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近世初頭ネーデルランドとイングランドの同盟‐16世紀

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近世初頭ネーデルランドとイングランドの同盟‐16世紀
Nara Women's University Digital Information Repository
Title
近世初頭ネーデルランドとイングランドの同盟‐16世紀前半の経済
および軍事を背景としたイングランド王の対応‐
Author(s)
加来, 奈奈
Citation
人間文化研究科年報, Vol.24, pp.51-63
Issue Date
2009-03-31
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/1104
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近世初頭ネーデルランドとイングランドの同盟
一16世紀前半の経済および軍事を背景としたイングランド王の対応一
加 来奈 奈*
近世初頭のネーデルランドは、ブローデルが「世界経済」と呼ぶところ、また、ウォーラース
テインの『近代世界システム』のなかで論じられているところの最も重要な中心であった1。そ
の中でも、特に16世紀前半には、アントウェルペンの繁栄が際立っている。そして、このアント
ウェルペンでの経済発展の恩恵を最も受けるのが、毛織物貿易で関係の深いイングランドであっ
た2。イングランドとネーデルランドめ経済的な協力関係は、政治的関係につながる3。16世紀前
半のハプスブルク家の君主4とイングランド王は、相互間の貿易を奨励し、保護する。また、1520
年代の初めまでは、この君主問の関係は、フランスを敵にして、とりわけ良好なものであったと
考えられる。しかし、ネーデルランドの支配者が、神聖ローマ皇帝かつスペイン王となったカー
ル5世の時代5になるど、広大な所領のなかでそれぞれの領域が抱える政治的な立場から、ネー
デルランドとイングランドとの関係は複雑になる。では、ネーデルランドとイングランドの関係
は、「国際関係」のなかでどのように変化していったのか。本稿では、ネーデルランドのイングラ
ンドとの関係について、その経済的及び軍事的背景を確認したうえで、イングランド王が反ハプ
スブルクへと立場を逆転する重要な出来事として、1527年の動き6に注目し、ネーデルランドと
イングランド間の関係の変化について考察する。
1.アントウェルペンとイングランド 一1527年に至るまでの通商関係一
ネーデルランドとイングランドの通商関係を考える上で重要なのが、毛織物を中心とした貿易
であり、世界各国の多くの研究者が関心をよせてきた。そのなかでも、毛織業をはじめとする繊
維関係の品物の研究は、最も注目されるところである7。
ネーデルランドにおいて、中世に毛織業および商業の栄華を極めたのはブルッへであった。し
かし、ブルッへはイングランドとの毛織業の競合に負け、15世紀末に衰退する。それに対して、
15世紀末から16世紀前半にかけてブルッへを凌いでくるのがアントウェルペンであった。皇帝マ
クシミリアン1世の保護のもと、アントウェルペンでは外来商人の自由な取引が可能になり、国
際商業の中枢へと発展する。このアントウェルペンにフッガー家、ウェルザー家など多くの豪商
が拠点を置くようになった。特に、フッが一家はチロルの銀や東欧の銅など大規模の鉱山物取引
と政治的な貸付に乗り出し、アントウェルペンの市場で重要な役割を果たした。ハンザ商人、南
ドイツやイタリアの商人が集まり、さらに、ポルトガル、スペインと結びつき東方の香辛料が押
し寄せ、アントウェルペンはヨーロッパの最大の中継貿易地となる。ブルッへには、イタリア、
ドイツ・ハンザ商人が中心に活動していた一方で、アントウェルペンには、すでに14世紀末から
イングランドの商人が集まっていた8。フランドルでは、14世紀からしばしばイングランド産毛
*比較文化学専攻
一51一
織物の禁輸措置がとられ、イングランド商入の活動に制限が加えられていた。そのため、イング
ランド毛織物の輸出を担ったのがイングランドのマーチャント・アドベンチャラーズ・カンパニ
ー9であり、15世紀半ばからすでにアントウェルペンに定着するようになった10。アントウェルペ
ンが国際商業の中枢に選ばれたことで、最も活動の恩恵を受けることになったのがイングランド
の商人であり11、なかでもマーチャンド・アドベンチャラーズが海外での商業活動の中心をアン
トウェルペンにおいていた。ヘンリー7世はマーチャント・アドベンチャラーズの成功がイング
ランドの商業の成功となることを認識し、その積極的保護i者となった12。そして、16世紀を通し
て、マーチャンド・アドベンチャラーズはイングランドの為替政策・対外債務の返済で重要な役
割を果たすようになる13。16世紀前半、ロンドンとアントウェルペンとの問に安定した枢軸間貿
易ルート14が確立することによって、イングランドの貿易が伸長する15。また、アントウェルペン
