...

科学の参謀本部 - Hiroshima University

by user

on
Category: Documents
74

views

Report

Comments

Transcript

科学の参謀本部 - Hiroshima University
“科学の参謀本部”
―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミー
の総合的研究―
論集 Vol.1
平成 22 年度~24 年度日本学術振興会科学研究費補助金
[基盤研究(B)]【課題番号:22500858】研究成果中間報告
2011 年 3 月
編集 (研究代表者): 市川 浩
1
“科学の参謀本部”
―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミー
の総合的研究―
論集 Vol.1
平成 22 年度~24 年度日本学術振興会科学研究費補助金
[基盤研究(B)]【課題番号:22500858】研究成果中間報告
2011 年 3 月
編集 (研究代表者): 市川 浩
2
論集 Vol.1 刊行にあたって
本論集は,日本学術振興会科学研究費補助金[基盤研究(B)]
(課題番号 22500858)
:
「
“科学の参謀
本部”―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミーの総合的研究―(研究代表者:市川 浩)
」による
研究成果の一部である.
まだ計画 1 年目とあって,研究代表者,研究分担者,研究協力者からの寄稿は,研究ノート(Ⅳ)
,
ディスカッション・ペーパー(Ⅶ)
,これまでの研究を基礎とした口頭報告の要旨(Ⅷ)
,エッセイ
(ⅩⅠ)
,書評(ⅩⅡ)となっているが,今後,2 年目,3 年目には本格的な研究成果をお届けした
いと考えている.読者のご寛恕を期したい.
ロシア人寄稿者の原稿は,研究代表者が 2010 年 11 月 9~11 日にモスクワで開催されたロシア科
学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所第 16 回年次学術集会(XVI Годичная
Конференция Института истории естествознания и техники им. С. И. Вавилова Российской Академии
наук)に参加した折,寄稿者たちに直接依頼したもので,すべてオリジナルな原稿である.訳出にあ
たっては,広島大学大学院総合科学研究博士後期課程に学ぶナターリア・ロジナさん,大阪大学外
国語学部研究生のレギーナ・ヤキメンコさんに協力していただいた.
なお,掲載の順番は,エッセイと書評を除き,概ねそれぞれが扱っている年代順としている.
また,变述を簡便にするため,ロシア人その他外国人の姓名はカタカナ表記のみとした.文書館
資料を引用する場合も,出所の表記は簡略化し,文書館名はしばしば頭文字だけで表記している.
ロシア科学史に精通しない限り,あまりなじみがあるとはいえない人名,地名,機関名については,
当然訳注が附せられるべきであったが,時間的余裕がなく果たせていない.訳文の生硬さともども,
ここでも読者にはご寛恕をお願いしたい.
ロシアでは,
“科学アカデミー”が実践的学術機関として 18 世紀から今日まで存続したのみなら
ず,著しく巨大化し,すぐれて集権的な,ユニークな構造をもつにいたった.今日,わが国では,
大学・高等教育機関の“肥大化”が進み,大学から“研究機能”を剥奪するような動きも現われて
いるように思われる.一国の“研究機能”はどこに帰属させるべきなのであろうか。
“他山の石”―
― こうした情勢のなか,われわれの研究がすぐれて今日的な問題関心をもって参照されることを願
ってやまない.
2011 年 3 月 3 日
編者記.
3
目次
Ⅰ.はじめに-研究の課題と方法 -
(市川浩 1))
…p.1
2)
Ⅱ.18 世紀におけるペテルブルク科学アカデミーの歴史から (ガリーナ・イヴァノヴナ・スマーギナ
/市川 浩訳)
…p.4
Ⅲ.ロシア科学アカデミーにおける科学研究組織化に果たしたヴェ・イー・ヴェルナツキーの役割
(ゲンナジー・ペトローヴィッチ・アクショーノフ 3)/ナターリァ・ロジナ訳)
…p.11
4)
Ⅳ.科学者の代表の交代劇はなぜ起こったか―1920~30 年代ソ連物理学の事例―(金山浩司 )…p.17
Ⅴ.国の科学・技術発展の道具としてのソ連邦科学アカデミー (オクサーナ・ダニーロヴナ・シモネンコ 5)
/ナターリァ・ロジナ訳)
…p.31
Ⅵ.ソ連邦科学アカデミー・工学部(1935~1963 年)-設立,発展,廃止の歴史- (ボリス・
イリィチ・イヴァノーフ 6)/レギーナ・ヤキメンコ訳)
…p.35
Ⅶ.ソ連遺伝学をめぐる二つの学派に戦時期が及ぼした影響について(1) -戦時期における
ルィセンコ側の活動と業績- (齋藤宏文 7))
…p.42
Ⅷ.ソ連邦科学アカデミーの戦時疎開について (市川浩)
…p.46
Ⅸ.ソ連版“平和のための原子”の科学アカデミーにおける出発 (ヴラジーミル・パーヴロヴィッチ・
ヴィズギン 8)/市川 浩訳)
…p.53
9)
Ⅹ.スターリンの応接室を訪ねた科学者たち (コンスタンチン・アレクサンドロヴッチ・トミーリン
/市川 浩訳)
…p.59
ⅩI.ロシア科学アカデミー文書館訪問記と遺伝学研究所に関する若干の考察(藤岡毅 10))
…p.65
ⅩⅡ.【書評】橋本伸也(はしもと のぶや)『帝国・身分・学校—帝政期ロシアにおける教育の
社会文化史』名古屋大学出版会, 2010.1.20, viii+435+83 ページ,
ISBN978-4-8158-0627-9, 本体 9000 円
(梶 雅範 11))
…p.73
※執筆者紹介
1)
いちかわ ひろし/広島大学大学院総合科学研究科教授. 科学・技術・社会論,技術史.
2)
Галина Ивановна Смагина/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所サンクト=ペテルブ
ルク支部主任研究員.歴史学博士.ロシア科学アカデミー史.
4)
Геннадий Петрович Аксѐнов/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所上級研究員.
科学史.
5)
かなやま こうじ/日本学術振興会特別研究員(PD),東京工業大学.科学史・物理学史.
6)
Оксана Даниловна Симоненко/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所主任研究員.
工学博士候補.技術史・工学史.
7)
Борис Ильич Иванов/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所サンクト=ペテルブルク支
部主任研究員.技術史・工学史.
8)
さいとう ひろふみ/東京工業大学教育工学開発センター特任助教.科学史,遺伝学史.
9)
Владимир Павлович Визгин/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所主任研究員.物
理学・数学博士,教授.物理学史.
10) Константин Александрович Томилин/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所上級
研究員,物理学・数学博士候補.物理学史.
11) ふじおか つよし/同志社大学嘱託講師.科学史,生物学史.
12) かじ まさのり/東京工業大学大学院社会理工学研究科准教授. 科学史,化学史.
4
「ほら,アメリカにはアカデミーなどない.でも,あそこでは,なんと科学機
関,科学研究機関の仕事が発展していることか.ご覧なさい.アメリカではど
れほど嵐のように急速に科学が発展していることか」
1946 年 12 月 12 日,モスクワ国立大学物理学部党員報告・選挙集会での
同志セルゲーエフの発言(ЦАОПИМ, Ф.478, Оп.1, Д.114, л.169).
5
ニッチ(5)の包括的な研究が知られているが,通史
Ⅰ.
的变述に傾き,掘り下げが浅いほか,依拠してい
る資料が今日的な意味ですでに古くなっていると
はじめに-研究の課題と方法 -
市川浩
いう制約がある.わが国においては,ロシア科学
アカデミーに関する体系的な研究はほとんど営ま
れてこなかった.また,部分的にでも,ロシア科
学アカデミーの問題に取り組んでいる研究者は,
われわれ(市川浩,梶雅範,小林俊哉,藤岡毅,
イギリス,フランスなど西欧近代社会において
“科学アカデミー”は,科学者という社会的集団
の形成,その社会層としてのアイデンティティー
の確立に大きな役割を果たしながらも,のちには
急速に名誉職機関と化していった(1).しかしなが
ら,近現代史におけるロシア(旧ソ連邦時代を含
む:以下,卖にロシアと表記する)において科学
アカデミー(Академия наук)は,国の学術研究機
能を総括する,実践的な機関として科学者のうえ
に君臨しつづけ,解体過程に入ったとも言われて
いる現在でも,ほとんどが教育義務から解放され
た数万卖位の研究者・職員を擁している.他方,
1992 年の科学技術政策省設置にいたるまで,ロシ
アは国家機構に独立した科学技術官庁を欠いてい
た.科学アカデミーがそのかわりを果たしていた
のである.近現代ロシアの大学・高等教育機関が
ほぼ教育機能に特化していたのにたいして,科学
アカデミーは傘下に多くの先端的な学術研究機関
を集めることで,一国の研究活動全般の展開に圧
倒的な影響力を発揮する,他の国にはない特有の
組織となった.旧ソ連邦/ロシアが核開発など,
いくつかの分野で世界に卓越する科学力と技術を
誇っていたことを考えあわせるとき,科学アカデ
ミーのロシア近現代史上における役割,組織,社
会的・政治的なありようを分析することは科学史,
科学社会学の重要な研究課題である.
ロシア国内におけるロシア/旧ソ連邦/ロシア
科学アカデミーの研究については,ソ連時代の,
顕彰目的のものが多く,史実の解釈の客観性・公
正性に問題がある場合が多い(2).また,科学アカ
デミー創立 275 周年を記念して編纂された浩瀚な
年譜(3)は貴重な情報源ではあるが,その年譜とし
ての性格上,それ自身研究上の関心を満たすもの
ではない.その他,ロシア国内では,科学アカデ
ミーに在籍した有力な科学者たちの日記・伝記類
の出版があいついでいるが,その多くが顕彰目的
のものである.
ロシア以外の諸外国では,グレーアム(4),ヴチ
金山浩司,齋藤宏文)以外に挙げることがほぼで
きないのが実情である.
その一方で,ソ連邦期,および,それに先行す
る帝政期において,科学者たちは全体为義的,あ
るいは権威为義的体制のもとで研究活動を展開せ
ざるをえなかったのであるが,その権力との関係
は、従来しばしば指摘されてきたような卖純な二
項対立的図式に置換できるようなものではなく,
複雑な諸要因が機能していたと考えられるように
なってきた.たとえば,近年の旧ソ連邦史研究の
全般的特徴は,ノーヴ(6)が先駆的に提起した「集
権的多元为義」とも呼びうる旧ソ連邦社会の理解
が支持を集めつつあることにあるが,科学史の分
野においても旧来の、科学者(集団)と党/政府
官僚との関係についてより多元为義的な解釈が有
力になってきている(7).ロシア科学アカデミーの
包括的な研究は,こうしたロシア/ソ連邦科学史
の新しい展開に照応したかたちで,科学者(集団)
と権力,ロシア/ソヴィエト/ロシア社会におけ
る科学者,科学者集団相互間の複雑な相互作用の
解明のうえに構築し直されなければならない.そ
のうえで,世界の科学史上希有な経験であったロ
シア科学アカデミーとはいったい何であったのか,
そして,科学と権威为義的国家との関係はどのよ
うなものであったのか,が明らかにされなければ
ならないであろう.
かかる課題意識のもと,昨年,ロシア/ソ連邦
科学史研究者 6 名で日本学術振興会に科学研究費
補助金(基盤研究 B)を申請し,幸いにも本年度
(平成 22 年度)採択されるにいたった.期間は 3
年間,総額 1610 万円に上る,比較的大型のプロジ
ェクトである.
まず,研究組織について紹介しておこう.市川
1
浩(研究代表者)は,ここ数年,戦時期のソ連邦
絶対王政期そのままの姿を保ち続けきたのである.
科学アカデミーの動向について研究してきた(8).
現地のロシア人科学史家との討議をへて,現段階
梶雅範(研究分担者)は,近稿(9)において,おも
ではこのような“モメント”として,①サンクト=
に帝政期におけるロシア科学アカデミーの通史的
ペテルブルク帝室科学アカデミー設立にすでに見
变述を試みている.小林俊哉(研究分担者)はソ
られた帝権の強力さ,②20 世紀初頭,大学への科
連邦解体後のロシア科学界と科学者人材養成機能
学研究の拠点移動に抗して科学アカデミーの維
の動揺・混乱と収拾の過程について研究をすすめ
持・強化をめざした有力な科学者の戦略的行動,
てきた(10).藤岡毅(研究協力者)は“ルィセンコ
③ボリシェヴィキ政権による科学アカデミーにた
学説”史を中心とするソヴィエト生物学史・遺伝
いする選好と“権力の道具”化,④スターリン体
学史に取り組んできた(11).金山浩司(研究協力者)
制下での科学者とイデオローグ,および,科学者
は 1920-1930 年代のソヴィエト物理学を対象に物
相互間の対抗と協調の,ひとつの枠組みとしての
理学と哲学の,ときに激しい緊張をはらんだ“交
科学アカデミー,
⑤第 2 次世界大戦期の戦時研究,
流”の歴史に迫っている(12).また,齋藤宏文(研
および冷戦初期における核開発などへの科学者動
究協力者)はソヴィエト遺伝学の国際交流史・国
員を通じた科学アカデミーの組織維持と強化,権
際比較研究に取り組んでいる(13).
威上昇,⑥科学者と権力との“共生”関係が完成
以上のようなロシア/ソ連邦科学史の専門家の
ほかに,比較研究やより広い社会的コンテキスト
したように見えるフルシチョフ政権期の内実,科
学アカデミー改革,とくにソ連版“科学者の楽園”
における研究の展開を期待して,17-18 世紀フラ
=アカデムゴロドーク建設をめぐる科学者集団の
ンスにおける科学アカデミーの展開を研究してい
思惑,⑦権力からの離反をはじめた 1970-80 年代
る隠岐さや香(14),19 世紀~20 世紀初頭のロシア
の科学者,⑧ソ連邦解体後の新生ロシア連邦当局
社会思想史を専攻とする佐藤正則(15)にも「研究協
による科学アカデミーから政府への一種の
“奪権”
力者」として参加していただいている.
あわせて,現地のロシア科学アカデミー・S.I.
過程とそれによる科学アカデミーの変容,などの
歴史的な出来事を想定している.本論集において
ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所の協
も,こうした諸“モメント”はとくに重視されて
力は不可欠である.2010 年 9 月には同研究所のサ
いる.
ンクト=ペテルブルク支部と,11 月には研究所本
研究にあたっては,現地で収集した文書記録類
体との間に協力協定を締結したことを契機に本研
(公文書,ドキュメント等)
,および文献(書籍,
究は本格的な国際共同研究に発展しつつある.
つづいて,研究の焦点はどこにあるのであろう
論文,その他)を資料として,それらを読むこと
を通じて史実を再構成する,いわゆる文献実証の
か.
方法を採用する.そのため,適宜,研究者を現地
ロシア/ソ連邦科学アカデミーが西洋世界の一
般的傾向ともいえる“名誉職機関化”に抵抗し,
(モスクワ,サンクト=ペテルブルク,ノヴォシビ
リスクなど)で資料調査を実施し,収集した資料
ついに今日にいたるまで実践的機関としての性格
を分析することにしている.収集した資料・研究
を保持できたのはなぜなのであろうか.
卖純な
“ソ
連邦=権威为義的国家モデル”
,科学(者)にたい
情報の分析は 6 名のロシア/ソ連邦科学史家が各
自ですすめる.また,年に 1~2 回程度,内外のゲ
する“国家的統制の卖純貫徹論”が通じなくなっ
ストを迎えて,公開のかたちで“セミナー”を開
た今日,それはどのようなものとして理解できる
のであろうか.結論をやや早回りして言えば,い
催する.さらに,ロシア人,その他海外の研究協
力者から本研究に関連するテーマでの寄稿をもと
くつかの歴史的局面における偶然を含む客観的な,
めつつ,年 1 回,研究論集を編集し,印刷・製本
あるいは为体的な政治的・社会的要因の作用によ
して,科学史研究者などに配布する.そして,最
って,科学アカデミーは維持され,ある意味では
終的には,3 年間の研究成果をまとめ,1 冊の本と
2
して出版の機会を追究してゆきたいと考えている.
ロシアにおける“科学アカデミー”の実践機関
としての今日までの存続は,わが国を含むいわゆ
る“西側”諸国では見られなかった科学史上の大
きな論点であり,この論点の解明は,近現代社会
における科学者(集団)の権力や他の社会諸集団
との相互作用の解明,ひいては,
“科学技術大国”
として世界に覇を唱えた近現代ロシアの依って立
つ基盤の解明に寄与するものと考える.
のソ連邦科学アカデミー―その戦時疎開につい
て(続報)―」
,広島大学大学院総合科学研究科
紀要Ⅲ『文明科学研究』第 3 巻,2008,31-50
ページ./市川浩「
【調査研究報告】戦時下のソ
連邦科学アカデミー―その戦時疎開について
(Ⅲ報)―」
,広島大学大学院総合科学研究科紀
要Ⅲ『文明科学研究』第 4 巻,2009,33-51 ペ
ージ./市川浩「ソ連邦科学アカデミーの戦時
疎開に関する一考察」広島大学大学院総合科学
研究科社会文化論集編集委員会『社会文化論集』
(1) さしあたり,隠岐さや香「科学者はいつから存
第 11 巻,2010 年 3 月,1-28 ページ.
在していたのか」
,中根未知代他著『科学の真理
(9) 梶雅範「科学都市としてのサンクト・ペテルブ
は永遠に不変なのだろうか—サプライズの科学
ルク」
(望月哲男編『創像都市ペテルブルク-歴
史-』
(ベレ出版,2009 年,103-128 ページ)参
史・科学・文化-』北海道大学出版会 2008 年.
照.
63-100 ページ.
(2) たとえば, Под ответ.ред. В.А. Виноградова,
«Академия наук СССР: краткий очерк истории и
(10) 小林俊哉『ロシアの科学者-ソ連崩壊の衝撃を
деятельности»(Наука, 1968)を参照のこと.
(11) 藤岡毅『ルィセンコ为義はなぜ出現したか―生
超えて-』東洋書店 2005 年.
(3) Под глав. ред. Ю.С. Осипова, «Летопись
Российской Академии наук»В 4-х т.
物学の弁証法化の成果と挫折―』学術出版会,
СПб.:
2010 年.
Наука, 2005-2007.
(12) 金山浩司『スターリン体制下のソ連物理学者た
(4) L. R. Graham, Science in Russia and Soviet Union: A
ち』みすず書房,近刉.
Short History, Cambridge U/P, 1993.
(13) 齋藤宏文 「旧ソ連の遺伝学 をめぐる学術情報
(5) A. Vucinich, Empire of knowledge: the Academy of
の入手過程-第二次大戦直後における日本生物
Sciences of the USSR (1917-1970) .University of
学界の文献環境の再検討 -」
『ロシア東欧研究』
California Press, 1984.
第 36 号,2008 年,72~83 ページ.
(6) A. ノーヴ/邦訳『ソ連の経済システム』晃洋
(14) 隠岐さや香『科学アカデミーと「有用な科学」——
書房 1986 年.
フォントネルの夢からコンドルセのユートピア
(7) See, A. B. Kojevnikov, Stalin's Great Science: The
へ』名古屋大学出版会,2011 年.
Time and Adventures of Soviet Physics. Imperial
(15) 佐藤正則『ボリシェヴィズムと〈新しい人間〉―20 世
College Press, 2004.,N. Krementsov, Stalinist Science,
紀ロシアの宇宙進化論―』水声社, 2000 年.
Princeton Universi-ty Press, 1997.
(8) 市川浩『平成 17 年度,
(財)三菱財団人文科学
助成・研究成果報告書:第2次大戦期における
旧ソ連邦科学アカデミーと科学者集団の動向に
関する歴史的実証研究』
,2006.11,31 ページ.
/市川浩「ソ連邦科学アカデミー・物理学研究
所のカザンへの疎開(1941~1943 年)―物理学
者内部の確執の風景・2―」
『イル・サジアトー
レ-IL SAGGIATORE-』第 35 号,2006.5,18~
26 ページ./市川浩「
【調査研究報告】戦時下
3
に別のアカデミーは科学者の関与のもとに工業家,
Ⅱ.
金融家の骨折りの結果設立されたのであるが,そ
のことはこれら統一体の様々なタイプを理解する
うえで鍵となるものである.ある種の科学アカデ
18 世紀におけるペテルブルク科学アカデミーの歴
ミーでは,自然科学,精密科学,人文科学の研究
史から
がおこなわれ,別のある種のアカデミーでは人文
科学だけが,またさらに別のアカデミーでは,自
ガリーナ・イヴァノヴナ・スマーギナ
然科学だけが,そしてまたまた別のアカデミーで
は技術科学だけが研究された.
(市川 浩訳)
近代科学の幕開けの時期に,
イギリスの哲学者フ
ランシス・ベーコン(1561-1626 年)は,自身の
ヨーロッパにおける最初の科学アカデミーは
国家のなかで高い地位を占め,実験家,理論家,
15~16 世紀ルネサンス時代のイタリアで生まれ
実践家の間における合理的で,調和のとれた分業
た.17 世紀の後半にはイギリスとフランスで創設
を伴いつつ,研究に必要なものすべてをみごとに
され,17 世紀から 18 世紀にいたる境界期にはド
備えた科学者集団の理想像を描いた.こうした集
イツ、やや遅れてロシアとスウェーデンでも創設
団は哲学者の想像のなかにのみ存在した.17 世紀
から 18 世紀にかけて形成された,本当の科学者
された(1).
「アカデミー」という語はプラトンの弟子たち
集団は,
急速に成長するマニュファクチュア生産,
が会話するために集まったアテネの小さな林,ア
航海と海上交易,資本関係の誕生という状況のな
カデメイヤに由来している.
「新時代」の始まりと
かで,一方では,その時代の科学の動向の一般的
ともに,科学アカデミーはあれこれの国の学者た
ちの共同(統一体,連合,共同体)と理解される
法則性を反映し,他方ではきわめて多様な姿を呈
したのである.
現代にいたるまで引き継がれている最初のアカ
ようになり,学問のあれこれの諸分野における研
究の为要なセンターとなった.通常,アカデミー
の規約にうたわれる課題はまったく多様ではあっ
デミーは,1635 年にフランス政府によって,つま
り「上から」創設されたフランス科学アカデミー
たが,みずからの国家のための,あるいは全人類
である.それは多くの特権を享受し,科学者の研
の福利のための科学研究の発達が,
基本的な課題,
すべてのアカデミーに共通した課題として強調さ
究もルーヴル宮殿の敶地のなかでおこなわれたし,
科学者は王の図書館や植物園も利用した.そのメ
ンバーのおよそ 3 分の 1 がアカデミー会員として
れていた.
あれこれの科学アカデミーの具体的な特徴は当
の俸給を手にした.しかし,その額は尐なく,科
該国家の経済生活、
学術生活,
社会生活の諸条件,
学者とその家族を養うことを保障するものではな
かったし,むしろ奨学金にすぎなかった.それゆ
国の政治システム,そして,文化的・歴史的伝統
と関連している.初期に創設されたアカデミーの
いくつかのタイプが何百年も安定して続いたこと
え,パリ科学アカデミー会員は,自身貴族か財産
をもつブルジョアでない限り,決まって,教師,
エンジニア,医師といった職務についていた.
は,見かけ上では,伝統の力によって为に説明さ
れるが,しかし,深刻な政治的変動や国家生活に
1660 年に設立されたロンドン王立協会は教師,
おける転換はときに科学アカデミーの運命に急変
医師,官吏,財産をもつ貴族やブルジョアといっ
た様々な社会的身分のひとびとから成るボランテ
や変動をもたらした.
アカデミーの設立の歴史は,
その枠内において,ある種のアカデミーは政治家
のイニシャティヴにより,あるいは他の種類のア
ィアの統一体であり,事情は違っていた.科学研
究は物質的な報酬を与えられるものではなかった
カデミーは大学教授たちの努力で,そして,さら
し,むしろ支出と結びついていた.協会は形式上
4
は国王の庇護のもとにあったが,国家の補助は与
第一の位置づけのひとつにアカデミーの啓蒙的使
えられていなかったし,会員が払う会費,個人の
命があてられていた.ライプニッツの考えでは,
献金からなる資金のみを配分していたのである.
アカデミーは科学研究のほかに,出版事業,監修
帝権の保護のもとにあるが,ボランティアの科
雑誌発行,百科事典の作成,もしくは翻訳,図書
学者の統一体としての性格は,1662 年設立の,当
館・文書館・博物館事業の組織,ドイツ語(母国
時ドイツが分裂していたときにいろいろな都市の
語と読み替えうる)の学習などに取り組まなけれ
自然科学者から成りたっていたシュヴァインフル
ばならなかった.そのほか,彼はアカデミーは邦
ト・アカデミー「レオポルディーナ」も有してい
の学校事業にも配慮しなければならないと考えて
た(現在,
「レオポルディーナ」はドイツ連邦共和
いた.ベルリン・アカデミー設立の基礎となった
国の为要なアカデミーとして,ハレに置かれてい
「総則」のなかで,彼は青年が数学や物理学や語
る)
.
学に取り組むように,アカデミーは彼らに訓練と
偉大なドイツの数学者・哲学者ゴットフリー
「励まし」を与えるよう献身しなければならない
と強調した(2).
ド・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716
年)のイニシャティヴと企画で 1700 年に設立さ
国家改造の遂行に常に厳しく,熱心であったロ
れたベルリンのブランデンブルグ科学協会は中間
シア皇帝ピョートル1世が,アカデミーの問題に
的な性格を有していた.それはプロイセン王から
の財政支出は尐なかったものの,カレンダーの印
慎重さ,用心深さを示したことは特筆されるべき
である.外国の学協会については,彼は自分の志
刷と販売にたいして王が与えた特権のおかげで存
を同じくする側近を通じて,また自身の印象に基
立していた.
づいて充分に知っていた.2回にわたるヨーロッ
ここでは初期の科学者の統一体のうち,規模の
パ旅行で,ピョートル皇帝は「新時代」の科学と
大きいもの名前のみを挙げた.リストをさらに拡
その組織形成について一般的な知識をえていた.
大することもできるが,
一般的な結論は変らない.
すなわち,ヨーロッパの,生活手段を供与された
彼はロンドン王立協会とパリ科学アカデミーを訪
問した.何年もの間,彼は偉大なライプニッツと
科学者の統一体のどれひとつとして,国家権力の
ともにロシアにおける科学の組織化の問題を検討
支持なしでは絶対に存立しえなかったが,同時に
していた.ライプニッツは,一連のピョートル1
どれひとつとして完全に国家機関とはならなかっ
世とその側近宛て書簡・覚書のなかで,ロシアに
た.国家機関となったのはペテルブルク科学アカ
おける文化建設の壮大な計画を提案し,科学、
・文
デミーだけであった.
ヨーロッパにおける科学者による組織的活動の
化・教育の組織化について助言と勧告を与えてい
た(3).
様々な側面にわたって,それらの形成に大きな影
しかし,そのおかげでピョートルは当時存在し
響を与えたのはライプニッツであった.ライプニ
ッツは 1668 年からその死にいたるまでヨーロッ
たモデルを直接ロシアに借用することの不可欠性
をはっきり理解するようになった.ある者は,ロ
パにおけるアカデミーの創設に関する仕事をすす
シアに中等・初等教育システムがまだないので、
めた.彼は,アカデミーは大きな領邦の中心や大
きな都市には必ず開設されなければならないと考
おそらく不可能であったろうが,大きな大学を開
設することを進言した.教育を受けた人はまだま
えた.ライプニッツはプロイセン,サクソニア,
ったく尐なく,科学研究に取り組む者もいなかっ
オーストリア,そしてロシアのためにアカデミー
の構想を立てた.アカデミーを開設しようとして
たので,ロンドンやパリのような学協会を設立す
ることは期待できなかった.そして,偉大なロシ
いた都市には,ベルリン,ドレースデン,サンク
アの改革者,ピョートル1世はほかのヨーロッパ
ト=ペテルブルク、および,ウィーンがあった.
の国にはまったくなかった機関をつくった.彼は
ライプニッツのアカデミー計画においては,その
ひとつの機関に科学研究と教育・啓蒙機能を統合
5
し,大学とギムナジウムと一体になった科学アカ
立に関する草案」はこうした文書に似ているが,
デミーを設立したのである(4).
しかし,未だかつてなかった機関の本質や課題を
ロシアにおける科学アカデミー設立の宣布から
説明しなければならなかったために,はるかに浩
まもなく,初代総裁ラヴレンチー・ブリュメント
瀚なものになった.そこには科学の使命に関する
ロスト(1692-1754 年)はライプニッツの教え
宣告はなかったが,ロシアに特殊な需要について
子,クリスティアン・ヴォルフ(1679-1754 年)
はより多く語られており,科学の発達によってロ
に宛てた書簡のなかでペテルブルグに設置された
シアに栄光をもたらし,若い人々の教育によって
機関の性格を詳しく定義している:
「これは大学で
人民に利益をもたらす機関をロシアが必要として
も,また科学アカデミー(academie des sciences)
いることが書かれていた.利益と栄光のこのよう
でもありません.むしろ,このふたつのある種の
な解釈は「草案」全体に通底している.なぜひと
コンポジションなのです」(5)と.
つの機関のなかにアカデミーと大学とギムナジウ
ペテルブルグの科学アカデミーは国家権力の発
ムが一体化されているのかという,起こるべくし
案で創設され,国家的保護をうけ,その会員の科
て起こる疑問にたいする答えは,
「草案」の条項の
学研究はある種の国家事業であった.科学機関に
一節が与えてくれる:
「かくのごとく,わずかな損
とって不可欠な研究対象と方法の選択における自
失はあるものの,大きな利益をもたらすことに,
由を享受しつつも,科学アカデミーは当時,国家
が提起した直接的な実践的諸課題を実現し,科学
他の国では 3 つの異なった組織が実現しているも
のとして,ひとつの建物が設立されるであろう」
.
に関連した諸問題での相談役として国家に奉仕し
このようにして,このことは財政の節約をももた
ていた.このようにして,ロシアにおける科学研
らしたのであるが,それはピョートルにとっても
究組織化システムの基礎には国家原理が置かれた.
重要なことであった.
これがロシアにおける科学アカデミーと,当時存
「草案」のなかではアカデミーを,数学,物理
在した科学アカデミーや学協会との原理的な相違
であり,このことは,たぶんに,ロシアにおける
学,人文科学の 3 つの部類(クラス)に分割する
ことが指示されていた.最初の部類には 4 名のア
国家と科学の関係性にも影響を与えた.
カデミー会員,つまり理論数学 1 名,天文学・地
理学・航海術 1 名,そして力学に 2 名-理論力学
ロシア帝国の若々しい首都,サンクト=ペテル
ブルクにおける「科学アカデミー設置に関する布
と実践力学-が属した.
告草案」は宮廷付医学者(個人医)であったラヴ
第 2 の部類には、
やはり 4 つの専門,
すなわち,
レンチー・ブリュメントロストがピョートル 1 世
の指示,もしくは下書きに従って書いたものであ
理論・実験物理学,解剖学,化学,植物学が属し
た.
った.1724 年 1 月 22 日,国の最高国家機関であ
第 3 の部類,人文科学部類には決まって 4 名に
ったセナート(元老院)の会議で確認された(6).
そのテキストは,ピョートルによる書き込みと一
満たない人数が記載されていた.
ここには雄弁術,
考古学,古代史・現代史,法律学が分類されてい
緒に,ペテルブルクの科学アカデミー文書館に保
た.アカデミーは 11 名の科学者=アカデミー会員
存されている.
何よりもこの文書の任務についてであるが,他
から構成されなければならなかった.最初のアカ
デミー会員は全員外国人科学者で,最初の 100 年
のアカデミーや学協会では,通常,設立時に規約
間でもアカデミー会員の 76%が外国人であった
や取り決めがつくられることはなく,のちに事実
上の規約や経験が斟酌されるようになって作成さ
が,その多くがドイツ人であった(7).最初のロシ
ア人会員は設立から 10 年を経てはじめて登場し
れるものであった.しかし,その創設時にはなん
た.ロシア人初のアカデミー会員となったのは,
らかの綱領的文書,王の「羊皮紙文書」
,
「指示」
数学者ヴァシリー・イェフドキモヴィッチ・アダ
が発給された.ピョートルの「科学アカデミー設
ドゥロフ(1709-1780 年)であった.
6
さらに,
「草案」が予見していなかったような,
業が形成されたのである.
様々な状況,例えば,大きな探検事業への参加な
科学アカデミーに附属した大学について見ると,
どの場合,事実上はかなりの程度それを上回って
「草案」で提案されたような,法学部,医学部,
いたものの,18 世紀全体を通じて 11 名という数
哲学部をもつ構造は西ヨーロッパの通常の型を踏
は規範として掲げられつづけたことは特筆される
襲したものであった.ロシアの大学のきわだった
べきである.
特殊性は神学部を欠いていたことである(8).
アカデミーの構成員,あるいはアカデミー会員
ピョートルは,アカデミーは独立した機関とな
は国家に奉仕した分だけ,国家から報償を受け取
り,その総裁を 1 年,あるいは半年毎に自分で選
った.
「草案」には彼らの義務が詳細に記載されて
ぶようになることを前提していた.しかし,実際
いた.これらの条項はヨーロッパにおける科学者
は,アカデミーにまだ規則がなく,状況に応じて
の選定や彼らと締結する契約の根拠となるもので
「科学アカデミー設立に関する草案」が規則のか
なければならなかった.アカデミー会員は科学の
わりとなっていた初期,そして 1725 年 1 月のピ
任意の分野で科学研究に取り組まなければならず,
ョートルの突然の死によってまだ組織化途上だっ
その成果はアカデミーが出版を約束した論文や卖
たアカデミーがその庇護者を失ったとき,アカデ
著としてかたちにされなければならなかった.彼
ミー総裁はまったく選出されなくなり,皇帝,女
らは毎週開催されるアカデミー構成員による学術
会議に参加し,部外者の発見や発明を「それは真
帝が任命・解任するようになった.
「草案」について,もうひとつ.
「草案」はアカ
実であるか」
,
どの程度新しく役に立つか判定しつ
デミー会員の任命について,その報償とその他の
つ,
様々な専門的鑑定をしなければならなかった.
支出のために毎年の総額 24,912 ルーブリ支払う
アカデミー会員の側では,自分たちがその発明に
ように,とのピョートル手書きの書き足しで終っ
よって国の工業,
手工業の発展に寄与することを,
ている.その上に,科学者に住居,薪,ろうそく,
そして政府の委任により専門的な研究を実施する
ことを望んでいた.この最後の項目は,ピョート
器具,必要な書籍を保障することも前提されてい
たのである.
ルの「草案」に特徴的で,そこでは国家に奉仕す
その下書きのひとつで,ライプニッツはアカデ
る立場にいる人間としてのアカデミー会員の義務
ミーの仕事内容にたいする金額として 1 万ターレ
が強調されていた.そのうえ,アカデミー会員ひ
ルを想定していたが,それは 1 万 4000 ルーブリ
とりひとりがみずからの専門に関する教科書を大
を尐し上回る額であった(9).それゆえ,ピョート
学,もしくはギムナジウムのために執筆しなけれ
ばならなかったし,アカデミーの教育施設で授業
ルが定めた金額は決して尐ない額ではなかったが,
それでも充分ではなかった.教授たちは長い間報
をする義務もあった.アカデミー構成員の義務に
酬を受け取ることができず,たえず年間予算の増
関するこれほど詳しい説明は偶然ではない.問題
は,
アカデミーの報酬で暮らす科学者というのが,
額と負債の支払いをもとめた.予算は増額される
ことはなかったが,そのかわり政府はときおり負
ロシアにとってのみ新しかったわけではなく,他
債を支払う決定を出し,例えば,探検事業の組織
の国でも当たり前にはなっていなかったという点
にある.ヨーロッパの学協会では科学者は,決ま
の追加的な資金を支出するなど,ときには臨時の
奨学金を提供した.
って,報酬なしに働き,財産のある貴族やブルジ
比較のために言えば,パリのアカデミーは王か
ョアでない限り,その物質的な保障の源泉となっ
たのは,
常にあれこれのサーヴィス業務であった.
ら約 4 万 2,000 リーヴル,つまり 1 万 4000 ルー
ブリをうけとっていた(10).ロンドン王立協会は会
このようにして,ロシアでは初めて広範に解釈さ
員の会費と個人の献金によって存立していたが,
れているような,つまり,研究活動が生活と家族
その年額は通常 600 ポンド・スターリング,約
の維持のための資金を保障する,科学者という職
3,700 ルーブリを超えなかった.ベルリン科学協
7
会はカレンダー出版の収入のみを手にしていた.
の宮殿となっていた.こうした計画はオリジナル
それは約 3,000 ターレル,つまり 4,300 ルーブリ
なもので,他国に類例を見ないことは念頭に置か
になった(11).1747 年,ペテルブルグ・アカデミ
れるべきである.ロンドン王立協会は自分の資金
ーの業務内容にたいして 53,238 ルーブリが支出
で買い取った個人用の邸宅に置かれていた.パリ
されることが決定された.18 世紀における文化
科学アカデミーの建物は王の=ルーヴルの一角に
的・社会的必要(科学アカデミー,芸術アカデミ
置かれていて,天文台だけが別の場所に建てられ
ー,モスクワ大学,諸学校,国民学校、医療施設,
ていた.ベルリンの科学協会は,王宮の厩舎を建
および,宗教施設)についてのわれわれの見積も
て替えて天文台用の塔を建てた建物に置かれてい
りでは,ロシア帝国政府はその予算資金の 1%も
た.
これらに支出していなかったことになる.
科学的創造活動のたいへん重要な刺激となった
アカデミー設立において何よりも重要であった
のは,国家の支援のおかげで科学アカデミーにつ
問題は,もとより,アカデミー会員職への科学者
くられた著作刉行の大きな可能性であった.学術
の選定と招聘の問題であった.ピョートル 1 世と
的著作の刉行,ヨーロッパの諸アカデミー,学協
その側近は,まず外国人だけがそうなりうるだろ
会との交換のおかげで,ペテルブルグ科学アカデ
うと理解していた.というのは,科学研究と教育
ミーの権威がかたちづくられた.
の経験をもつ人物が必要だったからである.人選
の範囲にはドイツ,フランス、オランダ,そして
最初のアカデミーの出版物,
『第 1 回祝賀総会
における演説集』
(1726 年)に,ひとりが穀粒を
スイスの科学者が含まれていたが,きわめて短い
ふるいわけ,ふたり目が耕作地にそれを撒き,三
期間に必要な人数の科学者を招聘することに成功
人目が集められた収穫物を入れた袋を水車小屋に
した.国家の支援のおかげで,アカデミーは旅行
運んでいる,3 人の農民を描き出した唐草飾りが
費用の全額を支払った.新たに到着した者には住
ついていたことを指摘するのもおもしろかろう.
居,薪,ろうそくが支給された.彼らのひとりひ
とりがみな,
規定どおり 5 年間の契約を結んだが,
その唐草飾りには “Secernit falsum, verum
auget et usibus aptat”
,つまり「偽ものを遠ざけ,
その契約には義務と報酬のことが詳しく書かれて
真なるものを育て,実践に招き入れる」と書かれ
いた.
ていた.栽培者,言い換えると,科学と啓蒙の普
サンクト=ペテルブルクでは,研究に都合の良
及者のシンボルが科学アカデミーの全活動のシン
い,恵まれた条件づくりに尽力していた.ネヴァ
ボルとなった.
河沿いに 2 棟の並んだ大きな建物が与えられた.
