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英語文学研究と英語教育の接合

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英語文学研究と英語教育の接合
英語文学研究と英語教育の接合
―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
増 崎 恒
Application of Literary Research Methodologies to English Language
Education with a Focus on Ernest Hemingway’
s“Cat in the Rain”
(1925)
Ko MASUZAKI
はじめに
21 世紀も 10 年が経ち、日本の英語教育は今、ターニングポイントを迎えている。2004 年、
英語文学研究者向けの月刊誌『英語青年』、英語教育研究者向けの月刊誌『英語教育』双方が
「日本における大学英語教育の現状と課題」をそれぞれ特集する。英語文学研究、英語教育研
究という異なる学問領域において、「大学英語教育」が共通の話題として、同じ年に取り上げ
られていることは注目に値する。特集を通して、英語文学研究者と英語教育研究者を巻き込ん
だ、英語文学研究と英語教育をめぐる熱論が展開される。「実学としての英語教育偏重」主義
に対して反省がなされ、英語文学研究と英語教育の接合、
「英語文学を活用した英語教育の再生」
の有効性、が〈再〉発見される。
英語文学研究と英語教育をめぐるその議論によれば、「発端」は、急速に進んだ日本社会の
国際化に合わせて、20 世紀末から 21 世紀初めにかけて「英語教育」改革が国を挙げて取り組
むべき重点課題となった時点に遡る。その際、国策として、「コミュニケーション能力および
専門分野における運用・発信能力を効率的・効果的に育成」することが優先された。「文学」
は「英語教育から一掃」される。「スキル一辺倒に傾斜」した「実用英語」を通して英語を習
得させる「言語教育」が文学教育に取って代わる。背後には、「実践的コミュニケーション能
力を身につけた人材の育成」を大学英語教育の至上命題とする思想が鎮座した。
一方で、「文学」を虚学と切り捨て「スキル」重視の「実践実学」を掲げる英語教育に対して、
教育現場から異論が噴出する。そもそも、「日常的に行なっているコミュニケーションのかな
りの部分」は「過去の出来事に関する物語」で、つまるところ、「文学の言語」で語られている。
「本当に豊かなコミュニケーション能力」を有し、「効果的な相互コミュニケーションが行える
− 59 −
英語文学研究と英語教育の接合 ―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
程度」まで熟達した英語技能を養成するには、「最良の英語教育の教材」にして、「もっとも適
切な教材」である「文学作品」を「もっと授業に活用すべき」、という声が教育現場から上がる。
英語文学作品を効果的に活用した英語教育実践のためには、英語文学研究と英語教育の間の、
より強固な接合が不可欠である。故に、「英語教育を専門にする研究者は、文学作品をどう教
材にするかということにもっと力を注がないといけない」し、この点において、英語教育の領
域における英語文学研究の復権が渇望されている 1)。
これに関連して、21 世紀の幕開けである 2001 年、渡辺利雄氏は、米文学研究者という立場
から、自著『英語を学ぶ大学生と教える教師に―これでいいのか?英語教育と文学研究』の中
で、「実用英語」を偏重してきた日本の英語教育に言及し、そのツケは「最近の大学生の英語
読解力の低下」に顕著である、と痛烈に糾弾している。そして、英語文学研究の方法論の 1 つ
である「伝統的な読み」に立ち返った「英語教育の復権」を提唱する( 5-6 )。派生的に、英語
文学研究の領域において、英語文学研究の方法論はいかに英語教育に応用できるか、について
活発な議論がなされてきている。
米文学作家 Ernest Hemingway( 1899-1961 )とその作品群をめぐる研究動向も例外ではない。
作家は、第 1 次大戦に志願従軍し、イタリア戦線で負傷、戦後の虚無的な世界を、無駄を廃し
た簡潔かつ直接的な文体「ハード・ボイルドの文体」で描出したノーベル文学賞受賞作家とし
て広く知られる。「虚無」、
「生と死」、
「男性性」、
「暴力」、
「モダニズム」、等々のラベルが貼られ、
芸術としての「文学(研究)」という視座から論じられる。その一方で、この批評のベクトル
と併行して、文学理論家 Robert Scholes らによって牽引された、Hemingway 作品群を「文学教
育のための教材」へと展開(転回)させる別のベクトルが、昨今の Hemingway 研究において重
要な一翼を担っている。日本ヘミングウェイ協会第 19 回全国大会( 2008 年 12 月開催)のシン
ポジウムは、この議論の延長線上に置くことができる。シンポジウムの表題は、
「ヘミングウェ
イを教室で教える―『日はまた昇る』の場合」であった。これは、日本における Hemingway
研究の最前線で、Hemingway 文学を「教材」として活用することが〈考察に値する研究テーマ〉
と認められたことを示しているように思われる2)。
Hemingway の作品中に次の 2 つの対話が出てくる( Hemingway, Short Stories 425, 426 )。いず
れの対話も、質問者が「言語」あるいは「言語教育」に関心を持っていることを予測させる。
「あなたは英語の他に別の言葉は話せる?」
「ええ、ドイツ語とフランス語と、土地の方言を話せます。」
「どこで英語を習ったの?」
「ベルリッツ・スクールで。」
− 60 −
増 崎 恒
作家によって創出、設定された、これらの対話及び質問者には、「文学(芸術)」と「言語(教
育)」双方に対する作家自身の関心が共存していないだろうか。日本の大学英語教育について
の 2001 年と 2004 年の問題提起を視野に入れつつ、この共存関係を掘り下げて、Hemingway を
材料に、英語文学研究と英語教育の接合を試みることが小論の目的である。
筆者は米文学を研究する傍ら、「英語科目」の担当を通して大学英語教育にリアルタイムで
関わっている。小論では、筆者の立場・視点から、今の(大学)英語教育が抱える問題の解決
策の一端を探る。具体的には、英語文学作品(= Hemingway 文学)を「英語教育のための文学
教材」として効果的に活用する方策を、英語文学研究(= Hemingway 研究)の方法論を用いて
例示する。それを通して、英語文学研究と英語教育の接合を意図する。合わせて、この文脈に
置いて、先の対話を作家自身の「言語(教育)への関心の発露」と捉え直し、Hemingway 研究
に新しい光を当てる。
1.ホテルに向けられる Hemingway の眼差し
1935 年、 ア フ リ カ で の 狩 猟 旅 行 を 取 り 上 げ た ノ ン フ ィ ク シ ョ ン Green Hills of Africa を
Hemingway は出版する。
“The good writers are Henry James, Stephen Crane, and Mark Twain.”と、
「優
れた作家」
( good writers )として 3 人の米文学作家が挙げられる( Hemingway, Green Hills 22 )。
ここから見える、Hemingway の嗜好(あるいは思考)の中で、心理主義リアリズムの名手にし
て 19 世紀後半の米国文壇を代表する Henry James( 1843-1916 )、19 世紀末の米国自然主義文学
を代表する Stephen Crane( 1871-1900 )、が言及されていること、特に後者については、“ Crane
wrote two fine stories. The Open Boat and The Blue Hotel. The last is the best. ”と、中編作品“ The
Blue Hotel ”
( 1899 )が名指しされること、に着目したい( 22 下線筆者)。まず、James に対す
