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御嶽教って何?
御嶽教って何? 研究者 神田 ゆき乃 指導教論 松本雄二先生 研究動機 17 年間過ごしてきたこの木曽に、高く聳える御嶽山があります。その御嶽山には、古くから御嶽教 が関わっています。身近に感じる御嶽教ですが、その成り立ちや実際どのようなことを行っているのか など、意外に知らないことの方が多いことに気付きました。そこで私は、御嶽教の成り立ちやその内容 などについて調べてみようと思いました。 御嶽信仰のはじまり ○疫病の発生 御嶽教が開かれるきっかけとなった出来事は、今からおよそ 1200 年余り前にものぼる。 くに とこたちのみこと 774 年(宝亀 5 年)に国内で疫病が発生した。そこで、国司の信濃守石川望足が、国常 立 尊 と国創 お お な むちのみこと おおくにぬしのみこと すくなひこなのみこと りの神の大巳 貴 命 (大国主 命 )と医療の神の少彦名 命 を御嶽山に祀り、疫病の平癒と退散を祈 願した。これが、その後の御嶽登拝につながるきっかけとなったのである。 ○覚明行者と黒沢口開山 道者たちによる御嶽の集団登山はすでに室町時代から始まっていた。それと同時に、御嶽の他に 駿河の富士など多くの山岳でも道者たちによる集団登山の風習が現れ、高山の霊気に触れ、地上で は経験できない宗教体験をしようとする人々による「登山講社」もしだいに結成されるようになり、 一般にも開放されるようになった。そして、その流れに乗って「御嶽登拝」も他国などの一般の人々 に開放してほしいと言う声が聞こえるようになった。この頃の御嶽での登拝は、 「重潔斎」を行った もののみができたのである。 その声を聞いたのが尾張出身の行者、 『覚明』である。覚明行者は、 天明 2 年に御嶽の支配者である当時黒沢村にある御嶽神社神宮武居家 に、このことについて「軽精進の潔斎」による一般信者の登拝の許可 を嘆願した。しかし、武居家はこの覚明行者の申し出を一度拒否して いる。なぜならこのことは、数百年間続けられてきている慣例を破る ものであり、軽精進によるみだりな登拝は御嶽の神域を汚すものであ ると考えたためである。(*ここで出てくる重潔斎、軽精進については後に説明。) それでも拒否された覚明行者は屈せず、天命5年の夏に無許可のま ま、独力で多くの信徒を引き連れ頂上登拝を強行したのである。この ことを知って驚いた武居家では、福島の代官所へ報告をし、その指示 を待った。この間、重潔斎による登拝制度を維持することで御嶽の神 域を高揚させようとする武居家と、一般信者への解放を迫る覚明行者 との間で紛争も生じている。さらに、この覚明行者の運営に反対する 者たちが他にもいた。藩庁や代官所も武居家の主張を支持し、覚明行 者のこの運営に対し弾圧を加えた。 5-1 しかし、そんな中でも覚明行者は登拝を続け、登山道の改修にもあたった。はじめは上司の目を はばかって非協力的であった黒沢村民も、しだいに何人かの村民は行者のこの運動に対して好意を もつようになり、庄屋原氏をはじめ協力をするものがあらわれた。そして登山道改修のしごとも急 速に進められていった。 その後、覚明行者は天明6年の夏に事業遂行の途中、御嶽山上の二の池あたりで病み、ついに入 定しその生涯を終えた。そしてその後、信徒たちはその遺志を受けつぎこの事業を完成させた。道 路の改修による登山の容易化は、一般庶民の間に御嶽信仰を急速に普及させ御嶽登拝を希望するも のが年々増えていった。この登山者の増加が木曽谷全般の繁栄に影響すると悟った福島宿の有志達 がその中心となり、覚明行者の没後寛政 3 年 6 月に、福島・岩郷・三尾・黒沢・西野・末川・黒川・ 上田・原野・王滝の 10 カ村の役人達が協力し、御嶽登山七十五日の潔斎を軽精進に改め、登山の便 をはかってほしいと武居家に請願した。 請願を受けた武居家では、旧制を固持することがかえって御嶽の神域を傷つけてしまうおそれが あるとして慎重に審議し、寛政 3 年 8 月 22 日木曽代官である山村家へ出頭しその裁許を願った。 