてもうひとつ、期待できる出来事があった。
いよいよ鱗裂きのニシカさんが、引き絞った強弓のつるを解き放
ったのである。
直線を描いたその矢は、怒り狂いながら俺を襲おうとしていた巨
大な猿人間の胸に向けてまっすぐに飛び込んでいった。
1343
111 フェーデしますか逃げますか 後編
俺の視界を走り抜けた矢は、寸分の狂い無く巨大な猿人間の心臓
に突き刺さった。
これは胸筋を貫いて内部まで到達したのではないか。
見上げれば山の様に大きな巨大な猿人間を見上げながら、そんな
期待感が俺の中で膨らんだけれども、残念ながらそうはならなかっ
たのである。
﹁ウガンダ、ホッホセイ!﹂
何語かはわからない。たぶん巨大な猿人間の間でしか通じない言
語で雄叫びを上げた彼は、胸に一撃を喰らった事など無かった様に
怒り狂い、そして盾を持った左手のひとすくいで俺を吹き飛ばした。
瞬間、群衆から湧き上がる歓声と仲間の悲鳴が聞こえる。
﹁シューター!﹂
﹁婿殿!!﹂
盾でフックを喰らったその衝撃たるや、ほとんどダンプカーか何
かに跳ね飛ばされたような気分だった。
ただの一撃で俺の脳みそはぐらりと揺れ、そして最悪な事に舗装
された石畳に叩きつけられた格好だからしばらく身動きをする事も
出来ない。
当然、今の一撃で握りしめていた剣を手放してしまった。
朦朧とする意識の中ではっきりとひとつだけわかった事は、完全
に俺は無防備だという事である。
1344
下手をすれば全身バラバラになっていてもおかしくないのに、ま
だ生きて五体が動くのはポーションチートのおかげだろうか。
このままでは巨大な猿人間に踏み潰されてしまうか、デブにとど
めを刺されてしまうか。
結果だけを言うと俺はそうならなかった。
すでに瀕死の状況まで締め上げられていたカフィアシュタイナー
を放り出したカラメルネーゼさんが、ギリギリのところで俺を触手
で抱き上げてくれたのだ。
強引に引きずり上げる様な格好だったけれど、それでも間一髪で
戦斧を叩きつけて来た巨大な猿人間から救い出された。
﹁す、すいませんカラメルネーゼさん﹂
﹁まだ意識はしっかりなさっている様ですわね﹂
﹁ポーションが無ければ即死だった﹂
﹁今はその様な事を言っている暇は、ありませんわ!﹂
蛸足で地面におろされた次の瞬間には、カラメルネーゼさんが刃
広の長剣を走らせて迫りくるデブの連撃を打ち払っている。
俺も即座に動き出して、巨大な猿人間の意識をこちらに集中させ
る様に行動をとった。
恐ろしい事に、そうなのである。
ポーションのおかげからか、ほんの数秒まえまでは体を動かすこ
とも億劫だったはずなのに、すでに全身を全力で動かしても不具合
がない。
きっとポーションの効果が切れた時はひどい事になっているであ
ろう体の心配を、今はしている余裕など確かにない。
視線を巨大な猿人間に向けると、彼は俺に一撃を加えた後に満足
していたのかニシカさんを次の標的に定めていた。
1345
﹁くそったれめ、させるか!﹂
俺は自らに気合を入れるべくそう叫ぶと、石畳に転がっていた長
剣を探して視線を走らせる。
カラメルネーゼさんが視界の端でデブと剣を交えているのが見え
たが、こちらはその実力が互角といった感じだった。
いや、やや押しているところがある。
チラ見した限りではカラメルネーゼさんはさすが騎士というだけ
あって、剣術は正規の扱いを心得ているらしく、その蛸足を持った
容姿からもわかる様に受け太刀スタイルで引き付けて戦うタイプだ。
そしてニシカさんが弓を使うのではなく、ッヨイさまや雁木マリ
がファイアボールを打ち出す時の様な構えをして何かを手元から打
ち出した。
ウィンドストライクとでも言うのだろうか。
色のない風弾らしきものが打ち出されたと思うと巨大な猿人間の
顔面にぶち当たった。
俺はその隙に長剣を拾い上げるべく駆け出した。
背後でニシカさんとカラメルネーゼさんの叫び合いが聞こえる。
﹁おい、デブをやるぞ﹂
﹁何ですの?﹂
﹁戦力がバラけてたらアイツはいつまでも倒せねえ!﹂
﹁了解ですわ!﹂
ニシカさんはこのわずかな隙に先ほど巨大な猿人間の顔面に打ち
出したウィンドストライクを、デブことナメルシュタイナーめがけ
て打ち出す。
1346
﹁ぐおっ﹂
﹁油断ですわよ!﹂
ウィンドストライクは風圧を塊にして相手にぶつける魔法なのか、
巨大な猿人間には刹那の目潰し効果しか期待できなかったが、ニシ
カさんに背中を見せていたナメルシュタイナーは、これでもんどり
を打つ格好になる。
そしてその触手が双剣のデブを羽交い絞めにして完全に拘束させ
たのである。
問題はこの、目まぐるしく移り変わる攻守と体勢だ。
俺はこの隙にデブを背後からズブリとやるつもりでいたのだ。け
れども、
﹁おいシューター、うしろ!﹂
﹁何ですの?!﹂
まじかよおい。
すでに目潰しから復帰した巨大な猿人間が、ニシカさんめがけて
襲いかかろうと半ばタックル体制になっているではないか。
そして慌てて低い姿勢から大盾を前面に押し立てながら疾駆して
くる巨大な猿人間を、俺は必死で避けた。
避けた結果。
残念ながら俺と巨大な猿人間の突撃線の延長線上に絡み合ってい
た蛸足美人とデブが、巨大なタックルによって中央広場の端にある
露店まで吹き飛ばされたのである。
群衆たちは固唾を呑み、広場は静寂に包まれた。
むかし俺はアクション映画の撮影現場で、これと似たようなシー
ンを見たことがある。
1347
スタントをしていた俺の仲間が、主役に蹴り飛ばされて商品が並
んだ屋台か何かにぶっ飛ばされるという筋書きだったはずだ。
してみると、カラメルネーゼさんはまんまその状態で蛸足でデブ
を抱きしめながらに露店に吹き飛ばされてしまったのだ。
たぶん、直接に大盾でタックルされたデブはひどい事になってい
るだろう。俺たちは三人ともポーションチートであらゆる能力の引
き上げ恩恵を受けているが、ナメルシュタイナーは生身の体だ。
それだとしてもカラメルネーゼさんも無事で済むとは思えなかっ
た。
﹁大丈夫ですか?!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
反応はない。
そしてそちらに意識を向けている様な余裕は俺たちにはなかった。
﹁⋮⋮グルルル、ウホゴゴ⋮⋮ッ﹂
何より、巨大な猿人間の様子がおかしい。
おかしいのは顔とかの問題じゃなくて、何だかプルプルしている
のだ。
そして目つきがおかしい。
震える体を抑え込むように何度か胸をかきむしったかと思うと、
そのまま勢いで首に繋がれていた首輪? の様なものを引きちぎっ
てしまう。いや簡単に引きちぎれたとこを見ると、何か特殊な魔法
の拘束具なんだろうな⋮⋮
﹁おい、あのデブの拘束が解けたんじゃないのか?﹂
﹁解けたって、あのチョーカーと何か関係が?﹂
1348
一瞬の間にニシカさんと俺がそんなやり取りをしていると。
突然貴賓席で絶叫を上げたハメルシュタイナーの声が静まり返っ
た村の広場にこだました。
﹁わしの、わしのナメル、わしのカフィア⋮⋮おおおおっ、何とい
う事をしてくれたのだ!﹂
叫んだ熊そのもののハメルシュタイナーは、そのまま部下たちの
静止も振り払って広場の中央まで飛び出してくる。
上等な服を着た熊が取り乱しながら次男のカフィアシュタイナー
の側まで走り寄り、そして俺たちと巨大な猿人間を交互に見比べな
がら叫び続ける。
﹁おのれ、わしの息子たちをこの様な目にあわせて、ゆるさんぞ貴
様ら! ゾンゴンアグバンジャビンよ、こやつらを何としても捻り
つぶしてぐべちゃsじゅんbgr⋮⋮﹂
叫び続けていたハメルシュタイナーは、そうしながら巨大な猿人
間に近づいていったけれども、その言葉を最後まで言う事は出来な
かった。
なぜならどうやらデブの魔法道具か何かによる拘束が解けてしま
った彼︵もしくは彼女?︶はすでに、自らの意志で動いていたから
だ。
近付く熊を見下ろしていた巨大な猿人間は横薙ぎに戦斧をひと振
りすると、熊そのもののゴルゴライ領主の首を一撃で飛ばしてしま
った。
﹁フェーデは中止だ! お前たちはただちに集まった村人たちを逃
がせッ。ッヨイよ、あれを何とかしろ!﹂
1349
貴賓席から立ち上がったのは女村長である。
すでに武力解決手段どころの騒ぎではない広場の雰囲気から、い
ち早くサルワタの仲間たちが飛び出してくる。
ようじょは女村長に命じられると、すぐに魔導書を抱きしめなが
ら飛び出してきた。
けもみみも自分の短弓をつがえながら駆け出す。
﹁どれぇ、ここでは地面が石畳なので土魔法が使えません!﹂
﹁火の魔法はどうですか?﹂
﹁威力が大きすぎると、村に被害が出てしまいます! 火事になっ
てしまうのです﹂
イチかバチか、あの巨大な猿人間に肉薄して一撃を加えるしかな
い。
恐らくだがニシカさんの魔法補正がかかった強弓ですら心臓に届
かせる事が出来なかったという事は、それだけ筋肉が鍛え上げられ
ているのだ。
深々と刺さっている様に見えて、きっと若干ずれていたのだろう。
﹁おい、オレ様が囮になる。その隙に全員で連携して何とか倒すぞ
!﹂
﹁了解なのです。足を狙うのです!!﹂
こういう時にすぐさま連携に移れるのは、過去に冒険者としてダ
ンジョンに潜った経験があるからなのだろう。
ニシカさんはすぐにも駆け出して、ッヨイさまが魔法の一撃を何
としても加えるべく魔力を練り上げ始めた。
﹁これでも喰らいやがれ!﹂
1350
まずは巨大な猿人間の注目を引き付けるつもりで強力な一撃をニ
シカさんが射かけた。
その後は引き射ちとでもいうのだろうか、ゴルゴライの中央広場
いっぱいを上手く使いながら走っては振り返り一射という、かなり
きわどい対応をしている。
ほとんど狙いは適当に、どこかに当たればめっけもんという具合
に弓を射ちかけているので、これはもう持久戦だった。
では俺は何をするべきかと言えば、巨大な猿人間のヘイトがニシ
カさんに向かっているうちに、目標の急所部分を何とか攻撃しなけ
ればならない。
どこだ、どこがいい。
目まぐるしく位置関係を変え続けるニシカさんと巨大な猿人間。
けん
その小山の様な背中を見ている時に、ひざ裏を俺は睨み付けた。
今なら思い切り長剣を振り抜けばひざ裏の腱を断ち切る事が出来
るに違いない。
俺は走り、そしてちょうど目線の高さにあるひざ裏から前面に向
けて斬り抜けてやろうとした。
﹁ニシカさん全力で逃げろ、膝をつぶす!﹂
ニシカさんは引き射ちするのをやめ、俺が本来しなければならな
い囮役を買って出てくれる。
もちろん会話をする余裕も頷き返す余裕も無いので、行動で示し
てくれるのだ。
そして俺と彼女が立ち位置を入れ替える様に互いに疾走し、巨大
な猿人間の膝を、決して浅くない感触を持ちながら俺は斬り抜けた。
﹁ウホヒッ、ウホザカックン!﹂
1351
巨大な猿人間は俺の期待した通りに斬り抜けた片膝を付くと、大
盾を投げ出す。
そしてこの瞬間に出来た隙を無駄にしない様にエルパコが弓をつ
がえる。
苦しみながら首をこちらに振った巨大な猿人間の片目にズドンと
矢が刺さると、次の瞬間にはニシカさんが、エルパコよりさらに深
くえぐる様にして強弓を射ち込んでいた。
完全に半狂乱になった巨大な猿人間が顔をかきむしる。
そしてその巨大な猿人間ゾンゴンアグバンジャビンに、ようじょ
が練り上げた火球がぶち込まれた。
ぶち当たる、そしてのけ反る。
炎はすぐにも巨大な猿人間の剛毛に纏わりついて、その苦しさか
らか宙をもがく様に腕を暴れさせる巨大な猿人間。
そのとどめをささんとばかり先ほどまではどこにいたのか、雁木
マリが飛び出して来た。
マリは白刃を鞘走りさせると、ポーションで強化されたであろう
迅速の太刀捌きで巨大な猿人間の首を落とした。
◆
俺たちは、何もかもボロボロになりながら茫然と立ちすくんでい
た。
﹁このフェーデは騎士修道会のガンギマリーによって最後まで見届
けたわ。勝者は鱗裂きのニシカと、その介添人とする。いいわね?﹂
すでに群衆も逃げ出して、村の幹部たちも姿すらいない。
1352
なので雁木マリがそう宣言したところで何か意味があるのかとい
う向きもあるが、
﹁誰も見ちゃいないんだから、もうオレたちの勝ちでいいだろ﹂
﹁これも必要な手順なのよ。ところでニシカさん、ひどい顔をして
いるわよ?﹂
﹁お前ぇに言われたくはねえよ。ガンギマリーこそ、病人みたいな
顔をしているっての﹂
﹁ポーションのせいよ、しばらくすればよくなるわ﹂
あれからさらにカプセルポーションを重ね射ちしたのだろう。か
なりゲッソリした顔の雁木マリはそう言いながら手をかざすと、棒
切れの様に突っ立っていたニシカさんに聖なる癒しの魔法をかけて
いく。
﹁シューターさん、お体にどこか具合は?﹂
﹁ああ大丈夫だよ奥さん。お薬のおかげで今日も無事に戦い終わり
ました﹂
﹁でも、腕から血が⋮⋮﹂
駆けつけてくれたカサンドラとエルパコに疲れた笑みを振りまき
ながら返事をした。
俺の体も婚約者の雁木マリがやってくれるのかと思えば、こちら
は修道騎士ハーナディンが行ってくれた。
ご褒美はありませんでした。
﹁それより、カラメルネーゼさんの具合は?﹂
露店にぶち込まれてしまった彼女である。もろに大盾タックルを
食らっていたのだから、具合が心配だった。
1353
振り返ってみると、
﹁足を何本かやられましたわ、動けないので誰か起こしてくださら
ない⋮⋮?﹂
あまりいい状態ではないらしい。
つかつかとカラメルネーゼさんに近づいた女村長とようじょ。
そのうちの女村長が手を差し伸べて、立ち上がるのを手伝ってい
る様だった。
﹁おい、足は大丈夫なのか﹂
﹁大丈夫じゃありませんわね。と言いたいところですが、足などは
飾りですの﹂
二本の足で立ち上がったところを見ると、カラメルネーゼさんの
言う足はきっと蛸足の事を言っているのだろう。
見れば触手の何本かがかなりひどい状態だった。
﹁ガンギマリーどの、ネーゼにも癒しの魔法を﹂
﹁わかったわ、任せてちょうだい﹂
そんなやり取りを互いにしているところ。
ひとりふとキョロキョロとしているようじょである。
﹁どれぇ、おデブシュタイナーの方が見当たりません!﹂
﹁どういう事だ?﹂
﹁?!﹂
そうなのである。
1354
気が付けば、カラメルネーゼさんと重なる様にして吹き飛ばされ
たはずのナメルシュタイナーの姿が、こつ然と消えていたのだった。
1355
112 フェーデしました逃げられました
フェーデ
ゴルゴライ領主親子と俺たちとの間で行われた武力解決手段は、
誰もが予想もしなかった様な形で終了した。
そして気が付けば当事者のひとりナメルシュタイナーの姿がこつ
然と消えていたのである。
これは非常にまずい結果だ。
﹁エルパコ、奴を探し出せ!﹂
﹁うん、わかった﹂
﹁ニシカさんも手伝ってもらえますか。ヤツはあの体だ、そう遠く
へは行っていないはずだ﹂
﹁おうわかったよ。ったくひと使いが荒いな、お前ぇはよ﹂
当初の計画ではこのフェーデを通してゴルゴライ領主の息子兄弟
のうち、次男のカフィアシュタイナーを決闘にかこつけて殺害して
しまおうというものであった。
当然その結果に納得のいくはずがない父のハメルシュタイナーが、
俺たちが村に滞在中に襲撃を計画してくるだろう。
けれども計算が狂ったのはこのフェーデ中に、長男デブのコント
ロールから外れてしまった巨大な猿人間によってハメルシュタイナ
ーは殺されてしまったわけである。
暴れる巨大な猿人間の被害をどうにか抑え込むために、フェーデ
を見物するために集まっていた村人たちも避難させている。
相手の動きを予想しながら、村を掌握してしまおうと画策してい
た俺たちにしてみれば、まったく予想が出来ない展開になってしま
ったと言える。
1356
姿を消したナメルシュタイナーを探すべくけもみみを送り出した
俺は、すぐにも広場の中央で陣頭指揮を取っていた女村長の側に駆
けた。
﹁お前たちは、急いで領主の館に向かってあの場所を占領せよ。ガ
ンギマリーどのは聖少女であられるから、領主が死んでしまった事
を説明してもらいたい﹂
﹁ははっ、了解しました!﹂
﹁わかったわ。ドロシア卿はどうなさるの?﹂
﹁シューターと今後の話をつけ次第、すぐにわらわも向かう﹂
野牛の兵士はただちに女村長の命令に従って駆け出して行く。雁
木マリもうなずくとそれを追いかけた。
入れ違いに近づいた俺を見た女村長は、気難しい顔をして腕組み
をした。
﹁筋書きが大幅に狂ってしまったな﹂
﹁ナメルシュタイナーが姿を消してしまいましたからね、けど済ん
でしまった事はしょうがありません﹂
﹁だな、その様なものは些末な事だ。ただちにこの村の通信手段を
掌握せねばならん。ッヨイハディよ、お前はすぐにも農業ギルドに
向かえ、そこのゴブリンは厩を勝手にさせるな!﹂
﹁わかったのです!﹂
﹁す、すぐに向かいます!!﹂
会話の途中にも配下の人間に次々と命令を下す女村長である。
不安そうに俺の側に近づいてくるカサンドラを片手で抱き寄せな
がら、
1357
﹁お前がナメルシュタイナーの立場であれば、この場合はどうする
?﹂
﹁そうですね、俺たちがどういう動きをするのかアイツがどこまで
想像できるかにもよります。たぶん厩に向かって逃げ出す算段をし
ますねえ﹂
﹁あそこは見ていた通り、ッワクワクゴロの弟に押さえるよう命じ
た。徒歩での脱走という事はあり得ないか﹂
﹁とすれば、隙をついて俺たちの馬を奪おうと考えるかもしれない
な。ハーナディンさん!﹂
﹁了解ですよ。ただちに宿屋の厩を確認してきます。ひとを何人か
かりますよ!﹂
﹁お願いします。馬の数に問題が無ければ、そのままブルカ方面の
街道にひとが出ていないか偵察に向かってください﹂
﹁わかりましたよ婿殿!﹂
俺の言わんとしていた事を会話の流れからくみ取ってくれたのだ
ろう、了解すると残っていた野牛の兵士数名に声をかけて修道騎士
ハーナディンが飛び出していった。
﹁でも、フェーデの最中に領主の熊が死んでくれたのは、ある意味
で運がよかったのかもしれませんね﹂
俺はフェーデによって負傷した腕をさすりながら女村長を見やっ
た。
たいした傷ではないのだが、カサンドラが気にかけてくれるので、
手ぬぐいで腕を縛ってもらう。
後でちゃんとした治療は雁木マリに見てもらえばいいので、まず
は話を進める方が先だ。
﹁そうだな。だが狂った筋書きはどう修正するべきだろうな﹂
1358
﹁こういう時にあわてたら駄目だ、アレクサンドロシアちゃん。堂
々と領主の屋敷に入って、領主不在となったゴルゴライの統治を代
理すると宣言すればいい。デブを逃がしてしまったというなら、そ
の時はその時だ﹂
﹁ふむ。確かにいくら領主と血の繋がった息子と言えども、わらわ
がゴルゴライの領有を宣言した際に異議を申し立てられないのであ
れば何を言っても無駄だからな﹂
﹁そういうものですか﹂
﹁ああ、そういうものだ。辺境の諸侯が領土争いをするのは日常茶
飯事の事だからな、いちいち国王がこれに口を挟む事はないし、中
央の貴族どもも興味の範疇外だろう﹂
つまり今出てくれば俺たちに殺されるのが運命だし、後々出てき
てもすでにゴルゴライは俺たちのものになった後。
なかなかあわれなナメルシュタイナーの運命というわけである。
﹁爵位の問題はどうなるのです? 確かハメルシュタイナーは準男
爵という位を国王より授かっていたのではないのですかね?﹂
﹁そこは問題ない。爵位というものは基本、国王によって領地に付
与されたものであるからな。わらわが掌握した後にはわらわが準男
爵の称号を継承した事になるであろう。爵位いるか、お兄ちゃん?﹂
﹁俺が準男爵? 悪い冗談だ⋮⋮﹂
しかめ面をすると、何がおかしいのかあっはっはとアレクサンド
ロシアちゃんは笑って俺の背中をバシバシと叩いた。
戦闘終了直後で脱力している俺にはとても響くのでやめてくださ
い。
﹁ひとまず準男爵の称号はわらわが預かっておく事にしよう。辺境
を平らげた後にはお兄ちゃんにも今少し格好の付く爵位を貸与せね
1359
ばならんな﹂
そう言われて俺とカサンドラは顔を見合わせた。
奥さんをたくさん抱える事になる俺としては、収入が増えるのな
ら爵位を頂けるのもありがたい事だけれども、今の状況では頭が回
らないのである。
﹁と、とにかく間を開けるのはまずい。アレクサンドロシアちゃん
は領主の屋敷に向かってください。俺はもうしばらく後始末をして
から向かいますので?﹂
﹁ん、後始末?﹂
﹁ナメルシュタイナーの事も気になりますからね、生きている様で
あればその場で始末します﹂
始末という言葉を俺が口にしたとき、カサンドラの表情がにわか
に強張った。
妻の前で出来るだけこういう話はしたくないもであるけれど、こ
れもお役目だからしょうがない。そうしなければ、あべこべに俺の
方がカサンドラを差し出すことになっていたのだし、ヤツらが女村
長の野望を取り除こうとするのであれば、やはり躊躇するべき事で
はない。
﹁わかった、では領主の館に向かうとする。カサンドラ、わらわに
付き合え!﹂
そういう含みも理解してか、アレクサンドロシアちゃんは了承す
るとカサンドラの手を引いてその場を立ち去って行った。
しばらくその姿を見届けた俺だが、いつまでもそうしているわけ
にはいかない。
1360
閑散とした巨大な猿人間の暴れた後を見回してみれば、状況はひ
どいものだった。
中央広場を立ち去る際に、雁木マリが領主ハメルシュタイナーの
転がった首だけは持参して領主の屋敷に向かった。
なので、そこには熊の体が無残に倒れているだけである。
そして彼の次男坊もすぐ近くに、カラメルネーゼさんによって投
げ出されたまま倒れこんでいた。
近づくと、周りに村人たちの気配がいない事を確認してからしゃ
がみこんだ。
﹁息はまだありますわよ﹂
﹁そいつは不幸でしたね、この男も﹂
すると、背後から剣を杖代わりにしたカラメルネーゼさんが近づ
いてきて俺に話しかけてきた。
蛸足の損傷はいったん雁木マリによって治療はされたものの、体
力そのものまで全快というわけにはいかなかったらしい。
俺もそうだが、彼女もまた複数のポーションを重ねて摂取してい
るので、その間の無理が徐々に発露して体がしんどいらしいな。
﹁それで、この坊やについてはどうするつもりですこと?﹂
﹁意識はないのですね﹂
﹁そうですわね、ただ息をしているだけですわ﹂
カラメルネーゼさんの触手で捕縛された時に、おそらく締め上げ
られた際に脊髄でも損傷したのかもしれない。
フェーデの最中に死んでいる方がこの哀れな次男坊によっては苦
しまずに済んだのかもしれないね。
﹁⋮⋮たった女の覗きをひとつしただけで、この男もこんな結果に
1361
なって残念きわまりないな﹂
﹁どうされるのです?﹂
﹁どのみちフェーデの最中に殺さなきゃならなかったんだ。それに、
こんな状態は生きているとは言わない﹂
刃広の剣の刃を確かめた俺は、それだけ言うとカフィアシュタイ
ナーの首に剣を押し当てた。
恐らく脊髄まで損傷しているというのであれば、雁木マリがいか
に優れた聖なる癒しの魔法の使い手だったとしても、生きながらえ
させる事は出来ても完治させる事は無理だろうしな。
俺はそれほど剣の扱いが得意なわけではないので、切腹の介錯人
よろしく首を斬り飛ばすなんて事は出来ない。
﹁悪いが痛いのは我慢してくれよ⋮⋮﹂
﹁この坊やも貴族の子弟ですわ。許してくれますわよ﹂
そんな言葉を背中に受けながら、俺はズブリとやった。
カラメルネーゼさんは躊躇なく俺がそうした事に妙な感心顔をし
ていたけれど、もちろん俺の心の中に隠し様のない後味の悪さがあ
ったのは間違いない。
ただ、それを見せなかっただけ。
俺はふたり目の人間を殺したのだ。
カサンドラに見せなくてよかったとだけ、心の中で思った。
﹁次は俺の番かもしれない、そうじゃないかもしれない。俺は運が
よかったんですかね﹂
﹁ええ、わたくしたちは運がよかったのですわ。そして最後まで諦
めなかった﹂
そしてこの坊やは運が悪かった。
1362
俺たちはカフィアシュタイナーの脈がなくなったのを確認しても
ういち度だけ周辺を見回った後、領主の屋敷に向かった。
1363
113 ゴルゴライの新たな支配者
﹁ゴルゴライの村と周辺の集落は、このサルワタ騎士爵アレクサン
ドロシア・ジュメェが掌握した!﹂
領主館の広間に立ったアレクサンドロシアちゃんは、降伏した兵
士と屋敷の使用人たちを前に強くそう宣言した。
戦の勝ち負けは兵家の常なんて言葉があるが、この世界でも同じ
なんだろうかね。
両脇に野牛の兵士たちを従えたドレス姿の女村長は、いかにも外
からやって来た支配者としての役割を見事にこなしていた。
平伏した兵士や使用人たちも、ハメルシュタイナーの発議によっ
てフェーデが行われていたことは知っているし、この屋敷を掌握す
る時に雁木マリが領主の首を持ち込んだので事実を受け入れるしか
なかったのだろう。
﹁ゴルゴライの領主ハメルシュタイナー準男爵は、わらわたちとの
間で行われたフェーデの最中に命を落とした。現在この村には領主
ハメルシュタイナーに代わる統治者は不在である。よって、﹂
女村長の言葉に呼応して、熊面領主の生首を手に引き下げていた
雁木マリが衆人の前にそれを放り出した。
元はただの女子高生だった雁木マリだが、このファンタジー世界
に染まってしまったのか今は平然とした顔をしていた。
少しは巨大な猿人間を目の前にした時のトラウマの記憶が収まっ
たのだろうが、婚約者がこれほど勇ましいというのは男として複雑
な気分である。
1364
﹁以後このゴルゴライ領をアレクサンドロシアが国王陛下に代わり
お預かりする! 不服のあるものは前に出よ。容赦いたすゆえ、立
ち去るがよい﹂
アレクサンドロシアちゃんが館内を睥睨すると、萎縮しているの
か無言の兵士と使用人たちは今いち度頭を垂れて恭順の姿勢を見せ
た。
まあ領主の生首を見せられれば、誰だって大人しくなるってもん
だ。
﹁あのう、わたしたちはどうなってしまうのでしょうか⋮⋮?﹂
﹁今後わらわに逆らわないというのであれば、命まで奪うという事
はない。今までと同じようにこの館に仕え、わらわの代理人に従う
がよいだろうの﹂
ハハァとばかり土下座した旧ハメルシュタイナーの配下たちにま
じって、ついいつもの癖で俺まで一緒に平伏しそうになってしまっ
た。
カサンドラとようじょに止められなかったらやばかったね。
◆
そうして一旦はこの領内を制圧完了した俺たちであるが、なかな
か思った様に事がすべて順調に運んだわけではなかったのである。
厩と鳩舎を抑えたことで、ブルカに向けて連絡を飛ばす人間は現
れなかったけれども、やはりナメルシュタイナーの所在は把握出来
ないままであったのだ。
だから馬を飛ばして偵察に出た修道騎士ハーナディンが戻ってく
ると、すぐにもようじょとともに、旧領主の応接室に集まって善後
1365
策を対応した。
﹁かなり遠方まで馬を飛ばしてみたんですけどね。街道沿いには行
商人はおろか、農民の影すら見当たりませんでしたよ﹂
﹁そうでしたか。とするとヤツはいったい何処に逃げたんだろうな﹂
﹁可能性があるのは、まだこの村に残っていて息を潜めている事な
のです﹂
﹁この村にですか、ふむ﹂
ようじょの言葉に俺は考え込む。
女村長は雁木マリやカラメルネーゼさんたちや野牛の兵士たちと
ともに、村の幹部たちを相手に今後の統治方針について指示を飛ば
しているはずだ。
そういう表の顔は婚約者のみなさんに任せて、俺たちは裏方の実
務をこなしていかなけれなばならない。領地経営の事はお貴族さま
に任せておくに限るからな。
﹁今、引き続きニシカさんとエルパコが、村の人間の協力も得なが
ら山狩りをやっています。けど今のところは何の進捗もなしだ。ッ
ヨイさまが言う通り、ここはヤツらの本拠地だからな⋮⋮協力者が
密かにデブに手を貸していてもおかしくはない﹂
﹁そうなのです。協力者がいた場合は、いくらでもおデブシュタイ
ナーが隠れる場所はあるのです!﹂
﹁となると、やっかいですね。まさか僕たちがこれから統治しよう
という領内で、村人を見せしめに脅迫して従わせるみたいなのは論
外だ﹂
俺とようじょにハーナディンが顔を寄せ合って苦悩した。
まったく成果なしではあるが、これ以上事を荒立てるというわけ
にもいかない。しかもハーナディンが言う様に、村人を見せしめに
1366
して恐怖政治よろしく密告を期待するというのは、新たな統治者の
やり口としては最低の方法だろう。
﹁というか、騎士修道会ではそういう方法を使う事もあるのですか
ね⋮⋮﹂
﹁逆ですよ逆。教化が行き届いていない地域では、女神様の信者を
あぶりだすのにその土地の支配者がそういう方法で僕ら信徒を炙り
出すんです﹂
どうやら恐ろしい方法も実際にこのファンタジー世界で行われて
いる様である。
一種の隠れキリシタンに対する踏み絵の様なものだろうか。
﹁けれどもですどれぇ。フェーデが終了してから半日も村の周辺を
探し回って見つからないという事は、すでにッヨイたちの側から逃
げたという可能性もあるのです﹂
﹁すいません。僕の見落としがあったかもしれない⋮⋮﹂
﹁いやいや。あいつは村の猟師や冒険者たちとモンスター狩りをや
っていた様なヤツらしいですから、森に逃げたという線もあります
からね﹂
謝罪する修道騎士ハーナディンに気を使いながらねぎらいの言葉
をかけたものの、俺たちとしてみればあまり望ましい結果ではない。
﹁ふたりとも。村長さまはああは言っていたけれど、あのデブを逃
がした事による俺たちのデメリットは何か考えられるか?﹂
﹁うーん、そうですねぇ。のちのちになって出てきて、ゴルゴライ
の領有権を主張される可能性があるのです。ただし今この場でその
事を主張しないのであれば、普通は誰にも相手にされません。ただ、
﹂
1367
賢くもようじょが首をひねりながら、魔導書を抱きしめつつ言葉
をつづけた。
﹁その事を利用してドロシアねぇさまを追い詰める道具にする人間
がひとりいます﹂
﹁あー、ブルカ辺境伯ですね。彼は確かにこのゴルゴライ領主と親
交もあった様ですから、アレクサンドロシア卿の足場を切り崩すの
にそういう主張をするかもしれない﹂
やはりその線は考えられるよなあ。
ッヨイさまの言葉に首肯しながら言葉を引き取ったハーナディン
を見ながら俺も考えを巡らせた。
﹁ただし、国法に従えば領土争いによって結果的に支配者が入れ替
わったからと言って、その場で申し出をしなければ無効化されると
いうのは本当の話ですよ。少なくともアレクサンドロシア卿がこの
触れを周囲に出して、ひと月以内に名乗り出ないようであればこれ
は事実上の相続放棄だ﹂
聞けば、そうしなければ後出しでいくらでも親戚筋を引っ張って
きて、領有権を主張する事が出来てしまうからという事らしい。
貴族や領主ともなれば血縁による同盟関係を作るのが当たり前だ
し、俺だってそれによってタンヌダルクちゃんだけでなく、雁木マ
リや女村長とまで結婚するのだからね。
婚姻関係のある別の領主が出てきて事態が複雑化しない様に、国
法で期限が明示されているというわけか。
﹁なので、僕たちはナメルシュタイナーだけに気を使っていればい
いんですよ。何しろハメルシュタイナー卿は正妻がおられなかった
1368
わけだし、ふたりの息子はどちらも下女に産ませた子供で、貴族の
つながりもない﹂
﹁メリットでもあり、デメリットでもあると﹂
﹁それに実効支配をしているのは僕たちなので、これを奪い取ろう
と思えば実力行使しかない﹂
﹁つまり戦争というわけだな。そうなるとますますナメルシュタイ
ナーが頼る相手はブルカ辺境伯しかいないという構図になるのか⋮
⋮﹂
﹁その通りなのです! サルワタ領もゴルゴライ領も、見た通り現
状では大した兵士はいませんからね。近くの領主を頼ったところで
軍事力は期待できないでしょうし、血縁もそもそも希薄でしょう﹂
見張っていればいい場所が一本化出来るというのは、案外ありが
たいのかもしれない。
ハーナディンが意外な知識を披露してくれた事で、俺はメリット
とメリットをしっかりと把握できた。
そしてッヨイさまマジ軍師だわ。
﹁ハーナディンさん﹂
﹁?﹂
となれば、やる事はひとつだ。
無駄になるかもしれないが、聖堂会のネットワークを使って監視
体制を作るのは必要かもしれない。
﹁あんたは確か猟師の出身と言ったと思うけれど、それは本土です
かね。それともブルカですかね﹂
﹁本土の王都にほど近い土地ですね。残念ながらこの辺りに土地勘
はないなあ、申し訳ない﹂
﹁いや、それならひとを使えばいい。この村からブルカまでに点在
1369
している村々の教会堂に連絡をかけてください。無一文で逃げ出し
たとなればどこかで引っかかるかもしれないし、目撃情報があれば
騎士修道会に待ち伏せしてもらうという手もある﹂
﹁なるほど! わかりました、ではさっそく!﹂
俺の提案を快諾してくださった修道騎士ハーナディンは﹁さすが
婿殿は女神様がお遣わしになった聖使徒さまだ﹂などとブツブツい
いながら、応接室を飛び出していった。
残された俺は執務机に広げられている領内の地図に視線を落とす。
新たにアレクサンドロシアちゃんの領地として加わった土地は広
い。
すぐにもサルワタに飛ばした魔法の伝書鳩によってギムルと野牛
の兵士が駆けつけるだろうけれど、それまでにこの領内をどれだけ
掌握できるだろうかな。
そんな風にソファに座って地図と睨めっこをしていると、ようじ
ょが俺の膝にやって来て腰を落ち着けた。
﹁えへへ﹂
﹁ッヨイさまはかわいいなあ﹂
﹁そうですか? カサンドラねえさまよりも?﹂
﹁うーん、どっちもかわいい。でもッヨイさまはようじょかわいい
!﹂
意味不明な事を言いながら抱きしめて差し上げると、猫みたいに
ようじょが喉を鳴らして喜んだ。
﹁どれぇはもうどれぇじゃなくなりましたが、立派な騎士さまにな
ったのです﹂
﹁そうですか? 俺なんかまだまだですよ。今回も色々とお知恵を
1370
授けていただき、助かりました﹂
賢くもようじょさまの知恵なくば、何事もままならないというの
は恥ずかしい限りである。
俺もアレクサンロシアちゃんの良き伴侶、良き補佐役としてしっ
かり成長せんといかんなあ。
そうこうしていると応接室の扉を叩く音がする。
﹁コンコン、失礼します﹂
﹁はいどうぞ!﹂
ノック音がしてようじょが膝から飛び降りると、声をかけながそ
ちらに向かった。
扉の向こうから現れたのは使用人の女だった。
このファンタジー世界の女性はジンターネンさんを除けばみなさ
ん見眼麗しい事しきりであるけれど、使用人の女の子もまたなかな
かの美人さんである。
齢はたぶんアレクサンドロシアちゃんより少し上と言ったところ
だから、たぶん俺とそう変わらないだろうか。
そんな事を考えていると、下女のお姉さんが覇気のまるでない声
音で口を開く。
﹁⋮⋮あのう。新しい領主さまの奥様が、お食事の用意が出来たの
で、旦那さま妹さまにも集まる様にと仰っています⋮⋮﹂
旦那さまというのはたぶん俺の事だろう。
妹さまというのも、ようじょの事を自分の年の離れた妹だと紹介
していたのでこれで間違いない。
問題は俺は奥さんが一杯いるひとだと完全に思われている事だ。
カサンドラにアレクサンドロシアちゃん、雁木マリにこの場には
1371
いないエルパコ。
どんだけ奥さんを連れてうろついてる男なんだって思われている
に違いない。
﹁そ、そうでしたか。では部下たちが戻り次第、すぐに向かうとお
伝えください。ッヨイさまニシカさんとエルパコが戻ったら行きま
しょうか﹂
﹁はいどれぇ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ん、どうしましたか?﹂
この時に俺は気が付くべきだった。
もそもそとうつむき加減でそう告げた年増のお姉さんの見眼麗し
さとその胸の豊かさに眼を奪われて、大切な事を見落としていたの
だ。
彼女は後ろに手を組んだ不自然な格好で頭を下げると、立ち上が
って近付く俺を待たずに行動に出たのだ。
組んだ手を前に出したところ、果たしてその手には懐剣が握られ
ていた。
鞘の抜かれたその剣を腰だめにすると、一瞬だけ近づく俺かよう
じょのどちらを向くのか躊躇した後に勢い駆けだしたのである。
﹁息子を返して! この人殺し!﹂
その懐剣を握った下女は、ッヨイさま目がけて一目散にぶつかろ
うとする。
小さなようじょは驚いた顔をしたけれど、咄嗟の事で魔法を発動
させることも間に合わない。
俺は、俺はその光景を目撃した瞬間に、間に割って入ろうと必死
1372
に駆け出した。
ポーションの効果がわずかでも残っていたのだろうか、壁にかけ
られていた宝剣をひとつ奪い取ると鞘走りさせ、ほとんど体当たり
するように下女に斬りかかった。
懐剣を握る女の両の手を斬り飛ばし、そのまま押し転がすと俺の
手は無意識に下女の胸に剣を振り下ろしていた。
﹁ッヨイさま?!﹂
﹁大丈夫ですどれぇ。切っ先がお腹に少しだけ、刺さっただけです
⋮⋮﹂
﹁おい誰かいるか、雁木マリを呼んで来い!!﹂
俺は宝剣を放り出すと、屋敷中に響く様に怒声を上げて叫んだ。
1373
114 ハチミツの村の事情
﹁傷口は、小指の爪先ほど刺された程度で特に問題はないわ﹂
ようじょの怪我はワンピースこそ裂かれて血に染まってしまった
けれども、大きく騒ぐほどの傷ではなかったらしい。
俺は治療にあたってくれた雁木マリの言葉を聞いて心底安心した。
﹁だから言ったのです、ちょこっとだけ刺さっただけだと言ったの
です﹂
応接室のソファに寝かしつけられて裂けたワンピースを脱がされ
たようじょは、苦笑気味に力なくそんな言葉を俺たちにかけてくれ
た。
そんな事を言われたって心配なものは心配だ。
俺とカサンドラはソファを囲む様にしてようじょを見下ろした。
﹁しかし剣の刃に毒が塗ってあるという可能性だってある。そこの
ところはどうなんだマリ?﹂
﹁心配性ね。しっかり舌の確認と、念のためにポーションを腕に塗
って毒気の反応も見たわ。どちらも問題はなかったから安心して﹂
﹁そうか、本当によかった。よかったですねッヨイさま﹂
﹁はい、どれぇ﹂
俺とカサンドラはようじょの手を取って安堵した。
カサンドラの時にも一瞬の目を離した瞬間にこういう事が起きた
ものだ。
1374
四六時中一緒に行動するという事が出来ればそれに越した事はな
いが、そんな事は事実上不可能だ。
﹁これぐらいの傷は冒険者をやっている時にはしょっちゅうだった
のです。それにどれぇのおかげでこの程度で済んだのですから、ど
れぇもねえさまも、そんな顔をしないでください﹂
﹁そうですね。シューターさんのおかげで助かったんですもんね﹂
ようじょとカサンドラは口々にそう言ってくれたけれど、俺は釈
然としないものを感じた。
◆
﹁あの女は領主の次男カフィアシュタイナーの母親であったらしい﹂
傷口はたいしたことはなかったけれど、念のためにと雁木マリが
ようじょの側についてくれる事を応接室前の廊下にあつまった仲間
たちに報告すると、女村長がようじょを襲った使用人の正体につい
て説明をしてくれた。
﹁ハメルシュタイナーが手を付けたという使用人の女のうちのひと
りで、次男を産んだ後も屋敷に仕えていたのだそうだ。すでに実家
も無く身寄りのないものであったゆえにここに残っていたそうだが、
最後まであの熊面は妻として迎える事が無かったそうだの﹂
あわれなものだ。
俺がその腕を斬り飛ばして命を奪った女は、そんな立場であった
らしい。
この村に頼る身寄りも無くて唯一の救いというのか、自分の大切
な息子を殺された事を知った下女の女は、その復讐を決意したとい
1375
うわけである。
もちろんその行動に何かの計画性があったとは思えず、復讐でき
る相手がいるならだれでもよかったんだろうな。
そしてッヨイさまがちょうど彼女の目に留まったという事だろう。
あの時はたまたま俺とようじょのふたりきりで応接室にいたとこ
ろだったし、他の人間は食事のために食堂に集まっていた。
おあつらえ向けとばかりに襲われてしまったのである。
﹁しかし油断ではありました。申し訳ありません⋮⋮﹂
女村長の身辺警護にあたっていたエレクトラが、とても申し訳な
さそうに俺たちに頭を垂れる。
けれどもそれを言うならば、村の警備責任者は俺なのでこちらも
申し訳ない気分であることは間違いない。
﹁いや、あれは俺ももっと警戒しておけばよかったんだ﹂
﹁それにしても大事なかったんだから、まあよしとしよう。その方
たちもッヨイハディの二の舞にならぬ様、しっかりと身辺には注意
をしてくれろよ? あの男は女たらしではあったようだが、施政に
ついては存外真面目にやっていた様だ﹂
女村長は俺たちをなだめる様にそう言いつつ、注意を促した。
﹁この領内の特産はハチミツらしい﹂
﹁ハチミツですか?﹂
﹁そうだ。熊面の猿人間と言えば、養蜂を盛んに行う部族で知られ
ておるからな。ここでも領内の集落のあちこちでは濃くて甘いハチ
ミツを良く産していて、これを王都に納めているらしい。わらわも
その事だけは我が領内で聞いたことがあっての﹂
﹁ほう⋮⋮﹂
1376
熊面だけに養蜂ってわけか。
しかし支配者としては真面目に養蜂に取り組んでいたという事で
あれば、なおさらこの村と周辺集落を俺たちが統治するのは至難か
もしれないぜ。
﹁そういう事なら、今回の使用人の女みたいな事が今後もあるかも
しれませんね。出来るだけみんなは固まって行動をする、なるだけ
ひとりにはならないぐらいの心がけは必要かもしれない﹂
﹁そうだの。お前たちも油断なき様にするのだ、使用人や村人だか
らと言って隙を見せる事が無い様に﹂
女村長の言葉に、配下のみんなは一様に頷きを返した。
そしてぞろぞろと廊下を歩いて食堂に向かいながら、もうひとつ
の懸案事項を女村長が口にする。
﹁ところでナメルシュタイナーの足取りはつかめているか﹂
﹁いや、ひとを使ってニシカさんとエルパコが山狩りをやっている
のですが、夜になったところで打ち切りだ。そろそろ帰ってくるん
じゃないですかね﹂
﹁こちらも、屋敷の人間に心当たりはあるかと聞いてみたものの、
何も知らないと使用人たちは怯える一方で⋮⋮﹂
冒険者ダイソンも難しい顔をして返事をした。
まあ、俺がカフィアシュタイナーの母親をあっさりと斬り殺して
しまったので、屋敷に仕えている人間たちは縮こまってしまったら
しいからな。
食堂までたどり着いて、本来ならばみんながそろって食べるはず
だった、冷えた夕食を前に悩み顔を突き合わせていると、
1377
﹁たぶんあのデブは領内にはいないと思うぜ﹂
鱗裂きのニシカさんが、けもみみを連れて食堂に入ってくるでは
ないか。
ニシカさんはまっすぐ俺たちの側までやってくると、遠慮なく食
卓のイスにどっかりと座って言葉をつづけた。
﹁シューターに言われた通り、農業ギルドというのに顔を出してみ
たんだがよ。この村に詰めているという冒険者が何人か見当たらね
え﹂
﹁どういう事だ?﹂
女村長が俺とニシカさんの顔を交互に見比べる。
﹁いやあ。ナメルシュタイナーが以前から村にいる冒険者たちとモ
ンスター狩りに出ていたという話を耳にしたじゃないですか、だか
らもしかして裏でつながっているのではないかと﹂
俺はそんな話を女村長にした。
ただやみくもに山狩りをやっていても、統治者が変わった場ばか
りの村でどれだけ村人の協力が得られるかもわからない。
欲しいのは目撃情報のひとつでもというところだったけれど、や
はりあのデブが懇意にしている人間の動向を探るほうがいいんじゃ
ないかと俺は思ったわけだ。
たまたま、俺たちの村には無い農業ギルドの事が頭に残っていた
のでニシカさんに話をしていたのだけれど、やはりその線が脱走ル
ートだったかと俺は歯ぎしりしたものである。
﹁恐らくそいつらの協力でも受けて、村から逃げ出したんだろうよ。
冒険者なら野営の装備ぐらいはすぐにでも用意できるだろう。逃げ
1378
込んだ先が農業ギルドか冒険者の家で、そこから街道を避けて逃げ
たと考えるのが一番早いんじゃないのかね。村長さまよ﹂
ニシカさんはひととおりそんな事を口にした後で、勝手に手酌で
ぶどう酒の入った瓶をそのまま口に運んでごくごくとやった。
すると女村長はそんなニシカさんのそんな態度も気に留めずに、
その隣に腰を落ち着けた。
﹁そうか、ナメルシュタイナーは逃げたか﹂
﹁どうするよ村長さま﹂
﹁放っておけ。この村を離れたという事は、もはや頼る相手はブル
カ辺境伯しかおらぬであろう。そしてそれは最悪の愚策だろうしの﹂
こうして考えてみると、この村の冒険者もきっとブルカ辺境伯の
息がかかっている人間だったのだろう。
俺たちの村にやっていたのと同じことを、恐らくゴルゴライにも
やっていると考える方がいい。
女村長は俺たちを見回すとこう言った。
﹁戦争はもうはじまっている。わらわはもう後に引く事は出来ぬ、
であれば、腰を据えてブルカ辺境伯と事を構えるしかないからな。
さあお前たちも、すっかり冷めてしまったが食事にしよう﹂
◆
夜になると、女村長はッヨイさまを連れて村の宿屋に戻った。
領主の館に泊まるという事も最初の内は考えていたのだが、誰が
信用出来て誰が信用できないかわからない状態では警備上問題があ
る。
その事を俺たちは話し合って女村長に納得させると、食事を終え
1379
てそそくさと引き上げてきたのである。
ただし統治者として領主の館に誰かひとは残さないといけないだ
ろうという事なので、雁木マリがその役を買って出てくれた。
マリならば武芸の心得がひとしきりあるし、修道騎士ハーナディ
ンも側に控えている。
それに護衛の野牛の兵士を数名ほどつけておいたので安心という
わけだ。
俺たちは改めてカサンドラがもともと泊まり込んでいた宿屋の寝
所に戻った。
昨晩までは多人数でひと部屋を占拠していたのだけれど、分宿す
る様になったので、部屋に余裕が出来たというわけだ。
そうしてみると、俺はカサンドラとふたりきりの夜を過ごすわけ
である。
いろいろとツダ村に出かけている間に目まぐるしく俺を取り巻く
環境が変化していたので、これについてしっかりと報告と相談をし
ておかなければいけない。
ゴルゴライに戻ってきてからしばらく、その事は延び延びになっ
ていたからね⋮⋮
﹁さてまず、どこから話したらいいかな?﹂
﹁そうですねえ。もちろんシューターさんは全部お話しくださいま
すよね?﹂
﹁も、もちろん包み隠さず、ツダ村でどのようなお話合いがあった
のか、お話ししようね﹂
寝台の上にふたりで並んで向き合うと、カサンドラはニッコリ笑
って俺の顔を見た。
1380
奥さんの顔はとても怖かった。
﹁村長さまとは、どこまでお話が進んでいるんですか? それから
ガンギマリーさんとのご婚約でしたっけ? あと、エルパコちゃん﹂
﹁まず村長さまとマリの件だけれど。騎士修道会との同盟を結ぶに
あたって、姻戚関係を結びましょうという事になったんだ﹂
﹁はい﹂
俺の言葉に身を乗り出して聞いてくる正妻である。
﹁それで、聖少女の雁木マリと俺とが結婚すれば身内になるんじゃ
ないかと﹂
﹁はい﹂
﹁けどそれだけじゃ足りないのでアレクサンドロシアちゃんと俺も
結婚した方がいいんじゃないかと﹂
﹁エルパコちゃんは?﹂
﹁それはですね、エルパコがぼくだけのけ者は寂しいと⋮⋮﹂
結婚をする順番はどういう風にするのがいいのか、アレクサンド
ロシアちゃんの扱いはどうすべきか。
何で俺は奥さんにこんな相談をしているのだろうと思いながらも、
言われるままに﹁はい、はい﹂と首を垂れるしかなかった。
きっと鏡を見れば、さぞ俺は恐妻家の顔をしているんだろうなと
思いながら、長い夜を費やしてカサンドラにしどろもどろになりな
がら説明をするのだった。
1381
祝300万PV感謝&記念SS 正妻の矜持 前編︵前書き︶
気が付けば異世界村八分の総PV数が300万に到達しておりまし
た。
読者のみなさまに支えられて、こうして楽しく更新させて頂いてお
ります。
総ブックマーク数5000到達とあわせて、あつく御礼申し上げま
す!
1382
祝300万PV感謝&記念SS 正妻の矜持 前編
小さな頃のわたしにとって、世界はとても小さなものでした。
父と過ごした猟師小屋とその側に広がる四面の畑。それから庭先
の作業台があって、井戸や小川に水汲みに行くぐらいが、子供の頃
の私にとってのすべてだったのです。
そんなわたしが小さな世界から飛び出したのは、大人たちに連れ
られて村の裏手にある里山に出かけた時の事でした。
猟師のひとり娘であるのだから、父や猟師のみなさんとともにい
つかは猟に出る日が来る事は覚悟をしていました。
はじめて与えられた短弓を持って里山で射的をするのです。
握り方をまねし、狙っても狙っても届かない矢に業を煮やした父
はよく不機嫌に﹁貸してみろ﹂と言ってやりかたを見せてくれまし
た。
いつまでたっても上手くならないわたしは、本当に父の血を引い
ているのだろうかと落胆したものでした。
けれども、猟師見習のお勉強をする中でもひとつ楽しみがありま
した。
こんな事を言ってしまうと父に怒られるので黙っていましたが、
従兄のオッサンドラ兄さんに連れられて、里山の中を散策して歩く
のは、とても楽しかったのです。
兎を見つけて追いかけたり、蛇を見つけて驚いたり。
狐を追いかけて雑木林をさ迷っているうちに、迷子になったのは
とても良い思い出です。
泣きべそをかいたわたしをオッサンドラ兄さんが慰めてくれて、
1383
陽が暮れていくのを見てまた泣いて。
気が付けばマイサンドラ姉さん、オッサンドラ兄さんのお姉さん
が怒った顔をして迎えに来てくれたのを今でも覚えています。
そうしてサルワタの森と村の間に広がった雑木林の里山が、わた
しの新しい生活空間になりました。
何度かですが鹿や狐、兎を捕まえに出かけたことがありますが、
それより先の深いサルワタの原生林には、狼やリンクスが出没する
ので、子供の頃のわたしが近づく事はありませんでした。
かわりに山菜をとったり薬草をあつめたり、木の実や花を摘んだ
り、里山で猟師の子供たちは生計の足しにするのです。
マイサンドラ姉さんが小型の動物を狩る指導をしてくださったり、
山菜取りでこれは食べられる草、これは毒のある草と教えてくれま
した。
けれども。
やがてマイサンドラ姉さんは大人たちと長い狩猟の旅に出る様に
なり、やがて単独で大物を追って狩りをするようになりました。
そしてマイサンドラ姉さんは、自分が猟師になったけれども、オ
ッサンドラ兄さんには猟師になる事は許さないと言っていました。
不安定な狩猟生活と、村からは鼻つまみものに見られる日々は、
やはり幼い頃のわたしでもとても辛いものがありました。
信心深いマイサンドラ姉さんはそういった村の雰囲気をよく知っ
ていて、女神様に祈りをささげる時も決まって早い時間に出かけて、
教会堂の中には入らずにいました。
わたしも何度か姉さんに連れられてお祈りに行きましたが、その
時も同じ様に教会堂の前まで来るとそこで膝を折って女神様に祈っ
たのです。
﹁あんたはいずれオッサンドラと結婚するんだ。そうすればおじさ
1384
んみたいに苦労してあんたにひもじい思いをさせる事はないからね﹂
﹁どうしてですか?﹂
﹁オッサンドラには手に職をつけさせる。今、村長に掛け合って鍛
冶職人の弟子になる事は出来ないかと願い出ているところよ。そう
すればオッサンドラは食うに困る事はないし、あんたも一生何不自
由なく生きていけるさ﹂
まだ十になるやならずだったわたしには、難しい話だったので理
解できていませんでした。
けれどもそう口にしたマイサンドラ姉さんの顔はしごく真面目で、
わたしの思い出に深く残りました。
猟師にはふた通りの狩猟のスタイルがあるのだと父に教えられた
ことがあります。
ひとつは猟師仲間で集まって、獲物を追い込むスタイル。
普通それは集団の獲物を追う時にやる猟の仕方なんだそうです。
鹿やマンモス、ドラゴンの群れを狩る時にやるんだとか。
もうひとつはリンクスやワイバーンを狩る時などの様に、単独の
大きな獲物を襲う時は仕掛けを張り周到な準備をして、何日も森に
籠って仕留めるのです。
例えば鱗裂きのニシカさんは、一年を通して単独で大物の獲物を
追いかけている方ですが、マイサンドラ姉さんもこうした狩猟のス
タイルをしておられました。
むしろ、ニシカさんにこのやり方を指導したのがマイサンドラ姉
さんなんだそうです。
思い出してみれば、マイサンドラ姉さんとニシカさんが、ずいぶ
んとむかしはよく一緒におられたのを思い出しました。
わたしとオッサンドラ兄さん、そしてニシカさんとマイサンドラ
さん。
1385
そんな思い出がサルワタの里山には詰まっていました。
けれども、そうした小さなころの思い出は、突如として終わりを
告げる様になります。
鍛冶職人の見習いとして鍛冶場に出入りするようになったオッサ
ンドラ兄さんは、少しずつ疎遠になっていくようになりました。
わたしとは違い、大の大人たちとワイバーンやマンモスを狩るた
めに森に入る様になったニシカさんも、やがて長く集落を離れるよ
うになったのです。
そうして。
ある時マイサンドラ姉さんは、群れをなして移動する巨大な猿人
間を追って猟に出かけました。
長らく帰ってこなかったマイサンドラ姉さんが結婚すると言い出
した時は、父もひどく驚いて、漁師たちのみんなではちょっとした
騒ぎになったものです。
なぜなら、結婚とは常に大人たちと村長さまたちの話し合いによ
って決めるからでした。
マイサンドラ姉さんはそういった慣習を無視して、クワズという
村で出会った男性と結婚することを、ふらりと村に戻ってきた際に
報告したのでした。
当然の事ですが村長様は激怒して、父もまた難しい顔をしたのを
覚えています。
行動力のあるマイサンドラ姉さんは、父たちの反対には何ひとつ
耳を傾ける事無く、わたしたちの村を去っていきました。
そうした事があったので、女を猟師に育て上げて単独で狩りをさ
せる事は、ニシカさんを最後にやらなくなりました。
1386
わたしもまた、そうした理由から猟師見習いの対象から外されて、
家に残って毛皮の処理や家事をする事だけに専念するようになった
のです。
わたしにとっての世界は、ふたたび小さな猟師小屋とその向かい
にある小さな畑だけになりました。
この村にいて何ひとつ生産する事のないわたしは、毎日ご近所の
みなさんから白い眼を向けられる事になったのです。
そうこうしているうちにこの冬、父がワイバーンを仕留めにサル
ワタの森に入ると、そのまま帰らぬひととなってしまいました。
父は恐ろしい飛龍の命を奪った引き換えに、異世界へとその魂を
旅立たせたのです。
わたしは村人のみなさんから﹁ただ飯喰らい﹂という厳しい視線
に耐えながら、自分の殻の中に籠ったのです。
◆
そんなわたしの小さな世界の扉をふたたび開けて、外はこんなに
も広いんだと教えてくれたのが夫でした。
はじめはブルカの街から送ってくださったべっこう柄の手鏡には
じまり、肥えたエリマキトカゲのバジルちゃん。
そして新しくわたしたちの家族となったエルパコちゃんと、野牛
の一族から嫁いできたダルクちゃん。
わたしの知らない雑木林の向こう側のサルワタの森、そしてさら
に向こうにある野牛の里。
新鮮な外の世界は、とても素敵でした。
ダルクちゃんがシューターさんに嫁いできた時は、本音を言えば
1387
とても恐ろしかったです。
夫は村長さまからとても信任の厚い方で、はじめは猟師見習いか
らはじまったところを、すぐにもニシカさんとともにワイバーンを
仕留めたほどの戦士さまです。
野牛の一族を率いる族長さまと闘牛をした際も、見事に勝ってみ
せました。
きっと夫の事を永遠に独占するのは叶わないんだろうなとは心の
どこかで思ってはいましたけれど、その相手は村長さまだと思って
いたからです。
だからダルクちゃんがわたしたちの家にやって来た時、心の中に
許せないという嫉妬があったのは事実です。
﹁結婚というものは村長さまや大人の親戚が決めるものです。わた
しもそういう事は理解しているつもりです﹂
夫にはそう言って説明したけれども、本心ではとても辛かったの
です。
高貴な身の上の方はたくさんの奥さんを持つことが普通なのは、
ちゃんとわかっていたのです。
シューターさんは全裸を貴ぶ戦士のご出身ですから、故郷ではさ
ぞご高名な戦士だったのだと思います。
ご出世なさる事は、とても嬉しいのです。
けれども、やっぱり悔しい。
だから余計な事を言ってしまったかもしれません。
﹁でもわたし怒ってます。悔しいです。シューターさんはわたしが
独占できると思ってたので⋮⋮﹂
そんな言葉を口にしたわたしに、夫は寂しそうな顔をしていまし
1388
た。
シューターさんの考えている事はすぐに顔に出るので、夫も本当
は申し訳ないと思っている事はすぐにもわかりました。
それならいいんです。
ちゃんと、わたしの事もしっかり見てくださるのなら、許します。
けれど、野牛の族長さまとダルクちゃんを奥さんに迎え入れるた
めに闘牛をする時になって張り切っている夫を見ていると、ちょっ
とだけ意地悪をしたくなってしまいました。
ごめんなさいね、シューターさん。
﹁シューターさんなんて負けちゃえばいいんです﹂
﹁ちょっと待った。こら、話を聞きなさい。俺はカサンドラのため
にだな、﹂
﹁嘘です。じゃあおもいっきり野牛の族長さまに勝ってくださいね﹂
齢の離れた夫ですけれど、そういう風に言ってあわてているシュ
ーターさんの姿はかわいらしいなと思いました。
わたし、変なんですかね。
夫が新しい奥さんを迎え入れるために戦いに挑もうとしているの
に、それを応援しちゃうなんて。
わたしが笑顔を見せると、夫も嬉しそうに顔をほころばせてくれ
ました。
そして夫は勝ちました。
夫は、膝に傷を負いながらもちゃんと勝ったのです。
これがシューターさんというひとなんだな、と。そう思いました。
ちょっぴり悔しいけれど、やっぱりシューターさんはわたしにと
って自慢の旦那さまです。
ダルクちゃんにも、少しだけおすそわけをしてあげようかなと思
1389
いました。
1390
祝300万PV感謝&記念SS 正妻の矜持 前編︵後書き︶
次回は引き続き記念SSの続編をよろしくおねがいします!
1391
祝300万PV感謝&記念SS 正妻の矜持 中編︵前書き︶
感謝&記念SSの続きになります。
いつも異世界村八分をご愛読いただき、本当に感謝です!
1392
祝300万PV感謝&記念SS 正妻の矜持 中編
こんな事を言うのは少しためらいがあるのですが、シューターさ
んと夫婦の愛を確かめ合う事が出来たのはブルカから戻って来てい
ち度きりの事でした。
それからしばらくは、息を付く暇も無かったからです。
何しろシューターさんはバジルを村に連れて戻ってきたから大変
です。
すぐにもエルパコちゃんが家族に加わってしまい、それからダル
クちゃんも新しい奥さんとなりました。
ひとりわたしばかりが幸せを確かめさせて頂くわけにもいかない
ので、しばらくは我慢の毎日でした。
わたし独りきりの時は、そういう寂しい気持ちになればシュータ
ーさんの事を思い出して自分を慰めていればよかったのですけれど
も。
シューターさんは大人の男の方ですし、辛抱していただくのも大
変です。
するとダルクちゃんやエルパコちゃんたちが用事でお出かけをす
る機会に、わたしの事をジロジロと見てくるのです。ジロジロ見て、
その後に﹁俺の奥さん﹂と言って側に寄って来るので何を考えてい
るのかはすぐにわかりました。
そしてそれが嬉しかったのも事実です。
タンヌダルクちゃんは、シューターさんにとってふたり目の奥さ
1393
んです。
とても魅力的な女性で気の強いところはありますが、よく気の利
く可愛いお嬢さんですし、そういうところはシューターさんがいつ
もの様にチラチラと彼女を見ている事からもわかります。お胸が好
きなんですね。
それからエルパコちゃんは、いずれシューターさんの奥さんにな
る事は目に見えています。
一緒にお風呂に入るとエルパコちゃんは自分の事を男の子だと言
って拒絶反応を示すのですが、シューターさんはエルパコちゃんの
体を洗ってあげる時に、そわそわしているのがわかるのです。夫と
同じものが付いている事に興味津々なんですね。
奥さんや奥さんの候補が一気に増えてしまったので、わたしは危
機感を募らせていたのでした。
だってそうでしょう。
わたしはシューターさんに最初に嫁いだ奥さんなのだから、やっ
ぱりシューターさんにはもう少しの間だけでいいので、わたしだけ
を見ていてほしかったし、そうして欲を言うなら夫の子供が早く欲
しかったのです。
確かにバジルはわたしとシューターさんの子供みたいなものです
し、可愛い事は間違いないのですけれど、わたしにとって﹁妻であ
っていいのだ﹂と思える確信が欲しかったのです。
だから、家族が留守のうちにそうして求められる事は嫌ではあり
ませんでした。
早くシューターさんとの間に子供を授かる事が出来れば、きっと
わたしは後ろめたい気持ちを他の家族に向ける事をしなくて済むか
らです。
夫もそのことを理解していたのか、辛抱しきれなくなるとわたし
だけに求めてくださいました。
1394
申し訳ない気持ちもある一方で、その事実にとても嬉しくなりま
した。
わたし、男の子と女の子のふたり欲しいなあ。
◆
もしかしたら、わたしは浮かれていたのかもしれません。
自分ではあまりそういう認識はしていなかったのですけれども、
家族のみんなにもそう見えていたのかも。
後々になって思い返してみると、シューターさんを独占したい気
持ちの焦りと、それから家族がいっぱい出来て頑張っていこうって
いう張り切りと、そういう気持ちが外に出ていたのかもしれません。
だから、わたしたちの家族がどの様に見られていたのか、あまり
ご近所さまが見えていなかったのかも。
猟師小屋で肩を寄せいあいながら、新しくできた家族と過ごす。
こうして口にしてみると、何だかとっても楽しい生活の様に聞こ
えてくるから不思議です。
けれども現実には家族が四人にバジルちゃんが、この手狭なひと
間の狭い小屋の中で生活するのだから、それはとても難儀です。
ふち
この頃に夫は、村長さまのご命令でサルワタの騎士さまになりま
した。
騎士と言えばお扶持を村長さまから頂ける特別な立場で、わたし
たちは今までの様に猟だけで生計を立てる必要がなくなったのです。
サルワタの森の開拓村はこの様に何もない辺境の果てにある場所
ですから、夫が﹁扶持はお給金の形じゃなくて現物支給なんだって
さ﹂と言った時はそれで構わないとわたしたち妻は思ったものです。
それなら何はさておいて、お家をどうにかしましょうとわたしは
夫に提案しました。
1395
﹁あのう、シューターさん﹂
﹁うん?﹂
﹁猟師小屋というのは、もともと猟師の家族が夏の一時期に村で過
ごすための簡易の小屋なのですよ。農家のみなさまはこれよりも立
派な土壁と屋根を持ったお家なのです。こうして家族も増えた事で
すし、出来るだけ早く新しいお家に引っ越しできる様にお願いして
もらえないでしょうか﹂
﹁そうですよ旦那さま、街から蛮族の移民がやって来て新築ラッシ
ュの今なら、領主さまにお願いするのもチャンスですよう!﹂
呑気にしている夫にわたしがそう談判したところ、ダルクちゃん
もそう言ってわたしに賛同してくれました。
エルパコちゃんも﹁ひとり寝がとても寂しいよ﹂とつぶやいてい
ましたから、きっと家族そろって一緒に床に就ける寝台で夜を迎え
たいに決まっています。
﹁わ、わかった。村長さまに明日の朝にでも相談してみるよ。みん
なでゆっくり寝られる寝室を用意しないとな﹂
そんな風に新生活に浮かれていたわたしたちでしたが、お向かい
にある農家のご家族は、厳しい視線をわたしたちに向けていたので
す。
新生活がはじまって毎朝、シューターさんとエルパコちゃんが表
の畑を手入れするために出かけます。
そうして物事をあまりお気になさらない夫は、顔を合わせるとご
挨拶なさるのですが、大抵はお向かいさんは無視なさるのですね。
わたしは父が存命の頃からそうだったのもあって、あまり気にし
ていませんでした。
以前はただ、わたしの方からは頭を下げるようにはしていたけれ
ど、それを見るだけ見て無視なさるのでしたが、今は違います。
1396
わたしの家にこうして家族が増えた事で、物珍しさもあったので
しょうか、こちらを見てこられるのですけれど、厳しい視線を少し
向けた後に、舌打ちなさるのでした。
夫はああいう性格ですからあまり気になさらなかった様ですが、
野牛の族長の妹という、高貴な身の上のダルクちゃんには耐えられ
なかったのかもしれません。
﹁義姉さん、何なのですかあの連中は! とっても不愉快です﹂
﹁我慢してください、ダルクちゃん。あのひとたちはむかしから、
ずっとそうなのですよ﹂
﹁でもでも義姉さん、悔しいじゃないですかあ﹂
﹁そ、そうですね﹂
﹁どうして蛮族どもはあんな態度をとるのですか。わたしが野牛の
娘だからですか? 旦那さまが全裸を貴ぶ部族だからですか? そ、
それともエルパコちゃんがハイエナの猿人間だからですか? わた
したちがよそ者だからですかあ⋮⋮﹂
悲しそうな顔をしてダルクちゃんがある時そう言ったのですけれ
ど、それはきっとどれも正しくて、それだけじゃないのだと思いま
した。
﹁わたしたち猟師の家族は、ずっと村の鼻つまみものだったのです。
猟果が無ければ村長さまのご慈悲に頼って、施しを受けなければい
けないわけですし﹂
﹁けれども、今の旦那さまは騎士さまですよ! おかしいじゃない
ですかあ﹂
﹁そうですね。今まではずっと鼻つまみものだったのに、急に旦那
さまが騎士さまになったから、戸惑っているのですよ﹂
1397
夫はもともと村の猟師でしかなく、街から帰ってきた時は奴隷身
分にまで落とされていました。それが急に騎士さまになって、ご近
所さまもどうわたしたちの家族と付き合っていくのか戸惑っている
のでしょう。
事実、そういう事をサルワタの森の湖畔に出かけてお城の建設作
業をしている時にも出くわしました。
夫が作業現場の監督さんとしてご差配なさっている時に、周辺集
落のみなさんがご不満を口にされたのです。
﹁何で奴隷の分際で、普請作業を取り仕切る様な態度を取っている
んだ。貴様はいったい何なんだ、ええ?﹂
それは当然の事ですよね。
おヘソにピアスをした上半身裸のシューターさんは、どこからど
う見ても騎士さまという外見には見えず、奴隷そのものです。
だから、現場監督としてみなさんにご指示を出したシューターさ
んの事を皆さん誤解したのです。
﹁争い事はいけません! シューターさんは村長さまに命じられた
現場の責任者なのですよ?!﹂
﹁そういうあんたは何者ンだ。俺たちは村長さまの命令で、築城を
取り仕切る騎士さまの配下で作業するためにここへ来たんだ。ギム
ルさまはいったいどこにいる。騎士さまと言うのは新たにギムルさ
まが就いた役職ではないのか?﹂
﹁わたしがその騎士の妻、カサンドラです。ギムルさまは野牛の一
族の居留地に、お嫁さんを探しに行っています﹂
シューターさんをそのままにしてはいけないと思って、わたしは
気が付けばたまらず叫んでいました。
夫もわたしの声に驚いていたし、集落から集まった人足のみなさ
1398
んも、びっくりなさっていました。
だけれども、言ってしまった以上は続けないといけない、そうい
う思いでつたないながらわたしは説明を繰り返しました。
その場はどうにかうまく纏める事が出来たのですが、そういう事
があって夫はひどく気落ちしたのです。
◆
﹁あの者どもは、すぐに村の連中に迎え入れられるというわけには
いかぬようだな﹂
騎士の嫁として恥ずかしく無い様にと、花嫁修業を受けていたわ
たしが村長さまの執務室に呼ばれた時の事でした。
わたしたち嫁いだ女たちの事をたいそうご心配になられた村長さ
まは、夫婦生活の近況はどうかとお聞きになりながら、そう仰いま
した。
﹁はい。先日も建設現場でそういう事がありましたし、シューター
さんもダルクちゃんも苦労している様です﹂
﹁はっはっは、あの男が苦労をしているだと? あの野牛の娘はと
もかくとして、まあその場では苦労しただろうが、お兄ちゃんなら
ば引きずる事も無いだろう。きっとすぐに連中とも親しくするであ
ろうからな﹂
﹁そうでしょうか﹂
﹁そうだとも。わらわもお兄ちゃんを、こうして信頼しておるから
な。シューターは使える男だ﹂
村長さまは時折、夫の事を﹁お兄ちゃん﹂と呼びます。
理由は知りません。わからないですが、きっと夫と村長さまの間
に何かの秘密があったのでしょう。
1399
わたしはその事を詮索するべきではないとどこかで感じていたの
ですが、今にして思えばそれも嫉妬のひとつだたのでしょう。
わたしの知らない夫の事は、やっぱりわたしも知っておきたいと
思うのが心情ですけれども、聞くのはやっぱり恐れ多いですし、そ
れに聞いたことで後悔するかもしれません。
そんなことを考えていたのですが、それはただの杞憂に終わりま
した。
﹁ああすまん、お兄ちゃんというのはだな。シューターがわらわの
事を自分からすれば妹みたいなもんだとそう言って笑いよったのだ。
領主であり村長であるわらわにしてみたところで、あの男からすれ
ば年端もまだ行かぬ童子扱いよ。傑作ではないか﹂
村長さまはそう言って、あっはっはと大きく笑われました。
﹁そう言われてみればシューターさんも時々、村長さまの事をアレ
クサンドロシアちゃんと⋮⋮﹂
﹁そうであろう。わらわにしたところで、そなたにしたところで、
子供扱いよ。ん? そなたも家ではそういうかわいがりをうけてい
るのではないか?﹂
村長さまはそう言って意地の悪い顔をされましたけれど、その点
だけはキッパリとお応えしておかなければいけません。
﹁シューターさんは、わたしを妻として立ててくださいます。わた
しのお願いした事はよく聞き入れてくださいますし、大事にしてく
ださいますよ。も、もちろん、ふたりきりの時はかわいがってくだ
さいますが⋮⋮﹂
﹁なるほどのう。わらわの知らぬお兄ちゃんの顔を、正妻であるそ
なたは知っているという事か﹂
1400
村長さまはおやっという顔をした後に少し怖い表情をして、わた
しの顔を覗き込んできました。
むかしのわたしだったら気づかなかったことなのでしょうけれど
も、今のわたしにはひとつだけ確信できる事があります。
それは村長さまが、シューターさんに特別な感情を抱いておられ
る事。
だってそうでしょう、正妻という言葉には確かに棘が感じられた
からです。
﹁村長さまに花嫁修業をさせていただいて、わたしみたいな女でも
シューターさんの正妻でいられます﹂
﹁ふむ。女になったな、いや正妻の矜持というものであろうか⋮⋮﹂
棘はあったのですけれども、それでもそれを包み隠すようにして
口元を綻ばせて見せた村長さまは、わたしに向き直ってそう言いま
した。
﹁わたしに正妻としての矜持を持つようにおっしゃったのは、村長
さまですから﹂
そうだのうとお応えになられた村長さま。
村長さまも。お立場が許すならば、これだけ素敵な夫と結ばれた
かったのでしょうか。
そんな埒もない事を考えたわたしに、村長さまは笑って眺め返し
てくるのでした。
﹁今後とも、花嫁修業に励むがよい﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
1401
祝300万PV感謝&記念SS 正妻の矜持 中編︵後書き︶
次回で祝300万PVの記念SSは最後になります。
今後とも異世界村八分をよろしくおねがいします!
1402
祝300万PV感謝&記念SS 正妻の矜持 後編︵前書き︶
お待たせしました。
投稿が日付変更を挟んでしまい、申し訳ございません。
1403
祝300万PV感謝&記念SS 正妻の矜持 後編
わたし自身の気持ちを整理する上で避けて通れないものがあると
すれば、それはオッサンドラ兄さんの事でした。
兄さんがわたしに対して特別な感情を抱いていたという事を知っ
たきっかけは、夫との結婚をした後の事です。
マイサンドラ姉さんが隣の村に嫁いで行ってから先、見習いから
一人前の鍛冶職人となってお仕事に精を出していたオッサンドラ兄
さんとは、しばらく疎遠になっていました。
けれども父が死にしばらくすると、生活に困窮したわたしの事を
聞きつけて、たびたび食べ物を差し入れてくれるようになったので
す。
その事はとてもありがたい事だと思っていたのですが、夫と結婚
してからも兄さんの猟師小屋通いは止まらず、夫がブルカの街へお
仕事に出かけている間にも、たびたび訪ねてくる事があったのです。
そしていち度は、たまたま訪ねて来られた村長さまの義息子ギム
ルさまによって兄さんが訪ねてきている事が発覚してしまいます。
オッサンドラ兄さんは村長さまによって接見禁止を言い渡された
のでした。
さすがにそれは兄さんに対して厳しすぎるお咎めなのではないか
と、少し心配になったのも事実ですけれど、一方でそれは兄さんが
わたしに対して特別な感情を抱いていたんだという事を教えてくれ
たのです。
オッサンドラ兄さんはそれ以後、村長さまの命令によって決して
わたしの側に近づいてくる事はありませんでしたけれど、同じ村で
1404
生活している以上は兄さんを見かける事もあります。
それは湖畔の建設現場で作業中の事であったり、村の中でお野菜
を家に運んでいる時であったり、あるいは村長さまのお屋敷と行き
来している最中であったり。
わたしも必要以上に兄さんを目撃しても近づかないようにしてい
ましたし、兄さんもご自身のお立場を考えてか、わたしを遠くから
見つめてくる事はありましたが、それ以上何をどうしようという事
はなかったのです。
村の中でご出世なさったシューターさんの事を考えた時に、あま
りご心配をかけない様にと考えた事も、もしかしたら失敗だったか
もしれません。
兄さんの視線はこうして思い返してみると、決してあきらめきれ
ないという気持ちの表れだったのかもしれないのです。
もう少し不安をこの口で夫に伝えていればよかったのかも。
そうして夫と家族たちが留守にしている夜に、間違いを犯された
のです。
シューターさんが駆けつけた時、わたしの頭の中はからっぽでし
た。
このままでは夫に捨てられてしまうのではないか、もう正妻とし
てわたしはいられないのではないか。
そんな不安で胸の中はいっぱいで、夫の顔をまともに見る事も出
来なかったのですけれども。
わたしの気持ちはよそに、シューターさんはオッサンドラ兄さん
を引きはがすと、そのまま殴る蹴るの暴行を兄さんに加えました。
最後まで挑発する事をやめなかった兄さんは、そうして怒り狂っ
た夫によって、喉笛をつぶされてしまったのです。
わたしは教会堂の診療所に運び込まれました。
1405
すぐにも助祭さまがわたしを往診してくださったのですが、間違
いを犯されたという事実よりも、それよりも夫の事が気がかりでし
た。
動転した気持ちの整理はつかず、夫がどうなったのか、これから
のわたしたちがどうなってしまうのかだけが心配でたまらなかった
のです。
オッサンドラ兄さんは喉笛をつぶされても結局応急手当てを受け
て、死ぬことはありませんでした。
わたしの心の中にあった感情は、醜いものだったと思います。
だって。わたしたちの幸せを壊してしまったオッサンドラ兄さん
に、憐みの感情を持つような器量はわたしにはありません。
どうして兄さんは死ななかったんだろう、どうして夫は入獄しな
ければいけなかったんだろう。
けれどそんな気持ちも、どういうわけか助祭さまの用意してくだ
さったお香を嗅いでいるうちに、そんな事もどうでもよく感じる様
になってきたのです。
けだるいその気持ちは、後で聞けば助祭さまの仕込んでいたよく
ない香薬の影響だったのだそうですね。
ブルカの街からやって来られたガンギマリーさんに改めて診療し
ていただいた時に、その事を知りました。
シューターさんが冒険者のカムラさまと剣を交えて大怪我を負っ
た後、わたしたちは新居へとお引越しをしたのですけれど、夫が目
を覚ますまでの間にガンギマリーさんが熱心に治療にあたってくだ
さったのです。
﹁本当はね。直ぐにでも事後の処置をしなければいけなかったのだ
けれど﹂
1406
遅くなってしまってごめんなさいね、とわたしにお声掛けをして
くださったガンギマリーさんが微笑を浮かべると、まるで女神様の
様にも感じられました。
それも当然ですよね、彼女は教会堂の聖少女さまと言うではない
ですか。
﹁いいえ、こうして聖少女さまに診ていただけるだけでもありがた
い事です﹂
﹁せっ聖少女だなんて、やめてちょうだい。あたしはただ、仲間の
奥さんがこうして治療を必要としているから診ているだけの事よ﹂
﹁ありがとうございます。それであの、シューターさんの⋮⋮﹂
微笑を浮かべたガンギマリーさんがわたしの手を取って、
﹁シューターは体内の血が足りなくなって、まだ起き上がる事が出
来ない状況なの﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
﹁心配しなくても命に別状はないし、これまでと同じように働いて
いけるわ﹂
よかった。
心の底からそう思ったのですけれど、ここ数日のうちに連続して
起きた身の回りの出来事に、まだわたしの心は整理が付いていなく
て。
きっと不安の顔がわたしに出ているはず。そのままシューターさ
んにこの顔を見せて心配をさせるべきではない。
そんなことを思っていると、
﹁シューターはいい奥さまをもらったのねえ。﹂
﹁?﹂
1407
﹁あなたは立派な方ねって、そう思ったの。だって、自分に降りか
かった不幸の事もあるのに、あいつの事を今も心配しているでしょ
う? あたし、あなたと同じ経験をしたことがあるから、あなたは
立派だなって﹂
そう思ったの、と聖少女さまが笑いました。
わたしは立派なのでしょうか。今もとても不安で、村長さまに命
じられた正妻という立場を、これからもちゃんと続けていけるのか
どうか不安でなりません。
﹁強くはないけれど、強くあろうと立派にしておられるわ。だから、
あなたたちの事がうらやましいわねえ、あたしは﹂
ガンギマリーさんの言葉に、どれだけわたしは救われたでしょう
か。
シューターさんが意識を取り戻してくれるまでの間、わたしの手
を握りながら色々と気持ちを解きほぐしてくださった事は感謝しな
いといけません。
﹁旦那さまは、これからもわたしの事を女としてみてくださるでし
ょうか﹂
だから、思い切って胸の内を口にしてみました。
そうするとガンギマリーさんは真面目な顔を作って、わたしにこ
う言うのです。
﹁大丈夫じゃないかしらね。あの男はあれで芯の強いところがある
し、寝言でも俺の奥さんとか言っていたじゃない﹂
﹁そうですけれども、シューターさんにはわたしの他にも妻はいる
わけですし﹂
1408
﹁本当、あいつにはもったいなさすぎる事ね。あなたに、タンヌダ
ルク夫人だったかしら? それにエルパコ夫人も﹂
エルパコちゃんはまだ夫の奥さんというわけではありませんが、
そのうちにそうなる事は明白なので黙っておきました。
否定しておいて後日そういう事になるとややこしいですしね。
﹁けど、確かにシューターさんはわたしの事を俺の奥さんと呼んで
くださいます﹂
﹁妬けるわねホント。奴隷の癖に﹂
﹁奴隷騎士ですよ、ガンギマリーさん。シューターさんはこの村の
騎士さまです﹂
わたしがそう訂正すると呆れた顔をして聖少女さまが笑ってくだ
さいました。
◆
それからしばらくして、本当の意味でわたしの世界が大きく広が
る出来事がありました。
サルワタの森の領地を代表して、夫とわたしが他領への外交歴訪
に出かける事が決定したからです。
あわただしく村を出発したわたしたちは、村長さまとともに馬車
に乗り込むとサルワタの森の開拓村を出発しました。
出発の折に窓の外を覗き込んでみると、ほんの少し前までわたし
たちの住んでいた猟師小屋が見えます。
春、シューターさんがブルカに向けて村を出発した時もこの景色
を見られたのでしょうか。
チラリと窓から馬に乗った夫を見やると、あまり馬がお好きでは
1409
ないのか不機嫌そうなシューターさんがガンギマリーさんと会話を
なさっている姿が見えました。
きっとこれからの旅の事をお話合いになっているのでしょう。
シューターさんはこの村に来てからこっち、ずっとお忙しく動き
回っておられますもの。
気が付けば村長さまの片腕として、こうして外交使節の使者様を
務めるまでになられているのです。
それなのに。
その夫を支えるべきわたし自身が、わたしの様な田舎の娘が夫と
ともに代表を務めるのは本当に大丈夫だろうかと不安な気持ちもあ
りました。
村長さまはこの時のために花嫁修業をさせて高貴な身の上のため
の礼儀作法を学ばせたのだとおっしゃっていましたけれども、花嫁
修業をはじめてまだ日も浅く、やはり心配でたまりません。
こんな事では村長さまの仰った正妻としてしっかりとやっていく
事が出来るのかしら。
そう思っていたところ、心配した夫に声をかけられました。
﹁俺もさ、本当のところを言えばこの村にやって来てからこっち、
知らない事はじめての事ばかりで大変だったよ﹂
ゴルゴライの村にある宿での事です。
これから先、この村を発ったわたしたちはリンドルという街とオ
ッペンハーゲンという街に立ち寄って、その土地の領主さまとお話
をしなくてはいけません。
そんな不安なわたしの顔を察してくださった夫は、お宿でお風呂
の準備をしているとわたしの腰に手を回して抱き寄せると、そんな
事を口にされました。
1410
﹁シューターさんもなのですか?﹂
﹁そりゃそうさ。今回だって外交使節の正使だろ? 使者の役割な
んて普通の人間がやったこと、あるわけないじゃないか。だって俺
たちちょっと前まで猟師の夫婦ですよ奥さん﹂
﹁そうでしたね、ふふっ﹂
﹁それが今では奴隷に落ちて、気が付けば騎士さまだ﹂
﹁はい、わたしの自慢の騎士さまです。出来ればわたしだけの騎士
さまでいて欲しいものです﹂
わたしがそう言うと夫は困った顔をして誤魔化そうとしました。
きっとこの顔は、他の女性の事を考えていた証拠です。シュータ
ーさんはすぐに考えている事が顔に出るのでわかります。
だって、わたしはシューターさんの奥さんですもの。
﹁さてまず、どこから話したらいいかな?﹂
﹁そうですねえ。もちろんシューターさんは全部お話しくださいま
すよね?﹂
﹁も、もちろん包み隠さず、ツダ村でどのようなお話合いがあった
のか、お話ししようね﹂
寝台の上に腰かけた夫は恐縮した顔でわたしを見やると、少しの
間わたしと離れてツダの村に出かけていた間の出来事をひとつひと
つはなしはじめました。
やはり、村長さまとはそういう関係になったのですね。予想はし
ていましたけれど、これはしょうがありません。
ガンギマリーさんも夫と婚約をする事になるなんて。これは予想
外です。
エルパコちゃんはよく頑張りました。家族なのですからみんなで
幸せになりましょうね。
1411
この分ですと、いずれニシカさんまで言い出す日が来るんじゃな
いでしょうか。
その時わたしはどういう風に夫に接したらいいのでしょうか。
﹁ねえシューターさん。これからもわたしの事を愛してくださいま
すか?﹂
﹁もちろんだよ、何といってもカサンドラは俺の正妻だからね。一
番大切な奥さんだ﹂
ひとしきりこれからの結婚についての相談が終わると、わたしを
抱き寄せた夫はそんな事を口にしました。
﹁いけませんよシューターさん。わたしたち妻の事は公平に扱って
頂かなくてはいけません、みなさんに優劣を付けるんですか?﹂
﹁え、いや。そういうわけじゃないんだけどな⋮⋮﹂
﹁ふふっ、わかっています。けれども今はシューターさんはわたし
だけの旦那さまです﹂
意地悪な事を口にしてしまいましたけれども、やっぱり嫉妬はあ
るのです。
でも今夜はシューターさんの正妻として、夫を独占してもいいで
すよね?
1412
祝300万PV感謝&記念SS 正妻の矜持 後編︵後書き︶
当初は安易な気持ちで投稿を始めた本作ですが、こうして長らく異
世界村八分を続けてこられたのもみなさまにご愛読頂けたおかげだ
と思っています。
まだまだつたない部分もあるかと思いますが、これからも本作をよ
ろしくお願いいたします。
1413
115 武装飛脚がお届けします
俺の名は吉田修太、三二歳。女性の裸を貴ぶ男である。
ただし今は自分も全裸である。
全裸であるというのに、このところ寝苦しい真夏の夜は相変わら
ずだ。
俺は少しの間まどろんでいたかと思うと暑さのせいで目を覚まし
てしまった。
部屋の中をくゆる除虫菊のお香が鼻をくすぐった。
板窓を開けて少しでも外の空気を取り込めば、ゴルゴライの宿屋
の室内も多少は涼しくなるだろうか。
そんな事を考えたけれども、もそもそと寝台で寝返りをうつカサ
ンドラの事を気にして、そうする事をやめてしまった。
妻はあまりこの暑さが気にならないらしい。
よくよく考えてみれば冷房器具など何ひとつないこのファンタジ
ー世界で、この世界の住人たちはとても暑さに強い。
扇風機やエアコンのある生活が当たり前だった元いた世界は、そ
れだけ素晴らしいところだったんだなあ。
アレクサンドロシアちゃんであれば、きっとこういう時に三国志
の軍師が持っている様な団扇を仰ぐのだろうが、生憎とこの世界で
は団扇も高価なものだ。
高貴な身の上の人間は身だしなみの関係上厚着である。女村長は
団扇が欠かせないのだ。
そこをいくと俺などはほんの少し前までは全裸が当たり前、わず
かの期間のうちにずいぶんと出世したものである。
1414
久しぶりに誰の視線も気にせず全裸で夜を過ごしているというの
に、文句も言っていられないね!
喉の渇きを潤すために、寝台の脇にある台に置いていたはずの酒
杯を俺は探った。
入れ物は酒杯だけれども、中身は夏に収穫される柑橘類を絞った
果汁水だ。これに少しの塩を混ぜて味をつけたものが、この世界の
夏のお供である。
さっぱりとしたレモン水みたいなもので、雁木マリいわく体内の
血の巡りがよくなるらしいね。
それを口に含みながらもうひと寝入りしようかと酒杯を戻したと
ころ、
﹁?!﹂
﹁お楽しみの後、お疲れのところ悪いが来てもらうか﹂
暗闇の中、丸椅子に腰かけた鱗裂きのニシカさんが俺を見てそう
言ったのである。
いったいいつの間に?!
しかも俺たちが夫婦水入らずでお楽しみだったこともバレてる⋮⋮
どこから入ってきたのか、いつそこに腰かけていたのかも俺は気
が付かなかったけれど、それより全裸姿の俺やカサンドラを見ても
平然とした顔でこちらに向いているのも驚いた。
夫婦生活の一面を俺は見られて赤面てしまう。
これが日中の事ならお肌のキスマークを見られてしまったねっ。
せめて夜着を着せてやらなければと俺がシーツを除けたところ、
﹁ああいや、カサンドラは起こさなくてもいいぜ﹂
﹁急用か﹂
﹁けどお前ぇだけ顔を貸してくれたらそれでいい。ブルカから修道
1415
騎士の使者が来たぜ﹂
﹁わかった、すぐに行くよ﹂
俺は言われて放り出していたヒモパンを探るとニシカさんを見た。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁俺の全裸姿がそんなに珍しいですかねえ? 少し前までよく見慣
れた光景だったと思うんですけど、何も夜中に目を凝らしてみなく
てもいいんじゃないですか﹂
﹁ば、ばっかちげぇよ。マッパならそれを早く言えっ﹂
俺がからかってやるとニシカさんは慌てて丸イスを立ち上がって
背を向けた。
﹁下の食堂に雁木マリとハーナディン、エルパコにダイソン、エレ
クトラだけ呼んである。他の連中は領主の屋敷を空にするわけにも
いかねえので、残っているぜ﹂
﹁夜中なので騎士修道会のみなさん相手だけど、正装とはいきませ
んよ。ズボンにチョッキ姿でいいですかね﹂
﹁ああ、構わないんじゃねえか。オレも似たような格好だ﹂
あわただしくも出来るだけ静かに身支度をした俺は、とりあえず
腰に剣だけ帯びて廊下に出た。
果たしてニシカさんも、いつものブラウス姿にサンダル履きとい
う格好で、おおよそ外に出るような装備ではなかった。
ただし俺と同じ様に腰に山刀だけは装備している。
ニシカさんは床に置いていた燭台を拾い上げると、無言で俺に付
いてこいとアゴをしゃくった。
1416
﹁修道騎士の使いというと、連中の先発隊が到着したんですかね﹂
﹁いや、使者というのは武装飛脚だったぜ﹂
﹁武装飛脚?﹂
﹁そうさ。お前の話だと近頃は魔法の伝書鳩を狙った鷹匠が街道の
界隈にいるって話だろ。たぶんそれを警戒して武装飛脚を仕立てた
んだろうな﹂
階段を下りながら先を行くニシカさんが説明してくれる。
確かにツダ村を発ってブルカとゴルゴライにわかれる三叉路で、
ハーナディンがそれらしき伝書鳩の死骸を発見した事があったな。
﹁するとその事を警戒してか。ふむ、村長さまとッヨイさまには声
をかけていないんですか?﹂
﹁それを判断するのはお前の役目だろうよ。何てったってふたつの
領地を治めるお貴族さまの旦那さんだろう。まあ、必要があると判
断したらそうしてくれ、ガンギマリーのやつは必要ないんじゃない
かと言っていたけどね﹂
﹁なるほど、まあ話を聞いてからか﹂
階下にやってくるとその先が直ぐにも食堂だ。
夜中にもかかわらず、ずいぶんと明るくしたその場所には仲間た
ちが集まっていた。
サルワタの開拓村の生活に慣れていると、夜中にこれだけ煌々と
照らされた室内というのはちょっと贅沢すぎやしないかと思ってし
まうものだが、ここは宿屋である。
お客さんが夜に往来する事もままあるのか、それともこの宿屋が
儲かっているのか。
そんな事を考えていると、夜になってテーブルを部屋の隅に片づ
けて広くなった中央に大きなたらいが置かれていた。
たらいを囲む様に人数分のイスが用意されている。
1417
何だこれは?
と、一瞬だけそのたらいに意識が向いてしまったけれど、まずは
挨拶を済ませる方が先だ。
﹁夜分お疲れ様です! 騎士修道会の総長さまより、文を預かって
まいりました﹂
この寝苦しい夜中というのに、フードを目深に被って鉄革合板の
鎧姿をした小柄な人間が俺に声をかけてくれた。
声音からすると少女だろうか、いや声変りが終わっていない少年
という感じがした。
小柄なその人間がフードを脱ぎ取ると、確かに女の子の様な優顔
をしたゴブリン系男子の面が出てくる。いや、いかにもヒト族っぽ
い顔をしているので、ゴブリンではない。ゴブリンハーフかな?
﹁俺はサルワタの騎士、シューターだ﹂
﹁武装飛脚のエースです。お会いできて光栄です!﹂
握手を求められて、俺は求めれるままそれに応じた。
ゴブリンハーフの武装飛脚、エースくんか。耳がとんがっている
ところを見ると、アレクサンドロシアちゃんと同じ様なゴブリンの
混血という事で間違いないだろう。
身長はッヨイさまよりは頭ひとつぶん高いというところを見ると、
やはり声変り前の少年といったところだろうか。
カーネルクリーフ
﹁彼は流しの武装飛脚だそうよ。今回、騎士修道会総長から直接文
を預かってきたという話ね﹂
雁木マリが小さな桶を抱きながら俺に説明をしてくれる。
1418
見れば桶の中に大小の氷がたっぷりと入っていて、それを水を張
った大きなたらいの中に贅沢にも流し込んだ。
﹁はい、カーネルクリーフ猊下よりお預かりした書簡はこちらにな
ります﹂
﹁ああそう。どれどれ拝見⋮⋮﹂
エースくんは背中に背負っていた筒を前に持ってくると、中身を
開けて巻物を取り出す。
蝋印で封されたそれを見ると、チラリと雁木マリに確認を求めた。
無言でうなずいて見せるマリの態度からすると、間違いなくカー
ネルクリーフのものという事でいいのかな?
﹁立ち話もなんだから、みんな座って。暑いからこれぐらいの贅沢
は許されると思うのよね﹂
﹁ありがとうございます! ずっとこの装備で昼夜駆けて来たので、
暑くって。失礼しますね﹂
雁木マリの言葉にエレクトラやダイソンがまず遠慮なく氷の満た
されたたらいに素足になって足を突っ込んだ。
お礼の言葉を口にしたエースくんはと言うと、よいしょよいしょ
と鉄革合板の鎧を脱ぎだす。
わたわたと苦戦しているみたいだったから隣にいたエルパコが手
伝っていた。
﹁おお、つめてぇな! 最高だぜおい﹂
﹁ダイソンはちょっと静かにしなさい。みんな寝ているんだよ﹂
物珍し気にダイソンが喜んで、エレクトラがそれをたしなめる。
しかしエレクトラも見かけによらず、足を入れると﹁ひゃん﹂など
1419
とかわいらしい悲鳴を上げていた。
俺はニシカさんと顔を突き合わせて、蝋印をはぎ取ると羊皮紙の
巻物を広げて見せた。
﹁おい、向うは何と言ってきているんだ?﹂
﹁すいません、読めません⋮⋮﹂
残念ながら俺が読めるこの世界の文字は自分の名前ぐらいのもの
だ。
後は宿屋と冒険者ギルドという単語だけである。
とても悲しい気分になった俺は、しょうがないので恥を忍んで婚
約者に書簡を渡した。
﹁文字もまともに読めないの? いったいお前はこの世界に来てか
ら何を勉強していたのかしら﹂
﹁すまん。悪かったな﹂
﹁ふ、ふん。いい機会だから、この道中にみっちり読み書きを仕込
んでやるから覚悟なさいッ﹂
ぶつぶつと文句を言いながらも、雁木マリは巻物を広げて素早く
視線を走らせた。
普通に猟師をやっていたり、奴隷身分でようじょの下働きをして
いるだけならば文字は必要ない。
けれどもこれから、騎士の真似事をしながら外交使節の一員をす
るとなれば、やっぱり読み書きは出来ないとまずいよなあ。
女村長は妻たちに任せておけと言っていたが、やはりマリに頭を
下げて多少は読める様になっていたほうがいいかも。
﹁総長がね、オーガ襲撃事件の調査という名目で騎士隊を送り出し
たと書いているわ﹂
1420
﹁人数と到着時刻はいつですか﹂
雁木マリの言葉に隣のハーナディンが質問する。
彼だけはどういうわけか、修道騎士の正装ともいうべき灰色の法
衣を纏ったままで、その下にも鉄革合板の鎧をきっちり着込こんで
いた。
元猟師というのに、そのあたりはキッチリした性格のもんだ。
同じ元猟師である俺は半裸にズボン、チョッキ姿という格好であ
る。ニシカさんは俗に裸ワイシャツという格好だ。元いた世界では
きっとエロエロなはずだが、この世界ではヒモパンで羞恥の差が決
まっちゃうので誰も気にしていない。
﹁派遣部隊の人数は約四〇名、修道騎士が十名にその他要員三〇名
を予定しているらしいわ。同時刻に出発するとブルカ辺境伯に怪し
まれる事を考えて、早朝に騎士小隊が出発して、残りは後日。この
ぶんだと騎士小隊の到着は本日未明っていうところかしら﹂
﹁ずいぶんと早くに動いたんだな﹂
雁木マリの言葉にうなずきながら俺が思った事を口にした。
昨日の今日で手回しがいいのはありがたいが、大きな組織という
のはもう少し動きが鈍いものだと思っていた。
﹁ああそれは、婿殿のご命令でナメルシュタイナーの指名手配を出
したでしょう。逃げおおせた熊面の跡取りが、ブルカ伯に取り入っ
てゴルゴライの領有権を主張された時の事を考えて手を打ったので
しょう﹂
﹁この、その他要員というのは騎士修道会の従士よ﹂
﹁従士?﹂
ハーナディンと雁木マリが口々にそう言ったので質問をしておい
1421
た。
﹁軍事訓練を受けた修道会の戦士って事。たぶん、イディオが引き
連れてくるんだわ。修道騎士の調査隊については、あたしかシュー
ターの命令に従う事を指示してあるって書いてあるわね﹂
﹁マリか俺の命令に従えって事?﹂
﹁そうね。もともとオーガ出没事件の調査なんて、理由はミノタウ
ロスが連中を大量解雇したからってわかりきってるんだから、そん
な事を調べる必要はないもの。だから自由に騎士隊を使ってサルワ
タなりゴルゴライなりの守備に付けていいって事なのよ﹂
なるほどな。
だったら有効活用させてもらうとするか。
とにかく兵隊の数がまともにいない辺境の所領地の事を考えたら、
軍事訓練を受けた騎士修道会の人間が仲間に加わるのはありがたい。
そのところを思案していると、ハーナディンさんが口を開いた。
﹁修道騎士の仲間は、ドロシア卿と一緒に村に向かってもらうのが
いいとして。従士隊は、このままゴルゴライに残ってもらうのがい
いんじゃないですかね﹂
﹁それは構わないけど、ここに従士を残すわけは?﹂
﹁兵士の数が不足しているからな。いざナメルシュタイナーがひょ
っこり現れて奪い返しにこられた時の事を考えると、戦力は残して
おいた方がいいと思うんですよ。婿殿はいかが思われますか?﹂
見識を披露してくれたハーナディンに俺は感心した。
﹁なるほど、なるほどな。マリに異存が無ければ、それでいこう﹂
﹁わかったわ、その旨これから書簡の返信をしたためましょう。ド
ロシア卿には明日の朝に説明しなくちゃいけないわね﹂
1422
じゃぶじゃぶと氷のたらいから足を引き抜いた雁木マリは、メガ
ネを押し上げながら納得した。
会話の端々で俺に確認を取ってくるマリの姿に、なるほど俺を尊
重してくれてるんだな、なんて思ったりしたが、きっとその事を口
にしたらマリは激昂するに違いない。
べっ別にあたしはあんたが婚約者だからって嬉しいわけじゃない
んだからねッ。
﹁?﹂
﹁マリはいい女だぜ﹂
﹁何を言い出すのよ突然?!﹂
俺が思ったことを口にすると、マリは顔を真っ赤にして拳を握り
しめた。
恥ずかしがるなよ俺たち夫婦になるんだろ、とか脳裏によぎった
直後には、その拳でわりと本気のボディーブローを喰らってしまっ
た。
﹁はぶらっ、何するんだよおい!﹂
﹁みんなの前でおかしなことを言うからよ。返信書簡の用意をする
わッ﹂
マリは書簡の巻物を小脇に抱えながら手ぬぐいで足を拭くと、サ
ンダルに足を引っ掛けてパタパタと逃げ出した。
雁木マリの恥ずかしがりは、ちょっとばかり情熱的すぎやしませ
んかねえ。
視界の端でニシカさんがニヤニヤといやらしい顔をしていたけれ
ど、見なかった事にする。
1423
その時である。
ふと雁木マリが走っていった先から﹁あらッヨイ、起きたの?﹂
なんてマリの声がしたので俺とハーナディンは意識がそちらに向か
った。
さすがにニシカさんは前々から気づいていたらしく、ひとの悪い
ニヤけ面を引っ込めた後は、今さらどうでもいいのか氷のたらいの
水を足先で混ぜ返すのに熱心だった。
﹁どれぇたちは、夜中に何をやっているのですかぁ⋮⋮﹂
シーツを引っ張りながら床をゆらゆら歩いてきたようじょが、眼
をこすりこすり俺たちを見ている。
次の瞬間。先ほどまでやっきになって鉄革合板の鎧をぬいでいま
エースくんが、ガシャンとその防弾チョッキ状の鎧を手から取りこ
ぼしてしまったのである。
﹁あなたが神か!﹂
何を言っているんだエースくん。
彼はようじょをひと眼見ると、そんな意味不明な事を口から吐き
出した。
﹁いいえ、ッヨイはようじょだよ?﹂
1424
116 その名前に偽りあり
夜中の宿屋で突然騒ぎ出したショタ系ゴブリン、略してショタリ
ンを前に俺たちは困惑した。
ひざまず
装備を脱いで身軽になったエースくんは、まるで騎士がお姫様に
対する礼儀を示す様に跪くと、キリっとした顔をした。
﹁お初にお目にかかります。世の中に女性の数はきら星のごとくあ
れど、あなたほどの美しいようじょは存在しません﹂
真顔でこんな事を口をするショタリンに俺はたまらず呆れた顔を
していた。
誰かこの少年に、労でもねぎらって酒を飲ませたのか?
そんな事を思いながらテーブルの端に視線を送ると、確かに彼の
旅荷と一緒に空になったぶどう酒の瓶が飛び込んでくる。
まあ、このファンタジー世界では日常的に昼間から酒を飲んでい
るので誰も気にしやしないけれども。
﹁ど、どれぇ、このひとは何なんですかぁ﹂
﹁えーと、武装飛脚のエースくんだ。騎士修道会のカーネルクリー
フ総長の書簡を俺たちのところまで運んでくれたんだけどね。とこ
ろでッヨイさま﹂
﹁何ですかどれぇ⋮⋮?﹂
﹁そのシーツの世界地図はどうしたんでしょうか?﹂
﹁?!﹂
俺は知っている。
1425
このようじょは寝ている時、暑苦しい夜であろうとお股にシーツ
を挟む様にしておねんねする癖があるのだ。
異世界にやって来てからこっち、俺も全裸だった頃から首に手ぬ
ぐいを巻いて寝るのが習慣化していたので、ようじょの気持ちはわ
かる。
気持ちはわかるが、ジョビジョバの一族の心内まではわからない
ので今度アレクサンドロシアちゃんに聞いておく事にしよう。
﹁こっ、これは何でもないのです!﹂
﹁何でもない事はありません。早くお洗濯をしてきれいきれいしま
しょうね﹂
﹁はぁい⋮⋮﹂
すぐにバレる隠し事をしようとしたようじょであるが、俺が言葉
を口にすると大人しくシーツを差し出した。
きっと知らないひとの前でのやりとりだったので、隠しておきた
かったに違いない。
ようじょだって年頃だもん、恥ずかしいよね。
シーツを受け取ってさて手洗い洗濯をしておこうかと思ったとこ
ろで、忘れていたことがひとつあった。
エースくんの事である。
みんな呆れた顔のままようじょと俺とエースくんを見比べていた
けれど、騎士さまごっこの続きはするのかな?
結果的に俺たちふたりが揃って無視する形になったもんだから、
エースくんはとても嫌そうな顔をして俺を睨み付けていた。
﹁か、彼女は冒険者のッヨイハディ・ジュメェ。このサルワタ騎士
爵アレクサンドロシアさまのお身内だ。お得意にされているのは確
か土の魔法⋮⋮﹂
﹁ッヨイはッヨイハディ・ジュメェだよ。魔法使いなのです﹂
1426
慌てて俺がようじょの紹介をすると、ようやく機嫌が収まったの
かショタリンが白い歯を見せて言った。
﹁改めまして、武装飛脚を生業にしている冒険者エースです。文や
荷物をお届けのご用命がありましたら、ぼくをご指名ください!﹂
﹁ぶそーひきゃくさんはゴブリンの一族なのですか?﹂
﹁そうです! 父はゴブリン、母はひとの子です。いやあ、あなた
と同じ一族ですね!﹂
﹁⋮⋮だったらそれは、おかしいですねえ﹂
小首をかしげるようじょである。
何がおかしい事があるんだろうかと俺が困った顔をしていると、
隣のニシカさんが顔を近づけて小声で言った。
﹁ゴブリンなのにッからはじまらないからおかしいんだろ﹂
﹁なるほど。本当の発音はッエースなのかな?﹂
俺とニシカさんがそんな馬鹿な事を言っていると、片膝付いたま
まの格好でエースくんが振り返って鬼の形相をしていた。
いやいや、俺たち何かまずい事言ったかな?
すると小首をかしげていたようじょもしごく真面目な顔をしてエ
ースくんを睨み付けた。
﹁そうなのです、このひとは嘘をついています。辺境一帯のゴブリ
ンは等しくッからはじまる名前なのです﹂
ようじょがそんな事を言ったものだから、たらいに足を突っ込ん
で涼を楽しんでいた仲間たちが、腰の剣に手を回しながら立ち上が
った。
1427
エレクトラなどは迷わず細剣を引き抜いて、エースくんの首に突
き付けようとしている。
たばか
﹁怪しいな。あんた、本当は何かを隠しているんじゃないのかい、
あたしらを謀ろうとする目的は何だい﹂
﹁おう、かわいい顔をしていると思ったら、こいつブルカ伯の手先
なんじゃねえのか﹂
﹁婿殿どうされますか﹂
エレクトラに続いてダイソン、ハーナディンまで剣を引き抜いて
エースくんはたまらず万歳をした。
﹁ち、違います。何も隠し事なんてしていませんッ。ぼくはただ⋮
⋮﹂
﹁ただ何なのですか、ぶそーひきゃくさん﹂
﹁ぼっぼくはただ、通り名を口にしただけです。本当の名前はッハ
イエースって言います。ゴブリンハーフのッハイエースです!﹂
発音がしにくいので、彼は自分の通り名は本名を略して使ってい
たらしい。
それにしてもハイエースって、ひどい名前だな!
