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フリードリヒ・ニーチェ
フリードリヒ・ニーチェ フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 年10 ⽉ 15 ⽇ - 1900 年8 ⽉ 25 ⽇)は、ドイツ の古典⽂献学者、哲学者。随 所にアフォリズム を⽤いた、巧みな散⽂的表現に よる試みには⽂学的価値も認められる。 な お、ド イ ツ 語 で は、「ニー チェ」 (フ リード リ ヒ ['fri:drɪç] ヴィル ヘ ル ム ['vɪlhɛlm] ニーチェ ['ni:tʃə{]}) {[}'ni:tsʃə{]} 発⾳ され る* [1]。 1 1.1 生涯 青年時代 1868 年のニーチェ。除隊する際に撮影 はザクセン=アンハルト州 など)、ライプツィヒ 近郊の⼩村レッツェン・バイ・リュッケンに、⽗ カール・ルートヴィヒと⺟フランツィスカの間に ⽣まれた。⽗カールは、ルター派 の裕福な牧師 で 元教師 であった。同じ⽇に 49 回⽬の誕⽣⽇を迎 えた当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィル ヘルム 4 世 にちなんで、「フリードリヒ・ヴィル ヘルム」と名付けられた(なお、ニーチェは後に ミドルネーム「ヴィルヘルム」を捨てている)。 1846 年 には妹エリーザベトが、1848 年 には弟ルー トヴィヒ・ヨーゼフが⽣まれている。しかし、ニー 1861 年のニーチェ チェが 5 歳の時(1849 年)、頭の怪我が原因で⽗ カール・ルートヴィヒが早世した。また、それを追 1844 年10 ⽉ 15 ⽇、ニーチェは、プロイセン王国 うように、1850 年 には 2 歳の弟ヨーゼフが病死。 領プロヴィンツ・ザクセン(Provinz Sachsen - 現在 これを機に、ニーチェ⼀家はレッケンを去り、近 1 1 ⽣涯 2 郊のナウムブルク へ転居した。そこで、ニーチェ 合おう」と⾃宅へ招待されたことなどを興奮気味 は、⽗⽅の祖⺟と 2 ⼈の叔⺟と同居することにな に伝えている。 る。 ニーチェは、1854 年 からナウムブルクのギムナジ 1.2 ウム へ通う。そして、ここで⾳楽 と国語 の優れ た才能を認められて、ドイツ屈指の名⾨校プフォ ルター学院* [2] に特待⽣として⼊学する。このと き、⽣まれて初めて、⽥舎の保守的なキリスト教 精神から離れて暮らすこととなる。 バーゼル大学教授時代 1858 年 から1864 年 までは、古代ギリシア やロー マ の古典・哲学・⽂学等を全寮制・個別指導 で鍛 えあげられ、模範的な成績を残す。また、詩 の執 筆や作曲 を⼿がけてみたり、パウル・ドイッセン (Paul Deussen)と友⼈になったりした。 1864 年 にプフォルター学院を卒業すると、ニー チェはボン⼤学 へ進んで、神学 と古典⽂献学 を 学び始める。ニーチェは、⼤学在学中に、友⼈ド イッセンとともに「フランコニア」というブルシェ ンシャフト(学⽣運動団体)に加わって、⾼歌放吟 に明け暮れる。そして、最初の学期を終える頃に は、信仰を放棄して神学の勉強も⽌めたことを⺟ に告げ、⼤喧嘩をしている(当時のドイツの⽥舎 で、牧師の息⼦が信仰を放棄するというのは、ス キャンダルでさえある。ましてや、夫を亡くした⺟ にとっては、⼀家の⼀⼤事であった) 。ニーチェの この決断に⼤きな影響を及ぼしたのは、ダーヴィ ト・シュトラウス の著書『イエスの⽣涯』である。 また、ボン⼤学では、プラウトゥス の研究で有 名な古典⽂献学 の権威フリードリヒ・ヴィルヘル ム・リッチュル と出会い、師事する。リッチュル は、当時⼤学 1 年⽣であったニーチェの類い稀な 知性をいち早く⾒抜き、ただニーチェに受賞させ るためだけに、懸賞論⽂の公募を⾏なうよう⼤学 当局へもちかけている。 ニーチェは、このリッチュルのもとで⽂献学を修 得している。 そして、 リッチュルがボン⼤学 からラ イプツィヒ⼤学 へ転属となったのに合わせて、⾃ 分もライプツィヒ⼤学へ転学する。このライプ ツィヒ⼤学では、ギリシア宗教史家エルヴィン・ ローデ と知り合い親友となる。彼は、後にイェー ナ⼤学 やハイデルベルク⼤学 などで教鞭を取る ことになる。また、1867 年 には、⼀年志願兵 とし て砲兵師団 へ⼊隊するが、1868 年3 ⽉に落⾺事故 で⼤怪我をしたため除隊する。それから、再び学 問へ没頭することになる。 ライプツィヒ⼤学在学中、ニーチェの思想を形成 する上で重要な出会いが、これらの他にも 2 つ あった。ひとつは、1865 年 に古本屋 の離れに下 宿していたニーチェが、その店でショーペンハウ エル の『意志と表象としての世界』を偶然購⼊ し、この書の虜となったことである。もうひとつ は、1868 年11 ⽉、リッチュルの紹介で、当時ライ プツィヒ滞在していたリヒャルト・ヴァーグナー と⾯識を得られたことである。ローデ宛ての⼿紙 の中で、ショーペンハウエルについてヴァーグナー と論じ合ったことや、「⾳楽と哲学について語り 1871 年、 からニーチェ、カール・フォン・ゲルスドル フ、エルヴィン・ローデ 1869 年 のニーチェは 24 歳で、博⼠号 も教員資格 も取得していなかったが、リッチュルの「⻑い教 授⽣活の中で彼ほど優秀な⼈材は⾒たことがな い」という強い推挙もあり、バーゼル⼤学 から古 典⽂献学 の教授 として招聘された。バーゼルへ 赴任するにあたり、ニーチェはスイス国籍の取得 を考え、プロイセン国籍を放棄する(実際にスイ ス国籍を取得してはいない。これ以後、ニーチェ は終⽣無国籍者として⽣きることとなる* [3])。 本⼈は哲学の担当を希望したが受け⼊れられず、 古代ギリシア に関する古典⽂献学を専⾨とする こととなる。講義は就任講演「ホメロス と古典⽂ 献学」に始まるが、⾃分にも学⽣にも厳しい講義 のスタイルは当時話題となった。研究者としては、 古代の詩における基本単位は⾳節の⻑さだけで あり、近代のようなアクセントに基づく基本単位 とは異なるということを発⾒した。終⽣の友⼈と なる神学教授フランツ・オーヴァーベック(Franz Overbeck)と出会ったほか、古代ギリシアやルネ サンス 時代の⽂化史を講じていたヤーコプ・ブル 1.2 バーゼル⼤学教授時代 3 クハルト との親交が始まり、その講義に出席する であり、1868 年 にはすでにライプツィヒでヴァー などして深い影響を受けたのもバーゼル⼤学での グナーとの対⾯を果たしている。