そしてその後武居家では、寛政 4 年正月に軽精進による登山規定の案を作成し、黒沢村の役人の承 認状を添えて代官所へ提出した。そうして、ようやく同じ正月に代官山村良喬より軽精進による御 嶽登山が許可された。このようにして天明以来の紛争はめでたく解 決し、御嶽登拝を希望するものはみな武居家の先達のもとに軽精進 にて登山を行うことができるようになった。しかしその登山の期間 は、毎年 6 月 14 日から 18 日までの 5 日間とされ、その登拝は困難 なものであった。 このことにより、御嶽登山者は年々増加し、木曽地域のみの信仰 にとどまっていた御嶽信仰も全国的な信仰へと拡大されていった。 ○普寛行者と王滝口開山 王滝口登山道は古くから開かれていたが、その道筋はいまのものとちがい直接頂上へは繫がって はいなかった。そして軽精進が正式に許可された寛政 4 年、御嶽登山路の新ルート開拓の念願をも って来村したのが、江戸の修験者、 『普寛』行者である。普寛行者は、来村する前に王滝村の与左ヱ 門というものから木曽に御嶽という名嶽があり、黒沢口の登山道はあるが王滝口の登山道はまだな いことを聞いていた。この話を聞いた普寛行者は、王滝口登山道開拓のため与左ヱ門を訪ね来村し たといわれている。 普寛行者は火難・病難除けの祈願として、武州御嶽にて講社を結んで登拝をおこなっていた。し かし普寛行者は、武州御嶽より遥かに高い信州木曽御嶽のほうが一層のご利益があるとして木曽御 嶽信仰を江戸の人々に広め、普寛行者自身、王滝口開山以前になんども木曽御嶽での登拝をおこな っている。 こうして、はじめは黒沢村や福島代官所への遠慮から非協力的であった王滝村民も、行者の強化 や村の経営への影響を考え、次第に王滝口開山へ積極的に協力するようになっていった。そして普 寛行者は木曽谷にも多くの信者を獲得し、代官山村氏の家中にも多くの信者を有するようになった。 そんな中、いままで御嶽登山口を独占してきた黒沢村との間に紛争が生ずるようになったが、福島 宿繁栄のためと福島役人の仲裁により王滝口登山道が公認されるようになった。 5-2 明治以降の信仰の動きから御嶽教立教まで ○神仏習合 神仏習合とは、日本固有の神道信仰と仏教が混ざり合い、独自の行法・儀礼・教義を生み出した宗 教現象であり、日本では千年以上ものあいだ何度も形を変えてきた結果、神仏両宗教と日本の歴史的 風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出した。 そして、やがて神仏習合の神社では「権(か)りに仏が化して神と現れる」という意味の「権現」 と呼ぶようになった。 ○神仏分離 明治維新になると、政府はこれまでの神道と仏教は同一であるという神仏習合の考えを否定し、神 道と仏教を違うものとみなした神道国教化政策をすすめた。そして政府は神道を国教の地位にすえ仏 教を神道との習合より分離しようとする神仏分離令を明治元年(1868 年)3 月に出した。 その政策により、これまで神仏習合であった黒沢里社(御嶽座王権現)若宮(安気大菩薩)王滝里 宮(御嶽岩戸座王権現)も、名古屋藩木曾惣管所の指令により神社内の仏像を除き、御嶽権現の称を 廃して御嶽神社と改めることとなった。 ○教派神道 新政府はまた神社を宗教と別扱いとし、神道の教導職を廃止した。そして、神道の布教ができなく なった時に、神道から分かれて独立し、政府によって認められた神道系の教団として立ったのが教派 神道である。この教派神道は 13 の教派があり、その中の 1 つに御嶽教があるのである。 御嶽教が教派神道として独立するまでは、御嶽神社を崇敬し、講を組織して御嶽の登拝を行う御嶽 講社が全国各地で散々し、それぞれ所々に独立していて統一されたものではなかった。また、その主 張する信仰にも多少の違いがあり、各講者それぞれ独自の信仰形態で信仰がおこなわれていた。 ○御嶽教立教 維新政策による宗教状況の変化にともない御嶽信仰の統一化を図ろうと御嶽講の結集を呼びかけ たのが、江戸で代々講の講元をしていた『下山応助』である。