﹁まぎらわしい事をするんじゃないよ、あんたが本当に騎士修道会
の派遣した人間かどうか確認してやる。冒険者タグを出しな!﹂
﹁やめてください、すぐにお渡ししますから∼﹂
ショタリンのエースくんはエレクトラにビビりながら首から下げ
たタグを差し出した。
俺は文字が読めないが、エレクトラやダイソンなら確認できる。
ふたりの冒険者が﹁確かにッハイエースって書いてあるわ﹂﹁チッ
1428
本当だ﹂などと口々にしながら、ハーナディンに見せた。それが回
って最後に俺とニシカさんのところにやってくる。
俺たちは文字があまり読めないので、とりあえず空気を合わせて
うなずくだけに留めておいた。
﹁ハーナディンさん、先ほどの蝋印はホンモノでしたよね?﹂
﹁ガンギマリーさまも確認されたし、僕も見た限りでは本物だった
シグネットリング
と思いますけどね。実際に総長猊下が武装飛脚を使っているのは事
実です。この封蝋の指輪印証は女神様の枢機卿をあらわすものだか
ら、少なくともカーネルクリーフさまかガンギマリーさま以外には
ありえない﹂
なるほど、ガンギマリーも同じ指輪を持っているのか。いやマリ
の指には指輪らしきものを見た事がなかったはずだから、どこか別
の場所に保持しているのかもしれないね。
﹁わかった。じゃあエースくん改め、ッハイエースくんの疑いはひ
とまず晴れたという事だね。おめでとう﹂
﹁だから言ってるじゃないですか、ぼくは騎士修道会の総長さまに
雇われたながしの武装飛脚だって!﹂
﹁でも、お名前のうそをついたのです﹂
ようじょにその点ご指摘されたエースくんは肩を落とした。
そんな事をやっていると、階段をトントンと軽やかに降りて来た
雁木マリが、俺たちを見比べて怪訝な顔を浮かべた。
手には返信書簡らしき巻物があったので、やはりマリも指輪印証
なるものを持っていたのだろう。
﹁お前たち騒々しいわね。剣なんか抜き放って何をしているのよ?﹂
1429
何でもないです、ちょっとした行き違いかな。
◆
まだ陽も昇らぬうちだというのに、ショタリンは冷めた蒸かし芋
と固い黒パンをかじっただけでブルカ聖堂会への往路に発った。
せめてようじょが白湯でも勧めてくれたら大喜びしたのだろうけ
れど、残念ながらジョビジョバの始末で俺ときれいきれいしなくて
はいけない。
お目当てのッヨイさまお見送りもなく、雁木マリに﹁命に代えて
もその書簡を奪われない様に﹂と命じられて、すごすごと退散した
のである。
﹁んだよシューター、あいつちょっとかわいそうじゃねえか。よう
じょはどうした﹂
﹁ッヨイさまはおねむであらせられるので、すでにお布団の中だ﹂
ようじょさまはまだ未成年であるから恋愛なんてもってのほかだ。
ゴブリンの男と言えば悪魔面の猿人間と相場が決まっているのに
美形ショタゴブリンだから気に入らないとか、そういう個人的事情
など一切存在しない。
﹁お前ぇ案外、保護者みたいなやつだな﹂
﹁保護者も同然ですよ? アレクサンドロシアちゃんは俺の奥さん
で、ようじょは彼女の養女という事になってるからな。つまり俺に
とっても義娘になるッヨイさまを簡単に嫁に出すわけにはいきませ
ん﹂
﹁ははっ、わけのわからない理屈だ。てことは手前ぇはオレ様が結
婚を決めても保護者面をしてくれるのか、ん?﹂
1430
ニシカさんはずいと俺に顔を近づけながらそんなニヤニヤ面で質
問をしてきた。
豊か過ぎる両の胸がブラウスの上からもばるんと揺れたのがよく
わかった。だが俺はこんなおっぱいエルフなんかに屈しない。
﹁馬鹿を言っちゃいけません。あなたみたいな飛龍殺しの黄色い蛮
族を奥さんに貰いたいなんてひとがいるなら、ぜひ紹介してもらい
たいですね。その時は上等な酒をニシカさんに樽ごと進呈しましょ
う﹂
﹁い、言ったな手前ぇ。その言葉忘れるんじゃねえぞ、後で吠え面
かくなよ!﹂
﹁覚えておきますとも、酒でも何でも奢りましょう?﹂
﹁チッ。馬鹿にしやがって、妻帯者の余裕というのが気に入らんッ﹂
ニシカさんは蛮族丸出しに大股でドスドスと歩きながら食堂を飛
び出していった。
美人なのは認めるが、ちょっとぶっきらぼうな性格でお酒にだら
しがないところがあるのはいただけない。
ただかわいそうなので、今度アレクサンドロシアちゃんにいい結
婚相手はいないか相談してみよう。そうしよう。
◆
朝日が昇る頃、俺は眠気まなこをこすりながら寝台を起き上がっ
た。
明け方前に無駄に騒いでしまったのでこのまま二度寝したい気分
だったけれども、このファンタジー世界に来てからの習慣というの
は恐ろしいもので、家族で一番に目を覚ましてしまうのは相変わら
ずである。
1431
気持ちよさそうにまだ夢の中に浸っていた全裸のカサンドラを残
して、俺は顔を洗うために水を求めて外に出た。
同じく早起きのエルパコが後から合流してきて、一緒に歯を磨い
ているとそこにニシカさんとアレクサンドロシアちゃんもやってく
る。
ようじょは、どうやらシーツを夜中の内に交換しておいたので、
アレクサンドロシアちゃんに見つかって怒られることはなかったら
しい。
ちなみにニシカさんは口を利いてくれなかったけれど、これは予
想通りだったので気にしなかった。
少し遅れてカサンドラが目を覚ますと、全員で身支度を整えてゴ
ルゴライの領主館に集まった。
夜分にやってきたエースくんの書簡を改めて女村長に見せて、朝
食とともに今後の善後策を協議するのである。
﹁お兄ちゃんはどうするのがよいと思うか﹂
すでに身内が集まっている場所では誰にはばかる事もなく﹁お兄
ちゃん﹂と口にする女村長である。
はじめのうちはみんなその言葉を聞いてギョッとしていたものだ
が、今では慣れたもので誰も突っ込みを入れないし聞かなかった事
にしている。いい事なのか悪い事なのか⋮⋮
﹁ナメルシュタイナーが相続を訴えて自分が後継者だと名乗り出て
来た場合、どういう事が考えられるかですねえ﹂
﹁その場合は、軍事力にものを言わせて戦争で奪い返そうとする可
能性があるのですどれぇ﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
1432
俺の発言にようじょがパンを手に取りながら口を挟んできた。
﹁ナメルシュタイナーが短時間でブルカに行き、そこから軍勢を率
いてここに戻ってくるというのはちょっと考えられないな。仮にブ
ルカ伯の援軍を頼みにしたとしても、兵隊が戦争の準備をするのに
は時間がかかるでしょう?﹂
﹁そうなのです。兵士を招集し補給物資を集めれば、自然と商店街
の噂になります。噂は確実に騎士修道会の掴むところとなり、ドロ
シアねえさまのところまで情報が送られてきます﹂
なるほど、そういう事であれば相手の動きをこちらが先んじて入
手する事は不可能ではない。
俺はマリを見やりながら口にする。
﹁問題は騎士修道会が騎士隊派遣の準備をしている事も、ブルカ辺
境伯に掴まれている可能性があるって事だな﹂
﹁その点は心配ないわ。あたしたち騎士修道会は日常的に各地に修
道騎士を派遣しているものだし、何れは気が付かれるにしても初動
のうちに発見される事はないわね﹂
﹁そういう事なら、昨日俺たちが話し合った通りに、この村に修道
騎士イディオさんが連れてくるという従士隊を駐屯させておくのが
いいと思います。ギムルさんも近くここに到着するのであれば、野
牛の兵士と騎士修道会の兵士とあわせれば、それなりに数が揃うん
じゃないかな﹂
﹁うむ。それで軍事的な面では問題ないだろうな﹂
納得顔をした村長は、俺に﹁その様にいたす﹂と言葉を続けた。
しかしナメルシュタイナーの相続主張を物理的にねじ伏せる方法
があれば、それが一番いいのだが。
俺がそんなことを考えていると、正妻カサンドラが俺の方を向い
1433
て小声で質問してきた。
﹁⋮⋮あの、ナメルシュタイナーさんの顔は、近隣ご領主のみなさ
んはご存じなのでしょうか?﹂
﹁突然どうしてそんなことを聞くのかな?﹂
﹁いえ、シューターさんがナメルシュタイナーさんを物理的にねじ
伏せる方法をと仰ったので。顔が知られていないのなら、偽物か本
物かの区別もつかないんじゃないかなと﹂
どうやら俺は思考を口から垂れ流してしまったらしいね。
そしてカサンドラの言葉を聞いて、はたと気が付いた
﹁確かに。デブが後からのこのこ出てきても、こいつは偽物だと主
張すればどうとでもなるのかな?﹂
﹁そういう方法もままあるな。普通は血縁者の元に逃げおおせて軍
事援助を求めるのが一般だ。縁者であれば身分の保証をする事も容
易であるからな。しかしハメルシュタイナーはあの通り女に見境の
ない男だったので、すでに妻には逃げられている。ゴルゴライ領主
に高貴な身の上の血縁者はいない﹂
﹁どのみち今のところはあのデブの情報はこちらに届いていないし、
もしかするとブルカではなく別の領地に逃げたという可能性がある
わ。ブルカ伯の援軍でないというのならそれほど恐れる必要はない
んじゃないかしら?﹂
つまり、少数の軍隊を引き連れてデブが領有権を主張したところ
で、物理の力でねじ伏せる事は出来るのか。
﹁確かにそうだな。考えてもはじまらないし、その時はその時とい
う事で。よろしいですか、村長さま﹂
1434
﹁うむ、衆議は決した様だな。これでいこう﹂
◆
俺たちが朝食を食べ終わる頃には、それぞれの今後の確認が完了
した。
女村長は騎士修道会の騎士小隊が到着すれば、エレクトラとダイ
ソンを伴って村に戻る。
俺たちはこのまま支度を済ませれば、馬車でリンドルを目指す。
﹁では、外交使節の交渉はよろしく頼んだぞお兄ちゃん﹂
﹁わかりました、お任せください﹂
﹁しばらく逢えない日が続くが、あまり羽目をはずさないようにな。
くれぐれもよその貴族の子女に手を付ける様な事があってはならん。
せっかくの同盟の力関係が崩れてしまいかねない﹂
﹁もちろんですよアレクサンドロシアちゃん﹂
何か俺が好色男児の様な勘違いをしている女村長である。
もちろん俺も男だ女性は大好きだし奥さんたちを愛してやまない
けれども、それはそれ。
誰でも彼でも自分から声をかけて口説いた事なんて、このファン
タジー世界にやってきていち度もないのである。
﹁カサンドラも、正妻の矜持を持って外交交渉に励む様に。そなた
は騎士の妻なのだからな﹂
﹁はい村長さま、心得ています。ダルクちゃんにはこちらは元気で
やっているとお伝えください﹂
﹁うむ。しかしわらわにエルパコまでお兄ちゃんと結婚しましたと
報告するのがわらわの役目とは、少々気が重いな⋮⋮﹂
﹁ガンギマリーさんの婚約もですよ。これも領主さまとしてのお役
1435
目です﹂
﹁ふん、言う様になったではないか﹂
野牛の一族が用意した豪華な馬車の前、俺たちが女村長がそんな
やりとりをしていると、その端でとても嫌そうな顔をしたニシカさ
んが俺を睨み付けていた。
その悔しそうな顔を見る限り、結婚が羨ましいってはっきりわか
んだね。
﹁何だかご機嫌が悪いようですがニシカさん、どうしましたか?﹂
﹁チッ、別に悔しくねえ! 酒だから覚えてろよ﹂
まあ、妻帯者の余裕ってやつですね。
俺はハイハイと笑顔でニシカさんに返事をすると、カサンドラを
馬車に乗るのを手伝った。
雁木マリと修道騎士ハーナディンはすでに馬上のひととなってい
る。
俺もエルパコに手伝ってもらい馬に跨ると、アレクサンドロシア
ちゃんたちゴルゴライで修道騎士小隊を待つ仲間に振り返った。
﹁よし、それでは出発!﹂
リンドルに向けて外交使節団の旅を再開する。
1436
117 往還の行路 前編
俺たち外交使節団の一行はゴルゴライを出発すると、朝陽を背景
に草原の街道を行く。
ここから先の道のりは、俺も踏み入ったことがない地域だった。
ゴルゴライを発った直後はその風景も俺たちサルワタの森の開拓
村周辺とさほど変わらないものだった。
草原地帯にまばらに広がるいくつもの畑。点在する小集落と行き
来する農夫たちの姿。
たまに行商人と思われるロバや荷馬車を引くひとびととすれ違う。
おうかん
﹁この辺りはずいぶんとひとの往来があるんだな﹂
﹁ブルカとリンドルへ繋がる往還だからよ。リンドルは鉱山都市と
して栄えている辺境でも有数の街だから、それは当然ね﹂
先頭で俺と並んで馬を走らせている雁木マリに質問すると、カッ
ポカッポとリズムを刻んで揺れる馬上で小首をかしげた。
雁木マリは、まるで生まれてからずっとこの異世界の住人であっ
たかの様に器用に馬の上でリラックスした姿勢だ。
俺の方はこの、馬の歩行に合わせて体を揺らす運動にまだ慣れて
いない。
﹁何となく俺の中のイメージでは、サルワタの開拓村に居た様なド
ワーフの親方みたいなのが、たくさん住んでいる場所なんだがな﹂
﹁そうでもないわ。もちろん人口比におけるドワーフ率は他の辺境
諸都市よりは高いと思うけど、ドワーフの本場は何と言ってもリン
1437
ドルの先にある岩窟都市だから﹂
﹁岩窟都市?﹂
﹁そうね。ドワーフの岩窟王が治める領邦の事よ。今回の歴訪の予
定には組み込まれていないけれど、足を延ばして視察しておくのも
悪くないと思うわ﹂
確かようじょがそんな事を言っていたのを記憶している。
﹁隣国の王と友誼を結んでおく事は悪くないな﹂
﹁実はあたしもリンドル地方には行った事がないから詳しい事は知
らないんだけれど、リンドルほどでないにしても、いくつか古くか
らの鉱脈があるそうよ。今はリンドルの方がたくさんの鉱脈が見つ
かっているので、そこから岩窟都市に鉱物が供給されているの。岩
窟都市の武器といえば銘品がいくつもあると聞いているわね﹂
﹁なるほど、ただの鉱山都市というわりにリンドルが栄えているわ
けだ。リンドルは岩窟都市との交易の窓口でもあるのか﹂
聞けば鉱山都市リンドルの人口は数千規模、周辺集落までを加え
れば万にものぼるというからかなりの規模だ。
現在のサルワタの開拓村が一〇〇〇を号している︵実際には村単
体ならやや足りていない︶ところをみると規模も五倍であるから、
その繁栄ぶりもきっとブルカの街に比肩するものなのだろう。
はじまりは鉱山のひとつに寄り添うようにして人足街が発展した
ものだったけれど、次々に鉱脈が発見された事で、その規模は大き
くなったのだそうだ。
﹁特にリンドル界隈は、周辺の集落と言ってもその辺にある農夫小
屋の連なりを想像してもらったら困るわ﹂
マリは得意げになって俺に説明してくる。
1438
﹁と言うと?﹂
インゴット
﹁あそこは鉱山都市であると同時に、流通させるために地金の製錬
や武器や防具の金型を作ったりもしているしね。だから農業集落だ
けでなく、職人集落もまた点在しているわけ﹂
﹁ほほう。岩窟都市に運び出されるだけじゃなくて、領内でも一部
生産はやっているのか﹂
﹁リンドルの城下には大きな商会や組合が集まっているわ。それに
鉱山採掘のための人足街もあると聞いたけど、職能集落に至っては
市域の外にまで広がっているというはなしだから。きっとブルカと
は違った意味で壮観に違いないわ﹂
だからそれぞれの職能集落で作られたものがいったんリンドルに
集められ、最終仕上げの工程を挟んだり、素材としてひと纏めにさ
れた後、ブルカの街を経由して本土やあるいは周辺の領地へと運ば
れていくというわけだ。
﹁なるほどな。すると時折見かける荷馬車の隊列は、鉱物でも運ん
でいるのかな?﹂
﹁どうかしら。重量のかさばる鉱物資源は、たぶん川を使って運ん
でいるはずだから。馬車で運ばれているのは加工済みの商品なんじ
ゃないかしら﹂
﹁まあそうだよな。それに貴重な地金を運んでいるんだったら、も
う少し大規模で護衛ぐらいは連れている方がいいかもしれない﹂
﹁逆よ。装飾の施された工芸品の方が貴重な価値があるから、あた
しが盗賊ならこちらを狙うわ﹂
物騒な事を言いながら剣の鞘を叩いて笑って見せる雁木マリであ
る。
元いた世界ならば今頃は女子大生でもやっていたであろう少女が、
1439
このファンタジー世界では殺しも辞さないという事を考えれば、い
つだったか雁木マリの言ったこの世界は優しくないという言葉を思
い出さないわけにはいかない。
けれど優しくないというのは俺や雁木マリの境遇の事を言うより
も、盗賊などに身をやつさないといけない連中の身の上だ。
生きるための手段がそれだけ限られていて、かつ背に腹は変えら
れない事情があるのがこの世界なのだ。
﹁頼もしい限りだが、この辺りは盗賊が出るのか?﹂
俺は記憶をたどりながらそんな事を聞いた。
ギムルと共にはじめてブルカを目指した時の話を聞けば、野盗の
類はブルカと本土を繋ぐ往還にこそ出没するもので、辺境の片田舎
の道になど出るものではないという話だったからだ。
マリもその事は知らないのか、振り返ると馬車の脇を守っていた
お付きの修道騎士に向けて声をかける。
﹁どうかしら。ハーナディン?﹂
﹁何がです!﹂
﹁この辺りに野盗の類は出るのかどうなのか、シューターが確認を
してきたのよ!﹂
マリが語気を強めてハーナディンに聞き返した。
その声にやる気なさそうに豪華な馬車の上で胡坐をかいていた眠
たげなニシカさんも視線を返してくる。
ハーナディンは自分に注目が集まったのを感じて、周りにも聞こ
える様によく通る声で叫び返す。
﹁我ら女神様のご加護のある者たちが襲われたという話は聞いてい
ません!﹂
1440
つまり騎士修道会の関係者は今のところ何かちょっかいを出され
たという報告は届いていないのだろう。
けれどもそれは単純に騎士修道会や聖堂会がたいした金目の物を
もってこの往還を行き来していないというだけか、そもそも武装教
団を襲っても目の敵にされたら困るかのどっちかだろう。
要するに答えになっていないのであるけれども、現実は情報を持
ち合わせていないという事なんだろう。
﹁ま、安心なさい。あたしとシューターにハーナディン、それにカ
ラメルネーゼさんに野牛の騎兵もふたりいるんだから。仮に襲われ
たとしても先攻出来るのなら問題ないわ﹂
﹁乗馬に慣れていない俺は員数に入れないでくれ。まあニシカさん
とエルパコがいれば、ひとまずは安心だな﹂
ふたりの遠目であれば、どこかで待ち伏せをされても簡単に位置
特定が出来そうだ。
しかも鱗裂きのニシカならば、通常の飛距離以上からの狙撃も可
能というチートぶりである。
﹁よく言うわ。女神様の奇跡と言われているあたしより、シュータ
ーは強いんだから、頼りにしているわよ﹂
ふふっと笑った雁木マリは俺に流し眼を送りながら柔らかな笑み
を見せてくれた。
確かに、ポーションで強化済みの雁木マリと勝負をして勝った事
はあったけれど、あれは単純に試合形式だったからな。
実戦経験という意味で俺はマリに遥かに及ばない。頼りにされて
悪い気はしなかったけれど、同時に俺自身もマリは頼りにしている
のである。
1441
まあお互いに頼れる仲間がいると認識している事は大事だ。
俺たちはダンジョンでもバジリスク討伐を共した仲だし、そして
今では婚約者だからね。
﹁視界があまりよくない場所では注意するようにしよう﹂
﹁ええ、このあたりはまだ往来も多いし、村や街の距離がそれぞれ
近いから安心ね﹂
﹁問題は野営をしなくちゃいけない時だな。出来るだけ避けたいが、
そういう時は視界の広い場所でキャンプするのがいいか﹂
こういう時も、ニシカさんやエルパコたち猟師出身者に知恵を借
りるのがいいかもしれない。
彼女たちは森の頂点捕食者として獲物たちを仕留めていた立場か
ら、地形効果というものをよく理解している。
野盗も猛獣も猟師もまた、結局は獲物を狙うハンターというわけ
なので、そこは専門家に聞いておくのがいい。
﹁今日のところは予定通り休憩は無しだ﹂
﹁ええ、わかっているわ。セレスタの街までは何とか陽が陰りはじ
めるまでには到着したいものね﹂
出立も早かったしと雁木マリは微笑を浮かべながら腕をほぐす様
な動きをした。
俺もケツが痛い。
長い間揺られっぱなしなので、尻の位置を調整したりしてみるが、
どうにも股ずれがひりひりする。
俺が鞍の上でもぞもぞと股間をいじっているのを見ると、マリは
とても汚らしいものを見る様な視線を飛ばしてきた。
﹁しょうがないだろ、痛いんだよ!﹂
1442
1443
118 往還の行路 後編
やがて太陽が高く昇り始めた頃になると、その先にいくつもの山
が見える様になってきた。
本来ならば昼食のためにどこかで休憩するのがいいのだろうが、
今日に限ってはゴルゴライを出発する前に済ませてある。
理由は簡単で、今日の内に道中出来るだけ休まずに走破して、次
の宿がある街までたどり着こうと話し合っていたからだ。
﹁ニシカさん、地図を確認してもらえますかね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁まだ怒ってるんですか、いいかげん機嫌を直してくださいよ﹂
﹁⋮⋮ふんッ﹂
豪華な馬車の上で見張りに付いていたニシカさんは、相変わらず
ご機嫌斜めである。
俺が馬を寄せて声をかけてみたところ、チラリと視線を送ってき
たもののツンツンした態度で俺を無視する。
とは言ってもこれはお役目でもあるので、地図を持っているニシ
カさんに確認するしかないのだ。
﹁気に入らねぇ、何もかも気に入らねぇ。お前は婚約者と仲良くち
ちくりあいながら道中も楽しいだろうが、オレ様は流れる景色だけ
が友達だ﹂
﹁焼きもちですか。飛龍殺しともあろうおひとが﹂
﹁ち、違うわ! どうしてこのオレがガンギマリーに嫉妬しないと
1444
いけないんだよ﹂
俺は腰にぶら下げていた水筒を馬車の上のニシカさんに投げて渡
した。
もちろん中身はニシカさんが大好きな酒である。ゴルゴライを出
る時に仲直りをするキッカケにするために用意していたものだった。
不貞腐れた顔をしたままニシカさんは水筒の蓋を開けると、くん
くんと匂いを嗅いで見せた。
﹁フン、わかってんじゃねえか。これはオレ様に対する勝利の前払
いとして受け取っておくぜ﹂
﹁俺もすいませんでした、ニシカさんならきっといいひとが見つか
りますよ﹂
﹁⋮⋮チッ、村長もアテにならねえ。妹には嫁の世話をしたくせに、
オレ様には何ひとつやってはくれないんだからな﹂
中身は例によって芋の焼酎である。辺境の安酒の定番とも言える
ものなので高価な樽酒とはほど遠い代物である。
安い酒というのにニシカさんは鼻の下を伸ばしたかと思うと、嬉
しそうに革袋の水筒を口に運んだ。
﹁うまい!﹂
﹁ニシカさんはどんな男性が好みなんですか?﹂
﹁オレか? そうだな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮そう言えば考えた事もねえ﹂
何と、ニシカさんは好みの男性というのも特に存在していなかっ
たらしい。
1445
この分だとおっぱいエルフの勝利宣言は俺の老後になってしまい
そうなのでただのサービス、仲直りの印ぐらいに思ってもらえばい
いかな。
﹁ま、待て。シューター手前ぇそんな顔をするな。オレ様としては
だ、そうだな。男はやっぱり強くないといかん。オレ様ほどとは言
わないが、ワイバーンを仕留めるぐらいの実力と、どんな人間だろ
うと倒せるぐらいの強者である必要があるな﹂
﹁そうですか﹂
﹁あとは甲斐性だ、金があって度量の広い男でなくてはいかん﹂
﹁そうですね﹂
うんうん言いながら、突然の様に饒舌になるニシカさんである。
会話の途中で酒を口に運んで、腕で拭う姿は蛮族そのものだ。
﹁そこをいくとお前ェはまだまだだな。酒一杯を奢るのもケチるよ
うな甲斐性無しだし、カサンドラに頭も上がらないヤツだからな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
このひとは上機嫌で語り始めたが、わかっているのだろうか。
俺はニシカさんと共同でワイバーンを仕留めた事があるし、俺が
自称しているわけじゃないが辺境最強の戦士などと言われているわ
けだけれども。
﹁ニシカさん、俺を口説いていますか?﹂
﹁?!﹂
﹁なるほど、確かに俺とニシカさんが結婚したらニシカさんもお嫁
に行けて、その上俺から上等な樽酒をいただけるというひとりウィ
ン=ウィン物語だ﹂
﹁ばっか手前ぇ何をいきなり言い出すんだ。そんなわきゃねぇだろ
1446
! ぶっとばすぞッ﹂
唾を飛ばしながら顔を真っ赤にしたニシカさんである。
﹁飛龍殺しの鱗裂きともあろうお方が、俺と結婚するのは怖いです
かニシカさん。ん?﹂
﹁んなわきゃねえ、オレ様が怖いのはカサンドラだ! もうこんな
酒はいらねぇ。返す!!﹂
ニシカさんは怒って革袋を投げ返してきた。
いやすでに中身はほとんど無くなっていたのだが、今それを言え
ばもっと怒り出すだろう。
これ以上からかうとたぶんニシカさんは本気でしばらく口をきい
てくれなくなってしまうので、この辺りでやめておく事にした。
確かに俺も、ニシカさんと結婚した未来はちょっと想像できない
な。
などと俺が苦笑を浮かべてニシカさんを見上げると﹁チッ﹂と舌
打ちを飛ばしながら赤い顔をした彼女が視線を外した。
すると。
﹁どうしましたか、シューターさん? わたしの事を何かお話しに
なっていた様ですけれど⋮⋮﹂
馬車の跳ね窓を持ち上げた俺の奥さんが、ひょいと外に顔を出し
たのである。
先ほどまでは不機嫌極まりない態度だったニシカさんまで、その
声にビクリと背筋を硬直させて、口笛など吹き出すではないか。
﹁ああっそれはですね。ニシカさんの結婚相手を探すのなら、カサ
ンドラに相談してはどうかと言ってたんだ﹂
1447
﹁そうなのですか?﹂
﹁そうなんですよ奥さん。なあ、ニシカさん!﹂
﹁おっおう。お前さんは今じゃ村の幹部連中にも顔の利く騎士夫人
さまだからな。いい男がいたら紹介してくれよな!﹂
あわてたニシカさんがそう言いながら、馬車の天井から下を覗き
込みながら言い訳をした。
よく見ると長耳まで真っ赤にしているニシカさんかわいい。
﹁そ、そうでしょうか? わたしは鼻つまみものの娘でしたから⋮
⋮でも、そうですねえ。素敵な男性がいたらですか﹂
﹁そうだぞ。オレとシューターで、オレが結婚出来たら上等な酒を
奢ってもらうという約束をしてるんだからなっ﹂
﹁んー。素敵な男性と言われても、わたしはシューターさんぐらい
しか知りませんし。ご紹介できるのはシューターさんだけですけれ
ども⋮⋮﹂
﹁がはっ、げほっ⋮⋮すいません﹂
何を思ったのかカサンドラがとんでもな事を言い出すではないか。
会話を聞きながら残り少なくなった水筒の中身を口に運んでいた
俺は、盛大に吹き出してしまった。
酒を吹いた先はニシカさんの顔である。
ぶぼっと酒を吹き被ったニシカさんは驚いて天井から転げ落ちそ
うになったけれども、あわててしがみついて事なきを得た。
﹁だ、駄目だ駄目だ。そんなのは駄目だ!﹂
ニシカさんは騒がしくそれを拒否すると、あろう事か地図で酒を
浴びた顔を拭こうとするではないか。
もっと駄目だ馬鹿やめろ。
1448
俺もびっくりして地図を奪い取る。
﹁地図で拭いてどうするんですか! 俺の手ぬぐいをつかってくだ
さい﹂
﹁おう、す、すまねえ。ちょっと動転していただけだ⋮⋮﹂
クスクスと笑うカサンドラを尻目に、何となく顔を合わせづらい
俺たちは視線を合わせ無い様に距離を取ることにした。
まったく、見事にカサンドラにからかわれた気分である。
明後日の方向を向いて尻をかいていたニシカさんの下で、カサン
ドラが窓から少し身を乗り出してきた。
﹁うふふ、話はちゃんと聞こえていましたよ﹂
﹁あんまり俺たちをからかうんじゃないよ﹂
﹁でも、今のお話は心得ておきますのでご安心ください﹂
カサンドラはニッコリ笑って俺にそう言うと、跳ね窓を下ろして
馬車の中に納まった。
その﹁今のお話を心得ておきますので﹂というのはどの部分にか
かっているんだろうね。ちゃんとニシカさんのお眼鏡に叶う立派な
男性を見つけてくれるという事だろうか。
バツの悪い顔をしたまま馬の歩速を速めていくと、御者台でしわ
くちゃの顔をしたゴブリンがいた。
どうやらッワクワクゴロさんの弟ッジャジャマくんは、一部始終
を聞いていたらしいね。
﹁大丈夫です。俺はなんも聞いてませんから﹂
﹁そうかい⋮⋮⋮﹂
◆
1449
さらに旅路を進めていくと、いよいよ山々が手を伸ばせば届きそ
うな錯覚に陥るほど、距離が近づいてくる。
俺は元いた世界でもごく平均的な視力だったと自覚しているが、
どういうわけか近頃は以前よりもものがよく見えるような気がして
ならない。
今も山肌の木々に視線を向けてみると、枝葉の数がひとつひとつ
見えている様な気がするのだ。
実際に見えているのかどうかはわからない。だがそんな気がする
のだ。
山の形はブルカに向けて進む際に見える遠く高い山と違い、低く
いくつものいびつな形の山々がデコボコと水平線の向こう側を隠す
様に立ちはだかっている。
次第に街道の道なりも平らな一本道という事はなくなり、蛇行し、
草深くなり、濃い緑の針葉樹林が周囲の視界を妨げる様になってい
った。
足場もあまりよろしくない。
街道が整備されているといっても、これはただの土の道に過ぎな
いので、ところどころ決して小さくはない石が地面にむき出しにな
っている。
慣れない騎乗というのもあるし、馬がこの石に蹴つまずいてしま
わないかと心配になったがこれは杞憂だったぜ。
しかし。
この分であれば、馬車の乗り心地は最悪なんじゃないだろうか。
サスペンションなどという便利なものがまだ発明されていないこ
のファンタジー世界では、車輪の軸のすぐ上に箱型の馬車の乗車席
が乗っかっているかたちだ。
サルワタを出発した時には女村長とカサンドラ、それにッヨイさ
1450
まが乗車していた。
今はゴルゴライに残った女村長のかわりに、ツダの村で拾ってき
た自称芸術家が乗り込んでいる。
ヘイヘイジョングノー氏は作品のいくつかを馬車の屋根に乗せ、
自分が連れていたロバには画材の一部と旅荷を載せている。
彼は小さな布張りのカンバスを馬車の中に持ち込むと、カサンド
ラとようじょを写生すると張り切っていたけれども、この劣悪な環
境では画家先生も悪戦苦闘しているんではないだろうか。
もしも正妻とようじょの顔を不細工に描いていたら、ぶちのめし
てやる所存だ。
少し前にニシカさんから受け取った地図を見たところ、そろそろ
本日の目的である宿場街に到着するはずであった。
簡易な地図ではあるが、ゴルゴライで得たそれにはサルワタには
じまり隣村クワズ、その隣村スルーヌとあって、ゴルゴライ、マタ
ンギと名前が続いている。
今日の宿を求めるのはマタンギの次に書き込まれているセレスタ
であった。
﹁おいシューター、この先に煙突の煙が見えるぞ!﹂
器用に馬車の上で立ち上がって伸びをしていたニシカさんが、山
々の狭間から立ち昇る生活煙を見つけたらしい。
俺が先頭で馬を走らせていたところ、手を振って合図をしてくれ
たのだ。
﹁どうやら道中に野盗と出くわす事は無かったわね﹂
﹁休み無しに道中を急いだのも幸いしたかもしれなですね﹂
雁木マリとハーナディンが俺に向かって声をかけてくる。
1451
うなずきを返すとマリは手綱を引いて叫んだ。
﹁もうすぐセレスタの街よ! みんな番兵の検閲準備をしてちょう
だいッ﹂
その言葉に応えてニシカさんが豪華な馬車の上から飛び降りると、
そのまま駆けて御者台に移動する。
目の前には、針葉樹林の狭間から見えてくる石組みの城壁が見え
てくるのだった。
山間の小さな宿場都市、それがセレスタの街である。
1452
章末 登場人物紹介 ︵※ イラストあり︶︵前書き︶
四章に登場した人物の紹介です。
1453
章末 登場人物紹介 ︵※ イラストあり︶
章末 登場人物紹介
登場人物紹介
ハーレム大家族のみなさん
シューター
■吉田修太
異世界からやって来た三二歳のフリーター。サルワタの騎士。実は
女神様の聖使徒という扱いされて困惑する元全裸。辺境歴訪するた
めに旅に出たところハーレム大家族が出来上がった。
カサンドラ
■カサンドラ
サルワタの騎士シューターの正妻。辺境歴訪に旅立った外交使節団
に夫とともに加わる。ゴルゴライの村では領主の馬鹿息子に裸を見
られる事になる。
タンヌダルク
■野牛の乳娘
サルワタの騎士シューターの第二夫人で巨乳。外交使節団に旅立つ
家族に代わって新居の留守居役を任される。旅立ちの前夜、夫とは
じめて結ばれる。
けもみみ
■エルパコ
サルワタの騎士シューターの愛人扱いをされていたが、周囲の結婚
ラッシュに自らも立候補した。胸はないけどナニはあるハイエナ獣
人の娘。
1454
アレクサンドロシア
■女村長
サルワタ領の騎士爵にして開拓村の村長であり、騎士シューターの
第三夫人となる。ブルカ辺境伯の圧迫に対抗するために騎士修道会
との協力関係を模索し、ゴルゴライ領を平定した。
がんぎまり
■雁木マリ
騎士修道会における枢機卿にして聖少女修道騎士。騎士修道会とサ
ルワタ領の結びつきを強めるために両指導者を引き合わせた。騎士
シューターの婚約者となる。
うろこざきのにしか
■鱗裂きのニシカ
結婚で妹に先を越された黄色い蛮族。自慢の強弓は狙った獲物を逃
さないが、意中の男は未だ現れずハートは射止められなかった。
カラメルネーゼ
■蛸足の女騎士
子爵の娘であり、国王から騎士爵の称号を授かる蛸足の猿人間。現
在は家業の奴隷商であるが、アレクサンドロシアとは貴族軍人時代
ようじょ
の同期で、彼女に呼び出されてシューターを奴隷解放する。
かしこくも
■ッヨイハディ・ジュメェ
あと一年で異世界基準の成人を迎えるジョビジョバの一族。あらゆ
る魔法を使いこなし、大人たちのハートを鷲掴みにする。パンツは
いてないからおもらしじゃないもん!
騎士修道会のみなさん
かーねるくりーふ
■カーネルクリーフ
騎士修道会の総長を務める武装教団の最高指導者にして枢機卿。壮
1455
年男性で立派な口ひげを蓄えている。サルワタ領との同盟関係を強
固なものにするため、両頭会談に際して雁木マリとシューター、ア
レクサンドロシアの三角婚姻同盟を提案した。
すうぃんどう
■スウィンドウ
騎士修道会の修道騎士として総長の副官を務める男。かつてアギト
の森を騒がせた巨大な猿人間の討伐にも参加した歴戦の勇士。よう
じょ崇拝者のひとり。
いでぃお
■イディオ
カーネルクリーフの護衛としてツダ村を訪れた修道騎士。軍事訓練
の教官を務める男で、近接格闘戦のプロフェッショナルである。よ
うじょ崇拝者のひとり。
はーなでぃん
■ハーナディン
元猟師出身と名乗る騎士修道会の修道騎士。シューターとの婚約を
決めた雁木マリに従ってサルワタ領の一行と行動を共にする。よう
じょ崇拝者のひとり。
サルワタの村のみなさん
へいへいじょんぐのー
■ヘイヘイジョングノー
見るからに芸術家肌の男らしくややこけた顔に三角帽を被った芸術
家。絵画を描いて旅をしながら生計を立てていたところ、アレクサ
ンドロシアの美貌に魅せられて肖像画を描いたのをきっかけにシュ
ーターに雇われて一向に加わる。
っじゃじゃま
■ッジャジャマ
サルワタの村で猟師の親方をしているッワクワクゴロの弟のひとり。
1456
外交使節団の一行に雑用係として加わる。
ゴルゴライの森のみなさん
ハメルシュタイナー
■熊面の領主
ゴルゴライ領を治める準男爵で、熊面の猿人間。ふたりの息子がい
るが、どちらも下女に産ませた子供で妻にはかつて逃げられた。
ナメルシュタイナー
■双剣のデブ
ゴルゴライ領主の嫡男であるデブ。見た目は人間の顔だが、丸い熊
のような耳がついている。獣人を使役する才能があったのか、魔法
の拘束具を使って巨大な猿人間を騎士として利用していた。
カフィアシュタイナー
■変態坊や
ゴルゴライ領主の次男坊でカサンドラの裸を覗き見しようと、宿屋
の側にある街路樹から観察していた。若気の至りで死に至る。
用語紹介
□ツダの村
豚面の猿人間が多く生活するブルカ近郊の小さな村。朝の市場では
地域特産の腸詰のひき肉が売られていたりする。
□ゴルゴライの村
養蜂が盛んな辺境ゴルゴライの中心地。宿屋や商店があるなど、サ
ルワタの開拓村に比べれば発展著しく、アレクサンドロシアの支配
下では領内の玄関口になる事を期待されている。
1457
□騎士修道会
辺境の教化を目的に結成された武装教団で、サルワタ領主との両頭
会談を経て同盟関係が成立した。ブルカ辺境伯とは今後対立を先鋭
化していく事になる。
フェーデ
□武力解決手段
高貴な身の上の人間同志で行われる自助救済処置のひとつ。自己の
権利を著しく侵害された被害者が、一族のものや知人の助けを得て、
一種の仇討ち手段を講じることができる。拒絶することもできるが、
その場合は慰謝料や身代金を払わなければならない。
□狐谷まどか
作者。この冬、人生のソロプレイが熱い。
http://15507.mitemin.net/i1736
51/
<i173651|15507>
小説家の菜波先生からニシカさんのクリスマスイラストを頂きまし
た!
ありがとうございます、ありがとうございます。
1458
章末 登場人物紹介 ︵※ イラストあり︶︵後書き︶
四章完結にあわせまして、各章の構成を変更しました。
1459
119 俺たちはセレスタの街へやってきました︵前書き︶
今回より五章開始です、よろしくお願いします。
1460
119 俺たちはセレスタの街へやってきました
宿場街セレスタの市壁が見えるところまでやってくると、下馬し
た俺たちはゆっくりと検問の待機列へと並んだ。
こうして市壁を見上げてみると、本格的な城郭都市というわけで
はないのがよくわかる。
ゆるやかにカーブを描いた市壁の外苑はあまり高いものではなく
二階建て、三階建ての屋敷がその向こう側に見えているのだから、
防御力という意味ではささやかなものしかないだろう。
道中は荷馬車の荷台に座って警戒にあたっていたけもみみが、気
が付くと俺に身を寄せていた。
エルパコはぽかんと口を開けた顔で周辺をひとしきりキョロキョ
ロした後、俺の袖を引っ張って言葉を発する。
﹁セレスタは、街という割に人口が少なそうだね﹂
﹁ざっと見たところ五〇〇人ぐらい収容出来る街なんじゃないか。
どちらかというとここで生活をしている人間よりも、一時滞在して
いる人間の方が多そうだ﹂
俺の四人目の奥さんが知っている街と言えば、たぶんブルカぐら
いのものなんだろう。
ブルカは人口一〇〇〇〇というこのファンタジー世界では大都会
であるから、これは街と言っても俺や雁木マリにとっても違和感が
ない。
一方のセレスタは形式的に街と呼ばれているが、実際にはサルワ
タの森の開拓村の人口の方がはるかに多いんじゃないだろうかと俺
は予想した。
1461
街と村を明確に区分するものは市壁・城壁の有無であるから、サ
ルワタの森の開拓村は現代人的な感覚で言えばサルワタ市といった
ところだろうか。
もうひとつ区分を無理やり作るとすれば、たぶんそれは家屋の密
集具合だろうか。
セレスタの街は家屋が身を寄せ合って並んでいる事がここからで
もよくわかる。してみると、セレスタはあくまでも宿場街以上でも
以下でもないのだ。
一方、モノの本によれば散居村というのは、一軒ずつの家々が散
らばって点在する集落の形式なのだが、サルワタの開拓村はまさに
これである。
そして、そこからわかる事もいくつかあるのだ。
﹁ここはむかし、たぶん軍事的な拠点だった場所だな﹂
﹁どういう事?﹂
﹁こうして見てみると、城壁がずいぶん苔むしているだろ。辺境の
歴史は開拓の歴史そのものだろうけど、たぶん開拓当初は周辺諸部
族と諍いが絶えなかったんだろうな﹂
﹁そうなんだ﹂
かつては王国の軍隊が駐屯していた宿営地が、用途廃棄になった
後にそのまま宿場町になったのではないか。そういう風に俺は見当
を付けたのだ。
逆にサルワタの森に出来た開拓村は、王国が周辺部族を平定した
後にさらなる領地拡大のために成立したという事になる。
少なくともサルワタの森の人々にとって外敵は周辺部族ではなく、
災害にも似たワイバーンである。
その辺りの事を得意げになって説明していると、けもみみがけも
みみをピコピコさせながら身を寄せて来た。
1462
﹁シューターさんは、物知りなんだね﹂
﹁そうね、この男はもともと大学で歴史の勉強をしていたそうだか
ら。ただし中退だけれども﹂
﹁うるさいよ!﹂
せっかくけもみみが尊敬の眼差しを向けてくれたところ、雁木マ
リが俺たちの肩に腕を回しながら余計な事を突っ込んでくれた。
﹁シューターはアカデミックな男じゃないけれど、経験の塊みたい
な男だからね。一見何の役にも立たなさそうな無駄知識も、いざと
いう時に活用出来るかもしれないし。まあ所詮、大学中退程度の知
識だけども﹂
﹁そういうマリは高校中退だろ﹂
﹁あっあたしは騎士修道会の学舎で学んだんだから、転校したみた
いなものなの!﹂
高校途中で転生してしまった事を実は気にしているのだろう。
俺がひとつ指摘してやると、マリはむくれ顔をした後に俺の脇を
手甲付きの肘で殴りやがった。
とても痛い。
悲しくなった俺が腹いせに尻をペシリと叩いてやると﹁ひゃん﹂
と黄色い声を上げて逃げていった。
﹁後で覚えてなさいよ!﹂
続きは床でまたどうぞ。
暴力メガネの恫喝なんかに俺は屈しない。
気分を害したマリはそのまま馬車の方へ行って、カサンドラから
何かの書類を受け取ろうとしていた。
たぶん俺たちがサルワタ領の外交団である事を証明するための書
1463
類を取りに行ったのだろう。馬車の扉を開けたカサンドラが、いく
つか羊皮紙の巻物を渡していた。
入れ違いにニシカさんが頭で両手を組んだ格好でやって来る。
﹁染みったれた街だなおい。待機列に並んでいるのは農夫ばかりじ
ゃねぇか﹂
﹁そうですね、陽が暮れる前に街に戻ってきたんでしょう。商人た
ちはもう少し遅い時間に街に到着するんじゃないかな﹂
﹁つまり、このあたりは比較的治安がいいってわけだな﹂
納得の顔をしたニシカさんである。
見れば農夫が十数人、特に何か検問に引っかかる事も無く番兵の
検問を通過して門の中に吸い込まれていった。
幾人かは荷馬車を持たず、馬の背中に直接旅荷を括り付けた様な
行商人の姿が見える。たぶん連中は周辺の村や集落をまわって商売
をしている人々で、この往還でブルカやリンドルを行き来する商人
ではないんだろうな。
﹁この調子だと、さほど待たされずに街に入れそうですねえ﹂
﹁ブルカの番兵はしつこい調べをするところだったからな、あれは
最低だったぜ﹂
待機列の前進に合わせて馬を引く。
ニシカさんはあのいやらしい視線のブルカの番兵を思い出した様
で、とても嫌そうな顔をした。
﹁ここでも同じことをしやがったら、ぶち殺してやる﹂
﹁まあ俺たちはサルワタの外交使節団ですからね、免税特権と治外
法権が認められているから大丈夫でしょう﹂
1464
すると門の少し前あたりにバイキングみたいな鎖帷子を着込んだ
連中がいるのを発見した。
ちょうど番兵から検問作業を受けている様で、両手を頭に挙げて
身体検査を受けている。
あれはたぶん冒険者のみなさんだ。特に護送対象になる様な荷馬
車もいない事から、仕事を探して渡りをしている冒険者パーティー
なんじゃないだろうかと勝手な想像を働かせた。
この辺りにダンジョンでもあるのかな?
﹁おいシューター、あの連中は何か見覚えがねえか﹂
﹁冒険者たちですか?﹂
﹁そうだ。春に村を襲ったワイバーン狩りの時に、街から来た連中
だ﹂
﹁顔までは覚えていませんねえ。冒険者のみなさんはみんな似た様
な格好をしているし、けど、言われてみれば確かにそうかも﹂
あまり時間をかけずに冒険者のみなさんは検問をパスしてセレス
タの街に吸い込まれる。
それから農作業具を背負った農夫たちがほとんど顔パスで門を潜
っていくと、いよいよ検問は俺たちの番となる。
﹁次!﹂
番兵の吠える声に、俺たちは一歩前に出る。
とは言っても軍馬を連れる者、背中に弓矢を背負っている者もい
れば、続きには馬車の一団もある。
それを見て、すぐにも番兵は同僚たちに目配せをして人数を集め
た。
﹁セレスタの街へようこそ、どこから参られた。目的は?﹂
1465
﹁オレたちはサルワタの森の開拓村から来た。領主アレクサンドロ
シアの命令で周辺諸領とお近付きになりたくてな、外交使節団とい
うやつだ﹂
俺が先に説明するよりも早く、腰後ろに吊っていたフィールドバ
ッグを探ったニシカさんがごそごそとゴブリン人形を引っ張り出し
て、番兵のひとりに渡した。
あんたは何をやっているんだ。袖の下のつもりですかね?
﹁ずいぶんと賑やかなご一行の様だが、これらはみんなあんた方の
お仲間かね?﹂
﹁そうだぜ。領主に派遣された大使さまとそのご一行というわけだ
な﹂
得意げになってニシカさんが俺をチラ見しながら説明したので、
同意しておいた。
言葉はだいぶ粗野だけれど、言っている事は間違ってはいないか
らな。
﹁ふむ。では領主の委任状を拝見したい﹂
﹁おいガンギマリー、こいつに村長の委任状とやらを渡してやれ!﹂
背後を振り返ったニシカさんは、雁木マリに声を上げる。マリは
それにうなずいて返すと、自分の馬をハーナディンに預けながら小
走りにやってきた。
﹁こ、これは修道会の騎士さま。セレスタの街へようこそ!﹂
﹁サルワタ騎士爵アレクサンドロシア卿から預かった委任状よ。確
認してちょうだい﹂
﹁了解いたしました。ただちに確認させていただきますッ。おい、
領主さまに報告しろ。それと書記官を連れてくるんだ!﹂
1466
番兵の主任か何かなのだろう、ちょっと偉そうな八の字ヒゲを生
やした男が、いかにも横柄な態度で返答する雁木マリにかしこまり
ながらペコペコやっていた。
領主さまに報告するというのは、わかる。書記官を呼び出すとい
うのは、この番兵どもが文字を読めないからだろうか?
そういう風に思っていると、門の内側にある小屋みたいな番所か
ら、ローブ姿の若い男性が、何かの本を持って飛び出してくるのが
わかった。
してみると、本を開いてページをめくり雁木マリが渡した委任状
とやらの署名を確認している様だった。
待たされている俺も暇なので、興味本位で書記官の手元を覗き込
もうとしたところ、気が付いた書記官が嫌そうな顔をして隠してし
まう。
チラリと見たところ、どこかで使われた署名と印証を記載したペ
ージが見えた。コピー機なんて便利なものがないこの世界の事だ、
わざわざ石板に転写でもして発行されているのだろうか。
﹁あんなもの、俺たちの村にはなかったと思うんですがね﹂
﹁これまではね。サルワタ領は言わば辺境の僻地にある場所だから、
これまでのやりとりはブルカと王都ぐらいしかなかったんだわ﹂
﹁それならアレクサンドロシアちゃんだけが理解していればいい事
だからな、署名の見分け方を﹂
どうやら確認がとれて問題なしと判断されたらしい。
かしこまった番兵の八の字ヒゲと書記官が、直立不動で雁木マリ
を見やった。
﹁問題ありません。ところで騎士修道会の騎士様が、どうしてサル
ワタ大使の使節団にご同道なさってるのですか?﹂
1467
﹁それはお前が知る必要のない事だわ﹂
いちいち説明するのが面倒だと思ったのか、雁木マリは冷たい顔
をして八の字ヒゲを睨み付けた。
﹁失礼しました! た、ただちに領主との謁見ならびに宿泊所の手
配をさせていただきます﹂
﹁宿屋の手配は必要ないわ﹂
﹁よろしいので?﹂
﹁どこの宿も部屋が取れないという事もないのでしょう? それな
らこちらでそれはやるから﹂
﹁はッ。かしこまり!﹂
緊張のせいか、番兵の応答がやや怪しい。
俺の方に振り返ったマリが、どうするかの確認を求めてくる。
﹁領主との面会は予定にあったかしら﹂
﹁いやないけど、まあやっておいていいんじゃないかな?﹂
本来の外交使節団の目的はリンドルの子爵家とオッペンハーゲン
の男爵家と交渉を持つことだ。
けれども少し前の話では岩窟都市まで足を延ばそうと話し合って
いたぐらいだし、ここはひとつサルワタのアレクサンドロシアちゃ
んがブルカ伯大包囲網を作ろうとしている事を宣伝しても悪くはな
いな。
﹁り、領主の謁見もお受けにならず素通りされてしまっては、我ら
が領主よりお叱りを受けてしまいます。我らの顔を立てると思って
是非。サルワタの大使さまをご歓待出来なかったでは、我が領主が
周辺諸侯の笑いものになってしまうので﹂
1468
あわてふためく八の字番兵に続いて、書記官も声音を裏返しなが
ら訴えた。
だそうだぜ? と俺が雁木マリとニシカさんを見比べる。
ニシカさんは俺の肩に肘を置きながらニカリと笑って見せた。ご
歓待のひとことに何かを期待したのだろう。
俺と身長がさほど変わらないニシカさんなのでこういう事が出来
るのだが、これでは俺がその外交団の大使にはまるで見えないだろ
う。俺たち一行の関係はよその人間から見ればとても複雑なものだ
からな。
女村長の旦那が俺で、俺とその正妻カサンドラが大使、俺の婚約
者が雁木マリで、ニシカさんは形式上俺の部下という事になってい
るけれど実際は先輩猟師だし。
﹁俺は賛成しておくよ﹂
﹁んだな。相手を見てどこまで踏み込むかを考えればいいんじゃね
えか。必要なければ接待を受けるだけにとどめておきゃあいいんだ。
タダ酒が飲めるぜ﹂
案の定、困り切った番兵は俺とニシカさんを見ながらこう言葉を
口にする。
﹁そちらの兵隊さんがたもそう言っている事ですし、ぜひセレスタ
の街で逗留なさりませ。街には旅の疲れを癒す公衆浴場もございま
すよ!﹂
﹁そうね、ニシカさんの言はともかく、シューターの意見はもっと
もだわ﹂
﹁んだよ、酒だぞ酒!!﹂
1469
暴れるニシカさんを押しとどめると、雁木マリは﹁手配してちょ
うだい﹂とうなずいてみせた。
ホッと安堵したヒゲ番兵と書記官はすぐにも点呼をはじめた。
﹁では確認させていただきます。修道騎士さまもご同行を﹂
﹁わかったわ﹂
﹁兵士のみなさんが、ひいふうみい。修道騎士さまが、ひいふう。
それに護衛の騎士さまがおひとり、と﹂
雁木マリと番兵が顔を確認しながら歩いていく。
やっぱり俺は兵士のみなさんに組み入れられてしまった。
そのまま八の字ヒゲの番兵は、馬車の御者台に座ってあくびをし
ていたッジャジャマくんを見て﹁そっくりだな﹂などと言っていた。
ニシカさんが渡したゴブリン人形と比較しての事だろう。
どういうわけか俺たちの一団にちゃっかり加わっていたカラメル
ネーゼさんは、番兵の中で護衛の騎士さまという風に見えたらしい。
実際は国王の陪臣たる騎士どころか、国王の直臣たる騎士爵さまな
んだけどね、いわば女村長とは同列だし、実家は子爵家なのでもし
かしたらそれより上かもしれない。
無知であるという事は恐ろしい事だね。
﹁馬車の中を拝見しても?﹂
﹁いいわよ﹂
番兵は確認を取ると、雁木マリが了解して豪華な馬車のドアを開
いた。
中では緊張の色を顔に表したカサンドラにカンバスを持ったヘイ
ジョンさん、そしてヘイジョンさんと一緒にお絵かきをしていたら
しいようじょの姿があった。
1470
﹁みなさんは?﹂
﹁こちらはサルワタの騎士夫人、カサンドラ義姉さんよ。サルワタ
外交団全権代表のひとり、それからサルワタ領主ドロシア卿の妹御
で、カサンドラ義姉さんの養女であらせられるッヨイハディ・ジュ
メェさま。後のひとりは気にしなくていいわ﹂
﹁どうも芸術家のヘイヘイジョングノーです。本日もうるわしゅう﹂
紹介された芸術家ヘイジョンさんは、お呼びでないのにペコリと
頭を下げて挨拶をした。
それを無視してカサンドラを見上げる番兵は朗々と言葉を紡ぐ。
﹁ようこそセレスタの街へ! 大使閣下ならびにご令嬢さまにおか
れましてはお疲れのところ、誠に申し訳ございませんが、しばし検
問の諸手続きにお付き合いいただければと思います。また、ただい
ま領主さまとの謁見の手続きをしておりますので、後程晩餐などお
楽しみいただけます。街には自慢の公衆浴場もありますので、そち
らもきっとご満足いただけるかと存じます!﹂
困った顔をしたカサンドラの視線が俺に向く。
状況がわかっていないようじょも頭に﹁?﹂を浮かべながら口を
開いた。
﹁どれぇ﹂
﹁ッヨイさま、少しの間の辛抱ですよ。番兵さんも仰るように公衆
浴場楽しみですね﹂
﹁はいどれぇ!﹂
満足したッヨイさまはニコニコ顔で、こちらに向けていた顔を引
っ込めた。
問題はわけもわかっていないカサンドラが曖昧に俺と雁木マリの
顔を見比べていたけれど、俺がうんうんとうなずいておいたら立場
1471
を思い出した様に伏し目になり、コホンとひとつ咳払いをした後に
言葉を口にする。
﹁お、お役目ご苦労様です。滞在中、ご迷惑をおかけするかと思い
ますが、よろしくお願いしますね﹂
﹁ふぁい!﹂
八の字ヒゲの番兵はちょっと上ずった声で、ニッコリした俺の奥
さんに返事した。
まるで高貴な身の上のご夫人を演じきっている様にも見えるカサ
ンドラである。女村長のところで受けていた花嫁修業が生きた。
そのまま後方に控えていた野牛の兵士たちに驚きながらも、番兵
は点呼を済ませていった。
問題は番兵の後を追いかけながらニシカさんが口にした言葉であ
る。
﹁お前ぇ、完全に兵士か何かと思われてるぜ、大使さまよう﹂
﹁そうみたいですね⋮⋮﹂
﹁しかもようじょがお前の事を奴隷とか言ったからな。今じゃ使徒
さまのご身分だってのに、残念なこった。これじゃ聖奴隷修道騎士
さまだな。あっはっは!﹂
﹁そう思うならひとこと訂正してやってくださいよ。俺あのリスト
にたぶん、兵隊さん枠で書き込まれているよ﹂
ニシカさんは大きな口を開いて何がおかしいのか馬鹿みたいに大
笑いをした。
そうか、そういう事なら今回の謁見では面を割らずに相手の動向
を探る事にでもするかな?
1472
120 回廊の街 前編
俺の名は吉田修太、三二歳。
サルワタ領からやって来た兵隊さんである。
﹁まるでセンター街かショッピングモールに来たみたいだ⋮⋮﹂
無事にセレスタの城門を潜り抜けた俺たちは、これまで見た事も
ない街の造りに驚きを隠せなかった。
俺の感想をひと言で表すならば、まるでショッピングモールだな
と思ったのだ。
まず、門から街中に進入すると丘があった。その丘をくり抜く様
に回廊状の大通りが反対の門まで続いているのだ。
その回廊に沿って商いをやっている建物がひしめき合う様に連な
っているのである。
さらに、左右の建物の背後の丘にも建物が密集していて、回廊の
上をいくつも石橋がかけられているのだった。
してみると、このひどくごみごみとした街並みは、その敷地面積
が狭いゆえに上へ上へと延びていることが分かった。アーケードを
覆う天井こそ存在しないが、それを取っ払うとイメージ的にはショ
ッピングモールが近い気がする。
﹁この街はもともと小高い丘だった場所をくり抜いて街道を通した
んだな﹂
﹁なるほど、言われてみれば立体的な建物ね。それにしても、何だ
か懐かしい気分になるわねえ﹂
馬を引きながら宿屋を探して歩いている俺に、雁木マリも同意す
1473
る。
ひとまず城門を抜けた場所はちょっとした広場になっているけれ
ど、市壁の中は俺たちが思っていた以上に往来がごった返していた。
﹁思ったよりひとが多いな。城門の外の街道は待機列もさほどでも
なかったのになあ﹂
﹁もしかすると別の門からの往来が多いのかもしれないわ。さて、
宿に行きましょ﹂
俺がそう口にすると、マリが興味なさげに先を急いだ。
しかし俺たち外交団は二〇人あまりの大人数だ。どこかに纏まっ
て収容出来る宿屋はあるんだろうかね。
﹁なあマリ、どうしてさっき番兵が宿泊所の手配してくれるといっ
た時、お断りしたんだ?
﹁そんなの決まってるじゃない。外交相手の用意した宿泊施設なん
て、何が仕込まれてるかわからないわ。もし領主館に泊まる事にで
もなってみなさい、情報が筒抜けになってしまう可能性があるんだ
から﹂
さも当然の様にマリが返事をした。
なるほど言われてみれば、セレスタ領主が用意してくれた宿泊所
の使用人なんて簡単に信用できるわけがない。
ニシカさんもそれには同意らしく、エルパコの背中を叩きながら
口を開く。
﹁んだなあ。オレたちの安全はオレたち自身で確保すべきだ﹂
﹁ぼくはシューターさんと同じ寝台ならどこでもいいよ﹂
あまり関心がないのかけもみみは俺の方をぼけーっと見上げなが
1474
ら個人的見解を口にしている。
先頭を歩きだした雁木マリに迷いがない。
どこにいくのかと不思議に思って後に続いていると、回廊の大通
りには向かわず直ぐに左へ折れて坂を上がろうとしていた。
バリアフリーではないが、馬車の往来を考慮しているのか坂道は
急こう配ではないのがありがたい。
そんな事を考えながら坂道の先に視線を向けると、石造りのしっ
かりした建物がいくつか集まっている方向を目指しているのがわか
った。
なるほど、雁木マリの考えている事が俺にはわかった。
﹁おいガンギマリー、宿のアテでもあるのか?﹂
﹁ふふふ、黙ってついて来ればわかるわ。ちょっとお前たち、馬車
の後ろに回って押すのを手伝いなさい!﹂
ニシカさんの質問に上機嫌に笑って見せたマリは、振り返って男
どもに命令を飛ばした。
街道を移動中は御者台の横や荷台で揺られていたゴブリンや野牛
の兵士たちは、その言葉であわてて馬車の後ろに回り込んで、坂を
上るのを手伝った。
気が付けば、ついつい俺も無意識に命令に従って馬車を押すのを
手伝っているじゃないか。
﹁シューターさんがやるなら、ぼくもやらなきゃ﹂
﹁けもみみや、いつもすまないねえ﹂
﹁うん。だったら、今日は一緒の寝台がいいかな﹂
今日のエルパコは何だかいつもより押しが強いぜ。だけど押すの
は馬車だけにしろよな!
1475
◆
果たして雁木マリが宿泊所にアテをしていたのは、セレスタの街
にある教会堂であった。
よくよく考えてみればマリやハーナディンは騎士修道会の人間な
のだから、普段の旅中はこうして教会堂の宿泊所を利用するのが当
たり前なのだ。
しかも聖少女修道騎士という立場でもあるのだから、彼女が命令
さえすれば教会堂でいちばん上等の部屋を要求する事も出来るので
ある。
まあマリは冒険者をしているぐらいだから、普段はみんなと雑居
部屋の吊り床で寝るのも気にならない立場ではあるけれど、今回は
外交使節団なので枢機卿たる聖少女修道騎士の立場を活用しようと
いうのである。
﹁ガンギマリー、お前頭いいな! しっかし自分の身内がどの街や
村にいっても居るというのは、素晴らしい事だぜおい﹂
いたく関心したニシカさんは、長耳をひくつかせながら教会堂を
見上げていた。
カサンドラやようじょが教会堂の前で馬車を下りるのをお手伝い
すると、俺たちは騎馬組は厩へと向かった。
﹁確かに厩は完備されているし、宿泊所も併設されているからな。
フィアンセ
しかもここならセレスタ領主の手の者が入り込んでいる可能性は低
くなる﹂
﹁そうでしょう? シューターは女神さまと、いい婚約者を得られ
たことを感謝するべきね﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
1476
心を込めて俺がその言葉をフィアンセに捧げると、雁木マリは心
底嫌そうな顔をしてそっぽを向いた。
ボソリと﹁もう少し気の利いた言葉はないのかしら﹂と聞こえた
かと思うと、蛸足姫が﹁婿殿はドSなのですわ﹂などととんでもな
い事を口走っていた。
﹁シューターさん、そうなの?﹂
﹁ちがわい!﹂
何の疑問もなく聞き返してくるけもみみに、俺は力いっぱい否定
しておいた。
◆
教会堂はとてもいいところです。
何といっても、寝泊りする場所も完備されている上に、ブルカ聖
堂会の身内がいるのだから情報収集までここで出来ちゃうんだから
ね。
旅荷を宿泊所に持ち込んだ俺たちは、セレシタの司祭に挨拶を済
ませて街の情報を簡単に聞き出した。
すると挨拶に行っていたハーナディンが難しい顔をして戻ってき
たのである。
﹁どうやらこの先の街道で、野盗が出没しているらしいですね﹂
﹁マジかよ。さっきマリと話していたところなんだよな⋮⋮﹂
﹁聞けば、それなりに規模の大きな盗賊団がいるらしく、セレスタ
からリンドルにかけての往還を根城にしているらしいです﹂
規模は三〇人あまりは確認されているらしいというから、かなり
1477
の大規模だ。
サルワタの開拓村などは、野牛の兵士がいなかった頃にこの盗賊
団に襲われでもしたらひとたまりもなかったんじゃないだろうか。
﹁ただし片っ端から襲うという様な事をしているわけでもなくてで
すね、点々と襲撃する場所を変えながら移動しているという事で、
足取りがまだつかめていないんだとか﹂
﹁さかしらな連中ね。だから街にひとが足止めを食らってごった返
していたのかしら?﹂
少女らしからぬ舌打ちをしてみせた雁木マリが不満を口にした。
﹁いや、そういうわけでもないんです。どうも街道は襲われる可能
性があるというので、川を使って商人たちは行き来をしているらし
いですね。あっちはさすがに専門外と見えて、野盗の連中も手出し
ができないみたいです﹂
ハーナディンの言葉にフンと鼻を鳴らしたニシカさんが、さっそ
く地図を広げて確認する。
﹁面倒くせぇやつらだなオイ。盗賊なんざコボルトと一緒で、じっ
くり足取りを観察すればとっちめられるのによ。オレたちも船で移
動するわけにはいかねえのか?﹂
﹁それは無理なのですニシカさん。何しろどれぇさま御一行は馬車
を持っているのです。ここに預けて移動するにしても、リンドルか
ら先の足が無くなってしまうのです﹂
もっともな提案をしたニシカさんに、こちらももっともな意見を
口にするようじょである。
そうなれば、この先に盗賊がいる事がわかっていても街道を進む
1478
ほかはない。
困ったね。
ようじょを抱き寄せながらカサンドラが俺の顔を見上げる。
﹁どうしましょうシューターさん﹂
﹁こりゃお手上げだ﹂
﹁他人事みたいに言わないでよね! まあ? シューターがいれば
盗賊の如きは恐れる必要もないけれども?﹂
どうしたもんかと前途多難を嘆いて見せると、雁木マリに怒られ
てしまった。
しかし上目遣いにメガネを押し上げて見せるマリの視線には期待
感が込められている。
いや、俺は確かに一対一ならそこそこやってみせる自信もあるし、
今のところタンクロードバンダムにもフェーデにも辛くも勝利して
いるけれども。
同時にブルカでチンピラ冒険者にやられた事もあるのだ⋮⋮
﹁まあ、情報収集をするしかないな。相手が来るとわかっているな
ら心構えもできる、情報があるなら対処も出来るだろう。それに盗
賊に襲われるかどうかは行ってみなくちゃわからないからな﹂
などと心の内を披露したところ、けもみみだけがコクコクと返事
をしたものの、その他のみなさんは呆れた顔をしていた。
﹁前から思ってたけどシューターって能天気よね﹂
﹁いけませんよ聖少女さま、将来旦那さまになられる方をその様に
言っては﹂
﹁は、はい義姉さん。訂正するわ、楽天的なのよね﹂
1479
年下のカサンドラにたしなめられて、雁木マリが言い直した。
あんまり意味が変わった気がしないのだが、そのやり取りを見て
ニヤニヤしているニシカさんの事は無視する事にした。
﹁そ、そうだ。情報集めと言えば、セレスタの領主から晩餐会の時
にでも盗賊の話を聞いておくのがいいかな。ついでに領主のところ
に俺たちの宿泊場所を伝えておかないといけませんね﹂
いたたまれない気分になった俺が小さく手を上げて提案をすると、
ニシカさんが反応した。
﹁よし、それならオレに任せろよ。な?﹂
﹁ニシカさんは駄目ですよ﹂
﹁どうしてだよ! なあ大使さまよう、オレとお前ぇの仲だろ。ワ
イバーンもバジリスクも弓を並べて仕留めた仲だろッ﹂
﹁弓を使ったのは俺かニシカさんのどちらかだけでしょう﹂
そういう問題じゃねえ、オレ様を行かせろよとさわぐニシカさん
である。
﹁⋮⋮魂胆は何です﹂
﹁お、オレはシューターの部下だろ? 部下なら上司のために働く
もんだぜ﹂
﹁あんたは俺の先輩猟師でもあるんだなあ。あやしいなあ﹂
赤鼻のニシカさんをジト目で見やると、途端に視線をそらしやが
った。
きっと領主館に報告ついでに、街をほっつき歩いて酒でもどこか
で飲むつもりなのだろう。
だが俺はそんなおっぱいエルフの野望には手を貸さない。
1480
﹁ッジャジャマくん。君が行ってきなさい﹂
﹁何でだよ!﹂
﹁はい、わかりましたシューターさんッ﹂
不貞腐れたニシカさんの代わりにッジャジャマくんを送り出すと、
大使さまの寝所としてカサンドラのために用意された部屋に俺たち
は集まった。
﹁いい? 領主館から謁見に呼ばれるまでの間に、他の情報収集に
ついても話し合っておきましょう﹂
﹁そうだな。あまり時間がないしな﹂
雁木マリの言葉に俺は仲間たちを見回した。
ところで俺は、ここの番兵から兵士に間違われてしまったわけだ
が、その件をマリがこの段階で切り出したのだ。
﹁あたしとしてはシューターのこの状況を上手く利用したいと思う
わ。あたしとカサンドラ夫人、それにッヨイという面子ならセレス
タの領主も油断すると思うのよね。人数もふた手にわけられるし、
どうかしら?﹂
これが雁木マリの提案である。もともと俺は兵隊さんと勘違いさ
れた時点で、そのつもりがあったので構わない。
﹁了解だ。うちの奥さんが大使という事にしておけばいいんだな?﹂
﹁わたしは構いませんけれども、本当にわたしだけで大役が務まる
のでしょうか⋮⋮﹂
﹁心配ないのですねえさま、困ったことがあれば事務的な話はガン
ギマリーに一任していますと言えばいいのです﹂
1481
心細そうにしているカサンドラに、ようじょが声をかけていた。
雁木マリは騎士修道会の人間として交渉事には慣れている様だし、
ッヨイさまは賢くもようじょであるから問題ない。
ついでに女だらけの外交団と侮って、何かの譲歩を引き出せたの
ならしめたものである。
だったらという事で俺が口を挟む。
﹁カラメルネーゼさん。連中もあなたを護衛の騎士と勘違いしてい
る様だから、謁見と晩餐には帯同していただいて構いませんかね?﹂
﹁ええ、よろしくってよ﹂
彼女なら生まれてこのかたお貴族さまであるから、こういう謁見
や晩餐だという場には慣れているはずだから安心だぜ。
微笑を浮かべた蛸足姫は小さな声で﹁旅荷の中にドレスはあった
かしら﹂なんて呟いているところをみると、まんざらではないのか
もしれないね。
﹁で、残ったオレたちゃ何をすればいいんだ﹂
﹁そですねー、ニシカさんは冒険者登録を済ませているし、ハーナ
ディンさんとギルドに立ち寄ってセレスタから向こうの街道情報を
集めて来てくれますか﹂
ようじょが魔導書を抱きながら言った。
率先して提案するようじょが軍師に見える。
﹁どんな情報が欲しいんだ﹂
﹁この先、街道の安全情報がいります。それから領主さまの噂を集
めてください。何か面白い事がわかれば将来、何かの役に立つかも
しれないのです。ギルドの近くの酒場も回ってみるとよいのです﹂
1482
﹁おう、任せてくれ!﹂
酒場と聞いて嬉しそうな顔をする現金なニシカさん。
確かに酒場で情報集めするなら、野郎よりニシカさんみたいな大
人の魅力︵主に豊か過ぎる胸︶がある方がやりやすいのは確かだ。
などと思っていると、
﹁こういう役割はおっぱいといいおとこの方がいいのです。酒場に
行くからといって、おっぱいエルフはお酒に呑まれてしまってはい
けないのです﹂
﹁うるせぇ! おっぱいじゃねえッ﹂
信用されていないのかニシカさんはようじょに釘を刺されてしま
った。
しかしおっぱいエルフはともかくとして、ようじょの口から﹁い
いおとこ﹂などという言葉を耳にして、ちょっと悲しい気分になる
俺である。
確かにハーナディンは、もともと猟師だったとは思えないほど垢
ぬけた都会人っぽい雰囲気を持っているから、いいおとこかどうか
はわからないがイケメン風だ。
そう思うとなおさら不愉快な気分になった。
﹁じゃあ俺はエルパコと街の方を回ってみる事にする。ちょっと俺
に考えがあるんだ﹂
﹁なにをなさるのですか、シューターさん?﹂
﹁ヘイジョンさんがいるだろ。彼にセレスタ滞在中に絵を描いても
らおうと思ってね﹂
そんな俺の言葉に、質問をしたカサンドラがびっくりしていた。
1483
﹁ヘイヘイジョングノーさまに、セレスタのご領主さまの肖像画を
描いてもらうのですか?﹂
﹁いや、今回は風景画だな。セレスタの見取り図をお願いしようと
思っている。絵師さんなら街で写生をしていても怪しまれないだろ
?﹂
﹁シューター、そんな事を考えてあの芸術家を連れてきたの?﹂
﹁立ち寄ったあちこちの街でこれからもやってもらうつもりだ。戦
争にでもなれば、いつか役に立つかもしれないしな。それにカサン
ドラが言う様に、お貴族さまの肖像画を描いてお近づきになる方法
もあるかと思ってな﹂
思いついたのはアレクサンドロシアちゃんだからね。
それにモノの本で、絵描きが情報収集のために絵を描いて記録し
ていたのを覚えていたので、提案したんだがな。
写真がないこのファンタジー世界では、城の見取り図があるのは
たいへん有利になるはずである。
そんな俺の思い付きから出た発想に、先ほどまで楽天的だ能天気
だと言っていたみんなが感心の視線を送ってくれる。
カサンドラの尊敬のまなざしは当然として、雁木マリもおやとい
う顔をしているけもみみに至っては眼をキラキラさせているし。い
いね!
﹁ただ飯ぐらいの似非芸術家も使い道があるんだなあ。シューター
なかなか学があるな﹂
珍しくニシカさんが俺を褒めてくれる。
するとそのタイミングで、隣の部屋からヘイジョンさんのくしゃ
みをする音が聞こえて来た。
びえっくしょい!
1484
﹁夏風邪かな?﹂
いや。噂だよ、君の。
1485
121 回廊の街 中編
﹁見てください、シューター卿の奥さまの肖像画を描いているので
すが、なかなかの出来栄えでしょう!﹂
芸術家を気取るヘイヘイジョングノーさんの部屋を訪れたところ、
彼がそんなことを口にした。
馬車の中で必死に絵を描いていると思ったら、うちの奥さんのバ
ストアップ画を描いていたらしい。
差し出された画板のカサンドラはよく特徴が捉えられていて、見
る者にこれがカサンドラだと理解させる程度には上手い。
俺は絵の事も芸術の事もよくわからないが、この絵が素人のもの
でないことだけはよくわかった。
﹁確かにうちの奥さんだ﹂
﹁そうでしょうとも。僕をお引き立てくださったシューター卿への
ご恩に報いるためにも、精一杯書かせていただきました﹂
シューター卿などと、普段言われ慣れない言葉を口にされて、ち
ょっと気恥ずかしい俺である。
今の俺は街で情報収集に出かけるために、近頃手放せない上等な
おべべを脱いでいた。
さすがにむかしこの世界に来た頃の様な全裸チョッキ姿というわ
けではないが、この世界のどこにでもいる労働者と変わらないよう
な、安っぽい麻シャツにズボンである。
こんな姿でシューター卿などと、お貴族さまみたいな呼ばれ方を
すると違和感たっぷりだね!
1486
俺は改めてカサンドラの微笑を描いたラフスケッチを見た。
﹁うん、君を連れて来たのは正解だったようだねえ。これから俺た
ちは辺境諸侯の街を歴訪する予定だから、それら諸侯とのお近づき
の印にも、ご夫人方に肖像画をプレゼントしたいと思ってね﹂
﹁それはすばらしいご提案です! 腕がなりますね﹂
褒められてうれしそうなヘイジョンさんを見て、よし本題を切り
出す。
﹁ところで相談なんだけども﹂
﹁何でしょう?﹂
﹁ヘイジョンさんはいつも人物画を中心に書いておられますが、専
門は肖像画だったりするんですかね﹂
﹁いやあ、そんな事はないです。僕ぁ食い詰め芸術家ですからね、
言われればもちろん何でも書きますよ。これまでにも建物の絵を描
いたり、神話のワンシーンや幻獣を描いたり、何も題材がないとき
には蟻んこを描いていた事もあります﹂
﹁蟻﹂
帽子のズレを気にしながらそう俺に語ってくれたヘイジョンさん
は、ゴソゴソと旅荷をほじくり返して一冊の写生帖を取り出した。
羊皮紙のそれをペラペラとめくってみると、木炭か何かでガリガ
リと描き込まれた動きのある人物がや虫に魚、あるいはへんてこな
建物までもあった。
﹁風景画も描けますかね﹂
﹁もちろんバッチコイです。何を描けばいいんですか?﹂
﹁ずばり、この街の景観ですね﹂
1487
街の景観、という言葉を口にした俺を見返しながらヘイジョンさ
んは眼を丸くした。
ヘイジョンさんの写生帖を見た限りにおいて、かなり自在に絵の
類は描ける人間だという事は容易に想像できた。
特に建物画の描写などは、ラフスケッチのくせによく特徴をとら
えている。
問題はこれをお願いしてやる気を出してくれるかどうかだな。
﹁この街の景観、つまり見取り図的なものが欲しい。色付きである
必要はないし、街の具体的な構成がどうなっているかがその絵から
わかればいい﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
﹁この街に限らず今後、訪れた街や城塞なんかの外観をうまく捉え
た絵があれば、大変ありがたい﹂
﹁色付きでない、という事はこの画をどこかに飾るという目的では
ないんですね﹂
目ざとく片眉を吊り上げて見せたヘイジョンさんが質問を切り出
してきた。
この絵の目的がどこにあるのか、芸術家として気になるのだろう。
俺はそのあたりの事をどう説明すればいいのか、慎重に口を開い
た。
﹁そういう事になるかな。目的は情報だ。俺たちサルワタの人間が
それぞれの街について情報が共有出来るように絵という形に落とし
込みたいんだ﹂
﹁なるほど、目的は戦争のためですね﹂
どうやら、この会話から簡単に正解を導き出してしまったらしい。
1488
さて、ヘイジョンさんはどういう反応をするだろうか。
むかし俺はとあるゲームの下請け会社でアルバイトをしていた事
があった。
そこで経験した失敗だが﹁落書きでいいからとにかく絵を間に合
わせてくれ﹂という様な上からの指示を真に受けてそのまま外注の
イラストレーターさんにお願いしたところ、ひどくヘソを曲げられ
た事があった。
同じ失敗を繰り返さないためにも、言葉を選びながら説明しなく
ちゃいけない。
ましてや彼が言う通り、その絵は戦争の道具に使うのだからな。
﹁あんたはこの画が戦争の道具に使われると言ったら、拒否するか
な﹂
﹁うーん、どうでしょう﹂
﹁嫌ならもちろん拒否してもらってもいい。別に今後は俺たちのた
めに、そういう絵ばかりを描いてくれというわけではありません。
アレクサンドロシアちゃんから命じられてやらせるというより、こ
れはあくまでも俺のちょっとした思い付きなんだ﹂
あくまでも責任は俺にあるという事を説明した後に﹁どうですか﹂
と少しだけ強く質問をしてみた。
すると、ヘイジョンさんは気難し気に腕組みをしたり、くせ毛の
髪をボリボリやってみたりしたあとに愛想のいい顔を作った。
﹁気に入った。やりましょう﹂
﹁ホントですか﹂
﹁ええ。包み隠さずお話ししてくださったのは好感が持てます。知
らないところで悪用されるよりずっといい。それに、﹂
真新しい写生帖を旅行鞄らしきずた袋から取り出しながら俺の方
1489
に向き直る。
意を決した様に生真面目な顔を作ってヘイジョンさんは頭を下げ
た。
﹁僕みたいな食いっぱぐれた芸術家を拾ってくださったのはシュタ
ー卿、あなただけです。僕の絵がシューター卿のお役に立てるのな
ら、ぜひ使ってください﹂
﹁お、ありがとうございます、ありがとうございます﹂
いい返事だ。ついでに俺も頭を下げる。
端から見ているといい大人がふたりしてペコペコやっている間抜
けな姿に見えるだろう。
﹁お前ぇら、何やってんだ﹂
案の定、俺たちが米つきバッタをやっているところに、ニシカさ
んから呆れた声が飛んできた。
パイ
振り返るとそこには、ラフな格好をしたニシカさんにけもみみ、
それから灰色のΠ刺繍の法衣を脱いだハーナディンが立っている。
﹁やあ、みんな揃ったようだね﹂
﹁しかもなんて格好をしているんだシューターは。お前、お貴族さ
まなんだぞ?﹂
﹁お貴族さまの格好をして街をうろついてたらおかしいでしょう﹂
ニシカさんはいつも通りのブラウス姿ではあるのだが、手甲を外
してブラウスは腕まくり、革のホットパンツと革タイツもそのまま
だが、ナイフをベルトに挟んでいるだけという気楽な装いだ。
ハーナディンは法衣を脱いで鉄革合板の鎧だけになっていた。う
ん、冒険者スタイルで通る様な格好で、こちらも暑いからか腕まく
1490
りしている。
そしてエルパコは、どういう事なの?
いつも着用しているポンチョを脱いで、キャミソールにプリーツ
スカート姿だった。
自分がサルワタ騎士の従者である事を申し訳程度にあらわしてい
るのが、ニシカさんみたいな革タイツと、腰に下げたお揃いの剣。
﹁シューターさん、どうかな?﹂
思えばけもみみのスカート姿をまじまじと見たのは、はじめてか
もしれない。
家では下もひもぱん姿でうろついているか、太もものラインが浮
き出るぴっちりしたタイツみたいなのを履いているからね。
なんか普段はボーイッシュな女の子が、デートで精一杯オシャレ
しているみたいだな⋮⋮
﹁うん。とても女の子っぽい姿だよ﹂
﹁カサンドラ義姉さんが作ってくれたんだ。普段は着るタイミング
がなかったけど、今日は旦那さまとお出かけだからオシャレして行
きなさいって義姉さんが⋮⋮﹂
誰がデートだって?
カサンドラは何をこのけもみみに言ったんですかねえ。
デートじゃないんですよ! 情報集めの仕事なんですよ!
﹁いいじゃねえか。これで街をうろついていても、仕事上がりの若
いカップルみたいに見えるんじゃねえか﹂
﹁そうですね。何ならぼくたちの代わりに、酒場に行きますか﹂
﹁待った、それは駄目だ! 酒が俺たちを呼んでいるからな!﹂
1491
などと好きな事を言って盛り上がっている赤鼻のニシカさんと修
道騎士ハーナディンだった。
﹁これから陽も暮れるので、ぼくも酒場に繰り出して情報収集しま
しょうか?﹂
﹁あン、どういうんだ?﹂
﹁いやね、酒場でご夫人方の似せ絵を描くんですよ。そうしたら色
々とお話を聞きながら出来るので街の情報もあつまるでしょ。陽が
暮れたらどのみち街の外観を写生する事は出来ませんからね。景観
を描くのは明日の朝いちばんという事にして、僕もついていきます
よ﹂
なるほど。確かにもうすぐ陽が落ちてしまうし、それもありだな。
ヘイジョンさんの言葉に納得した俺は、ひとまずみんな揃って街
に繰り出し、いったん酒場に向かおうという事で話が決まった。
﹁じゃあ行きますか﹂
﹁うん。ぼく楽しみだよ!﹂
俺の言葉にけもみみが元気よく応えると、無い胸を押し付ける様
にして腕に手を回してきた。
いや、これもお役目なんで。
デートじゃないからね?
1492
122 回廊の街 後編
教会堂の助祭を捕まえた俺たちは、街の酒場が集まる様な繁華街
の場所を教えてもらった。
西通りにいけば、まるまるそこが繁華街なのだという。交易中継
の宿場街というだけはあって、そこでは行商人やその護衛、旅人や
冒険者たちを相手にする店は、西通りの表道かその裏路地あたり集
中しているのだ。
セレスタの街をわかりやすく説明するならば東西南北に十字路が
走っている。南北は市壁の門を繋ぐ一本道であり、東西の道は川港
と領主館を繋ぐ一本道という事らしかった。
助祭のおじいさんに礼をした後、ひとまず繁華のある西通りを俺
たちは目指す。
﹁なるほど、水運のための港が街に整備されていたんですね。する
と滞在者のほとんどは河川を利用した船客のみなさんなんですね﹂
﹁船は便利だからな。馬で荷馬車を引かせるよりもいち度に大量の
荷物を移動させられる。鉱山資源みたいな重いものを運ぶにはもっ
てこいだろう。オレたちもワイバーンを仕留めた時は湖畔から船で
村まで運び込むからな﹂
﹁へえ、そうなんですか﹂
感心するハーナディンの隣で、ニシカさんが村の過去の例を引き
合いに説明した。
そうか、言われてみればワイバーンを湖畔で仕留めた時、確か女
村長の差配で村まで解体し終わったワイバーンを船で運び込んだ気
1493
がする。
そこでふと疑問に浮かぶ事がひとつある。案の定、その事を不思
議に思ったヘイジョンさんが、
さかのぼ
﹁しかし、そうなると川を遡る時が問題ですなァ。下りは舵の具合
に気を使っていればいいでしょうが、川の流れに逆らって上るとな
るとどうするんだろう﹂
﹁そりゃお前ぇ、ゴブリンの人足が引っ張って川を上るに決まって
いるだろうが﹂
そう言って通りを歩きながら俺たちに向き直るニシカさんである。
言われてみれば、この街の人口比率は極端にゴブリンの数が多い
様な気がする。
別に城の増築や土木作業をやっている様にも見えないけれど、往
来を行きかう人間たちに肉体労働者がたくさん見受けられるのだ。
その大多数はゴブリンだが、そういう肉体労働者的な格好をして
いるのはドワーフや人間も混ざっている。
ところがニシカさんの言葉にけもみみが異を唱えた。
﹁でもおかしいよね。それだったら馬を使えばいいのに、どうして
わざわざ人間が曳くの?﹂
﹁わかってねぇなぁ、馬は貴重だからだよ。舟頭と馬をロープで拘
束していたら、いざ突風で船が煽られでもしたら、川の中に引きず
り込んでしまうだろ﹂
なるほど。馬にロープを固定していると、確かに船の舵が利かな
くなった時にそのまま引きずり込んでしまうかもしれない。
ニシカさんの意外な博識に俺たちが感心したところで酒場の並ん
だエリアへと到着した。
ところがそこへ到着したとたん、背後から大笑いする声が聞こえ
1494
たのである。
﹁あはははっ、死ぬ苦しい。あんまり変な事を力説しているから黙
って聞いていればそこの長耳お嬢さんは脳味噌に送る栄養分をみん
なおっぱいにとられてるんじゃないのかい﹂
﹁だっ誰だ手前ぇは、いったいオレ様の説明の何がおかしい!﹂
振り返るとそこには声の主がいた。
安っぽいドレスに編み上げの三角ショールを羽織った、水商売風
のお姉さんが立っていた。
﹁誰だって言われても、見た通りの酌婦さ﹂
﹁その酌婦の女がオレ様に何の用だ。第一、オレ様の言葉の何がお
かしい。川を遡るの大変だろッ﹂
﹁あんたは魔法も知らない田舎者かい? 川を遡るなら船の帆に風
の魔法を送り込めばいい事だろうさ﹂
﹁ぐぬぬぬ。魔法だとぉ?﹂
風の魔法を使えば確かに可能だな。しかもそいつはニシカさんの
大得意じゃないか。
﹁さあどいたどいた、あたしはこの店で働いてるんだ。邪魔しない
でおくれ﹂
お姉さんはそう言って飛龍殺しのニシカさんを睨み飛ばすと、ヘ
イジョンとハーナディンに流し眼を送りながら妖艶な微笑を浮かべ
た。
三角ショールと伸びたドレスの胸元から、柔らかな膨らみの谷間
がよく観察できた。
うん、大きくもなく小さくもなく、でもきっと揉みごたえは素晴
1495
らしい事が想像できるね。
俺がその胸に釘付けになりそうになったところで、あわてて視線
を外す。すると図らずともニシカさんの胸が飛び込んできた。
﹁ンだよ、嘘っぱちだったオレの説を馬鹿にする気か﹂
﹁とんでもない。ニシカさんの胸は馬鹿になんて出来ませんからね
え﹂
不貞腐れたニシカさんは﹁何言ってんだお前ェは﹂と鼻を鳴らし
てみせたけれど、水商売のお姉さんより胸が大きい事がよほど嬉し
かったのか、すぐに勝ち誇ったような顔をした。
﹁ふん、大きいばかりで使い道のない胸に意味があるのかい? そ
このお嬢さんを見てみなよ、そんなものは無くったってしっかり男
を捕まえているじゃないか﹂
大きすぎる胸を張ったニシカさんに向けて悠然とした態度で言葉
を返した水商売のお姉さんは、そのまま俺に双眸を細めながら微笑
を浮かべて来た。
ごくり、男の心を鷲掴みにする視線きました!
そして見ていればすれ違い様にヘイジョンとハーナディンの股間
をサラリと触っていくスタイルだ。
何という大胆なタッチ、何という大胆なスキンシップ。
俺にはそれをしてくれなかったけれど、理由はけもみみが俺の腕
にすがりついていたからだな。よくわかっていらっしゃる。誰に媚
びればいいのか観察眼も鋭い。
﹁ぼくは彼女に一生涯食べさせてもらってもいいと、一瞬だけ思っ
てしまった﹂
﹁もしも女神様に仕える信徒でなければ、僕もあぶなかった﹂
1496
しっかりしろよ男ども。
流し眼を送ってそのまま酒場の中に消えていった水商売のお姉さ
んを見やりながら、情けない発言をするヘイジョンとハーナディン
である。
俺が呆れた顔をしていると、けもみみが俺の方を上目遣いに視線
を送って来る。
何だ、もしかしたら俺まで彼らみたいな事を考えていたなどと思
われたらたまらないね!
今や俺も四人の妻がいる身分だから、よそでそんな気分になって
一生を女性に捧げようなんて考えるはずもない。だが俺も男だから
強く迫られたら困っちゃうね。いや、そんな事になったら家族崩壊
の危機である。困ったことにならない様に気持ちを引き締めた。
けれども、どうやって誤解を解こうかと思っていたら、どうやら
違ったらしい。
﹁シューターさんも、そういう風にしたら嬉しい?﹂
﹁⋮⋮そ、そういう事はひとがいない場所でしましょうね﹂
﹁うんっ、任せてよ﹂
こ
この娘の考えている事はよくわからないな⋮⋮
見よう見真似で水商売のお姉さんみたいな事をしようと俺の股間
に手を伸ばして来たけもみみである。
もしかしたらカサンドラあたりに言い含められてきたのかもしれ
ない。
うちの正妻は我が家の奥さん方の取りまとめ役であるし、こうし
て考えるといよいよ頭が上がらない風情である。
これからはより一層、奥さんたちを大切にしようと心に誓う吉宗
であった。
1497
◆
悠然と立ち去った水商売のお姉さんの務めるという酒場に、俺た
ちはひとまず入ってみる事にした。
時刻は元いた時間なら午後六時過ぎぐらいだろうか。外の景色は
ちょうど山間に陽が落ちて、空を赤く染め上げつつあるところだっ
たので、もうちょっと遅い時間かもしれない。
ひとまず空いている席を見つけた俺たちは、五人揃って腰を落ち
着ける。
丸いテーブルの席順は俺の右となりがけもみみで、左隣がニシカ
さん。反対側にハーナディンとヘイジョンさんという具合である。
エルパコは俄然やる気の顔でイスをさりげなく俺の方に近づけて
くるのがいじましいね。
頭をなでなでしてやると、嬉しそうに眼をすぼめてみせた。
﹁おい親爺、とりあえず人数分の酒を持って来いよ。あと適当につ
まめるものを頼むぜ﹂
﹁あいよ﹂
﹁一応言っておきますけどニシカさん、これは情報収集という大切
な仕事なんですからね﹂
﹁んなこたわかってるよ。オレ様は酒なんかに負けないぜ﹂
あんたはブルカの街でも深酒して正体不明になっていたじゃない
か。
店で働いている給仕のドワーフを捕まえて注文をしたニシカさん
を、俺は一応たしなめておいた。
﹁それにしても、この店の名前は変わっていましたね﹂
﹁妙に古びた建物ですし、もしかするとこの街が出来てからずっと
あるのかもしれないですなあ﹂
1498
おご
ハーナディンとヘイジョンが天井を見上げながらそんな事を口々
に言う。
この街には珍しい木造作りの酒場は、驕りの春亭という意味深な
屋号だった。
確かに、驕りなんて単語が酒場の名前に使われているところは面
白い。
どういう意味だろう? と小首をかしげているけもみみを見た俺
は、適当に思いついた事を口にしてみる。
﹁きっと日銭を稼いで剛毅になった男たちが、この繁華街で金を落
としていく様を屋号にしているのだろう。驕りはおごりたかぶりの
おご
意味で、現金を手にして気が強くなった旦那方が酌婦のお姉さんた
ちに奢るという意味にもかけていたりするんだろうかな﹂
﹁なるほど、さすがシューターさんだね。奥さんとしては鼻が高い
よ﹂
嬉しい事を言ってくれるねえ。ぴこりと耳を立てて羨望のまなざ
しを送って来るエルパコは、ちょっと口が開いていた。
そういうところもかわいいね!
するとニシカさんが食いついてきた。
﹁ばっか、適当な事を言ってるんじゃねえよ。どうせ違うに決まっ
てるぜ﹂
﹁そうかなあ。なかなか的を射た由来の考察だなって僕は感じまし
たけど、芸術家のヘイジョンさんはどうです?﹂
﹁うーん、驕りってのはもしかするとこの街の成り立ちにも意味が
かかっているのかもしれませんね。きっと辺境諸侯の街がまだ少な
かった頃は、重要な中継拠点だったんですよ﹂
﹁お前ぇら何にもわかっちゃねえなあ。驕りってのは、むかしここ
1499
いら一帯にはびこっていた蛮族どもの事を差しているのさ。こいつ
ら馬鹿だから、油断して滅ぼされたんだぜ﹂
﹁その辺境にはびこっていた蛮族って、黄色い蛮族なんじゃないで
すかねぇ⋮⋮﹂
みんなが口々に適当な事を言って︵最後のは俺︶いるのを眺めて
いたら、厨房から小樽のジョッキをかかえた先ほどのお姉さんが登
場する。
﹁適当を言ってるのはおっぱい姉さんでしょうが。そこの若いお兄
さんが言う通りに、驕った男に奢らせるから店の名前がそうなって
んのさ。はいお待ち、ビール人数分だよ!﹂
若いお兄さんというのは俺の事かな?
このファンタジー世界にやって来てからは若作りに見られる俺で
ある。
人数分のビールをそれぞれのテーブルの前に置いていくお姉さん
だが、どうもひとつ数が多い。と思うと、お姉さんは野郎ふたりの
席の間に腰を落ち着けて、自分のビールも引き寄せた。
﹁んだよ、何で手前ぇが座ってるんだ﹂
﹁見りゃわかるだろ、ここはあたしらみたいのが旦那方に酒をお酌
するお店なんだよ。わかって入ってきたんじゃないのかい?﹂
﹁まあ、オレ様は酒が出てくればどうでもいいけどな。とりあえず
乾杯しようぜ!﹂
相手にしていられるかとばかりニシカさんは強引に話を打ち切っ
て、小樽のジョッキを持ち上げた。
ひとまず適当に注文した酒のアテをつまみながら、それぞれグビ
グビとやる。
1500
するとさっそく水商売のお姉さんを相手に、ヘイジョンさんが絵
具の入った道具袋を引き寄せて話をはじめているようだった。
﹁あんた、芸術家だったのかい?﹂
﹁そうなんですよ。さるお貴族さまに召し抱えられていましてね、
そのお貴族さまの旅行にご一緒させてもらっているんですよ﹂
俺の方をチラリと見ながらヘイジョンが言葉巧みに説明をした。
釣られてこちらを見やる酌婦のお姉さんである。
﹁そうなのかい。芸術家って言うけれど、何をするひとなのさ﹂
﹁絵画ですねえ。肖像画、風景画、時には建築の設計だってやっち
ゃうんです。今日はたまたまお貴族さまが、ご当地の領主さまにお
呼ばれしていて暇が出来たんですよ。だからかわいこちゃんの似顔
絵を描いてまわろうかと思いましてね。ご許可を頂いてきたんです﹂
するとヘイジョンに水商売のお姉さんが身を寄せる。
まんざらでもない顔をしてヘイジョンは鼻の下をヒクつかせてい
た。
﹁でも、そのお貴族の旦那さまはそこにいるじゃないのさ﹂
﹁色々と事情があるんですよ﹂
﹁ふうん。じゃあさ、あたしの絵を描いてくれよ﹂
﹁いいですとも。とびきりの美人さんに仕上げて見せますよ﹂
﹁何だい、それじゃ実物のあたしが美人さんじゃないみたいじゃな
いのさ﹂
﹁そんな事はありません、その美しさを忠実に再現してみせるとい
うわけです。さあ、ぼくのために素敵に笑ってください﹂
何だかこのままふたりの事は放っておいていいかもしれない。
1501
相手にされていないハーナディンの方は、つまらなさそうに何か
の干物を口にくわえてビールをチビチビやりながら、けもみみに話
しかけている。
﹁エルパコさんは、どうしてサルワタの騎士見習いになったのかな
あ﹂
﹁⋮⋮ぼくは騎士見習いじゃないよ、シューターさんのお嫁さんだ
から﹂
﹁うん。でも、お仕事は騎士見習いだろう?﹂
﹁シューターさんの役に立ちたいから。それに、ぼくは騎士見習い
じゃなくて猟師だよ﹂
俺に腕を回した状態で、エルパコはちぐはぐな会話をハーナディ
ンさんとしていた。
女を引っ掛けて話をするならよそでやってくれないかな。この娘
は俺の奥さんなんだからさ。
へんぴ
﹁おいシューター。オレは前から思っていたんだが、オレがいつま
でたっても嫁に行けないのは辺鄙な村の、これまた外れにある集落
でくすぶっているからだと思うんだぜ﹂
﹁はあ、そうかもしれませんね﹂
﹁考えてもみろ。サルワタの森の王者、ワイバーンだって食っちま
う女だぞ? 街の男どもならこぞって嫁にしたいと泣いてお願いす
るに違いない﹂
﹁なるほど、蛮族が好みの男性もいるかもしれませんねぇ﹂
﹁あー。そのビール、いらねぇならオレにくれよう﹂
誰よりも早くグビグビ飲み終わった小樽ジョッキをテーブルに置
くと、ニシカさんは勝手に俺の酒杯を奪い取った。
1502
﹁ああうめぇ。酒は命の水だなぁおい。酒が進んでないんじゃねぇ
か? 飲めよ﹂
﹁そうしたいのはやまやまなんですがねえ﹂
ニシカさんは俺の酒杯を奪っておいて調子のいいことを言ってい
る。
と、見せかけて。
実はニシカさんにしろけもみみにしろ、どうやら適当な会話をし
ながらこの酒場の中を喧騒に耳を傾けているらしかった。
お馬鹿な会話をしている様で、ふたりの耳は頻繁に反応してる。
少し前までは多少すいていた酒場も、酌婦のお姉さん方が出勤し
て出そろったと見えて野郎どもの顔がいっぱいになっていた。ゴブ
リンや人間はもちろんの事、俺たちの村では珍しいドワーフに、見
た事もない様な獣面の猿人間がいる。
猫面の猿人間なんてはじめて見たよ。やっぱりいるもんだなあ、
定番猫面。
いよいよ陽が落ちきった頃である。
そろそろ教会堂の宿泊所でくつろいでいたカサンドラや雁木マリ
のもとに、領主の館から晩餐会の招待が届いている頃かもしれない。
いい感じに夜の繁華街も盛り上がってきたことだし、ここはヘイ
ジョンさんに任せて移動するとするか。
そう思ったところでニシカさんがいい感じに切り出してくれる。
﹁おいシューター、オレは飲み足りねぇ。場所変えてどっかで飲も
うぜ﹂
﹁そうですね、ヘイジョンさんはそのまま残る感じでいいですか?﹂
﹁こちらのお嬢さんに聞いてみたら、酌婦のお姉さんたちにお酒を
1503
奢ってくれるんなら、いくらでもここで似せ絵を描いてもいいって
許可を頂きました﹂
いつのまにか例の水商売のお姉さんだけではなく、別の女の子も
ヘイジョンさんの周りに集まっている。
モテモテですね芸術家くん。
﹁僕もこの場はヘイジョンさんにお任せするとして場所をかえるか
な。エルパコさんも退屈しているみたいだし﹂
﹁ぼくはシューターさんと一緒がいいな﹂
﹁この通り、退屈しているらしい﹂
苦笑を浮かべたハーナディンを見届けて、俺は席を立った。
お勘定はヘイジョンさんに余裕を持たせて、女村長から預かって
いる路銀を置いていくことにした。
ブルカ辺境伯金貨で一枚分に相当する、騎士修道会銀貨四〇枚が
ぎっしり詰まった路銀袋から、十枚ばかりおいていく。元いた世界
の額におおよそ換算すれば十万円ぐらいかな。
賑やかとは言ってもこんな下町の酒場だからいくらなんでも足り
ると思うけどね。
1504
123 剣と魔法の世界ですが、俺の拳は今日も無敵です
驕りの春亭を出た俺たちは、とりあえず通りで夜風に涼みながら
冒険者ギルドの方に足を運んだ。
﹁僕はこのまま冒険者ギルドで情報収集をするよ。適当に掲示板の
情報と受付の聞き取りをやったら、そのままギルドに併設されてる
酒場あたりで聞き込みをしてみようかな﹂
﹁あまり遅くならない様に頼みますね。聞き込みが終わったら、さ
っきの驕りの春亭で落ち合いましょう﹂
﹁了解です。シューターさんはどうされます?﹂
うーん、そうだなあ。
今もって腕にひしっとしがみ付いているけもみみはさておいて、
赤鼻のニシカさんはきっと飲み足りないだろう。
しかもひとりにしておくと、飲み過ぎて前後不覚になる気がして
ちょっと怖い。
﹁とりあえず可能なら、例の盗賊の情報というのを聞き込んでおか
ないとな﹂
﹁わかりました、ギルドの方でしっかりそちらも確認しておきます。
僕は冒険者たちから、シューターさんは行商人たちから﹂
﹁わかった。その優男面でしっかり情報を掴んできてくれ﹂
やだなぁとハーナデンはにこやかに笑った。
本人も自分のいいおとこ顔は自覚していると見たね。これで修道
騎士じゃなかったら色男になっていただろう。
1505
﹁ほんじゃ、オレたちゃ酒場を梯子してまわるか。変な女を引っ掛
けて、病気貰うんじゃねえぞ!﹂
﹁失礼だなぁニシカさん、僕はこれでも修道騎士ですよ。避妊の魔
法と性病予防にかけてはプロ中のプロなんです﹂
﹁そうだったな。だからと言って遅くに戻ってきたら、ようじょに
言いつけてやるからな!﹂
何がおかしいのか上機嫌にケラケラ笑ったニシカさんは、水筒を
口に運んで袖で拭いてみせた。
これから酒場を飲み歩いて情報収集するんだから、何も今ここで
飲まなくてもいいのに⋮⋮
じゃあそういう事でと冒険者ギルドに向かったハーナディンを見
送ると、俺はふたりを振り返った。
﹁どうします、数件まわって情報を集めましょうか。ニシカさんは
女性だから男を相手に聞き込みをした方がいいって話をッヨイさま
が言っていましたけれど﹂
﹁おう、そうだな。だったら別行動を取るか﹂
﹁いやあひとりだとニシカさん何しでかすかわかりませんし﹂
﹁おいおい、オレ様が酒に呑まれる様なタイプに見えるか。ん?﹂
見えます、とは言えないのでそのままスマイルを浮かべてこちら
も送り出した。
ヒラヒラと手を振って見せたニシカさんは、そのままホットパン
ツのポケットに手を突っ込んで、意気揚々と夜の繁華の裏手に消え
ていった。
﹁大丈夫かなニシカさん。ちゃんと銀貨は握らせているけれど﹂
﹁ニシカさんも大変だね﹂
1506
﹁何がだい?﹂
だって、とエルパコはスカートの袖を抑えながら向き直ると、俺
の顔を覗き込む様に見上げてくる。
﹁ぼくにはシューターさんがいるけれど、ニシカさんにはシュータ
ーさんがいないから。独りは寂しいんだよ﹂
﹁もしかして聞こえていたのか、俺とニシカさんの賭けの事﹂
﹁うん、風に乗って街道を移動している時に、ね﹂
耳がいい身内がいるのも考え物だな。などと頭をボリボリやって
いると、けもみみは口元を綻ばせるとふたたび腕に手を回してきた。
﹁でも、ぼくはシューターさんが側にいるから幸せ者だね﹂
そうして、小動物の様に見上げながら俺にそう言うけもみみであ
る。
俺は場所もわきまえずちょっとドキリとしてしまった。なんて愛
らしいけもみみなんだ。
息子もそうだと言っている。
胸は見るからにぺったんこのまないたであるけれど、今の見上げ
る表情は女の子そのものだ。
こんなかわいい奥さんにナニが付いているわけがない! いや付
いているけれど、でもそんなの関係ねぇ。
いつまでも見つめあっていると﹁ちょっと疲れたから、この路地
裏の休憩所で休まないかい﹂などと口走りそうになるので、ひとま
ず俺たちでも出来る情報収集に出かける事にしよう。
﹁じゃあ移動するか﹂
﹁うん、ぼくはどこにでもついていくよ﹂
1507
ようやく人ごみの中を歩き出して、ニシカさんたちが消えたの反
対側の裏路地に向かう。
ニシカさんが向かった側は、どちらかというと酒好きの労働者が
集まっていそうな雰囲気が出ていて、店先で酌婦のお姉さんたちが
呼び込みをやっている様なところだった。
反対に俺たちが向かった方は、比較的女性の往来も見えるところ
から、エルパコを連れていてもたぶん違和感がない。
それぞれ聞き取りをする層を変えておけば、集まって来る情報も
きっと多方面になるはずだし、軍師ようじょの指令にも合致してい
ると言える。
歩くたびに胸の突起をこすり付けて来るような積極的すぎるけも
みみに苦笑しながら裏路地の人ごみをわけながら歩いていると、
﹁おっとごめんよ﹂
ドン、と誰かにぶつかってしまった俺たちである。
ぶつかった相手は酔客らしく、ふらつく足取りを巧みに操りなが
らバランスを取っている。
相手が先に謝ったので、俺もあわせてペコペコしておく。
﹁いえ、こちらも気が付きませんで﹂
﹁お互い様って事よ﹂
そこまではよかったのだが。
酔客の視線をチラと見やった時、この男の眼は酒に濁ったもので
はなかった。
それどころかすっと手を引いてズボンのポケットに手を入れる瞬
間、何かの革袋が仕舞い込まれるのをしっかりと目撃した。
1508
﹁おいその金!﹂
﹁チッ﹂
俺の叫びと同時に舌打ちをして見せた男は、背を向けて必死に走
り出した。
﹁シューターさん﹂
﹁エルパコ、追え!﹂
コクリと頷いたけもみみは、俺の腕から離れた瞬間には姿勢を低
くして一気に駆けだした。
俺もすぐに後を追う。だがこう叫んでおくことも忘れない。
﹁おい、そいつはスリだ。俺の金を盗んで逃げやがった!﹂
﹁なんだなんだ﹂
﹁どうした?﹂
﹁スリだってよ。酔っ払ってるからいけねえんだよ﹂
﹁番兵を呼べ、番兵を﹂
走り抜ける瞬間にそんな会話がいくらか聞こえてくる。
もちろん俺の所持していた金を盗まれたのは間違いのない事だけ
れども、スリが俺の懐から盗んだのは残念ながら銅貨の入った小銭
袋である。
別にこういう事を予測していたわけでもないんだが、金貨銀貨の
類は取られにくい様にフィールドバッグにしっかり収まっている。
弓矢の様に飛び出していったけもみみを追って十数秒、さほど広
くもない市街地の中だからすぐにもスリとエルパコに追いつく事が
出来た。
1509
場所はどうやら飲食店の裏側といった感じで、奥まったどん付き
の場所である。
追い詰められたスリの男は、先ほどまで酔客のフリをしていたの
が嘘の様に凄みのある顔で振り返った。
よせばいいのに腰後ろからナイフを引き抜くと、俺たちに差し向
けた。
﹁へぇ、敏い酔客もいたもんだな。だが俺っち相手に小娘と人足風
情のふたりぽっちで倒せるとでも思ったのかい﹂
﹁ぼくの事、女の子に見える?﹂
﹁そうだなあ、どっからどう見たって小娘だ。サイフを取られたと
気が付いても大人しくしていればよかったのになあ。そうすればこ
の後、慰み者にされるなんて事はなかったんだぜ﹂
﹁そっか、ぼくが女の子に見えるんだ﹂
場違いな質問をした後に満足したエルパコは、俺の方に向き直る
と極上の笑顔を見せた。
薄暗闇にフリルスカートがゆらり揺れて、確かに女の子らしかっ
た。
﹁おい、女の背中に守られて野郎のくせに恥ずかしくねえのかい。
男なら女を守って命を犠牲にするぐらいやってみればどうなんだ。
ん? 恐ろしくて足も動かないのか。だったらとっととこの女を放
り出して、さっさと逃げちまえ!﹂
こいつは何を言っているんだ? という顔をしてけもみみが小首
をかしげた。
そして俺の顔を改めて見やって﹁どうする?﹂と言ってくる。
どうするもこうするも、小銭だろうと返してもらわなくちゃいけ
ない。
1510
などと考えていると、俺たちが無視気味だった事が気に食わなか
ったのか、エルパコを人質に取るつもりでスリの男は手を伸ばして
くるではないか。
﹁このやろっ﹂
もちろんけもみみはその俊敏さでひらりとかわして見せた。
だが俺も男だ、いつまでもエルパコを前に出して平気でいられる
ほど呑気な生活はしていない。
逃げられたとわかって、即座にナイフを振り回そうとする男の首
根にこぶしを突き込んだ。
﹁ぐおっ﹂
﹁おら、俺が相手だ﹂
一撃で倒れる事はなかったが、首根を殴られた事でスリの男は混
乱している。
そのままぶんと大きくナイフを振り下ろしたけれど、そこは上手
く体を入れ替えて避けてやる。
しかしその瞬間にナイフを持たない反対の手がおろそかになった
スリの男めがけて、俺が飛び付いてやる。
即座に相手の親指を握ってやると、そのまま付け根の関節をキメ
る。
親指固めという沖縄の古流空手の技のひとつで、親指一本で相手
を無力化出来るという優れモノだった。
むかし俺が師事していた沖縄の古老から教わった秘儀のひとつだ。
初見で道場で俺が握手を求めたところ、最初にこの技を使われた
というね。
﹁うごぉいでぇ。何しやがる!﹂
1511
たちまち悲鳴を叫びあげたスリの男を、親指固めをしたままに引
きずってやった。
ついでに反対の手で持ったナイフを振り回されたらかなわないの
で、腕を相手の首にかけて仰向けに転がす。
すかさず斬りつけようとしてきた男の手を、ナイフごと蹴りあげ
てやった。
﹁どべら!﹂
わけのわからない苦悶の声を上げたスリの男の首根に、あべこべ
に懐剣を突き付けてやる。
盗みには手を、というサルワタの村のルールは女村長から聞かさ
れた事があったけれど、これはよその街でも通用する理屈なのだろ
うか⋮⋮
﹁こ、こんな事をしてタダで済むと思ってるのか﹂
﹁タダで済まないという事は、どうなるんですかねえ﹂
﹁お、俺っちはこの街の裏通りを牛耳っているパンストライクさん
の手下だぞ﹂
こんな小さな街の裏社会で顔役をやっているひとがどれほどのも
のかわからないが、名前があんまりにも酷いのでまるで怖くはない。
気になるのはそんな事よりパンがストライクなのかパンストをラ
イクなのかである。
そんな事よりも、
﹁お前も誰を相手に刃物を振り回したのか、後で後悔することにな
るかもなぁ﹂
﹁何だお前、お貴族さまか商人さまの娘っ子に手を出していたのか
1512
い﹂
﹁まぁそんなもんだ﹂
説明するのが面倒なので適当にお茶を濁しておいたけれど、何と
いっても俺はサルワタ領主の送り出した外交団の大使である。
もしも貴族の送り出した大使に怪我でもさせる様な事になればご
当地の領主も体面が丸つぶれ、少なくとも仲間が黙っちゃいないだ
ろう。
﹁パンストライクさんを見くびるんじゃねえぞ﹂
﹁わかった、街の裏を牛耳るパンストさんだな。覚えたぞ﹂
まだ何かを言おうとするスリの男を地面に押さえつけて黙らせた。
するとけもみみがいつものぼんやりした表情のまま恐ろしい事を
口から紡ぐ。
﹁シューターさん、こいつ殺そう?﹂
﹁い、いやそれはまずいだろう。仮にもよその領主さまの街中だ、
あべこべにブタ箱にでもぶち込まれでもしたら村長さまに迷惑をか
けるからね﹂
﹁うん。じゃあしょうがないね﹂
エルパコはあっさりと承諾すると、かわりに男のナイフを拾い上
げて少し前まで握っていたその手のひらに突き立てた。
﹁うぎゃらあ!﹂
﹁少し黙ろう。こうすればもう武器は持てないよ﹂
さらに。
けもみみはブーツの底を男のアゴに引っ掛けると、そのまま思い
1513
っきり踏み込んだ。
今ので歯が何本か持っていかれた気がする。エルパコは容赦がな
かった。
﹁ぶぎゃぁ。やめてくれ、俺っちが何をしたっていうんだ!﹂
﹁シューターさんはぼくが守るんだ﹂
﹁金は返す、返すから許してくれよう﹂
﹁そこまでだエルパコ。あんまりやって禍根が残ったらまずい﹂
禍根も何も、すでにやり過ぎの感があるのであわてて俺はエルパ
コを止める。
いつかこのけもみみは格闘技を教えてくれと言っていたけれど、
俺から教わる事なんてないんじゃないかというぐらいに大胆で、人
間が嫌がる場所を正確に攻めている。
﹁金は返す。これでいいだろ、もう許してくれよう﹂
﹁どうも、ありがとうございます﹂
もがきながら飛び起きた男は、まだ無事な左手︵だが親指の関節
は外れている︶で路銀袋を差し出してきた。
確かにこれは俺のものだ。中身は確認していないが、しっかりヒ
モが結ばれているので安心だ。
さすがにスってそのまま逃亡した直後だから、中身を抜き取られ
たなんてないよね?