の市場からロンドンへ向けて、高級奢修品のみでなく、日常消費物資も重要な商品として運ばれ
ており、ロンドンにとってアントウェルペンは多種多様な日常消費物を供給する唯一、かつ最大
の国際市場であった16。イングランドの輸出先の3分の2を占めるのがアントウェルペンである
17
Bさらに、16世紀後半以後に、アントウェルペンで発展した為替取引の施設の建設など、金融
市場のあり方をイングランドは模倣した18。こういつたことから、イングランドの市場にとって、
アントウェルペンの市場は、取引や発展のためにも欠かせないものであったと考えられ、君主の
問でもそれを認めていた。
次に、貿易収支について大まかに確認する。16世紀の南ネーデルランド19の貿易バランスは、
スペイン、ポルトガル、フランス、ドイツと同様に、イングランドに対しても黒字であった20。そ
の一方で、イングランドの輸出の3分の2がアントウェルペンに、残りの3分の1がイベリア半
島とフランスに向けられ、繁栄を極めており、ハプスブルク領全体に対してイングランドは黒字
であった2エ。そのなかで、ハプスブルク領ではフッガー家などが採掘する南ドイツや東欧の銀や
銅などの資本があり、対外債務の解消についてはアントウェルペンの金融市場での借り入れも重
要であったと考えられる。
以上のように、ネーデルランドとイングランドの君主は、「国家」的な利益のためにもお互いの
貿易を保護することが有効であった。ネーデルランドの君主とイングランド王が友好関係を築き
上げることは好ましいこといえるであろう。
しかし、1526年ハブ.スブルク・フランス間のマドリッド条約締結後に、イングランドはフラン
スと同盟を結び、ネーデルランドとの通商が停滞することになる。では、この通商を停滞させる
ほどイングランドを動かしたものは何であったのか。また、それはイングランドにとってどのよ
うな利益があったのか。
次に、ネーデルランドとイングランドの君主間の軍事同盟を確認した上で、マドリッド条約以
後の決裂とその後に結ばれる和約締結といった一連の動きから、ハプスブルク家とイングランド
の決裂の意味を検討する。
2.軍事同盟 一イングランド王とネーデルランドー
ネーデルランドの君主とイングランド王家は、ブルゴーニュ公家の時代から深い宮廷問の関わ
りをもってきた。百年戦争、ばら戦争によるヨーク家エドワードの亡命、ガーター騎士団と金羊
一52一
毛騎士団、さらに黒本など、宮廷間の相互関係を示すものは多く、後の歴史にも重要な影響を与
えるものであった22。フランス王国から独立を求めたブルゴーニュ公シャルル突進公の死後、ハ
プスブルク家の君主がネーデルランドの君主となっても、イングランド王との関係は比較的良好
であると考えられる。チューダ昨朝ヘンリー7世がイングランド王位に就く際には、フランス王
家からの援助を受けるものの、イングランドがフランス王国内に所有するカレーの存在により、
地政学上、フランス王によるブルターニュやネーデルランドの侵略に対するフランスへの反発は
消えることはなかった23。そのため、ネーデルランドの君主とイングランド王は、フランスを敵
にして、しばしば軍事同盟を結ぶことになる。
16世紀以後については、ハプスブルク家の全体的な動きと絡みながら、ネーデルランドとイン
グランド、またはハプスブルク家とイングランドとの同盟関係について、多く論じられてきた24。
また、ネーデルランドとスペインが結びついたカール5世の治世においては、イングランドとネ
ーデルランドやスペイン問の海峡の交易を脅かすフランスの私掠船のために、イングラン.ド王と
ハプスブルク家は海事協力を行う必要があり、その際、軍事活動、及び負担金に関して平等に負
担することが約束されていた25。そして、ガンは、およそ1460年から1560年のイングランド王家
とブルゴーニュ公家の支配領域のあり方は、両者とも、飛び領土、フランス王国内に領土を有す
る点などを考慮すると、フランスの領域のあり方よりも、似ているとしている26。フランスとい
う大国を前にして、ネーデルランドとイングランドは、似たもの同士として、お互い協力してき
たと考えられる。また、カール5世は最後のブルゴーニュ公と呼ばれるように、カール5世の治
世前半に関しては、単にハプスブルク家の問題だけではなく、ブルゴーニュ公家の連続性の中に
あるネーデルランドとして捉える必要がある27。
本稿では、マドリッド条約以後のイングランドとネーデルランドの通商危機について注目した
い。その際に、考慮すべきものの一つは、百年戦争以後も存在したイングランド王による「フラ
ンス王」位の主張である28。百年戦争以後のイングランド王の「フランス王」主張に関してまと
めたデイヴィズ29によると、イングランド王が「フランス王」と主張することは、実質的には、
イングランドが大陸側にもつカレーの所有やアイルランド海峡の制海権の維持、さらに、ガスコ
ーニュ地方の回復、そして、何よりも、その主張の補償として得られる年金が目的であった。特
にヘンリー8世の治世前半には「フランス王」としての主張が精力的に行われるのであるが、し
かし、1527年、イングランド王が実際のフランス王に協力し、皇帝と対立するという歴史的な転