やがてヴァーグ ことである。 ナーの妻コジマ とも知遇を得て夫妻への賛美の 1872 年、ニーチェは第⼀作『⾳楽の精神からのギ 念を深めたニーチェは、バーゼル へ移住してから リシア悲劇の誕⽣』 (再版以降は『悲劇の誕⽣』と というもの、同じくスイスのルツェルン 市トリプ シェンに住んでいたヴァーグナーの邸宅へ何度も 改題)を出版した。 ⾜を運んだ(23 回も通ったことが記録されてい しかしリッチュルや同僚をはじめとする⽂献学者 る) 。ヴァーグナーは 31 歳も年の離れたニーチェ の中には、厳密な古典⽂献学的⼿法を⽤いず哲学 を親しい友⼈たちの集まりへ誘い⼊れ、バイロイ 的な推論に頼ったこの本への賛意を表すものは⼀ ト祝祭劇場 の建設計画を語り聞かせてニーチェ ⼈とてなかった。特にウルリヒ・フォン・ヴィラ を感激させ、⼀⽅ニーチェは1870 年 のコジマの誕 モーヴィッツ=メレンドルフ は『未来の⽂献学』と ⽣⽇に『悲劇の誕⽣』の原型となった論⽂の⼿稿 題した(ヴァーグナーが⾃分の⾳楽を「未来の⾳ をプレゼントするなど、⼆⼈は年齢差を越えて親 楽」と称していたことにあてつけた題である)強 交を深めた。 烈な批判論⽂を発表し、まったくの主観性に彩ら れた『悲劇の誕⽣』は⽂献学という学問に対する 近代ドイツの美学思想には、古代ギリシア を「宗 裏切りであるとしてこの本を全否定した。好意を 教的共同体に基づき、美的かつ政治的に⾼度な達 もってこの本を受け取ったのは、献辞を捧げられ 成をなした理想的世界」として構想するという、 たヴァーグナーの他にはボン⼤学以来の友⼈ロー 美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン 以 デ(当時はキール⼤学教授)のみである。こうした 来の伝統があった。当時はまだそれほど影響⼒を 悪評が響いたため同年冬学期のニーチェの講義か もっていなかった⾳楽家であると同時に、ドイツ らは古典⽂献学専攻の学⽣がすべて姿を消し、聴 3 ⽉⾰命 に参加した⾰命家でもあるヴァーグナー 講者はわずかに 2 名(いずれも他学部)となってし もまたこの系譜に属している。『芸術と⾰命』を まう。⼤学の学科内で完全に孤⽴したニーチェは はじめとする彼の論⽂では、この滅び去った古代 哲学科への異動を希望するが認められなかった。 ギリシアの⽂化(とりわけギリシア悲劇)を復興 する芸術⾰命によってのみ⼈類は近代⽂明社会の 頽落を超克して再び⾃由と美と⾼貴さを獲得しう る、とのロマン主義 的思想が述べられている。そ 1.2.1 ワーグナーへの心酔と決別 してニーチェにとって(またヴァーグナー本⼈に とっても)、この⾰命を成し遂げる偉⼤な⾰命家 こそヴァーグナーその⼈に他ならなかった。 ワーグナーに対するニーチェの⼼酔ぶりは、第⼀ 作『悲劇の誕⽣』(1872 年)において古典⽂献学 的⼿法をあえて踏み外しながらもヴァーグナーを (同業者から全否定されるまでに)きわめて好意的 に取りあげ、ヴァーグナー⾃⾝を狂喜させるほど であったが、その後はワーグナー訪問も次第に形 式的なものになっていった。 1876 年、ついに落成したバイロイト祝祭劇場 での 第 1 回バイロイト⾳楽祭 および主演⽬『ニーベル ングの指環』初演を観に⾏くが、パトロンのバイ エルン王ルートヴィヒ 2 世 やドイツ皇帝ヴィルヘ ルム 1 世 といった各国の国王や貴族に囲まれて得 意の絶頂にあるヴァーグナーその⼈と⾃⾝とのあ いだに著しい隔たりを感じたニーチェは、そこに いるのが市⺠社会の道徳 や宗教といった既成概 念を突き破り、芸術によって世界を救済せんとす るかつての⾰命家ヴァーグナーでないこと、そこ にあるのは古代ギリシア精神の⾼貴さではなくブ ルジョア 社会の卑俗さにすぎないことなどを確 信する。また肝⼼の『ニーベルングの指環』⾃体 も出来が悪く(事実、新聞等で報じられた舞台評 も散々なものであったためヴァーグナー⾃⾝ノイ ローゼに陥っている)、ニーチェは失望のあまり 上演の途中で抜け出し、ついにヴァーグナーから リヒャルト・ヴァーグナー 離れていった。祝祭劇場から離れる際、ニーチェ ⽣涯を通じて⾳楽に強い関⼼をもっていたニー は妹のエリーザベトに対し、「これがバイロイト チェは学⽣時代から熱烈なヴァーグナー のファン だったのだよ」と⾔った。 1 ⽣涯 4 この⼀件と前後して書かれた『バイロイトにおけ るヴァーグナー』ではまだ抑えられているが、 ヴァー グナーへの懐疑や失望の念は深まってゆき、⼆⼈ が顔を合わせるのはこの年が最後のこととなっ た。1878 年、ニーチェはヴァーグナーから『パル ジファル』の台本を贈られるが、ニーチェからみ れば通俗的なおとぎ話にすぎない『聖杯伝説』を 題材としたこの作品の構想を得意げに語るヴァー グナーへの反感はいよいよ募り、この年に書かれ た『⼈間的な、あまりにも⼈間的な』でついに決 別の意を明らかにし、公然とヴァーグナー批判を 始めることとなる。ヴァーグナーからも反論を受 けたこの書をもって両者は決別し、再会すること はなかった。 しかし晩年、ニーチェは、ヴァーグナーとの話を好 んでし、最後に必ず「私はヴァーグナーを愛して いた」と付け加えていたという。また同じく発狂 後、ヴァーグナー夫⼈コジマ に宛てて「アリアド ネ、余は御⾝を愛す、ディオニュソス」と謎めいた 愛の⼿紙を送っていることから、コジマへの横恋 慕がヴァーグナーとの決裂に関係していたと⾒る 向きもある。⼀⽅のコジマは、ニーチェを夫ヴァー グナーを侮辱した男と⾒ており、マイゼンブーグ 充ての書簡では「あれほど惨めな男は⾒たことが ありません。初めて会った時から、ニーチェは病 に苦しむ病⼈でした」と書いている。 ペンハウアー』(1874 年)、『バイロイトにおける ヴァーグナー』(1876 年)である。これらの 4 本(の ちに『反時代的考察』(1876 年)の標題のもとに ⼀冊にまとめられる)はいずれも発展途上にある ドイツ⽂化に挑みかかる⽂明批評であり、その志 向性はショーペンハウエルとヴァーグナーの思想 を下敷きにしている。死後に『ギリシア⼈の悲劇 時代における哲学』として刊⾏される草稿をまと めはじめたのも 1873 年以降のことである。 