﹁どうするシューターさん?﹂
﹁番兵さんを呼んでしょっ引いてもらおうか﹂
﹁もしかしたら、この先の街道に出没する盗賊、このひとたちかも﹂
﹁あー、そういう可能性もあるな。雁木マリが合流したら尋問して
もらうか。よし、そういう事ならなおさら番兵の詰め所までキリキ
1514
リ歩こうか!﹂
﹁ま、待ってくれ。そんな事をされたら、俺っちはこの先この界隈
で仕事が出来なくなっちまう﹂
こんなところに放置していたら逆恨みで復讐されるかもしれない
し、番兵に突き出すしかないだろう。
諦めて腹をくくってもらいたいところだったけれど、よほどパン
ストライクさんが恐ろしいのか。
そんな半ば無力化されたスリの男を引き立たせようとしたところ
で、俺の思考は中断されてしまった。
何となく嫌な予感がしたけれど、けもみみがいつになく緊張の声
音で俺に声をかけたのだ。
﹁シューターさん、後ろ!﹂
背後に気配を感じたと同時に、俺はスリの男を改めて蹴飛ばしな
がら剣を構えた。
してみると、おじさんが六人あらわれた。
俺たちは逃げられないっ!
六人の男たちの姿を確認したところ、腰に剣を吊った男に棒切れ
を持った男、ナイフを手にする男もいる。
こいつらがスリの男の言っていたパンストライクさんの一党とい
う事なのだろうかね。
﹁パンさん、俺っちのために来てくれたんですねっ﹂
﹁おい、お貴族の旦那。あんまりウチの若いのに無茶しないでくだ
せぇや﹂
そう口にしたのがパンストライクさんそのひとだろうか。
タヌキみたいな顔をしたおっさんだった。いや、比喩じゃないよ。
1515
本当にタヌキだったんだ。
しかも俺の事をお貴族さまの旦那と、はっきりと口にした。
こいつはどういう事ですかねえ、俺の身分をどこから知ったんだ
ろう。
辺境を歴訪する行きがけの駄賃だ。そういう正体不明の情報源は、
きっちりここで吐き出してもらおうかな。
﹁エルパコ。今夜は残念なデートになっちゃったけど、また今度仕
切り直しな﹂
﹁うん。ぼくはシューターさんの側にいればそれだけでいいよ﹂
﹁ありがとうな。ついでに、みんなを集めてもらえるかな?﹂
さあこの場をどう切り抜けるか思案しながら、俺はエルパコに謝
罪した。
俺が突破口を開いて、エルパコを逃がした後は仲間を呼びに行か
せる。
よしこれでいこう。
﹁うん、わかった﹂
けもみみは俺の視界の端でこくこくうなずくと、袋小路の店の裏
側に向き直る。
そのまま膝を折り曲げたかと思うと、飲食店の屋根に手を掛けて
飛び乗ってしまったのである。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺もパンストライク一味も唖然としながら、けもみみが屋根の上
を駆けていくのを見送ってしまった。
1516
﹁シューターさん待っててね! すぐ呼んでくるからッ﹂
﹁あーゆっくりでいいぞ、屋根の上は滑るから!﹂
﹁大丈夫っ﹂
夜の闇に溶けて消えたエルパコの影を少しの間ぽかーんと見上げ
ていた悪党一味だったが、パンストライクさんがハッと我に返って
怒声を上げた。
﹁馬鹿野郎。お前あいつを追え!﹂
﹁へいっ﹂
部下と思われるひとりが離脱してあわててけもみみを追いかけて
行ったが、ちょっと出だしが遅すぎたね。どうにも追い付きそうに
もないけれど、俺は敵さんの心配をしてしまう。
﹁さてお貴族の旦那、あんたの郎党が泊まっている場所もこれです
ぐに場所が知れてしまうぜ。ここで大人しく俺たちの人質になるの
なら、あんたは身代金さえ払えば命を奪われるまではいかねえ。け
ども、ここで暴れれば残念ながら首と胴体がおさらばだ﹂
暗がりの中、なかなかドスの利いた声でタヌキ顔のパンストライ
クが恫喝した。
悪党はどんな小さな街にもいるもんだね。いや違うか、こういう
交易中継の街だから、こんな悪党がはびこっているのかもしれない。
﹁ひとつ質問をしてもいいですか﹂
﹁おう。この状況でなかなか度胸があるじゃないか、お貴族の旦那﹂
﹁どうして俺の事が貴族だって思ったんですかね?﹂
﹁はあそういう事か、答えは簡単だ﹂
1517
くっくと笑ってみせながら長剣を引き抜いたタヌキ面の猿人間が、
チラリと背後を見やる。
﹁驕りの春に浸っているうちに、あんたは悲しみの冬を迎えていた
事に気付かなかっただけさ﹂
﹁なるほどね、そういう事か﹂
どうやらあの驕りの春亭という場所は、こいついらパンストライ
クさんの一味に繋がっていたらしい。
俺たちは確かに景気よく銀貨を十枚を置いてあそこを出て来た。
ヘイジョンさんは水商売のお姉さんに囲まれてよろしく楽しくやっ
ている事だろう。
あれを見てお貴族さまだと思ったのかもしれないし、ヘイジョン
さんが何かいらない事を口にしたのかもしれない。
はて、ちょっと待て。ヘイジョンさんと水商売のお姉さんが楽し
気に絵を描く準備をしながら話している時にも、すでに水商売のお
姉さんは俺をお貴族さまだと看破していた節がある。
﹁違うな、あんたらは街を出入りする人間たちを監視して、鴨にな
りそうなヤツをチェックしていたってわけか﹂
﹁小さな街だからな、出入りする人間の顔を抑えておく事は何も難
しい事じゃねえ。そしてあんたは金払いも良すぎた。そういうこっ
た﹂
最悪ですね、この街。
というかどこの街に行っても何かやっかい事に巻き込まれている
気がするぜ⋮⋮
﹁じゃあ大人しく人質になってもらおうか。断れば腕の一本や二本
1518
はへし折れると思った方がいいぜ﹂
﹁パンさん、こんな奴ぁぶん殴ってやってください! 俺の手を使
い物にならなくしやがったんでさぁ﹂
スリの男が泣きながら懇願しているが、大人しく腕なんてへし折
られるつもりもないし、殴られるのもご免だ。
﹁お断りだ。守るべきものもなくなったし、久しぶりに俺の拳がう
なりを上げるぜ﹂
仲間がだれもいないのをいい事に、俺は少しだけ格好をつけてみ
た。
1519
閑話 謎解きはディナーの前に 前編 ︵※ イラストあり︶︵
前書き︶
雁木マリからの視点補完になります。
1520
閑話 謎解きはディナーの前に 前編 ︵※ イラストあり︶
<i174700|15507>
http://15507.mitemin.net/i1747
00/
セレスタ領主から晩餐会の招待が届いたのは、この街に到着して
しばらくくつろいでいた頃だった。
そのため、あたしたちは領主の謁見を受けるのだからと、あわた
だしくお風呂を用意していた。
宿泊所の自室にたらいを運び込むと、さっそく順番に体を清める。
裸になったッヨイをカサンドラさんがごしごしと洗ってやるとこ
ろを見ながら、あたしも服を脱いだ。
端で見ているカサンドラさんの肢体は、女のあたしが見ていても
惚れ惚れする様な均整の取れた体の造りだった。
きめの細かい柔肌は、猟師の娘だったと聞かされていたけれど、
とてもそうは思えないほど絹の様に美しく、貴族のそれだった。
その胸はきれいなお椀の形をしていて、ニシカさんやタンヌダル
ク義姉さんの様に決して大きすぎず、 成長期のッヨイはともかく
として、エルパコの何ひとつ隆起のない胸とお尻とも違う。
ゴムまりの様な小ぶりのお尻は、いつもシューターがまじまじ見
ているのだから、きっと男心をくすぐる様なサイズなのだと思う。
1521
あたしもやがては妻のひとりになる事は決まっているけれど、女
性の魅力ではこのひとには勝てそうもないなあ。そんな事をぼんや
りと思っていると、
﹁どうしました? ガンギマリーさん﹂
ッヨイの背中をへちまであらいながら、おやという顔をしてあた
しを見上げるカサンドラさん。
﹁ううん。義姉さんの体はきれいだなって、見惚れていただけだか
ら﹂
﹁そんなわたしなんて。ガンギマリーさんだってとってもお美しい
ですよ﹂
あたしの体は傷だらけだ。騎士修道会の軍事訓練で受けたものも
あれば、遠征の中で負った傷もある。
冒険者として辺境の奥地やダンジョンで付いてしまった負傷の跡
は、女神様の奇跡である聖なる癒しの魔法でも完全に無かった事に
する事は出来ないのよね。
だからあたしは自嘲気味に口にする。
﹁けど、あたしは傷だらけの体だから﹂
﹁それは聖少女たるガンギマリーさんの勲章なのだから、誇りに思
っておられればいいのですよ﹂
﹁そうなのです、ガンギマリーの数々の功績のあかしなのです﹂
﹁そういう事とか気にしているわけじゃないし。けっ結婚するのは
政治というものだし⋮⋮﹂
ッヨイまでも一緒になってそう言ってくれたことはちょっぴり嬉
しかったけれど、やはり内心を見透かされた事はあまりいい気分で
1522
はない。
⋮⋮それに。
どちらかと言うと脂肪よりも筋肉ばかりの体であの男はあたしに
振り返ってくれるのだろうかと思う。
血反吐を吐く様な訓練と実践を積み重ねてきたから得られた体な
のだから、これまではそれでいい、むしろ勲章だと思っていたのに、
どうしたんだろうあたし。
するとカサンドラさんは何がおかしいのか、くすくすと笑いだし
た。
﹁もしかして、シューターさんの事を気にしているんですか?﹂
﹁えっあわ、あたしは別に⋮⋮﹂
﹁旦那さまは、そういう事をあまりお気になさらない性格だから﹂
背中を洗い終わったッヨイがへちまを受け取って、今度はカサン
ドラさんの背中をごしごしする。
そうは言うけれど。
それでもあの男の周りにいる魅力的な女性の事を考えれば、ちょ
っとは背伸びしたいと思うのが人情じゃない。
胸はまあ? これからの成長に期待したいところだけれど、せめ
て内面的だけでも女らしくありたい。
カサンドラさんにはそれがあるのよね。包容力というのかしら、
彼女みたいにそういうものを身に着けたいと近頃あたしは考えてい
たのだ。
妻の中でも、タンヌダルクさんは見ての通り男心をくすぐる様な
容姿をしているし、エルパコはああ見えてシューターのお気に入り
だっていうのは、わかりやすいもの。
そしてドロシア卿は、もう見ていてもわかるぐらいシューターに
1523
惚れているの事が歴然ね。あれだけ熱心に迫られたら男はたまらな
いんじゃないかしら。熟女枠ね。
問題は、鱗裂きのニシカさんだ。
実は妻のひとりでもないのに、仲間たちの誰よりもシューターが
信頼している相手なのがニシカさんという事をあたしは知っている。
バジリスク討伐の時もそうだったし、村にいても旅の中でも何か
事あればいつも一緒にいるもの。
同僚としていつもシューターと一緒にいる立場だし、彼の事もよ
く理解していると思う。
もしかすると、あたしはずいぶん思いつめた顔をしていたのかも
しれない。
妻でもないニシカさんに負けるわけにはいかないと、おかしな決
意をしていたところ、カサンドラさんがあたしを見やって優しげな
表情を浮かべた。
﹁わたしなんか結婚した頃は筋張った田舎の小娘まるだしだったん
ですよ? 生活も苦しかったので、顔色もあまりよくなかったんだ
なって﹂
﹁ちょっと信じられないわ⋮⋮﹂
﹁シューターさんにブルカの街で買って頂いた手鏡のお土産があっ
たんですけれども、鏡を覗き込んでみたら、とっても青白い顔をし
た痩せっぽちの女がいるんです。それがわたしなんだなあって﹂
そんな事を言うカサンドラさんに、あたしは信じられないという
顔をしてしまった。
今では、ずっと以前から貴族のご夫人だったという様に凛とした
ものがあって、あたしたち女の中でも正妻然としているものね。
羨ましい気持ちになりながら自分でもへちまのたわしをひとつと
1524
って、体をゆっくりと拭いていく。
﹁痩せっぽちの、さえない猟師の娘でしたけれども、それでもわた
しはシューターさんの妻でいられます﹂
ひと
ありがたい事です、と微笑んだカサンドラさん。
そうしてあたしはようやく理解した。この女性は外見で美しいの
ではなくて、それだけ芯のあるひとなんだって。
彼女の身内によって不幸な強姦を受けてもなお、夫の事を信じて
心配している。
ほんの少し前も、夫に代わって大使として当地の領主にどうすれ
ばいいかを口にしていたもの。
﹁だから。そんなお顔をしていたら、せっかくのきれいな顔が台無
しになりますよ。シューターさんはありのままのガンギマリーさん
がお好きなのですから﹂
﹁ええ、そうね⋮⋮﹂
シューターがあたしを好きなのだと言われて、妙な気分になって
しまった。
﹁どれぇはガンギマリーが好きなのですか?﹂
﹁そうですよ。聖少女さまはもうすぐシューターさんと結婚なさる
のですからね﹂
﹁じゃあ、ガンギマリーもどれぇが好きなのですか?﹂
たらいの湯に浸かってじゃぶじゃぶとやっていたッヨイが、無邪
気にそんなことを口にした。
あたしはまたドキリとした気分になる。
1525
﹁どうかしら、わからないわね﹂
本当のところを言えば、好きという感情がよくわからない。
だって、この世界のひとたちは単純な理屈で恋愛をとらえている
様な気がするもの。
娯楽の無いここでは、側にいる相手がそのままイコールで恋愛対
象だ。あるいはカサンドラさんの様に村の生活では、領主や大人た
ちが決めている。
そしてあたしはそんな単純な理屈で結婚や恋愛をとらえている人
々を見て、はじめはつまらないひとたちだと思っていたのも事実だ。
けれども今は自分も同じ感情で動いている気がするのね。
どうしてかって、あたしは元いた世界でまともに恋愛なんてした
事がなかったし、あたしにとって頼れる側にいる男は、今じゃシュ
ーターだもの。
﹁わからないのに、どれぇと結婚の約束をしたのですか?﹂
﹁ごめんなさい困らせちゃったわね。ちゃんとシューターの事は好
きだから安心して﹂
不思議そうな顔をしたッヨイに苦笑を浮かべたところ、カサンド
ラさんも眼をすぼめて笑ってくださった。
あたしが恥ずかしがってそういう風に誤魔化したと思ったのだろ
う。
そしてきっとそれは半分正解なのだ。
﹁うおほんッ﹂
ふと、宿泊所の自室の外から咳払いが聞こえた。
確かあの声は、ッジャジャマというゴブリンの男だったはず。
1526
﹁奥様がたにお知らせします。まもなく時計が四半日の時刻を示す
頃ですので、お急ぎください!﹂
教会堂に置かれている魔法の砂時計の時刻がそろそろ午後六時頃
になるのだろう。
この世界はとっても不便な場所だけど、魔法陣の刻まれた台座に
設置された砂時計は六時間ごとにずっと時間を刻み続けてくれる。
まあ、本当にこの世界が二十四時間だったという仮定の話だけれど
も、たぶん大きく違いはないはず。
﹁わかりました。カラメルネーゼさんにお知らせして、わたしたち
がお風呂から出たら、身支度を整えるのでこちらに来て下さる様、
お伝えしてもらえますか?﹂
﹁了解であります。騎士爵さまに、しかとお伝えしますっ﹂
緊張したくぐもった声音が、扉の向こうから聞こえてくる。
きっとあたしたちがお風呂に入っている事を想像したに違いない
わね。
この外交使節団のよろしくないところは、随行員の中に女性がい
なかった事だ。ドロシア卿は軍隊あがりのところがあって、そのあ
たりまるで気にしない性格なのだ。
卿ご自身はカサンドラさんもいる事だし、その辺り身の回りの事
は大丈夫だけれども。
道中どこかでお女中を雇う事をカサンドラさんに提案するべきか
もしれない。彼女は貴族の一員なのだから、今の様に何でもご自分
で、というのは彼女の沽券にもかかわるわ。
そういうところ、あの男は配慮が回らないもの。妻の一員として
あたしが正してやらなくっちゃ。
﹁ガンギマリーのお顔がニコニコしているんです﹂
1527
﹁べっ別にいつも通りよ。ちょっとこれからの事を考えていただけ
なんだから﹂
﹁どれぇとの結婚生活についてですかあ?﹂
ちょっとからかう様な視線をッヨイが向けてくる。
﹁この子は、お子様のくせにマセた事を言うんじゃないわよ!﹂
﹁ひいい、ガンギマリーはやめるのですっ﹂
﹁そういうあんたはどうなのよ、ッハイエースに告白されていたじ
ゃないの﹂
仕返しとばかりあたしも言ってやる。
聞けばゴブリンハーフの武装飛脚に一目惚れされたのだとか、お
子様だと思っていたけれど、あなどれない。
慌てふためていたこの子は、髪をもしゃもしゃと洗いながら抗弁
した。まさか自分に火の粉が飛んでくるとは思わなかったみたいね。
﹁あっあれは違くてなのです。ッヨイはもうお嫁さんに行く先を決
めているので、そういう事はないのです!﹂
﹁あんたの齢で誰に嫁ぐというのよ。一年待ちなさい、一年﹂
﹁それはナイショなのです﹂
何となく嫌な予感がしたあたしがカサンドラさんを見ると、同じ
ように困った顔をした彼女が苦笑を漏らした。
ここでまたシューターなどと言い出したらあたしは幻滅だ。
もちろんッヨイにではなくあの男にだ。
こうり
あたしたちはひとしきり身綺麗にし終えると、体を拭いてネーゼ
卿が顔を出すまでの間に行李をひっくり返して礼装を改めた。
セレスタ領主に招かれた晩餐会なのだから、外交使節団としても
1528
シューターの伴侶としても恥ずかしくないかっこをしなくちゃね。
そう言えばあたし、まともな礼装なんて持っていなかったんだけ
れども⋮⋮
◆
﹁ご当地のお貴族さまに謁見するのに、こんな格好で大丈夫だった
のでしょうか?﹂
﹁だ、大丈夫じゃないかしら。カサンドラ義姉さんは美人だから何
を着てもお似合いだし﹂
﹁あら、ガンギマリーさんもお似合いですよ﹂
セレスタ領主の用意したオープンタイプの二頭引き馬車を目の前
にして、カサンドラさんはちょっと腰が引けていた。
紅色の、何の塗料で塗られたかはわからないけれど、とても無数
の装飾が施されたオシャレな馬車だったからだ。
セレスタ領主は確か男爵家だったと記憶しているけれど、これは
男爵夫人の趣味なのかしら。
﹁あたしもこの世界のフォーマルな姿って、よくわかっていないの
よね﹂
﹁騎士修道会のお勤めでは、そういう場所にお出になる事はないの
ですか?﹂
サーコート
﹁うーん。そういう場合は、修道騎士としての正装だから﹂
コート・オブ・プレート
清潔な無地のワンピースに鉄皮合板の鎧、その上から法衣を纏っ
ただけのシンプルな格好。
本当は普段からだってオシャレはしたいと思うけれど、この世界
の流行とあたしの個人的趣味では、大きく乖離がある事も確かだ。
1529
騎士修道会の枢機卿にして聖少女修道騎士という立場上、あまり
この世界では奇抜になる格好は出来ない。
﹁けど、義姉さんはちゃんと用意されておられたんですね﹂
﹁わたしは村長さまから、お貴族さまの行事に参加することを念頭
に置いてと言われていたので、行儀見習いに出ている時にルクシち
ゃんに手伝ってもらって用意したんですよ﹂
ルクシというのは確かドロシア卿に仕える侍女だったかしら。
そこをいくとあたしなんて、
﹁ドロシア卿から借りているドレスだと、どうしても胸元が緩くな
っちゃうし。かといって今のあたしはサルワタの人間だから、修道
騎士の正装というのもおかしいし﹂
﹁ッヨイはピンクのフリルワンピースなのです!﹂
あんたはサルワタに移住したらシューターに見せるんだって、ブ
ルカで購入していたものね。
まったく、こういう事になるならあたしも買っておけばよかった
わ。
そんなあたしたちのやり取りを見ていたのは、カラメルネーゼ騎
士爵だった。
彼女はひとりだけ護衛の騎士という役回りから、簡易なドレス姿
の上に金属の胸当てと手甲を着用していた。これはドロシア卿とも
共通する様なスタイルで、もしかしたら女流騎士の一般的ファッシ
ョンなのかもしれない。
女ばかりの外交要員の中で、ひとりだけ正装出来ないのも申し訳
ない気分だ。
﹁お三方とも、十分にお似合いですわよ。わたくしなどはこの触手
1530
のせいで大変なんですの﹂
あたしもこういうスタイルにするべきかな、と一瞬だけ思ってい
ると、彼女的にはあたしたちが羨ましかったらしい。
上半身は普通の人間と何も変わりがないのだけれど、人間の足の
他にも八本の触手がドレススカートの中からのぞいている。
この世界の高貴な身の上の人間はみんなオーダーメイドだから、
調達するのもやっぱり大変そうね。
﹁サルワタ大使閣下の、ご出立準備は整いましたでしょうか﹂
﹁ええ、よろしくってよ。出発してちょうだい﹂
﹁わかりました。それではこれより、セレスタ男爵の領主館に向か
います﹂
あたしたちが馬車の席に納まり、カラメルネーゼ卿が馬に跨った
ところを見届けて、御者の男は馬車を発進させた。
ダークエルフとでもいうのだろうか。御者の男は褐色長耳の人間
だった。
ピンク色の屋敷、褐色エルフの使用人。
いったいこの館の主、セレスタ男爵はどういった人物なのかしら
⋮⋮
あたしたちの中で、その人となりの謎が深まった。
http://15507.mitemin.net/i1749
68/
<i174968|15507>
1531
閑話 謎解きはディナーの前に 前編 ︵※ イラストあり︶︵
後書き︶
冒頭、雁木マリのイラストは猪口墓露さんにご提供いただきました。
ありがとうございます。
1532
閑話 謎解きはディナーの前に 後編 ︵※ イラストあり︶
﹁こ、これが領主さまのお屋敷なのですか?﹂
カサンドラさんはセレスタの領主館を見上げて驚いているみたい
だった。
それもそうね。石造りでも木造建築でもない物珍しい建物だもの。
この世界、というか少なくとも辺境地域ではほとんど見かける事が
ないものだ。
しっくい
﹁ピンクで出来たレンガのお屋敷なのです﹂
﹁そうね。漆喰まで顔料でしっかり着色してあって、建設には相当
にお金がかかっていると思うわ﹂
﹁はい、当家セレスタ男爵の家系は芸術に造詣が深く有りまして、
特に当代はたいへんオシャレであらせられますので。わざわざ本土
より資材を仕入れて趣を凝らした当館を建設なさりましたのです﹂
黒い長耳の家令が朗々と説明をしてくれた。
シューターの弁によれば、かつて辺境進出に軍事拠点だったセレ
スタのまちにあって、この建物だけが違和感というか異彩を放って
いる。
黒長耳の家令の手を借りて、カサンドラさんとッヨイが馬車を降
りる。
あたしだけは差し出された手を丁重にお断りして領主館の玄関を
潜った。特にそうした理由があったわけではないけれど、あたしだ
けはこの優しくない世界の摂理に逆らって聖少女修道騎士という地
位まで成り上がった自負がそうさせたのかもしれない。
1533
そして領主館の中も、パープルというのか明るい薄紫の壁が一面
に広がっていた。
いよいよセレスタ男爵のセンスに呆れてしまうあたしである。
﹁すごいですねえねえさま﹂
﹁本当です。こんなに顔料を贅沢につかったお屋敷なんて、いった
い幾らぐらいかかったのでしょうか﹂
﹁それにしてもすごいあたまなのです﹂
﹁ほ、本当に﹂
黒長耳の家令に誘われて、カサンドラさんと、手をつないだッヨ
イを先頭にしてあたしとカラメルネーゼ卿が続く。
ッヨイはカサンドラさんに身を寄せるとひそひそと耳打ちをして
いた。家令の男の髪がまるでブロッコリーみたいだったからである。
ダークエルフの彼はアフロだった。
これもセレスタ男爵の趣味なのかしら。
﹁大使閣下、こちらでございます。当家の主人がお待ちしておりま
す﹂
エントランスを抜けて渡り廊下の下を潜り、そして奥まった客間
まで足を運ぶと家令はあたしたちに向き直り一礼した。
あたしたちの緊張が高まる。
ドロシア卿のために、そして夫となるシューターのためにも、あ
たしたちはここでセレスタ領主とは交友関係をきっちり築き上げな
くちゃいけないの。
そして無言の内に開かれた扉の中に進んだとき、あたしたちはさ
らなる驚きを目撃したのだ。
﹁あらぁ、お待ちしていたわぁ。遠路はるばるお疲れさま、あなた
1534
たちがサルワタ領主の大使なのねぇ!﹂
迎え入れてくれたのは、背の高いスキンヘッドの褐色エルフだっ
た。
サーコート
その長耳には宝石を散りばめたピアスをいくつもしていて、領主
館と同様に紫色の長袖上着、そして白のタイツ。厚ぼったい唇には
光沢のあるルージュが引かれていた。
﹁アタシはセレスタ領主、オコネイル男爵よぉ﹂
長身の褐色エルフ貴人は、妙に腰をくねらせるようにして自己紹
介する。
このひと、もしかしてオネエ系なのかしら⋮⋮
﹁お、お招きくださりありがとうございます。わたしはサルワタ騎
士爵アレクサンドロシアの卿配、シューターの妻、カサンドラでご
ざいます﹂
﹁あっらぁ、かわいらしいお嬢さまねぇ。あなたのお子様ぁ?﹂
﹁いえ、そういうわけではなくて⋮⋮﹂
ずいと数歩前に出たオコネイル男爵は、高貴な身の上の人間がや
る挨拶にならってカサンドラさんを抱擁した。
﹁ッヨイは、カサンドラのようじょ、ッヨイハディ・ジュメェなの
です﹂
本当のところ、ッヨイはドロシア卿の姪にあたるのだけれども。
サルワタ領内では説明をはぶくためにドロシア卿の妹という事に
なっていたし、外交使節団の中ではシューター夫妻の養女という事
になっていた。
1535
いちいち説明するには、あたしたちの旦那の家族構成はややこし
いのよね。
﹁あら、ッヨイ子ちゃんは養女だったのねえ。アタシもおかしいと
思ったの。だってあなたの齢にしてはこの子、大きいんだもの﹂
﹁ひぅ、ッヨイ子ではなくて、ッヨイはッヨイなのです﹂
﹁で、そちらのレディは?﹂
ッヨイの頭をなでると満足したのか、さっそく興味の対象があた
しに伸びた。
今あたしの中では、先ほどまでとは違った緊張感で支配されてい
る。
﹁あ、あたしの名は雁木マリです。騎士修道会における枢機卿にし
て聖少女修道騎士、今はサルワタ卿配シューターの婚約者として、
大使閣下の補佐をしています﹂
﹁マぁあなた、生きた教会堂の守護聖人サマだったのねぇ。お会い
できて光栄だわぁ﹂
お、オネエ系男爵の抱擁は力強かった。
最後に、背後に控えていたカラメルネーゼ卿にチラリと視線を送
ったオコネイル卿は彼女に微笑を浮かべるだけ浮かべると、ひとり
満足したみたいだ。
褐色エルフというのも辺境では珍しい人種であるけれど、蛸足の
女騎士という存在は褐色エルフからしても珍しいのかしら。
あたしたちは簡単に自己紹介を済ませ終わると、そのまま応接室
のソファに腰を落ち着けた。
今回の外交使節の大使として、話を切り出すのはカサンドラさん
の役目だ。本来、大使であるシューターなのだけれども、彼はここ
1536
に入る時に兵士扱いをされてしまったのでここにはいないのだから。
大筋のところはカサンドラさんがまず話して、その補足をするの
があたしとッヨイの役目という事は事前に取り決めてあった。
カサンドラさんは少し緊張した面持ちで、晩餐会の準備を待つ間
を利用して会話を進める。
﹁わたしたちは領主の命によって、辺境の諸侯さま方との友好親善
を目的に送り出された使節です﹂
﹁辺境の終着地と言われているサルワタ領からわざわざ難儀な事ね
ぇ。これからどちらに向かわれる予定なのかしらぁ?﹂
﹁リンドル子爵さま、オッペンハーゲン男爵さま、それから使節の
時間が許すならドワーフの王様がおられる岩窟都市やそれに至る諸
侯のみなさまの土地を巡ろうと思っています﹂
﹁それじゃ外交使節の歴訪は、まだまだはじまったばかりじゃない。
今夜の晩餐は豪華なものを用意したから、ゆっくり生気を養ってち
ょうだいな﹂
﹁はい。ありがとうございます、ありがとうございます﹂
ソファーで向き合ったあたしたちのところに、使用人の若い褐色
エルフの男性によって洒落たティーカップが運ばれてきた。中身は
紫色をしたハーブティーか何かだった。
ちょっと口にするのを躊躇するカラフルさに、あたしたちは閉口
した。呑む勇気がわかない。
﹁ところで開拓の最前線にいるサルワタ領主さまが、この時期にど
うして諸侯との友好親善を思いついたのかしらぁ?﹂
﹁仰る通り、わたしたちの村は辺境の中でも僻地にあります。それ
がどうしてかと言うと、新しい開墾に着手して多くの移民と資金を
集めているのです﹂
1537
姿勢を正したカサンドラさんは、意を決した様にまっすぐオコネ
イル卿を見据えて言葉をつづけた。
﹁そこで領主アレクサンドロシアの命によって辺境を歴訪し、資金
調達のための辺境諸侯さまとの交流のために、わたしたちが派遣さ
れる事になりました﹂
﹁なるほどねぇ、支援を仰ぐための交流ってわけね。けれども大使
閣下、あなたはただ諸侯と挨拶をするために辺境を歴訪しているの
ではないのでしょう? サルワタ騎士爵さんは、何かの商売を持ち
かけるために使節を送り出したはずよぉ﹂
﹁はい、わたしたちは交易を求めています﹂
目ざとく会話の流れから真意を探り出そうとしたオコネイル男爵
は、整えられた片眉を吊り上げた。
このままカサンドラさんに任せておいて大丈夫だろうかと少し心
配になる。緊張に呑まれて、対ブルカ伯包囲網について口を滑らせ
なければいいけれども。
﹁交易。交易というからには、サルワタ領からは何を輸出しようと
しているのかしらぁ。サルワタ領の産物、それは何?﹂
﹁冬麦、たろ芋、トウモロコシ、ひよこ豆の他に、狩猟が盛んなの
で獣皮が多く獲れます。また秋には近くの湖でマスがよく獲れるの
でこれは冬を越すために貴重なたんぱく源になっています﹂
カサンドラさんは探りを入れるオコネイル卿の真意には気が付か
ずに、生真面目な顔で村の収穫物をつらつらと並べ始めた。これで
はサルワタ領は何の魅力もない僻地の片田舎と認識されてしまう。
交流しておいて損はない領地だと思わせるには真逆の行為になっ
てしまう。
だからッヨイとあたしがあわてて会話に割って入った。
1538
﹁サルワタ領と言えば何といってもワイバーンなのです!﹂
﹁そ、そうね。毎年冬には村の漁師たちがワイバーンを少なくとも
一頭は仕留められていると聞くわ。この春にはとても大きな飛龍を、
大使閣下の夫であたしの婚約者が倒したのです﹂
ややこしいあたしたちの家族構成に内心で舌打ちしながら説明し
た。
ここで外交交渉の切り札たるワイバーンの素材について触れるべ
きか躊躇しながらも、すでに話してしまったものは仕方ない。焦り
ながらあたしは続ける。
﹁サルワタ領としては今後、そのワイバーンから取れる素材の取引
先を探しているわけです。これらは貴重品ですもの、信頼できる相
手とだけ取引したいと﹂
﹁ふうん、なるほどねぇ﹂
品定めをする様にあたしたちを見比べるオコネイル卿。きっとあ
たしたちが女ばかりの外交団であるから、どこかに付け入る隙がな
いものか探りを入れているのだろう。
そう思っていたところでさっそくオコネイル卿が切り出してくる。
﹁どうしてブルカにそれを持ち込もうと思わなかったのかしら。単
純に安定して供給する事が出来るのなら、あそこは辺境随一の大都
会よぅ。あそこで店を構えている商会に卸すのが一番の利益になる
はずだけれども?﹂
﹁確かにブルカは大都会なのです。ッヨイもそこで育ったので、も
のを売るならお商売相手に困らないブルカは魅力的なのです。ただ、
﹂
﹁ただ?﹂
1539
﹁それについても、ッヨイたちに考えがあっての事なのです!﹂
勢いで押して、別の話題にもっていこうと思ったのか、ッヨイが
強気で言い切った。すると、
﹁考え? それは何かしら﹂
﹁それは取引先を多く持つ事で、主導権を自分たちで握ろうとする
からなのです。ひとつの取引先とお商売をやっていると、どうして
もその取引先に言いなりになってしまうからです。サルワタ領はこ
れからはひろく、辺境をまたにかけてお商売をする時代になったの
です!﹂
いい返しね。ッヨイがオコネイル卿の質問に上手く切り返してく
れた。
元いた世界の言葉なら、リスクヘッジとでもいうのかしら。これ
ならあたしたちが辺境を歴訪している理由になるのじゃないかしら。
ここでわざわざブルカ辺境伯と対決するためだと本音を言う必要
はない。けれども、
﹁その解答、気に入ったわぁ。なるほどブルカ辺境伯に頼らない領
地経営の自立と言いたいわけねぇ﹂
あたしたちの真意はアッサリとこのオネエ男爵に見透かされてい
たらしい。
どうしてそれがわかったの!?
カサンドラさんだけではなく、あたしもしてやられたという顔を
したけれど、ッヨイはそれでも動じない。
必死に抗弁の言葉を探りながらこの子は盛んに言い返す。
﹁さ、サルワタ領はなにも、自立の道を探ろうというわけではない
1540
のです。辺境の領主が開拓の促進のために、より資金を必要とし、
周辺領主と交友を深める事はひつぜんなのです!﹂
﹁でもおかしいわねえ。アタシたち辺境領主にとって、ブルカ辺境
伯さまは辺境州の旗頭ですもの、それなのにアナタたちはあえて辺
境伯さまを避ける様にしているわ。これからの歴訪先はどこなのか
しらぁ?﹂
﹁ぶ、ブルカにはすでに販路があるのです。だから新たな取引先を
探すために、向かうのはリンドル子爵、オッペンハーゲン男爵とい
った諸侯のみなさんになるのですッ﹂
﹁苦しい言い訳ねえ、この動きはきっと辺境伯さまにも察知される
わよぉ?﹂
その言葉と同時にあたしたちの中に緊張感が走った。
今はあたしもッヨイも武装はしていない。カサンドラさんは護身
の懐剣も持っていない。
あたしたちのソファの背後に控えていたカラメルネーゼ卿だけが
護衛として剣の柄に手を掛ける音がした。
﹁セレスタの男爵さまは、お戯れが過ぎますわよ﹂
﹁どうかしらねぇ。アタシにはアナタたちの目的の真意が、どうや
ってもブルカ辺境伯さまとの決別を決意したようにしか見えないの
だけれども﹂
剣を抜いてしまえば大変な事になるのがわかっているのか、カラ
メルネーゼ卿がそうした抜剣のそぶりを見せたとしても、オコネイ
ル卿はご自身の部下が同じ行動をしようとしたのを手で制止した。
やっぱりあたしたちだけで謁見をする事は間違いだったのじゃな
いかしら。オネエ貴族の言葉に窮してしまったッヨイは、恨めしそ
うな顔をしていた。
1541
こういう場合、シューターならどんな風に切り返したのかしら。
あいつならきっと、過去の変なバイト経験で培った話術で丸め込ん
だかもしれない。
あたしも何か助け舟を出そうと言葉を必死で探していたところ、
﹁安心していいのよ。アタシね、ドロシアちゃんとは貴族軍人時代
の同期なのよぉ。ね、ネーゼちゃん?﹂
あたしたちは、厚ぼったい唇を尖らせてウィンクひとつ飛ばして
見せたオコネイル卿に絶句した。
そしてあわてて応接室の背後に護衛の騎士然と立っていたカラメ
ルネーゼ卿を振り返る。
﹁そうですわね。ご無沙汰ぶりですわ、オコネイルさん﹂
﹁ドロシアちゃんは元気ぃ?﹂
﹁お元気過ぎて、少し前に三度目の結婚を決めたばかりですわ﹂
旧知の間柄らしいカラメルネーゼ卿の言葉に﹁あらまお盛ん﹂と
手を当ててオコネイル卿が野太い嬌声を上げたのだ。
あたしはカラメルネーゼ卿に振り返って、このひとが信用に値す
るのかを確かめたかった。同じ様にカサンドラさんも向き直ると、
そんなあたしたちを交互に見ながらカラメルネーゼ卿は﹁信用でき
ますわ﹂と暗に匂わせる様に頷いて見せる。
﹁ドロシアちゃんにもようやく春が来たのねえ﹂
﹁そんな事よりも、ですわ。どうして王都で後宮警護をやっていた
あなたが、ここにいますの?﹂
﹁しょうがないじゃなぁい、親戚のおじさんから後継者指名されち
ゃったんだからぁ﹂
﹁いつセレスタの街に着任なさったの?﹂
1542
﹁二年前かしら、ようやくこの春にこの領主館が竣工したのよぉ﹂
﹁まったく、あなたという方は相変わらずですわね⋮⋮﹂
どうやらカラメルネーゼ卿もオコネイル卿がこの土地の領主さま
だった事を知らなかった様ね。
少しだけ状況を理解し始めたあたしたちも胸をなでおろした。
ところで、あたしにはひとつ疑問があった。
﹁どうしてあたしたちが、ブルカ伯と敵対しているとお気づきにな
られたのですか﹂
この事を聞いておかないと、次に諸侯と謁見した際に同じ様な失
敗をしてしまうかもしれない。
﹁それは聖少女さまのアナタが、サルワタに付いているからに決ま
ってるじゃないのぉ。騎士修道会の枢機卿たる聖少女サマと言えば
女神様の信徒の間ではみんなしっている当代の守護聖人よ。アナタ
がドロシアちゃんの新しい旦那さまと婚約したという事は、政治的
な同盟が結ばれたという事の証左よねぇ?﹂
﹁確かにそうだわ⋮⋮﹂
﹁けどホントのところはね、﹂
オコネイル卿は急にご機嫌な顔をしてネタバラらしをしはじめる。
聞いていればそれは、本当にネタバラしの内容だった。
﹁ドロシアちゃんからアタシ宛にぃ、先ほど魔法の伝書鳩で連絡が
来たのよぉ﹂
﹁え、そうなんですか?!﹂
﹁そんなの聞いてないのです!!﹂
1543
ぷりぷりと怒って見せるッヨイはともかくとして、普段は温厚な
カサンドラさんまでが驚いた顔をして声音を強めた。
ここ
﹁あ、あの村長さ⋮⋮アレクサンドロシア卿は何と言ってきたので
しょうか?﹂
﹁ウチの旦那たちがセレスタに向かうから、盛大なお持て成しをし
てくれって書いてあるのよぉ﹂
﹁は、はあ。そうだったんですか⋮⋮﹂
カサンドラさんは安堵したためか、急に肩を落として弱々しい声
になってしまう。
あたしだって驚きだ。そういう事ならば最初から教えてもらいた
かったわね。この事、シューターは知っていたのかしら?!
﹁ところでそのアナタたちの旦那さまは見当たらないけれどもぉ、
お宿でお留守番なのかしらぁ?﹂
﹁し、シューターなら歓楽街に繰り出しているわ⋮⋮﹂
言ってしまってからあたしはしまったと思った。
歓楽街にただ繰り出していると言えば、まるで遊んでいるみたい
に聞こえる。それに街や領主の情報収集のためにと言えば、オコネ
イル卿のご機嫌を損ねてしまわないかしら。
どう言い訳してもまずような状況になってしまって、あたしとカ
サンドラさんは顔を見合わせてしまった。
﹁あ∼ら、遊び人の旦那さまなのね。お痛がすぎると、あなたたち
もお仕置きをするべきよぅ﹂
﹁大丈夫ですわ、シューター卿はあれで、奥さま方一途な方ですも
の﹂
1544
カラメルネーゼ卿はフォローをしてくれたけれど﹁そんな殿方に
どうしてご夫人がいっぱいいるのかしら﹂などと言い返された。
サルワタにはタンヌダルクさんがいて、繰り出した繁華街にはエ
ルパコさんが同伴している事は言わない方がいいわね⋮⋮
﹁それにしても。手紙には詳しい事は書いてなかったけれども、サ
ルワタ領ではブルカ伯と何があったのかしらぁ?﹂
それまで圧倒されっぱなしだったカサンドラさんが、おずおずと
オコネイル卿に向き直って口を開いた。
もうこちらの本音について言ってもいいだろうと、あたしに向け
て視線で確認してくる。
﹁この夏に、わたしたちサルワタの領が開拓を進める事を嫌ったブ
ルカ辺境伯さまから、その妨害がありました﹂
﹁ふうん?﹂
﹁開拓のための新しい移民と、周辺の調査のために冒険者ギルドの
出張所を招き入れたんですけれども、その時に街からスパイの方が
やってきまして﹂
﹁あらいけ好かない事をするわね伯爵さまも﹂
﹁実は村の中にもスパイの方が潜んでいたのですが⋮⋮﹂
再度チラリとあたしの顔を確認してくるカサンドラさんに、言葉
の続きを引き取る事にした。
﹁あたしたち騎士修道会の人間から、ブルカ伯への内通協力者を出
してしまったのです。近頃ブルカ伯の専横は著しいものがあるし、
これは看過しえないという事実もあったので、騎士修道会はサルワ
タ領と手を取り合って包囲網を結ぼうという事になったのよ⋮⋮﹂
﹁なるほどねぇ、アナタたちも大変だわぁ﹂
1545
あたしの言葉を聞きながら、我が事のように憐れんでくれたオネ
エ系貴族を見ながら、とても微妙な気分になってしまった。
﹁さあさあ。湿っっぽいお話はお開きにして、お食事にしましょう
! ッヨイ子はお酒は飲めるかしらぁ?﹂
﹁はい! ッヨイはビールが大好きです!﹂
﹁あのう、この子はまだ未成年ですから、あまりお勧めなさるのは
⋮⋮﹂
さしてお酒も飲めないくせに、みんなと一緒にチビチビやるのが
大好きなッヨイが調子に乗って、カサンドラさんを困らせていたけ
れども。
﹁いいじゃない無礼講よ! 今夜は晩餐会よぅ、パーティーよパー
ティー!!﹂
オコネイル卿のその言葉に、背後に控えていたブロッコリーの使
用人たちがせわしなく動き出した。
もうすでに支度は出来ていたみたいで、どこからか美味しそうな
肉の焼ける匂いもしている。
家令の褐色エルフに誘導されてあたしたち三人が立ち上がったと
ころ、入れ違いに応接室に鎖帷子の上からサーコートを羽織った騎
士らしき男性が入ってくるのが見えた。
何かあったのかしら。
やっぱり褐色エルフだったその騎士は、オネエ系男爵にこそこそ
と耳打ちをすると何やら指示を受けていた。
少しの間気になっていたあたしだけど、ぱっと満面の笑みを浮か
べたオコネイル卿に押し出される形で、この場は応接間を後にする
しかなかった。
1546
◆
﹁ところでアナタぁ、その洒落たガラスのアクセサリーは何かしら
ぁ?﹂
晩餐の席で、あたしがズレたメガネの縁を引き上げていると、そ
んな質問をオコネイル卿から受けてしまった。
何と返事していいのかわからなかったので、ついあたしは適当な
返事をしてごまかす事にした。
﹁こ、これはメガネと言って、あたしが降誕した時に女神様から与
えられた聖具のひとつね。物事をしっかり見据える力があるという
わね﹂
﹁とても素敵ねぇ。キュートなアナタにすっごく似合っているわぁ。
これからの外交遍歴で、アナタのおメガネに叶う商売相手が見つか
る事、アタシも祈っているわよぉ﹂
﹁あ、ありがとうございます、ありがとうございます﹂
シューター
気が付けばあたしは、あの男やカサンドラさんみたいな返事をつ
い返してしまう。
酔ったオコネイル卿は﹁あたしも今度、街の工房に真似て作らせ
てみようかしらぁ﹂などと言っていたけれど、これがこの世界では
じめて登場したサングラスになるとは、この時のあたしが知るよし
もなかった。
1547
http://15507.mitemin.net/i1747
01/
<i174701|15507>
浅葱さんより、カサンドラさんのファンアートを頂きました。
ありがとうございます、ありがとうございます!
1548
124 天秤棒が無ければあぶなかった︵前書き︶
本編再開です。よろしくお願いします!
1549
124 天秤棒が無ければあぶなかった
五人の男たちを相手にして、俺は剣を構えながら相手の様子を探
った。
同時にパンストライクとその一味たちもまた、自らの剣や武器を
片手に広く散開しながら俺を攻撃する隙を付け狙っているのが分か
った。
なかなか周到な具合で、剣を素人丸出しに気取って構える様な事
はしない。
つまりコイツらはかなり場慣れした連中ってこった。
それが証拠に、剣を正面構えに持つんじゃなくて腰だめにして突
き刺す様な姿勢だった。
棒切れをもった連中についてはその半歩下がった位置で、彼ら突
き込むつもりの連中をサポートするように位置している。
﹁大人しく降参する気がないのなら、ここで痛い目にあってもらっ
たほうがいいな。おい野郎ども手加減するな﹂
﹁﹁へいっ!﹂﹂
パンストライクを含む剣が三人で棒切れがふたり。
リーダーの言葉を聞いた連中たちが、ジリジリと距離を詰める様
に足をにじりよせている。
掌をナイフで貫かれた男は、這いずる様にしてそのいくらか後ろ
に逃げている。
俺はどうすべきか。
武器は右手にサルワタの開拓村で新調した刃広の長剣であり、こ
れは荒々しく振り回しても簡単に折れる代物じゃない。
1550
左手は、例の掌を刺されたスリの男を脅すのに使った短剣だ。
つまり二刀流!
むかし俺は二刀流の役をいつかやりたくて、斬られ役仲間たちと
熱心にその二刀操法を研究した事があった。
見た目からしてかなりの厨二病成分たっぷりのスタイルだが、実
際にはかなり扱いが難しいのである。
何しろ本来は両手で構える事を基本にしている剣を片手で振り回
すのだからな。
筋力も相応に求められるし、攻守のバランスが肝要なのでその分
スキも大きく出来る可能性があるのだ。
﹁野郎ぶっ殺してやる!﹂
だから相手の攻撃は出来るだけ回避する様に努めるか、受け流す。
じれて唐突に飛び出してきた敵のひとりを、俺は体を入れ替える
様にして避けながら長剣を振るった。
受けに徹したうえで二の手を長剣のひと振りでけん制して、左手
の短剣か別の敵が飛び込んできた時の構えとするのだが、
﹁ちょこまかと!﹂
﹁死ねや!﹂
次々と連携の取れた敵がふたり目、三人目の突貫を繰り出してき
たのだ。
黒っぽい三連星かよ!
俺は慌てて振り広げた剣を引き付け気味に構えて、くるくる体を
入れ替える様にして避けた。
三人目はパンストライク本人の突殺を狙った一撃だったけれども、
1551
辛くも脇腹あたりを斬りかすめられながら避ける事が出来た。
じわりとヒリヒリする感触が伝わる。
﹁お貴族のボンボンかと思ったら、お前ぇ騎士の心得でもあるのか
っ﹂
﹁うるさいよ、戦闘中は黙ってろ!!﹂
突きに徹する連中に苛立ちを感じながら、俺は出来るだけ壁を背
にするように剣を振り回してけん制した。
﹁お頭、揉め事ですかい?!﹂
﹁おうお前ぇら、いいところにきたな! こいつをブチのめしてや
ろうってところだったんだ﹂
﹁何かやらかしたんですかコイツ﹂
突然割って入った声の方向を見たら、さらに数名の悪相浮かべて
そうな男たちの姿が見えた。
ここからは中途半端に暗がりで顔まで確認は出来なかったけれど、
悪党は悪党面をしているに決まっている間違いない確信。
﹁このお貴族さまぁ騎士か何からしくってねえ、俺たちも手こずっ
てたのよ﹂
﹁だったらいい身代金が取れるってもんで、ボコボコにして金儲け
といきましょうや﹂
ざっと見たところ増えたのは五人、全部で十人!
いったいこんな小さな街に何人の悪党がいるんだよまったく。
これ、勝てるのかね?
﹁おらよそ見してるんじゃねえよ!﹂
1552
側面からいきなり飛び出してくる敵に、俺は慌てた。
それも次々にだ。やってられねえ!
体当たり気味に突きを繰り返してくるこの連中、かなり場慣れし
ているので恐れ知らずに飛び込んでくる。
そのうちのひとりの肩をどうにか長剣を振り回してばっさりとや
ってやったが、それを見ても他の連中は体を張って、次の体当たり。
捌きながら肩で押し返してやると、またパンストライクが迫って
いるのが見えた。
やばいと思った時には大きく振り込んできたパンストライクの一
撃が目の中に飛び込んでくる。
﹁ぐおっ﹂
完全に油断していたぜ。
相手は必ず突きで攻めて来ると思っていたら、パンストライクの
一撃が俺の目の前をすくう様に斬り上げたのだ。
安っぽい麻布で出来た貫頭衣がバッサリ斬りめくられて焦ってし
まう。
俺もあわてて短剣を突き出してパンストの肩口に刺し込んでやっ
たけれど、また次の瞬間には棒切れを持った別の男が飛び込んでく
るじゃないか!
蹴り飛ばして背後を見れば、また突きを見舞ってくる男がいる。
辛うじて長剣でその剣先を叩き落してやったのに、それが下にず
れたと思うと、そのまま俺の股間の下を突きやがった。
やめて、息子の将来はまだ始まったばかりなの!
ギリギリで体を切り刻まれずに済んだが、あわてた瞬間にパンス
トライクに刺した短剣を手放してしまった。
1553
絶体絶命である。
手放してしまったものはしょうがないので、俺の股間を刺そうと
した男の髪を左手でつかんでこいつを盾にしながら、次々と襲って
くる連中の攻撃を凌いだ。
﹁ぐわっ! やめてくれ俺は仲間だっ﹂
盾にされたそいつは味方に必死で懇願したけれど、そんなものは
俺も連中も聞いちゃいねぇ。
ぶすぶすと刺されたこいつをパンストライクに付き返してやると、
俺は改めて肩で息をしながら連中を睨み付けてやるのだった。
最悪だ。こいつらヤクザだ。
こいつら死ぬのも覚悟で肉薄してくる︵俺に盾にされたヤツは情
けなく懇願していたが︶ので、普通の試合や戦闘をする時の間合い
を簡単に崩されてしまい、俺はとてもやりにくい。
﹁いい格好だな、ええおい?﹂
﹁あんたのせいでこうなったんだがね。裸一貫でここまで来たのに、
ズタボロにされて振り出しにもどっちゃったじゃねえか﹂
俺はパンストライクに指摘された。
気が付けば体中をズタズタに切り裂かれていたらしく、ズボンな
どはいつの間にかずり落ちていた。
しかも貫頭衣は貫頭衣じゃなくなって、胸開きのシャツの出来上
がりだ。
股間も破けているのでぱんつ丸見えだぜ。
﹁それならいっその事、全部脱ぎ捨てちまったらどうだい? お貴
族の旦那よう﹂
﹁くっくっく、ザマァない格好だぜ﹂
1554
笑われてムカッ腹が立った俺は、言われるまでもなくそうするつ
もりだったのでボロ布と化した貫頭衣を引きちぎって、ズボンも引
き裂いた。
﹁いいぜ。俺はこれで全裸だ、どこからでもかかってきやがれ!﹂
﹁野郎ども、もう手加減無用だ。生きていればそれでいい、死にぞ
こないにしてやれ!﹂
覚悟を決めて連中の渦の中に飛び込もうと剣を肩担ぎに構えた。
そして飛び込む。
相手が体当たり気味に突撃してくるよりも前に、本来の間合いを
無視して乱戦に持ち込んでやる。
長剣を水平に振り込んだ瞬間に、ひとりがのけぞって逃げようと
したところ頭を掴んで飲食店の塀に叩きつけてやった。
その隙に背中を浅く斬られたのを感じながら、それを無暗に後ろ
蹴りでぶっ飛ばしてやる。
突きが突然俺の腹を襲った。大丈夫だ、内臓まで達する前に俺の
剣もお前の腹を刺してやったぜ。
そのまま敵の塊にそいつを放り出してやって、別のひとりを片手
で袈裟斬りに捌いてやる。
と思ったら、剣が腕からすっぽ抜けてしまった。
だいぶ血が体から減っているらしい。
だが俺は負けない!
﹁おい、お前ら人数そろえてそんなもんか! 俺の身代金で金儲け
するんだろ?﹂
負け惜しみじゃない。
進退窮まったのなら、ここで意地汚く何人でも道連れにしてやろ
1555
うってんだ。
まだ空手家の武器、拳があるぜ。
エルパコの応援まだかな⋮⋮
そう思った瞬間の事である。
﹁おいおい、オレ様のいないところで楽しそうなパーティーやって
るじゃねえか?﹂
﹁ニシカさん?! 遅いじゃないですか、駆けつけ三杯に決まって
るでしょう﹂
﹁もちろんシューターの驕奢りだよな。ん?﹂
遅れて登場したファッション眼帯の女エルフは、おっぱいのつい
たイケメンだった。
◆
颯爽と俺のピンチに登場した鱗裂きのニシカさんは、開幕早々に
風の魔法で竜巻を盛大にぶちかました。
﹁うわっ。眼が、眼がァ!﹂
そう叫んだのは誰だろうか。
とりあえず俺じゃない事は言っておく。ニシカさんが得意にして
いる風の魔法で、こういう攻撃をしてくる事は予想できていたから
ね。
何しろブルカの裏路地で名前の長い奴隷商人の報復を蹴散らした
時も、危険な竜巻の魔法で一方的に制圧していたぐらいだ。
﹁シューターお前ぇ武器はどうした﹂
1556
﹁そんなもん、戦ってるうちにどっかへ行きましたよ!﹂
﹁じゃあこれを使え!﹂
投げて寄越されたのはホウキか何かだった。
ちょうど長さは俺の背丈ぐらいある。ホウキにしてはちょっと長
めだが天秤棒だと思えばいい具合の長さじゃないかね。
﹁ありがとうございます、ありがとうございます!﹂
剣よりも天秤棒。一体多数で戦うならばこっちの方が圧倒的にリ
ーチもあるし、持ち手の位置をかえれば縦深の長さも調整できる。
俺は暴れた。
﹁見てないで何とかしろ!﹂
﹁し、しかし砂埃が舞っていて﹂
焦る連中のひとりに棒先を突っ込んでこかしてやると、そのまま
柄の端を持ってロングリーチで振り回してやった。
マシェット
みんなが慌てて避ける瞬間に駆け出した俺は、すぐにもニシカさ
んと合流する。
彼女はいつもの山刀を片手にして、俺の背後を守る様に背中を預
けてくれた。
﹁いつもの切り裂き風は使わないんですか﹂
﹁ばっかお前がいるから使えなかったんだろう。乱戦の時はこっち
の方がいい!﹂
酒臭い吐息が俺のあらわになった肩にふっとかかったけれど、今
は酒臭い彼女の吐息も心地よい。
ニシカさんは宣言した通りに空いていた左手をかざすと、見えな
1557
い風の塊を打ち出して攻撃してきたひとりの顔にぶち当てた。
次の瞬間には俺も呼応して飛び出して、とりあえず目の前の連中
を打ちすえてやる。
それからの乱闘は圧倒的だった。
やはり味方がひとり駆けつけてくれたという安心感は俺の戦う意
思を補強してくれたし、ニシカさんも猛獣を相手にサルワタの森で
頂点捕食者をやっていたようなアブナい女だ。
躊躇なく相手の腹にマシェットを刺し込むし、隙があれば首根の
動脈をすいと削いでやる恐ろしい事も平気でやってくれる。
おかげで十人いた連中はあらかた制圧されるか、息も絶え絶えに
片膝を付いているという有様だった。
死んだ奴も転がっている男たちの中にいるだろう。
俺も体中あちこちを切り刻まれ、ホウキの先端もカットされてし
まった。
だが生きてる。
生きていて、ホウキは天秤棒にクラスチェンジしていた。
天秤棒がなければ危なかったぜ⋮⋮
てっかば
﹁あ、ありえねぇ。鉄火場慣れした俺の手下たちが、こうもあっさ
りとやられるなんて⋮⋮﹂
﹁そりゃお前ぇ、この男はサルワタが誇る全裸最強の戦士さまだか
らなぁ。残念だったな、相手が悪かったぜ!﹂
鱗裂きのニシカさんは、何が嬉しいのか悪党のリーダーに大笑い
してみせると、元ホウキの天秤棒でギリギリ姿勢を維持していた俺
の背中をバシリと叩きやがった。
痛ぇよやめろ!
1558
﹁大丈夫かおい﹂
﹁あんたが叩いたから転げそうになったんですよ!﹂
血が足りなくてふら付いている俺を支えてニシカさんが腕を回し
てくれた。
大きすぎる胸が俺の地肌に密着したけれど、今は喜んでいる場合
じゃないね。
聞くべきことを聞き出しておくべく、俺はパンストに向き直った。
﹁あんた、パンストライクさんと言ったか。裏の世界に詳しいんだ
ったら、この先の街道の事を聞かせてもらいたいんですけどねぇ﹂
ピッピッピー!
だがその瞬間に俺の質問タイムは終了した。
気が付けば呼び笛か何かの不愉快な高音が夜の繁華裏に響き渡り、
俺たちは困惑する。
するとドカドカと完全武装した法衣っぽい羽織姿の黒い男たちが
飛び出してきたではないか。
頭はキノコみたいな連中だった。人間か?
﹁おい新手かよ。この街に悪党は何人いるんだよまったく﹂
﹁いやわかりませんねえ、とりあえず様子見で﹂
あっけにとられているとその黒いキノコ連中が剣を引き抜いて俺
たちを包囲する。
ニシカさんはいつでも風の魔法を発射できるようにと身構えてい
たけれど、どうやら大丈夫そうだった。
新手かとも思ったが、どうやら服装からして騎士か従士という感
じだったのだ。
1559
﹁我々はセレスタ男爵オコネイル卿の直轄部隊、妖精剣士隊だ! 大人しく武器を捨てろ!!﹂
パンストライクも残った一味も大人しく武器を放り捨てると、両
手を上げて万歳だ。
助かった。
エルパコが走り回ったのだろうか、官憲のみなさんがご到着した
のである。
いい気になって悪党どもの顔を睥睨していた俺に、
﹁貴様、我ら妖精剣士隊に逆らう気か!﹂
え? 何で俺?
そう思った次の瞬間、俺は黒いキノコの男に剣の柄で思いっきり
殴られていた。
俺の意識はあえなく暗転した。
1560
125 黄色の谷底に若草は萌ゆるか︵前書き︶
お色気回です。苦手な方は読み飛ばしてください。
1561
125 黄色の谷底に若草は萌ゆるか
俺の名は吉田修太、三二歳。
おっぱいエルフと夜中に裸で同衾している男である。
﹁呆れたもんだぜ。オレたちゃ全裸で牢屋に放り込まれたってのに、
どうしてお前はそんなに堂々としていられるんだ﹂
﹁俺はこれがはじめての経験ってわけじゃないですからね。村でも
ブルカでも経験済みなんでねぇ﹂
暗がりの中、俺は鱗裂きのニシカさんのたわわなな胸と天井を見
上げながらそんな事を言った。
ここはセレスタの街のどこかにある妖精剣士隊詰所の牢屋である。
セレスタ領主の官憲さまに酔っ払いの乱闘と勘違いされてこのザマ
だ。
けれども、そのおかげで狭苦しい牢屋の中は畳二畳ぶんほどの広
さしかない場所で俺とニシカさんは密着していた。
開けっ放しの小さな跳ね板窓から差し込んだ外の明かりで、呆れ
た顔をしたニシカさんの表情が見て取れる。
俺は今たいへんありがたい事にニシカさんのむちむちした太もも
で膝枕してもらっているのだ。傷だらけになった俺の体を気遣って、
ニシカさんが寝ている様にと横にしてくれたからである。
ありがとうございます、ありがとうございます。
筋肉と脂肪のバランスが絶妙な飛龍殺しの眼帯女の太ももは最高
です。
例えて言うなら女子バレーボール選手か女子水泳選手というとこ
1562
ろだろうか。
いいね!
﹁逮捕されたら身ぐるみはがされて牢屋に入れられるのが普通なん
じゃないですか?﹂
そうなのである。
もとから全裸に等しかった俺はともかくとして、あえなく俺が意
識を失った時にニシカさんまで殴り飛ばされて気絶させられたとい
うじゃねえか。
その上、武装解除とばかり身ぐるみ剥がされてそのまま全裸まま
である。
俺としては暗がりの中でニシカさんの肢体を楽しめるので至上の
喜びであるけれど、それがニシカさんとしては大変ご不満なのであ
る。
﹁そもそも逮捕されないのが普通だろうよ。ったく、とんだとばっ
ちりだぜ。お前本当に女神さまの聖使徒なのか? 疫病神の守護聖
人ってオチじゃねえだろな、オイ﹂
おっぱいエルフの暴言に腹を立てた俺は、豊かな胸の先端でも引
っ張ってやろうかと画策したがやめにした。
ニシカさんの手が俺の頭に置かれて、撫でられてしまったからで
ある。
そんなんされたら惚れてまうやろ!
﹁けもみみが外を走り回ってるからよ、じきに誰かが迎えに来る。
それまで大人しく辛抱してな﹂
﹁わかりました。大人しくしておくことにします﹂
﹁ああそうしろ。何てったってお前ぇはサルワタの大切な騎士さま
1563
だからな、お前より強い男なんてのは辺境中探したっていないんだ﹂
﹁そうですかね? ニシカさんは俺より強いと思うんですけどねえ﹂
なでなでされながら、谷間から覗き見えるニシカさんの表情を見
やる。
吐息は相変わらずほんのり酒臭かったが、悪い気はしない。
この眼帯長耳の女は、こう見えて情に厚いところがあるから俺は
好きだぜ。
﹁ばっかそりゃお前、男の中ではって話だ。オレ様の名前を言って
みろ。ん?﹂
﹁そうですよね、サルワタにそのひとありと言われた飛龍殺しの鱗
裂きですもんね﹂
赤鼻と茶化す事はやめにした。
してみると、ニシカさんは優しい微笑を浮かべて﹁そういうこっ
た﹂と口にした。
﹁けどそのオレ様も、風の魔法が無けりゃタダのどこにでもいる女
猟師だ。お前ぇみたいに棒切れひとつで男どもをボコスカと制圧す
るなんて事は出来ねぇ﹂
﹁マシェット使いはお得意じゃないですか﹂
﹁ん、マシェット?﹂
撫でる手をふと止めたニシカさんがボリボリと頭をかきながら首
を傾げた。
すると暴力的な爆乳が揺れよるわ揺れよるわ。
あまり見ていると血が足りないのに息子が元気になってしまうの
で、あわてて体を横に向ける。
1564
﹁ああえっと、いつも使ってる山刀の事ですよ。俺の故郷じゃマシ
ェットって呼んだりするんです。その山刀捌きはなかなか堂にいっ
てるじゃないですか。俺もナイフは専門外なんで見惚れちゃうね﹂
﹁照れるじゃねえか、あんなもんは猟師なら当然だ。ッワクワクゴ
ロの馬鹿弟どもにだって出来るぜ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁おい、お前あんまゴソゴソ動くなよ﹂
﹁違うんですよ、その、耳に。ニシカさんのお毛々さまがまとわり
ついて、くすぐったいんです﹂
﹁しょうがねえだろよ! 裸なんだからっ。こら動くな、体に血が
足りないんだろ﹂
恥ずかしがってるニシカさんかわいい。
こそばゆいので姿勢を変えようと頭を動かしたところ、ニシカさ
んに体を取り押さえられてしまった。
そうする事でニシカさんの巨大なドッヂボールが俺の顔にかぶさ
る様になってしまったではないか。
いかん。まことに遺憾である。
ドッヂボールさんのドッヂボールに圧迫攻撃される。
喜びと倦怠感で不思議な気分になりながら﹁だから暴れるなって﹂
と案外優し気な声で押し付けられると、諦めて大人しくなってしま
った。
﹁おい、お前のタケノコがキノコになってんぞ!﹂
﹁言わないでください、生理現象です﹂
﹁ばっかお前ぇ、早く何とかしろ!﹂
その時である。
俺たちの放り込まれていた牢屋の前に、ひとりのキノコ男がぬっ
と姿を現した。
1565
﹁おい面会だぞ。何やってるんだお前らは⋮⋮﹂
慌ててニシカさんは俺を取り押さえる手を放して澄まし顔をして
いたけれど、きっと長耳まで真っ赤にしていたに違いないね。
俺はと言うと、真顔でキリっと返事をしておいた。
﹁スキンシップです﹂
◆
﹁シューターさん⋮⋮﹂
﹁おう、今回は迷惑をかけたな。ニシカさんを呼びに行ってくれて
助かったぜ﹂
﹁でもシューターさんを守れなかったよ﹂
気落ちしたけもみみと俺は、官憲の事務所の様な場所で対面して
いた。
俺がパンストライク一味と死闘を演じている間、このけもみみは
俺のためにニシカさんを探し出し、冒険者ギルド近くの酒場でハー
ナディンを見つけ出し、そしてその足で教会堂へ戻って仲間たちに
報告に走ってくれていたのである。
俺たちが官憲さまに逮捕されて牢屋にぶち込まれた後も、事務所
の前で開放を訴えて張り付いていたというから嬉しい話だ。
そんな俺たちのために駆けずり回ってくれたエルパコの事を俺が
悪く言えるだろうか。いや言えない。
傷だらけになった俺の事を心配し悔いているのだ。
かわいいじゃないか、俺のボーイッシュ妻。
﹁傷はここの兵隊さんに応急処置をしてもらったから、ちゃんと傷
1566
口の縫合は終わってるよ﹂
﹁うん﹂
﹁だから体の事は安心してくれ。ちょっと血が足りない気がするけ
ど、雁木マリかハーナディンが後で何とかしてくれるだろ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁お前は十分に俺を守ってくれたよ。だから安心しなさい﹂
﹁わかった﹂
よしいい子だ。かわいいボーイッシュ妻はこくりと頷いた。
安っぽい木の机ひとつを挟んで、俺はエルパコを安心させるため
に手を握ってやる。
すると事務所の端で執務机に向かっていた妖精剣士隊のキノコ兵
がぎろりと視線をこちらに向けてくる。
俺はあわてて手を外すと話題を変えた。
﹁ところでカサンドラや雁木マリたちはどうしてる?﹂
﹁姉さんたちはまだ宿泊所にもどっていなかったけれど、領主のお
屋敷を知っているッジャジャマさんが伝令に走ったよ。今頃はきっ
と知らせが届いていると思う﹂
﹁そうか。もし奥さんたちが戻ってきたら、下手を打って心配をか
けちまったが、俺は元気だと伝えておいてくれ﹂
﹁うん、わかったよ﹂
主に先ほどまで元気だったのは息子だが、今は平静を取り戻して
いる。
うなだれたけもみみをひとなでしてやると、エルパコは少しだけ
力ない笑みを浮かべた。
﹁時間だ、退出しろ﹂
1567
あえなくキノコ頭の剣士に退出を命じられたエルパコは、名残惜
しそうにこちらを振り返った後﹁明日には必ず出られるようにする
から﹂と言って、そのままキノコに促されて事務所を出て行った。
すると事務所に詰めていた別のキノコ兵士が俺の方を見ながら口
を開く。
﹁何なんだお前は。酔っぱらって路地裏で暴れたと思ったら、次か
ら次へと賑やかなお仲間が登場だ﹂
﹁はあ、すいませんねえ﹂
﹁すいませんと思うなら、セレスタ男爵領の治安を乱す様な真似は
するな。次にやったらその場で斬り殺すぞ﹂
冗談じゃない。
俺はスリを捕まえてぶちのめしただけであるというのに、この扱
い。
キノコの剣士を睨み付けてやると褐色肌をしているではないか。
何だコイツ、黒人か? キノコ頭もアフロヘアーというやつである。
この場で抗弁してやろうかと思ったが、きっと明日にはカサンド
ラたちに知れて救出される事もわかっているので大人しくしている
事にした。
あまり文句を言ったり迷惑をかけたりするとサルワタの評判が悪
くなる気がするのでね。
だが嫌味のひとつも言いたいところだ。
﹁さて、牢屋に戻ってもらうか﹂
﹁格別の配慮、まことにありがとうございます。出来れば山の夜は
冷えるので毛布など所望します!﹂
﹁ん? わかった。毛布は用意するがところでお前、﹂
褐色キノコが机の上の木箱の中から、チェーンの付いた冒険者タ
1568
グを引っ張り出した。あの箱の中には俺が乱闘現場でまき散らした
遺留品と、ニシカさんの私物が突っ込まれているらしい。
﹁冒険者だったのか﹂
﹁あ。ええと、まあそうですね﹂
﹁冒険者なら明日にも隊長が調書を取ったらたぶん釈放されるだろ
うから、それまで大人しくしてろよ。あの女と場所もわきまえずに
ちちくりあってたら、今度こそ許さんぞ﹂
﹁あっはい﹂
冒険者だと思われたが、まあ否定はしない。
本来は大使一行の身分を証明する通行手形は、宿泊所に置いてき
ているからな。今は晩餐会に招かれたカサンドラが所持している事
だろう。
たぶんそれがあればすぐにも誤解は解けていたんだろうが、残念
なことに俺は改めて牢屋にぶち込まれた。
自業自得だ、しかたないね。
◆
﹁おい、あんまし動かすなよ。ケツになんかあたってんだよ﹂
﹁当ててるんですよ、言わせんな﹂
﹁ちょ、手前ぇ何で鼻息が荒いんだよ﹂
俺たちは貸し与えられた毛布にくるまって、朝まで大人しく過ご
した。
息子は大人しくしてくれなかったが、イッパツ蹴りを入れられた
ら大人しくなったのである。
息子の第二次性徴期はあえなく終わった。
1569
暴れん坊の息子も、黄色い蛮族に逆らってはいけないと心に誓う
吉宗であった。
1570
126 俺は無事に無罪放免となりました
むくっ、起きました!
山すそにある交易中継の街というだけあって夏と言えど冷え込む
ものだから、俺とニシカさんは毛布の中で図らずとも抱き合いなが
ら寝ていたわけだけれども。
ニシカさんは相変わらずこういう事には平気なタチらしい。
彼女が性的意識を発露するのは、基本的に俺がジロジロと見たり
体の一部を元気にした時だけである。
だから目覚めた時に朝の生理現象で息子がご盛んになっているの
に気が付いたら、ニシカさんが目覚める前に必死で心を落ち着かせ
ようと焦ったぜ。
そうこうしているうちに陽の光が板窓から差し込んでくる。
俺たちは簡単な調書の作成に協力した後、無事に無罪放免となっ
て牢屋を追い出された。
いや、追い出されたというのには語弊があった。
ニシカさん曰く﹁オレたちゃお貴族さまか?﹂と呆れかえる様な
お見送りである。
牢屋にやってきた妖精剣士隊の褐色の騎士さまが、わざわざ教会
堂から取り寄せたのであろう俺の服を運んできてくれて、着替えて
事務所にやってくれば、妖精剣士のみなさまがずらっと整列してい
たのだからな。
﹁サルワタ領大使閣下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう﹂
1571
待ち構えていた妖精剣士隊の隊長さまが、俺たちを見るや否や背
筋をピンと伸ばしてそう言った。
﹁ご機嫌うるわしいわきゃねえだろ、オレたちゃ牢屋にぶち込まれ
てたんだぞ!﹂
﹁大変失礼な事をしてしまい、申し訳ございませんっ﹂
﹁申し訳ないで済んだら王様はいらねぇんだよ。ぶち殺してやろう
か手前ぇ﹂
まあまあニシカさん、と怒り狂う黄色い蛮族をなだめすかして、
昨夜何があったかを軽くお話ししたところで俺たちは解放されたわ
けである。
聞けばすでにスリの男があらましは自白した後らしく、パンスト
ライク本人は否認をしているものの部下たちはあっさりと白状して
いたらしい。
改めて俺が現場でまき散らした遺留品︵服の残骸を含む︶とニシ
カさんの所持品を返してもらうと、俺はここからオサラバする事に
なった。
妖精剣士隊の施設の前にはオープンカータイプの馬車まで用意さ
れていて、さすがのニシカさんも口をあんぐりさせていた。
﹁シューターさん、お勤めご苦労さまでした﹂
﹁え、あ、うん。お疲れさん﹂
表には清楚な簡易ドレス姿のカサンドラを筆頭に、雁木マリとよ
うじょにけもみみ、カラメルネーゼさんたちが待機しているではな
いか。お見送りとばかりずらり整列した妖精剣士隊の姿まである。
﹁まったく。あたしたちが眼を放したスキに、あなたは何をやって
1572
いるのよ﹂
﹁じょ、情報収集かな?﹂
﹁体中包帯だらけじゃない。ちゃんと手当はしてもらってるの?﹂
﹁ここのキノコ頭の兵隊さんがやってくれたけど⋮⋮﹂
﹁化膿したらたいへんなので、あいぼーに後で診てもらった方がい
いのです﹂
﹁そうね、宿泊所にもどったらしっかり消毒とポーションをキめま
しょう﹂
不機嫌そうな顔をしながらも、近づいて俺の体をぺたぺたとさわ
るようじょの言葉に返事をした。
その隣にやってきたカサンドラが、無言で微笑を浮かべながら紫
色の外套みたいなのををかけてくれた。
こんなものは我が家にはないはずだが、どこで調達してくれたの
だろうか?
何だか色々と迷惑をかけたので、奥さんや婚約者のひとにはたい
へん申し訳ない気分である、そういう申し訳ない事実がそうさせて
いるのか、カサンドラはとても嫌そうな顔をして俺の顔を睨み付け
ていた。
な、何だ。やっぱり俺が牢屋にぶち込まれたことが気に入らない
のかな?
勝手に暴力沙汰を起こしてスイマセン。
するとニッコリ笑ったカサンドラが、俺にこう言い放つ。
﹁ゆうべはお楽しみだったようですね?﹂
﹁え? えっと⋮⋮﹂
口元は笑っているのに眼はまるで笑っていない。
何ということでしょう。
1573
俺が戸惑って奥さんたちを見回していると、サッとけもみみが視
線を外した。
間違いない。これはエルパコが面会の後も妖精剣士隊の事務所を
離れず、たぶんだが牢屋のすぐ近くで俺たちの事を監視していたの
だろう。ニシカさんは酒が入っていた上に暴れて酔いが回っていた
のか、その事にまるで気付かなかったと見える。
もしかすると、面会の前から密かに牢屋の板窓のすぐ近くで俺た
ちの事を見張っていたのかもしれんね。
﹁はっ話したのか﹂
﹁ぼくは見てないよ⋮⋮﹂
見ていたんじゃない、聞いていたんだ。違う、聞いてしまったと
いう事だな。
けもみみを責めてもしょうがないし自業自得なので頭をなでてや
ると、しゅんとしたけもみみがぴこぴこと動いた。
﹁婿殿、あまり羽目を外していると痛い目にあいますわよ?﹂
﹁本当よ。ただでさえ運がない男だというのに、あたしたちまでそ
れに巻き込まないでちょうだいよ﹂
﹁まあ殿方ですから、英雄色を好むとも言いますわよね﹂
﹁?﹂
カラメルネーゼさんが氷の微笑を浮かべて意味深な事を言った。
するとそれに被せる様に雁木マリも口添えするけれども、どうやら
会話がかみ合っていない。ようじょに至っては小首をかしげるばか
りである。
たぶんカラメルネーゼさんは昨夜の事を知っていて、雁木マリの
方はその事を知らないのだろう。
だからふたりの会話は微妙にずれていたのだけれども、そんなふ
1574
たりをいつまでも観察している場合ではない。
﹁ンだよお前ぇたち怖い顔をして﹂
﹁わたくしたちはニシカさんの貞操を心配していたのですわ﹂
﹁貞操だと? オレがどうして貞操を気にしなくちゃいけねえんだ﹂
﹁それはニシカさんが、殿方とふたりきりで一夜をお過ごしになっ
たからですわ。何か間違いがあってはいけないでしょう﹂
﹁殿方って全裸を貴ぶ戦士の事か? ばっか考えすぎだよ、こいつ
嫁さん何人もいるだろ﹂
よくわかっていないニシカさんは笑って考えすぎだと口にした。
それを見たカサンドラが﹁酔っていたのですね?﹂と言って、エ
ルパコが﹁うん﹂と答えているのが視界の端に映りこんでいた。
ニシカさんはもともと細かい事は気にしない性格だが、呑んで暴
れて牢屋にぶち込まれた後の事はあまり覚えてはいなかったらしい。
股間を一撃された事もすっかり忘れて、ひとりだけスッキリした
顔をしているのがいただけない。
俺はスッキリしたくてもモッコリして一夜を過ごしたというのに
⋮⋮
カサンドラはもういち度俺の方を向き直ると、オープン馬車を指
示してニッコリした。
﹁そういうわけですからシューターさん。お疲れのところを申し訳
ないのですが、セレスタご領主さまのところにこれから向かいます﹂
﹁領主さまがお待ちなのか﹂
﹁はい。お待ちしていますので、さっそくいきましょう。今回の件
では旦那さまに謝罪をしたいと﹂
どういうわけかわからないけれど、ここで逆らったら行いけない
1575
気が俺はした。
俺は愛妻家で世間さまに通っている男だ、妻の命令は大人しく聞
いておくことにする。
﹁わかった。結局俺が大使だってバレちゃったのかな?﹂
﹁はい。でもご領主さまのオコネイル男爵さまは、たいへん恐縮さ
れてしまいました﹂
﹁かえって迷惑をかけてしまったかな﹂
まあでも、ぶん殴られたぶんおあいこかな?
そんな事を考えていると、向かい合ったオープン馬車の後席に俺
とカサンドラ、その向こうにようじょが腰を落ち着け、前席に雁木
マリとニシカさん、エルパコが座る。
ニシカさんは興味深そうにピンク色のオープン馬車をしげしげと
見やっていたけれど、馬車が動き出すとすぐにも青白い顔をした。
きっと昨夜の酒がまだ消化しきれていないのだろう。
カラメルネーゼさんが騎乗して馬車に並走する姿を見やりながら、
おれは正妻に質問した。
﹁怒ってる?﹂
﹁何でそう思うんです? 怒ってるように見えますか?﹂
質問に質問で返してきたカサンドラはとても嫌そうな顔をした。
﹁うんそう見える﹂
﹁はい、わたし怒っています﹂
大体において、とても嫌そうな顔をしている時のカサンドラは、
拗ねているか妬いているかのどちらかである。
近頃はますます正妻然として家中の差配に気を使っているカサン
1576
ドラは、俺が愚考するところによると自分の見えない場所で俺が何
か秘め事めいた状況になるのをひどく危惧していた。
それがちゃんと相談したり、話し合っていた時にはあまり嫌そう
な顔をしないのである。
してみると、正妻の知らないところでニシカさんと全裸で抱き合
っていたことが嫌だったのかもしれないね。
エルパコが何を報告したかは知れないが、間違いはなかったのだ。
ちょっとエッチなイベントがあっただけなのだ。
カサンドラの表情を見やりながら言い訳をするのは見苦しい様な
気がしていると、ようやく正妻は上目遣いで俺の事を許した様に口
を開いた。
﹁わたしは旦那さまのなさる事にお口出しをするつもりはありませ
ん。シューターさんはお優しい方ですから、ニシカさんも何れは奥
さんになる日も来るでしょう﹂
﹁ンなわきゃねえッ。ばっかお前ぇカサンドラ、何を言い出すんだ
よ! オレがシューターとなんてそんなのありえねえ。うっぷ気分
悪ぃ⋮⋮﹂
え、そうなの?
正妻カサンドラの中ではニシカさんが俺の奥さんになる未来を想
像しているらしい⋮⋮
ニシカさんは奥さん筆頭の言葉に目を白黒させた後、あわてて﹁
ガンギマリー水をおくれよ﹂と助けを求めていた。
﹁けれども、わたしが怒っているのはそういう事じゃないんですよ。
こんなに傷だらけになって、また危ない事をなさって⋮⋮﹂
上目遣いのままカサンドラは頬を膨らませてとても嫌そうな顔を
した。
1577
俺の奥さん筆頭は俺の事を心配してくれているのだ。それが証拠に
﹁もうシューターさんは、旦那さまおひとりの体じゃないという事
をしっかりご理解ください。村長さまもおられますし、ガンギマリ
ーさんはまだご婚約なさったばかっかりなのですよ。ご結婚されて
初めての夜も迎えないうちに、聖少女さまを後家になさるおつもり
なのですか?﹂
﹁そうなのですどれぇ﹂
﹁スイマセン⋮⋮﹂
女たちの視線に責められて、俺は言葉を無くしてしまった。
いや、最初は五人ぐらい何とかなるかなと思っていたのは事実だ。
それが気が付けば十人になっていたものだから苦戦しちゃったんだ
よね⋮⋮
﹁これからは、ちゃんとご自身の安全の事も考えてご自重ください
ね﹂
﹁ハイ﹂
俺がうな垂れると、すっと身を寄せながら﹁エルパコちゃんも不
安なのです﹂と手を当てながら耳打ちしてきた。
そうしながらチラリと向かい合ったけもみみに視線を送っている。
﹁エルパコちゃんは旦那さまと結婚したばかりですし、彼女もまだ
初めての夜をお迎えしていないのですから。とても不安なのです﹂
﹁た、確かにそうだ⋮⋮﹂
﹁昨夜はエルパコちゃんにその心づもりでいる様に身支度もしっか
りさせたのですけれども、こういう事になってあの子も切ないので
すよ﹂
1578
なるほど、いかにも女の子然とした格好で情報収集に現れたエル
パコだが、確かにカサンドラが服を用意してくれたのだと言ってい
た。
カサンドラはその辺りの事まで配慮して、色々とやってくれてい
たのか⋮⋮
もうカサンドラには何と言って感謝をしていいのかわからない。
俺は心の中で正妻に感謝の言葉を口にした。
ありがとうございます、ありがとうございます。
いや駄目だ。ちゃんとこういう事は口にしなくちゃな。
﹁わかった、心にしっかりと留め置いておく。それから、﹂
﹁はい?﹂
﹁いつもありがとうございます﹂
肩を引き寄せてカサンドラに小さくお礼を言うと、はにかんだ彼
女が﹁はい﹂と返事をした。
そして、小さな街の中を走っていたオープン馬車はほどなくして
ピンクに塗装されたレンガの領主館に到着したのである。
◆
緊張した顔の俺の前に姿を現したのは、スキンヘッドの褐色男だ
った。
黒人か? と一瞬だけ驚いた俺だけれど、よく見ればニシカさん
と同じ様に長耳をしている。
してみると彼は長耳の部族なのだろう。彼と彼の部下の多くは褐
色エルフとでも言うべき存在かな?
エルフと言えばこれまでニシカさんの様な黄色い長耳が身近な存
在だったが、ダークエルフもこのファンタジー世界にはいるらしい。
1579
﹁アナタがシューター卿かしらぁ?﹂
﹁そっそうです⋮⋮﹂
﹁そうなのね! この度はサルワタの守護聖人にして大使閣下に、
アタシの部下が大変なご無礼を働いたことを深くお詫びもうしあげ
るわぁ﹂
片膝を付いて高貴な身の上に対する礼儀の様なものをするセレス
タの領主さまである。
コバルトブルーのアイシャドウにつけまつ毛でも着けている様な
ぱっちりとした眼で謝罪されると、ちょっと怖い。
しかもちょっとオネエっぽい口調のご領主さまに俺は圧倒された。
困惑した表情でカサンドラと雁木マリを交互に見やっていると、
口々に助け舟を出して耳打ちくれた。
﹁紹介するわ、セレスタ男爵のオコネイル卿よ。ドロシア卿やそち
らのカラメルネーゼ卿とは、貴族軍人時代の同期だったそうね﹂
﹁オコネイルさまは二年前にセレスタの領地にご着任されたそうで
す。たいへんオシャレに気を使っておられる方で、この外套もオコ
ネイルさまがご用意してくださったのですよ﹂
雁木マリに続いてカサンドラが教えてくれる。なるほど見慣れな
い外套だと思ったら、このオネエ言葉男爵の趣味だったのか。
俺はふたりにうなずき返すと、セレスタの領主の前に近づいて手
を取った。
男爵さまに手をつかれてしまうなんて、逆に俺が恐縮してペコペ
コしてしまうぜ。
﹁顔を上げてください。俺なんて村の下男から今の立場まで成り上
がったような奴隷上がりの男ですから、気を遣って頂かなくても結
構ですよ﹂
1580
﹁あら、さすがドロシアちゃんが惚れる様な相手だから、気持ちの
いい男っぷりねぇ。アタシ惚れちゃったらどうしましょ!﹂
あんたは気持ちの悪い男だ。
俺はこのお貴族さまを以後、男色男爵と呼ぶ事にした。
男色男爵は俺の手を取って立ち上がると、改めて親愛の情を示し
てくれた。ハグである。
﹁昨日の夜、アタシの部下が街でパンストライクの一味が乱闘騒ぎ
を起こしているから直轄の剣士隊を送り出すと言ってきたのよぉ。
まさか大使閣下のシューター卿がお忍びで歓楽街を視察しているな
んてしらなかったから。てっきり内部抗争でもおっぱじめたのかと
思ったの。許してちょうだいなぁ﹂
﹁こちらこそ配慮が足りず申し訳ございません﹂
﹁嬉しい言葉! でもそれじゃあアタシの気持ちが収まらないわぁ。
現場の指揮をしていた部下はここに引き立てて来たから、煮るなり
焼くなり好きにしてちょうだい!!﹂
抱きしめる力を緩めると、男色男爵は身を翻して部下に命じた。
﹁アンタたち、ベローチュを呼んで来てちょうだい!﹂
﹁かしこまりました﹂
アフロヘアの褐色エルフは、男色男爵の命令で走り出すと応接室
の外で待機していたらしいその部下とやらを引き立てて来た。
果たしてその部下というのは、す巻きにされた褐色エルフのお姉
さんだった。
何というのだろう、男装の麗人と言えばいいのだろうか。女ばか
りの劇団で男役が務まる様なアッシュグレーのベリーショートであ
る。
1581
武骨な女冒険者エレクトラに比べれば、優雅でエレガントなベロ
ーチュさんである。
現場ではこんなエルフのお姉さんは見た覚えがないけれど、きっ
と褐色だから暗闇に溶け込んでいたんだろう。
モノの本によれば映画や時代劇で忍者は真っ黒の忍び装束を着て
いるものだが、実際の彼らは灰色や小豆色の忍び装束だったのだと
読んだ記憶がある。
してみると、この褐色エルフのお姉さんはちょうどいい頃合いの
褐色具合である。
ベローチュは腕が不自由なままで膝を折ると、必死で俺に土下座
した。
﹁さ、サルワタ大使閣下シューター卿におかれましては、自分の不
手際で大変なご不興を買われました事、この通り深くお詫び申し上
げます! この上は自分の命に代えましても、お詫びいたします所
存でございます! 愛人でも奴隷でも何でもしますから⋮⋮!﹂
いや。あんたかあんたの部下には確かに殴られて気絶させられた
けれど。そこまでやらなくていいからね⋮⋮
﹁この女は自らの意志で、アタシにシューター卿へその身をもって
お詫びをさせてほしいと言ってきたわぁ。本人も、愛人でも奴隷で
も命じられればその通りにしたいと言っているの。どうかしら、こ
こはひとつアタシの顔に免じてこの女の命だけは助けてやってくれ
ないかしらぁ?﹂
﹁高貴な身の上のシューター卿を殴り飛ばした罪、万死に値します。
これはすべて自分の責任ですので、どうぞ部下の事はお許しくださ
い!﹂
いやいやいや。
1582
男色男爵も恐縮した顔で頭を一緒に垂れているけれど、恐縮して
いるのは俺たちサルワタ外交団も一緒である。というか恐縮を通り
越してドン引きだ。
カサンドラも当惑した顔で﹁シューターさん﹂とつぶやいている
し、雁木マリも﹁どうするのよこれ﹂とか非難めいたことを言って
いる。
ニシカさんだけが後ろでニヤニヤしているらしく﹁シューターよ
ぉ。奴隷にするぐらいならこいつオレの部下にくれよ﹂とか空気を
読めない発言をしているじゃないか。
話がややこしくなるからあんたは黙ってなさい!
﹁どれぇ、こういう場合はしっかりと先方の謝罪を受け入れておく
のがマナーなのです。このおんなのひとを奴隷としてもらいましょ
う﹂
え、もらっちゃうの? と俺は困惑して褐色エルフのお姉さんを
見たら、お姉さんはコクリとうなずいた。
マジかよ。元奴隷が、奴隷とかもらっちゃうのかよ!
﹁そうね。仮にも大使閣下たるシューターを入獄させた罪は確かに
重いわ。本来ならばそっ首斬り落としてもいいぐらいだけれども、
責任の所在はしっかりしておくべきね﹂
﹁なあシューター、オレの部下にくれよ。こいつオレの顔をぶん殴
ったんだからな﹂
恐ろしい事をしれっと口にする雁木マリに比べたらニシカさんの
提案は優しいものだ。
﹁いくらなんでも首チョンパなんてしないよッ﹂
﹁それを決めるのはシューターだから。奴隷堕ちでいいなら彼女に
1583
とっても安いものよ﹂
﹁婿殿、わたくしの実家は奴隷商でございますわ。必要な手続きと
書類一式はいつでも持ち歩いておりましてよ?﹂
﹁⋮⋮シューターさん、どうするのですか?﹂
当惑するカサンドラはともかく、婚約者やようじょや蛸足姫がノ
リノリなので助けを求めてけもみみを見たら、何それ美味しいの?
という顔でぼけーっと口を開けていた。
﹁と、とにかくその件は保留にして。そうだ聞きたい事が色々あっ
たんですよ、この先の街道で出没する盗賊団の話! この先の情報
を色々とお聞かせくださいっ﹂
俺はあわてて唾を飛ばしながら、しどろもどろに話を切り出した。
1584
127 街道の安全情報を聞き出します
﹁この街とリンドルの間にある街道は、基本的に山の谷間をぬう様
に走っているのよう。だから昔からこの往来には野盗が頻出してい
たらしいのよねぇ﹂
セレスタ領主のオコネイル男爵は、街道の安全情報を必要とする
俺たちの求めに応じてくれた。
応接セットのテーブルに広げた羊皮紙の地図を示しながら俺たち
に説明をしてくれる。
俺たち一同がそろって地図を覗き込むと、全体を見渡す事が出来
ないようじょが背伸びして、んしょんしょと頑張っていた。
ようじょを抱きかかえた俺は、だっこしながら見えるようにして
やる。
﹁どれぇ、ありがとうなのです﹂
﹁あらぁ素敵な義親子愛だわぁ⋮⋮﹂
男色男爵がおかしな事を言っている。
とは言え説明の際に妻たちが養父養女と紹介をしたので、こうい
う発言が出たのだろう。傍らのカサンドラはそんな俺とようじょを
見て微笑みを浮かべているけれど、いきなり養女と言われても俺は
ピンと来ないぜ。
改めて一緒に俺は養女のようじょと地図を覗き込んだ。
﹁ここがセレスタ、ここがリンドルよぉ。そしてここがゴルゴライ。
ここからサルワタまでの一帯は今じゃドロシアちゃんの勢力圏ねぇ﹂
﹁ゴルゴライがサルワタの勢力下というのはわかりますが、その隣
1585
までですか?﹂
﹁そうよぉ。サルワタの隣村のひとつ、クワズはドロシアちゃんが
最初に嫁いだ場所だものぉ。あそこの義弟とはサルワタに嫁いでか
らも頻繁に連絡を取っているとドロシアちゃんが言っていたわぁ﹂
クワズというどこかで聞いたことがある村の名前を耳にして俺が
小首をかしげていると、傍らのカサンドラが﹁マイサンドラ姉さん
の嫁いだ先の村です﹂と教えてくれた。
ああ、それで聞いたことがあったのか。
﹁それにその周辺の村々も、戦争を始められるほどの兵隊を持って
いるわけじゃないから、今のドロシアちゃんには逆らえないと思う
わぁ﹂
﹁野牛の兵士もいるしなあ、確かに言われてみればその通りだ。そ
の情報はすでに周辺の村々にいきわたっているのですかね﹂
﹁アタシはドロシアちゃんから伝書鳩で知らされたけれども、きっ
と行き来する行商人たちがぴいちくぱあちくさえずっていると思う
わよぉ﹂
なるほど。今は伝播しきれていなくても、村々の領主たちに知ら
れるのは時間の問題というわけだ。
するとアレクサンドロシアちゃんが野牛の兵士たちを率いている
姿も往来で見ているし、ゴルゴライ奪取の事を知ればその軍事力を
恐れて、恭順の姿勢まではいかなくても大人しくするだろう。
それにしても、問題はセレスタから先の道なりである。
山を示すこの土地の地図記号の間を、のたうち回る様に街道が走
っているのだ。勾配もありそうだ。
﹁この先はずいぶんとクネクネした街道だな。セレスタとリンドル
1586
間の街道には小さな宿場しか見当たらない﹂
﹁村がいくつかあるけれど街は見当たらないのです。その村もほと
んどは往還から枝分かれした先にあるのです﹂
してみると、山間に囲まれたこれらの蛇行した道は、いかにも道
中の視界が遮られていて盗賊にとっちゃ身をひそめるのに格好のス
ポットと言えるんじゃないだろうか。
この分じゃ村落もこの辺りでは農業を中心としていると言うより、
林業の方が盛んなんじゃないだろうか。確か運ばれる材木の荷車も
セレスタの街の中で見た事がある気がする。
大きな開けた農業適地が少ないという事は、それだけ生活が苦し
いという可能性がある。
という事は生活に困窮した人間が離農して盗賊に成り下るという
図式も、元々この辺りではよくあったのかもしれないね。
野盗が多いのもうなずけるぜ!
﹁ッヨイならここで待ち伏せをしてたいしょーを襲いますね﹂
﹁そうだな、オレ様ならこの急カーブの手前に見張りを付けて、本
体は曲がったところに伏せておくぜ。隊商はあえなく挟み撃ちだ﹂
ようじょとニシカさんが顔を突き合わせて悪い顔をしていた。ニ
シカさんの悪企みはいつもの事だけれど、
ッヨイさまにその顔は似合いません!
﹁とにかく何にも地図に表記がない場所が続いているのです。どれ
ぇ、この先は難所だょ﹂
﹁ッヨイ子ちゃんが言う通り、リンドルとゴルゴライの間には大き
な交易の中継拠点と呼べる場所はここセレスタをおいて他はないわ
ぁ﹂
1587
ようじょの言葉を聞いた男色男爵はうんうんと向かいでうなずい
ていた。そして指で示しながら言葉を続けていく。
﹁ゴルゴライとセレスタの間に数村、セレスタとリンドルの間に数
村あるけれども、これらは何れも軽輩領主の経営している村ねぇ。
宿屋はあるけれども、利用するのは上りの行商人ぐらいなのよねえ。
本命はこっち﹂
指で示したのは街道とは別ルートを走っているもの、つまり川だ
った。
視線でその川の上流をみんなが遡っていくと、リンドルにたどり
着く。そこからさらにたどっていくと、岩窟都市と思われる表記の
あるドワーフの王国の領内に伸びているではないか。
﹁川はどこまで続いているのですか﹂
﹁辺境の平野部に向かって伸びているけれど、セレスタの先で滝が
あるから、水運に使えるのはこの街までが終着﹂
﹁なるほどな﹂
﹁このリンドル川を下る水運が、鉱物や金属加工品、材木を運び出
すために使われているルートのひとつなのよう。ただしこれが使え
るのはブルカ方面に荷物を輸送する時だけ。上りはあまり使われて
いないわぁ﹂
﹁おねぇ、それは川を遡るのが大変だからですか?﹂
﹁背景的な原因はそれもあるわねえ。風の魔法が使える人間を用意
するのは大変だし、ゴブリンの人足の数をそろえるのも難しいもの﹂
男爵の説明にようじょが質問すると、微笑を浮かべて返事をして
くれる。
するとニシカさんが俺に身を寄せて小声で自己主張をしてきた。
1588
﹁やっぱりゴブリンの人足も使うんじゃねぇか。な、オレ様の言っ
た通りだろ? ん?﹂
﹁それは当然そうなるわよね。風の魔法を使える人間なんてそんな
に多いわけじゃないし、ニシカさんほどの遣い手ともなればなおさ
らね﹂
﹁だろうぜ。な、聞いたかシューター?﹂
雁木マリがニシカさんの言葉を肯定したものだから、ますますこ
のおっぱいエルフは調子に乗ってきた。
調子に乗っているのはその言葉だけではなく、言葉とともに暴れ
るけしからん胸のふくらみも同様である。
すごいでかい確信。
けれども周囲に女性陣の眼があるので俺は必死に冷静さを装った。
息子はよく耐えた。
﹁人件費のために上りの船便は輸送コストが跳ね上がっているから、
使いたくても使えないんだな⋮⋮﹂
﹁うんちんですか?﹂
﹁そうですッヨイさま、運賃です。下りは恐らく安いのでしょう。
流れに任せて舵切りだけをしっかりしていればいいですからね。け
れども上りは倍額とられるのかもしれない。だからあまり商人たち
はリンドル行きの上り便を使っていないはずだ﹂
﹁なるほど、さすがどれぇなのです!﹂
ようじょが俺の頭をなでなでした。ありがとうございます、あり
がとうござまいます!
そして、ようじょが次の質問をする。
﹁おねぇ、ブルカからリンドル方面に輸送される物品は、どういっ
たものがあるのですか?﹂
1589
﹁布類、絹類、それから紙類に貨幣かしらねえ。アタシの領内を通
過する時に検問で調べたところによるとそういったものが多いわぁ。
リンドルは岩窟都市との交易も盛んだから、決済のために準備資金
がたくさん必要なのよぅ﹂
いかにも貨幣の輸送中の荷駄隊は襲われそうな気がするぜ。
これはこの先の街道で野盗が頻出しているというのもうなずける。
ようじょは俺と雁木マリの顔を交互に見て、男爵に質問するる様
に促してきた。
﹁俺たちはこれからリンドルに入り、可能なら岩窟都市に向けて交
渉を行おうと思っているんですけどね、盗賊についての情報は、こ
の街の官憲はどの辺りまで掴んでいるんですかね?﹂
﹁そうね、考えられる障害について確認しておきたいわ。オコネイ
ル卿、野盗の規模や繋がりについての情報、教えてもらえないかし
ら﹂﹂
俺と雁木マリが口々に質問をした。すると、
﹁出るのよぅ、おっきくてすごいのが、たくさん!﹂
男色男爵が身震いしながら悲鳴を上げた。
くねくねしながら言うものだから、何か卑猥な発想をしてしまい
そうになるからやめなさい。
﹁うちのハーナディンが昨日の晩に冒険者ギルドで調べたところに
よると、セレスタのギルドでは街道の安全情報を告知しているらし
いわね。妙に冒険者やゴブリンの傭兵たちの数が多いと思ったら、
連中の大半が行商人たちのために道中の警備に雇われているんだと
聞いたわ﹂
1590
﹁えっとぉ⋮⋮﹂
﹁ここまで徹底した安全情報を出すというのは尋常な事ではないわ
よ。大規模な盗賊団がいるという事なのね?﹂
念押しするように雁木マリが言葉を紡ぎ出したところ、男色男爵
はとても嫌そうな顔をした。
どうやらそれは事実であるらしく、もしかすると男爵の頭を悩ま
せているのかもしれない。
しょくめつたい
﹁小さな盗賊の集団はいくつもあるのだけど、もっとも大きいもの
は触滅隊よぅ!﹂
何だその厨二病にかかったような触滅隊というフレーズは。盗賊
団の名称かな?
俺たちが一斉に男爵の次の発言に注目すると、ハァとため息をこ
ぼしながら言葉をつづけた。
﹁リンドルとセレスタ間ではあの地形でしょう? むかしから小さ
な盗賊団が跋扈していたのだけれども、アタシがこの領地に赴任し
て来たとたんに、やっかいな連中が住み着いちゃったのよぅ。おか
げでアタシの自慢の妖精剣士隊も、一年駆り出されっぱなしだわぁ﹂
そのやっかいな盗賊団というのが触滅隊なのだとか。
その規模は、あれよあれよという間に元からいた弱小の盗賊団を
次々に吸収合併しながら数十人規模の大きな組織に成長していった
らしい。
どうもこの土地の盗賊崩れが頭角を現したというわけではなく、
どこからか流れ着いたやっかい者が率いているというのだ。
﹁シューター卿ぉ、アナタが昨日揉めていたパンストライク一味と
1591
いうのがいたでしょう? あれも巷の噂では触滅隊に繋がっている
という話なのよぅ。何人か捕まえた手下たちの話ではぁ、触滅隊が
この街にも悪の触手を伸ばしているのだわぁ﹂
くねくねびくびく、男色男爵は身震いした。
するとその直後に﹁誰かあれを持って来てちょうだい!﹂野太い
声を上げたかと思うと、家令が飛び出していった。すぐにも戻って
きた家令の手には、安っぽい麻紙が握られている。
受け取った男色男爵は俺たちに麻紙を広げて口を開いた。
タトゥ
﹁見てちょうだい。これは触滅隊の一味が入れているという入れ墨
の模様よぉ。とってもお下品な蛸なのよ! 連中の手下を何人か捕
まえた時に、体からこんな模様が見つかったの!﹂
﹁ちょ、ちょっとお待ちになって。蛸がお下品とはどういう事です
の?!﹂
﹁ああん、ネーゼちゃんの事を言っているのではないわぁ。アナタ
はいい蛸足、コイツらは悪い蛸足なのぉ!﹂
そんな事はどうでもいいので俺は仲間たちを見回した。
カサンドラは何かを思い出しているらしい。
﹁あの、シューターさん。もしかしてマイサンドラ姉さんや助祭さ
まの時と同じで⋮⋮﹂
﹁ブルカ辺境伯の放った手の者という事かな﹂
手口を考えてみればブルカ辺境伯ならいかにもやりかねない。教
会堂の人員や冒険者ギルドの幹部、元村人とあらゆるところにスパ
イを潜ませている連中の事だ。
言われてみればいかにも、
1592
﹁ねえさま。いかにも怪しいのです﹂
﹁確かに、一番に怪しむべきはブルカ辺境伯ね﹂
﹁俺もそう思う﹂
﹁おう、オレ様も最初にそれを思いついたぜ﹂
ようじょの言葉に俺たちが賛意を表すと、男色男爵はたいへん難
しい顔をして俺の奥さんたちを見比べた。
﹁ブルカ辺境伯が背後で触滅隊を操っているという事かしらぁ?﹂
ブルカ
﹁そうですねえ。そういう可能性は十分に考えられると思いますよ、
俺たちの村では街からやって来た冒険者ギルドの幹部立ち上げ要員
まで辺境伯の息のかかった男でしたからね﹂
﹁そ、それは本当? その幹部はどうなったのかしらぁ﹂
﹁俺がこの手で仕留めました。かなりやっかいな実力者で、下手を
すれば俺は死んでいたと思いますね﹂
そういう連中をブルカ伯は送り込んでくるのだ。
してみるとこの街の冒険者ギルドの運営形態にも疑問が沸いてく
るのだ。
ハッとその点に思い至った俺と雁木マリは顔を見合わせる。
﹁シューター、もしかして?﹂
﹁ああ、そうだよな。同じ手口をブルカ伯がやっているかもしれな
い。オコネイルさん、この街のギルドはブルカ冒険者ギルドの出張
所という形になっているのですか?﹂
﹁それはそうよぉ。アタシたちは一応、ブルカ辺境伯の寄騎なのだ
から当然よぅ﹂
﹁それじゃあ間違いないわね。もしかしたら触滅隊が襲う相手を選
びながら尻尾を掴ませていない理由というのは、この街のギルドか
ら情報が流出しているのではないかしら⋮⋮﹂
1593
するとふたたび男色男爵が﹁何ですって?!﹂と野太い声で吼え
た。
太い、太いぜ。
﹁それじゃあ何? アタシが王都から引き連れて来た精鋭・妖精剣
士隊を使って追撃をしても、いつも空振りに終わっていたのは、ア
タシの領地に裏切者が紛れ込んでいたからというの?!﹂
﹁そういう事になるのです、おねぇ﹂
あくまでも可能性だが、それは十分にありえるというわけだ。
ようじょの言葉に男色男爵はわなわなと震えていた。
﹁ベローチュ!﹂
﹁は、はいここにッ﹂
﹁アンタは何があってもシューター卿の身をお守りしなさい。絶対
にサルワタ大使閣下御一行をリンドルまで送り届けるのよぅ。ここ
でシューター卿に誓いなさい!﹂
﹁イエス・マーム! 自分の体はすでにシューター卿に捧げると心
に決めていました。この命令、謹んでお受けしますッ﹂
褐色長耳の主従がそんなやり取りをすると、男装麗人のお姉さん
は俺に向き直り膝を付いた。
﹁このベローチュ。例えこの命が尽きようともシューター卿の御身
をお守りし、生涯にわたり奴隷となる事を誓います!﹂
誓うなよ。
いきなりベローチュがそんな事を言い出したので俺が困惑の表情
を浮かべたけれど、肝心の元主君である男色男爵が手を叩いて大喜
1594
びしていた。
ニシカさんは﹁何だよオレにはくれないのかよ﹂と言っているし、
ずっとぼけーっと突っ立っていたけもみみがこの時ばかりは﹁それ
はぼくの役目なのに﹂と恨めしそうにつぶやいていた。
﹁あの、勝手に話を進めないでくれませんかね⋮⋮﹂
﹁よかったですね、シューターさん﹂
﹁いや普通に困るんですけど⋮⋮﹂
いつもならこういう時にとても嫌そうな顔をしていた正妻カサン
ドラが、極上の笑顔で祝福してくれた。
ただし眼は笑っていなかった。
﹁アナタたちも気を付けないといけないわぁ。連中は換金が面倒な
絹や織物なんかにはひとつも眼もくれず、貨幣を輸送している隊商
や、自分たちの慰み者にできる奴隷隊商ばかりを襲うんだからぁ﹂
奴隷を連れていると襲われるんだったら、なおさらこの褐色お姉
さんはいらない。
しかもうちは女子率がとても高いので襲われるんじゃないかと、
この先の道程がますます不安である。
﹁ご安心くださいシューター卿。彼奴らめが自分の様な奴隷を慰み
者にするというのでしたら、奥様たちにかわってこの自分を身代わ
りに差し出してください。そうすれば奥様方の安全を守れます!﹂
女子を身代わりに差し出すなんてやったら、奥さんたちから大ひ
んしゅくを買うに決まっている。
それに俺たちには頼りになる偉大なる魔法使いようじょも、聖少
女修道騎士も、飛龍殺しの鱗裂きだっている。
1595
触滅隊とやらの裏をかく事が出来れば、きっと無事にこの先の往
還を突破できるはずである。
悲しい未来なんてご免被るぜ!
1596
128 この先の峠には盗賊がいる 前編
セレスタからリンドルに向かう往還をひと言で表すならば、難所
そのものだった。
だが地図で眺めるのと実際にこの眼で景色を確かめるのとでは、
受けた印象はまるで違った。
芸術家ヘイジョンさんの大荷物を背負ったロバなど、ともすれば
脱落しそうになるので野牛の騎兵がひとり側についていなければな
らなかった。
男色男爵が提供した地図には高低差が書き込まれていなかったの
である。
﹁ただ蛇行する道を想像していた俺はとんだ勘違いだったな。実際
のところはそれに加えて予想以上の勾配がありますね!﹂
そうなのである。
俺は野牛の一族が用意した豪華な馬車の上で周辺を見回しながら、
同じく馬車の上で周囲を警戒していたニシカさんとけもみみに聞こ
える様に叫び返した。
すると地図を片手に思案していたニシカさんが頭を上げて俺に身
を寄せ叫ぶ。砂利を蹴り上げる車輪の音がうるさくて、叫ばなくて
は聞き取りにくいのだ。
﹁おい、街で雇った傭兵どもがどの程度信用できるのかわからねえ
ぞ。うまく利用するなら数を頼みに出来る地形の場所がいい!﹂
﹁そうですね! 一応はあの男色男爵があてがった傭兵だから、ま
ったく信用ならんという事は無いと思いますけれども﹂
﹁違う、身元の裏が取れているかどうかの問題じゃなくて、どれほ
1597
どの強さかもわからねぇだろう﹂
なるほど言われてみれば確かにそうかも知れない。
いないよりはマシな護衛と言えばそれまでだが、俺たちにとって
の本当の意味での護衛は別にいる。
﹁妖精剣士隊がアテに出来れば、問題ないんじゃないですかねえ﹂
﹁ンな事言ったって、あいつらはオレたちの視界の外にいるんだぜ
? いざという時に間に合わない可能性があるだろ﹂
﹁ごもっとも!﹂
セレスタを出発する際、男色男爵とは次のような取り決めをして
いた。
まず俺たち外交使節団は何事も無かったように当たり前に出発す
る。妖精剣士隊の儀仗で見送られながら俺たちがセレスタを発てば、
当然その情報は街の裏組織なり冒険者ギルドなり、触滅隊と繋がっ
ている連中によって何らかの情報が伝えられるとする。
一方で、リンドル方面とは別の門から事前に出撃していた妖精剣
士隊の分遣隊が、大きくセレスタを迂回して俺たち辺境歴訪の外交
使節団を追走する。
どうしてこんなややこしい事をするのかと言うと、自分の支配地
の人間が触滅隊に接触している可能性に大変ご立腹した男色男爵が、
この際連中の裏をかいて鼻を明かしてやりたいと考えたからだ。
一挙に殲滅する事は無理でも、一撃を加えてやれば一時的にでも
連中の猛威を抑え込む事が出来る。
男爵ご自慢の妖精剣士隊とやらを直接俺たちの護衛に付ける事は
簡単だが、それが可能なのはオネエが経営する領内に限っての事だ。
どのみち妖精剣士隊が離脱した先で襲われたのではまったく意味が
1598
ない。
触滅隊をやり込めるなら男爵としても自分の勢力圏内でやってし
まいたい。
何度もしつこく俺たちを付け狙ってくる可能性もあるが、そこま
で考えていればキリがないというものだ。
﹁おい黒いの、この先にある峠というのはどうなっている! 地図
じゃ高低差がわからねえんだッ﹂
ニシカさんが、本来は俺用の馬に乗っている褐色エルフのベロー
チュに向かって叫んだ。
するとベローチュは、三つ編みに纏めた後ろ髪をなびかせながら
馬車の側に馬を寄せて来る。
彼女は正面から見るとベリーショートヘアの男装の麗人そのもの
といった剣士風情だが、女らしさを引き立てているのが実はかなり
長かった後ろ髪の三つ編と、そしておっぱいである。
黒おっぱいのおっぱいは、まあタンヌダルクといい勝負かもしれ
ない。やはり褐色エルフにおっぱいは似合うぜ。
黒おっぱいは、本家おっぱいエルフに向かって返事をする。やっ
ぱりニシカさんのおっぱいはナンバーワンだぜ!
