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頭頚部外科医として「職人気質」

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頭頚部外科医として「職人気質」
医学フォーラム
医学フォーラム
「私の歩んできた道」
―頭頚部外科医として「職人気質」を通してきた毎日―
京都府立医科大学名誉教授,
(財)
京都地域医療学際研究所長 村 上 泰
《プロフィール》
昭和 年 月 日 埼玉県浦和市(現,さいたま市)生まれ
昭和 年 月 慶応義塾大学医学部卒業
昭和 年 月 インタ−ン終了,耳鼻咽喉科学教室入局
昭和 年 月 米国エ−ル大学喉頭研究室留学,年 月 帰国
昭和 年 月 国立栃木病院耳鼻咽喉科医長
昭和 年 月 慶応義塾大学医学部耳鼻咽喉科助教授
昭和 年 月 京都府立医科大学耳鼻咽喉科教授
平成 年 月 同上定年退職,同大学名誉教授.
平成 年 月
(財)
京都地域医療学際研究所長,現在に至る.
学会関係現職:
日本耳鼻咽喉科学会参与,日本気管食道科学会顧問,日本頭頚部外科 学会顧問,日本口腔咽頭科学会顧問,国際耳鼻咽喉科学振興会評議員,
京都府耳鼻咽喉科専門医会顧問.
府立医大在職中の主宰学会:
平成
年
月 会長
平成
年
月 第 回日本気管食道科学会認定医大会会長
平成
年
月 第 回日本頭頚部外科学会会長
平成
年
月 第 回日本喉頭科学会会長
平成
年
月 第 回日本耳鼻咽喉科免疫アレルギ−学会会長
平成
年
月 第 回耳鼻咽喉科臨床学会会長
平成年 月 第 回日本口腔咽頭科学会会長
受賞歴:
慶応義塾大学医学部北島賞(昭和 年)
,第 回世界耳鼻咽喉科学会 議フィルム・フェステイバル手術部門金賞(昭和 年)
,三越医学賞 (平成 年)
,米国頭頚部外科学会 (平成 年)
,など
府立医大を定年退職して既に 年になろう
としている.所属しているいくつかの学会でも
名誉職にまつりあげられ,年のあいだ「職人
気質」を通してきた頭頚部外科医の締めくくり
として 年ほど前に手術手技書を監修出版して
以降,学会誌からの依頼原稿は全てお断りし
て,もっぱら「経営検討会議議事録」などに精
力を費やしている毎日ではあるが,お世話に
なった大学からの依頼とあって,久方ぶりに文
章らしきものを書いた次第である.読み難い箇
所が多々ある点はご容赦願いたい.
医学フォーラム
医学部と運動部活
独立自尊の精神に憧れて慶応義塾大学医学部
に入学した.当時,予科の 年間は進学課程と
呼ばれていて,他の学部と同様に神奈川県横浜
市日吉にあったので,埼玉県浦和市の自宅から
電車を乗り継いで往復 時間をかけて通学して
いた.後期高齢者となった今では到底無理と思
われるが,当時は長時間の満員電車も全く苦に
ならなかった.決して立派な体格ではなかった
が健康だけは人一倍恵まれていたのであろう.
生来のスポーツ好きで,中学では野球部と体
操部に所属し,高校時代は水泳部で冬でも真っ
黒に日焼けしていたので,青白き受験生の中で
は異様に見えたのであろう,入学早々に色々な
運動部から勧誘を受け,物珍しさに挑戦してみ
ようという単純な理由で,氷上の格闘技とも呼
ばれるアイスホッケー部に他の 名と共に入部
したのである.
当時,東京都大学アイスホッケー部門には二
つのリーグがあり,慶応義塾を代表する体育会
アイスホッケー部は早稲田大学や明治大学など
日本を代表する名選手のそろった 部リーグに
所属していたが,慶応だけは 大学 チームが
認められていて,医学部アイスホッケー部は東
京大学,青山学院などの大学代表チームと共に
部に所属していた.部とはいえそれぞれ大
学を代表する強豪が相手である.それだけに練
習は厳しく,一般利用者が終了した後のスケー
トリンクを借り切って行うので,帰宅が真夜中
になることもしばしばであった.にも拘わら
ず,早朝の講義に遅刻する者が誰一人としてい
なかったのは,思い出しても不思議なくらい若
さと体力には恵まれていたものと云わざるを得
ない.