る Hemingway の意見表明から推して、数多ある James 作品群のうち、「ヨーロッパを旅行する
アメリカ人の冒険」という「国際テーマ」を扱い、もっとも「大衆受け」した中編小説 Daisy
Miller(1879)を、作家が意識していなかったとは考え難い(久我ほか 59; 渡辺 ,『アメリカ文学
史』8 )。次に、具体的な作品名“ The Blue Hotel ”を挙げて Crane を絶賛する以上、同作品への
Hemingway の思い入れは明白と考えられる。
Daisy Miller、“ The Blue Hotel ”はいずれも、「ホテル」を起点(あるいは基点)に物語が展開
するという点で共通する。しかも、両作品とも、冒頭の一文で「ホテル」に言及する。
At the little town of Vevey, in Switzerland, there is a particularly comfortable hotel.( James
下線筆者)
47
The Palace Hotel at Fort Romper was painted a light blue, a shade that is on the legs of a kind
− 61 −
英語文学研究と英語教育の接合 ―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
of heron, causing the bird to declare its position against any background.(Crane 277 下線筆者)
歴史的に見れば、「ホテル」は「移動技術の進歩」による「地理的・経済的発展」、及び「余
暇の伸張」に合わせて発達した( Sandoval-Strausz 48; Schlereth 214 )。冒頭に「ホテル」を置く
という仕掛けが、ホテルの帯びるこうした属性、それと絡み合った物語設定、へと読者を自然
に誘導したことは想像に難くない。Hemingway も一読者として、その例外ではなかったはずで
ある。
ここで、Daisy Miller、“ The Blue Hotel ”それぞれの物語設定とホテルの関係を、作品執筆当
時の社会文化政治状況に照らして見ておきたい。Daisy Miller は、2 人の主要登場人物―ヨー
ロッパ文化に染まった、ヨーロッパ長期滞在中の米国人青年 Winterbourne、そして米国から訪
欧したばかり、ヨーロッパ初心者の米国人娘 Daisy―をめぐる悲恋物語である。互いに惹かれ
ながら、「旧大陸(ヨーロッパ)/新大陸(米国)」の間の文化慣習の相違故に、結局は「理解」
(understand)し合えない。“I was booked to make a mistake. I have lived too long in foreign parts.”と
いう Winterbouorne による一方的な再確認で物語は終わる(James 116)。Winterbourne と Daisy は、
スイスの観光地 Vevey の Trois Couronnes ホテルで出会う(51)。作中、Vevey は、
「米国人旅行者」
( American travellers )で溢れていると説明され、“ There are sights and sounds which evoke a vision,
an echo, of New Port and Saratoga.”と、米国のリゾート New Port や Saratoga のアナロジーで語ら
れる(47 下線筆者)。
このアナロジーに着目したい。米国が南北に分かれて戦い合った南北戦争の後、米国のヨー
ロッパブームに Daisy Miller は発表された。戦後、経済的に豊かになると、米国人たちは、自
国での悲惨な南北戦争経験を忘れようとヨーロッパに目を向け始める。ヨーロッパ旅行を楽し
む、あるいはヨーロッパの美術や文学を通してヨーロッパ文化に接近する(亀井 26, 28 )
。Daisy
Miller は米国と関連付けてヨーロッパを描く。米国人読者を対象にした、
「分かり易い」ヨーロッ
Vevey のホテルが米国のリゾー
パの観光案内書的な役割を果たしてもいたのである3)。作品冒頭、
トホテルの雰囲気を醸していることを記述する際、
“ You receive an impression of these things at
the excellent inn of the Trois Couronnes, and are transported in fancy to the Ocean House or to Congress
Hall. ”と、
「 You =読者=当時の米国人」の存在を作家は明示する( James 47 下線筆者)
。その
上で、Trois Couronnes ホテルの持つ「非米国的」な一面が「読者」に向けて紹介される。
[ A ]t the Trois Couronnes, it must be added, there are other features that are much at variance
with these suggestions: neat German waiters, who look like secretaries of legation; Russian
princesses sitting in the garden; little Polish boys walking about, held by the hand, with their
governors[. . .].(47-48 下線筆者)
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増 崎 恒
Vevey の町中とは対照的に、Trois Couronnes ホテルは、米国人旅行者以外に、
「ドイツ系」、「ロ
シア系」、「ポーランド系」の人々が混在する〈国際空間〉である、と強調される。「ホテル」、
「Winterbourne と Daisy の破局」という物語設定を通して、作品は、「ホテルという場の持つ国際
性」と関連付けて、メッセージ送受信者の文化基盤(「Winterbourne =ヨーロッパ」と「Daisy =
米国」)の相違に起因する「異文化間コミュニケーションの困難さ(失敗)」を、当時の米国人
読者を意識しつつ、彼らのヨーロッパに対する知識欲に即応して、発信しているように見える
(サモーバーほか 35)。
対して、“The Blue Hotel”では、1 人の「スウェーデン人」が米国中西部の田舎町を訪れ、外
壁が青く塗られた「青いホテル」に逗留する場面から始まる。このスウェーデン人は、ホテル
の主人とも、他の滞在客とも馴染めない。強迫観念に取り憑かれて、周りの意見を聞かない。
言動は周囲から「理解」されない。孤立して、ホテルを出奔、酒場で酔客と喧嘩をして命を落
とす。米国社会に迷い込んだ「外国人」
( foreigner )であり、ホテルの主人からも他の滞在客か
らも「よそ者」
( stranger )として奇異の目で終始見られる( Brown 73; Dooley 92; Solomon 258 )。
スウェーデン人が置かれるこの状況は、
「周囲の意見」を「米国的価値観」と読み替えるならば、
「異文化間コミュニケーション」、「国際」、「ホテル」の三者が絡み合った、James 作品と同様の
問題系を読者の前に顕在化させる。
作品が発表された 1890 年代の米国は、ヨーロッパからの移民の大量流入に直面していた。
記録によれば、「スウェーデン系」の人々を含むスカンジナビア半島から米国への入移民者数
は当時、「堅実」な伸びを示していた(Mayo-Smith 43)。当時の米国人読者が「スウェーデン人」
を含めた、これらの移民(=外国人)全般に対して敏感になっていたであろうことは間違いな
い。その最中、ホテルの主人は、次のように自分の「ホテル」について言及する。
“I keep a hotel,”he shouted.“A hotel, do you mind? A guest under my roof has sacred privileges.