﹁この辺りはまだ勾配も緩やかで、移動自体に足を取られることは
ありませんけれども、この先を八半日ほど進んだ峠に近付きますと、
視界が悪くなるのです! 勾配はかなりになりますが、そこを越え
ればまた平地があって、さらに先がまた山間になります!﹂
﹁ふむ。おいガンギマリー、聞こえるか! どのタイミングで休憩
を取るのか考えた方がいいぜ、なあおい!﹂
互いにおっぱいを揺らしながら意思疎通をしたところで、ニシカ
さんが片膝を付いて立ち上がった。
1599
先頭で馬を駆っている雁木マリとハーナディンに向かって叫んだ
のだ。
﹁そうね、今日のうちに宿場がある次の村まで一気に駆け抜けるの
が無難じゃないかしら。野営はあまりオススメしないわね!﹂
﹁いやそれはやめた方がいいんじゃねえか! 無理にこの道を強行
して疲れを蓄積させるよりは、小まめに休憩を取りつつ、陽の明る
いうちに視界の見渡せる場所で野営を取ったほうがいいぞッ。体力
を温存して、翌日一気に山を抜けるんだ!!﹂
﹁一理あるわね、どう思うシューター?!﹂
俺に最終決断が委ねられたので少し考え込む。
隊列の後方に向けて見張りをしていたけもみみも俺の方を向いて
うなずいてみせるので、ニシカさんの案は同じ山野を行動する猟師
の見地からしても、妥当なものなのだろう。
俺の無駄に多いバイト経験から考えても、ベテランの意見は尊重
しておくものだ。
﹁よし、それでいこう!﹂
ニシカさんの提案を採用だ。
適度に小休止を挟みつつ、視界の広い平地を見つけたら今日は早
めに野営をする事にしようか。
◆
比較的午後の早い時間に街道沿いの小さな小川を見つけた俺たち
は、そこで野営の準備を開始した。
本当なら体力的に十分に余裕があると言えたけれど、これは先ほ
どニシカさんの提案通りの行動だった。
1600
今日このあたりでしっかりと休憩を取っておけば、この先に続く
難所の急勾配を、十分に余力を持って明日挑む事が出来るからであ
る。
俺たちはさっそく簡易テントを設営すると、大きな石と薪になり
そうな木を集めて飯の準備を始めた。
﹁テントを設営するのは最低限だけにしておいた方がよろしいです
わね。いざという時に離脱する際、やっかいですわ﹂
こういう風に進言してくれたのは長い軍隊経験のあるカラメルネ
ーゼさんだった。
彼女はアレクサンドロシアちゃんや男色男爵の同期として、国境
の警備や盗賊討伐に紛争にと、青春を戦場で過ごしたというだけは
あってたのもしい。
﹁サルワタからゴルゴライを目指すときの野営も、確かそんな感じ
でしたね。あの時はアレクサンドロシアちゃんが差配していました
けれど﹂
﹁おーっほっほ、アレクサンドロシアも恋に現を抜かして腑抜けに
はなっていなかったのですわね。この分ならば戦の指揮を任せても
安心できますわ﹂
﹁うちの奥さんは、あれで戦場に立っていた気質が抜け切れていな
い人ですからねぇ⋮⋮﹂
アレクサンドロシアちゃんは村をワイバーンが襲撃した時も、ド
レスの上から胸当てをして先陣を切ろうとした様な女傑だからな。
ただしその後にジョビジョバしてしまったんだけどな⋮⋮
そんな中。
妖精剣士隊の分遣チームから一風変わった伝令がやってきたのは、
1601
ずいぶんと陽が傾きはじめて俺たち外交使節団の面々が思い思いに
体を休めていた頃だった。
はじめその事に気が付いたのは、炊事の準備をしていたカサンド
ラで、急ごしらえでようじょの作り上げた窯の前で焚き物の番をし
ていたところ、視界に映る遥か街道の遠方にごま粒を発見したので
ある。
﹁シューターさん、あそこに何か見えます!﹂
﹁え? どれどれ⋮⋮!﹂
旦那さまお味はどうですかなどと正妻の隣で木のお玉でスープを
試食させてもらっていた俺は、カサンドラの指さす方向を眼をすぼ
めて観察してみると、確かに何かがこちらに向かってやって来る。
﹁何ですかね、あれは﹂
﹁まさか触滅隊の斥候という事はないだろうな⋮⋮﹂
﹁斥候ですか? 人間の様に高さはないと思いますけれども﹂
﹁じゃあ動物かな。まさかワイバーンという事はないだろう。ハハ
ハ﹂
カサンドラは猟師の娘というだけあってか非常に遠目が利く。以
前もサルワタの村で夫婦揃って石塔上で見張り任務に就いていた時
も、真っ先にワイバーンの襲来を見つけたほどであるのだ。
しかし近頃の俺は元いた世界で生活していた頃に比べると、大自
然豊かな環境に身を置いているからかよくものが見える様になって
いた。
だからカサンドラとほとんど同時にそのごま粒を発見したので、
ちょっと驚きつつも納得しつつである。
ニシカさんかけもみみを見つけてあのごま粒がこちらに接近する
1602
前に正体を確かめようと思ったところ、すでに豪華な馬車の上でそ
れを発見していたニシカさんが、立ち上がってごま粒を観察してい
た。
﹁ありゃ犬だな﹂
﹁という事は俺たちがオオカミか野犬の縄張りにでも飛び込んだと
いう事ですかねえ﹂
﹁うんにゃ、オオカミなら単独でうろついているわきゃないだろう
な。だからあれは犬だ。おいけもみみ、あれは野犬か飼い犬かどっ
ちにに見える?!﹂
ニシカさんの見解ではただの犬であるらしい。
けれどもただの野犬だと思っていたら実は触滅隊の使役する斥候
犬でした、というのでは大問題なのでニシカさんはエルパコにも意
見を求める事にした様だ。
すると、野営の車座でようじょと不思議な体操の様なものをやっ
ていたけもみみが、その言葉に気が付いて駆け出す。
そのままふわりと跳躍して馬車の上に飛び乗った。
すごい確信。
﹁あれは飼い犬だよ⋮⋮﹂
﹁ン、何でそう思うんだよ﹂
﹁だって小さいしもじゃもじゃしてるし弱そうだもん﹂
だとよ、とニシカさんが俺たちに向かって言った。
その頃になると野営地で思い思いに過ごしていた連中や、夜の不
寝番に備えて仮眠を取っていた連中も集まって来て、こちらに向か
ってひたひたと駆けて来る存在に注目していた。
その頃には確かにごま粒ではなく、犬か狐かそういうシルエット
が俺にも理解できるようになってきたのだ。
1603
﹁ところでお前ぇ、何やってたんだ今の体操は﹂
﹁おっぱい体操だよ﹂
﹁何のためにそんな事をするんだ。ん?﹂
﹁シューターさんのためだよ⋮⋮﹂
だとよ、とニシカさんが俺たちに向かって言っているけれど、今
はそれどころではない。
緊張感の足らないニシカさんの事は無視をして、簡易テントから
長剣を握って飛び出してきた雁木マリと、おっぱい体操をやってい
たようじょたちと顔を突き合わせて警戒した。
﹁どう思う?﹂
﹁触滅隊の放った斥候犬か何かしら﹂
﹁どうでしょうねぇ、そうだとすると方角が気になるのです。あれ
はセレスタ方面から付けてきたのです﹂
そうなのである。触滅隊の放った斥候犬というのなら山手から出
てくる方が筋が通っているし、見ている限りこちらに向かっている
犬というのが、中型犬ぐらいのサイズだ。例えるなら柴犬だろうか。
ニシカさんは緊張の欠片も感じない、大あくびを垂れながら長弓
を持ち上げていた。注意する必要が無いと思っているのだろう。
﹁どうするんだ騎士サマよ、野良犬なら射止めて晩飯のおかずにで
もするか?﹂
﹁待ってくださいご主人さま! その犬は自分の隊、いえ元自分の
いた剣士隊で使っていた伝令用の軍用犬ですッ﹂
﹁軍用犬、妖精剣士隊の?﹂
﹁はいそうです! 今晩のおかずにするなんてとんでもありません、
おかずなら自分をお召し上がりくださいご主人さまッ﹂
1604
こちらも荷馬車に背もたれて仮眠を取っていた男装の麗人が、大
あわてで飛び出して来てわけのわからない事を口にした。
あまりにも動転していたのか、口元のよだれは垂れたままだし言
っている事も滅茶苦茶だ。イケメン美女のベローチュもこれじゃ台
無しだね。
俺たちが全員揃って男装の麗人に呆れていると、ハフハフと浅い
息をしながら近付いてくる毛むくじゃらの犬が野営の陣中に走り込
んできた。
確かにけもみみが言う様に近くで見ればただの犬だ。サルワタの
村でよく見かけた様なジンターネンさんちの牧羊犬みたいな顔をし
ている。
そのままベローチュの足元にやってきて滅茶苦茶しっぽを振り回
していた伝令犬は、彼女によってお座りをさせられる。首元に括り
付けられた筒の中を改めたところ、伝文が汚らしく走り書きされて
いました。
ギルドの籠から鳩が飛ぶ、方位南。
セレスタ
﹁恐らく伝令犬を使って街と分遣隊で伝文リレーをやったのでしょ
う。それから軍用犬を走らせたという事は、すでに近くに妖精剣士
隊が着陣しているという事ですね﹂
﹁街道を避けて野営しているのかな?﹂
﹁はい、自分たちは訓練された男爵閣下の剣士でした。森の中で寝
床など無くても十分に休息が可能な訓練を受けています。何なら、
原隊まで確認に行ってきましょうか?﹂
それじゃ別行動をとって触滅隊を油断させる意味がないだろう。
俺たちの仲間がどこかと連絡取り合っているのが連中にバレたら、
1605
こちらが餌を用意して罠を仕掛けていますと宣伝してる様なもんだ
ぜ。
﹁いえ結構です。いや、そのまま永遠に原隊に帰ってもらうのはど
うかな?﹂
﹁そんなご主人さま、殺生です! 自分は、自分は生涯をささげた
のですからぁ!﹂
男装の残念剣士はあわてふためいた。
1606
129 この先の峠には盗賊がいる 後編︵前書き︶
本日二回目の投稿です、よろしくお願いします!
1607
129 この先の峠には盗賊がいる 後編
俺たちサルワタの外交使節団にセレスタで雇い入れた傭兵連中ま
でも加えると、その総勢はいよいよ三〇人あまりに膨れ上がってい
る。
そんな連中が日暮れ時、思い思いにいくつかのキャンプファイア
ーを囲んで晩飯を食べていた。
出された料理は当然、野営での事なので簡単なものだ。
潰したトマトと芋にベーコンを入れたオートミール、それから根
菜を煮込んだスープである。
根菜スープの方はセレスタで仕入れたハムがあったので、出汁が
しっかりと利いて美味しかったね。
﹁あたしはさ、この世界に来て未だにここでの料理の味に馴染めな
いところがあるのよね﹂
ブツブツと不満を口にしながら雁木マリは木のスプーンでオート
ミールの粥をよそっていた。
確かにこの冬麦の雑炊は見た目がよろしくない。何というか子供
の遊ぶ粘土みたいな色合いをしているので、食欲が大幅に減退する
のである。
しかし住めば都というものもあって、俺はこのファンタジー世界
に来て数か月も常食しているうちに﹁こんなもんだろ﹂と思う様に
なっていた。
もしも気にすることがあるのなら、未だもって馴染めない朝食抜
きの生活である。
こうして旅をする様になってからは道中の手間を惜しむために、
1608
朝飯を食べて出発する事もままあった。今日なども同じ様にしてセ
レスタを出発したけれど特別の事だ。
長い時間、胃袋を空にしているのがどうにも体に馴染まないので
ある。
﹁お味噌と醤油が欲しいわね。シューターはどこかで見かけたこと
が無かった?﹂
﹁あるわけないだろう。俺が知っているこの世界は、サルワタの森
の開拓村とその周辺、せいぜいブルカぐらいまでだからねえ﹂
﹁そうね、聞いたあたしが馬鹿だったわ⋮⋮。あたしが知らないん
だからあなたも知らないわね﹂
近頃は俺の事をお前と言わず、あなたと言ってくれるようになっ
た雁木マリである。
どういう心境の変化かわからないけれど、ここまで丸くなったも
のだと嬉しい限りだね。けれどもちょっと俺が油断すると拳を握る
事もあるので、そこは危険だ。
まだ時々この女をからかうと、平然と殴り飛ばしてくることがあ
る。
まいっちゃうね!
﹁あのう、シューターさん。オミソとショーユというのは何ですか
?﹂
するとカサンドラがおずおずと根菜スープをふうふうしながら質
問をしてきた。
このファンタジー世界の住人である正妻にとっては未知の調味料
だから当然だね。どう説明したらいいんだろう。
﹁お味噌と醤油というのは、豆を使った発酵食品という感じかな?﹂
1609
﹁発酵食品じゃチーズやヨーグルトと間違われるかもしれないわ。
調味料と言った方がわかりやすいんじゃないかしら﹂
﹁確かに﹂
俺たち元日本人がそんな会話をしていると﹁調味料ですか﹂とカ
サンドラが関心を示している。さすが我が家の内向き一切を取り仕
切っている正妻さまさまだ。その辺りの聞きなれない調味料には興
味津々なのだろう。
旦那の胃袋を握るのも奥さんの仕事だからね!
そしてようじょも興味津々だ。
﹁ッヨイも食べてみたいのです! どんな味がするのですかガンギ
マリー?﹂
﹁そうね、お味噌はやっぱり地域によって特色があるから一概には
言えないわ。甘いもの辛いもの、合わせたのもあればまちまち。ス
ープに入れたり、食べ物に混ぜたり付けたりして食べる事もあるわ
ね﹂
﹁俺は酢味噌にしてハモやタコブツを食べるのが好きだったなあ﹂
﹁あんまりそんな事を言わないでよ、懐かしくなって泣けてくるじ
ゃないの﹂
ますますカサンドラの興味を引いたらしい。
小声で﹁豆で作るのですか﹂と言って、根菜スープに浮かんでい
たひよこ豆をじっと見ている正妻かわいい。
でもなあ、豆は豆でもひよこ豆ではなくて、大豆を使うのだから
再現するのはたぶん難しいだろう。
とりあえずこのファンタジー世界では大豆に出会ったことが無い
のだ。
ところでニシカさんは、視界の端でぶどう酒の瓶を口に運んでい
1610
る最中だった。さすがに道中の野営という事を理解しているのか勢
いよくグビグビやりすぎる様な事はしない。
ぷはあとやった瞬間、ばるんぽよよん、ぼいんぼいんした。
その姿を凝視していた事が家族のみなさんに気付かれたのだろう、
カサンドラと雁木マリが白い目を向けてきたような気がしたし、け
もみみは唇に指をくわえて見ていた。
カラメルネーゼさんは興味なさそうにしていた事と、ようじょと
新参のベローチュは気が付いていなかったのがせめてもの救いだ。
﹁ん? どうしたシューター﹂
﹁いえちょっと美味しそうだなってっっ﹂
決しておっぱいエルフのたわわな果実の事ではないという風を装
って、俺はいいわけめいた発言をした。
﹁このぶどう酒はなかなか美味いな。皮かすがないので、ずいぶん
呑みやすいぜ﹂
﹁どれお味を拝見﹂
俺も瓶を受け取ってひと口呑む。そのままカサンドラに回してそ
れがさらに雁木マリに回り、けもみみが口に運んだ。
﹁なんだか渋いや﹂
﹁それがいいんじゃねえか。まァオレ様は今夜の酒はそのぐらいに
して、先に失礼するぜ﹂
ニシカさんは意外にもアッサリと飲食終了を宣言すると、立ち上
がって焚き火の側を離れていった。
やはり今夜何かあるかもしれないと、ニシカさんも警戒している
のだろうか。
1611
酒は大好きだから飲まずにはいられないけれど、ベテランらしく
こういう時はサッと引き際をわきまえているところが鱗裂きのニシ
カさんの信頼できるところだ。
などと感心していると。
同じ様に緊張した顔の雁木マリも、早々と食事を済ませてじっと
地図に視線を落とす作業をはじめていた。
俺はあまり学の無い人間だから、軍事方面については専門家であ
るカラメルネーゼさんや修道騎士のみなさんの意見を尊重すべきだ
ろう。
俺としては自分の役割を、戦闘時の駒なんだろうなと自覚してる。
何せ事ある度に、やれ全裸を貴ぶ戦士だ、辺境一の戦士だと言われ
ているからな⋮⋮
ちょっと全裸の卿扱いが悲しくなった。とても悲しかったのでた
め息をこぼすと、カサンドラが微笑んでくれたので救われたような
気分になった。
﹁交代要員と見張りの配置はどうしましょう? ネーゼ卿はご意見
があるかしら﹂
﹁そうですわね。わたくしならこことここ、それからその先の草の
背が高い当たりが気になりますわ﹂
﹁陽があるうちに刈り取ってしまった方がよかったわね⋮⋮﹂
﹁それもどうかと思いわすわ。こちらにあまり備えがあるようでは、
触滅隊も近付いてこないですわよ? そうすると予想外の動きをさ
れてしまって、かえって打つ手が無くなりますわ﹂
﹁うっ、そうだわね⋮⋮﹂
やはり俺のが口をはさむ余地は無いらしい。
最後に残ったぶどう酒の瓶を飲み干したところで、急に用を足し
たい気分になってきた。
完全に真っ暗になって不寝番が立つ時間になる前に、トイレを済
1612
ませておこうかね?
﹁ちょっとジョビジョバしたい気分なので、後の事は任せておいて
もいいですかね﹂
﹁あっぼくも一緒に行くよ﹂
俺がひと事、声をかけて離脱しようとしたところ、けもみみも連
れジョバを表明した。
女の子のくせにどうやって連れジョバするんだよと一瞬だけ考え
たけれど、彼女には息子が付いているのだからそれも可能なハイブ
リッドである。
俺とけもみみはふたりしてみんなから少し離れた小川の川下近く
にやってくると、俺はいそいそとズボンのひもを緩めるのだった。
﹁えへへ、一緒だね﹂
﹁うん⋮⋮﹂
その一緒というのは、一緒に連れションが出来た喜びを差してい
るのか、付いてるものが同じと言う意味か。
どちらにせよ、喜ばれてもどう返事してよいものか微妙な気分で
ある。
ふたり揃って恥ずかしがりやを並べて放水準備をしていると、チ
ラリとエルパコのかわいらしい息子が視線に飛び込んできて、つい
ガン見してしまった。
人間、未知なものには興味本位になってしまうもんで、このけも
みみの事を男の子だと思っているうちは自分と同じものが付いてい
るのだからと、それほど熱心に見る事はなかった。
しかし実は女の子でしたダブルピースとわかった今では、ちょっ
とその差異が気になってしまう年頃なのだ。
1613
⋮⋮と思っていたのは、どうやら俺だけではなかったらしい。
けもみみが、マジマジと俺が手でつまんだ息子を観察しているの
で、ちょっと恥ずかしい。まだ白昼の事ですからね、こういう事は
しっぽり夜のとばりで楽しみましょうやけもみみ奥さん。
などと馬鹿な事を考えながらジョビジョバった。
してみると、突然放尿をしながらエルパコが俺の息子から視線を
外した。
﹁誰っ?﹂
けもみみは警戒レベルを上げながら俺とお揃いの腰の剣に手を掛
けようとする。慌てているのか放尿しながらそんな事をするので、
剣はもたついて抜けない。というか出すのか抜くのかどっちかにし
なさい。あと腰を振ったら飛び散るのでやめなさい!
﹁⋮⋮オレだよ。ちょばっかけもみみお前こっちくんな!﹂
草むらの中から女の声がした。ニシカさんだ。
ちょうど俺たちの四、五歩先の背の高い草穂の間からちょっと恥
ずかしそうにその声が聞こえてくる。
気配に反応してけもみみが飛び出そうとしたが、ニシカさんに制
止されてしまった。当然だ、まき散らしながら前進してはいけませ
ん。
﹁何やってるんですかそんなところで﹂
﹁そんなもんウンコにきまってるだろ! オレさまは集中しないと
出ないんだ、邪魔するなよな﹂
さすがベテランと思わせる余裕を持った体力温存のための行動⋮
⋮かと思えばウンコかよ。
1614
全裸を見られても何とも思っていなかった様なニシカさんだが、
ウンコを邪魔されるのは駄目なタイプらしい。俺はひとつ賢くなっ
たので息子をしまい込みながら警告する事にした。
﹁えっと野営キャンプに戻る時は、大回りした方がいいですよ﹂
﹁何でだよ⋮⋮﹂
﹁そりゃ俺たちがニシカさんの正面でおしっこをしたからですね﹂
﹁いいからあっちいけよ、集中出来ないだろ!﹂
俺とけもみみは追い立てられてしまった。
﹁あっすいません。お先に失礼しますッ﹂
﹁うるせぇ気が散る!!﹂
ぺこぺこ頭を下げてニシカさんから逃げる様に野営地に引き上げ
ていく最中の事である。
いつもは無表情な顔をしているエルパコが珍しく笑った顔をして
﹁ぼく、びっくりしちゃったよ﹂と俺の顔を見上げながら言った。
﹁あそこにニシカさんがいるのに気が付かなくって﹂
ニッコリしたけもみみはかわいいなあ。
してみると、けもみみどのタイミングでニシカさんがそこに居る
とわかったのだろうか。
﹁エルパコくん、何の拍子に気が付いたのかな?﹂
﹁臭いだよ、風向きが変わったからすぐにわかったんだ﹂
途端に真顔になったエルパコである。
相手がベテラン猟師のニシカさんともなれば気配を消すのもお手
1615
の物だ。それを察知するのが得意なのもハイエナ獣人であるところ
のエルパコだが、さすがにニシカさん相手だとすぐに気配に気が付
かなかったらしい。
しかし、いかに飛龍狩りの名人と言われた鱗裂きのニシカも、俺
たちの風上でウンコをしていたのでは隠れきれなかったらしいね。
◆
さて、エルパコと並んで野営のキャンプファイアーまで戻って来
る。
雁木マリとカラメルネーゼさんたちが話し合って決めた夜間当直
と配置に従って、俺たちは就寝する事になった。
簡易テントは今回も女性陣が使う事になっているので、利用する
のはカサンドラに雁木マリとようじょ、それにカラメルネーゼさん
である。
仮にも騎士爵というお貴族さまに名前を連ねるカラメルネーゼさ
んであるから、露天下に寝かせるわけにはいかないと意見の一致を
見た俺と雁木マリは、本人が﹁別に気にしていませんわ﹂と言うの
をなだめすかして、お休みいただくことにしたぜ。
俺も今では大使閣下の身分だし、聖少女さまの雁木マリもまた、
いつでも飛び起きられる状況にはしておきながら不寝番の交代見張
り要員からは外れる事になった。
セレスタの傭兵たちがいるので、余裕を持った交代見張り員が出
来るのもいいね。
そういうわけで雁木マリは簡易テントに、俺は豪華な馬車の豪華
な長椅子に横になって寝る事にする。
本来はこの長椅子に座って大使閣下然と旅をすると思っていたの
になあ。気が付けば慣れない馬に跨って、えっちらおっちらとセレ
スタ界隈の山中までやって来た次第である。
1616
きっとこの長椅子でここまでやって来ていたら、それはそれでや
れ乗り心地が悪い、サスペンションの発明が待たれると文句を言っ
ていたような気がするなあと思いながら、やがて訪れる眠気に身を
任せつつあったところ。
馬車の外から﹁シューターいるか﹂と言う声がして、返事をする
よりも先に馬車の扉が開かれた。
首をもたげて俺を呼ぶのは誰だろうと確認したところ、果たして
それはニシカさんである。
くせ
﹁おい、臭ぇぞ⋮⋮﹂
ウンコから戻ってきたニシカさんは開口一番にそんな事を口にし
た。
ご自分の臭いかな? などと残念な事を考えていたら、ニシカさ
んが激怒するではないか。
﹁違うそっちじゃねえ!﹂
﹁なら何があったんですかね。ずいぶん長いウンコだったから、心
配していましたよ﹂
ちょっとおちゃらけた返事を返すとすぐこれだ。
などとニシカさんの憤慨に悲しい気分になった俺だけれど、よく
よくその表情を観察していると真剣そのもである。
俺は生唾を飲み込んでニシカさんの次の言葉を待った。すると、
﹁シューター、この野営は朝方たぶん襲われるぞ﹂
その言葉を口にしたニシカさんは、はじめて彼女をサルワタの森
の開拓村で見かけた時と同じ表情をしていた。
傷を受けたワイバーンを追うべく、俺を抜け駆けに誘ったあの日
1617
の眼だったのだ。
1618
祝クリスマス記念SS 鱗裂きかく語りき ︵※ 挿絵あり︶︵
前書き︶
メリークリスマス。
1619
祝クリスマス記念SS 鱗裂きかく語りき ︵※ 挿絵あり︶
それじゃあオレの相棒の話を聞いておくれよ。
なあに、相棒つったってさほど長い付き合いがあるわけじゃねえ
ンだが、あいつは強いのなんのってそりゃ頼りになるぜ。
名前はシューターって言うだろ。意味は弓使いという古い言葉な
んだってな。
けど笑っちまうぜ? あいつは弓がど下手なんだ。
猟師の癖に弓の練習をひとつもやらないものだから、鹿を狩るの
に仲間たちと森に出かけた時も、ひとりだけ矢を外しちまったんだ。
情けないもんだろう? あいつの嫁だってその時は鹿の尻に矢を
ぶちこめたんだぜ。
けどよう。
そんな奴のどこが強くて頼りになるんだって思うだろ?
シューターの野郎は、棒切れ一本で相手を制圧しちまうんだ。
それがもう魔法みたいなもんでな、ちょいちょいと振り回して見
せると、足をかけて転がして見せるわ、したたかに打ち付けて昏倒
させてみせるわ。
あいつはたぶん長い棒を持たせていたら最強だね。
嘘じゃねえ、今度機会があったら勝負してみな、お前さんがどれ
ほど強くてもたぶん瞬きする間に半殺しだぜ。
やめとくって? そりゃそうだな、芸術家の腕が折れて後遺症が残ったら大変だ、
やめときな。アッハッハ。
1620
◆
オレが用便を足しに草むらに踏み入った帰り道の事だ。
この辺りは山の中とは言っても少しは開けた場所で、街道から少
し外れた場所あたりにオレたちサルワタの人間はキャンプを張って
野営をしていた。
帰り道からでも幾つかある焚き火の明かりが見えていたのだが、
あれじゃあオレたちのいる場所を触滅隊の連中にわざわざ教えてや
る様なもんだなと、ついついそんな事を思った。
シューター
野郎の話じゃ、わざとそうしているらしい。
ここはまだオコネイルの領内だから、ここで襲撃を受けたとして
も妖精剣士隊がいるのであれば挟み撃ちに出来ると踏んでいるらし
いんだ。
けどそう上手くいくのかどうか、オレ様には甚だ疑問だったね。
何しろ触滅隊の連中がどこから姿を現すのかわかんねえんだから、
オレたちを餌にして獲物をおびき寄せても、ハンターである剣士隊
をいい場所に伏せておかなくちゃ囮をやる意味がないってもんだ。
むつかしい事はオレにゃわかんないが、少なくともオレがリンク
スなら、簡単に餌だけかっさらって逃げるぐらいはわけないぜと思
ったもんだ。
すると気が付いたことがあった。
試しにどういう風に自分なら奇襲をかけるのか考えて草むらの中
を静かにうろついていると、近くに何かの気配を感じたんだよ。
それこそ最初はリンクスか何かの動物の気配かと思ったんだが、
どうもそうじゃねえ。
捕食動物にしては色々とマヌケな奴で、やれ枝をパキパキと踏ん
だり、土をほじくり返す様なジャリジャリと音を立てる歩き方だ。
1621
そいつが気付いていないのをいい事に後をつけてみるとな。男の
ケツが見えるわけだ。
いや別に半ケツで歩いているわけじゃないぜ? 腰をかがめて低
い姿勢で、風向きの下手に移動しながら野営に近付いているわけだ。
見た目はどこぞの農夫みたいな格好だが、農夫がこんなところを
夜中にうろついているのはおかしい。
ひとついい事を教えてやるぜ。
人間な、何かに集中している時は周りが見えなくなるだろ。前だ
けに意識が囚われてるんだよ。
してみるとだ。こいつは獲物の状況がどうなってるのかと、熱心
に俺たちの仲間を観察している。
そしてどうやらこの男、仲間も引き連れていないらしいな。
猟師は単独で狩りをするのも結構だがお前は猟師じゃねえ、山賊
だ。
仲間がいるのなら、仲間と行動を共にしなかったのはいただけね
え。ふたりでペアの行動をしていれば、背後にも気を付けていられ
たのにな。
オレはしばらくその男の様子を観察した。
ひとの事に難癖をつけておいて、自分がケツを気にしていないの
では問題なので、もちろん背後はしっかり確認だ。
ばっかおめぇケツってオレ様の尻の事じゃねえ。助兵衛な眼で見
てたら眼帯暮らしにしてやるぞ!!
まあその男がとった行動は単純だったね。
草むらの中をごそごそ移動して、いい獲物はいないのか見て回る
ホラアナライオンみたいな仕草だ。
ホラアナラインというのは獲物を集団で襲うやつらだからな。最
初に斥候がそれを見つけると、仲間を呼んで囲むんだ。あれとやり
1622
方が似ている。
熱心に女の数を数えていたからよう。やっこさん、ニヤついた助
兵衛顔で引き上げていったぜ。しっかりと顔も確認したね。
シューターの嫁さんどもを頂く寸法だよ。
何も知らないというのは哀れだね、野郎は自分の嫁たちとキャッ
キャ楽しそうにさえずりあっていたのさ。
あいつはキレると手が付けられねぇ様な蛮族だからな、オレ様の
事を﹁黄色い蛮族﹂などと小馬鹿にしてくるが、どっちが蛮族だっ
てんだ。
前なんか野牛のダルクを嫁取りする時はよ、兄貴の族長様を半殺
しよ。
しかもカサンドラが出来の悪いマイサンドラの弟に手籠めにされ
た時なんかは、尋常じゃなかったね。
迷わず喉笛をこう、ひと突きよ。死ななかったのが不思議なもん
で、飛龍殺しのオレ様でもちびりそうになっちまったね、あれは恐
ろしかった。
ああ話が脱線しちまったな。
シューター
ビールをおくれよ、オレぁこの発泡酒が大好きなんだ。
これも野郎との思い出ばなしでな、あいつと呑みにいった時はじ
めて口にしたんだぜ。
だがそれは次の機会だ。シューターから金を巻き上げて酒樽を頂
いた時に、続きな。
助兵衛顔の斥候野郎が引き上げていくのを見て、オレはちょっぴ
り悩んだんだ。
何がってそりゃお前、このまま付けていくのか誰かに知らせるか
だ。
大きな獲物を狙う時は、ひとりでやるのは出来るだけ避けるって
もんだ。
1623
ワイバーンだってそうなんだぜ?
オレはこれまで猟師になって冬を迎えた数だけ単独でワイバーン
を仕留めて来たんだがね、何も好き好んでそうしていたわけじゃね
え。
一匹狼を気取るとロクな事にならねえんだ。カサンドラの親爺が
そうだった。
ユルドラのおっさんは腕のいい猟師に間違いなく、多分腕だけな
らオレ様よりよかったはずだが、おっさんはおっさんだった。齢に
は勝てねえ。
オレだっていい相棒がいたら、これまでだって間違いなくペアに
なる事を選んだね。
そしてオレには今は相棒がいるわけだ。ああ、シューターのこっ
た。
それで野郎を呼び出すか、それとも先に助兵衛顔の斥候野郎を付
けるべきか迷ったんだが、たまたま黒い同胞が目に留まった。
ああ、ベローチュとかいうオコネイルの旦那んとこからもらって
きた奴隷だ。
あいつは見てすぐにわかる様な戦士の訓練を受けたいい人材だ。
本当ならオレがもらって育ててやろうかと思ったんだがシューター
が助兵衛心を出したもんだから嫁候補よ。
けど黒いのがいるなら連れて行こうとオレは思ったわけだ。あい
つがいた妖精剣士隊というのはオレ様をぶっ飛ばした癪に障る連中
だが、たぶん斥候の訓練も受けてるしこういう時は使えるとピンと
来たね。
だから、草むらをうろつきながら立哨しているのを見つけたんで、
背後から捕まえてやった。
◆
1624
﹁もご、フガ。ひゃん、何するんですか﹂
﹁見回りをするのなら早く来いってんだ、もう斥候野郎が帰った後
だぜ?﹂
﹁な、何をするのですか黄色い蛮族﹂
﹁蛮族じゃねえ! おい、触滅隊と言ったな。怪しい野郎がこの野
営地を探りまわっていたぜ。確かめるから付いてこい﹂
ちょっと待ってください黄色い同胞、とかそんな事を黒いのが言
っていたが、そんなのは無視だ。
あまり騒がしく後ろでぴいちくぱあちく言うので、山刀を突き付
けて黙らせてやった。
少しばかり斥候野郎が去ってから時間があいちまったが、そこは
問題なかったね。
﹁見た目が農夫みたいな格好なら、言葉通り農夫かもしれませんよ
ね﹂
当然考えうるだろう疑問をベローチュは口にしたね。
別にオレを疑ってかかっている様な口ぶりじゃなかったんで憤慨
する事も無かったがね、あれは色々と可能性を探っている時の独り
言みたいなもんだ。
シューターもよくやってるが、野郎はおっぱいとかケツとか俺の
奥さんとか、そんな事しか言わねえからな。
﹁その可能性はあるが、そいつを確かめるために後をつけるんじゃ
ねえか。お前はどっちだと思う?﹂
﹁その口ぶりだと、ニシカさんは触滅隊の斥候だと決めつけている
みたいですが﹂
だからオレはあれが農夫のわきゃねえと思ったんだが、内心では
1625
この女も同意していたという事だ。
そこのところを正してやると、黒いのは暴露した。
﹁お前はそうは思わないのか?﹂
﹁すごく、怪しいと思います⋮⋮。自分らが二年間ずっと掃討作戦
をやってきたんですが、ひとつも尻尾を掴む事が出来ませんでした。
何か見落としがあるからなんじゃないかと、オコネイルさまも考え
ていまして。昨日もそういう可能性があるんじゃないかと、シュー
ターさまとニシカさんを拘束してしまいました﹂
﹁その事はこの際どうでもいい。だが、オコネイルさんも何を考え
てお前をシューターのところに送り込んできたんだ。どう考えたっ
てわざわざ奴隷に志願してくるなんておかしいぜ﹂
斥候野郎の足跡をたどってゆっくり移動している時に、そんな会
話をしておいたのさ。
距離もかなりあるのがわかったしな。逆にこっちは風下だから離
れていても相手の動きが微かにわかる。
﹁シューター卿に大変失礼な事をしたお詫びですよ﹂
﹁そんなもん誰が信じられるかっていうんだ。本当は裏があるんだ
ろ。ん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
言っちゃあ何だがシューターは顔は人並みで嫁さん持ちだ。嫁さ
んもオレの幼馴染カサンドラに野牛の娘、けもみみに村長さまと来
たもんだ。これにガンギマリーが婚約者とくれば、今更こんな男に
嫁いだところで、旨味があるはずもないからな。
考えれば誰でもわかる事だ、明らかに怪しい。
﹁貴族の結婚とは、親や上司が決めるものです﹂
1626
﹁そうだろうな、オレの村でも一緒だぜ﹂
﹁田舎の村と一緒にしないで頂きたい。自分はこれでも王都出身の
騎士の娘ですよ﹂
﹁どっちも一緒だろうがおい、結婚は上のモンが決めるのが普通の
事だ。してみるとやっぱりオコネイルの旦那の命令だったんだな﹂
オレがきっぱりそう言ってやると、ベローチュは草むらを静かに
歩きながら考え込んでいたね。
﹁はい、それはもちろんあります。しかし奥様もたくさんおられる
方ですし、嫁にせよ奴隷にせよ、彼の元に行ったところで自分はた
いして求められないだろうと考えました。奴隷から成り上がったと
聞きましたし、奴隷を無下にもしないでしょう﹂
﹁打算だな﹂
﹁結婚とはそういうものなんじゃないでしょうか? 少なくとも自
分ら貴族の家ではそれが当たり前です﹂
その辺の事はよくわからんね。
お前さんのところはどうだい、芸術家だって平民だろう? なら
オレたちと一緒さ。
街の人間は恋愛結婚をするのが上等なんだろう?
何だ、自由に恋愛できるという事は、相手を探すのも自己責任っ
て事か。
上等じゃねえか。オレも是非そういう事をしたいものだね。村長
さまはオレの結婚相手を世話できなかったので言うに事欠いて何と
言ったと思う?
貴様も猟師ならば獲物は自分で捕まえて見せろと言ったんだぞ!
信じられねえ女だ。自分はちゃっかり再婚相手を見つけたってい
うのにな、お笑いだぜ。
あ、これはナイショだかんな。誰かに言ったらぶち殺してやるか
1627
ら覚えておけ。
そいでちょうどその話になったんだよ。
﹁そういうニシカさんのお相手はどうなんですか﹂
﹁村長さまは結婚相手を世話しやがらないあげく、オレ様も猟師な
ら自分で獲物は見つけてこいと言いやがった﹂
﹁ご自分でですか、じゃあシューター卿を狙っておいでで﹂
﹁馬鹿を言うんじゃないぜ。あいつは相棒だ、それ以上でも以下で
もないんだよ﹂
﹁じゃあ結婚したら人生の相棒にもなれますね﹂
﹁ばっか言ってろ﹂
まったくお貴族さまは何を考えているのかさっぱりわかんねえな。
オレ様にまるで野郎を勧めて来るような口ぶりで、こういう話を
してくるんだからな。シューターはいいヤツだがカサンドラの夫だ。
あいつはオレの幼馴染だぜ?
ハーレムは家族、ハーレムは姉妹。冗談を言うな! カサンドラの事を義姉さんと呼ぶなんてのはまっぴらご免だぜ。
なあおいそう思うだろうが。
そしてある程度行ったところで会話はおしまいだ。
オレたちは停止した。
臭いに薪を焚いたものが混じったので、これ以上近付くのをやめ
た。
オレたちの野営でも言える事だが、いち度火をつけてしばらくす
るとな。木の中に混じった樹液やらが蒸発して混じる臭いが風に乗
って長い間滞空するんだよ。
そうすると例え火を消した後でも風の流れをたどっていけば大体
の位置がわかる。
たぶん触滅隊はおおよそオレたちの居場所に見当を付けていたわ
1628
けで、そこまで来て臭いでオレたちの場所を発見したんだろうね。
そして逆の事をオレたちもやったんだよ。相手が出来る事はこっ
ちも出来るってもんだ。
﹁これはもう村人ではないですね﹂
﹁ンだろ﹂
﹁自分もそう思います。この先までいきますか?﹂
うんにゃやめとこうとオレは引き上げる方を提案した。
村人じゃないと判断した理由は簡単だ。
集落で使う薪は半年寝かせて乾燥させたものを使うから臭いが違
う。木炭もあれは独特だからな。
してみると、そこいらで拾った枝を使って燃やしているからこの
悪臭だ。
だいたいの位置と、人数も何となくわかったのでさっさとキャン
プに戻った。
ベローチュは育てればそこそこ使い物になると思うが、オレ様の
相棒が務まるほどじゃねえからな。
﹁どうして踏み込まないんですか。今なら奇襲をかけられるかもし
れない、この二年、自分が受けてきた屈辱を返してやる事が出来ま
す﹂
﹁お前ぇは優秀だろうけれど、背中をあずけられるほどの信頼があ
るわけじゃねえ。そういう事が出来るのは相棒だけだ﹂
興奮する黒いのをなだめすかして、俺は言ってやったね。
お前は見込みがあるけれど、野心があって見え隠れしているから
な。シューターに近付いたのだって楽をして嫁なり奴隷なりの身分
で収まっていられるかじゃねえのか。
よそに嫁げば下級の貴族なんてオレたち平民と何も変わらねぇ生
1629
活だ。それよりいくらかましだろうし、オコネイルさんの命令で結
婚するんだからな。
﹁自分は羨ましいですよ﹂
﹁何がだよ﹂
﹁もちろんニシカさんがです。シューターさまという相棒がいるん
ですからね、背中を預けられるなんて言われてみたいものです﹂
﹁⋮⋮そろそろ黙らないとその舌を引っこ抜くぞ﹂
チッ。酒が無くなっちまったぜ。
なあおいおい、もう一杯ビールを持ってきてくれないか。
これが最後で構わねえからよ、オレは気持ちよくなりたいんだよ。
◆
オレたちが斥候野郎の足取りを追いかけていた頃な。
シューターは呑気に馬車のソファで寝っ転がっていたわけだよ、
くせ
扉を開けていいご身分さまだぜと言ってやりたくなったね。
﹁おい、臭ぇぞ﹂
事態を説明してやるのもまどろっこしくて、野郎にひと事言って
やったんだ。
これだけ言えば察しのいいシューターの事だ、わかると思ったん
だがね。でも駄目だった。
オレの説明が短すぎたんだろう、それどころか野郎はとんでもね
ぇ失礼な返事をしやがったぜ。
﹁ウンコの臭いかな?﹂
﹁違うそっちじゃねえ! 怪しい奴が野営をこそこそ見張っていた
1630
から、ベローチュと付けて来た。したら生乾きの枝を焚いた臭いが
この先で充満していたぞ﹂
さすがにこれだけ言えば寝ぼけた野郎にも伝わったぜ。
何しろオレたちは相棒だからな、そのあたり阿吽の呼吸というの
があるんだ。何?
半年足らずでそんな事がわかるかって? もちろんわかったさ、
あいつはオレの言葉を聞いたとたんに真面目な顔つきになったね。
女の胸やら尻を見て喜んでいる時とはえらいギャップだ。
﹁シューター、この野営は朝方たぶん襲われるぞ﹂
あいつの反応は早かったね。やはり俺の相棒が務まるのかシュー
ターだけだ。
﹁わかった。みんなを起こしますか? 守りを固めて待ち構えよう﹂
﹁いやそれはやめておいたほうがいいな、単純に相手にオレたちが
待ち構えているとバレちまったら、ここじゃない別のどこかで襲わ
れる事になる。こっちから先制攻撃をかけないか﹂
﹁じゃあどうするのがいいんですか﹂
﹁お前とふたりだけで奴らを釣り出してやればいい。こっちがふた
りしかいないとわかれば、あわてて数を頼みに出てくるだろうさ。
そこで罠の張っている場所まで引っ張って来るんだ﹂
これは冬にオレたちがワイバーンを仕留める時に使う狩りの手法
だ。
ワイバーンみたいな空を飛ぶ獲物を捕まえる時は地上に引きずり
降ろさねえと話にならないからな。
そこで餌で釣ってサルワタの森の中に下ろしたら、木々の多い場
所に引き込んで、ワイヤーやらトラバサミやらを使って怪我を負わ
1631
せるのさ。
ワイバーンは賢いぜ? 何せどいつもこいつも魔法が使えるから
な。
そこらへんの人間なんざ魔法も使えないんだから、そこをいくと
雑魚みたいなもんだ。触滅隊は空を飛ばねえ。
﹁やりようはあると思うんだがな。待ち伏せ場所まで引き込んでし
まえば、後はお貴族さまの妖精剣士隊さまの出番だ。ん?﹂
オレとお前なら出来ると思うぜ。春に村を襲ったワイバーンの抜
け駆けをやってのけたじゃねえか。
野郎にそう言ってやったら渋い顔をしやがったが、しばらく考え
込んでわかったと言ったね。
今までだって受け身で過ごしてきたから、オコネイルのおっさん
は触滅隊にやられたい放題だったんだぜ。
だから今度はこっちから仕掛ける出番だ。
念のためにエルパコとガンギマリーを呼んでな、使える人間だけ
呼んで待ち伏せをさせる事にした。
猟師が森の中で頂点捕食者でいられるのはな、常にこちらが主導
権を握っているからなんだ。
触滅隊にそれを奪われる前に、こちらがやればいい。
それで来た道をまた戻ってシューターの野郎を案内してやった。
あいつは戦士の訓練を受けていただけあって、街のへなちょこ傭
兵どもと違って文句を言わねえ。
黙って静かについてきたさ。多少はバキバキと枝を踏んで音を立
てていたが、その程度だ。風下選んで進んでいる間は気付かれるこ
とはないからな。
それでずいぶん街道を離れたところにやってきたら、小屋を見つ
けた。
1632
猟師小屋というやつだね。知ってるか? オレや野郎もほんの少
し前まではそこで寝起きしていたんだぜ。
﹁妙に懐かしいものを見かけた気分だ﹂
﹁サルワタの森の開拓村が恋しくなったんじゃないですか?﹂
﹁馬鹿言えよ、そんなんじゃねえ﹂
連中は半分崩れかけた猟師小屋を出入りしていた。きっと昼間の
内はここで日差し避けをして仮眠を取り、今になって起きてきたん
だろうな。
小屋は半壊しているので中身は丸見えだ。
ふたりで互いに敵の数を数えたところ、示し合わせると三五人前
後というところだった。
三五人という数が多いか少ないかわからんが、セレスタの街でお
前さんがいい気になっている時にシューターは十人相手に大暴れし
ていたからな。
オレはやって出来ない数じゃないと思ったんだが、野郎ここにき
てビビりやがった。
﹁さすがに予想以上の数だと思うんですけど、どうやって連中を釣
り出すんですか。接近して数人寝首をかいてこいというのは勘弁し
てくださいよ﹂
﹁それでもいいがよ、何のために弓を持ってきたかわかんねえだろ。
オレ様の得意技を言ってみろ﹂
﹁一撃必倒の強弓ですからね、よしそれでいこう。近づくやつは俺
が排除すればいいんですね﹂
物分かりがいいのは助かるね。ッワクワクゴロじゃこうはいかね
え。
1633
◆
手始めに、小屋の外で見張りについているヤツを狙う事にした。
ちょっと他の連中と距離が離れていて、気付かれるのに時間がか
かりそうだったからな。
だいたい目標と俺たちは、五〇歩離れた程度の遠さだ。普通に狙
ってだいたい当たるが、風の魔法なら部位を狙ってしっかり射抜け
る。
﹁ニシカさんあいつをやる﹂
﹁わかったぜ。他の連中が動かないか見張っていくれ﹂
それで一射必倒よ。説明が短すぎやしないかって?
そりゃお前ぇそれは弓なら一撃だからな、説明のしようがないん
だ。
けれども少しだけ細かく言うとだな、立ち止まってあくびをした
ところを狙って肺臓を射抜くんだ。声も無く倒れてそのうち死ぬ。
同じ事を二度くり返して小屋から離れているヤツは始末した。そ
うこうしているうちに連中が騒ぎだしたのよ。
そしたら今度は触滅隊を吊り出す番だ。
騒いでいる連中は蜂の巣をつついた様に偉い騒ぎだ。これはいち
いちこの距離から狙って射つのは難しいからな。わかりやすい様に
こっちの位置暴露をしておきながらひとりにとどめを刺しておいた
ら、みんなそろってこっちに駆けてきたぜ。
夜だからな、連中は松明を持っているからわかりやすい。
逆に俺たちは魔法で反撃をしながら、仲間の待ち伏せしている場
所までうまい事ひっぱっていったんだよ。
まあ途中で相手も大人数だから、追いついたやつがいてね。
それはシューターさまさまに任せておけば安心だ。
1634
距離のあるヤツは俺が暗闇からサクっと射抜いて、側まで来たヤ
ツは野郎が剣でバッサリよ。
これで距離を稼ぎながら、信号笛を打ち上げてやった。
キーンと空で音をがなり立てる、鏃が笛になった矢なんだが、遠
くの仲間とやり取りする時に使い分ける。
オレの信号笛を飛ばしてすぐにでも誰かが別の信号笛を使いやが
った。それが二度あった。
たぶんはじめのはけもみみだろうぜ。それからずっと遠くで鳴っ
たのは、カサンドラが野営で飛ばしたものだろうな。
これのどちらかが妖精剣士の連中に聞こえていれば、問題なく包
囲網が敷けるからな。
ああ、安心しな。信号笛は犬の耳にもよく聞こえるから、妖精剣
士隊が犬を連れているのを知っているからカサンドラたちも使った
んだ。
わけもなく使ったわけじゃないし、そもそも大混乱の触滅隊さん
もそんな事にまで気を使っていなかっただろうね。
﹁ニシカさん、キリがないぞ!﹂
﹁弱音を吐くんじゃねえ、矢はまだ十分にあるぞ!﹂
あの馬鹿はよう。仲間を伏せている場所まであとどのくらいある
んだと聞きたかったんだろうぜ。
けどそれを触滅隊の前で言ったらおしまいだからな。
少しは変な説明になったが、言いたい事は伝わったろうよ。
そんでようじょがいる場所まで引っ張ったら、オレたちの大勝利
というわけだね。
何しろ初級の魔法を使える人間だけでもガンギマリーにハーナデ
ィンがいる。けもみみのヤツは使えねえが代わりに弓が使えるしな。
そこに特大の魔法が大好きなようじょが隠し玉にいるから、連中
を皆殺しにするのはあっという間だったぜ。
1635
まあ、それでも生き残るヤツはいるもんだね。
しんがり
残りの連中は妖精剣士隊が追撃をしてくれたんだが、どうにも後
に残って殿をするのがひとりいたんだ。
この時に一番貧乏くじを引いたのは、オレ様の相棒だったんだが
な。
ニコラとかいう、触滅隊の副隊長をしているヤツがとんでもなく
強いバケモンでよ。こいつがオレ様の弓を弾き飛ばすわ、魔法は掻
い潜るわで往生したんだ。あいつはマトモな人間じゃないね。
たぶん冒険者のカムラの旦那よりも強かったと思うぜ。
そりゃもうお前、強くてヤバいヤツが出てきた時はシューターの
担当に決まっているだろう。
ガンギマリーも加勢に行こうとしたが、下手に手を出したらシュ
ーターが危ない。だから山の中を走り回って殺し合いをしていたふ
たりを、決着がつくまで遠くから見守るしか出来なかったわけだ。
もちろん最後は倒したぜ!
そこんところを聞きたければ、シューターを捕まえて聞くんだな。
おい、どこに行くんだよ。話はまだ終わってないだろう!
チッ。小便ぐらいその辺に垂らしておけばいいんだよ。
なあ兄ちゃん、頼むぜ後生だから最後の一杯。な?
オレは今晩最高に気分がいいんだ。頼むぜおい⋮⋮
ヘイヘイヘイの野郎はどこに行ったんだ。酒持って来い!
◆
誰かがオレ様の眠りを覚まそうとしている。
せっかく気持ちよくなって幸せ気分を味わっているのに、ちくし
1636
ょうめ。
肩をゆするのをやめておくれよ、気持ち悪いじゃないか。
水をくれ⋮⋮
﹁まったく、誰だニシカさんにこんなに酒を飲ませたのは!﹂
﹁⋮⋮もう誰にもオレ様は止められない﹂
﹁止まれよ、というか止まってください。あとそれは水じゃないで
すからね﹂
手元にあった小樽を口に運んだら、ビールだった。
不味い。しかも樽底に残った麦粕が口のまわりにへばりつくので
痒い。眼をこすった次は唇をこすったらズレたアイパッチがテーブ
ルに転げ落ちたので視界がよく広がった。
不景気な顔が上等な服を着ている様な男が、オレ様の顔を覗き込
んでくる。あんまり見るなよ照れるじゃないか、オレを酔わせてど
うする気だい?
眼の前にはシューターの顔があった。
﹁よう相棒、景気はどうだい。オレは気分が最悪だぜ﹂
今はいったいどれぐらい時間がたったんだ。宿屋の食堂には誰も
いねぇ。
あのインチキ芸術家野郎のヘイヘイヘイはどこに行った?
﹁そうだろうな、とりあえずニシカさん部屋に戻りましょう。風呂
に入るのは明日にして、水飲んで寝てください﹂
﹁駄目だ足がいう事を聞かねえ、連れてってくれ﹂
﹁嫌ですよ。前にもこういうことがあったんだ、ギムルさんと浴び
るほどを酒を飲んであんたを部屋まで運ばされた﹂
1637
﹁シューターの顔を見たら、とたんに安心したのか力が入らなくな
ったぜ﹂
﹁うまい事を言ったって駄目だ。奥さんに見られたらとても嫌そう
な顔をして後で責められる身にもなってくださいよ﹂
野郎、呆れた顔をしながらも肩を貸してくれたね。
でもおい、そこは抱き上げてくんねえかな。あちこち階段に足を
ぶつけて痛ぇんだ。
おうサンキューだぜ、そのまま部屋まで運んでくれ。おっとゆっ
くり頼むぜおい? 揺れると気持ち悪いんだ。
意識が飛び飛びになりながら階段を昇っていき、気が付けば部屋
の前にたどり着く。
何だか中に入るのに時間がかかっていたが、どうしてオレは廊下
に放り出されなきゃならないんだ。
早くしてくれオレ様は眠いんだ。あと水をくれ⋮⋮
﹁ほら、着きましたよ。ブーツをどうにかしてください﹂
﹁脱げねぇ⋮⋮﹂
オレがじたばたして見せると、野郎はあっさりブーツを脱がせる
手伝いをしはじめた。
悪いとは思っているんだが、こいつは出会った時からそうだった。
オレ様が無茶を言っても聞いてくれるところが気持ちいいね。ワ
イバーンもそうだったし、触滅隊の時もそうだ。他の奴らじゃ背中
を任せられねえが、こいつなら安心だ。
何しろオレ様の相棒だからな。
﹁よかったですね今日のところは部屋ひとりで独占出来て。ベロー
チュがいたら酒臭くて苦情が出ていたんじゃないですかね﹂
﹁奴隷の分際であの黒いのはどこいったんだ?﹂
1638
﹁隣の部屋で寝てますよ、もともとあんたが泊まるはずだった部屋
だ﹂
﹁じゃあここは何処なんだよ、お前の部屋か? まさかこのオレを
手籠めにするつもりじゃねえだろうな﹂ シューターは少しの間だけ驚いた顔のまま固まっていた、助兵衛
な顔をしてオレにこう言った。
﹁それは結婚の約束してからのお楽しみって、決めてるんですよ。
その気になった時は言ってください﹂
﹁じゃあ一生そんな日は来ないぜ﹂
あいぼう
フン、気を使わせちまって悪かったな。
ありがとうよオレの相棒。いつかその時のためにまあ考えておく
ぜ。
http://15507.mitemin.net/i1754
73/
マテルド
<i175473|15507>
イラスト提供:猪口墓露さん
1639
130 新月の夜に俺たちは奇襲をかけます
俺は鱗裂きのニシカさんの言葉にまんまと乗せられてしまった事
を激しく後悔した。
﹁さ、三五人!﹂
多すぎるぜ⋮⋮
それが街道から久しく外れた猟師小屋の周辺に潜んでいた盗賊ど
もの総数だった。
その数は俺とニシカさんで個別に数えた後、ちゃんと最後に答え
合わせをしたものだから大きく外れる事はない。
つまり俺たちの目の前には、完全武装した所属不明の武装集団が
存在している事になる。
これは当初、用便中にニシカさんが発見したという怪しい農夫の
向かった先を追ってきた時には予想していなかった数字だ。
ニシカさんは新参の褐色エルフのベローチュと、ある程度怪しい
農夫の行先の当たりをつけていてくれた。
最初俺は、連中が野営地を襲撃してくるようなら待ち構えて迎撃
態勢を取ろうと思っていたのだが、やるならば先手を打った方がい
いというニシカさんの言葉に乗せられて、マンマとここまで来てし
まったのが運の尽きである。
こんな数の相手を俺たちふたりで誘い出して、雁木マリやようじ
ょたちが潜伏している場所まで引き付ける自信はないよ。
失敗したら絶対死ぬ確信!
1640
﹁何だおい、ビビってるのか?﹂
﹁はは、まさかそんなわけがないじゃないですか﹂
ビビるというより、ニシカさんの豪胆さに俺は呆れたね。だから
味方のところまで、どうやってこいつらを引っ張り出すのか確認し
ておかなくちゃいけない。ビビるのはそれからだぜ⋮⋮
﹁さすがに予想以上の数だと思うんですけど、どうやって連中を釣
り出すんですか。接近して数人寝首をかいてこいというのは勘弁し
てくださいよ﹂
するとニシカさんはニヤリと不遜な笑みを浮かべてきた。それで
もいいがよ、と切り出した眼帯長耳は﹁何のために弓を持ってきた
かわかんねえだろ﹂と自慢の長弓を示してくる。
﹁オレ様の得意技を言ってみろ﹂
﹁一撃必倒の強弓ですからね、よしそれでいこう。近づくやつは俺
が排除すればいいんですね﹂
弓で釣り出すわけか、まあそれが順当なところだろうな。
﹁けど、こいつらただの盗賊連中じゃないですよ﹂
﹁ん? どういうこったシューターよう﹂
﹁あそこの、ボロボロの法衣を纏った連中の集団を見てください。
あれはどこかの軍隊に所属していた連中なんじゃないですかね。何
となく動きに統一感があるし、着ているものは汚らしいが、装備も
体の動きもどこかに規則性を感じた﹂
俺たちが潜んでいる森の中から、監視中の半壊した猟師小屋まで
の距離はおおよそ二〇〇メートルぐらいといったところだろうか。
1641
ここは暗がりの中だったけれども、ありがたい事に猟師小屋周辺
では松明がいくつか掲げられていて、小屋の前では焚き火も行って
いる。ぼんやりと連中の表情や仕草を観察するぐらいの事は可能だ
った。
ついでに俺の視力は、このファンタジー世界にやって来てから日
が経つにつれて、ますます良くなっている気がするのだ。
﹁言われてみれば貴族くさい動きだな。あれは村長が野営の時にや
る様なポーズだ。みんないつでも飛び出せるように片膝を抱いて休
憩し、剣を側において体を休めている﹂
﹁そうでしょう。だからたぶんブルカ辺境伯の軍から引き抜かれた
連中を、触滅隊に参加させていたんでしょうね。盗賊にしてはよく
統制が取れているのもうなずけるってもんだ﹂
見るからに農夫みたいな格好をしているのは、たぶん斥候を専門
にしている偵察兵か何かなのだろう。
逆に猟師みたいな、ひと昔前の俺みたいな恰好をした連中は本物
の盗賊あがりだ。度胸は備わっていそうだが、警戒心という意味で
はニシカさんやエルパコが持っている猟師独特の注意深さや、雁木
マリやハーナディンにあるような落ち着いた規則性がないからな。
恐らくこの地域に触滅隊がやって来てから合流したような、地元
の野盗連中だろう。
おや?
俺は連中を観察している時に、ちょっとやばそうなオーラを纏っ
ている人間をひとり発見した。
兵隊然とした雰囲気でもなければ、盗賊真っ盛りの風貌でもない。
例えて言うならライオンの群れの中にいるオスのリーダーみたい
な感じだろうか。テレビでやっていた動物番組で見た事がある様な、
1642
狩の中心的存在であるメスライオンに囲まれた、ボスライオンみた
いだった。
あれはヤバいね。
周りの連中も気を使っているのかちょっと距離を置いている。
時折、何かを話しかけたり報告を受けている態度からすると、あ
いつがこの集団のリーダーで間違いない。
﹁ニシカさん、小屋の壁に背中を預けている男が見えますか﹂
﹁ん? あれだな。胸甲を付けている野郎か﹂
﹁それです。たぶんあいつがやっかいそうだな﹂
﹁腕が立つのか?﹂
﹁わかりませんが、だいぶ落ち着き払っているところを見るとあい
つがこの集団のリーダーだ﹂
実際にどのくらい強いのかはわからないが、貫禄だけは間違いな
くあった。リーダーである事は間違いないので、この際しっかりと
殺しておくのは必要かもしれない。
と、そこまで考えたところで俺は自分に驚いた。
気が付けばあっさりと殺傷を当たり前に受け止めている自分がい
るのだ。罪悪感というものもあまりなく、義務的にこれはやってお
かなくちゃいけないと脳味噌が処理しているのも恐ろしい。
そしてたぶん。あいつを捕まえるという選択肢は無理だろうな、
と薄々感じたのだ。
そう感じた理由は、ずっと観察していたら、ふとそのライオンの
ボスみたいな男がこちらに視線を送って来た様な気がしたからであ
る。
こちらを見て、部下を呼ぶ。そして何事か会話したと思ったら野
盗のひとりが何かを叫んでひとを周囲に走らせる。
1643
﹁見つかったりしてますかね﹂
﹁それはねぇだろ。こっちは風下だし暗闇の中だ、見つかった気配
もねぇな﹂
だったら気のせいか⋮⋮
野盗たちは見張りを命じられたらしく、数名が半壊した猟師小屋
の周辺に配置に付く。
﹁おいおい、本当にバレてないんだよなあ。風の知らせで警戒を厳
重にするつもりになったのか⋮?﹂
﹁いや、そうじゃねえ。月だ、今夜は月が出ていない夜だからな。
こういう夜は視界がいよいよ悪いので、警戒しているんだろうぜ﹂
星が散りばめられた黒々とした空を差してニシカさんが小さく言
った。
なるほど。むかし俺が読んだモノの本によれば新月の夜は夜襲に
警戒すべしというシーンがあった気がする。確か戦記小説だったか
特殊部隊員の実録体験談だったか。
そして今俺たちがやろうとしているのも、まさに特殊部隊の隊員
めいた作戦だね。
﹁星の位置から判別すると、まだ夜明けまでは相当時間がある。や
るなら連中が油断している今だぜ﹂
﹁了解だ。接近しよう﹂
互いに装備の状態を確認しながら、接近を開始した。
ここから先は極力無言だ。
ある程度は猟師たちの使うハンドサインがあれば意思疎通は出来
るものだし、そもそもやるべき事は決まっている。
釣り出して、誘い込む。
1644
最初は二〇〇メートルほどの地点で観測していた俺たちだったけ
れど、じわじわと草をかき分けながら小屋を半周する様に接近した。
だいたい一〇〇メートルあたりまで近づいたらニシカさんがいっ
たん動きを止めて、俺がしっかりと付いてきているかを確認した。
服を着ていていてよかった。
変な羽虫が纏わりつく様に俺の周辺を飛び回っているけれど、こ
れが全裸の夜ならば虫刺されも酷い事になっていたかもしれない。
さらに接近する。
だいたい数十メートルそこらまでやって来たところで、不用意に
小屋周辺の明かりが届く距離を外れた場所で立哨しているヤツに眼
をつけた。
﹁ニシカさんあいつをやる﹂
﹁わかったぜ。他の連中が動かないか見張っていてくれ﹂
ここからならニシカさんの腕をもってすれば確実に相手を必殺出
来る。
必ず殺すと書いて必殺だ。
おもむろに片膝立ちをしたニシカさんは、その強弓に矢をつがえ
て解き放った。
見惚れる様な流麗な動きであくびをした野盗の立哨はあっさりと
倒れる。肺臓をひと貫きとはこの事で、抵抗らしいものもなくおし
まいだ。
﹁右の外れのヤツ、次はアレを﹂
﹁おう﹂
すぐさま左手にかけていた予備の矢をつがえて、無駄のない動き
1645
で射ち放つ。
またあっさりとひとりの男が死んだ。
この調子なら、セレスタとリンドルの往還を騒がせている触滅隊
の連中も入れ食いだ。
もちろん油断をしたわけじゃないぜ? 油断しているのは相手の
方だぜ。
だがこれ以上は不注意にかがり火の外苑に離れているマヌケは存
在しなかった。
けれども、ふたり目が倒れた時にドサリと音を立てたのだろう。
仲間の誰かがそれに振り返り、あわてて他の連中に大声を上げて
いるのがこちらにも聞こえる。
﹁何事だ?!﹂
﹁敵襲! ショリンドのヤツが殺られた。弓だぞ﹂
﹁全員姿勢を引くしろ、相手はどうせ寡兵だ。総員警戒態勢!!﹂
こっちは風下だからな、まだバレていない。
そして口調から察したところ、やはり連中は軍隊あがりか現役か
らかき集めた兵士を主力にしているらしい。こういう予想は当たっ
てほしくないね⋮⋮
しかしこれで動きが激しくなったので特定の誰かを狙って射つの
はやめにする。
うまい具合に騒ぎ出してくれたものだ。
﹁次、どうするよ﹂
﹁釣り出すぞ。あそこの焚き火の中に魔法攻撃を仕掛けて混乱させ
かざだま
るの可能ですかね﹂
﹁任せろ、魔法の風弾を打ち出したら、こっちに向かって走ってく
るやつをひとり仕留める﹂
1646
﹁そしたら背中を見せて一目散ですね﹂
﹁出来るだけ騒がしくやってやろうぜ。オレたちは敵に見つかって
ビビった挙句、逃げ出したという設定だからな﹂
﹁盛大にあわてて逃げてやりましょう﹂
ニヤリとしたニシカさんを見届けながら、俺も静かに刃広の長剣
を引き抜いた。
いいぐあいにキラキラと輝いている白刃は、きっと振り回せば連
中のかがり火に反射してくれるんじゃないかな。
﹁そらよ!﹂
左手に弓と矢を持った状態で右手をかざして見せるニシカさん。
そのまま眼に見える事が無い風の渦巻きを発生させたかと思うと、
それをキャンプファイアの中に盛大にぶち込んでやった。
火を焚きつけていた薪が飛び散って、驚いた連中があわてふため
く。
そしてめざとく魔法の方角を察知したらしい先ほどのライオン野
郎が叫んだ。
﹁敵襲の方向はあっちだ! 野郎ども急げッ﹂
いい反応だ。だが俺たちもただ待っているのは嫌なのでおさらば
だ。
ニシカさんが、置き土産とばかり俺たちを最初に見つけて飛び出
してきた山賊スタイルの男の頭蓋を貫通させた。
﹁ずらかるぞ﹂
﹁蛙飛びで行きましょう!﹂
1647
ニシカさんは木々の切れ目から黒々とした空に矢笛を打ち上げた。
間の抜けたヒョーンという音が森の中を駆け巡っていく。
俺たちはすぐにも走り出したけれど、走っている最中に何度か別
の矢笛の音が響くのを耳にした。
﹁ひとつ目のはエルパコの矢笛だ!﹂
﹁二度目のは誰ですか!﹂
﹁手前ぇの嫁さんだよ、ありゃキャンプにいるカサンドラのだ!﹂
そのまま松明を持った連中がぞろぞろと森の中に飛び込んでくる
のが見える。
俺たちは、蛙飛びよろしく全力で走っては足を止めて弓を打ち出
す。そしてまた走り出すを繰り返すわけだ。
このままッヨイさまを主力とする伏兵の場所まで引っ張っていか
ないといけないのだが、その距離が途方もなく遠くに感じられた。
まず暗闇の中だからな、息せき切って背後の松明を気にして距離
がどのくらいかを確認してニシカさんの射撃を見舞うのだが、
﹁いたぞこっちだ!﹂
﹁あまり固まるなよ、散開して包囲するんだ!﹂
連中は連携が取れていて、犠牲を出しながらも次々と追いついて
くる。
ニシカさんは確かにひとり、ふたりは弓矢でしっかりと射止めて
くれたのだが、全員が松明をもって山野の中を追走してくるわけで
はない。
追いつかれた数人を目の前にして、つがえた矢を下ろしたニシカ
さんも山刀を抜く。
俺はおもむろに飛び出すと盾となって連中と剣を重ねた。
足場が悪すぎて、互いに数度は大きく振り回すだけで踏み込みが
1648
甘い。けれど俺は足をとられてふら付いた瞬間の敵めがけて長剣を
差し込んでやった。
口から血の泡を吹いているのを暗闇で見たものだからギョっとし
たけれど、もうひとりの迫りくる相手の動きに合わせて剣を抜くと、
勢いそのままに腕を斬り飛ばしてやった。
﹁うぎゃああああ!﹂
﹁うるさいよ﹂
叫ぶ相手を蹴り飛ばして首根に剣を刺し込んでやった。
くそったれめ。この間にも包囲網がじわじわと狭められてくる。
たぶん敗残兵狩りはこんな風にやるんだろうなと頓珍漢な想像を働
かせながら、どこまで逃げ切れるかを考えた。
ひろうこんぱい
もうたぶんこの暗闇の中を五〇〇メートル以上走っている気がす
る。
アドレナリンが噴出している間はいいが、疲労困憊なのは隠せな
い。こんな事なら雁木マリにポーションをお注射してもらってくれ
ばよかったと後悔した。
今日は後悔し通しだね!
﹁ニシカさん、キリがないぞ!﹂
﹁弱音を吐くんじゃねえ、矢はまだ十分にあるぞ!﹂
振り返り足を止めてまた迫る敵を狙い撃ちすしようとするニシカ
さんだ。だがなかなか狙いを定めきれなかったのか、苛立ちがその
汗まみれの顔に見て取れた。
すると鱗裂きのニシカさんはおもむろにファッションアイパッチ
を外した。
﹁あんた何やってんだこんな時に!﹂
1649
﹁馬鹿野郎、オレ様はこういう時のために眼帯を付けているんだ。
見ていろ、こうだ!﹂
外した眼帯を俺に押し付けた彼女は、ばるんと暗闇で胸を揺らし
ながら矢筒から一本を引き抜いた。それは黒曜石の鏃ではなくて鉄
のそれだ。
胸甲を付けた軍隊崩れの野盗に向けて手早い動きで射ち放つ。
﹁おおっ﹂
﹁叫んでる場合じゃねえ。ずらがるぞ!﹂
どうやらこの眼帯は、いざという時のために夜眼に慣らす目的も
そのひとつだったらしい。
厨二病をこじらせたファッション眼帯だなって思っていたが、ご
めんなさい。
駆け出したニシカさんの後をすぐにも追う。
足をもつれさせながらも倒れるわけにはいかない。二度、三度と
振り返って集団がこちらに迫って来るのが見える。
もうすぐだ。もうすぐマリたちの伏せている場所にたどり着くは
ずだ。
そこまでくれば特大のようじょビームが連中をまとめて炎の暴力
で焼き払ってくれるはずだ。
だから俺もニシカさんもここまでくれば足を止めずに、とにかく
走る事に集中した。
殺気がもうすぐ背中のそこまで迫っている事はわかっているが、
立ち止まらない。
そして目印にしていた大きな岩がある場所までたどり着いたとき、
﹁シューターこっちよ!﹂
1650
ブッシュの中からそんな声がして、ニシカさんは迷わずその中に
飛び込んだ。
俺もあわてて剣を取りこぼしそうになりながらそれに続いた。
続いて、その後に頭から受け身を取りながらブッシュの中に身を
隠した瞬間、ッワクワクゴロさんの末弟ッジャジャマくんと野牛の
兵士タンスロットさんが、ロープを木の幹ごしピンと張り巡らせた
ではないか。
もんどりを打って倒れる男たちの悲鳴と防具の擦れる金属音がし
たかと思うと、月の無い夜の闇の中に太陽が出現した。
﹁フィジカル・マジカル・どっかーん!!!!!﹂
ようじょが特大の炎の魔法を現出させたのである。
策は成ったと俺は喜んだ。
1651
131 盗賊包囲網は完成しました ︵※ イラストあり︶︵前
書き︶
いったん投稿した本日分に加筆修正を加えました。
1652
131 盗賊包囲網は完成しました ︵※ イラストあり︶
ようじょの放った特大のファイアボールは、ちょうど俺の逃げて
きた暗闇の中で爆散した。
仲間たちの伏せていた場所は、地形的にちょうど小さな谷間を見
下ろす様になっていた。
俺が全力でそこを駆け下りながら逃走し、それを追撃する散開し
た触滅隊の連中も谷底めがけて足を滑らせながら駆け下りた様な格
好になっていたのである。
当然、集まって来た彼らにファイアボールが撃ち込まれる格好に
なったので、散らばった目標に対してようじょビーム放出させるよ
りも効果的であったというわけだ。
さすが賢くもようじょ、あたまッヨイ!
﹁ぎゃあああ! 火が、火がっ﹂
﹁誰か消してくれ助けてくれ! 焼ける!﹂
無慈悲にも業火に巻き込まれた触滅隊の連中は全部で十人あまり。
かなりの人数をたった一撃で戦闘不能に持っていく事が出来たらし
い。
そしてこの一撃で撃ちもらした、ギリギリでどうにか巻き込まれ
ずに済んだ触滅隊の人間たちを狙って、雁木マリとハーナディン、
それからニシカさんとけもみみが、それぞれファイアボールや弓を
使って仕留めようとしていた。
このわずかの間に敵は最初にいた全体の半分近くまで数を減らし
たはずだ。
1653
一方の俺たちは一緒に行動していたニシカさん、伏兵をしていた
ようじょと雁木マリ、けもみみ、ハーナディン、野牛の兵士タンス
ロットさんとッジャジャマくんの八人である。
敵が十五、六人まで数を減らしたことを考えても、まだ数的不利
な状態だ。
﹁散開しろ、固まらずに連中を包囲するんだ! 相手はこちらより
も数が少ないッ﹂
闇の森の中でそんな声が大きく響き渡った。
たぶんこの声は触滅隊を率いている例の強そうなリーダー格の男
のものだろう。
するとその声を聞いた触滅隊の連中は、森の木の幹をうまく遮蔽
物にして、ファイアボールや矢を避けはじめる。
訓練された兵士であるのか、憎たらしい事に混乱からの回復が早
い。
﹁おいようじょ、土の魔法でつららを突きあげてくれ﹂
﹁どこにですかニシカさん?﹂
﹁その先のあたり、どこでもいい。十本ぐらい盛大にやってくれ。
敵を狙わなくていいぞ!
ニシカさんの指示を聞いたようじょは、頭に﹁?﹂を浮かべなが
らもすぐにこれを実行する。もにょもにょと小さな呪文を唱えたか
と思うと、敵が散開しているあたりにズズンと十数本の土くれの棘
が出現した。
当然この攻撃はに被害を与えるわけではなかったけれど、ニシカさ
んは満足したらしい。
﹁ニシカさん、こんな事をしてどうするのよ! 意味があるの?!﹂
1654
﹁おう黙ってみてろ、こうするんだよ!﹂
ファイアボールを放つ手を止めた雁木マリに、ニシカさんはばる
りんと胸を豪快に揺らして弓を押し付けた。そして人差し指を土く
れの無数の棘に向けて竜巻の魔法を放出だ。
強烈な暴れる風の渦巻きは、土くれの無数の棘の先をへし折る勢
いで飛び込んでいく。というか土くれの先端はバキバキと折れるの
だが、これが前方の森の中に撒き散らされていく。
ッヨイさまご自慢の土の魔法にこんな使い方があったなんて驚き
だ。
それをニシカさんの風の魔法を使った事で、さながら散弾銃を発
射したような効果があったらしい。
﹁ニコラさま! ちくしょうこいつらは難敵です﹂
﹁いったん引き下がれ、下がって体勢を立て直すぞッ﹂
しんがり
﹁アジトまで逃げて、本隊と合流しますか?!﹂
﹁馬鹿野郎、例の場所で合流だ。俺が殿をつとめる!!﹂
闇間の中で連中が問答をしている。
どうやら一瞬でかなりの被害を出したので、撤退する方向に進ん
でいるらしい。
だがこの短いやり取りの中でもわかった事があるぜ。
ここにいる触滅隊の連中はこれが全員というわけではないらしい。
本隊が別にいて、この別動隊を率いているのはニコラという男、あ
のやばそうなオーラを出していたヤツだな。
その時である。
撤退行動に移ろうとしていた触滅隊たちを目がけて、闇の山中で
馬蹄の響きが迫っていたのだ。
1655
チャージ
﹁妖精剣士隊、突撃よぉ!﹂
あの男色男爵だ。この暗闇の山の中にも関わらず、妖精剣士隊の
騎兵を引き連れて男色男爵が騎馬突撃を決行したのだ。
逆落としとでもいうのだろうか、少し離れた場所で松明を掲げな
がら逃走を開始した触滅隊の後続集団に向けて容赦のない突撃を実
施している。
﹁新手か!﹂
﹁撤退急げ、逃げ遅れるな!!!﹂
俺たちは勝機を見出した。
雁木マリとようじょが顔を見合わせる。
﹁今です。包囲網を完成させましょう!﹂
﹁了解反撃、接争!﹂
この機会を逃さないとばかり、雁木マリは抜剣した白刃をファイ
アボールの延焼で煌かせながらハーナディンや野牛の兵士らととも
に駆け出した。接争という言葉は確か村でもワイバーン戦の時に冒
険者たちが使っていた言葉だが、きっと近接戦闘用意という様な意
味合いがあるのだろうか。
俺もそれに続く。うかうかしてはいられない!
﹁エルパコ、ッヨイさまを守りながら支援射撃だ!﹂
﹁わかった!﹂
﹁ニシカさんは俺の援護をしてくれますか!﹂
﹁おう任せろよ相棒!﹂
1656
俺たちは燃え盛るファイアボールの後を前進して、遮蔽物に隠れ
る触滅隊の連中を探しながら反撃に転じた。
連中も何とか動揺を打ち消しながら攻撃を仕掛けて来るけれど、
雁木マリやハーナディンは軍事訓練を受け、何度も死線を潜り抜け
てきただけに一対一の戦闘でその実力は完全に凌駕していた。
数度にわたって剣を重ね合わせても競り負けず押し返す形で最後
はとどめを刺す。
こういう時にしっかりとした防具を身に着けていない山賊まるだ
しスタイルの奴らは、簡単に傷を負ってくれるので楽だ。
逆に胸甲を付けているヤツは攻撃する場所が限られるので非常に
厄介だ。
そしてこういうヤツに限って俺の前に飛び出してきやがるんだよ
ね。
それを俺は姿勢を低くしながら敵の一閃を跳ね上げてやり過ごし、
そのまま肩でタックルをかまして転がしてやる。
むかし俺は殺陣の斬られ役を経験していたので、受け身を取りな
がら即座に転がって立ち上がり、剣を構えるまでの一連の動きは嫌
と言うほど訓練してきた。
そのまま体に覚えさせた行動でやってのけると、後続していたニ
シカさんがその男にブスリととどめを刺している姿が視界の端に飛
び込んできた。
俺はそれには構わず次の相手を探しながら周囲を見回すと、ひと
きわ恐ろし気なオーラを放つ存在を森の茂みの中に発見した。
殺気だ。これぞ殺気という感じでめらめらと闘志を躊躇なくまき
散らしている相手が、無言のうちに飛び出してくるではないか。
すぐ近くには残敵を掃討していた雁木マリがいた。隣でハーナデ
ィンもいるけれど、ふたりともその闘志の男に気が付いていない。
やばい。
そいつはまき散らした闘争心を雁木マリに接近する直前でひと塊
1657
にさせて、剣を振りかぶろうとしてきた。
触滅隊を率いているリーダー格の男ニコラだ!
﹁マリ、駄目だ逃げろ!﹂
﹁え? ちょ?!﹂
男はほとんどひと跳躍で距離を詰めたかと思うと、あわてて剣を
引きあげながら受け太刀をした雁木マリに豪快な斬撃を振り下ろし
ていた。
マリは受けた白刃ごと勢いよく肩に剣を押し付けられて悲鳴を上
げた。
すぐさまハーナディンが駆け出して突きを見舞おうとしたが、何
かの魔法を使ったのかそれが吹き飛ばされる。
違う、魔法じゃなくて鞘をハーナディンの喉笛に突き込んだのだ。
ほんの一瞬のうちに歴戦の修道騎士ふたりを無力化したその姿を
見て、俺はたまらず走り出していた。
もちろん逃げるんじゃない。
全力で潰してやる。
﹁シューター、そいつはやべぇぞ!﹂
﹁言われなくてもわかってる! 援護してください!!﹂
こいつは殺戮マシンみたいなやつだ。
剣豪みたいなヤツがこの世界にも存在しているとすれば、たぶん
こいつに違いない。
俺の気持ちが萎縮しそうになった瞬間にニシカさんの声がかけら
れて、すかさず後退する瞬間にニシカさんが放った空気を切り裂く
矢の一撃が駆け抜けた。
ニシカさんの弓矢なら一撃必倒、そう思うだろ?
けれどもその矢の一撃は、目の前で触滅隊のリーダーに斬り飛ば
1658
されてしまった。
﹁チッ!﹂
この瞬間を見逃したら攻撃のチャンスがなくなる。
俺は水平に剣を薙いでヤツとの距離を詰めようとするが、これは
そいつの服を切り裂いただけで終わった。
すぐにも頭上で山を返し、斜め斬りを見舞う。そして追従の突き。
だがそれらはことごとく剣豪マンにかわされてしまうと、今度は
反撃を許してしまった。
差し出した剣をすり抜けて斬りつけ、斬り上げ、そして体当たり。
その三度目で俺たちは白刃を重ねて押し合いへし合いをしながら
次の攻撃を互いに探した。
緩やかな傾斜のかかったここは足場が悪すぎるので、足を相手に
かけてやろうかと思ったがこれが難しい。
そしてこのリーダー野郎は口が臭かった。
鍔迫り合いをして互いに顔が接近しているので、暗がりの中で男
の臭くて荒い吐息が俺の顔にかかった瞬間、顔を背けた隙に押し倒
されてしまった。
男に押し倒される趣味はねえ!
たまらず地面を探って土を手でつかんだ俺は、そいつをニコラの
顔面あたりに撒きつけてやる。
﹁ぐおっ。おのれ﹂
どうやらやたらめったまき散らした土はニコラの顔にかかったら
しい。その隙に必死で俺は立ち上がって体勢を立て直した。
向うも完全に目潰しをされたわけではないのだろう。何度か暗闇
の中で眼をこする仕草はしたものの、剣を構えたままこちらに探り
を入れている。
1659
危機は脱したが、相手に切り込む隙がなかなか見つからなかった。
﹁マリ、大丈夫か!﹂
﹁⋮⋮肩をやられたわ、聖なる癒しの魔法で止血だけは何とか﹂
﹁ハーナディンの様子は?!﹂
﹁うっぐ、息をしています⋮⋮﹂
背後でうずくまっているふたりにむけて俺が叫んでやると、弱々
しい返事が返って来た。
死ぬ様な事はないらしいが、今しばらくは戦力として期待は出来
る状態ではないだろうな。
ハーナディンが肩口に傷を負った婚約者を引き下がらせるのを確
認しながら、足元をじりじりと固めた。
﹁おいニコラさんとやら。お仲間はみんなセレスタの領主さまの騎
兵隊に蹴散らされてしまった様だぜ﹂
﹁フン、その様だな﹂
﹁降伏するのが一番最善の策なんじゃないのかね?﹂
こんなヤツと命のやり取りをしていたら、いつ死んでもおかしく
ない。
殺し合いなどせずに降伏してくれるのなら、それが一番いいに決
まっているのだ。
たぶんしないだろうけどね⋮⋮
﹁盗賊は晒し首と決まっているのでな。どうせ殺されるぐらいなら
道連れに何人か魂の旅立ちに付き合ってもらうつもりだ﹂
﹁惜しいな、あんた軍人だろ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁剣の振りは大きく見えてその実、雑さがない。それは訓練を受け
1660
た人間の太刀筋だ。残念な任務を引き受けた結果、残念な死に様を
迎える事になったね﹂
﹁ぬかせ。そういう貴様も何者だ、道楽貴族が女を連れて旅をして
いるなどと、とんだでたらめだ!﹂
言うが早いか口の臭い男ニコラは剣を引きあげた。
すわ攻撃か?! と思うと、ニシカさんとけもみみがタイミング
を合わせて弓を射かけたらしい。
しかしそれも見事な剣捌きで、しかもこの暗闇の中で弾き飛ばし
てしまった。
それどころかその瞬間に隙を付いて攻撃してきたようじょビーム
すらも、受け身を取りながら避けてしまうじゃないか!
どうなってんだこいつ、とか何とかニシカさんが叫んでいる声が
聞こえた。
こんな奴を相手にするのは正直まっぴら御免こうむるのだが、こ
こで逃がして後々奇襲でもされようものなら、勝てる気がしない。
﹁くそ、逃がすか!﹂
俺はそのまま闇の中に身を消そうとしたこの男を追って走り出し
た。
何人か道づれにしてやるなんて殊勝な敗軍の指揮官めいた事を口
にしていたけれどとんでもない。こいつは死ぬつもりなんてまっぴ
らない。
生きる事を諦めたヤツのやる事じゃない!
背後を振り返った逃走中のニコラが、投げナイフの様なものを放
った。
くそったれ、俺はお前と違って華麗に剣で弾き上げるなんて事は
出来ないんだよ!
1661
何とか身をよじって避けたつもりが、肩をかすめる程度には傷を
負ってしまったようだ。するといきなり体を返したニコラが、剣を
振るって踊りかかって来た。
受け太刀したら駄目だ。
この勢いの乗った一撃で、雁木マリは受けた自分の剣ごと肩を斬
り刻まれたのだから避けるしかない。
しかし完全には避ける事が出来なくて胸元をばっさりとやられた。
いや、痛みが無い。アドレナリンが出ているからではなく、服だ
けをバッサリ斬られた。
間一髪で助かったらしい。
こちらもけん制の一撃で剣を薙ぎ払って見せたが、これも相手に
避けられてしまう。
どうする。
これでは一切、手が打てない。
だが生き残ろうとした人間はどこかに隙があるはずだ。
考えろ、考えるんだシューター!
http://15507.mitemin.net/i1759
14/
マテルド
<i175914|15507>
イラスト提供:猪口墓露さん
1662
131 盗賊包囲網は完成しました ︵※ イラストあり︶︵後
書き︶
おかげさまで、本日総閲覧数400万PVを達成する事が出来まし
た。
ありがとうございます、ありがとうございます!
1663
132 土くれのロンド
この男は逃走を図っている。
俺とこの場で斬り結んだ挙句に相果てて道連れ、などという殊勝
なつもりは微塵もありはしないのだ。
そうでなければ、チラチラと背後を気にしながら戦うはずがない。
その事に気が付いたのはもう何度目だろうか、激しく剣を重ねる
度に圧倒されて体の怪我を増やした後の事だった。
﹁ニコラさんと言ったかな。あんた、今までにひとを何人殺したこ
とがある?﹂
﹁それを聞いてどうする⋮⋮﹂
﹁俺はこれでも数えるほどしかひとを殺めた事が無いんだ。おかげ
で今もどうやってあんたを斬り刻んでやろうかと手の内を思案して
いるところなんだがね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮一〇〇人という事はないだろうな。お前もその内のひと
りに入れてやる!﹂
怪我と言ってもたいしたものではない。
俺の体にいくつもの斬り傷が出来ていたことは確かだが、触滅隊
を率いる男ニコラはそのひとつひとつの攻撃が浅かったので致命傷
までもらうことがなかったのだ。
冒険者カムラなら、もっと追撃の剣撃が深く俺に刺し込まれただ
ろう。
だがそれはない。
﹁剣の冴えが鈍ってるぞおい﹂
1664
﹁ぬかせ!﹂
﹁命が惜しいんじゃないのか?!﹂
挑発をしてやると剣を深々と刺し込んでくるのだが、この攻撃で
すら躊躇のある斬撃だったのだ!
その事実に俺はひどく心を傷つけられた。
確かに俺は元いた世界で空手道場に足しげく通い、時には剣術道
場やらチャンバラの真似事をやっていた様な、この男から見ればお
遊び程度に精を出していた人間かも知れない。
けれども今の俺の実力では決定打に欠ける攻撃しかできないとい
うのは、やっぱり悔しいじゃねえか。
浅い息を肩でしながら暗闇の中で相手の動きを探っているこの瞬
間も、ニコラの意識は背後に向けられている。
仲間たちから徐々に引き離されながら走っていは数合剣を重ね、
重ねては走り出すニコラは、やはりこの森の深さと新月の暗がりを
利用して逃げおおせる腹積もりなんだろう。
ニコラが駆け出した。
正直もう剣を振る腕も重くなり出していて、追いかける体は億劫
さを感じながら追従しているのに、ヤツはいくらも体力を使ってい
ないという風に森を走っていく。
いや、思ったよりも間抜けな逃走だったかもしれない。
どうも足場がぬかるんでいて、泥んこ道の中をヌポヌポとブーツ
を出し入れながら音を立てて逃げている様な格好だった。
沼地にでも足を差し入れてしまったらしく、俺たちは馬鹿みたい
な音を立てながら追いかけっこをした。
そしてまた振り返り数撃の剣を交えている時に、闇の中で先回り
をしようとしている人影をチラリと目撃した。
1665
雁木マリだ。
マリは逃走を計ろうという意図を見え隠れさせているニコラの動
きを封じるために、何とか先回りして俺を援護するつもりなのかも
しれない。
あいつは先ほど肩口に剣を一発見舞われているので、無理をして
欲しくはなかった。
彼女もかなりの死線を潜り抜けてきた歴戦の修道騎士ではあった
けれども、ニコラとの実力差は俺以上に大きく引き離されているの
だからね。
﹁シューター!﹂
﹁ちっ。しつこい女だ!﹂
マリが素早く剣を引き上げながら、俺たちの背後に回って攻撃を
仕掛けてきた。
これでニコラに隙でも作ってくれればありがたかったのだけれど、
彼女の攻撃と俺の一撃がうまくタイミングをあわせる事が出来ずに、
少しの時間差で互いに突き出した攻撃は綺麗にかわされ、あべこべ
に反撃を許してしまった。
マリの攻撃を力強く跳ね上げておきながら、俺が剣を突き出した
瞬間に体を入れ替え、足を蹴り出してきやがった。
脇腹をしたたかに蹴り抜かれた俺は、必死で耐えながら大きく剣
を振りかぶった。
すでに剣を構えなおしていたニコラにはたいした意味のある攻撃
ではなかったけれど、マリが体勢を立て直す時間だけは稼げたかも
しれない。
さらにもマリがファイアボールを打ち出す構えを見せたけれども、
その瞬間にニコラはブーツで土を跳ね上げてマリの魔法攻撃を妨害
しようとしてみせる。
足場が悪すぎて俺も大きく振りかぶった一撃に体重を乗せる事が
1666
出来ない。
これじゃニコラの事を笑えねえな。
あっさりとまたかわされてしまったじゃないか。
上空に発光の魔法を打ち上げて見せたマリは、俺の側に並んで剣
を構えながら口を開く。
﹁ごめんなさいシューター、今のあたしじゃこの男に歯が立たない
⋮⋮﹂
﹁気にするな、俺もこいつには苦戦しているんだ﹂
﹁せめてポーションは必要かしら﹂
﹁それを摂取する時間があればいいんだけどね﹂
暗がりの中に発光の魔法で浮かんだニコラの顔には、不敵な笑み
があった。
﹁乳繰り合ってるんじゃねえぞ!﹂
ニコラの剣が伸びた。
胴を確実に薙ぎ払えそうな勢いの乗ったその剣の軌道上に雁木マ
リがいる。
このままでは彼女の腸を一撃でまき散らせてくる様な伸びを見て、
俺は焦った。
同時にマリもその危険性に素早く気が付いたらしい。
即座に背後に飛びすさって大きく泥の巻き上げる音を立てたかと
思うと、上体を反らして攻撃をかわしてみせた。
いい反応だ。泥んこの中ではよく動けたと思う。
胸が大きければ確実にもっていかれたはずだ。貧乳は正義だ。
無い胸には攻撃をする事が出来ないのだ。
そして雁木マリの無い胸は俺に勝利のチャンスを与えてくれた。
1667
﹁くそっ!﹂
ニコラが舌打ちをしながら剣を大きく振り切った瞬間に、俺はタ
ックルをしかけていた。
体当たりは俺の得意技だぜ。不格好かもしれないが、有効な手段
だからな。
ここで倒れれば泥んこレスリングに巻き込まれて、余計な時間と
体力を使ってしまうニコラからすれば、最悪の攻撃のひとつだろう。
ニコラを押し倒してヤツの手に持った剣にかじりつくと。
親指固めでこいつの親指関節をキめてやる。悲鳴めいたものが聞
こえたが強引に破壊してやった。
なおも抵抗して来ようとするところ、顔面に拳を見舞ってやった。
剣さえ無ければこっちのもんだ。二発、三発。容赦なく駄々っ子
パンチで顔面を潰しにかかる。
何度も上下を入れ替えながら転がると、あいつはまだ生きている
方の手でナイフを抜きやがった。
振り回されると俺はあわてて飛び退ったが、ズボンを着られた。
カサンドラお手製のズボンに何しやがる!
思い切りナイフをブーツで蹴り飛ばしてやったら、足を掴まれて
引き倒された。
だが俺に飛びついて殴りかかろうとした瞬間、体を入れ替えて引
き倒してやる事に成功する。
ざまぁみろ!
俺はその首の気管を潰す様に、抜き手を放った。
﹁口が臭いんだよ⋮⋮﹂
◆
俺は生きている。
1668
服こそボロボロになるまで切り刻まれてしまったが、体のどこか
に致命傷を負ったという事はない。
発光の魔法の中で体の傷を改めてみれば、脇腹を薄く皮を削がれ
たのが一か所、腕に多少の傷が数か所、太ももには泥んこレスリン
グ中に負ったと思われる擦り傷がある程度で、ほとんど五体満足だ。
俺は生きている!
﹁あなた酷い格好よ﹂
﹁知ってる。俺のパンツどこにいった?﹂
﹁この暗がりじゃ、そんなのわからないわよ⋮⋮﹂
呆れた顔をして水の魔法をやさしく放出してくれる雁木マリのお
かげで、今俺は体中に纏わりついていた泥を洗い落としているとこ
ろだった。
大自然の森の中でシャワーを浴びるのも悪くないね!
﹁しかしマリもあんまり無理をするんじゃないぞ。ああいう手合い
がまた出てきた時は、ぜひ俺に任せてほしいものですねえ﹂
森の中で逃走するニコラを追っている時、俺は雁木マリの命の心
配を出来るほどの余裕が無かったことを自覚している。
もしもこの場所が平地の中で、足元が泥にとらわれる様な不安定
なところでなかった場合、ばっさりマリが斬られていた可能性は大
いにあったのだ。
﹁た、大切なひとが必死になって戦っているんだもの。少しでも協
力したくなるってものじゃない﹂
﹁けれどそれで命を落としたら何の意味もないだろ﹂
﹁結果が大事なのよ、あたしたちは協力して倒す事が出来たじゃな
いっ﹂
1669
雁木マリが高速リンボーダンスよろしく、ニコラの放った伸びの
ある一閃をのけ反って避けた瞬間に俺がチャンスを見出したのは事
実だ。
﹁おっぱいが大きければ危なかった﹂
﹁何よお前!﹂
﹁やめろぶべっ﹂
﹁ふん⋮⋮﹂
とても嫌そうな顔をしたマリが、手先から放水の角度を変えて俺
の顔をびしゃびしゃにした。
1670
133 俺たちは首実検をします︵前書き︶
本年最後の投稿になります。
活動報告を更新しました。
1671
133 俺たちは首実検をします
夜が明けるのを待って、触滅隊の追撃を実施していた男色男爵と
妖精剣士隊が、俺たちの野営キャンプのある場所まで意気揚々と引
き上げてきた。
生存者はわずか三名という少なさだったが、これは尋問により貴
重な情報源となる事だろう。
文をしたためたハーナディンは雁木マリと連名でそれに署名し、
セレスタ司祭に尋問の協力をする様に依頼をかけていた。
きっと司祭さまの容赦ない尋問と教化が行われるに違いない。
しかし男色男爵の格好は、朝の日差しのもとにそれをみると強烈
だ。
ピンク色のサーコートに紫のトゲトゲが付いた胸当てという一種
独特の装束は、オネエがオーダーメイドで用意させたものなんだろ
うな。
豪華な衣装とは裏腹に、男色男爵の手には盗賊の首が握られてい
てその組み合わせがちょっと不気味だった。
触滅隊を奇襲した際はカサンドラを守って野営地を守っていたカ
ラメルネーゼさんは、旧知の男色男爵を見つけると、簡易テントか
ら出て来て俺たちの側にやって来た。
﹁まるで猛り狂った牡馬みたいですこと﹂
﹁アタシの自慢の山岳騎兵はね、どんな悪路だって走破しちゃうの
よぉ﹂
どう、すごいでしょ? とばかり手に持った盗賊の首を俺たちの
1672
前に放り出してみせる。
哀れ首だけになった盗賊の顔は、白目を剥いていた。
﹁オコネイルさまは、さすが後宮警護を任されるほどの腕前がある
というわけか﹂
﹁そうですわね。王族のみなさまをお守りするためには武芸に秀で
ていないといけませんもの。それに近衛の仕事は女でなければ務ま
りませんわ﹂
﹁女⋮⋮﹂
どう見ても男色男爵は男だ。背高い格好に肩はがっしりとしてい
て、やや?せ型ではあるけれど、バスケットボール選手みたいな体
形と言えば伝わるだろうか。
つまり、本物のオネエなのだろう⋮⋮
チャージ
﹁騎兵突撃のタイミングは完璧でしたからね。あれは格好よかった
ぜ﹂
﹁それにしてもシューター卿だって、あの触滅隊幹部のニコラを打
ち取ったのでしょう? さすがは全裸を貴ぶ部族の戦士さまだわぁ。
惚れちゃった﹂
厚ぼったい唇を突き立てて、片目をつむってみせる男色男爵であ
る。
言うだけ言って満足したのか、男爵は野太い声で﹁アンタたち小
休止よ!﹂と号令をかけて下馬した。
﹁いやあ、あの服装と武勲とオネエ言葉に圧倒されて言葉がありま
せんよ。若いころからオコネイル卿は勇猛だったのですか?﹂
﹁そうですわねえ、まるで薔薇のケンタウロスだとわたくしも思っ
たものですわ﹂
1673
薔薇のケンタウロス⋮⋮
その薔薇というのはもちろんオネエな男色の事を揶揄しているの
だろう。けばけばしい衣装にトゲトゲしい攻撃、そして馬を自在に
操る騎士ぶりとでも言うのだろうか。
なかなかいい得て妙な言葉である。
﹁あぁらネーゼちゃん、素敵なネーミングセンスしているじゃない
のぉ﹂
﹁嫌味を言っているのですわよ? その色がとっても悪趣味だと言
っているのですわ﹂
﹁ななな、何ですってぇ?!﹂
﹁そんな事だから、あなたはいつまでも男に逃げられっぱなしなの
じゃないかしら? 童貞さん﹂
あ、やっぱりオコネイル男爵って男色だったんだ!
﹁い、言わせておけば好きな事ならべちゃって! あ、アンタだっ
て行かず後家の万年処女じゃないかしらぁ?﹂
﹁わっわたくしはただいずれ来るべき日のために乙女の矜持を胸に
生きておりますの!﹂
﹁何よ妖怪蛸足おババ!﹂
﹁言いましたわね、包茎ホモ男爵!﹂
ふたりの元貴族軍人たちは口汚く罵り合いながら、触手とトゲト
ゲの甲冑を絡ませながら喧嘩を始めてしまった。
こうなってしまっては俺の口出しする事は何もないね。
俺も包茎だし、その点を突かれると困っちゃう。
﹁いいのでしょうか、あのままにしておいて﹂
1674
﹁喧嘩するほどそれだけ仲がいいんだろう。それより服をもらえな
いかな、いつまでも全裸じゃ恥ずかしいから﹂
﹁はい、シューターさん﹂
困った顔をしているカサンドラを連れて自分たちの簡易テントの
前に移動することにした。
疲れた顔をした雁木マリとけもみみが、地図を広げて今後の予定
を話し合っているところである。
マリは寝不足からかズレたメガネの奥にクマを作っていたし、エ
ルパコも心なしか尻尾がだらんとしている様だった。
逆に。
続々と馬を下りてこちらにやってくる妖精剣士隊の面々を見ると、
何れも疲労の色をその顔に浮かべていたが、満足そのものの表情だ
った。
その中のひとりが口論中の男色男爵の元に走ると何事か言葉を交
わし、そのままこちらへ小走りにやって来る。
﹁大使閣下。あなたの使節団を襲撃しようとしていた触滅隊の連中
は、残らず掃討いたしました!﹂
﹁あ、ありがとうございます。ありがとうございます⋮⋮?﹂
﹁若干名逃げた者も居たようですが、すでに領内の集落及び近郊領
主には伝令を飛ばしておりますので、それらの連中が捕縛されるの
も時間の問題でしょう﹂
こちらにやって来た触滅隊の現場指揮官らしき男は、上等な衣装
を着て懐剣を身に着けているカサンドラを見て、朗々と報告を行っ
た。
隣には俺が全裸で立っていたのだが、こちらは完全に無視である。
まあ当然か。全裸だもんな!
1675
﹁あのう、シューターさん?﹂
カサンドラは俺に助けを求める様におずおずと視線を向けて来る。
俺はあわてて言葉の続きを引き取った。
﹁掃討任務お疲れ様でした。確かセレスタでは触滅隊の一部幹部が
指名手配されていた様に思うのですが﹂
﹁はぁ、こちらは⋮⋮?﹂
﹁サルワタの騎士シューター、わたしの夫です﹂
どうも夫ですと俺がいつもの癖でペコペコ頭を下げると、妖精剣
士隊の現場指揮官はぎょっとした顔をしたではないか。まさか全裸
が大使閣下とは普通思わないし俺もその立場なら無視する。
だから早く服を着ないといけないんだよね。
﹁大変失礼いたしましたシューター閣下! それでそのう、そのご
格好は⋮⋮?﹂
﹁気にしないでください。指名手配がかかっていたという事は、連
中の主だった幹部の顔については割れているという事でいいんです
よね﹂
﹁街や宿場で畜生働きをした連中の幹部格については俺もいくつか
この目で見ています﹂
まあ逃げられてしまったんですがね、と自嘲しながらうなずきを
返す現場指揮官に、俺は言葉を口にした。
﹁それなら見てもらいたい顔がある。昨夜、俺が仕留めた触滅隊を
つわもの
指揮していた男で、連中の仲間の言葉を聞いている限りニコラとい
う人物らしい。かなりの強者で悪戦苦闘した挙句、泥沼で命のやり
取りをしたもんだからこのザマだ﹂
1676
﹁ははぁ。沼の中で斬り合いをして、服が脱げてしまいましたか﹂
手当が終わったとは言っても傷だらけの俺の体を見やって納得し
たのだろう。現場指揮官はうんうんうなずきをかえすと質問を口に
する。
﹁で、その敵の指揮官というのはどちらに?﹂
﹁今俺の部下たちが山からこちらに運んでいるところだ。おい、エ
ルパコ!﹂
﹁なに、シューターさん?﹂
けもみみを呼ぶと、一緒に雁木マリも地図から顔を上げてこちら
を向いた。
﹁死体の回収はあとどのくらいかかりそうなんだ?﹂
﹁だいたいもう終わっているよ。ベローチュとッヨイさまが山に入
っているから﹂
なるほど、死体回収作業はひと段落がついているらしい。
連中がアジトに使っていた猟師小屋から伏兵をしていた場所まで
散開して戦ったので、死体の頭数を数えるのはちょっと大変だと思
ったけれど、まあまあ順調なようだ。
しかしエルパコの言い方を見ていると、男装の麗人の事をベロー
チュと呼び捨てにした。つまりけもみみからするとベローチュは自
分よりも下の人間という順列でも着けているのだろうか。
まあ自ら奴隷志願した人間だからそうなるのかもしれない。
﹁エルパコ、ベローチュを呼んできてくれるか﹂
﹁わかったよ﹂
1677
こくりと頷いたけもみみは元気よく、とはいかないが小走りに少
し離れた場所に走っていった。
あそこに山から回収した死体を並べているらしい。
﹁今のは?﹂
﹁旦那さまの第四夫人です。ハイエナの獣人種なんですよ﹂
﹁だ、第四?!﹂
その言葉を聞いて眼を白黒させている褐色エルフの現場指揮官を
前に﹁まだ結婚したばかりの新婚さんなんですよ、うふふ﹂などと
呑気に正妻は言っていた。
正妻の矜持とでも言うのだろうか、余裕の顔である。
﹁という事はですよカサンドラ大使閣下、他にも第二、第三の奥さ
まがおられるという事ですか?!﹂
﹁はい。第二夫人のタンヌダルクちゃんは野牛の族長の妹さん、第
三夫人はサルワタ領の騎士爵アレクサンドロシアさまです。他にも
⋮⋮﹂
この際だから聞いておこうと思ったのだろう、現場指揮官のした
質問にカサンドラがつらつらと答えていくのだけれど、他にもまだ
いるのかと驚いている彼である。
﹁彼女は婚約者ですね。騎士修道会における枢機卿にして聖少女修
道騎士さまのガンギマリー卿です﹂
﹁結婚したら聖女修道騎士になるわね﹂
﹁せ、聖少女ガンギマリーさま! これは失礼しました﹂
そうか結婚したら聖少女じゃなくて聖女になるのかーなどと俺と
カサンドラは顔を見合わせて感心していたけれど、いちいち驚愕し
1678
ている現場指揮官である。
よくよく考えてみると、妖精剣士隊の全員と俺たちが顔を合わせ
たわけではないしな。
俺とニシカさんを拘束した連中はその日の当直についていた分隊
のひとつで、他にも数個の分隊があるらしい。
残りの分隊のうち、セレスタの街を出立する時に儀仗にあたった
のがひとつ。こいつらは外交使節団を見送ったので当然顔が知られ
ている。
そして同時刻にリンドルに向かう門とは反対側から迂回して出撃
した今回の剣士隊の騎兵部隊だ。こいつは男色男爵が率いて救援に
駆けつけてくれた。
﹁おたくら妖精剣士隊というのは、全員が馬に乗った集団なんです
かね?﹂
﹁はい、男爵さまが王都より長耳族の中より連れてきた私兵集団で
す。剣技・馬術は言うに及ばず、弓術や斥候術も俺たちは仕込まれ
ています!﹂
﹁ところで君、お名前は?﹂
﹁インモラッチオン分隊士であります﹂
俺の質問に嬉々として現場指揮官さんが答えてくれた。
それにしてもひどい名前だ。舌が暴れそうだぜ。
﹁よしインモラッチオン分隊士、首実検をしてもらいたい男が運ば
れてきたので検分をお願いしたい﹂
﹁了解しました!﹂
向こうから死体を槍で作った担架の様なもので運んでくる野牛の
兵士たちに、俺たち視線を向けた。
ベローチュとようじょがその横についてこちらにやって来る。
1679
﹁ご主人さま、あらかたの死体はこれで回収ですよ﹂
この
﹁そう言えばベローチュはニコラの顔を知らなかったのだな﹂
﹁はい、自分は死体中に見知った指名手配者の顔はありませんでし
たね。インモ、君はどうか?﹂
男装麗人がかつての同僚インモラッチオンに質問するが、肝心の
インモラッチオンは驚いた顔をしたまま固まっていた。
﹁インモ?﹂
﹁あっえっと失礼しました。もしかしてこちらのご夫人も奥さまな
のでしょうか?﹂
インモラッチオンはようじょを指さしてカサンドラに質問した。
けれども指さしたままカサンドラに向き直ったせいで、指さす方
向がベローチュにズレていた。
﹁いえ、奴隷さんですよ﹂
﹁?!﹂
何という事だようじょまで奴隷にしたのかこのインモラル鬼畜貴
族め、という小声が聞こえたので俺はぎょっとした。
いやいやいや、まさかッヨイさまは未成年ですからね!
﹁どういう事ですか、どれぇ?﹂
﹁な、何でもないのですッヨイさま。このインモ分隊士がベローチ
ュは奥さんかどうか聞いてきたのです!﹂
ややこしい展開になる前にようじょに説明するついでに、インモ
ラッチオンにも理解してもらおうと言葉を探したのだが、
1680
﹁なるほどインモ、報告をするのを忘れていた。自分はこの度こち
らにおられるサルワタ騎士爵配のシューター大使閣下の愛人奴隷と
なる事が決まった﹂
﹁た、隊長が愛人奴隷ですと? 似合わん⋮⋮﹂
違う、こいつは勝手にやってきた押しかけ奴隷だ。奴隷のヘソピ
アスだってまだなんだからね!