またこの間にヴァーグナー宅での集まりにおい てマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク という⼥ 性解放運動 に携わるリベラルな⼥性(ニーチェや レーにルー・ザロメ(後述)を紹介したのも彼⼥で ある)やコジマ・ヴァーグナーの前夫である⾳楽 家ハンス・フォン・ビューロー、またパウル・レー らとの交友を深めている。特に 1876 年の冬にはマ イゼンブークやレーともにイタリア のソレント にあるマイゼンブークの別荘まで旅⾏に⾏き、哲 学的な議論を交わしたりなどしている(ここでの 議論をもとに書かれたレーの著書『道徳的感覚の 起源』をニーチェは⾼く評価していた。またソレ ント滞在中には偶然近くのホテルに宿泊していた ヴァーグナーと邂逅しており、これが⼆⼈があい まみえた最後の機会となる)。レーとの交友やそ の思想への共感は、初期の著作に⾒られたショー ペンハウエルに由来するペシミズム からの脱却 に⼤きな影響を与えている。 1878 年、『⼈間的な、あまりにも⼈間的な』出版。 形⽽上学 から道徳 まで、あるいは宗教 から性 ま での多彩な主題を含むこのアフォリズム 集にお いて、ついにヴァーグナーおよびショーペンハウエ ル からの離反の意を明らかにしたため、この書は ニーチェの思想における初期から中期への分岐点 とみなされる。また、初期ニーチェのよき理解者 であったドイッセンやローデとの交友もこのころ から途絶えがちになっている。 翌1879 年、激しい頭痛 を伴う病によって体調を 崩す。ニーチェは極度の近眼 で発作的に何も⾒え なくなったり、偏頭痛 や激しい胃痛に苦しめられ るなど、⼦供のころからさまざまな健康上の問題 を抱えており、その上 1868 年の落⾺事故や 1870 年に患ったジフテリア などの悪影響もこれに加 わっていたのである。バーゼル⼤学での勤務中も これらの症状は治まることがなく、仕事に⽀障を きたすまでになったため、10 年⽬にして⼤学を辞 職せざるをえず、以後は執筆活動に専念すること となった。ニーチェの哲学的著作の多くは、教壇 を降りたのちに書かれたものである。 1875 年、バーゼル⼤学教授時代のニーチェ 1873 年 から1876 年 にかけて、ニーチェは 4 本 の⻑い評論を発表した。『ダーヴィト・シュトラ ウス、告⽩者と著述家』(1873 年)、 『⽣に対する 、『教育者としてのショー 歴史の利害』(1874 年) 1.3 在野の哲学者として ニーチェは、病気の療養のために気候 のよい⼟地 を求めて、1889 年 までさまざまな都市を旅しな がら、在野の哲学者として⽣活した。夏はスイス のグラウビュンデン州サンモリッツ 近郊の村シ ルス・マリア で、冬はイタリア のジェノヴァ、ラ 1.3 在野の哲学者として 5 パッロ、トリノ、あるいはフランス のニース と いった都市で過ごした。 時折、ナウムブルクの家族のもとへも顔を出した が、エリーザベトとの間で衝突を繰り返すことが 多かった。ニーチェは、バーゼル⼤学からの年⾦ で⽣活していたが、友⼈から財政⽀援を受けるこ とがあった。かつての⽣徒である⾳楽家ペーター・ ガスト(本名はHeinrich Köselitz で、ペーター ・ガス トというペンネームは、ニーチェが与えたもので ある)が、ニーチェの秘書として勤めるようになっ ていた。ガストとオーヴァーベックは、ニーチェの ⽣涯を通じて、誠実な友⼈であり続けた。 また、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークも、 ニーチェがヴァーグナーのサークルを抜け出た後 もニーチェに対して、⺟性的なパトロンでありつ づけた。その他にも、⾳楽評論家のカール・フッ クス とも連絡を取り合うようになり、それなりの 交友関係がまだニーチェには残されていた。そし て、このころからニーチェの最も⽣産的な時期が はじまる。 1878 年に『⼈間的な、あまりに⼈間的な』を刊 ⾏した。そして、それを⽪切りにして、ニーチェ は1888 年 まで毎年 1 冊の著作(ないしその主要 部分)を出版することになる。特に、執筆⽣活最 後となる 1888 年には、5 冊もの著作を書き上げる という多産ぶりであった。1879 年 には、『⼈間的 からルー・ザロメ、パウル・レー、ニーチェ。1882 年 な』と同様のアフォリズム形式による『さまざま な意⾒と箴⾔』を、翌1880 年 には『漂泊者とその ルツェルンにて 影』を出版した。これらは、いずれも『⼈間的な』 の第 2 部として組み込まれるようになった。 ザロメの三⾓関係は1882 年 から翌年にかけての 冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬し てニーチェ・レー・ザロメの三⾓関係を不道徳なも 1.3.1 ルー・ザロメとの交友 のとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメ の仲を引き裂くために密かに企てた策略も⼀役 ニーチェは1881 年 に『曙光:道徳的先⼊観につい 買っている。後年、⾃分に都合のよい虚偽に満ち ての感想』を、翌1882 年 には『悦ばしき知識』の たニーチェの伝記を執筆するエリーザベトは、こ 第 1 部を発表した。『⼒への意志』として知られ の件に関しても兄の書簡を破棄あるいは偽造した る著作の構想が芽⽣えたのもこの時期と⾔われる りザロメのことを中傷したりなどして、均衡して (草稿類の残っているのは 84 年頃から)。またこの いた三⾓関係 をかき乱したのである。結果として、 年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークと ザロメとレーの⼆⼈はニーチェを置いてベルリン パウル・レーを通じてルー・ザロメ と知り合った。 へ去り、同棲 ⽣活を始めることとなった。 ニーチェは(しばしば付き添いとしてエリーザベ 失恋 による傷⼼、病気による発作の再発、ザロメ トを伴いながら)5 ⽉にはスイス のルツェルン で、 をめぐって⺟や妹と不和になったための孤独、⾃ 夏にはテューリンゲン州 のタウテンブルクでザロ 殺願望にとりつかれた苦悩などの⼀切から解放さ メやレーとともに夏を過ごした。