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福島訪問報告

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福島訪問報告
福島訪問報告
2011年12月10日
被災地雇用と生活要求者組合 蒲牟田 宏
12月1日~3日にかけて福島を長谷川・被災地雇用と生活要求者組合代
表と一緒に訪問しました。私は4月16~18日にいわき市に来ていますが、
長谷川さんは初めての訪問です。
12月1日は、来年1月15日の阪神淡路大震災17周年集会に来ていただく
ことになっている中手聖一さんから、1時間話しを聞きました。
2日は、福島市渡利地区、飯館村、南相馬市の被災地を巡りました。
3日は、いわき市の被災地、原発労働者の飯場、住民自ら建設した仮
設商店街などを回りました。
1、中手聖一さんのお話し(手書きのメモをもとに書きなおしたもので
正確さにかけることを申し添えます。)
・今、渡利で特定避難勧奨地点にするように国に求めている。これは、
警戒区域(立ち入り禁止)や計画的避難区域(居住禁止)と違い、住宅
1件ごとに放射能を測定して指定するものです。渡利は年間累積で20mシー
ベルトを越える数値が出ている。これは妊婦さんや子どもたちにとって非
常に厳しい数値です。南相馬では同じ数値で簡単に認められているもの
を、渡利では絶対に認めようとしない。福島市という人口規模が大きい
ところは指定しないということ。そのような声を上げているのは、子ど
も福島、渡利地区住民、伊達市の小栗地
区の住民です。
・自主的避難者は補償の対象外。避難す
る権利を等しく避難する権利ととどまる
権利として選択できるようにしていかな
ければならない。時間がかかる。
移住の権利ゾーンの拡大が課題。チェ
ルノブイリでは避難に5年かかった。この
間に、放射能を浴び続け健康被害が広がっ
た。
国の救済を待たずに避難を行っていく。
受け入れ先での体制が問題で、どんどん
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受け入れて欲しい。
・ここに来て、地域での雰囲気がガラッ
と変わった。3月~4月、自主避難が続
き私たちの声も住民に届きやすかった。
7月からでも6~8万人が避難した。夏
休みが終わり静かになった。何事もな
かったかのように見える。これは、一
度は避難を考えたがやっぱりできない、検討したうえで断念するしか
ない。今、非常に避難など話しにくい雰囲気がある。
この冬休みに、県外のサマースクールとかホームスティを希望して
いる子どもたちの家庭は避難は考えていないと思う。避難する家庭は
来年の3月学年が変わる時期にと考えているのではないか。転勤希望
が実現するとか、あと1年待ってとか。
私の勤務している障害者施設でも、2人を西宮市の施設に避難させ
た。神奈川の施設にも。里親やホームスティ。
・汚染の実態、被害の実態が広がっている。大波地区の米が出荷中止
になっている。私の親族は一人で米農家をやっているが、今まで避難
とか言わなかったのに、今回の件で「住めないかな」と言いはじめて
いる。
・各地の受け入れ先に言いたいのは、窓口を閉めないでということ。
正式な避難区域の人しか受け入れないとか条件をつけているが、すべ
ての避難者を受け入れる体制を閉じないで欲しい。
・それぞれの地域の 個性を生かした受け入れをお願いしたい。過疎
の地で、援農の仕事とか。福島の人たちが自分を受け入れてくれるこ
とに安心感をもてるように。
・12月11日に、青山学院大学で全国受け入れ団体サミットの実行委員
会が開かれる(14時・624教室)。2月11日の発足に向けて。
・除染が問題となっているが、除染は移染であって放射能がなくなる
わけではないし、飛び散ったりするわけだから、除染の間だけでも避
難させて欲しいといってる。チェルノブィリの経験で除染がほとんど
効果がないどころか、逆に深刻化した。
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ウクライナでは25年間で700万人人口が減った。寿命が10年縮まった。
病気の人が100万人、8倍に増えた。
全員が避難するまで長い年月がかかる。いきなりゼロにはならない。
今留まっている人たちに、どんな支援ができるかということで、食べ物
について、とくに子どもの分はなんとか放射能の入っていないものを取
