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桜田門の詩人 蓮田市五郎

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桜田門の詩人 蓮田市五郎
3
1
5
武
二-二・こ
蓮田市五郎
田
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集(二O
︻
論
桜田門の詩人
一序
目次
二暗殺の様子
四細川家御預け
三自訴
五楊板山への憧僚
六本多侯御預けと山口丹波守の取り調べ
入母への思い
七井伊直弼は秦槍
九絶望の自覚
f
恵
説
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1
6
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
いる事を断っておく。
暗殺の様子
私は、安政七年(一八六O
) の三月三日、買っ半(午前九時頃)過、ぎ、掃部頭置弼を江戸城西丸下の桜田門で討ち
かもんのかみなおすけ
その場合、読解の使を考慮して、蓮田の告白というスタイルを採用したが、事実経緯は、すべて右史料に基づいて
想・心情・などを析出しようとするものである。
もので、好個の法史学史料と言えるであろう。よって、これを読解し、詩歌を解釈する事によって、蓮田の生活・思
記﹂(﹃維新史料﹄第六十三号。明治十三年八月、野史台発行)自体が被取り調べ人の生活と心境を克明に語っている
を考える上にも参考になるのではないか、と思う。更にそもそも、私がこれから使用する﹃水藩蓮田市五郎 幽囚筆
そして、奉行などとの論婦を通じて、暗殺に歪る論理が知られ、その過程を見る事は、現代の法廷における論理闘争
ぞれを読むと、当時の取り調べの状況が知実に伝えられており、法史学の史料としての価値を備えている事が分かる。
まとめて解釈したものは、見受けられない。また、彼は、町奉行などから取り調べを受けた時の記録を残しているが、
あり、詩歌を比較的多く作っている。それを読むと、暗殺した際の動機や思想・心情が伺える。しかるに、その詩を
蓮田市五郎は安政七年に、桜田門外で井伊大悲を暗殺した十人士の一人であるが、その中では詩人としての教養が
序
連凶市五郎一一
桜凹門の詩人
3
1
7
取った者です。同志には黒沢忠三郎勝算・佐野竹之助光明・山口辰之助・大関和七郎増美・広岡子之次郎・森五六郎
行宗・岡野(阿部とも)一一一十郎・増子清三郎・関鉄之助・稲岡重蔵・斎藤監物一徳・鯉淵要人鈴陳・杉山弥七郎・森山
繁之助正徳・広木松之助・海後瑳識之助、それに薩摩の浪士有村治左衛門兼清がおりました。
二日の夜は、同志の者一同が品川の妓楼において訣別の宴を張りました。
三日朝の六つ(午前六時頃)過、ぎ、そこを出で立ち、芝の愛宕山で、それぞれ支度をしました。下駄と傘の者もお
れば、股引き・草軽の者もいて、思い思いの格好です。
四人、または五人ずつが組んで、五つ時(午前八時頃)、桜田に着きました。明け方から降り出した雪は、ますます
感んになり、風景は日頃と大いに異なります。同志の者たちがそこここと行き進むのですが、との大雪では怪しむ人
も居なく、実に天が我々を助けて討たせてくれるのかと思いました。
待つこと半時あまり(一時間ほど)、赤鬼(井伊直弼の津名)の従者たち五十名あまりが乗物を囲んで登城して参り
ました。次第に間近くなるので、同志の者それぞれが傘を打ち捨て、羽織を脱ぎすて、斬ってかかります。先方には、
雨具のまま斬りかかる者もおれば、雨具を脱いで向かう者もおります。
闘うことは暫時の間であって、 ついに賊の首領(井伊直弼) の首を新り落としました。道に降り積もる雪は、血に
染まって深紅となります。有村は、万の切っ先へ賊の首を貫き、何やら薩摩詑りで高らかに謡いながら、辰の口の辺
りを指して歩いて行きます。同志は、異口同音に、
﹁しめたり﹂
と呼ばわり、それぞれ万を鞘におさめて、思い思いに引いて行きます。
ああ、幾日も積み重ねて来た悪行が、 一朝にして雪とともに消え尽くしたのです。何と愉快ではありませんか。
斬好の手替や約束などは、まったく決まっておりませんでした。そのため同志討ちで、負傷する者がたいそう多かっ
たのです。私も増子清一一一郎と闘ってしまいました。
一から十まで、その人
戦いは、気力をもって主となす、と言います。その通りです。万を抜いてからは、間合いも確かには分からず、た
だ無二無三です。眼は、ほの暗く、心は夢中です。実に稽古試合とは、格別に異なります。
げ暫
それだから、大事な本望を達しようと望むならば、大将となるべき者を一人立てておいて、
の指揮にまかせ、場に臨んでは、勿論、その人が下知し、さらに本懐安達して一同を引率し、進むにも退くにも、そ
の人が下知しないと、ばらばらになってしまいます。況やまして、自訴(自己申告﹀の件は、大将たる人が独り引き
うけて論縛するのでなければ、部下の才や弁舌によって色々と異なる見解が出て、その成り行きは如何かと思われま
す。四十七士が吉良氏を討った時は、大石一人で事実は申し述べたように憶えております。
のぶちか
一同をまとめて、内藤紀伊守(信親。越後国村上藩主。老中)殿へ自訴する約束になっ
﹁御老中の役宅へ案内を頼み申す﹂
見付け番所(見張り番のいる所) へ行って、
負っていて、後ろから呼ばわるので、引き返してみると、中でも斎藤は深手で、歩くのがやっとこであります。ある
ぞれ故、ばらばらであって、私も大関和七郎など五人と行くと、黒沢忠三郎・佐野竹之助・斎藤監物が何れも深手を
ていた事を知っていた者もあるし、知らない者もいたでしょうか。また、内藤殿の屋敷は、何れも知らないのです。
