...

江戸時代の宗教政策と真宗の差別構造のあり方

by user

on
Category: Documents
5

views

Report

Comments

Transcript

江戸時代の宗教政策と真宗の差別構造のあり方
井 清 江戸時代の宗教政策と真宗の差別構造のあり方
辻 一
﹁寺院法度﹂について︵表1参照︶︱幕府における変遷︱
1
徳川家康による寺院法度の方針︵一六〇一︵慶長六︶年∼一六一五︵元和元︶年︶
吾
江戸幕府は、一六二一︵慶長六︶年以後慶長年間を中心に一六一五︵元和元︶年に至って完成した、仏教各宗を
統制するため、﹁寺院法度﹂と総称される各宗別の法度を制定したが、制定を受けて仏教各宗派においては、その
立法の精神を考えると、寺院法度に沿った以下のような三大主義を貫いている事が明確に見られる。
①
学問奨励 社会の秩序を回復し、人心を鎮定するための手段として用いられた。
②
中央集権 各宗本寺の権力を高め、末寺の勢力を中央に吸収し、幕府がこれを支配するのに最適であり、最も
時勢に適応した処置で、自らの方針を推進させた。
③
朝廷の権力を関東に吸収した。
これらのうち、学問奨励のために取られた政策としては次のようなものがある。
・学問器量により、僧侶の任官を左右した
五三
表1 寺院法度
制定年月
寺院名
宗派
制定年月
宗派名
慶長六年五月
高野山
真言宗
享保七年七月 幕府、諸宗條目を発布
慶長一三年八月
比叡山
天台宗
享保七月九月 幕府、一般民衆に訓示
慶長一三年一〇月
成菩提院
天台宗
享保七年四月 天台宗條制
慶長一四年五月
園城寺・修験道
天台宗
享保七月六月 浄土宗制條
慶長一四年八月
東寺・醍醐寺・高野山 真言宗
享保七年五月 五山派覚
慶長一四年一一月
関東真言宗古義諸寺
享保七年六月 大徳寺派覚
慶長一四年一一月
東寺・醍醐寺・高野山 真言宗
享保七年七月 禅宗・妙心寺覚
慶長一五年二月
石山寺
真言宗
享保七年五月 真言古儀学侶方條々
慶長一五年四月
高野山
真言宗
享保七年九月 築地西本願寺掟
慶長一五年九月
石清水新善法寺
慶長一七年五月
戸隠山
慶長一七年五月
曹洞宗
慶長一七年九月
興福寺
法相宗
慶長一七年一〇月
長谷寺
新義真言宗
慶長一八年二月・八月
関東天台宗
慶長一八年四月
智積院
新義真言宗
慶長一八年五月
修験道
真言宗・天台宗
慶長一八年五月
関東新義真言宗
慶長一八年七月
戸隠山
慶長一八年七月
石清水新善法寺
慶長一九年三月
伯耆大山寺
天台宗
慶長一九年九月
榛名山
天台宗
元和元年六月
曹洞宗
元和元年七月
禁中䮒公家法度
元和元年七月
五山十刹法度
元和元年七月
妙心寺
元和元年七月
大徳寺
元和元年七月
真言宗
元和元年七月
高野山衆徒
元和元年七月
総持寺
元和元年七月
浄土宗
元和元年七月
浄土宗西山派
元和二年一二月
身延山久遠寺
真言宗
享保七年九月 浅草東本願寺制條
天台宗
享保七年九月 曹洞宗掟
享保七年九月 黄檗宗掟
享保七年九月 修験本山方掟
天台宗
五四
※ 辻善之助『日本佛教史』第8巻、173 ∼ 178 頁より作成
・学問奨励のため、寺領又は金子を給した
・研学のため他の地方に遊学せしめた、等である。
こ れ ら の 法 度 制 定 に あ た り、 最 も 力 が あ っ た の は 五 山 の 首 座 南 禅 寺 金 地 院 崇 伝︵ 一 五 六 九︵ 永 長 一 二 ︶ ∼
一六三三︵寛永一〇︶年︶である。家康は、法度の條規内容の起案を自らの政治上最高顧問の地位にあり、文事秘
1
書を兼ね、キリスト教禁制の国書、武家諸法度等、凡そ文筆にかかるもの殆どその起草を為した崇伝に指示し、常
に討議に参加し、よく幕府の根本精神を了承させてこれを成したと思われる。
この結果、各宗派には、宗学の研鑽を命じた。仏教教団に政治や世俗の問題への介入を禁じ、唯々、教学の研鑽
に励むように命じた。﹁学寮﹂の設置や宗学奨励政策が該当する。それに対応して天台・真言・浄土の各宗は、近
世初頭から﹁壇林﹂・﹁学寮﹂・﹁勧学寮﹂等の機関を設けた。
寺院法度の制定は、諸宗紛争の訴訟多発を収め、社会の秩序整頓の象徴であり、国家統治の権力が徳川氏に帰す
ることを示すと共に、法度制定の形によって徳川統治の発端を開いたものである。真言宗法度を初め、修験道法度、
天台宗、曹洞宗等の個別宗派・寺院に対する法度の他、紫衣法度、禁中䮒公家法度、五山十刹諸山、浄土宗、日蓮
宗等に対して制定されて終わる。その内容は主として各宗・各大寺個々の制規に係るもので、その制定の手続きは
各宗内よりその宗に特有なる規定を提出させた後に、法度を下した。日蓮宗を除き、徳川家康在世中に発布され、
諸宗僧侶が家康の掌中に至ることが法問等によってわかるが、この慶長年間を中心としたものには、全般にわたっ
て規定する宗教法といわれるものはまだ無い。
寺院法度の制定は社会の秩序整頓の象徴であって、国家統一の権力が徳川氏に帰すると共に、漸くその端を開い
たものである。
五五
五六
九箇條から成る。諸宗法式を守るべきこと、本末制を守るべき事、
2
寛文時代の﹁諸宗寺院法度﹂制定︵一六六五︵寛文五︶年︶
諸宗法度の一般総則と言える法令が二つの形式を以て発布された。
①
﹁諸宗寺院法度﹂ 将軍朱印を以て発布
寺院修復の制限、徒党の禁、等
2
②
﹁條々五ヶ条﹂ 老中連署を以って発布 五箇条から成る。僧侶の衣体服装、仏事の儀式、金銀を以て後任契
約の禁、在家を借りて仏壇を構える事の禁、女人の寺中宿泊の禁等
この法度発布に至り、諸宗全般にわたる法度が定められ、諸制度が完備した。
しかし、この一方では、この機をとらえ、保科正之︵会津藩主︶は、二〇年未満の新寺院を、徳川光圀︵水戸藩
主︶は、領内寺院一〇九九寺を、池田光政︵岡山藩主︶は領内六四三寺を、などのように、一六六六︵寛文六︶年
にこの両法度︵﹁諸宗寺院寺院﹂及び﹁條々﹂︶に違反した領内寺院のほぼ半数を破却し、僧侶を追放した例もある。
3
八代吉宗の治政期︵一七二二︵享保七︶年︶
新たに吉宗が各宗派・寺院が自律的に諸宗條目を定めるように指示し、自らの仏教に対する態度を示した。
3
天台・浄土・五山派・大徳・妙心・黄檗・曹洞・真言・修験・一向宗︵江戸時代は浄土真宗と称することは許可