下山応助は明治 6 年に代々講を改称し て御嶽教会を設立した。そして 13 年には教勢の拡充を図り、平山省斎の大成教会と合同し、ついに 15 年 5 月に神道大成派の特立に伴い御嶽教会を分離独立し、さらに 9 月 28 日には神道御嶽派として 独立、11 月 6 日に御嶽教と改称された。 御嶽教の教義(* 1)と信者の修行について 古来、山岳宗教には、その根底に一種の「生まれ変わり」意図する世界観がある。すなわち、人間は 聖なる山岳に離れて存在する霊魂が御神縁によって女人の体内に宿り、神の分霊としてこの世に生まれ、 神のお恵みを受けて育成生長をなし、死後は、またその根元である聖なる山へ帰るものと考えられた。 よって、御嶽信仰は「我々の霊魂は、聖なる御嶽の御山より生を受けそれぞれの家へ神の導きによっ て生まれるが、死後はかたじけなくも御嶽の神に帰る」という不動の信念に立っているのである。 5-3 前に述べたように、御嶽教は、奉斎主神(*2)に、国常立尊・大巳貴命・少彦名命を御祀りし、さらに 「黒沢口登山道を開いた覚明行者」と「王滝口登山道の開拓者である普寛行者」もその死後、霊神と総 称し祀られ開山霊神と唱え、これらを「御嶽大神」と総称し、この神々を尊び、真心を捧げ奉仕する教 団である。 て ん ち かいびゃく 「御嶽大神」は天地 開 闢 (*3)・国土開発・殖産興業・治病等あらゆる方面にわたって守護される大 神である。その御嶽大神の霊域に登拝し霊威(*4)にふれ神の心を仰ぐと共に、その登拝に際して精進し 髪やからだを洗って身を清め、神の威力を恐れつつしみ、六根清浄・神心一体・生死不二の道をおさめ 真理を悟ることを御嶽教の本旨としている。(*六根清浄は後に説明。) 御嶽教は神山の信仰と里での信仰を結んで、一体化した教団として存在意義を有している。 ○御嶽教三教言 いき 朝は希望に起き 昼は努力に活る 夜は感謝に眠る この教言は「御嶽大神」の守護を信じ、感謝し、加護(*5)の中にあって今日の生活を送るという、 最も端的な教義の現れである。 な ご み ○御嶽教七五三の教え 三教律…三つの守るべき条々 五教言…五つの実践すべき教 おんおしえ 宜しく 神徳神恩に報ずべし 登拝して 心洗えの 御 教 宜しく 人倫の道を全うすべし 山を抜く 力で折れの 御教 おこた あいれん 宜しく 本業正紀を 懈 るなかれ 愛憐の 涙ながせの 御教 にこにこと 先ず融け合えの 御教 かい ぎょう い 戒 行 衣 常にまとえの 御教 七行道…七つの踏み行い、養い生かすべき道 はん しん とも 汎信の道・・・信ずるは安ろうの道、疑るは不安の道、信ずる心を養い、神と偕に歩め おん あい 温愛の道・・・暖かきは育つ道、冷たきは枯れる道、暖かき心を養い、育てる道を歩め ひろ 和合の道・・・ゆるすはゆるされる道、責めるは責められる道、ゆする心を養い、ひろき寛き道を歩め 感謝の道・・・感謝は守られる道、不平は捨てられる道、感謝の心を養い、守護ある道を歩め 奉仕の道・・・つくすは貸しを積む道、求めるは借りを積む道、尽す心を養い、貸すの道を歩め みそぎ 勤労の道・・・汗を流すは 禊 の道、汗を惜しむは汚れの道、汗を愛する心を養い、汗で清めた道を歩め ながいき あかるき くら き よ あかるきこころ 永生の道・・・明朗は老いざるの道、暗気は短命の道、神に拠りて 童 心 を養い、不老の道を歩め これを里に於ける行とし、修行の道を通じて得られた信念と体験を生活の規範として、日常生活 に光明をもたらし、日常の行の力によって世人を導く指針としている。 この教えの七行道は御嶽教の信仰に関わらず、日々の生活の中で常に心掛けていくべきものでは ないだろうか。 ○六根清浄 六根とは知覚作用のもとになり、迷いを生じるもとになる色・声・香・味・触・法の六つの器官で 5-4 げん こん に こん ある眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根のことであり、その六根から起こる煩悩を断ち切って清ら かになることを六根清浄と言う。