He is to be intimidated by none. Not one word shall he hear that would prejudice him in favor of
goin ’
away. I ’
ll not have it. There ’
s no place in this here town where they can say they iver[ ever ]
took in a guest of mine because he was afraid to stay here.”
(Crane 292)
ホテルの主人の発話という形を借りて、
「ホテル経営」と「ホテル客の権利」を作品はわざわ
ざ強調する。表題の「青いホテル」と相まって、作品は、移民(=外国人)へ向けられる米国
社会の関心に応じつつ、同時に、
(移民流入によって)米国社会の〈国際化〉が加速しつつあっ
た時代の「ホテルのあるべき姿」についても、ホテル経営陣側から米国人読者に注意喚起して
いたと言える。
時代は下って、第 1 次大戦後、1920 年代の米国は各種の「移民法」を盾に、移民受け入れ
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英語文学研究と英語教育の接合 ―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
制限の強化を図った(グリーン 107 )。この政策が、移民(=外国人)全般に向いた、当時の
米国人の関心の目と表裏一体にあったことは言うまでもない。1925 年、米文学作家 F. Scott
Fitzgerald によって、時代を代表する小説 The Great Gatsby が刊行される。主人公 Gatsby の生
い立ちが紹介される下りでは彼の「ヨーロッパの都会」
( the capitals of Europe )遍歴が、Gatsby
の恋敵 Tom Buchanan の邸宅が紹介される下りでは Tom の邸宅の「イタリア様式の庭」
( Italian
garden )が、米国人読者の前にクローズアップされる( Fitzgerald 10, 52 )。第 1 次大戦後、米国
は「ジャズ・エイジ」の下で栄華を極める。多くの米国人が訪欧し、強い米ドルの恩恵による
物質的繁栄を謳歌した(亀井 265 )。米国人の、国内の移民(=外国人)に向かう関心の目と外
国(=ヨーロッパ)に対する興味の目は同根であったと推察される。
1910 年代から 20 年代にかけて、Hemingway は「新聞記者(通信員)
」をする傍らで文筆活動
をしていた。ジャーナリズムの世界に身を置いて最新の社会動向を注視、読者に情報発信をす
る。その一方で、並行して文筆修行していたのである。また、戦中はイタリア戦線へ赴き、戦
後は米国とヨーロッパ間を何度も往復、James と並ぶ「国際派」でもあった( Lamb 177; Oliver
356 )。Hemingway は、「修行時代」に書き溜めた作品群を、Fitzgerald による The Great Gatsby
発表の同年、短編集 In Our Time にまとめて出版する(武藤 i)。作家は、当時の米国人読者の興
「ホテル」、
「米国人」、
「ヨー
味関心を熟知していたはずである。短編集収録の“Cat in the Rain”は、
ロッパ」の三者を扱う。Green Hills of Africa で示される作家の米文学論に依拠して、James、
Crane、そして Hemingway を同一線上に置くとき、“Cat in the Rain”は、米国の「国際化」とい
う時代の波にあって、James や Crane の作品と同様に「異文化間コミュニケーション」、「国際」、
「ホテル」の三者が織りなす問題系を意識し、かつ米国人読者にそれを教える〈英語文学教材〉
として発表当時機能していた、と仮定することができないだろうか。この仮説を立証すべく、
「ホ
テル英語教育のための文学教材」という視座から同作品の再解釈を試みる。
2.“Cat in the Rain”を「ホテル英語教育のための文学教材」として読む
“ Cat in the Rain ”は、イタリアのホテルを舞台に、ホテル客(一組の米国人夫婦)と猫に焦点
を当てた非常に短い作品である。米国人妻は、雨に濡れる 1 匹の猫を窓の下に発見し、その猫
を求めて外へ出る。猫は見当たらない。猫の件を聞き付けたホテルの主人は女中を遣わして猫
を 1 匹客室へ届けさせる。猫が届けられる場面で作品は終わる。Hemingway 研究において、こ
の「猫」の持つ意味・象徴性について、様々な解釈がされてきた。「猫は何匹か?」という問
いに対する説得力のある答えはまだ出ていない。作品の表題で、「猫」は冠詞の付かない単数
形の“ Cat ”と表されるところに作家の意図的な曖昧性を見て、収斂され得ない解釈の広がり
を内包した「重層構造のテクスト」の創造を作家は企図した、とする文体論的解釈がある。In
Our Time 全体を俯瞰して本作品をその「断片」として「読釈」し、短編集全体の「統一」にお
− 64 −
増 崎 恒
いて果たしている役割を論証しようとする考察がある。Hemingway 作品群を網羅的に横断しな
がら出没する「猫」に着眼し、作家の伝記資料と照合しながら本作品における「猫の意味」を
見出そうとする試みがある。一方で、日本における「英語の授業」、特に英文解釈力向上に「活
か」せる「英語教材」として作品を捉え、「精読していくうちにいろいろなからくりが読めて
くる作品」という切り口から本作品の意義を見出そうとする研究がある4)。
小論では、先行研究の成果を援用しつつも、その議論の核をなす「猫の意味」を論じるこ
とはしない。むしろ、作品の書き出しの一文、“ There were only two Americans stopping at the
hotel. ”で「ホテル」が言及されている事実、物語が「ホテル限定」で展開する事実、に鑑みて
「ホテル」が作中で担う役割を重要視する(Hemingway, Short Stories 167 下線筆者)。
「米国人妻」と「イタリア人女中」が雨の中、英語とイタリア語を入り混ぜて会話する場面
がある。猫は会話のつなぎとしての話題に過ぎない。また、米国人妻は「米国人少女」へとそ
の呼称を変える。この会話場面に着目したい。
“Ha perduto qualque cosa, Signora?”