一体、本望を達した上は、
自
訴
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明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
と申し込むと、列坐の者どもは上を下へと押し返し、ただ震えに震えている体で、何の返答もありません。
トゆ1Uト
ムFhv
やすおり
一封の書付を呈し車借りたく存じました
やむなく、またまた引き返し、八代洲河岸を過ぎました。山口辰之助と鯉淵要人が自害しております。それから辰
の口までゆきました。ぜひとも田安様(当主慶頼は将軍後見職)へ罷り出で、
が、斎藤など何れも疲れてしまって、歩けなくなりましたので、そこで脇坂殿(安宅。老中。播州竜野藩主)の屋敷
へ参り、右の次第を訴え、久しく待っておりました。すると、玄関へ遇され、家老風の人物が一一、三人出て、事実を
尋ねます。そこで、懐中の封書を取り出して渡しました。
八つ頃(午後二時頃てになって、傷の治療を受け、私は右の肩に二寸余り(六センチほど)、右腕に三寸ほど(九セ
ンチほど) の傷があり、腕の方は三針縫いました。当初は、治療を受けずに割腹しようと思いましたが、皆が、
﹁どうして従容と死に就かないのか﹂
と説きますので、思い止まりました。
英名
世運を回らさんと欲す
姦魁の頭
千載に流れん
縦い彊粉の滅を為すとも
斬り破る
類波を挽きて
ひ
この脇坂邸に居る問に、﹁一二月三日、閣老脇坂侯邸に於ける口吟﹂という詩を作りました。
欲挽類波回世一通
一日朝新破姦魁頭
残躯縦為華粉滅
濠々たる
ある日、巨悪の首級を斬り取った。
くずれた波(態勢)を引き戻して、世の動きを回復させようと思い、
濠々英名千載流
朝
残
躯
蓮田市五郎一一
一一桜田門の詩人
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生き残った身が、たといにらの粉のようにこなごなにされたとしても、
気高い英雄の名は永遠に伝わるだろう。
ちのね
いしがやいなぽのかみあっきょ
夷秋に周して国を明け渡すような井伊大老の政治を直し、尊皇の世に戻したい、という気持ちを述べたものであり
ます。なお、漢詩の作り方は、水戸藩校の弘道館で茅根寒締先生などから習いました。
細川家御預け
一向、申し渡しを受けました。その文は、次のようなものです。
が隔たっていて、彼らに進、っ事はできませんでしたが、ひとしお床しい気持ちになりました。
翌四日、大関・森・杉山・森山の四人は、細川家へ自訴し、預かりになっている由を付き人から承りました。座敷
に深手のため、脇坂家で絶命しておりました。
細川家からは受け取りの役人が人数を大勢引き連れて詰めかけ、すぐさま引き渡しになりました。佐野は、その前
者なり。
水戸様御家来、佐野竹之助・黒沢忠三郎・蓮田市五郎・斎藤監物、此の度、細川越中守え御預け仰せ付けらるる
石谷から更に次のように申し渡されました。
北町奉行)に御引き渡し遊ばさるものなり。
水戸様御家来、黒沢忠三郎・佐野竹之助・蓮田市五郎・斎藤監物、思し召し之れ有り。石谷因幡守(穆清。江戸
日暮れに・なって、
四
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明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
五日、黒沢・大関・森・杉山・森山が評定所へ出ました。斎藤と私は出ません。
三日、四日と雪が降りました。私は細川家におりましたが、この五日の夕空は晴れて月の光が射したので、歌を作
りました。
降りつもるおもひの雪の晴れていまあおぐも嬉し春の夜の月
一同が出ました。斎藤は、深手なので出ません。
積もる思いが晴れた、即ち井伊への憤惑を解消した、という立と、降る国一司が晴れた、という意とを掛けたものです。
七日は、
この夜、母が桜花を鹿で眺めてたいそう喜んでいる夢を見ました。目覚めてから、思わず涙をはらはらと流しまし
歓を奉ず
花は清宴を促し
夢籍めて
無傍
しら
他郷に在り
驚き殻坐すれば
りの
た。詩を賦しました。
緑酒奉歓慈母傍
花促清宴興銀⋮彊
三吏夢籍驚起坐
庭園に在らずして
興慈
彊主母
我が家の庭にいるのではなく、よその土地にいるのだった。
真夜中に眼が覚めて、はっとして起き上がると、
桜花のもとに楽しい宴が進んで、興は尽きない。
清らかな酒を供しておつかさんを喜ばせている。
不在庭園在他郷
緑
酒
更
蓮田市五郎一一
一一桜田門の詩人
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報ずるに処無し
畑、な
り
母を詠じた詩歌の最初のものです。
生前の恩沢
富雄
際、大将軍の仇鷺はたいそう恐れ、その要求を受け入れて、馬市を開くよう請いました。俺答は、馬を売って利益を
第し、南京兵部右侍郎となった。嘉靖二十九年、韓組の酋長である俺答が北京に攻め入って通貢を求めた(庚戊の変)
楊板山(一五二ハ│五五)とは、名は継盛、字は仲芳、板山は号、明の世宗の嘉靖二十六年(一五四七)、進士に及
姦物を斬って捨ててから、僅かでも真心を捧げた気がする。
生前の主君の御恩には報いる術も無いが、
楊板山の剛直な精神を学ぼうと思っているのだ。
この身は剣の切っ先で傷ついたが、尊皇嬢爽の志はますます雄々しい。
す忠を効すを
生前恩沢報無処
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J
ET
柳か知る
志
姦を除きて
擬せも
す
除姦明知効寸忠
料法
楊槻山への憧慣
剣
加熱題の詩も賦しました。
身嬰剣鐙志愈雄
ば l
こ
ん 嬰:
i
とる
学鐙?
