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1930-1940 年代中国華南地域における商人組織の研究 [論文内容及び

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1930-1940 年代中国華南地域における商人組織の研究 [論文内容及び
Title
Author(s)
1930-1940年代中国華南地域における商人組織の研究 [論
文内容及び審査の要旨]
張, 集歓
Citation
Issue Date
2016-03-24
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/61553
Right
Type
theses (doctoral - abstract and summary of review)
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Information
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Information
Chapfun_Cheong_abstract.pdf (論文内容の要旨)
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
学位論文内容の要旨
博士の専攻分野の名称:博士(文学)
氏名: 張集歓
学位論文題名
1930-1940 年代中国華南地域における商人組織の研究
序章では、中国近代史における商人組織の研究は、政治史の視角から行われてきたこ
と、華南地域に関する研究は少ないことが指摘される。申請者は上海市商会に関する研
究を踏まえると、伝統的な商人組織との連続性も重視すべきだ、と主張する。また、1940
年代日中戦争下の日本占領地域の商人組織については中国全般にわたり研究がほとん
どないのが現状である。本論文は「主に商人像の形成に関わる諸要因、なかんずく統治
者の要因、体制の要因及び香港の要因を念頭に、…近代化はどのような主体によって、
どのように推進されていくか。…商人像の形成は地域要素によっていかに規定されてい
くか」を検討するものである。
第 1 章は、広東・広州の地域的特質を理解する上で重要な西南政権を取りあげる。西
南政権(1931 年~1936 年、広東に成立)には国民党の重鎮・胡漢民をリーダーとして
国民党元老派、同広東派、広西省軍閥ら(西南派とよぶ)が「抗日」、「反蔣」、「剿共」
の政治主張の下に集結し、緩やかな連盟関係を結んでいた。申請者は一次史料『胡漢民
未刊往来函電稿』を用いて胡漢民及び西南政権の政治姿勢を明らかにする。胡漢民は、
中央政府にいた 3 年間は国民党による一党独裁、中央集権体制建設と国民党・国民党政
府に対する民衆の忠誠心を強要する見解をもっていた。西南派の政治主張のうち「剿共」
は共産党の現実の脅威が弱まるなかで後景に退き、「抗日」は「対日宥和政策反対」と
して「反蔣」の根拠として利用された。また西南派の一部に聯日の動きが現れたので西
南派は「抗日倒蔣」から「聯日倒蔣」へと傾斜していく。
1933 年末から 34 年初頭にかけて「福建事変」(国民革命軍第十九路軍が共産党に近
づき「中華共和国人民革命政府」を樹立)が起きると、西南派の政治主張は「抗日」か
ら「共産党排斥」へと傾いた。胡漢民は福建の同政府を認めず、蔣介石は胡漢民勧誘を
開始し、両者の和解交渉が進められた。これまで胡漢民の死により西南政権が崩壊した、
とされてきたが西南派と南京中央政府との和解は胡漢民存命中にすでにできていたの
である。西南派は3つの政治主張のそれぞれのウェイトを柔軟に変更しながら時局に対
応した。
第 2 章では 1930 年代の広州市商会の動向が国民党(広東市党部)との関係を含めて
明らかにされる。商会法(1929 年)は欧米・日本の商業会議所(商工会議所)に類す
る近代的・民主的組織を想定していた。広州市商会には旧総商会メンバーであった有力
商人と新たに加入した中小商人との対立があった。1933 年 9 月、52 の同業公会(市商
会を構成する基礎組織)が市商会改組を広州市党部に請願(彼らを「改組請願派」とす
る)したことから市商会の内紛が顕在化する。同年 10 月の総選挙は紛糾のうちに無効
