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ウィルバー第3章

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ウィルバー第3章
K・ウィルバー『意識のスペクトル[1]意識の変化』
読書会(2)
平成 23 年 12 月 28 日 石井登
第 3 章
意識としてのリアリティ
象徴的・地図の知識によって提示される世界像は、文化の違いやそれぞれの個人によって
も異なる。ところが非二元的な知の様式は何らかの観念とか象徴を内容とするのではなく、
リアリティそのもの、いつどこにおいても同一のリアリティ自体を表す。同一のリアリテ
ィについて、種々の象徴的地図を用いていろいろな説明の仕方があるが、普遍的伝統は、
それについて語ることをやめ、かわりにそれを直接体験することを主張した。(P64・65)
非二元的な知の様式への変換は、アイデンティティの変換に帰着する。すなわち、知ろう
とする主体と知られる客体とを分離し、知られる客体を適当な象徴(名称)で表す二元的
な知の様式にのみ頼っている間は、われわれも同様に世界から切り離され、疎外されてい
ると感じる。このときアイデンティティは、役割や自己イメージという象徴的な自己像に
よって把握され、自分自身に二元的に客体化されてしまう。
(P68)
(自我のレベル・実存の
レベル)
知の様式が意識のレベルに対応し、リアリティが特定の知の様式であるとなれば、リアリ
ティとは一つの意識のレベルである。リアリティとは、われわれが心と名づけた非二元的
な意識のレベルから顕れるものだ。厳密には、リアリティが一方にあり、その知識がもう
一方にあるのではない。非二元的知というものがすなわちリアリティなのだ。リアリティ
とは一つの意識のレベルであり、このレベルのみが現実的なのである。
(P69・70)
リアリティが意識のレベルであり、唯心であるということは、世界が見る状態と見られる
状態に分断されず、観測者が観測されるものであるという意識状態にあるということであ
る。二元論の切断によって世界が不具にされ自己欺瞞に陥るとするなら、リアリティはこ
の切断以前でしか、しかるべき状態にありえない。二元的な知の様式は、アイデンティテ
ィを、知るものに限定してしまうので、ほかのすべてである知られるものは実質的に異質
な部外者であるかに見える。しかし、非二元的な知の様式への転換を果たすと、知るもの
は知られるものとすべてであると感じるので、アイデンティティも同様に孤立した個人か
ら全体へと転換する。
(P71・72)
リアリティについて語る二つの基本的な象徴的敷衍のタイプ
1)線型的、一次元的、分析的、論理的な敷衍。科学、法律、哲学などの敷衍様式。
2)絵画的、多次元的、想像的な敷衍。芸術、神話、詩、空想、夢などの様式。
(p75)
リアリティについて語る三つのおもな方法
→それぞれ何に似ているか、何でないか、到達するために何をなしうるかを表す。
1)類推法‥‥リアリティを似たものによって説明する。宗教的なイコン、曼荼羅など。
2)否定法‥‥リアリティを徹底的に否定的に説明する。「あらず、あらず」、「空」など。
3)指示法‥‥自分でそれを発見するための実体験的規則。仏教の「戒定慧」など。
(P75~79)
以下、この三つの方法を用いて、絶対者に関心を寄せる世界のおもな伝統が概観される。
◆量子力学
ジェームズ・ジーンズ(Sir James Hopwood Jeans 、1877 年~ 1946;イギリスの物理学
者、天文学者、数学者)‥‥「自分自身を時間と空間のなかで見るとき、われわれの意識
は明らかに一個の粒子のように分離した個であるが、時間と空間を超えるとき、それらは
切れ間のない生の流れの構成要素をなすのかもしれない。光や電気と同じことが、生命に
もあてはまるのかもしれない。
」
(P81)
◆大乗仏教‥‥唯心(チッタマトラ)、一心(エカチッタ)
「真理とは、非二元的洞察を介した知恵によって、内的に体験される自己実現であり、言
葉、二元性、ならびに知性の領域には属さない‥‥すべてが心なのである。
」(『瑜伽経』)
「画家がさまざまな色を混ぜあわせえるように、心の偽りの投影により、あらゆる現象の
いろいろな形が作られる。
」
(
『華厳経』)
「絶対者という意味で、心それ自体リアリティ(法界:ダルマダートゥ)の領域であり、
全体性の内にある、ありとあらゆる存在の局面の本質である。「心の本質」と呼ばれるもの
は、不生、不滅である(時間と空間の超越)‥‥」
(『大乗起信論』
)(P83・84)
◆キリスト教
「あなたがたが二つのものを一つにするとき、内部を外部、上を下とするとき、そして男
と女を一つにするとき‥‥、あなたがたは(王国)に入るでしょう。」
(『トマス福音書』)
「イエスはいわれた。‥‥一片の木を割ってみなさい。わたしはそこにいる。石をもちあ
げてごらんなさい。そこにわたしを見い出すでしょう。」
(同上)
(P87)
◆中観派‥‥否定的方法のもっとも純粋な形態を代表する
言語は二元的ないし相関的であり、それゆえどんな肯定も否定も、自らに対立するものと
の関連でのみ意味をもつ。いかなる言説も、それと対立するものとの兼ねあいによっての
み意味をなす。それゆえ中観派は、すべての言説が純粋に相対的であることを明らかにす
る。ただし中観派は、絶対的な実在はないと主張しているのではなく、リアリティに適用