第 1 の建物は,ピョートル 1 世の弟の婦人の宮殿
1725 年 8 月 15 日,ロシアにやってきた最初の
7 名の科学者が冬宮で女帝エカチェリーナ 1 世の
であった.この建物にはアカデミーの諸施設の多
謁見をうけた.アカデミー会員=ヤコヴ・ゲルマ
くが配置された.1 階中央には書肆,左に印刷所,
右に旋盤・器具職場が配置されていた.2 階は,
ン(1678-1733 年)とゲオルグ・ビュルフィン
ガー(1693-1750 年)は,前者はフランス語で,
地理部,製図・エッチング職場,アカデミー附属
後者はドイツ語で,女帝の前で演説した.女帝は
ギムナジウムが締めていた.中央には学術会議が
開催される大きなコンファレンス・ホールがあっ
彼らに寛大に接した(12).
1725 年 12 月 27 日,アカデミーの第 1 回公開
た.
総会が開催された.女帝エカチェリーナ 1 世は出
隣には,科学の必要のために特別に立てられた
第 2 の建物が建っていた.これこそがロシア初の
席できなかった.というのは,冬で,寒く,総会
がおこなわれた建物は暖房が施されていなかった
博物館=クンストカーメラであった.この建物に
からである.ピョートルの娘,アンナ・ペトロー
は,巨大な図書館,解剖学センターと天文観測所
ヴナとその配偶者,ゴリシュティンスキー公爵,
が配置され,建物は,すなわち,ユニークな科学
外国の外交官,廷臣,高官,全員で 400 名が出席
8
した.アカデミー会員ビュルフィンガーはその優
(1) ヨーロッパにおける諸科学アカデミーの歴史
雅な演説のなかで,科学アカデミーとは何か,ど
に関する文献は無数にある.See,: Akademien im
んな目的で設立されたのかを語った.
18. Jahrhundert (Academies in the eighteenth
1726 年 8 月 1 日,アカデミーの第 2 回公開総
century )/ zsgest. von Hans Adler.// Das achtzehnte
会が開催された.この総会は第 1 回のそれよりさ
Jahrhundert. 2001. Bd. 25. H. 1; Académies et
らに盛大なものであった.女帝はふたりの娘,ゴ
sociétés savantes en Europe : (1650 - 1800) / textes
リシュティンスキー公爵とともに列席した.高貴
réunis par Daniel-Odon Hurel et Gérard Laudin.
な廷臣,セナートの議員,高僧,高位の軍官・文
Paris: Champion, 2000; Black J. Müller and the
官が客となった.この総会をもってアカデミーは
Imperial
その組織化の時代を終えた.
Univ.Press,1986; Europäische Sozietätsbewegung
ドイツの歴史家,クラウス・シャルフは,ベル
Russian
Academy.
Kingston.:
und demokratische Tradition: die europäischen
リンとペテルブルグの科学アカデミーの創設とそ
Akademien
れらの 18 世紀における関係について考察し,ヨ
Frührenaissance und Spätaufklärung / hrsg. von
ーロッパの視点から,
「プロイセンの歴史はベルリ
K.Garber und H. Wismann. Tübingen: Niemeyer,
ン・アカデミーがなかったとしても,18 世紀にお
1996; Grau C. Berühmte Wissenschaftsakademien:
いてはほぼ同じように進んだことであろうが,同
時期にペテルブルグのアカデミーは多くの点で
von ihrem Entstehen und ihrem weltweiten
18 世紀におけるロシア帝国の歴史的発展の道筋
Science and Russia and Soviet Union. A Short
を規定した」(13)との結論にいたっている.
History.: N.Y. 1993; MacClellan James E. Science
der
Frühen
Neuzeit
Erfolg.–Leipzig:Ed.Leipzig, 1988;
zwischen
Graham L.
このようにして,ペテルブルグ科学アカデミー
Reorganized: Scientific Societies in the Eighteenth
は「上から」
,君为の指令によって,その設立の時
Century.– New York.: Univ. Press., 1985; Science
点で大学も初等・中等教育制度もなかった国に設
立された.当時のヨーロッパの科学者統一体が多
and Technology in World History: An Introduction.
くの場合,私的な、あるいは社会的な組織で,基
Russia. 1700 – 1917: State, Society, Opposition.
本的には会費や献金のおかげで存立していたのと
Dekalb.: Norhhern Illinous, 1988; Vucinich A.
違い,それは国家の財政支出を受けていた.ヨー
Science in Russian Culture. Vol. 1 – 2. Stanford.:
ロッパの科学アカデミーでは,多くの大学で実施
Univ. Press., 1963 – 1970; Wissenschaftspolitik in
された科学研究の成果が優先して引き入れられた
だけであるのにたいして,ロシアにおける科学ア
Mittel-
カデミーはそのなかで科学的創造がなされなけれ
und beginnenden 19. Jahrhundert / hrsg. von E.
ばならない機関として設立された.ひとつの機関
のなかに科学と教育機能を統一したことは,科学
Amburger. Berlin:Camen, 1976. Копелевич Ю.Х.
アカデミーのなかに大学とギムナジウムを設立す
XVII – середина XVIII в.)». Л.: Наука, 1974;
ることにつながった.しかし,大切なのは,ロシ
アの科学アカデミーが,国家の側から強力な支援
Копелевич Ю.Х., Ожигова Е.П. «Научные
を受けて,きわめて短い期間に重要な科学的成果
Америки.» Л.: Наука, 1989.
Baltimore.:Univ. Press., 1999; Raeff M. Imperial
und
Osteuropa
:
wissenschaftliche
Gesellschaften, Akademien und Hochschulen im 18.
«Возникновение научных академий (середина
академии стран Западной Европы и Северной
(2) Boeger I. „Ein seculum ... da man zu Societaeten Lust
を獲得し,ヨーロッパのみならず,世界の科学と
文化の空間に堂々と入ることができるように,み
hat" : Darstellung und Analyse der Leibnizschen
ずからの仕事を組織することができたということ
Sozietaetspläne
であろう.
europaeischen Akademiebewegung im 17. und
vor
dem
Hintergrund
der
fruehen 18. Jahrhundert. München : Utz, 1997. S.
9
(13) Шарф
198-206.
К.
“Основание
Берлинской
и
(3) Leibniz in seinen Beziehungen zu Rußland und Peter
Петербургской академий наук и их отношения в
dem Großen : eine geschichtliche Darstellung dieses
XVIII в в европейской перспективе” / «Немцы в
Verhaeltnisses nebst den darauf bezueglichen Briefen
России. Три века научного сотрудничества». СПб.,
und Dankschriften / von W. Guerrier. St. Petersburg
2003. С.23.
und Leipzig :Eggers.1873; Richter L. Leibniz und
sein Russlandbild. Berlin : Akademie-Verlag. 1946;
Keller M. Wegbereiter der Aufklaerung: Gottfried
Willheil Leibniz Wirken fuer Peter den Grossen und
sein Reich // Russen und Russland aus deutscher
Sicht
9.–17.
Jahrhundert
(West-oestliche
Spiegelungen / hrsg. von Mechthild Keller unter der
Leitung von Lew Kopelew; Reihe A. Bd. 1).
Muenchen : Fink.1985. S. 391 – 413; Hirsch E. Der
berühmte Herr Leibniz : eine Biographie. Muenchen :
Beck. 2000.
(4) Копелевич Ю.Х. «Основание Петербургской
Академии наук.» Л.: Наука. 1977. Смагина Г.И.
«Академия наук и российская школа. Вторая
половина XVIII в.» СПб.:Наука.1996. Смагина
Г.И.
“Публичные
Академии
наук”
лекции
//
Петербургской
«Вопросы
истории
естествознания и техники». 1996. № 2. С.16-26.
(5) Wolff Ch. Briefe aus den Jahren 1719 – 1753.
Petersburg. 1860. S. 173.
(6) “Проект положения об учреждении Академии
наук” опубликован. См.: «Уставы Академии наук
СССР». М.: Наука, 1999. С. 31–38.
(7) Смагина Г.И. “Немцы в Академии наук” //
«Природа». 2003. № 9. С.83–88.
(8) Смагина Г.И. “Академия наук и зарождение
университетского образования в России” //
«Академия наук в истории культуры России
XVIII- XX веков». СПб.: Наука, 2010. С. 39–80.
(9) 1 ターレルは 18 世紀の前半,ほぼロシアの 70
コペイカに相当していた.
(10) 1リーヴルは 25 コペイカに近かった.
(11) Копелевич Ю. Х. «Возникновение научных
академий» С. 87, 108, 155.
(12) «Летопись Российской Академии наук». Т. 1.
1724–1802. СПб.: Наука. 2001. С.41.
10
ロシアやウクライナにおいて詳細で,多様な研究
Ⅲ.
の対象となった.この点は,エム・エス・バスト
ラコヴァが多くの研究をものしている.彼女は多
ロシア科学アカデミーにおける科学研究組織化に
果たしたヴェー・イー・ヴェルナツキーの役割
数の資料を整理,公表しており,かつ,この問題
に関連したヴェルナツキーの研究論文の出版にも
携わっている(5).
ゲンナジー・ペトローヴィッチ・アクショーノフ
本稿では,ヴェルナツキーの科学アカデミーに
おける研究の組織化に関する理論的为張や実践に
(ナターリァ・ロジナ訳)
ついて論じることとする.
*
ウラジーミル・イヴァーノヴィッチ・ヴェルナ
*
*
*
*
ツキーは1906年から1944年にかけて38年間にわ
ヴェルナツキーはロシアの科学史研究に関して,
たりロシア科学アカデミーで活発に活躍し,大き
な成果を残した人物である.
世界的に認められた,
生物圏に関する研究者であり,放射化学研究所
まずロシアの科学者であるロモノーソフの伝記や
(1912 年),国内自然生産力調査委員会(1915 年),
ラジウム研究所(1922 年),生物地球化学研究室
の間,それに関連した論文 5 本を公表している(6).
1912 年3月の最初のロシア人科学アカデミー会員
(1927 年,現在はロシア科学アカデミー=ヴェー・
200 年周年記念日には,アカデミーの総会の依頼
イー・ヴェルナツキー名称地球化学・分析化学研
で皇帝に申し出,エム・ベー・ロモノーソフの名
究所),知識史委員会(1921 年),隕石研究委員会
前に因んだ研究所創設を願い出た.
「設備の整った
(1921 年)などたくさんの組織の組織者,指導者で
大きな研究所がないと,天才を最大限に発揮する
もある.
ヴェルナツキーはみずからの組織者としてのイ
場がなくなる.アメリカ合衆国,フランス,イギ
リス,
オーストリア=ハンガリー帝国にはそのよう
ニシャティヴを科学の理論と歴史の深い考察に基
な組織が既に創設されていた.ドイツでは何百万
礎付けた.ヴェルナツキーは社会における科学の
マルクも投資し,基金を創設したウイルヘルム皇
为導的な文明上の役割に関する理念,ノースフェ
ラの理念を創りだした(1).革命前の時代,一人の
帝が先頭に立っている」(7)とヴェルナツキーは書
政治家として,国会議員,そして政府の一員とし
だ研究所が最終的に創設されることはなかった.
当時のヴェルナツキーはロモノーソフの頃の科
活動の研究から取り組んだ.1900 年から 1911 年
いていた.しかし,ロモノーソフ氏の名前に因ん
て,彼は国家と科学,権力とアカデミーの関係性
について研究をした.現在,彼の科学史と組織に
学アカデミーの歴史的形成の研究に携わるように
関する研究は 2 巻本のかたちで出版されている(2).
ヴェルナツキーは科学者の人格を知識の発展の基
本的で,創造的な卖位として捉えていた.そのた
なった.1914 年にはペテルブルグ大学では 18 世
紀のロシアにおける自然科学の歴史に関する講義
を行った.現在では,当時の講義内容と原稿に残
されたロシア科学アカデミーの 100 周年記念に因
んだ概説が一緒に出版されている.(8)
め,彼の研究の参考文献の中には 1 巻だけでも 86
名もの名前が入っているものもある(3).
ロシア内戦の頃,ヴェルナツキーは独立ウクラ
知識史の深い基礎研究によって,科学の発展の
イナにおいて科学アカデミー創設のまとめ役を務
中心的諸問題を明らかにすることのみならず,み
ずからの理念を実践的に組織として実現する基本
めた(4).6 カ月の間に目標を達成し,1918 年 11 月
27 日に開催されたウクライナ・科学アカデミーの
原則を定式化することが可能となった.彼は科学
アカデミーの歴史のなかに,科学的創造の個人的
最初の会議で総裁に選ばれた.
性格と学問の組織化の集団的形態との間の矛盾を
ヴェルナツキーの科学組織化のための活動は,
11
見出していた.その矛盾を克服する方法として学
沢でもなく,一部の人物の趣味でもない.研究は
術的活動の基礎を破壊しない正当な国家の介入を
国家の事業である.戦争を経験することで,みな
考えた.
は,国家の課題を解決してくれるものは科学だけ
ヴェルナツキーを議長として,その提案で 1915
だと理解した.それは軍事や工学分野で有利な立
年に国内自然生産力調査委員会が設立され,それ
場に立つためだけではない.
「国家からの援助の課
が研究の組織化のための国家と科学アカデミーの
題は,応用科学的な技術の発展のみならず,自由
共同を利用した最初の成功した事例となった.設
な科学的創造や未知なることの人間による開拓に
立の直接的なきっかけは 1914 年に始まった世界
もある.…(中略)…国家において,現段階で人
大戦により欠乏に苦しんだ戦略物資の調査と利用
類が到達したレベルの知識の蓄えをもつ科学者や
の必要性だった.すぐに国の領土の目的意識的調
科学的組織が養成,あるいは設立されれば,科学
査のために科学アカデミーや他の研究拠点の科学
の応用は卖純で,簡卖に可能となる.国家による
者,国立機関,企業家,民間部門,金融界の人を
科学的課題の解決の順序は,もちろん,国家から
とりまとめる組織が出来上がった.
独立した自由な個人的な科学的創造活動が存在し
ヴェルナツキーは新しい組織に大きな展望を見
ているという条件のもとでは,政治家や社会活動
出していた.普通の自然科学の研究とは違い,国
家の関心を惹く,もっとも基本的な問題になるで
内自然生産力調査委員会には生産力として利用可
能な資源の観察と報告をすることと同時に,新し
あろう」とヴェルナツキーは書いている(11).
この論文は 1917 年 6 月に発表され,8 月にはヴ
い性質の発見といった二重の目標が設定されてい
ェルナツキーの親友で,科学アカデミーの常任書
た.1916 年 12 月 16 日付けの国内自然生産力調査
記を務めたアカデミー会員で東洋学者のエス・エ
委員会の報告書「諸研究所の国家的ネットワーク
フ・オリデンブルグが国民教育省の大臣に任命さ
について」の中にある次のような文章から問題意
れ,ヴェルナツキーを次官として迎えた.彼ら,
識がうかがえる.
「研究所創設のような難しい仕事
にあたり,
われわれは自由な科学的創造とともに,
そして彼らの政治仲間は国民教育や高等教育と学
問の発展のために革新的なアイディアを実現しよ
すでに試され済みの, より力強い,科学者の努力
うと努力し,望んだ.
を安定した,全体的で統一的なものとする組織化
しかし,政治的な争いに彼らは負けた.彼らの
という方向に進み出さなければならない.特にで
国家の民为化計画は実現することはなかった.し
きるだけ早く,そしてできるだけ安く,より大き
かし,アイディアがもつエネルギーが相当に強力
な結果の出せるような形の組織化が必要である」
(9)
.地方におけるそのような研究所は複合化し,
だったため,帝国崩壊のあとに起こったボリシェ
ヴィキ国家特有の課題とも結びついて国民の精神
地方の生産力を研究しなければならない.ヴェル
生活発展の必然的な流れとして,タイミングが悪
ナツキーの意見では,一次資料は中央の,科学ア
カデミーの専門研究所で研究されなければならな
いはずの科学アカデミーの研究所が創設され続け
ていった.国内自然生産力調査委員会は新しい政
い.このような理念を発展させ,ヴェルナツキー
府と科学アカデミーを仲介する機関となった.ボ
は1917年1月,
歴史上はじめての課題,
すなわち,
13 ヵ所の物理や化学系,さらには鉱物学,セラミ
リシェヴィキのリーダー,ヴェー・イー・レーニ
ンはみずからの科学政策を国内自然生産力調査委
ックスや生物学などの研究所を創設するべきだと
員会の課題の延長線上に方向付けた.それは科学
(10)
の勧告を作成した .
本来,ヴェルナツキーは国内自然生産力調査委
アカデミー常任書記のエス・エフ・オリデンブル
グとの接触の手段であった.これについては新し
員会を通して,これまで政府の機関の目に留まら
い政権ができた頃,オリデンブルグが自分の報告
ず国家予算の枠外にあった研究や科学技術の発展
書の中にもそのレーニンとのやりとりについて記
を全国民の目標として掲げようとした.科学は贅
している(12).
12
そのような理由で内戦の頃には科学アカデミー
キーがいない間は常任書記のオリデンブルグが過
の中に新しい研究所が設立された.それらは国内
去の,とりわけ国内自然生産力調査委員会の活動
自然生産力調査委員会の部局から発展したもので
経験を総括した成果である諸原則を科学アカデミ
あった.1917 年にはプラチナ=希尐金属研究所の
ーで実行しようとした.1927 年付けの未発表の論
創設が決定され,翌年には活動を開始し,1918 年
文の中でもこの常任書記は,純粋科学と応用科学
4 月には物理・化学分析研究所,12 月には光学研
の関係を権力が正しく理解することを望んでいた.
究所,そしてセラミックス実験研究所,その翌年
「それがないと応用科学も技術もありえないので,
には水文学研究所が設立された.
純粋な理論科学を侵害することは誰もしようとし
ヴェルナツキーがラジウムに関する研究活動の
ないが,科学を実践から切り離すことは,かなり
とりまとめに努力をしてきた結果は印象的なもの
の程度,実りのなさを覚悟することを意味する.
である.ヴェルナツキーがペテルブルグ市を離れ
でも,設立後 10 年経った今では,それを恐れるこ
ていた頃,内戦がもっとも深刻だった条件下,そ
ともなかろう」(14).しかし,国家イデオロギーの
の同僚ヴェー・ゲー・フローピンが放射性鉱石の
優越という新しい条件のもとでは創造活動の自由
中から初めて,ミリグラム卖位のラジウムを採る
の制限にたいして危機感を持たないといけなかっ
ことに成功した.そして 1921 年になって,ようや
たかもしれない.ヴェルナツキーは誰よりも分か
く国内自然生産力調査委員会の指導者がペテログ
ラードに帰還した後に,ラジウム研究所の設立の
っていた.ヴェルナツキーの科学アカデミー宛て
の手紙の中では,
ソ連邦への帰国の条件について,
準備が開始された.
研究所は 1922 年に設立された.
科学者の独立という原則を挙げていた.
「個々の人
かたちのうえでは科学アカデミーには管轄されて
間の人格の価値が充分に尊重されない環境の中で
いなかったが,研究方針や課題について科学アカ
は,人格とその自由な,何ものにも左右されない
デミーの指導部と相互に連絡しあっていた.最初
決断の尊重が,生きる条件としてわたしには必要
のラジウム研究所長にはヴェルナツキー,その同
僚の多くがそのメンバーとなった.
である.わたしはこの個々の人格の向上という点
において,また,行動を構想するにあたって,わ
研究者の地道な努力により,ゆっくりだが確実
が祖国新生の基本的な条件がその認識に一致する
とのみ見なしている」(15).
に科学アカデミーの構造は変わっていった.自由
な科学の共同体から科学認識と国による科学組織
自由な人格としての科学者の要求と,決して合
管理の国家的システムとなっていった.そして
理的な原則のうえに組み立てられていない国家の
1925 年には政府の特別布告によって,科学アカデ
ミーは国の高等学術機関と位置づけられ,
(1836
要求との間の矛盾は,ほかでもないヴェルナツキ
ーが感じ取っていたものであるが,彼にとっては
年以降不変であった)規約が更新され,名称も変
純粋科学と応用科学の間の矛盾に反映されていた.
(13)
更され,ソ連邦科学アカデミーとなった .そし
て,全国民的行事としてその 200 周年が祝賀され
科学者は本性上純粋科学を求め,国家は応用を求
めるのである.だからこそ,ヴェルナツキーは政
た.ボリシェヴィキには,科学アカデミーがその
府諸機関に科学のそもそもの成り立ちを伝えよう
権威でもって,人民の眼に「労働者・農民国家」
建設の理論と実践を輝かせるように思われた.そ
と努力した.純粋科学を支援することによっての
み,自然の生産力の利用も他の知識の導出も,こ
れゆえ,そういう意味合いでは,彼らの意図と科
うした利益を手にすることはできない,と.1927
学を発展させたいと思う科学者の努力は当初の
10 年間は一致していた.
年にヴェルナツキーは「ソ連科学アカデミーの応
用科学研究の課題と指針について」という,原則
ヴェルナツキーは 1922 年から 1926 年の間,研
をしめした論文を公表した.その中では,国中で
究出張でフランスに滞在していたが,科学アカデ
展開されている大きな建設事業の実践と課題によ
ミーとは密にやりとりを続けていた.ヴェルナツ
って必要とされた応用分野における研究組織化の
13
基礎が取り上げられていた.このとても重要な論
ーチの例をヴェルナツキーの 1940 年夏の報告に
文の中で,ヴェルナツキーは,国内自然生産力調
応じて設立された科学アカデミーのソ連邦原子力
査委員会の 10 年間の経験を総括した.
ヴェルナツ
問題委員会に見ることができる.その中で彼は,
キーは科学アカデミー会員にとっては新しい,純
課題の解決のために多数の研究所の専門家の活動
粋科学も応用科学も科学アカデミー内に集中させ
を総括しようとした.1930 年代末にはヴェルナツ
るという提案をした.厳密に言えば,科学アカデ
キーは科学アカデミーの要職者に新しく設立され
ミーはこのふたつの方向を科学アカデミー内部に
る研究所の構造と性質について一連の呼びかけを
おいてのみならず,国中で統一した,卖一の機関
おこなった.研究所は具体的な問題にもとづいて
となることができる.純粋科学は個人の,独立し
設立され,方法の面では統一されていないといけ
た,自由な科学者の創造によって発達し,応用科
ない(17).
学は周囲や生活の要求の研究を源泉としている.
ソ連時代には特に 1927 年には新しい規約が更
応用分野における科学的創造が現われる形式は,
新されて以降,科学アカデミーは絶えず改革され
現代においては,国家や工業から財政的裏付けを
続けた.応用科学研究分野におけるヴェルナツキ
えた強力な研究所である.ここからのみ,純粋科
ーの理念と完全に一致するかたちで,研究所は基
学も支援と財政援助を受けることができる,と彼
本的な統一体となった.政府は新規約により,科
は言う.成功した事例の中では,ラザフォードの
研究所がわれわれのお手本になる,とヴェルナツ
学アカデミーの組織の中に研究所 8 カ所,博物館
等 8 カ所等を所属させた(18).1930 年代のはじめか
キーは言う.しかし,応用的方向性の発展は,為
ら国中で,そして中央でその数は急速に増えてい
政者の意志に合わせた狡猾な形式ではない.こう
った.しかし,ヴェルナツキー自身はイデオロギ
した応用は時として実際に科学者の思考を目覚め
ー的理由で国内自然生産力調査委員会の指導部か
させる.
「我々の前には,応用科学の現代的発展に
ら外されることになった.彼のアイディアは異な
ともなって,周囲の科学的認識の枠内で個人的な
創造活動が提起するものに比して,現実が提起す
る目標やイデオロギーから実行されることとなっ
た.1935 年には科学アカデミーの中に哲学,歴史,
る科学上の問題に特有の特徴をもった科学研究を
経済学など社会科学系の専門分野を中心とする共
本質的に新しく受け入れることが求められている.
産为義アカデミーが追加された.権力の観点から
…(中略)…わたしは,応用研究が視野から抜け
は,科学アカデミーは自然と社会の管理,および
ると,アカデミーの純粋な科学研究は質的にもそ
科学的に綿密に計算されたプログラムによる「明
(16)
の力強さも低下してゆくと予想している」 .こ
れまでのレベルを維持するために,社会为義国家
るい未来」と呼ばれるものの建設の管理手段に変
化したのであった.
は財政支出の唯一の源として,民間基金が存在し
1934 年に政府の指令で,科学アカデミーはモス
ている資本为義の国の政府が行う何倍もの費用が
必要となろう.
クワに移転されることとなった.この事実をめぐ
って,ヴェルナツキーとその他の科学アカデミー
その論文の中では,形式的な,つまり学問分野別
会員は激しく対立した.ヴェルナツキーは科学ア
ではなく,正確に明確にされた狭いテーマ別に研
究所を設立するという为要原則が初めて記されて
カデミーの常任書記宛てに特別な覚書を書き,研
究者全員に知らせてもらうよう頼んだ.そのメッ
いた.研究所は物理学や地学の雑多な塊である必
セージの中では,広い歴史的な視野に基づいて,
要はない.ヴェルナツキーは,研究所に改組され
た国内自然生産力調査委員会や科学問題の狭いテ
国家の科学に求めるものの真実を深く理解した上
で,何世代にもわたって築かれてきた,人類最大
ーマをもつ全連邦会議がこの目的に従事し,国家
の研究機関のひとつの新しい水準,その先進的な
機関でなく,科学アカデミーにより管轄されるよ
技術水準の確保,そして,これまでに研究所や博
うになることを期待していた.このようなアプロ
物館で蓄えてきた科学研究材料の,かつてなかっ
14
た規模のコレクションといった諸問題を思い起こ
ミーとその諸研究所の活動と構造に関する理
させた.科学者の前には極めて大きな重要性と責
論的成果と実践の経験は研究上大いに注目さ
任のもつ課題,つまり,
「レニングラードからのア
れる.
カデミー諸機関をそのまま移転する課題のみなら
ず,将来それらに必要な建物を建設する課題,モ
② ヴェルナツキーの科学的創造の自由の確保を
スクワに現代の一切の完全な科学力をもつ科学ア
巡る努力は,ロシア科学アカデミー,そして
(19)
カデミーを設立する課題」がある .
ソ連邦科学アカデミー研究所の前例のない増
しかし,今度は,管理部門の増加によりヴェル
加に結果した応用研究発展の理念と結びつい
ナツキーは管理の官僚为義化と闘わなければなら
ていた.
なくなった.ほとんどすべての覚書のなかで,彼
は,監視を行う書記や技術職の危険な増加につい
て書いており,科学の問題に関する決定や財政配
(1) Вернадский В.И. «Избранные труды» /
Составление, вступительная статья и
分にたいする科学アカデミー会員や他の科学的創
造に従事するものの決定権の確保を巡って闘争し
комментарии Г.П. Аксенова // Библиотека
ていた.耐えず彼が攻撃した問題のひとつは,絶
отечественной общественной мысли с
えず強化された検閲であった.
彼は彼に残された活動可能な時間のすべてにわ
древнейших времен до начала ХХ века. М.
たり,戦後における科学研究の復興計画に関して
(2) Вернадский В.И. «О науке». Т. 1. Дубна. 1997. 576
科学アカデミー幹部会にその最後の依頼を届ける
с.; Т. 2. Часть 3. Академия наук. СПб. 2002. 600 с.
2010. 744 с..
(3) Вернадский В.И. «Статьи об ученых и их
にいたるまで,アカデミーの組織について検討し
творчестве». М. 1997. 364 с.
続けた.ヴェルナツキーはモスクワ单西部に科学
(4) Вернадский. «О науке». Т. 2. С. 309-342.
都市をつくる夢をもっていて,そのなかに,生物
地球化学研究室を母体に 1947 年に設立される予
(5) Бастракова М.С. “Академия наук и создание
定の自らの研究所の設立も構想していたのである.
исследовательских институтов: Две записки В.И.
科学アカデミーのモスクワ移転にともなって,
Вернадского”// «Вопросы истории естествознания
アカデミーは全世界に知られるような,他に比べ
и техники». 1999, № 1. С. 157-159; Она же. “В.И.
るもののないものとしての様相を呈するようにな
Вернадский и проблемы организации науки”//
った.1917 年の時点では科学アカデミーの正会員
45 名,研究職 150 名だったのに対し,1970 年代の
«В.И. Вернадский и современность.» М. 1986. С.
終わりにはアカデミー会員・通信会員は 850 名,
Вернадского // «Природа» 1988, № 2. С. 28-32; Она
これに加えて研究職は 5 万 2100 名もいた.
科学ア
カデミー幹部会は各部や支部,250 カ所の研究所
же. Академия наук и власть. Второе столетие. От
77-91; Она же. Организационные уроки
Академии Императорской к Российской //
(20)
を管轄していた .それと同時に 1950~1960 年
«Российская Академия наук: 275 лет служения
代以降の科学アカデミーの科学的生産性は絶えず
下がっていった.
この複雑な現象の多様な原因は,
России.» М. 1999. С. 111-199.
(6) Вернадский В.И. «Труды по истории науки в
России». М. 1988. С. 13-62.
ヴェルナツキーとその仲間がロシア科学の発展を
(7) Вернадский. «О науке». Т. 2. С. 298.
関連付けていた国家とは異なるものとなった国家
そのものの性格と結びついているのである(21).
(8) Вернадский. «Труды по истории науки в России».
С. 63-260.
結論
(9) Вернадский. «О науке». Т. 2. С. 52-53.
① ヴェー・イー・ヴェルナツキーの科学アカデ
(10) Вернадский В.И. “О задачах Комиссии по
15
изучению естественных производительных сил в
деле организации специализированных
исследовательских институтов” // «О науке». Т. 2.
С. 301-308.
(11) Там же. С. 60.
(12) “Отчет С.Ф. Ольденбурга за 1917-1919 гг. ”//
«Документы по истории Академии наук СССР.
1917-1925 гг.» Л. 1986.. С. 147-153.
(13) Там же . С. 323.
(14) С.Ф. Ольденбург. “Наша наука в последнем
десятилетии”// Санкт-Петербургский филиал
Архива РАН. Ф. 208. Оп. 1. Д. 249. Л. 2.
(15) Вернадский. «О науке». Т. 2. С. 365.
(16) Там же. С. 409.
(17) Вернадский В.И. «О науке». Т. 2. С. 510-533.
(18) «Организация советский науки в 1926-1932 гг./
Сборник документов». Л. 1974. С. 166.
(19) Вернадский. «О науке». Т. 2. С. 479.
(20) «Организация науки в социалистических
странах» / Ответ. ред. Ю.В. Бромлей. М. 1986.
(21) Аксенов Г.П. “Академия наук и власть: третье
столетие. Между истиной и пользой”/ «Российская
Академия наук: 275 лет служения России». М.:
«Янус-К». 1999. С. 200-238.
16
また責任ある立場の人間として,こうした国策に
Ⅳ.
沿った発言や行動を行うよう,暗黙のうちに,あ
るいは強制的に,要求されることもあった.
科学者の代表の交代劇はなぜ起こったか
-1920~30 年代ソ連物理学の事例-
このような人物が特に多く登場したのは,研究
開発が为として国家によって研究開発が推し進め
られた,後発の近代国家群においてであった.日
金山浩司
本やロシアといった地域では,上述したような交
渉人としての科学者の果たす役割は大きかった.
日本では菊池大麓や長岡半太郎といった人々がこ
のような科学者として挙げられるだろう.
はじめに
科学・技術の発展は,19 世紀以降,国家による
われわれは以下,1920 年代から 30 年代にかけ
援助にますます依存してゆくようになった.研究
てのソヴィエト連邦における物理学の事例を取り
開発が大規模なものになり大量の人的・物的資源
扱う.同国において,上記のような意味での物理
が要求されるようになるにつれ,こうした資源の
学者の代表といえる人物はむろん常に複数存在し
提供を援助できる政治卖位としての国家の役割が
た.しかし,もし時期ごとにただ一人を代表とし
重要性を増してきた.国家は,科学者・技術者の
養成や研究開発の振興に対する,制度的整備と出
て名指しするとすれば,1920 年代から 1930 年代
半ばまではそれはアブラム・ヨッフェ(А. Ф.
資を行うようになり,20 世紀以降,研究開発を支
Иоффе, 1880-1960)であり,1930 年代末以降 1951
援する为要な卖位のひとつとなってきた.
年まではセルゲイ・ヴァヴィーロフ
(С. И. Вавилов,
研究開発資源の供給を国家が支援するとき,そ
1891-1951)であったといえよう.両人とも,複数
れは科学者・技術者の側からの要請に基づいてな
の物理学研究所を率いていた実験物理学者であり,
されることもあれば,そもそも科学や技術の振興
が国策として提示された上でなされることもあっ
学術雑誌や事典等の編集を担当し,自身はソ連共
産党員ではなかったものの(ヨッフェは 1940 年
た.だがいずれにせよこうした相互関係は,当該
代に入ってから入党した)
,
支配権力すなわちソ連
科学分野の専門家のうちから,国家の担当機関あ
るいは指導者層と科学者集団との間をとり持つ交
共産党指導部のその時々の方針を理解した上でそ
渉人とでもいうべき人物を要求する.このような
や科学アカデミーといった研究機関において,党
人物は多くの場合,当該分野ですでに長期にわた
るキャリアを築き上げている,科学者・技術者集
員を中心とする行政官僚たちとの交渉の役に当た
った.
団の間で人望厚く,大きな発言力を持つ研究者だ
1930 年代半ばを境としてソ連の物理学者の代
った.彼らは国家の指導層や行政官に対して当該
分野の発展の道のりを示し,そこで必要とされる
表に交代劇が起こった―すなわちその役割を担う
人物がヨッフェからヴァヴィーロフへと移ってい
資源の種類や量を説明し,資金の供与あるいは制
ったこと―ということは,これまで明白に言及さ
度の整備を要求した.戦争あるいは近代化の推進
策などの目的のために国家にとって科学や技術の
れてこなかったが,以下本論で述べるいくつかの
事実によって証拠立てられるように思われる(1).
力が火急に必要とされたとき,国家の指導者たち
学者集団の代表者の世代交代は,通常は老齢や病
は彼らに諮問を諮り,政治決定の参考とすること
があった.彼ら自身が,政治決定を行える高い地
気といった事情や,旧世代の代表者の自発的な引
退や,新世代の代表者が力を増大させること,な
位に就いた場合もある.国家が特定のイデオロギ
どによるであろう.しかし,1930 年代にソ連物理
ーを国策として採用し明確に为張したい場合にお
学に起こった交代劇は,そのような理由からだけ
いては,彼は科学者・技術者集団の代表として,
では説明できない.そこには,ソヴィエト政権が
れに沿った発言を行うことができ,自身の研究所
17
科学者の代表に要求する姿勢の変化,科学者の代
ヨッフェはほかの多くの帝政ロシアで活躍して
表が政権と密接な関係を保っていたが故の,彼に
いた知識人と同じく,十月革命まではボリシェヴ
訪れた政治的危機,こうした危機に対する対処策
ィキの積極的な支持者ではなかった.その彼が,
の相違等が色濃く反映されている.
革命後もロシアに留まったことはもとより,物理
以下本論において,
1930 年代ソ連に起こった政
学と工学との連携を強固にしてソ連経済の発展の
治気象の変化を瞥見しつつ,この交代劇がなぜ,
ために物理学研究を積極的に役立てようとする姿
いかなる要因に基づいて起こったのか,分析して
勢をとったのはなぜだろうか(3).彼もまた他の
いこう.
人々と同様,内戦期(1918 年―22 年)のロシア
の混乱状態を受けて,秩序を打ち立てるだけの意
ボリシェヴィキ政権とヨッフェ
志と能力をもっているように見えたボリシェヴィ
アブラム・ヨッフェは十月革命以後,ソ連にお
キに期待したのかもしれない(4)し,ボリシェヴィ
ける物理学研究機関の組織化において为導的な役
キが明確に掲げた民族間の平等という思想が,ユ
割を果たした人物であり,しばしば「ソヴィエト
ダヤ人であった彼にとって魅力的に写ったのかも
物理学の父」と呼ばれている.革命以前からすで
しれない(5).いずれにせよ,彼は革命後のロシア
にヨッフェは同世代の物理学者同士での結束を高
において科学研究所のリーダーとしての素質を存
めることに尽力し,協会を結成するなどの活動を
行っているが,後進の指導と大規模な物理学研究
分に発揮し,文化的・政治的に相対的な自由がみ
られた 1920 年代にあって,ソヴィエト政権との
機関の組織に取り掛かることができたのは,为と
間で良好な関係を保っていた.彼は数回にわたっ
して十月革命以後,ボリシェヴィキ政権の豊富な
て西欧や米国に旅行し,当地の物理学者との間で
資金援助のもとでであった(2).
彼は 1918 年に設立
交流を持ち,ソ連における物理学研究の順調な発
されたレニングラード物理工学研究所
展ぶりを印象づけた.現在に至るまで,ソ連の物
(Ленинградский Физико-технический Институт:
ЛФТИ)の初代所長を務め,ここにおいてカピッ
理学者を代表する人物のうち西欧や米国の物理学
者たちの間で最もよく記憶されているのはヨッフ
ツァ(П. Л. Капица, 1894-1984)
,ランダウ(Л. Д.
ェであろうと思われるが,それは 1920 年代にお
Ландау, 1908-1968),クルチャートフ(И. В.
ける盛んな国際交流という事情によっている.
Курчатов, 1903-1963)ら,のちにソ連物理学を率
いることとなる俊英を数多く育成したほか,教育
「上からの革命」の衝撃
人 民 委 員 部 ( Народный Комиссариат
Просвещения: Наркомпрос)
,最高国民経済会議
1920 年代末から 30 年代初めにかけてソ連に起
こった政治気象の変化は,十月革命そのものより
(Высший Совет Народного Хозяйства: ВСНХ)
,
もソ連社会に激動をもたらしたともいえる,大規
重 工 業 人 民 委 員 部 ( Народный Комиссариат
Тяжелой Промышленности: НКТП)といった国家
模で抜本的なものであった.支配権力の側の変化
について言えば,レーニンが病気により政治生活
の行政機関から資金を引き出すことにかけて優れ
から退き,1924 年 1 月に死去して以後,ボリシ
た手腕を発揮した.明朗快活で部下思いの人柄,
行政機関との優れた折衝能力,
壮大なヴィジョン,
ェヴィキ内部での支配権力をめぐっての闘争は,
20 年代末に至ってスターリン派の勝利という形
等のヨッフェの性格・能力も、同研究所の発展を
でおおむね終わりを告げた.永続革命論を唱える
助けた.1920 年代から 30 年代にかけて,レニン
グラード物理工学研究所は彼の指導のもと,工学
国際为義者・トロツキーは左派として糾弾・追放
され,急激な農業集団化に反対するブハーリン派
上の応用を強く志向しながら,固体物理学(特に
は右派として非難された.スターリン派が勝利し
結晶物理学)の分野に重点を置きつつ,教育と研
党内の为要なポストを独占するようになったこと
究開発に従事した.
による影響として見逃せないのは,それまでのネ
18
ップ期に対して農業の急激な集団化と経済構造そ
る(8).1929 年,それまで帝政時代の規模と構成員
のものの急激な工業化が,行政的措置あるいは大
―その中では非共産党員が大多数を占めていた―
衆の熱狂に依拠して行われようとしたことであり,
を保っていた科学アカデミーに対しても,ボリシ
共産党の政策に反対するとみなされた個人や社会
ェヴィキ政権は直接的な介入の措置に打って出た
集団に対する大規模で仮借ない弾圧が行われるよ
(9).科学アカデミーを非難する論説が新聞紙上等
うになってきたことである.
で大々的に展開され,多数の職員が罷免させられ
急激な工業化は,
1930 年代の国防上の危機意識
た.また,同年に行われた会員選挙においてはブ
(6)から要請されたことでもあった.計画経済政策
ハーリン(Н. И. Бухарин, 1888-1938)のような共
は 1920 年代末に本格的に導入され,重工業の分
産党員が多数当選させられるように介入がなされ
野の発展が第一の課題とされ,ほかの経済分野の
た.新聞紙上での非難が,为として科学アカデミ
実情とのバランスはしばしば軽視された.当時し
ーがニコライ二世関係の文書を多数秘匿している
ばしば使われた「社会为義建設」という言葉によ
ことに向けられていた(10)という事実は,政権の狙
って大衆の熱狂が駆り立てられ,生産ノルマを超
いが何であったかをよく物語っている.つまり,
過するものに対する褒章などが取り入れられる一
科学アカデミーは旧支配体制への妥協的態度を非
方,国内の政治的統一が重視され,政権の方針に
難されたのであり,その「ブルジョア的」傾向を
協力しないもの,もしくはそうみなされたものに
対する非難と弾圧は苛烈なものになっていった.