五
剛肝擬学椴山風
身
は
剛
肝
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2
2
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
りんとう
得ょう、というのです。楊板山は、これを屈辱外交として、拒否するよう激しく訴えます(﹁馬市を罷めんことを乞ふ
げんすう
疏﹂)。ために秋道(甘粛省臨挑県)典史に庇しめられましたが、後、俺答は約を違え、仇鷲は訴罰されます。世宗は、
板山の功を思い、刑部員外郎に上せます。時に権力者の厳嵩は仇驚とは不仲だったので、そのように仕向けたのです
が、後、厳嵩があまりにも賄賂を取って権勢を恐まにするので、板山は、﹁賊臣を株するを請ふ疏﹂を著わして弾劾し
ます。ために厳嵩によって下獄され、拷聞を受けるも捷むことなく、結局、嘉靖三十四年(一五五五)に北京で死刑に
と、間近に死が迫っているととに悲哀を催しもしました。むしろ、こちらの方が正直な気持ちかも知れません。
て忠魂と作って補はん﹂)や、長州の高杉晋作なども、これを読んだ形跡があります。そうした楊板山の剛腸にならつ
処せられました。板山は、とのように節義の士で、しかもその屈辱外交を拒否する姿勢は、我ら幕末の尊皐撰夷の士
蓮田市五郎一一
.
.
.
.
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.
本多侯御預けと山口丹波守の取り調べ
九日夜、六人ともに御預け替えになりました。私は、人町堀の本多修理売殿(実は本多主膳正。膳所藩主)の家来
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八日朝四つ時(午前十時頃)、斎藤は、とうとう亡くなりました。
もろ人の花見るさまにひきかへて嵐まつまの身ぞあはれなる
一方では、﹁隅田川の花のいと盛んに、人々花見に出るよしを聞いて﹂は、
て獄中生活を送ろう、という気慨を示したのがこの詩です。
る茅根寒緑(﹃盟ハ風後集﹄﹁楊板山の望刑詩に日く、天主白から聖明、制度千古に高し、生前未だ恩に報ひず、留まり
と共通するものがあるので、その﹃楊板山先生全集﹄は我々からたいそう愛読されたものです。私の漢学の先生であ
一一桜田門の詩人
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明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
かめ
へ預けになりました。本多家では厳重な手当てで、四方格子の牢であり、都合によってはそれが三重に廻らされまし
た。役人と下人とが十人ばかり、日夜警備しておりました。
十二日、評定所へ出ました。四人の死骸を塩漬けにしたものを瓶に入れ、私に見せて、その姓名・を言わせます。私
は思わず涙をはらはら流しました。日数を経ているので、その容貌は甚だ相違しています。それは、山口辰之助・広
岡子之次郎・稲田重蔵・鯉淵要人でした。山口と鯉淵は、前にも申したように、人代洲河岸で自害した者です。稲田
かしら
は、事件の現場で自害したか斬り死にしたかでしょう。広岡は、有村とともに辰の口で自害したとか聞いております。
ほう急のかみいしがやはりまたんぱ
有村は、賊の魁(井伊震弼)の首級をかかえたまま死んだ、と聞いております。関・岡部・増子・海後・広木は、行
方知れずと=一-口います。
評定所の吟味のお役人は、松平伯者守・石谷因幡守・池田播磨守です。そのほか、御勘定泰行山口丹波守から小役
人まで大勢出席しております。池田殿が言います。
﹁水戸殿家来蓮田市五郎、このたび同志の者と申し合わせ、御大老井伊掃部頭殿へ桜田において狼籍に及、び、お場所
柄と申し、あまつさえ天下の執権職へかようの始末に及んだ段は、恐れ入った次第である。しかしながら、本望を逮
した上で自訴に及んだのは、神妙の歪りである。掃部頭へ狼籍に及んだのは、いかなる趣意であるのか。委細申し上
げるよ、つに﹂
私はお答え申し上げました。
﹁仰せの知く、お場所柄をも顧みず、御大老へかようの始末に及んだのは、甚だもって恐れ多く存じ奉ります。趣意
の件は、委細、書き取りに致し、脇坂侯まで差し出しましたので、それにて御承知下されますよう﹂
吋いかにも書き付けには種々書き記してあるが、あれでは掃部頭を討った趣意が立たないように存ずる。もっとも、箇
一一桜田門の詩人 蓮田市五郎一一
3
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条書きは沢山あるとは見えるが、その内でまずどれが大眼目であるのか﹂
﹁仰せの知く、箇条は沢山にございますが、それを纏めて申せば、天下のおん為と存じて、討ち申しました﹂
﹁さょうか。しからば、天下のおん為と存ずる、その理由は﹂
﹁一つ一つその箇条を申し上げるのは、あまりにも悌h多い事でございます。何となれば、当代の御大老で、御政治向
きなど万端執り行いなされる井伊様に関る事で、その上、当代の御重役様がたが御列席の中で、いくら御吟味の場所
とはいえ、その御失態の条々を、軽輩の我々から一つ一つ申し上げるのは、実に恐れ多い次第でございますから、そ
れは篤と御賢察くだされ、右の書き付けでもって大暑御承知くだされますよう﹂
﹁なるほど、もっともな申し立てではあるが、その方ら家来どもが申し合わせ、天下のおん為に掃都頭を討ったと商・