その事をしっかりと伝えなくてはさらなる別の誤解をこのインモ
ラッチオンがしてしまうのではないかと声をかけようとしたところ、
どういうわけかカサンドラに手で制止されてしまった。
正妻がコホンと言葉を口にする。
﹁いけませんよベローチュちゃん。まだあなたは旦那さまの奴隷の
ままで、愛人になるとは決まっていないのですから。物事には順序
がとても大事なのです。わかりましたか?﹂
﹁失礼しましたカサンドラ奥様。果報は寝て待てといにしえの守護
聖人が伝えた言葉もあります。裸になって、自分は寝所で大人しく
待つことにします﹂
﹁それがいいでしょう。でも、順番は守るのですよ﹂
褐色エルフのインモラッチオン分隊士だけでなく、雁木マリとエ
ルパコまでこちらに白い眼を向けていた。
俺も白眼でぶったおれたい気分だった。
さて首実検の結果である。
﹁間違いない。こいつは尖突のニコラという通り名を持っている触
滅隊の副隊長だった男ですよ﹂
﹁尖突のニコラ?﹂
1681
﹁そうですね。鋭い踏み込みと伸びのある撃剣を使うので、畏怖し
た我々がそう名付けていました﹂
まさしく正しい二つ名の由来である。あれはそう呼ぶにふさわし
い難敵だった事を俺も認めるね。
鱗裂きを自称しているどこかの黄色い蛮族とは違うな⋮⋮。いや
ニシカさんもすごいひとではあるけど。
インモラッチオンの説明によると、ニコラは確かに触滅隊の人間
でしかも幹部格だったらしい。
﹁駅馬車強盗、両替商の襲撃、それから淫行斡旋に非合法の奴隷売
買と、こいつの指揮でゴルゴライとリンドルの往還はやられたい放
題だったのです﹂
ほほう、とんんだ大悪人だというわけか。
﹁我がセレスタでは、公衆浴場で湯治をしていたさる商会の会頭が、
その帰りがけにさらわれたことがあります﹂
﹁身代金目的の人質かな?﹂
﹁そうです。ベローチュ隊長は別の任務で留守にされている時だっ
たので、この顔をご存じないのも仕方がありませんね﹂
そうだったかな? と小首をかしげている男装の麗人だ。
この格好でも女性らしい仕草をすればかわいい。
しょくめつたい
﹁しかしこれであのニコラが触滅隊の斥候野郎だった事は確認され
たってこったな。おいシューターお手柄だなおい﹂
妖精剣士隊の隊員を手伝って遺体から首を切り離す作業をしてい
たニシカさんが、俺たちに振り返ってそんなことを言った。
1682
このえげつない作業を妻たちに見せるのは考え物だと思ってカサ
ンドラを下がらせようとしたけれど、元々猟師の娘だからなのか、
平気そうな顔をしているじゃないか。
一番とんでもないものを見てしまったと辟易としていたのは、ど
うやら俺自身だったらしい。
﹁そういう事になるんですかねえ、こんな事なら最初から無理にで
もッヨイさまを連れてくればよかったかもしれませんね。有無を言
わせず特大のようじょビームを撃ち込んでおけば、あれほど苦戦す
る事も無かったかもしれない﹂
﹁こいつは寝起きの時は役立たずだろう、主に下半身が洪水で﹂
ところがそれを聞いていたようじょは、ぷりぷりとニシカさんに
怒り出して不満を口にする。
﹁そんな事はないのですおっぱいエルフ! ッヨイはおもらししま
せんでした!﹂
﹁そうでしたねえッヨイさま、いいこいいこ﹂
﹁えへへ⋮⋮﹂
◆
すべての首実検を終えた俺たちは、首なし死体をひとところに集
めると、ようじょの火の魔法によって火葬する事にした。
不用意に死体を晒しておくと、ここいら界隈にワイバーンなりホ
ラアナライオンなりという獰猛な捕食者を呼び集めてしまう結果に
なる。
街道の近くという事もあって、死体はしっかり焼却した後に土に
埋められることになった。
1683
騎士修道会の人間である雁木マリとハーナディンが、聖職者とし
て女神様の聖訓を朗々と唱えた後にそれが行われた。
こいつらの死体は罪人集団のものであるから、誰もその死を悲し
む者はいない。
けれどもその成れの果てを哀れに思う事は確かである。
﹁触滅隊はこれで全部じゃないわぁ。コイツらを掃討しても第二、
第三の触滅隊がいるのよぅ﹂
﹁今回の件がトカゲの尻尾切りにならない様に、オコネイルさんに
はしっかりと治安維持にあたってもらいたいものですわ﹂
﹁当然よぉ。それにしてもシューター卿は剛腕なのねぇ。尖突のニ
コラと言えばアタシたちも手が付けられなかった悪党だったのに。
さすがドロシアちゃんの旦那さまねぇ﹂
﹁ドロシアさんの野望もこれで安泰ですわね﹂
﹁どうもどうも﹂
お褒め頂き、ありがとうございます。
妻のふたりの元同僚たちに誉めそやされて、俺は頭をペコペコと
下げておいた。
陽が高く昇り切る直前になって隊列を出発させた俺たちは、その
日の夕刻にひとつ目の宿場へとたどり着く。そこからさらに宿場伝
いに二泊したところで、ようやく本来の目的地であるリンドル領内
へと到着した。
山裾にそびえる美しい佇まいの城と、それを囲む階段状の都市を
見て俺たちは圧倒されるしかない。
﹁これが階段の白き嶺城と謳われたリンドルですか⋮⋮﹂
馬車の跳ね窓から顔をのぞかせたヘイジョンの言葉に、俺も納得
1684
した。
1685
133 俺たちは首実検をします︵後書き︶
みなさまよいお年を!
1686
134 階段の白き嶺城 1︵前書き︶
新年あけましておめでとうございます!
本年も村八分をよろしくお願いいたします!
1687
134 階段の白き嶺城 1
﹁⋮⋮ん、くっ!﹂
﹁最初は少し痛いかもしれないけれど、我慢ですわ﹂
﹁じ、自分は大丈夫です。ひと想いにさあどうぞ!﹂
四人の男女がとある宿屋の寝所に集まっていた。
場所はリンドルにある歓楽街の一角である。
豊かなおっぱいが重力に抗う事もかなわずふんにゃりと崩れてい
る姿を刮目して、とても不思議な気分になる。これがまもなく法的
に俺のものになるというならなおさらだ。
法的にはそうだが、きっと精神的に手に入れる事はない⋮⋮
﹁いい心がけですわね。それでは婿殿、ベローチュさんの気持ちが
変わらないうちにおやりなさいな﹂
﹁お、おう。大丈夫かベローチュ﹂
﹁いいんです。自分はそうして頂ける事で、幸福をこの体に感じる
事が出来るんですから﹂
つ
﹁そうか、んじゃ遠慮なく﹂
﹁痛ぅ⋮⋮。でも、すごく今、幸せです﹂
俺の名は吉田修太、三十二歳。
ただいま奴隷を手に入れた男である。
寝台にひとり横たわった褐色エルフの女の名はベローチュ。セレ
スタ領主オコネイル男爵の部下で、オネエな男色男爵が率いていた
妖精剣士隊の分隊長だったおっぱい黒エルフである。
その彼女の志願によってセレスタの街から奴隷としてサルワタの
1688
外交使節団に受け入れていたのだけれども、この度めでたく法的な
意味で奴隷となる手続きをしていた。
つまり、奴隷商人カラメルネーゼさんの手によって奴隷契約書が
作成され、俺がベローチュの褐色のおへそにピアスを通したのであ
る。
﹁化膿しない様に、ガンギマリーさんが処置してくださいますから
ね。ほんの少しの辛抱ですわ﹂
﹁任せてちょうだい、この程度の傷口はほんの数秒で消す事が出来
るわよ﹂
痛みに耐えかねて暴れた時の事を考えて蛸足令嬢がベローチュを
抑え込んでいたけれどそこは剣士の心得あるものだ。問題なく耐え
ている様だった。
俺の時はそんな言葉も誰もかけてくれずに強引にピアッサーをぶ
ち込まれたものだが、今回の時など気を利かせたカラメルネーゼさ
んが、歯を食いしばる用のコルクのハミを用意してくれていた。
そこまで騒ぐほど痛くなかったはずだが、まわりがこの対応なの
で俺は申し訳ない事をベローチュに強要している気分になる。
﹁それでは足を放しますわ﹂
この場合の足とは触手の事であるけれど、そう口にしたのはカラ
メルネーゼさんだ。
ひもぱん一丁で寝台に横になっていたベローチュはゆっくりと起
き上がると、彼女に雁木マリがシーツを差し出してやった。
﹁ありがとうございます﹂
﹁これであなたは正真正銘、サルワタの騎士シューターの奴隷身分
となりましたわ。主人の許可なくその側を離れたり脱走を働いた際
1689
は、国法によって逃亡罪が適用されますわよ。また、この瞬間より
所有権を有するサルワタの騎士シューターが人頭税その他の税金の
支払い義務を請け負う事になり、あなたは養われる立場となったの
ですわ﹂
﹁了解です﹂
これからは俺がこの男装の麗人を扶養しないといけない立場にな
ったらしい。
つまり奥さんをもうひとり娶ったか、養子を迎え入れたのと同じ
様なものなのだが、だからといってベローチュを自由にできるとい
うものでもない。
何しろ俺はカサンドラというよく出来た正妻が恐ろしいからであ
る。子供でも間違ってベローチュに最初に産ませてしまえばハーレ
ム大家族崩壊の危機なのである!
﹁どうしたのシューター、マヌケ面の猿人間みたいな顔をして﹂
﹁雁木マリ君、きみはアレクサンドロシアちゃんみたいな事を言う
ね﹂
﹁ドロシア義姉さんがそんなことを言ったの?﹂
義姉妹になると言う事も似てくるのだろうか?
◆
ところで俺たちは何もリンドルの宿屋でのんびり油を売っている
わけではなかった。
ゴルゴライやセレスタの街に入城する際に、色々とややこしい行
き違いが起きまくった事を考えて、領主との面会をするためには、
それなりに段取りをしっかりやってからにしましょうね、となった
のである。
1690
ようやく今頃気付いたかという話ではあるけれど、失敗しなけれ
ばその事に気付く事も無かったし、後々になって大失敗をしてしま
ったかもしれない。
﹁だからみんな、今回は作戦を変えましょう﹂
﹁何よ唐突にそんな事を言い出して、どうしたいっていうの?﹂
﹁先触れの使者を出して、受け入れ態勢を整えてもらっておいた方
がいいんじゃないかとね。また俺が兵隊さんと間違われたり、歓楽
街で揉め事に巻き込まれないようにしないためにも﹂
﹁主にあなたの問題じゃないの。シューターさえ揉め事を起こさな
ければ、そんなややこしい事をする必要はないわね﹂
俺を巻き込まれ体質の残念人間とでも思っているらしい雁木マリ
が失礼な事を言ったけれど、そこは無視しておいた。
そこで俺は提案をしたのである。
鉱山と交易の街リンドルに入城するにあたり、今回から先行して
まず使者を街に送り出す事にした。
その使者の役を買って出てくれたのはカラメルネーゼさんである。
元貴族軍人という事で馬術に長けていて高貴な身の上という立場
もある。
この手のお願いにはもってこいだったので平均時速十二キロ程度
で走る馬車隊列に先行する形で、リンドル手前の最後の宿場を出立
した彼女は正午頃にはリンドルの門の検問を通過した。
俺たちが泊まるための宿屋を探してもらい、その足で街にある聖
堂にも報告をしてもらう。 外交使節団の馬車隊列がリンドル市壁の城門を潜る頃には、待機
していたカラメルネーゼさんがリンドルの官憲さんたちと出迎えて
くれて、そのまま一旦は彼女が用意していた宿へと入る事になった。
1691
それが今である。
今回は面会の約束も余裕をもって到着から数日後にしてもらって
いた。
なので、ベローチュの奴隷契約を宿屋で済ませている間は、それ
ぞれが自由行動に出ている。
カサンドラとようじょが、セレスタで雇った護衛の傭兵付きで買
い物へと出かけていったし、ニシカさんはけもみみと一緒に市場調
査をするといって繁華の商店街を見て回る予定らしい。
ヘイジョンさんも今頃は街のあちこちでひとり写生大会をやって
いるんじゃないだろうか。
﹁奴隷になるというものは、きっと何か特別な高揚感とか屈辱感が
あるのではないかと思っていましたが、そういう事もないんですね﹂
﹁それはそうだろう。俺も奴隷だった経験があるけれど、普段はあ
んまりそういう感情はなかったな﹂
俺たちはというと、ヘソピアスが完了した後は繁華街に繰り出し
ている。
どういうわけか俺を中心にして右前を雁木マリ、左前をベローチ
ュ、さらに後方をカラメルネーゼさんというフォーメーションで道
中を歩いているものだから、かなり周囲に目立っているんじゃない
だろうか。
﹁この男はもともと奴隷体質だから、社会のゴミ身分になっても何
とも感じない鈍感人間なのよ﹂
﹁失礼な事を言うな! 俺はこれでも君の婚約者だぞ﹂
﹁婚約者だから遠慮無く言っているのよ。カサンドラ夫人にまるで
頭が上がらないことぐらい、あたしでも知ってるのよ?﹂
﹁ぐぬぬ、否定できない﹂
1692
もはや正妻の貫禄を身に着けつつあるカサンドラであるけれど、
ハーレム大家族の何か決めごとをする時は、彼女を抜きに相談して
はたいへんな事になるのである。主に夜のご奉仕が。
とても悲しい気分になったので腹いせに雁木マリの尻をぺろんと
撫でてやると、俺はその手を思いっきり叩かれてしまった。俺はま
すます悲しい気分になった。
﹁けれども普段はあまり、という事は何か特別な事を感じる時があ
ったという事でしょうか、ご主人様?﹂
﹁まあ特別な気分になった事はあったけどね。例えば、﹂
﹁例えば?﹂
﹁俺の場合はだけれど、クソみたいな奴隷商人から買い取ってくれ
たッヨイさまに恩義を感じて、せめてもご奉公に力を入れようとか。
同じく身請けをしてくれたニシカさんにも大きな借りを作ってしま
ったから、同じ事を考えたな。この恩はいつか返そうと﹂
なるほどと考え込んでいるベローチュに、雁木マリは余計な事を
言う。
﹁気にすることはないわ。愛人の末席にでも入れてもらったと思っ
て、いつも通りにすればいいの。ただしカサンドラ夫人の機嫌は損
ねない事ね。それから裏切りは許されないわ﹂
﹁は、はい。もちろん裏切ったりなんてしません﹂
やり取りを見ながら小さくため息をつくと、背後からカラメルネ
ーゼさんが﹁大家族の旦那さまも大変ですわね﹂などと他人事の様
に言いやがった。
そんな会話をしながら繁華街を歩いている途中で、ばったりと俺
はニシカさんとけもみみに遭遇したのである。
1693
﹁シューターさん﹂
﹁おう! お前ぇらも飲みに来たのかッ﹂
市場調査とか言っていて、ニシカさんは密かに酒場に繰り出すつ
もりだったのか。
相変わらずの赤鼻っぷりを指摘してやると、黄色い蛮族はあわて
て顔を赤鼻をひとこすりした。
﹁ニシカさん鼻が赤いですよ?﹂
﹁何? っかしいなあ。一杯だけしか飲んでないはずなのに?!﹂
﹁ちょっぴり酒臭いんですよ。ぶどう酒ですか?﹂
﹁うんにゃ、さとうきびの酒だ。こいつは美味いぜシューターよう﹂
バレたとわかれば開き直るニシカさんは、ほんのり甘みのある吐
息を俺に吐きかけながら俺の肩に腕を回してきたではないか。
やめろ。背の高いニシカさんが密着すると胸が俺のボディにタッ
チするのよ。
俺はたまらず前かがみになりつつ、息子の位置を調節した。
1694
135 階段の白き嶺城 2
奇しくもリンドルの繁華で出くわした俺たちの面子を確認してみ
ると、揃って戦闘職を担任するメンバーだった。
俺は言わずもがなサルワタの騎士であり、領内の警備責任者であ
る。今は外交使節の大使であるけれど、冒険者カムラにはじまりゴ
ルゴライ兄弟と巨大な猿人間、引き続きセレスタのパンストライク
一味や触滅隊のニコラといった難敵とも勝負を続けてきた。
鱗裂きのニシカさんは飛龍殺しの猟師であるけれどこれもゴルゴ
ライではフェーデ、セレスタや街道では共に難敵に対峙した俺の相
棒格である。
雁木マリは聖少女修道騎士として軍事訓練を受けたいわば戦のプ
ロフェッショナルであるし、猟師のけもみみも俺の護衛役を自認し
ている騎士見習いという立場でもある。
カラメルネーゼさんはと言えば実家が奴隷商をやっていていつの
間にか旅に引っ付いてきたよくわからない立場ではあるけれど、彼
女も元をただせば貴族軍人であり気が付けば護衛の騎士さまだと周
りに認識されていた。
ベローチュは⋮⋮まあどうでもいい。男装の麗人は自前の立派な
装備︵おっぱいの事︶を身に着けているが、どういう風に扱ってい
いのか俺も未だにわからない。まあ元妖精剣士隊の一員だから戦闘
職と言えばその通りだが。
1695
してみると、装備は何れも自前で持ち込んだものや、サルワタ出
発時に用意したものばかりだ。
バックラー
俺などは、よくよく考えてみると防具らしい防具など、ブルカで
購入した小盾すらも村の屋敷に置いてきたという始末である。
あの時に購入したメイスとバックラーは、今頃はタンヌダルクち
ゃんの護身用の道具として寝室に置かれている事だろう。
そしてふと街角で出くわした俺たちは、ちょうど武具防具を商っ
ている店の前に立っている事に気が付いたのである。
リンドルと言えば鉱山都市であるとともに、それら産品を加工し
た武具や防具もまた盛んに生産されている街らしい。
目の前の商店だけでなく、隣もその反対隣もまた武器屋防具屋な
のである。
﹁どうしたんですかねニシカさん?﹂
﹁いやな、オレ様の装備もずいぶん使い込んでいるなあと思ってよ。
ここ防具屋なんだろう?﹂
少し気になっているのか、装具屋の入り口から中をチラリと覗き
込んだニシカさんが俺たちに振り返ってそう言った。
確かにサルワタの鍛冶場に置かれている武器に比べてもバリエー
ション豊富なものが並んでいるし、ついでに村には無い多数の防具
も取りそろえられている。
くちくさ
﹁猟師をやっているのなら今のままの装備でもいいんだがよ、口臭
のニコラ野郎みたいなのにまた出くわした時の事を考えると、もう
少しまともな防具も取りそろえておいていいんじゃねえかと思った
んだよ﹂
﹁言われてみれば確かにそのとおりね。あたしたちは仮にもサルワ
1696
タの外交使節団なのだし、あたしも、いつまでも修道騎士の正規装
備のままというのもどうかと思っていたのよ﹂
ニシカさんに続いて、雁木マリも自分の法衣の端をひょいとつま
みながらそんな感想を口にする。
俺もその言葉を聞いて考え込んでしまった。
普段、出くわした敵と命がけの戦闘をしたあげくに身ぐるみ刻ま
れて引き剥がされるのは、まともな防具を身に着けていないからに
違いない。
そう結論付けた俺は、せっかく街に繰り出しているのだし装具店
を覗いてみようかと提案した。
﹁そういう事ならちょっと寄っていこう。エルパコはどんな装備が
欲しいんだい?﹂
﹁シューターさんとお揃いのものがいいな﹂
﹁じ、自分もご主人さまと同じ装備を所望するであります!﹂
質問してみたところ、けもみみに対抗してか男装の麗人まで同じ
様な事を口にした。
するととても嫌そうな顔を浮かべたけもみみが、男装のおっぱい
を睨み付けるではないか。
﹁身だしなみは重要ですものね。リンドル子爵との面会の予定まで
日もまだありますし、この機会に装備を改めるというのはいい事だ
と思いますわ﹂
﹁カラメルネーゼさんもそう思いますか。じゃあ入ってみますか﹂
﹁支払いはどうなさるのです? それなりの見栄えと実用に耐える
ものを全員分整えるとなると、それなりに予算が必要になると思い
ますわ。それぞれの手持ちのお金では難しいのではなくって?﹂
1697
わたくしは大丈夫ですけれどとカラメルネーゼさんが言った。
確かにそうだ。奴隷商人の彼女や、ブルカの金持ち街に住んでい
た様な雁木マリはともかくとして、ニシカさんが金目のものを持っ
ているかどうかは非常に怪しい。
ブルカで稼いだ金がいくらか残っているかもしれないが、もしか
すると酒場通いでそれも消えつつあるかもしれない。
けもみみはそもそも俺の家族だから、俺の財布の中身から支払う
しかない。
男装の麗人も元はセレスタの官憲であるけれど、俺の家族もとい
奴隷という意味では俺の財布と一心同体である。
﹁必要経費という事でいいんじゃないの? みすぼらしい格好で諸
領主に謁見するのは外交上も不利益だわ﹂
うんうん悩んでいた俺に向かって雁木マリが提案してくれた。
まあそうだよね。
チャージ
じゃあみんな自由に買いなさい。と声を掛けようと思ったけれど、
すでにニシカさんを筆頭にけもみみや男装の麗人は店の中に突撃を
決行していた。
これはもう止められない。
タクティカルベスト
﹁おいこれを見てみろ! こいつは多機能チョッキというやつじゃ
ないか﹂
﹁商品タグに猟兵チョッキと書いてあるよ﹂
﹁おおお、格好いい名前だぜ気に入った!﹂
﹁ニシカ奥さま、見てくださいこのナイフ、真ん中で屈折してて超
イカしてますよ! 自分には似合わないかな、でもニシカ奥さまに
は﹂
﹁奥さまじゃねえ!!﹂
1698
⋮⋮これはもう止められない。
﹁さ、わたくしたちも行きましょうか。公費でお買い物が出来るな
ら、遠慮なく﹂
﹁おっお手柔らかに﹂
カラメルネーゼさんに促されて、雁木マリと顔を見合わせて苦笑
を浮かべながら俺も店内へと入る事にした。
店内へ入ってみれば色々と驚かされる事でいっぱいである。
手前側には売れ筋品がずらりと並んでいる様で、奥は右に防具、
左に武器といった感じに並べられている。
俺はすでにサルワタの騎士が帯剣するという刃広のそれを持って
いるので、武器についてはあまり食指は動かない。
けれどもチラリと見た感じだと同じ肉厚刃広の剣という商品でも、
研ぎの入っていない長さも微妙にまちまちなそれが、束ねられて置
かれているではないか。
きっとサイズ選びをして気に入ったものを、加工するというスタ
イルを取っているのだろう。
この世界の剣は耐久度重視なので、もし武器をどうこうするにし
ても今は研ぎを改めるぐらいで十分だろう。
なので自然とマリとともに左奥の防具が揃っている場所に向かう
事にした。
﹁あなたはいつも激しい戦闘に見舞われる事が多いから、しっかり
とした防具を身に着けるべきね﹂
﹁お説ごもっともです﹂
﹁それに加えてサルワタの大使、つまり外交官でもあるのだから礼
装と一緒に身に着けてもおかしなものじゃない必要があるわ﹂
この世界の儀礼的な正装がどういったものかいまひとつ理解出来
1699
ていない俺は、転生者の先輩である雁木マリにその辺りの事を任せ
ておく事にする。
マリは片っ端から吊るしの鎧を手にとっては、右と左に持ち並べ
て首をひねっていた。
黙って横で見ていると、どれもマリが身に着けているのと同じ鉄
革合板の鎧というやつである。値段的にはなかなかお高い代物らし
い。
俺自身はこれまで機動力が落ちる事を懸念して防具の類は食指を
示してこなかったけれど、いざ着用するという事ならしっかりした
ものがいい。
﹁隣には鎖帷子があるけれど、それは駄目なのか?﹂
﹁チェインメイルは駄目よ。シューターは体を張った白兵戦をする
事が多いんだから、あまり重くてかさばる防具は困るでしょう?﹂
コート・オブ・プレート
﹁確かに。尖突のニコラを相手にした時も、組討ちしてようやく倒
したぐらいだからな﹂
﹁でしょう? だったらあたしと同じ鉄革合板の鎧にするか、隣の
ブリガンダインにする方が合理的というものよ﹂
ほう、マリが着ている鎧の名前はコート・オブ・プレートという
のか。
鉄の鎧の型をプレスするように表面と裏地を革で挟んでいる防具
なのだが、あまり激しい戦闘を肉薄してする様だと、形状によって
は腕の可動域が狭まる様な気がするな。
隣の、マリがブリガンダインと呼んで差した防具の方は、同じく
鉄と革を張り合わせた胸部装甲防具であるけれど、こちらは見た目
が防弾チョッキみたいな形状をしている。
貫頭衣よろしく被って着用する胸の防具なのだけれど、腰まで長
いものもあれば、本当に胸部だけを守る様に作られているものもあ
る。
1700
ついでに言うとこのブリガンダイン、短冊状の金属を繋ぎ合わせ
て作られているらしく、機動性がとても良いのが気に入った。
たぶんコートなんとかよりも俺の装備にピッタリな気がする。
﹁あら、ブリガンダインにするの? いいわね。デザインが色々あ
るから、あたしもそれにしようかしら﹂
そんな事を言いながら、手に持った鉄革合板の鎧を吊るし直すと、
隣のブリガンダインのコーナーにマリは移動した。
気が付けば俺の後ろにけもみみと男装の麗人がいる。
﹁お前たちはお揃いの装備がいいのよね。三人が着てもそれぞれお
かしくないものを選びましょう﹂
﹁そうですね、でしたら自分はこれがいいんじゃないかと思うので
すが、ガンギマリー夫人もせっかくならお揃いにしますか?﹂
﹁べ、別にあたしまで同じにするには文化の多様性が無い連中みた
いに見えるじゃない。嫌よ﹂
ベローチュの提案はあっさり否定されたらしく、とても悲しそう
な顔をしておっぱいを腕にこすり付けてきた。こらやめなさい!
するともうひとり、無言で悲しそうな顔を浮かべるけもみみだ。
もしかして対抗して同じことをやるのかと思ったら、それをやっ
たのは意外にも雁木マリの方だった。
﹁ほらシューター、これなんてどうかしら。あまり大きなものでも
ないし、体にフィットするものだからチョッキを羽織ってもサーコ
ートの上からでもおかしくはないわ﹂
俺の胸にブリガンダインを押し当てて﹁うんいい男に見えるわ﹂
とひとり納得したりする雁木マリを見て、果敢にパイタッチを挑ん
1701
できたベローチュも厭戦気分になった様だ。
おっぱいなんて飾りなんです。大切なのは愛情なんです。
﹁うーんでも。馬子にも衣裳とは言うけれど、あなたが防具を固め
てるのって違和感ぬぐえないのよね﹂
愛情は無かった。
やっぱり全裸がお前にはお似合いよなどと言われかねない空気を
感じたので、俺はたまらず逃げ出した。
﹁まずはお揃いの装備もいいけれど、自分の身にあったものを探し
なさい。命を預ける防具だからね﹂
﹁わかったよ﹂
﹁ご主人さまの命令とあらば、そうさせていただきます﹂
みんなそれぞれ思い思いの装備を買い、俺も雁木マリが勧めてく
れたものを購入する事になった。
とは言っても、ニシカさんがへんてこなナイフと猟兵チョッキと
いうのをこの店で購入した他は、みんな似た様なブリガンダイン鎧
の購入で落ち着いたんだけどね。
この鎧のいいところというのをカラメルネーゼさんが説明してく
れたけれど、
﹁たいへん高価な代わりにメンテナンス性が非常に優れているので
すわ。何度も補修をして使い続ける事が出来ますし、表面の革の上
にベルベット生地で装飾を施したり、家紋を入れたりする事もよく
行われていますわね﹂
という事らしい。
俺に雁木マリにけもみみに男装の麗人、それからカラメルネーゼ
1702
さんのものまで購入して、この表面の加工までお願いしたところ、
お値段なんとブルカ辺境伯金貨三枚と、騎士修道会銀貨五枚という
とんでもない額になった。
﹁俺はあとこの天秤棒を買っておこうかな?﹂
﹁いらないでしょそんなの。必要になればその辺の農家から借りて
くればいいわ﹂
俺は硬くて丈夫で立派な黒光りする木の棒を見て購入を決意した
が、雁木マリに否定されてしまった。
◆
買い物ばかりを堪能しているわけにもいかない。
あくまでもリンドルという街の情報を集めるのが目的だからな。
俺たちは装具店で色々と武具防具を買い込んだところでいったん
広場の方に移動した。
近くで街の様子を写生しているヘイジョンがいるはずで、カサン
ドラたちもこの辺りを買い物して回っていると言っていたからであ
る。
﹁こうして見上げると、本当にひな壇状に街が積み上がっているん
だな﹂
﹁そしてその頂点に城府があるというわけね。鉱山を背中に抱いて
都市が出来上がったというのも頷ける構造になってるわ﹂
前に訪れたセレスタの街は小山を切り崩して十字に回廊が貫き、
周囲に市壁を巡らせた高低差をうまく利用した構造をしていた。
そういう意味で、リンドルは文字通り階段状に街が続いている坂
1703
の街なのだ。それぞれの階層を之の字というかジグザグに走りなが
ら城府に向けて道が進むのだ。
最下層の部分が宿屋と繁華街、それから倉庫などが立ち並んだ地
区で、その上の階層が職人たちの工房や市民の居住区、そしてその
上が高貴な身の上の人間たちの屋敷が立ち並び、さらにその最上層
にあたるのが城府である。
城府にはリンドル領を治める子爵家が住まわっているのだが、そ
こまで至るまでには四〇〇〇の市民が住むそれぞれの階層を突破し
なければ到達する事は出来ない。
軍事的にもよく考えられた防御区画を形成する城塞都市なのだろ
うと俺は愚考した。
﹁リンドルの聖堂は第二階層にあるんだな。もっと上の階層にある
のかと思ったけど﹂
﹁女神様は信徒と共に存在しているのよ、別に金持ちに寄り添って
いるわけではないからね﹂
そんなマリの言葉に、俺とけもみみは顔を見合わせて納得したと
ころである。
するとその時何かを見つけたらしいニシカさんが、ひと声上げた。
﹁あいつら目立つなおい﹂
買ったばかりのタクティカルベストは、ニシカさんのたわわな果
実を思い切り寄せて上げて強調している。
ゴクリとつばを飲み込みながらガン見していたら、けもみみが腕
を引っ張った。
﹁カサンドラ義姉さんたち、来たよ﹂
1704
言われてニシカさんやけもみみの向けている視線の先には、ガラ
の悪そうな護衛の傭兵を複数人引き連れたカサンドラが、雑多な繁
華の道をかき分けながらこちらに来るのが見えた。
本人は萎縮したような顔をしているけれど、隣に並んでいるよう
じょは気にしたものではなく、颯爽と歩いているところが愛らしい。
けれど、あれじゃヤクザの軍団だな。
﹁大使の姐さん、あすこに旦那さまが見えましたぜ!﹂
﹁あのうみなさん、やめてください。わたしは姐さんじゃありませ
んから⋮⋮﹂
﹁失礼しました姐さん! オイ野郎ども、姐さんの事は以後姐さん
と呼ぶんじゃねえぞ?﹂
ヘイ姐さんなどと傭兵のみなさんは元気良く返事をしている。
そんな調子でそこのけそこのけと、傭兵たちが周囲の人間を威嚇
しながら歩いているのだ。これじゃサルワタの評判を落としかねな
いと俺たちは絶句してしまった。
﹁どれぇ!﹂
﹁あのうシューターさん、これじゃあゆっくりお買い物をする事も
出来ません﹂
俺に駆け寄ったカサンドラは、申し訳なさそうにしながらも傭兵
たちを振り返って苦情を口にした。
そうだな。もうリンドルの街まで無事に到着した事だし、君たち
はそろそろ解雇でいいんじゃないだろうか⋮⋮
﹁そんな、大使閣下の旦那! 俺たちが何をしたって言うんですか
ッ﹂
﹁うるさいぞお前たち、大使閣下のシューターさまがそう言うのだ
1705
から善処しますと言えばいいのだ!﹂
文句を言った傭兵たちに、ずいと前に出たベローチュが腰の剣に
手を掛けながらトドメのひと言を放った。
とたんにしゅんとする鎖帷子の連中だけれども、少しは上品にな
ってくれなきゃ本気で解雇だからな!
1706
136 階段の白き嶺城 3 ︵※ イラストあり︶
近くに地元のお貴族さまが足しげく通っているという食堂がある
というのをようじょが聞きつけてきたらしく、俺たちはさっそく団
体さまでその食堂に向かう事にした。
今では三〇人あまりの大集団になっている俺たちではあるけれど、
こういう高貴な身の上の人間を受け入れる食堂は、広々としていて
お貴族さまのご一行を収容するのもわけが無いらしい。
石造りの立派な二階建て食堂の名前は﹁果実とオリーブ亭﹂だっ
た。
食堂と言うと失礼かもしれない。レストラン、あるいはリストラ
ンテとでも言うべきかもしれない。
﹁わたしたちの村にも、何れこういう食堂が出来る日が来るのでし
ょうか?﹂
﹁ねえさま、もちろんです!﹂
﹁領地経営の先には必ずこういう施設も必要になって来るわね。当
たり前の生活が出来るようになったら、その先に求めるのは娯楽で
すもの﹂
﹁おーっほっほっほ、そうですわねえ。わたくしの故郷ですと、領
内にはたったひとつの食堂しかありませんでしたけれども、領地が
繁栄して村が発展すれば、何れはこの城下で商売をしてみたいと考
える料理人が出て来るに違いありませんわ﹂
﹁自分はやはり、小間物や雑貨のお店などが出来たらいいなと思い
ますよ。生活必需品だけを扱った商店があるなんてのは、やっぱり
味気ないですしねえ。ご主人さまの村はどのような土地なのですか
?﹂
1707
﹁なんもない村だな。あるのはサルワタの森とゴブリンばっかりだ。
何しろ人口の半分がゴブリンみたいな開拓村だからな﹂
﹁でもサルワタにはシューターさんがいるよ。だからぼくはそれ以
上望まないよ﹂
女子が三人集まれば姦しいというけれど、七人の女たちが占拠し
たテーブルは誰かひとりが口を開くとこの通りにぎやかだ。
そんなカサンドラ奥さまと愉快な姉妹たちの盛り上がるテーブル
の隣は、俺たち野郎専用の辛気臭い食卓である。
誰が俺の席の隣に座るかと言って揉めだしたので、面倒くさいか
ら女性陣だけで座る様に言って逃げてきたのである。必ず上座の左
隣はカサンドラと暗黙の了解があるけれど、その反対の席は誰が座
るのかと密かに問題となったのだ。
﹁どうしてシューターさんは隣に行かなかったのですか?﹂
﹁え、どうしてって。何か居心地が悪そうだし⋮⋮﹂
小さな声で修道騎士ハーナディンがそんな質問をしてきたので、
こちらも小声で返事をした。
ナマズの親戚と果実を煮込んだ料理が大皿で運ばれてきて、苦虫
を噛み潰した顔で俺は二又のフォークとナイフでそれを切り分ける。
﹁居心地が悪い? それは節操もなく奥さんを次々に増やしたツケ
が回って来たというものでしょう。僕は賢くもッヨイさまを眺めて
いればそれでいいというのに、あなたまるで王族の様なハーレム大
家族っぷりですよ﹂
﹁ようじょはまだ未成年だ。その発言こそ女神様への冒涜というも
んですよ。俺なんて街に来ればモテモテだってッワクワクゴロ兄さ
んに言われたから外交団に志願したのに、まだ女の子の手も握って
いないんですよ。あんたもシューターさんもみんな嫌いだ﹂
1708
ハーナディンの変態発言にッジャジャマ君が不平を漏らした。
そういえば村にいた時もッワクワクゴロさんところの三人の弟た
ちは、女の子を紹介してくださいよと言っていた気がする。その約
束は未だ果たされずじまいだ。
ッジャジャマ君の非難をかわすために会話の矛先をあわてて変更
しなければならない。
﹁そんな事よりもハーナディンさん、ここの聖堂から何か有益な情
報は引っ張り出してこれたかな?﹂
﹁それなんですがね。リンドルの子爵家というのはかなり利に敏い
人間なご様子で﹂
泥臭い味を連想してちょっと躊躇しながら口に運んだナマズは、
割合と美味かった。果実の甘みと酸味が加わって、白身はなかなか
ぶどう酒に合うじゃないか。
利に敏い。なるほど、ここの土地は交易も盛んな場所だからな。
すると袖の下でも要求してくる系のお貴族さまかな?
俺は脳裏に強欲な脂ぎったデブのお貴族オヤジを連想した。
﹁何と言えばいいのかな、リンドル子爵のシェーン卿は御年十二歳
のお子様なんですよ﹂
﹁ショタか﹂
﹁はい、ただし早射ちシェーンという二つ名を持っています﹂
想像とまるで違う回答を口にしたハーナディンに、俺は興味を膨
らませた。
早射ちの二つ名を持っているという事は、お子様の身の上で、弓
か魔法かなにかの名人という事なのだろうか。
1709
﹁なので現在の家政を取り仕切っているのは、シェーンお坊ちゃま
の御母上であらせられるマリアツンデレジア夫人だと言われていま
す。後見人というやつですね﹂
﹁そのツンデレのマリアさんは未亡人なのか﹂
﹁ええ、たいそう美しいご夫人だという話は街でも知られたお話で
すが、かなりの浪費家でもあると。絵画には眼がないという話で、
家政・家計はかなりの火の車だという話も聞いています﹂
絵画に眼がないという言葉を聞いて、野郎テーブルで忙しくフォ
ークを動かしているヘイジョンさんを俺たちは見た。
ヘイジョンは午前中、街のあちこちを歩いては門や番兵の詰め所
をラフスケッチしてまわっていたわけである。今でこそ情報収集の
一環で軍事的に意味がありそうな施設を絵で記録しているが、出会
った当初は女村長の肖像を描きたいと熱望していた男である。
﹁なるほど、それはいい事を聞いた。で、家政は火の車というと、
領地経営は上手くいっていないという事なのかな﹂
﹁そういうわけではないですぜ﹂
俺がハーナディンに質問したところ、代わりにそれに返事をして
くれたのは、顔中傷だらけの傭兵男だった。
﹁というと、何か情報を持っているのか﹂
﹁ええ。俺っちはリンドル往還の辺りを近頃生業にしていたので、
リンドルで店を持っている商会とは仕事をしていたんですがね、﹂
名前は確かモンサンダミーという本土から流れてきた男である。
セレスタの冒険者ギルドで雇い入れた臨時の護衛役だったのだが、
見た目の荒くれ者具合に比べて読み書きも出来て王国の兵隊をして
いた事もあるというので学もある。
1710
とりあえずガラの悪い連中を纏めるのにと、俺の近くに置いてみ
ようと考えたところだった。
﹁マリアツンデレジア夫人というのは、先代子爵さまの第二夫人な
んですわ。ほんで領地経営を実質的に行っているのは第一夫人だっ
たダアヌさまとその側近という有様で。リンドルは完全に二派にわ
かれてお家騒動の真っただ中だと思ってつかぁさい﹂
何と、リンドルは内紛中の真っただ中であったらしい。
﹁それで君が懇意にしていた商会というのは、どっちの派閥に属し
ているのかな?﹂
﹁俺っちの出入りしていた商会ですか? どちらでも仕事をした事
があると言えばそうですが、払いがいいのはマリアツンデレジア夫
人の息のかかった商会ですな。元は王都の何とかというお貴族さま
のご令嬢だったらしくて、珍しいものには糸目をつけずに金払いが
いい﹂
なるほど、浪費家ではあるけれど金の出し渋りはしないと。
するとぶどう酒の入ったグラスを口に運びながらも、モンサンダ
ミーはもぐもぐしながら言葉を続けた。
いくら学があるとは言っても、やはり荒くれの傭兵さんなのでマ
ナーはちょっといただけない。
﹁むしゃ、ゴクリ。逆にダアヌ夫人の方は駄目だね。何といっても
古くからご当地に根を張った分限者のお家柄で、岩窟都市とも交流
があるんですがね。リンドル子爵家がこの土地にご移封される前か
らの支配者ですから、質素堅実を地で行くお人柄なんですわ。そし
てよそ者が嫌いだ﹂
﹁つまりダアヌ夫人に関しては、袖の下が通じる相手ではないと﹂
1711
﹁ええ、そうでしょうな。俺っちが鋼材をブルカに運ぶ際は、船を
使うのだから護衛の人員は最低限でいいだろうとケチるのが日常で、
その癖、例の触滅隊がリンドル往還の界隈を荒らす様になってから
は、襲撃されるのは俺たちが仕事をしないからだと文句を垂れる﹂
金は渋るが仕事はしろと、聞いていて元いた世界のケチなライン
工場のバイト時代を思い出してしまった。
むかし働いていたその工場では、経営の傾きから立ち直るために
経費削減のために正社員を出来るだけ減らしたのはいいが、バイト
と合わせてギリギリの人員でラインが回る事に味を占めてしまった
のである。
何とか経営が安定化してからも最低限の人間で工場のラインを回
しているものだから、正社員と言えども夜間シフトでバイトに混じ
って残業は当たり前。
ついでにバイトは長く使い続けると雇用の福利厚生をしっかりし
ないといけないので、定期的に入れ替える。
俺は数か月だけ正社員の知り合いに頼みこまれて手伝ったことが
あったのだが、バイトも嫌がる過酷なシフト体制で、従業員が次々
に逃げ出す様を目撃してしまった。
﹁従ってですぜ、ダアヌ夫人が経営する商会や関連する商会は金払
いが悪いので、みんなあすこの仕事を引き受けるのを嫌がっている
わけです﹂
﹁触滅隊が暴れまわっている現状では、そうも言ってられないんじ
ゃないですか?﹂
ッジャジャマ君がパンをちぎりながら質問をした。
その通りだよね、輸送している商品を何度も襲われている様では、
商売が成り立たないじゃないかという疑問が素直にわく。
1712
﹁だもんで、ダアヌ夫人の息のかかった商会は、みんなリンドルと
オッペンハーゲンを繋ぐ街道での交易に力を入れる様になっていま
すな。リンドル往還の輸送はもっぱらその他の商会やマリアツンデ
レジア夫人の息のかかった商会の担当ですわ﹂
﹁けれどもそれでリンドルの領地経営が上手くいっているというの
もあるんですよ、たびたびの倹約令が発布されて、子爵家そのもの
の家計はともかく、領内までが不景気というわけではない﹂
ハーナディンはそういう風に補足説明を加えてくれた。
つまり交易ルートごとに、ふたりの夫人が縄張りを分け合ってい
る様な形になっているんだな。
すると、さっきまで口を挟んでいなかったヘイジョンさんが俺の
方を向いて口を開く。
﹁しかし問題はそこじゃないんだよなあ﹂
﹁と言うと?﹂
﹁リンドル子爵のシェーン卿というのは、ダアヌ夫人でもマリアツ
ンデレジア夫人でもない、エミール第三夫人のお子様らしいですよ﹂
﹁エミール第三夫人﹂
新たな名前が登場である。ちょっと俺の頭がこんがらがりつつあ
るじゃないか。
﹁何者ですかそのご夫人は﹂
﹁それが何の情報も無いところを見ると、たぶんですがどこぞの村
娘か何かなのでしょう。今はマリアツンデレジア夫人がシェーン卿
の後見人になっておりますけど、そのあたりも村娘出身のご夫人だ
という事なら理解できるというものです﹂
ハーナディンが不味そうにナマズを口に運びながらそう言った。
1713
何だよリンドル、滅茶苦茶ややこしい土地柄じゃないか⋮⋮
﹁つまり話を纏めると、誰に取り入ればいいんだ。領地経営はダア
ヌさん、シェーン卿の後見人はマリアツンデレジアさん。で、実は
エミール第三夫人というのもいるわけだな﹂
エミール夫人のところにシェーン卿を取り戻す事が出来て、俺た
ちがその後見になって盛り立てる事が出来れば、間違いなくリンド
ルとサルワタの同盟関係は強健なものになるのではないか。
あるいはマリアツンデレジア夫人とお近づきになって、中央のお
貴族さまとのパイプを手に入れるという絵図もありかもしれない。
ダアヌ夫人はちょっとやっかいだ。王国が辺境を開拓する以前か
らこのリンドル周辺を支配した土豪でよそ者が嫌いときたもんだ。
たぶんそのよそ者嫌いは筋金入りで、ギムルどころじゃないだろう
から、取り入るのはかなり厳しい⋮⋮
﹁しょうがないな、三方それぞれに接触をする事にしよう。早射ち
シェーンとの謁見までに、少なくとも糸口だけは掴んでおきたいも
のだなぁ﹂
﹁情報収集専門のメンバーが欲しいところですね。その点、ブルカ
辺境伯は一歩先を行っています﹂
ため息をついた俺に、ハーナディンがそんな事を口にした。
痛いところを突かれた俺はとても悲しい気分になって、けもみみ
を呼びつけた。
﹁何だいシューターさん﹂
﹁ちょっとぶどう酒を飲み過ぎたんだけど、トイレに付き合ってく
れるか﹂
﹁うんっ!﹂
1714
連れション出来る女の子って貴重だよね!
http://15507.mitemin.net/i1765
16/
<i176516|15507>
作家の菜波先生にご提供いただきました。ありがとうございます!
1715
137 階段の白き嶺城 4
リンドル子爵家のお家事情は、調べれば調べるほど複雑奇怪な様
を呈していた。
高貴な身の上の人間というのは罪作りな存在らしい。
ご当地の先代子爵の例で言うならば、何と三人の奥さんがいたの
である。
ひとりはダアヌ第一夫人、ふたり目はマリアツンデレジア第二夫
人、そしてエミール第三夫人である。
第一夫人のダアヌは、現在リンドルの第三階層と呼ばれる市中の
貴族たちが住まう高級住宅街に邸宅を構えており、そこで先代子爵
の旧臣たちと事実上の領地経営を行っていた。
年齢は御年三七歳。俺よりも少し上の年齢という事になるが、ヒ
ト族の凡庸な風貌らしかった。
﹁五日にいち度は教会堂に顔を出しているらしく、それなりに信仰
心のある女性という事だわ。今、ハーナディンが聖堂に張り込んで、
接触の機会をうかがっているわ。ちなみに聖堂建立のための寄進も、
先代子爵がご存命だった頃から熱心に働きかけたそうだけれど、理
由を聞きたい?﹂
﹁そりゃあ、ね。何でだ?﹂
﹁ずばり子供が欲しかったからよ﹂
それがリンドル聖堂より雁木マリが仕入れてきた追加情報だった。
先代子爵とダアヌ夫人との間には三人の娘がいたらしいけれど、
1716
何れもすでに他家へと嫁いでいるらしい。
ダアヌ夫人はご当地リンドルの分限者の家柄であったから、娘た
ちを利用して自己の地位と足場固めをするために、血縁関係を周辺
領主たちと結んだらしいね。
奥さんが何人もいるような先代子爵であるから、それはもう好色
であったらしく、子供はそのうちにポコポコと生まれるだろうと考
えていたのかもしれない。
けれどもダアヌ夫人との子供は、三人の娘を除いては生まれる事
が無かった。
﹁夫婦仲はもともとまあり悪くはなかったらしいわ。いくらよそ者
嫌いの辺境人の典型と言っても、ダアヌ夫人は渉内、前子爵は渉外
と、夫婦で役割を分担して不干渉だったらしいの。けれども四人目
の子供がいつまでたっても生まれない事に業を煮やした夫婦は、そ
れぞれの行動に出たわけ。それがダアヌ夫人の聖堂建立のための寄
進と、﹂
﹁第二夫人を迎え入れるという事に繋がるわけだな﹂
﹁ええ、そういう事﹂
第二夫人のマリアツンデレジアは御年まだ二六、七という年増の
盛りらしい。
この第二夫人と先代子爵が婚約をしたのは、彼女がまだ九歳とい
う年齢だったというから恐ろしいね。
﹁ご養女ッヨイさまの年齢で婚約したのですね﹂
﹁そうね、それが原因で夫婦仲に亀裂が入った子爵夫妻の関係は、
ここからこじれはじめるのよ﹂
ベローチュの言葉に雁木マリが言葉を添えた。
1717
﹁先代子爵は長らく王都に身を置いて国政に参加している時期が長
かったらしいのだけれど、マリアツンデレジア夫人が実際にリンド
ルへと輿入れしてやって来たのは、それから十年後の事だったらし
いわ。領地経営の外向きの事一切を彼が取り仕切っていたとは言っ
ても、これはダアヌ夫人にはあずかり知らぬ事だったので、たいそ
う彼女の逆鱗にふれたのだとか﹂
だから実際の婚約から輿入れまでに、実に十年もかかってしまっ
たらしい。
しかも肝心のマリアツンデレジア夫人はかなりの気難しい人間な
上に、王都育ちのお貴族さまである。
辺境にあっては交易地の都会リンドルも、彼女にとっては片田舎
のさびれた街にすぎなかったのだろう。ダアヌ夫人との関係も劣悪
だし、先代とは年齢も恐ろしく離れている。
ちなみに先代子爵が死去した年齢は五六歳だった。いいおっさん
である。
﹁亡くなったのはつい最近の事だったらしいけれど、第一夫人、第
二夫人とも結果的に夫婦仲が劣悪で、マリアツンデレジア夫人との
間にも結局子供が生まれる事はありませんでした﹂
﹁だからマリアツンデレジア夫人は、街の郊外にある何とかという
別邸に引きこもって悠々自適の生活をしていたというわけか﹂
﹁そういう事になりますね。先代がご存命の頃はダアヌ夫人の眼が
ありましたから城府に入る事はなく別邸に引きこもっておいででし
た。現在はさすがに城府に入城して家政の主導権を握ったらしいで
すが、引き継ぐ事が出来たのは先代子爵と同じ様に渉外についての
み、という事らしいですね﹂
このリンドルのいびつな状況、領地経営はダアヌ夫人派、家政と
渉外はマリアツンデレジア夫人派と別れている理由はこのあたりに
1718
ある。
﹁現在はご主人さまのご命令に従い、芸術家のヘイヘイジョングノ
ーさんが郊外の別邸近くで、邸宅の写生を実施しているところです。
今でも休養を兼ねてか、シェーン子爵を連れてこちらに訪れる事も
ままあるという事ですので、機会はありますよ﹂
今のところ発見はされていないけれども、それも時間の問題だと
ベローチュが言い添えた。
絵画にたいへん眼がない人物で、そんな人間が近くで画家が絵を
描いていると知ればきっと接触してくるに違いない。
そこでヘイジョンさんには旅の芸術家という立場を名乗ってもら
とうりゅう
っている。
もしも逗留を求められた時には、他の領主との約束があるので、
一時であれば可能だという風に答えると示し合わせている。
﹁それでエミール第三夫人の方はどうなっているんですかね。まっ
たく情報も足取りも掴めないという事だったんですけれども﹂
俺はため息ひとつをこぼしながら、会話の矛先をカラメルネーゼ
さんに向けた。
してみるとカラメルネーゼさんは満面の笑みを浮かべて俺にこう
口にする。
﹁おーっほっほっほ。ご安心なさりませシューター卿。すでにエミ
ール第三夫人の正体について、わたくしすでに存じ上げております
の﹂
﹁正体、というと、どこの村のご出身のお方かわかったのですか?﹂
﹁いいえ、村娘というのは巷の噂。本当のご身分はまた別の高貴な
身の上のお方だと判明いたしましたわ。彼女はマリアツンデレジア
1719
夫人が別邸に引きこもったためにお子様を儲ける事がないとわかっ
た事で、城内で先代さまが手を付けた家臣のひとりだったらしいで
すわね﹂
カラメルネーゼさんは自信満々にそう言い切った。
﹁誰も第三夫人の情報を知らない中で、よくそんな事を見つけてこ
れましたね﹂
﹁もちろん、わたくしは商人ですもの。それぐらいは当然の事です
わ。おーっほっほっほ﹂
﹁ちなみにどうやったか聞いてもいいかしら?﹂
雁木マリが自分たち騎士修道会すら糸口をつかめなかった情報の
出所に興味を示したらしい。
﹁それは簡単な事ですわ。先代子爵さまが手を付けたお相手が、あ
まりにも問題なお相手だったために、その辺りの出自を先代さまが
誤魔化して家中に迎え入れたのですわね﹂
聞けばけもみみを俺から貸し与えられた蛸足美人は、奴隷商人と
いう立場を利用して地元の商会連中に接触を図ったという事らしい。
けもみみが商会を出ていく番頭格の人間を付けて、酒場に入り込
んだところをカラメルネーゼがお近づきになる。
これで様々な商会がどの派閥に属しているのか、ついでにリンド
ル家中の人間関係がどうなっているのかを聞き出したというのだか
ら馬鹿にならない。
﹁この街に地元の商会が出店している他にも、それぞれの領地の商
館が置かれている場合がありますの。さる地元商会の番頭さんから
聞いたお話では、エミール第三夫人はそのうちのひとつの商館と懇
1720
意になさっていた様子で、そこから足取りを掴んだというわけです
わ﹂
なるほど、そういう手があったか。
モノの本によれば、中世ヨーロッパであったり戦国末期の日本に
おいて情報戦を担っていた組織というのはふたつあったそうだ。ひ
とつは宗教団体、キリスト教であったり国内なら寺院や巫女さんや
ら、そして商人たちの情報網という事だそうだ。
してみると、カラメルネーゼさんもまた商人同士の交流を通して、
その核心まで近づいたという事になるのかな。
それで、エミール第三夫人の消息はどうなのかというと、
﹁ずばりこのリンドルの街にエミール第三夫人はすでに存在してい
ませんわ。だからどれだけ手を尽くして探しても、エミール夫人を
見つける事が出来なかったというわけですわ﹂
﹁殺されたという事かしら?﹂
カラメルネーゼさんの言葉に雁木マリが身を乗り出して質問をし
た。
﹁いいえ、そういう事ではないですわね。彼女はすでに故郷に引き
上げておりますの。そしてご夫人が何者かという点ですけれども⋮
⋮﹂
俺たちの注目が触手をうねうねと動かす彼女に集中する。
﹁ミゲルシャールという男が妾に産ませた子供。この男の名前に聞
き覚えがありませんこと?﹂
その言葉に俺以外の全員が絶句した。
1721
ミゲルシャール。はて、どこかで聞いた事のある名前だが、俺は
すぐに思い出す事が出来なかった。
﹁どうしてここにもブルカ辺境伯の名前が出てくるのかしら!﹂
﹁自分も驚きです。まさか、こんな形で名前を聞くことになるとは
⋮⋮﹂
そうして俺も遅ればせながら驚く。
ブルカ辺境伯の本名はミゲルシャールというのだ。
その名前ははじめて耳にしたのは、確かサルワタの森の開拓村で
ある。女村長の屋敷にあった納戸の中で、教会堂の助祭マテルドが
口にしたのがその名前だったのだ。
愕然とした顔を浮かべている俺の前で、雁木マリとベローチュが
カラメルネーゼさんを交えて激しく意見交換を始めていた。
マリは降誕してからブルカを拠点に生活していたのだし、ベロー
チュやカラメルネーゼさんはお貴族さまの出身だ。
きっと俺よりもブルカ辺境伯の存在を身近に感じていたぶん、そ
の危機感も大きかったのかもしれない。
﹁このパターンはサルワタの開拓村とまったく同じだわ。どこの領
主の元にも、ブルカ伯の手の者が潜んでいると疑ってかかる必要が
あるわね﹂
﹁この事はオコネイルさまにお知らせした方がいいのではないでし
ょうか。セレスタにも何かしらの形でブルカ伯の魔手が忍び寄って
いるかもしれません﹂
﹁オコネイルさんは心が女性ですもの。女で釣られるという事はま
ずありえませんわ。すると、何が考えられるかしら⋮⋮﹂
ブルカ辺境伯のミゲルシャールという男は、いったいこの辺境で
何をしようとしているんだ。
1722
王国に対する反逆か、あるいは辺境諸領の併呑か⋮⋮
一歩も二歩も先を俺たちの先の手を打っているブルカ伯に空寒い
ものを感じながら俺が脳みそをフル回転させていると、視線が鋭く
俺を射抜いているのに気が付いた。
視線の主はアイパッチを外したニシカさんだ。
﹁もうひとつ、面白い事を付け加えて教えてやろうか?﹂
﹁何ですかニシカさん。これ以上の情報がまだあるんですかね﹂
﹁ああ、あるぜ。触滅隊の連中が暴れ出した時期と、そのエミール
第三夫人がリンドルを退去した時期が合致するんだぜ。面白いだろ
?﹂
嬉しそうにニヤニヤしたニシカさんが、腕組みを外しておっぱい
を解き放った。
﹁モンサンダミーの野郎と猿人間のッジャジャマを使って、この街
のありとあらゆる労働者階級が出入りする酒場で情報をかき集めた
んだがよ﹂
してみると、エミール第三夫人がここにあるブルカの商館に入っ
ていったところで足取りが消えたそうだ。
そして次の月から触滅隊が大暴れを始めたって寸法だ。
﹁ガキだけ残して自分の娘は引き上げさせた。ブルカ伯はこの街に
近々政治介入する機会を伺っているという事だな﹂
﹁そういう事になるわね、どうするのシューター?﹂
俺の言葉に雁木マリが問いかける。
﹁とにかく誰でもいい、ダアヌ夫人でもマリアツンデレジア夫人で
1723
も、状況を説明して取り入る必要があるな⋮⋮﹂
﹁シェーンのお坊ちゃまがそうすると厄介ですわね。マリアツンデ
レジア夫人はきっと自分がリンドルの主導権を握るつもりでシェー
ンお坊ちゃまの後見役をやっているのでしょうが、これは藪蛇とい
うものですわ﹂
﹁しかし、だからと言ってダアヌ夫人に訴え出るというのは難しい
んじゃねえか。あいつらよそ者嫌いなんだろ、たぶんギムルどころ
じゃねえぜ?﹂
今度はカラメルネーゼさんとニシカさんが口々に問題点を指摘し
た。
紛糾する俺たちはそのまま結論が出ないまま、ああでもないこう
でもないとしばらく意見交換を繰り返した。
あまりにもその時間が長くなってしまったので、だんだん気分が
優れない人間が出てくるのである。
特にカラメルネーゼさんなどは顔を真っ赤にしてまるでゆで蛸だ。
﹁あなたたち、いつまで湯船に入ってくつろいでるのですか!﹂
そうして俺たちは奥さんにしたたかに怒られた。
五人が揃って宿屋の隣にある公衆浴場でお風呂を楽しんでいたと
ころ、ひと足先に湯船を出て髪を乾かしていたカサンドラが素っ裸
で飛び込んできたのである。
俺たちはあわてて湯船から飛び出すと、腰に手を当てて俺たちを
睥睨する恐妻を前に土下座で整列した。
﹁シューターさんはこの後、登城をなさるのですよ。みなさんは主
に仕える身分なのですから、主をお諫めするのもお役目です。雁木
マリさん! シューターさんに腕を回して喜んでいる場合じゃない
です。次の順番はエルパコちゃんの約束でしょう?!﹂
1724
﹁あ、あたしは別にそういうつもりじゃ⋮⋮﹂
﹁嫌も応もありませんよ!﹂
正妻の剣幕にぺこぺこと頭を下げる雁木マリめずらしい。
そして最後にとても嫌そうな顔をして俺を睨み付けるカサンドラ
に、俺は肝を冷やした。
﹁シューターさん﹂
﹁お、おう﹂
﹁今度湯浴みをする時は、ふたりっきりでお願いしますね?﹂
嫌そうな顔だと思ったらちょっと頬っぺたを桜色にして上目遣い
を向けてきた奥さんかわいい。
1725
138 階段の白き嶺城 5
清潔な布を使って俺の濡れた短髪を丁寧に拭いて乾かす。
しかる後にオリーブの香油を使って髪を撫でつけてゆき、仕上げ
とばかり最後に固形の鬢付け油を使って前髪の付け根にを立ててい
く。
同様の手順を正妻カサンドラとようじょにも施してもらっている
わけだが、これはどこからともなく雁木マリが連れて来た、お貴族
さま専用という床山によってやってもらった。
むかし俺が時代劇の斬られ役として舞台や撮影の現場に出入りし
ていた頃、この床山さんのお世話になった事があった。
聞けば役者さんや力士の髪の毛を結う仕事をする人々の事を床山
さんというらしい。
特別な資格は必要ないという話を床山の親方に聞いたことがある
けれど、やはりそこは熟練の技が必要な世界である。
力士は髪の毛をマゲにしているし、歌舞伎や時代劇の世界でもそ
れは同じで、女性の髪をうまく結い上げるのには、それ相応の技術
が必要なのも同じというわけだ。
してみると、俺たち気が付けばお貴族さまの仲間入りをしていた
ハーレム大家族では、当然の様にお貴族さまらしい髪型というのが
儀礼の場では必要となるわけである。
﹁シューターは髪の毛が短いからこんなもんでいいでしょうね﹂
﹁マリの方は大変そうだな。いつものサイドテールというわけでに
はいかのか?﹂
﹁当然ね、仮にも王都のかなり高貴なご出身のマリアツンデレジア
1726
様にお会いするのだから、失礼があってはいけないわ﹂
キャバクラ嬢の盛り髪を連想してくれるといいかもしれない。
前髪をストレートに分けているだけでなく、うなじ髪を三つ編み
にして垂らし、サイドテールはふわりとカールをかけて肩にかかる
様にゆったり垂らしている。
これにインナーのレースをあしらったミニスカートと、ツイスト
バストを強調する前開きのフレアロングドレスである。
いいね!
雁木マリのパーソナルカラーというわけでもないのだが、空色の
ドレス姿はとても様になっていた。
ただしせっかくのツイストバストも、グリコのおまけ程度の膨ら
みしかないので残念だ。
﹁シューターさん、わたしはこういう格好があまり似合わないと思
うのですけれど⋮⋮﹂
﹁何を言っているのカサンドラ義姉さん、あなたにこそこういうス
タイルはぴったりだわ!﹂
﹁そうでしょうか。そう思いますか旦那さま?﹂
﹁いいね!﹂
いつも毛先を編み上げているカサンドラも、本日は後ろ髪を大き
なお団子にする様にして束ねていた。
こちらはキャバ嬢の盛り髪というよりも、知性あふれる行動派の
貴族夫人といった感じだろうか。
その上で、同じく胸元がツイストになったタイトミニドレスは、
健康的なカサンドラの体によくフィットしていて、上品な仕上がり
であった。
ブルカで購入した紫色の布を使ったストールを羽織れば完成。
胸元もタンヌダルクやベローチュと比べれば小ぶりではあるけれ
1727
ど、十分に女性らしさを強調する仕上がりと言える。
﹁どれぇ! ッヨイの髪の毛はふわふわなのです﹂
﹁本当ですねえ。俺の故郷ではドリルヘアーというのですよ、こう
いうのを﹂
﹁ドリルヘアーですかどれぇ?﹂
﹁よいドリルになりましたねッヨイさま。結婚式にでも出席するみ
たいです﹂
うわようじょドリル。
金髪のふわふわカール髪を丁寧にヘアアイロンをかけて縦巻きロ
ールに仕上げたようじょは、どこから見ても高貴な身の上である。
気品溢れるようじょの衣装はノースリーブワンピのフレアリボン
ドレスだった。
黒と赤であしらった大胆な色合いは、魔法使いという知性あるよ
うじょの心をひとつの芸術品に仕立てていた。
たぶんこの場にッハイエース君がいたらハイエース、ではなくプ
ロポーズをこの場でしているのではないだろうか。
腰元にあるワンポイントのリボンがとても愛らしい。
うわようじょかわいいわぁ。
さて俺たち野郎の格好は、そこをいくとスタンダードなものだっ
た。
インナーの上にブリガンダインの鎧を羽織って、どこから持って
きたのか貫頭衣をかぶせられた。
適当に洋服屋に置かれていた吊るしの貫頭衣には、見た事も無い
家柄の紋章が入っているのだが、カラメルネーゼさんに聞いたとこ
ろ、店のサンプル品として置かれていたものらしい。
足元は上等な布地のズボンだが、染料が遣われているわけでもな
いただの白という具合で、気合の入り様が違う女性陣と比べるとか
1728
なり適当だ。
そして腰に肉厚刃広の長剣を吊るして出来上がり。
これと同じものを男性陣全員が身に着けていた。
ついでにニシカさんとけもみみ、男装の麗人も野郎どもと同じ扱
いなのか、俺とお揃いである。違うのは本物の男性がズボンなのに
対して、彼女たちは仮にも白のタイツ姿という事だろうか。
カラメルネーゼさんだけは自前の服装をそもそも持っていたらし
く、女騎士の儀礼に従ってタイトミニドレスの上にブリガンダイン
を着込み、サーコートとマントという自分だけ格好いい姿なのが解
せない。
﹁さてみなさん、身支度は出来ましたわね?﹂
パンパンと手を叩く蛸足令嬢の言葉に従って、俺たちはぞろぞろ
と宿屋から馬車へと乗り込んだ。
実際に謁見の間まで足を運ぶのは俺とカサンドラであるけれど、
その側近として帯同が許されている二名の枠には、雁木マリと野牛
の兵士タンスロットさんを指名する事にしていた。
したがってリンドル子爵側が用意した迎えの馬車のうち、大使用
のものにはこの面子が乗り込み、残りは後に続く他の馬車に乗り込
む予定であったのだが⋮⋮
﹁ンだよ、金持ちお貴族さまの馬車の癖に、狭苦しいな!﹂
﹁そうなのです。ッヨイはどれぇの膝の上で我慢するのです﹂
﹁ぼくも、そこがいいな⋮⋮﹂
﹁自分は奴隷ですしとなりかな?﹂
何故かニシカさんとッヨイさま、けもみみに男装の麗人が当然の
様に大使用の馬車の中に強引に乗り込んできたではないか。
1729
﹁狭いですよニシカさん。おっぱいを俺に押し付けないでください﹂
﹁しょうがねえだろ、文句があるなら早撃ちボーイに文句を言えっ
てんだ﹂
ニシカさんはそう言って譲らなかった。
本来はゆったりと四人掛けで乗れる席に、後席に俺を真ん中にし
てニシカさんと男装の麗人、向かいに雁木マリとカサンドラとけも
みみである。
さらに俺の膝の上にはようじょが腰を落ち着けているので明らか
な定員オーバーだね!
これが元いた世界ならお巡りさんに馬車を止められているかもし
れない。
狭すぎるのでタンスロットさんは﹁俺は遠慮しておきますね大使
閣下﹂などと他人行儀な事を言って、申し訳なさそうに御者台の横
に座らせてもらおうとしていた。
まってくれタンスロットさん! 俺たち湖畔以来の友人同志じゃ
ないか!
そう思っていたのは一方的に俺だけだった様で、とても嫌そうな
顔をして無視されてしまった。
﹁何で無理やり乗り込んできたんですか君たちは﹂
当然の様に不満のはけ口は後ろの馬車に乗るはずだったニシカさ
んたちに向かうというものだ。
﹁もしお前らが誰かに襲われた時の事を考えてに決まってるだろう。
触滅隊もリンドル貴族も信用ならねえんだろ?﹂
﹁まあ、これまでの事を考えれば、何があってもおかしくないけれ
1730
ども﹂
ニシカさんのその言葉に、不満ながらも雁木マリは同意していた。
その隣で不平ばかりを口にする俺たちに向かって、
﹁警戒の必要があったから、自分たちはわざわざ公衆浴場の個室風
呂で密談をしていたのですからね。あそこなら垢すりゴブリンさえ
排除してしまえば、何者の耳目も気にする必要がありません。よも
や風呂場に浸かりながらご主人さまとその一党が密談をしていると
は思いもしないでしょう﹂
窓の外を気にしながら、走り出した馬車の中でベローチュがそう
言った。
わざわざ公衆浴場で密談をしていたのは、確かにこの男装の麗人
が言った通りに監視の目を欺くためではあった。
おかげで俺たちの馬車をただいま並走して馬で駆けているカラメ
ルネーゼさんは、あやうく茹で蛸になってしまうところだった。
けれども、
﹁シューターさん安心してください。うちの旦那さまはとても好色
のお方なので、七人の妻たちを侍らせて酒池肉林を楽しんでおられ
るのですねと垢すりのゴブリンたちが噂していましたよ﹂
冗談じゃない!
俺が好色で酒池肉林だなんて。まだ雁木マリの胸だって触った事
も無いのに、とんでもない言いがかりである。
カサンドラの言葉に憤慨した俺の事などこの場のみんなは無視を
決め込んでいる。何とか援護してくださいよみなさん⋮⋮
﹁どれぇはこうしょくお貴族さまなのですか?﹂
1731
﹁ち、違いますからねッヨイさま﹂
ようじょの曇りなき眼がとても俺に突き刺さる。
隣のニシカさんだけが嬉しそうにニヤニヤしていた。
﹁よう好色貴族﹂
﹁あんたもその七人の嫁のひとりに入れられているんですがねえ⋮
⋮﹂
﹁ちょ、嫁じゃねえ!﹂
腹いせにニシカさんをからかってやると、黄色い蛮族はおっぱい
を激しく揺らして抗議した。
フン。大事な謁見の前なのでこのぐらいにしておこう。
﹁エルパコちゃん、外を見張っている限りは誰も近づいてこなかっ
たのですよね?﹂
﹁うん、カサンドラ義姉さんの言いつけ通り周囲には誰も近づいて
こなかったよ。エッチなゴブリンのおじさんが覗き見しようとして
いたけれど、モンサンダミーさんと鉢合わせになって、こてんぱん
にやられたんだ﹂
他人事の様にぼけーっとしたまま口を開いたけもみみは、カサン
ドラの質問にそう答えたのである。
ん? 傭兵モンサンダミーは個室の周辺で何をしていたんだろう
ね⋮⋮
﹁モンサンダミーさんの件は大丈夫です。自分が次はないとしっか
りご主人さまのありがたいお言葉を伝えておきましたから!﹂
俺はそんなことを聞いていなかったし、勝手にありがたいお言葉
1732
とやらをねつ造するのをやめなさい!
こうして俺たちはリンドル市中を見下ろす、階段の白き嶺城へと
招き入れられたのである。
俺たちの交渉ははじまったばかりだ。
1733
139 階段の白き嶺城 6
高くそびえる山々を背景に、市中城下を睥睨するようにしてリン
ドル子爵の城が存在していた。
一段高くそそり立つ天守塔といくつかの居館が連なったその様式
は、集中式城郭というものらしい。
街のふもとから見上げている限りは白く塗られた石の壁だと思っ
ていたものは、どうやら白レンガと呼ばれるものだったようだ。
それぞれの階層と市壁の構成そのものはとても軍事的に堅牢な印
象を与えたけれど、リンドル子爵城の居館そのものは軍事的な性質
よりも贅沢を尽くした、まさしく宮殿とでも呼ぶべき佇まいかもし
れない。 謁見の場に向かう道すがら、俺たちは居館の内部を走る廊下の壁
という壁にかかげられた肖像画や風景画にまず驚いた。
﹁マリアツンデレジアさまが芸術の庇護者であらせられるという噂
は、事実だったのですねぇ﹂
﹁はい。当館の主は、歴史画を頂点とする王都や宗教関係者の感受
性にはたいへん疑問をお持ちになっておりますので、こうして実践
主義的な絵画の普及のために、力を入れておいでなのです﹂
絵画の数々に俺がそんな感想を口にしたところ、案内役をしてい
た女中頭の様な中年女性がそんな言葉を口にした。
宗教関係者の感受性という単語を耳にしたとたんに、不機嫌な顔
をしている雁木マリである。
視界の端でカサンドラが無言のうちにマリを嗜めているのが映っ
1734
た。まったくどちらが年上なのかわからないぜ。
﹁主というのはマリアツンデレジアさまの事かな?﹂
みだい
﹁ふふっ、大使閣下はおかしな事をおっしゃいますね。リンドルの
領主はシェーンさまであって、御台さまの事ではございませんよ?﹂
﹁あ、そうなんだ﹂
どう見てもツンデレのマリア夫人の趣味なのだろうが、公式見解
ではあくまで義息子の趣向と押し通すつもりらしい。
あるいはこれらの絵画収集にかかる費用を、シェーンの教育費用
と称して経費に計上しているのかもしれんね。
そんな絵画に彩られた回廊を潜り抜けて、俺たちは応接間に通さ
れた。
﹁こちらでしばらくの間、お待ちください。すぐにも御台さまがお
見えになられますので﹂
一礼した女中おばさんが応接間を退出すると、手持無沙汰の俺た
ちは大人しくソファに腰かける事にする。
数人掛けのソファがひとつに、向かいは独り用のソファがふたつ。
よくある洋間の応接セットを連想してもらえばいいだろうか。そ
れを適度に古めかしくして、思いっきり時代遅れにした感じを連想
してもらえるといい。
﹁あのう、シューターさん﹂
﹁ん?﹂
﹁御台さまというのは、マリアツンデレジさまの事を差しているの
ですよねえ?﹂
おずおずと俺の方を見たカサンドラが、女中おばさんと俺の会話
1735
の中に出てきた単語について気恥ずかしそうに質問をしてきた。
たぶんだが、御台さまというのはマリアツンデレジアの現在リン
ドル子爵の家中における地位を表している称号の事だろう。
モノの本によれば、平安貴族や将軍家の正室を差して使われた言
葉である。
俺んちのハーレム大家族で言えばカサンドラがそういう位置づけ
にあたるのだろうか。家中の奥向き一切を取り仕切り、台所の配膳
までを細かく指図する立場だ。まさに、
﹁例えるなら我が家の御台さまはカサンドラだね﹂
﹁?﹂
﹁あるいはアレクサンドロシア義姉さんが義息子のギムルに爵位を
譲った後は、彼女がサルワタの御台さまという事になるかしらね。
王都の高貴な身の上のひとたちは、やたらと難しい言葉を使いたが
るから困ったものね﹂
俺の言葉に補足説明を入れる様に、マリが苦笑してそう言った。
普通は御台さまなんて言葉は使わないもんな。俺もたまたま歴史
の本や小説を読んだことがあったから知っていたという程度である。
口の悪いおっぱいエルフにかかれば、もっとひどい表現になる。
﹁要は先代ババアって事だな!﹂
してみると、公式の立場上ではマリアツンデレジアは前子爵の正
妻という位置づけであり、権力闘争上はダアヌ夫人を差し置いて主
導権を握っているという事だろうかね。
さて。
この部屋に通された面子は、大使の俺とカサンドラ、それから雁
1736
木マリとタンスロットさんの本来メンバー。それから勝手に付いて
きたニシカさんとけもみみである。
さすがに奴隷を入室させるわけにはいかないというので、ベロー
チュは今頃リンドル城の大広間に残されて不満を垂らしているとこ
ろだろう。
﹁調度品には触れたら駄目ですよ、たぶんそこの壺は金貨十八枚よ
りお高いはずだ﹂
席が足りないので立ってふらふらと壁や棚に置かれた芸術品をし
げしげと見やっていたニシカさんに向けて俺がそう言った。
するとそれを聞いた雁木マリとニシカさんが吹き出しそうになっ
たではないか。
﹁ばっか手前ぇ、笑わせるんじゃねぇよ。お高い壺を落としたらど
うするんだ﹂
﹁いやすいません﹂
﹁ホンモノのお高い壺なんだろう。割ったらお前ぇが言う様に偉い
事だぜ﹂
金貨十八枚というのは、奴隷として俺が売り飛ばされた時の金額
である。
ついでに言うと、名前の長い奴隷商人にニシカさんとようじょが
プレゼントした偽の聖壺のお値段。
ちょっと懐かしい気分で冗談を口にしたのだけれど、あの場にい
た関係者のふたりには笑いのツボを押されてしまったらしい。
まるで意味が分かっていないのがカサンドラとタンスロットであ
る。けもみみはこんな時もほげーっとした顔をしていた。
﹁ホンモノのお高い壺ねぇ。オレ様からすればようじょの作ったア
1737
レと何が違うのかわかんねえぜ﹂
﹁それはまあ、ッヨイが本物を参考にしてあの時はどこからどう見
ても本物同然にこしらえたのだから当然ね﹂
﹁ゴブリン人形の方がオレは味があっていいと思うけどな﹂
そんな馬鹿な事を言いながらニシカさんが胸元に手を突っ込むと、
何かを取り出した。
まさかゴブリン人形じゃないだろうなと思ったら、事実そうでし
た。
﹁何やってるんだあんたは!﹂
﹁バレやしねぇよ。こいつは木彫りじゃなくて粘土で作ったやつだ
からな、オレ様特製のッワクワクゴロ人形だぜ﹂
ニシカさんがニヤニヤしながら調度品の置かれた棚に、まるで以
前からそれがあった様にして違和感なく配置しているではないか。
しかしゴブリン人形は木彫りのものばかりと思っていたけれど、
粘土細工のものもあるらしい。
彼女の掲げて見せたそれは白肌で艶のある、一見するとたいへん
高価そうな陶磁人形であったのだ。
俺はそれを見ておやっという顔をする。
﹁どこでとれた粘土なんですかね﹂
﹁集落の近くにある丘の土だぜ。粘土ならいくらでもあそこから採
れるからな、タダだぜダタ!﹂
ふむ。白い陶磁が出来る粘土⋮⋮
何か引っかかる様な気持ちを覚えながらニシカさんの持ったゴブ
リン人形である。
いや何だっけ、何かを俺は思い出しそうで思い出せない。
1738
﹁⋮⋮まったく。子供の悪戯みたいな事をするんじゃないわ、ニシ
カさん﹂
﹁何言ってんだばっか、お近づきの印というやつだ﹂
雁木マリの指摘に悪びれも無くニシカさんがそう言うとその隣、
またその隣と並んだ壺に興味を向けて移動している。
いいかげん、どれぐらい待たされるのだろうかと応接セットのテ
ーブルの上に置かれた砂時計を見ていたところ、不意に女の声が応
接室にこだました。
﹁それは春の宮殿から取り寄せた、贖罪の壺ですの。聖地の土を使
い、春の宮殿にいる陶器の職工が嗜好を凝らして作った女神様への
免罪符となる壺なのですよ。寄進をし、得たものはこれによって異
世界に魂の旅立ちをする事が出来るという触れ込みですが。どうだ
か﹂
驚いて振り返ると、白い肌をした年増の女性がそこに立っていた。
美人だ。少し薄幸そうなところはカサンドラに似ていると言えば
似ているけれど、それよりも華奢でお貴族さまの箱入り娘がそのま
ま成長したという印象を与えてくれる。
﹁モノの経緯はともかくとして、趣向を凝らした逸品であることに
間違いはないのです。オルヴィアンヌ金貨五〇枚を積んで購入しま
したの﹂
ソファを立ち上がった俺たちは、貴族の礼にのっとって腰を曲げ
ながら右手を胸に付いて見せた。
なゃんちゃってお貴族さまの仲間入りをしたばかりの自分が、上
手くそれを出来ているかはわからない。
1739
けれども相手にはそれなりに見えたらしいね。
ふふっと笑みをこぼす柔らかな声音がしたかと思うと、このリン
ドル宮殿とでも言うべき居城の実質的主が自己紹介をした。
﹁はじめまして、サルワタ大使のみなさん。わたしはリンドル子爵
の後見人、義母のマリアツンデレジアですの﹂
◆
調度品に囲まれた応接室の中にあって、俺たちは面会している。
リンドルの実質的主でるマリアツンデレジアさまと、その側近た
るふたりの男。
対するは俺とカサンドラの大使に、付き添いを許された雁木マリ
とタンスロットさんが着席し、その後ろにニシカさんとけもみみが
控えている。
応接間の入り口にはリンドルの騎士らしき人物がふたり控えてい
て、俺たち全員が改めて着席したところを見計らった様に、女中お
ばさんたちがお茶を運び入れてくれた。
﹁聞けばサルワタという土地は静かな湖畔と豊かな森、そして万年
にわたり雪をたたえた山々に囲まれたこの地の果てにあるとても風
光明美な土地と言うではないですか﹂
白磁の茶器によってぶどう酒の注がれた酒杯を片手に、目の前の
マリアツンデレジアはそう言った。
この茶器の道具に使われている白磁という陶磁器は、俺が元いた
世界の中世において、高貴な身の上の人間たちにもてはやされた中
国由来のお高い陶磁器なのである。
﹁そして、白磁に適した粘土層がある様ですの﹂
1740
見た目の年齢に反してやや口ぶりは幼さが残る様な印象だ。
貴族の箱入り娘として育ち、そのままリンドルへやって来てから
も長らく別邸で引きこもりの生活をしていたので、そういう風に世
間擦れしていないのかもしれない。
だがいま大事なところは、その点ではない。
マリアツンデレジアは、ニシカさんの悪戯で壺の陳列棚に紛れ込
ませたゴブリン人形を手に持っていた。
あっさりとニシカさんの悪巧みは看破されたのである。
そしてマリアツンデレジアは手に持ったそれを前にして、白磁と
いう言葉を使った。
それだ!
サルワタから白磁に適した粘土質が採れるのだ。
﹁そ、それはサルワタで伝統的に作られているゴブリンを模した人
形です﹂
俺が心の中で妙な興奮をしていると、カサンドラがマリアツンデ
レジア夫人を前にしてニシカさんのイタズラを釈明してくれていた。
﹁へぇ。サルワタの特産品なのですね?﹂
﹁そうですねえ、かく言う俺の妻なども、幼いころには職人たちと
まじって工房でこの人形を作っていたそうですよ。木彫りのものが
主流だそうですが、中には陶磁器のものもあるようで、俺も驚いた
次第です﹂
本当に驚いたぜ。
白磁の茶器は、きっとこのマリアツンデレジア夫人が、八方手を
尽くしてどこか遠国から取り寄せた高価なものに違いないのである。
1741
それがサルワタの裏山のような場所で産出されると言うんだから
ね。
ゴブリン人形を指示した俺の言葉に、カサンドラが静かにうなず
いて見せたけれど、その表情から今の状況がまるで掴めていないら
しいのは俺が見ていてもわかる。
当然の様に雁木マリもニシカさんもけもみみも、そもそもサルワ
タ本来の人間ではないタンスロットさんもよくわかっていないとい
う雰囲気を俺は背中で感じていた。
﹁つまりこの人形は、やはりサルワタの粘土で作られているのです
のね﹂
目の前の白磁、そしてゴブリン人形。
どちらも何かの特別な鉱物を含む地層から取り出された粘土質の
土を使っているという事だ。
西洋における白磁の陶磁器と言えばマイセンが有名であるけれど、
これがドイツのマイセン地方で生産を開始する以前は、中国から取
り寄せられたその陶磁器が大変重宝されたというわけである。
﹁そういう事になります﹂
俺の明瞭簡潔な回答に、マリアツンデレジア夫人はふふっと改め
て微笑を浮かべた。
マリアツンデレジア夫人は白磁の陶器をこうして集めている。
と、同時に彼女にとってサルワタのゴブリン人形は、いみじくも
白磁の素材となりうる粘土層を算出する土地柄という理解なのだろ
うね。
思わぬところで俺は彼女のハートをゲット出来るチャンスを手に
1742
入れたと言える。
傍らで﹁後で説明しなさいよね﹂と雁木マリが視線だけで俺に訴
えて来るのを感じたので、うんと無言でうなずき返しておいた。
そして、そんな会話にひとしきり満足したらしいマリアツンデレ
ジア夫人である。
手にしていたゴブリン人形を傍らの文官に渡すと、居住まいを改
めてこちらを向いたのである。
さて、本題に切り出す番だ。
﹁ところでサルワタ大使のみなさんは、遠路はるばるこのリンドル
へはどのようなご用向きで子爵さまへの謁見を求めてこられたので
すの?﹂
﹁これは子爵さまへの謁見の前に事前のすり合わせをしておくため
の会談という認識でいいですかね?﹂
﹁ええ、そういう認識をしていただければ構いませんわ﹂
俺とカサンドラ、雁木マリが顔を見合わせた。
そして何となく息苦しさを感じて胸元を改めてから口を開いた。
事前に取り決めていた内容を単刀直入に切り出す。
﹁ブルカ辺境伯の手が、このリンドルに伸びていると俺が言ったら、
あなたは俺たちの話に耳を傾けてくださいますかね?﹂
﹁⋮⋮そのお話、詳しくお聞かせ願いますの﹂
マリアツンデレジア夫人は左右に控えている文武両官に目配せを
したのちに、俺たちへと向き直ってそう言った。
1743
140 階段の白き嶺城 7︵前書き︶
本日2回目の投稿になります。
1744
140 階段の白き嶺城 7
﹁マリアツンデレジアさま、あなたはリンドルのご家中においてシ
ェーン子爵さまの後見人という立場で領内の主導権を握っておいで
だと聞き及んでいるけれども、それで相違ありませんか?﹂
そう切り出したのは、俺の傍らに控えていた雁木マリだった。
俺は元いた日本でこの手の営業交渉の様な経験は、バイトの立場
からしか経験した事が無かった。
サイト作成代行やコンサル会社の営業で正社員や取締役のお付き
で参加した程度だし、このファンタジー世界に来てからも考えてみ
ればメインの交渉はアレクサンドロシアちゃんや、雁木マリどころ
か、セレスタではカサンドラにお任せしていた様な立場である。
自然と多少はその手の外交交渉に慣れているらしいマリが率先し
て口火を切ってくれた。
ちょっと俺としては恥ずかしいけれど、頼りになる婚約者ではあ
る。
﹁ええ、そうですの。わたしが御台としてリンドル前子爵ジョーン
の正妻という立場で、後見にあたっておりますの。それが?﹂
﹁ではマリアツンデレジアさまは、シェーン卿のご出自についてど
こまでご存じなのかしら﹂
ずばり単刀直入な物言いではあるけれど、当のマリアツンデレジ
ア夫人は幼さをどこかに残したその表情に不機嫌そのものの顔色を
浮かべてマリを睨み返した。
﹁それはどういう意味ですの? 子爵はエミール第三夫人のご嫡子
1745
であって、わたしとは血の繋がりがない事を指摘しているつもりで
すの?﹂
﹁いいえ違うわ。あたしたちが指摘したいのはそのエミール夫人が
何者であるのかという事を言っているわ。マリアツンデレジアさま
はその点、ご了承なさっているのかしら?﹂
雁木マリの言葉に、マリアツンデレジア夫人の左右に控えた文武
両官が顔を見合わせた。
不機嫌そのものの表情のまま、夫人はフンと鼻を鳴らして腕組み
をして見せるが、文武両官は困惑の表情のまま、リンドル城の事実
上の主の顔を恐る恐ると言った感じでチラ見しているではないか。
こいつらはその事実をもしかしたら知っているんじゃないかね。
そろそろ機会を見て、大使らしく俺も話題に切り込んでいく隙を
伺う事にしよう。
﹁エミールさまは流民から任官された家中の秘書官だったと聞いて
いますの。違ったのかしら?﹂
﹁その辺りの事はそちらのご側近がお詳しい様ですけれどもねぇ﹂
俺がその点を指摘してやると、側近たちは焦りの表情を見せやが
った。
﹁どうですの?﹂
﹁流民からの任官、あるいは農夫娘のご出身という噂が城下で流れ
ているのは事実です。ですがそれはあくまでも噂の域を出ないもの
と申しますか⋮⋮﹂
と、たどたどしい言葉で文官氏が釈明した。
するともういち度、厳しい口調でマリアツンデレジアは文官の側
を睨み付けて言葉を紡ぐ。
1746
﹁どうなのです?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁この者たちは夫である前子爵の時代からリンドル家中に仕えてい
る旧臣です。わたしの輿入れに合わせて王都より同道した者たちで
はありませんの。つまり、子爵の母親が何者の血筋の者なのか、知
っていなくてはおかしいことになりますわ﹂
なおも黙り込んだままの文武両官の事にはさっさと諦めをつけた
のか、たいそう不機嫌なご様子のマリアツンデレジアは俺たちの方
を向き直ったではないか。
﹁口を貝にしているのであれば、あなたたちの言葉で教えてくださ
りませんの?﹂
﹁⋮⋮では失礼して。俺たちの調べによれば、エミール第三夫人の
父親はミゲルシャール。ブルカ辺境伯ミゲルシャールの妾腹の娘と
言えばおわかりいただけますかね﹂
﹁ミゲルシャール⋮⋮﹂
片眉を吊り上げたまま凍り付いた表情のマリアツンデレジア夫人
を俺は見つめ返した。
幼さをわずかに残す美人の表情は、それはもう恐ろしいものだっ
た。
もちろん王都のお貴族さまのご出身である彼女は、ブルカ辺境伯
の娘が夫との間にこさえた子供がシェーン子爵であるという事実の
意味を理解しているだろう。
﹁どうしてあなたは、前子爵との間に子供を作らなかったのですか。
仮にもあなたの血をわけたお子様がこの時存在していたのなら、こ
の様な事にはならなかったと思うんですがねぇ﹂
1747
凍り付いた彼女の態度を無視するように、俺は言葉をつづける。
﹁俺たちのいる辺境は今、ブルカ伯による強引な統一政策によって
苦しい立場に立たされつつあると言っていい。どうして辺境の何に
もない僻地であるサルワタから、俺たちがリンドルへやって来たの
か、あなたは俺たちに質問されましたよね。答えは簡単だ。ブルカ
辺境伯の魔手は、サルワタにもリンドルにも、こうして伸びてきて
いたからですよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
サルワタの森の開拓村には教会堂の助祭マテルド、それから冒険
者カムラが送り込まれていた。
隣村クワズでは、カサンドラの従姉マイサンドラが偽装結婚の相
手がひっそりと農夫か何かとして潜伏していたらしい。
ついでに言えばクワズという村は女村長が最初に嫁いだ夫の領地
だったかな?
﹁サルワタではこの夏のはじめ、ブルカ伯の送り込んだ冒険者がで
すね、村に潜伏していたスパイと呼応して付け火騒ぎに殺人事件ま
で起こしたんですよ。サルワタの開拓村は小さな村だ。そりゃもう
村中が大騒ぎになったもんです。そうした事件が起きた背景にはで
すよ、俺たちの村の領主さまが村の開拓を推し進めるための政策を
とったからだった﹂
つまり、現状リンドル家中で主導権争いをしているふたりの夫人
たちを尻目に、ブルカ辺境伯は乗っ取り工作でも仕込んでいるのか
もしれないね。
すると雁木マリが俺に呼応して言葉を口にする。
1748
﹁エミール夫人は、ブルカ辺境伯の公商会の商館と頻繁に接触を図
っていたそうね﹂
言葉を聞いた文官は、また再び武官氏と顔を見合わせた後に揃っ
て顔を伏せてしまった。
やはりこのふたりはある程度の真実を知っていたのだろう。
﹁この話は、本当の事ですのね?﹂
﹁はい、サルワタ大使閣下のおっしゃる事はおおむね存じておりま
す﹂
﹁どうしてその事を、ずっと黙っていたんですの?!﹂
﹁す、すでにエミールさまは故郷へとお戻りになっていたという事
実もございますし、また先の領主さまはその事を存じ上げておりま
せんでしたので﹂
﹁ではどうしてあなたたちがその事を知っていたのですッ﹂
それはダアヌ夫人による、身元調査によるところらしい。
﹁先の領主さまがご存命だった時、ダアヌさまのご命令で密かに我
々に調べる様にと指示があったのです。我々はその命令に従ってエ
ミールさまのご出自を調査したのですが、その時にブルカ公商会の
商館と何かしらの接触を持っていた事は掌握していました﹂
﹁何という事ですの!﹂
﹁ただ、言い訳をお許しいただけるのなら申し上げますが⋮⋮﹂
﹁言ってみなさい﹂
﹁エミールさまがブルカ辺境伯さまの隠し種であったという事まで
は、存じ上げておりませんでしたッ。何かしらブルカ辺境伯との接
点がある事はわかっていたのですが、ご夫人はあくまでブルカの騎
士出身という事だけを理解しておりました⋮⋮﹂
1749
しどろもどろの文官氏は、助けを求める様に俺を見やった。
﹁この話の信憑性はどの程度なのですか﹂
﹁俺たちの御用商会の人間が、この街の商人ネットワークを通じて
仕入れたものですね。情報の確度を確かめたいと仰るのなら、保証
はしかねますね。ただ、御用商人がこの噂にたどり着いたのはあく
まで事実ですよ﹂
御用商人というのは、奴隷商人のカラメルネーゼさんの事である。
まあ、モノは方便であるから何とでも言っておけば勝手に解釈し
てくれるんじゃないかな。
﹁そ、それでは今大使閣下がお話しになられた言葉は、この城下で
流れているあくまでも噂の域を出ないという事ですな。御台さま、
これも大使どのたちの交渉術かも知れません﹂
﹁黙りなさい! 領外の、それも片田舎のサルワタ人が知っていて、
あなたち家中の者が知らないというのでは良心がないというもので
すのよ﹂
﹁は、ははっ。直ちに噂の真偽を確かめるべく、取り掛かる事に致
します﹂
﹁当然の事ですの﹂
言い訳をぼそぼそと口にして憔悴してしまった文官氏に追い打ち
をかける様で申し訳ないのだけれど、俺たちが言っておかなければ
ならないのは、まだ続きがあるんだよね。
﹁そしてエミール夫人が姿を消した後に、リンドル往還に触滅隊が
現れたっていう寸法だ﹂
俺がいざ言おうとしていた言葉をかっさらって口にしたのは、背
1750
後で控えていたこの噂を見つけてきた張本人、ニシカさんだった。
一瞬だけムっとしてしまった俺が後ろを振り返ると、まるで悪び
れた様子の無いニシカさんは、いつものぶっきらぼうな口調で言葉
をつづけた。
﹁ツンデレのマリアさんよ。おかしいと思わねえかい? あんたが
子爵家の中で主導権争いをして、とりあえずの後見人となったとこ
ろで、触滅隊のご登場だ。オレたちゃこの街にやってくる途中に連
中の仲間と一戦やりあったんだがね、ありゃそこら辺の山賊盗賊と
いうわけじゃなかったぜ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
せこ
﹁軍隊崩れの、組織だった動きの出来る連中だったぜ。あんたもお
貴族さまなら勢子というのを知っているだろう。猟師が人数を揃え
て獲物を追い立てるアレだよ。そうやって往還を行き来する連中を
カモにしていたんだろうぜ。あんたが後見人になったタイミングで
な﹂
まあオレとシューターにかかれば、先手必勝で皆殺しだけどなあ。
などと余計な事を言って言葉を締めくくったものだから、マリアツ
ンデレジアの顔はもう真っ赤だ。
﹁つまりあんた、ブルカ伯に舐められまくってるぜ。ご政務がまと
もに出来ないのならと、そのうち辺境伯さまがしゃしゃり出てくる
かもしれねえなあ。ん?﹂
ただし、明らかに言葉が過ぎている。
ニシカさんが口にした事は確かにその通りなのだろうけれども、
これを直接的に言ってしまえばマリアツンデレジアさまの立つ瀬が
ない。
ニシカさん何を言ってくれてるんだ!
1751
いよいよ激昂が収まらないのか肩を震わせてたかと思うとすっく
と立ちあがった彼女は﹁爺、爺はどこですの?!﹂と声を上げなが
ら、会見を打ち切りにしてしまった。
﹁失礼いたしますの。後の事はお前たちでどうにかなさい!﹂
唖然として見送っている俺たちの前を立ち去ったマリアツンデレ
ジアの姿が応接間から消えると、残された俺たちの中に沈黙だけが
取り残されてしまった。
﹁み、御台さまの突然のご退出、まことに申し訳ない﹂
﹁いえ、こちらも随行員がたいへん失礼な態度をとってしまい。申
し訳ないですっ﹂
あわてて俺たちがペコペコやっている背後で、ニシカさんがけも
みみに何事か質問をしていた。
﹁ンだよ、こらえ性のないお貴族さまだな。うちの村長といい勝負
だぜ﹂
﹁ニシカさん、馬鹿?﹂
﹁うるせぇ、オレ様を馬鹿にするな!﹂
交渉相手を怒らせてどうするんだよ。大使の俺の身にもなってく
れ!
だからニシカさんを連れてくるのは反対だったんだ。
いや、反対しなかったけれどもさ⋮⋮
◆
ちなみに、この後に控えていたリンドル子爵シェーン卿との謁見
1752
の儀式は、わずかのうちに終了した。
﹁こ、こちらがサルワタの大使閣下から献上された品々の目録であ
ります﹂
﹁ふうん大儀﹂
まるで俺たちの献上品に興味がなさそうな態度の若きリンドルの
支配者である。
これはマリアツンデレジア派と交渉を進めていくのは、ひどく難
航するだろうなと俺は心の中で感じたのだった。
1753
141 階段の白き嶺城 8
﹁それはよいことではないです、どれぇ﹂
ッヨイさまがよいことではないと仰った。
﹁それでマリアツンデレジアさまが晩餐会をご中座なされて⋮⋮﹂
﹁おっぱいエルフは会場の隅で小さくなっているのですか?﹂
呆れた顔をしたベローチュの言葉にようじょも言葉を重ねたので
ある。
ただいまはリンドル城の大広間で行われているサルワタ大使一行
を歓迎するための夜会の最中である。
リンドル城における実質的支配者であるマリアツンデレジアさま
との打ち切られた会見の後、形ばかりの謁見がシェーン子爵との間
で行われた。
やった事と言えばお目通りと自己紹介を済ませたぐらいの事で、
後は献上の目録を読み上げてオワリ。
事実上、リンドル側との外交交渉をどうやって行ったらいいのか、
俺たちは手詰まりの状況だった。
﹁肝心のマリアツンデレジア夫人が不在では、どうにもならんなあ﹂
﹁せめてこの晩餐会の中で何とかシェーン子爵か側近におちかづき
して、糸口をつかむしかないのです、どれぇ﹂
ようじょはそういう風に言うけれど、これがなかなか難しい事は
1754
この場にいる全員が理解している事だった。
シェーン子爵の主催で行われた夜会は、立食形式で行われている。
最初こそ、上座にあるシェーン子爵家と大使のテーブルで乾杯の
音頭を取ったのだけれども、マリアツンデレジア夫人は名前の通り
のツンデレのマリアさんなのだろうかこの場にはいない。
機嫌を損ねてしまってからこっち、まともに俺たちとは視線も合
わせていないのである。
俺とカサンドラは上座のテーブルを離れて、今は大広間をゆっく
りと見回していた。
くだんのマリアツンデレジアさまの機嫌を損ねてしまった原因の
張本人であるニシカさんは、いつもの大好きなお酒︵それも高級︶
が山の様にあるというのに、背中を丸めてたわわな胸を抱きかかえ
る様に小さくなっていた。ここから見た限り不味そうに酒杯の酒を
舐めている具合だ。
ニシカさんは﹁お、オレ様が悪いのかよ?!﹂などと最初のうち
は吠えていたけれど、御台さまが退席してしまった応接間がしんみ
り静まり返ってしまうと、事態をようやく把握したらしい。
そういう事もあるさ。
彼女は狩りでも戦闘でも、攻めに回った時は非常に辛抱強く頼も
しい存在であるけれど、日常そのものに関しては不用意なところも
あるのだった。
そしてその場にいた俺たち、いや俺自身も彼女を上手く制御出来
なかったのだから、責任は連帯というものだ。だから、
﹁あまりニシカさんを責めてはいけないからな、みんな﹂
﹁はい、シューターさん﹂
ある意味で自分に言い聞かせる様に俺がそう口にすると、傍らの
1755
カサンドラが同意して、無言だったけれどようじょもコクリと頷い
て見せた。
そしてカサンドラが俺を見上げながらそっと言う。
﹁シューターさん、後で優しくしてあげてくださいね﹂
﹁お、おう﹂
何をどう優しくしてあげればいいのか、ちょっと考えないといけ
ないね。
酒が一番いいのだろうか、それとも他に何があるのかな。
さてと、いつまでも失敗してしまった事を悔いていては状況は打
開しないわけである。
現在、俺たちの仲間内の中でも比較的口の立つ雁木マリとハーナ
ディンの騎士修道会ペアは、リンドル子爵の文官たちに接近して少
しでも交流を図ろうと頑張ってくれている。
リンドルほどの人口を抱える交流活発な街ともなると、文武両官
がしっかりと作業分担をしているのが面白いね。
わかりやすく長剣を腰に帯びているひとびとが武官であり、それ
が護身の短剣だった場合は文官だ。
武官はピッチリとした服装を着こなしているけれど、たぶんあれ
がこの領内の騎士たちの正装なのだろう。
逆に文官たちはこの真夏の盛りに丈の長いローブを羽織っていて、
帯で腰をしぼっている姿だ。
こうして観察すると武官は男性が多く、文官は女性が多い。
﹁してみると、エミール第三夫人はかつてこの文官団のひとりだっ
たという事だろうかね﹂
﹁前子爵の秘書官だったというので、たぶんそうだと思うのです﹂
﹁よし、そのあたりの事をハーナディンに聞き出してもらおうかな﹂
1756
﹁そうですねどれぇ﹂
文官に女性陣が多いのは都合がいい。俺はようじょと頷き合った
後にけもみみを側に呼ぶと、すぐにも内容を伝えてハーナディンの
元に走ってもらう事にした。
イケメンはこういう時にいいね!
﹁わかったよ、シューターさん﹂
エルパコを送り出した後、さらに大広間の全体を見回す。
武官正装にマントを羽織ったいかにも騎士然としたひとたちと、
野牛の兵士タンスロットさんが談笑をしているのが見えた。
俺たちに付きしたがって外交団に参加した野牛の一族はそれほど
多くないけれど、日焼けした肌の野牛の戦士というのはタッパもあ
って、広間全体を見渡しても頭ひとつ飛び出す大きさでよく目立つ。
当然ながら女性たちは牛面の彼らをおっかなびっくりという具合
で遠巻きにしているので、誰も近づかない。
そうなると必然的に、軍人同志が交流を深める形になったのだろ
う。
﹁もし俺が全裸のままだったら、全裸の相手と親しくできたのかな
?﹂
﹁大の大人がパンツも履かずに全裸になるのは、夜の寝台だけの事
ですわ﹂
そんな俺の独り言をわざわざ拾ってくれたのは、蛸足美人のカラ
メルネーゼさんである。
軽口にマジで返事をされるとは思っていなかったのでびっくりだ。
けれども意図はそういう事ではなかったらしく、会話の続きを切
り出してきた。
1757
﹁少し前から、リンドル子爵さまはこの晩餐会をつまらなさそうに
眺めておいでですわ。側仕えの女中が退席している今なら接近のチ
ャンスですわよ?﹂
﹁ううむ。けど俺みたいな中年が話しかけて上手くいくだろうかね、
きれい所でお近づきになったほうがいいんじゃないだろうか﹂
いつだったか野牛の一族と湖畔で宴会をやった時、女村長が村中
から若い女をかき集めて接待攻撃をしようとしていたのを思い出し
た。
あの時は新婚早々のカサンドラまで参加して、みんなでお酌をし
まくったものである。
してみると、あの早撃ちボーイを篭絡するためにはどういうきれ
い所がいいのだろうかね。
むかし俺がとある企業の創立記念パーティーに参加した時の事を
頭の中で追想した。
俺はその企業のただのバイト君でしかなかったので、別に重要な
役割を担っていたわけではない。正社員や関係取引先の人間が円滑
に会場にやって来れる様に。あるいは二次会場にスムーズに移動出
来る様にとタクシーの手配やら移動の補助を、一張羅のスーツでや
ったぐらいの事だ。
けれどもその時の努力を評価されたのか、関係取引先の社長さん
にどういうわけか気に入ってもらえて、二次会が終わると夜の歓楽
街に遊びに連れて行ってもらったのだった。
当時俺はまだ二十歳になったばかりの春も恥じらうチェリーマン。
珈琲一杯で二万円もする様なお値段で素敵な夜のお姉さんたちがい
るお店にやって来たのだ。
﹁また連れてきてもらってくださいね﹂
1758
クラブのお姉さんはそう言った。
俺よりも数歳年上のお姉さんかわいいきれい。とても俺の小遣い
じゃこれない場所に社長さんが連れて来てくれたのだとしっかりと
理解されている顔をお姉さんはしていた。
俺もバイトの身分でありながらイッパシの会社員のフリを気取っ
ていたのに、すべてを見透かされていた。
あの時は一応、バイト先の青年取締役が何かの時にと名刺も持た
せてくれていたのに、ね。
﹁よし、若い少年は年上のお姉さんに憧れるものだ﹂
﹁シューターさん?﹂
﹁確かシェーン君は十二歳だったな。大人の魅力で篭絡させるのな
らば、相応の年齢の相手と言えばッヨイさまになるんだが⋮⋮﹂
俺は綺麗にドレスアップしたようじょを見た。
フレアリボンドレスのようじょはかわいいなあ。確かに同年代と
いう事であればようじょはきっと可愛いと見る向きもあるが、
﹁どれぇ?﹂
﹁早撃ちシェーンは御年で領主として子爵位を継承した大人の立場
だ。きっと自分が大人としてやっていけると思っている可能性があ
る。なのでッヨイさまだけでなく、お姉さんと一緒に送り出すのが
いいだろうな⋮⋮﹂
そう言いながら手に持った酒杯をテーブルに置いて仲間たちを見
回した。
年上のお姉さんと言ってまず理想的な気がするのはカサンドラだ。
彼女ならば家中の奥さんたちの中では長女的な立ち位置︵実年齢は
別にしても︶であり、しっかり者である。
1759
けれども甘えさせてくれるタイプ、というとちょっと違うかもし
れない。俺だけに対してかもしれないが、おっかないところがある。
あと本気で惚れられたら困る。カサンドラはそういう点で優しい
ところがありそうなので、上手くいなすというのは出来なさそうだ。
﹁何かしら?﹂
﹁大事なのはちょっと年上のお姉さんという雰囲気がいいのではな
いかな。何しろ背伸びをしてみれば届きそうなのがいい﹂
ではカラメルネーゼはどうだろうか。年齢は男色男爵やうちのア
レクサンドロシアちゃんと同期同世代であるから。たぶん三〇前後
といったところだろうか。
してみると年齢はお姉さんすぎやしませんかねぇ、という事にな
るので却下だ。包容力という意味ではピルピルの触手に抱き留めら
れれば昇天出来るかもしれないが物理的にそれでは困る。
ただしお貴族さまの出身で、かつ押し出がいいところもあるし交
渉力もある。年の功で若い早撃ちボーイを軽くいなす事が出来るか
もしれないという意味では頼りがいにある。
だが年齢がな。背伸びする相手かどうかはちょっと⋮⋮
﹁あ、あのご主人さま﹂
﹁俺が大人を気取って背伸びしていた頃の事を考えると、女子大生
か家庭教師のお姉さんかOLさんがよかった気がするんだよな。こ
の雰囲気が当てはまるのは、もしかしたらあるいは﹂
ベローチュは男装の麗人である。一見ボーイッシュに見える顔つ
きと髪型をしているが、後ろ髪は長く三つ編みにして垂らしている
いわゆるギャップ萌えがある? かもしれない。
それに胸が大きいのも男子が大喜びしそうなポイントな気がする。
年齢を重ねていくとおっぱいに対する趣向というのは実に変化す
1760
るもので、俺は若すぎる頃ならおっぱいは大きいほうがいいに決ま
っているとある種の幻想を抱いていたけれども、エルパコを見たま
え諸君。何もないところに、ひよこ豆のオアシスがあるのを連想す
るのだ。
俺の結論はけもみみは最高だぜという事に至った。
﹁よし、エルパコ。君はリンドル子爵のところにいって、ご機嫌を
取ってきなさい﹂
﹁な、何でですかご主人さま。この流れだと自分をご指名くださる
んじゃないのですか?!﹂
胡乱な眼で俺が男装の麗人を見返すと、とても不服そうに大きな
胸を揺らして俺の結論もまた揺れた。
﹁そ、そうかな。若い少年はおっぱいは大きいほうがいいかな?﹂
﹁どうでしょうか。シューターさんなら、かたち大きさに差別なく、
ありがとうございますありがとうございますと言ってくださります
けれども﹂
言わなくていい事をカサンドラが口にしたので、俺は女性陣から
白い目を向けられた。
これじゃ俺が片っ端から周辺の女性に手を付けている全裸の変態
みたいな扱いじゃないか!
とても悲しくなったので、べローチュの酒杯を奪って飲み干して
やった。
﹁じ、自分にまかせてください。さ、ッヨイさま自分と交渉にいき
ましょう﹂
﹁わかりましたどれぇのどれぇ!﹂
1761
出来る事なら保険の保険だ。
ようじょとベローチュが居住まいを正していざ若き領主のところ
へ向かうのを送り出すと、俺は向き直った。
﹁カラメルネーゼさん、それとなくふたりをバックアップしてくだ
さりませんかね。俺はマリアツンデレジア夫人がもしもどってきた
時の事を考えて、待機しておきます﹂
﹁了解しましたわ。ッヨイ子さまがおられるのでめったな事はない
と思いますけれど、サポートはお任せくださいな﹂
﹁頼んだぜ﹂
ひらひらと触手をさせたカラメルネーゼさんは、シェーン子爵の
もとに向かった。
1762
141 階段の白き嶺城 8︵後書き︶
気が付けば50万UVに到達する事が出来ました。
これもひとえに読者のみなさまのおかげでございます。
ありがとうございます、ありがとうございます!