捨て,より人民大衆の利益を見据えた,国民経済
の再建,あるいは当時しばしば使われた言葉で言
1930 年代はまた,
ソ連の社会構造そのものの大
うところの「社会为義建設」に奉仕できる機関に
生まれ変わらなければいけなかったのである(11).
変動の時期であり,あらゆる社会集団における世
代交代=「下克上」の必要性が盛んに叫ばれた時
期でもあった.むろんこの過程は直線的に進行し
セルゲイ・ヴァヴィーロフの出現
たわけではなく,時期によって濃淡を伴ったが,
当初は旧支配階級ないしそのシンパとみなされた
セルゲイ・ヴァヴィーロフがさまざまな行政的
な職につき,物理学者の代表として台頭してくる
ものたちが,そしてのちにはスターリン派の政策
のは,まさにこのソ連における抜本的な社会変動
に反対するかそうみなされたものたちが,粙清の
の時期であった.モスクワ大学で教鞭をとってい
嵐にあって,あるいは更迭され,あるいは逮捕・
た 1920 年代,彼は目立った物理学者ではなかっ
投獄・処刑された.粙清に伴う人事配置の転換・
た.为として光学・生理学の分野で業績をつんで
社会構造の激変は,若い世代にとってはそれまで
得られなかった昇進をとらえられる機会とも写っ
きた実験物理学者であった彼は,その温厚で野心
を持たない性格からしても,行政的かつ指導的な
た(7).実際,スターリン死後ソ連の国家権力を掌
職について活躍するような人物には見えなかった.
握したフルシチョフらは,この大粙清の時代に抜
擢され出世のコースに乗った者たちであった.
しかし 1930 年代前半,ごく短期間のうちにヴ
ァヴィーロフはさまざまな学術上の責任ある職務
こうした世代交代,あるいは政権にとって信用
をこなすようになり,物理学者集団の代表者のひ
できる人材の登用抜擢を必要とする傾向は,科学
者や技術者に対する政策にも大きく影響した.
とりとして台頭するようになる.
1931 年にソ連科
学アカデミーの通信会員となった彼は,早くも
1928 年,
ウクライナの炭鉱において数十人の技師
1932 年には正会員に選出されている.
これは人事
(ドイツ人技師を含む)が「妨害活動」ゆえに告
発され数名に死刑を含む刑が執行された,いわゆ
の偶然によるものであったが(12),ともかく異例の
早い昇進である.1932 年,彼はヨッフェと同世代
る「シャフトイ事件」が起こったが,これはそれ
の光学者であるロジェストヴェンスキー(Д. И.
までの「ブルジョワ専門家」に対する寛容な態度
Рождественский, 1876-1940)の後を襲って,レニ
を変化させた転換点であったとみなすことができ
ングラードの国立光学研究所の科学部門長を務め
19
るようになった(13).1934 年からは,科学アカデ
められようとしていたそれと重なっていたことで
ミーのモスクワ移転と並行して新設された,アカ
ある.こうした環境の中で実務をこなしていった
デミ ーの物理研究 所( Физический Институт
経験は,彼をして,科学者の代表としてスターリ
Академии Наук: ФИАН)の所長を務めるようにな
ン体制のもとでいかなる態度を取るのがもっとも
った.この結果,彼は 1930 年代を通じてモスク
有効・適切であるかを見極める能力を身につけさ
ワとレニングラードを往復する多忙な生活を送る
せたと思われる.こうした能力は,ヨッフェのよ
こととなる.
うに 1920 年代の状況の中で要職に就き仕事を進
ふたつの研究所を指導するほか,彼は 1930 年
めていた人々が身につけることができにくかった
代に各種雑誌や百科事典の編集委員,科学アカデ
それであった.
ミー幹部会をはじめとするアカデミー内部の各種
委員会委員など,さまざまな学術上の要職に任命
国民経済発展への奉仕
されている(14).1930 年にはまったく目立たない
先述したように,1920 年代末以降は,ソ連にお
一研究者であったヴァヴィーロフは,こうして
いて大規模で急激な工業化が推し進められた時期
1940 年にはヨッフェと並ぶ,
もしくはヨッフェ以
であった.遅れた農業国であったロシアとその周
上の影響力を持つ代表的物理学者となっていた.
辺地域を近代的な国家に仕立て上げること,また
彼のたどった道のりは,
1930 年代にその権威を相
対的には衰退させられた生物学者の兄ニコライ
社会为義国のシステムの優位性を示そうとするこ
とは,すべてのソ連人民に共有されるべき目標と
(そして後述するようにヨッフェ)とは対照的な
され,共産党によるスローガンと宣伝が飛び交っ
ものであった(15).のち,1945 年にはセルゲイ・
た.ソ連の工業化政策が実際に挙げた成果をどう
ヴァヴィーロフは科学アカデミー総裁に選出され,
評価するかについてはいまだ歴史家の間でも論争
数年間この激務をこなしたのち,おそらく過労が
があるところであるが(16),いずれにせよ,他国に
たたったのであろう,在職のまま 1951 年 1 月,
心臓発作に倒れ,60 年足らずの生涯を閉じている.
おいて例を見ないほど急激な産業構造の転換がス
ターリン時代のソ連においてみられたことは疑い
1930 年代にヴァヴィーロフの公的役割が急激
ない.
に増大したことの理由を,ソ連政権の直接的な政
ヨッフェをはじめとする科学者の代表たちは,
策,もしくは彼自身の野心に帰するのは適当では
国家が唯一のパトロンであるこの国にあって,工
ない.彼はプロレタリア階級の出身ではなかった
業化を宣伝し賛同する役割を引き受けざるを得な
し,科学アカデミー内部での人事において彼が昇
進したのは,先述したように偶然にポストが空い
かった.ただヨッフェは彼らの間にあって,かな
り積極的・自発的にこの役割を引き受けたように
たことによるところが大きかったし,現在のとこ
見える.実際,物理学者たちにとって,工業化推
ろ彼自身の出世欲を示すような史料は見つかって
いない.同時代人の証言を総合するに,ヴァヴィ
進策は資金獲得と研究開発の拡張を容易にする機
会を増やすがために,歓迎されもしたであろう.
ーロフは幅広い学識と含蓄に富んだ文章表現力と
第一次五カ年計画の時期(1928―1932 年)
,ヨッ
いう知識人としての魅力と,きわめて職務に忠
実・献身的でかつ周囲の人間に対して親切な人間
フェは科学活動の計画化について,また国民経済
発展に役立てられるべき科学活動の意義について,
性を兼ね備えた人物であった.こうした彼自身に
各所で盛んに講演し,また論説を著している.そ
備わる魅力・能力が,昇進の道を切り開いた为た
る原因と考えたほうがよさそうである.
の論調は基礎科学と実践科学との協働融合を訴え,
基本的に計画化政策に対して賛同を示すものであ
ただここで無視できないのは,ヴァヴィーロフ
った.ただしその一方,研究開発にかかわるあら
が種々の要職に就いた時期が,スターリン体制が
ゆることを前もって計画立てておこうとする第一
確立し前述したような科学政策が本格的に推し進
次五カ年計画時の傾向に対する疑念等,科学研究
20
な後援者の喪失を意味したことであろう(23).
者としての実際の経験からきた疑念も盛り込まれ
ていた(17).この立場は当時の政治的文脈の中では,
レニングラード物理工学は工業との密接な結び
ブハーリンが採ろうとしていた漸進为義への接近
つきを前面に押し出しつつ研究開発を行っており,
として解釈され警戒されやすかった.
先述したように第一次五ヶ年計画時にはその成果
第一次五カ年計画の時期,ヨッフェは自らの政
には期待が寄せられていたようであるが,この点
治的立場の安泰を疑わなかったであろう.工業化
においても,ヨッフェと彼の研究所は 1930 年代
に伴いレニングラード物理工学研究所は資金的に
半ばには以前ほどの権威を保てなくなっていった.
もますます潤い,多数の研究員を抱えるようにな
それがとりわけ明確に現れているのは,1936 年 3
ったほか,ハリコフやドニエプロペトロフスクと
月に一週間にわたって行われた科学アカデミーの
いった地方に支部的な研究所を設立し,自身の弟
総会がたどった帰結である.この集会にはソ連各
子を各地に多数送り込むこともできた(18).
地からのべ 800 人近い物理学者・工学者・共産党
しかし 1930 年代半ばには,ヨッフェの立場は
官僚が参加したとされ,多くの一般新聞紙上にお
安泰ではなくなっていた.その兆候は,1934 年の
いてもその経緯が報告された.この衆目を集めた
外国旅行の申請却下に見ることができる.
この年,
集会の席上において,ヨッフェとレニングラード
ヨッフェは重工業人民委員部を通じて国際会議出
物理工学研究所は,さまざまな出席者から国民経
席のための
(行き先は不明)
申請を出していたが,
1934 年 6 月 28 日付の党中央委員会政治局の決
済への貢献の不足,そのリーダーシップの拙务さ
を批判された(24).
定はこの申し出を拒絶している(19).ちなみに,
こうなるに至った理由は複雑であり,卖一の満
1933 年の時点では同じ部局がヨッフェおよびガ
足な解説は存在しない.
会場からの批判の多くは,
モフのソルヴェー会議行きを許可していた(20)が,
1930 年代前半にレニングラード物理工学研究所
ガモフは外国に亡命してしまった.翌年のヨッフ
が行おうとした薄層誘電体の開発が不首尾に終わ
ェ海外出張の拒絶は,弟子の亡命に関する監督責
任を問われたためではないかと推測される(21).
ったことを問題にしていた(25).またランダウの発
言に見られるように,若く野心的な理論物理学者
このほか,ブハーリンや,1930 年代半ばを通じ
たちがヨッフェら長老格の実験物理学者たちに対
てスターリンと対立を深めていった,ブハーリン
して抱いていた反抗心(26)が現れた場面もあった.
にも同情的であった重工業人民委員オルジョニキ
しかし本稿の関心からいって見過ごせないのは,
ッゼ(Г. К. Орджоникидзе, 1886-1937)との関係の
この会合の準備段階においてすでに,アカデミー
深さが,ヨッフェが疑われる原因となったことも
考えられる.1936 年には,重工業人民委員部が刉
に所属する共産党員たちの中で,ヨッフェの研究
所に批判的な議論を行おうとする意図の存在があ
行し,ブハーリンが編集为幹を務めていた総合雑
ったらしいことである.このことは物理学史家ヴ
誌 『 社 会 为 義 改 造 と 科 学 (Социалистическая
реконструкция и наука: СОРЕНА)』が,後述する
ィズギンが文書館史料の調査に基づいて明らかに
している(27).それによると,3 月総会は前年の人
哲学論争でもヨッフェ批判の急先鋒に立つことと
民委員会議議長モロトフ(В. М. Молотов,
なる党イデオローグ,マクシーモフ(А. А.
Максимов, 1893-1976)の非難を浴びたうえ,廃刉
1890-1986)の発議に基づいて開催されることが
決定され,当初はレニングラード物理工学研究所
に追い込まれた(22).同誌編集部にはヨッフェも名
の報告のみが行われる予定であったが,国立光学
を連ねており,ガモフやブロンシュテイン,フォ
ークら,物理学者たちの概説や討論等が誌面を飾
研究所やモスクワの物理学者グループの報告と対
比させられる形態に変更が行われ,1936 年 1 月
ることもあり,彼自身数本の論評を掲載したこと
に行われた準備会合の中では,科学アカデミー副
がある.オルジョニキッゼが 1937 年 2 月 18 日に
総裁クルジジャノフスキー(Г. М. Кржижановский,
突然自殺したことも,ヨッフェにとっては,貴重
1872-1959)(28)の「ヨッフェは自分のなすことが何
21
もかも正しいと思ってはならない」というような
こった.ソ連の公的な言論空間においてはこうし
発言があったという.モロトフとオルジョニキッ
た議論はほとんどの場合,弁証法的唯物論という
ゼとが対立関係にあったことを勘案するならば
公認の哲学・イデオロギー体系に照らして物理理
(29),この総会自体が,重工業人民委員部の庇護の
論・物理学史をいかに解釈するかという形態をま
もとにあったレニングラード物理工学研究所の権
とっていた.
1920 年代においては自然哲学をめぐる議論は,
勢を落とそうとするモロトフの意図に導かれたも
のであった可能性もあろう.レニングラード物理
为として共産党員である哲学者たちの間で行われ
工学研究所における応用研究の不振は,党官僚の
ており,職業的科学者が参加することはほとんど
みならず1930年に登用抜擢された若い世代の
「プ
なかった(33).しかし 1930 年代以降,マルクス为
ロレタリア学者」にとって格好の攻撃の的となっ
義理論分野における「上からの革命」に連動した
たが,これも党の意図に呼応した傾向であったよ
政策転換に伴い,この状況は変化を遂げる.
『マル
うに思われる(30).
クス为義の旗のもとに』のような党の理論誌にお
この集会においては国立光学研究所を代表して
いて,マクシーモフやコーリマンといったある程
ヴァヴィーロフとロジェストヴェンスキーも基調
度自然科学の動向に通じた党員たちが,現代物理
講演を行っているが,同研究所に対する批判はレ
学の理論やその解釈に対する批判的な議論を載せ,
ニングラード物理工学研究所に比べれば比較にな
らないほど緩やかであり,出版された総会結論に
外国の物理学者たちにみられる「観念論的」傾向
や,ソ連の物理学者たちに見られるとされた,そ
おいても,この傾向は反映されている(31).
うした傾向への
「同調」
を非難するようになった.
3 月総会の後にも,ヴァヴィーロフの権威をヨ
彼らの言論活動は,
1931 年に共産党中央委員会に
ッフェに比して引き上げる出来事があった.3 月
よって示された政策―すなわち,戦闘的態度を奨
総会でも部分的には討論されたことであるが,
励し,哲学論争においてそれまで優勢であった諸
1937―38 年ごろには,サイクロトロンの建設場
所や,ひいてはソ連での核物理学研究の拠点をど
派にも容赦ない批判を浴びせようとする政策(34)
―に規定されており,これに忠実であろうとする
こにおくかが問題とされた.ヴァヴィーロフ率い
ものであった.
るモスクワの科学アカデミー物理研究所と,ヨッ
代表的物理学者たちは,行き過ぎとも見える哲
フェ率いるレニングラード物理工学研究所を含ん
学・イデオロギー論争の激化に対する対応を迫ら
だ他の研究機関群との間に,この件の为導権を巡
れた.実際に対応した初期の例としては,1933
っての確執が見られたが,
ヴァヴィーロフは 1938
年秋,科学アカデミーに核物理学の研究機能を集
年に『マルクス为義の旗のもとに』誌にモスクワ
の理論物理学者イーゴリ・タム(И. Е. Тамм,
中させることにより,事態を自らの側に有利に導
1895-1971)が掲載した論文,また 1934 年に赤色
いている(32).
教授学院において行われた集会におけるヨッフェ
とヴァヴィーロフの発言等が挙げられる(35).とは
いえ,
1930 年代前半のこの時点では,
哲学者の側,
弁証法的唯物論への忠誠
工業化と経済発展に対して物理学が奉仕できて
いるかどうかという視点に照らしての批判のほか
とりわけコーリマンの,物理学の内的な理解に支
えられた水準の低くない講演などにも助けられて,
に,
1930 年代の物理学者集団を襲ったもう一つの
議論は哲学者と物理学者の決定的な対立にまで至
批判は,物理学理論の認識論的・存在論的解釈を
めぐってのものであった.相対性理論や量子力学
っていなかった.
スターリン体制のもとでも,
1937 年までの期間
は物理学の基本的諸概念の抜本的な見直しを迫る
とそれ以降とでは,専横ぶりや苛烈な手段が用い
ものであり,哲学者そして職業的物理学者の間で
られた規模,そして政権と国民との緊張関係の度
これらの解釈をめぐる広範な哲学的議論がまき起
合いに明確な差がみられることは,大テロル研究
22
の示すところである(36).この傾向は物理学理論を
は 1937 年には,ヨッフェとともにマクシーモフ
めぐる哲学論争においてもあてはまる.先述した
やミトケーヴィチから「観念論的な」理論に対し
ようにヨッフェの研究所に対する大々的な批判が
て許容的であるとして名指しで批判されていたが,
行われた 1936 年 3 月の科学アカデミー総会にお
1939 年以降は物理学者集団を代表して物理学理
いても,議論のほとんどは工業に対する物理学研
論の哲学的含意,とりわけその弁証法的唯物論と
究の貢献の度合いをめぐって行われたものであり,
の整合性を語る役割を担っている.彼の講演や文
物理理論をめぐる哲学的問題の議論はこの会合の
章は,
『マルクス为義の旗のもとに』誌になんら批
準備段階からして避けられ(37),また哲学者の参
判的コメントなしに掲載されるようになり(41),そ
加・発言も尐なかった.
1937 年まで,
哲学議論は,
れどころか 1942 年暮れ以降は,非共産党員であ
指導的哲学者たちと共産党イデオローグ,という
るにもかかわらず,同誌の編集委員として名を連
対立軸においてよりもむしろ,旧世代の電気工学
ねてもいる.1939 年以降 1948 年ごろまで,あれ
者であるミトケーヴィチ( В. Ф. Миткевич,
ほど激しかった哲学論争は鳴りを潜め,時折コー
1872-1951)とその他の人物たちとの間でたたかわ
リマンらによる穏当な論説が現れるだけであった
されていた(38).
(42).
この状況は 1937 年後半,すなわち大テロルが
物理学理論の哲学をめぐる発言をめぐってもヨ
本格化していく時代に入ると変化する.それまで
指導的物理学者に対する非難を控え,ミトケーヴ
ッフェの権威を失墜させヴァヴィーロフを後任の
代表的物理学者として据えようとする党上層部あ
ィチに対する牽制のほうにむしろ力を割いていた
るいは党員哲学者たちの意図があったかどうか,
マクシーモフが,いまや指導的物理学者・なかん
直接的な証拠はまだ発見されていない.
とはいえ,
ずくヨッフェを,観念論者を擁護している者とし
状況から判断するに,こうした意図の存在はかな
て非難し告発するキャンペーンを行うようになる
り確からしく見える.1938 年暮れ,レーニン『唯
(39).
『マルクス为義の旗のもとに』誌におけるヨ
ッフェらに対する攻勢が強まった.マクシーモフ
物論と経験批判論』刉行 30 周年を記念した集会
が科学アカデミー哲学研究所において開かれ,物
の非難は,ここではもはや物理学理論の具体的な
理学理論をめぐる哲学的問題を扱った集会が 11
内容に即したものというよりは,国内に潜む敵を
月 16 日の夜に開催された(43).ここで講演を行っ
発見し摘発しなければならないという大テロルの
たのは,マクシーモフ,ミトケーヴィチ,ヴァヴ
時代に特徴的な動機に突き動かされた,告発調の
ィーロフ,という,前年までは折り合いの悪かっ
ものとなっていた.ヨッフェは反論を試みるが,
ミトケーヴィチおよびマクシーモフからかえって
た三者であった.
同会合を組織したのはおそらく,この年より同
激しい非難を浴び,
1938 年以降はもはや物理学理
研究所で働いていたマクシーモフであっただろう.
論の哲学に関する公的な発言は行わなくなる.
1936 年 3 月の科学アカデミー総会席上での批判,
共産党イデオローグは,党の指導が物理学者に浸
透したことを示す場として科学アカデミーの集会
『社会为義改造と科学』誌の廃刉に引き続き,こ
を利用したかったようであり,このような「指導
の『マルクス为義の旗のもとで』誌上における非
難キャンペーンは,大規模な粙清の時代にあって
の成果」を示すことができる物理学者の代表とし
て選ばれたのが,
ヴァヴィーロフだったのである.
ヨッフェの政治的立場をますます悪くしたであろ
ヴァヴィーロフの側からしても,
先述したように,
う(40).ヨッフェが告発者たちに対して反論しよう
とすればするほど,非難キャンペーンは激しさを
これがちょうど核物理学の中心地をどこに設置す
るかをめぐって競争が行われていた時期であった
増した.
ことを考えるなら,こうした期待にこたえ,代表
哲学論争の場において,ヨッフェと対照的な道
としてふるまうことによる利得は十分にあった.
のりをたどったのがヴァヴィーロフであった.彼
三者の講演の原稿は,
『マルクス为義の旗のもと
23
に』誌 1938 年 11 月号および 12 月号に順次掲載
てきたグループや個人,なかんずくヨッフェの立
された(44).
場に激しい動揺を加えた.
ヴァヴィーロフの講演は結果的に「合格」点を
しかしともあれ,ソ連の物理学者集団は量的に
与えられたようだ.マクシーモフも今や,
「ソヴィ
も質的にも成長を続けた.国民経済や国防に対す
エト連邦における物理学者たちはみな,マルク
る直接的な貢献が,政権あるいは物理学者自身が
ス・レーニン为義の理論をますます深く自分のも
期待したほど実際に成し遂げられたかはともかく,
のにしつつある」と述べるに至った(45).科学アカ
革命前の小規模でもっぱら大学に所属していた物
デミー哲学研究所における集会ののち,
1939 年中
理学者グループは,今や,全国各地の研究所に展
に上述の三者の論文をまとめて掲載した小冊子も
開した 1000 人を超える科学者集団に成長してい
刉行された(46).ヴァヴィーロフの講演「新しい物
た.いくつかの重要な発見や研究,国際的に見て
理学と弁証法的唯物論」は,前年暮れに『マルク
も遜色のない水準に達している研究はまさにこの
ス为義の旗のもとに』誌に掲載された版からほと
1930 年代に達成されている(48).戦争時,そして
んど変更を加えられることなく,同冊子に収録さ
戦後に大いに活躍する若い世代の物理学者たち―
れた.実際,ヴァヴィーロフの講演は,共産党哲
クルチャートフ,アリハーノフ(А. И. Алиханов,
学者に対する批判などは含んでおらず,彼らの論
1904-1970)
,ポメランチュク(И. Я. Померанчук,
点のうちいくつか(たとえば不確定性関係に対す
るコペンハーゲン解釈は観念論的である,また機
1913-1966 ),ギンズブルク( В. Л. Гинзбург,
1916-2009)ら―はこの時期,国外に留学すること
械論的還元为義はこれを退けるといった)につい
なしに高度な専門的物理教育・訓練を受けること
てはそのまま踏襲している.ヴァヴィーロフは,
ができた.
20 世紀に入ってから物理学がたどった発展の道
1930 年代における損失は尐なくはなかった.
何
のりはレーニンの哲学的予想を完全に裏付けてい
人もの物理学者が大テロルの中で更迭され,逮捕
ることを示そうとし,弁証法的唯物論と現代物理
学との整合性を示そうとすると同時に,科学の発
され,銃殺された.外国との交流は制限され,特
にソ連の物理学者が一時的にせよ国外に出ること
展を方向づける前提としての哲学の重要性も書き
はほとんど認められなくなった(49).しかし揺さぶ
記している.彼は次のように述べた.
「哲学的な前
りを受けた物理学者集団も,
1930 年代末には共産
提というのは〔科学上の仕事の〕帰結にとっても
党政権との間で安定した関係を築きなおしていた.
さらなる仕事の方向性にとってもどうでもいいも
ヨッフェにかわって物理学者の代表の座に座った
のでは決してないということである.それは科学
の進歩にとっての障害ともなりうるし刺激ともな
のは,ルイセンコのような学問的実力よりはむし
ろ人間関係と自己宣伝能力を生かして高い地位を
りうる」(47).これはヨッフェの論調と比べても,
得た者ではなく,健全な学識と道徳的水準を兼ね
またそれまでのヴァヴィーロフ自身の論文と比べ
ても,はるかに,ソ連イデオロギーの持つ哲学的
備えたセルゲイ・ヴァヴィーロフであった.
1930 年代末にスターリンの独裁体制が完成す
含意を咀嚼しそれに忠実であろうとした文章であ
ると,科学アカデミー等,代表的な研究機関に対
ったといえよう.
する中央集権的な統制も強まった(50).ソ連共産党
の政策に沿わない発言が封じられたという意味で
危機の時代をくぐりぬけた物理学
は間違いなく政治的自由は制限された,とみなす
ソ連物理学は 1930 年代を通じて,上述したよ
うに,応用分野に対しての有効性,および弁証法
ことができる.しかし自由の制限は即座に研究開
発の破滅を意味するわけではない(51).物理学者集
的唯物論に対する忠誠を厳しく問われ,物理学者
団の代表者たちは,物理学研究は国防および国民
集団内での政治的な力関係は激変した.転変する
経済の発展に役立てられるという「口実」をもと
政局は,それまでの物理学者集団を支配・代表し
に,また現代物理学理論は弁証法的唯物論と両立
24
すると为張することで党イデオローグたちの攻撃
兄ニコライらの政権との確執
(そして時には破滅)
をもかわしつつ,ソ連物理学の人的・物質的成長
を見る経験を積む中で,ヴァヴィーロフはいかな
をスターリン体制の下でも継続させた.
る発言がもっとも安全で建設的な結果をもたらす
かを学習し,知悉していったと思われる.
結論
ところで,ソヴィエト物理学をスターリン体制
ヨッフェの壮大で大胆なヴィジョンと独立心は,
の粗暴さから守った例として,しばしばカピッツ
1920 年代の相対的に自由な雰囲気のもとで,
中央
ァの果敢な「直訴」のことが語られる.彼はモロ
集権的な機構からは比較的独立していた研究所を
トフや,時にはスターリン本人にまで直接手紙を
指導する中で,培われた.しかし,
「上からの革命」
書き,逮捕された優秀な物理学者(ランダウ,フ
以降,1930 年代を通じて,ヨッフェの行動や思想
ォーク)を弁護し,釈放を求めたほか,ソヴィエ
は,共産党員や若い世代の物理学者たちの間で歓
ト科学の現状に対し忌憚なく問題点を指摘し,改
迎されなくなり,彼の個人的権威は失墜した.
善を迫った(52).彼の勇気ある華々しい行動に対し,
1930 年代に入ってから起こったこの変化の原
セルゲイ・ヴァヴィーロフがソ連における物理学
因については一元的な説明を与えることは不可能
の保護発展に際して果たした役割は目立たず,注
であるにしても,本論で述べてきたことから,次
目されることが尐ない.スターリン体制の下で学
のような点が考えられる.1.ヨッフェの科学政
策思想,および人脈が,1920 年代末以降「右派」
術エリートとしては最高の地位にまで上りつめ共
産党政権の路線に沿った公式見解を淡々と述べる
として糾弾され政治的影響力を失っていったブハ
彼は,唯々諾々と権力に屈服していた臆病者か,
ーリン,そしてブハーリンに同情的なオルジョニ
悪くすると野心的な出世为義者にすら見える.
キッゼに近しいものであったこと.2.1933 年,
しかし物理学理論に関する彼の発言は「政治的
共産党中央委員会政治局の裁可に基づいてヨッフ
に正しい」―すなわちイデオロギー上の正当性を
ェとともに弟子ガモフがソルヴェー会議出席のた
め出張したが,ガモフはこれを機に米国に亡命し
もったものであり,党員との関係を崩さずにしか
も現代物理学理論のもつ正当性を訴えかけるもの
てしまい,ヨッフェの「監督不行き届き」が共産
であった.ヨッフェの豪胆な発言よりも,ヴァヴ
党の不興をかったであろうこと.3.大テロル期
ィーロフの慎重な語法はより当時の公的な場に適
に世代交代の必要性が叫ばれるなか,より共産党
したものであり,スターリン時代の政治気象から
の路線に忠実で,反抗的でない,人脈等の面から
して許容されやすかったものだったと思われる.
みても「信頼できる」人物が科学者の代表として
求められたこと.ヴァヴィーロフはヨッフェより
1951 年の死亡時にフルシチョフをして
「非党員の
ボリシェヴィキ」と言わしめた(53)ヴァヴィーロフ
も,このような要求に適切な方法で応えることが
の従順な姿勢は,
1930 年代にヨッフェに替わって
できた人物であった.
ヨッフェが上記のような諸理由により権威を失
彼が物理学者の代表となることを助けた.ソ連物
理学は危機の時代をくぐりぬけ,スターリン体制
墜させた一方で,ヴァヴィーロフは,上述したよ
のもとで量的・質的な発展を続けることができた.
うなスターリン体制との折り合いの悪さや疑念を
抱かせる経歴を持たない,イデオロギー的にはよ
ヨッフェが 1920 年代,すなわち知識人に対す
る融和的な政策をボリシェヴィキ政権が採ってい
り「純粋な」物理学者とみなされた.また,1930
た時代の申し子だとすれば,ヴァヴィーロフは政
年代に入ってから,集権化が進む科学アカデミー
を組織的基盤として要職に就いていった彼は,ス
権が知識人を積極的に取り込もうとした社会変動
の時代である,1930 年代の申し子であった.ヴァ
ターリンの路線に忠実な共産为義者との交流を保
ヴィーロフがスターリン为義者であったという意
ち,彼らの求めること,行動規範を冷静に観察し
味ではなく,ヴァヴィーロフがスターリン为義を
うる立場にいた.そのほかにも,先輩ヨッフェ,
よりよく理解して適切な態度をとりえたという意
25
39(1997): 349-367, esp. 358-363; Э. И. Колчинский. В.
味において,そう結論づけることができる.
И. Вернадский и большевики // За железным
(1)ヨッフェに関しては、ソ連政権との間に生じた緊
занавесом (СПб, 2002). 133-151; Г. Е. Горелик.
張関係を述べた文献として、ソーニンの次の研究
Андрей Сахаров: наука и свобода (Ижевск, 2000).
がある.А. С. Сонин. Черные дни академика Иоффе
42-44.
// Вестник РАН. 1994. Т. 64. № 5. С. 448-452. しか
(5)帝政ロシアにあって,ヨッフェのユダヤ系の出自
し,ヴァヴィーロフの政治的立場の浮上との対比
は経歴を築き上げていく上での大きなハンデと
は同文献ではなされていない.
なった.実際,ヨッフェはレニングラード工科大
(2)Paul R. Josephson, Physics and Politics in the
学を卒業したのちドイツに留学し,1906 年に帰国
Revolutionary Russia (Univ. of California Press, 1991),
したが,大学には教職を得られず,中等教育機関
72-103.
で教えている.
(3)1933 年に出版された自伝の中では,ヨッフェは,
(6)1921 年に終結した諸外国による干渉戦争ののち
十月革命の意義は「すぐにはわからなかった」が,
も,世界革命を为導する意志をもっているとみな
1918 年夏,白軍とドイツ占領軍が支配していたク
されたソ連国家は,当時の国際情勢の中で孤立す
リミアで,レーニンが銃撃された報と「自由为義
る傾向があったが,1920 年代末から 1930 年代初
者たちのプロレタリアートに対する凶暴な敵意」
めにかけてはこのような孤立感・危機感をよりい
に接したことが自らの最終的な態度を決めた,と
っそう深めるような事件が数多く起こっている.
述べている.ヨッフェはここで,未来がプロレタ
1927 年,英国政府は対ソ国交の断絶を突如宣告し,
リアートの側にあることを確信するに至ったと
戦争の危機が感知された.1931 年の満州事変とそ
いう.А. Ф. Иоффе. Моя жизнь и работа (М. –Л.,
れに引き続く日本の軍事行動および軍部の勢力
1933). 20-21.
の拡大は,極東方面の防衛に関しての深刻な危機
(4)ボリシェヴィキは元来,都市労働者を为要な支持
意識をもたらさらざるを得なかった.1933 年にド
基盤としていた政党であり,知識人の間にはほと
イツにおいてナチスが政権をとったことは,当然
んど積極的な支持者はいなかった.それにもかか
ソ連の激しい警戒心を引き起こした.
わらずなぜ科学者たちの多く(ヨッフェのほかに
(7)この点についてはたとえば次の文献を参照のこと.
も,たとえば,ヴェルナツキー,パヴロフ,イパ
Sheila Fitzpatrick, “Stalin and the Making of a New
チェフら)が内戦期に亡命の道を選ばず国内に留
Elite, 1928-1939,” Slavic Review, 38(1979): 377-402.
まってボリシェヴィキの一党政権に協力し続け
(8)シャフトイ事件の経過とこの政治史上の意義につ
たか,という为題については,近年多数の研究が
いては次の文献を参照のこと.中島毅『テクノク
現れている.これらの諸研究が示唆するところで
ラートと革命権力』
(岩波書店,1999 年)
,277-350
は,科学者たちはプロレタリアートの権力掌握と
頁.
いう理念に対しては概して懐疑的であったもの
(9)Loren R. Graham, The Soviet Academy of Sciences and
の,革命と内戦の混乱の中,レーニン率いるボリ
the Communist Party 1927-1932 (Princeton Univ.
シェヴィキの中に,政治的秩序を再建できるだけ
Press, 1967).
の強固な意志と組織力および,科学研究に援助を
(10)Alexei E. Levin, “Expedient Catastrophe: A
惜しまない姿勢を看て取った.これが,彼らがボ
Reconsideration of the 1929 Crisis at the Soviet
リシェヴィキに対して全面的とは言わないまで
Academy of Science,” Slavic Review, 47(1988):
も最終的に支持を与えた为要な原因であったと
261-279.
いう.以下の諸文献を参照のこと.Nathan M.
(11)1934 年,アカデミーはそれまで 200 年以上位置
Brooks, “Chemistry in War, Revolution, and Upheaval:
していたペテルブルク(当時はレニングラード)
Russia and the Soviet Union, 1900-1929,” Centaurus,
から政府機関が集中するモスクワに移転させら
26
れた.この移転は中央委員会の承認を得た,人民
エト工業化を扱った本とそれに対するエルマン
委員会議の決定によるものであり,アカデミーを
の非常に批判的な書評が挙げられる.Robert C.
政権の監督下に置きたいとする党の意図と解釈
Allen, Farm to Factory: A Reinterpretation of the
できよう.移転に伴うアカデミー内部の混乱と不
Soviet Industrial Revolution (Princeton Univ. Press,
満を示唆する資料として,次の文献を参照のこと.
2003); Michael Ellman, “Soviet Industrialization: A
Ю. И. Кривоносов. О беседе Молотова с
Remarkable Success?,” Slavic Review, 63(2004):
академиками в 1934 г. // Вопросы Истории
841-849.
Естествознании и Техники (ВИЕТ). 2003. № 1.
(17)金山浩司「A.ヨッフェと科学の計画化」
『哲学・
科学史論叢』第 6 号(東京大学教養学部 哲学・
94-98.
(12)物理学分野の科学アカデミー会員選出は,学派ご
科学史部会,2004 年)
,227-249 頁.
との人員バランスを考慮して行われる慣例であ
(18)第一次五カ年計画時のレニングラード物理工学
ったが,ヴァヴィーロフのモスクワにおける「先
研究所の発展については Josephson, Physics and
輩」格にあたる正会員であり生物物理研究所を率
Politics in Revolutionary Russia, 140-183 を参照の
いていたラザレフ(П. П. Лазарев, 1878-1942)が
こと.
(19)Под ред. В. Д. Есакова. Академия наук в
1931 年,逮捕され,モスクワの物理学者たちの間
で正会員たるものが欠員となったため,翌年ヴァ
решенияхполитбюро
ヴィーロフが選出されたといわれる.詳細は次の
1922-1952 (М.: РОССПЭН, 2000). 148-149.
文献を参照のこと.A. Kojevnikov, ”President of
ЦК
РКП(б)-ВКП(б)
(20)1933 年8月14日付中央委員会政治局の決定.
Там
же. 132.
Stalin’s Academy: The Mask and Resposibility of
Sergei Vavilov,” in Stalin’s Great Science (Imperial
(21)ガモフはこのとき妻のパスポートを取るために
奔走したことを回想している.パスポートは何度
College Press, 2004), 158-185, esp. 160-165.
(13)ロジェストヴェンスキーはこの年,光学の実践的
か拒絶されたがなぜか突然発行されることにな
諸課題に対する姿勢をめぐって共産党官僚と衝
り,ガモフは亡命の決意を固め,実行に移した.
突し,国立光学研究所の科学部門長を辞任した.
ガモフにとっても,現代のわれわれにとっても,
Ibid., 162.
彼の妻のパスポート発行が裁可されるに至った
(14)ヴァヴィーロフが 1930 年代に就いていた公的
経緯は謎のままである.ガモフ(鎮目恭夫訳)
『わ
役職の具体的なリストとしては次の伝記に収め
が世界線』
(白揚社,1971 年)
,150-154 頁.
られている年表を参照.Л. В. Лёвшин. Сергей
(22)А. А. Максимов. О журнале «Социалистическая
Иванович Вавилов (М.: Наука, 2003). 360.
реконструкция
и наука»
//
Под Знаменем
Марксизма (ПЗМ). 1936. № 9. 100-116.
(15)世界的に知られた植物学者・遺伝学者であるニコ
ライ・ヴァヴィーロフ(Н. И. Вавилов, 1887-1943)
(23)ヨッフェはすぐさま,この「偉大なる頭脳」
,
「傑
については,1940 年の逮捕から 43 年の獄死にい
出した専門家たちを丸ごと集めた上での将
たるまでの文書を集めた史料集など,さまざまな
(голова)
」を追悼する小文を書いている.そこで
文献が近年刉行されている.Я. Г. Рокитянский и
はオルジョニキッゼの「似非科学的な発言に対す
др. (сост.) Суд палача – Николай Вавилов в
る厳しい批判」についても回想されていた.Сос.
застенках НКВД. (М.: Academia, 1999). 1930 年代
Ф.
におけるルイセンコ派との論争と逮捕に至るま
Воспоминания, очерки, статьи современников (Изд.
での経過の記述としては,たとえば次の文献を参
2-е) (М.: Изд. Политической Литературы, 1986).
照のこと.N. Krementsov, Stalinist Science
282-283.
(Princeton Univ. Press, 1997), 54-83.
Г.
Сейранян.
(24)Известия
О
Академии
физическая. 1936. № 1/2.
(16)最近の論争の一例として,エイレンによるソヴィ
27
Серго
Наук
Орджоникидзе:
СССР
Серия
(25)この批判を盛んに行っていたのは,オーストリア
世代の 1930 年代の雰囲気に呼応した出世为義の
出身で物理工学研究所において実際にこの開発
ことが示唆されているのかもしれない.
に従事していた,クヴィトネルであった.彼は
(31)Известия АН СССР. 402-409.
1932 年の時点で,理論面からみて薄層誘電体の開
(32)В. П. Визгин. С. И. Вавилов и предыстория
発が不首尾に終わるであろうことを警告してい
советского
атомного
проекта.
る.Ф. Квиттнер. К дискуссии по теории строения
http://russcience.euro.ru/papers/viz2001a.htm (2011
кристаллов // СОРЕНА. 1932. № 6. 48-63.
年 2 月 28 日確認)
(26)ランダウ,ガモフ,ブロンシュテインら 1900 年
(33)1920 年代の自然科学の哲学をめぐる論争につい
代生まれの若く野心的な理論物理学者たちとヨ
ての詳細な研究としては,以下の文献を参照のこ
ッフェら長老格の実験物理学者との間の確執に
と.David Joravsky, Soviet Marxism and Natural
ついては,次の諸文献を参照のこと.Karl P. Hall,
Science 1917-1932 (Columbia Univ. Press, 1961).
Purely Practical Revolutions : A History of Stalinist
(34)Постановление ЦК ВКП(б) от 25 янв. 1931 "О
Theoretical Physics, unpublished dissertation (Harvard
журнале «Под знаменем марксизма»". Правда.