すのでは、名分が立たないように思われる。侍と一言えば、我々も同様の事で、それぞれの主君の命令を奉じて死んで
なりあき
こそ名分も立つものである。その方などは、御三藩(水戸・尾張・和歌山)の家来というのだから、なおさら立派に
死んでこそ本意であろう。きすれば、主君からお直には伺わなくとも、前殿(徳川芳昭)の思し召しとか何とか聞き
伝えて、このたびの仕儀に及んだのであろう。さようなれば、名分も立ち、実際にその方どもは君命を奉じて死する
事になるから、感心の烹り、という事になる﹂
(筆者言、っ。徳川斉昭は、開国論にしても将軍継嗣問題にしても井伊大老と対立していたので、幕府側に立つ池田は、
斉昭に暗殺事件の責任を押し付けたくて、前主君の意向によって暗殺を実行した、という方向へ論を誘導していった
ものであろう J
私は、ここで膝を立て直して、
﹁これは思いも寄らぬ御推察を伺い由・します。君命を奉じて死ぬのは人臣の常道である、とは誰も存じております。
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明治大学法学部倉Ij立百三十周年記念論文集
よしあっ
水戸家に就いては、 一昨年から両公(斉昭・慶鴛)とも幕府の御誼責を譲りおりますので、右のように御推察なさると
存じ奉りますが、前君(斉昭)の内命を奉じて井伊家を討つという事ならば、立派な身分の士が喜んで進み出て討つ
という事もあるはずで、どうして軽輩の我々が出る事がありましょうか。水戸藩の者どもが討ったので、右のように
御推察なされたと見えますが、これが天下の浪士が討ったのであれば、いずこへお疑いをかけさせなさるのでしょう
か。そのような仰せでは、まったく遺恨がある者同志で討ったと思しめしなさるのでしょうか。そんな訳ならば、ど
うして薩摩の有村が人のために一命を捨てて加勢に及ぶでしょうか。いったい先寡君(斉昭)に就きましては、天朝
一国の者ども一同存じております。このたびの一件を、お聞き及びになれ
(朝廷)と公辺(幕府)のために深くお考えになられ、お慎みにならせられて、過激な臣下については尽く御配慮遊ば
され、毎度、御教諭あらせられます事は、
ば、定めて深く御心配遊ばされる事であろうと、実に臣下の身分としては恐れ入っておりますが、今すぐに井伊家へ
右の仕打ちを行わなければ、天下のお為にならないので、めいめいが決心致した事でございます﹂
と一言いも終らぬ内に
(筆者云う。蓮田は、井伊を討ったのは、斉昭が井伊を恨んでいるからと言、つような私憤からではなく、天下にとっ
て良くない政治を行うからだという公憤に基づいて討った、と言いたいのである﹀、
石谷殿が、
﹁播磨守が申すように、前殿(斉昭)の内命を受けたとか、または掃部顕殿の御政治お取り扱い方を前殿が常々憎んで
おり、近臣へなり話なされた御心中を汲みとっての事であろう。そうでなくては、名分が一向に立たない。第一、そ
の方などは、どのような名が付けられでも惜しまないのか﹂
と言います。(筆者云う。この名分論もまた、斉昭の意向に従って決行した、という方向に向けた論である。)
蓮田市五郎一一
一一桜田門の詩人
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一様ではないものです。このたびの件も、なるほど名分が立たな
﹁名を惜しまない者はおりませんが、仕儀によっては事も惜しみませぬ。名分と申しましでも、その当初は立たない
ように見えても、後には明らかに立つ場合もあり、
いと言えばニ=守えるようなものの、これより後は尊皇擢夷の大義が天下に明らかになるので、どうして名分が無いと申
せましょうか。前公の思し召しを汲みとって右の一件に及んだなどと仰せられるのは、恐れながら例によってのお役
人様の御疑念であって、精忠無二である老公(斉昭)を忌み嫌っておるように存じ奉ります﹂
(筆者去、っ。蓮田は、尊皇捷夷という大義を天下に明らかにするために決行したのだ、という名分論を主張するので
ある)
(石)﹁それならば、井伊殿を討って天下のお為になると、その方は申すが、我々から見れば、随分結構な御大老と存
ずる。その方どもは、何をもって悪いと言うのか﹂
﹁さようなれば、恐れ多いのですが、 て二件申し上げましょう。掃部頭様が大老職に成らせられてから、東照宮(家
康)の御規定を破って外夷と交易を始め、その為に天下の人民に難渋する者が多く(筆者云う。物価が騰貴した事を
一己の威権を恋まにし、人心に恨みを抱
一言、つ)、禽獣にも等しい夷人を江戸城へ引き入れ、将軍様(家定)へ謁見を許され、御親藩を遠ざけ、天朝(孝明天皇)
の思し召しを軽蔑し、上様(家茂。十一二歳で就任﹀御幼少の折りに乗じて、
かせ、万一、天子を立てて天下へ号令する者が出て来たならば、 いかが為される思し召しでご、ざいますか。いわんや
外夷の姦計は、日本を呑食しようという気が十分ありますから、実にもって容易ならざる事で、今において井伊様を
倒しますれば、天下の大勢が変革することは、必定でございます。きすれば、お役人様方においてもお心づきなされ、
尊皇援夷の御大義をお執り行いになるようになりましょうかと存ずるからであります﹂
松平伯品質{寸が言、っ。
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明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