“There was a cat,”said the American girl.
“A Cat?”
“Si, il gatto.”
“A cat?”The maid laughed.“A cat in the rain?”
“Yes,”she said,“under the table.”Then,“Oh, I wanted it so much. I wanted a kitty.”
When she talked English, the maid’
s face tightened.
“Come, Signora,”she said.“We must get back inside. You will be wet.”
“I suppose so,”said the American girl.(168 下線筆者)
武藤脩二氏は、イタリア人女中が米国人妻に対して見せる「笑い」( laugh )に着目して、「イタ
リア」を「米国」の下位に序列化する、米国至上主義的な第 1 次大戦後の力関係が揺らいでい
る、と解く(153)。また、今村盾夫氏は、
「異国で、その国の言葉が話せないのは何とも心細く、
己れの存在自体の精神的な危うさを覚えよう」と前置きして、米国人妻が発する“ Oh, I wanted
it so much. I wanted a kitty. ”という英語による発話を、「剥き出しとなった自我」による「母国
語である英語」での「己れの感情」の発露と見る( 104, 106 )。なるほど、自らの精神の瓦解を
防ぐための米国人妻による感情の爆発である「英語」を直に聞かされたイタリア人女中の顔が
強ばる、というのは説得力のある解釈となろう。武藤氏、今村氏ともに、この会話における「米
国(英語)/イタリア(イタリア語)」という二項対立を前提に議論を進める。とすれば、作中
でこの会話の持つ意義は、この二項対立が包接する、「異文化間コミュニケーション」、「国際
− 65 −
英語文学研究と英語教育の接合 ―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
状況」、「多(他)言語による会話」、の問題と不可分なのである。さらに踏み込んで、会話が行
われる「ホテル」という場所、「女中」と「客」という互いの立場、を勘案して、「イタリア人
女中の顔が強ばる」物語設定の意義について考えてみたい。
議論の補助線として、いずれも実体験を素地にして、“Cat in the Rain”と同様の「外国におけ
る米国人」という〈国際状況〉を描く、Hemingway の短編を 2 編取り上げる(Baker 177, 238)。
パリへ向かう汽車を舞台にした“A Canary for One”
(1927)では、車中で米国人夫婦と米国人婦
人が相席になる。実娘とスイス人男性との結婚を破断にした話が米国人婦人から語られた後で、
次のような会話が米国人夫婦との間で交わされる。
“I know Vevey,”said my wife.“We were there on our honeymoon.”
“Were you really? That must have been lovely. I had no idea, of course, that she[the American
lady’
s daughter]
’
d fall in love with him[a Swiss].”
“It was a very lovely place,”said my wife.
“Yes,”said the American lady.“Isn’
t it lovely? Where did you stop there?”
“We stayed at the Trois Couronnes,”said my wife.
“It’
s such a fine old hotel,”said the American lady.
“ Yes, ”said my wife.“ We had a very fine room and in the fall the country was lovely. ”
(Hemingway, Short Stories 341 下線筆者)
会 話 内 で、 ス イ ス の 観 光 地 Vevey と Trois Couronnes ホ テ ル が 言 及 さ れ る こ と に 注 意 し た
い。James の Daisy Miller の中で、Winterbourne と Daisy が出会う Vevey、そして同ホテルを、
Hemingway は Daisy Miller を踏まえて「意図」的に用いる( Lamb 196 )。Vevey は、三部からな
る“ Homage to Switzerland ”
( 1933 )の第二部“ Mr. Johnson Talks about It at Vevey ”の舞台として
Hemingway によって選ばれ、表題にも用いられる( Hemingway, Short Stories 425 下線筆者)。
この第二部は、主要登場人物 Johnson 氏の「離婚の危機」
、それに伴う重い心情を他人(=外国人)
に「理解され」ないことが主題となっている(今村&島村監修 126 )。並行して、Johnson 氏は
ウェイトレス、そしてポーターと次のような会話を交わす。
Do you speak other languages besides English?”he asked the waitress.
“Oh, yes, I speak German and French and the dialects.”
(Hemingway, Short Stories 425)
“Oui, monsieur.”
“You speak French?”
− 66 −
増 崎 恒
“Oui, monsieur.”
(427)
“But you speak German?”
“Yes. Where I come from they speak German.”
(429)
これらの会話の羅列は、Hemingway の「多(他)言語」、ならびにその会話が進行している「多
(他)言語空間」への関心をうかがわせる。また、Johnson 氏とウェイトレスは次のような会話
を交わしもする。質問者は Johnson 氏、回答者はウェイトレスである。
“Where did you learn your English?”
“At the Berlitz school, sir.”