り寄せようということで、西日本からの野菜を取り寄せて野菜カフェを
始めた。
・除染では、私たちは先頭を切って3月から取り組んだ。しかしやって
みて市民運動レベルで取り組めるようなものではないということがわかっ
てきた。集めたものをどこにもっていくか。郡山では公園の除洗して削っ
た土を一時保管として穴を掘って埋めたが、そこに近所の住民が土を持っ
てきて一緒に埋めたことが問題になっている。最終処分場をどうするの
かという問題もある。
・年々数値が上がるということ。畑とか田んぼは山から水が集まるとこ
ろにある。今年より来年、来年より再来年に放射能が高くなる。稲の移
行率。チェコの研究所2年後くらいから、あらゆる病気が出てくるだろ
う。内部被爆の問題。
うとか。私も私見としては、放射能は発生した場所に戻すというのが原
則だと思う。しかし原理原則を、どうあるべきなのか議論してほしい。
感情的な反発とではなくて、きちんと議論して、しっかり拒否して欲し
い。原理原則が、それを議論することが非常に大事だと思う。
・除染の問題にしても、放射能濃度の濃いところからやりたいというの
は人情だろう。しかし、それは逆で、薄いところからやっていくべきだ。
安心して住める場所を、確実に増やしていくということ。
・差別をなくしていけるのかということは、まず当事者の問題だ。もち
ろん差別を助長する側の問題はある。しかし、福島の人たちが福島の出
身であることを隠したりしないこと。コミュニティを作って欲しい。差
別を受けてきた人々、アイヌ、被差別部落、在日の人々がどう差別とと
りくんできたのかに学んでいこうと思っている。
・12月2日に兵庫県淡路市の人権推進課の集まりで話しをするというこ
とで、行くことになっている。
2、渡利・飯館・南相馬
・一方で風化する問題がある。地元で風化をさせないためにがんばるが、
全国の人たちも風化させないためにやって欲しい。風化させようとする
動きもある。交付金の問題。地主が反対する。地価が下がるといって。
・街中の商店街のおかみさんの会合に私が呼ばれて話しをした。商売人
が市民運動をやっているものを呼ぶなどということは今までなかった。
しかし、おかみさんたちは何らかの手をうたないと大変なことになると
いって、国や東電にものを言っている中手を呼んで話しを聞こうとなっ
たと。対東電、対日本国という構図をつくっていくと。
・避難する権利は、選択することができることが大事だ。留まることも、
ちゃんと保障する。対等処遇。そういった配慮がないといけない。
・だれが采配をふるっているか。福島市も国に逆らえない。
・全国の人たちの課題として瓦礫の問題がある。暗黙の了解として、双
葉郡に押し付けようという雰囲気がある。あるいは全国に分散していこ
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①渡利
2日目はOさんの車で移動して各地をまわりました。
案内していただくOさんと待ち合わせに
使った福島県教育会館の駐車場の植え込み
のところで線量計で計ってみると「0.7
マイクロシーベルト」でした。福島市内は朝日新聞
の線量で毎日0.4マイクロシーベルトをこえてい
ますが、植え込みにはいると、このような
数字です。
Oさんの案内で、まず渡利に行きました。 教育会館の植え込みで
この地区は福島市の南側にあって三方を山
に囲まれている住宅地です。
3月13日に原発から吹いた風にのって高濃度の放射能を含んだ雲が通
過し、それが山に当たって雨が降りました。そのためにホットスポット
になっています。このルートにあたるのが原発を基点にすると北緯線か
ら左に18度の方向で、そこに飯館、渡利、伊達市の小栗地区が当たると
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いうことでした。
線量計で小学校の脇の溝で地上から約1
mのところで計ってみると、「0.46マイク
ロシーベルト/毎時」でした。これは年間でいう
と「4.029ミリシーベルト」となって、1ミリシー
ベルトをはるかに越えてとくに子どもたちや
妊婦さんには危険な数字です。現在、東電
や経済産業省と住民の間で交渉が行われて 福島渡利地区で0.49ミリシーベルトト
いますが、上記の中手さんの話しにあったように南相馬などで認められ
る特定避難勧奨地点を絶対に認めようとしないのです。
そこの小学校では、子どもたちが元気よく
体育をやっていました。絶対に避難しなけれ
ばならない線量のなかで体育をやらなければ