Univ., 1999), 285-341; Г. Е. Горелик и Г. А. Савина. Г.
1931. 26 Янв. 1.
А. Гамов... заместитель директора ФИАНа //
(35)И. Е. Тамм. О работе философов-марксистов в
Природа. 1993. № 8. 82-90; О. Фейгин. Лев Ландау
области физики // ПЗМ. 1933. № 2. 220-231; А. Ф.
– Последний гений физики. (М.: Эксмо, 2011). 65.
Иоффе. Развитие атомистических воззрений в XX
(27)В. П. Визгин. Мартовская (1936 г.) сессия АН
в. // ПЗМ. 1934. № 4. 52-68; С. И. Вавилов.
СССР: Советская физика в фокусе Ⅱ(архивное
Диалектика световых явлений // ПЗМ. 1934. № 4.
приближение) // ВИЕТ. 1991. № 3. 36-55.
69-79.
(28)クルジジャノフスキーは電気工学者であり,1893
(36)O. フレブニューク(富田武訳)
『スターリンの大
年にボリシェヴィキ党に入党した.レーニンとも
テロル』
(岩波書店,1998 年)
.
親しく,全ロシア電化計画(ГОЭЛРО)を为導し
(37)Визгин. Мартовская сессия...
た人物でもある.1929 年に科学アカデミー正会員
(38)古い世代の電気工学者であり,1929 年にアカデ
に選出され,同時に副総裁となった.
ミー会員に選出されていたミトケーヴィチは,
(29)この点については以下の文献を参照.Oleg V.
1920 年代末から,場の理論において遠隔作用概念
Khlevniuk (trans. by David J. Nordlander), In Stalin’s
を許容するかどうかという問題に関する明確な
Shadow: The Career of “Sergo” Ordzhonikidze (New
立場を示していなかった物理学者たちに反対の
York: M. E. Sharpe, 1993), 163-174.
論陣を張ろうとしていたが,古典物理学の物質エ
(30)レニングラード物理工学研究所で働き,ウクライ
ーテル概念を対抗して掲げしようとした(あるい
ナ物理工学研究所の創設者のひとりでもあった
はそうみなされた)ため,指導的物理学者の賛同
オブレイモフ(И. В. Обреимов, 1894-1981)の回
を得られなかった.彼は 1933 年ごろから共産党
想によれば,1930 年代に入ってからレニングラー
イデオローグとの共闘を模索するようになるが,
ド物理工学研究所においてそれまでなかった「貴
もろもろの理由から,この試みも順調にいっては
族趣味」
(снобизм)が蔓延し始め,雰囲気の悪化
いなかった.次の拙稿を参照のこと.金山浩司「同
が 見 ら れ た と い う . В. П. Жузе (ред.).
床異夢の反動家たち:1930 年代ソ連での物理学を
Воспоминания об А. Ф. Иоффе (Л., 1973), 58.
めぐる哲学・イデオロギー論争における『現代物
オブレイモフが「貴族趣味」という語で何を意味
理学への反対者』同士の関係について」
『科学史
しようとしているのかはっきりしないが,多数の
研究』
(日本科学史学会)256 号(2010 年 12 月)
,
若い研究員が抜擢されたことに付加される形で
193-205 頁.
(39)詳細は次の諸文献を参照のこと.Г. Е. Горелик.
この部分が記述されているところをみると,若い
28
Натурфилософские проблемы физики в 1937 г. //
(46)А. А. Максимов. В. Ф. Миткевич. С. И. Вавилов.
Природа. 1990. № 2. 93-102. 金山浩司「ソヴィエト
«Материализм и эмпириокритицизм» Ленина и
の語法を身につけた物理学者―1930 年代哲学論
современная физика (М., 1939).
争とその帰結」
『科学史研究』
(日本科学史学会)
(47)Вавилов.
Новая
физика
и
диалектический
материализм. 33.
239 号(2006 年 9 月)
,145-156 頁.
(40)幸いにしてヨッフェは逮捕されなかったが,同様
(48)例として,チェレンコフ(П. А. Черенков,
の政治的な転落が逮捕・投獄に結びついた例とし
1904-1990)とヴァヴィーロフが 1934 年に発見し
てセルゲイ・ヴァヴィーロフの実兄であるニコラ
タム,フランクらが理論的解明を与えたチェレン
イの事例が挙げられる.物理学者の中でも,ラン
コフ効果や,1937 年にカピッツァ(П. Л. Капица,
ダウ,レイプンスキー,シュブニコフ,フォーク,
1894-1984)が発見した液体ヘリウムの相転移など
ブロンシュテインなど,大テロルの時代にあって
が挙げられる.
逮捕された(すぐに釈放された者もいれば,銃殺
(49)Paul R. Josephson, “Physics and Soviet-Western
された者もいるなど,その後の運命はさまざまで
Relations in the 1920s and 1930s,” Physics Today,
あった)人物は枚挙に暇がないほどである.
1988, 41(9):54-61.
(41)1937 年まで,物理哲学論争にかかわる論文のほ
(50)Krementsov, Stalinist Science.
とんどには,マクシーモフやミトケーヴィチのそ
(51)政治的自由と科学研究の進歩・技術開発との間に
れも含め,編集部による「審議中(в порядке
卖純な正の相関関係をみようとする見解に対す
обсуждения)
」との但し書きがつけられていたが,
る反駁としては,次の諸文献を参照.Loren R.
1938 年以降には,そのような留保はつけられてい
Graham, What Have We Learned About Science and
ない.論争が,一致して正当と認める論考をのみ
Technology from the Russian Experience? (Stanford
掲載できる段階に帰着した,と編集部が認めるよ
Univ. Press, 1998), 52-73; Mark Walker, ed. Science
うになったということであろう.
and Ideology: A Comparative History (Routledge,
(42)コーリマンによる「いわゆる宇宙の熱的死」など
2003).
はこうした論考の一例であろう.Э. Кольман. О
(52)Kojevnikov, “Scientist under Stalin’s Patronage: The
так называемой «тепловой смерти» вселенной //
Case of Piotr Kapitsa,” Stalin’s Great Science, 119-120.
ПЗМ. 1940. № 11. 125-151.
(53)Kojevnikov, “President of Stalin’s Academy,” 158.
(43)この日付は,科学アカデミー文書館の哲学研究所
フォンドに収められている招待状による.Архив
Российской Академии Наук. Фонд 1922. Опись 1.
Дело 68. Лист. 1-2.
(44)А.
А.
Максимов.
«Материализм
и
эмпириокритицизм» - материалистическое обобще
-ние данных естествознаний // ПЗМ. 1938. № 11.
42-68; В. Ф. Миткевич. Значение книги Ленина
«Материализм
и
эмпириокритицизм»
в
современной борьбе с идеализмом в области
физики // ПЗМ. 1938. № 12. 18-26; С. И. Вавилов.
Новая физика и диалектический материализм //
ПЗМ. 1938. № 12. 27-33.
(45)Максимов. «Материализм и эмпириокритицизм».
67.
29
な関心は工学部の歴史,国の科学・技術発展にお
Ⅴ.
ける工学部の代表的な科学者の成果と貢献に振り
向けられてきた.
国の科学・技術発展の道具としてのソ連邦科
学アカデミー
20 世紀のはじめにはロシア帝国で,科学技術の学
協会が設けられ,技術者の知識の様々な分野で機
関誌が作られ,1866 年に設立された帝室ロシア技
オクサーナ・ダニーロヴナ・シモネンコ
術協会において定期的な集会が開催されるようにな
った.工学の分野における探求やその応用は主に
(ナターリァ・ロジナ訳)
高等教育機関で行われるようになった.多くの仕事
がサンクト=ペテルブルクの高等教育機関,1773 年
伝統的にアカデミーとは自治組織,または医学,
設立の鉱山学校,1809 年設立の運輸工兵隊高等専
芸術などの専門分野の優秀な研究者を囲むフォー
門学校,1828 年設立の工業高等専門学校,1832 年
ラムといった名誉職機関として形成されるものである.
設立の建築学校,1886 年年設立の電気工学高等専
ソ連時代の科学アカデミーはサンクト=ペテルブル
門学校や 1899 年設立の工業高等専門学校などで
グ科学アカデミーの“やりかけの仕事”を引き継いで
行われていた.科学・技術知識発達の巨大な中心と
出来上がったものである.ソ連科学アカデミーには
基礎科学研究はそのまま残されていたが,全体的
なったのは,1900 年に設立されたトムスク工業高等
専門学校であった.幅広い研究は 1830 年に設立さ
には管理委員会として組織立てられ,国民経済や国
れた帝室モスクワ工業学校で行われていた.そこで
防の,差し迫った,程度の差はあれ知識集約型のプ
は,ヴェー・ゲー・ゴリャチキン,アー・アス・イェルシ
ロジェクトに国の科学・技術ポテンシャルを動員し,
ョフ,デー・エス・ゼルノフ,エヌ・イー・メルツァロフ,
集中することができるような組織的・管理的な国家機
アー・イー・シドロフ,ペー・カー・フジャコフなどによ
関に変わっていった.換言すれば,ソ連科学アカデ
ミーは国家のある種の道具になったとも言えよう.そ
る機械製作,エヌ・イェ・ジュコフスキーによる空気力
学,エヌ・イェ・ガブリレンコ,ヴェー・イー・グリネヴェ
の一方,ソ連科学アカデミーは,(自然科学または経
ツキー,カー・ヴェー・キルシュ,エリ・カー・ラムジン
済学の観点から)新しい試みを切り開き、展望を見
出していく科学的な,いくぶん専門的な権威,およ
による熱工学,カー・アー・クルグ,ベー・イー・ウグリ
び,現在の技術・生産水準に立脚しつつ,かつそれ
ゲー・シューホフによる建築学などのロシア学派が
を発展させて,新しいものとプロジェクトを評価し,開
発する科学・技術的権限という特別の権能を持って
形成された.技術の諸問題や技術者・設計者の仕事
に近いペテルブルグ科学アカデミーの研究者では,
いた.政府に求められていたことは財政・物資的,組
力学,数学,造船学専門のクルィロフが疑いなく知ら
織的方策,人員の確保や教育などであった.
長期間うまく動いてきた「道具としての」ソ連科学ア
れている.
ロシア革命後の経済的に困難な環境の中で,工学
カデミーの機能は,科学アカデミーの構成が,設計
研究所のネットワークは組織された.1918 年には中
家,様々な工業・建設部門の傑出した活動家など専
門技術者で充たされたことに反映されている.これ
央空気流体力学研究所と自動車・自動車エンジン科
学研究所が設立された.そして 1919 年には応用鉱
につれて,アカデミーの組織的構成も変わっていっ
物学・治金学研究所,1920 年には有用鉱物機械加
た.
科学アカデミー史のなかで,その「技術」の分野に
工研究所,1921 年には国立実験電気工学研究所,
のちの全連邦電気工学研究所が設立された.
関しては、大きな注意が与えられてきた(ベー・イ
1925 年に開催されたソ連邦共産党(ボ)大会で承
ー・イヴァノーフ,アー・アー・パルホメンコ,ユー・イ
認された工業化路線は科学技術の発展の強力な刺
ー・クリヴォノーソフら).こられの研究では,基本的
激となった.1928 年から 1931 年のわずか3年間に,
モフによる電気工学,ペー・アー・ベリホフ,ヴェー・
30
技術系の科学研究所の数は 30 カ所から 205 カ所に
物理学・数学部の会員として,エネルギー学者,共
まで増えた.1927 年にはイー・イー・ポルズーノフ名
産党員で政治家,全ロシア電化計画執行委員会議
称中央ボイラー・タービン研究所,1928 年に中央機
長のゲー・エム・クルジジャノフスキーがいたし,ソ連
械製作工学研究所,1930 年にエネルギー学研究所,
邦における石油採掘,石油探査の先駆者である石
1932 年に全連邦航空機材研究所,1933年に金属切
油地学専門家のイー・エム・グブキンは 1936 年 12
削機械実験科学研究所,1938 年に機械学研究所,
月12日から 1939 年4月12日まで副総裁を務めた.
1938 年に治金学研究所など巨大研究所が設立され,
ゲー・エム・クルジジャノフスキーと肩を並べる根本
それらは科学アカデミーか,もしくは部門別人民委
的に VIP 待遇の特別会員には,1929 年にアカデミ
員部の傘下にはいった.
ー会員となったソ連邦国民経済会議科学研究協議
ソ連邦時代にアカデミーが工業とエンジニアリング
会を率いた傑出した党の活動家であったエヌ・イー・
の代表者で埋め尽くされるようになるきっかけは,
ブハーリンも加えられる.このふたりはアカデミーの
1924 年の科学アカデミー通信会員選挙で数理科学
活動が,1936 年版の科学アカデミー規約の中にも
の分類のなかに流体・空気力学の分野の専門家,
記されているように「新しい社会主義的無階級社会
エス・アー・チャプルィギンが選ばれたことであり,
建設に役立つ科学的成果の計画的利用」を志向す
1925 年には化学工学専門家のアー・アー・ヤコヴキ
るよう,科学アカデミーの改革に主導的な役割を果
ンが加わった.それに加えて,ボリシェヴィキ革命後
科学アカデミーの維持活動に大きな役割を果たした
たした.
1932 年に開催された重工業における活動計画化
アー・エヌ・クルィロフは 1916 年からアカデミー正会
に関する第2回全ソ連邦科学研究集会でブハーリン
員となっていたが,力学と造船学の専門家であった.
は「生産の“科学化”と科学の“エンジニアリング化”
このように科学アカデミーではエンジニアリング・設
は我々の当面のスローガンである」と発言した.科学
計方面の分科(航空機製作や造船学など“物主体の
アカデミーの中では技術関連分野が強まっていっ
エンジニアリング”)が定着しはじめ,エンジニアリン
グ・工程方面の分科(化学工学や冶金学など“プロセ
た.1932 年には科学アカデミーは更に新会員を入
れた.それは,ドニエプル水力発電所やクズネツク
ス主体のエンジニアリング”)がこれに続いた.1927
治金工場,シベリア建設などの 5 カ年計画の巨大建
年~1928 年,ソ連邦共産党(ボ)中央委員会の承認
設プロジェクトに幹部として携わっていた技術分野
で,科学アカデミー通信会員に熱工学や建築工学
の専門家たちであった.イー・ゲー・アレクサンドロ
専門家のヴェー・ゲー・シューホフと電気工学者の
フ,ベー・イェ・ヴェデネーエフ,アー・ヴェー・ヴィン
ヴェー・エフ・ミトケーヴィッチ,無線工学者のエリ・イ
ー・マンデリシュタム,建築工学と弾性理論専門家の
テル,ゲー・オー・グラフチオ,アー・アー・バイコフ,
イー・ペー・バルディン,エム・アー・パヴロフ,アー・
ベー・ゲー・ガリョールキンが選ばれた.後者の流れ
アー・チェルヌィショフなどがアカデミー会員となっ
では,冶金学専門家のヴェー・イェ・グルム=グルジ
マイロ,エム・アー・パヴロフ,アー・アー・バイコフ,
た.
工学分野の専門家,技術者として活動する専門家
ヴェー・エヌ・リーピン,化学工学専門家のヴェー・イ
の学協会における増加により,研究者評定システム
ェ・ティシチェンコとイー・アー・カブルコフなどが選
ばれた.
の進化も求められるようになった.ソ連邦中央執行
委員会附属全連邦工業高等学校委員会のもとで
1929 年には科学アカデミーの会員として 52 名の
1933 年にクルジジャノフスキーを委員長とする幹部
研究者が選ばれた.その中には権力機関の執拗な
推薦で選ばれた,共産党と政府が設定した国民経
会附属高等資格審査委員会が創設されたことがそ
の第一歩であった.1933 年には全連邦工業高等学
済や国防などの諸問題解決へ向けた課題実現のた
校委員会幹部会において,「学位と称号について」
め,特別の権威を有する「特別アカデミー会員」もい
という法案が立案され,政府で検討されることとなっ
た.そして,1929 年 1 月 12 日には科学アカデミーの
た.そして 1934 年には全連邦工業高等学校委員会
31
附属の最高資格審査委員会の構成が承認された.
ークは拡大し,設計ビューローが設立され,高等教
博士号または博士候補号の学位審査ができる高等
育機関における工学分野の新しい専門が組織され
教育機関や研究所のリストには 75 カ所が上げられ
ていった.工学分野の傑出した科学者は,決まって,
ていたが,その中の約半分は工業関連の諸人民委
科学研究所の指導者であった.中央空気流体力学
員部に管轄されていたものであった.
研究所はジュコフスキー,エネルギー研究所はクル
科学アカデミーのシステムにおける工学の役割が
ジジャノフスキー,機械学研究所はイェ・アー・チュ
高まったことによりアカデミーの構造が変わっていっ
ダーコフとアー・アー・ブラゴンラヴォフ,全連邦熱
た.科学アカデミーでは 1929 年に技術グループが
工学研究所はラムジン,1932年設立の水力建設は
形成され,1935 年には以下の 5 つのグループから
エス・ヤー・ジュークがそれぞれの長を務め,同様に
成る工学部が形成された.第1のグループは工業力
高等教育機関の長としてはアカデミー会員ゲー・ア
学の,第 2 のグループはエネルギー学の,第 3 のグ
ー・ニコラーエフがモスクワ高等工業学校の,アカデ
ループは工業物理の,第 4 のグループは工業化学
ミー会員イー・エフ・オブラスツォフがモスクワ航空専
の,第 5 のグループは鉱山学のグループであった.
門学校の,アカデミー会員アー・エム・テルピゴレフ
それ以外には工学部の中には,運輸委員会,技術
がモスクワ鉱山専門学校の校長を務めた.
用語委員会,モスクワ市改造総合計画への科学技
1964年には科学アカデミーの改革が行われ,その
術支援審査委員会の 3 つの独立した委員会が設け
られた.
結果として工学部が廃止されることとなり,いくつも
のその研究所は科学の分野別に移管された.それ
「社会主義の技術に奉仕する物理学を確立する」と
と同時に,科学アカデミーには自然科学と工学との
いったスローガンが掲げられたからこそ,1914 年以
境界に位置する基礎研究課題のスペクトルの拡大
来の科学アカデミー通信会員,アー・エフ・ヨッフェと
を反映した部局が新しく設立された.1963 年には力
レントゲン医学専門の教授,エム・イー・ネメノフがふ
学・管理工程部が設立されたが,1980 年代に工学
たり共同で,科学アカデミー会員アー・エヌ・クルィロ
フの支援も受けながら,国内に物理工学研究所のネ
系の研究所の大部分が科学アカデミーに復帰する
と,機械製作・力学・管理工程諸問題部に改められ
ットワークを作り出す計画を実現することに成功した
た.エネルギーの物理工学的問題部,物理化学・無
といえるだろう.それらの研究所には,1930 年代半
機材料工学部,一般・工業化学部,地学・地球物理
ばまでに新しい世代の物理学者やエンジニアの大
学・地球化学・鉱山科学部が設立された.1984 年に
半が集まった.この研究所ネットワークは科学アカデ
は情報学・計算科学・自動化部が創設された.
ミーの「アンシァン=レジーム」の外で発展していった
ので,管理の面では多少の問題も生じた.1939年に
2001 年1月31日付けの工業科学技術省令によっ
て定められた科学労働者の専攻のリストによると,力
はこれまでに重工業人民委員部や中型機械製作人
学,天文学,物理学関連の 44 専攻中 36 が物理・数
民委員部によって管轄されていた物理工学研究所
は科学アカデミーのもとに移った.それと同時に工
学の学位とともに工学の学位も授与されることとなっ
ており,15の化学専攻のうち13に工学の学位が授
学部の研究員数が増やされた.1945 年には工学部
与されることになっていて,地球科学専攻では36専
の中には科学アカデミー会員33 名と通信会員40名
がいた.工学部傘下研究機関には博士号を有する
攻のうち24がそのようになっていることから,自然科
学と工学分野の学問のシステマティックな統合の傾
73 名の研究者と博士候補号を有する 191 名の研究
向がうかがえる.それと同時に工学系の専攻では14
者が働いていた.工学部からは合計77名のもアカ
デミー会員,通信会員が選ばれていた.
1専攻のうち37で自然科学の学位取得が可能となっ
ていた.科学アカデミーは,たえず,様々な科学の
1960 年代はじめ頃までは工学部の科学指導の
方向性を代表する科学者相互間のコミュニケーショ
下,科学アカデミーに直接所属している工学分野の
ンの,一般的で,「ステータスをもった」場となってい
研究所とさまざまな部門別の科学研究所とのネットワ
た.
32
巨大な規模をもった科学・技術プロジェクトを実現
ていた.1954 年には人工衛星の打ち上げ準備に関
するために科学アカデミーに「特別会員」を選出す
する特別委員会が設置され,ケルドゥィッシュが委員
ることは,原子力開発計画において登場した.1943
長を務め,コロリョフとチーホンラヴォフが副委員長
年には会員として当時41歳のイー・ヴェー・クルチャ
となった.1956 年にはチーホンラヴォフは第 4 科学
ートフが選ばれ,通信会員にアー・ペー・アレクサン
研究所から「第1設計ビューロー」に移動となり,新し
ドロフが選ばれた.開発計画の途中とその終了後に
く設置された人工衛星に関する諸問題研究のため
は工学教育を受けたユー・ベー・ハリトン,エヌ・ア
の「第 9 課」の課長となった.人類初の人工衛星は
ー・ドレジャーリも含め,一群のアカデミー会員が登
1957 年 10 月 4 日に打ち上げられた.
場した.同じような状況がロケット技術や宇宙開発,
ソ連科学アカデミーの歴史におけるエンジニアリ
対ミサイル・システム開発(アー・アー・ラスプレーチ
ング関連部分の位置と役割を明らかにし,記述する
ン),その後は衛星迎撃システムの分野で生まれ
ためには,科学論で採用される量的方法を用いるこ
た.
とが適切であろう.1 年ごとに,かつ諸部門ごとに科
1953 年には「第 1 合同設計ビューロー」主任設計
学アカデミーのなかで工学教育を受けた正会員と通
技師,エス・ペー・コロリョフが工学部の通信会員に
信会員の数と配分を明らかにすることは可能である.
選ばれ,1958年には正会員となった.そして 1943
同時に総括設計技師,主任設計技師、企業長でも
年には物理学・数学部の通信会員に選ばれたエム・
ヴェー・ケルドゥィッシュが,1946 年には工学部の正
あった科学アカデミー会員に関する統計データなど
も大変興味深い.モスクワ航空高等専門学校の卒業
会員に選ばれたことは興味深い.
生の中では,総括設計技師を兼ねる科学アカデミー
科学アカデミー会員の,総括設計技師,主任設計
会員が10名,通信会員が2名おり,主要な科学研究
技師としての活動,プロジェクトの科学面での指導
所の所長を兼ねる科学アカデミー会員が 2 名,通信
者の,そして,彼らに近しい同僚としての活動のた
会員が 1 名いた.科学アカデミーに人材を送り込む
めに,製品やシステムなどの発注者,企業や照応す
る政府機関との,まさにそれらの代表者たちと直接
工学分野の高等教育機関の「ランキング」も大変興
味深いものである.科学アカデミーの構成がエンジ
対面するまでの,作業上の相互関係の可能性が確
ニアリング分野の幹部や工業で活動する人物によっ
保された.その一つの代表的な事例が,初めての人
て占められていったことを示す統計を見ると,計画
工衛星開発であろう.
経済の時代における技術進歩の全体像が描き出さ
1954 年初めにはコロリョフは「第 1 合同設計ビュー
れており,産業諸部門と科学アカデミーの研究,工
ロー」の路線に沿って契約上の仕事が行われてい
た砲兵科学アカデミー第 4 科学研究所という軍事研
学教育の相互関係の歴史も見てとれる.
究施設の技師で設計家のエム・カー・チーホンラヴ
1. Российская академия наук. «Персональный
состав. В 3-х кн.» / Б.В.Левшин, В.И.Васильев,
О.В.Батурина и др. – М.: Наука, 1999с
ォフにソ連邦政府へ提出する人工衛星に関する報
告覚書を作成するよう提案した.覚書は作成され,コ
ロリョフの「第 1 設計ビューロー」で,さらに科学アカ
2. «Страницы космической истории». Авторы и
составители Брусиловский А. Д., Сенкевич В. П.
Королев, Моск.обл.: ЦНИИМАШ, 2001. – 502 с.
デミー内でアカデミー会員エム・ヴェー・ケルドゥィッ
シュ,ペー・エリ・カピッツアにより修正が加えられ,
1954 年 5 月 26 日のアカデミー幹部会で検討された
のち,アメリカにおける人工衛星開発に関する資料
とともにコロリョフの手で政府,デー・エフ・ウスチーノ
フに届けられた.その中で「第 1 設計ビューロー」内
に,宇宙開発関係の諸問題を担当する特別の部局
を設立することの合目的性に関する問題が提起され
33
提案で科学アカデミーに,科学理論と科学実験・
Ⅵ.
観察結果の社会为義建設の実践への応用方法の検
討,科学・技術問題に関する科学活動の組織,国
ソ連邦科学アカデミー・工学部(1935~1963 年)
-設立,発展,廃止の歴史-
家機関,経済機関・機関にたいするこれらの問題
での助言を課題とする「技術協議会」(1)が組織さ
れ,幹部会が「技術協議会」を指導した.協議会
ボリス・イリィチ・イヴァノーフ
には一連のセクションが設けられた(2).
ソ連邦科学アカデミーの活動と社会为義建設の
(レギーナ・ヤキメンコ訳)
実践との,および諸人民委員部,国家計画委員会
との計画的で,密接な協力の確立の実践との,よ
り完全な結びつきを達成するために,1933 年 12
この小論のなかでは,わたしはただ,国の社会・
月 14 日,ソ連邦中央執行委員会は「ソ連邦科学
経済的,
政治的展開との関連において見た場合の,
アカデミーの人民委員会議の管理下への移管につ
1935 年から1963 年まで存在した工学部の活動の
いて」という布告を採択した(3)(それまで科学ア
基本的な諸段階の一般的な特徴付けに課題を限定
カデミーは中央執行委員会の科学者・科学機関管
する.
理委員会に従属していた)
.
1934 年 4 月 25 日付ソ連邦人民委員会議布告で
工学部の活動の最初期(1933~1941 年)は科学
アカデミーにおける工学諸科の組織的確立のはじ
科学アカデミーはモスクワに移転することになっ
まり,科学アカデミーにおける工学部の設立とそ
た(モスクワ移転は 1934 年 10 月に完了する)
.
の活動の開始に結びついている.
革命前,ソヴィエト政権の初期(1917~1925 年)
,
ソ連邦の国民経済の社会为義的再建(1926~1932
新しい条件下では,科学アカデミーは理論研究の
みならず,工学にも集中するようになった.科学
アカデミーのこうした状況は,1935 年 11 月に科
学アカデミー総会で採択され,人民委員会議で確
年)の苦闘の時期においても科学アカデミーにお
いて技術の問題は検討されていたが,工学諸科の
認された新しい規則によって固定された.
組織的確立がはじまるのは,国民経済の社会为義
新しい規則は科学アカデミーを 3 つの部に分割
的再建の時期が終る 1932 年のことである.
することを前提としていた.そのなかには(数学・
まさに,ソ連邦における国民経済の社会为義的
自然科学部と社会科学部とならんで)
,
工学部も新
再建の時期が終る時期,および社会为義建設
(1933~1941 年)のはじまりの時期には,科学ア
しく創設されたが,これは卖に科学アカデミーの
内部のみならず,全国家的な規模でも大きな歴史
カデミーの学術活動の体系のなかに工学諸科を取
的意義をもったできごとであった.新しく組織さ
り入れることが要請されていた.
1932 年,第 2 次五カ年計画がはじまる直前,
れた工学部の初期(1939 年までの)の活動は協議
会によって方向付けられていた.工学部の組織の
科学アカデミーの正会員に 11 名の,技術思潮の
基礎には为要な科学=技術分野ごとの諸グループ
先頭を歩んでいた科学者,有能な技術者,巨大な
建設事業の指導者が選ばれた.
への分割が位置づけられていた.
工学部の組織的活動の出発と最初期は,第 2 次
この年,数学・自然科学部のなかに,科学アカ
五カ年計画(1933~1937 年)がすでに実践段階に
デミーの理論的な仕事とその成果の国民経済への
応用とを結びつける課題を担当する「技術グルー
はいり,もう実際には終ろうとしている時期であ
り,このため,社会为義鉱業の実際の必要から生
プ」が組織された.1933~34 年,
「技術グループ」
じた諸問題,第 3 次五カ年計画(1938~1942 年)
によって,さまざまな技術の諸分野に関する委員
の国民経済計画策定の過程で明らかとなった諸問
会が設置され,1934 年末には「技術グループ」の
題が工学部の活動の基礎に据えられることとなっ
34
た.第3次五カ年計画の準備の過程には,工学部
画の最終的な策定にあたって工学部の活動効率向
は 1937 年の後半だけで 89 件におよぶ,策定中の
上の不可欠性を含む一連の所見を組み込むよう提
五カ年計画の基本的な技術的諸問題に関する覚書
案した(4).このようにして,工学部の活動が拡大
をゴスプランに送るなど,
極めて活発に関与した.
されるにつれて,必然的に政府サイドからも,科
その結果,工学部が結節点となってすすめられ
学・技術学協会の側からも工学部にたいする要求
た科学的な努力が 1937 年から効果を見せ始めた
が増大していったことが確認できる.
为要な技術的な諸問題に関する計画においては,
当時展開されていた社会为義建設の実践は,工
国民経済の諸課題と結びついた実践的な諸問題が
学部の研究テーマの拡大,実践上の要求に応えら
場を占めることになった.
れる水準にまで研究を高める目的で得られた研究
工学部初期の活動成果をまとめてみると,工学
成果の諸問題とその実験的確証の理論的検討の深
部がみずからの組織的な成り立ちの諸原則と定式
化を要請するものであった.この過程で工学部は
を定め,みずからの活動を始めるために必要な研
活動のより一層の再編が必要となり,
1938 年末か
究要員,
および科学の組織力に必要な要員を集め,
ら 1939 年初めにかけて再編が実施された.その
みずからの科学的な技術研究の計画策定の経験を
とき,科学アカデミーに工学諸分野から,いずれ
積み,諸人民委員部,総管理部,工場や諸部門の
も技術関連分野における偉大な科学者である 16
研究所・研究室に働く科学研究集団との協議や連
絡を通じて国の科学・技術関係の学協会を統一に
名の新しい正会員,30 名の通信会員が加わった.
政府の決定に応じて工学部の構造が改善された
向かわせたことが確認できる.
(5).その前から存在していたふたつの研究所,エ
こうした積極的な成果とともに,工学部の形成
ネルギー学研究所と鉱物性燃料研究所に加えて,
と発展を抑制するような消極的な要素も現われた.
5 つの新しい研究所と 3 つのセクションが組織さ
すなわち,工学部のなかにあった諸グループ間の
れた.のちに科学アカデミー総会で確認された幹
適切な統・複合が不充分にしか実現できなかった
こと,科学アカデミーの他の諸部との連絡が弱か
部会決定に従って,工学部協議会は解体され,工
学部の活動指導はビューローに託されることとな
ったこと,そして,もっとも重大であったのは,
った.第 3 次五カ年計画最初の数年における工学
独自の実験・実験室という基盤を欠いていたこと
部所属諸機関の科学的活動の基本的な仕事は,全
であり,これがため,常勤の科学要員を養成する
連邦共産党(ボ)第 18 回大会が示したとくに意
ことが困難となり,定員化された研究員がおこな
義深い諸課題に規定されていた.
う研究にたいして契約上の仕事による望ましくな
い歪みが生じた.
もっとも重要な研究上の仕事は,ソ連邦の国民
経済工業化,運輸,および国防の为導的な諸分野
工学部の活動の次なる段階は,1938 年から 42
の技術的な再装備を一層すすめることを保障する,
年までのソ連邦国民経済発展第 3 次五カ年計画に
関する決議のなかで,ソ連邦の経済的課題をヨー
新しい技術進歩の科学的基礎を作り上げることに
振り向けられていた.これらの活動はソ連邦がか
ロッパのもっとも発達した資本为義国とアメリカ
かえる基本的な経済的課題の解決の,すなわち,
合衆国に経済の関連で追いつき,追い越すという
ことに定めた全連邦共産党(ボリシェヴィキ)第
ヨーロッパの先進国とアメリカ合衆国に追いつき,
追い越すための助力とならなければならなかった.
18 回大会の諸決定と関連している.
基本的な注意が,国民経済的な意義が大きい基
これら諸決定に導かれて,科学アカデミーは
1939 年の科学研究活動計画にこれら諸決定を反
本的な科学上の諸問題にたいするテーマ設定の明
確さ,および 計画の为導的な諸問題に関する科
映させた.
学研究を遂行する複合的な方策に振り向けられた.
同時にソ連邦人民委員会議は,この計画を基本
工学分野における科学アカデミーの活動は
的に支持しつつ,科学アカデミーにたいして,計
1941 年 6 月 22 日にはじまった大祖国戦争で中断
35
する.科学アカデミー幹部会は研究活動のテーマ
の従業員と協力してこれらの活動を実施したこと
と方法を見直し,再編し,科学要員の創造的なイ
に反映されているような,新しい科学研究の方法
ニシャティヴとエネルギーをすべてわが国防衛力
を成功裏に獲得した.
を強化する課題の実現に振り向ける決定を採択し
工学部所属のすべての科学諸機関は,その注意
た(5).この決定はたぶんに科学アカデミーの工学
をソヴィエト軍,海軍,工業と運輸にたいする科
系諸研究所に関連するものであった.1941 年 7
学・技術面での援助供与に大きく振り向けた.
月最後の 10 日間,科学アカデミー諸機関の疎開
戦時には,質の高い,タイムリーな科学・技術
が実施されたが,工学部の諸研究所も,あるいは
面での援助,コンサルタント的な援助が,ソヴィ
カザンに,あるいはスヴェルドロフスクに疎開し
エト軍燃料供給管理部軍事コントロール研究室,
ていった.
白海艦隊海図管理部,ウラル機械製作工場,一連
工学部に属するものも含めて多くの科学研究所
の番号付き工場,石炭鉱業人民委員部の一連のト
が一時期東部地域に置かれたこと,多くの研究員
ラストなどに与えられた.企業や官庁が発した,
が前線に赴いたこと,生活条件と科学研究の慣れ
戦時期の様々な文書が,ソヴィエト工業の数多く
親しんだリズムが崩れてしまったことは工学分野
の分野への援助において実現された工学部所属科
における科学アカデミーの科学研究の成り行きに
学諸機関の活動に高い評価を与えている.
反映されざるをえなかった.本質的な変化は,テ
ーマ選定の方向性,研究の実施方法などにおける
1942 年 11 月のスターリングラードにおけるフ
ァシスト軍隊の壊滅,それに続くすべての戦線に
ソ連邦科学アカデミー科学・技術組織の活動内容
おけるソヴィエト軍の勝利にむけた攻勢によって,
にも影響を与えた.
1943 年春には,科学アカデミーが,工学部所属の
1941 年の第 4 四半期から,工学部の科学諸機
すべての工学系研究所を含むモスクワにあった研
関の活動はソ連邦の軍事力,経済力の強化,ある
究所の本来の場所への帰還について問題を提起す
いは前線にたいする直接的な支援にとって重要な
意義をもつ,一連の問題の解決に振り向けられる
る環境ができた.そして,それは政府が認めると
ころとなった.
工学系研究所のモスクワへの帰還,
ようになった.軍事技術の開発に結びついた課題
尐し遅れてレニングラードへの帰還はその結果と
を解決する目的をもった研究は特別の位置をしめ
して,研究所とその他の部局の研究室の技術的基
るようになった.
礎の早急でエネルギッシュな復興,中心となる研
こうした方向性をもった活動は,新しい兵器の
究要員のかなりの程度の回復,および,活動の戦
開発や既存の兵器の改良といった分野,軍事に応
用される機構や機械の個々の部品の質と効率の向
前以上の規模での急速な展開をもたらした.
工学部の次なる段階は大祖国戦争終結後のソ連
上といった分野,自動兵器の長寿命化,航空エン
邦国民経済の復興と発展の時期(1946~1958 年)
ジンの質,
軍用機の飛行特性の向上といった分野,
新しい種類の弾薬,およびその材料の探求といっ
に展開された.
この段階は第 4 次(1946 から 1950 年)
,第 5
た分野,軍用装置操縦の改良といった分野などを
次(1951 から 1955 年)
,第 6 次(1956 から 1960
対象としていた.
戦時における科学アカデミーの科学的な技術
年)と相次ぐ五カ年計画の諸課題に規定されたも
のであった.この時期を通じてソ連邦の科学・技
研究所の活動では,前線と国防工業の必要と結び
術発展の課題はそれぞれの五カ年計画において精
ついた活動のほかに,新しい生産性の高い技術工
程の開発や既存の生産過程の集約化を目的とする
緻化され,具体化された.しかし,それら,さら
に戦前の五カ年計画にも共通しているのは,あい
研究にも大きな位置付けが与えられた.
かわらず量的拡大を追求した工業経済,国の科学
工学部所属諸機関は卖にテーマの点で活動の再
研究の状況を反映し,工業と工学の基本的な成果
編をしただけでなく,工業企業を基礎として,そ
をすべて集中しての軍事技術ポテンシャル増強優
36
先であった.この意味で,今検討している時期は
学アカデミーの研究所に委託された.このように
ロシアの戦前からの工業化の直接的な継続であっ
して,1946~1958 年の間に,科学アカデミーの
た.
科学的な技術研究と,多くのソ連邦経済の工業諸
第 1 の段階(1946~1950 年)においては,国
部門における科学アカデミーのコーディネーター
の基本問題は社会的生産と科学の戦時に破壊され
としての活動の役割が決められていった.
た物質的・技術的基盤の復興,国防工業企業の一
1946~1958 年におけるロシアの工業と経済の
部の業種転換と軍事技術複合体の根本的な刷新で
前に立ちはだかった大規模な問題と,この時期,
あった.
ソ連邦共産党中央委員会,ソ連邦閣僚会議,ソ連
これらの課題すべては,人口の基本的多数によ
邦科学アカデミーの指導を受けた,アカデミーの
る農業・工業産品消費が極度に低い水準にあった
基礎研究,科学的な技術研究の組織化のさらなる
戦時,人民の力を衰弱させることを条件として解
発展に関する具体的な解決を見てみると,その連
決が可能となるものであった.
関は容易に明らかとなる.科学アカデミーの諸機
ソ連邦科学アカデミーは,経済の戦前水準到達
関,科学者集団,科学者が実践のなかで生起した
と工業製品生産の一層の拡大を目的とした,戦後
技術上の,テクノロジー上の問題の解決に直接関
初の国民経済復興・発展五カ年計画の実現に積極
与した場合に示される高い効率は,この時代の国
的に関与した(6).
1946 年 7 月,科学アカデミー総会はこの計画
家指導者層に,どのようにそのことがソヴィエト
科学の全般的構造に影響し,基礎科学の状態に反
の諸課題の遂行を保障する,
それに照応した 1946
映し,どの程度国の経済的発展,科学技術進歩の
~1950 年のアカデミーの科学研究活動計画を確
理論的に基礎づけられたモデルに照応しているか
定し,アカデミー工学部の諸機関によって実現さ
を無視して,科学アカデミー諸機関の組織化の推
れる科学的な技術研究の基本的課題を決定した.
進を支持させることとなった.
こうした課題のすべてが,複合的な理論研究,
応用研究の定立と発展の基礎のうえでのみ解決可
1946~1958 年の期間,科学アカデミーが効率
的に関与することで,原子力工業,電子・無線技
能であった.こうした研究なしでは,巨大な規模
術,ロケット・航空機製作,タービン製作,化学
の実験=建設事業の遂行も現代技術の生産テクノ
機械製作,その他多くの部門別工業の発展の可能
ロジーの実践的な修得も不可能であったであろう.
