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『神奈川県官国幣社及県社郷社要覧』によれば、祭神

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『神奈川県官国幣社及県社郷社要覧』によれば、祭神
昭和 13 年の『神奈川県官国幣社及県社郷社要覧』によれば、祭神「皇産霊尊」
(くにうずめのれいのみこと) 社格 郷社 社格年月日 明治 6 年 12 月 地
頭 諏訪部定太郎 名主 山崎六郎兵衛包高 とあり、又社頭の案内板に、
長谷川菊松氏は「・・・藤沢市稲荷 998 番地に鎮座せられ 当地に往古より旧地
なりと伝承す 当社配神大庭三郎景親公は・・・安永六年(1777)十月白川従
二位伯資顕王によって勧請せられ、同じく配神菅原道真公は・・・天明三年(1783)
秋、地頭諏訪部定太郎、名主山崎六郎兵衛包高の願により勧請せられ・・・」
とあり、別当寺・成就院に「奉勧請大庭天満自座天神宮」とある天明三年(1783)
の勧請札があります。(川口謙二氏は、祭神は「神皇産霊神」(くにむすびのか
・ ・ ・
み)といい、むすびは結んで産む意、即ち国を産む神であるといわれています。)
・
・
・
つまり国津神であると思われます。
近くの荏原製作所のある所の地名を天神原、神社の下を天神下といい、国津
神に対する天津神(あまつかみ)を祭った所ではなかったのでしょうか。
一般に菅原道真を祭ったものとされるようになったのは、平安時代の中頃(9 世
紀)からであり、北野の天神が道真の霊をしずめる役割を果したとされており
ますので、天神社が天満宮になり、大庭景親を配神したことで「大庭天神社」
となり、明治維新後「大庭神社」に変えられたものではないでしょうか。
従って「延喜式内社」は当然「天神社」であって、いつの間にか「天満宮」に
なり、鐘に「天満大神宮」と刻印され(1717)、大庭景親を配神(1777)して
「大庭神社」に、だめ押しの形で菅公を配神(1783)したものでしょうか。
大庭景親は治承四年(1180)源頼朝の命により、兄景義の手で片瀬で殺された
ので、館の近くに祭られて「台の大庭神社旧蹟」にいた
のではないでしょうか。それがなぜ 600 年も後に
天神社に配神されたのでしょうか?(善行案内記より)
*大庭神社旧跡・現「熊野社」
(大庭権現社)
境内には多くの碑が建っています。羽鳥で耕余塾を開いた小笠原東陽書の「軍
人戦死碑」は貴重なものです。明治 10 年西南戦役で戦死した大庭村出身兵士の
慰霊碑で明治 12 年に建てられています。伊勢山にある「明治十年西征陣亡軍人
之碑」は高座郡各村と藤沢駅の篤志家が明治 13 年に建てましたが、これよりも
古く東陽の書も数少いものです。又、
「復興碑」は大祭中に襲った関東大震災の
模様を詳細に記し、
「帰去来の碑」は供出されて今は亡き梵鐘の追慕の情を名文
で綴ってあるなど、往古をしのびつつ参拝して社殿脇の小径を落葉を踏みしめ
て下ります。(善行案内記より)
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藤沢地名の会会報「善行を語る」で大庭東の野口輝政氏は大庭神社のことを
こう語っています。
『大庭神社は、今はみすぼらしくなっていますが、石段は128段あります。大雨
の後は参詣者が足を滑らせないように、上の境内に溜まった水はそばの山に流
し落とし、上の石段の水は真ん中の旧参道へ落として、その次の一番長い 80 段
の水は、右手の山に落としてというふうにやっていきます。
昔から大庭村は神社下の東町(持瀬・聖ヶ谷)、表郷、二ッ谷、折戸、台谷
です・・・・・略・・昔は娯楽がなかったもので、全区域のお宮の太鼓がずうっと
並んで、叩き比べでした』(藤沢地名の会・会報51号より)
じょうじゅいん
36、成 就 院
真言宗・本尊は愛染明王・感応院末寺 創建は文和年間(1352~56)頃、
以前は「宝染寺」といい、大庭神社の別当でした。
相模国八十八ヶ所 34 番札所です。
*成就院山門
*本尊・愛染明王
*弘法大師像(相模国 34 番札所)
【無縁石仏群にある石仏】
*水天像
*八臂弁財天像
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*馬頭観音像
『風土記稿』に「大庭神社の別当で、稲荷山と号し、古義真言宗、藤沢宿感応
院末、愛染を本尊とし、開基は山名伊豆守(文和三年(1354)寂)」とあります。
享保二年の大庭神社の梵鐘から寺号を宝染寺といっていたことがわかりまし
た。本尊が愛染明王であるのは大変珍らしいといわれています。