されていない。詳細は三の③参照︶・東西本願寺が各々独自の條目を幕府の掟書を標準に制定した。なお、東西本
願寺は浅草東本願寺・築地西本願寺を制條した。
吉宗の仏教に対する態度方針は、特に仏教を信じるほどでもないが、また特にこれを排斥するものでもない。元来、
理智に富んだ人であり、仏教に対しても冷静の態度を示したと言えよう。吉宗が傍に近づけた僧侶には紀州の僧円
通、秀海、象先︵本所羅漢寺︶、上野凌雲院大僧正などがあった。吉宗は彼らに諮問したが、全体として冷淡な態度で、
その待遇も従来よりも薄くし、全てに引き締めた。
二
江戸時代の身分的・職業的差別構造の成立と受け入れについて
江戸時代の身分的・職業的差別構造については、幕府の差別政策に従って、仏教各宗派の多くがそれを受入れた
事が報告されている。本願寺教団自体が封建的・権威的なタテの位階構造を導入した事も事実である。教団内部の
﹁位階﹂構造はしばしば権威主義的となり、貴賤観念や上下間の﹁礼﹂観念、差別観念、排他思想を伴っていた。
本願寺が、同時代に公認教団とされるためには、﹁天下ノ平安、国家ノ安寧ヲ祈ル﹂ことを明示し、教団を、幕
藩体制的秩序に即して再編する必要があったといわれる。そうした教団事情が、幕府の身分差別政策に追従し、社
会的差別を肯定したが、さらに宗学においても、社会的差別や人間の差別観念、呪術的な﹁穢れ﹂意識を宿命論的
4
な業報思想や凡夫性・煩悩性の立場から肯定し、死後の浄土での平等救済のみを説いてきたのではなかったか等の
諸事例が報告されている。
本願寺の差別については﹃龍谷大学三百五十年史﹄通史編・上巻。第二章、第七節﹁学林と﹃穢僧﹄﹂に記されている。
本願寺においても、学林においても、僧侶の意識においても、﹁穢寺﹂﹁穢僧﹂に対する﹁ケガレ観念﹂や差別的な
5
忌避意識・排他意識をもっていたことが知られよう。なお、東本願寺の学寮における差別の有無については、現在
のところ史料が見あたらず不明とされている。
なお、江戸時代の儒学者、国学者、神道者達も﹁えたの類の火を一つにせずということ︵共に食事をしないこと︶は、
神国の風俗是非なし﹂︵荻生徂徠﹃政談﹄︶、﹁屠児は神国に住むといへども神孫にあらず﹂︵玉田永経著﹃神道柱立﹄
︵一七九九︵寛政一一︶年序︶等と記し、不浄視し差別していたといわれる。
五七
表2 位階制度
大谷派
「一門・一家衆」の制度、制定
第九代実如
宗憲の条令改正
平成三年
院家・一家・内陣・南座・坊主の制度、制定
第十一代顕如
近世
余間・御堂衆・廿先輩・飛䖽・院家役僧・平僧頭・平僧の制度制定
本願寺派
法要席次:上座・准上座・本座・准本座・平座と各等級により二十段が制定
近世
明治九年
院家・内陣・余間・廿先輩・初中後・飛䖽・国絹袈裟・総坊主の制度制定
堂班と改称
内陣・余間・脇間・外陣・平僧に改正
法要席次設定
※ 菊藤明道『妙好人の研究』、一九一∼二頁より作成
顕座・親座・直座・特座・正座・上座・本座・列座
五八
各 宗 派 の 本 末 制 度 が 厳 に 定 め ら れ る と 共 に、 教 団 自 体 が 本 寺 と
末 寺 と の 間 に 封 建 的・ 権 威 的 な タ テ の 位 階 構 造 を 導 入 し た 事 も 事
実 で あ る。 こ れ は 当 時 の 社 会 制 度 に 伴 う も の で あ っ て、 近 世 社 会
の特色の一つである。士農工商に沿ったその格式規定の内容には、
各宗共に細かい階級が設けられ、僧侶の格式・服制・傘・履物・
乗 物・ 将 軍 へ の 謁 見 に も 区 別 が あ る。 幕 府 に お け る 待 遇、 各 藩 に
お け る 寺 院 の 階 級 格 式 に も 規 定 上 の 区 別 は 厳 然 と し て い る。 本 寺
6
と 末 寺 と の 争 い は 殆 ど 本 寺 の 勝 利 と な り、 本 寺 を 相 手 の 訴 訟 は ま
ず不可能であり、本寺に絶対服従となる。
三
本願寺に見る﹁位階制﹂の変遷
本 願 寺 教 団 で は、 封 建 的 な ピ ラ ミ ッ ド 型 の 組 織 を 堅 固 に す る た
め、 寺 院 の﹁ 本 末 制 ﹂ と 僧 侶 の﹁ 位 階 制 ﹂ を 設 定 し た が、 宗 義 を
学ぶ﹁学林﹂においても、﹁学階﹂が設定された。︵表2参照︶
僧 侶 の﹁ 位 階 制 ﹂ は、 蓮 如 の 五 男 で あ る 本 願 寺 第 九 代・ 実 如
︵一四五八︵長禄二︶年∼一五二五︵大永五︶年︶時代に﹁一門・
一 家 衆 ﹂ の 制 度 が 定 め ら れ、 第 十 一 代・ 顕 如︵ 一 五 四 三︵ 天 文
一二︶年∼一五九二︵文禄元︶年︶が門跡に列せられた時、院家・
7
一家・内陣・南座・坊主の制を置いた事に始まり、何度かの変遷を経て現在に至っている。
1﹁位階﹂制度について
① 大谷派︵東本願寺︶
大谷派︵東本願寺︶では、近世に院家・内陣・余間・御堂衆・廿四輩・飛檐・院家役僧・平役僧・平僧の階級が
置かれていたが、一九九一︵平成三︶年に出された﹃真宗大谷派宗憲﹄の条令改正により﹁寺格﹂﹁堂班﹂が廃止
された。法要の﹁席次﹂は、上座・准上座・本座・准本座・平座と各等級によって二十段が定められている。
② 本願寺派︵西本願寺︶
西本願寺の僧侶の﹁位階﹂は、第十四世門主・寂如︵一六五一︵慶安四︶年∼一七二五︵享保十︶年の時世に確
立されたといわれるが、その後、一七四四︵延享元︶年に作られた仰誓の﹃延享の自警﹄には、西本願寺の僧侶の
位階について、記されている︵表2参照︶。信心の上では人間は平等であり、﹁位階の差別もあるまじきこと﹂では
あるが、﹁御勧化門﹂のうえで貴賤観念と位階差別を認める主張である。
8
本願寺派では、近世に院家・内陣・余間・廿四輩・初中後・飛檐・国絹袈裟・総坊主が定められ、一八七六︵明
治九︶年に堂班と改称され、内陣・余間・脇間・外陣・平僧等と改められた。現在はこれを廃して﹁類聚制﹂︵寺班・
僧班︶が制定され、顕座・親座・直座・特座・正座・上座・本座・列座が置かれ法要席次が定められている。
③ 宗門統制に見る真宗の事例
幕府の宗門統制の一例として﹁宗名事件﹂がある。江戸時代には、真宗は、主に﹁一向宗﹂の名で呼ばれていた。