性を保障する,大きな成果が達成された.このこ
しかし,応用研究が,このときまでに作り上げら
とは,本質的に,一連の最重要の科学・技術の方
れた,部門ごとの科学研究,設計・建設機関,技
術的機関の強力なシステムに任されていれば,自
向性といった点で,1960 年代,70 年代,ソ連邦
が世界の科学と技術の最前線に躍り出ることを可
然科学的,科学・技術的知識の基礎となるエンジ
能にした.
ニアリング上の課題の解決を保障する基礎を手に
入れるために,
ソ連邦科学アカデミーの科学研究,
しかしながら,科学と技術の発展において戦後
科学アカデミーによって達成された目に見える成
科学組織化活動の一層の発展が必要であった.
功にもかかわらず,その活動において危機的なモ
こうした諸課題の解決のために,それにふさわ
しい科学組織の基礎がつくられた.ソ連邦加盟共
メントがかなりの程度現われていたのである.
ソ連邦における科学的な技術研究のシステムは
和国の科学アカデミー,科学アカデミーの支部に
かなり発達した.その組織化の一般的な原則(厳
工学に対応した新しい,
一連の施設が組織された.
そして,対応する科学施設の官庁別所属(科学
格な計画と官僚的管理,アカデミー,高等教育機
関,部門への科学の分割,それら諸環すべてにわ
アカデミー,部門,教育機関,あるいは,設計・
たる党の恒常的な統制,など)を守ると,科学・
建設組織)とは別に,ふさわしい科学的な方向性
技術進歩を可能とする専門化された機関とその働
をもつ活動のコーディネーションが,照応する科
き手の数は本質的に増加した.科学者,科学者集
37
団の活動組織化の新しい形態が生まれた.こうし
ていた,科学アカデミーの科学的な技術研究の組
たもののすべてが,この時代までは,国の科学と
織化のさらなる発展という問題が立ち塞がった.
技術の前にその指導者によって提起された科学・
科学アカデミー工学部の活動の最後の段階はそ
技術の課題すべてにうまく解決を与えることを可
れが廃しされる 1963 年までであるが,エヌ・エ
能にしていた.しかし,科学的な技術研究の組織
ス・フルシチョフの発案で,それに先行する時期
化が複雑になってゆくにつれて,その効率的な管
の最後の段階から始まっていた,国家管理の改革
理の問題が登場してきた.1950 年代後半,科学ア
の時期にあたる.その改革のひとつが,国民経済
カデミーの諸機関で生まれたシステムは,工業と
発展の五カ年計画から七カ年計画への転換である.
実体経済部門の諸機関と科学者集団との広く,密
国民経済発展七カ年計画は 1959~1965 年,取り
接な相互関係を考慮していない,
“古典的な”アカ
組まれた.これが問題となる時期の年代を規定し
デミーの活動の特質と形態に照応するものではな
ている.
かった.
われわれが分析しているこの時期の段階は科学
他方,科学アカデミーの科学・技術諸機関形成
アカデミーにおける科学的な技術研究組織化の改
のその最初から,アカデミーの最終的な成果にた
革と結びついている.
いする応用的な科学・技術知識の比重の著しい増
この段階,中央行政・管理機構の一定の役割に
大は支持もえたが,アカデミー会員,科学の基礎
的な問題の解決と世界の認識をアカデミーの特性
もかかわらず,否,あるいはそのために,こうし
た機構は国の科学的な技術研究の最終的成果にた
と考える,伝統的な科学アカデミーの課題の解釈
いする影響をますます失うようになった.世界の
を支持するものたちから一定の反対も受けていた.
文明発達の工業化段階からポスト工業化段階への
エンジニアのやり方と工学の方法の発達と増加す
移行という,力をえつつあった傾向と結びついた
る工業部門の日常的な活動を科学・技術面で直接
新しい歴史的段階は,当時は国の指導者層にも,
に支える具体的な課題は,彼らの意見では,伝統
的な科学アカデミーの活動の枠外のものであった.
科学アカデミーそのものにも思い浮かぶものでは
なかった.課題と科学活動の管理構造の時宜に適
しかし,科学アカデミーにおける応用的科学・技
した修正のかわりに,党=国家機構とそれに厳格
術研究の加速的な発達,科学アカデミーの研究員
にコントロールされた科学アカデミー幹部会は慣
の生産上の問題の解決への直接的な関与は全面的
性の力に従ってしまった.アカデミーの科学者と
に権力が支持するところであった.すでに 1930
集団の前には(1920 年代,30 年代に路線が始ま
年代において作成された指示方針は 1946~1958
年においても,科学アカデミー工学部の科学組織
った)国の工業化の一層の発展に向けた,新しい
科学・技術の課題が提起された.それらの解決の
化活動の指針であった.
ために追加的な国家資源が割り当てられ,新しい
しかしながら,彼らが考えたように,アカデミ
ーを基礎科学だけの発達という「まことの道」に
研究所,部局,研究室が設立された.しかし,1950
年代末から 60 年代初めにかけて,科学アカデミ
返そうとする願いは,一部の科学アカデミー会員
ーの外延的成長政策は袋小路に陥っていた.一方
だけのものではなかった.ソヴィエトの社会科学
で生まれた,本質においてスコラ的で,形態にお
では,原理的には効率的なはずの科学アカデミー
の科学というものは,みずからのなかに,科学研
いて抽象的な,科学実践の構造における基礎研究
究にたいする集権的な国家管理の有機的な欠陥を
と応用研究との間の関係に関する解釈がそれを助
長した.こうしたものの一切が,検討対象となっ
ますます感じるようになっていた.他方,科学ア
カデミー自身はこの時期にいたるまでにすでに,
ている時期の終りに,国の権力構造とアカデミー
科学機関と行政=経営機関の管理困難なスーパ
共同体の行く手に,この時期までに科学機関と補
ー・システムに転換していた.結局,これらの一
助機関の管理が困難なスーパー・システムに変っ
切が組織的な危機をもたらし,そして 1933~1958
38
年に生み出された科学アカデミーの科学・技術研
議で採択された布告「国の科学研究のコーディネ
究のシステムの根本的な刷新を喚起したのである
ーションとソ連邦科学アカデミーの活動の改善に
が,そのなかには科学アカデミー工学部の廃止も
関する諸方策について」を挙げなければならない
含まれていた.
(8).この布告は,文字通り,この時期までに出来
1959~1963 年の科学アカデミーにおける科
上がっていた科学アカデミーの科学・技術研究組
学・技術研究組織化の改革プロセスはどのような
織を解体し,ロシアにおける技術発展の科学によ
ものであったのだろうか?この改革プロセスに関
る裏付けの領域を,長く続くことになる,実り尐
係した基本的な出来事を簡潔に特徴づけてみよう.
ない再編の過程に陥れることとなった.検討され
1959 年 5 月,3 月 26~28 日に開催された科学
た深部にいたるアカデミーの活動の再編という構
アカデミー総会の決定に基づいて,アカデミーは
想は,アカデミーの努力を基礎科学の先を見越し
ソ連共産党中央委員会に,国の科学研究の現状と
た問題の解決に集中し,そのために,科学的な技
そのコーディネーションの改善に関する問題を最
術研究から自らを解き放ち,その指導を国家委員
高のレベルで審議するよう提案した.2 ヶ月後,
会その他の官庁に引き継ぐということにあった.
中央委員会幹部会の会議でフルシチョフ,続いて
1961 年から 1963 年にかけて,科学アカデミー
アー・エヌ・コスィギンとエリ・イー・ブレジネ
から,92 カ所の巨大な効率よく活動していた機関,
フが,科学アカデミーが“実践とのつながり”を
弱め,
“管理困難”になっており,そのなかに,科
つまり,29,500 人の研究員(科学アカデミー構成
員の 3 分の 1)が働いていた,科学機関の総数の
学アカデミーの一部であるゆえに,現状より大き
半分(51 カ所の科学研究所と 7 カ所の支部)が引
な利益をもたらし,大きな責任をもって活動する
き離された.科学アカデミーは,官庁から引き渡
ことができたはずの,工業のなかに本来は場をし
された一部の研究機関にたいする科学的・方法論
めるはずの一連の研究所をも傘下におさめている
的指導を担当することとなった.
ことにたいして,厳しい批判を加えた.
この批判に関連して,科学アカデミー幹部会は
1961 年 5 月 19 日,アー・エヌ・ネスメヤーノ
フのポスト(1951 年から 1961 年まで総裁)を引
アカデミーの再編に関する方策を目標とする.こ
き継ぎ,科学アカデミーの新しい総裁にエム・ヴ
の年,ソ連共産党中央委員会幹部会はその書記局
ェー・ケルドゥィッシュが就任した.
に 10 月 16 日までに科学アカデミーの,工学部の
1961 年 10 月,ソ連共産党第 22 回大会は第 3
変容を含む,活動改善に関する方策を策定する委
綱領,つまり共産党の綱領のなかでもたぶんもっ
員会の編成を指示した.
工学部の研究を基本的には自動機械,無線技術
ともユートピア的な,
「世界初の共産为義社会を建
設する具体的な計画」と書かれたような内容をも
と電子工学に集中し,自動機械・無線技術・電子
つ綱領を採択した(9).ソ連邦の科学者には,
「ソヴ
工学部に改称することが提案された.
このような,
変容を加えつつも工学部を縮小されたかたちで維
ィエト科学にたいして,知識の重要な分野におい
てすでに獲得した先進的な地位を固め,基本的な
持しようという試みは失敗に終った.このことは
方向のすべてにわたって世界の科学のなかで为導
1963 年にいたるまでに次第に明らかになった.
公
式には,アカデミー総会で確認され,1959 年 3
的な位置を占める」べきだとする課題が提起され
た(10).
月31日に施行された1959年規約で前提とされた
これを工学の分野で実践することは困難であっ
構造を保持しつつも,1960 年 6 月 29 日,科学ア
カデミー総会は党と政府の科学に関する決定を視
た.というのは,40 年間の間にソ連邦において形
成された科学的な技術研究の組織は目に見えて疲
野に入れた,新しい規約草案づくりのための委員
弊し果てていて,ふさわしい機関の新しいシステ
会を選出した.党・政府の決定のなかには,まず
ムはまだ創設されていなかった.1963 年 1 月 11
1961 年 4 月 3 日,党中央委員会とソ連邦閣僚会
日,幹部会は各部を再編し,その指導のために 3
39
つのセクション,
物理工学・数理科学セクション,
生物科学セクション,社会科学セクションを組織
(1) /АРАН. Ф. 395, Оп. 1, Ед. хр. 29 а./ Л. 1.
する決定をした.この提案は一連の会議で審議さ
(2) /АРАН. Ф. 395, Оп. 1, Ед. хр. 9 /. Л. 26.
れたあと,1963 年 4 月 11 日,党中央委員会と閣
(3) Постановление ЦИК СССР, “О передаче
僚会議は布告「科学アカデミーと連邦構成共和国
Академии наук СССР в ведение СНК
科学アカデミーの活動改善に関する諸方策につい
СССР”, СЗ СССР, 1933. № 49, Ст. 287
て」を採択したが,これによってソ連邦科学アカ
(4) Материалы к истории Академии наук
デミーは自然科学と社会科学の諸分野における国
СССР за советские годы // «Известия
の研究の一般的な科学的指導を担当することとな
АН СССР». 1950 г. С. 211.
った.これにともなって掲げられ科学アカデミー
(5) Комков Г.Д., Карпенко О.М., Левшин
の为要課題のなかには工学については言及さえな
Б.В., Семенов П.К. «Академия наук
かった(11).それだけ,工学の発展は科学アカデミ
СССР – штаб советской науки», М.,
ーのコントロールと責任範囲から一切引き離され
Наука, 1988, С. 75.
たわけである.幹部会に 3 つのセクションを設置
(6) 1946 年 3 月のソ連邦最高会議で確認さ
するという科学アカデミーの構想は支持された.
れた.
(7) 1959.
幹部会は,アカデミーの構造改編に関するみずか
らの提案を 1963 年 14,15 日のソ連邦閣僚会議に
Устав.
«Уставы
АН СССР.
1724-1974» М; Наука, 1975, С. 150-164;
/АРАН. Ф. 2. Оп. 7. Д 123/, Л. 50-63.
提出するよう委任された.科学アカデミー総会は
この布告を実践に移すことになる諸方策を審議し
(8) СП СССР. 1961, № 7, С. 50.
た.そのうち重要なものは科学アカデミーの構造
(9) «Программа КПСС». – М., 1961
の改編であった.1963 年 7 月 1 日,科学アカデ
(10) Там же, С. 129.
ミー総会は,1962 年 7 月 29 日から策定作業を続
けてきた新しい規約を制定した.規約で前提され
(11) «Решение партии и правительства по
хозяйственным вопросам». М; 1968, Т. 5,
たアカデミーの構造には 16 の部があったが,工
С. 304.
学部はなく,しかし,力学・管理プロセス部,エ
ネルギーの物理工学的諸問題部があった.一般・
工業化学部は部分的に科学的な技術研究の問題群
を負っていた.
1957~1965 年の改革期にフルシチョフに指導
された党中央委員会が導入した国民経済会議やそ
の他の一連の組織刷新はすぐに廃止された.ソ連
邦科学アカデミーは 1963 年規約で変更された構
造に戻ることはなかった.
現在では,
1960 年代初めの工学部廃止と科学ア
カデミーでは自然科学と社会科学だけを発展させ
ようという政府の路線の公式的な理解は,実際,
根拠薄弱であったことになる.
こうした決定の帰結は間違って予測され,
結局,
ソ連邦の科学・技術ポテンシャルのさらなる発展
にたいして否定的であったと言われているのであ
った.
40
の戦時中の活動と業績ついて簡潔にまとめられた
Ⅶ.
小冊子(2)が出版された.これらの著作は,戦時期
ソ連遺伝学をめぐる二つの学派に戦時期が及
ぼした影響について(1)
-戦時期におけるルィセンコ側の活動と業績-
におけるルィセンコ側の農業貢献に対して穏やか
ながらも肯定的な評価を下している.つまり,ル
ィセンコによる戦時農法は,充分な追試を受けな
いまま半ば場当たり的に実行されており,確実な
齋藤宏文
増収効果には疑わしさが残るものの,一方で困難
なシベリアでの農業に対して穀物の死滅を避け必
要最低限の収量が得られるだけの農法を提案した
ことは十分な貢献であったとしている.
スターリン体制下のソ連遺伝学をめぐってはし
ばしば,トロフィム・デニソヴィッチ・ルィセン
ルィセンコ側が戦時中に提案した農法とそれら
コが率いる農業生物学(Агробиология)側と,グレ
の実地での応用成果を頻繁に投稿していたのが
ゴール・メンデルとトーマス・モーガンの系譜に
『ソフホーズ生産(Совхозное Производство)』誌で
連なる遺伝学者側の両学派間での対立を中心とし
ある.
今回のロシア連邦国立図書館での調査では,
た記述がなされる.とりわけ,1939 年代末の遺伝
同誌の 1941 年から 1945 年までの発行分をひとと
学会議でニコライ・ヴァヴィーロフ率いる遺伝学
者側との論争を制したルィセンコに対して,戦後
おり眺めることができた.同誌はソフホーズ人民
委員部(НАРКОМСОВХОЗ СССР)の機関誌であり,
に遺伝学者側が強力に巻き返しをはかっていく過
「農業経済・農業経営(Экономика и Организания
程については,多くの先行研究中で詳しく論じら
хозайство)」「植物栽培(Растениеводство)」「畜産
れている.しかしながら,これらの出来事の間に
(Животноводство)」等の誌面から構成されている.
ある独ソ戦の時期がルィセンコ側と遺伝学者側の
投稿者の属性は,ルィセンコをはじめ,農業科学
関係にどのような影響を及ぼしたかについては,
ほとんど検証されてこなかった.学問論争よりも
アカデミーの研究員や,ソフホーズ議長,農業技
師等,ほぼルィセンコ側の立場の者で占められて
戦時下の食糧問題の解決が優先したことで,両者
いる.本誌の記事内容に基づきながら,戦時中の
の対立関係が一時的にせよ解消されたことが述べ
られる程度であり,こうした消極的な分析のみで
ルィセンコ側による活動と業績について,以下に
戦時期を研究対象から安易に除外してしまうこと
1941年6月にドイツ軍が独ソ不可侵条約を破っ
には問題が残る.戦時期を,ルィセンコ側と遺伝
学者側の対立関係に中断をもたらした時期とみる
てソ連領内に侵入するや,ルィセンコが所長を務
めていた遺伝学研究所はフルンゼへと移されたが,
のではなく,戦時期の影響が戦後の両者の対立関
疎開期間中ルィセンコはそのさらに北に位置する
係へとどのように接続していったのかを詳しく検
証する必要があると思われる.そのための最初の
オムスクにて戦時の農業課題に関する精力的な研
究を行った.ここでの研究からルィセンコがなし
作業として,本稿では戦時中のルィセンコ側の活
た戦時農業への为要な貢献として4つが挙げられ
動内容,
特に戦時農業への貢献について検討する.
数多く存在するルィセンコ为義をめぐる歴史研
るだろう.
『ソフホーズ生産』誌にはそれらの各々
についてのルィセンコによる解説記事が掲載され
究の中にあっても,戦時中のルイセンコの活動に
ており,これらによる増収実績についても具体的
ついて詳しく言及している文献はほとんど見当た
らない.浩瀚なルィセンコの伝記研究を著したヴ
な数値データが示されている.ただし,これらの
農法の実際の効果を分析することは本稿の目的で
ァレリー・ソィフェル(Валерий Сойфер)でさえ,
はないことを断っておく.
記述していこう.
ルィセンコが戦時中に考案した農法を簡卖に紹介
ルィセンコ側による第一の貢献は,シベリアの
しているだけである(1).その他,最近ルィセンコ
気象条件の下で,穀物種子の播種時期と刈入れ時
41
期についての判断を適切に下したことである(3).
の中にこの手法が含まれることになった(6).ルィ
ソ連東部・单東部における農業は,早秋に到来し
センコはさらに研究を進めて,休眠状態の種子と
春過ぎまで長引く寒波の影響により播種が延期さ
未成熟のままで発芽可能性の低い種子を選別し,
れた結果,刈入れが遅れた作物が再び到来する寒
発確率の高い種子を選択するための簡卖な手法を
波に遭い全滅してしまう問題に直面していた.ル
考案した(7).
ィセンコとその同僚達は,1941 年の 8 月に,オム
ルィセンコ側による第三の貢献は,ジャガイモ
スク一帯の過去の気温や湿度,降水量,寒波の到
の作付け手法に関するものである(8).これは,種
来時期といった気象条件と収量との関係を丹念に
芋の上層部分から最初の発芽があった箇所を15
調べ,1941 年の秋には寒波の到来までに小麦が十
グラムほど切り取り,
その部分を作付けに用いて,
分に成熟できないと判断した.ルィセンコはそこ
残った部分は食糧用に利用するというものであっ
で直ちに,成熟度合に関係なく小麦を収穫するよ
た.この手法により種芋を増やして作付面積を拡
う提案した.これはあくまで暫定的な処置に過ぎ
大できれば,戦時下における食糧資源の節約に大
なかったものの,これによってこの年には最低限
きく貢献することが期待された.また,気候条件
の収量を確保できた.加えて未成熟の小麦から得
が厳しいシベリアでの栽培に代えて,種芋を北カ
られる種子の量と発芽率について実験的に得られ
フカースやクィヴィシェフ州等の单部地方に輸送
たデータを,次年度以降の収穫量を予測するのに
役立てられた.シベリアの事例とは反対に,温か
して現地で植付けることにより,農業のリスク分
散の効用があるとされた.この手法はソフホーズ
く湿った秋が続く地域においては,播種時期を夏
のみならず個人経営の菜園やコルホーズにも導入
にずらすことが有効となる場合もあった.1941 年
され,ルィセンコ側の農業技師による農民への指
12 月にルィセンコは,ウズベキスタンのタシケン
導が組織的になされた.1942 年の春にはシベリア
トで開催された農業従事者の集会にて砂糖大根の
だけで 15 万ヘクタール以上の面積にて実施され,
夏の播種を推奨した(4).ルィセンコはこのような
提案をするにあたり,1935 年から 1936 年頃にか
ソ連全体で尐なくとも 20 万トンの付加分の収量
をあげたといわれている(9).この手法を評価され
けて自身が大々的に喧伝・普及した单部地方にお
ルィセンコは 1943 年にスターリン賞を受賞した.
けるジャガイモの夏植えの経験を多尐は念頭にお
ルィセンコ側による第四の貢献は,輪作に関す
いていたものと思われる.
るものであり,秋播き種の種子を,春巻き種の刈
ルィセンコ側による第二の貢献は,穀物種子の
り入れ直後の畑に残された切り株の上から播種す
発芽力を高め,かつ種子の発芽率を予測する手法
を考案したことである(5).休眠中にシベリアの寒
る方法である(10).この方法の利点は,地中に根を
張った切り株が畑の凍結を防止することであり,
波にさらされた種子は,ソ連の他の地域から得ら
さらに,この方法では畑を耕す手間が省け,トラ
れたものと比べて発芽率 30%から 40%にしか満
たず,たとえ発芽したとしても十分に成熟できな
クターや肥料を必要としないという経済面でのメ
リットがあった.
この方法についてソィフェルは,
い場合が多かった.1942 年から 1943 年の冬にか
1939 年の遺伝学会議の折にシベリアで栽培可能
けて,ルィセンコの提案によりこの課題に対する
緊急の対処法がとられた.この手法は春化処理法
な耐寒性作物を育種することを確約した(11) もの
の,そのような品種の育種に失敗したルィセンコ
に基づくもので,可能な限り長時間,日光と暖か
が代替案としたものと説明している(12).
い外気にさらすことで種子の休眠状態を破るとい
う卖純なものであったが,これによってこの年に
これらの手法はシベリア以外にもソ連の他の地
域にまで適用範囲が広げられた.ソ連各地の気候
は 90%以上の発芽率を実現できたという.この結
と環境に応じて様々な種類の作物について増収の
果はソ連政府にも知られるところとなり,1944 年
ための実効的な提案がなされたという.例えば播
に人民委員会議と党中央委員会が採用した増収案
種の時期をめぐって,ウクライナにおける砂糖大
42
根,单東部におけるキビ,シベリアとウラル地方
繋がるだろう.これらについては次稿での为な課
における春播き小麦と燕麦,外カフカースにおけ
題とするが,ここでは遺伝学者側に属する全ソ植
るジャガイモ等について,それぞれ播種期間を変
物 栽 培 研 究 所 (Всесоюзный
更するよう指示が与えられた(13).
Растениеводства)について若干述べておくことに
Институт
以上,ルィセンコ側の戦時期の活動と業績につ
する.1940 年 8 月から 1942 年 1 月にかけて印刷
いて,戦時農業への貢献を中心に述べてきた.戦
される予定にあった著作のタイトル(15)をみる限
時期における食糧生産は国家にとってのみならず,
り,同研究所における研究課題が基礎研究と実践
遺伝学と農学分野に関わる全ての研究者にとって
的観点の双方のバランスを考慮して策定されてい
も,自身の研究課題の遂行能力に関わる死活問題
たことがうかがえる.
であったはずである.ルィセンコ側が提案した農
最後に戦時期が遺伝学者側に与えた影響につい
法は,作業行程が卖純かつ,経済的で即時に実践
て尐々付言しておきたい.遺伝学者側が戦後にル
できるものであったため,尐なくとも外見上は戦
ィセンコ側に対する攻勢を強めていったことは先
時農業の要求に十分に応えたものであった.これ
述した通りであるが,両者の関係の変化には,党
らの業績によってルィセンコが遺伝学者側からも
内での権力闘争を背景にジダーノフ父子が利害の
一定の評価を受けられたのかどうかを検証するこ
一致した遺伝学者を強力に援護したこと(16),英米
とは,戦後のルィセンコの遺伝学者側への対応を
理解する上で重要な意義をもつと思われる.1945
の遺伝学者とソ連の遺伝学者間の連携が強化し反
ルィセンコキャンペーンが展開したこと(17),ルィ
年 6 月に,ルィセンコは社会为義労働英雄の称号
センコの実弟がナチス=ドイツ占領下のハリコフ
を授与されたが,この選考委員会に出席していた
市で要職を務めたことにより,ルィセンコ自身が
スターリンは,科学アカデミーの推薦する候補者
政治的立場を危うくしたこと(18) 等が背景にあっ
のリストにルィセンコが入っていないことを知る
たことがこれまでに指摘されてきた.これらは全
や否や,戦時農業への貢献を理由にルィセンコを
強力に推薦したという(14) .このようなエピソード
てソ連遺伝学界に対して外からもたらされた作用
に基づいての説明といえる.しかしながら,戦時
から,尐なくても科学アカデミーはルィセンコの
期に遺伝学者に対するルィセンコの影響力が弱め
業績を積極的には評価していなかったことがうか
られ,かつ疎開先の研究機関が一定水準の研究環
がえる.戦後,科学アカデミー側に立つ遺伝学者
境を保有していたとすれば,戦時期はソ連の遺伝
が自身に対して攻勢に出る様子をみたルィセンコ
学界内部からみた時に遺伝学者側の回復期間とし
には,本来自分が受けるはずの評価と名声が裏切
られたように思え,それが遺伝学者との深い確執
ての意味合いをもっていたといえる.米国の遺伝
学者ダン(L. C. Dunn) によれば,ウクライナ科学
を生んだものとも想像できる.文書館史料を精査
アカデミー遺伝学研究所の所長ゲルシェンソン
することで戦時中の農業課題の遂行がルィセンコ
側に与えた心理的な影響を解明できれば,戦後の
(Gershenson)教授から受け取った手紙の中で,
疎開先のウラル地方で研究を続けられている旨を
遺伝学者側との確執の背景をより鮮明に説明でき
伝えられ,戦争のために入手困難となったアメリ
るであろう.
他方の遺伝学者側の戦時中における活動・業績
カの定期刉行物の最新号と実験用試料用のショウ
ジョウバエを提供してくれるよう依頼があったと
についても,遺伝学者側が戦時期に発行した出版
いう(19). 戦時期がソ連遺伝学界に及ぼした影響
物や定期刉行物を調べる必要がある.加えて,ル
ィセンコ側と遺伝学者側の研究機関の双方が,戦
を分析することにより,戦後のルィセンコ側と遺
伝学者側の対立関係を理解する上での新たな観点
時期に割り当てられた研究課題にどう対応しよう
が付け加えられ,ひいては,遺伝学分野における
としたのかを比較対照することによって,互いの
科学アカデミーと農業科学アカデミー間,あるい
対立機関に向けられた双方の戦略を知ることにも
は,遺伝学研究所と全ソ植物栽培研究所間といっ
43
た研究機関同士の対立構造の解明にも手がかりを
与えてくれるのではないだろうか.
(1)
Сойфер, В., «Власть и Наука -Разгром коммунистами
генетики в СССР-», М., 2002, сс. 573-575
Кононков, П. Ф. и Овчинников, Н. В., «Вклад Т. Д.
Лысенко в победу в Векикой Отечественной войне»,
М., 2010; 著者の一人である Кононков は戦時期に
ルィセンコの提案した農法を実践した経験をもつ.
(3)
Лысенко, Т. Д., “За высокий урожай зерновых в
Сибири,” «СП; Сокращение журнала Совхозное
Производство», №1, 1942, сс.35-38
(4)
Ковалев, Н., “Методы ускоренного размножения
свекловичных семян,” «СП», №5-6, 1944, сс.20-22
(5)
Лысенко, Т. Д., “Ближайшие задачи советской
сельскохозяйственной науки,” «СП», №1-2, сс.2-6,
1943
(6)
“В СОВНАРКОМЕ СССР и ЦК ВКП(б),” «СП»,
№4, 1944, стр.5
(7)
Лысенко, Т. Д., там же, стр. 3
(8)
Лысенко, Т. Д., “О заготовке верхушек картофеля,”
«СП», №3-4, 1943, сс.25-27
(9)
Кононков, П. Ф. и Овчинников, Н. В., там же, стр. 8
(10)
Лысенко, Т. Д., “В чем сущность нашего
предложения о посеве в степи Сибири озимых по
стерне,” «СП», №4, 1944, сс.16-25
(11)
«Под знаменем марксизма», №11, 1939, стр.146,
(12)
Сойфер, В., там же,стр. 574
(13)
Кралин, П., “Сроки сева и подготовка
свежеубранных семян ржи,” «СП», №7, 1945, стр.18
(14)
Кононков, П. Ф. и Овчинников, Н. В., там же, стр. 11
(15)
/Архив РАНСПГ Ф.803, Оп. 2, Д. 55/. лл. 36-37
(16)
Z・メドヴェジェフ,R・メドヴェジェフ「スター
(2)
リンとルィセンコ」
『知られざるスターリン』現代
思潮新社,2003年,228-250ページ所収.
Krementsov, N., “A “Second Front” in Soviet Genetics:
The International Dimension of the Lysenko
Controversy, 1944-1947,” Journal of the History of
Biology, Vol. 29, 1996, pp. 229-250
(18)
Сойфер, В., там же, стр. 579
(19)
Dunn, L. C., “Science in the U.S.S.R.,” Science, Vol. 99,
1944, p. 66
(17)
44
連邦に根強く存在した雰囲気をそのまま基調とす
Ⅷ.
ることになっている.
そのようななか,ソ連邦解体以降の新しい資料
*
ソ連邦科学アカデミーの戦時疎開について
的条件のもとで,第2次世界大戦期のソ連邦の科
学者の行動に大きな意味を見いだそうとしたのが
N.クメンツォフ(4)である.
市川浩
彼によれば,第1次世界大戦期以降実践的性格
を強めた科学アカデミーを中心に科学者たちは独
自の利害集団を形成していたが,第2次世界大戦
ソ連邦科学アカデミーは,ドイツ軍の旧ソ連邦
期になると,彼らは権力との間に新しい関係をつ
領内侵入にともない,史上類例を見ない規模での
くりだし,やがて冷戦の進行とともにその“新し
疎開を実施する.モスクワ,レニングラード(現,
サンクト=ペテルブルク)から多数の傘下研究機関
い関係”は深まりを見せ,フルシチョフ政権の前
半の時期,ついに科学者と権力との“共生”関係
がカザン市,その他へと移転し,新しい環境で旺
はひとつのエスタブリッシュメントとして完成す
盛に戦時研究などに取り組むことになった.この
疎開は科学アカデミーとその傘下研究機関にどの
る,ということになる.
クレメンツォフは,戦争がソヴィエト社会にも
たらした 2 つの重大な変化として,
党=国家官僚集
ような変化をもたらしたのであろうか.
戦時下の科学アカデミーについては,旧ソ連邦
時代には,戦時下における科学者の活動がいかに
団の自信喪失とそれに反比例するかたちでの国民
生活のさまざまな分野における“専門家”の権威
対独戦勝利に貢献したか,という見地から顕彰目
の回復・上昇,大々的に繰り広げられた戦時入党
的の歴史变述が行われてきた(1).こうした傾向は,
ソ連邦が解体し,ほぼ 20 年を経過した現在も大
キャンペーン=新規入党者の激増による党員構成
の大幅な変化がもたらした党のイデオロギー的一
体性のほころび,を挙げ,このような「あらゆる
きくは変わらず,
新しく公表された資料を活用し,
例えば,個々の科学者のソヴィエト権力に対する
内心の態度,科学者,あるいは科学者グループの
分野における党職員の没落と専門家の興隆」(5)は,
当然,科学の諸分野でも進行し,かれらはその自
思惑,権力の側の行動の含意など,新しい事実を
律性を高めると同時に,政府によっていくつかの
明らかにしつつも,全体としては戦時下の科学者
の貢献を顕彰する傾向がいまだに大きい(2).
人民委員部(省)の幹部や高級士官に登用された
ことを契機として,
ソヴィエト権力との一種の
“共
生”関係に入っていった,としている.
第2次世界大戦期のソ連科学者の動向に大きな
関心を寄せた西側の研究者に A.ヴチニッチ(3)がい
科学者のソヴィエト社会における全体としての
る.
ヴチニッチは,
戦争によりソヴィエト科学が,
地位上昇は事実であろう.しかし,このような地
位上昇は例外なくあらゆる科学の分野にまで及ん
その研究施設・設備,研究者の生命・健康などの
点で巨大な損失を蒙りながらも,
工場の東方疎開,
鉱物資源探査などの点で勝利に大きく貢献し、そ
だであろうか.
クレメンツォフもその他の研究も,
多くが,戦時下のソヴィエト科学者をめぐる特徴
的な事例を挙げることでこうした結論を導出して
のことを通じて科学アカデミーの組織拡大,ソ連
邦のほぼ全域におよぶ集権的な科学者の自治的制
いるが,戦争の影響はあらゆる科学者集団に均等
度の確立を実現し,総じてソヴィエト社会におけ
に現われたわけではない.何より,科学アカデミ
ーの枠の外にも大勢の科学者が働いていた.とく
るその権威を高めたとしている.彼の場合,しか
し,为著の執筆時期の時代的制約から,ソ連邦時
代にソ連邦で出版されたものを为な資料としてい
に,大学など高等教育機関に教員として勤務して
いた科学者を取り巻く状況は科学アカデミーのそ
るため,科学者による自己顕彰という,当時のソ
れとはずいぶん違っていた.また,科学アカデミ
45
ーの内部でも,専門分野,研究機関,疎開先など
カザンへの疎開にともない,物理学研究所は急
によって疎開や戦時研究の影響はまちまちであっ
速にその研究態勢を転換し,同地で盛んに戦時研
た.
究を実施した.困難はあったものの,一定の資金
それゆえ,ここでは,科学アカデミーの研究機
的条件にも恵まれ,研究は活発に遂行された.ト
関とその他の科学者集団との間の疎開における状
ルエンの定量分析法開発,トルエンをえるための
況の差異を,ペー・エヌ・レーベジェフ名称物理
ケロシンの熱分解法の研究(有機化学研究所と協
学研究所とモスクワ国立大学物理学部を例に検討
同)
,
航空機工業に必要な標準軽合金のスペクトル
することにしたい.また,科学アカデミー内部の
研究,特殊合金のスペクトル分析法,非鉄金属,
研究所による待遇,状況の差異については,計 25
軽合金の高速スペクトル分析法の開発,ガンマ線
カ所の自然科学系・工学系研究所をグルーピング
を利用した部材の厚みを測定する方法(機械学研
しつつ,それらの疎開のありかた,疎開先での研
究所と協同)
,
X線測定のための比重計の開発と導
究環境と活動を概括することで系統してゆきたい.
入,地域電波源による無線攪乱への対策と装置の
開発,短波,超短波無線電波の伝播に関する理論
*
*
*
*
*
と実際の方法,殺菌ランプの開発と導入, “昼間
のように明るい”照明具の工業化,無線装置用セ
ドイツ軍が国境を侵すと,研究所は,他の科学
アカデミーの諸研究機関とともに,カザンに疎開
ラミック・コンデンサー,軍需資材,工業用資材
のスペクトル分析法などがその課題となった(9).
することになった.1941 年 7 月 22 日,研究所の
戦争の終結前に,これらの成功によりスターリン
設備・機器と研究員はモスクワを出発し,25 日に
賞などを授けられる研究員も現われた.
カザンに到着,わずか 7 日間で荷ほどきを終え,8
1941 年 6 月 22 日,ドイツ軍が破竹の勢いでソ
月 18 日からは新しい土地で研究活動を再開した.
連国境を侵すと,モスクワ国立大学はその年の夏
疎開にあたっては研究所所有の研究設備の 80 パ
ーセント以上が移設された.研究所全職員 127 名
からトルクメニスタンのアシハバード市へ疎開し
はじめ(10)が,アシハバードに腰を落ち着ける間も
のうち,
カザンに移住したものは 62 名であったが,
なく,戦局の好転によってモスクワ国立大学は,
こと,研究員に限ると,50 名のうち 45 名が移住
1942 年6月頃からスヴェルドロフスクへの再移転
した.つまり,研究所の研究機能は,ほぼそのい
を開始し,ほんの一部が同地に移った段階で,さ
(6)
っさいがカザンに移転したことになる .物理学
らなる戦局好転につれてモスクワへの帰還をはじ
研究所のメンバーはカザンで居住面積と食糧の不
足になやまされることになった.カザン国立大学
めている.モスクワ帰還の終了は 1943 年 6 月 10
日とされている(11).この間,研究活動は完全に中
の舞台・体育館ホールは 200 名を収容する寮とな
断した(12).こうした物理学部本隊の移動に並行し
った (7).市内の空き家を科学者に配分することも
なされたが,おうおうにしてひとつの部屋に 2 家
て,モスクワにはベー・ヴェー・イリーンを長と
する,残留教員からなる“モスクワ支部”が設置
族が押し込められることがあった.一例を挙げる
され,苦しい状況のなか若干の活動を展開した(18).
と,
物理学研究所のソボレフ
(Н.Н. Соболев)
には,
本人,妻と息子1人にたいして 6m2 が割り当てら
しかし,物理学部の教員や大学院生に実験活動を
保障すべく設立された物理学部附属物理学研究所
れ,1室を斜めに布で仕切って,2家族で暮らし
(НИИФ)の実験機器製作室,実験物設計研究室
ていた.パンの配給量はしばしば“権利のうえで
のこと”となり,1日 400g にまで切り下げられ
に備え付けられていた工作機械類は,1942 年から
迫撃砲弾,手榴弾,ロケット弾などの製造のため
たこともあった.おかずは,いつも,エンドウ豆
に動員されており,1943 年にはさらに,レーダー,
のスープかカーシャ(ロシア風粥)
,またはジャガ
金属材料探傷機など“軍事目的の装置”25 種類が
(8)
徴発されたため,НИИФ の実験的基盤はいちじる
イモのカツレツなどであった .
46
しく弱体化していたのである(13).また,戦争が終
ィーチェレフは「…(中略)…カートス的閉鎖性,
っても実験研究がふたたび可能となるまでには,
菊線,特定の科学者グループの掌中にあらゆる学
それら装置・設備の修理と調整に多大の労苦を割
術的地位を確保しようとする欲望,独創的で,カ
(14)
ーストによって固く結びついた規範からはみ出す
アシハバードでは,モスクワ国立大学は現地の
一切のものにたいする迫害,こうしたもののすべ
師範学校の建設中校舎を利用して授業をおこなっ
てがソ連邦の科学者を絶望の淵に追い込んでい
ていた(15).スヴェルドロフスクでは,物理学部は
る」(22)と書いていた.このようにして,科学アカ
ウラル高等工業専門学校の校舎に葉インチされた.
デミー系と大学系,ふたつのカテゴリーの物理学
しかし,戦時中,同校の建物は事実上砲兵装備・
者相互間の対立が公然と姿を現したのである.彼
弾薬工場に転換し,ホールや教室には工作機械類
らの告発は,しかし,この段階では権力がまとも
が充満していた.そきため,授業は,夜,おうお
に取り上げることはなかった.上記 1944 年の6
かなければならなかった .
(16)
うにして廊下で行われていた .
教授による告発については,人民委員会議付属高
モスクワへ帰還したあとも,物理学部の教員た
等教育事業委員会議長エス・ヴェー・カフターノ
ちは面積不足に悩まされ続けた.モスクワ国立大
フ,エム・ゲー・ペルヴーヒン,エス・ゲー・ス
学は戦時における専門家養成の強化のため,疎開
ヴォーロフ,エヌ・ゲー・ブルエヴィチという科
中もその構成を拡大していった.戦時中に新設さ
れた学部は,経済学部,法学部など4学部におよ
学行政担当者たちの連名で,検討結果をマレンコ
フに伝えている(23)が,そこでは,告発に根拠がな
び,基本的な教員組織である教室の数は 49 から
いことが具体的に示され,告発者たちは「自分た
156 に増えた(17).学生数も大幅に増加し,1941
ちの活動の結果として,…(中略)… ソ連邦の
年に物理学部が迎えた新入生は150名であったの
指導的科学者とみなされなくなった(л.99)」と厳し
にたいして,1945 年には 341 名となった(18).