1763
142 階段の白き嶺城 9︵前書き︶
今回投稿分は改めて後半パートを加筆修正させていただきました。
1764
142 階段の白き嶺城 9
この夜会の最中、大広間にあって手持無沙汰にしている集団がふ
たつあった。
それは俺たちサルワタ領の大使夫妻ともうひとつ、ダアヌ夫人派
に属している人々である。
リンドル子爵シェーン卿の主催という名目で夜会が開催されてい
る以上、第一夫人ダアヌ派であろうが第二夫人マリアツンデレジア
派であろうが、領主の面子もあるので家臣は参加しなくてはいけな
い。
そうでもなければリンドルの家中がお家騒動中だという事を、他
領の人間に宣伝してしまう様なものである。
けれども実際のところ、この夜会のダアヌ夫人そのひとが参加し
ていない。
それに俺たちは独自の調査で多少なりこの両派閥が対立中である
事は把握しているんだけどね。
もうひとつ付け加えるなら、そういう雰囲気がある事はこの大広
間を見渡してみれば何となく伝わってくるというものだ。
文官、武官という縛りで固まりを作っているだけでなく、お貴族
さまたちはいくつかのグループにわかれて互いにあまり積極的に絡
もうとしていないんだからな⋮⋮
﹁シューターさん、あそこにいる男性がこちらを見ています﹂
上品に笑顔を絶やさず会場を歩いていた俺たちであるけれど、カ
1765
サンドラがふと身を寄せて俺に視線の先を見る様に促してきた。
そこに立っているのは年配の中年男性と、似た様な年齢のふたり
の女性である。
いずれも上等な服でおめかしをしているところから、高貴な身の
上の集団である事は間違いない。
ご領主シェーン卿からやや離れたところにいるのだから、あれは
確かダアヌ派の人間だったはず。
﹁名前は何だったかな。ダアヌ夫人の血縁者で代理人とか言ってい
たな﹂
﹁確かオゲインさまだったと思います。ダアヌさまのお兄様にあた
るお方です﹂
そうだった。ダアヌ夫人の実の兄で、シェーン卿から見れば伯父
に当たる人物である。
ししぶと
﹁何とも見事な肉太りの外見だな。お、こっちを向いて笑顔を向け
ている﹂
﹁ど、どうしましょう。こっちに来られるみたいなんですけれど⋮
⋮﹂
何事か隣のご夫人に話しかけたかと思うと、肉太りの中年男はゆ
っくりと脂肪を揺さぶりながらこちらにやって来るではないか。
微笑は絶やさず。その視線の先はどうやら俺ではなくカサンドラ
に向けられているらしかった。
﹁ご機嫌麗しゅう、サルワタ大使カサンドラ閣下。今夜は楽しんで
おられますかな?﹂
﹁あ、ありがとうございます。ありがとうございます。夫とともに
都会の雰囲気に魅了されていたところです﹂
1766
カサンドラにはしっかりと言葉を、俺には眼だけで会釈をしてく
れたオゲインおじさんである。
﹁まもなく楽団が、舞踏の曲を弾き始める時間ですぞ。閣下ご夫妻
は舞踏をされた事はおありかな﹂
﹁いえ、わたしたちの領内では庶民が踊るささやかなダンスがある
ぐらいの事で、お貴族さまの舞踏をした事はありません﹂
﹁そうでしたか。いやなに、庶民も貴族もダンスがひとびとを魅了
するという意味では変わりませんぞ﹂
ヒゲを蓄えた口をニヤリとしてみせたオゲインおじさん、ちょう
ど楽団が弾き奏でる曲調が変わる瞬間を待ちながら貴族の礼節をと
って腰を折り、右手を胸に置いて見せた。
﹁よろしければカサンドラ閣下、わしと踊ってはくださらぬだろう
か﹂
﹁で、でも﹂
﹁なあに、心配はいりませんぞ。わしがリードしてさしあげますか
らな﹂
困惑の表情を浮かべていたカサンドラは、助けを求める様に俺の
顔を見てきた。
仮にもリンドル領主のおじさんの誘いを断るというのは、なかな
か難しいところがある。
恥をかかせたと言って後で何かを言われたら大変な事になるのも
事実で、そういう事を心配して受けるべきか断るべきか逡巡してい
る様子がうかがえた。
正直な事を言えば他人と自分の奥さんが踊っているところを見る
1767
なんてのはあまり気持ちのいいものではない。
しかしもしこれがお貴族さまの嗜みで外交の一環だと言われれば、
困っちゃうわけである。
俺がもっと偉い、爵位をもったお貴族さま︵例えば公爵とか︶な
らば鼻で笑って追い出せるんだけれどね。
けれども、カサンドラ本人が嫌だという意思表示をしたのなら、
そこは男として夫として、やんわりお断りするのもありだろう。
カサンドラはもういち度、俺の顔を見上げたかと思うと﹁やりま
す﹂という意思表示を視線に宿してきた。
うまくこのダンスをきっかけに、舞踏の後で談笑に持ち込むつも
りなのだろう。
ほんの半年足らず前には猟師の娘に過ぎなかったカサンドラが、
こんなにも積極的になるだなんて。
俺は素晴らしい奥さんをもらったんだと改めて思った。
ありがとうございます、ありがとうございます。
﹁いっておいで、カサンドラ﹂
﹁はい。オゲインさま、はじめての舞踏ですので、リードをよろし
くお願いします﹂
﹁任せてくだされい。わしはこれでも舞踏は得意なのですぞ﹂
オゲイン氏もこういう誘いについては一定の礼節にのっとってや
るつもりらしく、その視線で﹁奥さまをお借りしますぞ閣下﹂と意
思を伝えて一礼してみせた。
そして楽団が緩やかな曲調を奏で始めると、ふたりは手に手をと
って中央に集まったひとびとの輪の中に消えていったのである。
﹁義姉さんを行かせてもよかったの、シューターさん?﹂
﹁かまわない。本人が嫌がったら止めるつもりだったけど、カサン
1768
ドラも大使としてしっかり仕事をこなそうというつもりなんだろう。
だから俺たちも、俺たちに出来る役割をこなすとするか﹂
﹁うん、わかった﹂
傍らでじっと控えていてくれたけもみみが、俺の言葉にコクリと
頷いてくれた。
﹁それじゃ、ぼくは何をすればいいかな?﹂
﹁カサンドラがダンスを終えたら、即座に迎えに行って側について
いてくれ。カサンドラはたぶんこの機会に、オゲインおじさんや他
のダアヌ派のみなさんとの接触を試みるはずだ。側にいて何かあれ
ばサポートしてやってくれ﹂
﹁うん、まかせてよ﹂
楽曲にあわせて、恐る恐るという感じでステップを踏んでいるカ
サンドラを見やりながら俺たちは会話を続ける。
カサンドラをリードする腹の突っ張ったオゲインおじさんは、た
だのデブおじさんというわけではないらしい。ちゃんとダンスが出
来る高貴なデブだ。
﹁ひとまずダアヌ派との事はカサンドラとエルパコを信頼して任せ
る事にするよ﹂
﹁シューターさんはどうするの?﹂
﹁何とかマリアツンデレジア夫人本人と交渉出来ればいいんだけれ
どな。本人がいないんじゃどうにもならない﹂
﹁うん⋮⋮﹂
ちょうどひとしきり舞踏の軽やか曲がひとつ終わりを告げたらし
く、手を引きながらオゲインさんがカサンドラと共に、ダアヌ派の
集まる場所に移動をするところが見えた。
1769
エルパコはすぐさま俺の表情を見やりながら確認をとると、素早
くカサンドラの元へと小走りに向かった。
そして俺はボッチになったわけだが、
﹁⋮⋮ご精が出ますのね﹂
大広間の会場を壁に背中を預けて全体を俯瞰しようとしたその瞬
間に、背後から女の声がした。
驚いて振り返ると、そこには女中を伴ったマリアツンデレジア夫
人の不機嫌な顔が、こちらを睨み付けているのだった。
◆
柳眉を釣り上げたマリアツンデレジアは、会場の控室があるのか
カーテンの陰になる様な場所から少しだけ俺に見える様に姿を現し
た。
そのまま大広間の夜会に合流するのかと言えばそうでもない。
夜会を思い切りに楽しんでいる様にみえるみなさんの事など無視
して、じっと俺を睨み付けてくるので俺は心の中でドキドキした。
何しろ、マリアツンデレジア夫人は未亡人であるけれども二六歳
そこそこの年頃の女性だ。
この世界、あるいは俺の奥さんたちの面子を振り返ってみれば十
代後半の若い娘たちもいるけれど、年頃の近いアレクサンドロシア
ちゃんだって第三夫人である。
もちろん俺のシューティングレンジの中に彼女はいるわけで、し
かめ面をして腕組みをし、そしてゴミか屑の様なものを見る目で睨
み付けられるのは雁木マリに普段から慣らされている俺としては、
ご褒美みたいなもんだ。
1770
﹁我々も必死なんですよねぇ﹂
﹁⋮⋮わたしたちに近付いて、何が目的なんですの?﹂
﹁ブルカ辺境伯の魔手はどこまでも伸びていますから、してみると
同じ境遇のひとびとと大同盟を結んでこれに対抗する、必然的にそ
の思考に落ち着くってもんです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の回答にマリアツンデレジアは応えなかった。
ただ不機嫌なその表情をいっそう厳しいものにして、控室がある
方向にあごをしゃくってみせる。
付いてきなさいと言いたいのかもしれない。
うちの奥さんであるところの女村長もそうだが、この世界の権力
を持った女性は乱暴で短気なところがあるからいけないね。
俺は大人しく彼女の足取りについていくことにする。
けれどもそうする前に、俺より少し離れた場所で、同じように広
間の壁に背中を預けて不味そうにビールか何かを飲んでいたニシカ
さんに目配せをした。
これ以上問題を起こさないつもりで気を使っているのかな。
自分で大人しくしておこうと自粛している鱗裂きの彼女であるけ
れど、しっかりとこちらにだけは注意を払っていてくれたらしい。
この場所を移動する直前にチラリとニシカさんに視線を送ると、
こちらも不機嫌そうな顔をしていた彼女が酒杯を口元から話して、
コクリと頷きを返してくれた。
ゆっくりとこちらに向かう姿を見て、俺はカーテンの向こう側に
飛び込むことにしたのである。
この控えの部屋では何が待っているのかな?
うちのアレクサンドロシア第三夫人には、間違っても他領のお貴
族令嬢ご夫人と関係を持ってはいけないと言われたものだけど、も
1771
しもマリアツンデレジア夫人がそういう関係を求めてきたらどうし
よう?
ちょっとだけそういう可能性を期待する、ではないが身構えてし
まう、ではないけれど⋮⋮
いいね! などと単純に喜ぶわけにもいかないし、たぶんそれは所詮妄想の
中だけの出来事になるだろう。
果たして俺がカーテンの向こう側に踏み込むと、控室だと思った
そこにマリアツンデレジア夫人の姿はなく、その控えの間からさら
に奥に続く部屋の前に、例の女中おばさんが立っていた。
﹁奥さまがこちらでお待ちです。ささ、他の方に気付かれる前に⋮
⋮﹂
当然俺は生唾を飲み込んだ。
1772
142 階段の白き嶺城 9︵後書き︶
活動報告にカラメルネーゼさんのキャラデザ初期案を掲載しました。
1773
143 階段の白き嶺城 10 ︵※ イラストあり︶︵前書き
︶
前回の後半部分を加筆修正しました。
本日はお出かけの予定があるので早めの投稿です。
1774
143 階段の白き嶺城 10 ︵※ イラストあり︶
﹁この部屋は、夜会で気分を悪くした人間が休憩のために使う様に
用意されたところですの﹂
ゆったりとしたドレスを揺らしながら寝台に腰かけたマリアツン
デレジアは、ようやく不機嫌な表情を解いて俺の方に流し眼を送っ
て来た。
なるほど、おかしな想像をしてしまった俺は反省しないといけな
い。
まさか多くの妻をめとっている身分でありながら、夜の営みを想
像していたなんて恥ずかしい。
﹁こちらに来て座らないんですの?﹂
﹁まさか隣に座るわけにはいきませんからね。節度ってものが大事
でしょう﹂
﹁お互いに初心という事でもありませんのに⋮⋮﹂
まあと口に手を当てて余裕の笑みを浮かべているマリアツンデレ
ジアを無視して、俺は近くにあった椅子に腰かけた。
少々品の無い座り方だが、背もたれを前にしてそこに腕を置いて
彼女を見やる。
﹁それで、ダアヌ夫人への接触は上手くいっておいでですの?﹂
﹁俺の妻が舞踏のついでに、お近づきになったみたいですねえ﹂
﹁どの妻ですの?﹂
からかう様にして俺にそんな質問をしてくるマリアツンデレジア
1775
である。
もちろんわかっていた上でのからかい言葉なのだから、すぐにも
彼女は言葉の続きを口にした。
﹁ダアヌ夫人の兄オゲイン卿ですのね、彼には気を付けた方がよろ
しいですの。夫が健在であったころから、領内の差配はあの方がや
っておられました。この通りリンドルは鉱脈以外には見るべきもの
が何もない様なさびれた領ですから、農作物の取り立ては厳しかっ
たと聞いていますの﹂
リンドルはマリアツンデレジアが言う通り、確かに鉱物と加工品
の街である。
してみると周辺領内には多くの職工たちの集落はあるけれど、鉄
を溶かすために多くの森林伐採が広がっているのか、山野はあまり
豊かだとは言えない場所だった。
﹁リンドルは農作物があまりとれない土壌だったという事ですか?﹂
﹁当然ですの。聞けばむかしのリンドルは自然豊かな山林が広がる
辺境の大地であったというのに、夫がこの土地に入封してからは、
木々を間引いて薪にするため、やがて雨の度に土が流れ出して、洪
水が起きるのも多々あったと聞いています﹂
﹁確かにそうですね、木々の根は土が水に流れるのを抑える役割が
あると聞いたことがあります﹂
モノの本によれば、かつての大陸では薪を得るために森林伐採に
よって多くの山野がはげ山にされたのだと聞いたことがある。
実際、江戸時代の安定期に入る以前の日本でも、多くの人口密集
地の周辺の自然が薪を得るために荒れ放題だったのだとか。
そこで江戸時代の初期に里山に人の手を入れて整備したり、山の
出入りを共同管理して勝手に伐採が出来ない様に厳しく幕府や大名
1776
たちによって取り締まる様になったのだそうだね。
﹁するとリンドルは農作物を近隣諸侯たちとの交易に頼っているわ
けですね﹂
﹁まあ、それもしておりますけれど。少しでも自領をから農作物を
収穫するために、オゲイン卿が張り切っているのですの﹂
﹁どうしてそんな話を?﹂
ふと俺は疑問に思った事を口にした。
すると改めて柳眉を吊り上げて見せたマリアツンデレジアは、居
住まいを正して俺の方を見やった。
﹁ブルカ辺境伯が、この街に触手を伸ばしているとシューター閣下
は仰いましたの﹂
﹁ええ、確かに俺は言いました﹂
﹁ブルカとの鉱物や加工品の取引対価として、農作物を仕入れると
いう交渉が少し前にあったのですわ﹂
マリアツンデレジアは厳しい顔つきのままそう言った後、ひとつ
ため息を溢した。
﹁この土地や周辺の領地から、ブルカには材木や鉱物といった都会
で必要とされているものが送られていますけれど、平地の少ないこ
の土地では穀物がなかなか収穫出来ない土地なのです﹂
﹁かわりに豆、芋といったものはとれるでしょう。ここへ来る途中
の往還でもトウモロコシの畑は見かけましたよ﹂
﹁それでも、すべての領民のお腹を満たすほどの収穫には程遠いの
ですの。領民の多くは農民であるけれど、他の領に比べて土地が悪
く農地に適した場所も少なく、領民に占める職工たちの比率もまた
他領よりも多いですからね﹂
1777
なるほど、それは納得出来る話だ。
﹁ですので、わたしは夫が亡くなった後はそれを引き継いで、ブル
カとの交渉で常に不足している穀物を交易で賄おうと考えてたので
す﹂
けれどもそれは領内の自立を主張するダアヌ夫人派、つまるとこ
ろその代理人であるオゲインおじさんとの対立に繋がってしまった
らしい。
﹁もしかしてそのブルカとの交渉を提案した人間というのは?﹂
﹁エミール夫人ですの。わたしはあの当時、郊外にある別館でひと
り夫が訪ねて来る時だけ、相手をしていればよかったですからね。
けれどもエミールさんは元は文官を務めた夫の秘書で、そのご出自
については知りもしませんでしたから﹂
それがどうだろう。
俺たちサルワタの外交団がやって来て、エミール夫人が何者であ
るかを口にしたことで、色々と思い当たるものが見えてきたらしい。
なるほど、エミール夫人を通じて着々とブルカへの取り込み工作
を辺境伯はやっていたという事か。
﹁元は農作に適した土地も無い場所ですもの。だから、夫はおのず
と鉱山の経営に力を入れましたの。その結果、山野が痩せ細りまし
たけれど、交易によって資金を集める事が出来ました。その取引先
は当然ブルカですものね。ブルカからこの家中に仕える文武の両官
の中に取り立てられた人間は多くいたのですの﹂
そうか。そうやって、
1778
﹁まずは自分の妾腹の娘を領内に送り込んで、文官として前子爵へ
の疑われない形でエミール夫人は接近したわけだな﹂
﹁けれども夫は、ブルカ一辺倒になった貴族外交をしないために王
都から宮中伯の娘を輿入れする事にしたのですの﹂
﹁それがマリアツンデレジア夫人というわけですか﹂
その質問に彼女は首肯した。
﹁けれど、わたしは当時まだ十歳にもならない娘でした。王都近郊
の名のある貴族の元に嫁ぐのならいざ知らず、辺境のリンドルなど
と聞いたことも無かった土地に輿入れすると父に聞いた時は、その
齢ながらにガッカリしたものです﹂
﹁その上、領内ではダアヌ夫人派が激怒して、結婚の約束はしたも
ののリンドルにやって来るのには十年も要したと﹂
﹁そうですの。そうしているうちに、夫にはエミールさんが第三夫
人になって、子供まで出来たではないですか。腹も立てば夫への愛
情などどう向ければいいのかと思うものです﹂
だから余計に領内の幹部たちは、それぞれの夫人たちを派閥の首
魁にまつり上げて対立構造を作っていったというわけである。
悲しいけれど、マリアツンデレジア夫人もまた被害者なのかもし
れんね。
その寂しさを紛らわせるために、お高い壺を集めたり、絵画を集
めるといった事に金を費やしたのだろうか。
根は真面目そうなとこがあるけれど、宮廷伯というとても偉そう
な爵位を持った家柄の娘だ。その辺りの事は気にせず平気で蒐集活
動をしていたのかもしれない。
そしてそれもたぶん、ダアヌ夫人たちとの溝を広げたんだろう。
1779
﹁話が逸れてしまいましたの、もどしましょう。夫の晩年の事です
が、鉱物の交易が順調になればなるほど、穀物の不作は深刻になり
ました﹂
﹁その時にエミール夫人が、農作物の交易を持ちかけたのですか?﹂
﹁⋮⋮ええ、そうですの﹂
﹁領内の農民たちからの徴税は、これはダアヌ夫人派が握っていた
職掌だ。当然ながら自分たちの手腕のまずさを指摘されているみた
いな気分になって、ダアヌ夫人もあまり気持ちの良いものではない
よな﹂
そうしてみると、俺はひとつの疑問に思い至る。
﹁マリアツンデレジアさま。エミール夫人を送り込んだブルカ伯は、
果たして彼女にご主人が手を付ける事も計算の内だったんでしょう
かねえ﹂
﹁エミールさんは、夫が死んで直ぐにも姿を消しました。残ってい
れば彼女を庇護する人間はこの領内におりませんの。わたしたち第
二第三夫人にいい気持ちを持っていなかったダアヌ夫人は当然とし
て、御台になったわたしとしても、彼女を自由にさせているわけに
はいきませんからね﹂
仮にエミール夫人がリンドルの家中を掌握したとすれば、当然だ
が寄るべき人間のいないマリアツンデレジアさんが、姿を消す立場
に代わっていたのかもしれない。
ダアヌさんはこの土地の分限者のご出身だったよな、だったら逃
げる場所もないし引き下がれない。マリアツンデレジアさんが相手
だろうがエミール夫人が相手だろうが、領内の主導権争いで蹴落と
す気はマンマンなのである。
﹁すると自分の娘の身を案じて、ブルカ伯は引き上げさせたのか。
1780
孫もついでに連れていけばよかったのに﹂
﹁シェーンは残された唯一の跡取りですの。義息子まで引き上げて
しまっては、わたしやダアヌさんの血縁者を養子にするという事を
警戒したんでしょう﹂
大きく深いため息をついたマリアツンデレジアは天井を見上げる
ような姿勢をした。
ところで、
﹁シェーンお坊ちゃんは、自分がブルカ伯ミゲルシャールの孫だと
いう事実を知っている可能性は?﹂
﹁ないと思いますの。わたしたちもその事実をシューター卿から聞
くまでは知りもしませんでしたから。それにエミールさんは一部の
女中たちだけと親しくして、わたしたちとは距離をおいていました
の﹂
﹁坊ちゃんはこうして見ると、大いなる楔だな﹂
﹁けれども、いまさらはいそうですかと、義息子を排除するという
選択は出来ませんの﹂
﹁そりゃそうだ﹂
そんな事をしたらブルカ伯に介入する隙を与えてしまうかもしれ
ないね。
﹁しかし、わたしにも貴族の娘として矜持があります。このまま辺
境伯の掌で黙って踊らされているわけにはいきません﹂
﹁俺たちと協力、してくださいますよね﹂
﹁ええ、可能な範囲でご協力は出来ると思います。ですが、ダアヌ
夫人は一筋縄ではいかないと思いますのよ?﹂
﹁まずは和解の道を模索するといったところでしょうか。放ってお
けばそのうちブルカ伯にリンドルは併呑されてしまいますよ。あな
1781
たたちの対立が決定的になってくれば、お坊ちゃんが自分の孫であ
ることを公表して、介入してくる可能性は大いにある﹂
俺はブルカ辺境伯ミゲルシャールがどんな男かは知らない。
だが、これだけ四方八方に手を尽くして辺境諸侯を監視し、隙あ
らば切り崩そうとしている政治姿勢を見ている限り、とんでもない
化け物なんじゃないかと想像するわけである。
﹁和解のための努力は大いにしてもらいたいですねえ﹂
﹁わかっていますの。出来る限り⋮⋮﹂
﹁その暁には、我がサルワタから可能な限り、農作物の提供をさせ
ていただきたい﹂
都合のいい事に、サルワタの森の開拓村には他所の土地より芋の
収穫に猶予があるからね。
﹁見返りは何ですの? シューター卿は七人の奥さんがいるという
話を聞きましたの。まさか、わたしもそのひとりに⋮⋮?!﹂
﹁い、いやそういう事ではないですから。リンドルの冒険者ギルド
からうちの村に要員を幾らかと、可能ならば移民のなどを募集させ
てもらえれば⋮⋮﹂
俺の顔をマジマジとみていたマリアツンデレジアがハッとして、
いやいやをして見せたものだから俺は大いに驚いた。
違う、そうじゃない!
ここでまたカサンドラに相談も無く奥さんを増やすだなんて悪い
冗談だし、何よりアレクサンドロシアちゃんにこんな報告をしたら、
今度こそ永久奴隷に落とされてしまうかもしれない。
﹁冒険者の応援と、移民の募集ですの?﹂
1782
﹁それからブルカに対抗していくための同盟関係です﹂
﹁わかりました﹂
口約束ではあるけれど、互いにその条件の確認に満足して握手を
かわそうとした瞬間の事である。
﹁キャアアアア!﹂
大広間の方から、若い女性の悲鳴が響く音が飛び込んできたので
ある。
あれは間違いなく、カサンドラのものだ。
俺はとてつもなく嫌な予感がして、驚きながら立ち上がった。
﹁し、失礼。あれはたぶん妻のものです。失礼します!﹂
http://15507.mitemin.net/i1772
38/
<i177238|15507>
マテルド
カラメルネーゼ キャラクターラフ
イラスト提供:猪口墓露さん
1783
143 階段の白き嶺城 10 ︵※ イラストあり︶︵後書き
︶
カラメルネーゼさんのキャラ起こし現状を掲載しました。
1784
144 そしてその毒は踊りだす 前編︵前書き︶
更新お待たせいたしました!
1785
144 そしてその毒は踊りだす 前編
控えの間を通り抜けて夜会の行われている大広間に飛び出してみ
ると、人々は騒然としていて凍り付いた顔をしていた。
真っ先にすぐ側に身を寄せてきたニシカさんは、いつもの山刀を
抜き放っていた。
﹁何があったんですか﹂
﹁けもみみが剣を抜いたんだ﹂
それは尋常ではない言葉である。
俺もニシカさんとの短い会話の中で気が付かないうちに左手が長
剣の鞘を握りしめていた。
そしてふたり揃ってカサンドラの側、輪になって集まっている人
々の中に飛び込んだ時、俺は赤い血の絨毯の中で倒れている男と、
深紅に染まった長剣を握りしめるけもみみを目撃したのである。
﹁シューターさん﹂
﹁え、エルパコお前⋮⋮﹂
﹁この男が義姉さんを刺そうとしたんだよ。ぼくがんばった⋮⋮﹂
曇りなき瞳を俺に向けたけもみみが力なくそう言葉を口にすると、
けもみみを萎れさせたままけもみみが倒れたのである。
それだけではない。
けもみみの向こう側では、壇上のリンドル子爵シェーンの手がか
ざされていて、そこから白煙がくゆっていたのだ。
当然、俺たちサルワタの外交団、そしてリンドルの武官たちは抜
剣して互いに白刃を突きつけ合っているという異常事態だ。
1786
だが、そんな事よりも倒れたエルパコが最優先だ。
﹁おい、エルパコ、しっかりしろ?!﹂
◆
俺の名は吉田修太、三二歳、殺人事件を起こしたハイエナ獣人の
夫である。
エルパコは夜会の最中、俺の妻カサンドラに従って、リンドルの
ダアヌ夫人派に属するオゲイン卿との談笑に加わっていた。
ちょうど楽団の奏でる舞踏の曲に乗ってオゲイン卿とカサンドラ
がダンスを楽しんだ。
はじめて舞踏をするカサンドラをリードしたオゲイン卿によって、
それは恥をかかずに済む程度に盛り上がった後に無事終了。
そのままダアヌ派の集まる人々のところに接触のキッカケを掴む
ために向かったカサンドラのところに、エルパコは付き添った。
俺はというと、ちょうど周囲から自分の奥さんたちが姿を消して
ぼっちだったのであるが、そのタイミングにこちらはこちらでマリ
アツンデレジア夫人からの接触を受けていた。
聞けば事件はこの様に起きたらしい。
舞踏を終えたカサンドラは、オゲインおじさんに手を取られなが
ら、ダアヌ派の集まる人々のところへと誘われた。
ドレスを着たご夫人がたは、城内に出仕する数少ないダアヌ派の
女官や官憲の妻たちだった。
カサンドラをひと通り紹介してもらった後。
談笑の際オゲイン卿に、地元で採れるという度数の高い極めて高
価な蒸留ぶどう酒をカサンドラは勧められたらしい。
1787
﹁大使閣下は蒸留された酒というのをご存じですかな﹂
﹁それは焼酎の様な?﹂
﹁さよう。これはブランデーと言ってぶどう酒を蒸留した焼酎だと
思って頂ければよろしい。不純なものを取り除き、手を加え味を調
えたものがこうなるのです﹂
オゲイン卿は地元リンドルで作られているというブランデーの瓶
を手ずから酒杯に注いでみせると、ひとつを自分に、もうひとつを
カサンドラに渡したのだった。
傍らには使用人の男が控えていた。
﹁度数は非常に高いので、呑む量はお好みにあわせてといったとこ
ろですかな。わしはこの酒に眼が無くて、妻がたまに許してくれる
時は、晩酌にこれを嗜むのです﹂
そんな講釈を口にしたオゲインおじさんは酒杯をひと息に煽った
そうだ。
このファンタジー世界のブランデーがどの程度の度数なのか俺は
知らないが、まあかなりキツい酒なのは間違いないだろう。
カサンドラはその事を口に含む前の匂いで察したのか、少しため
らった後にオゲインおじさんに続いて口に運んだらしい。
こちらは舐める様に舌に含むといった感じだったとか。
キツく鼻に抜ける感覚があったと、カサンドラが俺に回想してく
れた。
﹁どうですかの。こうして不純なものを取り除いたものは、味もし
っかりとしていて匂いも澄んだ強さがある﹂
﹁ええ、大変おいしいお酒です﹂
﹁領地経営もまた同じことが言える。内政を整え領民を集め、産業
1788
を興してこれをしっかりと育てる。その過程において外的な要因は
極力と蒸留していかなければなりません。わしはいくつかの村と集
落の代官をしているのですが、近頃はこの領内に多くの人間たちが
出稼ぎにやって来たり、職能を学ぼうと弟子入りするものがおるの
です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あるいはリンドルの富を求めて他領からも商人たちがやって来る﹂
オゲイン卿の視線は、カラメルネーゼの方向に顔けていた。
彼は領地経営に携わるダアヌ夫人派の重要な人間であるだろうか
ら、自らの手勢を使って俺たちの素性についてはしっかりと調査を
していたのかもしれないね。
だからサルワタの騎士然と過ごしているカラメルネーゼさんの正
体が、市壁の検問を通過する時は商人としてやって来た事を知って
いたんだろう。
﹁蒸留酒の味の決め手は、どれだけじっくりと熟成させたかだ。出
来栄えはどうかと、途中で焦ってしまってはこれはいけない。酒は
じっくりと寝かせてはじめて美味くなるのですぞ﹂
﹁ええ。そうですね﹂
暗にそれは、俺たちサルワタの人間に対する警告であったらしい。
何しろ鉱物資源とその加工品というのは宝の山だ。
リンドルはたまたま痩せた山間の土地に鉱脈が発見されたから今
日の発展を手に入れた。
おそらく前子爵がリンドルへ入封した時には、とんでもない痩せ
た領地だったに違いなく、ブルカ辺境伯もリンドルが宝の山には見
えなかったんだろう。
だが今は違う。
1789
﹁近頃は他領の人間たちが、酒樽の中身を味見をさせろとこうるさ
い現状では、わしらも樽をしっかりと守らなければならない。その
上、触滅隊などという物騒な連中も往還で跋扈しておりますでな﹂
﹁はい、わたしたちも道中で襲われたので。その事は理解しており
ます﹂
﹁果たしてそれはどうかな?﹂
オゲイン卿は太り肉を揺さぶりながらもカサンドラを見据えてそ
う言ったそうだ。微笑のまま言葉をつづけて、
﹁自作自演という事もある。わしらリンドルの人間は交易と鉱物に
よって領地を富ませてきた。まだそれは志半ばで、酒に例えるなら
熟した状態になったとはまだ言えない。外敵をはねのけるにはまだ
まだ力が足りませんでな﹂
困惑したカサンドラは﹁自作自演﹂という言葉を聞いて驚いた。
﹁触滅隊という連中は、わしらの交易品を阻害している。リンドル
往還でこれが頻繁になるという事は、わが領の経営に直結する被害
だ。商人どもの間での評判も、当然悪くなる﹂
﹁そ、それはそうですが。わたしたちが触滅隊をけしかけているな
んて、ありえません﹂
﹁ブルカのやり口は非常に露骨でしてな、城下に商館を作りわしら
の酒を味見させろと言ってくる。オッペンハーゲンもまた商館を開
設した。そして御台さまはその辺りの守りが弱い。そして今度はサ
ルワタだ。触滅隊の跋扈著しいこの時に大使閣下、あなたたちの目
的はどこにあるのですかな。ん?﹂
気が付けば俺が姿を消している事を指さして、オゲイン卿がそう
言ったらしい。
1790
その頃ちょうど、マリアツンデレジア夫人に誘われて奥の控室に
消えていったタイミングだろう。
﹁今でこそ御台さまであるが、あの女はほんの近頃までは別邸に引
きこもってリンドルにある酒樽を片っ端から味見し放題だった女で
してな。あの女に近付くという事は、わしらが大切に熟成させてい
る酒樽を次々に台無しにしてくれるのかと、わしらも気が気ではな
いのですよ。時期があまりにもドンピシャリだ。誰もかれも疑わし
く見える﹂
﹁わ、わたしたちはこのブランデーの味見をしにこの街へやってき
たわけではありません﹂
もちろんカサンドラは自分たちがそのつもりのない事を弁明した。
何しろ俺たちはブルカ辺境伯の圧迫から自主独立を維持するため
に、暗中模索をしているのだ。
もしもオゲイン卿の言葉、立場を考えるのならば、サルワタもリ
ンドルも似た様な位置づけにあるのだから。
だから、カサンドラはその事を訴えようとした。
﹁では何を目的にリンドルへとやって来たのですかな?﹂
﹁交易です!﹂
﹁交易? 交易。交易という事はやはり酒樽をくれと言っているの
と何も違いはありますまい﹂
﹁そ、そうではありません。わたしたちサルワタの人間は、今ブル
カ辺境伯の圧迫に晒されている立場なので⋮⋮﹂
本来の目的は、これまで大きく依存していたブルカとの交易を脱
却しようというものだ。
ここに来て思わぬ形でゴルゴライを奪取したり、女村長の人脈か
らセレスタ領と交友が深まったりしたものの、最終的に俺たちは対
1791
ブルカの包囲網を形成するカタチで周辺諸侯に圧迫をかける辺境伯
へ対抗しようというものだ。
その事をカサンドラが言葉を選びながら語ったそうだ。
目的はあくまでもブルカに代わる輸入品の購入先はどこかと探し
ている事と、可能であれば余剰に輸出が可能な農産物を送り出した
いという事。
カサンドラも必死になってその事を訴えたのだが、残念ながらそ
れは叶わなかったのだ。
﹁大使閣下。なるほど閣下のお言葉はよくわかりました。しかしわ
しは言ったはずだ。わしらの酒樽は、わしら自身で守るつもりです
と。このブランデーを作る材料をよそから手に入れるつもりはあり
ませんとね﹂
酒樽の様な腹を抱えて微笑のままオゲインおじさんはそう締めく
くったらしい。
お説はごもっともであるが、だからといって交易をするつもりは
ない。
いや、交易そのものは鉱物と加工品を売る事で利益を上げている
リンドルの事だからするのだけれど、今リンドルで不足をしている
農作物をブルカであったり、あるいはブルカを避ける目的で俺たち
サルワタであったり、そういう場所から求めるつもりはないのだと。
﹁もちろんこれはわしと、わしの妹たちの考えている事で御台さま
は違うお考えでしょうけどなあ﹂
﹁その点にわたしたちは期待したいところです。けれども、やはり
オゲインさまやダアヌさまにご理解いただけない中での交渉は心苦
しい限りです⋮⋮﹂
﹁わしらにも、わしらの立場がありますのでな。ご理解いただきた
い﹂
1792
﹁ええ、わかっています。けれどそれが時代に逆行していても、で
しょうか⋮⋮﹂
﹁そういう風に見る向きもあるだろう。しかし、わしはそう思って
ない。わしらの背後にはドワーフの岩窟都市がありますからなぁ。
そことしっかりとした関係があれば、ブルカなど恐れるものではな
い。自力で押し返して見せますぞ﹂
きっとカサンドラは、とても嫌そうな顔をするのをぐっと我慢を
しながら言葉を聞いていたんだろう。
俺もその話を聞いて、オゲインおじさんの認識はことごとく甘い
ものだと思った。
まだこのリンドルの中ではそれほどブルカの暗躍を感じる事が無
かったのだろうか。
それとも、交易で繁栄するリンドルの街と言えども所詮は辺境の
片田舎気質なのかもしれない。
﹁まあ、何はなくともわしの口から妹に今日の話はしておきましょ
う。大使閣下らの目的がどこにあったのかという事は﹂
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
そうして改めてブランデーの瓶をオゲインおじさんが手に取った
時、事件は起きた。
◆
その男は何者でも無かった。
リンドル武官の様な正装でもなければ、俺たちが城下で揃えたお
揃いのサーコートでもない。
しかしたぶん俺たちがしている様な正装に似せているつもりだっ
1793
たんだろう。
今夜は舞踏会なので、多くの人間がリンドル城の大広間に出入り
していたし、男はきっとサルワタ外交使節団の一員のふりをしてこ
の会場に潜り込んだのだろう。
そうしてしれっとした顔をして夜会の中を行き来しながら、リン
ドルの人間にはサルワタ外交団のふりをして、サルワタ外交団には
リンドルの人間のふりをして。
その上で、襲うのに最適な人間を探して見つけ出したのが、たぶ
んカサンドラだったのだろう。
ドレス姿をしていたし、側には華奢で小さな騎士見習いの様なけ
もみみが控えているだけの存在だ。
同じドレスでも雁木マリの腕を見れば軍人のそれだし、側にはハ
ーナディンもいる。
ようじょは側にベローチュが控えていてこれも護衛がしっかりと
している様に見えるだろう。
軍人然とした野牛のタンスロットさんはリンドル武官の輪にいた
し、この時はニシカさんも俺を追って控えの間の近くに備えていた。
そうしてこの男はニコニコを絶やさない様にしてカサンドラの近
くにやって来たのである。
当然、最初はダアヌ派の人々もけもみみも、互いが互いの関係者
だと思って気にも留めなかった。
しかしその実態は、後々調べたところによると、どこに所属する
者でも無かったのである。
俺たちの外交団の人間では間違いなくないし、少なくともリンド
ルの両派閥もこれを否定した。現状では本当にそうなのかどうかは
わからないが、疑い出せば切りがないのでそういう事なのだろうと
納得したのだが⋮⋮
1794
この男がニコニコ顔のまま、ブランデーを盆にのせた使用人の側
に立って、自分も呑もうという仕草からさりげなく懐剣を抜き、一
気にカサンドラへの距離を詰めようとしたらしい。
この時、挙動がおかしい事を目にしたけもみみは、割って入るよ
りも早く剣を抜いてこの男の行動を妨害した。
﹁きみ、どういうつもり?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮!﹂
ほとんど懐剣を抜くのと同時にけもみみが誰何を唱えながら白刃
をきらめかせた。
何故なら即座にその誰何の瞬間も、カサンドラ目がけて懐剣を突
き立てようとしたからである。
これは俺たちサルワタの人間を狙った暗殺だ。
男の懐剣はまさに刺す事だけに特化したものらしく、斬りつける
には不適だ。
それを目ざとく確認したエルパコは、果敢に距離を詰めながらこ
の懐剣を跳ね上げてみせたらしい。
当然、誰何に応えないような人間であるから、男はなおも抵抗し
ようと襲いかかろうとした。
そこをエルパコが一刀のもとにバッサリと切り捨てたわけである。
問題はこの瞬間に白刃を振り回したけもみみだけが、そのタイミ
ングでカサンドラが悲鳴を上げてしまった事で注目を集めてしまっ
た点だ。
目の前で自分が襲われ、しかもそれを阻止するために男が斬られ
たのだから、カサンドラは責められない。
1795
そしてエルパコが男を斬り伏せた事とカサンドラの悲鳴で注目が
集まったその場所に、リンドル子爵シェーンが、魔法の一撃を撃ち
込んだのである。
◆
彼の二つ名は早撃ちシェーン。
弓か魔法の名手だと予想はしていたが、やはりその名の通りの事
だった。
シェーンは素早い初動で溜めのモーションを作らずに魔法を速射
するのが得意な少年だった。
ようじょとベローチュの挨拶を受けていたシェーンは、悲鳴が会
場を響き渡った瞬間にその先に視線を向け、剣を振り回している人
間に向けて一撃を放ったというわけである。
﹁使ったのは風の弾丸だ。命にまでは別状はないはずだけど、後頭
部を狙ったからね﹂
飛び出して来た俺とニシカさんは、その言葉をシェーン自身の口
から飛び出したのを聞いた。
倒れ込んだけもみみを抱き上げる俺は、シェーン子爵を見やった。
すぐ側のベローチュはようじょを庇いながら剣を抜いてシェーンに
突き付けていた。
俺にも気が付けば近くにいた武官が剣を向けているし、ニシカさ
んもオゲインおじさんに山刀を突き付けている。
﹁あーあ。つまんない夜会だと思ったら面白い事が起きたね。サル
ワタのみなさんは、僕たちをこの場で皆殺しにでもするつもりだっ
たのかい?﹂
1796
感情のあまり見えない表情でそんな言葉を口にした。
子爵シェーンの人物像について、俺たちは情報収集はまだできて
いなかった。
少年がどんな人間なのか知らない。
俺は思いのほかシェーンの攻撃的な会話の切り口に、いつでもこ
の場を斬り抜ける覚悟だけはしながら、けもみみを抱き寄せ、カサ
ンドラを視線の端に捉えた。
カサンドラもまた状況が理解できずに、当然ながら警戒心をあら
わにしている。
すると、意外な人物が俺たちに助け舟を出してくれるではないか。
﹁ご、誤解だ。これはすべて誤解であるぞ。わしが見ていた限り、
おじご
襲われたのは大使閣下である!﹂
﹁へえ叔父御、これはどういう事ですか?﹂
あまり感情の抑揚の無い具合でシェーンがそう言いながら前に進
む。
手はまだ俺たちの方向に掲げたままで、いつでも風の弾丸とやら
を打ち出せる様に警戒は解いてていないらしい。
﹁この場に倒れている血に染まった男が、大使閣下を襲おうとした
のだシェーンよ。そしてこの騎士どのが、﹂
﹁俺の妻のひとりエルパコです﹂
﹁そ、そう。エルパコ夫人がそれを防いで切り伏せたのだ。わしが
襲われたわけでもなければ、リンドル家中の人間が襲われたわけで
もない。これは誤解であるぞシェーン﹂
﹁⋮⋮大使閣下のご夫人?﹂
1797
視線は俺とけもみみ、オゲイン卿とシェーン子爵へと、みんなが
交互に視線を向かわせている。
この時はじめて、シェーン少年の顔に感情めいたものが浮かんだ
のを俺は確認した。
というか、たぶん俺はこの早撃ちシェーンに明らかな殺意を向け
ていた事だろう。
﹁⋮⋮とすると、僕が魔法を放ったのは誤解だったのか?﹂
﹁そうだ誤解だ!﹂
﹁なんだ、つまんない﹂
﹁ご、誤解で済むような事ではないぞ、シェーン⋮⋮﹂
シェーンは構えた腕をふっと下ろすと、ポスリと彼の安楽椅子へ
と腰を落ち着けてしまった。
何というクソガキだ。
仮にも俺の妻に気絶させただけとは言え、手を上げたのだ。
子供のやった事と済まされる様な事ではないのだ。
当然その態度に、事の成り行きを見てあわてて俺の後を追って飛
び出してきたらしいマリアツンデレジアが、激昂して叫んだのであ
る。
﹁何事ですの! 双方ただちに剣を収めなさい。シェーンさま、こ
れはいったいどういう事ですの﹂
﹁何でもないんだってさ﹂
﹁そんなわけはありません! あなたは何という事をしてくれたの
ですの!!﹂
そう声を荒げながらマリアツンデレジアは、駆け出していよいよ
血相を変えながら俺たちの元に向かって来た。
1798
するとその瞬間にだけひどくシェーン子爵が強張ったのを俺はチ
ラリと目撃した。
たぶん今までの感情の抑揚がない顔とも、先ほど見せた何かの感
情の兆しとも違う別の顔色と言えるものだろう。
シェーン少年は何かしらマリアツンデレジアに対して負い目の様
なものがあるのかもしれない。
いや違う、恐れているのか? 不満に思っているのとも違うよな
⋮⋮
俺とマリアツンデレジアがわずかの間この場を抜けている間に、
この様なとんでもない事が起きてしまったのだ。
けもみみはどうやら脳震盪を起こして意識を失っているらしく、
周りの剣を抜いて互いを威嚇けん制していた人々も、いったんは白
刃を元の鞘に納めた。
そして﹁何と謝罪をしていいのか﹂と俺に謝罪の言葉を口にして
いたけれど、すでにその言葉は聞こえていなかった。
﹁マリ、診てくれ!﹂
﹁ちょっと待ってなさい、ハーナディン気付けを!﹂
﹁マリアツンデレジアさま、奥の休憩室をお借りしますからね。お
いニシカさん、ベローチュ、手を貸してくれ!﹂
﹁動かすときはあまり頭を揺らさない様に!﹂
意識の無いけもみみを運びながら、完全にリンドルでの交渉は詰
んだなと俺は密かに心の中で思った。
たぶん、あのクソガキと仲良く手を取り合う未来は俺に想像出来
ない。
むしろ機会があれば殺してやるとさえ思ったぐらいだ。
ブルカ辺境伯の仕込んだ毒に、こうして俺たちは踊らされ始めて
1799
いたのである。
1800
144 そしてその毒は踊りだす 前編︵後書き︶
本日の更新は、お仕事の都合で出張があるためお休みさせていただ
きます。
1801
145 そしてその毒は踊りだす 中編
﹁シェーン子爵は、ギムルお兄さんと同じ臭いがするのです﹂
休憩室に寝かされたけもみみの寝台の側で、先ほどまで俺の座っ
ていたイスに腰かけたようじょが俺を見上げながらそんな言葉を口
にした。
﹁それは具体的に言うと、よそ者嫌いをこじらせた感じという事で
しょうか﹂
﹁それもあるのかもしれないのです。けれど、それよりもマリアツ
ンデレジアさまに向ける視線というか、態度というものだょ﹂
どう説明をしていいのかわからないらしく、もどかしそうに言葉
を選びながらようじょが言っている様だった。
﹁上手く言葉に出来なくてごめんなさい⋮⋮﹂
﹁いいんですよ、直感的にそういう風に感じたんですねッヨイさま
は﹂
﹁はい、そうなのです﹂
﹁ではカラメルネーゼさん、あなたの眼にはどう映りましたか﹂
ようじょと男装の麗人のサポートをするため、先ほどまでシェー
ン子爵との歓談の側に立っていた蛸足麗人に視線を向けると、思案
気に小首をかしげながら言葉を口にする。
﹁そうですわね。政治向きの事にはあまり興味を示しておられない
1802
という風に、印象がありましたわ﹂
﹁その辺りはマリアツンデレジアと最初の会見を済ませた後の謁見
で、俺も似たような印象を受けたな﹂
献上品の目録を読み上げ、自分たち外交団の主要な人間を自己紹
介しても﹁ふうん、大儀﹂とひと言だけ口にした程度で四六時中、
心ここにあらずといった感じだったからな。
それがである。けもみみに魔法の風弾を打ち出した時のシェーン
少年は、一見すると感情のこもらない顔をしていたようにも見受け
られるけれど、その実どこかに物事を面白がっている様な印象があ
ったのも事実なのだ。
﹁それから、何かをぼんやりと待っているという風にも、今にして
思えば見受けられましたわ﹂
﹁何かを待っている﹂
﹁ええ、例えばですけれども。エルパコ夫人が騒動を起こす瞬間を
じっと待っていたという様な。言ってみれば、養女さまたちがご挨
拶と夜会のお礼を口にするためお近付きになった時も、わたくした
ちに対して特に視線を向けるという事も無かったものですから﹂
つまり、早撃ちシェーンはエルパコが誰かを斬り伏せる事を知っ
ていたという事か。だとすれば、それは無視できない事実だ。
﹁もしもそうなのだとしたら、今夜この舞踏会の会場で、何者かが
暗殺事件を行う事を知っていたという事になりますよ﹂
﹁どうですかね。わたくしにはエルパコ夫人が剣を抜く事を知って
いたとは見えなかったですわ。視線はわたくしたちに向けていない
けれど、夜会の開かれた大広間の中で視線を泳がせていたというの
が事実ではないかしら。それと、﹂
﹁それと?﹂
1803
﹁御台さまのマリアツンデレジアさんがシェーンお坊ちゃんを強く
叱責なさった時、ちょっと表情が難しい顔をしていたのが気になり
ましたわね﹂
傾げていた小首を正面に戻しながら、しっかりと俺を見据えるカ
ラメルネーゼさんである。
﹁なるほど、そういう意味でのギムルにどこか似ているという事か﹂
﹁ギムルさんという方をわたくしはよく存じ上げていないのですけ
れど、アレクサンドロシアの義息子なのでしょう?﹂
﹁そうですね、マザコンのいい齢こいた青年です﹂
﹁見たところは顔の表情にあまり気持ちを表していないシェーン坊
ちゃんでしたけれど、少しだけあの時は気持ちが入っていた様に感
じたのですわ﹂
シェーン少年について人となりをほとんど知らない俺たちからす
れば、カラメルネーゼさんのその言葉には今夜起きた事件の何かし
らの解決の糸口があるんではないかと、どこかそんな風に感じた俺
である。
﹁シューター、話し中で悪いのだけれども﹂
﹁ん、どうしたマリ。エルパコの調子はどうだ?﹂
ふとした時、寝台に横たわったけもみみの側で脈を取ったり気付
けを嗅がせたりしていた雁木マリが、うんうんと思案していた俺た
ちの方に視線を向けて言葉を続けてきた。
﹁脈は正常な数値に感じられるし、後頭部への損傷も聖なる癒しの
魔法で回復をさせておいたから。表面上は特に問題があるという事
はないと思うわ。目立った外傷も無かったことだし、今出来る事は
1804
これだけ﹂
﹁脊髄の損傷とか、そういう事はないだろうな﹂
﹁大丈夫よ、あたしの魔法はこれでも騎士修道会で一番の腕なのよ。
安心してちょうだい﹂
この場にカプセルポーションなどの即効性がある薬品類が無い事
が俺の中で不安ではあったけれども、ひとまずその点に言及する必
要はないらしい。
﹁時間が経過すれば目を覚ますと思うけれど、いったん宿まで彼女
を運んで、それからの事は考えましょう﹂
﹁動かしても大丈夫なのか?﹂
﹁今はまだやめておいた方がいいわね、しばらくこのまま寝かせて
おきましょう﹂
俺と雁木マリのやり取りを聞いていたカサンドラは、心底安心し
たようにけもみみの側で彼女の手を握りながらほっとため息を漏ら
した。
﹁シューターさん。わたしに出来る事はあまりありませんが、エル
パコちゃんが目を覚ました時にしっかりとお礼を言えるように側に
いようと思います﹂
﹁うん、そうして手を握ってあげていてくれると俺もうれしい。目
を覚ましたらいつもみたいに頭を撫でてやらないとな﹂
﹁はい、思いっきり可愛がってあげてください﹂
そんなやり取りの最中に、コンコンと少し狭い休憩室のドアがノ
ックされる。
ドアの前で警備のために立っていたベローチュが即座に動いて外
の様子を伺うと、果たしてマリアツンデレジア夫人に仕えている女
1805
中おばさんが顔を出したのだった。
﹁失礼します。御台さまが大使閣下おふたりにお話があると申し上
げております﹂
﹁わかりました、すぐに向かうので少々待っていてください﹂
この場をカサンドラと雁木マリ、カラメルネーゼさんにお願いし
た俺は、すぐにも立ち上がってマリアツンデレジア夫人のもとへ向
かう事にした。
◆
﹁ご主人さま。シェーン子爵というのは自分の見たところ、かなり
の優良物件と言えると思いますよ﹂
﹁ベローチュにはそう見えるか﹂
﹁はい、あれは女で人生を駄目にするタイプの人間です。そこのと
ころを上手く手綱を握る事が出来れば、御しやすいかと﹂
リンドル子爵家の御台マリアツンデレジア夫人が待っているとい
うシェーン子爵の居室に向かうその道すがら、男装の麗人はその外
見に似合わないようなシェーン評を小声で俺に語った。
控室の入り口には野牛の兵士タンスロットさんと鱗裂きのニシカ
さんを、もしもの時の護衛のために残している。
大使おふたりをと呼び出されたのだから、本来はカサンドラも連
れて来るべきだったかもしれないが、自分を守って気を失ったけも
みみの側に残ったカサンドラの代わりに、今の俺はベローチュだけ
を連れている状態だ。
﹁そう思うなら、ご主人さまの鞍替えをするか。俺は別に構わない
ぞ﹂
1806
﹁ははは、それもひとつの将来計画かもしれませんね。けれども、﹂
大切な家族けもみみに手を上げられたにも関わらず、この様な時
に冗談でも軽口の類を口にするベローチュに対して俺は正直不愉快
な気分になった。
けれども、どうやらそれは俺の誤解だったらしい。
軽口の類に思えたそれは男装の麗人なりの分析で、話には続きが
あった。
﹁あれは義理とは言え、母親を見る眼とは言えなかったと思います
よ自分には﹂
﹁どういう意味だ、それは﹂
﹁シェーン子爵が御台さまを見ている視線ですよ。あれは母親に向
ける者じゃなくて、何か特別な感情を抱いているものです﹂
﹁何か特別な、感情﹂
﹁そうです。自分も年頃の女ですからね、恋愛の機微には敏いです
よ﹂
自分で自分を年頃の女などと言ってのけたベローチュは、俺に身
を寄せながら上目遣いを向けてきた。
リンドル城の廊下を歩きながら、男装の麗人は生真面目な顔のま
ま続ける。
﹁例えばですけどね﹂
﹁うん﹂
﹁自分の家の場合、父が戦死したために母は別の男性と再婚したの
であります。うちは母が騎士で父が兵士だったので、次の結婚相手
は戦場に出る事がない街の市民だったんですよ﹂
﹁ほう。一般男性の方か﹂
﹁しかも新しいお父さんは若い男でしたよ。それもヒト族の。当時
1807
ようじょ
の自分はシェーン子爵か養女さまと同じぐらいの年齢だったから、
そういうところはわかるんです﹂
﹁憧れというやつか﹂
﹁そうですね。憧れというか初恋というか。母より若い新しいお父
さんなんですから、それはもう母にはもったいないとか、自分はお
父さんと将来結婚するんだとか、わけのわからない事を言っていま
したよ﹂
﹁ふむ﹂
﹁そういう視点で見ていてください。自分の言っている事、シェー
ン子爵が何を考えているのかぼんやりわかってきますよ﹂
なるほどそういう意味において、シェーン少年にはギムルと同じ
臭いがするとようじょが言ったんだろうな。
アレクサンドロシアちゃんとギムルの関係が、マリアツンデレジ
アとリンドル子爵にそのまま当てはまるのではないかと。
意味深に男装の麗人はそうやって先ほどまで生真面目だった顔を
崩した。そしてそこに悪い顔を浮かべる。
﹁ご主人さま、もういち度言います。あれは女で人生を間違いなく
駄目にするタイプですので、その点を突いて味方にする事が出来る
かもしれません﹂
﹁だがあいつはエルパコに手を上げたという事実がある。何もなし
ではいそうですかと引き下がる事はしないぞ、俺は﹂
﹁何事も政治ですよ﹂
それが政治で、けもみみに手を上げた事実を無かった事にすると
いうのなら、俺には政治向きの事は向いていないんだろうな。
﹁復讐するつもりなら、そういう方法でやる事も出来ます。必要に
なれば自分が何でもしますから、お命じ下さい﹂
1808
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
先を行く女中おばさんにがマリアツンデレジアの待っているシェ
ーン子爵の居室前に立つと、こちらですと一礼して扉をノックした。
俺はたぶん苦虫を噛み潰した様な複雑な顔をして、扉の前に立っ
ていただろう。
男装の麗人ベローチュの言葉は、悪魔のささやきの様に俺の耳に
ずっとこびりついていた。
◆
﹁この度は知らぬこととは言え、義息子がエルパコ夫人に対してと
んでもない事をしでかした件について、ともどもに深くお詫び申し
上げますわ﹂
マリアツンデレジア夫人が俺に向かって深々と頭を垂れながら謝
罪の言葉を述べた。
その隣には悪戯をしでかしたクソガキが、とても嫌そうな顔をし
ながら一緒に頭を下げる。
いや、マリアツンデレジアの手でもって強引に頭を下げていると
言った方が正確だろう。
﹁それで、エルパコ夫人のご容態はどういった具合ですの?﹂
﹁外傷も無く、命にも別状はないという事であります﹂
﹁それは不幸中の幸いですの⋮⋮﹂
憮然とした気分のまま謝罪にも返事をせず難しい顔をしていた俺
に代わって、ベローチュが回答した。
するとマリアツンデレジア夫人とオゲイン卿が顔を見合わせてホ
ッとした表情を浮かべていた。
1809
両者は互いに派閥の長であり、あるいは代理者である。けれども
謝罪をするにあたって呉越同舟とでもいうのだろうか、顔を突き合
わせているらしい。
﹁起きてしまった事をどうこう言うのはあまり好きではないんです
けれどもねえ。どうしてこういう事になったのか、原因の方が俺た
ちサルワタの人間は知りたいわけです﹂
﹁そのご意見はしごく最もなものですわ﹂
﹁だったら、シェーン子爵の口でそのあたりの事を聞かせていただ
けませんかねえ﹂
この場には俺と男装の麗人、そして相対する側にシェーン子爵を
挟む様にしてマリアツンデレジア夫人とオゲイン卿が立っている。
互いに応接セットに向かい合う様な格好だが、ここは応接間の豪
華なものに比べるとあくまでも簡易的なものしかない様子だった。
ここはシェーン少年の居室という事だったが、部屋にはマリアツ
ンデレジア夫人の趣味である絵画が飾られてはいる。
最初にこの城内に訪れた時だったか、女中おばさんが子爵の趣味
は絵画集めなど芸術だ、などと言っていた気がする。
あの時は﹁あくまでもマリアツンデレジアの趣味を子爵の趣味と
いう風に言い換えている﹂というニュアンスに俺は受け止めていた
けれど、どうやらあながち女中おばさんの言葉は間違っていなかっ
たのかもしれない。
この部屋に向かう道すがら、廊下で男装の麗人が語った事を思い
返してみると、面白い様に思い当たるというものだ。
懸想した相手の義理の母親に対して、少しでも近づこうという気
持ちがあるのかもしれない。
事実、部屋の絵画のなかのいくつかにはマリアツンデレジアの肖
1810
像画がしれっと紛れ込んでいるではないか。
状況が違えば微笑ましい、叶う事がない想いと笑い飛ばす事も出
来たかもしれないが、今はクソガキめと内心に思うばかりだった。
そしてすぐ隣で﹁言った通りでしょう﹂という顔を男装の麗人が
していた。
ただのドM気質がある奴隷志願者なのかと思っていたが、ベロー
チュは仕事の出来る人間なのかも知れない。
﹁僕は悪くない。僕は城内でしかも、舞踏会の最中に剣を抜く様な
尋常でない人間を註しただけだからね﹂
﹁子爵さま! この期に及んでまだそのような事を言うのですの?
どういう了見でこのような事をしでかしたのか、申し開きはない
のですか?!﹂
癇癪を起したマリアツンデレジア夫人に、一瞬だけ身を縮こめて
シェーン少年が不満を口にした。
﹁だって僕はただ、今日の舞踏会で剣を抜く者がいるはずなので、
注意してくださいという家臣の言葉に耳を傾けただけだ。義母さま
に褒められこそすれ、その様なお叱りを受ける事なんてあるはずが
ないんだ﹂
﹁なん、ですの⋮⋮﹂
﹁事実、舞踏会では剣を抜いてひとを一人斬り殺した殺人犯がいて、
それを僕が倒した。そもそも義母さまは忘れているんじゃないです
か。このサルワタの連中がゴルゴライでしでかした事を﹂
いち度は義母の怒りに萎縮したシェーン子爵であったけれど、悪
びれるどころか得意そうな表情を浮かべた彼は、俺たちにその矛先
を向けて来たのだ。
1811
そう。この瞬間に俺は見逃してはいけないものをふたつ目撃した。
ひとつは一見して無表情に見えるその顔色は、確かに感情の機微
が存在していたのである。鼻を少しひくつかせるようにしてその優
顔を歪める時は、自信満々の表れなんだろうぜ。
ついでに、このクソガキは﹁ゴルゴライでしでかした事﹂と確か
に口にした。俺たちがゴルゴライの準男爵と揉め事になった後、フ
ェーデとその後の一連によってゴルゴライ領を併呑したという事実
を知っていたのである。
マリアツンデレジア夫人とダアヌ夫人派のオゲインおじさんを見
る限り、このふたりは驚いた顔をしていてどうやら知らなかったら
しい。
﹁誰がその様な事を子爵さまに注進なさったのです。婆や、あなた
は知りませんの?!﹂
﹁いえ、わたくしめは存じ上げておりません﹂
﹁ではオゲイン卿ですの?﹂
﹁わしもその事は知らん。というか、ゴルゴライの事というのは⋮
⋮﹂
困惑したオゲイン卿の言葉を遮る様にシェーン子爵は立ち上がっ
た。
﹁義母さま、おじさま。僕はとても不愉快なんですがねえ。サルワ
タの蛮族風情に下げる頭などは僕は持ち合わせていないんだよね。
こいつらが帰ってくれないならぼくの方から失礼するかな﹂
お待ちなさい、というマリアツンデレジアの言葉を無視するよう
にシェーンは部屋を飛び出して奥の間へと閉じこもってしまった。
1812
﹁⋮⋮拗ねたな﹂
﹁⋮⋮拗ねましたね﹂
俺とベローチュは小声でそう言い合った。
﹁か、重ね重ね甥の仕出かしたことにお詫び申し上げる。改めてエ
ルパコ夫人のところにお見舞いに伺いますぞ。ゆえ、平にご容赦ね
がいたい﹂
﹁そうですわ。シェーンさまはああ見えて心優しい少年なのです。
将来はきっとリンドルをしょって立つ⋮⋮﹂
ふたりの謝罪の言葉を聞きながら俺は深いため息を隠し切れなか
った。
シェーン子爵から謝罪の言葉を引っ張り出す事は、たぶん何をや
っても出来ないだろう。
ついでにあの子爵には俺たちに対する警戒心というか批判めいた
ものを感じた。
﹁もういいです、子爵さまに何かを吹き込んだ人間がいるのでしょ
? それが誰なのか調べておいた方がいいんじゃないですかねえ。
後で知ったらブルカ辺境伯の人間が接近して工作を行っていました
という可能性もある。手遅れになる前に手を打つことだ﹂
そして俺たちもこの街で出来る限りの情報収集をする。
﹁これから城下で触滅隊なりブルカ伯についてなり、独自に調べさ
せてもらいますよ。邪魔だてはしないでいただきたい﹂
俺はそれだけを言ってマリアツンデレジア夫人とオゲイン卿を放
り出して、シェーンの居室を退去した。
1813
こんな胸糞の悪い場所には一秒だって居たくはなかった。
だがシェーンがもし自分たちの領地を守るため、そのつもりで俺
たちに対抗心を燃やしているというのならそれは理解できる。
掛け違えたボタンはどこまで行ってもズレているものだし、咬み
合わない歯車はどこまで行っても連動する事はない。
﹁おいベローチュ﹂
﹁はい、ご主人さま﹂
﹁仲良し外交ごっこをするのはもうおしまいだ。あの早撃ちシェー
ンの事を可及的速やかに、可能な範囲で徹底的に洗い出せ。君は官
憲の出身だったから、調べ物は得意なんじゃないかね﹂
﹁任せてください。ご主人さまのご期待に沿える様、ただちに準備
に取り掛かります﹂
廊下を出てしばらく歩いあところで俺はベローチュに振り返って
命じた。
﹁ところでご主人さま﹂
﹁何だい﹂
﹁シェーン少年を排除するおつもりなのですか?﹂
﹁⋮⋮まだわかんねぇな。必要があり可能ならそうするが、何事も
段取りが八割だ。勢いでやるのは馬鹿のやる事だからね﹂
﹁ごもっともです。さすがご主人さまです﹂
﹁おだてるなよ。どうせ男色男爵に命じられてついてきているんだ
ろう。すぐにセレスタにもリンドルの状況を知らせてくれ、俺もア
レクサンドロシアちゃんに現状を報告しておく事にする﹂
﹁わかりました!﹂
男装の麗人は一歩身を引いて見せると、片膝を付きながら騎士の
礼をとってみせた。
1814
1815
146 そしてその毒は踊りだす 後編︵前書き︶
更新遅刻してしまいました、申し訳ございませんorz
1816
146 そしてその毒は踊りだす 後編
とばり
魔法の砂時計がぐるりと回転し、日付の変更を知らせた頃。
俺たちは暗闇に塗られた夜の帳に紛れる様にして、宿屋へと戻っ
た。
気を失ったままのけもみみを担架に乗せて馬車へ運び、そこから
暗殺を警戒して俺とニシカさん、雁木マリにハーナディンが徒歩で
周囲を固め、カラメルネーゼさんはいざという時のために来た時と
同じ様に騎馬で追従した。
不幸中の幸いにして二度目に俺たちサルワタの外交使節団を狙っ
た暗殺や襲撃は無かったけれども、宿にもどってからも野牛の兵士
たちが宿屋の了承を得て周辺に歩哨を立てる事にする。
俺の予想では、襲撃を駆けてきた相手はたぶん触滅隊だろう。
あるいはこのリンドル市中にあるというブルカ公商会の商館の関
係者だ。
場合によってはブルカ商館と触滅隊が、ち密に連携を取っている
という可能性も無くはない。
現状では後手、後手に回っている俺たちだが、何か対策をしない
とこのままブルカ辺境伯の陰にずっと踊らされ続ける事になってし
まう。
どちらかというと楽天的な性格だと俺は自認していたけれど、な
るようになると放置しているというわけにもいかないぜ。
ここは知恵の絞りどころである。
1817
◆
﹁愛する奥さんへ。リンドル領との交渉は現在とても難航していま
す。家中では前子爵の第一夫人、第二夫人の対立が著しく、しかも
現子爵シェーンに接近するブルカ伯の影が見て取れます。カサンド
ラが歓迎の夜会で暗殺されかかり、エルパコがこれを庇って負傷し
ました。犯人は謎です﹂
宿屋の寝所に入った俺は、男装の麗人を呼ぶと手紙を代筆しても
らった。
宛先は今頃サルワタの森の開拓村に戻っているであろう、女村長
である。さすが元は王都出身のお貴族さまらしく、教養あるベロー
チュは達筆だね!
確認のためという事で一言一句間違いなく俺の言葉を聞き写した
ものを読み上げてくれたのだが、ちょっと恥ずかしい気分になった。
﹁これで大丈夫ですか?﹂
ベローチュが読み上げるにあたって﹁愛する奥さんへ﹂という下
りに、やや嫉妬が見え隠れしている様な気がするが気にしない。
﹁あ、待ってくれ﹂
﹁はい?﹂
俺は今後の方針についても触れておこうと思い直し、言葉を続け
た。
何も無しに、このままリンドルとの同盟締結を諦めて、次の街オ
ッペンハーゲンにすごすごと移動する事は出来無い。
そんな事になればきっとアレクサンドロシアちゃんは烈火の如く
お怒りになるだろうし、俺も嫌だ。
1818
モノの本によれば、外交と国家や君主にとっての面子の戦いなの
だと記されていた。ここで日和ってしまえば、それはサルワタがブ
ルカに外交的敗北をしたと認めてしまう事になる。
駆け引きの中でせめてイーブンに持っていかなければならない。
﹁両派の争いにけじめを付けるため、仲介役としてお家騒動に介入
します。追伸、タンヌダルクはお元気ですか?﹂
﹁わかりました、追伸ですね。署名はどうなさいますか﹂
﹁ば、馬鹿にするなよ。俺も自分の名前ぐらいは書けるんだからな
っ﹂
そう言うと男装の麗人から羽ペンをひったくって、さらさらと字
を書き込んだ。
﹁これを持ってエルパコの部屋で付き添いをしているカサンドラに
も、署名を貰ってきてくれ﹂
﹁わかりました。内容はご確認頂きますか? その、他の奥さまの
事も触れておりますけれども﹂
どうやらアレクサンドロシアちゃんとタンヌダルクちゃんに触れ
ている手紙を、カサンドラに見せても大丈夫なのかと気を使ってく
れているらしい。
うちのハーレム大家族は、お互いに姉妹みたいなものだから、隠
し立てする方が怪しまれる。
﹁構わないぜ。カサンドラは近ごろ字も勉強していたから、たぶん
少しは読めるだろう。わからないところは補足してやってくれ﹂
﹁わかりました。ではその様に⋮⋮﹂
﹁手紙はハーナディンを見つけて、街の聖堂か教会堂から必ず送り
出してくれ。一番いい鳩を頼む様にな﹂
1819
﹁お任せください。それが終われば、さっそくシェーン子爵の洗い
出しに入ります﹂
一礼した男装の麗人は、豊かな胸に手を付いて貴人への礼を抱き
寄せる様にしてみせた。
ジロジロと見ていると眼に毒なので、俺は視線を向けることなく
軽く手を振って送り出す。
いや、眼に毒というだけではなく、これからの事でどこかに後ろ
めたさがあったからだろうね。
シェーン少年を徹底的に調べ上げた後、どうするべきなのか。
まだそれについての回答は俺の中にも仲間たちの中にもないのだ。
その点について相談しなければならないが、それは情報が集まって
から判断するべきだろう。
俺は寝台に座ったまま天井を見上げながらぼんやりと考えを巡ら
せた。
シェーン子爵に対してどういう決着の持って行き方をするにして
も、ブルカ辺境伯の暗躍を見過ごしていいはずがない。
サルワタの開拓村でもやりたい放題をしていたあいついらの事だ、
このまま放っておけばリンドルも何か大きな事件が市中で起きる事
は間違いないからな。
ダアヌ派とマリアツンデレジア派の対立を裏で操っていたうちは
まだ可愛げのあるものだったけれど、シェーン少年に接近してさら
に家中をひっちゃかめっちゃかにしようと企んでいるのなら、もう
後はブルカに併呑される未来しか見えない。
そして触滅隊だ。
俺たちがセレスタを発ってリンドル往還で接触したのは奴らの一
1820
部でしかないわけで、当然残りの連中は未だにどこかに潜んでいる
わけだ。
軍隊崩れの連中だという証言もある。
そしてたぶん事実なんだろう。
何となくの予感でしかないが、連中はこのリンドルの市中に紛れ
込んでいるんじゃないかと俺は思うわけである。先にも触れた様に
ブルカ公商会の商館がある事を考えれば、密かに出入りしている可
能性は高いはずだな。
そんな事を考えながら天井を見上げ、くゆる除虫菊の燻った煙の
流れを眼で追いかけていた。
すると、コンコンと開きっぱなしにしていた扉を叩く音がする。
そこには鱗裂きのニシカさんが白い歯を見せて立っていた。
﹁よう大将、シェーンお坊ちゃんを暗殺する算段でもしていたのか
い﹂
﹁そういう物騒な事を、冗談でも言うもんじゃありませんよ﹂
腕組みしてみせたニシカさんが許可も取らずに入ってくると、ド
ッカリと寝台の横に腰かけてきた。
﹁景気の悪い顔をしているじゃねえか。今後の作戦でも思案してい
たのか﹂
﹁そうですね、エルパコが元気になったらみんなを集めて会議をし
ようと思ってたんですが、今は独りでプランを考えているところで
すよ。とりあえずダアヌ派とマリアツンデレジア派を一本に纏める
方法をどうにか出来ないかと。色々考えてるんですけどね、うーん﹂
﹁んなもんは簡単じゃねえか。早撃ちボーイを排除してしまったら
いいじゃねえのか?﹂
1821
何とも乱暴な物言いで、俺にそんな事を提案してくるニシカさん
である。
﹁それも作戦のひとつでしょうがねえ、やり方が乱暴だ﹂
﹁ゴルゴライなんて、その乱暴な方法で村長さまの領土にしちまっ
たじゃねえか。お前ぇがツンデレのマリアと結婚すれば、そうした
らリンドルはお前のもんになるだろう﹂
﹁いやいやいや、これ以上奥さんを増やしてどうするんですか﹂
﹁それが嫌ならこういうのはどうだ。ツンデレのマリアをオゲイン
と結婚させる。完璧だぜ!﹂
ニシカさんなりに必死に提案をしてくれているのだろうが、そん
なに上手くいかないのが政治である。
﹁まあ両派閥が協力できる象徴を作るというのはいい作戦ですが、
俺たちがあまりやりたい放題をやると、次に交渉に行く先々で、評
判が悪い事になっちゃうでしょう。いやしかし、ふたりを結婚させ
るという作戦は悪くないな⋮⋮﹂
﹁んだろう? さすがオレ様だぜ!﹂
シェーン子爵は少なくともゴルゴライ併呑の件を持ち出して、俺
たちに警戒感を示したからね。
もしも俺がクソガキの立場だったら、確かに野蛮な隣人が難癖を
付けてリンドルを奪い取るつもりなんじゃないかと決め付けるかも
しれない。
すると、あのクソガキを殺すという方法だけは出来るだけ避けた
い。
﹁あのクソガキを生かさず殺さず、解決する方法は幽閉でもしてし
まうのが一番の方法でしょうね。その上で御台さまとダアヌ派が手
1822
を取り合えば、まあ解決するんじゃないかな?﹂
﹁どうしてそんな回りくどい事をするんだよ!﹂
﹁俺たちサルワタの味方づくりをしようってのに、警戒されて敵を
作ってどうするんですか。だから穏便に両派閥がひとつになる方法
を取るしかない﹂
﹁んじゃどうするんだよぅ﹂
両ひざの内側に手を付いて、ぶう垂れてみせたニシカさんかわい
い。
﹁まあ、何でもかんでも否定するのはよくない。今ニシカさんが助
言してくださった事の中から、使えるものを集めて、使える作戦を
立てるしかないですよ。まあ方法はあるんだ﹂
今後の作戦を思案しながらそうやって俺が諭してみると、ニシカ
さんは口を膨らませながらも恨めしそうに俺の方に視線を向けてき
た。
﹁なあシューターよ。オレ様に名誉挽回のもういち度チャンスをく
れねえか﹂
﹁?﹂
﹁ほらよ。オレはツンデレのマリア相手に余計な事を言っちまった
じゃねえか。それでマリアが憤慨して会見が中断しちまった。もし
かしたらオレがつまんねえ事を口にしてしゃしゃり出たから、状況
がややっこしくなっちまったんじゃねえか?﹂
上目遣いのニシカさんは、まだあの時の事を反省というか後悔し
ているらしい。
﹁いやあ。たぶんあの件が無かったとしても、結局カサンドラは何
1823
者かに暗殺を仕掛けられていたと思いますよ﹂
﹁そ、そうか﹂
逆にあの時にブルカ辺境伯がリンドルへ魔手を伸ばしているのだ
とニシカさんが言ってくれたおかげで、その後にマリアツンデレジ
アと話が出来たのかもしれないからな。
﹁気に病んでいるのなら、ひとつお仕事をお願いしますかね﹂
﹁ンだよ、オレ様の体は安くないぜ?﹂
﹁ち、違うし! 内密のお話ですから、耳を﹂
﹁おっ応ッ⋮⋮﹂
﹁いいですかニシカさん、まず︱︱﹂
俺はニシカさんの肩に手を回すと、引き寄せて耳打ちをした。
もちろん周囲に誰も耳を傾けていない事を確認して、間違いの無
い様に。
﹁わかったぜ相棒、オレ様はそれをやればいいんだ?﹂
﹁よろしくお願いします。これはあなたにしか頼めない事だからな、
ニシカさん﹂
﹁おう、任せておけよ!﹂
ニヤリとしてみせた俺に、ニシカさんも嬉しそうに白い歯を見せ
てくれた。
﹁嫌な役を押し付けて申し訳ないが、何とか上手い事やってくださ
い。成功した暁にはご褒美を何でも言ってください﹂
﹁じゃあ酒だな﹂
ニシカさんは寝台を立ち上がると、そそくさとこの部屋を退去し
1824
ていった。
酒の入っていない時のニシカさんは頼もしいぜ。
ダアヌ派とマリアツンデレジア派の和解を何としても、出来るだ
け早く成立させなくちゃいけない。
方法を選んでいる場合じゃないな、あるいは出来る手段は全部や
る事だ。
﹁段取り八割、段取り八割⋮⋮﹂
鱗裂きの飛龍殺しを見送りながら俺はそんな事を考えた。
無駄に多い俺の過去のバイト経験を生かして、何か解決策を導き
出さなくちゃいけないな⋮⋮
1825
147 俺たちは子爵と野盗の接点を考察します
﹁シューターさん、ぼくはもう大丈夫だよ﹂
体力全快をアピールする様に、ひもぱん一丁でバンザイをしてみ
せるけもみみかわいい。
﹁後遺症も残らなかったみたいだし、本当によかった。でもエルパ
コ、無理はするなよ?﹂
﹁うん、わかった⋮⋮﹂
﹁あたしがしっかりと治療を施したのだから当然ね﹂
けもみみの頭を撫でてやると、エルパコは上目遣いにぼーっとし
た表情で俺の顔を覗き込んできた。
してみると、主治医であるところの雁木マリまで一緒になって俺
に褒めて欲しいのか自慢げな顔を見せて来るではないか。
﹁うんうん、マリのおかげだな。ありがとうな﹂
﹁ちょ、何であたしまで頭を撫でるのよ!﹂
ちょっとの抵抗をして見せる雁木マリだったけれど、悪い気がし
ないのか抵抗するのは口だけだった。
そういうところもかわいい婚約者である。いいね!
﹁と、ところでニシカさんと奴隷の姿が見当たらないのだけれど﹂
﹁ベローチュは今、シェーン子爵の身辺洗い出しのためにひとっ働
きしてもらっている。ニシカさんは、ちょっと野暮用お願いをした
1826
ところだな﹂
﹁野暮用?﹂
﹁エルパコが寝ている間に、やれる手だけは打っておこうと思って
な。いろいろお願いをしていたんだよ﹂
俺はそう言いながら宿屋の部屋を見回した。
まだニシカさんにお願いした事は、みんなには伏せておこうと思
っている。
翌日の朝の事である。
部屋には俺と雁木マリとけもみみの他に、徹夜で側に付いていて
くれた愛すべき正妻カサンドラとようじょの姿がある。
﹁カラメルネーゼ卿の姿も見えないわね﹂
﹁本当だ﹂
言われてみれば、蛸足麗人の姿がいつの間にか見えなくなってい
るので、俺と雁木マリは顔を合わせて思案した。
確か朝の段階では、食堂で野牛の兵士やモンサンダミーなど傭兵
の連中と雑談をしていた様に思う。
﹁それなら、今朝がたオッペンハーゲン公商会の商館に顔を出すと
言っていたのです﹂
﹁オッペンハーゲンの? リンドル市内にある商館ですかね、シュ
ーターさん﹂
睡眠不足で少し疲れているけれど、けもみみが元気になって安心
した様な顔をしたカサンドラがそんな質問をして来た。
﹁シューター、あなたの指示かしら?﹂
1827
﹁いや、俺はニシカさんには野暮用をお願いしたけれど、カラメル
ネーゼさんには何もお願いはしていないぞ?﹂
第一カラメルネーゼさんは女村長に頼まれたからなのか、いつの
まにかサルワタ外交使節の面々に加わっていたが、一応は員数外の
人間という事で彼女はもっぱら自由に行動をしている事が多いのだ。
雁木マリの質問に俺が疑問を頭に浮かべていると、ようじょが言
葉を続けてきた。
﹁どのみちリンドルの後はオッペンハーゲンに向かう予定があるの
で、カラメルネーゼねえさまに先触れをしておいた方がいいと進言
したのですどれぇ﹂
﹁おお、なるほどッヨイさま。賢いですねぇ﹂
えっへんと胸を張っているようじょの頭も撫でていると、その横
でカサンドラがけもみみが服を着るのを手伝ってくれていた。
みんな撫で撫でが好きなので、俺はちょっと幸せな気分になった。
そんな幸せ気分に浸っているところで水を差す不快音が聞こえて
来るじゃないか。
コンコン。
寝室の扉を叩く音がしたので一同の注目がそこに集まる。
すると雁木マリがみんなを代表して声をかけた。
﹁どうぞ、入ってちょうだい﹂
﹁失礼しやす。あの大使の旦那がた、宿屋の主人いうのが面会を求
めておりやすが。どうしやすか﹂
﹁何でも他のお客様から苦情が出ているらしいですよ、シューター
さん﹂
﹁その客ともども、宿屋の主人をとっちめてやりますかね?﹂
1828
扉が開くと、ガラの悪い傷だらけの顔をした傭兵モンサンダミー
と、ゴブリンのッジャジャマくんがひょっこりと顔を出したのだっ
た。
﹁みなさん、そんな物騒な発言をしてはいけませんよ。わたしたち
はサルワタの顔なのですからね?﹂
﹁し、失礼しやした姐さん!﹂
眼の下にクマを作った、らしくない顔をしたカサンドラのひと言
によほど凄みがあったのか、悪相の傭兵と量産型ッワクワクゴロ兄
弟は直立不動で謝罪した。
◆
﹁あんたら、悪いが出て行ってもらえないかね﹂
﹁えっ﹂
宿屋の親爺はこう言った。
﹁ミノタウロスやら盗賊みたいな連中やらが、宿屋の入り口や食堂
に一日中たむろしているでしょう﹂
﹁は、はあ﹂
﹁お客さまが怖がって、みんな逃げて行ってしまうんですよ。挙句
の果てに先日は、ガラの悪い長耳のあなたの奥さまが、酒を持って
来いと晩酌をしていたお客さまを恫喝してくる始末です﹂
﹁も、もうしわけございません。もうしわけございません﹂
俺とカサンドラはふたりそろって平伏した。
ガラの悪い長耳の奥さんというのは、たぶんというか間違いなく
1829
ニシカさんの事だろう。
リンドルにやってきた晩、ヘイジョンさんを相手に夜遅くまで酒
を浴びる様に呑んで管を巻いていた事があるので、たぶんその時の
事を言っているのだろう⋮⋮。
食堂での事である。
ドワーフ面にヒゲをたっぷりと蓄えた宿屋の親爺は、無慈悲にも
土下座した俺たちに向かって路銀の詰まった革袋を差し出してきた。
﹁前金でずいぶんと頂いておりましたけれど、お返しするよ。出っ
てってくれ﹂
全裸でないので平伏しても効果が無かったのだろうか⋮⋮
俺たちは宿屋を放り出されてしまったのである。
◆
旅を重ねる度に増え続けている随行員の数も今や三〇を超える有
様である。
してみると都合よく次の宿屋を簡単に見つける事が出来るはずも
ないので、俺たちは仕方なくいつもの場所を頼る事にした。
ようするにブルカ聖堂会の関連施設である。
リンドル領は大きな街をかかえる土地という事もあってリンドル
聖堂の他にも教会堂がいくつか街の内外にあり、修道院も郊外にあ
るらしい。
今回はすぐに移動する必要があったために、大人数を収容可能な
リンドル聖堂をあてがってもらう事になったのである。
﹁最初から、聖堂に泊まればよかったんじゃないの?﹂
1830
﹁そういうわけにはいかないわ。やはり外交は面子の問題だもの。
サルワタの人間が旅費もケチって聖堂を宿屋代わりに使っていると
思われるのは、よく無い事だわ﹂
﹁そういう、ものなの?﹂
﹁そういうものよ﹂
けもみみと雁木マリが会話をしている姿を見かけるのは珍しいな、
などと思いながら宿泊所の中に荷物を運び込みながら俺はそんな姿
を見やっていた。
ハーレム大家族が和気あいあいとしているのは、いいね!
ちなみに留守にしていたニシカさんやカラメルネーゼさん、男装
の麗人への言付けは宿屋の親爺に残してきたので多分大丈夫だ。
その夜の事、今後の善後策を話し合うために宿泊所の一室にみん
なが集まる。
ちょうどその時にオッペンハーゲン商館に顔を出しに言っていた
カラメルネーゼさんと、シェーンに接近する人間の洗い出しを頼ん
でいたベローチュが戻って来たのである。
いいタイミングだぜ。
﹁ご主人さまにご報告します。シェーン子爵の近辺に、明らかにブ
ルカ辺境伯の手の者と思われる人間が接近している事を確認しまし
た。具体的に言うと、シェーン子爵が趣味にしている絵画の蒐集を
商っているのがブルカ商館であるらしく、そこの人間が密かにリン
ドル城への出入りをしている様ですね﹂
自分がこの眼で確かめたので間違いありません、と男装の麗人が
まず自信満々に報告してくれたのである。
﹁マリアツンデレジア夫人も絵画や陶磁の蒐集を趣味にしていたは
1831
ずだが、これもブルカ商館を利用して集めていたのか?﹂
﹁いえ、それはどうやら違うと確認が取れていますわ。そちらはオ
ッペンハーゲン方面からの蒐集をなさっているのです。王都とリン
ドルを繋ぐ交易のルートは、ブルカ経由とオッペンハーゲン経由の
ふたつがありますもの。ブルカは税を高く賭ける事で有名なので、
マリアツンデレジア卿は恐らくオッペンハーゲン経由での蒐集を出
入りの商人に命じていたのですわ﹂
俺の疑問に明確な回答をしてくれたのは、調べを行っていたベロ
ーチュではなくカラメルネーゼさんの方だった。
彼女は商人のひとりとして、この街へやって来た時も独自に調査
を行ってくれていた。してみると、その時にすでにその辺りの情報
を入手していたのかもしれない。
﹁しかし義母上と同じ趣味に興味を持ったシェーン子爵は、自分で
も子飼いの人間を使って蒐集を試みたわけです。城から出入りして
いる人間は家中に出仕している文官のひとりですね﹂
この辺りは推測ですが、と前置きしたベローチュは、俺たち集ま
った人間を見回しながら言葉をつづけた。
﹁たぶん、旧ブルカ出身の者だったのではないかと思います。文官
の中にかなりの数のブルカ出身者がいたという事ですし、その伝手
を使ってブルカ商館を出入りしていると考えるのが妥当でしょう。
その文官に限らず、商館からも何人かが頻繁にリンドル城に出入り
している事は確認させました﹂
﹁お前、よくこの時間に短時間に調べる事が出来たわね﹂
目ざとくその点を指摘した雁木マリに、伏目がちだった視線を上
げてニヤリとしてみせる男装の麗人である。
1832
﹁セレスタの人間は自分の他にもリンドルにいますからね。オコネ
イルさまのお名前を出して協力を仰ぎました。セレスタの商館はあ
りませんが、領内の御用商人がこの街に店を出しておりますので﹂
﹁なるほど、他に何か気付いた点はあったか?﹂
﹁触滅隊の件ですが、やはりこの街にも何人かは潜んでいる事は間
違いないと思います。昨夜、カサンドラ奥さまを襲おうとした男で
すが、ヘイヘイジョングノー氏に協力してもらって死体の似顔絵を
描いてもらったのですよ。そうしてみると、﹂
どうやらその男、ブルカ商館を出入りしていた事が調べてみると
明るみに出たというのである。
﹁他にも軍隊崩れと思われる人間が、ブルカ商館を出入りしていた
事も近くの商人に聞き込みをしたところ発覚しました﹂
﹁どうやったらそんな事がわかったんですか、どれぇのどれぇ。普
通の格好をしていたら、兵隊上がりかどうかなんてわからないので
す﹂
不思議そうな顔をしていたようじょに、俺が口を挟んで説明する
事にした。
﹁それはですねッヨイさま、一見すればすぐにわかります。軍事訓
練を受けた人間というのは、歩き方ひとつをとっても独特ですし、
数人いれば妙に規則正しい行軍めいた歩き方をします。それと腰の
運びというのも、いつでも臨戦態勢に入る事が出来る様にするので、
たぶんその辺りからベローチュは察したんでしょう﹂
むかし俺がアパレル企業でバイトをしていた経験がある事は過去
にも触れた事だ。
1833
あそこの社長も店長も、偉いひとはみんな自衛隊上がりのひとば
かりという一風変わった企業であったけれど、ふと面白い事を言っ
ていたのを思い出した。
街の中で自衛官か元自衛官の人間に出くわすと、それが人ごみの
中でも簡単に見分けがつくというのである。
百貨店の物産展の様な場所ですらそれが﹁あ、同業者だな﹂とわ
かるというから驚きだ。
してみると同じ様な理由で、妖精剣士隊の出身だった男装の麗人
には、それが簡単に見抜けたのかも知れない。
俺も熟練の格闘技経験者と対面すれば、大体の場合は立ち居振る
舞いを見ただけで何となくその実力がわかるから、間違いないだろ
う。
﹁そうなのですか、どれぇのどれぇ?﹂
﹁はい、ご主人さまの仰る通りですね、あれは軍隊崩れで間違いな
いと思います。そしてそれは触滅隊の主要構成員の状況と合致する
というわけです。それにやはり人相が悪かった﹂
商館職員のフリをしながら普段は官憲の眼を欺き、時には野盗働
きをしているのか。
だが野盗稼ぎをしている人間たちなので顔も荒んできていて、そ
の辺りも隠せない要素になってきているのかもしれないな。
そんな事を考えていると、ようじょがふっと俺の顔を見上げるの
だった。
﹁どれぇ!﹂
﹁どうしましたッヨイさま?﹂
﹁きっと触滅隊に襲われた隊商の被害を調べたら、ブルカこーしょ
ーかんだけが襲われていないのがわかるはずです﹂
﹁!﹂
1834
ようじょが軍師みたいな顔をして俺にそう告げた瞬間、男装の麗
人が報告の途中にも関わらず立ち上がって驚いた顔をしているじゃ
ないか。
﹁ご主人さま、中座をお許しください﹂
﹁どうした、何か思い当たる事があるのか﹂
﹁ありますもなにも、ただちにセレスタに問い合わせを入れましょ
う!﹂
勢い勇んでベローチュがそう言った。
すると雁木マリもそれに同調する様にしてベローチュの言葉に乗
っかる。
﹁リンドル領内での調べでブルカ商館の荷物だけが襲われていない
というのであれば、これは言い逃れされる可能性があるわ。けれど、
セレスタでも同じ状況という事であれば、もはや言い逃れできるも
のではない。ベローチュ、触滅隊が主に活動している縄張りという
のはどこからどこまでか、わかるかしら?﹂
﹁おおよそリンドル往還と呼ばれるゴルゴライとリンドルまでの街
道沿い、それからそこを多少は離れた村々、という感じでしょうか﹂
﹁カサンドラ義姉さん、地図はありますか?﹂
﹁これですね。ちょっと待ってください﹂
カサンドラがあわてて旅荷の山の中から地図を持ってくると、寝
所の小さな机の上にそれを広げた。
道中俺やニシカさんがいつも見ていたものである。
当然小さいので、みんなが立ち上がって肩を寄せ合う様に車座の
格好になった。
ようじょは必死で背伸びしても地図を見る事が出来ないので、素
1835
早くけもみみが自分のイスを差し出して、俺がその上に抱き上げて
やる。
﹁覚えている限りですが、こことここ、それからここでも襲撃され
ましたね﹂
﹁オッペンハーゲン側では襲われていないという調べはついており
ますわ。なので、ダアヌ派の商会もみんなこちらの街道を使ってい
るという話でしたもんね﹂
﹁そうね、それであたしたちが襲われた場所がここ⋮⋮﹂
ベローチュの言葉にカラメルネーゼさんが乗っかり、最後に雁木
マリが締めくくる。
こうしてみると、ぽっかりと過去に襲撃のされていない場所がひ
とつあった。その場所を差してようじょが示すと、
﹁どれぇのどれぇ、往還とその周辺の中で、このあたりだけ襲撃が
あまりないんじゃないでしょうか。ここを調べれば触滅隊のアジト
があるかもしれないのです﹂
﹁養女さま、ただちにセレスタとリンドルに問い合わせて、詳細な
襲撃地点の地図を作製する事にします。ご主人さま、失礼します!﹂
机に広げた地図を引ったくった男装の麗人は、貴人への礼をとる
のもそこそこに、豊かな胸を荒ぶらせながら飛び出していったので
ある。
﹁思わぬところから、触滅隊のしっぽが掴めそうになったな﹂
﹁本当ですねシューターさん、まさか触滅隊のアジトを攻撃するの
ですか?﹂
﹁いや、今はそういう事をしている場合ではないし、その場所はリ
ンドルの領内だからなあ。襲われもしないのに勝手な事をやるわけ
1836
にもいかないから、了解もいるし⋮⋮﹂
﹁ねえさま、どれぇ。その必要はないのです。もしその場所に見当
がついたなら、リンドルの御台ねえさまに報告をすればいいのです
!﹂
俺とカサンドラがそんな会話をしているとようじょがそんな風に
助言をしてくれた。
まあその通りだ。何も俺たち自身の手で、その様な事をする必要
などどこにもないのである。
﹁これで触滅隊がブルカの息のかかっている連中である事は、確定
的になったと言えるんじゃないかな﹂
領地経営はダアヌ夫人派の職掌であるから、マリアツンデレジア
夫人にこの事を通告すればきっと彼女を経由してオゲインおじさん
のところにこの情報はもたらされるだろう。
ダアヌ夫人派も派閥の面子があるだろうから、これは是が非でも
触滅隊を潰しにかかるだろう。
これできっとダアヌ夫人もオゲインおじさんも、ブルカ辺境伯が
いかに危険な存在であるかを改めて認識できるはずだ。
﹁多少でも感謝をしてくれるのなら、これを機会に両派を手打ちに
持ち込む事が出来るかもしれないわ﹂
﹁多少じゃ困るんだなあ。オゲイン卿とマリアツンデレジア夫人を
引き合わせて、俺たちと三者会談でもぜひしなくちゃいけない﹂
俺たちの話の続きをしていたところ、ニコニコ顔をしたカラメル
ネーゼさんが触手でもって俺の肩をトントンと叩く。
﹁おーっほっほっほ! シューター卿、わたくしからひとつ嬉しい
1837
お知らせもありますわ﹂
﹁な、何でしょう。オッペンハーゲンの件でしょうか?﹂
﹁そうですわ。リンドルの件が片付いた後にオッペンハーゲン領に
向かう事を伝えたら、商館の方でその旨を歓迎するとご返答をいた
だきましたわよ。あそこの男爵さまは代々ブルカ嫌いですわ。今回
の外交の趣旨をそれとなく伝えたら、いい具合に食いついてきまし
たわよ﹂
商談チートスキルでも持っているのだろうか、カラメルネーゼさ
んは蛸足をうねうねと嬉しそうに動かしながら、得意げな様子で俺
たちにドヤ顔をしてきたのである。
﹁辺境開拓以来のライバルという事でしたけど、何でそんなに大喜
びされるんですかねえ﹂
﹁どうやらブルカ伯は、輸送コストを高騰させるために触滅隊を使
っている節があるのですわ﹂
﹁ほう?﹂
﹁リンドルと王都の間にはブルカ経由の方法とオッペンハーゲン経
由の方法がある事は存じ上げていると思いますけれど、オッペンハ
ーゲン経由は距離も大回りになるので輸送コストがその分高くなり
ますわ。触滅隊が暴れれば多くの商会はリンドル往還を避けて、仕
方なくオッペンハーゲン経由を選ぶでしょう?﹂
﹁そんな事をしたらオッペンハーゲンが儲かるんじゃないですかね
ぇ。いや待て、そこでブルカ伯の息のかかった商会だか公商会の商
館だか、それだけは触滅隊に襲われないという様な寸法なのか⋮⋮﹂
何やらブルカ辺境伯も色々な方法で、リンドルなりオッペンハー
ゲンなりを締め上げる方法をやっているらしい。
経済戦争を周辺国に仕掛けて、値を上げたところで取り込むつも
りなのだろうか。
1838
﹁それもありますけれど、触滅隊は基本的に河川を使った船舶の流
通については手を出していないのです。つまりリンドルへの上り道、
輸出代価の金目のものや高価な衣類だけが襲われるのですね、カラ
メルねえさま! ブルカ辺境伯は悪い事を考えるのです!﹂
﹁悪い事を考えるものだ。そこまでやっていたら、そのうち俺たち
みたいに、ブルカ商館だけが触滅隊の被害にあってない事もわかる
だろうに⋮⋮﹂
﹁その企みが暴かれた時には、ブルカ伯の仕掛けた魔法が爆発する
ときなのかもしれないのです﹂
ようじょの言葉にゾクリとしたものを感じる。
﹁だがそんな事はあたしたちがさせないわ。シューター、あなたも
ニシカさんを使って何かをやらせているのでしょう?﹂
﹁あ、ああ。後でその事は教える。というかニシカさんはしばらく
帰ってこないからな﹂
﹁あらそうなの?﹂
俺たちがニシカさんの動向について話そうとしていたその後ろで、
寝台にふたりそろって腰かけた奥さんたちの声が耳に聞こえてきた。
﹁むつかしいことはわからないけど、ぼくわかるんだ﹂
﹁それは何ですか、エルパコちゃん?﹂
﹁シューターさんが全裸になれば、もうすぐ解決だよ﹂
﹁そうですね、エルパコちゃん。落ち着いたらリンドルの街でお買
い物をしたいですね﹂
﹁うん。きっと秋分の祝祭日までに、リンドルは平和になるよ﹂
1839
振り返ると、クリスマスまでには家に帰りつくみたいな口調で、
けもみみが瞳を輝かせて元気にそう言っていた。
それ、フラグとかそういう事にはならないよね? ね?
1840
148 うたわせるもの
男装の麗人が奔走したおかげで、触滅隊が商隊を襲った襲撃箇所
の結果からいくつか結論めいたものが導き出されてきた。
ひとつは彼ら触滅隊が意図的に襲っていないエリアが、リンドル
往還とその周辺の中にぽっかりと存在しているという事実である。
ちょうどセレスタ領とリンドル領にまたがる険しい山岳地帯とい
う事もあって、周辺には開拓に失敗した廃村の跡地がある程度とい
う事もその中から判明したのである。
そこは、つい先日ようじょが﹁触滅隊のアジトがあるならこの辺
り﹂だと当たりを付けていた周辺であったのだ。
よく考えられたもので、双方の領土にまたがる境界線上にアジト
が作られているため、この辺りはセレスタ側もリンドル側も、手出
しをすることを躊躇しているエリアだったのである。
そりゃそうだよな、不用意に境界線上を隣の領主の軍隊がうろつ
いているとなれば、これは戦争行為だと思われてしまう可能性があ
る。
その辺りを上手くついた場所にちょうど廃村があったし、そこは
十数年もひとの手が入っていない事になっている場所だったので、
捨て置かれていたというわけである。
もうひとつわかった事はブルカ公商会という、ブルカ辺境伯が直
接経営している商会の護送商隊だけが襲撃による被害者を出してい
ないという事実である。
いや、正確にはもっと巧妙だった。
確かにブルカ商館の商隊は襲われていたのだけれど、関係者に死
1841
者が出ていない。
襲われた連中の商隊は護衛の傭兵や冒険者ばかりが殺されて、商
人たちはひとりも被害者が出ていないというから、これもおかしな
はなしだ。
﹁灰色を通り越して、これはもはや黒だな﹂
俺はまずいビールを口に運びながら、そんな感想を口にしたので
ある。
場所はリンドル歓楽の裏路地にある小汚い食堂の、小汚いテーブ
ル席だった。向かいには庶民の格好をした男装の麗人がいる。
いや、今はいつもの男装を解いて町娘の様な変装をしていた。
﹁他の商隊であれば商人どもの中にも被害が出ていた事は、妖精剣
士隊の頃に自分も確認しています﹂
﹁つまりこれは、あくまでブルカ商館の自作自演の可能性があると
いう事かな?﹂
﹁人相の悪い商人が生き残って、街で適当に雇った傭兵や冒険者が
殺されているのですよ。これはもう間違いなくブルカの自作自演で
す﹂
﹁⋮⋮マッチポンプというヤツだな。人相の悪いというのは、触滅
隊の人間でまず間違いないだろう﹂
ぬるくて不味いビールを口に運んだところで、先に来ていたベロ
ーチュの注文していた食べ物が運ばれてくる。
焼きたての湯気が立つそれは、もも肉の付いた鳥か何かの姿焼き
みたいだった。
ハラワタを抜いて、詰めもの焼きにしたものらしい。オリーブや
小麦、玉ねぎのみじん切り、それに何かの香草の刻まれたものが入
っているという食べ物だ。
1842
ベローチュは布巾とナイフを手に取ると、脚を抑えながら丁寧に
切り分けてくれる。
﹁背骨とあばらは抜いているので、食べやすいですよご主人さま﹂
﹁何の鳥かな?﹂
﹁鳥ではありませんご主人さま、コカトリスです﹂
自分はこれが大好物でして、などと舌なめずりしてみせながらベ
ローチュが嬉しそうにそう言った。
コカトリス。何のトリっすか?
﹁コカトリスというのはですね、見ての通り小型のドラゴンの仲間
ですよ。玉子をたくさん産むので、飼育されているんです﹂
﹁マジかよ、ドラゴン飼育してるのかよ⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですよ。大きくならないし玉子はたくさん産むんですが、
ふ化するのはほんの一部だけで何より美味しいんです。はい、あー
ん﹂
丁寧に切り分けたコカトリスの詰め焼きの一部をスプーンに乗せ
たベローチュは、俺の口元にそれを差し出してくれた。
さすがに食べさせてもらうのは真面目な話をしている時に不謹慎
であるから、俺はスプーンを奪って自分で食べる事にした。
﹁あん、ご主人さまのイケズ。お味はどうですか?﹂
味は何というのだろうか、意外にも柔らかくて脂ののり具合もち
ょうどいい。何よりニワトリみたいなサイズだからニワトリの味を
想像したのだが、ちょっとだけ癖のある味付けでカモみたいな感じ
だ。
詰め物の中身である香草やタマネギなども肉汁を良く吸い込んで
1843
いて、口の中に程よく広がるのがたまらない。
まあ嫌いじゃない味だと言える。
﹁ご主人さまを餌付けしようとするんじゃないよ。いや意外に美味
いな﹂
﹁そうでしょう﹂
これは普段は不味いビールでも、美味しく感じてしまう気がする
から不思議だ。
いやいやをして見せたベローチュを軽くしかっておいて、ビール
を口に運んだ。
﹁この地図と一緒にセレスタ領側の証言を添えた手紙を、ダアヌ夫
人の邸宅とリンドル城にもっていきました。これでお家騒動中のダ
アヌ夫人もマリアツンデレジア夫人も、ブルカ辺境伯による侵略の
危機が迫っているのだという事実は理解できたでしょうね﹂
﹁当然だ。もともとマリアツンデレジアさんは、妥協点を見つけ出
す努力は夜会の時点で確約していたからな﹂
﹁はい、ですがオゲイン卿も妹のダアヌ夫人をこれで説得してくれ
ることでしょう。オゲイン卿はただちに触滅隊のアジトと思しき場
所に兵を送る事を確約してくださいましたし、芋づる式に触滅隊を
叩けます。サルワタからも協力をしてくれと言ってきていますよ﹂
よし落着点が見えてきたな。
﹁ですがご主人様、問題はシェーン子爵本人ですよ﹂
﹁ああ、その点は問題ないよ﹂
﹁?﹂
あの少年の周囲にはブルカ伯の関係者が今もちょろちょろとして
1844
いて、ある事ない事を吹き込んでいるのだろう。
さしずめアレクサンドロシアちゃんが一時期、冒険者の美中年カ
ムラによく相談事を持ちかけていた様な具合で、誰かに耳打ちされ
ているんだろうからな。
﹁ご主人さま、ニシカ奥さまに何をさせているのです?﹂
﹁君は確かシェーン少年は御しやすい人間だと言っていたな﹂
﹁はい。自分は確かに、女で人生を間違いなく駄目にするタイプで
すので、その点を突いて味方にする事が出来ると進言いたしました﹂
するとベローチュは﹁まさかニシカさんで色仕掛けを?﹂と町娘
の格好のまま驚いて見せる。
確かにニシカさんは外見だけはとても魅力的なおっぱいエルフだ
が、少々ガサツなところがあるから彼女に母性を感じさせる部分が
あるとしたらおっぱいだけだ。
だからニシカさんが色仕掛けというのはちょっと難しいだろう。
﹁違うんだなあこれが。彼女は猟師だからな、気配を消して城内に
侵入するなんてのはお手のもんだ﹂
﹁それなら、暗殺かシェーン子爵の取り巻きを排除ですか⋮⋮﹂
﹁今回は後者だ。シェーン子爵を殺してしまっては、リンドルの後
継者がいなくなるからな。それにオッペンハーゲンとも交流を深め
ようという時に、これ以上俺たちサルワタが問題行動をとるのはや
ばい﹂
これはニシカさんにも言った事だが、あまり武力解決に訴える様
な事ばかりやっていれば周辺諸侯からサルワタの評判は地に落ちて
しまう事になりかねないからな。
本当に武力に訴えないといけない時に、誰からも警戒されて協力
を得られないことになってしまう。
1845
﹁だから今回はニシカさんに、ブルカ伯への言付けをお願いしたの
さ﹂
﹁言付け⋮⋮﹂
﹁リンドルから手を引けと、シェーン子爵に引っ付いているヤツに﹂
﹁警告ですか、最適な手段です。でもまだありそうな口ぶりですね
⋮⋮?﹂
ベローチュは質問をした後に自分でもコカトリスの肉を口に運ん
だ。
そのままビールも呑もうとしたけれど、どうやら俺がここに来る
までに呑みきっていたらしい。
断りも無く俺のビールジョッキに手を伸ばして呑み始めるではな
いか。まあ俺の耳目手足となってよく動いてくれている町娘装の麗
人の働きにこたえて、触れないでおく。
﹁話は簡単だ、シェーン子爵のところに踏み込むのさ﹂
﹁やっぱり自分が言った通り色仕掛けじゃないですか?!﹂
﹁まて早まるな、そうではなく!﹂
外道を見る様な眼でジロリと褐色エルフに睨まれたので、ちょっ
と怯んでしまった。色違いとは言え同じ長耳族にそんな事をさせる
のが許せなかったんだろうか⋮⋮
﹁自分が何者の血を引いているのか、シェーン少年に知ってもらう
いい機会だ。ブルカ辺境伯の孫であり、エミール夫人に見捨てられ
たんだとね。恨みがあるのなら意趣返しに協力してあたろうと耳打
ちしてやるのさ﹂
﹁ニシカ奥さまにそれが出来るでしょうか。あのひとの口の悪さは
本物ですよ⋮⋮?﹂
1846
﹁か、彼女自身がチャンスをくれと言って来たのでね。それに今度
はきっと大丈夫だ、俺もこれからニシカさんの手引きで、一緒に侵
入するからな﹂
ニシカさんに対して疑いの向きがあるのか、恐ろしい事を口にし
た町娘姿の麗人である。
俺はあわててそれを否定したけれど、ちょっとだけ心配になって
居心地の悪さを感じるのだった。
﹁店員さん、ビールのおかわりをふたつ!﹂
﹁それとひとつ訂正があるぞ﹂
﹁はい?﹂
状況報告を聞いているあまり、ついうっかり聞き流していた事が
あったけれど、ひとつ訂正を加えておく。
﹁ニシカさんは奥さんじゃないからな﹂
﹁そうなんですか? まだ愛人でしたっけ﹂
からかう様にベローチュがテーブルに両肘を乗せて、頬杖を付な
がら俺を見やった。
するとニシカさんに迫るとも届かないおっぱいいっぱいが強調さ
れる。
こいつ、俺が眼のやり場に困るのをわかっていてこういう事をし
やがる⋮⋮
﹁どっちでもないからねっ!﹂
﹁あっはっは。今更ご主人さまが好色漢である事を隠す必要はあり
ませんよ﹂
1847
いちいち相手にしていたらきりがない!
﹁とにかく今、カラメルネーゼさんがオッペンハーゲン商館とご当
地訪問前の予備交渉を館長どのとやっているところだ﹂
﹁なるほどです﹂
﹁あそこはブルカ憎しで辺境盟主の座を長らく争ってきたライバル
関係だから、上手くすれば外交の交渉はリンドルやセレスタの時の
様に乗り込んでから長くかかるという事はないかもしれないな﹂
俺はいち度言葉を区切って、運ばれてきたビールを手に取ってか
ら続きを口にした。
﹁ではオゲイン卿に伝えてくれるか。触滅隊討伐の態勢が出来次第、
合流してアジトに向かおうと。俺たちも準備を始めよう﹂
﹁わかりました、お任せください﹂
ベローチュはそう俺に口にすると、ひと息にビールをあおって小
汚い食堂を出て行った。
その後ろ姿をしばし見送った後、俺もビールを呑みながら残った
料理をかき込んで立ち上がる。
さて、俺もニシカさんと落ち合う場所に向かわなければいけない。
頃合いだろう、時間はそろそろ夕方を迎えつつあった。
◆
ニシカさんは、昨日の朝がたからリンドルの城館の裏にそびえて
いる山の中に入っていた。
新調したばかりの装備では無く、サルワタの村時代からずっと使
っていた格好をした彼女は、市壁の城門を抜ける時に﹁兎を狩に行
く﹂とか何とか言ってそこを通過したはずである。
1848
彼女は日中の間、しばらく城館の様子をつぶさに観察して人間の
動きと警備の配置具合を確かめていた事だろう。
適当な頃合いで警備が手薄になった瞬間を付いて、城館の敷地内
に侵入する手はずになっていた。
目的はひとつだ。
リンドル子爵であるシェーンに纏わりついているブルカ辺境伯の
手先を捕まえて、警告を与えてやる事だ。
そしてシェーン少年自身にも、自分がブルカ伯に操られていると
いう現実を突き付けてやる事。
あれこれと考えながら城館の裏手までやってくると、もうすぐ秋
口が近いというのに服は汗びっしょりになっていた。
やはり全裸ならもう少し涼しかったかもしれないなどと考えなが
ら、二階建て建物のベランダほどの高さがある白レンガの囲いを見
上げていると、背後から突然声がしたではないか。
﹁ようシューター、準備は出来てるかい?﹂
﹁驚かさないでください、びっくりするじゃないですか﹂
﹁悪いな、暇だったもんで待ちくたびれていたんだ﹂
振り返るとそこには、メイド服を着たニシカさんがいた。
ご丁寧に長耳を隠す様にして頭巾まで被っていた。
暗がりの中で似合っているかどうかまではわからなかったけれど、
女性の割りにタッパがあるのでちょっと不思議な感覚だ。
﹁オレ様に見惚れてるのか、ん?﹂
﹁真っ暗だからそんな事まではわかりませんよ﹂
﹁チッ、全裸を貴ぶ部族は眼が悪くていけねえや⋮⋮﹂
1849
ニシカさんは軽く悪態をついて見せるとそのまま歩き出した。
﹁こっちだ。ここの警備はたるんでるな、コボルトでももう少しし
っかり見張りを立てるってもんだぜ﹂
﹁だからこそ、ブルカ伯の手駒が城内を自由に出入りしているんじ
ゃありませんかね﹂
﹁違いない﹂
白レンガの壁をどうやって乗り越えるのかと思っていたら、メイ
ド服姿のニシカさんがヒラリとジャンプして壁に手を掛けたではな
いか。
そのまま音も無く壁を蹴り上げて華麗に壁の上に乗る。
たぶん俺が真似をして飛び乗ろうとしたら、余計な音を立ててし
まうな。などと思っていたらそっと手を差し伸べてくれるではない
か。
﹁来いよ、手伝ってやる﹂
﹁すいませんねえ⋮⋮よっ﹂
ちょっと不格好だが、ニシカさんが袈裟掛けにしていたらしいロ
ープを垂らしてもらってそれでよじ登る。
どうにか城館の庭に侵入した俺たちは、無言のまま城館の裏手口
に回って館内の離れへと無事に侵入した。
静かなものだ。
夕陽はもう山の向こう側に沈んで久しかったから、城内に出仕し
ている大方の家臣や使用人たちも下城した後なのだろう。
スパイでもやる様にして移動するのかと思ったが、そういう事も
無くとある部屋にたどり着いたのである。
﹁倉庫ですかね?﹂
1850
﹁倉庫だな﹂
﹁中に何があるんですか?﹂
﹁昼間の内に屋敷の中をうろついていたんだがよ﹂
メイド服のスカートを引っ張ってニシカさんが言った。
いつもは口汚く勇ましいニシカさんが、メイドの格好をして潜入
していたところを想像してみるが、ちょっと出来ない。
﹁バレなかったんですか?﹂
﹁んなもんバレるわきゃねえ。この格好をしているのは念のためだ
ぜ、気付かれない様に大人しくしていたのさ﹂
まるで忍者みたいなニシカさんである。
ドーモ、ウロコザキ=サン。
﹁オレ様の長い耳で聞いた限り、サルワタはリンドルを奪い取ろう
としていると何度も口にしていた男が中にいる。もちろんブルカの
人間だと確認したぜ﹂
﹁どうやって確認したんですか﹂
﹁オレ様はガンギマリーじゃないからな、薬で懇切丁寧に聞くなん
て事はしない。体に聞いてみたらアッサリよ﹂
そんな物騒な事を言いながら、倉庫の扉を開くニシカさんである。
してみると、暗がりの中からズタ袋を被されてす巻きにされた男
が現れた。
むかし俺はサルワタの村で全裸にされたうえす巻きにされた事が
ある。そこを行くとこの男はまだズタ袋を顔から被されているだけ
幸福というわけだな。
だが下半身マッパだ。哀れだった。
1851
下半身丸出しの男はウンウンと言葉にならない喘ぎ声を上げてい
た。
そこをイッパツ、ニシカさんが腹に蹴りを入れる。
﹁ようおっさん、サルワタの大使さまのお出ましだ。騒いだらその
皮被りの息子を切り落とすから大人しくろよな﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁ようし、麻袋を外してやる。じっとしてろよ﹂
﹁こ、こんな事をして、わたしをどうするつもりですか?!﹂
押し殺した声で反意を露わにしている男の顔が、ズタ袋の内側か
ら現れた。
何事も乱暴なニシカさんの事だから暴力手段に訴えでもしてボッ
コボコにされた顔が出て来るかと思ったら、綺麗なものだ。
﹁どうやって脅したんですか?﹂
﹁何を言ってもいう事を聞かないんで、その息子を切り落とすと脅
したのよ。そんだけ小さけりゃあってもなくても一緒だろ﹂
﹁や、やめてください。まだ結婚もしていないんですから﹂
ニシカさんの言葉に俺まで空寒い気分になったけれど、状況に流
されているわけにはいかない。
﹁そう思うんだったら大人しくいう事を聞くんだな。まずお前の、
あまりまくってる皮から切り取ってやろうか。ええ?﹂
﹁ひいい、言います! わたしはブルカの出身です。ブルカ人です
!!﹂
この脅しは効果てき面だったらしく、リンドルの文官の中に紛れ
込んでいたこの男はあらいざらいを口にした。
1852
何だ、ポーションが無くても簡単に自白できるじゃないか。
﹁さすが蛮族ですね﹂
﹁蛮族じゃねえ!﹂
◆
さて。
湯気に包まれたリンドル城にある入浴施設というのは、古代ロー
マばりの大金を掛けた豪華な造りだった。
辺境に生息するというホラアナラインの口から熱々のお湯が吐き
出される仕様になっており、これならきっと古代ローマ人も満足す
るというものだ。
もちろん俺も、この豪華な入浴施設の浴槽に浸かってこの贅沢を
満喫していた。
いいね!