ルツェルンでは れるため、ニーチェはイタリアのラパッロ へ逃れ、 レーとニーチェが⾺⾞を牽き、ザロメが鞭を振り そこでわずか 10 ⽇間のうちに『ツァラトゥスト 回すという悪趣味な写真をニーチェの発案で撮影 ラはかく語りき』の第 1 部を書き上げる。 している。ニーチェにとってザロメは対等なパー ショーペンハウアー との哲学的つながりもヴァー トナーというよりは、⾃分の思想を語り聞かせ、 グナー との社会的つながりも断ち切ったあとで 理解しあえるかもしれない聡明な⽣徒であった。 は、ニーチェにはごくわずかな友⼈しか残ってい 彼はザロメと恋に落ち、共通の友⼈であるレーを なかった。ニーチェはこの事態を⽢受し、みずから さしおいてザロメの後を追い回した。そしてつい の孤⾼の⽴場を堅持した。⼀時は詩⼈になろうか にはザロメに求婚するが、返ってきた返事はつれ とも考えたがすぐにあきらめ、⾃分の著作がまっ ないものだった。 たくといってよいほど売れないという悩みに煩わ レーも同じころザロメに結婚を申し⼊れて同様に されることとなった。1885 年 には『ツァラトゥス 振られている。その後も続いたニーチェとレーと トラ』の第 4 部を上梓するが、これはわずか 40 部 6 1 ⽣涯 を印刷して、その⼀部を親しい友⼈へ献本するだ き記す。12 ⽉、ニーチェはストリンドベリ との けにとどめた。 ⽂通を始める。また、このころのニーチェは国際 1886 年 にニーチェは『善悪の彼岸』を⾃費出版 し 的な評価を求め、過去の著作の版権を出版社から た。この本と、1886 年から1887 年 にかけて再刊し 買い戻して外国語訳させようとも考えた。さらに たそれまでの著作(『悲劇の誕⽣』 『⼈間的な、あ 『ニーチェ対ヴァーグナー』と『ディオニュソス賛 まりに⼈間的な』 『曙光』 『悦ばしき知識』)の第 2 歌』の合本を出版しようとの計画も⽴てた。また 版が出揃ったのを⾒て、ニーチェはまもなく読者 『⼒への意志』も精⼒的に加筆や推敲を重ねたが、 層が伸びてくるだろうと期待した。事実、ニーチェ 結局これを完成させられないままニーチェの執筆 歴は突如として終わりを告げる。 の思想に対する関⼼はこのころから(本⼈には気 づかれないほど遅々としたものではあったが)⾼ まりはじめていた。 1.4 狂気と死 メータ・フォン・ザーリス やカール・シュピッテ ラー* [4]、ゴットフリート・ケラー* [5] と知り合っ たのはこのころである。 1886 年、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者 のベ ルンハルト・フェルスター と結婚し、パラグア イ に「ドイツ的」コロニーを設⽴するのだとい う(ニーチェにとっては噴飯物の)計画を⽴てて 旅⽴った。書簡の往来を通じて兄妹の関係は対⽴ と和解のあいだを揺れ動いたが、ニーチェの精神 が崩壊するまで 2 ⼈が顔を合わせることはなかっ た。 病気の発作が激しさと頻度を増したため、ニー チェは⻑い時間をかけて仕事をすることが不可能 になったが、1887 年には『道徳の系譜』を⼀息に 書き上げた。同じ年、ニーチェはドストエフスキー の著作(『悪霊』『死の家の記録』など)を読み、 その思想に共鳴している。 また、イポリット・テーヌ* [6] やゲーオア・ブラ ンデス* [7] とも⽂通を始めている。ブランデスは ニーチェとキェルケゴール を最も早くから評価 していた⼈物の⼀⼈であり、1870 年代からコペン ハーゲン⼤学 でキェルケゴール哲学を講義して いたが、1888 年 には同⼤学でニーチェに関するも のとしては最も早い講義を⾏い、ニーチェの名を 世に知らしめるのに⼀役買った批評家である。 ブランデスはニーチェにキェルケゴールを読んで みてはどうかとの⼿紙を書き送り、ニーチェは薦 晩年のニーチェ。ハンス・オルデ撮影、1899 年 めにしたがってみようと返事をしている* [8]。 ニーチェは1888 年 に 5 冊の著作を書き上げた(著 1889 年1 ⽉ 3 ⽇、ニーチェはトリノ 市の往来で騒 作⼀覧 参照) 。健康状態も改善の兆しを⾒せ、夏は 動を引き起し、⼆⼈の警察官の厄介になった。 快適に過ごすことができた。この年の秋ごろから、 数⽇後、ニーチェはコジマ・ヴァーグナー やブル 彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」 クハルト ほか何⼈かの友⼈に以下のような⼿紙 に重きを置くようになり、⾃分の著書(なかんず を送っている。ブルクハルト宛の⼿紙では く『ヴァーグナーの場合』)に対する世評について 増加の⼀途をたどっていると過⼤評価するように と書き、またコジマ・ヴァーグナー宛の⼿紙では、 までなった。 というものであった。 ニーチェは、44 歳の誕⽣⽇に、⾃伝『この⼈を⾒ よ』の執筆を開始した。『偶像の⻩昏』と『アン チクリスト』を脱稿して間もない頃であった。序 ⽂には「私の⾔葉を聞きたまえ!私はここに書か れているがごとき⼈間なのだから。そして何よ り、私を他の誰かと間違えてはならない」と、各 章題には「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くの か」「なぜ私は⼀つの運命であるのか」とまで書 1 ⽉ 6 ⽇、ブルクハルトはニーチェから届いた⼿ 紙をオーヴァーベックに⾒せたが、翌⽇にはオー ヴァーベックのもとにも同様の⼿紙が届いた。友 ⼈の⼿でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要が あると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆け つけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ⼊院さ せた。ニーチェの⺟フランツィスカはイェーナ の 病院で精神科医オットー・ビンスワンガー(Otto 7 1897 年 に⺟フランツィスカが亡くなったのち、兄 1889 年 11 ⽉から1890 年2 ⽉まで、医者のやり⽅ 妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトは では治療効果がないと主張したユリウス・ラン ニーチェの⾯倒をみながら、訪ねてくる⼈々(そ グベーン(Julius Langbehn)が治療に当たった。