い評価を与えていたのである.
当時のモスクワ国立大学学長イー・エス・ガル
キンは,政府やモスクワ市当局に宛てて,大学の
ローレン・グレーアムが指摘している(24)ように,
1920 年代,ソヴィエト権力は大学よりも,大学外
面積に関する「例外的に深刻な状況」を訴える書
の科学研究機関を重視し,それらに資金を集中し
(19)
簡を送っている .必要授業時間さえ削減を余儀
た.にもかかわらず,大学の研究者たちは大学付
なくされていた.物理学部についていえば,とく
属研究所を設立することで,みずからの研究基盤
に講義室不足は深刻で,このため,6時間を卖位
を整備しようとすぐに努力をはじめた.
たとえば,
として,9 時から 23 時までの交替制授業が組まれ
ていた(20).
モスクワ国立大学には戦争開始前の段階で,計 11
もの附属研究所があった(25).大学は,このように
このような猖獗を極めた状況のなかで,物理学
して,大学外の研究機関に研究条件の点で近づき
部の教員たちのなかに,戦時研究に華々しく活躍
する科学アカデミー系の物理学者にたいするねた
つつあったのであるが,戦争への突入はこうした
努力を無に帰し,他の都市への疎開,疎開先での
み,憎しみが成長していった.戦争末期の,すで
生活条件と研究条件における格差は,ふたたび,
に論功行賞が行われつつあった 1944 年,党中央
委員会書記アー・エス・シチェルバコフのもとに,
科学アカデミーと大学との間の“役割分担”を押
しつけることに帰結した.
モスクワ国立大学物理学部の教員数名から書簡が
届けられた(21).その内容は,
“カースト的閉鎖性”
に満ち,学術上のポスト,研究室面積や学術雑誌
*
*
*
*
*
の編集などの“独占”を目論む特定の科学者グル
戦時中,モスクワに新設された結晶学研究所を
ープの告発であった.告発者のひとり,モスクワ
例外として,筆者が調査できた 24 の研究所は,
国立大学物理学部長のアー・エス・プレドヴォデ
以下の 4 つのカテゴリーに分類することができる.
47
モスクワからカザンに疎開した 10 研究所,モス
究所――高オクタン価ガソリンの供給法,アメリ
クワからスヴェルドロフスクに疎開した 3 研究所
カ型スーパー・ガソリンの製造法,それらのため
(スヴェルドロフスクにはその他計 9 つの協議会,
の新しい触媒の開発など,総じて効率的な石油分
委員会などの機関が疎開した)
,
レニングラードか
解法の探求(33).コロイド電気化学研究所――金属
らカザンとスタリナバードに疎開した 7 研究所,
の腐食防止法,陽極酸化処理,リン酸塩処理,不
モスクワから中央アジア諸都市に疎開した 4 研究
動態化処理・ラッカー塗装を伴う銅メッキ処理,
所,である(26).
酸化処理などの研究に加え,新たにアルミニウム
まず,モスクワからカザンに疎開したグループ
合金で出来た航空機用部品の放電加工法の高速化,
であるが,これにはペー・エヌ・レーベジェフ名
珪酸オルトエステルを基礎とした接着剤の開発,
称物理学研究所,アー・ヴェー・ステクロフ名称
耐水性フエルト靴用含浸材の調合法,加重剤とし
数学研究所,有機化学研究所,一般・無機化学研
ての黄鉄鉱の鉱滓の利用法,兵士のための化学防
究所,力学研究所,物理問題研究所,ゲー・エム・
寒材の開発,防毒マスクの開発,軍隊用加熱器具
クルジジャノフスキー名称エネルギー学研究所,
の改良,疎水性セメントによる土壌の強固化,耐
鉱物性燃料研究所,理論地球物理学研究所,コロ
水性フエルト靴含浸剤の量産法,石油採掘におけ
イド電気化学研究所(戦後すぐ,物理化学研究所
る有機スルホン酸の影響による粘土質溶体の凝結
に改組される)が含まれる.このうち,モスクワ
に大半の研究員を残留させた理論地球物理学研究
を防止する方法,熱交換器における蓄熱作用を促
進する方法,航空機用潤滑油の潤滑特性を測定す
所を例外として,これらの研究所はカザンで煎じ
るより簡卖な方法の研究(34).
研究,経済的意義の高い研究に取り組み,それぞ
第 2 のグループには冶金学研究所,鉱山学研究
れ成果を挙げることに成功した.物理学研究所に
所,地学系諸科学研究所が含まれる.冶金学研究
ついてはすでに述べたが,他の研究所が取り組ん
所は,スヴェルドロフスクで,冶金工場への技術
だ課題のうち为要なものを列挙すると,次のよう
になる.数学研究所――弾道学,航空工学,海洋
指導・援助に取り組み,東部諸鉱山産出の貧マン
ガン鉱の利用法など,きわめて実践性の高い研究
電波工学などの軍事関連分野に関わる一連の応用
に打ち込み,戦利品金属の分析にも従事した (35).
研究 (27), 有機化学研究所――合成ゴム,合成樹
鉱山学研究所は,ドネツ炭田,クズネッツ炭田の
脂など高分子合成に関する研究
(28)
.一般・無機化
復興をはじめとして,諸鉱山企業への援助活動に
学研究所――対毒ガス液状除毒剤,対戦車火炎瓶
集中した(36).その成立の経過からくどい名称をも
の燃料,防火水槽づくりのための液体不透性顔料
の開発をはじめ,金属を含む欠乏物資の代替品開
つこととなった地学系諸科学研究所であるが,戦
争がはじまった夏期はそもそも現地調査の季節で
発,
原材料不足のなかでの代替製法の開発など (29).
あったこともあり,
研究所としての一体性を失い,
力学研究所――航空機に関する流体力学の研究,
機械・建造物の振動に関する研究など (30).物理問
スヴェルドロフスクのほか,ミアス,ウーファ,
イルクーツクに常駐,
さらにウスチ=カメノゴルス
題研究所――戦時中,焼夷弾の原料ともなり,冶
ク,ノヴォシビリスクなどにも研究員が散在する
金業でも広範に活用された液体酸素の大量供給を
可能にする装置の開発 (31).
エネルギー学研究所―
事態となった (37).
“500 日の封鎖”下にあったレニングラードか
―軍需工業が集中していたウラル地方におけるエ
らの疎開は悲惨な様相を呈した.そこからは,レ
ネルギー事情の改善(科学アカデミー総裁ヴェ
ー・エリ・コマロフからの要請による)
,ボイラー
ニングラード物理工学研究所,ラジウム研究所,
化学物理学研究所,イー・ペー・パヴロフ名称生
の生産性向上,電力供給の中断排除など,極めて
理学研究所,ヴェー・エリ・コマロフ名称植物学
実践性の高い研究に,ソナーに捕捉されない魚雷
研究所,天文学研究所(1944 年には理論天文学研
(32)
推進機関用ボイラーの研究など
.鉱物性燃料研
究所と改称)がカザンに,動物学研究所が中央ア
48
ジアに疎開した.政府の特別の計らいによって,
*
*
*
*
*
レニングラード物理工学研究所と化学物理学研究
所は例外的に早い時期に封鎖されつつあったレニ
疎開は,その帰結において,科学アカデミー系
(38)
ングラードから疎開できた .しかしながら,そ
の科学者とアカデミー外の科学者との間の
「協会」
の他の在レニングラード研究所は,その研究員か
を再強化し,その結果,科学アカデミーと大学と
ら多数の犠牲者を出し,各地に分散し,相互の連
の間の機能分割を再度固定してしまった.この問
絡も途絶えてしまった例が多い.カザンで気圧上
題は,科学者集団間の深刻な相互対立を生み出し
昇・低下の生理機能への影響,人体諸器官の正常
た.他方,科学アカデミー内部においても,疎開
な状態への早期復帰を効果的に行う方法の研究な
の影響は研究所ごとにまちまちであり,戦時研究
どを展開した生理学研究所(39)を唯一の例外とし
において目立った貢献を成し遂げた研究所・研究
て,それら研究所は戦時中何もできなかったと見
分野とそうではなかった研究所・研究分野の間に
(40)
なしてよかろう .
なんらかの“差異”を生み出していった.この“差
1941 年末,地理学研究所の本体部分はカザフス
異”は,今後の研究にとって方法論的な示唆とも
タンのアルマ=アタに疎開した.
モスクワに残留し
なりうるであろう.たとえば,数学者にして科学
た研究員・職員は 1942 年初め,
“モスクワ・グル
行政家であったエム・アー・ラヴレンチェフの,
ープ”を形成する(41).アルマ=アタでは,資源動
員に関する政策提言がこの研究所の大きな課題と
ソヴィエト初の電子計算機開発における機械工学
者との論争で見せた激しい敵意(47)や,科学アカデ
なった(42).
“モスクワ・グループ”は,国防人民
ミー・シベリア支部における核物理学研究所の肥
委員部諸機関の要請にもとづき,軍用地図の作成
大化にたいして,やはり彼が見せた嫌悪感(48)の背
などに従事した(43).他方,生化学研究所,遺伝学
景に,こうした疎開が影響したであろう研究分野
研究所,微生物学研究所は,トビリシ,スィクト
ごとの待遇をめぐるコンフリクトが貌を覗かせて
ゥィヴカルなどにいた生化学研究所の若干の研究
員を例外として,フルンゼに疎開した(44).しかし,
いるのではなかろうか.
これらの研究所は研究室ごとに当地のキルギス国
立医学専門学校,フルンゼ第1製パン工場など5
※本章は,拙著『冷戦と科学技術―旧ソ連邦 1945~
カ所に分散され,そのほとんどが上水道と送電設
1955 年―』
(ミネルヴァ書房 2007 年)の第2章
備を欠いていた.そのため,フルンゼでは研究所
(pp.99-153)
,拙稿『平成 19 年度~21 年度日本学出
はほとんど機能しえなかった(45).結局,これら研
究所においては,中央アジア諸共和国,とりわけ
振興会科学研究費補助金[基盤研究(C):課題番号
フルンゼを首都とするキルギスの現地の農業や工
るソ連邦科学アカデミーの研究』
(2010 年 3 月)
,およ
業企業に助言を与える仕事が最も大きな比重をし
めることとなった(59).これら研究所は,たとえば,
び拙稿「ソ連邦科学アカデミーの戦時疎開に関する一
砂糖大根の糖分保存の生化学,ビタミン類の生化
講座編集委員会編『社会文化論集』第 11 号(2010 年
学と技術,製パンの生化学的基礎の解明,連邦東
部,单東部におけるジャガイモ作付面積の拡大の
3 月)を要約して,2010 年 11 月 9-11 日にモスクワで
ための諸方策,バクテリア肥料の合理的な活用を
名称自然科学史=技術史研究所第 16 回年次学術集会
通じた为要農業作物の収穫高増加を目指した研究
など実践的意義をもつ研究に取り組んだとはいえ,
(XVI Годичная Конференция Института истории
その重要性は軍事との直接的な関連が薄いぶん,
Российской Академии наук)において報告したも
第 1,第 2 のグループが果たした役割に比べて低
のを基礎としている.
19500858]研究成果報告書:第2次世界大戦期におけ
考察」
(広島大学大学院総合科学研究科社会文明研究
開催されたロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ
く評価されざるをえないものであった(46).
49
естествознания и техники им. С. И. Вавилова
(1) た と え ば , Например, Б.В. Левшин,
«Советская наука в годы Великой
Научно-исследовательского
физики при МГУ 1922-1954». Москва, 2000.
Отечественной войны». Москва “Наука”,
с.100.
(12) См. С.Х.Карпенков, «Роман Владимирович
Телеснин:
Выдающиеся
ученые
1983.
(2) たとえば, Э. И. Гракина, «Ученые России
в годы
Великой отечественной войны.
1941-1945».
М.:
Институт
института
Физического факультета МГУ. Выпуск Ⅷ»,
Российской
Москва, Логос. 2004. с.16.
истории, 2000,Э. И. Колчинский, “Академия
(13) Андреев, Указ. соч., с.99.
наук СССР и Вторая мировая война”, в сб.
(14) /ЦАОПИМ Ф. 478 Оп.1 Д.75/. лл.1-1-а.
под ред. Э. И. Колчинского, М. Б. Конашева,
(15) /ЦМАМ Ф.1609 Оп. 2 Д.135/. лл.1-1-а.
«Нестор №9. На переломе. Отечественная
(16) Интервью с Директором Музея УГТУ-УПИ
наука в конце XIX-XX веке: источники,
при
Уральском
государственном
исследования, историография», Вып. 3.
техническом университете, Ю. Б. Шатон,
СПб.: Нестор-История, 2005. сс.313-328.
18го февраля 2008 г.
(17) /ЦМАМ Ф.1609 Оп. 2 Д.175/. л.8.
(3) A. Vucinich, Empire of knowledge: the
Academy of Sciences of the USSR
(1917-1970) .University of California Press,
(18) /ЦМАМ Ф.1609 Оп. 2 Д.183/. л.1.
(19) /ЦМАМ Ф.1609 Оп. 2 Д.175/. л.8.
(20) /ЦМАМ Ф.1609 Оп. 2 Д.219/. л.4.
1984.
(4) N. Krementsov, Stalinist Science, Princeton
University Press, 1997. pp. 193-226.
(21) /РГАСПИ Ф.17 Оп.125 Д.275/. лл.1-78.
(5) Б. И. Козлов, «Академия наук СССР и
(23) Там же, 79-86.
индустриализация
социальной
истории
России:
1925-1963»,
(22) Там же, л.1.
очерк
(24) See, L. R. Graham, Science in Russia and Soviet
Union: A Short History, Cambridge U/P, 1993.
М.:
Academia 2003. сс.140-141.
pp.173-196/
(6) /Архив РАН Ф.532 Оп. 1 Д.45/. л.1.
(7) Тагиров, М.С., Тарасов, Б.Г. и Писарева, С.В.,
(25) /ЦМАМ Ф.1609 Оп. 2 Д.126/.л.2.
(26) 拙稿『平成 19 年度~21 年度日本学出振興
«Физические институты Академии наук
会科学研究費補助金[基盤研究(C):課題番
СССР в Казанском университете в годы
号 19500858]研究成果報告書:第2次世界
Великой Отечественной войны». Казань,
大戦期におけるソ連邦科学アカデミーの研
2005. с.5.
究』
(2010 年 3 月)pp.7-8.
(8) Соболев,Н.Н., “ О Казанском периоде
ФИАН (1941-1943), ” в
«Физический
(27) /Архив РАН Ф.383 Оп. 1 Д.106/. лл.1-6.
(28) /Архив РАН Ф.431 Оп. 3 Д.41/. л.1.
институт им. П.Н. Лебедева в годы Великой
(29) /Архив РАН Ф.429 Оп. 1 Д.123/. лл.1-2.
Отечественной войны в Эвакуации (Казань,
(30) /Архив РАН Ф.438 Оп. 1 Д.81/. л.47.
(31) /Архив РАН Ф.447 Оп. 1 Д.41/. лл.1,1-а.
1941-1943гг.». Москва 1995. сс.25-26.
(9) /Архив РАН Ф.532 Оп. 1 Д.64/. лл.3-7,
/Архив РАН Ф.532 Оп. 1 Д.67/. л.8, и /Архив
РАН Ф.532 Оп. 1 Д.74/. лл.1-4.
(32) /Архив РАН Ф.209 Оп. 1 Д.21/. лл.18-25.
(10) /ЦМАМ Ф.1609 Оп. 2 Д.135/. лл.1-1-а.
(35) /Архив РАН Ф.1926 Оп. 1 Д.37/. лл.12-16.
(11) А.В. Андреев, «Физики не шутят: Страницы
социальной
истории
(36) /Архив РАН Ф.481 Оп. 1 Д.214/. лл.36-40.
(33) /Архив РАН Ф.414 Оп. 1 Д.44/. л.2.
(34) /Архив РАН Ф.393 Оп. 1 Д.42/. лл.1-3, 20,31.
(37) /Архив РАН Ф.1612 Оп. 1 Д.75/. л.1.
50
(38) Б.Б. Дьяков (сост.), «Физико-технический
институт в годы Великой Отечественной
войны». СПб. “Наука,”2006. сс.183-184.
(39) /ПФА РАН Ф.153 Оп.1 №№1/.л.2.
(40) 前掲拙稿.pp.42-53.
(41) /Архив РАН Ф.200 Оп. 1 Д.59/. лл.2-5,
(42) Там же, л.11.
(43) Там же, лл.4,5.
(44) 前掲拙稿.pp.55-57z
(45) /Архив РАН Ф.388 Оп. 1 Д.172/. л.12.,
/Архив РАН Ф.199 Оп. 1 Д.125/. л.28. и др.
(46) /Архив РАН Ф.201 Оп. 1 Д.138/. л.9,
/Архив РАН Ф.199 Оп. 1 Д.117/. лл.33,34, и
/Архив РАН Ф.388 Оп. 1 Д.172/. л.12.
(47) See, Hiroshi Ichikawa,“Strela-1, the First Soviet
Computer: Political success and Technological
Failure.” IEEE Annals of the History of
Computing (IEEE Computer Society) Vol.28-3.
2006.7-9 pp.18-31.
(48) /Научный архив СО РАН Ф.27 Оп.1 Д.81/.
лл.3-4.
51
ものであった.
Ⅸ.
しかしながら,
“平和のための原子”への転換に
はもうひとつの側面があった.
原子力開発計画は,
ソ連版“平和のための原子”の科学アカデミー
における出発
科学アカデミーやその他の科学機関,あるいはそ
の枠外にいた,さまざまな科学と技術の分野の専
門家を引き入れることを必要としていた.もちろ
ん,1946 年,まだ最初の原子炉も稼働していない
ヴラジーミル・パーヴロヴィッチ・ヴィズギン
段階では,綱領的計画,条件,および,基礎科学
(市川 浩訳)
や放射性元素などに関する初めての応用や研究に
おいてのみ語ることができた.
原子力エネルギー,
原子力艦隊や原子核そのものについての科学に関
ソ連邦における平和目的の原子力利用問題の解
わる,
“平和のための原子”の巨大な達成は 1950
決に向けた組織的な第 1 歩が踏み出されたのは
年代になってはじめて現実味をおびてくるのであ
1946 年のことで,
冷戦のはじまりと軌を一にして
る.ソ連邦原子力開発計画と科学アカデミーの物
いる.あと何年か続くにちがいなかった軍事目的
理学のリーダーたち,誰よりもイー・ヴェー・ク
の核という点でのアメリカの絶対的優位は,ソ連
ルチャートフ,ペー・エリ・カピッツア,エス・
イー・ヴァヴィロフ,アー・イー・アリハーノフ
邦とスターリンをして核兵器の禁止と“平和のた
めの原子”という軌道への転換を要求することを
らは計画の最初の段階から核兵器計画の資源を基
余儀なくさせた.
礎科学の発展にも活かそうと考えていた.彼らは
最初のソヴィエト製原子爆弾実験のおよそ 2 ヶ
過度の秘密性が有害であることを理解していた.
月後(1949 年 11 月 10 日)
,アー・ヤー・ヴィシ
ンスキーは第 4 回国連総会でこう発言した:
「わ
“平和のための原子”は,核科学のいくつかの重
要な分野の,そして,宇宙線物理学,荷電粒子加
速器,そしてやや後になって,管理された熱核融
れわれがソ連邦で原子力を利用するのは,原子爆
弾の蓄えを増やすためではない.…(中略)…わ
れわれは,われわれの経済運営計画に沿って,わ
合に関連したそれらの応用を秘密扱いから解除さ
せることを可能にするものであった.
れわれの経済・経済運営上の利害において原子力
1945 年末から 1946 年にかけて,
“平和のため
を利用しているのである.われわれは原子力を,
平和的建設の重要課題実現に役立てることにして
の原子”に関連した出来事を年代順に手短に見て
みよう.
1945 年 10 月 26 日:第 1 総管理部技術協議会
おり,われわれは,山を砕き,河川の流れを変え,
荒野を灌漑し,人間がめったに足を踏み入れたこ
においてペー・エリ・カピッツアが提起した“平
とのない場所でさらにさらに新しい生活の路線を
和のための原子”に関する提案の検討について
の「特別委員会」の決定とこの分野における諸
切り開くために原子力を役立てるのである」
[文献
1 の pp.16,17 に引用]
.かくのごとく,
“平和のた
方策の計画策定.
めの原子”の政治的・プロパガンダ的側面は充分
に明らかである.それとともに,
“平和のための原
1945 年 11 月 13 日:
「平和目的の,原子核内部
子”というのは,ヒロシマ,ナガサキ,ビキニの
のエネルギーの利用に関する研究活動組織化に
あとでは怪物じみて,忌まわしく見えた原子力の
関する提案」
作成についての技術協議会の布告.
1 ヶ月の期限でカピッツア,クルチャートフ,
イメージの改善を狙ったものであった.原子力を
技術や国民経済,
基礎科学研究に利用することは,
才能ある若者を核の分野の研究に動員し,核がも
エム・ゲー・ペルヴーヒンが準備しなければな
らなかった.
たらす科学・技術革命の燦然たる展望を切り開く
52
1945 年 12 月 18 日:原子力利用問題について
の秘密化の否定を为張した.
の項目テーゼを附したカピッツアのヴェー・エ
ム・モロトフ宛書簡.特別な注意が「エネルギ
3 月 4 日:ソ連邦人民委員会議布告「宇宙線発
ーの革命化」と“平和のための原子”の分野に
展の手段について」
.このなかで,この研究の指
おける秘密化の拒否に振り向けられていた.
導と高山の観測所その他の方策の組織化につい
1945 年 12 月 21 日,カピッツアはエリ・ペー・
ての義務は科学アカデミー(物理学研究所と第
ベリヤとの確執により,
「特別委員会」と技術協
3 研究所 -ラボラトリーー)の担当となった.
議会の職務を解かれた.
3 月 5 日:ソ連邦で冷戦の宣言ととらえられて
1946 年 1 月 25 日:イー・ヴェー・クルチャー
いた W.チャーチルのフルトン(アメリカ)演説.
トフとスターリンの会談.とくに,原子力開発
原子兵器はそのなかで冷戦の切り札とみなされ
計画に引き入れるべき科学者のリストの拡大,
ていた.そして,
「鉄のカーテン」の向う側
宇宙線とサイクロトロン,つまり“平和のため
から西側世界を脅かす,戦争と圧政というふた
の原子”に関わる基礎研究が話題となった.そ
つの危険性について触れられていた.
のあとで,スターリンはエス・イー・ヴァヴィ
4 月 22 日:原子核のエネルギー利用問題(ヴァ
ヴィロフは П.И.Э.А.Я という略語をつくった)
ロフを召して,科学アカデミーにおける研究の
拡大の必要性について語った.
に関連した研究の組織化と原子核利用の問題に
2 月 12 日:西側では冷戦のはじまりと評価され
関連した研究の組織化についての,エス・イー・
ている,モスクワ市内のスターリン選挙区にお
ヴァヴィロフのベリヤ宛,覚書.覚書のなかで
ける投票日前選挙人集会でのスターリンの演説.
科学アカデミーと核兵器分野の他の研究所のお
資本为義世界体制との競争における科学者の特
別の役割について言及があった.
互いに有益な相互作用について述べられていた.
4 月 23 日:第 1 総管理部科学技術協議会のメン
2 月 12 日:クルチャートフのスターリンにたい
バーであったエヌ・エヌ・セミョーノフのヴァ
する原子力研究の活動経過報告.そのなかで,
ヴィロフ「覚書」についての意見書.ヴァヴィ
はじめて“平和のための原子”に関する研究組
ロフの提案を全面的に支持しながら,秘密研究
織化の原則が定式化されたが,クルチャートフ
の意見では,それは科学アカデミーが差配しな
と公開研究との境界線とそれらにたいする研究
指導,および,これらの研究のコーディネーシ
ければならないものであった.
ョンに関する問題の検討を追加することを勧め
ていた.
3 月 2 日:原子核,放射能,宇宙線に関する研
究の秘密のレベルに関するヴァヴィロフのスタ
9 月 13 日:
“平和のための原子”に関する追加
ーリン宛覚書.核兵器に関するテーマからは距
離のあるこうした分野における完全な秘密性を
的な提案を述べたエス・イー・ヴァヴィロフの
ベリヤ宛書簡.
否定する必然性について言及されていた.
3月2日:宇宙線に関する論文発表についての,
11 月 21 日:ヴァヴィロフ提案の検討結果に関
する科学アカデミーと第 1 総管理部科学技術協
アー・イー・アリハーノフとアー・イー・アリ
議会のベリヤ宛書簡.そのなかでは,第 1 総管
ハニヤンのベリヤ宛て書簡.書簡の筆者たちは
理部科学技術協議会がヴァヴィロフ提案に追加
西側の実践を引き合いに出して,宇宙線の研究
すべきことを検討し,それを採択したことがの
53
べられていた.
理学研究所,エネルギー研究所,国立光学研究
所,レニングラード物理工学研究所,ラジウム
11 月 26 日:11 月 21 日付ベリヤ宛書簡にたい
研究所,
有機化学研究所,
理論生物化学研究所,
する参考資料.そのなかでは,とくに“平和の
生理学研究所,そして医学アカデミーなどに担
ための原子”に関する研究の指導はエス・イー・
当させることになっていた.
ヴァヴィロフに任せ,
「彼に,5~7 名からなる,
第 1 総管理部科学技術協議会と連絡を取り合い
12 月 25 日:イー・ヴェー・クルチャートフの
ながら活動する学術会議を組織する献言を与え
指導により第 2 研究所(ラボラトリー:訳者)
る」べきであるとされていた.
において開発されたヨーロッパ初の原子炉
(Ф-1)稼働.この炉は兵器用のプルトニウム
12 月 7 日:科学アカデミーと第 1 総管理部科学
生産用の実用炉を設計・装備する前提とともに,
技術協議会連名の,彼らが準備したソ連邦閣僚
平和目的での核エネルギー利用のための発電,
会議布告についてのベリヤ宛書簡.このなかで
その他用の炉の設計・装備の前提をも作り出し
は,この書簡についていたふたつの付録にリス
た.
ト・アップされていた,
“平和のための原子”に
関する諸研究(ひとつ目の付録には 14 件の公
開テーマ群,ふたつ目には 30 件の秘密テーマ
こうした年譜から,ペー・エリ・カピッツアが
“平和のための原子”という概念の案出における
群が載せられていた)の指導・統制を担当する
キー・パーソンのひとりであったことがわかる.
科学アカデミー総裁附属学術会議について述べ
彼の 1945 年 12 月 18 日付のモロトフ宛書簡は以
られていた.
下のような綱領的テーゼを内容としている.
「2.
原子プロセスの技術的利用の为要な意義,それは
12 月 16 日:ソ連邦閣僚会議布告「原子核研究
と核エネルギーの技術,化学,医学,および生
人類が新しい強力なエネルギー源を手に入れたこ
とにある.…(中略)… 9.原子力の応用の为
物学への利用に関する科学研究活動の発展につ
要な意義は平和的で文化的な目標のうちに存在し
いて」
.布告はスターリンが署名し,
“平和のた
ているが,そこではエネルギーやその他の为要な
めの原子”問題の基本的な文書となった.その
技術の分野を革命的に発展させることになろう」
なかで初めて科学アカデミー総裁附属学術会議
[文献 2.pp.13-16]
.
(
“ヴァヴィロフ学術会議”
)の構成が定められ
た.物理学のエス・イー・ヴァヴィロフ(議長)
,
最後の 3 つのテーゼは,カピッツアの意見では
科学進歩の重大な阻害因であった核研究の秘密性
デー・ヴェー・スコベーリツィン,イー・カー・
に反対するものであった.
キコイン,物理化学のアー・エヌ・フルームキ
ン,化学のアー・エヌ・ネスメヤーノフ,生物
ソ連邦における“平和のための原子”の基本的
なプログラムは,イー・ヴェー・クルチャートフ
学のエリ・アー・オルベリとエヌ・アー・マク
(2 月 12 日付)とエス・イー・ヴァヴィロフ(4
シーモフ,そして生物物理学のゲー・エム・フ
ランクである.計 8 名のメンバーのうち,6 名
月 22 日付)の手でスターリンとベリヤのために
準備された資料のなかに示されていた.ソ連邦原
がアカデミー正会員,ひとり(キコイン)が通
子力開発と科学アカデミーの指導者たちは 1 月
信会員であったが,ひとりだけ(フランク)は
まだアカデミーに地位を築いてはいなかった.
25 日にスターリンと面会したが,そのことはこの
プログラムの作成の重要で促進的な刺激となった.
付録のテーマ・リストには 17 の秘密テーマ,
クルチャートフはみずからの報告のなかで,
「原子
13 の公開テーマが掲げられていた.これらの研
力の研究により一層多くの科学者を動員する問
究は,科学アカデミーの諸研究所,つまり,物
題」について検討し,近い将来,それは技術,化
54
学,生物学,医学において応用されるであろうこ
アカデミーにとってとても重要」であったと書い
と,および,こうした方向に向かって「適切に今
ている[文献 4]
.ある同じ日に行われた,スター
すぐ仕事をはじめる」ことを強調した.彼は「こ
リンとクルチャートフとの会談,そしてスターリ
れにともなって,ソ連邦科学アカデミーに,第一
ンとヴァヴィロフとの会談はまったく同じく内容
義的な意義をもつ課題として,原子力と放射性物
のものとなった.一部に,スターリンが指示した
質の技術,化学,生物学,医学における応用に関
「物理学的・化学的方向性」が核開発の内情を示
する研究を組織し,まだ原子力に取り組んでいな
しているかどうか,辛うじて疑問の余地があった
い科学者や研究所を引き入れる権限を与える必要
程度である.3 ヶ月も経たないうちに,エス・イ
がある(強調はクルチャートフ自身)
.科学アカデ
ー・ヴァヴィロフは,上述のクルチャートフ提案
ミーでは,次のような科学アカデミー会員のグル
と並んで,平和目的での原子力利用のための研究
ープがこうした研究を指導しえた.
ヴァヴィロフ,
を組織化する基礎となっている,自分の“平和の
セミョーノフ,ネスメヤーノフ,ヴヴェジェンス
ための原子”に関する意見をプロジェクトの指導
キー,オルベリらがそうである.提案されている
部に提案した.4 月 8 日の日付をもつヴァヴィロ
研究の組織化によって,より広範な科学者集団が
フ「日記」ではたった 1 行,
「…ウランに関連し
(原子力利用計画に…筆者)動員できるようにな
た様々な科学の動員に関する検討」と書かれてい
ろう.同時に,基本的な研究(原子力兵器開発に
関する研究…筆者)は厳格な秘密性のもとに置か
たが,それは,かれがこの時,
“平和のための原子”
の問題に没頭していたことを示している
[文献4]
.
れ,目的の明確さを保持するであろう」と続けて
1946 年 4 月 22 日,彼は「原子核エネルギー研究
いる[文献 3.p.434]
.
の諸問題に関連した科学と技術の様々な分野にお
以上,科学アカデミーがその指導の権限を受け
ける研究の組織化についての覚書」を,エリ・ペ
持つこととなった“平和のための原子”に関する
ー・ベリヤに(外見のうえでは,彼に「特別委員
大規模な研究の始まりを見てきた.クルチャート
フはこのテーマ群のなかに,彼の意見では多くの
会」から権限を移譲した,ベリヤの副官ヴェー・
アー・マフニョフを通じて)送った[文献 3.
他の
“平和のための原子”
に関するテーマと同様,
pp.491-495]
.この「覚書」はクルチャートフの 2
公開された場で行うことができる荷電粒子加速器
月 12 日付スターリン宛報告(正確に言えば,そ
と宇宙線物理学の分野における基礎研究も加える
の報告の第 3 部)とともに,
“平和のための原子”
ことが合理的であると考えていた.
1946 年の最初
問題に関するソ連邦におけるプログラムの基礎を
の何ヶ月かにアー・イー・アリハーノフ(兄弟の
アー・イー・アリハニヤンと一緒に)とエス・イ
形づくったものである.このプログラムはヴァヴ
ィロフのもとでより詳しく検討され,原子力開発
ー・ヴァヴィロフは,予想以上に宇宙線にたいす
計画の为要プログラムと密接に結びつけられた.
る興味を高めていたスターリンに宛てて,こうし
た方向性の科学的重要性とそれを公開することの
この「覚書」のなかで П.И.Э.А.Я という略称で
示された,原子核エネルギー利用問題解決の一般
著しい望ましさについて書き送った [同上,
的プログラムのなかには,このふたつのプログラ
pp.409-415, 450-452]
.政府は 2 年ほど間の間,秘
密性の問題を脇に置きつつ,この研究を支援した
ムは統合されている.一方では,ほとんどすべて
の自然科学,医学,農学,技術が原子力開発計画
[同上,pp.136-138]
.
に関連した研究からみずからの発展のための新し
「日記(1 月 25 日記入)
」のなかでヴァヴィロ
フは,スターリンが彼との会談のなかで「科学の
い刺激を,つまり,独特な科学・技術の「核エネ
ルギー的物理学化」
の発展をえることができたし,
強化,そのための重要な基盤の拡大に関する重大
そうならなければならなかった.他方では,核エ
な指示を与えた」
,スターリンは「物理学的・化学
ネルギーの領域に他の諸科学を引き入れること,
的」方向性「を支持し」たが,この会話は「科学
つまり,原子力開発計画にみる集約的な科学全
55
般・技術全般にわたる政策は開発計画そのものに
の技術,医学,および生物学における利用に関す
とって都合の良いことに,为要な核兵器開発の諸
る科学研究活動の発展について」が採択され,ス
課題にも役立つことができるのである.その中で
ターリンが署名した[文献 5.pp.93-97]
.そのな
ヴァヴィロフが数学,物理学のすべて,化学,天
かでは,エス・イー・ヴァヴィロフが提案した“平
文学,地球物理学,地球化学,生物学,医学,農
和のための原子”に関する,科学アカデミー諸機
学,そして技術さえ包含することを手短に検討し
関と(それよりは尐ないが)省庁のための研究計
た「覚書」の全般的な考え方はこのようなもので
画を確認されていた.テーマ・リストはふたつの
あった.ヴァヴィロフはこのことについて,
「原子
付録に分けられていて,ひとつ目には秘密裏に行
核エネルギーの利用問題(П.И.Э.А.Я)は,その
われるテーマ(17 件)が,ふたつ目には公開テー
正しく,かつ急速な発展のためには,孤立して研
マ(13 件)が載せられていた.ここで述べておく
究をしているわけにはゆかないのである.そのた
と,秘密テーマの 3 分の 2 は生物学と医学に関す
めには,自然科学と技術の多くの分科を引き入れ
るもので,公開テーマの 3 分の 2 が物理学,工学
る必要がある」と書いている[文献 3.p.491]
.
のテーマであった.
つまり,П.И.Э.А.Я はまず原子力開発計画の実
この布告に沿って,
(公開のものも,秘密のもの
現に振り向けられなければならない.そして,さ
も含めて)
“平和のための原子”に関する研究を指
らに「まず何よりも,焦眉の課題として,数学を
動員し,再編するべきである.…(中略)…アメ
導することになっていたソ連邦科学アカデミー総
裁附属学術会議の設立が予定されていた.アカデ
リカにおける П.И.Э.А.Я の成功はかなりの程度
ミー会員エス・イー・ヴァヴィロフ(議長)
,物理
『数学機械』に負っているという証拠もある」
[同
学者でアカデミー会員のデー・ヴェー・スコベー
上,p.492]
.数学との関連では,ヴァヴィロフは
リツィン,物理化学者でアカデミー会員のアー・
100%正しかったことが証明された.ソ連邦原子
エヌ・フルームキン,化学者でアカデミー会員の
力開発計画にタイミング良く数学者を動員したこ
とで,最初の原爆実験までの半年で核爆発のエネ
アー・エヌ・ネスメヤーノフ,生理学者でアカデ
ミー会員のエリ・アー・オルベリ,生物学者(植
ルギー発生と有効な反応の計算が望ましいかたち
物生理学分野の専門家)エヌ・アー・マクシーモ
で行われたのである.そして,もちろん,原子力
フ,物理学者でアカデミー通信会員のイー・カー・
開発計画の諸課題は電子計算機に関する研究を刺
キコイン
(第 1 総管理部科学技術協議会メンバー)
,
激し,それは 1954 年から(原子力開発計画の枠
生物物理学者・教授のゲー・エム・フランクをメ
内だけでなく)集中的に利用され始めることにな
ったのである.事情は他の科学・技術の諸方面に
ンバーとするその構成も提案されていた.この布
告はクルチャートフとヴァヴィロフによる“平和
ついきても同様であって,それらを原子力開発計
のための原子”プログラムの組織的な形成を確実
画にあれこれの段階で引き入れたことは,計画に
とっても,そうした諸分野自身にとっても有益で
にし,最初の国産原爆の実験にいたるまでの 2 年
半よりも長い間にわたる活動を開始したのである.
あった.このような研究には追加的に約 15 カ所
の科学アカデミーの諸研究所といくつかの工業諸
部門所属の科学研究所(有機化学研究所,エネル
文献
ギー研究所,生物学関係の諸研究所,中央空気流
[1]. Вовуленко В. “Вступительная статья” //Дж. Аллен.
体力学研究所,国立光学研究所,全連邦電気工学
研究所など)を動員することが前提されていた.
«Атомная энергия и общество». М., 1950. С.5-19
秘密性とコーディネーションの問題に関する合
[2]. «К истории мирного
意がなされたあと,12 月 16 日になって,最終的
использования атомной
энергии в СССР. 1944-1951 (Документы и
に,ソ連邦政府布告「原子核研究と核エネルギー
56
материалы)». /Отв. ред. В.И.Сидоренко. Сост.
Л.И.Кудинова, А.В.Щегельский. Обнинск: ГНУ
«ФЭИ». 1994, 184 с.
[3].
«Атомный
проект
СССР:
документы
и
материалы». В 3-х Т. Под ред. Л.Д.Рябева. Т.П.
Кн.2. Отв. сост. Г.А.Гончаров. М.- Саров: Наука –
ВНИИЭФ. 2000, 640 с.
[4]. Вавилов С.И. «Дневники». Т.2. М.: Наука. 2011 (в
печати)
[5].
«Атомный
проект
СССР:
документы
и
материалы.» В 3-х т. / Под ред. Л.Д.Рябева. Т П, кн.3.
Отв. сост. Г.А.Гончаров. М.- Саров: Наука –
ВНИИЭФ. 2002, 896 с.
57
くつか,卖に創作されただけのものもある.たと
Ⅹ.
えば,1941 年 3 月 26 日のスターリンとアー・エ
ス・ヤコヴレフとの会見「速記録」は作家,ヴェ
スターリンの応接室を訪ねた科学者たち
ー・ジュフライが創作したものであるにもかかわ
らず,なんのためらいもなく,彼の本からスター
コンテタンチン・アレクサンドロヴィッチ・トミーリン
リン選集のある巻に転載されている(3))
,3)その
他の情報源はないが,訪問記録ノートで確認でき
(市川 浩訳)
る会見(こうした会見のなかには,あれこれの科
学者との実際におこなわれた会見,そして公刉に
イー・ヴェー・スターリンを訪ねた人物の訪問
記録ノート(1)が公刉されたことで,彼がだれそれ
携わった編集者が同姓の訪問者と混同した想像上
の人物と会ったことが文書記録によって裏付けら
リンの 1940 年のアー・エフ・ヨッフェとの会見,
れ,とくに,彼のいろいろな職業のグループや科
1943 年のエス・イー・ヴァヴィロフとの会見など
学者とのコミュニケーションについて分析するこ
がある)
.