(426)
「ベルリッツ教授法」の実践で名高い、言語初習者向けの語学習得コースを中心に据えた「ベ
ルリッツ語学学校」
( Berlitz School )に作家が言及していることは見逃せない(ジョンソン&
ジョンソン 40 )。「多(他)言語空間」への関心の裏に、言語教育、とりわけ外国語教育、に対
する作家の関心をも見て取ることができる。Vevey を橋渡しにして、Hemingway の「多(他)
言語空間」への関心は、James 的な「異文化間コミュニケーションの困難さ(失敗)」に対する
作家の問題意識に直結する。同時に、Crane によって問題提起された、「ホテル」というサービ
ス提供施設のあり方に、「言語教育」的な角度から作家の目は向けられる。それが“ Cat in the
Rain”に結実すると見る。
言語教育は、
「異文化理解」教育に相通じる。
「言語」とは「文化の一部」である。
「言語/文化」
の相違が異文化間コミュニケーション成立の妨げとなる。「異文化理解」なしに「第二言語習
得」は叶わない。そこで、言語教育では、外国語を母語とする文化圏の人々の「非言語的特徴」、
言い換えると、外国語学習者にとっては異文化に相当する、その外国語によってなされる言語
行動を支える文化的特徴、を外国語学習者に読み取らせる、あるいはそれを体験させ分析させ
る教育法、が効果的であるとされる。その有効な手段として、
「戯曲」や「ドラマ」を使用した「対
話」分析が推奨される5)。
“ A Canary for One ”の登場人物は全員名前がない。“ Homage to Switzerland ”において Johnson
氏と会話するウェイトレスもポーターも全員名前を伏せられる。“ Cat in the Rain ”の登場人物
についても、米国人夫婦のうちの夫を除き、全員名前は明かされない。みな匿名である。妻に
至っては、「米国人妻」
(American wife)と「米国人少女」
(American girl)の間で呼称が揺れさえ
する。
「妻」でも「少女」でも別段構わない、という印象を与える。例外的に名前を持つ、
“Homage
( Mr. Johnson )は作中、35 才の離婚間近の米国人男性で職業は
to Switzerland ”の「 Johnson 氏」
− 67 −
英語文学研究と英語教育の接合 ―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
物書き、と紹介される。“ Cat in the Rain ”の米国人夫婦のうちの夫 George は作中、子どものい
ない既婚の米国人男性、と紹介される。両者とも、個人をそれ以上特定させる情報は一切与え
られない(Oliver 117-18; 179)。まるで、「Johnson 氏」も「George」も米国に数多いる「Johnson
氏」、
「George」の代表に過ぎない、という書きぶりである。George も Johnson も、英語圏では「あ
りふれた」名前であり、実際のところ匿名と大差なかったと推察される( Room 121, 168-69 )。
Hemingway は、登場人物(= 米国人と非米国人)、
「異文化間コミュニケーション」、
「国際」、
「多
(他)言語」、「ホテル」を取り巻く問題系を、〈一般的〉な事象と認識し、登場人物の「匿名性」
を通して、この問題系の持つ一般性を米国人読者が了解し、自身に重ね合わせて作品を「戯曲」
や「ドラマ」のように「読み」進めることを期待した。そのために、この「匿名性」の仕掛け
を作品に施したと言えるのである。
言語教育、異文化理解教育という文脈で、Hemingway の“ Cat in the Rain ”中の米国人妻とイ
タリア人女中の間の会話(=異文化間コミュニケーション活動)を読み返したい。女中の母語
であるイタリア語で始まった会話に、女中にとっては外国語である英語が米国人妻によって入
り込む。これによって生じた、女中の「戸惑い感」が「顔の強ばり」として表出する。この会
話は、「自分の義務」である接客を通してサービスを提供する立場にいながら、サービス享受
者である客の面前で当惑し、顔を強ばらせてしまったために急いで女中が会話を切り上げよう
とする場面である、という絵解きが新たに可能になるだろう(今村 106 )。結局、求める「猫」
は見付からない。2 人の会話は「理解」に達することなく「失敗」に終わる。読者は、匿名の
「米国人妻」と「イタリア人女中」双方の立場からこの会話の場面を〈ロール・プレイ〉し、「ホ
テル」における「多(他)言語」による「接客」の困難さの実際を「知り」、「学ぶ」。「顔の強
ばり」が示す女中の「戸惑い感」を「異文化間コミュニケーション」という観点から「考え」る。
ホテルでの接客における「英語/外国語」の運用について読者は教えられる。国内的な移民問
題、国外的なヨーロッパへの関心の高まりを背景に、「国際化」を再度意識し始めた作品発表
当時の米国にあって、「ホテル英語教育のための文学教材」として、本作品は、「ホテルでの異
文化間コミュニケーション」を読者に疑似体験させる指南書的な役割を充分に担っていたと言
える。
女中と雨中の猫探しを終えた後で、米国人妻はホテル内へ戻る。その際、ホテルの主人か
らお辞儀される。そのとき、“ Something felt very small and tight inside the girl. ”と、米国人妻は
「何か小さな固いもの」を自分の内部に感じる( Hemingway, Short Stories 169 下線筆者)。作
中、この「何か」についてはこれ以上の説明はない。米国人妻は妊娠しておりこれは彼女の中
に宿る「胎児」である、逆に、これは彼女の「妊娠願望の投影」である、とする説があるが、
Hemingway 研究者の間でもまだ決定的な論は出ていない(今村 120)。女中との会話の直後に米
国人妻が「何か小さな固いもの」を自分の内部に感じる、という場面展開的な側面からこの正
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増 崎 恒
体について仮説を立てたい。母語である英語と外国語であるイタリア語が入り混じった会話が
米国人妻にもたらした、女中の「顔の強ばり」
( tighten )に相当するのがこの小さくて「固い」
( tight )何かなのではなかろうか。多(他)言語による会話(=異文化間コミュニケーション活
動)によって生じた、〈話者双方の緊張感〉そして〈相互理解まで達しなかったことに起因する
しこり〉、を読者に向けて表現するために、作家によって tighten と tight という、「堅さ」を意
味する類語がイタリア人女中と米国人妻の両者に均等に振り分けられていると考えてはいけな
いだろうか。
表題“Cat in the Rain”は、米国人妻が探し求め手に入らない、「雨に濡れる猫」を指す。
「猫」
の曖昧さは置いておいても、作品の表題が直接的に指すのは謎めくこの「猫」であり、米国人