換が起こる30。その際に、イングランド王は、一時的にではあるが、「フランス王」位の主張を放
棄することを約束した。イングランド王による「フランス王」主張と合わせながら、ハプスブル
ク家との同盟と軍事行動、そしてネーデルランドの状況とを関連づけ、1527年前後のイングラン
ド王とネーデルランドの関係について論じる。また、こういつた同盟関係のなかで、1527年のイ
ングランドとハプスブルク家の断絶が、ネーデルランドに与えた影響について考察する。
ヘンリー8世の時代は、オーストリアまたはネーデルランドとスペインといったカール5世の
治世の支配下にある領域との同盟関係において、フランス王国に侵入するチャンスを得た。例え
ば、ヘンリー8世はフランス王国内におけるイングランドの権利の増大を、1512年のスペインに
よるフランス侵攻の計画のなかで望んでおり、また、教皇ユリウス2世からフランスの王冠と
「いともキリスト教徒なる王」“roy tres−chrestien”という名誉ある称号をヘンリーに移すという
一53一
意向の書簡を受け取った31。そして、イングランド王ヘンリー8世とハプスブルク家のマクシミ
リアンの軍事同盟により、1513年に協力してトゥールネ32をフランスから獲得する33。もはや、ヘ
ンリー8世の王位獲得が着実に進んだかに見えた。その後、新しい教皇レオ10世により「いとも
キリスト教徒なる王」の称号の授与はためらわれるが、1523年、ブルボン大元帥のフランス王国
内での反乱が、イングランドの希望を沸きたてた。しかし、イングランドはその反乱に参戦する
ものの、大元帥はあっけなく倒れる34。その後、ブルボン大元帥が皇帝軍と結び、皇帝軍がパヴ
ィアの戦いにおいて、フランス王フランソワ1世を捕虜にしたことは、イングランドの主張を再
び掲げる絶好の機会であった。けれども、カール5世は第一にフランス王との友好関係を優先し
たため、マドリッド条約にはイングランドは介入できず、イングランドは満足のいく結果を得る
ことができなかった。マドリッド条約の結果、フランソワ1世は解放されたが、特に、ブルゴー
ニュ公領を皇帝が獲得したことが問題となって、フランス王は条約破棄を宣言した。ブルゴーニ
ュ公領の問題については、イングランド王も、皇帝側のやりすぎとして、今度はフランス側に立
つことになった。こうして、イングランド王ヘンリー8世は、フランス王と対ハプスブルクの同
盟を結ぶ。
では1527年のハプスブルク家とイングランドの決裂は、ネーデルランドにとって、どういう意
味をもつのだろうか。1527年以前のイングランド王家とハプスブルク家は、マクシミリアン1世
の時代、さらに、カール5世の即位与すぐは良好な関係であったといってもよい。例えば、1508
年の神聖同盟やマクシミリアン1世との軍事行動、実現はしないものの、マルグリット・ドート
リッシュのヘンリー一 7世の婚姻とカール5世とイングランド王家の女子との婚姻による同盟、そ
れにネーデルランド北部でフランスと手を結びながらハブ.スブルク勢力に抵抗を続けるヘルレ公
制圧におけるイングランド王の経済的援助など、軍事や婚姻に関して多く協力関係がみられた。
その一方で、当時のネーデルランド自体に目をむけると、ネーデルランドでは、カール5年頃
摂政として、マクシミリアン1世の娘であり、カール5世の叔母にあたるマルグリット・ドート
リッシュがネーデルランド総督として、全権を委任されていた。1513年のイングランドとマクシ
ミリアン1世とのトゥールネ奪還はブルゴーニュ公の後継者としての重大な問題であるにもかか
わらず、ネーデルランドはヘンリー8世、そしてマクシミリアン1世から中立であることが認め
られていた35。ネーデルランド総督マルグリットは、「カトリック王〔スペイン王〕とフランスの
間には、大きな山があり、フランスとイングランドの問には海がある。しかしこの地〔ネーデル
ランド〕とフランスの問には隔てるものがない。…
(略)…
そして、多くの人間がイングラ
ンドとのこの友好関係を断ち切ることを何よりも望んでいる」(〔〕内、筆者補足。)36とマクシ
ミリアンに述べている。そして、マルグリットはマクシミリアンにネーデルランドは商業と平和
で成り立つと主張した37。ネーデルランド総督は特にフランスとの戦争においては中立の立場を
とることで、ネーデルランドが戦闘の場となることを避けてきた。実際に、アントウェルペンが
大いに繁栄するのは、おおよそ平和な時期と考えられる1492−1520年であり、カール5世の戦争
が勃発している1520年代はその発展は鈍る38。以上のように、商業を保護iするためにも、フラン
スの侵略からネールランドを守るためにも、イングランドとは必然的に友好関係を維持すること
が重要な政策であった。
このように長期にわたりイングランドとネーデルランドの関係は維持されてきたので、そこに
一54一
断絶が生まれたことは重要な転換であったことが考えられる。断絶のその理由が、1526年に結ば
れたカール5世とフランソワ1世のマドリッド条約であった。この条約を破棄したフランソワ1