「愛染明王」は元インドの神で、外は怨怒の姿をしていますが、内は愛欲を本
体とする愛の神、全身赤く、近世では恋愛の祈誓や水商売の女の人の信仰の対
象とされ、ここでも藤沢のきれいどころの信仰が厚かったとか。
大庭城の薬師堂にあったという薬師三尊、不動明王、弘法大師像、地蔵菩薩、
閻魔大王等が安置されています。天保年間(1830~43)に火災にあっています
ので、それ以前のことはわかりません。相模国準四国八十八ヶ所の三十四番の
霊場であり、一時無住となっていましたが、新しい住職が来られてから内容外
観ともに充実しました。(善行案内記より)
【お堂内の仏像】
*愛染明王像(本尊)
*不動明王と二童子
*弘法大師像
37、聖天宮祠(しょうてんぐうほこら)
成就院のすぐ下の竹やぶの中に「聖天宮祠」があります。
明治の頃堂明(どうみょう)と呼ばれる畑の中から、高さ 15cm 程の聖天様の
金仏が掘り出されました。あちこち持ち出されているうちに、とうとう盗まれ
てしまいました。今は木彫の聖天様をここにお祭りしています。
聖天様は歓喜天ともいって頭は象、身体は人間、男女抱き合わせの合体の形
で、もとインドの悪魔であったのを十一面観音の導きによって仏法に帰依して
守護神となったものです。
このあたりも聖ケ谷ですが、地名の由来は種々の説があります。西行法師の
「撰集抄」に、大庭の念仏僧が昼は乞食し、夜は貧しい病婦を看病しながら念
仏をしていたという話が地名の由来とする説。堂明にあったお堂に聖天様が祭
られていたとの話から、聖天様の谷戸という説。建長六年(1254)創立の聖福
寺が由来という説がありますが、よくわかりません。(善行案内記より)
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明治時代、この近くの「同(堂)明」と呼ばれた畑から出土した聖天像(歓
喜天)が祀られています。当時の像は行方不明となったため現在祀られている
像は複製されたものとのことです。近くの成就院の南の丘は「聖天山」と呼ば
れています。
*歓喜天祠
*歓喜天像
*同
左
歓喜天(かんぎてん、Skt:Vinayaka、गणपित Ganapati もしくは ナンデ―ケーシュ
バラ nandike-vara 歓喜-天)は、仏教の守護神である天部の一つ。また、聖天(しょ
うてん[1])、大聖歓喜天、大聖歓喜大自在天、大聖歓喜双身天王、象鼻天(ぞうびて
ん)、天尊(てんそん)。あるいは Vinayaka、Ganapati を音写して、毘那夜迦(びなや
か)、誐那缽底(がなぱてい)ともいう。象頭人身の単身像と立像で抱擁してい頭人身
の双身像の 2 つの姿の形像が多いが、稀に人頭人身の形像も見られる。多くは厨子
などに安置され、秘仏として扱われており一般の前に公開される事は少ない。
38、日枝社(ひえしゃ)
成就院の脇の坂を登りますと、共同墓地があり、その上に日技社があります。
今の大庭東町の鎮守の神で、山王神社、日吉神社とともに山王権現を祭る社で
比叡山の守護神から始まったとされます。元々近くのガスタンクの近くにあっ
たものを、戦争中飛行場が出来たことから現在地に移した経緯が記念碑に書か
れています。境内に庚申塔等が集められています。判然としないものもありま
すが、寛文六年(1666)のものが古いものです。
(善行案内記より)
*日枝社
*境内の庚申塔群
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*寛文六年・1666 の庚申塔
39、聖ヶ谷(ひじりがやと)
*聖ヶ谷の辻
現在の湘南大庭の方から来てこの辻で羽鳥の方に行く「引地道」と「藤沢道」
に分かれます。ここに庚申塔があり、
「右 ひき志 左 ふじ沢道」とあります。
その横に、道祖神は二基あります。一基は双体道祖神で、もう一基は文字神名
道祖神です。
*文字神名道祖神
*道標のある庚申塔
*双体道祖神
碑は起船後光背型で像姿は右(向かって)の像の顔は欠損していますが、頭部が
トンガリ冠型のようです。左神の頭部は丸髷型で女神のようです。
衣装は袖の長い僧衣でしょうか。銘などはよく判読できませんが、記録や
山本力氏のご案内では□□辛巳年十二月吉日 竹内氏とあるようで、年代は
記録でも分かりません。
再度訪問して銘記年を確かめましたが、右側面上部が剥落していて、確認で
きませんでした。この碑も辻堂にある道祖神と同じく、相州秦野系です。
もう一つの神名文字道祖神の銘は嘉永二年己酉十(極)月吉日(1849)
聖ヶ谷氏子中とあります。
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40、熊野権現堂