長野県松原湖や日光中禅寺湖での冬季合宿は
冬季休学期間の 週間を利用して行われるが,
その後すぐ各科一斉に医学生にとって最難関の
年度末試験があるので,練習と試験の準備にお
われる大変に厳しい毎日であった.それかあら
ぬか基礎医学のさる有名教授からは「アイス
ホッケー部の君達は絶対に無理ですよ」と太鼓
判(?)を押されていたのであるが,名全員
が優秀な成績で合格し,
「脳科学的にも説明が
つかない」と驚かれたことを今でもよく憶えて
いる.その夜,全員で祝杯をあげたのは云うま
でもない.ちなみに,その後開催された 部
リーグでの成績も成城大学に次いで第 位の好
成績であった.
合宿での厳しい練習の合間に上級生から重点
項目の詳細なクルズスを受ける習わしが功を奏
したものと思うが,その後,信濃町の医学部本
校舎に移ってからも試験に不合格で落第する者
など皆無,私を除いて皆優秀な成績で卒業した
のであった.同級 名のうち 名が教授となり,
他の一人は総合病院の院長として,もう一人は
食道ファイバースコープの開発に携わって今で
も食道早期癌診断の第一人者として活躍してい
ることを思うと,医学部学生であっても勉学と
スポーツの両立は,確固たる信念をもってすれ
ば決して不可能ではないと考えている.
アメリカ留学
インターンとして耳鼻咽喉科をまわった際に,
副鼻腔炎の根治手術を見学し,截除鉗子の微妙
な手捌きで,篩骨洞粘膜を丹念に頭蓋底すれす
れに摘出する妙技を見た私は,その日のうちに
耳鼻咽喉科医になることを決めた.もともと外
科志望で,耳鼻咽喉科学の臨床講義では頚部の
癌摘出手術などメジャーな手術を学んでいたの
であるが,マイクロサジェリーのような精細な
手技を要する領域もあることを実際に見学して,
頭頚部外科を専門とする決心をしたのである.
耳鼻咽喉科学教室に入局し,諸々の臨床研修
や基礎研究の手伝いをしながら,発声・呼吸・嚥
下など色々な重要機能に関係する喉頭科学に興
味を持ち始めたちょうどその頃に,米国エール
大学耳鼻咽喉科・喉頭研究室カーシュナー教授
(喉頭生理学と喉頭癌病理学で世界の第一人者,
後日私が本学で主宰した日本喉頭科学会に特別
講演者として招待した)から教室宛に を募集する旨の連絡があり,研究内容
が喉頭の諸々の生理機能とその病態を理解する
上で基本となる神経・筋生理学の動物を用いる
医学フォーラム
基礎実験であり,年俸なども当時としては破格
の好条件だったので,迷うことなく留学するこ
とを決心したのである.今にして思えば遙か
昔,昭和 年のことであり,朝鮮戦争で勝利し
たアメリカはすでにベトナム戦争が始まってい
たとはいえ経済的にも絶頂期にあり,医学関係
でも世界各国から沢山の が研究に携
わっていた.エール大学医学部にも,私の他に
循環器外科に九州大学から名,東京大学から
名,薬理学に京都大学から 名,生理学に東京
大学と慶応の私の後輩,合計 名が留学してい
て,お互いに最新情報,特に日本食とカリフォ
ルニア米(国宝米と呼ばれ,日本のコシヒカリに
匹敵する絶品であった)
およびニューイングラン
ドの風物・紅葉に関するニュースやら,ニュー・
ヘイブン市内の劇場や大学講堂で格安に上映さ
れる映画情報,車でわずか 時間のニューヨー
ク市内の面白情報などを家族ぐるみで交換しな
がら楽しく留学生活をおくっていた.