彼 の中にはルドルフ・シュタイナー もいた)に、も はニーチェの扱いについて⼤きな影響⼒をもった はや意思の疎通ができない兄と⾯会する許可を与 が、やがてその秘密主義によって信頼を失った。 えていた。 Binswanger)に診てもらうことに決めた。 フランツィスカは1890 年3 ⽉にニーチェを退院さ 1900 年8 ⽉ 25 ⽇、ニーチェは肺炎を患って 55 歳 せて 5 ⽉にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻し で没した。エリーザベトの希望で、遺体は故郷 た。 レッケンの教会で⽗の隣に埋葬された。ニーチェ は「私の葬儀には数少ない友⼈以外呼ばないで欲 しい」との遺⾔を残していたが、エリーザベトは ニーチェの友⼈に参列を許さず、葬儀は⽪⾁にも 軍関係者および知識⼈層により壮⼤に⾏なわれ た。ガストは弔辞でこう述べている。 エリーザベトはニーチェの死後、遺稿を編纂して 『⼒への意志』を刊⾏した。エリザベートの恣意的 な編集はのちに「ニーチェの思想はナチズム に通 じるものだ」との誤解を⽣む原因となった(次節 参照)。決定版全集ともいわれる『グロイター版 ニーチェ全集』の編集者マッツィノ・モンティネ リは「贋作」と⾔っている。 2 思想 ニーチェはソクラテス以前の哲学者 も含むギリ シア哲学 やアルトゥル・ショーペンハウアー など から強く影響を受け、その幅広い読書に⽀えられ た鋭い批評眼で⻄洋⽂明 を⾰新的に解釈した。実 存主義 の先駆者、または⽣の哲学 の哲学者とさ れる。先⾏の哲学者マックス・シュティルナー と の間に思想的類似点(ニーチェによる「超人」と シュティルナーによる「唯一者」との思想的類似 点等々)を⾒出され、シュティルナーからの影響 がしばしば指摘されるが、ニーチェによる明確な エリーザベト・フェルスター=ニーチェ、1894 年 ⾔及はない。そのことはフリードリヒ・ニーチェ とマックス・シュティルナーとの関係性 の記事に 詳しい。 この間にオーヴァーベックとガストはニーチェの 未発表作品の扱いについて相談しあった。1889 年 ニーチェは、神、真理、理性、価値、権⼒、⾃我 な 1 ⽉にはすでに印刷・製本されていた『偶像の⻩ どの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解 昏』を刊⾏、2 ⽉には『ニーチェ対ヴァーグナー』 釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズ の私家版 50 部を注⽂する(ただし版元の社⻑ C・ ム、ルサンチマン、超⼈、永劫回帰、⼒への意志 G・ナウマンはひそかに 100 部印刷していた) 。ま などの独⾃の概念によって新たな思想を⽣みだし たオーヴァーベックとガストはその過激な内容の た。 ために『アンチクリスト』と『この⼈を⾒よ』の 有名な永劫回帰(永遠回帰)説は、古代ギリシア 出版を⾒合わせた。 の回帰的 時間概念を借⽤して、世界は何か⽬標に 向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度 も繰り返すという世界観 をさす。これは、⽣存す 1.5 エリーザベトと『力への意志』 ることの不快や苦悩を来世 の解決に委ねてしま うクリスチャニズム の悪癖を否定し、無限に繰り 1893 年、エリーザベトが帰国した。夫がパラグア のない、どのような⼈⽣であっても無 返し、意味 イで「ドイツ的」コロニー経営に失敗し⾃殺した ためであった。彼⼥はニーチェの著作を読み、か 限に繰り返し⽣き抜くという超⼈ 思想につなが つ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して⽀ る概念である。 配⼒を振るうようになった。その結果オーヴァー 彼 は、 ソ ク ラ テ ス 以 前 の ギ リ シャ に 終 ⽣ 憧 『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は ベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従 れ、 死んだ」と宣⾔し、⻄洋⽂明 が始まって以来、特 うことを選んだ。 8 4 個々の著作の概要 にソクラテス 以降の哲学・道徳・科学 を背後で⽀ え続けた思想の死を告げた。 いた「⼒」とは違う意味で)政治権⼒志向を肯定 する著書であるかのような改竄をおこなって刊⾏ それまで世界 や理性を探求するだけであった哲 したことなどが⼤きく影響している。 学を改⾰し、現にここで⽣きている⼈間それ⾃⾝ しかしながら、ルカーチ・ジェルジ や戦後に刊⾏ の探求に切り替えた。⾃⼰との社会・世界・超越 のトーマス・マン の、ニーチェをモデルにした⼩ 者 との関係について考察し、⼈間は理性的⽣物 説『ファウストゥス博⼠』において、ニーチェを でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという ナチズムと結びつけて捉えるべきかのように⽰唆 負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされ する観点をもつ研究者や作家も存在する。 ていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因 とくにそれは優⽣学 に基づいた政策を⼈間に当 であり、それを超越した⼈間が強者であるとした。 てはめることを肯定する態度に表れている。 さらには絶対的原理を廃し、次々と⽣まれ出る真 ナチスはユダヤ⼈虐殺以前に、障害者を強制「断 理の中で、それに戯れ遊ぶ⼈間を超⼈とした。 種」して、その後、精神病院にガス室をつくって すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチ 障害者を多数「安楽死」させていた。T4 作戦 も マンに満たされた⼈間の持つ価値、及び⻑らく⻄ 参照。上記のニーチェの思想はナチスの⾏為を正 洋思想を⽀配してきた形⽽上学 的価値といった 当化するものとの誤解を与えかねないものであっ ものは、現にここにある⽣から⼈間を遠ざけるも た。 のであるとする。そして⼈間は、合理的な基礎を 持つ普遍的な価値を⼿に⼊れることができない、 流転する価値、⽣存の前提となる価値を、承認し 続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存 3 それ以後の哲学・思想への影響 在でもある)であるとするのである。