とされ、広州市党部は市商会整理委員会(商整会)を組織し趙静山(国民党員)を主席
委員とした。1933-34 年は商整会が市商会の運営を行うこととなる。
広州商人の金融難を解決するために貨物を担保に発行する証券である「商庫証」が商整
会により考案され、実現した。その際、商庫証発行委員会の選挙には「圏定」という名
の国民党市党部による候補者の最終選考が行われた。商庫証の発行実績は小さく経済的
な効果はなかったが、広州市商会が市内商工業者の同業公会への組織化(および同業公
会の市商会加盟)を一段と進め、組織強化を果たしたこと(これを「統一商運」達成と
称している)は重要な意義をもつものであった。
1934 年 4 月に商整会は改組の役割を終えて通常の市商会に戻ることとなった。この
ときに行われた市商会総選挙は市党部による圏定が制度化されており、これを「乙種選
挙」と称した。圏定の結果、17 位の熊少康が主席に選ばれたことに示されるように、
得票数順ではない当選結果となり、
指導部 5 名のうち 3 名を国民党員(および親国民党)
とした。広州市商会は、1920 年代末の商民運動の負の遺産を引きずり内紛が後を絶た
なかったが、広州市党部の介入によって近代的な商人組織へと変貌しつつあった。
第 3 章では、日中戦争期の広東を取りあげる。華南では 1938 年 10 月の広東陥落後、
広東省、広州市の国民党は大後方(蔣介石政権統治区域)へと移転し、広州商人も香港
へ大量に移動したが、残留した者も多かった。たとえば市商会主席熊少康は広州に残留
し香港・広州間の非公式貿易で活躍していた。汪兆銘政権誕生と日本の「対華新政策」
によって上海では 1943 年 3 月全国商業統制総会(商統総会と略)が設立され華中の物
資流通統制の権限が移譲された。広東の動向は研究がなされていなかったが、申請者に
よれば 44 年 4 月に全国商業統制総会広東分会(広東分会と略)が設立され、広東商人
からは物資一元統制の商人側への移譲と受け止められ歓迎されたという。しかし、広東
分会の組織は上海の商統総会の組織と異なり、役員に日本人が入り込み組織の構成は
「親日性」をもつものであった。代表理事・陳有三も日本各地で銀行に勤め対華新政策
開始後、広州に戻った人物であり親日色が顕著であった。物資統制のために広東分会の
上位に官側の組織である全国物資統制審議委員会広東分会(物審分会と略)が設けられ
ており、統制の実権を握っていた。
第 4 章では、1940 年代の広州・香港間関係が分析される。日本の対英米宣戦布告に
より、日本軍は香港を占領し総督部による軍政が始まる。1938 年の広東陥落後には広
東省から香港への膨大な人口移動があったが、香港が日本軍に占領されると「人口疎散
政策」が行われ香港から広東省へと人びとは移動した。その結果香港の人口は 170 万
人から 86 万人に減少し、広州市の人口は 40 万人から 91 万人に増加した。香港は中継
貿易による収益を失い、住民の生活物資は広東省に依存するほかなかった。広東省珠江
をさかのぼる小型の帆船が広州・香港間貿易の主役となり、広東の中小船舶業者を糾合
した広東内河運営組合が重要な役割を担った。しかし、広州を極度のインフレが襲い広
州・香港間貿易額は見かけ上増大しているが、インフレの影響を加味すると、数量的に
さほど増えていないことがわかる。広東分会は広州・香港間貿易の統制権限の移譲を求
めるが、広東省政府に拒否され、逆に輸出禁止物資の不法輸出の廉で理事長陳有三は戒
告処分(後に辞任)となる。広東分会の主要メンバーはその機関誌上で統制の権限が与
えられないことを嘆き政府批判を強めたが、彼らの要求はかなうことはないまま終戦を
迎えた。
終章では近代的な性質を有する広州市商会は、1930 年代には内紛が絶えないものの
商整会を中心に商庫証発行運動などを通じて「統一商運」を達成したことを指摘する。
しかし、このことは表層にすぎず、改組請願派に応えて国民党・広州市党部が当該期の
商人組織の変貌を指導してきたことが重要である。日中戦争下の広東商人は、全国商業
統制総会広東分会を設立するものの結局、物資統制権限は日本側が主導権をもつ物審分
会に握られたままであった。上海と異なり中国側に統制権限が移譲されなかったことが
広州市の特徴であった。
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