﹁外夷の件などは、掃部頭殿独りの取り計らいというだけではない。それぞれお役人方がおられて、お計らいになっ
た事なので、何もその方などが天下のお為などとは入らざる事だ。面々がその主君主君へ大切に奉公すれば、則ち天
下のお為になるのだ。天下の事は、天下のお役人があるわい。(筆者云う。伯香守は、封建時代においてはそれぞれの
地位に応じた職分を守るべきだ、という分度論を主張する)先刻より、その方は、前殿の思し召しを汲みとって、こ
のたびの一件に及んだのではない、と申すが、佐野竹之助は前殿の小姓役を務めた以上は、何か竹之助から承ってお
る事は無いのか﹂
﹁竹之助とはニ日の夜、品川の妓楼にて初めて面会しましたゆえ、右のような事は以前に承るわけもありませぬ。先
刻から皆々様で、前殿の思し召しとか何とか、理由無くしては名分が立たぬからと仰せられますが、たとい名分は立
つにもせよ、立たないにもせよ、老公の思し召しを汲みとって致したなど申す事は、官宅も無い事ですので、 いかほど
厳重にお尋ねられでも申し上げられませぬ﹂
と言い切りました。それからは、老公に関する尋問は出ませんでした。
以上が=一月七日・十二日・十九日の三度の取り調べの大意であります。その外に国元の事情や勤めの件を色々に尋
ねられ、それぞれ答えました。璃細の件は記録するまでもありません。いま私が、この大意を書いている理由は、幕
府の横暴は申すまでもありませんが、右に述べましたように、老公へ罪を帰する気配がありますので、万一、我々が
死んで後、老公の思し召しから出て井伊を討ったのだ、と誰々が申したなど偽りの口書き(供述書)などを認められ
る事も計り難いので、万一、そのようになりましたなら、この上も無い遺憾で、死んでも罪が残る事になりますので、
論静の大意を記し置くものです。老公のおん事に至っては、たとい私が斬に処せられようとも、どうして根拠も無い
事を申しましょうや。時に三月二十二日、本多家家中にて香す。
(筆者云う。蓮田の﹃幽囚筆記﹄の第一の主意は、実に徳川芳昭に事件の責任が帰せられる事を明確に否定する、と
いう点に在るのである。﹀
実は私に筆が渡されたのは、ょうよう一一一月二十一日になっての事であります。暴は傘に摺りためておき、二十二日
に一件の始末の大略を書いたのです。
井伊臨弼は秦檎
挺身欲払姦檎横
伏節元期大義明
身を挺して
節に伏して
払はんと欲す 姦檎の横なるを
元と期す 大義明らかなるを
人
世
空しく余す 忠烈の名
総べて夢の如し
顕を回らせば
千載空余忠烈名
回頭人世総知夢
この時の感想を詠じた詩が、﹁三月二十七日、評定所口吟﹂です。
二十七日には、評定所へ出ました。
七
顧みれば人の世はすべて夢のようにはかないものだが、
そこで、我が身を投げ出して世間債な秦檎の横暴を打ち払おうとしたのだ。
節を守って死ぬのは、元来、大義を明らかにするのを期しての事である。
千
載
蓮田市五郎一一
一一桜田門の詩人
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明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
死後、永遠に壮烈な忠義者という名だけは残るだろう。
起句の﹁大義を明らかにす﹂るとは、具体的に言えば、承匂の﹁姦檎の横﹂暴を払う、という事であります。槍と
は、南宋の宰相の秦檎のことです。彼は、金と講和するために岳飛ら抗戦派の武将を弾圧し、金に毎年、金二十五万
荷 LC
絹ニ十五万匹を献上する、という屈辱外交を行いました。それは、米固などに屈辱的な態度で通商を許可した井
伊大老の暗聡であります。井伊こそ姦伎な秦檎に匹敵する売閏奴です。との売国奴の横暴な施策を無くする事こそが
大義なのであります。当初、私は、﹁姦檎﹂を﹁海観(くじらとと作りました(﹃振気篇﹄詩文)が、それでは意味す
る所が弱く、やはり﹁姦檎﹂と言わなければ気が収まりません。即ち、この詩は三月三日の口吟とほぼ同様な認識と
心情を言ったものであります。
この日は﹁死に就く事か﹂と思いましたから、辞世の歌も詠みました。
いろ香をば吉野の奥にとめ置きて惜しまずに散る山桜かな
吉野は、南朝三代の嘉居のありました所で]そこに色香を習め置くとは、尊皇愛国の心情を暗に象徴させたのであ
ります ο いさぎよく散る桜は、本居宣長先生がおヲしゃるように、大和心の警えであります。
花のため深く染めにしいろ香をば散りなん後ぞ猶ほ匂ふらん
天の職人のように花に色と呑を染め込むとは、やはり皇国の運命を丹誠こめて思うことを警えたもので、それが匂
うとは、その丹誠は千載の後に残るだろうと言ったのであります。
ぬ
﹁母を思ひて﹂、次のような歌も詠みました。
たらちめに亦たあふ坂の関なくば寝る間も夢に恋はぬ夜ぞなき
(母にまた逢える機会も無いので、寝ている問にも夢の中で恋しく思わない夜は無い)
勿論、﹁逢坂の関﹂と﹁逢う﹂を掛けたものです。十歳で父を喪って以来、大勢の子供の中でたった一人の男子であ
る私を二十八歳の今日まで千辛万苦して面倒みて下さった母に就いては、 マザコンと言われようと何と言われようと
も、手放しでこのように詠うほかは無いのです。ことに昨年(安政六年)十月、私が大病をわずらった折には大変な
r
:
時L
切
な
ょ
苦労をかけた事を思い出すと、何首このような歌を詠じてもかまわないとさえ思うのです。
間終
も 日
くは
さは
予夜
雨ぐ且
るり
の
る胃
壁窮
5
f が
悲担
し;じ
i
戻?