だが⼀⽅で、 そういった悲劇的認識に達することは、既存の価 ニーチェの哲学がそれ以後の⽂学・哲学 に与えた 値から離れ⾃由なる精神を獲得したことであると 影響は多⼤なものがあり、影響を受けた⼈物をあ する。その流転する世界の中、流転する真理は全 げるだけでも相当な数になるが、彼から特に影響 て⼒への意志と⾔い換えられる。いわばニーチェ を受けた哲学者、思想家としてはハイデガー、ユ の思想は、⾃⾝の中に(その瞬間では全世界の中 ンガー、バタイユ、フーコー、ドゥルーズ、デリ に)⾃⾝の⽣存の前提となる価値を持ち、その世 ダ らがいる。1968 年 のフランス五⽉⾰命の⺠主 界の意志によるすべての結果を受け⼊れ続けるこ 化運動も、バックボーンはニーチェ精神だった。 とによって、現にここにある⽣を肯定し続けてい くことを⽬指したものであり、そういった⽣の理 想的なあり⽅として提⽰されたものが「超⼈」で 4 個々の著作の概要 あると⾔える。 ニーチェの思想は妹のエリザベートがニーチェの 4.1 『悲劇の誕生』 メモをナチスに売り渡した事でナチス のイデオ ロギーに利⽤されたが、そもそもニーチェは、反 初期の著作には、『⾳楽の精神からの悲劇の誕 ユダヤ主義 に対しては強い嫌悪感を⽰しており、 ⽣』 (なお、1886 年 の新版以降は『悲劇の誕⽣、 妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者として知られ あるいはギリシア 精神とペシミズム』と改題され ていたベルンハルト・フェルスター と結婚したの ている)がある。これは、哲学書ではなく、古典 ち、1887 年 には次のような⼿紙を書いている。 ⽂献学の本である。 また、1889 年1 ⽉ 6 ⽇ヤーコプ・ブルクハルト 宛 ニーチェにしてみれば、厭世的と⾒られていた当 ての最後の書簡は、「ヴィルヘルム とビスマルク、 時の古典ギリシア 時代の常識を覆し、アポロン 的 全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」と記して ―ディオニュソス 的という斬新な概念を導⼊し いる。主著『善悪の彼岸』の「⺠族と祖国」では て、当時の世界観を説いた野⼼作であった。しか ドイツ的なるものを揶揄して、「善悪を超越した し、このような独断的な内容は、厳密に古典⽂献 無限性」を持つユダヤ⼈にヨーロッパは感謝せね を精読するという当時の古典⽂献学の⼿法からす ばならず、「全ての疑いを超えてユダヤ⼈こそが れば、暴挙に近いものだった。そのため、周囲か ヨーロッパで最強で、最も強靭、最も純粋な⺠族 らは学問的厳密さを⽋く著作として受け取られ、 である」などと絶賛し、さらには「反ユダヤ主義 ヴァーグナーや友⼈のローデを除いて、学界から にも効能はある。⺠族主義 国家の熱に浮かされ は完全に黙殺された。 ることの愚劣さをユダヤ⼈に知らしめ、彼らをさ らなる⾼みへと駆り⽴てられることだ」とまで書 また、師匠のリッチュルも、単にヴァーグナーの⾳ いている。にもかかわらずナチスに悪⽤されたこ 楽を賛美するために古典⽂献学 を利⽤したと思 「才気を失った酔っ払い」の書と酷評したた とには、ナチスへ取り⼊ろうとした妹エリーザベ い、 トが、⾃分に都合のよい兄の虚像を広めるために め、リッチュルとの関係が悪化した。この書の評 ⾮事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をした 判が響いて、発表した1872 年 の冬学期のニーチェ り、遺稿『⼒への意志』が(ニーチェが標題に⽤ の講義を聞くものは、わずかに 2 名であった(古 典⽂献学 専攻の学⽣は皆無)。満を持してこの本 4.3 『⼈間的な、あまりにも⼈間的な』 9 を出版したニーチェは、⼤きなショックを受けた。 はやがて訪れる⼆⼈の決裂の兆しを⾒せてい る。 そして、ニーチェは、⾃⾝の著作が受け容れられ ないのは、現代のキリスト教的価値観に囚われ たままで古典を読解するという当時の古典⽂献学 の⽅法にあると考え、やがて激しい古典⽂献学批 4.3 『人間的な、あまりにも人間的な』 判を⾏なう。そして、『悲劇の誕⽣』で説いたよう な、悲劇の精神から遊離し、⽣というものを⾒ず、 1878 年 に初版を刊⾏、1886 年 の第 2 版からは『さ 俗物的⽇常性に埋没し、単に教養することに⾃⼰ まざまな意⾒と箴⾔』(1879 年)と『漂泊者とそ 満⾜して、その教養を⾃⾝の⽣にまったく活⽤し の影』(1880 年)をそれぞれ第 2 巻第 1 部および ようとしない、当時のドイツ に蔓延していた⾵潮 第 2 部として増補、題名も『⼈間的な、あまりに を、「教養俗物」 (Bildungsphilister)と名づけ、それ ⼈間的な ―― ⾃由精神 のための書』と改めた。本 に対する⾟辣な批判を後の『反時代的考察』で展 書はニーチェの中期を代表する著作であり、ドイ ツ・ロマン主義 およびワーグナーとの決別や明瞭 開していくことになる。 な実証主義 的傾向が⾒て取られる。 4.2 『反時代的考察』 これは、ヨーロッパ、特にドイツ の⽂化の現状に 関して、1873 年 から1876 年 にかけて執筆された 4 編(当初は 13 編のものとして構想された)から なる評論集である。 1.「ダーヴィト・シュトラウス、告⽩者と著述 家」(1873 年):これは、当時のドイツ思想を 代表していたダーフィト・シュトラウス の 『古き信仰と新しき信仰: 告⽩』(1871 年)へ の論駁である。ニーチェは、科学的に、すな わち歴史の進歩に基づく決然とした普遍的技 法によって、シュトラウスの⾔う「新しい信 仰」なるものが⽂化の頽廃にしか寄与しない 低俗な概念に過ぎないことを喝破したばかり か、シュトラウス本⼈をも俗物と呼んで攻撃 した。 また、本書の形式にも注⽬する必要がある。体系 的な哲学の構築を避け、短いものは 1 ⾏、⻑いもの でも 1、2 ページからなるアフォリズム 数百篇に よって構成するという中期以降のスタイルは、本 書をもって嚆⽮とする。この本では、ニーチェの思 想の根本要素が垣間⾒られるとはいえ、何かを解 釈するというよりは、真偽の定かでない前提の暴 露を盛り合わせたものである。ニーチェは、「パー スペクティヴィズム」と「⼒への意志」という概 念を⽤いている。 