旧厚木道坂下の切り通しの上に「熊野権現堂」があります。
「新編相模国風土記稿」によれば
『古は権現堂村と云しなり、応永の末(1427)此所に強盗住し、小栗小次郎助
重(判官の子)ここに宿し、危なく毒酒に殺されんとせしを、照姫と云う遊女の助
けにて、辛くも死を逃れ、其後永享(1430)のころ、助重ここに来たり、彼の強盗
等を誅せし事、「鎌倉大草紙」に見えたり』
とあります。
真偽の程はともかく、小栗伝説については、藤沢清浄光寺・長生院をはじめ、
西俣野の花応院など多くありますが、この熊野権現社のそれは余り知られてい
ません。
*いわれの説明石碑
*熊野権現堂
*堂内・祭壇
41、大原の「立場」と道祖神など
「大原の立場」は善行小学校の西側の辺り
だったそうです。前記山本悦三氏の「大庭
坂上の大榎」より、少し北方面のようです。
善行団地の西側、善行小学校西の道を北に行きますと(旧大庭道)、石川東町
内会館前の小さな茂みに、道祖神や馬頭観音の祀られた場所があります。その
祭祀場の手前の住宅の角には約 350 年前の古い三猿の庚申塔も祀られています。
ここから下る道が、旧大庭道で、ここから大庭に抜けていきます。
*旧大原立場の文字神名道祖神二基(大庭7904)
道祖神Ⅰ
道祖神Ⅱ
*三猿庚申塔
(嘉永四年・1851)
(明治二十五年・1892)
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(寛文十一年・1670)
藤沢地名の会「善行を語る」会報の市川善久氏のお話
『石川東では市川家と田代家がそれぞれ道祖神を祀っていますが、数十年
前からお互い別々では淋しいということで、町内会館に両方を祀り、1 月
14 日のセイト焼などの行事を町内会として行っています。市川家の氏神は
熊野神社、田代家は山王神社で、それぞれの「御印」を戴いて祀っていま
す。市川家の方では白旗神社の神主を呼びまして、祝詞をあげたあと、宮元
の市川和男さんの家に寄りまして、飲食しながらよもやま話をします。
田代さんの方では山王神社の中で同じようなことをしているようです。
何分にも氏子が少ないので、9 月 1 日には「食い祭」ということで双方が
集まって飲んだり食べたりしています』
42、山王神社
*山王神社
町内会館前の道祖神の祭祀場を北に行きますと、
道が分かれます。左側に行きますと、坂の右側の
石段の上に「山王神社」があります。
この山王神社は田代家ご一族が守っています。
43、石川丸山谷戸(ホタルの棲む谷戸)
山王神社手前の分かれ道を右に行きますと、急な坂を下り右側に昔なが
らの里山の風景が望めます。この谷戸は藤沢でも数少ない、「ホタル」の
棲む谷戸です。
*「ホタル」の棲む石川丸山谷戸
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44、石川レンゲの里
*石川レンゲの里
引地川の田んぼの東側(石川ポンプ場付近)に、
「石川レンゲの里」があります。農家の方などが、子供
達のために前年の秋から準備をする「レンゲ」の里です。
毎年、4 月下旬に「石川レンゲの里まつり」を開催して
います。
(「石川レンゲの里」は通称です。)
*石川レンゲの里まつり風景
45、善行の民間信仰
【庚申信仰】
立石の「お庚申さん」(今も続いている「庚申信仰」)
~立石の「お庚申さん」に参加して~
立石の旧家で昔から続いている「お庚申さん」
(庚申待)に参加させていただ
き、今夜の当番鈴木家を訪問しました。
(この立石地区では庚申待のことを「お庚申さん」と呼んでいます。他の地区
では当番家のことを、
「ヤド」または「頭屋」と呼ぶところもありますが、この
立石では「お当番」といっているそうです)
この日の干支は「壬申」で「庚申」ではありませんが、近年当番家の都合によ
り、必ずしも「庚申」の日にはこだわっていないと言います。
この地区にはなんと、今でも旧家の方々で集まっている
二つの庚申講中(組合)があり、「庚申待」がいまだに続いて
いるそうです。
一つは10軒程の旧家で集まる「庚申講中」で、もう一つは
5軒程の旧家の「講中」です。今夜は私の民間宗教の勉強のた
めに、この5軒講中の皆さんにお願いして特別に参加させてい
ただきました。
*お当番家の祭壇
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この講中はいずれも地元の旧家「神﨑家」
「鈴木家」の方々を中心とした講中
で、二組とも「神﨑家」の方々が入り混んでおり、本家、分家の区別分けでも
なく、なぜこの講中が二組に分かれているのも定かではないと言います。