の会見がある.後者の例には,たとえば,スター
とができるようになった.しかしながら,この文
予想されたことではあるが,基本的にスターリ
書館資料は,原則として,イニシァル抜きで訪問
者の苗字のみを記載しているので,事前に個人の
ンは差し迫った課題の解決のために,さまざまな
党・ソヴィエトの活動家と会見していたのであり,
特定が必要となる.このため,公刉に関わった編
訪問者のなかで科学者が占める割合は 1%程度で
集者たちの手でかなりの調査がおこなわれたが,
ある.スターリンが引見した科学者は次のいくつ
誤りは逃れられていない.2008 年,訪問記録ノー
かのグループに分類できる.1)基本的にはマルク
トを 1 冊の本のかたちにして再刉する際,かなり
ス为義派の人文科学者,つまり哲学者,歴史家,
の程度こうした誤りは訂正されたが,この本の分
析が示すように,誤って特定された個人の例はま
経済学者,2)兵器の設計者,つまり,細菌兵器・
化学兵器,銃器・砲兵装備,戦車,航空機,エン
だ多く残されている.スターリンとの会見を伝え
ジン,戦後はそれに加えて,核兵器の開発者,3)
る情報源は,それぞれの特徴との関連で,次のよ
うなグループに分けることができる.1)回想録,
ソ連邦科学アカデミー,ヴェー・イー・レーニン
日記,文書といったその他の情報源で確認できる
アカデミーの指導者.
会見(スターリンの,1944 年のヴェー・エリ・コ
マロフとの会見,
1946 年のクルチャートフとの会
最後に,会見のタイプに応じて,次のような分
類が可能である.1)責任ある人民委員部職員が陪
見,1946 年と 1949 年のエス・イー・ヴァヴィロ
席した設計者との会見(こうした会見では,あれ
フとの会見,1948 年のテー・デー・ルィセンコと
の会見などがそれにあたる)
,2)訪問記録ノートに
これの兵器開発のより一層正しい戦略が検討され,
さまざまな視点から意見が述べられた)
,2)あれこ
はないが,当該科学者や彼に近しかった人物の回
れのプロジェクトの指導にあたっていた科学者と
想という,その他の情報源に情報がある会見(ス
ターリンの,1939 年のエヌ・イー・ヴァヴィロフ
の初期の会見
(1939 年の航空機設計家たちとの会
見,1943 年のアー・イー・ベルグとのレーダーに
との会見,
1943 年のアー・イー・ベルグとの会見,
関する会見,1947 年のエス・ぺー・コロリョフと
1947 年のエス・ぺー・コリョロフとの会見がそれ
にあたる.これは,スターリンがクレムリンにあ
のロケット兵器に関する会見)
,3)スターリンが具
体的な指示を与えた科学者との会見(たとえば,
る自分のオフィスのみならず,その他の場所でも
1946 年のイー・ヴェー・クルチャートフ,エス・
かれこれの人物と会見していたことで説明される.
イー・ヴァヴィロフとの会見)
,4)一般に,政治
しかし,この種の情報源は不正確さを免れず,い
的,あるいは経済的意義をもつ諸問題について決
名称全連邦農業科学アカデミー,ウクライナ科学
58
定をおこなうための構想に関して実施された,科
1933 年 2 月 3 日,
『内戦の歴史』刉行との関連
学組織指導者との会見
(1945 年科学アカデミーの
で,歴史家のイー・イー・ミンツと会見.もうす
祝賀行事に関する問題の決定のために 1944 年に
ぐ戦争がはじまる時期に,スターリンは,非マル
おこなわれた,科学アカデミー総裁ヴェー・エリ・
クス为義歴史家のひとり,アカデミー会員イェ・
コマロフとの会見,
『ソヴィエト大百科事典』への
ヴェー・タルレを自分のオフィスに招いている.
「全連邦共産党(ボリシェヴィキ)
」項執筆に関す
会見は,外交官ヴェー・ペー・ポチョムキン(そ
る諸問題解決のために 1949 におこなわれた,エ
の時点ではロシア社会为義連邦ソヴィエト共和国
ス・イー・ヴァヴィロフとの会見)
,5)あれこれ
教育人民委員.その前は外務人民委員部次官であ
の弾圧の口実をつくる目的で行われた,ショーと
った)が同席して,1941 年 6 月 3 日,30 分にわ
しての会見(たとえば,マルクス=エンゲルス研
たっておこなわれた.
『外交史』出版の理念が話題
究所解体の要因となった,1931 年のデー・ベー・
となった.この出版はソヴィエトの歴史家たちの
リャザーノフとの会見)
.
手で 1941~1945 年に実現し,1942 年には,その
以下,いくつかの会見について述べておこう.
第 1 巻にたいしてイェ・ヴェー・タルレを含め,
1930 年 12 月 9 日,
スターリンは総計 12 名の,
エス・ヴェー・バフルーシン,アー・エリ・ナロ
赤色教授学院内全連邦共産党(ボ)細胞ビューロ
チニツキー,ヴェー・ペー・ポチョムキンら 9 名
ー・メンバー,および当該学院の哲学・自然科学
部聴講生と会見し,
「哲学戦線の状況,哲学のふた
の歴史家にスターリン賞第 1 席が与えられた.
1950 年には政治経済学の教科書作成に関連して,
つの戦線における闘争課題,およびレーニンの遺
経済学者,カー・ヴェー・オストロヴィチャーノ
産編集の不可欠性について」というテーマで話し
フと 3 回にわたり会見している.
兵器の設計者たち:スターリンは 1934 年以降,
合った.聴講生グループのなかには,スターリン・
イデオロギーのふたりの“使徒”
,ペー・エフ・ユ
兵器の設計者と活発に会見しはじめている.明ら
ージンとエム・ベー・ミーチンがいた.
1931 年 2 月 12 日,マルクス=エンゲルス研究
かに,
ドイツでファシズムが権力を掌握したあと,
ソ連邦における兵器の発達を自分で個人的にコン
所所長デー・ベー・リャザーノフとの会見.この
トロールしたくなったのである.まず誰よりも,
会見は悲劇的な性格を有している.チェキストの
航空機設計者のアー・エヌ・トゥポレフ
(その 1937
ヴェー・エル・メンジンスキーとゲー・イェ・プ
年における逮捕までに 7 回,1945 年以降,同じ
ロコフィエフも参加して,スターリンによるショ
く 7 回会見)
,アー・アー・アルハンゲリスキー,
ーが繰り広げられた.それに続いて,すぐその夜
にはマルクス=エンゲルス研究所の捜査,2 月 16
エヌ・エヌ・ポリカルポフ,エス・ヴェー・イリ
ューシン,ペー・オー・スホイ,ヴェー・アー・
日にはリャザーノフの逮捕,その全連邦共産党
チジョフスキー,アー・エス・ヤコヴレフ(おお
(ボ)とソ連邦科学アカデミーからの追放,サラ
トフでの収監,そして 1938 年には(スターリン
よそ 100 回(4))
,エス・アー・ラボチキン,ヴェー・
エム・ペトリャーコフ,エフ・ヴェー・ボルホヴ
の承認により)銃殺がおこなわれた.明らかに,
ィチャノフ,ペー・デー・グルーシン,ヴェー・
スターリンはマルクス=エンゲルス研究所がマル
クス为義哲学の分野で果たしていた世界を为導す
エム・ミヤシシチェフなど,続いて航空銃・砲装
備の設計者,ベー・ゲー・シュピタレン,砲兵装
る役割には満足せず,この分野における真理の独
備の設計者,エリ・ヴェー・クルチェフスキー,
占を志向したのである.
研究所は完全に解体され,
スターリンとの会見でも批判の対象となった捏造
エフ・エフ・ペトロフ(50 回以上)
,およびヴェ
ー・ゲー・グラービン,銃器設計者のヴェー・ア
された手紙を唯一の例外として,チェキストでさ
ー・デグチャレフとゲー・エス・シュパーギン,
え具体的な告発はできなかったが,それでも 243
戦車設計者のジェー・ヤー・コーチンとアー・エ
名の研究員のうち 131 名が免職となった.
ス・エルモラエフ,迫撃砲・ロケット兵器設計者
59
のベー・イー・シャヴィリン,航空エンジン設計
され,獄窓にほぼ 1 年を過ごした.ロケット装備
家のヴェー・エヌ・ドミトリエフスキー,アー・
の真の開発者は,
1991 年 6 月になってようやく,
デー・シュヴェツォフ,アー・アー・ミクーリン,
エム・エス・ゴルバチョフの指令により,反動科
ヴェー・アー・ドレジャーリ,装甲の専門家,ヴ
学研究所諸著イー・テー・クレイメノフ,ゲー・
ェー・エス・エメリヤーノフ,設計家のアー・イ
エ・ランゲマークら 6 名の技術者に「社会为義労
ー・ヌデリマン,暗視装置専門家のヴェー・イー・
働英雄」の称号が贈られ,顕彰された.
クラソーフスキー,造船分野の専門家,ベー・ゲ
1946 年 1 月 25 日,ヴェー・エム・モロトフ,
ー・チリキン,そして戦後となるが,核兵器の設
エリ・ペー・ベリヤが同席しての,イー・ヴェー・
計者たち,イー・ヴェー・クルチャートフ,ユー・
クルチャートフとの 50 分間(19:25~20:15)にわ
ベー・ハリトンなどと会見をもっている.次のよ
たる会見.この会見についてはクルチャートフの
うな会見に触れておこう.
メモがある(5).会見においてスターリンは「幅広
1935 年 3 月 8 日,軍事生化学者,イー・エム・
く,ロシア人の豪胆さでもって」原子力開発計画
ヴェリカノフ教授(モスクワ州ヴラシフ村にあっ
をすすめるよう,そして,ドイツ人を含め,さら
た労農赤軍生化学研究所長で,のち 1937 年に弾
に多くの要員を計画に引き入れるよう指示を出し
圧を受ける)
,イェ・イー・デミホフ(細菌兵器と
た.スターリンはヨッフェ,アリハーノフ,カピ
ワクチンの発明者)
,ゲー・ユー・ヤッフェ(この
研究所の研究員)と会見.会見はエム・エヌ・ト
ッツアとヴァヴィロフといった物理学者に関する
クルチャートフの意見に関心をしめした
(
「誰のた
ゥハチェフスキーと労農赤軍化学管理部長の陪席
めに働き,その活動は何に向けられているのか?
のもとにおこなわれ,休憩をはさんで 6 時間以上
―― 祖国のためか,そうではないのか?」
)
.クル
に及んだ.
チャートフとの会見の直後,スターリンとエス・
1939 年 6 月 20,21 日,航空機設計家,イリュ
イー・ヴェヴィロフとの 1 時間におよぶ会見がお
ーシン,アルハンゲリスキー,ポリカルポフ,ス
ホイ,ヤコヴレフ,ボルホヴィチャーノフとの 2
こなわれた.
1947 年 1 月 9 日,一群の原子核物理学者と原
日にわたる会見.会見はこれら航空機設計家ひと
子力開発計画の組織者 ―― エリ・ペー・ベリヤ,
りひとりと 15~35 分間ずつ個別におこなわれ,い
エム・ゲー・ペルヴーヒン,ヴェー・アー・マル
く人かは 1 日のうちに 2 回呼び出された.会見に
ィシェフ,ヴェー・アー・マフニョフ,ベー・エ
は空軍の指導者,航空機工場の工場長や設計技師
リ・ヴァンニコフ,アー・エス・エリャン,イー・
も同席した.アー・エヌ・トゥポレフ,ペトリャ
ーコフ,ミヤシシチェフ,その他一連の航空機設
カー・キコイン,ユー・ベー・ハリトン(記録で
はハリトーノフとされている)
,デー・ヴェー・エ
計家は、当時第 29 中央設計ビューロー内に監禁
フレーモフ,アー・ペー・ザヴェニャーギン,ペ
されていた.
オルシャにおける《カチューシャ》応用の成功
ー・エム・ゼルノフ,イー・ヴェー・クルチャー
トフ,エリ・アー・アルツィモーヴィッチ,エヌ・
から2週間後,
1941年7月28日におこなわれた,
アー・ボリソフ,アー・エヌ・コマロフスキー ―
この新しいロケット兵器の“ニセの父”
,ヴェー・
ヴェー・アボレンコフ,アー・ゲー・コスチコフ
― との,ほぼ 3 時間にわたる会見.ヴェー・エ
ム・モロトフ,ゲー・エム・マレンコフとエヌ・
との 45 分間(16:35~17:20)におよぶ会見(本当
アー・ヴォズネセンスキーが同席した.会見は,
はこの新しい種類の兵器は,
1938 年に銃殺された
为任技師ゲー・エ・ランゲマークの指導下,反動
1946 年12 月における実験原子炉Ф-1 の開発成功
のあと,実用原子炉と原子爆弾開発の方向性を一
科学研究所の技術者グループが開発したものであ
致させようとした,イー・ヴェー・スターリンの
った)
.アー・ゲー・コスチコフ自身もジェット機
提案にそって進められた.
検討課題のリストには,
開発計画の頓挫の責任を問われて,
1944 年に逮捕
原子力利用に関する科学研究活動の状況とウラン
60
-黒鉛炉の建設(クルチャートフ)
,ウランの同位
の会見であろう.
1943 年 11 月 13 日,ヴェー・エリ・コマロフ
体分離のための拡散的方法
(キコイン,
エリャン)
,
電磁的方法(アルツィモーヴィッチ,エフレーモ
との会見.この会見において,コマロフはスター
フ)
,ウラン鉱石,トリウム鉱石の採掘(ヴァンニ
リンから 1945 年における科学アカデミーの記念
コフ)
,爆弾組み上げに関する作業の経過(ハリト
日と地理学協会100周年を祝賀することについて
ン,ゼルノフ)
,重水に関する作業の現場(ペルヴ
支持を取り付けた.まさにこの会見において,自
ーヒン)
,ドイツ人専門家の利用(ザヴェニャーギ
然科学史研究所の設立に関する課題が決定された.
ン)が挙げられていた.
会見では速記録がとられた(7).
1948 年 3 月 9 日,ロケット兵器の为任設計技
1946 年 1 月 25 日,イー・ヴェー・クルチャー
師,エス・ぺー・コロリョフとの会見.会見には,
トフとの会見(20:25~21:30)の直後,ヴェー・
他に 9 名の全連邦共産党(ボ)政治局員,軍と軍
エム・モロトフ,エリ・ペー・ベリヤが同席して
産複合体の指導的幹部,そして,ソ連邦閣僚会議
おこなわれたスターリンとエス・イー・ヴァヴィ
附属ロケット装備特別委員会の副議長,イー・ゲ
ロフとの会見.ヴァヴィロフはこの会見に関する
ー・ズボヴィッチ,ポドリプキにあった第 88(ロ
メモを自身の総裁業務日誌(8)に残している.スタ
ケット装備)科学研究所の所長エリ・エル・ゴノ
ーリンは宇宙線に関する科学アカデミーの研究
ールが同席していた.このほぼ 1 年前の 1947 年
4 月 14 日,スターリンは,国産の長距離ロケット
(当時は原子力開発計画の一部)とそれにふさわ
しいパミールやカフカーズでの高山観測所の建設,
を開発する決定がなされた政府の会議の直後,初
若い科学者の海外派遣,科学者の生活の改善,労
めてエス・ペー・コロリョフと会った.エス・ペ
働時間の短縮,その他の問題について賛成した.
ー・コロリョフは 1963 年になって,タス通信社
スターリンは計測・制御機器製造人民委員部(ソ
の記者,アー・ペー・ロマノフからインタビュー
連邦迫撃砲人民委員部を基礎に 1946 年 2 月 17
を受けて,この出会いについて語っている.会見
は、たぶん,いつもとは別の場所でおこなわれた
日に設立された)設立についても同意を与えた.
ヴァヴィロフは日記にスターリンが述べた言葉を
のであろう.この日のクレムリンの執務室訪問者
書き入れている ― 「天才などいない.それはつ
のなかにコロリョフの名前はない.
くられるものだ.良い条件のもとに良い仕事もで
1953 年 1 月 22 日,モスクワを取り囲む高射ロ
きる,ということだ」―(ここには,一見して,
ケット地帯の設計者たち,すなわち,第 1 特別ビ
彼のラマルキスト的見解が現われているようだ)
.
ューロー为任設計技師のペー・エヌ・クークセン
コとエス・エリ・ベリヤ,ソ連邦閣僚会議第 3 総
よく知られているように,
この会見の後まもなく,
スターリンは「科学にみずからの力を拡張する可
管理部長官ヴェー・エム・リャビコフ,次官で無
能性をあたえうる,あらゆる種類の科学研究所を
線物理学者のアー・エヌ・シチュキン(のち科学
アカデミー会員)との会見.
広範に建設すること」を为張し,
「わたしは,わが
国の科学者に必要な援助を与えれば,彼らはごく
科学組織の指導者たち:スターリンはソ連邦科学
近いうちに外国の科学を達成に追いつき,追い越
アカデミー総裁のヴェー・エリ・コマロフ,エス・
イー・ヴァヴィロフ,ウクライナ科学アカデミー
すことができるであろうことに何ら疑いをもって
いない」と,ソヴィエトの科学者にたいして課題
総裁,アー・アー・ボゴモレッツ,そして全連邦
を提起した(9).
農業科学アカデミー総裁,テー・デー・ルィセン
コと何度か面談している.スターリンはカルピン
1949 年 7 月 13 日,スターリンとエス・イー・
ヴァヴィロフとの会見.そこでは,科学アカデミ
スキーとは会っていないし,ネスメヤーノフとは
ーの活動と『ソヴィエト大百科事典』刉行に関す
彼が科学アカデミー総裁に選ばれる以前に会って
る,かなりの数の諸問題が決定された.会見には
いる.こうしたなかで,もっとも重要な会見は次
ヴェー・エム・モロトフも同席した.エス・イー・
61
ヴァヴィロフは自身の個人的な日記のなかでスタ
われわれが指摘した不正確さのなかには,訪問
ーリンの応接室で審議された問題のすべてを数え
記録の公刉にあたって附せられた注のなかでスタ
上げ,のちほど『ソヴィエト大百科事典』の編集
ーリンが 1940 年にアー・エフ・ヨッフェと,1943
にかかわる部分を速記録にしている.スターリン
年 4 月にエス・イー・ヴァヴィロフと会ったとさ
は,科学アカデミーの接点に関連したすべての案
れている問題がある.事実として訪問記録のオリ
件に賛同した.例外は,アー・ヴェー・シューセ
ジナルにイニシャルが欠けていたので,
この場合,
フの設計によるソ連邦科学アカデミー幹部会の建
公刉にあたった編集者たちは間違って人物を特定
物を建設するという案件であった.会見では,エ
したのである.つまり,これらの会見は同姓の別
ス・イー・ヴァヴィロフはさらに,
『ソヴィエト大
人のものであるということである.1949 年 10 月
百科事典』に「全連邦共産党(ボリシェヴィキ)
」
10 日の会見は,参加者の職業構成から判断すると,
の項目を執筆するように問題提起をおこない,
『全
航空機製作のためのもので,彼らのなかにアー・
連邦共産党(ボリシェヴィキ)史の概略』を事典
エフ・ヨッフェがいるはずもなく,いたのは空軍
の 1 項目として再刉することを提案した.スター
为任技師のゼー・アー・ヨッフェだったというの
リンはこの案を拒否し,ヴァヴィロフに全連邦共
が論理的に導き出される結論である.1943 年 4
産党(ボリシェヴィキ)が近々ソ連邦共産党に改
月 15 日の会見は,やはり参加者の職業構成から
名されることを伝えた.その結果,
『ソヴィエト大
百科事典』第 8 巻には,
「全連邦共産党(ボリシ
みて軍事諜報活動をテーマとしたもので,ヴェ
ー・エス・アバクーモフ,その他の軍事諜報機関
ェヴィキ)
」
の項目のかわりに,
卖に将来の項目
「ソ
の指導者が出席しているので,訪問者が 5 つの戦
連邦共産党」に関する予告が掲載されるだけとな
線の諜報機関の長であったことは明確に言えるこ
った.1952 年における実際の党名改称のほぼ 1
とである(訪問記録の出版にあたって彼らは間違
年前のことであった(10).
って特定され,苗字のうちひとつは読み間違えら
遺伝学が壊滅された全連邦農業科学アカデミー
の,その悲劇性において有名な総会の数日前にあ
れてさえいる)
.
他の軍事史資料から明らかなよう
に,この会見はナチス国防軍の夏の攻勢に向けた
たる 1948 年 7 月 27 日,スターリン,および他の
軍事諸計画に関する諜報活動で入手した情報の分
政治局員とテー・デー・ルィセンコとの 2 時間に
析をテーマとするものであった.エス・イー・ヴ
およぶ会見(22:10~0:15)がおこなわれた.会見
ァヴィロフがこの会見にいなかったことは明白で
でスターリンはルィセンコの予定されていた報告
あり,いたのは,このときは中央戦線の諜報課長
のテキストに自分の意見を書き入れて本人に返却
したが,それらの意見の本質は,科学にたいする
で数日後には諜報活動総管理部次官に任命される
ことになるペー・エヌ・ヴァヴィロフ中将である.
“古典的な”アプローチに替えて,
“唯物論的な”
かくして,1932 年にスターリンが物理学者,ユ
科学/“観念論的な”科学の区分を为張するもの
であった(
“観念論的な”という呼び方で遺伝学は
ー・アー・クルトコフと会見したというのも疑わ
しく思われる.というのは,一連の参加者は鋼鋳
理解されていた)(11).1 ヶ月後,8 月 31 日にもス
造工業を代表しており,いく人かは特定されてい
ターリンとルィセンコとの 30 分間にわたる会見
(20:25~21:00)がおこなわれたが,政治局員も 5
ないからである.
上述の諸会見がスターリンと科学者の会見のす
名同席していた.
べてであるわけではない.科学者の回想やその他
このほか,スターリンは科学者で科学啓蒙家の
オー・ユー・シュミット(1934 から 1938 年に 11
の文書記録から明らかなように,会見は政府の会
議(人民委員会議,閣僚会議)
,全連邦共産党(ボ)
回)
,海洋学者でポピュラー・サイエンティストの
中央委員会政治局(12),ソ連邦国家防衛委員会(戦
ペー・ペー・シルショフ(1940 から 1947 年に 5
時には)
,スターリン賞委員会,クレムリンでの集
回)と会見している.
団謁見との関わりでもおこなわれたのである.さ
62
らに,スターリンと科学者とのコミュニケーショ
(10).
Андреев
А.В.
“Встреча
С.И.Вавилова
с
ンは直接電話(砲兵装備設計者のグラビン,航空
И.В.Сталиным. 13 июля 1949 г. // Там же.
機設計者のヤコヴレフ,歴史家タルレへの電話の
С.696-698.
ように)することによっても実現されていたので
содержания его беседы с И.В.Сталиным о
ある.
Большой Советской Энциклопедии 13 июля 1949
Изложение
С.И.Вавиловым
г. Комм. и подг. текста к публ. А.Д.Черняева //
«Отечественные архивы». 1992. №3. С.62-64.
(1). «На приеме у Сталина. Тетради (журналы) записей
(11). “Из истории борьбы с лысенковщиной” /
лиц, принятых И.В.Сталиным (1924-1953 гг.).
Публикация В.Есакова, С.Ивановой, Е.Левиной //
Справочник». / Научный редактор А.А.Чернобаев.
Изв. ЦК КПСС. 1991. № 7. С. 109-121. Россиянов
М.: Новый хронограф, 2008. 784 с.
Первая
К.О. “Сталин как редактор Лысенко” // «Вопросы
публикация: Исторический архив, 1994(6)-1997(1),
философии». 1993. №2. С.56-69. Есаков В.Д.
алфавитный указатель: 1998(4).
“Новое о сессии ВАСХНИЛ 1948 года //
(2). Сталин И.В. “Беседа с А.С.Яковлевым 26 марта
«Репрессированная наука». СПб.: Наука, 1994.
1941 года”// Сталин И.В. «Cочинения». Т. 15. М.:
С.57-75.
Изд-во "Писатель", 1997. С.12–19.
(12). «Академия наук в решениях Политбюро ЦК
(3). Рокитянский Я.Г. “Из биографии академика Д.Б.
Рязанова:
разгром
Института
К.Маркса
РКП(б)-ВКП(б)-КПСС».
и
В.Д.Есаков. М.: РОССПЭН, 2000. 591 с.
Ф.Энгельса (март 1931 г.) ” // «Отечественные
архивы». 2008. № 4. С.10-23.
(4).
Яковлев
А.С. «Цель
авиаконструктора)».
жизни
Изд.
3-е
(записки
доп.
М.:
Политиздат, 1972.
(5). Смирнов Ю.Н. “И.В.Курчатов и власть // «ВИЕТ».
2003. №1. С.31-52.
(6).
«Атомный
проект
СССР:
Документы
и
материалы» / Под общей ред. Л.Д. Рябева Т.II.
Кн.1.
М.:
Саров:
РФЯЦ-ВНИИЭФ,
1999.
С.629-633.
(7).
“О
встрече
академика
В.Л.Комарова
1922-1952.
с
И.В.Сталиным.” Публ. В.Д.Есакова // «Вестник
РАН». 2005. №3. С.256-259.
(8). Кривоносов Ю.И. ''Президентский журнал –
ежедневник''' С.И.Вавилова (1945-48 и 1951 гг.) //
«ИИЕТ РАН. Годичная научная конференция,»
2006. М.: Анонс-Медиа, 2006. С.701-709.
(9). Сталин И. «Речь на предвыборном собрании
избирателей Сталинского избирательного округа г.
Москвы. 9 февраля 1946 г.», М., ОГИЗ, 1946.
63
Сост.
ロシア科学アカデミー付属文書館を利用するに
ⅩⅠ.
は,何らかの研究機関の紹介状が必要である.私
の場合は,今回の科研プロジェクトに全面的な援
ロシア科学アカデミー文書館訪問記と遺伝学研
究所に関する若干の考察
助を与えてくれている自然史・技術史研究所(ユ
ー・エム・バトゥーリン所長)が紹介状を発行し
てくれた.モスクワを訪れる数週間前に,私のプ
藤岡 毅
ロフィールや研究目的に関する情報をモスクワ在
住の日本学術振興会特別研究員の金山浩二氏を通
じ,同研究所のラリッサ・ペトローヴナ国際部長
にお送りしておいたので,モスクワ到着時に紹介
1.訪問の目的
状を受け取ることができた.
昨年 9 月 19 日から 25 日までの 1 週間,私は科
研プロジェクト「 “科学の参謀本部”―ロシア/ソ
モスクワ到着の翌日,市川氏の案内で,地下鉄
連邦/ロシア科学アカデミーの総合的研究―」
(研
(メトロ)のプロフソユーズナヤ(профсоюзная)
究代表者-市川浩)の研究協力者としてモスクワ
駅から徒歩 10 分程度のロシア科学アカデミー付
およびサンクトペテルブルグへ出張旅行する機会
属文書館を訪れた.
紹介状はすでに自然史・技術史
を得た.訪問先は,ヴァヴィロフ名称ロシア科学
アカデミー自然科学史・技術史研究所(Института
研究所から届いており,通行証を発行していただ
いた.ヴェ・ユー・アフィアニ館長に挨拶した際,
истории
им.С.И.
同文書館のリーフレットとともに 20 年代から 30
Вавилова Российской Академии наук)のモスクワ
年代にかけて活躍した旧ソ連の遺伝学者の人物像
本部およびサンクトペテルブルグ支所,ロシア科
をまとめた小冊子をいただいた(2).この小冊子に
学アカデミー文書館(Архив Российской Академии
は,当時のソ連を代表した遺伝学者のエヌ・イー・
наук)
,ロシア植物栽培研究所付属ヴァヴィロフ記
念室(Мемориальный кабинет-музей Н.И.Вавилова
ヴァヴィロフ,多くの遺伝学者を輩出した実験生
物学研究所の創始者エヌ・ケー・コリツォフ,ロ
во Всероссийском НИИ растениеводства)であった.
シア遺伝学の創始者の一人ユー・アー・フィリプ
わずか 1 週間のロシア滞在でこれだけ訪問するの
はかなりの強行軍だったが,それゆえに充実した
チェンコ,総合説の先駆となった野外集団遺伝学
ものでもあった.なお,ロシア訪問は私にとって
伝学者のアルヒーフ史料が紹介されており,ソ連
はじめての体験であった.
今回のロシア訪問の为要な目的は次の 2 点であ
遺伝学史を研究するものにとってきわめて貴重な
ものであった.この冊子の編集者は館長のアフィ
った.1 つはロシア科学アカデミー文書館で 1940
アニ氏であり,自身でコリツォフに関する論文も
年前後の遺伝学研究所に関する調査を行うことで
あり,2 つ目は昨年 9 月に上梓したばかりの私の
寄せている.
アルヒーフ(АРХИВ)と呼ばれるロシアの文書
著書『ルイセンコ为義はなぜ出現したか』(1)をこ
館の歴史は古く,ロシア科学アカデミー文書館は
の分野の先達ですぐれた業績を残しているロシア
人科学史家に贈呈し,彼らと交流することであっ
科学アカデミーの会議記録を残すため,
1728 年に
ピョートル 2 世の命令によりサンクトペテルブル
た.以下に今回の訪問の状況と得られた成果につ
グで開設された.文書館のシステムはヨーロッパ
いて報告する.私にとってロシアの公文書館訪問
ははじめての体験だったので,ところどころ私の
がその発祥地とされているが,ヨーロッパのシス
テムを取り入れたロシアではその後,社会为義時
感想も記させていただいた.
代を含め独自に高度な発展を遂げ今日に至ってい
естествознания
и
техники
のエス・エス・チェトヴェリコーフ等,多くの遺
る.ソ連末期のペレストロイカの時期からアルヒ
ーフは公開されるようになり,
世界中のソ連・ロシ
2.ロシア科学アカデミー文書館訪問
64
ア史研究者が殺到するようになった.
を記すことになっているようだった.それぞれの
話は戻るが,文書館への第 1 日目の訪問の目的
記録用紙を見ていると誰がいつどの史料を読んだ
は,通行証の発行などの諸手続きのほかに,閲覧
かということ自体が記録されており,史料を基に
する史料の発注である.訪問初日でいきなり史料
研究者が発表する論文や著作の裏づけを与えるシ
を見ることはできない.見たい史料を発注してお
ステムになっているのではないかと思われた.た
き,数日後再訪問して準備してくれた史料を閲覧
とえば,ソ連史のある出来事に対してアルヒーフ
するのである.科学アカデミーのアルヒーフ史料
に基づいて書かれた論文が発表されたとする.し
は部門ごとのフォンド(Фонд)に集約されている.
かし,その論文の著者が本当に直接アルヒーフ史
そのフォンド内の全ファイルは,オーピシ
料に目を通したか,孫引きを含め別の手段による
(Опись)と呼ばれる目録に記載されている.史
ものかどうかは厳密にはわからない.しかし,も
料の発注は,このオーピシの中から見たいファイ
し著者のサインがアルヒーフの当該史料のメモに
ル(ジェーロという)を選んでそのタイトルを発
残されているなら,その著者が直接文書館で史料
注書に記入して完了する.今回の私の訪問では,
にアクセスした証拠となるだろう.実際,文書館
1940 年前後の遺伝学研究所にターゲットを絞り
を利用して論文や著書を出版した場合,それらを
調査する予定だったので,遺伝学研究所のフォン
文書館に寄贈する慣わしになっているらしい.文
ド(Фонд.201)のオーピシ No1 の中から遺伝学研
究所の 1940 年前後の活動報告や速記録のファイ
書館側はアルヒーフ利用者の利用状況を掌握し検
証できるのであるから,文書館のシステムは,ロ
ルを選んで発注した.文書館でのこの日の作業は
シア・ソ連史に関する諸著作の信頼度を保証して
これですべてだったが,それでも 1 時間以上かか
いるように思われた.自然科学の分野では,自然
った.
が与える膨大な観察や実験のデータを基にさまざ
翌々日,再度文書館を訪問すると,担当のイリ
まな仮説の検証が行われる.提出された理論や解
ーナ・ゲオルギエヴナ・タラカーノヴァさんが,私
の注文したすべてのジェーロを準備してくださっ
釈は再現性のあるデータによって保証されなけれ
ば意味を持たない.歴史研究においてもある歴史
ていた.文書館の開館時間は午前 10 時から午後 5
的事実の確認や解釈において多くの仮説が提起さ
時までなので,いつも朝食をたくさん取り,昼食
れる.こうした歴史解釈としての仮説は,膨大な
抜きで 7 時間ぶっ続けで閲覧と抄録の作業をして
史料群からの裏づけが必要だが,ロシアのアルヒ
いるとのアドバイスを市川氏がしてくれていたが
ーフのシステムは歴史学を科学として成り立たせ
なるほどと思った.こぢんまりとした閲覧室には
調査・研究のために文書館を訪れた研究者と思し
るうえで非常に優れたシステムとなっているよう
に思えた.
き人たちが,ひたすらワープロに閲覧内容を打ち
以上のようなことを感じながら,ワープロを持
込むという作業を続けていた.無言の部屋でワー
プロのキーをたたく音だけが響いていたことが印
ってこなかった私は,めぼしい箇所をひたすら筆
記し続けた.さらに翌々日 3 度目の文書館訪問を
象的であった.1 つ 1 つ番号が記されたジェーロ
行ったが,短期間のロシア滞在だったためそれが
は,厚めの紙の表紙をつけて綴じられていた.お
そらくルイセンコやヴァヴィロフらが直接手にし,
最後の訪問となった.最後の時間が来るまでひた
すら筆記を続け,
指が痛くなったのを覚えている.
書き込みを加えたりしたであろう文書群を前にし
て,私は尐なからず興奮を覚えずにはいられなか
った.1 つのジェーロごとに記録用紙が収められ
3.遺伝学研究所の経緯と 1940年前後の遺伝学研究
所に関する調査の狙い
ており,利用者の名前と利用目的,また,閲覧し
1913 年のペテルブルク大学でユー・アー・フィ
ただけかメモを取ったかということも記入するよ
リプチェンコが遺伝学の連続講義を始めたことに
うになっていた.メモをとった場合は該当ページ
よりロシアで遺伝学研究が始まった.ロシア革命
65
以後の 1918 年,フィリプチェンコは「遺伝学およ
た状況の中で,トロフィム・ルイセンコとその支
び実験動物学実験室」をペテルブルク大学に創設
持者たちが「春化処理」という農業技術上の成功
した.同じころモスクワでもエヌ・ケー・コリツ
を梃子に台頭し,ヴァヴィロフらの遺伝学者と対
ォフによって「実験生物学研究所」が設立され,
抗するようになった.彼らは広大なソ連のさまざ
モスクワにおける遺伝学研究の中心となった.フ
まな気候条件に適した穀物の品種を政権の要求す
ィリプチェンコとコリツォフは協力して 1925 年
る短期間に作り出すことを約束し,スターリン自
に『実験生物学雑誌』を創刉し,以来モスクワと
身を含めスターリン政権内で支持を広げていった.
レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)
世界中を遠征し,栽培植物のさまざまな品種を集
の遺伝学研究は一体となって進みソ連遺伝学派を
め,品種改良に役立てようと努めていた遺伝学者
形成した.20 年代後半から 30 年代初めにかけ,
のやり方に対し,ルイセンコ为義者たちは,発育
ソ連遺伝学派はチェトヴェリコーフの野外集団遺
のそれぞれの段階で適当な環境条件にさらして置
伝学やエヌ・イー・ヴァヴィロフの栽培植物の起源
けば新しい品種が生み出せると为張した.彼らは
に関する理論など,世界の遺伝学界をリードする
遺伝学者の方法は無駄で,遺伝学理論はブルジョ
存在となった.1920 年代後半にアメリカのモルガ
ア的観念論であり遺伝子など存在しないと批判し,
ンの研究室に渡り,のちに『遺伝学と種の起原』
獲得形質の遺伝にもとづく独自の遺伝理論を展開
を著し,総合説の創始者の中心人物とみなされて
いるテオドシュウス・ドブジャンスキーがソ連遺
した.
ルイセンコ为義者と遺伝学者の初期の論争は理
伝学派の一員であったことを思い起こせばその水
論上の問題を含むものであったが,1937 年の大粙
準の高さは想像に難くないだろう.
清以降,論争の性格は変わり,ルイセンコ为義者
フィリプチェンコの実験所を母体に,1930 年に
は遺伝学者を「人民の敵」として政治告発し,遺
ソ連科学アカデミーの傘下でレニングラードに遺
伝学者の立場はますます悪くなっていった.1938
伝学実験所が創設された.まもなくフィリプチェ
ンコが死去したため同実験所の所長は,当時植物
年 2 月,ついにルイセンコは農業科学アカデミー
総裁の地位に上りつめ,それ以降遺伝学者は活動
栽培研究所(ВИР)の所長であり,農業科学アカデ
の拠点を科学アカデミー内に限定することを余儀
ミー総裁の地位にあったヴァヴィロフが代行する
なくされた.ソ連遺伝学者を代表するヴァヴィロ
ようになった.遺伝学実験所は 1934 年,ソ連科学
フはルイセンコたちの干渉にもかかわらず,農業
アカデミー・遺伝学研究所に格上げされ,引続き
科学アカデミー傘下の植物栽培研究所の所長と科
ヴァヴィロフが所長を兼務した.また,遺伝学研
究所は同年にモスクワへの移転を果たした.
学アカデミー傘下の遺伝学研究所の所長の地位は
保持しつづけていた.しかし,1940 年 8 月,西ウ
20 年代末から 30 年代初めにかけて,ソ連の科
クライナの植物収集調査の最中「反ソヴィエト活
学界や政権の中での遺伝学者の地位は高く,生物
学界の为流派としての地位はゆるぎなかったが,
動」を理由に内務人民委員部(НКВД)によって
逮捕され,1943 年サラトフの監獄で獄死した.そ
1929 年から 30 年にかけてスターリン政権が強行
の間,1941 年に遺伝学研究所所長にルイセンコが
した農業集団化の影響で,
ソ連国内の政治的・経済
的状況は危機的な状態になっていた.農業集団化
就任し,ヴァヴィロフ時代の研究所員の解雇,遺
伝学研究から「ミチューリン生物学」への研究方
の強行で伝統的な農村共同体は破壊され,農村の
針の転換がおこなわれた.
生産力は急落し深刻な飢餓が農村を襲った.一方
増大した集団農場でそれを補うに足る収穫増大が
今回の文書館訪問で,
私の調査対象を 1940 年前
後の遺伝学研究所に絞り込んだのは,科学アカデ
得られることなく,収穫の飛躍的拡大を実現する
ミー傘下の遺伝学研究所をめぐるルイセンコ为義
農業技術の開発を性急に求める政権側の要求に遺
者と遺伝学者との確執を調べることで,科学アカ
伝学者たちが直面する事態となっていた.こうし
デミーとスターリン政権との協力と対立の実相が
66
より具体的に把握できるのではないかと考えたか
コムギ,オオムギ,エンドウ,亜麻に対してこれ
らである.ルイセンコが農業科学アカデミー総裁
らの手法で研究が進められていたようである.ま
に就任した 1938 年 1 月以降,
ルイセンコは総裁の
た,遺伝法則にのっとって異種間の交雑や突然変
権力を利用して,傘下の植物栽培研究所に腹心を
異の不安定性,動植物の個体発生に関する研究も
送り,ヴァヴィロフへの嫌がらせや妨害をさまざ
行われていたようである.しかし,栽培条件を変
まに行ったことはよく知られている.しかし,そ
化させることによって方向性を持った遺伝的変化
れでもヴァヴィロフたちはよく持ちこたえ所長の
作り出す方法の開発が,アカデミー会員ルイセン
座は明け渡さなかった.さらに,ルイセンコの権
コの指導によって進められているということにも
限が直接及ばない科学アカデミー傘下の遺伝学研
言及されていた(6).1940 年 1 月 16 日に行われた遺
究所に対して,ルイセンコたちが直接干渉するの
伝学研究所の 1939 年度活動報告に関する会議の
はより困難であったと思われる.ロシアの科学史
速記録によれば,ルイセンコやその支持者もこの
(3)
家ニコライ・クレメンツォフは著書 の中で「遺
会議に参加し,ヴァヴィロフの長い報告後,厳し
伝学者たちは・・・ルイセンコによる植物栽培研
いやり取りが行われた様子がうかがえる.たとえ
究所への最終的襲撃を防ぎ,科学アカデミー内の
ば遺伝学に基づくカラクール羊の交配技術に論難
遺伝学研究所の支配を保持することには成功し
をぶつけてきたルイセンコに対し,バシーン研究
た」と述べているとおり,科学アカデミーがルイ
センコ派による遺伝学者への攻撃の防波堤に一時
員はこの技術の開発によって上質の羊の毛皮を得
ることに成功し,すでに政府に報告済みであるこ
期なった可能性は十分にあると思われる.ルイセ
とをすかさず指摘した(7).また,逆にルイセンコ
ンコが遺伝学研究所所長の地位に就いた 1941 年
は自分が为張している栄養雑種の研究について問
までのルイセンコ派と遺伝学者の攻防を詳細に調
われ,いくつかの拠点で何年かに亘って準備が整
べれば,科学アカデミー内の研究機関がどの程度
えられていると弁明させられてもいる.ヤジの応
スターリン体制に抵抗し,あるいは順応していっ
たのかを具体的に知ることができるのではないか
酬はあるもののルイセンコ派に牛耳られていると
いう印象はない.