4.4 『曙光』 『曙光』(1881 年)において、ニーチェは、動因と しての快楽主義 の役割を斥けて「⼒の感覚」を強 調する。また、道徳と⽂化の双⽅における相対主 義 とキリスト教 批判が完成の域に達した。この 明晰で穏やかで個⼈的な⽂体のアフォリズム 集 2.「⽣に対する歴史の利害」(1874 年) :ここで の中で、ニーチェが求めているのは、⾃分の⾒解 は、単なる歴史に関する知識の蓄積をもっ に対する読者の理解よりも、⾃らが特殊な体験を て こ と が ⾜ り る と す る 従 来 の 考 え ⽅ を 退 得ることであるようにも⾒られる。この本でもま け、「⽣」を主要な概念として、新たな歴史の た、後年の思想の萌芽が散⾒される。 読み⽅を提⽰し、さらにはそれが社会の健全 さを⾼めもするであろうことを説明する。 3.「教育者としてのショーペンハウアー」 (1874 年) :アルトゥル・ショーペンハウアー の天才 的な哲学がドイツ ⽂化の復興をもたらすで あろうことが述べられる。ニーチェは、ショー ペンハウアーの個⼈主義 や誠実さ、不動の意 志だけでなく、ペシミズム によって、この有 名な哲学者の陽気さに注⽬している。 4.5 『悦ばしき知識』 『悦ばしき知識』(1882 年)は、ニーチェの中期の 著作の中では最も⼤部かつ包括的なものであり、 引き続きアフォリズム 形式をとりながら、他の 諸作よりも多くの思索を含んでいる。中⼼となる テーマは、「悦ばしい⽣の肯定」と「⽣から美的な 歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タ 4.「バ イ ロ イ ト に お け る リ ヒャ ル ト・ ワー グ イトルは思索法を表すプロヴァンス語 からつけ :この論⽂では、リヒャルト・ られたもの)。 ナー」(1876 年) ワーグナー の⼼理学を探求している。当時の たとえば、ニーチェは、有名な永劫回帰 説を本書 ニーチェの⼼の中では、ワーグナーへの⼼酔 で提⽰する。これは、世界とその中で⽣きる⼈間 と疑念が⼊り混じっていたため、対象となっ の⽣は⼀回限りのものではなく、いま⽣きている ている⼈物との親密さのわりには、追従めい のと同じ⽣、いま過ぎて⾏くのと同じ瞬間が未来 たところがない。そのため、ニーチェはしば 永劫繰り返されるという世界観である。これは、 らく出版をためらっていたが、結局はワーグ 来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にする ナーに対して批判的な⽂⾔の控えめな状態の ことを強いるキリスト教 的世界観と真っ向から 原稿を出版した。にもかかわらず、この評論 対⽴するものである。 6 著作 10 永劫回帰 説もさることながら、『悦ばしき知識』 を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの⾃然主 義 的・美学 的離別を決定づける「神は死んだ」と いう主張であろう。 4.6 『ツァラトゥストラはかく語りき』 『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェの 主著であるとされており、またリヒャルト・シュ トラウス に、同名の交響詩 を作曲させるきっか けとなった。なお、ツァラトゥストラとは、ゾロ アスター教(拝⽕教)の開祖ザラスシュトラ の名 前のドイツ語形の⼀つであるが、歴史上の⼈物と は直接関係のない⽂脈で思想表現の器として利⽤ されるにとどまっている。 4.7 曲』交響詩『エルマナリヒ』など、オーケストラ を 念頭に置いて書かれたであろう作品も存在する。 また、オペラ のスケッチを残しており、2007 年 にジークフリート・マトゥス がそのスケッチを⾻ ⼦としてオペラ『コジマ』を作曲した。 その他 •『善悪の彼岸』 •『道徳の系譜』 •『偶像の⻩昏』 •『ヴァーグナーの場合』 6 著作 •『⾳ 楽 の 精 神 か ら の ギ リ シ ア 悲 劇 の 誕 ⽣』(『悲劇の誕⽣』)(Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik,1872) •『反 時 代 的 考 察』(以 下 の 論 ⽂ 所 収)(Unzeitgemässe Betrachtungen, 1876) •「ダーヴィト・シュトラウス、告⽩者と著 述家」(David Strauss: der Bekenner und der Schriftsteller, 1873) •「⽣ に 対 す る 歴 史 の 利 害」(Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben, 1874) •「教 育 者 と し て の ショー ペ ン ハ ウ アー」(Schopenhauer als Erzieher, 1874) •「バ イ ロ イ ト に お け る ヴァー グ ナー」(Richard Wagner in Bayreuth, 1876) •『アンチクリスト』(『反キリスト 者』; 独語Der Antichrist) •『⼈ 間 的 な、 あ ま り に も ⼈ 間 的 な』(Menschliches, Allzumenschliches, 1878) •『この⼈を⾒よ』 •『曙光』(Morgenröte, 1881) •『ニーチェ対ヴァーグナー』 •『悦 ば し き 知 Wissenschaft,1882) •『⼒への意志』(ニーチェの死後、遺稿を元にエ リーザベトが編集出版したもの。⻑らくニー チェの主著と⾒なされていた。) 識』(Die fröhliche •『ツァ ラ トゥ ス ト ラ は か く 語 り き』(Also sprach Zarathustra, 1885) •『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Böse, 1886) 5 作曲 ニーチェは、専⾨的な⾳楽教育を受けたわけで はなかったが、13 歳頃から 20 歳頃にかけて歌曲 やピアノ 曲などを作曲した。その後、作曲する ことはなくなったが、ヴァーグナーとの出会いを 通して刺激を受け、バーゼル時代にもいくつかの 曲を残している。作⾵は前期ロマン派的であり、 シューベルト やシューマン を思わせる。