実験動物に猫を用いる喉頭の神経・筋生理学は
私には初めての経験であったが,手術用顕微鏡
の扱いに習熟している耳鼻咽喉科医にとって細
かい操作はお手のもの,すぐに単一神経電位も
記録出来るようになり,得られた結果の意味を
喉頭機能と対照させて考えながら進める毎日の
実験は,思わず時間の過ぎるのを忘れてしまうほ
ど興味深いものであった.これらの実験によっ
て得られた成果は数編の原著論文として報告し
たが,最終的に「喉頭防禦反射機構」としてま
とめられ,帰国後に行われた報告会で大学の生
理学教授からお褒めをいただいた.また「呼吸
における喉頭機能」の論文は帰国翌年にロンド
ンで開催された呼吸生理シンポジウムに招聘さ
れ,カーシュナー教授が講演して世界中の研究
者から賞賛された.これらの実験を行うにあ
たって参考とした著書「筋電図学」の喉頭の項
目を担当されたのが本学名誉教授の故中村文雄
先生であり,私が本学に着任して最初の大きな
出来事が中村先生のご葬儀であったことを思い
起こすと,何か大きな因縁のようなものを感じ
るのである.
エール大学のあるコネチカット州やハーバー
ド大学のマサチューセッツ州などのニューイン
グランド地方には古き良きヨーロピアン・エレ
ガンス漂う素敵な街々が多く,近郷ドライブに
は最適で特にメープルの葉が真っ赤に色づく紅
葉シーズンの週末には,メイン州やニューハン
プシャー州まで足を延ばして楽しんだ.しか
し,アメリカといえばなんといっても中西部の
大自然が魅力的で,その雄大さは世界に類がな
い.教授からも是非にと勧められ沢山のスライ
ドを拝見してすっかりその魅力の虜になってい
た私は,年目の夏期休暇を利用して大西部を
ドライブする壮大な計画を実行したのである.
月始めにニュー・ヘイブンを出発し,北上し
てバッファローからナイアガラ滝に到着,その
雄大さにまずびっくり仰天した.そこからカナ
ダ側を一気に西へ向かい,デトロイトで一息入れ
てからさらに西へ突っ走り,日間でサウスダコ
タに到着.ケーリー・グラント演ずる「北北西
に進路をとれ」の舞台となったマウント・ラシュ
モアの巨大な岸壁彫刻を楽しんでから,今度は国
道 号線を一気に南下して,途中ウィンド・ケ
イブ国立公園の大草原を爆走する野生バイソン
の大群に驚かされたりしながらさらに南へ向か
い,コロラド州デンバーからグランド・ジャン
クションを経由してロッキー山脈を横断し,い
よいよ大西部に対面することになった.奇岩の
林立するアーチーズ国立公園や岩穴住居遺跡の
あるメサベルデ国立公園に立ち寄ってから,
ルート をドライブしてニューメキシコ州か
らアリゾナ州へぬけ,ジョン・フォード監督の
名作「駅馬車」で冒頭の名場面を飾った岩山が
立ち並ぶモニュメント・バレーで開拓時代の雰
囲気を満喫した.そこから街道沿いに点在する
ナバホ族インデイアンの村々を通過して夕刻に
壮大極まるグランド・キャニオンに到着.遙か
に遠く渓谷の向こうに沈み行く夕日に照らされ
て赤紫色に輝く岩肌の美しさに思わず歓声をあ
げた.そこに 泊して疲れを癒してから再び出
発し,大自然との対比が面白い巨大コンクリー
ト建造物のフーバー・ダムを見学してから,夕
刻にネオン煌めくラスベガスに到着.なけなし
の資金が目減りしないよう早々に出発し,アリ
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ゾナ砂漠をぬけてユタ州に入りザイオン国立公
園を経由してブライス・キャニオンに到着した.
ここに立ち並ぶ無数の巨大な奇岩群は朝日に照
らされてオレンジ色に輝き,刻々と色が変化し
て素晴らしい雰囲気を醸し出していた.そこか
ら北上する国道 号線は全く平坦な一直線ハ
イウェイで,ソルトレイク・シテイーを通過し
てモルモン教の街として知られるローガンま
で,炎天下を一気に走り抜けた.そこからワイ
オミング州のロッキー山中に入り,緑溢れる高
原のグランド・テイートン湖畔のテント村に一
泊し,さらに北上してイエロー・ストーンに到
着した.原野に点在する大小様々な湖沼を縫う
ように走るパークウェイでは,野生の巨大な
ビッグホーンやヒグマに驚かされた.ここにも
泊して涼しさを満喫してから,再び南下して
カウボーイの町コーデイー,ララミー,シャイ
アンを抜けてカンサス・シテイーへ向かった.
文字通りの荒野に忽然と現れる街道沿いの村々
は,バーボンとタニヤ・タッカーのウェスタン
が似合いそうな西部劇的雰囲気に溢れていた.