夫婦、及びイタリア人女中はみな、付属に過ぎない。しかしながら、本作品は冒頭の一文から、
「孤独な旅人」としての「米国人夫婦」の姿を読者に晒し出す。その孤独は、「降り続ける雨」
によっていっそう際立つ。この物語設定は、
「異文化間コミュニケーションの失敗」に加えて「夫
婦間のコミュニケーションの失敗」にも陥っているこの米国人夫婦の境遇を映す効果をも担う
(今村 98, 101-02)。「雨の中の猫」
(Cat in the Rain)には、この米国人夫婦の姿・心情が投射され
ているとも言えるのである。もちろん、作中で「 1 人」しか登場しない、「顔を強ばらせ」る
「イタリア人女中」も、米国人妻との関係に限定はされるものの、「猫」をめぐる雨中の米国人
妻との「異文化間コミュニケーション」に失敗した上、物語の最後、米国人妻が求める猫と明
らかに異なる猫を客室に届ける羽目になり、最後まで米国人妻(=客)と「理解」し合えない、
と読者に充分に予測させる物語設定においてまた、この米国人夫婦の境遇、すなわち「雨の中
の猫」と同類である(今村&島村監修 96; Hemingway, Short Stories 170 )。猫をめぐる物語世界
というテクストの表層の内側に別の位相として、「国際」、「多(他)言語空間」、「ホテル」を基
軸に「異文化間コミュニケーション」と「言語教育」を意識した作家のメッセージが巧妙に織
り込まれているのである。
解釈を補強すべく、この作品が収録されている短編集の表題 In Our Time を取り上げたい。
これは英国国教会の祈祷書にある句“Give peace in our time, O Lord”に由来し、平和とは程遠い
暴力と悪に満ちた「われらの時代=同時代= 1920 年代」の米国を諷刺している、と通例は解
釈される(亀井 272-73 )。ところが、別解もまた可能である。同時代の米国は、Hemingway を
も巻き込んだ「国際化の時代」であった。「われらの時代」が示唆するのは、すなわち「国際
化の時代」であり、それによって引き起こされていた問題系でもあったに相違ない。
この視点に拠ることで、新たな Hemingway 像の構築、そして「英語文学研究」と「英語教育」
とが接合した上での Hemingway の読み直しが可能になると期待される。
− 69 −
英語文学研究と英語教育の接合 ―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
3.ESP 教材としての“Cat in the Rain”―実践と結果分析
“Cat in the Rain”は、1920 年代米国の国際化の時代風潮の中で、
「ホテル英語教育のための文
学教材」として効果的に機能し得たということが立証された。議論を発展させて、同作品を 21
世紀の日本の英語教育の場における、「異文化理解」力の向上と「ホテル英語」について理解
を深めることを目的とした「ホテル英語教育のための文学教材」、として使用することの有効
性を検証する。
2008 年に、文部科学省は「新」学習指導要領を出した。『中学校学習指導要領解説 外国語編』
によると、日本の義務教育における英語教育の方向性は次のようにシフトしている。
今回の改訂では、これからの国際社会に生きる日本人として、世界の人々と協調し、
国際交流などを積極的に行っていける資質・能力を養う観点から、聞くこと、話すこと、
読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力を総合的に育成することを重視して
いる。
そこで、外国の文化やものの見方,考え方などについて受け身的に学ぶだけでなく、
日本の文化や日本人の考え方を積極的に外国の人々に知らせるという観点から、ふさわ
しい題材の選択が必要になってくる。
題材の選択に当たっては、広い視野から国際理解を深め,国際協調の精神を養うのに
役立つもので、生徒の興味・関心を引き出し育てることのできるような適切なものを選
択するなどして、正しい理解が図れるように配慮することが大切である。
その際、文化の多様性や価値の多様性に気付かせ、異文化を受容する態度を育てる。
さらに、世界の国々の相互依存関係を正しく認識させるなど、生徒に世界の中の日本人
であることの自覚を高めるとともに、国際協調の精神を養うように配慮することが大切
である。(文部科学省 64 下線筆者)
これまでの英語教育では、英語を「聞くこと」
、「話すこと」のスキル習得に専ら重心が置かれ
た。結果として、〈誤〉った「実践的コミュニケーション能力」の獲得が達成目標に掲げられ
た( 8 )。その反省に立ち、英語を「読むこと」、及び「書くこと」の重要性を再確認した上で、
現在進行中の「国際社会」を生き抜くために必要な「国際理解」、「国際協調」の精神の素養、
「異文化」受容態度の育成、を重視する。それが英語教育における新機軸として打ち出される6)。
2001 年、2004 年の日本の大学英語教育をめぐる問題提起を踏まえた〈国策転換〉と言える、
英語教育のこの「新しい方向性」においてこそ、「文学教材」の居場所・存在意義が見出せる
のではないか。確かに、グローバル化が進む 21 世紀において、英語はますます多くの「プロ
フェッショナル」な場面で使用されている。卒業後にプロの世界に入る予定の大学生に、様々
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増 崎 恒
な場で応用可能な基礎英語能力を身に付けさせるために、「特定目的のための英語(に関する
研究および実践)」
( ESP = English for Specific Purposes )の考え方が、有効な教育方法の 1 つと
して英語教育において今注目されている。中でも、「擬似実践コミュニティ」を設定した「シ
ミュレーション授業」は ESP 学習者にとって「非常に有効な訓練」になるとされる(寺内ほか 3,
14, 69)。“Cat in the Rain”は ESP という文脈において、「ホテル英語教育」用の、英語を「読む
こと」を通してホテル英語を「擬似実践」する「 ESP 教材」、として効果的に機能し、この点
において、21 世紀の日本の英語教育に与し得る、と筆者は考える。
以下、2011 年 5 月と 2012 年 6 月に、筆者が勤務する追手門学院大学の国際教養学部英語コ
ミュニケーション学科 1 ~3 年生を対象に実施した「ワークシート」の結果分析(有効回答総
数:160 )を通して、ESP 教材としての“ Cat in the Rain ”の有効性を検討する。筆者は、作中の
米国人妻とイタリア人女中の会話の場面を基にして、次のワークシートを作成した。
次の A と B の 2 人の会話を読んで、各問に答えなさい。
A:Ha perduto qualque cosa, Signora?(= Have you lost anything, madam?)