けし:
き
あはれなり昼はひねもす夜もすがら胸に絶えせぬ母の面かげ
か 2
1
ま こ町
のお
舎を
り、
の
従容笑処死生中
安知一片忠魂鬼
道理は
肝を貫き
、
つ
ず
義は胸を填む
死生の中
皇官を護らんことを
忠魂の鬼
従容として笑って処す
安んぞ知らん
俄然として
誰が知ろうか、ひとかたまりの忠義の盆となって、
死のうが生きようが、ゆったりと笑っておられる。
道理は体内を貫き、義は胸中に満ちている。
夙夜依然襲皇宮
片
道理貫肝義填胸
﹁無題﹂という詩には、臨終の思いを込めました。
(乾く間もなく挟が濡れているのは、母を恋しく思う涙が濡らしているのだ)
努哲
夙
夜
蓮田市五郎一一
一一桜田門の詩人
3
3
1
朝晩、帝の御殿をきびしく護ろうと思っている、この心を。
井伊大老の暗殺は、全く正しい事だと自足しており、些かも疑念は懐いていないのです。ただ未練があるのは、勤
の精神だけは永く持続させたい、という一点だけです。
(﹃振気篇﹄国風に拠る)
本多家の致視人も、今日が最後と思ったのか、桜花の枝を一折りょとしたので、
なが
守る人のあはれみなくばこの春はなれし桜もいかに詠めん
と詠みました。監視する人が憐れみをかけて下さらなかったならば、例年見慣れていた桜も今年の春は平静な思いで
は眺められなかったであろう、という意です。
煙景新たなり
桜も、もう散りかかっておりましたが、それに因む辞世の死も作りました。
春は墨江に満ち
一転してゆったりと死を迎える人間になっていることだ。
感慨深いのは、背は花見に浮かれていた自分が、
を
す
は
桜の花は盛んに咲き誇り、競って見物人合招いている。
と
春満墨江煙景新
容し
と
か
為
る
桜花 澗爆として
従ベ
桜花畑爆闘紅塵
就
紅
撤 f藤
く 遊?を
人 子L 闘
死
昔日の
し
て
可憐昔日趣遊子
てむ
春は隅田川に満ちて、需にかすんだ景色も新鮮だ。
融為従容就死人
つれ
もや
融2憐
3
3
2
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
蓮田市五郎一一
一一桜田門の詩人
3
3
3
これも、自分の行動を全肯定した自足の心境に立った詩なのです。結句の﹁従容として死に就く﹂は、乾隆帝が宋の
文文山(名は天祥)の文集に寄せた序に用いた句で、元に徹底抗戦した文天祥の壮烈にして悠々たる最期を形容した
一六八、九頁所収)。私も、文天祥同様に悠々
ものですが、我が幕末の詩にはよく用いられた勾で、たとえば会津の個性的な詩人である大場松斎の詩にはよくこれ
が用いられています(拙稿﹁大場松斎﹂﹃幕末維新の文人と志士たち﹂
たる心境のもとに死のう、と思い、この句を用いたのです。
﹁落花に寄する述懐﹂という歌も、同様な心境に基づくものです。
いそがねどいつか嵐の誘ひ来てせわしくも散るやま桜かな
(自分では急いでいないが、いつの間にか嵐が来て誘い、せわしくも散る山桜だなあ)
勿論、山桜に自分を見たてて、特に死を急いでいるのでは無いが、激動する時勢のために急に死なざるを得なくな
る自分の運命を観じたものです。
二十八日には、水戸の宮田瀬兵衛という者が細川家へ自訴し、細川家から幕府へ渡した、という事を、本多家の守
衡の人から聞きました。私は、宮田某という者が何者であるかを知りません。また、その自訴した訳は、なおさら分
からない。水戸藩の人物と聞きますから、その訳を尋ねたく思う事は、実に飢渇した者が飲食を思うがごとくです。
間三月一日には、母と姉へそれぞれ暇乞いの書状を認めました。それらは読む者をして感涙にむせばしむるほどの
文章と自認致しますが、既に岩崎鏡川の大冊﹃維新前史 桜岡義挙録﹂︿大正元年、第十版。古川弘文館)に紹介され
ていますので、ここには言及しません。また、閏コ一月二十五日には、秦幡大人へ宛てた書状も認めました。とれも一言
及しません。
母への思い
れ 弘 J輩
して
法網の
此の身に随ふを
客夢を労するとも
血涙垂る
乍ち過ぐ 六旬日
家郷を懐ふごとに
し有
毎懐家郷血涙垂
縦有帰心労客夢
難り
既以一身託剣鮭
只だ悲しむ
既に一身を以て剣提に託す
慈母の 心腸を砕くを
只悲慈母砕心腸
法の拘束がこの身にからまり付いているのを如何ともしがたい。
たとい帰りたい思いが夢の中に現れるとも、
故郷の家を思うたびに血の涙が流れる。
監禁されてから、あっという聞に六十日ほど過ぎた。
も心
幽囚乍過六匂日
のは、人問、として致し方の無い事でしょう。そうした思いが連作となりました。