ならない子どもたち。この現実に悔しくて涙
が出そうになりました。
車で走っていると、やたらとパトカーや自
小学校の校庭では体育の授業が 衛隊車両が目につきます。私たちの前を走っ
ている車は三重県警のパトカーでした。
②飯館村
次に向かったのが飯館村です。ほとんどの家に人が住んでいる気配が
ありません。
ここの住民は原発のある双葉や楢葉、南相馬などから逃げてきた人々
に一夜の宿を提供したり、食べ物を提供したりしました。自分たちのい
るところが最も線量が高いことも知らずにです。
村役場に行くと文部科学省が設置した大きな線量計がありました。そ
この数値は「2.47マイクロシーベルト/毎時」でした。年間換算で21.6
37ミリシーベルトになります。とても人が
住めるところではありません。しかし、
役場横の施設には「見廻り隊」の人た
ちの車がいっぱい並んでいました。見
廻り隊は、空き家だらけになった地域
一体を住民がパトロールするのだそう
です。とにかく泥棒が多いということ
でした。
役場には3人の職員がつめていまし
た。神戸から来たと言ってお話しをう
飯館村の役場の庭の線量計を前に
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かがいました。その職員の胸には積算
線量計が付けられていました。1ヶ月
交代で、ここ詰めていること、仕事は
住民票の出し入れ、住民でこの村で生
活している人が5人ぐらいであること、
そのほかに通いで工場などで働いてい
る人々がいて、役場の業務は必要なの
でということでした。
そこから曲がりくねった国道399号を
長泥地区の交差点で90.9マイクロシーベルト
通って5kmぐらい離れた長泥地区に
行きました。長泥が下に見える展望台のところで線量計で計りました。
なんといきなり警報音がなって「90.7マイクロシーベルト/毎時」をさして
います(警報音は2.5マイクロシーベルト/毎時で鳴るようになっています)。
年間換算で788ミリシーベルトという数値です。
長泥地区に入ると、犬の鳴き声が家の方からしてきます。飼い犬です。
家の人が通いでえさをやりに来ているのでしょう。家の前の道路に車が
止まっていました。
ここの交差点にも文部科学省が設置した線量計(鍵がかかっていて数
値は読めません)が設置されていました。そこのそばで計ると90.9
マイクロシーベルトでした。しかしその線量計の横にある掲示ボックスの毎日の
数値を書いた紙には毎日「10マイクロシーベルト/毎時」と記入してありまし
た。
③南相馬
この日の最後に南相馬市に行きました。街中は地震の被害はそれほど
見られませんでした。もう地震からだいぶたっているので当然といえば
当然でしょうが。
まず、A&S(アクティブ・アンド・セーフティ)福島をたずねまし
た。ここは、線量計の貸し出しと食品
の放射能検査を行っています。事務所
には男の人が3人、女性が1人いました。
伺っている間に、一人の男の人が線量
計を返却しにきました。
この事務所は、タイヤ店の半分を間
借りしていて、このタイヤ店のオーナー
はこういった活動の理解者だというこ
とでした。
一基450万円する放射能測定器
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代表のTさんに話しをうかがいまし
た。Tさんは40歳代の実直そうな青年
でした。
Tさんは、まず当面は線量計の貸し
出しと食品の放射能の検査をやってい
きたい、今後はこの活動をやりながら
考えていきたいと言っていました。
放射能検査の器械も見せていただき
A&S福島の事務所
ました。450万円もする高価なもので、
この器械は寄付していただいたとのこと。もうすぐ、自前で購入しても
う一台増やすとのことでした。器械はコンピューターと直結していてセ
シウムの量などを測定できるそうです。このときは米の放射線量を測定
中でした。測定を依頼してきた人にた
いしては、放射線量を伝えるだけで、
食べてはいけないとかは絶対に言わな
いということでした。
NPO法人にするかどうか迷ってい
るとのことだったので、私の経験から
「そんなに難しく考える必要は無いこ
と、信用が生まれ金も借りることが出
来る。ただ権力の側は、NPO法人登
天井に津波の泥がついていた
録を使ってボランティアを管理するが」
と言いましたが、考えてみたいとおっしゃていました。
その後、南相馬の海岸の方に行きました。
行く途中にFさんがボランティアをしていた