B:There was a cat.
A:A cat?
B:Si, il gatto.(= Yes, the cat.)
A:A cat? A cat in the rain?
B:Yes, under the table. Oh, I wanted it so much. I wanted a kitty.
When B talked English A’
s face(2)
tightened.
A:Come, Signora. We must get back inside. You will be wet.
B:I suppose so.
問 1.会話中の人物 A、B、それぞれの出身、職業、関係、などを想像して自由に述べよ。
問 2.下線部(2)のように人物 A の顔が強ばる(tighten)理由を考えて自由に述べよ。
問 3.設問1と設問2を踏まえて、この会話はどのような場所で交わされていると思う
か、自由に述べよ。
その際、(1)~(3)の原文改変を行った。
− 71 −
英語文学研究と英語教育の接合 ―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
(1) 原文のイタリア語の箇所に括弧で英訳を入れる。
(2) 原文から伝達部を削除して、人物 A と人物 B の会話という形式にする。
(3) 下線部(2)を含む一文については、主語を A、B へと改める。
イタリア語に英語対訳を付けることで、イタリア語の分からない学生でも大意が理解できるよ
うに配慮し、英語と「英語以外の外国語」がこの会話で使用されていることを学生が気付き易
いようにした。伝達部を削除し、人物 A、人物 B と匿名化し、会話者に関する情報を学生から
隠した。これにより、匿名の人物 A、人物 B に同化しながら、
「戯曲」の一場面のように学生が「読
む」ことを可能にした。また、会話者の人物像を「推測」しながら読むことを可能にした。なお、
ワークシートは授業時間内で 15 分程度の時間を使い、辞書なしで回答させた。回答に影響を
及ぼす予備知識になりかねないので、会話の出典情報等は一切伏せた。
設問に対して、筆者は次の回答(それに類するものを含む)を正答として定めた。設問 1 の
正答は、「 A と B の国籍(出身)は異なる」、かつ「 A と B の間に上下関係がある」。設問 2 の
正答は、
「言語(外国語)が原因」。設問 3 の正答は、
「客にサービスを提供する施設」、かつ「国
際空間的な場所」。設問 1 では、多(他)言語が会話に混在していること、Signora という単語
が用いられていること、を判断材料として、人物 A と人物 B の関係を適切に想像できるか測
定する。設問 2 では、「英語」を話されたことによって「顔が強ばる」ことから、設問 1 に照
らして、母語が異なる人物間での「異文化間コミュニケーションの困難さ」を適切に理解でき
るか測定する。加えて、自身の「日本語/英語」での類似の会話経験と重ね合わせることがで
きるか測定する。設問 3 では、設問 1 と設問 2 で導かれた回答から判断して会話が交されてい
る場所を適切に推理できるか測定する。
小論では、自由記述方式でなされた回答の個別精査、及びそれに基づく各回答が導き出され
た要因についての逐一の解析、は行わない。その代わり、筆者が定めた正答を基準に学生の全
回答を類型化することで、正答と誤答(正答以外の回答)の比率を算出し、マクロ的視点から、
ワークシートの効果を検証する。傍証として、類型化した回答をいくつか抽出し分析を試みる。
設問 1 の結果は表 1-1、1-2 に示される。学生は、ワークシート全体を眺め、括弧内の英訳
に気付き、人物 A が「英語以外の言語」を話していることから推して、「A と B の国籍(出身)
は異なる」という正答に到達した。また、学生は Signora(= madam )の意味を捉え、その単
語に含意される「(店員と女性客というような)上下関係」を理解して、「 A と B の間に上下関
係がある」という正答に至った。その反面、学生が Signora の意味を掴み切れず、「地名」とし
て誤読し、人物 A と人物 B を Signora 出身の友人(あるいは他人)同士とする誤答が散見された。
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増 崎 恒
表 1-1 A と B の国籍(出身)は異なる(単位:%)
表 1-2 A と B の間に上下関係がある(単位:%)
設問 2 の結果は表 2 に示される。「言語(外国語)が原因」であるという正答にたどり着く過
程で、非英語母語話者である人物 A が英語での会話を通して感じる「戸惑い」に学生が気付き、
その戸惑い感を自身の英会話体験と重ね合わせる回答が見られた。これは、人物 A の立ち位置
から、「異文化間コミュニケーションの難しさ」を擬似的に追体験したことを意味する。人物
表 2 言語(外国語)が原因(単位:%)
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英語文学研究と英語教育の接合 ―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
A と人物 B の会話は、後者による英語の発話に対する前者による拒絶(=顔の強ばり)によっ
て一方的に打ち切られる。「異文化間コミュニケーション」において超えなければならない障
壁の 1 つは「言語の相違」である。互いに異なる言語を母語とする人物 A と人物 B それぞれ
が属する「文化背景」、「価値観や認知・情意・行動のパターン」を、正答者は人物 A の「顔の
強ばり」、それに続く会話の流れを通して「理解」したと言える(サモーバーほか 182; 塩澤ほ
か 26, 27 )。これは、「文学研究的な解釈作業」と「英語教育の実践」が接合した瞬間、と捉え
ることができる。
設問 3 の結果は表 3-1、3-2 に示される。表 3-1 中の 2012 年の正答率と表 1-2 中の 2011 年の
正答率とが一致する。それと連動して、表 3-1 中の 2011 年と 2012 年を合算した正答率と表
1-2 中の 2012 年の正答率とが一致を見せる。また、表 3-1 と表 2 の正答率が完全一致する。関
連して、表 2 中の 2012 年の正答率と表 1-2 中の 2011 年の正答率とが一致する。それと連動し
て、表 2 中の 2011 年と 2012 年を合算した正答率と表 1-2 中の 2012 年の正答率とが一致を見
せる。この一連の正答率の一致を裏で支える、表 1-2、表 2、表 3-1 の三者間の相関性に着目す
る。「上下関係が存在すること」、「英語以外の外国語が使用されていること」を示唆する単語
表 3-1 客にサービスを提供する施設(単位:%)
表 3-2 国際空間的な場所(単位:%)