一七七四︵安永三︶年に東西本願寺・専修寺・仏光寺等が合議して、幕府に﹁浄土真宗﹂を正式宗名として使用を
願い出たが、幕府は浄土真宗という名は唐・善導大師の観経疏中に出ている語で、園光大師︵法然︶が最初に建立
五九
六〇
の浄土宗を浄土真宗と称し、徳川家康が宗門に定めた所であり、今、一向宗を浄土真宗と称する時は宗名が混雑し、
障りがあるとして、認めなかった。浄土真宗を両宗で唱える時は、歴代将軍の菩提所が増上寺にあるため徳川家宗
門に支障があり、元禄以降、知恩院で勅使の下、御遠忌を致し、黒谷金戒光明寺には浄土真宗最初門の勅額を下し
た故に、従来の﹁一向宗﹂の名を変えず、一七六八︵安永五︶年には、幕府は宗門改帳を一宗につき一冊仕立てさ
9
せている。﹁真宗﹂の公称が認可されるのは、一八六八︵明治二︶年京都府が東本願寺の嘆願を認めて以後であり、
一八七二︵明治五︶年三月一四日大蔵省より太政官の指令にて、自ら真宗と称する事となった。
四
わが国における差別用語の変遷とその概要
① ﹁屠者﹂
︵九〇五︵延喜五︶年︶
わが国における﹁屠者﹂差別の初見は、古代の養老律令の施行細則を示した法典﹃延喜式﹄
に、醍醐天皇の勅命で藤原時平らが編集を開始し、藤原忠平らが九二七︵延長五︶年に奉進、断続的な修訂を経て
九六七︵康保四︶年に施行された条項に﹁凡鴨御租の南邊は、四至の外に在りと雖も、濫りに僧、屠者等は居住す
ることを得ざれ。﹂とする下鴨神社近辺での﹁屠者﹂の居住禁止が見える。
我﹂と結びつけられていた実態が知られる。﹁ケガレ者﹂として差別された人々が、神社の祭礼から排除された事
は伝染する﹂とする触穢思想が広められた。被差別身分が﹁ケガレ﹂観念と結びつけられ、それが凶事である﹁怪
② ﹁ケガレ﹂︵穢れ︶
用語としての﹁相撲﹂は、かつて農耕神事に関わるものであり、﹁神聖性﹂と関わるものであったといわれる。
相撲における﹁凶事﹂としての﹁怪我﹂の発生の原因が、﹁ケガレ﹂の侵入に求められた。江戸時代には﹁ケガレ
10
の名の下に禁忌とされている。
女性も生理的な血の﹁穢れ﹂︵﹁知怪我﹂︶を持つとして、相撲見物を許されなかったといわれ、︵一八七三︵明治
六︶年解除︶今日でも、公式に女性が大相撲各本場所に代表される土俵︵神聖な結界︶に上がることは、﹁伝統文化﹂
は史料によって明らかにされている。
11
13
されている。
戦国期の一五三二︵天文元︶年に、﹃塵添挨囊鈔﹄︵編者不明︶が作成され、﹁穢多﹂という漢字で記され解説がな
れをもとに、室町中期の一四四五︵文安二︶年∼一四四六︵文安三︶年に、
﹃挨囊鈔﹄︵金剛仏子行誉著︶が作られ、
③ ﹁エタ﹂︵穢多︶
わ が 国 に お け る カ タ カ ナ の 賤 称 語﹁ エ タ ﹂ の 字 の 初 見 は、 親 鸞 没 後 十 数 年 を 経 た 鎌 倉 時 代 の 一 二 七 四︵ 文 永
一一︶年∼一二八一︵弘安四︶年間に作られたといわれる辞書、﹃塵袋﹄︵観勝寺の釈良胤作と推定︶とされる。そ
幕藩体制の維持強化のために利用し、意図的に民衆の意識の中に定着させていったと言えよう。
﹁ケガレ﹂観念は、人間が本性的に持つものとは思えない。それは﹁呪術的な忌みと排除を伴う社会観念﹂とい
われるように、単に、個人的なものでなく、社会的なものであり、政治的なものでもあろう。幕府は﹁ケガレ﹂を
12
非人の制度︵下︶﹂の四、﹁仏徒の賤視観念扇動︱親鸞と真宗穢多寺と本願寺の堕落﹂に記されている。
仏教各宗の差別性や本願寺の差別については、高橋貞樹著・沖浦和光校注﹃被差別部落千年史﹄︵原題﹃特殊部
落一千史﹄、更生閣、大正十三︵一九二四︶年刊、平成四︵一九九二︶年刊︶の第七章﹁徳川時代における穢多・
14
六一
一九二二︵大正十一︶年の水平社結成にも参加した著者の厳しい批判が展開されている。
親鸞の時代には﹁エタ﹂の呼称はあったと推定出来るが、親鸞の著作には見えない。但し、﹃観無量寿経﹄等に
15
表3 諸藩の「穢多」身分への差別強化政策
内 容
藩 名
制定年
長 州 藩
一七三七(元文二)年
「平人」と「穢多」と交わりを区別
特定の髪形を強制(男:ちゃせん髪、女:折り分け)
越後高田藩
一七四二 ( 寛保二 ) 年
「穢多」が歩行時に「○○町」と書いた下げ札を腰につけ
る
加 賀 藩
一七七六(安永五)年
「穢多」身分の者は「人外の者」であり、皮商売を除き「平
人」との交際を禁じる
伊予大洲藩
一七九八(寛政十)年
七歳以上の「穢多」身分の人々は体の前へ五寸四方の毛皮
を下げて歩行
岡 山 藩
一八五五(安政五)年
「穢多」身分の人々に「無紋渋染、藍染」以外の着物着用
を禁じる
幕 府
一七九六(寛政八)年
「穢多」身分の娘を「平人」との交わりを行う「売女」に
した者を処罰する
六二
見える屠殺を業とする﹁旃陀羅﹂
︵インドのチャンダーラ︶の語は、
﹃ 浄 土 和 讃 ﹄ の﹁ 観 経 讃 ﹂
︵四
耆 婆・ 月 光 ね ん ご ろ に 是 旃 陀 羅
とはじめて不宜住此と奏してぞ闇王の逆心いさめける︶の中に
見える。
江戸時代には、﹁穢多﹂の呼称は死牛馬の処理に携わる者への
蔑 称 と し て 幕 府 に よ っ て 公 式 用 語 と し て 用 い ら れ た が、﹁ 穢 多 ﹂
身 分 厳 格 化 政 策 が 著 し く な っ た の は、 江 戸 中 期・ 元 禄 以 降 と い
われる。幕府と共に、諸藩では、長州藩・越後高田藩・加賀藩・
伊 予 大 洲 藩・ 岡 山 藩 等 に て 交 わ り を 禁 止 し 区 別、 違 反 者 は 処 罰
された。︵表3参照︶
幕 末 に﹁ 穢 多 ﹂ 解 放 論 を 提 唱 し た 人 と し て、 加 賀 藩 尊 攘 派 の
指導者であった千秋藤篤︵一八一五︵文化一二︶年∼一八六四︵元
冶元︶年、禁門の変で切腹︶は、﹃治穢多儀﹄を書き、﹁人間は禽獣・
草木・土石ではなく人間である。それを疎外する身分差別は不当
である。平民にして土地・家屋を与え、農耕や養蚕に従事させよ﹂
と説いた。﹁封建社会最末期の賤民解放論と呼ぶにふさわしいも
の ﹂ と 高 く 評 価 さ れ て い る。 そ の 理 由 と し て、 ① 賤 民 を 人 と し
て 認 め、 そ の 人 倫 性 を 評 価 し た。 ② 身 分 制 を 西 洋 と の 対 比 で 批