南相馬市民病院がありました。ここも含めて
医者や看護師が不足していて、医療そのもの
が危機的な状況だとOさんが言っていました。
老人保健施設があったところに行くと、廃
車になった壊れた自動車などの瓦礫はきれい
壁や窓が壊れたままの施設
に片 付 け ら れ て い ま
したが、入り口天井のところに泥が飛び散った
あとが残っていて、津波の大きさが伺えました。
ここで70人ぐらいの方が犠牲になったといいま
す。
この施設の海側は、枯れ草がおおう広い荒野
になっていましたが、そこには海の方まで民家 津波にあった火力発電所
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があったということです。
そこから北へ行くと、津波の被害が如実にわかりました。サーファー
の全国大会などをやっていたところに行きました。サーファーが着替え
などをする施設は基礎ごと持ち上げられたように、基礎の下の土がえぐ
れてありませんでした。周りにあった家は何もなく瓦礫が積みあげられ
ていました。橋も途中で切れてなくなっていました。
地盤沈下で、海岸べりは70cmから1m沈んでいて、地元の人は海
が近くなって怖いと言っているとのことでした。
そこから東に見える火力発電所(東北電力か)も大きな被害がでて、
現在修理中とのことでした。
3、いわき市
3日目は、午前中Oさんの案内で、いわき
市内を見てまわりました。
まず原発20km圏ギリギリのところに向
かいました。国道6号沿いは私が4月16日に
来たときよりはコンビニも開いており(「酒、
雑誌あります」とかの看板がでていました)、
広野駅の時刻表
飲食店もやっているようでした。原発で働く
労働者が利用しているのでしょうか。4月に来たときは人気が無く、飼
い犬が野良犬となってうろうろしていましたが、今回はそのようなこと
はありませんでした。
20km圏ギリギリのところは立ち入り禁止区域となっており検問を
やっていました。
UターンしてJビレッジに向かいました。Jビレッジの近くには飯場
が多数建っていました。すべて原発で働く労働者のためのものです。J
ビレッジには「関係者以外立ち入り禁止」の立て札が立っていて、入る
ことはできませんでした。
広野駅に行きました。一日に8本の電車がここ広野で折り返し運転を
しているとのことです。駅前には1台の
タクシーが止まっていましたが運転手さ
んは寝ていました。
そこから久ノ浜漁港へ。せり市場があっ
たところは瓦礫は整理されていましたが
津波で被害を受けたまま。横で護岸の工
事が行われていましたが、1mも沈下し
た岸壁(水面から10cm)はそのまま
漁港には船が打ち上げられていた
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で、港内に船が沈んだままでした。津
波のとき沖にでて無事だった漁船が数
隻係留されていました。しかし市場が
開かれず、原発の放射能の問題で底モ
ノ(ヒラメなど)のブランドの魚を出
荷していた久ノ浜の再開のメドはまっ
たくたたず、係留されている船がいつ
動けるのかわかっていないということ 跡形もない漁師さんの集住地域
です。
久ノ浜の漁師が住んでいた町があったところへ行きました。瓦礫が整
理されてだだっ広い荒野が広がっていました。むきだしになった家の基
礎がかろうじてそこに家があったことを示すだけでした。防波堤は3m
ぐらいで、津波はそこをのりこえて町を襲ったのでした。今では津波で
やられたところと、津波では無事だったのに火事でやられたところの区
別もつきません。ここは久ノ浜の青年たちが花火大会をしたところで、
無事だった家の壁に花などを描いてありました。
そこから私が4月16日に写真をとった木
の橋のあるところへ。ここは「いわき百
景」に選ばれた風向明媚なところだった
そうですが、傾いた橋脚はそのままでし
た。4月16日に私たちがその橋の写真を撮っ
ているときに家族連れの男の人に「写真
だけ撮りに来やがって」と言われたこと
を思い出しました。たぶん、あのときの
今でも橋脚だけが残っていた
家族は家が焼けたか津波被害にあった人
たちだったのでしょう。そう思うのは彼らが向かっていたのが久ノ浜の
漁師の町の方だったことがわかったからです。
原発で働く労働者のための鹿島建設
の飯場「ディアハウス久ノ浜」に足を
のばしました。駐車場には福島以外の
「新潟」「石川」など原発のある県な
どの車がいっぱい止まっていました。
個室の居室が数百はあろうかと思われ、