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増 崎 恒
Signora、に対する学生の理解度が会話の場所を適切に特定化し、正答を導く要因の 1 つになっ
ていることがうかがえる。つまり、正答者は、「言語の相違」による「異文化間コミュニケー
ションの困難さ」を伴う本会話を、
「サービス提供/サービス享受」という文脈から読み解いた、
とも言えるのである。対照的に、「国際空間的な場所」については、設問 1 の結果を踏まえた
回答ができていないことが際立った。ただし、表 1-1 が示す正答率を考慮するならば、設問の
工夫次第で、表 3-2 の正答率は表 1-1 に近似すると充分に期待される。
以上、筆者作成のワークシートは、設問に改善の余地が認められるものの、
「ホテル英語教育」
のための ESP 教材として充分に有用であり、その土台である Hemingway の“Cat in the Rain”も
また同様に有用である、と言ってよいと考える。なお、人物 A と人物 B がホテル関係者であり、
2 人の会話はホテルで交わされている、と「見抜いた」回答が、「 1 つ」ではあったが、学生か
ら出たことを付記したい。
「ホテル英語教育のための文学教材」として Hemingway 作品を活用する試み、に関して今後
の課題、及び展望を記す。小論では、データとして 2011 年と 2012 年の 2 か年分のワークシー
ト回答結果を使用した。データを継続収集することによって回答の傾向に何らかの法則性が見
えてくると期待される。一方で、教材としてより高い学習効果を生み出すために、設問の改善
及び追加に加えて、回答方式・結果分析方法を見直す必要がある。一例として、回答者の「英
語習熟度」と「ホテル英語」についての関心度を別途問うことで、それらと正答率の間に相関
性が見出せるかもしれない。自由記述方式ではなく多肢選択方式で回答をさせ、結果を比較対
照させることも必要である。英語教育に活かせるヒントを導き出すために、筆者が類型化する
前の各回答の内容、とりわけ誤答を拾い上げ、詳細に吟味する必要がある。筆者による回答類
型化作業それ自体も見直しを図り、新たな類型化に再(細)区分する必要がある。小論では、ワー
クシートの作成、実施、回答分析の考察、に力点を置いたため割愛したが、回答結果の学生へ
のフィードバック、それに対する学生の反応分析も今後の必須作業となる。他の Hemingway
作品を ESP 教材として活用することの是非も考察の射程に入れる必要がある。課題は山積であ
るが、小論で展開した、ワークシートの実践と結果分析を通じて、21 世紀の日本の(大学)英
語教育の現場において Hemingway 作品が有効に活用され得ること、Hemingway 作品が ESP 教
材としての側面を有していること、が詳らかになったことは一定の評価に値すると考える。
おわりに
2011 年 12 月、論文集『アーネスト・ヘミングウェイ―21 世紀から読む作家の地平』が
Hemingway の没後半世紀を記念して、日本ヘミングウェイ協会の企画により出版された。収録
された各論考は、21 世紀に入っても色褪せない、ビビッドな作家像と作品世界に光を当てて、
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英語文学研究と英語教育の接合 ―Ernest Hemingwayの“Cat in the Rain”
(1925)を事例として―
その広がりと奥行きを、21 世紀的な視点から複眼的に精査考究して見せる。論文集の「あと
がき」には、「我々は、ヘミングウェイが追い求めたものを、これからも探しつづけねばなら
ないが、それは尽きることのない永遠の課題であろう。」という一文が置かれる(日本ヘミン
グウェイ協会編 370)。その探求の成果の 1 つとして早速、2012 年 7 月には、日本ヘミングウェ
イ協会を中心にして同協会員の尽力による『ヘミングウェイ大事典』が刊行された。
小論もまた、「ヘミングウェイが追い求めたもの」を探り、拾い上げる試みの 1 つである。
Hemingway を材料に、英語文学研究の方法論から接近して「英語文学研究」と「英語教育」の
接合を試みる、という視座は、Hemingway 研究の地平に新たな展開を切り拓く一助となり得る。
もちろん、Hemingway 研究を通じての、「英語教育の現場」における「英語文学、及び英語
文学研究の復権」の契機、として大いに期待される。何よりも、この文脈で、James、Crane、
Hemingway を同列に置いて議論することによって、新たな Hemingway 研究の視点が供給され
ることは間違いない。
注
本稿は、第 50 回大学英語教育学会( JACET )記念国際大会( 2011 年 9 月 2 日、於 西南学院大学)におい
て口頭発表したものを改題、最新のデータを足して大幅に加筆修正したものである。
1)日本における大学英語教育の現状と課題をめぐる議論の流れについては、江利川 15, 17; 斎藤ほか 6, 11;
田中 550; 田辺 527; 松川 532; 真野 29; 緑川 535; 和田 547 を参照した。
2)2004 年刊行の「英語の読解力・聴解力を身につけ」させることを目的とした大学英語教科書において、
Hemingway の短編作品“Cat in the Rain”が同教科書を構成する全 22 の TOPIC のうち 2 つの TOPIC を割
いて教材として全文使われている(九頭見ほか 3, 38-45)。
3)Daisy Miller 冒頭の第一パラグラフは、Vevey の主要なホテル、観光シーズン、観光客の様子、ホテル
から見渡せる美しいスイスの景色、等々を、読者に向けて長々と書き連ねる( James 47-48 )。主要登場
人物が登場するのは第二パラグラフ以降である。この書き出しのパラグラフ配列は、Vevey の観光案内
に小説の力点が置かれていることを示唆している。
4)今村 97-141; 川本&小林 53-71; 斎藤ほか 13; 武藤 148-57 を参照した。
5)斎藤編 109; サモーバーほか 35, 182; 塩澤ほか vii, 26; ジョンソン&モロウ 166; 村野井 135, 143 を参照し
た。
6)中学校 3 年生用の文部科学省検定済の英語教科書『 NEW HORIZON―English Course 3 』( 2007 年発行)
は、「 Reading for Communication 」という見出しで、「レストランにおける客のマナーに見る日米の文化
の違い」を取り上げる(笠島ほか 42-43 )。「新」学習指導要領に基づく「異文化理解教育」が中学校英
語教育で実践されていることを示す好例である。
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