判している。③農業のような解放のための経済的保障を明らかにしている。④賤民が団結反抗した場合の潜在的な
エネルギーを察知している、等がある。
府柏原市光徳寺所蔵本︵室町中期の写本︶、大谷大学所蔵本等四本が伝えられている。
① ﹁屠者﹂
真宗における﹁屠者﹂差別の初見は、本願寺を創建した第三代覚如︵一二七〇︵文永七︶年∼一三五一︵観応二︶
年︶の晩年と重なる南北朝時代の一三四六︵貞和二︶年三月の日付が記される﹃十三箇条﹄制詞である。現在大阪
的立場から補完的肯定するものであり、人々の差別意識を温存助長させてきた事は否定できないであろう。
肯定し、しかも、富貴の人を﹁善人﹂
、乞食・非人を﹁悪人﹂としている。そうした教示は、社会的な差別を宗教
るるなり﹂﹁乞食非人も弥陀の本願には正機にして⋮⋮﹂などと説かれている。この世の差別を前世の業報として
去の世は善根をつまず悪因のみつみたりしことのしられ、今生富貴の人をみれば、前世に善因をなせしことのしら
江戸時代の身分差別を肯定した真宗の教説としては、後期の大谷派学僧で同派講師︵追贈︶の妙音院了祥︵一七八八
︵天明八︶年∼一八四二︵天保一三︶年の﹁非人格化﹂がある。その中に﹁今日乞食非人となりたるをみれば、過
五
真宗に見る差別用語のあり方
16
六三
﹁屠者﹂については、親鸞も早くから強い関心を示していた。親鸞は、若年時に、﹃西方略伝﹄に載る中国・唐の
善導の教化により浄土往生を願って樹から投身自殺を遂げた長安の屠児・京宝蔵の伝記を書写している。また、﹃阿
信心の上では人間は平等であるが、真宗は在家主義であり、世俗の礼法に従う立場から、真宗僧侶は﹁屠類﹂の
人々と交際や教化をしてはならない、とする禁令である。
17
六四
弥陀経集註﹄には、宋代の元照律師著﹃阿弥陀経義疏﹄の﹁具縛の凡愚・屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法成
り﹂の文が引かれ、﹃教行信証﹄︵信巻・菩提心釈︶にも同文が引かれている。
﹃歎異抄﹄︵第十三条︶にも﹁屠者﹂について述べられている。
元照の弟子戒度著﹃聞持記﹄︵元照律師著﹃阿弥陀経義疏﹄の注釈書には﹁具縛凡愚屠沾下類刹那超越仏之法可
謂甚難信也﹂︶からの引文として﹁屠はいはく、殺を宰る。沽はすなわち醞売。﹂と割註︵戒度の註︶する。
18
一意識を持っていたが、それは、如来回向の真実信心、弥陀法による人間の罪業観から生まれた人間観であった。
親鸞は、貴族も武士も、そして賤視されていた﹁漁猟師﹂、﹁商人﹂、﹁農民﹂等も業縁によってはどのような悪行
をもしかねない存在として、﹁まったく同じことである﹂と説く。親鸞は、社会的に賤しめられていた人々との同
19
いった。
﹁ケガレ﹂観念は人間が本性的に持つものではなく、単に個人的なものではなく、社会的なものであり、政治的
なものである。江戸幕府は、それを封建体制の維持と強化のために利用し、意図的に民衆の意識の中に定着させて
も深く浸透していた事が言える。
なじ﹂と表現した人間を差別し排除する事の不当性を批判する事無く記載した事は﹁ケガレ﹂観念が宗門人の心に
② ﹁ケガレ﹂︵穢れ︶
︵僧純編﹃妙好人伝﹄
﹁長崎遊女﹂
﹁筑前明月女﹂︶や﹁非人﹂
︵象
元禄以降、幕府により遊郭に閉じ込められた﹁遊女﹂
王編﹃続妙好人伝﹄﹁京都西六条非人﹂︶を﹁信徳﹂により﹁妙好人﹂と讃え、敬慕した話を載せながら、親鸞が﹁お
20
③ ﹁エタ﹂︵穢多︶︶︱﹁穢寺﹂﹁穢僧﹂︱
幕府の差別政策に従って仏教各宗派の寺院の多くは﹁穢多﹂身分とされた人々を排除したが、受け入れた本願寺
21
も差別を行った報告がある。
江戸後期の一八〇三︵享和二︶年に、東本願寺が幕府の命令に依って出した寺格と僧階の報告書﹃諸宗階級﹄や、
一八一一︵文化八︶年に西本願寺が出した﹃諸事心得之記﹄には、﹁穢寺﹂﹁穢僧﹂の御剃刀︵自剃刀︶の問題など、
差別扱いの定めが見える。両派︵東・西本願寺︶の﹁穢寺帳﹂︵自派の部落の寺院を国郡別に所要事項を記入した
もの︶の存在も報告されている。宗学を学ぶ﹁学林﹂においても﹁穢僧﹂として差別扱いしていることが報告され
ている。
本願寺派編﹃同朋運動史年表﹄によれば、同派の学僧︵勧学︶二名の業報説による差別発言、宗会議員の差別発
言が記載されている。幕藩体制権力が消滅した現在においても呪術的観念である﹁ケガレ﹂観念や差別意識がなぜ
克服できず、僧侶の差別発言が生じる原因はどこにあったのか。
意に反し差別を行った原因はどこにあったか。一八七一︵明治四︶年の﹁解放令﹂発布以降、今日に至る迄差別を
を研鑽する﹁学林﹂においても﹁穢僧﹂差別を行い、呪術的な﹁ケガレ﹂観念や触穢思想を容認するなど、親鸞の
幕末期、いかに幕府の厳しい統制下にあったとはいえ、仏教の各宗派が、中でも衆生の平等救済を生命とする如
来回向の﹁真実信心﹂︵横の大菩提心︶を説く本願寺が、親鸞の御同朋精神に背反する、﹁穢寺﹂制度を設け、宗学
22
六五
していく過程のなかで、反親鸞的な人間差別の旃陀羅解釈がまかりでたことは、江戸宗学の封建体質をよくあらわ
江戸宗学の﹁差別性﹂については、大谷派講師法海・深励・徳龍が﹁旃陀羅﹂を日本の﹁穢多﹂と結びつけて解
釈したことについて、﹁人間差別の教学を真宗学に持ちこんだ差別的解釈﹂と批判し、﹁宗祖親鸞の教義を深め研究
存続している主張がなされているのかを考える必要がある。
23
している﹂と述べられている。
24
本願寺派における﹁穢寺﹂﹁穢僧﹂への具体的差別としては、
六六
①
本尊など免物類の授与において、﹁穢寺﹂以外の寺院より五割増しの冥加金が必要
②
各種の袈裟の着用免許において﹁別冥加﹂が必要
③
本願寺への報謝行︵冥加金の上納等︶の対価として免許された袈裟の着用が自坊のみに限られていた
④
被差別身分の者が僧侶になる場合は、﹁自剃刀﹂しか許されなかったこと、等が存在する。
﹁学林﹂においては、﹁穢僧﹂とされた人々は、講堂内で一般の所化︵学生︶と同席で聴講する事を許されず、講
堂外の﹁西檐側﹂での聴講と定められていたといわれる。身分を隠して懸籍していた所化が他の所化から訴えられ、
即刻黄袈裟をとりあげられ退学を命じられている︵一八〇七︵文化四︶年︶。﹁穢僧﹂とされた人々が正式に学林で