ちなみに、どうして俺がリンドル城内の湯船に浸かっていたかと
いうと⋮⋮
﹁か、義母さま。孝行息子がお背中をお流しします﹂
ひたひたとタイルを歩む足音が聞こえたかと思うと、ちょうど湯
船から出てオリーブの石鹸で体を洗おうかとしていたところ、少年
の声が聞こえてきたのである。
﹁やっぱり義母さまの背中はお美しいですね⋮⋮あれ? 少し見な
いうちにとても筋肉がこっていてでゴツゴツとして⋮⋮や、やっぱ
りリンドルを女手ひとつで切り盛りするのは大変なんですね⋮⋮こ
1853
んなところにも苦労が出ているだね﹂
﹁残念だったな、マセガキのシェーンくん。その背中はサルワタの
森より広いシューターさんの背中だぜ﹂
全裸でお股を隠しながら近づいてきたシェーン少年が、俺の背中
に触れた時、ニヤリとして俺は背後を振り返った。
﹁な、何だお前は、どこから入って来た?!﹂
﹁もちろん浴室の入り口からに決まっているじゃないか、いい風呂
をいただきました。ありがとうございます、ありがとうございます﹂
﹁貴様、体を洗う前に浴槽に浸かったのか? お風呂の作法も知ら
ない蛮族め!﹂
﹁失礼だな、ちゃんとかけ湯をしてから湯船に浸かったぞ。黄色い
蛮族に用事があるならニシカさんをお呼びしましょう、例の文官を
連れてきてください﹂
俺が湯気の向こう側で待機していたニシカさんに声をかけると、
す巻きの文官を連れてぬっと登場した。
蛮族呼ばわりされてとても嫌そうな顔をしていたけれど、今は大
人しく文官を突き出してくれる。
﹁おい坊主、この文官がお前に話したいことがあるんだってよ﹂
﹁な、こんな事をしても僕は風の早撃ち魔法が得意なんだ。後悔す
るぞ!﹂
﹁残念ながらオレ様も風の魔法が得意なんだ、どっち早撃ちが得意
か勝負するか。ん?﹂
全裸シェーン少年が、威風堂々と立っているニシカさんに右手を
かざそうとしていたけれど、ニシカさんの右手はそれよりも早く動
いて、少年の手に風の魔弾を射ちつけてみせたではないか。
1854
あまりの早業に俺は一瞬何が起きたのかわからなかった。
﹁ぐぎっ僕より早いだなんて?﹂
﹁言ったろう? オレ様は風の魔法が得意だって。茶番は終わりだ、
大人しくこの文官のお話を聞くこったぜ﹂
ニシカさんはそう言うと文官を蹴り飛ばして恫喝した。
﹁さあさっき俺たちに白状した通りの事を今ここでうたってもらお
うか。一言一句間違えたら、そんときゃ息子の余り皮をみじん切り
にするぞ!﹂
﹁ひいいい。言います、何でもうたいます!﹂
黄色い蛮族の言葉を聞いていて、俺と少年はたまらず息子を両手
で庇った。
1855
149 ブルカ辺境伯の野望 前編
情報はいついかなる時代であってもおろそかにしてはいけない。
むかし俺はWEBコンサルティング会社でバイトをしていた事が
あったが、その会社の青年取締役は取引先の大手企業の幹部を、頻
繁に飲みに誘っていたものである。
いわゆる接待というヤツだが、普段は単に大手企業の幹部から仕
事の愚痴を聞かされるだけの毎日だったけれど、中には新たなビジ
ネスのタネになる情報が転がっている事があるのだという。
当然ながら新規立ち上げの極秘プロジェクトには守秘義務という
ものが付いて回るわけだが、酒が入った時、あるいは親しい人間と
プライベートな時間を過ごしている時に、ふとポロリと余計な情報
を与えてしまう事があるのだ。
もちろんこれは大手企業の幹部の大失敗である。
秘密を保持しなければならない立場だが、酒が入ったせいか普段
から取引などで顔をよく合わせる人間と過ごしているからか、とに
かく気持ちが大きくなった彼が余計なひと言を漏らしてしまったの
だ。
そこから実際に、青年取締役が大きなビジネスの成功にささやか
な情報から結び付けた事があった。
こういう事を究極的に進めるために女性を使ったハニートラップ
などというものもあるわけで、浮気なり不倫の状況をこちらが押さ
えて相手からさらなる情報を引き出すというテクニックもあった。
たぶん、この手口はこのファンタジー世界でも当たり前の様に行
われていた事だろう。
ひとつの例として、それがエミール夫人の存在だったはずだ。
1856
リンドル前子爵がどこまでそのハニートラップという名のトラバ
サミに深く挟まっていたかという事は、今となってはわからない。
けれども、少なくともエミール夫人を通してかなりの情報が、リ
ンドル城下にあるブルカ公商会の商館から流出していた事は間違い
ないと俺たちは結論付けていた。
さて、ハニートラップを使わなくても、より直接的に聞き出す方
法がもうひとつあるのだが、これは騎士修道会に属するみなさんの
得意分野であるのだ。
﹁暴力によって自白を強要するのは、素人のやる事だわ﹂
﹁ンだと、オレ様の拷問に何か問題があったっていうのかよ!﹂
その道のプロである雁木マリ曰く、
﹁この手のスパイ活動をやっている人間にはふた通りあるのよ﹂
﹁ほう?﹂
﹁ひとつは簡単ね、自分自身がスパイとして情報収集をしている事
に無自覚な人間﹂
マリアツンデレジア夫人の部屋に集まった俺たちを見回す様にし
て雁木マリがそう言ったのである。
視線の先には早撃ち少年シェーンが、居心地悪そうにガウン姿で
ソファに座っている。
この居室にいるのは部屋の主であるマリアツンデレジアはもちろ
んの事、その義理息子である子爵シェーンと女中おばさん、それに
俺とエルパコ、ニシカさんに雁木マリ、そしてズタ袋を被された文
官という顔ぶれだった。
雁木マリは深夜、リンドル城の使いから俺たちがスパイの尻尾を
1857
掴んだという報告を受けてすぐに部屋で待機していたけもみみと、
修道騎士ハーナディンを護衛に連れて登城して来た。
リンドル城館の側で情報収集のために走り回っていたベローチュ
とばったり合流して、そのままこの部屋にやって来たというわけで
ある。
ハーナディンやベローチュは外の間で待機しているが、俺の奥さ
んのひとりであるけもみみはマリとともにこの部屋まで通された次
第だ。
﹁彼の様に自分がスパイに利用されているとはつゆ知らずある事無
い事、情報をダダ漏れにしている場合があるのよ﹂
﹁僕はスパイなんて真似はしたことがないぞ。いつだって義母さま
のためを思って、部下たちとこれからのリンドルについて相談をし
ていただけだからね﹂
﹁この通り、本人はそれと知らずに情報をスパイである部下に漏ら
してしまう馬鹿がいるのよ。だから問題なの﹂
その表情にわずかだけバツの悪そうなものを浮かべたシェーン少
年に対して、にべもなく雁木マリは切り捨てるような言葉を言って
のけた。
すると慰めてもらいたいからか﹁義母さま⋮⋮﹂などと身を寄せ
ようとしているところがあざとい。
マリアツンデレジアは不機嫌そうな顔をしながらも、頼られて悪
くない気分なのか﹁シェーンさまは大人しくしているのですの﹂な
どと言いつつ、少年の掌に自分の手を重ねていた。
小さなツンデレいただきました!
﹁もうひとつは何だっていうんだよ、ええ?﹂
﹁それはもっと明確よ、命令によってスパイを行うためにしかるべ
き訓練を受けた人間だわ。あたしも当然その訓練を受けているのだ
1858
けれど、スパイ行為がばれて捕まった時にわざと誤った情報を自白
の中に紛れ込ませるのよ﹂
﹁せ、セコい事を考えるやつもいるもんだぜ!﹂
当然よ、と雁木マリはさも当たり前の事である様に鼻を鳴らしな
がら弾帯からいくつかのカプセルポーションを取り出して、注入器
具にセットした。
﹁こういう人間は真実の中に嘘を紛れ込ませて、相手のスパイ捜査
や情報の精査を混乱させることがあるのよ。それに人間は暴力で自
白を強要された時、助かりたい一心で嘘をでっちあげる事があるわ﹂
だからこの道具でより正確な情報を引き出さなければならない。
聞けば、本当に女神様の信徒として改宗したのかどうかを、こう
やって確認するためにこの尋問のスキルはこのファンタジー世界で
発達したんだとか。
やはりこのファンタジー世界は優しくないのだ。
﹁エルパコ夫人、お手伝い頂けるかしら?﹂
﹁いいよ﹂
﹁それではその麻袋を取って、猿ぐつわを外してちょうだい。あた
しがいいというまでしっかりと押さえておいてくれるかしら?﹂
﹁まかせてよ﹂
指示された通りにけもみみが乱暴な具合で文官に被されていたズ
タ袋をすっぽ抜くと、一発その腹にミドルキックをかましてやって
彼の抵抗力を奪ってやった。
そのまま猿ぐつわを俺とお揃いの長剣で斬ってやると、すぐにも
髪を掴んで床に叩きつけるのだ。
1859
﹁ぐぎゃっ、やめてください⋮⋮﹂
﹁黙るといいよ﹂
﹁ごふぅやめて⋮⋮﹂
抵抗しようとする文官を制圧するために脇腹を数発けりあげる。
この慣れた手つき、こわい⋮⋮
俺が奥さんの手際の良さに戦々恐々としていると、同じ様にマリ
アツンデレジア夫人とシェーン少年も、見てはいけないものを見て
しまった様に顔を背けた。
たぶんシェーン少年に至っては、自分がとんでもなく暴力的︵ニ
シカさんとは違った意味でサディスティック︶なけもみみ女性に風
の魔弾を撃ち込んでしまったと、今更ながらに後悔しているんじゃ
ないだろうかね。
早撃ちシェーンがそのまま敵に回る様な事があれば、このお手並
みはイコール彼に対して行われるのだからな。
﹁た、大使閣下。ご夫人は夜もこんな具合で乱暴なのですの?﹂
﹁いやあ俺たちはまだ新婚さんなので⋮⋮﹂
まだふたりだけの初夜を迎えた事が無かったので、俺はついつい
お茶を濁しておいた。
けれどもそれを聞いたリンドル子爵の義母子は、俺が苦笑した姿
を見て﹁ここまでひどくはないけれど、アニマルな夜です﹂と解釈
したらしくおののいているではないか。
﹁上出来よ。さて文官、まずお前の官姓名と出身を言ってもらおう
かしら。あたしは修道騎士なのだけれど、騎士修道会が尋問に対し
てどういう手段を持っているのか、知っているわね?﹂
﹁ひっ、騎士修道会⋮⋮?!﹂
1860
﹁苦しい思いをしたくないのなら、大人しくその恐怖に身を任せて
すべてを自白しなさい﹂
こうして雁木マリの苛烈な尋問が始まった。
◆
彼の名はジェイソンスコットミーと言った。
十七歳の時にリンドル領に書記官の下っ端として登用されたとの
事だった。
以前はとあるブルカに拠点を置く商会の丁稚だったらしく、読み
書きと計算が出来るというのが売りだったそうだ。
当時は鉱山経営と加工品の輸出を精力的に伸張させていたリンド
ルは、人手不足のために広くこうして主要取引先のブルカからひと
を採用していたらしい。
それから二〇年まありをリンドルで文官として過ごしていたわけ
だが、
﹁その後、先代ジョーンさまのご命令でブルカへの連絡官として滞
在経験があります﹂
﹁その時にスパイを行うための訓練は受けたの?﹂
﹁これこれこういう情報を探せ、配下のブルカ出身者の中でコミュ
ニティを形成してエミールさまをサポートせよと指示を受けていま
した﹂
こうしてブルカ出身のリンドル文官たちがブルカ辺境伯ミゲルシ
ャールの娘エミールを第三夫人にするための環境づくりが用意され
ていったのだ。
もちろんエミール夫人に限らず、ブルカの送り込んだ文官たちの
中には女もいたわけで、どの人間を先代ジョーン卿がお手付きにし
1861
ても問題無い様に、その辺りは緻密に動いていたらしいというから
驚きだ。
﹁お前は最初に登用された時から、スパイだったのかしら﹂
﹁そうです。わたしはいつか来たるべき日、王を打倒し、ブルカ辺
境伯ミゲルシャールさまによる国王就任のための一斉蜂起活動に備
えて送り込まれました﹂
﹁﹁﹁?!﹂﹂﹂
尋問の流れの中で文官ジェイソンスコットミーが口にしたそのひ
と事に、俺たちは戦慄した。
ブルカ辺境伯は、辺境を併呑して独立国家を立ち上げる事を志向
していたのか⋮⋮
こうした人間が他にも他領に潜伏しているという証言を得た俺た
ちは確信した。
サルワタの森にいた助祭マテルド、その隣村に潜んでいたマイサ
ンドラの偽装結婚相手の男、当然それはセレスタにもいるだろうと
いう言葉だし、辺境併呑とその先に見える建国のためにはオッペン
ハーゲンにもその手のスリーパーと呼ぶべきスパイたちが潜伏して
いるはずであるのだ。
それはゴルゴライにも存在していて、領主親子の中で生き残った
ナメルシュタイナーは間違いなくこのブルカ伯の送り込んだスパイ
︵恐らく冒険者だろう︶によって逃がされたという事になる。
﹁どうしますかマリアツンデレジアさん﹂
﹁ここまで舐められた事をされたのでは、戦争しかありませんのよ
!﹂
﹁せ、戦争ですか。それはまた急な展開ですね⋮⋮﹂
1862
激昂した御台さまは応接セットのテーブルをドカンと叩いて声を
荒げた。
﹁もちろん、すぐにとは申しませんの。こちらはせいぜい兵士をか
き集めても二〇〇そこそこ、これに傭兵を加えたところで一〇〇〇
に満たない戦力しか集められません。けれども、このまま舐められ
たままでいては、やがてブルカ辺境伯の野心に屈してしまう事にな
りますのよ﹂
﹁うーん、ひとまずブルカ伯に対して警告を与える事は重要だと思
いますね。これ以上リンドルの中で好き放題をされたくはないでし
ょうから、この男を証人としてブルカに送り返す必要はあると思い
ますけれど。その間に辺境の諸侯に呼び掛けて、対決の姿勢を鮮明
にしようというのが我が妻サルワタ領主の考えと言ったところかな﹂
言葉を慎重に選びながら、俺はマリアツンデレジアの説得を試み
た。
﹁いまハーナディンが別の部屋で、この男からスパイたちの名前を
聞き出してリストを作成中だわ。全員解雇という流れになるのなら、
この際しっかりスパイは排除しておく方がいいわ﹂
﹁し、しかし義母さま。文官たちを大量解雇したのでは、領地経営
がまともに機能しなくなるよ。どうするんだい﹂
雁木マリが扉の外に視線を向けながらそう言ったところ、シェー
ン子爵だけは血色悪げな表情でマリアツンデレジアを見やった。
当然だ。チラリと文官が吐いた名前の数だけでも文官の中には一
〇名あまり、使用人や関係者まで含めるとその数はとんでもない事
になってしまうだろう。
一気にリンドルの城府から官僚がいなくなってしまったら、例え
1863
領地経営の内政に関してはダアヌ夫人派の職掌と言っても、外交す
らもまともに機能しないことになってしまう。
﹁ブルカの魔手はそれに、文官たちスパイだけではないですからね
ぇ。触滅隊の事も処理しなければならない﹂
﹁そ、それについては直ちにオゲイン卿と協議する必要があります
の。彼はすでに出兵の準備を進めているはずですのね?﹂
﹁そう聞いていますね﹂
﹁わたしも出兵には参加しますの。内外にわたってこれはブルカ伯
の仕業である事と、リンドルは決してこれに屈しないと宣言する必
要があるのですのよ!﹂
そう、マリアツンデレジアは決意の言葉を俺に向けた。
彼女が王都の宮廷伯の娘という箱入り具合で、恐らく他の領主た
ちの様に貴族軍人の出身者でない事はこの際は問うべき事じゃない
だろうな。
実際に最前線を指揮するのではなくて、出兵の最後尾でいいから
参加している事が重要なんだろう。
けれども問題は、先ほどから土色の表情をしたまま固まった顔を
しているシェーン少年だ。
彼の顔は明らかに混乱の色を見せていた。
普段は生意気な表情で、それ以上に感情をあまり発露させていな
い彼であるけれど、さすがに自分の実母であるエミール夫人がブル
カ辺境伯の妾腹の娘であるという事実が呑み込めていないのだろう。
事態の協議は事実上のリンドルの支配者である御台マリアツンデ
レジア夫人と、俺たちで話し合われていた。
けれども、本来の支配者であるシェーンは無言のままだ。
俺たちが協議を終え、マリアツンデレジア夫人に見送られながら
1864
部屋を退出するその時。
背後でニシカさんが、仏頂面をしたシェーン少年に向けて何事か
話しかけているのがチラリと見えた。
﹁おい、坊主﹂
﹁な、何だお前は。坊主ではなくシェーン子爵と呼べよ﹂
﹁名前なんてどうでもいいぜ。お前ぇの気持ちはどっちに向いてい
るんだ。本当の母ちゃんなのか、お前の大好きなツンデレのマリア
ちゃんなのか、どっちなんだ。ん?﹂
﹁ぼ、僕はリンドルの領主だ。例え実の母の実家を敵に回す事があ
っても、義母さまとリンドル領民を裏切る様な事はない。みくびる
な!﹂
ふむ。シェーン少年はマリアツンデレジアを取るか。
ここで俺たちは決して言葉にはしなかったけれど、シェーン少年
が実母の実家に弓引く躊躇いがあるのなら、少なくともスパイたち
やブルカ商館の人間たちと強制送還をする事を思案のひとつに入れ
ていたんだがな。
まもなく黎明を迎える時間が迫る頃、城府の入り口で見送りの馬
車を待っていた。
城館を退出した俺たちは疲れからかみんな無言のままだったけれ
ど、ふとニシカさんだけがベローチュを呼びつけて何事かを命じよ
うとしていた。
﹁おい、わかっちゃいると思うがあの早撃ちボーイの動きを監視し
ろ﹂
﹁ブルカ伯側の人間が再度近づく事を警戒すればいいのですか?﹂
﹁いいやそうじゃねえ、あの顔は納得がいってませんという人間の
ものだったぜ。お貴族領主さまで首を挿げ替えるというわけにゃい
1865
かないんだったら、監視しておくしかねえだろうがよ。土壇場で裏
切られたらかなわねえからな﹂
ニシカさんのその言葉に、俺と雁木マリが反応して視線を向けた。
﹁いや、万が一という事があるからな。あいつはツンデレのマリア
好きさに残っただけだ、あのマリアさんを自分のモノに出来るのな
ら、裏切る事だってあるぜ﹂
﹁なら、マリアツンデレジア卿の身の安全も考えなくてはいけない
わね﹂
﹁リンドルには聖堂もあるし、騎士隊の一部でも送り込んだらいい
んじゃねえか?﹂
ニシカさんと雁木マリのやり取りを聞きながら、厄介事ばかりを
持ち込んでくれるブルカ辺境伯の顔を見てみたいものだと思った。
顔の見えない敵ほど怖いものはないからな。あれこれといらぬ想
像をして、余計な過大評価をしてしまう事もよくある。
空手の試合の時などは、そういう事がよくあった。
未対戦のベテラン相手や新人の動きは想像できないからな。
これが空手の試合なら、ブルカ辺境伯の顔を出会いがしらで防御
を捨ててでも、一発拳で確実に殴りつけてやりたい。
どうせ殴るなら、俺たちそれぞれが全員一発ずつ殴っておけばい
いかもしれない。もちろんカサンドラにも一発殴ってもらうのがい
いな。いや、拳を怪我するといけないから蹴りを提案しよう。
﹁野心旺盛なお貴族さまは本当に迷惑千万だな﹂
﹁うん、そうだね﹂
俺の言葉に反応したエルパコを見やると、このけもみみなら前歯
1866
ぐらいは容赦なくボキボキに折るパンチをしそうな気がしたのであ
る。
﹁どうしたのシューターさん? ぼくの顔に何かついている?﹂
いいえ何でもありません!
1867
150 ブルカ辺境伯の野望 後編
翌朝、セレスタより返信を知らせる伝書鳩の連絡を持って、男装
の麗人が俺の寝室へと駆け込んできた。
﹁ご主人様。セレスタのオコネイル男爵より、妖精剣士隊を出動さ
せるという連絡が届きました。今回は男爵さまご自身が直率なさる
そうです﹂
このファンタジー世界における伝書鳩の飛行速度がどの程度のも
のかは知らないが、元いた日本では平均時速五〇あまりで飛行する
らしい。
してみるとたった一時間で、人間が二日かけて徒歩で移動する距
離をあっさりと飛びぬける事が出来るのだ。
リンドルからセレスタの徒歩による行程はおおよそ四、五日あま
りであるの距離である。
よくよく考えてみるとほんの数時間で返信が帰って来るというの
は、思った以上にこの世界の通信速度が速い事に驚かされるのであ
る。
﹁それは本当なの?! 男色男爵のあの騎兵隊の勇姿はあたしも覚
えているわ﹂
﹁へいたいの数が多いのはよい事なのです!﹂
朝から俺の部屋に集まっていた雁木マリとようじょが、俺が返事
するよりも早く男装の麗人に言葉を返していた。
その顔は昨夜遅くまで情報収集や尋問に立ち会って疲れ切ってい
たものの、男装の麗人の瞳は妙にギラついていて怖かった。
1868
奴隷なのに、襲われたら食べられちゃいそう。
﹁お、おうお疲れさま。マリ、すぐに誰か城府にひとをやってこの
事を伝えてくれないか﹂
﹁了解したわ。シューターはそのままサボらずに読み書きの練習を
するのよ!﹂
雁木マリは机に向かって背を縮めている俺にひと言残すと、立ち
上がって部屋を飛び出していった。
疲れた顔のベローチュがギロリとこちらに視線を向ける。
﹁ご主人さまは何をやっているのですか?﹂
﹁見ての通り、読み書きの練習だ⋮⋮﹂
ここ数日、俺は自分が文字を書けない事にちょっとしたコンプレ
ックスを覚えつつあった。
サルワタの奥さんたちやセレスタの男色男爵に手紙を度々送って
いるというのに、自分ではこれが書けない。
俺が知っている事といえば、せいぜいが自分や家族の名前を書け
る程度だ。後は冒険者ギルドと教会堂という文字ぐらいだろうか。
近頃カサンドラは毎朝、安っぽい麻紙に羽ペンを使って字書きの
練習をしている事が多かったので、俺も一念発起して習おうと思い
だしたところだったのである。
﹁はい、シューターさんは全裸を貴ぶ部族の文字しか使えないとい
う事なので、エルパコちゃんとッヨイちゃんが文字の書き方をお教
えしていたのですよ﹂
﹁文字、ですか。文字なら自分がいくらでも代筆して差し上げると
いうのに﹂
1869
字の練習をしていたカサンドラが顔を上げてそう説明すると、男
らしい外見とは裏腹に腰をクネクネさせるベローチュである。
俺は褐色長耳の男装麗人に呆れた顔をした。
﹁お前は情報収集や俺の付き添いで疲れているだろう。朝も早くに
飛び出していったし少し仮眠をしなさい﹂
﹁お気遣いありがとうございます。しかしそうするとご家族をお守
りする警護役がおりません﹂
﹁ぼくがいるから、休んでおいで﹂
すると、俺の不慣れな文字に採点をしていたけもみみが顔を上げ
て、お姉さんぶった顔で男装の麗人にこう言った。
﹁しかし、エルパコ夫人も今は守られる側ですよ。せめて野牛の兵
士か傭兵を呼びましょう﹂
﹁ぼくたちは家族じゃない。だから、かしこまらなくていいよ。ぼ、
ぼくの事はお姉さんと呼んでくれるといいかな﹂
﹁はい、わかりました。エルパコ義姉さま、これでよろしいですか
?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
お姉さんぶっていると思ったら、本当にお姉さんになりたかった
らしい。
うちのハーレム大家族では、はじめにけもみみがカサンドラの事
を義姉さんと呼ぶ様になってから、奥さまたちの間では姉妹の呼び
方をするようになっていたからな。
ハーレムは姉妹、ハーレムは家族。遠慮をするな! である。
﹁ではお言葉に甘えて、自分は昼食の時間まで少し仮眠をさせてい
ただきますカサンドラ奥さま、義姉さま。ご主人さま失礼します﹂
1870
﹁おう。ゆっくり休んでおいで﹂
かしこまって巨乳に右手を当て、貴人への礼をしてみせる男装の
麗人を俺は軽く手を振って見送った。
﹁律儀な方ですね、ベローチュさんは﹂
﹁打算の塊の様な女だと思っていたけれど、意外に仕事熱心だから
な﹂
﹁シューターさん、姉さん。手が動いてないよ﹂
﹁﹁はいっ﹂﹂
カサンドラとそんな男装の麗人の後ろ姿を見ながら雑談をしてい
ると、けもみみに指摘されてしまった。
ハイエナ獣人の娘は、けっこうなスパルタである。
俺とカサンドラはあわてて安っぽい麻紙に向き直って文字の練習
を再開した。
﹁じゃあ、どれぇとねえさまはあと一〇〇回、この文字を書くので
す!﹂
﹁﹁はいっ!﹂﹂
それに輪をかけて厳しかったのが、ようじょ教師である。
◆
作戦会議のために集まった一同を前にして、ようじょ軍師はこう
言った。
﹁こらいより、むつかしい作戦は必ず失敗するといわれているので
す!﹂
1871
だから作戦は常に単純明快で農夫から徴兵された戦士にもわかり
やすいものでなければいけない。
シンプル・イズ・ザ・ベスト。
今回は特にリンドルのオゲイン卿が率いる領邦軍だけではなく、
マリアツンデレジアの手勢、俺たちサルワタの仲間、そしてセレス
タのオコネイル男爵までが兵を供出しようという多数の参加集団が
あるのだから、わかりやすい事は至上命題であるのだ。
複雑にお互いの兵力が呼応し合いながら敵を包囲して殲滅する。
言葉の上や図に書いて説明すればわかりやすいものであったとし
ても、実際に動く側になってみれば、現場は必ず多少の混乱を受け
るものだからな。
むかし俺が時代劇の合戦シーンで撮影に参加した時だって、兵隊
がただ平原を突撃するシーンを撮るだけの簡単なお仕事だったにも
かかわらず、騎馬武者へ立ち向かう事の恐ろしさや、火縄銃の弾着
で火薬の炸裂音を聞いただけで、次の段取りをぶっ飛ばす人間が多
発したものだ。
戦場は命のやり取りをするわけだから、よりその恐怖心が思考停
止をもたらして、シンプルである事が求められるのである。
だから俺たちは今、リンドル聖堂の礼拝施設にそれぞれの勢力の
代表者が集まっていた。
俺とカサンドラにカラメルネーゼさん、ニシカさんにけもみみに
雁木マリとようじょ。野牛のタンスロットさんやゴブリンのッジャ
ジャマくん、それからモンサンダミーも参加していた。
オゲイン卿とその部下の騎士さまが数名、補給を担当するという
文官さんもそこにいる。
マリアツンデレジア夫人は実家から輿入れに従って付いてきたと
いう屈強な戦士に城府で働く武官を数名、そして早撃ちシェーンで
1872
ある。
﹁わしらリンドルの人間は、お恥ずかしながら御台さまとわしの妹
とで争っているものの、兵力を上げての戦争というものは久しくし
てはおらんのだが﹂
﹁そうですの。わたしが王都から連れてきた兵士も、せいぜいわた
しの巻狩りに参加したか盗賊の捕り物を経験したという程度ですの
⋮⋮﹂
不安な顔をしているリンドルの実力者ふたりに対して、俺はよう
じょ軍師とうなづき合った後に言葉を口にする。
﹁オゲイン卿、その辺りの事は俺たちにお任せしてもらえませんか
ねえ。うちの婚約者は騎士修道会の軍事訓練を受けた人間で、戦争
や冒険者経験も豊富だ。それにッヨイさまはこのお歳ですが兵法に
も造詣が深いのですよ﹂
ようじょ軍師はこれまでも女村長や俺に対して様々な献策をして
くれているからな。
褒められて照れくさそうな顔をしていたようじょかわいい。
﹁おお、養女どのがか。尊卿は後継者にめぐまれておる﹂
﹁そうなんです、ただのようじょじゃないんです﹂
何となく後継者などと言われて俺とカサンドラは顔を見合わせて
しまった。
ようじょはこうして、うちの子として世間︵お貴族限定︶さまに
周知されていくのだろうか。
娘はエースに渡さん!
1873
﹁ではお言葉に甘えてこちらから作戦の提案を﹂
﹁うむ、頼みますぞ﹂
﹁よろしくなのですの﹂
よし、イニシアチブは取れた。
﹁ッヨイが提案する作戦の詳細を説明するのです﹂
﹁よしじゃあみんな確認するわよ。作戦はまず、市中のブルカ公商
会の商館を接収する事ね。もちろんここで働いている人間はみんな
とっつかまえないといないわ。ひとりでも逃がしたら駄目、漏れが
出ればアジトまで通報されてしまう可能性があるわ﹂
ようじょ軍師とうなづき合った雁木マリが、言葉を引き取る様に
してリンドルの周辺地図を前にして言葉を口にした。
﹁ブルカの商館を制圧後、あたしたちは境界線上にある廃村地帯に
向かって進撃する。この廃村は、タマラン、アマナン、アマノンと
いう三つの旧集落があつまった廃村という事らしいのだけれど、こ
れとは別にかつての領主の館というのが山の中にあるわ。ここが恐
らく触滅隊の生活拠点になっている場所とみるわ﹂
周囲を見回しながら俺たちひとりひとりの顔を確認する雁木マリ。
そして最後に触滅隊の拠点を指し示した。
ようじょも言葉を添える。
﹁ひとつひとつ、確実になのです﹂
﹁このブルカ商館の制圧は基本的にマリアツンデレジア夫人の手勢
で担当していただきたいわ。あたしたちサルワタの人間も協力しま
す﹂
﹁よろしいですの。ブルカ商館への令状は直ちに作成させていただ
1874
きますの﹂
﹁確保した商館員は、直ちに聖堂の協力を得てポーション漬けにす
るわ。これで逃げられないようにする予定だから﹂
雁木マリによる恐ろしい発言に、ポーション尋問の目撃者である
シェーン少年がゴクリと生唾を呑んでいる。
反対にオゲイン卿は太り肉を揺らしながら身を乗り出して、マリ
に次の質問をした。
﹁わしらの出番はどうなっておる﹂
﹁オゲイン卿は確か兵士一〇〇名を用意できると言っていましたね
?﹂
﹁さよう。数は揃えようと思えばもっと可能だが、時間がかかる。
常時雇っている傭兵とこの街の兵士を合わせれば、今すぐ用意出来
た数はこれが限界だ﹂
﹁結構よ。それだけあれば十分に対抗できる。ブルカ商館の制圧の
確認が出来次第、郊外に待機していた兵力を境界線上のアジトに向
けて進撃させるわ﹂
﹁大規模な兵士を動かせば、市内の噂になりはせんかの?﹂
オゲイン卿と雁木マリのやり取りを聞いていた俺はひとつ口を挟
む。
﹁そちらのオゲイン卿の兵士とサルワタの戦士たちで、模擬戦でも
やるという触れ込みで演習という形をとったらどうですかね。モノ
の本によれば、演習のフリをしながら戦争をけしかけるのは古来か
らのならわしだ﹂
﹁いいわねそれ、採用でどうかしら?﹂
雁木マリがフンと鼻を鳴らしてようじょ軍師と顔を見合わせると、
1875
ようじょはニッコリと白い歯を見せてくれた。
オゲイン卿も納得のご様子である。
﹁情報収集には、おっぱいエルフとエルパコねえさんに先行しても
らうのがいいと思います。おふたりからの情報提供を受けた後に、
マリアツンデレジアねえさまとの合流を待ってブルカ商館の制圧後
にオゲイン卿の兵士が進発するのです!﹂
﹁わたしたちを待たず、出来るだけ早く動いた方がいいんじゃない
ですの? もしもどこかで情報が洩れでもしたら、相手は待ち構え
ている事になりますの﹂
﹁あせりは禁物なのです。複数の軍隊を動かす時は、無理をしては
いけないのです。ボタンの掛け違えが致命傷にならないように、ひ
とつひとつなのです﹂
原理原則を捻じ曲げないという意思を示す様に、ようじょは小難
しい顔をしてマリアツンデレジアを見やった。
﹁セレスタ方面からはオコネイル男爵が直率する妖精剣士隊が出撃
よ。これは山岳騎兵という連中らしくて、山中の傾斜ある悪路も走
破出来る非常に高価な馬に乗った剣士だと思ってくれればいいわ。
あたしも見たのだけれど、坂を一気に下って攻める騎馬突撃は圧巻
だったわね﹂
﹁騎馬戦闘も出来る剣士だと思ってください。この地方は山がちな
ので、状況判断では馬を降りて戦う事も可能です。状況にはこだわ
りません﹂
雁木マリと元妖精剣士隊の男装の麗人が、口々にそう言いながら
リンドル領外から指し示しながらアジトへの進路を伝える。
締めくくりとばかりようじょ軍師が兵力配置を説明する。
1876
﹁それぞれの持ち場はここ、そしてここ。まだ現地の情報が入って
いないので何ともいえませんが、アジトの包囲網はわざとひとつだ
け逃げ口を作るのです﹂
﹁何故そんな事をするのかの。逃げ口を作ってしまっては、相手を
取り逃がす事になってしまうのではないか﹂
﹁完全包囲網を作ってしまうと、敵は死にもの狂いになって抵抗す
るのです。だからわざと包囲網の抜け道を作って、ここを妖精剣士
隊にチャージしてもらいます﹂
﹁なるほど。わしが見識不足であった﹂
そんな次第で作戦概要のあらましを説明したようじょであったけ
れど、みんなはそれぞれにある程度納得の顔をしてくれていた。
﹁よし、では衆議は一致したという事ですのね。みなさん、心して
ブルカ辺境伯の野望を打倒するのですの!﹂
﹁﹁﹁応!﹂﹂﹂
剣を引き抜いて見せたマリアツンデレジアに呼応して、俺たちも
天井に向けて剣を付き上げた。
戦争の秋の到来である。
1877
151 俺たちはブルカ商館を制圧します
兵は神速を貴ぶという言葉がある。
その言葉について仲間たちに話したところ、雁木マリにこんな事
を言われた。
﹁さしずめシューターは全裸を貴ぶのだったかしら﹂
﹁全裸は別に貴んでいないし。俺はいつだって苦戦の結果、全裸に
なってしまうんだ﹂
とても悲しい気分になった俺は不平をひとつこぼしたけれども、
仲間たちはそれで大いに笑っていたので戦の前の緊張は少しほぐれ
たかもしれない。
釈然としないままではあったけれど、戦いははじまったのだ。
リンドル市中にあるブルカ公商会の商館を襲撃する時刻は、夕陽
の沈む閉店のころ合いと衆議によって決まっていた。
作戦の事前行動は次の通りである。
俺たちサルワタの野牛兵士たちと親善のため軍事訓練を行うとい
う名目を隠れ蓑に、日中の内にオゲイン卿の率いる領邦の兵士一〇
〇名あまりが郊外にまず進発した。
これに呼応してタンスロットさんが率いる野牛の兵士、雇われの
傭兵隊が同じく郊外を目指し、この中にニシカさんとけもみみも加
わっていた。
一方でマリアツンデレジアさんは城府に勤務する武官たちを集め、
彼女の輿入れのために同行していた宮廷伯の兵とともに、まず城府
内のブルカ辺境伯に繋がる文官や関係者たちの一斉検挙を行ったの
1878
である。
﹁み、御台さま。これは何事ですか?!﹂
﹁シェーンさまのご命令ですの。ジェイソンスコットミーの証言に
より、我がリンドル領内においてブルカ辺境伯ミゲルシャール卿に
協力する不埒者たちを検挙しますの!﹂
事実上、このリンドル城府の支配者であるマリアツンデレジアは、
その一斉検挙を手際よく日中のうちに片づけてしまった。
抵抗する者はほとんどおらず、事実いきなり何が起きているのか
もわかっていない者たちが大多数だっただろう。
何しろ、すべての人間が自分自身がブルカ伯のスパイを働いてい
るという自覚ある者ばかりではなかったからだ。そういう意味にお
いて口で抗議する者たちは確かにいたが、さすがに白刃を突き付け
られてまで抵抗をしようという気概は、文官たちの中には無かった
のである。
脱走者を城府から出す事も無く、捉えられたブルカ辺境伯に味方
していた人間たちはリンドル聖堂の人間たちによってさっそく薬漬
けにされてしまった。
そして本命は夕刻の訪れを待って、ブルカ商館を襲撃する事であ
る。
サルワタでその名を知らぬ者のいない飛龍殺しの猟師ニシカさん
は、郊外の演習予定地︵という事になっている︶の場所に向かうそ
の直前に、ようじょ軍師に向けてこんなひと言を残していった。
﹁おいようじょ。可能なら鷹匠を手配しておくんだな﹂
﹁それはどういう事なのですニシカさん﹂
﹁お前ぇは聞いてねえか? ツダの村からゴルゴライに戻る途中、
ハーナディンが魔法の伝書鳩の死体を拾ったという話を﹂
1879
﹁覚えているのです。ドロシアねえさまとどれぇたちがツダの帰り
に、鷹狩にあった伝書鳩の骸を拾ったのです﹂
﹁そうそれよ、敵がやる事はお前たちも利用してやればいいのよ。
万が一にもブルカの商館から鳩を飛ばして領地なりアジトなりに情
報が漏れた時の事を考えておくことだぜ。まあオレ様がその場にい
るなら、弓の一射で撃ち落としてやるんだがね。残念ながらオレは
これからアジトに先行しなくちゃならねえ﹂
鱗裂きのニシカさんの助言を聞いたようじょは、その言葉に素直
に従う事にした。
﹁わかったのです。お城のしゅくせーを見届ける時に、マリアツン
デレジアねえさまに相談してみるのです﹂
﹁おう、それが無理ならハーナディンに頼むんだな。オレ様より腕
は落ちるだろうが、あいつも猟師上がりだそうだからな﹂
ハーナディンはその時たまたま近くで水筒の水を飲んでいたのだ
が、いきなり自分の話題が飛び出してきたので水を盛大に口から噴
き出した。
﹁ま、待ってください。僕はニシカさんほど腕はないので、やはり
御台さまにご相談しましょう。そうしてください!﹂
ハーナディンも空飛ぶ鳩を射かける自信がなし、さらにサルワタ
の仲間たちには鷹匠なんているわけがない。
となれば大人しく、その点をただちにマリアツンデレジアさまに
相談したのである。
何でもモノの本によれば、中世だか近世だかその時代のイギリス
ではとても鷹匠が流行っていたらしく、王侯貴族から平民まで鷲鷹
1880
の親戚をそろいもそろって飼育していたらしい。
このファンタジー世界でもすべてのお貴族さまがそんな趣味を持
っていたわけではないが、領内の人間の誰かひとりぐらいは当たり
が付くのではないか。
そう思ってようじょはマリアツンデレジアにその事を話したのだ
けれども、
﹁僕の自慢のハヤブサを貸してくれよう。鷹狩は僕の日課の様なも
のだからな﹂
とても横柄な態度をした早撃ちのシェーンが、自慢のハヤブサと
やらを提供してくれる事を名乗り出てくれた。
﹁ありがとうございます、ありがとうございます。これで万が一、
伝書鳩で情報漏れが発生する様な事があっても安心ですね﹂
﹁僕の事を家臣のみんなは早撃ちのシェーンなどと言っているだろ
う。あれは鷹狩の際に魔法で雉をとらえる僕の姿を見た農夫たちが、
そう名付けたのだ。どうだ恐れ入ったか?﹂
感謝の言葉を口にした俺に﹁ん?﹂と偉そうな態度を取るシェー
ン少年である。
身長はまだまだ伸び盛り中頃で、俺より頭ひとつばかり小さな子
爵さまだ。カサンドラとほとんど変わらない上背なので、どうして
も俺の方が頭が高い事になる。
これがッヨイさまなら俺がしゃがむなりしてニコニコするのだが、
クソガキ相手にはそこまでしない。
﹁奇遇ですね。俺も夜のレスリングでは早撃ちなんて言われていた
んですよ﹂
﹁よ、夜の? 何だそれは﹂
1881
﹁大人の格闘技とでもいいましょうか、ようは男と女の決闘です。
早いと評判で﹂
よくわかっていないクソガキをそうやってからかっていると、後
ろでカサンドラとマリアツンデレジアがコホコホと咳ばらいをして
いた。
残念でした。結婚するまでお預けね!
こうした経緯があった後、リンドル城館を出立したマリアツンデ
レジア率いる戦力二〇名あまりが俺たちサルワタの関係者と合流し
た後に、夕陽に照らされたレンガ造りのブルカ商館を包囲したのだ
った。
◆
﹁これはこれは、御台さまではございませんか﹂
﹁館長はおられますの?﹂
﹁本日は当商館にわざわざお越しくださりまして、ありがとうござ
います。もちろん館長は在勤中でございますけれども、当商館はま
もなく閉店でございまして⋮⋮もし御用がございますなら改めて明
日、館長が登城させていただく手はずを⋮⋮﹂
﹁御託は結構ですの。みなの者、ただちにやっておしまいなさい!﹂
空が茜色に染まる頃合いになって、ブルカ商館が店じまいに作業
をはじめた時刻。
マリアツンデレジアはハルバートを持った兵士たちを背後に従え
て商館の手代らしき男に向けてこう言い放ったのである。
彼女自身もアレクサンドロシアちゃんがそうしていた様に、豪華
なドレスの上に胸当てと手甲を形ばかり着飾って、不慣れな長剣を
引き抜いて完全武装の女騎士姿である。
1882
マリアツンデレジアの号令直下、ただちに剣を引き抜いた騎士装
束の武官たちが強引に商館内に突入を開始した。
ハルバート装備の兵士たちは商館の出入り口周辺を固める様に散
らばる。ひとりも逃亡者を出さない構えで一部は裏口側や窓のある
場所にも駆けていった。
俺たちの仲間もこの包囲網に加わっている。
側にはカサンドラが控えている。彼女は雁木マリが以前使ってい
た鉄皮合板の鎧を着こんで、その上から俺とお揃いの貫頭衣を被っ
ていた。ついでに馬車の荷物の中にしまっていたらしい短弓と矢筒
まで持っている。
もちろんカサンドラに直接戦闘に参加してもらおうというつもり
は俺にも作戦を担当したようじょにも無かったけれど、この正妻は
自分も役に立ちたいという一心があるらしい。
とても怖そうな顔をして、ぎゅうっと手を握りしめて事態を見守
っていた。
﹁ハーナディン、念のために居住区の窓辺りに待機していて。飛び
出してくる人間がいたら即魔法攻撃よ!﹂
﹁了解です、ガンギマリーさまはどうされます?﹂
﹁あたしはカサンドラ義姉さんとマリアツンデレジア卿の側を警戒
するわ。ッヨイはベローチュの側を離れないでね。いくら魔法攻撃
が得意と言っても、あなたの魔法じゃ強力すぎて街の中では問題だ
わ﹂
﹁わかっているのです!﹂
﹁シューターは、手ごわい相手が出てきたらよろしくね﹂
﹁応!﹂
﹁頼りにしてるんだからね﹂
1883
さすが戦場を知る聖少女修道騎士は頼もしい。
そしてそんな頼れる歴戦の聖少女修道騎士に頼られるのはとても
嬉しい。
嬉しくなった俺だけれど、この調子で浮かれていては足元をすく
われてしまいかねない。
商館の中では﹁大人しくしろ﹂とか﹁ご領主さまの命令だ!﹂と
いう怒号と、﹁何事ですか﹂や﹁何の権利があって﹂などという悲
鳴が錯綜している様だった。
新調したばかりの装備の着心地を確かめつつ、緊張感でいっぱい
の顔のまま現場を陣頭指揮するマリアツンデレジアを見やった。
﹁中で暴れる声がしていますね﹂
﹁その様ですのね⋮⋮﹂
﹁やはり触滅隊の人間が商館内に潜んでいたのかもしれない﹂
だとすると、一般の武官や兵士たちにはかなりの苦戦が考えられ
るかもしれない。
その間にも﹁ギャー!﹂という誰かの悲鳴と金属がぶつかり合う
音がしていて、これはうかうかはしていられないと俺も覚悟を決め
た。
腰の剣に手を掛けながら俺はカサンドラとようじょに向き直って、
突入の意思表示をする。
﹁シューターさんお気をつけて﹂
﹁怪我しないようになのです、どれぇ﹂
白刃を引き抜きながら無言でうなずいてみせた俺は、そのまま取
り押さえられていたブルカ商館の手代さんの脇をすり抜ける様にし
て館内へと突入した。
1884
さながら気分は幕末だった。
むかし俺は時代劇の斬られ役として、新選組の役に扮して斬り合
いの演技をしたことがある。
確かあれは有名な寺田屋襲撃事件のワンシーンだったはずだけれ
ど、あの時は木っ端役をしていたに過ぎない。
しかし今の俺は、この優しくないファンタジー世界の歴史の一部
となって動いているのだ。
﹁入り口で固まるな! 商館長を探し出すんだッ﹂
リンドル側の現場指揮官が叫びながら、次々に商館職員たちを押
さえ付けて捕縛する部下に叱咤していた。
﹁まだ見つからんのですか﹂
﹁上が思いのほか苦戦していて、乱戦になっている様ですな大使閣
下﹂
短くその指揮官とやり取りをしていると﹁チェーイ!﹂などと言
って突然エントランス脇の扉から飛び出してくる男がいた。
このままいけば戦場に不慣れな現場指揮官が斬り伏せられそうに
なるところを、俺が肩で押しのけながら受け太刀してやる。
そのまま勢いに乗って俺を押し斬るつもりの敵さんだったが、上
手く勢いを逸らしてやってその背中を斬り伏せた。
﹁助かりました!﹂
﹁階上に行く。あんたも常に部下とペアで行動する事だ!﹂
指揮官の言葉に叫ぶように返事をして、ドタドタと乱れる足の音
1885
を響かせる階段の上に向けて駆けだす。
二階では武装した商館に雇われた傭兵らしい人間とリンドル武官
たちが小競り合いをしていた。
ほとんど戦闘というよりは剣先を付きつけ合って、互いにどうし
ていいのかがよくわかっていない有様だ。
﹁どけ、俺がやる!﹂
言うが早いか飛び出した俺は、懐剣を突き付けて怯えた表情をし
ていた男に向かった。
腰が引けているので、一撃で剣を巻き上げてやってしたたかに柄
を顔面にぶち当ててやる。
﹁よ、よし。ひとつひとつ部屋をしらみ潰しにしろ。三階もあるぞ
!﹂
﹁待つんだ、みんなで固まって行動しましょう﹂
﹁わ、わかりました﹂
勇み足の男の肩に手を掛けて、とにかく落ち着いて集団行動しろ
と声をかける。
怯えた表情は仲間も同じで、肩の筋肉もガチガチだった。
﹁いたぞ! 女どもが集まって隠れている。出て来い!﹂
﹁館長はどこに隠れている、隠し立てすると容赦ないぞ!!﹂
方々でそんな声が聞こえていたけれど、まだ館長の姿は見つから
ない。
またもどこかで剣を重ね合わせる激しい金属音が聞こえてきたけ
れど、今度は数の力で強引に押し切ったらしい。
血まみれの男が腕を抑えながら出てきたかと思うと﹁治療を、修
1886
道騎士さまを!﹂と叫んでいるではないか。
﹁商館入口前に修道騎士がひとり待機している、誰か手を貸してや
れ!﹂
﹁抵抗した男も怪我をしたが、こちらは重態で動かせないぞ!﹂
﹁修道騎士さまをお呼びしろ!﹂
﹁ギャー﹂
今度は何だ、別の部屋から悲鳴が飛び出して来て、兵士たちは右
往左往しながら剣を構える。
中からはリンドル騎士の首に腕を回して剣を突き付けた男が現れ
た。
斬り合いで負傷したのか脇腹が血塗られていて、土色の顔をして
いるリンドル騎士さまだ。
﹁く、来るな。俺は逃げるぞ! 来たらこいつも道連れだぞ﹂
﹁貴様、抵抗するという事はご領主さまへの反逆だぞ﹂
何やら言い合いになりそうであったが、まだ商館長も見つかって
いない状況で無駄な事はやっていられない。
俺はそれを邪魔するように足を滑り出すとそのまま勢いを付けて
白刃を突き出した。
﹁何だお前、俺の言葉が聞こえなかったのギャー!﹂
人質をとっての抵抗は俺が強引に中断させてやった。相手が戸惑
っている間に頸にひと突きだ。
この世界の太い肉厚の長剣を刺し込まれては、どうやっても外す
事はない。そのまま引き抜かずに横にスライドさせながら抜いたの
でドバっと鮮血が噴出した。
1887
﹁あんたら、野盗の捕り物もやった事がないのか!﹂
﹁あいにくリンドルは開墾以来大きな騒動もありませんでしたから
⋮⋮﹂
﹁荒事は誰が担当していたんですか﹂
﹁傭兵です⋮⋮﹂
脇腹を抑えた騎士に肩を貸しながら兵士たちが俺の側をすれ違っ
ていく。
俺に釈明をしたひとりの兵士は申し訳なさそうに頭を下げると、
仲間たちと奥に奥にと隠れ逃げていた商館職員たちを引っ張り出す
手伝いに走っていった。
これは冒険者カムラぐらいの大物が出てくれば、このリンドルの
人間には手出しができないんじゃないだろうか。
そんな風に半ばあきれる思いを浮かべたところで、また新たなる
悲鳴が聞こえてきた。
﹁うわあああぁぁ﹂
﹁ひいいい、腕が腕があああぁぁ!﹂
﹁くるな、くるなあああ!﹂
今度こそ、ヤバいやつが出てきたのだろう。
暑い晩夏の盛りの中で、額にほと走る汗を袖で拭いながら、叫び
声がまき散らされる方向に慌てて駆けだした俺たちは、その声が三
階に向かう階段の上から聞こえていることに驚いた。
どこかの馬鹿が、俺の忠告も無視して先走りをしたらしい。
◆
そこにはデブがひとりいた。
1888
長短の双剣を左右に握って胸元で交差させた男。
奥には別の無頼者らしい顔のヒゲ面と、また別の壮年の男がいる。
たぶん無頼者は触滅隊の一味のひとりで、このリンドル市中に密
かに隠れ潜んでいた人間だろう。そしてもうひとりの男がブルカ公
商会のリンドル商館長なのだろう。
してみると、目の前のデブは何者かという事になる。
そして俺はその男を知っていた。
﹁おお、お久しぶりですねナメルシュタイナーさん。お元気そうで
何よりだ﹂
﹁⋮⋮お前がどうしてここにいる﹂
﹁あんたがリンドルの兵士をやったのか。相変わらず太っちょのわ
りにすばしっこい動きをしている様だ﹂
女村長によって接収されてしまったゴルゴライ領主ハメルシュタ
フェーデ
イナー準男爵の嫡男である。
かつて武力解決手段によって瀕死の状況まで追い込んだものの、
その後姿を晦ましていたはずの人物が、どういうわけかリンドルに
あるブルカ商館に隠れ潜んでいたというのは驚きだ。
関係の深いブルカではなく、リンドル方面に落ち延びていたのか。
ブルカ方面の街道周辺で網を張っても、捜査網に引っかからなか
ったわけである。
さらに。
悪相の無頼者も商館長を背後に庇いながら剣を引き抜いて見せる
ではないか。
ここは商館長の居住スペースらしく、他の小さな小割りにされた
従業員たちの部屋に比べるとずいぶんと広かった。
畳十八畳ぐらいはあるんじゃないだろうか。ついでに天井はさほ
ど高くはない。
1889
たぶんこのすぐ上には屋根裏の隠し部屋か何かがあって、もしか
するとその場所に、普段は街に潜伏している触滅隊の人間が生活を
しているのかもしれない。
﹁ナメルシュタイナーさん、こいつと知り合いか﹂
﹁ああ、サルワタの片田舎からやってきた領主の夫だ。俺の家族を
皆殺しにした憎い奴だ﹂
﹁じゃあアンタの仇ってわけだな。どうするよ、ここでぶち殺して
おくかい﹂
﹁この男は生かしてはおけない。刺し違えても殺す⋮⋮﹂
丸い熊耳をひくつかせているデブが俺を見据えながらそんな風に
凄んで見せた。
こんなところでナメルシュタイナーに出くわすとは思わなかった
俺である。ちょっと挨拶がてら声をかけてはみたものの、内心では
何でブルカにいかずにここにいるんだと驚いていたところだった。
﹁た、大使閣下、どうなさりますか﹂
﹁天井が低い、剣は上に向かって振り上げずに脇に抱き構えろ!﹂
俺とともにこの部屋に突入したリンドルの騎士がひとりに、兵士
三人だ。
正直この人数でただ商館長の前に立つ男とナメルシュタイナーの
相手をするのは難しいだろう。
デブの双剣が血塗られていたところを見ると、斬ったのはこいつ
だ。
先ほどまで斬られてぎゃあぎゃあ叫んでいたと思われる男は、そ
の地面に転がっている。俺たちが駆けつけるまでにサクリと斬り捨
てられてしまったのだろう。
1890
ナメルシュタイナーの剣の腕前はどれぐらいだっただろうか。
デブのくせにかなり動きがすばいっこい相手だったのはしっかり
と覚えている。カラメルネーゼさんと互角の腕前で攻防をしていた
記憶があるが、わずかに経験の差で押されていた気がする。
多分、俺の実力でも油断さえしなければ、いける。
問題は隣の無頼者だ。
どうだ、顔色を窺うと腰は低くよく鍛えている下半身という感じ
がした。
剣の構えもかなり様になっているところを見ると、軍隊で正規の
訓練を受けている人間が遣う、本物の戦士の気風じゃないか。
うわあ、とっても強そうです。
﹁こ、こんな事をしてブルカ辺境伯さまが知れば、外交問題になる
ぞ!﹂
﹁残念でした、あなたは外交官ではなくてただの商人だ。しかもリ
ンドル城府の中にスパイを多数送り込んで情報漏えいをさせていた
という事実は、すでにスパイが白状したんですよねぇ﹂
﹁そ、そうだぞ! すでに御台さまによる取り調べでこの事は白昼
の下にさらされている。聖堂の司教さまによる尋問もすでに行われ
ているぞ!﹂
実際に尋問をしたのは雁木マリであるけれど、壮年の男が震えな
がら無意味な苦情を口にしたところ、リンドル騎士が言い返してく
れた。
この際は誰が拷問をしようが尋問をしようが関係ない。ポーショ
ン自白でこいつらがスパイを送り込んでいた事はわかりきっている
のだ。
﹁わ、わたしを助けるのだ﹂
﹁館長さんよ、そいつはちっと難しい。情報だけは持って、誰かひ
1891
とりはブルカにもどらなきゃいけないんだが、あんたは年寄りの爺
さんだ。ちょっと難しいだろう?﹂
﹁が、頑張ってみるぞ﹂
﹁無理だと思うがねえ、無理ならここでひとりでも道連れにするだ
けだ。なァナメルシュタイナーさんよ﹂
無頼の男は背後に庇う館長さんに苦笑を浮かべながらそんな事を
言っていた。
デブはその言葉に無反応で、交差させた長短双剣をカシャリと鳴
らして構えを改める。
この無頼、いつぞやの峠で出くわした口のくさい男と比べると、
まだオーラまで飛び出していないのが幸いだ。しかし、背後に控え
ているリンドルのみなさんがあまりお役立ちにならない事を考える
と、かなり気が滅入るところである。
﹁さあ来いよ、ここでお前も異世界までの片道旅行の道連れにして
やるぜ﹂
﹁勘弁してもらいたいものですねえ、俺はもうすぐ婚約者と結婚す
る予定があるんですよ。四人目の妻ですがね﹂
﹁チッ、相変わらず殺してやりたいヤツだ。どこまでも俺を馬鹿に
しやがって⋮⋮
ジリジリと足を開きながら俺がぐっと剣を脇に立てて構えた瞬間。
デブと無頼が同時に駆け出してきた。
ふたり同時に俺かよ!
まずデブか双剣を重ねてダブル斬りをしてきたので側面へ跳んで
避けた。
するとそこに無頼が剣を振り抜いて俺に迫る。
冗談じゃない! 他にも兵士はいるじゃないか!!
1892
あわやというところでおれが避けたものの、サーコートはサクリ
と捌かれてしまった。
だがまだ鎧がある。
背後に飛び込んだデブに向かって兵士たちが斬りかかったけれど、
あっさりふたりがデブの舞でわずかに血を散らした。
かすり傷程度だろう、まだ叫んではいるが腕か脇のどこかを剃ら
れた程度だったらしい。
﹁うぎゃあ!﹂﹁いでぇ!﹂
あわてて助けようとしたところを、今度は無頼が俺を妨害する。
どうするんだ。まるで連携が取れないリンドルの騎士と兵士を連
れていては勝てないぞ!
デブが身をひるがえして俺にまた剣を刺し込んできたと思うと、
呼応してまた無頼が斬り付けて来る。
ひらりとかわすには限界があって、腕を双剣が腕をかすめて袖を
引き裂き、新調したばかりのブリガンダインに無頼の剣が傷を入れ
る。
俺も負けじとすれ違い様にデブに体当たりをかましてやって吹き
飛ばして見せたが、今度は無頼が剣を突き込んできたので、剣を撃
ち落としてやった。
しかしそのまま勢いのある突きだったために、股下を剣先がかす
めやがった。
埒が明かない! どうすんだよこれ!
その時だった。
バリンと高価なガラス窓が破られたかと思うと、白刃をひっさげ
1893
た女騎士装束の蛸足の麗人が窓からあらわれたのだ。
﹁おーっほっほっほ、お困りの様ですわねシューター卿!﹂
﹁段取りが違いますよカラメルネーゼさん﹂
﹁そうは言いますけれども、苦戦をされている様ですから是非もな
い事ですわ!﹂
カラメルネーゼさんは屋根伝いに脱走されない様に待機していた
はずだったが、折を見て飛び込んできてくれたらしい。
﹁助かった、デブは俺がやるので悪い顔のおっさんを頼みます!﹂
これで勝つる。デブをトンカツにしてやる。
1894
151 俺たちはブルカ商館を制圧します︵後書き︶
次回﹁双剣のデブ﹂ご期待ください!
1895
152 双剣のデブ
お互いの技量の差に決定的な差がない場合、勝負の運び方はどう
してもじわじわと相手を追い詰めていくスタイルになってしまう。
ナメルシュタイナーの場合はデブの癖に足さばきが非常に巧みだ。
俺とデブとの間に決定的な技量の差は存在していないと思ってい
るので、そうするとこの軽妙なデブを追い詰める形で倒す事になる。
﹁必ず殺してやる!﹂
﹁黙れよデブ、トンカツにしてやる﹂
けれども殺意の衝動に動かされたデブは、そのいくらかばかりの
技量の差を埋める様にして守りを捨てた攻撃的な動きをするのだっ
た。
双剣の戦いはただでさえ腕力と技術力が必要とされるだけに、片
手で突きを見舞いながら俺の動きをけん制し、飛びのいたところに
一閃を斬りつけて来るやり方はかなりあざとい。
俺は突きを弾き上げて距離を狭めようとしたけれど、すぐさま斬
りつけられてあわてて自分の長剣を引き戻す具合である。
するとそこにまた反対の手が隙をうかがう様にしてすくい上げの
斬り込みがやってくるので、体を入れ替える様にしてくるりと互い
に位置を変えた。
けん制の一撃を俺からも一閃見舞ってやったが、デブはひらりと
飛んでみせた。
互いに肩で息をしている。
だが感触はあった。
1896
けん制の一撃は上手い具合にデブの腕の皮一枚を削いでいたらし
く、わずかに垂れる血を気にしてチラリと視線を向けたナメルシュ
タイナーである。
一方こちらはブリガンダインの鎧に無頼者が傷をひとつ入れた以
後は傷ひとつない。
当初の予定通り、じわじわと追い詰めていけば確実に熊面の猿人
間はおしまいだ。
窓から参戦してくれたカラメルネーゼさんも、自慢の蛸足をくね
くねさせながら剣を水平に構えたところだった。
無頼の男と一進一退の撃剣を繰り返しているらしいが、あの触手
で死の抱擁をされてしまうのも時間の問題だな。
﹁さて、手こずらせるんじゃないぜ。ここで終わらせよう﹂
いつまでもデブに関わっているわけにはいかない。
この後には領境のアジトに向けて俺たちは進撃しなくてはいけな
いのだからな。夜のうちに郊外のオゲイン隊と合流して、朝までに
は進めるだけ行軍する予定となっているのだ。
﹁貴様を殺す、必ず後悔させてやる!﹂
馬鹿のひとつ覚えの様にデブが吠えた。
技量差が大きく開いていないから、何かの拍子にそれを覆せると
思ったのか。
違う。
デブは吠えた直後に左手に持った短剣を俺に投げつけると、すば
やく懐を探った様だ。
出てきたのはお注射セット、いやカプセルポーションの注入器具
ではないか。
1897
そのまま自分の首に押し付けると、プシュリとそれを射込んでし
まった。
﹁うおおおおお!﹂
﹁ちょ、ドーピング!!﹂
動きは速かった。
俺があわてて投げられた短剣を避けて身を翻している間にその挙
動を終わらせてしまうと、そのまま倒れ込む様にデブは前進した。
ラッセルだ。ラッセル車の様な突貫で突きを繰り込んで来たかと
思うと、俺は脚位置を素早くずらして剣を弾いてやった。
そのまま体を入れ替えた直後、何かの粉末を俺にまき散らしてく
るデブがいた。
﹁目潰しか!﹂
咄嗟に視線を反らして何とかやり過ごしたが、改めて向き直った
先に大上段に両手で長剣を構えているデブがいた。
重たい一撃。
俺は咄嗟に肉厚な刃の腹でこれを受け止める事がどうにか出来た
が、勢いのある体重の乗ったラッセル撃剣は、そのままぐいと俺を
圧し斬ろうとしている様だった。
そのまま滑る剣先を引き落としてやって構えを改めた時には、デ
ブが双剣の片割れを拾い上げながら舞っている姿を目撃したのであ
る。
この男何のポーションをキめたんだよ。
雁木マリならば複数のポーションを状況に合わせて使い分ける様
な事をやっていたけれど、ブルカ伯に繋がっていた助祭マテルドの
1898
例を考えればヤバい組み合わせの脱法ポーションであってもおかし
くない。
とりあえず狂戦士化か何かの捨て身の接種であった事は間違いな
く、眼の座った具合でゆらりと前進を緩めない。
だが俺は不思議と呼応できた。
たぶん元いた日本での生活の中で、この男の狂った撃剣を見たの
であれば間違いなく逃げ出したであろう。
けれども俺はこのファンタジー世界でそれなりに死線を潜り抜け
てきたという自負がある。
ワイバーンしかり、街の乱闘しかり、バジリスクしかり、オーガ
しかり、そして美中年カムラや口の臭い男︵何という名前だったか
な?︶に比べれば、どうという男ではないのが現状認識だ。
気が付けばむかしより遠目が利く様になって、感覚が鋭敏になっ
ていたのと同じで、飛び出してきたデブの隙が一瞬、見えた。
この男は防御を捨てて一歩だけ余計に前に踏み込む事が出来た代
わり、体勢が前傾になりがちでこれをいなせば姿勢が崩れる。
つむじ風の様に急襲してきた左右左の斬りつけをどうにか引き受
けながらすり下がると、そのままデブを壁に誘導して最後にひらり
とかわす。
デブは振り返りざまに大きく剣を振りかぶろうとしたけれど、そ
の内が長剣が天井をこすり付ける様に走らせてしまったために、見
事そこに隙がひとつ大きくできたわけである。
平服のデブの懐に俺は深々と剣を刺し込んだ。
感触は確かだ。内臓を確実に裂いて、ぐぐっとそのまま壁に向か
って押し付けてやると右手の長剣を取りこぼしたナメルシュタイナ
ーだった。
しかし俺も呼応するために守りを捨てざるをえなかった。
1899
だからブリガンダインに浅くではあるが、傷をひとつ作ってしま
ったのである。
﹁おしまいにしようや、次の予定がある﹂
﹁⋮⋮そうだな。俺も次の予定があるのでこれでおしまいにしたい﹂
口からつうっと血を垂らしたかと思うと、デブは左手の短剣も取
りこぼしてしまい、そのまま俺の右腕をがっしりと掴んだのである。
何をするうわやめろポーションチートの握力やばいです。
きつく爪を立てられながら握りしめられた俺の腕。そのままぐい
と引き寄せるものだから当然、刃広の長剣がデブの腹深く更に刺し
込まれる。
どういうつもりだと思った次の瞬間に、デブが口から血を噴射し
た。
﹁眼が、眼がぁ!﹂
どうやらニヤリとしたらしいデブは、最後の力を振り絞ったのか
俺を突き飛ばしていた。
そしてガシャンとけたたましくガラス瓶かなにかが割れる音が立
て続けに聞こえた。
必死にボロボロになった服の袖で目元をぬぐった時、俺が目撃し
たものはナメルシュタイナーの右手に浮かぶファイアボールの出来
損ないみたいな紅蓮の小粒だった。
﹁あばよ、これでおしまいだ﹂
剣を引き上げて構えようとしたけれど、デブは多量に出血する腹
を抑えながら、さらに手に握っていた何かの粉末をふたたび俺にぶ
1900
っかけて来る。
目潰しなんかじゃない。こ、これは硫黄の粉末だ⋮⋮
村で鍛冶職人の仕事場にも常備されていた燃焼補助のアイテムだ
ったはず。
顔じゅう鎧じゅう血でべたべたになった俺の装備に、まぶされた
粉末がこびりついている。
﹁シューター卿!﹂
背後で叫ぶカラメルネーゼさんの声がした。
すでに無頼の息の根を仕留めていたらしく、あわてて俺の首を掴
む様にして引っ張り倒す。
デブはすぐにも小さな紅蓮の小粒を床に叩きつける様にしやがっ
たが、みるみる粉末を発火させていって部屋の中を丸焼きにしよう
としていた。
俺は強引に蛸足に抱きかかえられる様にしてカラメルネーゼさん
に部屋の外へと引っ張り出されつつあった。
けれども紅蓮の広がりはそれよりも早く俺に迫り、そして服に着
火したのである。
﹁ちょ、燃えてる服。やめて一張羅!﹂
﹁早くお脱ぎになるのですわ! 誰か、聖少女夫人をお呼びして!
!﹂
服をあわてて脱ぎ散らかす。ブリガンダインも放り出した。
掌はめちゃくちゃ熱かったけれどそれどころじゃない。
﹁どうしたのシューター、燃えてるじゃない!﹂
﹁聖少女夫人、早く婿殿を水の魔法でッ﹂
﹁待ってなさい、じっとしてて。すぐに冷やすから!﹂
1901
俺は燃えた。
俺の一張羅であるところのブリガンダインは焦げた。
幸い、命に別状はなかったけれど、ボロボロにされたサーコート
はとどめとばかり灰になり、ブリガンダインは黒焦げになってしま
ったのである。
どこかで雁木マリの叫ぶ声が聞こえたけれど、俺は茫然自失とし
ていた。
◆
治療に当たるために階上まで顔を出していた雁木マリがいなけれ
ば、たぶん俺は焼け死んでいただろう。
﹁た、助かったぜ﹂
﹁火傷の具合は大丈夫よ。綺麗に跡が残らない様に聖なる癒しの魔
法で癒してあげるから﹂
﹁俺のブリガンダイン鎧が⋮⋮﹂
治療をするために雁木マリに抱きしめられている俺の側をすり抜
ける様にして、マリアツンデレジアやハーナディンたちが駆けて行
く。
ほぼ全員を捕縛完了した事を受けて、検分のために館長の居室へ
向かうところだった。
﹁デブはどうなった?﹂
﹁館長の居室から見つかった黒焦げの死体はふたつよ﹂
﹁ふたつ、それはデブと無頼者のふたつということかな?﹂
体を起こそうとすると側にいたカラメルネーゼさんが手伝ってく
1902
れて、ゆっくりと立ち上がる。
今の俺は全裸ではない。かろうじてひもぱんがある。
苦しい戦いの度に服を失うこの屈辱を、誰にわかってもらえるだ
ろうか。いやいない。
﹁いいえ違いますわシューター卿。あの時ナメルシュタイナーは笑
っていましたもの、たぶん逃げられましたわね﹂
﹁あの腹に剣を刺された状態でか⋮⋮﹂
俺がカラメルネーゼさんを見やると、こくりと無言でうなずき返
された。
信じられない。絶対に油断は無かったはずなのに、取り逃がした
だなんて⋮⋮
﹁ベローチュが追っ手をかけていますわ。安心なさりませ﹂
﹁しかしあの重態ではどこまでも逃げられないわね。あいつに協力
する町医者でもいない限りは⋮⋮﹂
カラメルネーゼさんと雁木マリの会話をしているところに、黒焦
げになって何もかも灰となってしまった部屋の中からようじょとマ
リアツンデレジアがムッツリ顔で顔を出したのである。
ようじょは顔を左右に振った。
﹁やっぱりおデブシュタイナーは逃げていたみたいなのです﹂
﹁しかも書類と思われるものも何もかも、火にかけられて燃えてし
まった様ですの。見事に証拠を隠滅されてしまいましたの⋮⋮﹂
くそう、相手の方が一枚上手だったと言うべきだろうか。
俺はすすけた尻をボリボリとかきながら急いで状況を整理した。
1903
﹁オゲイン卿には早馬を走らせますの。それと、わたしの配下の手
勢ですけれど⋮⋮﹂
﹁そうね、あなたの部下たちは大なり小なり手傷を負っているもの
ばかりだわ。このままアジトに向けて出発されるのには問題がある
と思うの﹂
マリアツンデレジアと雁木マリが揃って俺にそう言った。
﹁それは仕方が無い事なのです。マリアツンデレジアねえさまは最
小限のごえーで、ッヨイたちと一緒に郊外に向かうしかないのです﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってくれ﹂
みんながうなづきあって話を進めようとしていたところ、俺があ
わてて制止した。
とりあえずブリガンダイン鎧は黒焦げだ。
いや金貨二枚もしたこの鎧のいいところは、補修をすれさえすれ
ばまた使い物になるところだし、防御力はまだ幾分残っているとし
て。
まず服がない。
﹁とりあえず何でもいいから服をくれ。話はそれからだ⋮⋮﹂
﹁そうね、服は大事ね﹂
雁木マリが俺に同情してそう言った時、ポロリとひもぱんまでも
がほどけ落ちた。
どうやら今回も俺は全裸にされてしまったらしい。
ナメルシュタイナー許すまじと、復讐の決意を新たにする吉宗で
あった。
◆
1904
その頃、脱走を試みたというデブの追跡を任されたベローチュは、
リンドルの衛士たちとともに捜索に奔走していたらしい。
すぐにも態勢︵主に俺の服︶を整えてオゲイン卿の待つリンドル
郊外に進発しなければいけないという事で、断腸の思いで捜索参加
を断念した男装の麗人は、仏頂面をしてブルカ公商会の商館前に戻
って来たのである。
﹁すいませんご主人さま。これ以上時間をかけて足取りを掴むこと
は難しいようです﹂
たわわな胸を右手で抱く様にして片膝を付いて見せる男装の麗人
である。
そろそろ時刻は繁華に夜の賑わいをもたらす頃合いになっていた。
するととても横柄な顔をしたシェーン少年が、俺に向き直ってこ
んな提案をしてくる。
﹁仕方のない奴隷だ。この続きの捜査は僕がこの市中に残って陣頭
指揮をとる事にしよう。感謝してほしいものだね﹂
﹁お願いしてもよろしいでしょうか? 俺たちはあなたの義母上と
ともに、ただちに触滅隊の討伐勢に合流しようと思っています﹂
﹁大丈夫だ。この僕にかかれば、逃げ出した熊面の猿人間などは巻
狩りの延長線上にあるものだからな﹂
義母さまにいいところを見せたいのか、チラチラと不安な表情を
しているマリアツンデレジアに視線を送りつつそう宣言してくれた。
腕にはあまり賢くは見えないハヤブサの親戚の様な猛禽を乗せて
いるシェーン少年である。今も眠たげに大きくくちばしを開けてあ
くびをしているハヤブサの親戚は、この暗闇で果たして役に立つの
か疑問だぜ。
1905
﹁そういう事なので、俺たちは急いで郊外に向かうとしよう﹂
﹁わかりましたご主人さま﹂
俺の号令直下、みんながうなずいて見せるとそれぞれの馬に向か
って小走りに向かう。
すると俺が代用でブルカ商館から拝借したばかりの袖を引っ張る
人間がいるではないか。
﹁あのうシューターさん。わたしは馬に乗った事がないのですけれ
ども⋮⋮﹂
﹁それならご主人さまの後ろに乗られるのがいいと思います﹂
﹁いや、俺はあまり馬の手綱さばきが得意ではないからな⋮⋮﹂
恥ずかしい話だが、まだ白馬の王子様よろしくカサンドラを乗せ
て馬を自在に操る自信はない。
同じく馬に乗るには小さすぎるようじょ軍師はこの際、雁木マリ
と一緒に馬に跨ろうと思っていたらしい。
どうしたもんかと考えているところ、
﹁それでは僭越ながら、自分がカサンドラ夫人をお乗せします﹂
﹁いいのですか?﹂
﹁もちろん万全をもって戦場までお届けしますので、ご主人さまに
おかれましても奥さまにおかれましてもご安心ください﹂
長い後ろ髪の三つ編みを揺らしながら白い歯を見せた褐色エルフ、
まるでこちらが本物の王子様みたいだった。
俺はハーナディンの手を借りてどうにか馬に跨る事が出来るとい
う有様だというのに。
思わず奴隷に嫉妬した。
1906
﹁よし、みんな準備はいいわね? シューター﹂
﹁ああわかった。それではみんな、出発するぞ!﹂
何事かと繁華のひとびとから視線を浴びる中、俺たちは広い路地
の中央をそこのけそこのけと馬を小走りさせながら走り出す。
今夜だけは特別に開門したままの市壁を潜り抜け、黒くのっぺり
塗りつぶされていた城外の闇間に進撃を開始したのである。
明朝、領境にある触滅隊のアジトを攻略する。
1907
152 双剣のデブ︵後書き︶
次回、触滅隊の攻略作戦開始です。
1908
153 俺たちは進軍します
満天の星空に抱かれながら、俺たちは数珠つなぎとなって馬を走
らせる。
松明は、わずかばかり俺たちの周辺を照らしてくれるだけの頼り
ない具合だったけれど、それでも急がねばならない理由があるのだ。
この先、四半刻を進んだあたりにはすでに先行しているオゲイン
卿の率いる領兵の軍勢とサルワタの野牛・傭兵の連合部隊が野営し
ているはずだ。
四半刻というのが元の世界の用語の基準と同一であるならば、お
およそ三〇分程度という事になるのでそれほど遠くはない。ただし
夜間なのでもう少しかかる事は想定済みだ。
これとまずは合流して、境界線上にあるという触滅隊のアジトへ
と夜明けまでに向かう手はずになっていた。
﹁シューター卿。あなたは戦場に出た経験はおありなのですの?﹂
﹁残念ながら、訓練以外で大人数が動き回っての戦闘に参加した事
はないですね。突発戦闘というか、少人数でのやり取りならば、そ
こそこ場数は踏んでいます!﹂
馬の揺れに合わせて器用に上半身を上下させているマリアツンデ
レジアが質問を浴びせてくると、俺も大声を張り上げて返事を飛ば
す。
どうしても馬蹄の響きがうるさくて、声が大きくなってしまうの
だ。
まあここらあたりは職能集落と農民集落がいくつか点在している
だけの平和な地域だから、この際は俺たちががなり立てる音を気に
1909
する必要はない。
それにしてもさすがお貴族さまのご出身、乗馬はたしなみの一種
と見えて手綱さばきは軽妙だ。
﹁しかし、ここにいる雁木マリや他の家族たちは、戦場経験も豊富
なので頼りになります!﹂
﹁家族とお呼びになるんですのね﹂
﹁そうです。雁木マリは俺の婚約者ですからね、それに村の仲間た
ちは家族同然です。それよりも御台さまはその、あまり無理をなさ
らずに戦場の前線に出ようとしない事だ!﹂
﹁心得ておりますの。わたしは領地の支配者が、前線でブルカの手
先と対峙したという事実のみを重視しまので、そこは本職のみなさ
んにお任せする予定ですの﹂
マリアツンデレジアはそう言ったものの、うちの女村長系奥さん
の例もあるので釘を刺していたのである。
アレクサンドロシアちゃんは貴族軍人の出身だからか、あるいは
彼女自身もよそ者としてサルワタの村にやって来た人間だからか、
指揮官先頭の原則を非常に重視していた。
結果を出し、支配下の領民を平伏させるためには自分の実力を示
さなければならないと考えている節が常々あったからな。
してみるとマリアツンデレジアも同じ立場であり、家臣や領民一
同に対して感服に値する結果を欲するあまり前線に飛び出してしま
う可能性があると思っていたのである。
﹁何れブルカとの対立が本格化した時には、戦場に出る事もありま
すの。その時のために今回はしっかりとシューター卿のご差配をお
勉強させていただきますのよ﹂
そんな事を言ってのけるマリアツンデレジアの言葉に、俺は苦い
1910
顔をしてしまった。
実際の戦闘を指図するのはたぶん雁木マリやベローチュ、あるい
はリンドル側ならばオゲイン卿の役割だろう。
作戦を立案するのも近頃すっかり軍師の様な役回りをしているよ
うじょである。
サルワタの外交使節団が事実上、ハーレム大家族によって主要な
人間を構成しているもんだから、たまたまハーレム大家族の家長で
ある俺に決裁が求められているだけの話だ。
しかしこれも大切な事なのだろう。
﹁決して無理はなさらないでくださいよ。俺は状況に応じて前線に
出る事もありますが、あなたは言わばリンドルの大黒柱だ。シェー
ン子爵おひとりでリンドルを差配できるものではない﹂
﹁そうですかね。わたしがいなくても、オゲイン卿がいれば義息子
の補佐は十分に務まりますの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺に視線を向けるのではなく、前方の暗闇をしっかりと睨み付け
ているマリアツンデレジアに俺は絶句した。
やはり女村長と同じで、この世界のお貴族女子はとてつもなく気
が強い。
抜け駆けをする事をやはり考えている様に俺は感じた。
﹁マリアツンデレジアさま﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁この際はっきりと申し上げるが、この戦争に派閥争いを持ち込ん
でいては、勝てる戦も勝てないものだと心得ていただきたい﹂
﹁こ、心得ておりますの。みなまで申されないで﹂
どうだかね。
1911
俺は不安をかなり感じたので、すぐ背後にいる雁木マリとようじ
ょの乗った騎馬に振り返って視線で合図を送った。
戦場全体を指揮するのは、たぶん実際の経験がある雁木マリに任
せるのが一番だろう。
ッヨイさまは魔法による範囲攻撃とも言える大規模な一撃を要所
で使うつもりがあるだろうから、これは臨機応変に前進する必要が
あるけれど、マリが陣所に残ってくれるのならば目付役をお願いし
たいものだと思ったのだ。
当然その辺りの事はともにダンジョンで死線を潜って来た仲間で
あるから、どことなく察してくれたらしい。
﹁任せてちょうだい。御台さまの補佐はあたしがしっかりとつとめ
て見せるわ﹂
﹁頼んだ!﹂
これで一安心といったところだろうが、直ぐ横でバツの悪そうな
顔を浮かべて俺を睨み付けて来るマリアツンデレジアがいた。
無視だ。無視しておこう。
◆
﹁シューター卿、もう間もなくですの!﹂
前方に見える無数のかがり火を指さして、マリアツンデレジアが
俺たちに向き直ってそう言った。
郊外の野営というのはあれの事だろう。
いくつかの家々の間から簡易テントが見えており、ところどころ
に諸兵が屯して休憩をとっている姿がここからも見える。
見えるというのも驚きだが、俺は以前にもましてますます遠目が
利く様になってきたようだった。
1912
﹁全体、いったん野営中のオゲイン隊に合流して再編成をするわよ
!﹂
﹁﹁おう!﹂﹂
今、俺たちの人数は二〇名といったところだろうか。
これにオゲイン隊とサルワタ勢が加わって一四〇あまり。
領境のセレスタ側から触滅隊のアジトを目指している男色男爵の
妖精剣士隊がおおよそ五〇程度の騎兵集団という事なので、ひとつ
のアジトを攻略するためにたいした軍隊が集結したという事になる。
まあ、現代基準で言えば中隊規模といったところだろうけれど、
人口密集度が全く違うこのファンタジー世界と元板世界で単純比較
をする事は出来ないだろうな。
﹁点呼終了であります﹂
﹁ご苦労、市中ではかなりの大捕物になって、シューター閣下も火
傷を負ったと知らせを聞いたが、そちらは大丈夫であるかな﹂
出立の準備を知らせる兵士に鷹揚にうなずいてみせたオゲイン卿
は、踵を返すと俺にそんな質問をしてきた。
﹁なに。たいした火傷ではありませんし、俺の家族には優秀な医者
がいるのでね﹂
﹁そうだったな、ガンギマリー卿は騎士修道会の聖少女修道騎士ど
のであったかのう。閣下は家族に恵まれておる﹂
﹁光栄です。オゲイン卿もこの戦で怪我をした時は遠慮なく申して
くださいね。あたしが聖なる癒しの魔法で﹂
軽く頭を下げて雑談に応じる雁木マリに、これは一本取られたと
いう顔をして見せるオゲインおじさんである。
1913
﹁わしも若いころには修道騎士に憧れたものだが、この通りの体で
槍働きはからきし駄目だ。出来るだけガンギマリー卿のお世話には
ならんようにせんといかん﹂
﹁ところで斥候に出ていた俺の身内はどうなっていますか﹂
﹁おお、長耳の何と言ったか﹂
﹁ニシカさんですか?﹂
﹁そう、鱗裂きのニシカ卿がすでに先ほど陣屋まで引き上げておっ
てな。あちらの天幕で休憩をしているはずだ﹂
すぐに呼んでまいれと点呼の報告に来た兵士に向けてオゲインお
じさんが命令を下した。
しばらくすると背の高い長耳の眼帯女が、のそりと姿をあらわす
ではないか。
どういうわけか上半身裸、というか手甲ブーツにひもぱん一丁の
姿だったので俺は驚いたけれど、どうやら新調したばかりの装備を
身に着けるところだったらしい。
ニシカさんいわくタクティカルベストを手にぶら下げながら、こ
ちらへと堂々と歩いてくる。
揺れるたわわなおっぱいが喋った。
﹁ようシューター、相手はこちらに気付いていねえ。数はざっと見
て一〇〇に足らずといった感じだ﹂
﹁他に出動して野盗働きをしているという感じはありませんでした
か﹂
﹁どうだろうな。タマラン、アマナン、アマノンというみっつの集
落跡地を見た限りじゃ賑わってる感じだったぜ。数人が金稼ぎに出
ている事はあっても、おおむねあそこにいるといった感じだな﹂
ニシカさんは手に持っていた肌着を目の前で被ってみせ、すっぽ
1914
り顔が出てきたところで言葉をつづける。
﹁あとはアジトの本拠地になる旧領主の館だな。古いレンガ造りの
館だが、あそこには女がいた﹂
﹁女?﹂
﹁娼婦か何かを囲っている感じじゃねえか? ほら、ブルカの街に
もそういう女がいただろう﹂
ニシカさんの言葉に反応をしたのは雁木マリだ。
確か辺境における娼婦の管轄は騎士修道会という国法があって、
ブルカ伯ともそういう取り決めをしていたという話を以前耳にした
ことがあった。性病や避妊などの関係上、公共的な医療提供を担っ
ている騎士修道会とその傘下のブルカ聖堂会には聞き逃せない話な
のかもしれない。
﹁フン、まあいいわ。もしもそれが事実なら国法を蔑ろにし、協定
を無視したという線から正々堂々と制圧する事が出来るわね。リン
ドルでも当然、子爵家との取り決めで管轄はあたしたちになってい
るのよね﹂
マリの言葉にマリアツンデレジアもこくりとうなづいて見せた。
﹁行軍序列は以下の通りでわしは考えている。騎士小隊を組織して
先行させ、地理感覚のある領兵を後に続けさせましょうぞ。その後
にサルワタの兵士で最後に本隊だ﹂
食料補給の部隊みたいなものは今回領内の遠征なのでたいしたも
のではないが、弓矢を乗せた荷駄列だけは最後尾にオマケで付いて
くる。
これは本隊というか俺やカラメルネーゼさんで守るしかないな。
1915
誰からも異論がなかった様なので、その事を手早く命じたオゲイ
ン卿によって実行に移される。
﹁よし、じゃあ進軍しながら詳しい話は詰めていきましょうか﹂
﹁途中までは馬車で移動するのがいいだろう。六頭引きの、指揮台
を乗せた指揮官専用馬車を運び込んでいる。わしの自慢だ﹂
そんな事を言いながら一同を見回すオゲイン卿に、俺たちはうな
ずきあって後に続いた。
正直、馬での移動は体力を削がれてしまうので、しなくていいの
ならそれに越したことがない。
持ち主であるオゲイン卿に続いて俺が乗り込み、マリアツンデレ
ジアとカサンドラに手を貸してやる。
雁木マリとようじょにカラメルネーゼさんまでが馬車に入ってし
まうと、いくら六頭引きの大きめの指揮官専用馬車と言えども狭々
しく感じるのだった。
トドメとばかり呼びもしないのにニシカさんが強引に入り込んで
くると、これはもう寿司詰めである。
俺は窓から全体行軍の有様を見やりながら、ニシカさんとようじ
ょが地図をにらめっこしながら詳細報告をしている姿を眼にした。
戦争というものを俺は知らない。
もちろん平和な日本に生まれて育った人間が戦争について知って
いるとすれば、それは古老か傭兵経験でもある様な変人のどちらか
だ。
むかし俺は傭兵のアルバイトをしていた、なんて事があるはずも
無く、未知の体験にえも言えぬ緊張感を募らせていく。
時刻は正確ではないけれど、ゆっくりと粉を散らしていく砂時計
を見る限り、そろそろ日付が変更する頃合いといったところだった。
1916
﹁セレスタ男爵の軍隊はどの辺りまで進発しているのか、わからん
のか﹂
﹁たぶんですが、この距離を考えるとッヨイたちの部隊よりも前に
出て移動していると思います﹂
﹁出来るだけ遅れる事は避けねばならぬが、これだけの人数が動く
となれば遅くなってしまってもしょうがあるまいな⋮⋮﹂
オゲインおじさんとようじょが距離を測りながら会話をし、今し
がたこの道を進んで来たばかりのニシカさんがそれに口を挟む。
﹁ここから行程の半分まではたぶん馬車で行けるぜ、近くにいくつ
かまだひとのいる集落があっただろ。そこから先は馬車も降りた方
がいいな﹂
﹁ではそこからは徒歩と騎馬ですかねぇ。どれぇどう思いますか?﹂
﹁そうですね、細かいところはお任せしますが。ニシカさん、その
アジトをしっかり見える場所というと、この地図で言えばここです
か?﹂
﹁そうだな、ここがたぶん全体を俯瞰できる場所だ。アジトの本拠
になる館よりは低い位置にあるが、それでもみっつの集落は見渡せ
る﹂
ではそこを夜明けまでにいったん目指そうという事になって、し
ばし指揮官一同は仮眠をすることにした。
夜は長い。
いや、明日は長い一日になる。
そんな事を考えながらうとうとと俺の肩に頭を預けて来るカサン
ドラと雁木マリを抱き寄せながら、緊張する気持ちを必死に抑えこ
もうとした。
1917
俺はひとりでの戦闘では戦えたが、果たして集団戦闘でどれだけ
役に立つのだろうか。
1918
154 触滅セヨ! 1
いくつかの小休止を取り、馬車が乗り入れられる田舎道の終末ま
でを強行軍で走破した俺たちは、いったんそこで除虫菊を煮詰めた
汁を肌に塗りたくってから、馬を引き松明を消して深夜行を開始す
る。
やがて太陽が山々から姿を現すとともに、俺たちは布陣を完了し
た。
そこは起伏に富んだ山野の中にある、小さな谷間の土地だった。
川に沿って川下からタマラン、アマナン、アマノンというみっつ
の集落の跡地が存在し、その先にせり出した小高い丘に、谷間にあ
るわずかばかりの平地を見下ろせる館が見えるという地理である。
﹁見ると聞くとは大違いなのです。こうしてみると館を攻撃するの
はかなり至難なのですどれぇ﹂
朝陽を強く浴びながら領内全体を見渡せる木々に覆われた森の中
で、ようじょはそんなつぶやきを漏らした。
地図の情報はずいぶんと古いものだった。
当時のこの村がどの様な姿であったのかを想像してみると、きっ
とここに至るまでに見てきたリンドル領内の村々と同じ様に、伐採
によって間引きされたまばらな木々があるばかりの、土地だったに
違いない。
わずかばかりの平地には冬麦畑か芋の水耕畑があったのだろうか。
それらも今は人手を介する事なく荒れ放題になっていて、見た眼
はただの草原だ。
何よりもかつては痩せた山野だった場所もうっそうと樹林が広が
1919
っていて、ここを走破して攻め寄せるのは大変だろう。
﹁大丈夫だよ。そのぶん、相手にも気づかれない、から﹂
俺たちを安心させる様にエルパコは振り返って言葉を口にした。
そして背後を俺が振り返ると、覚悟を決めてすでに抜剣ずみの野
郎たちがうなずいてみせるのだ。
セレスタで雇い入れた傭兵のみなさんである。
ようじょが手を上げて軽く振って見せると、その先に見えるベロ
ーチュさんも同じ様に手を振る。
最後に横列の最端に集団に付いていたカラメルネーゼさんも同じ
行動をしたかと思うと、ひゅんと風を切り裂く音が渓谷を貫いた。
ニシカさんだ。
サルワタ隊のみなさんが戦闘準備完了をした事を知って、戦いの
火ぶたを切られたのである。
ニシカさんが放った矢は、彼女の剛力と風の魔法によいって勢い
を加速させながら目標に向かって行ったのだ。
◆
触滅隊に加わっていた汚らしい蛮族風体の男は、大きなあくびを
していた。
きっと昨夜遅くまで酒でも食らっていたのか、それともニシカさ
んの報告にあった様に街からかどわかしてきた娼婦の相手でもして
いたのだろう。
不揃いな歯を大口開いて見せびらかしながら小便をしようと崖の
上に立ったかと思うと、ズボンをずらして息子を開放した。
ジョビジョバを開始したところで、そこに鱗裂きのニシカさんの
放った強弓に襲われることになったのだ。
1920
汚い男は小便をまき散らしながら﹁ぎゃあ﹂とひと声鳴いて見せ
ると、そのまま崖から下に一直線へと滑落していった。
残念でした、小便の続きはまた来世!
﹁突撃ですの!﹂
マリアツンデレジアが細剣を天に付き上げて、声高に叫んだ。
その号令直下、ニシカさんに加えてエルパコとベローチュ、そし
てカサンドラが弓射を開始する。
ニシカさんやけもみみは当然として、妖精剣士隊出身の男装の麗
人は弓も得意らしい。ひとまず格好だけは付くカサンドラまでも短
弓を手に取って、ここから姿の見える触滅隊の人間めがけて弓を射
かけるという具合だ。
その間に俺たち抜剣した徒歩の戦士たちが、奇声をまき散らしな
がら林から飛び出し小高い丘を目指した。
走る、もうそれは全力疾走という感じで走る。
現状で旧領主の触滅隊の連中がどういう反応をしたのかわからな
いけれども、見ている限り俺たちの奇声を耳にして次々と汚い顔を
したおっさんどもが飛び出してくるのがわかる。
そして俺たちの直上を時おり矢が飛んでいき、その度に出てきた
悪党が射抜かれた。
領主館に続く急こう配の道を走っている時、向こうからも応射ら
しきものがあって矢がトストスと突き立てられた。
﹁姿勢を引くしろ! 固まって行動するな!﹂
鎖帷子で防御を固めた全力疾走の野郎どもに叫びをあげながら、
俺自身も剣を引き上げながら腰を落として周囲を見回す。
1921
まだ戦いは始まったばかりなので脱落した人間はいない。
とたん、領主館の壁面で大きな爆発があった。
どうやらッヨイさまが特大の攻撃魔法でもぶち込んだらしくて、
ガラガラと領主館の壁を構成するレンガが破壊されて急こう配を転
がり落ちていくのが見える。
俺たちはさらに駆けた。
作戦は成功だ。
領主館の攻撃を担当する俺たちの役割は、言わば戦いがはじまっ
た事を全軍に知らしめることが目的だった。
派手であればあるほど、領主館とみっつの集落に散らばった触滅
隊の連中の注目を集める事が出来る。
そうして注目が領主館に集まれば、集落の敵さんが異変に気が付
いて、領主館の味方を助けるために援軍に向かってくる。
今回の作戦はその背後を、集落周辺に伏せていたオゲイン卿率い
る一〇〇の軍勢が突くという作戦になっていたのである。
もうひとつ大きくドカンと爆発音が響いた。
ふたたびレンガをまき散らしながら領主館の壁面を崩したらしく、
悲鳴と怒号が周囲に響き渡った。
気が付けば弓による援護射撃も止まっている。
恐らく俺たちが領主館の入り口広場あたりに取りついたのを確認
して、エルパコやベローチュたちも前進を開始したのだろう。
ニシカさんはたぶん、まだ俺たちからは場所の確認できない山の
中に潜伏していて、狙撃兵よろしくスナイピングに専念しているは
ずである。
﹁おらあ一番乗りだぜ!﹂
1922
鎖帷子に太陽光を反射させながら、ぶっとい剣を振り回すモンサ
ンダミーの姿がチラリと目撃できた。
荒ぶるサルワタ傭兵の隊長は、ほとんど三国志に出て来る武将の
様に剣を右に左にと振り回しながら、領主館から飛び出して来た敵
さんに斬りかかっていった。
俺も負けられない。
すぐにもその後に続いて剣を低く構えながら駆け出すと、飛び出
してきた触滅隊の連中と交戦する事になった。
こうなってしまえば誰が敵で、誰が味方なのかひっちゃかめっち
ゃかである。
敵も悪党の集団と侮る事が出来ないのは、こういう時にブルカだ
ろうか軍事訓練を受けた人間らしく小集団で固まって俺たち攻め手
に対処してくるのだ。
﹁貴様たち、何者だ!﹂
﹁つわものに決まってるだろう!﹂
そんな馬鹿みたいな発言を堂々と言ってのけるモンサンダミーは、
元は国軍の兵士で経験者が故の余裕だったのだろう。
ふたりを相手にしても右に左にと剣を振り回してけん制しながら、
片方を蹴り飛ばして壁に叩きつけている間に反対の相手の腕を斬り
飛ばしていた。
モンサンダミーさんかっこいい!
﹁シューター卿、中へ入られますわね!﹂
﹁援護してくれ!﹂
﹁お任せくださいなッ﹂
俺と共に先頭集団に参加していたカラメルネーゼさんが飛び出し
1923
て来て、領主館の歪んだ扉をいっせいのうで蹴り飛ばした。
ドガン、ギイイイイ。
完全に開かない。敵はバリケードを築き上げて俺たちの侵入を防
ぎたかったらしく、ドアの内側にはテーブルやらイスやらが散乱し
ていた。
そのイスや机の狭間から槍を刺し込んでくる敵の一撃に驚いた俺
は、あわてて剣を引き上げて弾き飛ばす。
カラメルネーゼさんは器用なもので、触手をひとつ使い槍を絡め
とったかと思うと、あべこべに兵士をこちらに引きずり込んで見せ
た。
ブスリと横から飛び出して来た雁木マリが、躊躇無く首根を斬っ
た。
だがそれにもめげずに他の敵さんは槍を刺し込んでけん制の攻撃
を緩めない。
一瞬後退した蛸足美人は、
﹁このバリケードをどうなさいますの?!﹂
﹁外からの侵入を図ってエルパコ夫人が取りついたわ!﹂
雁木マリがカラメルネーゼに叫びながら返事をする。
バリケードに構っていたら敵に混乱から回復させる余裕を与えて
しまうので、だったらという事でマリは短くこう付け加える。
﹁燃やすわよ! 下がって﹂
言うが早いかテニスボールほどの火弾を出現させた雁木マリは、
俺たちに備える様に指示を出しながらそのファイアボールを出来そ
こないのバリケードにぶつけてやる。
ドゴンと激しく木片をまき散らしながら燃え盛った。
ここを突破するよりも蓋をしてしまって、逃げ口をふさいだ方が
1924
いい。
﹁見張りを付けて他手を回るぞ。ッヨイさまや、下の連中はどうな
ってるんだ!﹂
﹁ッヨイにベローチュを付けているわ。安心して! 下はまだ背後
を突いてないわ﹂
﹁わかった、こっちからもこの火に燃料をくべてやって盛大に燃や
してやれ﹂
確認の会話をしながら雁木マリとカラメルネーゼさんにそう話し
かけた瞬間。
俺がバリケードに背中を見せていたわずかの間に、強烈な殺気を
背後に感じた。
何だ?!
﹁フィジカル・マジカル・エクストリーム!﹂
触滅隊の中にどうやら魔法使いの人間がいたらしい。
紅蓮の大火球によって吹き飛ばされる俺は、受け身の姿勢をどう
しようか考えつつ、対魔法使い対策をまるでしていなかった俺自身
を呪った。
ッヨイさま以外の魔法使いとか、想定外だよ!
1925
155 触滅セヨ! 2
突然の高威力魔法攻撃を受けた俺は、バリケードを吹き飛ばす強
烈な衝撃波を受けながら咄嗟に受け身の姿勢をとった。
やっててよかったスタントマン。
長剣を左手に持ったままで肩から倒れる様にして手を付きながら
地面を転がり、そのまま衝撃の勢いを使ってゴロンと起き上がった。
幸いにも頭をぶつける事は無かったけれど、不意にバリケードの
木片をまともに喰らっていた雁木マリはもろに張り倒されたような
格好になっていた。
カラメルネーゼさんはというと、器用に刃広の剣の腹を使って飛
んできたイスか何かを強引に叩き飛ばし、八本の触手を花びらの様
に広げる事で踏ん張っている様だった。
雁木マリもふらふらとしながらも片膝を突いてどうにか立ち上が
ろうとしているので、致命傷には至らなかったらしい。あるいはポ
ーションで予防処置でもしていたんだろうか。
とにかく急いでマリの手を取って立ち上がらせた。
バリケードの向こう側には、ひとりの女が立っていた。
その人物こそがバリケードをただの一撃で吹き飛ばして見せた大
火球魔法の使い手であるのだ。
﹁ちっ、まだ生きていたか﹂
女であることは間違い無いが、その女は全身をすっぽりと包むロ
ーブを纏っていて口元もストールの様なもので隠しているので容姿
をうかがい知る事は出来ない。
女と判断出来たのは、その声と長い髪の毛からだった。
1926
この世界の男はだいたい長髪といっても背中にかかるほど伸ばし
ている人間は少ないからな。
だが今はそんな情報を手に入れたところで、何か意味があるわけ
じゃない。
﹁次の攻撃が来ますわよ!﹂
﹁!!﹂
グリモワール
カラメルネーゼさんの警告があった直後、そのローブの女魔法使
いが手に何かの紙片を突き出した。
あれは魔法の発動体だろうか。ッヨイさまでいうところの魔導書
に当たるものかもしれない。
咄嗟に構えを取りながらそれを一瞬だけ目撃する。その紙片はボ
ッと炎が付いたかと思うと丸い枠の中にある何かの記号が光って異
様な圧迫感を放出しはじめた。
あそこから魔法が発射されるのか。
﹁させないわ! 喰らえッ﹂
雁木マリはそれに対抗する様に手をかざしたかと思うと、ニシカ
さんの豊かなドッヂボールなみの水球を出現させて打ち出した。
あの魔法発動体の護符か何かの攻撃を妨害するつもりらしい。
俺もそれを見ているだけで終わらせるわけにはいかない。
明らかに始末に負えない相手をしているという危機感は俺たちの
中に確かにあって、マリの行動に連携して俺とカラメルネーゼさん
がほとんど同時にサイドからバリケードのあった扉の向こう側に向
かって駆け上がろうとしていた。
﹁フィジカル・マジカ︱︱まじかよ!﹂
1927
ドッヂボールは炎上する護符に吸い込まれてはじけ飛ぶ。
威力はそれほどでもなかったはずだが見事に護符の魔法発動のた
めの準備行動を台無しにして、少なくとも護符をお湿りさせてくれ
た。
発狂した魔法使いは大威力の魔法発動を捨てたらしく、護符を放
り出して反対の手で指先を雁木マリに向ける姿が見えた。
発射される小さな火球が、雁木マリを襲った。
それとほぼ同時に俺は剣を引き上げながら、女魔法使いのやわら
かな胸に斬撃を与えようと急襲する。
一拍の間を巧く調整しながら、反対側から剣を水平に走らせる重
たそうな一閃の構えをカラメルネーゼさんがとった。
雁木マリがここで上手く回避してくれる事が出来れば、間違いな
くこの女魔法使いを始末できる!
例えようじょ級の魔法が使えようと、隙のデカいこいつを始末す
る事は余裕だと思ったその瞬間。
﹁側面に敵だ!﹂
これは罠だ。
俺は短くカラメルネーゼさんに警告を発する!
旧領主館の内側、扉のすぐ両脇の入り口からは見えない場所には、
伏兵が存在していたのだ。
俺が女魔法使いの側面に回り込んだ瞬間、女魔法使いの向こう側
にニヤリとしてみせる悪相の悪党が剣を構えているのが見えた。
たぶん反対側にも別のヤツが潜んでいる気がする。それは果たし
て事実で、咄嗟に振り返ろうとしたところに槍が突き出されるのを
見やった。
もちろん、その槍をとっさの判断で捌き避ける事は出来なかった。
強引に体をひねりながら避けようとしたところ、その突き出され
1928
た槍が黒焦げのブリガンダイン鎧の脇を滑る様にえぐった。
防具があるという事は安心だ。完全に避けなければ傷を負ってし
まう今までと違って、鎧を防御の一部として利用できるありがたさ
があるのだ。
全裸じゃなければ怖くないもん!
かわりに振り込んだ俺の剣が相手の肩口に深々と叩きつけられた
けれど、これで俺は一瞬の行動を完全に封じられてしまったのだ。
全裸ならば体はもっと自由に稼働できたかもしれない。関節の自
由を一部規制されているのも事実なのだ。
背後でも﹁ギャン﹂というカラメルネーゼさんの発する不思議な
悲鳴めいたものが聞こえたけれど、俺はこれをこの眼で確認する事
は出来なかった。
何故なら、次の瞬間にまた俺たちは吹き飛ばされたからである。
﹁邪魔よ!﹂
ただの怒声ひとつで俺たちは衝撃とともに宙を舞った。俺の斬っ
た敵兵と一緒にそのまま文字通り館内の壁まで叩きつけられたので
ある。
こうなってしまっては受け身もへったくれも無い。
俺は胃の中のものをぶちまけそうになる様な圧迫とともに叩きつ
けられ、ごろんと転がる。
たぶんあばらが折れたんじゃないだろうか。
まありにも痛くて体を動かすのがおっくうになりそうだった。
すでに事切れているらしい先ほど俺が斬った相手が上にかぶさっ
て、立ち上がろうとする俺の行動を阻害する。
マリは、カラメルネーゼさんはどうなったんだ!
1929
薄ぼやけがちな視界の中に、俺とカラメルネーゼさんを交互に一
瞥くれる女魔法使いの姿が見えた。
カラメルネーゼさんも、どうやらぐったりと蛸足の一本をぬるり
と動かして見せただけで、体そのものを動かす気力がないらしい。
ここからは確認できない雁木マリの姿が気になる。上手く回避で
きていたのなら俺たちに女魔法使いが攻撃したタイミングを突いて
突貫の一撃を喰らわせていてもおかしくないはずだ。
つまり、マリも倒されたのだ。
こぶしを握りつけながら、何とか体を起こそうとするのに動かな
い。
どこがやられた、もしかして出血がひどいのか。
必死の形相で女魔法使いを睨め付けていると、そのぼやけた視界
の中に帽子をかぶった仮面の男が駆け寄って来る姿が見えた。
﹁証拠物はすべて破棄したぞ。撤退だ﹂
仮面の男と女魔法使いの周囲を走り抜けて、触滅隊の悪党どもが
数名外に飛び出していくのが見えた。
やがて表の側でサルワタの傭兵たちと斬り結ぶ怒号と金属音が響
く。
﹁ええ、ここを一点突破で斬り抜ける破孔だけは作っておいたわ。
あとはあなたしだいだけれども、余力はあって?﹂
﹁俺を誰だと思っているんだ。ん?﹂
﹁ふふっ。わたしはどちらでも構わないけれど⋮⋮﹂
そんなやり取りがあって、ふたりは外に出ていこうと扉の向こう
側に歩き出す。
待てよ、行かせてたまるか。
1930
俺は立ち上がる。
ほとんど最後の力を振り絞ってという気分で体に覆いかぶさった
死体を押しのけ、そして壁に足を押し付けて我武者羅にタックルを
しかけてやる。
ほとんどこれは賭けも同然だ。
俺ひとりでこんな化け物じみた女魔法使いを倒す事は出来ない。
魔法がやたらめった強力だというだけでなく、体の反応速度が尋
常ではないのだ。
ッヨイさまは小さなようじょの体躯で強力な魔法を発揮する天才
ようじょ軍師だったが、あれは強力な魔法を発動するとその反動で
リロード時間がかなりある様子だった。
それに比べればこの女は変な護符みたいなものを燃やしながら大
威力魔法を連発しようとした。ほとんどリロードタイムなしにそん
な事が出来る上に、適度な威力の魔法で俺たちをあっさり一撃無力
化だ。
最悪だ。
俺ひとりで出来なくても、カラメルネーゼさんが呼応して飛びつ
いてくれれば、あるいはこの化け物なり仮面の男なりを一撃くれて
やる事が出来るかもしれない。
雁木マリが復活していれば、さらにチャンスは拡大する。
しかし失敗すれば⋮⋮
外にはベローチュに守られたッヨイさまや、俺の大切な妻である
カサンドラが、ほとんど無防備な姿で存在しているのだ。
無防備だ。
あんな強烈な魔法を前にすればカサンドラなんてひとたまりもな
いだろうし、ようじょをもってしても張り合うのは限界のはずだ。
そんな思考を僅かのうちに巡らせながら、俺は駆け出した。
狙うは女魔法使いの膝裏に向けてタックルである。
1931
プロレスの技で言えばスピアとでもいうのだろうか。すでに武器
を取りこぼしている俺にしてみればこれが唯一の攻撃手段だった。
仮に仮面の男が呼応して俺を斬り伏せたとしても、いち度勢いの
付いた俺を止める事はもう誰にもできない。
ぶっ倒れろ、クソ女魔法使い!