世とイングランド王の間に1527年に軍事同盟が成立する。翌年、ヘンリー8世がカール5世に宣
戦布告することで、アントウェルペンの閉鎖をまねき39、海峡は危険な状態になり、経済不振と
なる。こういつた理由により、ネーデルランドにおいても、イングランドの商人や労働者階級に
とっても、イングランドとの戦争は非常に不評であった40。イングランド王はネーデルランドと
の交易不振に不安を感じ、1528年8月にはネーデルランド総督とヘンリー8世の問に休戦条約が
結ばれる41。この時、イングランドとの共同の軍事行為を期待していたフランスもやむを得ず、
この休戦条約に入る。そして、1529年には「カンブレの和」が締結され、また、同じ日にイング
ランドとネーデルランドの通商協定も結ばれる。このイングランドとの緊張状態は、海峡におけ
るフランスの私掠船からの保護がなくなり、ネーデルランドとイングランドにとって、商業活動
に重大な支障をきたすものであった。1529年の「カンブレの和」は、ハプスブルク家の代表者で
あるネーデルランド総督マルグリットとフランス王家の代表である王の母ルイーズ・ド・サヴォ
ワのもとで締結されるのであるが、.1527年のヘンリー一一 8世の親フランスへの方針転換から和約締
結に至るまでに、イングランドとネーデルランドの間では、幾度も、書簡がやり取りされ、大使
が行き来し、会談が持たれる42。ネーデルランドとイングランドの君主による友好関係と海峡の
保護は、お互いの商業活動に重要なことであった。イングランドにとってネーデルランドは最大
の貿易相手であり、また、お互い交易を保護してきた。よって、この緊張状態における経済活動
への懸念のためすぐに休戦条約が結ばれ、経済的損失を免れようとしたのである。
「カンブレの和」の多くがマドリッド条約の確認であるのにもかかわらず、マドリッド条約がす
ぐ破棄されたことの一つとして、イングランドの介入ができなかったことがある。イングランド
とフランスは軍事同盟を結び、ネーデルランドを含む皇帝勢力に対立する。しかし、すぐに平和
条約が必要とされ、結果として、「カンブレの和」が結ばれる。マドリッドではなく、イングラン
ドと関係の深いネーデルランドで行われることが重要であった。そのため、フランスとネーデル
ランドの境界であるカンブレで行われた。また、その前提として、ネーデルランド総督とイング
ランド王との交渉が必要であった。
では、次に1527年の決裂が終わる「カンブレの和」とイングランド王の対応を見ていく。
3.結果としての「カンブレの和」一イングランド王の目的一
「カンブレの和」は、いくつかの変更点はあるものの、主にマドリッド条約の内容を確認した。
しかし、ハプスブルク家の代表としてネーデルランド総督が重要な証人であったという相違点が
ある。そして、1529年8月6日付けのイタリアの大使が書いた報告書では、
「8月5日、カンブレ司教がミサを捧げ、その後に、二人の貴婦人〔ネーデルランド総督マルグ
リットとフランス王の母ルイーズ・ド・サヴォワ〕が、教皇大使なるサルピアーティ、また、〔ハ
ンガリー及びボヘミアの〕王フェルディナンドの大使とイングランド王の大使に付き添われて、
厳粛に和約を宣誓しました。このときカンブレ地方司教代理は声高らかに、皇帝カール、フラン
ス王、そして、ボヘミアとハンガリーの王フェルディナンド、イングランド王ヘンリーの問で決
一55一
定されたとことを知らせました。その後で、イングランド王ヘンリーと〔ネーデルランド総督〕
マルグリットの間の和約が宣言されました。43」(〔〕内、筆者補足、以下同様。)
以上のように、イングランド王の了解のもとで和約が確認された。「カンブレの和」は、皇帝カ
ール5世とフランス王フランソワ1世による条約ではあるが、イングランド王の同意のもとで結
ばれることが重要であった。そして、同じ日に、ネーデルランドとイングランド間の通商に関す
る和約が結ばれ、1527年以後の緊張関係が終わった。
この「カンブレの和」の第3条項では、イングランドに関わる重要な条項が出てくる。
「… 適切に処理された手続きに基づく批准書において、全ての債務を確認するとともに皇帝
から、フランス王に宝石や抵当についての債権書に対する貸付金が譲渡される。加えて、〔フラン
ス王は、イングランド王が保有する〕前述の宝石や抵当を皇帝に返還させること。… 44」
となっている。具体的には、イングランドから借りていたハブ.スブルク家の借金である29万エキ
ュをフランスからイングランドへ返還されることが決められた。「カンブレの和」締結により、ハ
プスブルク家の借金の返済を理由に、イングランドはフランス王家から金銭的な利益を引き出し
た。そして、「カンブレの和」締結後、イングランドは常にフランスに対して友好な態度をとって
いたわけでなかった。締結後にイングランド王が新たな金銭的な要求を突きつけたことは、「カン
ブレの和」の条項が実現するのを遅らせる一因となった。例えば、1508年に5万クラウンの貸付
金と引替にイングランドに担保として渡していた「ゆりの花」というブルゴーニュ公家の宝石の
返還について、また、1522年のウィンザー条約の取り決めの中で、イングランド王の「フランス