帰路は東へ向かって一直線,セントルイス,イ
ンデイアナポリスからオハイオ・ターンパイク
高速道を突っ走り,フィラデルフィア,ニュー
ヨークを横目にみてエンジン・トラブルもなく
無事にニューヘイブンまで帰着したのである.
結局,延々 日間をかけて約 マイル
(
キロ)を走破したのであるが,わが国と
は道路事情が全く違うのと,出発前に予めアメ
リカ の地方事務局に申し出て,あらゆる分
岐点を懇切丁寧に表示したナビゲーター・マッ
プを作ってもらっていたので,実に的確なドラ
イブを楽しむことが出来たのである.外国から
の留学生で色々と類い希な経験をされた方々が
おられることと思うが,私ほどアメリカ大西部
を走り回った留学生はおそらくいないのではな
いかと思っている.
病
院
出
張
アメリカ留学も 年目に入り,研究もいよい
よ佳境に入っていたちょうどその頃,突然に教
室から連絡が入り,年末には帰国して栃木県宇
都宮市の国立栃木病院へ医長として出張せよと
の命令が下った.実験動物に声門けいれんを起
こさせることに成功し,その際の喉頭筋群の働
きを支配神経電位として記録する課題にほぼ成
功しつつあったので非常に残念であったが,年
末まで ケ月しかないので急遽成績をまとめる
ことになり,報告は帰国してから私の名前です
るようにとの温情溢れる許可をいただいて,そ
れらの素データを持ち帰ることになった.帰国
したのがその年の 月 日で到底時間が足ら
ず,すぐに病院内の医長官舎に引っ越しを済ま
せ慌ただしく日本の正月休暇を過ごしてから,大
学へ帰国報告に出向く暇すらなく 月 日付け
で国立栃木病院耳鼻咽喉科医長を拝命したので
ある.
当時栃木県には医科大学がなく,栃木県下で
の難症例や大きな手術は全て国立栃木病院へ紹
介される拠点病院となっていたので,教室でも
教育研修の最重要施設として位置付けられてい
て,医師の数は非常に多く,耳鼻咽喉科だけで
も私を含めて常時 名の大所帯であった.その
頃,大学ではインターン拒否などの大学紛争が
盛んで,私も学生の頃にお教えをいただいた何
人かの優秀な教授がお辞めになり,外科系だけ
でも肺癌外科の石川教授が国立がんセンターへ
(後に総長となられた)
,食道外科の赤倉教授は
病院長として国立栃木病院へ出向しておられ,
そのためもあって国立栃木病院の外科は 名の
医長と 名の医員総計 名の優秀な方々が非
常に活発に診療・研究をしていた.手術数が膨
大であったのは云うまでもない.麻酔科の医師
はたった一人しかいなかったが,全ての外科系
医師は入局早々に交代で麻酔科へローテートし
て ケ月間の実地研修を受けてから研修病院へ
出向することが大学の研修プログラムで決めら
れていたので,耳鼻咽喉科でも総勢名の中の
名が麻酔を担当し,名が列並列で手術するこ
ととし,大きな手術が多いときには外科医師に
麻酔の応援を頼むこともしばしばであった.週
日の手術日は 名で外来を担当し,名が朝か
ら局麻手術,午後からは全員で全麻手術として
毎回夜半に及び,日に ∼例,大小併せて年
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間平均 例もの手術を行っていたのである.
着任して 年目にはついに年間 例の大台
を超え,全国国立病院における耳鼻咽喉科記録
として 年以上経った今でも書き換えられて
いないとのことである.シャンパンをぬいて外
科系全員で祝杯をあげたことを昨日のことのよ
うに憶えている.大きな手術が多かったためか
全麻手術数が多数を占めたのも特徴的で,その
年の全国国立病院耳鼻咽喉科全麻手術の %
が国立栃木病院でなされたとあって,当時の厚
生省大臣官房審議官室に於いて院長ともどもお
褒めをいただいた.
私が最も誇らしく思っていることは,今後も
破られないであろうこれらの記録でもなければ
お褒めにあずかったことでもない.当時の仲間
達が皆健在で,その多くが大病院の院長や医長
として今でも大活躍していることなのである.