食堂もありました。大型バスが止まっ
ており、これでここに寝泊りしている
労働者を原発まで送迎していると思わ
鹿島建設の飯場ディアハウス久ノ浜
れます。
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最後に、「浜風商店街」に行きました。こ
こは、個人商店が自力で共同して立ち上げた
ものです。小学校の一角を間借りしてつくっ
た仮設の商店街です。ラーメン屋さん、魚屋
さん、花屋さん、電気屋さんなど10軒が入っ
ています。
中心的に活動している電気屋をやっている
Sさんに話しを伺いました。
小学校の一角に仮説の商店街
教育委員会や小学校の校長などと折衝して9
月に開店にこぎつけたとのこと。元この小学校のPTA会長をやっていた
関係で校長とかと知り合いだったし、何と言っても皆同窓生だから話しが
早かった。役所が介入していたら遅くなったかもしれない。1軒もやめて逃
げ出していないから、なんとかやっているんじゃないか。将来的には久ノ
浜の漁師が住んでいた町に戻るつもり。前は商店街としてなっていなかっ
たが、せっかく10軒でまとまったから皆で移住しようと思っている。いわ
きは人口が2万人増えているので、大病院を誘致しようという話しも出て
いる。元の町は、地盤沈下してしているので、埋め立てをしなければなら
ないが、山を削ったらそこが宅地にできるし。今後は、区画整理とか考え
ていかないといけない。
阪神淡路大震災の仮設住宅での孤独死の問題を長谷川さんが言うと、避
難している人たちが雇用促進住宅に400軒ぐらい住んでいるが、隣近所
の付き合いがなく、とくに単身の老人世帯が困っているとのこと。
その後、この電気屋さんの横にあるスペースで被災当時の写真などを見
せていただきました。Sさんの店は、地震・津波の被害は受けなかったも
のの火事で焼けたということで、その写真もありました。また津波が押し
寄せてきている、車が波にのまれる様子とか、全部で200枚ほどの写真
を展示してありました。
Sさんが「衝撃の一枚」といって、指差したのが、海の潮が引いて海の
底が見えて、テトラポッドもむき出しになっている写真でした。この引き
潮の後に大津波が襲ったということです。
4、訪問して思ったこと
まず第一に、放射能汚染の深刻さです。飯館長泥地区の「90.9マイクロシー
ベルト」には驚愕しました。私のもっていった線量計の精度の問題はあると
は思いますが、しかしそれにしても、ここは絶対に人が住んだり立ち入っ
たりしたらいけない場所だということです。そのような地区に、通いで出
10
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入りしていることがどうなのか、しかしそこでの生活はあるわけで仕方
がないのか、考えさせられました。。
また、福島市渡利地区の汚染も大問題です。少なくとも、子どもたち
は避難させなければなりません。
4月16日のときは線量計は持参しなかったので漠然としたものでした
が、今回数値が出てくるとやはりショックでした。
中手さんの話しにあったように、「国の救済を待たずに避難を行って
いく」ことが緊急の課題だと思いました。
そして、津波の被害のうえに放射能の問題が襲っている深刻さです。
津波被害にあった南相馬は、いまだに手付かずのままでした。確かに
瓦礫は取り除かれていましたが、その先が見えない状態です。阪神淡路
大震災のときは、9ヶ月もたったらまだ傷はいえていなかったかもしれ
ませんが、明日への希望がもてました。しかし福島の多くの被災地は、
未来が見通せない状態が続いています。
しかし一方で、いわきの地で精一杯がんばって見通しをたてようとす
るSさんの話しに希望を見ました。震災が起こったこと、そして原発被
害が今もあること、それは仕方がない。そのような中で、自分たちの力
で商店を復活させたことに自信をつけて、前を向いていこうという姿勢
に感銘を受けました。
今回の福島訪問で経験したことは、私の人生の中でも超一級のことで
した。3・11以後、世界は変わったし、核と人類は絶対に共存できな
いということを身をつうじて認識したことでした。
最後に、南相馬のTさん、いわき市の電気屋さんのSさん、そして1
日半案内をしていただいたOさんに感謝の言葉を述べたいと思います。
ほんとうに、ありがとうございました。
(了)
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