か緩みが来る頃です。と言うよりも、 一旦は死を覚悟するとも、また故郷に帰りたいというような凡情が湯いて来る
かくて、六十日あまりが経ちました。今年は三月に聞がありましたので、四月初旬です。幽閉されている身にも些
J
¥
難奈法網此身随
幽
囚
奈広縦
んい
と帰
334
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
幽囚夜半孤眠夢
孤眠の夢
偏に故国の住む処に向かって行く
夜
半
九尺小堂独掘眠
九尺の小堂に
独り顕眠す
枕辺を繰る
百悲伝はる
相思の夢
除き去れば
千憂
家郷夜々相思夢
々
共に春風に誘われて
夜
悲しみとともに春風にいざなわれて枕元をめぐる
夜な夜な故郷の家を思って見る夢は、
数々の愁いが払われ去るやいなや、色々な悲しみがやって来る。
四方九尺の座敷牢に独りもの憂く眠りをむさぼる。
共誘春風続枕辺
郷
千憂除去百悲伝
ひたすら故郷の住居に向かって行く。
監禁されて独り真夜中に見る夢は、
ただ慈しみ深き母が断腸の思いをなさるのだけは悲しい。
もはやこの身をば剣の切っ先に預けたのだが、
偏向故国住処行
幽
囚
家
蓮田市五郎一一
一一桜田門の詩人
335
心が千々に乱れるために眠くてならないのだが、眠りは浅く、故郷や母の夢ばかり見る。そんな状態を詠じたのです。
皇道
次の詩は、私の詩の内では唯一の律詩ですが、形式が整斉されているのに応じて、まとまった内容を詠じたものです。
皇道久衰類
誰か能く
至尊を戴かん
久しく衰頚す
誰能戴軍尊
惨毒を重ね
え
姦槍重惨毒
ん
や
勢い吐呑す
を
天恩に報ぜん
支
醜虜勢吐呑
土に先んじて
深く感激し
鱗
不有迅雷断
争支狂浪鱗
嵯予深感激
iず
かの
予 狂断
浪宥
のら
どうして時勢が狂ってゆくのを引き戻せようか。
迅雷の早さでこれらを断ち切らなければ、
けがらわしい夷秋は我が国を呑み込む勢いだ。
姦悪な秦檎(井伊直弼)はむごたらしい弾圧を繰り返し、
いったい誰が天皇をいただくことができようか。
尊皇の遭は長いこと衰えすたれていた。
(﹃振気篇﹄﹃殉難草集﹂上、﹃殉難前草﹄。﹃幽囚筆記﹄では、第八句の﹁先士﹂を﹁死先﹂に作る)
先士報天恩
嵯
2ぼ
議
争}:迅 醜
す で雷 虜
336
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
ああ、私は、深く時勢に感じて、
志士に先んじて天皇の御恩に報いようとしたのだ。
右詩は、桜田の志士たちの思想的立場と、私たち一同が暗殺に奔った理由とをもっとも端的に表明しているもので
す。即ち、第一、ニ匂は、尊皇を言い、第三句は、井伊直弼の苛烈な大獄の批判、第四句は、接夷思想を表明、第五、
六句は、暗殺行為の理由づけを述べていますが、とりわけ暗殺行為の正当化を迅雷で替えたのは、詩としては光る一
匂だろうと自賛しています。そして、第七、人何で、再び尊皇思想を表わし、第て二勾と呼応させました。
絶望の自覚
功名
ι
一片の丹心
量偶然ならんや
H
好し天に奏せん
未だ駆らず 身先ず死す
{
疋
凍
一
の
露
首
留
む
ぶ
豹死留皮量偶然
功名夙欽定遠賢
洋夷未駆身先死
にて
欽i
牢
に遺志を訴える、というようなものに変化します。
も無かったのです。これには、私は、深い絶望を覚えました。よって私の詩歌も、深い挫折感や、その反動として天
井伊大老の死など何の影響も及ぼさないような情勢です。つまり、私たちの捨て身の行動も時勢の進展には何の働き
しかし、幕府は、この年の六月二十一日には、ボルト、ガルと通商条約に調印するなど、開国の度合いは進む一方で、
九
一片丹心好奏天
豹
は
死
夙し
洋
夷
蓮田市五郎一一
一一桜田門の詩人
337
338
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
豹が死んで皮を残すのは、どうして偶然であろうか、それなりの価値があるからだ。
私は早くから定遠侯班超の功績を慕って、それに見習った。
だが、西洋の夷秋を追い払わないうちに、自分は死ぬことになる。
この誠忠を、よし、天上の神に奏上するとしよう。(神だけは、私どもの誠忠を理解して下さるだろう)
既起は、漢の人。費闘が旬奴を征伐するために、西域経営に手を着けるとととなり、班超にこれを任じました。彼は
三十六人の部下を引率して、尤も手近な鄭蕃(ぜんぜん)国(楼蘭)に往き、漢に帰順せんことを勧誘します。最初