聴講を許されたのは、一八七一︵明治四︶年﹁解放令﹂の翌年、一八七二︵明治五︶年の夏安居からであった。受
入れた学林の役職者の意識は﹁黒白ノ交際大ニ混雑闘論、役員大ニ心配云々﹂と伝えられる。
なお、大谷派の学寮における差別の有無については、現状、史料が見当たらないため不明とされている。
④ ﹁触穢﹂・﹁物忌み﹂
第三代覚如の長男存覚が﹃破邪顕正抄﹄︵全三巻︶︵中︶において述べ、蓮如も﹃御文﹄一帖目・九︵物忌章︶に
おいて述べている。
25
27
よる処罰が不当なものであったことを明言している。
教示している。﹃教行信証﹄後序においても﹁主上臣下、法に背き義に違し、忩を成し怨みを結ぶ﹂と、権力者に
真宗では、﹁触穢﹂の差別や﹁物忌み﹂をしないが、それを内心に抱き、世間や他宗の人々、幕府に対して、﹁彼
らの風習を否定して、物忌みをしないということがあってはならない﹂と述べ、行為の面では世間に従属するよう
26
⑤ ﹁屠沽の下類﹂の﹁われら﹂
親鸞は、自著において貧困、病気、差別等を﹁前世業の報いとして甘受せよ﹂と説くことはなかった。﹃唯信鈔文意﹄
は、﹁屠沽の下類﹂︵﹁屠﹂=﹁よろずのいきものをころしほふるもの﹂、﹁沽﹂=﹁よろずのものをうりかふもの﹂︶
という言葉が見られるが、そうした上層階級、支配階級の人々から﹁下類﹂
︵=﹁あき人﹂︶と賤しめられた人々に、﹁前
世の業報として甘受せよ﹂と説くこともなかった。それどころか親鸞は、﹁われら﹂との共感を示している。﹃唯信
鈔文意﹄にみる﹁屠沽の下類﹂とは、﹃唯信鈔﹄の第一八願︵念仏往生の願︶の意趣を明らかにしようとしたもの
であり、中国・唐の浄土教者で﹁後善導﹂といわれた法照の﹃五会法事讃﹄の文中の﹁瓦礫﹂を、宋代の律宗・元
28
六七
親鸞は、当時の差別倫理から身分階層的な意味で﹁下類﹂とされ、仏教からも殺生、飲酒等破戒行為を行う﹁悪
人﹂とされた漁猟師や商人達﹁さまざまなもの﹂
︵汗して働く人々︶に自分を重ねて﹁われら﹂と記し、﹁具縛の凡夫﹂
ている。
生きた思いがあったのではなかろうか。このように、親鸞は﹁屠沽の下類﹂に早くから注目していたことが知られ
はこのような職業の人間を﹁悪人﹂とした。しかし親鸞には、教信紗弥を範として、民衆の中に﹁ひじり﹂として
語を用いて﹁屠沽の下類﹂と注記し、﹁屠﹂と﹁沽﹂の具体的仕事の内容を、﹁殺を宰る﹂、﹁醞売﹂と注記し、戒度
﹁瓦礫﹂とは、文に示されるように、﹁貧窮の者、下智の者、破戒の者、罪根深き者﹂を指しているが、瓦礫︵=
成仏不可能とされた者︶も、回心して念仏すれば﹁黄金﹂に変えられることを説いた。元照が当時の社会的身分用
下類﹂とされている部分に注釈を施し、﹁屠ハ謂ハク、殺ヲ宰ル﹂﹁沽ハ即チ醞売﹂としている。
行信証書﹄︵信巻︶の菩提心釈にも同文が引かれる。元照の弟子・戒度の著﹃阿弥陀経義疏聞持記﹄では、﹁屠沽の
照︵大智律師︶が﹃阿弥陀経義疏﹄で﹁具縛の凡愚・屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり﹂の文が引かれ、﹃教
29
六八
﹁悪人﹂でしかありえない末法悪世の衆淨を救いたまう如来の願力を仰いだのではなかったか。﹁ゐなか﹂の﹁文字
のこころ﹂も知らない﹁あさましき愚痴きわまりなし﹂人々に、親鸞は自己の実相を見ていたのではなかろうか。
⑥ 差別を肯定する主張の事例
︿宗教的平等と社会的平等を無縁とする思想﹀
﹁今や有漏の穢身をすてゝ無上涅槃の証を得んこそたのしけれと﹂
﹁新蔵の姿は破れたる古布子を着、髪は藁にて結、さすがにあやしき躰なるを見付て、己こそまさしく穢多なれ﹂
﹁相撲ども口々にいひけるは、かゝる恐しき怪我のできしは定めて見物の中に穢れの者が紛れ居るならん﹂
六
﹃妙好人伝﹄に見る差別語︵二篇巻下一四﹁豊前の新蔵﹂に見る︶
右記のような主張を生みだした差別を肯定する教学に問題があったのでないかと考えざるを得ない。
・﹁信心を得たからといって、一毫の煩悩も断じ得ない凡夫であることには変わりなく、差別は無くならない﹂
・﹁差別せずにおれない私の業を悲嘆せねばならない﹂
・﹁差別心は煩悩であり、宿業であって、生きている限り消せない﹂
︿人間の煩悩性・罪悪性に居直る思想﹀
・﹁信心をいただいたら差別はなくなる﹂
・﹁信心は生死を離れるためのもの、後生の一大事の解決がすべてであり、世俗の差別問題とは関係ない﹂
あるのは当然である﹂
・﹁如来から見れば人間は救済対象として平等であるが、この世は人間の煩悩・分別知が異なるのであり、差別が
30
﹁此世にては、穢多と見違へらるゝわが身を、当来は弥陀同体の御悟りを給わると決定しながら、歓喜もうとく
しき故﹂
七
親鸞の心情とは
親鸞も鎌倉時代の﹁世俗﹂に生き、時代の制約を背景に生きた事は否定できない事実である。﹃愚禿抄﹄によれば、
親鸞は﹁世俗﹂︵煩悩・縁起・世間的慣習といわれる世界︶と﹁真﹂︵如来・無上菩薩・無上涅槃︶の相反する世界
に生きた人であった。そこに批判した懺愧と世の安穏への願いが生れる。自ら﹁愚禿﹂と称し、我身を﹁恥ずべし
傷むべし﹂﹁無慚無愧のこの身にてまことのこころなし﹂と悲嘆し、﹁浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがた
し
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし﹂と詠み、自己を深く懺愧している。
﹁雑毒雑修の善﹂とも呼ぶ。
﹃歎異抄﹄では、人間の﹁善﹂と考える行為も﹁真実の業﹂でないとし、﹁虚仮雑毒の善﹂
如来の真実に照らされて自己の罪悪が知られ、無慚無愧の身であることが自覚され、自力の慈悲行の限界を自覚し
つつ、わが内なる悪心を﹁世の安穏﹂への願いに生きようとするのが、他力の信心を獲た﹁真の仏弟子﹂の姿と説
かれている。
六九
親鸞は善悪の心の生起と行為に対してのみ、慚愧の心をもって﹁宿業﹂を語った。﹁業縁﹂によっては人の千人
も殺しかねない、何をしでかすかわからない身である事を説き、﹁さるべき業縁のもよほさは、いかなるふるまひ
この世の﹁事態﹂を﹁前世の業報﹂として語る事もなかった。
親鸞は何よりも如来回向の大信・真実信心を説いた。世俗の法や倫理を単純に肯定する事はなかった。差別や排