王」位の主張に対してハプスブルク家が保証した年金が十分に考慮されていないと主張したこと
や45、さらに条約締結後も新たに見つかった借金46についても支払うように要求したとこがあげら
れる。
また、同時進行して、交易に関わるイングランドとネーデルランドの動きもあった。例えば、
「カンブレの和」が結ばれる以前の1529年6月3日付のイングランド王からネーデルランド総督
への書簡では海上での私掠船行為の不満について書かれている47。その後、「カンブレの和」につ
いて、ヘンリー8世はマルグリットに対して賛美を表す。そして、「カンブレの和」締結以後、マ
ルグリットがイングランドへ送る大使に持たせた指示書では、ネーデルランドとイングランドの
通商関係についても言及している。
「… 皇帝はこちら側のくに〔ネーデルランド〕とイングランド間の防衛同盟と商業取引に関
する条約を注意深く検討されました。そして、大使の知らせによると、皇帝は自分自身の批准書
として大変満足されているとのことです。イングランド王、または、しかるべき任務を与えた人
物に、彼ら〔ネーデルランド大使〕から、その文書を提示させます。慎重に開封勅書の内容が受
容され、その後に〔勅書が〕尚書院に収められ、同時に福音書にかけてなされる誓をはじめとし
て、全ての慣例の儀式が進められること〔を祈っております〕。・・(省略)・・多くの悪習が先に
記した商業取引のなかで行われてきました。それは、正式にカンブレにて、イングランド大使に
一56一
示したことです。そして、大使らは主人の名〔イングランド王〕において認めました。その承認
に基づいて、悪習が改善されるために会談を行いたいと思っております。〔そのため、ネーデルラ
ンドからの〕大使は王に以下のことを要求します。この会談が〔ネーデルランドかイングランド
の〕海峡の都市か、ブルッへ、またはその他の土地で行われ、そこでイングランド王が〔商人ら
の〕不満を聞き、対処するのに十分な能力を備えた使節を送っていただくことを願っております。
私の側からもそこに使節を送るつもりです。そこで、あらゆることについて、障害が取り除かれ、
問題が解決され、両方の「くに」の商人が対等な条件のもとで交易ができるようになるでしょう。
六ケ月以内、もしくはイングランド王が望む来年にその会談が実現されることを願っておりま
す。…
」48
とあるように、具体的に悪習の改善につて、権限を持つ人物による会談をもつことが書かれてあ
り、.イングランド王とネーデルランド総督の庇護のもと会談を持つことが期待されている。一方、
フランスに対して、ネーデルランドとの通商に関わることとして、「カンブレの和」ではフランス
王家がハプスブルク家に支払うことが決められた一定の金額を完済するまでは、アントウェルペ
ンに年金を払うことが義務付けられる49。ネーデルランドとイングランドの君主にとって、通商
関係が重要であり、通商の妨害は重大な問題であった。さらに、戦時などに大規模に資金を必要
とする際に、ネーデルランドを重要な活動の場にしているマーチャント・アドベンチャラーズは、
チューダー朝諸王の重要な借入先であった50。そのため、1527年のイングランドとフランスの軍
事同盟締結はイングランドにとって、ネーデルランドへの侵攻に関しては単なる脅しであったと
考えられる。そして、マドリッド条約後は、イングランドはハプスブルクの関係を通じで、フラ
ンス王家から金銭的な利益を得ようとした。また、ネーデルランドとの交易の改善も期待してい
たのであろう。
おわりに
イングランドの貿易収支をみると、ハプスブルクの所領とは黒字で、フランスとは赤字であっ
た。その一方で、イングランドは、ハプスブルク家と手を結びながら、フランスから得る年金で
フランス王家から金銭的利益を得ていた。アントウェルペンを中心としたネーデルランドとの交
易の重要性からも、イングランドはハプスブルク家と同盟を結ぶことは理にかなっていたといえ
る。しかし、1526年マドリッド条約締結後、友好関係を維持してきたヘンリー8世は、1527年は
フランス側にたち、ハプスブルク家と対立することで、これまで皇帝側に貸していた借金の返済
を要求する。結果として、その借金返済は、ハプスブルク家から直接ではなく、最終的にはフラ
ンスから金銭的な利益を得るというかたちになった。根本的な目的は変わらずとも、その国際的
な関係のなかで、立場上の変化が生じたのである。その後、1540年代にイングランド王はハプス
ブルク家と、対フランスの軍事同盟を結ぶが、年金獲得については失敗に終わる51。
イングランド王家とハプスブルク家の対立のなかでは、必ずネーデルランドはハプスブルク勢
力の一として、その影響を受けなればならない。しかし、ハプスブルク家とイングランド王家と
の決裂があっても、ネーデルランドは地理的な防御の必要性からイングランドと平和条約を結ぶ
必要性があった。イングランドは、それまでの友好関係を無視したハプスブルク家のマドリッド
一57一
条約に反発し、フランス王と同盟を結ぶ。また、同時に1527年のヘンリー8世とキャサリン・オ
ブ・アラゴンの離婚問題が追い撃ちをかける。神聖ローマ皇帝であり、キャサリンの甥であるカ