できる観念などないと指摘するのである。それはリアリティを理解せんとする理性の拒絶
である。リアリティとは理性の不在(空)なのである。
(P97~99)
中観派は、
「真実をおおい隠す観念の諸構築物」を根こそぎ引き抜いて廃棄することを本分
とする。そのため特定の哲学ではなく、あらゆる哲学の批判なのである。彼らがすべての
二元論的概念を破壊する唯一の理由は、象徴的・地図の様式の知にのみ依存せんとするわ
れわれの習慣をぶちこわし、そのことによって、それのみがリアリティをに触れている非
二元的な様式の知に門戸を開かせるためである。思考の全面的否定は虚無主義ではなく、
智慧、すなわち非二元的洞察の入口なのである。
(P103 )
われわれのリアリティの知覚は、ほとんど気づくこともない無意識の概念によっていつも
歪められている。物とは、たまたま実用的あるいは美的にわれわれの興味を引き、その興
味のゆえに名称が与えられ、排他的で独立した存在と錯覚される感覚的性質の集合体であ
る(ジェームズ)
。思考はリアリティを、簡単に把握できる小片に切り刻むことによって物
を生み出す。人は考えているとき、リアリティを歪め、物を作っているのだ。「そうするこ
とで現実の本質そのものが、流れ去ることを許してしまう。」
(ベルグソン)こうしてわれ
われは、世界を幻だらけにしてきた。だからこそ中観派は、リアリティとは概念的な敷衍
の不在であり、分離したものの不在(法;ダルマ)であるというのだ。(p104~107)
◆華厳派
分離した「物」は存在しないということは、すべての「物」は同一であるということであ
り、華厳派は、この同一性を強調するアプローチを選ぶ。すなわち空を吟味して、深遠な
法界(ダルマダートゥ;リアリティの領域)の教義にまとめた。
世界は、一個一個の宝石がほかのすべての宝石を反映し、逆にその反映がほかのすべての
宝石のなかに存在する輝く宝石の網にたとえられる(因陀羅網の喩え)
。無限の法界におい
ては、個々の物がすべて、いついかなるときにもいささかの欠陥も省略もなく完璧な形で、
同時にほかの一切も含む。
分離したすべての「物」の基盤、すなわちリアリティは、心である。世界は一粒の砂であ
り、天界は一輪の野花であり、内部はことごとく外部であるなら、個々の物は実は心にほ
かならない。
そして、法界は華厳「哲学」の基礎をなすものとはいえ、究極的には哲学ではなく、非二
元的な知の様式に基づく体験であることを忘れてはならない。法界の相互浸透と相互同化
の教義は、それ自体、言葉ではとても表現できない匿名の無にとどまる非二元的なリアリ
ティ体験を言葉に置き換えようとする人類最高の試みである。(P108~110)
西洋思想において、法界の考え方に近いものは、システム理論、ゲシュタルト心理学、ホ
ワイトヘッドの有機体哲学のなかに見い出される。西洋科学は全体として法界的な宇宙観
に急速に接近しつつある。
「一方通行の因果律の内で活動する分離可能な単位という枠組で
は不充分であることは判明したこと、それが現代科学の一特徴といってよかろう。したが
って、全体性、包括的、有機体的、ゲシュタルトといった概念の科学の全領域における出
現は、われわれが最後の手段として、相互作用しあう要素からなるシステムに照らして考
えなければならない。
」
(ベルタランフィ)(P111)
◆瑜伽行派(唯識)
瑜伽行派は、主体と客体の二元論の役割を、幻想を生み出し、世界を自己欺瞞に陥れるも
のとして強調している。瑜伽行派はそれを、一貫した深遠な心理学の基礎に据えたがゆえ
に取り上げる価値がある。対象化はすべて幻想である。あるいは単に、あらゆる対象は、
すべて幻想である。そして、あらゆる対象は頭の産物である。これが瑜伽行派の洞察の核
心をなす洞察であろう。主体と客体が二つのものでないことを心底から悟ると、プラジュ
ニャー(般若)
、つまり非二元的な知の様式が目覚める。唯心のリアリティが明らかにされ
るのは、この様式においてにほかならない。
(P113~116)
世界のおもな伝統の簡単な概観の締めくくりとして
大半の伝統では、類推的、否定的、指示的という三つのアプローチがすべて活用されるが、
そのいずれに強調点を置くかは、伝統によって異なる。
人間が自己を世界から切り離し、そこから「知識」を引き出せないのは、目が目自体を見
ることができないのと同じことである。ところが人間は、二元的な知識に頼り切っている
ので、意味をなさないことを試み、自分が成功したと思い込む。けれども、もち世界を見
るものと見られるもの、知るものと知られるもの、主体と客体に分断することによって、
否応なく世界が世界自体から分け隔てられて、自己欺瞞に陥るのであるなら、「主体と客体
が一つのものである」ことを理解することによってのみ、現実世界の認識が可能となる。
この認識のみが「絶対的真実」なのである。
(P118~120)
リアリティとは、主体と客体が分断されず、時空に広がる分離した対象に抽象化されない
縫い目のない衣である。それゆえ真の世界の発見は、「対象から疎外された主体」や「時空
の中に浮かぶ独立した物の総体」が、実は「一つの身体の部分」であることを明らかにす
る。これは、リアリティとその知覚とが、同じ一つのものであることを意味する。それは
「世界の世界による知覚」
(R・H・ブライス)と呼ぶこともできる。(P121・122)
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