大学病院勤務
臨床における私の専門は頭頚部外科とくに癌
治療であるが,当時の頭頚部癌治療の基本方針
は根治切除であって,完治と生命の予後に重点
が置かれ機能的予後まで考える余裕などなかっ
た時代であった.そこで,疑わしいところを完
全に切除する技術に精通することが研修の目的
と考えられていて,顔面の大半が欠損したり頸
部に大きな瘻孔を生じて嚥下不能になるなど,
機能的にも美容上も社会復帰など到底考えられ
なかったのである.その頃やっとわが国にも最
新照射装置としてリナックが導入され始め,化
学療法も と照射の併用が行われてはいたが,
まだ などの新薬は開発されておらず,学
会では盛んに集学的治療やら同時併用治療など
と喧伝されてはいたものの,相変わらず機能破
壊的切除が主流であった.
欠損修復が必要であることは分かっていたが,
局所皮弁法以外に良い方法がなかったのである.
ちょうどその頃アメリカの から前胸壁有茎皮弁法が報告され,特
に頸部の大欠損に対する修復手術が著しく進歩
した.国立栃木病院耳鼻咽喉科でも早速この方
法を取り入れ,同時に動静脈を茎とする各種皮
弁法を開発してこれまで破壊手術であった頭頚
部外科に再建手術という概念を導入し,応用症
例の成績をまとめて「破壊手術から再建手術へ」
と題して学会に報告したのである.わが国で本
格的に遠隔有茎皮弁を用いる機能再建手術とい
う概念を頭頚部癌治療に採り入れたのはこれが
最初であった.その後,学会でのトピックスと
して毎回この問題が採用されるようになって再
建外科学は飛躍的に発展し,教室でもこれを採
用することになり,まだ 歳の若輩であった私
が助教授として大学病院に呼び戻されることに
なったのである.
教室では当時の教授が喉頭マイクロサジェ
リーを専門にし,喉頭斑として喉頭癌治療も担
当しておられたので,私は機能再建外科を必須
とする下咽頭癌を中心に担当することとなった.
領域こそ隣り合わせではあるが,その治療成績
には甚だしい差があり,下咽頭癌の 年生存率は
世界的にみても %前後で,
と呼ばれていたので,大変なことになったと思
いつつも,与えられた職務を忠実に実行するべ
く,機能再建外科研究斑なるものを立ち上げて,
その仲間と共に頭頚部癌治療の基礎と臨床特に
再建法の改善に没頭した.その成果の一つを映
画にまとめたものがマイアミで開催された世界
耳鼻咽喉科学会議の手術部門で金賞を受賞し,
仲間と一緒に「職人気質」に徹して苦労した成
果を世界に知らしめることが出来たのである.
これらが総合的に評価されて,私が本学教授に
指名される理由の一つになったものと考え,厳
しいテーマを与えていただいた教授にむしろ感
謝している.ちなみに,当時機能再建外科研究
斑として苦労を共にした仲間達とは,年以上
経った今でも毎年年末には必ず熱海温泉に集合
してグルメ忘年会と忘年ゴルフを楽しむことに
している.
本学に着任して
医学校としての長い歴史と伝統に裏打ちさ
れ,何代にもわたる優れた指導者の下で枚挙に
いとまがないほど優れた業績を排出してきた本
学耳鼻咽喉科学教室に,故水越 治教授の後任
医学フォーラム
として私が着任したのが昭和 年であったか
ら,平成の世と共に歩んだ 年余りの間,私と
一緒に在籍した教室員各位と共に,誇るべき伝
統を継承し後生に引き継ぐべく,教室の歴史の
一こまを刻みつつ各自それなりにベストを尽く
して努力したのであった.その詳細は私の定年
退職時に編纂された業績集に詳述されているの
で参照いただければ幸甚である.
外部から単身着任した私が最も重要と考えて
いたのは,同門会との融合および当時 施設で
あった教育関連病院のさらなる充実を図ること
であった.密接な病診連携なくして教室の発展
はあり得ず,学会での教室評価は関連病院を含
む全体の業績によってなされるべきものと確信
していたからである.そこでまず教育関連病院
での一人医長制をなくし,大きな手術後でも交
代で遠隔地への学会出張が出来るように複数医
師を配置することから始めた.そのために大学
医局そのものが手薄になることもあったが,竹
中 洋助教授(現大阪医科大学長)
,久 育男講
師(現教授)を筆頭に教室を預かる者の自覚と
頑張りで見事難局を乗り切り,次第に教室員も
増加して領域別の研究態勢も整い,臨床に研究
に安定した発展を遂げることが出来たのであっ
た.