ール5世はこの離婚に関しては、イングランド王と敵対せざるを得ない。しかし、ハプスブルク
勢力の中でも、交易上、もっとも重要なネーデルランドからイングランドとハプスブルク家との
対立を和らげていく。そういった状態で結ばれたのが、「カンブレの和」であり、同時に、ネーデ
ルランドとイングランドの間の通商に関する和約が結ばれた。マドリッド条約から「カンブレの
和」における一連の動きは、イングランドとのハプスブルク家の外交的な危機のなかで、ネーデ
ルランドが友好関係にむけて働きかけるという位置づけを示している。さらに、ハプスブルク家
とイングランド王家間の様々な敵対する要因があるなかで、通商に関してはネーデルランドとイ
ングランド間に確実な独自の友好関係を築くことが重要であった。1520年代におけるこういつた
状況は、スペイン、ネーデルランドが一人の君主のもとに置かれることによる外交関係の困難さ
を露呈するものであった。その際に、それぞれの君主の政治的な理念を主張する立場の変化が示
されつつも、外交関係による年金や経済の根本的な変化というものはそれほど生じなかったとい
えよう。
1527年に百年戦争から続くイングランド王の「フランス王」主張が一時的に取り消され、さら
にネーデルランドにおいては「カンブレの和」によってフランドル地方の宗主権がフランス王国
から離れるという転換期を迎える。ブルゴーニュ公家の後継者によるネーデルランド支配、百年
戦争からの続くイングランド王の主張といった中世後期の連続性が見出せる一方で、イタリア戦
争、ルネサンス、宗教改革、それぞれの領域が近代的な国家へ発展する動きなど、まさに近世へ
の段階へ踏み出している時代でもある。「カンブレの和」以後、ネーデルランド、フランス、イン
グランド、それぞれにおいて、しばし平和の時間の訪れ、いずれも1530年後から、国内の行政に
力を入れるようになる。イタリア戦争の終焉であるカトー・カンプレジ条約やイングランドのカ
レt一…一一所有の問題などにおいて、1559年も国家領域決定の一つの転機iと考えられるが、100年戦争終
焉のから1559年の間、各君主がそれぞれの領域あり方を模索する。そのなかで、様々な領域の主
張が関わるマドリッド条約から「カンブレの和」までの動きは、中世から近世へと向かう各国の
国家体制の一つの段階だと考えられる。
註
1 Fブローデル(村上光彦訳)『世界時間1』みずず書房、1996年、105−220ページ;1.ウォ
ーラーステイン(川北稔訳)『近代世界システム1[』岩波書店、1981年。
2 アントウェルペンからイングランドが享受する経済の有益性については多くの研究者が認め
るところである。Cf.中澤勝三『アントウェルペン国際商業の世界』同文館、1993年;Eアー
ルツ(藤井美男訳)『アールツ教授講演会録 中世末南ネーデルランド経済の軌跡 ワイン・ビ
ールの歴史からアントウェルペン国際市場へ』九州大学出版会、2005年、37−40ページ;W.
Blockmans and W. Prevenier (translated by E. Fackelman), The Promised Lands. The Low Countries
under Burgundian Rule, 1369−1530, Philadelphia, 1999, pp. 214−216.
3 M. Boone, “Les toiles des 1in des Pays−Bas bourguignons sur le marche anglais (fin XIVe−XVIe
siecles)”, Publication du Centre euroPe’en d’e’tudes Bourguignonnes (XIVe−XVIe sie”・cles.)(この雑誌名
一58一
については、以下PCEBと記す。),No 35,1995, P.62.
4 具体的にはマクシミリアン1世、フィリップ美公、カール5世である。しかし、それぞれが
様々な称号を持ち、それぞれが一定した領域を継承しているわけでもない。よって、ネーデル
ランドの支配に関わったハプスブルク家の人間をハプスブルク家の君主とした。
5 カール5世は、神聖ローマ皇帝、アラゴン及びカスティーリャ王、ブルゴーニュ公など多く
の称号を持ち、オーストリア、スペイン、そして、ネーデルランドが政治的に重要な拠点とな
る。
6 C. S. L. Davies, “<< Roy de France et roy d’Angleterre>>. The English claims to France, 1453−1558.”
,PCEB, No. 35, 1995, p. 129.
7 Cf藤井美男『中世後期南ネーデルラント毛織物工業港の研究一工業構造の転換をめぐる理
論と実証一』九州大学出版会、1998年;J.・H.A. Munro,“Anglo−Flemisch competition in the
international cloth trade, 1340−1520”, PCEB, No. 35, 1995, pp. 37−60; M. Boone, op. cit., pp. 61−81.