そしてこのことばを登拝の行の時に信者が唱えながら登るのである。 また、信者が登拝の際に着る白い装束は、身を清め、真っ白の気持ちで山に登るという意味がある ようである。 ○精進潔斎 潔斎とは、信者が登拝を行う前に身を清める意味で行う修行のことである。 【重潔斎】 前にも述べたように、軽精進による御嶽登拝が許可されるまでは、御嶽に登拝するためにはか なりの厳しい修行を行わなければならなかった。その内容を大まかに紹介しよう。 ・百日精進・・・本精進は 4 月 8 日から 100 日間行われる。(そのほかに、75 日間の潔斎もある。) 精進に入ると、衣類はみな白衣を用い、食事道具も一切新しいものを使い家族と は別に物を食べている。 どうきん 精進期間中は男女同衾(*6)を禁じ、五辛(にんにく・らっきょう・ねぎ・ひる(* 7)にら)と魚や鳥の食用禁止等、かなりの厳しい潔斎が行われていた。 ・千度の拝・・・6 月 6 日から 13 日まで里宮で行われる礼拝行事で、6 月 6 日の昼と 12 日の朝・ 昼・夕と 6 回で述べ 673 度の礼拝を行っている。 その他にも、洞窟の中でそば粉と水で生活したり、断食行、火行、水行等様々な修行を命の限 界まで行うというものが重潔斎なのである。そして、軽精進で登拝できるようになった現在でも、 この重潔斎を行う信者もいるようである。 【軽精進】 軽精進は滝に打たれる水行が主とされると思われるが、現在でも熱心な信者は、一定の期間禁 酒、4 本足の食べ物を食べない等の精進を行った後に登拝をする者もいる。 ・ 清滝・・・王滝口からの御嶽登山道にあり、不動様を祀った滝で、 流れの中に不動様が浮かび上がるといわれている。 この滝で水行を積む。 清滝での水行→ お ざ ○御座 御座とは、神様のお告げを神様に代わって信者に伝える人にことを言い、この御座にもいくつか の階があり、御座になる為にはいくつかの厳しい修行(重潔斎)等を行わなければならない。 その中でも修行が最も厳しいとされるのが、神を乗り移らせる「中座」である。3 年以の修行の 上に、さらに千日間三業と称して、家業・水業・慎みの業の 3 つの業を積まなければならない。 ・家業…自己の職業を忠実に行うこと。 はんにゃしんぎょう ・水業…毎日般若心経 を 3 回唱えるあいだ水をかぶること。 ・慎みの業…鶏肉・四つ足類は一切口にせず、味噌汁の中にも煮干を入れない。 5-5 主な行事 ・雲上の大御神火光明祈祷祭・・・毎年 8 月 8 日の午前 2 時に百余万本の斎木を焚き上げて祈る 猛火の大神事。 ・奈良の大和本宮の感謝大祭・・・里の本部たる奈良市の御嶽山大和本宮にて、毎年 10 月 26 日より 3 日間全国より信者が集まり、感謝祈祷する大祭。 ・奈良のおひかり祈祷祭・・・里の本部奈良市の御嶽山大和本宮に於いて、毎月 7 日の夜 7 時より 8 千 ろうそく 余本の赤蝋燭を点じ、祈念の詞を奉唱し、夜を徹して祈願する祭事。 赤い蝋燭は明るい光をイメージしている。 教派神道信者数ランキング ここで、前に紹介した教派神道 13 派の信者数を多い順に並べてみた。 1 位…天理教 (約 189 万人) 4 位…黒柱教 2 位…御嶽教 (約 58 万人) 〃…神理教 3 位…金光教 (約 43 万人) 6 位…神習教 (約 28 万人) 10 位…神道大成教 (約 6 万人) 7 位…實行教 (約 11 万人) 11 位…神道修成教 (約 4 万人) (約 30 万人) 8 位…禊教 (約 10 万人) (約 30 万人) 9 位…神理教 (約 30 万人) 〃 …扶桑教 (約 4 万人) これを見ると、習合神道系創唱宗教(*8)である天理教が一番多いことが分かる。そして、御嶽教は天 理教に次いで 2 番目に信者が多いことがわかる。ここからも分かるように、御嶽教は全国各地に広がっ ており、同じ山岳信仰のなかでも最も多くなっている。 *調べた中で分からなかった宗教は乗っていない。