除を伴う呪術的・習俗的な吉凶禍福や﹁ケガレ﹂﹁キヨメ﹂の観念も否定した。貧困・病気・障害・差別・災害等、
31
七〇
もすべし﹂と語った。獲信において自ずから﹁すまじきこと、いふまじきこと、おもふまじきこと﹂という身口意
の悪が知られ、それを慚愧し、つつしむ態度が生れる、と説いた。
親鸞は、人間の善悪の行為が﹁業縁﹂による事、無真実の凡夫において、真の善悪は﹁不可知﹂である事、人間
が行う﹁善﹂は煩悩がまざった﹁雑毒の善﹂﹁虚仮の行﹂である事、念仏のみが﹁まこと﹂である事を説いた。
十法衆生の救済は衆生の仕事ではなく、如来の一方的活動であることは、いうまでもない。
八
現代の動向
これ迄の仏教者の中には﹁衆縁﹂を無視し、この世の﹁事態﹂のすべてを﹁個人の前世の業報﹂と説き、差別、貧困、
難病・障害、災害等に苦しむ人々に、﹁自己の前世の業報として懺愧し甘受せよ﹂と説いた人々がいた事は否定で
きない。
本願寺派の宗学者︵勧学︶の差別発言が﹃同朋運動史年表﹄に記されている。
﹃龍谷大学三百五十年史﹄には、本願寺派における穢寺制度や学林における穢僧差別の実態が史料により詳記さ
れている。﹁御同朋﹂を評榜する教団が﹁世法﹂に準じてか、穢寺差別を行い、宗学を研鑽する学林においても部
落出身の僧を﹁穢僧﹂として差別した事が記され、差別された人々に﹁自己の前世の業報﹂と説き、あきらめと如
来の救いを説いた。
﹁信心﹂は内心にたもち、
﹁行為﹂は体制が定める法令に従い、儒教倫理の﹁忠孝﹂、
﹁五
本願寺派では、覚如以来、
常﹂を﹁世法﹂として遵守するように説いてきた。教団が成立した以上、位階構造をつくり、身分間の礼的秩序を
重視し、教団を守るためにその時々の政治体制に隋順する事はやむを得ない事であり、親鸞の場合とは状況が異なっ
ている、とする見解があるが、はたしてそうした状況倫理的な主張︵普遍的倫理を志向する事を退け、状況ごとの
選択を強調する主張︶や暫定倫理的な考え︵真理に基づく決定的なものではなく、日常生活において必要と思える
主張︶は親鸞の、如来の真実に聞いていく宗教倫理思想に相違しないであろうか。
今日、教団の在り方や﹃浄土真宗の教章﹄に示される真宗の実践倫理﹁人道修行﹂の﹁人道﹂の内容について再
考し、親鸞に問いつつ﹁信心﹂と﹁行為﹂との関係を明確にして行く事が緊急の課題と思われる。真宗が、衆生の
平等救済をめざす普遍的な世界宗教である以上、世界の全てを視野に入れた宗教倫理の構築が必要であろう。
﹁宗風﹂に教示されている履行すべき﹁人道﹂とは、仏教の﹁五戒﹂﹁十善﹂なのか、儒教倫理の﹁忠孝﹂﹁五常﹂
なのか、西洋の自我に基づく humanity
なのか、
﹁人権の道﹂なのか、それらが、親鸞の思想にそぐわないとすれば、
﹁人道世法を守り﹂の文言を改めて﹁如来の願心に聞きつつ世の安穏の実現をめざし﹂とすべきでなかろうか。
﹁信心は凡夫の往生成仏にかかわるものであり、社会問題とは無関係である﹂をも乗り越えねばなるまい。現代
はかつての生活環境や思想環境とは変化しており、真宗は常に﹁世の安穏﹂を破る事態にいかに対処しているのか、
大悲救苦の仏意を仰ぎつつ、共にしつつ、取り組むのが本願念仏者の責務と思われる。
戦後の両派が謝罪の見解をだしたのが、一九九八年に出されたハンセン病患者への偏見と差別を行ってきたこと
に対する見解文である。国のハンセン病隔離政策に加担してきた事を認め謝罪すると共に、国に対し、控訴せず速
やかに謝罪の意を表明し請求に応じるよう求めたものである。大谷派の見解文は、長文であったが、﹁無批判に国
家政策に追従し、隔離という政策徹底に大きな役割を担った大谷派﹂﹁﹃存在に値しない命﹄﹂というものをつくり
出そうとする極めて非人間的法律を私たちの国が持ち続け、そして、私たちもまたそれを容認してきた被告である﹂
等と自己批判している。そして﹁大谷派光明会﹂を発足させ、無批判に国の隔離政策に追従し隔離政策徹底に加担
七一
してきた過ちが謝罪され、国の謝罪と補償、啓蒙運動の推進が要請されている。
七二
本願寺派の見解文では、﹁省みますと、私たちの教団もまた国と同様にハンセン病に対する偏見と差別を助長し、
患者さんにだけでなく、その家族や周囲の人々の人権を侵害し、尊厳性を犯してきました。︵⋮中略⋮︶、今後同様
の過ちを犯すことのない様に、いのちと人間の尊厳を訴え、一人ひとりが大切にされる御同朋の社会の実現をめざ
して歩むことを決意するものであります。﹂と発表した。小泉首相は二〇〇一︵平成一三︶年五月二三日、控訴し
ない事を決定した。
ハンセン病について説く経典として﹃法華経﹄があり、第二十八﹁普賢菩薩勧発品﹂に説かれる。
﹃大智度論﹄巻五十九にも、﹁諸病のうち癩病もっとも重く、宿命の罪の因縁の故に治し難し﹂と説かれる。日本
僧では、南都浄土系の重源が﹁現世に白癩・黒癩の身を受け、後生ニハ堕無間大城之底﹂とも記す。
32
真宗は人々に如何なる世界像・人間像を提供しうるか、自我に立った近代的思惟に対処しうるか、その課題に、
ものであり、社会問題とは無関係である﹂とする考えを超克すべきであろう。
への願いに生きる本願念仏者が、人間社会の問題に関心を向けるべきであり、﹁信心は凡夫の往生成仏にかかわる
この様な状況下にて、﹁世の安穏﹂を願ううえから、我々の意識、価値観、生活態度、社会的実践を改めて問い
直す事が緊急ではなかろうか。成仏と利他の働きが確立された、現生での救いの内にある﹁世の安穏﹂
﹁人々の平安﹂
争の激化、差別・抑圧・暴力が行われている。
の心は空洞化し、真に頼るべきものを逸しているようである。グローバル化の下、民族・宗教・国家間の対立・紛
今日、多方面にわたる科学技術の進歩、社会変動は、人間の意識、価値観、生活を大きく変化させたと共に、こ
れ迄の哲学、倫理、宗教に新たな課題を与えた。合理主義、世俗主義、自己中心主義、欲望肯定思想等が強まり、人々
33
大悲救苦の仏意を持ち、結びあう事は本願念仏者の責務であろう。
七三
注
︵1︶辻善之助﹃日本佛教史﹄第八巻、岩波書店、一九七〇年、一七六∼一七七頁、二一九∼二二二頁等を参照。
︵2︶辻、前掲書、二七五∼二七七頁参照。
︵3︶辻、前掲書、二九六∼二九七頁参照。
︵4︶菊藤明道﹃妙好人伝の研究﹄法蔵館、二〇〇二年、一九二頁参照。