8 E.アールツ、前掲書、21−40ページ。
9 イングランドの毛織物貿易において、中世のステイプルの商業から、打って変わって活躍し
たのがマーチャンド・アドベンチャラーズであった。もともとは国家の保護を受けずに私的に
活動していたのだが、ヘンリー7世により保護を受けるようになり、のちにチューダー朝イン
グランドの国家財政にはなくてはならない存在になる。イングランドの商人はこのカンパニー
の組合にならなければ、正規に毛織物を海外へ輸出することはできなかった。中澤勝三、前掲
書、83−84ページ;今井登志喜『都市の発達史一近世における繁栄の中心の移動一』誠文堂新
光社、1980年、41−57ページ。
10 中澤勝三、前掲書、83ページ。
11 W. Blockmans and W. Prevenier, op cit., pp. 215−216.
12 今井登志喜、前掲書、46ページ。
13 井内太郎『16世紀イングランド行財政史研究』広島大学出版会、2006年、297−300ページ。
14 16世紀、イングランドの輸出毛織物のかなりの部分がアントウェルペンを経由しヨーロッパ
大陸に市場を求めた。このイングランドの毛織物のほとんどが見仕上げで白地のまま輸出され、
アントウェルペンにおいて仕上げ加工を施されたという点で単なる商品取引ではなく、いわば
国際的な分業構造という枠組みをもつものであった。このロンドンとアントウェルペンの経済
的な結びつきを象徴する表現として、「ロンドン・アントウェルペン中軸」という用語が使われ
るようになってきている。中澤勝三、前掲書、82−83ページ。
15 井内太郎、前掲書、283−284ページ。
16 中澤勝三、前掲書、97−116ページ。
171.ウォーラーステイン、前掲書、101ページ。
18E.アールツ、前掲書、41−49ページ。
19 地理的にはおおよそ現在のベルギーにあたる地域を指し、リエージュ司教領は除かれる。
20E.アールツ、前掲書、64ページ。
211.ウォーラーステイン、前掲書、101ページ。
22 エドワードの亡命と黒本に関しては、井内太郎、前掲書、159−166ページ;ガーター騎士団
一59一
と金羊毛騎士団の関係については、B. Sc㎞erb, L’Etat bourguignon 1363−1477, Perrin,1999, PP.295−
304; A. Brown and G. Small, Court and Civic Society in the Burgundian Low Countries c. 1420−1530,
Manchester,2002, pp.130−155;黒木敏弘「金羊毛騎士団創設規約の成立 一ガーター騎士団規約
との比較分析を中心として一」『熊本大学社会文化研究』4号、2006年、237−262ページなどを
参照。
23 C. S. L. Davies, op. cit., p. 126.
24 Cf. L. Sicking, “La maitrise de la mer. Cooperation navale entre 1’Angleterre et 1’Empire des
Habsbourg pendant la premiere moitie du XVIe siecle” , PCEB, No 35, 1995, pp. 187−197; S. Gunn,
“State development in England and the Burgundian dominions, c. 1460 一。.1560” , PCEB, No 35,
1995, pp. 133−147; R. Wellens, “Un episode des relation entre 1’Angleterre et les Pays−Bas au d6but du
XVIe siecle: le proj et de maniage Marugerite d’Autriche et Henri VII”, Revue d’Histoire moderne et
contemporaine, XXIV, 1982, pp. 267−290.
25 L. Sicking, op. cit., pp. 187・一197.
26 S. Gunn, op. cit., pp. 133−147.
27畑奈保美「1477年マリー・ド・ブルゴーニュの「大特権」一低地の自立主義と「ブルゴーニ
ュ国家一」をめぐって」『歴史』94号、2004年、1−6ページ;拙稿「ブルゴーニュ・ハプスブ
ルク期のネーデルランド使節一1529年「カンブレ・の和」実現に向けての活動を中心に一」『寧楽
史苑』第53号、2008年、17−19ページを参照。
28 イングランド王は1801年まで「フランス王」であると主張は存在する。しかし、百年戦争以
後については、カレーを失う1558年までが、その主張の実質的な議論をする価値がある。C. S.
L Davies, op. cit., p. 123.
29イングランド王は自分自身を“Roy d’Angleterre, et de France, et Seigneur d’Irlande”とし、フ
ランスの王の権利を主張する際には、“Roy de France, Roy d’Angleterre, Seigneur d’lrlande(のち
にアイルランド王)”と書き示す。その一方で実際のフランス王をさすときには、“Rex Francorum”
もしくは“Roy des Francais”と表し、“consanguineus noster carissimus”という決まり文句を補
うことで和らげた。シャルル突進公など、ブルゴーニュ公家の君主はgイングランド王を示す
とき“Roy d’Angleterre”のあとに“etc.”をつけた。1474年エドワード4世はシャルル突進公と
の永久なる友好を誓う中で、エドワードは「フランスの王」であること、シャルルはフランス
王国から離れ、独自の宗主権を持つことを、お互いに認めた。しかし、イングランドのフラン
ス王国への侵入では、シャルルから援助が得えられず、フランスから年間10,000ポンド支払わ
れることで合意した。また、続くチューダ一朝のヘンリー7世が王位に就く際に、フランス王
から、資金、軍隊、船団などの援助があったにもかかわらず、ヘンリー7世は、イングランド
の地政学上の利益から、ブルターニュ地方の獲得やネーデルランドへの侵略といった試みにす
ぐさま抵抗する。また、「フランスの王」と主張するにもかかわらず、イングラン.ドによるブル
ターニュとフランドルの支配権の介入は正当化することはなかった。Ibid., pp.一123−132.