は都善王も漢使一行を厚遇したが、間もなく旬奴の使者が百余人の大勢で、その固に乗り込み来ると、打って変って
班超らを虐待し始めました。班超は非常手段の外に良策なきを覚り、﹁虎穴に入らずんば虎子を得、ず﹂と、その同伴者
を激励し、三十六人にて旬奴の一行を夜襲して、その正副使以下を皆殺しにしました。この蛮勇に恐怖して、部善王
は遂に漢に降服します(﹃後漢書﹄班超伝)。私どもが十人名と比較的少人数で井伊大老の行列を急襲したのも、班超
のこの夜襲に似ているので、それは私どもが早くから班超の行動を参考にしていたからかも知れません。ゑ匂は、そ
のような班超への敬慕を述べたものであります。しかし、班超とは異なり、私どもは、洋夷の退却を見ない内に死ぬ
運命です。それで、結句のような祈願が生じるのです。
あまつみかみ
次の﹁世の為と思ひでつくせし事ども皆空しくなりぬと覚へければ悲憤のあまりに﹂と題した歌も、その時のもの
です。
世の為とをもひ尽くせし真心は天津御神もみそなわすらむ
(世の為になると思って尽した私の真心は、天にまします皇国の神も御覧くださるであろう)
私どものせっかくの真心が世に受け入れられないのならば、あとはもう天の神様に訴えるほかは無いのです。
嵯与十歳喪先親
十歳
先親を喪ふ
の
欲明大義正牽夷
のです。
最後に作ったものは、
大義を明かにして華夷を正さんと欲するも
一見すると律詩のようですが、第五・六句が対匂になっておらず、やはり古詩と見るべきも
聞社会に向けて言ってもしょうがないのです。やはり天に訴えるほかは無い。
一生をかけて実現しようとした大切な思いは、何一つ世に受け入れられない。それならば、もはやこの思いは人
尊皇擁夷という大義が通らないのならば、母に教わってきた、君に忠、親に孝という教えも、今や通らない。つま
この一生をかけた悲願を誰に向かって述べたら良いのか。
我々の行動の大切な原理が実現されないのならば、忠孝もすたれる事になる。
ひたすらおっ母さんのお教えによって成長してきた。
誰に向かって陳ぜん
一に仰ぐ
大義
成らず
大義不成忠孝廃
一生の心事
成立一仰慈母訓
も
た
一生心事向誰陳
申
も
ああ、私は十歳で父親を亡くし、
で
す
孝慈
廃Z母
るの
司I
1
じ
同
様
な
絶
望
嵯感
すを
与2詠
成
立
次
の
詩
り
蓮田市五郎一一一一桜田門の詩人
3
3
9
3
4
0
明治大学i
法学部創立百三十周年記念論文集
身死して
忠孝
事宜を失はんとは
大空に帰す
夢乍ち醒め
只だ看る
血一保垂るるを
腸断ぜんと欲す
2
量図らんや
身死功名難共得
業空しくして
ら
が
事
土は
両 得
頑鈍量図失事宜
業空忠孝両相蔚
淋滴として
此に烹り
淋摘只看血涙垂
二十八年
一念至此欲腸断
二十八年夢乍醒
一篇の正気
υ
相
蔚
ヵ
‘
く
共
(﹃殉難草集﹄上に基づく)
満身の正気は大空に帰ることになってしまった。
一一十八年間の夢はたちまち醒めて、
ただ血の涙がぼろぼろとこぼれるのを見るばかり。
考えてここまで来ると、はらわたがずたずたになりそうで、
事業は意味無く、忠孝ともに欠いてしまう。
身は死ぬのに功績・名誉ともに得られそうも無く、
思いきや、かたくなで愚かなため、適切なやり方を欠こうとは。
尊皇の大義を明らかにし、日本が主、夷放が従という関係に正そうとした。
一片正気大空帰
'
也
、
功
名
頑
鈍
今
一一桜田門の詩人 蓮田市五直トー
3
4
1
この詩の第五、六句を、
旅魂瓢瓢追郷緯
潜々として
瓢々として
襟に満ちて垂る
郷を追ひて繰り
もの精神が東湖や松隠の抵抗精神に連なるものである事を示したのです。
ベき先人藤田東湖や、長州藩の吉田松陰にも﹁買気歌﹂があることは、よく知られていますが、この語を用いて私ど
勾を置いて締め括るのです。なお、﹁正気﹂は、文天祥の﹁正気歌﹂に鍵語として用いられたもので、我が藩の尊敬す
う挫折感を雷い、末尾に、よってこの精神は天に托するだけだという、諦念とも取れるし、後世への期待とも解せる
手を入れたとも考えられます。とにかく前半四何では、せっかくの桜田義挙が無意味なものになってしまった、とい
という対句に作っているものもありますが(﹃憂囚筆記﹄)、それは随分、整斉されたもので、後に誰か専門的な詩人が
血涙潜潜満襟垂
旅
魂
血
涙
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