私個人は相変わらず頭頚部外科を担当して癌
治療,特に下咽頭癌の治療成績向上に努力して
いた.切除後の再建法は二期的前胸壁有茎皮弁
法から一期的筋皮弁法へ,さらに腹部消化管を
用いる方法へと進歩して機能的予後は著しく改
善されたが,残念ながら 年生存率は相変わら
ず低迷していて治療法の革新が求められてい
た.そこで,組織学的には同じようにみえる扁
平上皮癌でも症例毎に生物学的特性が異なり治
療に対する反応も異なることに着目し,それぞ
れに見合った治療法を選別適用することを目的
として,悪性度,特に増殖活性および易転移性
を客観的に評価する免疫組織化学的研究を開始
し,定年まで毎年科研費の補助を受けて研究を
継続した.や 異型の発現性,さらに
癌巣周囲膜の主要構成成分であるⅣ型コラーゲ
ンの脆弱性など,蛋白レベルでの評価法につい
てはほぼ完了し,それらの業績が認められてア
メリカ頭頚部外科学会に招聘され,
を受賞したのに続いて,
遺伝子レベルでの研究を始めつつあった時点で
定年退職を迎えたのであった.厳しい臨床の後
で,夜遅くまで研究に励み最新の成果をまとめ
て学位を得た諸君にあらためて敬意を表する次
第である.
当時の本学には形成外科がなく,切除から再
建までの全てを担当せねばならなかったので,早
朝開始した手術も夜半に及ぶことが屡々であっ
た.下咽頭癌切除後の食道欠損に対しては腹部
消化管を用いる外科的再建法が益々発展し,当
時第二外科の山岸久一助教授(現学長)に遊離
空腸による や胃管の による再建を,さらに口蓋扁桃レベルまで切除
した後の咽頭食道全長欠損には当時第一外科の
高橋俊雄教授(現佐々木研究所杏雲堂病院長)
に栄養血管茎結腸による再建をお願いするよう
になってから,術後短時日で嚥下機能の著しい
快復が得られるようになったのである.今でも
これらの再建法は下咽頭頸部食道癌治療の主流
で,両先生ともお元気に現在もそれぞれのお立
場で大活躍しておられることは嬉しいかぎりで
ある.
教室の活動はますます幅広く,耳科学,鼻科
学,口腔・咽頭科学,喉頭科学,気管食道科学
の全ての分野に於いて,それぞれの研究室の責
任者となり多忙な臨床と平行させて研究の指導
をしてきた諸君,そして余りの多忙故に適齢期
を逃したとさえ云われながら昼夜の別なく教育,
臨床,研究に励み続けた教室員諸君,および関
係各位に心から感謝しつつ定年退職したのが平
成 年 月であった.
学際研究所のこと
大学を定年退職してすぐに,京都地域医療学
際研究所に所長として就任した.現在ではあり
きたりの用語となった地域医療を真っ先に実践
して既に 年以上の歴史を持つ施設であり,付
属病院の他に介護支援センター(現地域包括支
援センター)
,京都府第 号の訪問看護ステー
医学フォーラム
ション,その後加わった老健施設や介護予防に
役立てる健康スポーツクラブ(がくさいウェル
ネス)などを併せ持つ財団法人医療施設である.
付属病院は内科と整形外科を中心とするが,私
の担当する耳鼻咽喉科と大学からパート出張で
ご援助いただいている循環器内科,神経内科,
皮膚科,を加えて,小規模ながら高度の医療を
提供しつつ地域の中核医療施設としての役割を
果たしている.当院整形外科では特にスポーツ
整形に力を入れて最新の手術が行われ,リハビ
リ部門と相俟って多くのスポーツ選手が遠く離
れた地域からも数多く治療に訪れている.
北大路大宮に面して以前の済生会京都府病院
の跡地に建てられてからすでに長く,建物自体
が老朽化したために目下新築を計画中である.
今後も地域の中核病院としての機能を,そして
またスポーツ整形のメッカとして益々充実させ
る必要があり,大学からの一層のご協力をお願
いする次第である.
(平成 年 月投稿)
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