301bid., P.129.また、この時にもイングランドにはフランスから年金が与えられることが約束
される。
31 lbid. p.127.
一60一
32 トゥールネは、ネーデルランド内にフランスの飛び地として留まった部分であり、歴代のブ
ルゴーニュ公が何度も獲得を試みた地でもある。1513年イングランドとハプスブルク家が獲得
し、イングランドの支配下に置かれる。しかし1521年以降はネーデルランドの領域になる。
33 G. Bischoff, “<< Plus tost peres et filz que freres >> . Maximilien et Henry VIII en guerre contre Louis
XII (ete 1513): une alliance anglo 一 bourguignonne?”, PCEB, No 35, 1995, pp. 178−179.
34 C. S. L. Davies, op. cit.., pp. 128−129.
35 P. Gonnet, “L’ideel europeenne dans la correspondance de Marguerite d’Autriche”, L’Europe d la
recherche’ de son identite’, Lille, 2002, p. 274.
36 A. J. G. Le Glay, Ne’gociation diplomatiques entre la Fran6e et 1’Autriche durant les trente premie”res
anne’es du XVIe sieN cle, vol. 1, Paris, 1845, pp. 569−572.
37 C.A. J. Armstrong,“The Burgundian Netherlands,1477−1521”, The Cambridge、Mrodern Histoりy, the
Renai∬ance,1493−1520, vol.1, Cambridge,1964, p.251.
38 W. Blockmans and W. Prevenier, op. cit., p. 214.
39今井宏編『イギリス史 2 近世』山川出版社、1990年、30ページ。
40 K. Brandi (translated by C. V. Wedgwood), The Emperor Charles V, the growth and destiny of man
and of a World−Empire, Brighton, 1980, p. 278.
41 V.一L. Bounilly, Guiltaume du Bellay, Seigneur de Langay, Paris, 1905, p. 64.
42 E. Tremayne, the first govemess of the Aletherlands, Margaret ofAustria, London, 1908, pp. 249−258.
43 P. de Gayangos, Calendar of letters, Despatches and State Papers, relating to the Negotiations
between England and Spain, preserved in archives at Simascans and etsewhere, vol. 4, part 1, London,
1879, p. 162.
44 J. du Mont, Corps universel diplomatique du droit des gens, vol. 4, part II, Amsterdam and Den
Haag, 1726, pp. 8−9.
45 R. J. Knecht, Francis 1, Cambridge, 1982, pp. 221−222.
46和約締結後に、1512年にヘンリー8世がマクシミリアンへ貸した32フローリンの借用書が見
つかったので、それについても返済するように主張があった。Cf.・G. de Boom, Co肥3poη4αηc6
deルlarg・uerite・d’Autriche et ses Ambassadeurs d la cour de France concernant 1’認C厩’0ηぬ乃”aite’・de
Cambrai, 1529−1530, Bruxelles, 1935, pp. 170−172.
47
P. de Gayangos, op. cit., p. 55.
48
Ibid., pp. 306−308.
49
J. du Mont, op cit., p. 9.
50
井内太郎、前掲書、37−38ページ。
51
C. S. L. Davies, op. cit., p. 130.
一61一
カール5世治下ネーデルランド
身
蓼
離
(出典羨懸盤ra¢3い配ruperer Charies v, impresario of Wsr,α達mbnfdge,2◎◎2、群5鼠
を基本に筆者{肇蔵et
62
Alliance between Low Countries and England in the Early Modern Period
’The Economic and Military lnterests of King of England in the First Half of 16th Century一
KAKU Nana
Low Countries and England had close relations through the trade of wools. Each protected the
trade and kept good political relations to ensure it. ln the beginning of 16th century the Kings of England,
who claimed to be ”King of France”, were the ally for the Habsburgs who ruled Low Countries against
France, and got financial rewards.
But after Treaty of Madrid was concluded between Emperor Charles V of Habsburgs and
Francis 1, King of France in 1526, England chose a different way. Henry VIII, the king of England,
decided to be on French side against the Habsburg, because England could not intervene in the treaty. The
consequent decrease of trade brought England and Low Countries the negotiation of the reconstruction of
relations. After the negotiation between Henry and Margaret of Austria, aunt of Charles V and, the
governor of Low Counties, the new truce, the Peace of Cambrai was concluded in 1529. The Peace of
Cambrai decided that the king of France would pay 290,000 ecus to the king of England which Charles
should pay to Henry VIII.
The complicated situatipn of Low Counuies is thus clear through the connection with England.
Low Countries had two aspects, as one of the territories by Habsburgs and as Low Countries themselves
which had their own interests.
一63一
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