今夜の庚申待も「神﨑姓」3軒「鈴木姓」1軒の方々が集まっており、もう一
組の10家講中の方々も同じ親戚の「神﨑姓」
「鈴木姓」の方々が入り混じって
いるといいます。鈴木家の奥様に案内された部屋には、
「青面金剛」の掛軸が祀
られており、その前には祭壇があり、蝋燭、線香、と共に精進料理や御菓子果
物お酒等が供えられていました。
ここの「青面金剛掛軸」は「一面六臂三眼」で上部に定番の日と月、左右両
脇には青衣童子が仕えて、向かって左の童子は果物らしい(薬壷か?)皿を持
ち、右側の童子は巻物らしい物を持っています。青面金剛の足元は邪鬼を踏み
つけ、前に「み猿」「きか猿」「いわ猿」の三猿(両脇の猿はやや中央向き)そ
の両側に鶏を配しています。青面金剛の頭部は後ろに光背があり、髪は逆立っ
ています。顔は、丁度眼の辺りが傷ついて補修してあるせいか、憤怒の形相は
和らいで見えます。六臂は向かって左上臂から三股叉・剣
*青面金剛掛軸
・箭を持ち、右上臂から輪宝・けん策・弓を持っています。
作絵の年代は不明ですが、掛軸を収めている木箱はかなり
古い時代の物のようです。(もう一組の講中の掛軸は本日の
講中の方々も見たことは無いとの事でした。親しい親戚でも
講中としての交流はないようです。)
文献によると江戸周辺の庚申待は講中の方々が順番で庚申待を行い、参加す
る人は米五合とか、米一升とかを持ち寄り、精進料理とか酒を出したと書かれ
ています。今夜の立石の「お庚申さん」も、まさに参加する人は米五合を袋に
入れて持ち寄り、終わりにはこの袋に施主家で御菓子を詰めてお返しするとの
*持参の御米の袋
ことでした。文献によると、この御菓子も「庚申待」では
定番で、七色の御菓子を供えた習慣があり、今夜のお供え
やお土産も七品(七色)であったのかもしれません。
また今夜皆さんがお米を入れて持ち寄った「袋」もずっと
以前から使われていたそうで、手造りで趣のある袋でした。
ここでのお参りの仕方は特に決められた作法は無いとのことでした。
な
む
文献によると、
『南無青面金剛』と唱えて百礼をするとか、密教では『オン、コ
ウシン、コウシン、マイタリ、マイタリ、ソワカ』と唱えるところもあるそう
で、その地域によりいろいろなお参りの仕方があるそうです。
今夜の「庚申待」も12時近くになり、誰とはなしに『ではそろそろ』と、お
開きの時間となりました。ここの「お庚申さん」では次の当番家は「アミダ籤」
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で決めるのが習慣とのこと。
『では次は九月に』ということで、ここの講は年三
回(正月・五月・九月)のようです。
*立石神社の庚申塔
文献によると、その地域の決め事で年6回の庚申の日、
年 3 回、7回、1回、など色々あるようです。
「お庚申さん」に参加させていただいて感じたことは、
現代の「庚申待」もずっと昔からの習慣のとおり続いて
いることでした。
立石神社には青面金剛庚申塔が二基あります。
その一つは欠落で全ては読めませんが、文化元年甲子
(1804 年)講中 神﨑・鈴木・小澤氏等のお名前が見え
ます。おそらく今夜の講中鈴木・神﨑家のご先祖が祀ったものと思われます。
「庚申信仰」は現世御利益の信仰といわれ、その御利益は五穀豊穣、延命長
寿、無病息災、病気平癒、除災無難、子孫繁栄などをお祈りすると言われてい
ます。
「庚申塔」とは庚申縁起に『三年十八度なり、両三年目には供養いたすべし、
供養とは道の辺に塚をたて、四方正面の卒塔婆を立てて供物をととのえ、、、
云々』とあり、庚申待三年十八度で庚申塔を祀ったとされています。
『立石は意外と昔の風習が残っているところで、この九月の二十四日には地
神祭が行われます。その日は畑で鍬を打ってはいけないということ、地をいじくっ
てはいけないということで、農作業は休みます。
*立石神社のドンド焼き
夜になると農家一同集いまして、飲食・歓談いたします。
地神・稲荷・不動の祭りはお日待といいまして、一夜を
過ごすことが今もって続いています。それから念仏講が
ありまして、春三回、秋三回ある講の日には、順繰りに
回ってくる当番の家に集まりまして、念仏を唱えながら
大きな数珠を繰りまわして先祖供養をします。
お不動さんの祭りでは、神主を呼んで火渡りをし、夜店も出たほど盛んだったそ
うですが、今ではすたれ、不動講の人々だけのささやかな行事になっています』
「藤沢地名の会」・会報第51号「善行地区を語る」・神﨑善次郎氏(故人)のお話より。
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