彼が後に まったく作曲をしなくなったのは、本業で忙しく なったという理由のほかに、⾃信作であった『マ ンフレッド 瞑想曲』をハンス・フォン・ビューロー に酷評されたことが理由として考えられる。 現在に⾄るまで、ニーチェが作曲家として認識さ れたことはほとんどないが、著名な哲学者の作曲 した作品ということで、⼀部の演奏家が録⾳で取 り上げるようになり、徐々に彼の「作曲もする哲 学者」としての側⾯が明らかになっている。彼の 作品は、すべて歌曲かピアノ曲のどちらかである が、四⼿連弾の作品の中には『マンフレッド瞑想 •『道徳の系譜』(Zur Genealogie der Moral, 1887) •『ヴァーグナーの場合』(Der Fall Wagner, 1888) •『ニー チェ 対 ヴァー グ ナー』(Nietzsche contra Wagner, 1888) •『偶像の⻩昏』(Götzen-Dämmerung, 1888) •『アンチクリスト』(あるいは『反キリスト 者』)(Der Antichrist, 1888) •『この⼈を⾒よ』(Ecce homo, 1888) 遺稿集には •『⼒ へ の 意 志』(遺 稿。 妹 が 編 纂)(Wille zur Macht, 1901) •『⽣成の無垢』(遺稿。アルフレート・ボイム ラー編)(Die Unshuld des Werdens, Alfred Kröner Verlag in Stuttgart, 1956) 11 6.1 日本語訳 ※「全集」は、⽩⽔社 版(第 1 期全 12 巻・第 2 期 全 12 巻)と、筑摩書房「ちくま学芸⽂庫」(全 15 巻、元版は理想社)。ただし、⽩⽔社版は第 3 期 (多くの遺稿集がある)が未刊⾏で、⼤半は版元品 切。なお⽂庫版全集は、上記全作品の他に別巻 4 冊(書簡や遺稿集を収録)が刊⾏されている。 [10] 引⽤者訳注:ニーチェの思想を歪曲して利⽤した らしい反ユダヤ主義⽂書 8 • Nietzsche et la philosophie (1962) ジル・ドゥ ルーズ (Gilles Deleuze) 著 ISBN-10: 2130532624 , ISBN-13: 978-2130532620 『ツァ ラ トゥ ス ト ラ は こ う ⾔っ た』、 『悲 劇 の 誕 ⽣』、『道徳の系譜』、 『善悪の彼岸』、 『この⼈を⾒ よ』などの主要作品は、岩波⽂庫・光⽂社古典新 訳⽂庫 などに収録されている。 • 邦訳『ニーチェと哲学』⾜⽴和浩 訳、国 ⽂社 (1974) • 邦訳『ニーチェと哲学』江川隆男訳、河出 ⽂庫 (2008) ISBN-10: 430946310X , ISBN13: 978-4309463100 • ニーチェ⾳楽関連年譜 • マンフレッド瞑想曲 • ニーチェ作品集 • Nietzsche et le cercle vicieux (1969)ピエール・ クロソウスキー(Pierre Klossowski) 著 • 新作オペラ『コジマ』 7 • 邦訳『ニーチェと悪循環』兼⼦正勝 訳、 哲学書房、1989/ 筑摩書房〈ちくま学芸 ⽂庫〉、2004 年 脚注 • Nietzsche Aujourd hui?" 邦訳『ニーチェは今 ⽇?』J = Fリオタール、G・ドゥルーズ、J・ デリダ共著、林好雄・本間邦雄・森本和夫 共 訳、筑摩書房〈ちくま学芸⽂庫〉、2002 年 [1]『現代独和辞典』三修社、1992 年、第 1354 版によ る。 [2] 卒業⽣にはライプニッツ、フィヒテ、ランケ、シュ レーゲル兄弟 などがいる • Nietzsche (1961) マルティン・ハイデッガー (Martin Heidegger) 著 [3] ただし普仏戦争(1870 年 - 1871 年)中の⼀時期だ けはプロイセン軍に従軍し、トラウマにもなる経 験をしたうえにジフテリア や⾚痢 を患ったりも している。 •『ニーチェ』⽩⽔社全 3 巻 •『ニーチェ〈1〉美と永遠回帰』(平凡社ラ イブラリー) [新書] [4] 1919 年 にノーベル⽂学賞 を受賞した作家。処⼥作 『プロメテウスとエピメテウス』はしばしば『ツァ ラトゥストラ』からの影響が指摘される。 •『ニーチェ〈2〉ヨーロッパのニヒリズム』 (平凡社ライブラリー) [新書] [5] ニーチェはケラーの教養⼩説『緑のハインリヒ』 を、ゲーテ 作『ヴィルヘルム・マイスター』やシュ ティフター 作『晩夏』とともにドイツ⽂学の中で 最も⾼く評価している。 • ルー・ザロメ『ルー・ザロメ著作集〈3〉ニーチェ ⼈と作品』(1974 年) 以⽂社 [6] ニーチェは 1886 年に『善悪の彼岸』をテーヌに寄 贈し、後⽇テーヌから好意的な礼状を受け取って いる。 • ⻄部邁 「101 ニーチェ」『学問』講談社、2004 年、327-329 ⾴。ISBN 4-06-212369-X。 • ⻄部邁「近代に突き刺さった棘フリードリッ ヒ・ニーチェ」『思想の英雄たち保守の源流 をたずねて』⾓川春樹事務所〈ハルキ⽂庫〉、 2012 年、73-87 ⾴。ISBN 978-4-7584-3629-8。 [7]『道徳の系譜』を寄贈されたことがニーチェとの交 流の契機となった。 [8] キェルケゴールはニーチェが著述活動を始める前 の1855 年 に亡くなっており、またニーチェはこの 後すぐに発狂してしまったため、ともに「実存主義 の始祖」として知られる 2 ⼈は互いの思想に触れ ることがなかったと⻑らく信じられてきた。しか しその後の研究によって、キェルケゴールの思想 を解説・批評した⼆次資料 のいくつかをニーチェ が読んでいたことが明らかになっている。 [9] ニーチェ⾃⾝がいかに神聖視されたくないかを 『この⼈を⾒よ』の中で語っていることに注意する 必要がある。 「私は聖者にはなりたくない。道化の ほうがまだましだ」 参考文献 • 橋本智津⼦『ニヒリズムと無』京都⼤学学術 出版会、2004 年。ISBN 4-87698-642-8 9 関連項目 • ⽣の哲学 • 歴史主義 12 10 外部リンク • http://www.lenahades.co.uk/#! portraits-of-friedrich-nietzsche/c1u64 レ ナ・ハデス のフリードリヒニーチェの肖像画 • Nietzsche Source Digitale Kritische Gesamtausgabe (eKGWB)(コ リ・ モ ン ティ ナリ版) 10 外部リンク