グラフはおおよその人数なので、必ずしもこの人数があっているとは限らない。 ○山岳宗教 ここでは、御嶽教と同じように元山岳信仰講社である教団について大まかに紹介したい。 名称 創設者 祭神 教義 信仰の山 万物の根源としての天祖参神と霊嶽である富士山 じ っ こうきょう 實行 教 柴田花守 参鏡 富士山 天祖参神等 じつ を崇信し、一切の恩に感謝し、實の行を修めるこ とが立教の原点。 日頃、親孝行をすることが一例。 山そのものを崇拝するのではなく、富士山を根本 ふ そ う きょう 扶桑 教 藤原角行 東角 天祖参神等 富士山 道場として「他のために祈る」ことで安心立命へ の信仰心を高め、神の大恩を忘れることなく、天 ばんじん あんぷく 地平安・萬人安福を望む。 5-6 考察 御嶽教について調べる中で、文献・資料の読解が難しくまとめるのに苦労したが、御嶽教が現在に至 るまでには、登山口の開山や神仏分離の考えなど、複雑な過程があることが分かりました。 登山口を開山した覚明行者や普寛行者のほかにも、御嶽信仰を布教させた行者は何人も存在し、その 一人ひとりが御嶽信仰の布教に勤めた結果、現在のように全国各地に信仰が広がり、教派神道の中でも 第 2 位という信者の数になったのだろうと思いました。多くの信者がいることは予想していましたが、 この約 58 万人という信者数は、その予想をはるかに超えた、新たな発見でした。 信者は、常日頃の悩み事を神様に相談、神様からのお告げに従い生活し、信仰とは神の存在を信じる ことから始まり、感謝の心を持つことが一番重要なことであると思われます。 御嶽教の信仰は、日常生活を送る中で親しみやすく身近に感じられるものであるため、この自然豊か な木曽の地によく馴染み古くから耐えることなく愛され続けているのだと私は感じました。 最後になりますが、木曽御嶽教大本庁の皆様には、調査に関しまして御協力・御助言をいただき、誠 にありがとうございました。 *1 教義…宗教上のおしえ。 *2 奉斉主神…もととなる神様。 *3 天地開闢…世界の出来初め。 *4 霊威…神仏などの不思議な力。 *5 加護…神仏がその人を守り、危難から救うこと。 *6 男女同衾…男女が一つ夜具に一緒に寝ること。 *7 ひる…のびる。ユリ科の多年草。山野に自生。ねぎに似た臭気があり、食用になる。 *8 習合神道系創唱宗教…神仏習合系の神道で教祖、開祖のある宗教。 ○参考資料 ・「木曽御嶽本教五十年のあゆみ」 ・宗教法人「御嶽山大教 な ご み ・御嶽教和楽の道しるべ 木曽御嶽本教 創立 20 周年記念号」 御嶽教大本庁 ・「御嶽の歴史」・「御嶽の信仰と登山の歴史」 ・神道小事典 御嶽山大教庁 生駒勘七著 遠藤干編 ・新選国語辞典第 7 版・旺文社国語辞典第 9 版・新明解国語辞典第 5 版 ・http://www.ontakekyo.or.jp ・http://www.ctiy.ogaki.gifu.jp/johokobo/whatsnew/inho_107/mmkon/hp/06/sinto.htm ・http://www.kyoharen.net/ontake_2.htm ・http://www. kyoharen.net/fusou_2.htm ・http://www. kyoharen.net/jikkou_2.htm ・http://www.cnet-kiso.ne.jp/o/ontakejinja/syoujin.html ・http://www. ontakekyo.or.jp/takekyo%20gaisetu.html ・http://www. ontakekyo.or.jp/takesinkounohassyou.html ・http://ozwm.net/~ontaketaisha/nagomi.html ・http://www2s.biglobe.ne.jp/~shuilong/minzoku/sinbutu.htm ・http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kyoha.htm 5-7