︵5︶仰誓は﹃延享の自警﹄︵一七四四︵延享元︶年︶の中で、西本願寺の僧侶の位階について、
﹁上善知識を始めとし、御連枝
方、院家衆、内陣衆、余間衆、三之間衆、飛䖽、初中後、一代袈裟、国袈裟と官職を定め給ひ、それぞれの装束の御免あ
りて、内陣衆は院家を敬ひ、院家衆は御連枝を敬ひ、御連枝は善知識を敬ひ、上たる善知識はうやうやしく仏祖に仕え給
ふ躰を拝奉らば、いともかしこき善知識のかくまで敬ひ給ふ仏祖親鸞聖人を、われらごとき賤男賤女まで朝暮かく尊き如
来聖人を拝し奉るはさてさて難有事かな。善知識だにかく敬ひ給ふを我らごときの敬ひは不足なちと思い候。常々我我家
にての内仏の御給仕も粗末はあるまじ。それは、法義争相続の助ならんと思しめし、かかる位階を定め事を厳重にし給ふ
なり。在家一同の御宗門、善知識も我らもともに他力の信心ひとつなれば、位階の差別もあるまじき事なれども、かやう
に定め給ふ覚しめしは、右の通り御勧化門なり。﹂と述べている。︵朝枝善照﹃妙好人伝基礎研究﹄一七五頁参照。︶
︵6︶辻善之助、前掲書、第九巻、七六∼七七頁参照。
︵7︶辻、前掲書、一九二∼一九三頁参照。
︵8︶辻、前掲書、一九八頁参照。
︵9︶辻、前掲書、一七八頁及び一四〇∼一四四頁参照。
︵ ︶大倉精神文化研究所編﹃神典﹄﹁延喜式﹂巻三︵神祇三、臨時祭︶一九六七年、一一〇三頁参照。
︵ ︶菊藤、前掲書、一九四頁参照。
︵ ︶大田房江氏︵現衆議院議員、元大阪府知事︶が知事在任当時に複数回、春場所︵大阪︶千秋楽に表彰状授与のため土俵
上にあがる事を相撲協会に申請したが却下されている。
︶菊藤、前掲書、一八七頁参照。
︵
12 11 10
13
七四
︵ ︶一二七四︵文永一一︶年∼一二八一︵弘安四︶年の、釈良胤作と推定される﹃塵袋﹄では、次のように記されている。
キヨメヲエタト云フハ何ナル詞ハゾ。根本ハ餌サ取ト云フベキ。
餌ト言フハ、シシムラ鷹等ノ餌ヲ言フナルベシ。
其ヲトル物ト言フ也。エトリヲハヤクイヒテ、イヒユガメテ、エタト云ヘリ
︵ ︶﹁仏徒の賤視観念煽動︱親鸞と真宗穢多寺と本願寺の堕落﹂という問題について、高橋貞樹著・沖浦和光校注﹃非差別部
落千年史﹄では、次のように指摘されている。
﹁穢多賤視の観念は、全く仏徒が煽動したものであった。古代奴婢を罵倒蔑視したのは仏徒であった。部落民は、仏徒に
とって縁なき衆生であった。鎌倉時代以前の仏教は、穢多に近づくのをもって仏の戒律に背くものとまで解していた。
かかる時に、平民宗教を標榜する一向宗、すなわち浄土真宗は、敢然として特殊部落に伝道を試みるに至った。宗祖親
鸞聖人が、京の建仁寺辺の沓作り、弦作りの人、すなわち祇園の犬神人の群を教化したことは今も語り伝えられる。﹁御開
山﹂親鸞は、御同朋御同行と賤民の手を握り抱擁き合って布教に従事した。﹃猟漁もせよ、奉公をもせよ﹄と一向の憲法を
改定した。しかるにこの真宗も、後には部落民に対して嫌悪の念を持つに至った。本願寺は募財に名を借りて、部落民の
搾取を事とするに至った。部落の寺院も穢多寺として近隣の寺院から忌まれ、本願寺もまたこれを嫌った。平民宗教の旗
ふりを翻し、賤民と称せられたものも捨てなかった真宗の人々までが、殉教者の子孫を蔑視疎外し、部落民を蹂躍して経
済的搾取に汲々たるに至った。本願寺は全く偶像化してしまった。﹂︵一四三∼一四四頁︶
︵ ︶原田伴彦﹃被差別部落の歴史﹄朝日選書、一九七三年、一六五頁参照。
︵ ︶覚如によると伝えられる﹃十三箇条﹄︵光徳寺所蔵写本より校訂⋮翻刻・校訂者不明︶では、次のように述べられている。
専修念仏ノ衆中ニ存知スへキ条々
御門下ト号スルアル一類ノナカニ、コノ法ヲモテ旃陀羅ヲ歓化スト云々、アマ︵ツ︶サへコレガタメニアヒカタラヒテ
値遇出入スト云々。
コト実タラバハナハダモテ不可思議ノ悪名ナリ。本所ニヲイテ、コトニイマシタ沙汰アルベシ。是非スデニコノ悪名ノ
キコエアルウヘハ、ナガク当寺ノ参詣ヲ停止セシメテ、外土ノ道路ニ追放スベキ欺。オヨス利物ノトキ伴党ノナラヒ、ソ
ノトコロヲワカツべカラズ、ソノ人ヲワクベカラズ。
14
15
カツハ、経言四姓出家同称釈氏トイヘリ。シカリトイヘドモ、当流ハモトヨリ、アナガチニ山林斗藪ノスガタヲコトトセズ、
僧俗遁世ノ相ヲ標スベカラズ。在家ハ在家、出家ハ出家、公家ハ公家、武家ハ武家、別シテソノフルマイヲヘツラフべカラズ。
17 16
ソノ進退ニヨルベカラズ。タダ往生浄土ノタメニハ信心ノ堅固ヲサキトスルバカリナリ。シカルウへハ、奉公トイヒ交衆
トイヒ、サラニ世俗、ヨソノツネノ礼法ニソムキガタキ日、イカデカカノ屠類ニアヒトモナヒ、得意知己ノ儀アルべク同
朋等侶ノ昵アルベキヤ、モトモ瑕瑾ノ至極タリ。ハヤク六親等ニカケテ重科ニ処スベキムネ、アマネクフレオセラルベキ
モノナリ。
︵ ︶﹃教行信証﹄︵信巻︶においては、次のように述べられている。︵﹃真宗聖典﹄二三八頁参照︶
︵阿弥陀経義疏︶元照律師の云わく、他の為すこと能わざるがゆえに甚難なり。世挙って未だ見たてまつらざるがゆえに
希有なり、といえり。
︵菩提心釈︶また云わく、念仏法門は具智・豪賤を簡ばず、久近・善悪を論ぜず。ただ決誓猛信を取れば、臨終悪相なれ
ども十念に往生す。これすなわち具縛の凡愚・屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。﹁世間甚難信﹂と謂うべきなり。
﹃ 聞 持 記 ﹄ に 云 わ く、 不 簡 愚 智 性 に 利 鈍 あ り、 不 択 豪 賤 報 に 強 弱 あ り、 不 論 久 近 功 に 浅 深 あ り、 不 選 善 悪
行に好
酬醜あり、取決誓猛信臨終悪相 すなわち﹃観経﹄の下品中生に地獄の衆火一時に至ると等、具縛凡愚
二枠全くあるが
ゆえに、屠沽下類刹那超越成仏之法可謂世間甚難信也
屠は謂わく殺を宰どる、沽はすなわち醞売。かくのごときの悪人
ただ十念に由ってすなわち超相を得、あに難信にあらずや、と。
︶﹃歎異抄﹄第十三条︵真宗聖典﹄六三一頁参照︶では、﹁屠者﹂について、次のように記されている。
さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし。
︵ ︶菊藤、前掲書、一八六頁参照。
︵ ︶菊藤、前掲書、一九五頁参照。
︵ ︶龍谷大学編﹃龍谷大学三百五十年史﹄通史編・上巻、二〇〇一年、二五〇頁参照。