という見通しを持って私は史料にあたった.
1939 年 10 月におこなわれた『マルクス为義の
旗の下に』編集局为催の「遺伝学の諸問題に関す
4.若干の調査内容
る討論会」で,ルイセンコ派がソ連における正統
私は手始めに,
遺伝学研究所の 1939 年度活動報
派と事実上認定され,これに憤ったヴェヴィロフ
(4)
告 とその報告が行われた会議の速記録 ,1939
年および 1942 年の活動計画等を発注した.1940
がスターリンに直訴したにもかかわらず,軽くあ
しらわれ,ヴァヴィロフは失意のどん底に突き落
年と 1941 年の活動計画や活動報告はファイルに
とされた.こうした経過からすると,ルイセンコ
はなかった.おそらく,ヴァヴィロフの逮捕(1940
年 8 月)
,ナチス=ドイツのソ連侵攻による独ソ戦
も加わって行われた翌年の 1940 年 1 月の遺伝学
研究所の会議は意外に波乱が小さかったように思
の開始(1941 年 6 月)の影響でそれらは作られな
われる.スターリン政権の科学アカデミー再編の
かったものと思われる.今回の訪問では十分時間
がなかったので,
筆記できたのは 1939 年の活動報
方針に従って,1939 年 1 月のアカデミー会員選挙
でルイセンコ派のアカデミー会員の「選出」に成
告の一部抜粋と会議録の一部,1942 年の活動計画
功していたにもかかわらず,ルイセンコたちは遺
の一部抜粋だけだった.それでも遺伝学研究所で
はさまざまな形質をもった品種の開発のために植
伝学研究所での地位を逆転できなかったのである.
こうしたことからルイセンコ派は,イデオロギー
物と動物の種内交配により生み出された品種に自
の力によって哲学者たちが为催した討論会で勝利
然選択を適用するという,遺伝子説に立脚した手
できたとしても,実践上の実績の乏しい彼らは,
法で研究が行われていたことは確認できた.
特に,
科学知識とその実践上の応用に十分な実績を持つ
(5)
67
遺伝学研究所の枠組みでは最後的な勝利を得るの
どちらも重要な要素でその両方であることを指摘
が困難であったのではないだろうか.
その意味で,
したのち,ヴァヴィロフとルイセンコに関する新
科学アカデミー傘下の遺伝学研究所が遺伝学者の
しい文献資料を下さった.ロシヤノフ氏との会見
防波堤になったということはまちがいなさそうで
が終わった後,
元宇宙飛行士で自然科学史・技術史
ある.それを突破するにはトップであるヴァヴィ
研究所所長に最近就任したばかりのユーリー・ミ
ロフを何らかの外的な理由で解任する以外手立て
ハイロヴィチ・バトゥーリン(Юрий Михайлович
がなかったように思われる.
「英国のスパイ」を口
Батурин)新所長とワシーリィ・ペトロヴィチ・ボ
実にした 1941 年夏のヴァヴィロフの逮捕は,
ルイ
リソフ(Василий Петрович Борисов)副所長に挨
センコたちにとって願ってもないことだっただろ
拶し,研究所を後にした.
う.今回の調査だけではこれらの結論を実証する
自然科学史・技術史研究所サンクトペテルブル
にはまだ不十分と思えるが,今後引き続き調査を
グ支所へは,文書館での調査の翌日に訪れた.訪
継続したいと考える.
問の目的は,同支所の所長エドゥアルド・イズラ
イ レ ヴ ィ ッ チ ・ コ ル チ ン ス キ ー ( Эдуард
5.ロシア科学アカデミー自然科学史・技術史研究所の
Израйлевич Колчинский)氏に私の著書を贈呈し,
訪問
会見を果たすことだった.コルチンスキー氏は 20
私のロシア出張のもう一つの目的である自然科
学史・技術史研究所への訪問は,
モスクワ本部とサ
年代から 30 年代初めにかけてのソ連における生
物学をめぐる哲学論争に関する優れた著作を上梓
ンクトペテルブルグ支所の 2 ヶ所あった.文書館
し(8),私は多くのことをそこから学んだ.事前に
で発注手続きを済ませた翌日,地下鉄のカルーシ
いくつかの質問事項(市川氏が露訳)をメールで
ュスカヤ駅から徒歩で行けるモスクワ本部を訪れ
お送りした上での会見だった.当日,市川浩(広
た.モスクワ本部訪問の目的は,ルイセンコ研究
島大教授)
,梶雅範(東京工業大学准教授)
,金山
で重要な業績を残したキリル・オレゴヴィチ・ロ
シヤノフ(Кирилл Олегович Россиянов)氏に私の
浩司(日本学術振興会特別研究員)
,齋藤宏文(東
京工業大学特任助教)と私の 5 人で研究所へ赴い
著書を贈呈し,いくつかの質問をすることであっ
た.研究所は,雄大なネヴァ川のほとりにあり,
た.ロシヤノフ氏は 1948 年農業科学アカデミー8
対岸にはエルミタージュ美術館の美しい建物があ
月総会でのルイセンコの第1次草案に対するスタ
った.会見は大きなテーブルを取り囲むようにコ
ーリンの修正を詳しく分析したことでよく知られ
ルチンスキー所長をはじめ研究所の方々と私たち
た科学史家である.農業科学アカデミー8 月総会
は,戦後になって影響力が低下したルイセンコが
5人が座り,ロシア語会話の不得手な私のために
英語による通訳までつけてくださって行われた.
スターリンの介入によって再び復権した会議で,
「進化の総合説」の先駆となったチェトヴェリコ
ソ連の科学を資本为義国側の科学と対置し,世界
中を驚愕させたものである.私は自分の本とその
ーフ学派の成果は,1920 年代の「生物学の弁証法
化の試み」の中から生まれたと見なすことができ
目次の英訳をロシヤノフ氏に贈呈するとともに,
るかという私の質問に対し,
コルチンスキー氏は,
1948 年の農業科学アカデミー総会にスターリン
が直接介入したもっとも为要な理由が,
「スターリ
チェトヴェリコーフらの遺伝学者と生物学の弁証
法化を推し進めたマルクス为義者たちとは同一視
ンのラマルク为義者としての個人的信念」にあっ
せず区別すべきことを強調した.また,1920 年代
たのか,
「冷戦への移行を世界に宣言する政治的パ
フォーマンスのような政治的判断に基づく行為」
の「生物学の弁証法化の試み」が失敗した重要な
要因に,ミーチンら哲学のボリシェヴィキ化グル
であったのか,どちらが重要かを質問した.ロシ
ープの台頭を重要視する私の意見に対し,コルチ
ヤノフ氏は,自身が今はルイセンコ研究から離れ
ンスキー氏はミーチンの影響を過大評価しないほ
ているとことわりを入れた上で,
私の質問に対し,
うがよいという見解を述べた.ミーチンはスター
68
リンの番犬に過ぎず,独立した影響力を持つ存在
ではないということのようだ.この点について,
6.ヴァヴィロフ記念室訪問
ミーチンがスターリンの番犬であるがゆえに,ソ
自然科学史・技術史研究所サンクトペテルブル
ヴィエト哲学にストレートにスターリンの意向が
グ支所を出て続け様に最後の予定先であるロシア
反映し,哲学論争の政治为義化が起こったことや
植物栽培研究所(ヴァヴィロフ研)付属ヴァヴィ
日本ではミーチンの教科書を通じてソヴィエト哲
ロフ記念室を訪問した.コルチンスキー氏との会
学やマルクス为義思想が広まったため,ソヴィエ
見が予定より長引いたうえに徒歩で向かったヴェ
ト以上にミーチンの影響が強かったことなど思い
ヴィロフ記念室への移動の途中道に迷ったことな
浮かんだが,私の語学力の弱さによって十分なコ
どが重なり,約束時間を大幅に遅れ,閉館時間を
ミュニケーションが取れなかったことが残念だっ
過ぎて到着した.それにもかかわらず,いったん
た.さらに,ルイセンコ派による遺伝学者への攻
帰宅しかけていた記念室の室長イーゴリ・G・ロ
撃の下で科学アカデミーは遺伝学者にとって防波
スクートフ博士は,私たちの到着の連絡を受けわ
堤の役割を果たしたのではないかという私の質問
ざわざ引き返してくれ,記念室の展示物を詳しく
に答える中で,コルチンスキー氏は 1940 年のヴ
案内してくれた.記念室のエントランスには立派
ァヴィロフの逮捕に言及し,それが 1939 年の独
なヴァヴィロフの胸像が据えられていていた.展
ソ不可侵条約
(モロトフ=リッペントロップ協定)
の締結と密接に絡んでいることに言及した.つま
示物は,当時の数々の写真,栽培植物の起源に関
するヴァヴィロフの理論を説明するパネル,ヴァ
り,ナチス=ドイツがソ連を侵攻するまでの時間
ヴィロフが収集した栽培植物のコレクションの一
を稼ぐために締結されたこの条約は英国政府との
部,ヴァヴィロフの原稿や出版物など多岐に渡っ
厳しい緊張関係を生み出し,英国の遺伝学者と深
ていた.特に栽培植物のコレクションは興味深いも
いつながりを持ち頻繁に手紙のやり取りをしてい
ので,世界のトウモロコシの変種を並べて展示され
たヴァヴィロフを容易にスパイに仕立て上げるこ
とができるような状況を生み出したのである.こ
ていたことが印象に残った.また,ヴァヴィロフの執
務室は当時の状態を伝える形で保存され,ヴァヴィ
のような指摘は,かつてクレメンツォフもその著
ロフの机の前では,彼が実際にここに座って仕事を
Stalinist Science の中でおこなっているが,ヴァヴ
していたのだと考えると多少興奮を覚えた.もう 1 つ
ィロフ逮捕というこの歴史的事件もルイセンコ派
印象に残っているのは,ナチス・ドイツとの戦争で戦
と遺伝学者との対立という国内問題の視点からだ
場となったレニングラードでの植物栽培研究所職員
けでなく,国際関係の視点からも捉えることが重
要性であることを改めて私に思い起こさせるもの
の活動を伝える展示であった.ドイツ軍に包囲され
燃料や食料などあらゆる物資が途絶える中,ヴァヴ
であった.最後にルイセンコ为義に関する最近の
ィロフが世界から集めた穀物の種子を厳冬のレニン
研究で重要なものがあれば教えてほしいとの私の
依頼に対し,コルチンスキー氏はすでに準備して
グラードで凍結させない努力や略奪から守るための
血のにじむような努力,それらに一切手をつけず,
いた文献リストを私に下さり,その場で特に重要
餓死者までだして守り抜いた植物栽培研究所職員
なものについてチェックのしるしをつけてくださ
った.コルチンスキー氏との 2 時間近い会見はき
の使命感に圧倒された.当時餓死した職員の顔写
真も展示されてあった.戦争が始まる直前,当時の
わめて有意義であり,コルチンスキー氏の著書か
政権によってヴァヴィロフや多くの職員が逮捕され,
らの引用を多数含んだ私の著書をコルチンスキー
氏自身にお贈りすることができたのは私にとって
さまざまな困難に直面していたにもかかわらず,こ
れだけのことができたのは,困難な局面にあっても,
喜びであった.会見の後,研究所の方々と私たち
戦後に必ず自分たちの研究やコレクションが役立つ
5 人がそろって記念撮影をし,お礼を述べて研究
日が来ることに対するゆるぎない確信を彼らが持っ
所を後にした.
ていたからではないかと想像し,深い感動を覚え
69
た.
成田空港からアエロフロート・ロシア航空便を
案内してくれたロスクートフ博士は植物栽培研究
利用して直通でモスクワのシェレメチェヴォ空港
所の遺伝資源部門,ライムギ・オオムギ・エンバク部
D へ向かった.機内では,1 年間の日本での短期
長でもあり,「ヴァヴィロフとその研究所 ―ロシアに
留学を終え,故郷バクーへ帰国中のアゼルバイジ
おける世界の植物遺伝資源の収集の歴史― 」とい
ャンの青年と座席を隣り合わせ,片言の英語と片
(9)
う著書 を上梓していて,私たちのグループにも1冊
言の日本語を交えた会話をしながら楽しく過ごす
下さったが,私がロシアの遺伝学史を研究している
ことができた.この青年はアゼルバイジャンの税
ことがわかるとさらに1冊追加して私に下さった.ロス
関職員で,日本の総合研究大学院大学に派遣され
クートフ博士の著書の第 6 章「1930 年代および 1940
経済学の勉強をしてきたそうで,留学の成果であ
年代の植物遺伝資源に関する活動」の部分は,『食
る彼の論文が載った論文集をうれしそうに見せて
を満たせ―バビロフとルィセンコの遺伝学論争と植
くれた.また,日本の友人たちが各地の名勝に連
物遺伝資源』というタイトルで,長らくヴァヴィロフ研
れて行ってくれた思い出を楽しく語ってくれた.
で在外研究員をなさっていた山田実氏によって日本
私もロシア訪問の目的を述べ,ロシア人との会見
(10)
語訳で出版されている .山田氏の日本語訳を私
用に準備していたロシア語のあいさつ文を添削し
はすでに興味深く読んでいたのだが,ヴァヴィロフ
てもらったりした.
(もっとも,本番では緊張と気
記念室の館長がその原著の著者だったことは記念
室を訪問するまで全く知らず,記念室に山田実氏の
後れでそれを披露する機会を逸してしまったが.
)
モスクワ到着は夕方であったが,機上から見るモ
日本語訳が展示されているのを見て初めて知った
スクワの町は夕日に照らされて美しく,独特な形
次第である.私は,自分の不明を恥ずかしく思った
をしたロシア正教会の寺院が点在する様は,まさ
と同時に,偶然にも原著者から原著をいただくことに
に日本の京都を思わせるものだった.シェレメチ
なり,この幸運をありがたく感じた.帰国後,ロスクー
ェヴォ空港でこの青年と別れたが、旅のはじめの
トフ氏がおそらく伝えたためと思われるが,山田実氏
ご本人からメールや手紙をいただき,氏のヴァヴィロ
この出会いは印象的な出来事だった.
今回の訪問はいろいろ大変ではあったが,私に
フ研での貴重な体験もお教えいただいたことを付け
とって収穫も多くきわめて有意義でもあった.今
加えておく.
後機会があれば再び訪れたいと思う.また,この
報告がルイセンコ研究の現状やロシア文書館の状
7.おわりに
況を知る上で,読者諸氏のお役に立てれば幸いで
最初に述べたとおり,今回のロシア訪問は私に
とってはじめての体験だった.歳をとってから始
ある.
めたロシア科学史の研究だったが,50 代半ばにな
って調査のためにロシアを訪問することになろう
とは思いもよらなかった.
たくさんの不安があり,
(1)拙著『ルィセンコ为義はなぜ出現したか -生物
学の弁証法化の成果と挫折-』(学術出版会,
最初は躊躇していたがやはり思い切って行ってよ
2010 年)
(2) «ЛИЧНОСТЬ В ГЕНЕТИКЕ: 20-30-е гг. ⅩⅩ
かった.市川氏をはじめ多くの人の援助により何
とか仕事はこなせたと思う.サンクトペテルブル
века,
Научный каталог выставки Доклады».
Москва, Архив РАН, 2009.
グでは梶雅範氏,金山浩司氏,齋藤宏文氏とも楽
しいひと時を過ごすことができたし,また,ヴァ
ヴィロフ記念室でロスクートフ氏の解説を通訳し
(3) Nikolai Krementsov, Stalinist Science, (Princeton
て私の耳元でささやいてくれた金山氏の心遣いが
(4) “О Научно-исследовательской работе института
University Press, 1997)
генетики за 1939.г. ”, /АРАН.Ф.201, Оп.1, Д.118/.
ありがたかった.最後に入国のときのエピソード
(5) “Стенограмма заседания по отцету института
を紹介して筆を置きたいと思う.
70
генетики за 1939 год.,16 января 1940 года”.,
/АРАН.Ф.201, Оп.1, Д.125/.
(6) /АРАН.Ф.201, Оп.1, Д.118/, Л.3.
(7) /АРАН.Ф.201, Оп.1, Д.125/, Л.61.
(8)Э.И.Колчинский, «В поисках Совецкого «союза»
философии и биологии, дискуссии и репрессии в
20-х-начале 30-х гг.», С.Петербург, 1999.
(9)И.Г.Лоскутов,
«История
генетических ресурсов
мировой
растений в
коллекции
России,»
Санкт-Петербург, 2009.
(10)I.G.ロスクートフ著,山田実訳,
『食を満たせ-バ
ビロフとルィセンコの遺伝学論争と植物遺伝資源
-』
(未知谷, 2009)
71
も, 帝国としてのロシアという問題意識から,
ⅩⅡ.
「ロシア帝国論」
に貢献することを目指している.
【書評】橋本伸也(はしもと のぶや)『帝国・
身分・学校—帝政期ロシアにおける教育の社
会文化史』名古屋大学出版会, 2010.1.20,
本書の構成について語った「序」に続いて, 第 I
viii+435+83ページ, ISBN978-4-8158-0627 -9,
原理」とエリート教育, 第 III 部 教育システム
本書は, 以上のような問題意識の大枠を説明し,
部 ロシアとヨーロッパ, 第 II 部
「教育の身分制
の帝国的編制と民族問題という三部から構成され
本体 9,000 円
ている. 第 I 部は, ロシアにおける初期近代から
梶 雅範
18 世紀, 第 III 部は 19 世紀から 20 世紀初頭, 第
III 部はロシア帝国の辺境(西部, 東部, 单部,
極東)における教育を扱っている. こうした構成
総頁数 500 頁を超える帝政期ロシアの教育史の
は, 帝政期ロシアの教育を包括的に捉えようとし
大著が出た. その分野でこれだけ包括的な日本語
たときに, 何に注目すべきかについての著者の解
の著書はなく, この分野の基本文献の一つになる
答であろう. すでに前著で取り上げられた女子教
ことは間違いない. 著者は, 京都大学の教育学部
育(ジェンダーの問題)については, 言及はされ
出身の教育史家である. 著者には, 『エカテリー
ナの夢 ソフィアの旅』
(ミネルヴァ書房, 2004
ているが, とくに表だって取り上げられていない.
また, 教育でも著者が为として取り上げているの
年)という帝政期ロシアの女子教育に焦点を当て
は, 中等・高等教育で, 初等教育(
「民衆教育」と
た前著がある. 2001 年からは, エストニアとラト
本書では呼ばれている)は, 帝国辺境の教育をと
ヴィアという旧ソ連のバルトを扱った国際研究プ
りあげた第 III 部でごく部分的に取り上げられて
ロジェクト(科研費 2001-2004 年度基盤研究(B)
いるだけで, 著者にとっての今後の課題にしたい
と 2005-2008 年度基盤研究(C)
)を運営し, さら
には比較教育社会史研究会という研究会を 2002
としている. 以下で章ごとに, 詳しく見ていこ
う.
年から立ち上げて年二回の研究集会の開催と『叢
第 I 部の第 1 章では, 第 I 部の総括的な問題提
書 ・ 比 較 教 育 社 会 史 』( 全 七 巻 , 昭 和 堂 ,
2003-2010)
を刉行するという八面六臂の活動と並
起がなされている. 第 I 部で扱うのは, ロシアへ
行して本書を完成させた. 1959 年生まれの著者が,
カデミーと大学の起源, 招聘外国人学者(著者は
40 歳代のすべてを捧げて完成させたもので, 刉
行時に著者はちょうど 50 歳を迎えたという. 間
ロシア版「御雇外国人」と呼んでいる)が論じら
れている. 第2章以降でそれが個別に具体的に扱
違いなく, 著者の代表作になるだろう.
われていく.
本書は, 「教育史の研究動向に疎いロシア史の
専門家と, ロシア史にはなんの関心ももたない教
第 2 章では, ヨーロッパ精神の源と通常見なさ
れているルネサンスと人文为義に発する知的伝統
育史研究者の双方を納得させる」
(p.429)著書で
がなく, むしろそれらを異端視し, 書物や学問,
ある. 著者は, 教育史にアイデンティティーをも
った教育史家だが, その自身のアプローチを社会
学校制度にそもそも懐疑的だったロシアの正教世
界に, どのようにしてヨーロッパ的な知的伝統
文化史と規定している. 伝統的な教育史学が, 近
(正教側の言い方をすれば, 「ラテン文化」
)が受
代教育を正統化するための一種の官学
(著者は
「官
房学」と呼んでいる)に過ぎなかったことの反省
容されるようになったのかが論じられている. そ
れは, ロシア帝国が西側に拡大することで, もと
から, そうした限界を打ち破り, 本来の歴史学に
もとヨーロッパの知的伝統に属していたポーラン
近づく方策として, 社会史的なアプローチを取る
ド・リトアニア領であった地域
(
「西部ルーシ」
,現
ことを宣言している. 同時に, ロシア史に対して
在のベラルーシやウクライナに当たる)に存在し
の西欧的学知の導入過程で, その始まりと科学ア
72
た正教以外のキリスト教諸派の学校網に出会い,
アカデミーの会員が多く出ているし, 御雇外国人
それに対抗して, 正教徒を対象とした西欧型の教
の子弟がロシアに残り, やはり学者として活躍す
育機関(その代表は, キエフのキエフ・モヒラ・
る例も尐なくなかった. そうした姓だけがドイツ
コレギウム)が作られたことから始まる. コレギ
人の教授は, 実質的にはロシア人と言えるのでな
ウムの卒業生たち(歴史家は, 「キエフ学者」と
いか. したがって「ドイツ人」と言っても, その
か「ウクライナ人文为義者」と呼ぶ)が, 「ラテ
内実は多様であったのである.
ン文化」導入の仲介者として重要な役割を果たし
第Ⅱ部では, ロシアの 19 世紀の教育を理解す
たという. モスクワの国家と教会も, 17 世紀中葉
る鍵概念として, 「教育の身分制原理」という考
に行われた教会改革を頑なに拒んだ一派(いわゆ
え方が提起されている. 第5章は, 第 II 部全体
る古儀式派)が教会から分裂すると, その原因の
の序論としてこの鍵概念を巡る学説史が概説され
一つが系統的な神学教育の欠如によると考えて,
ている. 帝政期の法制史・教育学者であったヴラ
ようやく本格的な学校, モスクワのスラヴ・ギリ
ジミルスキー=ブダーノフ(1838-1916)がすでに
シア・ラテン・アカデミーの設立を認めた(1682
革命前に, 職業的な専門教育がロシアにおいて身
年に設立勅書).
分を創出したと为張していた. 革命前にこれは,
第3章は, サンクト=ペテルブルグ科学アカデ
歴史学者ロジェストヴェンスキー(1868-1934)に
ミーの成立過程を扱っている. ライプニッツがロ
シア皇帝ピョートルへ熱心に働きかけをしたこと
よってさらに深められ, 彼は, 19 世紀のロシアの
教育史をこの身分制原理に基づく教育と全身分に
から, 科学アカデミーが成立したと描いている.
開かれた教育との衝突という形で記述した. しか
従来は, 科学アカデミー成立は, ロシアへの外来
し, 帝政末期に, 他の教育史家らが, 改革によっ
の学である西欧の知的な営みの導入として記述さ
て全身分に開かれた教育機関という近代的・進歩
れてきたが, それは一面的な見方であって, ロシ
的な原則が提起されたのに, 反動勢力による身分
アがヨーロッパの一部に参入することで, ヨーロ
ッパ自体も再編されたと著者は为張する. したが
制原理の強化でその原則が定着しなかったという
卖純な歴史像を提起した. それがソビエト教育史
って, 科学アカデミーは, ヨーロッパとロシアの
学に引き継がれ, さらに日本や欧米の教育史に大
「合作」であったとされる. 科学アカデミーの成
きな影響を与えたという. 著者は, ロジェストヴ
立で, サンクト=ペテルブルグは, 新たにヨーロ
ェンスキーを引き継いで, この「教育の身分制原
ッパへの学術情報発信の地の一つになった. この
理」
に注目して 19 世紀のロシア教育史を描こうと
ロシア側からの「ベクトル」の存在の指摘は, 評
者には非常に新鮮に聞こえた.
している. この第5章では, 著者は, 「教育の身
分制原理」を「教育システムが諸身分に対応して
第4章は, 18 世紀から 19 世紀前半にロシアに,
多元的に区分され, 対象とする生徒の身分及び身
とくに科学アカデミーとモスクワ大学に招聘され
た外国人学者
(
「御雇外国人」
)
に焦点を当てる. 彼
分内の階層的位置によって相互に差異化された複
雑な学校編成をとり, もっぱら身分的再生産の場
等は, ロシアをヨーロッパの学術空間に組み込み,
として機能する事態と, そうした編成を成立させ
ロシアをヨーロッパに対する学術情報発信の地に
するに大きな役割を果たした. 19 世紀に入ると,
ている理念や制度原理, あるいはそれを支える
人々の心性の全体」
(p.125)と定義している. 帝
「学問のロシア化」が目指されたが, 科学アカデ
政期ロシアの教育史を複雑にしているもう一つの
ミー会員を始めとして, 学術の担い手として「ド
イツ人」が多く残っていて, 「ロシア化」が十分
要因は, ロシアの当時の教育行政が, たとえば日
本のように文部省に一元化されていなかったこと
に進まなかったようにも見える. しかし, たとえ
だ. 1917 年には, ロシアの高等教育機関(官立 65
ば, ロシア帝国内にドイツ語で教授する「ドイツ
校, 私立が 59 校)は, 12 の官庁に分かれて所属
の大学」たるデルプト大学の卒業生からは, 科学
していたという.
73
第6章は, 19 世紀前半までの貴族の特権的な教
内部的に分岐した多様な層からなっており, 国家
育機関について分析している. まず, 軍事に関す
勤務を通じた下方から人材供給を受けて流動的で
る特権的教育機関として海軍兵学校, 陸軍幼年学
あったという実態があり, そのことを国民教育省
校, 近習学校などが取り上げられている. この章
の高官がよくわかっていたからだ. 著者は, 「複
で評者に興味深かったのは, 交通技師専門学校や
雑な構成をとりながら, 身分的な閉鎖性と流動性
鉱山専門学校, 森林専門学校といった技術系教育
との均衡をはかった点に, 帝政期とりわけ 19 世
機関も特権的な教育機関だったという指摘だ. そ
紀前半ロシアの教育システムの最大の特徴が」あ
れらは, 近代的な技術学校と言うよりは, 貴族・
ったと結論している(p.179).
官吏の中でも下位集団であるがやはり世襲の身分
第8章は, 第6章でとりあげた貴族の特権的教
的技術者集団のためのもので, それゆえ貴族の他
育機関が, 19 世紀後半から 20 世紀初頭にどのよ
の特権的な軍事教育機関に倣って同様な組織形態
うに変化したかを追求している. 19 世紀後半, と
をとり, やはり貴族・官吏の子弟を優先的に入学
くに 1860 年代の「大改革期」以降, 帰属する身分
させ, 卒業すると将校資格が与えられるという.
によらない(
「全身分制」的, 身分制が廃止される
この指摘は, 長く評者がこれらの学校の組織に対
ことはないが全身分にたいして開かれているので
して持っていた異和感に答えてくれた. 章の後半
こう呼ばれる)ことを原則にした改革が進められ
は, 貴族の特権的な文官養成機関を扱っている.
取り上げられているのは, ツァールスコエ・セロ
るが, 特権的な身分層からの反発は強く, 特権的
な教育機関の頂点に位置する学校(たとえばアレ
ー・リツェイ(1811 年創立でその一期生に有名な
クサンドル・リツェイや帝室法学校)は堅固に維
文学者プーシキンがいる. 1843 年にサンクト=ペ
持された. 一方で軍事教育機関の改革は進み, か
テルブルグに移転してアレクサンドル・リツェイ
なり貴族以外の身分に開かれたものになり, 19 世
と改称), 帝室法学校である. 確かに出自によっ
紀末には将官クラスはまだ勤務貴族の牙城だった
て入学が制限されているが, これらの学校が設け
られたことは, 出自だけでは支配エリートにはな
が(それでも非貴族出身者は皆無ではない), 佐
官・尉官級にはすでに非貴族身分出身者が大きな
れず, そのために学歴が必要になったことを意味
比重を占めるようになっていた. さらに注目すべ
する. そうした学校のカリキュラムを分析すると,
きは, 成長著しい高等専門学校の存在だ. その卒
乗馬やダンス, フェンシングといった貴族の身体
業生からなる新たな多様な分野の専門職者集団が,
文化のためのものが用意されていた. こうした文
形成された. さらに, 19 世紀後半を通じて, 高級
化機能は重要で, それに注目しないと, 帝室法学
校が法官僚だけでなく, アレクサンドル・セロー
官僚の高学歴化はますます強まっていった
第9章は, 近代ヨーロッパでエリートの必須の
フなどの画家やチャイコフスキーのような作曲家
要件とされたギリシア・ラテンの古典教養が, 帝
を生んでいることが理解できない. これは, 偶然
ではなく, その種の学校は, ある種の文化機能も
政期ロシアではどのように受容されたかを検討し
ている. 19 世紀においては, 为としてウヴァーロ
担っていたことと関係しよう(ただこの興味深い
フ(1830-40 年代)とドミートリー・トルストイ
点については, 本書では十分には展開されてはい
ない).
(1870 年代)という二人の教育大臣のもとで, 古
典陶冶为義の導入が強力にはかられたが, 結局,
第7章は, 国民教育省管下のギムナジア(中等
古典語をエリートの要件とすることは, 国家中枢
学校)と大学における身分制問題を扱っている.
どちらも身分制による制限(下層身分出身者から
層でも合意が得られず定着しなかった. それは,
一方で最も特権的な貴族的な教育機関では, 古典
の流入の抑制)を加えようとする動きが底流とし
語よりも近代外国語を含む身体文化の導入に重点
てあったが, 結局, 制限が明文化されることはな
が置かれ, 他方ですでに古典語を重視しない実科
かった. それは, ロシアの貴族身分そのものが,
学校から高等専門学校を経由して国家勤務に至る
74
新たなエリートコースが開かれつつあったためだ
原則や基準に則してなされたとはいいがたい」と
った.
述べ, それ故, 「各地域の独自のあり方に即した
第 10 章では, 身分制原理に基づく教育の典型
具体的な検討が必要」
だと結論づけている
(p.285)
.
とも言えるロシア正教会聖職者の学校制度を取り
西部諸県で問題だったのは, ポーランド・ナショ
扱っている. もともとはピョートルの改革で, 正
ナリズムに対する対応と, ポーランド貴族に支配
教会を国家に従属させ, 教会を国家の統治機構の
されていた民衆(ベラルーシ人とウクライナ人)
一翼を担わせるために, 聖職者の資質を向上させ
への対応である. 沿バルト諸県では, その支配者
るために(ロシアでは他の国と違い, 聖職者はか
であるバルト・ドイツ人とドイツ人都市市民と関
ならずしも民衆から尊敬されず, 「無知蒙昧で大
係で, 教授語としてドイツ語と被支配者であるエ
酒飲み」と揶揄されていた), 聖職者学校制度が
ストニア人・ラトヴィア人に対する母語での学校
整備された. その結果, 聖職者学校は, もっとも
教育が問題になる. とくに重要なのは, ロシアの
早くに身分的に閉鎖的な学校制度が成立した. し
中のドイツの大学であったデルプト大学(ドイツ
かし, 1840 年代ころになると司祭候補者は過剰生
語で教授がなされた)であり, 1880 年代以降にな
産されて, 聖職者学校を出ても司祭になれない事
されたロシア語での教授への転換(
「ロシア化」
)
態が発生した. そこで 1860 年代の改革で教区司
の帰結である. 帝国東部と单部でのムスリム教育
祭位の世襲制が廃止され, 聖職者学校が全身分に
開放されるとともに, 聖職者学校を卒業した聖職
では, 帝国の教育政策として, キリル文字を使用
した諸民族語の文章語を創出して, それで母語教
者子弟が世俗教育機関に進学することが認められ
育を行うというニコライ・イリミンスキー
た. しかし, 多くの聖職者学校卒業生が大学を始
(1822-91)
の教授法が取られた. アラビア語やベ
めとする世俗教育機関に流出して, 今度は聖職者
ルシア語のような母語からかけ離れた文章語によ
の人材不足に陥ってしまった. そこで, ふたたび
る伝統的な教育から引きはなして, 「文明化され
転出抑制策に転じると(たとえば, 1879 年には神
学校卒業生に対する大学無試験入学制度が廃止さ
た」ロシア文化への融合をはかるための方策だっ
た. これは両刃の剣となり得て, 自立した民族意
れた), 各地の神学校で思想問題や学校紛争が頻
識にめざめた知識人を生んで, かえって帝国の基
発して, 神学校が革命運動の源泉の一つと化した.
盤を掘り崩すことにもなり兼ねなかった. それゆ
このように聖職者学校は, 19 世紀後半のロシアで
えに, 著者は, 「ロシア帝国にとっての教育は,
の身分制的社会編成の矛盾をもっとも強く体験し
国制と社会の近代化装置として不可欠なものでは
た機関だった.
第Ⅲ部は, ロシアという「帝国」の統治と学校・
あったが, 同時に体制維持にとって躓きの石とも
なった」
(p.311)と結論づけている.
教育の問題の関係について詳しく分析している.
第 12 章では, ウヴァーロフ教育大臣の西部諸
第 11 章は, その総論で, ロシア帝国の拡大によ
って帝国に編入された西部諸県(現在のベラルー
県での教育政策が取り上げられる. もともとポー
ランドの伝統の強いこの地域で, 19 世紀初頭には
シ, リトアニア, ウクライナで, 18 世紀後半のポ
ポーランドの教育伝統を尊重した体制を作ろうと
ーランド分割で編入)や沿バルト諸県(北方戦争
でスウェーデンから獲得), 多数のムスリム住民
したが, それが 1830 年 11 月に起こったポーラン
ド反乱「十一月蜂起」の結果, カトリックの影響
をかかえることになる帝国東部・单部を扱ってい
の排除とロシア語による教授の強化が明確に打ち
る. 著者は, 「それぞれの民族集団は, 地域の民
族的支配関係や民族覚醒・形成の度合い, 教育
出された. これを実施したのが, ウヴァーロフ教
育大臣(1833-49 年在任)だった. ただウヴァー
上・宗教上の伝統の差異などに応じてきわめて多
ロフは, 強硬路線はとらず「多様性を認めつつ統
岐にわたる相貌をていしていたのであり, それら
一性をもたらす教育システムの構築」をめざした
をめぐる帝国の政策展開はなんらかの明確な原理
が, そうした困難な「中庸の道」は成功せず, ポ
75
ーランド貴族から就学拒否と権力内の強硬派の圧
政策に転じたのである. 結局, 19 世紀を通じて,
力との板挟みにあって, 大臣辞任を余儀なくされ
ロシアの専門職や学問の世界に活躍するユダヤ人
た.
インテリゲンツィアが育ったが, 同時に革命運動
第 13 章では, 沿バルト諸県が扱われている.
家やシオニストといった「カウンター・エリート」
その通史的な記述のあとに 19 世紀後半に推し進
が生まれた. さらに, 実はそうなった例はユダヤ
められた「ロシア化」の帰趨について論じている.
人の中では尐数派で, 多数派は帝国が提供しよう
それは, 「ゲルマン化」, 「ロシア化」と「民族
とした学校と教育を拒否して, 世紀末のユダヤ人
覚醒」の三つ巴の関係から理解できる. 同地のも
迫害(ポグロム)のなかで多くの移民(为として
ともとのドイツ人領为は, 「ロシア化」に対抗し
アメリカへの)となった.
て, それまでは教育の埒外に置かれていた被支配
補論では, ようやくカザフスタンの朝鮮系研究
民族のエストニア人・ラトヴィア人にドイツ語と
者によって出された著書を手かがりに, まだ研究
ゲルマン的な精神に引き込もうとした. 当初は
が始まったばかりのロシア極東地域の朝鮮人の教
「おずおず」
と 1880 年以降は強力の推し進められ
育問題について論じられている.
た「ロシア化」政策は, ドイツ人支配から逃れよ
帝政期ロシアの教育史上の論点を包括的に論じ,
うとする民衆に, 当初歓迎された. しかしやがて,
現時点でもっとも深いレベルまで掘り下げた本書
その政策が民族自立よりもロシア的なるものへの
従属しかもたらさないことに人々が気付くと,
の出版は, 日本におけるロシア教育史研究の画期
といえよう. ロシア史に関心をもった教育史家も
「ロシア化」は進まなくなった. 結局, 「ロシア
教育史に関心をもったロシア史研究者も, 今後は,
化」政策がもたらしたのは, 「ロシアに親和的な
まずはこの橋本氏の著書を紐解いて, 研究の出発
エストニア人・ラトヴィア人ではなく, 修得した
点とすることになるだろう. 科学史研究者である
ロシア語能力を恃みに中等教育・高等教育を受け
評者も, 日本語のロシア教育史の信頼できる基本
た自立志向の民族知識人の成長であり, 第一次世
界大戦とロシア革命を契機にはたされるエストニ
文献を得たことを喜びたい. 広範に猟渉された引
用・参考文献は膨大なもので, 研究の出発点とし
ア・ラトヴィア両国独立の担い手の成熟」
(p.381)
てたいへんに有用である.
であった.
著者は, 民衆教育(初等教育)を今後の課題と
第 14 章では, 18 世紀末になされたポーランド
したいと述べているが, さしあたって次の取り扱
分割で, その領内に多数かかえるようになったユ
うのは, むしろ, ロシアの高等教育, ロシアの大
ダヤ人に対する教育政策が扱われている. 同地の
ユダヤ人にはすでに強固な伝統的な教育システム
学の歴史であるとしている(p.435). いずれを扱
うにせよ, 著者の次著も期待したい.
(ヘデル, イェシバと呼ばれる学校)が存在し,
ロシア帝国側からの課題は, それをどう堀崩して
帝国が提供する「近代的な」教育に取り込むかで
あった. ロシア帝国は「民衆教育」には全く不熱
心だったが, ユダヤ人の教育に限っては, ウヴァ
ーロフ教育大臣時代にユダヤ的科目を認めた官立
学校の設立を認めて, 彼等を帝国の制度に取り込
もうとした. この統合の政策は, 1880 年代に排除
と隔離の政策に転じた. すなわち, ユダヤ人割当
制度(地域によって 3-10%とユダヤ人の入学制限
を行う)
が導入されて为流の教育から排除を受け,
むしろ伝統的なユダヤ人の学校を認めて隔離する
76
Fly UP