﹁?!﹂
駆け出した俺の事を視界に納めたのだろう。
女魔法使いは咄嗟の事で驚いた顔をしてこちらの方を向いた。
馬鹿め、見えるぞ。
後ろから触手をぐんとぬめらせたカラメルネーゼさんが、扇のよ
うにそれを広げたのだ。
俺のタックルが女魔法使いの膝へと強烈に刺し込まれる。
同時に、サーベルの様な細くそして反り返った刀剣を振り上げよ
うとした仮面の男の腕に脚にと絡みつく有様を目撃する。
激しい衝撃とともに女を掬い上げる様な格好で俺のスピアが貫い
た。
女はたまらず転倒し、カラメルネーゼさんに死の抱擁をされた仮
面の男はギシギシと鎧ごと抱き留められながら喚き散らしていた。
﹁ぐおおお、ぎさま。何だこの化け物女は⋮⋮!﹂
﹁失礼、ですわね。未婚の熟れたレディに対してそんな口の利き方
をしている様では、その魂が異世界に旅立たれた後も永遠に童貞の
呪いが女神様によってかけられますわ⋮⋮よ!﹂
俺が捨て身のタックルからようやく体を起こそうとしたその時。 死の抱擁によるものだろう、バキっという不気味な音が聞こえた。
そして振り返ると。
1932
血まみれになった雁木マリが、片眼をつむりながらも鬼の形相で
女魔法使いを見下ろしながら剣を突き立てたのである。
﹁ちょ、待って⋮⋮﹂
﹁ずいぶん手こずらせるわね﹂
﹁ごぎゃ!﹂
◆
満身創痍というのはこの事だろう。
旧領主館を急襲した俺たちサルワタの戦士たちは、多数の犠牲を
払いながらこの場所を制圧完了した。
鬼神のごとき形相で女魔法使いに剣を突き立てた雁木マリであっ
たけれど、殺す気はさらさらなかったらしい。
何故ならその剣は腸の収まった下腹部に深々と刺し込まれたから
である。
こうしておけばあまりの苦しみから、魔法使いは魔法を発動でき
ないらしい。
腹に力が入らなければ、魔法の詠唱にも問題が起きるというわけ
だ。
その後この女はさるぐつわを口にぶち込まれて拘束された上で、
止血の応急処置を施された。
化け物じみたこの女に一瞬の隙をついて無力化出来た事は幸甚中
の幸甚であるのだけれども。
問題はこの拠点ひとつだけで戦場のカタがついたわけではない。
﹁どれぇ、オゲインおじさんのぐんだんが後方遮断に成功したので
す!﹂
﹁おお、やった⋮⋮﹂
1933
これでひとまず敵を大混乱に陥れる事が出来るはずだ。
﹁けれども、野牛のぐんだんが旧領主館の襲撃に気付いた集落から
の増援の一部と交戦を開始しました!﹂
それは非常にまずい。
よれよれの体でようやく回収したばかりの自分の剣を杖代わりに
立っていた俺は、マリアツンデレジアの肩を借りながら眼下に広が
る交戦風景を見やった。
﹁ニシカさんとエルパコを向かわせましたか?﹂
﹁はい、すでにニシカさんとエルパコねえさまは移動済みなのです﹂
﹁それとハーナディンが傭兵隊を引き連れて援軍に向かっているか
ら、ひとまず安心よ﹂
ん? 傭兵隊を率いているはずのモンサンダミーはどうした。
俺がその事を疑問に思って質問をしてみると、
﹁シューターさん、モンサンダミー隊長は戦死されました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
傷だらけの悪相の傭兵は、すでに異世界へと魂の旅立ちに出た後
だったのだ。
戦いはまだ続く。
ポーションで回復をした後に、集落の敵と交戦しなければならな
い。
1934
156 触滅セヨ! 3
旧領主館に一番近い場所にあるアマノンという集落の前では、ハ
ーナディンが率いている傭兵隊と野牛の兵士たちが、異変に気が付
いて領主館に向かおうとしていた触滅隊の悪党どもと交戦を開始し
ていた。
俺も雁木マリの疲労がポンと回復するという怪しいポーションを
キめた後に、それに合流すべく向かう。
足取りはかなりふら付いているという実感があったので、無理に
交戦中のただ中に斬り込む様な事はしない方がいいだろう。
そんな事を考えながら小走りに徒歩で向かっていると、すぐ側に
いつの間にか追走するエルパコの姿があった。
どちらかというと俺よりも少し前を駆けているという元気な有様
だ。
そして途中で足を止めたかと思うと、愛用する短弓を構えて一射
してみせる、という繰り返しだ。
けもみみは速射性に優れたこの短弓を使って、かえる跳びの要領
で数人の悪党をみるみるうちに仕留めて見せたのである。
﹁敵の数が思ったよりも多い様に見受けられますわ!﹂
すると今度は反対側をいつの間にか並走していたらしいカラメル
ネーゼさんから怒声めいた悲鳴が上がった。
彼女は蛸足のぶんだけ、あまり武装しての全力疾走がお得意では
ないらしい。
少しハアハアと荒い息をしながら剣を構えて、こちらに飛び出し
1935
てくる槍を持った悪党の一撃を振り払った。
ニシカさんの報告が過小だったと言いたいのかもしれない。
けれどもおそらくそれは眼の錯覚だろう。
﹁敵が入り乱れて交戦しているので、数が多く見えるのでしょう!﹂
﹁そうだといいのですけれども!﹂
戦場経験というわけではないけれども、俺も似た体験をしたこと
がある。
むかし俺が参加した歴史ドラマの合戦シーンを撮影の時、大多数
の役者とエキストラ、スタントマンが集まって敵味方にわかれた合
戦をした事がある。
数としては一〇〇人だか一五〇人だかという、今この戦場の数よ
りもたぶん少ない兵隊が集められていたはずにもかかわらず、実際
に草ぼうぼうのロケ地を全力疾走しながら騎馬やら鎧武者やら鉄砲
足軽やらが入り乱れて戦ってみると、これはもう脳味噌に血が足り
ないからか、ものすごい大軍同士がぶつかり合ったような感覚に陥
ったものだ。
ついでに言うと、映画やドラマの撮影スキルというのだろうか、
シャッターというものがある。
これはカメラフレームの中を、周辺に散らばった戦闘員︵例えば
戦隊モノの雑魚敵︶が右に左にと交互に移動してみせるだけで、視
覚的に実際の戦闘員の数よりも多く錯覚してしまうのである。
撮影の時はこの方法を使って臨場感を出そうとと創意工夫をして
いるわけだけれども、実際の戦場においてもこれは有効なのか、敵
味方が入り乱れているとそういう風に感じてしまうのも、しかたの
ないものだった。
﹁シューターさん。かなり、押されてるよ﹂
1936
わずかな間隔で二度にわたり弓を射かけたエルパコが、俺に一瞬
だけ向き直ってそんな事を言った。
かへい
確かに、アマノンの集落周辺の俺たちはどうにか旧領主館を目指
していた触滅隊の連中を寡兵で押しとどめていると言えるかもしれ
ない。
とき
けれども、後方遮断のためにみっつの集落の背後から秋の声を上
げて踊り込んで来たオゲインおじさんの領兵連中は、数ばかりは多
いくせにあまり優勢だとは言えない様だ。
事実、旧領主館のあった小高い丘から目撃した時には、奇襲効果
もあってゴリゴリと集落に攻勢をかけていたオゲイン隊のみなさん
が、いつまでたっても近づいてきているという印象を感じないので
ある。
﹁たぶん、押し返されてるな﹂
﹁どうしますの?!﹂
目の前に飛び出してきた炭鉱夫みたいなすすけた顔の男に向かっ
て、俺が土を蹴り上げて目潰しをしてやる。
するとその直後にカラメルネーゼさんがバッサリと斬りかかって、
質問を飛ばしてきた。
﹁思ったよりオゲイン卿の軍隊は弱いらしいですね﹂
﹁弱すぎますわ。これでは軍隊というよりも烏合の衆!﹂
そんな事をいまさら言っても仕方がないので、ここは俺たちが踏
ん張るしかないというわけである。
﹁ここはみんなにまかせて、オゲイン卿の方に援軍に向かった方が
1937
いいでしょうか﹂
﹁可能ならそうするべきですわね! ただ、少人数で動いていると
孤立する可能性がありますわッ﹂
確かに、俺たちサルワタ側の兵隊は作戦開始時点でもせいぜいが
三〇名程度しかいない小集団だった。
モンサンダミーも戦死したぐらいで、今となってはその数も減ら
している事だろう。
いつの間にか旧領主館の丘から前進してきたようじょが、俺たち
の方向に歩み寄って来る。
﹁散開! 固まると巻き添えを食らうわよ!﹂
ようじょの側にいた雁木マリが、頭から血を垂らしたままの豪快
な姿でそう叫んだ。
どうやら、ッヨイさまの特大魔法を敵のど真ん中に打ち込んでや
ろうというつもりらしい。
﹁フィシカル・マジカル・どっかぁん!﹂
すぐにその攻撃は実行に移された。
ようじょの叫び声が始まった瞬間に、俺の前で交戦していた傭兵
たちが敵の攻撃をいなして散り散りになった。そこに得意としてい
る火の魔法でドカンと一撃かましてやったのだ。
激しい音と煙を上げて紅蓮は爆散した。
けれどもあまり効果が無かったのだろうか、その煙の向こう側か
ら悪相をした男たちが飛び出してくる。
けれどもようじょはめげない。
﹁フィジカル・マジカル・いっけぇ!﹂
1938
その飛び出してきたところを狙う様に第二撃がぶち込まれたので
あった。
さらに雁木マリとハーナディン、それにエルパコまでが加わって、
残りの兵士の打ち漏らしを仕留めていくじゃないか。
そうこうしているうちに、苦労してオゲイン卿がこの奥地まで連
れて来ていた騎乗騎兵の小集団が、果敢に敵の集団の中に林から飛
び出してくるのが見えた。
﹁まずいわね。敵が固まっている状況なら小集団でも騎兵突撃の効
果はあるけれど﹂
﹁やはり戦馴れしていないのが見て取れますわ﹂
戦場経験豊かな雁木マリとカラメルネーゼさんが、口々にそんな
事を言っている。
大丈夫か、予定では騎士のみなさんももう少し早く突入していた
はずだと思うんだが⋮⋮
﹁どれぇ。何人かを連れて、オゲイン卿を救出してきてください!﹂
﹁了解しましたッヨイさま﹂
それで誰を連れていくのかと思ったところ、当然の様に志願した
のがけもみみとベローチュ、それから野牛の兵士タンスロットさん
である。
カラメルネーゼさんは蛸足を振り回して走るのがしんどいのか、
手を上げてくれることはなかった。
﹁ッジャジャマくん。君も男だ。一緒に来るか﹂
﹁遠慮しておきますシューターさん﹂
1939
ッワクワクゴロさんの末弟も誘ってみたところ、とても嫌そうな
顔をしてッヨイさまの側を離れようとしなかった。
この戦場で確かに一番安全なのは、偉大なる魔法使いのッヨイさ
まと雁木マリに守られているこの場所かもしれんからね。
﹁では行ってきます。みんな付いてきてくれ!﹂
◆
走るというよりも、大股で歩くと言う方が正しいかもしれない。
ブリガンダイン鎧を着用したところ、思った以上に重量を感じて
いるのがわかった。
それは一緒に行動をしてくれているけもみみも同じ様で、あまり
足早に移動しようとはしていない。
その点を行くと、俺やエルパコと同じ格好をしているベローチュ
や、兵士の訓練を受けている鎖帷子のタンスロットさんはまだまだ
余裕があるみたいだった。
本当は駆け抜けて移動したいところだが、それがなかなか出来な
い。
とはいえ、戦場で無暗に走っていてもいい事はない。
出来るだけ省力モードで行動しながら、ここぞという時に瞬発を
見せないといけないというのが、どうやら戦場の掟ではないかと俺
は少し思いつつあった。
﹁シューターさん、あそこ﹂
誰が味方で誰が敵なのかもよくわからない戦場の入り乱れようを
目視しながら低い姿勢で移動を︵これでもコソコソしているつもり
だった︶していると、エルパコが一点を差してそう叫んだのである。
1940
﹁どうした、何だあいつは﹂
また厄介な強敵が出てきたのかと一瞬だけ思いながら視線を走ら
せる。
すると見覚えのある帽子に仮面を被った男が、馬に乗って剣を振
り回している姿が見えるではないか。
そんな馬鹿な。
あいつは確かカラメルネーゼさんが死の抱擁で背筋の骨をバキリ
と折ってやった記憶がある。
まさか死んだ人間がいつの間にか復活して、戦場の別の地点に復
活したのかと一瞬だけ混乱しそうになったが、道理で考えてもそん
な事は起きるはずがない。
そうしてみると奴は触滅隊の幹部の正装とでも言うのだろうか、
それをした別の誰かであるらしい。
口の臭い触滅隊の幹部か、もしくは先ほどの女魔法使いクラスの
使い手であった場合は、また大苦戦が強いられることになるので、
どうしたものかと歩みを寄せながらも相手を観察した。
してみると、馬に乗ったその男は、遅れて戦場に騎馬突撃をかけ
てきた騎士小隊の連中を単身で相手にしている。
駆けながら右に左にと纏わりついてくる騎士たちを剣でけん制し
ながらも、斬り落とされそうな様子はまるでなかったのである。
見ているうちに﹁あっ﹂とタンスロットさんが悲鳴を上げた。兵
士のひとりが仮面男に馬上から蹴り飛ばされて、馬もろとも転倒す
る姿が見えたのだ。
うかうかしていられないぞこれは⋮⋮
﹁急ぐぞ、エルパコ援護しろ!﹂
﹁わかったよ!﹂
1941
騎馬戦闘なんてやった事がない俺だけれど、最悪は相手と並走し
て戦うためには致し方がない。
俺は駆けながらシュっとけもみみの援護の一射が飛ぶのを視界の
端に捉えながら鎧をガチャガチャ言わせつつも向かった。
ベローチュとタンスロットさんもそれに続く。
視界の中で、さらにひとりの騎士が体を斬られて落馬した。
やはりかなり厄介な敵である事は間違いないな。
ただし、相手が魔法使いでない事はかなり救いがあると言える。
あれが相手だと物理の攻撃がまるで通用しないので、接近したら一
方的にやられてしまうしな。
あいつなら、俺の拳なら勝てるかもしれない。
﹁ご主人さま、馬を!﹂
﹁お、応ッ﹂
騎士小隊のみなさんを蹴散らせて見せた仮面の男二号は、そのま
ま勢いに乗ってオゲイン卿の兵士たちが固まった集団の中に、あべ
こべの単騎突撃をかましているではないか。
やばいな。こちらの兵士はどちらかというと塊になっていて、触
滅隊の方が軍事訓練を受けている︵であろう︶ために上手い具合に
散開しつつもツーマンセルで敵に対処しているという具合だ。
数は俺たちの方が多いはずというのに、歯がゆいばかりである。
俺は片膝を立ててみせた男装の麗人のふとももを踏みあげて、強
引に主を失った馬にまたがった。
ブーツでベローチュの足を踏みつけた瞬間に﹁んくッ﹂などと場
違いな嗚咽を漏らしたのはこの際、聞かなかったことにする。
﹁すまん﹂
1942
﹁いえ、こういうのも好きです﹂
褐色の頬を朱色に染めたベローチュは、やはり場違いな態度を返
した。
隣で一瞬だけぼけーっとしていたけもみみだったけれど、すぐに
も弓を構えなおしながら仮面の男二号に射線を合わせた。
ベローチュも転倒してうごめいていた馬を引き起こしながら自ら
飛び乗って見せる。
﹁くるよ、シューターさん﹂
﹁わかってる。タンスロットさんはエルパコを守ってくれ!﹂
﹁了解です閣下!﹂
掬い上げる様に長剣を振るって疾駆する仮面の男二号は、俺たち
の存在に気付いたらしい。
ペストマスクの様な仮面をつけた男が、ニヤリとしてみせた様な
気がした。
仮面をつけているのだから、そんな事はわかるはずもないのだが、
不気味な仮面の男が﹁相手になってやる﹂とでも言ったような気が
したのだ。
そして彼に纏わりつこうとした兵士に向けて、まず手からビーム
を発射した。
﹁ファイアボールだと?!﹂
魔法を使えない相手ならあるいは、などと思っていたけれど、仮
面の男二号は魔法も使える剣士でした!
﹁ご主人さま、ふたりで挟み撃ちにして強引に馬から引きずり下ろ
しましょう。そうすれば活路はありますよ!﹂
1943
本当にそれが可能なのかはわからないけれど、ビシリと鞭を入れ
て走り出した勇ましい男装の麗人に続いて、俺も負けじと馬を駆っ
た。
すれ違い様の一撃を互いにぶちかますべく、俺とベローチュは剣
を引き上げたのである。
1944
157 触滅セヨ! 4
しっかりと股を締め付けながら、馬上で俺は剣を振り上げ構えた。
仮面の男二号は相対する位置から加速しつつ、水平に剣を突き出
しながらこちらへと疾駆してくる。
﹁ご主人さま!﹂
﹁呼吸を合わせろ、同時に行くぞッ﹂
仮面の男二号は俺たちふたりを相手にしてもその疾走を緩める事
も無く、ひゅんと剣を振り上げて俺に斬りかかる態度を見せる。
きっとベローチュと俺とを瞬時に見比べた時に、どちらがより倒
しやすいかを判断したのだろう。
癪に障る事この上ないが、いいじゃねえか。だったらやってやる!
﹁行くぞ!﹂
そのすれ違い様に斬りつけられた剣をどうにか受け流して見せた
時、ギャンと刃広の剣身が悲鳴を上げる。
隣でぶんと振り抜かれたベローチュの剣は、どうやら仮面の男二
号の硬い手甲によって弾かれてしまったらしい。
俺は馬の操法が未だに得意ではない。
馬速は勢いそのままに大きく半円を描きながらターンさせる俺と、
手綱捌き巧みな男装の麗人とでは、この瞬間にも連携が崩れはじめ
ていた。
﹁くそっ。無理に単騎で向かうなよ!﹂
﹁そうは言われましても!﹂
1945
相対しての一撃を終えた後は、もつれる様に並走してベローチュ
と仮面の男二号が数撃にわたって撃剣を交わす姿が見える。
エルパコも援護射撃の一撃を入れてどうにか仮面の男二号に損傷
を負わせようとしているらしいけれど、これが高速で移動している
相手となると難しいらしい。
けん制の一射にはなった様で、仮面は一瞬だけ身をのけぞらせた。
俺も馬を落ち着かせながら、どうにか反対側から仮面の男二号に
接近し、背後からの一撃を狙う。
﹁おい、ケツががら空きだぜ!﹂
﹁フウン、ヌウンッ﹂
余計なひと言だったかもしれない。
俺がまともな攻撃もかなわないと早めに諦めて囮役を買って出よ
うと挑発してみたのだが、騎乗でブンブンと長剣を振り回して見せ
る仮面の男二号は、滅茶苦茶強かった。
ベローチュの攻撃を剣の勢いに任せて弾き飛ばしたかと思うと、
そのまま頭上で山を返した長剣が俺のブリガンダイン鎧をギャイン
と切り裂いた。
もちろん肉体まではには届いていないが、肝が冷えた事は間違い
ない。
のけぞってはみたものの、その勢いで危うく馬上から転げ落ちる
ところだったのだ。
﹁残念だったな、俺はまだ無事だ!﹂
﹁おのれ﹂
不利な姿勢から数合の打ち合い。
だが俺の攻撃はことごとくいなされてしまう。
1946
馬に跨り疾走させながら白刃の切り口を安定させるのはかなりの
至難だ。
妖精剣士隊の出身であるベローチュは、上下する馬の揺れに合わ
せて腰を浮かせながら剣を引き上げながら片手で構えを取る姿勢を
していた。
このファンタジー世界の長剣は両手持ちも可能であるが、基本的
に片手で操るために工夫されて作られたものである。こういう馬上
戦闘の時には確かにそれが役立つのだろう。
しかし今の俺では馬上なら両手持ちでなければ剣の切り口を敵に
正しく向けられないし、かといって両手では走る馬の上で安定した
姿勢を維持できないという情けない有様だった。
斬り口が多少ずれていても、こうなってしまっては強引に叩きつ
けるやり方しか方法はない。
いや、チャンスはそれほど無い事を考えれば、転げ落ちる事も覚
悟で両手持ちの一撃を見舞ってやるか。
そんな事を考えた瞬間に、ベローチュも似た結論に思い至ったの
だろう。
身を乗り出しながら馬の操法を捨てて両手持ちに剣を構えた俺の
反対側で、同じく身を乗り出す様に姿勢を取るベローチュ。
一瞬だけ褐色の奴隷と視線が交錯した。
今度こそ連携をとるぞと互いに暗黙の了解を交わしたのだ。
俺が強引に並走状態から大上段の一撃をぶちかましたところ、仮
面の男二号は剣で受け太刀をするでもなく右手からビームを発射し
た。
﹁魔法かよ?!﹂
1947
予定では俺の剣を受け太刀してやり過ごそうとした背後から、馬
上のタックルを男装の麗人がかけてくれるはずだったのだが。
俺は悲鳴にならない悲鳴を上げながらブリガンダイン鎧に火炎の
魔法を射ち込まれて、そのまま落馬する。
転げ様に足が何かを蹴飛ばした様な気がしたが、自分の事で精一
杯で何が起きたかまでは把握していなかった。
モノの本によれば合戦時の騎馬の時速は十八キロ程度という事を
見た記憶がある。
自転車からアスファルトの地面に転がる事を考えれば、かつては
耕作地だった草ぼうぼうの場所に転がり落ちるのははるかに安全で
ある。はずだ⋮⋮
俺は接地面積を出来るだけ確保する様にしながら尻から落ちて背
中をまわって回転し、起き上がった。
激しく叩きつけられてその瞬間に息をするのも苦しかった。その
瞬間に旧領主館での戦闘でアバラを一本折るかひびが入るかしてい
たのを思い出してめちゃくちゃ痛くなった。
この痛みはまだ生きている証だ。まだ痛みを受け入れられる余裕
のある証だ。
まだいける。
ここでくじける理由がない。
放り出された時に剣もどこかにいってしまった様で、俺は予備の
短剣を引き抜きながら視線をさ迷わせた。
どうやら俺を攻撃した背後から、予定が外れてしまっていたもの
のベローチュが飛びついていたらしい。
男装の麗人が強引に仮面の男二号にぶら下がる様にして、騎馬か
ら引きずり降ろそうと暴れている姿が見えた。
﹁シューターさん!﹂
1948
﹁俺は大丈夫だ、上手くあの馬の体を射抜け﹂
﹁うん⋮⋮!﹂
近くまで疾走して駆け寄ったけもみみに向かって俺の健在ぶりを
示しながらすぐに命令を飛ばす。
エルパコは走りながら弓をつがえると、瞬間的に足を止めてそれ
を打ち出した。
また駆けながらこちらへ寄り、俺と共に走り出す。
矢は放物線を描いて男装の麗人が取りついた仮面の男二号の乗っ
た馬の尻に刺さった。
当然馬は暴れ、棹立ちになってふたりを引きずり落とすではない
か。
﹁エルパコいくぞ!﹂
﹁うん、シューターさんチャンスだよっ﹂
落馬したベローチュはなおもゴロンと体を回転させながら剣を手
に立ち上がろうとしていた。
その闘志はまだ失われていないらしい。
問題は仮面の男二号も、癒しの魔法でも使えるのかすぐにも身を
起こして剣を構えようとしている。
いや、仮面の男は仮面の鉤鼻を破損して、仮面の半分から顔を露
出させているのだった。
こいつだって化け物じゃないんだ。
仮面も割れれば、殺せない相手じゃないはず!
﹁おら、俺が相手だぜ!﹂
叫びながら短剣を懐に押し付ける様に構え、そのまま体当たり気
1949
味に脇腹へ一撃突き込んでやる。
立ち上がったところを、剣の構えを改めて俺への警戒をしようと
しているところを、ほとんど強引な勢いで俺が突貫したものだから、
仮面の割れた場所から見えた表情は驚いている様子だった。
そのまま地面に重なり合う様にして倒れ込む。
﹁グフッ! 何者だ貴様は⋮⋮﹂
﹁サルワタの騎士シューターだ。悪いな、俺たちの勝ちだ⋮⋮?!﹂
口から血を吐き出しながら苦悶の表情を浮かべる仮面の男二号に、
俺が勝利宣言をしようとしたところ。
倒れた姿勢のまま右手をすっと俺に向けようとするのがわかった。
魔法だ。俺は咄嗟にブーツでその構えた手を弾き蹴ってやる。
するとそこに、脇から疾駆して来たエルパコが素早い動きで、仮
面の男の右手をブーツで踏み潰した上で剣で貫いた。
﹁ぐおおおおっ。やめろ﹂
﹁魔法を使われると、厄介だから﹂
エルパコは、仮面の男二号が潰された右手を庇う様に左手を差し
向けた瞬間、仮面に向けてブーツのかかとをグシャリと押し込むじ
ゃないか。そのまま二発、三発と、口周りを執拗に蹴った。
戦場で油断は禁物だとは言うけれど、これはちょっとえげつない
⋮⋮
﹁ぐばッ。ゴホッ﹂
﹁シューターさん、人質に取るんだよね?﹂
﹁う、うん。そうしようか⋮⋮﹂
しばっちゃってちょうだいと俺が言うよりも早く首肯してみせた
1950
エルパコは、腰後ろに手を回してロープを引っ張り出し、手際よく
拘束をはじめるのだった。
ぜえぜえと走りながら駆け寄って来た野牛の兵士タンスロットさ
んも、周辺の触滅隊の数人を相手に戦闘したらしく、茶色い顔にい
くつか返り血を浴びている。
﹁ご無事で何よりです閣下﹂
﹁タンスロットさんも無事でよかったな﹂
短くやり取りをしているとそこに警戒姿勢を崩さずベローチュも
合流した。それを見届けてからタンスロットさんがしごく真面目な
表情で俺たちをさっと見まわしていった。
﹁ひとつ、悪い知らせです﹂
﹁?﹂
﹁オゲイン卿が敗走したのでしょうか、ご主人さま﹂
﹁いえ、まだ混戦状態ですがオゲイン卿は戦闘継続中です。その交
戦している中でですね、他にも仮面の男がいましたよ。あそこと、
向こうのあたりにも﹂
まだいるのかよ! 何人いたら気が済むんだ!
お前ら六つ子か何かか?!
1951
158 触滅セヨ! 5
会戦の様は著しく変動していた。
ふかん
この戦場を俯瞰してみた時、次の通りだった。
旧領主館を制圧した勢いを駆ってアマノン集落周辺に在陣してい
た触滅隊と戦うサルワタ隊の他に、後方遮断のために背後の林に伏
兵していたオゲイン隊が戦闘中であった。
この他に僅か十騎前後と少数ながら騎士たちだけで組織した騎兵
小隊が、側面からの一撃をかけるべくもはや無意味となった騎兵突
撃を実施した。
領主館正面の戦力は二〇強といったところなのに比べ、対する後
方を突いたオゲイン隊は一〇〇を超える主戦力であるにも関わらず、
今となってはいつ総崩れになってもおかしく無い具合に押されてい
る。
時機を逸して投入された騎兵小隊にいたっては組織行動も不可能
なほど、仮面の男二号の奮戦でズタボロにされてしまったが、この
やっかいな二号はすでに戦闘不能であるのが唯一の幸いだな。
そして俺たちとは行動を異にしてた鱗裂きのニシカさんであるけ
れど、彼女は単身に仮面を付けた指揮官級の男を仕留めるべく、隠
密行動をとっていたのである。
彼女はサルワタの優れた猟師である。
スナイパー
その戦い方は猟においてそうである様に、単独行動を旨とし、相
手が油断した瞬間を仕留めるものだ。
いわば現代的な言い方をするならば狙撃兵というやつだな。
1952
混戦する会戦場の中を草原を潜り抜ける様に移動して、ひとつの
目標を定めつつあった。
ちょうど俺たちが剣魔一体の攻撃で暴れる、難敵仮面の男二号を
相手にしていた頃の事だった。
狙うはやはり仮面の男。
ニシカさんが目標と定めた野郎を、以後仮面の男三号とする。
こいつは他の仮面ズと違って、筋肉ダルマみたいなプロレスラー
体系だった。ちょっと仮面が小さすぎて、丸い顔に食い込んでいた
から俺がそう思ったんだけどね。
その男は、仮面の男たちの例に漏れず戦闘力は訓練を受けた軍隊
上がりの触滅隊どもの中でも動きがかなり出来る強者の具合だった。
今となっては確認のしようもないが、恐らくニコラだかニコルだ
かという口の臭かった男も、襲撃作戦などを実施する時にはこの仮
面を付けて悪党働きをやっていたはずなのだろう。
しかし、あの時はその暇も無く戦闘に入ったので、たまたまして
いなかったというわけだ。
この仮面の男三号は長大な槍を風車の様に振り回す、一対多数を
得意とする最悪の野郎だった。
ニシカさんは仲間であるオゲイン兵が散々に蹴散らされている姿
を見ても決して安易に助けようとはせず、じっと姿勢を低くしなが
らブッシュの中を接近し、じりじりと弓をつがえたままチャンスが
来るのを待っていたらしい。
そしてバッとオゲイン兵たちが蹴散らされた瞬間を狙って弦を引
き絞り、強弓の勢いに風の魔法を乗せて首筋一発を狙い定めたので
ある。
1953
発射されたその矢は放物線を描きながら一度空高く舞ったかと思
うと、魔法のコントロールを受けながら仮面の男三号の首筋にズド
ンと刺し込まれた。
長弓の有効射程距離は男の身長なら八〇歩、短弓ならばその半分
の四〇歩程度。
これがこのファンタジー世界の一般の弓兵が弓を狙う距離とされ
ているらしいが、ニシカさんは違う。
ニシカさんが愛用する長弓の射程は実に一五〇歩以上というから、
一〇〇メートル以上の距離を殺傷範囲に捉えている上、その射出さ
れた矢の速度も風の魔法によって通常の倍近くだったらしい。
そんな一射を首筋に受けた仮面の男三号は、さんざんオゲイン卿
の領兵を蹴散らすだけ蹴散らした後にもんどりうって倒れ込んだの
だ。
動き回る敵に狙いを定めようが、風の魔法でコントロールされた
ニシカさんの射撃の前には、手を伸ばせば届く位置にある酒瓶も同
然の扱いだったというわけだ。
お酒が大好きなニシカさんにしてみれば、目の前に酒瓶があれば
手に取るのは当然だ。
同様に、獲物が射程圏内に入れば、的を外すことなく射抜く事が
当たり前に出来るというわけである。
仮面の男三号がニシカさんによってあっさりと無力化した後に、
俺と周囲を固めているエルパコやベローチュ、タンスロットさんが、
オゲイン卿の軍勢の中に駆け込んだのであった。
◆
﹁オゲイン卿、加勢に参りました!﹂
1954
﹁おおっ、シューター閣下ではござらんか。アジトの本拠は陥落し
たのですな﹂
﹁こちらは予定通りに行きましたよ。それにしてもこちらは苦戦さ
れているみたいで!﹂
不慣れに長剣を振り回している太り肉のオゲインおじさんは、体
全身をつかってゼエハアやりながら俺の肩に手を置いて、素直に救
援を喜んでくれた。
高貴な身の上の嗜みで馬に乗って戦場に突入をしていたはずだけ
れど、どうやらいつの間にかそこから落馬して、少数の兵士たちと
逃げまどっていたのが現状らしい。
﹁我が軍はもうこれ以上踏ん張り切れませんぞ。わしは撤退を進言
する﹂
﹁そんな事が許されるわけがありません! 督戦ですよ督戦!﹂
弱気な発言をするオゲインおじさんに対して、俺に付き従って来
た男装の麗人は真逆の事を言い立てた。
当然だ、ここで尻尾を巻いて逃げる様な事になってしまえば、何
のために領内から兵隊をかき集めて、俺たちまで犠牲を払って触滅
隊を包囲したのかまるでわからない。
さらにこちらを目指して進撃中の男色男爵の軍勢はどうするのだ
というはなしだ。
﹁しかし、すでに戦線を維持するのが難しい状態でのう。何とかし
たいのはわしも山々なんだが。ぐわあぁぁ敵兵だ!﹂
言い訳をしていたオゲインおじさんに向かって、動きのいい触滅
隊の数名たちが槍を突き出しながら接近してくるのが見えた。
オゲインおじさんはそれを見て、情けない悲鳴を上げながらあと
1955
じさってみせたが、その場所に入れ違いになる様に俺が飛び込んで、
槍を自分の剣で巻き上げてやる。
その瞬間を呼応してベローチュが触滅隊のひとりを斬り、タンス
ロットも槍を突き込んでくれた。
体躯もあるミノタウロスであるタンスロットさんの槍は、その突
きの一撃も体重の乗った重い攻撃である。悪党はあっさりと懐奥深
くに槍の穂を沈み込まれて悶絶していた。
﹁ここで逃げれば、呼応しているオコネイル男爵の妖精剣士隊が出
馬損になってしまいます! あと少し、あと少し耐えれば戦場に到
着するのです!﹂
﹁しかし、それはいつなのだね。この討伐軍の指揮権は御台さまに
あるはずだが、その御台さまもこの乱戦でお姿が見えない。あの女、
まさか逃げたか戦死したのであるまいな⋮⋮﹂
﹁マリアツンデレジアさまは旧領主館から、作戦の全体を指揮して
おりますよ。オゲインさん落ち着きましょう、俺が側にいますから﹂
当初の作戦予定ではオゲイン卿の包囲網が完成し、敗走に移った
触滅隊の兵士たちが、ッヨイさまのわざと逃げ口を残していた場所
から撤退行動に入るはずだった。
その敗走経路に、進撃する男色男爵の率いる妖精剣士隊が出くわ
すという寸法だったのである。
現実は未だ男色男爵は現れず、包囲網とは名ばかりの混戦の様で
あった。
戦を知らず長く平和を享受していたオゲイン卿が、かなり疲労困
憊の様子で弱気な発言をするのもわからないではない。
形勢不利なのは見たまんま事実だからな。
﹁いったん軍勢の体制を立て直すために、後方に下がるというのは
1956
どうだろうか﹂
しかし弱気な指揮官を鼓舞するのも俺たちの仕事である。
触滅隊の連中も考えたもので、デブの豪華な鎧姿をしたオゲイン
おじさんを仕留めてしまえば、この討伐軍はあっさりと壊走してし
まう事を知っていたのかもしれない。
だから散発的であるけれど、数名がひと塊になった決死隊たちが
俺たちに向かって捨て身の特攻をしてくるのだ。
中には街で雇われていた娼婦の女たちまでが、武装して剣をつむ
じ風の様に振り回しながら突撃してくるのだからたまらない。
彼女たちは娼婦であると同時に、元は傭兵か冒険者だったのか、
触滅隊の確かな戦力の一部に組み込まれていた様である。
﹁どきな! このフニャチン野郎っ。あたいに殺されたくなかった
らね!﹂
娼婦の女が剣も巧みにオゲイン卿を殺さんと草むらの中から飛び
出した時、もはや戦闘の意志が微塵も感じられていないオゲイン卿
は剣を弾き飛ばされてしまった。
あわてたのは俺である。
こんなところでダアヌ派の重鎮に死なれてしまっては、例えここ
で触滅隊を討伐成功に導いても、リンドルのお家騒動をまとめる交
渉相手を失ってしまう事になるのだ。
二の手で剣を引き下げながら、脂肪の詰まった肉の塊を斬り伏せ
ようとした娼婦。
この動きに合わせて俺は素早くオゲインおじさんを押しのけると、
その剣尖を殺すつもりで肩から娼婦にぶつかっていった。
まともに剣でいなすには、咄嗟の事で余裕がなかったからだが、
武装娼婦にはこれで十分だったらしい。
具足ではなくサンダルばきに過ぎなかった彼女はその場でずるり
1957
とこけてしまい、俺を見上げて唾を吐く事しか出来なかった。
﹁殺せ! あたしを殺せ!﹂
エルパコが容赦なく武装娼婦の剣を蹴り飛ばして無力化させると、
尚も暴れようとするその娼婦に飛びついた俺は、そのまま首をひね
って絶命させる。
仕方が無い事だ。
ここには武装解除した捕虜を確保しておける戦力的な余裕もない
し、むしろこちらは押されているぐらいなのだ。
これ以上、妻のひとりが残酷な行為をする姿を見たくなかった俺
は、けもみみがそうするよりも早く自分の手でそうしたのだ。
つまらないフェミニズムの皮を被ったエゴイズムなのかもしれな
い。
だが、手を汚すなら出来るだけ自分の方がいいに決まっている。
﹁ご主人さま、どうされます?﹂
この形成を逆転させる方法は、残った指揮官級︱︱仮面の男たち
を潰して敵を混乱させる他はない。
﹁指揮官を集中的に狙うぞ。敵の、仮面を付けた指揮官の姿は見え
ないか? 探し出して俺たちで打ち取るしかない﹂
﹁そうですね、指揮官級の人間がまだ何人か残っている様です。組
織的な動きをしている連中があそこと、あの向こう側に見えます。
あの隊は動きがいいので、自分と同じ軍事訓練を受けた兵士の集団
でしょう﹂
ベローチュが戦場を素早く観察しながらそんな言葉を口にした。
優秀な剣士出身の奴隷が自分の手元にいる事に感謝しなければい
1958
けない。
それに引き換えると、
﹁誰が行くのだ。わしの部下たちをこれ以上危険に晒すわけにはい
かんぞ⋮⋮﹂
オゲインおじさんはこれ以上期待できそうも無かった。
これはこの戦いが終わった暁には、雁木マリかベローチュあたり
にリンドルの兵隊を教育してもらった方がいいかもしれないな。
そう、そのためにも生き残らなければ⋮⋮
﹁指揮官のひとりは、オレ様が仕留めてやったぜ﹂
不意にそんな声がしたかと思うと、ゴロンと俺たちの前に生首が
ひとつ投げ込まれた。
見ればデカくて丸顔に仮面の張り付けられたそれを放り込んだの
は、鱗裂きのニシカさんだったらしい。
﹁に、ニシカさん⋮⋮﹂
﹁それと、勝負は決したらしいな。あれを見ろよ﹂
ギョっとした俺たちの事など無視して、ニシカさんは血まみれの
マシェットをある場所に指し示すではないか。
とき
示された方向を見れば、激しく爆炎が複数回上がったかと思うと、
勢い秋の声をがなり立てる集団が突撃を敢行しているらしかった。
﹁妖精剣士隊です! 妖精剣士隊が到着したみたいですね!﹂
﹁それに向こう側でも、魔法攻撃がはじまったよ。シューターさん﹂
馬蹄を響かせる騎馬剣士の集団が、容赦無く触滅隊の側面を突い
1959
たのだ。どこからか風に乗って﹁チャージよ!﹂と叫ぶ頼もしくも
野太い声を届けてくれる。
そして、恐らくッヨイさまや雁木マリ、あるいはハーナディンの
魔法攻撃で支援を受けたサルワタの軍勢が、ついに逆襲のために一
転攻勢に移ったらしいのだ。
﹁あっ、仮面の指揮官に率いられた集団がこちらに突撃してきます
!﹂
ぼんやりと作戦の終末を見届けていた気分だった俺たちの方に向
かって、ここからの脱出を意図したのか、サルワタ隊や妖精剣士隊
からの攻撃を逃れていた一隊がこちらに指向したのだ。
ここならば、あまり戦上手とは言えないオゲインおじさんの本隊
がいる場所で、ここを潰せば逃走が可能だと思ったのかもしれない。
だが、させるか。
直ちにこちらに向かう仮面の指揮官に向けてエルパコが矢をつが
えて狙う。
﹁エルパコ、必要ねえ。オレがやる!﹂
マシェットを持った手でけもみみをけん制したニシカさんが、不
敵な笑みを浮かべながら一歩前に出ると、彼女がお得意にしている
特大の竜巻魔法を撃ち放ったのである。
俺はこの魔法を知っている。
以前、奴隷の譲渡契約を終えて名前の長い奴隷商人の元から帰る
途中に、ニシカさんが使ってみせたものだ。
ただ暴風が渦巻くだけのまやかしではなく、鋭利な刃物で斬り刻
まれる様にズタズタにされるものだ。
それに、ニシカさんは馬の性質をよく理解しているのか、急に激
1960
しい攻撃にさらされた馬というヤツは驚いて棹立ちになるのだ。
当然、見ている目の前で突撃してきた馬は、突然現れた竜巻にお
おいに驚いて仮面の男を振り落としてしまった。
あわれにも、したたかに叩きつけられた仮面の男であるが、そこ
は趨勢が決しつつある中でのことだ。
数騎の傭兵剣士を従えた男色男爵によって包囲されてしまい、仮
面の男四号は捕まる事になったのである。
残念でした。
悪党働きは世の習わしで、長く続ける事は出来ないと相場が決ま
っているんだよ。
﹁おイタをする子は、お仕置きよぉ!﹂
男色男爵がそう言って、ムチで抵抗しようとした仮面の男四号を
折檻している中で、俺の指示を受けたニシカさんが状況終了を告げ
る信号矢を上空に射ち放った。
◆
敗走する残敵の掃討は、当初の予定通りに妖精剣士隊の主力によ
って行われることになった。
山岳騎兵というちょっとかわった兵科のみなさんは、リンドルや
セレスタ周辺の起伏にとんだ地形をものともしない騎兵である。
普通の俺たちならこの山道を移動するなら馬を下りて進軍すると
ころだけれど、山岳騎兵たる妖精剣士隊のみなさんなら、そこはお
手の物だ。
ではどうして男色男爵が、予定に反して戦場に姿を現していたか
というと、
1961
﹁虫の知らせよぉ﹂
という、元貴族軍人としての経験からくる予感に従ったものだっ
たらしい。
戦闘捕虜の集められた旧領主館での事だ。
﹁作戦が計画通りに進まないのは、戦場を知る者なら当然の結果な
のよぉ﹂
﹁と、とてもくやしいのです⋮⋮﹂
ぐぬぬ顔をしたようじょかわいい!
ッヨイさまが緻密に立てた計画は、図上の上では完璧だったと俺
も思う。
けれども、ここまでオゲインおじさんの領兵が弱兵だとは思わな
かったし、マリアツンデレジア傘下の部下もリンドルを発つまでに
使い物にならなくなるとは思ってすらいなかった。
﹁ッヨイ子ちゃんもよく頑張って作戦を考えたけれど、これからは
もっと経験を積んで、机上の空論に終わらせないようにしましょう
ねぇ∼﹂
そんな風に男色男爵がようじょの頭を撫でたものだから、悔しい
顔をしたッヨイさまは俺にしがみ付いてきた。
﹁男爵、それはあんまりというものですよ。ッヨイさまだって、何
も情報がない状況で、よく作戦を練って実行してくださいました。
戦力が足りないところは、ッヨイ様自らが先頭に立って戦ってくだ
さったんですからね﹂
﹁どれぇ⋮⋮﹂
1962
俺がそんな風にピシャリと釘を刺しておくと、両手を広げて引き
下がってくれた。
あまり子供をいじめるもんじゃない。
このファンタジー世界の道理に合わせるならようじょはまだ未成
年なんだからな。俺の元いた世界なら、せめて十八か二〇になるま
では責任能力を追及する事すらも問題だからね。
追撃戦はこうして妖精剣士隊の本隊にゆだねる事になった俺たち
は、ひとまずお互いの無事を安堵しながら休息をとる事になった。
戦うだけ戦った後なので疲労困憊だ。
飯も食わなきゃいけないし、怪我を負ったみんなは治療も受けな
ければいけない。
それに捕虜の確認だってある。
﹁それにしても。たくさんの犠牲が出ましたね、シューターさん﹂
そう口にしたのは、簡易の炊事セットを引っ張り出して、炊き出
しの準備をしていたカサンドラだ。
まさか妻までも引き連れて戦場に出て来る事になるとは思ってい
なかった俺であるけれど、こうして正妻の無事を確認できたことは
ありがたいかぎりだ。
雁木マリもエルパコも、こうして元気でいるのだからな。
﹁モンサンダミーさんが戦死なさったそうですね﹂
﹁うん、彼は優秀な傭兵だったよ。きっと生きていれば、戦争でサ
ルワタの軍勢を率いる指揮官になっていたと思うんだ﹂
﹁それに、触滅隊の中には女性の盗賊もいたんでしょう?﹂
﹁武装した娼婦や女魔法使いがいたよ。女魔法使いの方は生かさず
殺さず、雁木マリが捕まえて尋問すると言っていたな﹂
﹁そうなんですか⋮⋮﹂
1963
大きな旅行鍋の中身をぐるぐると木のおたまでかき混ぜている俺
の奥さんは、とても気落ちした様子で声をシュンとさせてしまった。
けれども、落ち込んでいる者たちばかりではない。
すでに何度も戦場を経験してきたであろうサルワタ傭兵のみなさ
んや、初の戦場で興奮しているらしいマリアツンデレジア、そして
ゆうやく
いざ生き残れば肝が据わって来たのかオゲインおじさんたちは違っ
た。
誰それが何を打ち取ったという自己申告をするたびに勇躍して、
剣を突き上げて素直に喜びを表現していたのである。
そんな気分にはなれないとカサンドラの側で見守っていた俺だっ
た。
けれど、ふと次の瞬間に聖少女でありながら古兵の様な厳めしい
顔をした雁木マリとニヤついた顔のニシカさんが、こちらに近付い
てくるではないか。
﹁サルワタ騎士シューター。戦果、触滅隊の指揮官級の男、仮面二
名を撃破! 彼は全裸を貴ぶ部族の生まれだというわ、辺境最強の
戦士の噂は本当だった様ね!﹂
本当は自分と同じ日本の生まれだというのに、雁木マリはそうい
うところもわかった上で芝居がかった口調で俺の腕を引き上げて見
せた。
﹁おう、オレ様の相棒のシューターは全裸最強だぜ! だが今回は
服は無事だったらしいなッ﹂
もう反対側の腕を持ち上げるニシカさんの言葉に、サルワタ関係
者のみなさんがゲラゲラと笑い出した。
カサンドラとエルパコまで、視界の端で苦笑をしているじゃない
1964
か。カサンドラをしっかり見やると、先ほどまでの少し寂しそうな
顔をしていた表情が和らいで、小さく手を振ってくれた。
﹁さあ、女神様に祝福された全裸の勇者よ。勝利したあたしたちに、
ひとこと挨拶をしてちょうだい﹂
おどけた調子でそんな事を言ってのけた雁木マリは、ビシリと俺
のケツを叩いて車座になったみんなの前に押し出されてしまう。
突然そんな事を言われても何と挨拶していいものかわからないの
で﹁あーみなさん﹂などと気取ってひと言口にした後、俺はいつも
の調子でみんなにむかってペコペコと頭を下げるのだった。
﹁ありがとうございます、ありがとうございます﹂
戦死者二七名、負傷者六一名。
うち、サルワタ勢から帰らぬ人となった人間の数は六名。
その数が多いか少ないかは今の俺にはわからないけれど、血を流
す戦争はこの時をもってはじまったのだと、後々になって俺たちは
実感したのである。
妖精剣士隊の掃討作戦を潜り抜けてブルカにたどり着いた触滅隊
の残党が、辺境諸侯の対ブルカ包囲網を正式に報告したからである。
1965
章末 登場人物紹介 ︵※ イラストあり︶︵前書き︶
五章に登場した人物の紹介です。
1966
章末 登場人物紹介 ︵※ イラストあり︶
章末 登場人物紹介
登場人物紹介
ハーレム大家族のみなさん
シューター
■吉田修太
異世界からやって来た三二歳のフリーター。辺境歴訪中のサルワタ
外交使節団の大使として、セレスタやリンドルを歴訪中。行く先々
で全裸を晒すがこれも全裸を貴ぶ女神様の聖使徒ゆえか。
カサンドラ
■カサンドラ
サルワタの大使シューターの正妻、十七歳。サルワタ大使のひとり
として、歴訪先では夫の代理人として交渉に挑む事もしばしば。触
滅隊討伐では弓を片手に初陣を飾った。
けもみみ
■エルパコ
ハイエナ獣人の娘で十五歳。シューターの第四夫人であり、優れた
身体能力で夫の耳目として貢献するけなげな一方、敵にはとっても
残酷な一面も。
がんぎまり
■雁木マリ
サルワタに移民した冒険者の十九歳。騎士修道会における枢機卿に
して聖少女修道騎士という肩書を使って、サルワタ外交団をサポー
トするシューターの婚約者。この旅が終わったら結婚するんだ⋮⋮
1967
うろこざきのにしか
■鱗裂きのニシカ
黒髪ショートの黄色い蛮族。シューターの頼れる相棒として、道中
でも戦場でも頼りにされる。ただし口は禍の元で、高貴な身の上な
ようじょ
ひとを不用意に挑発したりも。
かしこくも
■ッヨイハディ・ジュメェ
サルワタに移民した賢くも魔法ようじょ。九歳。外交使節団の道中
ではシューター夫妻の養女という事になっている。戦場では軍師と
して作戦を立案するが、予想以上に味方の兵士が弱くて苦戦した。
どれぇのどれぇ
■ベローチュ
シューターの奴隷をしている男装の麗人。褐色エルフ十八歳で、王
都出身。シューターの身辺警護ではエルパコとポジションが被るの
で、ふたりはライバル関係にある。
サルワタ外交団のみなさん
はーなでぃん
■ハーナディン
元猟師出身で、騎士修道会の修道騎士。シューターの婚約者となっ
た雁木マリに随行し、今ではシューターの側近となっている。戦場
に外交に日々のお供に多忙な毎日を送る。
へいへいじょんぐのー
■ヘイヘイジョングノー
癖のある髪の毛を隠すために三角帽を被った芸術家。サルワタ外交
団の一員として、絵画を作成するフリをしながら軍事拠点や街のス
ケッチをして、来るべき日のために情報収集を担っている。
っじゃじゃま
■ッジャジャマ
1968
サルワタの村で猟師の親方をしているッワクワクゴロの弟のひとり。
外交使節団の一行に雑用係として加わる。
カラメルネーゼ
■蛸足の女騎士
騎士爵の称号を持つ奴隷商人。サルワタ領主アレクサンドロシアや
セレスタ領主オコネイルと同期という事から年齢はお察し。貴族か
つ商人という立場から、外交の交渉事では様々に活躍する。
モンサンダミー
■傭兵隊長
セレスタで雇われた、元王国軍の傭兵。顔中傷だらけのコワモテだ
が、触滅隊掃討作戦に従事しあえなく戦死した。
貴族のみなさん
オコネイル
■男色男爵
セレスタを修める褐色エルフの男爵さま。オネエ言葉を使い、女村
長やカラメルネーゼが騎士見習い時代の同期だった。王都から連れ
てきた部族の精鋭・妖精剣士隊を持っている武闘派オカマ。
ツンデレのマリア
■マリアツンデレジア夫人
王都出身で宮中伯の娘、二六歳。リンドル前子爵ジョーンの第二夫
人で、現在はその義息子シェーンの後見人として家中の実質的な支
配権を握っている。第一夫人のダアヌとは犬猿の中で対立関係にあ
る。言うほどツンデレしていない。絵画収集癖がある。
クソガキ
■シェーン
リンドル領主の子爵、十三歳。義母マリアツンデレジアの事が大好
きな少年。義母に認めらる立派な領主になりたい一心で、ブルカ伯
1969
の手先に踊らされてしまう。特技が無詠唱で魔法を発射のため、早
撃ちシェーンの異名も。鷹狩り愛好家。
おげいん
■オゲイン
ダアヌ夫人の兄で、肉太りしている内政貴族。領地経営はダアヌ夫
人に代わって取り仕切っているが、戦場ではまるで役に立たなかっ
た。ダアヌ派、マリアツンデレジア派和解の接点を探る。
悪党のみなさん
口の臭い男
■尖突のニコラ
触滅隊の一隊を率いる指揮官級の男。リンドル往還を移動中のサル
ワタ外交団の襲撃を計画していたが、あべこべに奇襲をされてしま
う。辺境最強などともてはやされていたシューターの前に立ちはだ
かる。
マドューシャ
■女魔法使い
触滅隊に金で雇われた魔法使い。身体能力にも優れ、強力な魔法を
連発する。魔法使いたちを多く輩出するブロッケン山の近くで産ま
れ、苦学して魔法を修めた。借金まみれのため、金にはだらしない。
■仮面の男たち
触滅隊のそれぞれの部隊を率いる指揮官級の男たちで、触滅隊掃討
作戦では大暴れをした者や、あえなく死んでしまった者など様々。
ニコラもまた悪党働き中は仮面をしていたものと思われる。
ナメルシュタイナー
■双剣のデブ
旧ゴルゴライ領主の嫡男だったデブ。逃亡しリンドルの街に身を潜
1970
めていたところブルカ公商会のリンドル商館でばったりシューター
一行と遭遇する。
用語紹介
□セレスタの街
ゴルゴライとリンドルを繋ぐ往還の間に存在する中継拠点の宿場街。
小高い丘をくり抜く回廊の上に立体的な都市構造を持っている。多
くの宿場や倉庫、河岸の港もある。
□リンドルの街
鉱山都市の異名を持つ辺境の中継貿易の街。リンドル城へと至る市
街は階段状になっておれ、それぞれの階層に繁華街や職人街、高級
住宅街などがある。
しょくめつたい
□触滅隊
ブルカ辺境伯が組織したと思われる軍人崩れの野盗集団。指揮官級
の男は、辺境最強の戦士とちやほやされていたシューターを苦戦に
追い込むほどの猛者もいる。リンドルとセレスタ、サルワタの連合
軍によって討伐作戦が実施され、負けた。
□硫黄の粉末
特撮映画のダイナマイト爆発みたいによく炸裂する便利な粉。
□狐谷まどか
作者。今年はバレンタインチョコいっぱいもらったよ、お店の廃棄
品だけどな!
1971
http://15507.mitemin.net/i1811
97/
<i181197|15507>
ハイエナ獣人エルパコのキャラクターラフ案です。
あなたはどれパコが好き?!
1972
159 戦後処理の行方
わずか数日ぶりであるというのに、リンドルの街へと帰還した俺
たちは安堵の心でいっぱいだった。
何しろ、出陣はあわただしいもので不眠不休の強行軍である。
俺たちが田舎道の終着点に半ば乗り捨てる格好になっていた作戦
指揮用の馬車に乗り込んだ後、いつもは規則正しい生活をしている
カサンドラやようじょは、それこそ泥の様に眠ってしまっていたか
らな。
戦場での生活が当たり前だった雁木マリや、猟師として野外活動
に慣れているはずのエルパコですらもその辺りは同じだったので、
この短い期間に俺たちは随分と消耗を強いられていたのだ。
この中で、たぶん意外にも平気な顔をしていたと言えるのは、普
段は優雅な生活をしているはずのマリアツンデレジアやオゲインお
じさんたちだったと言えるかもしれない。
ふたりはリンドルの領地経営する、言わばお貴族さまである。
逆を言えば戦後処理という戦い以外の様々な事を一手に引き受け
て決裁しないといけないという意味では、本当の戦争はこれからは
じまったと言えるのかもしれないね。
つまり平気なのではなく、ある意味において彼らは休んでいる場
合じゃないという事なのかもしれない。
﹁⋮⋮シューター閣下、何を他人事の様にぼんやりしているのです
の? あなたもその貴族のひとりなのですわよ﹂
﹁いやあ、すいませんねえ。しばらく寝不足が続いていたので、体
を残して魂が異世界に旅立っていました﹂
1973
黄昏色の心に包まれてお貴族さまを眺めていたところ、マリアツ
ンデレジアにそんなご指摘を頂いてしまった。
すっかり忘れていた俺であるけれど、俺ってば上等なおべべを着
たサルワタ領主の旦那さんでした。てへぺろ。
﹁しかし、思いのほか戦死者が出たのもあってわしは頭を抱えてい
る。遺族に対して補償金を出さねばならんのでな⋮⋮﹂
﹁捕虜たちの問題もありますの。これが兵士という事であれば国法
に従って領主間の人質交換という事になるのですけれども⋮⋮﹂
オゲインおじさんも、マリアツンデレジアも現状その点に頭を抱
えていたのである。
ここはリンドル郊外にある御台マリアツンデレジアの別邸だった。
もともとは御台になる以前のマリアツンデレジアが先代子爵ジョ
ーンから与えられていた、いわば彼女の引きこもり先であったわけ
だ、
ここに俺たちサルワタ領の人間たちと、ダアヌ派のオゲインおじ
さんたちが招き入れられて、戦後処理に関わるあれこれや今後の協
議が行われることになったのである。
場所はマリアツンデレジアが以前は先代子爵を歓待するために用
意したという居間の様な空間だ。
ほんの少し前までは敵対関係だったダアヌ派の人間がやってきた
り、実際にここを先代子爵のために使った事はほとんどなかったと
いうから、皮肉なものである。
﹁特に捕虜の問題は扱いがやっかいなのよね、ブルカ辺境伯が国王
に対して明らかな反意をもって、独立の意志を持っている事が明白
となったのですもの。命と引き換えに証言をする者たちを、国王の
1974
もとに何としても届けないといけないんだけれども﹂
そう口にしたのは雁木マリである。
カサンドラをはじめ、サルワタの主だった人間はどういうわけか
この御台の別邸に勢ぞろいしていたけれど、マリは騎士修道会の利
益代弁者として参加していると言った方がいいかもしれない。ちな
みに、元はセレスタのお貴族さまとして男色男爵に仕えていたベロ
ーチュは、セレスタの利益代弁者という側面もある。
サルワタ領側の人間がどこかしらの利益代弁者を兼ねているとい
うのも不思議な話だね。
﹁ブルカには王国の兵団が確か駐屯しているのではなかったですの
? そこまで、この街を強制退去するブルカ公商会の人間と一緒に
送るというのが最善の方法だと思いますの。送還のルートは河川で
船を使うのが、万が一の襲撃を考えれば理想だと考えますけれども﹂
﹁そうね、船を使うのが一番理想だと思うけれど、オッペンハーゲ
ン経由で王都に人質を送る事も考えておいていいかもしれないわ。
ブルカに向かう人質たちが、また別の触滅隊みたいな連中に襲われ
たんじゃ問題だから﹂
﹁国王陛下に歯向かって独立の意志を考えるなどと、不忠にも程が
あるというものですの﹂
マリアツンデレジアと雁木マリのやり取りを聞きながら、俺は微
妙に肝が冷える思いがした。
何しろここでは大っぴらに言えないけれど、サルワタの女村長も、
立場と背景は違っても王国からの自主独立を考えているのも確かだ
ったからだ。
﹁それに、ドロシアねぇさまに状況報告のためにもサルワタに行き
たいというのもあるのです。触滅隊の討伐は成功しましたけれど、
1975
ッヨイたちが動き回っている事がブルカ伯にも明確に伝わったと思
うので、ゆっくりと外交を辺境諸領としている余裕がなくなったの
です﹂
そんな折、ハーブティーのカップを両手で握ったッヨイさまがそ
んな言葉を口にしたのである。
何より、この場に集まっている全員がその事で一番頭を抱えてい
ると言うべきかもしれない。これまでの外交はあくまでも﹁立場に
窮したサルワタが周辺の辺境領主たちに助けを求めている﹂程度に
思われていた可能性があるが、直接的にブルカ辺境伯に繋がってい
る組織に攻撃的な介入をしたんだからな。
触滅隊の連中もしかり、リンドル駐在のブルカ公商会の商館しか
り。
まあ触滅隊は国法に照らし合わせてもこれは明らかに越境による
違法行為を働いているという事だったから︵道徳的にも俺の元いた
世界の国際法に従っても間違いなく違法だろう︶、何のかんのと言
って言い訳をしてくる可能性はある。
けれども、同じ何のかんのと言い訳をするにしても、リンドルの
ブルカ商館の撤去については不当な行いだと言いがかりを付けて来
るのは眼に見えているのだ。
﹁結果的にブルカ商館では死者も出たしのう。もう戦争準備にむけ
てわしは領内に動員をかける時期にきているんじゃないかと思って
おる﹂
﹁動員なんてとんでもありませんの! 関係する各領主と同時に連
携をしないことには、わたしたちリンドルだけがブルカ伯と敵対す
る事になりますのよ﹂
﹁むむ、確かにそうだ。しかしではどうすればいいというのだ! ブルカ伯はあまりにも強大だぞ﹂
1976
﹁岩窟王に救援を求めるしかありませんの﹂
﹁そ、それを誰がやらんといけないと思っておるのだ。なれば、わ
しが頭を下げなければならないんだぞ!﹂
元々仲の悪かったオゲインおじさんとマリアツンデレジアは、今
は顔をそろえて会議をする仲になったと言っても、終始こんな有様
である。
﹁どれぇ、もうドワーフの王様が支配する岩窟都市まで外交使節を
送り出す時間的な余裕はないと思うのです﹂
﹁確かにそうですねえ。オッペンハーゲンに向かうのも余裕がない
かもしれない﹂
﹁だから、オッペンハーゲンへの外交使節団は、ッヨイとカサンド
ラねえさまに任せてもらいたいのです﹂
﹁俺たちを幾つかに分けて、行動するという事なのですか?﹂
そうなのです、とようじょは俺の顔を見上げながらそう言った。
﹁カサンドラねえさまもサルワタ大使さまなのです。名分としては
十分に外交使節団の体裁はととのえられるのです。だからどれぇは
ドロシアねぇさまに現状をお知らせして、戦争の準備に取り掛かっ
てもらった方がよいと思うのです﹂
﹁むむむ⋮⋮﹂
﹁それに、人質をブルカに護送するためには強力な護衛も必要なの
です﹂
ブルカに送り返す予定なのは以下の通りである。
リンドル在中のブルカ公商会の商館職員と、それからリンドル城
府で勤務していたジェイソンスコットミーといったスパイだった文
官たち、それから触滅隊討伐戦で捕虜とする事になった複数の人間
1977
たち。
人数にすれば五〇人にもなる大所帯であるし、これにもそれ相応
の人員を割かなければいけない。
﹁俺がサルワタに戻るとして、マリかニシカさんにでも護衛につい
てもらうのがいいだろうか﹂
﹁そうですねー。ニシカさんとリンドルのみなさんから兵隊を付け
てもらって送り出すのがいいとッヨイも思うのです﹂
俺の言葉にようじょがうんうん首肯した。
すると、話を聞いていた雁木マリが口をはさんでくる。
﹁ブルカに駐屯する王国の兵団に訴え出るのなら、あたしが行った
方がいいんじゃないかしら﹂
﹁それをすると、オッペンハーゲンとの交渉に支障が出るんじゃな
いか。マリは騎士修道会の人間として、ブルカの専横に対抗する同
盟関係に騎士修道会が参加するんだという証言を、彼らに対してし
てもらわなくちゃいけないだろう﹂
﹁むむむ、ままならないわね⋮⋮﹂
すごすごと雁木マリが引っ込んでしまった。
こんな話をしている最中に、俺たちはさらなる危惧に思い至って
しまう。集団をつくるという事は、誰がリーダーシップをとるんだ
という問題もそこに存在するのだ。
﹁しかし、そうなると誰がこの対ブルカ同盟の盟主なんだという事
で揉めるような気がするんだですどね⋮⋮﹂
その点について修道騎士ハーナディンが指摘をすると、
1978
﹁当然、それは子爵であるシェーンさまを盟主とするべきですの。
家格の上でもどの領主方より爵位は上なのですもの﹂
﹁いいや、この際は騎士修道会の枢機卿にして聖少女修道騎士の婚
約者であるシューターがその盟主であるべきだわ。どこかの領主さ
まがそれをするよりも、バランスの取れた人選であると言えるわ﹂
﹁しかしオコネイル男爵さまのお立場もございますよ。自分として
は軍人出身であるオコネイルさまを指導者とするのがいいのではな
いかと愚考する次第であります﹂
﹁そ、それはいけないのです。やはりここは辺境における一方の雄
であるオッペンハーゲン男爵を担ぎ上げるのが政治的に妥当なので
す。ッヨイがそれを条件にオッペンハーゲン男爵を説得してみせる
のです、あいぼー﹂
﹁待て待て、待ってくれ。勝手に盟主を決めたらアレクサンドロシ
アちゃんが激怒するんじゃないか?!﹂
マリアツンデレジアの提案にはオゲインおじさんがうんうんと同
意を示した。
雁木マリの発言にはエルパコが無条件にこくこく頷いて見せた。
男装の麗人ベローチュの意見は同意者がいない。
賢くもようじょは私情を挟まない政治向きの発言をした。
そして最後に俺があわてて言った言葉には、カサンドラがそうだ
という顔をして俺を見てくれた。
﹁そういう事もあるので、ブルカ伯との対決を前に、いち度は諸侯
たちを集めた会議をする必要があるかもしれませんね﹂
当初この場に漂っていた安堵の気持ちなどどこへやら。
修道騎士ハーナディンがそんな提案をしなければ、口論はまだま
だ続いたかもしれない。
1979
160 女魔法使いの虜囚
触滅隊討伐作戦の中で得た捕虜の中で、ひとり興味深い人物が混
ざっていた。
アジトの旧領主館でさんざん俺たちを相手に無双をしてみせた女
魔法使いマドューシャである。
彼女マドューシャは触滅隊の一員ではあるけれど、正確には冒険
者稼業をやっている人物で、触滅隊には金銭によって雇われた身分
だったのだという。
その事が知れたのは、ある程度の治療によって主要な捕虜たちの
尋問を開始してからの事だった。
﹁わたしは別に、触滅隊の連中に一生涯の忠誠を誓ったわけじゃな
いからね。金の切れ目は縁の切れ目というやつさ。金は次の作戦の
分までしか貰っちゃいなかったんだ﹂
そうやって女魔法使いマドューシャは身の上話をしてくれた。
建前一辺倒の身の上話を聞いても意味がない。俺たちは洗いざら
い、知っている事をぶち撒けてもらいたいんだがね。
﹁次の作戦というのは、どーいうものだったのですか、まどーしさ
ん﹂
﹁知りたいの? わたしだって雇われた冒険者稼業でおまんま食べ
てるんですよ。ハイそうですかと何でもかんでも話すわけにはいか
ないんだよね、条件がねえ﹂
フフッと笑って見せた女魔法使いは、なかなかふてぶてしい態度
1980
で尋問を担当したようじょに向かってそう言い切ったのである。
ここはリンドル聖堂の中にある教化部屋と呼ばれる場所である。
もちろん教化部屋というぐらいだから、女神様に対する信仰を改
めて教育するめの部屋だ。懺悔室と言えば俺たちの元いた世界にの
宗教施設にも存在しているらしいが、似た様なものだろう。
いや、どちらかというと尋問を専用に行うための部屋と言った方
がいいのかもしれない。
女神様に対して不敬にあたる行いをした人間を取り調べるという
名目で、文字通り洗脳教化のための尋問でもしているんだろうが、
詳しい事は知らない方が身のためである。
﹁それはお薬に聞いた方がいいという事でしょうか、どれぇ?﹂
あくまでも対価を要求している節のある女魔法使いの発言に、よ
うじょが俺に向き直って恐ろしい事を言って来たのである。
﹁ま、まってちょうだいな。わたしが言いたかったのは、今後も良
好な関係を続けていくために、わたしの話に値段をつけてちょうだ
いって事だから!﹂
あわててそう返事をした女魔法使いに俺は呆れた。
指五本を立てて見せているところを見ると、金貨五枚を要求して
いるらしい。高い確信。
こいつは自分の立場がまるでわかっていないんじゃないかと当初
は思ったけれど、そうではない。自分の持つ情報の価値をきっとよ
く知っているからこその発言だろう。
ッヨイとともに尋問に参加している俺の隣でニシカさんがニヤニ
ヤした顔をしていた。ニシカさんはかつてッヨイさまについて﹁魔
法使いは珍しいから貴重だ﹂という旨の発言をしていたことがあっ
たはずだ。
1981
魔法使いがこのファンタジー世界においても宝石より貴重な存在
だという自覚があるからこその発言、というところだろうか。
﹁いいじゃねえか払ってやれよ。ケチ臭い事をやると後で恨まれて
も困るだろう。ん?﹂
﹁フフッ、女騎士さまはよくお分かりじゃないの。わたしとは仲良
くできそうだわ﹂
﹁うるせぇ! この守銭奴がっ。金積んで裏切る様な真似をすれば、
オレ様がどこまでも追いかけてブチ殺してやるからな!﹂
そんなニシカさんの言葉に気を良くしたのか、愛想笑いを浮かべ
て見せた女魔法使いマドューシャである。だが知った様な口を利か
れたのが気に入らなかったのか、ニシカさんは恐ろしい顔をして女
魔法使いの襟首を掴んで恫喝した。
さすがニシカさん、飴と鞭の使い分けが素晴らしい。
凄んで見せた彼女を前に女魔法使いは﹁ヒッ﹂という恐れの顔を
浮かべて縮こまった。
◆
女魔法使いは次の様に語った。
﹁名前はマドューシャ、見ての通り魔法使いよ。出身は本土のブロ
ッケン山の近くにある集落ね。触滅隊には金で雇われた身分という
だけ。一回の報酬は決まってブルカ金貨で五枚。もともとは本土で
冒険者稼業をしながら転々としていたけれど、気が付けばブルカに
流れ着いてね。そこで触滅隊から接触を受けたの﹂
ブルカ辺境伯金貨で五枚と言えば、かなりの大金である。
物価の基準をどこに置くかにもよるけれど、ブルカの物価基準な
1982
ら金貨一枚で二〇万円相当だと以前雁木マリが言っていたはずだ。
逆にサルワタを基準にすれば五〇万円相当という話らしい。
﹁おう、ブロッケンてのは聞いたことがあるぞ。何だったかな⋮⋮﹂
﹁ブロッケン山と言えば多くの魔法使いを生み出した有名な魔術の
聖地なのです、ニシカさん﹂
﹁そうだ、魔法使いの都があるんだったっけか﹂
ニシカさんの疑問に答えながらッヨイさまが視線を女魔法使いに
向けた。
﹁かなりの大金ですが、まどーしさんは触滅隊がブルカ辺境伯の手
先として悪い事をしていたという自覚はあったのでしょうか?﹂
﹁知っていたわ。けれど金が必要だったからビジネスを受けたまで
のはなしだわ﹂
悪びれも無くそう言ってのけるマドューシャである。
﹁どうしてそんな大金が必要だったんだ。見たところ金遣いが荒そ
うな外見もしていないし、せいぜいが食べていくだけならそんなヤ
バい仕事を受ける必要がないだろう﹂
﹁わたしは魔法使いだ。魔法使いになるためには師匠に付いて勉強
しなくちゃいけないわ。そのための学費で随分と無理な借金を重ね
ていたのよ。だから金のためにやったまでだわ﹂
フフっと笑って見せた女魔法使いは俺に対してそう返事をした。
どれだけの金がかかったのかはわからないが、ブルカ辺境伯金貨
五枚どころではないのは確かだろう。
﹁ところで魔法使いというのはどういうものなんですかね? 例え
1983
ばニシカさんは風の魔法を得意にしているし、雁木マリやハーナデ
ィンは色んな魔法を使って見せるでしょう? けどニシカさんやマ
リたちの事は魔法使いとは言わない﹂
﹁そうですねー。どう説明したらいいのかわかりませんが、ただ魔
法を使えるのと、魔法使いとでは決定的に違う事があります。魔法
使いというのは、言わば魔法のプロフェッショナルなのです!﹂
﹁プロフェッショナル?﹂
﹁そうです。剣を使うのが巧いからと言って、誰でも戦士や軍人を
名乗るわけではないのです。それと同じで、魔法が使えるからと言
って、魔法使いを名乗るわけではないのです﹂
ほう。つまり自動車普通免許を持っているからと言ってプロドラ
イバーとは言わない様なものなんだろうか。何だかこれでは雁木マ
リがよくやるたとえ話みたいだな。
﹁ニシカさんの風の魔法は、並の魔法使いが使う風の魔よりも、強
力なものなのです﹂
﹁おう、よくわかってるじゃねぇかようじょ﹂
﹁けれども、ニシカさんは風の魔法しか使う事が出来ません。じゃ
あガンギマリーの場合はどうかと言うと、あいぼーは色んな魔法を
使う事が出来るのですが、どれも威力はそれほどでもないのです。
風の魔法もそよ風を吹かせる程度だし、ファイアボールは森を焼き
尽くす威力も城壁を破壊する威力も無いのです﹂
確かに、ッヨイさまの使うファイアボールと雁木マリのそれとで
は、大人と子供ほどの威力の差があるのは眼に見えてわかる事だ。
﹁ニシカさんとあいぼー、ッヨイとまどーしさん。どちらも魔法を
使うという意味では同じなのですが、圧倒的な威力と複数の魔法を
使いこなせる事が、まずもって魔法使いを名乗るための大前提なの
1984
です、どれぇ﹂
﹁つまり、ニシカさんは風の魔法だけなら魔法使い並の威力を持っ
ているけれど、他を使いこなせないので魔法使いとは定義されない
わけですね。マリも色々と通り一遍使いこなせるけれど、威力はさ
ほどでもないのでプロフェッショナルと言えるレベルではないと﹂
﹁そうなのです。実用最低限のちからは持っていると思うのですが、
より応用が可能な魔法とまではいかないのです。魔法使いは複数の
魔法を使いこなし、その威力を高めるために早ければあかちゃんの
時から、少なくとも成人したてのうちから長い訓練を受けてくるの
です﹂
するとこの女魔法使いマドューシャも、あかちゃんの頃からとは
言わないまでも長い訓練を受けてきたという事か。
﹁あんた、齢はいくつだ?﹂
﹁にっ、二三よ。女性に年齢を聞くなんて失礼だわ!﹂
﹁悪かった。では何年修行をしてきたんだ﹂
﹁そうね、十二で学費の頭金をとりあえず手に入れたから、それか
ら十年ばかり師匠に付いて魔法塾に通っていたのよ。頭金とは別に
毎年金貨八枚は納めてきたから、利息も合わせればたいへんな額に
なったわ﹂
そうして聞いてみると、確かに無理な借金をしてきたわけである。
奴隷としてようじょに売られた俺のお値段がブルカ辺境伯金貨で
二〇枚に満たなかったことを考えると、サルワタ基準なら四〇〇〇
万円もの大金を学費に納めたという事になる。とんでもないお値段
だ、マンション買えちゃうぜ⋮⋮
恐らく魔法使いという称号は国家資格の様なもんなのだろうな。
医師免許とか弁護士資格とか。
1985
﹁そこまでして手に入れた魔法のスキルを、どうして悪事になんか
使っちゃうかなあ﹂
﹁しょ、しょうがなかったのよ。借金を返さないと生きてすらいら
れないじゃない! それに本土では下手を打っちゃってまともな仕
事をとれなかったのよ⋮⋮﹂
﹁ッヨイはお母さまに魔法を教えてもらいましたけれど、普通の人
間が魔法使いになるためにはお金がとっても必要なのです、どれぇ。
だから普通の人間が魔法使いになるためにはお貴族さまか、おっき
な商人の書生になる事が多いのです。それ以外でとなると、自分で
お金を工面しないといけないのです﹂
﹁わたしだって、はじめはこんな事したくなかったわよ。でも、し
ょうがないじゃない⋮⋮なかなか卒業が出来なかったのよ!﹂
ようじょが言うには、魔法使いになるのも大変らしいな。家族に
魔法使いがいるという環境は大変恵まれているのだ。
それにしても、俺がこの女魔法使いと対戦してた時には恐ろしく
強敵の魔法使いだった。それこそ挙動なんて読めないほど動きが早
く、威力も圧倒的なものを連射していたぐらいだ。
であるのに十年も卒業させてもらえなかったって⋮⋮
もしかするとこの女魔法使い、お師匠さんとやらに騙されて学費
をがっぽり巻き上げられていたんじゃなかろうか。
それを言ったら哀れすぎるので、まだそれが確認できないうちは
黙っておく。
﹁そ、そんな話はいいじゃない。お金の代価、知りたいんでしょ?﹂
﹁接触してきたのはどういう経緯だったのです?﹂
﹁⋮⋮ブルカの冒険者ギルドね。単純に冒険者パーティーに強力な
魔法使いが欲しいっていう募集だったのよ。これでもわたしは魔法
使いだからね、仕事は選ばなければ幾らでもある立場なの。ダンジ
ョン攻略に限ったって引く手数多だからねえ。けど、どこのパーテ
1986
ィーもいち度一緒に仕事をすると引き留め工作が面倒でね。あなた
も魔法使いならわかるんじゃなくって?﹂
ようじょの質問に女魔法使いはそう返事をした。
まあ、強力な魔法使いなんてのはなかなかお目にかかれるものじ
ゃないし、お近付きになったのなら出来るだけ自分たちの仲間に引
き入れたいというのが人情ってもんだろうな。
﹁そこはよくわかるのです。だから普通の魔法使いというのは、自
分たちでパーティーを主催する側にまわるのです。ッヨイとあいぼ
ーみたいに﹂
﹁なるほどです、だからッヨイさまはご自分で護衛の務まる奴隷を
探していたのですね﹂
﹁そうなのですどれー﹂
そんな風に解説をしてくれたッヨイさまの頭をなでなでしてさし
あげると、ようじょは﹁エヘヘ﹂と白い歯をこぼしてくれた。
﹁金貨五枚もいただけるなら、すぐにも残りの借金を返済出来ると
思ったのよ。ふたつ返事で了承したのだけれども﹂
それで、マドューシャは触滅隊のスカウトマンと接触したそうだ。
話を聞いてみれば、とりあえず仕事はブルカではなく、辺境のあ
ちこちで悪党働きをするというものだったらしい。
当初の話通りに一回の仕事は毎回金貨五枚。ただしこの仕事は不
定期で、稼ぎの良さそうな情報が入り次第に、悪党働きに出かける
というものだったらしい。
﹁これでは思ったより稼ぎが出来ないかもしれないし、渋い顔をし
たんだよわたしは。そうしたら、とりあえずアジトまで向かう前に
1987
支度金としてブルカ金貨を二〇枚前払いさ。気前のいい事で、わた
しはふたつ返事で引き受ける事にしたのよ。フフっ。これでひとま
ず、残りの借金を完済出来るというものだわ﹂
そして核心の部分へとやって来る。
﹁悪党働きをしたのは、これまでに二回よ﹂
﹁それはこの地図で言うとどこですか、まどーしさん?﹂
﹁⋮⋮そう、ここと、それからここね。覚えているわ、襲った内容
は金貨と証文を運んでいるものだったはず。それから反物だったか
しら。どちらも二回とも﹂
﹁それは今後、証言してもらう事になるかもしれないけれど、いい
ですか?﹂
﹁いいわよお嬢ちゃん。ただい、わたしをちゃんと庇護してくれる
っていうならね。情報だけ取られて放逐されたんじゃ、触滅隊の残
党なりブルカ伯なりに追っ手を差し向けられるから。その保証がい
ただけるならわたしは構わないけれど。それと、﹂
たぶん金だな。
﹁借金をあなたたちで肩代わりしてくれるなら、今度はあなたたち
の味方になってもいいけれど。どう? わたしの強さは、そこのお
貴族さまが一番よく知っていると思うけれど﹂
妙に流し眼を送って俺に自分を売り込んでくる女魔法使いに、ち
ょっと戸惑った。
その必死な色気攻勢に驚いたというよりも、どう扱っていいかわ
からなかったというべきかな。
﹁保留だ。金でころころ態度を変える人間を、おいそれと雇い入れ
1988
るわけにはいかない。それからまだ聞きたい情報があるから、それ
をしっかりと精査してからだな﹂
﹁わたしはどうせ何もなければ殺されるんでしょう? それなら有
効価値があると思うんだけれどもね﹂
なおも自分を売り込んでくる女魔法使いに、俺は辟易とした顔を
浮かべるのだった。
1989
161 この情報は取扱注意です
﹁よう相棒。あの女、どこまで信用できると思う?﹂
女魔法使いの取り調べの途中で挟んだ休憩中、鱗裂きのニシカさ
んがそんな質問をしてきた。
教化部屋を出たところで水差しをダイレクトに口へ運びながらの
事である。
相変わらず上品とは言い難い仕草であるけれど、ニシカさんらし
いと言えばニシカさんらしいふるまいだ。
﹁金で動くというのは、まあ目的が明確なのでわかりやすい人間で
はあるかな。ただしこちらが金を払い続けないと言う事を聞かない
という意味では厄介だ。敵が俺たちよりも多めに払えば簡単に裏切
るわけですしね﹂
﹁ふうん。じゃあ金の切れ目が縁の切れ目なのは、お互い様だな﹂
﹁そういう事ですね。必要な情報だけ聞き出した後は、マリアツン
デレジアさんに判断は委ねましょう﹂
俺は思うところを口にして、同じく休憩のために教化部屋から退
出してきたッヨイさまに視線を向ける。
﹁ッヨイ様お疲れ様です﹂
﹁おつかれなのです、どれぇ、ニシカさん﹂
﹁おう、お疲れさん﹂
﹁捕虜に関する取扱いは、どういう風にする予定になってましたっ
け?﹂
1990
﹁そうですねえ。今回の作戦をどういう風に見るかにもよるのです
が、ブルカ辺境伯の軍隊と戦争したという位置づけにするのであれ
ば、まどーしさんや仮面のひとは戦争捕虜という扱いになります。
逆に盗賊団の一味という扱いにするのであれば、犯罪奴隷です﹂
へそ
﹁それを決めるのはマリアツンデレジアさんという事か。何とかあ
ピアス
の女を永久に拘束していられる道具でもあれば別なんですが。奴隷
身分にしたからと言って、果たして意味があるのかどうなのか⋮⋮﹂
ニシカさんが気を利かせて水差しをようじょに差し出してくれた
けれど、直前に口に直接運んでいた姿をチラっと見ていたようじょ
は、それを嫌そうな顔をして見返していた。
いらないのです、と微妙な顔をして俺の話に乗っかって来る。
﹁へそピアスと言えば、触滅隊の捕虜の中にも何人かへそピアスを
した奴隷身分の人間がいたのです﹂
﹁すると逃亡者かな?﹂
﹁きっとそうなのです。犯罪奴隷に身分堕ちされた人間の中で、脱
走して触滅隊に加わったひとたちがいたのですねー﹂
つまりは犯罪奴隷だろうが戦争奴隷だろうが、よくあるファンタ
ジー世界でお馴染みの魔法の刻印か何かで、奴隷を強制的に拘束し
たりいう事を聞かせたりする様な便利な呪いみたいなのはないんだ
ろう。
いや、ある。あるにはあるぞ⋮⋮
﹁ッヨイ様、確かゴルゴライ領主の嫡男だったナメルシュタイナー
が、巨大な猿人間を使役するのに拘束する魔法道具か何かを使って
いましたね﹂
﹁そう言えば、確かにそうなのです。ナメルシュタイナーはそうい
う道具を持っていた気がします。まどーしさんに、それを装着する
1991
のですか?﹂
﹁付ければいう事を聞かせられるなら、まあそういう手段も﹂
そこまで言っておきながら、ふと俺はこの魔法の拘束具があるの
ならどうして奴隷たちを使役するのに普及していないのかと思い至
る。するとようじょが、
﹁残念ながら、魔法道具というのはとても高価なものが多いので、
いちいち犯罪奴隷なんかに使うのは普通もったいなくてやらないの
です。例えばどれぇにプレゼントした魔法のランタンは、お値段が
ブルカ辺境伯金貨で一〇〇枚ぐらいするのです﹂
﹁一〇〇枚!﹂
そりゃ魔法使いであるッヨイさまが俺に拘束の魔法道具を付けて
いなかったわけだ⋮⋮
﹁じ、じゃあ俺にあの魔法のランタンを下さったのは、よろしかっ
たのですかね?﹂
﹁あれはもう、どういうわけかどれぇの血にしか反応しなくなって
しまったので、しょうがなかったのです。それにあれは母さまが、
ドロシアねぇさまに貰ったものだったので、プライスレスなのです﹂
﹁な、なるほど⋮⋮﹂
じゃあ現実路線として女魔法使いに拘束の魔法道具を付ける線は
無しだな。
そんな風に思っていたところ、ニシカさんがたゆんたゆんな胸元
からワイバーンか何かの干し肉を取り出してクチャクチャやりなが
ら俺たちを交互に見比べている。
便利だね、そのおっぱいの谷間ポケット!
1992
﹁何ですかニシカさん。俺はその干し肉いりませんからね﹂
﹁そうじゃねぇ! 巨大な猿人間に付いていた拘束の道具なら、オ
レが持ってるぞ?﹂
﹁持ってるんですか?!﹂
﹁ああ、巨大な猿人間を解体した時に、何かに使えるかもしれない
と思ってもらってきてたんだよ。いつかあのバジリスクのあかちゃ
んが言う事を聞かない反抗期になった時に、オレ様が教育してやろ
うと思ってな﹂
ニヤリと悪い顔をして見せたニシカさんが、腰に吊るしたフィー
ルドバッグの中をまさぐって、首輪みたいなものを取り出した。
巨大な猿人間の首にこんなものは付いていなかったはずであるけ
れど⋮⋮
﹁あの猿人間野郎はデカすぎるからよ、腕にはめられていたんだ﹂
﹁まああの首に巻くには確かに小さすぎるかもしれない。普通の動
物用のサイズなんでしょうね﹂
﹁使い方は知らねえぞ。ようじょなら知ってるんじゃないか?﹂
自信満々に俺に差し出してきた首輪を受け取って、俺はあいまい
な返事をした。
﹁普通の魔法道具なら、利用者の血を使ってやると思うのですが⋮
⋮調べてみようと思います。ドロシアねぇさまや、母さまなら詳し
いと思うのです!﹂
﹁あの魔法使いは滅茶苦茶強かったですからね。敵に回さずに手元
に置いていく手段があるのならいいことです。宝石よりも貴重な魔
法使い、でしたっけ?﹂
﹁そうですねぇ、それが可能なら提案してみるのもいいかもしれま
せん﹂
1993
特にリンドルの領兵は今回の戦いでかなり被害を出しているから
な。強力な味方を引き入れるのに、手段がある事はいい事だ。
そんなこんなで休憩を挟んだ俺たちは、ふたたび女魔法使いマド
ューシャの取り調べを再開するのだった。
◆
女魔法使いから新たに引き出した情報がふたつある。
ひとつは次の触滅隊による襲撃作戦がいつだったのかという事。
すでに触滅隊の本体には討伐軍によって壊滅的な打撃を与えていた。
逃走を図った連中も、男色男爵ご自慢の妖精剣士隊の騎兵集団に
よって追撃がかけられたので、おおむねの敗残盗賊たちは打ち取ら
れるか捕縛されるかしているはずだろう。
しかしどういう作戦手順を連中が取っていたのか知る事は、ブル
カ辺境伯軍の戦い方を理解しておくという意味で重要なのである。
どうして雁木マリではなく、ようじょが自ら尋問に立ち会ってい
るのかという事にはそういうわけがあったって事だな。
してみると、触滅隊という連中が何者であるのかがおぼろげなが
らに見えてきたのである。
﹁確かに、触滅隊の基幹メンバーはブルカの兵隊上がりだったと思
うよ。お互いの事を隊長とか騎士さまとか言っていたわ。ひとりは
何でも、王都における工作にも従事していた経験があると言ってい
たから﹂
﹁そいつの名前は憶えていますか、まどーしさん?﹂
﹁ええと、尖突のニコラだったかしら。猪みたいなごっつい男だっ
たと思うけど、言葉に王都訛りがあって、お貴族さまの暗殺をした
1994
こともあるって自慢していたもの。凄腕の護衛を何人も斬り伏せて、
最後にお貴族さまのお命を頂戴したとか﹂
おおう、あの峠の沼で死闘をした口の臭いヤツだな。
色々と命がけだったことを思い出して背筋がヒヤっとする思いだ
ぜ。確かにお貴族さまの暗殺を手掛けた事があるというのなら、さ
もありなんというところだ。
﹁それから、ダックスシットさんというのは聞いたことがないかし
ら。わたしと領主館にいた男で、蛸足のお姉さんに抱き殺されたひ
と。彼は国境警備任務のために、隣国と国境争いで武勲を上げた事
があるんだと聞いたことがあるわ﹂
﹁ほう、詳しく﹂
俺がたいした見せ場も無く、あっさりと背骨をカラメルネーゼさ
んにへし折られた仮面の男を思い出しながら身を乗り出した。
﹁彼は武勇のひとと言うより、隊の知恵袋みたいな人物だったわね。
隣国との国境線の策定をするのに陣取り合戦をやっていた時に、こ
ちらの国土である事を示す国境石碑をあちこちに敷設する作戦を担
ったのだと言っていたのよねえ。彼はあれで知恵者だったから﹂
惜しい人を無くしましたね、ブルカ辺境伯さん。
モノの本によれば、むかし大陸で日本軍が諸外国の軍隊と国境争
いをしていた時には、この手の国境策定のために誰の領地であるか
を示す標識や千里塚、石碑なんかを、あちこちに敷設していた事が
あったと記憶している。
戦闘でここまで進出しましたよー。という証拠を、軍隊を引き揚
げる前に残して行くというわけだ。
ブルカ辺境伯が、国王の命令で軍隊を国境に派遣していたのだろ
1995
うが、ダックスシットさんとかいうひとが、戦場における地道な裏
方作業を担任する賢い人間だったというのはうかがえる。
きっと、触滅隊が暗躍するための作戦をアヒルのクソ野郎が色々
と指示していたんだろうね。
﹁次に行う作戦は、確かどこかでかどわかしてくる予定のお貴族さ
まのご婦人がたを、奴隷として売り飛ばすという内容だったと思う
わ﹂
どこかのお貴族様。そのご婦人。
俺とようじょとニシカさんが交互に顔を見合わせる。たぶんそれ
は俺たちサルワタの外交使節団の事だろう。
詳しく女魔法使いに聞いてみると、尖突のニコラが襲撃して得た
女たちを、闇の奴隷商人か何かを経由して売買する予定だったんだ
そうだ。
その商取引の仲介を行うのが、リンドル市中にあるとある商会。
﹁ニシカさん、ただちにその事をマリアツンデレジアさんに伝えて
きてもらえますか﹂
﹁おう、じゃあちょっくら行ってくる﹂
﹁夕方までには聖堂に戻って、晩餐会の支度しなくちゃいけません
からね﹂
﹁わかってるぜ!﹂
俺の言葉を聞いたニシカさんは、要件をリンドルの支配者に伝え
るために飛び出していった。
まだ、ブルカ辺境伯に協力をする地元の有力者というのは存在し
ているらしいからな。気を抜かずに得られる情報は何でも手に入れ
ておかないといけない。
1996
もうひとつ、女魔法使いが残した重要な証言があった。
﹁わたしの命と引き換えに、面白い事を教えて上げられると思うん
だけれど。聞きたいかしら?﹂
﹁何ですかまどーしさん、もったいぶると為にならないのです。お
薬がいいか暴力がいいか、ッヨイの魔法がいいか選ぶチャンスをあ
げるのです﹂
﹁ちょ、ちょっと待った。どうしてそういう風に怖い事を言うかな
ぁ⋮⋮﹂
真顔で女魔法使いを見上げたようじょが、雁木マリから預かって
いたポーションを両手に持って持ち上げて見せる。
すると顔面蒼白になったマドューシャは言い訳をする。
﹁命の保証をしてくれるのなら、触滅隊がこれまでにかき集めた金
銀財宝の場所を教えてあげるって言いたかったのよ。欲しいでしょ、
お金?﹂
﹁残念ながらッヨイたちは貴族なのです。貴族は小銭に困ってるほ
ど落ちぶれてはいないのです﹂
実のところサルワタは、湖畔に聖堂を建設するために少しでも資
金が多いほうがいいという苦しい立場ではあるのだけれど、賢くも
ッヨイさまはそんなそぶりなどおくびにも見せず、強気に前のめり
になる。
﹁小銭なんてもんじゃない。いつか来るべき戦争のために溜め込ん
でいる工作資金ですよ! お貴族さまを買収するために集めたもの
だから、オルコス五世金貨で数一〇〇〇枚になるって話だから! ブルカ伯金貨なんて眼じゃないよ!﹂
1997
オルコス金貨というのはよく知らないが、話の口ぶりからしてよ
り価値のある貨幣なのだろう。
﹁聞くだけは聞いてもいいのです。命の保証と言いましたが、その
隠された金銀ざいほーが証拠として出てきた後ならば、保証する事
は出来るのです。いいでしょうか、どれぇ?﹂
﹁ま、いいんじゃないですかね。あくまで俺たちが、身元引受人に
名乗り出るだけだ。ここはリンドルの統治下だから、御台であられ
るマリアツンデレジアさんが何というかまでは、わからないぜ?﹂
﹁それで構わないわ。構わないです⋮⋮﹂
こうして、女魔法使いはようじょの差し出した地図のある一点を
差し向けた。
廃坑となった鉱山のひとつだろうか、ピッケルを掛け合わせたマ
ークが描かれている。山々の奥深いその場所を指さした女魔法使い
に俺たちはゴクリとつばを飲み込んだ。
﹁また、やっかいな場所に金を隠したもんだな﹂
﹁ですねえ、どれぇ⋮⋮﹂
その場所は、リンドルと隣の領主との境界線上にあった。
◆
取り調べを終えた俺たちは、宿泊施設に向かって手をつないで歩
いている。
﹁あのお金はたぶん、リンドルと隣の領主とで揉め事を起こす様な
気がするのです﹂
﹁見事に境界線上にある鉱山跡地でしたね﹂
1998
﹁たぶん、隣の領主さまがこの事を知れば、自分たちの領地にある
鉱山跡地だから、分け前は自分たちのものだと言い出すかもしれま
せんからね﹂
﹁ッヨイさま。この事は残念ながら、俺とッヨイさまとの心の中に
留め置いておいた方がいいかもしれない﹂
正確な埋蔵された軍資金を確認してから、どうするかを考えるべ
きかもしれなかった。
隣の領地とは、オッペンハーゲンとの間に存在する、俺たちも詳
しく知らない騎士爵さまの経営する土地だ。
﹁どんな人物が領主さまなのかも、調べておく必要があるのです。
それにあれはもともと、商人たちから巻き上げたお金なのです﹂
﹁本来ならばその商人たちに返還するべきもの、という事ですか?﹂
﹁いえ、そういう事はないのですが⋮⋮﹂
国法に照らし合せるなら、このファンタジー世界において拾得物
はそれを発見したものの権利となるとかないとか、そういう風に決
まりがあるらしい。
﹁けど、それはあくまでも国法の問題であって、領内にたくさんの
商会を抱えているリンドルとしては、何かしらの補償に充てるんじ
ゃないでしょうか。普通の良識ある領主さまなら、そうするょ﹂
なるほど。リンドルの今日の繁栄も鉱山と職工、そしてそれを商
う商人たちがあってこそのものだからな。
領主さまがぽっけないないでは反感を買って、将来の領地経営が
傾いてしまうだろう。
﹁しかし、これからダアヌ夫人の主催する商人たちとの交流晩餐会
1999
というのに﹂
﹁とっても、頭が重たいのです。疲れちゃいました﹂
先行き不安な情報を聞いてしまったせいなのか、ようじょの小さ
な手がぎゅっと俺の指を握りしめる。
俺はほんの少しだけ力を入れてそれに応えて上げると、ようじょ
は俺の顔を見上げるのだった。
﹁どれぇ、頭をなでなでしてくれますか?﹂
﹁はい俺の心のご主人さま。いつでもッヨイさまの頭を撫でて差し
上げますよ。あなたはよく頑張った。俺はだれよりもその事を理解
していますよ﹂
﹁えへへ、ありがとうなのです!﹂
ようじょかわいいなあ。
2000
162 それはタトゥーです!︵前書き︶
1分遅刻マンです。ごめんなさい⋮orz
2001
162 それはタトゥーです!
ダアヌ夫人が主催する晩餐会に出席する準備のため、俺たちは宿
泊所に戻った。
すでに支度に時間のかかるご夫人がたは、リンドルに最初に泊ま
った宿の隣にある公衆浴場へと出かけていた。仮にもダアヌ夫人と
いう前領主の第一夫人が主催するものだから、これは間違いがあっ
てはいけないと気合の入れ様もすごいものだ。
おおだな
最初の晩餐会がリンドル子爵の主だった家臣たちとの顔合わせだ
ったのに対して、本日のお相手は市内に大店を出している商会の会
頭たちが相手だった。その中には当然、オッペンハーゲン公商館の
館長たちも含まれている。
サルワタ大使のカサンドラや、騎士修道会を代表する立場でもあ
る雁木マリたちが相当の気合を入れているのも当然というものだっ
た。
俺とようじょがニシカさんとともに女魔法使いの取り調べに当た
った背景には、そういう事情もあったのである。
ちなみにエルパコはカサンドラがノリノリでおめかしを強要して
いるところがあるので、被害者と言えるのかもしれない。ただ本人
も﹁ぼくに似合うかな⋮⋮?﹂などと言いそうで、それほど悪い気
はしていないと思う。
その点、賢くもようじょはお仕事優先で﹁取り調べが終わってか
ら参加するのです﹂と、お人形さんにしておめかしさせようとして
いた節のある奥さん連中を煙に巻いていた。
ニシカさんは、そもそも前回の晩餐会同様に男装スタイルでいく
らしく、これもお仕事優先である。
2002
﹁今日の晩餐会でメインにお話合いをしないといけない内容を、確
認しておきましょうか﹂
﹁そうですねぇ、どれぇ﹂
﹁まず、オッペンハーゲン商館とは、この際ご挨拶をしっかりして
おかないといけない。すでにカラメルネーゼさんが接触を開始して
いるけれど、折を見てマリアツンデレジアさんと俺とカサンドラ、
それに雁木マリを交えて、ブルカ辺境伯の野望とそれにまつわる今
後の対ブルカ同盟の趣旨、この辺りを刷り合わせておかないといけ
ません﹂
いったん、執務室代わりに使わせてもらっている食堂の隅に俺た
ちは移動して、ようじょと着席する。
﹁誰がその盟主であるべきかまだ話は出ていませんけれど、どうす
るのですかどれぇ﹂
﹁今ここで切り出すと、醜い主導権争いになる様な気がするんです
けれど、先延ばしにしても結局結果は同じになりそうですよね﹂
﹁そうなのです﹂
ふたりで顔を突き合わせて大きなため息をつく。
﹁ッヨイとしては、オッペンハーゲン男爵がやはり一番の適任なん
じゃないかとは思うのですが、オッペンハーゲン男爵がどの様な人
物なのかよく知らないので、適当な事が言えないのです⋮⋮﹂
﹁そうなんだよなあ。しかしマリアツンデレジアさんではないが、
領主の家格だけで見ればリンドル子爵がその盟主というのも筋が通
っているんですよ﹂
﹁でも、リンドルは一枚岩じゃないので、シェーンさんに盟主にな
ってもらうというのは危険なのです﹂
2003
﹁とすれば、一番いいのは雁木マリかもしれないな﹂
﹁あいぼーですか?﹂
﹁そうですッヨイさま。マリはあれで騎士修道会の聖少女修道騎士
さまだし、サルワタ領主の夫である俺の婚約者でもある。それぞれ
の領主たちの街や村にも聖堂や教会堂があって、それぞれが一定の
関係を結んでいるわけでしょう。だからマリをその指導者として迎
え入れるというのなら、ありかもしれませんよ﹂
俺がそんな事を言うと、かわいいかおに難しい表情を浮かべてよ
うじょうがうーんと悩みだした。
﹁お貴族さまを盟主にするよりも、確かにあいぼーを指導者にした
方が名目が立つかもしれないのです。ドロシアねぇさまはサルワタ
の騎士爵なので、爵位持ちのお貴族さまとしては最下層だから、サ
ルワタの身内であるガンギマリーが盟主になったぐらいで、ちょう
どつり合いが採れると言い訳が出来るかもしれませんねぇ⋮⋮﹂
﹁そうですね、俺もそれぐらいがいいと思います﹂
﹁後はあいぼーが盟主になれば、騎士修道会も自分たちの味方だと
領主たちが考えるかもしれないのです﹂
﹁そこは大きいですね﹂
ッヨイさまがようやく明るい顔を取り戻しました。
﹁たぶんガンギマリーはとても嫌そうな顔をすると思うのです﹂
﹁ちょっとずるいですが、それぞれの領主たちには、マリを盟主に
押し立てるという事で根回ししておきましょう。彼女の説得は、婚
約者として俺が責任をもって折を見て⋮⋮﹂
﹁殴られない様にしてくださいね、どれぇ⋮⋮﹂
辺境諸侯からすれば、どこの馬の骨ともわからない俺が盟主にな
2004
るという馬鹿げた案を口にされるよりも、騎士修道会の聖少女さま
を担ぎ上げた方がいいに決まっている。
﹁まあ、俺たちサルワタの人間という立場からすれば、アレクサン
ドロシアちゃんが盟主である事が一番いいんですけれどね﹂
﹁そこは別の考え方をすればいいのです。盟主はガンギマリーにし
て、実質的な指導者を領主の中から後日選べば、上手くいくのです﹂
これならオッペンハーゲン男爵がすぐれた人物なら任せられるし、
それが厳しいならドロシアねぇさまが立場を乗っ取ってしまえばい
いのです。
ようじょはそんな風に俺に小さな身を寄せると、ささやいた。
ッヨイさま、今とても悪い顔をしています!
﹁触滅隊の隠し財宝はどうしましょう﹂
﹁信用の出来る人間に、調査をしてもらいましょう。おっぱいエル
フかどれぇのどれぇがいいと思うのです﹂
﹁長耳のみなさんは調べ物や隠密行動が得意だからな、よしそれで
いきましょう﹂
そんな密談をやっているところに、ッジャジャマくんが風呂上が
りのスッキリした顔で俺たちのところにやって来た。
上半身裸のズボン姿で、首から手ぬぐいをかけているというラフ
な格好である。
﹁あーいたいた。シューターさん、奥さまがたがお探しでしたよ。
そろそろお着替えをなさらないと、晩餐会に間に合いません﹂
﹁おっと了解だ。いきましょうか、ッヨイさま﹂
﹁わかりましたどれぇ!﹂
2005
先ほどまでの悪い顔など引っ込めて、天真爛漫な笑みを浮かべた
ようじょがそう返事をする。
駆けていくようじょの背中を追いかけようとしたところ、
﹁ところで奥さまがいっぱいいるシューターさん﹂
﹁嫌味な事を言う様になったじゃないかッジャジャマくん﹂
﹁そ、そうではなくてですね⋮⋮﹂
悪魔面の猿人間がニヤニヤしながら手もみする。
何か有益な情報でも教えてくれるのだろうかと思った俺が馬鹿だ
った。何を言い出したかと言うと、
﹁僕もそろそろ奥さんが欲しいなと思っているところなんですよ。
今度、女の子を口説く方法、教えてくださいよ。俺、この外交使節
が村に戻ったら、嫁さん連れてもどりたいんですよね⋮⋮﹂
女の子を口説く方法とか知らないよ!
期待の眼を向けられても何と応えていいのかわからない俺は、そ
そくさとその場を逃げ出した。
◆
﹁どうですかシューターさん。エルパコちゃん、とっても見違えた
でしょう﹂
ッジャジャマくんを放置して宿泊所の寝室までやってきたところ、
とてもうれしそうな顔をした正妻カサンドラが俺たちを出迎えてく
れたのである。
﹁ど、どうかなシューターさん。ぼく、かわいい?﹂
2006
﹁おおおっ、まるでエルパコが高貴な身の上のご令嬢みたいだ⋮⋮﹂
先日は俺たちサルワタ外交使節の男性陣と同じ様な格好をしてい
た彼女だったけれど、今日はちゃんとしたドレス姿をお披露目であ
る。
けもみみのパーソナルカラーというわけではないのだろうが、銀
のショートヘアが映える様なピンク色のドレス姿が美しい。スレン
ダーな肢体にぴったりだね!
ありがとうございます、ありがとうございます。俺は心底かわい
いと思った。
﹁さ、ッヨイもそんな恰好をしていないで、すぐに夜会の支度をし
てもらわなくちゃいけないわ﹂
﹁シューターさんもお着替えをいたしましょう。新しい服も用意し
てもらっていますからね﹂
むかし俺はブルカの街で上等なおべべや高価な生地を大量に買い
込んでサルワタの開拓村に戻った事があった。
けれども事ある度に戦闘によって上等なおべべやカサンドラが仕
立ててくれた服をダメにしてしまったので、そろそろ替えの服が少
なくなりつつあった。
このままではいけない。せっかく騎士さまになり、大使閣下とな
ったのにまた全裸に逆戻りしてしまうのでは外聞が悪い。
というわけで、気の利く俺の奥さんたちが公衆浴場の帰りに、ど
こからかお仕着せの服を手に入れてきたらしい。
﹁あまり上等な服というわけではないそうですが、今回はこれで我
慢してくださいね。旦那さま﹂
﹁ふ、服が着れるなら何でもいいよ。あまり貧相じゃなければそれ
で⋮⋮﹂
2007
雁木マリに引っ張られてお着替えに向かったようじょに手を振っ
た後、俺はカサンドラから差し出された服に着替える。
ジロジロ見られながらの着替えはあまり嬉しくないのだが、どう
いうわけかカサンドラとけもみみだけでなく、気が付いたらベロー
チュまでやって来てこちらを観察していた。
﹁ベローチュくん﹂
﹁はいご主人さま、何でしょうか?﹂
﹁服を着かけの状態で放置して、こっちばかり見るんじゃないよ﹂
﹁そ、それは命令でしょうか?﹂
﹁命令? いや命令と思ってもらってもいいぜ。ほら、さっさと着
替える﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
何と言おうともこちらを見続ける男装の麗人に俺は呆れた。いや、
よく見れば先ほどまでニコニコしていたカサンドラやけもみみも、
真顔で俺の方をじっと見ている。
何だろう。近頃の戦いの中でますます鍛え上げられつつある俺の
肉体に興味津々なのかな?
﹁シューターさん﹂
﹁ん?﹂
﹁いつの間にその様なタトゥーを入れられたのですか?﹂
カサンドラがよく意味の分からない事を言いながら俺の背中を指
さした。
タトゥー? 何だそれは。
俺はピアスだってこの世界に来てから奴隷堕ちした時におへそに
したのがはじめての男だぜ。
2008
そもそもタトゥーなんてお肌に良くないだろうし、痛そうだから
お断りだ。
﹁タトゥーとは入れ墨の事だよね、奥さん﹂
﹁そ、そうです﹂
﹁そんな痛そうなものは入れた覚えがないんだけど?﹂
﹁で、でも背中に何かの模様みたいなものが付いていますよ⋮⋮?﹂
何だって?
俺はあわてて背中を必死に手でまさぐった。
ここからでは見えるわけがないので無駄な行いだったが、それを
やっているところで雁木マリやようじょたちもこちらに集まって来
たではないか。
少し離れていたところでお化粧に励んでいたカラメルネーゼさん
まで気が付いて、あわてて姿見を持ってこちらに駆け走って来た。
﹁これですわ、シューター卿。ほら、背中に不思議な模様が⋮⋮﹂
﹁?!﹂
﹁文字みたいなものが見えるのですどれぇ﹂
﹁な、何て書いてあるんだ﹂
﹁ちょ、勅令⋮⋮と書かれているみたいね。あたしも聞いたことが
ない言葉だけれども⋮⋮﹂
俺は必死に首をひねりながら自分の背中を見ようとした。確かに
変な魔法陣みたいなものが浮かび上がっている。
﹁な、何だこれはぁ?!﹂
俺は意味不明な出来事に、たまらず悲鳴をまき散らしてしまった。
2009
163 呪いの言葉︵字が汚い︶
やあみんな、君たちは自分の体にタトゥーを入れようと思った事
はあるかい?
俺はないかな。むしろ怖い方面のひとが付けているイメージなの
で、考えた事も無かったよ。
ところが俺は今、背中にモンモン背負っているんだぜ?
どうしてこうなった⋮⋮
俺の名は吉田修太、三二歳。背中に謎の魔法陣らしき入れ墨を持
つ男である。
いったい何がどうして、こんな事になったんだろうね。
背中にタトゥーが入っている事に気が付いたのは、その日の夜に
行われる晩餐会に備えてお着替えをしていた時の事である。
普段、俺は奥さんたちと寝食を共にしている。
装備を装着する時はカサンドラかエルパコが、率先してそれを手
伝ってくれるのである。
してみると、いつの間にか存在していたタトゥーに俺の奥さんた
ちが気が付いたのは、夜会の準備でお着替えをしている最中の事だ
ったのである。
少なくとも触滅隊の討伐に向かう際、ブルカ商館で体を火傷して
全裸になった時には存在していなかったはずのタトゥーだ。
﹁おかしいわね。あなたの背中のやけどを治した時には、あたしも
紋様なんて気が付かなかったはずなんだけれども﹂
﹁そうですね、わたしも触滅隊の討伐が終わって帰ってきた時、シ
ューターさんのお着替えを手伝ったタイミングでは、背中に何もな
2010
かったと思うのですが。あ⋮⋮﹂
雁木マリとカサンドラが、何やらいつの間に紋様が浮かび上がっ
たのかと思案していた。
けれど、会話の途中でカサンドラが口に手を当てて、そのまま言
葉を濁してしまったのだった。
﹁義姉さん、どうしたのかしら﹂
﹁い、いえ。その。討伐が終わってリンドルまで戻って来た時は、
お部屋に戻った時は夜も遅かったのですが⋮⋮﹂
﹁それで?﹂
﹁そ、それで。そのままシューターさんが魔法のランタンは消しな
さいとご指示なさったので⋮⋮﹂
そしてふたりは抱きしめ合い。熱い口づけを交わしたのであった。
最後まで言わずとも、その辺りの雰囲気を察したのだろう。雁木
マリは少し顔を赤くして驚いた顔をした後、俺の方をジロリと睨み
付けてきた。
べ、別に夫婦なんだから後ろ指をさされる様な事をしたわけじゃ
ないだろ!
ちなみにその夜エルパコは、念のために襲撃を警戒して不寝番に
立っていたのでその事は知らない。
﹁と、と、という事は、その時には確認をしていなかったのですね﹂
﹁はっはいそうです。それにシューターさんは家族の中で一番に目
を覚まされるので、旦那さまの朝のお着替えをお手伝いした人はい
なかったと思います﹂
﹁ぼ、ぼくもその日は遅くまで不寝番明けで寝ていたから⋮⋮﹂
エルパコはちょっと俺とカサンドラの夫婦生活を羨ましそうに視
2011
線を送りつつ、自分も見なかったと証言した。
﹁他に誰かシューターの背中の紋様を見たものはいない? ベロー
チュは?﹂
﹁ええと、自分もその紋様を見たのは今が初めてです。何というか、
今朝はニシカ奥さまにお酌をするように命じられて二日酔いで潰れ
ていましたので⋮⋮﹂
凱旋したニシカさんは、例によって酒を呑んで管を巻いていたら
しい。その犠牲になったのが同室のベローチュという事なのだろう。
﹁じゃあ、いつこのタトゥーというか、紋様がシュターの背中に浮
かび上がったのか、見ていないという事なのね﹂
﹁そういう事になります。申し訳ございませんシューターさん、旦
那さまの身の回りのお世話を取り仕切る正妻でありながら、こんな
事にも気づかなかったなんて⋮⋮﹂
気落ちしたカサンドラが、確認を取っていた雁木マリに申し訳な
さそうな顔をした後、今度は俺にペコペコとするのだった。
﹁いや、いいよ別に。それよりこれ、魔法陣なんだよね? 文字も
勅令と書かれている﹂
﹁書かれていますねーどれぇ。勅令って⋮⋮﹂
﹁そ、それにしても汚い字ね。魔法陣なんだからきれいな字で書け
ばいいのに⋮⋮。貴族の文字みたいな角ばった他人が読むことを考
えていない字面だわ⋮⋮﹂
ようじょと雁木マリが顔を見合わせる。
そう、俺の背中には魔法陣だけではなく、勅令どうのこうのとい
2012
グリモワール
う言葉が書かれているらしいのである。
魔法陣はッヨイさまが使っている魔導書みたいな八芒星のものが
書かれていて、その中に古い字体だという文字が書かれているのだ。
モノの本によれば勅令というのは、国王や皇帝など主君が発する
法的拘束力を持った命令、といったニュアンスだったはずである。
俺や雁木マリの元いた日本を例にするならば、天皇陛下が直接的
に発布するものがこれにあたるだろう。
してみると、これは絶対君主から俺の背中に対して、強力な拘束
力を持った命令として具現したという事になる。
それはこの国の王様によるものなのか、はたまたこの世界で信仰
されている女神様のものなのか。
考え方によっては、陰陽道か何かの呪文と言う可能性はあるだろ
うか。
勅令 急々如律令。
とかなんとか、中国の霊幻導師か何かが出て来る映画で、子供の
ころに見た記憶がある。
﹁意味が分かりませんね。偉い人の命令でしょうかッヨイさま?﹂
﹁これだけでは、わからないのです⋮⋮。誰か、これと似た様な紋
様を見た事があるひとはいませんか?﹂
キョロキョロと大人たちを見回すようじょであるけれど、だれも
答えない。
もし仮にこれが女神様の聖痕か何かであるならば、きっと雁木マ
リが知っていそうなものであるけれど。
それを期待して俺とようじょが視線を向けても、彼女はやはり首
を横に振るしかしなかった。
2013
﹁あ、あたしも見た事がないわ。第一そんなものがあたしの背中に
浮かんでいるのなら、騎士修道会の人間が何か教えてくれるんじゃ
ないかしら﹂
雁木マリはそう言って否定したのである。
そうこうしているうちに、時間は押してくる。このまま着替えも
中途半端にしていると、ダアヌ夫人の主催する晩餐会に間に合わな
くなってしまうのである。
﹁と、とにかく先にお着替えをしてしまいませんと。そろそろ時間
ですよ奥さまがた!﹂
慌てた男装の麗人が、自分の着替えるべき男装服を手に取って俺
たちを急かした。
確かに、誰かが時間を確認するためにこの部屋に持ち込んでいた
砂時計が、そろそろ落ち切る頃合いだった。
魔法の砂時計は教会堂やお貴族様の家には用意されている事もあ
るが、個々の部屋に置かれるほど普及していない高価な代物だ。こ
の部屋に置かれているのは魔法の砂時計の刻む時間に合わせてセッ
トした、ただの砂時計である。
砂が落ちきるまでに一刻を知らせてくれるそこそこのお値段でお
買い求めできる砂時計だった。
﹁わ、わかった。これについては後で調べてもらうしかないな。ッ
ヨイさまお願いできますか?﹂
﹁了解したのですどれぇ。時間がたったらそのタトゥーの模様がま
た、変わるかもしれません﹂
そんなやり取
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