︵ ︶本願寺派編﹃同胞運動史年表﹄一九八〇年、一五〇頁。
︵ ︶仲尾敏博著﹃宗教と部落差別﹄柏書房
一九八二年
二五〇頁参照。
︵ ︶前掲書、史料編第一巻、三五〇頁参照。
︵ ︶存覚撰﹃破邪顕正抄﹄︵全三巻︶︵中︶では次のように記されている。
また﹁うみ・かわにあみをひき、つりをして世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりて、いのちをつぐと
もがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり﹂と。
︵
18
19
七五
一.触穢をはばからず日の吉凶等をえらばざる条、不法の至極たるよしの事、一向専修の行者にをきてはさらに世俗を
26 25 24 23 22 21 20
七六
はなれず公役をつとめながら、しかも内心に仏道うをねがふゆへに、あるひは神職につかふるやからもあり、あるひは奉
公 を つ と む る た ぐ ひ あ り。 か く の ご と き の と も が ら、 た と ひ 仏 法 の な か に 死 生・ 淨 穢 等 の 差 別 な き こ と を し る と い ふ と も、
いかでか世間の風俗をわすれて、みだりがはしく触穢をはばからざらんや。
︵ ︶﹃御文﹄第一帖・九︵物忌章︶︵文明五年九月作成︶越前宵吉崎滞在中、第一帖は一五通作成﹃﹃真宗聖典七六九頁﹄では、
次のように記されている。︵大谷派︵東本願寺︶では、﹃御文﹄、本願寺派︵西本願寺︶では、﹃御文書﹄と称す。︶
﹁つぎに、物忌といふことは、わが流には仏法についてものいまわぬといえることなり。他宗にも公方にも対しては、な
どか物をいまざらんや。他宗他門にむかいては、もとよりいむべきこと勿論なり。また、よそのひとの物いむといいてそ
しることあるべからず。しかりといえども、仏法を修行せんひとは、念仏者にかぎらず、物さのみいむべからずと、あき
らかに諸経の文にもあまたみえたり。﹂
︵ ︶親鸞著﹃唯信鈔文意﹄の文中にて、﹁但使回心多念仏
能令瓦礫変成金﹂︵五会法事讃︶とある。﹁但使回心﹂は、ひとえ
に回心せいめということばである。また、﹁具縛の凡愚、屠沾の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽
す れ ば 、 煩 悩 を 具 足 し な が ら、 無 上 大 涅 槃 に い た る な り。 具 縛 は、 よ ろ ず の 煩 悩 に し ば ら れ る わ れ ら な り。 煩 は、 み を わ
ず ら わ す。 脳 は、 こ こ ろ を な や ま す と い う。 屠 は、 よ ろ ず の い き た る も の を、 こ ろ し、 ほ ふ る も の な り。 こ れ は、 り ょ う
しというものなり。沾は、よろづのものをうりかふものなり。これは、あき人なり。これらを下類といふなり。﹂また、
﹁能
令瓦礫変成金﹂と釈す中で、﹁能﹂はよくという。﹁令﹂は、せしむという。﹁瓦﹂は、かわらという。﹁礫﹂は、つぶてという。
﹁変成金﹂は、﹁変成﹂は、かえなすという。﹁金﹂は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとし
と、たとえなるなり。﹂﹃真宗聖典﹄五五二∼五五三頁︶
︵ ︶元照律師著﹃阿弥陀経義祖疏﹄の文中にて﹁但使回心多念仏
﹃真
能令瓦礫変成金﹂と記している。︵親鸞著﹃唯信鈔文意﹄
宗聖典﹄五五二頁︶
︵ ︶菊藤、前掲書、一八六頁、一九〇頁参照。
︵ ︶﹃歎異抄﹄第十八条では、次のように記されている。
﹁善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたら
ばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにても
あ ら め ど、 煩 悩 具 足 の 凡 夫、 火 宅 無 常 の 世 界 は、 よ ろ ず の こ と、 み な も っ て、 そ ら ご と た わ ご と、 ま こ と あ る こ と な き に、
ただ念仏のみまことにておわします﹂とこそおおせはそうらいしか。まことに、われもひともそらごとをのみもうしあい
27
28
29
31 30
そうろうなかに、ひとついたましきことのそうろうなり。﹂︵﹃真宗聖典﹄六四〇∼六四一頁︶
︵ ﹃法華経﹄第二十八﹁普賢菩薩勧学品﹂では、次のように述べられている。
﹁この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、若し実にもあれ、若しは不実にもあれ、この人は、現世に白癩の病をい、
得ん。もし、これを軽笑せば、まさに世々に牙・歯は疎ぎ欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は繚れ戻り、眼目はすがみ、
身体は臭く穢く、悪しき瘡の濃血あり﹂︵坂本幸男他共訳﹃法華経﹄上
岩波文庫︶
︵ ︶菊藤、前掲書三五四∼五頁参照。
32
七七
参考文献
東本願寺編﹃真宗聖典﹄一九九九年︵真宗関連の経典からの引用は、全てこれによる︶
朝枝善照﹃妙好人伝基礎研究﹄永田文昌堂、一九八二年
井上薫編﹃大阪の歴史と文化﹄和泉書院、一九九四年
大倉精神文化研究所編﹃親典﹄大倉精神文化研究所、一九六七年
大西晴隆校注﹃塵袋﹄東洋文庫︵平凡社︶、二〇〇四年
柏原祐泉﹃近世庶民仏教の研究﹄法蔵館、一九七一年
鎌田茂雄他編﹃佛教大事典﹄小学館、一九八八年
菊藤明道﹃妙好人伝の研究﹄法蔵館、二〇〇二年
京都大学文学部編﹃日本史辞典﹄東京創元社、一九七四年
坂本幸男共訳﹃法華経﹄上・下岩波書店、一九七一年
辻善之助﹃日本佛教史﹄八∼一〇巻岩波書店、一九七〇年
仲尾俊博著﹃宗教と部落差別﹄柏書房、一九八二年
仲尾俊博・孝誠共著﹃差別と真宗﹄永田文昌堂、一九九六年
原田伴彦﹃被差別部落の歴史﹄永田文昌堂一九七五年︵朝日選書、一九七三年︶
本願寺同朋センター編﹃差別・被差別からの解放︱西本願寺教団と部落差別︱﹄増補版、西本願寺出版部、一九九八年
門馬幸夫﹃差別と穢れの宗教研究︱権力としての﹁知﹂﹄岩田書店、一九九七年
龍谷大学編﹃龍谷大学三百五十年史﹄龍谷大学、二〇〇一年
33
Fly UP